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134回国会参議院1995/12/06

宗教法人等に関する特別委員会公聴会 第1号

発言数
182
登壇者
14
会派数
5
開催日
1995/12/06

会議録

倉田寛之自由民主党・自由国民会議

○委員長(倉田寛之君) ただいまから宗教法人等に関する特別委員会公聴会を開会いたします。  本日は、宗教法人法の一部を改正する法律案につきまして、お手元の名簿の五名の公述人の方々から御意見を伺います。  まず、午前中は二名の公述人の方々にお願いをいたします。  この際、公述人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多忙中のところ本委員会に御出席をいただき、まことにありがとうございます。  皆様から忌憚のない御意見を拝聴し、今後の本案審査の参考にいたしたいと存じます。  次に、会議の進め方について申し上げます。  まず、お一人十五分程度で順次御意見をお述べいただき、その後、委員の質疑にお答え願いたいと存じます。  それでは、これより順次御意見を承ります。  まず、百地公述人にお願いいたします。百地公述人。

百地章日本大学法学部教授

○公述人(百地章君) 御紹介いただきました日本大学の百地でございます。  今回の宗教法人法改正案に賛成の立場から、主に憲法学上の観点より意見を述べさせていただきます。  昭和二十六年に制定されました宗教法人法は、いわば占領終了後までその影響を残そうとするGHQの意図と宗教法人令にかわるよりよい法制をつくりたいという日本側の考えの妥協の産物でございました。そのため不備や欠陥も多く、例えば宗教団体に関しましては何ら特別の制限がありませんから、教義らしきものと簡単な施設を持ち、規則をつくりさえすれば宗教法人として認証されるわけでございまして、観光や営利を目的としたり、極端な場合には暴力団をカムフラージュするための疑似宗教法人であっても防止する方法がないと言われております。また、法人格取得後は、所轄庁といえども宗教法人の財務や活動について把握するすべ、方法がなく、そのため宗教法人は聖域化されてしまい、オウム真理教に見られるごとく、犯罪の容疑があってさえ警察力もなかなか介入できないというのが現状でございます。  そのため同法は、制定後間もない昭和三十一年に文部大臣より改正のための諮問を受けておりまして、昭和三十二年には宗教法人審議会による答申が出されています。そこには既に所轄庁の見直しや宗教法人からの業務・事業報告はもちろん、所轄庁による調査や宗教法人となることができる宗教団体の基準の設定、あるいは認証後一年を経過した後においても認証を取り消すことができるといった改善策が示されておりまして、今回の報告以上に踏み込んだものとなっています。  したがいまして、今回の改正論議は決して唐突なものではなく、たまたまオウム事件を契機としてその不備や欠陥が改めてクローズアップされたために出てきたものでございまして、過去におきましても既に論議が積み重ねられており、拙速であるとの批判は当たっていないと思います。また、改正案の内容も所轄庁の変更を初めとする四点を骨子とするものでありまして、常識的に考えて何ら問題にならないと思われます。ところが、この改正案に対しましては、国家による宗教活動の管理統制であって信教の自由や政教分離に違反するとの批判も見られます。  そこで、本改正案が果たして憲法の政教分離原則に違反するかどうか、信教の自由の侵害に当たるかどうかこの二点につきまして私の見解を申し上げます。  まず、憲法の政教分離との関係でございますが、実はこの政教分離なる言葉は現行憲法の条文に明記されているわけではなく、憲法二十条、八十九条前段の総称として、あるいはこれらの条文に内在する原理原則として用いられています。そのため、憲法学者の間でも必ずしも見解の一致を見ず、国家と宗教の分離とか国家と教会の分離、あるいは政治と宗教の分離というようにその定義はさまざまでございます。加えて、同じ国家と宗教の分離という定義をしながら、ある憲法学者はイギリスをもって国教国であるから政教分離国ではないとし、別の学者はイギリスもまた政教分離国に数えてよいとするなど、解釈も紛糾しております。  そのため、各種政教分離訴訟におきましても多くの混乱が見られ、ともするとこの言葉は、自分たちにとって好ましくない主張に対し憲法違反の烙印を押し、反論を封じ込めるためのレッテル張りとして用いられることが多いように思われます。そして、今回の宗教法人法改正をめぐる反対論の中にも同じような傾向がうかがえるような気がいたします。  この点、限られた短い時間の中で詳しい説明はできませんが、結論的に申し上げますと、政教分離という場合には実は広義の政教分離と狭義の政教分離の二つの概念が考えられます。  このうち、広義の政教分離とは、政治と宗教の任務、役割を明確に分離し、相互介入及び相互干渉を禁止するものでございます。つまり、政治は宗教に介入せず、宗教もまた政治には介入しないというのが広義の政教分離でございます。そして、この意味での政教分離は、欧米や日本などの西洋型近代国家におきましては確立した基本原則でございまして、さきに見たイギリスなどのいわゆる国教国でもこの意味での政教分離は実現していると考えられます。  他方、狭義の政教分離とは、広義の政教分離を前提とした上で、国家と特定の教会、日本流に言いますならば国家と特定の宗教団体、この結合を禁止するものでございまして、これはイギリスのような国教制やドイツなどに見られる公認教会制と対比される制度でございまして、イギリスはもちろんこの意味での政教分離国ではありません。ちなみに、公認教会制というのは、国教は禁止しつつ、特定の教会を公法人として公認し保護と監督を行う制度でございまして、戦前の我が国も法制度上は国教制ではなくこの公認教会制を採用しておりました。  そこで、政教分離を右のごとく厳密に定義した上で、宗教法人法改正案が政教分離に違反するかどうかを考えてみたいと存じます。  この点、宗教法人の活動は一般に、純粋な宗教活動、つまり教義や信仰に直接かかわる部分と世俗的活動、つまり教義、信仰とは直接関係のない財産の管理、収益事業等に分類することができます。  しかして、宗教法人法は本来この世俗的活動にかかわるものでございまして、このことは第一条に、「この法律は、宗教団体が、礼拝の施設その他の財産を所有し、これを維持運用し、その他その目的達成のための業務及び事業を運営することに資するため、宗教団体に法律上の能力を与えることを目的とする。」とあることからも明らかでございます。  また、同法八十五条には、この法律のいかなる規定も、文部大臣に対し、信仰等の宗教上の事項について干渉する権限を与えるものと解釈してはならないとの規定がございます。したがいまして、今回の改正規定につきましても当然このような縛りがかかってくるわけでございます。  このように宗教法人法はもともと政治と宗教の相互介入を禁止した上で、宗教法人の世俗的活動にかかわる部分についてのみ一定の法的規制を加えようとするものでございます。それゆえ、本改正案もこの基本原則にのっとり、必要最小限度の範囲内において宗教法人に対し業務報告をさせたり、所轄庁に質問権を付与しているだけでございまして、これが広義の政教分離に違反しないことは明らかであります。  また、現行憲法は、第二十条、八十九条で、国家と特定宗教との結合ないし一定限度以上のかかわり合いを禁止していますが、これが狭義の政教分離に当たります。つまり、宗教団体に対する国からの特権付与や財政援助の禁止、国の宗教活動の禁止、それに宗教団体による政治上の権力の行使の禁止がそれでございます。  本改正案は、当然のことながら宗教法人一般に対し必要最小限の規制を加えようというだけでございまして、特定の宗教団体のみを規制したり、あるいは圧迫、干渉を加えようとするものではありませんから、狭義の政教分離にも違反しないことは最高裁判決の法論理に照らして明白でございます。  この点、改正案に対する批判の中には、宗教法人に対する憲法の原則はノーサポート・ノーコントロールであって、改正案はこの原則に反するといった見解も見られます。しかしながら、これは明らかに誤解でございます。なるほど、信教の自由の保障及び政教分離の原則から考えまして、宗教団体一般に対する憲法の態度はまさしくノーサポート・ノーゴントロールでございまして、任意団体である宗教団体そのものの結成は全く自由であり、届け出も認証も全く不要であります。つまり、憲法のレベルでは法令違反等の事実がない限り宗教団体に対するコントロールは一切許されません。  問題は、法人格を取得した後の宗教法人に対する国の態度はいかんということでございまして、両者は次元を異にします。つまり、宗教団体は法人化に伴い他の公益法人等と同様自動的に税法上の優遇措置を受けることになります。  したがいまして、改正案は、そのような優遇措置、つまり特典の享受に伴う社会的責任を宗教法人に対して求めるべく、信仰と直接かかわりのない世俗的事項についてのみ一定の規制を加えようとするにすぎません。それゆえ、宗教法人に対しましてはサポート・アンド・コントロールというのが原則でございまして、ノーサポート・ノーゴントロールというのは当たっておりません。  次に、信教の自由との関係でございますが、改正案の中で特に問題とされているのが、所轄庁への報告義務や所轄庁による質問権であります。これが信教の自由の侵害に当たるというのが反対論者の主張でございますが、これにつきましても、政教分離違反の場合と同様、定義を明確にした上で論議する必要がありましょう。さもないと、信教の自由の侵害といった批判も単なるレッテル張りの不毛な議論に終わるおそれがあるからでございます。  これにつきましては、通説、判例は、信仰に対する強制及び信仰を理由とする不利益的取り扱い、つまり差別をもって信教の自由の侵害ととらえています。例えば、無理やり信仰を証明させたり宗教儀式への参加を強制したりといったことがない限り、信教の自由の侵害は成立しません。  そこで、本改正が果たして信仰に対する強制や不利益的取り扱いを含んでいるかどうかが問題となりましょう。  この点、所轄庁による報告の徴収及び質問の対象は、もともと信仰とは別の世俗的事項、客観的事項に関するものに限定されております。また、質問権が行使できる場合も、改正案では宗教法人法違反の事実がある場合や解散命令に該当する事由がある場合等に限定されていますし、手続的にもあらかじめ宗教法人審議会への諮問が義務づけられております。  さらに、改正案には、所轄庁が報告を求めたり質問する場合には、「信教の自由を妨げることがないように特に留意しなければならない。」といった注意規定もございます。したがいまして、もちろん慎重な運用は必要でございますが、所轄庁による報告の徴収や質問権によって信教の自由が侵害されるとは考えられません。  例えば、財産目録等の提出について言いますならば、これらの書類は既に第二十五条で宗教法人に対し備えつけ義務が課せられております。したがいまして、それを提出させるだけでございますから、それがなぜ信教の自由の侵害や宗教統制になるのかよく理解できません。  宗教法人は他の公益法人と比較しましても認証は容易であり、しかも一たび認証されますと、報告等の義務は一切なく、事実上放任されております。そのため、事業の停止、解散命令あるいは認証の取り消しを定める規定はございましても、それを調査し確認する手段、手続を欠いておりまして、今回のオウム事件に対しましても、犯罪の容疑はありながら手が出せないため、別件逮捕や強制捜査といった手段をとるしかありませんでした。  しかも、宗教法人法は宗教法人性善説をとっておりまして、事実、大多数の宗教法人は法律に従いまじめにやっているわけでございますが、一部の自律・自浄能力を持たない宗教法人に対しましては社会的責任を問うことさえできません。そこで、せめて他の公益法人等に準じまして必要最小限度の規制、監督を行おうとするのが今回の改正案でございますから、この程度の規制を受忍することは宗教法人が公益法人としての社会的責任を全うするためにもやむを得ません。しかし、それでもなお信教の自由が侵害されるというのであれば、法人格を離脱すれば済むことでございます。  したがいまして、今回の宗教法人法の改正は政教分離や信教の自由を侵害するものとは考えられません。問題はむしろ、この程度の改正でもってどれだけ実効性が期待できるのかということの方にあるのではないかと思われます。  以上で私の意見陳述を終わらせていただきます。時間が気になりましてちょっと早口になってしまいましたが、どうも失礼いたしました。(拍手)

倉田寛之自由民主党・自由国民会議

○委員長(倉田寛之君) ありがとうございました。  次に、小林公述人にお願いいたします。小林公述人。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) 慶應義塾大学の小林節でございます。  私は、今回の法案について反対の立場から意見を申し上げさせていただきます。  まず、今回の法律案の一連の動きを見ておりまして、私は、その目的、動機、それからそれが運ばれてきた手続、そしてさらに分析するならば、その内容すべてに憲法上問題ありという結論に至っております。以下、それを分析的に申し上げます。  まず、この議論が出てまいりました当初は、盛んにオウム事件再発防止対策であると言われておりました。それが途中から、いやそうではないんだ、オウムをきっかけとして宗教をめぐる社会情勢の変化がこの際はっきりしたから、それに対して手当てをするんだというような話、そして最後には、今度はだんだん議論が、いかに創価学会を黙らせるかというようなお話に露骨になってきた。私はこの流れ自体を怪しむものでございます。  宗教に関する基本法を取り扱うときに、党派的動機が仮にあっても、あることは人間ですから私はいたし方ないと思うんですが、あってもそれが表に出てしまった場合、これはゲームは仕切り直しすべき性質のものではないかと思います。もうそこから先は一種の泥仕合になってしまうような気がするわけです。冷静な議論ができないということでございます。  それから、その手続でございますが、最初は審議会から始まったわけですが、これも改正を当然の前提とはしていない、問題点を整理するという話で始まったと報告を受けております。それがいつの間にか改正を目的とした動きになり、それが審議会の委員の方たちからそうなってきたならいいのですが、まさにこれも行政改革の話題なんですが、お役所が既に下敷きを書いてしまってあってというような状況で運ばれた。そして、実にぶざまなことであったと思いますが、十五人の委員のうち七名が公然と異議を唱えている中で、大方の意向として賛成であるという報告書が出てきてしまう。これは制度の運用として甚だ雑であると思います。  やはり、議会制民主主義、あるいはもっと広い意味での代議制民主主義のプロセスというのは、正しい内容を正しい手続でというのが筋であろうと思うんです。それが今度は衆議院に至っては実質五日半。審議を報道等を通してできるだけ見させていただきましたけれども、議論がかみ合っていないんですね。それで、参考人の意見聴取も公聴会もなされずに、そして本来、議会運営に責任を持ってイニシアチブをとるべき与党の側から、だって野党が言わなかったからというような、そういう言いわけで事がここに至っている。これは手続的に私は問題があると思います。やはり憲政は憲政らしき適正手続で運んでいただきたいものでございます。  内容でございますが、結局、信教の自由と政教分離が判断基準になるわけでありますが、この点に関する誤解が前提にあるような気がいたします。  まず、信教の自由でありますが、これはその前に自由という概念をきちんとしておきたいんです。  自由というのは、要するに民法や刑法のような文明国に共通の確立された法基準に触れることをしない限りはほうっておいてもらうということなんですね。つまり、多数派から見て仮に悪趣味に見えても、それが法に触れない限りはほうっておく、これが自由に対する民主国家におけるマナーであると思うんです。そういう点でちょっと、後できちんと申し上げますけれども、過剰介入という気が私はいたします。  それで、信教の自由の位置づけでありますけれども、これはもう憲法の教科書常識のたぐいなんですが、いわゆる優越的人権、人権にもいろいろその性質に応じて扱いの差がございまして、ランクがございまして、特に信教の自由とか政治的表現の自由はいろんな人権の中でもランクが高くて、それはどういうことかというと、憲政においてできるだけ壊れ物のように扱おうという原則があるわけでございます。  その観点からいきますと、直接的にその自由を縛ることはなくても、何か法制度の運用によってその自由を行使する人々に対しておじけづかせるような効果を与えることは、これは要注意というのがこれまた憲法の常識のたぐいでございまして、そういう点で疑問を感ずるわけであります。  それで、政教分離についてもいろいろ議論がございますけれども、これは外国の法制度などをばあっと開いてしまうとわけがわからなくなるんですが、こういう整理はいかがでしょうか。  まず、要は政教分離というのは、信教の自由を危うくしないために公権力と宗教の関係をきちんとさせようというルールであったわけですね。ですから、政教分離というものを振り回すことによって信教の自由を害することになってしまってはこれは自家撞着になるわけであります。  それからもう一つは、これは憲法原則でありますから、民法ではございませんし刑法ではございませんから、あくまでも規律対象は国家権力であります。つまり、憲法の原則である政教分離というのは本来的に国家権力に何がしかの主権者の意思として条件をつけて、時の多数決によっても超えてはならない大原則なんですよというものであったはずなんです。そういう意味では政教分離というのは国家の宗教に対する介入を禁止する。そしてそれは、先ほどお話もございましたけれども、およそ判例原則で、政治と宗教のかかわりがあったときに、問題の事例の目的と効果を見て、それが宗教差別になっていないかどうかというのが一つの基本的な目安でございますが、そういう意味でいきますと、もともとそれを特定の宗教に、あなた方おとなしくしなさいという原則ですよというように使うという発想自体を私は怪しむわけであります。  それで、今回の改正案の分析をさせていただきます。所轄庁の問題はむしろ後で触れさせていただきます。  最初に、要するに財務に関する報告、所轄庁に対する報告を義務づけるということでありますが、これも当初出ていた議論ではあくまでも宗教活動の報告を求めていることでございました。それがさまざまな議論の中で後退していったわけでありますけれども、それは好ましいことであります。財務の報告について、それは俗世的な観点の問題であって、聖(ひじり)、聖なる問題ではないという御議論がありますけれども、宗教活動においては、だれでも御存じのとおり、お布施のたぐいでありますが、お金自体が宗教活動である場合も多いわけであります。と同時に、それは別に宗教団体に限らず、あらゆる組織というのは、何か行事をする以上、金がかかるわけでありまして、金の動きを追っていけばその行動は追っていけるわけです。だからこそ、宗教活動と称して金が動いて、それによって犯罪に至ったオウムをそれて追おうということなのでありますから、そういう意味では、お金の問題であるから心の問題に触れないというのは、事柄の性質上、私は無理があると思います。オウム対策は犯罪対策として別に考えればいいことであります。  それから、今度それについて利害関係人等に閲覧をさせるということなんですが、利害関係人というのは信者とか債権者とか債務者とか確かにある程度絞りはかかります。だけれども、これ自体はいわゆる総会屋のたぐいがそういう立場に立つことは極めて容易でございますし、仮に本当に真正の利害関係人が閲覧をしたとしても、そこから矢その情報は第三者に渡ることは自由でございますから、そういう意味では、要するに宗教法人の展をあけて見せるという財務の公開制をここで法的に決めつけたわけであります。  ただ、宗教法人は一面で結社でありますから、結社の自由つまり団体活動の自由ということで、これはちょっと話が戻りますが、信教の自由という憲法概念は当然のことながら、個人としての信教の自由とそれから団体としての宗教活動の自由、当然その二面を含んでいるわけでありまして、それなくして個人の自由は実際に強化されません。これもまた憲法学の常識でございます。そうなると団体の自由ということを考えた場合、結社の自治という権利が出てまいります。  自治というのは、簡単に言いますと人事と業務と財務について他から干渉されないということです、法に触れない限りは。ということでございますから、そういう意味では、その団体の懐をあけて見せるか見せないかは本来的にはそれぞれの団体の自治的事項、別面プライバシーであるわけです。それを国家が一律に法的に強制的にあげて見せるというのは、これは過剰な介入ではないかと私は思うわけであります。  もちろん、その際に信者の金であるからこそあけて見せるというのは、それはその信者と教団が話し合って決めるべき自治事項でございます。  それから、先ほどの議論にもございました、法人格をもらっていると特権があるからそれに対する社会的責任だということですが、法人格ということを考えてみますと、現代社会において法人格のない宗教活動を考えますと、何百万という信者のある団体が、一々役員がかわるたびに銀行取引の名義をかえてみたり、不動産の所有権の問題でごたごたして、最終的には死んだ人の名義でどうのこうのというような大変な、かえってその団体にとっても会員にとっても、それから税務調査の必要性を感じている公権力にとってもわけのわからない状況になりかねない。  それだけに、現代社会において宗教活動に団体の自由がある以上、その団体を団体として普通に生かすために法人格は最低限必要なことであって、私の理解では、法人格というのは特に特権を与えるとかいうことでなくて、あくまでも信教の自由の当然の一部分であるという理解でございます。  それからさらに、免税という言葉もございましたけれども、これも営利法人におけるいわゆるもうけにかかる税金とはわけが違うわけであります。宗教活動は多くの場合、冷静に見てみますと、そこにはいわゆる売り上げ引く経費、すなわちもうけ、配分の対象という伝統的な課税対象が存在しない場合が多いわけでありますから、そういう意味では免税と言うよりも非課税と言う方が正確であろう。したがって、これは特権ではなくて、事柄の性質上、当然に行われている扱いと理解するわけであります。これはアメリカの判例などを詳細に見ていくと、そういうヒントが随所に出てまいります。  それからさらに、調査権と言うより今は質問権と言うんですけれども、質問権の件ですけれども、これは昭和二十六年に現行法が制定されたときの議論を見ていただければわかると思います。認証の権限、そして例外的に不都合が起きたときの認証取り消しとかそれから解散請求とか、そういう権限がありながら、あえて、その前提となる調査権、ファクトファインディングですが、事実を発見する権限がないのはおかしいではないかという議論がありましたけれども、そこまでするとこれはまさに宗教統制につながるからあえて調査権を付与しなかったはずであります、歴史的事実として。その程度に信教の自由というのは微妙なものであるということを改めて御理解いただきたいと思います。  それで、宗教性善・性悪の話でございますが、現行法は八十六条で宗教法人であるがゆえに違法、不法は許さぬと書いてあるわけでありますから、必ずしも言われているような性善説の単純な議論ではございませんで、自然な、宗教法人も間違いを起こし得るという性善・性悪二元説で書かれており、そしてそのゆえに現にオウム真理教がもろもろの法律で追われております。現行法の体系の中で、たまたまそれが文部省の管轄でないだけのことでございまして、警察もございます、国税もございます、地方自治体もございます、そういう日本の行政機関がきちんと機能している限り、現にオウムが多少誤解でためらった、それは行政運用上の反省点でございまして、まともに動いている限りは現行法で宗教法人の犯罪は処理でき、そして内閣にちゃんと総合調整機能があるわけですから、しかるべき情報は文部省に返ってこなければおかしいので、もしそれが滞っているなら行政改革の話でございます。  いずれにしましても、調査権がなくても現行法制度でも解散請求は現にできていますし、そういう手続に何ら不都合はない。先ほど申しましたように、今の法律を改正いたしますと信教の自由に対する過度のおじけづかせ効果が及び、そしてそういうことを国家権力が枠組みとして法でつくるということ自体が政教分離の問題になるのではないかということを申し上げて、終わります。  以上です。ありがとうございました。(拍手)

倉田寛之自由民主党・自由国民会議

○委員長(倉田寛之君) ありがとうございました。  以上で公述人各位の御意見の陳述は終わりました。  それでは、これより公述人に対する質疑に入ります。  質疑のある方は順次御発言願います。

尾辻秀久自由民主党・自由国民会議

○尾辻秀久君 先生方にはきょうはわざわざおいでいただきましてありがとうございます。自民党の尾辻と申します。今から質問させていただきますが、何しろ限られた時間でございますので、失礼がありましたらお許しいただきたいと存じます。  まず、政教分離についてお伺いいたしたいと思います。  百地先生がイギリスの例をお挙げになったのでこれはわかりがいいと思いますのでは、イギリスは政教分離された国とお考えなのかどうなのかお二人の先生にお聞きをいたしたいと存じます。申しわけありませんが、できるだけ簡単にお答えください。

百地章日本大学法学部教授

○公述人(百地章君) イギリスでございますが、これは先ほど申し上げましたとおり、学者によって若干意見が分かれる。常識的に考えれば、国教制を採用しておりますから政教分離国でないという答えが返ってくると思います。しかし、いろんな宗教法なんかをやっている学者の説を見ますと、実質的には政教分離と見ていいとかあるいは憲法学者の中にも、先ほど申し上げましたように政教分離国の一つと数えていい、程度の問題だ、そういう意見もございます。  そうなりますと、先ほど申し上げましたように同じ国家と宗教の分離という定義を持ち出しながら、ある人は国教王国だから政教分離国でない、他の人は、いや政教分離国の一つとして考えていい、こうなりますから、この定義そのものが実は疑問であるというのが私のそもそもの考え方の発端であります。  そこで、私はいろんな政教分離問題、政教関係の本を出しておりますけれども、欧米各国の制度をいろいろ考察したことがございます。イギリスは確かに国教制がありまして、国王はそのイングランド教会の首長でございます。したがって、名目的には司教の任命権等を持っております。しかし、これは名目的になっておりまして、事信仰の問題、祈祷書の問題、教義の問題、そういった問題には一切立ち入らないというのがイギリスの原則でございます。  そうしますと、私が先ほど持ち出しました広義の政教分離、政治と宗教の役割の分離、これについてはまだ後で詳しく申し上げますが、もしそういう立場に立って考えるならば、教会のことには国は介入しないという意味で政教分離であると言えるんじゃないかと思います。また、このように広義と狭義を分けまして、狭義の政教分離国からいったらそうではない、そういうふうな説明が一番明快であってよく見えてくるのではないかというのが私の考え方でございます。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) 結論から申し上げますと、イギリスも政教分離がなされている国と思います。それは先ほどと同じ観点なんですが、要するに、そのゆえに自由がない国かどうかだけだと思います。それから、政教分離というのは各国の歴史的背景の中で語られるべきことだと思います。そういう意味では、イギリスという国がああいう事情でああいう国になって、そして国教があることは事実でございます。  かつてアメリカに行った人々が、その国教のゆえに迫害されて追い出されてしまったというときには自由はなかったと思います。ただ、そういう反省の中で、あの国の国教は国教として、つまり王家の宗教は宗教として、その他の宗教を国民は自由に選択できる。ここであの国には政教分離があると私は思います。  以上でございます。

尾辻秀久自由民主党・自由国民会議

○尾辻秀久君 それでは、もう一つ聞かせてください。  津の地鎮祭判決があります。これの最高裁の判決ですが、これに対する先生方の御見解をお聞かせください。

百地章日本大学法学部教授

○公述人(百地章君) どの程度までお答えしたらいいのかよくわからないんですが、今政教分離の定義との関係で申し上げますと、実は私、少し今回本を書いて、そのときに調べて気がついたんですが、政教分離とはという説明を見ますと、要するに最高裁は、国家権力、世俗的な権力は宗教の問題に介入しない、そういう説明をしております。  そして一方、地鎮祭そのものは違憲であるとした高裁判決でさえも、同じように政教分離とはということを言いまして、それは世俗権力が宗教に介入しないことなんだと言っております。ところが、しかし評価になると大きく分かれている。これが現状でございます。  そこで私は、要するにこの言い方は一方の面しか言っておりませんので、逆に宗教が政治に介入しないというものもあわせて持って、そして政教分離と考える。つまり、政治の役割というのはいわば国民の生命とか財産を守るそういう世俗的な事項にのみかかわる。しかも、政治の世界というのはいわば相対的な世界でございますから妥協を旨とする。もしそこに信仰のような絶対的な価値観を持ち込めば、これは取り返しがつかないことになります。それはかっての欧米における宗教戦争でやりました。  そこで、そういうことを考えますと、近代国家の大原則として国家権力が宗教に介入しないとともに宗教も国家に介入しない、政治の任務と宗教の任務というのを分けます。宗教の任務は魂の救済にとどめるということですね、そのように考えていると私は理解しております。  したがって、最高裁判決の言い方は一方だけしか言っておりませんが、憲法の制定過程に照らしてみますと、さらに憲法の条文に照らしましても、私は、双方の相互介入を禁止する、これが政教分離であると考えております。  とりあえずその辺にしておきます。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) 津地鎮祭の最高裁判決についての評価でありますが、学者としては多少揺れているところがございますが、確認させていただきますと、まず政治と宗教、公権力と宗教活動との接触があった。あれは市役所がお金を出して何か地鎮祭をやってしまった話ですね、建物を建てるときに。そういう事実の目的と効果を総合的に検討して、それが社会通念に照らして特定宗教に対してプラスの効果かマイナスの効果か、要するに宗派差別の目的か効果がなければよろしいというものでした。  これはある意味では、アメリカ最高裁判例を下敷きにしたような非常に標準的な見解だと思うのですが、ただアメリカとちょっと違って気になる点が、アメリカの場合は目的か効果の一カ所でもひっかかったらそれで政教分離違反といって打ちますけれども、日本は目的、効果を総合調査みたいにしますので、これは運用の仕方によってはざるのようになってしまう。ただ、方向性としては極めて穏当なまともなものだと私は思います。  以上でございます。

