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147回国会衆議院2000/04/20

憲法調査会 第7号

発言数
117
登壇者
15
会派数
7
開催日
2000/04/20

会議録

中山太郎自由民主党

○中山会長 これより会議を開きます。  議事に入るに先立ち、この際、御報告を申し上げます。  本調査会の委員であられました福岡宗也君が、去る十一日、逝去されました。まことに痛惜の念にたえません。  ここに、故福岡宗也君の御冥福を祈り、謹んで黙祷をささげたいと思います。  御起立をお願いいたします。——黙祷。     〔総員起立、黙祷〕

中山太郎自由民主党

○中山会長 ありがとうございました。      ————◇—————

中山太郎自由民主党

○中山会長 次に、幹事の選任についてお諮りいたします。  去る七日の議院運営委員会における幹事の各会派割当基準の変更に伴い、幹事の選任を行いたいと存じます。その選任につきましては、会長において指名することに御異議ございませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

中山太郎自由民主党

○中山会長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。  それでは、幹事に佐々木陸海君を指名します。      ————◇—————

中山太郎自由民主党

○中山会長 日本国憲法に関する件、特に日本国憲法の制定経緯について調査を進めます。  本日、午前の参考人として神戸大学大学院法学研究科教授五百旗頭真君に御出席をいただいております。  この際、一言ごあいさつを申し上げます。  五百旗頭参考人には、本日、御多忙の中を当調査会に参考人として御出席いただき、まことにありがとうございました。どうぞ先生の御意見を十分お述べいただき、有意義な調査会の参考資料にさせていただきたいと思います。  なお、御説明は一時間というふうにお願いをいたしたいと思います。  なお、参考人におかれましては、発言の際は会長の許可のもとに御発言をいただきたいと思います。なお、参考人の方から委員に対して質疑はできないことになっておりますので、あらかじめ御了承をお願いしたいと思います。  それでは、五百旗頭参考人、よろしくお願いします。

五百旗頭真神戸大学大学院法学研究科教授

○五百旗頭参考人 皆様には、日本国憲法の制定経緯、既に四回、八名の方からのお話を聞かれまして、本日最終回と伺っております。  さまざまな事実経緯、それをめぐる議論、意見を聴取されたわけでありますけれども、現在の政治そのものが激動への対応に追われる中、長期的な、根本的な問題にこうして対処していらっしゃることに敬意を表したいと思います。そういう場に御一緒させていただくことを大変光栄に思っている次第です。  私は歴史家でありますので、いろいろな観点からの議論や細かい事実経緯はございますけれども、その骨格的な、主要な筋道ということをまず私なりに申し上げまして、そして、その経緯の意味するものが何であるか、バランスを失さない妥当な全体的理解とは何かということについて、私なりに思うところを申し上げたいと思います。  テーマが制憲の経緯でありますので、当然ながら、押しつけがあったか、あったとすれば改憲でなければいけない、いや、押しつけはあったかどうかは別にして、これは有効のものであるからその改憲の必要はないというふうな議論があるわけでありますけれども、過去の経緯と改憲の必要の有無ということを直結させるべきではないと考えております。  経緯がこうであったから将来こうしなければいけないというのは、ある種の原理主義であって、生まれ出たときの経緯がこうだったから私は永遠にそれにこだわるということをやりますと、将来への対処を誤ることがしばしばございます。むしろ、これからどうするかということは、現在までの体験をもとに将来への洞察を持って考えていくということを基調にする。ある意味で、過去の経緯というのはぐっと胸にしまって耐えながら、それは大きな動機になるのでしょうけれども、過去がこうだったからこうだとやりますと、歴史はしばしば誤るというふうに思っております。  そういうわけで、現在どういう状況にあってこういう改憲の必要が論議されているのかということを、私なりに申し添えたいというふうに思っている次第です。  まず最初の、憲法制定をめぐる経緯を、第九条を中心に私なりに整理して申し上げたいと思います。  御承知のように、昭和二十一年の二月三日、マッカーサー・ノートというものが、ホイットニー民政局長からケーディス以下の民政局の実務レベルに手渡されました。そのマッカーサー・ノートは、三原則と呼ばれておりますけれども、その第二項におきまして、侵略と自衛の双方の戦争を明確に否定していたということは御承知のとおりかと思います。  添えております資料1の左側の欄の中、これは私が二年ほど前に書きました、「占領期」という吉野作造賞をいただいた本の二百六十九ページでありますが、マッカーサー三原則の第二項が(A)に出ております。「国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決の手段としての戦争、」これは侵略戦争のことをいう、「さらに自己の安全を保持するための戦争をも、放棄する。」侵略も自衛も、両方の戦争を放棄するということを明確にマッカーサーは指示いたしまして、この三原則だけは守りなさい、その他は任せるというふうに、ホイットニーから民政局、ケーディス以下に伝えさせたわけであります。  なお、私は、民政局次長であったケーディスさん、今は亡くなりましたけれども、亡くなる前に、一九九二年十一月に彼のマサチューセッツ州のお宅に訪ねまして、二日間にわたりかなり詳細なインタビューを行いました。  そのときの話で、このマッカーサー・メモ、三原則を書いたもの、それはどういうものだったかというと、よくアメリカでありますように、黄色地の紙に緑色のような横線の入った、それに手書きで書いてあった。その手書きは、マッカーサーのものだったかホイットニーのものだったか、どちらかと聞くと、それはわからない。どうしてかというと、ホイットニー民政局長は本当にマッカーサーの分身であって、いつも二人で一緒に相談して大事なことを決めるわけですが、筆跡までそっくりになっちゃって、どっちのものであるか識別できないほどだった。ホイットニーの奥さんは、あなたは私と結婚したの、マッカーサーと結婚したのと怒るほどにマッカーサーとホイットニーは近しかったというので、その手書きメモの筆跡はどちらが書いたのかわからないけれども、二人の合作であることは明らかと。  それで、これだけは絶対に守れと言われたのを受け取って、ケーディス以下が民政局内でほぼ一週間の間に憲法を起案したというわけでありますが、絶対に手を下してはいけないこの三原則の第二原則にケーディスが修正を加えました。今の二つの、侵略戦争と自衛戦争、「自己の安全を保持するための戦争をも、」ということを削除してしまったんですね。  どうして下僚がマッカーサーの絶対指示に抗してそういうことができたのかと聞きますと、やはりこの憲法が、戦後日本が独立後も生きていくためにはこういうのには無理がある。いかなる国も、生存することの権利を奪われるものではない。もしこんな無理な、自衛も許さないということを占領下で強いるならば、我々が去った後、速やかに憲法は改正されるだろう。そうなると、彼らなりにある理想を持って戦後日本社会をつくりかえたいと思っていたわけですが、そのすべてが流されてしまって、我々の努力は無意味になる。そういうことを避けるために、やはり自衛禁止というところは外しておいた方がいいという判断を持って、ケーディスはそれを上に上げた。  そうしたところ、ホイットニー及びマッカーサーから、それをしかりつけるのではなくて、それが受け入れられた。その瞬間から、ケーディス、そして恐らくはマッカーサー、ホイットニー、GHQのトップ三人、実力者三人の間では、侵略戦争は明確に否定するけれども、自衛戦争はオーケーであるということの了解ができ上がっていた。  密室の中で、民政局内で大急ぎで手分けして用意されました憲法草案が取りまとめられる。ケーディス以下の運営委員会と、そのもとでの小委員会合わせて、それをマッカーサーに上げて、フィードバックがあって、そして最終案がつくられて日本政府に渡されたのが二月十三日であります。  日本政府としては、このとき、既に提出してあった、松本委員会によって用意した日本国政府の憲法改正案に対するGHQ側の回答を得られるものと会談に臨んだわけですが、ホイットニー局長から、あれは受け入れられない、そして、これをもとにしてもらいたいというふうに、民政局が用意したいわゆるマッカーサー草案というのを渡されたわけであります。  その際に、ホイットニーは、もしこれが受け入れられれば、日本は国際社会に受け入れられ、そして新しい歩みを始めることができるだろう、しかし、もし保守的な、日本政府案のようなものにこだわるならば非常に難しくなる、そして、マッカーサーは天皇制を守りたいというふうに思って努力している、そのことを容易にするのがこの憲法であるというふうに言った。  それを聞いたのは松本国務大臣と吉田茂外務大臣らでありましたけれども、松本博士は大変に怒りに打ち震えた回想をしております。そのやりとりの中で、「パーソン・オブ・ゼ・エンペラー」、天皇の身にというふうな言葉があった、これは何と卑劣な脅迫であることかというふうに憤っていらっしゃいます。押しつけと言われる、現場にいた松本博士は、そういうふうに受け取ったわけであります。  ケーディスにも聞きました、露骨な押しつけではないかと。それに対して、ケーディスはこういうふうに答えました。私は弁護士である、弁護士はクライアントに対して、もしあなたがこういうふうにされればこうなりますよという事情を説明するのが職務である。もしあの保守的な、帝国憲法の手直しのようなものでやったら、絶対に行き詰まる。どんなことが起こるかわからない。天皇制維持も難しくなるだろうし、直接軍政への移行ということが当時日本政府にとって悪夢でありまして、間接統治の役割を果たす日本政府そのものが排除されるのではないかという悪夢をいつも意識しておりましたけれども、そういうことになりかねないという事情を説明するのが弁護士の職務であって、それは押しつけとかなんとかというものじゃない。どう判断なさるかは御自由であるが、事情をよく言っておかないと職務を果たしたことにならないんだという説明でありました。  こうして、日本政府は、閣議は大荒れになりまして、二月二十一日にマッカーサーと幣原首相がもう一度会見する、天皇の意見も伺う。そういう中で、幣原首相は、これを大局から受け入れるほかはないというふうにマッカーサーとの会談後考え、天皇からもそうするようにと励まされまして、二月二十二日の閣議において、日本政府は基本的にこのマッカーサー草案を原案として受諾し、あと手直しをして進むという決断をいたします。  その後、第九条につきましては、有名な芦田修正、「前項の目的を達するため、」という語句を挟むことを中心とする芦田修正が行われたことについて、もう御説明するまでもないと思います。  ケーディスは、この点についても次のように言っておりました。あるとき、芦田小委員長が自分のところへ来てこの修正案を示した。一読して自分は直ちに賛成した。なぜならば、ケーディスなりに、侵略戦争は否定するが自衛戦争はオーケーとするという考えに立ち、さらに、彼の説明では、国連加盟ということを展望すると、国連加盟国の義務である国際安全保障の軍事行動への参加、それも必要であって、それを容易にする修正として芦田修正はよろしいと思い、上司の考えとも背馳するものではないというふうに思ったので、自分は即座に芦田に対してこれでいいと答えたと。ところが、そう言ったところ驚いたのは芦田の方であって、本当にいいのですか、独断でそうおっしゃっていいのですか、上に聞かなくてもいいのですかというふうに心配したので、大丈夫だというふうに自分は保証を与えたというふうに回想しておりました。  これは、一九九二年にこのインタビューでそういうふうに聞きましたとき、私はいささか信じがたい思いがいたしました。そういうことならば、もっと知られていいはずではなかったか。ケーディスにインタビューした人は数限りなくあるかと思うのですが、そういうことは余り伝えられていないのを大変不思議に思いました。  当時、九二年といいますと、御承知のようにPKO法がつくられて、ああいう国際平和維持活動への参加ということが日本でホットイシューでありました。そういう新しい現実の中で、ケーディスさんは歴史の記憶をかなり柔軟にモディファイして説明しているのではないかと、そのとき伺いましてかなりしつこく聞きましたが、彼は、記録を見れば明らかなはずだ、金森国務大臣はこういう発言をした、幣原だってこういう発言をしていたといったようなことを言って、自信ありげでありました。日本へ帰りましてから調べましたところ、基本的にケーディスの言っていることはほぼそのとおりであるというふうに私は感じた次第です。  というわけで、民政局といたしましては、あの修正された、芦田修正が加えられた第九条によって、侵略戦争は明確に否定するけれども、自衛及び国連のもとでの国際安全保障活動への参加という形での軍事活動、これは可能であるというふうに考えていた。民政局、GHQがそう考えただけではなくて、極東委員会もまたそう考えたからこそ、文民条項を要求してきた。日本が自衛のためであれ再軍備できるのであれば、その軍隊はしっかりとシビリアンコントロールが貫徹されなきゃいけないという観点から文民条項が加えられたことは、これまでの参考人も繰り返し述べられたところでありまして、私がそれに深く立ち入る必要はないかと存じます。  そういうわけで、非常に不思議な感じがいたします。そういうふうにGHQも極東委員会も、侵略戦争のみを否定した第九条であると理解しておりましたが、戦後、日本国民は、吉田茂首相の国会における答弁、侵略戦争はいけないが自衛戦争はいいのではないかという質問に対して、戦前の日本が自衛を名にして侵略を繰り返した歴史に言及いたしまして、そういうふうなことにかんがみ、自衛はいいというふうに考えるのは有害であるというふうに国会答弁いたしまして、侵略戦争のみならず、自衛戦争をも第九条のもとで我々は持たないのだという解釈を示した。それが広く国民に知られ、かつ支持され、野党にも支持されて、議論がそこでほぼ固定する。そういう状況が非常に長く、ほぼ冷戦終結まで続いたと言えようかと思います。  どうしてそういう妙なことをしたか。その点について、マッカーサーの方でも顕教と密教の使い分けをしていた。  当時、何しろ侵略戦争の記憶が生々しい。三十年来、日本軍がアジア大陸で軍事活動を繰り返し行って、そして敗戦に終わった。その後、日本が国際社会で信用を回復するためには、徹底した平和主義が望ましいというふうにマッカーサーが判断していたわけで、マッカーサーは、先ほどの資料1の(A)の中で、それでは侵略、自衛、両方の戦争を否定するとすれば日本はどうやって安全を保障するのか、それを、「今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。」というふうに書いているわけですね。そういう姿勢を日本がとることが日本の信用回復、戦後への船出のために必要であるという判断をして、そう強く印象づけることは意図するところであった。けれども、実際にそれをもって日本が長きにわたって安全を図れるかということは難しいわけであって、ケーディス修正のように、実際のところは自衛はふさがない、可能とするというふうに、顕教と密教の使い分け。  そのようなアクロバットを行ったのは、当時、つまり一九四六年初めの時点におきましては、まだ冷戦が始まっておらず、二つの総力戦、すさまじい人類的な戦争を行った後の世界が、国連のもとで新しい安全保障体制を得、平和のうちにやっていくという希望が非常に強かった時期で、マッカーサーは、彼自身の個人的体験をも加味して、その線で憲法を打ち出す。特に、敗戦国日本が信用を回復するために、国際社会、アメリカからいろいろな点で理解を得るために、天皇制を維持し、比較的寛大な日本処理をするためにもそれが必要だという判断を加味して、そのように行った。極めて状況の特殊性を反映したものであるというふうに申し上げておきたいと思います。  それで次に、以上の経緯の意味するものでありますけれども、見てまいりましたように、日本政府が自由意思によって定めた憲法ではない。何しろ占領下であります。最高権力は、ポツダム宣言及びその後の終戦交渉ではっきりと示されましたように、スキャップにある、連合国最高司令官にある。天皇及び日本政府はそれに従属する、サブジェクト・ツーするということが明記されております。最高権力が外部からの支配者、勝者の手にある、そういう状況での憲法改正でありました。のみならず、一般状況がそうであるだけではなくて、日本政府が用意いたしました松本案をはねのけて、みずから用意した案を日本政府が基本的に採択するように強要したわけであります。  そういう意味で、自由意思によって日本がみずからの手でつくり上げた憲法であると言いようもない経緯でありました。  ならば、これは押しつけ憲法であって、違法であり無効であると言うべきか。そうではない。現憲法は、違法でもないし無効でもないと私は思います。  第一に、連合国最高司令官の権力というのは、戦勝を背景にしてポツダム宣言を日本に発し、そこに何がしか寛大な対処方針、ドイツの場合の全土を制圧して直接軍政に移ったという方式とは違って、日本政府を通しての間接統治を可能にする、そして妥当な平和的復活ということを許容するような条件を提示しつつ、本土決戦による日本全土の荒廃かあるいはポツダム宣言受諾かというふうに迫ったわけで、それに対して日本側は、堪えがたきを堪え忍びがたきを忍んでこれを受け入れたわけですね。ポツダム宣言受諾という合意を行って最高権力をマッカーサーにゆだね、そのもとで日本政府が存続するということを了承したわけであります。  ハーグの陸戦法規四十三条、占領下において法制を変えてはならないというのに違反するから無効だという意見がございますが、そのような一般法、個別法、個別合意というのはオーバーライドできます。  また、四十三条自体が、絶対の必要のない限りしないように、なるべくしないように、こういうふうな非常に腰の引けた規定でありまして、一種の望ましいことを語ったまででありまして、では、絶対の必要がある、ないはどういう条件か。通常には、治安、安全の維持ができなくなるような事態が絶対の必要だというふうに解されておりますけれども、それとても、有権解釈はその状況の中で勝者が持ち得るものであるというのが歴史のならわしであります。なるべくなんという言い方をしているのは、絶対、なるべくというふうなものは、それに違反しているというふうに追及することが容易ではない規定でありまして、この陸戦法規をもって違法、無効と言うことには無理があると思います。  ポツダム宣言という括弧つきの合意、その十項に、日本政府は民主化のあらゆる障害を除去しなければならないということが記されておりまして、最高権力を得た者が、この民主化のあらゆる障害除去の中に憲法改正が必要であるというふうに言ってきた場合、日本はそれを断ることは難しいという状況があった。  そういうわけですから、スキャップが憲法改正を指示してきたことが違法、無効というふうには言えませんが、もちろんこれは政治でありますので、日本政府が抵抗することは可能であります。例えば、幣原内閣の前の東久邇宮内閣は、内務省のパージを言い渡されたときに、抗議の総辞職をいたしました。いかに間接統治とはいえ我々にも誇りがある、こんなむちゃをするGHQには協力できないといって総辞職する。この憲法改正の要求がむちゃであると思えば、幣原内閣も総辞職して抗議することも政治的に可能でありました。  問題は、そうした場合、果たしてそれが自分たち政府にとって、そして、大きく見れば、これは国民のいわば地獄のふちに立った事態ですから、国民にとってそれがいいことなのかどうかというぎりぎりの判断を迫られたわけですね。そういう中で、幣原内閣は、むしろ天皇制を存続する、日本国家を存続させ、戦後への船出を可能にするためにこれを受け入れよう、のみ込もうと。あと、手を加えるところは加えて、国内手続を踏んで有効な憲法として成立させる決断をしたわけですね。  そういうものでありますので、大変異例な事態でありますけれども、これを違法、無効であるというふうに言うことは無理であります。  それで、そういう場合、結局のところこれは政治の大きな営みでありますので、問題の中心は、果たして日本政府、日本国民がこれを望むかどうか、この憲法をよきものとして受け入れるかどうか。よくないと思えば、占領下ではともかく、占領終結後速やかに修正すればいいわけであります。  当時の日本政府にとってこの憲法は、先ほども申しましたように、天皇制と国家存立を守り、戦後世界へ船出するための避けられない必要事、いわば代償として受け入れたわけであります。  内容的に、もちろん賛成するところもたくさんありました。幣原首相自身、大正デモクラシーと呼ばれる二〇年代の比較的リベラルであった時代の外交指導者でありました。それになじんでおりましたので、自由主義的な諸改革は彼自身望むところで、強制されての改革ではなくて先取り改革をしばしばやっているのですね。例えば選挙法の改正や労働法の改正は、GHQに指示されてではなくて、幣原内閣としてみずからの戦前来の体験に基づいて自主的に改革をして、それができ上がった後、GHQは英語訳を出せと言うので出したところ、いいじゃないかというので了承している。  そういうふうなのもありまして、戦前日本が達成した民主主義に立っての、その先にある、日本としてもやりたかったというふうなところもたくさんございましたし、いささか無理があるかと思われたところも、象徴天皇制であれ天皇制を守り、国家存立のためにこれは大局から受け入れた方がいいという判断をしたわけであります。  それから、当時の日本国民は、この憲法が三月六日に括弧つきで日本政府案として発表されますと、大変よろしいというので概して好評であり、一部は熱狂的と言っていい。民主化も、日本近代史がジグザグの中で求め続けていた一方の望みでありましたし、平和主義というのも、戦争のあの体験の後のよきものというふうに受けとめられたという面がございます。象徴天皇制も案外、これが望ましいという支持が七割から八割に達した。当時の世論調査は今ほど精密なものではございませんが、概して高い支持を与えたわけであります。  占領終結後もこの国民の憲法への支持は変わらず、改憲、再軍備というふうなことが五〇年代後半熱心に提唱されもいたしましたけれども、結局のところ定着していったというのが実情でございます。この憲法のもとで、戦後日本は目覚ましい復興を遂げまして、先進社会の一つに発展する。平和のうちに豊かな社会を形成することができたわけで、それを支える憲法として高い支持を国民のうちに得ることができたというのが実際でございます。  それならば、どうして憲法改正問題が今起こり、このような調査会がつくられるのかという点でございます。  やはり、冷戦終結後の国際環境の変化というのが、非常に大きなインパクトを日本国民の憲法観にも与えました。湾岸危機、湾岸戦争。  日本は、第九条のもとで侵略戦争はしない、自衛については、いいといけないというのに分かれている恐らく世界でただ一つの国民である。世界じゅうどこにあっても、外国から攻撃を受けた場合、それに対抗するというのは、政府の国民に対する最高の責務である。国民の安全を守る、それがいわば究極の政府の任務です。それをしないなどという政府は存立しようがないというのが国際常識でありますけれども、戦後の日本は、特異な体験のもとで、そしてこの憲法のもとで、自衛戦争をしていいかどうかということが本気で議論されている恐らく世界で唯一の国ではないかと思います。  そういうふうに分かれておりますが、侵略戦争と自衛戦争の二分法というふうに、ずっと日本人の心の辞書は固定されてまいりました。  ところで、湾岸危機でサダム・フセインのイラクがお隣のクウェートを侵略した。これは日本にとって何なのか。日本の侵略戦争か。関係ない。日本の自衛戦争か。それも関係ない。だから我々の問題ではないというのが基本的な認識であったかと思います。遠くの戦争に、ほら火事だ、ほらけんかだといっておっ取り刀で駆け出すようなやくざ者ではもうないんだ、我々は平和を好む日本国民であるというふうに、いい子であるという思いを持っていたわけですね。  ところが、それに対して国際社会は激しい非難を浴びせまして、日本は何を考えておるのかと、サンドバッグのように打たれたというほどの厳しい非難が参りました。  一体どういうことなのか。日本が、戦争に責任のあった国として、もう決して二度とけんかはいたしませんというふうに社会更生中であったときには、日本が全く平和的で国際安全保障に関与しないということは安心材料であったでしょう。また、日本が貧しい国であったときには関与のしようもないかもしれない。  しかし、一九七五年にG7サミットができたとき、日本はその構成国であった。米欧日、世界の先進社会三極の一つを構成する存在である。冷戦が終わったとき、日本のGNPは世界全体のGNPの一五%を占める。百八十何カ国がある中で一五%を一国で占める。アメリカの二五%はとんでもないところですが、それに次いで一五%を占めるという信じがたい経済超大国になっていたわけですね。そして、G7サミットの三極の一つとして先進社会グループを構成する、そういう現実。  例えて言うならば、百八十人の大教室で、三人の先生が教壇の上に立って教室全体のことをやっている。そういうときに、教室の一角で乱暴者がお隣の女の子にいきなり殴りかかって、倒して、馬乗りになって殺そうとしている。騒然といたしまして、その周辺の生徒たちは、とめようとしても権太坊主が怖いので、先生と言うわけですね。教壇におりますジョージ先生は、何をするかと言って大またでそちらへ向かっていく。女性ながら大変強いマーガレット先生も、一緒になって、ジョージ、今度という今度はだまされたらだめよ、あいつは悪いやつだから、今度はしっかりやりましょうと言って先導していく。ずうっと行ったところでふと気がついた。あれ、もう一人来ないというので教壇を振り返ると、日本の先生はまだそこで立ちすくんでいる。どうしたんだ、おまえどうして来ないんだと言ったら、いや、御家訓がありまして、けんかだけは絶対しないことになっていますのでと。おまえ、けんかがいけないと言って、これがいいと思っているのかと。いやいや、そんなことは思っていないから、差し入れはちゃんといたしますのでというふうな情景になっちゃったわけですね。  おまえ先生なのか、先生なら、自分がけんかする、しないじゃないだろう、教室全体が、みんながやっていけるように面倒を見るのが先生の務めじゃないか。三極の一つというのであれば、その三極は経済分野を中心にしておりますが、首脳が集まる以上、世界の運命にとって重大なことにはかかわらざるを得ない、そういう存在でありながら、世界の安全保障にかかわる重要な問題にまるで人ごとのようにかかわらないというのはどうしたことかというおしかりだったわけですね。  その体験を経て、日本もPKO法案をつくる。軍事力をもって平和を強制するということについては、戦後の生き方、そして、憲法上直ちに決断できることではないけれども、平和維持ということであればいい、法をつくって対応する。幸い、カンボジアの平和構築ということに日本は極めて重要な役割を果たすことができまして、そこでのPKO、UNTACには、明石さんがその長となって、いわば日本の活動として、地域の平和、再建に大きな役割を果たすことができた。  そのカンボジアPKOをやっている間は、日本人はまだ非常に乱れた。中田君や高田文民警察官が殺されたときに、日本世論は千々に乱れた。もう引き揚げるべきではないかというふうに思ったりいたしました。しかし、その後カンボジアで総選挙が行われ、九割もの人たちが投票に向かう。暗い中から隣村まで出かけていく人たち、やはり平和が欲しかった、政府を再建したかったというカンボジア国民の意思が表明され、それにお役に立てたということが事実によって示された。その後、日本国民の意識がかなり変わったように思われます。  資料の2の方の「憲法意識の変遷」という左側の表を見ていただければと思いますが、改憲賛成が実線の白い丸ですね。改憲反対、つまり、憲法はこのままでいい、支持するというのが点線で、高い位置にある。圧倒する勢いにありました。ところが九二年、三年に、カンボジアPKOが成功に終わった後、それが逆転している。同じ質問による持続的な意識調査が必ずしも行われているわけではないので、絶対に確かというものではありませんが、いろいろに行われたものをつないでみますと、こういう逆転が起こったことはほぼ間違いない。第九条ゆえに我々が国際貢献というのを拒否し続けるべきではない、むしろ、第九条が間尺に合わなくなった、我々が必要とする国際活動を制約するものであるならば、それを変えていいのではないかというふうな変化がここに読み取れるかと思います。  湾岸危機のみならず、九〇年代には相次ぐ危機が起こりました。北朝鮮の核による危ない伝い歩き交渉、テポドンの発射、それから国内では、オウムの問題もあり、阪神・淡路大震災があり、私の家も全壊いたしましたけれども、また、不審船がやってくるというふうに、さまざまな種類の危機が次々に襲ったわけですね。冷戦後非常に変わってきた。  冷戦下において日本の安全保障上の危機は何か。これは、東西冷戦のもとで超大国ソ連が北海道に侵攻してきたら困るというわけで、それに対してできること、もちろん日本の自助努力は大事でありますが、最終的に日本でやれることというのには限度があって、超大国の脅威に対しては、もう一つの超大国で、もっと強大な友人であるアメリカの力をかりるということが不可欠で、最後のところはそれを大事にするというのが答えであったわけですね。  ところが、冷戦終結後、依然として北朝鮮の問題あるいは台湾海峡の問題等を考えまして、日米安保が要らなくなったとは考えない、むしろ、さまざまな不安定要因に対して日米安保を、日本の安全のみならずアジア太平洋地域全体の安定装置として活用するのが賢明であるというのが、橋本内閣のときにクリントン大統領との間で結ばれた日米安保再定義の共同声明であります。それは極めて妥当であると思います。  では、日米安保、日米同盟に万事安全保障上の危機はお願い申し上げたらいいか。不審船です、済みません、アメリカさんよろしく、オウムが来たのでよろしくとか、これはとんでもない話ですね。低強度紛争というのが非常にふえてきた。超大国の脅威の時代は去ったけれども、さまざまな種類の低強度紛争が至るところから来る。それでいてばかにならない。  北朝鮮のように、経済的破産の危機に瀕した国も、核とミサイルで脅かすことができるわけですね。それを、本来ならば、日本ほどの国ならば、自前で対応する能力を持ちたい。持てていいはずだとも思いますが、それはできない。やはり、かくも軍事技術のレベルが高くなり、世界が一体化しますと、一国主義による対応というのは非常に限界があります。やはりここは、日米同盟、さらに韓国と放列をそろえて、変な軍事の火遊びは絶対に実らないということをしっかりと、ペリー調整官の努力もあってでき上がる。そして、もう一つのかたぎの道へ来るならば協力は惜しまないという方へ誘導していく。これは妥当な対応でありますが、それにしても、この地域の一国の問題に対しても日本は自前でできない。日米同盟は依然として必要である。  こういうわけで、同盟関係を延長、強化しながらも、自前でやるべきことは非常にふえてきた。基本的に自助努力でやらないのはお笑いぐさであるというのが冷戦後の状況であって、したがって、九〇年代のもろもろの危機を経験した日本は自助努力を拡大する、安全保障上の危機の対処ということについて今までよりも本格的に自分で取り組む。その必要がこういうふうな皆さんの調査会における討議というものの重要な背景なのではないかと思います。  自助努力、同盟友好関係、そして国際システムという三つの努力が日本の安全のために必要であります。  マッカーサーの言うような崇高な理念にゆだねるということはできませんが、しかし現在、百八十幾つの国で、自助努力で自国の安全を全うできる国などというものはありません。ほとんど防衛力のないような独立国もたくさんあります。それは、ある意味で、そういう国だからといって侵略すると許さないよというふうな、国際システムによる保護というのが一定働いていると言えると思います。  そういう国際システムを、世界政府ができるわけではありませんが、強化していく。多くの国が核武装に走らなくていいようなシステムを日本などは非核先進社会として熱心に追求するというふうな努力はやはり必要であり、有効でありまして、その意味で、自助努力、同盟友好、国際システム、三つのレベルを重層的に推進して、組み合わせて、日本の安全保障努力を意義あるものにしていくということが必要であると考えます。  「異端としての改憲論と正統としての改憲論」ということをレジュメの中に書きました。  制定当時、あれは押しつけであった、だから改憲しなきゃいけないというのは、内容を見ずに一般的、抽象的に論ずる、これは原理主義でありまして、それは私は異端としての改憲論たらざるを得ないと思います。それが強く言われている間、日本国民は決して、先ほどのグラフで見ていただきましたように、改憲論に多数を与えませんでした。  それに対して、何十年かの経験を経て、この憲法が示した自由の価値、民主主義、そして国際協調主義、平和主義というのが国民の間に定着してきた。九〇年代に危機があったからといって、それを振り捨てるわけではない。依然として国際協調主義のもとで共同対処の努力をしていく。しかし、この憲法があの時点で決めたことには無理がある。崇高な理念にゆだね切れるものであろうか。  あの憲法が川上でつくられた以後、川は流れ続けております。あの瞬間風速的な、戦後、国連のもとでの世界の安全保障が可能になるのではないかと思われていた時代は、翌四七年には冷戦の開始によって難しくなってきた。その中で、日米安保条約という個別努力、集団的な自衛権を行使する必要があるという認識のもとで、講和とともに安保条約を結んだわけでありますが、今ではその冷戦状況も終わって、また違った文脈で日米同盟は意味を持ち続けている。  しかしながら、低強度紛争が多発して、それをすべて日米同盟に頼るわけにはいかないので、自前の努力が要る。そういう事態を迎え、さらに、日本の国際的役割というのが大きく拡大した中で、国際安全保障については全く知りません、日本人だけは血を流さないという対応というものが、国際システムにとって、国際的な共同対処にとって不可能であるという事態を迎えたわけですね。川は流れて、川上の方で考えた、あのとき考えたものと違った条件がいっぱい出てきている。  そうすると、基本精神である自由、民主主義、国際協調主義、これはもう国民の間に定着して、コンセンサスである。そのコンセンサスの上に立ちながら、より意味のある方向づけ、対応を可能にする基本法というものを持ったらいいじゃないか。  これは、トータルにあの憲法は無効だ、有効だとかいうのではなくて、基本的にこれは意味のあった憲法だと評価し、受けとめながら、その上でこれからの必要を方向づける。現在の時点、そして洞察を持って国民の安全と繁栄のために必要な憲法に改めていく、これが私の言う正統としての改憲。一部の人が金切り声を上げる異端としての改憲論ではなくて、国民的必要に対応する正統としての改憲論をぜひ展開していただければと思う次第です。  ほぼ時間になったかと思いますので、以上で私の冒頭の話を終わらせていただきます。  長い間、御清聴ありがとうございました。(拍手)

