憲法審査会 第2号
- 発言数
- 79 件
- 登壇者
- 19 名
- 会派数
- 10
- 開催日
- 2015/03/04
会議録
○会長(柳本卓治君) ただいまから憲法審査会を開会いたします。 日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制に関する調査を議題といたします。 本日は、憲法とは何かについて参考人から意見を聴取いたします。 御出席いただいております参考人は、日本大学法学部教授百地章君及び早稲田大学法学学術院教授水島朝穂君の二名でございます。 この際、参考人の皆様に一言御挨拶を申し上げます。 本日は、御多忙のところ本審査会に御出席をいただきまして、誠にありがとうございます。 参考人の皆様から忌憚のない御意見を賜りまして、今後の調査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願いをいたします。 議事の進め方でございますが、百地参考人、水島参考人の順にお一人二十分程度で順次御意見をお述べいただいた後、各委員からの質疑にお答えをいただきたいと存じます。 なお、御発言は、質疑、答弁とも着席のままで結構でございます。 それでは、まず百地参考人にお願いいたします。百地参考人。
○参考人(百地章君) それでは、参考意見を述べさせていただきます。 改めて、日本大学の百地でございます。 本日は、参議院憲法審査会にお招きをいただきまして、大変光栄に存じます。 与えられましたテーマは、憲法とは何かということでございまして、憲法学の基礎に関わる問題です。時間も限られておりますので、皆様既に御存じのことは簡単に済ませまして、私の特に申し上げたい事柄を中心にお話しさせていただこうと思います。 お手元に一枚の簡単なレジュメを用意させていただきました。詳しい内容につきましては、先にお配りさせていただきました参考人資料をお読みいただきたいと思います。 それでは、一から順を追ってお話し申し上げます。 一、初めに。 言うまでもなく、憲法は国家の基本法であり、今日流行の言葉を使うならば、国の形を法的に表現したものと言えましょう。それゆえ、国家というものがまず存在し、その国家を前提として初めて憲法や憲法典というものが考えられることになります。とすれば、憲法の意味を正しく理解するためには、まず国家とは何かを知らなければならないはずであります。 ところが、戦後、我が国の憲法学者たちの多くは、国家とは何かということについてきちんと論じようとしませんでした。たまに語られるとしても、国家とは権力であり権力機構であるの一言で済ませてしまう傾向がありました。つまり、戦後憲法学は、権力機構としての国家、つまり政府のみを問題とし、国民共同体としての国家についてはまともに考えようとしませんでした。そのため、憲法についての理解も一面的に終わることが多かったのではないでしょうか。ここに、戦後憲法学の最大の欠陥があると思われます。 そこで、初めに、国家とは何かという問題について簡単に触れてみたいと思います。 二の、国家とは何かでございますが、まず、国家と政府の区別をという点です。 国家の本質をめぐりましては、古来、多くの思想家たちが様々な見解を唱えてきました。このうち、私どもが国家の本質を考える上で参考になるのは、社会契約説と国家有機体説ではないかと思います。そこで、この二つの代表的な国家論を基に、国家とは何かを考えてみることにします。 まず、社会契約説ですが、この国家論の代表的な主張者は、言うまでもなく十七世紀の思想家ホッブスやロックです。そして、その特徴は、個人の絶対性ということを出発点とし、国家は各個人の合意によってつくられたものであると説くところにあります。つまり、個人主義的国家論であります。 社会契約説の前提とされたのは、国家が成立する以前の状態、つまり自然状態です。この自然状態についての考え方はホッブスとロックとでは大きく異なりますが、いずれも、自然状態のままでは得られない平和と秩序を樹立するために社会契約がなされ、国家がつくられたとする点では変わりません。したがって、このような国家論においては、国家が個人のために存在するということになります。 言うまでもなく、このような国家論は、あくまで国家というものを合理的に説明し、正当化するための理論にすぎず、社会契約説などもそのためにつくられた擬制、フィクションでしかありません。 これに対して、国家有機体説が主張されるようになったのは十八世紀から十九世紀にかけてのことで、その代表的な主張者は哲学者ヘーゲルやフランス革命批判で知られているイギリス保守主義の思想家エドマンド・バークなどでした。また、国法学者としてはドイツのブルンチュリー、ゲルバー、ギールケなどの学者を挙げることができます。 社会契約説は、抽象的な個人というものを出発点とし、国家を個人の合意によってつくられたものと見ました。つまり、国家を合理的に説明しようとしたわけであります。これと対照的に、国家有機体説の特徴は、国家を個々の国民が生まれ落ちる以前から存在するもの、つまり歴史的、伝統的な存在と見るところにあります。そして、国家とは、合理性だけでなく非合理性をも併せ持った精神的存在と考えます。つまり、国家とは単なる抽象的な個人の集合体ではなく、歴史、伝統、文化を背景に持った具体的な国民の共同体、つまり有機的共同体であると考えます。 このように、国家の本質をめぐっては二つの全く対照的な国家論が対立しており、従来はそのいずれが正当かといった形で議論がなされてきたように思われます。しかしながら、この両説については次のように考えることはできないでしょうか。つまり、政府と国家を区別した上で、社会契約説の主張する国家とは単に政府、ステートの説明にすぎず、国家有機体説の主張する国家、ネーションこそが本来の国家である、国家の本質を言い当てたものであると考えるわけであります。 ちなみに、近代国家とは国民国家、ネーションステートであり、国家をもってステート、つまり政府と政府をも含む国民の共同体、つまりネーションとによって成り立っていると見るのが政治学における常識ではないでしょうか。 このように考えますと、確かに政府の説明であれば、社会契約説の言うように、国民の意思を基に国民の合意によってつくられたのが政府であり、政府のために国民があるのではなく、国民のために政府が存在するということになります。それに対して、そのような政府をも含む国民共同体としての国家について言えば、国家とはまさに、国家有機体説の主張するように、歴史的に形成されてきた国民の共同体であると考えることができます。 次に、国家論を踏まえた憲法論議をということですが、このように国家と政府を分けて考えますと従来の混乱が解決するのではないでしょうか。例えば国益と政府益の違いです。もちろん民主主義国家においては国益と政府益は本来一致するはずですが、時としてこれが対立することがあります。そのようなときには国益、つまり国民全体の利益と政府益、つまり時の政権にとっての利益を分けて考えれば、何が国益かという問題も取りあえず整理できるのではないでしょうか。もちろん、何が国益か、政府益かの区別が難しいことは事実でございましょうが。 同様に、国家秘密、つまり国民全体の利益に関わる秘密と政府秘密、つまり時の政権の都合で隠しておきたい秘密も異なるはずです。平成二十二年、あの尖閣諸島事件の折、政府が隠そうとしたビデオテープは、私に言わせればまさに政府秘密に属し、公開することが国民全体にとっての利益となるはずでした。他方、さきの特定秘密保護法は国家秘密の保護が目的ですから、特定秘密などといった曖昧な命名をすべきはなかったのではないかと考えております。 さらに、日本国憲法下の政教分離ですが、我が国の学説はしばしばこれを国家と宗教の分離と解してきました。しかし、欧米諸国にあっては、政教分離という場合は、国家と教会の分離、セパレーション・オブ・チャーチ・アンド・ステートという言い方が一般的です。つまり、政教分離とは、国家と特定の教会、日本的に言えば宗教団体が結び付くことを禁止するものであって、国家と宗教そのものの分離ではありません。我が国の政教分離も国家と教会、つまり宗教団体との分離であって、欧米諸国と同じです。このことは、憲法の条文や成立過程あるいは立法意図、意思等を見れば明らかであります。 さらに、国家論を踏まえて考えますと、政教分離とはあくまで国家、つまりステートと宗教団体、つまりチャーチとの分離であって、国民共同体としての国家、つまりネーションから宗教、レリジョンを排除することではありません。すなわち、政教分離とは、世俗的権力としての国家、つまり政府が特定の宗教団体、つまりチャーチと結び付くことを禁止するにとどまります。 ですから、政教分離国アメリカでも、国民共同体としての国家の存続のため、様々な宗教的慣行が今なお続けられています。例えば、大統領就任式における宗教儀式や、連邦及び各州議会におけるチャプレン、つまり専属牧師の祈祷、あるいはアーリントン墓地におけるユダヤ・キリスト教式の戦没者追悼式などであります。しかし、これに対して政教分離違反などといった批判はほとんど聞かれません。 このように、国家論を踏まえて考えますと、従来の混乱がかなり解消するのではないかと思います。 三の、憲法とは何かでございますが、従来の学説における説明ですが、教科書に書かれているように、憲法といいましても極めて多義的な概念でありまして、分類の仕方次第で様々な説明が可能です。例えば、一、固有の意味の憲法と立憲的意味の憲法、二、実質的意味の憲法と形式的意味の憲法、三、成文憲法と不文憲法、四、硬性憲法と軟性憲法といった具合です。 ちなみに、我が国の憲法はもちろん硬性憲法に属しますが、硬性憲法の中でもとりわけ改正手続が厳しい、憲法改正のハードルが高いグループに属するものと考えております。 また、これらの分類の中で、本日特に問題となるのが立憲的意味の憲法ではなかろうかと思います。この点、周知のとおり、固有の意味の憲法とは、古今東西を問わず、国家あるところ必ず憲法ありという場合の憲法を指します。それに対して、立憲的意味の憲法は、近代立憲主義に基づき、基本的人権の保障と権力分立による国家権力の抑制、さらに国民の政治参加を内容とする憲法のことを意味しております。 ちなみに、最近、とりわけ護憲派の皆さんの間でよく言われているのが権力を縛る憲法という言い方です。これは立憲的意味の憲法、あるいは後で触れます制限規範としての憲法のことを一般向けに分かりやすく説明したものでしょう。この権力を縛るという言い方は、恐らく、十四年前に某政治学者が一般向けの著書の中で、法律は国民を縛るものだが憲法は国家権力を縛るものであると述べたのが最初ではなかろうかと思います。 確かにこれは一つの特徴を捉えていますが、縛るとは一体何でしょうか。文字どおり拘束してしまうのか、それとも抑制し制限することなのか、その意味も不明です。したがって、このような曖昧な言い方では正確な議論ができませんから、私は憲法学を専攻する者として、憲法は権力を縛るものなどといった粗っぽい表現は避けたいと思っております。 例えば、緊急権ですが、国家的な危機に臨んで権力を縛ってばかりいたら、それこそ肝腎の危機を克服することはできませんし、国民の生命や財産を守ることさえできないのではないでしょうか。 また、レジュメに書きましたとおり、憲法の定義は様々ですが、そのうちの一つの定義だけを取り出して、それがあたかも全てであるかのように決め付けることは国民をミスリードしかねないからです。もちろん、制限規範としての憲法を重視することは権力の濫用を防ぐために必要なことですが、そればかり主張されるとやはりバランスを欠くことになります。 次に、憲法規範の特質ですが、憲法には、授権規範としての憲法、制限規範としての憲法、それに最高規範としての憲法などの特質が見られます。このうち、近代立憲主義の観点から見て最も重要とされるのが制限規範としての憲法です。制限規範としての憲法とは、憲法が国家権力の行使につき内容と方向を定め、その限界を画する規範であることを言います。 例えば、日本国憲法第四十一条は国会が国の唯一の立法機関であると規定していますが、この規定は国会に立法権を与えるという、文字どおりの意味は授権規範です。と同時に、国会が立法権以外の行政権や司法権を行使することはできないという国会の権限行使の限界を定めた制限規範でもあります。また、憲法二十一条は国民に表現の自由を保障したものですが、その反面において、国家権力が表現の自由を侵害してはならないことを命じた制限規範でもあります。 このように、憲法の条文は授権規範と制限規範の両者を含むことが多いのですが、制限規範としての憲法ということだけが強調された場合には、憲法で認められた正当な国家権力の行使まで否定的ないし懐疑的に解されるおそれがあります。 事実、戦後の我が国では、国家権力そのものが悪ないし必要悪であるかのように言われることがありました。しかしながら、国家権力そのものは善でも悪でもありません。要は、行使の仕方次第です。それどころか、今日の社会国家においては、自由国家時代とは比較にならないほど国家権力の果たす役割は増大してきています。 つまり、国家からの自由を標榜した自由国家から社会国家への移行に伴い、国家権力は、単に国内の治安を維持したり消極的に国民の自由を守るだけでなく、より積極的に国民生活の充実と向上のために社会福祉、経済、文化、さらに科学技術等の発展に努めなければならないことになりました。 したがって、憲法の役割を考える場合には、この授権規範としての憲法と制限規範としての憲法という憲法の両側面についてバランスの取れた見方が必要ではないかと思います。 さらに、初めに述べました国家論を踏まえた憲法とは何かを考え直してみますと、このような分類も可能ではないでしょうか。 つまり、一つは権力機構としての国家、つまり政府を前提としたもので、言わば統治のルールとしての憲法が考えられます。諸外国におきましては必要に応じて憲法を改正していますが、この統治のルールとしての憲法に着目するならば、必要に応じて憲法を改正するのは自然でありましょう。なぜなら、ルールのために国家が存在するのではなく、国家のためにルールが存在するからです。 もう一つは、国民共同体としての国家を前提とした憲法、つまり国柄を示す憲法が考えられます。憲法の語はコンスティチューションの訳語ですが、コンスティチューションには、元々、国柄、国体といった意味があります。近年、憲法は国の姿、形を示すものといった言い方がなされることがありますが、これこそ憲法の本来の意味を示すものとも考えられます。 また、国柄を示す憲法は、さきの統治のルールとしての憲法と異なり、簡単に変更されることはあり得ません。つまり、不易流行という言葉に即して考えれば、不易に当たるのが国柄、つまり国家のアイデンティティーを示す憲法であり、流行に当たるのが統治のルールとしての憲法ということになると思われます。この点、憲法は権力を縛るものなどと決め付けた場合、この大切な部分が欠落してしまうのではないでしょうか。 第三の、不文の憲法につきましては、時間の関係で簡単に触れることにします。 そもそも不文の憲法とは何か。不文の憲法などを認めれば立憲主義の否定につながるのではないかなどといった意見もありますが、結論的に言いましたら、私は、立憲主義の立場に立った上でなお不文の憲法を認めざるを得ない場合があるのではないかと考えております。 例えば、憲法に緊急事態対処規定が存在しない場合、国家の非常時において国は拱手傍観して何もできないのでよろしいでしょうか。あるいは、憲法上の緊急権、憲法上緊急権が位置付けられている場合でありましても、それこそ国家の存立そのものが危ぶまれる究極の緊急事態においては、その緊急権を超える不文の緊急権という問題も出てくると思います。もちろん、これはもはや法の領域を超えているんだという議論もありますけれども、そういった意味での不文の憲法というものが論ぜられる余地があると思います。なぜなら、国家あっての憲法典であって、不文の憲法が国家は滅亡すれども憲法典を守るべしなどと命じているはずがないからであります。 四、立憲主義について。この立憲主義でありますが、これも時間がありませんので一言言及するだけにします。 さきに立憲的意味のところで簡単に触れましたとおり、近代立憲主義とは一般に、憲法によって個人の人権を保障し、権力分立を行い、国民の政治参加への道を開くものと考えられていますし、私もそのように理解しています。そして、国民主権の下では、主権者国民が憲法改正に参加できることこそ最大の政治参加ではないでしょうか。 この点、日本国憲法の改正手続が諸外国と比べて極めて厳しいグループに属することはさきに述べたとおりです。そのため、国会の発議が容易でなく、憲法制定後、一度も改正の発議がなされたことがありません。そのため、憲法改正国民投票への参加という主権者国民が主権を行使する唯一の機会が奪われ続けているわけであります。このことは、立憲主義における国民の政治参加という問題を考えるならば、ゆゆしき事柄ではないでしょうか。 五、終わりに。 最後に、意外に思われるかもしれませんが、東大法学部法学協会が編さんしました「註解日本国憲法 下」には、憲法制定者たる国民が憲法を尊重し擁護すべきことは当然であるとの言葉があります。しばしば憲法擁護義務を負うのは公務員だけであるといった議論がありますが、法学協会の「註解日本国憲法」にはこのようなことが示されております、当然のことでありますけれども。 それから、美濃部達吉博士の「日本国憲法原論」には、国家の構成員である国民は国家への忠誠義務を負っているとの言葉を紹介させていただきたいと思います。もちろん、ここで言う国家は政府ではなく、国民共同体としての国家、歴史的、伝統的な国家を指すはずであります。この言葉を紹介させていただきまして、私の意見陳述を終わらせていただきます。 御清聴ありがとうございました。
○会長(柳本卓治君) ありがとうございます。 次に、水島参考人にお願いいたします。水島参考人。
