臓器の移植に関する特別委員会 第4号
- 発言数
- 133 件
- 登壇者
- 23 名
- 会派数
- 9
- 開催日
- 1997/06/02
会議録
○委員長(竹山裕君) ただいまから臓器の移植に関する特別委員会を開会いたします。 臓器の移植に関する法律案(第百三十九回国会衆第一二号)及び臓器の移植に関する法律案(参第三号)、以上両案を一括して議題といたします。 前回に引き続き質疑を行います。 質疑のある方は順次御発言願います。
○中島眞人君 自由民主党の中島眞人でございます。 本会議の趣旨説明並びに代表質問、並びに前回の委員会等、私は、衆議院の段階での論議というのは、臓器移植を早くすべきだという一つの論議だったろうというふうにまとめて言うならば言えるのではないかと思います。参議院で審議に入った途端に、臓器移植ありきではいけない、やっぱりもっと大切なことは人の死というものをどういうふうに考えていかなければいけないのかという論議が、私は違った面で起き上がっているというふうに認識をいたしております。 けさも、梅原氏の「政治が死を決定してもよいか」というような「論壇」が出ておりました。戦前の学徒出陣などの引き合いが出ておりまして、若干いかがなものかという気持ちはあるのでありますけれども、そのほか、脳死は法で決めていいものだろうかというような論議が盛んに論調として出てまいりますし、また国民の皆さん方のサイドにも、はて、法律がここまで来て本当にいいんだろうかという問いかけ自身が国民の中に起こっておるというふうに私は感じております。 さてそこで、脳死は人の死と主張する中山案について、今までの審議の中で数々の問題点が指摘されてまいりました。現在、三徴候による死に対しては、国民はおおむね死として認めているわけであります。脳死イコール人の死はおおむね国民的合意が得られている、ゆえに法律で定めてもよいのではないかという中山案の発想に対して、今の国民感情ではなじまないのではないかという意見が出始めてきておるわけであります。 脳死は人の死ではないという三〇%あるいは五〇%の世論調査あるいは国民の意思に対してどう対応していくんだろうか。多分、今までの論議でいきますと、臓器を提供する意思と移植の可能な手順について規定したもので、これに反対の人は応じなければ問題はないという論調であったと思います。 しかし、法律で脳死は人の死と決めた時点で、立法者の意思とは関係なく、法律というのはひとり歩きするものだというのは前回の委員会の中でも御論議をされたところであります。法案が臓器移植以外の場面でどのように影響を及ぼすかという御認識をまず中山先生から簡潔にお答えをいただきたいと思います。
○衆議院議員(中山太郎君) 参議院における臓器移植及び脳死の審議に当たって、脳死は果たして人の死かということが大きな問題であるという御指摘でございますけれども、やはり御指摘されている問題は、人間の死に関することでございますから、私は極めて重要なことだと認識をいたしております。 そこで、今までの死の三徴候というものは、医学の進歩あるいは進歩に関係なく、人が亡くなられるということは、医学を学んだ方でなくても人が死んだということの客観的な事実を十分認識される条件があると思います。 つまり、瞳孔の対光反応がなくなったとか、心臓がとまってしまっているとか、あるいは呼吸がとまってしまっている、こういったような状況が続けば、どなたがごらんになっても人が亡くなったと、こういう御認識をお持ちになって悲しまれると思われますけれども、医学の進歩というものが、現実の問題として脳死という新しい人間の死というものを、存在というものを認めた。こういう中で、いわゆる脳死判定という方法が開発されてくる。それは、一般の方には非常にわかりにくい専門の領域で行われるというところにこの問題の難しさ、また国民の皆様方の御理解がいただきにくい点があるのではないか、私はそのように考えております。
○中島眞人君 過般の委員会でも、それぞれの委員の先生方から御提起がございました。 よしんば、人の死を脳死とするならば、例えば遺産相続はどうなるんだろうか。あるいは、中山先生は、医療保険は当分の間認めると。当分というのはまあ当分であって、何も期間は限りませんと言っているのでありますけれども、死という形で認められていくと、死者に医療保険の適用というのは矛盾があるんではないか。このことについては、衆議院の厚生委員会で、小泉厚生大臣が脳死判定後の治療に疑問を投げかけておりますね。私は、脳死は人の死であるという問題から派生するそういうふうなさまざまな問題が整理されていないんではないのか、こんな感じを実は持つわけであります。 それと同時に、医療現場において想定される問題もいろいろあるんではないか。ただいま言った医療保険の適用の問題、将来にわたっての問題。同時に、医療現場に脳死判定が積極的に持ち込まれるんではないのか、第二点の問題。また、救急医療の取り組みが後退するのではないのか。 こういう指摘があるのでありますけれども、この三点について簡潔にお答えをいただきたい。
○衆議院議員(中山太郎君) 遺産相続の件につきましては、いわゆる脳死判定が行われ、さらに六時間後の再判定が行われた結果、死亡が診断された、それが御本人の生存中の意思あるいは御家族の反対によって脳死判定を受けないという場合については、先般も御答弁申し上げたように、自然死に至るまで治療を続けるということでございますから、遺産相続というものはこの死亡診断の時期から発生してくるものと考えております。 第二点、医療保険の適用で小泉厚生大臣が疑問を感じて投げかけているという御指摘でございますが、死体に対する治療というものを継続していくことについて、これはいかがなものかという御質問の御趣旨だろうと思います。 本来、亡くなられた方に対して医療行為を行うということ自身、私どもは基本的に保険の対象には原則としてならないのではないかと思いますけれども、御家族の中で、まだ体が温かいとかあるいは人工呼吸器をつけていれば心臓は動いているといったような状態の中で、やはりこのまま治療を続けてやってもらいたいという御要望があれば、それは一定の期間となると思いますけれども、医療保険の適用として治療行為を行うということも考えなければ、なかなか日本では、脳死状態における、脳死による臓器を御本人の意思に基づき、また家族の御同意によって他人の方に提供されるということは、現実の問題として感情的な問題から難しくなるのではないかということを考えた上でこのような法案の作成をしたわけでございますが、その期間につきましては、これから中央社会保険医療協議会等の場で議論をされるべき問題であろうと私は考えております。 なお、私も一昨日大阪市立総合医療センターに参りまして、さらに現場の医師たちにも聞きましたけれども、やはり人間の死に至る直前の医療費というものが極めて高額になるということは現場の人たちの意見として承ってまいりました。
○中島眞人君 今、救急医療の取り組みが後退するのではないかという質問をいたしたんですけれども、それと答弁漏れをお答えいただきたいと思います。 また、法が制定をされますと、医療現場が家族に人工呼吸器をとめるかどうか、臓器提供をするかどうかを尋ねる機会というのは大変な増大をしてくるんだろうというふうに私は思うんですけれども、この辺についての御所見。 同時に、さまざまな問題というのは医療現場だけでなくて、遺産相続の問題というような指摘もございましたけれども、現に損保会社、交通事故等でいわゆる加害者と被害者、損保会社との関係で、損保会社は法案の行方を見届けてから検討するという形で、脳死を起こす要因である交通事故に対して、損保会社が前向きではなく、脳死は死であるということについて検討をしている、こういうことなどの報道もあるわけでございますので、先ほどの答弁漏れとあわせてこの問題等についても御所見をお伺いいたしたいと思います。
○衆議院議員(中山太郎君) 救急医療の現場では、医師及び医療のスタッフは全力を挙げて、その方の生命を維持するために全力投球して努力をいたしております。また、今後ともそうあるべきだと確信をいたしております。 第二点のお尋ねの人工呼吸器を外す問題、これはあくまで御家族の御同意というものが必要であろうと考えております。 第三番目の御質問の民間の保険会社の扱いにつきましては、これはあくまで民間の企業が考えている問題でございまして、この問題につきましては、政府の医療保険の取り扱い等の経過を見ながら、民間の保険会社におきましてもそれなりに独自の判断が行われるものと考えております。
○中島眞人君 ちょっと中山先生、先生は、この法律をつくる中ではまさに性善説の立場で物事をお考えになっておるわけでありますけれども、法律というのはつくられてしまいますと、やっぱり全然違った意思のままに走り出していくというふうな従来の法律制定、法律の中で間々見られた傾向でございます。ですから、性善説の立場に立ったものが全く違った形で回転をしていくということも、立法者あるいは我々は法律をつくっていく過程の中では十分過ぎるほどの論議をしていかなければいけないんではないか、こんなふうに思うんです。 さてそこで、家族の問題が出てまいりました。先般五月二十六日、当委員会で関根委員が患者や家族に脳死判定を拒否する権利はあるのかという質問に対して、提案者の中山先生は、拒否する権利、拒否権はあると答弁されております。しかし、厚生省の小林局長は心臓死か脳死かの選択権を与えるのは不適当と、食い違いを見せております。また、厚生省の小林局長は人の死を脳死であるという断定の上に立っての発言がるる述べられておったわけでありますが、中山案が法律とされていくとすれば、やっぱり小林局長の答弁のように選択権はない、すなわち拒否権はないのではないかという方向へ進んでいくという懸念が私はあるんではないかというふうに心配するんです。 そこで、そのことと、家族というのはだれを指すのか。家族もたくさんおりますから、賛成もあれば反対もありであります。その場合、賛成あり反対ありという場合にどういう結論を出すのか。この辺についても衆議院あるいは本院での質疑の中でも明確になっておりませんので、全員が賛成すればいいんです、全員が反対すれば問題ないんですけれども、賛成もあれば反対もありといったときには何を基準に判断をなされていくのか。 この二点について御所見をお伺いしたいと思います。
○衆議院議員(中山太郎君) 性善説に立っておらなければこの法案を提案することができません。 第二点目の、先般の委員会において拒否権の問題について私が発言いたしましたことと厚生省の小林局長の答弁とに食い違いがあるのではないかと。 私も提案者の責任ある立場におきまして、先般も申し上げましたように、一昨日、大阪の市立総合医療センターに参りまして、救急部の責任の担当者といろいろ話をいたしました。そこで、拒否権という言葉が一番大きなひっかかりになるわけでありますが、実際の現場ではどうかという確認をいたしました。その場合に、医学の進歩によってこのような状況が生まれてきたわけだから、御家族の拒否権という形でなしに、あくまでも医療現場における医療の行為としてこれは認められるべきものであるというのが現場の御意見でございました。 ただ、脳死判定を行う場合には、いわゆる無呼吸検査というような検査を行わなければならない。これは侵襲性があるわけでございまして、非常に重要な生命にかかわる問題が存在をいたしております。その場合に、御家族にインフォームド・コンセントに基づいて十分御説明を申し上げてこれをやらなければならない。その場合に御家族の同意がなければもちろんできないことになります。 結果といたしまして、小林局長が申しましたことと私の申しました拒否権という言葉が私は食い違ったと思いますけれども、拒否権という言葉ではなしに、同意しない、いわゆる家族の権利というものはそこで担保されるべきであると考えております。 それから、家族の範囲につきましてお尋ねがございました。 通常は喪主ないし祭祀主宰者が遺族の総意を取りまとめることになると考えているので現行の角膜及び腎臓移植法、献体法、死体解剖保存法においても単に遺族と規定されているところでありますけれども、その運用については特段に問題は起こっておらないということでございます。通常考えられることとしては、同居の親族、特に配偶者あるいはお子さん、こういったところが中心になっていろいろとお話を決められるのだろうと思います。
○中島眞人君 先生は性善説という立場でつくったと、私も性善説でありたいと思います。しかし、やっぱり法律というのはっくられますと、先ほどから言っているように、どんどんひとり歩きをしていく。そして、このことが私は、問題になったホームレスの方ですとか、あるいは知的障害者とかと呼ばれる方々のところへある面ではどんどん進行していくということの懸念も実はあるわけです。こういう点から考えて、法律はより厳しくより保守的でなければいけない、こんな気持ちを私は持ちながら、あえて意地悪のような質問をしていることをぜひお許しいただきたいと思うんです。 さてそこで、厚生省にお聞きをいたしますけれども、私は、臓器移植の法案が衆議院を通って参議院へ来た、これで、臓器を欲しくて、いわゆる生命が維持できるという方々に何かバラ色の幻想を余りにもまき過ぎているような感じがすると思うのでありますけれども、実態論としてこの臓器移植という問題が数的にどうなのか、数的に現行の中でこれを補完していくことがどうなのかという問題について、まず厚生省からお聞きをしたいと思います。
○説明員(貝谷伸君) お答え申し上げます。 今御審議されておりますいずれの案におきましても、臓器提供の要件につきましては本人の書面による同意ということに限定されていることになってございまして、また諸外国のさまざまな例にかんがみますと、私どもとしては臓器の提供は少なくとも当初は少数にとどまらざるを得ないものというふうに考えているところでございます。 以上でございます。
○中島眞人君 私は、この問題についてもあらぬ幻想というかバラ色の幻想でなくて、実態論を厚生省サイドからもはっきり出していただきたい。そして、臓器の提供者があっても必要とする方との間にはどういう必要性があるのかという問題も考えておかなければいけないんではないか、こんなふうに思うんです。 それと、コストの問題については、この間、心臓約一千万、肝臓九百万ということだったんですけれども、この費用の負担についてはどんなふうにお考えになっていますか。
○説明員(貝谷伸君) 脳死体からの心臓、肝臓の移植につきましては先生今御案内のような数字がございました。現在、医療保険の対象としては、このような手術そのものは行われておりませんので、当然対象になってございません。 ただ、そのような額でございますので、私どもといたしましても患者の家族の方にとりまして大変大きな負担ではないかというふうに考えております。 現在、臓器移植につきましては、既に実施されております角膜と腎臓につきましてちゃんと保険の対象になっております。また、肝臓の一部生体で行われているものにつきましても高度先進医療ということでの適用をされているところでございまして、本件心臓、肝臓などの臓器移植が今後行われるということになった場合におきましては、状況を見つつできるだけ速やかに、このような形での医療保険での適用ということにつきまして中央社会保険医療協議会におきまして検討を行っていくというような方向で考えたいというように考えております。
○中島眞人君 現在提出されている、あえて中山案、猪熊案、死に関してはこんなに違いもございますけれども、臓器を移植するという点については一致しておるわけです。何とかこの問題についてクリアできないものかというふうに私は考えておりますけれども、人の死を足して二で割って調整案をつくっていくというのはなかなか難しい問題だなというふうに考えております。 同時に、臓器を提供する方、提供される方、医療現場という三つのセクションの持っている認識が大変違うということです。大体一つの問題をなし遂げていくときには共通認識というのが出るんですけれども、少なくともこの三者での認識度の違いが大変あるということであります。そういう点を埋めていく努力もしなければいけない、そんなふうに考えるわけであります。 さてそこで、私は、この死に対する大変に大きな食い違いはございますけれども、今申し上げましたように、両案とも臓器提供者の意思による臓器移植の実施については一致している、これがせめてもの救いなんではないのか。とすれば、日本人の死生観、生命倫理観が多様である今日、脳死を人の死とすることについて、関根委員が本会議でも申されましたけれども、ある面では一般化することにはまだまだ問題があるのではないのか。そういう観点から、脳死判定を拒否できるという権利等々を十分担保できるような形でこの法律が通っていったらいいな、実はそんな願いを持っているわけであります。 私は、あくまでも当事者の意見、当事者の意思というのを大事にしたい。ですから、生前において法律家等を立ち会わせる中で、みずから、私は臓器を提供します、私は脳死判定を受けた時点で提供しますと。あくまでもこの脳死の死というものを法律で一般化するのでなくて個人のものとする、こういう位置づけでいくことはいかがだろうか。同時にまた、家族の意思でありますけれども、家族の意思についてはやっぱり臓器提供者、私なら私本人が指名する家族というふうに限定をしたらいかがだろうか。 そんなふうに私自身は思うのでありますけれども、中山先生と猪熊先生に、私のこの提案といいますか趣旨に対して御所見を例えれば大変ありがたいと思います。
○衆議院議員(中山太郎君) 御本人が生存中に自分が臓器提供者になるということを文書をもって記録して残すということは当然でございますが、そこに法律家を立ち会わせると。法律家といってもいろいろございますから、普通一般に弁護士の資格を持った方に立ち会ってもらわないと遺書としての有効性が問われる可能性がある。その場合の問題は、果たして弁護士会との間での話し合いというものがこれから必要なのか、あるいは弁護士個人とそれから臓器提供者の御本人個人との間の話し合いで行っていけるのか。恐らく私は、個人と個人との関係が優先すべき問題だと思いますが、そこに一つの問題があろうかと思っております。 それから、自分が指定した家族あるいは遺族の中で個人的に指名するといったことが可能かどうかということでございますが、これは、御本人の遺書、生存中の意思というものを、この臓器を提供するということをだれに決めてもらうかという御趣旨じゃないかと思うんです。そういうことでしょうか。
○中島眞人君 はい。