中山太郎自由民主党

○中山会長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。     —————————————

中山太郎自由民主党

○中山会長 これより参考人に対する質疑を行います。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。平沼赳夫君。

平沼赳夫自由民主党

○平沼委員 五百旗頭先生、大変お忙しい中、当憲法調査会のために貴重なお時間をお割きいただき、さすがに歴史学者でいらっしゃるので、一つの視点から含蓄のあるお話をしていただきまして、本当にありがとうございました。  押しつけ憲法論に関して先生は、異端論、こういう形で位置づけられたわけでありますけれども、私は若干見解を異にいたします。  およそ古今東西、戦いに勝った国というのは、打ち負かした国に対して基本的なことを必ず二つしているわけであります。  それは古代のアレキサンダー大王にしても、我が国の戦国時代のそれぞれの武将にしても例外じゃなくて、負かした相手に対しては、まず一つは、非常に厳しいそういう世界でありますから、二度と再び立ち上がらせない、こういうことをやるわけであります。もう一つは、その打ち負かした国というものに対して、未来永劫、でき得べくんば友好的な属国として位置づけて、そして勝った側の論理を押しつけながら、自国の安泰を図っていく。私は、戦勝国の最高司令官であったマッカーサー元帥も例外じゃなかったと思うんです。  これはもうみんな承知のことでありますけれども、厚木飛行場に乗り込んできて、そしていろいろな指令を出しましたけれども、真っ先にやったことが憲法改正の示唆でありました。  それは、なぜ憲法に着目したかというと、日本は、いろいろな紆余曲折があったと思うんですけれども、大陸から法律システムを入れ、聖徳太子の十七条の憲法、さらには大宝律令等々、法治国家で長い間存続してきた国柄であります。法治国というのは、これは言うまでもなく法が支配、運営する国家体系でありますから、その基本法というものを、やはり今の二つの目的を円滑に達成するために自分たちの意に沿ったものを押しつけるということは標準動作だったと思うわけであります。  しかし、これは不戦条約やあるいはハーグの陸戦法規その他その他、やはり戦いに勝った側が一方的に最高法規というものを押しつけるべきじゃない、そういう国際世論にも配慮いたしまして、そして日本に、先生がお話しのように、担当したのは松本烝治博士でありましたけれども、憲法改正を命じたわけです。その間、これはいわゆるポツダム勅令と言われていますけれども、連合国側は日本に対して二千を超えるいろいろな勅令を出して、徹底的な日本の改造を図ってきたことも事実です。  そして、さらには、昭和二十年の九月からマスコミに対して事前検閲というものを強行いたしました。これは二十三年の七月まで続くわけでありまして、さらに、二十三年の七月からは事後検閲になりました。これは江藤淳先生なんかの綿密な調査によって大変明らかになってきた事実ですけれども、そういって徹底的な事前調査をする。  また、これはポツダム宣言の中にも盛り込まれていたわけですけれども、極東軍事裁判というものを開き、極東軍事裁判というのは、法の原理原則をある意味では無視して、罪刑法定主義というものが原則でありますけれども、これを全く無視して、それまでなかった「平和ニ対スル罪」、「人道ニ対スル罪」、こういうものを事後法として設定して、そして構成する判事も中立国は一人もいない、そういう形で一方的に裁判を開き、判決を下した。  その中で、有名な話でありますけれども、その判事を構成していたインドのパル博士の非常に大部にわたる判決文があります。裁判というものの記録でありますけれども、その当時は、これも一切公表を禁止したというような形で、非常に目的的に強力にやってきたわけであります。  憲法は、先生もお認めいただいたとおり、押しつけだったわけであります。この押しつけという一つの事実というものを、先生のお考え、それはそれで評価すべきものがありますけれども、法が支配、運営する国家体系をとっていく以上、その根本のいわゆる法律たる憲法の出発点が今言ったような背景の中で意図的にやられたということは、やはり独立国の我々日本人としては、これはやり過ごすわけにはいかない。  新しい、確かに理念的には、先生御指摘のように、多分アメリカンデモクラシーに基づいておりますし、二十五名から成るいわゆる憲法草案に携わった人たちも、初回、西先生から詳細に承りましたけれども、ハイエデュケーテッドな、ケーディスにしてもハーバード大学のロースクールを出ている、ハッシー、ラウエルもしかり、そういう法律的な素養があったことは事実です。しかし、この二十五名の起草した人たちも、明らかにそういう意図であり、また多分に理想主義者的で、ある意味では、アメリカのニューディール政策、こういうものに大変傾倒していた人たちだったのです。  ですから、彼らが日本に押しつけてきた憲法というのは、例えば前文一つとっても、これはアメリカンデモクラシーの有名なリンカーンのゲティスバーグ演説の、バイ・ザ・ピープル、フォー・ザ・ピープル、オブ・ザ・ピープル、これがそのまま入ってきておりますし、それからまた、いわゆる九条に生かされている不戦条約そのものの精神が、マッカーサーを経由して、これはフィリピンの憲法にも入っているわけですけれども、そういう形でそのまま入ってきている。  私は、そういう出自の憲法であるからして、いいことは率直に認めますけれども、半世紀以上たって、今この日本でいろいろな社会的な忌まわしき問題が起きております。そういうものは、やはり法が支配、運営する国家体系で法治国である以上は、今の憲法と無関係ではない。もとをただせば——今、例えば犯罪が多発する、また子が親の面倒を余り見ない、そしてまた平気で親が子を殺し、子が親を殺す、そういったことが多発して、教育の荒廃も目を覆わしめるものがある。だから、そんなことを考えてみると、繰り返し言いますけれども、いい面は率直に認めますけれども、しかしそういった面も、占領政策の目的で、こういう言葉を使うのは嫌なんですけれども、日本を弱体化する、そういうために押しつけた憲法でありますから、そういう現象も我々はこれから力を合わせて直していかなければいけない。  そういう中で、原点に立ち返って、勇気を持って、押しつけ憲法論が異端論だとおっしゃいますけれども、そうじゃなくて、そういったところをこの憲法調査会でも皆さん方で討議をしながら、そういう出自の憲法であるからこそ、やはり我々日本民族の手に成る憲法をつくっていくことが大切なことじゃないか。そこを避けて通ってしまうと、その場その場を糊塗するだけで、やはりいつまでたっても本当の、我々が理想とするようないわゆる法治国日本、こういうものをつくることができないじゃないか、そんな危惧を私は持っています。  先生の御提言に大変水を差すような私の見解でありますけれども、今、そういった憲法の出自が、現状のいろいろな、我が国にとって喫緊に解決しなきゃならないそういう問題と関係あるかどうか、また、今私が申し上げたこと、それに対して先生の御見解をぜひ承りたいと思います。

五百旗頭真神戸大学大学院法学研究科教授

○五百旗頭参考人 ありがとうございました。  第二次大戦終結のときの平沼騏一郎枢密院議長は、おじい様でいらっしゃいますか。(平沼委員「ひいじいさんです」と呼ぶ)ひいおじいさんでいらっしゃいますか。  今の平沼先生のお話を聞いて、私、この資料のもう一つの方、「戦後日本外交史」という昨年私の編著で出版したもののあるページが先ほどの「憲法意識の変遷」のグラフでありますが、その中の占領を扱ったところのコラムにも書いたのですけれども、ひいおじいさんの平沼枢密院議長さんは、日本がポツダム宣言を受諾するに当たって、御承知のように、陸軍は、徹底抗戦、本土決戦を主張し、それに対して外務大臣、東郷外相は、国体護持ということの保証のみを得てポツダム宣言を受諾しようという主張をして、三対三に割れたわけです。軍部の指導者、それから外務大臣、首相に加えて、枢密院は、憲法改正とか条約とか極めて重要な問題を審議するその時間がない事態において、枢密院議長に最高戦争指導会議に加わってもらうということをもって満たそうという手続があったわけです。枢密院議長の平沼氏がどういうふうに発言するか、みんな息をのむ思いで、その割れたところでの発言に注目したわけです。  それで、いろいろ質問した後、平沼枢密院議長は、基本的に外務大臣が言うようにポツダム宣言を受諾するほかないというふうに、聖断に至るその線を支持された。ただ、言葉遣いに注意をしなさいということをおっしゃったんです。そこで、平沼枢密院議長の意向によって、国体護持を確かめるという照会の文書において、天皇大権に関する変更要求を含みおらざるものとの了解のもとにポツダム宣言を受諾するというふうに文書をつくったんですね。  これは、天皇制が形骸化しても、ともかく残ればいいというのではいけない。明治憲法の中で至るところに、大事なことは全部天皇大権となっておりまして、しかし、後ろの方の五十五条において「輔弼」、天皇を補佐するのが国務各大臣であって、その副署を決定に必要とするというので、実際には各大臣がサインをすることによって効力を発するというので、すべては天皇大権だけれども、国事については国務各大臣がというふうな構造だったわけですね。それで平沼議長は、天皇大権を変えないという条件のもとでというふうに言った。  これを受け取ったワシントンのアメリカ政府では、トルーマン大統領のもとで御前会議を開きまして、一部、バーンズ国務長官のように、我々がポツダム宣言を出したときは原爆投下前だった、ソ連参戦前だった、それ以後この二つの要因によって我々は優位になった、だのにこういうふうな新たなる修正を加えて配慮する必要はないという主張をする人もおりましたが、スチムソン陸軍長官や何かが中心になって、日本は、ここまで来て、こんな絶望的事態でもなお天皇を守ろうとしていることに共感を持つ人もおり、トルーマン大統領としては、犠牲を最低限に抑えて早く平和を回復するということがアメリカ国民の利益だから、この日本側の答え、これを平和回復に生かすように、ただ、アメリカの利益を損なわないような返書を工夫して書きなさいとバーンズ国務長官に命じたんですね。  そこで、返事をつくる中で、天皇大権についての要求を含まないということについてイエスと言ってはだめですよと知恵をつけたのが、知日派の外交官であったバランタインとドーマンなんです。この二人は文面を見て、もし天皇大権について変更をしないということでイエスと言ったら我々は改革ができなくなる、民主化を要求することは難しくなるだろう、だからこれについてはイエスと言っちゃいけない、しかし、ノーと言って徹底抗戦、本土決戦はお互いのためによくないと。そこで、イエスともノーとも言わず、終戦とともに占領が行われる。その占領下においては天皇及び日本政府は最高司令官にサブジェクト・ツーするというふうにして、イエスともノーとも言わず、しかし天皇と日本政府は存続し得るということを示唆して、そして日本が民主化され、平和志向であるということが明らかになった時点では、占領を終わって、自由に表明する日本国民の意思によって最終的な政治体制を決める、そういう返事をして、イエス、ノーを回避しながらこうだということを言ったわけです。  平沼議長が何とか基本的な明治憲法の制度を維持するという知恵を出す努力をされたわけですが、知日派がそれを回避させた結果、結局、ポツダム宣言において日本政府が民主化のためのあらゆる障害を除去しなきゃいけないというのと対抗するような関係にならない、それを貫徹するような終戦交渉となったわけです。  平沼先生御指摘のとおり、勝者が敗者を無力化する、二度と足腰立たないようにとまでは言わないにせよ、二度と刃物を持って飛びかかってくるような存在でなくするというのは、勝者の敗者に対する基本的な政策である、歴史上、多くの場合そうであるというのは、御指摘のとおり、全くそうだろうと思います。日本に対しても、非軍事化という名において無力化政策を追求した、弱体化を図ったということは明らかだと思います。占領政策のおもしろさは、もしそれ一辺倒で行われましたならば、恐らく日本国民はフラストレーションの塊になって、戦後速やかに憲法を改正したと思います。  他方、その無力化、非力化というのも、マッカーサー流の、崇高な理想というふうな普遍的価値に結びつけてプレゼンテーションすることによって日本国内に共感を得るということも上手でありましたし、それから民主化という、現代世界が、近代日本史を含めて、ジグザグの中でも追求し、拡大していく共通の価値、それを多く体現しておりましたし、そして平沼先生も今指摘されましたように、配慮に満ちた親切な占領政策でもある。戦後、日本を軍事的には刃物を持って飛びかかれないようにしたにせよ、経済社会的には立派なものを再建できるようにということをやった。それを強権を振るってやりますと、さまざまなプレスコードがあったとか、検閲がひどかったとか、いろいろうれしくないことが起こるのも当然で、歴史の常であります。  ですけれども、四捨五入いたしますと、内容的にはかなり悪くない占領政策であったと日本国民が受けとめた。それで、憲法そのものを、それを日本はいろいろな利害を考え、みずからの存続の必要を考えて受け入れる決断をして、合法的手続をとったわけです。ですから、向こうが押しつけたということばかりを言い立てて、自分がそれを受けて立ってやりましょうと言った、そのことを見失うということになると、悪いのはあのときあなたがこうしたからよ、すべてそこがいけないと言って、繰り言を繰り返すという存在になってはならないと思うのですね。そのときの難しい状況で、強要というのはあった。  もし日本が、占領下でなくて、敗戦の後、自前でつくったとしても、国際環境の圧力のもとで、相当その圧力を意識しながらつくらざるを得ないものになった。その場合にどうなったかという問題がありますけれども、およそ憲法がつくられるときというのは、戦争、革命などがあり、普通じゃない状況である場合が多い。それが存続できるかどうかは、その内容が国民的にいいものかどうかということに基本的にかかると思います。  したがって、今憲法改正ということを提起される場合に、いろいろ忌まわしいことが起こっているのも、諸悪の根源はあの押しつけにあるというふうにあるいは論証できるかもしれません。一つの要因かもしれません。しかし、同じようなことは、世界じゅう至るところで、勝者の社会にも起こっていることが少なくない。むしろ、そういうふうな忌まわしいことがあるとすれば、それに対処し、それを克服する制度は何なのか、それを魅力的に提示するという努力が何より大事でありまして、それを提示すれば、今や日本国民は、押しつけであったかなかったかを超えて、いいじゃないか、そういう改正案をもってこれからの国民生活を支えてもらいたいと言うわけで、内容的にいいものかどうかと、ぜひ内容を提起していただきたいというふうに感じる次第です。

平沼赳夫自由民主党

○平沼委員 私の先祖まで紹介していただきまして、大変恐縮でございました。  限られた時間でございますので、先生は、ケーディス次長、大佐にもお会いになられて、二日にわたってインタビューされた、こういうことを伺いましたけれども、日本国憲法の前文を起草したと言われるハッシー中佐にはインタビューはされたのでございましょうか。  その成立過程をそれなりに勉強させていただくと、先ほどのお話にもちょっと出ましたけれども、ケーディスが、やはり国には固有の自衛権があるから、したがって、ある意味ではその場の独断のような形でぴしっと修正をした、それを知ってハッシー中佐がケーディスのところにやってきて、これは最高司令官の意図するところと違うじゃないかと非常に抗議したそうなんですけれども、そうすると、ハッシーが起草した前文と、もともとマッカーサーのイエローペーパーに書いてあった九条、そして、それに修正が加えられた、第二項が加えられた、その辺は、先生は前文と九条の関係というのはどういうふうにごらんになっているか、ちょっとお伺いしたいと思います。

五百旗頭真神戸大学大学院法学研究科教授

○五百旗頭参考人 重ねてありがとうございます。  九二年十一月にケーディスのマサチューセッツの家を訪ねてインタビューしたということを覚えているのは、二日間のインタビューを終わってホテルに帰りましたら、クリントン夫妻、ゴア夫妻がアーカンソーのリトルロックの舞台の上で大統領選挙の勝利を四人で手をつないで祝っている画面があらわれたから覚えているんですが、その二日間にわたるインタビューは、鈴木昭典さんという、ドキュメンタリー工房というテレビ制作会社の社長さんに依頼されまして、憲法制定過程にかかわった人を根こそぎインタビューしようというもので、当時、民政局員でかかわった人のうち八名がなお存命だったんですね。  中心にいたケーディスが健在であったことは大変幸いでありましたが、そのほか七名の方にも順次インタビューして、その内容につきましては、鈴木昭典さんが、その後テレビ番組も幾つかおつくりになりましたが、本として、「日本国憲法を生んだ密室の九日間」という本を創元社から出版していらっしゃいます。その監修のようなことを頼まれて同行し、ケーディスさんに私がインタビューするということをいたしましたが、残念ながらハッシーさんは既にお亡くなりでありまして、そのときにはできませんでした。  ハッシー・ペーパーがありまして、あれは七〇年代でありますが、ミシガン大学へ行きましたときに、ロバート・ウォードさんの了承を得て見せていただくことはいたしましたけれども、ハッシーさん本人へのインタビューはできませんでした。  しかし、今平沼先生がおっしゃいましたことは、私もケーディスさんからかなりつぶさに伺いました。  芦田修正をケーディスは認めた、了承した、自分の独断なのに大丈夫だと言った。それに対して芦田自身はびっくりしたと先ほど申しましたけれども、その後、民政局内の反作用がありまして、ハッシーがもう一人の若い人を伴ってやってきて、これでは日本が再軍備できるじゃないかと自分に迫った。それに対してケーディスは、いや、だって自衛権まで奪うわけにはいかないだろう、それではこの憲法が生き長らえることができなくなるじゃないかというふうに言ったけれども、ハッシーは、それはおかしい、マッカーサーがおっしゃっていることと、崇高な理想にゆだねるというのと違うじゃないかというふうに頑張る。  ケーディスは、マッカーサー、ホイットニーとのやりとりというのを披露したとは言いませんでしたけれども、あくまで、いや、これでいいんだ、芦田修正でいいんだと言い張ったところ、ハッシーが、それじゃボスに自分が直接かけ合っていいかと聞いたので、どうぞと。それで、ホイットニーのところへハッシーともう一人は行った。  そして、その後、帰ってきたときにどうだったと聞いたところ、ホイットニーはハッシーの訴えに対して、これでは日本が再軍備できるじゃないのと言ったら、ソー・ホワット、それがどうしたと、ドント・ユー・シンク・イット・グッド・アイデア、いい考えと思わないかと言われてチョンになっちゃったと、がっくりして帰ってきたというわけです。  御指摘のように、そのハッシーが前文をかぐわしくうたい上げる草案を書いた。松本委員会は、この点では、敗北というか、負け戦をやったんですね。各条項、この民政局草案、マッカーサー草案に対して、日本政府が修正案を書く機会をもらったわけです。ところが、前文は余りにも違和感がある、アメリカ独立宣言のくだりやリンカーンの演説を思い浮かべさせる、もうアメリカ語であることが明らかだ、こんなものは日本における憲法で書くようなことではないというので、対抗修正案を松本博士は用意しないで、もっと格調高くというか実務的にというか、そういうのであっさりといくというふうに考えて、修正案を出さなかったんです。そうしましたところ、ケーディスが、前文については日本側に対抗修正案がないのでこのまま採択すると宣言してしまって、やられちゃったんですね。というわけで、ハッシーのかぐわしくうたったものが前面に出ている。  それに対して第九条は、御指摘のように、密教においては自衛はオーケーというふうに、侵略戦争だけを禁止するというふうに使えるようにしてある。その間のそごというのは、先ほど申し上げました顕教の必要ということであります。  当時、マッカーサー司令部としては、自分たちは、日本が本当に平和的に生まれ変わったということをアメリカを初め世界にアピールしたいんです。そうすることが、日本に対する、復興を可能にする占領政策遂行上必要であって、日本が戦後世界に船出するためには、大いに、生まれ変わった、本当に変わったんだと思わせたいわけですね。  その政治的必要のために、前文では、ハッシーがああいうふうにうたい上げることはオーケー。第九条も、一見して読むと、陸海空その他の戦力はこれを保持しない、ああ、完全に自衛までやめちゃったのかと読む人がいたら、それは通ではない。そこつかもしれないが、そう読まれることは苦しゅうない、ある政治的効果は期待できる。その意味で、前文と第九条の顕教部分というのは一致していて、オーケー。しかし、プロが読んでいけば、これはできるんですよというふうに、そっと可能にしておくというふうな扱いをしたと見ております。

平沼赳夫自由民主党

○平沼委員 時間が参りましたのでやめさせていただきますけれども、実は、もう少し前文のことを先生からいろいろお聞きをし、勉強させていただこうと思いましたけれども、次の機会に譲らせていただきます。  先生、どうもありがとうございました。

中山太郎自由民主党

○中山会長 樽床伸二君。

樽床伸二民主党

○樽床委員 きょうは、どうもありがとうございます。  本日お集まりの諸先生方に比べまして、私はまだ四十年しか生きておりませんので、大変失礼なことを申し上げるかもわかりません。  その四十年のみずからの人生の中で、物心がつきましてから私は一貫して改憲論者でありました。しかし、先ほどお話がありました平沼先生とは意見を異にいたしておりまして、私も、先生が先ほど冒頭におっしゃいました、過去の経緯にこだわって改憲の是非を論ずるのはいかがなものかということは常に頭から離れていないという状況の中にありました。  正直申し上げまして、ベルリンの壁が壊れまして、ソ連がなくなりまして、もう十年たちます。そういう中で、今、三度目の大きな転換期というふうにいろいろ言われているわけでありますが、言うまでもなく、明治維新、さきの終戦、そして今、三回目ということでありますが、明治維新は、当然明治政府ということでありますから、旧憲法がつくられ、そして二度目の転換期には現行憲法がつくられ、三度目の転換期という今であれば、時代に合わなくなったものは変えていってしかるべきではないのかということは常に考えているところであります。  また、歴史というものは何が真実なのかというのは、私はよくわかりません。それは、それぞれのそのときの経験の中で、ある方にとっては真実であることが、ある方にとっては真実でない場合もあるのかもわかりません。例えば、攻める側から見た真実と攻められた側から見た真実というのは、同じ事実であっても意見が異になることもあるだろうと私は思います。  そういうようなことに基づいていろいろ言っても、時計の針は戻ってこないわけでありますから、もうそんなことはやめた方がいいというふうに私は正直に考えております。そうではなく、時の流れに合う憲法をどうやってつくるのかという観点が今どうしても必要であって、それに対してちゅうちょしてはならぬというふうに私は考えているわけであります。  そういう中で、憲法が定着してきた、また制定当時の経緯等々、いろいろあろうと思いますが、戦後ほぼ一貫して流れてきた我々の価値観はイデオロギーでありました。当然、右、左、保守、革新というイデオロギーをほとんどの価値観の基準にして物事を考えてきたわけであります。そのイデオロギーの価値観の物差しにまさにずぼっと入ったのが憲法の問題でありまして、特に九条の問題があるからそれは顕著になってきたわけであります。そういう観点から、改憲を言う者は右であり、憲法を守ると言う人は左である、進歩的というのかわかりませんが、そういう二極分化の構図がずっと続いてきた。もっと前は知りませんけれども、我々が知っている範囲ではそういう二極分化がされてきた。その過程の中でタブー視をされてきた、憲法については余り論議をしない方がいい、避けて通ってきたというところが大変問題であるだろうというふうに思っております。  もう既に、先ほど申し上げましたように、ベルリンの壁がつぶれて十一年、ソ連がなくなってかなりの年月がたちます。世界はイデオロギーの時代は終わったわけでありますから、これからはイデオロギーを脱却した改憲論をしていかなければならないということを強く感じるわけであります。そのポイントは九条の問題であろうと思いますので、その点につきましては後ほどもう一回質問させていただきますが、イデオロギーを脱却した改憲論ということにつきまして、先生のお考えをお聞きしたいと思います。