○参考人(水島朝穂君) 私は、二〇〇三年だったと思いますが、参議院の憲法調査会で緊急事態法制の問題についてお話をさせていただいて以来でございますので、本委員会にお呼びいただきましてありがとうございました。 とはいえ、バンクーバーのブリティッシュコロンビア大学で実は二日の日の午後、講演をしておりまして、集団的自衛権と憲法九条というテーマでございました。大変向こうの学者や市民も安倍政権のそういうことに関心が高かったんですけれども、ここに間に合うために早めに出まして、ぎりぎり今日の五時に着きました。したがいまして、ここにもしかしたらいなかったかもしれないという状態が実は起こりまして、そういう意味では、無事に今日お話ができることを大変うれしく思っております。 さて、お手元に資料、私の資料は三十七ページから始まっておりますけれども、憲法とは何かというのをこの時期、このタイミングで、この本院が行うことについて一言申し上げます。 報道によれば、来年、参議院選後に最初の憲法改正国民投票を行うというような言説が政府・与党筋から聞こえてまいりますけれども、参議院があえてこのような抽象的なテーマで議論することは、憲法改正の重さ、その重要性を政局的にではなく大局的に捉えようとするもので、私は敬意を表したいというふうに思います。参議院は、文字どおり熟議の府あるいは良識の府と言われると同時に、私は国権の再考機関であると、こういうふうに随分昔からしゃれで言ってまいりました。つまり、リシンキング、再び考える、再考機関。つまり、衆議院と同じように急いで決めたり、衆議院と同じことではなく、参議院は参議院らしくやっていただきたい。その意味で、私の、憲法とは何かという今回のテーマをお引き受けをした、こういう無理な日程でお引き受けした理由は、まさに参議院のその再考機関性、再び考える性に共感したからであります。 では、憲法とは何かを考えることからまず始めたいと思います。 今、百地参考人から一年生の一学期、まあ前期の二回目の講義でやる、私もやるお話をしていただきました。立場や内容は微妙に違いますし、反対するところもありますけれども、この論点で深めていきたいとは私は思いません。と申しますのは、この議論がもう少し次の段階で絡んでくる問題、これを、ここに書きました自明なことの自明でない確認から始めたいと、こういう意味でございます。 自明でないことは何か。それは、今述べられた議論を含めて、政党から出ている改正案を含めて、憲法はこういうものじゃないかというのはそれぞれ意見が出ます。しかし、それが改正案となって出てきたとき、それは実は憲法という本質の議論からいってどういう問題があるのか。つまり、憲法とは何かを理解する上で、そうではないいろんな言説を逆に議論することによってそこから憲法とは何かに逆照射、光を当てたい、これが今日の手法でございます。そうしますと、実は、素材としまして自民党の改憲草案を素材にさせていただいておるわけですけれども、これは非常によく分かりやすいという意味でそういう意味でございます。 一点目。まず、この憲法とは何かという議論で、先ほどもありましたけれども、縛るとかそういう意味で議論もありましたけれども、私の資料の四十二ページから四十五ページのところで随分昔の議論を書いてあります。 これは、実は小林節教授と私とでフジテレビの番組に出まして、一般市民が議論をして最後フジテレビで放映されたんですが、改正について賛成か反対かでやったんですが、最後、その六人は全員一致で保留という結論を出したんです。その理由は、憲法は国民が守るものでなく、自分たちの政治を担当させる権力者に対してそれを縛る、統制するものだと、そういう結論に彼らは到達しました。それに至るプロセスは私と小林節教授は全く意見がほとんどの論点で違いましたけれども、唯一、憲法の本質論においては近代立憲主義の立場に立つ、小林先生も先ほどの百地参考人の国民共同体論には立たない、つまり伝統的な多数派憲法学の、近代立憲主義に立った場合こうだということを私と同じことを言ったために、市民がそこでは憲法の本質論を理解していただいてこういう結論になりました。これは後でお読みください。 そして、私が十一年前、朝日新聞社で、当時幹事長だった安倍現総理が憲法改正をこう論議しようといった「論座」に書いた論文に対して、編集部から批判してほしいというので書いた論文が資料の四十九ページ辺りからございます。 そこで私が述べた内容は、つまり、権力抑制原理としての憲法の意義というものの認識をめぐって違いがあると。つまり、憲法に与えられた機能の役割の第一義的なものというのは、権力担当者に対して政策選択肢の幅を限定させる。この考え方が立憲主義の基本にあって、基本的に主権者国民が時々の権力担当者の言わば政治を授権、与えるわけですけれども、それが暴走しない一つの障害として設けたものである。だから、立憲主義というのは、その意味では歴史的に培われてきた人類の英知の一つであると、こういうふうに述べまして、だからそのハードルを下げることには問題があるのだという趣旨のことなどを論じておりますので、そこは昔のものですけれども、現総理との議論のやり取りということでお読みいただければと思います。 したがいまして、安易な憲法改正というのは、実はこの憲法とは何かの本質に関わるところの議論が不十分なままに変える、変えないの議論に移行してしまっている、そこに問題があるということを私は指摘したのであります。 そこで、内容に入りたいと思います。まず二番目。憲法前文に歴史、伝統、文化、先ほどでいえば国柄、そういうものを書き込むことの意味であります。 そういうことを書き込むべきだという説がございます。しかし、近代立憲主義の伝統的な憲法の立場、現在私は全国憲法研究会の憲法学者五百人の代表を務めておりますけれども、昔のように護憲か改憲かで対立したんじゃなくて、今日は余りにも立場の違う人間を呼び過ぎていますけれども、私の全国憲法研究会には私を批判するような若い憲法学者がいっぱいおりまして、それでも全員が一致して学問の選択の中で立憲主義の基本には立っています。ですから、先ほどのような立憲主義の立場を取らないで、五百人の憲法学者は基本的にそれぞれの研究をやっておりますから、研究の自由は、昔のようなやや、某教授の圧力とか、そういうのはもう存在しません、私がトップですから。その意味では、自由にしよう。そういう観点からすれば、憲法の理解も多様ですけれども、唯一、一点一致しているのは、国柄とか伝統とか歴史を過剰に憲法の中に書き込むことに対しては抑制的であるという点では、これはほぼ五百人一致をしております。 なぜかというのは、これは是非資料を見ていただきたい。二枚目でございます。つまり、中華人民共和国憲法には、中国は世界で歴史の最も古い国家の一つであるとか、輝かしい伝統とか、そういうことが書いてある。あるいは韓国憲法にも、悠久なる歴史と伝統に基づく、こういう形の前文に入れている憲法は、韓国、北朝鮮、中国などそう多くなくて、英米独仏、一連のそういう近代立憲主義の正統的な西欧の憲法にはこういう文章はありません。 つまり、国柄を入れろというのは、一見すると何か非常にいいように聞こえますけれども、実はあえて入れないことによって立憲主義の基本、つまり多様な意見がそれぞれ共生し合って、いわゆる比較不能な価値の共存関係と言う人もいますけれども、そういうものが立憲主義なんだから、そういう中身に踏み込むようなことについてはできる限り憲法は抑制的である、こういう立場がほぼ共通の理解になっているわけです。ですから、その意味で、伝統、国柄等を書き込む憲法の事例に見られるように、これは決して一般的ではなく、かなり特殊だとあえて言いたいと思います。 それから三つ目、人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえるべきだという意見がありますが、これは別に東大の権威主義じゃありませんが、東大の宮沢俊義教授が述べているように、明治憲法が実は近代諸国の憲法をモデルにしながら手本にして作ったんだと。ところが、明治憲法の解説者の中には、安易な国粋主義や愛国心に動かされて、明治憲法に対するヨーロッパ諸国の憲法の影響をできるだけ無視しようとする声が出てきたと、こういうことを述べていらっしゃいまして、決して明治憲法も国柄や伝統ではなくて、近代立憲主義の西欧的なものをモデルにしながら作ってあります。臣民の権利その他にも限界がありますけれども、立憲主義を取る以上、それが立憲主義の基本であるということを申し上げたいと思うのであります。 ですから、人権規定についても伝統を踏まえるべきだという主張に対しましては、つまり基本的には近代立憲主義の原点からすれば、これはそういうものではないということを申し上げたいと思います。 それから、四のところで書きました、立憲主義は国民の義務規定を憲法に設けることは否定しないという議論でございます。 これは基本的に、ごめんなさい、今の三番目で追加させてください。例えば、憲法九十七条と十一条があります、基本的人権です。これを九十七条は削除するという御主張が与党の中にあります。現に草案になっております。 しかし、これは全く意味が違う。十一条は人権の総論でありますから、位置関係からすれば人権の総論として存在する。九十七条は人権の場所ではなく、最高法規の章にあって、九十七、九十八、九十九の三か条で憲法は最高法規としています。つまり、九十七条は目的。憲法の目的、すなわち九十八条が最高法規とする目的は九十七条の人権の保障にあるんだと、だから公務員は憲法を尊重し擁護する義務があるのだという、こういう立て付けになっておりまして、この憲法の立て付けは、確かにダブった表現が十一条と九十七条であるんですけれども、決して位置関係からすれば無意味なものであるどころか、日本国憲法の先ほどの言葉を借りればアイデンティティーの本質が九十七条の最高法規のトップ条項にある、そのことを強調しておきたいと思います。 つまり、九十七条を削除する憲法草案というのは、人権を基本的に最高法規で確保しない憲法を考えているのかという悪口が出てきてしまうような内容であると思います。 それから四のところで、立憲主義は、国民の義務規定を憲法に設けることを否定しないということにつきましては、これは資料を見ていただければ分かりますけれども、実は欧米の自由主義国家では義務規定はオンパレードではございません。義務規定がたくさん出てくるのは旧社会主義国の憲法と中国の憲法でございまして、今日、全部並べてございませんけれども、下の方にたくさん義務が出てまいります。 つまり、憲法があえて権利と義務両方をバランスよく入れるんだというのは、これは極めて不正確でありまして、そもそも憲法は、バランスよく入れるんだったら要らないんです。法律はバランスが必要です。民法でもそうです。でも、憲法は最初からバランスは決まっています。なぜならば、個人と国家、権力担当者、国家の言わば統治機構では圧倒的に力の差がある。だから、憲法はあらかじめ個人が侵害されないように様々な自由を定めたり、その自由も権力の侵害の度合いに応じて厳しくしたり緩めたりしているわけであります。 そこから見られるように、まさに義務を強調するという言い方、例えば国家学会の中にもあったとか、そういうのはあるんですが、昔のあの限界のある教科書をもってして証明にはなっておりません。 つまり、端的に言いまして、憲法はあえて義務を書き込まないと言ってもよいくらいでありまして、二十七条の勤労の義務も、基本は勤労の権利に重点がありますし、もちろん納税とか教育の義務もそれぞれありますが、教育の義務の主体は子供ではありません。そういう意味からいっても、明治憲法下の教育の義務とは明らかに違う。 そういう観点から、立憲主義の問題からすれば、近代立憲主義に立った日本国憲法は、あえて言えば、義務はゼロでもいいとは言いませんけれども、義務を限りなく抑制した現在の制度設計というのが最もそれに照応したものであると言いたいと思います。 そして、更にございますけれども、次の憲法尊重擁護義務に行きたいんですが、憲法尊重擁護義務でいいますと、つまり、そこに国民が入っておりません。代わりに天皇と摂政が入っております。なぜ摂政まで入っているか。それは、摂政は皇太子が摂政宮になって何かを行うことも含めて、実は皇室が天皇という形で国事行為を行うときに憲法尊重擁護義務を課しています。 憲法尊重擁護義務をあえて課したことによって、例えば即位後朝見の儀で現天皇は、皆さんとともに日本国憲法を守り、とはっきりと言いました。そのときの皆さんは国民を含んでおりません。その前にいた最高裁長官から始まる総理大臣竹下登さん、それから議会の長ですね、そういう人たちを含めたいわゆる国会議員、裁判官、その他の公務員を指していたはずと私は解しておりまして、当時それを高橋和之教授が雑誌「世界」で論じたことを今も記憶しております。皆さんの相手は誰か。あの天皇が述べた皆さんは、皆さんとともに私も日本国憲法を守るということであったのではないか。 もちろん、天皇は政治的行為をできない、内閣の助言と承認ですから、内閣がそう言わせたとか、そういう議論はここでは立ち入りません。しかし、言葉だけを取って、歴史に残ったあの瞬間の言葉が皆さんとともにと言った意味は、九十九条を私は素直におっしゃったのではないかと考えております。 したがって、国民に憲法尊重擁護義務を殊更に課すという議論は、先ほどの資料を見ていただくと分かりますが、諸外国の憲法には尊重擁護義務、特に中国とかそういう国がありまして、ドイツはちょっと意味が違うので、また質問があれば答えますけれども、中国などの尊重擁護義務は非常にリジッドでございます。 そして、現行憲法の占領下だったからという議論については今回は省略させていただきまして、あっ、省略の点で一点言いますと、例えば憲法二十四条、そこに女性の権利が書いてあります。女性の権利について、スターリン憲法やソ連憲法をまねしたからこれは共産主義の価値が入っているというようなことをおっしゃる議員の方もいらっしゃいますけれども、これは間違いでございまして、私、それを弁証するために、一番最後に私のホームページの直言というのを、ちょっと特定の議員の方に批判のように聞こえますが、これそのとき書いたものですからお許しください。 それを書くことによって、実はその六十一ページから六十二ページにかけて、美智子皇后が指摘されたいわゆる五日市憲法や近代立憲主義の熱い思い、そして何よりもベアテ・シロタ・ゴードンさんへのメンションを誕生日のこの挨拶の中でされておりまして、この中にも見られるように、共産主義でも何でもなく、リベラルなアメリカの女性の考え方というのが日本国憲法の中にも入っているということがここで主張をされているわけでございます。 そういう観点から、まさに、押し付けだ、全てはアメリカの価値のものだということは当たらない。つまり、伝統的な様々な日本の中にあった様々な価値、明治憲法以来、自由民権運動以来のものと、外から女性の権利に対する熱い思いを持った、占領軍にいたたまたまそういった女性たちのまさに合作が日本国憲法である。憲法は、シンプルに、簡単にこっちとこっちでできるものじゃなくて、複雑なプロセスを経たモザイクのような一つの芸術品です。だから、弱点だらけであるし、その解釈も多様であるし、様々な問題を持っています。どこにも憲法が一〇〇%いいなどとは言いません。全国憲法研究会の代表として、憲法を改正してはならないなどという憲法学者は一人もおりません、九十六条がありますから。 ですから、憲法を改正する場合にはどういう議論の仕方が重要かというのが最後のポイントでございます。それが私の言葉で言う憲法改正の三つの作法でございます。 作法などという、茶の湯やそういう世界のものをあえてここで持ち出したのは、誤解を承知で私が述べたのは、いわゆるルールであるとか法則であるとか原則というよりは、もっと私は強調したかった。つまり、あえて法律にも書いていない、そういう手続法にもないけれども、誰もが当然の条理として知っておくべきものが憲法改正には普通の法律と違って求められるんだと。なぜか。それは、先ほども議論があったように、憲法は基本的に国の基本的な構造を規定しているものです。ですから、その時々の政権の事情によって変えられてはならない。その意味では、政権が替わっても引き継がなきゃいけない継続性と一貫性と、何よりも安定性が必要です。 そうしますと、それを変える場合、三つの考慮事由が必要である。一つは高い説明責任です。この説明責任というのは、基本的に変える側に高い説明責任が課せられていると私は考えております。それは、民事訴訟でいえば、原告、被告はフラットでございますから、バランス論や対等の議論が成立します。しかし、刑事訴訟では絶対にそれは成立しません。なぜならば、疑わしいだけでは有罪にはなりません。検察が有罪を立証できなければ無罪でございます。これが無罪推定です。 したがって、憲法については法律と違ってバランス論ではなく、変える側が憲法改正をしなければどうしようもないんだということが証明できて初めて憲法改正の議論に入っていく。これは法律と違うところであります。法律は、それぞれ草案を出して、闘わせて、政権が取ればそれで変わることは我々目撃していきますけれども、憲法は違う。憲法の場合は、基本的にそういう意味でいえば長期的な国のそういう安定性や定着性、そういうものを定めますから、時々の政権では変えられないように作る。だから、変える側は高い説明責任が証明できなければ変えないという結果ができる。 つまり、変えない側がなぜ変えないのかを説明する必要は私はないというふうに思っております。なぜならば、変える側が説明に失敗をすれば憲法は残るということでございまして、その意味では、九十六条を先行して変えようと一時期総理が、二〇一二年の総選挙後言いましたが、近年では先行改正論は影を潜めたのがそうであります。つまり、九十六条を早く変えることに説明に成功しなかった。国民が支持しなかっただけではなくて、恐らく皆さんの、委員の中でもこれはちょっと筋が良くないと思った方もいらしたはずであります。こういうことですから、九十六条は変わらなくて今もあるわけです。そういう意味からいっても、私は、そういう意味で高い説明責任はする側に高い説明責任がある。 二つ目は、情報の公開と自由な討論です。 どうして憲法を変えなきゃ駄目なのかということが十分に議論されないで、取りあえず環境権が合意を得やすいからというのは、これは全くもって憲法をなりわいとする者からすれば許せないことです。 環境というものは、環境権と環境の責務という国の義務とは全く質が違います。権利というのは裁判所に訴求できる権利なのか、客観的な法秩序の中における責務条項なのか、この区別もしないで環境権を憲法に入れましょうという議論は極めて不誠実な議論の仕方であります。そういう方に限って、代替エネルギーの問題や福島の原発の復興の問題について必ずしも熱心ではないような方も見受けられるのは、私は偶然ではありませんと思います。 そういう意味からいいましても、環境権を入れるよりもっと環境が、究極の環境破壊である福島を何とかしてほしいという被災者の人々の気持ちの方にむしろ、福島の人は環境権の改正には賛成するかどうかは疑問ですが、そういう点が言えます。 三つ目、それは熟議の期間であります。 情報の公開と、きちっとしたそういうものがなされた上で熟議の期間が必要だ。一体、憲法を変える権力の担当者の側から、参議院選後にまず第一回をやろうなどということがなぜ出てくるのか、私は理解できません。国民の側から憲法を変えようという声があります、したがって、そういう声が大きくなってきた、どうしても憲法改正をしなきゃならない、そういう段取りであるはずです。 後でお読みいただきたいこの小林節教授とやったフジテレビの番組、是非この委員会で、フジテレビから提供すれば、二〇〇五年三月に放映したものです、一切再放送してくれませんけど、それを是非皆さんで御覧ください。普通の市民が見てみて、改憲、護憲、三対三が最後全員一致で、憲法はそういうものだから、権力担当者の問題だから、我々は一回下から憲法改正の議論が上がるまで保留しようと、あるいは憲法の本質を理解できる場にしようと、こういうことで保留にする結論をフジテレビの番組でしました。 そういう観点からも、私はこの三つの作法というのをその番組の体験から持ってきたことを今も記憶しております。 最後になりますけれども、このような、つまり憲法改正の仕方からすれば、この審査会がまず憲法とは何かというところから始めたということは、政権側のように期限を切ってやるせわしい議論とは違って、やはり根本的な議論をしたいということが与野党皆さん御一致したということで、参議院に対して非常に敬意を表したいという冒頭の言葉に戻るということを最後に申し上げて、私の意見を終わりたいと思います。 ありがとうございました。
○会長(柳本卓治君) ありがとうございました。 以上で参考人からの意見の聴取は終わりました。 これより参考人に対する質疑を行います。 本日の質疑は、あらかじめ質疑者を定めずに行います。質疑を希望される方は、お手元に配付した資料のとおり、机上の氏名標を立てていただき、会長の指名を受けた後、御発言願います。 一回の質疑時間は答弁及び追加質問を含め八分以内といたします。時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔に願います。質疑者におかれましては、参考人の方々の答弁時間を十分に考慮をいただき、時間配分に御留意ください。なお、質疑を終わった方は、氏名標を横にお戻しください。 参考人の方々におかれましては、答弁の際、挙手の上、会長の指名を受けた後、御発言願います。 それでは、質疑のある方は氏名標を立ててください。 佐藤正久君。