○衆議院議員(中山太郎君) その場合に、外国の法律で私どもがちょっと勉強しましたところでは、御本人に選択できる意思が脳死状態でないわけですから、生前にそれを決めておくということも一つの考え方としてはあろうかと思います。
○委員以外の議員(猪熊重二君) 私たちは、今、中島先生のおっしゃったような基本的なこの臓器移植に関する見解に賛成でございます。 特に、脳死を人の死と一般化するようなことをしないようにしよう、脳死判定拒否権を当然家族に認めようというふうなことは基本的なことでございまして、大変重要なことだと思います。 私たちとしては、臓器提供をしてもよろしいという善意の臓器提供者と臓器をいただいてさらなる命を得ようというレシピエントのこの二つの間の何とかうまいかけ橋となるような法律をつくることで法律は十分であり、またそれ以上にあたかも人の死に行くことを待つような法律というものをつくるべきではない、このように考えております。 なお、先生から出ました臓器提供承諾書の問題、それから拒否権に関する家族の問題、これについては少々先生と意見の違うところもございますが、根本において先ほど申し上げましたように同一意見で、ぜひそのような方向で審議を進めていただきたい、こう考えております。 以上です。
○中島眞人君 主として中山先生に、同じ党内ということもありましたものですから前々から私が感じておったことを御質問申して、猪熊先生の方には質問の時間がなかったものですからできませんでした。 ただ一言、私は、猪熊先生の脳死を人の死とはしない、しかし提供者であったらそのときで成立するんだという、現行の法律では、先ほど中山先生の側に私が質問したように、余りにも問題点がたくさんあり過ぎる。 例えば、過般、朝日先生がお答えになりましたけれども、死亡の診断書はこれから考えるんだという問題、あるいは死亡時刻はどうなるのかというと、やっぱり死亡時刻は摘出した時点で死亡時刻になるわけですから、死亡時刻イコール原因というものがそこには出てくるわけですから、大変な矛盾がある。そして、それの訴追を阻却するために刑法第三十五条の法令から逃れられるんだということは、余りにもまたこれは都合がよくて、ちょっと何かロマンチックな感じがいたしてならない、問題があるのではなかろうか、こんなことでございまして、これはお答えをいただけませんけれども、そんな思いを持ちながら私の質問を終わらせていただきます。 以上です。
○阿部正俊君 自由民主党に所属しております阿部正俊でございます。 短時間で、二十五、六分の質問時間しかございませんので、できますればお答えいただく方も端的に少し御協力をお願いできればなというふうに思いますので、ひとつよろしくお願い申し上げます。 前半は主に中山案につきまして、最後に、時間の都合で非常に短くなると思いますが、猪熊案につきましてお尋ねを申し上げたいというふうに思います。 まず最初に、中山案につきましてお尋ねいたします。 まず一つは、やはり脳死は死であるという事実から始まるんだろうと思うのでございます。ただ、世の中一般の方々の受けとめ方として、何か医療界あるいはもっと狭く言えばお医者さんが移植をしたがっているんじゃないか、生き返るかもしらぬのにもかかわらず無理無理殺しちゃうというか、死と認めて何かしたがっているというふうに誤解しているような懸念というものがあるのかなと。現実に、例えばきょう大変御苦労いただいています中山先生も、それからお隣の自見先生もたまたまお医者さんですので、なおさらそんなふうな色彩が強くなるのかなと。まさかそんな懸念は私はないんだろうと思うんですけれども、そんなふうな思いを持っている国民も相当いるのかなと思います。 だから、そういう懸念がないんだということと、できれば、いわば医療界あるいはお医者さんという人以外の方々で、まあ高名な方といいましょうか、そういう方々がしっかりそうじゃないんだよというような声明を出すとかいうふうなことを何かされるような御工夫でもあればいいんではないかなという気がしますけれども、この点について、まず第一点、簡潔にお答えいただきたいと思います。
○衆議院議員(自見庄三郎君) お答えをいたします。 今、阿部先生から、脳死は人の死であると。中山先生も私もたまたま医師でございますが、医師でない山口先生も一緒に答えていただいておりますが、先生の御懸念、私は本当によく理解できるわけでございまして、残念ながら医療に対する不信感もある。そういった中で、今のお話でございますが、脳死は人の死である、よみがえることが絶対にないのだということを科学と良心に従って高名な信頼性の高い人に言っていただいたらどうかという御質問だと思うわけでございますが、もう先生の方がずっと御存じなわけですね。 脳死臨調というのを法律をつくってつくらせていただいたわけでございますけれども、これは医師、弁護士、作家、報道関係者など幅広い人に実は委員になっていただいて、大変この脳死について御審議をいただいたわけでございますが、当然この中には、今も言いましたように、弁護士さんだとか作家だとか報道関係等々の方々もおられたわけでございます。 また、今も先生御懸念の中で、どうもお医者さんが功名心に陥ってやっているんじゃないかという御懸念があるということでございます。そういった中でございますが、やはり竹内基準に従って脳死と判定された方で生き返った方はいないということでございまして、これは脳死臨調の結論でもございます。先般、竹内教授も脳死基準に従って脳死と判定された人が生き返った例はないということをはっきり言っておられたわけでございます。そういったことが記載をされております。 今の意見でございますが、脳死臨調が終わってもう五年たつわけでございますし、そういった中で、新たに脳死のことについて、よみがえることは絶対ないということを声明すべきであるということでございますが、国民のそういった御懸念、御不安もあるわけでございますから、大変に私は拝聴すべき意見だというふうに思いますので、提案者ともども十分に前向きに承っておきたいというふうに思っています。
○阿部正俊君 要するに、先ほどから本委員会でも判定というのが一つの大きなテーマになっているように思いますけれども、私は、過渡的な問題は別にいたしまして、やはり死というものは客観的に決められる、あるいは決まるものではないのかなというような気がするわけです。判定というのはそれを確認するための一つの手続、しかもより慎重にということであって、逆な立場かもしれませんけれども、せんだっての、第三者がいいと認めたら死亡時刻がこの時点になり、いかぬと言ったらこの時点になるというのは、本来的には余り望ましい状態ではないのではないかということなんだと思うんですね。 したがって、脳死というは何なんだというと、いわゆる竹内基準の判定というのは非常に大きなポイントになっておりますけれども、私は、むしろ全脳死というものがまず死だということなのではないか、それを確認をするための手続が竹内基準なりなんなり、あるいは家族の同意なりなんなりということではないかと。そこをごちゃごちゃにしちゃうと何のための法律かなという感じがしてくるわけで、そうしたいわば全脳死というものを前提にして、より慎重に、あるいはそれを客観化した形で判定するのが竹内基準ではないかなと、こんなふうに理解していますけれども、まずそれについて、もし間違っていたら間違っているというふうに言っていただきたいと思うんですけれども、いかがでしょうか。
○衆議院議員(自見庄三郎君) 言われるとおり、死は一つの客観的状態でございまして、まさに先生が言われましたように、脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止した状態でございます。その状態は竹内基準という脳死の診断基準で判定できるということでございまして、死というものは、まさに先生御指摘のとおり、一つの客観的事実だというふうに我々は認識をいたしております。
○阿部正俊君 そうした前提あるいは認定をして死というものを確認した上で、例えば私なら私がもうノーリターンという状態になったことが死だと思うのでございますが、それを前提にいたしまして、自分の臓器の一部を他の生命体に役立てたいという方がおられるとするならば、それを役立てるように手はずを整えるといいましょうか、あるいはそれをだめだということではなくて、少なくともそれを生かしたいと願う者がおりますればそれを生かしていくというのが私は今回の法案ではないかなとむしろ思うのでございます。いわば脳死が是か非かということを決めるということが主目的というよりも、移植のための法案でございます。 つまり、死体の一部をみずからの意思で、死体ですから、それを第三者のためになお生命体の中で生かしていってほしいと願う者があれば、それを合法的な形で、しかもうまい形でできるだけ社会的に、確かに今までの死というものの一つの観念が変わるわけですから一つの過渡期ではありますけれども、これを新しい形で生かしていこうというふうに法律的な道筋をつけようというのが今回の法案ではないかな、こんなふうに私は理解しているのでございます。したがって、名前もまさに臓器の移植に関する法律と、こうなっているんではないかなと。 しかも今、世の中はいわゆる心臓移植ばかり言われていますけれども、それだけじゃなくて、角膜にしろ腎臓にしろ、たくさんの臓器があるわけでございますので、そうしたことについての取り扱いの一つのスタンダードを決めていこうやというのが今回の法律の一つの目的なんじゃないかなと思いますけれども、この辺について端的に、臓器の移植のための法案だといいましょうか、個々の死ということを前提にしてその生命体の一部を、過去の生命体の臓器の一部を他の生命体に生かしていく人たちの希望をかなえていくんだというのがこの法案の目的ではないかなと思いますが、ちょっと一言御確認いただきたいと思います。
○衆議院議員(自見庄三郎君) 阿部委員の全く御指摘のとおりでございまして、本法律案は、死後の臓器を他の人のために役立てたい、そういった善意の意思を持たれた臓器提供者の御意思と、また臓器移植を他人から、人様から臓器をいただかなければもう命を保つことができない、こういう患者さんもおられるわけでございますから、その間のいわば橋渡しをするために国民各層の御意見を集約して知識と良識を結集したまさに臓器の移植の法案だというふうに、先生と同じ認識を持たせていただいております。
○阿部正俊君 さてそこで、ちょっと時間もありませんので一つ二つ飛ばしますが、日本でまだ移植に、特に心臓移植についてはまだ法的な仕組みができ上がっておりませんので、実は海外に行って、あるいは海外での移植というのを待っておるということがいわば一般化と言ってしまうと失礼かもしれませんけれども、結構日本では行われているという状態ではないかなと思います。 海外で、特に心臓移植を受けている状況、国別、その推移とか、あるいは心臓以外の臓器等々について、あるいはそうしたときに一般的に要する経費などについて、一、二の例でも結構ですから、ちょっと簡潔にお答え願いたいと思います。
○衆議院議員(自見庄三郎君) 今、委員御指摘のとおり、約三十年前に和田先生が日本で心臓移植をされました。大変不幸なエピソードでございましたが、それ以来一遍も日本国では心臓あるいは肝臓を含めた臓器移植は行われておりません。その間に臓器移植を受けなければもう自分の命を保つことができないという人たちがおられるわけでございますから、そういった方が心臓移植では海外渡航者は二十六人に達しておりまして、主な渡航先はアメリカ、英国です。 それから、どれくらいお金がかかるのかという話でございましたが、一応アメリカでは千五百万から二千五百万円、これはちょっと少ないんじゃないかという御意見もあるわけでございますが、それから英国では三千万円となっています。 また、肝臓移植で一体どれくらいかかるのかという話でございますが、これは現在百二十五人の日本人が海外に行って肝臓移植の手術を受けております。 主な渡航先はオーストラリアあるいはアメリカでございまして、費用はオーストラリアでは千四百万円から二千二百万円、アメリカでは肝臓移植は六千万円から七千万円だと、そういうふうに一応聞いております。
○阿部正俊君 そうした現実をお聞きいたしますと考えるのでございますが、今、日本は、例えば金融改革その他でもそうでございますし、あるいは国際的な国連中心で政治、外交をやっていこうというふうなこととかにつきましてもよく言われるのが、例えばグローバルスタンダードという言葉がございます、グローバルスタンダード。 そういう視点から見ますと、今の自見先生のお話ですと国内では移植ができませんのでよその国へ行って一定の、我々からしても相当高額なお金を調達いたしまして、そこで受けてくる、そして日本へ帰ってくる。じゃ、受けた方の心臓なり肝臓なりがどこの国民のものだったのか、ものだったのかというとちょっと変ですけれども、少なくとも日本の中で行われたことじゃないことは事実ですね。それで、そういう状態をこれからも継続していくことが果たしてグローバルスタンダードということからしますとどうであろうかなというふうに考えざるを得ません。逆の立場に立って考えればわかることだと思うんです。 そういう意味で、こうした臓器の移植についての取り扱いをしている国が、日本の現実について、あるいはその医学のあり方あるいは社会のあり方ということの一つの例証だと思うのでございますけれども、こうしたごとについて逆の立場に立って考えて、外国から見たらどういうふうに日本というのは思われるんだろうかなというようなことも、やはりグローバルスタンダードと言うならば逆のことも考えなきゃいかぬのだろうと思うんですけれども、どんなふうな見方をされているかなというようなことについて何か御意見がありましたらお聞かせください。
○衆議院議員(自見庄三郎君) 今、阿部委員の御指摘でございますが、今、全世界にたくさんの国がございますが、移植医学をやっていない国は日本とパキスタンとルーマニア、三カ国だけだとお聞きをいたしています。 前、あるところで、ポーランドの国のことをお伝えしたわけでございますが、実はポーランドは昨年十月に法律ができまして、ことしの三月に法律が施行されたということでございますから、実は臓器移植という医学が日本とパキスタンとルーマニア、三カ国だけで行われていないというふうに我々はお聞きをいたしております。 今、外国では、米、英、豪州では大体肝臓が六千二百例、心臓が三千六百例、年間九千八百例でございますから一万例近い移植手術を毎年やっております。また、お隣の台湾でも実は心臓が九十四例、肝臓は三十四例、百二十八例の臓器移植をやっておりますし、韓国でも七十六例の臓器移植、心肝を含めてやっているというふうにお聞きをいたしております。 先生の方からグローバルスタンダードという話があったわけでございますが、今さっき日本人の患者さんがイギリスに行ってしたという話をお聞きしましたが、実はこれは残念ながら過去の例でございます。現在は、実はイギリスはやはりイギリス国内の患者さんにまず臓器を提供するのが国家として当然の責務でございますから、イギリス人の患者さんが待っているのに臓器提供者が大変少なくなったということで、残念ながらイギリスは外国人にはもう臓器移植を停止したいということを決めたようでございます。一方、アメリカも外国人に臓器提供する場合はもう五%までだという数字を実は決めておりまして、そういった状況に今あるわけでございます。 今、自分の国でやっぱり自分の国の国民の臓器移植をするということが基本でございますから、だんだん外国の世論、実態も、日本人がお金を持っていけば臓器移植してやろうという機会がだんだん少なくなってきたというのが今の世界の現実でございます。こういったことから判断すると、やはり自国内で解決がつかない問題を他国に持ち込んで、好ましからざる国として受けとめられているのではないかというふうに、大変残念なことでありますが、そういったことを危惧いたしております。
○阿部正俊君 それでは、他の臓器もちょっとお聞きしてみたいと思うのでございます。 人工心臓なりあるいは人工腎臓なりというのができて、汎用されるようになればそれにこしたことはないことはそれは確かでございますけれども、一方でやはり臓器の移植ということも有効な治療法の一つとして考えざるを得ないというのが現実であるし、そういう中で医学の進歩というのが行われてきたのかなというような気がするわけです。 そうした意味で、心臓移植以外に臓器の移植ということとそうでない治療法との差がかなり明確に違ってくるのは、よく言われる腎移植の問題じゃないかなという気がするわけです。 確かに今回の法律改正では、いわゆる脳死ということを前提にした移植ということの法案でございます。腎臓の場合にはいわゆる死体からの移植というのがかなり一般的だったし、あとは一部、腎臓はたまたま二つあるものですから、そのうちの片方を生体腎移植ということで、親が子に腎臓を上げたり、親戚の方がどうかしたりというのがあります。今回も当然のことに対象の臓器の一つとして書いてございますけれども、まず腎移植の場合なんか本当に、例えば人工透析を考えますとなかなか楽じゃない。リハビリテーションといいましても、社会復帰だってそう簡単ではないというのが現実でございます。経費的にも人間的にも、それから医学的にもあるいは経済的にも、人工透析と腎移植というものの差というのは非常に大きなものがあるのではないかなという気がします。 この辺はまさに御専門の中山先生なり自見先生なりから、今の腎移植についての、あるいは特に人工透析と移植との比較をした上でのその辺の考え方等をちょっとお聞かせいただきたいと思います。
○衆議院議員(自見庄三郎君) 先生の御指摘のとおり、人工透析の患者さんと腎移植の患者さんの比較をいたしますと、患者さんのクオリティー・オブ・ライフと申しますか、これは透析を受けているときに比べて腎臓の移植を受けた方は大部分の患者さんでは満足している。週に三回ほど基本的に透析に行かなければなりませんが、腎臓移植を受けますと、そういった週に何回というふうな通院の困難も解放されたという形になる。そういった意味で、大変生活の質が高まったという報告をいただいております。 それからまた、医学的には腎臓移植をしましても免疫抑制剤を定期的に服用しなければならないわけでございますが、長い間にだんだん量が減ってきますとか、移植前に比べて体調も良好であるというふうな全体的な報告をいただいております。 また、今、先生、経済的な効果について言われたわけでございますが、今、人工透析をしておられる方は日本国で大体十五万四千人おられますけれども、人工透析をしますと大体一年間で五百四十万円の医療費がかかるわけでございます。腎移植をいたしますと、移植後二年以降は年間大体百七十万円ぐらいの医療費でありますから、人工透析から腎臓移植に変わりますと医療費が大体三分の一ぐらいになるだろうという報告を聞いております。