尾辻秀久自由民主党・自由国民会議

○尾辻秀久君 以上、政教分離について基本的にどんなふうにお考えかということを知りたくて質問させていただきました。  そこで、憲法二十条の解釈なんですけれども、特に「いかなる宗教団体もこ「政治上の権力を行使してはならない。」、この部分についての解釈が、内閣法制局は、国または地方自治体によって独占されている統治的な権力、ですから、具体的に言えば立法権だとか裁判権だとか課税権だとかそんなことになるんでしょうが、こういうものを行使してはならないんだという解釈であります。これはもう先生方、百も御承知のことでございます。  こういうことが実際に起こり得るのかなとついつい思ってしまうんですが、先生方は現実に起こり得るかどうかということでどういうふうにお考えかをお聞かせください。

百地章日本大学法学部教授

○公述人(百地章君) 今の解釈そのものに私は疑問を持っているわけでございますが、統治権を正式に授与されて行使すること、これを禁止したものであるというような解釈ですが、もしそのようなことを考えているとするならば、これは私はあり得ないことだと考えております。  といいますのは、例えば現在の憲法の解釈としまして、二十条は一項で信教の自由を保障した上で、宗教団体は「国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」と書いてあります。まず特権の付与の禁止が出てきております。  そうしますと、例えば課税権を与えるとかあるいは何らかの統治権を与えるということはまさに特権の付与そのものでございまして、あり得ない。特権付与を禁止した上でさらに政治上の権力の行使を禁止しているわけでありますから、私はそこに独自の意味を見出すのが自然ではないかと。したがいまして、特権の付与を禁止している以上、当然そんなことはあり得ないと考えます。したがいまして、現在の憲法のもとではあり得ないし将来もあり得ないと思います。  では、過去においてということですが、これは範囲を限定する必要があると思います。古代、中世までさかのぼればそれは政教一致に近いものもありました。私が問題にするのは近代国家でございます。欧米型の近代国家が建設された明治以降を念頭に置きたいと思います。  そうしますと、確かに戦前の宗教法制度としては国教制ではございませんが、いわゆるドイツと同じ公認教制というものをとっておりました。つまり神社を公法人とすると。ところが、その神社でさえも統治権は一切行使しておりません。課税権も行使しておりません。この点ドイツでは同じく公認教制をとりながら、現在憲法でもって教会税を認めている例がわずかにあります。しかし、政教分離国ではそういうことはありません。したがいまして、我が国は国教制でもなく公認教制でもありませんから、そのような制度のもとで統治権を宗教団体に与えるということは、これはちょっと大げさな言い方をすればまさに夢想だにできないことでありまして、極めて非現実的な解釈。  もちろん、それがあったらいけないと、それはそれでいいんですが、言ってみれば我が国は、遠い昔は別としましてアメリカのような奴隷制度というのはなかった。そうしますと、過去にもなかったし将来もそんなことはあり得ません。ところが、そういう国において、例えば端的に奴隷制度を禁止するというような規定を置いている、ちょっと極端かもしれませんが、そのように非現実的な規定であるということになってしまうと思います。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) 夢想だにできるかできないかそれは夢想できると私は思うんです。つまり、この間、我々は悪夢を見せられたわけですけれども、オウム真理教のあの事件ですが、理論的にあり得ることは実際上もあり得ると思うんですね。そして、憲法というのは歴史上の文書でありますから、かつて人類がやってしまった過失でやってはいけないことを確認的に特に重要なことを書いてある。そういう意味ではかってあったことはあり得るとは思います、あらせてはいけないと思いますけれども。  それで、ここで特権付与または政治上の権力ということですけれども、まず、宗教団体はそれを行使してはならないと言われますけれども、これは憲法条文である以上、国は宗教団体に特権を付与したり政治上の権力を与えてはならないと読めばいいわけであります。これはアメリカに教えてもらった立法でございますから、アメリカ流の立法というのは、大陸法系の立法と違って文章の書き方がちょっと雑というか、我々の感覚からいきますと説明調で、それから例えば船の問題が出ると船関連の単語が全部並んでいるとか、要するに漏れをつくらないために類似の概念を並べるとかこういう立法であるわけです。  したがって、これを普通に読みますと政府見解どおりでありまして、要するに国家は特定の宗教団体に行政権力を預けて行使させてはいけない。例えば、戸籍を管理するとか税金を取るとか、それから国民教育を実際担うとかですね。そういう意味では、我が国にも最近まで先ほどの公認神社神道がありましたから、それはある意味では国民教育の機能を事実担っていたわけでありまして、そういうボーダーライン・ケースはごく最近まであった。もちろんヨーロッパでは苦いっぱいありました。これからもあり得ると私は思います。

尾辻秀久自由民主党・自由国民会議

○尾辻秀久君 私は、小林先生もあり得ないと思っておられるのかなと実は思っております。なぜかといいますと、先生の著書に「憲法守って国滅ぶ」というものがございますが、これを読ませていただきました。十分に読ませていただいたわけではございませんので、十分に理解しているかどうかということでは自信ありませんけれども、ただ少なくとも先生がこの憲法二十条をこういうふうに変えようという言うならば先生の案がございます。これを見ますと、この「いかなる宗教団体もこ「政治上の権力を行使してはならない。」という部分はもう削ってありますね。一切そういう規定はせずに先生の案は憲法二十条ができ上がっております。  そうなりますと、今、先生がおっしゃったように、心配があるならばやっぱりこの条文は要るんじゃないかなと思うんですが、改めてそこのところはどういうことになりましょうか。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) 今、その何年か前に書いたものを直前で読んでこなかったので、正確でなければ後で訂正させていただきますが、私がそれを書いたときのその部分に関する思いというか観点を申し上げますと、それははっきり覚えておりまして、要するにごちゃごちゃした条文を原理原則を明確に書くことによって整理しようとした、つまり言葉の汚さを直すというような感覚だったと思います。恐らくその中に政教分離の原則規定は入っているんではないかと思います。むしろ、最高裁判例のような観点から条文を書き直したのであって、その部分、外れたところだけを先生お取り上げになりましたけれども、そういう意味ではございません。その心配は共有しております。

尾辻秀久自由民主党・自由国民会議

○尾辻秀久君 細かな部分はいいんですが、先生が先ほどから言っておられるのは、政治と宗教あるいは国と宗教との関係において、国から宗教に介入しちゃいけませんよと、ここのところは非常に強くおっしゃるわけでありますが、宗教の方から政治ないしは国、そういうものへの介入というのはもうほとんど自由でいいんだというふうに言っておられるように私は理解しておるんです。したがって、先生のお示しになっておられる先生の憲法改正案もそのようにできておるというふうに理解したんですが、その辺のところをお聞きしてみたいわけであります。  そこで、この委員会でも宗教と民主主義というのはどういうことなんだろうという議論は随分ありました、相入れないのかどうなのかという。その辺のところは、改めて先生はどういうふうに考えておられますか。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) 宗教というのは宗教戦争とかにも見られるように案外思い詰めてしまって、自分の価値観のためには人の意見も聞かず、法にも触れて、武器もとる、そういう側面があるという指摘がございますね。だから、議論をしながら妥協と調整で進めていく多数決民主主義、我々はそれを信じて採用しているわけですが、それと宗教は合わないというような御議論についてですが、私はこう理解しております。  まず、宗教戦争がかつてあった当時、それはまだ人間が全体として未熟であった。それから、現に宗教戦争が勃発しているところもこの地球上にございます。それはある意味では長いこと共産主義的な全体主義体制であったところがぽこっと国がなくなってしまったために、今、中世の宗教戦争を経験しているようなところだと思うんですね。  我々は、ヨーロッパの経験、アメリカの経験を経て今の憲法体制におります。むしろ、そういう宗教が思い詰めて武器を取り合っていたのでは結局何も生まれなかった。お互いに宗教というのは見えないところを信じ合うものですから、これは深追いをするとぶつかりますから、その価値の違いをぎりぎりのところで寛容に我慢し合って、私もあなたの悪趣味の存在を許容する、だからあなたから見て私の悪趣味の存在を許容してという関係が信教の自由の関係だと私は理解しております。  ですから、そういう意味ではまともな宗教人であるならば多数決民主主義の担い手としてむしろ有資格者ではないか、ぎりぎりのところで他者を尊重する一線を知っているはずでありますから、と理解しております。  それから、先ほど宗教から国へ介入をするということ、私が論及しなかった点ですけれども、これは憲法論ですから私は頭を整理していつも考えております。  宗教が国に介入するということはどういうことかというと、宗教が国内で政治的な圧倒的多数に仮になったときに、その立場をずるく利用して国家権力にうちの宗教の布教をさせるとかそういうことがあってはいけないはずです。それは憲法が許さない。つまり、ここでわかっていただきたいのは、もはやそれは宗教の指令を受けている、国家権力が特定宗教の布教をしている、国家権力が特定宗教を公認する、国家権力が特定宗教を逆に邪教扱いする。これはあくまでも憲法論ですから、国家権力から私はたまたま話を始めているだけでございまして、先生の御心配と基本的には同じものを、私は両方向持っております。  以上でございます。

尾辻秀久自由民主党・自由国民会議

○尾辻秀久君 今、私が宗教の方から政治、国家への介入ということでお尋ねをして、私の理解なんですけれども、先生は国が国の権力を使って一宗教とか一宗派の布教をしたりするようなという例をお出しになったんですが、やっぱりそれは国から宗教への介入の方じゃないかなと、こう思うんですね。ですから、宗教から国、政治への介入という部分で先生がどういうふうにお感じになっておられるかというのがいまいちわからないんです。  もう時間も余りありませんが、先生が前にお書きになったものの中にこういう文があるんですね。「宗教法人創価学会が全面的に支援する公明党の存在と両者の関係を指してそれらこそが政教分離原則違反だという主張がなされるが、それはまったくの誤解である。」。この「誤解である。」という意味は、事実の誤解じゃなくて解釈、理解の仕方の誤解だというふうに思いますからお尋ねするんですけれども、そうすると先生はここまでは宗教から政治へ介入してもいいというふうに考えておられるのかどうか、もう一度確認をさせていただきます。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) 今、先生のお尋ねの介入という言葉は私は留保させていただきます。  宗教人ないしは宗教団体の政治活動の自由の問題としてお話しさせていただきますけれども、要するにこの憲法のもとで我々は、信教の自由も政治的表現の自由も、それからその関連の結社の自由も、それから成人に関しては参政権も、皆その信条にかかわりなくすべてひとしく保障されております。したがって、憲法学者としての私はそのすべてがちゃんと成り立つ理屈が正しいと思っているわけであります。そう思いますと、信教の自由というのは何かといえば、その中には教義の自由、教えの自由があると思います。  そうしますと、雑な分類でございますが、あの世信仰とこの世信仰とございまして、この世信仰という宗教があるのもそれはそれで一つのお考えだと思うんです。そうなりますと世直し運動に当然なってくるわけで、それはまさに宗教活動の一環としての一面政治活動に入っていくわけです。現代福祉国家においては国家に影響を与えなければ世直しできませんから、そういう意味ではいろんな宗教団体が政治活動を現にしています。  その延長線上に、したがってそういう意味では、今の話は創価学会が母体となって公明党をつくったということよりも、これは立正佼成会でも同じですけれども、創価学会自身の政治活動ということで、私の今の理解では、それが選挙関係法令に違反しない限り、これはだれであれ許されません、それは許されることである。  これをもし逆に、それを宗教による政治介入として許せないとすると、逆に言えば、たまたまその種の宗教を持った人は、その種の信条、思いを持った、つまりそれは良心の問題ですが、持ったがゆえにおまえはちょっと政治から離れているという、これは逆に差別になってしまうのではないかと私は今考えております。  以上でございます。

尾辻秀久自由民主党・自由国民会議

○尾辻秀久君 そのことでここで余り議論する時間はありませんけれども、じゃ一つだけそのことで尋ねさせてください。  かつて創価学会と公明党の間で政教分離宣言というのがなされましたね。その以前の状態であっても今の先生のお考えというのは変わらないわけでありますか。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) 基本的な枠組みは変わりません。

尾辻秀久自由民主党・自由国民会議

○尾辻秀久君 本来の議論からはちょっと外れますけれども、先生がごく最近お書きになったものの中に、「国会招致に応ずべき池田氏」という一文がございます。この中で、私どもも随分御批判をいただいておりますが、それはそれといたしまして、こういうくだりがあります。「国民一般の素朴な疑問には池田氏こそが答えるべき責任があるのではなかろうか。」、こう書いておられるんですが、この辺について先生のお考え、そしてまた先生がここで言っておられる「国民一般の素朴な疑問」というのは先生はどういうことを考えておられるのか、ちょっとお話しください。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) それは十二月二日の「正論」でございますね。それを書いたときは二つの思いがございまして、一つは、先ほど冒頭に申し上げたように、今回の一連の政府・与党のこの議論の運び方は随分ひどいなという思いと、ただその最後で、今度は急に池田大作創価学会名誉会長の招致だ喚問たで騒ぎになっておりまして、私は、それは法技術的には今あの人を呼び出す理由はあるのか甚だ疑問ではありますが、ただ日本の国会全体を見ていますと、何かこの問題で動かなくなっていることが、もっと本当にすべきことがあるんではないかということで、むしろ法的な理不尽は別として、御本人の立場として、宗教家でいらっしゃいますから、いいよおれ行くよという選択肢も一つはあっていいんではないかという程度の問題提起をさせていただいた。  ただ、その後状況が変化しまして、創価学会の秋谷会長がお出になってかなり率直にお話をしておられた。それをテレビで見て、新聞で確認して、私自身いろいろ疑問に思っていたことはありますけれども、聞く耳を持っている人であるならば、あれでかなり不安、僕は疑問じゃなくて不安とか何か書いたと思いますが、不安は解消したので、私自身は随分あれでほっとしたんです。  それで、私自身が何を疑問と思っていたか。それは一つは、私は先ほども申し上げたんですけれども、大きく言うと、創価学会はそんなに逃げ回ることはないじゃないかというような思いが私はあったわけです。言えばいいじゃないかという思いがあったわけです。それをなぜ言わないのかという疑問です。基本的には大きく言うとそれなんです。その疑問に秋谷会長がきちんとお答えになったので、とりあえずは私は基本的なところは納得しております。  お答えになったかどうか心配ですけれども、もしあれだったら追及してください。

尾辻秀久自由民主党・自由国民会議

○尾辻秀久君 私もおいでいただきたいなと思っていた一人であります。私も、もしおいでいただければ、まさに先生のおっしゃる素朴な疑問をお聞きしてみたいと思っていたんですが、私の素朴な疑問の一番の点は、さっきからも申し上げている政教分離の問題だったんです。そういうことが先生のおっしゃる素朴な疑問の中に入っているのかなと、こう思ってお聞きをしてみたんですが、この辺のところはいかがでありましょうか。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) 政教分離は、先ほど来申し上げておりますように、宗教人にも宗教人の団体にも政治活動の自由はルール違反をしない限りありという認識に私は立っておりますから、そんなに問題ではないんです。ただ、それをきちんと説明すればいいのにという程度の疑問でございます、そこについては。

尾辻秀久自由民主党・自由国民会議

○尾辻秀久君 専ら小林先生にお尋ねをしております間に時間がどんどんなくなったので申しわけないんですが、百地先生に改めて同じく憲法二十条の解釈のことでお尋ねをいたします。部分は先ほど来申し上げている部分についてでございます。  きょうも先生いろいろお話しになっておられるんですが、先生のお書きになったものの中に、これもまた随分長い御説明をしておられるんですが、私が理解するのは、せんじ詰めれば宗教団体による政治支配を禁止しているんだ、こういうふうに先生は言っておられるんじゃないかなと思うんですが、余り時間がありませんので、その辺のところ。  そして、続けて、特定の宗教団体が議会で多数派を占めたりキャスチングボートを握ったりすることが要するにいけないんだ、こういうふうに言っておられると私は先生のお書きになったものの中から理解するんですが、いかがでしょうか。

百地章日本大学法学部教授

○公述人(百地章君) 確かに、その文章は今おっしゃられたとおりのものでございまして、宗教による政治支配を禁止するということが憲法二十条から出てくるというふうに書いております。  ちょっと説明させていただきますと、これについて私の考え方はこういうことです。つまり政府見解、これは制憲議会で金森国務大臣が答弁いたしました。それが先ほどの、国から正式に統治権を授与されてこれを行使する、これを禁止するものであるというものでした。一方、学説の通説もそういう立場をとっております。  他方、それに対して少数説が二種類ありますが、特に一つ、そのうち一つはあいまいな議論だと思いますので、もう一つを取り上げますと、一橋大学の名誉教授でおられた田上穣治先生の説でございます。その先生の説によりますと、要するに宗教団体が積極的な政治活動をしたりしてそして政治に強い影響を与えるということは禁止するんだという言い方をされたり、あるいは別のところでは、宗教団体が政治活動をすること自体を禁止しているんだという言い方をしておりまして、ややそこがはっきりしないところがあるんですが、まず積極的な政治活動を行い、そして政治に強い影響力を与えるということになりますと、これは積極的とか強いという形容詞で非常にわかりにくい、範囲とか程度というのは非常に難しい議論になりますのでちょっと疑問です。  そうすると端的に、政治活動をしちゃいけないんだ、少なくともそこまで言っているわけです。そうすると、これは私としても支持できません。小林先生もおっしゃったとおり、私も、宗教団体といえども社会的存在でありますし、また個々の構成員は主権者であり、そしてまた表現の自由も保障されている、当然一定の政治活動は許されると思います。  ただ問題は、政府見解は、したがって宗教団体が政治活動をすることまで禁止したものではない、一方、統治権を行使することは禁止したんだと言っているだけでありまして、実はそのグレーゾーンというのがあるわけです。つまり、統治権の行使に至らない段階ででも、例えば事実上議会を宗教団体が支配している状態があったとします。しかし、立法権の付与というのは、正式に授与とかいうことになりますと、議会で多数を占めたということじゃなくて、例えば政府、内閣が政令委任権をゆだねられるとか何か全権委任授権法という形で権限を与えられるようなことを意味するんじゃないかと思うんです。  そうしますと、そこまでいかなければいいということであれば、では議会を事実上支配する、これはあくまでも現実にあるかどうかは別として、宗教団体が直接議会で多数派を占めたとしますね。多数派を占めて、あるいは仮に宗教団体とほぼ事実上一体となっているような、そういう政党が存在したとします。そして、その政党によって議会が支配される、あるいは少なくともキャスチングボートを握られて、その宗教団体の意向を無視しては議会が正当な意思も表明できないような事態がもし起こったとします。それでもなおかつ、その政府見解によれば、これは統治権を正式に与えられたのではないということになるのではないかと思います。  また、別の場合でも、例えばその宗教団体が統治権のうちの何か一部を事実上占めたとします、事実上の影響力を行使しているとしますね。しかし、事実上の影響力の行使であればいかなることも許されるんだということになるとすれば、私はこれは疑問です。  したがいまして、いわば最小限の政治活動はできるということ、それから絶対許されないのは統治権の行使だということ、それは理解できるんですが、そのグレーゾーンについて政府見解は何も言っていないんじゃないか私に言わせると。したがって、そこについて一定の限界を示すべきではなかろうかというのが現在の考え方であります。  この場合、確かに、宗教が事実上の政治力を行使するとか事実上政治を支配するとかいっても、これは非常に難しいと思います。だから、これは私も考えがまだ煮詰まっておりません。しかし、端的に言えば、例えばその宗教団体の構成員の個々人が自発的に選挙運動をする、これは当然許されます。それから、宗教団体が組織的に選挙活動をする、特定の候補者を支援するということもあり得まずし、私は、これは一定の限界があると思いますが、ある程度の選挙活動、支援活動は許されると思います。しかし、おのずから限界が出てくるんじゃないか。  それから、宗教団体が直接に政党を結成して、そしてもしそこに一体性があるとすれば、これは非常に疑問であります。それからさらに、宗教団体が議会で多数派を占めるということになれば、これは先ほど私が言いました広義の政教分離、宗教による政治支配に当たりますから政教分離違反の疑いが出てくると思いますし、また宗教上の権力の行使の具体的なあらわれとしても問題になるんじゃないか。  それで、程度については今考えているところですが、メルクマールを申し上げますと、要するに政治参加は許されるけれども政治支配は許されない。あるいは政党の支持は許されるけれども政党を支配するようなことは許されない。参加か支配が、支持か支配がという一つのメルクマールではございますけれども、内容的には特定のものが出てくるわけですけれども、例えばそういうふうな形で考えてみるのが一つの方法ではないかなというふうに思っております。

尾辻秀久自由民主党・自由国民会議

○尾辻秀久君 宗教法人法についても少しお尋ねしてみたいことがあったんですけれども、もう時間がありません。ただ一問だけ最後に聞かせてください。  私は、宗教法人法というのは、宗教団体の持つ聖の部分と俗の部分があって、その俗の部分だけの規定だと、こういうふうに理解しているんですが、先生方はどういうふうにお考えでしょうか。

百地章日本大学法学部教授

○公述人(百地章君) おっしゃるとおりでございます。そして、わざわざ信仰には介入してはいけないとたびたび注意規定が出ております。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) その姿勢でありながら、先ほど申し上げたような事情で思わず踏み込んでしまう機能を持っていると思います、聖に。  以上でございます。

尾辻秀久自由民主党・自由国民会議

○尾辻秀久君 以上で終わります。

山下栄一平成会

○山下栄一君 本日は、百地先生、小林先生、大変御多忙のところを朝早くから御準備いただきまして、本当にありがとうございます。  百地先生は電車がおくれて、必死になって一生懸命汗をかきながら来ていただいたわけでございますけれども、本当にありがとうございます。  委員長から御指名ございましたように、平成会の山下と申します。どうぞよろしくお願い申し上げます。  先ほどそれぞれの先生から意見陳述をいただいたわけでございますけれども、私の方からもそれにかかわる御質問を何点かさせていただきたい、このように思うわけでございます。  まず、宗教法人法改正の前段階の信教の自由、また政教分離、それぞれの公述人から御説明があったわけでございますけれども、まず憲法的な観点から質問させていただきたい、このように思います。と申しますのも、今回の宗教法人法の改正は、改正そのものが信教の自由、また政教分離の原則を侵害するものではないかという、そういう強い私は心配がございます。  まず最初に、信教の自由でございますけれども、このことにつきましては小林先生の方から先ほど若干の御説明があったわけでございますけれども、百地先生の方に幾つかお聞きしたいと思うんです。基本的人権の体系の中において信教の自由の占める位置ですが、私は、やはりこの信教の自由というのはほかの身体、物的な自由と違った別の大事な観点があるのではないかこのように思いますもので、基本的人権体系の中における信教の自由の位置づけにつきまして百地先生の御意見をお伺いしたい、このように思います。

百地章日本大学法学部教授

○公述人(百地章君) 私も、信教の自由を守る、大切にしたいという気持ちにおきましては人後に落ちないつもりでございます。  それから、人権の体系の中における信教の自由の占める位置という問題でございますが、これは歴史的に考えましても、これも教科書に出てくるとおりでございますが、例えばアメリカでも基本的人権を確立する際にその中核となったのは信教の自由であった、また、アメリカ大陸に渡った人たちが大陸に渡ったのも信教の自由を求めてであったというのが定説になっております。  実際はそこには若干神話化されたところがありまして、実際アメリカに渡った人々、百数十名の人たちがメーフラワー号に乗って行っているわけですが、しかしそのうちの六十何名は国教徒でありまして、実は新大陸で一旗上げようと考えていたんだと。そしてまた、バージニア州はたしか国教会が国教となっておりますから、本当に宗教的に迫害された人たちだけがメーフラワー号に乗って大陸に渡ったというのは、後に二百年たってでしたかウェブスターという人がつくり上げた神話であるというような説もありまして、まあいろいろ興味深いことがあります。  また、イギリスで信仰を迫害された人たちが大陸に渡ったんだ、そして信教の自由を確立したんだというふうに言われますが、しかしこれも歴史的に見ますと必ずしもそうじゃない。実は独立当時十三州ありましたが、そのうちの十二州におきましては、あの当時、国教制か公認教会制をとっていたわけですね。したがって、信教の自由を求めて大陸に渡った人たちが、実は一たび自分たちが植民地をつくりますと、自分たちの宗教を国教としたりあるいは公認教とする、そして少数者を迫害してしまったというのがアメリカの歴史であります。したがいまして、いわゆる神話化されたとおりではないと思っております。  また、バージニア州でも信教の自由というものが中核となってあのバージニアの権利宣言ができたと言われますが、これも実はいろいろ説がありまして、当初その素案には信教の自由というのはうたわれていなかったということも言われておりまして、いろいろと神話化されたことはあります。  しかし、長い歴史の上から見ますと、確かに信教の自由を求めて大陸に渡った人たちがたくさんおりますし、またアメリカにおいて人権というものを確立する上で信教の自由が非常に重要な位置を占めた、これは私は流れとしては間違いないと思っております。そしてまた、そういう歴史とは別に、現実のこの私どもが住んでいる世界を考えましても、私たちが生きていく上で一番大事なのはやはり心の問題だと思うんですね。もちろん肉体的な問題もありますけれども、心の問題が大事ですから、したがって思想の自由あるいは信教の自由、これはもう絶対奪われてはならない大切な権利であるというふうに私はもちろん考えております。

山下栄一平成会

○山下栄一君 今も最後の方で私の質問に少し触れていただいたわけでございますけれども、内心の自由、思想・良心の自由、それは日本の憲法の十九条ですね。そして二十条に信教の自由があるわけでございますけれども、心の中の問題といいますか、それぞれ一人一人の人間の生き方、どう生きていくかという信念にかかわってくる問題だと思うんですけれども、それは人それぞれが独自の生き方を持って生きるべきであると思うわけでございまして、だれからもこれは強制されてはならないというふうに思うわけでございます。また、そこに人間の尊厳の根拠といいますかがあるのではないかと、このように思うわけでございます。だれ人たりとも精神の中身の問題についてはだれからも支配され強制され屈服すべきではない、そこに思想・良心の自由、信教の自由の重みがあるのではないかこういうように私は思うわけでございます。  先ほど小林先生は、この信教の自由というのは優先的人権である、ただ、外にあらわれた物的・身体的自由と比べると非常に壊れやすいという、こういうお話をされたわけでございますけれども、この辺のところをもう少し解説願いたいと思います。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) 簡単なことでございますが、例えば物が奪われれば、これはすぐ目に見えます。それから肉体の自由は、傷つけられれば痛いし血が出ます。ところが心の自由というのは、まさに洗脳がそうでございますが、じわじわと気づかずに管理されていって、気づいてみたら気づく自分が気づかなくなってしまうわけですね。そういう意味で心の自由は弱い、脆弱だと言われて、だからとりわけ公権力は過剰な規制をしないようにという憲法上のルールが確立されている。  それからもう一つは、先ほど百地先生も触れられた点なんですが、歴史的な事実はいろいろ原則も例外もございますが、要するに、信教の自由というのは他の自由と違いまして客観的証明の不能な世界で、私は信ずる、そしてそれがその人の根本的な幸福、不幸に直結する部分でございますから、たまたま国家、公権力の宗教的立場と自分の宗教的立場が違っても、ほかのことだったら遠慮するんですが、ここは遠慮しないでぶつかって、すぐ迫害に遭ってしまうという歴史があったわけであります。そしてまた、それは迫害された場合、一番痛いんですね、心ですから。  そういう意味で、そういうことも、さっきの見えにくいという点を含めて、つい抵抗に走ってしまう領域で、かつ否定されたら一番人格的被害が大きいから大事に扱おう、それは何か正当な目的で規制をかけることがあっても、法としてはできるだけ必要最小限の規制でなければならない。つまり、大きく網をかけるような規制をしてはいかぬという憲法原則になっているわけでございます。  以上でございます。

