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145回国会衆議院1999/07/08

内閣委員会公聴会 第1号

発言数
225
登壇者
19
会派数
7
開催日
1999/07/08

会議録

二田孝治自由民主党

○二田委員長 これより会議を開きます。  内閣提出、国旗及び国歌に関する法律案について公聴会を開きます。  この際、公述人各位に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多用中のところ御出席をいただき、まことにありがとうございます。公述人各位におかれましては、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、審査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願いいたします。  次に、議事の順序について申し上げます。  まず小林公述人、上杉公述人、林公述人の順に、お一人十五分程度御意見をお述べいただき、その後、委員の質疑に対しお答えをいただきたいと存じます。  それでは、小林公述人にお願いをいたします。

小林節慶應義塾大学法学部教授・弁護士

○小林公述人 まず、結論を先に申し上げますが、私は、今回の法案を歓迎するものでございます。  前提としまして、世界の常識に照らしまして、すべての国はそれぞれに国旗と国歌が必要不可欠でございまして、それはもちろん、国家という、あるようでないような存在なものでありますけれども、それを象徴的に示す形が必要だということと、それから、たくさんの国民が一つの国家にまとまっていくための連帯のきずなとして歌が有用であるということであります。  この君が代と日の丸につきましては、私は法律の専門家でございますが、もう既に慣習法として確立しているという認識をしております。ただ、この慣習法というのは、慣習なるがゆえに文章化されておりませんので、その点に関する無理解か、あるいは意図的な反発があるようで、さまざまなトラブルが現に生じております。こういうトラブルをなくすために、六法全書の中にきちんと入れてしまうということは、今の日本の社会状況において大変有効なことであると考えます。  よく問題になりますのが入学式と卒業式、御案内のとおりでありますけれども、反対する人は法令上根拠がないといういわばうそを申すわけでありますが、それに対して、国旗・国歌が法典に載れば、それを受けて、文部大臣の学校教育法上の権限で、教育内容を決める権限に基づきまして、同法施行規則とか学習指導要領という、要するに法治主義の筋道を通して現場の責任者に国旗・国歌の使用をきちんと命令することができる。そうすると、現場で揺らがないで事が遂行するという大変大きな効果があると考えます。  もちろん、これについては、日の丸・君が代が憲法違反であるという立場から抵抗もあるのですけれども、それは、これまた法治国家のルールでありまして、最高裁で違憲判決を受けていないものである以上、現時点では有効なものでありますから、それは自分の信条に合わないからといって暴力的に抵抗するというのはただの公務執行妨害でありまして、法治国家の国民のマナーではないと私は思うわけであります。  もちろん、その内容についてこの際論及せざるを得ないのですけれども、慣習法として確立するという以上は、それが国民生活の中に確立した慣習であるということと、それから慣習たる内容が、現行法令、この場合憲法でありますが、に違反するものでないということであります。  よく日の丸と君が代が憲法違反という主張があるのですが、日の丸、これは素直にあのデザインを見ていただければ太陽ないしは日の出でありまして、それ自体は我々が最も敬けんな気持ちで見詰める瞬間でありまして、それ自体に反民主制とか軍国主義とかいうものはそもそもないものであります、長い歴史の中でたまたまそういう間違った使われ方があったということは議論の余地ありだと思いますけれども。  君が代につきましても、これは明治憲法下におきましては、確かに皇国日本であったわけです。それは当時の国体であるわけでありますから、天皇の治世の長きことをというのは当時としては極めて当たり前のことでありまして、それが国民主権国家に変わった今、政府が明確に見解を出して意味を確認、変更しようとしている以上、それはそれで、私の見解ではありませんが、一つの見識であると思っております。つまり、国民主権国家における主権者国民の総意に基づいてその位置にある象徴天皇をいただくこの国日本の永続を願う、これは極めてまともな一つの解釈であると思います。  もちろん、明治憲法下との関連もあるのですけれども、ただ、君が代というのは、それ以前の、古来さまざまに歌い継がれてまいりました日本の文化の一つのような歌でございますから、その中で、長い歴史の中で一時期いわゆる誤用がなされた、ないしは、当時としては正当な用い方でありますが、そのことをとらえて、それがすべてのように否定するのは私は無理があると思います。  そういう意味で、大事な点は、今回こうして成文化するに当たって、ここ、すなわち国会、すなわち国民主権国家日本における主権者国民の直接代表たる最高機関国会で有権解釈を定めてしまえばいいわけでありまして、すなわち、附帯決議という方法などもあると思いますけれども、簡単な話は、現にこうして議事録に残っていくことが重要なわけであります。  つまり、この法案の趣旨説明を政府がなすって、それを国会各院が了承して可決したという事実が議事録に残る以上、この日の丸・君が代の意味はこういう意味なんですということが有権的に決まるわけです。これは最高裁で覆されない限りはそういうものになっていくわけです。そういう手続は、私は大変重要であると思っております。そういう意味でも、今回、改めて日の丸と君が代を国会で審議して形に残すということは、極めて重要であると考えます。  ちょっとついでに論及いたしますけれども、もちろん戦争責任の話は、これはもうわかりやすい話でありまして、さきの大東亜戦争に日本が入っていったこと、そして、負ける過程までにいろいろなことをしたということについてはいろいろ議論のあるところでありますが、あるとしても、それはむしろ世界史の大きな流れの中で我が民族がいかなる罪を犯したかどうかの問題でありまして、旗とか歌の責任ではそもそもないと私は思うのですね。それに、逆にそういう形で責任を転嫁してしまうことの危険性を私はむしろ感じます。  それから、これで小中高校の入学式、卒業式で日の丸・君が代が使いやすくなると私どもが申しますと、それすなわち強制である、良心の自由という話が必ず出てまいります。  ただ一つ、これは二つの強制があるわけで、一つは、現場の責任者である校長、これは公務員、それから、その校長の指揮下に入っている現場の教員にとって強制であるか。これは、公務員として禄をはんでいる以上、公務員は当然国法体系に忠誠を誓って採用されているわけでありまして、また、そうでなければ困るわけでありまして、そういう意味では、有効な法令に基づく指揮命令が上官から来るわけでありますから、それに背く権限はその公務員たる立場にはない。率直に言うと、嫌ならおやめになればいい、あるいは抵抗して処分を受ける、これしか選択肢はないわけであります。これは公務員である以上、強制とは言いません。  もう一つは、一般市民に対する強制、つまり、きょうは旗日だ、旗を上げろとか、敬礼しろとか、そういうことがあるかないかが問題なわけでありまして、今回の法案はそういうことが全くございませんので、ただ歴史的慣行をここで確認的に、国旗はこれですよ、国歌はこれですよとしたものでありまして、そういう意味では、いかなる国民に対する強制もないですから、憲法上の良心の自由の問題にはそもそもならないわけであります。嫌な人は、そういう儀式に必要上参加するならば、そのとき国旗に向かって敬礼をしないとか、それから、国歌を人が歌っているときに歌わない、口を閉じている、これが本来憲法上の良心の自由。つまり、嫌なことは強制されない。  ただ、日の丸があって、かつ国歌が歌われている場所に私がいることが嫌だというのは、だからそれを排除するというと、これは大変な問題が起きるわけであります。要するに、私のような国民はどうなるのか。つまり、当然にこういう場には国旗や国歌があってしかるべきと思って行く。そうすると、暴力的にそれが取り払われている。そのこと自体は、私にとって極めて不快で良心に反することでありまして、そういう場にいることを強制されている多数派の良心に対する侵害が起きているわけです。  これをどう説明するかと申しますと、要するにこれは権利乱用の話でありまして、憲法十九条に良心の自由はあるけれども、同じく十二条に人権の乱用も禁じられているわけでありまして、そういう意味で、私が嫌だからあんたもやめろというような、法令上根拠があるものを排除する、そのたぐいの良心はない。これを良心というならば、それは単に過度な我の張り方でありまして、それすなわち良心の自由の誤用、乱用のたぐいであります。これまでそういう状態があったわけです。  そういう意味で、これからは、別の言い方をしますと、私どものような静かな多数派が儀式に参加して異様な光景に我慢しないで済む、むしろ多数派国民の良心が解放されることになるわけです。そういう意味でも、私自身も子を持つ親としてそういうところへ出ることがあるわけでありまして、すごくそれは個人としてうれしくも思うわけであります。  最後にもう一点だけ。  本来でありましたら、先生方お気づきのとおり、国旗とか国歌というのは、諸国の先例に照らせば、むしろ憲法の中に規定されていてしかるべきことだと思うんですね。つまり、分類すれば、これは法律事項ではなくて憲法事項であると思うんです。  そういう意味では、最近非常に政治で動くことが多いのですけれども、憲法調査会がとりあえず衆議院に、どうも参議院にもできるようです。まさに国権の最高機関で、憲法改正発議権をお持ちの国会で初めてまともに憲法論議ができる場ができるということは、その中の重要課題の一つとして国旗・国歌の問題もあるわけでありまして、まずは今回は一歩前進ということでございますが、その点にも、一人の国民として、あるいは憲法学者として、期待を表明させていただきます。  以上でございます。ありがとうございました。(拍手)

二田孝治自由民主党

○二田委員長 ありがとうございました。  次に、上杉公述人にお願いをいたします。

上杉聰関西大学文学部講師

○上杉公述人 お手元に資料が三種類あります。一つはカラーのものです。それから、あとはレジュメと資料がついておりますので、これにのっとって話をさせていただきたいと思います。  私は戦後生まれでございます。昭和二十二年、一九四七年生まれです。そのような意味では、いわゆる日の丸・君が代に対する非常に強い反発もなければ、強い愛着心もないという世代でございます。  そういう立場から、きょう、何をしゃべるのかということになりますけれども、実は、アジアの戦争の被害者の方たちを毎年お招きして、十四年間やってまいりました。話を伺って、二千万人を超すと言われるアジアの方たちの追悼を行ってまいりました。  そういう中で、実は、この日の丸・君が代の問題について正面からお話を伺ったことはありません。というのは、余りにも当然のことで、聞くこともないだろうというふうな思いでおりました。それで、今回公述人に指名されまして、急遽、私の身辺にありますアジアの方たちの日の丸・君が代に対する思いを少しまとめてみました。それがきょうお持ちした資料です。  アジアの人たちの思いを入れるということについては、これを決めるのは日本人であるからという意見が当然出てくると思います。それは私は全くそのとおりだろうと思います。また、日の丸・君が代であるかどうかは別として、国旗・国歌を制定するということについては、意味があることだろうとは思います。  ただ、この国旗・国歌、特に国旗は国際的な友好ないし交流の場で使われるものです。そこでマイナスのイメージとか、これは嫌いだとかという反発をもし生むようなものであるならば、これはふさわしくないだろうというふうに思うわけですね。  そういう意味で、一体これがアジアの方たちにどのように受け取られているのかというものを少し紹介させていただきたいと思います。  資料の一枚目には、これは、元慰安婦の金学順さんという方が日本においでになったときのお話です。全部読む時間がありませんので、「日の丸を見て……」の第三段落目以降を読んでみたいと思います。   そして私は機内で「日本の飛行機に乗って日本に行って、私は何をしようとしているのか」と自分自身に問いかけました。そして途中、機内の窓から外を見ますと、赤い日の丸に似たもの いわゆる日本航空のマークですが、それが目に入り、これを日の丸と彼女は感じてしまったわけですね。   それを見た瞬間、五〇年間の私の人生を目茶苦茶にした日本にたいする思いが一気にこみ上げてきて、胸をしめつけるような感じがしました。軍人たちがどこへ行っても日の丸を掲げて、「天皇陛下万歳」と言いました。日の丸という言葉を聞くだけでも、頭の中が腐ってしまうほど嫌な思いがする体験をしてきたのです。そのことがよみがえり、いまでも日の丸を見ると胸がドキドキするのです。   皆さんは私の思いがどのような思いなのか、たぶん想像がつかないものだと思います。   飛行機で日の丸を見て、過去の嫌なことが思い出されて、非常に胸が苦しかったのです。   従軍慰安婦として犬よりもひどいような仕打ちをされて、あっちこっち引きずりまわされた私は、日の丸は好きになれません。これから何がおこっても、何があったとしても私のこの思いが解きほぐれることはないと思います。 このようなことを語っておられます。実は、彼女はこの後一日このショックで動けておりません。  そして、このような目で見てみますと、ハルモニ、おばあさんたちがかいた絵があるんですね。それが絵はがきになっております。これは私の家にもあったものですが、それをぱらぱらとめくってみましたら、必ず日の丸が描かれているのです。  例えば、一ページ目の左に、金順徳さんの「連行される船の中」。船に日の丸がついております、ここに本当についていたかどうかは別として。あるいは、右上の李さんの船にも日の丸がついております。  船というのは、彼女たちがここに乗せられたならばもう引き返すことができない、強制の手段なんです。海を越えて移動するということが、彼女たちに対する大変強い強制力として作用しました。その船に日の丸がくっついているわけです。  右下に、姜徳景さんの「憤り」。その憤りは、まさに日の丸に短刀を刺すという形で向けられております。その下には、恐らく軍人ないし天皇であろうと思いますけれども、そういう表現が行われているわけですね。  それから、こういうことが行われます背景には、資料の1’のところを見ていただきたいと思いますが、これは、ソウルにあります景福宮の正面に、植民地支配に伴って日の丸が掲げられているわけです。  つまり、日の丸というのは主権を剥奪しましたということの表明であったわけです。そのような意味で、日の丸というのは、韓国の方、朝鮮の方にとってみるならば、これは植民地支配の象徴であるわけです。  これがまず韓国の典型的な例だろうと思います。  それから、この絵では二枚目に行ってみたいと思います。  これは中国の南京大虐殺を描いた絵です。左の上には、まさに首を切ろうとしている軍人の背後に日の丸が輝いております。これをかいた人は戦後世代であるということを覚えておいていただきたいと思います。  それから、右上に、これは日本で南京大虐殺美術館を主宰しておられます郭さんという方の絵ですけれども、ここにも日の丸が描かれております。これも戦後世代です。  その下に、傳さんという方がかいておられる、これは「同胞を忘れるな」という、この左の二枚はいずれもニューヨークにいる中国人の人たちがかいたものなんですけれども、中国の同胞を忘れないという警告として、日の丸、これは海軍旗だと思いますけれども、その上で燃えている中国の民家、そしてその上に首を切られた人の姿が描かれている。  これが、中国の方たちの日の丸に対してのイメージの一端だろうと思います。  そして、それが単に一部分でないということは、資料の2を見ていただきたいのですけれども、これは二年前に、一万五千人の中国の青年たちに対して、日の丸などに関するアンケートをとったものです。  非常に大きなものですので縮小をしておりますが、ちょうど左から二行目の真ん中のところに、中国語で、太陽旗、いわゆる日の丸を見て、これを軍国主義の暴行の印と思いますかというふうな質問に対して、はいという人が七六・四%、大体そうだという人が二〇・二%、合わせて九六・六%の人が日の丸に対して侵略時代を思い出すというふうに答えているわけですね。この回答した平均の年齢が、左の下にチェックをしておりますが、二十五・二歳です。戦後世代がこのように感じているということです。  なぜこのように若い世代まで感じるのかといいますと、その次を見ていただきたいと思います。これは当時の朝日新聞の記事ですが、南京に入っていったときの姿は、ページの右上では日の丸が三つ描かれております、下でも三つです。それから左には、国民政府の上に輝く日章旗という形で描かれております。これも、中国を侵略したシンボルとしてとらえられているということです。  そしてもう一つ、マレーシアの現在の南洋商報と呼ばれる新聞をちょっと御紹介しておきたいと思います。これもカラーでしたが、残念ながらそれを持ってくることができませんでした。日の丸が法制化される、君が代が法制化されるのは、日本の軍国主義の亡霊が消えていないからだ、こういうふうな解説が書かれております。見出しが出されております。その後二枚について、これの訳が載っております。  その次に3’を見ていただきますと、これはシンガポールの高校の歴史教科書の一部から持ってきましたけれども、日本が占領しますと日の丸が各地に掲げられたということを教科書できちんと教えているわけですね。そして、その下に教科書の記述があります。  このように、現在にもわたって、アジアの方たちが、戦後世代も含めて、日の丸に対して非常に不快感を持っているわけです。これは日の丸の責任ではないという面もありますけれども、こういう負のイメージ、マイナスのイメージが日の丸にはくっついております。  そして、若い世代は、このような日の丸を掲げる日本に拘束をされるわけですね。ということは、そのような負担を若い世代は背負い込むということになります。そういうことを国会で簡単に決めてよいのかどうなのかという問題があります。  私たちは、あるいは若い世代は、アジアの人たちと仲よくする権利を持っております。それを持ち出せば不快感を覚える、それを持ち出せば嫌な思いがわき起こってくるようなものを、私たちが友好や交流の際使うということが得策であるかどうかということです。私たちは、そのような意味では、我々がアジアの人たちと仲よくする権利を、この日の丸を掲げることによって、法制化することによって奪わないでいただきたいということを訴えたいと思います。  次に、君が代についてですが、政府の御努力がありまして、いわゆる君が代に関するさまざまな解釈が行われております。資料では4になりますけれども、これは、憲法の国民主権の原則との調整を行おうという御努力だろうと思います。  それで、「代」というのは国であるという解釈まで出されておられますが、大漢和辞典、これは諸橋轍次さんの日本で一番権威のある漢和辞典のどこを見ても、「代」を国というふうに解釈するものはありません。ただ一つだけ、七番目に「國の名。」というのがあります。これは、戦国時代の趙にあった代国という固有名詞です。そうしますと、この代国の歌をつくるわけではないだろう、それが君が代ではないだろうと思います。  あるいは、歌詞を見ますと、「君が代は 千代に八千代に」です。こういう流れから見ますと、国というふうにもしこの「代」を解釈するならば、歌詞さえ意味が不明になってまいります。これは大変なミスリードであろうというふうに思います。  百歩譲って、このような憲法との調整が行われたとしても、そうするならば、この君が代の意味は、天皇を象徴とする国がいつまでも続くようにという意味の歌詞になります。ならば、憲法改正も同時に保障しているのが憲法であります。この九十六条違反ということにならないでしょうか。  いずれの意味でも、君が代を国歌と制定することには憲法違反の疑いが濃厚です。  結論を申し上げたいと思います。  日の丸の評判について、特にアジアの方たちの気持ちをもっときちんとリサーチすべきではないかと思います。  実は、きょうお持ちしたようなこのような資料というものは私の手元にあったものです。きちんとしたことはどこでも行われておりません。もし、ある企業が会社のシンボルマークを決めようとするならば、きちんとしたリサーチをされるだろうと思います。つまり、会社の社員がどのように感じるかということだけではなく、対外的にどのようなイメージをもたらすのかということを真剣になって考えるだろうと思います。そのようなリサーチが行われるべきだろうと思いますし、そういう努力をぜひお願いしたいと思います。国会でぜひそのようなイニシアチブをとっていただきたいと思いますし、我々市民の側もこれに協力をしたいというふうに思っております。  次に、君が代については、憲法違反の疑義が濃厚です。これに対するきちんとした議論が行われる必要があるだろうと思います。そして、もしそうでないという解釈が行われるならば、また、時の政治によってころころと解釈が変えられていって、いずれ憲法違反になっていくという危険性をどのように排除するのかという歯どめの議論を行うべきではないかというふうに思います。  そして、この議論のきっかけになりましたのは、何といっても広島の校長先生の自殺の件ですけれども、そういう問題から少し離れて、資料の八枚目を見ていただきたいと思います。  これは、昨日、全国の日本の公立学校に子供たちを送っている父母の方たちの在日コリアン保護者会が出された声明です。左のページの下から三行目を見ていただきたいと思いますが、「最近、京都市においても、日頃から「君が代」を歌いたくないと意思表示している在日コリアンの子どもに対して、小学校の校長先生が全校児童の前で、強圧的に「立ちなさい」と命令して、いやがる子どもに起立を強いる、という事件が起こっています。恫喝してまで子どもを屈服させようとするのは、いったい何故なのでしょう。」  現在、学習指導要領によって、国旗の掲揚と国歌の斉唱を指導するものとするということが書かれております。ここに法的な裏づけが行われるならば、これは飛躍的な強制力として作用するだろうと思います。このような悲鳴を上げる子供たちが各地で出てくるというのは、恐らく明白なことだろうと思います。  教育というのは、先生と子供の場で決め、進められることです。そこに教育行政が日の丸の問題で強権的に入っていくということがあるならば、これは先生と子供の関係を壊します。そのようなことが絶対にないように、国会の御努力をお願いしたいと思います。  以上です。(拍手)

二田孝治自由民主党

○二田委員長 ありがとうございました。  次に、林公述人にお願いをいたします。

林四郎エッセイスト

○林公述人 私、こういうような席に出席したことが初めてでございまして、多分ふつつかなことがあるのではないかなと思いますが、お許しいただきたいと思います。  初めに、私の現在の気持ちを率直に申し上げますと、今回の日の丸を国旗に、君が代を国歌に法制化という考え方に私は賛成いたします。いろいろ申し上げたいことがありますが、せっかくこのような機会ができたということで、私はあえて賛成をしたいと思っております。  理由は、先ほど小林先生がるる御説明なさったことと私の考えていることは全く同じでございまして、ダブった御説明をしてもしようがないと思いますが、これによって、日の丸あるいは君が代に直接かかわっておられる皆さんは、これからは踏ん切りをつけて、自信を持ってかかわることができるのではないかなという点で、大変結構なことだというふうに思っております。  昨年は、長野オリンピックとかワールドカップ、ワールドサッカーと、久しぶりに実は日の丸・君が代に接する機会がありました。この久しぶりにというところが実は問題なんですが、それで私も大変感激をいたしました。  実は、お恥ずかしいことですが、私のうちには日の丸がありません。それから私の友人、知人に聞いても、だれ一人日の丸を自宅に持っておりません。自分のうちの玄関に掲げたこともございません。ましてや、一九四五年、戦争が終わってからこの方、君が代を自分の口で歌ったことなどは一度もありません。それから、直接歌っているのを聞いたこともありません。多分ここにおられる皆さんも御質問されると、おれもそうだという方がおられるかもしれませんが、事ほどさように日本の国旗・国歌には戦後どうして日常性というものがなくなってしまったのかなということが、実は私は残念でならないのです。  実は、オリンピックとか、サッカーの中田君が表彰式で口を動かさなかったということで一部マスコミに書かれたことから、彼はちょっと痛めつけられたようでございますが、それを見ていて、その後三月に入って高校の卒業式で、また国歌と日の丸についての管理者側と先生あるいは生徒との間にトラブルがあったのを見まして、これは困ったことになったなと私は胸を痛めておりました。  そこで、実は「サピオ」という月二回刊の雑誌があるのですが、この雑誌は現在大変売れ行きがよくて、私は総合論評誌と言っておりますが、特に北朝鮮関係なんかの記事は出色だというふうに思っております。その「サピオ」に対して、この際国旗と国歌について思い切って大特集を組まないか、そして日本の国旗・国歌はどうあるべきかということを皆さんで反対、賛成両論を入れて論じ合ってみないかということを申し上げましたところが、すぐに賛成が得られまして、ちょうど今、初夏のこの七月から取材を開始しまして八月二十日ころに発売になった号で、大特集をやりました。  これは全体としては大変好評だったのですが、その特集の口火を切ったのは私でありまして、私の論旨は後で申し上げますが、高校生が本当に日の丸と君が代が嫌ならば、この際新しい国歌と新しい国旗をつくったらどうだろうかという提案を実はその雑誌の中ではしたのでございます。  もう少し細かく申し上げますと、私は直接首都圏の十五歳から十七歳前後の高校生にお会いしました。そして、一つ一つ実は面接してお話を伺ったのです。  そのときの状況をちょっと述べさせていただきたいのですが、まず第一に、あなたは日の丸をどこで見たことがありますかと質問しますと、これはすぐに答えが返ってこないのです。返ってくると、長野オリンピック、サッカー、それからそういえば学校の入学式にかかっていたな、卒業式の日にも校門にかかっていたなというくらいで、例えばニューヨークとかロンドンなんかのビジネス街のビルに星条旗とかユニオンジャックが翩翻と翻っているような、生活の中での日常性というのは、どうも日本の国旗にはないなという印象を受けたのです。  ところで、あなた方の家には日の丸の旗がありますかと質問しますと、これはだれも答えません。そして変な顔をしているのです。そして、一人の子だけが、私のうちにはありますと、これは女の子でしたが。そして、それはどんな意味ですかと聞くと、日の丸の「丸」は、あれは太陽です、それから君が代の「君」は天皇ですと明快に答えました。どこで教わったのと聞きましたら、両親が教えてくれました、こういう返事がありました。それ以外の約八十名、私が面接した子供たちのだれ一人、私のうちには国旗はありません、手でさわったこともありません、こういう答えが返ってまいりました。まことに残念な気持ちが実はしたわけでございます。そして、こういう質問はこちらから誘導的に、意図的に質問しない限り、ほとんど黙っていて返事が出てこない。  そして最後に、あなた方は国旗とか国歌というのに余り関心ないのと聞くと、関心はありません、興味もありません、こういう答えが返ってくるのです。これは、これが教育の問題だと一口で言ってしまうといろいろまた問題があろうかと思いますが、家庭のしつけの問題もあるのじゃないかというふうに私は実は思っております。  特に、国旗についてはあの旗でいいんじゃないのという意見が多いのですが、君が代については、ダサいとか、あのメロディーが嫌だとか、低音で出る歌って歌いづらいんだよなとか、こういう言葉が返ってまいります。もっと元気の出るような、明るくて楽しい国歌はないんですかと。それは君たちがつくったらいいんじゃないかと私は実は言ったわけですが、いやあというような感じで、なかなか明快な返事は返ってまいりません。  そのうちに、一人の子が手を挙げまして、国歌なんて必要なんですか、こういう質問がありました。え、国歌なんて必要ないと思うのと言ったら、私は国歌なんて必要ないと思うよ、こういう返事。そうか、そうすると、例えば堀江謙一さんがヨットに乗って一人でアメリカに行ったとき、日本の国旗をつけていないと実はサンフランシスコの港に入れないんだよ、世界的にはそういう規則になっているよという説明をすると、ええっと、びっくり仰天するわけです。つまり、あれ、そのような基礎的なことも学校で教えていないのかなというふうに実はその瞬間思いましたし、それから、全体として、今の高校生、私がお会いした高校生が特別なのかもしれませんが、国旗・国歌に対しては極めて無関心であったというのがまず第一印象でございます。  数年前に、財団法人の日本青少年研究所というところがありまして、国旗・国歌に対する意識と態度調査という、皆さん御存じかもしれませんが、したことがあります。その中で日米の高校生の国旗と国歌に対する意識調査をしておりますが、自分の国の国旗・国歌に対して必ず起立すると答えた高校生の割合は、日本が二五・六%に対して、アメリカは九七・二%という数字が出ております。また、外国の国旗・国歌に対しても必ず起立する、この高校生の割合は、日本は一七・三%に対して、アメリカは九三・四%という高率を示しております。これはもちろん、皆さん御存じのように、アメリカの学校では、州によって違いますけれども、毎朝、自分の教室に入ると星条旗に向かって誓いを唱える時間、本当に一分くらいですが、忠誠心を示すセレモニーがあるのです。こういう形で子供のときから鍛えられた子供と、ほとんどいいかげんにほったらかされた日本の教育現場とでは、私はかくも大きな差が出るのではないかなというふうに思っております。  それからもう一つは、私が会った高校生に、よその国の旗を侮辱する行為をした場合、日本では刑法第九十二条というのがあって、処罰されるんですよという話をすると、これは相当びっくりしていました。そんな法律があるんですかと言うのです。ただ、私は、今回もし国旗が法制化されるとすれば、日本の国旗に対してもきちんとした処罰規定なり取扱規定というのができないと、ちょっとまずいのではないかなという気がしております。  実は、先ほど私のうちには日の丸の旗がない、あるいは国歌を歌ったこともないというふうに申し上げましたが、日常性がほとんどない。そうすると、日本の国旗とか国歌というのは一体どこで使われているのかということになりますと、非常にはっきりしているのは、この周辺にあります公官庁。  実は私、きょうここに入ったときに、この中に日の丸は絶対あるだろうなと思っておりましたら、ありませんでした。衆議院の面会所の入り口あたりもじろじろ見たのですが、ここにも日の丸がありませんでした。なぜでしょうか。この上にはあると思いますが、なぜでしょうか。多分僕は、戦後、日本は変なアレルギーにひっかかってしまって、何となく国旗と国歌を避けて通りたいという気持ちがあるんじゃないかなという危惧感を持っております。  私は仕事の関係で、実は、議員会館の議員さんのところには今まで何百回と足を運んだ経験がありますが、議員さんのあの執務室と言っていいのかお部屋の中に、日の丸の旗を掲げてある方はわずか数人程度で、ほとんどの方の部屋には国旗を掲げていない。これが外国へ行きますと、外国といいましてもアメリカへ行きますと、どの部屋にもきちんと国旗がかかっております。これは議員さんが、せめて国旗の前で国家と国民への忠誠を示すくらいの、つまりパフォーマンスをしているのだろうと思いますが、どうも日本の国会議員さんにはパフォーマンスが少な過ぎるのではないか。もっと堂々と国旗・国歌に対するパフォーマンスをされたら、もっと日常的なものに転化していくのではないかな。こう言うとまたいろいろ御批判があろうかと思いますが、私はそう思っております。  そこで、長くなりますから最後にしますが、長いこと、この日本の国旗・国歌に対して真正面から批判し、反対されてきた方たちが大勢おられます。私はかねがね不思議に思っていたのですが、なぜその方々は反対されるだけで、具体的にかくあれという日本の国旗と国歌を御提示なさらないのかというのが、どうしても私は理解できないのです。このような重要なところにその方たちが、おれたちが考えている日本国旗はこれだ、おれたちが考えている国歌はこれだというのを提示されると、より一層議論は深まるのではないかなというふうに私は思っておりますが、残念ながら、今、マスコミ関係の情報を見ている限りにおいて、そういう準備がなされていないのではないかなと、非常に私は残念に思っております。  以上でございます。(拍手)