○佐藤正久君 自由民主党の佐藤正久です。 本日は、百地参考人、そして水島参考人、ありがとうございました。 時間の関係で、百地参考人に質問をさせていただきたいと思います。 参考人言われた、憲法は英語で言えばコンスティチューション、国の形や構造、国柄を表すものだという意見に同調する者の一人です。その意味で、憲法に書かれています国民の権利及び自由、あるいは義務、あるいは責任というものの関係について、この国柄をしっかり書き込むということも非常に大事だと私は思います。 今の憲法では、特に第三章で国民の権利及び義務が書かれておりますが、権利が十五、義務がそれに対して三か所、自由が六か所で、責任はたった一か所と、余りにもバランスが悪い。権利や自由というものが前面に出過ぎていて、義務と責任は引っ込んでいるような感じにも見受けられます。 東日本大震災のときに、人権で一番大事な生存権を守るために個人の権利や自由を抑えるということも必要だったわけですけれども、結果的に、この個人の権利を抑えるような政令が出たのは三週間以降ということで、非常に現場が苦労しました。 私は、義務なき権利はないし、責任なき自由はないという国柄をやはりこの憲法の方にも明記すべきと考えますが、それについてのお考えをまずお聞かせ願いたいと、これが一つ目です。 二つ目に、この国民の権利あるいは民意を表す手段の一つとして住民投票があろうと思います。その住民投票も、憲法制定当時とは違った今状況がいろいろ生まれているようにも思います。 先月の二月の二十二日、与那国島で起きました自衛隊の配備の是非を問う住民投票、これは反対派の町議員の方から提案があり、それが採決されて行われたわけですが、その際には有権者として中学生以上あるいは永住外国人にも投票権を与えて行われました。さらに、その条例には、その結果を尊重するようにというくだりまで書かれていました。確かに民意を表す、確認するという住民投票は非常に大事だということを踏まえた上で、二点、御意見を聞かせていただきたいと思います。 安全保障とか国家的な課題というものが本当に住民投票になじむのかという論点です。確かに憲法制定当時、あるいはそれに基づく地方自治法制定当時には、まさかこういう国家的な課題を住民投票というものでというのは想定していなかったと思います。 二点目として、この住民投票の有権者に未成年とかあるいは永住外国人を認めることについての先生の評価をお願いしたいと思います。 総務省の見解は、法的拘束力がなければ、今回の住民投票に未成年とか永住外国人を含めるということは、これは違法とは言えないというものですが、この論法によれば小学生もオーケーになってしまうと。本当に小学生にこういう国家的な課題について本当に判断できるのかと。憲法学者の中には、この参政権の中には住民投票権も入るという論調もありますが、本当にそういう意味において、今、拘束力があれば違法で拘束力がなければ何でもいいという考えは、私は非常に危険なような感じがいたします。 これも、住民投票も国民の権利を、あるいは民意を表す一つですが、この辺の考え方について、参考人のお考えをお聞かせ願いたいと思います。 以上です。
○参考人(百地章君) 御質問ありがとうございます。それでは、二点の問題についてお答えさせていただきます。 まず第一点の権利と義務の問題でございますけれども、確かに、明治憲法制定会議におきまして伊藤博文が、憲法において、権利を定め権力の行使を制限せざるして何で憲法を制定する必要があるのかという意味のことを述べております。したがいまして、立憲主義の立場からすれば、権利をまず保障するということが当然であります。 しかし、一方で、例えばフランス革命で人権宣言が初めて発せられたわけですけれども、あそこで発せられた人権宣言が何をもたらしたかと。つまり、言わば無制限であるかのような人権宣言が発せられたために、あれが一つのああいった暴走を生み出したという見方もあるわけであります。そして、現にその人権宣言が出されて、その後の反省に立って、実はフランスでは、フランス国民の権利と義務の章典というのも作られているんですね。これは人権が、ちょっと正確な表現ではなかったかもしれませんが、そういうのがあります。そこでは権利と義務が同じように数限られているといったこともありまして、おのずから権利と義務についてはバランスとかそういったものが必要であろうというふうに私は考えております。 また、常識で考えれば、権利と義務は当然セットであるというふうに考えておりまして、したがいまして、御質問のありましたように、権利と義務についてのバランスといいますか、そういった発想は私も賛成であります。 ただ、義務については、当たり前のことは憲法に書かないということもありますから、したがって、先ほどの水島参考人のお話の中では、義務なんて掲げていない国も多いんだという話もありましたけれども、それは当たり前であって書かないという場合もありますから、必ずしも条文にこだわる必要はないと思います。 それから、二番目の住民基本条例あるいは住民投票条例の問題ですけれども、これは私もやはり御意見に基本的に賛成でございまして、まず住民基本条例、その条例そのものが果たして憲法上どういうふうに位置付けられるのかと。つまり、地方自治というのは間接民主制を旨としているわけですね。ところが、議会が、与那国島であれば自衛隊の配備を、これを議決したにもかかわらず、仮に住民投票でこれが否決される結果が出たらどうなのかと。つまり、それに従ってその配備が否定されれば、これは言わば住民自治の否定、憲法の間接民主主義の否定につながります。したがって、憲法上の疑義が出てくるという問題。 それから、そもそも防衛とか安全保障といった問題が地方自治の対象となり得るのかと。これはもう国政上の問題でありますから、そもそもそういったことを地方自治のレベルで論ずること自体が私は無理があると考えます。 それから、あの与那国島の場合には外国人と未成年者にまで与えておりましたけれども、この外国人の問題につきましては参政権、広い意味での参政権、これが住民投票であると考えれば、参政権は国民固有の権利であるとした憲法の趣旨からしても、あるいは国民主権の原理からしても許されないと思われますし、また、未成年者については公職選挙法でも未成年者を投票活動等に、選挙運動に参加させることを禁止しておりまして、また、未成年者にそもそも判断能力が十分あるのかと。様々な点から見まして、やはり外国人、未成年者にまで住民投票を与えたのは非常に問題があるというふうに考えております。
○佐藤正久君 どうもありがとうございました。 今の意見を参考にして、また議論を進めていきたいと思います。 ありがとうございました。
○会長(柳本卓治君) 前川清成君。
○前川清成君 ありがとうございます。民主党の前川清成です。 私は、二〇一三年の一月以降、大畠、枝野、そして現在の江田、三代の民主党憲法総合調査会の会長の下で事務局長をさせていただいています。 私は、七十年たった憲法を一字一句触ってはならないという意味でのいわゆる護憲派ではありません。しかしながら、憲法に基づく政治、あるいは法の支配、あるいは立憲主義、これは文字どおり命懸けで守っていかなければならない人類の宝ではないかと、そんなふうに思っています。 その点で、百地先生の資料を拝読させていただきますと、当然その国の来歴や国柄も憲法は表現しなければならないというふうにお書きになっていて、自民党の議員の皆さん方から憲法というのは国柄を表現するものだというふうに御発言になって、あるいは、そのときの総理から制限規範性については王様の時代の考え方だというふうな御発言がありましたので、実は百地先生のお説というのはもっとラジカルな考え方なのかなと、こういうふうに思っておったんですが、しかし、その百地先生も言わば当然のこととして、この御著書の中でも国家権力の行使に対して警戒的であることが立憲主義の核心であると、こういうふうにお述べいただいていますので、是非、これからもし憲法の議論を深めていくというのであれば、自民党の皆さん方も、百地先生のお説の都合のいいところだけ取るのではなくて、憲法の制限規範性も授権規範性も最高法規性も全て前提とした議論をお願いしたいと思います。 その上で、百地先生にお尋ねをするのは、確かに社会国家になって、フリーダム・フロム・ステーツだけではなくて、先生のお話にもありましたスルー・ステーツ、国家によって例えば社会権を保障していくという場面はあると思います。したがいまして、その意味において、私は国家というのが常に敵対的であるという議論には立たないわけでありますけれども、しかし、社会権の保障とはいえ、自由や平等が保障されていることが当然の前提であって、その上で生存権やあるいはその他社会権が保障されると。 こういう意味においては、やはり現在にあっても、憲法に授権規範性、最高法規性、様々な機能があることは前提としつつも、核心的な部分はやはり制限規範性ではないのかなと、こういうふうに考えておりますので、ちょっとその点お考えをお聞かせいただきたいのと、今、権利と義務はセットだと、こういうふうにおっしゃいました。しかし、立憲主義であるとか憲法の制限規範性に照らせば、義務というのはむしろ付随的に憲法に書かれるものであって、人権を保障すること、基本的人権条項こそ憲法の核心的な部分ではないのかと、こういうふうに考えております。その点についても御意見をお聞かせいただければと思います。 また、水島先生は、大変お忙しい中、お疲れのところお越しいただきまして、ありがとうございました。 百地参考人の方から、近代憲法、立憲主義的な憲法の核心としてフランス人権宣言十六条が引用されましたが、同時に、今から三十年ほど前ですが、私が法学部に入った頃、憲法の勉強を始めた頃は、教科書と同時に、それこそ一年生の一学期、ゴールデンウイークに入る前に憲法の意味という講義があって、芦部先生そのほかが「憲法の基礎知識」というのをお書きになっていて、それの冒頭に書かれてあることが、憲法というのは決して価値中立的な器のようなものではないんだと、基本的人権を保障するというために生まれたルールなんだと、こういうふうに書かれてあります。 昨今、少年犯罪で痛ましいものがありました。少年犯罪をどうするかというのであれば少年法を議論する。労働者の立場をどうするのか、労働法を議論する。と同じように、憲法には憲法の役割があるのではないのか。そのことは、私は幾ら強調されてもいいのではないかと、こういうふうに思っておりますので、この点、水島先生のお考えをお聞かせいただければと思っております。 以上です。
○参考人(百地章君) 立憲主義についてのお尋ねだと思いますが、先生おっしゃいましたように、成立の事情ですよね。歴史的に見れば、これはいわゆる十七、八世紀、絶対的な王制下の下で、そういった絶対的な権力を持った国王のこの権力の濫用を抑える、あるいはその権力の行使を制限するために登場してきたのが立憲主義であることは間違いありません。それは事実です。それだけをもって今日それはもう必要ないんだという議論は私はもちろん取らないわけでありまして、権力というのは、そういう歴史的な問題だけじゃなくて、常にこれは濫用されがちである、権力は必ず腐敗する、絶対的権力は絶対的に腐敗するといったアクトン卿の言葉もありますけれども、私は決してそんなに否定的なものではありませんが、しかし、絶えず権力に対する警戒というのは、これはなくてはいけない。そういう意味で、現代においても、そういう制限規範としての憲法という点は非常に大事だと思います。 しかし、私はそれ以上に、それ以上にといいますか、それと同時に、ただ権力を抑制すればいい、権力を制限すればいいとなると、社会国家の現実とか、あるいは国家権力そのものに対する否定的な立場から、実際、震災のときに何があったかと。権力の行使に対する警戒とか、あるいは流されてきた瓦れきを処理することまでこれは財産権の侵害であってできないんだと。これは解釈としておかしいんでありますけれども、現にそういった形でその国の権力の行使に対するいろんなそういう警戒とか批判が出てくる。そういう意味では、正当な権力の行使の根拠となっているのは憲法であるという点はやはり押さえなくちゃいけないと思います。 それから、あとは自由権と社会権の関係ですが、これはやっぱり局面の問題だと思います。制限規範が基本ということじゃなくて、自由権ということを考える場合には当然制限規範ということがこれが重視されてきますし、社会権の場合には授権規範としての面が表に出てくる。したがって、局面局面ごとに解釈していけばいいんじゃないかなというふうに考えております。 それから、なお、権利と義務は裏腹の関係にあるというのは言わば常識的なそういう考え方を申したわけでありまして、憲法で定めた義務というのは国民としての特に必要な義務を掲げたものでありまして、それは限定的でありますけれども、一般常識としては、権利を行使する場合にもそういう義務というか責任意識を持ってやるのは常識だろうと、そういう話を申し上げたわけでございます。
○参考人(水島朝穂君) 御質問ありがとうございました。 芦部教授を含めて、憲法の目的は人権の保障にあって統治機構はその手段であるという理解は司法試験のほぼ共通のものでしたし、これは、実は今年八十年を迎える天皇機関説事件のときの東大を始めとする全ての、早稲田も含めて、教科書の、高等文官試験を受ける、試験を受ける人たちのベースは天皇機関説でした。つまり、当たり前のことが書いてあった。ゲオルグ・イェリネックが、いわゆる国家に主権がある、天皇はその最高の機関なりと、これは当たり前の通説だった。この通説を当時の軍部や貴族院で、この貴族院などがああいう形になって、天皇機関説になって、今年、そういう歴史的なターニングポイントですね。つまり、大学の通説だったもの、天皇機関説が通説だったのは、あれは立憲主義的説明なんですよ、基本的な戦前における。公務員もみんなそうやって試験に受かって天皇の官吏になっていた。 ところが、戦後は、まさに憲法の目的は人権にありということが価値、まさに前面に押し出された日本国憲法の下で、それが当たり前のように司法試験の教科書として公務員も受験してきたから、先生おっしゃるようなものが頭から生まれてくるのは私は当たり前のことであって、価値中立的でないといった意味は、まさに人権保障が目的だということ。だから、自民党草案がある九十七条は削除しちゃいけないのは、あの九十七、九十八、九十九がそういう関係で公務員も縛っているから、制限規範性を過度に強調して言わば授権規範性を無視するのは全くもって議論に成り立たないのでありまして、制限規範性と授権規範性は裏表の関係なんですね。 つまり、その意味でいうと、これを説明するために教科書的にやったんであって、本質的の憲法の立て付けというのは、基本的人権の保障という目的に対して統治機構をどう組み立てるか、その際の近代立憲主義を今の憲法の下でどのように組み立てるかというときの説明として出てきている、そういうものが過去の説明も生きてくるわけでありまして、そこを抜きにした一般的な権利義務、裏表とか、そういう議論と同じではないと私は思っております。 最後になりますけれども、憲法の役割でいいますと、四十四ページ開けていただきますと、私の資料ですけれども、これはゲオルグ・フォルケという人の書いた論文から簡単に引用したんですけれども、憲法の最も重要な働きは制限引き出し機能だ、つまり制限規範だということを言うと同時に、実はもう一つ、方向指示機能も持っていると。リヒトゥンクスバイゼンクスフンクツィオン、方向指示機能とは何か。それは国家の基本的な目標、環境保護であったり社会権だったりする。そういうものを方向指示する機能もあるんだよということを言っていまして、ドイツの場合、それを動物保護まで入れちゃったんですね、近年。それはいろいろ議論あります。 日本国憲法は、実はそういう形で憲法の中に社会権を含めて、実は本来的な憲法の近代立憲主義の中にその後新たなそういうものが膨らんでいったのは、この憲法の二つ目の私の言う方向指示機能というのがあって、その国がどういう国を目指すのかということなんですけれども、それは決して国柄とか伝統とか文化とか、そういうものには解消されない。そのときの言わば人権を目的とした国を運営する中で出てくる、次々に現代的な課題が出ますよね。ですから、将来、日本国憲法を改正してこういうことを国家目標規定で入れようじゃないかという議論があれば、私も参加したいと思っています。 でも、被害者の人権を入れようという議論には参加しません。なぜならば、被害者の人権は極めてミスリーディングであって、実は、そもそも端的に言えば、憲法は加害者の人権しか保障しないのが憲法なんですよ。なぜなら、個人は検察、警察に対して圧倒的に弱者ですから、その人間が拷問されないとか令状抜きに逮捕されないとかというのを立て付けてあるんであって、決して被害者となった個人と私人間におけるそういう対応において、そこに、それを人権とした場合、ここに人権の設計が非常に難しくなってくるわけです。 これは同じことが環境権にも言えていまして、私は、環境権を権利と入れることについては実は賛成しておりません。つまり、権利としてしまった瞬間、環境は、私も環境を侵していますから、権利と権利の調整がすごく難しくなる。 だから、この方向指示機能と四十四ページに書いたのは、それは専ら人権とかそういうところを膨らませるよりは、先ほど言った統治機構の国家目標規定のようなところを豊かにしていくと、今後日本も変化していく中で。そういう議論の中できちっと議論をすれば僕は十分にあり得るし、それを九十六条で改正しようという議論は私も十分あり得ると思っておりますので、決して制限規範性だけを言っているわけでもなければ、そういう改憲は全部反対だと私たちが言っているわけでもないことを是非、与党の先生方にも知っていただきたいと思いました。
○前川清成君 時間ですので、これで終わらせていただきます。ありがとうございました。 ただ、改めて申し上げたいのは、選挙によって選ばれた民主的な政権であったとしても、ヒトラーのナチス・ドイツのように暴走してしまうと。だから、権力を制限するルールとしての憲法が重要だということは、是非、与党の皆さん方にも、自民党の皆さん方にも、憲法の議論の前提として御理解をいただけたらと思います。 以上です。
○会長(柳本卓治君) 矢倉克夫君。
○矢倉克夫君 公明党の矢倉克夫です。 お二人の先生方、貴重なお時間頂戴いたしまして、本当にありがとうございます。様々な示唆を与えていただきました。 時間の関係もありますので、早速質問を入らせていただきたいと思います。お伺いしたいのは、日本国憲法における人権の制約についてであります。 御案内のとおり、公共の福祉による制約というのは明文化もされているわけですが、これについては、なぜそもそも公共の福祉とならないのかという点では、人権と人権の衝突の調整であるというところを宮沢先生もおっしゃっている部分が今まで基本であったかと思うんですが、他方で、例えば、町の美観の維持であったり、性道徳もまた維持するという、人権の衝突以外の場面についてまた制約も受けるというような考え方もあると思うんですが、この辺りについてはどのようにお考えなのか。公共の福祉というふうにどう捉えていらっしゃるのかという部分も含めて、まず百地先生から、その後、水島先生からいただければと思います。
