P政策ポータルPOLICY PORTALウォッチ
183回国会参議院2013/05/29

憲法審査会 第4号

発言数
117
登壇者
16
会派数
8
開催日
2013/05/29

会議録

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) ただいまから憲法審査会を開会いたします。  まず、幹事の辞任についてお諮りいたします。  藤本祐司君から、文書をもって、都合により幹事を辞任したい旨の申出がございました。これを許可するに御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 御異議ないと認め、さよう決定いたします。  この際、幹事の補欠選任についてお諮りいたします。  幹事の辞任及び委員の異動に伴い現在幹事が二名欠員となっておりますので、その補欠選任を行いたいと存じます。  幹事の選任につきましては、会長の指名に御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 御異議ないと認めます。  それでは、幹事に樽井良和君及び中川雅治君を指名いたします。     ─────────────

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 参考人の出席要求に関する件についてお諮りいたします。  日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制に関する調査のうち、「新しい人権」について必要に応じ参考人の出席を求め、その意見を聴取することとし、その日時及び人選等につきましては、これを会長に御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 御異議ないと認め、さよう決定いたします。     ─────────────

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制に関する調査を議題とし、「新しい人権」に関し、事務局から憲法調査会報告書について報告を聴取いたします。情野憲法審査会事務局長。

情野秀樹参議院憲法審査会事務局長

○憲法審査会事務局長(情野秀樹君) 憲法審査会の前身である憲法調査会における「新しい人権」に関する議論の概要について、便宜、私から御説明させていただきます。  憲法調査会において取り上げられました「新しい人権」は、プライバシー権、環境権、知る権利、自己決定権、生命倫理、知的財産権、犯罪被害者の権利など多岐に及んでおります。  お手元に、平成十七年四月に憲法調査会が取りまとめました日本国憲法に関する調査報告書の抜粋を配付いたしております。本日は、これに基づいて御説明させていただきます。  新しい人権については、「新しい人権として加えるべきカタログの内容」だけでなく、「憲法上新たに規定を設ける必要性の有無」、「新しい人権を考える際の留意点」などを検討課題として、広範な御議論がございました。  報告書は、調査会における議論の状況を分かりやすく示すために三つのカテゴリーに整理してまとめられました。すなわち、一つ目は、共通又はおおむね共通の認識が得られたものでございまして、当時の調査会を構成している会派である自民、民主、公明、共産、社民の五党で一致又はおおむね一致したカテゴリーでございます。二つ目が、自民、民主、公明の三党がおおむね一致した趨勢である意見、三つ目が、意見が分かれた主要なものでございます。  「新しい人権」につきましては、共通又はおおむね共通の認識が得られたもの、そして趨勢である意見のそれぞれの箇所で取り上げられております。  まず、報告書の百三十二ページを御覧いただきますと、太線によるアンダーラインが付されておりますが、新しい人権については、原則として、憲法の保障を及ぼすべきであるということが共通の認識であったとされております。  その上で、憲法を改正して憲法上に新たに規定を設けることの必要性の有無につきましては、次の百三十三ページにありますように、憲法上の規定を新たに設けるべきとする意見と、憲法上の規定を新たに設ける必要はなく、十三条の幸福追求権等の解釈で読み込めるとする意見に分かれました。  百三十三ページの「憲法上の規定を設けるべきとする意見」は、白抜き文字で表記してありますように、趨勢の意見だったわけでございますが、そこでは、人権保障がより明確になることを考慮して、新しい人権カタログを何らかの形で憲法規定の中に取り入れることを検討すべき、憲法制定時には予想もされなかった社会状況の変化に対応するには、人権保護の視点から新たな人権規定を設けるべき、国際的水準に見合った人権を考えるべきなどを理由とする意見が示されたところでございます。  他方、「憲法上の規定を設ける必要はないとする意見」は少数にとどまっておりまして、新しい人権は、憲法の人権規定を踏まえて、国民の運動により発展的に生み出されてきた権利であり、十三条など現憲法の人権規定により根拠付けられている、憲法は、奥深い容器として時代に即応した新しい権利を抱き取るような柔構造、時代に弾力的に対応できる構造になっている、新しい人権については、基本法を制定し、個別法により具体的権利を保障するシステムを取るべきなどを理由とする意見が示されております。  次に、報告書の百三十四ページを御覧ください。「新しい人権を考える際の留意点」についての御議論でございます。人権規定を加えるか否かを判断する際の留意点として、保護すべき新しい利益が個人の人格的生存に不可欠であって一般社会に承認されたものであるか、他の人権との調和はどうか、人権カタログのインフレを招かないかなどについての慎重な配慮が必要である等の意見が出されました。  実効性の確保につきまして、具体的権利義務の内容を明確にし、人権を保障する付加的制度が不可欠とする意見や、新しい人権規定を追加するよりも、特に立法、司法分野における現実の保障システムの充実が望まれるとする意見が出されました。  次に、新しい人権の個別メニューについてでございますが、ここでは、憲法上の規定を設けるべきとすることが趨勢の意見となりましたプライバシー権と環境権について申し上げます。  プライバシー権につきましては、報告書の百三十六ページに記載されております。これについては、白抜き文字で表記してありますように、憲法上の規定を設けるべきとする意見が趨勢でございました。  そこでは、IT社会の進展等に対応して、国民の個人情報を守る権利等を新しく追加すべきである、プライバシーの権利を自己に関する情報をコントロールする権利ととらえ、憲法上の権利として明示することを検討すべき、プライバシーは平穏な生活の基礎であり、新たな人権規定として憲法に明記することが必要などの見解が示されました。  これに対しましては、プライバシー権が十三条に基づいて保障される点に大きな争いはないとして憲法上の規定を設けることについての消極的な意見もございました。  続きまして、環境権に移らさせていただきます。報告書の百三十七ページに記載されております。白抜き文字で表記してありますように、環境権あるいは環境保全義務については憲法上の規定を設けるべきとする意見が趨勢となっておりました。  そこでは、二十五条の健康で文化的な最低限度の生活と十三条の幸福追求の権利を根拠とする、健康で良い環境を享受する権利として明記すべきとする意見のほか、人権としての環境権を基本にし、環境保全義務の規定を含むことが望ましいとする見解、地球環境問題は日本の国際貢献の最重要分野の一つであり、同時に、日本は自然と共生してきた長い歴史と伝統を持っており、日本が環境を重視する国であることを憲法上も明らかにすべきなどの見解も示されました。  これに対しましては、環境権実現のためには、具体的権利等を法律で定めることが当面の課題であるとして憲法上の規定を設けることについて消極的な意見もございました。  また、環境保全義務としてとらえた場合の義務の性格については、報告書百三十八ページにありますように、権利の反面としての義務という強い規定ではなく、より緩やかな規範という意味での責任あるいは責務という形で規定するのが適当ではないかという意見も出されております。環境保護に努める国民の責任という視点を提示する意見もございました。  このほかにも、知る権利や自己決定権等、新しい人権として検討されたメニューがございますが、それらにつきましては意見が分かれ、憲法上の規定を設けるべきとする意見が趨勢となるには至りませんでした。お手元の報告書の百三十五ページ及び百三十九ページ以下に記載されておりますが、説明は割愛させていただきます。  以上が憲法調査会における「新しい人権」の御議論の概要でございますが、報告書は御案内のとおり提出されましてから八年が経過しており、その後、各政党において御論議が進められ、また、新たに政党が結成され、憲法に関する政策提言もお出しになっております。ここではその内容まで御紹介いたしませんが、その点を申し添えさせていただきます。  以上でございます。ありがとうございました。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 以上で事務局からの報告の聴取は終了いたしました。     ─────────────

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 次に、「新しい人権」のうち、基本的人権全般について参考人の方々から御意見を聴取いたします。  本日は、明治大学法科大学院教授高橋和之君及び京都大学大学院法学研究科教授土井真一君に御出席をいただいております。  この際、参考人の方々に一言御挨拶を申し上げます。  本日は、公私共に大変御多忙なところ本審査会に御出席を賜りまして、誠にありがとうございます。審査会を代表いたしまして心から御礼を申し上げます。  これまでの経験を踏まえた忌憚のない御意見を賜り、今後の調査に生かしてまいりたいと存じますので、どうぞよろしくお願いを申し上げます。  本日の議事の進め方でございますが、高橋参考人、土井参考人の順にお一人十五分程度で順次御意見をお述べいただいた後、各委員からの質疑にお答えをいただきたいと存じます。  なお、御発言は着席のままで結構でございます。  それでは、まず高橋参考人にお願いをいたしたいと存じます。高橋参考人。