二田孝治自由民主党

○二田委員長 ありがとうございました。  以上で公述人からの御意見の開陳は終わりました。     —————————————

二田孝治自由民主党

○二田委員長 これより公述人に対する質疑に入ります。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。平沢勝栄君。

平沢勝栄自由民主党

○平沢委員 自由民主党の平沢勝栄でございます。  三人の公述人の皆さん方には、大変お忙しい中御出席いただきまして、それぞれのお立場から貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。  時間が限られていますので、早速質問に入らせていただきたいと思います。  御案内のとおり、きのうまで地方の公聴会が開かれたわけでございまして、私も沖縄と広島の公聴会に出席させていただいたわけでございます。沖縄では、沖縄戦という悲しい悲惨な体験に基づいたいろいろな御発言もございました。また、広島では、部落解放同盟あるいは教職員組合が教育の現場にいろいろな形で介入し、事実上教育を左右しているというような話もございました。賛否両論いろいろあったわけでございますけれども、いずれにしましても、国旗と国歌、君が代・日の丸が国民の皆さん方の間にほぼ定着しているということは、私自身も毎日選挙区を駆けずり回って、そして地域の方々のいろいろな御意見を聞かせていただいて、これは間違いないなという感じがしております。  しかし一方で、先ほど上杉公述人からございましたように、君が代・日の丸に強い拒否感といいますか、抵抗感といいますか、あるいは嫌悪感といいますか、こういったものを持っている方もこれは事実ございます。しかし、問題は、こうした反対の意見がとりわけ教育の現場で、実力で自分たちの主義主張を通そう、そして式典を妨害する、あるいは式典の変更を迫るというような形で行われているということは、大変残念なことでございます。  小林公述人からございましたとおり、学習指導要領で決まっているわけで、これには法的拘束力があるということになっているわけでございます。また、学校の校長先生の言うことに教職員は従わなきゃならない、これは地方公務員法ではっきりと決められているわけでございます。本来なら、学校でこうした混乱、もちろん話し合いは行われるでしょう、しかし最後には、こうした混乱が起こるということはあり得ないはずでございますけれども、現実には広島で、あるいは東京の国立で、いろいろなところで一部の方々の妨害の実力行使が行われることによって、さまざまな対立、混乱が教育の現場で起こっているわけでございまして、そうしたことから今回の立法化ということになったわけでございます。  そこで、小林公述人にお聞きしたいと思います。  学習指導要領、法的拘束力のある慣習法で既に定着しているものを新たに立法化する、その意味というのは、先ほどもちょっとお述べくださいましたけれども、この辺についてもう一度、繰り返しで恐縮でございますけれども、お述べいただけませんでしょうか。

小林節慶應義塾大学法学部教授・弁護士

○小林公述人 これは慣習法に関する理解の問題だと思うのですけれども、要するに、君が代や日の丸が嫌いな人は、法的根拠はないと言い張るんですね。  これは法学概論になってしまいますけれども、慣習法というのは、御案内のとおり、法例という法律に根拠がありまして、要するに、確立された慣習であって現行法体系と矛盾しないということを条件に認められているのでありますが、ある意味では一般の人に見えにくいものですから、だれかが、日の丸・君が代、法的根拠はないじゃないかと言うと、何となく、ああそうだなという話になってしまう。情けないのは、そういうことを現場の校長先生などもよく御理解いただいていなかったようでありまして、何か、反対者と対等な話し合いに入って悩んでしまう。  それが今度、はっきりここで法制化されますと、六法全書に明文で載りますから、そうすると、学習指導要領、もちろん最高裁判例で法的効力は先生おっしゃるとおりありますし、そうすると、指揮命令系統がはっきりしている中で、具体的な指揮命令の根拠が今度の法律でできますから、法的に何一つ不安がない。そういう意味では、現場の執行責任者が堂々と対応できる、そして変な反論に対して、ほら、これと言える、そういう効果があるということでございます。

平沢勝栄自由民主党

○平沢委員 これまで学校の現場では、とりわけ入学式、卒業式などで、君が代・日の丸の実施をめぐって大変な対立といいますか混乱が続いてきたわけでございまして、こうした不毛な対立、混乱を防ごうというのが今回の立法の大きなねらいでございますけれども、反対の方々は、法的拘束力のある学習指導要領を認めない、あるいは、地方公務員法三十二条で「職員は、」「上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。」こういうふうにはっきり規定しているわけでございまして、こうした規定にも従わない。先ほど小林公述人がおっしゃられましたけれども、もし嫌ならやめればいいわけで、あるいは抵抗して処分を受ければいいわけでございまして、石原知事がよく言われることですけれども、みんなで決めたことはたとえ嫌なことでも従う、これは民主主義の基本的なルールでございまして、このルールを守らなかったら社会なんか成り立ちませんし、秩序も保てないわけでございます。  一部の反対の人たちは、法的拘束力のある学習指導要領に決まっていてもそんなものは認めませんよ、地方公務員法三十二条に決められていてもそんなものは従いませんよと。あたかも学校の中が、私からすれば、例えば国立市なんかもそうですけれども、国立市で、ほんの一部ですよ、一部の人たちが学校に行って、実力で式典の日の丸の掲揚を反対する、校長先生は混乱を恐れてやめる、これはもう本当の、一言で言えば反対派の暴力以外の何物でもないと思うのです。  こういう混乱が今現実に起こっているわけですけれども、今度法律に定めることによってこういう混乱がますます拡大するという見方と、混乱がおさまる、恐らく鎮静化するという見方と、両方あるわけでございますけれども、小林公述人の御意見をお聞かせいただけますでしょうか。

小林節慶應義塾大学法学部教授・弁護士

○小林公述人 反対の方たちはいわばおどしのように、別に強制でも何でもないのですけれども、こういう強制的なものを持ち込むと抵抗が高まって混乱が広がりますよとおっしゃるのですけれども、これはもう道筋は見えておりまして、まず、先ほど私が御説明申し上げたように、現場の校長先生が自信を持って対応できる、教育委員会のバックアップも強くなる、そして、こういう議論がありましたから、一種国民教育効果がありまして周りの人々が冷静になってくる。そういう中で本当に最後まで頑張ったら、それはその方のそれこそ法に反して罰を受ける自由になってしまうわけでありまして、そういうことが多少あるかもしれませんが、そういう中で落ちつくところに落ちついていくだろうし、また、そういう、混乱が起きるぞというおどしに屈すべきではないと私は思っております。

平沢勝栄自由民主党

○平沢委員 もう一つ小林公述人にお聞きしたいと思うのです。  現実に各地で入学式、卒業式で君が代・日の丸の実施が、一部の人たちの、暴力的な行為も含まれるのですけれども、そういった形で式典が妨害され、そして君が代の斉唱、日の丸の掲揚が実力で阻止されているわけでございます。  一部の人たちはそういう考えかもしれませんけれども、君が代・日の丸を使った式典をやってもらいたいという子供たちもいっぱいいるわけです。そして保護者もいっぱいいるわけです。そして、それは学習指導要領に決まっているのです。それを一部の人たちの暴力行為で式典の変更を余儀なくされているという今の学校教育の現状、これは多数の人たちの思想、良心の自由を妨害しているのではないでしょうか。(発言する者あり)今こちらから、そんなことはないと言いますけれども、それは詳しいことを知らないからですよ。  では、国立を見てください。例えば国立では、ことしの入学式、卒業式、一部の人たちが入り込んで、そして日の丸を校長室から実力で持っていっている、あるいは国旗を、学校に上げるものを、校長先生の行く手を妨害して国旗掲揚をさせないという実力の妨害が起こっているのです、現実に。それは、後でもしあれだったらいつでも差し上げます。ですから、その辺についてちょっとお答えいただけますでしょうか。

小林節慶應義塾大学法学部教授・弁護士

○小林公述人 まず現象面からいきますと、立派に公務執行妨害であったり……(発言する者あり)

二田孝治自由民主党

○二田委員長 私語は慎んでください。

小林節慶應義塾大学法学部教授・弁護士

○小林公述人 あるいは器物損壊であったり、それから公務員同士であれば懲戒事犯であったりするのですけれども、申し上げますが、良心の自由というのは、要するに私たちは自分が理の問題として納得しない、あるいは情の問題として好まない行為を強制されないということであります。しかしそれは、民主主義国家でありますから、法治主義国家でありますから、議論の結果、とりあえず今回はこういこうと国会で決まった法律は守り合うというのがお互いの前提でありまして、違法行為を行う良心の自由はないわけであります。  ですから、反対運動をすることはいいのです。合法な手段です。つまり言論戦です。でも、現場で腕力を使うというのは、法治国家の市民として、それは有効な法令に対するただの違法行為であります。これは別の言い方をしますと、こうですよね。自由な国家ですから、みんな意見が違って当たり前なんです。でも、一つの共同生活をするために、とりあえずは一定期間これでいこうと決める、決める作業に参加して、自分の方が勝ったら従ってもらうよ、あなたが勝ったら従うよという関係だったはずなんですね。それが、自分の方が納得がいかないときは嫌だといって机をひっくり返すようなのは、これはそもそも民主主義と法治主義の理解が違うと思うのです。  ですからそういう意味で、これまで私などは黙っている多数派の父兄として、子供の学校のそういう行事などにおいて、そういうものがあって当たり前なところにない不快な環境にいたわけでありまして、むしろ多数派が良心を縛られている。これは民主主義ではなくて、暴力的少数決の世界に入っている。おかしいと思います。

平沢勝栄自由民主党

○平沢委員 時間がありませんので、上杉公述人に一、二、お聞きしたいと思います。  先ほどこの写真の資料が配られましたけれども、いろいろな思いの方がアジアにおられることは事実だと思いますけれども、これは日の丸に対する反対というより、恐らくこの方々は日本の今の憲法の象徴天皇制にも反対しているだろうと思いますし、日本に対する抵抗、嫌悪感、結局それを象徴するものとして使っているわけでございます。これは例えば、イギリスがユニオンジャックで世界各地に進出していった、イギリスに反感を持っている人はいっぱいいます、それを象徴するものとして結局旗が使われているわけで、これは日の丸の責任というふうにストレートには言えないわけです。この方々に、では象徴天皇制についてどう思うかと聞いたら、恐らく反対するということを言うだろうと思いますし、日本についてどう思うかといったら、恐らく日本そのものを大嫌いだと言うに決まっているだろうと思いまして、これは旗の責任ということではないのではないかと思いますけれども、それについてはいかがですか。

上杉聰関西大学文学部講師

○上杉公述人 それについて、こう思うということではなくて、具体的に聞いてみられる必要があると思うのですよ。私も今おっしゃったような解釈も一部は可能だと思いますけれども、例えば、先ほどの中国のアンケートを見ますと、やはり日の丸と具体的に何がイメージとして結びつくのかというならば、侵略のときの暴行であるというふうになっているわけですね。ですから、そこには、やはり歴史的なものというのはぬぐい去ることができないだろうと思います。もちろん現在のものもあるかもしれませんけれども、それが一体どのような割合であるのかということについては、まさに国会の責任でもって調査をなさる必要があるだろうと思います。それは極めて高いだろうというふうに私は思います。

平沢勝栄自由民主党

○平沢委員 時間がありませんので、最後にもう一つ、上杉公述人にお聞きしたいと思います。  先ほど配られた全国在日コリアン保護者会の資料の中で、京都市において、君が代を歌いたくないという在日コリアンの子供に対して、校長先生が全校児童の前で、強圧的に、立ちなさいと命令した云々という資料が配られました。  やり方の問題はあると思いますけれども、例えば、私の子供はイギリスの小学校に行きましたけれども、イギリスの小学校でユニオンジャックが上がるときには、私の子供は歌いませんけれども、立つのは当然の儀礼として教えられたわけでございます。この子供が今後、日本はともかく、外国に行って、外国の旗の前で座ったままということになりますと、先ほどの林公述人のお話にもございましたけれども、かえってその子供が、何だろう、マナーも知らない、恥をかくことになるのではないか。ですから、やり方の問題はわかりませんけれども、しかし、無理やり口をあけて歌わせるというのならわかりますけれども、立つというのは、日本はともかく、少なくとも外国に行ったらどこでもやっていることでございまして、そういったマナーというか国際的なルールを学校で教えたのだとすれば、これは当然のことをやったのではないかなという気が私はしますけれども、それについてはいかがでしょうか。

上杉聰関西大学文学部講師

○上杉公述人 在日の方たちは、いわゆる侵略戦争のもとで日本に連れてこられたり、あるいは経済的な破壊を向こうで受けたために日本にやってきたという歴史を持っているわけです。向こうに帰りたくても帰れないという歴史を持っておられます。そういう方たちに対して、言うならば、座るか立つか、それが国際的な儀礼となるかどうかということは別として、これは教育の場です。校長先生が子供たちに対して国をどのように教えるのか、ということを教育しなければならない場です。そこにこのような強権的なやり方で臨むということは日本のイメージを、あるいは国を豊かな気持ちで愛していくということを生み出すかどうかということです。  そういう意味で、今の議論の中で子供たちへの教育効果ということを考えても、これを強制力として発動されることがあってはならないというふうな材料として先ほどの資料をお持ちしました。

平沢勝栄自由民主党

○平沢委員 林公述人にもお聞きしたかったんですけれども、ちょうど時間が来ましたので終わります。ありがとうございました。

二田孝治自由民主党

○二田委員長 次に、北村哲男君。

北村哲男民主党

○北村(哲)委員 民主党の北村でございます。本日は、三人の公述人の方々、どうも御苦労さまでございます。  早速でございますが、私は上杉公述人に対して若干の質問をまずしたいと思います。  先ほどから日の丸についてのマイナスイメージのことについてよくお聞きしました。また、このような外国の人たちがかいた絵に日の丸が非常に強烈にかかれていることを見て改めて過去の戦争のことを思い出す次第でございますが、そういう立場から、特に日の丸については、好きじゃないなどの反感のないものを選ぶべきであるというふうなお話もされております。林公述人の方からは、では対案はどうだという話もありましたが、それは後ほどお聞きします。  ところで、上杉公述人のレジュメの最後に、永六輔さんが「論座」という中で書いておられるものを言い残されたので、それについて私から質問したいと思います。  すなわち、永六輔さんは、「日本の周りのアジア世界から「いやあ、いい旗になりましたね」「いい歌ですね」と言われるようなものを新しくつくるか、そうでなければ、今あるものをそう言わせるように日本が変わるしかない、と思っています」というふうに書いておられます。  非常になるほどというふうに私も思うんですけれども、それでは上杉公述人はどのように、恐らく、日の丸については、今選択肢云々という問題ではなくて、日の丸がどうかというふうな形で問われたと思うわけですけれども、そうなると、そうでなければ、今あるものをそう言わせるように日本が変わるしかないということになってくると思うんですけれども、それについて、どのように変わればいいのか、あるいはその変わるための方策についてはどういうふうなことがあるのかということについて、お考えをお聞きしたいと思います。

上杉聰関西大学文学部講師

○上杉公述人 まず前半の問題なんですけれども、いい旗あるいはいい歌を公募する、あるいはそのような法律をつくる余裕さえなく、実際に、日の丸・君が代、これでどうだという議論になっているわけですね。そういう議論が今始まったばかりであって、これをもっと広めていく、そういうことになれば、国会の場でパフォーマンスをして、みんなで決められた国歌をあるいは国旗を守りましょうという雰囲気もつくられてくるだろうと思うんですね。それが強引に進んでいることを非常に恐れるということ。  もう一つは、今御質問の中心でありますけれども、どのようにすれば日の丸・君が代のイメージを変えることができるか。特に君が代については、これはイメージの問題ではなくて純法律的な問題としてあると思いますけれども、日の丸については、日の丸の法制化の議論と並行して一体何をするかということが問題ではないかという気がするんです。  つまり、あの侵略と並行して日の丸が使われたわけです。だとするならば、日の丸を法制化する議論と並行して、国会として一体何を行うのか。しかも、ダーティーなイメージが、マイナスのイメージが侵略戦争との関係であるならば、言うならばそれを回復するような措置を国会として検討する、あるいは、検討し始めるということがかわりでなければ、日の丸のイメージが変わっていくということはないだろうというふうに思うわけですね。  具体的にはそこは国会の方で御検討いただきたいというふうに思いますけれども、例えば、アジアの被害をきちんと調査しようという動きが超党派の議員連盟で進められているというふうに伺っております。そういうことが並行して行われる。あるいは戦後補償。ずっと慰安婦の方たちに対する戦後補償の問題は国連の勧告としても出続けているわけですが、そういうことを御検討いただくとか、何かを抱き合わせにしなければ日の丸のイメージが恐らく変わっていくことはないのではないかというふうに思っております。

北村哲男民主党

○北村(哲)委員 ありがとうございました。  私自身も、日本のアジアに対する戦後処理が今なお不十分であるというふうには考えております。また、被害を受けられた国の人々に対して、日本は変わったんだという納得を得られる処理が必要だと思っておりますし、しかし一面、将来に対しては、友好関係を新たにつくり出すということも必要であると思っております。  特に、例えばカンボジアとかバングラデシュにはためく日の丸は、恐らくカンボジアの戦後復興の象徴であり、そしてバングラデシュにはためくものは国際支援の象徴として、恐らくカンボジアやバングラデシュの人たちは日の丸をほとんど平和のシンボルあるいは支援のシンボルとして受け取っておることもまた事実であろうと思っておりますので、日本の外交関係がそのような形に発展するということを私は望んでおるわけでございます。  ところで、君が代と日の丸の法制化の動機が世羅高校の校長先生の死であったことが官房長官によって明らかにされておりますけれども、先日沖縄での公聴会を行いました。そこで、私どもの推薦した福地曠昭さんという沖縄人権協会の理事長さんの公述人が、法制化の動機を校長先生の自殺とされていることは間違いである、死へ追い込んだのは指導要領による強制であるし、解決の方法は現行の指導要領から法的拘束力を取り除くことですというふうにはっきりと言っておられたということが印象的でありました。  この論法でいきますと、法制化によって法的拘束力を与えることは、強制をさらに強めて同じような悲劇が逆にふえるんではないかというふうな考えも成り立つと思いますし、そのように言っておられる方も数々いらっしゃいます。上杉先生も、指導要領の緩和がない限り法制化は強制力につながるというふうな危惧を先ほど表明されました。  私は、ちょっと極論なんですけれども、日の丸・君が代が教育現場に緊張をもたらして、子供たちや先生方がそのはざまで方向性を失って、またある種のレッテルを張られたりするということの方が被害が大きいような気がします。  先生のおっしゃる指導要領の緩和とはどういう意味なのか。私は、はっきり言って、そんなものはもうなくしたらどうなんだろうかというふうな考えも持っておるわけですけれども、先生のお考えを聞きたいと思います。

上杉聰関西大学文学部講師

○上杉公述人 学習指導要領について、私は法的な拘束力をとにかく外すべきだろうというふうに思います。文部省がそういうものをつくってはいけないとかいうことまで言えるかどうかということについてはわかりませんが、少なくとも法的な拘束力は外すべきだろう。  特に、いわゆる教育というものは、教育現場における先生と子供たちの対話の中で進められることです。そこに法的な措置が入っていけば、これは当然ぎくしゃくしてくるということが一つあります。  それともう一つは、卒業式であれ入学式であれ、それは教育の場なんだということを考えていただきたいと思うんです。そこで日の丸や君が代が強制的に行われていくということは、教育の隅々にまでそういう強制が働いていくということになります。  特に、内心の自由といいますか、良心の自由といいますか、我々は思想の自由ということを一応憲法によって保障されているわけですけれども、国歌に対して、国旗に対してどのような態度を示すべきなのかということについて、それは諸外国にはいろいろと作法があるだろうと思います。日本では、言うならばそういうものを我々がどのようにしてつくり出していくのかという過程にあるんだろうというふうに思うわけですね。それを、言うならば内心の自由を十分保障しながら、どのような合意を、コンセンサスを国内的につくり上げていくのかということが一番重要な問題だと私は思いますし、最も内心の自由が保障されるべき教育現場で強制力が、これを混乱と言われております、私はこれが結果として混乱になるかスムーズにいくかどうかは存じ上げませんけれども、そこで言うならば内心の自由が、良心の自由がどのように保障されるのかということを一番真剣に考えていただきたいなという希望を持っております。

北村哲男民主党

○北村(哲)委員 どうもありがとうございました。  それでは、林公述人にお伺いしたいと思います。  今私が御質問したいのは定着しているかどうかという問題でありますが、先ほどから先生は、御自身も国歌君が代を歌ったこともないし日の丸を掲げたこともない、普通の人もほとんどそうだ、学校へ行ってもほとんど知らないというふうな言い方をされました。事実、私自身もそうでありますが。  そういう状態で、片っ方では日の丸・君が代は既に定着しているんだというふうなことが言われております。私は、それは一つの論法というかロジックにすぎないのかなという気もするんですが、先生のお考えとして、今のような状態、アメリカなら子供が九〇%起立する、しかし日本では一七%しかしない、君が代の歌詞を知っている人はほとんどいないというふうな状態を、これが日の丸・君が代が定着しているというふうに言っていいものかどうか、その点についてのお考えをお伺いしたいと思います。

林四郎エッセイスト

○林公述人 私は定着しているというふうに考えておりますが、その定着の仕方というのは、まず公官庁には、地方どこへ行っても日の丸が掲げられております。それから、国際的なスポーツ競技とかイベントとか外国の公賓等が来られるときには必ず日の丸が出てまいります。そういう意味で定着しているというふうに考えておりますが、一般の家庭、昔のように、戦前、私たちが子供のころは日本じゅう多分どんな家にも日の丸はあったと思いますし、それからまた、学校に行きますと朝礼で必ず君が代を歌った経験がございますが、そういうような形で今日国旗・国歌が定着しているというのとはちょっと違うと思います。  多分それは、マッカーサーの指令といいますかあれで、日本から一時国旗が姿を完全に消しました。皇居とか国会議事堂とか四カ所くらいは残されたわけですが、その後二年ぐらいたってから日本の各家庭でも国旗を使ってよろしいというおふれが出たんですけれども、その段階ではもう日本人は完全に去勢されたような状態になっていて、私も実は軍隊から帰ってきて日の丸を焼いてしまいました。その理由は、憲兵が来て、日の丸を持っているとしょっぴかれるよという流言飛語のようなものが流れまして、これはやばいというので、写真から軍服から軍刀まで全部焼却した経験がございます。その後遺症が僕は今なお日本の中に続いているのではないか。私は、これはマッカーサー・マインドコントロールとしばしば書いておりますけれども、依然として日本の中にはマッカーサー・マインドコントロールがあって、何となく日の丸・君が代を避けて通りたいという空気があることだけは事実ございます。  しかし、現実に公官庁その他を見ますと、日の丸は定着しているというふうに考えてよろしいのじゃないかなというふうに思っております。  以上でございます。

北村哲男民主党

○北村(哲)委員 私も何と言っていいかわからぬ、選択肢がないといいますか、日の丸しかないんですから、しかもいろいろな場面で日の丸が使われていることは事実ですので、そのような評価も結構だとは思います。  ところで、もう時間がありませんので、小林公述人に一点だけ。  慣習法の問題でございますが、成文法というのは、ない状態からあるものをつくり出すために立法事実あるいは法源とかそういうものでつくられるものですけれども、この問題は、いわば慣習法的にもう既に存在する。慣習法の方が成文法よりも法源は強い、あるいは立法事実は強いというのが普通の考えだと思うのですけれども。  というのは、逆に言うと、成文法は、ないところからあるものをつくるわけですから、逆に、ある状態、または、それこそ政権がかわればころっと変えることも自由にできる。慣習法はそうはいかないわけですね。ですから、むしろ成文法にする方が弱いというか、では政権がかわったらころっと変えますよと。慣習法はそうはいかないです。政権の交代とは関係なく存在します。  その点について、成文法にするとかえって弱くなるのではないか、政争の材料にされてしまうのではないかということの危惧というか考えも成り立つと思うのですが、先生はどのようにお考えでしょうか。

小林節慶應義塾大学法学部教授・弁護士

○小林公述人 これはやはり、例の校長先生の自殺のような異常な出来事がきっかけとなってこういう変則的な形になっておると思うのですが、確かに御指摘のとおり、慣習法の方が事実としての裏づけは強いわけですね。でも、ならばこそ、そういう事実としての裏づけの強い慣習を念のため運用の便のために形に直しただけですから、これは逆にますます強くなって、むしろ揺るがぬものになっていくと私は考えます。

北村哲男民主党

○北村(哲)委員 それでは、時間が参りましたので終わります。どうもありがとうございました。

二田孝治自由民主党

○二田委員長 次に、河合正智君。

河合正智公明党・改革クラブ

○河合委員 公明党の河合正智と申します。  本日は、公述人の諸先生におかれましては、御多用のところ、また非常に、我が国にとりまして難しい課題につきまして率直な御意見をお述べいただきまして、感謝申し上げております。  私ども当委員会は、一昨日、昨日と、一班は沖縄そして広島へ、第二班は札幌、金沢へと地方公聴会に出向きまして、貴重な御意見を種々いただいてきたところでございます。私は、委員長とともに沖縄、広島へお伺いさせていただきました。  その中で、第一日目の沖縄で公述人の方からこういう御意見が述べられました。それは、日の丸は第一級の軍旗としての汚点を持つ旗だ、またある方は、十万人以上が殺された沖縄戦の体験は忘れることができない、まさに日の丸・君が代を押し立てての戦争だった、このように公述されました。  そこで、林公述人にお伺いさせていただきたいと思います。  と申しますのは、林公述人、「サピオ」で論述されておりますのを私も拝見させていただきまして、林公述人はみずからお述べになっているわけでございますけれども、個人的な体験になるが私は、敗戦時、一九四五年の八月、江田島の海軍兵学校の生徒として広島に原爆が落ちるのを目撃したとお書きになっておられます。その意味におきまして、今質問申し上げる私よりもさらに、人生のある時期、衝撃的な場所においでになり、そしてまた人生のある意味ではすべてをこの一九四五年の八月というものを起点に大きく変遷なさったのではないかと推察申し上げまして、この沖縄で私がお聞きしました公述人の御意見に対して林公述人はどのようにお考えか、まずお伺いさせていただきたいと存じます。

