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132回国会衆議院1995/06/13

厚生委員会 第15号

発言数
19
登壇者
10
会派数
1
開催日
1995/06/13

会議録

岩垂寿喜男日本社会党・護憲民主連合

○岩垂委員長 これより会議を開きます。  第百二十九回国会、森井忠良君外十三名提出、臓器の移植に関する法律案を議題といたします。  この際、一言申し上げます。  脳死と臓器移植をめぐる問題につきましては、医学、法律、宗教、哲学等々、さまざまな分野が関連しており、人の生命に関する問題であるだけに、国民の各界各層から強い関心が寄せられています。  したがいまして、当委員会といたしましては、広く参考人の方々から御意見を聴取し、その御意見を十分に踏まえた上で本案の審査を行うことは、極めて有意義なことと存ずる次第であります。  本日は、このような趣旨を踏まえ、臨時脳死及び臓器移植調査会の答申について、元臨時脳死及び臓器移植調査会会長代理・東京大学名誉教授森亘君、医師としてのお立場から、社会保険小倉記念病院長・日本学術会議会員武下浩君、東京都立墨東病院救命救急センター医長濱邊祐一君、国立循環器病センター総長川島康生君、順天堂大学医学部循環器内科主任教授山口洋君、法律関係の問題について、中央大学法学部教授・筑波大学名誉教授斉藤誠二君、弁護士原秀男君、有識者などとして、国際移植者組織・TRIOジャパン会長青木慎治君、ノンフィクション作家柳田邦男君、以上九名の方々に御出席をいただいております。  この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多用中にもかかわらず御出席を賜りまして、まことにありがとうございます。本案について、それぞれのお立場から十五分程度忌憚のない御意見をお述べいただき、審査の参考にいたしたいと存じます。  それでは、まず森参考人にお願いいたします。