○参考人(百地章君) ありがとうございます。 公共の福祉論ですが、実は学説の唱えるところ、通説、宮沢説を通説とするならば、宮沢説の主張するところと判例とは大きく異なっておりまして、宮沢説では公共の福祉というのは人権相互の矛盾、衝突を調整するものであると、実質的公平の原理であると言っていますね。確かに、そう書かないと司法試験にも通らないようでございますけれども。 しかし、実際の最高裁判決を見たら、例えばチャタレー事件であれば、あれはわいせつ文書の規制、表現の自由の規制ですよね。あのときに、人権相互の衝突の調整になっているかどうか。わいせつ文書の規制の法益ですよね。何のために規制を行うかというと、これは、性的秩序を保護し、最小限度の性道徳ですか、これを、済みません、ちょっと上がっておりまして、性的秩序を守り、最小限度の性的道徳を維持すると、だったと思いますけれども、そういった表現をしておりまして、ここには人権相互の衝突という発想はありません。 そのように、最高裁は、例えばデモ行進にしても、公安条例にしましても、これ、例えば同じ道路を通過する歩行している人たちとの調整のために規制が許されるなんていう議論ではなくて、公共の安寧秩序を維持するためにデモ行進の規制は許されるというのが最高裁の判例であります。 したがいまして、その辺、私は、学説の言うところは一つの説明としては分かりますが、やはり多くの国民、常識的な国民を納得させる説明にはなっていないと、最高裁の言っていることが私は妥当だと思っております。 もう一つは、済みません、宮沢教授については、私に言わせると、国家論がないからこういう議論になっている。つまり、人権以上の価値は存在しない、国家といえども人権よりも下にあるんだという、そういった議論をされているわけですね。この国家というのが政府のことであるならば、つまり国民、その政府の下に国民があるというのはおかしいんじゃないかという議論になるかもしれません。しかし、国民共同体としての国家というものを考えるならば、その国民共同体の例えば存続、維持のために人権が一時的に制約されるということはあり得るわけでありまして、この国家論の不在が宮沢教授のこういった議論をもたらしているんじゃないかなというふうに私は考えているところであります。
○参考人(水島朝穂君) 国家論を前提にしながら憲法をという百地参考人のお立場というのは、憲法学界の中では常に存在してきた少数説でありますけれども、基本的に憲法学の観点から公共の福祉というものを考えたときに、初期の最高裁判例のように、むき出しの公共の福祉によって人権は当然制約されるという議論は卒業いたしまして、御承知のような宮沢教授の影響だけではなくて、最高裁の判例の中でも、先ほど公共の安寧秩序で最高裁も当然だというのはこれミスリーディングでありまして、新潟公安条例判決も東京都公安条例判決もそれぞれ論理違うんですけれども、明治憲法下のような、あるいは自民党改憲草案のような公共の秩序や安全というのをむき出しで、むき出しでデモ行進やわいせつやそういうものにするという時代はもうとっくに卒業しているはずでありまして、六〇年代以降の最高裁の判例を見ても、いろんな意味でもそれぞれの利益の調整についてはかなり工夫をされるようになっていますから、その意味で、公共の福祉による制限を絶対認めない的な議論で憲法学は近年やっておりません。 分かりやすいあれを出せば、わいせつです。わいせつでチャタレー判決があったときのあの公共の福祉、かなり最高裁は大きく大上段に振りかぶってきたわけですけれども、近年、わいせつについては、例えばジェンダー論の観点なども含めて、女性に対するあれは差別なんだという観点からキャサリン・マッキノンの議論などが出てきたり、見たくもない子供に対して見せないという利益とか、これ正当な利益ですから、これも人権侵害だと言う憲法学者はおりませんので、近年、この詳しいことは省略いたしますけれども、このわいせつの合憲性、違憲性をめぐる議論におきましても、むき出しの公共の福祉論ではなくて、それぞれの権利の性質に応じた制約のありようというものを基本的に議論する方向と流れは学説、判例において出ておりまして、したがって、してはならないのは、公共の安寧秩序とか、自明の解釈不能な前提をつくることです。 ですから、公共の安全、秩序と言っちゃった瞬間、安全というものの解釈権を持った政権側に自由になりますから、公共の福祉というこの曖昧な、今のあれでいえば、デモ行進等についてもいろんな利益の挙証の中で規制が必要かそうでないかを裁判所も工夫したり悩む。私に言わせますと、裁判所もみんな悩むことが、やる。悩まないようにすっきりと言葉を換えたらこれ守らなくなるし、裁判所もすぐ判決が出ちゃうんですよ。つまり、判決が時間が掛かり、こっちの裁判所とこっちが違うということに憲法というのは実は過剰でない、寡黙である。そこに実は社会が上手に生きていく意味があって、まさか私たちも児童ポルノ禁止法みたいな議論がなるとは、実は十年前、二十年前は、わいせつの議論で、授業では触れたことありませんでした。でも、近年ではこの議論必ず入れてきます。質が変わってきているんですよね。 ですから、そういう意味でいうと、やっぱりもっと生産的な公共の福祉や人権制約も議論したいということで、やっぱりむき出しの公共の福祉論はもう卒業しなきゃいけないと思っております。 よろしいでしょうか。
○矢倉克夫君 済みません、時間が来ておりますので、じゃ、一点だけ。 公明党も基本的人権の尊重というのは人類普遍の原理だと思っておりますので、その部分、今の先生方の御意見の中で、人権と人権の衝突以外の人権制約の場面が出てくる可能性という問題があるということ自体は理解をさせていただきました。その後の何をもって制約するかということはまた慎重に検討するべきことだということだけをお伝えして、終わりたいと思います。 ありがとうございます。
○会長(柳本卓治君) 儀間光男君。
○儀間光男君 維新の党の儀間でございます。 本日のテーマである憲法とは何かについて百地先生、水島先生のお話を伺えたことは、誠にもって光栄に思っております。ありがとうございました。 ただ、私、実は沖縄県出身でありまして、沖縄県は戦後二十七年間にわたって日本国憲法の下から外されておったんです。それで、昭和四十七年に復帰されて日本国憲法に入ったときは、既に私、小学校、中学校、高校、大学行って、三十は回っておりますから、一般社会人でした。そういうことで、私のこの七十年ちょっとの人生の中で憲法という、触れたことはそんなにないんです。だからといって、沖縄県民が憲法学者はいないかというと、私の後にそういう人たちはいっぱいおりますので、私だけ余り触れていなかったということを申し上げたいと思っております。 さて、両先生の論旨にも、憲法は国の形をつくる、あるいは国家権力に制限を掛けるという立憲主義というところでは一致をしておるように思いました。ところが、この先に至っては、国民の関わり方についてなど、にわかに違いがあるような感じがいたしております。憲法に関しての認識は研究者間でも違いがあることは、その後の憲法のありよう、あるいは解釈にも違いが生ずるのは至極当然な結果だと思っております。その結果が、具体的に改憲派と護憲派にも分けられると思っております。 そして、それぞれが議論を尽くしているという認識をしているところでありますが、そもそも本審査会の存立そのものが、制定七十年にも及ぼうとする現憲法について調査をし、研究を尽くして、場合によっては現憲法の見直し、つまり改憲するという前提の下での審査会であろうという認識を持っているところであります。憲法とは何かのテーマで改憲の話を持ち出すのはいささか的外れな感がしないでもないんですが、しかしながら、議論を重ねていくとき、結局は改憲か護憲かに行き着くのが容易に予想が付くところであります。 そういうことから、さきに出ました、集団的自衛権の憲法解釈について閣議決定がなされておって、賛否両論いろいろありましたが、その反対のポジションを取っていても、最後には憲法の手続というかがなされ、法律の言う三分の二条項と、あるいは国民投票などの条件が満たされるのであれば、九条とて改憲があり得る、たとえ憲法九条であっても議論をタブー視してはいけないというふうに考えます。 憲法には九条以外に時代にそぐわない多くの条項があります。あるいは、欠落している部分と多くの書換え、加筆が必要とする部分があると思います。例えば、予想し得ない大規模な自然災害が発生し、統治機能が失われたときに、憲法ではどのようにこれを保障していくのか。現憲法で欠落した部分を書き加えていかなければならないのではないか。 あるいは、憲法九条、戦力を保持しないということはよく分かるのでありますが、また憲法は国民の生命、財産、領土、領海、領空を守らなければならないと解しておりまして、しかし守りについての具体的な条項はというと、必ずしも明確ではないというふうに見受けられます。 つまり、改憲か護憲かというと、私は、これは欠落した部分を補完していく意味では改憲を前提に憲法論議をすべきであると思うのでありますが、両先生の御所見をいただければ有り難いと思います。シンプルに聞きたいと思います。 以上です。 百地先生に先にひとつ。
○参考人(百地章君) ありがとうございます、御質問。 私も、常識的に考えまして、GHQの占領下におきまして押し付けられた憲法、それを戦後七十年、ずっと憲法政治を行ってきたわけでありますけれども、常識的に考えて、当然いろんなところにゆがみ、ひずみが出てきているし、そもそも日本国憲法は、国家を国家たらしめないように、つまり、言わば国家の一番の存立の基盤であるところの防衛力ですね、これを否定したところに作られた、端的に言えば、日本を非武装化し、日本を弱体化するために作られたのは、これは紛れもない事実であると思っております。 したがって、我が国が主権国家、独立国家として今日、国際社会において生き抜いていくためには、当然その防衛、安全保障の問題について憲法改正を行う。私は、九条一項のいわゆる平和主義、つまり侵略戦争を放棄した部分は、これは堅持すると。しかし、二項におきまして、もし我が国が侵略を受けた場合、あるいはその侵略を阻止するためにこそ自衛のための軍隊を持つ必要があるという立場に立っておりますので、そういった視点から考えましても、あるいは様々なもろもろのひずみが生じているということから考えましても、さらには緊急権の問題もありますけれども、国家の緊急事態に対処するための規定が憲法には存在しない、これは明らかに憲法の欠缺だと思っておりますけれども、様々な不備、欠陥がありますし、また成立過程から見ても極めて問題が多いと。 したがって、日本が精神的な意味での独立を果たすためにももう一度憲法を根本的に見直す必要があるという立場を取っているわけでありまして、先生と基本的に同じ考えではなかろうかなと考えております。
○参考人(水島朝穂君) 私、九八年に「オキナワと憲法」という本も出しまして、編著でございまして、沖縄が七二年までまさに無権利状態であって日本国憲法のあれは受けていなかった、あるいは潜在主権論という説明もありましたけれども、実質的にはおっしゃる大変な沖縄の状態があった。したがって、沖縄における憲法記念日の感覚というのは微妙に違うということはいろいろ書いてきたつもりでございます。 ただ、その沖縄の目から見た今の日本国憲法へのまなざしというのは、私の知る限り、委員の主張のような人よりは、むしろ憲法が沖縄にとってはむしろまだ初々しい感じがしておりました。というのはどういうことかといえば、本土よりも沖縄の方が日本国憲法の特に九条に対する思いというのは非常に強いというのを私は感じてきました、私は。 そういう意味からしますと、今おっしゃったような軍隊を持ち九条を変えていくことをこの議論の前提にすべきだという議論を立てますと、例えば沖縄県が何度の選挙の中で名護の基地についてあのような選択を行った後も現政権は粛々と進めているわけですけれども、やはり沖縄の安全保障の位置関係、沖縄の基地の意味、これは今日は時間がありませんけれども、アメリカ側の資料を見ても、あそこに海兵隊の部隊を置いておく意味があるのかということは疑問の議論が既にありまして、その意味からいっても、安全保障の総合的な様々なファクターを構成をした議論が必要なんですけれども、そこに憲法九条改正を絡めた瞬間、議論は非常に一方的、一面的になってしまう。 つまり、今中国の関係やいろんな問題の議論をする上で、基本的には憲法問題なのか、それとも安全保障の一般の問題なのかを区別すべきだろうと思います。その点で、私は、二〇一二年の、超党派でつくっている新憲法制定議員同盟、先生お入りかどうか分かりませんけれども、それが五月一日に発表した三・一一の災害からの復興についても現憲法は重大な欠陥を有しているという大会決議をしております。 その災害復興がうまくいかないのは憲法に欠陥があるからだというふうに、産経新聞は五月二日付けで見出しを付けました。何でもかんでも憲法にする癖がどうもこの国にはありまして、どこの国も憲法のせいにはしないんですよ。でも、この国だけは憲法のせいにする。つまり、憲法が悪いんではなく憲法の理念を具体化できない政治の無策にこそ問題があると私は考えておりまして、その意味では、やはり政治家の皆様方、是非考えていただきたいのは、今日の憲法のこの議論は非常に大事だと私は思っていますけれども、九条の改正を前提に置くという議論ではなくて、やはり根本的に憲法の将来を見越した生産的な議論、建設的な議論をしていただきたいということで、委員とちょっと評価違いますけれども、私の意見を申し述べさせていただきました。 ありがとうございました。
○儀間光男君 ありがとうございました。 ただ、誤解を受けてはいけませんから追加しますけれど、憲法九条を改憲するという前提じゃないんですね。憲法九条であっても議論することをタブー視してはいけないということを特に申し上げたかったわけです。
○参考人(水島朝穂君) 分かりました。
○会長(柳本卓治君) 吉良よし子さん。
○吉良よし子君 日本共産党の吉良よし子です。 本日は、参考人の皆様、ありがとうございます。 私の方からは、水島参考人の方に幾つか伺わせていただきたいと思っております。 総理は、施政方針演説において憲法改正に言及しました。自民党においても、先月二十六日、党の憲法改正推進本部の会議を開き、改憲戦略について検討したとの報道がなされております。朝日新聞においては、その会合において、まずは各党の理解を得やすいと見る緊急事態条項や環境権などで改正の前例をつくり、その後、九条改正などを目指す二段階戦略が鮮明になったとあり、さらに、その二段階の理由として、一度改正することで世論が改憲慣れし、前文や九条の改正につながることを期待するものだとする記事がございました。 そこで参考人に伺いたいのですが、私は、こういう二段階という戦略そのものの発想は、先ほどの参考人のお話にあった憲法改正の三つの作法に照らしてもやはり違うのではないかと思いますし、立憲主義とも相入れないのではないかと、改憲が進まないのは改憲に慣れていない国民のせいとでも言うような議論というのは違うのではないかというふうに思うのですが、参考人のこれに関する御感想はいかがでしょうか。お願いします。
○参考人(水島朝穂君) いろいろな改憲をめぐる政治の方の御議論は存じ上げていますし、私はホームページを持っておりまして、これ今年の十二月で千回目になる、ずっと十八年続けているんで、そこでかなり厳しい言葉で批判をして続けておりますので、お読みになっていただきたいと思うんですが、それぞれにはコメントをしてきているんですけれども、今回のこの二段階ということをマスコミがまとめたのか実際言われたのかがよく私自身は裏を取れていませんので、それににわかに乗れないんでありますけれども、ただ、聞こえてきますのは、変えやすいものから変えましょうという議論は、これは作法に反する以前の問題だと私は思います。 と申しますのは、これは法律の議論でもそうだと思うんですけど、通りやすいものから通そうよと言っちゃった瞬間、これ、やっぱり九十六条のときに先生方自身もお考えになったと思うんですが、改憲派の小林節教授がこれは裏口入学をいうものだという言い方をして、すごく後味の悪いことを思った方もいらっしゃると思うんですね。 つまり、本筋からすれば憲法改正は常に王道しかないんですよ。九十六条しかない。だから、本当に変えたいと思う方々が自分で自信を持って九条改正なり環境権の提案なりを堂々とやって、これによって福島を復興させるんだ、これによって沖縄を守るんだということならば憲法改正に合理的な理由があるし、憲法改正にそれなりの国民も聞く耳を持つだろう。でも、マスコミから聞こえてくるのは中身ないんですよね。 だから、その意味でいうと、私は、二段階かどうかはよく分かりませんけれども、国民をやはり非常に、有権者というか国民投票有権者、先生方が決めた十八歳になりますけれども、決して十八歳は、私、「十八歳からはじめる憲法」という教科書も出しているんですが、これは二〇〇七年に、安倍政権があの法律出したときにすぐに十八歳になると思って作っちゃった本なんですけれども、やはり十八歳はばかにできません。ドイツへ留学しますと、ギムナジウムの何年生ですけれども、すごいひげ生やしていますから、十八歳は結構考えます。 まあいろんな事件もあったと思うんですけれども、やはりまともに考える人に一票を与えるということは、法的な拘束力を与えるのと同時に、それを何らかの形で参加させるのは別になって、何らかの形で一般的な参政権とセットにするから取りあえず今はおきますけれども、やはり誰もがそういうことで議論していけば気付くだろうというのがこのフジテレビの、普通の六人の市民に私たちが、小林さんと八時間しゃべって物すごく理解してもらえた。時間を掛けて、しっかり論点を見せて、全部見せれば、どんな方でも議論します。だから、九条も環境権もしっかり王道でやっていただきたいと思います。
○吉良よし子君 ありがとうございます。 王道でという話でしたけれども、自民党の中ではということで、報道ベースではありますけれども、環境権、財政規律条項、緊急事態条項などを比較的理解を得やすい項目として挙げているとされております。その中身についても参考人の御意見を伺いたいのですが、やはり環境権、財政規律条項についてまず伺います。 私は、それらはやはり憲法改正が必要なものとは思えないわけです。参考人も先ほど環境権についてはおっしゃられていましたが、例えば福島第一原発の事故で環境中に大量の放射能がまき散らされたというのも、政府と電力会社、原子力大企業の安全神話が原因とするものであり、憲法を変えるまでもなく政府の対応が求められるものだと思うわけです。また、財政についていえば、憲法の財政民主主義原則の下、財政法があり、厳しく規律されているわけで、こうしたことを考えれば、そもそもこれらのことが改憲の理由になるとは思えないのですが、参考人の御意見はいかがでしょうか。
○参考人(水島朝穂君) 財政は、八十九条で私立学校への補助をやっているじゃないか、これは違憲じゃないかと、こういう議論なんですね。ですから、憲法を変えてそういうものができるようにしようというんですが、憲法学の通説はこの八十九条も二十六条の教育権などと解釈して、いわゆる博愛や教育は駄目なんだということよりは、むしろ私立学校法の援助はこれは合憲なんだということはかなり初期の段階で確定していまして、殊更憲法を変えないと私学助成ができないというのはためにする議論だと私は思っていますし、三点目、メンションされませんでしたが、緊急事態法については、実は日本公法学会で私、二年前に学会報告やっておりまして、緊急事態法と福島の問題を議論しました。そのとき、もうこれは論文、有斐閣から出ていますけれども、日本国憲法は緊急事態の不在ではない、日本国憲法は緊急事態に何も言っていない、実は参議院の緊急集会条項があるじゃないか。それを利用して全体のいわゆる非常事態法を導く議論が先生も含めてあります。 私は、そのときの学会で、その五十四条ができたときの国会の議論などを見ていくと、みんな言っているのが、伊勢湾台風とか、ごめんなさい、あれは南海台風とか、すごい大きな災害があったんですね。ですから、日本は地震国で台風国で水害国だ、だからそういうときに国会が何かしなきゃいけないからで五十四条の緊急集会入れているんですよね。ですから、緊急事態一般がないという議論ではなくて、この災害国における緊急災害事態について、自然災害等については日本国憲法は不在ではないという意見を持っておりまして、それを具体的に制度設計したのが災害対策基本法であります。 ですから、憲法を変えなくても災害対策基本法を充実させていくことによって将来への対応もできていくし、いろんな特別法の立て付けがどうもうまくいっていないのは、そこの報告もしましたけれども、そういう議論としてやるべきだと私は思っています。