山下栄一平成会

○山下栄一君 信教の自由と政教分離の関係でございますけれども、この信教の自由というのは基本的人権の根幹を占めるものである。これは、その時代時代の政府とかまた国家とか、そういうものを超越した人間の根源的な権利が信教の自由である。その基本的人権の根幹である信教の自由を補強し強化するために政教分離という原則、憲法原則があるんだと、こういう私は理解をしておるわけでございますけれども、この信教の自由と政教分離の原則との関係につきまして、それぞれの公述人から御意見をお願いしたいと思います。

百地章日本大学法学部教授

○公述人(百地章君) 政教分離と信教の自由の保障の関係でございますが、私は、端的に信教の自由を保障することが目的であり、そのための手段が政教分離であると考えております。  つまり、信教の自由は人権であります。他方、政教分離というのはいわゆる制度的保障というふうに言われております。制度的保障というのは、基本的人権とは違って、後国家的な、国家によってつくられた制度でございます、歴史的に。例えてみますと、ちょうど学問の自由と大学の自治の関係に当たると思います。学問の自由というのは個々の学者あるいはすべての国民に与えられている。しかし、歴史的に学問活動の中心になったのが大学であったということから、大学に対しては国が介入したり干渉したりしないという形で、大学における学問の自由をより確保するために大学の自治というのはつくられた、制度的につくられてきた、このような関係にあると思います。  したがいまして、信教の自由を保障するための手段が政教分離でありますから、政教分離そのものをあたかも目的とするような考え方は、私はこれは本末転倒であるというのが第一であります。学説の中には確かに政教分離というのは人権であるという説もありますが、これは少数説でありまして、私はとりません。あくまでも手段と目的の関係にある。  そうしますと、例えば信教の自由を保障するためには、場合によっては国が宗教的なサービスをしなきゃいけない場合もあり得るんじゃないか。一つの例が刑務所ですね。刑務所には受刑者のためにいろんな仏壇とかキリスト教の神殿とかあるいは神道の祭殿がありますが、これは明らかに国が宗教施設を国の施設の中に設けているわけですが、受刑者のための信仰の問題を配慮してそういうことを行っているわけであります。  あるいは教誨師を呼ぶのもそうであります。つまり、受刑者というのは身体の自由は拘束されておりますが、精神的自由まで奪ってはいけない、つまり心の自由まで奪ってはいけない。そうすると、そのような場合に、受刑者が例えば回心してあるいは改心して、そして何か信仰によって導かれたいというふうなことになった場合に、自由に行動できません、外出できません。そこで、例えばキリスト教の話を聞きたいということになればキリスト教の教誨師を呼ぶというような形になりまして、信教の自由を保障するためには政教分離も緩和されざるを得ない場合もあるというのが私の説であります。  ただ、学説の中には、その辺を余り議論しておりませんで、あたかも政教分離そのものが目的であるというような議論がありますが、私はそれをとりません。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) 御高説の後に繰り返しになりますが、信教の自由の保障が目的で、政教分離の原則がいわば手段の関係にあると考えます。要するに、信教の自由というのは、それぞれの宗教上の主義、信条の違いが不法行為や違法行為にならない限りほうっておいてもらえる、そういう環境を維持するために国家権力は介入しないというのが政教分離でございますが、介入しないといってももちろん違法、不法は許す必要はないわけであります。要するにポイントは、宗派というのは意見の違い、すなわち価値観の違いでありますから、その価値観に変な序列をつけない、つまり、国教の禁止であれ特定宗教弾圧であれ、宗教界の自由競争に変に手を突っ込まないという原理であります。  その点でいきますと、気になっていたんですが、今回の改正案で法の適用について規模で宗教の扱いを変えるというんですけれども、宗教というのは本来的に規模で判断できる話題ではないはずなんですね。価値の問題ですから、価値の問題は大きさの問題でははかれないはずで、それを大きさで仕分けするというのも、これはある意味では差別の構造で、政教分離の問題になるんではないかという注意を申し上げております。

山下栄一平成会

○山下栄一君 先ほど百地先生は、宗教団体の政治活動、これは限度があるんだという中で、政治参加はいいけれども政治支配はだめだという、そういう基準を設けられたわけですけれども、もう一歩何か不明確であるなというふうに感じるわけでございますけれども、政治支配はだめだという意味ですね、それを少しお願いしたいと思います。

百地章日本大学法学部教授

○公述人(百地章君) 実は、その辺の研究は我が国でもほとんどされておりません。私も、広義の政教分離それから狭義の政教分離という考え方は平成三年に出しました著書の中で既に言っておりまして、そういうことは前から言ってきておったんですが、具体的な条文の解釈として二十条をどう解釈するか、つまり政治上の権力の行使の禁止をどう解釈するかということについては、実は私もそれほど突っ込んで考えたことがありませんでした。  しかし、改めて政治と宗教ということが問われている中で私なりに考えてみたわけでございます。したがって、まだ熟したものではありません。しかし、私の広義の政教分離と狭義の政教分離というその概念を用いますと、当然憲法二十条も八十九条もその前提には広義の政教分離があると考えられる。これは近代国家の大原則でありまして、例えば書いていなくてもそういうことは近代国家あるいは憲法の大原則だという例は、例えば個人の尊厳というような場合がそれですね。基本的人権の前提として個人の尊厳というのがあるんだと。これを出発点として人権というものを考えていきますが、憲法には個人の尊重はありますけれども、個人の尊厳という言葉はありません。しかし、憲法の基本原則として個人の尊厳ということを考え、そこからスタートしているのが基本的人権に対する理論です。  したがいまして、政教分離の問題も、従来の議論というのは私に言わせますとどうもあいまいなところで終わっている、何というか突き詰めた議論はしていなかったんじゃないかと思います。そこで、私なりの概念を用いまして、そして分析しているわけでございます。

山下栄一平成会

○山下栄一君 宗教団体が支持する政党が議会で多数を占めた、それはよくないんだと、こういうお考えでしょうか。

百地章日本大学法学部教授

○公述人(百地章君) 今お答えするのをうっかりしてしまいまして、忘れてしまいました。私自身も、参加はいいけれども支配はいけない、あるいは政党の支持はいいけれども政党を支配するのはいけない、一つのメルクマールとしてこのあたりをヒントに考えたらどうかなと思っているものでございますので、もちろんその言葉自体いろいろと厳密にさらに検討しなきゃいけないと思いますが、とりあえずそう考えているということです。  宗教団体が支持する政党が議会で多数派を占めたりしたらいけないかというのは、済みません、ちょっと上がってしまいまして、そういう趣旨でございましたでしょうか。どういうことでございましたか、ちょっと上がってしまいまして。

山下栄一平成会

○山下栄一君 議会で多数派を占める。

百地章日本大学法学部教授

○公述人(百地章君) 議会で多数派を占めるということは許されないかという、そういう御質問ですね。  そこで、微妙なところなんですが、宗教団体が支持するということですが、先ほど申し上げましたように、いろんな宗教団体が個々の政治家を支援したりして、そして利益代表で送っている、この分には当然問題ないと思います。しかし、その宗教団体が支持するその支持の内容が実は問題になってくると思うんですが、もしそこに宗教団体の意向を無視しては動けないような、そういう関係があって、そしてそのような政党が議会で多数派を占めるということになりますと、これはその宗教団体の意向を抜きに議会としての正当な意思も表明できないことになりますから、したがってそれは問題ではないか。つまり、その支持とその辺の関係がちょっと微妙でございまして、どういうことを具体的に考えていらっしゃるのかよくわからないものですから。  以上です。

山下栄一平成会

○山下栄一君 済みません、時間がたってしまいました。  宗教法人法の問題につきまして御質問したいと思うわけでございます。  オウムとの関係、オウム事件を契機にしてこの宗教法人法の改正というのに取り組まれたと、そういうふうに政府はおっしゃるわけでございますけれども、この法改正の目的がもう一歩明確になっていない、このように思うわけでございます。  先ほども百地公述人の方からは、今回の改正によって宗教法人の実態把握が非常に進むことになるというお話があったわけでございますけれども、今回の改正がオウムの再発防止につながるのかという、このことにつきましてそれぞれの公述人からお伺いしたいと思います。

百地章日本大学法学部教授

○公述人(百地章君) その点でございますが、これによってオウム事件のような、あのような忌まわしい事件が再発することを防ぐことができるかといったら、これは甚だ心もとないところでございまして、どこまで回避できるかはこれは疑問でございます。しかし、少なくとも今回のようなことはなかったであろうと。つまり、例えば異臭騒ぎがあったりしていても行政はなかなか介入できない。解散命令とかそういう命令、実体規定はありますけれども手続規定がありませんから、したがって実態を把握することができない。法的な不備。  それからもう一つは、戦後の風潮としまして、戦前、いろいろ宗教に対する国家からの迫害があったということで、いわばその反動として、要するに宗教というものには国は一切介入しちゃいけないかのような、そういう聖域化するような社会風潮といいますか国民的な風潮があります。そういう中で、従来も何かしようとするとマスコミも非常にこれを批判する。そういう風潮の中で行政が怠慢であったということもありますが、法的にやはり不備があったことは間違いない。そのために少なくとも、事件が起きて、そして犯罪が発生するまで動けなかったというのは間違いないと思います。  したがいまして、そういうことが少しでもないように、例えば信者がその教団の意向、教団のやっていること、例えばお金の動きとかそういったことをチェックする。そうすれば、いろんな化学薬品を購入しているとかそういうことが少しでもわかれば、これは教団のやり方に対していろいろと疑問を持つ、そういう信徒も出てきたでありましょう。したがって、未然に回避するための一助とはなり得るであろうというふうに思います。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) 結論からいいますと、改正は効果なしと考えます。  まず、異臭騒ぎのときもそうですが、それから松本のサリン事件のときもそうですが、まことに繰り言でございますが、警察とか、それから現に後ではたばた地方自治体が建築基準法違反だとか児童福祉法違反だとか、それからお金の問題は税務署がいるわけですから、それぞれの役所が、しかも現行法の八十六条は宗教法人なるがゆえの違法、不法は許さぬと書いてあるわけですから、普通に動き出せば済んだことであります。現に改正前に動いて今処理されているわけであります。  そして、念のためにいろいろ今後は聞いておけばと言いますけれども、確信犯、御存じのとおり犯罪を正しいと信じてやっている者たちは報告書でうそをつくことなど何とも思っていないと思います。ですから、ああいうものをもし予防するための改正だとするならば、それはやはり効果がないと政府の方でもそれらしきことを言っているわけで、これはそういう認識のもとでもっと本気で対策を考えたらよろしいと思います。  一つは、むしろその点では、さっき百地先生も御指摘のとおり、何か宗教はタブーというその風潮に問題があったわけです。それは法改正によって今度その風潮が取られたわけではなくて、オウムの気違いざたで我々はその風潮を取り払うことができた、これは不幸なオウム効果でありまして、決して改正の効果ではないと私は言えると思います。  とりあえず以上でございます。

山下栄一平成会

○山下栄一君 所轄庁の問題でございますけれども、現行法の五条では宗教法人の所轄庁は原則として都道府県知事であると、こういうふうに規定されているわけでございますけれども、この制定趣旨ですね、なぜ原則として都道府県なのか、このことについて小林先生、お願いいたします。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) これは立法過程の資料とか実務家のお話を伺うと、私は当時赤ん坊でしたから知りませんでしたけれども、調べますと一応出てくることとして、要するに法の趣旨があくまでも宗教法人を社会に生み出す、これはしょっちゅう批判されますけれども、出生届の受理に原則として尽きる。となれば、宗教というのは最初は一人の方から始まるわけで、その周りにだんだん賛同者が集まって宗教らしき形になったときに、先例に従って宗教らしいものを特段の違法が見られない限り宗教と認定し登録する、そして世の中に動き出させていくということですから、当然それは霞が関の文部省ではなくて地元の県知事がふさわしいということであったと理解しております。

山下栄一平成会

○山下栄一君 あともう時間がございませんので、何点か小林先生にお聞きしたいと思うわけでございます。  私は、今回の衆議院、参議院の審議を通じましてこの改正案の不備が非常にはっきりしてきたと、このように思っているわけでございます。まず、書類提出義務でございますけれども、国政調査権と公務員の守秘義務との関係でございますが、国会において宗教団体から所轄庁に提出された書類等の問題につきましてさまざまなことが取り上げられた場合に、もうこれは基準がない場合は非常に大きな信教の自由にかかわる問題が出てくるのではないか、このように思うわけでございます。  国政調査権と守秘義務との関係につきまして小林先生のお考えをお聞きしたいと思います。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) 国政調査権というのは、日本国の国権の最高機関の各院がその本務を全うするために必要な調査機能で、これは尊重されねばならない。けれども、これは講学上も先例上も、重大な公益に害がある場合とか関係者の人権を害する場合には当然国政調査権でも御遠慮願うという関係であったと思います。これはある程度のガイドラインがありますけれども、この先いろいろ微妙なトラブルがここから起きると私は思います。

山下栄一平成会

○山下栄一君 附則二十三項の小規模法人の基準といいますか、これも不明確であろうと、このように思うわけでございますけれども、この点につきましてお願いしたいと思います。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) これは、先ほどもちょっと論及いたしましたけれども、運用次第によっては大変な負担になるかならないかですから、これは差別であったり時にはおどしの材料にもなりかねないものであります。  そうなりますと、当然これは信仰活動の存立にかかわる部分ですから、適用されるかされないか、これは本来立法事項だと思います。これを法律でブランクにしてあるということは、政令か省令でと。ということは、内閣か担当庁の裁量でということで、これは私は立法としてかなり乱暴である。とりわけ、先ほど来申し上げておりますように、優越的人権の領域でありますから、こういう雑な立法はよろしくないと私は思います。

山下栄一平成会

○山下栄一君 報告徴収・質問権でございますけれども、この七十九条から八十一条の権限行使、権限につきましては規定されておる。それを裏打ちする、調査する権限が所轄庁にないという、そういうことでございましたけれども、これにつきましては先ほども小林公述人が触れられたわけでございますが、もともと不備であったのか、なぜ現行法には権限を与えながら質問等の調査権を与えなかったのかということにつきましてお願いしたいと思います。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) これは二十六年の立法時の議事録などを見ていきますと浮かび上がってくるんですが、議論した上であえて調査権を与えていない。つまり、ここで調査権まで与えると宗教自由法ではなくて宗教管理法になってしまう。だから、一見中途半端で、いざというときの解散請求などは最後の手段として用意しておくが、あえてそれに当然必要そうに見える調査権まで置かない。すなわち、文化庁、文部省を宗教管理庁にしないというその立法趣旨であったわけであります。それが今回は類似の権限が入るわけですから、私は賛否は別として、本来、法の本質が変わるわけですから、堂々の御議論をしてほしかったと思います。

山下栄一平成会

○山下栄一君 閲覧請求権でございますけれども、この請求権者であり、また信者、利害関係人の定義が不明確といいますか、それがないという、この国会論議を通じまして明確になったわけでございますけれども、この点の問題につきましてよろしく、小林先生の方から。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) 私は二段構えでそれは問題だと思っておりまして、まず定義がないことは問題でございますが、仮に定義をしても、利害関係人すなわち信者が典型でございますが、信者というのは信教の自由がある限り出たり入ったり自由にできるわけですね。人というのは気持ちが高ぶったり下がったりいろいろあるわけでございますから、そういう意味では、正当にその瞬間信者であった人が資料を引き出して、それが別の政治的目的とかあるいは経済的目的、恐喝とかそういう目的の人たちに流れていってしまう。  ですから、先ほども申し上げましたが、この利害関係人という定義がないことも問題ですけれども、仮に定義があろうとも、そういう形でもとより情報垂れ流しの仕組みにしてしまうということは、それは本来、結社の自由、各宗教法人の自治にゆだねるべきことであって、公権力が法で強制することではないという問題にぶつかると思います。

山下栄一平成会

○山下栄一君 幾つか問題提起させていただいたわけでございますけれども、まとめまして、提出義務の中で国政調査権の問題、小規模法人の基準の問題、また報告徴収・質問権の問題、それから閲覧請求の問題、それぞれ非常にはっきりしない部分が大変多い。法律事項にもかかわらずそれが明確に規定されておらないという、そういうことでこれは非常に行政の裁量の余地が大きい法律である、このように考えるわけでございます。  もともと現行の宗教法人法は政省令が全くない、そういう非常に厳格な、法律の中で規定していくという、信仰の自由の観点からそういう法内容になっているわけでございますけれども、今回申し上げました観点から非常に行政権の裁量の大きい内容になってしまっておる、このように考えるわけでございますけれども、このことにつきまして法改正に賛成しておられます百地公述人からお考えをお聞きしたいと思います。

百地章日本大学法学部教授

○公述人(百地章君) 私もこの宗教法人法が制定されたいきさつとかについては余り詳しく勉強したわけじゃありませんが、若干読んだりしております。  まず、その背景は、先ほど意見陳述のときに最初に申し上げましたとおり、二十六年ですか、まだ占領下でございます。したがって、GHQはやはり自分たちの意向というものを残しておきたかった、宗教法人令の延長で考えていたところがあります。宗教法人令というのは、宗教団体というのは専ら届け出ですべて認められておりましたように自由放任しておく、国は介入すべきではないという、そういう徹底した立場をとったのがGHQであります。したがって、そういう考え方がずっと流れてきておりますので、確かに宗教法人法にはそういう考え方が残っていると思います。  しかし他方、占領が終わり、講和独立に伴って日本が主権を回復する。それで、改めて日本が自主的な立場で再検討しようという動きが出てきたのがこの一方の流れであります。したがいまして、実際不備がありましたから昭和三十一年には早くも審議会に諮問がなされておりまして、二年ぐらいかけて答申が出ているわけですね。ですから、そのGHQの意向だけを問題にすれば、そういう放任とかあるいは政省令でもってやらないとかそういったあれが出てきますが、じゃ日本の自主性というのはどうなのか、その動きも考えなくちゃいけないんじゃないかというふうに思っております。

山下栄一平成会

○山下栄一君 もう時間がなくなってしまったわけでございますけれども、今回の法改正論議を見ておられて、オウムから始まって創価学会で終わるというふうなあれになってしまったわけでございますけれども、私はこのことにつきまして小林先生の方のお考えをお聞きして、終わりたいと思います。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) 結局、本当の争点が宗教団体の政治参加であるということが明らかになった。これは大いに議論すべきことであると思います。その点では私は、政治というのは権力を握るないしは権力に影響を与えることが目的であるというのは当たり前のことでありまして、であるから宗教団体にだけそれがおかしいという議論の立て方は、じゃ農業団体は、医師会は、あるいは全盛期の自民党派閥はどうなのかという問題が残るのかなという気がいたします。  以上でございます。

山下栄一平成会

○山下栄一君 どうもありがとうございました。

前川忠夫日本社会党・護憲民主連合

○前川忠夫君 日本社会党・護憲民主連合の前川でございます。  きょうは大変お忙しい中、御出席をいただきまして、ありがとうございます。それぞれ憲法や法律上の専門家の皆さん方でありますから、私はこれまでの審議の中でまだよくわからないといいますか、理解に苦しんでいる部分が幾つかありますので、できればそれらの問題について先生方の御見解なりをお聞かせいただきたいというふうに思っております。  一つは、いわゆる憲法二十条で保障されている信教の自由と、宗教団体と宗教法人の違い。私は、先ほど百地先生の方からお話がありましたように、宗教団体という意味では、広い意味でまさに信教の自由に基づくさまざまな自由が保障されているという解釈が一つあると思うんですね。と同時に、宗教法人という場合には、いわゆる宗教法人法に基づく一定の制限といいますか制約といいますか、そういうものがあるんじゃないか。  その場合に、これは一般的に言われていることなんでしょうが、例えば宗教法人の場合には課税上の優遇措置がある、あるいは経済上の取引等を含めた経済的な信用といいますか、法人格をとることによってそういうものが与えられるといいますか、受けられる。さらには、国がこれは法人なんだよと言うことで国の保障といいますか、国のこの法人法に基づく資格を得たということによって社会的な信用といいますか、そういう部分があるんじゃないか。  その際、私は、一般論で言う宗教団体という言い方と宗教法人と言う場合の違いについて、まず最初に両先生からお聞かせをいただきたいというふうに思います。

百地章日本大学法学部教授

○公述人(百地章君) お答えします。  宗教団体と宗教法人との関係でございますが、先ほど申し上げましたとおりに、憲法上の直接対象としているのは宗教団体、つまり信教の自由が保障されておりますから、いわばその延長として宗教的結社の自由が出てきます。したがって、憲法上、宗教団体というものはその自由が保障されておりますし、これに対してはノーサポート・ノーコントロールが大原則であると思います。  しかし、そのような宗教団体の中で、特にいろんな財産取引等のためにその法人格を取得したいという、そういう団体が出てきます。それが宗教法人格をとるわけでありまして、その際には、宗教法人法にもありますように、その宗教団体が例えば教義を広める、儀式行事を行うとか信者を教化育成する、一定の要件を満たした場合に初めて宗教法人を名乗ることができる。  したがって、国からまさにおっしゃるように非課税措置を得たりあるいは社会的信用も得られるということで、問題となっているのは、要するに法人に対してはそれだけサポートがあるわけですから、当然それに伴って、コントロールという言葉はいろいろ微妙でございますが、やはり社会的責任を果たすべく一定の規制を受けるのはやむを得ないであろうと。つまり、これは他の公益法人と基本的には同じような位置づけができると思います。  ただし、宗教団体ですから学校法人とか社会福祉法人とは違う。信仰という微妙なところにかかわりがありますからもちろん全く同じではありませんが、しかし公益法人等として同じ範疇に入れられています以上は一定の規制を受けるのはやむを得ないというふうに考えております。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) まず、宗教団体という任意団体がございますが、法人になることによって税の優遇と先ほど先生は言われましたけれども、先ほど私も冒頭の陳述で申し上げたように、あれは特別払うべきものを払わないときに優遇と言うわけでありまして、本来、宗教の中ではいわゆるもうけ仕事は本来業務ではしていないわけですから、そしてもうけ仕事と言われるものについては軽減ではございますが税金を払っておりますし、そういう意味では私は特別な優遇ではないと認識しております。  それから、宗教団体が任意団体として自由に活動する、たまたまそれが説得力があった場合には大きくなります。大きくなったときに、先ほど申し上げたんですが、法人格がないと社会生活上さまざまなトラブルが起こる。これは宗教法人の側にもそうですけれども、つき合うその他の人々にとってもえらい迷惑です。ですからそのために、一つの法人格を与えることによっていわば存在とか顔をはっきりさせる、責任もはっきりさせるという意味において法人格を付与する。これはつまり、現代国家において信教の自由を普通に保障しようとしたらある一定規模以上のものは法人格を与えた方がむしろ自然であるということで、私はそういう意味では法人であることは特権の付与ではないと思うんです。  もちろん、だからといって社会的責任がないわけではなくて、宗教法人法八十六条により我々と同じように違法、不法は許されないわけです。それが社会的責任だと思うんですが、ただ気になりますことは、先生の御指摘のとおり、それを逆手にとる者とか、それから変に信用してしまう相手とか、これは誤解はお互いに解くべきであって、だからといって法制度を変えるべき問題だと私は思わないんです。  それから、その点で一つ苦情を言えば、もう少し認証をしっかりしたらいかがかなと思うんです。その上で今の制度をきちんとこれまでどおり運用していけば、例えばオウムの事件などは認証の段階で随分できたはずなんです、これも繰り言でございますが。  以上でございます。

前川忠夫日本社会党・護憲民主連合

○前川忠夫君 これまでの国会あるいは委員会の審議の中でも、今、小林先生がおっしゃったように、そう税の優遇を受けるというふうにはなかなか解釈しにくいよ、多少のあれはあるにしてもというお話がありましたけれども、一般の国民の目から見ますと、団体ではなくて法人格をとる、これはさまざまな公益法人の場合もありますけれども、宗教法人といえども公益法人の一つである。しかも、確かに俗と聖の部分の線引きというのは大変難しいのは私どもも承知をしていますけれども、それなりの優遇措置を受けているんじゃないかという国民の声があるわけです。  この点に関して、私は、宗教法人といえどもさまざまな誤解を解くといいますか、あるいは国民の皆さん方から見てなるほどと思っていただけるような情報の公開といいますか開示の義務があるんじゃないか。信教の自由と同時に、そういう意味での権利と同時にそういう義務があるんじゃないか。この辺があいまいなために私は誤解を受けているんじゃないかというふうに思うんですが、小林先生、いかがですか。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) 公益法人であるということについてですが、これは他の公益法人とよく誤解されるんです。要するに、分類でいわば十把一からげにされている。ただ、公益法人にもいろいろございまして、業界団体みたいに何かいわば行政の具体的な下請仕事をやっているようなものと違いまして、宗教法人という公益法人制度については、要するに、それぞれの宗教がそれぞれの宗教らしく活発に展開することによってこの世の中に信教の自由がいわば花開くわけでありまして、それが自由な社会をつくるんだという、そういう意味の公益であって、それを各法人のレベルに落として考えますと、まさに創価学会は創価学会らしく、立正佼成会は立正佼成会らしくという意味だと思うんです。したがって、ほかの公益法人の公益性をもって、公益だから直接的に社会的責任が生まれるものではないと私は思います。  それで、公開の点については、ある意味では私は先生がおっしゃることに賛成なんです。それは、社会的責任というか世間の誤解を解くために開示の義務がある、これはある意味では賛成なんです。ただ、これはあくまでも倫理的義務であると思うんです。法によって強制すべき義務ではなくて、宗教団体の方が任意に自発的にやるべきもので、やらない者については税務調査等がありますから、もしうそがあればそっちではれますから、そういう形で進めていくのが国のあり方ではないかと思います。

前川忠夫日本社会党・護憲民主連合

○前川忠夫君 今、小林先生がおっしゃるように、私も、宗教団体といいますか宗教法人が、自発的にといいますか自主的にさまざまな情報を公開していただければ、いわゆる世に言う宗教性善説に立っていれば問題は一遍に解決をしてしまうんですが、先ほど先生の最初のお話からは、何やらオウムから創価学会になったというお話ですけれども、実は確かにオウムは強烈な私どもにインパクトを与えましたが、既にその以前からさまざまな霊感商法等々、もう枚挙にいとまのないくらいに、宗教法人といいますか、団体というよりむしろ法人ですね、法人格をみんな持っているわけですから、その種の宗教法人のさまざまないわゆる悪の部分と言った方がいいと思うんですが、そういうものが目につくわけです。  果たして、そういう今の実態から見て、今、先生がおっしゃったような自主的なあるいは自発的なということが本当に担保されるんだろうかという不安がやっぱり国民の側にあるわけです。現に被害を受けている人はもう全国に津々浦々いるわけです。だから、こういう問題についての答えを私どもは出さなければならない。一〇〇%これは解決するということにはならないにしても、ある程度の答えを出して国民の皆さんに示す必要があるんです。  ですから、その辺の問題について、確かに自発的、自主的にと言われますけれども、果たしてそれが可能なんだろうかというところからこの議論がスタートしているという意味で私はそう考えているんですが、先生、いかがでしょうか。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) 霊感商法が典型だと思いますが、確かに宗教を理由としてこのような法的なトラブルを起こしてしまっているものが多々ありますですね。それについては私は、例えば霊感商法なら民事ですね、それからオウムの場合は刑事ですね、もっと現行法制度できちんとできることがあるのではないか。それはそれで、だれだって法に触れれば許されないわけですから、きちんとすればいい。と同時に、先生が言われたように、そういうものが象徴となって宗教団体全体が、十八万何がしかあるうち、わずか幾つかのおかしなものが全体を疑わせるようになったことは不幸なことですから、それは残りのものに対しては、だけれども逆に言えば善意で見てあげてほしいということだと私は思うんです。  だから、一部の例をとらえて全部を網にかけるというのは、先生の不安とか疑問は共有します。だけれども、それはそれで民事、刑事で追及しながら、全体に網をかけるのはいささか問題ではないか。これは申し上げておきます。

