青少年問題に関する特別委員会 第3号
- 発言数
- 106 件
- 登壇者
- 12 名
- 会派数
- 5
- 開催日
- 2006/11/16
会議録
○小宮山委員長 これより会議を開きます。 理事補欠選任の件についてお諮りいたします。 委員の異動に伴い、現在理事が一名欠員となっております。その補欠選任につきましては、先例により、委員長が指名することに御異議ありませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○小宮山委員長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。 それでは、理事に田嶋要さんを指名いたします。 ————◇—————
○小宮山委員長 青少年問題に関する件、特にいじめ問題について調査を進めます。 お諮りいたします。 本件調査のため、本日、参考人として横浜市立末吉小学校校長森徹さん、東京大学社会科学研究所助教授本田由紀さん、特定非営利活動法人チャイルドライン支援センター代表理事清川輝基さん及び子ども相談室「モモの部屋」主宰・心理カウンセラー内田良子さんの出席を求め、意見を聴取いたしたいと存じますが、御異議ありませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○小宮山委員長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。 —————————————
○小宮山委員長 参考人の皆様に一言ごあいさつを申し上げます。 本日は、御多用中のところ本委員会に御出席いただきまして、本当にありがとうございます。参考人の皆様には、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただきたいと存じます。どうぞよろしくお願い申し上げます。 次に、議事の順序について申し上げます。 まず、参考人の皆様からお一人十分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答えいただきたいと思います。 念のため申し上げますが、御発言の際はその都度委員長の許可を得て御発言くださいますようお願いいたします。また、参考人から委員に対して質疑をすることはできないことになっておりますので、御了承ください。 それでは、まず森参考人、お願いいたします。
○森参考人 皆様おはようございます。 時間が、私には九時十分までということを聞いておりますので、その時間を守りたいと思います。学校でも、時間を守る先生は好かれます。特に四時間目、給食の前の時間を守る先生は特に好まれますとお伝えしておきます。 私は、ここで学校現場での状況をお伝えすることが役目かと思っております。校長になって十一年目になりますが、校長になってから、毎朝、校門のところに立って子供たちを迎えております。手のひらを出して、子供が手のひらをタッチして迎えることを続けてまいりました。最近は安全確保で立っている校長さんもいらっしゃるようですが、私は、そのために立っているのではなく、子供の心をつかむために毎朝立っております。 子供の心は顔にあらわれます。態度にあらわれます。生き生きとあいさつできる子供は、いじめに遭っているとは思えません。また、そういうこともございません。目がそれてしまう子供、あるいは友達が変わってしまう子供、きのうまで集団で登校していたのにきょうは一人で登校している子供、そういう子供をまず校門のところで見つけることができます。 こういう子もおります。タッチをするときに、手の甲で、裏側で私の手のひらにタッチした子がおりました。むっといたしました。普通はこうやってやるものです。わけを聞いてみますと、雨の日でしたので、傘を丸めていたら手が濡れたので、校長先生の手が濡れるといけないといって、手のひらでなく手の甲でタッチしてくれたということでした。 こういうすてきな子供は全国にたくさんいると思います。本校にもたくさんおります。こういう子供がいる限りは、いじめをしているとは思えません。もしかしたらいじめられているかもしれません。そういう子供の生活をしっかり守らなきゃならないという気持ちは、日々新たにしております。 また、学校の先生の中にも、こういう先生がいらっしゃいます。 教育委員会の主催の研修に出かける際に、私と職員室に二人でいましたら、小さい子供が泣きながら駆け込んできました。もう出かけないと間に合いません。教育委員会の叱責が目に見えております。しかし、その先生は、子供の前にしゃがみ込んで、じっとその子供の顔を見詰めて、その子が何か言い出すまで待っています。私は思いました。今出ないと教育委員会からしかられるぞと。しかし、その先生は構わず子供をじっと見詰め、とうとうその子供が、異年齢集団活動でほかの教室へ動くのにどこへ行ったらいいかわからないので尋ねに来たということを教えてくれました。その先生は、自分のクラスでもないのに、その子供の心をじっとつかんでは聞いていったわけです、ひざをかがめて、子供の目線に立って。 こういう先生がいらっしゃれば、子供のいじめの問題、訴える子供の心はつかめると思います。これはほんの二例ですが、こういうことは各学校にたくさんございます。どちらかというと、今、新聞報道、テレビ報道でいじめが大きく言われておりますが、各学校、たくさんこういう先生がいらっしゃるということをまず忘れてはならない。現場の代表として、自分たちをかばっているようではありますが、そのことを踏まえて、ではいじめの問題にどう対応したらいいのか、こういう姿勢を私は持っているつもりでおります。 時間が限られておりますので、少し早口で聞きづらいかと思いますが、御容赦ください。 私は、早期発見が大切と思っています。これは皆さんがおっしゃるとおりです。私も朝見ておりますが、担任は教室で、子供の顔つき、表情、体調等を見取っていると思います。早く教室に行って子供を迎える先生、ぎりぎりに教室に駆けつける先生、さまざまございますが、そのときに、子供の様子を見取れる感性が教員には必要だと思っておりますし、私は、そういうことが見取れる教員を信用しております。 基本的には、一人一人の担任がどういうふうに見取るかということが基本になりますけれども、システムとしては、学級で、朝に健康観察というのがございます。それから、養護教諭が欠席一覧表を私のところに提出してまいります。全校の欠席一覧です。三日続いた場合、私は養護教諭と担任と相談するようにしております。こういうことは多いようです。三日休みが続く場合には、重い病気にかかったり、はしかにかかったりしますが、事情が不明で三日続いた場合には何かそこに要素があります。 それから、週一回には、学年研究会といいまして、一年から六年、個別級も含めて研究会を開き、子供の情報を交換しております。それから、月一度の職員会議、そこでも子供の情報を交換しております。臨時の指導委員会もございます。 定期的なものはそのようなものですが、これ以外にも、個人面談等用意しながら保護者の願いを聞くようにしておりますが、個人面談でいじめが出てくるようではもう間に合わないと私は思っております。 対応についてはいろいろあります。即対応が望まれますが、対象となる子供への指導ですが、ここが教師の力量を問われるところだと思っております。みんなと一緒に考えた方がいいのか、あるいは、みんなに気づかれないうちに動いて対象となる子供と考えた方がいいのか、そこの分かれ目をきちっと見きわめることが大事だと思います。正当に、正道をつかんでいるつもりでかかわっていっても、ここで下手なかかわりをすると、火に油を注ぐようなこじれたものとなります。先生の前でしかられた子供は、先生の見えないところでもっと陰惨ないじめをすることがございます。ここの、どういうかかわり方をするか、学校の中で、職員体制の相談の上でかかわっていくことがとても大事だなということを実感しております。 それから大事なのは、休み時間を教員がどう把握しているか、子供の動きをどう把握しているかということです。授業中は教師が必ず目を見張っておりますから、子供の言動はある程度つかむことができますが、休み時間は休息時間に入ったりします。あるいは、保護者との連絡、対外的な連絡に入ります。そのときに、子供がどう過ごしているのか、ひとりぽっちの子供はいないんだろうか。 あるとき、一定期間、子供たちの休み時間の動きを調査させたことがあります。だれと、どこで、何をしていたか、昼休み、中休み。放課後はこのごろありません、できるだけ早く帰りますから、安全の関係で。そうすると、子供が一人で過ごしていることを発見することができます。靴隠し、いじめ等に関する、子供が一人で過ごす、あるいは特定の子供とのみ過ごす、こういうことが調査されますと、担任はその子供へのかかわりをやっていきます。いじめている子供を叱責するのが目的ではありません。そのことを材料として、子供たちの学級における、あるいは学年における、全校における人間関係を改善していくことが目的であります。そのことを資料としながら進めております。 あと二つほどお話しする内容を用意してきたのでありますが、時間が来てしまいました。また御質問等があれば、つけ加えて報告したいと思います。 以上をもちまして、私からの報告にいたします。失礼しました。(拍手)
○小宮山委員長 ありがとうございました。 次に、本田参考人にお願いいたします。
○本田参考人 きょうは、お招きいただきましてありがとうございます。本田です。 私は、直接いじめを対象にしてこれまで研究を続けてきたというわけではないのですけれども、専門としまして、フリーターとか無業者の実態、あるいは若者、高校生や中学生などの学校に対する適応などに関してさまざまな意識調査をこれまで行ってまいりましたので、その中からいじめについてこれまで考えてまいりましたことをきょうはお話ししたいと思います。 お手元にA4のレジュメをお配りしてありますので、そちらに従ってお話ししたいと思います。 まず、いじめについて、昨今のいじめ自殺に関するマスコミ報道などを見ておりましても、本当に相変わらずだなと思う議論があります。 それは、精神論あるいは努力目標によって今のいじめ問題に対応しようとする、そういう議論です。例えば子供に対して、いじめる子には、仲よくしようとか、優しくしようとか、人を理解しようとかいうような呼びかけがなされる。あるいは、いじめを傍観して放置する子供に対しては、とめようとか、勇気を持とうとかいうことが言われる。また、いじめられる子に対しては、強くなっていじめをはね返そうというような呼びかけもなされる。あるいは、教師あるいは親に対して、いじめが今出現していることのサインに気づこうというような呼びかけもなされます。 ちなみに、私は、きょうレジュメをつくってまいりましたのですけれども、実は、ほかの森先生ですとか清川先生、内田様のこれまでの御活動にちょっと反論するような内容のものになってしまっていたなと、ぎくりとしまして、ちょっとどきどきしているところなんですけれども、それを全否定するわけでは全くないのですが、それ以外に取り組みとして考えられるべきことがあるのではないかという意味でお話ししております。 もちろん、先ほど森先生がおっしゃったように、教師の方々に対して、早期発見が重要である、サインに気づこうというようなことは大変重要だと思うのですけれども、足早な教育改革の中で多忙をきわめていらっしゃる先生に、休息時間まで返上して子供の実態を把握しろということはかなり無理があるのではないかというふうに考えております。 あるいは、いじめを傍観する子、いじめられる子、あるいは教師、そして親に、サインに気づけ、強くなれ、勇気を持てというふうに言うことは、むしろ、それがいじめ問題として噴出したときに、彼らに対して強い罪責感とか自責感として、プレッシャーとなってあらわれるのではないかということを危惧しております。つまり、そういう頑張ろう的な、そういうスローガンで解決できる問題ではないのではないかということが私が第一番目に申し上げたいことです。 二番目が、一定の有効性はあるとしても、いじめが生み出され続けることを前提とした上でそれを後追い的に対処するような、びほう的に対処するような、そういう議論というものが幾つかあります。例えば、暴力や金銭の要求なども犯罪に近いものに対しては警察の介入をどんどん進めるとか、あるいは、いじめが生じた場合には転校などを容易にする。そしてまた、ホットライン、スクールカウンセラーなどの相談窓口を設ける。 またここで、これから登場されるお二人、内田様、清川様について何か文句を申し上げるようなことになってしまうのですけれども、それは本当に済みません。意味がないと言っているわけでは全くないのです。それが起こった後の対処というようなものは重要なのですけれども、もっと起こる前に、いじめというものが次々と生み出され続けるような学校の仕組みを放置しておいた上で起こった後にどうするかという議論では、やはり欠陥があるのではないかというふうに思うわけです。 私のレジュメの三番目のところになりますけれども、ではどうすることが重要であるかと私が考えているかと申しますと、つまり、いじめを生み出すような環境要因というものが今の学校ないし学級の中には埋め込まれている、それを排除したり緩和したりするということがまず必要なのではないかと思っております。それはつまり、学校や学級の構造的な特性の変革です。端的に申しますと、クラスで同じメンバーの中に閉じ込められて、ひたすら個別に、試験に出ると言われている問題を解き続ける、そういった非常にストレスフルな環境の構造そのものを変えていく必要があるのではないかと思っております。 ここでちょっと思い起こしていただきたいのは、例えば大学生の中でのいじめというものは実は非常に少ないということを皆さん思い起こしていただきたいのです。これは、大学生になると年齢が高くなって大人になるからいじめが少ないということでは説明できません。なぜかといいますと、大学生の中でも、例えば運動部だの体育会系的な、閉じ込められて結構圧迫的な環境の中で過ごす場合にはいじめが生じる。あるいは、大学生よりもさらに年長の、職場においてかなりいじめというものが、ハラスメント的なものが非常にたくさん生じているということを考えますと、大人になったから大学生の間ではいじめが少ないというふうには考えられない。つまり、大学生が日常的に暮らしている大学生活の構造の中にいじめを生み出しにくい要因があるのではないかと考えられます。 その大学生に見出されるようないじめを生み出しにくい環境といいますものが、そこで一から五まで列挙しているような流動性や異質性、開放性、協働性、有意味性などになってくるかと思います。 順番にお話し申し上げますと、第一に重要なのは、人間関係が非常に固定的で、同じメンバーでずっと暮らさなければならないような学校生活を、いろいろな人と流動的にかかわることができるような構造にしていくことがいじめの排除に有効ではないかと思われます。そこにより具体的に書いてありますけれども、例えば混合クラスの授業をふやすなど、生徒が日常的に接する相手が時間時間によって異なってくるような、同じ関係の中に閉じ込められないような設計というものが必要ではないかと思っております。 第二点目として、構成員の均質性をより異質なものにしていくということが重要だと思っております。 例としては、縦割りホームルームなどは既に多くの学校で導入されているかと思いますけれども、そういうものも一つ例としまして、例えば生徒の中に、障害を持つ子供や外国からの留学生、さらには年長者、今、夜間中学で学んでいらっしゃるような年長の方、あるいは御老人の方に、日中にやっていらっしゃる通常の中学校に来ていただくとか、そういう異質な他者にできる限り入ってきてもらうようにして、均質なメンバーの中で本当に微妙な違いによっていじめが生じるような現状を、明らかな差異というものがメンバーの中に生まれることによって除外していくようにできないかと思っております。 今のいじめというのは、例えば、ちょっと人間関係がまずいとかちょっと暗いとか、あるいは身体的な特徴が、ちょっと背が小さいとか太っているとか、そういうことでいじめが生じがちなのですけれども、そこに明らかな差異を持っている人が入ってきた場合に、そういうちょっとした差異というのは余り目立たなくなります。そういう功利的な発想から異質な方に入ってきていただくというのも失礼な話かもしれませんけれども、学校の中の雰囲気を全体として開放的で風通しがよいものにするためには、いろいろな方に生徒の中にまじり込んできていただくということが重要だと思います。例えば、そこにも書いてありますとおり、学校に老人ホームや保育所などを併設して、できるだけかかわり合う時間をつくるというようなことも重要だと思います。 第三点目というのは、これは一点目と二点目に非常にかかわりが深いのですけれども、学校が学校の門の中で閉じられているような状態をできるだけ開放的なものにしていくということが大事だと思います。これは、安全性ということを考えると幾つか工夫は必要だと思いますけれども、保護者や地域の人々が授業や部活動にできるだけ多く参加してくださることによって人間関係の流動性や異質性というものを高めていくということが必要だと思います。 一、二、三点は人間関係という点に重点を置いておりますけれども、次の四点目、五点目は彼らが日ごろ取り組んでいる課業、タスク、やれと言われていることの内容を変えていくということに関係してきます。 課業の個別性を協働的なものに変えていくといいますのは、最近の小中高等学校の中に入ってみますと、例えば総合的な学習の時間などでは、いろいろ体験してみたりとか、ある特定のテーマを追求するようなこともなされているのですけれども、それ以外の授業では、やはり個別の机に座って、前を向いて先生の黒板に書いたものを自分で書き取るあるいは問題を解くというような個別のタスクというのが大半を占めております。そういうものを、もっとチームで特定の目標やテーマを達成していくような機会を多く取り入れることによって、仲よくしようとか、そういうスローガンでは達成されないような、自然な協力とか他者に対する共感というものが養われるようなチャンスを多くつくっていくことが必要かと思います。 その際には、目標やテーマというものをできるだけリアルなものにしていくために、地域の課題の解決など、本当にその追求は役に立っているんだという実感を生徒が持ってもらえるようなものにしていくことが重要ではないかと思います。あるいは、教え合い、ちょっと勉強が、例えば分数の割り算についてわかっていない子に対してほかの子が教えてあげる、そういう関係もこの点では役立つかと思います。 第五点目が、実は私が考えるところの最も重要なことなのですけれども、教育内容の無意味性、イレリバンスというふうに英語で表記できますけれども、それをできるだけ有意味なものに変えていくということが、実は非常に難しいのではありますけれども、今の子供たちの学校生活を変えていく点でとても重要だと私は認識しております。 つまり、子供の現在や将来の生活にどのような関連があるのかわからないような非常に抽象的で記号操作的な教育学習内容ではなく、なぜこれを学ばなければならないのか、それがどう自分の生活に関連してくるのかということがわかりやすい教育内容にすることによって、生徒のストレスを弱め、学習への意欲を喚起し、いじめに目が向かないようにしていくということが重要ではないかと考えております。 済みません。時間ぎりぎりになりまして申しわけありません。以上です。(拍手)
○小宮山委員長 ありがとうございました。 次に、清川参考人、お願いいたします。