林四郎エッセイスト

○林公述人 沖縄だけでなくて、東京も大空襲で大勢の方が犠牲になっておりますし、米軍によって直接日本本土が攻撃され、占領されたというのは沖縄だけだと思いますが、そこで犠牲になられた皆さんに対しては心より哀悼の意を申し上げたいというふうに思っております。  戦争というのは、どんな国でも国旗を前面に立てて戦うというのは当然のことでありまして、私は、だからといって、国旗に罪があると言うとおかしいのですが、国旗に責任があるというのはちょっと論理が異なるのではないかなというふうに思います。そのときそれを指揮した軍の上層部とか、やみくもに命令に従わざるを得なかった兵隊さんたちとか、そういう人たちの中にはやはりいろいろ複雑な思いがあったと思いますが、どうもそれを国旗のせいにするというのは私には理解できないと思います。

河合正智公明党・改革クラブ

○河合委員 大変ありがとうございます。  私もうかがい知ることができないそういう衝撃的な体験をお持ちの林公述人が、「なぜ各家庭には国旗がなくなってしまったのだろう。なぜ自分たちの国旗や国歌を誇らしげに掲げ、かつ歌わないのだろう。なぜか日本だけで通用している”常識”について考えていくと、いまの日本人がかかえる問題が明らかになってくる。」とお述べになっており、また、みずから調査されました高校生との面接調査の結果、日本の国旗と国歌はかくあるべしと具体的になぜこの国で提案されないのだろうという先ほどの公述については、私ども、非常に重く受けとめさせていただきたいと存じます。  次に広島に参りまして、広島では、唯一の被爆国である日本の原爆投下を受けました二カ所の中の一カ所ということもございましたし、また学校現場で校長先生がお亡くなりになるという衝撃的な事態も踏まえまして、大変緊張した議論が続いたわけでございますが、そこでこういう御意見が出されました。そのことにつきまして、その意見に対しましてどのようにお考えでございますか、小林公述人にお伺いさせていただきたいと思います。  広島の公述人がお述べになりました見解は、こういう見解でございました。要すれば、学校の現場をその方はこのようにとらえておいでになったわけでございますけれども、国旗・国歌を法制化することによりまして学習指導要領に根拠づけを与える、そしてその学習指導要領によって教師は強制される、それは教えられる生徒の思想・良心といった問題に影響してくるのではないかという論述でございました。  私はこれは非常に厳密に考えなければいけない問題だなと思いましたのは、教師とそれから生徒の間にとりまして、今回の法制化というのは、教師にとって強制なのか、教師の思想・良心の自由が侵害されるのか、教えられる生徒にとりまして強制されるのか、思想・良心の自由が侵害されるのか、この辺のところが非常にあいまいなまま議論が進んできていると思いますけれども、日本の憲法学界にありましてなかんずく人権について鋭い論述を張られております小林先生に、ぜひともこの点についてお伺いしたいと存じます。

小林節慶應義塾大学法学部教授・弁護士

○小林公述人 大変いいケーススタディーになると思うんです。ただ良心の自由だけではなくて、民主主義とか法治国家についてよい教育ができると思うんです。  私がもし反対派の教師であったら、こう教えます。  私は、自分の自由意思で奉職し、教師という公務員になっている。であるから、法治国家の一国民として、学校教育法、地方自治法、それから学習指導要領、最高裁判決、そして今回の命令の根拠にある国旗・国歌法、これは国会でみんなで議論して決めたことであるから、有効である以上守る。したがって、私個人の良心は別として、自分の責任ある選択としてこの職業を選んだ以上、この地位に伴う責任は果たす。だけれども、私個人としては、これは嫌いです。だけれども、こういう儀式ではこういうものを使います、これは制度ですから。これが民主主義です、覚えておきなさい。嫌であれば、暴力を使わずに、反対運動で解消する努力をしなさい。  君たちは、それこそ子供たちは、我々雇われている教師と違うのだから、自由人なんだから、自分、といってもまだ未熟ですから親と相談して、自分の意思を決めなさい。そして、そういう儀式において日の丸があって、敬礼をしたくなければしなければいい。したい人はまた、びくびくしないですればいい。そして、君が代を歌いたい人は、この際歌ったらいい。おびえることはない。歌いたくない人は歌わなければいい。そのことによって、だれも、だれに対しても、差別のようなことをしてはならない。これが自由というものだということを教えたらいいと思うんですね。  これで先生の御質問に対しては、両方お答えになっていると思いますけれども。

河合正智公明党・改革クラブ

○河合委員 大変ありがとうございます。  その点につきまして、広島大学の副学長の先生は、大学で物理をお教えになっている先生でございまして、このように申されておりました。  小中学校で、そもそもまだ可逆性に富んだ時期に、そういう思想、良心の自由と国旗・国歌の強制ということを自分で全部判断しろというのは無理なのではないか。しかし、大学生になれば、それは小中学校の時代に教えられた国旗・国歌というものが自分たちにとってどういうかかわり合いがあり、自分の思想・良心に従って行動するということはできる。  そういう仕分けをしておいでになりましたけれども、そういう公述に対しましては、同じく大学で教鞭をとっておいでになり、多くの子弟を訓育されている小林先生としては、その辺はどのように整理したらいいのか、お教えいただけますでしょうか。

小林節慶應義塾大学法学部教授・弁護士

○小林公述人 それは、大学生は原則十八からですけれども、本当は二十歳から成人ですが、そこは慣行上、大学に入ったことによって大人扱い、これは完全なる人権の主体と見ていいと思う。御自分で判断しなさい。子供は、さっき私が申し上げたように、児童の権利条約にもありますように、まだ未熟であるからという条件つきの人権の持ち主であります。それは原則どおり民法で親の親権がございますから、責任をとりつつ指導するのが親の立場でありますから、先ほど申し上げましたように、子供につきましては、児童生徒のたぐいにつきましては、御両親と相談して態度を決める、これも人権の持ち主としてのよい訓練ではないかというような説示をして、判断させたらいいと思います。  以上でございます。

河合正智公明党・改革クラブ

○河合委員 大変ありがとうございます。  上杉公述人にお伺いさせていただきたいと思います。  私も、この内閣委員会におきまして、いわゆる在日韓国人の皆さんの恩給法の問題について質問いたしまして、これは官房長官から、今世紀中に起きた問題については今世紀中に解決すべきであるという非常に前向きな答弁をさきの内閣委員会で得たところでございまして、在日韓国人の皆さん、またアジアの皆さんのことについては、当委員会は格別議論をしていかなければいけないと思っている一人でございます。  しかし、この国旗・国歌、「国旗は、日章旗とする。」「国歌は、君が代とする。」というこの二つの条文だけで、旧憲法下において行われました日本のすべてを論ずるということは、アジアの中における日本というものの議論にとっては、私は、そこで議論しているようで、かえって矮小化した議論になってしまうのではないかと思いますけれども、その点についてどのようにお考えでございましょうか。

上杉聰関西大学文学部講師

○上杉公述人 先ほど私が申し上げた、日の丸とセットでそういうことを議論すべきだということに対する御質問だと理解しておりますが、もちろん別な問題であります。ですから、それはそれとして、それぞれにきちんとしたことが行われる必要があると思います。そういう意味では、日の丸をきれいにするためだけに、このことが議論されるわけでもありません。  ただ、問題なのは、結局、今行われている日の丸・君が代の議論が、これまでの日本の、特に戦後五十年をめぐる議論前後から、ほとんど不毛な形で、何の実りもほとんどもたらさないで、その結果として、この日の丸・君が代が決められようとしている現実があるわけですね。そういう意味で、この問題は、言うならば、そのアジアに対する戦争責任の問題と全く不可分ではありませんよ、その不十分さが、今実はこの日の丸・君が代への不満として出てきているということだと思います。  ですから、御指摘のとおり、これは分けて議論すべきことだと思いますけれども、そのことをはっきりと意識しておかないと、日の丸・君が代は非常に悪いイメージとして固定していくだろうということを憂えるものです。  以上です。

河合正智公明党・改革クラブ

○河合委員 三人の公述人の先生におかれましては、貴重な御意見を承りました。ありがとうございました。

二田孝治自由民主党

○二田委員長 次に、塩田晋君。     〔委員長退席、植竹委員長代理着席〕

塩田晋自由党

○塩田委員 自由党の塩田晋でございます。  三人の公述人におかれましては、それぞれの御主張を率直に、明快に述べられまして、ありがとうございました。  私は、まず小林節公述人にお伺いいたします。  小林公述人の御主張、御意見に対しまして、私は全面的に賛成でございます。ありがとうございました。  その中で、一、二問題を指摘いたしまして、公述人の御意見を伺いたいと思います。  一つは、公述人が言われました、慣習法として既に定着している国旗・国歌の問題としてとらえておられますが、今提案されております法律案では、「国旗は、日章旗とする。」「国歌は、君が代とする。」という規定の仕方でございます。「とする」というのは、この法律ができて初めてこの国の国旗・国歌を制定するんだという表現になっておると思うんですね。  慣習法で、もう千年以上前からずっと使われてきた国旗・国歌であるということであれば、今から新しく制定をして国旗・国歌とするというのは適切でないんじゃないかというふうに思いますが、この点についてどうお考えか、お答えをいただきたいと思います。これが第一点。  もう一点は、この場でも国旗・国歌が議論されましたが、国旗を日章旗という発言は、今の河合委員が言われただけで、あとの方は、ほとんど日の丸・君が代ということで言われたと思うんです。日章旗という言葉をほとんど使われていない。いわんや慣習法としては、恐らく明治前には使われていなかったんじゃないかというふうに思いますが、この表現を今回の法案の中に入れることについてどうお考えか、お伺いいたします。二点です。

小林節慶應義塾大学法学部教授・弁護士

○小林公述人 現に慣習法として確立して存在しているものを改めて何々とするというと、確かにここから始まるみたいでおかしい、御指摘のとおりだと思うのですが、これは立法技術の問題として、言葉の使い方ですが、「とする」というのは、先例をすべて見たわけではありませんが、確認的意味にもとれると私は思うんです。  慣習法として確立されているという立場は私は正しい認識と思いますけれども、でも、ここまで激しく争われているときに、争いの中で、確認するという意味で、この「とする」というのは、「である」が正しいのは同感でございますけれども、「とする」でも、これは確認的意味ですよというふうにとらえることも私はできると思うんです。ですから、先生がきょうこう御発言なさって、政権与党なわけでありますから、それが議事録に残っていくことの意味は大きいと思うんです、一番いいのは附帯決議か何かなんですけれども。  繰り返します。「とする」というのはやはり、狭い意味と広い意味と、言葉には使い方の幅があると思いますので、私は、「とする」でも先生の御趣旨でいけると考えております。  それから、日章旗という言葉は、私のような戦後生まれにとって、なじみがないけれどもなくはない。これも先生御案内のとおり、日の丸というとこれだけ指すんですかというような議論になりかねないので、セットであの旗を日章旗というのは、これまた立法技術の問題としては丁寧であると思うんです。それで、我々の日常生活ではいわゆる日の丸のことです、これも矛盾なくみんなが使える言葉遣いだと思いますので、私は、そういう理解の上で、この日章旗という言葉にこだわらない立場をとります。  以上でございます。

塩田晋自由党

○塩田委員 「とする」ということが確認的な意味もある、とれるということでございますが、そうであるならば、「である」ということでなしに、「とする」ということでそのまま表現するとすれば、慣習的に定着したとか、何かそういう言葉があったらはっきりするんじゃないかと思うんですけれども、これは私の個人的な意見でございますので、この辺でとめたいと思います。  次に、上杉公述人にお伺いいたします。  私は、まず、上杉公述人は、世界各国、百八十以上あると思いますが、各国がそれぞれ国旗を持ち、あるいは国歌を持っているという事実、それに対して各国の国民は尊敬をし、そうであることを認めて尊重しているという事実が全世界的にあるということについて、どう認識しておられますか。お伺いいたします。

上杉聰関西大学文学部講師

○上杉公述人 そういうことが一般的にあるということは事実だろうと思います。  ただし、言うならば、直接非常に深いかかわりを日本との関係で持った諸国がまたあるわけです。そこにたくさんの人たちがこの日章旗に対する嫌悪感を持っているという事実もあるわけです。それを、尊敬しなさいと我々は命令するわけにはいきません。それを我々が掲げることによって、我々自身がまた誤解を受ける、特に若い世代が誤解を受けていくということがあるわけですね。そういう意味で、言うならば、尊敬しなさいよ、お互いの国の、日章旗を認めなさいよということを、我々が今そういう不快感を持っている方がいらっしゃる中で、あえて言うことの挑戦的な意味ですね。  先ほども、私の持っているわずかなデータであっても、中国やマレーシアやシンガポールや在日、あるいは韓国、朝鮮の方たちがどのような思いを持っているかということは簡単にうかがい知ることができるわけです。そのようなとき、あえてそういうものを諸外国に対しても押し出していこうということの中で、相手の諸国の方々への配慮だとか思いというものは一体どのようになっておりますかということであります。  以上です。

塩田晋自由党

○塩田委員 私は、先ほど来、上杉公述人の述べられたことに対しまして、怒りを持って、抑えながら質問をしておるわけでございます。  それだけ心得ておいていただきたいと思いますが、まず日本の国旗・国歌に対して非常に反感的な、反対の御意見、またその根拠も言われたわけでございますが、新しいものをつくるのにリサーチをすべきだと、つくるべくリサーチをすべきだというお考えを言われました。  リサーチをするとすれば、どういう方法でやるかということもありますが、やはり林公述人がおっしゃいましたように、反対するからにはそれにかわる代案、それを示さないとリサーチにもならないのじゃないかと思うのです。また、反対されるからには、そういう代案をイメージしながら言う必要があるのじゃないか。どういうものをイメージしておられますか、お伺いいたします。

上杉聰関西大学文学部講師

○上杉公述人 私は、例えば桜の花をイメージできるような国旗を提示するということが一つあり得るだろうと思うのです。これは、我々は、日の丸よりははるかに桜の花が日本社会の中で定着しているだろうと思います。毎年春になりますと、我々は花見が好きです。そういう我々の心情にも実にぴったりくるし、そして、それが既に韓国やニューヨークなどにも植えられて、日本の我々の心情、美意識を代表するものとしてもう既に広がっているわけですね。  例えばそういうものを言うならば日本の国旗として提示して、これは私の意見です、それ以外にも三つ四つあっていいのじゃないでしょうか。皆さんでしたら一体どれが一番お好きでしょうかということをリサーチするということは、私、十分あり得ると思うのです。  ですから、そういう意味で、今の法案の提出の仕方は、日章旗ではどうですかということだけです。幾つかの案をきちんとここで議論できるような、そういう法案の提出の仕方をしていただきたいし、まだそういうところに議論を進めていくことは可能だろうと思いますので、ぜひ、おっしゃるように、そういう法案に変えていただきたい。つまり、国旗・国歌の制定法というものをつくられてはいかがでしょうか。

塩田晋自由党

○塩田委員 国旗・国歌は各国あるということは認められましたが、それに対しての態度として、尊重する、あるいは尊敬する、こういうことはよろしいですね。  私は、いろいろ御意見を伺いましたけれども、日本が敗戦国として今日ここまで立ち上がった、その中で国旗・国歌の問題、いろいろ議論があります。やはり、戦後教育を受けられたといいますが、戦後の教育、アメリカ軍の占領政策による教育がここまで行き渡ったか、今もなおマインドコントロールが続いている。あるいは、それはアメリカの政策でもあったわけでございますが、マルクス、レーニンとかあるいはスターリン、やはりそういった亡霊が今なお心情を支配しているなというふうに私は感じます。  それはそれといたしまして、中国の国歌は御存じですか。お聞きいたします。

上杉聰関西大学文学部講師

○上杉公述人 はい、存じ上げているつもりです。

塩田晋自由党

○塩田委員 それは非常に平和的なものであり、また尊敬すべきものであり、国歌である限りは、中国へ行って、国歌が演奏されたときは直立不動の姿勢で聞かれると思いますが、内容は御存じのとおり進め進めですね。敵を倒せ、砲弾をくぐって立ち上がれ、進め。まさに戦いの歌じゃないですか。これもやはり尊敬されますね。

上杉聰関西大学文学部講師

○上杉公述人 中国の今の国家建設が、日本の侵略に対する抵抗の中で生まれたという事実があります。そういう意味では、そういう中でつくられた歌がそういうものであるということは、言うならば必然的なものであったのだろうというふうに思うのです。  問題は、そういう戦いの歌がいいかどうかということについては、これは一つは、言うならば日本と中国の歴史を語っているわけですね。我々は、そういうものの中で歴史を思い出すわけです。  とするならば、中国の方たちが日の丸や君が代を見ながら歴史を思い出すのもまた当然のことではないでしょうか。そこに対して、決まったことについて我々が敬意を払うということは当然でありましょう。中国の方たちが、こういうことに対して発言を控えていらっしゃることもまた当然だろうと思います。ただし、内心は違うということを御理解いただきたいと思います。

塩田晋自由党

○塩田委員 おっしゃるとおりで、中国は中国として決められた国歌でありますから、これは尊敬をし、歌う。その意味をいろいろ考えながら歌う。歌えれば歌う、聞くことは聞く、これは当然のことでありますし、各国それぞれ国旗を持ち、国歌を持っておるわけですから、それはそのとおりだと思うのですね。  我々が、今あなたもおっしゃったような、日章旗を見て侵略のシンボル、軍国主義の象徴だというようなことであるならば、そうであるならば、アメリカの星条旗は、原爆を落とした国でしょう。あの星条旗を見て、原爆を落とした、我々を虐殺した張本人だと皆思いますか。そんなことを言う人もまずないでしょう。あったとして、アメリカへ行って言えますか。  それはそれとして、中国もやはり五星旗を持ってチベットも行った、ウイグルも行っている、蒙古も行っているじゃないですか。同じことをやっているじゃないですか。それに対してどう思われますか。     〔植竹委員長代理退席、委員長着席〕

上杉聰関西大学文学部講師

○上杉公述人 アメリカの星条旗に対して、あるアメリカ人の高校の先生が、やはりそれまで一生懸命子供たちに対して星条旗を教えていたわけですが、ベトナム戦争を経過して私はその意欲を失ったということを語って、以後そういうことをしなくなったという経過があることを物の本で読みました。  言うならば、国旗・国歌というものが、時の国の行うことを通じてさまざまなイメージを与えられるわけですね。そういう点で、おっしゃるように、中国は、また日本はという、相互に尊重するということは基本的な外交姿勢としてはあるだろうと思うのですね。  しかしながら、ちょっと御質問の意図が不明確で、私の次のあれでなっているかどうか、ちょっとわからないのですけれども、それぞれがそれぞれの国で、相手の国の国旗・国歌に対していろいろな思いを持つことを、言うならば我々が禁じることはできないわけですね。そして、私たちがこういうものを通じて、少なくとも友好関係を維持しようというものであるというのが国旗や国歌の持つ意味でもあろうと思うのですよ。それを、一体なぜ相手の気持ちを大事にされようとしないのかということで先ほどからるる述べさせていただいているわけですね。

塩田晋自由党

○塩田委員 終わります。

二田孝治自由民主党

○二田委員長 次に、児玉健次君。

児玉健次日本共産党

○児玉委員 日本共産党の児玉健次です。  今、国旗と国歌の問題をめぐって、賛成、反対それぞれの立場から非常に活発な、濶達な国民的な議論が始まりつつあります。これはすばらしいことだ、そう私は考えています。政治の務めというのはこういった国民的な論議を十分に保障するところにある、それが私の考えです。日本共産党がこの法案の審議が始まるのに当たって、国旗・国歌に関して調査する委員会を国会に設置するように提起したのもそういう趣旨からでございます。  まず、林公述人に御質問したいと思います。  先生は、なぜ反対する政党は反対するだけで国旗・国歌を提示しないのか、それが不思議だ、最後にそうおっしゃいました。私たちは、十分な国民的な論議をしっかりと粘り強くやっていけばこのことについて国民的な合意が可能だと考えています。そのような合意がなされたときに法制化して、そして法律にしたとしても、国民、まして教育の場には決して押しつけない、そういう道筋が最も適切だと考えています。  そういう立場から、政党が国旗・国歌、これがいいというふうに提起する道を私たちは選びません。そうではなくて、国民的な論議が十分に保障され発展されていく中で国旗・国歌について合意が実ること、私たちはその道を選びたい、こう考えています。  そこで、公述人にお伺いしますが、先ほどお話の中でありました「サピオ」、五月のものと去年の八月のものを拝見いたしました。  五月のものの中で「仕方なく歌われては国歌として不適格」、そういうふうに言われて、私の趣旨は、我が国の過去の戦争の歴史とは関係なく、一にも二にも、この君が代という曲が何となく暗くて歌いづらく、歌い終わっても元気が出ないということだ、だから率直に言って余り歌いたくない。  こういう心情を私たちは大切にしたい、歌いたいと思っている人の心情も含めてそう思っています。  そこで、林公述人が去年の八月で提起された、何点かの候補作の中から国民投票で決定してもよい、国民的論議を呼ぶためにはよい方法だろう、そうおっしゃって、変えるとしてもすべての国民の合意を得るには時間がかかると思う、こうお述べになっていますが、このお考えについては今もお変わりはないでしょうか。

林四郎エッセイスト

○林公述人 今、今回の国旗・国歌について国民的な盛り上がりがあるというお話がありましたが、私はそういうふうには全く受け取っておりません。  実は、新聞、テレビでは、非常にまちまちですが、数字が挙げられて、いかにも既に過半数の賛成があって今にも決まりそうだというようなニュアンスがありますので、私の女房などはもう国旗・国歌決まったのでしょうなんというのんきなことを言っておりますが、実際には、私の周辺で国旗・国歌論議に関心のある方はほとんどいないというのが実は私の感想でございます。  それから、先ほど「サピオ」の私の記事についてお話がございましたが、現実に私は、君が代については、この曲はしんどい曲だなという実感を持っております。特に低音で始まる歌というのは、私たちのような老人には物すごく歌いづらいのです。そして、これが例えばカラオケで歌われるかといったら、まず歌われないだろうというふうに思います。そういう意味で、これは間違いなく式典歌であろうというふうに私は受けとめておりまして、それが国歌であって十分ではないかというのが私の考え方なのです。よろしいですか。  実は、昨年の八月、私が書いた時点は、先ほども申し上げましたが、たまたまオリンピックとかサッカーとかいろいろありまして、非常に盛り上がった時期だったものですからあのように感じましたが、私は、あくまで逆説的に、反対される皆さんはぜひ具体的な案を出していただきたいというのが実は私の趣旨でございます。

児玉健次日本共産党

○児玉委員 ありがとうございました。  小林公述人にお聞きしたいと思います。  日の丸・君が代に対して少なくない国民が抵抗感を持っている。これはもう周知の事実でございます。私は、少なくない国民が抵抗感や批判を持つことは、これは個人の好みの問題ではない、歴史的な根拠があり、日本国憲法に照らして根拠があると考えています。日の丸・君が代が、戦後政治の出発点である侵略戦争に対する痛切な反省、そして国民主権という憲法の大原則と相入れない問題点を持っている、そこに根拠があると思います。  そこで、先生の先ほどの御意見とも関連してお聞きをしたいわけですが、こういった客観的な根拠がある場合、すべての国民にはみずからの意見をあるいは穏やかに表明し、ないしは沈黙することで表明をする、このような自由が保障されていると思います。学校も例外ではありません。  そこで、第一に子供への強制の問題ですが、ドイツで今から二十六年前に、公教育の場での子供たちの意見の尊重についてこういうことが宣言されました。子供が自己の意見を自由に批判的に、しかしながら他者の尊厳と確信を尊重しつつ表明することを学ばない限り、責任のある市民の教育は不可能である。  小林公述人のお言葉の中で、静かな多数者というお話がありましたが、私は静かな少数者です。そして、子供たちも文字どおり他者の尊厳と確信を尊重しつつ静かな少数者として意見を表明する、そのことが結局子供たちの人格形成に非常に寄与する、こういう見地についてどういうお考えか、それが一つです。  もう一つは、今度は教師の問題でございます。私も教師をしておりまして、数年がかりで子供たちや校長さんを含めてよく議論をして、入学式、卒業式から穏やかに、静かに君が代・日の丸に御遠慮いただいた経験を持っております。  そこで、教職員の場合、内心の自由、沈黙する自由、このことについて国家公務員の宣誓でこう言っていますね。「私は、ここに、主権が国民に存することを認める日本国憲法に服従し、且つ、これを擁護することを固く誓います。」私は、国民全体の奉仕者として、そのことを誓う。  これは決して公務員の良心の自由や、内心の自由の穏やかな表明を妨げてはいないだろう。宮沢俊義氏自身が今のことに関連して、もし「公務員に対して、共産主義を否認すること、または、天皇制の天壌無窮を信ずることを宣誓させることなどは、」「憲法に反する。」と。  もちろん先生はそのようなことをなさろうと思っていないと思うけれども、公務員の宣誓というのは、全体の奉仕者として公正であること、そして恣意的でなく、良心に従い、真理に従うこと、そこから静かな少数者としての行動が当然出てくる。それが学校を学校の場にするのではないか、私はそう考えるのですが、お考えを聞きたいと思います。

二田孝治自由民主党

○二田委員長 まことに申しわけございませんけれども、公述人の皆様方に申し上げますけれども、答弁は、時間の関係上、簡潔にお願い申し上げます。  どうぞ。

小林節慶應義塾大学法学部教授・弁護士

○小林公述人 私、先生が今お述べになった立場、全面的に賛成でございます。  そういう意味では、教師としても、子供としても、他者の尊厳、人格、意見を尊重しながら自己主張するというのはよろしいのですけれども、ただ、今回の前提になっているさまざまな事例は、冷静でない、時に暴力を伴う反対派をどうするかという問題であったと思うのです。これが一点。  それからもう一つですけれども、公務員として教師が宣誓しまして、憲法擁護義務及び全体の奉仕者ということは、これは法治国家でありますから、この憲法体制下できちんと審議して、国会で決まった法律は有効である以上それに従いつつという意味でございますから、それに対して、職務命令違反とか、あるいは不退去罪になるとか器物損壊になるとか、そのような抵抗をすることまでは含まれていない。先生もそういう人々にくみしているとは思いませんけれども、そのように理解しております。

児玉健次日本共産党

○児玉委員 上杉公述人にお伺いしたいと思います。  日本における国旗・国歌をめぐる最近の動向について、アジア、とりわけ朝鮮や中国の最近の新聞論調が随分我々の目に入ってまいりますが、この新聞論調について公述人はどのように受けとめていらっしゃるか、これが一点です。  最後の質問は、議論をしている中で、君が代・日の丸が侵略戦争をしたわけではないというとんでもない議論が出てきまして、これはもうだれもそんなことは言わないのですが、しかし、すりかえとしては今国会でこの主張がまかり通っているのです。そのことについてのお考え、以上二点お願いします。

