日本国憲法に関する調査特別委員会 第11号
- 発言数
- 101 件
- 登壇者
- 10 名
- 会派数
- 6
- 開催日
- 2006/05/18
会議録
○中山委員長 これより会議を開きます。 日本国憲法改正国民投票制度及び日本国憲法に関する件、特に憲法改正国民投票法制の要否について調査を進めます。 お諮りいたします。 本件調査のため、本日、参考人として慶應義塾大学法学部教授・弁護士小林節君及び伊藤塾塾長・法学館憲法研究所所長伊藤真君の出席を求め、意見を聴取したいと存じますが、御異議ございませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○中山委員長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。 —————————————
○中山委員長 この際、両参考人に一言ごあいさつを申し上げます。 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。 本日の議事の順序について申し上げます。 まず、小林参考人、伊藤参考人の順に、それぞれ十五分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対しお答えをお願いいたします。 なお、発言する際はその都度委員長の許可を得ることとなっております。また、参考人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願います。 御発言は着席のままでお願いいたします。 それでは、まず小林参考人、お願いいたします。
○小林参考人 お手元にレジュメをお配りいただいておりますが、およそこの要領で発言させていただきます。 まず、国民投票法がないことにつきまして、私は、これはないことの方が不自然であると思っております。憲法九十六条がある以上、あって当然のものなんですけれども、ただ、多少残念に思いますのは、具体的に憲法改正の予定が見えていない。つまり、利害関係が浮かび上がっていない段階で抽象的に議論をして、自分がどちらの立場になっても納得できるような公平なものを既につくっておくべきであった。そういう意味では、もはやきな臭くなってしまってからの話で、残念であります。でも、いずれにしても、ないと困るものでありますので、あって当たり前であると思います。ただ、ある意味では、手続法でありますから、それに余り振り回されることはないと思っております。 そして、中山太郎先生の御見識と御努力なんでしょうけれども、ここ一、二年の議論を見ていますと、最初は本当に心配しました。要するに、勝者が自分に都合のいい手続をつくるのではないかと本当に心配をいたしましたが、その後、忍耐強い公平な御議論の中で、私に言わせれば、あるべき国民投票法の姿はもうだれの目にも見えてしまっている。逆に言えば、それは否定しがたいものになってきておりますから、そういう意味ではいつでも、あとは多数決の問題であろう。もちろん、幾つか論点が残っておりますが、それは私の印象では極めてマイナーな論点になってきていて、結論は落ちるところに落ちるのが見えているような気がいたします。 一つ特に申し上げたいのは、この東門、西門というのは比喩でございまして、与党側も野党側も、手続法が済まなければ、あるいは済ませてから本論の憲法の改正の中身の議論に入るというお立場をとっているがために、逆に今ここで立ちどまってしまっているというか、ある意味では野党側に不当に邪魔する材料を与えてしまっているという印象があります。 むしろ、実はもう中身はできているわけですから、それを処理して先へ進もうというときに、私から見ればちょっと党利党略なのかなと思えるような、つまずきがあったらまたいで通るというか、先に本当に国民にとって大事な憲法論議の本質のところをお進めになって、内容が固まっているから手続法はもう準備が済んでいるわけですから、そちらを後から片づけるとか、もちろんそういう戦略的なことを議員の先生方に説教申し上げるつもりは毛頭ないわけでありまして、とにかく私が心配しておりますのは、本当の意味での憲法改正の中身の論議がすべてに優先する重要なことであるにもかかわらず、これが深まっていないという印象を私は受けるんです。 どこが深まっていないかと申しますと、これも深追いする場ではございませんが、一応、論点だけ確認させていただきますと、一つは九条の問題がやはり何といっても日本国憲法改正の主たる、突き詰めれば唯一の話題になるものでございます。 要するに、侵略戦争の放棄については議論はないところでありますけれども、自衛戦争を認めるか認めないかについてもまだ議論はありますし、それに関連して個別、集団の問題もございますし、海外派遣の問題に至っては全く議論がまとまっていない状態にあります。これなくしてこの国はこの先どうするのかという問題でありますから、むしろ、その辺を率直に、逃げ回っている人も含めて、それを引き戻してでも御議論なさっていただかないと、この国が困ると私は思います。 そして、最後ですけれども、私が今憲法学者として非常に奇異に感じて心配しておりますことは、最近の自民党の改憲論を前提に、憲法観の見直しというか変更というか、それは非常に論者がお見事なので一見説得力があるように見えるんですけれども、憲法という道具の本来の性質とか目的を変えてしまうというか、ある意味では議論の土俵を動かしてしまうというか。 私どもは、やはり法治主義、法の支配という前提から、特定のグループという意味ではなくて、権力というものは常に濫用される、されてきたものであるから憲法で管理しなければならない。ごく当たり前なことを我々は学んできたし、信じられるし、語ってきたんですが、そこを外して、権力を国家に置きかえて、国民民衆をいわば野党側のグループに置きかえて、お互い協力しましょうというような話にすりかわっているような気が私はするんですね。 これは、立場を変えたら、本当に通用しない議論だと思うんです。つまり、法律論というのは、ある意味では立場を変えて、つまり自分が多数派にあっても通用するし、ということは自分が少数派になっても通用するし、こういう議論であったはずなんです。そういう意味で、今の憲法論議の前提に大きく出てきている憲法観の転換ということをもっと深く御議論なさっていただきたいという気がいたします。 そういう意味では、元に戻りますが、この憲法改正国民投票法制などというものは、あって当たり前のものが、遅まきながら議論していただいて、もう既に姿は見えていますから、早くおつくりになる、おつくりになれないならば後でつくろうねというふうに避けて通ってもいい話題ではないか。 そして、まだ時間がありますのでその点で一つ申し上げますと、要するに、憲法改正国民投票法の対象事項に、憲法改正国民投票だけではなくて、その他の国政上の重要案件を直接国民のレファレンダムにかけるというものを入れるべきであるという主張があって、それなくして同意できないという大きなグループがいるわけです。 これはもう失礼を承知で申し上げますけれども、日本国憲法は、まさにきょう、ここは国会でございますけれども、間接民主制、代議制を前提としておりまして、特に例外的事項、憲法改正とそれから最高裁判事の国民審査、地方自治は別として、それに限って特に例外であるから憲法明文で直接のレファレンダムを規定しているわけであります。その九十六条の具体化の条文をつくるときに、いわば国政全般を対象とした、もちろん対象事項はその都度選ぶようですけれども、レファレンダム制度というのは、関連条文が違うと思うし、原理的に矛盾していると思うし、今持ち出すべき話題ではないと思うんですね。それでつまずいていることが残念でございます。ならば、避けてお通りになって何の実害もないのではないかというのが私の専門家としての意見でございます。 少し早いですけれども、これで冒頭発言を終了させていただきます。
○中山委員長 次に、伊藤参考人、お願いいたします。
○伊藤参考人 おはようございます。伊藤真といいます。 ふだんは法教育を行っています。最近は、あちこちの市民団体に請われて、憲法の話等を全国でさせていただいております。 お手元に簡単なレジュメをお配りしているかと思いますが、この改正国民投票法制の要否という議論の前に、国民投票法の位置づけというものを私なりに考えたところを確認させていただければと思って書いておきました。 たかが手続法ではないというのが私の認識です。 刑事手続でも何でもそうですが、手続がいわばそのすべてを決める、結果を左右してしまうことが往々にございます。例えば、無罪の推定の原則があるかないか。刑事の取り調べの可視化に警察の方が反対するのは、やはりこの手続だと処罰できなくなってしまうのではないか、そういう御懸念があるからだろうと思います。犯罪者を一人も逃さないという目的で手続をつくるのか、一人の無辜をも処罰しないという目的で手続をつくるのか、それによって変わってくることになります。 ある意味では、人間がやることというのは常に過ちを犯す可能性があります。結果が正しいかどうかわからない場面があります。そんなときだからこそ、手続の正当性というものが重要になると考えています。まさに、裁判の結果など正しいかどうかわからないからこそ裁判の手続の適正というものが要求されますし、多数決の結果が本当に正しいかどうかわからないので、こういった場面における十分な審議、討論の過程というものが重要なのだろうというふうに認識しております。 ですから、憲法改正というものの結果が、たとえ改正の限界内であったとしても、本当に国民自身にとってそれがふさわしいものなのかどうなのか、これはなかなか判断は難しいのかもしれません。だからこそ、手続が重要。特に、国論を二分するような改正が行われようとするときには、反対した側がそれに従っていけるというのは、手続の正当性の裏づけがあってこそだろうというふうに考えております。 二つ目に、基本的なポリシーが何よりも重要と書かせていただきました。 国民主権の具体化がまさにこの改正国民投票法ということになろうかと思いますが、単に国民の多数意思が反映していればそれだけで国民主権の具体化だというふうに言えるのかと考えることがあります。 そもそも、通常の法律は、仮に少数者の人権を侵害するようなことがあっても、憲法に照らして裁判所が違憲判決を出して救済することが可能です。しかし、仮に憲法が少数派を侵害するような内容となってしまったときには、どうにも救済しようがない。自然法に反するとか憲法改正の限界を超えるとか言ってみたところで、事実上の救済は難しかろうと思います。こうなったら、もはや国民は圧制に耐えるしかない。ですから、法律における多数決と憲法改正における多数決では全く意味が違うであろうと私は考えています。 そこで、そういう不幸なことにならないようにするために、国民投票において国民の多数の皆さんたちがやはり少数の皆さんたちのことも考慮しながら投票できるかどうか、少数派へのイマジネーションと申しますか、交代可能性があることへのイマジネーションと申しましょうか、そういったことが必要なのかなと思っています。 憲法は、言うまでもなく、だれが権力を握った場合でもその権力を拘束するものです。特定の内容的な価値を押しつけるようなものではありません。こうしたことが国民の間で十分な議論として成り立ち、そして一人一人が成熟した国民として国民投票に臨めるように十分な議論が前提として必要なのかな、そんなふうに考えております。 必要性と許容性と書いておきました。法律をちょっと勉強したりしたことがあったものですから、そうしますとどうしてもこの必要性、許容性という観点から考える癖がついてしまっています。 そもそも、国民投票法の必要性はあるのか。私自身は、率直に改憲の必要性と重なると考えています。改憲の必要性を感じる方にとって手続法も必要というだけであって、これまで立法不作為というような御議論がなされることがあったようにも思いますが、法的な意味での立法不作為とは無関係であるということは多くの専門家の方が指摘されていることではないのかなというふうに思います。事実として立法不作為ということはあろうかと思いますが、法的な議論とは余り関係がないように認識しています。 先ほど小林先生のお話にもありましたように、この国は代表民主制、間接民主制を採用しています。直接民主制はあくまでも例外です。国民主権の直接的な発動と言ってみても、まさにこの憲法改正の場面だけがそういう意味では直接的な発動なわけであって、ある意味では最後の手段というようなものです。そう簡単には発動されない。ですから、よほど国民が必要性を感じて初めて発動されるのが憲法改正の国民投票ということだろうと思います。 国民が具体的に改正の必要性を感じていなければ、その部分は、まさに国民がこの憲法を受け入れ、そして選び取っているというふうに考えてよいのではないかと思っています。そこに立派に国民の意思があらわれていると考えます。それこそが憲法の正当性であり、こうして国会が運営されている正当性の根拠にほかなりません。この憲法の正当性に疑問だと言い出したら、この国会やこの委員会自体の正当性も怪しくなってしまうことは明らかだろうと思われます。 また、本来ならば、憲法改正、改憲に賛成、反対、その双方の国民の意見が対等に反映されるような仕組みができ上がればよろしいかと思うのですが、どうしても制度上は難しかろうと思います。反対の立場の者は、発議に対して反対という意見表明しかできません。 投票でそれぞれの立場の国民の意思が仮に反映されなかった場合、その効果を考えてみますれば、例えば、改憲派はその思いが反映されなかった、すなわち改憲が否決されたとしても現状維持にとどまります。ですが、いわゆる護憲派の皆さんたちは、そのみずからの意思が反映されず可決されてしまった場合には、自分たちの思いが後退することになります。すなわち、効果が異なるわけですから、そこは対等に国民の意思を問うとは言えないと考えています。 もちろん、手続法には賛成だが改憲に反対という御議論も当然あってしかるべきだろうというふうには思うのですが、しかし、それは改憲論議が具体的に出てきたので国民投票である意味では討ち取ろう、ピンチをチャンスに変えようというような意味にすぎないのではないかなというふうに考えています。 また、政治問題であるがゆえにタイミングが重要と書いておきました。 私は、本来、この国民投票法というのは、憲法の制定と同時に、具体的な改憲の論議が出ていない段階で中立的なものをつくっておけばよかったのかなというふうに考えています。しかし、一たん具体的な改憲論議が出ているときにということになりますと、その改憲のための手続であると見られてしまうのは、これはもういたし方がないことかなと思っています。ですから、私は、むしろそのことを正面から認めて、その上で議論していただいた方が、私のような国民の目から見るとわかりやすいかなと考えています。 今、条文の形で憲法草案が出ているのは自民党の案だけのようにも思われます。そうしますと、国民は具体的にそれを前提に改憲というものを考えようとします。この自民党の新憲法草案が出ている段階で中立的な国民投票法案と言ってみても、ちょっとイメージが持ちにくくなっております。むしろはっきりと、先ほど小林先生の御指摘にあったように、九条を変えるためにはこの手続法も必要なんだというふうに御主張され、いやいや、九条を変える必要はないからこの手続法も要らないんだというふうに、それぞれの立場をはっきりと主張していただくと非常にわかりやすくなるかな、そう考えています。