○吉良よし子君 緊急事態条項についても後で伺おうとは思っていたんですけれども、お答えいただき、ありがとうございました。 そういう意味では、やはり理解を得やすい項目ということで言われていることについても、今すぐにでも合理的に憲法改正が必要だと言えるとは言い切れないということを私は感じたということも申し上げて、質問を終わらせていただきます。
○会長(柳本卓治君) 田中茂君。
○田中茂君 ありがとうございます。 先ほどから両参考人にいろいろ質問をさせていただいておりますが、皆さんから、同じことを繰り返したくはないものですから、私、実は今回初めての憲法審査会での発言ともなりますので、私の考えを若干ちょっと言わさせていただいて、お二人に質問をさせていただきたいと思います。 もう日本国憲法成立から七十年くらい経過しましたが、戦後日本の発展に対して現憲法が果たした役割は私自身高く評価しております。しかし一方で、先ほど来いろいろとお話はされておりますが、時代の変化とともに国民が疑問や曖昧に思う箇所が多数明らかになったことは事実であります。現憲法の基本理念である主権在民、基本的人権、平和主義、国際協調など、確かに尊重すべき点は踏襲して、現在の国情、世界情勢の変化に合わせて疑問点を明確化し、課題を整理した上で国民の意思を憲法に反映させるときが私はようやく来たと、そう思っております。 二十一世紀も十五年目に入った現在、日本を取り巻く環境は激変しております。そういう中で、日本は長らく憲法とは変えるものではないと、そういう意識が強かったように思います。がしかし、憲法の条文を変えることは珍しいことではありません。先週ですか、ドイツ、イタリアに視察に行った際の報告がありましたが、皆さんのこの憲法審査会の中でも。ドイツ六十回、イタリアも十六回憲法を改正しております。国民の意識もそのように変わりつつあると私は考えております。 特に、冷戦構造が崩壊し、各国、地域、自分、己がアイデンティティーが主張される時代となっております。宗教間、民族間の紛争やテロが世界各地で起きているのもそれが理由の一つではないかと思っています。各個人の己のアイデンティティーを問われるなら、自らが属する国家のアイデンティティーを知る必要があり、これまでの日本ではそれが希薄であったと私は思っております。 以前、中曽根康弘元首相が、現憲法の出生は言わば切り花だから、非常に鮮やかできれいなように見えるが、結局、自分の根で水を吸い上げて幹を通して葉を養い自分の花を作っていない、むしろ内閣法制局や裁判所の解釈とか便宜主義で造花みたいに長らえてきた要素が多い、まさにバーチャル憲法だと、そのようにおっしゃっています。 その表現を借りるとすれば、現憲法は既に造花にもならず、みずみずしさを失っているのではないかと私は思っております。憲法とはそもそも命が限られた切り花のようなものではなく、日本人が日本の土地に種をまき、根を広げて葉を増やし、花を咲かせていけるような大きな木のようなものではなくてはならないと私は思っています。 私が思う次の世代にふさわしい憲法改正とは、日本人が初めて自らの手でつくる、アイデンティティーを自覚できるものであります。 憲法は当然ながら国家権力を、先ほどからおっしゃっていますように、当然ながら国家権力を制限する機関と同時に、国民の自由を認めるが、その国民の自由も、あくまで義務を伴う自由であると思います。しかし、本質的に国家を支えているというものは、先ほど百地先生がおっしゃっているように、突き詰めれば私たち個々人の国家観や国家意識の醸成であって、それは個人の生命や時間軸を超えて継続する国家という集合体に対する歴史性の自覚に裏付けられたものだと私は思っております。国家とは常に特定の歴史性と文化性を背負った共同体なのであって、まさにそれから国民としての自由の気概が生まれてくると思っております。 戦後日本は荒廃した焼け野原から不死鳥のごとく立ち直り、驚異的な復興を成し遂げました。しかし、それと引換えに国家意識は国民から薄れ、敗戦のトラウマから国民は国家の名誉も国民としての誇りも感じなくなりました。日本国民に忘れかけられている自由の気概、国民としての誇りを覚醒させることが我々子孫に対する私たちの、今の私たちの責務であると思っています。 日本が長年にわたり平和を維持して偉大な経済発展を遂げたことには、憲法のみならず日米安全保障条約が貢献しており、安保条約による米国の、米軍の保護の下に九条が存在している。平和を維持したのは九条の力だとよく言われておりますが、むしろ敗戦による厭戦思想と、それに続く高度経済成長により、何も軍事などに頼らなくても平和が維持できるという国民意識が形成されたからであり、この平和維持は憲法と日米安保条約が一対になって得られたものだと思っております。 しかしながら、かつてのような経済成長が見込めず、グローバル化が進み、一国のみでは対処できない問題に各国、地域の協力で解決を図らなければならない時代には、この外交上の所産である日米安保条約よりも、確かな日本の自主性、自体性、自由の気骨を備えた憲法の精神が必要であって、時代の要請に即した憲法の改正を考え、その力となること、私自身そう思っております。 そこで質問でありますが、時間もありませんので、これは憲法とは何かということなので、先生に憲法に対する基本的な考え、先ほど来ずっとおっしゃっていましたが、それをお聞かせいただければ有り難いと思います。
○参考人(百地章君) ありがとうございます。非常におっしゃること、納得するところがたくさんありまして、ありがとうございます。 憲法とはそもそも何かという、これまでお話ししてきたことでありますけれども、特に先ほど、例えば、いわゆる先進国の中には余り歴史とか伝統なんてわざわざ掲げていない国が多いんじゃないかという、そういう水島参考人のお話がありました。確かにそうかもしれません。しかしフランス憲法では、前文であのフランス革命に対する哀惜の念というものをちゃんと冒頭において掲げているわけですね。常にフランス革命というものをその誇りとし、その理念に立ち返ることによってフランスというものを形成してきたんだということがそこに示されているわけでありまして、それはそういうところもあります。 また、特に冷戦後誕生した国々の中には、むしろ歴史を引き裂かれたり歴史を失った国が多いから、だからあえて憲法の中に、前文にその国の歴史とか伝統をうたうことによって国家意識を醸成しようとする、あるいは愛国心というものを確立しようという、そういう意識が高いだろうと思います。 そういう意味では、明治憲法下においては、初めて近代国家が建設された中で、やはりしっかりした国民意識をつくり愛国心を養うと、歴史、伝統に対する誇りを取り戻すことによって西欧列強に対抗していこうとした、そういう志というか思いがあそこにも込められているんではないかと。 そのように考えますと、今の憲法は余りにも無国籍でありまして、前文には日本らしさはどこにも存在しません。また、占領政策もあって、日本人の意識からは非常に国家意識とか歴史、伝統に対する思いというものが失われてきている。そういう中であればこそ、私は、憲法前文に高らかに日本の国の国柄とか歴史、伝統をうたうことによって、日本国民にもう一度国家意識を取り戻させる、あるいは日本人としての誇りを取り戻させる必要がある。その意味で、前文にそういう歴史、伝統、国家というものをうたうべきではないかと考えておりまして、その点全く同じであります。
○参考人(水島朝穂君) お説は拝聴いたしましたが、最後のところで、憲法についてどう考えるかということでございますが、ただ、その中でドイツのことにメンションされました。これは、私、ドイツ憲法を専門にしておりますけれども、ドイツの憲法改正を細かく見ていきますと、実は重要な基本権であるとか民主主義の基本的なところについては変えておりません。基本的に手続規定やEUに入るときとかでありまして、大規模改正は六八年のときの盗聴を可能にする十条改正、九八年のいわゆる室内に盗聴器を設置できる十三条の身体の自由の改正、これは違憲の基本法改正だという議論すらあるくらい、実は憲法改正への疑問という議論もあるくらいでありまして、これは実は憲法改正の限界をドイツ基本法七十九条三項は、人間の尊厳や民主制や法治国家、そういうものは変えちゃいけない。だから、この変えちゃいけないことを具体的に書いているわけですね。ですから、それに触れているという議論ですよね、盗聴とかそういうのができるのは。それから、フランスの憲法の八十九条五項には、共和制は変えられない、君主制に戻せないということ。イタリア憲法の百三十九条も、共和政体はこれは触れない。 だから、憲法改正は何でもできるし、自分の思いや国柄や自分の思想や、そのときの国民のわっと盛り上がったムードで憲法に書き込むことは、実はそれぞれの憲法は慎重に避けている。避けているどころか、むしろ禁止しようとすることが普通である。だから改正手続が高い。死刑についてだって、フランスは最終的に憲法改正で死刑廃止したのは、やはりわっと法律に残しておけばそのときの政権が死刑を復活するからという思いがあった。 いろんな意味で、権力が自ら自分を縛るというところに権力の自己抑制、自己拘束の発現があるのであって、是非、皆さん方、国家権力の重要な部分を担当されている方は、まさに今までの政治家たちの自分に対する抑制的な表現、例えば自由民主党の先輩政治家が非常に抑制的なことを言っておりますけど、私、是非、石橋湛山自由民主党第二代総裁、内閣総理大臣の岩波文庫の評論集を読んでいただきたい。湛山は、国を滅ぼすとはどういうのかと、それは軍備の拡張という国力を消耗する考え方だと。冷静に憲法を読み返すとき、私は日本がそのような悪路、悪い道、つまり軍備拡張で国力を消耗する道を踏んでいくことを忍び難いものを感ずると、こういうふうに言っていまして、先ほどの原稿の最後に持ってきています。 つまり、自由民主党石橋湛山元総裁、総理という方であっても、戦争を体験した上で出てくる言葉というのは、やはり国民の共通体験の上にそれぞれの体験を憲法にやはり求めている。求めたとき慎重になる態度というのは、やはり自己に対する抑制、つまり、先ほど会長が見事におっしゃっていただきましたが、最も民主的と言われたあのワイマール憲法の比例代表制、完璧比例代表制、国会議員以外でも法律を作れる直接投票、それからいわゆる大統領の直接解散、それからプレビシット的な直接民主制、その中でヒトラーが生まれたんですよ。 だから、民主主義を徹底し、民意を圧倒的に尊重するというやり方をやってもそうやって失敗したから、そこに変えちゃいけない条文を入れてみたりとかやるわけであって、権力者が自分は何でもできると思っちゃいけない。その逆を書いてあるのが憲法ですから、おっしゃる思いはよく、それぞれあると思いますけれども、それをどういう形に憲法に反映させるのかというところは、憲法は憲法なんだというこの議論を踏まえてやっていただければ幸いかなと思いまして、それぞれの自由な議論は決して私、さっきタブーという言葉がありましたが、九条をタブーという言い方はすごく非生産的で、私は一番、九条論で創造的な九条論、安全保障論やっているつもりで自分ではおりまして、自衛隊の解編論というのを実は昔やっていまして、サンダーバードに変えろというふうに言ったのは九二年でありまして、防衛省が二〇一三年、ポスターにサンダーバードを募集に使ってくれたんですね。 ですから、その意味でいうと、私が言っていた自衛隊がもっと愛される方向というのは決して銃を撃つ方向じゃないんだよということは、決して私は、九条はゼロか一〇〇か、制限か授権か、あるいは自衛隊完全廃止か全面軍隊かじゃないという、いろんなことをこの議論の中でやるのが憲法であって、憲法は寡黙であるがゆえにそういう自由が自由にできるんですよ。だから、憲法に書き込まないこと、それが大事だということを申し上げたいと思います。 失礼しました。
○会長(柳本卓治君) 江口克彦君。
○江口克彦君 次世代の党の江口克彦でございます。 本日は、参考人の先生方、どうもお忙しいときにありがとうございました。 国家を運営していく中で憲法にどのような項目を盛り込むかということについては、国家のその基礎的な根本法としての、及び立憲主義を体現するものとしての基本的なありようというものがあろうかと思います。具体的には、統治機構の基本を定めること、それからもう一つは基本権を保障すること、それから三つ目は国を守るための仕組みを規定することなどは当然にそれに当たるだろうというふうに思いますし、我が日本国憲法にも定めがあるところであります。 ところが、緊急事態において迅速かつ的確に国民の生命、財産を守るために国家はその権力をどう行使すべきなのか、平時と同様でいいのかについては、日本国憲法は答えを持ち合わせていないように思うわけであります。参議院の緊急集会の規定がそれに対する回答だという言い方もありますけれども、議会では憲法に反する事柄を決めることはできないのであって、直ちに対応できないような事態が必ず存在し、それを緊急事態というふうに呼ぶわけですね。憲法には何が定められるべきかという命題は非常に難問でありますけれども、緊急事態への対応について憲法が言及していないということは、私は憲法の欠陥だというふうに言わざるを得ないのではないかというふうに思います。 いざというときへの備え、それは対外的な有事だけでなく国内の災害等の事態に対するものでもあるわけです。この前の震災においても、原発があわやというところまで至ったわけであります。これを看過することは、いざというときに政府が超法規的措置をとることを容認するものにほかならないということになります。 立憲主義を権力を縛るものとして理解される方たちが緊急事態条項の新設に反対するというのは、全く私は矛盾であるというふうに思うわけであります。緊急事態においてこそ、行政府や立法府に平時とは異なる権力、権限をどこまで許容するのかを憲法においてはっきりと明確にしておくべきではないかというふうに思っております。 お伺いしたい点を端的に申し上げますと、一つは、緊急事態に関する事柄は憲法に規定しておくべき事項であるか否かという点。それから二点目は、緊急事態への対処が法律レベルでの規定だけで可能なのか否かという点。この二点につきまして、まず水島先生の方からお考えをお伺いし、また、その後、百地先生の方からお考えをお伺いできれば幸いでございます。 どうぞよろしくお願いいたします。
○参考人(水島朝穂君) ありがとうございました。 お手元に、岩波書店から出した、五十三ページからの緊急事態条項というのがございます。ですから、欠陥という議論を私、紹介しながら、沈黙を守っている、この日本国憲法の緊急事態法の書いてないことを沈黙と見るか欠陥と見るか。 私は、公法学研究の中で、公法学会での報告の中で、これはいわゆる沈黙や欠陥と見るべきではなくて、先ほど申し上げた形で、災害国の日本におけるそういうような事態に対応する憲法の方向と内容というのは、いわゆる憲法にないけれども基本的に法律で書いてあるというレベルではなくて、憲法は、先ほど申し上げたように、いろいろなものに対して過剰に、あるいは饒舌であってはいけない、寡黙であるべきだ。 国民の安全や原子力事故、いろんなものに対してもどんどん書き込むことによってやれるようにすべきだと、こういう議論があるんですけど、私はそれは、憲法というのは、そういう意味でいえば、そういう便利なデパートではなくて、その基本的な方向と内容が書いてある。それを基本的に法律レベルで具体化していく。その法律レベルに欠陥があればそこに総合的な検証、あるいはその法律の実施が失敗した、それは、例えば東日本であれば事故調が様々に立ち上がって検証したわけでありまして、そういう検証の上に立ってどういう方向と内容が今後必要かと、こういう議論も進んでいると思います。 その点でいうと、私の資料の五十五ページ辺りから、ドイツなどは制度化された緊急権の見本と私は言っていまして、とにかく徹底的に憲法に書き込んでいるんですよね。だから、日本もそれにすべきだという議論の方がいらっしゃるんですけれども、このドイツの憲法に書き込んでいくやり方というのは、逆に言えば、非常事態法のときに憲法の濫用ができないようにするとき、当時の社会民主党の理論家たちがむしろそういう形で運動をしながら、そういう理論も、そういう議論を入れながら、結局そこに三分の二を必要としたり、あるいは小さな議会で、ソ連がミサイルが来るときでさえ四十八人で議会で決定しないと総理大臣は権限持てないとか、いろんな縛り方をして、緊急事態にぎりぎり立憲主義的統制を加えようとしていた、そういうふうなことを明らかにしておりまして、後にですね。 そういう意味でいうと、それぞれの国で、例えばフランスのように十六条で大統領が自由にできるのに対しては、ミッテラン政権が十六条の削除をしようと。やっぱりこれはアルジェリアにまで非常事態ずっと使っちゃってたと、植民地に、反省から、十六条を取ろうじゃないかという議論があるとき、日本だけなんですよね、殊更に緊急事態法を憲法に入れようという議論をやっているのは。韓国の学者と議論をしたときも、やはり韓国憲法で非常事態法が濫用されているから、もうちょっと抑制しようという議論が大きいんです。 だから、これは日本国憲法の欠陥というよりは、むしろそういう憲法に入れない、入れるよりは、そういう対応がこれまでできてこなかった政治の問題だと先ほど申し上げたことを繰り返したいと思います。
○参考人(百地章君) どうも御質問ありがとうございます。 二点御質問があったと思いますが、第一点ですね、現行憲法に緊急事態規定が存在しないのは憲法の欠缺かどうかという御質問だと思いますが、これは私はまさに欠缺論を取っておりまして、本来あるべきものが存在しないと思います。実は、それは理論的にも成立事情からも言えることだと思います。 まず、理論的には、要するに立憲主義というのは通常は平時のルールであります。したがって、緊急時には対応できない。だから、平時には平時の、そして緊急時には緊急時のルールが必要だというのがまず前提にあると思いますね。 その上で、緊急権の目的というのは、国家的な緊急事態において国家の存立を維持する、もちろんこの場合の国家というのは政府じゃありません、繰り返しております国民共同体としての国家、その国家の存立を維持し、憲法秩序を守ることによって国民の人権、これを保障するためにこそ緊急権が必要なんですね。 ちなみに、危機の克服がまず目的であって、それによって国民の人権、生命も守られるということでありますけれども、そういうことを考えるならば、どうしても憲法には緊急権、緊急事態に対する規定を置くべきであると、不可欠であるというふうに考えております。 逆に、もし緊急権がもう制度化されていない場合には一体どうするのかと。つまり、しばしば超法規的措置なんという言葉、気楽に使う人もいますけれども、憲法改正に反対せんがためにそういう言葉を言っているんじゃないかと思いますけれども。超法規的措置というのは、要するに憲法も法律も無視して権力が暴走することを認めることであります。日頃、憲法は権力を縛るものである、権力の暴走を抑えるために憲法があると言っている人たちが、一方で、いざとなれば超法規的措置で行けばいいと言うんですから、これは明らかに矛盾だと思いますけれども、そういうことが言われているわけであります。 その点、あと成立事情ですけれども、成立事情は、これも私も調べたことがありますが、マッカーサー草案には緊急時のための規定がありませんでした。そこで、我が国は、内閣による緊急政令権ですね、これを入れるように求めたわけですけれども、アメリカはそれは反対すると。不文法の国というか、成文法、両方ですけれども、そういう伝統がありますから、いざとなれば不文の法、ロー・オブ・ネセシティー、必要の法によればいいということで見解の相違があったわけですが、アメリカの反対によって結局盛り込むことができなかった。 つまり、本来あるべき規定が何らかの理由によって、そういった事情によって盛り込まれなかった、これは明らかに憲法の欠缺であると思います。 なお、先ほど水島参考人が参議院の緊急集会のお話されましたけれども、私は全く見解が違いまして、これは平時のための制度であって緊急時のための規定ではありません。緊急時の規定そのものはやはり存在しないと見るべきでしょう。 それから、フランスの例を挙げられましたけれども、フランスの憲法十六条は大統領に強力な非常措置権を認めております。廃止論もあったかもしれませんが、現にそれがあり、使われてきたというのが現実なんですね。他方、日本には緊急時の規定が何もないところで、それを廃止論があったからと持ち出しても余り説得力を持たないんじゃないかなというふうに思っております。 それから、法律レベルで対応できないかという議論でありますけれども、これは二つ理由がありまして、私は難しいと思っております。 一つは、仮に法律においていろんな緊急時のための規定を置いたとしても、現に警察法にも警察緊急事態という規定がありますし、災害対策基本法にも緊急政令の規定があるし、いろんなそういう法律があります。しかしながら、さきの東日本大震災のときに何があったかと。先ほどもちょっと触れましたけれども、例えば瓦れきの処理をするとしたら、これは言わば憲法で保障されている財産権の侵害に当たると、したがって簡単にこれを除去することはできないという議論が出されてきた。つまり、仮に法律に規定があっても、それ自体が憲法違反であるとされればそこで後退せざるを得ない、中止せざるを得ないという現実があります。 したがって、幾ら憲法に積み重ねていってもそれだけでは駄目であって、憲法の中に、まさに国民の人権を守るためにこそ、より多くの生命を守るためにこそ、一時的に人権の制約をせざるを得ない場合があるだろうと。立入りを制限したり、あるいは財産権の一時的な制限をするということは、憲法に置かなかったら私はできないと思っております。 それから、法律でやる場合には、法律は個別的に掲げるわけですよね。例えば自衛隊の警護活動にしても、テロ対策として警護活動がありますが、現在は自衛隊の基地と米軍基地しかないんですよね。これを更に例えば原発に広げたとしても想定外の事態が出てくる可能性があります。法律ではやっぱり個別的な規定になりますから、ある程度包括的な緊急時のための規定を設けるにはもう憲法しかないんじゃないか、これが二つ目の理由であります。