五百旗頭真神戸大学大学院法学研究科教授

○五百旗頭参考人 ありがとうございます。  基本的に同感でありまして、原理主義的な改憲論というのは異端であるというふうに私は申し上げましたが、言いかえれば、それはイデオロギーということと表裏をなすのではないかと思います。  国民の基本的必要、生存と利益、繁栄を基礎づける憲法というのを考える。その国民の必要というのは非常に多面的でありまして、それに対して原理主義は、原理主義を提供するのがイデオロギーと言ってもいいかと思いますが、トータルにすべての問題を説明するということを自己主張する、一つの極めて鮮明な立場であるわけですね。それが問題を深く理解させるという効用を持っている。だからこそ、多くの人はそうしたイデオロギーに栄養分を得たり、影響されたり、支配されたりするわけであります。  けれども、国民の多面的な必要を一つの原理でばさっと切りますと、これは必ず無理が来る、そごが来るというところがございます。したがって、現在の憲法も、これはほとんど世界の先進国の共通項でありますけれども、自由権的な、基本権と呼ばれる自由の保障ということを大事にし、そして合法的な、法による支配を大事にし、そして国民の多数の意向を反映した制度、装置をつくる。自由主義、民主主義、法の支配を組み合わせて形成していく。  第一次世界大戦が現代史の分水嶺になったと思いますが、主権国家がこの世で最高の存在であって、主権というのは、内に民を統治し、外に外敵を排除する能力を持つ最高権力で、それ以上のものはない存在として、それが最終的な手段を決定する。外交によって他国との関係の調整をすべく努力するが、それでどうしても話がつかないという場合には、表へ出ようというので戦争手段に訴えて、力によって決めるということが歴史のならわしであったわけですね。それしかないと。  ところが、それしかないでは困るということを人類に教えたのが第一次大戦、さらに第二次大戦でありまして、戦争の惨禍というものが想像を絶するものになった。全国民が巻き込まれて、家庭生活がばらばらになり、多くの人が殺される。どちらの側もそうなる。そういうことになりますと、戦争手段というものを限定して、飼いならさなきゃいけない、そういう状況が出てまいりまして、国家主権万能、リヴァイアサンとかビヒモスとかいう怪獣として例えられる進軍ということが両大戦間にまた行われましたけれども、第二次大戦を経て、核時代を迎える。広島、長崎以後、国家が最終手段を、それが成功するならば欲しいままにしていいというのではなくて、ある種の国際協調の枠の中でやるというので、連盟や国連が出てくる。侵略戦争はしないというふうになっていく。  そういうわけで、自由主義、民主主義、法の支配、そして国際協調主義の中で国益を図る、そういう諸要素が組み合わされていくというのが先進国共通の憲法の成り立ちでありまして、ある種のイデオロギーでばさっと一つにやるというのも戦後生きておりましたけれども、そういうシステムはやはりもたないというのが冷戦終結という結果であろうかと思います。  したがって、多面的な国民の必要を組み合わせて、それでいて、全体として一つのよき作品になるという憲法を編み出す。その組み合わせていく努力ということが必要なので、そうしたことを成功させていただきたいと思っている次第で、イデオロギーを脱却した、イデオロギー以後の、もっと基本的な国民の必要という価値を上手に生かしていくということが必要なのだろう、同感でございます。

樽床伸二民主党

○樽床委員 私は、内政的な面におきましても、地方分権をさらに徹底して日本型連邦国家的な形態にした方がいいという個人的な考えもありますし、また、対米追従外交もやめなきゃいかぬ、ただ、自立と協調を両立させなきゃいかぬとか、いろいろ考えているわけでありますが、そんなときに、必ず憲法の問題に最後は突き当たるということを何度も経験してまいりました。  そういう中で、先ほどイデオロギーを脱却したということを申し上げましたが、しかし、いろいろなことを議論するに当たりましても、九条がこのままであるならば、イデオロギーを脱却した改憲論ができないわけであります。ですから、この九条は乗り越えないといかぬ条項であろう、このように私は考えております。こういうことを言うと、かつてであると、おまえは右だとか反動だとか、いろいろ言われてきたわけでありますが、そういう考え方そのものが古いというふうに私は思っているわけであります。  そういう点からいいますと、先生は御意見の中で、この九条をプロから見れば、密教として自衛権はある、自衛戦争はできる、こういう先生の見解であります。その見解が間違っているとは私は申しません。また、そういう考えもあるのでありましょうが、しかし一方で、持てないと主張されている方々もおられるであろうというふうに思います。ですから、過去になぜこういう文面になったかという経緯は、それはそれとして、今に至れば、もっと明確な表現にすべきではないのかという感じを私は強くいたしております。  特に、解釈でいったらこう読める、解釈でいったらこう読めるといきますと、どこまで解釈で読めるのかという行き先がさっぱりわからぬわけであります。結局それが、なし崩し的な形で、かつて来た道を行く可能性がなきにしもあらず。なし崩しで解釈の変更をして物事を進めていくという、この体質そのものに私はある種の一抹の不安を感じるわけでもありますし、先ほど言いました、イデオロギーを脱却するためには九条は苦しくても乗り越えなければいけない項目であるという観点からいくと、例えば自衛隊は認める、シビリアンコントロールを徹底するために国会承認の項目を入れるのがいいのか悪いのか、これは専門家の先生方とまたいろいろ議論をしたいわけでありますが、そのことを明確にして、はっきりした文章にして——理想を忘れろとは言いません。ただ、理想ある現実主義に基づいた新しい憲法をつくっていく必要があるのではないかというふうに私は考えております。  その点につきまして、先生、いかがお考えでしょうか。

五百旗頭真神戸大学大学院法学研究科教授

○五百旗頭参考人 全く同感であります。  上流でつくられてから川は流れる。そのつくった時点での存在拘束性というのは、これは人間がやる以上免れ得ないですね。それが比較的致命的でない場合もあるし、非常に困ったものである場合もある。そのときの状況、機運に余りにも交感度が高い場合、長期持続性を持ち得ないという問題がある。  先ほどから繰り返し申していますように、あの状況のもとでは、戦後日本が国際的信認を回復して船出ができるために必要、そういう状況への配慮というのが強く出ているわけですね。顕教と密教の使い分けということがそこから出てきたと私は理解するわけであります。  それは今では必要ないといいますか、逆の信頼性、今御指摘のとおりでありまして、日本は陸海空その他の戦力を持たないと言っていて、持っているものは世界で何番目か。軍事予算はGNP一%以内ということをやっておりましても、何しろ巨大な経済国家でありますので、これほどある。それで、憲法とはどうなっているのか、そこで苦しい説明をごちゃごちゃしなきゃいけない。次に、そうはいっても、いろいろ九〇年代に安全保障上の危機も起こったのでこうする。そうすると、あれとの関係はどうなるのかと。おっしゃるように、なし崩し的にごしょごしょ変えて、何が限定なのか、はっきりと何をするのかということが読めない。そうすると要らざる不信感を逆に招くという、マイナス効果を今では強めていると思います。  不誠実である、うそをついているのではないかというような意味合いの方が多くなってきて、成立させたときの顕教と密教の使い分けがそれなりに双方意味を持ち、理由があり、効果があるというのとは、文脈がすっかり変わってきている。日本ほど大きな、責任ある国が、書いてあることとやっていることが余りにも違う。精神分裂状況であって、どこが真意でどこが本当でないことなのかがわからない。そういうことは、決していいことではない。  よく、アジア諸国がまだ日本に対する軍国主義化、軍事大国化の危惧を持っていて、その面では第九条になお存続理由、効用があるのではないかという議論もあります。  私も、アジア諸国と行き来をする中で、第九条の前段、つまり、国際紛争解決の手段としての戦争を行わないという侵略戦争の否定部分、これは堅持する、日本国民の間で広く定着している。しかしながら、後段部分、何を言おうとしているのか今ではわかりにくくなった。陸海空その他の戦力を持たない、国の交戦権は認めないという、そこのところは、削除するか、あるいはもう少し明白に、自衛戦争はその限りでないというふうな説明句をつけ加えるか、三つの戦争のカテゴリー、侵略戦争、自衛戦争、そして国際安全保障上の共同行動への参画というこの三つの中で、あとの二つは可能であるということまで言うか、単に前段のみにして侵略戦争は否定しているということにするか、そのいずれかで検討していくべきではないかというふうに思っております。

樽床伸二民主党

○樽床委員 この九条の後段でありますが、確かに、プロから見て、また歴史学者から見て、いろいろな経緯からいってこの言葉はこう読むんだ、こういう説明は、それはそれでわかるのですけれども、単純に国語的に、日本語として見ると、いろいろ意見はありますけれども、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と、ここでは丸がついているわけであります。この「前項の目的を達するため、」がこの丸で終わるのか、よくわからないということもありますから、私は、国語的にもすっきりさせてもらわなければ困るというふうに考えているわけであります。  そのことは、今先生がおっしゃいました、アジア諸国に対しても、九条があるからこそ、やっていることと言っていることが違って、逆にいつまでたってもずるずると過去のことを引きずることになってしまうのではないかという意見について、私は全く同感であります。  そのようなことをいろいろ申し上げてまいりましたが、時間が参りました。  必ず時代というのは移り変わっていくものでありまして、かつて我が国の憲法は、吉田元総理の方針の中で、経済重視、復興から経済というものを重視してきた時代にはちょうどいいフィットしたものであったかもわかりませんが、もう余りにも時間がたち、時が変わってくるわけでありますから、かつての成功が必ず失敗の原因になるというのは歴史の必然でありますから、そういうことにならないためにもそのような真摯な前向きな議論をしていかなければならない、このように強く考えているところであります。  今後ともまた御指導賜りますことをお願い申し上げまして、私の質問を終わります。ありがとうございました。

中山太郎自由民主党

○中山会長 福島豊君。

福島豊公明党・改革クラブ

○福島委員 公明党・改革クラブの福島豊でございます。五百旗頭先生、本日はお忙しいところ大変ありがとうございます。  私も樽床委員と同じように戦後生まれでございまして、きょうお話のございました先生の御説明に大変共感を持って聞かせていただきました。これからは、どういうふうに見直していくのか、将来に向かっての議論こそが大事であるというふうに思っております。  ただしかし、現実問題としまして、例えば昨年の国旗国歌法の制定のときでございますけれども、私も地元でさまざまな御意見をちょうだいいたしました。冷戦は世界的には終わったのかもしれませんが、日本の国内における世論の分断というのはまだ厳然として存在をしているという思いがいたします。  そう考えますと、単にイデオロギーだけの問題ではなくて、過去についてどう考えるのかとか、国民の安全保障に関しての認識の深さがどうなのかとか、幾つかのファクターも重なっているのかなというような思いもいたします。  ですから、この世論の分断ということがなぜ起こったのかということについての理解を深める必要がまずあるのではないか。  そしてまた、もう一つは、そういうことを踏まえつつ、では将来に向かって、どうしたら国民の意思というものを統合しつつ新たな憲法を構想していくことができるのか。  この二つの課題が非常に大切ではないかというふうに私は思っております。  まずお尋ねしたいことは、顕教と密教の使い分けということでございます。  これはマッカーサーがそう考えただけではなくて、吉田首相もそう考えたということだと思います。このこと自体は、為政者の立場でいえば両方使い分けがあるという話になるわけでございますけれども、国民の立場からすれば、そういう使い分けをしているということはわからないわけでございまして、このように定めたこと自体が、私は、国民の意識を大きく変えてしまったのではないか、縛ってしまったのではないかというような思いがいたします。  とりわけ安全保障ということについての認識を大きくゆがめたのではないかというふうに私は思っておりますが、この点についての先生の御見解をお聞きしたいと思います。

五百旗頭真神戸大学大学院法学研究科教授

○五百旗頭参考人 ありがとうございます。  マッカーサーだけでなく、吉田茂もまた顕教、密教の使い分けに協力したというのは、御指摘のとおりであります。  吉田茂の言葉で言えば、これは外交としての憲法制定である。例えば、超大国と小国が外交交渉をして、何とか大事な自国の存立、死活の利益を守るために、ここではひとつ、こういう共同声明を出して、条約を結んで、この難しい局面をしのがなければいけないというふうな努力として憲法をつくったと。  そういうことを、実は吉田茂自身、憲法国会のあいさつにおいて、我々は完全な自由を持っているわけではない、この困難な時期をどうやってくぐり抜けて天皇制を守り、国を守っていくかという必要のためにつくる文書であるということで御理解いただきたい、難しく言い出せば切りがないけれども、今はともかく、この国をこれ以上悪くしないように、船出できるようにするためにこの憲法が必要だということを言っておりました。  そのことは、マッカーサーがあのような第九条をつくらせたこと、そして、その顕教部分において吉田茂が国会答弁をしたということに示されますように、福島先生のおっしゃるとおり、吉田茂もまたそうであった。  そのことは国民にはわかりにくいので、例えば横田喜三郎という国際法学者は、三月六日に日本政府案と称するマッカーサーが司令部で用意した案を発表した三日後に、毎日新聞に第九条の分析を書きました。これはまだ芦田修正がないので、前段の国際紛争解決の手段のための戦争を放棄する、これは不戦条約にあるとおり、侵略戦争の放棄である、後段には、何の脈絡もなく、陸海空その他の戦力を持たないとなっている、しかし、前段の枠内においてそう言ったのであって、このもとでも自衛権はあるし、自衛の戦力は持てる、そういうふうに解釈すべきであるという論考を毎日新聞に書きました。これは御明察だと思います。  しかしながら、国民と、あの時代の社会で、非常に不評判な議論になりました。せっかく我々はあの戦争を反省して、心から平和主義で崇高な理想にゆだねてやろうとしているのに、こそくな自衛はいいというふうなことでは困る。吉田茂の答弁で、いわばそういう国民の当時の機運、願望というのが公的に承認されるという形を得て、国民は非常にそれを信じて、戦後の教科書、教育、そして憲法学界では八割ぐらいがそれを支持するという状況が続いたわけですね。  しかしながら、きょう私がお話ししましたような当時の成立の経緯を見、そして九〇年代に、日本が敗戦国であり貧しい国であるのを超え、さらに冷戦が終わったという状況で見直すと、実は密教部分でこういうふうに読めるということを当時から考えていた。そして日本政府は、吉田茂首相がああいうふうに一度言った結果、何だかばつが悪いけれども、特に自衛については、当時装備が非常に貧しかったですから、この程度のものは近代的な意味で戦力とは言えないと言いながら認めて、そして、鳩山内閣にかわったところから、自衛のためのものであればいいんだという読み方をはっきりと打ち出して、実際の運用はそれに従う。しっかりと密教解釈で、戦後日本政府は今日に至るまで、村山社会党委員長が総理大臣になられた後一層それをはっきりさせてきたわけで、今ではそのような密教的読み方がこの社会における多数になったということだと思いますが、御指摘のように、心の部分で、国民意識の中で、そこにどこか納得のいかない、わからないという気持ちが一人一人にあるとともに、依然として分裂はある。  ただ、大勢は冷戦後非常にはっきりしてきて、今でもなお自衛のためであれいけないという議論を最近はまず聞くことがなくなったように思っておりますが、社会党委員長も自衛隊を承認し、日米安保を堅持というふうに言われてから、分断の程度はかなり変わってきたのではないか、むしろ、この世論調査の結果に示されるような趨勢である。  しかし、そうはいっても、まだ決定的ではないというわけで迷いがある。そういう中で、やはり今日とあすの必要というものを洞察する筋道を示すことがなければ、国民意識の分断は超えにくいだろうなというふうに思っている次第です。

福島豊公明党・改革クラブ

○福島委員 密教的な解釈で政府は切り抜けてきた。しかし、実はその密教的な解釈そのものは、国民の中でもかなり理解をされつつあるのではないかという先生の御指摘でございましたが、当調査会の会長の中山先生は、二つの戦後ということで、ドイツと日本を比較しておられるわけです。ドイツの場合は、顕教、密教というような使い分けをしなかったんだと私は思うんですね。むしろ、基本法にしましても、戦後見直すべきものは国民的な議論を経ながらきちっと見直してきている。この違いがなぜ生まれたんだろうかというのを私は感じるんです。  一つは、ドイツの場合には、ナチス・ドイツということで、過去に対しての決別が非常に明確になされたということから、この顕教、密教のような立て分けをして、解釈によって現実に合わせるというようなアクロバット的な政治技法を使う必要がなかったんじゃないかというような思いがいたしますし、また、国民にもそういう議論がきちっと受け入れられる素地があったのではないかと思います。  そういう意味では、日本は、戦前をどうとらえ直すのかということが非常に大切な課題だというふうに私は思っております。それは、すべて丸ごと否定するというようなイデオロギー的なとらえ方ではなくて、誤っているところは誤っている、こういういいところがあったということは事実だということで、その立て分けをきちっとして受けとめ直すということがその前提として大切なのではないか、そんな思いがするわけです。  この点について、先生のお考えをお聞きしたいと思います。

五百旗頭真神戸大学大学院法学研究科教授

○五百旗頭参考人 時間が無限にあるわけではないので、簡潔に申し上げたいと思います。  ドイツはそのような顕教、密教の使い分けをしなかった、なぜ日本は。  御指摘のように、論理明快を好む西欧国家のドイツと、日本のあいまいさを好む、そういう違いというのもあろうかと思いますが、あの状況の中で言えると思いますのは、一つには、ドイツは完全破壊まで行われた。本土決戦までやったわけですね。全部廃墟になって、完全に政府もなくなった。そこで、次に占領下でやり始めたことは再建だけであって、過去の処断はもう戦場で終わっていたんですね。そこで論理が非常にはっきりしていたのが一つ。  加えて、憲法をつくった時点の問題でありまして、日本の場合には、戦争は終わったが冷戦が始まらないという一瞬の一九四六年につくったんですね。そのために、実は冷戦の厳しい現実というのを読み込んでおりません。ドイツの方は、冷戦が始まって大分たってからつくったんですね。したがって、崇高な理想に身をゆだねると、寝言を言うなというので、そういうのは問題にもならない、具体的に必要な対処は何かということでやれと。  その二つの理由が御指摘に加えて大きいのではないかというふうに思っております。

福島豊公明党・改革クラブ

○福島委員 そろそろ、顕教、密教の使い分けというのをやめるべきだというふうに私も思いますが、ただ、その場合に、例えばPKOを開始した時点でも大変な議論がありましたし、そしてまた、マスコミの論調等を見ておりますと、必ずしも、先生がおっしゃっておられますように、密教的部分が大分浸透してきたわけでもないのかなという気がしないでもないのです。ですから、この調査会が今後五年間議論を続ける過程の中で、どこまでそういうことが国民社会に対して発信ができるのかということも大切な課題だというふうに思っておるのです。  ただ、こういうことを言うとあれですが、例えば現在の若い世代の社会に対しての考え方、私もまだ若いですけれども、どうも安全保障のような問題について、頭の片隅にすらないのではないかというような思いもするんです。ですから、果たしてそういうことについての国民的な合意がそれほどスムーズに進むものか。これは別の意味で、今までのイデオロギー的な対決というのは超えたとしましても、むしろそれ以上に、空洞化といいますか、テーマにすら上がってこないという状況があるのではないかというような思いがいたします。  世代間の物すごいギャップについては先生はどのようにお考えでしょうか。

五百旗頭真神戸大学大学院法学研究科教授

○五百旗頭参考人 ありがとうございます。  相次いで戦後生まれの若い方が質問してくださっておりますが、私は昭和十八年生まれですから、物心ついたら皆さんと同じ戦後であったという世代です。ですから、共通する部分は多いと思うんですが、やはり押しつけ憲法という経緯ゆえに、私は歴史家ですから、経緯を非常に大事にして原資料に立ち返って勉強する方でありますけれども、にもかかわらず、それと直結して、だからこうしようということについては非常な違和感を覚える。  そもそも政治の必要というのは過去に規定される。そもそもという過去の扉を開いた瞬間から悲劇は避けがたいものとなったというのはギリシャ悲劇のオイディプス王のせりふですけれども、ユーゴの事態なんかまさにそうですね。昔、あの民族がうちのおじいちゃんの時代にとかやり出すと、もう血みどろの悲劇というのが避けがたくなる。そういうことが起こり得るんですね。  むしろ、この憲法の問題については、何十年か幸せな家庭生活を送ってきたお父さんが、ある日突然、私は信念として自由恋愛によって結婚すべきだとずっと思ってきた、今も思っている、しかるにあのとき、自分はあの状況のもとで、母ちゃんと親の意思で見合い結婚をさせられちゃった、おまえたちもおかげでこういうふうに大きくなって、いい教育も受けられてよかったとは思うが、やはり自分は納得いかないから離婚をするという宣言をしたがる。それに対して子供が唖然として、お母ちゃんのどこが悪いの、よくやっているじゃない。いや、これは原理の問題だ、そういうのは大変迷惑であるわけですね。もし具体的にお母さんのここがいけないというのであれば、そこを直すように言えばいいじゃないですかというふうに子供が思っている、そういう世代の共通性があると思います。顕教と密教の使い分け、特に、特殊状況で必要になったものはもう克服すべきだということは全く同じであります。  我々そういう世代が今度若い学生たちを教えるということになると、安全保障への意識が余り強くない、これは仕方がないですね。戦争に鍛えられた世代に比べて弱っていくということは起こります。じゃ、全然ないかというと、ゼミでテキストを読んで討論しますと結構熱心にディベート、ディベートなんかだと負けると嫌ですから、憲法改正どうすべきか、来月は、台湾海峡のあの中国側、台湾側の主張でどうすべきかということを、合宿をして六甲山の山にゼミ生を隔離して討論する、そういうことになると結構熱心にやります。  ですから、みんなとはいきません。おっしゃるように、多くの人は、楽しい番組を見て、いろいろ人生楽しみが多いですから、そちらに行くというのは当たり前であって、例えば、比較的国際問題に関心の多かった冷戦下のアメリカですら、アーネスト・メイという歴史家の「歴史の教訓」という本によりますと、外交問題に関心のあるアメリカ国民はどれぐらいか、五%だと言っていますね。ベトナム戦争のようにみんな社会が大騒ぎになる、こういうときはふえますけれども、普通には五%。  その五%というのは、例えば、ニューヨーク・タイムズのようなクオリティーペーパーを読み、フォーリン・アフェアーズだとかフォーリン・ポリシーという外交雑誌に目を通し、そしてパスポートに出入国のスタンプがたくさん押してある、そういう人が大体五%ぐらいで、その人たちが常時アメリカの外交世論を形成し支えている。それ以上に全国民に外交問題、安全保障問題にしっかり関心を持ってくれといっても、これはちょっと無理で、それを強要するわけにはいかない。  そういうことになりますと、五%の人がしっかりしているということがその社会にとって非常に大事、それは、政府にいる人と民間とあわせて支える、パブリックを支えるというのは非常に大事で、そして、実は責任感を持ってその人たちがやるということが非常に大事だと思うんですね。  五%といっても、アメリカの場合、二億四千万いますから、千二百万人ですか、大変な数です。日本でいえばその半分ですから、六百万人の人が外交や安全保障に真剣な関心を持ってくれればどんなにうれしいかと思いますね。実際にはそれまでもとてもいかない。  だけれども、その人たちが全体の必要、責任感を持って討議し、皆さんがやるし、我々は、民間で、大学で、そういう関心を持てる人たちにしっかりした議論をして支え、やがてそういう人がまたこういうところで活躍されるというのを用意するというわけで、全国民がついてきてくれないと嘆くべきではなくて、むしろ全国民を代表して、成りかわって、しっかりした責任のある仕事をするというふうに頑張るほかないんじゃないかというふうに思います。

福島豊公明党・改革クラブ

○福島委員 どうもありがとうございました。  以上で終わります。

中山太郎自由民主党

○中山会長 佐々木陸海君。

佐々木陸海日本共産党

○佐々木(陸)委員 日本共産党の佐々木陸海です。  最初にお聞きしたいと思うんですが、参考人は、憲法第九条というものが、制定された当初から、侵略のための戦争、侵略のための軍隊は否定していたけれども、しかし、自衛のための戦争、自衛のための軍隊、あるいは国際安全保障活動のための軍隊や戦争、こういったものは認めているというふうに解釈できるものであったというお考えなんでしょうか。

五百旗頭真神戸大学大学院法学研究科教授

○五百旗頭参考人 ありがとうございます。  先ほど申しましたとおり、内容的にそうであった。そして、そのことをGHQのトップであるマッカーサー、ホイットニー、ケーディスは了承、合意していた。そして、極東委員会もそのように考えて文民条項を求めたというわけで、勝者の側ではそれはほぼ共通見解であった。有権的な人たちの共通見解であった。日本政府につきましては、顕教部分で吉田茂が国会答弁等で発言したということは申し上げたとおりでありまして、その経緯を振り返り、今までの経緯を振り返って、歴史家として私は、その当時から、あのような非常に派手な顕教にもかかわらず、密教部分で実はそれを許容するような工夫をしていたというふうに考えております。そのとおりでございます。

佐々木陸海日本共産党

○佐々木(陸)委員 顕教と密教というような言葉をお使いになることも含めて、かなり特異な解釈だろうと私は思います。  吉田茂が憲法制定議会の中で、第一項は自衛権を直接否定してはいないけれども、第二項において一切の軍備と軍の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争、また交戦権も放棄したのだということを明確に述べているし、そして、当時の国際社会もそういうものとして理解をし、当然国民もまたそういうものとしてこれを歓迎して、当時のあの憲法はそういうものとして確定をされた、これが当然だろうというふうに思うんです。  その当時、既に、吉田も含めて、当時の日本の指導部も含めて、軍隊を持つこともこの憲法は認めているんだというようなことを言えば国際社会から反発を受けるだろうから、そういうことは言わないで、ごまかしてこうしておこうというようなことを、密教というのは結局そういうことになるんだろうと思うんですが、そういう解釈が今通用するということでは私は到底ないというふうに思います。そういう顕教と密教の使い分けというようなものがあの憲法の制定過程から成り立つというような見解は到底受け入れがたい、私ははっきりそう申し上げておきたいと思いますし、国民はやはりこの吉田のような解釈のものとして憲法を確定した。そして、吉田のような有権解釈があの国会でなされているわけですから、そういうものとして憲法は確定された。  それからまた、これは参考人も書いたものの中でおっしゃっていることですが、普通の人が読めば、あの憲法九条の条文から、たとえあの芦田の修正がああいうふうにつけ加えられたとしても、自衛のための軍隊は持てるとか、国際安全保障行動のための軍隊は持てるとかいうようなことを到底あの九条から読むことはできないわけでありまして、その密教という説にはいささか同意しかねるということを申し上げておきたいと思います。  そして、しかし、そういうものとして私たち国民があの憲法を確定して以後、これはさっき参考人も言われましたが、アメリカの占領政策の転換、いわゆる冷戦の開始があって、そういうもとで、例えばロイヤル陸軍長官の反共の防波堤に日本をしていくんだというような声明も受けて、日本の再軍備ということがアメリカから持ち出され、警察予備隊、保安隊、そして自衛隊というような形で再軍備の過程が進んでいくというふうに思うんですが、この再軍備の過程を憲法との関係で参考人はどうごらんになっているのか、お聞きをしたいと思います。