前川忠夫日本社会党・護憲民主連合

○前川忠夫君 一昨日の参考人の皆さんからの御意見の中に、善隣教の力久教主の方からオウムのことについて、あれは宗教団体、宗教法人というよりも犯罪者団体だという話がありました。しかし、宗教法人格を取得した宗教法人であることは厳然たる事実なんですね。今、小林先生がおっしゃったように、それは認証の段階でしっかりやればよかったじゃないかと。今の宗教法人法の認証のシステムそのものにも問題があるというふうに先生はお考えでしょうか。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) システムに問題があるかというのは微妙なところでございまして、私は法制度そのものは問題がないと思うんです。運用に問題があると思うんです。ですから、あの枠組みできちんと人と予算をつけて、手間をかけて実質的な手続をすれば随分問題は絞れる。(「それが調査」と呼ぶ者あり)調査というのは、生み出してから追っかけるのではなくて、生み出す段階できちんとチェックできたんです。しかも、これは新聞報道ですが、オウムの場合はいろんな情報が寄せられていたわけですね。それはまさに予算と人と、それから役所の姿勢の問題があると思うんです。ですから、これは運用の問題で多くは改善できると思います。

前川忠夫日本社会党・護憲民主連合

○前川忠夫君 確かに法が、先生おっしゃったように、現在は文部省やあるいは各都道府県が認証しているわけですから、パーフェクトにやっていると私は必ずしも思いません。さまざまな欠陥があったと思うんですね。  ただ、今の宗教法人法の建前からいきますと、先生がおっしゃったようなことには必ずしもならない、というよりも、しにくいのではないかという声があるわけです。現に、せんだっての審議の中でも、東京都におけるオウムを認証した事例について自民党の委員の皆さんから発言がございました。私もなるほどなというふうに思った部分があります。例えば、東京がだめならば北海道へ行くよ、北海道がだめならどこかで簡単に認証をしてしまうという仕組みというのは現実に存在をしているわけですね。  となりますと、先生がおっしゃったような今の法律をそのままにしておいて、それは例えば人をふやしてあるいは予算をふやしてといいましても、例えば定められた幾つかの条件を満たせば三カ月後には自動的に認証しなければならないような仕組みになっているわけですね。ここにも確かに問題があります。今回の改正ではこの問題に手がついていません。確かに私も問題だと思うんですが、その問題については先生はどうお考えでしょうか。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) 今教えていただいてはっきりいたしました、私の頭の中で。  前にもどこかで書いたことがあるんですけれども、改正の論点ならむしろ認証手続をきちんと議論したらいかがかなと、どこかに私は書いた記憶があるんですが、そういう意味では私も勉強させていただきますし、御検討いただいたらいい話題だと思います。

前川忠夫日本社会党・護憲民主連合

○前川忠夫君 そこで、先ほどもちょっと触れましたように、いわゆる一般的な言い方として、宗教団体あるいは宗教法人の場合に聖と俗の部分があるというふうに言われるわけですね。確かに今度の法人法の改正の主たるねらいは、提案の趣旨は、いわゆる俗の部分について、運営上あるいは管理上の部分について、法人格を取得している法人については最低限これだけのことはやってくださいよという仕組みになっていると思うんですね。  ところが、先ほどからのお話もありますし、従来の議論の中で、本当に聖と俗がきちっと分離できるのだろうかという部分があるわけですね。例えばお布施の問題についても、いわゆる心から出したものなんだと。しかし、それが実際に団体に入ればいわゆる運営、運用管理という部分になって、これは俗の部分になってしまう。また、実は、これは今度の議論の背景にあります宗教法人あるいは宗教団体に対する不信感の中に、例えば心の弱みにつけ込んで金集めをする、霊感商法なんかもいい例なんですけれども、そういう部分に対する不信感というのがあって議論になっている。  したがって、今、先生方がおっしゃるように、この問題を議論すると必ず聖の部分にまで発展をするからいろいろ問題なんだというお話がございましたけれども、百地先生、この辺のところの線引きというのは大変難しいと思うんですが、この辺についてはいかがなお考えをお持ちでしょうか。

百地章日本大学法学部教授

○公述人(百地章君) 確かに、お布施の例について考えますと、こういうことが言えると思うんです。信者は敬けんな気持ちで信仰のあらわれとしてお布施を出す、これが基本だと思いますね。ところが、いざ入ったお金をどうするかというのは宗教団体が自由に決めるわけですから、もちろん本来の宗教活動のために使うでしょう。しかし、オウムのようにそれを全く別の方に使っているケースも出てくるわけでありまして、使い方の段階で俗と聖が分かれてくる場合は当然あり得ると思います。したがってその限りで、お布施をやってもそれを客観的に俗の面から把握するというふうな考え方はできると思います。  これは、ちょうど宗教的文化財に対する補助金の支出を考えますと、例えば各お寺さんにとってみればその仏像というのは信仰の対象ですね、文化財でも何でもない。ですから仏像は、一方信者から見れば、お寺さんから見れば信仰の対象ですが、国はこれを文化財と見て、いわば俗的なものと評価してお金を出しているだけなんですね。そういう二面性というのは、そういう分け方はできると思いますから、そういう発想でもって聖と俗を分けることはできるんじゃないか。  ただし、その線引きは非常に微妙ですから、信仰にかかわるような、あるいは信仰を侵害するようなことは絶対あってはいけない、これは私も何度も繰り返して申し上げたいと思います。

前川忠夫日本社会党・護憲民主連合

○前川忠夫君 時間がありませんので、最後に一つだけ両先生にお伺いをしたいんですが、所轄庁が文部省になると国家統制につながるというお話がよくあります。現実に文部省の所轄になっている法人もたくさんあるわけですね。と同時に、地方の都道府県だったらば国家統制にはならないのか、この辺の議論というのは先生方それぞれ、簡単で結構ですが、見解がありましたらお聞かせいただきたいんです。

百地章日本大学法学部教授

○公述人(百地章君) これについても、私は国家統制が特にこれによって強まるとは思いません。  例えば、まじめな団体であれば、財務帳簿等についても信者に公開している団体もあるといいます。したがって、それをただ提出するだけです。また、質問調査権にしても非常に厳格に、まず限定列挙して、それが行われる場合が限られている。あるいはさらにその手続もきちんと定められておりますし、さらに信仰には介入しちゃいけないという大原則があります。  したがって、そういう前提のもとで権限を文部省に、国に移行したからといって国家統制が強まるということは、これはあり得ないことだと思います。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) 形式的には国家統制は強められると思います。  それは、現に予算要求もありますし、人員もふえますし、それは税務署とか警察とか、もろもろのところから情報を集めてくるのと違って、一カ所で恒常的監視ができますから、それは能率よく国のレベルで監視ができると思います。それで、よく言われるように、そうしますと都議会マターではなくなって国会マターになるので、国政調査を発動しやすくなるという面はあると思います。  ただ、逆に申し上げますと、都議会マターであっても宗教法人の問題でありますから、今のままだって国政調査の対象とすることは、実は私はできると思います。法的障害はないけれども、何か気分として少し前進するのではないかと思います。  以上です。

前川忠夫日本社会党・護憲民主連合

○前川忠夫君 ありがとうございました。

吉川春子日本共産党

○吉川春子君 日本共産党の吉川春子です。  お二人の公述人におかれましては、貴重な御意見をきょうはお聞かせいただきまして、本当にありがとうございます。  先ほど来お話を伺っておりまして、今回、本委員会では、宗教法人法の改正問題とともに、宗教と政治のかかわりについて大きな問題になりました。先ほど信教の自由を守るための政教分離は制度的保障であるということを学問の自由と大学の自治の関係でお話がありまして、興味深く拝聴させていただきました。  それで、最初に基本的な問題についてお二人の公述人にそれぞれ伺いたいんですが、宗教者や宗教団体が広い意味での政治参加の権利を持つことは当然であり、反核・平和運動とか環境問題など宗教団体としての性格にふさわしい課題と方法で社会運動、政治活動を行うことは当然であると思います。しかし、宗教団体が特定の政党と議員候補者の支援を機関決定して、共通の信仰に基づいて集まった信者一人一人の政党支持の自由を奪うことは許されないのではないでしょうか。私は、これは民主主義の基本原則だと思いますが、いかがでしょうか。それぞれ御意見を伺いたいと思います。

百地章日本大学法学部教授

○公述人(百地章君) 宗教団体が機関決定をして特定の政党なり候補者を支持するということは政党支持の自由に反するんじゃないかというお話でした。確かに、私も基本的にはそうなると思います。団体としてこういうことを推す、その団体にとって非常にいろいろと、例えば信仰的にもつながりがあるし、何かとお世話になっているからということで団体としてある程度の意向を決めることはあっても、それによって信者が拘束されて、政党支持の自由そのものが奪われるような状態があるとすれば、これは私は問題がなという気がいたします。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) 結論から言うと、やり方次第の問題でありますが、私は問題ないと思います。  明確に今申し上げたんですけれども、つまり、どんな団体でも団体としての行動をする以上、それは宗教団体に限りません、労働組合だって思想団体だって友人のクラブだって、その他もろもろ、それぞれ組織である以上組織として一つの行動をしなければならないので、正式な内部の手続で機関決定し一本の意思を決めることはまず許される。これは当然のことです。そしてその結果、あなた会員でいるならうちはこういう方針だから従いなさいと。嫌だったら出ていく自由があるわけです。入ってくるのも自由でした。その間に麻薬とか鏡とかいうものが使われていない限りは、出入りの自由があって、機関決定でそれを推薦として提案すること自体は問題はない。ただ、それに従わなかったから追い出すとか言うと、またこれは議論になると思います。  つまり、政治的表現の自由はむしろ最上位というより大きな国家という公益にかかわりますから、部分社会の利益で全体社会の利益を抑えることは、これは問題があり得ると思います。したがって、そういう条件つきで私はどこにでもある機関決定の性質であると思います。

吉川春子日本共産党

○吉川春子君 大変びっくりいたしました。宗教的な考えで集まっている方が政治の問題で機関決定されると、そういう問題について私は伺ったわけですけれども、小林公述人の御見解は私とは異にいたします。  それで、百地公述人に具体的に伺いたいと思います。  本委員会では、一部の宗教法人が宗教法人としての域をはるかに超えた特定政党への支持活動と選挙活動を行っているということが問題になりました。つい先日の参議院補欠選挙でも、宗教団体の施設が特定政党の選挙活動の拠点となるなど、宗教団体が挙げて選挙に取り組むという政教一致ぶりが問題になったわけです。宗教団体が衆参の国政選挙や地方選挙において特定政党支援の選挙活動の拠点として施設を使う。これは特定政党支援の活動と選挙活動が公益法人たる宗教法人としてふさわしいものであるのかどうか、また政教分離の観点から問題はないのか、百地公述人の御意見を伺いたいと思います。

百地章日本大学法学部教授

○公述人(百地章君) 具体的に、例えば宗教施設を利用して選挙活動の拠点とするというようなケースがどうなのかという、そういう御質問かと思います。  それも程度の問題だとは思うんです。宗教団体も政治とのかかわりは一切持たないで済ますことはできませんから、したがって何らかの形で、例えば選挙のポスターを張ったりとか、そういうことは当然あり得ると思いますし、政治参加の範囲でのそういうことの自由はあると思います。しかし、それが拠点となって、しかもいわば本来の宗教活動よりもそちらの方に重点が置かれるとか、あるいはそちらにかなり比重が置かれるということになりますと、これは宗教団体としての宗教施設であり、それは例えば礼拝のための施設であり、そして固定資産税も免除されている。そういう趣旨からしても本来の目的から逸脱した利用に当たりますから、おのずと限界があるのではないかなというふうに思います。

吉川春子日本共産党

○吉川春子君 次に、こうした政党と見まごうばかりの政教一致の活動を繰り広げている宗教法人に対して、他の公益法人同様に税制上の非課税措置など優遇措置を与えてよいのかと、こういう問題も当委員会で議論されました。  宗教団体の施設は、例えばこの宗教法人は全国で一千カ所あると言われていますけれども、地方税法によって固定資産税等の非課税の取り扱いを受けておるわけで、その額は全国的には巨額になるものと考えられています。もともと宗教施設が非課税措置を受けているのは、宗教法人の目的である教義を広めたり儀式を行ったり信者を教化育成する、こういうことに使用するとの趣旨からでございます。こうした宗教施設を選挙活動に使うという活動の実態は、公益法人たる宗教法人のあり方としてふさわしいのかどうか、非常に私は疑問を持っております。税法上の優遇措置が妥当であるのかどうか、真剣な検討が必要だということも私どもは考えています。  また、私ども日本共産党は、当然のことですけれども、固定資産税をきちんと払っています。他方において、宗教団体が非課税の優遇を受けている建物を使って特定政党候補の選挙活動を行うということは、選挙の公正に反し、そして憲法に定める法のもとの平等にも反するのではないか、こういうふうに疑われるわけですけれども、百地公述人の御意見を伺わせてください。

百地章日本大学法学部教授

○公述人(百地章君) 政党と見まがうばかりの選挙活動をしている宗教団体というふうな言い方をなされました。そういう宗教団体だけに優遇措置を除外するというのは、現行法上はもちろん無理だと思います。ただ、立法論としてどうするかというのは議論になるかと思います。  それから、これは立法論ですから余り言わない方がいいと思いますが、そもそも宗教団体というのは宗教活動を本来の目的とするわけですから、宗教団体の目的を著しく逸脱した場合には例えば解散というものもあるわけですが、余りにも極端な場合はそういう次元で考えなくちゃいけない問題ではないか。あくまでもこれは現実のどこどこの政党とか宗教団体のことを言っているわけじゃありません、解釈として。まさに政党と見まがうような、そういう選挙活動、政治活動をしているような団体があれば、本来の目的を著しく逸脱しているというふうな理解ができないかなという感じがいたします。

吉川春子日本共産党

○吉川春子君 そういう団体に非課税の措置を与えているという問題については、ちょっと重ねてお伺いしますが、その点についてもお答えいただきたいと思います。特定の宗教団体という意味じゃなくて、一般論としてお答えください、そういう活動を行う場合にどうなのか。

百地章日本大学法学部教授

○公述人(百地章君) ですから、立法論ですので、私もまだよく考えているわけではありません。  方法としては、つまり認証の段階で厳しくチェックして、そして政治活動にむしろ非常に比重を置いているような団体があれば、そういう実績をもとに認証の段階でチェックするか、それとも、認証はかなり自由に与えた上で、法人格は自由に与えた上で改めてその実態を調べて、そして政治活動に比重を置き過ぎていないかとか営利活動を中心にやっていないかとか、そういう段階で免税とか非課税の問題を改めてチェックするというアメリカ流のやり方ですね。  認証の段階で一定の規制をするか、それとも法人格を与えた上で改めて一定の場合に制限するか、例えば免税措置を認めないというやり方、そういった二つのやり方があるのかなという気がしますが、私も税の問題をちょっとよく考えておりませんので、その程度にさせていただきます。

吉川春子日本共産党

○吉川春子君 非常に具体的にお伺いしたいんですけれども、私たちが問題にしている宗教団体はもともとその宗教の国教化を目指すというようなこともおっしゃっておられたわけですけれども、世間の批判を受けて政教分離の宣言をしたわけです。しかし実際には、これまで私が紹介したように政教一体の活動を強めておりますし、そればかりかみずからが政党をつくり、また人事権、さらにはこの委員会でも問題になりましたけれども閣僚人事にまで関与していたと、こういう疑いも指摘されております。  そして、先ほど百地公述人がおっしゃいましたけれども、宗教法人の政治活動についてグレーゾーンをどうするかと、こういうことでメルクマールを示されたわけですけれども、それはなかなかかなり難しい、メルクマール自体がちょっと抽象的かなと私は思ったんですけれども、特定の宗教団体が政党の人事権ばかりか時の政権の閣僚人事にまで関与する、こういうことになった場合、こういうことは私は到底許されないと思うんですけれども、先生の御意見はいかがでしょうか。

百地章日本大学法学部教授

○公述人(百地章君) あくまでも仮定のそういうお話だと思います。そういうことであれば、先ほどの私の広義の政教分離という考え方からすればおのずと限界がありますし、許されない場合が出てくるというふうに思います。

吉川春子日本共産党

○吉川春子君 特定の宗教団体に人事権を握られて、そして事実上支配されている政党が国権の最高機関たる国会、立法府である国会に一定の議員を送り出して、多数を得るというには至らないでも、先ほどお話がありましたようなキャスチングボートを握るとか、あるいは、日本の憲法は議院内閣制ですから、それを通じて今度連立というような形で政権に関与していく、政権というか行政権に直接関与していくというような場合に、特定の宗教団体ですから、そういう考えを持った団体の影響のもとに、ある場合は立法府も行政府も置かれると、こういう場合、憲法の政教分離の原則が本当に守られるのかどうか、こういう危惧を国民は具体的に持っているというふうに思うわけです。この点について百地公述人の御意見をお伺いしたいと思います。

百地章日本大学法学部教授

○公述人(百地章君) 特定の宗教団体が実際にある政党を支配している、そして人事権まで行使している、そういう団体が例えば政権を担うということになれば、これはやはり広義の政教分離から見ると非常に問題ではないかなという気がします。  この点、政教分離は信教の自由のための手段だと言いましたが、その手段であるという政教分離は、実は狭義の、つまり国教制とか公認制とかとは違うところの政教分離でございまして、広義の政教分離そのものは、まさに宗教戦争を繰り返す中で政治と宗教の任務というものをはっきり分けようということから確立したのが広義の政教分離ですから、これを守るために出てきているのが宗教の政治支配の禁止でございますから、これは単なる手段とかいうものじゃなくて、近代国家にとっての大原則であるというふうに考えております。

吉川春子日本共産党

○吉川春子君 終わります。

本岡昭次参議院フォーラム

○本岡昭次君 百地先生、小林先生、御苦労さまでございます。最初の両先生の公述、また質疑の中で本当に問題点が深められたと、このように思い、感謝しております。私もいい勉強になりました。  そこで、あらかた出ておるんですが、議論になっていないものを一つだけお伺いします。それは宗教法人審議会の問題であります。  今回の法改正によります中身も、七十八条の二の二項、三項、報告・質問の問題、七十九条四項、公益事業以外の事業の停止の問題、附則二十四項の収支計算書作成を免じる額の範囲の問題等々、これは宗教法人審議会の意見を聞くということになっております。そういう意味で従来以上に宗教法人審議会の役割、責任が重くなっていると思います。  そこで、今回のこの法案をつくる段階に宗教法人審議会がどういう役割を果たしたか。私は、余り民主的でもなかったし、ましてや文部省のOBの実力者である方が会長をやって文部省と一体になって仕切っていったというふうに私は見ておりまして、導入部分から非常に不純なものを感じるがゆえに、いまだにこの法案そのものに、百地先生が必要最小限度の制約であるとおっしゃられても、その奥に何があるのかということを私は考えざるを得ないわけであります。  そこで、宗教法人審議会のメンバーなんですが、今度は十五人を二十人にする、こう言っておりますね。国会では重要な審議会等々は国会の承認人事ということを行うのです。だから、宗教法人法の中に信教の自由という基本的人権の中の最も重要な部分にかかわる問題がある。そのことをこれからいろいろ具体的に所轄庁なりが行動を起こしていく場合に審議会の議を経てということになれば、これは非常に重要なんです。  私は、国会の承認人事の案件にするというふうにして、まず宗教法人審議会の透明性というんですか、そういうようなものも図っていく必要があるのではないかと思いますし、二十人にするという意味が果たしてあるのかどうか。あるいはまた、この二十人の構成をどうすることが審議会としての任にたえられるか。今は十五人のうち宗教界の方から十一人出ておられるようですが、今後どういう構成になればいいのか。あるいはまた、今回のような入り口のところで問題にならないような運営を期すためにどうしたらいいかというふうなことについての御意見をいただきたいんです。  文部省が所轄庁であるということは余り好ましくない、こう私は基本的に思っておるんです。それは別のところでまた議論したいんですが、もう少しここのところで何かお考えがあればお聞かせを願いたい。以上です。

百地章日本大学法学部教授

○公述人(百地章君) 審議会の位置づけとか役割とかいうことについては余り勉強しておりませんのでよくわかりませんが、現実には国家権力の介入をいわばチェックする役割を果たしていることは間違いないと思います。例えば、調査にしても質問にしても審議会に諮ってからということになっておりますから、そういう役割が期待されているとは思います。  それから、今回、審議会の運営についていろいろと御批判があるようです。私は実態がわかりませんので何とも申し上げられませんが、私の視点から言いますと、今回についてはいろいろあったかもしれませんが、何度も言いましたように、改正案の内容そのものはもともと不備、欠陥があった。それがずっと放置されてきたわけでございます。したがって、今回たまたまそれが明らかになってきたということがきっかけになってなされているわけですから、今回のこれだけでもって余りどうのこうのと言うのはいかがなものか、法そのものの不備、欠陥というものはないのかという、そういう観点から考えてみた方がいいんじゃないかと思います。  それから、審議会の構成は、これもまた十分考えたわけじゃありませんが、常識的な発想で考えますと、十五名のうち十一名が宗教団体の代表というのは、これは言ってみればその利益代表のような立場に立っていると思うんですね。したがって、宗教団体としてみれば、現在ちゃんとしてやっているところでも、それは今のままの方が気分的にはいいという方がおられるのは当然だと思うんです。  この点、例えば中央労働委員会とか地方労働委員会とか、あるいは最低賃金審議会ですか、ああいった委員会を見ますと、それぞれの利益代表と同時に公益委員のようなものがあって、重要な役割を果たしている。そうすると、現在の構成というのは、公益、学識経験者と言うんですか、その委員が四名だと思いますが、ちょっとその辺どうかなと。これは常識的なあれで、突き詰めた考え方じゃありませんが、そういうような感想を持っております。

小林節慶應義塾大学法学部教授

○公述人(小林節君) 審議会というのは、今、行政改革の課題になっておりますけれども、要するに、今お話しのように、行政に対するお目付役が期待されているけれども、実際は隠れみのになっているのではないかということが一つ。これは実態の問題として今回のケースは大変いい材料であると思います。  それからもう一つは、今回も話題になりました審議の公開でありますが、これは要するに具体的な処分以外のものは公開する。民主国家でありますから審議過程を、当事者の人権にかかわらない問題ですから公開するのが当然のことでありまして、そのルールが閣議決定されながら実行されなかったということも問題であろうと思います。そういう意味で審議会のあり方論のいい材料である。  ただ、さらに立法政策的に考えますと、先生御指摘のとおり、これは重要な審議会でございますから、人事を国会の承認事項にするというのも一つのよい考えだと思います。  それからさらに、これも政策的な話でありますが、構成でありますが、利害関係人、つまりこれからこの議論は続くと思うんですね。宗教法人法をこのままでいいとは思っていないと思いますから、まじめな議論をこれから続けてもらわなきゃいけません。ですから、そういう意味では利害関係人を外すというのはおかしいんで、宗教界の代表が入ることは入ると思います。そのほかに行政実務の経験者とか、それから法律学者であれば公法と私法をちょうど接点ですからちゃんとバランスよく入れるとか、それから会計税務実務の経験者を入れるとか、何かこういう実のある委員会、審議会にしていく御努力はお願いしたいと思っております。

本岡昭次参議院フォーラム

○本岡昭次君 終わります。

倉田寛之自由民主党・自由国民会議

○委員長(倉田寛之君) これにて公述人に対する質疑は終わりました。  この際、公述人の方々に一言御礼を申し上げます。  皆様には、長時間にわたり有益な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。拝聴いたしました御意見は本委員会の審査に十分反映してまいりたいと存じます。委員会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。一拍手)  午後一時三十分に公聴会を再開することとし、休憩いたします。    午後零時二十五分休憩      —————・—————    午後一時三十分開会

倉田寛之自由民主党・自由国民会議

○委員長(倉田寛之君) ただいまから宗教法人等に関する特別委員会公聴会を再開いたします。  休憩前に引き続き、宗教法人法の一部を改正する法律案につきまして、午後は三名の公述人の方々から御意見を伺います。  この際、公述人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多忙中のところ本委員会に御出席をいただき、まことにありがとうございます。  皆様から忌憚のない御意見を拝聴し、今後の本案審査の参考にいたしたいと存じます。  次に、議事の進め方について申し上げます。  まず、お一人十五分程度で順次御意見をお述べいただき、その後、委員の質疑にお答え願いたいと存じます。  それでは、これより順次御意見を承ります。  まず、棚村公述人にお願いいたします。棚村公述人。