○清川参考人 清川です。 こういう機会をお与えいただいたことに、小宮山委員長、委員の皆様にまず感謝を申し上げたいと思います。 私は、今日本の子供たちが、単にいじめにとどまらず、極めて育ちにくい、友達を殺したり親を焼き殺したり、あるいはみずから命を絶ったり、さまざまな困難に直面しているわけですね。そのトータルな子供の育ちの困難さ、そこの問題について三つの点を申し上げてみたいというふうに考えています。 まず第一点は、私が代表理事をしているチャイルドラインという、子供たちの悩み、寂しさ、苦しさを秘密を守りながら電話で受けとめるという社会システムの有効性についてです。 これは実は、一九九九年からこの国で今普及をしています。もっと、ヨーロッパなんかではずっと前からこの社会システムが普及してきました。それは、電話の普及ということが、子供が自由に電話を使えるということと同時に、実は、子供たちが近所のお兄ちゃん、お姉ちゃん、じいちゃん、ばあちゃんにいろんな悩みを話す、そういう地域社会が、これは西欧社会も含めて、日本でも崩壊をした。その中でやはり悩みを素直に表現できない、そういう地域社会が進行する中で、電話という手段を使って、本音で語る相手、心の居場所というものが必要になるということで、私どもチャイルドライン支援センターは九九年から活動をしてきました。現在、全国三十四都道府県の六十四カ所で子供たちの声を受けとめています。昨年度は十二万二千件の子供たちが悩みを私たちに寄せてくれました。 私は、一九七九年、世界児童年にNHK特集「何が子どもを死に追いやるのか」という番組をつくりました。そのときに、自殺未遂をした子供、自殺をした子供たちの徹底的な調査をやりました。そして、自殺未遂をしてまだこの世に踏みとどまっている子供たちが一体だれにつながって踏みとどまったのかというのを全員で調査した結果、教師、親と答えた子供は一人もいません。つまり、先輩や友人、異性の友達、そしていとこ、はとこ、大おじというような遠い親戚、そして、その当時、いのちの電話と呼ばれたラインですね。それは子供が自分から選べる人間関係、つまり親と教師は子供は選べません。その自分から選べる人間関係があって子供たちがこの世につながっているということが、実はそのとき明らかになりました。 今でも子供たちは、例えば子どもの日チャイルドライン、それから今、秋のキャンペーンをやっています。私たちが考える以上の電話が殺到します。ことしの子どもの日チャイルドラインでも、七万件弱の子供たちがアクセスし、実際に受け切れたのは一万数千件、つまり四分の一にすぎないわけですね。まだまだラインの数が足りない。子供たちはいつも待っているわけです。 それは、今、実は国からは一円も助成がありません。僕らはNPOで今やっていますが、長野県で前は一カ所あたり二百五十万の助成が出ています。知事がかわって、今度長野県ではNPOが立ち上がるときの補助金として助成を見直したいというような声が上がったときに、私たちは県の職員と一緒に協議をしました。この仕事は補助事業ではない、本来国や地方公共団体がやらなきゃいけない事業、つまり、地域社会が変化する中で子供たちの悩みや苦しみを受けとめるという仕事は、実は国や地方公共団体の仕事。 ただし、子供は警察や教育委員会や法務局の電話には本音を絶対に言いません。例えば父親と娘が性関係があるようなことを、薬を飲んだようなことを、警察や教育委員会の電話にかけてくるわけがないんです。子供たちの本音は、プライバシーを守って悩み苦しんでいる声を受けとめるのはやはりNPO、民間の団体。しかしながら、このチャイルドラインは営利的な事業ではありませんから、収入は当然ありません。それを財政的にバックアップする体制。例えば、具体的に今子供たちの半分が携帯で電話をかけてきます。そうすると、電話代を心配しなくて子供たちが電話をかけられる、そういう体制をどうつくるのか。 そして、例えばカナダに行けばキッズヘルプフォンというポスターが、カナダの学校にはすべて小中学校に張ってあるわけです。そういうことを文科省もおととしの文書で、チャイルドラインの番号を子供に伝えるべきだという文書は出しましたが、実際に援助は一円もありません。それはわずかなお金でできることです。さっき、年間十二万二千件の子供たちの電話と言いました。僕らは一通話ワンコインと言っています。つまり、十二万件の電話代はわずか千二百万円で済むんです。千二百万円。つまり、イギリスは毎日、三百六十五日、二十四時間受けていますが、電話代だけとれば八千万円で済んでいるんですね。そのかわり、例えば僕が住んでいる長野県上田市は、チャイルドラインに市役所が無償で場所を提供しています。そういうことも、そうコストはかからなくてできるわけですね。あいている部屋を一部屋提供する。 つまり、そういう本来国や地方公共団体がやる事業に、場所を提供するとかポスターの印刷費や子供の電話代、カードの印刷費、一枚一円ちょっとかかりますが、そういうものを提供することで、実は子供たちが安心して自分の悩みを秘密は守られている形で本音を言える。つまり、爆発する前に、人を傷つける前に、親を焼き殺す前に、みずから死を選ぶ前にその声を聞いてもらえる人がいる場所がある。そのことが実は今この国で非常に重要な意味を持ち始めているんだ。ぜひ、やはりその方策を御検討いただきたいということをまず申し上げておきたいと思う。 二点目、三点目は、もう時間がなくなりましたが、前の参考人もおっしゃったように、今申し上げたのは、これは対策です。予防というのは二つあります。もう時間がありませんので、簡単に、項目だけ言います。 今、子供たちの脳は、親子の愛着形成が極めてできない、あるいは自分の感情や欲望をほとんどコントロールできないという脳に育っています。それは、乳幼児期から、親がおっぱいを飲ませるときにテレビ、ビデオを見ながら、メールを打ちながらおっぱいを飲ませたり、あるいは、世界一長いと文科省の課長が「初等教育資料」という月刊誌で表現したように、今、日本の子供たちの脳はそういう自己抑制がほとんどきかない。つまり、かあっとなったら何かをするという具体的な行動の脳に実はもう乳幼児期からなっていることが最近の脳科学ではっきりわかってきました。 そのことに対して、今文科省は「早寝早起き朝ごはん」という運動を始めていますが、それに加えて、きのうも、中学校長になった藤原さんが別の会議で、文科省の会議でおっしゃったようですが、テレビを消して外遊び、ゲームをやめて外遊び、こういうふうに、脳が自分の欲望や感情を制御できるような子供の脳の状態をちゃんと保障する、そういう生育環境を保障するということが極めて大事になっているということを二点目として申し上げておきます。 三点目は、では、お互いを尊重しお互いの人権をちゃんと守る、その子どもの権利条約というのが今から十二年前に日本政府は批准しています、一九九四年に。しかし、日本の学校教育で、自分の人権を大事にし、相手の人権も大事にする、つまり、いじめや殺傷やそういうことを防ぐための基本的な認識を子供たちに育てる子どもの権利条約の学習が一切行われていない。批准してから十二年たっています。これは国際条約ですから、国内法よりも上位にあるわけです。それが学校で全く教えられていない。 それで、きのう、僕はあるところで講演をしました。行政マンが百二十人いました。ただの一人も子どもの権利条約を読んでいない、行政マンが。だから、そういう状態で、大人が子供の人権というのをちゃんと見詰めていないこの日本という国で、子供たちが相手を殺したり、みずからの命を粗末にしたり、そういうことに及ぶのは、ある意味では当然なんですね。だから、学校教育、義務教育の中でやはり子どもの権利条約をきちんと学習する、そういう機会をつくる。 つまり、相手の人権を尊重し、自分の権利、生きる命をも大事にする、そういう教育をぜひ、もう既にコスタリカという国では取り入れているわけですね、義務教育の中に。それを義務教育の中で取り入れる、そういうことによって子供たちの中に、本田さんもさっき言われましたが、教育の質が変わるというのは、実はそういうことでもあるわけですね。何のために学ぶのかということが子供同士の中で明らかになる、あるいは考える機会ができる。そうすると、例の未履修問題なども子供の側から問題提起が出たりするということが起こる可能性が、子供たちはそういう目と見識と力を持っています。それを引き出すのは大人たちの仕事だというふうに思います。 どうもありがとうございました。(拍手)
○小宮山委員長 ありがとうございました。 次に、内田参考人、お願いいたします。
○内田参考人 このような機会を与えていただきまして、ありがとうございました。 私は、三十数年にわたって子供の現場で相談活動をしてまいりましたので、子供の立場、子供の視点から、いじめの問題が今どういうことになっているかということについてお話をさせていただきたいと思います。 私が仕事を始めましたのは一九七三年からですが、私が勤めていた民間の病院のすぐ近くで、一九八〇年代の半ば、鹿川君が命を絶ちました。彼は、私の勤めている病院にうちを出た後毎日のようにいて、学校には行かず、病院の待合室で過ごしていたという時期がありました。そういう点で、うちを出ても学校にたどり着かないとか、いろいろなことが子供の中に起こってくるわけで、その辺のところを現場の相談活動からお伝えしたいと思います。 病院の心理室、及び今子ども相談室「モモの部屋」で相談活動をしております。この「モモの部屋」のモモは、ミヒャエル・エンデの小説「モモ」、人の話を聞くことが上手な、お話が聞けるということと、子供が奪われた時間を取り戻す、人が奪われた時間を取り戻す、そういうふうなことをしている少女の物語です。その名前にあやかって相談活動をしております。 病院及び相談室に来る子供たち、親御さんの話を聞くと、子供同士のいじめ、先生によるいじめなどが原因で登校渋り、登校拒否、不登校になる子供たちがたくさん来院いたしたり、来室いたしました。その子供たちがつくった資料があります。これは、登校拒否の子供たちによる登校拒否アンケート、東京シューレの子供たちがつくったものですが、当事者がつくった唯一のデータです。 登校拒否、不登校の原因を三つまで挙げてもらいました。一位は「子ども同士の関係」四〇%、それから「学校の雰囲気」三九%、「いじめ」三二%、「先生」二六%です。これは、一人三つ答えていいという複数回答です。「子ども同士の関係」も「いじめ」も非常にダブりますけれども、十人のうち三人から四人はいじめで学校を休むに至ります。それから、学校で居場所を失った子供たちが追い詰められて考えたことを上位三つ挙げてありますけれども、一位は「自殺」、十人に四人は自殺を考えています。二番目が「家出」三四%。追い詰められて物を壊す子、三〇%です。 次に、私が東京都内の私立大学で、非常勤講師として人間学という授業の中で、子供の当事者性について学生とともに学んできました。その資料を用意してあります。資料一「大学生がふり返った学校生活」で、ここには主にいじめの問題を中心に学生が書いた小レポートを取り上げてあります。 一番、二番、三番は、子供同士のいじめがメンバーを入れかえながらぐるぐる回っていくという実態について書いたものです。一番最近のニュースにも対応するものですけれども、違う小学校出身の子供に対して、あの子は嫌われているから近づかない方がいいよといううわさが最初に流れて、周りの子供たちが無視したり、かかわらなくなっていくということで、小学校からのいじめが継承される例です。そういう場合に、子供たちは、いじめられているというレッテルが張られることを非常に恐れて、非常に緊張しながら学校生活を送っています。 二番目の方は、小学校の経験で、五人が仲よしグループをつくり、四人で一人の子供をいじめて、それをぐるぐる回すという経験を書いています。 三番目の方は、体操部、運動系。スポーツ系の部活というのは、非常に厳しいトレーニングや勝利を目的の競争心理がありますので、いじめが多発いたしますけれども、やはりメンバーの子供たちを次々に相手をかえていじめる、そのことによって団結力のようなものを感じながら過ごしていたということが書いてあります。 次に、いじめられるという関係が既に固定してしまっている例について、四番、五番の学生が書いています。 いじめられの四天王と言われる子供たちが中学の中にいて、特徴としては、太っている、身長が高い、いつも口をあけている、そして背が低かった、そういうふうなことがいじめのターゲットになっていって、それがずっと継承される。それは、いじめる側にいないと自分の安全が守られないということがあるわけです。この学生は後で、この中で一人、かなり長身だった子供が中学三年で命を絶ったということを後のレポートで書いています。 五番目は、授業中にいじめが起こったということについて書いています。 ふだんからいじめられている子供、やはりこの子も太っているというふうなことでいじめのターゲットになっていますが、授業中にその子に対してボールを集中的にぶつけるというふうなことがあって、その後その子は学校に来なくなり、中学校でも、数回来た後でずっと学校に来なくなっているということについて書いています。 それから六番目。これは、学校の授業の給食指導の中で、厳しい先生の給食指導の結果として子供が学校に来られなくなった例。そして、来られなくなった子供に対して、そういう不登校を認めることは甘やかしだということで、ほかの子供たちが非難する。嫌なことを我慢してやらないということは非常に納得がいかないということで、いじめられたり傷ついた子供を守るという事態を子供たちが受け入れないという状況が書かれております。 七番目。今、少子化の中で、エリート校をめぐって受験のストレスが子供たちにすごく加えられていますけれども、受験のストレスからいじめが始まった。これもやはり太っている子供に対してのいじめです。初め、その子をこの書いた学生がかばったら、今度は自分がいじめられるようになった。かばうことによって、今度は自分がいじめられるという経験を書いています。 それから八番目は、クラスのリーダー的な、勉強もよくでき、クラスのまとめ役をしている中心的なクラスメートが陰でいじめをしていたということと、クラス会で話し合ったときに、いじめた当事者が、毎日迎えに行って学校へ連れてきますというふうなことを発言して、いわゆる見えない構造の中でさらにいじめられている子を追い込むというふうなことについての実態が書かれております。 それから九番目。これも、いじめがずっと継続した経験について、当事者が書いています。 いじめの中身としては、最初は無視から始まったけれども、その後、死ねとか学校に来るなとか、天然危険物、菌、生きている価値はない、いいところなんかないという、言葉によるいじめ。それから、持ち物を隠す、仲間外れをする、体育などのときにペアを組むときに、組む仲間に入れてもらえない、掃除のときに、いすや机を、その子のものは運ばないというふうなことが小学校三年のときからずっと続いているということについて書いています。 しかし、休んだら負けになるということで頑張って行き続けた結果として、その苦しみを今も引きずっている、そして、その苦しみを和らげるためにリストカットという行為が始まっています。初めは死にたいという思いから、その後は、死ねるという安心感を得るために、そして自分自身を罰し、生きている実感を得るためにリストカットということを始めて、いまだにやめられないというふうなことが書かれています。 それから十番の方は、授業の中で、登校拒否ということについて、一つの子供のいじめからの非常口、脱出口だという話をしたことについて返ってきた学生の経験ですが、登校拒否をできる子はとても強いと思った、家族関係がすばらしく、親も子供を受け入れてくれるから登校拒否ができるんだろう、多くの子供は、この世の中では、いじめられていても登校拒否をするという強さを持てず、何もできずにただひたすら学校に行き、毎日いじめられるしかない子供たちがいる、そういう子供の方が多いというふうなことを書いています。 それから、学校に行く中で、教室に入れない、教室が怖い、そういう子供たちがたくさん出て、保健室登校というふうなことが起こるわけですけれども、そのことについて、保健室にいることについて否定されたりしたことから、もしあの状態が続いていれば、自分は命を絶っただろうというふうなことが書かれています。 十二番目も、保健室に登校していいよと言われて、そこにいる時間が長くなったら教室に戻るように働きかけられて、そのことで非常に学校が逆に怖くなったというふうなことを書いています。 今、保健室にいる子供たちがふえているために、保健室にいる時間は二時間以内というふうに決められている学校があちこちでふえてきております。ですから、学校の中における居場所、逃げ場所を奪われてしまっているという状態があります。それで、その結果として、いろいろなアンケートで、子供たちがいじめを原因に学校を休みたいとか、それから死にたいと思ったというふうな統計を出してあります。 それから、各地の教育委員会で不登校対策、最初の一ページのレジュメですけれども、五番、「各地の不登校対策(学校復帰策)」の中で、子供が学校を休むことを認めないさまざまなきつい対策が起こってきております。そのために、ここのところに来て子供の自殺がふえているというふうなことがあります。 それから、資料としては「不登校の子どもたちの推移」。ここのところ急激にふえていることに対して学校復帰強化対策が起こって、子供たちは非常に学校を休みにくくなっているということが起こってきております。そのために、休めなかったり、登校を働きかけられた子供たちの自殺の実態については、二のところの六で具体的に問題点を整理しております。 最後に、提言をしたいと思います。 いじめによる子供の自死、自殺を抑止するための方法として、不登校対策の見直しが必要です。 いじめられ、学校での居場所を奪われ、自尊の感情をずたずたにされている子供たちの命と尊厳を守るために、学校を休む権利が保障されることを子供たちに伝えてほしい。 それから二番目、学校外で学び、成長する機会、フリースクールやフリースペースなどを保障する。 三番目、学校を休んだ子供たちが不利益をこうむることがないように、学校外で安心して学び成長できる条件を整え、子供たちに知らせる。 四番目、学校を休んだ子供たちに対して働きかけるときは、くれぐれも慎重に、子供の人権を尊重し、傷ついている命を数値目標の対象とはしない。 五番目、子供たちと保護者及び教職員に対して、子供の持っている権利を正しく伝え、その権利が現実に使えるような実態を子供とともにつくる取り組みをする。 六番目、日本の社会にあるいじめや不登校に対する誤解や偏見を取り除く活動をする。 以上の提言をしたいと思います。(拍手)
○小宮山委員長 ありがとうございました。 以上で参考人の方々からの意見の開陳は終わりました。 —————————————
○小宮山委員長 これより参考人に対する質疑を行います。 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。上野賢一郎さん。
○上野委員 自由民主党、上野賢一郎でございます。 きょうは、各参考人の皆様に大変貴重なお話をちょうだいいたしまして、それぞれはっとすること、なるほどなと思うこと、たくさんありまして、本当に感謝をいたしているところであります。 きょうは、青少年問題特別委員会におきまして、こうしたいじめの問題、先ほど内田参考人からお配りをいただきました新聞でも、自殺の連鎖というようなことが大きな見出しとして出ております。それだけ今日本で、私たちの国でこの自殺の問題、そしていじめの問題、これが毎日いろいろなマスコミで報道され、私たちがそのことを聞かない日はないというような、ある意味大変異常な事態が発生をしているような気がいたします。こうした事態の中で、私たち国会としてどういった活動をしていくべきなのか、本当にこうした大変貴重な機会をきょうは与えていただきましたことに感謝を申し上げたいと思います。 今、いじめを原因と推察されるような自殺というのがとまらないというような状況がございます。八月に愛媛県、あるいは十月では北海道、福岡、今月に入りましても新潟や埼玉、そうしたところで自殺が発生をしております。さらに、文部科学省に対しましても、二十通近くでしょうか、自殺の予告の手紙が来るというような大変危機的な状況かなと考えております。若い、可能性のある、そして一回しかない人生を無にしてしまう、そうしたことに対する悲しみですとか、あるいはいじめに対する憤り、そうしたものを切に感じずにはいられません。 子供たち、多くの人とのかかわりの中で生きているはずです。御両親を初め学校の関係者の皆さんや大勢の方とのかかわりの中で生きるということ、そうしたことに今直面をして本当に悩んでいる子供たちが多い。そのことに深い悲しみというか思いをいたすところであります。大勢の人のかかわりの中で自分が生かされている、生きているということを子供たちにもっと気づいていただきたいと思いますし、そして苦しいこと、困ったことに対してそのメッセージをぜひだれかに伝えていただきたい、そうしたことを今考えているところです。 そこで、きょうはお話をお伺いしたいと思います。 実は、私も小学校六年生のある時期にいじめられていた経験があります。当時、今考えますと、いじめといっても、単にプロレスわざをよくかけられるとか、あるいはどこかに閉じ込められるとか、そうしたたわいもない、遊びの延長線上のようなことでしたが、当時の私からすれば、今まで仲よく遊んでいた人たち、数人のグループですが、どうしてそんなことをするんだろうというようなことで、大変ストレスを感じて悩んで、そして学校に行きたくないと思ったようなことを今でも覚えています。 そうした時期、私の場合はすぐになくなったわけでございますけれども、いじめというのはいつの時代にもある、どんな社会にもどんな学校にもあるんだというお話をよくお伺いいたします。しかし、今これだけ日本各地で問題になっている事柄、そしていじめの本質というか、それが我々が子供だったころと比べて少し質的に変わっている可能性があるのではないかということを漠然と私は感じております。 そこで、各参考人の皆様にお伺いをしたいのは、このいじめの本質というか質が昔と比べて今はどう変わっているのか、それは何か特徴的なことがあるのかどうか、そうしたことにつきましてまず御所見をお伺いしたいと思います。
○森参考人 感覚的なお答えと、それから神奈川県からいただいた資料がございますので、それをもとにお返事をしたいなと思っておりますが、いじめといいましても、これはずっと昔の冊子でございますが、当時まだ文部省と言っていましたころに出された形態としては、幾つか分類されております。 皆さんは御存じでございますが確認をさせていただきますと、言葉によるいじめ。これは、ただでおかないとか、死ねとか、そういう言葉でございますが、最近はこれがメールで送られるようなことも聞いたことがございます。子供の生活の変化だと思います。こうなりますと、なかなか教師はつかむことができません。 二つ目は冷やかし、からかい。大変失礼な、この場で言う言葉ではないと思いますが、ブスだとかデブだとか、おまえはまじめ過ぎるとか、そういうふうな冷やかし、からかい。それから三つ目が物隠し。これは今でもございます。それから、エが仲間外れ。これが結局、ひとり孤独感を描いていくんだと思います。その次に無視、その次に暴力。ける、ぶつ、こづく、これはいじめの気持ちがなくても、低学年の子供に最近特にふえております。すぐに友達をぶってしまう、けってしまう、低学年に顕著でございます。これはもしかしたら、テレビゲームですぐにけったり殴ったりするようなゲームがございますので、痛さを知らないがゆえに友達にその感覚でやっているんじゃないかと我々教員は考えております。 それから、たかり、お金を強要する。これは最近の事件の中でもございました。それから過干渉。何か温かい思いやりをしているようで、お勉強がおくれている子供にいつまでもしつこく教えていったりして、子供にいじめられている感覚を持たせてしまうというようなことです。 そんなふうなところで、現場の感覚では、昔ほど、どれがなくなったとか、これが顕著ということはございませんが、神奈川県のいじめの発見されたきっかけのところでは、一番多いのが冷やかしであったりからかい。つまり、直接子供に暴力を振るったり表現をあらわすのではなくて、冷やかしたりからかったりするということでの仲間外れ。本当に仲間外れそのものが非常に多くの数値を示しております。参考になりましたら。 以上でございます。