ですから、立法不作為だとか国民主権だとか、そういった議論を持ち出してくると、かえってわかりにくくなるような気がしてなりません。 また、国民投票というようなものは、国民の側がいわば国会で発議されたものに対して意見を表明する。 言うまでもないことですが、国会議員の皆様方は全国民の代表に、あえて言いますが、すぎません。特権階級でも何でもありませんし、いつでも選挙によってその立場を失う、そういうものだろうと認識しています。国民の皆さんから信託を受けてお仕事をされているわけです。国民が改憲を必要だと考えて、国会議員に託して改憲の発議をしてもらう、これはこれで立派なことですし、それでよいと思います。 ですが、国会議員の皆さん方がエリートとして国民のことを考えてしっかりした発議をした、たまたまそれが国民の意思と合致しなかったとき、国政を託した国民の側から、それはちょっと違いますよといって国民投票で否決する、それもあり得ることです。そのときに、そもそもその発議自体をさせない、場合によってはそのための手続法をつくらせないという運動のあり方も、それは国民の側の抵抗の仕方として一つあり得る方法だろう、一つの選択肢であろうというふうには考えています。 そして、その必要性の前提としてそもそも許容性があるかどうか。そこに国民の認知ということを書かせていただきました。 憲法への理解は不十分である。先日、五月三日の朝日新聞の世論調査で、憲法のことを国民がよく知っているは四%だったように思います。 また、こちらでも御議論があったように、国民投票法というものの国民の認知度もまだまだ不十分なのかなと考えています。もっと盛り上げていかなければいけないんだろうというふうには考えますが、結局、この盛り上がりも、国民の側から見ると、改憲の内容、どういう方向を目指しているのかということとリンクするようにも思います。 十分な議論の前提が整っていることと最後に書かせていただきました。 これは、立憲的意味の憲法のいわば目的、意義、趣旨、言うまでもないことですが、憲法とは国家権力を制限して国民の人権を守るためのものであります。その基本点において一致していなければ、私はなかなか議論が先に進みにくいのかなというふうに考えています。 あくまでも憲法というのは国家権力に対する歯どめであって、その原則のところにおいてしっかり一致していることが重要ではないか。そこがあやふやであると、どういう憲法をつくるのか、またどういう手続があるべきなのかということを議論する上で、ちょっと順序が違うようにも思われます。憲法の意義や役割においてしっかりとした合意ができていない皆さんたちの間で果たして有益な議論がどこまで成り立ち得るであろうかというふうに、少し心配になることがあったりします。 言うまでもなく、政治の場は妥協の場です。妥協というのは目的において一致しているから可能なのであって、一定の共通の基盤がなければならないと考えています。討論と妥協によるまさに議会制民主主義というものが成り立つ、そのためには憲法の存在意義や目的においてしっかりとした合意がなされているということが大前提ではないのかな、そうでないと単なる多数決主義に陥ってしまう危険があるのではないかといった不安を覚えます。 以上です。
○中山委員長 以上で両参考人の御意見の開陳は終わりました。 —————————————
○中山委員長 これより参考人に対する質疑を行います。 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。高市早苗君。
○高市委員 おはようございます。自民党の高市早苗でございます。 本日は、小林先生、伊藤先生、大変御多用の中、国会までお出ましいただきまして、ありがとうございます。 まず、伊藤先生にお伺いをしたいと思います。 今お話を伺いまして、率直なところ、この国民投票法整備の必要性について、今急いでやる必要はないとお考えなのかなというふうに感じました。ずばりどちらなのかわかりにくかったんですけれども。 これまでは国民が憲法改正の必要を感じていなかったから国民投票法をつくる必要がなかっただけだというような御指摘もございました。しかし、先生おっしゃいましたとおり、各種世論調査で既に憲法改正を必要と考える国民の割合が高くなっておりますので、必要性がないと感じる国民の方が多いという状況はもうなくなっているんじゃないかと思います。ですから、私は、現段階ではこの法整備は必要だと考えております。 それからまた、本日の御指摘の中で、国民の認知が不十分である、十分な議論の前提が整っていないということも御指摘がありました。 私、伊藤先生の「中高生のための憲法教室」を拝読いたしましたら、その中にも、改憲案がわかりやすく提示されるなどの前提が整っていない段階では国民投票そのものを阻止しようとすることは十分に理由のあることなのです、こういう記述もございました。 しかし、改正案をわかりやすく提示したとしても、国民投票法が整備されていないと国民に賛否を問うこともできないわけで、国会が改正案を提示する以前に、それより先に国民投票法整備をするのが順序としては妥当だと私は考えているんですけれども、この法整備の必要性について、もう一度簡潔にお答えいただけたらと思います。
○伊藤参考人 お答えいたします。 まず、私自身は、結論としましては今の段階で法整備を急ぐ必要はないであろうというふうに考えているわけなんですけれども、国民が改憲の必要性を感じているかどうか。よく世論調査などでは、六割弱、五割から六割ぐらいの皆さんたちが改憲の必要性を感じているというように発表されることがございます。ですが、具体的に改憲の理由をお尋ねしますと、例えば新しい人権を盛り込むべきだとか、何となく古くなったからとか、そういうような理由がよく挙げられております。具体的にこの条文が不都合だから改憲の必要があるというふうに考えている国民の皆さんというのはそれほど多くないのではないかと私は認識しているんですね。 改憲が必要ではないですかという方とお話をさせていただいても、でも、例えば今の憲法でも十分プライバシー権は保障されているんですよというお話をすると、ああ、そうなんですか、改憲しなければいけないというのはやはり九条のところが最も重要なポイントなんですよ、ああ、そうなんですねということで納得していただく。そうしますと、漠然と改憲の必要性を感じるということと、具体的にこの条文をこう変える、変えたいというふうに望むこととはやはり別のことかなと思っています。 よりよい憲法にしたいと思っている国民はもう大多数だと思うんですね、私も含めて。もっといい憲法にならないかと思うことは当然あります。ですが、改憲の論議というのは、そういう抽象的な、もっといい憲法があればなと願うことではなくて、この条文を具体的なこういう目的のためにこう変える、そのことについて賛成か反対かのいわば意思表示をすることかなというふうに考えています。ですから、抽象的に改憲が必要と考えている方が大勢いらっしゃったとしても、そのことが具体的なこの条文を変えてほしいというように国民が改憲を望んでいるという理由にはなりにくいのではないかと認識しております。 また、改憲案とこういった手続法なんですけれども、先ほども少し申し上げたように、まだ何も具体的な案などが提示されていない段階で、本当に早い段階で中立的な法整備がなされればそれが最も望ましいことかと考えるのですが、既に何らかの案が出てきていると国民が感じている段階では、もう少しこういう、いわば改正をするための手続ですよということを明示していただいた方がわかりやすい議論ができるのかな、私はそう考えています。
○高市委員 ありがとうございます。 しかし、自民党では、昨年中に条文の形で新憲法草案を発表いたしました。これは、自民党の地方組織も含め、多くの方々の御意見も伺い、私たちも長年にわたって議論をしてきたものを提示したわけでございます。 先生が九条の例を挙げられましたけれども、今のように国民投票法もないということになりますと、そのような大きな安全保障のような問題以外のもの、一条の条文を変えることすらできないというのが現状でございます。 例えば七十三条の五項ですとか八十六条、これは内閣の職務権限、予算などに触れたことなんですけれども、政府が国会に提出するのは予算の案だと私は思っております。それが国会で審議をされて、可決して、成立して初めて予算になるんですけれども、今の憲法の中にはもう最初から内閣が提出するのが予算だと書かれてありますので、これは明らかに間違いなんじゃないか。こういう細かい文言を直す微調整すら手続法がなければできないということでございますので、私はやはり、立法府の国民主権を保障するための一つの大切な仕事として、この手続法の必要性を感じております。 また、伊藤先生の御著書「高校生からわかる日本国憲法の論点」の中にも、日本国憲法は間接民主制を原則としているにもかかわらず、改憲には国民投票という直接民主制を取り入れているというのは、憲法制定権が国民に与えられた最大の力であり国民主権という考え方の根幹にあるものだからなのですというように、国民投票というものの重要性、重さというものの御指摘がございます。 私自身はやはり、実際に憲法改正をするかしないかの議論とは別に、憲法みずから国民が判断できる権利をまずは担保すべきである、このように考えているところでございます。 伊藤先生御自身は憲法改正の必要性をお感じになりますか。
○伊藤参考人 私は、憲法改正、今のこのタイミングで変えるべきではないと考えています。ただ、私自身、もっとこういう憲法にしたいなというものは持っております。
○高市委員 ありがとうございます。 次に、小林先生にお伺いをいたします。 きょうのお話の中では、手続法を決めてから、その後憲法の中身の本論へというような形になっちゃっているけれども、まずは中身の議論ではないかといったような御指摘が冒頭にあったと思います。 つまり、改憲の必要というものが明確になればその手続はすぐにできる、もう論点もある程度整理されているという順序のお話だったんですけれども、平成十二年から衆参両院に憲法調査会が設置され、それは改正案を発議するような役割の委員会ではありませんでしたけれども、随分長い時間、五年間をかけて、現行憲法について研究、精査をしてきたわけです。そしてまた、自民党でも長年の時間をかけまして議論いたしまして、昨年の秋に案を発表したところでございますので、私はもう手続法をここで定めるという時期に入ってきていると感じております。そこは御理解いただきたいなと思っております。 それから、憲法観の転換のお話がありました。これは自民党の発表した草案に触れていただいたんですが、恐らく先生は、憲法というのは国家の権力を制限する、国民の権利を反対に守るための制限規範的なとらえ方を主に持ってくるべきだというお考えなんだろうと思います。 それは憲法の重要な役割だと私は思うんですが、私自身は、昨今、やはり国民の命を確実に国が守るとか、それから領土の保全、独立統治というものを確保するために、国家に新たな役割を担ってもらう授権規範的な要素も幾らかは必要だと思います。それはあくまでも国家主義的なものであるべきではないと考えるんですけれども、国家がもう少し新たな役割を担って、確実に国民の命を守るような役割、そういった授権規範的な考え方というのも自民党の草案の中には入ったと感じているんです。 小林先生は大学の教授でいらっしゃいますので、大学の成績的に自民党の草案に点数をつけていただくとしたら何点ぐらいとお考えいただいているでしょうか。
○小林参考人 点数でいくと、もろもろ努力すべてを評価すると、私は九十点でいいと思っているんです。ただ、許しがたい十点があるということなんですね。それは、今高市先生のお考えは根本的に誤解があると私は思うんですね。制限規範と授権規範という言葉を使い間違えていると思うんです。 つまり、憲法はもともと制限規範プラス授権規範でありまして、授権されているからこそ、国会は立法権を行使できているわけですし、裁判所は裁判ができているわけですし、内閣はあれだけの強権を持っているわけで、憲法の中に授権規範という側面があるなんということは当たり前のことで、要は、そこを強調することによって国民の権利制限規範に転化するという議論に私はこだわっているんです。 つまり、国家は、六法の中で、民法とか商法とか刑法とか訴訟法、こういうものは、ある意味では我々国民の横の生活の中で我々国民を権利義務で縛っていく面があるわけですね。それに対して、憲法というのは一個だけ異質な性質の法でありまして、それは主権者国民が我々大衆の中から、全く同じ不完全な人間であるにもかかわらず、世襲でも神的人格でもなく、つまり中世じゃないということです、お互い不完全な人間同士であることが明らかになって、その中から入れ札、選挙で例外的に選ばれて、ここにおられる方たち及びそのもとで雇われて働く公務員、こういう方たちが具体的に国家権力を握るわけですね。権力というのは、歴史上、本質的に濫用、堕落する危険性がある。それは人間の本質で、これは一向に改まっていません、古今東西。 つまり、現に今地位にいる人を疑うという意味じゃなくて、地位を疑う、権力を疑うというふうに、だれがその地位についても、つまり、中山先生がその地位に立とうとも、中山先生はかなりいいと思いますけれども、あるいは仮に共産党の人がその地位につこうが、同じく濫用の危険はある。だから、それには歯どめをかけておく。濫用されたとき、国民は、例外的にまず緊急避難的に人権ではね返す。これが憲法という法の基本的役割なんですね。これなくしては憲法じゃなくなっちゃうんですね。 もう一度申し上げます。制限規範、授権規範なんて、何か最近新発見みたいに言われますけれども、そんなものは基本的には法のあらゆる属性でありまして、特に目新しいことでも、そこを強調することは非常に目新しいけれども、それは誤用であるとあえて申し上げておきます。御理解いただけなければ、時間制限がございますので、別途いつでも御説明申し上げます。
○高市委員 私自身は誤用であるとは思っていないんですけれども。また、自民党の案について、今九十点という大変高い点数をいただいて大変うれしく思っているんですが、許せない十点というのが、国民の権利を制限するところ、著しく国家の権力によって制限するようなアロガントなところがあるとお感じになっているのか、その他の論点であるのか、ちょっと今の御説明では十分理解できませんでしたので、残り十点の分につきまして改めて御指導賜りたいと思います。 せっかくお出ましいただいているので、私たちのこの委員会の中で議論が分かれている点についても幾つかアドバイスをいただきたいと思っております。 これは小林先生と伊藤先生、両方にお伺いをしたいのですけれども、国民投票法の対象範囲ということでございます。 この特別委員会の中では、今回の法改正の検討というのは、憲法改正国民投票に限定すべきだという意見と、国政に関する重要問題、憲法以外の重要問題についての国民投票と憲法改正国民投票というのを同じ法律の中で位置づけるべきだという意見がございます。 小林先生、伊藤先生、それぞれいかがお考えでしょうか。