上杉聰関西大学文学部講師

○上杉公述人 今のアジアの新聞に出てくる論調をどのように考えるかという御質問については、私は非常に控え目だろうというふうに思っております。特に、中国の、例えば先ほどのアンケートを見ますと、若い人たちまで含めて九〇%以上が反感を持ちながら非常に自制を持ってこの議論を見詰めているというふうに思います。  私は、それに対して、言うならば、あちらもこういう旗を、あるいはこういう国歌を歌っているから、我々もそれはもう敵対的にやっても構わないんだという議論ではなくて、一体こういう自制を持った論調に対して、我々が気持ちの上でどのようにこたえていくのかという誠意をこの議論の中でどのように見せていくのかということを、やはりアジアの方は非常に注意深く見ているだろうというふうに思います。  そういう点では、言うならば、あの戦争の傷跡を今も多く抱えている方たちが、もう一度あの戦争で掲げられた日の丸が何の反省もなく出てくるのかということに対して心を痛めておられることに対して、我々はもっと積極的にその声に、あるいは思いに耳を傾けていくということが必要だろうと思います。  もう一つの点ですが、日の丸旗が戦争の責任を持っているわけではないだろうという御質問ですが、まさにそのとおりです。  そういう意味で、今私たちが日の丸・君が代を議論するとき、先ほど本来分けるものだというふうに私申し上げましたけれども、分けながら、やはりそれは不可分のものとして見られるわけです。つまり、私たちがあるいは国会が国の方向を決められるとき、言うならばどのようなイメージで、この日の丸・君が代がどのような政策と軌を一にして出ていくのかということを見ておられるということです。  そういう意味で、この日の丸・君が代の議論が行われているこの数年間に、我々が、日本国が一体どのような戦争に関する手当てをしていくのかということは、これは切り離して考えることができないだろうというふうに思っております。  以上です。

児玉健次日本共産党

○児玉委員 三人の公述人から御意見をいただきまして、ぜひこの後、慎重に国会で十分な論議を尽くしたいと考えております。ありがとうございました。

二田孝治自由民主党

○二田委員長 次に、濱田健一君。

濱田健一社会民主党・市民連合

○濱田(健)委員 社会民主党・市民連合の濱田健一でございます。  三名の公述人の皆さん方には、お忙しいところ、貴重な御意見、本当にありがとうございました。時間が限られておりますので、私は、二つの点について、それぞれ三名の公述人の方々に御見解、御意見をいただきたいというふうに思っております。  今回の日の丸・君が代を国旗・国歌として法制化をしようという法律は、二月の小渕総理の、慣習法として定着しているから法制化は必要ないんだという発言から一転して、二月の下旬の広島世羅高校の校長さんの悲しい出来事、それらを経て法制化という方向に進んできた。これは官房長官が、今度の法制化の一つのきっかけだというふうに言われているわけでございます。  先ほども慣習法として定着をしているというお話が小林先生からございましたし、林公述人からは、日常的な生活の中に定着しているというか、見えなくなってきているというお話もございました。  これらの点をしんしゃくしたときに私自身が考えるのは、公権力が力を入れているといいますか、公権力ないしそれと関連するいろいろな行事的な部分等々では、日の丸も君が代も、掲げられ、歌われている、慣習法として定着しているけれども、実際的に私たちの生活の中には定着はしていないというふうに私自身は考えていますし、見聞きした現状がそうなっているというふうに思っているわけです。  そのことはさておいて、今回のきっかけであるというふうに野中官房長官が言われた、学校現場での、学習指導要領にのっとって指導するものとするとしている状況が、法的な根拠がないからできないんだという反対をする皆さん方がいる状況で、法的な根拠を与える必要性もあるというふうにおっしゃっているわけでございます。  私、自分自身が教師をしておりまして、先ほどから出ている地公法の上司の命令に従う義務という部分に加えて、教員に対する教育公務員特例法、そして学校教育法、教育基本法という憲法と横並びされた大きな基本法がございます。  そういう中で、確かに、教員が一般の公務員と同じように、決められた時間に出てきて、その拘束される時間の中では公務員としての仕事をしっかりと、約束された時間までにまじめにやるという枠組みはあるというふうに思いますが、学校教育法に掲げられている、校長は学校の服務を監督する、先生たちのいろいろな服務の中身というものを公務員たるべく監督をするという部分と、教諭は教育を預かる、教育を預かるのは教諭ですよ、先生ですよというふうにうたわれている中で、やはり今回のきっかけとなった世羅高校の事件は、校長先生も管理者としているけれども、教育者としての、例えば広島県が、太平洋戦争が終結をするために原爆を落とされて五十四年たちましたけれども、日本の中で最も平和教育というものに、沖縄と同じように、過去のことを反省しながらきちんとやらなくちゃならない、そして人権教育というものも、まさに今の日本国憲法の中で大事だというふうに力を込めておられる。そういう中で、教師としての良心からやはり悩んでおられた。そのことは、教育という立場でのこの日の丸・君が代の置かれた現実というものに対する本当に真摯な態度だったと思います。  それが、一部反対する人たちからのいろいろな圧力によって悩んでいたというふうに解釈するのか、逆な見方として、学習指導要領というものの拘束性というものを盾にとって、教師としての良心まで奪い去ろうとしている公権力のありようというものも、もう一回問題にすべきだ。そのときに、法制化と。  先ほど世論はいろいろある、一緒にこれから二十一世紀を生きていかなくてはならないアジアの人たちの歴史的な認識や今思っている考え方もいろいろある中で、それを法制化するということに対して、この教育の良心というものについては、これからどのようになっていくのだろうかという心配を私自身しているところでございます。  質問の趣旨がちょっとわかりにくいかもしれませんが、学校というところの教育という観点からいって、この法制化がどのようにプラスになるのか、マイナスになるのか、それぞれのお立場で御見解をいただければ幸いです。

小林節慶應義塾大学法学部教授・弁護士

○小林公述人 基本的な考えの枠組みは先生と全く同じなんです。ただ、出てくる結論がなぜか違ってしまうのですけれども、それは事実認識がちょっと違うのだと思うのですね。  教師としての良心の自由というのは、それから教師は教育を預かるということですけれども、それは法を超えて預かってはいないと思うのですね。初等中等教育というのは、全国一律に、一律というのは基本的なレベルを、画一という意味ではなくて、次代を担う大人の予備軍を育てていくわけですから、それはちぐはぐないようにという国家管理が入って当たり前の話でありまして、そういう意味で、法を超えてまで私の我を通す自由とか良心というのはないはずなんです。  ですから、今回法制化されますと、指揮命令系統がはっきりしてきますから、根拠は根拠はという、根拠はあるじゃないですか。そして、学校教育法、指導要領に基づいて校長がこれは指揮はやるんです、日の丸と君が代でやるんです。その中で良心を発露すればいいわけで、これは法治国家の国民として我慢すべきものは我慢する、ただし、私は個人としてこういう意見を持っている、これを平和的手段で聞いてそしゃくするのは君らの自由である、それで、君らもまたそういうものを暴力的手段、反法的手段に訴えない限り主張するのは自由だよということを教えていく自由は残っていると思うのですね。これが法治国家における法のもとで与えられた教師の自由の限界だと私は思います。

上杉聰関西大学文学部講師

○上杉公述人 まず、教育現場でどのように作用するのかということについては、学習指導要領に明確に「指導するものとする。」というふうに書かれているわけですね。これが法的な拘束力を持つというふうにされている限り、恐らく今回で、例えば先ほどちょっと例を挙げましたけれども、子供たちに校長先生が立ちなさいということを無理やり命令をするということは、言うならば根拠を持って行われるということだろうと思います。だとしますと、これはここでの、国会での議論がそういう法的な強制力を、何といいますか、この法そのものには持っていないということで、それとは無関係だというところで議論がされているかもしれませんけれども、現実にそういう学習指導要領の法的拘束力があるとされているところでは、これは教える側にも、そして聞く側にも、言うならば、もしそれで座れば内申書に書きますよというふうになれば、どうなるんでしょうか。あるいは、それが言うならば通信簿に何らかの評価として残るとなれば、これは一つの強制力として子供たちに対して働きます。言うならば、そこまで起こり得る危険性を持っています。  そういう意味で、もし法制化をするのであれば、学習指導要領が特にそういう拘束力を持っているということを外していく方向で考えなければ、これは大変恐ろしいことになるだろう。そういう意味では、歌わない権利、それを、言うならば自分の内心を保持していく権利を子供たちにいかに保障していくのかということをもう一つ議論していただきたいなと思っております。

林四郎エッセイスト

○林公述人 先ほど来学校の問題だけで論議されておりますが、私は、学校及び父兄も含めて、そしてまた地域社会の問題も勘案しながら運営していかないとうまくいかないというふうに思っております。

濱田健一社会民主党・市民連合

○濱田(健)委員 今、林公述人が、父母や地域、いろいろなところで勘案しながらと言われました。まさにそのとおり。私は、学校で学習指導要領の変化に伴って強制的なこの日の丸・君が代に対する教育の教え方というものが歴史の中で変わってきて、今度の法制化でもって帰着をしていくんだろうというふうに思いますし、先生方のいらっしゃる地域はどういう地域か私存じ上げませんけれども、私の教員として回ってきた地域からいうと、既に国旗・国歌、法制化されてなくても、旗日にはあいつのうちには日の丸が上がっている、どうだ、何かの式典であいつは口が動かなかったというようなことなどがチェックをされる地域が日本的な体質の中でいっぱいある事実の中で、この法制化が、先ほどの思想信条の自由や良心の自由を、法律の中にうたわれてはいませんけれども、一つの国のシンボルとして、一つの方向にあなたも行かなければだめですよという方向になっていく可能性があるのではないかということを心配している一人でございます。  時間がございませんので、上杉公述人に最後にお伺いしたいと思います。  私たちは、この間、ここ一年と申し上げていいか半年と申し上げていいか、国会の論議を、それは当然立法府としていろいろやってくるわけでございますけれども、日米安保条約の附属文書でありますガイドライン、日米防衛協力のための新しい指針、おとといは、周辺事態に対する各自治体、民間等々の協力をする中身等もひな形が示されたようでございますが、そういう法律が成立していく。そして、今参議院に組織犯罪対策三法、特に問題となっている通信傍受法案、そして六日の日に衆議院で通過をいたしました憲法調査会を設置するための国会法の改正案等々、何かしら、一つの新しい時代に入っていく前段として、この日の丸・君が代法制化の問題をひっくるめて、一つの方向性といいますか、国民を束ねていく何かの意図としてこういうものが関連して使われているような気がしているわけでございますが、上杉先生、御感想はいかがでございましょうか。     〔委員長退席、植竹委員長代理着席〕

上杉聰関西大学文学部講師

○上杉公述人 非常に難しいことだと思いますが、何といいますか、一つは、ガイドラインとの関連で、先ほどのほかの先生の御質問とダブって感じるわけですけれども、かつて中国との関係で、特に、ガイドラインが問題にしているのは、当面は北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国ということではあるかもしれませんが、私は、それよりもむしろ中国との関係が大きいのだろうというふうに思っております。  そういう意味で、大きなアジアの軍事的な関係の中で、改めてガイドラインの制定とともに日の丸・君が代が制定されていくということがどのように映るだろうかなということは、先ほどからの私の話で明確だろうというふうに思うのですね。それがもしそうでないのであるならば、言うならば中国ともう一度決着をつけましょうよというような気持ちでないということを日本の国会として明確に表明していく、私はそういう意図が必ずしもあるとは思いません。現在の状況の中で、政治でのさまざまな駆け引きの中で、結果としてこういうふうになっていっているという面も私は強く感じますけれども、ただ、結果としてそのようになっていくということをやはり恐れます。  そのような意味で、どのようなアピールを国会の側からアジアに対して行っていくのかということがなければ、誤解とアジアとの溝は深まるばかりだというふうに思っております。  そんなところで勘弁してください。

濱田健一社会民主党・市民連合

○濱田(健)委員 ありがとうございました。

植竹繁雄自由民主党

○植竹委員長代理 次に、笹木竜三君。

笹木竜三無所属の会

○笹木委員 笹木竜三です。  質問をさせていただきます。きょうはどうもお忙しいところをありがとうございます。  最初に、上杉先生にお伺いをしたいわけですけれども、このレジュメの中でも、先ほどの御意見の中でも、「国旗の選定にはマイナス・イメージ、「好きじゃない」などの反感のないものを選ぶべき」という御意見でありました。  例えば、他の国のことについてもお聞きをしたいわけですけれども、例えばイギリス。イギリスは第二次世界大戦では敗戦国ではありませんけれども、それ以前で言えば、例えばアヘン戦争、これはアジアに対する非情な行為を実際に歴史的には経ている。しかし、ユニオンジャックについては変更しておりません。あるいは、フランスも、植民地支配の時代を経て、国旗を変えていることはありません。あるいは、アメリカは非常に多民族で、先ほど先生は在日の方々のお話もされていましたけれども、恐らく多民族で、アメリカの国旗に対するいろいろな感情を持っている方もアメリカ国民としてたくさんおられるはずだと思います。  しかし、それにもかかわらず、アメリカの場合には、掲揚の仕方について、例えば他の国旗あるいは他のものと一緒に掲揚する場合には必ずアメリカの国旗を一番上にしないといけない、あるいは真ん中にしないといけない、そこまで掲揚の仕方について細かく規定をしております。あるいは、国旗に対する侮辱をした場合には刑罰で罰するということまで規定しております。  今イギリスとかフランス、アメリカの例を申し上げさせていただきました。先生はこういう国々の国旗の扱いについてはどういうふうに感想をお持ちになるか、御意見をお聞かせ願いたいと思います。     〔植竹委員長代理退席、委員長着席〕

上杉聰関西大学文学部講師

○上杉公述人 特に、アメリカの多民族国家という状況の中で、国旗が非常に大事に扱われているということは理解しております。  ただ、イギリスについても、あるいは諸外国で変えていないところがあるではないか。それは、公的な立場ではその国の自由ですというふうに申し上げるしかありませんけれども、賢明な選択として変更するということは、例えばドイツの場合は、ハーケンクロイツをいち早く戦後引きおろしているわけですね。それから、イタリアについてもこれを改変しているわけです。ただ日本だけ、これを変えておりません。そういう諸外国との関係からいうならば、あの第二次大戦を日本だけ反省していていないのかと見られても仕方がないというふうに思っております。  そういう点で、これはその国の自由でありますけれども、国旗・国歌をどのように決めるのかというのはまた日本社会の自由でありますけれども、言うならば、我々がどのようなアピールを諸外国に訴えていくのかということについては、まさに我々がどのような選択をするのかという意味で、いいイメージを与えるような選択を我々はすべきではないかということを申し上げております。

笹木竜三無所属の会

○笹木委員 確かに明治以降で、先生がお話しされていた、特にアジアの韓国ですとか中国に対して日本は反省すべきことばかりが多い、これはほとんど事実だと思います。しかし、そういったことは看板を変えることで解消ができるんだろうか。ドイツが変えたというお話がありました。看板を変えても、恐らく責任は残るはずだと思います。もっと言えば、この戦後五十年間、いろいろな外交努力があったにもかかわらず、これが不十分だという先生のお話も事実だと思います。  しかし、では、看板を変えることで責任を解消できるということであれば、そういった努力の不十分さを補うということができるのであれば、例えば日本という名前、日本国という名前自体、これもこの五十年を総括しても非常に不十分である。いまだに非常に反日イメージの強い国はアジアの中にたくさんあるわけです。  先生のお考えとしては、理想としては、日本という国の名前も変えるのが理想ということになるんでしょうか。

上杉聰関西大学文学部講師

○上杉公述人 私はそのようには考えておりませんけれども、そこまでの必要はないと思っておりますけれども、少なくとも日の丸あるいは国旗とやっていることとは別だという御指摘は、そのとおりです。  しかしながら、この人はこのような人だということは、例えば先生であれば、先生の髪型とか衣服でもってそれはシンボルになるわけです。いわゆるバッジも一つのシンボルになるわけです。  そういう意味では、国旗というのは国の行為のシンボルとなってきたものです。その国の行為が、非常に悪いイメージがくっついているわけです。そのくっついている状態をどのように引き離していったらいいか。それは別だから、別だからということを幾ら言っても、それは別にはなりません。言うならば、その日の丸のもとで、全く百八十度違った戦争に対する反省の行為を行うか、あるいは我々がそういうことをやりますよという新しいイメージを打ち出すものとして国旗を変えるということもあり得るわけですよ。言うならば、それは我々のアピールの仕方であろうと思います。  そういう意味で、もっと幅広い可能性を、選択を議論できるようなそういう場を、そういう意味では、これでまだ議論は始まったばかりです。この国会での議論をさらに継続をして深めていっていただきたいと思いますし、もっとたくさんの人の意見が聴取できるような形でお願いしたいと思っております。  以上です。

笹木竜三無所属の会

○笹木委員 議論はあるところなんだと思いますけれども、やはり自分の行動を反省してさらにいい行動にしていこうと考える場合に、いろいろやり方はあると思いますけれども、髪型を変えたり、化粧の仕方を変えたり、それは本当じゃない。それよりももっと本質的にやることがあるんだと私は感じます。  それと、教育の場での強制というお話がありました。  例えば、アメリカで裁判になった場合には、星条旗に対して、アメリカの国旗に対して宣誓をしなかった児童を退学させる、これに対して裁判が起こっている、こういうふうなものは確かに強制ということになると思います。  しかし、教育の中で、おはようございますとあいさつをしろとか、食事をするときにはいただきますと言いなさい、これは結果的に何%がそれを実践するかどうかは別として、こういうことを命令的に強制する、これは教育の場では避けることはできないのじゃないか。先生が強制と言われるのは、例えば教育の一環として立ちなさいということ自体を強制と言われるのかどうか、これをもう一度確認させていただきたいと思います。

上杉聰関西大学文学部講師

○上杉公述人 立つことも、そういうふうにいろいろな式典の流れでの問題だろうと思います。立つこと、あるいは深々とおじぎをするような場合もあるだろうと思います。言うならば、教育現場でどういうことが強制になるのかということは、それは教育現場での状況によるのじゃないかと思います。

笹木竜三無所属の会

○笹木委員 結果的に先生なり校長の言うことを何%が実践するか、それは結果としてあるし、それを実践しないからといって退学をさせるとか体罰を加える、これはできないと思います。しかし、立ちなさいと教育することが強制だとは私は考えません。これを強制だと考えるなら、およそあらゆる教育がまず成り立たないのではないか、学校の先生は何も教育することが不可能になるのじゃないか、そう考えます。  次に、林先生にお伺いしたいわけですけれども、我々にとって耳の痛いお話もありました。どうして議員会館の部屋に国旗がないのだとか、国会でも非常に少ないじゃないか。私も幾つか外国へ行って感じますのは、公共的な場で国旗が掲げてある度合いがやはり日本と他の外国では非常な差がある。アメリカとかイギリスとでは非常な差がある。このことは確かに耳が痛いお話で、我々は反省すべき点だと思います。  しかし、教育の場で考えますと、むしろ一番大きな、先生もお話しされました他の国、一般的に国際社会で国旗というのはどういうふうに考えられているか、国旗というのはどういう役割を果たすか。  先生もお話がありました、あるいはさっき、アメリカの場合では、掲揚の仕方について、これは慣習を確認する形で法でも規定をしている、こういったことの足りなさからきていると思うわけですけれども、確認をしたいわけですけれども、むしろ教育の場で、若い世代が国旗・国歌に対して非常に何も知らないというのは、他の国での国旗・国歌の扱い方、あるいは国際社会での国旗・国歌の扱われ方、この教育が足りない、そういうお話だったと思うわけですけれども、その点について御確認をさせていただきたいと思います。

林四郎エッセイスト

○林公述人 アメリカの星条旗に対する子供たちとの関係というのは大変うらやましいと思いますが、御存じのように、アメリカというのは人工国家でございまして、多民族の集まりですから、やはり国旗、星条旗のもとに結集させなければいけないという国家的な命題があると思うのです。それだけに、ある部分、強制しても子供たちにアメリカというものを教える道具として使っているという点を考えておかないと、ちょっとまずいのじゃないかなというふうに思います。  独立国家ということについては、私は余り情報を持っておりませんけれども、先般テレビを見ておりましたら、タイが、今度は、王室をたたえる歌というのと国歌というのを別につくられておりますね。そして、時間が来ると、国旗を掲揚する時間あるいは国旗をおろす時間になりますと、町で音楽が流れて、全員が、商売をやっている人も全員が起立して敬意を表するというような形がありますが、私は日本はそうなってはほしくないというふうに思っております。

笹木竜三無所属の会

○笹木委員 小林先生にお伺いをしたいわけですけれども、地方公聴会で、私は北海道と石川に行っていろいろ御意見を聞かせていただきました。  その中で、意見も多かったし印象にも残っている話として、一つは、法制化にも反対はしないけれども、やはり若干君が代には違和感が残るという意見、これがやはりあったと思います。それともう一点は、今回のこの法案の出され方も含めて、はっきり言って政局転換の中でのどさくさというか、政治の道具的に使われている面も否定できないということで、それに対して、これも若干やはり違和感を覚える、こういう御意見、これも印象に残っております。  後でまとめてお答えいただきたいわけですけれども、一つ目は、君が代の意味について附帯決議で記すべきという御意見が先ほど先生からされました。  日の丸に比べても、やはり君が代は、天皇に対する式典での敬意をあらわす歌として、少なくとも明治以降は強く位置づけをされてきたと思います。違和感というのは、若干そういう点と関係をしているのかと思います。それで、総理以下、いろいろな解釈を最近されておりますけれども、先生のこのレジュメの中にも、古代からで考えれば、二人称単数あなたという意味があり、非常に平和的な歌と解釈することもできるという御意見もあります。こういったことも含めて、今後日本が歩むべき道として附帯決議でしっかり意味を記すべきというのは、私も大賛成です。  そのことについてもさらに詳しく御意見をコメントいただきたいということと、もう一点は、政局の道具、これは先ほど他の委員からもありました。政権交代でさらに国旗・国歌を変える可能性、これも否定できません。今回の出され方についても、やはり若干政治あるいは政局の道具にされている面がないとは言えないと思います。  先生が言われたように、憲法でさらに規定をする、あるいは、オーストラリアのように国民投票ということを経て規定する、あるいはその上で憲法で規定する、そういう道もあると思います。政局とか政治よりもさらに文化とか慣習を上に位置づけるためにも、私も賛成ですけれども、それについてさらにコメントをいただきたい、そう思います。

小林節慶應義塾大学法学部教授・弁護士

○小林公述人 君が代の意味でございますが、簡単に申し上げますと、戦前の憲法体制下で君主主権国家でありましたから、まさに天皇陛下の御治世が長続きしますように、これは当時自然な話ですね。しかも、そういうことが教科書などで説明された後に憲法体制が変わって、天皇主権から国民主権に変わって、それで君が代がそのまま生き延びている。これはやはり意味転換をどこかでしておくべきであったのですね。  そういう意味では、今回、大変苦しいですけれども、主権者国民の総意で天皇を象徴としていただいているこの国が長引く、これは、私の立場ではないけれども、一つの見識だと思うのです。つまり、主客をかえたと思うのですね。ですから、これは明確に記録に残すべきであると思います。  ただ、私個人はこう考えておるのです。  もともと日本というのは漢字のない国でありましたから、漢字は基本的に当て字であっておかしくない。ですから、「君」はまさにあなたでありまして、「代」というのはよわいということの当て字でありまして、そうすると、お互いによく長生きしたね、あるいはもっと長生きしましょうという、これは、要するに長寿をことほぐというか、結構民主制とか平和に合うと思うのですね。  これも、もちろん古文の専門家から文句が来るかもしれませんが、大事なことは、言葉は生き物でありまして、これは政治の決断でありますから、この時代にこの国の主権者の直接代表たる最高機関国会で公布すると決めてしまえばいいわけですね。そういうことを私はむしろ希望いたします。  それから、どさくさ紛れ論でありますけれども、政局論評をするのは私の職務でも趣味でもないのですが、一見当たっていると思います。  でも、逆に言えば、校長先生の自殺という究極的なあしきケースが生まれたことによって、これは本来戦後きちんと国旗と国歌の意味を整理して国民の中に定着させてくるべき、これは政府・自民党、ずっと政権を基本的に持っていたわけですから、そのやるべきお仕事を放棄していた、宿題をこの際どさくさと片づけた。やり方はよろしくないと思いますけれども、片づけたということはよろしいことであると私は受けとめております。  以上でございます。

笹木竜三無所属の会

○笹木委員 ありがとうございました。

二田孝治自由民主党

○二田委員長 これにて午前中の公述人に対する質疑は終了いたしました。  公述人各位におかれましては、貴重な御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。委員会を代表いたしまして一言お礼を申し上げます。まことにありがとうございました。  午後一時から再開することとし、この際、休憩いたします。     午後零時七分休憩      ————◇—————     午後一時一分開議

二田孝治自由民主党

○二田委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  この際、公述人各位に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多用中のところ御出席をいただき、まことにありがとうございます。公述人の皆様におかれましては、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、審査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願い申し上げます。  次に、議事の順序について申し上げます。  まず百地公述人、山住公述人、北村公述人の順に、お一人十五分程度御意見をお述べいただき、その後、委員の質疑に対しお答えをいただきたいと存じます。  それでは、百地公述人にお願いをいたします。