○本田参考人 過去との変化ということについて、私が思うところを、必ずしもデータできちんと立証されているわけではないんですけれども、印象として思うことを申しますと、佐藤俊樹さんという社会学者が、「「がり勉」の絶滅」という非常におもしろい論稿を書かれているんですけれども、昔は、がり勉でも、ある程度尊敬を受けて、学校の中で、学級の中で生きていくことができた。でも、今、がり勉は生きていく道がなくなっている。今、学校や学級の中で生きていくためには、もっとスマートで、ただ勉強がよくできるだけではもう生きていけなくなっていて、対人能力、コミュニケーション能力というものがとても重要になってきている。ただ必死で、周りと自分を閉ざして勉強だけに熱中しているような子供は非常にいじめの対象になりやすいということを指摘していらして、私もちょっとかかわったデータからそういう印象を持ちました。 思うのは、今、若者のコミュニケーション能力が低下している、低下していると言われますけれども、実はそうではなくて、若者の中で求められるコミュニケーション能力の水準というのは極めて全体として高度化していて、その中で、かつては問題視されなかったような、ちょっとそれが劣っている子が非常に目立っていじめられるような傾向があるのではないかと思うのです。 それは、多分、若者や子供の中では非常にさまざまな消費文化が浸透しておりまして、例えば、どういうゲームをするか、どういうテレビを見るか、何を着るか、どういう音楽を聞くかによって、さまざまに若者の中での多様性が増していまして、その中で、違う他者とどう関係を取り持っていくかということが昔よりも難しくなってきているからだと思うのですね。そういうごちゃごちゃした多様なメンバーの中で、どう受けをとっていけるか、おもしろいことを言ってまとめていけるか、リーダーになっていけるかということが非常に若者の中で要求されるようになってきているように思います。 例えば、最近ネットの中でよく話題になっている言葉として、御存じかどうかわかりませんけれども、例えばもて系、非もて系という言葉を御存じでしょうか。だれがもて系で、だれが非もて系であるかということが物すごく若者の中で意識されるようになってきて、もて系の方が順位が高いわけですけれども、あるいは、場の空気を読めるかどうかということが、これも若者の中で非常に重要なテーマになってきている。あるいは、スクールカーストという言葉を御存じでしょうか。学校の中にインドのカースト制と同じような、そういう対人能力とか、どれぐらい巧妙にうまく振る舞えるかどうかによって、カーストのようなランキングができてしまっているということが言われているのですね。 そういうことが対人能力において洗練されているかどうか、やぼったかったり暗かったりするのではなくて、仕切っていけるかどうかという能力において、今非常にシビアなランキングが若者の中に生じているということが、そういうヒエラルキー、階層制に基づいたいじめというものをふやしているのではないかと私は思っております。 そういう対人関係やコミュニケーション能力が低下しているのではなくて、全体として水準が上昇していて、その中でちょっと劣っている子がいじめられがちであるということとともに、皆さん御存じのように、過去の長期不況の中で、日本社会は非常に厳しい若年労働市場状況に直面してまいりました。日本社会がどこに向かっていくのかということに関して、今景気が浮上している中でも、全体として、行く末に関する展望というものが失われている状況にあります。そういう中で、それを若者たちは非常に鋭敏に感じていると思います。そういう閉塞感が、そういう対人能力というか、今この場での人に対するさげすみみたいなものと合わさって、余計に苛烈になっているのではないかというふうに私は見ております。
○清川参考人 私は、先ほど申し上げたチャイルドラインというのをずっとやってきて、毎日毎日、自分の秘密は守ってもらえるという安心感の中で子供たちが発する言葉を、全国で、昨年でいいますと十二万二千件受けとめている組織の代表をしています。 そのほかに、実は、長野県で、私はNHKの長野で勤務していたころ、長野県のいじめ・不登校対策委員というのを四年半ぐらいやって、対応策についていろいろ議論した経緯がありました。そして、現在は、引きこもりや不登校の子供たちがもう一度学校で勉強したいというための高等学校の校長をしております。そして、毎日のようにそういう子供たちと向き合っています、リストカットをした経験がある、引きこもりの経験がある。 そういう過去の経験を総合して申し上げますと、まず一つは、いじめの質的な変化とお尋ねでした。いじめ自体が、やはり異質な者を許容できない一人一人の子供の状態が起こっているということが痛切に感じられます。かつての学校は、けんかの強い子、駆けっこの速い子、絵のうまい子、歌のうまい子、実は、多様な価値観が学校あるいは地域社会にありました。だから、勉強ができなくても威張れる場所、胸を張れる場所があったんですね。ヒーローになれる、ヒロインになれる場所が。 ところが、価値観の多様化の中から今度は単一化が起こってきて、点取りのうまい子だけが評価される、生きる場所があるという学校や地域社会、家庭という雰囲気の中で、そうではない子供たちが、やはりある種の閉塞感、窒息状況を起こしている。そして、異質な者に対して排除、つまり耐性が鍛えられていない、異質な者と共存できない状態が起こっている。そのことが、子供たちに今、かつてのようなからっとしたいじめとは違う陰湿ないじめが生じている一つの背景にあるのではないかというふうに私は考えています。 それと、さっき申し上げた、子供たちの、自己の感情や欲望をコントロールできる脳、前頭前野が発達をしていない。これはもうほとんどすべての脳科学者が明らかにしていることで、今、日本の子供たちは極めて危機的な脳の状態にある。自分の感情も行動も欲望も抑制できない。だから、思ったことをすぐ表現してしまう。ところが、その表現が、言語形成期にメディア接触、つまり言葉を発する経験が少ないために、言葉で表現するんじゃなくて、これが暴力になったりするわけですね。あるいは、無視するというような暴力になったりする。 そういう表現のスタイル、議論し合うとか話し合う、語り合うという技術的なレベルもはるかにかつての子供よりは低くなっているという状態が起こっているように、私たち、電話を受けていても思います。子供たちの表現能力のレベル低下というのが起こっている。これもやはり、言語形成期に言葉を発する体験が激減していることが背景にあることは、もう言語学や国語の先生ならばだれでもわかっていることなんですね。 だから、私どもは、緊急対応として、子供たちには、長野県の場合には、いじめても殺すな、いじめられても死ぬな、これをまず子供たちに徹底させる。その上で、子供の相手の人権も、自分の人権、命も大事にするんだという学校教育をきちんとやはりやり直す必要がある。だから、とりあえずは、簡単に死ぬな、いじめられても絶対に死ぬな、いじめても殺すな、そこだけはもう明快に打ち出す、言葉で。それぐらいの単純な言葉しか今の子供たちはわかりません。命の大事さを授業でやってもほとんど入っていかない。それが今の子供たちの脳の状態ですから、それを踏まえた対策が必要だろうというふうに思います。 以上です。
○内田参考人 いじめの質の変化という意味でいいますと、一九七〇年代に、校内暴力を抑えたらいじめが多発した、いじめを抑えたら登校拒否、不登校がふえたという現象が起きました。先ほど、報告のときに、不登校の子供たちのことについて触れましたけれども、不登校対策で、学校へ戻す働きかけを強化した現段階でいじめが多発しているというふうな状況がありますので、そういう、力をもって子供の異議申し立てや不満を抑え込むと、それがより弱い者に、個に向かうという構造があると思います。 次に、子供自身から遊びの時間が奪われて、勉強だとか塾だとか習い事に使われているわけですけれども、遊びの集団が形成できなくなったために、子供同士が学校的な価値以外の場での価値を形成しにくくなっているということと、学校の中で、遊び道具を持ってきてはいけない、持ち物の制約が非常に強くなっているために、短い休み時間に集約的に遊ぶためには子供を遊びの道具にする、それがいじりということになるわけですけれども、そういう形で、子供から遊びの機会と遊びの時間を学校の中でも取り上げたことによって、子供それ自体が遊びの道具としてのいじめのターゲットになってきているという構造があると思います。 それから、そのために子供たちは、学校の中で、いじめなければいじめられるという緊張感とストレスを抱えておりまして、いじめられる少数の側に回るのではなくて、多数を形成していじめの側にいるというふうな形で保身を図らざるを得なくなっています。 そして、そういう孤立的に、連続的にいじめられることから脱出しようとして学校を休む子供たちに対して、学校復帰策、不登校対策ということで、学校や先生方や、かかわる大人たちがいわゆる特別扱いをするわけですけれども、そのことに対して子供たちは、自分たちも学校に喜んで来ているわけではない、非常につらいさまざまな思いを抱えてきているのに、特別扱いをされるのはずるいというふうなことがあって、その特別扱いをされた子供たちに対して無視とか仲間外れという形でのいじめを再度するという形でいじめが循環している、そういう構造があると思います。
○上野委員 どうもありがとうございました。 それぞれのお立場、御経験の中からいろいろなお話をお伺いいたしました。やはり、社会環境の変化、特に対人能力のお話ですとか、異質なものを許容できない、それぞれお話がありましたけれども、社会環境の変化の中で、いじめの質も変わりつつあるのかな、そういう実感を受けました。そうしたものを踏まえて具体的な対策をこれから講じていかなければいけない、そのように感じております。 持ち時間があと五分になってしまいまして、用意した質問、あとお二方だけちょっとお話をお伺いしたいと思います。 最初に森参考人ですが、先ほど二つ言い足りないことがあるというお話をされましたので、それはぜひ最初にお話をいただけるように。やはり、具体的に学校の現場でどういった取り組みを各学校の先生方、一生懸命やっていらっしゃるのか、そのお話をぜひお伺いしたいと思います。 それからもう一方、本田参考人でございます。 先ほどのペーパーを見まして、私もなるほどなと思いました。もっと心の教育とか優しくしようとか強くなろうとか、そういう精神論、もちろんこれは必要だと思いますけれども、システムとしてどういった形でその原因を取り除いていくのかというようなことについてももう少し議論を深めていく必要があるだろうと思います。 そうした中で、先ほどのペーパーの中でお話をいただきました中で、最後の5、教育内容の有意味性ということがお話にありました。これをもう少し、できれば具体的な形でお話をいただければというふうに思います。 それと、本田参考人の御提言、五つのお話がありますけれども、これをそれぞれの学校現場で行っていただくためには、社会全体としてどういうシステムをつくってそうしたことを具体的にやっていく必要があるのか。それぞれの学校ごとにいろいろな工夫をされていると思うんですが、そうしたノウハウというか知識がひょっとして偏在化しているというか広がっていないような可能性もあると思うので、それを社会全体に具体的な方策として広げていくためにはどういったやり方が考えられるのか、もし御所見があればお話をいただきたいと思います。 以上です。
○森参考人 上野先生に発言の機会をいただきまして、ありがとうございます。時間もありますので短く述べます。 今いじめに対して学校に求められるものと考えましたときに、先ほどから出ていますが、いじめ対応よりも予防だと思います。その予防の面で我々はどんなことを意識すればよいか。 一つは、わかる授業、楽しい授業ができる先生をふやすこと。こういう先生が経営している学級ではいじめは生じません、生じませんとは言い切れませんが、生じる可能性が少ないです。こういう教員を育てること。 二つ目は、先ほどから出ています、人間関係を形成する力を子供につけること。学級が何か一つのことに取り組んでいるクラス、そこに役割を持ち、喜びを持つ、友達を感じるクラスではいじめは生じません。そういう意味では、望ましい集団活動を展開していく力が子供たち、担任にも必要だと思います。 三つ目は、異年齢集団活動を経験させること。これは地域でも希薄でございます。いじめについて、いじめられ方、いじめ方の限度をわきまえること、逃げ道となる相手を見つけること、そういう意味では異年齢集団活動が大事と思っております。 最後に、子供の強さ、心の強さもはぐくみたいと思います。今、子供たちはしかられることになれておりません。褒められ育ち、そして親も、しかられると教員に文句を言ってまいります。社会情勢が学校に厳しい中、勇気を持って子供をしかれる先生が減っているように思います。校長もそうでございます。この辺が課題かと思います。 大きな二つ目は、家庭の変化、これも見逃せません。保護者への対応が非常に難しくなっております。 例えば、いじめている子供について保護者を呼んで説明しますと、それはうちの子だけが悪いんじゃない、うちの子はこう言っている、なぜうちの子だけを先生はしかるんだという状況もあります。または、相手も悪いんだと。それから、うちの子がしたところを実際に見たんですか、だれが見たんですかと。それは、子供から聞いた言葉では、教師は保護者に責めることはできません。そういう状況の中で我々は頑張っております。 以上です。
○本田参考人 今、上野議員の方から御質問いただきました二点について手短にお話ししたいと思うのですけれども、まず、教育のレリバンスということに関しましては、私は、少なくとも三つに分類できると考えています。 一つは、今学んでいることそのものがおもしろいという、例えば、何かを鑑賞してみたり、自分で表現してみたり、とにかく学んでいるその瞬間が楽しいというような、そういうレリバンスが一つ。 もう一つは、これは、その学んでいる瞬間ではなく、将来に役に立つという意味でのレリバンスなのですけれども、これは二つに分けて考えることができると思っておりまして、一つは自立した市民となっていくためのレリバンス、もう一つは職業的レリバンス、仕事に役立つという意味でのレリバンスということを考えております。三つ目の職業的レリバンスということ、これは高校段階以上から主なテーマになってくると思いますので、小中学校段階では、やはり強い市民となっていくためのレリバンスということが重要だと思います。 市民というのは、例えば政治、あるいは法律、あるいは経済、あるいは家庭人としてさまざまな役割をその場に応じて果たしていくのが市民ですけれども、その際に、そういう役割をきちんと果たすことができるかについての実質的な力づけとなるような、そういう教育内容としていくことが私はレリバンスのある教育だと考えております。 それを実際にどのようにしてやっていくかなのですけれども、例えば、今ある国語や算数のような科目でも、どのように市民としてそれが役立ってくるのかということを明示しながら示していくということもできますし、あるいは逆に、市民生活ということを前面に打ち出して、それと絡めながら国語や算数などのさまざまなことが絡んでくるような、そういう学科の設計の仕方もあると思います。 とにかく、なぜそれを学ばなければならないのかということは、今おもしろいか、あるいは将来何らかの形で役立つか、どうかかわってくるのかということを、教育課程、カリキュラムを設計する側が常に意識して、こうだから学んでもらいたいんだよ、こうだから、悪いけどこれに向かって努力してくださいねというふうに言っていくことができるような、そういうカリキュラム設計ということが必要だと思います。 二点目なのですけれども、私の提言を学校現場で導入していくためには社会全体としてどうするかという、これはかなり難しい御質問だと思うのですが、一つには、幾つもの学校でいろいろな試みがされていてノウハウが積み重ねられている場合に、それを共有していくという、先ほどちらっとおっしゃったようなことも大事だと思います。 例えば、私が知っているある学校では、不登校とかいじめられた経験がある子をたくさん受け入れているのですけれども、そこは、自閉症の子供たちにたくさん入ってきてもらっているのですね。そして、その自閉症の子に対してパートナーという形でついて、過去いじめられた子が、自閉症の子供たちにいろいろなケアをすることによって、自分でも人の役に立つことができるのだというような、あるいは、自閉症の子供の伸び伸びしたある種の純粋さにいやされるような形で自分を回復していくようなことが起こっているというふうに言われています。 また、その学校では職業に関するさまざまな選択科目を導入しているのですけれども、例えば、それは調理であったり、あるいは体の、ヘアケアとかそういう、エステティックに関するものであったりするのですけれども、そういうところで具体的に役立つ科目を学びながら、しかも自分の好きなものを選択しながら学ぶ中で回復を遂げていくということも言われております。 そういうものは、そういう引きこもりや登校拒否の子を受け入れる特別な学校だけでなくても、通常の学校にも導入し得るものなのですね。そういうことが有効なのだということをもっと広めていくことが必要だと思います。 それとともに、日本社会全体の中に実はある種の息苦しさみたいなものが充満しているのではないかというふうに私は思っております。つまり、同質で理解可能な他者であるべきだと。例えば、同じものを愛したりとか、内面に踏み込むような形でみんなで同じになろうというような、そういう圧力というものが、今異質性が高まりつつあるからこそ、それに対する逆噴射のような形で、もっとお互いに安心感を持とうよというような動きがあらわれてきていると思います。 そうではなく、異質であることを前提とした上で、他者を理解できなくても構わない、内面には踏み込まない形でお互いに共存していこうというような発想というものを、これは、どうやって広めていくかというのは非常に難しいことなのですけれども、そういう動きということが必要だというふうに考えております。
○上野委員 ありがとうございます。終わります。
○小宮山委員長 次に、松本洋平さん。
○松本(洋)委員 自由民主党の松本洋平でございます。どうぞよろしくお願いします。 本日は、各参考人の皆様方、お忙しいところをこの青少年問題に関する特別委員会にお越しいただきまして、本当にありがとうございました。 今、四参考人からさまざまな御意見を拝聴させていただきまして、大変参考になりました。また、さきの同僚の上野賢一郎議員の質問にもいろいろとお答えをいただきまして、なるほどと思いながらお話を聞かせていただいた次第でございます。 御存じのとおり、現在、我が国におきましては、いじめの問題が大変な社会的な問題となっておりまして、多くの子供たちが、それを原因と推測されるわけですけれども、命を絶つような事態にまで発展をしてしまっているということ、大変残念でならないわけでございます。ぜひそうした子供たちには声を上げてもらって、周りには君たちのことを愛してくれている人間、君たちの成長を楽しみにしてくれている人間というのがたくさんいるんだということをぜひ理解してもらい、そして勇気を出してそうした大人たちに対してぜひ声を上げてもらいたい。そして大人たちはそうした声を必ず受けとめて君たちを守っていく。そんなことを社会全体として今取り組んでいかなければならない、そんな時期に達しているんではないか、私はそのように思っている次第でございます。 今、社会全体というお話をさせていただきました。今までの参考人のお話を聞いてみますと、やはりどちらかというと、学校という観点でお話をされるケースというのが非常に多かったのかなと私自身は思っているわけでございますけれども、しかしながら、いじめの実態を把握したり、それに対しての対応を考えたり、そうしたことを考えたときには、やはり地域、家庭と学校、こうしたものが一体となりまして、事実の把握に努め、そしてその解決策というものを一緒に考えていく、取り組んでいく、そうした姿勢をしっかりつくり上げていくということが大変重要なのではないか、私自身はそのように考えているところでございます。 そういう意味合いにおきまして、ちょっと視点を変えまして、いじめと家庭との関係ということで一言ずつ参考人の皆さんからお言葉をちょうだいできればと思います。
○森参考人 大変、我々の考えの中で欠落している部分を御指摘いただいたような気がしております。 地域、家庭と学校との連携は、今我々の課題でもありますし、地域の方々のボランティアとしてのお力を校内に取り入れるようにはしております。例えば、クラブ活動であるとか学習の中にも取り入れておりますが、その中から、先生、このクラスはどうなんだろうか、人間関係いいんだろうかというような御指摘があることもございます。まさにそういうことが、先生がおっしゃっている家庭、地域が見つけていくいじめの素地があるんじゃないかという部分だと思います。 今後とも、そういう部分について私ども考えてまいりたいと思いますが、家庭との連携につきましては、どちらかというと学校側が家庭に伝えて、それから動き出すということが確かに多いように思います。家庭から、地域から学校へ働きかけるのはどうあったらよいかというのをまた考えてまいりたいと思います。学校によってはそういう会を定期的に設けている学校もあるようでございますので、多分実現していると思いますが、私の学校においてはまだでございますので、努力してまいりたいと思っております。 以上です。