棚村政行青山学院大学法学部教授

○公述人(棚村政行君) ただいま御紹介いただきました青山学院大学の棚村でございます。  本日は、宗教法人法の一部改正法案に関しまして、研究者として意見陳述をさせていただきます。  結論的に申し上げまして、私は今回の改正について賛成の立場をとっております。以下、私が賛成をいたします理由と我が国の宗教法人法制について、若干の所見を述べさせていただきたいと存じます。  御承知のとおり、宗教法人法は、昭和二十六年に制定をされまして、四十四年以上が経過をしております。その間に宗教法人を取り巻く社会経済的な情勢や宗教事情は大きく変わりました。  例えば、広域的な事業展開をする宗教法人、多彩な収益事業に従事する宗教法人が出現しましたり、宗教団体の活動の多様化、複雑化というような現代的な状況のもとで、宗教法人が自律性や透明性を高めて、その社会的な責任や公共性にこたえなければならなくなった、こういうような事情がございます。  現行法でも、十一条で宗教法人の代表者が中心になりまして違法行為を行った場合の損害賠償の責任を規定する規定もございますし、また八十六条のように、宗教法人も法治国家の中で、また民主主義社会の中で、当然に公共の福祉の制約に服しまして責任を負うということが明らかにされております。  今回の改正の基本というのは、宗教の自由、宗教団体の自主的な活動を尊重するという基本的な現行法の枠の中で、そしてまた社会的な責任や公共性を求められるその声にこたえて、必要最小限の手直しを図ったというふうに私どもでは考えております。  今回の改正に対して、特に宗教界の方を中心に、憲法二十条の信教の自由、政教分離の原則をとる現行法の基本的な性格や構造を大きく変えるものではないか、こういうような批判がございます。しかしながら、現行法は憲法の保障します信教の自由、政教分離の原則に立ちまして、宗教固有の聖の部分に対しては介入しない、しかしながら法人の運営とか財産の管理等、俗の部分に関しては必要最小限度の規制をするという建前をとっております。現行法を性格づけまして、届け出制であるとかあるいは全くの不介入であるというように性格づけるとすれば、これは適切ではありません。  今回の改正内容を見る限り、この改正で憲法の理念を具体化する宗教法人法の基本構造や基本精神を大きく変更するものとは考えてはおりません。  次に、所轄庁の移管についてでございますけれども、現行法の五条にありますのは、主たる事務所があるところを所轄する都道府県知事が所轄庁になって、他の宗教法人を包括する包括宗教法人については文部大臣の所管ということになっております。  しかし、オウム真理教の場合もそうでありますけれども、全国各地で支部や道場を開くというような事業展開が全国化したり、あるいは海外にも足を伸ばして、そして支部をつくるというような広域的な法人があらわれてまいっております。そのような広域化する宗教法人に対して専任の職員を置いているのは東京等ごく一部でございまして、多くの都道府県では四名から一名という非常に少ない数でもって、しかも私学行政と兼務というようなことが実情でございます。ですから、広域化し内外で活動しますこういうような宗教法人に対して、現行の所轄庁では実情把握や行政上の対応が極めて難しいということが言われるかと思います。  これに対しては、憲法が保障する地方自治あるいは地方分権化という時代の流れにそぐわないのではないかというような批判もございますけれども、地方自治というのは、先生方も御承知のとおり、住民自身の問題について、住民が総意でもって、そして自治体が地域に密着したきめ細やかなサービスを提供していくというのが適切であり現実的である、こういうような考え方に立っているわけであります。むしろ、現在は機関委任事務が非常に肥大化しておりまして、地方行政や地方自治、つまり地域密着型の地方自治を圧迫するような事象も出てまいっております。  情報収集能力や行政対応能力というものが一都道府県で極めて困難であるという広域宗教法人に対して、行政の対応を一元化する、あるいは情報を一元化するということでむしろ国民に対する期待にこたえる必要があろうかと考えております。  それから、信者らへの情報開示でございますけれども、宗教法人の会計帳簿等に関する閲覧請求では、御承知のとおり、判例では消極的な判例が幾つか出ております。そして、宗教法人側でも極めて消極的な立場が強いわけでございます。  しかし、宗教法人の信者らへの情報の提供ということは、法人の業務が適正に行われるとか、あるいは場合によっては機関の責任追及の手段を提供するという意味では極めて大切な役割を果たすわけであります。また、宗教法人の民主的な運営や公正な運営ということのためにも極めて情報開示制度というものは重要であることは論をまちません。情報の開示ということによりまして、宗教法人自身と信者との信頼関係も強まり、なおかつ信者が業務や宗教法人の活動に積極的な参加をする、そしてまた開かれた宗教法人として社会に対する信頼にこたえるゆえんでもあろうかと思います。  もちろん、情報をすべて公開するというようなことは信者や個人のプライバシーともかかわるわけでありますから、宗教活動や自治が害されないような慎重な配慮が必要であろうかと思います。  今回の改正は、二十五条でもって備えつけが義務づけられている書類の一部を出すということであります。しかも、信者でも正当な理由があることが求められまして、不当な目的での閲覧請求であれば宗教法人の側が拒否することができるというような一定の歯どめも置かれているわけであります。  宗教法人は乱用的な開示請求に対しては拒否して、最終的には裁判所でもって正当な利益の有無と、それから不当な目的によるものではないのかどうかが判断されるということになろうかと思います。もし乱用の懸念があれば、アメリカ等で行われておりますように、自主的に閲覧請求についての要件を定めて、閲覧の理由を示した書類を五日前に提出するとか、条件を付すということは可能であろうかと思います。  一部に、信者の範囲がはっきりせず、こういうような状況でもって閲覧請求を認めると宗教活動への混乱が起こる、こういうような批判もありますけれども、信者の範囲は宗教法人自身が規則や慣行によって自主的に決定すべきものであります。  アメリカでは、信者の資格の取得、喪失、それから範囲については必ず規則でもって定める必要的な記載事項になっております。そして、構成員名簿の作成も義務づけられております。信者は宗教団体の構成員として極めて重要な要素でありまして、現行法の二条でも、そのほかの公告制度のところでも何回も出てくる重要な要素であります。その重要なメンバーに対して帳簿や会計審類等の閲覧が認められないということの方が私は非常に奇異に感じるわけであります。情報公開とか個人のプライバシーの保護は両者をどう調整するかという問題でありまして、情報の開示や情報公開が一切必要ないというような論拠にはならないというふうに考えております。  それから、所轄庁への書類提出の問題でありますけれども、二十五条でもって備えつけが義務づけられている書類について一定の範囲でもって所轄庁へ定期的に提出するということでありますけれども、これでもって法人の事務量が増加したり宗教活動を阻害することにはならないというふうに考えております。これに対しては、財務報告のようなものだとしても宗教におけるお金は宗教活動そのものと関係するから問題なんだということはありますけれども、宗教活動というのは宗教法人が布教等で社会に対してアピールする最も重要な活動であります。それが社会に対してオープンになるということは極めて自然なことだと思います。  アメリカでは、宗教法人となっている以上、州務省や司法長官の事務所に対して年次報告書、アニュアルレポートというものですけれども、これを必ず提出しなければなりません。一定期限内に提出しない場合には、宗教法人の解散事由あるいは認証取り消しの事由になっております。カリフォルニア州でも、毎年、州務省や司法省に対して報告書の提出が要求されております。これは書類提出によって宗教法人の透明性、公開性を確保する趣旨だというふうに説明をされております。  我が国でも、所轄庁への書類の提出は自発的に行われておりまして、宗教法人の活動や財務の透明性を促進するシステムはぜひ必要ではないかというふうに考えております。宗教情報への国民からの問い合わせは非常に数多く、刻々と変化する宗教法人の実態や実情の把握のために宗教団体の協力もぜひ必要であるところであります。  これらの提出書類について言えば、法人の財政や財産の管理という世俗的な事項に関するもので、宗教活動という聖の部分に関するものではございません。宗教行政を考えますと、宗教法人の認証事務と、それから宗教法人の運営に対する適切な指導ということと、それから宗教情報の収集ということを柱としておるわけであります。宗教法人の実情や実態の把握という所轄庁としての責務を果たすためにも、定期的に財務等の書類を提出してもらうことは必要不可欠であろうと思います。  もちろん、所轄庁は提出書類の取り扱いや利用方法について信教の自由を妨げないように配慮する必要がありますし、どのような書類の保管や利用方法をとるかが今後の重大な検討課題であると思われます。アメリカやフランスでも、必ず定期的に行政庁に一定書類の提出を求めているわけですけれども、それが宗教弾圧であるとか思想統制であるという声は聞かれておりません。  それから、所轄庁の質問権でありますけれども、現行法では一般的、包括的な調査権というものは認めておりません。しかし、七十九条、八十条、八十一条にございますように、宗教法人が実体を欠いていたり、あるいは管理運営上重大な問題を起こしているという疑いがある場合には、所轄庁は重大な是正をするための権限を付託されております。それにもかかわらず、このような重大な権限を行使しようとしても、その実情や事実を確認する手だてがなければ、これは手足を縛られているのと同じような状態になるわけであります。  しかも、こういうような限定的な仕方でもって質問をするということに限られて、宗教法人審議会の意見を事前に聞くというような事前の歯どめも用意されております。また、質問権という場合には立入調査を含まないというような枠まではめられているわけであります。私自身は、これはむしろ信教の自由や宗教活動の自由を阻害しないようにという配慮だと思いますけれども、自発的に報告や回答をきちんとしてこない場合に過料としての一万円以下の秩序罰というのは余りにも実効性がないように思われます。むしろ、アメリカのように、報告や質問、調査について正当な理由なくこたえないような場合には、あるいは虚偽の報告をする場合には、裁判所への必要書類の提出を求めるというような実効的な措置が講ぜられる必要があると思います。  また、オウム真理教の場合もそうでありますけれども、現在に至っても資産隠しは後を絶ちません。アメリカでは、裁判所が解散命令の手続をとる際に、財産保全管理人の選任やその処分行為の差しとめ等、財産保全に必要な措置をとる規定が置かれております。債権者あるいは被害者が個別的にその仮差し押さえ、処分禁止の仮処分等を行うということもありますけれども、やはり制度的にきちんとした対応をしておく必要があると思います。  それから、七十九条から八十一条にかけてですけれども、七十九条、八十条は四十四年以上たっておりますけれども適用例はございません。そして、ようやく八十一条一項一号、二号のケースは今回オウム真理教で初めて出たというようなぐあいでございます。休眠法人の売買があるなど、どうも事実上機能してこなかったわけであります。現行法のシステムとしての不備を放置したまま、事実の確認や実情把握の手段も与えないまま、所轄庁の怠慢であるとか行政の及び腰であると、もちろんそれもあるでしょうけれども、それだけを非難しても何ら問題の解決にはならないわけであります。  宗教法人法は、アメリカでの政教分離の原則に立って、ノンサポートであるとかノーコントロールであるということを公言してはばからない方がいらっしゃいますけれども、しかし税法上の非課税特権を享受しながらノンサポートであるというのを一般庶民は果たして納得するでしょうか。また、認証取り消し、解散命令など、現行法上も最低限度の行政的な規制は用意されておるわけであります。  アメリカでは、まずできるだけ国家あるいは公的機関の介入を排除するために、第一次的に内部規制や自己管理のメカニズムを導入して自律性を強化するわけであります。しかし、第一次的な自己規制がうまく働かないという場合に備えて、州や国が司法行政による必要最小限度の外部的なコントロールを行う。これが民主主義社会での基本的なルールであろうというふうに考えております。  時間がなくなりましたので簡単にしますが、宗教法人も、ディスクロージャーですとか自己決定とか情報公開、知る権利など、民主主義的な原理や自己規制のシステムが導入されることで初めて公的な介入の排除という憲法の原則が貫徹されるわけでございます。この機会に、宗教法人における内部的なコントロールのあり方、信者の地位や機関の役割やあり方、行政に期待される責任とその役割の範囲、こういうような宗教法人法の基本を問い返してみるべきではないかと思います。そしてまた、自主的に公正な第三者機関を設けるなど、宗教団体自身が自己管理、自己規制のための自浄努力を展開していただくということが非常に必要であるということを痛感しまして、私の陳述にかえさせていただきます。  御清聴どうもありがとうございました。(拍手)

倉田寛之自由民主党・自由国民会議

○委員長(倉田寛之君) ありがとうございました。  次に、鈴木公述人にお願いいたします。鈴木公述人。

鈴木徹衆真宗大谷派僧侶

○公述人(鈴木徹衆君) 私は、真宗大谷派、いわゆる東本願寺派でございますが、そこの末寺の住職をしております鈴木徹衆でございます。本日は、法人法改正をめぐる問題について、小法人の現場におる私どもからも発言の貴重な機会を与えられましたことを心から感謝いたします。  宗教界ではこの改正法案に対してほとんどが反対だという意見が聞かれておりますけれども、実際は、賛成の方、あるいは慎重に審議を進めてほしいという方、それからもちろん反対だというようにさまざまに分かれております。したがって、宗派あるいは地域仏教会で積極的にこの改正に反対するという統一見解などはどこも出ておりません。ある宗派でも、宗務総長の個人的見解とか、あるいはほとんどの宗派でも、宗議会で一致して反対ということを表明している教団は私は聞いておりません。  そういうような状況でありますが、その中で私自身は改正に賛成という立場で発言をさせていただきます。  しかしながら、法改正に関する疑念あるいは警戒心、不安、そういったものが宗教界にたくさんみなぎっていることは事実であります。その根底にあるものは、本委員会でも既に論議されておりますように、戦前の治安維持法並びに宗教団体法における弾圧と統制という歴史的な経験から来ていることは当然でございます。同時に、戦後もそうした問題、政教分離、信教の自由を侵すような極めて危険な動向が生じておりました。これに対して宗教界の大きな運動がありました。そのことについて、ちょっとそこから触れてみたいと思います。  改正の問題が起こったのはこの宗教法人法が制定された一九五一年からわずか六年後でございまして、一九五七年には既に宗教法人審議会において十一項目の改正案が出されました。そもそもその経過は何だろうと、制定してわずか六年にして改正へという問題が浮上してくるというのは一体どういうことなのかと。  その事の経緯は今回と共通しているところがありますが、霊友会の岩手県下における信者踏み殺し事件、それに続いてほんみちの信者の病死事件、それからさらに大日教の教祖による三千万円着服事件、さらに立正佼成会に対する解散請求が東京地裁に出されるに至りました。続々とそういう問題がその当時出てまいりました。  そして一九五六年、衆参両院の法務委員会において宗教問題が取り上げられるということになりまして、そうした経緯から、法改正の問題というものが既に制定六年目に起きてきているわけです。そのように、今回と内容は大分違いますけれども、事の経緯は共通したものがあろうかと思います。その両院法務委員会において、大衆の無知、病気、貧困、精神的苦悩に乗じて入信を強要したり、非科学的な医療類似行為や迷信的行為で公共の福祉を破壊する宗教界の現状などというものが論議されまして、法改正が必要ではないかということから、その当時の清瀬文部大臣が宗教法人審議会に諮問をした。そして、翌年一九五七年に十一項目にわたる改正案が出たわけです。  この改正案に対しては、当時強烈な宗教界全体の反対表明と反対行動が展開されました。これは、宗教界におけるそうした状況が経緯になっておりますが、その政治的背景は実に大変な問題があったわけであります。一九五一年から五六年といいますと、サンフランシスコ条約が締結されて、日本の独立と占領政策の見直しというようなことで憲法改正論も既に出てきましたし、それを初め、宗教界においては伊勢、熱田両神宮の国営化問題、紀元節復活問題と、こうした問題が続々と出てきて、マスコミからは逆コース時代と称されていた時代ですから、これはもちろん警戒をし、あるいはそうした政治的な背景に憂慮する多くの宗教界は法案に対して反対の行動に出たわけです。  その改正案の十一項目の第一を見ますと、「この法律における宗教活動の定義を明確にすること。」とし、「この法律では、宗教団体を「宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする左に掲げる団体をいう。」と定義しているが、これでは神社等の示教活動が充分に示されていないと思われるので、より適切な表現に改める必要があること。」と説明をしているわけです。その当時、伊勢、熱田両神宮の国営化をめぐって戦前、昭和初期に国会でも展開されました神社非宗教論、神社は宗教にあらずと、この論議が再燃したわけです。そして、神社本庁の参考人の方も元旦言われておりましたが、神社には教義もない、いわゆる宗教法人の枠にはないんだ、だから、宗教法人法自体に神社本庁としては反対していたんだし、しているということを冒頭申されておりました。これは、一般宗教法人の枠外に置く、特別な扱いをする、差別をするんじゃなくて特別な扱いをする、いわば戦前の国家神道、特別な位置にあると。  では、神社は宗教じゃなきゃ何なのか、我が国民族の尊崇すべき道義である。それによって戦時中は全部神社参拝を強要され、神社参拝を拒否するような者は安寧秩序を妨げるという不逞な輩である。したがって、神社参拝拒否などということは弾圧される。こういう時代があったことは御承知のとおりでございますが、それの復活に道を開くものであると。改正案第一項目の宗教活動の法による定義となりましたらこれは大変なことでありまして、そういうことはできないはずなんですけれども、それがうたわれるということです。  そういう背景があったということに対して猛烈な反対運動が起こったわけでありまして、それは答申のみであって、その当時法改正には至りませんでした。  そういう経緯から、その当時、制定六年にして既に法改正案があった。さらに、それに続くこと六〇年代に参りましてからは、佐藤内閣の当時ですが、御承知のとおり靖国神社法案が提案され問題になる。そして、靖国神社法案が六回にわたって提案され、もちろん廃案になる。これも宗教界初め各界の大きな抵抗に遭うわけです。  この問題は、いわばその当時の五七年の法改正問題から靖国神社法案問題に至る中で、我々は政教分離の原則や信教の自由を守るということに対して大変厳しい抵抗と運動を展開せねばならないと、そういうことを戦後も体験した。  そういう中から、町の靖国と言われるようなことも起こりました。津地鎮祭違憲訴訟とか、あるいは自衛隊の殉死した方の合祀の問題をめぐってクリスチャンの遺族の反対の問題と、各地方で司法の世界で争われたそういう問題はたくさんあります。そういう中で、我々の生活の現場から政教分離、信教の自由を守るというのはどういうことかということをそういう運動の中から学ぶことができましたが、それだけに宗教法がいじられるということに対しては過敏な反応を示さざるを得ないと、こういう状況があるわけです。  町の靖国の中でも、例えば氏子が地方の神社などに鎮守さんを村中で守るというような伝統や慣習がたくさんありますが、とかく都会なんかになりますと、大勢の方が住んでおられるところへもってきて、町会の役員がぞろぞろ五、六人で神社のお祭りの寄附に回る。これは半ば強制的になっているんです。いつもお世話になっている町会の役員がぞろぞろ五、六人も来られちゃだれも出さないわけにいかぬ。これがまたお寺だろうがどこだろうが平気で来る。町会全体が即氏子にされる。こういうことは、そういう生活の場における信教の自由の侵害に当たるんではないかというようなことまで学ぶようになってきますと、宗教法案というのは、ちょっとこれは下手にいじられたら大変なことだという感覚が出てくるわけであります。  しかしながら、今回の場合はその一九五七年当時の政治的背景とは全然違うわけでありまして、とりわけ内容も、オウム教団の問題を初め霊感商法の問題等々反社会的な宗教活動、宗教団体の行為、これが数年前から大問題になっているというようなことが最大の問題であり、かつ東京都庁の認証のみで広域に宗教活動を展開し、多くの宗教施設を全国に持つということなんかは、私はこの問題が起こる前から不思議でした。ちょっと納得できなかったんです。  私は、この問題以前に東京都庁の宗教法人係に電話しまして、神奈川県に私どもの寺の支院をつくる場合に神奈川県庁の認証を受ける必要はないんですかと言ったら、ありません、東京都で受けておるんだからよろしいです、物件が非課税物件であるという申請さえすればよろしいということを聞いて、あれっと思ったんですね。  しかし、我々東本願寺の直接的な支院である東本願寺別院が各県にあります。東本願寺金沢別院だの名古屋別院だの、その別院はすべてそこの県の所轄の認証を受けております。もちろん、我々は被包括法人としての認証を受けるのは当然だと思いますけれども、本願寺の支院だったら、本願寺は京都府の認証を受けているんですから、支院である東京別院はそれじゃ認証などは要らないんじゃないか、東京都の認証は要らないんじゃないかというようなことになります。しかし、その別院が本当に公衆礼拝の用に供する建物と内容になっておるかどうかは、その認証を受け、そしてその行政的な指導のもとにあるわけですから、それを受けなきゃならぬ、厳密に言うならばそうであると。  じゃ、そうした認証を東京都だけから取って、全国各県下にあるあとすべての宗教施設に対してはその県下の宗教法人係の掌握外にある。そういうような法の不備を利用して山梨県下や熊本県下に壮大な土地、建物を建てるというオウムのような問題が派生じてくる以上は、やはりそういう広域な活動をするところは文部省の所轄にすべきである、これは当然であると。また、我々教団のように包括・被包括関係を明確にしていかなければならないんじゃないかというようにその点は思います。  二つ目の問題として、税法上の問題であります。  宗教法人は何か聖域のように思われておりますけれども、実際、我々小法人に対する税務調査の過酷さは、これは一般に知られていないんですね。  テレビでいろいろとオウムの問題をめぐって弁護士さんやほかの方が話しているのを聞いていますと、そこは真空地帯があるいは触れてならない聖域のように、法人の認証さえ受ければ後は何をやっても構わないような状態になっておると言いますけれども、実際には、私どものそれぞれ寺院の調査は、過去帳の提示を初め、住職、家族の預金通帳の提示から、本堂に永代経料が掲示しであればその裏を調べる、さい銭箱の隅々に至るまで全部これは一般の法人に対する調査と全く同じです。時間も三日ぐらいかけます。そして、住職が金庫の方に何か書類をとりに行けばちゃんと後ろについてくる。過去帳など大事なものは金庫にしまってありますから、そうするとどんどんついてくる。これは脱税の疑いがある一般の調査と少しも変わらない。その調査に来られる理由は、源泉税に関しまして調査に伺いましたと。源泉税で給料以外になぜそんな全体のことを調べなきゃならぬのかと、いや、財政全体の動きを我々は掌握しておりませんとならぬものですからと、こうおっしゃるんです。  甚だしい問題も生じてきております。例えば遺産相続に関する葬儀ですと葬儀等にかかった費用は控除されます。お坊さんの方にお経料を幾ら払ったとかいう申請は税務署に届いております。ところが、その届いている額が寺に記載しであるものと違う。お寺じゃ五十万円いただきました、向こうは百万円出したと税務署には申告してある。そういう食い違いがある。そうすると、その差額は住職の給与以外の所得として追徴課税されるということになるわけです。しかし、税理士さんに聞くと、領収書のやりとりのないそういうものについて控除されるんだから、人情的にはどうしても余計に申告してしまう場合がある。そういうこともある。  そういうことになっていまして、近ごろ仏教界で共通した領収書をきちっとつくって発行するということによってそのことを解決したり、あるいは税務署いわく、お布施の裏に金額が書いてあるでしょう、そのお布施の包み紙を証拠書類として保存してくださいと。そこまでやらなきゃならぬ。  どこに聖域があるのか、お布施の内容について。そういうことについてどっちをあなたは信用するのか、納めた方なのか、もらった方を信用するのかと。そうしたら、いや、宗教者は信用できないからというようなことで、そういうことを実際に言われた署長さんがおられまして、我が教団のある教区ではその署長に抗議に行きまして撤回させ、おわびをさせたこともある。また、檀家との間でトラブルが起こる。こんな重大な問題すら起こっている。にもかかわらず、この大教団における億に及ぶ金の動きや疑惑について何ら調査が入っていないじゃないか、これはどうしたわけだと。  こうした問題から見るならば、トータルされた教団の収支決算書、財産目録等を所轄庁に提出することなどは何でもないことでありまして、プライバシーとか聖域とか言いますけれども、我々の寺の金銭出納簿になりますと、だれだれさんがお布施をいつ幾ら出したというのが出ていますから、これは檀家の方にうっかり見せますと、何だあそこはこれっきゃ出していないのかとか、プライバシーにそれこそかかわりますけれども、こういう問題もある。  したがって、我々教団では年間の予算、決算を全部教師並びに信徒に公開をしておりますし、年々教団機関紙で報告しております。これは当然しなきゃならぬことだと思います。  また、もう一つ書類関係提出に関してですが、小法人についてはしばらくは見合わせるというふうなことを言われております、三千万円以下法人については。しかし、これは当面文部省所轄の大教団並びに包括法人のみにしておいていいのではないか。全被包括法人の単位に及んでまで額を決めて提出させる必要はないのではないかと思っております。  時間が参りましたので、また後の御質疑等をいただきまして補足したいと思っております。どうもありがとうございました。(拍手)