百地章日本大学法学部教授

○百地公述人 日本大学の百地でございます。  私は、国旗・国歌法案に賛成でございまして、主に憲法学の立場から、以下の三点につきまして意見を述べさせていただきます。  お手元に原稿が配付されていると思いますので、ぜひごらんいただきたいと思います。  まず、その三点でございますが、第一に国旗・国歌法の制定の必要性、第二に学校などにおける国旗掲揚や国歌斉唱の義務づけは思想、良心の自由を侵害するものではないこと、そして第三に君が代の歌詞は国民主権と矛盾するものではないこと、以上でございます。  さて、第一の今なぜ国旗・国歌法の制定が必要かということでございますが、この点につきましては、私は、国旗・国歌をめぐる学校、教育現場での混乱を一日も早く解消し、教育の正常化を図るためには、ぜひとも速やかに法制化する必要があると考えます。  日の丸が国旗であり、君が代が国歌であることは、慣習法及び事実たる慣習に基づくというのが従来からの政府見解でございます。にもかかわらず、教師の中には、明文の法的根拠が存しないとの理由で日の丸・君が代に反対する方々がおり、反対論の主要な論拠もこの法的根拠がないということでした。  私自身は、何でもかんでも成文化されていなければ法とは認められないなどといった成文法至上主義にくみするものではございません。しかし、成文法以外は法と認めない人々を説得するためには法律で定めるしかないのではないか、そのためには、既に慣習法ないし慣習法的なものとして存在する国旗日の丸、国歌君が代をそのまま成文化しさえすればよい、私はこのように考えます。  それに加えて、私は、もし法制化できなかった場合の混乱を恐れます。政府が率先して法制化を唱えられました以上、万一法制化できなかった場合には、反対運動はさらに激化するでしょう。そして、その犠牲となるのは子供たちです。彼らは、国旗・国歌について正しい教育を受ける機会を奪われたまま卒業しなければなりません。これは、教育を受ける権利の侵害と言えないでしょうか。それどころか、その子供たちは、学習指導要領に違反する反日の丸、反君が代の思想を一方的に注入されるわけでありますから、これこそ特定思想の強制にほかなりません。そして、これは教育の政治的、思想的中立性の原則にも反することになります。  したがいまして、このような教育の混乱を一日も早く解消し、教育の正常化のため日夜大変な努力をしておられる多くの先生方の期待にこたえるためにも、速やかな法制化を希望するものであります。  第二に、教育現場における国旗掲揚、国歌斉唱の義務づけと思想、信条の自由との関係ですが、法制化反対論の最大の根拠は、国旗掲揚、国歌斉唱の強制は、児童生徒の思想、信条の自由を侵害し、憲法違反であるというものかと存じます。  しかしながら、まず考えなければならないのは、国旗・国歌はどこの国でも理論上国家の象徴とみなされ、大切に取り扱われているということです。もし国民一人一人が各自の思想、信条の自由を理由に国旗や国歌を否定し出したならば、国家秩序そのものが成り立たなくなるでありましょう。  次に、学校における国旗掲揚や国歌斉唱の義務づけの是非をめぐる問題ですが、このような強制は許されないとする反対論についてどのように考えるべきでありましょうか。  このような問題について、憲法学では、かつては、公立学校の生徒は特別権力関係にあり、一般国民とは異なる命令、監督に服するものとされてきました。今日風に言えば、公立、私立を問わず、すべての学校が部分社会を構成するものとされ、この社会内部では、一般市民法秩序とは異なる特殊な法秩序の存在が認められております。そして、教育目的達成のために必要な自治権、自律権が承認されているわけです。  したがいまして、校長は、学校教育法や学習指導要領などに基づき、自由に授業の時間割りを編成したり、学校行事を計画したりして、児童生徒に出席や参加の義務を課すことができます。その際、もし児童生徒らが、思想、信条の自由や自己決定権などを持ち出して参加や出席の自由を主張し始めたならば、学校教育は成り立ちません。このように考えますと、教育というものの性質上、学校内において、ある種の強制が働くのは当然であり、入学式や卒業式において児童生徒全員に国歌を斉唱させても何ら問題とはなりません。  もし問題になるとすれば、それはあくまで物理的強制や罰則などを伴う場合でございます。例えば、どうしても国歌を斉唱したくないという生徒に力ずくで無理やり歌わせたり、国歌を斉唱しないからといって停学や退学処分を課すなどといったことがあれば、これは当然人権侵害となります。  この点、反対派の方々がしばしば引き合いに出すのは、アメリカのバーネット事件判決でございます。一九四三年、アメリカの連邦最高裁は、国旗への忠誠宣誓を強制することは憲法違反であるといたしました。問題は、強制の意味です。ウェストバージニア州では、忠誠宣誓を拒否した場合、退学させられることになっており、最高裁は、このような罰則を伴う強制を違憲としただけでした。  アメリカでは、現在でも、連邦法が国旗への忠誠宣誓を国民に義務づけております。そして、公立学校では毎日国旗を掲揚することが義務づけられていますし、州によって異なりますが、生徒らは起立し、国旗に対して忠誠を誓うわけです。また、国歌についても、演奏中は起立して国旗に向かい、胸に手を当てて直立不動の姿勢をとるべきことなどが連邦法で定められております。  それゆえ、これまで慣習法的に認められてきた国旗・国歌の法的根拠をさらに明確にするため成文化するだけで、アメリカで見られたような強制や義務づけを伴わない国旗・国歌法が憲法違反であるとは到底考えられません。  ちなみに、思想、信条の自由ですが、通説によれば、これは、一、国民がいかなる思想、信条を持とうとも、内心にとどまる限り絶対に自由であり、国によって禁止されたり処罰されたりしないことと、二、国は、国民に対してその思想、信条を表明するよう強制できないこと、つまり沈黙の自由を意味します。  とすれば、入学式等に際して、単に国旗を掲揚したり国歌を斉唱するよう指導したりすることが思想、信条の自由と直接関係がないことも明らかでしょう。国旗掲揚や国歌斉唱は、生徒一人一人の思想、信条を取り上げて問題としたり、生徒に対して思想、信条を表明するよう強制したりするものではないからです。  もちろん、日の丸・君が代に反対する人たちが内心においてどのような思想、信条を持とうとも、それは自由です。しかし、単に心の中で反対することと具体的な行動を起こすこととは別問題です。  この点、教師は、学習指導要領によって拘束されるほか、教育委員会や校長の職務命令にも従わなければなりません。それゆえ、内心において日の丸・君が代をどのように思おうとも自由ですが、教師としては、国旗掲揚を行い、児童生徒に対して国歌斉唱を指導する義務があることは当然でございます。  第三に、君が代の「君」を象徴天皇とする政府見解が国民主権に反するかどうかという点でございます。  このような反対論は国民主権に対する誤解によるものですが、それについて述べる前に、君が代の解釈について、簡単に私見を述べてみたいと存じます。  御存じのように、君が代の「君」も「代」も、もともと一義的な言葉ではなく、古くは「君」は天皇やあなたを指していました。また「代」にも統治ないし在位期間とか生涯などの意味がございます。そのため、明治になって君が代を国歌とした際には、天皇が統治権者、統治権の総攬者であることから、君が代は、天皇が治められる御代を意味し、その永遠の繁栄を祈るものとなりました。  でありますならば、天皇が日本国及び日本国民統合の象徴となられた現行憲法下では、それにふさわしい意味づけをし、君が代は、象徴天皇の在位される期間、つまり、現在であれば平成のこの御代の永遠の繁栄を祈るものと見るのが自然ではないでしょうか。この場合、平成の御代の繁栄とは、もちろん国家国民の繁栄の意味にほかならず、天皇陛下お一人の幸福や繁栄だけを祈るものではありません。  次に、本題の君が代と国民主権の関係でございますが、御存じのように、主権も国民も、もともと多義的な概念であります。その上、君主主権や国民主権という語は、西欧において国王や民衆が互いにみずからの権力ないし権威の正当化のため用いた、極めて政治的な概念でもありました。そのため、現在でも国民主権の語は、しばしば主権者国民の無制限な要求を根拠づける隠れみのとなっております。例えば、国民主権である以上、当然国民投票制を採用すべきであるとか、国民主権なのだから、当然首相は国民が直接選ぶべきであるなどといった主張がそれでございます。  しかし、これらの制度は、国民主権と直接結びつくわけではありません。現に国民主権の国でも国民投票制を採用している国は決して多くはありませんし、首相公選制の国となればイスラエルくらいのものでしょう。国民主権となった以上、君が代は認められないなどとする見解も、実は右と同様、誤解か、ためにする政治的主張にすぎないと思われます。  ちなみに、現在のスペイン憲法、これは一九七八年に制定されましたものですが、このスペイン憲法は、日本国憲法と同様に、国民主権を採用し、国王も象徴とされています。しかしその一方で、国王の身体は不可侵とされ、国王は、法律の裁可権、国会の召集及び解散権、首相の任命権などのほか、軍隊の最高指揮権まで有します。通俗的な国民主権の理解からすれば、このスペイン国王の例など恐らく意外に思われましょう。  我が国では、有力新聞の改憲試案でさえ、国民主権について、国民が国家の主人公であるなどと説明していたほどだからであります。これでは、あたかも一人一人の国民が現実に国家の最高の地位にあり、最高の決定権を有するものであるなどと錯覚したとしても不思議ではございません。  しかしながら、国民主権とは、簡単に言いますならば、国家権力が全体としての国民に発し、すべての国民によって正当化されるという理念ないし建前を意味するにとどまります。この点、通説によりますならば、国民主権とは、一、国家権力の正当性の根拠がすべての国民に存することと、二、有権者全体が国家権力の究極的な担い手であることの二点にほぼ尽きます。  つまり、わかりやすく言えば、国民主権とは、一、憲法が国民によって制定され、国民全体によって支えられていることと、二、有権者である国民が憲法改正権の行使者であることを意味するにすぎません。そして、国民主権から帰結されるものといいましても、ごく限られておりまして、せいぜい普通選挙制度の採用とか、国の統治制度が民意を忠実に反映するよう組織化されていることとかいった抽象的なものにとどまります。  したがいまして、国民主権と君が代の歌詞とは無関係であります。それどころか、国民主権に立ち、国民が制定した日本国憲法自身が天皇を日本国と日本国民統合の象徴としたわけでございます。  このように考えますならば、君が代の歌こそ我が国の国歌としてふさわしいものでありまして、君が代の歌詞が国民主権に反するなどといった主張が全く根拠のないものであることは明らかでありましょう。  以上をもちまして、私の意見陳述を終わらせていただきます。御清聴ありがとうございました。(拍手)

二田孝治自由民主党

○二田委員長 ありがとうございました。  次に、山住公述人にお願いをいたします。

山住正己東京都立大学前総長・名誉教授

○山住公述人 山住です。  結論から申し上げますと、君が代を急いで法制化するというようなことはやめにして、ゆっくり国民の間の声を聞いて、幾つかの案、例えばオーストラリアの場合は四つか五つの案がありまして、それをめぐって国民投票を行ったんですが、私たちもそのように進めれば、国民が納得するような国歌ができ、国旗ができるのではないかというふうに思っております。  研究者としての私の日の丸・君が代との接触は、一九五八年に始まります。それは、ちょうど博士論文「唱歌教育成立過程の研究」を書いている中で、国歌とされる君が代に触れないわけにはいかなかったということがあります。小学唱歌の作成と並行して学校に君が代が導入されたということは、これは明らかではないかというふうに思います。  戦前の日本社会、特に学校においては、それと一体となって扱われた国旗日の丸を無視できないということでもありまして、研究成果を研究室の中に閉じ込めておくのではなくて、多くの人に知ってもらいたいと思って、本を書いたり、あるいはさまざまなところで日の丸や君が代について話をしてきたということがあります。  今は、残念なことに、君が代が導入されますと学校教育が混乱するということがあります。とりわけ、卒業式が近づきますと、職員会議で、歌ってほしいという校長と、これはやめてほしいという教師たちとの間で限りない議論が続くということがあります。子供の成長において大きな節となるこのような行事において、教師間でこのようなやりとりをせざるを得ないというのは、まことに不幸なことだというふうに思っております。  卒業式は、戦後、多くの小中学校で、子供たちが創意を凝らし、これに教師が協力して、大人は子供の成長を祝い、子供自身は、自分たちは一歩豊かに、大きくなるということを自覚するときであり、そういうふうにふさわしい式を自分たちでつくってきたということがありますが、君が代の導入ということによって、学校の方が一方的に、校長を中心として、式を組み立てるということになっていったというのは非常に残念なことだと思います。  第二次大戦の戦前、戦中、日の丸が国旗、君が代が国歌であることに疑問を抱く人はほとんどいなかったわけですが、疑問を持たないのは学校教育によるところが大きかったというふうに言わざるを得ません。学校で徹底的に日の丸・君が代について教えられたということが大きな影響を与えたということは明らかだと思います。  日の丸は、太陽信仰に発するものであり、戦国時代の武将がこれを旗としたり、あるいはよろいにつけていた。例えば、今、池袋の東武美術館で開かれていますザビエル展には、小西行長のよろいが展示されています。やはり胸には丸がありまして、茶色くなっておりますが、解説本によりますと、かつてはそれは赤であったろうということであって、やはり赤い日の丸を胸につけるということは、あるいはのぼりにつけるということは、これは古くから日本でも行われていたということがあります。幕末、咸臨丸が日の丸をマストに掲げて太平洋を渡ったということはよく知られていると思います。  しかし、日本全体の国旗を定めているということではないわけですね。一八七〇年、明治三年には、商船国旗、陸軍国旗、海軍国旗の三種の国旗を定めていますが、そのうち商船と海軍が日章旗で、陸軍が旭日旗であって、これはその後変更されますが、日本全体の国旗ということは、そのときには正式には定められていない。これがいつの間にか、次第に国旗として定着していくということがあるんですが、これは何よりも学校教育と軍隊の力によることが大きい。多くの国民は、明治十年代にはこれにほとんど無関心だったのではないかというふうに思います。  教師用書には、日章旗について、日の丸について何と書いてあったかといいますと、神がつくりたまうたありがたい神国である、神の国である日本の国の国旗としてまことにふさわしいのが日章旗であり、これは天来神授の旗、天から来て神が授けた旗であるというふうに教師用書に解説されてあったのですから、教師はそれに基づいて授業をするということがあった。  国歌の方は、イギリス軍楽隊長のフェントンという人が薩摩藩に、国歌がないのは遺憾である、自分がつくってあげるというふうに言いまして、いろいろな場で歌われていた君が代を薩摩藩が提出しました。担当していたのは大山巌なので、大山巌は、自分の名、巌が入っているのでこれを気に入ったのではないかという説もあるぐらいなのです。  しかし、フェントンの作曲は日本人には合わなかった。その後、海軍省が今度は宮内省に対して、日本古来の楽曲でつくり直してほしいというふうに要請しまして、一八八〇年、明治十三年にこれが完成しました。  しかし、それはあくまで天皇礼式曲であり、八二年、二年後には、文部省が音楽取調掛、これは東京芸術大学の音楽学部の前身ですが、そこに国歌作成を依頼しているほどです。ですから、その前にできました君が代が国歌ではなかったということが明らかであります。君が代が次第に国歌扱いにされるようになるのは、とりわけ日清、日露の戦争を通してであるということも明確ではないかと思います。  戦後、日の丸・君が代が再び歌われたり掲げられたりすることはないだろうというふうに予想していた人が多かったと思うんですが、それの復活は、やはりまたしても学校教育を通してなんですね。これは一九五八年の小学校学習指導要領改訂の際に、小学校で、祝日には国旗を掲揚し、君が代を斉唱することが望ましいという言葉で導入されたということ、これが戦後文部省が正式な文書で出した最初です。  その前に、天野文部大臣が国旗日の丸・君が代の復活ということを口頭で言いましたが、これは文書で正式に文部省の意見として出されたものではなかったので、一九五八年が戦後の日本にとって非常に大きな曲がり角であったということは明らかだと思います。重要な問題は、文部省によって十分に議論されなかったということがその後の問題ではないかと思います。     〔委員長退席、植竹委員長代理着席〕  最近、日の丸・君が代が国民の間に定着しているということが言われますが、世論調査というのは何であるか。世論調査などによって定着しているというふうに言われるのですが、世論調査は多くの場合電話なんですね。電話で聞きますと、大抵の人が、天皇にも触れている君が代に反対ということは電話でなかなか言いにくい。そこで、ああいう日の丸・君が代賛成というパーセントがいわゆる世論調査で高い数字になっているという意味で、これは本当にもう少し一人一人の意見を細かく聞いていけば、数字は随分変わってくるのではないかというふうに思います。  それから、お手元に「「君が代」新解釈を問う」というコピーを差し上げましたが、これは雑誌の「世界」の八月号に書いたものです。朝日新聞の「朝日歌壇」に載った歌を三つ挙げるところから始めたわけですが、いずれもこの国旗・国歌、周辺事態法案などが動いてくるということについての危機感、国民としての憂いを歌ったものである。それをさまざまな形で歌っているのが目につくというふうに思います。  日の丸や君が代の歴史を学び、知る機会がないまま、掲揚し斉唱を強いられているうちに、これらの法案を作成している人たちの待ち構えているところに国民が吸い込まれてしまうのではないかというふうに思うんです。やはり日の丸・君が代の歴史をしっかり学ぶ機会を学校でつくるということが大事なんではないか。そういうことがないうちに、国策に反する者は非国民であるといって、戦時下と同様な扱いがされるおそれが多分にある。第二次大戦中、非国民というほど日本の国民を畏怖させた言葉はないわけで、そういう状況の出現は、不気味を通り越して魔女狩りを想起させ、身の危険さえ感じさせられるということがあります。  ただし、歴史を学ぶといっても、間違った記述をとっている本や論文は少なくないので、注意を要するということがあります。小学館という大きな本屋から出されているものなので間違いなかろうというふうに思われる方があるかもしれませんが、ここに挙げておきました「世界の国旗全図鑑」には間違ったことが書いてある。公式には江戸時代の末、開国の契機となった日米和親条約が結ばれた一八五四年に国旗として定められたのが最初、法的には一八七〇年に制定されたとありますが、この一八五四年、一八七〇年とも間違い、こういうことは全くなかったわけですから、法制化を進めようという人が誤った歴史を書物あるいは話の中で出して、誤った歴史認識を日本人に与えてしまうというおそれがあるのではないかということを痛感します。  今度の法案は、二条しかない極めて簡単なものであって、別記で日の丸のサイズや君が代の歌詞、楽譜を示しています。また閣議では、君が代の「君」について、「日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と解釈するのが適当である」との答弁書を決定しております。  しかし、一体戦前は「君」というのはどういうふうに考えていたかというと、これはもう明らかに天皇を指すものであった。天皇陛下がお治めになる御代がいつまでも続くようにということが小学校の国定教科書を通してすべての国民に教えられていたということですね。全国民に教えていたということについて、あれは誤りであったということを、国定、つまり文部省がつくったわけですから、文部省があの記述は誤りであったということを一度も明確にしないまま、再びこれを持ち込んでくるということは、民主主義社会における教育にとってふさわしくないことではないかというふうに思います。  それから一方、日の丸は平和と民主主義をあらわす旗であるというふうに宣言すれば国際的に通用するという考え方もあります。しかし、歴史を振り返り、過去の誤りについての深い反省をすることなしには、アジア諸国ではこの旗は日本による侵略、植民地時代を思い起こさせ、アジアの一員である日本国の国旗として認められるものではない。  表面的にはこれを日本の国旗というふうに扱うということは多い。これは、日本の国旗は何であるかということを決めるのは日本人ですから、外国人は日本人が日の丸と言っているのでこれを掲げざるを得ないというようなことがある。あれを、中国を初め日本が侵略し、植民地化した地域の人たちが心から納得するということはあり得ないのではないかというふうに思っております。  戦争中には日本兵が中国の各都市の城門に上って日の丸を掲げる写真や、中国の万里の長城の上で日の丸を掲げて整列した日本軍の兵士を写した写真がたくさん残っております。それは戦後になってもいろいろな写真集、近代日本の写真集などにたくさん残っているところです。アジアでは、日本軍の侵略の先頭にあった日の丸を思い出す人が多いのではないかと思います。  君が代ですが、これは戦前の国定教科書の六年用国語の最後の教材「国語の力」に載っておりまして、全歌詞がそのまま残されたばかりか、「この国歌を奉唱する時、われわれ日本人は、思わず襟を正して、栄えますわが皇室の万歳を心から祈り奉る」というふうに書いてあったのですね。  国定教科書でこのように書いた歌を、簡単に意味を変えてしまうということはできない。これも日の丸同様国定であったのですから、文部省がかつての国定教科書の記述は誤りであったということをはっきり言わない限り、これは依然としてそのまま残っているものであるというふうに言わないわけにいかない。  ですから、日の丸・君が代をめぐって議論いたしますとさまざまなことが出てくる。どうしてもこれを歴史的にとらえ直すことが必要であって、それを抜きにして安易な判断はできないということをこれからしっかり考えていかなければいけないのではないかと思います。  おかしかったのは、六月十七日付の朝日新聞の「かたえくぼ」欄でこんな一節があったのですね。「君が好きだ」とだれかが言ったのですね。「ワタシそれとも天皇?」というふうに反応があった。後に「悩める少女」というふうに書いてあるのですね。このように「君」の使用に悩む者も出てくるのではないかと……

植竹繁雄自由民主党

○植竹委員長代理 公述人は、時間が来ておりますので、結論を早めてください。

山住正己東京都立大学前総長・名誉教授

○山住公述人 はい、わかりました。  そのような扱いを受けているのが日の丸であり君が代であるということは、私たちにとって非常に残念であるというふうに思います。(拍手)

植竹繁雄自由民主党

○植竹委員長代理 ありがとうございました。  次に、北村公述人にお願いをいたします。

北村小夜障害児を普通学校へ全国連絡会世話人・元中学校教師

○北村公述人 北村でございます。  先に結論を申し上げますが、このごろの新聞によりますと、数の上でもう成立のめどがついているのだからとか、公聴会に対する議員さんたちの関心も薄いとか書いてあります。政治ショーではないかなどと書いてある新聞もありました。私は、そういうつもりではないつもりで伺っております。  どうぞ、きょうの公聴会だけではなく、各地で行われました意見を十分御検討いただきたいと思います。国会の周りにもきょうもたくさんの方が見えておりますし、それから心配する人たちの地域での集会も各地で開かれております。市民の関心はだんだん高まってきておりますので、急いで今成立をするのではなく、広い形で検討を進めるために廃案にされることを望みます。  国が何かを徹底させるときには、いつも学校教育が使われます、ねらわれます。私は一九二五年生まれです。元号で言った方がいいでしょうね。大正十四年です。日の丸と君が代に唆されて、教師よりも親よりも熱心に戦争をやってきました。そのことを何とか取り返そうと思っているのです。一番大事な青春の時期を、天皇陛下のために戦争をして過ごしました。それを取り返したいと思っているのですけれども、この年になってもまだ取り返せないでおります。その意味からも、この法案には反対しております。  私がどういう形で日の丸と君が代に唆されたかということを少し述べながら申し上げたいと思うのです。このままにしておきますと、多分、私が受けたようなことを子供たちが受けるのではないかというふうに心配しております。  私は、一九三二年、六歳のときに旗行列に参加しました。それは爆弾三勇士の栄光をたたえる旗行列でした。幼い私は、大人に抱えられて上から旗の波を見ました。旗の波を上から見るといい気分なんですね。すっかり日の丸の旗の波に魅せられてしまいました。私も上から旗を振りました。私が育ちました福岡県の久留米市というところに爆弾三勇士が出ました十二師団があったから特ににぎやかだったわけですけれども。  二年生のときに明仁天皇が生まれました。春になって、爆弾三勇士の銅像のある公会堂で日の丸の旗を振って、皇太子様お生まれになったという踊りを踊りました。日の丸と日嗣の御子、こういう言葉は御存じでしょうね。賛成の方なんかは特に御存じだと思いますけれども。日嗣の御子皇太子と日の丸が、全く一体のものにそのとき私の中ではなっておりました。  小学校のときは、ほとんど日の丸の旗はもう小道具として必要なもので、絶えず身近なところに置いて、さあ、出征兵士を送るといえば持って出かけ、英霊が帰ってくるといえば旗を巻いて出かけました。学校に割り当てられた慰問文もせっせと書きました。よく意味もわからないのに新聞を読んで、満州の兵隊さんへ、酷寒のみぎり、匪賊討伐もさぞ困難でございましょうと書いていました。戦後になって、匪賊と言われた人に会って本当に愕然としました。立場によって匪賊であったり愛国者になったりするわけですね。  当時、よく歌っておりました歌が、題は覚えておりませんけれども、四億の民とむつまじく君が代を歌う日はもうすぐだというのがありました。四億の民というのは当時の中国の人口でございます。一緒に君が代を歌おうというわけです。大変おごった歌だと思います。同時に「日本よい国」という歌も歌っておりましたので、当然のことだろうと思いますが。  私は、先生方のように理路整然とした話ができませんのでこういうものを持ってまいりましたが、これは一九四一年のアサヒグラフです。こういうふうに、日本が占領したところに日の丸をつけておりました。学校などでは大きな模型があって、それに日の丸の旗を実際に差したりしておりました。私はとてもそれがやりたかったのですけれども、学校の先生は、お父さんが出征しているような人にだけさせて、私にはなかなかさせてくれませんでした。  これは次のページですけれども、やはり日の丸がついております。そちらからはごらんいただけないかもしれませんが、こことここに、ボルネオのクチンとそれからマレー沖海戦の場所に、既にインクの色が変わってしまいましたけれども、私が書いた日の丸が載っております。それは週刊でございますので、これが届くときには既に次の戦果が上がっているという時期だったわけです。軍国少女の私は、それが待ち切れなくて、自分で日の丸を書いて、はやる心を抑えながら学校へ持っていって、みんなに見せて戦果を喜び合ったものなんです。ここまで日の丸は私たちの心の中に入ってきておりました。  私は、ここまで私の心をもてあそんだ日の丸を再び子供たちに振らせたくはありません。  女学校を卒業した私は、ソウル、当時京城と言いましたけれども、日本赤十字社の救護看護婦養成所に入りました。それは、それが自分に合う仕事だとか、あるいは自分のやりたいことということとは全く関係なく、ただ、海軍予備学生に行ったボーイフレンドが、この世で会えなかったら靖国で会いましょうという書き置きをしていったんです。どうしたら女で靖国に行けるだろう、一番近いところはここだという選び方をしたわけなんです。  ソウルは、選んだわけではありません。親を説得するのに時間がかかって、内地の養成所がすべて試験が終わっておりましたので、やむを得ずソウルを選んだわけです。出かけるとき、女学校の後輩が日の丸の旗を振って送ってくれました。  ソウルに着きますと、朝鮮総督府が、朝鮮の王宮の景福宮の光化門の内側にありました。光化門越しに日の丸の旗が掲揚されている朝鮮総督府を見ながら、当時の私は、これが内鮮一体、内地と朝鮮の融和の象徴だというふうに思って感激をいたしました。一九九五年には、これは侵略のシンボルとして撤去されております。私が内鮮一体の象徴だと思ったものです。  日本赤十字社の教程には、「日本赤十字社は戦時にありては陸海軍軍務を幇助し」というふうに書いてありました。日本赤十字社でありながら、日本軍隊と一体のものでありました。三年の養成課程が二年に短縮されて卒業して、旧満州の鉄嶺の陸軍病院に行きました。そこで、大体、軍隊の正体を見ました。でも、どんな理不尽なことも、天皇陛下のためにということで大体片づけられておりました。戦争の正体も見ましたが、日の丸が正義でした。  敗戦になって、成り行きで八路軍の人たちと一年間生活をともにして、四六年の暮れに日本へ帰ってまいりました。何とかしてその間費やしたものを取り返そうと思いながら、改めて学校に行って教師になりました。焼け跡の学校はないものばかりでしたけれども、豊かな心と大きな希望がありました。  学習指導要領は試案でした。上で決めたことを画一的にやらせるのではなくて、画一的にやった戦前の誤りを認めて、文部省が仮にここに試案を示すけれども、これは試みの案であって、本当に教育を進めるのは教師であるあなたと目の前にいる子供たちだよということが書いてありました。  私がやりたいことと子供がしてほしいことと親がしてほしいことが、大体一致することができました。今、みんなばらばらですよね。とてもやりがいのある時期でしたが、長くは続きませんでした。間もなく、日の丸・君が代や修身の復活を唱える声がしてきました。戦争への道が近づいているなということが肌身に感じてきました。  はっきりあらわれてくるのは、一九五八年の指導要領の改訂です。これは、教師に対する勤務評定と一緒にやってきました。無理をするときに、納得いかないものをやるときには力が必要ですよね。官報に告示して、基準にしました。道徳を特設しました。そして、資料にありますように、「望ましい。」という形ではありますが、日の丸・君が代が入りました。  この改訂の実施はちょうど高度成長期でしたので、校舎の改築に伴って立派なステージのある体育館ができたり、設計図にはない日の丸ポールができたりしました。地域によっては、三本ポールが立ってしまいました。そういう形で日の丸や君が代の導入が容易になりました。  行事などでは、担当の者が立てた計画に校長が日の丸・君が代を入れろというようなことで、職員会議が長引くようなことが起こりました。結果として、校長が強行したり、職務命令を出したりして、処分者がたくさん出るようになりました。  八五年の文部省徹底通知、それから、さらには八九年の、国旗を掲揚し、国歌を斉唱するよう指導するものとするという指導要領が出てからは、一層これが激しくなりました。処分者は、八五年の徹底通知以降だけでも九百人に及んでおります。君が代の斉唱に立たなかっただけで処分されている人もいます。法制化によって強制と処分は一層ふえるはずです。一体どこまで処分すれば気が済むんでしょうか。処分によって人の心を変えることはできないということがわからないんでしょうか。生活のために従順に従っている人もいますけれども、その人たちも同様です。処分を受けた人も不信を募らせ、無気力になっています。  裁判に訴えている人もたくさんいます。それは、日の丸・君が代の持っている問題を明らかにすることと、教師や生徒の内心の自由を守ろうということです。しかし、裁判の場でもはぐらかされ続けています。