五百旗頭真神戸大学大学院法学研究科教授

○五百旗頭参考人 ありがとうございます。  吉田茂のあの答弁を引き出したのは共産党の野坂参三さんで、野坂参三さんは、極めて明快に、戦争一般というのではなくて、侵略戦争は悪い、しかし、防衛のための戦争はこれは正義の戦争、国民を守るための正当な戦争ではないかと吉田首相に迫ったところ、吉田さんは共産党嫌いだったせいか大変かっかして、いかなる戦力もだ、そのような意見は有害と信ずるものでありますと言って拍手を受けたんですね。  もしここで反問権が許されるのであれば、共産党は野坂さんがあそこでおっしゃった正論をずっと維持していらっしゃるのかどうか伺いたいところですが、それはここでは許されないというふうに最初に、御法度となっておりますので、およろしければ論じていただければと思いますが。  その後、冷戦が始まり占領政策というのがロイヤルの、おっしゃるとおりのような経過、その経過は非常に強くインプレスされて、表面に出てきた姿、そこで変わってきたんだと思っていたんですね。そのことをおっしゃっているんですね。  ですけれども、そのときには知られていなかったけれども、実は、GHQ内でもああいうプロセスがあった。そしてある意味で独立後の、冷戦が激化する事態まで読んでいたとは言いにくいですけれども、少なくとも、日本が占領を脱して独立すれば、独立国として自衛の権利、権利があるならばそれを行使する手段を持つのは当然であって、そこまでは否定できないということを読んでケーディスは修正したわけですね。そのことを、崇高な理想を語ることに非常に意味を見出していたマッカーサーも了承したというわけで、冷戦が始まって、その後がたがたと政策を変えていったという表面のことよりも、もう少し基本的な認識、長続きする認識を持って、あのような読み方ができるような配慮をした。  実態は、むしろそうしながら、人目には非常に平和主義的な意向というのを日本政府が憲法にまで入れている。そして、吉田首相があのような答弁を野坂参三さんに対してすることが国際社会に好感を持って受け入れられる。自衛すら放棄する、戦争は徹底的に放棄するとまで日本政府は憲法解釈として言っておる。  吉田茂という人はプラグマティストですから、今それが必要だ、いわば外交交渉上の必要としてこういうふうにしてみた。だけれども、将来はそれではやっていけないということはある意味で当然だと思って、外交というのは今国益を守るために必要な努力をするわけで、その表現というふうに考えておりますので、憲法を不磨の大典として、一度決めたら国を滅ぼしてでもそれを抱いて死ななければいけないなどというふうな発想は、イギリス流のプラグマティストである吉田にはないのですね。  吉田は、したがって、いずれはこの自分の説明したものは変えなければいけない。しかし、今大事なことは、国際的信用とともに経済復興である、国民に食わせていくことだ。戦前の日本は、体力は大してないのによろいかぶとをいっぱい持って、武器をいっぱい持って、それで自分でつぶれたようなものだ、あの愚劣なバランスはやってはいけない。むしろ健全な身体をつくる、非軍事面。軍事は無用だとは思わないけれども、二義的重要性しかない。そういう観点に立って、特に今は軍備を持つんだとかそういうことを言うべきではない、そういう判断に立っていた。  しかし独立をして講和条約ということになったときに、主客転倒といいますか、とんでもない逆転が起こりまして、アメリカの方が再軍備を急いでやれというふうに言い出したわけですね。ロイヤル声明あたりでそういうのが出ておりましたが、お隣の国、朝鮮半島で戦争が起こる、五〇年六月。それ以降に、講和のための交渉にダレスがやってくる。そのときに、自由世界に貢献するために日本はどうするのか、早く再軍備をして自由世界に貢献すべきではないか、そういう論理でダレスは迫ってきたわけですね。吉田茂は、終局的には、もちろん独立国として再軍備はせざるを得ないだろうというふうなことを当時語ったりしております。けれどもダレスに対しては、いいえ、再軍備はいたしません、できませんと。  なぜか。第一に、まず経済復興が第一である。それが健全である。二番目には、アジア諸国が反発する。日本軍国主義の再現を恐れておる。ダレスさんは日本に来て、私とたびたび話してくださるのは大変結構だけれども、アジア諸国が日本の再軍備を歓迎するかどうか確かめられた方がいいというので、ダレスさんはフィリピンやオーストラリアへ行って吉田の言葉の正しさを確認いたしますね、かくも日本の再軍備に対する反発、アレルギーが強いのかと。  そして、日本国民の平和を希望する意向というふうな世論にも触れまして、吉田茂はダレスに対してしぶとく再軍備を断った。ついに最後には、わかった、それでは、今すぐではないが将来、独立後、限られた五万人の国防軍をつくることをやりましょう、それはしかし、戦前のような参謀本部、軍部支配に突き進むようなそういう軍部ではなくて、英米型のシビリアンコントロールがしっかりきいた、健全な立派な軍隊を小規模でつくりたい、そういうことを言って了承されたわけですね。  というわけで、吉田は、ああいう朝鮮戦争がお隣で起こり、まだ主権を回復しない中で怒濤のごとく再軍備するのを避けて、軽軍備、そして安全保障はアメリカに依存する。しかしそのもとで、アメリカの主宰する自由貿易体制のもとで通商国家として、経済国家として、まず健全な身体をつくるのだということにプライオリティーを置くという路線を貫き、そのような講和と日米安保をサンフランシスコで結んだ。そしてその後、約束どおり限られた軽軍備をつくるということについて、憲法との、第九条との関係ということで苦しい説明を迫られた。  彼がやった説明というのは、第九条に書いてある陸海空その他の戦力というのは、近代戦争を遂行するような本格的なものであって、やっと警察予備隊から出発して、お下がりになった武器で貧しい装備でやっておる、そのようなものはここで言う戦力ではないから、まだ第九条に触れるものではない。しかし、これは妙な議論になってしまって、ちゃんと防衛できるものになったら憲法違反だ、ちゃんと防衛できないような怪しげな、だめなものだからまだ違憲ではないというおかしな議論。  それが長続きしないというので法制局の方で検討し、鳩山内閣にかわったところで採択したのが、自衛はこの憲法のもとでオーケーであって、侵略戦争は否定している、最小限のものしか持たないのだという統一見解を、五四年の末だったですか打ち出しまして、それ以後、実はそこは変わっていないというのが今日に至るまでの経緯であります。

佐々木陸海日本共産党

○佐々木(陸)委員 長い御説明をいただくような質問をした方が悪かったのかもしれませんけれども、もう時間は終わってしまいました。  そういう、アメリカの側から再軍備を迫ってくるのに呼応していろいろ解釈を変えていく。同時に、その過程の中で、最初の御発言でもありましたように、五〇年代後半といいますか鳩山内閣時代から自主憲法制定とか、実際にはアメリカの要求に合致する形で、本当に自主かどうか疑わしい、自主憲法の制定というようなことでの改憲の運動、九条を変えたい、変えなければならぬということが政府の側からも提起をされるけれども、しかし、それは結局国民の強い反対に遭って成功せずに、そのままその後ずっと解釈改憲が進んで、今日では世界有数の自衛隊があの憲法のもとで、憲法制定議会で吉田が解釈したような、あの解釈のはずの憲法のもとでどんどん進んで、しかも、アメリカが海外で行う作戦計画行動への後方地域支援などというのもできるようになった。あるいはPKOにも、多少の限定つきながらも参加できるように解釈が変えられたというところまで来ているわけであります。  もう質問してはまずいでしょうから、時間が来ましたので終わりますけれども、その上に憲法を今変えて一体何をしようとするのかということが残るわけですが、それに回答していただいていると時間がかかってしまいますから、これで終わりにします。

中山太郎自由民主党

○中山会長 中村鋭一君。

中村鋭一保守党

○中村(鋭)委員 きょうは参考人、御苦労さまでございます。  私は、初めに、立場を明らかにしておきたいと思いますが、私は最も強固な改憲論者でございますので、その立場を明らかにして、一、二お尋ねをさせていただきたいと思うのです。  実は先生、私は以前は大阪の朝日放送に勤めておりまして、私が報道部長をしておりましたときに私の部におりましたのが鈴木昭典君でございました。当時は、朝日放送に鈴木あり、こう言われて、ドキュメント、ルポ物をつくらせたら日本一だ、こういうことで、民放関係のそういったドキュメンタリー部門での賞は彼がほとんどひとり占めにしておりました。ですから、先ほど名前が出て、大変懐かしく思い出したところでございます。  一方で私、長年の間アナウンサーをしておりまして、ですから日本語というものを、わかりやすくだれが聞いても理解ができるように、幾通りも解釈ができる、こういう日本語を使ってはだめだということを後輩のアナウンサーにも常に指導をしてまいりました。  きょうは、その点で、憲法九条と修正について一、二お尋ねをさせていただこう、こう思います。これまでの経過とかこの憲法調査会で議論されました経緯はすべて一たん捨てさせていただきまして、日本語という観点からお尋ねをさせていただきます。  九条は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」非常にわかりやすく、明快であります。「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」これは、いきさつとかそういうことを全部捨てて、その後五十年に及ぶ、自衛隊がつくられ、いろいろな国際紛争がありという経緯をすべてのけて、日本語としてこの文章を見れば、「前項の目的を達するため、」以下のこの一行は、むしろ前段を補強する効果がある、要するに、読んで字のとおりでございますから、国権の発動たる戦争をしない、その目的を達するためには陸海空軍は持たない、こう言っている、これは実に明快なわけでありますね。  ですから、その点は、佐々木さんのおっしゃったことと私は、字どおりの解釈からすれば実に同一でございまして、これを密教的解釈で、いやそれは自衛のためのというようなことは、率直に言えばやや牽強付会を免れないというふうにも私は理解をするものであります。  そこで、先生にお尋ねをいたしますが、芦田さんがケーディスのところへ行って、どうですかと言った。先ほど先生は、ケーディスは言下に、いいじゃないか、こう言ってこれにコミットしたということでございますけれども、歴史学者としての先生は、芦田さんがこの修正条項を持ってケーディスのところに行った、その心の中は本当は何が言いたかったんだろう、何のためにケーディスのところにこの一行の文を持っていったんだろう、それを、長年の学問的研究の中から先生の御見解をお示し願いたい、こう思います。

五百旗頭真神戸大学大学院法学研究科教授

○五百旗頭参考人 ありがとうございます。仲よくしている鈴木昭典さんとドキュメンタリー番組を幾つか一緒させていただいて、その幾つかが賞を得ましたので、これも中村さんというよき上司に恵まれて彼もそういうふうに伸びたのではないか、御同慶の至りでございます。  日本語としてという点、そこで予期したのは、あの前文は日本語としておかしいんじゃないか、変える必要があるんじゃないか、初めの最も強固な改憲論というところと結びつけてそう予期しておりましたら、ちょっと違うところへの議論でございましたけれども。  芦田修正について、私はこういうふうに思っております。彼は、後に説明いたしましたように、やはり自衛のための戦力は必要であるというふうに考えていて、当時の雰囲気の中で、それを刺激しないように、反発を受けてたたきつぶされないようにするにはどうするかということを考えてやったんだというふうに思っております。  この文面、牽強付会だとおっしゃる、「前項の目的を達するため、」「戦力は、これを保持しない。」ですから、普通に読めば、侵略戦争を否定すると。その目的以外のとあったら明確ですね、その目的以外の戦力を保持しないとやればもう完璧です。ところが、そう言ったら、では日本は自衛戦力は再軍備するんですねというので大騒ぎになるんです。当時の世論が平和主義にフィーバーだったですから、それを刺激するだけじゃなくて、日本政府はGHQの意図を必ずしも正確につかんでいなくて、国際的圧力のもとで平和主義に徹しなきゃいけないというふうにかなり思い込んでいるところがあるんですね。そこを十分に確かめられずにいるんです。  芦田さんは、そこで、あの改憲の本会議だったと思いますが、彼は議員として質問をいたしまして、これでは自衛のための必要に日本として将来直面したときに十分な対応ができなくなるではないかということを芦田修正前の第九条に対して政府に質問したんですね。そうしたところ、金森国務大臣が返答いたしまして、それはおっしゃるところまことに理由があるというふうなことを言いまして、しかしながら今諸般の事情のもとでこれ以上のことは差し控えたいというふうなことをもごもごもごと言って、芦田さんもそれでおりたわけですね。それで、自分が主宰している小委員会の小委員長としてこれを入れたんですね。  ということは、彼はやはり、長い目で見て、この憲法のもとで独立後も日本がやっていくならばこれでは無理があるということを、彼は歴史家でもありますし、西洋外交史についてたくさんの著作を出している外交官なんですね、パリ講和会議を初め修羅場もいっぱい見ているんです。ですから、彼から見れば、崇高な理想一発で今後の日本の安全保障ができるとは絶対に思っていないということは明らかで、しかも、そういう質問をして、その後このイニシアチブをとったということから見て明らかです。  それならば、どうしてその意図を明らかにしなかったか。明らかにしたらつぶされるからですね。そして秘密会にしてやっている。最近になって秘密会の議事録が公開されたんです。それを開いてみたらやはりそういうことは言っていないんです。むしろ、テクニカルに、文理上の構成、日本語といたしましてとかなんとか言って、こういうふうに入れたというのを全然別の理由を説明しているんですね。それを読んだ人が、ほらやっぱりこれで自衛はできるというその後の説明はうそじゃないか、秘密会でも違うことを言っているじゃないかとおっしゃるんですが、私はそうは思わない。  周到な、利口な政治家であれば、たとえ秘密会であっても、これで自衛のための再軍備できるんだよ、秘密会だから言うけどねと言ったら、もう翌日にはみんな政治家は知っているというのが多分実情ではないかと、私は中の人間じゃないけれども拝察するんですが、そういうリパーカッションを避けるために、芦田は注意深く避けたけれども、真意はそうであったというふうに私は理解しております。

中村鋭一保守党

○中村(鋭)委員 今お伺いしていて、おおむね私も了解したような気がするんですけれども、しかし、少なくとも言えることは、芦田さんがこの修正条項を持ってケーディスのところへ行ったときは、後に朝鮮戦争が起こることも、ついには北朝鮮がテポドンやノドンを保有するに至るであろうことも、社会主義の世界が見るも無残に全く崩壊をしてソ連邦がロシアと国名を変えることも、全く予測はされていなかったわけですね。  そして、仮に、ここのところで、例えばマッカーサーにおけるホイットニーのように、有能なる参謀もしくはアドバイザリースタッフがいて、この修正二項を持っていこうとするときに、芦田さん、ちょっと待ってください、これを用意することもいいですが、もう一つ別の文章も用意していきませんか、先方にオプションを与えましょうと言って、二通りか三通りの修正を用意することも私は可能であったと思う。  ということは、そのことによってどう世論が沸騰するのか、それから、それから後の五十年に、今日我々が置かれているような限りない論争を、まあいわば不毛の論争も中にはあるでしょう、解釈改憲の問題もあるでしょう、そういうことは予測をできていなかったわけですから、であれば、二通りや三通りのオプションを用意してもよかったのではないか。だから、仮に私がアドバイザリースタッフであれば、今の二項もいいが、芦田さん、例えば自衛のための最小限のアーム・アンド・フォースはこれを保持することを妨げない、こういう文章も用意していきましょうというようなこともあり得たんじゃないか、こう思うんです。  それが、さっきから言っているように、日本語としても、もしその意図がそこにあるならば、「最小限の武装や戦力は、これを妨げない。」ぐらいのことは用意する方が、日本語の続きぐあいとしても非常に明快なわけですね。  こんな裏の裏を読むような解釈を、やれ顕教だ密教だと言って後にやるのであれば、それぐらいの用心はされてもよかったのではないか、こう思うんですが、その点は先生、いかがお考えですか。

五百旗頭真神戸大学大学院法学研究科教授

○五百旗頭参考人 中村先生が当時芦田さんのスタッフとしておられたらよかったなという気もいたします。その点を確かめてよかったと思うんですね。  実は、今になってみれば、GHQのトップスリーはそれを了承していたわけです。ところが日本政府は、そんなことを言ったら大変だと思い込んでいたのですね。吉田茂に代表されるように、今をしのぐには、ここは徹底した平和主義を大いにプレーアップした方がいいのだというふうに思い込んでいて、意外にリアルな認識を持っているということをつかみ切れずにおりました。  それは、松本博士とケーディスの不幸な関係ということにかなり起因しております。松本博士は、商法の大家、民法の大家で、明治憲法体制は私の体が知っているというほど自信を持っているんですね。それに対して、日本のことを何も知らぬ、日本語もろくにしゃべらないアメリカのオフィサーがああだこうだと言って、日本国憲法のここはこうでなければならないなどと言うんですね。もう彼はかっと怒って、血が上って、あるときにはテーブルが震えて水ががたがた震えるというぐらい怒りに満ちて、もし手が届くならば手が出かねないというぐらいの雰囲気になって退席するんですね。自分がこれ以上やったらつぶしてしまうかもしれないというので、部下にお願いすると言って帰ってしまうということがあったのです。  そういう中でやりとりしたときに、松本博士は、戦前の枠組みを守るためにかなり努力するんです。そうすると、そこのところはがんとやられるんです。がんとやられる中で、どこが欠いてはならないところですか、それは象徴天皇制と戦争放棄のところが大事だと言われるんです。しかし、戦争放棄については、日本側が余り、おっしゃるような修正案を出さないものですから、ケーディスの方がかなり柔軟に修正してくれた文章にこれでもなっているんですね。日本側の対案として出てきたものよりも、もっと柔軟なものに変えているんです。  ということを考えますと、中村先生がおっしゃったような、自衛のための戦力はこの限りではないという一項を入れてはどうかというと、いや、考えとしてはわかるよ、自分たちも実はそう思っている、しかしながら、今これは国際社会の前で言わないのが日本の国益ではないかと諭されて、ああそうか、本当はわかっているんですねと。ならば、この字句が、こんな顕教、密教の使い分けをしなきゃいけないものじゃなくて、もう少し真っ当なものにして了承を得られたかもしれないですね。  歴史のイフ、言えませんけれども、それはむしろ確かめるべきであった。そのことを日本は当時いろいろな特別な事情でできずにいた、一つのミスだと思います。

中村鋭一保守党

○中村(鋭)委員 終わります。

中山太郎自由民主党

○中山会長 二見伸明君。

二見伸明自由党

○二見委員 自由党の二見伸明です。  私の立場は、先生のお言葉をかりますと、正統としての改憲論者だと思います。  実は、先生の一九九六年六月の外交フォーラムを読みながら、二、三お尋ねしたいと思いますけれども、先生のこの論文の冒頭に、マッカーサーと幣原首相との会話の内容が出ています。ちょっと読んでみます。  マッカーサー最高司令官 マッカーサー草案では軍に関する条項を全部削除した。この際、日本政府は国内の意向よりも外国のおもわくを考えるべきである。もし軍に関する条項を保存しておけば諸外国はなんというだろうか。またも日本は軍備の復旧を企てる、と考えるにきまっておる。日本のためにはかるに、むしろ第二章のごとく国策遂行のためにする戦争を放棄すると声明して、日本がモラル・リーダーシップをとるべきだと思う。  幣原喜重郎首相 (口をはさんで)リーダーシップといわれるが、おそらくだれもついて行く者(フォロアー)はないだろう。  マッカーサー フォロアーズがなくても日本は失うところはない。これを支持しないのは、しない者が悪いのである。(アメリカ案を容認しなければ)日本の安泰を期すること不可能と思う。  この場合のマッカーサーの発言というのは、先ほど、侵略戦争はだめだけれども、自衛戦争はオーケーだと言われましたですね。これは、これだけ見ると、侵略戦争はだめだけれども自衛戦争はオーケーだというふうにも読めるし、侵略戦争も自衛戦争も全部だめだというふうにも読めるんですけれども、これはどういうふうに解釈したらいいでしょう。

五百旗頭真神戸大学大学院法学研究科教授

○五百旗頭参考人 ありがとうございます。  今の中で、国策遂行のための戦争を放棄した方がいいとマッカーサーが言った、これは国際紛争解決の手段としてというのの類語でありまして、侵略戦争を放棄するという意味ですね。ですから、ここでも自衛戦争のことは触れていないわけで、きれいさっぱりと侵略戦争はやめるようにと言っているだけなんです。  幣原がこれをどう受けとめていたか。これは、幣原がマッカーサーと話した内容というのを閣議で報告したのを、芦田が書き取ったものなんですね。ですから、幣原が、マッカーサーの真意を侵略戦争のみの放棄と受け取っていたのか、あるいは自衛を含めて放棄と受け取っていたのか、実はこれはなぞなんです。いまだ明らかじゃないんですね。ケーディスは生きていて、インタビューをして、事細かに説明をして、かなりそれを裏づけるような傍証もあるので、ああいうふうに当時から考えていたということは確認できるんですが、幣原については実はなぞのまま行っております。  吉田や幣原という人は、プラグマティズムで、その状況の中で政治家としてやらなければならないこと、それが真意であろうとなかろうと、苦渋であろうと喜びであろうと、それを潔くやる。彼は、タレランのごとく、ガンベッタのごとく、敗戦の日本を担っていかなきゃいけないというふうな抱負を持って、七十代を過ぎた後、首相に舞い戻ってきた人なんですね。したがって、彼は、弁明、説明をしないんです。  ですから、昭和二十一年一月二十四日のマッカーサーとの会見の中で、ペニシリンを下さって、おかげで死なずに済んだというお礼を言った後、自分の方から、幣原の方から戦争放棄を申し出たという有名なお話、これはマッカーサーの回想録で説明されているんですが、その経緯についても、実は、幣原ははっきりと自分では書き残しておりません。親しい者にしゃべったものの記録が、一度失われたものを、その記憶を再現したというものがあるんですが、それぐらいしかないのですね。  ですから、ここで、この文面に出ていることは、侵略戦争の放棄ということだけであって、幣原がそれを言っているということは大変注目されますけれども、自衛戦争まで放棄するつもりでいたかどうかについては、幣原首相についてはわかりません。

二見伸明自由党

○二見委員 また、横田喜三郎教授の論評を先生は引かれていますね。  それは、第九条が一九二八年の不戦条約第一条に等しいと指摘するものであった。その意味するところは、双方とも侵略戦争のみの放棄であるとの解釈にあった。「不戦条約でも国際法上自衛のための戦争は禁止されてはいないし、自衛権発動の場合の戦争を放棄するものではない」。この説明は第九条の第一項については疑念の余地はないであろう。 私もそう思います。その次ですね。  しかし、第二項では無条件に戦力と交戦権を否定している。 そして、横田教授の言葉として、  「これは第一項を受けたものと解すべきで、自衛権の発動、国際協力の場合には兵力の使用は可能なのである」。  この考えが定着していれば、集団自衛権が違憲だとか違憲じゃないとかという議論はないと思うんですけれども、当時の社会情勢等々で、こういう意見は恐らく受け入れられなかったのだと思うけれども、当時の日本の政府側はどうだったのでしょうか、こういう解釈については。

五百旗頭真神戸大学大学院法学研究科教授

○五百旗頭参考人 ありがとうございます。  戦後日本の極めて例外的な、特殊な、先ほど最初にも申しましたように、自衛戦争もしていいのか、いけないのかと本気で国民的に考えているのは、世界じゅうで日本だけなんですね。外から不当に攻められたら、それは対抗するのは当たり前であって、国民の安全を守らなくていい政府などというのは政府じゃない。そのように考えない極めてユニークな存在であるわけで、したがって、外部の人、GHQの人を含めて、自衛はできるというふうに考えたのは当然ですし、日本でも、古つわものの松本博士のみならず、幣原首相も吉田外務大臣も、およそ国際社会で活動してきた人、伝統派の人たちはみんなそう思っておりました。  ただ、マッカーサー司令部が今要求しているのが自衛戦争の放棄まで含むのではないか、そういうふうに危惧したんですね。今は本当のところ、歴史上、どこであっても自衛はオーケーなんだけれども、そういうことを言っちゃいかぬという状況にあるんだというので、そのように司令部は我々に迫ってきているという思い込みがあった。だから、そこのところが実ははっきりしない。  吉田茂は、今をしのぐにはこうしたらいいというふうに信じていたわけですが、それがGHQの強い意思であるというふうに恐らく思っていたんでしょうね。実は、トップスリーが考えている自衛はオーケーなんですよということを確かめないで、そう思い込んでいた。  幣原については、ちょっとはっきりしませんが、恐らく、やはりあの状況ではそうせざるを得ないのではないか。マッカーサー憲法を強いられる、松本案をつくり上げる一月の閣議において、幣原は松本に対して、戦争、軍備についての条項は削除したらどうかというふうに松本に求めているんですね、助言しているんです。その真意というのは、やはり侵略戦争の放棄というのが外交官としての常識であって、自衛戦争まで放棄しましょうなんということは考えてもいなかったと思うんですね。  だけれども、あの草案がマッカーサー側から渡されて、松本が大きくぶつかってばんとはねつけられた後は、それがGHQの意向だから、今はそういうふうに演じなきゃいけないというふうに思っていたのではないかと想像いたします。

二見伸明自由党

○二見委員 実は私は、昭和二十二年五月三日は新制中学一年でして、社会科の先生が、これから日本は戦争をしない、軍備も持たない、そういう憲法ができたんだ、こう教えてくれました。私、そのときに、もし日本が攻められたらどうするんですかと伺ったらば、社会科の先生が、そのときは世界じゅうが日本を助けに来てくれるから、軍隊は要らないんだというふうに言われたのを今でも覚えております。恐らく、当時はそういう風潮だったんだろうと思います。  ただ、横田喜三郎教授の解釈がもし定着するとすれば、この立場からいくと、今、国会で議論される集団的自衛権というのは合憲ということになりますけれども、内閣法制局の解釈はおかしいのであって、むしろ、集団的自衛権は、日本は憲法上持っているという解釈をしても何ら不思議はないと思いますけれども、先生、いかがでしょうか。

五百旗頭真神戸大学大学院法学研究科教授

○五百旗頭参考人 集団的自衛権は、憲法そのものに記されていることではなくて憲法解釈の問題でありますが、自衛権の中で個別的自衛権と集団的自衛権を峻別して、一方をよしとし、他方は、原理的にはあるにせよ、行使はできないという内閣法制局の説明というのは、やはり川は流れている中で、そのときの状況に対する苦しい説明としてつくったものだと思います。  限定的にやらなければ国会は寝転んじゃって動かないという事情がある中で、我々は、自国の安全、生存のためならば自衛権を発動するが、外には行かないんですということを強調するために、あえて個別的と集団的を区別して、一方を非とし、一方を是とするという説明をしたんだと思うんですね。  しかし、その集団的自衛権というのは、共通の敵に対して一国ずつが対処すると、これの方が激しくやり合っちゃうという危険は結構多いんですね、むしろ多くの国と一緒になって抑制するということが容易になる。  今の北朝鮮に対して、ペリー調整官の努力で米国、日本、韓国が一緒になってやったから、結局、戦争にならずに、抑えがきいていくというのがその一例ですけれども、もしそれを破ったら、我々は、一緒に共同対処しますよ、共通の脅威に対して共同の対処をしますよというふうにする方が抑制的たり得る。そういう観点に立って、国連のもとでも、国際社会みんなが侵略に対してはこれを制止し、処罰するという形をつくっているわけですね。  そういうのでありますから、日本一国が、テポドン大変だというので、撃たれる前にもっと撃たなきゃとかなんとかいってかっかしてやるというよりは、これの方がはるかに平和的である。そういうふうな効用を考えてできた概念が集団的自衛権なんですね。  ですから、これをまるで何か危険なことのように言って、自国のためならいいが共同はいけないというふうに切り分けるのは時の特殊事情である。特に、国際共同ということを大事にしないと、改正後の憲法、僕は長らえることはできないと思います。  例えば、アルバニアで動乱があったときに、ドイツが初めて域外へ単独で軍事行動を起こして、ドイツ人を救出したんですね。そのときに、日本人十数名を含む外国人も救出したんですね。これは、いわば国際社会の公益を代表する形でドイツ軍が単独行動を起こした。だから、非常に評価されて、イタリアもしっかりしなきゃいけないというので、ついに自分で単独行動をし始めて、けしからぬという世論は国際的に全然なかった。どうしてかといえば、国際共同の必要に対処したからなんですね。  日本の場合にも、日本は大体において、議論は、我が国の安全にかかわるかどうかということをもって正当か不当かというのをやりますが、これでいきますと、必ず行き詰まります。国際社会の共同の必要を、日本がそれを体して、代弁して行うという広い文脈でやらなければ袋小路に入っていくというふうに思います。正当性というのは、やはり日本の国益ですが、同時に、国際社会の共同の必要ということを体現してやるという心がけを持たないと、二十一世紀、長くもたないというふうに思っております。

二見伸明自由党

○二見委員 大変貴重な御意見、ありがとうございました。

中山太郎自由民主党

○中山会長 辻元清美君。

辻元清美社会民主党・市民連合

○辻元委員 社民党、社会民主党の辻元清美です。  本日は、国会にお越しいただきまして、ありがとうございます。  さて私は、まず最初に、きょうお話しいただきました、押しつけ論ということに対する御意見、補足して幾つかお聞きしたいと思います。  私もこの点に関しては先生と同じような考えを持っていて、その憲法の制定過程について検証すること、それは事実を検証するということですが、押しつけだからいい悪いという議論と分けて考えないと、誤った方向に議論を持っていってしまうのではないかと思うんです。  といいますのは、国際社会の仲間入りを当時の日本はしなければいけないという状況の中で、例えば、先ほどから、違う文脈でカンボジアのPKOの話が出ております。カンボジアも、あの後、憲法や法律をつくらなければいけないというときに、さまざまな国際社会が協力をしました。  例えば、アフリカの小さな独立国のエリトリアという国の憲法や法律の制定に、私は以前NGOの活動をしていましたが、その仲間がかかわっております。というように、それぞれ民主化の進んだ国であったりさまざまな国が国際的に協力して、その国の憲法や、それから法律などをつくる手助けをするということは、他でも多々起こっていることだと思うんですね。  例えば、この憲法を見まして、制定過程で、二十四条に男女平等の問題が出てくるわけです。この男女平等の問題が出てきた折に、これの制定にかかわったあるアメリカの女性の話は有名ですけれども、当時はこのような概念がなかなか日本の中では定着していなかったということで、この二十四条を削除する方がいいのではないかという日本側の意見があった。  しかし、それを強く議論し、特に、「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」この「本質的平等」という、当時の男女平等観からいえばかなり進歩的なことが盛り込まれています。この二十四条などを見ますと、私はこれは非常にすばらしいものだというように考えているわけです。  きょうは、九条の話を中心に御意見を伺ったわけですが、その他の部分についてどのようにお考えなのか、一、二聞かせていただきたいのです。