高橋和之明治大学法科大学院教授

○参考人(高橋和之君) どうもありがとうございます。  人権総論について話してほしいという御依頼をいただきました。人権総論というのは、通常、大学の授業では数時間を使って話されるわけでありまして、今日は十五分でということでありますから、ごく基本的な考え方のみに限定して話させていただきたいと思います。  基本的な考え方というのは、突き詰めれば人権とは何かということに帰着するというふうに考えております。早速レジュメの時計数字Ⅰから参りますけれども、人権とは何かということを考える手掛かりというのは憲法十三条であります。その第一文は、これはレジュメの下の方に参照条文として書いておきましたけれども、「すべて国民は、個人として尊重される。」と定めております。この規定の中に、日本国憲法が保障する人権の基本的な価値原理が表明されていると私は理解しております。個人としてという文言が非常に重要でありまして、これにより、いわゆる個人主義の価値原理にコミットしたということを表現しているのであります。  個人主義は様々な意味で理解され、時には自分の利益しか考えない利己主義的な生き方という意味で使われることさえありますけれども、ここでは、社会と社会を構成する個々人の関係、つまり全体と部分の関係について、価値の根源は社会の側ではなく個人の側に置かれるべきだという意味で使っております。目的と手段という言葉で言い換えれば、個人こそが目的であり、社会はその手段と理解すべきだという考え方であります。  価値の根源が個人の側にあるということを憲法は個人の尊厳という言葉でも表現しておりまして、それは憲法二十四条に、これは家族の在り方について定めた規定でありますけれども、そこに表れておりますけれども、憲法十三条は、個人の尊厳という価値原理を個人として尊重するというふうに表現したのだと私は理解しております。  この十三条第一文を受けて、個人として尊重するということの意味をもう一歩進めて、主観的権利として具体化したのが第二文であります。そこには、生命、自由及び幸福追求に対する権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とすると定められております。つまり、国民は、生命、自由及び幸福追求に対する権利、これを通常、略して幸福追求権と呼んでおりますけれども、幸福追求権を保障されるということが規定されているのであります。第一文を受けての第二文の規定でありますから、これを私は、個人として尊重するということの意味を、幸福追求権を保障するとして一歩具体化した規定だと解しております。  では、幸福追求権とはいかなる内容の権利と想定されているのかということでありますけれども、個人主義の原理が基礎になっておりますから、社会は、個人が自ら最善と考えた生き方を選択し、実践することを尊重するんだということを約束しております。これを個人の権利の側から見れば、個々人は自らが最も良いと考える生き方を選択し、決定し、それを実践していく権利が保障されているということになります。自ら選び、実践していく生の在り方を自律的生と呼んでおりますけれども、幸福追求権とは自律的生に必要不可欠の権利ということになります。  しかし、このように理解された幸福追求権というのはまだ抽象的な内容にとどまっており、保障をより実効的にするためには、それを更にもう一歩具体化する必要があります。それを行っているのが十四条以下に列挙された個別的人権の規定だということになります。  このように解すると、幸福追求権とは、自律的生に必要不可欠な権利を抽象的なレベルで包括的にとらえた権利ということになり、この包括的な権利から具体化されて取り出されたのが個別的権利だという理解になります。  時計数字のⅡに入りますが、このような人権は、憲法に取り込まれたことにより、憲法の持つ性格によって枠をはめられることになります。  憲法は国家権力の組織とその行使方法を定めた規定でありまして、したがって、憲法が適用されるのは権力を行使する立場に立つ者に対してであります。これを、憲法の名あて人は国家であるというふうに表現しているのでありますけれども、このことから、憲法上の人権の名あて人も国家であるということになります。  憲法上の人権を基礎付けている人権思想自体は、先ほど言いましたように、社会関係の基本原理という性格を持っておりますけれども、憲法上の人権は、憲法規範の性質による枠付けがなされているということになります。したがって、憲法上の人権は、国家と国民の関係にのみ適用され、国民と国民の間の関係、これを私人間関係と呼んでおりますけれども、その私人間関係には適用されないということになります。  では、私人間においては人権は法による保護を受けないのかというと、そうではありません。私人間の法的規律は法律により行うのが憲法の想定しているところでありまして、私人間で生ずる人権侵害を予防し救済するのは法律の役割なのであります。  その法律を制定するということは、これは立法権という国家権力の行使でありますから、当然、憲法に従ってなされなければなりません。したがって、私人Aと私人Bの間の権利利益の対立を調整する法律を制定するという場合、立法者はその法律の内容を、Aが国家に対して主張し得る憲法上の権利も、Bが国家に対して主張し得る憲法上の権利も侵害しないようなものとして制定しなければなりません。  しかし、これはA、B間に憲法上の権利を適用しているということではありません。憲法上の権利が考慮されているのは、あくまでも国家とA及び国家とBの間といういわゆる縦の関係においてでありまして、A、B間という横の関係ではないのであります。法律が縦の関係において憲法上の権利を尊重するということを通じて、A、B間の横の関係においても言わば反射的に保障されるということができますけれども、しかし、法律の定める範囲内で、実際上はA、Bいずれかの強者が、例えば契約によりその意思を弱者に押し付けたり、あるいは事実行為を通じて相手に不当な損害を与えて人権侵害を行うということが生じないわけではありません。  このような場合に弱者の人権をどう救済するか、これが人権の私人間効力の問題でありますが、答えは簡単で、それは民法九十条、これは公序良俗に反する法律行為は無効であるという規定ですけれども、それや、民法七百九条、不法行為による損害賠償を規定した条文でありますけれども、こうした民法の一般的、概括的な規定を適用して救済するというものであります。  一般的、概括的な規定でありますから、具体的な場合におけるその意味というのは解釈により決めるということになりますが、その際、民法二条、この条文も参考条文のところで挙げておきましたが、民法二条が規定しているように、個人の尊厳に従って解釈すればよいということであります。  個人の尊厳という憲法の人権の基礎にある言葉を使っていますから、憲法上の人権が民法の一般規定に読み込まれ、憲法が間接的に適用されるというのが従来の通説の考え方でありますけれども、私はそうではないというふうに考えております。憲法上の人権の基礎にある人権思想と同一の人権思想が民法にも取り入れられているということであり、その人権思想によって民法を解釈するんだということであります。  時計数字Ⅲに入ります。  憲法十三条第二文はもう一つ重要な原理を規定しております。それは、幸福追求権の保障というのは絶対的ではなくて、公共の福祉による制限を受けるということであります。もちろん、公共の福祉に反しない限り最大の尊重を必要とするというふうに規定しておりますから、その制限は必要最小限でなければなりませんが、十三条の規定の性質が抽象的であるのに対応して、ここでの公共の福祉も抽象的な権利制約原理として述べられているということになります。  したがって、公共の福祉の具体的な内容というのは個別人権ごとに具体化する必要があります。その具体的な内容というのは、まず立法者により定められ、最終的には最高裁判所によりそれが必要最小限のものとして規定されているのかどうかということが判断されるということになります。そして、それを判断する場合の基本的な考え方が人権と人権の衝突の調整というものでありました。  つまり、ある個別的人権の規制が公共の福祉による制約の範囲内のものとして正当化されるものなのかどうか、その個別的人権の行使と衝突する他の人権との調整として均衡しているかどうかということを基準にそれを判断するというものでありました。このことを、公共の福祉というのは人権と人権の衝突の調整原理であるというふうに表現してきたのであります。  この考え方は、権利を個々の国民の利益には直接には関連付けることの困難な国家の利益によって制限していた戦前の在り方を、戦後根本的に変更しようとしましたときには非常に重要な考え方であり、日本国憲法の解釈学説として通説的な地位を占めてきたということにはそれなりの理由があったと言えます。しかし、いわゆる人権のインフレ化という弊害も伴いますので、現在その見直しが学会でも議論されているところであります。  レジュメの時計数字Ⅳに入りますが、日本国憲法は十三条で幸福追求権という包括的な権利を抽象的な権利として保障し、それを基礎にして十四条以下で憲法制定時点において自律的生に不可欠と憲法制定者が考えた権利を個別的権利として規定いたしました。  しかし、憲法制定時点においては憲法で規定するまでもないと考えられていた利益が、その後の状況変化により憲法による保障が必要だと感じられるようになることが起こり得ます。そのような場合にまず考えるべき対応方法、対処方法は、法律によりその権利を保障することであります。権利侵害が私人あるいは行政により行われる危険が大きいような場合には、この対処方法が有効に働くでありましょう。  しかし、権利侵害が立法により行われる危険が大きいというような場合には、立法府に期待することは困難でありますから、憲法を改正して新しい個別的人権の規定を置くということが考えられることになります。しかし、日本国憲法は、代表制を基本とし、憲法改正の発議権を国会に独占させ、国民には認めておりませんので、立法府が危険の源泉である場合には、憲法改正は有効な対処方法とはなりません。  そこで出てくるのが、裁判所による新しい人権の創造、つくり出すという意味の創造ですけれども、創造という問題であります。裁判所は法の適用を任務とする機関であり、法創造を託された機関ではないから、そのような役割を裁判所に与えるのは憲法違反ではないかという疑念もないわけではありませんが、法適用は法解釈を通じての法創造を含み得るんだというふうに理解すれば、憲法解釈として可能な範囲内なら、新しい人権を裁判所を通じて創造するということも憲法の禁止するものではないと解釈することもできます。  実際、憲法学説は、憲法十三条の幸福追求権を使って新しい人権を根拠付けてまいりました。最高裁も恐らくはこの理論を基礎にして、今日まで、例えばプライバシー権とか肖像権とか指紋を取られない権利とか名誉などの人格権等々に言及してきております。  このような理解の下で、現在、学説上まだ未解決となっておりますのは、幸福追求権の範囲をじゃどう考えるのかという問題であります。それを広く解する一般的行為自由説と限定的に解する人格的利益説が対立しておりますけれども、ここではその問題には立ち入るのを避けたいと思います。  総論の問題として議論されているもう一つ重要な問題としては外国人の人権という問題もありますけれども、これもお話をするとかなり時間を取りますので、ここでは省略させていただきます。  以上で私の話を終わりますけれども、足りないところは御質問に答えるという形で補充させていただければ幸いであります。  どうもありがとうございました。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) ありがとうございました。  次に、土井参考人にお願いをいたします。土井参考人。

土井真一京都大学大学院法学研究科教授

○参考人(土井真一君) 本日は、意見を述べる機会を賜り、大変光栄に存じます。  私の方からは、高橋参考人と重複するところも多くあろうかとは思いますが、新しい人権に関する議論の前提として、個人の尊重と基本的人権保障に関する基本的な考え方、そして包括的人権保障について私なりの意見を述べさせていただきたいと思います。  高橋参考人もおっしゃられましたように、日本国憲法は第十三条において「すべて国民は、個人として尊重される。」と規定しております。この個人の尊重あるいは個人の尊厳が憲法の中核的原理であることは憲法学において広く認められているところでございます。  では、この個人の尊重原理が一体何を意味するのかということが問題になります。何よりもまず重要な点は、一人一人の人間が価値の源泉であるということでございます。言い換えれば、個人の尊重とは、一人一人の人間に存在する固有の意義があり生きる目的があるということを私たちが相互に承認をするのだということを意味しております。これに対して、物ですとか道具といったものは固有の存在意義を持ちません。道具はそれを用いる者の役に立つことに意味があるのであって、役に立たなくなったり気に入られなくなったりすれば捨て去られるという運命にあります。  しかし、人間はそうではありません。私たちは誰かのための単なる道具でも、ただ全体をうまく回すための歯車でもありません。私たちが互いを独自の存在の意義と生きる目的を持つ者として認め合うこと、これを私は人格の尊厳を承認するというふうに申しております。そして、このような人格である私たち一人一人は、同時に多様な存在でもあります。価値観、能力、性格、外観、皆異なっているわけです。この個性が一人一人の人間を形作っています。  したがって、一人一人に人格の尊厳を認めることは各人の個性を尊重することを意味します。この人格の尊厳と個性の尊重の両者を併せて日本国憲法は個人の尊重を定めたのだと私は解釈しております。  そして、憲法がこのような個人の尊重を中核原理として定めた意義は、人間の共同関係、とりわけ国家をこのような個人の尊重原理に基礎付ける点にございます。議論の出発点は私たち一人一人であるということを意味しております。私は、かけがえのない生命を与えられ、その個性を大切にしながら、幸福な人生を生きようと懸命に努力しているわけです。  幸福と申し上げますと、快楽や利己的な欲望を思い描く方もおられるかもしれませんが、人間の幸福はそれほど単純ではございません。自分の身近な人や大切な人の幸せもまた自分の幸せであるというふうに人間は感じるようになっているのだと思います。  しかし、一人の力に限りがある以上は、自ら幸福な人生を生きようとすれば、互いに協力して共に生きていかなければなりません。そのために、人々の意見や利害の対立を調整し、秩序を守り、共同の利益を確保する働きが必要になります。それが政治であり、そのような政治的共同体が国家であると考えるわけでございます。つまり、人々が国家をつくり、その支配に服するのは、互いに協力することによって共同の利益を生み出し、各自がより幸せになるためだと思います。そう信ずるからこそ、私たちは互いに譲り合い、我慢もするわけです。  したがって、国家はこのような目的を実現するように設計されなければならないのであって、このような目的に反する国家に対して人々は異議を唱えることができなければなりません。この点が個人の尊重を基礎とする国家論の真髄であると私は理解しております。  このような考え方を基礎とするならば、人々は共同し国家をつくるために公正な条件をあらかじめ定めなければなりません。この条件が破られれば、それはもはや対等な人格の協力関係ではなく、あからさまな力による支配に陥ってしまう。そのような共同のための公正な条件を定める法が憲法なのであり、その中核となる規定が基本的人権条項だと考えております。  それゆえにこそ、憲法は国家の根本法であり、かつ最高法規であって、その改正には厳格な手続が定められることになるわけです。これが立憲主義であり、憲法を定め、それに基づく政治を実現することで、個人が尊重される共同関係、みんなとともに自分らしく生きることができる協力関係を築こうとする思想であると私は考えております。  したがって、国民主権国家におきましては、立憲主義の思想は、単に統治機構のみならず、主権者としての国民もまた共有しなければならない思想なのだというふうに考えております。  二に、日本国憲法が保障する基本的人権でございますが、次に、このような共同の公正な条件として憲法はどのような権利、自由を基本的人権として保障しているかを見たいと思います。  先ほど、私たちはかけがえのない生命を与えられ、その個性を大切にしながら幸福な人生を生きようと努力していると申し上げました。そのような人間の在り方に共感し、それを尊重するために、憲法十三条は個人の尊重条項の直後に、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利を定めております。  私が私として自分らしく生きていけるためには何が幸福か、何がよき人生かを自分なりに考え、選ぶことができなければなりません。私たちは他の人々と協力する必要がありますが、それによって私であることをやめるように強いられることがあってはなりません。そのことを保障するのが自由権的権利であり、基本的人権保障の中心的位置を占めています。  次に、国家は私たちが形作る共同体なのですから、その共同の在り方を決める過程に私たち一人一人が参画できなければなりません。この民主主義の原則を権利として保障したのが憲法十五条を中心とする参政権的基本権になります。  さらに、みんなで協力をして生み出した共同の利益なのですから、各人がこのような共同の利益に対して正当な持分を持たなければなりません。それを定めたのが憲法二十五条などの社会権的基本権となります。  そして、憲法十四条は、私たちはこのような人権を認められた対等な存在として配慮を受けることを定め、これらの権利が侵害された際に救済を受けるために裁判を受ける権利など、法的保護を求める権利が保障されています。  日本国憲法の規定は比較的簡潔であると言われるのですが、基本的人権保障に関する限り、個人の尊重を基礎に体系的な構造を有する相当程度行き届いた規定であると私は思っております。ただ、人間のやることは完全ではありませんので、憲法が個別に規定していない新しい人権の問題が生じるということになろうかと思います。  第三に、包括的人権保障と新しい人権の問題でございますが、信教の自由や表現の自由などを定める憲法の個別規定が憲法の保障する基本的人権を限定するものであるか否かについては、日本国憲法草案を審議した帝国議会において既に議論がなされておりました。  憲法十一条は、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。」と定めております。ここに言う「すべての基本的人権」が、憲法が個別に規定する基本的人権をまとめた総称なのか、それを超えて文字どおり考えられる基本的人権を全て保障するものかが問題となりました。その結論は、憲法は、十一条において、およそ基本的人権と考えられる全てを保障することを明らかにした上で、そのうち重要なものを拾って具体的に定めたのであって、個別規定は基本的人権を例示するものだというものでございました。  このような基本的な考え方を受けて、憲法による包括的人権保障の基礎となったのが憲法十三条の幸福追求権条項です。しかし、その文言は抽象的ですから、具体的にどのような権利が保障されるかが問題となります。  これについては、学説上、一般的自由説と人格的利益説の対立がございます。例えば、賭博の自由ですとか自殺の自由といったものをめぐりまして、およそ全ての行為自由あるいは国家によって不合理な制約を受けない自由一般が保障されるのか、それとも、基本的人権と言う以上、人格的な存在として認められるために必要な権利が想定されるかという議論でございます。これは基本的人権とは何かという問題にかかわる重要な議論でございますが、本日は時間の関係もございますので、詳しくは触れさせていただけません。  最後に申し上げておきたいのは、新しい人権保障の担い手の問題でございます。  憲法それ自体は言葉ですから、自らが活動するわけではありません。したがって、誰かが憲法十三条を解釈して新しい人権を具体的に保障していく必要がございます。  この点、憲法は八十一条で違憲審査権を認めておりますので、新しい人権保障の担い手として裁判所が重要な役割を果たすことが期待されております。実際、プライバシー権などは最高裁判所の判例によってこれまで承認されてきているところでございます。しかし、裁判所は、個別の訴訟事件を通じて権利を保障することがその任務ですので、思い切った形で新しい人権の保障を図ることには必ずしも適した機関ではございません。  そこで、国民代表機関である国会の役割が重要であるということになるわけです。もちろん、広範な合意が得られれば憲法を改正して新しい人権条項を加えることも重要な手法だと思います。しかし、国会自身が権利保障の必要性を十分に認識しておられるのであれば、法律によってこれを実現していくという手法もございます。実際、知る権利は情報公開法によって、プライバシー権は一連の個人情報保護法によって具体化をされてきています。新しい人権を保障する必要があるから直ちに憲法改正だというわけでは必ずしもありませんで、問題の状況や権利の性質などを考慮して、最も効果的で適切な方法を選択されるということが必要であろうと考えます。  また、新しい人権の保障のために憲法を改正するといたしましても、これまで申し上げましたように、個人の尊重を基礎とする基本的人権保障の原理原則あるいは体系を前提として、その延長線上に人権の保障をより充実させる方向で検討をされるのが適切ではないかと個人的には思っております。  以上で私の意見陳述を終わらせていただきます。  どうもありがとうございました。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) ありがとうございました。  以上で参考人の方々からの意見聴取は終了いたしました。  これより質疑に入ります。  お手元に配付をいたしております参考人質疑の方式に関する留意事項のとおり、本日の質疑は、あらかじめ質疑者を定めずに行います。質疑を希望される委員は、お手元にある氏名標を立ててお知らせください。そして、会長の指名を受けた後に発言をお願いいたします。  質疑の時間が限られておりますので、一回の質疑時間は答弁及び追加質問を含め八分以内でお願いいたします。すなわち、参考人の方々の答弁時間を十分に考慮いただき、質疑時間の配分に御留意ください。発言が終わりましたら、氏名標を横にお戻しください。  参考人の方々におかれましても、答弁はできる限り簡潔にお願いいたします。  なお、御発言は着席のままで結構でございます。  それでは、質疑を希望される方は氏名標をお立てください。  既にたくさん上がっておりますが、それでは、谷合正明委員からお願いいたします。