植竹繁雄自由民主党

○植竹委員長代理 公述人は、時間が参りましたので、早く結論を述べてください。

北村小夜障害児を普通学校へ全国連絡会世話人・元中学校教師

○北村公述人 はい、済みません。要領が悪くて言い尽くせませんが、一言だけ言わせてください。  一つは、慣習化しているということが言われておりますけれども、本当に慣習化しているんでしょうか。本当に慣習化しているとすれば法制化の必要がないはずです。文部省の調査等で、だんだん実施率が上がってきて定着しているという言い方がされておりますけれども、それが、本当に心からこぞって実施しているのではないということがおわかりなんじゃないでしょうか。だからこそ、強制をなさろうということではないでしょうか。  法制化によって国旗・国歌に誇りを持たせることはできません。一人一人の内心の問題です。また、対立をなくすためにとも言われていますけれども、対立があるのは事実です。対立をなくすためには納得のいく話し合いをするしかないわけで、対立を封じることは統制でしかありません。統制はいつも教育からやってまいります。またそういう時代が来たような気がします。  ともかく、この法案については、廃案にして広い討論が進められることを希望します。失礼しました。(拍手)

植竹繁雄自由民主党

○植竹委員長代理 ありがとうございました。  以上で公述人からの御意見の開陳は終わりました。     —————————————

植竹繁雄自由民主党

○植竹委員長代理 これより公述人に対する質疑に入ります。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。平沢勝栄君。

平沢勝栄自由民主党

○平沢委員 自由民主党の平沢勝栄でございます。  午前中に引き続いて質問をさせていただきたいと思います。  まず、三人の公述人の皆さん方には、お忙しい中、貴重な御意見をまことにありがとうございました。  今お聞きしていまして、慣習として定着しているか定着していないか意見が分かれていたというふうに感じました。午前中の意見でもいろいろありました。沖縄の公聴会、広島の公聴会にも行ってきまして、いろいろな立場からの御意見があったわけでございますけれども、広島の公聴会でこういう御意見がありました。今マスコミは賛否両論、国論が二分されているというふうに書いてあるけれども、決してそうではない、圧倒的多くの方々は今度の国旗・国歌について賛成している、こういう御意見でございました。  私自身も、東京葛飾区と江戸川区小岩が選挙区ですけれども、毎日地べたをはいつくばって、必ずしも自民党支持者だけじゃない、地元のいろいろな方々に毎日のようにお会いして、この問題について意見をお聞きしています。そして、私自身が肌で感じていますけれども、多くの国民は、地域の方々は、今度の国旗・国歌についてぜひやってほしいという強い希望を持っているなと。先ほど、山住公述人から世論調査を否定する御意見がございました。マスコミの方も大勢お見えですけれども、世論調査が信用できないということで大変ショックを受けておられるんじゃないかなと思いますけれども、私自身は、毎日多くの方と接触してそういう感じを持っているわけでございます。     〔植竹委員長代理退席、委員長着席〕  いずれにしましても、日本という国は法治国家ですから、午前中も申し上げましたけれども、石原知事が言われるように、みんなで決めたことはたとえ嫌でも守る、これは当たり前のことでございまして、おれは嫌だからみんなで決めたことも守らないよということになったら社会秩序は保てないわけでございまして、今度のこの君が代・日の丸、既に法的な拘束力を持つ学習指導要領に決められて、そして、学校の先生方は地方公務員法で上司の指示に忠実に従わなければならない、こういう規定だってあるわけです。これが現実に一部の地域では守られていない、したがって混乱が起こっているんではないかなという感じがしております。  そこで、まず百地公述人にお聞きしたいと思いますけれども、慣習法として定着している、学習指導要領にも決められている、校長先生の指示には従わなければならないと決められているにもかかわらず、そういったものを一切無視して、いわば治外法権と思い込んでいる先生方も大勢学校の現場におられるわけでございますけれども、そういう中で今回法律にする。そうしますと、法律で決められたっておれは守らないよという人は必ず出てくるはずでございます。したがって、ますます混乱が拡大するという意見もありますけれども、今回のこの法律のねらいは、現場の不毛な対立、混乱、これを防ぐのが目的でございますけれども、それがむしろ、防がれるどころか、ますます拡大するという見方もございますけれども、これについて百地公述人の御意見をお聞かせいただきたいと思います。

百地章日本大学法学部教授

○百地公述人 御質問にお答えします。  初めに、慣習として定着しているかどうかということですが、先生もおっしゃられたように、地域差があることは事実だと思います。しかし、国民大多数の意見というのは、声というのは、既に各種世論調査に明らかなとおり、大多数が支持しているということだと思います。そして、実は、既に法制化を求める県議会議決も三件、それから市町村議会の議決も十から二十件ぐらいですか、かなり上ってきているわけですね。したがいまして、これが国民の声だと思います。  それから、反対運動がこの法制化によっておさまるかどうかという御質問ですが、これは確かに事実の問題ですから、法律論ではありませんから断定は慎みます。しかしながら、反対運動の唯一の根拠は、法的根拠、明文の法的根拠がないということでした。その根拠が失われるわけでありますから、彼らの反対運動は正当性を失います。したがいまして、少なくともこれによって相当の人たちは脱落すると思いますし、もちろん、断固、絶対もう納得しない、絶対もう最初から認めないという人たちは別ですけれども、しかし、少し良識があれば恐らくそれなりの行動をされると思いますから、いずれ収拾に向かうと思います。

平沢勝栄自由民主党

○平沢委員 ありがとうございました。  先ほど御意見を聞いておりまして、山住公述人、北村公述人、お二人の御意見は、慣習として定着していない、そして山住公述人、恐らく、世論調査は必ずしも信用できない、多くの人は反対しているんじゃないか、こういうふうに私は感じたわけでございますけれども、これに間違いはございませんでしょうか。

山住正己東京都立大学前総長・名誉教授

○山住公述人 世論調査と言いましたのは、電話によって調査しているところがあるんですね。電話でいきなり聞かれてすぐに自分の考えをまとめて答えるというのは容易じゃない。ここにおられる方々も皆さんそうだと思いますね。突然電話でこの日の丸・君が代をどう思うかと言われて自分の考えをまとめることができる方というのは極めて少ないのではないかと思うので、そういうふうな世論調査の仕方がまずいということを言っているわけです。もう少し世論調査を慎重にやって、多くの人が納得できるようなものを出すことが必要ではないかというふうに思います。  それから、今多くの方と接触しておられると言われましたが、その多くの方々、やはりしっかり日本の歴史を学んで、日の丸・君が代がその中でどんな役割を果たしてきたか、そういうふうな歴史を学んでいるかいないかによって決定的にその意見が違ってくると思います。何も学ばないで学校で歌わされ、日の丸を仰いできた場合、これは賛成というふうに言ってしまうということが多いのではないかと思います。

平沢勝栄自由民主党

○平沢委員 今の最後の御発言は、地域の方々、有権者の方々、真剣に考えておられる方々に対する大変な失礼な言い方ではないかなという感じがしております。  そこでお聞きしたいと思いますけれども、今回は法律で決めるわけです。ですから、もう総選挙はいずれ近いと言われているんです。私は堂々と、君が代・日の丸に賛成したということで選挙区で戦います。選挙区の方々は、もし君が代・日の丸に反対であるならば、私を選挙で落とせばいいんです。だから、一言で言えば、今度法律で決めるということは、政治勢力が変われば幾らでもこれを廃止にするあるいは法律の内容を変更できるということになるわけでございまして、先ほど山住公述人、北村公述人、国民の中には少なからぬ反対があるというふうに私は聞きましたけれども、もしそうであるならば、近々行われるであろう衆議院の総選挙、ここで反対して、その人たちが過半数を占めれば幾らでもこの法律は廃止にもできますし変更もできるわけです。ですから、それをやればいいと思うんですけれども、それについて山住公述人と北村公述人の御意見をお聞きしたいと思います。

山住正己東京都立大学前総長・名誉教授

○山住公述人 こういう歌のような文化に関する問題は、簡単に法律によって、選挙の数によって決定できるものではなくて、もうちょっとゆっくり、たくさんの人たちの意見を聞きながら考えていくことが大事だと思います。国歌も歌ですから、歌というのは文化であり、この文化について数だけで決めるというのは、私は賛成できません。

北村小夜障害児を普通学校へ全国連絡会世話人・元中学校教師

○北村公述人 私は学校の現場におりましたし、今も学校にはよく出入りしておりますが、学校の現場の状況では必ずしも、喜んで日の丸を上げ、君が代を歌っているというところはほとんどありません。学校の現場ではそのようになっておりますし、そのことが選挙にどうあらわれてくるかはこれからの問題だと思いますが。

平沢勝栄自由民主党

○平沢委員 今のお話、聞いていますとよくわかりませんけれども、数で決めるのは不適当だということであるならば、では、民主主義社会というのはどういう形で社会の秩序を保っていったらいいのかということになるんじゃないかと思いますけれども、いずれにしましても、時間が限られておりますので、次の質問に移らせていただきたいと思います。  山住公述人にお聞きしたいと思いますけれども、今回の発端となったのが広島県の教育界の混乱でございます。この広島県の教育界の混乱に対しまして広島県教育委員会がそれなりの対応をしたのは当然のことと思います。それに対して山住公述人は、新聞報道によりますと、広島県教育委員会のやり方には強い憤りを覚えるというふうに書いておられますけれども、私は逆でございまして、広島県教育委員会の対応は極めて生ぬるいな、むしろ、きのうの広島の公聴会でもいろいろ意見をお聞きしまして、広島県の教職員組合あるいは部落解放同盟、教育に不当に加入し、一言で言えば暴力そのものという感じがしているわけでございます。  例えば、広島県の岸元先生、参議院の予算委員会の参考人として述べられておりますけれども、もう時間がありませんから簡単に言いますけれども、国旗掲揚、国歌斉唱もやめろという強要をされた、もし実施するなら街宣車で卒業式をひねりつぶすぞ、こういうようなことも言われたと。  そういうようなことが現実に広島県の教育の現場でまかり通っているという現実があるわけでございますけれども、それでも、山住公述人、広島県の教育委員会が学習指導要領に基づいてそれなりの対応をしたことはおかしいとお思いになられるのかどうか、それについて御意見をお聞かせください。

山住正己東京都立大学前総長・名誉教授

○山住公述人 学習指導要領にはどれだけの拘束力があるか。私は、それほど実際には拘束力がないと思っているんですね。あそこに書いてあることをすべての子供たちに習得させることができるようなものであればこれは拘束力があると言ってもいいと思うんですが、あそこに書いてあることを六年生あるいは中学の三年生までの間にすべて習得させるということは実際にはできていない。それを、日の丸・君が代のことになりますと突然学習指導要領が登場してくるというのは、これは異常なことではないかというふうに思っております。  それから、広島のことですが、広島県にもやはりさまざまな方がおられて、さまざまな考え方の持ち主がおられる。この間のことは非常に不幸な出来事であったので、ああいうことがないようにしなければいけない。それには一体どうしたらいいかということは、教師、父母、地域の人たち、その他多くの人たちが率直に意見を交換し合って検討し、一人一人の教師、一人一人の子供たちを大事にするような教育を実現していくほかないというふうに考えております。

平沢勝栄自由民主党

○平沢委員 続いて、同じような質問を北村公述人に聞いてみたいと思いますけれども、午前中も質問したんですけれども、国立で、ことしの入学式、卒業式、いろいろな混乱がありました。子供が主体となる学校行事を求める会という市民団体が、これは地方行政委員会の議事録に残っておりますけれども、答弁ですけれども、団体のメンバーが学校に押しかけて、校長室の中に掲揚されてある国旗を外したり、屋上に国旗を掲揚しようとする校長の行く手を阻むといったような行動をとった、これは地方行政委員会のことしの三月三十日の議事録でございますけれども、こうした市民団体の行動について北村公述人はどういうふうにお考えですか。

北村小夜障害児を普通学校へ全国連絡会世話人・元中学校教師

○北村公述人 地域の学校に対して父母たちが話し合いをしたり要求をしたりすることは、当然のことだと思っております。

平沢勝栄自由民主党

○平沢委員 話し合いじゃなくて実力で、暴力でやっていることについてどう思うかと聞いているんです。

北村小夜障害児を普通学校へ全国連絡会世話人・元中学校教師

○北村公述人 暴力というふうに言われますけれども、その言い方については、マスコミの情報にも問題があると思いますし……(平沢委員「マスコミじゃありませんよ、ちゃんと事実を調べています」と呼ぶ)はい。そのことは、話し合いができていないからこそその行動に及ぶわけであって、事前にそのことについては親たちは熱心に話し合いを求めていたはずです。

平沢勝栄自由民主党

○平沢委員 そうじゃなくて、賛成の人も、君が代・日の丸でやりたいという人もたくさんいるわけです。そういう人たちの気持ちを無視して、本当に一部の人たちですよ、本当にこれは聞いてみますと数人なんです、数人の人たちが学校に押しかけて、校長先生が出ていってくださいと言っても出ないで入り込んで、実力でそういう行動をとる、これについてどう思われますかとお聞きしているんです。

北村小夜障害児を普通学校へ全国連絡会世話人・元中学校教師

○北村公述人 やむを得ない行動だったと思います。

平沢勝栄自由民主党

○平沢委員 これはやっていても平行線ですから、この話をやっていてもしようがありません。こうなったら、私はますます、だからこそ今度の法律はやらざるを得ない、こういう感じが強くしているところでございます。  そこで、もう時間がありませんから最後にお聞きしたいと思いますけれども、山住公述人、教育はすべて学校の現場に任せろ、こういう御意見を述べておられます。しかし、学校教育というのは全くの私の教育じゃなくて公教育でございまして、公務員は全体の奉仕者であるわけでございまして、それぞれの学校の現場で学校が、そして教員個人個人が恣意的に教育しては、学校の現場は大変な混乱に陥ってしまうわけでございます。  私たち保護者からすれば、学校を選べないわけです。先生を選べないわけです。その先生方が、自分の考えに基づいて、自分の主義主張、それを子供たちに押しつけるというようなことが少なくとも義務教育であってはならないということで学習指導要領というのが決められて、そして基礎的、基本的な内容についてはある程度統一して教えなさいということになっているんだろうと思いますけれども、これについて山住公述人はどうお考えでしょうか。

二田孝治自由民主党

○二田委員長 山住公述人、時間でございますので、簡単に御答弁ください。

山住正己東京都立大学前総長・名誉教授

○山住公述人 日本人として必要なことはしっかり学んでいかなければならないと思います。ただし、学習指導要領のすべてがうまくできているかどうかということは、問題があるのではないかと思います。

平沢勝栄自由民主党

○平沢委員 時間が来ましたので終わりますけれども、今の山住公述人、北村公述人、とりわけ北村公述人の御意見をお聞きして、私はぜひこれはやらなければならない、やらなければ大変になるなという感じがしたところでございます。  ありがとうございました。

二田孝治自由民主党

○二田委員長 次に、佐々木秀典君。

佐々木秀典民主党

○佐々木(秀)委員 民主党の佐々木秀典です。  三人の公述人の先生方、御苦労さまでございます。  時間が限られておりますので、端的に質問に入らせていただきたいと思います。  私は、自分のことを申し上げて恐縮なんですが、実は一九三四年、昭和九年の生まれでございまして、国民学校の一年生で始まって国民学校の六年生で終わった、まさに軍国教育の真っただ中で、小学校と言わない国民学校に行った世代です。百地先生は恐らく私よりはお若いんだろうと思いますけれども、私の先輩である北村先生のお話は、非常にそういうところで体験的に共感を覚えるところが多うございました。  もちろん、そういうときですから、私たちは天皇陛下を本当に大事にしておりましたし、天皇陛下のお写真が新聞に出るとそれをスクラップする、大事に大事にしておりました。私の父母も、それから祖父母も大変な皇室ファンでございまして、私の母方の祖父などは、秀典、天皇陛下というのは本当にお偉い方なんだ、おならをすると金の粉が出るんだというような例え話をして、へえと子供心に思って、だから神様なんだなと思って過ごしたわけです。ですから、君が代についても、さっきの山住先生のお書きになったものの中であるような教えを私たちは受けたわけですね。  ところが、戦争が終わって、私たちは今まで使っていた教科書に墨を塗ることから戦後の勉強をすることになった。そうすると、今まで教わっていたことが全く違っていたということになる。そして、天皇が人間宣言をされる、新しい憲法ができる、ああ、民主主義というのはこういうことなのかということを私たちは学んで、すばらしい、新しい日本ができるんだということで大きな希望を持ちました。  しかし、そこで、今まで教えられて子供心にできた価値観を変えていくということは大変なことでありました。百地先生、さっき、正しいことを教えないということの子供の不幸ということを言ったけれども、まさに私たちは不幸な経験をしたんです、事実、間違ったことを教えられたんですから。これは、軌道修正するのは率直に言って大変でした。そういうことを考えると、正しいことを教えるということはどういうことなのかということを、もう少し私たち大人は責任を持って考えなくてはいけないんじゃないか、これが一つの感想です。  そこで、そういう上で、百地先生、これは君が代の方のことですけれども、先生のお書きになったものの五ページで君が代の解釈についての私見を述べられておられますけれども、この解釈について、政府の答弁、見解が変わったということは御承知ですね。六月十一日付の答弁と六月二十九日の首相の答弁、明らかに変わっております。七月の一日に当委員会で官房長官がお述べになったのも、その二十九日の本会議での首相答弁をさらに敷衍したものになっているわけです。  つまり、この先生のお書きになったものでは、これは象徴天皇の在位される期間と見るのが自然ではないか、こういうふうに言っておられる。そうすると、これを仮に敷衍するとしても、私は、せいぜい世の中の世であらわれる程度のことにとどまると。本来的には、これは時代的なことを言っているんだろうと思うんですね。ところが、政府の最近になっての変更した解釈では、これは国もあらわすんだというふうになっているんです。私は、これはどう考えても無理じゃないかと思うんです。  実は、おとといときのう地方公聴会がありまして、私は札幌と金沢に行って、その話が出ました。その中のお一人が、幾ら辞典を引っ張ってみても、この「代」から国ということまで書いてある辞典はない、これは明らかに解釈上無理だ、そういうように言っておられた。このことについて、政府の変更は先生のお考えと違うと私は思うんだけれども、これをなお肯定なさるのかどうか、まず端的にこのことを。

百地章日本大学法学部教授

○百地公述人 お答え申し上げます。  政府見解が変わったとおっしゃいましたが、ある意味では変わったと思いますし、ある意味では変わっていない。つまり、変わった部分と変わっていない部分がある。「君」の解釈は、余分な修飾語はいろいろつきましたけれども、象徴天皇を指すという点では変わっていないと思います。それから「代」の方ですね、これも微妙な言い方をしておられまして、本来は先生がおっしゃられたように時間的観念、私も書きましたように、その時代とか御代とかそういう意味が本来の意味だと思います。政府見解を読みますと、時間的観念を指すが、しかし国をあらわす意味もある、そういった言い方をしておられるんですね。時間的意味も正面から否定されているようではないようなんです。  したがって、そのあたりどうかと思いまして、私も辞書で調べましたが、「代」というのは、代と世の中の世、これが両方一緒に並べて書いてあって、そして時間的観念がずっと説明してある。それで後の方に、世の中とか国とか、そんな意味も確かに出てくることは事実です。私の新潮国語辞典には載っておりました。したがいまして、そういう意味があることは事実です。  ただし、自然な解釈としては、やはり「代」というのはその時代、私に言わせれば象徴天皇の御在位期間と見るのが自然ではないかと思います。ただし、結論的には、私の場合も、ここにも書きましたように、平成の御代の繁栄とはもちろん国家国民の繁栄の意味にほかならない。結局はそういうことになりますから、その点においては、政府見解でも我が国の末永い繁栄と平和を祈ると言っておられますから、君が代の全体の趣旨は変わらないというふうに私は考えております。

佐々木秀典民主党

○佐々木(秀)委員 私は、日の丸の方は、これはいろいろ北村先生の言われるように、山住先生の言われるように、これに非常な思いがあるし、過去の歴史的な事実と重なり合うから問題なんですよね。  ただ単純にそのものとして見た場合には、旗の方はいわばデザインですから、そのものをぱんと置かれたときには、一切の意味合いというものを考えてみたら、きれいかな、いいかななんということになるんだろうと思うけれども、君が代の方は、何といっても歌詞があるのです。歌詞は意味を持っているのですから、そして、この歌詞は、私どもが、子供たちが教わったときの歌詞と今の歌詞と、全く変わっていないんですから。変わったのは何かというと、解釈だけなんですね。こんなに大きな、大きな解釈で認めろと言われたって、私たちが教わったときの解釈とまるっきり違うというのは、幾ら時代が変わったからといって、私は無理だと思うのです。解釈というのはそういうものでしょうか。  よく憲法の変遷なんということも言うけれども、その変遷が内容をがらっと変えるものであってはならないと私は法律学では教わってまいりました。私は、歌だってそうだと思うのです。これは、ある意味では歌をばかにしていることになるんじゃないでしょうか。  にもかかわらず、百地先生にお聞きしますけれども、この日の丸を国旗、日章旗ですね、それから国歌を君が代とすることは全くベストのことだ、過去もそうであったけれども、未来、これからも日本にとってはこのままでいいんだという確信をお持ちになっていらっしゃるかどうか。簡単で結構です、その点、まずお聞きしたいと思います。

百地章日本大学法学部教授

○百地公述人 まず、結論的に、君が代がこのまま国歌として定着するのがベストかとおっしゃられましたけれども、私は、そういうふうに思います。そして、国民の大多数もそれを支持していると思います。

佐々木秀典民主党

○佐々木(秀)委員 つまり、これがベストだとお考えになっていらっしゃる。  そうすると、先生としては、これからもずっとこれが変わらずに、国旗として、国歌としてあり続けることが望ましいとお考えになっていらっしゃるわけですね。  だとすると、日本ではいつから国旗になったのかということは、山住先生の御意見のようにいろいろありますけれども、とにもかくにも国旗・国歌として用いられ、国民の間で、戦争中などは徹底的に私どもはそう思ってきた。それがずっと続いてきた中で、これを法律で決めようとしたことは、昭和の初期に一回だけあった。衆議院で通ったけれども、貴族院で廃案になった、それ一回こっきりなんですよ。戦前も戦後も法律化しようとしたことは全然ないんですよ。そして、その法的根拠は、先生がさっき言われたように、慣習あるいは慣習法によるのではないかということだった、こういうわけですね。  そうすると、さっきも同僚の委員からお話があったように、これを法律化すれば、法律が変わると変えられるんですよ。廃止することもできるのですよ。これは、先生のお考えにとって望ましいことではなくなってしまうのではないでしょうか。  そして、本来だったら、これが戦前法律化されていたとすれば、戦争が終わって新しい憲法ができた、天皇大権を認めていた明治憲法がなくなった、新しい憲法ができたときに、恐らく、日の丸・君が代、少なくとも君が代については国歌を廃止されたのじゃないかと私は思うのですよ。それがされなかったというのは、私は、法制化されていなかったんだろうと思うのです。  そうすると、このことを法律化するということは、さっきもお話が出たように、時の権力が変わり、あるいは法律が変えられた場合にはなくなるということになる。これは、百地先生のお気持ちと変わることになりやしませんか。  だから、そのことについては、むしろ慣習法とすべきだ、イギリスなんかを見なさいという、かつて保守政治家の中での大長老がそういう御意見を言ったということも私は聞いている。  この辺、どう思いますか。

百地章日本大学法学部教授

○百地公述人 お答えします。  法制化したら、将来、改正してしまうこともあるかもしれない、可能性がないとは言えない、したがって、それは私たちにとってもかえってよくないことではないかという御趣旨かと思いますが、実は、私も、最初、産経新聞からコメントを求められたとき、三月初めですが、成文法至上主義には賛成できない、慣習法として定着しているのであればそれでいいのではないか、こう答えました。  しかし、現実を知れば知るほど、明文の根拠がない、慣習法は認めないという人たちが先頭になって教育の現場で反対運動を展開しているわけですね。これは明らかに違法行為なんです。それを平気でやっているわけです。そして、そういう中で石川校長が自決をされてしまった。  そういうことを考えますと、やはり反対運動に対してそれは違法な行為であるということをはっきりさせるためには、明文化する必要がある。  もう一つは、今のままいきますと、法的根拠がないという名目のもとに批判的な教育がなされる、あるいは無視したような教育がなされる。そして、国旗・国歌に対して愛着も何も感じない人たちがふえてきているわけです。  ただ、言っておきたいことは、それにもかかわらず、そういう教育がなされているにもかかわらず、若い世代でも多数が支持しているということも大事だと思いますが、しかし、そういうことがあります。したがって、法制化されれば、これから自信を持って国旗・国歌について教育がなされる。そうしたら、さらに定着度は高まるでしょう。  もう一つ、もし法律化した場合に、では将来どうなるのか、改正されることもあり得るとおっしゃいましたが、まさにそのとおりでありまして、確かにこれを否定する方々が多数を占めればそういうこともあり得るでしょう。しかし、そういう事態が、私はないと思いますが、もしそういう事態が生じたときには、実は、慣習法のままであっても、慣習法としての存在を認めないような、そういう措置もとられる可能性が十分あるわけです。  したがいまして、反対運動の根拠をなくす、そしてきちんと教育をするためには、そしてきちんと国民の支持というものを高めていくためには、これの法制化が必要であり、法制化されればむしろ若い世代の支持は上がると思います。  以上です。

佐々木秀典民主党

○佐々木(秀)委員 時間が大分なくなってきているのですが、山住先生、今の百地先生の最後の御意見に対して、どうお考えですか。  つまり、これが法制化されれば、教育現場での混乱などが恐らく少なくなって、みんな自信を持って教えられるだろう、ここのところです。

二田孝治自由民主党

○二田委員長 公述人に申し上げます。  許可を得てから発言になりますから。

山住正己東京都立大学前総長・名誉教授

○山住公述人 どうもルールを知らないで、済みませんでした。問われたので、すぐ立ち上がってしまいまして。  それは、先生たちを萎縮させるだけである。法制化したからこれに従わなければならないということになりますと、先生方がいろいろ自分たちで勉強して考え、そしてみんなで討論して教育内容を決めていくという道をふさぐことになるわけですね。  先生たちにとって一番大事なことは、自由に考え、自由に勉強し、それで同じ教師仲間で議論して、それをもとにしながら教育をしていく。何も独断で突っ走るというようなことを言っているわけではないのですね。そういうふうな自由な学習、これを保障するということが大事だということを言っているわけです。

佐々木秀典民主党

○佐々木(秀)委員 時間がなくなりまして、北村先生にもお答えいただけなかったのは残念ですけれども、この間、東京新聞だったかと思いますけれども、数日前の投書欄で、元校長先生だったという方が、この問題で非常に自分も現場で苦労したということを言いながら、しかし、特に国旗・国歌のうちの君が代については、今これだけ政府の解釈もいろいろ揺れ動いているときに、これを法制化しても、現場の先生方はどれだけ正しく子供たちに教えられるか、正しいことというのは一体何なのか、それについても非常に悩むんじゃないかということを言われておられました。  北村先生、そのことについて、一言でいいですから感想をお述べになっていただいて、終わりにしたいと思います。

北村小夜障害児を普通学校へ全国連絡会世話人・元中学校教師

○北村公述人 法制化することによって、多分、国民学校の時代と同じように、教師は機械的にお上からのことを伝えるだけの機械のようになって、学校はますます空洞化していくだろうと思います。