○会長(柳本卓治君) 渡辺美知太郎君。
○渡辺美知太郎君 無所属の渡辺美知太郎です。 百地先生、水島先生、今日はお忙しいところをお時間いただきましてありがとうございます。 私からは一点あります。 今後、国会ではいわゆる安保法関連の審議が始まると思うんですが、それに伴って集団的自衛権の行使に関する憲法判断を求める裁判が今後増えると思うんですが、こういったことについて裁判をするということは統治行為ではないかという意見があるのですが、これについて両先生の御見解を伺いたいなと思います。
○参考人(百地章君) 済みません、ちょっと聞き漏らしてしまったんですが、憲法裁判、何をもって具体的に統治行為とおっしゃったんでしょうか。済みません。
○渡辺美知太郎君 集団的自衛権の行使というのは、まさに高度な政治性を有するわけであって、国民から直接選ばれていない裁判所が判断するのはなじまないのではないかという意見があるのですが、それについて先生方の御意見を聞きたいなと思います。
○参考人(百地章君) 集団的自衛権の行使をめぐって具体的な裁判がどのような形で起こり得るのかというのは、ちょっと今にわかに想定しにくい、我が国では抽象的な判断ができませんので、具体的な事件がどうなるか分かりませんが、仮にそれが裁判所に上がったとして、そこで集団的自衛権の行使が果たして憲法に違反しないかどうかということが議論された場合、私は最高裁は恐らくもう統治行為でいくしかないだろうと思っております。高度に政治的なそういう判断、あるいは自由裁量的判断という言い方もありますけれども、私は結論的にはそうなるだろうと思っております。
○参考人(水島朝穂君) 統治行為論というのをよく誤解されて使っているんですけれども、衆議院の解散が統治行為かという議論は、皆さんよく御存じの苫米地事件判決というのがありまして、例えば衆議院の解散について統治行為論を取った最高裁のあの判例が、例えば砂川事件のときにあれを統治行為論だと説明する学者がいるんですが、あれは違うんですね。あれは、一見、極めて明白に違憲無効と認められない限りは条約というのは審査できないというんであって、最初から条約を審査できないとは言っていません。したがって、疑似統治行為論という議論もあるくらい、実は慎重に最高裁というのは統治行為論というのを使い分けしているんですね。そういう意味でいうと、条約や何かの問題について裁判所が全く審査できないということはない。その意味でいえば、違憲審査の対象として条約はならないという学説はないと私は、今の最高裁のベースにしてもそういうことだろうと思います。 そうすると、集団的自衛権というのは何なのか、内閣の閣議決定ではないか、それが果たしてどうかというのは、これは統治行為を持ってくるまでもなく、もっと手前のところで裁判所は恐らく訴えを退けるだろうと思っていますから、今述べた統治行為というのはなぜ持ち出されてきたのかといったら、そもそもそれが根拠になって議論になるところの苦渋の選択で最高裁がひねり出した論理ですから、いわゆる松阪市長などがやる特定のそういう動きを封じたりとか賛成するとかという意味じゃなく、ニュートラルに見ても非常に難しい裁判であることは間違いないと。つまり、それを訴える、集団的自衛権の行使の閣議決定を市民や行政、市長などが訴訟するというのは確かに難しいんだけれども、統治行為論を持ち出してくることはないだろうということだけ申し上げます。
○渡辺美知太郎君 ありがとうございます。
○会長(柳本卓治君) 福島みずほさん。
○福島みずほ君 今日は、本当に参考人のお二人、心から感謝をいたします。 今日は、憲法とは何かという議論です。そのことについていろんな見識を教えていただきまして、ありがとうございます。 憲法でないものを憲法として出してはならないというふうに思っております。今日、水島参考人の、自民党憲法改正草案が、中華人民共和国憲法、朝鮮民主主義人民共和国憲法、大韓民国憲法に極めて似ている部分があるという御指摘は大変示唆に富むものでした。 二つお聞きします。 愛国心について憲法に規定している国は世界では極めて少ないということをちょっと調べたことがあります。これについて一言御教示ください。 また、自民党日本国憲法改正のQアンドAで実は私は一番今でもショックで驚いているのは、西欧の天賦人権説に立たないという部分なんですね。天賦人権論に立たない憲法というものを、法の支配をヨーロッパやアメリカと共有する日本が、そういう憲法でないものを憲法として作れるかということについていかがでしょうか。水島参考人、お願いします。
○参考人(水島朝穂君) まず、愛国心というものの呼び名や一定の憲法忠誠義務を、例えばドイツの憲法は一定の、フェアファッスンストロイエということで、憲法忠誠みたいなふうに解釈もします。それは闘う民主制的な考え方から基本的に構成したりもしますけれども、愛国心というのを殊更に出してきたり、国を愛さなければペナルティーだということになってきますと、それはそれぞれの自由なありように対する侵害になりますから、各国憲法が慎重になるのは当然です。 ただ、一般的な議論として、そこにそういうふうな、国のいわゆるそういうふうなものについて触れるものがないわけではないんですね。だから、愛国心という、定義にもよると思うんですが、それに対するペナルティーやそういうものの義務付けの程度というのは、おっしゃるような形で、日本にはもちろんないですけど、それを入れていくということに対しては、これは、例えば国旗を焼いて裁判になったアメリカの事件、有名な判例等がありますけれども、やっぱりリベラルな基本的な自由主義の立場に立った場合、やっぱりかなり道徳的にひんしゅくを買うし、国民としてこれはどうなのとか言われているようなものであっても、それを何らかの形で処分したりペナルティーを科すことに慎重であるというのはどこの国も憲法の立場であり、そういうものでありますから、愛国心というものの押し付けとかそういうものに対して慎重である傾向と方向というのは、私がここに持ってきた、中国や韓国のようなものをあえて持ってきたのは、アジアのあれで出してきたわけで、そういう意味では、この道を進むのではないですよねということを言いたかったのも一部あります。 それから、天賦人権の、これはQアンドAに確かにございますが、ちょっと言っている意味が、あれは論者がみんな同じかどうかも分かりませんから、個々のそういうQアンドAみたいなものだけで判断はできませんけど、でも、一般的な世界各国の共通のスタンダードであるこの人権に立つのは、実は今、国際人権のスタンダードでもあるんですね。ですから、ヨーロッパに行きますと、やはりヨーロッパで基本的に、いわゆるそういう人権侵害的な差別言動というのは、もうそれはスタンダードから外れますよね。ですから、今、ヨーロッパでは死刑についてですら、実は日本に消極的な対応を取っているのは、死刑を持っている日本という国に対してヨーロッパは、その一点に関しては基本的に我々の仲間ではないという評価を実は持っていると、EUは。 だから、そういう意味からすれば、日本が今後やはりそういう人権の普遍的なものに対して進んでいくためには、やはりそういうところも慎重に個々の制度に見ていく必要があると思って、逆に、国柄とかそういうのを入れていけばいくほどそういう潮流から外れるんではないかなというふうに思っておりまして、十分お答えになっているかどうか分かりませんが、そういうことでございます。
○福島みずほ君 憲法は権力が自分を縛るものだというのは、本当にそのとおりだと思います。 水島参考人にお聞きをします。 集団的自衛権の行使を認めるという閣議決定を去年安倍内閣は行いました。また、ゴールデンウイーク明けに安全保障法制、私は戦争法案だと思いますが、今まで違憲とされてきた集団的自衛権の行使や後方支援という名の下に一体となって戦争すること、駆け付け警護だって違憲と自民党もずっとやってきたことに関して解釈で認める、あるいは法案を出そうということが言われております。 これは、私、社民党は明文改憲に反対ですが、解釈改憲という形で権力がこういうことを提案すること、そのことについて御意見をお聞かせください。
○参考人(水島朝穂君) 私、本も書いておりますし、ホームページで一番新しいのを是非お開きいただくと、私の名前でヤフーなどでやりますと悪口含めて二万五千ぐらい出てきますので、その一番上に自衛隊法九十五条の武器等防護についての近年の政府の解釈を批判した部分があります。 武器等防護は、皆さん御承知のとおり、自衛隊のいわゆる九つの物件、すなわち武器、弾薬、火薬、液体燃料、有線電気施設というこの九つのものを守るために通常とは違って武器が使用できるわけですね。そういうものは非常に危ないものですから、当然武器の使用は通常の武器使用とは違ってハードルは低いんですよね。 それをほかのものに広げ、米軍にまで広げるとなると、武器等防護という自衛隊の武器の使用に抑制的なのを、その法律を使って米軍まで守るというのは明らかに自衛隊法の根源的なところに、つまり、政府解釈の今までのものに反すると思いますから、私はこの七・一の閣議決定の方向と内容がこういう武器等防護の拡大にも連動していると見ていまして、これは立憲主義の観点だけでなく法治主義の観点からも問題ですから、所管の委員会その他でやっぱり慎重な審議が必要だと思います。 つまり、法律が定めたものに今まで想定しなかったものを含めていってしまうことは、解釈改憲とか議論ありましたけれども、それ以前に、やっぱり議会として、本来作った立法をそういう扱いされて議会はどう思うのかということすら私は問われてくると思っております。
○福島みずほ君 そうしたら、また同じことをちょっと聞いてしまうのですが、解釈改憲という形、つまり、本来ならば明文改憲でとことん発議で議論をし国民投票に掛けるべきもの、集団的自衛権の行使は違憲だと思いますが、そのことを今法案として出そうとすることについていかがでしょうか。集団的自衛権の行使は日本国憲法下で認められるんでしょうか。
○参考人(水島朝穂君) これは認められないと思います。 それはなぜかといえば、認められる前提、これはホームにも書きましたけれども、一九五四年、昭和二十九年の内閣法制局、政府見解は、自衛のための必要最小限度の実力のいわゆる範囲内で憲法に違反しないとした場合の、まさにその範囲は自国に対するものであって、その政府解釈や議会での討論の中で、日本に来援中の米艦、いろんな形で広げていますけれども、日本が一切攻撃されていない他国に対する武力攻撃をもそこに含める、三要件の拡大的な方向性というのは、明らかに今までやってきた政府解釈の下に立った日本の憲法慣行、端的に言えば憲法慣行だと思います。 つまり、九条の下で本来は違憲だとされているようなものが実は違憲でない形でやるのはここまでなんだという形で反復継続してやられてきて、それがある程度支持され、それで制度もつくられたときに、いや、実はこれはこういう幸福追求その他に密接に関係すれば攻められていなくてもできるんだとしちゃうことはそういうものにも反してくると考えておりまして、これを解釈改憲と呼ぶかどうかは言葉の問題だと思いまして、そういう重大な局面に私は今ありますから特にそういう点について御指摘したいと思いました。
○福島みずほ君 ありがとうございます。
○会長(柳本卓治君) 主濱了君。
○主濱了君 御指名ありがとうございます。 両先生、両参考人には貴重な御意見、誠にありがとうございました。 私は憲法の改正について二つ伺いたいと思います。第一点目は憲法改正の限界について、もう一つは憲法改正の手続について、この二点について伺いたいと思います。 まず、憲法改正の限界についてなんですが、まず、憲法の改正に限界があるかどうかと、こういう問題でございます。これは両先生に、両参考人に伺いたいというふうに思っております。 憲法の改正に限界があると、こういうふうに考える場合は、日本国憲法の三大原則とも四大原則とも言われておりますけれども、その原則あるいは特定の条文について、これは限界があるんだというふうな具体的なお考えをまずは伺いたいと思います。 それから第二点目、憲法の改正手続ですが、私は、立憲主義、憲法というのは立憲主義を基本とするものであるというふうに考えております。ただ、時代や環境の変化に応じて、必要があればこれは改正すべきとも考えております。 ただ、日本国憲法の基本理念とか基本原則の安易な改正は認めないと、こういう趣旨から改正手続は厳格であるべきであるというふうにも考えております。具体的には、現行の改正手続の憲法九十六条は堅持すべきであろうというふうに考えているところであります。 日本国憲法はこれまで一度も改正されたことはない。しかし、諸外国では、アメリカ六回、フランス二十七回、ドイツ六十回ですか、イタリア十六回、オーストラリアは三回、中国九回、韓国、新憲法も含めて九回と、かなり改正しているわけであります。 この憲法の改正手続が、日本国憲法の改正手続が諸外国と比べて厳格に過ぎているのかどうか、ここの点についてお伺いをしたいと思います。この関係は水島先生にお伺いいたします。 百地先生の方は、憲法とは何かのレジュメの三のところに、特に改正手続が厳しいと、こういうふうなことを書かれておりますので、もし補足があればこれに補足をして伺いたいなというふうに思います。
○参考人(百地章君) 憲法改正の限界の問題は私にお尋ねですね。この憲法改正に限界ありやなしやということは、かつて昭和二十年代にかなり憲法学界でも議論されました。 限界説というのは、確かに今日ではむしろそれが主流だろうと思いますが、その理由として、憲法の中には当然、価値序列があるわけであって、当然これを守らなくちゃいけない部分と、それからある程度派生的な部分があるという考え方とか、あるいはカール・シュミットのフェアファッスンクに当たる部分、つまり、その国の統一と形態に関する基本的な決定部分と、それから派生的なフェアファッスンクスゲゼッツという部分があると、この部分は自由に変えていいと、そういった議論がありますが、問題は何をもって憲法改正の限界と見るか。 実はこれはかなり曖昧なんですね、グレーゾーンがあるわけであります。三大原則全て駄目だったら、じゃ一切手が付けられないのかという話になってきますしということで、基本的人権についても一定の公共の福祉の制約を憲法で明記することもできないのかとか、そういった問題も出てきますから、ちょっと議論が粗っぽ過ぎると。 他方、私は、憲法改正無限界説を支持しております。これは実は、論理的には一番これが明快だと私は思っているんです。実は現在の憲法も、明治憲法との関係を見る場合には、私は八月革命説ではなくて無限界説に立って、そして今の憲法ができたと言うしかないんだろうと思っております。それはベストとは思いませんけれども。 それは、無限界説というのはつまりこういうことです。憲法制定権力と憲法改正権というものを分けて考えた場合、憲法制定権者たちは自由に憲法を制定することができる。一たび憲法ができてしまうと、憲法制定権力はその中に憲法改正権という形で閉じ込められるわけですね。その結果、法的安定性を確保するために一定の手続はいろいろと必要になってきますけれども、内容は憲法を作る力であると。憲法制定権力と同じ内容のものが憲法改正権力の中に含まれているんだと。 つまり、制度化された憲法制定権力という考え方がこれはフランスであるんですね。フランスの有名な学者ブデルという人が述べているわけですけれども。そう考えますと、非常にこれが合理的だというのは、もし憲法改正に限界があるとするならば、じゃ最初に憲法を制定した人たちは自由に、自由な発想でもって自由な憲法が作ることができたかもしれない。しかし、一たび憲法が改正されてしまうと、我々は主権者でありながら自由に憲法を作り替えることもできない。これはおかしいんではないかと、本当に主権者と言えるんだろうかと、そういう疑問が出てきますから。 したがいまして、憲法制定権力が制度化されたのが憲法改正権である、手続に従いさえすれば自由に改正していいんだと、基本的にはそういうことです。 それから、もう一つの、次の憲法改正の厳しさ、ルールの厳しさの問題ですけれども、今日、表を持参すればよかったんですが、真面目に、A一枚ぐらいのレジュメと書いてありますから、文字どおり一枚だけ用意いたしまして表を作ってこなかったんですが、二院制の国の主な国々を私まとめて、六段階ぐらいにまとめた表があるんですけれども、二院制の国。 議会レベルにおいて、まずどういう形で縛りがあるかということですが、私の整理では、日本とアメリカが両院の三分の二の壁というのがまずありまして、これを突破して初めて憲法改正につながると。二番目のグループとしてはロシアで、両院の五分の三ですね。第三グループとしては自民党の改正案、両院の過半数。あるいはフランスも、現在、両院の過半数プラス国民投票で過半数でありまして、自民党案と変わらないんですね。さらに、第四グループとしては明治憲法。明治憲法と現在のドイツ憲法ですが、これは議会で両院の定足数の三分の二があれば可決できると。明治憲法に至っては両院の定足数は総員の三分の二でありますから、三分の二の三分の二、言ってみれば九分の四、過半数に至らなくても議会レベルでは通過できたと。さらに、第五グループとしてスペイン、両院の五分の三。第六グループとしてイタリアで、両院で二回議決と。 こういった表を作ってみると、我が国の場合にはもう議会レベルで発議ができない。そのために、実は憲法を改正したくてもできなかったと。講和独立後、憲法改正、自主憲法制定の機運が盛り上がったときがありますけれども、あの昭和三十年、三十一年の衆参両院選挙、それぞれにおいて三分の二に僅か数議席足りないというために憲法改正発議が潰されてしまったわけですね。二度とその後、そういう状況が起こらなかった。 したがいまして、憲法改正ができなかった、あるいはしなかった理由は、国民の憲法意識、不磨の大典意識とかそういったものもあるかもしれません。しかし一方で、そういう憲法改正手続には厳しい縛りがありまして、これがために憲法改正をしたくてもできなかったという現実もあると思いますので、そういう点からも私は改正手続の緩和ということを考えている次第でございます。