○阿部正俊君 それで、今回の臓器の移植に関する法律案がどういう形にしろ成立いたしますと、私はどうも腎臓移植なんかにも大きな影響を持つのではないかなというふうにも思うわけでございます。 一説によると、国会でこうした臓器移植法が議論され始めたころから従来の腎移植も少し停滞ぎみになっているんじゃないか。この法律案を待っているんじゃないかみたいなところが聞こえてくるのでございますけれども、この法律が新しく制定されていったときに、腎移植に対するいわば好影響といいましょうか、どんなふうな効果が予想されるか、御意見がございましたらちょっとお聞きしておきたいと思います。
○衆議院議員(自見庄三郎君) 今さっき質問の中でも阿部先生が言われましたが、腎臓の移植は、御存じのように腎臓移植ですから死体腎からできますから、今でも実はずっとできるわけでございます。しかしながら、現在でも行われている死体腎の数につきましては大体ここ平均年間二百件を下回っておりまして、臓器移植を善意として提供しようかという方も、脳死あるいは臓器移植の問題が大変大きくなりまして、どうも混同しておられるところがあるんじゃないかというふうに我々思っております。 このことは、死体腎移植と脳死あるいは今御審議いただいております臓器移植というのは基本的に、生体、脳死の状態と、亡くなられた方から今御存じのように腎臓移植はできるわけですから、この脳死と臓器移植の問題は実際直接的には全然別の移植の形態でございますが、そのことが混同されて、大変腎臓の移植は減っているという状態にあるわけでございます。大変憂慮をいたしております。このためには、この脳死と臓器移植の問題を今先生方に御審議いただいているわけでございますが、何とかここできちっと認めていただいて、死体腎の腎移植についても再び救急医療現場等においても積極的な協力がなされる、そうすれば移植件数も増加をしていくのではないかと思っております。 今申しましたように、人工透析よりも腎臓の移植の方がずっと結果としていいようでございますから、ぜひこの問題を解決していただきたいと思っております。
○阿部正俊君 残り時間が少なくなってまいりましたので、あと四、五分の間しかありませんが、二、三問、猪熊案につきましてちょっと御質問を申し上げたいと思います。 両案の中身につきまして拝見いたしますと、違う点というのは、字の大きさが違うとかいろいろありますけれども、猪熊案で言いますと法案の第五条の第三項と、それから中山案で言えば第六条の第二項、どうもここの表現の差というふうに言ってもいいのかなと思います。 そういうふうなことで、さまざまな違いはございましょうけれども、その辺を念頭に置きながらちょっとお聞きしたいのでございます。猪熊案の五条の三項では、「この法律において「脳死状態」とは、脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された身体の状態」と、こう書いてあるわけです。一方で中山案は、「「脳死体」とは、脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された死体をいう。」と、こうなっておるわけです。 改めて思いますのに、脳死というのはノーリターンの状態だと先ほど言われましたけれども、そうすると、それは言ってみれば死体ですな、客観的に見て。第三者がどう見るかというのは別です。たとえ家族であっても客観的に不可逆的、ノーリターンと。いやしくも、先ほど確認しましたように、リターンすることがないということですから。ノーリターンなのに、あえてそれを脳死ではなくて脳死状態としたという客観的な違いというのは私わからないんです。 客観的に見て、脳死というのと脳死状態というのとどこが違うのか、ぜひお聞きしたいと思いますけれども、いかがでしょうか。
○大脇雅子君 猪熊案では、脳死状態にある者は生きているというのが前提でありますので、身体上の状況は同じですが、表現として脳死状態と表現しております。 客観的に見てどういう状態になったときに脳死状態と言うのかということでございますが、厚生省の脳死に関する研究班の脳死判定基準、いわゆる竹内基準によれば、脳幹を含む全機能の不可逆的停止の状態を脳死と言う。深い昏睡状態にあって、自発呼吸が消失しており、瞳孔が固定し、瞳孔径は左右とも四ミリ以上になっており、脳幹反射が消失して脳波が平たんになっている状態が六時間続くという場合を言います。なお、私たちは、竹内判定基準に聴性脳幹反応及び脳血流検査の二要件を付加すべきと考えています。 客観的に違いがないならば、あえて脳死状態という概念をなぜ持ち込むのかというお尋ねですが、基本的には人間の死は心臓死ということでありまして、脳死を人の死とすることについての社会的合意はいまだ形成されていないと考えています。したがって、脳死をより正確に表現すると、脳死状態にある生体ということで、生体である限り人権の享有主体でありますし、他の関連法域との法の整合性等の問題が一致しているというふうに考えます。
○阿部正俊君 端的に答えていただければと思ったんですが、時間が来てしまったのであれですけれども、まだやっぱり納得できないですね。 要するに、客観的に決まるものが私は死だと思うんです。人の権利の発生と終末をどう決めるかというのは客観的に決まるべきもので、逆の立場かもしれませんけれども、せんだって佐藤先生が委員会で言われました。人が、第三者がいいと言ったから死になって、だめだと言ったら死でないというのは、本来、法律論として私は大変おかしなことではないかなと思います。 ただ、インフォームド・コンセントといいましょうか、患者さんなりあるいは第三者がどれだけ慎重に判断するか、さまざまあり得ます。それは手続の問題であり、それは私は大事でないという意味じゃないんですよ、ということなんだけれども、死はやはり客観的な状態で考えなきゃいかぬ。もし仮に脳死状態というのは死ではないということをおっしゃるんであれば、脳死状態というのはリターンをする可能性があるということを含むのか、こういうことだと思うんです。その上でやはりそこから心臓を取り出してしまうというのは、仮に御本人が意思表示しても、あるいは家族が合意をしても、そこからまず心臓を取り出して、腎臓ならいざ知らず、心臓を取り出す、私は生きていないと思います。これを許容されるような法律をつくるということは果たしていかがなものであろうかというふうに私は思います。 これは見解の違いなのかもしれません。だからあえて私は申し上げますが、皆さん方はそういう客観的にリターンしないということをお認めになるんでしょう。ならば、そこに脳死状態という概念を持ち込んで立法化される意図はどこにあるのかちょっと理解に苦しみます。追ってまた質問する機会があればと願っておりますけれども、そのことだけ申し上げて質問を終わらせていただきます。 以上です。ありがとうございました。
○渡辺孝男君 私は脳神経外科専門医としての十七年間の臨床研究と実際に脳死状態患者を数多く診察してきた体験から、一定の条件を満たせば脳死を人の死と認めてよいのではないかと考えております。 その条件とは、第一に脳死の判定がきちんとなされていること、第二に、患者さんが自身の人生観の帰結として、自分が脳死になったら自分の死としてよいと明確に文書で意思表示をしていること、第三には、家族もその本人の意思を尊重し、異論がないことであります。 また、脳死後の臓器提供に関しても、本人のリビングウイルを最も重要視する立場をとっておりますので、人間愛の精神に基づく善意の臓器提供に対しては最大の敬意をもってそれにこたえていきたいと考えております。もちろん、実際の臓器提供に当たっては遺族の承諾も必須と考えております。したがって、基本的には中山案に賛成の立場であります。 ただ、衆議院及び参議院におけるこれまでの議論では、本人や家族が脳死を人の死と受容していない場合に、中山案では拒否権が認められないのではないかとの疑義がまだ晴れておりません。私の立場からすれば、脳死を人の死とするためにはさきに挙げた三条件を満たす必要がありますので、本人や家族が脳死を人の死と認めていない場合は当然脳死をもって当人の死とすることはできません。したがって、脳死を人の死と本人や家族が受容できない場合には、脳死を当人の死とすることを拒否できるように明確にすべきであると考えます。 これまでの議論の中で、中山案においても患者さんやその家族が脳死を人の死とすることを拒否することができることを水島委員が示しております。すなわち無呼吸テスト等の検査を家族が拒否することによって事実上脳死判定が行われないようにすることが可能であるとするものです。また、小林厚生省保健医療局長も、五月二十六日の本特別委員会で、医師と家族の間で脳死判定を受けるか否かの結論が出ないときには、脳死判定が事実上行われずに心臓死を迎えることになると表明しております。 しかし、これだけでは家族が脳死判定を拒否できるか否かまだ不安だとする声も聞かれております。脳死を受容されない方の拒否権をより明確とするために、私は本法案とは別に厚生省令で定められる予定の脳死判定基準に一つの条件を盛り込むことを提案したいと思います。 厚生省は、脳死判定基準の作成に当たっては竹内基準を基本とすることを表明しております。私はこの竹内基準の脳死判定対象症例の規定を一部修正することにより、脳死を人の死と受容されない方の拒否権を認め、また救命救急医療に携わる方々の意欲もそがないようにすることが大切と考えております。 私の修正案については、本日、委員の皆様に資料をお配りしてありますので、これを御参照いただきたいと思います。 竹内基準では、脳死の判定の対象例は次の二つの条件を満たしている症例とされております。その第一の条件は、「器質的脳障害により昏睡及び無呼吸を来している症例」であります。第二の条件は、「脳障害の原因が確実に診断されており、それに対し現在行いうるすべての適切な治療手段をもってしても、回復の可能性が全くないと判断される症例」であります。 私は、この第二の条件を、「脳障害の原因が確実に診断されており、それに対し現在行いうるすべての適切な治療手段をもってしても、回復の可能性が全くなく、なおかつ患者自身に備わる内的蘇生の力である自然治癒力をもってしても回復が期待できないと判断される症例」と修正することを提案いたします。この付加文を加えることによって、たとえ医学的には治療の手だてがないとしても、患者自身の自己蘇生力、自然回復力といった自然治癒力に一縷の望みを託し、脳死判定を受容する段階にない家族に対しては脳死判定は行わないことが明文化されるからであります。 患者の病気の治癒は、外から与えられる医療と患者自身の内に備わった自然治癒力とがともに働くことによって成り立つとするのが現代医学の基本認識であります。したがって、外から与えられる医学的治療手段がもはや皆無となっても、なお患者自身の内に自然治癒力が残っていると家族や医師が考えている場合には、当然生命維持処置を行うべきであり、脳死判定を行う対象としてはならないと考えるものであります。こうした考えは、十分医学的根拠を持つと私は考えます。 このように竹内基準を修正した形で厚生省令の脳死判定基準がつくられるならば、中山案に対する国民の危惧の念や救命救急医の不安も軽減するのではないかと期待いたしております。 しかも、法的には脳死は人の死とする日本医師会の公式見解とも矛盾せず、脳死者よりの臓器移植手術も殺人罪に問われることがなく、道が開かれることになると思われます。 以上、私の考えに対する中山案提出者並びに猪熊案提出者の見解を求めます。
○衆議院議員(福島豊君) 渡辺委員の御質問にお答えをさせていただきます。 渡辺委員の御指摘は、竹内基準を修正すべし、こういうことであろうかと思いますが、この竹内基準につきましては、脳死を判定する基準として専ら医学的な観点からさまざまな研究がなされ、そしてその成果として提出されたものであるというふうに考えております。したがって、医学以外の観点から見直しを行うということはこの竹内基準の性格として考えにくい、そのように提出者としては考えております。 先生が御指摘になりました内的蘇生の力である自然治癒力、まさにこれが人間が治癒するということの根本的な力であると私も思っておりますし、全く同感でございますが、こうした自然治癒力も十分勘案して回復可能性について医師は判断するものである、そのように考えております。
○委員以外の議員(猪熊重二君) ただいまの先生の御提案の趣旨、理解できないではないんですけれども、ただ竹内基準に今のような文言を書き加えることが脳死判定拒否権を保障したことになるという辺の論理が私には余りまだ十分によく理解できません。先生の御提案のような形では、脳死判定拒否権があるいは間接的には保障されるかもしれませんが、非常に不明確であるというふうに考えざるを得ません。 私たちは、脳死判定には、いかなる場合にも本人の同意及び本人が意思を表明し得ない場合には診療の依頼者である家族の同意を必要とすると考えています。ですから、私たちの法案では、脳死状態イコール死ではない立場に立ちますが、その場合であっても、医師に診療を依頼した本人もしくはその家族は危険を伴う脳死判定を拒絶する権利を委任者の立場において当然に保有すると、このように考えております。 以上です。
○渡辺孝男君 私は、医師の立場として、生者より心臓や肝臓を摘出し結果として死に至らしめても、他の病者を助ける目的であるならば、違法性阻却理論により医師の正当業務とみなされ、殺人罪には問われないとする理論をどうしても受け入れることができません。しかし、猪熊案が成立すれば、今後私自身も脳死判定医に選ばれる可能性がありますので、違法性阻却理論で許される医師の正当業務の内容に関連して猪熊案提出者に質問をいたします。 まず、猪熊案のもとでのドナーカードについて質問いたします。 私は、脳死状態に陥った場合、それを自己の死と認めるかどうかを選択する項目を必ず入れるべきだと考えます。その理由は、臓器摘出時の医師の正当業務の内容にも重大な影響を及ぼすことになるからです。この点に関する見解をお伺いいたします。
○委員以外の議員(猪熊重二君) 先生の御指摘ですが、私たちは、脳死状態に陥った場合、それを自己の死と認めるということを必要としないし、そういう社会的合意もない間にそのような考えを強要することはできないという立場に立って法案を出しているわけですから、ドナーカードにおいて、脳死状態に陥った場合、それを自己の死と認めるかどうかということを記載するということは不必要と考えております。 ただ、臓器摘出を承諾する書面には、一つとして、現行の脳死判定基準に基づく脳死判定を受け入れること、二つ目に、この判定の結果、脳死状態と判定された場合に指定する臓器の摘出、提供を承諾するという趣旨のことがこの書面に表示されていることが必要とは考えております。 以上であります。
○渡辺孝男君 次の質問に入りますが、もし脳死状態に陥った場合、それを自己の死と認めると表明している場合には、私の考えではリビングウイルを尊重するという立場から、本人の意思が脳死状態で自己の死と認める場合には、違法性阻却理論ではなくて、脳死と認めて臓器摘出に当たっていいのではないかと考えております。 猪熊先生のおっしゃるように、脳死状態に陥った場合、それを自己の死とは認めない人の場合には、やはり当人のリビングウイルを尊重し、私自身も、脳死状態とはいえ守るべき最大の法益である生命が保たれているとの立場で対応すべきと考えます。 もし当人が脳死状態での臓器提供を望んでいる場合には、違法性阻却理論を根拠として臓器摘出がなされることになると思います。その場合には、脳死状態患者においても守られるべき最大の法益は当人の生命であるとの立場を堅持し、当人の生命の維持に最大の努力をしつつ臓器摘出をすることが医師の正当業務として許される絶対条件ではないかと考えます。 例えば、肝臓摘出の場合には、レシピエントが小児である場合、あるいは体格が小さい人の場合には肝臓の全摘出は不要であり、部分摘出で済みます。この場合には、既に日本では生体間部分肝移植術が行われておりますので、この方法を応用すべきであります。そうであれば、脳死状態患者も臓器摘出によって死に至らずに済むかもしれません。 腎摘出の場合にも、心停止後に行うことにすることも可能であります。もし脳死状態下で行うとするのであれば、片腎摘出にとどめるべきであります。これも生体間腎移植が既に行われておりますので、これを応用すればよいことになります。脳死状態患者も、他方の腎臓が残っており、臓器摘出によって死に至らずに済むかもしれません。 肺に関しても、片肺や肺葉の部分摘出であればドナーも死に至らずに済むかもしれません。膵臓摘出も、部分摘出とするか、全摘出を行い、その後はインスリン等の注射で代替する方法で摘出術による直接の死は免れるかもしれません。角膜移植の眼球摘出も、心停止後で十分間に合うので、無理に脳死状態下で行う必要はありません。 心臓摘出の場合も、これを医師の正当業務とするからには、心摘出後に人工心肺装置あるいは人工心臓により代替し、脳死状態患者の生命維持を図るべきでありましょう。脳死状態患者であるとしても生者であるとする立場に立つならば、当然生者にふさわしい生命維持の努力がなされなければなりません。 ただし、これらの手術方法は、体力がある程度温存されている患者の場合でも相当の侵襲が加わり難しい手術でありますから、瀕死の脳死状態の患者に応用できるか否かは極めて難しいことは言うまでもありません。また、脳死を認める国で行われることが多い多臓器同時摘出は、ドナーの死を免れませんので当然行うべきではありません。 脳死を人の死と法律あるいは医学界の判断で認め、そのもとで脳死臓器移植を行っている大多数の世界の国々から見れば、以上のような努力は理解されがたいかもしれませんが、猪熊案が法制化されることになれば、日本の医学界はこのような新分野の研究開拓に今後取り組んでいかなければならなくなると思います。このような努力が十分な成果をおさめるまでにはさらに何年かの月日が必要となることは言うまでもありません。 そこで、猪熊案提出者にお伺いいたします。 このような脳死状態患者の生命維持努力と違法性阻却理論による医師正当業務の厳格な実施に関してどのような考えをお持ちでしょうか、お聞かせいただきたいと思います。