○本田参考人 いじめと家庭の関係という御質問でしたけれども、子供というのは割合に家庭と学校ではパーソナリティーを変えていることが多いので、なかなか学校におけるいじめというものが家庭では見えにくかったりするということが通常だと思います。 ただし、いじめる側については、何らかの日ごろからの自己不全感のようなものがやはり他者に対するいじめにつながっている場合が多いと思いますので、もしかしたらその背後には、父母の無理解とか放任とか、あるいは逆の意味での過干渉など、家庭の中にいじめたいという衝動を生み出すようなものがあるかもしれません。しかし、いじめられる側には、恐らくそういう家庭の影響というものはほとんどないのではないかというふうに私は思っております。 一方では、学校におけるいじめというものに家庭を丸ごと巻き込んでいって、もっと家庭でも敏感に子供の日ごろの生活に目を光らせてほしいというような発想というのは、私は実は余り支持するところではありません。それは、むしろ学校と家庭が切り離されているからこそ、違うパーソナリティーを演じながら居場所をどちらかで確保できているような子もいるわけですね。そういうのを、学校と家庭を均質的につなげて、どっちも監視を強めていくような世の中になってきますと、本当に子供にとってはまさにもっと息苦しさが強まりますので、どうかと思います。 親に対して、先ほどもちょっと申しましたけれども、もっと敏感になろうというような呼びかけをしても、実のところ、そういう呼びかけに対して敏感に反応してくれる親というのは既に敏感なのですね。非常に意識が高くて、子供に対していろいろ配慮をしている親だけが、例えば政府とか公共的な呼びかけに反応して、もっともっと敏感に見なくてはならないのかしらというふうに反応して、そちらはそちらで過剰に子供に対して気を使いがちになってしまうかもしれない。逆に、子供のあり方に対して敏感に把握しようとしていない親というのは、幾ら行政が呼びかけをしたとしても、そういう行政の呼びかけそのものにこたえないというような実態がありますので、そういうことでは、むしろ家庭の格差というものを悪い方に広げる可能性があるのですね。 それよりも、私が先ほど申しましたように、学校なら学校に注目して、そこでクールに、ある種クールにいじめにつながりがちな構造要因を排除していくということの方が、家庭に呼びかけたり巻き込んでいったりすることよりはさまざまな意味でのネガティブな影響というものが少ないのではないかというふうに考えております。 以上です。
○清川参考人 私は、二つの側面からお話をしてみたいと思います。 一つは、この五十年、六十年というスパンをとると、日本の家庭というものが持つ教育力が大きく変化をしている。これは、かつては家庭、家族というのは生産の単位でした。今、八八%を超える日本の家庭は消費だけの単位になっているんですね。かつては、親は背中で子供を育てるという言葉がリアリティーを持っていました。つまり、働く大人たちの姿を見て育ったわけですね。そして、じいちゃん、ばあちゃんが同居し、あるいは行かずの人、戻りの人までいて、つまり、家族という中に複雑な人間関係があったわけですね。その中で子供たちが育ったという、豊かな教育力を持っていました、生産労働という意味でも、人間関係という意味でも。 そういう意味で、家庭というものの変質がこの五、六十年、急速に起こった。それなのに、家庭が面倒を見なさいという押しつけだけをやると、これは今の若い親たちにプレッシャーだけがかかっていくという現象が起きていくことがありますので、私が知っている全国のいろいろなケースでいうと、ノーメディア運動をやると、必ず地域のおじいちゃん、おばあちゃん、おばさん、おじさんが地域の伝統文化を子供に伝える場所をつくったり、あるいは、さまざまな生産労働を教えてあげたりということに取り組んでいると、まさに家庭が失った教育力を地域社会全体で補うという営みが復活するわけですね。そういう意味で、家庭というのを単独で、教育力が疲弊してしまった個別の核家族化した家庭というだけでイメージすると、これは精神的なプレッシャーだけで、貧弱になった家庭に押しつけだけが進むということで、空念仏に終わりかねないということが一点あります。 それからもう一つは、そういうふうに疲弊した、教育力を失った家庭に教育を押しつける、つまり、かつては地域社会が子供を育てていました。ヒラリー・クリントンの本にあるように、子供一人が育つには村じゅうの人が必要と。これはアフリカのことわざです。それは日本でも同じだったんですね。ところが、子育てというのが家庭に矮小化された。つまり、教育力を失った家庭に矮小化された。しかも、現代ではその子育てが、さっき申し上げたようにテレビゲーム世代が子育ての親になってきつつある。すると、どういうことが起こるかというと、母親はベビーシッターを電子映像に任せるわけですね。親子の愛着ができない。おやじは仕事から帰ってきてパソコンにすぐ向き合う、自分の赤ん坊の顔も見ない、ほっぺたもつつかない、ふろも入れない。こういう中で、親子の愛着が形成されないまま、心理学でいうアンカーリング、自分は守られている、ここにいかりをおろす港がある、そういうことが子供の心理の中に形成されないまま大人になっていく。それが、いろいろな方が言う、あるいは僕がさっき申し上げた耐性が育っていないということでもあるんですね。何かいろいろなことにぶつかったときに、もう逃げ込む場所もない、心理的な安定を求める場所もない、そういう親子の愛着が幼児期から形成されていっていない、そのことが非常に問題だろうというふうに思っております。
○内田参考人 家庭と子供の問題という意味でいいますと、やはり家庭の価値観が、学校化された社会の中で家庭の価値観も学校化されてきているという点が一点あると思います。それから、受験競争が少子化の中でさらに先鋭化しているということがあって、子供に対する受験の圧力がかなり進んでいるということがあると思います。 さらに、親たちが、いろいろな職業の中で地球の上のいろいろなところを転勤して歩くわけですけれども、転校生というのは格好のいじめのえじきになります。そういう点では、転校、転出入する子供に対する学校側の受け入れも非常に未熟ですけれども、親御さんも、親の仕事の都合で各地を移る中で、子供たちがいじめのターゲットに選ばれているということについての認識をもうちょっとちゃんと持って、そのことに対するケアが必要なのではないかと思います。 もう一点、ここのところ、子供の虐待あるいは虐待死の問題が非常に大きく取り上げられておりますけれども、虐待を受けた子供、心理的にあるいは身体的に被害を受けた子供というのは、そのストレスや痛みを自分より、より弱い者に向けるという意味で、そのことがまたいじめの一つの契機になる可能性があると思います。 それから、今の子供たちはよい子を求められて成長しております。家庭におけるよい子、それから学校におけるよい生徒、それから子供集団の中でのいい仲間、いいやつという三つの顔を持たなければやっていかれないわけです。家庭で求められるよい子というのは、子供の社会は今、学校と家庭がほとんど、そういう狭い社会に生きておりますから、学校でいい成績をとる、いい内申点評価をとるいい子に育ってもらいたいという意味で、しつけの中でも教育的ないい子を求められているということから、非常に息苦しい状況になっているという点はあるように思います。
○松本(洋)委員 ありがとうございました。大変参考になりました。 時間も実は私もなくなってきてしまっているわけですけれども、ちょっと言いにくい問いかけかもしれないですけれども、ぜひ聞いてみたいことがありますので、よろしくお願いします。 こうしていじめの問題が社会問題になりまして、マスコミ報道等で大変大きく報道されているわけですけれども、やはり行政として、また社会として、学校として、そうしたものに対策を打っていくためには、いかにその実態を把握していくかということがまず非常に重要な点だと思っているわけでございます。 しかしながら、残念なことに、政府が把握しているデータと実態のデータというのは、どうも物すごい大きな乖離があるんではないか、そんなことがあるわけでございます。もちろん、いじめというものをいかに定義をし、どのように把握をしていくのか、大変難しい問題、ある意味永遠のテーマ、人の心にまで踏み込んでそれを判断していかなければならないようなテーマでございますから、これを本当に把握するというのは極めて難しい作業だと言えるわけです。 しかしながら、どう考えても、私も子供時代に、いじめというような形ではないですけれども、やはり友人の一言に傷つくようなことがあったり、ショックを受けたり、学校に行きたくないなと、周りの方からはそんな時代があったのかという目で見られていますけれども、しかしながら、幼い子供心にやはり傷つくような経験もしてきたりしたわけでございます。あのとき学校に勇気を出して行っていなければ、もしかしたら登校拒否になっていたのかななんというふうに思うようなこともあるわけでございますけれども、そうした実態把握というものをいかにしていくのかということが大事だと思います。 先ほど申し上げましたが、そんな中で、実際に把握している数字と実態として起きている数字には大きな乖離があるというようなことが言われている中におきまして、何でこういう乖離が起きてしまうのか。現場の先生として、それを埋めていくためにはどうしたらいいのかということをぜひ率直に教えていただきたいと思います。 森参考人にお願いしたいと思います。
○森参考人 的確にお答えできるかどうかわかりませんが、答えてみます。このように、即質問されて即答える体験も最近少ないものですので、混乱しながら答えるかもしれません。 いじめの件数等につきましては、市教委あるいは県教委からの調査が参ります。それに数値を上げて集計されるということで、この後のことは行政のことだと思います。 一校長としてどんなふうにその把握をするかということになるかと思うんですが、率直に言いまして、いじめの調査が来ましたら、いじめは各学級にありますかと問うて集計していくのを一つのシステムにしております。しかし、それでは校長として校内のいじめを把握しているということにはならないと思います。 本校のことのみで言います、ほかの学校に御迷惑をかけるといけませんので。本校は、今年度、当初五件ほどいじめがございました。個が個をいじめているケース、それから数人が個をいじめているケース、形態は先ほど幾つか述べましたが、嫌がらせが主でございました。その中で、五件のうちの三件は早々に把握できておりましたのでかかわることができ、相手もいじめなくなった。個から個に攻撃していくのがありましたので、それについては割と簡単に減っております。それから、あとの残りの今も抱えております二件ですが、それは数人が個をいじめているという形をとっておりまして、担任も、それから私どもを含めた者も、そう簡単には解決できないいじめの問題としてとらえております。 そうなると、私どもは、今までいじめが何件あったか、解決したのは何件か、現在もあるのは何件かというときに、解決したのは三件、あるのは二件というような形で報告を上げるんだと思うんです。これについては正確さがありますが、校長が自殺した例もございますけれども、自分の学校の恥になるとか、委員会に対しての評価が悪くなるようなお考えをもしお持ちになるならば、そこのところが二件というようなことで報告がされるかと思います。解決したものについては伏せておきたい、学校の評価あるいは学校への信用からすると、いじめの件数はできるだけ校長としても少ない方がいいわけです。そこに、校長として報告する際の感覚が随分人によって違うのではないか、それが実際のいじめの、保護者、地域が考えている感覚と、県教委、市教委がまとめた件数とに開きが出たり、あるいは県レベル、市レベルでもって件数が違ってくることがそういうところにあらわれているんではなかろうかと思います。 校長としては、極力いい面を外に出したいというのは人情でございますが、その際に、正確に学校の子供の置かれた状況を伝えていくというのが今本当に問われているんじゃないかと自分を戒めているところです。 以上です。
○松本(洋)委員 ありがとうございました。 なかなか、本当に難しい問題ではありますけれども、そうしたお取り組みというものを今後なお一層進めていただければと思います。 ちょっと時間もありません。最後の質問をさせていただきたいと思うんですけれども、よく私も地元で歩いているとこんな声を聞くんですね。今回の自殺報道がさまざまされてから、後を追うように、残念ながら痛ましい事件、自殺というものが起きている、そんなことをよく耳にいたします。 実は、WHOが自殺予防の手引についてというものを出しているんですけれども、この中で、マスメディアのためにということで、報道に際してぜひしてほしいこと、やってはならないことという指針を示しているんです。その中で、例えば遺書の写真を掲載するとか、実はこういうものは自殺を誘発するおそれがあるので、そういうことはやるべきではない、そういう手引をWHOが出しているわけでございます。 こうした点も踏まえて、ぜひ、マスメディアのあり方と今回の問題のかかわりにつきまして、本田参考人そして清川参考人から御意見をいただければと思います。よろしくお願いいたします。
○本田参考人 確かに、ある事件が大々的に報道されますと、それに続くような形でいじめ自殺というものが起こっていることは否定できないと思います。 ただ、ここは非常に難しい問題なんですけれども、報道すること自体はやむを得ない面もあるかと思いますが、報道の仕方が多分重要で、確かに、余りにも生々しいような写真などを掲載するということも控えるべきだと思います。 もう一つは、いじめられた側にも何らかの問題点があったというような認識が日本社会全体で強いこともありまして、そういうニュアンスの報道のされ方がされたりもします。また、さまざまな人がコメントでやはり精神論的な、私のレジュメの方で一番として否定してありますような対処の仕方というものを喧伝したりすることがあると思います。それは一層問題を深めるのではないかと思っておりますので、報道するとしても、できれば、ちょっと手前みそになりますけれども、私が三として提示しております方法での問題解決というものを提起するような、そういう問題の分析ですとか事例の分析ですとか、そういう形でやっていただければもう少し害が少ないかと思います。 以上です。
○清川参考人 私も、実はNHKでニュースの報道責任者を務めていたことがありまして、御質問の、事件の報道については極めて慎重にということを私自身が責任者のときもやはりやっておりました。したがって、ほかのメディアはわかりませんが、少なくともNHKに関しては、やはり子供の自殺あるいは自殺そのものに関して、非常にプライバシーを守り、誘発を起こすような刺激的な報道は避ける。今おっしゃったように、例えば遺書を映すとか、あるいは写真を映すとか、そういうようなことはできるだけ避けるという方向でやってきました。きょうはチャイルドライン支援センター代表理事の立場ですが、ニュース報道の責任者として、NHKとしてはそういう考え方でやっているし、今もやっていると思います。だから、それはメディアの側もある程度配慮はするわけですね。 しかしながら、これは先ほどほかの参考人もおっしゃったように、やはり事実を伝えるということも日本社会のひずみを伝える部分でもあるわけですね。そうすると、その伝え方の中で、真相といいますか背景というのか、今の子供たちのうめきとか悲鳴とか苦しみ、悩み、そういったものをもうちょっとつかむような報道の姿勢というのは必要だろうなというふうに思います。そういう意味では、報道自体をやめるのではなくて、報道のやり方の中で、今の子供たちの問題に迫るようなやり方が必要なんだろう。 イギリスのチャイルドラインでいいますと、年間数十万件集まるような子供の声を分析して、それで子供政策に即反映していくわけですね。子供たちのうめきとか悲鳴とか悩み、苦しみは、そういうふうに本音で、例えば私らの方でいえば今十二万件、イギリスでいえば百万件を超える件数が集まっているわけで、それを丁寧に分析する中で、子供たちの置かれた状況が、つまり、連鎖が起こるような客観状況が子供の側にもあるんだと。つまり、ちょっとしたきっかけがあれば連鎖が起こる。それは、火のないところにまさに煙は立たないわけで、火薬がないところに爆発は起きないんです。やはり火薬があるんですよ。 そのことを大人たちが、いじめは減ってきたとか、ふえていないというような文科省統計を信じるんじゃなくて、私たちのところには日々そういう声が集まっているわけですよ、チャイルドラインには。だから、あんな文科省の発表なんて全くのうそっぱちだというのは、もう僕らは実感として思うわけですね。減っているんだとか、なくなっているとか。だから、そういうことをどう客観的な政策に生かすのか、あるいは実態把握に生かすのかというあたりが、やはりまだこの国は未熟だろうなというふうに思います。
○松本(洋)委員 ありがとうございました。 もちろん、事実はしっかりと報道してもらうというのは何よりも大切なことでございますから、まさに報道の仕方という部分、その辺もまたマスメディアの方にもいろいろとお気遣いというか、いろいろと慎重に取り扱いをいただきながら、本当に社会全体としてこの問題の真相というものをしっかりと私たちが認識していくということが何よりも大切だと思っております。 もう最後でございますので、ちょっと一言だけですけれども、私は、いじめの問題等々の話を考えたときに思うことは、政治が果たす役割の重大さと、政治が果たせる役割の限界という両面を私自身は正直感じます。そう考えたときに、やはり民間の方々、地域の方々、子供たちのすぐそばにいる人々、こういう人たちと政治がしっかりと連携をしながら、行政の足らざるところを埋めてもらいながらこの社会というものをつくっていくという姿勢が、非常に今求められているんじゃないかと私は思います。 そういう意味合いにおきましても、ぜひ、四参考人の皆様方にはこれからも御活躍をいただき、また私どもにも御指導いただきますよう心からお願いを申し上げ、また感謝を申し上げまして、私の質問を終わらせていただきます。ありがとうございました。
○小宮山委員長 次に、田嶋要さん。
○田嶋(要)委員 民主党の田嶋要です。 きょうは、どうぞよろしくお願いいたします。 それぞれのお立場から、大変貴重なお話をお伺いいたしました。きょうは二十五分ちょうだいいたしましたので、まず、お一人ずつに各論、個別の質問を一つずつさせていただきまして、そして最後に全員共通の質問を二つさせていただきたいというふうに思います。 まず、個別の質問でございますが、森参考人の方にお伺いをいたします。 先ほどお話を伺っておりまして、先生御自身が校門に立ってハイタッチをされる、子供の心をつかむために具体的に校長先生みずから動かれておるということで、なるほどな、すばらしいなと思いました。 ただ、校長先生は小学校の校長先生でありますが、教育基本法の問題なんかもいろいろやっていてちょっと思ったことでございますが、小学校と中学校を比べますと、小学校というのは学級の担任制度というのがございますが、中学校になりますと教科担任という形で変わっていく。クラスという、先生とのつながりという意味ではやはり明らかに小学校なのではないかな、私自身の経験を思い出してみてもそういう感じがするわけでございます。 そういった観点から見ますと、今の小学校のクラス担任という制度が、やはり森先生が先ほどおっしゃったような、そういった子供の本当の生の心をつかむために重要だ、あるいは大きな役割を果たしておると感じるかどうか、その点に関しましてお伺いをさせていただきたいと思います。
○森参考人 時間も限られていると思いますので、端的にお答え申し上げます。 小学校と中学校の違いは、御指摘のとおり、学級担任制と教科担任制の違いがあります。学級ですと、例えば担任が一日じゅう子供を見ております。ですから、子供の動き、そして朝しかったら、帰るまでになぜしかったかを諭して帰すことができます。中学校ですと、教科になりますので、その辺ができないこともあろうかと思いますが、子供の側からすれば、好きな先生、何となく合わない先生、いろいろな先生と会うことができますので、どこかで自分らしさを出せる。しかし、先生との間でややこじれが起きている場合には、一日じゅうその先生との間で過ごさなきゃならないという苦しさが生じてくるかと思います。 そういう意味で、小学校の場合には、高学年に教科をかえて、いろいろな先生がいろいろな子供を見ようという試みをされている学校もあります。私のところではまだやっておりませんが、いろいろな先生がいろいろな子供を見られる。そして子供も、時間と時間の切れ目にけじめがつく。学級担任ですと、一時間目が延びても、その範囲の中で、次の時間で修復できますので進めることがあるんですが、中学校の教科担任ですとそれができません。つまり、時間に対してのルーズさがないわけです。小学校ですと、その辺が学級担任の裁量ですので、どちらかというと子供が時間に甘い形で中学に行く。中学に行くと、時間に大変厳しい。そこから、子供が時間に対応できずに、何か周りからそういう目で見られたりするような事態も生じております。 小学校のよさは、子供のいいところを、教科でなくて丸ごと見取れるよさがあります。中学校は、いろいろな先生が子供のよさやら欠点を見出しながら、そして全体で考えていくよさがあるように感じております。 以上です。