倉田寛之自由民主党・自由国民会議

○委員長(倉田寛之君) ありがとうございました。  次に、飯坂公述人にお願いいたします。飯坂公述人。

飯坂良明学習院大学名誉教授

○公述人(飯坂良明君) 私は、政治学・政治思想を専攻しておりまして、特に宗教と政治の問題に関心を持ち続けております。  今回の宗教法人法の改正につきましては、その内容と手続及び目的等に問題を感じるのでにわかに賛同しがたく、もう少し審議を慎重にし、宗教団体その他関係者の意見に耳を傾けるべきだという慎重論をとるものでございます。もちろん、現行宗教法人法が完全無欠であるとか、その改正が絶対いけないとか言っておるわけではございません。会長を除く審議会委員の半数、つまり七名がいまだ納得できない点がいろいろあるからもう少し話し合いを続けてほしいと言っているのに、これを打ち切って急遽国会に法案を提出したことに対するこれら七人の抗議声明を見ましても、十分民主主義的な手続が尽くされたとは到底言いがたいというふうに感じます。  それから、現行法人法は、憲法に規定された信教の自由を保障すべく宗教団体がその目的達成のための活動をしやすいように法律上の能力を与えることを目的としてっくられたものでございますので、これに今回のような報告義務や質問権や立入調査権、場合によってはですね、といった規制の要素を加えることは、法律そのものの本来的性格を変更することになるのではないかという疑念を多分に持っているというのが宗教関係者の危惧でございます。  それなのに改正をこれほど急ぐ理由は一体どこにあるのでありましょうか。それほど差し迫った問題があって、今すぐ変えなければ国家や国民に大きな危険や損失をこうむらせることになるということが果たして予想されるのでありましょうか。この改正でオウム真理教のような事件が防げることにはならないし、それをねらった改正ではないことは総理みずからが答弁されているとおりであります。  それでは、巷間しきりにささやかれておりますように、ある政党と宗教団体との関係を絶って次の選挙に与党がより有利な立場に立とうという意図から出たものか。そうなら、それは宗教一般を党利党略に巻き込もうとするもので、宗教のための改正というよりも政治的理由による改正ということになりはしないか。それに、この改正によっても宗教団体の政治活動を抑えようという意図は達成できないでありましょう。  現行宗教法人法のもとで、神社本庁、教派神道、全日仏、キリスト教連合会、新宗連の五連合会から成る日本宗教連盟、日宗連は、文部省の宗務課とはこれまで極めて友好的な関係を保ってきておりまして、法律で義務づけられなくてもみずからの収支などを明らかにする努力をしている宗教団体も多いわけであります。透明性や自浄能力が足りないと言うのなら、それを自発的に高めるようにする忠告や話し合いの余地は十分にあると思います。それを法律で義務づけるということになりますと、自由にとっては望ましいことではありませんし、宗教の持つ自発性を損なうことになりかねません。自由を保障すれば、どうせ自由を悪用し、悪いことをする者がたまには出てくるということはあり得ます。それは自由のコストとも言うべきものでありまして、社会の批判と本人の良心に訴えて是正していくというのが自由社会の基本的なあり方であります。  それで、それを規制するといたしますと、例えば先ほど非常に厳しいアメリカの御説明がございましたけれども、アメリカではそれと同じように政治家のお金の出し入れも一万円前後を基準にして必ずそれを議会に提出しなければいけない。すべての雰囲気がそうなっている社会とそうでない社会との違いを考えなければいかぬと思います。  それとも宗教性悪説を前提として、先ほどもそういうお話がありましたが、法による規制に頼らなければ宗教は度しがたいというのでありましょうか。宗教も含めて自由社会の運用は話し合いが基本ではないか。  政教分離には友好的な政教分離と非友好的な政教分離がありまして、かつての共産主義国家では、宗教悪者説に立ちますから、なるべく宗教の国家や社会に対する影響をそごうとして非友好的な政教分離、つまり宗教の活動範囲をできるだけ小さくしようとして、そして国策に合うようにしようというような、そして時には宗教に対する弾圧をもって臨んだということが実際に戦後もあります。日本やアメリカの政教分離は友好的な分離とされ、特権を与えないにしても宗教が活動しやすいように配慮するということを旨といたしております。今回の法改正は、宗教を権力の規制の外に置こうとする友好的分離の精神に反するのではないかという思いがあります。  政教分離には、宗教の方でも政治上の権力を行使してはならないという制約があります。宗教が政治上の権力を行使するというのはどういうことかと申しますと、これは憲法学者もいろいろ言っておりますが、端的な例を挙げますと、ホメイニ治下のイランのようなイスラム・ファンダメンタリズムによって支配されているような国家の態様を考えればよろしいと言えましょう。そこでは、イスラム・シーア派の神政政治によるイスラム共和国の形成ということを考えておったようでありまして、宗教の団体あるいはその指導者が直接、立法権、課税権、裁判権などを行使するということで、日本のような宗教的多元社会ではまず考えられないことであります。  これに対して、よく混同されますのは、宗教の政治的活動や役割の問題であります。近代社会では、宗教を人間の内面性の領域にとどめておいて、その公共的役割を認めようとしない考え方が出てまいりまして、とかく宗教をプリバーテザッへ、私的関心事にとどめておきたいという立場は、マルクス主義の宗教の取り扱い等にもあらわれております。  しかし、宗教が世のため人のためという観点から国家の正しいあり方に関心を持つのは当然のことでありまして、宗教には正義や人権という視点から国家に対して国家権力が腐敗したり悪魔化したりしないように見張ったり批判したりするという役割が当然認められます。また、国家がみずからを絶対化して一つの宗教になるというような傾向に対しても、宗教は厳しくこれを戒める必要があります。つまり、国家の宗教化もいけなければ、宗教の国家化もあってはならず、相互に一定の距離を置きながら創造的な緊張関係を維持していくことが望ましいとされるわけであります。これを宗教の政治的見張りの役目と西欧では申します。ポーランドやフィリピンでの教会の役割がヤルゼルスキーやマルコス権威主義体制を改めるのに大きな力となったということを忘れてはなりません。  宗教は本来、民主主義的ではないという有力な政治家の不用意な発言が最近ありましたけれども、宗教と民主主義の関係につきましては、多くの研究がなされております。そうした研究を御存じの上での発言であったのでありましょうか。特定宗教を念頭に置いて、それを一般化するようでありましたら、それは宗教に対する公正な見方は出てまいりません。特定宗教を規制したいからといって、それを宗教一般に及ぼされては他の宗教は迷惑をするわけであります。長い伝統や歴史を持つ宗教は、国家より以上に持続的生命と道徳的復元力を持っており、自己革新の能力を備えております。そして、宗教を真に批判するものは、国家や法律ではなくて、世論であり、社会であり、歴史であります。  したがって、今回の急ぎ過ぎた嫌いのある法改正は、宗教というものを取り扱うのに木を見て森を見ないという過ちを犯してはいないでありましょうか。  確かに、特定宗教と政治あるいは政党の結びつきを気にしている政治家や一般国民も少なくはありません。その是非を論じるには、まず西欧民主主義国家においていわゆる宗教政党、といっても歴史的にはカトリックの政党が多いんですが、プロテスタントもありますが、それがどのような歴史的必要や背景から起こってきたか、そして宗教政党と言われるものの中身、つまり政党がいかなる意味でそしてどこまで宗教的という名に値するのか値しないのか、政党の綱領や政策においてどうか、党員や支持者の宗教的所属はどうか、そして党資金の出どころはどこか、さらに最も重要な点でありますけれども、教会と宗教政党との関係はどうなっているかなどの比較研究が十分になされた上で判断すべきものであると考えます。  ほんの二、三の例を挙げますと、例えばオーストリアのキリスト教民主主義政党であるオーストリア人民党、ベルギーのキリスト教民主主義政党でありますキリスト教人民党、オランダのキリスト教民主主義アピール、CDA、イタリアのキリスト教民主党、ドイツのCDU、CSU、フランスの社会民主主義センター、ノルウェーのキリスト教人民党等々がありまして、極めて我々の参考になる比較研究の材料になるわけであります。また、カトリック労働組合がございますところもありまして、そういう意味でもう少し慎重に考えなければいかぬ。  アメリカでは、近年、ニュー・クリスチャン・ライトとか新宗教右翼と称される保守的な、そして場合によってはファンダメンタリスト的な傾向を示すクリスチャンがレーガンやブッシュの大統領選に大きな組織的役割を示すようになっており、特にレーガンとモラルマジョリティーの関係が注目されております。  ニュー・クリスチャン・ライトと言われるものの中で大きな影響力を持っておりますものにテレバンジェリストと言われる宗教指導者たちがおりまして、全国ネットワークを持ったテレビに登場する伝道者でありまして、パット・ロバートソンとかジミー・スワガートなどを初めとするいろいろな人々がおりますが、この伝道方法は役者以上に演技的で、何百万という人々を霊的、精神的に高揚させ、それを実は宗教的な集票に使っておるという事実があります。  例えばロバートソンの場合は、ブッシュのころ、ロバートソンを大統領にしようという支持請願三百万を背景に恐るべき政治組織をつくり上げ、共和党から大統領候補に打って出て、寄附で集めた二千九百万ドルでブッシュに次いで共和党の予備選挙では百万票以上をとりまして、こうした番狂わせが新たな宗教勢力の台頭で起こったことがあります。こうしたことが起こりましても、アメリカでは、それではこれを法で規制しようかというようなことは実はないわけであります。  宗教界に、教団同士が対話し協力し合って自己規制、自浄能力を高めていくという宗教協力の機運が高まってきております。これも政教分離のおかげであります。というのは、ある宗教だけが特権的地位を与えられますと、他の宗教が差別扱いされて対等に話しにくくなるからであります。国家はどの宗教からも等距離を置かなければいけませんし、それが政教分離の趣旨であります。  そういう点から考えますと、今回の改正による例えば財務報告義務については、これは法的な義務とするよりも、むしろ自発性に訴えて宗教団体にそれをさせるという政策的な配慮はまだ余地があると思います。  ところで、私の手元には、宗教法人法の改正のみをこのように急ぐことに対する疑念と、宗教団体がこうした問題を機会にさらに透明性や自浄能力を高めようとする決意とを盛り込んだ「宗教法人法改正問題についての声明」がございます。これは、諸宗教団体と相談して法律や政治や宗教を専門とする学者たちが起草し、諸宗教団体に呼びかけてのもので、この十日ばかりの間に既に五十一の団体及び団体指導者の賛同が集まっております。今後も続々とこれは集まってくると思います。  例えば、沖縄県仏教会、京都仏教会、浄土宗、真言宗は八派、それからキリスト教関係はカトリック、プロテスタント等が名前を連ねておりまして、憲法学者、宗教学者、宗教学会の会長も名前を連ねております。こうした相互協力と自発的な決意こそ自由な社会においては大切でありまして、これを助長するのが役所の姿勢でなければならないと思うのであります。  そうした自発的な自己規制は、既に大学の自己評価や映倫の活動とかそういうものに見られるわけであります。私は、今回の法改正が政治的過程の中で万一通過したとしましても、その後は行政任せになりかねないのでありまして、宗教界は自主的なオンブズマンの機能を果たしていかなければならず、あわせて自浄能力を高めるために新たな組織化が緊急に必要になるのではないかと思うのであります。  最後に、マルチン・ルーサー・キングの言葉を掲げて、私の公述を終わりたいと思います。  教会あるいは宗教は、国家の主人でもなければ下僕でもなく、むしろ国家の良心であるということを常にみずから想起すべきである。こうした観点から、私どもはこの改正の慎重論を申し上げるわけであります。  御清聴を感謝いたします。(拍手)

倉田寛之自由民主党・自由国民会議

○委員長(倉田寛之君) ありがとうございました。  以上で公述人各位の御意見の陳述は終わりました。  それでは、これより公述人に対する質疑に入ります。  質疑のある方は順次御発言願います。

楢崎泰昌自由民主党・自由国民会議

○楢崎泰昌君 三人の公述人に、お忙しいところをお出かけいただきましたことをまず御礼申し上げます。  お三人の公述人、それぞれスタンドポイントが違っておられますし、お述べいただいたことも相当違っているように思いますが、私どもこの宗教法人法の審議をずっといたしておりまして、やはりポイントは宗教と政治との関係、その関係においてこの改正法律案が妥当なものであるかどうかという問題であります。  棚村公述人は、それについて妥当ではないか、社会的ないろいろな影響から見てそれが妥当であるというぐあいにお述べをいただきました。鈴木公述人は、その程度のことは必要ではないかというぐあいにお述べをいただきました。それに対して飯坂公述人は、自助努力でやればいいんだ、法律でやる必要はないんだと、こういう趣旨の御発言。さらに後段において、宗教と政治のかかわりについての世界的な展開をお述べいただきました。  そこで、飯坂公述人にお伺いをするんですけれども、宗教と政治との関係において、今出しているこの法律案は妥当、妥当でないはもちろんあると思います。それはいろんな観点がございますからお立場等は一面あると思いますけれども、宗教と政治という関係からこの改正法律案はくあいが悪いというぐあいにお考えなんでしょうか。  すなわち、この改正案は政治と宗教とのかかわりにおいて宗教の心の自由を阻害するものではない、聖の世界と俗の世界から見てこれは俗の世界に属することであるというような議論が行われているんですが、いかがなものでございましょうか。

倉田寛之自由民主党・自由国民会議

○委員長(倉田寛之君) ちょっと速記をとめて。    〔速記中止〕

倉田寛之自由民主党・自由国民会議

○委員長(倉田寛之君) 速記を起こして。

飯坂良明学習院大学名誉教授

○公述人(飯坂良明君) ただいま御質問をちょうだいいたしましたわけでございますが、一つは宗教と政治。特に政治が宗教を取り扱いますときには、内心の自由のみならず信教の自由というのは複合的な自由でございますから、それには言論の自由も表現の自由も結社の自由も、それからもちろん良心の自由、すべて含まれた自由で複合的自由でございます。しかも、信教の自由と申しますのものは、これの闘いがほかの諸自由に発展していったという歴史的な経過もございますので、極めて慎重にしなければいかぬというのが私の申し上げたい点でございます。  ところが、今回の法改正におきましては、いいかげんなことをやっている宗教団体がどうこう言うというんではなくて、まじめな宗教団体の方々がもう少し納得いくように審議をしてほしいとおっしゃっているのをあえて急遽お出しになったということは、これは政治が本来基づくべき民主主義的なルールに反するのではないかというのが私の疑問でございます。  それから、聖と俗ということでございますけれども、実は聖と俗というのはそう簡単に私は分けられないものだというふうに思います。それはちょうど、精神と肉体とは頭の中では分けられますけれども現実には簡単に分けられないというのと同じような意味合いを持っておるのでございます。それだけに、比較的俗的な部分を取り扱うということだからいいじゃないかとおっしゃいますけれども、それには俗的な部分であっても型的な部分につながるものがございますので、そういう点を私は慎重にしていただきたいという意味で、初めから申し上げておりますように、私はもう少し慎重にしていただくという慎重論でございます。

楢崎泰昌自由民主党・自由国民会議

○楢崎泰昌君 そうすると、飯坂先生のおっしゃりたいことは慎重にしろということであって、現在の改正案は全く困るんだ、おかしい、信教の自由であるとか言論の自由であるとかそういうことに基本的に触れるんだというお話ではなくて、もう少し時間をかけて審議をしてくれ、聖と俗というものはつながりが非常に深いのでなかなかその区別がつかないんだよという御意見でしょうか。もしそうであるとすると、これは百年戦争と同じになってきちゃうんですね。  しかし、現実の問題として、先生がおっしゃいましたように聖と俗とは非常につながりが多くて、さっきちょっと仰せになりましたけれども、聖の部分と少しでもつながりがあったらそれはいかぬということではなくて、むしろ俗の部分が多いわけですから、財務諸表というのは金銭上の話ですから俗の俗たるものなんですね。それが心とつながっているから、それは慎重に十分時間をかけて論じてもらわなきゃ困るというような御意見になるのでございましょうか、飯坂先生にお伺いをいたします。

飯坂良明学習院大学名誉教授

○公述人(飯坂良明君) ただいまの先生のお話でございますけれども、慎重にということは、この改正内容が別に問題はないけれども慎重にという意味ではございません。例えば、改正内容がどこで聖俗に触れるところがあるかどうかというような微妙な点はもう少しお互いに慎重に話し合わなきゃいかぬと。ですから、改正内容はオーケーだけれども、ただ慎重にしてくれということではございません。  それから、改正の中で、例えば収支計算を出せと法律で決めたって別にそれは俗の方だからいいんじゃないかとおっしゃいますけれども、私が恐れますのは、例えばそういう形で改正案が通りますといたしますと、実際は担当の行政官庁がこれを実施するわけでございますね。そうしますと、そこにはその官庁の行政指導があり、行政解釈があり、そしてそれに対して宗教団体はいろいろな問題あるいはことを言ってこられると、本来何でもなくても自由な雰囲気を非常に損なってしまうんじゃないかと、そういう点がございますので、むしろ慎重にもう少し考えた方がいいんじゃないか。  特にただいまは、先ほどもお話があったかもしれませんが、行政改革ということで、権限をふやしてまいりますと、行政改革ということが言われておりますのにそれに関連して予算がふえる、人員がふえるというようなこともついて回りますので、そういう点から私は慎重論を申し上げておるわけでございます。

楢崎泰昌自由民主党・自由国民会議

○楢崎泰昌君 今回の改正案が出されましたいろいろな理由があると思いますけれども、その中で宗教法人は社会的な存在として俗の世界にいるということなんですね、先ほどもお話がちょっと出ましたけれども。  特に、与えられている大きな特典、特典と言っていいかどうかは問題があると思いますけれども、税制上の問題がございます。社会的存在として税制上の優遇措置が行われている。これはさっきも申し上げましたけれども俗の俗の部分なんですね。その俗の俗の部分にかかわりのある財務諸表その他そういうものは、いやこれは自主的にやればいいんだ、これは心に微妙に触れてくるから出す必要はないんだというような主張になるんでございましょうか。飯坂先生にお願いいたします。

飯坂良明学習院大学名誉教授

○公述人(飯坂良明君) 実は宗教団体も営利事業などに関しては、先ほどもお話がございましたけれども、非常に厳しい規制のもとに立たされてそれを受けておるわけでございます。ところが、宗教団体はほかの公益法人と同じように、公益法人として例えば免税や非課税の特権を受けておることが、それを特権と言っちゃいけないのかもしれませんが、公益法人並みの扱いを受けておるという点がございます。それは、本来宗教がその活動をしやすいようにという観点からのそういうものが与えられているというふうに私は考えるわけでございます。  したがいまして、それに対して、しかもこれはどこかから補助金を受けているとかなんとかいうことでございますと、これに対する査察が入るとかいうことがございましょうけれども、信者の善意の献金というものが主になっております。  したがいまして、その献金にこたえるというのは、これは宗教の本来の姿でなければいかぬと思うのでございますけれども、それをお役所が、例えば今回の法律改正案によりまして、これがおかしいじゃないか、どうじゃないかというようなことになりますと、今度はかえって信者、お役所それから教団、こういうところにいろんな誤解や波風が立つということの心配をするわけでございます。  しかし、ある程度の、例えば今の営利法人に対する、その何%がどうだというようなことを見直せというようなことは十分これまた考えられることでございまして、それはほかの法律でやればよろしいと。ただ、宗教法人法は、これができましたときの本来の趣旨にかんがみまして、ここにはなるべく規制の要素を入れないのがよろしいのではないかというのが私の考え方でございます。

楢崎泰昌自由民主党・自由国民会議

○楢崎泰昌君 先生おっしゃいましたように、収益事業を営んでいる者は現在においても課税対象になっております。しかし、同時に税制では、宗教団体の本来の事業、そこについても、公益法人がお買いになった土地でも礼拝その他主として宗教の用に供せられている施設は固定資産税が免除されているんです。これは特権とは言わないんでしょうか。  すなわち、先生は補助金を受けているならともかくもと今おっしゃいました。現金が交付されるわけじゃありませんけれども、税金を払わないという意味で特別の援助がなされていると考えるべきじゃないんでしょうか。  また、それに応じて、ディスクローズをする国民に対する義務、すなわち免税をしていただいている、それはすなわち援助になるわけですから、それに対してみずからのポジション、少なくとも俗の部分のポジションというものをディスクローズしていくべきではないでしょうか。そういうぐあいにはお考えになりませんでしょうか。飯坂公述人に。

飯坂良明学習院大学名誉教授

○公述人(飯坂良明君) 例えば固定資産税、今回の法改正の中では固定資産税の問題というのはございましたでしょうか。そういう固定資産税の問題などを、これはお互いにもう少し話し合って課税すべきであるというようなことも抽象的には私は考えられると思うんです。しかし、そういう場合には両方で話し合って、それから宗教界に対して、自分の利益だけ追求する団体ではありませんから、十分に話し合いの可能性はあると思うのでございます。  したがいまして、固定資産税そのものを先生が今お出しになりましたのはどういうことからかということをちょっと私は考えるのでございますが、それと、今のようなお話はすべて、それじゃ宗教団体が一体どれくらい本来の目的や活動から逸脱しているんだというようなことを踏まえて何かおっしゃっていらっしゃるのでございましょうか。そのあたりをお伺いしたいのでございます。

楢崎泰昌自由民主党・自由国民会議

○楢崎泰昌君 先生、誤解しないでください。逸脱をしているとかそんなことを言っているんじゃないんです。そうじゃなくて、礼拝施設等については固定資産税が免除されていますよと。先ほど先生が社会的に何か補助金を受けているならともかくもというぐあいにおっしゃったから、それじゃ固定資産税が免除されているのはそういうことじゃありませんか、そういうぐあいにお感じになるんじゃないですかということを申し上げているんです。

飯坂良明学習院大学名誉教授

○公述人(飯坂良明君) よくわかりました。  これは、学校法人はどうでございましょうか。同じように固定資産税の免除を受けておりませんか。私は、余り法律の専門家じゃございませんですが、少なくとも学校法人もそうではないかと思うのでございます。そうなりますと、今度はなぜ宗教法人だけの固定資産税を問題にしなければいけないのかということが私はやはりお伺いしたいところであります。

倉田寛之自由民主党・自由国民会議

○委員長(倉田寛之君) 速記をとめて。    〔速記中止〕

倉田寛之自由民主党・自由国民会議

○委員長(倉田寛之君) 速記を起こして。

楢崎泰昌自由民主党・自由国民会議

○楢崎泰昌君 先生のおっしゃるように、学校法人も固定資産税が免除されています。しかし、ここのところが大事です。学校法人は全部経理諸表を所轄官庁に報告しているんですよ。そして明らかにしているんです。それに対しまして、今の宗教法人法では、認証をしたらそれ以後は報告の義務なし、調査をする権限もなしということで、どこに行ってしまっているのかさっぱりわからないんですね。  そこで、オウム真理教がこの報告書を出したからといって直ちにオウム真理教の今回の事件が防げるかどうかというのは非常に問題のあるところですけれども、せめて宗教法人が財務諸表ぐらいはお出しになるのは普通の考え方ではないでしょうかということをお伺いします。

飯坂良明学習院大学名誉教授

○公述人(飯坂良明君) おっしゃいますように私は普通の考え方だと思います。しかし、それを法律で義務づけるという必要は私はないと。と申しますのは、多くの宗教法人は自発的にそれを現にやっているという事実を私は存じ上げておりますからということでございます。

楢崎泰昌自由民主党・自由国民会議

○楢崎泰昌君 先生のおっしゃるとおりだと思います。多くの宗教法人は財務諸表をつくり、いろんな形で信者の方その他に御報告をなさっておられます。そして、今、飯坂公述人から、そういうこともいいと思うけれども法律には書かない方がいいんだと、こういうお話のように承りました。この問題は、法律にすべきかどうかというところで行き違いがございますので、これ以上の御質問はやめたいというぐあいに思っております。  それから、今度は棚村さんにもおいでいただいていますので、ちょっとお伺いをしたいんです。  宗教と政治とのかかわり合いにおいて、実は幾つかの議論が当委員会でも出ております。一つは国が宗教に対してどの程度関与できるのかということ、それからもう一つは宗教がどの程度政治に関与できるかということの側面の問題がございます。憲法二十条はそれぞれのことについて規定をしておりますけれども、棚村公述人のこれについての御見解を承れれば幸いだと思います。

棚村政行青山学院大学法学部教授

○公述人(棚村政行君) それでは、簡潔にお答えをいたします。  御承知のとおり、憲法二十条は信教の自由と政教分離の原則に立っております。これは、沿革的に申しますと、政治と宗教あるいは国家と宗教が結びついたことによって宗教自身も堕落をしたり、宗教的な心の救い、そういうような価値を追求することをゆがめた歴史があります。また他方で、国家も宗教と結びつくことによって他の宗教を抑圧したり弾圧したり宗教に対して非常に統制をするようなことが過去に、歴史的に洋の東西を問わずあったわけであります。したがって、国家と宗教との間に距離を置いて政治やあるいは国家の中立性ということを保つ両面の制度であるというふうに理解をしております。  ただ、私自身は、先ほどもちょっと飯坂先生からもお話がございましたように、民主主義の社会の中では宗教団体といえども政治活動はできますし、あるいはそのほかの経済活動、社会活動はできるわけであります。しかし、それには宗教団体や宗教法人という枠や目的があるわけですから、その目的の範囲を超えてしまいますと、これは宗教団体であり、単なる営利団体にならざるを得ないわけであります。  ですから、そういう厳しい自己規制と自己管理、セルフコントロールというもとで許された自由が政治活動であり社会活動である。ですからそこを、枠を超えたか超えないかという議論を憲法の観点からじっくりするべきだと思います。今まではそういう議論がされてこなかった。そういう点では、我々はオウム真理教という不幸な事件を機会に、そういう問題について徹底した議論をするということは必要であるかと思います。

楢崎泰昌自由民主党・自由国民会議

○楢崎泰昌君 私ども、政治と宗教とのかかわり合い、そして憲法二十条の解釈等々についてずっと議論をしてまいりました。政府見解はございますけれども、その政府見解について、さてもう一遍抜本的な見直しをすべきではないかという意見も出しました。  確かにグレーゾーンが相当あるんですね。政治権力を行使しないということの解釈についてそれ以上書いていないんですから、いろいろな解釈が行われるという意味でグレーゾーンがございます。一番大事なのは、公述人の言われましたように自己規制が必要だと思うんですよ。みだりに、いやこれは憲法で許されているから構わないんだというんじゃなくて、自己規制が非常に必要である、そういう意味で行き過ぎがあるんじゃないかというようなことを私どもは思っているんです。  憲法解釈ということからいえば、どの程度の宗教団体の政治への関与が許されるというぐあいにお考えでしょうか。先般来話題になりましたのは、一つの宗教団体が宗教団体の教義としていろいろこの国をよくしたい、そのために宗教団体の本質からして政治に関与していくんだというようなお話もございました。なるほどそう言われればそういうようなお考えもあるかと思います。  もう一つ、政治と宗教とのかかわり合いについて、限界としてどのようなことを考えておられるか、お聞かせを願えれば幸いだと思います。

棚村政行青山学院大学法学部教授

○公述人(棚村政行君) 私は、憲法を専門とするわけではありませんで、民法専攻でありますけれども、ある程度の知識は持っております。  従来、学説としまして、政治上の権力を行使してはならないという点につきまして、ある説は一切の政治活動をしてはいけないという説もあったことはございました。それからまた、政治的な権威というものとかかわってはいけないんだというような立場もございましたけれども、政府がとっているような見解が現在通説や多数説であろうというふうに理解をしております。  政治活動は許されるわけですけれども、ただ、先ほど来ちょっと申しましたように、学説の中には、野党としてやる分には結構である、ただ与党にかかわった場合にはかなり統治権力に接近するからという説もあります。ただ、これも先生方お調べのとおりだと思いますけれども非常に多様な説がありまして、学界でも多数説と言われるのは私の認識では政府見解だろうと思います。  私自身は、そのあたりでどの説がいいかということまでは言明できませんけれども、少なくとも言える点については、一定の距離を置かれる、政治活動は自由であるというふうに私自身は考えています。ただ、団体として、組織としてやる場合には、一つのセルフコントロールというんですか自制が働かないといけないだろうと。この点で御勘弁いただければと思います。

楢崎泰昌自由民主党・自由国民会議

○楢崎泰昌君 鈴木先生にはまた後ほど伺いますので、ちょっと飯坂先生に。  政治学の先生でございますので、今の点について、政治と宗教とのかかわり合いについて先ほどずっと後段でお述べを願いましたけれども、あのような歴史的大事件ではなくて今日的問題として宗教と政治とのかかわりを私どもは議論しておりますので、それについての御教示を賜ればありがたいと思います。

飯坂良明学習院大学名誉教授

○公述人(飯坂良明君) ただいまの問題でございますけれども、実は、私は宗教団体と政治家の先生方の関係を比較的よく存じております。そして、ある先生方によっては、宗教団体というのは集票のためには非常に便利な機関である。それから、手弁当でお金もあちらで用意してくれるということで宗教団体を政治的に御利用になる。本当の信仰から出たものではない。論より証拠、その先生はいろんな宗教へいらっしゃいますけれども、そんなに信仰がたくさんあっていいのかと。日本はシンクレチズムと言われまして、幾つの信仰があっても構わないということもありますけれども、そういう点では私は逆に、政治の例あるいは政治家の方の宗教団体にかかわるそのかかわり方の誠実さというものを時折疑問に思うようなことがございます。  その逆に、宗教団体の方も選挙へのかかわり方が、もちろん公職選挙法に違反するようなことをやれば、すぐにそれはひっかかるはずでございますけれども、しかもこれも私は日本の政治の歴史を見てまいりますと、多数党に対しては公職選挙法の摘発や適用はやや甘いというのが歴史的伝統にあったように正直に思われます。そういうことなどを考えますと、例えば本当に公職選挙法が正しく守られるにはどうすればいいかということをもっと考えなきゃいかぬと思うのでございます。  それで、先生おっしゃいました宗教が政治にかかわるかかわり方は選挙だけではございません。ところが、何よりも選挙だけを中心にするというようなことになりますと、これは宗教が政治的利益や利害をいつも念頭に置きながら行動をするということになりますと、先ほどもちょっとお話がございましたが、宗教それ自身が非本来的なところに考えを割き過ぎるということになるおそれは十分ございます。ですから、先ほどもお話がございましたように、宗教が政治にかかわるということは、人権を守ったり正義をこの社会に樹立したりするという観点から例えば発言をする、それから議会にでございましたら請願をするとか、多様な仕方があると思います。  ところが、そういう多様な仕方の中で政治へのかかわりを考えませんで、ある特定のときだけにかかわるということは確かに問題がございます。ただ、どこで線引きをするかということは、これは先ほど申し上げましたように、お互いの社会的な批判にまつよりしょうがないだろう。政治にかかわることは一つの自由の表現として許されていることでございます。しかし、どこで線引きをするかということを法律で規制するということになりますと、また自由に対する問題がございます。それは、私が先ほど宗教法人法に関して申し上げたことも同じような発想でございます。  ただ、そういう点で宗教団体がお米の値段は幾らにしろとか、そういう技術的な問題にまで余りくちばしを突っ込むということは、これは宗教を逸脱しておりますということを申し上げることはできるかと思います。それから、そういう逸脱したことを絶えず言うようでございましたら、その宗教はおのずから社会的に批判されてまいります。そういう社会全体の良識と自浄能力の中で限界というものをわきまえていかなければいかぬというふうに存じております。

楢崎泰昌自由民主党・自由国民会議

○楢崎泰昌君 自浄能力というお言葉を賜りました。いずれにしましても、憲法の問題はもちろん憲法の問題としてあると思いますが、当事者がちゃんと自重してやっていかなきゃならない問題のように承りました。  鈴木先生にお伺いを申し上げたいと思います。  鈴木先生には、戦後、昭和五十一年当時のお話からずっと承りまして、大変貴重なお話で、ありがとうございました。先ほど申されたように、宗教界自体が賛成反対に分かれていて統一見解は十分出ていないんだと、こういうお話だと思います。  現実の話として、末寺というんでしょうか、小さい、零細な宗教団体には報告義務を免除しております。その報告義務を今回宗教団体にお願いしようということでございますが、現実問題としてはいかがでございましょうか、相当の負担になるという話でしょうか。それとも、先ほどおっしゃったように、普通の宗教団体は財務諸表をおつくりして信者にお見せをしている、そういう状態であるから、こういう報告書自体を出すことはそれほど苦痛ではないんだよということなのでございましょうか。そこら辺の実際上の負担ということについてお話しを願えればありがたいと思います。