○委員以外の議員(猪熊重二君) 先生の今の御質問は、大きく分けて二つに分かれると思うんです。 最初の御意見は、本人が、自己が脳死状態に陥った場合は自己の死と受け入れる旨を表示している場合は、当の本人について個別的に当人の脳死イコール人の死と認めてもよろしいんじゃないかという御意見のように伺います。 これはいろいろ大変苦労されたお考えで、非常に示唆に富むお考えと思います。と申しますのは、中山先生が隣におられて非常に言いにくいんですけれども、脳死を人の死として一般化するということについては何が何でも納得できないというのが私たちの考えでございますから、その意味において、私が脳死状態に陥ったら私は私の死でよろしいという自己決定権をそこまで持って言うことができるんだろうかどうなんだろうかというふうな意味で、先生のおっしゃられた考えはもう少し一生懸命私も考えさせてもらいたいと思っております。 しかし、私たちは現在、脳死状態イコール生者という立場に立ってこの法案を出しておりまして、これがどうしてものっぴきならぬ矛盾というふうなことになってくれば、またそれなりにいろいろ検討はしたいと思います。 ただ、非常に心配するのは、当の本人にとってだけ脳死イコール死だというと、現在の心臓死というか自然死以外の死の類型を認めることになって、脳死イコール人の死という極限的場面における人の死の概念がどこまでいつ緩く広がっていくかということは非常に危険であると思うので、その辺をどう考えるかという問題があるんじゃなかろうかと思います。 それから、先生の二番目の質問は、もし脳死状態というものが生者であるとすれば、そこからの臓器摘出の順序だとか、臓器を摘出した場合においても、心臓以外の臓器を摘出した場合にはまだ生者としてあるんだから、その辺の思料というか、臓器摘出について慎重な配慮をするべきだし、することが妥当だ、こういうふうな趣旨の御意見でございますが、その辺になってくると私もそんなに詳しくはわかりません。 ただ、私は、要するに提供者本人の意思を尊重するという意味において、提供者本人が自分のどのような臓器をどう提供するかというふうな本人の書面における提供臓器、提供臓器の順番なんということまで書く人がいるかいないか知りませんけれども、本人の意思に最も重点を置いて考えるべきではなかろうか、このように考えております。 以上です。
○渡辺孝男君 先ほど述べた論の極論になるわけですけれども、現実に直面する可能性がありますので、確認のためお伺いいたします。 先ほど、心臓摘出後の脳死状態患者の生命維持を図るためには、人工心肺装置や人工心臓を用いる方法をとるしかないと申し述べました。この場合、人工心臓等の循環装置が十分機能していれば数日あるいはそれ以上生命を保つ可能性もあります。この場合、人工呼吸器や人工心臓等の機械の故障や機能低下以外に何をもって死を判定することになるでしょうか。 既に呼吸、心機能は機械により保たれ、脳は脳死状態であります。死の三徴候は患者本来の肉体においては既に認められております。しかし、脳死は人の死ではありませんので、新たな基準設定以外に死の判定はできないことになります。 その点に関して猪熊案提出者の見解をお聞かせください。 以上で私の質問は終わります。
○大脇雅子君 原則的には三徴候死をもって人の死と考えるものですが、臓器摘出のための厳格な要件をすべて完全に満たした段階で脳死状態から臓器を摘出する場合には、心臓を摘出した時点を死亡と判定するものと考えます。心臓を摘出した後、さらに人工心臓等を装着する必然性はないものと考えております。
○大森礼子君 平成会の大森礼子です。 きょうは、時間の関係で専ら中山案の提案者の方に質問させていただきます。 質問に入る前に、ちょっと問題提起という形でさせていただきたいんですけれども、最初は、中山案の内容に目を通しましたときに、脳死判定を受けた人を脳死体とするのは、この法案の目的である移植医療の適正な実施に資することとの関係で、臓器移植に関する範囲内だろうというふうに私は解釈したのであります。 私も多少法律の条文を読んでおりますけれども、例えば「死体(脳死体を含む。)」、「A(Bを含む。)」と規定された場合には、本来AとBは別物だけれども、この法案の取り扱いについてはBをAと同じようにみなす、あるいは扱う、こういう規定の仕方が多いと私は理解しておったわけなんです。 こういう考え方が特異かといいますと、決してそうではなくて、日経新聞の平成六年四月二十日付の社説があるんです。これは当時の法案なんですけれども、「医師は、次の各号のいずれかに該当する場合には、移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死体を含む。)から摘出することができる。」と。同じ形なんです。これを引用しましてこの社説は、「臓器移植の場合だけ、脳死を人の死と認めた形になっており、」と。この後、合意形成が不十分だった証拠だというふうに書くんですけれども、こういうふうにとる解釈も十分あるわけなんです。 ところが、衆議院での審議内容に接してみると、どうもそうではないらしい。社会的合意ができており、それでこれを確認する規定だという御説明なんです。もし確認する規定だとするならば、そういう法案を認めるということはどういうことになりますかといいますと、六条一項の明文化によりまして、この法が可決されますと、他の法令解釈の関係、つまり、死とか死亡とか、そういう用語を含む法令解釈の関係でも、やはり脳死イコール人の死という解釈が一般化する。これを結局国会で認めることになるんだろうと思います。 中山案提案者が幾ら、この法律で脳死イコール人の死と定めるものではない、つまり創設的な規定ではない、確認規定なんだという言い方をされたところで、立法化された場合の法的効果は同じであると私は思うんです。だから、そういう法案は認めていいのかどうかという問題点。 それからもう一つ、目的との関係なんですが、目的と手段のバランスの関係です。 平成九年四月二十五日付読売新聞で識者座談会というのがありました。その中で、日本移植学会の副会長の小柳氏が、これは私もこの程度の数なのかとちょっとびっくりしたんですが、脳死者を年間九千人としても、臓器提供に適するケースは六分の一、約千五百人で、文書による意思表示をしている人となると数人程度だろうと思うと。これは多分非常にシビアな見方をされたんだと思うんですけれども、仮に数十人であってもいいと思うんです。こういうふうに非常に限られた数である、だから世界一厳しい法案なんだとおっしゃっているわけなんですが、他方でこうおつしゃつている。死の定義には本来法律は要らない。しかし、臓器を出す側の救急医療スタッフを守るためにも、脳死は人の死とする法律が必要だと確信していると。こういうふうにも述べられているんですね。 それで、私は法律を決めるごとは大事だと思うんです。法律がなくても移植は実施できるという方もいらっしゃいますけれども、できますけれども面倒です。やっぱり告発する人は告発するし、民事訴訟を提起する人は提起する。その場合に被告発人の負担、それから応訴、訴えに応じなくてはいけない負担というもの、これからやっぱり、ちゃんとやったお医者さんに限ってですが、解放してあげるということはもちろんとっても大事なことだと思うんです。 だから、刑事事件の場合ですと、法律の規定する要件をちゃんと満たせば違法性がないんだから、違法阻却するんだから犯罪が成立しないとしてあげること、これは多分猪熊案の考えだと思うんです。それから、民事訴訟の場合でしたら、法律の規定する手続をきちんとやったという事実を立証すれば、それが請求に対する抗弁となるような形にしてあげるということは必要だと思いますし、迅速な裁判の要請にもかなうんだろうと思います。 だから、そういうことは必要なんですけれども、その医師の免責を認めるために脳死イコール人の死とする、そういう方向までとる必要があるのかどうか。私は、目的達成の手段のためとしては余りにも相当性を欠いているというふうに思います。ですから、ほかの法令との解釈それから整合性から見ましても、いろんな社会的混乱を引き起こすであろう。医師を守るために法律が必要だとしても、脳死を人の死とする法律でなければ、本当にその目的を達成することができないのだろうかどうか、こういう疑問を持っております。 ここのところはやっぱり十分議論を詰める必要があると思います。見方によっては、正直なところを言いますと、ちょっとお医者さんがだだをこね過ぎているんではないかなと思うところもありまして、一番いい落ちつかせどころがあると私は思います。 それから、猪熊案ですと、死んでいないんだったら殺人罪、承諾殺人罪になると。だから、そうならないというのが猪熊案だと思うんですけれども、法令行為にするというのが。 それから、お医者さんの中には、違法性を阻却してやるから殺人をしなさいと言われても、医師の立場からは到底応じられないとか、あるいは生命に軽重をつけるから医のモラルに反するとか、こういうことをおっしゃるわけですね。だから、法律で適法とされてもだめなんだ、脳死は人の死と規定しない以上、医のモラルに反するんだと、こういう言い方をされるんです。私は、これもちょっとだだをこねておられるんじゃないかなと。 なぜなら、一方で、日本移植学会というのは、昨年、平成八年九月二十八日に理事長声明として、法案成立待たずしても臓器移植をやっていくんだという方針を出されたわけです。そして、法案制定前に脳死体から臓器提供を行う施設は、施設内倫理委員会の認可を受けることを必要とするとか、こういうことを言っておられるわけなんですね。これは非常にお考えになってのことだ、切実な検討の結果だと思うんです。しかし、包含しない現状下では、それが殺人罪、承諾殺人罪に当たることは間違いないわけですから、じゃ、この場合の医師のモラルというのはどうなるのかなという気が私はするんです。 要するに、言いたいことは、もうこっちの場合には医のモラルが都合よく使われていくんじゃなくて、もうこんな議論はやめて、やっぱり本当に臓器移植を待つ患者さんの心情を思えば、一日も早くいい法律を成立させるべきだと思うんです。両案とも臓器移植の道を開いて、医者に免責を与えるという、ここでは共通なんです。手法が違うだけなんですね。その点で、国民生活にとってより弊害の少ない手法、これも考えていけばいいんじゃないか、こういうふうに思っております。 臓器移植が祝福される医療になる。大事なことはドナーの方がふえてくれるということだと思うんですけれども、やっぱりそういう法案というものを考えていく必要があるのではないかなというふうに思います。 前置きが長くなって済みません。質問に入ります。 それで、お手元に資料を配付しましたけれども、いつも提案者から、脳死臨調、臨調、おおむね社会的合意と言われるんですね。それから先に議論が進まない。それで、二回のその臨調の結論の基本となった意識調査の内容がどうだったかということで、お手元に資料を配付いたしました。二回やっております。有識者対象か一般国民対象かで数字が違っております。それから、男性と女性の比率がどうであるかでまた違っているんですね。かなり結果が異なっております。臨調はおおむね社会的合意ができたと言うんですけれども、この中身を見ると、必ずしもそう言えないのではないかということで、資料を配付させていただきました。 それで、平成三年十月とあるこの資料、これは一般国民を対象としたものですが、二枚目の右下の方でクェスチョン八というのがございます。 A、Bどちらの考えに近いですかということを言っているんですが、その一つは、「脳死は「人の死」とは考えられないけれども、本人の提供の意思がはっきりしていれば、脳死の状態からの移植を認めてよい。」、これは金田案、猪熊案の方に流れる考えだと思います。どちらかというとこれに近いという人が四九%。 それからもう一つは、「脳死が「人の死」でないとすると、脳死の状態からの移植は、人の生命を断つことになる。脳死の状態からの移植は脳死が「人の死」であることを認めたとき、はじめて行える」、ヒの考えに近い人というのは二九・八%なんですね。実は臨調の答申が出た後のNHKの調査でも大体こういう似たような結果が出ておるんです。 提案者の方にお尋ねするんですが、この法案作成のときに、このような意見というのはむしろ逆の法案なんですけれども、どのように検討されたんでしょうか。簡単で結構です。
○衆議院議員(福島豊君) お答えいたします。 大森委員の御指摘は、こうした調査をどのように結論を出すのに当たって反映したのか、そういうことではないかと思いますが、臨調の答申の基礎として、こうした調査は十分検討されたというふうに考えております。 今、委員が御指摘になりましたクェスチョンの八でございますが、四九%の人が「脳死は「人の死」とは考えられないけれども、本人の提供の意思がはっきりしていれば、脳死の状態からの移植を認めてよい。」と、猪熊案に近い意見ではないか、そういう御指摘ではないかと思います。しかしながら、別の項目ではどのような結果が得られているかといいますと、脳死を人の死と認めることについてどう思うかという質問に対しましては、脳死を人の死と認めることに賛成する人が四四%、反対する人が二四%ということになります。 私が思いますのは、アンケートの結果というのはさまざまな数字が出てまいります。今まで繰り返しさまざまなアンケートがとられました。どちらの死を本当に人の死と認めるのか認めないのか、これは具体的な数字をもって一概に何%であれば社会的合意がありますというようなこともなかなか言えない。医学がもたらした新しい死の形態である脳死というものに対して国民がどう考えるのか、これは時間的な経過によっても変わっていくと思います。 今この委員会で私ども訴えたいことは、そうしたさまざまな結果はあるにしましても、その中にあってどのように考えるのか、どのような判断を下すことが一番いいのか、まさにそのことが問われているのではないか、そのように思います。
○大森礼子君 それから、よくこれは社会的合意かあることを前提に確認した規定だとおっしゃるんですが、ここで皆さんおっしゃる社会的合意というのは社会通念というのと同じ意味でしょうか、違うんでしょうか。イエス、ノーだけで結構です。
○衆議院議員(福島豊君) 委員が御指摘になりました通念というのがどのような定義の言葉であるか私はよくわかりませんけれども、通念というのか既存の認識ということであれば、通念から一歩、半歩といいますか、踏み出すものであろうかというふうに私は思っております。 それはなぜかといいますと、医学の進歩がもたらしました新しい死の形であるわけでございまして、ですから過去百年の間、日本人がどのように考えてきたのかと言われると、そこからやはり半歩出ていなきゃいかぬ話になるというふうに思います。その新しい事態をどういうふうにとらえるのかということなんだと思います。
○大森礼子君 私が言いたかったのは、合意という場合、単なる意見が多いということなのか、それともそれが本当に生活の中に浸透してきて一つの社会の中で規範としてそういうふうに動いているのかどうか、この事実を確認したかったわけなんです。 次の質問に移ります。 先ほど拒否権の問題を中山先生がお答えになりましたけれども、これは結論、もう一度、拒否権ではなく同意しない家族の権利とおっしゃるんですが、脳死判定に入ろうとしたときに本人または家族の拒否権はあるんですかないんですか、ないということですか。
○衆議院議員(中山太郎君) これは現実の現場の担当のドクターたち、専門医の人たちの意見として、脳死状態に近づいてきたという症状が出てきますから、そのときに判定をするというのは医療現場にいる医師の医療行為の一つというふうに判断をすべきであって、そこで脳死状態に入ったと。つまり、死のプロセスが始まったというときに、二回目の検査が六時間後に行われるということですが、そのときに御家族にはインフォームド・コンセントで十分御説明を医師としてはするのが責任だと思っております。御家族が第二回目の判定を受けるのは嫌ですよといったような同意をされない場合には、結果としてその判定を行うことはできないと、こういうふうに理解をしております。
○大森礼子君 そうしたら、拒否権としてはないということでよろしいんですか。そこまでおっしゃれないんでしょうか。
○衆議院議員(中山太郎君) 拒否権という言葉を私先ほども御質問のときに申し上げましたけれども、前回拒否権という言葉を使いましたが、結果として拒否した形になると思います。つまり、御家族が同意しないわけですから。だから、それはあくまでも法律的な用語としてこれを問題として、この拒否権を冒頭から、第一回目の脳死状態が近づいたときに現場のドクターたちが脳死判定をする医療的な行為を行うごとに拒否権を発動するというようなことだった場合には医学の進歩に大きな障害が起こってくると、こういうのが現場の専門医の御意見でございました。
○大森礼子君 実は、前回の参議院の特別委員会の後に新聞記事を見た、拒否権について。あるところは厚生省と提案者食い違うと、それからあるところは厚生省拒否権そのまま認める、厚生省容認するとか、いろいろだったんです。やはり説明がきちっとしないとわからないんです。 それで、これは立法の審査ですから、権利ということは、こうした権利があるのかないかと聞いているんです。そのことについて事実上どうのこうのと、それは権利があるかないか決めた後の問題だと思うんですね。ですから、そこのところ明確にお答えできない性質のものなんでしょうか。拒否権があるのかないのか。やっぱりインフォームド・コンセントという任意規定の部分と、死の規定というのは私は強行法規だと思うんです。公の秩序に関するものですから、個人の同意によってどうこうできない。脳死臨調もこの考えをとっていると思うんですね。 今の先生のお答えですと、じゃ実際どうなるんだと。どう判断していいかわからないんですね。拒否権があるかないか、もう一度お尋ねしますが、やはり同じ答えになりますか。
○衆議院議員(中山太郎君) 脳死状態に近づいたときにはそれに関する症状が既に出ているわけですから、そこで今まで脳死判定の技術というものが開発されていない場合、それを権利として名づけるのか、同意しないことを権利と言うのか、それとも医師と患者、家族の間の話し合いによっての同意かどうかということについての言葉の使い方、私はそこは、先生は法律専門家でいらっしゃるから、立法の府で当然拒否権があるかないかということを確認しようという御趣旨でされておりますけれども、現実の問題として、医療の現場で私が聞いてきました話では、拒否権という言葉を使ってしまったならば例えば医療行為に対する大きな制限が行われるという答えでございました。