○田嶋(要)委員 一方的にどちらが劣っているとかすぐれているということではないというような御意見だったと思うんです。私、個人的には、小学校の中にも教科担任制をもう少しふやしていく時期に来ているんじゃないかなというふうな思いがありましたが、一方で、そういう小学校のクラス担任制のよさも、特に自殺件数が一番多いのは中学校、高校だと思いますので、そういったところに取り入れていかなければいけないかなというふうに、今お話をお伺いして感じました。 それから、次に本田参考人の方にお伺いをいたします。 先ほど、いじめの予防のための対策論ということで五つございまして、それぞれ、なるほどというふうに思いながら一つ気づいたことというのは、しかしながら、人間関係の固定性とか構成員の均質性等々、この五つのポイントは、実は昔から今日まで何も変わっていない学校の風景ではないかな。おっしゃるとおり、実社会とは全く違って、学校というのは同じ年齢の人たちがずらずらっといる世界でございますし、クラスが固定化しているという部分も、これは別に、この十年、例えばいじめが深刻化して、あるいはいじめ自殺が多くなってきたことと直接は関係なく、昔から学校現場の現実だと思うんです。 だからこそ、こういうふうに変えていった方がいいという提言はわかるのでありますが、しかし、いじめが激しくなってきている、社会問題になってきていることの原因というふうにとらえられるのかなというふうな感じもしたわけでございますが、先生のその点の考えをお聞きしたいと思います。
○本田参考人 確かに、おっしゃられますとおり、五つのポイントは昔から今日まで変わっておりません。昔は、このような五つのポイントを兼ね備えたような入れ物があって、そこに子供が入ってきて、いじめがあったかもしれませんけれども、今ほど陰湿なものではなかったかもしれません。しかし、今現状が変わってきておりますのは、このような五つの特性を兼ね備えた学校という場とそれ以外の外の世界との関係、あるいはそこの入れ物に入ってくる子供たちの変化というものが、やはり違ってきているというふうに思います。 つまり、かつてと比べまして今、外の世界というのは、先ほどもちらっと申しましたけれども、消費とか市場社会の進行によって、いろいろな選択というものが許される世界になっております。例えば、先ほどもいろいろ申しましたけれども、テレビ番組を選んだりとか着たいものを選んだり、そういう個人の嗜好とか個性とかいうものは外の世界では幾らでも選べるようになっております。しかし、学校というのは違うんですね。もっと非常に閉鎖性、固定性が強くて、外の世界ではいろいろな選択とか自由度が高くなっているにもかかわらず、学校が旧態依然としている。そこのところのギャップというものが生じているだろうというふうに私は思うわけです。 ですから、もっと学校の外の、市民社会あるいは消費社会、市場社会とかいろいろな側面がありますけれども、そこに今、かつてと比べてどっと生じてきている変化の一部分を、それと見合うような形で学校の中にも導入するということが、学校の中と外の余りにも大きなギャップを緩和していくために必要だろうというふうに考えて、このことを申しました。
○田嶋(要)委員 ありがとうございます。 続きまして、清川参考人の方にお伺いいたします。 チャイルドライン、きのうも勉強会に参加をさせていただきまして、大変すばらしい活動というふうに、しかし、今直面しているチャイルドラインの問題、何とか私も微力ながら解決できるように頑張りたいなというふうに思ったところでございます。 電話件数の一割ぐらいしか、この一週間のフリーダイヤルの期間も対応できていないということですね。子供が電話をかけるという行動をとること自体、大変に勇気の要ることだと思うんですが、しかし、現実、大人社会が一割しかそれを受けとめることができていないということ。すばらしい活動が、もう少し何か工夫をすることによって、もっと効果のあるものにできるんじゃないかなというふうに、きのう痛感をいたしました。 それで、先ほどお伺いをいたしまして、チャイルドラインとは直接は関係ございませんが、ノーメディア運動というお話、脳科学ではもうほとんどすべての学者がという御指摘がございました。 それで、ずばりお伺いをしたいわけでございますが、こういった話があると必ず、例えばアニメをやっている産業界とかから、けしからぬとかいろいろ話も出るわけで、何が本当に真実なのかなというふうに思う反面、やはりちょっと行き過ぎているのかなとか、いろいろなことを感じるわけでございますが、清川参考人の御意見としては、ずばり、もうそろそろ社会がそういったことにアクションをとるべきだというふうにお考えかどうか、その点をお伺いしたいと思います。
○清川参考人 よくぞ聞いていただきました。 まず、今委員がおっしゃったチャイルドラインへの支援の議員連盟の多くの方々、百名を超える多くの方々からいろいろお力添えをいただいています。そのことに、この場をおかりして改めてお礼を申し上げると同時に、御質問の子供たちの脳の問題、これは、文科省の初等中等教育局の教育課程課長の常盤さんが、去年、自分たちが発行する雑誌に、日本の子供たちは世界一接触時間が長いということをみずから冒頭論文で書いているんですね。平成十七年四月号です、文科省発行。つまり、日本の子供たちというのは、もう客観的に見てもそういう状態にあるんだ。 それで、もう一つは、先ほど具体的に言いましたように、乳幼児期に、おっぱいを飲ませながら母親がテレビを見、ビデオを見、あるいは携帯でメールを打っているというようなメディア漬け、あるいは二、三歳時に自分の子供にテレビゲームを買って教え込むというようなメディア漬けが行われている。これはもう世界に例がないわけですよ、日本は。しかも、先ほどこのポスターもごらんいただいたように、そういうことが子供たちの脳の、特に前頭前野という自分の感情や欲望を制御したり、相手を思いやったり、それから未来を予測したりする脳の働きを妨げているということもはっきりしているわけですね。 そういう意味で、今、本当に全国的に始まっています。先週も、私は、松江で開かれた全国学校保健研究大会に呼ばれて、基調講演でそのことの大事さを全国の千五百人の教育委員会あるいは学校保健関係者、それから学校医の皆さんに訴えました。あるいは、その続きで、東北六県と北海道の県の教育委員会の担当者にもそのことを訴えました。各地で今、ノーテレビ、ノーメディアの運動が始まっています。 これは、産業界が、例えば総務省がテレビ局をどうするとか、経済産業省がゲーム業界をどうするという話はそれぞれにあるわけですね、産業育成という観点からの政策は。でも、子供という、脳神経回路が成立していく時期、あるいは親子の愛着がきちんと形成されなければならない時期、あるいは言語形成期という言葉の力が獲得されなければいけない時期をどう子供たちが過ごすのか、あるいは一生自分の体を支える足の働き、それから背骨を支える筋肉の背筋や腹筋、これをいつの時期に人間は育てるのか、そういう人間が育つ上で臨界期と呼ばれる絶対必要な時期があるんですね。その時期に何が必要なのかということを科学的に訴える必要があるわけですよ、親にも、教師たちにも、地域の方々にも。 そのことを、私は、実はNPO子どもとメディアの代表理事という立場もありまして、あるいはNHKの放送文化研究所でそういう研究を二〇〇一年からやっているということもあって、そういうことの必要性、特に乳幼児期が非常に大事で、小学校一年に上がるときは結果が出ているんですね。東京都内のデータでも、特別支援が必要な子がこの四年、五年の間に二倍にふえているんですよ。もう小学校に上がる段階で侵されている。そういうことがあるので、特に大事なことだというふうに私は思っております。
○田嶋(要)委員 ありがとうございます。 我が家でもテレビは余り見せないようにしているんですが、親戚のところに行くと、やはりおいっ子なんかはもうビデオをばあっとやっているのを見ていて、大丈夫かなという気持ちを私も個人的には持つことがあります。 それと、余談でございますけれども、幼稚園の子供の運動会なんかに行くと、驚くのは、ほとんどの両親が今、幼稚園の運動会を裸眼で見ていないんですね。穴の中からのぞいている親ばかりなんですね。それが悪いとは言わないけれども、非常に不思議な光景というか、そんなような印象も個人的には持ちます。 それでは、最後の内田参考人の方に個別の御質問でございますが、先ほど、居場所を失った子供たちのデータがございまして、第三位がいじめということでございます。私が問題視したいのは、第三位がいじめでございますが、その子供たちが考えたことの一位に自殺が挙がっているわけでございます。 いじめということと同時に、最近、日本のマスコミでは、いじめ自殺という言葉も一つの語彙として成り立っているぐらいよく見かけるわけでございますが、果たしてこれが世界共通の、先進国なら先進国共通の問題なのかどうか。日本は八年連続で三万人を超える自殺者がある。要するに、国民全体の中に、自殺を非常に身近なものと言うと変なんですけれども、そういう空気がやはり国民性としてあるのかどうか。そういう意味では、ここで出ている第一位の自殺というのが日本に非常に特異な状況なのかどうかということを、御存じの範囲で教えていただきたいと思います。
○内田参考人 世界の全体の動向がどうであるかということについては、データ的には詳しく持っておりませんけれども、やはりいろいろな国で子供の自殺が問題になっているというふうなことは聞いております。ただ、それがいじめ自殺かどうかということについては、必ずしも定かではありません。 マスコミ報道なんかをもとに、いじめの連鎖の問題が言われておりますけれども、きょうお配りした資料の中で、最後のページに入っておりますけれども、「子どもをめぐる二〇〇五年のおもな事件、動き」を見ていただきたいと思うんですけれども、去年も実は子供たちのいじめをもとにした自殺というのは続いております。九月、十月あたりはかなり多発しております。そして、社会でいじめの問題がクローズアップされる前、去年の八月末からことしの二月まで、長崎県で子供の自殺が九件続いて起こっているとか、それから山形県で、ことしの一月から五月末までに、要するに子供の自殺、十代の自殺が八人あって、昨年一年間の七人を超えているとかいうふうなことがありまして、日本の社会ではやはりそういういじめ自殺という問題が社会構造的に起こっている状況があるんだと思いますので、数字をいたずらに比較するよりは、やはり今まで起こってきていることについてきちっとスタディーして、それがどこから来ているのか、子供たちがいじめを訴えて命を絶つのはなぜなのかという、むしろそちらの方を過去の実績からきちっとスタディーすることが必要なのではないかと思います。 一九八〇年代の半ばに鹿川君が命を絶ったときに、報道がすごく大きく扱った時代がありました。ちょうど十年くらいたって一九九〇年代半ばに大河内清輝君の自殺があって、そのときにまた世の中ですごく大きくその問題について論議いたしました。そして、ちょうどほぼ十年たったこの時期にいじめ自殺の問題がまたクローズアップされております。そういう点で、もうちょっと構造的な問題を、ロングに引いて、過去の経験とともにスタディーすることをぜひしていく必要があるのではないかというふうに私は思っております。
○田嶋(要)委員 どうもありがとうございます。 それでは、残すところ十分弱でございますが、それぞれの方から、共通の質問に対するお考えを二点お伺いしたいと思います。 いろいろ考えますに、私は、日本の社会というのは大変ストレスの多い社会なのかなという感じを個人的には持っていまして、私個人的には、アメリカに五年、フィリピンという途上国に五年、延べ十年ほど海外暮らしもして、相対的に比較をするとやはりそんな感じがあるのかなと。英語でもピアプレッシャーという言葉がありますが、やはり周りと均質じゃなきゃいけないとか、そういう圧力というのは、よその国でもあるかとは思うんですが、日本は特にそれが強いのかなというのがこのいじめの問題にも出てきているような気がいたします。 そこで、一つ、私自身が個人的に思っていることに関してどのように思っておられるか、それからもう一つは、政府への提言ということをお伺いします。 まず一つは、日本はもうちょっと全体にゆったりとした生き方に形を変えていくべきだと思っておるんですが、中でも寿命が世界一長い国でございます。そういった中で、これまでの教育のあり方も、ずっと昔から同じ固定化した状況なんですが、特に幼児期から小学校にわたる時期に関して、もう少し時間を長目にとったらどうかなというようなことも思います。 安倍総理が、大学を九月からにしてという話で、その間にボランティアという話、私もそれに似たようなことも思うことがあるわけでございますが、社会に出る前にいわゆる生きていく力ということももう少し必要かなと思う反面、こういういじめの問題に対応するには、もっと早い時期から、まさに先ほど清川参考人がおっしゃったように、私も同じ意見ですが、家庭における人間力とかいろいろなものを身につけることの機会を多く与えられないままに、学校というところで勉強しなきゃいけないということで、私はそれを準備不足というふうに呼んでいますけれども、人間関係とか準備が昔の子供に比べたら十分できていない、そういうことがやはり根底にあるのではないか。 そこで、ほかの諸外国の義務教育の期間を見ますと、日本は九年ですが、カナダとフランスは十年、そしてイギリスは十一年あるわけですが、私は個人的に、ひょっとしたら、科目を教える前にもうちょっと生きる力を教える、それが家庭でできないのであれば外部化せざるを得ない、となると、例えば小学校一年生ぐらいのところでやるという必要もあるのではないかということで、例えば学校の、国の責任でもってしっかりやっていく義務教育の期間をもう少し延ばしていって、その中で、勉強ということ以外に、生きる力をもう少し身につけさせる時間をしっかりとっていく必要が、家庭ができない分、なるべく早い段階で学校の教育の中でやるということにはどのような御意見があるかということ。 それからもう一つ、ずばり、先ほど、国がやるとチャイルドラインの方に行かない……
○小宮山委員長 あと五分なので一つに絞った方がよいのではないでしょうか、委員長から言ってはなんですが。
○田嶋(要)委員 済みません。申しわけないです。 では、その一点だけ、御意見を賜りたいと思います。
○森参考人 お四方が答えられますので、簡単にいたします。 早く早くという親の言葉、教師の言葉が子供の自主性をなくしております。そのことは感じております。 御質問された内容については、まだ考えたことがありませんで、ここの場では控えさせていただきます。
○本田参考人 私も、若い人たちに非常にゆとりがないということは常々感じております。 特に、ゆとりがないということも確かなんですけれども、つまり、中学校二年になったら受験の準備、高校三年になったら受験の準備、大学になれば三年生のときからもう就活に向けて準備をするということがありますけれども、そういうタイムスケジュールがきっちり決められていて、それにせき立てられているということも大事なんですが、そこから外れるということに対してまなざしが物すごく厳しいということが、とても日本社会の固有性であり、問題点であると私は思っています。そこから外れて別の道を通った人に対して、例えば年長フリーターの問題が今上がっていますけれども、再チャレンジの道がないような非常に硬直的な社会だというふうに思っていて、そこが問題だと思います。
○清川参考人 私も諸外国の教育を取材したことがあるんですが、例えばイギリスだと、十八歳で大学に受かるとギャップイヤーという一年間の選択制度がありますね。今、三分の一ぐらいの学生たちがボランティアをやったり働いたり、一年間の猶予期間を使って社会的な力を身につけて大学へ行く。大学に行った成績はそっちの方が高いという検証結果も出ているんですね。日本は、そういう意味では、非常にぎちぎちの教育制度になっているということを同じように一つ僕も感じます。 同時に、義務教育が、やはり九年間の中で、言ってみれば、余りにも大学を受けるための準備教育になっていて、例えばスウェーデンの義務教育の中には自由選択科目というのがあって、カメラだとかチェスだとかダンスだとか釣りだとか、地域の人たちが教えてくれる、社会人として近所の人と悠揚に向き合える力を育てる、そういうのを義務教育の正式の科目にしているんですね。 だから、そういう意味でも、学校教育のあり方自体を、今度の未履修のこともありますけれども、やはり根本的に見直す必要があるだろうというふうに私も考えています。
○内田参考人 家庭にゆとりをというのは、全く私も同感です。 そういう点でいいますと、乳幼児の子育て現場、保健所で私は三十数年子育ての相談をやってきております。その中で、一番ゆとりがないのは確かに乳幼児を育てる家庭なんですけれども、働き方を余裕を持って、これは社会の方ですけれども、父親を子供が起きて生活する時間帯に家庭に帰していただきたい。それから、働く母親たちが子供とともに過ごせる時間をちゃんと持てるように、ゆとりのある生活ができるように働き方を変えていただきたいというふうに思います。 それと、ゲーム脳とかいろいろお話が出ましたけれども、私は現場で、地域の三つか四つの保健所の全部のお母さんたちに直接間接に会っているんですけれども、ここで言われたようなことは、確かに一部はあるかもしれませんけれども、大多数の方々はそういうことはなく、ちゃんと育児、子育てに一人で責任を引き受けながら苦労してやっているということを、現場の経験からぜひお伝えしたいというふうに思います。
○田嶋(要)委員 一分余りましたので、では代表して森参考人の方にお伺いを、二番目の質問ですが、いろいろあると思うんですが、ずばり、政府にこれを具体的にやってほしい、要するに、逆に言えば、先ほど官はいろいろ限界もある、けれども政府にできることとして、こういう具体的なことが一番必要だというのがもしありましたら、お答えをいただきたいと思うんですが、具体的に。
○森参考人 正直難しいなと思っています。そこまで考えなきゃいけないんでしょうが。 学校の経営をやっておりまして、学年の段階を変えたらどうかとか形態を変えたらどうかとか、いろいろありますが、自分の思いは、先ほどの話に戻りますけれども、要は、一人一人の教員の資質のようなものがしっかりと高まっておれば、これまでの形でできていくんじゃなかろうかなという古い考えを持っております。余りにも今、形を変えること、外を変えることによって、さも変革をしているような誤解も生じておりますが、本当に大事なことというのは何なんだろうかと。 ちょっと長くなりますが、イナバウアーで荒川選手が金メダルをとりましたが、彼女は点にならない、もちろん点数を得なければ金メダルはとれなかったわけですが、加点されないことを知りながら、本来自分のスケートを取り戻すためにイナバウアーを取り入れたと聞いております。そういうことが教育の世界にもあるんじゃなかろうか。点数を求め、成果を求めていく中に何か本質的に大事なもの、失ってはいけないものがイナバウアーのようにあるし、今の形態でできることというのは何かと考える道も一つあるように思います。 政府へお願いするというところまで考えないためにこんな言いわけをしましたが、お許しいただきたいと思います。
○田嶋(要)委員 どうもありがとうございました。
○小宮山委員長 次に、津村啓介さん。
○津村委員 きょうは、お越しいただきましてありがとうございます。民主党の津村啓介と申します。 国会ですので、どちらかというと日ごろマクロ的に物を見ることになれておりますし、以前、日銀というところでマクロ統計ばかり見ていたものですから、どちらかというと、お話の中で、本田さんの、全体像といいますか、いろいろ社会のあり方そのものを分析される、こういった手法といいますか視点を提供していただいて、私から見ると非常にわかりやすかった、なるほどなと思わせていただきました。 その一方で、あとのお三方、逆に私が日ごろ余り経験していない視点といいますか、国会議員は現場を大切にするといいながらなかなか手ざわり感を持てない中で、大変貴重な視点をいただいたなと思っております。 先ほどマスコミ報道の話もありましたけれども、個別の事例が余りにもショッキングですから、ミクロの、ミクロという言い方がいいのかわかりませんけれども、どうしても個別の事例に大変興味、関心が向きがちで、その分少し引いた議論というのが、社会の中長期的な大きな流れというような議論がともすれば失われがちで、そういったマスコミ報道の問題というような話も、先ほど他の委員からの御質問に皆さんお答えいただいたのかなというふうに思っております。 そうした中で、私からは、地域社会の問題と教育行政、時間がありましたら教育基本法のことも含めて伺ってみたいと思っているんですが、その前に、一つ内田さんに、個別のことで、データの見方をお聞きしたいなと思っております。 いただいた資料の中の六ページに、「不登校の子どもたちの推移」ということで、この三十年間、不登校の子供の数がばあっとふえてきている数字が出ております。何となく実感と近いような気もするし、一方で、DVなんかもそうなんですが、社会的に問題が大きく取り上げられればられるほど、従来から潜在的にはあったものが統計的には急にふえたように見えるというケースもありますので、そういう視点も含めてこの評価をお伺いしたいのと、それから、先ほど学校を休む権利というお話をされました。ある意味では、これだけ不登校がふえている、引きこもりがふえている状態というのは、子供の選択肢がふえているという、先ほどのお話の流れからすれば、前向きな見方もできるのかなという気もしますが、この数字をどう評価されるのか、お聞きしたいと思います。