五百旗頭真神戸大学大学院法学研究科教授

○五百旗頭参考人 ありがとうございます。  ケーディスに二日間インタビューしたと申しましたが、その民政局の部下の中で一番若かったのがベアテ・シロタさんでありまして、アメリカでカレッジを出たばかりのところで戻ってきたので、二十三歳ではなかったかと思います。戦前、音楽家であったお父さんは、滝廉太郎なんかの知遇を得て、日本で音楽を教えるというふうな機会を得て、その娘であったベアテさんは、戦前の日本で生活したわけですね。  学校の友人なんかの家に遊びに行ったりすると、大家族の中で、どうして奥様というのがかくも、かいがいしくお世話をしていると言ったらいいけれども、みんなそこへ厄介を押しつけてしまって、大家族を一人で支えている。けなげで立派だと言うけれども、それが構造的にある場合、これは余りにも女性の尊重ということにもとる姿があるのではないか。それをちゃんとやらないときに、どんなに厳しい社会的な圧力、制裁があるかというふうなことを見て、これは困った。  そして戦争中、親は日本に残りましたけれども、アメリカのカレッジで過ごして、自由と民主主義というものについてますます理論的確信を強めて帰ってきて、民政局、民法改正の小委員会に入った。彼女は日本語も自由ですので、蝋山政道先生だとか、あるいはいろいろな図書館、大学や自治体の図書館を訪ねて、憲法を考える上で役に立つ材料を集めて回って、持って帰ってきたのですね。  そういう人で、彼女は大変に情熱があって、自分の体験の中から、日本の自由、男女平等が実現されなきゃいけないと信じていたために、初め千八百字も書いたのです、これを憲法に入れてくださいと。ケーディス運営委員長のところへ、これが私たちの望む憲法案ですというふうにやったら、ケーディスは、君、憲法というのはこういう細々したことを一々書くものじゃないんだよ、妊婦の権限がどうだとか児童がどうだとかいうことを一々書く、それは民法典でやるべきであって、憲法は大きな原則を書くだけだよと言うので、うんと減らしたのがこれなんですね。  減らされて、削除されたとき、ベアテさんは思い余って泣きました。ケーディスとベアテを一緒に日本へお招きしたときに、本当にそういうことがあったのと言うと、うん、左胸のここで彼女が顔を埋めて泣いたと。ベアテさんは大変美人のかわいい人でありまして、ケーディスは得意げに、おれのこっちの胸で泣いたとか言っておりました。つまり、それほどベアテさんは、戦後日本の民主主義というもの、自由、人間の尊厳ということが根づかなければいけないという情熱を持ってやったのですね。  そういうことは、今お話しになった、NGOでアフリカの小さな国の法律をつくるときに協力される、そういうこととともに共通の問題でありまして、つまり、世界史は、いろいろな貴族政治、専守政治、独裁政治を経験してまいりました。チャーチルの言葉をかりれば、そういうものの中で民主主義が一番理想的ないい制度とは言わないですね。一番少なく悪い制度だと。ほかの制度はもっと困った問題を起こす。民主主義は、非効率であって、もたもたしているけれども、やはり最も悪くない制度だという確信を人類史はこの二十世紀にほぼ共通見解にしていったのではないか。そのような、共通の、いわば人類がいろいろな歴史、苦闘の中で確立したものを、よその国が憲法をつくるとき、法律制度をつくるときに、国境を越えて協力するということは非常に多くなってきたのですね。そのようなことはいいことではないか。  つまり、人類の共有財産をお互いに提供し合うというボランティア、日本の場合にはそれがかなり強制の要素が加味されたというので、一方でアレルギーが起こるわけですが、内容的には、そのような普遍文明の遺産のようなものを提供した面が少なくない、民主主義の側面はそういうものだ、だからこそ今に至るまでむしろ定着している。それを基本的に受けとめながら、でももっと新しい権利として、環境の問題はどうなのか、プライバシーの問題はどうなのか、日本人ばかり言って、人間一般についてはどうなのか。そういうところをよりよいものに改めていくというアプローチではないかと思っております。

辻元清美社会民主党・市民連合

○辻元委員 今お話の中の、普遍的な真理の追求といいますか、そういうことを国境を越えてやっていく作業は今ふえてきていると思います。  さて、そういう中で、先ほど異端としての改憲論という話が出まして、なるほどうまくおっしゃっているなと思いました。押しつけ論のところだけ言われる人がいらっしゃるわけですよ。日本の自尊心がつぶされるとか、制定過程がおかしいから憲法そのものを否定してしまうような議論というのは後ろ向きの議論だと、私の意見をはっきり申し上げさせていただきたいと思うわけです。  さて、そういう中で、今環境権とか知る権利の問題などというのも新しく出てきておりますが、私は三年半ほど国会で議員として活動をさせていただいているわけですが、そういうようなものが大事である、だから憲法調査会を設置しようと主張されていた方の中に、例えば環境アセスメント法をつくる折に、さらに環境権を強固に確保していくようなことに抵抗されるとか、情報公開法という法律をつくる折に、一条に、目的のところに知る権利を入れよう、ところがそれについて抵抗されているという方が、憲法調査会設置の折だけ、環境権や知る権利とかプライバシー権のことも大事だから調査会を設置しなきゃいけないというような論理を展開されるので、私は、何だか非常に摩訶不思議といいますか、それであるならば、法律でまず実行した上で憲法について議論していけばいいのに、そこでは明らかに抵抗した、しかし、憲法では必要であると言う、この国会の中でもそういうプロセスがあるということを私は申し上げたいと思うのですね。  ですから、今回は九条の問題を中心に触れていらっしゃいますけれども、そういう意図を見ていると、何だか、九条だけ変えたいから憲法調査会を設置したいというような、その根拠を、異端としての改憲論という話がありましたけれども、そこなどを中心に議論を展開しようとしているという危惧があるのですけれども、先生はいかがお考えですか。

中山太郎自由民主党

○中山会長 参考人、ちょっとお待ちください。  改めて申し上げるまでもございませんが、会長としては、当調査会は憲法に関する総合的、広範な調査を行うということでスタートいたしておりますから、その点御理解の上、御質問をいただきたいと思います。  五百旗頭参考人。

五百旗頭真神戸大学大学院法学研究科教授

○五百旗頭参考人 私が答えるべき筋合いのことではないものも含まれていると思いますが、どういう方がどういうふうにしていらっしゃるかはそちら様の問題で、私は存じ上げませんが、言えることは、知る権利とか情報公開とか環境権、これは新しく注目されるようになった権利で、人権をさらに支える上で望ましいものという側面があります。  しかし、その権利を全面的、一面的に、またこれも原理主義で突っ走って規定いたしますと、これは他の原理との対抗関係で社会は成り立っておりますので、非常に微妙な問題が起こると思うのですね。  例えば情報公開について、私は、歴史研究家として、アメリカのように、三十年たったら、例外規定はあるものの、原則に沿って大きく開く、そのことが大変さわやかだと思いますし、賢いとも思うのですね。結局、アメリカの資料を使って我々は分析する。資料をたくさん提供したらおれの考えの言うとおりにしてくれななんて言わないのですね。だけれども、それを広範に使いますと、いつしか、それに基づいて議論をするというふうになっちゃって、それをふんだんに提供しているアメリカは利口だ。  そして、国民に対する責務、つまり高い責任を負って権限を得て政治をやった者が、今すぐということになりますと難しいかもしれない、外交交渉中自分のカードを全部表に出すべきだとはだれも言えない、けれども何十年かたったらそれは国民に帰すべきものである、そのことはいつか来るんだという責任感を持って政治をやっていただくというのは非常にいいと思うのですね。  だけれども、もし情報公開が価値であり原則だというので何でも出さなきゃいけないというと、政治運営ができなくなる、結局国民の幸せにもならないことが起こるかもしれない。  そういうことを考えますと、非常に微妙な問題がありますので、そういうことをおっしゃってだれかが反対するとすれば、それは理由のあること。その中でどういうふうに両方の必要価値を組み合わせていくかということについては、これは憲法ではなくて法のレベルでやるべきであるとか、憲法ではこの程度の一般規定を置いて、あと具体的にはこれとの緊張関係において対処するんだという方針を示すべきだとか、いろいろな工夫があると思うのですね。  だけれども、人間の尊厳、そして二十一世紀の国民生活が成り立つ、それを支えるために望ましいのは何かというので、第九条に限らず全般的に検討していただくのがいいんだと、私は国民の一人として確信しております。

辻元清美社会民主党・市民連合

○辻元委員 時間が参りましたので、最後に一言申し上げたいのですが、今申し上げましたような点について強く反対したのは自由民主党だったということを申し上げたいと思います。というのは、私は、実際に今情報公開の問題など、先生の御意見も伺いましたけれども、やはり憲法に基づいて法律をつくっていくということで、憲法と法律の関係というのも非常に重要だと思うのですね。という意味で、法律の場面で入れられないことを憲法で議論していこうと言うならば、まず法律で実行してみる、その上で、憲法を議論していこうじゃないかという、プロセスを検討するのも非常に重要ではないかと思いますので、申し上げました。  以上です。

中山太郎自由民主党

○中山会長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。  この際、一言ごあいさつを申し上げます。  五百旗頭参考人におかれましては、貴重な御意見をちょうだいいたしまして、まことにありがとうございました。調査会を代表してお礼を申し上げます。(拍手)  この際、暫時休憩いたします。     午後零時三十二分休憩      ————◇—————     午後三時二十三分開議

中山太郎自由民主党

○中山会長 休憩前に引き続き会議を開きます。  日本国憲法に関する件、特に日本国憲法の制定経緯について調査を続行いたします。  午後の参考人として横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授天川晃君に御出席をいただいております。  この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、まことに御多忙の中を御出席いただきまして、ありがとうございました。  次に、議事の順序について申し上げます。  最初に、参考人の方から御意見を一時間以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。  なお、発言される際はその都度会長の許可を得ることになっております。また、参考人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おきを願いたいと存じます。  それでは、天川参考人、お願いをいたします。

天川晃横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授

○天川参考人 御紹介いただきました天川でございます。  私は、日本国憲法の制定の経緯について、全般的な問題ではなく、第八章の「地方自治」を中心に話をしたいと思います。  日本国憲法と大日本帝国憲法、以下明治憲法と申しますが、これを形式的に比較いたしますと、日本国憲法になって新しくつけ加えられた章が幾つかあります。第二章の「戦争の放棄」については最もよく知られている新しい章でありますが、第八章の「地方自治」もその一つであります。  「戦争の放棄」の章については、さまざまな論議があるところでありますが、第八章の「地方自治」に関しては、地方自治の研究者や実務家の間では、この章が憲法に設けられたことが戦後の地方自治の発展の上において大きな意義があったと評価しているように思われます。  以下、私は大きく二つのことをお話し申し上げます。  一つは、憲法の中にどのような経緯でこの新しい「地方自治」の章が設けられることになったのかという、第八章の制定経緯であります。それからもう一つは、憲法に「地方自治」の章が設けられたことが、当時の日本の状況、とりわけ地方自治をめぐる状況において、いかなる意義を持ち、インパクトを与えたのかということであります。  私自身は、占領期の歴史を当時の資料をもとに研究している者で、憲法の条文そのものとか地方自治の全般的な問題を研究している者ではありません。したがって、このような内容の話になることをあらかじめお断りしておきたいと思います。  まず最初に、憲法の第八章の制定経緯に関してであります。  しばしば指摘されることではありますが、日本政府の憲法問題調査委員会、松本委員会で検討していた憲法改正案では、地方自治の章を置くことは考えられておりませんでした。内大臣府で憲法調査を進めた近衛草案にも、民間の憲法草案にもそういう考え方はありませんでした。日本側で唯一憲法に自治の章を置くことを考えていたのは、近衛案の作成を補佐した京都大学の佐々木惣一教授の案であります。  佐々木案では、新たに「第七章 自治」という章を設けて、三つの条文を置くことになっておりました。  佐々木氏は、この章を設けた理由を、「蓋シ自治ハ民意主義ニ依ル国ノ統治ノ基礎地盤ニシテ自治ノ健全ニ発達スルコトハ民意主義ニ依ル国ノ統治ノ実ヲ挙グルガ為ニ必要ナリ。」と説明しております。具体的には、いわゆる団体の自治とか団体の構成員による責任者の選任、そして「自治団体ノ構成組織権能責務其ノ他必要ナル事項ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」というような三つの条文を置くというもので、その内容を見れば、明治の自治制制定以降一九二〇年代末ごろまでに積み重ねられてきた自治制の経験と実績を憲法に盛り込もうとしたものと見ることができるかと思います。  さて、一方、四六年の二月十三日に日本側に手渡された総司令部案の中には、三つの条文から成る「Local Government」という章が第八章として置かれておりました。現行の憲法に「地方自治」の章が置かれることになった直接の起源は、この総司令部案にあると言っていいかと思います。  それでは、総司令部案にローカルガバメントの章が置かれたのはどうしてなのかということでありますが、これに関連して三つのことを指摘しておきたいと思います。  まず第一に、アメリカの占領政策が、日本の非軍事化と民主化とを基本としていたということであります。  アメリカの認識では、日本が軍国主義化したのは民主主義的ではなかったからである、民意を反映する政治システムに変えることが日本が再び軍国主義化しない保障になると考えていたわけであります。そして、この民主化の一環として分権化ということが置かれていたのであります。というのも、日本では地方の民意は十分に反映されておらず、地方行政は内務省が任命する知事を中心とする中央集権的なシステムで動いているとの認識を持っており、これを分権化する必要があると考えていたことによります。  ワシントンで作成されました憲法改正の基準とも言える「日本の統治体制の改革」、SWNCCの二二八文書でも、都道府県の職員は、できるだけ多数を民選するかその地方庁で任命するものとする、そう定めていたのでありますが、これは、内務大臣が都道府県知事の任命を行う結果として従来保持していた政治権力を弱めることになろう、同時に、それは地方における真の代議政の発達を一層助長することにもなろうと指摘していたわけであります。  第二に、総司令部で憲法草案の起草に関与した人の中に、憲法に分権化に関する規定を置くことを重視した人がいたということであります。  総司令部の民政局にいたラウエルは、四五年十二月の「憲法についての準備的覚書」の中で、地方制度の面での中央集権というのを問題として取り上げ、「地方に責任を分与すること」という附属文書の中で、憲法が改正される際には、都道府県及び市町村に一定の範囲内で地方自治を認める規定を置くべきであるとしておりました。  彼は、民間の憲法研究会が提案した憲法改正案を高く評価していたのですが、それが地方自治に言及していないことを指摘し、都道府県及び市町村の主要職員の公選を規定する条項を設けることが必要だとしております。彼はまた、二月八日に提出された松本案に対しても、ほぼ同様のコメントを行っております。  このように、民政局では、地方自治に関する条項を憲法に設けること、そしてその骨子は、都道府県、市町村の主要職員の公選規定であると考えられていたわけです。総司令部の憲法草案にローカルガバメントの章が置かれたのは、直接的にはこういうような人たちがいたからだと考えられるわけです。  そして第三に、しかしながら、公選規定以外の分権化の具体的な中身については、民政局の中でもさまざまな考え方があって、一致したものではなかったということも指摘できると思います。  このことは、民政局で憲法草案を起草するに際して、当初つくられた小委員会の案が廃棄され、ケーディスとかラウエル、ハッシーといった人たちの運営委員会で草案をつくり直したことにもあらわれております。  最終的に民政局の草案に置かれた「Local Government」の章は三つの条文で構成され、知事、市町村長、議員、それに主要職員を直接に公選する規定、そして大都市、市、町の住民に憲章制定権など自治権を認める規定、そして特定の地方に対する特別法を国会が制定することに対して住民投票を行うという規定を置いていたのであります。これは、あらかじめお送りした資料をごらんいただければと思います。資料の1であります。  さて、以上が民政局の中でローカルガバメントの章がつくられた背景でありますが、この草案が日本側に提示された後、三月四日から五日にかけて日本側と折衝を重ねていく過程で幾つかの修正が加えられることになりました。ここでは四つのことを指摘しておきたいと思います。  まず第一に、日本側は、総司令部案に「Local Government」という新しい章が置かれていることに対して、とりわけ違和感を持っていなかったということであります。その後の折衝でいろいろと条文の修正の要求を行うのでありますが、第八章を置くこと自体を問題とはしておりません。日本政府がこのような対応をとったということが、「第八章 地方自治」が設けられることになったもう一つの理由でもあると思います。  第二に、第八章に関する日本側の対応の背後には、明治憲法下での日本の地方自治の経験との連続性が意識されていたと思われることであります。  具体的には、まず第八章の英文の表題を「Local Government」から「Local Self-Government」に改めることを求めて、認められております。総司令部案の表題は、当初の外務省の訳では「地方政治」となっておりました。これを「地方自治」と改めるとともに、英語の表現も改めたのであります。  さらに、この章の頭に総則的な条文を追加することを提案し、これも認められております。新しい条文というのは、現行の憲法九十二条の「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。」という条文であります。  ここで、「地方自治の本旨」ということに関連して、この条文を起草した佐藤達夫氏は、地方自治の基本精神を的確にあらわす方法はないものかということで、明治二十一年の市制町村制の上諭などを引っ張り出したりして、隣保協同の精神というような角度からの表現も考えたけれども、結局、「地方自治の本旨」ということになったとしておられます。そして、そこでの「地方自治の本旨」とは、一般的に言われている団体自治と住民自治、この二つを根幹としていることはおのずから明らかであると思うと書いておられます。  このように、明治以降の日本の地方自治の経験をもとにしてこの条文が置かれたのであって、そういう意味では、期せずして佐々木案が目指していた内容の条文が置かれることになったのであります。  第三に、総司令部案では、府県だとか市、町という地方団体の種類が書き分けてあったのでありますが、それを「地方公共団体」と、一括した表現に改めております。  佐藤氏によれば、府県とか市、町とかいうような団体の種別を憲法で固定してしまうことはいささか窮屈ではないかと書いておられますが、この修正によって、時々の立法政策によって何が地方公共団体であるかということを法律で決めることができるようになったわけであります。  佐藤氏は、具体的に書いておられるわけではありませんが、後に述べるような道州制の導入の可能性ということを想定していたのかもしれません。というのは、仮に道州制を導入して府県を廃止するような場合、あるいは府県の上に地方公共団体としての道州制を導入するというようなことを考えると、憲法で地方公共団体の種類が固定されているとすれば、そのような方策は憲法の改正が必要になって、非常に困難になるからであります。  四番目に、総司令部側が重視していた長の直接公選について、日本側は修正のための折衝を行ったのでありますが、修正要求は認められませんでした。  総司令部案では、長と議員と主要職員は直接普通選挙で選ぶことになっていたのに対して、日本側は、選挙の対象を長と議員に限り、直接選挙を避けて、単に選挙をすることを求めたのでありますが、この要求は認められず、三月六日の憲法改正草案要綱では、法律の定めるその他の吏員も直接これを選挙するという表現になったのであります。  憲法問題を担当しておりました松本国務大臣は、総司令部案をもとにして日本政府案をつくる際の基本の態度として、先方の案は、いがのついたクリのようなものであるので到底そのままのみ込むことはできない、そこでまず、のみ込むことができる程度にいがを取り、そしてその後の折衝で渋皮を取っていこうとしたと説明しておりますが、この観点から見るならば、第八章では、長の直接公選というのは、いがの部分とみなされていたのかもしれません。しかしながら、このいがは折衝を通じても取れなかったのであります。  ともあれ、三月六日の憲法改正草案要綱で、ほぼ現在の形での「地方自治」の章はでき上がりました。その後、四月に直接公選をめぐる再折衝を行ったり、英文の修正、整理を行ったりしましたけれども、帝国議会でも何ら修正はなく、現在の憲法第八章ができたのであります。  憲法の第八章に関する限り、その制定経緯を以下のようにまとめることができるかと思います。  まず第一に、憲法に「地方自治」の章を置くことは総司令部案に起源があるが、日本側も新しい章を置くこと自体には抵抗感がなかったこと。第二に、それを前提として、三月初めの折衝で、日本側から提起した修正要求の多くは、ほぼ日本側の要求どおりに受け入れられていること。これによって、明治憲法下で進められた自治の経験の延長線上に戦後の地方自治の展開が可能になったと思われること。そして第三に、総司令部側で重視していた長の直接公選制は、日本政府側の要求にもかかわらず、そのまま維持されたということであります。  さて、次に、狭い意味での条文の制定経緯ではなくて、この憲法がつくられた時代の背景と、この憲法草案、とりわけ政府が最もちゅうちょしていた長の直接公選の規定が置かれたことが、当時の地方自治をめぐる動きにいかなるインパクトを与えたのかということについて見ておきたいと思います。  まず、この問題に入ります前に、敗戦直後の日本の動きを私がどのように見ているのかということを、二つの点からお話ししておきたいと思います。  一つは、長い戦争が終わって、戦時体制に対する反動が強く出てきたということであります。  政治や行政の側面で見ると、敗戦後直ちに戦時から平時へという動き、言うなれば正常への復帰というべき動きが始まったことであります。  政治の面では、八月の末には衆議院の早期解散・総選挙の実施という方向が打ち出され、これに向けて新しい政党の結成の動きが活発になっていっております。戦争中の議会の中心勢力であった大日本政治会は、九月の半ばに解散されております。行政機構について見ても、八月の二十二日には、軍需省とか大東亜省など戦時中の行政機構を廃止、再編する閣議決定がなされております。  さらに、国民の間で見るならば、戦争が終わった安堵感が出てくるとともに、敗戦に導いた指導者に対する批判あるいは責任の追及という動きが次第に強まってまいりました。占領政策でいう非軍事化と軌を一にする動きが国内でも始まっていたということであります。  もう一つは、戦後の復興、再建に向けての動きも始まったということであります。  八月十五日の終戦の詔書、いわゆる玉音放送でありますが、その中に「総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ」という言葉がありますが、新日本の建設をスローガンとして、将来に向けての動きも始まったわけであります。どのような新日本をつくるのかということに関して、平和国家だとか文化国家あるいは科学立国というさまざまな考え方が出されましたが、政治上の主義として見るならば、ポツダム宣言にうたわれ、そして占領政策でも強調された民主主義化ということが、次第に多くの人々をとらえていったのであります。  このように、戦後の日本では、敗戦直後から、戦時体制への反動、新日本の建設という動きが始まって、占領政策にいう非軍事化と民主化の受け皿ができ始めていたと言えるかと思います。  とはいうものの、日本国内で始まっていた戦時体制への反動、新日本の建設の動きと占領政策でいう非軍事化と民主化との間には大きなギャップがありました。  これを端的に示しましたのが、一九四五年十月四日に出された、政治犯等を釈放し内務大臣の罷免と秘密警察の廃止を求める、いわゆる人権指令、自由の指令であります。この指令が出されると、当時の吉田外務大臣は総司令部に駆け込んで、この指令は赤色革命を奨励するがごときもので、国民にはショックを与えていると訴えておりました。東久邇内閣はこの指令を受けて退陣し、十月九日に幣原内閣が発足したのであります。  幣原内閣発足の日、外務省の中では「自主的即決的施策ノ緊急樹立ニ関スル件」という文書が作成されております。これは資料2として配付しておると思います。この文書は、九月二十二日に発表されたアメリカの初期の対日方針という文書を分析し、今後の対応を論じたものであります。  これによれば、降伏後の事態の進展を見ると、進駐軍は「革命勢力タルノ感アリ」としており、さらに、「連合国側ノ日本統治方針大綱ノ意図スル所カ平和主義ト合理主義ヲ基調トスル民主主義日本ノ建設ニ在ルコトヲ明確且徹底的ニ把握シ日本ノ変革更正ノ主体性ヲ回復シ自発的ニ統治制度ヲ初メ政治、経済、文化等各般ノ分野ニ亘リ急速ニ施策要綱ヲ樹立シ之ヲ強力ニ遂行スルニ非ラサレハ事毎ニ進駐軍側ヨリ命令ヲ与ヘラレ、受動的ニ之カ実施ヲ余儀ナクセラレ」と、強い危機感を表明していたのであります。そして、我が方の自発的な発意による日本の変革更正ということを強く求めておりました。  このように、占領政策の大筋の方向が具体的に明らかになりつつある状況の中で、国内での憲法改正の審議が始まったということであります。  さて、それでは、当時の地方自治をめぐる状況はどのようなものだったのかということでありますが、これを説明する背景として、戦時中に進められました地方制度に関する二つの動きを指摘しておきたいと思います。  一つは、一九四三年に、昭和十八年でありますが、地方制度の大改正が行われましたけれども、その特徴は、地方制度の中央集権化を強化するものでありました。  市制、町村制が制定されて以降、何度か法改正が行われたのでありますが、それらは自治権の拡張ということを基本とするものでありまして、そうした流れの中で、昭和の初めには、政党が知事の公選論を取り上げるほどでありました。しかしながら、満州事変が始まった三〇年代以降はこうした傾向が逆転して、この四三年改正では、地方団体の自治権を拡張するどころか、市町村から部落会、町内会に至るまでを国策浸透の機関として再編する方向での改正が行われたのであります。  これを象徴するのが、市町村長の選任の方法であります。昭和の初めから市長は市会で選挙していたのでありますが、この改正によって、市長は市会の推薦した候補者を内務大臣が勅裁を経て選任することになり、市会が指定期日までに市長の候補者を推薦しない場合には内務大臣が市長を選任できるということにまでなったのであります。  戦時中に進んだもう一つの動きは、府県を超える広域行政の制度、いわゆる道州制的な方向での制度化が進んだということであります。  広域行政化の背景はさまざまありますけれども、明治の中期につくられた現行の府県の規模が地方行政の単位としては狭きに過ぎる、そういうことが一つの理由でもありました。一九四三年七月には、全国を九つの地方に分けて、関係する府県とその地域の国の機関との間で行政の総合調整を図るための地方行政協議会という制度がつくられたのでありますが、これは、将来に本格的に道州制を導入する第一歩であるとみなす人が少なくなかったのであります。その後、四五年の六月には、本土への進攻、分断に備えて各地方で自立して戦争が継続できるように、地方行政協議会を再編して地方総監府というものがつくられております。  このように、戦時中には、中央集権的な地方制度の再編と道州制的な広域行政の制度化という二つの方向が同時進行していたのであります。こうした動きが、敗戦によって始まる戦時体制への反動、新日本の建設という新しい潮流の中でどのように変化したのかということが、次の問題であります。  地方制度に関して戦後最初にとられた措置は、戦時機構としての地方総監府を廃止することでありました。しかしながら、戦争が終わったからといって広域地方行政の問題がなくなったわけではありません。広域の調整を行うため、地方行政事務局というものがこれにかわって置かれたのであります。このように、広域行政を行う道州制的な制度が必要であるという考え方は、戦争が終わった後にも依然として継続していたのであります。さきに挙げました外務省文書にも、「国民経済ノ諸条件ノ変移ニ応ジタル地方行政区制ノ改正ヲ行ヒ且ツ地方自治制ヲ強化スルコト」という一文があります。  他方で、戦時中には逼塞していた、自治権の拡張を基本とする地方制度改革を求める声が上がり始めてまいりました。この動きは、戦時中に行われた制度改革への批判だとか新しい政党の結成の動きなどとも関連いたしますが、中でも、昭和の初めに出されていた知事の公選論というのが急速に地方制度改革の焦点となってまいりました。  一例を挙げるならば、降伏文書が調印された翌日、一九四五年九月三日の読売報知新聞には、「燃えあがる知事公選論」と題する記事があります。「かつての政党時代にしばしば取上げられた地方長官公選論—ひらたくいへば都長官や府県知事を選挙によつて決定しようといふことが戦争終結とともに平和への建設国民政治の活気を呼び戻さうといま胎動してゐる政界に再びクローズアツプされてゐる」というふうに報じております。  地方行政を担当いたします内務省は、奥野先生おいでになりますが、地方政治の刷新策として、当初は民間人を知事に登用するという人事の刷新による対応措置をとっていたのでありますが、十月の末には知事の公選制度を導入することに踏み切りました。  翌々月、四五年十一月十二日の毎日新聞では、知事公選の方法いかんということをテーマとした世論調査の結果を発表しております。これは、全国二千名の男女を対象とした調査でありますが、その結果は、五五%が住民による直接公選を希望しており、間接公選が望ましいとする者二五%を上回っております。  ところが、内務省が考えていた知事の公選案というのは、戦前の市会等でとられていた間接選挙の考え方で、県議会で知事を選ぶというものでありました。  念のためにつけ加えておくならば、内務省がこのような知事公選制度の導入に踏み切ったのは、占領当局の指示を受けて始まったというよりは、国内の動きに対応したものであります。むしろ占領軍からの指示に先んじて、自主的に改革を進めようとしたものでありました。その意味では、さきに見た外務省文書の精神と同一のようなものであります。明治憲法の制定に先んじて地方制度の整備が進められた、これと同様に、憲法の改正に先立って地方制度の改革を進めようとしていたのであります。  さて、長々と背景を申しましたが、こういうような動きが国内で進んでいる中で、四六年の三月六日に、長の直接公選を含む憲法改正草案要綱が発表されたのであります。それは、既に始まっていた地方自治をめぐる動きにいかなるインパクトを与えたのかということであります。四つの点を挙げておきたいと思います。  まず第一に、憲法改正草案要綱というものは、内務省が考えてきた知事の間接公選構想に影響を与えずにはおかなかったのであります。この改正草案要綱の作成に内務省は関与していなかったのでありますが、直接選挙を行うとするならば、多額の費用が必要で、よほどの資産家でないと立候補できないので立派な人が選挙に出にくいとか、絶対多数をとるのは困難で、決選投票が必要になり手続が煩雑になるとか、そういう理由を挙げて、間接的な公選が可能になるように憲法草案を修正することを求めたのでありますが、これは認められなかったのであります。したがって、政府は、知事の直接公選を前提とした地方制度改革案を作成し、五月の末に、憲法を審議する第九十回帝国議会に提出したのであります。  第二は、地方制度の改革案が議会に提出される前後の時期に、宮城県の各市に始まり、北海道から九州に至る全国の二十余りの市で市長を公選で選出しようとする運動が展開され、実際に仙台や川崎など十の市では事実上の市長公選が行われ、新しい市長が選ばれたということであります。当時の市の数は二百四でありますから、約一割の市でこうした公選を求める運動が起こったということであります。  これは、この年の一月に公職追放の指令が出されて、翼賛選挙で推薦を受けて立候補した者は四月十日に行われた総選挙で立候補ができなかったのでありますが、しかしながら、市長とか市長を推薦した市会議員に対してはこのような措置はとられておらず、戦時中の市長とか市会議員がそのまま在職していたわけであります。したがって、これらの指導者に対する批判とか責任追及が何らかのきっかけで始まり、住民の間から、新しい市長を住民が直接に選ぶという試みが進められたのであります。  事実上の市長公選が始まる具体的な事情とか公選の方法は各市によってさまざまでありますが、長の直接公選ということを規定した憲法草案が発表されていたことがこのような運動に正統性を与えたということは指摘し得るかと思います。憲法草案は、民意に基づいて新しい指導者を選びたいという国民の意欲にこたえ、また、それを後押ししたのであろうかと思われます。  市長の公選運動が行われていた当時の状況について、若干の補足をしておきます。  四月の十日には総選挙が行われて自由党が第一党になりましたが、絶対多数ではなくて、次期の政権をめぐって政党間で駆け引きが続いておりました。さらに、総理に就任するかと思われていた鳩山自由党総裁が追放され、事態はさらに紛糾したわけであります。そして、吉田茂内閣が発足したのは五月二十二日であります。実に一カ月余りも政治の空白期間があったわけであります。  一方、当時の国民はといえば、食糧の遅配が深刻で、各地で米よこせのデモが行われるなど、混乱が続いておりました。当時の混乱した状況を示す一つの資料を紹介しておきます。これは、五月の九日に内務省の警保局が作成した資料であります。少し読ませていただきます。  食糧は正に危機寸前である。東京は既に欠配七日、神奈川も略々同様、山梨、青森は勿論北海道は既に数十日の欠配である。各地に暴動の前兆とも云ふべき事態が現れて居る。   一日の猶予は一日の危殆を増すのみである。官僚の当面の仕事には限度がある。今にして政局安定せず、真の具体策樹立せられなければ悔を千歳に残すであらう。   中央の背景なき地方官吏は窮地に立つて居る。それは生産地も消費地も同じである。県民と全同胞とを如何に救ふかの真の板挟みである。少くとも政府において此の責任を採らざる以上各府県が孤立することは明瞭であり此の儘で行けば恐らく各町村各部落が孤立して遂には食糧を通じて国家形体は破壊せられるであらう。 ということまで書いておるわけであります。  実際、五月の十二日にはデモが皇居に押しかけるような事態にまでなっておりますし、五月十九日の食糧メーデーには、二十五万人が皇居前広場に集まり、食糧に関して天皇に対して、適切な措置をお願いするという趣旨の上奏文を決議しているほどであります。そして、今では記憶している人が少ないのでありますが、五月二十四日には、食糧問題に関する天皇の第二の玉音放送が行われておるほどであったわけであります。  当時の地方の状況を具体的に示す資料として、当時、神奈川県の官選知事でありました内山岩太郎氏の日記がありますが、四月から五月にかけてはほとんど食糧問題の記事で埋め尽くされております。五月の四日には「食糧問題で陳情が多くなった。食えない結果で致し方がない。乱暴をしないデモなら多いにやるがよいと思う。県民には籠城のつもりで頑張れと励ましている」と書いております。五月十九日の食糧メーデーの日には「県庁でも一日六組に及ぶデモと陳情で中には一組一時間以上を要するものもありほとんど仕事をする暇もなく、自然に高い声も出したくなり夕方には声がかれてきた」と書いてあります。政府が動かないものでありますので、内山知事は独自に米軍に食糧の放出を懇請していたのであります。  さて、話を戻しまして、知事の直接公選が与えました第三のインパクトでありますが、これは政府が提出していた地方制度の改革案が衆議院で修正されたことであります。  政府が地方制度の改革案を憲法改正案を審議する議会に提出したのは、政治の民主化は地方政治の民主化を基礎とするという理由からでありました。ところが、政府案では、知事は直接に公選するが、その身分はこれまでの知事と同様に官吏とするということになっておりました。その理由というのは、府県は自治団体であると同時に中央政府の地方機関としての二重の性格を持っており、しかも後者の性格が強い、そして、国家の行政を行うのは官吏でなければならないということでありました。  食糧問題だとか治安問題などが深刻で、公選知事を官吏とすることによって、国家的な要請と地方の要求との間の調和を図る必要があるとしていたのであります。当時の言葉では、府県ブロックあるいは府県の割拠でありますが、府県の割拠の弊害を避けるためには官吏にしておく必要があるということであります。  しかしながら、衆議院では知事を官吏にしておくことに対する反発が強く、結局、政府案は、「改正憲法施行の日まで官吏とする。」と修正が加えられたのであります。このような修正は、総司令部がこれを求めたということもありますけれども、当時の世論や政党が、新憲法のもとでの公選知事が官吏であるのは適当ではないと強く主張したからであります。  この修正が行われた結果、新しい憲法のもとでの府県は、基本的には市町村と同様の地方公共団体としての性格を持つこととなり、これを規定する地方自治法の制定に道を開くことになったのであります。  なお、つけ加えておくならば、最初の知事公選は、憲法と地方自治法が施行される直前の四七年四月五日に行われました。知事選挙の平均投票率は七一・二%で、ほぼ同時期に行われた衆議院の総選挙の投票率六七・九%、初めての参議院議員の選挙六〇・九%を上回っております。官選の知事から公選の知事に立候補して当選した知事が多かったのでありますが、岩手県では、官選の知事に対抗して立候補した地元の篤農家が当選したり、北海道では、道庁の係長で組合の委員長であった方が当選するなど、任命制の知事時代には考えられなかったような新しい動きもあらわれてきたのであります。  最後に四番目に、知事の直接公選と道州制の導入との関連はどうだったのかという問題であります。  地方制度の改革を審議した議会の議論でも、当時の学者や実務家の議論でも、府県が完全自治体になるとすれば、国の地方行政区画としての道州制を導入すべきであるという考え方が一般的でありました。例えば、知事の官吏制が議会で問題になっていた四六年の八月十日の毎日新聞の社説には、このような主張が載っておりました。  公選知事を一挙に公吏にすると、勢ひ自県第一主義となり、食糧供出その他に弊害を来すと懸念するものもある。この点、一応は傾聴すべきであるが、しかしそれは府県そのものが経済単位として狭きにすぎるのである。むしろ、そのためには内政全般の地方分権化をねらひ、道州制といった広域行政の実現によつて、解決すべきであらう。 という主張であります。  しかしながら、実際には、地方自治法の制定後にも道州制問題は棚上げされたままで終わったのであります。その理由は、現実の課題としていえば、内務省の解体問題が出てきたのに加えて、さらに四九年にはシャウプ勧告が出されるなど、むしろ自治体としての府県と市町村を強化する方向が進んだからであります。  道州制導入の具体的な論議というのは、五七年の第四次地方制度調査会での「地方」制の導入が答申されるまで行われなかったのであります。しかも、この「地方」制の答申というのは、新たに設けられる「地方」という広域単位の長が公選制ではなくて総理大臣による任命制であるということで、世論の強い反発を受け、実現することなく終わったのであります。  このように見てまいりますと、憲法第八章が与えたインパクトとしては、皮肉なことに、日本政府の指導者が最後までちゅうちょした長の直接公選制の採用の影響というものが最も大きかったように思われるのであります。政府の指導者は、住民の直接選挙によって政治の安定が脅かされるのを危惧したのでありますが、国民は、民主化の推進という観点からこの制度を受け入れ、自分たちのものにしていったのではないかと思われます。  さらに、憲法の条文の上では地方公共団体の種類は固定化されなかったのでありますけれども、長の直接公選制を媒介として、明治以来の府県と市町村という二層制の地方制度が、その性格を変えて固定化することになったというふうに考えておる次第です。  最後に、本日の私の話の全体のまとめをしておきたいと思います。  まず最初に、憲法の制定経緯を見るに際しては、全体をマクロに見ていくという方法も必要でありましょうけれども、ミクロに個別具体的な条文を見ていく方法も必要ではないかということを私は考えております。第八章に関しては比較的簡単な経過で条文が固まったのでありますが、ほかの章では必ずしも同じような経緯をたどったわけではありません。それらの差異を無視して一括して制定経緯を特徴づけ、結論づけるということは、少なくとも学者の議論としては、単純に過ぎると思われるからであります。  また、第八章の検討を通じて最も鮮明にあらわれるのは、憲法と、憲法を実現するための法律の関係という問題であります。憲法は変わったけれども、それを実現するための法律は本当に変わったのか、あるいは変わらなかったのかという問題は、憲法の制定経緯の一部をなすものとして、あわせて検討するに値するのではないかと私は考えております。  憲法の審議が始まった四六年の七月に臨時法制調査会というものが発足し、憲法の改正に伴って必要となる法律の制定あるいは改正についての議論を始めております。この調査会は十月二十六日に十九本の法律案の要綱を答申しましたが、その多くが憲法の施行に間に合うように制定、改正されているのであります。憲法の附属立法といいますか、これらの立法作業を非常に短期間に進められておる、そうであるがゆえに、この憲法が持っておるさまざまな可能性というものがどれだけ実現されたのか、あるいはそれが閉ざされてしまったのかということは、憲法の条文とあわせて検証する必要があるのではないかと思う次第です。  しかしながら、私にとっては、個々の条文の制定経緯を見ていく方法の最大の意義は、総司令部案を基礎としたとはいえ、この憲法を日本の憲法としようとした当時の人々の努力を理解することができると考えるからであります。  話の中で引用いたしました佐藤達夫氏が一九五七年にお書きになった「日本国憲法誕生記」という本が、昨年、西修教授の解説つきで文庫本として出版されております。佐藤氏はこの本の最後に、憲法大臣として苦労をともにした金森徳次郎氏が書いた以下のような言葉を引用して、自分の本の結びとしておられます。それはメモに引用しておきましたが、  人々は憲法制定について、当時日本国民がどんなに真剣であったか、苦心努力したかを忘却しかけた。そして憲法を鬼子として取扱うような傾向が高まったらしい。それも一つの見識であるが、私はたまたま議会の速記録や当時の新聞紙も読み、苦難の条件の下で国民が如何に心血をそそいで考慮を尽くしたかを察し珍らしく緊張した。私にとっては大抵の文学書を読むよりも興奮した。民族発展の前途を考えて、国民は真に血みどろの苦心をした。そして、政治史上の稀な記録を残したのである。 と書いておられます。  憲法制定当時のことを直接に知る人が少なくなった現在、当時の人々の苦心と努力を理解することは困難ではあるわけでありますが、個々の条文に即して制定経緯を見るということによって、当時の人々がこの憲法に何を求めて苦心をしたのかということを、ある程度は推察、理解することができるのではないかと私は考えておる次第です。  第二に、憲法の制定経緯を見るに際しては、単に条文がどのようにつくられたのかという狭い意味での立法過程を見るだけではなくて、それがつくられた時代の背景との関係を見ていく必要もあるだろうということであります。  一九四六年の二月一日に毎日新聞が政府試案のスクープをして、それが総司令部で憲法草案を起草するきっかけになったと指摘されております。その翌日の同紙のコラム「硯滴」は次のような指摘をしておりました。これは前の小委員会報告書にも引用してあることでありますが、  憲法改正調査委員会の試案を見て、今更のことではないが、あまりに保守的、現状維持的のものにすぎないことを失望しない者は少いと思う。   つまり憲法改正という文字に拘泥し、法律的技師の性格を帯びた仕事しかできないので、新国家構成の経世的熱意と理想とに欠けているからである。今日の憲法改正は単なる法律的の問題でない。それは最高の政治である。 こういうことが書かれておるわけであります。  このコメントは、松本委員会の関係者の作業と当時の国民意識との乖離を如実に示しているように私には思われます。  当時、憲法論議を行った指導者が、国際情勢を考慮することが少なかったということはしばしば指摘されるわけでありますが、私は、それとともに、この人たちは、戦争がもたらした国民生活と国民意識に与えた大きな変化というものを十分に考慮していなかったのではないかというふうにも考えるわけです。いわゆる総力戦の時代、あるいは国民が総動員された戦時下で、国民は、苦しい毎日の生活を送りながらも、将来の日本、あるいはあるべき政治のあり方について、ひそかに思いをめぐらせていたのではないかと思われるからであります。  一九四六年八月二十七日の貴族院本会議で、高柳賢三議員は、この憲法改正案は、  日華事変カラ太平洋戦争ニ至ル東亜ノミナラズ世界各地域ニ於テ流サレタ内外人ノ血ト涙、軍ト官僚トノ政治的、経済的圧迫ニ苦シンダ日本国民ノ隠レタ自由ヘノ要求、ソレ等ガ此ノ改正案ノ背後ニアルノデアルト考ヘル と指摘しておられます。  憲法制定当時の日本は、経済的には貧しく疲弊した状況にあり、国民はその日の食糧にも困るような時代ではありました。しかしながら、惨めな敗戦を乗り越えて、新日本の建設を願って前途に希望を見出そうとする時代でもあったと思います。国民は、松本委員会の憲法改正案よりも、総司令部案を基礎としてつくられた憲法草案の方が、自分たちの自由への要求を満足させ、将来への希望を託するに足ると考えたのではないでありましょうか。長の直接公選という限られた角度からの考察ではありますが、私にはそのように思われるのであります。  以上で私のつたない話を終わらせていただきます。御清聴ありがとうございました。(拍手)