谷合正明公明党

○谷合正明君 どうもありがとうございます。  公明党の谷合正明です。  今日は、お二人の、両参考人の皆様、本当にありがとうございます。  憲法の骨格を成します恒久平和主義、基本的人権の尊重、国民主権主義の三原則は、人類の英知ともいうべき優れた普遍の原理であり、この精神を国民生活と日本社会の隅々まで定着させていくということに全力を尽くすというのが公明党の基本的な立場であります。憲法改正につきましては、現憲法は優れた憲法であり、平和、人権、民主の憲法三原則を堅持しつつ、環境権など、時代の進展に伴い提起されている新たな理念を加えて補強するという加憲が最も現実的で妥当であるとの考えであります。  そこで、両参考人に二点お伺いしたいと思います。  まず一点目は、憲法改正の視点についてであります。  民主主義国家の憲法は、国家のためにあるのではなく、国民の幸福追求のためにあります。また、人権保障の拡大と国民主権の徹底は民主主義国家の歴史の流れであり、したがって、憲法改正の視点は、国民の幸福追求のための人権保障の拡大と国民主権の徹底でなければならないと考えます。だからこそ、加憲が最も現実的で妥当なものであると考えますが、まず、この点について御所見を伺いたいと思います。両参考人に。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) では、どちらから。  土井参考人。

土井真一京都大学大学院法学研究科教授

○参考人(土井真一君) 私も、国民主権の原則あるいは基本的人権保障の原則というのが日本国憲法の基本原理でありますし、それ自体が問題のある状態にあるとは思っておりませんので、その原則が基本的に維持されるのが適当かと聞かれれば、それが適当ではないかというふうに思います。その中で、環境権等新しい人権を加えていくということが適当ではないかという御意見であろうかと思いますが、先ほども申し上げましたように、人権保障の基本的な考え方、枠組みを基礎としながら必要な修正を加えていくのが基本的に適当だというふうに私自身も考えております。  以上です。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 高橋参考人、お願いいたします。

高橋和之明治大学法科大学院教授

○参考人(高橋和之君) 私も基本的には、今、土井参考人が言われたことと同じように考えていますけれども、憲法改正によって新しい人権を書き加えていくという場合に必要なことは、単にみんなが望んでいるからこういう権利が人権としてあったらいいねということで加えるということはいろんな点でデメリットが大き過ぎるというふうに感じておりまして、むしろ、新しい人権というものを付け加えたいということであれば、なぜそれが必要かと。それは、皆さんは立法府にいられるわけですから、そういう権利が必要だと考えれば、まずやるべきことは法律によって具体化するということだろうと思います。  しかし、法律によって国民が望んでいる権利を実現しようとしても、既存の人権に衝突してそれができないんだと、だから新しい人権を憲法の中に書き加えて、既存の人権と平等な立場で調整するんだということであろうかと思いますから、どの点で現行の人権規定の在り方の中で新しい望む人権を実現できないのか、何が障害になっているのかということを議論で明らかにした上でそれを書き加えないと、何のための権利なのかよく分からなくなる、かえって混乱を生み出すということになりかねないだろうと思います。  例えば、環境権という人権を是非書きたいと、これは世界的な趨勢でもありますから、そういうのを人権として加えるということは当然あり得るわけですけれども、それを憲法の中に書き加えるときに、はい、環境権を認めましたよというだけでは、これはその意味をどう理解していいか分からない。ですから、環境権を現在実現していきたいと思ったときに、現行人権体系の中で何が障害になっているのか、どこをどう変えたいのかということを明らかにした上でやっていく必要があるだろうと思います。  以上です。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) ありがとうございました。

谷合正明公明党

○谷合正明君 もう一問聞かせていただきたいと思います。それは、参議院の憲法保障機能、言わば参議院の役割ということなんですが、政府と官の行動を縛って国民の自由と権利を保障することが憲法の本質的な役割であり、それが立憲主義であると私は理解をしています。  そこで、憲法と国会の関係について考えますと、国民の代表機関であります国会というのは、政府と官が憲法を誠実に遵守するよう監視する立場にある。とりわけ、政府から距離を置くことができる参議院はこの憲法保障機能を担うにふさわしいのではないかと。立憲主義の徹底の確保が参議院の存在意義ではないかとも考えます。  この点、参議院の責任というものは大きいんだと思いますが、この点について両参考人、御意見を賜れればと思います。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) それでは、今度は高橋参考人からお願いいたします。

高橋和之明治大学法科大学院教授

○参考人(高橋和之君) 日本国憲法は御承知のように権力分立の原理を基礎にしてできておりますから、しかも憲法、立憲主義の下に憲法に従って政治を行うということが要求されているわけでありますから、衆議院なり行政なりが人権侵害をしないように参議院がチェックをしていくというのはもちろん非常に重要なことだと思います。  しかし、憲法を守る役割、これこそが参議院の役割だと言われることに対しては、果たしてそうなのかなと。それは大いに結構なんだけれども、憲法全体の体系の中で参議院がそういう役割を期待されているのかというと、ちょっと違うんではないかと。憲法全体の体系の中で、憲法保障の役割を担わされている国家機関はやっぱり裁判所だろうと思いますね。  ですから、それを前提にした上で、でも、参議院が憲法を守っていく良識の府であるというふうに自己規定されてその役割を果たされることは、もう非常に大いに結構なことではないかなと思います。  以上です。

土井真一京都大学大学院法学研究科教授

○参考人(土井真一君) 私も高橋参考人と近い考え方でございますが、憲法九十六条の国会の発議については衆議院の優越を認めていないわけですから、その点においては、参議院と衆議院は国会として憲法の改正に対等の権限を持っておられるということなわけです。それは行使の仕方によれば拒否権、ビートーになるわけで、人権を守るためにこの憲法改正には反対なのだと参議院が示されたということになれば、それは衆議院はそれを越えられないということになるわけですから、機能的に参議院がそういう役割を持っておられるというのもそのとおりであろうと思いますし、同時に、衆議院の方がどちらかといえば現在の国民の多数の意思というのを反映しながら政権を担っていかれるという役割を主として担っておられるということに対して、参議院は良識の府として安定的な政治の実現のために期されていかれるということであれば、その中に人権保障が入るということは、それは一つの役割だろうと思います。  ただ、その人権保障のためだけに特化されるのかというと、それはまた別の役割も十分果たしていかれるべきではないのかなというふうに思います。  以上です。

谷合正明公明党

○谷合正明君 ありがとうございました。  終わります。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 次に、井上哲士君。

井上哲士日本共産党

○井上哲士君 日本共産党の井上哲士です。  今日はお二人の参考人、本当にありがとうございます。  私たちは、日本国憲法は十三条や二十五条など幅広い人権を保障していく懐の深い構造を持っていて、いわゆる新しい人権についても立法的な措置で実現をしていけばいいと、そういう点で憲法を変えていくということの必要性はないと考えております。  その上で、幾つかお聞きするんですが、一つは、やはり個人の尊厳、個人の尊重ということと立憲主義というものが一体のものであるというようなお話が先ほど来ありました。この立憲主義の問題は、この間、当審査会でもいろいろ議論になってきたんですが、ある参考人は、憲法が国家を縛るものだという考え方は古い王制の時代の考え方だと、こういうことを言われた方もいらっしゃいますし、最近は、例えば総理も、憲法というのは、言わば権力者の手を縛るという、為政者に対して制限を加えるという側面もあるわけでございますが、実際は、自由民主主義、基本的な人権が定着している今日、王制時代とは違うわけでありますから、一つの国の理想や形を示すものでもあるわけでございますというようなことも言われております。  立憲主義が言わば王制の時代のものだというようなのは、ちょっと私は異論があるわけでありますが、この点、それぞれ参考人から御意見を伺いたいと思います。  それから、高橋参考人にお伺いいたしますが、先ほど、例えば環境権を憲法に規定をする場合に、それがなければほかの人権との調整が付かないような場合、理由が必要だというような御趣旨のお話がありました。先生自身は、その環境権を言わば立法だけでは保障できないような、今そういう他の人権との関係での必要性があるとお考えかどうか、この点をお伺いしたいと思います。  土井参考人にも一点。去年の憲法記念日のときに、朝日新聞がアメリカの法学者が行った百八十八か国の分析というのを報道して大変話題になったわけでありますが、世界の憲法にうたわれている権利の上位十九までを日本国憲法が全て網羅している大変先駆的なものだという評価がございましたけれども、この評価については土井参考人はどのようにお考えか。  以上、お願いいたします。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) それでは、共通並びにそれぞれの御質問がございますが、高橋参考人からお願いしてよろしいでしょうか。