鈴木徹衆真宗大谷派僧侶

○公述人(鈴木徹衆君) 実際において、宗教活動を阻害するようなあるいは障害となるような煩瑣な問題ではないと思います。私どもの小法人なら小法人なりに財政状況は小さいんですから、極めてまとめるのもわけないことです。  それから、これは私たち自身がお檀家にこの一年間の法人法に基づいての予算、決算を報告するということはやっておりますし、むしろやっていないから苦痛なんですね。何にもしていないのは苦痛でしょう。むしろきちっとやっておれば、自分たちで報告したものを提出するということについては決して大きな負担ではない。しかしながら、全法人になると大変な数になる、所轄している部分が。毎年毎年それが届けられるのも大変であるし、むしろ包括法人、大教団からまずそれを当面はやるべきではないかというふうに申し上げたんですが、我々のところは提出をせいと言われても、これは大変だというようなことは決してないです。

楢崎泰昌自由民主党・自由国民会議

○楢崎泰昌君 一番後段で税務調査のお話が出ました。過去帳を持っていくとかなんとかそういうお話が出まして、もしそのような無礼なことがあればおわびをせにゃいかぬわけでございます。しかし、鈴木先生が言われましたように、これは一般的な税務調査においても調査権限の中で、強引に持っていくのはちょっとぐあいが悪いと思いますが、お見せを願いたいという程度のことは質問権限として行われているわけでございますね。そういう点で、先生の見られるところ、税務調査に行き過ぎありというぐあいにお考えでございましょうか。それとも、一般法人とほとんど同じなのでこの程度の調査ならばやむを得ないというぐあいにお考えなのでしょうか。最後にお伺いしたいと思います。

鈴木徹衆真宗大谷派僧侶

○公述人(鈴木徹衆君) 一般の調査が行われているからそのとおりだと思いますが、調査の実態は多分に行き過ぎている面があると思います。  例えば今の問題、過去帳はそれ自体も問題です。それから、住職個人の家族の預貯金の通帳も提示をさせる、あるいは事前に取引金融機関に行ってもう調べてきてある、こんなことはもう常識的に行われております。こういう事例は、どうぞ皆さんの所属する菩提寺の住職によく聞いていただきたいんですが、そういうところは実際そうなんです。これは全国にわたってそうです。もうみんな憤慨しているんですが、住職は余りそういうことをあからさまにお檀家の方にも言ったり何かするのもちょっと恥ずかしいかなという面があるので言わないものですから、私どもは実際にあからさまにお檀家の方に、住職さん、宗教法人というのはいいらしいですねなんと言われると、実態はこうだと、いろいろ話すとびっくりされるんですね。そういう状況であります。

楢崎泰昌自由民主党・自由国民会議

○楢崎泰昌君 もう時間がないですから、質問を終わらせていただきます。  ありがとうございました。

魚住裕一郎平成会

○魚住裕一郎君 三人の先生方、貴重な御意見をいただきまして、どうもありがとうございます。それぞれ専攻の立場から、また経歴を通してのお話を賜りまして、本当にいろいろお考えいただいているなというふうに考える次第でございますが、ちょっと二、三の点につきまして順番にお尋ねをいたしたいというふうに考えております。  まず最初に棚村先生、これは感想で結構なんですけれども、夏ぐらいから新聞で改正案のことが出てきました。先生も新聞等の論説とか結構書いておられます。御案内のとおり、後で七名もの審議会の委員が異議あるいは慎重論を唱えるというあの審議会の報告書というのがまとめられました。ちょうど国会の開会のときでございます。また、御案内のとおり、衆議院では五日半という、極めて短期と私どもは考えるんですけれども、そういう審議で終わった。そして、今、参議院にあるわけでございます。また、御承知のとおり、参考人招致をめぐっていろんなごたごたと言ったら怒られてしまいますけれどもございました。  この一連の動きを見ていて、新聞の記事ではありませんけれども、どうも党利党略というか政争の具にされているのではないか、そういうような印象を私自身は感ずるわけでございますが、先生のその辺の、全体の流れのことで結構ですが、これについてのコメントというか感想をお聞かせいただければと思います。お願いします。

棚村政行青山学院大学法学部教授

○公述人(棚村政行君) よくこの改正法案については、期間が短い、拙速である、十分な議論が尽くされていない、こういう御指摘があるわけであります。私自身、その政治的な動機や思惑でもっていろんな議論がされるということは、私の専門領域の立場からしますと宗教法人法の出ている中身でもって判断してもらいたい。もちろん時間も大切だと思うんです。  私も先ほど言いましたように、特に日本は政教分離型というのをとって、アメリカやフランスと非常に近い制度構造になっております。ですから、国情の違いはあってもそういう比較法的な観点から諸外国でのいろいろな経験を、特に私が非常に奇異だと思うのは、戦後占領政策の中で、宗教法人法というのが宗教法人命、そして宗教法人法という形で登場してまいりました。そのときアメリカの法制がかなり参考にされたり、アメリカのウッダードという担当官がかなり大きな力でもって改正のやりとりをしたわけです。ですから、そういう意味でもアメリカのいろいろな州での経験とかを議論しながら改正作業。それで、私も具体的な提言をこれまでもしてまいりました。政治的な動機ということで何か議論をされると非常に混乱するので、それは私自身もぜひやめてもらいたいと。  ただ、先ほど鈴木公述人からも出てまいりましたけれども、昭和三十三年四月二十二日に宗教法人審議会が答申したその論点は十一項目にわたりまして、認証制度から調査権、公告制度それから合併等非常に広範囲にわたるものであります。ですから、従来から問題点としては出ていたと。そして、突然ここで問題が出てきたというのは、たまたまオウム真理教の問題が出てきて、それが一般の人たちの関心を呼ぶようになったというような理解をしております。  だから、政争の道具とされるのは困りますけれども、手続とか入り口での議論だけではなくて、出てきた中身が本当に憲法に違反するのかどうか、それから信教の自由を侵害するのかどうかということでじっくりとした議論をしてまいりたいと思って、本日参りました。

魚住裕一郎平成会

○魚住裕一郎君 出方よりも中身勝負ということでございますけれども、私はどっちかというと正しい内容を正しい手続でやるのが民主主義じゃないかなと思っているわけで、それで今のような御質問をさせていただいたわけでございます。  先ほど先生の陳述の中で、透明性を高めるべきだ、民主的な運営をすべきである、そういうような形で宗教団体の運営についてコメントがございました。  ただ、私も別にあらゆる宗教を知っているということでは全然ありませんけれども、例えばよく研究していたらこういう話を聞いたんです。今の宗教法人法は、宗教法人の意思決定をするのに責任役員会というのがあるんだ、それで決めてもらいたいと。ところが、あるキリスト教系だと思いますけれども、これは困る、うちの教会は総会主義をとっているんだ、だから法的に決められたら困るんやと。それが昭和二十年代後半に話があったというふうなことを聞いたことがあります。もちろん、趣旨からいって総会主義で結構なんですよという形で運用になっているようでございますけれども。必ずしも先生が今おっしゃったような形で、いろんな種類の宗教団体があるところを、法的にこうやれと一律に決めるのはどうなのかなと思うんです。  この参考人なり公述人、さらにはいろんな審議の中身を見ておりますと、例えばカトリックでは経理の権限についても基本的に教皇が持っている、そして司教、司祭がそれを受け継いで権限を持っているんだというようなお話もございました。あるいは仏教でいえば、信者さんなりが喜捨というんですか、喜んで捨てるというんでしょうか、その先についてはこれはもう団体の自主性に任されているんだというようなお話も、私の理解程度でございますが、話がございました。  ですから、先ほどの先生の立論、もうこういうふうに決めて信者さんに全部見せて透明にしなさいよというのは、いろんな宗教団体の教義であるとかあるいは歴史とか伝統とか、そういうものに必ずしもそぐわないのではないだろうか、このように考えるんですが、この点についての先生の御意見をいただきたいと思います。

棚村政行青山学院大学法学部教授

○公述人(棚村政行君) 御承知のとおり、宗教法人法というのは基本的な枠組みとして宗教団体の自主性とか団体自治というものを尊重しているわけです。必要最小限の範囲でもって世俗的な部分で介入する。ですから、魚住先生がおっしゃったように、宗教の教義とかそれから宗教的な慣行とか、宗教固有の聖の部分について多数決でもってそれを決めるとか、それからそれを民主的にやれというような話ではないわけです。あくまでも法人の運営とか財産の管理という世俗的な部分でもってもう少し民主主義的な原理を導入して、わかりやすく透明性や自治能力を高めるべきだというようなことであるわけであります。  ちょっと付言しますと、日本の宗教団体の特色というのは、これは宗教社会学者の井門先生がおっしゃっておりますけれども、従来の宗教団体というのは非常に世帯単位、家単位であった。それから縦の結びつき、つまり教祖あるいは聖職者と信者との縦の結びつきが非常に強かった。ところが、現代社会は祖先祭祀についても、家というものが崩壊して地域の共同体も崩壊してくる、個人主義化してまいります。特に、都市化がいろんなところで起こってきますとやはり宗教事情は大きく変わってくるわけです。  そういうような団体の組織運営、そして信者さんの地位というものを従来の、現在の宗教法人法の制定された経緯は聖職者中心主義だったんですね。ですから、そういう意味では、信者の構成員としての地位とかそういうものを俗の部分で高めることによって、そして幹部が独走するとか、そういう何というんですか、暴走するというようなことの一つの歯どめとなるような内部的なコントロールとしての役割を私は民主主義的な原理の導入と言ったわけであります。  ですから、決して一律にすべて何かをするというのではなくて、自主性を尊重した上で、そして信者さんの地位や立場というものをきちんと位置づける必要があろうかと思います。それは今後の課題でございます。

魚住裕一郎平成会

○魚住裕一郎君 俗というようなお話でございましたけれども、先ほど申し上げた総会主義という言い方、あれは実は教義から来ていることでございまして、必ずしも俗の運営部分だけにかかわることではないのではないだろうか。  ただ、先ほど俗中の俗というような表現がありましたけれども、金銭についても喜捨されたもの、献金されたもの、それはもうお金ですから非常に宗教的なことにかかわるわけですね。表裏一体だ、コインの裏表だと思うんですね。ですから、必ずしも俗であるから法規制をどんどんやっても構わないんだというのはちょっと私は納得できないことでございます。  その具体的な運営の中身に関連して、閲覧のことがございました。先ほど先生はアメリカのお話を出されました。カリフォルニア州というふうにおっしゃったと思いますが、この閲覧請求といいますか閲覧権と申しますか、カリフォルニアあるいはアメリカでは利害関係人にも見せるようになっているんでしょうか。今回の改正案では「信者その他の利害関係人」、非常に難しい言葉なんですが、いわゆる利害関係人、債権者であるとか保証人というのは例示されておりますけれども、そういう者にまで見せるようになっておるんでしょうか、教えてください。

棚村政行青山学院大学法学部教授

○公述人(棚村政行君) 実は、アメリカは州ごとに非常に多様な宗教法人法制をとっております。ですから、一概に論ずることはできませんけれども、原則としてメンバーという言葉でもって構成員とか信者とか、日本流に言うと氏子さんとか檀家とかいろんな表現があると思いますけれども、そういう者に対して、つまり構成員と認められる者に対して、帳簿の閲覧権、それから州によっては会議録、それから一切の記録を開示しなければならないと。特に重要なのは、帳簿の閲覧権を持っているというのではありませんで、州法でもって一年ごとの会計報告については必ず信者に送付しなければならない、こういうふうになっているわけですね。ですから、閲覧請求をする人たちというのはほとんど限られてまいります。  信者の概念についてですけれども、現行宗教法人法は「信者その他の利害関係人」ということで、判例を調べていきますと、信者イコール利害関係人とワンセットに考えているものが非常に多いんですね。ですから、例えば解散命令の中立権も利害関係人が入っておりますけれども、じゃここから信者が外されるのかというと、そんなことはありません。信者もできるということになっております。ですから、利害関係人ということについては、アメリカでは少なくともメンバーということで帳簿の閲覧権についての規定は置かれております。

魚住裕一郎平成会

○魚住裕一郎君 今、先生が教えてくださったメンバー、これはカリフォルニア州では理事の任免権といいますか選任権まであるんじゃないですか。  ですから、私が今聞きたいのは、利害関係人と言った場合、文部省の例示では債権者とか保証人というふうにおっしゃったんですけれども、理事の任免権まで含めた意味での利害関係人を含んでいるんだという先生のお話ですか。その点お願いいたします。

棚村政行青山学院大学法学部教授

○公述人(棚村政行君) アメリカのことを申しますと、メンバーの中には含まれておりません。

魚住裕一郎平成会

○魚住裕一郎君 あともう一点ですが、今のメンバーの問題なんですけれども、これにつきましては、アメリカで宗教法人の定款、あるいは附属定款というんでしょうか、バイロー、これで構成員を持たないことも定めることができるということになっていることをもちろん御存じですね。

棚村政行青山学院大学法学部教授

○公述人(棚村政行君) 魚住委員、これは州法を五十州調べればおわかりになると思いますけれども、多様であります。ですから、どこの州ということで特定していただければ一番いいんですけれども。

魚住裕一郎平成会

○魚住裕一郎君 カリフォルニア州です。

棚村政行青山学院大学法学部教授

○公述人(棚村政行君) それはそのとおりでございます。  それからもう一つは、一九八六年の模範非営利法人法というのがございます。これがかなりの州でとられておりますので、そういうものでもってメンバーシップを中心とした宗教法人という構成がアメリカではもうかなり行き渡っているということでございます。

魚住裕一郎平成会

○魚住裕一郎君 今、非営利法人法という言葉が出ましたけれども、その中ではメンバーの帳簿の閲覧権が規定されておるんですが、先生、一九八八年ですか、五月九日、アーカンソー州のギブソン事件を御存じでいらっしゃいますか。要するに、規定があっても構成員との間の、信者との間の閲覧について裁判所は判断することができないんだという判旨だったと思うんですが、この点につきましてのコメントをいただければと思います。

棚村政行青山学院大学法学部教授

○公述人(棚村政行君) 先ほどから申しておるように、恐らくそれは笹川先生の御論文を読まれて引用されたんだと思いますけれども、アメリカでは信者の閲覧請求権、帳簿類の閲覧請求についてはほとんどの州で持っております。そして、これが争いにならないのは、その論文には指摘されていないかもしれませんけれども、年次報告ということで必ず会計報告は信者に出さなければならない。  ですから、争いになるのは、裁判所に出てくるのはトラブルがあるものだけであるわけなんですね。ですから、当然そこでもって正当な理由があるかどうか、きちんとした理由を示しているかどうか、それから宗教上のいろんな問題に裁判所がかかわらないというのはアメリカでも日本でも同じでありますから、当然にそれが棄却される。棄却されたことが情報開示を一切認めないということにはなりません。

魚住裕一郎平成会

○魚住裕一郎君 ありがとうございました。  先ほど順番にと言って、だんだんもう時間がなくなってきてしまって申しわけないんですが、次に鈴木徹衆先生、このメモでは真宗大谷派の先生でいらっしゃるということでございます。  それで、手元に宗教年鑑というのがあるんですが、ここで見てみますと、寺院、教会その他含めて施設ですか、全体で約九千あるんですね。その中で宗教法人格を持っておられるのが八千八百三十三、細かい数字は結構ですが、大体そのような概要ですね。  先生だから知っておられるのかもしれませんけれども、先ほど小規模法人ということがありました。何か規模が三千万云々という具体的な数字が出まして、まだ審議会で決まっていないことを述べられたものですからちょっとびっくりしたんです。その基準でも結構なんですが、今九千という、あるいは八千八百三十三という法人数があるということでございますが、この真宗大谷派の中ではこの三千万という基準であれば、概算で結構です、大体どのくらいの法人数が収支計算書の作成あるいは備えつけ、提出、これがないんだというふうに言えるんでしょうか。

鈴木徹衆真宗大谷派僧侶

○公述人(鈴木徹衆君) これは厳密に調べてみないと、我々の教団に所属しておる者としましても、八千八百三十三の当派の法人の財政状況、これは正確にはわかりません。  ただ、強制調査等を教団でやりますので、そうしますと大体の基準が、例えば檀家百以下がどのくらいの数だろう、あるいは檀家が二百以下はどのくらいだろうと。二百以下になると中小寺院なんですが、地方によって随分違います。地方では状況によっては二百あっても非常に維持に困難を来している、ところが都会の方になりますと百五十でも何とか運営できるというようなことで、経済的な格差はありますが、強制調査では檀家が大体二百以下が圧倒的に多いです、我々の教団では。それから、檀家千軒以上を抱える大寺院というのはほんの一割になるかどうかです。  そういう状況ですから、その中で考えていきますと大体わかるんじゃないかと思いますけれども、金額そのものについて三千万というのは都市寺院においては相当数該当するところが出てくると思います。しかし、全国的に見たならば少ないと思います。

魚住裕一郎平成会

○魚住裕一郎君 ありがとうございました。  先ほど先生のお話の中で、税務調査はいっぱい厳しくされている、そんな中で過去帳も調べられるんだというようなお話がございました。  この間、私はテレビを見ておりましたらコンピューターソフトの紹介をしておりまして、副住職というプログラムだったんです。ある方が亡くなったその年月日をインプットしますと三十三回忌までぴっと出る。そのときに供養料が幾らかとかそこまで出るような、書き込めるようなそういうソフトになっているわけなんです。  そうしますと、会計帳簿とかそういうものを見ると、過去帳といってもその部分まで閲覧とかされてくるんじゃないかと非常に私自身は危惧するわけであります。また、いろんな個人の本当の意味のプライバシーにかかわるようなことも過去帳の中には記載されているというようなお話も聞きます。  先ほど先生は、今回の改正案については基本的には賛成だとおっしゃいましたけれども、信教の自由とか政教分離につきまして、自分としてもいささかの不安はないんだと。先ほど不安という形で最初に述べられたことは、靖国の問題であるとか、ずっと信教の自由の闘争の中でお話をされましたけれども、今回の改正法が施行された場合、全く不安がないのかどうか、もう一度その点についてお教え願いたいと思います。

鈴木徹衆真宗大谷派僧侶

○公述人(鈴木徹衆君) 我々も、この法改正案が出る前に、オウムに対する国民感情を背景として相当改悪案が出るんじゃないかというような不安は持っていました。  先ほど申し上げました十一項目に対しまして、四項目ないし宗教法人審議会の拡充等も含めましての問題をよくよく検討しまして、この程度の改正ならば、政教分離、信教の自由に抵触する、あるいは官僚統制につながる、宗教弾圧に結びっくなんという大げさなものではないと思います。  十一項目の中に既に出ていたのは、十項目めに「包括宗教法人の所轄を改めること。」と出ていました。それから宗教法人審議会の権限や内容についてという項目も出ておりまして、そうした点について問題どうこうということはないんです。  もしも、そういう抵触にかかわるという危機感があれば、かつての靖国問題あるいは十一項目に対する反対というような行動のように、宗教界を挙げてこれを実現させないような相当な運動を展開すると思います。展開は、個々に反対というのは表明されてはおりますが、それだけの行動にならないのはどういうわけか。それは、改正案自身の項目にさほど問題がないと感じている部分があるという点と、改正に対して出てきた問題が反社会的な宗教団体の覆いがたい問題があるということから、反対者もそう積極的な運動もようできないような状況があると思います。

魚住裕一郎平成会

○魚住裕一郎君 ありがとうございました。  今、鈴木先生の方からは宗教界の反対が盛り上がっていないんじゃないだろうかというようなお話もございましたけれども、先ほど飯坂先生の方からは、声明を出して、五十一団体ですか、そのほかにも個人資格でというようなお話もあったようですが、私もそれを取り寄せて読ませていただきました。  この呼びかけとか声明、本当にこういう心配をされているのかということがよくわかったわけでございますが、この呼びかけの中に、「宗教問題が政争の具と化しているところに問題を感じるものであります。」というようなことが書いてあります。この呼びかけは先月の二十二日付でありますけれども、それから約二週間ぐらいたっているわけでございますが、今でもこのような問題認識をお持ちなんでしょうか。この点につきましてちょっとコメントをいただきたいと思います。

飯坂良明学習院大学名誉教授

○公述人(飯坂良明君) 先生の御質問にございました認識というのは、政争の具にしているという方の認識の問題でございましょうか。

魚住裕一郎平成会

○魚住裕一郎君 そうです。

飯坂良明学習院大学名誉教授

○公述人(飯坂良明君) 私は、例えば同じ趣旨のものでございましても、それがどういう状況で出されたか、どういう隠された動機や意図で出されたのかということによって、それ以後の法律の運用に大きな違いが出てくるという可能性はあるといつも思っております。そういう意味におきまして、法律そのものの中身だけでこれを議論する、そして政治的動機の議論はしてはいけないというふうには私自身は思わないわけでございます。  と申しますのは、どういう政治的な動機があったから例えばこれだけ急がなければいけないのかというようなことは、私にとりましては、それから宗教界の多くの方々にとりましても大きな疑問でございますので、そういう点からは、こういう問題が次第に冷静に話されるような雰囲気を私は醸成していく方がよろしいのではなかろうか、決してはしにも棒にもかからないし、宗教界はかたくなに何が何でもこれをただ批判するということではございませんから。  しかし、今いろんな先生方の御説明を伺いましても、どうもその点が私どもでは納得できませんので、本当はこういうことを申してはなんですけれども、次の小選挙区制による選挙が終わってからこれが出てきて、もう少し考えろというようなことでございましたら、私どもはもっとこれを慎重に伺う政治家さん方の御姿勢もちゃんとわかるなということで、御一緒に考えやすいような気がいたします。

魚住裕一郎平成会

○魚住裕一郎君 同じくそのお呼びかけの次の行に、「憲法上の重大事項が未成熟な議論のまま進められていることに疑問を呈しこという、そういう言葉があります。この未成熟ということなんですが、先ほどの繰り返しになりますが、二十二日から見て二週間ぐらいたっているわけでございます。いろんな懸案事項も次の声明の中に入っておるわけですが、この十一月二十二日に懸念されていたこの未成熟な点、そしてそう感じられるのは今もそうなのか、そして具体的にはどういう点なのか、簡潔にお教えいただきたいと思います。

飯坂良明学習院大学名誉教授

○公述人(飯坂良明君) 先ほどからもこの問題が出ておりますように、例えば信者、利害関係人ということ一つをとってみましても、日本では信者の数を限定するのは非常に難しいのでございます。と申しますのは、文部省に出ております信者の総数を合わせますと御承知のように二億を超えますから、そういたしますと、おれが信者だと言ったときに、いや信者じゃないというようなことはすぐにでも起きる問題でございます。そういう点では、信者や利害関係人というのは一体何を指すのかと宗教法人審議会の委員の先生方もおっしゃっていらっしゃるんですけれども、いやこれは責任役員だけのことだとか、まだ議論が詰まっておりません。  それから、今度の宗教法人法は社会的状況の変化によってというふうに、これは島村文部大臣もそういう御答弁、御説明をなさっていらっしゃいますけれども、じゃ社会的状況がどういうふうに変化したからこれが必要なんだという、より細か。い社会的状況の変化ということのより厳密な御説明というのは、例えば所轄が文部省に全国的に広がったからというような御説明をちょっといただきましてもそれだけでは。  と申しますのは、私の仄聞しておりますところによりますと、ある宗教法人は県境にまたがっておりまして、小さな宗教でございますけれども京都と大津の両方にまたがっている。そういうときにはその宗教法人はそのまま文部省の所轄になるというような問題がございまして、そういうのを一体どういうふうに解決するんでしょうかというようなことを申し上げても、これに対しては厳密なお話がないままにどんどん審議会で進められたというような経過を私も存じております。ですから、そういう疑問はもう少し、これは何が何でもいかぬと言っているんじゃございませんで、そういう点が少しでも明らかになってきてほしいというのが私の気持ちでございます。

魚住裕一郎平成会

○魚住裕一郎君 ありがとうございました。  要するに、先生、先ほどの陳述にもございました、何が何でも反対ではない、だけれども、もっといろんな疑問点も出てくるからきちっと詰めて慎重に判断してもらいたいというような意味内容はよくわかったつもりでございます。  今回、こういう形で改正案が出されてきたわけでございますけれども、信教の自由との関係におきまして、もしこの改正案が成立をして施行された場合、今後どのような展開、そしてまた信教の自由、政教分離に関してどのような、先生なりの危機感というものをお持ちでありましたら、その点につきましてお教え願いたいと思います。

飯坂良明学習院大学名誉教授

○公述人(飯坂良明君) 今の改正の内容では一見大したことはないじゃないかという御意見が結構ございますけれども、実は今までの、先ほどもお話がございましたが、歴史的に非常にある宗教は国家の弾圧をこうむって、正直な話、非常に苦痛な歴史を持っておるわけでございます。そういたしますと、当然肺炎を思った人はちょっと風邪を引いてもこれに対しては非常に慎重にする、健康な人なら別でございますけれども。そういう比喩がよろしいかどうかわかりませんけれども、そういうふうに宗教は非常に慎重にならざるを得ないし、また信教の自由というものはそういう慎重さを必要にするものだと私は理解しておるわけでございます。  ですから、例えばこうしたことでその質問権を行使してどうもわからないことがさらにある。そうすると、宗教法人審議会の議を経て例えば立ち入りの調査をやる。ところが、宗教法人審議会自体が現在の実情でございますと、本来、御承知のように、会長その他はそのお役所のOBじゃいかぬという規定になっておりますにもかかわらず、審議会は結構OBがたくさん、三分の一以上でございましょうか、いらっしゃるわけでございますね。そういう点から申しますと、そこへかけて果たして公正な判断でノーと言えるのか。また、大体お役所のOBの人たちがやれやれと言えば、そうでしょうかと言わざるを得ないようになるんじゃなかろうかというようないろんな心配を私はするわけでございます。  そして、そうしていくうちに、わからないものをさらに質問する、さらに質問するということでエスカレートしていったりしますと、本来の宗教法人法というものが宗教活動を保護するために法人格を与えているという、そこから余りにも遠いところで議論が行われるようになりはしないかという慎重論でございます。

魚住裕一郎平成会

○魚住裕一郎君 どうもありがとうございました。(拍手)

前川忠夫日本社会党・護憲民主連合

○前川忠夫君 三人の公述人の先生方には、大変お忙しい中御参加をいただきまして、ありがとうございます。日本社会党・護憲民主連合の前川でございます。どうぞよろしくお願いいたします。  先ほどから三人の公述人の皆さん方のお話をお聞きしておりまして、午前中の百地先生と小林先生の話もダブらせながら、大変参考になるお話を聞かせていただきました。    〔委員長退席、理事松浦功君着席〕  そこで、私の方から率直に御意見をお伺いしたいと思います。  最初に棚村先生にちょっとお伺いをしたいんですが、お伺いをしたいというよりもむしろ御感想をお聞かせいただければというふうに思うんですが、今度の宗教法人法の審議ですね、実は私もこのメンバーに入っているものですから、できるだけ新聞等は丁寧にどんな報道がされているかというのは一応目を通しているつもりであります。先ほど飯坂先生のお話の中に、審議のスタートはともかくとして、途中でどうも創価学会対策みたいな話になっているよというお話がございました。確かにマスコミの皆さん方の報道は、細かい中身の議論よりも、生々しいといいますか、そういう議論の方が一般の人受けというふうに言うとマスコミの人にしかられるかもしれませんが、どうもそんな感じで情報というのが流れているような気がするんですね。  私も、本会議以降すっとこの委員会に参加をしていましたし、あるいは衆議院の方の委員会等の議事録もずっと読ませていただきましたが、かなり今度の法律の細かい部分について、賛成は賛成、あるいは反対は反対の立場から問題点は摘出をされたと。もちろん、今度の法律ですべて解決をするということには必ずしもならない部分もたくさんございますから、残された課題もたくさんあるような気がしますけれども、その辺の印象を最初にまず棚村先生からお聞かせをいただければと思うんです。