中山太郎自由民主党

○中山会長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。     —————————————

中山太郎自由民主党

○中山会長 これより参考人に対する質疑を行います。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。森山眞弓君。

森山眞弓自由民主党

○森山委員 天川先生、大変よいお話を聞かせていただいて、まことにありがとうございました。今までの憲法問題の論議では、私は少なくとも余り伺ったことのなかったアプローチで、地方自治というものを中心にして、憲法の制定経過というものを大変わかりやすく教えていただきまして、大変印象に残るよいお話であったと、感激いたした次第でございます。本当にありがとうございました。  私は、実は、ちょうど終戦のころ、まだ子供から大人になりかけのころでございまして、先生がお話の中でおっしゃいました戦争直後の混乱の時代、貧しい時代、私たちにとってはひもじい時代でございましたが、それを今でもよく覚えております。ですから、今先生がお話しくださいました最後のあたりの食糧難のところは、ああ、そういうことだったのかと改めて納得のいくようなことでございまして、その中で私どもは、戦争が終わってほっとしたということと同時に、戦争のときよりも日常の生活はもっと厳しくなって、空襲こそなくなりましたけれども、大変ひもじい思いの毎日であったというのを今ありありと思い出したようなわけでございます。  しかし、昭和二十二年、その一年前に初めて女子にも開放された国立大学へ私は入る機会がございまして、戦災で家は焼かれましたし、生活は厳しかったし、食べるものもないという状況ではありましたけれども、女性の立場からは、明るい未来が開けたという感じが非常に強くしたのでございます。いろいろな意味で世の中が急展開いたしまして、毎日毎日新しいことが起こるという中で、女性の立場は明らかにいい方へ着々と変わりつつあるというふうな感じが、子供ながらにもひしひしと感じられまして、そういう意味で大変希望の持てる時代であったというふうに思います。  憲法自体はできたばかりで、昭和二十二年に大学に入ったわけですが、ちょうどその昭和二十二年の五月から憲法が施行されたわけで、四月に一年生になった私たちは、初めて明治憲法を教わらなかった、新しい今の憲法だけを習った最初の世代であったというふうに思います。その新しい憲法を宮沢俊義先生がとてもうれしそうな顔をして教えてくださったというのを思い出すわけでございます。  この憲法によって初めて法的に確立いたしました男女の平等、それから教育の機会均等の恩恵をこうむった最初の世代というふうな気持ちでずっと参りましたものですから、やや物心のつき始めた大人になりかけたときに誕生した憲法でもございましたし、自分のその後の道を開いてくれたものではないかというふうに思いまして、常に憲法については重大な関心を持ってきたつもりでございます。  その後、数年たって独立を回復いたしまして、自主的に憲法をつくるべきだという話が出てまいりました。いろいろな具体的な動きもあったように思います。九条はもちろんでございますけれども、そのほかにもいろいろなことが取り上げられまして、たしか昭和三十年のちょっと前ぐらいでしたか、その前後に、民法もあんな民法にしたので日本の純風美俗が壊れたというような話になりまして、前に戻せというような動きがあったように思います。それを私たちは大変心配しまして、また法律上の家制度が復活して、女性の権利を圧迫するようになるのではないかと本気で心配したものでございます。幸いそのようなことにはならなかったのですけれども。  そのほか、具体的な問題としては、例えば教育の上で大変重要な役割を担っている私学に対する助成が第八十九条に触れるのではないかという話が出てまいりまして、それは今でも始終話題になる話でございます。その上、日本の国際的地位が高まって責任が重くなるに従って、PKOその他いろいろな問題が出てまいったのは、既に同僚議員がたびたび取り上げられた話でございます。  実は、先生が地方自治について詳しくお話しくださいましたので、その問題について御質問をしなければいけないのかもしれないのですけれども、私はその問題について深く勉強しておりませんし、きょう初めて先生のお話を伺って、ああそうだったのか、初めてわかったというようなことがたくさんございましたが、質問する能力がございませんので、この貴重な機会をいただきましたので、私が前から疑問に思っておりました一つ二つのことを申し上げて、先生のコメントをいただきたいというふうに思うのでございます。  その一つは、国会のあり方ということなのです。二院制の問題とでも申しましょうか。世界には、元来一院制の国もございますし、また、このスピード時代、とても二院をやっている余裕はないということで、二院制をやめて一院制に変えたという国もあるようでございます。日本の中にもそれがいいという方もいらっしゃるようでございますけれども、私は、適当な国政のためには二院制で慎重を期するということは悪くないというふうに思いますので、これは重要なやり方だと思っておりますが、それには運用の工夫がもっと必要ではないかというふうに思うのです。  それにはまず、両院がその選出基盤を工夫しなければいけないのではないかということを、この数年ずっと疑問に思っておりました。明治憲法のときは衆議院と貴族院でございました。それが新しい憲法によって衆議院と参議院となりました。これは、いずれも憲法によって、国民の選挙による衆参両院ということになったわけでございます。  当時は、衆議院は中選挙区と言われるやり方でありまして、人口割の代表でありました。参議院は、都道府県の代表である都道府県の選挙区の人と、それから全国規模の職種とか専門分野別の代表の形、学識経験者その他などが全国規模で選ばれるという全国区でございました。それなりに両方の輩出基盤が違いましたから、バランスがとれて、全体として国民の声を偏りなく反映するためにそれぞれの役目を果たしていたというふうに思うのでございます。  参議院は、良識の府と言われまして、初めのころは元貴族院議員であったというような方が全国区から輩出されたり、参議院の議論自体も、大変高邁な大所高所からの名論卓説が聞かれたというふうに承知いたしております。それに対して衆議院の方は、当然、数の政治ということになるわけでございますので、その行き過ぎをチェックするために参議院があって、両々相まって民意を反映し、正しい国の方向を決めていくというのに役に立ったというふうに思うのでございます。  それが、昭和五十七年からだったでしょうか、参議院が、都道府県代表の方は変わらないのですけれども、全国区が政党の比例代表というふうになったわけでございます。いろいろな理由でそうなったということは理解しているのでございますけれども、その結果、非常に参議院が政党化したわけでございまして、私は、これがいろいろな問題をその後つくったもとではないかという気もするのでございます。  さらに、その後、平成の初期になりまして、いわゆる政治改革論争というのが非常に燃え上がりまして、選挙制度審議会というのにも諮った結果なのですけれども、その答申に基づいて、衆議院も小選挙区と政党の比例代表というものの組み合わせになりました。  私は、当時はまだ参議院議員でございまして、参議院におりましたが、その衆議院の方の制度の改革を見まして、これでは、規模の大小はあるけれども、衆議院と参議院が同じようなものになってしまうのではないかというふうに思って、ちょっと心配した一人でございます。衆議院の方は、比例代表といってもブロック別、十一のブロックに分けてということで工夫はしてありますし、小選挙区の方は、参議院の都道府県を十分の一にも二十分の一にもしたような小さな選挙区ですから、もちろん同じではないという説明はつきますけれども、ただ大小が違うだけで、仕組みは同じになってしまったのではないかというふうに思うのでございます。  私は、そのとき、国会というものはいかにあるべきかということをまず考えて、国会は、チェック・アンド・バランスのために二院が必要だというのであれば二院を置く。その二院のうちの一院はどういう役目、二院目はどういう役目、それにふさわしい代表を選ぶにはどうしたらいいかという順序で考えていかなければいけないのではないかというふうに思ったのですけれども、現実には、参議院の選挙制度改革のときは、あれは参議院の問題だからといって、参議院の方が一生懸命取り組み、衆議院は参議院で決めたことをそのまま、では認めようというような感じでありましたし、衆議院の選挙改革のときも同様でございまして、独自性と称して、余りお互いに口を出したり邪魔をしたりしないというような暗黙の了解があるのでしょうか、多少の遠慮もありまして、別々に自分たちだけのことを考えるという傾向があるのでございます。  そのために、自分の家だけはちゃんと一応まともになるのですけれども、それが、大変密接な関係のある、お互いに助け合わなければならない隣の家と全く同じようになってしまう。ちぐはぐになったり全く同じようになったりしてしまうのでは、トータルな国会としては非常に問題なんじゃないかというふうに思います。  ですから、当時、選挙制度審議会が大いに衆議院の選挙制度を議論しておりますときに、私は、個人的に知っておりました学識経験者の一人である人に、今私が申したような順序で考えるべきではないかということを強く話したことがあるのですけれども、その学識経験者なる方も、まずは衆議院を考えてというふうにおっしゃいまして、全体的にどうするべきかということを考えてくれる人がいなかったというのは甚だ残念なことでございます。  その結果を受けて、今行われている衆議院の選挙制度ができ上がりまして、参議院ではこの答申を見まして、衆議院の選挙がこうなるのならば参議院もまた工夫しなければいけないのじゃないかという意識がございまして、参議院自身のさらなる改革について検討いたしました。議席数をただ変更するというような割に簡単なものから、全部比例代表にしたらどうかとか、全部個人名を書く昔の全国区だけにしたらいいのじゃないかとか、都道府県の代表にするとか、いろいろな折衷案や併合案などが出まして、私の記憶では、たしか十三ばかり案が出たのでございます。私も、実は森山私案と言われるものを提案したりいたしましたのを覚えております。  しかし、思い切って直さなきゃいけないと思いまして検討していきますと、必ず憲法にぶつかってしまうのですね。十三も出しましたいろいろな案を検討して、これはちょっとというのをはじいていって、最後に大変有力なのが一つ二つ残ったのでございますが、その有力な、多くの人がこれならいいのじゃないかと言った案の抜本改革案として注目された一つは、職能代表、学識者代表などを公平に推薦する機関を設けて、そしてその推薦に基づいて決めようじゃないか、そういう方式であったのです。  これをかなり真剣に議論いたしまして、何とかして国民によって選ばれた代表であるという形をとることはできないかというのを、法制局まで入ってもらって勉強したわけでございますが、どういうふうに工夫しても、憲法第四十三条の「全国民を代表する選挙された議員」という言葉にぶつかっちゃうのでございます。それでそれはあきらめられ、結局今も前と同じようなことをやっているわけでございます。  世界で二院制を持っている国というのは六十七とかあるそうでございますが、その中で両院とも有権者の選挙によるというのは少なくて、主な国では日本のほかアメリカぐらいではないかというふうに思うのですけれども、アメリカは、下院が小選挙区でございまして、それから上院は大小を問わない州の代表ということになっておりますから、下院と上院の役割、同じように選挙されるにしても役割や立場、選挙母体というのが大いに違う、性格がはっきり違っているということはよくわかるわけです。ほかの国も、イギリスは貴族院だし、カナダは任命制ですし、ドイツは知事さんなんかが兼務する州政府の代表が上院だというようなことを聞いておりますので、両院の違いというのは明らかなんですね。  残念ながら、ただ日本の場合は、今私が申し上げたようなわけで、例えば、衆議院は首班指名とか予算とか条約の審議などの面で多少参議院よりは権限が違うということはございますけれども、ほかの場合は、特に法律の問題についてはほとんど権限も同じでございますし、両院がいずれも大所高所から長期的な立場、視野に立って政策論争をするということがなかなかできなくなってしまっているのは、どうも目先のことにばかりこだわる、そうならざるを得ないような選挙の仕組みであるからなのではないだろうかというふうに、両院ともにそうなってしまっているからではないかなという疑問を私はずっと持っておりました。これでは二院制の意味がほとんどなくなったと言ってもいいのではないか。  そのために、政治が何となく閉塞感があると言われたり、政治不信が起こったりということの一つの原因をつくっているのではないのかな。本当に政治改革をしていこうと思ったら、そこまでやらなければいけないのじゃないかなというのが、私のこのところ何年か考えていた疑問なのでございます。  両院がそれぞれに特徴を持って補完し合うという形が、望ましい二院のあり方だと思うわけでございまして、そのようなことを考えますと、この国会のあり方についての憲法の条文、少し、まあ相当思い切って考え直さなければいけないんじゃないかというのが私の私見でございます。  現在の憲法の制約を外して、国民の世論を正当に反映しながら、激動する世界情勢の中で力強くスピーディーに対応していくのには国政はいかにあるべきか、国会はいかにあるべきかということを根本的に考えなければならないと思うのですが、先生は、この点については何か御指導いただけることがございますでしょうか。