○伊藤参考人 私は、別の法律にした方がよいのではないかと考えています。 同じ国民投票、そして直接民主制のあらわれであると申しましても、憲法改正の場面における国民投票の位置づけと、通常の法案ですとか制度をつくるための国民投票というものの位置づけは、やはり少し違うのではないかなというふうに考えています。 まさに国民の主権のあらわれというふうに、憲法制定権と同質的な主権のあらわれとしての改正の場面と、それからいわゆる有権者の皆さんたちが多数で決めていく、いわば一種の有権者団と申しましょうか、そういう一つの国家機関が判断をしていく、通常の一般の国民投票というものとでは少し性格が違うのではないのかなというふうに認識しております。 ですから、そういった議論も深めながら、それは言葉をかえれば、この国が間接民主制、議会制民主主義を前提にしているというその根本のところから、果たして直接民主制的な制度をどこまで、どういう理由で認めていくことが正しいことなのかという議論をさらに深めなければいけないのではないか、そう考えています。
○小林参考人 私は、現行憲法を前提と考える限り、両者は全く別のものだと思っております。この場でずっと御議論いただいていたものは、私の理解によれば九十六条の実施のための手続法であると思います。 それに対して、先ほども冒頭にちょっと申し上げましたけれども、国政上の重要課題を特に幾つか選んで国民投票でいわば意見を聞くというものは間接民主制を原則とする日本国憲法のもとでは国会否定になりかねないわけでありまして、そういう意味では法的拘束力を持ち得ないたぐいのものをつくるのがせいぜい限度だと思うのですね。 そういう意味では全く異質なものであるわけですから、それは考えてみることは可能であると思いますけれども、そもそも同じ法典の中に畳み込むものではないと思います。
○高市委員 ありがとうございます。 私も、憲法改正の国民投票とその他の、今後そういうものを想定するかどうかわかりませんけれども、国民投票というものは別の扱いにすべきだと考えております。 そもそも日本国憲法は、間接民主制というものを基本としながら、この憲法改正の判断というものについては九十六条で例外的に直接民主制という非常に強い国民の権利を規定している、このような性質のものだと考えております。よって、国政に関する重要問題の判断と憲法改正の判断というのは、現行憲法の理念上、全く格の異なるもの、性質の異なるものだと思いますので、これらを同じ法律の中で位置づけるということには賛同できません。 将来的に、もしも国政に関する重要問題についての国民投票という制度なるものを検討するといたしましても、憲法改正国民投票と同じ拘束力、効力を持たせるということには反対です。それでは代議制民主主義の意義もなくなりますし、多くの国政の課題を処理する上でコストも時間もかかり過ぎるという問題も出てくるんじゃないかな、個人的には今このように考えております。 それでは、この法律のさらに具体的な話になるんですけれども、投票権者の範囲というもの、例えば二十以上ですとか十八歳以上ですとか、こういった範囲につきまして、両先生の御意見を伺いたいと思います。
○伊藤参考人 私は、この憲法改正国民投票というのは国民主権のあらわれであると考えています。 そうしますと、できるだけ多くの国民の考えが反映される、言いかえれば、生まれたばかりの赤ちゃんからお年寄りの方まで、いわゆる全国民。ところが、それは現実的には難しいわけです。そこで、一定の範囲の者に限っていくということになりますので、実際に投票される方と全国民というものができる限り一致するような、言いかえれば、できる限りそこが一致しているんだ、全国民の意思だというふうに、一つの擬制、フィクションではありますけれども、それをいわば正当化できるように可能な限り広げていくべきではないのかなというふうに考えています。 ですから、十八歳ですとか、できればもう少し下げてもいいのではないか、その辺も議論してよいのではないかなというふうに考えています。
○小林参考人 歴史的決断をするわけですから、人間であればだれでもいいというわけにはいきませんで、能力の問題がございますので、やはりどこかで年齢を切らなければいけない。そういう意味では、世界の趨勢は先生方お調べのとおり十八歳以上でありますし、また、恐らく、統計というよりも印象でございますけれども、社会的事実として日本の十八歳以上というのはもはや能力はあると思います。 ただし、実際に制度設計で先生方御検討のとおり、各種の投票制度の中でこれだけ十八に下げるとかなりの実務的混乱が起きるということが問題のようでありますが、ただ、それが何か本質的な間違いを犯すならば……。難しくてもやるべきという議論になると思うんですけれども、各種選挙の結果を見ても何か最近は十八歳以上か二十以上かによって意味ある差が出そうにない傾向がございますので、これも深刻に議論する話題ではなくて、むしろ十八歳以上を目標として、できるように制度を組み立てていくというあたりなのではないかと感じております。 以上です。
○高市委員 ありがとうございます。 小林先生にもうちょっと詳しくお伺いしたいんですが、先生のお考えでしたら、例えば、私法上の行為能力を認めるような年齢、成年年齢と言われるようなものですとか、公職選挙法上の有権者年齢、これと今回のこの憲法改正の国民投票の投票権者の年齢というのは、もう本質的に別で全く分けて考えるべきだとお考えなのか。それとも、それらが違う理由も私はないと思っておりますので、それらはそろえて、成年年齢まですべてを十八に引き下げた方がいいとお考えなのか。とりあえずは、何もかも引き下げるというのも時間がかかるので、スタートは二十で今の公職選挙法などとそろえまして、将来的には十八歳という検討もあっていいとお考えなのか。いずれでございましょうか。
○小林参考人 後者に近いんですけれども、つまり、いろいろな法制度で一人前の年を決めています。それはやはり、結婚していいかいけないかとか、投票させていいかいけないか、それぞれ制度目的によって判断基準が違って私はいいと思うんです。全部一律にすることはないと思うんですね。 ただ、選挙という壮大な国家的行事をするという点で、それから、どこを事務局にするかというような点で、公職選挙と重なってきますよね。と同時に、対象事項が似ていると思うんです。そこに有意な差はないと私は見ております。ですから、公職選挙の制度を使うという前提で考えて、今一気に十八というのはさまざまな混乱が生じるから、将来の十八を目標として掲げて、今は二十で始めるということを私でしたら考えます。
○高市委員 ありがとうございます。 次は、伊藤参考人にお伺いをしたいんですが、同じような投票権者の範囲ということになるんですけれども、選挙権停止中の方の投票権をどうするかという議論がございます。成年被後見人ですとか在監者、それから選挙違反による選挙権停止中の人について、それぞれ国民投票権を与えるべきかどうかというような議論がこの委員会でもございましたけれども、伊藤先生の御意見を伺いたいと思います。
○伊藤参考人 私は、原則すべての方に与える、ただ、本当に必要な限りでそれが制限されるだけだという、その原則と例外を明確にして考えるべきかなと思っています。 ですから、選挙権停止中だからといって当然に国民投票法の投票権を制限すべきではないのではないか。例えば在監者の方であったとしたならば、その在監目的との関係で本当にそれが合理的なものなのかどうか、そこを考えるべきではないのかなと思っています。 以上です。
○高市委員 済みません。同じ問いを小林先生にもさせていただいてよろしいでしょうか。
○小林参考人 私は、原則として、年齢と国籍がある限りすべての人にこの投票はさせていいと思っているんです。 例えば、公民権停止されている人々は、何か公職選挙でトラブったわけですけれども、公職選挙と似て非なる点が気になるんです。つまり、公職選挙というのは、議席という限られた権力、すなわち、これは現実生活において利権に見えちゃうんですね。それをあいつがとるかこっちがとるかというような深刻な選挙の争いをやっているときには、つい買収その他のフライングというのが熱してくると起きますけれども、憲法改正というのは実はそういう意味ではそういうヒーティングアップはしようがない。ある意味では、みんなが政治評論家になるような、次の時代の国のあり方、理念を議論するものであって、本質的に選挙犯罪とは違うものがあると思うんです、心理とかプロセスにおいて。 ですから、そういうもので仮に公民権停止になっていても、だからといってその人は憲法改正国民投票に無資格者であるというふうにつながらない。それに、めったにあることではなくて、その中で何十年も生きていくわけでありますから、極力主権者である以上参加させるという前提もございますので、私は、そういう意味で、結論として確認いたしますが、もろもろの公民権停止とは別に、原則だれでもという立場でございます。
○高市委員 ありがとうございます。 それでは、国民投票運動、運動そのものの主体ということについても両先生にお伺いしたいと思います。 一つは、特定公務員の国民投票運動禁止の是非について、この委員会でも意見が分かれました。 一つは、公選法と同じように選管職員、裁判官、検察官、会計検査官、警察官、税務署職員という特定の公務員すべてについて国民投票運動を禁止すべきであるという考え方と、もう一つは会計検査官と税務署職員は削除して残りの特定の公務員には禁止すべきであるという御意見と、それから選管職員のみ禁止してほかの公務員は自由にすべきだというお考えがありました。 まず、これについてどうお考えかということと、あわせて、公務員、教育者の地位利用による国民投票運動の禁止、これについても意見が分かれまして、公選法同様、公務員、教育者の地位利用による国民投票運動をこの国民投票法の中で禁止すべきであるという意見と、それから国家公務員法の政治活動の制限で足りるという意見など、ここもさまざま議論があるんですけれども、この二つについて、お二人の先生はいかがお考えでしょうか。
○伊藤参考人 私は、この国民投票運動というのは、まさに憲法改正の正当性を基礎づける極めて重要な場であろうと考えています。ですから、できる限り多くの方が自由に参加し、発言し、その討論、議論に参加できること、それが大切なことではないかと思っています。 公務員の方であれば、まさに公務員の方はこの憲法によって拘束を受ける側になるわけですから、最も利害関係があると言いかえてもいいわけです。ですから、その公務員の皆さんたちがこの運動に参加できるのはむしろ当然のことだろうというふうに考えます。具体的には、投票の手続にかかわるような方々は制限されることがあり得るかと思いますが、それ以外、例えば裁判官であっても検察官であっても、それは一定の国民投票運動をすることは認めるべきではないかなと考えています。 教育者であっても、これは同様と考えます。教育に携わる方の地位利用ということがよく言われますけれども、地位利用というのも要件として不明確な気もいたしますので、私は、原則としてあらゆる方がこの議論に参加できる、そういう前提をつくるべきではないかなというふうに考えております。
○小林参考人 さっき挙げられた特定の公務員というのは一般的傾向としてレフェリーのような仕事をやっておりますから、そういう人たちが露骨な党派性を示すと、らしさがなくなって、権力とか職務に対する信頼性が失われるという意味があると思うんですね。そういう意味では公職選挙で運動できないというのは当たり前で、繰り返しますけれども同じ選挙区であっちにつくのかこっちにつくのかになってしまいますから。 ただ、憲法改正国民投票というのは、先ほど来申し上げておりますように、いわば居酒屋での政治評論ごっこみたいな側面がありまして、具体的な利害があるようで実はない、趣味の論争でありますから、これでその種の公務員の方たちが自分の意見を言ったり、それもただ言うんじゃなくて壇上で言ったり、パンフレット配布に参加したりというようなことが仮にあっても、それによって予防すべき実害はないような気がする。要するに、規制というのは害が見えてこなければするべきではないというのが原則でありますから。そんな気がいたします。 ただ、公務員と教員が地位の利用、例えば私が、自民党の出してきた改憲案に賛成しなかったら単位を上げないとか、それはもう論外でありまして、そんな教師は首にしたらいいと思うんです。そういう意味で、賛成しなかったら補助金を上げないとか、だから、こういう極端な例はあり得ると思うんです。 憲法論議というのは評論家ごっことさっき申し上げたけれども、ある意味で結構マニアの世界がありまして、思い詰めた人がいっぱいおりますので、ですから何らかの規制は、実際に発動されるような事例はないことを願いますけれども、やはりないというのは不自然なような気がします。それを、形式上、既存の公職選挙法のたぐいとか刑法とか公務員法とかそういうところで処理するか、特にここの法律の中に入れるかは、テクニカルにはどちらもあり得ると思います。
○高市委員 それでは、小林先生に、この問題とは離れて、国民投票が仮に行われたといたしまして、その国民の承認というものをどう認めるか、つまり、過半数という要件につきましてお話を伺いたいんですが、これも、有効投票総数の過半数とすべきだという意見と、投票総数の過半数とすべきだという意見と、有権者総数の過半数とすべきだという意見がこの委員会でございました。 私自身は、過半数の意味につきましては、有効投票の過半数とすべきだと考えるものです。 例えば、有権者数の過半数という考え方では、棄権することで賛否を表明されなかった方の数まで反対と同様の効果を生じさせることになりますし、また、投票数の過半数では、記載ミスなどの無効票にこれも反対と同じ効果を生じさせることとなり公正でないと思いますので、私自身は、真剣に改正案を読み判断に参加する国民の意思、これを尊重すべきである、こういう考え方もありまして有効投票の過半数と考えるんですが、先生はいかがお考えでしょうか。
○小林参考人 結論も理由も基本的に高市先生と同じです。 つまり、効果として、有権者数を分母にするとか投票総数を分母にするということは、改憲がしにくくなりますよね。そこが私は多少気になりまして、憲法などというものは我々が使いこなしていくべきものだという前提をとりますので、いたずらに改憲しにくくさせることはない。改悪提案があれば、それはそれで討ち取ればいいだけの話ですから、改憲そのものをそもそも動きにくくするというのは国民主権にもとると思うんです。 その上で記載ミスとか棄権の評価なんですけれども、これは、自由な社会というのはある意味では自己責任が前提にありますから、記載ミスを変に何か色をつけてあげる必要はないと思うんですね。むしろ、先例から普通に考えれば、特に棄権などがそうなんですけれども、これはお任せというか消極的、委任のごとき心理行動だと思うんです、多くの場合は。もちろん、投票不参加運動なんというのがあれば話は別ですけれども、それも思えば不心得な話でありまして、民主主義への参加拒否をするというのも。 ですから、そういう意味で、そういうものを積極的に評価しないという前提をとれば、これは普通に考えて、結果としての有効投票の過半数をもって可決とすであると思います。
○高市委員 そのお考えでしたら、恐らく最低投票率制度を設けるということにも反対でいらっしゃるかなと思います。 私自身も、最低投票率制度というようなものをここに入れ込んでしまうと、棄権運動、棄権しましょう、ボイコットしましょう運動展開の誘因にもなってしまうのではないかというような不安もありまして、そういった制度を設けるべきではないと考えるんですが、小林先生はどのようにお考えですか。