○大森礼子君 別に自分が法律をかじっていることをひけらかすつもりはない。ただ、ここは立法府ですから、立法できたらどういうふうに具体的になるのか、これをはっきりしないと法的安定性もないし、それから行動予測性もできないわけなんです。だから、どうしても法律的にどうなるかとお聞きしたいわけなんです。 やはり中山案が、失礼ですが、いろんな方がおっしゃる。これまで拒否権ありとおっしゃいましたけれども、それまで矢上議員ですとか五島議員もそうです、ほかのところでは厚生省と同じお答えをしていたわけなんです、死の概念として選択権を認めるわけにはいかないというふうに。言っていることは厚生省と同じなのに、拒否権についてこちらはありとし、ないとし、どうなっているのか、頭の中が混乱してわからなくなっちゃうんです。こういうむだはなるべく省いていかなきゃいけないと思うんです。 それから最後に、もう時間がなくなったから一つ指摘しますと、四月十五日、これは衆議院の方ですけれども、例えば五島議員の答弁でこういう箇所があるんです。「当面の間、この脳死の判定というのは臓器移植のために必要とされているもの」です。したがって、「御本人が臓器の移植の意思がないということが明らかである場合、あるいは家族が臓器の移植を拒否する場合に、あえて脳死の判定をする必要はない」ものと思っていると。家族がいないという状況で、その意思が不明である場合には「医師の判断において当然脳死判定を行うということはあってもいいと思います」、こういうことをおっしゃっているんです。そうするとますますわからなくなる。 例えば、本人が臓器提供しないあるいは意思が不明、この場合は臓器の提供はできないわけです。この場合、家族が、いや先生ぜひお願いします、脳死判定してくださいと言った場合にするのかどうか。これも合意なのか。あるいは医師はする義務があるのかどうか。あるいは、本人が臓器は提供すると、家族は提供は拒絶したと、臓器移植できませんね。しかし家族が、臓器提供はしませんけれども脳死判定は先生じてくださいと言った場合にする義務があるのかどうなのかとが、それから家族がともかく脳死判定しないでくれと言った場合にどうなるのか。これは、いろいろしてまいるとやっぱり整合性を欠くのではないかなと思います。 もう時間が来たのでここまでしか言えませんけれども、また別の機会に質問させていただきたいと思います。
○衆議院議員(福島豊君) 臓器提供に関係しないケースにおいて脳死の判定という義務があるのかどうかという御質問かと思いますけれども、義務があるというわけではないと思います。 私も医師の立場のときに脳死判定をしたことがございます。先ほどから中山先生からも御説明がありましたように、ずっと重症の患者を見ております。脳死が起こったなということがわかるような変化があります。その場合に、御家族の方と、これ以上治療を続けるのかどうか、人工呼吸器をつけ続けるのかどうか、血圧を維持する治療を続けるのかどうか、そういうことは当然話になるわけです。その中にあって、ある意味ではもうノーリターンということで、意味がないといえば意味がない治療を続けるんだろうかと、どうしますかと、脳死の判定をしてくださいと、そういう話が出てきて、合意のもとで判定がされるということはあると思います。すべてにわたってしなきゃいかぬということでは決してありません。ケース・バイ・ケースで、医師の立場で判断される、また家族の御意見を聞きながら判断するということではないかと私は思います。
○照屋寛徳君 社会民主党の照屋寛徳でございます。 臓器の移植に関する法律案、衆議院においてはいわゆる中山案が多数をもって可決をされ、参議院に送られ、参議院ではいわゆる中山案と猪熊案が今審議をされておるところでございますが、どうも衆議院で中山案が賛成多数をもって通過した後、この臓器の移植に関する法律についての国民の意識も微妙に変化をしているのかなというふうに私自身は受けとめておるところでございます。 最近も、ある週刊誌に、御自分の息子さんが脳死と判定をされた柳田邦男さんと、それから医者であり作家である加賀乙彦さんが対談をしておりまして、「この国の政治家と医者に「脳死」を語る資格はない」、こういうふうな見出しが載っておりました。また、医者である加賀さん御本人も、脳死は人の死だと思って当初は中山案に好意的でしたが、詳しい内容を読んで大反対だという意見に変わった、こういうふうなことも言っておるわけであります。 中山案によりますと、脳死を人の死と認め、その前提に、脳死をもって人の死とすることについてはおおむね社会的に受容されている、こういう考え方に立っているやに思うわけであります。 ところが、五月二十四日、二十五日の朝日新聞が実施をした世論調査でも、脳死と人の死についてどう思いますかという問いについては、脳死は人の死であるというのが四〇%、人の死は心臓が停止した場合に限るというのが四八%であります。さらに、同じく朝日の世論調査で、法律で脳死を人の死と決めることに賛成ですか、反対ですかという問いに対しては、賛成が四〇%、反対が四二%、その他、答えないが一八%であります。臓器移植を認める法律はできるだけ早く成立させるべきだと思いますかということについては、できるだけ早く成立させるべきだというのが四四%、成立を急ぐべきでないというのが同じく四四%でありました。 このように、脳死を人の死とする社会的受容があるんだということを前提にした中山案、もちろんこれは一新聞社の世論調査だけでは社会的受容の根拠について十分たり得ないと私自身も思いますけれども、先ほどから申し上げましたように、いよいよ衆議院から参議院に法案が送られて、より現実的にというか具体的に国民一人一人が態度決定を迫られている、多様な死生観あるいは生命観がある中で法案に対する考え方も変わっているのかな、こういうふうに率直に思うわけであります。 同時に、脳死を死と認める人が世論調査の結果によると半分にも達しないのに、社会的合意が達成されたと言うには余りにもそれは暴論ではないかという批判もまた一方ではあるわけであります。 今申し上げた、脳死を人の死とすることについての社会的受容という考え方、あるいはまた衆議院通過後の世論の動向や国民の受けとめ方について、中山案はどういうふうに考えておられるのか、お教えいただきたいと思います。
○衆議院議員(五島正規君) 照屋議員の御質問にお答えしたいと思います。 脳死をもって人の死とすることにつきましては、医学界においては国際的にもコンセンサスが成り立っている問題だというふうに思っています。また、国民各界各層におきましても非常に幅広い参加のもとで議論を積み重ねてまいりました。脳死臨調の答申において、「概ね社会的に受容され合意されているといってよいものと思われる。」とされており、提出者としてもこのような立場で法律案を提出したものでございます。 御指摘の朝日新聞の調査は、朝日新聞にも記載されているように電話を使った調査であり、従来の調査方法や質問文とは異なるので、この調査結果のみをとらえて何らかの結論を出すというのは難しいのではないかと考えているところでございます。 提案者といたしましては、昨年秋の朝日新聞の調査を含め、これまでの各種の世論調査結果を全体として見れば、脳死を人の死として許容することについても国民の理解は深まってきているものと認識しているところでございます。
○照屋寛徳君 中山案によれば脳死の判定の時期はいつになるんでしょうか。 脳死を判定するのは、厳格な基準によるとはいえ、いわば医師の専権事項であります。したがって、医師の裁量によって脳死の判定時期が意図的に操作されるおそれがあるんではないか、こういう批判もあるわけですが、そのことについてはどのようにお考えでしょうか。 それから、脳死判定の拒否権が認められるか否かについて先ほどから議論がありますが、中山先生は、拒否権ということについては現場の医療行為との関連で考えられるべきだというお話をしておられました。同時に、拒否権という概念というか言葉じゃなくして、同意しない家族の権利として考えるべきだ、こういう御答弁もありました。いずれにいたしましても、拒否権あるいは中山先生がおっしゃる同意しない家族の権利というのは認められるんだ、こういうふうに理解をしてよろしいでしょうか。 以上まとめて御質問をさせていただきます。
○衆議院議員(五島正規君) 脳死の判定というのは、これは既に脳死に到達していたということ、過去において脳死に到達していたということを確認する内容でございます。したがいまして、当然この判定の基準は竹内基準に基づいて行うわけでございますが、この竹内基準の中におきましても、いわゆる脳幹死、すなわち医師の観察によって判断されるものと、それから無呼吸テスト等の一定の侵襲性を伴い慎重に行わなければならない検査と、この二つの組み合わせによって成り立っております。したがいまして、脳死の判定につきましては、医師が、今申しました脳幹死を疑わすに足りる所見がそろった段階において、御家族にインフォームド・コンセントをきちっと行い、その上で行われるものだというふうに考えております。 ただし、その前提条件として、器質的脳障害により深昏睡及び無呼吸を来している症例、あるいは原疾患が確実に診断され、それに対し現在行い得るすべての適切な治療手段をもっても回復の可能性が全くないとされる症例というふうに規定されていることについては御承知のとおりでございます。 したがいまして、このような形で脳死の判定が行われるわけでございまして、この脳死判定を確保するために、臨床現場においては各判定時刻を含む脳死判定の経緯を医療記録などに記載しておくことが必要と考えており、この法律においても第1条において脳死判定に関する記録の作成などについて定めているところでございます。 また、脳死の判定について家族が拒否権を持つかどうか。 先ほど大森議員と中山議員との間の議論を聞いておりましたが、基本的に中山議員のおっしゃるとおりでございます。すなわち、死の判断を家族が選定できる権利はないと考えております。したがいまして、脳死であることを判定する、すなわち心臓死を選ぶのか脳死を選ぶのかといったような選択権が家族にあるとは思いません。 しかしながら、今も申しましたように、竹内基準の中におきましては、医師が一般的に行う観察の中から得られる脳幹死の所見と一定の侵襲性を伴う無呼吸テストと両方ございます。この無呼吸テストにつきましては、それなりに家族の同意を得る、インフォームドーコンセントをきちっとするということは他の検査の場合と同様でございます。したがいまして、その検査をすることを家族が拒否される場合、当然そういう竹内基準を満たした診断を行うことができないわけでございまして、結果においてそのような検査ができないということはあり得るということだと考えております。
○照屋寛徳君 猪熊案の発議者の皆さんからお聞かせいただきたいと思います。 猪熊案では脳死判定の時期はいつなのか、また死亡時刻はどの時点と考えるのか、その根拠を含めてお答えいただきたいと思います。
○委員以外の議員(朝日俊弘君) 照屋議員にお答えいたします。 初めに、脳死状態の判定の時期についてですが、当然、救急医療の現場では救急のために全力を挙げて治療を行います。しかし、そうした治療努力にもかかわらず、ある時点において臨床的に見て脳死状態が十分に疑われる状態になった場合であって、しかも本人の臓器提供の意思が明確に書面にあって、その上に家族への十分な説明と承諾があった場合に限って脳死状態の判定が行われるというふうに考えております。 次に、死亡時刻については、私どもの提案している法律案では必ずしも明確に人の死を規定しておりませんが、従来お答えしたように三徴候死による死を前提と考えております。 死亡時刻をどのように定めるかについては、厳密に言えば摘出される臓器によって違ってくると思います。例えば、ある人は腎臓だけの摘出を求めている場合があるでしょう。その場合には、先ほど渡辺議員からの御質問にもあったように、仮に片方だけの腎臓をとった場合には当然脳死状態がしばらく続くでしょうから、そのしばらく後に心臓の機能が停止した段階で死亡確認をするという形になるでしょう。 最も問題となるのは、心臓そのものを摘出した場合にどうなるか。その場合には、その時点もしくはその直後が死亡時刻というふうに考えたいというふうに思います。
○照屋寛徳君 中山案それから猪熊案、両案の発議者にお聞きいたします。 臓器を提供することが可能な年齢についてはどのように考えておられるのか、また、その根拠は何かを具体的にお示し願いたいと思います。
○衆議院議員(五島正規君) この法律案に基づきますと、臓器の提供に当たっては臓器提供及び臓器移植に対する正しい知識と理解が前提でございます。これを理解した上で主体的に判断する能力、すなわち意思能力を備えていることが有効な意思表示をするために必要であると考えるところでございます。 そのため、意思能力の有効性については年齢などにより画一的に判断することは難しいと考えますが、法律の運用においては何らかの目安が必要ではないかと考えるところであり、この目安については、民法上遺言可能年齢が十五歳であることなどを参考に検討されるものと認識しております。 また、上限につきましては、アメリカ等におきましても五十歳以下の者であることがドナーとして望ましいとされているところから、医学界においてもそのように判断されるものと考えています。
○委員以外の議員(竹村泰子君) 臓器の提供を承諾しますには、脳死状態及び臓器摘出の意味と承諾の効果を認識、理解する能力を有することを要します。そのためには基本的に一定の年齢に達していることが必要と考えますが、個人差の問題などもあり、現時点において私どもはこの点に関する結論を出すまでには至っておりません。 いずれにいたしましても、生命を保つために必須の臓器を提供するということは、同時に自己の生命を絶つということにもなるわけでございまして、この究極的な自己決定のためには、社会的にも法律的にも十分にそのような判断、決定ができる年齢の者であることが必要と考えます。 この点につきましては、例えば前回の当委員会の審議において議論となりました、また今お答えがございました遺言能力に関する年齢などといったものも参考にしつつ、国民の意見を広く求めながらさらに検討を進めてまいりたいと考えております。
○照屋寛徳君 時間が少なくなりましたので通告の順序を少し飛ばしますけれども、中山案の法案第六条に言う「遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき」の「遺族」の範囲はどうなっているのか、またその場合、遺族全員の同意を考えておられるのかどうか。同じく猪熊案の第四条二項、第七条一項で言う「家族」の範囲はどうなのか、法案第七条一項で言う家族の同意というのは全員の同意を指しているのかどうなのか。その二点について質問いたします。
○衆議院議員(五島正規君) 「遺族」の範囲につきましては、通常、死亡した者の近親者のうちから個々の事案に即し慣習や家族構成に応じて決まるものであり、一概には言えないものと考えております。類型的、一義的なものではないと考えています。通常は喪主ないし祭祀主宰者が遺族の総意を取りまとめることになるものと考えています。現行の角膜及び腎臓移植法、献体法、死体解剖保存法においても、単に「遺族」と規定されているところでございますが、その運用において特段の問題が生じたということは聞いておりません。 遺族の中に臓器の摘出を明確に拒む者がいる場合には、実際には臓器の摘出は行われないものというふうに考えております。
○委員以外の議員(猪熊重二君) 私どもの法案では、ただいまお話しのように、第四条二項とそれから第七条一項に「家族」という規定がございます。第四条二項の方の「家族」という中には、「移植術を受ける者若しくはその家族」というふうにレシピエントの方の家族についても規定しておりますが、この場合は家族という概念について特別の難しいところはないと思います。 先生のおっしゃっておられるのは、第七条一項の「家族」、すなわちドナー側の家族についての御質問だろうと思います。と申しますのは、私どもの案においては、要するに脳死状態の判定から臓器提供まで本人の自己決定ということを非常に強調しておりますので、本人が自己決定して臓器摘出を承諾したにもかかわらず、なお家族の同意あるいは家族が拒まないときということを要件にする趣旨はどうなんだという御質問だろうと思います。 私たちは、本人の臓器提供の意思の存在にもかかわらず、本人以外の者であって、本人の生命のありように対する拒否の意思の表明をなすにふさわしいと認められる者がいるとすれば、その者の存在を承認し、この者を家族と規定したところであります。すなわち、家族という概念は、親であるとか子であるとか兄弟であるとかという具体的な法律上の事実概念ではなしに、本人の摘出同意意思の表明にもかかわらず、なお従前の本人との生命の共存という関係から本人の臓器の摘出を拒絶するにふさわしいと社会的に認められる者というふうな法律上の価値概念として家族という概念を用いております。 したがって、具体的場面において摘出する医師は、だれが家族であるか、あるいは摘出を拒否している家族がいるかいないかとか、いろんな問題について、あるいは家族全体の意思としてどうあるのかというふうなことを判断せざるを得ないと思いますが、そのような過程において、家族の同意、家族が拒否しないことということを社会的妥当性をもって判断して決めていくのが相当だと考えております。 先生の質問も難しいので私の答弁も難しいんですが、なぜこういうことを申し上げるかというと、具体的に規定した場合に、じゃその具体的に規定した人が外国に行っているからだめなんだとか、いろんな具体的支障が生じてくるというふうなことも含めて、抽象的な法律上の価値概念としての家族というものを規定したということで御了解願いたいと思います。 以上です。