高橋和之明治大学法科大学院教授

○参考人(高橋和之君) まず第一点の方の、立憲主義というのは現在では古いんではないかと、王制時代といいますか、絶対王制時代の考えではないかという考えがあるがどうかという質問でありますが、立憲主義というのは、近代立憲主義というのは、この王制の持っていた弊害を抑止し、より良くするために出てきた考え方でありまして、そういう意味では王制の原理ではない、王制を否定する原理として出てきたものだと理解しております。  恐らく、それが古いとおっしゃる意味は、近代ではそうであったけれども現代ではもう古くなっているんではないか、現代では民主主義というのが行き渡り、したがって政治というのは国民の意思に基づいてやっているんだから、その政治を余り縛る必要はない、政治というのは国民のためにやっているものなんだ、そういう意味で国家と国民とは対立構造にないんだと、今では。ですから、そういう対立構造を前提とした近代の立憲主義という考え方はもう古いんではないか、こういう御趣旨で言われているものなのかなと思います。  それは、ある意味では確かにそういう面があるだろうと思います。自由民主主義が進んできた、我々、立憲民主制の体制と呼んでいますけれども、そういう下においては、国民の意思が以前よりずっと浸透するようになってきた、だからもはや権力を恐れる必要はないんだという面もありますが、しかし、究極的に、民主主義といいますか、国民主権と自由が調和するかというと、対立する場合があると考えておりまして、その自由と民主が対立するときにどっちを選ぶかという問題に帰着するだろうと思います。  その場合に自由を取る、つまり立憲主義の側を取るということが立憲民主制、国民主権ということで民主主義を非常に強調しておりますけれども、しかし、民主主義も乗り越えてはいけない限界があるんだということを表現し、立憲主義というのをかぶせているわけですね。民主主義の下に、国民の多数が作った法律はどんな人権侵害があってもそれは人権侵害と考えるべきではないとは考えていない。国民の最小限の人権は、個々の国民の最低限の人権は、たとえ国民の多数が同意したとしても侵害してはならないという原則で憲法は作られていると私は理解しており、そういう体制、在り方を立憲民主制と呼んでおりまして、立憲ということの意味、こちらの方がより重要だということの意味がそこに込められていると理解しております。したがって、立憲主義というのは古くはない、まさに現代立憲主義においても非常に重要な原理だと考えております。  以上です。  済みません、第二点ですね。第二点、私に対する質問として、環境権というようなものは立法だけでは不十分と考えているのかどうかという質問でございました。  この点について、私は憲法改正で環境権の規定を入れるということに別に反対ではありません。もしそういう必要が出てくれば入れていいと思っておりますけれども、しかし、その前にやるべきこととして、法律によって、環境権が大事だというならば法律によって実現するということがまず最初にやるべきことだろうと思っております。現に、基本法も作られておりますし、いろんな法律によって環境を整えるといいますか、少なくとも公害が起こらないようにするというようなことがなされております。  その延長線上で、もっとより良い環境を権利として認めないと、従来の人権体系の枠組みではこうこうこういう点が障害になってできないんだということが明らかになってきたら、現在の立法体制というのはそこまで行っていないと思いますけれども、そこまで環境を配慮した法律を作って、ぎりぎりのところで、これ以上は駄目だ、でも国民はこれ以上の環境整備を求めているんだということになったときに初めて、じゃ、憲法で書こうということになるだろうと思います。ですから、是非、立法者の皆さん方に、法律によってまず環境権を実現、現実化することをやっていただきたいと考えております。  以上です。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) それでは、土井参考人、お願いします。

土井真一京都大学大学院法学研究科教授

○参考人(土井真一君) まず最初の問題でございますが、憲法の役割が国家権力を拘束するという役割があるのだという点については、これはかつてもそうですし、現在もそうですし、その点について変わりがあるわけではないというふうに考えております。  ただ、一点、やはり現代社会において違うというのは、かつては、先ほども出ていましたように、君主制でしたので、権力は君主が持つという、そういう考え方が広く行われてきたわけです。だから、逆に言うと、君主だけが拘束されれば権力は適切に動かされるという原則だったと思います。  しかし、国民主権という形になれば、それは国会がお決めになる法律が、国民から乖離して法律が作られるということもないわけではないでしょうが、多くの場合は世論に基づいてお決めになっておられるということになると思います。もしその法律が少数者の人権を侵害しているということであれば、やはりそれを求めた国民にも問題があるのだということになるのだろうと思います。  その意味で、私自身は、先ほど申し上げた個人の尊重の原理というのは、国家だけを拘束しているわけではなくて、それは我々社会の基本的な原理であって、一人一人の国民として互いに尊重するということを決めたのだと、その意味では、国民もまた共有しなければならない価値だというふうに申し上げたのは、以上の趣旨でございます。  それから二番目の、日本国憲法の先進性の問題でございますが、歴史的に見ましても、日本国憲法というのは比較的に先進国の中では新しい憲法であるというのは確かでございます。アメリカの場合は独立戦争を戦った後にできた二百年以上の歴史を持つ憲法でございますし、フランスも人権規定の部分は実は人権宣言に遡るという歴史を持っている国でございます。それに比べますと日本は新しい段階でできた憲法でございますので、社会的権利を含めて多くのものが入っているというのは確かにそうだろうと思います。  高橋参考人がおっしゃっておられるのもそのとおりでございまして、憲法は理想を示しているという側面がございますので、我々国家が今後も尊重していかないといけない権利を高らかにうたっていくということも大事な役割だと思います。ただ、それがその理想に過ぎて、実際になかなか実現が難しいということになりますと、憲法に書いただけということになり、かえって今度は憲法の信用を失うということにもなりかねません。  したがって、憲法に書くという以上は、やはりそれをきちっと実現していくという意気込みといいますか、見通しというのがはっきり出た段階できちっと守っていくべき価値として書いていくということが大事で、高橋参考人が先ほど来、まず立法で広く合意を形成しながら、これならいけるんだという話になった段階でちゃんと憲法に書いて守っていくべきだとおっしゃっているのはそういう趣旨だろうと思いますし、私自身もその点についてはそのような方向でおやりになるのがよいのではないかというふうに思っております。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 次に、松井孝治君。

松井孝治民主党・新緑風会

○松井孝治君 民主党の松井孝治でございます。  両先生、大変貴重なお話を伺わせていただきまして、ありがとうございました。  今、両先生がおっしゃったことについて更に深掘りをして伺いたいんですが、特に今、土井先生がおっしゃった、立憲主義は国民も共有しているということの意味をもう少し詳しく伺いたいので、私の場合は土井先生に絞って、むしろ八分間を有効に御答弁をいただいたら、御説明をいただいたら有り難いと思います。  私は、立憲主義というのは当然その時代的背景によってその内容が変わってくるのは当然だと思っています。君主制の下において、先ほど高橋先生がおっしゃいました、憲法の名あて人は国家であるという考え方は当然そうですし、それは名あて人は君主であったということだと思うんですが、現代社会においては政府の在り方が変わってきています。  要するに、国家権力、すなわちそれが、かつては君主、今であれば日本国の政府を名あて人にしてそれを縛るという側面はあるにしても、その公共性の担い手というのが、今、国家、中央政府だけではなくて、地方政府やあるいは様々な主体が、国民あるいは国民が属している企業であるとかいろんな公益的な団体も含めて公益の担い手になっていて、それは全体として国民主権の現憲法体制下の民主制によって担保されているという状況の中で、この憲法の、あるいは立憲主義の名あて人というものは、私は、土井先生がおっしゃったようないわゆる狭い意味での国家だけではなくて、より国民も共有しなければいけないというふうに考えるわけでありますが、その意味で土井先生に補足御説明をお願いしたいのは、国民が共有するその立憲主義の内容というのは現代的にどういうものなのか、もう少し御説明いただければ有り難いと思います。

土井真一京都大学大学院法学研究科教授

○参考人(土井真一君) 国民主権というのをどのように考えていくかということが問題だと思います。  国民概念というのは多義的でして、国家権力の行使に関与していく、例えば選挙において国会議員を選ぶとか憲法改正の手続で国民投票に参画するという、自ら国家権力に関与していく意味での国民という意味もございますし、日々日常生活を送っている私人としての国民という意味も、いろいろあるわけでございます。それを前提にして、どの意味での国民がどういう形で憲法とかかわっていくかということです。  先ほど申し上げましたのは、特に国家権力に関与していく、選挙ですとかあるいは法律の制定を求めていくですとか、いろんなことをやっていくときの国民は、それもまた一つの国家の重要な役割を果たしているわけですから、だから自分で好きなことをやっていいんだという、そういう主体ではないんだと思うんです。  主権という話をしますと、憲法でもそうなんですが、主権は最高の権力であって、万能、絶対だというふうに言われます。なので、国民主権であるというのは、まさに国民が絶対であって万能なんだという議論をもたらす原因になっています。  しかし、注意しなければいけないのは、全能だ、あるいは万能だ、絶対だと言われるのは、それは法的に見ればそう評価するしかないと言っているだけでありまして、現実にそうではないんです。例えば、全国民が集まって幸せになれというふうに命ずれば幸せになれるならこれだけ楽なことはないわけで、現実にそういうふうに意思したからといって、実際に実現していくためには大変なプロセスが必要になるわけです。  そうなりますと、基本的には、主権者である、最高の責任を負う権力者なのだという立場になればなるほど、自分が賢明な決定をできるように工夫が必要だということを認識する必要があるのだろうと思います。そのために作られているのが憲法で、憲法というのは基本的に、国民が賢明な選択をするためにその代理人である国会や、あるいは内閣や裁判所にどういうことをさせるのかということを考えている規範なんだろうと思います。その意味で、国民にとってもこの仕組みというのをしっかり守っていかないといけないというふうに考えられます。  次に出てくるのが個人ですね、個々の国民の役割です。  松井先生からの御質問はそこにかかわってくると思うんですが、個人に権利として認められているものは、必ずしも各人の私益のために行使するわけではございません。例えば、表現の自由というのは国民に対して最も大切な権利だとされているわけですけれども、その表現というのは、まさに政治に対する批判であったり、あるいはこういうことをしてほしいという要望であったりするわけです。そこで表現している国民というのは、決して私利私欲のために表現を行っているわけではなくて、この国をどうすればいいのかということを真剣に考えて表現行為を行っているわけです。  そういう点から考えますと、個人の権利だと認められているものは決して私的なものなのではなくて、公共的な役割を果たそうとする国民がその役割を果たしていくために必要だと認められている権利もたくさんあるわけです。その意味では、一人一人の国民を単なる社会において私益を実現する存在だととらえるのはやはり誤りで、国民主権国家においては一人一人が公共的な役割を担うんだし、またそれに必要な権利というのもきちっと保障していく必要があるというふうに考えております。

松井孝治民主党・新緑風会

○松井孝治君 残りの一分で端的に伺いたいんですが、憲法の名あて人は、土井先生は現代においてもそれは国家のみを名あて人としているというふうに考えられますでしょうか。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 簡潔にお答えください。どうぞ。

土井真一京都大学大学院法学研究科教授

○参考人(土井真一君) 憲法の規定によります。明らかに国会の規則のようなものは国民を名あて人にすることはできなくて、それはもう国会議員の先生方を名あて人にしていると。先ほど来申し上げていますように、個人の尊重とそれに基づく様々な規定については、それは国民もまた理念において遵守していかないといけないものだと考えております。

松井孝治民主党・新緑風会

○松井孝治君 ありがとうございました。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) ありがとうございました。  舛添要一君。

舛添要一新党改革

○舛添要一君 今日は大変ありがとうございました。  まず、私も、高橋、土井両参考人と同じように、その十三条の個人としてと、個人として全て国民は尊重されるという、個人としてという言葉は非常に、憲法学説的にも人権論の系譜からいっても非常に重いというふうに思っています。  私がかつて自民党にいたときに、自民党の第一次憲法草案はきちんと個人としてという文言をそのまま維持をいたしましたけれども、昨年発表されました第二次自民党の草案では、個人じゃなくて人としてというふうに変わっています。私は、恐らくその議論の、そこにいたわけじゃありませんけれども、その議論の背景としては、個人というのは何か個人主義で勝手ばかりやって、権利ばかり主張して義務の観念がないんじゃないかというそういう、まあ悪く言えば感情的な議論に押されたのではないかなとそんたくする点もあるんですけれども。  しかし、私は、立法者が個人の、そういう立法者の自由で法律とか憲法を書く権利はあるのかもしれないけれども、やはりこれまで営々と憲法学的な積み重ねがあるし、やはりその人権というのは人類の普遍的な権利で、フランス革命以来、例えば、もっと言うとマグナカルタでもいいです、ずっと積み上げてきたものの上にあるので、そういうことを踏まえた上で、憲法学的に論理的構成の面からも整合性のあるものを作るという慎重な配慮が立法者に私は必要だというふうに思っております。  例えば、民法二条にしても「個人の尊厳と両性の本質的平等を旨として、」と書いてあるわけで、もし十三条を個人から人としてと変えるならば、じゃ民法の第二条はどういうように変えるんだろうかと、そういうことも考えないといけないので、大きな精緻な法体系、憲法体系という一つのマシンを一部分だけ扱えばそれで済むんではなくて、その一部分をいじくることによって全体が動かなくなるんではないかというそういう配慮も必要だというように思っているので、私は、やっぱり個人としてという言葉はきちんと守るべきで、人としてと安易に変えるべきではないと、そういうように思っておりますが、両先生のお考えを賜りたいと思います。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) それでは、高橋参考人からお願いします。