○参考人(水島朝穂君) 後期の授業の十一月ぐらいにやる授業のような話をする気はないんでありますけれども。 今の百地参考人が言った部分では、憲法学がやる場合の共通の了解みたいなものを多く含んでございましたので、したがって、そのダブる部分については除きまして、特に限界論の問題でいきますと、おっしゃるとおり、それぞれの説明の仕方は理論的にあります。そういう意味では、いわゆる変えられる条文と変えられない条文が何であるかについての通説は人権と主権と平和主義という、こういうふうになっていて、これについては、人権、主権については余り争いがありませんけど、平和主義については、一項は改正できないが二項はできるという説と、一項、二項分離論、一項、二項は分離できない分離不可論とありまして、一項、二項は分離できて、一項は基本的には変えられないけど二項はできるというのは、基本的には憲法学のこれは通説的な見解に実はずっとなっていました。 私は、一項、二項不分離論でありまして、日本国憲法のアイデンティティーは二項にあるから一項と二項は一体であるという考え方で、一番厳しい限界説を実は取っておりますけれども、これでいくと自民党の改憲案は違憲になっちゃうんですよね。だから、そういう意味でいうと、かなり支持者は少ないんですけど、ここでそれを展開する時間がございませんので、先ほどの言葉を借りれば、何が限界になるかについては確かに曖昧な部分が残っている。ここは認めます。しかし、各国の憲法で限界を定めた、ドイツ基本法第七十九条第三項は、人間の尊厳、基本権、法治主義、社会国家、民主制、連邦制等々、そういうものを基本的には列挙しまして、それはつまりドイツという国の基本的な構想、構成ですよね、それは変えられないんだということを言っています。 先ほども言いました、フランス第五共和制憲法の八十九条五項も、共和政体を変えちゃいけないということは共和制を変えられない憲法ということですよね。だから、共和制を君主制に戻すだけじゃなくて、つまり、そういう意味でいえば、なぜそうなったかといったら、フランスの憲法、近代立憲主義は市民革命の後できるわけですよ。それまでの中世立憲主義のあれでいえば、王様がまだいた時代や何かのものとは違って、近代立憲主義は、基本的に一旦、朕は国家であるというものの首を切って、その後、抽象的な人民ないし国民というものが主権の担い手であると。言ってしまいますと、そういう説明の論理でこれまで世界の国も日本の憲法の下でも進んできたわけですよね。 それを、つまり限界で説明するときは、そういうときに決まったようなものについての共通のもの、ドイツはメンション全部していますけれども、そういうしない国でも、憲法改正の議論で根本的に人権を例えば根本的に制約するようなものをそもそも議会で出しませんよ。なぜかといったら、国会議員であり政治家の議論であり、基本的にはそれがまさに見えざる不文の知として、暗黙知としてあるわけですから、日本では何か憲法を改正して何でもできるような議論が横行していますけれども、どこの国でも憲法というのはそういうふうには考えていないわけです、何でも書き込めるメニューみたいには。 だから、そういう前提となる変えてはいけないものについて殊更に言わなくても、そこにおいては暗黙知のようなものがあって、その上でもなおかつドイツは詳細に書き込んだ理由というのは、ひどい体験をナチスでしたわけですからね。だから、そういう流れでいくと、そういう意味でいう改正の限界については曖昧な部分は議論では残しますけれども、共通のそういうところから変えられないものは大体絞られてきているということです。 それから、二点目の手続問題でいえば、先ほど紹介があったパターンその他はいろいろ言われていますが、殊更日本の九十六条が重過ぎるという議論は違います。つまり、日本の憲法が重過ぎるという議論は何をもってそれをするかというと、総議員のところを外すという議論ですよね。じゃ、国民投票を外したらどうなるかと。これは国民主権の、先ほど言った憲法改正の限界に触れることになるんです。最後の憲法のところで国民が判断を示す、国民主権の派生である国民投票を外していいのかという議論はあります。 ですから、大抵の議論は過半数という議論なんですけれども、これは見方を変えれば、国民投票の究極的な国民の判断に、熟議の上で出された国会の提案がなされて国民が最後の判断をするというところまで来れば、この改正手続というのは実によくできた手続だと思っておりまして、何でも国民投票でやればいいという議論は実は国民主権とかそういう議論をやや履き違えた議論だと私は思っていますから、先ほどドイツの制度でも言ったように、バランス良く、バランス良くというのは権利と義務ではなくて様々な原理ですね、国民主権、民主主義、立憲、そういうものが、そうやって抑制する中で相互に牽制し合いながら言わば暴走しないようにしていく、これが立憲主義の最も大きな本旨ですので、それはこういう改正手続にも僕は及んでいると思っております。
○主濱了君 ありがとうございます。
○会長(柳本卓治君) 愛知治郎君。
○愛知治郎君 ありがとうございます。自由民主党の愛知治郎でございます。 本日は、百地参考人、水島参考人、お忙しいところをお越しいただきまして、本当にありがとうございます。 私、自由民主党の当審査会の筆頭幹事をしております。冒頭、水島参考人、ちょっと誤解あるとこれは困りますので、はっきり申し上げておきますが、報道等で安倍総理が来年の参議院選挙後に改正云々という話が伝わっているようでありますが、私は、あえて申し上げますと、自民党の執行部からも官邸からもそのような指示とか要請は一切受けておりません。報道等がありましたので執行部にも確認をして、どうなんですかと聞いたら、これは純粋に国のため国民のため、参議院らしい、しっかりとした充実した意義ある審議をしてくれればそれで十分ですという指示を受けておりますので、変な意図はありませんので、是非そこは御理解をいただきたいというふうに思います。 その点で個人的に二点だけ質問させていただきます。 一点は、国民の憲法に対する尊重擁護義務についてなんですが、以前からずっと疑問に思っていたんですが、この十二条、現行憲法の十二条では、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」と書いてあるんですね。すごく大事なことだと思うんですけれども、ある意味でいうと、国民がこの憲法をしっかり尊重し擁護をするという意図も入っているんじゃないかと思います。この点について、この条文の文言について見解をお二人にお伺いをしたいと思います。それが一点。 もう一点ですが、憲法改正の議論は今、主濱委員の議論でありましたけれども、何で憲法改正されてこなかったのかというこの議論を改めてお伺いしたいと思います。 いろんな理由はあると思うんですけれども、最後に硬性憲法であるか否かという話ではありましたけれども、昨年、私、メキシコに公務で行ってきたんですけれども、メキシコも多分、正確には改めて調べなくちゃいけないんですけれども、聞いたところによると、両院の三分の二以上の要件が必要であるのと、国民投票、過半数以上の国民投票が必要であると、日本とそっくりな状況だというのを聞きました。その上で何度も憲法改正がされているということであります。 それに立った上で現実的な議論をしたいんですが、日本の場合は選挙制度の問題もあると思います。平成六年に衆議院において、これは特に大きな改正をされて小選挙区制度を始めとした制度が導入されたんですが、このときに言われたのは、二大政党制を目指すということでこれらの制度が導入されました。現実的に二大政党制を考えてみますと、現行憲法上、衆参で三分の二という議席を取るのはまず不可能だと思います。参議院は現実的に半数改選、三年ごとの半数改選というのは憲法上明示されておりますが、こういった状況の中で衆参両院において三分の二ずつ確保して発議をするというのはまず無理だろう。大政翼賛会か、よっぽど優れた案を出して全員が賛成できるような案を出す以外ないんじゃないか。 あとは、とんでもない話ですけれども、例えば、今一票の格差の問題が言われておりますけれども、司法から参議院の選挙は無効だという判決を出されて、そして議席を全部失わされて、一方の院だけでこの改正案を出して通すみたいなことがない限り事実上無理だと思うんですけれども、これらのことについて、現状、なぜあのときに、平成六年に選挙制度の議論がされたのは十分意図は分かるんですけれども、少なくとも憲法改正という視点だけ考えると、よっぽどこういった状況が分からなかった、無知であったか、憲法改正を絶対にさせないか、それか参議院を全く無視をしていたか、そういった改革だったのではないかと私は個人的に思うんですが、それらの現状を踏まえた上で、憲法改正について両参考人の御意見を伺いたいと思います。
○参考人(百地章君) どうも御質問ありがとうございます。 初めに、憲法尊重擁護義務との関係で十二条のお話が出ました。最初にその憲法尊重擁護義務のことですが、憲法九十九条は、天皇、摂政、それから国務大臣、国会議員等限られて、公務員、特別公務員を含めた公務員だけに義務を課していると。したがって、一般国民はその尊重義務はないんだという議論は、これは当たり前のことだからむしろ書いていないということでありまして、そのことは先ほど「註解日本国憲法」を御紹介したとおりであります。 ちなみに、憲法には当たり前のこと、必要ないことは書かない。したがいまして、例えば愛国心なんというのは当たり前です。我が国が言わば非常にちょっと変わった国でありまして、まともに愛国心が論じられていない。愛国心なんて当たり前ですから憲法に書く必要がない。分かりやすい例を挙げますと、例えば、日本国における公用語は何語でしょうか。当然日本語でございまして、どこにも書いてありませんね。だからといって、日本の公用語は何かということを争う人はいないと思います。これは不文の法でもあり、あるいは当然のことだから書かない、そういう文脈があると思いますので。 そこで、憲法十二条ですけれども、これはまさに、憲法は権力を単に縛るだけじゃなくて、憲法を守る努力によって初めて憲法というのは守られていくんだと。これは為政者も含めた国民全てがこの憲法をしっかり維持していく必要があるんだということを言っているわけでありまして、ここにも、憲法は単に権力を縛るだけのものではないということがうかがわれるんじゃないかと思っております。 それから、硬性憲法の問題ですけれども、確かにこの三分の二衆参両院で取るというのはもう至難の業というよりも、これまで一度もなかったわけですし、現在、私は潜在的には参議院にも三分の二の改憲勢力があるという報道を信じておりまして、期待しているわけでありますけれども、まあそれは余談としまして、選挙制度と密接な関わりがあることは間違いないと思います。 衆議院でも、かつての中選挙区制度の下では、分かりやすく言えば、三議席のところ、定員三人のところでは、そのうち一議席を護憲派が占めればこれによって憲法改正は阻止できるといった戦略があったというふうに聞いておりますし、そういうことを考えますと、まさに選挙制度、そのような選挙制度の下では三分の二というのはほとんど不可能であった。現在の制度との関係、厳密な議論はちょっとできませんけれども、密接な関係があることは事実だと思います。 そもそも、この三分の二という数字ですけれども、これはGHQがこのような憲法を我が国に押し付けておいて、しかもそれを勝手に変えさせないようにしたという背景がありまして、実は三分の二のまず発議した上で、さらに四分の三の賛成を求めるといった、そういった成立過程においてはもっと厳しい条件も課されていたようでありますけれども、それが多少緩められてここまで来たところでありまして、元々GHQの憲法改正を簡単にさせないという意図がここに、背景にあったから、それが一つだろうと思います。 したがいまして、先ほどもちょっと触れましたが、国民の意識、憲法意識、憲法というのは手に触れてはいけないとか、あるいは不磨の大典意識とかいった、そういったいろんな国民の意識もありますけれども、やはりこの改正手続条項が余りにも厳しいがためにその改正ができなかったというのが一番分かりやすい理由だろうと私は思っております。
○参考人(水島朝穂君) 十二条、主語を御覧ください。この憲法が保障する自由及び権利となっておりまして、憲法ではなくて、自由及び権利を国民が不断の努力で守れと。つまり、自由の上に眠る者は自由を失うぞと、だから自由というのは大事だ、権利は大事だ、だから国民はもっと自分の自由について自覚を持てということを言っているのであって、憲法尊重擁護義務のような、憲法を守れをここから義務とするのは僕は飛躍だと思っております。 それから、二点目の、第八次選挙制度審議会で、いわゆる現行衆議院の制度をつくりました。このときの報告書には、民意の反映と民意の集約という言葉を当時、自民党は河野総裁、日本新党の細川首相の両方の合意文書、一九九四年の一月の文書に出てまいります。この民意の反映と民意の集約というのは非常にタクティカルな言葉で、民意の反映が選挙の原則なのに、民意を集約するんだと、小選挙区制は民意の集約にいいんだと、こういう議論でした。 その結果として生まれたのが二大政党制ではなくて、ちょっと皆さんを前に言うのは、衆議院であればそうなんですが、やはり小選挙区の方の政治家たちはどちらかというと党の中央を見てしまうという、ロベルト・ミヘルスが言った政党寡頭制が生まれてしまった。つまり、言ってしまいますと、それぞれの選挙民に対してよりは党の中央を見ちゃう、その結果、小泉選挙のような形のああいうことも起こる。あの選挙制度の改正はじくじたるものがあると、当時の二人の代表である河野総裁とそれから日本新党の細川首相が、良くなかったと反省されています。 ですから、やはり、その結果として憲法改正ができなかったというよりは、私は、政治の劣化はここから始まったとあえて言わせていただければそういうのがありますので、憲法改正ができなかったというよりは、日本のその後の政治の状況を、この選挙制度が果たして良かったのかどうか、これは十分議論する必要があると思います。 憲法改正がなぜ生まれなかったのかは、様々な政治的な背景があります。一九五六年のあのときのおっしゃるような状態とその後というものもありますけれども、一点だけ申し上げると、いわゆる最高裁の議員定数の不均衡問題で、最高裁が選挙無効の判決を出したらここにいる方みんないなくなるということは絶対にございません。衆議院だけでできるなどということはありません。なぜならば、当該選挙区だけが無効になり、選挙のやり直しをすればいい話であって、最高裁の議員定数不均衡判決がそのような効果は持ってございませんので、御安心して選挙無効判決を受けていただきたいと思います。
○会長(柳本卓治君) 金子洋一君。
○金子洋一君 民主党の金子洋一でございます。 今日は、百地先生、水島先生、お忙しいところありがとうございます。 早速お尋ねをいたします。二十七条に勤労の義務と権利がございまして、これに関連してでございます。 過去、約二十年以上の我が国の歴史を見てまいりますと、一九九〇年代に財政緊縮が行われたり、あるいは急激に公定歩合、金利が引き上げられたりしてデフレに陥ったと。それが、例えば去年の十月—十二月の時期を見ても、労働分配率はこの二十年で最低の状況にあります。政府の意図は別にして、結果的に見ると政府はこうした勤労の権利を保障することに失敗をしてきたと言わざるを得ないと思っております。 そこで、これは私の個人的な発想なんですけれども、社会権の一つとして例えば雇用の最大化を政府に義務付けるとか、まあ文言はいろいろあると思いますけれども、そういったような条項を作ることに関して、両先生いかがお考えになるか、もう時間的制約がございますので、簡潔に頂戴できればと思います。
○参考人(百地章君) この二十七条の勤労の権利及び義務でありますけれども、余り授業でも触れないところでございますが、まあ言ってみればかつての社会主義国家のようにその勤労の権利義務、法的な権利義務とかそういった発想ではなくて、一種の訓示的な規定であると考えてきたと思いますので、あえてそれほど問題にしなかったと。これをまた法的な権利として、具体的な権利として保障するということは、自由主義国家、我が国においてはどこまでできるのか。やはり困難な点があると思いますので、何らかのそういう雇用対策とかそういったところに反映させるという一種の綱領的なプログラム的規定としての役割は果たすかもしれませんが、具体的な法的権利として国民に保障することはこれは困難であろうと残念ながら思っております。
○参考人(水島朝穂君) 私は授業でよく触れまして、特になぜ触れるかというと、二十七条の権利と義務が書いてありますけれども、義務は確かに訓示的です。でも、権利の方は社会権条項として私は非常にこれは重要な意味を持っていまして、実は職業安定法という法律が昭和二十二年の十二月に施行されました。そして、そこで、憲法が施行されたすぐ後ですね、何でそんなことしたのか。 職業安定法の一条には、人種、信条、性別、社会的身分又は門地というあの十四条の差別しちゃいけないよと、職業紹介をするときのほかに三つ加わっていました。一つは何かというと、従前の職業。つまり、やくざなんかやった人もちゃんと国家は仕事与えなきゃいけないよ、職安は。もう一つはいわゆる外国人なんですよ。外国人が入っているんですよ。だから、新宿職安、ハローワークには外国人に職業あっせんやっていますよね。そして三つ目が労働組合員であったことと。何でしょう。これは、二・一ゼネストでみんな地下へ潜ったんですね。そういう人たちが出てきて仕事欲しいというときでも、法律はちゃんとそこまで書き込んでいるんです。是非、議員の先生方、過去の先輩諸氏が参議院を通した職業安定法という法律には、こういう差別しちゃいけないよという、みんな平等に仕事をあげようよという、これは理由は簡単で、二十七条の具体化なんですよ。 だから、今おっしゃったような、将来的に憲法改正しなくても、是非この二十七条でそういうふうな派遣労働の問題、いろんな問題で実質的ないい法律を作っていただきたいというのが私の望みであります。改正の問題ではないと。
○金子洋一君 どうもありがとうございました。
○会長(柳本卓治君) ありがとうございます。 まだ、定時になりましたが、四人の委員の方から質疑の申出がございます。四人の先生方には誠に恐縮でございますけど、質疑をしていただき、その後、総括して参考人の方から御答弁をお願いを申し上げたいと思います。 まず、阿達雅志君。