○中尾則幸君 民主党・新緑風会の中尾でございます。 前回、五月二十六日の質問と同じ質問をまず先にさせていただきます。 私は、前回、脳死を人の死とする社会的合意についてお尋ね申し上げました。先ほど来、照屋先生、大森先生からも御指摘がございましたが、このきょうの委員会の御意見、御答弁を聞いていまして、中山案の前提条件が大変揺れ動いているなと指摘せざるを得ません。 つまり、前回の当委員会での私の質問について、自見先生はこの社会的合意についてこう答えられました。種々の新聞等々、世論調査でも以前に比べればじわじわ上がってきている、つまりおおむね合意していただけたのではないかと思う、こう答えております。先ほど福島先生は、具体的な数字をもって何%では決められないというふうな御意見でございました。私は前回は読売新聞の調査をもとにして質問さぜていただきました。そして、脳死臨調の話も私は出させていただきました。ここにせっかく大森先生が出された世論調査、大変参考になりますが、残念ながらこれは九一年、五年以上前の調査でございます。 私が指摘したいのは、つまりなぜ朝日新聞の調査、読売の調査が無視できないかといいますと、これほど例えば脳死の問題、臓器移植の問題について皆さんすごい関心を持ってきただろうかと。これについて私は中山先生、猪熊先生、そして衆議院の金田先生を初めスタッフの皆さんの御功績だと思っております。 しかし、その中で、こうした結果を私は無視できないと思ってございます。前提条件が崩れた。しかも、脳死臨調で言う、例えばそこに指摘してあります、問題の性格上、国民の中にある程度の反対意見があるのはむしろ当然、こうした国民感情も今後かなりの程度解消していくことも予想されるから、これが前提となってどういう結論を導いているのかといいますと、脳死をもって人の死とすることについておおむね社会的に受容され合意されていると考えていいというふうに結論づけています。 私は、この前提が崩れたら、これを真摯に受けとめてこの論議を始めるべきではないかと思ってございますが、先ほど理由については大体わかりました。これについてどう受けとめておられるのか、中山案の発議者に聞きたいと思います。
○衆議院議員(五島正規君) 先ほど照屋議員の御質問にもお答えしたところでございますが、この間、今年に入りましても、東京新聞、読売新聞あるいは昨年来さまざまな世論調査がされておりますし、その数字はいろいろでございます。そして、今回出されました朝日新聞につきましては、先ほど申しましたように、従来とは違った電話調査ということでございます。したがいまして、繰り返しますが、医学的には世界的にコンセンサスのある脳死が死であるということに対する、これの受容についてはさまざまな形でまだ意見があるということは事実でございます。 しかしながら、これは、脳死臨調が答申において、おおむね社会的に受容され合意されているといってもよいと思われるというこの基本的な方向について、それを大きく変えるような数値が出てきているというふうには考えておりません。
○中尾則幸君 私が指摘したとおり、この脳死臨調は九一年の見解なんですよ。これはその当時の見解として私は否定はできないと思う。それから時代は変わってきているんです。特に今回のこの論議は、脳死について国民が真正面から向き合ってきた事実なんです。これを否定して、これは医学的に、例えば先ほどのお話にありましたけれども、医学の進歩がもたらした新しい死の概念ということだけで決めつけるわけにいかない、私はこう思うわけでございます。 これについては次の機会に、これだけやっていますと時間が長くなりますから、次に行きます。 脳死判定に対する拒否権の問題について再度御質問申し上げます。 本日、中山先生のお答えでは、これも若干揺れ動いております。前回の当委員会では、家族に拒否権があると言ったわけです。そして、きょうの御答弁では、同意しないという家族の権利は担保されなければならないと言っているんです。これは明らかに前回の五月二十六日の当委員会の答弁とは違うわけでございまして、非常にあいまいになっているわけです。 それで、この問題についてはさきにさまざまな先生方がやられましたので、私は端的に申し上げたい。こうした大事な問題を本法の規定に盛り込むのかどうかということが非常に大事になる。これほどいろいろこの委員会でも問題になって、皆さん真摯に討議されて、厚生省の小林保健医療局長の答弁も若干ニュアンスが違う。これについて本法に規定する意思があるのかどうか、中山案の発議者にお伺いします。
○衆議院議員(五島正規君) 先ほど来お答えしているわけでございますが、脳死を拒否する、脳死による死を拒否するというような形で家族が死を選択する、これが権利として認められるということはあり得ない。 ただ、先ほど来答えておりますように、脳死の判定というのは一定の医学的な技術を行った上においてその診断が下されるものでございます。そして、その診断の中には、単なる医学的観察によっての所見に加えて、いわゆる無呼吸テストという侵襲性を伴う検査が入っている。その検査の拒否があった場合にはこの竹内基準というものは完全に実施できない、そういうことにおいてはできないということを言っているわけでございます。死の仕方について、死を選ぶということは家族に任されているという意味での拒否権ではないということを申し上げているわけでございます。
○中尾則幸君 本法に盛り込むことを例えば再考する考えがあるのかどうか、その事実だけを、例えば検討中であるとかないとか、それだけで結構です、お答えください。
○衆議院議員(五島正規君) したがいまして、家族にその死の選択権があるかのような形での拒否権を本法に入れるということは本案の目的とするところではないというふうに思っています。
○中尾則幸君 厚生省、来ていらっしゃいますか。 この拒否権について、省令に落とすというような話も聞いております。明記するのであればどんな表現になるのか、全く検討をしていないのか、お答え願いたいと思います。
○説明員(貝谷伸君) お答え申し上げます。 省令で云々ということでございますが、まさにこの拒否権の問題は本委員会での法律の議論の中での非常に大きなテーマだと思っております。また本日、さまざまな御意見がございます点でございますが、私ども厚生省といたしまして、拒否権という死の概念そのものの問題につながる問題を省令で果たしてどのような形でできるのか、現段階では何とも具体的に申し上げることもできないわけでございます。 いずれにいたしましても、この問題、繰り返しになって恐縮でございますが、本委員会におきましての非常に大きなテーマとなっているところでございまして、現段階で具体的に省令でこうだというのは差し控えさせていただきたいというふうに思います。
○中尾則幸君 大変難しい問題なんですよ、今、省令に落とすことについては。このままで放置できませんよ、はっきり言って。放置はできないわけです。これだけでもう混乱しますよ、医療現場は。 続いてちょっとお伺いします。これに関連して、脳死判定の着手時期についてお伺いします。厚生省、いいですか。 五月二十六日の当委員会で小林保健医療局長は、判定は家族に説明し、きちんと理解を得てから行うことが重要であると答えました。つまり、インフォームド・コンセントが不可欠と私は理解しておるんです。医療行為の一環である、だからインフォームド・コンセントが必要だと。 そうしますと、脳死判定の着手要件の大事な一つに家族の同意が必要となりますね。
○説明員(貝谷伸君) 先ほど来、また提案者の先生方のお答えにもございますように、私どもといたしましても、脳死判定に当たりましての、特に無呼吸テストについては何がしかの侵襲性というものは否定できないと考えております。 今御質問のとおり、脳死判定に当たりましてこのような検査を含むわけでございまして、家族に対しまして脳死あるいは脳死判定についての必要な説明を行いまして、脳死についての御理解を得ていくということがやはり必要であるというふうに考えておるところでございまして、先生のような御趣旨で私ども理解しておるところでございます。
○中尾則幸君 ということは、家族の同意が要件になるということでよろしいですね。
○説明員(貝谷伸君) 要件という意味でどうかということでございますが、私どもとして、先般来の御議論にございますような、脳死判定に当たりましてそういうことを行って家族の御理解を深めていくということをまず大事だと考えておりまして、要件ということでかんがみますと、そういうことは必要であるというふうに考えておるところでございます。
○中尾則幸君 要件であるというふうに理解させていただきます。 そうしますと、これは前回の委員会でも質問がございましたが、家族の同意によって、これ死亡判定時刻が変わりますね。
○説明員(貝谷伸君) 先般来の御議論でございますが、脳死判定が行われるかどうかにつきましては、先ほど来提案者の先生からもございますように、その理解に努め同意を得てやっていくということでございまして、その結果脳死判定が行われた場合につきましては、脳死判定が行われたその二回目の判定の時点ということで私ども理解しているところでございます。
○中尾則幸君 なぜこんな回りくどい聞き方をしたかといいますと、家族の脳死判定に対する拒否権が認められていればすっきりするんですよ。そうですね。そうなんです。死亡時刻が変わる問題についても、これについてはまた改めて。 そうしましたら、中山案の発議者に御質問申し上げます。 じゃ、どんな状況、状態のときに着手されるのか、着手要件を明確にすべきじゃないかと。これは医療の専権行為だというふうなことも私も理解はしております。特に、先ほど御説明のありました、例えば侵襲性が高い無呼吸テストを家族のインフォームド・コンセント、同意を得て行う、どういった時点で開始されるものか。 それで、この件につきまして日大医学部の救急医学科教授の林先生、これは四月八日、衆議院厚生委員会参考人質疑でこのように答えておりまして、ちょっと御紹介しますが、無呼吸テストによって脳蘇生の可能性を断ち切っているのではないかという葛藤を生ずることがあるというんですね。これは医療現場の先生がお答えしています。 それを含めて、私は無呼吸テストの開始時期というのは大変大事だと思っておりますが、時間がございません。簡潔にお答え願いたいと思います。
○衆議院議員(五島正規君) 竹内基準の中で、無呼吸テストにつきましては、他の必要ないわゆる脳幹死を示す所見ですね、対光反射、深部反射等々の消失といった、そういうふうな医学所見が全部そろった、通常でいうところの脳幹死の状態が確認された段階においてこの無呼吸テストは実施すべきであると考えております。
○中尾則幸君 これも前回ちょっと触れました。脳死判定基準とされている竹内基準六項目ございます。それに加えてさらに脳血流の停止の判定を行うべきだと。これは立花隆さんなんかもずっとこの脳死臨調批判の書物の中でも言ってございます。これは全例についてすべてすべきだというふうには大方の方は、専門家の方は言っておりませんが、脳血流の停止を入れるべきだと。そして、血流停止の判断についての検査方法はそう難しくなくなってきたと。私は医療現場の専門家でございませんけれども、そのようにもいろいろ聞いてございます。 これについて、補助的判断について中山案そして猪熊案の発議者はどのように考えているか、御説明願います。
○衆議院議員(五島正規君) 脳血流判定につきましては、その段階における医師の判断によって採用される補助的な検査方法だというふうに考えております。また、この脳血流検査によって脳死を決定するということについてはまだ極めて困難な問題もあるというふうに考えています。 さらに、これが簡単に侵襲性なしに行われるという御質問でございますが、現実問題、脳死の患者さんが収容されている施設はICUその他の病室でございます。したがいまして、その場において脳血流判断をするということをおっしゃっているとするならば、エコー検査で済むということであろうと思いますが、極めてそれによる精度は低いという問題もございます。したがいまして、そうした問題につきましては、その患者さんを血流測定できる場所まで移動することがより問題ないかどうか等々を慎重に検討した上で、それぞれの医療機関が補助的に行うべきものだというふうに考えております。
○委員以外の議員(朝日俊弘君) ただいまの件については、私たちはより脳死状態の判定が厳密な基準で行われるべきというふうに考えておりまして、そういう観点から、竹内基準に加えて、聴性脳幹反応や脳血流の測定について必須の検査事項として組み入れたいというふうに考えております。 例えば、脳血流量の確認については、そのときの状態が不可逆的であることを示唆する意味で重要な検査であるという御指摘もございますので、ぜひそのように考えたいわけですが、現実に行う場合のことも考えまして、引き続き専門家の御意見を踏まえて検討をいただきたいというふうに思います。
○中尾則幸君 もう一問確認させていただきたいと思います。 子供の脳死判定と臓器移植について、さきの五月二十六日の当委員会で、臓器提供意思表示、本人にあってその有効性が認められるのは何歳以上の子供かと私はお尋ねいたしました。そのお答えで中山案の発議者から、民法で認められた遺言が十五歳以上有効であり、十五歳が一つの目安と答弁がございました。 それでは、十五歳未満の子供からの臓器の摘出は事実上無理というふうに考えてよろしいんでしょうか。
○衆議院議員(五島正規君) この法律によりますと、お考えのように、十五歳に達していない子供については基本的には臓器の摘出は困難であると考えています。
○中尾則幸君 この件に関して厚生省はどうお考えでしょうか。
○説明員(貝谷伸君) 先般の御答弁の中でも、法律の運用上どうしても一定の目安が必要だということで、一つのものとして民法の遺言可能年齢十五歳というものが出されております。私ども、法を運用する立場から、こういった点を参考にして今後さらに詰めていきたいと思っておりますが、仮に十五歳ということで決まりますれば、それに達しないケースについては原則的には臓器の摘出は困難であるというふうに理解しております。
○中尾則幸君 わかりました。この点はすっきりと十五歳を一つの目安ということでお話を伺いました。 続いて、「脳死体の各種利用の可能性について」というふうに質問通告を申し上げました。 つまり、「脳死者に血液や治療用の抗体をつくらせることもできるし、医学生のための解剖実習にも使える可能性が出てきた」と、これは十二年前の朝日新聞の報道でこう書いてあるわけです。もう十数年前からこのようなことを指摘する意見もあったんだなということでございます。 こうしたいわゆる悪用といいますか、脳死患者の悪用について、東京大学医学部脳研究所の森岡先生がやはり十年前から警告を発しておられます。それによりますと、「従来脳死成立後はまもなく心停止に至るとされていた。しかし抗利尿ホルモン(ADH)とエピネフリンの併用投与により、平均三週間(最長五十四日間)の長期循環維持の技術が」可能となってきていると。 これはもう十年前なものですから、恐らく生かしようによっては脳死と判定された後もずっと生かしておけるということだろうと思うんです。 それで、フランスではちょっとこういう事例を悪用したという、人体実験に使ったという例も出されておりますけれども、これについて一言ずつ。時間がなくなりました。こうした悪用というか人体実験にも用いられる可能性があるということについて両発議者から御意見を伺って、私の質問を終わります。
○衆議院議員(五島正規君) 中山案におきましては、この臓器移植の目的にのみ臓器の摘出を認めているところでございます。したがいまして、それ以外の目的でもって利用するということについては認められないというふうに考えております。 また、今、議員御質問のように、脳死の判定後、通常は四十八時間ぐらい、あるいは七十二時間ぐらいで心停止に至るわけでございますが、それをあえてさまざまな措置をとって長期間心臓の稼働を促進して、そして人体実験に使うということにつきましては、当然これは各大学の生命倫理委員会等々において検討されるべきことではあると考えますが、この法案の直接関与するところではございませんが、そのようなことは人道上許されないものであると私自身は考えております。
○委員以外の議員(朝日俊弘君) 人道上許されないという意見は全くそのとおりでありますが、残念ながら私自身は、フランスの例ばかりでなく、この日本においてもそういう事態はあり得ると考えざるを得ません。そういう土壌が日本の医学、医療界にはこれまでもあったし、現在もあるというふうに考えざるを得ません。 したがって、とりわけ脳死を人の死とする場合については、そのままでいけば問われるのはせいぜい死体損壊罪にとどまるわけでありまして、より明確にこのような人体実験あるいはそれに類する利用の仕方についての禁止規定が必要だというふうに考えます。
○中尾則幸君 どうもありがとうございました。
○橋本敦君 前回、私は主として中山案につきまして、脳死を人の死とするということについてまだ十分社会的、国民的合意ができていないという問題、それからまた医学の進歩の中で脳死判定基準の厳格性が要求されておりますが、どの時期に脳死判定をするかという脳死判定基準はありますが、判定時期についての客観的基準もないということ、それから死の時刻の特定については第二回目の判定が第一回から六時間後とは必ずしも規定されないという状況がありますから、この時刻についてもこれはまた一定の範囲でいろいろ違ってきます。そういうことが、ひいては相続やその他の問題、法的な諸条件の整備についてまだ十分できていないという問題等を提起いたしました。 きょうは、主として猪熊案についてお伺いをさせていただきたいと思っておるわけでございます。 猪熊案について言うならば、脳死状態ということを脳死判定の結果に基づいて認めていくわけでありますけれども、現在の急速な救急医療の進歩という状況の中で考えますと、これは参考人としてお越しになりました林教授がおっしゃっていることでございますけれども、「医学の進歩の中で、この従来の死の概念や法ですべてを解決することが困難な場面に直面した場合、」、まさに私は困難な場合がいろいろとありますが、その場合には「患者を治すという医療の原点を守ることこそ我々の任務ではないかというふうに考えている」、このようにおっしゃっているわけですね。これは非常に大事な指摘だと思うわけでございます。 そこで、猪熊案ということについて言いますと、脳死状態でもまだ死は来ていないということでありますから、基本的には医師としての治療義務は継続するのではないかということを前回質問いたしましたが、それはそのとおりだというお話がございました。 そうなりますと、その治療義務の継続というこの問題について、それを一定の時期に移植のためにこれを放棄するということが出てくるわけですね。その問題は一体どうなるのかという問題でございます。 その問題について、衆議院で参考人として出てまいりました石川元也弁護士は、日弁連の見解を踏まえておられると思うんですが、私も日弁連の一人ではありますけれども、その限界点を超えている段階で、なおかつそれが死でないとするならば、治療の義務が基本的にあるのかどうかということについて、その時点になればすぐ医療を放棄すべきであるし、医療継続の義務はないとまで言い切れるかどうか、この辺は多少ファジーな言い方になりますが、これは家族の合意の上でやっていくということであって一はっきり法律的に治療義務はないとまで言い切ることはできませんという御意見がありました。 私は、その考え方は考え方として理解はいたすつもりです。 そうなりますと、救急医療を担当してきた医師は治療義務がある、必死になって治療する、ところがある時点では今度は移植医の方が心臓摘出等の移植手術をする、こういうふうに転化するわけです。そして、どの時点で人の死が来るのかというと、朝日先生も御答弁になりましたが、心臓摘出ということであればまさにその時期だと、こうなるわけですね。この間に矛盾はないんでしょうか。 つまり、治療義務が、死の状態でないということとの継続の関係、しかし一定の時点で移植をするということになりますと、これは治療義務じゃなくてまさに死を招来する医療行為ということになってくるわけですから、その点での矛盾はないのかどうか。この点はいかがお考えでしょうか。