高橋和之明治大学法科大学院教授

○参考人(高橋和之君) 個人としてというのを人として変えるのはどうかという御質問ですけれども、人としてと変えた意味が分からないとどう考えるかということもなかなか答えられない。まあ人としてって、とらえ方によれば、人間としてというような趣旨かなという気もいたします。  それと、ドイツ基本法では人間の尊厳ということを言っている、日本国憲法では個人の尊厳ということを言っていると、これは意味が違うのかどうかという議論、学説の中でも対立がありますけれども、基本的に同じだろうというふうに私は考えています。  ただ、その重視している点が違う。これはドイツの歴史と日本の歴史が違うということにも関係するんですけれども、人間の尊厳という意味で、仮に人としてということの意味をそういうふうに変える趣旨で言っているとすると、これはドイツ的な考え方にした方がいいんだという理解も可能になるかなと思うんですが、その場合に、ドイツに限らずヨーロッパ大陸諸国はこの人間の尊厳という言葉の方を人権論の基礎に置いておりまして、それは人間ということですから、何に対比されているかというと人間でないものです。例えば動物と対比して、人間は人間として扱わなきゃいけないよと。恐らく、ナチスの非人間的な扱い方というのが歴史として存在し、そういうことは一切もうやらないんだという宣言的意味が込められているんではないかなと思います。  そういった指摘も法哲学者のホセ・ヨンパルト先生がかつてなされたわけですけれども、日本は個人の尊厳と、個人の方を強調した。これはなぜかというと、個人と全体、個と全体との関係において、戦前は全体の方が余りにも強調されたと。そういう在り方を改めて、やはり個の方に価値の根源を見る新しい社会関係をつくるんだということであったんだろうと思うんですね。  日本には日本の歴史があり、その歴史を踏まえて新しい社会をつくっていくという場合には、個人の尊厳というのは非常にぴったりとした言葉であり、だから十三条でうたっているんだと理解しております。その場合に、それを人としてと変えたらどう意味が変わってくるんだろうか、その意味の変わり方いかんによってはどうなのかなと、賛成できるのかなという感じを持っているということであります。  以上です。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) それでは、土井参考人、お願いします。

土井真一京都大学大学院法学研究科教授

○参考人(土井真一君) 憲法学説については既にもう高橋参考人詳しく御説明になられたので、私が思っていることだけ申し上げさせていただきます。  人間という言い方をするときと個性という言い方をするときには、実は相対立するものを含んでいるんです。人としてと言うときには人として同じであるという方向につながるんです。個性というのは違うという方向につながるんです。この二つのバランスを取るために個人という言葉を使っている。人間として同じなんだけれども、それぞれの違いを尊重していこうというバランスを個人という言葉に使っているとするならば、やはりこの言葉というのは私は大事だと思います。  それからもう一つ、個性というのはやっぱり社会全体にとっても重要なんです。個性というのは私と違う人がいるということなんです。私と違う人がいるというのは腹が立つときもありますし、うまくいかないときもあるんですけれども、私にはない可能性を持っている人がそこにいるということで、私とは異なる可能性を持っている人たちが互いに協力するというのは社会全体にとっても大きな力を引き出す源泉になるんです。  だから、一人一人にとっても重要なことですし、社会にとっても重要なことだという意味で個性というのは大事だと思いますので、個人の尊重ということには私は私なりに非常に大事な意義があるんだというふうに考えております。

舛添要一新党改革

○舛添要一君 時間が参りましたので、終わります。ありがとうございました。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 次に、福島みずほ君。

福島みずほ社会民主党・護憲連合

○福島みずほ君 社民党の福島みずほです。  今日は本当に深い話、立憲主義と憲法十三条、個人の尊重ということをめぐるとても深い話を聞かせていただきまして、本当に心から感謝をいたします。  まず、高橋参考人にお聞きをいたします。  自民党のQアンドAは、人権の衝突概念を取らず、公益及び公の秩序によって基本的人権を制限できる、国民は公益及び公の秩序に従わなければならないという旨の規定を置いております。この基本的人権の制限に関してどう思われますか。

高橋和之明治大学法科大学院教授

○参考人(高橋和之君) 公共の福祉という言葉を変えて、公の秩序あるいは公益という言葉に変えることについてどう思うかという御質問でありました。  これもどういう趣旨で変えるのかということがはっきりしないと、言葉面だけ見てどうこうということもできないかなと思っておりますけれども、ただ、その言葉面を見たニュアンスとして言いますと、公の秩序という場合と公共の福祉、公共と公で、共という字が入っているところから、公共というと国民個々人が頭に浮かんでくる。その間の関係を言っているのかなと思う。それに対して、公というと、何か国民からちょっと離れた別の公的なものが存在していて、そこで考えている秩序だというような感じを私は持ちます。ですから、公共の福祉と公の秩序では、公の秩序の方がちょっと国民から離れたもので広くなるのかなという感じがいたします。  ですから、人権を制限する範囲が広がってくる、広げたいという趣旨でこういうふうに変えておられるのかなという感じもするんですけれども、そこはちょっと、どういう趣旨でこういう言葉に変えるかということが分からないと何とも言えないかと思います。  公益の方は、私は通常、公共の福祉と公益というのは同じ意味で使って、公共の福祉より短いものですから、簡単に言うときは公益と言っていたんですけれども、それほど違いはないかなと思っております。福祉という言葉に着目すると、福祉というのは、まあ何か良いものという感じを私は言葉から受けるんですけれども、それに対して秩序というと、何かもうちょっと怖いものかなという感じを受けるんですね。  ですから、公共の福祉の方が国民みんなにとって良いもの、それに対して公の秩序というのは、何か国民からちょっと離れたところでがちっとこう規則で固めるみたいな印象を与えるという、私、これは全く私の主観的な印象でありますけれども、そういう違いが出てくるんだろうと思うんですね。  もうちょっと時間を使って関連したことをお話しすると……

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 簡潔にお願いします。

高橋和之明治大学法科大学院教授

○参考人(高橋和之君) よろしいですか。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 福島さん、両方の参考人に御質問ですね。

福島みずほ社会民主党・護憲連合

○福島みずほ君 いや、高橋参考人だけで結構です。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) そうですか。  それでは、どうぞお続けください。

高橋和之明治大学法科大学院教授

○参考人(高橋和之君) 実は、公共の福祉による制限という点については、私の話の中では深く立ち入る時間がなかったんで立ち入らなかったんですが、学説上、現在、従来のような人権衝突の調整原理でいいんだろうかということがいろいろと議論されております。なぜならば、現実に人権を制限している様々な法律が、人権と人権が衝突しているというふうに説明するのが非常に困難な場合が結構たくさんあるわけですね。  例えば、町の美観を守るためにビラ張りを規制しているとか立て看板を規制しているという場合に、そのビラ張り、立て看板は表現の自由によって保障されている人権で、これは人権を制限しているということになりますが、その人権に対立している人権って一体何だろうかということになりまして、町の美観だと。町の美観はどういう人権かというと、人権に何か関連付けないと説明ができないから、いやいや、国民は美しい町に住む憲法上の権利があるんだという説明になるわけですね。じゃ、そんな権利どこに書いてあるんですかと言うと、適切な条文がないから十三条で、新しい人権の規定を使って、いや、そういう人権もあるんだという説明になる。そうすると、人権というものがインフレ化していくわけですよね。それは説明として余りよろしくないんではないかと。  戦後間もなくのころは戦前との違いを強調するために、人権間の衝突ということによって、安易に国家の利益のようなものを持ち出さないためにそういう説明をしてきたんだけれども、現在では、戦後直後とは違ってきているから公共の福祉のとらえ方も変えている、変えてもいいんではないかと。むしろ人権のインフレ化の方が問題になってきているんで、本当に守るべき人権をきちっと守るためには違った理解にしたらどうか。そうすると、人権同士の調整じゃなくて、人権と重要な公益との調整の場合でも公共の福祉による制約として認めていいんではないかと、こういった議論が出てきたということですね。そういう学説上の見直しが行われているということで。  ただ、これは言っておきますけれども、人権を制限する範囲を広げるために公共の福祉の見直しをやっているんではなくて、人権のインフレ化を避けるためにもう少し緻密な議論にしていきましょうということであって、人権を制限する範囲が広がるわけじゃなくて、むしろ人権を制限する範囲を厳密に考えていきましょうと。ただ、その場合に、人権に対しては人権を対抗させないと正当化できないというのではない。公益でもいい。ただ、どういう公益の場合には、人権でない公益でですね、どういう公益の場合ならばここまでの制限は許されるということを厳密に考えていこうという議論を学説、学界ではやっているということであります。  以上であります。

福島みずほ社会民主党・護憲連合

○福島みずほ君 日本国憲法は国会議員や様々な、天皇、摂政、公務員に憲法尊重擁護義務を課していますが、自民党の憲法案は国民に憲法尊重擁護義務を課している。これは立憲主義の立場からどうか。高橋参考人、いかがでしょうか。  そして、立憲主義の話を今日していただきましたが……

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 時間が来ております。

福島みずほ社会民主党・護憲連合

○福島みずほ君 はい。では、いっぱい聞きたいことありますが、それでお答えください。済みません。

高橋和之明治大学法科大学院教授

○参考人(高橋和之君) 憲法九十九条で憲法を守るべき人というのが挙げられておりまして、そこには国民というのは書いていない。これは、立憲主義の原理に非常に忠実に従ったものでありまして、主権者たる国民が権力を行使する人に対して、そういう立場に立った人に対して憲法を守りなさいということを要求している規定だと私は読んでおります。  ただ、先ほどから土井参考人の話の中にもありましたけれども、国民が全く立憲主義とは関係ないのかというか、憲法を守らなくていいのかというと、そうではない。もちろん、国民が作ったという建前ですから、国民は憲法を守らなければいけない。しかし、国民が憲法を守らなきゃいけないことになる場合というのは権力的な立場に、強い地位に就いた場合であって、そうじゃなければ憲法によって拘束されるということはない。  じゃ、選挙する場合はこれはどうなのかということですけれども、選挙も広い意味では権力的な立場に立つということ、意味を持っている。選挙権の性格として公務という性格もあるんだということは以前から言われて、指摘されてきたことでありますけれども、ただしかし、日本国憲法は、選挙権については公務という性格からよりは権利という性格からとらえたんだというふうに私は解釈しております。  そういう意味で、日本国憲法の下においては、国民が憲法によって直接、憲法保持義務を負わせられているということはない。現在の憲法の在り方が本来の立憲主義の在り方に忠実であると。それを、そこに国民をも持ち込むというのはどういう意味を持ってくるんだろうかなという感じを持っております。  以上です。

福島みずほ社会民主党・護憲連合

○福島みずほ君 ありがとうございます。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 恐れ入ります。  次に、はたともこ君。

はたともこ生活の党

○はたともこ君 生活の党のはたともこでございます。  本日は、両参考人の先生方、貴重なお話をありがとうございます。  私は二点伺いたいと思いますが、まず、大阪の橋下徹市長の従軍慰安婦についての一連の発言について伺いたいと思います。  私が橋下市長の一連の発言の中において特に許せないと思うのは、男性の性の対象として女性を利用するという考え方でございます。  五月二十七日の橋下市長の見解文にはこのように書かれています。性の対象として女性を利用する行為そのものが女性の尊厳をじゅうりんする行為ですと書かれておりますが、同じ見解文の中で、日本で法律上認められている風俗営業を利用することについて、米軍司令官に対する発言を撤回した上で、このように書かれています。合法であっても、女性の尊厳をおとしめる可能性もあり、その点について予防しなければならないことはもちろんのことですと書かれております。  私は、男性の性の対象として女性を利用するという行為だけでなく、考え方そのものが女性の人権、尊厳を傷つけるものであり、日本国憲法の趣旨に反する考え方だと思いますが、両先生方の御見解を伺いたいと思います。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) どちらから行きましょうか。  土井参考人、お願いいたします。

土井真一京都大学大学院法学研究科教授

○参考人(土井真一君) 橋下市長がどういう趣旨でおっしゃられたのか、あるいはそれがどういう意味なのかということは、私、通じておりませんので、括弧に入れて一般論として話させていただきますと、先ほど申し上げましたように、人は人格として取り扱われなければならないというのは人を道具として取り扱ってはいけないということを意味しており、それの最大のものは憲法が定めております奴隷的拘束の禁止であって、単なる人の欲望や目的のためのみに人を使ってはいけないということを定めていると。そういう行為に当たるようなものは許されないというのが基本だろうというふうに思っております。

高橋和之明治大学法科大学院教授

○参考人(高橋和之君) 私も余り詳しくこの事件、余り気分のいいものではありませんから、発言をフォローしていないんですね。正確に理解しているかどうか分からないので、それについてコメントできる立場にないんですけれども、今、はた議員から言われた限りで、聞いていた限りでは全くおっしゃるとおりではないかなという印象を受けました。  以上です。

はたともこ生活の党

○はたともこ君 では次に、政府が発行すると伝えられ、大きな批判を受けております女性手帳の問題に関連して伺います。  これから考えていく新しい人権の中で、リプロダクティブライツ、女性の自己決定権を明確にしていくべきだと思いますが、両先生方の御見解はいかがでしょうか。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) それでは、高橋参考人からお願いできますか。