○小林参考人 全く同じでありまして、最低投票率などの制度ができますと投票しない運動という邪道が起きまして、僕はやはり、こういうものはそういう裏口入試をめぐるけんかみたいなことをするのではなくて、嫌ならば堂々と出てきて否決すればいいんですね。そういう意味で、制度の土俵をひっくり返すような運動を可能にする、これは現に地方自治体での住民投票であしき先例があるではないですか。ですから、そういう意味でも先生のお考えと今同じでございます。
○高市委員 ありがとうございます。 本日は、伊藤先生、小林先生、本当にありがとうございました。 以上で私の質問を終わります。
○中山委員長 次に、園田康博君。
○園田(康)委員 民主党の園田康博でございます。 本日は、小林先生、伊藤先生、両参考人に衆議院の当特別委員会にお越しをいただきまして、本当にありがとうございます。また、先ほどから先生方の御意見をお述べいただいておることに心から感謝と、それから、私ごとではございますが、特別な念を持って拝聴させていただいておりました。 と申しますのは、私が国会議員に当選させていただいて二年半がたっているわけでございますが、その前職、振り返りますと、もう八年前になろうかと存じますが、小林先生のもとに師事をさせていただきまして、秘書あるいは大学院生という形でずっと小林先生の憲法観を学ばせていただいてきた一人でございます。そういった面では、きょう私がこういう立場で小林先生に御質問をさせていただくというのは、緊張しながらも、その当時を思い起こしながら先ほどは伺わせていただいていたところでございます。 同時に、伊藤先生におかれましては、今、小林先生の慶応大学におけます特殊講義で私も共同担当を御一緒にさせていただいている、いわば同僚といいますか、失礼でございますが、お仲間という立場でも大変貴重な御意見を賜っているというふうに思っておるところでございます。 私自身が当初小林先生に師事をさせていただきましてから、最初は、衆議院の、たしかあれは国鉄の債務処理の特別委員会において、第十六委員室であったと思いますけれども、ちょうどそのとき私も小林先生の助手としてあるいは随行人として御一緒させていただきまして、初めて国会の中に足を踏み入れたときから八年たっているわけでありますけれども、こういう立場というのは本当に私にとりましても感慨無量の感がございます。どうか大所高所からの御指導をいただければなというふうに思っております。 まず、小林先生、伊藤先生にお伺いをさせていただきたいと思います。 先ほど国民投票法案をめぐってのいわゆる国会の論議のあり方について御示唆があったかと存じますが、振り返ってみますと、これまでの五年間、衆議院ではこの特別委員会の前身でありました憲法調査会、中山太郎調査会長のもと五年間の議論がなされ、そして、参議院でも同じく調査会が設置をされ、議論がなされてまいりました。 今、衆議院ではようやくこの特別委員会という形で設置をされ、議論が昨年からされているわけでありますけれども、この調査会の五年間と、衆議院における一年のこの特別委員会の議論を振り返っていただきまして、いわば国会での国会議員における憲法論議というものは、両先生にとりましては一体どういう形で映っていらっしゃるでしょうか、総括的な意味も含めてひとつ御感想をいただければというふうに思っております。
○小林参考人 中山太郎先生が憲法調査会長として五年かけておまとめになった報告書をいただきまして、私は本当に感激いたしました。つまり、それまで決定権を持っておられる議会の中で、本当の意味で、もう過去三十年近くですかね、憲法論議につき合っていまして、きちんと論議が深まっていなかったにもかかわらずこの五年間でできたあの報告書は、私はあれは現代憲法百科事典だと思うんです。参議院のもよくできています。もうあれで実は内容的議論は、メニューは全部そろったという印象を持ちました。だからこそ手続法の議論に入ったんだと思います。 そういう意味で、今手続法でつまずいているのを非常に残念に思いますが、つまずかせているのは民主党ですかね、大変残念に思いますが、しかしそれはそれとして、つまずくまでの御議論の中で、これまた手続法もメニューがそろったという感じなんですね。後はもう政治的な妥協、調整の世界で、私どものあずかり知らぬところでありますけれども、そういう意味で、改憲論者の私としては、着実に事が進んでいることをうれしく思います。 ただ、先ほど高市先生との間で議論にならずに、私が回避してしまったようで、説明不足だったんですが、憲法観などに関する誤解については非常に要警戒ではありますけれども、それも逆に言えば、議論が公然化すればこれまたはっきり出てくるものですから、そういう意味で、本当にここ数年、中山太郎先生の党派を捨てた、お人柄なんでしょうけれども、それから、あるいは関係者の学識なんでしょうけれども、かなり前進していると思っております。 以上です。
○伊藤参考人 現在の憲法をどう変えたらいいのか、また、改憲の必要性がどこにあるのか、そういったことについて議論をする前提として、今の憲法が果たしてどこまで実現できているのか、言いかえれば、現在の憲法と社会の実情の不一致、ギャップがどういう点にあるのか。今の憲法の理想としているような価値が実現できていない場面というのは、幾つかの場面であるようには思うのですけれども、そういったところをもう少し具体的な形でいろいろ御議論をしていただくと、もっとわかりやすかったのかなと思うんですね。 憲法を変える必要性と置きかえてもいいかもしれません。それは、今のこの憲法では具体的にここがこう不都合だからという、何かそのわかりやすい理由が浮かび上がってくると非常に理解しやすかったのかなと思います。 ですから、もう少し幅広く、いろいろな場面のところで今の憲法価値と現実のギャップがどこにあり、かつ、その理由、根拠がどこにあるのか。それは、憲法が先走り過ぎていることが理由なのか、それとも現実を憲法に合わせる努力がまだ国民の側も含めていま一つ足りなかったからなのか、その不一致の理由なども詰めて御議論していただいて国民の前に明らかにしていただけると、改憲の論議がより深まり、わかりやすくなったかなというふうには考えております。
○園田(康)委員 ありがとうございます。 そういう意味では、私は、国権の最高機関である国会の議員は、国民の負託を受けた代表者が集まり議論を活発化させていくという大変大きな責任を負っている立場ではないかというふうに思っておりまして、同時に、それをもっともっと国民の皆さんに理解をしていただける、あるいはそういう国民論議をこの先もっと深めて活発化していく、その作業も私どもは行っていかなければいけないんではないかというふうに思っているわけでございます。 そういう意味では、次なる一手という意味ではございませんが、今後、この特別委員会のあり方、あるいは衆参あわせてこの憲法論議をどういう形で国民議論へと深めていくか、拡大をさせていくかということについてはどのように先生方はお考えでしょうか、お伺いをさせていただきたいと思います。
○小林参考人 先ほど伊藤先生などから国民が憲法問題について認識が足りないという御指摘があった、それは一面の真理だと思います。 でも、問題は、だから議論を進めちゃいけないという人と、私のように、ならばこそ、もう客観情勢として改憲は車のモデルチェンジのように必要になってきていますから、国会が動きを起こしてくだされば、嫌でも主権者国民はそっちを向かざるを得ないんですね。向くことによって一気に、日本は民度が高いですから、憲法認識を高めると思うんです。中山先生にも大学のセミナーでお話しいただいたときに似たようなことがあったんですけれども、若者たちの方が、いや、憲法は余り知りませんという状態でたじろいでいるんですけれども、ぶつけていただければ、みんな一気に学ぶと思います。 そういう意味で、もうここまで来た以上、国会が動きを起こすことこそが、国民の憲法論議を高め、認識を深めることになるんだと思います。
○伊藤参考人 国会が問題提起をしていただくということは極めて重要だというふうに思います。ですから、この国会の御議論をきっかけにして、国民の間で憲法論議、また、憲法の認識が深まるということは、小林先生と全く同感です。 ですから、そういう意味では、争点を明確にした、いわばこういう点が問題なんだということをわかりやすく伝えていただく、そんな御議論がもっともっとなされると、国民の方もありがたいなというふうには思っています。
○園田(康)委員 ありがとうございます。 また、今、くしくも小林先生がおっしゃっていただいております、憲法改正はモデルチェンジのような形で行うというお話がございました。私も学生のころ、そのお考えにすごく、いわば新たな感銘を受けた次第でございますが、現行憲法を是とする、まずそこから小林先生はスタートをされている、押しつけられてもいいものはいいんだということをおっしゃっておられましたし、その旨を私自身もこの委員会でも何度か述べさせていただいたわけでありますけれども、しかしながら、主権者国民の道具としてのモデルチェンジ、これはよりよいものにしていくための改憲論者であると、先生もおっしゃっておられますが護憲的改憲派という立場を明確にされまして、ある意味では、政治、あるいはそういう学会の中でこの議論をリードされてきた先生であるというふうに私は認識をいたしております。 その中で、先ほどの高市先生の御議論の中にもありましたけれども、当然、いわゆる無教養であるが俗耳に入りやすい復古調の改憲論には小林先生はくみしないというふうにある面公言をされておられます。そのいわゆる復古調の改憲論というものが一体どういったものを示しているのかという点を明確にお示しをいただければなと思っておりますと同時に、新たな憲法に対して、国民への義務というものを、先ほど制限規範であるとか授権規範のお考えがあったわけでありますけれども、その国民への義務を課そうとするある種乱暴な憲法観、こういったことに関してもさらに小林先生のお考えがあればお聞かせをいただきたいというふうに思います。
○小林参考人 復古調というのは、言うのも面倒くさいですけれども、要するに、第二次世界大戦で負けて、日本はアメリカによって無理やりよその憲法を押しつけられた、これは我が国に主体性がないときの憲法改正で国際法に違反する、もちろん占領のために必要ならやっていいというのが国際法ですから、それは無理ないんですけれども、したがって、独立を回復した今、押しつけられたよそ者の憲法を無効にするとなると、我が民族みずからつくった憲法は明治憲法しかない、したがってあれを復活しというような、ポツダム宣言とかそれに至った歴史を一切否定する議論があるわけですね。 それはいろいろな意味で、要するに戦争という間違いも経験して着実に真理に近づいてきているわけで、そういう意味で、国民主権、反対は君主主権、平和主義、反対は軍国主義、人権尊重、反対は専制なんということは選択が済んでいることなんですね。まずそういうものにはくみしない。 だけれども、常に人間というのは不完全なもので、見たことのないあすのために法をつくる、ここでつくられた法もあした以降適用されるわけですから、あしたも見たことのない不完全な人間がつくっている法に間違いがないことはない。さっき高市先生がおっしゃったように内閣が予算案を出して国会が承認して予算になるわけで、そんなことも書き間違いがありますし、衆議院の解散なんという大権だって、憲法の条文を読んだら、だれがその権を握っているかがわからないんですよね。だから、そういうことを含めて、車のモデルチェンジは必要だという意味での、よき憲法を発展させるという改憲論なんですね。 さらには、時々吹っ飛んじゃって、十七条憲法が出てくるんですけれども、我らは和をもってとうとしとなし、そして、それは国民の中に権力と人権という対立関係を持たないでといううそ解説する人もいますけれども、十七条憲法を見ればわかりますように、あれも当時の憲法では確かにあるんですね。だけれども、公務員に濫用するなよとか私腹を肥やすなとか、結局、権力者というのは危ないよということを書いてある。実にそれは今に通じる憲法で、全部読んでいってほしいと思うんですが、そういう議論と私は一線を画します。 それから、さっきの愛国心の問題は、私は、この時代、この国に生まれてよかったという意味で愛国心を持っています。だけれども、そんなものは道徳的自然の感情の問題であって、愛国心を法で国民に強制しようとする方には、そんな権限をお持ちだったらよい政治をなさってください、よい政治をしていただいて、この国が居心地がよければ自然と愛せます。愛などというものは、男女関係だって同じですよね、国家権力で強制すべきものではない。ここに何か勘違いがある。 それは、まさに神という仮定の上に立った明治大帝が大日本帝国憲法と皇室典範と軍人勅諭で政治を仕切り、そして、神様ですから、教育勅語で国民道徳までおせっかいに語った時代の法体系なんですね。ですから、今そういう教育勅語的なものが憲法規範にあるはずがないんですね。私にレッテルを張るのは御勝手ですけれども、これは私のイデオロギーが言わせているのではなくて、単に私の学識が言っているだけのことで、そこは御理解いただきたいんですけれども、何かここで党派的なレッテルを張られちゃうんです。 でも、憲法に義務は三つあるじゃないかと。納税と勤労と教育ですか。これは、憲法は国家を形づくる基本法ですから、さすがに、我ら主権者国民様があるじですから、人に頼らずみずから働いてみずから食わす勤労の義務、そこから出てきた余得で国に納税して国を支え、そして、先に死んでいく者として後継者を育てないと国は成り立たないから、最低限この三つの義務があるので、そこをとらえて憲法に義務を書いていいなどという、窓口が開かれたという考えは間違いだと思うんですね。 それから、義務が足りないと言うけれども、十二、三条に、すべての人権に濫用しない義務と公共の福祉に配慮する義務が全部セットで入っているんですね。だから、人権の分だけ義務があるんですよ。 こういうレベルでの議論のかけ違いがあって、変な方に進みつつある改憲論議に私は心配をしております。 以上です。
○園田(康)委員 ありがとうございます。いつもながらに明快な小林先生の理論展開であったなというふうに思っております。 一方で、伊藤先生にお伺いをしたいんですけれども、いわゆる護憲派と言われる方々に対して、実質的な憲法論議が深まらなかった理由の一つに、護憲派的な方々が改憲論の人々の意見を無視して、いわゆる同じ土俵になかなか上がってこない、そして議論を避けてきた、そのことによって有効な反論をきちっとそういう場で行ってこなかったから憲法論議というものがなかなか我が国において広まりを見せなかったという御指摘もあるわけですが、そのことについて伊藤先生はどのように見ていらっしゃいますでしょうか、御意見を伺わせていただきたいと思います。