天川晃横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授

○天川参考人 なかなか難しい問題でありますが、私も主に制定経緯のところを勉強しておるわけでありまして、特に制定経緯の中でも、先ほど申しましたが、国会のところについては要するに細かく見ていないのでありますが、まずその点から申しますと、御承知のとおり、総司令部案は当初一院制でございましたですね。これを松本委員長が押し返してといいますか、二院制を復活させたということになっているわけです。  それで、一九七〇年代ぐらいでありましたか、国会についての論文を書いたベアワルドという国会の研究者の人がいましたけれども、当時、参議院で野党が多くなり、法律がなかなか通らないということになって、自民党の幹部の方が困っている、何で二院制にしたんだというようなことをベアワルド氏に話したというようなエピソードがちょっと残っておったことがあるわけですが、ともかく、二院制に押し返したのは日本の側であって、その場合にどういうことが考えられていたのか。多分、違うチェック・アンド・バランスということが考えられていたのだと思います。  それで、今の両方とも選挙で選ぶということは、多分それは、やはり一つの歴史的な経緯といいますか、貴族院があったのが、先ほど申しましたことでいえば、民意を反映しないといいますか、特権的な立場にあるということだったのでそういうことが強調されていったのだろうと思います。  その制約の中で、どういうふうな参議院の選挙を行うのかということで、実はこれが、先ほど申しました、例えば臨時法制調査会の中の十九本の法律の一本は参議院議員選挙法なんです。それで、これについては、当時から、戦時中からたくさんあったのは職能代表の考え方でありますので、そういう案もあったわけですが、そうすると、かなりテクニカルに難しいというような問題もあったのだろうと思います。それで当初の地方区と全国区という形になったのではないかというふうに思います。  この制定経緯について考えるとすれば、そのあたりのところがやはり問題だろうと思いますが、結果において地方区と全国区ということになったわけでありますが、その間に、いろいろなバラエティーで、どういう参議院を構成するのかということはたしか検討されているはずで、そういうことが後の選挙制度等でも参考にされたのだろうと思います。  この時期の問題を中心にお話しするとすればその程度のことでありますけれども、確かに、大きく変える必要があるのかどうかというと、私の記憶しているところによると臨時法制調査会で国会法の案もつくったのでありますが、これは、議院法を改正して国会法をつくるというのは、国会の主導性といいますか、それでやるのだという、いわば国会の自律性。それが先ほどおっしゃった、衆議院と参議院もまたそれぞれ自律しているという、これがいい慣行なのか、私よく存じませんが、特に国会の場合は慣行のようなものを非常に重視するところでもありますので、そういうことが障害になっているという側面もあるのかな、その程度のことでございます。

森山眞弓自由民主党

○森山委員 大抵、大きな法律を改正するというようなことが起こりますと、審議会というものを設けまして、そこの御意見を尊重してということになるのですけれども、今、私が提起いたしましたようなことを本気になって審議していただくような審議会というのはないわけでございまして、まさにこの調査会こそそれではないかというふうに思ったものですから、私の問題意識をちょっと提起させていただいたわけでございます。  それから、もう残り時間が少なくなりましたので一言だけ、もう一つの問題をちょっと触れさせていただきますと、実は私、昨年の五月でしたか、児童買春ポルノ禁止法という法律を議員立法で提案いたしまして、成立させました。  これは、東南アジアその他で、世界じゅうで百万とも百五十万とも言われている被害児童の人権を守るということと、日本の国内でも大変無軌道な少女売春がふえているということをなくすというのが目標でございまして、すべての党の賛成をいただいて成立いたしたのでございますが、その立法過程の中で反対が一部ありましたのは、言論界からでございまして、十八歳未満の児童を使ったポルノをつくったり売ったりしてはいけないという条項があるわけなんですが、これが表現の自由という基本的人権に反するのではないかというふうに言われたことでございます。  もちろん、表現の自由というのは大変重要な基本的人権ではございますけれども、だからといって子供の人権をじゅうりんしてもいいということにはならないではないかというようなことで、結局、私はそういうような説明をして、納得していただいたわけですが、憲法の上では十二条あるいは十三条、公共の福祉の内容の問題なのではないかと思います。  人権の過度の主張というのは、他の人の人権を侵すことになるわけでございますし、表現の自由というのは、勝手、わがままの自由ではないわけでございますので、この公共の福祉ということについて、例えば最近は環境の権利とかプライバシーの権利とかということも具体的に言われ始めていることでございますし、もう少し具体的な指針を示した方がいいのではないかなということをちょっと考えているのでございますが、その点について、先生はどのようにお考えでいらっしゃいましょうか。

天川晃横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授

○天川参考人 確かに重要な問題だと思うのでありますが、まことに恐縮なのですが、私は今回、主として制定経緯の専門家といいますか、そういうようなことで参っておるつもりなのでありまして、多分それは、一種の政策論なりあるいは哲学の問題なりというふうにも関連すると思いますので、そういうことであれば、もっと私よりも適当な方がおいでになるのではないかというふうに考えますので、ちょっと恐縮ですが……。

森山眞弓自由民主党

○森山委員 大変勝手な質問を申し上げて、恐縮でございました。ありがとうございました。

中山太郎自由民主党

○中山会長 鹿野道彦君。

鹿野道彦民主党

○鹿野委員 天川先生、きょうは本当にありがとうございました。大変無理して私ども衆議院の憲法調査会にお越しをいただきまして、恐縮に存じております。  そしてまた、制定過程につきましては、第八章というところに具体的な形で、我々、将来どのような社会を目指すのかということにおきまして、大変参考になり、意義あるお話を賜りまして、本当にありがとうございました。  そこで、本日のテーマに入る前に一つ先生のお考えをお聞きしたいのでございますが、私ども民主党は、論憲という立場を主張しておるわけであります。これは、単なる憲法を議論したらいい、議論しようよということだけではないのであります。基本的に二十一世紀の社会、どういう構想を持って国をつくっていくか、同時にどのような社会を目指すのか、そういう中で憲法とのかかわり、どういう憲法がふさわしいのか、こういうふうなことを議論していかなければならない。時代が今、議論を求めているのだ、こういうふうな認識に立っておるわけであります。  そういう意味で、先ほど先生からも、当時の国民の思いというものも、苦しい中においても将来にそれぞれが思いをしながらの討議ではなかったか、こういうふうなお話もございましたけれども、そういう意味で先生から、私どもの論憲、論憲というのは立場ではないなんというふうなことを言う人もおるのでございますが、先生のお考えをお聞かせいただければ、こんなふうに思っております。

天川晃横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授

○天川参考人 論憲という立場についてどうこう言うつもりは、必ずしもよくわかっていないところもありますが、きょう私が最後のところで引用いたしましたのは、そういうことでありまして、憲法を論ずるといえば、憲法の条文をどういじるかとかそういう問題よりも、やはり経世あるいは理想、国家の経営あるいは二十一世紀のあり方、まずそういうことを考えることが最初なのではないか。  それを実現するためにどういう形ですればいいのかということは、これは法律家に任せればいいわけだけれども、やはりそういう意味では、私は政治家に語っていただきたいのは、これでどういう未来ができるのだ、あるいは我々はどういう未来を目指そうとしているのだ、それが国民に希望を与えるかどうか、そういうことがポイントなのかなと私は考えておるということです。  それが論憲に当たるのかどうか、私はよくわかりませんけれども、まずそういうものがあって、言うなればビジョンがあって、それをどう法律的な言葉に移していくのか、そういう順序なのではないかというふうに私は考えております。

鹿野道彦民主党

○鹿野委員 ありがとうございます。  まさに、今先生がおっしゃられたとおりに、どういう国を目指すのかというふうなことを、まず政治家として取り組んでいかなきゃならない。そのことを思いますと、この憲法調査会も、私どもが主張してまいりましたとおりに、大きな視点に立って、スケールの大きな議論をこれからも展開していかなきゃならない、こんなふうに改めて認識をいたしたところでございます。  そこで、先生にいろいろとお聞かせいただきたいと思いますが、私ども民主党は、実は、二十一世紀の社会を考えたときに、今日の政治、経済、社会、あらゆる分野において行き詰まっている状況というのは、中央集権的なシステムに問題がある。いわゆる中央が画一的に、統制的に物事を判断し、そして配分をしていく、そういうふうな行き方というものは、もう完全に限界が来ておる。そのようなことから、我々とすれば、自分自身が、それぞれが自立をして生活できる、また地域をつくっていくことができる、そういうふうな社会を目指していかなきゃならない。このようなことで、いわゆる分権連邦型国家というふうなものを提起いたしておるわけでございます。  ただ、そのときに考えていかなきゃならないのは、都道府県を超えたところのいわゆる広域行政のあり方というふうなものをどう描くかということじゃないかと思っておるのであります。  そこで、先ほども、占領下におけるところの地方自治改革の議論の中で、道州制の導入等々のお話も先生からあったわけでございますけれども、我々が今のような基本的な考え方の中で改革というものを目指す上において、やはり当時のポイントは、都道府県の完全自治体化と、いわゆる知事の公選制、知事を直接選ぶ、そこが大きなポイントである、こういうふうなお話でもあるわけです。  そこで、私どももやはり知事公選制度というのは大事にしなきゃならないと思いますけれども、広域行政といわゆる知事公選制との関係を、我々が分権連邦型国家というふうなものを目指す上においてどう整理していったらいいのかというところについて、先生のお考えをお聞かせいただきたいと思います。

天川晃横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授

○天川参考人 なかなか難しい問題だと思います。  実は私は、ちょっと個人的なことで恐縮なんですけれども、学生をやりましたのは一九六〇年代の初めだったのですね。それは、先ほど申しました五七年の地方制度調査会の答申が出ました後ですから、道州制の問題というと、それがつぶれた後でもあったので、何か非常に悪いものというのか、当時の言葉で言うと、一種の逆コースの中の一つの動きのものなのかなというふうに思っておったわけなんです。  その後、こういうふうに勉強してみますと、もちろん戦時中にもあったわけでありますけれども、戦後すぐ、道州制の問題が、新憲法のもとでも必要だというような議論がまじめになされておるのを見て、ある意味で非常に新鮮な驚きを感じたわけであります。それは、先ほど申しましたが、外務省の文書の中にもあったわけですし、大蔵省の中には、愛知揆一文書課長等がそういう案を書いておられるのがあるわけです、これは戦後十月ごろでありますけれども。  ですから、そういう意味でいうと、制度の枠組みとして見ると、道州制ということは、余りかかわりなく必要だということがあったのだろう。しかしながら、そこをどういうふうに考えるのかということで、公選制が非常に強く印象づいたものだから、葬り去られたような形になったのかなというふうに考えておるのです。  それで、道州制が必要とされる一つの理由は、国の地方行政ということで、広域行政ですね。ですから、そこで二つの問題があって、一つは国が全部やるのかどうか、もうちょっとこれを地方に任せるのか。地方というものをどういう形で構成するのかという問題が常に関連しておるわけで、国がやるんですよというふうになるとすれば、これはやはり国家公務員ですよ。ですから、五七年の「地方」制が任命制をとったのは、国の仕事を広域でやるんだから、それは国家公務員でなきゃならない、任命制でなきゃならない、こういう理由だったのだろうと思うんです。  ですから、そこのところをどういう形で考えるか。ある程度国の仕事を地方に移譲して、そしてそれを持ち寄って、地方の人が相合わせて広域的な行政のシステムをつくるという考え方があり得るだろうと思うのです、先ほどおっしゃった分権連邦型というのはあるいはそういうものなのかもわかりませんけれども。ですから、国の行政のあり方と地方の行政の配分の仕方といいますか、その問題と大きく関連しているのではないかというふうに、ポイントだけ理解しております。

鹿野道彦民主党

○鹿野委員 もう一点、この件につきまして先生のお考えをお聞かせいただきたいのでございますが、「地方自治の本旨」というふうなことにつきましても、先ほど先生からお話がございました。九十二条の「地方自治の本旨」、あるいは今日の実態の中で、国の役割と地方の役割というのは本当にはっきりしているのかといえば、非常にあいまいだと。現実に、憲法には政府というふうな文言は入っていないわけでありますけれども、実態としては中央政府がある。しかし、地方政府というふうなものは現実にない。いわゆる地方公共団体。  いわば、その考え方として、国と地方の役割の明確化ということならば、中央政府と地方政府というふうなことをきちっとそこにうたって、そして、そのことによってその役割も明確になるし、「地方自治の本旨」というものもはっきりしてくるのではないか、こういうふうな考え方にもなるのではないかと思いますが、先生のお考えをお聞かせいただければと思います。

天川晃横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授

○天川参考人 私は占領期のことをやっておりますので、ちょっとつけ加えますと、地方制度の改革が行われたのでありますが、アメリカ人の考えている地方制度のモデルというものと日本でこれまで考えられていた地方自治というものとは、随分違うのではないかというのが私の感じておったところなんですね。  それで、日本では地方自治体が言うなれば国の仕事をするというのも当たり前のことといいますか、地方行政と国の行政を一つにまとめてやる、これは県の場合も二重の性格というのがあったわけですけれども。そういう型であるけれども、アメリカの方は、どうもそこを二つないし三つに政府ごとに分けているというような印象を持つわけです。それを融合型と、これは日本の型ですが、分離型というふうに私は呼んでおるわけです。  シャウプ勧告というのは、実は中央政府と府県と市町村というものの仕事をはっきり分けているわけですね。ですから、あるレベルのガバメントが何かの仕事を二重にするということはあり得ない。ところが、日本ではそこを重ねてやるわけで、これを融合型と言うわけですが、ですから、これが補助金の話になったりとか、いろいろな錯綜した関係になるということでもあるわけです。  ですから、一つの考え方としては、なるべくそういうふうに機能を分けていく。国のするべき仕事はこうである。地方がやるべきはこうである。地方の中でも、市町村と府県とはこうである。これがシャウプが与えた考え方であり、多分、その後日本で引き継がれているのは、あの五〇年の神戸勧告といいますか、そういう考え方だろうと思いますね。  ですから、一つの考え方としてあり得るのは、分離して、明確化して、責任をはっきりさせていくという考え方はあり得ると思います。しかしながら、団体自治、住民自治というような概念は、これは以前からある融合型の制度に成り立っておるところの地方自治をもとにした概念ではないかと私は考えておりますので、もし言うのだとすれば、違った形を言葉で考えて表現した方がいいのではないかというふうに考えておる次第です。     〔会長退席、葉梨会長代理着席〕

鹿野道彦民主党

○鹿野委員 もう一点お聞かせいただきたいのでございますが、先ほど先生から、憲法を実現するための法はどうなっているのかというところをやはりきちっと検証すべきだ、こういうふうなお話もございました。  実は、私ども民主党として、一昨年、今日の我が国の内閣制度のあり方というものもどうも構造的な問題があるんではないかということで、いろいろ勉強をいたして、具体的な提起をいたしておるところでございます。その中で一つ、例えば内閣法のことにつきましても、憲法六十五条以下に書かれておる内閣法と、いわゆる内閣法におけるところの運用というものが、どうも違った形で運用されているんじゃないか、違う解釈がされているんじゃないかというようなところがございます。  時間がございませんので、その点は具体的には省略させていただきますが。そのことを思いますと、これから地方自治法等々、憲法のもとで、いわゆる附属法規というんでしょうか、そういうところをきちっとやはり定めていく必要があるんではないか、こんなふうに考えるわけでございますけれども、その点についての先生のお考えをお聞かせいただければと思います。

天川晃横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授

○天川参考人 私も詳しいことはわかりませんが、明治憲法のころは憲法附属法規というものが何かきちっと定まっていたようなのでありますけれども、現憲法における附属法規とは何かという定義があるのかどうか、これは私はちょっとわかりません。どうもそういう概念はないのじゃないのかなと思うのでありますが。  先ほどその問題を申しました一つの理由は、最初の改正というのは地方自治法以前で、府県制、市制、町村制の改正、知事官吏制。これは、新しい憲法のもとでも続く制度であるというような形で政府が出しているわけですね。ところが、議会で修正されて地方自治法になったら、これは知事公吏制。要するに、同じ憲法をもとにした制度として、法律をどう変えるかで非常に大きく変わるということがあるということであります。  内閣法のことについては、私も以前調べたことがあるのでありますが、非常に大きな幅があって、ちょっと今日は用意をしておりませんけれども、憲法そのものが言っていることと、現実に法律として選択されたこととの間にはやはりギャップがある。ですからそこの、憲法がはらんでいる、先ほど可能性という言い方をしましたけれども、それはやはり検討するに値するんじゃないか。法律がおかしいからといって、憲法がおかしいというわけでもないでしょうし、先ほどの森山委員のお話のように、憲法でどうしようもないような限界がある場合もあるでしょうし、そこは腑分けしながら考えていく必要があるだろう。  だけれども、行政法は即憲法の要求していることを実現しているかどうかということは、やはりワンクッション置いて考えるに値するでしょうし、特に、さっき申しましたように、選挙法はよく変わっておりますけれども、そうでないのはほとんど変わらないで、ごく短期間でつくられております。それは注意しておく必要があるんじゃないかということがポイントであります。

鹿野道彦民主党

○鹿野委員 ありがとうございました。

葉梨信行自由民主党

○葉梨会長代理 平田米男君。

平田米男公明党・改革クラブ

○平田委員 きょうは先生、大変ありがとうございました。  私の方からは、マッカーサー・ノート、それからGHQ案、また、その後芦田修正あるいは文民条項を入れてきた、こういう経過がございますが、このような歴史的な制定過程の流れを先生はどのように理解をしておられまして、憲法九条の解釈のあり方といいますか、それをどのように制定過程の中から読み取るべきなのかということをひとつお聞かせいただきたいというのが一点でございます。  先ほども先生、いろいろ苦心をしたというお話もされましたし、また、国民の隠れた自由への要求あるいは平和への要求もあったと思いますが、そういうものが反映した憲法だという評価をされたわけでございます。このような、特に自衛のための戦争というものをマッカーサー・ノートでは明確に放棄をしておったわけでありますが、それはどんどん、条文になっていく中で変わっていくわけでございますし、極東委員会は再軍備の可能性も考えて文民条項を入れてきた。この経過を我々としてどう見るのがいいのかという先生の御判断をひとつお教えいただきたいと思います。  それから、今度は講和条約でございますが、その第三章、安全、第五条の(c)項に、「連合国としては、日本国が主権国として国際連合憲章第五十一条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することができることを承認する。」こういうふうに明確に書かれているわけでございますが、憲法九条の制定過程と、日本が独立するに当たってのこの講和条約の条項との関係をまたどう読んでいったらいいのか、どう関連づけていったらいいのかということもお教えをいただければと思います。よろしくお願いいたします。

天川晃横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授

○天川参考人 私は、きょうは、同じく戦後になってできた第二章が新しい章であることは私も十分存じておりますが、第八章の話を主にしたわけであります。  最後に申し上げましたが、やはり個別の章を見ていく必要があるだろうということで、第二章については、もうこれは委員の先生御承知と思いますが、佐々木高雄先生の「戦争放棄条項の成立経緯」という物すごい研究がありますね。九条を論じたものだけで一冊の本になっておるというものがありますが、私はそちらは、とてもじゃないがこういう研究には及ばないのでできないよということで、余りやっていないわけであります。  ですから、あとは一般的な話で、これはどなたからお聞きになってもほぼ同じようなことだろうと思いますけれども、戦争放棄という章を設けたマッカーサー・ノートが意図したことは、要するに、戦争放棄そのものもさることながら、やはり天皇制の問題といいますか、その問題とのかかわりがあったのではないかと思っているわけです。要するに、先ほど申しましたこととのかかわりで言えば、日本を非軍事化するための一つの大きな目的というのがあったわけで、それをなぜやるかというと、やはり天皇制と結びついて軍国主義化ということが考えられていたわけでありますから、それとのかかわりで、マッカーサー・ノート以降、今の九条の問題が出てきておるのではないかと私は理解しておるということであります。

平田米男公明党・改革クラブ

○平田委員 何か御専門でないというお話でございましたので、では、話を変えたいと思います。  では、きょうは地方自治に限っての話がよろしゅうございますか。(天川参考人「憲法の制定経緯ということを伺っておるので」と呼ぶ)ああ、そうですか。憲法制定経緯という過程で今九条のことは、九条のもろの解釈というよりも、どういう流れの中でそれを見ていったらいいのかということを御説明いただければと思ったのでございますが、また、そのでき上がった憲法と講和条約を、明確に書かれているものとどう関連づけて考えるべきなのかという問題意識を持ったものですから、御質問をさせていただいたわけでございますが、憲法制定過程と余り関係ないという御判断のようでございますので、質問を変えた方がよろしければ変えさせていただきますが、先生、何か御発言ございますか。いいですか。  では、地方自治だけという話でございますと、そのように限定して私の方もちょっと準備をしてこなかったのでございますけれども、今の二重の、市町村制と都道府県という制度があるわけでございます。先ほどの「地方自治の本旨」という観点からしますと、これは、基本的には法律に任されているわけですから、どちらでもいいんだという話になりますが、今我々の議論の中では、自治体をもう少し大きくして、三百ぐらいの自治体にして、それぞれ独立した、きちっとした地方権限を持った方がいいんじゃないか、こういう議論もあるわけでございますけれども、憲法が期待するものとして、どちらが憲法の期待に近いものなのか。二重構造の方がいいのか、あるいは二重構造でも道州制があった方がいいのか、あるいは、今申し上げたように、国と、直接それぞれのもう少し大きな自治体が独立をして地方分権の責任を担っていった方がいいのか。これは先生、何か御意見がありましたらお聞かせいただけますか。

天川晃横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授

○天川参考人 最初におっしゃったことでありますけれども、何も地方自治に限定するという意味ではなくて、私は、ここは憲法の制定経緯を研究するといいますか調査するというふうに伺っております。それで、九条のことについても先ほどは申し上げたつもりなんですけれども、マッカーサー・ノート以来の問題というのは第一条の問題と関連があったのではないか、そういうことでつくられておる戦争放棄の考え方の問題だったのではないかということをお答えしたつもりなんですね。ですから、地方自治に限定しろといって頼まれたわけでもないわけですので、制定経緯のことについてお話をするということでありますが、私は、比較的注目されることの少ない第八章についてお話を申し上げたということでございます。  それで、今のことでございますけれども、ここで、憲法がどのような自治体のあり方を想定しているのかということですね。二層制であるのか、あるいは道州制と市町村だけにするのかについては、果たして憲法がどういうようなことを考えているのかということについては、特に私は意見がどうだということは言えないと思うんですが、やはり一番大事と思われることは、住民に近い、いわゆる基礎自治体というんでしょうか、それを廃止することはまずできないでありましょうし、そういうところが自治の担い手といいますか、そういうものとして考えられているということはまず大きくあるでしょう。  あとは、もう一つの問題としていえば、それこそ社会経済の発展状況に応じて、時々の立法政策によって変わっていき得るということはあるんでしょうけれども、今の府県があるということは、やはり一種の歴史的な経緯と申しますか、そういうものが非常に大きな意味合いを持っているのではないかなというのが私の印象であります。

平田米男公明党・改革クラブ

○平田委員 以上で結構です。ありがとうございました。

葉梨信行自由民主党

○葉梨会長代理 春名直章君。

春名直章日本共産党

○春名委員 日本共産党の春名直章です。  大変貴重なお話をありがとうございました。私は、第八章の制定過程に絞って御質問をさせてもらいます。  知事は官選、市長も市会の推薦する候補者の中から内務大臣が天皇の裁可を得て決められる。町村長も町村会の選挙で知事が認可をするという仕組みです、戦前の話ですけれども。内務大臣が議会解散権を持つ。そして、お話が出たように、四三年の世界大戦末期には、天皇、内務大臣、地方行政協議会、都道府県知事、地方事務所長、市町村長、部落会・町内会長という、上から下まで侵略戦争に動員される仕掛けが完結をする、こういうことになりました。  大きな目で見れば、戦前のこの反省から、地方自治の確立が戦後の日本の民主化にとって不可欠の要素なんだ、こういう角度でこの第八章が加わったと私は理解をしておりますし、だからこそ国民が支持をしたというふうに考えるんですが、この点、まずどうでしょう。

天川晃横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授

○天川参考人 なかなか答えにくい問題ではありますけれども、今おっしゃったような、私、先ほども、戦時体制への反動といいますか、そういうようなことで申しましたが、戦時下の四三年改正が行われる際に、帝国議会では、衆議院でありますけれども、相当議論があったわけですね。それは、この改正はこれまで積み重ねてきた自治を抹殺するものだ、こういうことは戦時下であっても望ましくないというような議論があったわけです、これは議事録に出ております。にもかかわらず、それがつくられていったということであります。  そういう意味では、今の言い方をするとすれば、この経験といいますか、それに対する批判といいますか、それは、先ほど申しましたように、それまで積み重ねられてきていた日本における明治以降の自治の発展をやはり逆転させるものだったので、ある意味では、それをもとへ戻して、そしてそれをより拡大させる、そういう方向の流れで知事の公選論等も出てきて、実現していったんだというふうに私は考えております。

春名直章日本共産党

○春名委員 それで、先ほどの話の中で、憲法制定過程の中で民間の案も出ます、政党案も出ます、政府の案も出ます。ところが、地方自治のチの字もない、まあ佐々木さんの案にはあったわけですけれども。そういう姿を見てGHQが、例えば本国に報告書を出していますね。「日本の政治的再編成」の一部である「日本の新憲法」という報告書の中で、例えばラウレルが、地方自治の規定がないことは、「それが現実の日本国家を全く従前通りにしておき、日本の政治構造上あのように強い特徴であったいろいろな憲法外の機関を、法律の適用の外に置くのであるから、もちろん、致命的なことである。」こういうことを述べていますし、それから、全体を見て目立って欠けているものとして、地方自治の提案がないこと、こういう指摘をして、報告書も送っているわけですね。  どうしてこんな事態になっちゃったんだろうかというのが私の率直な疑問でして、これほど重要な民主主義の中心をなすべき地方自治という問題が、当初、制定過程の中でほとんど見られないというのはなぜかということなんです。  それは、私の認識が間違っていたらあれなんですけれども、戦前は、地方制度というのはあったけれども、地方自治というのはなかったと思うんですよ。自治、つまり住民が自分の意思で物事を動かす、また意見を発意する。地方制度としては充実してきたのかもしれないけれども、自治というものがなかったので、やはり地方自治というものを憲法に入れるということ自身が余り問題にならなかったのかな、こういうイメージを私は持っているんですけれども、参考人の御意見を聞かせてください。

天川晃横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授

○天川参考人 私は若干異なった感じであります。  なぜ地方自治について余り考えなかったのかというと、憲法改正案を考えた人たちが法律技師的に考えて、前の明治憲法にその章がなかったからだろうというふうに、非常に単純に言えば、そういうふうにも考え得るというのが一つであります。  それともう一つ、自治制という形でいうと、市制、町村制の導入以来、自治というふうに言われてはおるわけです。ですから、地方制度というふうに言われるわけでありますが、それは自治制という言葉で言われて、私はその限りにおいてはあったと思うんですね。  先ほど申しましたが、住民自治、団体自治という言葉は、これは何も戦後になってできた言葉ではなくて、戦前の行政法、その自治制等においてもすべて出ている言葉なんですね。  ですから、その限りにおいて地方自治というのはあった。その中身をどういうふうに理解するかということは一応別でございますけれども、私の理解ではそういうものはあったということで、若干異なる意見を持っております。

春名直章日本共産党

○春名委員 そこら辺が僕もまだ勉強不足なものですからあれなんですけれども、それの流れの中でもう一つ質問します。  先ほどの御説明の中で、基本精神をあらわして、明治以来の地方自治の継続ということから、GHQ案にはなかったが、「地方自治の本旨」、いわゆる九十二条が日本側から修正提案をされて挿入される、こういう経緯をたどっているということをおっしゃいました。  率直な疑問を言います。そういう政府が、そのかなめであると私が思う首長公選制についてはいがとして抵抗するというのは、非常に矛盾のように感じてしようがないわけです。  つまり、「地方自治の本旨」というのは、住民の自治であり、団体の自治であります。そのかなめは、住民の意思の表明であります。そういう点で言えば、公選制、これはもう当然の地方自治のかなめの大きな柱だと思うし、だからこそインパクトがあったのだと思うんですけれども、そういう「地方自治の本旨」ということを挿入される、修正提案をする日本側が、旧権力が、しかし、公選制については抵抗される。これは非常に私自身は矛盾を感じてしまうわけであります。  この「地方自治の本旨」というのは、当時、一体どういう意味合いのものを言っていたのか、そこもよくわからないわけです。その点についてぜひ御説明をいただきたいと思います。