高橋和之明治大学法科大学院教授

○参考人(高橋和之君) 質問の趣旨を正確につかんだかどうか分からないですけれども、リプロダクティブライツを憲法の中で規定していくべきだというふうに考えるけど、どうかという趣旨でしょうか。

はたともこ生活の党

○はたともこ君 新しい人権の中で、リプロダクティブライツ、女性の自己決定権を明確にしていくべきではないかということでございます。

高橋和之明治大学法科大学院教授

○参考人(高橋和之君) そういう権利を認めていくべきだと私も考えておりますけれども、それは新しい人権としてまず憲法解釈の中で考えて、それに基づいて立法を考えていくのが対応の仕方としてはいいんではないか。直ちに憲法の中に書くということになると、どのように書いたらいいのか、これは非常に難しい問題になるのではないか。非常に抽象的に書けば書けるんだろうと思いますけれども、抽象的に書けば、後、どういうふうに解釈していくかという難しい問題を裁判所にボールを投げただけになってしまいますから、まず法律で具体化していく。それをやってみて、本当に憲法でどういう形で書く必要があるかということが分かった段階で憲法で書くという手順を踏むのがよいのではないかと思っております。  以上です。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 土井参考人、お願いいたします。

土井真一京都大学大学院法学研究科教授

○参考人(土井真一君) リプロダクティブライツの問題でございますが、一般論としては、女性の人生の在り方を決めるという意味において一定の意義のあるものですので、それを憲法上というお気持ちはよく分かります。  ただ、この問題、真剣に考えますと、対抗利益が、胎児の生命の問題ですとかいろんな問題が出てきます。それを突き詰めていくと、いつから人間は人間になるのかという問題が出てきますし、その問題を突き詰めると信仰にかかわる問題が出てきます。それは各国非常に悩んでいる問題でございますので、それを書くということになると、それなりに慎重にいろんなことを考えて書かないと難しい状態になりますので、女性が自らの自己実現のためにできる限り選択を広げていくということは一般論としてはいいんですけれど、この問題は少し慎重な検討が要るのではないかというふうに思います。

はたともこ生活の党

○はたともこ君 ありがとうございます。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 次に、小西洋之君。

小西洋之民主党・新緑風会

○小西洋之君 民主党の小西洋之でございます。  両先生、本日は本当にありがとうございます。  私、二問、一問まず高橋先生に、あと二問目を両先生に伺わせていただきたいと思います。  初めに、先ほど福島みずほ先生の関連で高橋先生に伺わせていただきたいんですけれども、十三条の公共の福祉の考え方で、人権と重要な公益との調整ということも原理として含むものではないかということが今学説で議論されているということでございますけれども、そこで議論されているその重要な公益、先ほど町の美観のことを例としてお示しいただきましたけれども、ほかに例えばどういうものがあって、かつ、それを人権と比較する際に、判断の基準あるいは要件としてどういうような議論が今なされているかというのを少し、簡潔で結構でございますので、東京大学の長谷部先生などが中心に議論をなさっているようなことではないかというふうに私は理解しているんですけれども。  あと、最後に、そうした重要な公益であっても、最後はやっぱり侵すことのできない切り札としての人権といったお考えもあるというふうに理解しているんですけれども、そうしたことも含め、そこの議論のポイントというものを簡潔にお教えいただけますでしょうか。

高橋和之明治大学法科大学院教授

○参考人(高橋和之君) 具体的にどういう場合というのは、先ほど頭に浮かんだのが町の美観でありまして、それ以外にどういったことを議論しているかと、ちょっと今すぐに頭には浮かんでこないんですけれども。浮かんでこない、申し訳ありません。

小西洋之民主党・新緑風会

○小西洋之君 ありがとうございます。  では、いずれにしても、先ほどの議論はあくまで人権のインフレを防ぐため、つまり、個人の尊厳に立脚した憲法の人権尊重というものをしっかりと守っていくために、人権を制限する範囲を広げるのではなくて、むしろインフレを防ぐために、その範囲を厳密にするために行われている議論だというふうにお教えだという理解でよろしいでしょうか。

高橋和之明治大学法科大学院教授

○参考人(高橋和之君) はい、そのとおりです。

小西洋之民主党・新緑風会

○小西洋之君 ありがとうございました。  では、二つ目の質問、両先生に伺わせていただきます。  本日は、新しい人権についてそれぞれ、生まれ方として、立法による対応あるいは裁判所の判例、判決といったようなこと、基本的に私もこの新しい人権については、高橋先生あるいは両先生のお考えである、まずは立法府で、もうどうしても憲法を変えなければ国民を救うことができないと、国民を守り幸せにして救う立法ができないというところまで具体的に議論を整理して初めて発議者として主権者の国民の皆さんに新しい人権についての憲法改正をお願いする、それが本来の憲法の考え方、筋であるというふうに理解しております。  そこを踏まえさせていただいた上で、今、九十六条、改正の発議要件の議論がございますけど、これを二分の一に緩和するという議論がありますけれども、仮に二分の一に緩和した場合に、新しい人権をある意味発議しやすくなるわけでございますので、生みやすくなるというような考えもあろうかと思います。  ただ、一方で、先ほど両先生からお教えいただいたことは、例えば最高裁の判例でプライバシー権、肖像権等々の権利性が指摘されてきたあの経緯が、歴史があると。そうしたときに、仮に我々立法府の努力が足りなくて最高裁が新しい権利を認める、あるいは違憲であるというような判決を出した場合に、九十六条を緩和してしまいますと、全ての国政選挙において、その最高裁の判決あるいは違憲判決をひっくり返す憲法改正案が容易に提出できることに、発議できるように環境が整備されてしまうということになると思います。  つまり、伺いたいことは、新しい人権を国民のためにある意味整備といいますか育てていくことを考えたときに、この九十六条の緩和論というのは一体どのように考えたらいいのか。つまり、生みやすくもあり、かつ同時に殺しやすくもあるというふうに私は理解するのですが、いかがでしょうか。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 小西君、答弁時間に御配慮ください。

小西洋之民主党・新緑風会

○小西洋之君 はい、失礼いたしました。済みません。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 質問をまとめて。

小西洋之民主党・新緑風会

○小西洋之君 はい。最後、一言だけ。  私は、九十六条の改正論というのはプロセス論ではなくて憲法そのものを変質するものだと思っているんですけれども、両先生、お願いいたします。

土井真一京都大学大学院法学研究科教授

○参考人(土井真一君) 新しい人権に限ってお答えさせていただきますと、先ほど来、高橋参考人もおっしゃっておられますように、もしも憲法改正の発議の要件を過半数にするということは、基本的に法律の要件と同じにするということですので、それであれば、最初から法律で人権を保障すればそれで足りるというのが基本になろうと思います。  もしも憲法に書くとなると、今度はいろんな、国会議員の構成が変わったとしても逆に動かせないようにするために憲法に書き込むということに本来意味があるわけで、その意味からすると、過半数で変えられるということは逆に削除もしやすくなるわけですので、その点を考えると、新しい人権という面からは緩和するというのがいい方向だとは必ずしも私は思いません。

高橋和之明治大学法科大学院教授

○参考人(高橋和之君) ほとんど今の土井参考人の意見と同じなんですけれども、基本的には、新しい人権については、憲法の中に書き込む必要がある人権というのは何があるんだろうと考えると、今までの学説及び判例を前提にして考えると、ないんではないかと私自身は思っておりまして、じゃ、もう憲法の中に書くことは意味がないかというと、そうではない。憲法に書けば非常にシンボリックな意味があります。憲法に書いた以上は、その人権を具体化するために、立法府により強いその立法の責務が生じるだろうということがありますから、全く意味がないとは思いませんが、しかし、デメリットも非常に多いと感じております。人権のインフレ化に通じる、つまり、何でもかんでも書けばそれは法的効力を持たないよというような解釈も出てくるだろうと思いますから、そういう意味で、ですから、どういう新しい人権が必要かというと、憲法に今書かないとどうしてもうまくいかないというような人権はないんではないかなと。  それを前提にして、じゃ、九十六条で新しい人権を改正しやすくしたらどうかということでありますけれども、私の最初の話の中でありましたように、言っておきましたように、憲法改正というのは、皆さん立法者に独占されているわけであります。国民にとって必要だと国民が思っている人権を憲法の中に書こうとしても、皆さんにお願いする以外にないわけですね。そのときに、過半数になったらどんどん書き込んでくれるということが起こるかもしれないけれども、逆にまた、土井参考人が言われたように、政権が替わるごとにそれを抹消するということも起こるかもしれない。それでは憲法における重要な人権が安定化しないんではないかと、もう少しやはりプラグマティックに必要なものを厳密に詰めて、どうしても憲法で書く必要があったら書くと。そうなれば、それは三分の二賛成取るということがそんなに難しいことではないんじゃないかと私自身は思うんですけれども、そういう方向で考えていくのがいいのではないかなと現在のところは考えております。  以上です。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 次に、片山さつき君。

片山さつき自由民主党総務大臣政務官

○片山さつき君 ありがとうございます。  今日は、くしくも各委員の先生方から、我が党が昨年出しました日本国憲法改正草案について大変たくさんの御言及がございまして、中には党首級の方からもございまして、その中で、基本的人権を狭くしようとしているのではないかという誤解がおありになるのかなと思いましたので、私も起草委員の一人なので、そのことも踏まえて質問させていただきたいんですが。  まず、昨年四月に出しました自民党の憲法草案は、むしろ基本的人権について初めて前文でその尊重をしっかり入れております。ですから、全くその基本的人権が、もう侵すべきものでない永久の権利であるということをはっきりと認めた上でのことでございますが、ここから質問に入るんですけれども、両先生の御説明の中でも、基本的人権は、どこの国でもいつの時代でも全くその内容が、それがどこまで広がるものでどういうものかについて内容が普遍というわけではなくて、状況により変化があり得るというお話の御意見だったと理解をしております。  基本的人権という概念自体の普遍性はもう誰も否定するものではなく、我が自民党草案もそこをはっきりと書いておりますが、それが表れていく上で、今回私どもが議論をずっとした中で唱えておりますのは、国家の成り立ち、日本の歴史、それから日本の国民性ですとか社会状況、それから共同体意識、和をもって貴し云々とかいろいろございますが、そういった部分により、やはり日本国憲法として制定する以上、基本的人権のいろいろな、それが実際に細かく表れていく部分で変化があり得るのかと。我々はやはりそういったものの上に立って今があると思っているので、あらゆる表現、あらゆるものが全て普遍的な表現で、翻訳でなくてはいけないというふうには思わないんだという部分をしっかり言うためにこういった表現にしております。  ですから、前文においてリンカーン演説を引いた部分が、よく政治道徳の法則とか言われておりますが、それが普遍的な原則であるという文言はハッシーさんという担当者が書かれたところだというふうに言われておりますが、そういう部分を言うよりも、むしろ日本国としてどうなんだという部分を正面からとらえると。  そこのところもちょっと誤解されているんですが、西欧的な天賦人権説云々に一年前の発表のときの担当者が触れたものですからそこのところもやや誤解されているんですが、基本的人権の自身の普遍性について、何ら一切劣ることはない、欠けることはない、むしろ尊重するという部分はしっかりとした上で、じゃ、我が党の結党以来の党是が、日本国において、今の日本の政治において憲法を、新たに自主憲法を制定するということですから、それに照らしてどういう表現ぶりなのかということを考えて議論をしたということで、決して感情的な議論ではないというふうに考えておりますが。  両先生におかれて、国家の歴史ですとか社会性、国民性、共同体意識というものの日本的な特色というものが、最初にお触れになった状況による変化、状況によりバリエーションがあり得るというものの中に含まれているとお考えであるかということをまず質問させていただきたいと思います。  それから、第二点が、まさに公共の福祉……

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 答弁時間が十分に確保できないと思いますが。

片山さつき自由民主党総務大臣政務官

○片山さつき君 はい、済みません。  まず、公共の福祉についてなんですが、まさに高橋先生おっしゃったように、公益とした方がこれを実際にどういう場合に調整が行われるかについてはっきりと定義が厳密にしやすいということを我々も考えました。まさに、芦部教授の憲法を私も二年習いましたが、公共の福祉の判例に一番苦労すると御本人がおっしゃっておりまして、公益としてどういうものがあり、どういうものについて例えば調整が行われるべきなのであるかということが、この言葉の方がはっきりするという判断で、公益及び公の秩序という言葉を使っておりまして、これによって何か反国家的な行動を取り締まるといった部分を一切考えておりませんので、そこを御説明した上で、公共の福祉ではなくて公益及び公の秩序という表現を使うことについてはどう考えられるかを両先生にお伺いしたいと思います。  以上です。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 恐縮ですが、簡潔に御答弁いただければ幸いでございます。