○伊藤参考人 いわゆる護憲派の議論が改憲派と真っ正面から向き合って議論がなされなかったという事実については、私は正確に認識しているものではありません。ただ、うまく議論がかみ合わないことがあったんだろうなというふうには思います。それは、やはり憲法とは何かというその本質の部分のところでのいわば共通点がなかなか見出せていなかったのかなと思うのですね。 例えば、それこそ九条の会というような会が、全国でも四千七百以上でしょうか、あちこちで草の根で憲法を守ろう、大切にしようという集まりがあるように伺っています。たまにそういうところにお邪魔してお話をさせていただくこともあるのですが、そのときに、皆さん憲法を守りましょう、九条を守りましょうというお話をされます。ですが、そうではなくて、九条を守らせましょう、憲法を守らせましょうでなければいけないわけですね。国民の側が国家権力に九条や憲法を守らせるという意識をきちっと持ち、そういう権力への歯どめなんだ。 それから、先ほど愛国心の話も出てきましたが、憲法の中に愛国心のようなものを入れてしまうと、例えば、あるとき時の多数が法律で君が代を歌うことが愛国心なんだということを決めて、それを強制することになる。そうすると、反対する人は嫌な気持ちを持ちます。逆に、ある場面で政権が交代したときに、君が代を歌ってはならないという法律をつくって、今度はそれを国民に強制したとします。それもまた、それはちょっと困る、嫌な気持ちがするという国民も当然いるわけです。ですから、時の権力が交代しようが常にやってはいけないことというのはあるわけであって、それを憲法が定めたんだ、そういう人間の心の中に権力が立ち入ってきてはならないというのが憲法の一つの本質であろうかと思います。 いわば、憲法が何のためにあるのか、そして何を守ろうとしているのか、そういった部分のところで共通点があって初めて、じゃ、この国の憲法をよりよくするにはどうしたらいいだろうかというので、改憲と護憲が向き合って議論をするということが必要なのではないのかなと思うのですね。ですから、その共通の基盤、共通の前提のところでのいわば合意といいましょうか納得が、そこが少し不十分だったような、そこで議論がうまくかみ合わないということもあったのかもしれないな、そんなふうに認識しております。
○園田(康)委員 ありがとうございます。 先ほど伊藤先生もおっしゃっておられるんですが、憲法の理念と社会的な現実とのギャップというものがあり、この委員会の中あるいは調査会の中でも、憲法の理念に現実を近づけていかなければいけないんだ、憲法を改正するんではなくて憲法の理念に現実を近づける、そういう議論もあったわけなんですね。 ところが、今、小林先生、伊藤先生もおっしゃっていただいておりますけれども、憲法が時の権力者に対していわゆる歯どめをかけるものであり、そして、それは主権者国民がなし得るものだというふうに私も理解をさせていただいておりますけれども、しかしながら、今日までのこの社会的、政治的な現実からいきますと、いいかげんないわゆる解釈改憲というものを時の権力者が行ってきた嫌いも、私は懸念を持たざるを得ないものでございます。したがって、その権力者に対して、権力そのものを濫用させないように枠をはめるための憲法改正というものが今後必要になってくるんではないかというふうに考えるわけなんですけれども、この憲法理念というものが今後どういう形で国民によって理解をされ、そして、現実に憲法がおりてくるということではなくて、それもある面ありますけれども、時の権力者に濫用させないという点を先生方がどのようにとらえていらっしゃるか、お聞かせをいただきたいと思います。
○小林参考人 憲法改正の際に二つのことが大事で、一つは、今の九条みたいにわかりにくい条文にしないことだと思います。そして、その際に、もう一つは、憲法というのは何なのということをきちんと国民が学習することだと思います。これで二つ言っちゃったんですけれども。 ただ、前提として、恨み言を一つ言っておきたいんですけれども、長年改憲論議をやってきて、どうしても護憲派と遭遇できない期間が二十年ぐらいありました。つまり、護憲派が改憲論を無視することによってつぶすというか、護憲派だけで集会をして、自分たちでなれ合っている世界があったわけです。その中で、伊藤先生が御指摘のように、憲法を守ろうと守らせなきゃいけない人たちが影響力のないところで盛り上がっていたわけですね。その間に国民全体の憲法教養が低くなっちゃったと思うのです。 だからこそ、今回の改憲論議はすばらしいことだと思います。調査会がつくってくださった百科事典をコンパクトにして、全国で活用すべきだと思うのですね。その上で、改憲派はどんどんどんどん改憲派の質を高めていく、護憲派は堂々と論争に参加して討ち取ればいいではないですか、それが改悪だったら。そういう闘いの中で園田代議士の御心配は解けていくと思います。
○伊藤参考人 現在の憲法にも九十九条という立派な条文があります。この九十九条は公務員の憲法尊重擁護義務でありますけれども、ここをやはり権力の側というか国の側で仕事をされている皆さんたちがしっかりと認識をする、憲法を守れと言っているわけですから。 では、これ以上に国民の側はどうやって枠をはめるんだということだろうと思います。 最終的には、その国の憲法のレベルは国民のレベル以上のものにはなり得ないとよく言われます、裁判所で救済することも限界があります、最後はやはり国民の意識、主体的な意識、そこにまつしかないのかなというふうに思います。 また、憲法の条文をできるだけわかりやすくするということも一つの大切な方向かとは思うのですが、私は、憲法の条文のようなものは、どこまでわかりやすく書いてもやはり解釈で分かれる場面は出てき得るのではないかな、そこはイタチごっこというか堂々めぐりをする可能性を常に持つものではないのかなというふうに思っています。だからこそ、その都度、その場面における解釈に国民が互いに意識で歯どめをかけようとすることが大切ではないか。ですから、そういう意味では、国民が憲法を主体的に学習し、国民が主体であるという意識をもっともっと持っていくこと、それが何よりも解釈改憲を許さない一つの歯どめになるかなというふうに考えます。 仮に解釈改憲を許さないために現実に理想であるところの憲法を近づけるということをやった場合でも、今度はまた一たん現実に近づけたところの憲法と離れた現実というものが生じてくることは当然あり得ることだろうというふうに思いますので、そもそも法は、憲法もそうですけれども、一定の価値を示すものであって、理想を示すものにほかなりませんから、そこは国民がそれに向かってどこまで努力をしていくのかということに尽きるのかなというふうに考えています。
○園田(康)委員 ありがとうございます。 残念ながら時間が残りわずかとなってまいりました。今先生方からいろいろお話をいただいたことをもとにして、国民投票法制についてしっかりとした議論を行っていきたいというふうに思っておりますけれども、それよりも何よりも憲法論議というものをきちっとこの国会の中で深めていくということを、同時にというか、それを本来行ってこなければいけなかったものであるというふうに思っておりますし、その都度その都度、イラクであるとかあるいは教育基本法であるとか、さまざまな憲法にかかわる、あるいは憲法問題が出てくるわけでありますけれども、きちっと正面からそれを議論し闘わせてこなかったということは、大変不幸なことであっただろうというふうに私は思っております。きょう御意見をいただいたことをきっかけに、今後深めていきたいというふうに思っております。 最後に、一つだけ小林先生にお伺いをしておきたいと思います。 先ほどの議論の中で、国民投票運動の禁止の中で、公務員と教育者の地位利用に関する議論がございました。もう一つ、それに関して地位利用の威迫罪というものをこの中で用いてはどうだという御意見があります。すなわち、ただ単に地位利用をするだけではなくて、そこに威迫、すなわち、相手に不安の念を抱かせるに足る行為をいい、相手の意思を制圧するに足りる程度の行為である威力よりも弱い、これを行った場合に犯罪が成立をする、そして可罰的な行為類型を限定するという提案もございます。そういった点については、先生のお考えはいかがでしょうか。
○小林参考人 私は教育者でありますので、そこまで厳格に考えることはないと思っているんです。教師がそんなことで疑われたら、それ自体失格だと思っていますから。 ただ、人権論として御議論なさるときは、そういう詰めた議論、自民党には保岡先生もおられるし、一般論として、そういう詰めた、きちんとした御議論をなさるのはいいと思いますが、私自身は、教育者はもっと厳しい倫理基準で縛られていいのかなと思っております。 以上です。
○園田(康)委員 ありがとうございました。
○中山委員長 次に、石井啓一君。
○石井(啓)委員 公明党の石井啓一でございます。 両先生には、本日、当委員会にお越しをいただきまして、大変ありがとうございます。 まず最初に、憲法改正の中身の議論と改正の手続、すなわち、国民投票法制の議論、中身とこの手続ということに関して両先生にお伺いをいたしたいと思います。 先ほどの陳述の中で、小林先生は、今は余り国民投票法制には過度に振り回されるべきではない、むしろ中身の議論を深めるべきであるという御主張でございました。伊藤先生におかれては、現段階で投票法制は余り急ぐ必要はない、より具体的な改正の議論が重要である、こういうお話でございました。 私は、確かに改正の中身の議論をより深めていくということは非常に重要であるというふうに思っておりますけれども、改正の具体的な中身と手続であるこの投票法案とを直接結びつけて議論するのは避けた方がいいんではないかというふうに思っております。 それは二つ理由がございます。 一つは、本来、中身と手続というのは関連はいたしますけれども独立した問題でございますが、具体的な改正案と手続とをリンクして議論しますと、手続の議論よりはむしろ中身の議論、中身の是非の議論になっていくであろう、それは必ずしも望ましいことではないんではないかということが一つございます。 もう一つは、両先生とも本来憲法改正の議論が出る前に投票法をつくるべきであった、特に伊藤先生は今何らかの案が出ている段階ではもっと具体的な改正案を議論すべきだ、こういうお話でございましたけれども、確かに自由民主党さんは案を出されておりますけれども、私の認識では、自民党さんがまとめられた案ですから重要な案だとは思いますけれども、ただ、これは一つの案である、ワン・オブ・ゼムだというふうに私は思っておりまして、これで決して発議に向けて固まっている内容ではないわけでございますから、そういうまだ一つの案が出ている段階ではやはり手続法の方を独立して進めた方がいい、こういうふうに思っておりまして、中身の議論と手続の議論とを直接リンクして議論をするのは避けた方がいいんではないかというふうに私は思いますが、両先生の御意見をお伺いいたしたいと思います。 〔委員長退席、保岡委員長代理着席〕
○小林参考人 基本的には全く同感でございまして、私が振り回されるなと申し上げたのは、もう既に五年間の憲法調査会で内容は見えている、そしてこの一年余りの議論で手続法も見えている、だからそれが、言葉を選ばずに言うと、いわば党利党略でつまずかされるならばパスするか、パスというのはまたいで通るという意味のパスですけれども、もう一つのパス、すなわち、合格させてしまうかして、先に中身の議論で時間を有効にお使いになってはいかがでしょうか、その方が主権者国民にとっても有益であるという趣旨で申し上げたわけであります。 以上です。
○伊藤参考人 私は、確かに、自民党の新憲法草案は幾つかの考え方の一つにすぎない、そのサンプルが提示されただけだとは認識するのですが、ただ、国民の方がこの改憲の論議に参加していく、また、この国民投票法制というものを考えていくときに、どうしても、抽象的に考えるというよりは具体的に自分たちの生活がどう変わるであろうかというところに根差して考えざるを得ないのかなと思うんですね。 そうしますと、その具体的なイメージを持つためのきっかけが今一つのサンプルとして提示されているものですから、我々がいろいろと考えるときに、どうしてもそれを前提に考えてしまう。また、逆に言えばそれがわかりやすいというところが一つあろうかと思います。 理屈の上では手続と実体が違うのは当然のことです。ですが、その一つの中身、実体というものの輪郭が少しずつ見えてきている段階で手続の話をする際に、あたかも手続であるから完全に中立の立場での主張なんだというふうに言ってしまうのは、かえって本質のところが見えにくくなってしまうのではないのかな。もっと正面から、こうしたいがための手続だというふうなところがはっきりしてしまった方がわかりやすくてよいのではないか、そういう趣旨でお話をさせていただきました。
○石井(啓)委員 今の両先生の御答弁の上で、あえてお伺いしたいんですけれども、やはり国民投票法制については速やかに制定した方がいい、こういうふうに思っておるんですけれども、両先生に改めてお伺いをいたしたいと思います。
○小林参考人 同感でございます。何をもたもたしておられるのか、早くおつくりになったらいかがですか、もう材料はあるじゃないですかというのが印象でございます。
○伊藤参考人 私は、反対であります。何をそんなに急ぐんですかというふうに考えております。
○石井(啓)委員 先ほど、高市委員の方から国民投票法制の主な論点については網羅的に御質問がありましたのでほとんどつけ加えるところはないんですけれども、若干、伊藤先生の方にお聞きにならなかった点があったと思いますので、補足して伺いたいと思うんです。 一つは投票権者の年齢の件ですが、この憲法改正の国民投票の年齢と、公選法あるいは成人年齢とをそろえるべきなのか、別建てでよいのかどうか……(伊藤参考人「それは聞いていただきました」と呼ぶ)聞いてきましたか。済みません、失礼しました。 ではもう一つ、過半数の方ですね、有効投票か投票総数か有権者総数か、いずれが望ましいか。ちなみに、私ども公明党はやはり有効投票の過半数が望ましいというふうに考えていますけれども、伊藤先生、いかがでございましょうか。
○伊藤参考人 私は、憲法改正は極めて限られた場面における国民主権の発動だと考えています。ですから、できるだけ抑制的であるべきだという基本的な考えに立っていますので、そうしますと、積極的に改憲の意思を有している方がどれほどいるのか、有権者の中で積極的にこの改憲案に賛成の人間がどれだけいるのかというところを明確にすべきであろうというふうに考えますので、少し極端かもしれませんが、有権者総数を母体というふうに考えております。
○石井(啓)委員 ただ、その場合は、改正の項目もいろいろあろうかと思いますけれども、例えば余り関心のない項目といいますか、直接国民生活に密接に関係しない項目などは、白票といいますか、そういうものも非常に多くなる可能性はあるんですけれども、その人たちの意思を必ずしも反対だというふうにみなしていいのかどうか。 私はそれは非常に疑問がございまして、有効投票ということで申し上げているんですけれども、そういう、ある意味で、投票しないあるいは白票やほかのことを記載するという方々の意思というのは、非常に幅があると思うんですね。少し賛成なんだけれどもよくわからないという人もいるでしょうし、反対に近いんだけれどもわからないという人もいるでしょうし、全く中立的にわからないという人もいるでしょうし、全く関心がないという人もいますでしょうし、そういった方々の多様な意見を一律に反対というふうにみなすのはいかがかなというふうに思うんですけれども、その点、伊藤先生、いかがでしょうか。