○阿達雅志君 自由民主党の阿達雅志でございます。 先週、ヨーロッパへ行かれた皆様方から現地の法制についていろいろ報告がございました。私はその中で、やはり世界の成文憲法の多様性、それと、社会情勢に応じたダイナミックな改正というものに非常に強い印象を受けたんです。そういう中で、憲法に一体何を書くのか、これについていろんな考え方があるのではないかと。憲法学者と言っていいかどうか、英米法の学者ですけれども、伊藤正己先生なんかは、近代憲法と違い、現代憲法は共通の理念を抽出するのは難しいと、こういう表現もされておられました。 そういう中で、本当に成文憲法として何を書くか、これはいろんな考え方があるんではないかというふうに思うわけです。それを前提にした場合に、私はやはり憲法改正というのは必要なんではないかと。それは、やはり成文憲法にすることによって、逆にいろんな意味で憲法保障というのがしっかりできるようになるんではないか、こういうふうに考えるわけです。 例えば、今日、話にありました理念、歴史、伝統、文化、こういったものも広い意味での憲法規範なんではないかと。そういう広い意味での憲法規範をむしろ憲法改正によって実定化するというのは憲法保障にとっても大事なことではないか。それは、やはり憲法解釈をする上での一つの指針を与えるという意味で、こういう理念を盛り込むというのは大事ではないかと。 それから、国家緊急権についても、逆にこれ実定化することによって限定をちゃんと付けられる。実定化しないことによって権力が自由にできるよりは実定化をした方がいいのではないかと。 それから、三点目としては、やはり今現実に九条の問題を含めて、現実、事実と成文憲法の文言とのギャップ、これがいろんなところに実は起きてきているのではないかと。そうすると、こういった社会情勢等の変化、これを織り込むというのはある意味重要なことではないかというふうに思います。 百地先生とは、いろいろ今お話を聞いておりまして、非常に一致するところが多いので、これ時間の制約もありますので、百地先生への質問はちょっと控えさせていただきまして、水島先生に幾つかちょっと細かい点でお聞きをしたいんですが、先ほど水島先生、憲法慣行という言い方をされました。こういう憲法慣行というものをむしろ成文化、実定化すべきなんではないか。これを成文化、実定化する方がむしろ慣行を明らかにすることになるんではないかと思うんですけれども、その点についていかがでしょうかと。 それから、先ほど解釈改憲という表現がありましたけれども、私、これは憲法解釈、最終的には最高裁が権利を持っているとしても、行政も解釈をする権利というのは当然あるわけで、それを前提にした違憲立法審査権だと思いますので、そういう意味で、この解釈改憲と憲法慣行、同じだとおっしゃられたところが実はちょっと引っかかっておりまして、それについて御説明いただきたいと。 それから、もう一つ、歴史、伝統、文化を過剰に書くことは問題だというふうにおっしゃられたんですが、じゃ、過剰でない、最低限書くというのはあってもいいのではないかというふうに思いますので、その辺りを御教示いただければと思います。
○会長(柳本卓治君) 小西洋之君。
○小西洋之君 幹事であるにもかかわらず、丸山先生共々質問を申し上げ、ありがとうございます、申し訳ございません。簡潔に伺わせていただきます。 百地先生のおっしゃられていました憲法観を伺っておりまして、国民が歴史的共同体に所属するのであると。つまり、国家というものがあたかも国民の人権よりも優越するかのようなちょっとお話を伺ったんですけれども、そうすると、そういう世界観というのは、日本国憲法の核心条文である第十三条を、全て国民は個人ではなくて人として尊重されると、共同体に所属するわけですから人として尊重される。そして、生命等の幸福追求の権利が、公共の福祉ではなくて、あたかも公益及び公の秩序に反しない限り最大の尊重を必要とするような世界になるように思うんですけれども。 そこで、百地先生に伺いたいんですけれども、先生が、我々日本国民が所属しなければいけないというその歴史あるいは伝統というものは、一体どのようにお考えでしょうか。そうした歴史や伝統観というのは、ここにいる国会議員のメンバー、あるいは傍聴席にも市民の、国民の皆さんがいらっしゃいますけれども、あるいは百地先生が授業でお教えになっていらっしゃる学生の皆さん、それが皆さん共有できるものなのでしょうか。そして、できなかったときに、その人がそういうことを必ずしも納得できないという、その人の尊厳、それについてはどのように考えたらよろしいんでしょうか、伺いたいと思います。 また、水島先生に伺いたいんですけれども、安倍総理がこれ衆参の国会で言っているんですけれども、自民党の憲法草案でございますけれども、個人を人と変え、十三条ですね、公共の福祉を公益及び公の秩序と変えると。これを含んだ自民党の憲法草案を二十一世紀にふさわしい憲法草案ですということを再三にわたって衆参の本会議で言っているんですけれども、そういう理解をしてよろしいのでしょうかということと、あと水島先生に最後に伺いたいと思います。 昨年七月一日の解釈改憲でございますけれども、既に国会の質疑で立法事実、また憲法の平和主義を始めとする憲法九条の解釈を構成する基本論理、それについて全く内閣法制局は審査もしていない、国家安全保障局もそれを検討した文書が一枚もないということが明らかになっております。このように国民の憲法を扱うようなそういう今政治がある中で、憲法改正の議論をすることについて我々国会議員というのはどういうことを考えなければいけないのか、その二点についてお伺いしたいと思います。 ありがとうございました。
○会長(柳本卓治君) 丸山和也君。
○丸山和也君 ありがとうございます。ついに回ってきまして。 私はやや違った視点からお聞きしたいし、自分の意見も言いたい、両先生にと思っているんですけれども。 私も四十年以上というか、約四十年間、司法の世界に身を置いてきて、そういう意味では憲法とも関わりが深かったんですけれども。要するに、私がずっとこの日本の国を見ていますと、憲法であろうが法律であろうが、どんなに立派なものを作ってみても、基本的にそれに基づいた権利の主張を行使、これはもう個人もあるいは国家も含めて、非常にそういう点が弱いんですね、意識が。だから、先ほどある議員から、権利の規定が多過ぎて義務が少ないという、バランスが取れていない、百地先生もバランスが大事だというふうにおっしゃっていましたけれども。要するに、僕はずっと見ていまして、日本の国民というのは、比較する国にもよりますけれども、基本的に国民が自分の権利を行使しない、非常に消極的であると思いますね。 だから、ここで述べられている議論というのは非常に高尚なんですけれども、それが生かされるかどうかということが非常に現実的には大事なんですね。例えば、日本には憲法裁判所というのもございません。最高裁が憲法判断をたまにやりますけれども、これはもう非常に抽象的な判断はやりませんし、具体的な事件においても非常に消極的というか自己抑制的というか、自らそういうことであります。司法予算も非常に少ない。つまり、最近、一票の格差問題でやや脚光を浴びていますけれども、これもまあ現実に選挙が無効という判決は、無効にした例はございません。 そういう意味で、本当にどういう憲法がいいのか、どういうようなこれから憲法をという議論をするに当たっても、その憲法が生かせる憲法体制というのをつくらないと駄目だと思うんですね。そういう意味で、裁判所の役割、憲法裁判所を設けるかどうかということも含めて、最高裁の機能の強化とか、そこら辺についてのもう少し現実的な意見をいろいろお伺いしたいと思っています。 それから、ヨーロッパ、いろんな国と比較するのも非常に大事でしょうけれども、やはり個人主義の非常にそういう歴史の中で権力と闘って憲法を作り、またその中で今の現在がある国民と、日本のように、やっぱり個人主義というのは、まあ個人の確立とかいろんな評価はありますけれども、非常に未熟で、いまだに未熟という国家の中、いわゆる集団主義の非常に強い、集団主義のかなり完成した国の中の自由主義憲法というのを同じように議論していても、機能の仕方、活用の仕方、生かされ方というのは全く違ってくるんですね。そういう角度から、もう少しやっぱり生きた憲法論議をしなきゃいかぬのじゃないかと私は思うんですね。 具体的に言うと、やっぱり司法の機能の強化ですよ。司法の機能の強化なくして憲法は生きてこないし、国家あるいは国民との関係、個人の権利、それから緊急権にしても、私は、水島先生がおっしゃったように、これ規定がないからこういう問題が起こったんだと言われる、それは形式論としては私は反対じゃないんですけれども、やっぱり政治なり行政の問題が大きかったと思いますね。だから、それを、緊急権設けることに反対ではありませんけれども、やはり現実的に権利を生かすための憲法を作らないと。そのためには司法の強化ということが何よりも大事じゃないかと思っておりますので、この観点から御意見をいただきたいと思っています。
○会長(柳本卓治君) 木村義雄君。
○木村義雄君 参議院の木村です。 今の丸山先生のともちょっと多少関係するんですけれども、両先生にお聞きしたいんですが、憲法十三条のプライバシーの保護のことなんですけれども、今、日本の国は、秘密保護法とか何かで、国家に対する秘密というのは非常にどんどんどんどんある意味で閉じようとして、まあ言ってみれば罰則も大変強化をして、特に何十年も保護したりなんかしているようなわけですけれども、一方で個人の秘密、個人のプライバシーということに関してはどんどんどんどん何かこう非常に緩くなってくる。これ、二律背反的なところもあるかもしれませんけれども。 例えば、今は住基ネットというのがありまして、これは二〇〇八年三月六日に最高裁で合憲判決が出たんですけれども、そのときに、あれはたしか非常に範囲の狭い形での合憲判決だったと思うんですよね。よくこのプライバシーのことに関しては、国民背番号というのがあって、国民背番号と言うと多くの国民がやっぱりぞっとして、寒けを感じて、こんなのはない方がいいなと言ってた。ところが今度はマイナンバーとかいって、ちょっと言葉を変えただけですぐに何か与野党一致して通ってしまったと。何か朝三暮四みたいなところがあって、こう行ってしまったんですが。何か国家の方の秘密は非常に守っていくんだけど、個人の方の秘密はどんどんどんどん今度オープンになりつつある、あるいはオープンになりつつある危険があるというような話も今出ているところであります。 一方、諸外国の中では、米国なんかでもソーシャル・セキュリティー・ネットワーク、つまり社会保障番号の利用を非常に制限し始めたり、あるいは韓国ではこういうような背番号みたいなものが売買できる闇市場ができて、それが結構繁盛しているというようなことで、やはり、韓国なんかはもう既に今のプライバシーの方の流れを日本と逆の方向にどんどんどんどん行っている中で、この憲法十三条というのは果たして今後とも守られていくのかどうか、その辺をちょっと御意見を聞かせていただければと、このように思っております。
○会長(柳本卓治君) それでは、参考人から御答弁をお願いいたしますが、四人の委員からの御質疑に対してまとめて御答弁していただくのは恐縮でございますけれども、よろしくお願いをいたします。 最初に水島参考人の方からお願いいたします。
○参考人(水島朝穂君) たくさん質問をありがとうございました。これ全部しゃべると五十八分ぐらい掛かっちゃうんですけれども、三分ぐらいでさせていただきたいと思うんですが、じゃ、二、三点。 一点は、ちょっと誤解されました、先生おっしゃった、解釈改憲が憲法慣行で成立したとは私言ってございません。言ってしまいますと、内閣法制局や何かの解釈が六十年間あって、反復継続して法律を縛り、いろいろやってきたものがある種のそういう側面を持っていると言ったので、フランスの憲法慣行論に立って日本がそういうのになったとは言ってございませんので、そこは誤解なきように。 それから、丸山先生のおっしゃった司法の活性化は大賛成ですけれども、憲法裁判所をつくるべきかどうかについて、先生がべきとおっしゃったか分かりませんが、私は反対です。 なぜかというと、ドイツの研究をする者として、ドイツの憲法裁判所はもうかなりのたくさん違憲判決を出しておりますけれども、日本でやる憲法裁判所の議論というのは、端的に言うと、いわゆる合憲判断積極主義の裁判所にして下級審から違憲審査権を奪う発想がどうも背後にありそうだというのが私のにらみでございまして、ある意味で司法が活性化にならないんじゃないかと、そういう形の憲法裁判所。だから、もっといろんな憲法の議論についても裁判所が積極的にやって、最高裁も言うんだったら分かるんですよね。 ですから、先生がおっしゃる司法の活性化が大事なのは全くそのとおりだと思うんですが、憲法裁判所というところでまとめた方ができるというのは、韓国を見ていてもどこを見ていても、ある程度うまくいったドイツのようなものとはちょっと違って、逆に政権の言わば侍女になる側面もないとは言えないです。まあ最近ちょっと韓国違いますけど。そこ、注意して議論する必要がある。 それから三点目ですけど、最後おっしゃった、生きた憲法にするにはどうするのか。あるいは、小西議員もおっしゃった、やっぱりいろんなところで現実と、どなたかちょっと忘れました、現実と規範がかなりずれている中でどうしたらいいかという、生きた憲法というとてもいいお言葉いただきました。つまり、レーベンデスレヒト、生ける法という言葉をかつてエールリヒが言いましたけれども、実は定義をずっと見ていったりすると、やっぱりある種の、そこに生きた人々や政治家やそこにおける司法官あるいは裁判官、いろんなものが具体的にいろんなものによって、それに向かって悩んで具体化しているんですよね。 僕は、悩みってすごく、外国の文献読んでいても感じられるのがすごく好きでありまして、やっぱり簡単にすぱすぱっと分かりやすい形で書かれたものって何かうさんくさいなと思うんで、どっちかというと悩みながら出した結論、だから、近年の最高裁のあれも非常に悩みながら、日の丸・君が代の問題でも小法廷で反復継続して、私の言葉で言えばあれは持ち回り大法廷判決といいまして、いわゆる具体的に合憲だと言っておいて、でも個々のいわゆる厳しい処分についてはできないという歯止めを最高裁が出しているとか、今度最高裁が民法の問題について二つ何か対応しようとしているとか、結構裁判所もやっぱり、何かやらなきゃ国会が動かないかもしれないからやろうというのは僕はちょっと感じていまして、最高裁もそれなりのあれは動き出していますから、先ほど参議院の一票の格差もありましたけれども、やっぱり最高裁の中には一票の格差で選挙無効を出せという判示もだんだん出ていますので、それは活性化につながると思いますから、もっと先生おっしゃる活性化は広いと思いますけれども、それも一つだということだけ申し上げておきたい。 だから、最後に、参議院の方は衆議院と違ってやっぱり熟議、再考の府なんで、この問題についてももっといろんなゲストを呼ぶなりそれぞれ研究するなりして、やっぱり広い視点から憲法の活性化を考えていっていただきたいと思いますので、直ちに改正という議論の方に持っていくよりは、むしろ生かすべきものはなおあるという、私はそういう感想を今日の議論聞かせていただいて思いました。 ありがとうございました。
○参考人(百地章君) ありがとうございます。 簡潔に申し上げたいと思います。 まず最初に阿達先生ですかね、憲法に何を書くべきかということですけれども、これにつきましては、実は明治九年に出された国憲起草の詔勅、詔というのがありまして、これは、建国の体に基づき海外各国の成法をしんしゃくして国憲を定めんとすと。いわゆる国柄というものをきちんと押さえた上で、そして今であれば現代にふさわしい諸外国の制度を取り入れて、ふんだんに、それをうまくやろうということで、これが基本的な考え方として私はふさわしいんじゃないかなと考えております。 それから、小西先生でいらっしゃいますか、何か私の議論を聞いていると個人の人権が抑えられてしまうかのようなという、そういう印象を持たれたようでありますけれども、決してそんなことはありません。私、産経新聞の国民の憲法の要綱も作りましたけれども、一方で人間の尊厳、個人の尊重ということをうたった上で、他方で共同体意識というものを持ったやっぱり国民の育成ということですね、そのバランスを考えておりますので。 実は、人間の尊厳に関しましては、私、大学の授業で人権をやるときには、必ず人間の尊厳とは何か、合理的には説明し切れないことを考えるところからスタートしているんです。そういう意味で、それは御懸念無用というか……(発言する者あり)済みません、順番にと思ったんですが。 歴史と伝統、これは確かに、戦後の我が国の不幸なところは、歴史観、伝統において真っ二つに対立するそういう考え方が存在すると。そこでなかなか共通の理解が生まれていないところは日本の不幸だと思います。でも、そういうのは、やはり私は歴史というのは事実をきちんと踏まえる。いかに事実に離れた議論がなされているか。慰安婦問題にしても、あるいは南京事件にしても、私は事実をきちんと究明していけばああいった議論はなくなると思っておりますから、その事実を踏まえて、そして共通の理解を深めていく、徐々にそれを深めていくしかないだろうと思っております。また、それを受け入れない人に対しては、もちろん思想、良心の自由がありますから、寛容であることは当然であります。ということですね。 それから、丸山先生ですね。実は、「権利のための闘争」という本を大学のときには盛んに読まされまして、日本人は権利意識が低過ぎると盛んに言われてやったんですけれども、しかし、私は正直、結論的にはアメリカのような訴訟社会は合わないなと思っておりまして、司法改革が裁判員制度とかあるいはロースクールという形で出てきましたけれども、私に言わせるといずれも失敗じゃないかなと、ちょっと厳しい言い方ですけれども、残念ながらそう思っておりまして、日本人の国民性に果たしてどこまで合っているのかというところで疑問を感じております。 それから、憲法裁判所の問題ですが、私も先ほどの産経の国民の憲法要綱の中で、裁判所の中に憲法審判部というものを設けて、言わば具体的な事件、争訟を前提とした裁判の中で憲法問題が起こってきたときにはそれを、憲法問題だけを集中して扱うような言わば集中型のそういう憲法審査制度をつくったらいいんじゃないかと思って書きました。 しかし、他方で、やはりそういったところに実際ふさわしい裁判官というものが得られるんだろうかと、あるいはまたそういった裁判官が本当に憲法の大問題について、国会でも議論が真っ二つに分かれるような、衝突するような問題について果たして責任を持って判断できるような裁判官が得られるんだろうかと、そういう日本人の国民性等も考えますとなかなか難しいかなという感想を持っております。 それから、生きた憲法ということは全く同感でありまして、私も常々これを心掛けてはおります。 それから、四番目、木村先生、国家秘密というものが非常に広がってきて個人のプライバシーが圧殺されてしまう傾向にあるんじゃないかという御質問かと思います。確かに、先ほど言いましたように、人間の尊厳とかプライバシーというものの大切、私は常々言っております。 ただ一方で、具体的な例、街頭におけるいわゆる防犯のためのいろんなカメラが最近は設置されている。例えば、イギリスとかヨーロッパではかなり多数のそれが置かれている。その場合、プライバシーの侵害あるいは制限と、それから治安を確保する、どちらを選ぶかということを究極のというか、それを国民は求められている。そういう中で、ヨーロッパではむしろカメラをたくさん付けてでも治安を守ろうという、そういう結論が出てきている。我が国においても、やっぱり国民の合意を得て、どちらにより重きを置くかと。もちろんバランスを考えながら、場合によったらどちらかにある程度比重を置かざるを得ないんじゃないかなと、そういうふうに考えておりまして、そういうふうに取りあえず考えております。ということでよろしいでしょうか。
○会長(柳本卓治君) ありがとうございます。 他に質疑の希望はございませんか。──他に発言もないようでございます。参考人に対する質疑は終了いたします。 参考人の皆様には貴重な御意見を述べていただきまして、誠にありがとうございます。審査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。(拍手) 本日の調査はこの程度にとどめ、これにて散会いたします。 午後三時五十二分散会