土井真一京都大学大学院法学研究科教授

○参考人(土井真一君) 国家の、それぞれの国の歴史、状況によって基本的人権の具体的な保障の在り方が変わるかという一般論については、それはそのとおりだろうとは思います。ただ、基本的人権は、人が人として当然にということですので、基本的には人であればという原則があるわけで、そこの意味においての普遍性というのは大事だろうと思います。  それから、もう一点目については、公益、公の秩序、公共の福祉、いろいろあります。ただ、これはもう具体的にどういうふうに判断をしていくのか、これは違憲審査基準論ですとか利益衡量論ですとかいろんなものがあります。こういう具体論をしませんと、結局は言葉の遊びになってしまって、変えなくても同じ、変えても同じというようなことになりかねませんので、基本的にはどういう場合にどういうことをするのかという基本的な基準を考えていくのが大事だろうというふうに思っております。  以上です。

高橋和之明治大学法科大学院教授

○参考人(高橋和之君) 自民党さんが人権を守るつもりだとおっしゃっていることについては、私は疑いを持っているわけではありません。そのとおりだろうと思います。ただしかし、憲法を変えるという場合に、なぜこう変えるのか、変えた結果どうなるのかということの厳密な検討がないと、それについてどう思うかということはお答えすることが困難ではないかなと感じています。  二番目の質問に関連するんですけれども、公共の福祉というのを変えて、公益及び公の秩序ですか、そういうふうに変える趣旨は何なのか、それがはっきり分からないと、そのことによってどういう違いが出てくるのかがはっきり分からない。したがって、私も余り深く自民党案を勉強したわけじゃありませんけれども、私のざっと見た感じでは、そこのところの理由が人権の調整原理だけじゃないんだよと、そういう趣旨を明らかにするというふうに書いてありましたので、人権の調整原理という点についてはいろいろと学説上も議論されているんだけれども、しかしそのことは別に人権を制約する範囲を侵そうというようなことではないんだというふうに私は考えております。もし自民党の案がそれと同じ意味であるというのならば、なぜ公共の福祉を変えなきゃいけないのかなという最初の疑問に立ち戻るのかなと考えております。  以上です。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 次に、亀井亜紀子君。

亀井亜紀子みどりの風

○亀井亜紀子君 みどりの風の亀井亜紀子でございます。  両先生に二つ同じ質問をさせていただきます。先に質問だけ申し上げます。  一つ目は、土地の権利についてです。憲法上の人権というのは、国家と国民の間の人権の規定である、一方で公共の福祉という概念があるという御説明がありました。戦前の反省から日本の憲法解釈というのは、どちらかといえば個人の尊厳に重きを置かれてきたのではないかという御見解がありましたけれども、欧米は個人主義であります。けれども、その中で土地の権利については日本は少々強いのではないかというような感覚を私は持っておりまして、これがまた問題視されたのが東日本大震災のときであったと思います。つまり、その津波の被害に遭って危険であると、高台移転を進めたいけれども、やはり今のところに住み続けたいと、その人たちに動いていただくことができるのかどうかと。そういうような問題意識を持ちましたが、憲法改正をしないで今の現行上の解釈で、このような場合には公共の福祉が優先されるのですというか、ここまでが公共の福祉ですと言うことができるような何か方法がありますでしょうか。これが一点目です。  二点目は、これプライバシー権に関することですが、個人情報保護法です。私は、人権のインフレ化はやはり懸念をしております。個人情報保護法一本作っただけで過剰ではないかという反応が社会に、匿名社会になった部分があり、十分に例えば学校の連絡網が作れないとかそういういろいろな弊害が出てきて、その権利というのは保護されていると思うので、安易に憲法に書き込まない方がいいだろうと考えております。仮にプライバシー権を書き込んだときに、個人情報というのはそのプライバシーの一部ではないかと私などは思うので、どこまでがその憲法上保障するプライバシー権で、どこが違うのか、部分的にはもう法律でできているではないかというような混乱が起きるのではないかと思うのですけれども、いかがお考えでしょうか。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) それでは、土井参考人からよろしいですか。

土井真一京都大学大学院法学研究科教授

○参考人(土井真一君) まず、土地の問題でございます。  土地の問題に関しましては、憲法では二十九条の条文になります。特に二項、「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。」、それから「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。」というふうに規定しておりまして、憲法学におきましても財産権の保障についてはかなり立法裁量があるのだというふうに理解されるのが原則でございます。その意味では、思想、良心の自由ですとか表現の自由など、精神的自由とはやっぱり違うんだということで、その公共の利益、あるいは公共の福祉というのをどういうふうに考えるのかという問題であろうと思います。  高台移転の問題につきましては、結局誰のためにそれをするのかが問題でして、基本的に御本人のためにそれをするのだという話になったときに、御本人が嫌がっていることをどう考えるのかということが問題になるのが少し難しい点なんだろうと思いますが、必ず憲法改正をしないとできないのかというのは、それは最終的に最高裁に行ってみないと分かりませんけれども、一般論としては比較的立法者が適切に公共の福祉を判断すべき領域だと考えられていると思います。  それから、プライバシーの過剰保護の問題につきましては御指摘のとおりで、憲法に書き込むとしましても恐らく個人情報保護法のような詳細な規定は置けないんです。基本的には、プライバシーと書くのか、私生活上の自由と書くのか、いずれにせよ抽象的な文言しか用いられません。結局、それが何を意味するのかということについては判例を待たないといけないということになるのであれば、それはやはり最初に立法で内容を明確にして、国民的な合意が得られて、こういう内容であるねということが明らかになってから書き込んでいくというのが一つの方法だと、先ほども申し上げているのはそういう趣旨でございます。  以上です。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) それでは、高橋参考人、お願いします。

高橋和之明治大学法科大学院教授

○参考人(高橋和之君) 第一点目の方ですが、確かに日本は土地の権利が強過ぎるんじゃないかということがよく言われるんですけれども、憲法上、諸外国と比べて日本の財産権が強過ぎるということはないんだろうと思いますね。実際上、制限することについて、立法者がどの程度確信を持って憲法の許す範囲内でできるかということであり、今、土井参考人が言われたように、憲法の解釈としては、公共の福祉によって相当広い制限が可能だと考えられております。  ですから、憲法上の問題というよりは立法上どこまで踏み込んでやるのかという問題であり、やる覚悟があれば、場合によっては国家補償が必要な場合もあるでしょうけれども、相当程度できるだろうと思います。憲法を改正しないとそれができないということはないんではないかなと思っております。  二点目の個人情報の方ですけれども、これは確かに法律で既にもう保護されておりますから、この法律で不十分なところを直していくということをしばらくやって、その上で、このままだと将来、将来の多数派が後退させる危険が強いというふうに感じられるのならば、これは憲法に書いておくという意味がありますけれども、そうでないならば、あえて憲法に書く必要もないかなというのが私の感じであります。  以上です。

亀井亜紀子みどりの風

○亀井亜紀子君 以上です。ありがとうございました。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 次に、増子輝彦君。

増子輝彦民主党・新緑風会

○増子輝彦君 会長、ありがとうございます。民主党の増子輝彦でございます。  私は福島県選出の議員でございますけれども、御案内のとおり、一昨年の三月十一日の東日本大震災、そして東京電力第一原発の事故以来、早いものでもう二年二か月が経過をいたしました。いまだ福島県民十六万人近くの方々が県内外に避難生活を強いられております。特に子供が一万八千人近く避難をしているという状況を考えて、今、私ども、大変申し訳ないという気持ちと同時に、一日も早いこの原発災害から福島県を再生させること、そして東日本大震災の復旧復興に全力を挙げていかなければならないと思っているわけであります。  特に原発立地地域の双葉郡の地域の皆さんは、一瞬のうちにふるさとを追われ、人生が変わり、生活が変わってしまいました。仮設住宅での生活を強いられている、借り上げ住宅での生活に今苦しんでいるわけであります。家族はばらばらであります。いわゆる災害関連死でも多くの方々が尊い命を失っておられる。医療もままならない。子供の教育も本当に大変厳しい状況であります。  賠償という名の、今、特に原発立地地域の皆さんは、月十万円東電から賠償金をもらっている。この十万円が、実は人の心を傷つけながら、地域を分断しながら、様々な、実はある意味では迫害を受けているわけであります。それぞれ仮設住宅に住んでいると、その地域の皆さんから、おまえら十万円をもらってのうのうと生活をして何をしているんだと、仕事をしろと、そういうような状況で幾つかの大きなトラブルも発生していることも事実でございます。  こういう状況の中で、本当に、我が国の憲法十三条で実は保障されているこの基本的人権や幸福の追求権というものが本当にここで守られているのかどうか、これは、市町村長さんはもちろんのこと、この被災地の地域住民の皆さん、あるいは我々も真剣に今考えていかなければならない大事な私は視点だと思っているわけであります。  そういう状況の中で、両先生に今日はおいでいただきました。せっかくの機会ですので両先生にお尋ねしたいと思いますが、こういうほかの災害とは全く違う、原発事故による災害における被災者の皆さんの基本的人権、あるいはそれぞれ人権が尊重されながら、幸福権をどういう形の中で回復していくのかどうか、ここのところが私は今国に与えられている大変重要な問題であり課題だと思っているわけであります。  そういう意味で、原発事故、国のエネルギー政策の中で東京電力の事故起きましたから、東電にももちろん責任あります。今後、場合によってはほかの電気事業者の原発でも事故が起きるかもしれない。起こらないことを私ども願っています。そして、日本が今、安倍総理が積極的に海外に原発を輸出しているというこの動き、福島の原発が完全に収束していない中で本当に海外に原発を輸出するということがいいのかどうか。これらの問題、我々に深く考えていかなければいけない様々な課題を与えているわけであります。  風化が心配であります。霞が関も永田町もやっぱり風化していることは否定できない事実だと思っております。私ども、是非この問題について今後ともしっかりと国会の中でも発言をしながら、様々な形の中で国会の皆さんの御協力もいただきながら、一日も早いこの原発災害からの復興再生をしていかなければいけないと思っています。  そういう状況の中で、被災者における、今回のような原発事故の被災者のような方々に対する基本的な人権、あるいは幸福権というものが今、両先生がどのような形で御覧になっているかということが第一点。第二点として、今後、こういう原発事故のような場合の問題について新しい人権とか幸福の権利というものについて何らかの形で書き加えていくことが必要かどうか。こういったことにつきましてお二人の先生の御見解を伺えれば有り難いと思います。よろしくお願いいたします。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 高橋参考人からお願いします。

高橋和之明治大学法科大学院教授

○参考人(高橋和之君) おっしゃることの意味は分かるんですけれども、何が憲法論かということがちょっと私の頭の中で整理付かないでいるんですけれども、原発による被害をどう救済するか、これは幸福追求権に反するんではないかと言われると、政治論としては全くそのとおりだと思いますね。でも、それを救済するという場合には、これは自由権の侵害があるということではありませんから、法律によって具体化する以外に国としては動きようがないんじゃないかなと思います。  ですから、皆さんがまず法律を作って、どういうふうに救済するか、それをやっていただくということではないかなと思います。これを憲法で解決しようとしても、それは理論的には、幸福追求権というのは抽象的な権利であって、具体化が必要でありますから、その具体化を解釈で、憲法の解釈でやるというのは、現状ではまだなかなかそこまで煮詰まっていないんではないかなという印象を受けました。  以上ですが。

土井真一京都大学大学院法学研究科教授

○参考人(土井真一君) 被災者の皆さん方が置かれている厳しい状況は分かりますし、それをきちっと救済をし、あるいは元の生活に戻っていただくというように尽力すべきだというのはそのとおりだろうと思います。  それを憲法上どう位置付けるかなんですが、先ほど少し申し上げましたように、憲法の中、幾つかの類型がございます。一つは、みんなで協力する際に、やっぱり協力なんだから、私らしい、それが奪われてはいけないという、これが自由権だという話です。もう一つは、みんなで協力するんだから、その協力した利益をみんながちゃんと分かち合わないといけませんねという、そういう権利、これが社会権、生存権であると。今恐らく御質問になったのは後者の権利なんですね。ある人たちに対して災害で犠牲が生じていると、それをみんなで協力しているんだから何とかしてあげないといかぬのじゃないかと、助け合うというのが大事だろうという、そこにかかわってくるんだと思うんです。  この種の権利を基本的に憲法に書き込んで裁判所で実現するというのは非常に困難なんです。やっぱり共同の利益をどういうふうに確保して分配するかということは、これは国民の代表者が基本的に考えるべきことで、なので、生存権という規定が二十五条にはあるんですけれども、この実現の最大の担い手はやはり国会なんだという説明をしていることになるわけです。  その考え方からすると、福島の方々が苦しんでおられるのはその生存権にかかわるような部分で、人としてやっぱり最低限度の生き方をちゃんとできるような条件を整えてくれというところですので、この二十五条の趣旨を最大限生かして、やはり国会において法律上の措置、予算上の措置ということを二十五条の要請だとして実現していかれるというのは、やはり憲法の上では基本なのじゃないかというふうに思っております。  以上です。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 磯崎仁彦君。