○内田参考人 先ほど十分にお話しできないところを補足できる形で質問いただきまして、ありがとうございました。 子供の数が減っていく中で、登校拒否、不登校の子供たちがふえていく。下の線、初期の統計は、一年間に五十日以上断続で休んだ子供たちの数をとっています。それから、一九九〇年代から、年間三十日以上の子供たちの数を小中学校とっております。五十日から三十日になぜ変わったのかといいますと、これは、文部省が不登校問題についての専門家会議をつくって不登校についての対応策をいろいろ打ち出しました。その結果、対策をすることによって行かない子供たちがふえていくという期間が一九九〇年代から二〇〇〇年代まで逆に続いております。 実を言いますと、不登校、学校を休むことは問題だという認識が家庭でも学校でも社会でもすごく広範に広がったために、今までいろいろな事情で休めていた子供たちがこの間非常に休みにくくなっているというふうなことがあります。 今子供たちは、病気とけがと忌引以外は学校を休むことができません。大人たちは年間二十日間の有給休暇を自己都合でとれますけれども、そういうことが子供は一切許されていないということと、親御さんも休ませられない、それで、学校も三日休んだら家庭訪問をする、それから実態を教育委員会に上げるというふうな状況がずっと進行しておりますので、むしろ対策が休めない構造をつくって、社会的に不登校に対する誤解や偏見をつくったというふうなことがあるように思います。 そういう点でいいますと、次の資料で、「国・公・私立小中学校の不登校児童生徒数・出現率の比較」というのが、十六年度と十七年度のが資料として出されておりますけれども、今までは各県ごとの実数を出していましたけれども、千人当たり何人不登校がいるかという形で、各県の状況が比較できるようなデータが十六年度から出るようになりました。そして、この数字をめぐって各県ともに不登校の数を減らすというふうなことにとても真剣に取り組むようになりまして、そういう点でも、子供が休みにくくなっているという状況がふえてきているということがあるように思います。
○津村委員 この不登校の子供の推移、最近五年ほど減ってきているわけですが、実はそのこと自体問題なのかもしれないという視点をいただいたのは、大変示唆に富む御指摘かなというふうに思います。 少し大きな話をさせていただこうと思います。 私個人のことで申しわけないんですが、七一年生まれでして、この数字がちょうどボトムのころ私は小学校に入ったわけですけれども、ちょうど私と同世代の、先ほどお話が出たように思うんですが、中野富士見中学の鹿川さんですかね、彼が多分私と同い年か一つ上ぐらいなんです。いじめ問題というのが最初に大きく取り上げられたころ、これは自分たちの世代の特異な現象なのかな、自分たちはおかしな時代に教育を受けているのかなという戸惑いを覚えた記憶があります。しかしながら、その後、今私の同世代の人たちが逆に親の立場になる、一世代時間が過ぎていったわけですが、引き続き問題は大きくなっているのかもしれません。 いじめのテーマを議論するときにいつも私は戸惑うんですけれども、ぜひ皆さんに後で個別の質問の中でこの疑問に答えていただきたいんですが、私は、一体教育の現場にどういう変化が起きていて、それはどう評価すべきなのか、いじめの問題を今扱っているわけですからネガティブな評価が多くなるのはどうしても仕方ないんですが、恐らくポジティブなものも含めていろいろなことが起きているんだろうなと思うんですね。そこの、ネガティブなところばかりに目が行って、その対策を打とうとすると逆にゆがむのじゃないかなということも感じます。 今、例えば核家族化とか都市化とか少子化とか、こういった社会の大きな変化が、先ほど本田さんのお話にもありましたけれども、既存の学校という器を居心地を悪くさせている。外の、外部的な社会の大きな変化が学校に対してプレッシャー、ストレスになっているという変化があるとすれば、その核家族化とか都市化とか少子化というのはこれから果たして変わっていくものなのか。この流れを変えていくことがもしできないんだとすれば、それは対策の立て方というその哲学も変わってこなければいけないと思うんですね、抽象的なことばかり言ってあれなんですけれども。 もう一つは、行政にとって果たしてコントローラブルなものなのかどうなのか。行政が何をできるのかということも少し鳥瞰してみなければいけないのかなと。 それからもう一つは、先ほど核家族化、都市化、少子化のことを言いましたけれども、これは社会にとって過渡的な現象なのか、それともこれからずっと続いていくものなのか。私は実は、もしかして過渡的なものなんじゃないかという気がしていて、それはなぜかといいますと、本田さんの分析で、均質性とか閉鎖性とかいうことがありましたけれども、これが社会全体として、社会の流動化していく、人の流れが激しくなっていくという中で異質なものを少しずつ受け入れていく、これからもっともっと日本はいろいろなものを受け入れていくのでしょうが、その過渡的な、まだまだ均質性というものへの憧憬といいますか、そういうものが気持ちの中で残っている中で新しいものを受け入れていく、その戸惑いのあらわれなのかなという気もします。 そういう意味では、日本がこれからより多様な社会になったときに実はこの問題というのは少しずつ薄れていくものなのかなという気もします。その辺、ちょっと大きなことを言いましたが、少しずつ伺わせてください。 一つは、地域社会とのかかわりの評価です。地域社会の崩壊がこういう事態を招いているという御指摘が先ほどからありますが、それはそうかもしれませんけれども、実際に最近の自殺のケースを見ると、奄美大島であるとか新潟のある村であるとか岐阜県の中小都市であるとか、意外と地方都市にも多く発生しているんですね。決して都市部での固有の現象ではない。これは地域社会とのかかわりという意味でどういうふうに評価していけばいいのか、まず皆さんに伺いたいと思います。
○森参考人 大変、私たちの学校にも課題となることを御指摘いただいたように思います。 地域社会との関連につきましては、私ども学校は、これまで学校へ地域の方をというところから、逆に地域の方へ出ていこうと。それから、地域の方々のまとまりをもしかしたら学校でもつくれるかもしれない。地域のまとまりというのは、ある一つの活動を起こさないことには、まとまりましょうということだけでは現実化しないと思うのです。 例えば、幾つかの学校を歩きました。最初の学校は、地域が新しいところでございましたので、非常にまとまりがなく、イベントも活動も少ないような気がいたしました。そこでは、何かのイベントをやりましても参加が少ないというようなことを感じておりましたし、地域の方もおっしゃっておりました。今おりますところは、非常に地域の活動、例えば運動会あるいは防災運動にしても、たくさんの方々が出ていらっしゃいます。それだけ子供に対してあるいは学校に対しての願いを強く感じることができて、学校としては非常に張り合いがあるのですが、その中に、そういう地域であるからこそ、我々は地域の清掃活動というものを取り入れて、そこに地域の方も入っていただいて、地域の方もまとまる活動として学校の活動をとらえていただきたい、そんなふうなことを進めております。 子供によっては、トイレのスリッパの脱ぎ方等、できない子もおります。修学旅行なんかに行きますと大変乱れてまいりますが、ある子供が私と一緒に入ったときに、出るときにちょっとそろえていると手伝ってくれて、ああ、これを先生、出船の形というんですねと言いました。彼はお年寄りと一緒に住んでおります。 そういう伝承すべきよきものは、やはり家庭の中からつくられていくんだと思いますし、そういうお年寄りの方々の持っているすばらしさ、伝承、みんな違ってみんないいではなくて、みんなが同じでなくてはならないこと、それもあろうかと思いますが、そういうものを取り入れていくのがお年寄りの方々の力だと思いますし、それを引き出すのが地域の連携だと思います。そこに学校として今少しずつかかわるように努力しております。そういう学校は全国に多いと思います。 以上です。
○本田参考人 地域社会について御質問だったのですけれども、確かに、最近のいじめ自殺などは地方に多いように見受けられます。そういうことを考えてみますと、既に、日本の大都市ではある程度、価値や場の多様性みたいなものが現実として存在していますし、それに対する容認するような意識みたいなものもそれなりに確保されているのかもしれないと思います。済みません、これもデータに基づいておりませんで、印象で申しておりますけれども。 つまり、都市の場合、仮に学校で居場所がなかったとしても、学校以外の、例えばいろいろな習い事の場がありますし、若者を対象とした遊び場もありますし、そもそも大都市であれば、雑踏に紛れることによってむしろ安心に過ごせることができるかもしれません。つまり、言いかえると、健全な不透明さのようなものが都市では確保されているのではないかと思うんですね、どのようにでもあり得て構わないというような。 ところが、家庭と学校が一つのバリュー、一枚岩的な価値観みたいなものを形成していて、一方で、子供たちの中には、例えばメディアなどを通じてある程度多様な価値観が入り込んできている場合には、子供たちの実態とずれた、不健全な透明さのようなものがいまだに要求されるような環境があって、そこが非常に子供たちにとってプレッシャーになってきているのかもしれないと思います。ただ、これは推測ですけれども。
○清川参考人 私は、全国のいろいろな学校とか地域学校保健会でいろいろな調査をやってもらいながら、いろいろな活動をやっているんですが、子供の一日の歩行歩数は、大都市の方が多くて農村部、山村部は極めて少ないんですね。安心、安全の中で、過疎化の中で、つまり、今一個一個の子供たちの距離が広がっているんです。そして、子供たちはどうやって過ごしているかというと、孤独に過ごしているんですよ。 つまり、どちらが孤独かといえば、かつては、実は農村の方が地域社会の濃密さがあったと言われましたが、今は、ろくに友達のうちに遊びに行くことさえできない。安全、安心の問題もあって、車がなければ友達のうちにも行けない。一日、たばこを買いに行く大人が車で行く、買い物に行くのも全部車で行く、中学校の送り迎えは全部車、そういう生活が実はむしろ農山村にあるというのが実態として一つありますよね。 その結果、例えば、私がしょっちゅうテーマに申し上げるメディア接触時間も、都市と農村とを比べると農村の子供たちの方がメディア漬けなんですね。そういう意味で孤独な、つまり、深い、濃い人間関係は、実はもはや農村の過疎化の中で農村部にもなくなりつつあるんだ。意識的にそういう場をつくらなきゃならない時代が始まっている。 都市の場合は、これは、はっきり言って教育扶助率、生活保護率と見事に相関がありまして、経済的な格差と子供たちの生活内容の格差がリンクして二極化が起こっているように思えます。そういう意味では、単純に都市、農村というふうには言えなくて、過疎の進む中で、むしろ深刻な状況が農山村から始まっており、それから都市、特に、具体的に東京なんかでいっても、そういう生活保護率とか教育扶助率が高いエリアはさまざまな子供の問題が出ているという状況があるということをお話し申し上げておきたいと思います。
○内田参考人 御指摘のとおり、地方での子供が命を絶つというのは都市部より多いというのが私の実感です。それから、命を落とした子供たちの家庭に私も何軒か弔問に訪れたことがあるんですけれども、駅におり立ちますと、田園風景が広がっていてトンボが飛んでいる、そして本当に子供の姿が見えない、そういう地域で子供たちが命を絶っているということが実際に経験としても実感いたします。 思いますのに、やはり日本の社会はすごく学校的な価値観が市民社会を覆っているということがありますけれども、そういう意味でいうと、学校化された価値観が地域全体を覆っていて、地域の価値観にもなっているというふうなことがあるように思います。 きょうお配りした資料の中の二ですけれども、6の(4)のところに、鹿児島県の奄美大島で中学一年の女のお子さんが自殺未遂を図ったことについて記事の要約を書いておりますけれども、九月から不登校になった子供の家庭に男性教諭が上がり込んで、その女の子が寝ている布団をかぶって一泊二日の合宿に行こうというふうなことを働きかけている。それで、そこに学校に行かなかったもう一人の子供も連れていっているわけです。そして、その先生がそういう働きかけをした直後にこの子は自殺未遂を図っております。 そういう点で、学校的な価値観あるいは教育行政がする指導が本当にストレートにすとんと落ちていくのが地方だと思います。そういう点では、学校文化以外の地域の豊かな文化をどうつくっていくかというふうなことが問われているのではないかと思います。 市民の集まり、親御さんの集まりなどに呼ばれて行って、その方たちがまず口にするのは、この地域は教育的にはとても封建的なところです、保守的ですというふうにどこの地域に行っても言われます。東北地方に行きますと、この地域はそれプラス閉鎖的なんですよ、教育環境に関してはそういうことがあるというふうによく言われます。私は、若いころ、教育というのは進歩と発展をもたらすものだというふうに思っておりましたけれども、むしろ地域の中では、教育が閉鎖的、封建的、保守的な機能を果たしているという現実があるように思います。
○津村委員 それぞれの御経験からいろいろと貴重なお話を伺うことができました。 今のお話を聞いていても私は改めて思うんですが、やはり社会の人口変動とかあるいは人の流通の頻度とかあるいは過疎の問題とか、そういうさまざまな社会の構造変化というものと絡めてしっかりとこの問題を分析していかなければ、対症療法的なことは即効性がありますから非常に重要ですけれども、やはり中長期の視点というのは、これは教育社会学を専門とされている本田先生を初め皆さんにぜひ分析を深めていただいて、またさまざまな視点を提供していただきたいなと。 単に核家族化あるいは都市化ということ、あるいは少子化ということであれば、それは、現代日本社会においては大きな変化でありますけれども、恐らくこの十年、二十年の間に一定の安定した姿になると思うんですね。人口ピラミッドの変動も、今大きいだけであって、いいか悪いかは別として二、三十年後には定常状態になるでしょうし、また、過疎化の問題にしても都市化の問題にしてもそういったところはあると思います。私は、変化のベクトルが激しいところにこうしたひずみが生まれるんじゃないかという、これは直観的な仮説ですけれども、ぜひ検証していただきたいなというふうに、僣越ですが、課題かなというふうに指摘させていただきます。 そうした中で、少し教育行政の話を、もう五分しかないそうですから、駆け足で伺いたいと思います。 この三十年間で教育環境というものがどう変わったのか、そして教師の質ということ、私は必ずしもネガティブに聞きたいわけじゃないんですけれども、どういうふうに変わったのか。教育現場の主な変化として、私が学校時代からの変化だけでも、例えば週五日になった、あるいは総合学習の時間というのが、私はどんなものか余りわかっていないんですけれども、自分たちのときにはなかった。ゆとり教育と大きくくくってもいいのかもしれませんが、こういう学校現場の制度変更が教育環境にどういう影響を与えているのか、いじめ問題にどう影響を与えていると評価されるか、伺ってみたいと思います。
○小宮山委員長 では、それぞれコンパクトにお願いをしたいと思います。
○森参考人 今おっしゃったとおり、学校五日制になったこと、総合が始まったこと、これは大きいと思います。 そのねらいは、子供たちが主体的に生きていくということを願っておるわけで、自分の力で問題を解決していく力、これは生きる上で大事なことだと思いますから、大変なすばらしい成果が生まれると思っておりますが、今、成果を求め過ぎる動きと、それから保護者の願いが非常に強いこと、そして教育に精通した地域社会、保護者がふえたことによって、教師の方では、ある意味では、追い込まれているというんでしょうか、真剣にやっていくことがよさなんですが、ゆったりした構えで子供にかかわる部分のようなものが、もしかしたら少し減っているかな。常にぴりぴりしながらかかわっている、保護者の理解を得るのに結構労力を要しているという部分を感じます。
○本田参考人 今の御指摘と同じことなんですけれども、まず五日制によって、あるいはそれに加えて、八〇年代後半から九〇年代後半まではゆとりあるいは個性重視路線で来たところに学力低下問題が発生して、今度は学力もということで、今ゆとりも学力もという二重のプレッシャーが現場に加わっているわけで、それが未履修問題の背景にもあったりしているわけですけれども、つまり、学校というものがいろいろな役割を今過剰に抱え込まされて、もうきゅうきゅうとしている、特に、教員という存在が極めて忙しくなっているということは確かだと思います。 また、先ほど来何回か言及しておりますけれども、これまでの日本社会においては、勉強しておけば、いい学校に進めて、いい大学に進めて、いい会社に行けて一生安泰というような価値観がある種通用していたんですけれども、そのような形での展望というものを生徒に示せなくなっている。つまり、例えば受験学力的なものを身につけた先に何があるのかということに関して、生徒を動機づけしにくくなっているという点でも、非常に学校という組織の存立が今いろいろな面で難しくなっている。教師の方たちはとても大変だろうというふうに思います。
○清川参考人 三つぐらいの点で申し上げます。 一つは、委員も御指摘のように、社会の高学歴化が進んで情報化が進みました。学校という地位、教師という地位が社会的に地盤沈下を起こしています。つまり、敬えない、学校を子供たちも親も敬っていない、教師も敬っていない、それはほかで得られるからなんですね、情報とか価値が。そういう意味で、学校という位置が社会的に相対的に変化した、この五十年、四十年でいえば。それが第一点です。 第二点は、この国は、世界で例がないほど義務教育にお金をけちっている国。OECDの中で、対GDP比三・五%、これは文部科学省が発表したデータです。世界で、三十カ国の中で最下位なんです。つまり、GDPに対して次世代育成に最も金をかけていないのが日本という国。したがって、最大、クラス上限が四十人なんということをいまだにやっている国は日本しかない。そういう意味では、十九世紀型がそのまま残っている世界に例がない国。 しかも、小泉総理の五年間でいうと、三・一兆円の公教育費が一・九兆円に減らされている。ただでさえ最下位だったのがさらに減らされ、この間、イギリスのブレア首相は三兆円を六兆円にふやしているんですね。つまり、そういう諸外国の動きと比べて、次世代育成に金をかけているのかいないのかというあたりが明確に違いが出ているというのが二点目です。 もう一つは、さっきも申し上げた価値観の単一化です。学校という社会が、駆けっこが速い、けんかが強い、あるいは歌がうまい、お遊戯が上手、絵がうまい、いろいろな価値が多様にあって子供たちが生き生きできるのが、実は息苦しくなってきている、一つの価値観になってしまった。それがこの五十年、四十年の変化だというふうに思います。
○内田参考人 いろいろな面で学校が変わってきているということの一つの例として、これは養護教諭の先生に聞いたんですけれども、朝おなかが痛いというふうに保健室に来る子供たち、朝食を食べていない。先生は冷蔵庫にインスタントみそ汁を入れておいて、それを子供に飲ませると、顔色もよくなっておなかも痛くなくなって教室に戻っていくというふうなことがよくあると。 そして、ではそのインスタントみそ汁をどなたがお金を払うんですかと言ったら、それはポケットマネーです、これをちゃんと請求したら、むしろ、いろいろ人事評価とかそういうところで、やっていることができなくなってしまうかもしれないということをおっしゃっていました。そういう点では、先生方が自分の自由裁量でできることがうんと狭まってきているということ。 もう一つ、すごく家庭の貧困化が進んでいる部分があります。保健所の乳幼児相談のときに、赤ちゃんが大きくならない、おっぱいが飲めない、夜泣きがひどいと言うので、いろいろ話していて、お母さん、食事を何回食べていますかと言ったら、一回しか食べていませんというふうにおっしゃっていました。そういう点では、持てる社会というふうに言いますけれども、持たないと生活できない社会の中で、非常に子育ての部分が厳しくなっているというのが現状じゃないでしょうか。
○津村委員 本田さんに最後に一問だけ聞かせてください。 今、教育行政は大きく変化しようとしております。今回の教育基本法、もし改正された場合はいじめ問題にどういう影響があると思いますか。
○小宮山委員長 本田参考人、手短にお願いします。
○本田参考人 私は、教育基本法が改正されたといっても、現場はほとんど変わらないか、あるいはプレッシャーを高めるだけではないかと、やや危惧する気持ちで見ております。
○津村委員 ありがとうございました。
○小宮山委員長 次に、伊藤渉さん。
○伊藤(渉)委員 公明党の伊藤渉です。 本日は、お忙しい中、四人の先生方にお越しいただきまして、大変ありがとうございます。 まず、私のスタンスといいますか、いじめ問題を初めとして、教育行政、これを立て直していくためには、やはり学校、特に公立の学校、やはり私学は端的に言ってお金も必要ですし、みんなが受けることができる教育、公立の学校、ここをいかにもう一度強化、再生させていくかということが最も大事だと考える一人です。 そういった観点から、冒頭まず森先生に、ちょっとお聞きしづらいことを聞きますけれども、この一連のいじめ報道で何度も報道された校長先生、同じ校長先生の、二転三転というか、そういった対応が、確かに、そういったことを余り報道し過ぎるのもどうなのかなということも私は正直には思います。自分の子供が学校に行っていて、昔、自分が親に育てられたときと大きく違うなと印象をよく受けるのは、学校の先生の悪口を親が子供の前でする。確かに事実なのかもしれませんが、果たしてどうなのかな、子供に対していい影響は私はないんじゃないか。 そういう意味で、報道のあり方というのも、先ほども同僚の議員の方からもありましたけれども、そんなことも思いながらですが、あの校長のテレビ報道された変遷というのは、やはり見ている人にとってはとても悲しい現実ですし、そこに通っている子供たちから見ても、より一層学校への信頼というのは低下してしまうんじゃないかと思って見ていました。 そこで、何でああいうことが起こるのか。端的に、どういう力が働いていて、そこを直していかなきゃいけないと思うんですが、何か、推測の範囲になると思うんですけれども、お答えいただければ、ちょっと聞きにくいことを冒頭聞いて申しわけないんですが、よろしければ教えていただきたいと思います。