○委員以外の議員(竹村泰子君) 大変大きな難しい問題であるというふうに思います。 私どもの法案では脳死イコール死とは考えておりませんので、医師の治療義務があるというのは、つまり死体ではなくて生きている人にふさわしい扱いをするべきという意味でお答えを申し上げたというふうに思います。 生命の尊厳は何にも増して尊重されるべきであり、脳死状態と考えられても、その最期のときまで人格の尊厳を認め、大切に扱われるべきであると考えます。すなわち、憲法の保障する基本的人権の享有主体でありますからという意味でございます。 それから、救急医療の現場のことにお触れになりましたが、救急医療の現場における救命医の気持ちや、それから肉親の治療を続けてほしいという思い、これはもういわば当然のことでありまして、移植コーディネーターや移植医は決して強行的な言動を行ってはならない、厳に慎むべきであるというふうに思います。許される限り十分なインフォームド・コンセント、すなわち、本人が他人の命を救うために命の維持に必須の臓器を提供したいという生前の善意による自己決定を尊重するべきことを家族が理解できるまで話し合うことがよいと考えます。それでも家族が納得しない場合には強行すべきではないと考えます。
○橋本敦君 そこで、今お話があったそういう時点を法律的にどう解釈するかという次の問題に、判断としては問題を提起していかなくちゃならぬと思うんですね。この点について、刑法学会でも法曹界でも意見が分かれております。 これは猪熊先生も法律家でいらっしゃいますからよく御存じなのであえて申し上げるのも恐縮ですが、例えば衆議院で参考人に出られた平野龍一教授は、この点については、緊急避難の規定を見ても、あるいは安楽死の定義に当てはめても、あるいは尊厳死の定義ということを考えても、あるいは医療行為一般という点について検討しても、違法阻却を認めることは難しいようだという判断をおっしゃっているんです。 その理由は、何といっても、竹村先生も今おっしゃった、生きている状態というその患者の生命の尊厳ということとの関係でいえば、まさに生命を絶つというそこへ向かっていく行為ですから、脳死状態であってもやはり生命を奪うということで、我が国はもちろん同意殺は犯罪だとしておりますから、それを全部違法性が阻却されるということは理論的に無理ではないかという見解をおっしゃっているわけです。 一方、日弁連や石川参考人の方は、竹村先生が今おっしゃったように、そういう条件のもとでは違法性が阻却されるし、社会的相当行為と見られるということで、全く意見が相対立しているという状況にあるわけです。 そこで法務省に伺いますが、法務省としてはこの問題についてどういう見解を今お持ちなのか、どういうお考えなのか、説明していただけますか。
○説明員(渡邉一弘君) お答えいたします。脳死が人の死でないとすれば、脳死状態からの臓器摘出は、委員も御承知のとおり殺人罪ないしは嘱託殺人罪の成否が問題となります。そして、違法性阻却事由の可否が問題となると思われるわけでございます。また、違法性がどのような場合に阻却されるかにつきましては、個別具体的な事実に基づいて判断されるものと考えております。 一般論としてあえて申し上げますと、違法性阻却が問題になる場合、保護法益が人命の尊重にかかわる問題であるだけに、その可否については慎重な検討を要するものと考えております。
○橋本敦君 答えがわからないんですよ。最終的にはそれは裁判所が決めるというようにあなたはおっしゃりたいのか。法務省としては判断放棄だと、具体的事案でないとわからぬという意味なのか。どういう意味ですか。
○説明員(渡邉一弘君) お答えいたします。 基本的には、最終的には裁判所がお決めになることであろうかと思いますけれども、基本的に違法性阻却事由というのはさまざまございまして、それぞれ具体的な事実に基づきまして総合的に判断しなければならないというふうに考えておりますので、その点につきましては人の生命にかかわる、保護法益が人の生命ということでございますので、慎重な検討を要するものと考えているとお答えした次第でございます。
○橋本敦君 確認しますが、中山案でいえばこういう問題は起こらないと考えているんですか。猪熊案でいえば具体的ケース・バイ・ケースの判断でないと答えの出しようがないということをおっしゃったんですか。どちらですか。
○説明員(渡邉一弘君) 中山案と申しますか、脳死が人の死であるとすれば死体でございますので、死体損壊罪の成否が問題になるわけでございますけれども、この場合にも臓器の摘出行為については違法性阻却事由の有無が問題になろうかと思います。その点につきましては、やはり個別具体的な事実関係に基づいて判断されるものと考えております。
○橋本敦君 こういう大事な問題で我が国の法務省の見解が本当に明確でないという重要な問題があるんです。 自己決定権ということがあります。しかし、みずからの死をみずからの意思で絶つ自殺というのは、我が国の刑法学会では違法だと考えられているはずです。なぜなら、それぞれの人間は自分の人格と生命を尊重する、それが社会的法秩序としての原則だということですから、だから自殺幇助も有罪だし、嘱託殺人罪も殺人罪ということになる。いろんな考えありますよ。 だから、自己決定権ということからいって、ドナーの意思を尊重するということはわかりますよ。しかし、それはわかりますけれども、それがなかったら話になりません。そういうドナーの意思を尊重し、家族の意思を尊重し、厳密な脳死の判定基準ということであって、なおかつその上でも丸々合法だと言えないところに違法性阻却するという問題が出てくる。 中山案でいっても、死体損壊という刑法上の問題があるが、その問題についても目的、条件からして違法性阻却する、こういうことになるんですから、そういう意味では法的には非常に大きな問題があって、これは大変難しい問題なんです。 衆議院で参考人に出てこられました、心臓移植を受けられた木内博文さんはこう言っておられます。「私たち、これから移植を受けなければならない、移植を受けた者たちからすれば、脳死は人の死である、いや、そうあってもらいたい、そうあるべきだと思います」と。「なぜならば、私が移植を決意するとき、もし仮に、その人が生きているとされて、たとえ脳死の状態であっても、法的に、社会的に生きていると認められている人から私たちは心臓はいただけません。やはりそのとき、脳死の状態で、死と認められていて、社会的に認知がされていて、そこで初めてその人からの心臓がいただけるのです」と。これは非常に謙虚におっしゃっておるし、そしてまた非常に正しいことだと私は思うんです。 だから、結論的に言えば、今のままで、例えば猪熊案でいきますと、まさに死のプロセスに無限に近づいていっている、脳死の状態になっている、しかしそれはまだ死ではないと。しかし、そういう人の死であっても、臓器をそこから摘出して究極的に死に至らしめるという行為であっても、移植を待っている他の人の命を救済するためにそれが認められるということになりますと、違法性阻却論というけれども、結局それは人の命に軽重をつける、人間の命の尊厳に差をつける、そういう結果にならざるを得ないという倫理の問題が深くかかわってくるのではないか、こういうことを私は心配するんです。 その点について、猪熊案としてはどうお考えでしょうか。
○委員以外の議員(竹村泰子君) 医の倫理の問題でございますけれども、医師の職務は第一義的にはもちろん人の命を救うことにあることは言うまでもございません。しかし、他人の命を救うために脳死状態になったときに自己の臓器を提供する、そういう究極的な自己決定をしている場合にのみ臓器の摘出を厳格な要件のもとに認めているのでございまして、医師の関与により本人の自己決定を実現するということもまた別の意味で医の倫理として認められるべきではないかと考えます。
○橋本敦君 そこがまだまだ議論をしなきゃならないところだと私は思います。やっぱり脳死であってもまだ人の死ではない、今のあるそういう生きている状態だと。こういう状態と、そして移植を待ち受けている人たちの今後の生命を長らえてあげたいということとの、そこのところの関係でいえば、脳死状態だというまさに死のプロセスへどんどん行っている人の生命の方が結局軽く扱われるという、そういう心配は私はなくならないと思います。 京都大学の刑法の教授をしておられた中山教授は、結論的には、今いろいろ御指摘になったような条件であっても、違法性の度合いはなくなっていくけれども完全に違法性がなくなるとまでは言えない、ただそういう違法性が少なくなったという現状でそれを処罰することが可能かどうかということになると、可罰的違法性まではあるとは言えないという見解もおっしゃっています。こういう見解も私は一つの見解だと思いますよ。 しかし、結論的に言えば、脳死を待ち望んでいらっしゃる木内さんの意見もそうですけれども、これの根本的解決というのは、医学の進歩の中で脳死判定を本当に厳格にやるということの国民的信頼と、公正さへの情報公開も含めた国民の信頼ということを含めて国民的な合意が成立し、医学的な所見である脳死という問題についてそれが人の死であるということが国民的に合意をされる、そういう条件があらゆる意味でつくり上げられ、前進をして、脳死が本当に人の死であるということを国民が合意し社会的に認知する、こういう状況が出てきて初めて両案の持っているすべての問題が基本的に解決する方向が出るのではないか。こんなふうに考えておるんですが、そのためにはまだまだ議論の必要があります。 私は、この次には、その一番大事な問題である厳格な脳死判定基準は今日の救急医療の進歩の中でどうあるべきかということについて質問をさせていただきたいと思いますが、きょうは十五分の時間が終わりましたので、これで終わらせていただきます。
○佐藤道夫君 私から最初にささやかな経験談をちょっとさせていただきたいと思います。 私、実は内閣法制局の参事官を数年間していたことがございまして、いろんな法律をつくったり、また法律の解釈でいろいろな議論をしたことがございます。各省間で争いが起きたりすると、内閣法制局のお墨つきを求めて担当官がやってきて議論をする、こういうことであります。一つの条文を手がかりにいろんな議論を、議論百出といいますけれども、いろんな意見があって、こんなに議論が出るくらいなら何で立法時に解決しておいてくれなかったのだろうな、そういう気がすることが再三でありました。 それを当時、我々は生意気にもこれはできの悪い法律だ、こういうことを言っておりまして、本当にこれは一番できが悪いなと言いますと、これは議員立法ですからしようがないですよ、こういう回答をいただいたりしました。ここだけの話でありますけれども。細かい詰めまで一々しておきませんと、運用の面で将来いろんな争いが出てくることは間違いないわけです。 今もいろんな問題が指摘されておりますけれども、それはでき得べくんば立法の段階で解決しておく。解釈上はこうなるといいましても、別な解釈が出てくればそれだけの話でありまして、最後はやっぱり最高裁で解決してもらう、こうならざるを得ないわけですから、できるだけ立法の段階で解決しておいてもらいたい、おくべきであろう、こう思います。 それからもう一つ、私は当時法務省の刑事局で、昭和四十三年の札幌医大の和田教授の心臓移植の問題を中央で担当いたしまして、国会事務の連絡とかあるいは医師会との連絡とか、厚生省との連絡とか、そういうことをやっておりました。あの事件は、最初は和田教授も立派な医師であって、医者の良心にかけてやったのであるから犯罪捜査のような扱いをすべきではないという意見がかなり強かったわけです。しかし徐々に、これは主として国会筋からなんですけれども、やっぱり人の命がかかっている問題だからそうばいかぬと。第三者である司法機関が入ってきちっとシロかクロかはっきりさせて結論を出すべきではないか。こういうことになりまして、殺人で一応立件いたしまして、札幌地検が捜査をした、こういう経緯がございます。 ですから、この問題は将来、臓器移植をして、自分は医師として良心にかけて法律の要件を守ってやったんだと言いましても、それだけで済む話かどうかわからない。やっぱり司法当局の判断を求めるべきではないかという声が起きてくるのも避けられないことだろうと思います。 そこで、猪熊案は、脳死体はまだ死ではない、こういうわけでございますから、殺人罪が成立する。一方において、中山案は死体損壊罪が成立する。警察も、これは一応ですけれども、かなり忙しいですから死体損壊ぐらいでわざわざ出動はしないと思いますけれども、殺人ともなるとほうっておけませんから出動いたします。一応立件をいたしまして、医者から事情を聞く。それから司法検視、司法解剖をする。場合によったら鑑定もお願いするということで、警察が基礎捜査をして検察庁に送致して、検察庁は医者を容疑者として呼び出して取り調べをして、医者の弁解も十分に聞いて、これならば法律の要件を具備しているから違法性阻却事由がある、殺人罪は成立しない、こういう判定をして事件を不起訴にする。 この司法手続を省略することは絶対不可能だと思いますよ、猪熊案でいきますと。いや、それはもう医者に任せてくれというわけにはいかないと思います。お医者さんだっていろんなお医者さんがいるわけですから、あの医者はなかなか信用できないとかいう意見だってあるわけでして、やっぱりこれは司法当局が出動してきちっとシロかクロかを決めてくれということになります。一つに出動して片方に出動しないわけにいきませんから、臓器移植が行われるたびに警察が出動をして立件して、最後は検察庁がこれなら違法性阻却事由があると。違法性阻却というのは司法判断ですから、お医者さんの判断する医事判断じゃございませんから、これは避けて通れないと思うんです。 こういうことでは臓器移植を行うようなお医者さんはいなくなるんじゃないかという気もしますけれども、いかがでございましょうか。
○委員以外の議員(猪熊重二君) 佐藤先生の今のお話はちょっと私は見解を異にします。 と申しますのは、私たちの案で脳死状態と判定され、他の要件がすべて充足された場合に生者であるにもかかわらず臓器摘出ができる、そのような臓器摘出行為を個々的に、個別的に社会的相当性あるいは実質的違法性がないというふうに個々的に考えるのではなくして、この法律の七条において違法性を阻却するということを規定しているわけです。 違法性を阻却するということは、言葉だと阻却するというのは何だと、こういうことになりますが、違法性がないということなんです。違法性がないということは犯罪でないということなんです。 ですから、もしこの法案が成立すれば、殺人罪であれ承諾殺人罪であれ、刑法三十五条の法令に基づく行為ということで原則的に捜査とか取り調べだとかする必要はないし、また実際にもあり得ない。これは、法令による適法行為について一々捜査機関が出動していたらこれは忙しくてしょうがない。ただ、厳格なすべての要件を充足していない臓器摘出があるとすればそれは殺人罪になる、あるいは承諾殺人罪になるということで捜査の対象になること、これは当然なんです。
○佐藤道夫君 簡単でいいですよ。
○委員以外の議員(猪熊重二君) では、それだけちょっと申し上げておきます。
○佐藤道夫君 要件を具備しているかどうかというのはやっぱり捜査をしてみないとわからないわけでしょう。だれがそういうことを決めるんですか。お医者さんが自分が決めると言い出したらもう医者の独善だということになりますよ。これはもうはっきりしている話であって、司法手続を省略することは許されないんだろうと思います。 正当防衛だと言ってみましても、捜査をしてみて初めてこれは正当防衛だ、罪にならない、こういうことになるわけです。個別案件だからこそよりきちっとやらなきゃいかぬ、法律に書いてあるから何をやってもいいということにはならないわけですから、そこだけははっきりさせておいてください。 それから、中山案にしても猪熊案にしても、遺族、家族の範囲がいま一つはっきりしない。これは先ほどから議論が出ております。回答といたしましては角膜移植法をいつも例に出されまして、あそこで遺族が同意すればいいんだとおっしゃいますけれども、角膜移植は死体から取り出すんですね一御臨終ですよと、皆さん合掌して、もう死にましたよということを確定されてから、さあ故人の遺志に基づいて角膜を摘出してよろしいかと占うから、故人の遺志を尊重してどうぞと、だれもこんなこと絶対反対なんという人いないと思いますよ、現案問題といたしまして。 ところが、臓器移植の方は、今世論調査をしても賛成半分、反対半分というぐらいに分かれておるわけですから、一つの家族の中でもお父さんは反対、奥さんは賛成、子供二人は賛成反対に分かれる、幾らでも考えられるわけです。一人が反対すればやらないようなこともおっしゃっていますけれども、そうしますと大体これ臓器移植はできないことになりますよ。大体家族が集まれば一人ぐらい反対者が、へそ曲がりの反対者がいるわけですから、そういうことになろうかと思います。 喪主あるいは斎主がまとめればいいんだろうと言いますけれども、今、喪主とか斎主が大きな力を持っている時代じゃないんですよ。おやじさんがおれの一存でまとめろと言ったって、子供たちは、いや私は反対ですよとか、今は逆にそういうことを言いたがるような時代なんです。 ですから、やっぱり遺族、家族の範囲というのを法律の上できちっとしておかないと、過半数で決めるのでもいいですし、全員が賛成を要すると書いておいてもいいんですけれども、きちっと法律でしておくことが必要だろうと思います。私は、それを欠いたのでは、この法律は何かと、できが悪いなと言われることを後日覚悟せざるを得ないんじゃないか、こういう気がいたしますけれども、今の点はいかがでしょうか。