磯崎仁彦自由民主党

○磯崎仁彦君 ありがとうございます。  両参考人から非常に貴重な御意見を賜りまして参考になりました。ありがとうございました。  私からは、両参考人に同じ質問をさせていただきたいと思います。  まず一点目は、先ほど福島委員の方から私どもの憲法改正草案の国民の憲法尊重義務について質問があって、高橋参考人からお話をいただいたかと思いますが、私どもはやはり、国民は主権者であり憲法制定権者ということでございますので、当然のことながら憲法尊重義務を持っているというふうに思っております。そして、この新しい憲法の中でも、一般国民と、公務員はその憲法を尊重し更に擁護をする義務ということで、全く同じということではなくて、何か公務員の場合には規定が守られない事態に対しては積極的にそれに対抗するということで、一歩進んだ憲法尊重、擁護ということまでの義務と、レベルを分けて規定をしているということでございますので、こういう規定も含めてどのようなお考えなのかということをまずお伺いをしたいと思います。  そして、二点目は、新しい人権を憲法に書き加えるということにつきましては先ほど来の議論の中でも賛否両論あるというふうに思いますけれども、例えばその規定をするというふうになった場合に、例えば、今回、私どもの憲法改正草案でも、国政上の行為についてということについては国が説明をする義務ということで、国の義務ということで規定をしております。ただ、他方では知る権利ということで、国民の権利の側から規定することも可能だと思います。  もう一つ例を申し上げますと、例えば環境という、環境権につきましても、良好な環境を享受する権利という権利側から規定する場合と、国がそういうものを保持する義務ということで、権利と義務の両面からの規定というのは可能かと思いますけれども、これは例えば規定の仕方によって何か法的救済の仕方が変わるのか、このことについて両参考人に御意見を賜りたいというふうに思います。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 土井参考人からお願いしてよろしいですか。

磯崎仁彦自由民主党

○磯崎仁彦君 はい。

土井真一京都大学大学院法学研究科教授

○参考人(土井真一君) まず最初に、憲法尊重義務の問題でございます。  私は、憲法の名あて人の中に国民が理念的には入ると申し上げました。ただ、その拘束の仕方がやはり違うんです。というのは、国民に対して課されている拘束は実は自己拘束なんですね。自らが憲法を定めているわけですから、自らがそれに拘束されながら自らが決めた価値を守っていこうというのであって、自己拘束なんです。それに対して、その他の政府の代理人たちは、それは主人から命じられた拘束なわけです。ここの違いというのはやはり明確にしていく必要があるのだろうというふうに思います。  特に、個人の尊重について私が特段申し上げましたのは、実は憲法は、九十九条の方には書いていないんですが、十二条の方で権利の濫用はしてはいけないとか、そういう規定はあるんですね。それは先ほど申し上げた種類の違いから来る規定の仕方を変えているということですので、その点はやっぱり十分配慮が必要なんじゃないかと思います。  それから、権利と義務についてどちらがどうかということですが、やはり権利も理念的に用いる場合があるんですけれども、権利という以上は最終的には個々人が行使できないといけないというのがやはり原則だろうと思います。その意味では、最終的に個人にこういう権利主張を認めるのだということを想定されるのであればやはり権利という形ですし、それに対して、個々人がどうこうというよりは国民全体としてこういう価値を守っていくんだというような規定の仕方を中心にするのであれば国家としての責務規定という方向に行くのだろうと思います。  環境なんかはどちらの面もあるのは確かで、特に環境の場合難しいのは、今生きている人たちだけの幸せではなくて、むしろ将来の世代の利益の問題になるので、その将来の世代に関する利益の問題を権利化する方がいいのか、それとも責務規定化するのがいいのか、その辺は議論のあるところだろうと思っております。  以上です。

高橋和之明治大学法科大学院教授

○参考人(高橋和之君) 第一点の国民の憲法尊重義務というのを入れるのはどう考えるかということでありますけれども、これを入れることによってどういう法的効果を生み出そうとされているのかということを知りたいという感じがいたします。それが分かれば私の考え方もより鮮明になるかなと思っていますけれども。  例えば、国民が憲法を守らないというような場合には何かサンクションを付けるべきだというようなことをお考えなのか。あるいは、そうではなくて、全く単純に、何といいますかね、掛け声的なシンボリックな意味で国民には憲法を尊重する義務があるんだよというだけのことなのか。後者ならばそれを入れるということはどれだけ意味を持つのかなと。むしろ、立憲主義の原理をきちっと憲法の中に書き込んでおいた方が、より国民に対する憲法とは何かということを理解してもらうためにいいんではないかなという感じを持ちます。もし、その国民の尊重義務を入れたことによって、国民に対して、だから憲法を守りなさいということを国家の側が言うとしたら、憲法は本来国家に対して憲法に従って権力を行使してくださいというものであったということが見えなくなってくるんではないかなという危惧を持ちます。  それから、新しい人権を権利というよりは責務という形で書き込むこともあるんではないかということでありますけれども、それは、そういう書き方は当然あり得ると思うんですけれども、責務と書くということは国民に権利を認めないという意味だろうと思うんですね。国民の権利を保障する中で権利ではないものをどんどん書いていくということは、やはり国民の権利、人権というものの意味を、何といいますか、希釈化させていくことにつながる危険がないだろうか。むしろ、責務ということで国家の将来の方針を憲法の中に書き込みたいということだったら、前文でお書きになった方が無難ではないかなというふうに私は感じます。  以上です。

磯崎仁彦自由民主党

○磯崎仁彦君 ありがとうございました。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 江田五月君。

江田五月民主党・新緑風会

○江田五月君 今日は、お二人の先生方、ありがとうございました。  私は今、この審査会の固定メンバーじゃなくて、今日は代打でやってまいりましたが、お二人の御意見と同僚議員の議論を聞いておりまして若干問題提起をしたいと思います。  お二人の先生方のお話は大賛成というよりも、むしろいろいろ触発されて、改めて憲法の重要性というのを確認をしているところです。  立憲主義と基本的人権ということなんですが、ちょっとお話もございましたが、立憲主義が古くなっているんではないかというような議論もあります。あるいは、基本的人権がインフレ化しているんではないかという議論もございます。  立憲主義というのは、言うまでもなく、公権力というものの正統性、これは主権者に由来するので、そのことを明確にして、そして、主権者は基本的人権というものがあって、公権力といえどもこれを制約することはできないんだと。そこへ一定の限界を設けて主権者の手を縛るものである、こういう構造だと。この構造に関する限りは立憲主義も基本的人権も何らこれは古くなっているわけじゃなくて、むしろこれからも大事にしていかなければならないことだと思うんですが、そして、その意味で、十三条の個人というのは、これは多様性があると。幸福追求の幸福は誰かに押し付けられるものではないと。自分がこれが幸福だということを決める権利をそれぞれの個人が持つんだと。重要なことだと思うんですが。  もう一つ、今のような原則というのは、現代という時代を横に切って、そして公権力と個人との関係というものをいろいろ考えてみた場合にそういうことになると。そして同時に、私どもは過去からつながって現在があって未来があるわけです。現代というのは過去の結果として今いるわけで、これを私たちは受け止めざるを得ない現代というのがある。しかし、未来は、これは様々な選択が広がっているわけですから、その選択のうちに、こういうことは守っていかなきゃいけませんよ、こういう未来をつくっちゃいけませんよと、そういうような切り口が一つあるのではないかと。  という意味では、先ほどちょっと土井先生がおっしゃいましたが、例えば環境権というのは、現在の国民が持っている環境に対する権利ということを超えて、未来の世代がしっかり、美しい環境、健やかな環境の下で生活する、そういう権利を未来に対して保障していかなきゃいけない。その意味では、現在の公権力にしてもあるいは現在の国民にしても、未来に対して責任を負っているというような切り口というのはあるんではないかと。  というわけで、立憲主義、基本的人権にもう一つ憲法のその辺りの軸を考えて、未来に対する共同の責務というとらえ方ができないかと。実は私たちの憲法提言というものを二〇〇五年にまとめましたが、その中では共同の責務という項をまとめておりまして、あのこと、このこと、新しい人権がいっぱい出てくる、それを一つ一つ拾い集めて新しい人権とやるよりも、もうちょっと構造的な考察ができるんではないかと。  環境権もそうですし、それから、例えば先端科学技術、まあ核エネルギーもありました、あるいは生命倫理もあります、こうしたこともあるかもしれません。子供というものもあると思います。日本国憲法ができるときに子供のことはちょっと間に合わなくて、そして将来作るからというので児童憲章を作った。ところが、児童憲章は法的な性格を持っていないというようなことがあります。こういう限界もあるので、将来の国民のことを考えれば子供。あるいは会社、CSR、企業の社会的責任、こんなものもあるかもしれません。  そうしたような切り口、新しい切り口でこの立憲主義と基本的人権のところをもう一度整理し直すことは考えられないかと。問題提起、プロボカティブな提起です。ひとつお考えをお二人に聞きます。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) それでは、どちらからお願いしましょうか。土井先生、よろしいですか。

土井真一京都大学大学院法学研究科教授

○参考人(土井真一君) 先ほど私、将来の世代の問題を申し上げましたので、それとの関係で説明をさせていただきますが、この問題、必ずしも人権の問題なのか、それとも国家責務の問題なのか、そこは整理して議論しないといけませんので、少し一般論として申し上げますと、憲法の中には「われらとわれらの子孫」、「現在及び将来の国民」という言い方が出ていまして、やっぱり将来に対する責任ということを意識しているわけです。  現代の民主主義における一つの大きな理論上の問題は、選挙を通じて現在の国民の利益というのは反映されるんだけれども、将来の世代の利益というのをどのように反映させていくのかというのはとても難しい問題でして、一つは環境の問題もそうですし、エネルギーの問題もそうですし、財政赤字の問題もそうですし、いろんな問題がそういう構造を持っているんです。それを憲法の中に書き込むことによって、将来に対しての目標を明確にして、現在の選挙の結果というのとはまた独立にそういう利益を考慮していくんだということを明確にするというのは、それは一つの考え方でありまして、それを人権として書くのか責務として書くのかは別として、いろんな在り方はあると思います。  ただ、これも憲法に書くのはやっぱり大事だから書きたいという話になるんです。しかし同時に、大事だからいろんなものを入れてしまうと、今度は大事だということが揺らいでしまうので、やっぱり国民の中でこれは絶対に将来の世代にとっても重要なんだというのをよくよく議論をして、それで入れていくということが大事なんだろうと、それがやっぱり立憲主義にとって重要であるというふうに考えております。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) 高橋参考人、お願いいたします。

高橋和之明治大学法科大学院教授

○参考人(高橋和之君) 切り口として、未来に対する共同の責務という切り口があるのではないかということでありました。それはそのとおりで、私も賛成でありますけれども、そのときに、これもやはり責務の方から見るのか権利の方から見るのか。権利を保障しても、それは未来に対して保障するということを持っています、現在だけではなくてですね。ですから、未来にとっても重要な権利として保障するという書き方があると思います。  私自身は、どちらかといえば、やはり責務と考えるよりは権利の方からアプローチする方がいいのではないかという感じを持っておりますけれども、人権論の構造と関連させて言うと、人権論というのはやはり人権と公共の福祉の調整ということでありますから、未来に対する責務というのは、人権の側の問題よりは公共の福祉の側の問題として位置付けて議論した方がいいと。現在においても未来を考える必要がある、未来に対する責務としてですね、それをやっていく論理は、公共の福祉によって現在の人権を制限することがどこまで許されるかという問題だろうと思います。  したがって、切り口として面白いとは思いますけれども、それを現在の人権論が位置付けることが困難だというふうには思っておりませんで、現在の人権論の構造の中でそういう未来に対する責務というものを公共の福祉の中に織り込んでいくということが可能ではないかなと感じております。  以上です。

江田五月民主党・新緑風会

○江田五月君 ありがとうございました。

小坂憲次自由民主党

○会長(小坂憲次君) ありがとうございました。  追加の御質問はありませんか。──それでは、以上で質疑を終了いたします。  この際、一言申し上げます。  本日は、高橋参考人、土井参考人におかれましては、貴重な御意見をいただきまして、誠にありがとうございました。審査会を代表いたしまして心から御礼申し上げます。(拍手)  本日の調査はこの程度にとどめ、これにて散会いたします。    午後三時二十一分散会

国会会議録検索システムで原文を見る ↗