棚村政行青山学院大学法学部教授

○公述人(棚村政行君) 宗教法人審議会の中身については、議事録の公開等いろいろな問題があって明らかではありません。しかしながら、期間的な点でいいますと、四月に文部大臣から検討の要請があって、九月二十九日に最終報告がまとめられるというので、時間的には五カ月ちょっとというようなことだろうと思うんですね。  ただ、これも全くよくわかりませんけれども、そこには法律関係の専門の先生が特別委員会それから審議会に参加されて、そして、三十三年四月二十二日の答申でも既に問題になっているような、全般にわたっていろいろ検討した結果、このくらいの短期間で早急に改正が要請される点は一体どこだろうか、現行法で不備と思われる点は一体どこであろうかということで、基本的に的を絞って集中的な審議が行われたというふうに聞いております。  その具体的な議論の中身はともかくとしまして、先ほど来申し上げていますように、手続論が非常に拙速であったとかいろいろあると思いますけれども、じゃ時間をかければ具体的にどこに不備があってどこに問題があるのかということを宗教界の方々が出されたのか、それを私自身はちょっと疑問に思うわけですね。  先ほどから言うように、保全措置一つとっても、会社の財産保全措置については解散命令のときに商法の五十八条の二項に規定があるわけであります。恐らく宗教法人は金もうけとか商売をしないだろうということで、第三者の安全ということ、取引の安全とかそういうことを確保する必要がないということだったと思いますけれども、これはまさに諸外国と比べますと法の欠陥でございます。そういうようなところを一つ一つ、これは反対、これは賛成、そして制度としてそれに不備があれば改める、運用で改善できるのであれば運用で図る。だとしたら、今回、いろいろな問題もありますけれども、現代的ないろいろな問題に対してどの条文をどう使ったら本当にうまくいくのか、そういう対案が出てこないわけであります。そこがむしろ私は非常に問題であろうというふうに感じております。

前川忠夫日本社会党・護憲民主連合

○前川忠夫君 これは本筋の話ではないかもしれませんが、今度のこの宗教法人法の議論を通じまして、国会の本会議あるいは委員会の中でこれほど宗教の問題が本格的に議論をされたのは、先ほどの昭和三十三年以降初めてと言っていいんじゃないかというふうに私は思うんです。どちらかといいますと、宗教の問題というのはできるだけそっとそっとしてと、信教の自由があるから、さわらぬ神にたたりなしとは言いませんけれども非常に慎重でしたね。  ところが、この法律がまとまって出て、もちろん手続や何かについて、あるいは審議会の運営等について御意見があるということは私は承知をしていますが、確かにオウムが大変大きな事件でしたから、このことが国民の皆さん方から見て、宗教法人は何だ、国は一体何をやっているんだというさまざまな声がありました。ところが、実はこのオウムの問題というのはまさに集大成するような形で、悪の集団のような形で出てきたんであって、既にかなり前から宗教団体と名乗る、あるいは宗教法人と名乗る団体のさまざまな社会問題というのがあらわれてきたんですね。ですから、私に言わせれば、文部省がなぜもっと早くこの問題に手をつけなかったのか、むしろ遅きに失したくらいじゃないか。既に被害を受けてさまざまに苦しんでいる人たちがたくさんおられるわけですから、そういう意味で私はむしろ遅きに失したという感じがするんです。  もちろん、中身の問題については、先ほどのお話のように慎重な議論はもちろん必要だと思いますけれども、そういう意味で今度の問題を通じて、いわゆる公の場といいますか、あるいは国民の中に宗教問題についてさまざまに議論をする機会を与えたということは、僕は高く評価をすべきだというふうに一つは思います。  と同時に、実は午前中の議論にもあったわけですが、今社会的に問題になっているさまざまな宗教の被害者について、今度の法改正で救われるのか、守られるのかという点についてなんですが、まず私の意見を申し上げますので、先生の感じをひとつお聞かせいただきたいのです。  例えば、午前中、小林先生は認証段階できちっとすればできるんじゃないでしょうかというお話をされました。今の法の建前からいったら、私は認証段階でのチェックは事実上不可能に近いんじゃないかという印象を一つは持っています。  それから、活動を具体的に宗教法人が始めましてから、もちろんそれ以前から続いているんですが、法人としての認証を受けてから具体的な活動をしている段階で、じゃ都道府県やあるいは文部省がチェックができるのか。これは、先ほど先生のお話の中にも、例えば愛知県のように九千を超す法人があって担当者が二人しかいない、中には一人しかいないというところもある。事実上チェックできませんね、物理的に考えて。仮に、じゃ人数をふやせばいいのか。今の行革の風潮に反しますけれども、ふやせばいいのか。じゃふやしたら何ができるのだろうか。今の法の中で、まさに拡大解釈をしてチェックをすればできるかもしれません。その方がむしろ私は逆に問題なんじゃないかと。  それから、じゃ何か事が起きたら、つまり犯罪に近い行為になったら初めて問題になるというんでは、国民の期待にこたえられないと思うんですね。そういう意味で、今度の法の問題について先生がお感じになっている部分、もしありましたらお聞かせいただきたいと思います。

棚村政行青山学院大学法学部教授

○公述人(棚村政行君) よく今回の改正の目的は何かということが問われております。最初は、オウム真理教の一連の事件が余りにも衝撃的でありまして、それにかなり引きずられて、この法律の改正はオウム真理教対策であるというようなことが言われたり、あるいはささやかれたりしてきたわけです。私自身は、これ自身はオウム真理教をきっかけとして起こりましたけれども、これだけでオウム真理教の問題、つまりカルト的な、破壊的なカルト、テストラクティブカルトと言うんですけれども、その問題は解消できない、解決できないというふうに考えております。  ただし、経理や活動の宗教法人のある程度の透明性が確保されることによって、行政は行政上のいろいろな責任を果たし、もう少し早い段階でもって内部的あるいは外部的にチェックや監視する機能が果たせた、あるいは抑制的な機能が果たせただろうと思うと、非常に残念な思いがしております。  ですから、オウム真理教の問題は、非常に犯罪ともかかわるわけですから治安対策も考えなければなりません。それからもう一つは、もう欧米では二十数年前からこのカルト対策が真剣に叫ばれてきております。議会でも公聴会を開いたり実態調査に乗り出し、政治も行政も国民一般も、あるいはさまざまな宗教団体も弁護士会も心理学者の団体も、すべて総力を挙げて取り組まなければ解決がっかないような重大な問題でございます。家族からあるいは社会から引き離されて、子供たちの養育の問題も起こります。労働基準法等の、信者をただ働きさせるという問題も起こります。そして、犯罪になる場合には反社会的な違法な行為が行われる。これは宗教法人法だけで到底対策ができることではありません。  ただ、区別しなければいけないのは、じゃ宗教法人法はこのままでいい、この運用を強化すればいいということになれば、刑法等でも、御存じだと思いますけれども、別件逮捕、微罪逮捕ということで手続上は非常に問題があります。民法でやれと言う人がいますけれども、訴訟を被害者が起こすということは、これは大変なことであります。しかも、民法で、私が霊視商法とかこういうカルト的な団体の問題の資金活動と民事責任と、最近二本書いているこの論文が唯一であります。こういうような状況の中で現行法の刑法や民法の運用を強化したり宗教法人法の運用を強化すれば、先生がおっしゃるように、かえって運用の強化に伴う行政の過剰な介入ということがあります。  法律の改正は、ある意味では介入の限度と範囲を明らかにするという非常に大きなメリットがあります。ですから、むしろ信教の自由を侵害しないためにどうしたらいいかという枠組みをきちんとつくって議論していくということが必要だと感じております。

前川忠夫日本社会党・護憲民主連合

○前川忠夫君 飯坂公述人にお伺いをしたいんですが、先生のお話のいわゆるバックグラウンドになっている部分になるかもしれませんが、私は宗教法人法の問題、この議論を通じて、国民の皆さん方の宗教に対する目というのは、少しずつ解明をされた部分があると同時に、何だかまだわからないという部分もまた明らかになった。わからない部分が明らかになったと言うと変な言い方ですが、どうしても解明できない何か聖域みたいな部分が結局出てきたというような感じを私は持っているんですね。  例えば、先生のお話の中で、私もたまたまジョージア州のアトランタヘ行きましたので、キング牧師の生まれた家ですとか、これはまあちょっと余談ですが、そこへ行ってまいりまして、あの時代の牧師さんの運動というのは大変私も感銘を受けました。先生お話しになったように、確かに宗教は国家の良心だと。私は、それはできればそうであろうというふうに今までは思っていました。今は、あってほしいというふうに変わってきました。国民の皆さんは逆、さらにもっときつい見方をしているんじゃないでしょうかね。  ですから、そういう意味で、先生がお話しになりましたように、例えば手続の問題だとか、あるいはもちろん審議会の運営上の問題だとか、あるいは今度の議論の中でさまざまな問題があって、先生のお立場からすると拙速に過ぎるんじゃないかという御意見もありました。しかし私ども、国のこういう場で議論をする立場にしますと、例えばそういう問題があったにしても、今国民の中にある、先生がおっしゃったように、国家の良心だと言われている宗教が国民の中から不信感を持たれるようになったら、これは私は大変なことになるという危機感の方がむしろ強いんですよ。私はそのように考えているんですが、先生、いかがでしょうか。

飯坂良明学習院大学名誉教授

○公述人(飯坂良明君) ただいまの御意見について、私のコメントをさせていただきたいと思います。  実は、日本国民の少なく見積もりましても二割は信者でございます。二億何千万の信者がいるなんというのはだれも余り真剣にとれないと思いますけれども、まじめに信仰している人たちが二割以上はおります。ですから、国民とおっしゃる場合にどの国民を指していらっしゃるのか。それで、それぞれ宗教団体で、私はもうあちらこちらへ行きまして、まじめに信仰しており、指導者を信頼して宗教的な活動をしている人たちはいっぱいおるわけでございます。  ですから、むしろ国民が今非常に宗教に対して不信の目を持っていると先生がおっしゃいますときの、その国民というのは一体どれを指すんだろうかと。確かにオウムのような不幸な事件が出てまいりましたが、これは普通は宗教と思っておりません。それで、それじゃ宗教とカルトとはどう違うかとか、いろんな議論になりますけれども、オウムの場合には明らかにこれは宗教の皮をかぶったテロ集団でございますから、実態は。    〔理事松浦功君退席、委員長着席〕  ですから、むしろたとえ宗教であろうと、そして人権問題やその他の不法行為があるならば、これは現行宗教法人法でも八十一条その他で、もちろん刑法その他の法律でもある程度いけるんじゃないかというのが私の考えでございます。  ですから、こういう機会に、宗教に対して非常なみんなが不信感と危機意識を持ち始めているというようなことも、事によりますと一過性のことではなかろうか。むしろそういう状況のときにこの法律を通してしまうということが、実はかえって不幸なことになるというのが私の慎重論でございます。

前川忠夫日本社会党・護憲民主連合

○前川忠夫君 今の先生のお話にもありましたように、今度のオウムの問題やあるいは霊感商法に見られるような問題が、今、先生も、今の宗教法人法の運用等で何とかなる部分もあるんじゃないかと、もちろん一〇〇%とはおっしゃらないと思うんですが。私が先ほど言いましたように、都道府県の、例えば愛知県の場合なんかは九千以上の法人があって担当者はたった二人しかいない。物理的に不可能なんです、物理的に考えても。それは、もちろんこれから予算要求して人をふやせという議論もあります。あっても現実の問題にはならぬわけですね。  と同時に、先生がおっしゃったように、こういうある意味じゃ頭がかっかしているときにやるよりももっと冷静なときにやった方がいいんじゃないかという議論もありますけれども、逆に今みたいなときだからさまざまな問題提起をして、もちろん問題提起をしている、あるいは法律の提起をして提案している内容というのは、私はそれなりに私どもも真剣に受けとめました、議論をしました。まさに信教の自由というのは何としても守らなければならない。  今逆に、先ほど先生のおっしゃるように、例えば国民の二割だとしましょう、残りの八割の人が先ほど申し上げたような仮に不信感を持っているとすると、その八割の人たちがもっと宗教というものをきちっと国家で管理をしろという声がもし出た場合に、僕は大変なことになると思っているんですよ、信教の自由にとって。  であれば、むしろ今この時点で考えられるさまざまないわゆる歯どめ措置を講じながら、今度の法改正の中身で、むしろ透明性を求められるものならば透明性を求めるというのが私どもにとっては今選択すべき道じゃないかというふうに私は考えるんです。これは私の意見であります。  と同時に、鈴木公述人に一言だけお伺いをしたいんですが、先ほどもお話がありましたように、オウムは宗教団体じゃないというお話がありました。しかし、現に宗教法人であったことは間違いないわけですね。これに対して、先ほど飯坂先生の方でも、さまざまな団体がさまざまな問題について問題提起を始めたというお話がありました。しかし問題提起があっても、なおかつ悪徳なといいますか、宗教団体、宗教法人が現に存在をしていることは事実なんですね。  こういう問題について、直接宗教法人あるいは宗教の現場におられる立場として、もし御感想があればお聞かせをいただきたいと思うんです。

鈴木徹衆真宗大谷派僧侶

○公述人(鈴木徹衆君) まず第一に、私どもは、常々そうした反社会的な宗教団体の活動について、まず私自身、一宗教者として厳しい自己批判を伴わなければならない、我々の活動の欠落部分がいかに多くの人々にそうした被害をもたらしているかということで、我々教団を含めて反省しなければならない点だと思います。  二つ目に、今もお話がありましたように、宗教法人として認証を受けている団体が霊感商法やそうした荒々しい反社会的な行動をしておるということに対して、霊感商法対策連絡会の弁護士さんが参考人になって言われたあの切実な要求、それに我々は本当にこたえて、あのとき提案があったのは、宗教団体みずからも自主的にお互いに情報センターをつくって、同じ宗教者としてここまでやるのはおかしいじゃないかというような規範みたいなものもぜひお互いに協力してっくっていったらどうかという提案は全くそのとおりだと思います。  私どもも、そうした努力に、この問題を契機にして我々みずからがみずからの本来の宗教活動にもっともっと積極的に努力しなきゃならない。これは痛感しております。

前川忠夫日本社会党・護憲民主連合

○前川忠夫君 ありがとうございました。

有働正治日本共産党

○有働正治君 きょうは貴重な公述、本当にありがとうございます。御専門の立場から、そして現場からの貴重な御意見だと受けとめさせていただきました。  まず、現場からの声ということで鈴木公述人にお尋ねするわけでありますが、鈴木公述人は、小寺院あるいは小法人の現場の当事者としてのお立場、実態を踏まえて意見を公述なされました。  そうした立場からお尋ねするわけでありますが、仏教界に身を置かれる立場として、また同じ宗教人として、当委員会でも大きな問題となりました政治と宗教とのかかわりとの兼ね合いで巨大法人の実態等について、具体的に創価学会の、しかも、私どもから見れば政教一体となった政治活動がかなり展開されていると受けとめているわけでありますが、ここらあたり、小法人の立場から見て忌憚のない、どういう御意見をお持ちなのか。  その際、当委員会でもいろいろ問題になりました、特定政党と一体化して選挙のたびに組織的に信者を駆り立てている選挙活動が行われている実態があるわけであります。そうした政党が政権について権力を行使する場合に、憲法の政教分離とのかかわり、これもかなり議論されたわけでありますが、ここらあたりについてのお考えを含めてお聞かせいただければと思います。

鈴木徹衆真宗大谷派僧侶

○公述人(鈴木徹衆君) これについてはいろいろありますが、二点について言わせていただきたいと思います。  一つは、創価学会の選挙活動のあり方、これはもう宗教団体としてもちょっと問題がある。我々の方でもちょっと考えなければいけないところがあるんです。例えば、我々の教団がある特定の政治的要求を持って、この署名をしなければ、署名をすることは真宗門徒のあかしであるという、こう宗務総長が檄文を飛ばすと、これはまじめな門徒はみんな署名しちゃいます。  と同じように、功徳と仏罰と両方をもって、それでもって票稼ぎの問題を左右される、これはやらない消極的な信者に対しては仏罰論になる。こういうことが、宗教感情とか宗教的教義をもってそうした運動をすること自体が宗教団体としてはまことにけしからぬ問題である、こういうふうに思っています。我々の教団でもそういうことは、選挙活動じゃないですけれども、別な問題についてそういう傾向があったことに対しては過去から厳しい批判をしております。  それから、政治活動というふうに公益になりますと、これはいろいろ広い意味では平和運動も政治活動であるということにもなりまして、我々自身も、重大な国民の運命を左右する問題などに対しては責任を持ってかかる運動にかかわることはあります。しかし、専ら特定の団体による国政を左右するような勢力になってくる、これに対しては、創価学会以外の宗教団体は脅威を感じていないと言ったらうそだと思いますね。これは現実にそういうことであると思います。  ですから、一つは、宗教団体としてのあり方として、教義や信仰論からそうした運動を信者に押しつけるというあり方は信者一人一人の政党支持の自由や信教の自由を侵すことになる、みずから侵すことになる。二つ目は、そうした特定団体が政治的な力を持つ、国政の上で国政を左右するようなものを持ってくるということは他の宗教団体にとって極めて脅威である。またもう一点は、全国民的にとっても重大問題であると、こういうふうに感じております。

有働正治日本共産党

○有働正治君 引き続きまして、鈴木公述人、具体的な問題を私はお尋ねいたします。  今度の法改正との絡みで収支計算書等の書類の提出の問題あるいは備えつけの問題、これとのかかわりで、例えば基準値ですね、設定。先ほど三千万円とかいうようなお話も議論の中でございましたけれども、仏教界の皆さん方としてこういう点について何らかの御要望なり御意見なりはおありなのかどうか、そこらあたり忌憚のないところをいかがでございましょうか。

鈴木徹衆真宗大谷派僧侶

○公述人(鈴木徹衆君) 一つは、私が三千万と言って、知っているのを驚いたと先ほど言われたんですが、全日本仏教会、そこでこの問題を重視しておりまして、全日本仏教会としては、三千万というよりはそれはもう五千万というふうにその基準値は上げてもらいたいということを要求したいんだということが全日本仏教会で話し合われております。これは全日本仏教会に関係する筋からお話を聞いているわけです。  それからもう一つは、日蓮宗の中でこの法人法改正案、これは議会でまとめた意見にもなっておりますが、そこでは包括法人、あるいは文部省の先ほど私が申し上げたような所轄するところの巨大教団に関して提出をさせるという義務を課すべきであると。非包括の、我々末寺のそれにわたって提出を求めるということは反対であるという意見があるということでございます。

有働正治日本共産党

○有働正治君 もう一点だけ鈴木公述人、信者その他利害関係人に対する書類の閲覧問題ですね。これは実際問題としてはどういう場合に起こるのか、またその点が見込まれるのか。現場の立場からこの点についてどういうふうな御所見をお持ちなのか、お聞かせいただければと思います。

鈴木徹衆真宗大谷派僧侶

○公述人(鈴木徹衆君) 仏教界も寺院も大分住職の横暴な私物化によるトラブルが起こって、そうした問題が起こっていたことも事実です。  それから、住職だけじゃなく、逆に東本願寺の、御承知のように、十数年にわたる紛争の中で利権絡みの問題がありまして、そういうような、それに関係するような問題も生じてきたことは事実でありました。ただ、檀信徒あるいは利害関係人の帳簿閲覧というのは、したがって、そうした先ほどもお話がありましたように、裁判上の争いとか重大な問題、疑惑、寺院における運営の疑惑、邪心などが生じたときにのみのことであろうというふうに思っております。  それからもう一つは、我々の宗派では慣習的に信仰が盛んな方なので、信徒が大体会計を、もう実態を握って知っているんですね、地方に行きますと。ですから、住職よりは信徒の発言の方が強いわけですね。経済的にもそうです。例えば報恩講という行事のときに、持ってきたお布施をそのままそこの信者の前で開いて、書いて、帳簿をつくっているのは同じ信徒、世話役なんです。そのくらい徹底している面もありますので、閲覧ということについてはそういう問題があると思います。トラブルというようなことに関係してあるんだろうと思います。

有働正治日本共産党

○有働正治君 ほかのお二人の公述人の方には、私がお聞きしたいと思った点、ほかの委員が聞かれましたので、以上で終わらせていただきたいと思います。  どうもありがとうございました。

本岡昭次参議院フォーラム

○本岡昭次君 参議院フォーラムの本岡と申します。  三人の公述人の皆さん、御苦労さまでございます。二、三点の、ちょっと勉強もさせていただきたいと思って質問をいたします。  まず、棚村公述人にお伺いしますが、信教の自由を侵害するんだ、制限するんだと言って正面から法案を提出したり議論をしたりすることは、これはないと思うんですよ。また、してはならないことなんですね。だから、我々が議論すべきなのは、より信教の自由を保障し拡大していくために何をすればいいのかという議論こそ大切だと思うんですね。  そこで、今回のこの改正なんですが、棚村公述人の方も信教の自由の枠内で必要最小限度の改正というふうな、枠内でということをおっしゃっているわけで、それは必要最小限度の改正というふうにおっしゃったと思うんですが、必要最小限度の規制というふうに読みかえてもいいんじゃないかというふうにずっと聞いていたんですね。  ということは、この自由という問題に対して、今度の改正は必要最小限度の規制をそこに求めているんだということになってくるのか、いやそうじゃないんだ、その規制することが信教の自由をより拡大していくことになるんだと、こうおっしゃるならば、具体的にお教えいただければありがたいと思うんです。

棚村政行青山学院大学法学部教授

○公述人(棚村政行君) 先ほど来ちょっと申し上げておりますけれども、現行法の基本構造というのは、宗教団体の自由とか自主性、宗教活動の自由をできるだけ尊重しようとしたわけでありますけれども、宗教団体あるいは宗教法人が持っている公共性とか社会的な責任の部分を欠落させているわけではないんですね。  先ほど来言っていますように、十一条で損害賠償の責任についてもわざわざ民法四十四条のものをそこに書いてあるわけですし、責任役員制度をとっても、それからほかにも八十六条なんかをとってもきちんとその責任の部分が規定されておるわけですね。そして、じゃどこに現行法ではまずい点や不備があるかと、そういう議論であるわけなんです。一切それは手をつけてはならないとか、さっきから言いますように、認証制度をもって届け出制だというような議論とか、あるいは一切不介入であるというような議論を時々見かけることがあるんですけれども、そうではないと。  アメリカのある有名な宗教法学者が言っていますけれども、宗教の聖の部分では、つまり宗教固有の聖の部分では、憲法的に特別な保護を与えられて特別扱いをする、しかし、だからといって俗の部分で宗教法人が全く自由であるとか自由放任だとか、国家的な介入が一切ないというようなことではないということを申し述べているんです。  アメリカについては、もし何かあれば、今どういう状況かはお話ししたいと思いますけれども、基本的にはそういう考えに立っております。

本岡昭次参議院フォーラム

○本岡昭次君 ちょっと頭が悪いのか、よくわからぬですね。どこを規制することがどう信教の自由とつながっていくのかということがわからないわけです。  そこで、私はこう思うんですよ。信教の自由と宗教団体のあり方とか、あるいはまたこの日本社会のあらゆる部面の問題、教育の部面もある経済の部面もある。いろいろありますが、そういうところに二つの流れがあると思うんです。  一つは、これは公述人もおっしゃったように、自己管理、自己規制等を大切にしながら自主的に社会的責任、公共性の配慮というふうなものを自助努力を積み重ねて、そして社会に対する信頼をから得ていく、それで自分たちのあるルールをつくっていくというこの行き方と、法や規制によってとにかく規制管理をしてもらう、そしてそれに従っておれば楽だし、その中でやっていこうと、いわゆる規制社会ですね。この二つがあると思います。  日本人はこの規制社会の中で暮らす方になれていると思うんですよ。何か枠をはめてもらったら、その枠の中で動いておればだれも問題はないんだから、そういうその両方を考えたときに、私は今の社会の動きというのは、規制社会からもっと自主的な、自発的なそういう社会のルールをみずからつくっていこうという方に向いていっているのではないか。だから、規制緩和とか規制撤廃とかいったようなものを今、経済の部分で多く求めております。  こうしたものを宗教に全部当てはめたらいいとは言いませんけれども、少なくとも方向として、流れというのはそういう方向で問題の解決を私はしていくことが正しいのではないかということを思っているものですから、この前の参考人の皆さんにも宗教法人自体のありようが問われているんじゃないんですかと言い、また村山総理にも、宗教団体自身が何かをやらねばならぬと思っているんだからもうちょっと時間をかしてあげたらいかがですか、いきなり法の網をかぶせずにということを私は双方に申し上げているんですが、そういう点について、棚村さんと飯坂さん、少しお願いします。

棚村政行青山学院大学法学部教授

○公述人(棚村政行君) 諸外国の法制を見てもわかりますように、信教の自由、政教の分離は非常に憲法の大原則であります。それを守るためにどうするかといいますと、まず自己管理、自己規制、自律性を強化する、内部チェックを入れる、こういうことがまず一つの枠組みになります。ところが、それがきかない場合に国家や社会がそういう形で外部からコントロールする、それが民主主義社会の基本的なルールだと考えております。  そういう意味では、今回の改正についてはいろんな議論がありますけれども、十分議論を尽くして、どこまでが信教の自由を侵害しない範囲の内部のコントロール、外部のコントロールになるかということで議論を深めたいというふうに考えております。

飯坂良明学習院大学名誉教授

○公述人(飯坂良明君) 先生のお考え、私などの考えておりますのに大変近いような気がいたしますのですが、私が申し上げておりますのは、先ほどのお話にもございましたように、愛知県の例をとりましても、九千の宗教法人に二人しか宗務課に当たる者がいない。それじゃ、これは今度の法律を改正しましてもそれでもってカバーできるのか、カバーできないんだったら、カバーできるような体制をくっつけて改正をするというのでしたらもっと説得力があると思うのでございます。  ですから、文部省の方へ所轄庁を移したとしても、それじゃ文部省の方が今のあそこに雑然といらっしゃる宗務課のあの中で、あれでさえ随分お忙しいのに、本当におやりになれるのか。ですから、そのあたりまでもはっきりさせていただいた上で、だからこうやるというのでしたら私は非常に説得力が出てくる。ところが、今はどうもそうではないのに、とにかく改正が前面に出てきているんじゃなかろうか。  それから、まさに最小限度の規制がある場合には必要な場合がございます。それは私も認めますけれども、それが最小限度の規制であるかどうかの議論をもっとしてほしいと言っておりますのにそれができなかった。  それから、聖と俗の部分とおっしゃいますけれども、聖と俗というのは、あたかも聖でない部分は俗で、俗でない部分は聖だというような単純な二分法でいかないんです、宗教では。聖なるものは最も俗的な形をとって出てくる。そして、俗なるものはある見方からすればそのものが聖だというような、ですから、お金だって俗だと決めつけてしまうというその発想自身が私は宗教というものを本当に御理解願っているのかというような疑問を持ちますので、ですから、もう少し御議論をしていただきたいと申し上げておきたいと思います。

倉田寛之自由民主党・自由国民会議

○委員長(倉田寛之君) これにて公述人に対する質疑は終わりました。  この際、公述人の方々に一言御礼を申し上げます。  皆様には、長時間にわたり有益な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。拝聴いたしました御意見は本委員会の審査に十分反映してまいりたいと存じます。委員会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。(拍手)  これをもって公聴会を散会いたします。    午後四時十五分散会

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