○衆議院議員(中山太郎君) 今、佐藤委員からの御指摘も私どもは十分考えております。 病理解剖する場合でも、めったに来ない親類の人が来て反対をしたために、同居の親族が賛成しておってもできないというケースも私もたびたび経験してまいりました。 そういうことで、この臓器移植の問題に限っては、御本人の指名された方、家族の同意を中心に、その方が全体を取りまとめていかれるという結果に基づかなければならないと考えております。
○佐藤道夫君 最後に、死亡時間の問題でまたこだわりたいと思うんです。 これは普通はもうどちらでもいいわけでありまして、余り問題になることもないんですけれども、やっぱり相続をめぐってどちらが先に死んだかによって財産がこっちへ行ったりあっちへ行ったりすることがあるわけです。ですから、それが争われると、裁判所は今度は死亡時間を確定することを言う。裁判所が義務になるわけです。そうしますと、裁判官が法律を読んでみると、「死体(脳死体を含む。)」と、これは一体何だろうか。先ほど大森議員が指摘していましたけれども、「人(猿を含む。)」ということも法律はできるわけですけれども、その猿はあくまでも人ではないわけですから、脳死体が死体に含まれていましても死体とは全然別ではないか。要するに、臓器移植に限って脳死体を死体とした、こういうふうな解釈も可能なわけですよ。 しかし、提案者の方々は、いやそうじゃないんだ、もう脳死体をもって一般の死とするんだと、こういうことになっておりますから、裁判官は竹内基準に当てはめたかどうかということは別にしまして、やっぱりこの法律を読む限りは脳死は人の死だと。じゃ、いつ死んだんだということを鑑定でもしてきちっと時間をはっきりさせねばならないことにもなってくるわけです。 そういうことで、余計なまた踏み絵が将来起こることは避け得ないことですから、できたら立法の段階できちっとその点は余計な争いの起きないように、言葉の一つ一つ隅々まで大変注意を、失礼になるようですけれども、注意して法案をつくっておいてほしいな、こういう気がいたすわけであります。これは老婆心でございます。 以上、終わります。
○末広真樹子君 自由の会の末広真樹子でございます。 皆様も御同様だと思いますが、私も連日毎日委員会質問を抱えておりまして、第一回目のときにはほかの委員会と重なりまして失礼をいたしております。今回初めて質問をさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。 この問題は、人の死にかかわる非常にデリケートな問題であるというふうに認識しております。私の脳の中で左半分は、臓器移植を待ち焦がれている人がいるんだから法律をつくってあげてもいいのではないか、こういう声が聞こえる。そして、右半分の脳では、いやちょっと待て、何か怖いよこの法案、一律に法律で死を決めちゃうという怖さ。つまり、左の脳は理屈で考えようとしています。右の脳は感性で考えようとしています。自分の脳の中でも大葛藤が起きていることは確かでございます。 この法案というのは理屈だけで押し切ってよいものか、それとも感性の部分まで納得させるまで慎重審議されることが好ましいのではないのか、私はまずそのように思っております。そして、できる限り早期に現場の声も聞いてみたい、率直に聞いてみたい、このようにも思っております。 そこで、まずお聞きしてみたいのが、脳死状態にある方からの臓器摘出については、提供者本人の提供意思があらかじめ書面により表示されていることが必要とされております。その意思表示はいつの時点でなされたものを基準とするのでしょうか。これが一点目でございます。 次に、提供意思の表示が比較的古い時点でなされたものである場合は、その後の心境の変化にどう対応していくのでしょうか。つまり、若い間は死ということを余り考えません。生にも執着いたしません。その場合は、ああいいよ、死んだ後は使っておくれ、こう気前よく言えるかもしれない。ところが、聞くところによりますと、年を経るに従って、もっと生きたい、何とか生きていたい、こういう気持ちが出てくるものらしいんですね。その辺の心境の変化にどう対応していくのでしょうか。これが二点目でございます。 三点目には、意思表示の書面の作成年月日がある一定の期間より古いものはその効力を失うなどの工夫があってしかるべきではないのか。つまり、あなたは過去にこれを書いていますよ、今さらじたばた取り消す、何という人なんですかとか言われてしまっても、気持ちが変わったものはどうしようもない、認めてあげなければならないことだ。それを法律というもので一律に縛りをかけてしまうというのは大変に怖い、これが私の感性の部分でございます。 以上三点、発議者双方にお伺いしたいと思います。
○衆議院議員(自見庄三郎君) 末広委員に答えさせていただきます。 まず第一点ですが、脳死のときに提供者本人の意思は書面によって表示されているということが前提条件でございます。それは法律の臓器摘出の要件の一つでございますが、その意思表示がいつの時点でなされたものでなければならないかということについて特に規定をしておりません。その中で、臓器提供の意思表示がいつの時点でなされたかにかかわらず、その摘出の時点において本人の瑕疵のない真正な意思表示がなければ、臓器摘出の要件であります本人の書面による意思表示があるとは言えず、臓器の摘出はできないと考えております。 二番目の質問でございますが、心境が変化したらどうなるのか、心境の変化についての御質問でございます。臓器提供の意思を表示した書面があっても、何らかの形で本人が臓器提供の意思を有していないことが後から認められた、明らかになっているときは、これは第六条に規定する臓器の摘出の要件を満たさず、臓器の摘出は認められないと考えております。 それから、三番目の最後の質問でございますが、一定時期より古いものは無効ではないかというようなお話がございました。ある一定時期より古い作成年月日の書面について効力を失わせるなどの工夫が必要じゃないかということでございますが、提案者といたしましては、作成年月日が古いものであっても、本人の瑕疵がない真正な意思表示に基づくものであれば有効であると考えており、臓器の摘出の時点において本人の瑕疵のない真正な意思表示があるかどうか、個々の具体的な判断に立って判断することが重要であるというふうに考えております。 ですから、要約いたしますと、それがまさに瑕疵のない真正な意思であったかどうかということが非常に大事だと思っております。
○委員以外の議員(堂本暁子君) 私どもの法律では署名、そして作成年月日を記載することを求めております。本人の意思が十分に調査されて、慎重にその意思が確認されることが最も大事だというふうに思っています。 二番目の、気が変わったらというか、若いときはその気があったけれども、少し年をとってきてなくなったらということですけれども、常識的に言わせていただければ、やはりそのときは気の変わった方が意思の撤回をする必要があるんではないか。それを今度は、提供の意思が比較的古い場合でも、その意思が書面で家族に見せられていてきちっと意思が示されている場合に、その気が変わったか変わらないかということを判断することは大変難しいことですね。ですから、きちっとそれをしなければいけない。しかし、もしその意思を撤回しているということが明らかになった場合にはやはり摘出はできないというふうに考えております。 また、書面が古い場合はどうかということですけれども、これについては期限を設けておりません。 以上であります。
○末広真樹子君 一たん出すとかなりの古いものでも、例えば三十年、四十年でもその意思表示書はひとりで歩いてしまう。つまり、自分で常にチェックしていないとそれが生きていってしまう。心変わりした人は、かつて書いたということをしっかり思い出して撤回書というのを出さなきゃいけない、これが両案の共通点だったように思いますが、その撤回書はいかなる形でどこへお出しすれば有効になるんですか。
○衆議院議員(自見庄三郎君) それはいろいろなケースが考えられると思いますが、一点はドナーカードで、自分が承諾しましたよと自分で署名して出した場合に、そこのドナーカードを、これはもし法律ができればいろいろな団体がやるわけでしょうが、そういうふうに自分は昔二十年前承諾したけれども、やっぱり心変わりして嫌ですということをきちっと書面で出すことが私は必要ではないかというふうに思っております。 また、遺書の中でも、実は自分は昔こういった臓器移植の提供者になるということを了承していたけれども、やはり今ごろ考えると自分は臓器提供者になりたくない、そういったことはきちっと自分の意思として自署すれば、それは当然臓器提供者にならないと私は思っております。
○委員以外の議員(堂本暁子君) その意思をはっきりドナーカードに書き込む機関ができるわけですけれども、その機関に撤回を申し出ることになると思います。
○末広真樹子君 聞きたい予定はあったのですが、時間が来てしまいました。ありがとうございました。
○栗原君子君 新社会党・平和連合の栗原君子でございますが、まず中山案の提出者にお伺いをいたします。 先ほどからも出ておりますように、去る五月二十七日の朝日新聞の報道によりますと、脳死を人の死とすること並びに移植法の成立に関して、ともに国民の見解は賛否相半ばであるということを伝えているわけでございます。こうした国民感情の現状を踏まえた上であえて脳死者からの移植を立法化しようとするのは、国民的な合意に基づかない立法であると思われますけれども、提案者はどのようにお考えでしょうか、もう一度お聞かせください。
○衆議院議員(山口俊一君) これも先ほど来たびたび御議論をいただいておるわけでありますが、これもお答えをしておりますが、今御指摘いただきましたように朝日新聞の調査、確かにそのような結果が出ておりますが、実はこれは朝日新聞御自身も書いておられますけれども、電話を使った調査でもあり、従来の調査方法や質問文とは異なるので、この調査結果のみをとらえて何らかの結論を出すのは難しいというふうなことも書いておられます。 同時に、これも申し上げておりますが、ずっと以前から一連の世論調査の中で基本的には御理解が深まりつつあるというふうに実は私ども考えておるわけでありまして、しかもその調査の方法あるいはその時々のいろんな事件あるいは議論、そうしたもので国民のお考えというのは大きく揺れ動く、これも恐らく当然のことであろう。ただ、言えるのは、そうした中で、議論としてあるいはお考えとして非常に深まりつつあるのではないかというふうに私ども理解をいたしておりますので、脳死臨調のとおり判断をさせていただいたような次第でございます。
○栗原君子君 たとえ電話調査でありましても、この調査の結果というのはある程度重いものである、私はこのように解釈をしているものでございます。 次に、脳死患者の発生は、例えばアメリカにおきましてはこの十年間に二万人から一万人へと大幅に減少をしているわけでございます。この背景には、銃の所持の規制とかあるいは乗り物のスピード規制などが大きく貢献しているとも言われているわけでございます。我が国におきまして、脳死患者の発生状況にかんがみて、今後どのような方法で脳死患者を減少させるための具体的な方策を考えていらっしゃるのか、提出者の見解を伺いたいと思います。 また、最近話題になっております脳低体温療法につきましても、これを積極的に進める立場かどうか、お尋ねをいたします。
○衆議院議員(山口俊一君) お尋ねでございますが、本来中身としては厚生省がお答えをした方がいいんじゃないかというような中身もございますが、議員としての考えもございますので、あえてお答えをさせていただきたいと思います。 お話のとおり、銃所持とか交通事情などの状況につきましては、米国と我が国で大きく異なっておりまして、両者を同列に置いて議論をすることは適切ではないと思っておりますが、交通事故防止等の対策につきましては、お話のとおり、我が国におきましても引き続き精力的にこれを行わなくてはいけないと確信を実はいたしております。 また、我が国における脳死の原因疾患というのは、事故等によるケースよりも実は脳血管障害によるものが大変多うございます。全体の約六割を占めておるわけでありまして、脳死の発生を防ぐためには、これまた一層脳血管障害の予防のための対策をさらに充実をさせていかなければいけないと考えております。 また、最後にお話しの脳低体温療法につきましては、脳死に至る可能性のある患者を一人でも救助するというふうな意味でも救急医療の大変大きな成果である、すばらしいことであると私どもも考えておりまして、今後の普及を大いに期待いたしておるところでございます。
○栗原君子君 時間の関係で、四番目に挙げさせていただいております件にかかわって質問いたします。 脳死・臓器移植医療の前提として、カルテや同意書等の開示、また患者の知る権利、治療選択権の保障等に関して、現状の認識と今後の改善点につきまして具体的に提示していただきたいと思います。特にこの間、患者にはもちろんのこと、家族の了解とかあるいは同意もなく臓器や組織が無断摘出されている事例がたくさん報告が上がっていることは大変重要な問題であると思います。 ここで、関係省庁の見解をお伺いいたします。
○説明員(貝谷伸君) お答え申し上げます。 今、カルテの開示あるいは患者の知る権利というような御指摘がございました。厚生省という立場でお答え申し上げますが、一般にカルテなどを第三者にそのまま公開していくということにつきましては、守秘義務などの問題から難しい点があるというふうに私ども現状としては承知しております。 他方、患者さん御本人に対して開示すべきであるという意見もございますし、その場合でも、一律にそれを義務づけるということは、やはりその病名の告知を御本人に知らせてしまうような結果にもなりかねないという点がございまして、そこはさまざまにちょっと意見が分かれているというのを私ども今認識しております。 それからもう一つ、患者さんの方の知る権利あるいは治療を選択していく権利といいますか、そういったものにつきましては、いろいろ患者さんの立場から認めるべきという意見も大変強いものがあると思いますが、私どもとしては、医療の現場の医師と患者の間の相互の信頼関係というものがどういう形であれば一番うまくいくのか、その一方の患者さんの権利だけがいくことが結果としてそうなるかどうかということにつきましては、そういう観点からこの問題を考えていくべきだろうというふうに考えております。 それで、脳死・臓器移植に関しましてのお尋ねになりますが、情報の開示あるいはインフォームド・コンセントという考え方がやはりこの臓器移植の問題についてはとりわけ重要だというふうに私どもも認識しております。 今、御提案されております法律案におきましても、この情報の開示につきましては、当然ながら、まずそれに関する記録の保存というのが当該お医者さん、脳死の判定を行ったお医者さんなりそれから移植を行うお医者さんにそれぞれ義務づけられておりまして、またその記録につきましても、ドナー側とレシピエント側の情報を一応分離した上で、それぞれに閲覧させるというような規定が新しく設けられているというふうに承知しております。 それから、インフォームド・コンセントという観点につきまして、それぞれ両案におきましても医師の責務といたしまして家族等に対する説明というものが書かれているというふうに私ども承知しておるところでございまして、現状そんなところだと認識をしているわけでございます。
○栗原君子君 続きまして、関西では国立循環器病センターや千里救命センターあるいは三島救命センター等で多臓器そして組織の摘出が行われており、後者は移植もしくは研究目的と称して冷凍保存をされています。いわゆる組織バンクとでも申しましょうか。これらの行為の法的な根拠並びに違法性の阻却につきまして、関係省庁の見解を伺いたいと思います。 また、何年でも冷凍保存し得るものと考えているのかどうか、お伺いをいたします。
○説明員(貝谷伸君) お答え申し上げます。 臓器移植、臓器のほかに一般に血管、皮膚などの組織につきましても、いろんな意味で先生今御指摘のような形で保存され、あるいは一部医療の現場で使われているということは私ども承知しております。 現在、我が国におきましては、脳死の方からの臓器提供・摘出は行われておりませんので、実際に臓器につきましては、角膜及び腎臓ということにつきましては既に法律がございます。組織につきましては、特段の法律的な根拠ということは、具体的な特別の法律ということでは行われておりません。 血管や皮膚などの組織の摘出、移植あるいは保存につきましては、そういう意味での特別な法的根拠はございませんので、実際にこれらの行為を行うに際しては、患者さんの家族に対しまして、組織移植そのものにつきましての十分な説明をした上で、当然ながらそれに対する承諾というものをしっかり得ていただきまして、御遺体から組織を摘出するに当たってさらに礼を失しないように注意しながらこれに当たっていただきたいというふうに考えておるところでございます。
○栗原君子君 何年でも冷凍保存し得るものと考えているんですか。
○説明員(貝谷伸君) 今の点でございますが、臓器、組織、いろいろあるわけでございますが、臓器につきましては、冷凍保存しまして、それを何か医療の方に活用するというのは一般的には余りないというふうに私ども承知しております。ただ、血管なり皮膚につきましては、いろんなケースで使われているということは承知しております。 いずれにいたしましても、今、血管、皮膚につきまして冷凍保存を行っておりますが、まだそれぞれ保存技術そのものが研究段階と言っていいような段階だろうというふうに私ども承知しておりますし、そういう意味では何年までは可能なんだというような今明確なものはないというふうに聞いております。 ただ、実際には、移植用として用いられる場合には、長期間たったものというのは現実的には使われていないというふうに現場からは聞いているところでございます。
○栗原君子君 先般も申しましたように、この法律につきましては、今の問題でございますので慎重に慎重に扱っていただきたいと思います。慎重過ぎるということはないと、このように解釈をいたしております。よろしくお願いします。 終わります。
○委員長(竹山裕君) 本日の質疑はこの程度にとどめ、これにて散会いたします。 午後四時四十八分散会