○伊藤参考人 委員のおっしゃるとおりかなとも思います。 ただ、私は、関心がない方というのは今の憲法に具体的な不都合を感じていないだけなのではないかと思っています。憲法の改正は国民にとって具体的に不都合が生じている部分をよりよく正すというときに意味があるかと考えますので、いわば関心がない、そしてまた、国民に関心がない項目の白票が多くなるというのは、それはその方にとって特に不都合がないから構わないということではないかと思います。 最初に申し上げたとおり、よりよい憲法を目指そうとしたら幾らでもいろいろな案が出てきますし、私もあちこち言葉の言い回し等気に入らないところも多々あります。ですが、別に気に入らないから憲法を変えるという必要は全くないのであって、具体的な不都合が生じた段階でそれに対してどういう意思を持つのか。それこそ専門家の皆さんたちを前にして言うのもなんですが、例えばアメリカの憲法でも社会権の条項なども置かれていませんし、プライバシーの明文規定なども入っていません。社会権の条項すらないようなアメリカ合衆国憲法であっても、だからといって何か不都合が生じて改正をしなければいけないということでもなかろうと思います。今の憲法のここが国民にとって具体的不都合だ、それを提示していただいて、本当にそのとおりだという積極的な意思をどれだけ集められるか、そこがポイントなのかな。 ですから、白票、関心がないというような皆さんたちは、そういう意味で、今の憲法でとりあえず受け入れている、認めている、それの正当性を認めているというふうに評価することも可能ではないかな、そう考えています。
○石井(啓)委員 私ども公明党は、憲法改正の方式として加憲方式というのを主張しております。これは、現行憲法をそのまま生かした上で改正すべき条項を追加していく、追加の加える憲法ということで加憲方式、こういう方式が望ましいというふうに主張しております。 それは、現行憲法が、いろいろな課題はあるとはいえ、やはり国民に非常に定着しておる、また現行憲法の精神も守るべきであるということ等、あるいは具体的な改正のあり方を考えても、この加憲というのが現実的なやり方なんではないか、こういったことからこういう加憲方式というのを主張しておりますが、これに対する御評価といいますか御見解を両先生から承りたいと存じます。
○小林参考人 私はこれまで自民党流の全部改正をずっと考えていろいろ提案もしてきたんですけれども、あるとき公明党の政策責任者の説明をじっくり伺う機会があって、それでぴんときたんですけれども、現実に、日本で憲法改正、緊急に九条は何とかしなければいけないという立場に立った場合、加憲というのが案外一番うまくいく方法ではないか。 つまり、全文改正だと、かなりの可能性で国民投票で討ち取られてしまう。それに対して、加憲だと、今のものは残っていて、自衛隊の現実とかそういうものを国民が受け入れている範囲で確認しましょうねという条文を九条に加えるだけで、これが今の有権者心理でもかなりすんなり受け入れられやすい、案外現実的な選択肢なのかなという評価をしております。 以上です。
○伊藤参考人 加憲というのは一つのわかりやすい提案のされ方なのかなというふうに考えるのですけれども、ただ、私のように九条の二項というものがとても大切な条文だと考えている人間からしますと、例えばそれが大切だということを三項に具体的にどういう形で書き加えるのかということのイメージがちょっと具体的に持ちにくいというところがあります。二項で戦力は保持しないと言っているので、三項では、本当に保持しないんですよということを三項につけ足す、そういう加憲になるのかどうなのか、そのイメージが持てないんですね。 二項で明確に書かれているところが、どうも現実がずれている。そのときに、例えば自衛隊は憲法に違反しませんということを三項につけ加える。でも、自衛隊の中身が何か、それが戦力かどうかが議論されているときに、今の自衛隊は憲法に違反しませんということを三項に書いてみてもちょっとわかりにくいものですから。 ごめんなさい、私自身の能力不足で、二項が大切だと考える人間にとって、その加憲のイメージがちょっと持ちにくいというところが正直なところでございます。
○石井(啓)委員 では、私の質問は以上で終わらせていただきます。
○保岡委員長代理 次に、笠井亮君。
○笠井委員 日本共産党の笠井亮です。 きょうは、小林参考人、伊藤参考人、本当に貴重な御意見ありがとうございました。いろいろ伺ってきて、小林参考人とも何度かいろいろな機会に御議論させていただく機会がありまして、国民投票法について言えば、この位置づけについても立場、ニュアンスが大分違うなということはもちろんあるんです、私自身としては改憲すべきではないというスタンスですので。それから、護憲派の勢力を、憲法議論が深まらなかったという、そこもちょっといろいろとあるんですが。ただ、おっしゃった中で、大事なのは憲法をどうするかという中身の問題が一番大事なんだというのは、そのとおりだなというふうに国民投票をめぐる議論の中で感じております。 それから、伊藤参考人も、むしろ九条を変えるから必要とはっきり主張された方がわかりやすいということをおっしゃったんですが、私たち自身が今度の問題を九条改憲の条件づくりと言っているのも、やはり改憲そのものが一番の問題だ、中身の問題だというふうに思っているからでありまして、そういう点で、国民投票法は一般的に手続を定めるということだけじゃなくて、むしろどういう政治勢力によってどういう改憲が準備されようとしているのかという問題と無関係じゃないというふうには考えております。 そこで、この要否についての議論ということがきょうはテーマなんですが、その前提として幾つか伺いたいと思っております。 一つは、昨今の憲法の運用の実態をどのようにごらんになっているかということなんですが、例えばイラク戦争が誤った戦争であることについては今や世界の常識になりつつある。そして、ブッシュ大統領などもその誤りを認めざるを得ないという事実があると思うんです。ところが、戦争状態にあるイラクに自衛隊を派兵して、それが憲法前文の要請であるかのように国会で国民に説明をする、そして、そのことへの反省もいわばないのが今の日本の政府の実態だというふうに私は考えております。 こうした政治のもとでの憲法の運用の実態について、両参考人がどういうふうに見ていらっしゃるか伺いたいと思うんですが、いかがでしょうか。
○小林参考人 私の頭と心の中では、イラク戦争が一つのターニングポイントになってしまいまして、今の日本の政治、多数派の運用には法治主義とか民主主義とか法の支配とかいう感覚がないのではないかという心配を持つようになってしまったんです。まるで先生の政党の方と同じようなことを私が言っていて、自分でも不思議なんですけれども。 つまり、イラク戦争というのは、政府自身が九条の制約だと言っていた海外派兵はしないという条件をクリアさせるために非戦闘地域に、コンバットには参加しない、民生復興支援のために派遣するという枠組みをみずから立てておきながら、イラクは、要するに世界最強の軍隊と弱小の民族との正規戦でやったらせん滅されますからやむを得ずゲリラ戦に今入っているわけで、新しい戦争が続いているわけですよね。それを、戦争は終わって、あれはただの治安犯罪であるという、この言葉のうそが一つ。それから、事実上、毎日戦争で人が死んで戒厳状態になっている国に非戦闘地域があるといううそ。それは、もちろん、だれも使っていない砂漠のど真ん中に基地をつくれば、そこは非戦闘地域なのかもしれませんけれども、それはちょっと無理がある。 そして、それを条件に派遣する最高司令官が、私にどこが非戦闘地域か聞かれてもわからないと国権の最高機関で開き直ってしまう。私はあれを自宅のテレビで見ていて、本当に自分の財産であるテレビをけ飛ばして壊しそうになったんです。け飛ばしませんでしたけれども、もちろん。でも、おかしいと思うんですね、何のためにこれまで緻密に議論をしてきたのか。 そして、非戦闘地域に民生復興支援に送るのであれば、それぞれお水の専門業者とか電線の専門業者とか道路の専門業者とか建物の専門業者とかいるじゃないですか、それに対して精鋭自衛隊をかつてない重装備で送り込む。このごちゃごちゃの概念矛盾。もちろん前提として、アメリカにだまされてしまった、戦争の理由がなかったということ。これでCIAの長官の首が飛んだほどの出来事ですよね。 そういうことに対して反省というか後ろ暗さというか、何か良心がとがめないような政治に、私は本当に……。だって、法律学というのは概念と論理の世界ですから、そうやって、していいことと悪いことを仕切り分けていくわけですよね。それはさておき、したいことはする、ある国から言われたことはやらなきゃいけないからやる。だったら、我々主権者も主権者との約束としての法律も憲法も全部無視じゃないですか。本当に、こういう政治と学者というブレーンの立場でつき合うことに絶望を感じた瞬間があるんです。 以上です。
○伊藤参考人 私も、自衛隊とイラク戦争とのかかわりでは、小林先生と全く同感であります。憲法による歯どめというものをどこまで意識しておられるのか、そこが本当に疑問な出来事でした。 ほかにも、例えば、今いろいろと議論されていますが、先ほどもちょっと例に出しました、教育基本法の中に愛国心というものが入り込もうとするということもそうかもしれません。また、表現の自由というような場面におきましても、先日もある大学で、例えばビラを配ったり立て看板などを撤去されることに反対の意思を示した学生が、ただそのことだけで逮捕されるというような事件があったように聞きます。 ほかにも、さまざまな、私たちが自由な言論をし、そして公共の場で議論を闘わせる、これがまさに憲法が想定している本来あるべき社会ではないかと思いますし、異論があれば堂々と出てきて議論をする。そういう、何か力で抑えつけたりとかおどしたりではなく、いろいろな立場の皆さんたちがそれぞれの考え方の違いを認め合って議論していく、そういう公共の場をつくり上げていくのがまさに憲法だというふうに考えています。 ですから、国家権力に対する歯どめという意味での立憲主義、そこもあいまいになってしまっていますし、憲法が目指そうとする、自由な立場で議論ができ、私たち人間の私的な領域、プライベートな領域に権力が立ち入らないようにしっかりと歯どめをかける、そして自由な議論ができる公共の場を確保する、そのことこそが憲法の重要な役割であるというふうに私などは認識しておるのですが、そういった観点から見ると、運用の実態がどうもそれとは違う場面が幾つも見られることをとても残念に感じております。
○笠井委員 次に、憲法とはそもそも何か。これは、本当に、国民的にも認識をもっとお互い深めていこうという話もありました。お二人の御見識がそれぞれ強調されたわけですが、憲法というのは、今もありましたが、まさに国家権力を制限して国民一人一人の人権を守っていくためのもので、憲法というのは国家権力にこそ守らせるものだということは、そのとおりだと私も思うんです。 小林参考人がたとえ共産党政権になるような場合になっても濫用をしないようにということで言われましたが、まさに私はそういう場合にも権力の側が憲法を厳格に守るということは当然だというふうに思いますし、伊藤参考人が九条の会ということで紹介された中で、壊そうとする者に対して守る、そして権力に守らせるということが一番大事な点で、そういう議論になっているんだろうなというふうに思っているんです。 ところが、昨今の改憲議論の中で、先ほどもありました、愛情と責任感と気概を持って国を支え守るという義務の問題を書き込むべきだという議論とか、それから、憲法というのは国家と国民が協力し合いながら共生社会をつくることを定めたルールだというような議論なんかもあったりして、私は、これは率直に言って、日本国憲法の近代立憲主義の哲学を改変するというか、時代を超えて逆戻りさせるものだというふうに感じているところなんですが、伺いたいのは、憲法によって権力を縛るという統治形態というのが歴史的に見て人類が到達したものというふうな指摘もあるわけですが、こうした哲学といいますか、この問題の歴史的背景と、この憲法観を今後の憲法議論において堅持することの重要性についてどのようにお考えか、お二方にそれぞれ端的に伺いたいと思いますが、いかがでしょう。
○小林参考人 近代市民革命で今風の憲法という感覚が生まれたころには、その直前にはいわば北朝鮮のような中世専制国家があって、それをやむを得ず倒したという体験があるんですね。ですから、権力は怖いものということで憲法観はきちんと守られてきたんですけれども、だんだんだんだん時間がたって、いつの間にか国民主権国家で、我々は通常は弾圧なんて受けませんよね、だものですから、だんだん国家権力の悪魔性というようなものを感じないで済むようになってきていることが一つあると思うんですね。 ところが、各種汚職事件や警察による違法捜査みたいなものは、記録をとるとかなり出てきますよね。そういう中で、だからその人たちが悪いという意味じゃなくて、だれだって北朝鮮のあの金さんの立場に立てばああなるということでありまして、権力というのは、歯どめがなくなると、不完全な人間同士ですからだんだん濫用されていくという、この本質は変わりがないと思うんです。まさに十七条憲法の時代から、今日の北朝鮮を見てもあるいは例えば警察の権力濫用捜査の事件を見ても、同じなんですね。そういう点で、やはりぼけてきているんだと思います。 それから、もう一つおもしろいと思うのは、そういう、国家を敵にしないでください、国家と協力しましょうよと言っている人の顔を見ると、代々権力者の地位にいる御家庭の方なんですね。その人たちが言う国家とは、私たちなんです。自分たちはその地位から不動という前提なんですね。そういう地位で生まれて、死んでいく人たちですから。ですから、あなた方大衆は私たち特権階級を敵視しないでくださいと言っているように聞こえるんですね。これは根本的な誤解だと思います。 民主主義社会においては世襲制じゃないですから、つまり、議員というのは殿様じゃないですから、議員ですから、当選と落選の中で変わっていくべきものなんですね。そういう意味では多選禁止も考える必要があると思うんですけれども。 何かそういう、前提として、おまえたち、おれたちに逆らうのかという時代劇のお代官様の世界ですね、わかりやすく言ってしまうと。何かそういう感覚のずれを最近感じます。特にそういうことを、直接どなたとは言いません、余りに多過ぎて。世襲議員の方たちにそういう傾向があると感ずること——済みません、世襲議員と言われる方と視線が合ってしまいましたけれども。どこを見てもそういう方がおられるので。でも、これは本当に憲法学者として気になるところでございます。 以上です。