○森参考人 おっしゃるとおり、聞きづらい御質問だし、答えづらい質問でもあります。 我々校長仲間でも、あの答え方はないなと話し合いはなります。つまり、我々はやはり毅然として、事実は事実として伝え、そこに学校経営者としての責任をきちっと示すべきであろう。二転三転は寂しいな、悲しいなという思いでは正直おりますが、その背景がきっとあったんだろうというふうに、同僚、同職業としてはそういう部分もございます。 校長あるいは教員に対する悪口も確かにあります。例えば、私が朝立っていますと、子供が校長と言うことがあります。校長、きょうも元気だねと。きっと親が、保護者が、あるいは身近な人が、おまえのところの校長はああだなと言っている言葉を素直に受け入れているんじゃないか、その状況がよく子供の背後からわかってまいります。 入学式でいつも保護者にこう言います。指導者を非難したり、子供の前で口汚くののしったら、もう教育は成り立ちませんよということを言っています。御不満も確かにあろうと思いますが、例えばスポーツの世界にしても何の世界にしても、指導者の陰口、あるいは不信を持ったら、もうその選手はそれ以上伸びないということも聞いたことがあります。ぜひ、苦情があって、それも当然のことだと思うので、校長、副校長へ必ず伝えてください、端的に、子供の前では極力非難を控えてほしいなということは伝えてあるんです。 そういう中で、先ほどの事例でございますが、校長が二転三転した中には、やはり学校としての、自分を、あるいは学校の連携を保つ中での体裁を繕われた部分もあるんじゃなかろうかな、事実を完全に把握していなかった部分をそのときそのときの思いで述べられたんじゃなかろうか。簡単に言えば、報道の方々に対する対応についての姿勢がまだ、私も含めてですが、未熟であった部分があるかもしれないなと思っております。
○伊藤(渉)委員 済みません、冒頭から聞きにくい質問をしまして。 引き続き、森先生の「コミュニケーションを大事にする友だち関係づくり」というのを読ませていただいて、大変感動しながらというか、すばらしいなと思いながら読ませていただきました。その中で、ちょっと気になったところをお聞きしたいと思います。 こういうところがありまして、「自身の実践事例がある。 三年生を担任したときに、引っ込み思案で、言葉数が少なくて、動作がゆっくりしたA子という女子がいた。体育的なグループを作る際には敬遠されがちで、休み時間など一人で過ごすことが多くなっていた。このままだと友だち関係において孤立することが予想されたので、意図的に、彼女のよさが生きる活動を学級にもち込んだ。」ずっとあって、「物静かだが根気強く物事をやり遂げる性格」。 何が言いたいかというと、やはり人間には必ずいいところがあると思うんですね、だれにでも。それは非常に多様なもので、そこにどう光を当てていくか。本当に先生という仕事はとてもやりがいのある仕事だと思いますし、そういったすごくレベルの高いことを要求されると思います。 先ほど来の質疑の中で、清川先生もおっしゃっていましたけれども、学校の中の価値観が画一化されていると。世の中は価値観は多様化していると思うんです。しかし、学校での価値観が画一化をされていく。これもまたよくわからないというか、例えば、指導要領と呼ばれるものがやはり時代を先取りできていないというか、そこに問題があるのか。その辺、なぜ世の中の価値観が多様化をしているのに学校の価値観が画一化されてしまうのか、これをちょっと校長先生と清川先生にお聞きしたいと思います。
○森参考人 私の事例に目を通していただきまして、ありがとうございます。 子供にはそれぞれよさがあるという点、今も信条としております。よく言われます、児童理解は自己理解である。その子供をよしとするかあしとするか、それは自分の生きざまがそれを決めていることが多い。例えば、自分がまじめに取り組んできた生活を送ってきて、そしてそれを褒められ続けたならば、そういうまじめな子供に好みを持つであろう。もし、自分が時には悪さをし、ふざけたりしたことがあり、それも許された経験があるならば、そういう悪ふざけをする子供についても理解を示すことができる。つまり、人は自分が育った経験の中から子供を見、児童を理解するということは自己を理解することの前提なしにはできないのだということがあります。私もそのとおりだと思っています。 社会の価値観と学校の価値観の違いは、時々、具体的には述べられませんが、随分違っているな、行動のとり方にしても勤務のあり方にしても違う部分があるんじゃなかろうか、これが一般社会であったらどうなんだろう、民間企業であったならばどうなんだろう、その会社はもしかしたらつぶれているかもしれないぞ、こういう危機感の持ち方でいいんだろうか、それは持つことがあります。しかし、一つの価値は、やはり学校は学習指導要領にのっとって動いておりますので、それを理解して進めているということから、どうしても画一的と見られるのかなと思うときがあります。 以上です。
○清川参考人 一番端的なのは、今回の未履修問題ですね。つまり、学校という場が次のステップへの準備のシステムにしかなっていない。これは、世界的に見ると、日本は極めて特殊ですよね。文部科学省の指示を破って教育者が平然としているわけですから、悪いことと思っていなかったわけですよね、それを。子供を育てるということは受験なんだというふうに教育者が思っていた、受験に成功すること。これがやはり教育界の腐敗、それが端的にあらわれた現象が今回の未履修問題、これが価値観の単一化を決定的にした一つの理由というふうに思います。 それから、学校の概念が、さっきも言いましたように、例えばスウェーデン、あるいはアメリカのチャータースクール、今莫大な勢いで広がっていますよね。ビル・ゲイツも評価した。これは受験教育じゃないんですよ。子供たちが豊かに育って、しかも科学的な、文学的な、芸術的な才能が育ったりする、そういう教育のやり方というのは世界じゅうにあるわけですよね。 さっきのスウェーデンの義務教育における自由選択科目というのは、社会人としての力を育てるというのが義務教育のねらいなんだ、それに誇りを持っているし、イギリスのドラマエデュケーション、これは義務教育でやはり行われています。体と声を使って自分を表現し、相手を受けとめる、あるいは美術や装置や音楽やシナリオや演じること、つまり、多様な人間が一つの作品をつくり上げる、そのドラマエデュケーションがイギリスでは非常に重要な科目として位置づけられています。 点取りのための学校という概念から、人をどうやって育てるかという概念に、本来の学校の概念にもう一回やはりこの国は戻る必要があるというふうに私は思っています。 以上です。
○伊藤(渉)委員 例えば、学校を出て会社に行く、まだまだ今の世の中が学歴というものを求めている部分もあると思います、正直。要するに、最終的な出口がそれを要求している以上、それを教えざるを得ないという教える側の気持ちもわからぬでもないというか、すごく哲学的な話になりますけれども、この国で幸せになるためには学歴はあった方がいいねというところは多分否めないんだろうと思うんですね。要するに、教育現場だけの問題ではなくて、まさにこの国全体の価値観の問題だと思います。 そういう意味で、試験もあってもいいと思いますし、いい学校へ行こうと頑張ることもいいと思うんですけれども、そこで教えようとしていることが非常に知識偏重というか、知識と知恵は違うとよく言われますけれども、知識はいっぱい教えてくれるんですけれども、知恵を培うようなことが今なされていないんじゃないかなというような印象を受けます。 先ほど読ませていただいた、これは間違いなく先生の知恵ですよね。その子が活動できる場所を与えてあげた。こうも書いてあります。「この場合、担任が「A子さんを仲間に入れてやって」と言葉だけで解決しようとしていたならば、子どもたちは、A子を素晴らしい力を秘めた仲間としては実感していなかったであろう。」と。言葉がけじゃなくて実際にやらせてみるという、まさにこの先生の知恵によってこの子は守られたんだなと思いました。 果たして、知恵というものを培うためにこれから教育現場が取り組んでいかなければならないこと、今何がないのか、どこが先かと私もまだわからないんです。世の中が変わってくれないと教えざるを得ないという状況なのか、やはり教育現場発で物を変えていくのか。そうじゃない、やはり人間に大事なのは知識じゃない、知恵だということを教育現場発で私はやるべきだと思っています。ここをスタートさせるしかないと思っているんですが、そのために、では何が今第一歩としてできるのかということを、ちょっと余り時間がないのであれですが、もう多分これが最後になりますので、四人の先生方に御教示いただいて終わります。
○森参考人 では、時間が限られておりますので。 今、教員を目指す数がどれぐらいかはつかんでおりませんが、私の地元の方では教員を目指す志願率が非常に減っております。教育という仕事、教師という仕事に魅力がなくなっているのか、社会の見詰めにプレッシャーを感じ避けているのか、給与が伸びないからさほどのモチベーションが上がらないのかわかりませんが、そういう中で、採用された教員の質が一つ問われています。 そのときに研修制度が盛んになりますが、研修というのは、ある一定の就職倍率にスルーした方々が受ける研修の質と、非常に倍率が少ないところで通られた方の受ける研修の質は違うような気がいたします。要は、仕事に魅力があると感じた方が、行政等の応援でもって何らかの初任者に対する手厚い指導ができる体制をつくっていただければ、変わってくるのではないだろうか。 神奈川県の方では、教委の方で、退職者の校長が一遍に出ますので、そういう方々がその後の仕事として初任者を指導するような予算を講じられているようなことを聞いております。行政としてぜひ、初任の意気込みのある優秀な教員を育てる体制をつくっていただければと思います。
○本田参考人 私は、この点ではやはり産業界、主に、社会全般でいいんですけれども、産業界が特に学校教育に対して何を要求してきたかということと非常に強くかかわっていると思うんですね。 これまで日本の産業界というのは、特に高度経済成長期以降、学校教育に、何らかの特定の教育内容の面で若い人たちに身につけさせてくれるということは余り求めないで、相対的に選抜して地頭のよいような人間を一直線にランクづけることだけをちょっと期待してきた面があります。それが、長期不況下に突入しまして、単なる地頭だけではなくて、今度、人間力的な、生きる力的な、あるいは社会人基礎力とかいろいろな呼び方がされていますけれども、単に頭がいいだけではなくて、個性的であったり、発想力や問題解決能力を持っているような人をさらにつけ加える形で要求し始めているんです。 いずれも、非常に抽象的で一元的な基準なんですね、地頭のよさにせよ、生きる力、人間力にせよ。多様な何らかの個別の教育内容を、これだけは学校教育できちんと子供たちに身につけさせてくださいというような要求というものを、日本の社会あるいは産業界は、これまで学校教育に対して真剣に突きつけずに済んできたような面があります。 それは、企業社会のある種の人材育成能力というものがある程度ありまして、社員を長期的に正社員として抱え込んで、職業人としても、あるいは市民としても育成してきたような面があるわけですけれども、今どんどん日本の企業はそういう余力を失いつつあります。ですから、学校教育はそこを引き取って、もっと教育内容に即した具体的な知恵なり、私は知識とかスキルも大事だと思いますけれども、それを形成していく役割を求められているのにもかかわらず、一体何を教えればいいかということに関して要求がやはりあいまいであり続けている。依然として生きる力とかそういうことが言われ続けている。 そうではない、私はもっと、学校教育は一体何を教えるのか、何を教えることが必要なのかという、さっき私のレジュメでレリバンスと書いてありますけれども、今、子供たちが大人になっていく上で何を知識として求められているのかということをもう一度考え直す必要があると思います。 これは、受験知識的な、どれだけ何かを覚えているかとか、あるいは記号操作的な、例えば公式を適用するとか、そういうことではない。もっと生活に役立つというか、賢い自立した市民や職業人になるためには何が必要かということを考えていく必要がぜひともあると考えています。
○清川参考人 私は、また繰り返しになりますが、学力世界一の国フィンランドは、あらゆる職業の就職試験で、教師が一番競争率が高いんです。そして、教師は大学院卒業でないと教師になれません。つまり、高給で優秀な人材を集める、その結果が学力世界一になっているんですね。そこはもうはっきりしているんです。金をかければいい人材が集まる、そしていい教育が展開できる、そして学力が世界一になる、この図式をなぜ日本ができないのか。 ちなみに、対GDP比、フィンランドは五・七%公教育にかけています。日本は三・五%しかかけていません。そのことがもう明確にその差を生み出している、教師の質とか教師の給与とか。そういうことが一つ。 もう一つは、どうしてもスウェーデンの例を出したりしてしまうんですが、日本は学校にいろいろなことを依存し過ぎているんですね、部活とかそういうことも含めて。学校が社会的な機能を担うと同時に、社会も学校的な機能を担う、それには、企業の男たちの仕事の仕方、これは、ドイツでは今、育児休業を親時間と呼び始めています。つまり、地域社会で親として子供に向き合うという時間を親がふやせば、学校の比重はぐっと減っていくわけですね。教師の負担も減っていくわけです。 そういう意味では、企業の仕事の仕方も実は関係しているんだ、子どもがいる親に対しては父も母も親時間を確保する、それを既に世界ではやり始めている国があるんだということをここで申し上げておきたいと思います。
○内田参考人 子供の立場から言わせてもらいたいと思うんですけれども、幸せな子供はみずから命を絶とうとは思わない、幸せな子供は人を殺そうとは思わない、幸せな子供はいじめをすることはしないだろうということがあります。子供たちが学校で幸せ感を持てるのかどうか、そのことはとても大事だと思います。 この夏、私はデンマークとフランスに学校事情の視察に行きましたけれども、デンマークの学校とフランスの学校で共通に繰り返し言われたことは、子供たちが学校で幸せかどうか、そのことを一番大事にしていますと言われました。そして、デンマークでは、学校は子供たちのものである、先生は学校の外からやってくるというふうに言っていました。フランスでは、学校へ行かない子供たちに対して、小学校の段階では家庭で学ぶというようなことについても考える、いろいろプログラムを考える。それから、高校段階なんかですと、学校の存在が大きくなり過ぎて、子供の世界から学校が消えてしまったという言い方をしているんです。 そういう点では、子供にとって等身大の学校をどうやってつくるのか。今、日本で、教育の問題で、子供たちのためにという場に行って話をしたり聞いたりしていると、核心に行くと子供の姿が消えちゃうんですね。蜃気楼のように見えなくなっていく。やはり、話をするたびに子供がちゃんと見えるような教育をつくることこそが一番大事なんじゃないでしょうか。
○伊藤(渉)委員 ありがとうございました。 きょうはいじめ問題ですけれども、こういうことを含めて教育の問題、今の世の中でもう一つ気になることは、何か事が起こると、だあっと人が集まってわわっとやるんですが、ほんの三カ月もたつと、三カ月前に何があったかなというような風潮が非常に強くなってきている。非常にそれを危惧しております。 そういう意味で、この教育という問題に私も議員の一人として今後もしっかり取り組んでいくことをお約束申し上げまして、私の質問を終わります。ありがとうございました。
○小宮山委員長 次に、保坂展人さん。
○保坂(展)委員 社民党の保坂展人です。 まず、森先生に伺いたいんですけれども、学校の先生の中に大変まじめな方が多く、また責任感も強いということは言わずもがなだと思いますが、とりわけ校長先生にはそういった責任感がひときわ強い方がなられているかと思います。 そこで、どうしたんだろうとこの間思ってきた出来事の中で、実は、この間亡くなっているのは子供たちだけではなくて、単位未履修のことを苦にした高校の先生がお二人亡くなっています。そして、小学校で、子供が金銭をとられたという被害を訴えたけれども対応してくれなかったじゃないか、これは、謝罪会見をされた校長先生が、翌日ですか、また亡くなっている。 ということは、つまり、お一人とかであれば、そういう方も中にはいるということになるかと思うんですが、これだけ続くと、その手前にいらっしゃる管理職の方、つまり、その実行まではいかないけれどもそういう気持ちだよ、あるいはもう、うつの状態で、ちょっと仕事から離れようかというような状態になっている方もいらっしゃるんではないかと想像するわけなんですが、その辺のところを、どういう状態になっているかお話しいただけないでしょうか。
○森参考人 大変心痛む事柄を御指摘いただいたように思いますし、報道されたとおり、命の大切さを自覚されていたか、あるいはそのことをきちっと処する本当の責任感を持っていらしたか、それは私も思うところであります。 結論から言いましたら、亡くなられた方々は相談する方があったんだろうか、相手がいたのだろうか。校長会というものが校長にはありますが、そこでいろいろな悩みを出したり策をもらったりして自分の学校の経営に生かしております。しかしながら、中には他に自分のことを相談できない方がいたんだな、そんなふうに、そこのところが大きいんではなかろうかなと思います。 教諭の方につきましては、校長としては、子供の幸せのために、教員に好かれようとは思っておりませんで、子供に好かれたいと思っておりますので、時には指導を厳しくすることは、実際、私の場合もあります。一週間の計画を立てる週案というものを書くんですが、それがおろそかになった者は校長室に呼んで、君は子供に誠意があるのか、これが一番の誠意だというようなことで指導することがあります。そのときにはしゅんとしますが、子供ではありませんが、帰るまでに、君への期待感があるんだ、子供に我々は尽くしているんだ、そこをわかってあしたからも頑張っていこうじゃないか、来週の提出を期待しているよというようなことは行います。 一つ、教諭につきましては、管理職がどれほど期待しているか、そして保護者、子供から見えないところでどれぐらい期待されて信頼されているか、その伝え方は大事だなと思っております。
○保坂(展)委員 ありがとうございました。 次に、本田さんと内田さん、お二人に聞きたいんです。 私、おととし佐世保で起きた事件の取材を当時しまして、あの大久保小学校という学校にも行きましたし、校長先生とも話しました。教育委員会の関係者や親ともいろいろ話をして、事件の構図をいろいろ見ていったときに、やはりこれは小学生の間にスポーツ、あの場合は女子バスケットボールクラブに、加害児童と、そして亡くなった被害児童もいたわけなんです。 とりわけ、東京という都市部で小学生の部活というと、そんなに拘束性は強くない、やめたりすることもできます。あるいは、指導する先生がいないから自動的に解散になってしまったというクラブだ。こういうイメージとは全く違って、やはり社会体育というふうに、親がボランティアで指導してくれる先生を探してきて、そして学校という空間を借りて連日練習をする。そこでは、必ず勝つことということがやはり前面に出てくる。そして、市のトーナメント大会で一位になった、次も二回目の一位をとろうとか、じゃ、県大会へ入ろうとかいうと、どうもブレーキがきかない状況がある。 つまり、頑張れ、熱意、勝て、こうなると、それ自体としては、ボランティアで熱意を持ってやっていますから、感謝する人ばかりで非難する人はだれもいないわけですけれども、その異常に圧縮された空間に子供が入って、いわばハイテンションでフル回転し続けるような、そういうスポーツを、もう少しブレーキをかける。あるいはそこに、いわゆるいじめみたいなことが起こりやすい状況というのはやはり起きてくるわけですね、現実に。というのは、ヒートアップする回路はあってもクールダウンする回路がないということになろうかと思います。 そのあたりを、お二人違う立場からどうお考えになるのか、お願いします。
○本田参考人 今の佐世保事件のバスケクラブの例というのは、やはり私のレジュメで申しました幾つかの条件が当てはまる例ではないかと思います。 例えば、幾つもそういうクラブがたくさんあって選べる、あるところに合わなければほかのところに行けるというような状況があればまた違っていたと思いますし、あるいは、非常に勝つことが至上命題になっていて、そこに、たしかあの事件を犯した子というのはメンバーから外れたのではなかったかと思いますけれども、そういう一つの価値観で人をランクづけて排除するような構造がある場合には、この場合のバスケクラブに限らず、いじめというものは生じやすい、一つのそういう場の特性をあらわす格好の事例ではないかと思います。そこからして、例えば選択肢を多数設けることであるとか、あるいは特定の一元的なもので縛らないことであるとか、そのような幾つかの教訓が佐世保事件からは引き出されると思います。 またこれも、先ほど地域の話が出てきましたけれども、やはり都市的な健全な不透明さではなくて、地域なら地域でそのバスケに周辺の親や地域のボランティアを巻き込んで一丸となりがちな、そういう奇妙な透明さみたいなものがやはり子供にとって生きづらい状況を生み出しているというふうに考えられると思います。