佐々木秀典民主党

○佐々木(秀)委員 終わります。ありがとうございました。

二田孝治自由民主党

○二田委員長 次に、倉田栄喜君。

倉田栄喜公明党・改革クラブ

○倉田委員 公明党・改革クラブの倉田栄喜でございます。  公述人のお三方の先生には、きょうは大変ありがとうございます。  まず、君が代の方について、百地先生にお尋ねをしたいと思います。  先生が述べておられます第三番目の点、つまり、現行憲法下ではそれに相ふさわしい意味づけをする必要があるのではないか、こういう御主張でございます。  私どもも、君が代の歌詞については、明治憲法下でとられた意味、さらには明治憲法下以前定着をしておった意味、あるいはさまざまな形で意味づけされておった意味、それぞれ時代の中におって君が代の解釈というのは違ってきたのだろうと思います。国旗と国歌と比べた場合に、国歌君が代に対して異論が多いというふうに私どもも見ますのも、それは、明治憲法下における意味の解釈について相当抵抗がある、そういうことであると私は思っております。そうだとすれば、先生がお示しのように、現行憲法下におけるこの君が代の解釈の意味、こうして国会で法文化するということになるとすれば、まさに現行憲法下にふさわしい意味の解釈をしなければならないのではないのか、このように思うわけであります。  先生は、そこで、平成のこの御代の永遠の繁栄を祈るもの、そして平成の御代の繁栄とはもちろん国家国民の繁栄、こういうふうにお考えでありますけれども、ただ、政府の見解にありますように、その「代」という解釈を時代、転じては国家、こういうふうに解釈をした場合、そうしますと、「君」、これもこの委員会の中で議論になってきているわけですけれども、「君」の意味も、象徴天皇にふさわしい、主権在民、国民主権の我が国とする、ふさわしい解釈でなければならない。つまり、我が国がこの「代」というのを国だというふうに転じて解釈をした場合、この日本の国はまさに国民主権、主権在民の我が国でありますから、当然、その国という言葉から翻って「君」を考えていくならば、「君」という言葉も、象徴天皇を含む国民全体、そしてその象徴天皇を含む国民全体は、その我が国の繁栄を祈る歌だ、そういうふうにも私は解釈できるのだと思いますが、先生はその点はどのようにお考えでしょうか。

百地章日本大学法学部教授

○百地公述人 まず、君が代について現行憲法にふさわしい意味づけが与えられたということは、これを先生も支持していらっしゃる。私もそのとおりでありまして、例えば天皇という名称でも、あるいは内閣にしても、戦前から使われていた名称ですから、それが現在の憲法にふさわしい役割、位置づけが与えられているわけですから、言葉だけでどうこうというものではない。そして、現在の憲法に違反しない限りは、戦前の詔勅でもすべて有効でありますし、それが法というものだと思います。  そこで、「代」ですが、確かに、国ということになりますと、天皇の国家ということになってしまうわけですね、言葉の上からいいますと。ですから、私はむしろ、政府が言っておられることからすると、ちょっと逆の意味になってくるおそれがないだろうか。天皇が在位されている期間と見るのが自然じゃないか。しかし、最終的にはやはり、国家国民の繁栄ということですから、結論は同じですけれども、私もちょっとその辺は疑問に思ってもいます。  それから、「君」の解釈として、象徴天皇を含む国民全体とおっしゃいましたが、これはまた、やはり不自然ではないか。もちろん、もともと一義的な言葉ではありませんから、あなたと二人称を指す場合もあれば、天皇を指す場合もあった。したがって、国民個人が内心において、いや、この「君」はだれかいとしい人を思うか、それは勝手です。しかし、政府の公式解釈としては出てきているわけですから、その際に国民全体を含む「君」というのは、これはやはり不自然ではないかというふうに思います。

倉田栄喜公明党・改革クラブ

○倉田委員 私が申し上げている趣旨ということは御理解をいただける、こう思いますけれども、つまり、天皇の御代あるいは天皇の国ということだけに、いわば形容詞を取っ払う形でやってしまうと、やはり主権在民という形から違和感を覚える人が出てくる。そうすると、やはり政府の解釈も象徴天皇ということを言っているわけでありますので、ここはまさに象徴というところに大きな意味がある。そして、その象徴、どうして象徴なのかということになるとすれば、まさに我が国憲法の一条という問題に帰着をするのだ、そういうふうに考えております。  そういう意味で、いわゆる天皇主権とする明治憲法下の我が国と、そして主権在民とする現行憲法下の我が国とでは、実はこの歌の解釈も、非常に極論を言えば、これは金沢の公述人の方もおっしゃっておられましたけれども、コペルニクス的に転回をされていかなければならない。まさに天皇主権の国が国民主権の国になったわけですから、そういう意味にとらえていく必要があるのではないのか、私はこのように思っております。  そこで、それぞれお三方の先生にもう一点お伺いしたいわけでありますけれども、先ほど、いわゆる政権がかわれば国旗も国歌も変わることがあるのではないのか、現在の国旗・国歌にもし反対だとすれば、反対の人たちが政権をとって変わる、その可能性の議論がありました。私は、実際の政権の問題としては確かにそういう側面もあるのかな、こう思うわけでありますけれども、一方で、私自身もこれは問題の整理はいたしておりませんけれども、果たしてそれだけなのだろうかという気がいたします。  それは、例えば、我が国は今民主主義体制、民主主義の国家です。それでは、民主主義であれば何事も変えられるのか、そういう問題意識に対して、一方で伝統主義というか、これを相対する概念ととらえる学説もあるのだろうと思いますけれども、伝統として受け継ぐべきもの、そういうものがある。  先ほど山住先生は、国歌君が代がどうかは別として、歌は一つの文化である、だからある意味では法制化はというお話だったと思うのですけれども、私は、例えば伝統といったときに、自分の高校であったりあるいは大学であったり、自分の伝統ということに対して誇りを持つという側面もある。それが国に対してどうなのかということは、では、国の伝統とか国の文化とか国の誇りとかそういうもの、つまりずっと受け継ぐべきものはやはりあるのだろうと思うのですね。それが日の丸でありあるいは君が代であるとまでは私は今申し上げませんけれども、やはり受け継ぐべきものが存在をする。ずっと我が国が始まって以来、あるいは戦争の時代、そしてずっとこれから先の時代にあっても語り継ぐべきもの、受け継ぐべきもの、そういうものはいわば伝統という形の中にあるべきものではなかろうかと思います。  そうだとすれば、まず百地先生、先生は、伝統というところから考えた場合、日の丸もいわば国が受け継ぐべきものとして、あるいは君が代も我が国が受け継ぐべきものとしてずっと存在すべきものである、そのようにお考えでしょうか。

百地章日本大学法学部教授

○百地公述人 私も、先生おっしゃるとおり、やはり国家として変わらないもの、あるいは変えてはならないものがある。それが伝統であり、文化であると思います。そして、その中心が例えば皇室の存在であると思いますし、それからまた日の丸・君が代も変えてはならないものだというふうに考えております。そして、そういったことを次代を担う青少年たちにきちんと教えていく、継承できるように伝えていくのが教育の役割であるというふうに考えております。

倉田栄喜公明党・改革クラブ

○倉田委員 今先生は、受け継ぐべきものとして天皇ということもお話しになりましたけれども、実はまだ当委員会でも、いわゆる天皇制、現行憲法下における象徴天皇制、私はこの象徴天皇制というものはやはり受け継いでいくべきであろう、このように個人としては思っております。  そこで、これは山住先生と北村先生にお伺いいたしますけれども、国家の伝統であるかどうかは別としても、いわゆる国として受け継ぐべきもの、変わらなく子孫に伝えていかなければならないものがあるのかどうか。両先生はその点をどうお考えになっているか。さらにもう一点、現在の象徴天皇制についてはどのようにお考えになっているか。その二点、それぞれお二方の先生にお尋ねをいたします。

山住正己東京都立大学前総長・名誉教授

○山住公述人 日本には豊かな文化の伝統があって、奈良、平安時代以来、豊かな文化があります。これは国際的に誇るべきものであって、これは大事にしていきたいと思います。  しかし、それと君が代とは全く違いますね。君が代は、戦前の国定教科書の教師用書に、天皇陛下がお治めになる御代がいつまでもいつまでも続くようにとお祈りする歌ですというふうに文部省が解釈をはっきり決めていたのですね。それを、戦後になって、そうではないんだというふうに簡単に言えるようなものではない。戦後、国歌をつくりかえることができなかったということは非常に残念なことの一つだと私は思っております。

北村小夜障害児を普通学校へ全国連絡会世話人・元中学校教師

○北村公述人 民族として受け継ぐ、民族と言っちゃいましたけれども、民族として受け継ぐべきものはあると思います。  ただ、国としてそれを維持するというときには、少数の人たちの問題も一緒に考えていかなきゃいけないだろうと思うのです。私たち、つい最近になってアイヌの人たちの文化を知りました。恐らく私たちがまだ収集できていないすぐれた文化が日本という国の中にはあるだろうと思います。そういうものも含めたこととして、受け継ぐものはあるだろうと思います。

倉田栄喜公明党・改革クラブ

○倉田委員 私は大いに議論をしていただきたい、こう思っております。  憲法の問題も今盛んに議論が行われ始めようとしておりますけれども、民主主義であること、平和の尊重であること、基本的人権が守られなければならないこと、同時に、憲法一条が象徴天皇制を定めているわけですから、今私ども一人一人はそのことに、国旗・国歌の問題も含めて向き合わなければならないのではないのか、そう思っております。  三人の公述人の先生方には大変ありがとうございました。終わります。

二田孝治自由民主党

○二田委員長 次に、松浪健四郎君。

松浪健四郎自由党

○松浪委員 自由党の松浪健四郎でございます。  お忙しい中、三人の公述人の皆さんにはお出ましを賜り、そして貴重な御意見、貴重でない御意見を聞かせていただいたことをまず感謝をさせていただきたい、こういうふうに思います。  それで、唐突ですけれども、私の書いた雑文を公述人の方に配付をさせていただきました。ちょっとそれをとっていただいて、百三十四ページ、百三十五ページ、これは中途からになりますけれども、百三十五ページの後ろから四行目、中ほどから読ませていただきます。  彼女たちがフランス国歌を演奏していると、つかつかと一人の外国人が音楽隊を目指して全力疾走。どうしたのだろう、何が起こったのか、わたしには皆目見当がつかなかった。しかし、指揮者とその外国人が口論……。   委員長のわたしを指揮者が呼ぶ。  「この人は、国歌演奏の練習は失礼だというのです。ワケがわかりません!」   そこで、わたしは外国人に聴く。いや聴くというより、外国人の抗議を受けつける感じ。  「私はフランスの通信社の者です。わが国の国歌を演奏するというのに、どうして客を起立させないのか、失礼ではありませんか。これはフランスを侮辱する行為です」  「この演奏は練習のためのものです。休憩時間を使って、音合わせをしながら本番に備えているわけですが……」  「国歌演奏を客のいるところで練習すること自体、失礼だし侮辱ですッ!」 こう書いて後ろに続くわけでございますけれども、このフランス通信社の記者の言われていることに対して、北村公述人はどのような感想を持たれますか、お聞かせいただきたいと思います。

北村小夜障害児を普通学校へ全国連絡会世話人・元中学校教師

○北村公述人 状況がよくわかりませんけれども、この方が侮辱ですと言われたこと自体、そう感じられたことを正直に言われた分は、そういう事実として認めます、事実として。

松浪健四郎自由党

○松浪委員 百地公述人はどのように受けとめられましたか。どういう感想であったかお聞かせください。

百地章日本大学法学部教授

○百地公述人 このフランス人の感覚というのは、実は国際的にはごく常識的な感覚だろうと思うのです。日本のやり方がちょっとあれだったのでしょうけれども、こういう話はよく聞きます。  今日我々に一番欠けているのは国際常識でありまして、世界では、国旗・国歌に対してはこういう感覚でもって、自国の国旗・国歌を大事にし、そして相手の国の国旗・国歌をも大切にする、これは、はやりの言葉を使えば、いわゆるグローバルスタンダードでありますから、この感覚はよく理解できるつもりです。

松浪健四郎自由党

○松浪委員 山住公述人にお尋ねしたいと思います。同じことでございます。

山住正己東京都立大学前総長・名誉教授

○山住公述人 これは百三十六ページの真ん中あたりにありますように、練習なんですね。お客のいるところで練習したって一向に構わないというふうに私は思います。ですから、このように受け取ることはない。国歌の演奏を客のいるところで練習していたということで、これについて堪忍袋の緒が切れるというのも随分せっかちなことだなと思っております。

松浪健四郎自由党

○松浪委員 このように国旗・国歌というものについての意識の違い、これは諸外国にあってしかるべきだというふうに思いますが、ここに書かれてありますのは実は国際大会でございまして、世界の人々が同じ価値観を有してそして物事を考えてやっていかなきゃうまくいかない、そのことについて知らなかったこの式典委員長というのは、実は私であったわけですけれども、今となれば大変恥じるわけであります。  そこで、一九七四年のアジア大会がテヘランで行われました。この開会式で人文字というのを私が指導したことがございます。三千四百六十名のイラン兵を使って参加国の国旗をつくるということでありました。そのときに、日本の国旗が出ますとアジアの人たちから一番大きな拍手が起こりました。  このことについて山住公述人はどのような感想を持たれるかお尋ねしたいと思います。

山住正己東京都立大学前総長・名誉教授

○山住公述人 実際に聞いていないので何ともお答えできませんが、ほかの国の歌をみんな知らなくて日本の歌だけを知っていたから、知っている歌についてあるいは拍手をしたのかもしれない。それ以外ちょっと考えられないですね。やはり知っているか知っていないかということだと思います。

松浪健四郎自由党

○松浪委員 私も大学に学びましたけれども、山住公述人に学ばなくてよかったなという印象を持たせていただいたことをはっきりと告白させていただきたい、こういうふうに思います。  委員長のお許しをいただいて、北村公述人にお尋ねしますが、この旗を見られてどういう印象を持たれますか。そして、何の旗かわかりますか。

北村小夜障害児を普通学校へ全国連絡会世話人・元中学校教師

○北村公述人 中央の丸が寄り過ぎているんじゃないですか。旭日旗だろうと思いますけれども、よくわかりません。

松浪健四郎自由党

○松浪委員 わからなくていいし、旗というものについての認識がこの程度の公述人だということだけわかりました。  それで、北村公述人は、先ほど、一九四一年のアサヒグラフをお持ちでした。その中は、日の丸について称賛するものなのか、戦争について、勝ったからよかった、勝ったから悲しい、いけない戦争をした、どういうことを書かれてあるのですか、そのお持ちのアサヒグラフに。

北村小夜障害児を普通学校へ全国連絡会世話人・元中学校教師

○北村公述人 アサヒグラフは当然戦勝を喜ぶものです。戦果を伝えております。

松浪健四郎自由党

○松浪委員 その北村公述人からは、当時は戦争のことを自分はよくわからなかったから一生懸命戦ったというお話がございました。そして、今となってみれば、学校教師をやられて、いわゆるよく言われている教え子を戦場に送るなということなんでしょうけれども、やはり戦争というものはとんでもないものである、そういう認識だというふうに私は理解しておりますが、そういうことですね。

北村小夜障害児を普通学校へ全国連絡会世話人・元中学校教師

○北村公述人 はい、そう思っております。

松浪健四郎自由党

○松浪委員 戦争をたたえたと。  これは何の旗かおわかりでいらっしゃいますか。

北村小夜障害児を普通学校へ全国連絡会世話人・元中学校教師

○北村公述人 さあ、よくわかりませんが、何か新聞社の旗みたいですね。

松浪健四郎自由党

○松浪委員 この旗とこの旗はまるっきりイメージが違いますか。(発言する者あり)

北村小夜障害児を普通学校へ全国連絡会世話人・元中学校教師

○北村公述人 何かそれは旭日だということはわかりますけれども。

松浪健四郎自由党

○松浪委員 両方ですか。

北村小夜障害児を普通学校へ全国連絡会世話人・元中学校教師

○北村公述人 はい。

松浪健四郎自由党

○松浪委員 私は、公述人からいろいろなことをお聞きし、そしてそれについて質問させていただいているわけで、委員長、後ろから私の質問に対してとやかく述べられる方がいらっしゃいますが、注意をお願いします。

二田孝治自由民主党

○二田委員長 私語はひとつ慎んでください。

松浪健四郎自由党

○松浪委員 いずれにいたしましても、旗というのは、私は伝統というもの、そしてそれは国歌にしても同じような一面があるような気がいたします。  つまり、戦前の報道、それは今となってみれば間違いであったかもしれない、しかし今は、堂々と社会の公器として、正義をかざして報道していく、そういうような形でやられていると思うのですけれども、しかし、この報道機関は旗を変えておりません。それは、その旗の中にすべての歴史や伝統を包み込み、非を思い起こすとか、そういったような一面があるのだろう。そういう意味においては、これから私たちの国旗にしよう、法制化しようとするものにも同じ思いがあるし、法制化をして、国民が全部でそのことを、過去の過ちもそして未来への夢をもすべてを内包させる、そういう意味において私は国旗・国歌の法制化が重要だ、こういうふうに思っておりますが、百地公述人、私のこの考え方についていかが思われますか。

百地章日本大学法学部教授

○百地公述人 おっしゃるとおりだと思います。  それぞれの国の国旗には、やはり栄光の歴史もあれば挫折の歴史もある、いろいろあると思います。しかし、それをすべてあわせのんで、そして歴史、伝統として伝えてきているのが国旗であります。これは欧米におきましても、あれだけ植民地政策を進め、そして幾多の戦争を戦い、その旗のもとで戦ってきたわけでありますから、しかし、それにもかかわらず、その旗を変えようなどという動きは聞きませんね。したがって、おっしゃるとおりだと思います。

松浪健四郎自由党

○松浪委員 私も実はアメリカで教育を受けた者であります。そして、スポーツ選手として、アメリカの国旗・国歌というものを尊敬しなければいけない、それは同僚が皆そうしていたからでありますし、それが常識なんだという思いを持っておりました。  アメリカでは、子供たちにそのことをちゃんと教えるように、このことは強制的にでもやられる。しかし、我が国の今度の法制化には、そういった強制するような事項は入っておりません。むしろ思いっきり、混乱をなくすという一面においては、そういった強制条項を入れた方がよかったのではないのか、そういう思いもありますが、そのことについて百地公述人はどのようにお考えになられるか、お聞きしたいと思います。

百地章日本大学法学部教授

○百地公述人 これにつきましては、難しいところでありますが、一般的な義務であるならば、例えば祝祭日とか入学式には掲げるとか、一定の条件をつけてそういう掲揚義務を、一般的な義務を掲げることは、これは諸外国でもやっていることでありますから、別にそれは構わないのじゃないか。  ただ、現実問題として、国民の合意がすぐ得られないとするならば、とりあえずまず根拠を明らかにするだけでもやむを得ないのじゃないかという思いもいたしますし、これは政策判断の問題でありまして、しかし、強制といいますか、掲揚義務とかそういったものを法制化したとしても、別にそれが直ちに憲法違反とかいうことになることはないというふうに思っております。

松浪健四郎自由党

○松浪委員 政府は、総理を初め、既に根拠を明らかにしているわけですけれども、あの政府見解、これだけで百地公述人は十分だというふうにお考えなのか、それともまだまだ不十分であるというふうにお考えであるのか、お尋ねしたいと思います。

百地章日本大学法学部教授

○百地公述人 掲揚義務とか、そこの問題は先ほどちょっとお話ししましたが、もう一つ問題になっているのが尊重規定ですね。私も、これについても、法律家として考えれば、法治国家でありますから、法律で国旗・国歌が定められた以上、当然国民は遵法義務がありますから、尊重する義務がある。しかしながら、国民の中には、その尊重規定がなかったら尊重しなくてもいいというような声もありますから、そういう人たちに対して、それは正しくないんだということを教えるためにも尊重規定があった方がよかったかもしれない。しかし、これもいろいろ政策の問題も絡みますから、こうでなくてはいけないという断定は慎みたいと思います。

松浪健四郎自由党

○松浪委員 いずれにいたしましても、旗というのは目から入ってくるものですから、やはり美しく、そしてわかりやすい、このことは極めて大切だと思います。ましてや、それが国旗ということになりますと、日の丸は非常にすぐれているのではないのかというふうに私自身思っておりますけれども、日の丸の美しさ、すばらしさ、これは私個人だけのものなのか、あるいは百地公述人もそう思われるのか、お尋ねしたいと思います。

百地章日本大学法学部教授

○百地公述人 日の丸がすばらしい旗であるということは私も全く同感であります。国歌も非常に荘重な曲でありまして、私は非常に好きです。感動いたします。

松浪健四郎自由党

○松浪委員 私は、日本代表選手として、胸に日の丸をつけ、幾たびも外国遠征をしたものであります。そして、国際試合のときには、必ず両国の国歌演奏がありました。私は、異国にいて、歌詞の中身が十分わからずとも、あのメロディーに涙したものであります。すばらしい歌だ、そういうふうに思っております。私は、どうしても今国会で法制化したいという強い思いを持っていることを開陳させていただいて、時間が参りましたので私の質問を終わらせていただきます。  どうもありがとうございました。

二田孝治自由民主党

○二田委員長 次に、石井郁子君。

石井郁子日本共産党

○石井(郁)委員 日本共産党の石井郁子でございます。  きょうは公述人の先生方、大変御苦労さまでございます。そしてありがとうございます。  近代の歴史の中で国旗・国歌がつくられ、普及していきました。それは各国も同様かと思いますが、日本で日の丸・君が代が国旗・国歌とされるに至った事情はどういうことなのか、この歴史をきちんと見ておくことが私どもは本当に重要だというふうに考えるものでございます。  この点で、山住公述人から、こうした歴史に触れての陳述がございました。大変短い時間でしたので、言い尽くせなかったこともおありではないかというふうに思いますので、私は、先生は歴史的にとらえ直すことが重要だということを強調されておりますので、まずこの点でもう少し述べていただければというふうに思います。

山住正己東京都立大学前総長・名誉教授

○山住公述人 戦前、日の丸・君が代について政府がどういうふうな解釈をしていたかということですが、日の丸について何と言っていたかというと、これは天来神授の旗である、日本は神の国であるから、天から来て神が授けたまうたありがたい旗であるというふうに解釈をして、それが我々が学校で教わった日の丸の解釈なんですね。これを、民主主義の中だからといって、簡単にその意味を変えることは私にはとても心情的にはできない。  君が代の方もさらにそれ以上であって、これはやはり国民学校の教師用書にはっきり書いてあったのですね。天皇陛下のお治めになる御代がいつまでもいつまでも、千年も万年も続くようにと国民がお祈りする歌ですというふうに書いてあった。それを、戦後になって意味を変えるということはとてもできない。  ですから、私は両方とも賛成しない立場にあります。

石井郁子日本共産党

○石井(郁)委員 もう少しお聞きしたいのでございますけれども、日の丸・君が代の解釈ということもありますけれども、戦前、やはり日本は侵略戦争へとひた走ったわけでありまして、そういう戦争とのかかわりで、この日の丸や君が代が特に教育の中でどういう役割を果たしたのかという問題で、先生の御研究の立場からお聞かせいただければと思います。

山住正己東京都立大学前総長・名誉教授

○山住公述人 これはもう明らかに子供たちを戦争に奮い立たせる、日本のために働かせるということを子供たちの脳裏にしっかり植えつけるためにあの旗と歌を教えてきたことは明らかではないか。しかも、そのとき目指していたことは戦争に勝つということであって、その戦争の先頭に旗があり歌があったということなので、私は、戦後それを変えることができなかったというのは非常に残念なことだというふうに思い続けています。

石井郁子日本共産党

○石井(郁)委員 どうもありがとうございました。  諸外国ではどうなっているかということも私たちは検証しなければいけないというふうに思うんですが、その場合、特に同じ敗戦国ドイツではどうなのか、国旗・国歌をめぐって、日本とドイツの違いはどの辺にあるのか、その点もぜひ伺いたいというふうに思います。山住公述人にお願いいたします。

山住正己東京都立大学前総長・名誉教授

○山住公述人 この点が、同じ立場にあったドイツと日本との非常に大きな違いだったと思います。ドイツは、戦争中のヒトラー政権のもとにあったハーケンクロイツを戦後直ちにやめまして、共和国時代の旗に戻しました。日本はそういう共和国の時代がなかったということがありますが、やはりドイツはドイツではっきり変えたわけですね。  日本も、やはり現代の民主主義社会にふさわしい旗をつくる必要があった。一番大事な時期を逸してしまって、それがずっと今日まで続いて、このような場でもまた日の丸の問題について論じなければならないというのは、日本人にとって非常に不幸なことなので、民主主義社会、日本国憲法ができたところで旗も変えればよかったというふうに、非常に残念に思っているところです。

石井郁子日本共産党

○石井(郁)委員 今回の法制化をめぐる一つのきっかけとして、学校現場での混乱というか、広島の事件等々が語られているわけですけれども、主としてこの国旗・国歌問題が学校教育の問題としてまた議論になっている。これはこれで、戦前から今日までの日本的な意味のあることだというふうに思うんですが、ただ、その場合に、入学式と卒業式における一律の起立と斉唱、こういうことをめぐって起きているわけです。  今、外国の例が言われましたけれども、調査室から出ております資料集の中でも、サミット参加国では、こういう入学式、卒業式での掲揚、斉唱ということはないということがあります。  私は、そこにはそれぞれ、やはり内心の自由にかかわる非常に深い理由があるのではないかというふうには思っているんですけれども、どうして日本の場合に、いわば非常に学校に混乱を持ち込むような形になる入学式、卒業式での掲揚と斉唱ということをめぐって問題になるのか。私は、ここにまさに戦前からの同じやり方、まさに戦前の歴史そのものをこういう形で引きずっているのではないかというふうに思うんですが、その点でも山住公述人の御見解を伺いたいというふうに思います。

山住正己東京都立大学前総長・名誉教授

○山住公述人 日本ほど、学校教育の場がそのときの政府の都合のよいように利用された国はないんではないかと思います。明治の早い時期から、教育勅語体制というものがつくられた。教育勅語は、学校以外のどこかで、会社や企業その他で教育勅語を奉読するというようなことはなかったわけですが、学校で教育勅語を奉読し、それを修身の時間に丁寧に解説をして、日本はこういう国である、その日本のために尽くさなきゃならない、その日本の国の中心に天皇が置かれていたということは、これはもう明白なことなんですね。  それが歴史であったので、そのような歴史を乗り越えていかなければならないのが戦後の民主主義社会であったと思うので、いまだにこういうふうな議論をしなければならないというのは、私にとっては非常に残念なことなんです。

石井郁子日本共産党

○石井(郁)委員 これは私の見解としてですけれども、学校行事としての入学式、卒業式というのは、子供たちにとって、学校生活の入り口であり、そしてまた送り出す場であって、厳粛であった方がいいとは思いますけれども、本当に心通わせる、そういう場でなければいけないというふうに思うんです。厳粛さだけというか、儀式だけが強要されるというようなことは、私はやはり、これからの時代に合わないのではないかというふうに思っているんですけれども、その議論はそれといたしまして、国民への強制ができないという問題が本当になぜ学校では許されるのかということも大きな論点なんです。  ここではそのことをおきまして、学校教育の問題として、非常に国旗・国歌問題がクローズアップされていますけれども、私は、国民生活の各分野でどうなのかという問題も見ておかなければいけないというふうに思うんです。この点でも、山住公述人になりますけれども、国民生活の各分野にわたって、何か先生お感じになることがございましたらお述べいただきたいというふうに思います。

山住正己東京都立大学前総長・名誉教授

○山住公述人 先ほども申し上げたように、学校教育の現場以外のところで日の丸・君が代を上げたり歌ったりすることが議論になるということはまずないんですね。まず、学校でそれを行うということは、やがて育っていく子供たちに、日の丸・君が代をしっかり脳裏に刻みつけようという意図であるというふうにしか思えないんですね。これは戦前の歴史の中にはっきり書いてある。  明治の初め、一八七九年、明治十二年にできました教学聖旨という天皇の名前によって教育のあり方が最初に出されたものですが、その中に、忠君愛国の念を脳髄に感覚せしめると書いてありますね。この脳髄に感覚せしめるというところが実に、生理学的にも正しいのかもしれないのですが、子供のうちにこういうことをしっかり頭に入れさせていこうということで、今日においても学校がその場に利用されているというふうに思って、これは非常に残念なんです。