○伊藤参考人 権力に歯どめをかけて国民の人権を守る、それが憲法の本質だというのはいわゆる立憲主義という考え方だろうと思います。小林先生に教えていただいたように、まさに人類の歴史の中でそのような枠組みを私たちは人類の英知として生み出してきたわけです。 例えば、明治憲法の時代などでも、立憲主義というものを政治家の皆さんたちは大いに意識されていたのではないかなと思うんですね。政党の名前でも立憲がつく政党はたくさんあったように思います。ですが、戦後になりますと、民主主義が大切だ、民主というものを意識される皆さんたちは非常に多くなりましたが、立憲主義、立憲という名前がつく政党というのは戦後ちょっと思いつきません。どうしても、民主主義はすばらしい、その陰で立憲主義というものが少し忘れ去られてしまったかな、そんなふうにも思っております。 私は、憲法はもともとはイギリスなどで国王の権力に特権階級の人たちがある意味で歯どめをかける道具として生まれたわけですけれども、今日におけるこの国における憲法は、国民の多数が支持したいわば政治組織というか権力主体、そこに歯どめをかけていく、言葉をかえれば、その時々の多数意思に歯どめをかけて少数者を守る、そこに本質があると思っています。もっとはっきり言ってしまえば、その時々の多数意思に基づく民主主義に歯どめをかけるのが立憲主義だ。この民主主義と立憲主義のいわば緊張関係というものが極めて重要ではないかというふうに考えています。そのこと自体は変わることはありません。 私も、学生などに立憲主義の本質を伝えるときに、有名なジェファーソンの言葉などをよく引用させていただいています。アメリカの独立宣言を起草したジェファーソンが、信頼はどこでも専制の親である、自由な政府は信頼ではなく猜疑に基づいて建設される、我々が権力を託さなければならない人々を憲法によって拘束するのは信頼ではなく猜疑に由来する、権力の問題においては、人に対する信頼に耳をかさず、憲法の鎖によって非行を行わないように拘束することが必要である。まさに憲法という鎖、歯どめによって、その時々の多数意思に基づく権力に歯どめをかけるということ自体の必要性は、このアメリカ独立宣言の時代から、今であろうが全く変わらないというふうに考えています。 その上で、歴史の流れの中では特定の身分の特権を守るための憲法が一人一人の個人を守る、いわば個に着目をするというところも近代の憲法の特質の一つではないかと思うんですね。ですから、一人一人の個に着目をし、一人一人が幸せになることが大切である、そのための仕組みや手段としてその時々の国家権力というものがあるにすぎないという、その根本もやはり揺るがしてはいけないところかな、そう考えています。 〔保岡委員長代理退席、委員長着席〕
○笠井委員 最後になりますけれども、今国民投票法をつくる前提あるいは憲法改正を議論する前提があるのかどうかということについて端的に伺っていきたいと思うんですが、私はこの問題で二つのことを吟味しなきゃいけないと思っているんです。一つは、政府や政党、国会議員の憲法に対する認識の問題です、先ほど伺ったこととかかわります。もう一つは、国民の憲法や国民投票法に対する認識の問題であります。 小林参考人は、そういう意味では、改憲の中身自身について言えば、議論は深まっていないということも先ほど言われました。伊藤参考人は、国民投票法について具体的な不都合、改正の必要性についての国民の意思ということを強調されたと思うんです。 私は、公布六十年を迎えることし、憲法記念日の論調として、地方紙を見ても、何のためなのか、拙速ではないかというような強い意見や、国民は今国民投票法制を望んでいないという世論調査結果も出たというふうに思います。 例えば、先ほど伊藤参考人が言われた五月三日の朝日を見ますと、国民投票法について、手続は必要なのだから早く決める方がよいというのが三二%で、憲法改正の議論が不十分なうちに決める必要はないというのと憲法改正につながるので決めるべきではないが合わせて六一%。しかも、憲法改正議論を今の国会議員に任せておけばよいと思わないというのが七二%もいたということで、もちろん世論調査にはいろいろな見方があるし結果もあると思うんですが、これは国民の感情をある意味反映したものの一つだというふうに思いました。 そこで、憲法を運用して、あるいは改憲を発議する側の憲法に対する認識の状態、それから憲法改正を最終的に判断する国民の側の現状から見て、憲法改正や国民投票の問題を議論する前提が今クリアされたというふうに言えるかどうか、両参考人の端的な御意見といいますか、伺いたいと思うんですが、どうでしょうか。
○伊藤参考人 私は、最初に申し上げたとおり、憲法と国民投票法に対する国民の認識というのはまだ不十分なのかなというふうに考えております。 先ほど来議論がありますように、憲法とは何か、また、憲法と法律の違いは何なのか、憲法が守ろうとしている価値というものはどういうものなのか、本来ならば、そういったことを小学校、中学校、高校で学んでくるべきだったんだろうと思うんですが、私も含めましてなかなかそういうチャンスに恵まれませんでした。また、私自身の能力不足もあって、その憲法の本質をつかむのに、私自身は二十代前半になってやっとでありました。多くの皆さんたちも、まだそういった部分のところは認識が及んでいない方もまだまだいらっしゃるように思うんですね。 ですから、このような国会からの御議論が発信されて、それをきっかけにもっともっと盛り上がっていくということはとても大切なことだと思うのですけれども、まだいまだ道半ばかな、そんなふうに考えております。
○小林参考人 私も、現状では国民の認識のレベルは不十分と思います。でも、だからこそ、せっかく国会ではレベルの高い議論ができておりますから、ここで歩を進めていただくことによって一気に国民教育をしていただきたい。なぜならば、憲法は改善されるべき必要があると考えておりますから。 以上です。
○笠井委員 今、国民投票法案を国会に提出する動きが強まっていますけれども、今般の教育基本法の改悪とか米軍再編等をめぐる重大な動きの中で、その目的がやはり九条改憲の条件づくりにあるということがいよいよ明らかになっているなと私は思っておりまして、きょうの御意見も伺いながら、私自身としては、この法案の国会提出は断念すべきだということを、意を強くしているところだということを申し上げて、またいろいろな機会に教えていただきたいと思います。 ありがとうございました。
○中山委員長 次に、辻元清美君。
○辻元委員 社会民主党・市民連合の辻元清美です。 きょうは、小林参考人、伊藤参考人、本当にありがとうございます。両参考人の御意見を伺いまして、まず、基本になる憲法とはそもそも何かという認識をやはりきちっとした上で、改憲なり護憲なりそれぞれの議論を闘わせていくということが大切であるということを改めて痛感をいたしました。 ですから、そもそも憲法というのは権力をきちっと縛っていくものであるという、今の憲法論議の中では、本委員会でもこの認識に対する共通基盤がまだ確立されていないのではないかということで私は警鐘を鳴らしてまいりました。この点が一点。 それから、お二人のお話を伺いまして、イラク戦争の話が先ほど出ましたけれども、現在の政治は、なし崩し的に立憲主義の枠を超えていく、なし崩しにしているんじゃないかという御懸念ですね、小林参考人からは絶望という言葉も出まして、この認識も同じ認識であるかと思います。それから、もう一つは、先ほどから教育基本法の話も出ておりますけれども、やはり心の問題に憲法や法律が立ち入ることの危険性と申しますか、その点についても意見を同じにしております。 こういう懸念がある中で、確かに議論は何回もされているんですけれども、最低限今の政治状況で、果たして憲法にまつわることについて、前に進めていくような法律をつくったり、それから、基本的な憲法のそもそも論の共通認識がない中で強引にこの会期末までに国民投票法を、会期末というたらもうあと一カ月程度なんですけれども、提出しようというような動きもあるんですけれども、私は、まだもうちょっとじっくり議論しても、そもそも何なのかというところからきっちり議論をすべきではないかというふうに思っております。 そこでお伺いしたいんですが、そもそも私たちの現行憲法に基づいてこの手続法も論じられなければならない中で、両参考人に一つずつお伺いしたいと思います。 まず、伊藤参考人に。 日本国憲法は硬性憲法であるという特徴から見て、私は、ころころ変えられるものではなかったからこそ、戦後ここまで日本はやってこれたのではないかと思うんです。私たちの今の政治状況は、政権交代ということもあり得るという時代に入りました。私も与党にいたことがあります、政権の中にいたことがあります。そうしますと、政権がかわるたびに憲法が変わるということは、非常に不安定な政治を導きます。ですから、私は硬性憲法というものを非常に大切にする。今、変えよう変えよう、どんどん変えてええやんかと言わはる人らは、ずっと自分らが政権にいてはるという大きな勘違いをされていると思うんですね。ですから、硬性憲法ということを私たちはきちんと踏まえた上で手続法に臨まなければいけないと考えますが、この憲法を変えるということと硬性憲法ということについて、まず伊藤参考人にお伺いしたいと思います。 そして、小林参考人には、立法不作為論というのが、伊藤参考人からはこれは法的にも成り立たないというお話があったんですが、私もこの委員会で立法の不作為であるということを安易に使われる方をお見受けいたしました。立法不作為だからつくるんだというものをこの憲法を扱う中で根拠にするというのは非常に安易だと思います。その点について小林参考人の御意見を伺いたいと思います。
○伊藤参考人 不都合が生じたのですぐ変えればよいというのは法律の世界だと思うんですね。法律は、まさに現実に合わせて、時に速やかに変えていかなければいけないものだろうと思います。 ですが、憲法は、何度か申し上げましたように、その時々の多数に歯どめをかけていくものです。私自身もそうですが、やはり過ちを犯します。その時々の多数は過ちを犯す、そういう危険性があるんだという謙虚さに基づいてそこに歯どめをかける、これが憲法の本質だと考えています。そうしますと、その時々の多数派では変えられないようにあらかじめ一定の枠をはめる、それが憲法ですから、その憲法の本質というところから硬性憲法というものは最も素直に結びつきやすいのかなというふうに考えています。 ですから、委員のおっしゃったように、政権のかわるたびに憲法が変わってみたりだとかはすべきではなく、どのような政治権力、政権であろうがそれは維持しなければいけない。言いかえれば、特定の価値や中身を押しつけるのではなくて、一定の枠組みを設定するものが憲法かなというふうに考えていますので、そうしますと、硬性憲法というその前提はやはりきちっと維持し、そしてそれを我々も認識していかなければいけないのかなというふうに考えています。
○小林参考人 立法不作為論というのは、憲法訴訟論上の専門用語の誤用だと思います。立法不作為というのは、確認的に申し上げますが、憲法の一義的命令、つまり、憲法の解釈の余地がない状態にもかかわらず、ある立法がないために、例えば身体障害者に限り選挙権の行使が具体的にできていない、日本国憲法のもとで身体障害者という条件のもとで参政権を奪われているというような場合に、これは損害賠償を立てて裁判を起こして立法の改正を促す、こういうときに使うものであって、あるべき道具立てが国家体制として整っていないなんというときに安易にそういう言葉を使うべきではないと専門家的に言えば思います。 ただ、この専門家的にというのは、みんなで共有する法律用語を専門家的にというのはとてもよくない言い方なんですが、なぜそういう言い方をするかというと、この言葉は結構説得力を持っちゃうんですね。立法府を慌てさせる説得力を持つ。これはトリッキーな使い方で、私は正しくないと思います。
○辻元委員 ありがとうございました。 もう一つ、これはお二人にお伺いしたいんですけれども、現憲法のもとで改正をどうしていくかという手続を考えるに当たっては、この九十六条に載っておりますので、この九十六条に「この憲法と一体を成すものとして、」という文言がございます、この解釈なんですね。憲法の改正の限界が果たしてあるのかどうか。 ヨーロッパ諸国に調査に参りました。その折にも憲法の改正の限界を持っている国の方が多かったです。それは、規定している国と、それから、いろいろな国で、例えば憲法の改正について、これはふさわしくないというような言い方で改正の限界のようなことに言及される方々もいらっしゃいましたけれども。 日本の場合は、憲法の九十六条に「この憲法と一体を成すものとして、」という文言が入っています。この憲法改正の限界についてはどのようにお考えか。これも現憲法下での改正についての手続や改正論議ですので、そもそも憲法とは何かということを含めて、非常に大切な点だと思いますので、両参考人にお伺いをしたいと思います。
○伊藤参考人 私は、憲法の改正には限界があるというふうに認識しております。 今の九十六条二項もそうかもしれませんが、前文にも、この原理に反する一切の憲法を排除するという規定もありますし、そもそも憲法を制定するときにも、一定の多数決によって決めていくわけです。そのときに、どんなに多数決でもやはりやってはいけないことというのを人類はこれまでの歴史の中でいろいろと学び取ってきました。その一つが人権であるでしょうし、国民主権ということもそうでしょうし、また平和主義という考え方もそうだろうと思います。そういう一定の限界の中で初めて憲法の改正というのがあり得ることかな。 ただ、その限界を超えてしまったときに、さあどうするということになると、またこれは別の話になろうかと思いますが、九十六条は憲法改正の一定の限界の中でこの改正を許しているだけだというふうに考えています。
○小林参考人 憲法改正権に限界があるというのは、私の知る限り、世界の憲法学の常識であると思います。条文にあるなしではなくて、理論上当然のことで、日本国憲法に根拠のある改正権で日本国憲法を殺すということは論理矛盾、いわば親殺しみたいなもので、できなくはないけれどもしちゃいけないことなんですね。しちゃいけない。つまり、法律論というのは、規範ですから、できてもしちゃいけないということがあるわけです。 これは、案外法律学の常識で、ですから、今伊藤先生おっしゃった日本国憲法の三大原理を否定するんじゃ日本国憲法じゃなくなっちゃいますよね。あと余り争いのないところで、例えば権力分立とか地方分権とか、これはどうしても否定しようがないでしょうね、ということです。 ただ、何がその限界に当たるかの解釈論争は私はあると思います。例えば平和主義だとて共産党的平和主義と自民党的平和主義、石破先生があそこにおられますが、石破先生は平和主義者ですよ、でも、軍国主義者と言いたいでしょう、というようなことなんでありまして、だから、解釈の論争はあり得るけれども、改正権の限界というのは、これは当然のことであります。
○辻元委員 先ほどから、両参考人の方から、昨年出されました自民党の新憲法草案が出た状況下でこの手続法を中立的に議論しようと言ってみても、やはり状況としてはそれに引っ張られる状況であるというような趣旨の御発言があったように思うんですね、影響が出ると。 今の改正の限界のお二人の御解釈から、あの自民党がお出しになった新憲法草案というものを、自民党の一部の方、中心的につくられた方の中には全面改正なんだというような御発言も出たことがあるんですけれども、これはどのようにごらんになっているのか。 特に、そもそも憲法とは権力の恣意的な濫用を防ぐというところが、小林先生のさっきのマイナス十点というところで、そこがちょっと主客転倒というか警鐘を鳴らしていらっしゃいました。私はそこがぐらついているのはマイナス十点どころではないと思うんですが、そもそも憲法というものの持つ意義とか意味というところを少しずらしていらっしゃる。 そういう意味で、今の憲法の改正の限界の問題と、そもそも憲法とはというところから見て、伊藤参考人と小林参考人にもう一度新憲法草案についての御意見を伺いたいと思います。