○内田参考人 私も佐世保に行って、地域の方、それから子供をあのクラスにやっていた親御さんのお話も聞きました。 その中で、やはり地域スポーツの実態について学校の先生にお聞きしましたら、学校の先生は、一体何がどう行われていたのか全く把握していないというふうにおっしゃっていました。それから、あの事件の後、体育館が使えなくなったんですけれども、その事件が起こったために体育館が使えないことについて、バスケット部の父母の方たちが不満を言っていたというふうなことがあって、何か非常に視野狭窄になっていて、あることに集中していく地域の状況が見えました。 それともう一つ、あの地域では、ちょうど前年度から公立の中高一貫校が開設して、地域ににわかに進学熱が高まったというふうなことがあって、そのことがやはり、運動するかどうかみたいなところで子供たちの揺らぎを誘ったとか、いろいろなことがあったと思います。 そういうことを見ますと、やはり、地域でいろいろな活動をするというのはとても大事なことだと思うんですけれども、風通しがいい、みんなが目が通せるようなかかわりができるような形でやるという意味において、メニューを考えるとかプログラムを考えるとか、そういうふうなこともぜひ必要だと思います。 もう一つ、あの事件がなぜ起こったのかということについて、地域の方たちは、第三者機関を設けて、やはり公平に第三者がちゃんと事実を明らかにして問題の原因まで追求してほしいというふうなことを要求しているにもかかわらず、教育委員会の報告しか出ていなくて、真相の解明には届かなかったという問題がありますので、そういう点でも、地域スポーツの問題が非常にわかりづらかった。今後、事件が起こったときは、やはり第三者機関を設けてきちっとスタディーするというふうなことがとても大事だと思いました。
○保坂(展)委員 子供たちのスポーツ、部活ですね。部活といっても、学校の先生が顧問でやっている部活と、今お示ししたような社会体育というのは、これは父母のボランティア活動というか自発的な活動で、指導者の方もまた仕事を持っていらっしゃる。実は、福岡の子供の自殺事件で今非難を受けている学校の先生は、これはまた熱心に、二カ所かけ持ちで指導していたというふうに言われています。 そしてまた、岐阜県の瑞浪市で亡くなった子供、この内田さんの資料にもありますけれども、バスケットボールクラブの中でいじめに遭っていたという事態が出ています。これは、国会図書館などで調べても、ほとんど議論されていないんですね。特に、小学生に過剰な、朝から晩までの練習をずっとやっていくとどうなるか。一位になるためにはそれをやることが必要なんですが、そのために、夏休みにお墓参りに行くということを言い出せない。家族で旅行に行くということはみんなの迷惑になるからやめてください、どっちをとるのかというような、そういう指導が実は行われていて、一生懸命やってくださっているから、親ももちろん文句は言えない。そして、先生の方は、本来それは先生がやるべきことだろうという親の期待というか、何か先生がやってくれないから指導してくれる人を探す、こういう問題があるなということを感じております。 次に、清川さんに、きのうはチャイルドラインの議員連盟の勉強会にも大変多くの、今いじめ自殺問題がこれだけ焦点になっているということもあって、四十人以上の議員あるいは代理の方が集まったんですが、ずばり、チャイルドラインがイギリス並みに、全国の子供が、番号は知らない子はいない、そして何回かかければ、話し中がないということはないにしても、二、三回かければつながるということにするためには、資金が幾らあったらいいんでしょうか。
○清川参考人 正確な試算はあれなんですが、さっきちらっと申し上げたように、子供たちが十二万件、今かけているわけですね。平均的に、一通話ワンコインです、子供たちは。百円です。ということは、電話代だけ換算すると、例えば今の段階で千二百万あると、子供たちは電話代を心配しないでかけられる。(保坂(展)委員「フリーダイヤルで」と呼ぶ)ええ、フリーダイヤルで。これが倍増していっても、子供たちの声を、今一割とか二割五分でしか受けていませんが、その程度でいっても、三千万円とか四千万円という電話代が用意されれば子供たちは安心してかけられるようになりますというのが一点。 それから、ポスターやカードを子供たちに配るための費用ですね。つまり、番号を知らせるための費用、これは極めて安いわけですね。カードは一枚一円、あるいはポスターは何十円の単位でできます。したがって、小学校や中学校に一回張れば、番号はずっと、少なくともそれが破れ落ちるまでは張り出されているわけですから、初期投資に一定程度かかっても、番号を子供に周知するための費用というのはそれほどかかるものではないんですね。 そしてもう一つは、さっき申し上げたように電話を受ける場所。これは極めて狭くて大丈夫なんですね。そういうところを地域の行政施設や何かが、イギリスの場合は、ブリティッシュ・テレコムという電話会社がビルのワンフロアを無償で提供するということをやっていただいているわけですが、ほかの国だと、公的な施設の中に同居するという形で、つまり家賃が無料で運営ができるというようなことが、例えば国の後押しでとか口添えでそういうことができれば、コストとしては一億円もあれば、この国の全部が、毎日、悩みがあったら、寂しくなったら、つらくなったら声を聞いてもらえる、そういうシステムが一億円もあれば十分できるんだと。そのためにぜひ、一時、お金を文科省がばらまいた時期がありましたね。一件当たり二百数十万にしかならない、それで三年間という、立ち上げだけ。それは留守電機能なんかがあるから、子供は言えないわけですよ、本音を。だから、やはり国、地方行政がお金は出すが表には出ない、表はやはり民間の我々NPOが受けとめて、子供たちの声を受けとめる、そして、本音をちゃんと言えるような状態。 そして、番号も、できれば、今は僕らは個別ばらばらの番号ですが、電気通信法が改正されて、例えば一一五五と、イイゴゴというのが全国共通のフリーダイヤル番号になって、近くのチャイルドラインに回線上自動的に入っていくというイギリス型のシステムは、そんなに難しいことではないんですね、今、科学技術の進歩で。だから、ぜひ議員の皆さん方、特に、推進議員連盟の百数十人の方々が超党派でいらっしゃいますので、そういうことにお力添えをいただければというふうに思います。よろしくお願いします。
○保坂(展)委員 イギリスのチャイルドラインには、たしか〇八八〇—一一一一という、日本でいえばフリーダイヤルのところに一が四つ並ぶという、だれでもすぐ覚えるという番号で、しかも、公衆電話の子供の目線のところにはその番号のプレートが張ってあるというのが十年前。ロンドンで買い物をすれば、レシートの裏にチャイルドラインという番号がちゃんと振ってくるという。また、そういう意味で、ぜひ日本でも今広げなければいけないという時期に至ったと思います。 最後に、ちょっと本田さんに伺いたいんですが、今、学校を閉めていくという、あるいは子供たちに緊張を、さらにテンションを高くさせていくようなプログラムというのは、先ほどのスポーツも含めてたくさんあります。では逆はどうだろうかというときに、先ほど清川さんがおっしゃった、例えば学校にドラマの時間をつくって、そこで、学校演劇を一生懸命練習してうまく演じるのではなくて、笑ったり、泣いたり、ひっくり返ったり、そしてけんかをして修復するような、そういった、子供たち同士が汗を出して、声を出して、開放系というか、そういうプログラムが必要じゃないかと。 実は、イギリスに私が行ったときには、小学校に全部劇団が入っていまして、その中にシアターグループ「ネチネチ」というのがあって、「ネチネチ」というのは東洋の言葉からとったようなんですが、要するに、劇団が学校の中に入って、いろいろ演じていく中で、隠されていたいじめが出てくるんですね。子供が参加してワークショップをやっていく中で、うちの学校はいじめはありませんよという学校でも、やはり意外なくらい子供から声が出てきたみたいな声もありました。 そういった開放系のプログラムについて、何かお考えがあったら。
○本田参考人 そのような、例えば演劇の導入ですとか、あるいはソーシャルスキルそのものを鍛えるようなさまざまなプログラムが、特に諸外国ではたくさん開発されていて、日本では、一部では始められていますけれども、少ないということも聞きます。そういうのが導入されてもいいと私は思うんですね。 しかし、そういうフリンジというか、何か今の既存の構造をそのままにして、そこに新しい、例えばドラマの時間をつけ足すとか、ソーシャルスキルトレーニングをつけ足すとか、そういう形の、周りに何かつけ足すような改革では私は根本的な改革にならないというふうに思っておりまして、ですから、学校あるいは学級の構造自体にもっとドラスチックにメスを入れることが必要ではないかというふうに思っております。
○保坂(展)委員 貴重な意見をありがとうございました。これで終わります。
○小宮山委員長 次に、高橋千鶴子さん。
○高橋委員 日本共産党の高橋千鶴子です。 きょうは、四人の参考人の皆さん、本当に貴重な御意見をありがとうございました。 いじめによる自殺という連鎖がとまりません。自殺予告という事件が起きたときに、私は、大人が試されていると思いました。どんなに格好悪くても、おろおろと大人が心配し、必死に取り組み、子供たちの命を守れ、そのメッセージが伝わるということが本当に待たれているのではないかと思います。 きょういただいた意見は、本当にあらゆる現場で活動されている皆さんの意見、やはり答えは一つではないと思うんです。どれも参考になって、そういうあらゆる分野の皆さんの意見、知恵、経験をすべて交流して、それがいじめ克服につながるんだということに進むように私自身も頑張っていきたいな、そういうふうに思いました。 最初に、森参考人に伺いたいと思うんですが、先ほども紹介があった、コミュニケーションを大事にする友達づくり、私も大変、その子の力を、よさを引き出す教師の力というのに対して本当にうれしく思ったし、そういう先生方というのはきっと全国にたくさんいるんだろう、現場で頑張っているんだろうということを思っております。 そこで、学校において最も大事なのは、やはり友達関係ではないのか。やはり、一人でも自分を理解してくれる友達がいることが、いろいろあっても、どんなに救いになるか。あるいは、決定的に一人がいるために学校にどうしても行けない、そういう実態もまたあるのではないか。どの子もいじめる側にもいじめられる側にも立った経験がある。それが非常に多いということが昨今の調査でもわかっています。ですから、このことが、子供たちの人間関係と、加害者にも被害者にもくるくるとなっていく、そこがなぜなのかというところが一つの糸口になるのかなと思うんですが、御意見を伺いたいと思います。
○森参考人 大変貴重な御意見をいただいて、ありがとうございます。 高橋先生おっしゃいましたとおり、子供がだれかに相談ができるとか、私はこの友達によって支えられているという実感があれば、いじめから耐えられるときもあろうかと思います。先ほどの中で、いじめは死ぬまでするなとか、あるいはいじめられても死ぬなというような言葉は、すごく端的だなと思いましたが、そこまで考える子供はなかなか少ないんじゃないかと私は直観しております。 子供を動かすのは言葉ではない。言葉ではなくて、同じ活動を共有した喜びとか、集団で行った体験が、その子供の称賛に結びついたり、喜びの実感が伝わったり、あるいは連帯感が生まれたり、そういうものがあるときに初めて子供はだれかに支えられていると思うんだと思います。 望ましい集団活動は、自分の役割をきちっと理解していて、その役割が子供に与えられているということなんです。ですから、ある活動が成就したときに、だれちゃんがいたからこの活動はうまくいったんだ、私がいたからできたんだという思いを多くの子供に活動を通して共有体験させること、これが非常に大事なことであるにもかかわらず、いじめはいけないよ、だれだれをいじめていないか、それはいけないよという決まり文句の言葉として子供に伝えているところに非常に課題を感じております。 以上です。
○高橋委員 ありがとうございました。 そこで、行政にできることは何かということも考えてみたいと思うんですが、先ほどのさまざまな意見の中で、この間の五日制ですとか、ゆとり教育ですとか、学校の側の行政がくるくる変わったことによるいろいろな弊害ということもありました。文部科学省は、事あるごとに通達、報告、調査と矢継ぎ早に指示を出して、また問題が起きると、それは所管は現場の教育委員会であるというふうな答弁がございます。しかし、それでは事の本質を隠すのではないか。 そして、現場の先生方は、今森先生がおっしゃったように、本当に一人一人のことを引き出す力を持っているんだけれども、実際には大変な雑事に忙殺されているのではないかということもあると私は思うんですね。だったら、もっと多くの目を、見守りをする目をふやすことができるのではないか。子供たちがもっともっとゆとりある教育を受けられる環境を行政はつくってやることができるのではないか。そうしたことが行政の課題としてはあるのではないかなと私は思っていますが、もう一度森先生に伺いたいと思います。
○森参考人 大変大きな問題を私に付されたように思っております。私は一個人の校長としてここに出ておりますので、全体がそう思っているとか、私がつかんでいる限りそうであるということではないというお答えで聞いていただければと思います。 確かに、国から出される施策は、子供のことを考えた前向きなものであるという前提には立っております。それが、私の学校におりてきた際には、理解できない部分とか、なかなかそこに追いつかない部分とか、矢継ぎ早の政策であるとか、それが教師にとってややゆとりをなくしている部分があるかなと感じるときはあります。 しかし、その成果の喜びとか成就感みたいなものを、教師自身あるいは学校自体が考え、つかみ、そして地域、保護者がそのことを理解してくださるならば、忙しさ、多忙さというものが結局は子供のためになっているんだというところに返っていくんじゃないのかなとも思っております。 以上です。
○高橋委員 ありがとうございます。 今の一番と二番の質問に対して、清川参考人にもぜひ御意見を伺いたいと思います。 たくさんの子供たちの声を通して、子供たちの人間関係がどうなっているのかというのを一番よく御存じだと思いますし、同時に、さっきから学校に対しての期待がほとんどないのかなということが報告の中でもあったかと思うんです。しかし、同時に、学校にできることというのは何だろうというのをぜひ清川参考人の立場からお話をいただきたいと思います。
○清川参考人 直接的緊急避難は、先ほどから申し上げているように、教師や親には子供は死ぬ前に本当のことを言いません。間違いなく言いません。だから、緊急避難的には、私どもがやっているチャイルドラインというような、行政とか権力と関係ない、そういうものが受けとめる場所が絶対的に必要ですというのが、まず緊急避難的な対応です。これは早急にこの国に確立していく必要があるだろう。子供が信頼できる電話ですね。それが一点です。 二点目は、学校の中に、相手を傷つけたり自分を尊重したりすることについて議論が起こるような、子どもの権利条約の学習、あるいはお互いの議論、話し合い、そのことが行われれば、お金のかけ方も含めて学校の制度をドラスチックに変える必要はさっきから申し上げていますけれども、それが急にできないとすれば、せめて子どもの権利条約について、お互いの命を尊重する、お互いの生きる権利を尊重する、そして自分の生きる権利も尊重するということをきちんと学び合う、その教科をどこかの時間で確実につくる。 私の知るところでは、島根県教育委員会は小中学生一人一人に子どもの権利ノートというのを配っています。どの程度それが学校で利用されているかは私も正確にはわかりませんが、そういうことが行われることは非常に大事なことです。 そうしないと、いじめを見つけるといっても、実は我々の把握では、今は携帯とかパソコンのメールによるいじめが親や教師の知らないところで静かに深く進行しているわけですね。だから、いじめの発見、発見なんというのも、実は極めて難しくなっているわけです。だから、そういう部分を断ち切るには、やはり他人の権利、生きるということを尊重する、自分の命も大事にする、そういうことを学校教育の中で大事に教えていくことがこれからは非常に大切になるんだろうというふうに思います。
○高橋委員 ありがとうございます。 私も、子どもの権利条約を学校でしっかり学ぶということは非常に大事な提言かなと思っております。ありがとうございました。 そこで、内田参考人にぜひ伺いたいと思うんですが、不登校の問題でずっといろいろな提言をしていただいて、子供たちが苦しくて命を失わなければならないほどのいじめであれば学校を休んだっていいじゃないか、私も本当にそう思うんですね。それが人生の一時期であって、一生そのまま不登校になるということでは決してないということでの提言は非常に大事ではないのかなと思っております。 先生が講演されたいろいろな中に、昨年の十二月の末に行った講演で、東海地域で講演したことをお話しされていますね。その地域で頼まれた講演は、不登校の経験が二件しかない、それで不登校の話をされても意味ないというか、そういうふうに主催者に言われたんだけれども、先生があえて不登校の問題に触れたら、保護者がその後、列をなして控え室に来て、実はうちの子も、うちの子もという話があったと。 ですから、今回の、いじめの報告がずっとゼロだったということにも非常に関連していると思うんですが、報告というのはえてしてそういうもので、二件と報告されているんだけれども、実際は現場は全然そうではない。そこに何が起きているかという報告を上げない、知ろうとしない中で、行き場のない保護者ということがあって、そこに内田先生が非常に貴重なきっかけを投じることになったのではないのかな。このことが非常にこの間のいじめの問題においても教訓になるのではないかなと思うので、少し紹介していただきたいと思います。
○内田参考人 各地に行きますと、おっしゃるとおり、我が校には不登校は一人もおりませんという学校や関係者が多いんです。ですけれども、学校の中には、保健室登校、それから校長室登校、相談室登校の子供たちがたくさんいるというふうなことがありまして、今子供たちは、見えない不登校という形で、心に学校行きたくない、行くのがつらいという気持ちを抱えながら、体は学校に行っているということがあります。その学校に行っている子供たちが限界まで我慢して非常につらくなっているために、みずから命を絶つ、あるいは学校で事件を起こす、そういうふうなことになっているんだと思います。 そういう点でいいますと、文科省の公式発表の中の十二万二千人というのは、年間三十日学校を休むことができた子供たちなんです。それに対して、学校復帰策で学校に、戻るに戻れないんだけれども、行かざるを得ない子供たちというのは、その数の五倍から十倍いると思います。その子供たちが追い詰められて命を絶ったり事件を起こしたりするということに追い込められていく、そういう非常に危ういバランスの中で今学校が成り立っているということが実情ではないでしょうか。ですから、今回のいじめが絡む自殺が続くことの背景には、そのことがあると思います。データの中にも入れておきましたけれども、そういうことがあると思います。 もう一つ、とても大事なことだと思うんですけれども、やはり学校には、未熟な子供たちを一つの教室に入れて一緒にやっていこうというふうにいったら、未熟な子供たちであればあるほど摩擦が生じるというのは必然だと思いますので、私は、学校にはいじめはあるというところから出発すべきだと思います。 しかし、その中で、いじめで、きょう、あす死のうか、どうしようかと迷っている子供たちに、無理して学校に行かなくていい、命を守るためには、学校の非常口は学校を休むことだよと言うことはとても大事だと思うんですけれども、実はいじめている側の子供たちこそ、そのメッセージが欲しいということがあるんですね。ですから、いじめられている子といじめている子と、そういう点でいえば本当に表裏一体の関係になっていると思いますから、すべての子供に学校を休む権利がある。 それからもう一つ、そういうことを私が子供たちに言うと、うんと言わないんですね。休んだ後の保証、不利益をこうむらないという保証がなければ休む方がもっと不利益になるというふうなことがあるから、休んだ後、学びや育ちに不利益をこうむらないような、そういう手だてをぜひあわせ持って、命を絶たないために学校は休んでいいところなんだよということをきちっと伝える役割を私たち大人は持っていると思います。
○高橋委員 ありがとうございました。 やはり、だれかのせいだということではなく、学校も保護者も、お互いの責任ではなく、みんなで力を合わせる、そして社会も力を合わせていくということが大事ではないのかなと思いました。 時間がなくて本田参考人には伺うことができませんでした。大変失礼いたしました。 ありがとうございました。
○小宮山委員長 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。 参考人の皆様に一言御礼を申し上げます。 参考人の皆様には、貴重な御意見をお述べいただきまして、本当にありがとうございました。いただきました御意見を、私たち委員会の中での審議の参考にさせていただきたいと思っています。委員会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。ありがとうございました。 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これで散会いたします。 午後零時二十四分散会