石井郁子日本共産党

○石井(郁)委員 どうもありがとうございました。  それで、今後のことにもなるんですけれども、やはり今回問題になっておりますのは、戦前の解釈、それを新しく政府の解釈で法制化をしようということになるわけで、果たして解釈を変えてそれが済むのかという問題でありますし、私は、今国会で通すということになれば、まさにその政府解釈で国民に国旗・国歌として押しつけるということにもなるわけで、とりわけ国歌の場合ですけれども、問答無用に押しつけるということは本当に問題だというふうに思っているんです。  これは先生が、山住公述人ですけれども、ある新聞にこのように書かれております。日の丸の旗や君が代という歌を心から愛し、またこれに敬意を表する気持ちになれない人が少なくない中で、これを法律によって国旗・国歌としなければならない国の国民は不幸だ、みんなが日本をすてきな国につくり上げていく中で、多くの人が納得できる国旗・国歌をつくっていきたい、そのための運動を展開したいということもおっしゃっておられるわけです。今そうした国民的な討論をいわば断ち切る形で今国会で法制化をするということに大変危惧を持っていらっしゃると思いますけれども、その辺のお考えをお述べいただきたいというふうに思います。

山住正己東京都立大学前総長・名誉教授

○山住公述人 君が代を心の底から、すばらしい歌である、私たちの国歌であるというふうに誇りに思って歌っている人は非常に少ないと思うんですね。一番具体的なのは、大相撲の千秋楽の結びの一番の後に全員立ち上がって君が代を歌うのですが、あのとき、テレビで見てみましても、口をあけてしっかり歌っている人などはほとんどいないんですね。国技館全体の中で、ぼわっと何か歌が聞こえてくるというだけであって、あれを心の底からよしとしている人はほとんどいないのではないか。いたら、みんな立ち上がってしっかり歌うと思うのですね。  それはほかの場においても同様であって、そのように多くの人たちから軽く見られている歌が国歌とされるというのは、残念というよりも遺憾だというふうに思います。

石井郁子日本共産党

○石井(郁)委員 定着という問題も先ほど来出ておりますけれども、やはり日常生活の中で親しまれる、そしてまた生きているということがあってこそ定着というふうに言えると私は思うんですが、日の丸・君が代に愛着を感じる人がいないという現状だということも先ほど来出されてきたかというふうに思うんですね。  そういう意味で、今回議論が深まれば深まるほどというか、議論が広がれば広がるほど、やはり定着とは言えないという現状が逆に浮き彫りになってきているのではないかというふうに考えるんですが、最後に、この点で百地公述人、また北村公述人に一言ずつお伺いをしたいと思います。

百地章日本大学法学部教授

○百地公述人 定着しているかどうかということは、先ほど来申し上げていますとおり、各種世論調査に明らかでありまして、大多数は支持している。  それから、愛着とかいうものを感じない子供たちがいるかもしれませんが、実はこれは教育の責任でありまして、きちんと教えてこなかった。日の丸・君が代の意義を教えて、そして日本人としての誇り、自覚を教えてくれば、もっと日の丸・君が代に愛着を持つ子供たちが育ってきたはずであります。  批判し、否定し、あるいは無視してきた、しかし、にもかかわらず青少年は一方で日の丸・君が代に愛着を感じている。例えば、ワールドカップのときのあの興奮、感激、あれは青少年の心の一端であります。定着してないと一方的に決めつけられないというふうに思います。

北村小夜障害児を普通学校へ全国連絡会世話人・元中学校教師

○北村公述人 冒頭にも申し上げましたように、何かを国が押しつけようとするときには必ず子供がねらわれます。そういう意味で、この法制化というのは大変恐ろしいことだと思っています。法制化によって、喜んで歌う子供、喜んで歌う国民はそう多くはないと思います。

石井郁子日本共産党

○石井(郁)委員 大体私の持ち時間が参りまして、本当にこれだけの深い問題を抱えている国旗・国歌問題ですから、国会の中の議論もそうですけれども、私は、やはり国民的にもっともっと議論が起こらなければいけないというふうに考えている一人であります。  そういう討論を大いに保障し、大いに広げるということこそが政治の役割ではないのかということを考えているということも申し上げまして、質問時間が参りました、終わりたいと思います。  どうもありがとうございました。

二田孝治自由民主党

○二田委員長 次に、濱田健一君。

濱田健一社会民主党・市民連合

○濱田(健)委員 社会民主党・市民連合の濱田健一でございます。  三名の公述人の先生方には、本当に長時間いろいろな御示唆を与えていただきまして、ありがとうございます。  北村公述人にお尋ねをしたいと思います。  きょうの公述の中で、一九二五年にお生まれになって、その後の公述人の子供時代から青春時代にかけて、日の丸・君が代に、唆されてという言葉を使われましたけれども、皇国の女子として戦争にみずからが加担をしていかれる状況というのがあった、教師や親よりももっともっと進んでそういうふうにしてこられたというふうにお話をされました。そういう反省の中で、戦後先生になられて、改めて子供たちに真実を教えるということの御努力をされてこられたというふうに思っているところでございます。  ただ、日の丸・君が代について法制化に賛成される皆さん方、日の丸という旗が、君が代という歌が悪いのじゃないんだ、その使われ方が、戦前戦中、一時期使われ方がおかしかったんだというふうに言われる方がたくさんおられるわけでございます。先生がこれまで学校現場の中でいろいろとこの問題についても悩んでこられたとは思うんですけれども、今日的な日本の状況、世界の状況の中で、先ほど廃案にすべしというふうに言われましたけれども、時代的な背景を、戦前戦中、子供さんのころと今の時代的な状況と何かダブって見られるところがあるのではないかという心中を私は察するところでございますけれども、その辺はいかがでございましょうか。     〔委員長退席、植竹委員長代理着席〕

北村小夜障害児を普通学校へ全国連絡会世話人・元中学校教師

○北村公述人 はい、そのとおりです。私は、子供というのは、さっき言ってくださったように、大人がただ唱えるだけのことであっても子供は真に受けてしまいますから、私が親よりも教師よりも熱心に戦争をしたということがあります。そういう意味で、やはりねらう方も子供をねらうんだろうと思うんです。まさに今、同じようなときが来ていると思うんです。  先ほど申し上げたくて申し上げられなかったんですけれども、戦後、学習指導要領が試案として四七年に出されるわけですけれども、出された指導要領には、今までのように画一的なことをしていたのでは日本の教育はだめになるということが書いてあるわけですよ。教師の考えを、あてがわれた型どおりに教えておけばといった気持ちに陥れ、本当の生きた教育をしようとする心持ちを失わせるようなこともかつてはあったということが書いてあるんですけれども、まさにそういう状況が今現場で起こっていて、非常に無気力になっている教師、言いたいことが言えない教師がふえてきて、同じ状況になっている。その中で、日本の教育の荒廃というのはやはりそれが一つの原因になって起こっているというふうに思っております。

濱田健一社会民主党・市民連合

○濱田(健)委員 これは山住先生と北村先生にお尋ねしたいわけでございますけれども、今論じられている国旗・国歌法案、これが、小渕総理の慣習法として定着をしているから法制化する必要はないという論評が、世羅高校の校長さんがああいう形で自死された状況の中で直ちに法制化が必要だという官房長官の見解に変わってきた。この差異というものが非常に国民の間でも論議をされているわけです。  端的に言って、今法制化することの国民全体にとってのメリット・デメリット、それぞれに考えるわけでございます。立法府としてこれを法律化することが何が得なのか、逆に問題視するのか。申しわけございません、百地公述人も含めて、端的にお答えをいただきたいと思います。お三方に。

山住正己東京都立大学前総長・名誉教授

○山住公述人 国旗・国歌をめぐってこのような議論をしなければならないのは非常に不幸なことだと思うんですね。私は、戦前の国定教科書の教師用書に君が代について何て書いてあったかというと、天皇陛下のお治めになる御代がいつまでもいつまでも続くようにというふうに、それを国民が祈る歌だというふうに書いてあったわけですね。それを教えてきた。  これを、意味を全く転換させるということは、先ほども申し上げましたように非常に不幸なことである。これにかわる歌を、民主主義社会における日本の歌をつくることができなかった弱さということも十分に私たちはかみしめていかなければいけないというふうに思って、これからの問題がまたさらに大きいというふうに思っております。

北村小夜障害児を普通学校へ全国連絡会世話人・元中学校教師

○北村公述人 法制化について、一たんやめたと言ったりまた言ったりする、あれを見ていると、やはり定着しているとは思っていないから迷ったんだと思います。結果的に、通せる見通しがついたから通そうということで出てきたような気がします。  本質的な話は全然できていませんし、ちょうどいい話し合いをする時期に来たなと思っておりますので、やはり当然廃案にして話し合いを始めるべきだと思っています。  特に、教師の取り組みとしては、かつて日教組が「緑の山河」をつくったことがありますね。非常にたくさんの人に歌われました。今はそれは合わないということで余り歌われなくなってきておりますけれども、あれが歌われなくなったのは、本質的にあの歌がそれほど国民に歓迎されるものでなかったということもあるかもしれませんけれども、あれを歌って処分された教師もたくさんいるわけで、そういう処分の中でこそ今のような実施ぶりが出てきて、それに輪をかけた形で法制化が出てきているんだというふうに思っております。     〔植竹委員長代理退席、委員長着席〕

百地章日本大学法学部教授

○百地公述人 小渕総理が慣習法のままでいいのではないかとおっしゃっていた、それが野中官房長官が法制化を言われるようになって急に法制化の話が出てきました。  それぞれの方々の心中を推しはかることは私にはできませんので、その動機はよくわかりません。ただ、野中官房長官があの広島の校長先生の自殺に大変心配されて、このままではいけないということを考えられたことは、そういうことが伝えられておりますから間違いないと思います。  私自身も、先ほどもちょっと言いましたように、慣習法のままでいいのではないかと一般的には考えておりましたけれども、広島の教育の実態、あるいは所沢もありますが、そういうものを知れば知るほど、このままではいけないんじゃないか。現場の先生方がこれだけ苦労している、自殺者まで出ている、したがってそういう現場の混乱を収拾するためには今法制化するしかないんじゃないか。  それともう一つ、慣習法でいったらいいのではないかという意見に対しては、実は現在の教育の実態を見ますと、先ほどのお答えと重なりますけれども、非常に危ういことになってくるのではないか。  つまり、国旗・国歌に対して批判、否定的なことしか教えない。例えば、広島の教育では、日の丸・君が代は侵略の旗あるいは軍国主義の印であるということしか教えない。そして、そういう教育を一年から六年まで徹底して繰り返し繰り返し教えるわけですね。その結果、子供たちはどういう感想を持つようになるかというと、日の丸の赤は血の赤であり、白は骨の白なんて、これは異常きわまりないことですね。  こんな教育が行われているわけですよ。それで愛着を持てといったって愛着を持てるはずがありませんし、そういう意味では、青少年に本当にこの国に対する誇り、自覚、そして日の丸・君が代に対する自覚を、そして愛情を、誇りを持たせるためには、今こそ法制化して、きちんと教育を行っていくことが必要であるというふうに私は考えております。

濱田健一社会民主党・市民連合

○濱田(健)委員 山住先生と北村先生にお尋ねします。  けさの公述人の方にもお尋ねしたのですが、この数カ月の間にガイドライン法案が成立いたしました。  集団的な組織犯罪を防止するという形での三法が、まだ国会にかかって参議院に行っております。特に、通信傍受法案等については、国民のプライバシーを根底から崩してしまうものになるのではないかというふうに言われております。  憲法の論議をするための憲法調査会を設置するという国会法の改正案も、参議院も通ったのかな、衆議院を通りました。与党の大臣経験者の中には、憲法を改正して、集団的自衛権を認める中身というものもつくっていくべきだという論調をされている方もおられます。  ガイドラインについても、周辺事態安全確保法を含めて、日本が日米安保条約の中でどのように極東の安全のために協力関係をつくるかというところも、日本のこれまでの解釈の中で、バックアップすべきところを逸脱しているという論調も多くのところから出てきているわけでございます。  こういう一連のものと今回の日の丸・君が代、私は感覚的に、日本の国民をある一つの方向に、再び来た道ということではないのかもしれませんが、そういう形に引っ張っていく一連の流れのように、仕組まれたわけじゃないけれども、または仕組んでいるかもしれないけれども、そういう流れに結果的になっているような気がして、非常に日の丸という旗と君が代という歌をシンボリックに使われる可能性というのを否定し得ないというふうに思っておりますが、私が申し上げたこの辺の不安感、二度と、来た道に引き返すのではないか、そういう思いは、国民の全体とは申し上げません、何らかのところにいっぱいある感情だというふうに私は思っておるのですが、山住先生、北村先生、いかがでしょうか。

山住正己東京都立大学前総長・名誉教授

○山住公述人 うまく答えが、北村さんの話を聞いてから答えようと思っていたもので、先に名指しをされてちょっと弱っているのですが、やはりこういう問題については、本当に広く議論を重ねて、開かれたところで議論をするということが一番大事だというふうに思っておりますので、至るところで議論を起こすというような形でこの国会から国民に向かって声が出るというならいいのですが、これをこうしたいという形でこの重要な問題が決められるというのは好ましくない。  やはり開かれた国会、それを受けて国民が自由に議論し合う、その中で日本の国は一体どういうふうに進んでいったらいいのかということが決められていく。少し時間はかかるかもしれないのですが、やはり民主主義というのは時間がかかるものなので、そういうふうに進めていくほかないというふうに思っております。

北村小夜障害児を普通学校へ全国連絡会世話人・元中学校教師

○北村公述人 私は学者でも政治家でもありませんので、ごく市民的な感性として申し上げるわけですけれども、この間の動きを見ていまして、どうしてこうアメリカの言うとおりに、何てアメリカには従順に従うのだろう、私たちには何と強権的に立ち向かうのだろうという気がしています。私たちは力で抑えられるし、それでいながらアメリカさんには実に従順に言うことを聞いているような気がします。極めて市民的な、生活者としての意見です。  その感覚で考えますと、世羅高校の石川校長先生というのは、日本が翼賛体制に向かう中での最初の犠牲者だというふうに私は思います。もしかしたら最初じゃないかもしれません。既にいらっしゃるかもしれませんが、そういう気がいたします。  それから、ついでにちょっとだけ申し上げたいのですけれども、先ほど百地先生から、日の丸の赤は血の色ということを否定的におっしゃいました。  私は事実として知っております。  日本兵が中国のある村を占領したときに、日の丸がありませんでした。占領したところに日の丸は上げるのですよ。上げながら行くんじゃないのですね、戦争ですから、だまし合いですから。なかったときに、白い布を探したのですけれども、ありませんでした。あったのは、兵隊が一番下に身につけているふんどしでした。死にかけた傷兵の血で赤く丸を染めて掲げた、これは事実です。何ということでしょうか。やはりそういうものなのではないでしょうか。

濱田健一社会民主党・市民連合

○濱田(健)委員 ありがとうございました。

二田孝治自由民主党

○二田委員長 次に、笹木竜三君。

笹木竜三無所属の会

○笹木委員 笹木竜三です。質問をさせていただきます。  最初に、北村先生にお伺いをしたいわけですけれども、御自身の体験から、戦時に非常に積極的に、心情的にも協力を人一倍し過ぎた、それを取り返すようなつもりで、その後歩んでいるのだというお話がありました。  そこで、お伺いをしたいわけですけれども、北村先生にとっては、例えば第二次大戦というのは、日本とかドイツとかイタリアは敗戦国ですけれども、これは負けた国は一〇〇%悪い国で、勝った国は正しい国だった、そういう解釈をされておられるのでしょうか。

北村小夜障害児を普通学校へ全国連絡会世話人・元中学校教師

○北村公述人 勝った国が別にいいとは思っておりません。勝った国がいい国で日本が悪い国というふうには思っておりません。

笹木竜三無所属の会

○笹木委員 勝った国の中でも、例えばイギリスでもフランスでもアメリカでも、その国の歴史には深く反省すべきような経験、それと同時に誇るべき経験、ほとんどの国は両方持っていると思うわけです。日本についても私は同じだと思っております。特に明治以降の歴史についても、やはり誇るべき側面がたくさんあるし、戦時については、国際的な規範からもはみ出したとか暴走した、そういうことが多いのも事実です。  しかし、そういった非常に深く反省すべきものをたくさん持っている他のイギリスとかフランス、アメリカも、そういった経験を持ちながらも、国旗とか国歌を変えていない現実が一方にある。こういう国について、先生はどういうふうにお考えですか。

北村小夜障害児を普通学校へ全国連絡会世話人・元中学校教師

○北村公述人 それぞれその国のやり方はあると思うのですけれども、だから日本もやらないというのではなくて、日本が反省すべきところをきちんと反省することによって、外国にもそれが要求できていくと思います。

笹木竜三無所属の会

○笹木委員 午前中もお伺いをしたわけですけれども、国旗とか国歌を変えることが本当に反省をしたことになるのでしょうか。国旗とか国歌をそれで変えることが、例えばアジアの国に対して、これは幾ら反省しても反省し切れない面がたくさんあると思いますけれども、看板を変えることが総括をして真に反省したことにつながるのでしょうか。

北村小夜障害児を普通学校へ全国連絡会世話人・元中学校教師

○北村公述人 変えるだけでは済まない問題だと思います。

笹木竜三無所属の会

○笹木委員 もう一点お伺いしたいわけですけれども、道徳を教えるような動きがあって、これはまた戦争が近くなると思ったという御発言がありました。道徳を学校教育で教えることがどうして戦争につながるのか、私はやはりわかりません。金を超える価値をしっかりと教育で教えること、道徳を教えること、これはもう世界じゅうどこでも、むしろこういう経済のグローバリズムが進んできた、あるいは戦後特に経済的な競争が激しくなってきた、そういう中で道徳を教えることはむしろますます必要なことだと思いますけれども、それがどうして戦争に近づくことになるのでしょうか。

北村小夜障害児を普通学校へ全国連絡会世話人・元中学校教師

○北村公述人 私は特設道徳と申し上げました。道徳のすべてを否定しているわけではありませんけれども、道徳の徳目を並べて、こうしなさい、ああしなさい、そういう形で道徳というものは身につくものではないと思っております。

笹木竜三無所属の会

○笹木委員 では、先生にとって道徳はどういうふうに教えていかれるのが理想だと思われるわけでしょうか。

北村小夜障害児を普通学校へ全国連絡会世話人・元中学校教師

○北村公述人 私たちは、日々の生活の中で、その場その場で取り組むべきことがあるというふうに思って、当時の特設道徳には反対したわけです。

笹木竜三無所属の会

○笹木委員 次に、山住先生にお伺いしたいわけですけれども、日本において国歌も国旗も定着していないというお話がありました。例えば先生にとっては、イギリス、フランス、アメリカの国旗・国歌は日本よりずっと定着をしている、そう思われるのでしょうか。

山住正己東京都立大学前総長・名誉教授

○山住公述人 定着しているかどうかということを数字で示すことは非常に難しいですね。  ですから、日本の場合、一体定着というのをどういうところでいうのか。私はそういう言葉は使いたくないですね。使いたくなくて、実際にどういう場面でどういうふうにみんながこの歌を扱い、あの旗を見ているか、そこの具体的なところで話をしたいのであって、ただ定着しているということ一般でこの話をすると、かえって問題点がはぐらかされてしまうのではないかという気がするので、できるだけ具体的に問題を考えていきたいと思っております。

笹木竜三無所属の会

○笹木委員 では、一つの例で挙げますけれども、例えばアメリカの場合には、国の旗に対する冒涜法というものまでつくって、国旗に対する冒涜を防ぐ、侮辱を防ぐ、刑罰でそれを罰するということまでやっております。あるいは、学校において、学期中は圧倒的な多数の学校で国旗を掲揚している。それを定めている。あるいは、国歌の演奏中は帽子をとって右手を胸に添えて直立不動の姿勢をとる、こうしたことを具体的にしっかりと規定をしている。フランスは植民地支配の経験を持つわけですけれども、憲法で同じ歌を、旗を規定して、国民に対する定着を図ってきた。こういう事実に対して、先生にとってはやはりこれは望ましくない事実だとお思いになられるかどうか、お伺いしたいと思います。

山住正己東京都立大学前総長・名誉教授

○山住公述人 私は、こういうことは憲法や法律で決めるようなことではないと思うのですね。みんなが本当に愛し、好きな歌、好きな旗というものができてきて、それが多数の人たちの合意によって国旗となり国歌となっていくというのが一番好ましいのであって、法制化するということは、一部の人たちをそちらの方向に連れていくことはできるかもしれませんが、多くの人たちに内心反発させるということがふえるだけであって、これはかえって日の丸や君が代にとってもマイナスではないかとさえ思っております。

笹木竜三無所属の会

○笹木委員 さらに、先ほど先生のお話の中に、自由な学習というお言葉もありました。先生にとって自由な学習というのは、例えばどういうような具体的なイメージを持たれているのかお伺いをしたいわけです。  あらゆる道徳でもあらゆる倫理的なものでも、例えば年寄りを敬えとか、国の発展のために尽くせとか、世界の平和のために貢献しろとか、いろいろな言葉があるし、いろいろな具体的なマナーについての指導もあると思います。これはすべて教育で教えるときにはまず強制して教えるところから始まる、これはやむを得ないことだと私も思うわけですけれども、こういうようなこと自体も先生は否定をされるのでしょうか。

山住正己東京都立大学前総長・名誉教授

○山住公述人 人類は、長い間かけて次第に文化を発展させ、道徳についても豊かな考え方を築き上げてきた。私たちは、そういうふうな文化、道徳などの伝統を受け継ぎながら、日本を道徳的にも世界各国に尊敬されるような、文化的に豊かな国をつくり上げていくということが大事であって、何よりも私たちは、伝統、歴史、これを大事にしてこれから進んでいくことが必要だと思っております。

笹木竜三無所属の会

○笹木委員 その伝統、歴史を大事にして進んでいくことが大事だということを、自由な学習の中でどのように先生は教えるべきだと思われておられますか。

山住正己東京都立大学前総長・名誉教授

○山住公述人 それこそ先生たちのそれぞれの創意工夫ですね。これを尊重していきたい。  こういうことが重要なんだというふうに決めてしまうということ自体がおかしいのであって、先生たちが創意工夫を凝らして、そして目の前にいる生徒との関係で学習を進める、授業を進めるということなのであって、これは一般的に言ってこうしなければいかぬということではなくて、あくまでも学校教育というのは、教師と目の前にいる子供との関係で授業方法、学習方法というものがつくられていかなければならない。それを自由にやってよろしいのだということが大事なのであって、こうしなければいかぬというのではなくて、教師と子供との関係、これを尊重したい。

笹木竜三無所属の会

○笹木委員 どのような自由な社会でも、社会の共通の規範とか秩序、これを避けることは現実的には不可能だと思うわけですけれども、先生は、そういった共通の規範とかあるいは共通の秩序、そういったこと自体も極力少ない方がいい、そういうお考えなのでしょうか。

山住正己東京都立大学前総長・名誉教授

○山住公述人 人間が豊かな生活をしていく上にとって必要なものは大いに尊重していかなければならない。先ほども言いましたが、そこには深い文化の伝統や何かがありますから、それらを大事にしながらいきたいということです。

笹木竜三無所属の会

○笹木委員 百地先生にお伺いをしたいわけですけれども、先ほどから他の委員の質問に対して、最初は慣習法という形でいいんじゃないかという気もあった、しかし、やはり反対派の方が法的根拠がないという論拠でこういった君が代・日の丸に対して学校現場での混乱がある、そういうことを受けてやはり法制化が必要だというお話がありました。  具体的にはあの広島の事件が、これが、あるいは先生御自身がお話ししている反対派の論理、論拠が法的根拠だからやはり法制化、こういうことで確認をさせていただいていいのでしょうか。

百地章日本大学法学部教授

○百地公述人 直接の根拠は、やはりそういう反対がある以上はきちんと明文の根拠を示さないとこの混乱はおさまらないだろうということであります。  ただ、それ以外にも、繰り返しになりますが、このままいったら慣習法そのものが危うくなってしまうおそれがあるということも、いろいろなあれを見ますと若い世代にいくほど支持率が低くなってきている、この現状もやはり危機感を覚えます。  そういう意味で、法制化はぜひ必要だと考えます。

笹木竜三無所属の会

○笹木委員 しかし、一般的に考えてみますと、学校で教える倫理的なもの、マナー的なもの、文化的なもの、ほとんどは法的な根拠がないと思うわけです。しかし、法的な根拠がないということで教えられないとしたら、これは非常に何かがやはり狂っているんだと思うわけです。  さらに、これも他の委員からも議論がありました、法によって定めるというのは、政権交代とかそういったもので変えられてしまう可能性がある。先ほど先生はそれに対して、そういうことであったら政権交代によって慣習法でも変えられてしまう可能性があるんだ、そういうお話もありました。これも確かに事実だと思います。  しかし、今回のこの法案の出され方も、やはり政局とかそういった政治の思惑がないといえばうそですし、それはそれで否定ができないわけですけれども、しかし、法律というのはやはりそういうものだと思います。  ですから、他の委員の議論にもありましたけれども、やはりこういう国旗とか国歌というものは政局とか政治権力よりもさらに重たいものという位置づけが必要で、そのためには、例えば、憲法でさらに規定をする、国民投票を経て憲法でさらに規定する、こういった方法もあると思います。この法案が仮に通った場合でも、そういったことでさらにおもしをつけるという方法もあると思います。それについては先生はどのような御意見か、お伺いをしたいと思います。

百地章日本大学法学部教授

○百地公述人 確かに、出方、この法制化の動きが出てきたのは唐突な感があるのは私も認めます。やはりもっと自然な形で出てくればよかったとは思いますが、しかし、今はそういうことを言っているときではないと思います。  それから、教育というのは、もちろん憲法あるいは法律でもってがんじがらめにするというようなものではないと思いますが、しかし、基本的な部分は、例えば教育権が国家にあるかどうか、これは法で、憲法で、あるいは判例によって明らかにされるしかないわけであります。そして、具体的な教育をどうするかということは、やはりそれぞれ、必ずしも法律に従わないで、教育の目的を達成するためにいろいろな創意工夫がなされるべきだと思います。  それからまた、教育そのものが時々の政治の事情によって変えられるというのはよくない、やはり教育の中立性というのは大切だと思います。  それから、国旗をより不動なものとするために憲法改正をということであれば、私は結構だと思います。ぜひ頑張っていただきたいと思います。  ただ、国民投票につきましては、簡単には賛成できないところがあります。といいますのは、現在のこの憲法を前提としますならば、議会制民主主義、間接民主制を前提としておりますから、そもそもそういう制度がございませんし、これからつくるわけにもいかないでしょうから。それから、国民投票というのは、しばしばその住民あるいは国民のエゴが一方的に発揮される。例えば、原発反対の運動の人たちが住民投票を要求するとか。つまり、国益とか全体の利益を考えないで一部のそういう住民のエゴだけをあらわすのが、しばしばああいう投票になってくると思うのです。したがって、国民投票というのはやはり慎重でなくてはいけない。  ただ、この国旗・国歌問題について言えば、各種世論調査から見てもわかりますように、仮に、私は反対ですが仮にやるとしても、多数の支持が得られることは間違いないだろうと思っております。

笹木竜三無所属の会

○笹木委員 時間が参りましたので、終わります。いろいろありがとうございました。  御意見を伺っていて、この法案とともに、やはり憲法の問題あるいは日本の歴史の問題、こういったことをしっかりと煮詰めて議論していくことがさらに必要なんだと実感しました。  ありがとうございます。

二田孝治自由民主党

○二田委員長 これにて公述人に対する質疑は終了いたしました。  公述人各位におかれましては、貴重な御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。当委員会を代表いたしまして、厚く御礼を申し述べる次第でございます。ありがとうございました。  これにて公聴会は終了いたしました。  次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。     午後三時三十六分散会

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