○伊藤参考人 憲法改正の限界の内容についてどう考えるか、先ほど小林先生の御指摘があったように、平和主義の中身をどう考えるかなどは、やはり議論があるところだと思います。 ですが、それをおいても、例えば国民に義務を課す、国民に対する義務規範として、責務という言葉を使ってあったように思うんですけれども、まあ、それでも義務だと思います、そういう国民に対する義務規範にしようということは、やはりその憲法の本質を変えてしまう部分というふうに評価されても私はやむを得ないのかなというふうに一点思います。 もう一点は、これは私の考え方でありますが、私の平和主義の理解としては、戦争はしないということを国是とする国が、戦争をすることができるということに変えるということになると、やはりかなり根本的な国家の姿勢の変更になるのかな。そうすると、それは平和のあり方として、いろいろなあり方がある中で今の憲法が選び取ったものを変える、それが果たして許されるのか、私は個人的には限界を超えるのではないかというふうに考えています。
○小林参考人 昨年の自民党の新憲法草案について、私はやはり九十点と言わせていただきます。つまり、愛国心を法で強制しようとするところがお粗末な勘違いで、法と道徳の混同で、それはマイナス十点なんですが、私自身は、六十年たつこの憲法はモデルチェンジが必要であるという前提で、そのために自民党が議論をあそこまで進めたということを高く評価しているんです。 と同時に、その十点の誤解が、憲法の前提が、憲法観がずれているという土俵のずれを大変心配する議論もあるんですが、私は実は心配していませんで、自民党のエキスパートは皆学識のある人たちですから、話し合うとわかるという体験も幾つもしています。と同時に、憲法改正というのは三分の二そろわなきゃできないわけですから、少なくとも民主党が合意しなければいけないんですが、民主党は頭でっかちなまでにそういう点はぶれがありません。ですから、民主党がその議論の過程で正してくれると私は確信しています。でなければ民主党が乗らないですから、どうせ壊れますから。 ですから、そういう意味では、どんどんどんどん話を進めていくことが、国民的論争のレベルを上げるという意味で意味があると思っております。 以上です。
○辻元委員 ありがとうございます。 私は民主党の議員ではないので何とも今の御指摘については申し上げられないところですけれども、小林参考人とは以前から、議員になる前から憲法の問題でそれぞれ議論させていただく場面がありました。その中でも、それぞれの条項について意見が違うところはあるわけですが、やはり、そもそも憲法とはというところの共通基盤があるので議論ができるように私は思うんですね。ですから、そこの共通認識というところをきょうお二人から強く御指摘いただいたことは、非常に今後議論を進めていく上で有益なことではなかったかというように思います。 時間になりますので最後になりますけれども、私は、ここの委員会では議論されておりますけれども、国会全体の状況を見まして、先ほどから小林参考人からもいろいろな憂慮の点を御指摘いただいているように、やはり憲法とは何かというところの認識をさらに深めていく必要があると思います。ですから、それはあと一カ月ほどではなかなかできませんので、この国民投票法制についても、私は、憲法にまつわることですから、慎重にも慎重を重ねた議論をさらに続けていくということが大切だということを申し上げまして、両参考人には本当に心からお礼を申し上げまして、終わります。 ありがとうございました。
○中山委員長 次に、滝実君。
○滝委員 国民新党・日本・無所属の会の滝実でございます。 本日は、お二人の参考人の、憲法の基本的な仕組みと申しますか、憲法観というものが国民投票法あるいは憲法改正の基本になければいけない、それについて国民の間のある程度の合意がなければいけない、こういう趣旨だろうと思いますけれども、そういうことを改めて確認をさせていただきました。そういう意味では、今後のこの問題の扱いに対して、目からうろこの落ちるような感じがいたしました。 そこで、お二人の参考人に、基本的に憲法観についての狂いはないというふうな受け取り方をさせていただきましたけれども、まず小林参考人に、その上でお尋ねをしたいのでございますけれども、先ほど憲法観の中で濫用をどうやって防ぐかと。権力の濫用を防ぐ、それの端的な方法は、条文をわかりやすくすること、それから国民の間に憲法についての認識を高めていく、そういうようなこと、それからもう一つつけ加えて、護憲集団だけで集会をやっても余り国民的な啓蒙にはならない、こういうような三点の御指摘がございました。 一々ごもっともな、本当にそういう感じを受けるわけでございますけれども、その中で、それでは憲法の条文をわかりやすくする、例えば憲法九条に関連した条文をわかりやすく改定する、それで権力の濫用というものが防止できるのかどうか。単純なものではないと思いますけれども、その辺のところがやはり国民としては一番気になるところだろうと思いますので、そういうことについてのお考えをどのような格好でお持ちになっているのかをまずお尋ねしたいと思います。
○小林参考人 大事な点を、先ほど文脈の関係がなかったので申し上げませんでしたけれども、権力の濫用の防止のとても大事な点は政権交代だと思います。そのためにやはり、わかりやすく言ってしまえば、国民のイニシアチブでこの国の中に、これは架空の議論です、第一自民党と第二自民党を用意することだと思います。どんな権力でも長居をすると必ず堕落しますので、先ほど先生が整理してくださったものに政権交代を加えさせていただきます。 以上です。
○滝委員 ありがとうございました。 その上で、伊藤参考人にお尋ねをしたいと思います。 今の状況からすると、いわば憲法観について合意が得られていないというような恐らく御認識だろうと思うんですけれども、その中で、国民投票制度そのものに対して反対するのもいわば護憲の立場からの抵抗権だというようなこともこの中に書かれているわけでございますけれども、しかし、そのまま抵抗権を行使していることが逆に権力の濫用を次から次へと重ねていくことに結果的にはなっていくんだろうと思うんですね。そういうことについてはどういうふうにお考えになっているでしょうか。
○伊藤参考人 抵抗の仕方もさまざまだろうと思っています。反対の声を上げるときにさまざまな意見を表明するというか、発信するわけですね。ですから、今政府がやろうとしていることについて、こういう異論があるということをその都度発信していく、そのことによって歯どめをかけていくということしかないのかなと思っています。 私は、民主主義とか国民主権というのは、いかに国民が権力を監視し続けることができるか、それがポイントだと思っていますので、権力を監視するその一つのきっかけとして、この国民投票法制の動き、そして、それに対する反対の運動や行動を通じて国民が権力を監視していくということは一つの歯どめといいましょうか抵抗する一つの手段であろうかな、そんなふうに考えています。
○滝委員 今お二人の参考人の先生に伺いました。なぜそういうことを私は問題にしたかと申しますと、仮に国民投票法制をつくり、憲法改正のための準備をしたとしても、今の権力状況、今の政権の状況の中では、恐らく期待できるような憲法改正は実現できないのじゃないだろうか。どうしても、やはり一方的に、今の政権を維持するという立場でしか、結果的には得られないんじゃないだろうかな、そういうようなことを言う方々が最近比較的多いんですよね。したがって、そういう意味で、そういうような考え方をいかに払拭していくかというのが、やはり私は、国民投票制度あるいは改憲の議論を前進させる一つの前提条件じゃないだろうかなというふうに思うわけです。 したがって、今小林参考人がおっしゃったように、政権交代の可能性というものがその前提としておありになる、あるいは伊藤参考人のおっしゃるように、やはり幾つかのそういう反対というものの動きを積み重ねるんだ、こういうことの中ではなかなか私は今の憲法の運用実態というものを改善するということにはほど遠いような感じがするわけでございます。 そういう意味で、もう少し何か具体的なものがないのかなということを両参考人に、あえてもう少し踏み込んだものは何かないのかという意味で、見解があれば承っておきたいと思います。
○小林参考人 御質問でありますのでお答えいたしますが、私がしゃべることはかなり僣越な話題だと思うんですけれども、やはり、この間の総選挙を見ても、冷静に話し合ったら随分不思議なことが起きてしまっているわけでありまして、総選挙の前の期間が長かったために、国民の興奮が冷めかけたところで冷めないうちに総選挙になってしまってああいうことになったと思うんですね。私は、あの出来事は歴史の中で評価されないと思っております。 そういう意味では、やはり、ちょっと特定のグループが権力に長くい過ぎたんではないかということなんだと思います。これは枠組み論として聞いてください。あの人がいけないという意味じゃなくて、だれであれ、ああしたらああなるんだということで。そういう意味で、やはり政権交代を、この議論はあきらめずに続けながら、政権交代を同時に並行的にやってのけることによって、すべての問題が私はクリアされていくと思うんです。つまり、政治の質が上がっていくと思うんです。つまり、行動様式としても議論の内容も。 ですから、来年、参議院選挙というのは逃げずにやってまいりますから、そこへ向けていかに明確に国民に争点を提示していくか。それは先生方のお仕事であって私の仕事ではないんですけれども、そういう点で、立ちどまらずに前へ進んでいかれる限り、私は、私の頭の中でシミュレーションするような健全な憲政の回転がなされていくと思っております。 以上です。
○伊藤参考人 私は、真の民主主義や立憲主義が実現していくために、何か特効薬とか即効性のある処方せんというのはなかなかないのかなと思っています。そもそも、民主主義の実現は、やはり何十年、場合によっては何百年の単位でこつこつと築いていくしかないようにも思います。ですから、なかなか形になりにくいような場面であっても忍耐強く訴え続ける、主張し続ける、そのことが何よりも大切なことかな、そう考えています。
○滝委員 ありがとうございました。 この問題は基本的には政治の世界の問題ということになるのかもしれませんけれども、国民の皆さん方に認識をどうやって深めてもらうかということがやはり一番肝心な点でございますので、その辺のところをこれからの問題としてどう考えていくかというのは当委員会の問題でもあろうかと思いますので、よろしくお願い申し上げたいと思います。 そこで、次の問題でございます。 これはお二人の参考人とも否定的な見解を既にこの場所でお述べになっていますけれども、私は当委員会で、憲法改正だけじゃなくて重要法案については国民投票制度をこの際制度として乗せるべきだ、そういうことを二回にわたって発言いたしてまいりました。 それは、前回の衆議院解散に際して、国民投票的な見地から衆議院の解散をするんだ、こういうことを総理がおっしゃった。その前提としては、衆議院で郵政民営化法案が可決され、参議院で否決されました。したがって、憲法上のルールからいえば、当然両院協議会を設けて、その中でもって両院の合意ができるかどうかということの手続を踏む必要があるというか、あり得るわけでございますけれども、そういう手続も否定した上でいきなり解散、こういうようなことをおやりになりました。 したがって、私は、権力の座にある人間としては、やはり自分の気持ちを、代議制度じゃなくて直接国民に聞いてみたら違う答えが出てくるかもしらぬ、こういうことでおやりになったんだろうと思いますけれども、そういう誘惑は今後絶対にないとは言えないですよね。そのときに、やはりそんなことをするならば、あらかじめ重要法案について、憲法改正と違いますから決定的な意味は持ちませんけれども、諮問的であれそういう制度を設けておくということの意味は、権力の濫用をあらかじめ抑制するという意味においても必要じゃないだろうか。 それからまた、国民投票であれば、当然のことながら長い時間をかけて国民に周知徹底をすべき重要案件だろうというふうに思いますけれども、ああいう衆議院の解散になってしまった場合には、国民に理解をしてもらうような時間的な制約というものが常につきまとう。そういう中で、実質的に憲法体制、法治国家としての体制を維持するためには、何らかのそういう制度をこの際仕組むのは当然じゃないだろうか。 こういう意味で、私は二回にわたって、どうせ国民投票制度をつくるならば、性格は違っても一緒に対象にし得るような制度を設けるべきではないか、こういうことを発言してまいりましたけれども、改めて両参考人から御意見を承りたいと思うんです。
○小林参考人 結論において、私は先生の御意見に反対でございます。 理由は、解散権というのは典型的な自由裁量行為であると認識しておりますので、そういう意味で、あのとき小泉総理が解散をお決めになったことは、立場によって評価はいろいろありましょうけれども、それは法的にあの方の、というより内閣の御勝手ということで、要は政治的にお上手であったというだけのことであると思うんですね。 それから、国民投票法、重要事項についてはと先生御体験からお考えなんでしょうけれども、実際問題として重要案件を国民投票にかけるとしますと、憲法上法的拘束力は持たせないといいながら、事実上、出た結果は拒否できないと思うんです。事実上の拘束力を生んでしまうような制度をつくってしまうと、それは時の経過とともに現憲法のままで代議制民主主義、議会制の崩壊につながっていくと思います。それは議会の自殺行為であると思います。 ですから、私は憲法解釈論としてそれにくみしません。 以上です。
○伊藤参考人 委員の、権力の濫用を抑制するための一つの手段として国民投票というものを活用するというお考えに対して、それは一つの役割を果たし得る場合もあるのかなとは思うのですが、私自身は、それ以上に時の権力を正当化してしまう手段になりかねない。言いかえれば、よく言われますが、レファレンダムではなくてプレビシット的な時の為政者に対する人気投票になってしまって、いわば全権委任的なイメージを国民が持ってしまう。また、時の権力を行使する皆さんがそのように勘違いをなさってしまう危険性があるのではないか。 そうしますと、メリット、デメリットを比較してみますと、やはり私自身は少しデメリット、危険性の方が多いのではないかなと思いますので、重要法案であったとしても、国民投票法というものを設けることはもっと慎重な議論が必要なのではないかなというふうに考えております。
○滝委員 まだ時間が少しあるようでございますけれども、両参考人の御見解については十分に承らせていただいたように思いますので、これで終わらせていただきます。 ありがとうございました。
○中山委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。 この際、一言ごあいさつを申し上げます。 両参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。委員会を代表して、心から御礼を申し上げます。 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。 午前十一時四十六分散会