天川晃横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授

○天川参考人 ちょっと聞き取りにくかったところがあったので誤解があるかもわかりませんが、「地方自治の本旨」という言葉は、これは戦後の憲法で出てきたんだと思うんですね。それが一つ。  それと、公選制ということでも、先ほど区別をして申しましたが、直接公選と、そうでない間接公選という言葉があります。  それで、先ほど、自治ということは市制、町村制にあったということを申しましたけれども、それは、地方議会が市町村長等を推薦して選ぶといいますか、今の国会と同じようにですね。ですから、最初選挙をして、その人たちが二重に選ぶというのは、これは公選制であるというふうに考えておるわけです。それは市議会のモデルで、それをモデルとした知事の選び方をしたいということが、これは先ほど申しましたが、昭和の初めからあったわけですし、それを戦後の憲法でやろうとしていた。  いわゆるダイレクト・ポピュラー・ボートといいますか、それのイメージは余りなかったんじゃないか。ですから、当初考えていた、議会を選んで、議会から市長なり県知事を選ぶということは、これは公選と矛盾するわけではない、こういうことだったと思います。

春名直章日本共産党

○春名委員 ありがとうございました。  それでは、現代的な問題に引き寄せて少し聞きます。  こういう意見があるんです。現行憲法の中に自治体の課税自主権の規定がないわけです。ですから、そのことも改正の一つに挙げたらどうかという意見が一部にあります。  しかし、私の認識では、「地方自治の本旨」というのは九十二条で、漠然としている表現ですけれども大事な表現が入っていまして、今お話が出たように、団体自治であり住民自治であるということはもう通説になっているわけですから、その精神からいえば、課税の自主権なんというのは当たり前のことでして、しかも、権限や財源を移譲していくということが、この精神からいえば当然の姿なんですね。そう思います。  ところが、それがなかなか実施されていない。特に、自主的財源という点では非常に地方が苦しめられているという姿が率直に言ってありますので、憲法の条文をいじるという前に、そういう実態をつくっていく、地方に本当の意味で住民自治、団体自治をつくっていくということが改めて大事なように、私はこの条文から学ばせていただいているわけなんですけれども、条文の中にこういうものがないということとの関係、今、改正したらどうかという意見もあるということとの関係、この点についての御意見を聞かせていただけたらと思います。

天川晃横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授

○天川参考人 将来の話は難しいわけでありますが、資料としてお配りしております当初のGHQ案等の中には、地方の「徴税権ヲ有スル」というような言葉があったわけですね。それをなくしていくというようなことが進んでいたわけで、このあたりの経緯については、私も挙げておりましたけれども、参考文献の、佐藤達夫さんのお書きになった「第八章覚書」とか、あるいは前の憲法調査会の二十九回の小委員会のところに出ておりますので。これは経緯の話です。  それをどう判断するか、今あった方がよかったのかどうか、これは政治家の先生方の御判断でということだと思います。  でも、アイデアの中にそういうようなことがあったということは、これは歴史的な過程の問題としてありますので、その意味を考えることは可能だろうと思います。

春名直章日本共産党

○春名委員 ありがとうございました。  最後に、憲法制定過程にもう一回だけ戻らせていただいて、「地方自治」のこの第八章ができる背景の問題でもう一つ聞きますけれども、当時の地方自治の、世界の流れですね、ヨーロッパあるいはアメリカなどの。そういう世界の地方自治の流れ、動きとの関係で、この憲法に「地方自治」の章を入れるということがその流れを促進するもの、あるいはそれを受け入れるものとして認識してよいかどうか、世界との関係を一言お願いします。

天川晃横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授

○天川参考人 当時の比較地方自治とでも申しますか、その辺については、私も必ずしもよくわかっているものではありません。  でも、一言言い得ることは、住民自治——団体自治というような概念は、多分それは、ドイツ系ではあるかもわかりませんが、アメリカの概念なんかでは余りないんじゃないかという気もするんですね。  ですから、戦後の改革において大きかったのは、住民自治といいますか、その面がやはり強いですね。それは広義の民主化といいますか、そういうような流れの一環のものとして理解することはできるのではないかというふうに思うわけで、団体自治というのは、これは多分、アメリカの中ではあるのかどうか、ドイツだとか大陸系の方ではあるのかもわかりませんけれども、ちょっと私、そこは必ずしもわかりません。  ですから、住民自治はそういう流れの中にあったのかもしれないというふうに思います。

春名直章日本共産党

○春名委員 大変勉強になりました。ありがとうございました。

葉梨信行自由民主党

○葉梨会長代理 中村鋭一君。

中村鋭一保守党

○中村(鋭)委員 きょうは御苦労さまでございます。  先生、この八章の九十三条、「法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する。 地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。」こうございます。この規定には、議員の優位、劣位ということは全く規定されておりませんね。  現実に、町会議員よりは市会議員、市会議員よりは県会議員、またそういったレベルでも県会よりは府会、府会の先生にすれば、都会議員はすごいなというようなことがある。明らかに給料もこれは違うわけですね。  憲法の規定は今かくのごときであります。しかし、現実には待遇が違う。いろいろな行事に出ても席次が全く違う。そういった点で、はっきり申し上げて、町会議員さんは県会議員さんと同席をいたしますと、ある種のインフェリオリティーコンプレックスに悩まされないとは言えない。  そういったシューペリオリティーとインフェリオリティーはなぜ由来するのか、先生は御研究になったことがありますかどうか。現実にそういう、同じ議会議員であって、実際にはそのような優位、劣位、上位、下位の関係が生まれておるという事実、これはお認めになりますか。また、それはなぜそういうふうになってきたかと思われますか。人口の差ですか、選挙の難易度ですか、それとも町の生産性の高さですか、どういうものからそれが生まれるとお思いになりますか。

天川晃横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授

○天川参考人 どうも、現実について非常に勉強させていただきました。そういうものがあるということについて十分存じ上げていなかったものでありますが。  では一体なぜなのかということでありますが、一つは歴史的な説明ということが可能なのかなというふうにも思います。  先ほど申しましたように、府県、少なくとも府県は、府県制ができて以来、自治体でもあるけれども、府県の知事は、戦前は地方の長官であり、県知事閣下であり、要するに国の官吏であるわけですから、基本的な官尊民卑の体系の中でいえば府県の方が市町村よりも高いであろうということは当然考え得るわけですね。それで、多分、昔は官吏というのは、天皇の官制大権ですか、そういうようなものに基づいていたわけですから、勲章がもらえるとかそういうようなことで、一般の普通のあれとは違うところがあったと思います。  私は昔、全国の市長会のいろいろな要望事項のようなことも勉強したことがあるんですけれども、市長会では、やはり長老の市長だとかそういう人に、もっと勲章といいますか、名誉を与えようというような要望を戦前やっておるようなところがあるんですね。しかしながら、市は国のあれじゃないんだから、自治なんだから、そういう要望はおかしいじゃないか、これは建前論ではあるんだけれども、実際上はやはりそういうことを、官吏並みといいますか、そういうふうに待遇をしてほしいというような要望があったことを思い出すわけです。  ですから、今申しました一種の官の秩序といいますか、その序列の問題が、やはり今おっしゃったようなことに意識の面において影響しているのかなという感じがいたします。  しかしながら、若干申しますと、戦前においても五大市はどうだったのか、そういう印象を直観的に持ちます。  昔は官選知事というのはいわば内務官僚の若い人がなっていくわけでありますけれども、大きな市の市長というのは、知事を終わった人がそれこそ市長に迎えられるというようなケースもあったわけです。ですから、例えば神奈川と横浜についていえば、横浜の市会議員さんは、ひょっとすると県会議員よりも私たちは劣っていると思っていなかったかもしれない。ですから、おっしゃったことは一般論としてあるかもしれないけれども、いわゆる五大市とかそういうところは別だったのかもしれない。そういう市は、いわゆる市制から脱した特別市制といいますか、そういうものを求める運動もやっておりましたし、若干違うところもあるかもしれない。  でも、その背景としては、そういう制度的な問題にあるのではないかと思っております。

中村鋭一保守党

○中村(鋭)委員 ですから、先生、現実に町会議員さん、県会議員さん、いろいろその差がある。また考え方にも大きな優位、劣位が生じておる。現実は見なければいけない、こう思うんですね。  そこで、私は今保守党という政党に所属していて、つい先日までは自由党でございました。自由党が、「日本再興へのシナリオ」という政策集、これを発行いたしまして、その中で、将来的には日本列島をことごとく、現在数千あります市町村を全部整理をいたしまして、道、府、県、都、これをすべて廃止をいたしまして、全国を三百の市にする。だから、行政的には、まさに地方自治の本旨にのっとりまして同格の市を全国に三百つくる。これぐらい明快で平等で「地方自治の本旨」を生かした政策はない、こう思うんですが、先生、将来的には全国を三百の市にする、この政策についてはお考えはございますか。

天川晃横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授

○天川参考人 なかなか難しいことでありますけれども、今のことでいいますと、すべての市を平等にするというのが「地方自治の本旨」なのかという、むしろ多様性といいますか、そこと両立し得るのかもわかりませんけれども、同じような形にするというようなことであるとすれば、それがそうなのかという問題が一つ直観的に思うことと、もう一つは、それをどういう手続で進めるかという問題ですね。  昭和二十九年ないし三十年ごろの大合併があった。今もやっているという、動きが出ておりますけれども、そういう問題も、地方自治の本旨というようなこととのかかわりでいえばあるのかなということで、大きな政策、方向があって、そこにそれぞれの自治体が多分自発的に動いていくという形が想定されておるのかもわかりませんけれども、そういうことかなというふうに思います。  それで、今の御政策についてどうこうということは一概に言えませんけれども、先ほど少しシャウプ勧告の話をいたしました。シャウプ勧告は、市町村を中心に自治を進めていくということで、当時は五〇年代でありますから、もっと貧弱な弱い市町村だったわけで、市町村の自治を充実させるために町村合併的なそういう政策を進めたこともあります。ですから、ある意味で、自治の実体を持つためにはある程度の規模なり力というものが必要だろう。  しかし、それが三百という数であるのかどうであるのかということは、私少し判断がつきませんけれども、それだけは申します。

中村鋭一保守党

○中村(鋭)委員 最後に、先生の御意見をお聞かせ願いたいと思うんですが、それは、例えばこの八章を見ますと、九十二条「地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。」それから九十五条「特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。」この第八章は、九十二条から九十五条までのわずか四条ですね。四条の中で、「法律の定めるところにより」という文言が何回も何回も出てきますね。  それは、こういう表現はどうかと思いますが、憲法がちょっとひきょうじゃないか。法律の授権するところに多くをゆだね過ぎていて、それは、シンプル・イズ・ビューティフルという言葉はありますけれども、憲法というのはまさに根幹をなす法の体系でありますから、一点の疑義があってはならぬ。  第九条でも、あの芦田修正の、二項のたった一行で、戦後五十年余りの間に何百人という法律学者がこれで飯を食ってきているわけですね。一行の解釈をめぐってかようないろいろな解釈があるということ、そのことが、私は憲法のある種欠陥ではないか、このように思う。  今度憲法をつくるときには、中学校二年生の子供が見てももう全く疑義のないものをつくらなければいけない、そうですね。それは、ウインター・イズ・オーバー、スプリング・ハズ・カム、冬が終わって春が来た、これはだれが見たって余分な解釈が入り込む余地がない。憲法はかくあるべきだと思うのですが、そういう点で、この八章は法律で授権する部分が非常に多い。一口で言えば、書き込みが全く足りないではないか、こう思うのですが、その点について先生の御意見、御感想を伺って、質問を終わりたいと思います。

天川晃横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授

○天川参考人 ここに資料でお配りしておりますけれども、「法律の定めるところにより、」というような文言を入れたのは、これは日本側なのですね。佐藤さんがほとんど変えてしまった。丁寧に英語もついておりますのでごらんいただいて、そういうふうに書いてあるところもありますけれども、各条章に法律、法律という文字を入れたのは、これは日本側の要求によるところであります。ですから、それが何だったのかという問題ですね。今おっしゃったような問題を生じせしめておるということがあるとすれば、どこに持っていくかというと、やはり日本の人たちが何を考えていたのかを考えなきゃならない、これが一つです。  もう一つは、地方制度。自治制なり市制、町村制、府県制、こういうものは、戦前において法律だったのですね、自治は法律による。ところが、さっきの行政官、府県についての地方官とか、あるいは行政組織、これは勅令ですよね。ですから、行政組織は、これは天皇の官制大権に基づくものですから、法律ごときでやるものではない。官制ですね、勅令です。  ところが、自治制というのは法律なのですね、明治以来の制度ですね。ですから、自治制は法律で定めるというのが、言うなれば明治憲法下で常識みたいなことであったということで、その官制ないし勅令という問題がなくなったのが戦後の憲法ですけれども、明治の人の感覚で言えば、自治については法律で定める。ですから佐々木案の中にも、ちょっと佐々木案は引用しませんでしたかね、その九十二条で考えられておることは、やはり自治体、地方団体の構成等は法律で定める、これを佐々木案の九十二条で入れているのです。ですから、それは多分明治憲法期の、いわば慣行といいますか、それを残してやっている、そういうふうに考え得るのではないかと思いますけれども。

中村鋭一保守党

○中村(鋭)委員 ありがとうございました。

葉梨信行自由民主党

○葉梨会長代理 二見伸明君。

二見伸明自由党

○二見委員 自由党の二見伸明でございます。  実は、知事の公選ということは、確かに官選から公選に変わるときの変化というか、これは革命的な変化だと私は思います。だけれども、私なんかは公選知事のもとで生まれ育っているものですから、そこら辺のことはよくわかりません。むしろ今公選知事のもとで是非が議論されているのは、いわゆる知事の多選の問題です。  きょうは、多選の問題がどうのこうのというのではなくて、ただ日本の知事というのは、大変誤解を招くような言い方だけれども、一種の大統領制ですね、一種の。アメリカでは、大統領の任期というのは二期八年ですか、こう決められています。権力が集中するからだと思います。だから、まさにアメリカで大統領の多選は禁じられています。  日本では、当時は直接選挙にするというので大変なエネルギーを使いましたけれども、知事の多選についての議論というのは当時は全くなかったのか。大統領制をしいているアメリカがこれに関与しているわけですから、全くなかったとは考えられないのだけれども、その点はどうでしょうか。     〔葉梨会長代理退席、会長着席〕

天川晃横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授

○天川参考人 御承知のとおり、これは、憲法ではありませんけれども、法律レベルで知事の任期は四年となっておりますね。実は、最初の法改正での問題は、知事の任期を定めるということが大きなポイントだったわけです。  当時、官選知事の場合は、むしろ短過ぎることの方が問題だったわけですね。任命知事ですから、もう都合に応じて三カ月でかえてしまうとか、一年、二年でかわるのが幾らでもいる。ですから、その県について事情もよく知らないうちに、はい次は栄転しましたといって別の県に行ってしまうとか、そういうことこそが問題だったわけです。ですから、四年の任期を保障するからじっくりとやってくれというようなことが、この制度をつくったときの大きな議論だっただろうと思います。  それで、今おっしゃったような、それが何期もやって、十年、二十年とやるというようなことについての問題というよりは、やはり何カ月でやめてしまうとかそういうことの方が問題だったので、四年を置けばもっと安定して地方のことに専念できるだろうというのが主な議論だったと思います。

二見伸明自由党

○二見委員 実は、今地方分権とか、人によっては地方主権とかという議論がされております。例えば、外交、安全保障、財政、金融とかそういう仕事は国がやって、そうでないものは地方に任せてしまおうというのが、大ざっぱな言い方ですけれども、地方分権ですね。  そうすると、そういう地方分権、地方主権という立場から考えると、現行憲法の九十二条以下の地方自治の書き方というのは、どうもちょっと手ぬるいというか、公選知事官吏論がありましたね、官吏論ではないのだけれども、何か今の現行憲法は官吏制度の影を若干引いているのじゃないかなという気もするわけですけれども、そういう点はどういうふうにお考えになりましょうか。ちょっと面倒くさいかな。

天川晃横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授

○天川参考人 佐藤さんが書いておられる、そこに引いておきましたが、「第八章覚書」の中にこういうことを書いておられるのですね、注の中で。「Local Government」という表題、それを「地方自治」に変えて英語も変えたという話は先ほど申しましたけれども、それは、地方行政という広い言葉であることにヒントをつかむと、第八章もそのまま地方行政としておいて、そしてその総則的な条文として、地方公共団体を超えたもっと幅の広い規定、例えばとして、「地方行政は、地方自治の精神を尊重して行なわなければならない。」というような書き方もあったのではないかというようなことを書いていらっしゃるのですね。それはさっき言った言い方ですると、地方自治というと、それこそ地方自治に関する法律のことというふうになってしまいますので。  ところが、国が行ういろいろな各省の行政を分権化するというようなことを射程に置きますと、ここで言う地方自治というよりは、地方行政はというふうにした方がその精神として合っていたのかもしれないなというようなことなのではないかと思うのですね。  それで、実は一九四九年の六月だと思いますけれども、東京大学の憲法研究会が「憲法改正の諸問題」というのを発表しております。これは以前の憲法調査会の資料の何番かに入っておりますけれども、これは、各章についていろいろ言っているわけです。例えば、第八章については、田中二郎教授が書いておられることですが、九十二条については、例えばこういうふうにするのもあるのじゃないかということで、ここでも「地方行政は」と使っているのですね。「地方行政は、特に法律に例外の定めのある場合を除く外、地方自治の本旨に従って行わなければならない。」  ということは、より広い、いわゆる自治法とかそういうものにかかわるのじゃなくて、国のさまざまな施策を行う際の行政は地方自治の本旨に従って行わなければならないとやればもっと広いコントロールができるということが、この両者の御意見の中に含まれているのかなというふうに私は解釈しておるんですけれども、もしそうだとすれば、そういう方向で考えればより地方分権化していき得る方向なのかもしれないと思います。

二見伸明自由党

○二見委員 これは「地方自治」の八章を盛り込まれたときとは若干時代がずれるんだと思いますけれども、先生の「新憲法の成立」という古川さんとの対談がありますね。あれを拝見しておりまして、いわゆる警察の制度の問題が出てまいりました。日本の警察制度、当時は憲法九条の立場から考える場合と、地方自治の立場から考える場合と、二つの考え方があったようですけれども、そこら辺をちょっと御説明していただけるとありがたいと思うのですが。

天川晃横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授

○天川参考人 地方分権化するという際に、どういう事務を移すのかということはこれは国内でも議論になっております。それから、先ほど申しました地方制度の改革の際にも、警察の分権化あるいは教育の分権化ということを考えなきゃならないだろうということは、国内の中でも大きな議論としてなっておると思います。したがって、警察の分権化というような形で出てまいりました、それと私は大きく関連すると思いますが、内務省の解体の問題などは、現実のプロセスの中で言うと、やはり地方分権といいますか、そういうコンテクストの中で考えられていたのではないかと思います。  しかしながら、当時は戦後でありまして、軍隊がなかったわけですから、国内の治安を何が維持するかという場合にも、警察に期待されるところが非常に大きかったというところもあるわけで、ですから、そこの問題が今おっしゃったような文脈の中で理解されていくというようなこともあったわけです。  戦後すぐに、警察力を増強しようというプランを国内的に出しておりますけれども、これは何かというと、戦争に負けて軍が解体されれば国内の治安の維持が非常に難しくなるだろう、ですから警察の力を増強しなきゃならないだろうというようなことでそういうものを考えておったわけです。  そちらのコンテクストで見ていくこともできますけれども、制度の問題として言うならば、やはり全体の分権化の中で警察をどうするかという問題が大きな問題だったわけですし、警察をどう動かすかというような問題も、やはり官吏とするかどうかというような問題とも関連していたと思うのですね。

二見伸明自由党

○二見委員 ありがとうございました。

中山太郎自由民主党

○中山会長 辻元清美君。

辻元清美社会民主党・市民連合

○辻元委員 社会民主党、社民党の辻元清美です。  本日は、民主主義を具体化する方法としての地方自治の概念の確立へのプロセスとか、それから長の直接公選制ということが与えた民主化への影響など、日本国憲法の意義について非常に示唆に富むお話が伺えたと思っております。本当にありがとうございます。  さて、そういう中で、もう一つやはり憲法制定に当たっての先人たちの努力ということについても、私は一九六〇年に生まれておりますが、先生の話の中から改めて実感をすることができました。その中で、特に憲法の前文の最後の部分に「国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」とありまして、そして私は、国会議員に当選させていただいた折に、この憲法九十九条の「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」という、この義務を負っているなと思いながら各政策を立案していきたいと思いながら仕事をしております。  さてそこで、お話の前提にありました非軍事化、そして民主化ということを実現するに当たって、この第八章の「地方自治」が憲法の中に入ったというお話でした。私は、それを伺いまして、入ってよかったなと正直思ったのですよ。これが入っていなかったら、これはえらい憲法の意味が変わってくるのじゃないかと思うぐらい、入ってよかったなという実感を受けました。そこで、日本の非軍事化、民主化に向けての戦後の八章が果たした役割といいますか、それをいかがお考えかお伺いしたいのですが、まず最初にお願いします。

天川晃横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授

○天川参考人 八章が果たした役割というものをどの程度の時間のパースペクティブで考えるのかという問題があると思いますけれども、私は、先ほどの後半でお話ししたことは、まさに八章が置かれたがゆえに出てきた問題だったのだろうということでお話をしたつもりなわけです。それで、最初のところでもお話ししたわけですけれども、憲法の第八章が置かれたということは、やはり非常に戦後の自治を進める上において大きな意義があったというふうに多くの人が評価しているのではないかと思います。  そういう意味では、八章に入っていなかったらどうであったのかというのは、これは非常に難しい質問ではありますけれども、やはり地方自治を守っていこうというか、あるいは守るというよりは伸ばしていこうと考える人にとっては、ただ憲法に書いてあるぞ、こういうのがあるぞということは、私は大きな支えになってきたのではないかというふうに一般的に言い得るだろうと思います。先ほども申しましたけれども、戦前は憲法になくて、言うなれば自治関係の法律というのがあっただけですから、やはり随分意味が変わってきたのだろうというふうに思っています。

辻元清美社会民主党・市民連合

○辻元委員 実は昨年、ちょうど今ごろでしたが、日米新ガイドライン関連法の審議を国会で行っておりました。私はその委員の一人として連日質疑を繰り返していたわけですが、その際に八章が改めてクローズアップされまして、それは日米新ガイドライン関連法に規定されています、これは周辺事態法の九条だったわけなんですが、周辺事態法に基づいて後方地域支援の協力を地方自治体に要請することができるということがこの八章の違反ではないかというような議論がありました。  ここでは改めてその議論を先生にいかがですかとお聞きすることは控えようかと思っているのですけれども、私は、地方自治ということを発展させていった場合、先ほどの非軍事化という点も非常に重要な位置を占めると思うのですね。過去の反省のもとに立って、ある一つの流れで戦争に向かって進んでいった反省は、一つは天皇の問題がありましたけれども、もう一つはやはり地域の戦争協力を非常に意図的に誘導していったというところ、この反省にのっとっていると思うのです。そういう意味で、昨年のその議論、この八章と関連して随分たくさんの方が憲法違反ではないかという議論を展開されました。  それについても、そうしましたらやはりちょっとお聞きしたいと思いますので、ガイドラインの議論についてどういうふうに八章との絡みでごらんになっていたか。特に、非軍事化と民主化を実現するためにこの八章を憲法に入れたという制定過程にかんがみて、いかがお考えでしょうか。

天川晃横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授

○天川参考人 非軍事化というのは、私のは当時のことを念頭に置いておったわけなんです。それは、要するに戦争直後で、敵国を、言うなれば軍事的に無力にするというような意味合いですね。要するに侵略国だったわけですから、再び侵略されては困るからそれをどうするか、侵略しない国にしたい、そういうコンテクストだというふうに御理解いただきたいと思うんです。  ところが、相手の国が再び侵略しないようにするというのに民主化と絡めているというのが、ここがアメリカの、民主主義化すれば軍国主義化しないんだというのは非常に大きな特徴ではないのかなというふうに私は考えておるわけです。ですから、非軍事化と民主化というふうに並べて申しましたけれども、当時の考えは、力点は非軍事化にあったと理解しておいた方が正確なのではないかと思うんです。それをするためには民主主義的といいますか民主化しなきゃならないという、ここがいわば大きなポイントになるわけです。  それで、今の話が別になっての、ガイドラインとのかかわりでおっしゃっている非軍事化ということとここがどういうふうにつながるのかというのは、私は率直に言ってすぐわからないわけでありますけれども、先ほどおっしゃったように、やはり今憲法の中に、第八章に「地方自治の本旨に基づいて、」といいますか、「地方自治」を八章に置いているということで、それ自体が国の中で非常に大きな重みを持っているんだという保障にはなっているだろうと思いますので、そういう観点でいろいろな対外政策等についても議論をしていくのは、重みを持つというか、強くなるところはあるんだろうというふうに思います。

辻元清美社会民主党・市民連合

○辻元委員 この八章が、憲法にしっかりと一つの章を設けているということは、やはり本当に民主化と非軍事化、これはひっついていると私も思うんですけれども、これにとっては非常に大きいことだと思っています。  さてそこで、この地方自治のこともですが、先ほど森山委員からの御質問にもありましたが、例えば男女の平等の話とかさまざまな先見性を持った観点で憲法は構成されていると思います。私は、最初に申し上げました、議員になったときに、この憲法を尊重して政策を立てていくということが義務であるという仕事に今携わっているわけですが、そうしますと、この先見性を持った憲法の理念を果たして政策に生かせ切れているのかという点も、この調査会でもぜひ皆さんに検討していただかなければいけない点だと思うんです。  といいますのは、内心の自由の話から始まりまして、先ほどの男女平等の話、そしてさらに、つい最近は、通信の秘密という憲法の二十一条が通信傍受法案の審議のときには随分議論になりました。そういうふうに一つ一つの法律を制定する際に、憲法に合致しているかどうかということを議論すると同時に、それぞれの概念が私たちの暮らしやそれから政治の中に生かされた戦後であったのかどうかという点だと思うんです。  まずお伺いしたいんですけれども、特にそういう視点から、この地方自治に限っては私はまだ不十分ではないかと。先人たちがやはり日本の将来を見越して私たちにプレゼントしてくれた憲法だと思うんですが、不十分な点があるのではないかというように感じる点があるんですが、いかがでしょうか。

天川晃横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授

○天川参考人 先ほどから憲法と憲法附属法の問題を提起しているのは実はそういうこともあるからで、繰り返しになりますが、同じ憲法草案といいますか、第八章を前提にして、最初の法律では知事は官吏で、これでも憲法の精神に合致しているというのであり、それを修正した地方自治法になって、知事は公吏である、これも新しい憲法に合致しているというようなことが言われておるわけでありますから、非常に幅があることは間違いない。  それと、地方自治法にしたところで、ほんの数カ月とも言わないほどの間につくられておりますので、憲法よりももっと膨大な法律ですから、以前あった法律を、言うなればコピーしながらつくっているというようなものでありますので、そういう意味では、ですからここをどう評価するかの問題ですが、戦前とのある意味で連続性があったからうまくスムーズにいったという側面が一つあるんですね。しかしながら、他方で、それは新しい憲法とのかかわりでいえば不十分なものである、そういう評価も成り立ち得るだろうと思うんですね。  ですから、ある意味で昔のものを継いでいるからうまくいったという側面もある。だけれども、新たな観点から見ると不十分な側面もある。やはり一概に何か言うのではなくて、両面見なきゃならないのではないか。一挙に変わっていくというのは無理なわけですから、だんだん変わっていく、ないしは変えていくような努力がなされてきたのではないか、その際の、すべてではないにせよ、一つの方向を指示するものとして憲法の規定があったというふうに考え得るのではないかと思っておるところです。

辻元清美社会民主党・市民連合

○辻元委員 それでは、時間が参りましたのでこれで終了したいと思いますが、遅くのお時間まで、本当にありがとうございました。

中山太郎自由民主党

○中山会長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。  この際、一言ごあいさつを申し上げます。  天川参考人には、大変貴重な御意見をちょうだいいたしまして、まことにありがとうございました。調査会を代表して厚くお礼を申し上げます。(拍手)  次回は、来る四月二十七日木曜日、幹事会午前八時五十分、調査会午前九時から開会することとし、本日は、これにて散会いたします。     午後六時七分散会

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