森亘元臨時脳死及び臓器移植調査会会長代理・東京大学名誉教授

○森参考人 ただいま御指名いただきました森でございます。  本委員会における参考人としての私の役目は、平成二年三月より同四年一月まで、二年間にわたって行われました臨時脳死及び臓器移植調査会の審議経過並びに結論について御報告申し上げることと理解いたしております。  その答申全文は、既に皆様方に配られていると聞いております資料、「脳死・臓器移植問題に関する資料」と題するA4判白色の冊子の中におさめられておりますが、なお重ねて、答申そのものを本日お配りいたしました。このブルーの表紙のものでございます。こちらの方がやや活字も大きく、お読みになりやすいかと存じます。  本調査会は、答申の三十六ページにもございますように、いわゆる各界の有識者、十五名の委員と五名の参与によって構成されましたが、中でも比較的多数を占めたものは、弁護士その他の法律家五名、医師の資格を有する者五名でございました。  四十一ページから四十四ページにわたり審議経過が記されておりますが、これをごらんいただきますと、合計三十三回の一般的会合のほかに、六回の公聴会、三回の国内視察、三回の海外視察並びに二回の意識調査が行われたことが記録に残っております。  答申の形式といたしましては、調査会そのものの意見とされたいわゆる多数意見のほかに、特に脳死を中心とする問題についての少数意見を第四章として付記いたしております。  調査会の意見、すなわち第一章より第三章までは全員でその文章を検討いたしましたが、少数意見、すなわち第四章につきましては、そうしたお考えをお持ちの二名の委員並びに二名の参与の方々が執筆され、他の委員、参与はその文言についてはほとんど意見を差し挟むことをいたしませんでした。したがって、文体、表現の仕方などにつき若干の差異があることに気づきます。  では、最終報告、すなわち答申の内容に入りたいと存じます。  その冒頭は、第一ページ「はじめに」で、そこには、社会がこのような調査会を必要とし、そしてそれが実際に生まれた背景が記されております。ちなみに私どもは、脳死は本来臓器移植とは別の問題であるという認識に立ち、まず脳死、次いで臓器移植の順に、両者を別々に一応切り離して論議することといたしました。事実、脳死に陥った患者について、その臓器が移植に用いられる症例数は全体の中ではわずかでございまして、むしろ、医師あるいは家族にとり、いつ人工的な生命維持装置のスイッチを切るかという問題の方がはるかに大きいと聞いております。  さて、第三ページに移っていただきますと、ここからは第一章「脳死をめぐる諸問題」が始まります。  ここでは、「脳死と医学的に見た「人の死」」すなわち医学的に脳死を人の死と言えるかどうかについて論じられましたが、結論として、「意識・感覚等、脳のもつ固有の機能とともに脳による身体各部に対する統合機能が不可逆的に失われた場合こもはや「人の生」(生きている人)とは言えないというのが近年における医学主流の考え方であり、すなわち人の死であるとしております。  次に、「脳死とその判定の方法」について、脳死は「一般に「脳幹を含む全脳の不可逆的機能停止」と定義」されるものであって、その判定基準については、いわゆる竹内基準が現在の医学的水準から見て妥当であると結論づけております。  そうした議論を受け、第七ページのあたりでは、「脳死を社会的・法的に「人の死」としてよいか」どうかの議論に移り、結論として、脳死をもって人の死とすることについては、今やおおむね社会的に受容され合意されているといってよいといたしました。そして、脳死をもって人の死とするかどうかは本人または家族の判断に任せるというそうした考え方や臓器移植をする場合に限って脳死を人の死としようという考え方に対しては、本来客観的事実であるべき人の死の概念になじみにくく、法律関係を複雑かつ不安定にするという理由で、不適当といたしました。  また、脳死を人の死とはしないが、本人の事前の同意があれば脳死の状態にある者からの臓器移植を行っても法律上違法でないとする考え方に対しても、これは二つの生命の間に価値の差を認め、高い質の生命を持つ患者を救うために低い質の生命を持つ患者を犠牲にするという考え方を内包するという理由で賛意を示しませんでした。  さらに、たとえ処罰されないとしても、社会的に死とされていない体からの臓器摘出は、医のモラルに照らして到底認められないという意見があったことなどがここに述べられております。  十一ページからは、第二章「臓器移植をめぐる諸問題」でございます。  ここでは、まず「臓器移植の現状と評価」について意見が述べられ、欧米諸国では臓器移植は日常医療の中に完全に定着していることを紹介し、さらに「善意・任意の臓器提供意思に基づき、移植を必要とする人々が一人でも多く救済される方途を講じて行くことが今後のあるべき基本的な方向である」としております。  十二ページで、「臓器移植を進めるに当たっての基本的原則」として、脳死体から摘出された臓器を不可欠とする心臓移植等の場合には、脳死の確実な判定が絶対的な条件であるとし、またそうした脳死者からの臓器の提供に当たっては、本人の意思を最大限に尊重することに力点が置かれております。それに付随して、本人の承諾が文書でなされていない場合においては、「近親者が諸般の事情から本人の提供の意思を認めているときには臓器提供を認めてよい」とされました。  さらに幾つかの提言が行われておりますが、その一つが「臓器移植ネヅトワーク整備の基本的な考え方」であります。  そこでは、「移植機会の公平性の確保と最も効果的な移植の実施という両面からの要請に応えていくためには、臓器移植ネットワークの整備が不可欠である。」としております。また、関連学会等による移植施設の特定、ドナーカードの普及等が必要とも述べ、同時に、「移植医療を適正に実施していくための仕組み」として、し今後、臓器移植ネットワーク内に、独立かつ公正な「審査委員会」を設け、問題事例については、必要な調査等を行わせること、また「関連した法制の整備」として、臓器移植は、法律がなければ実施できない性質のものではないが、心臓、肝臓等の移植を行っていくためには、臓器移植関係の法制の整備を図ることが望ましいと記されております。  二十一ページから二十三ページにかけましては、第三章「脳死・臓器移植問題と医療に対する信頼の確保」で、そこでも幾つかの事柄について論じられておりますが、最も重要な点は、人々の医療をめぐる不安感・不信感に対し一つ一つこたえていく努力は、何よりも医療を担っている医師ら自身の重大な責務であり、したがって、「医師の集団が良きプロフェッショナリズムに立ち、自主的・自律的な自覚と責任をもって、自ら問題の解決に努めていくことが肝要」といたしました。何よりも医師みずからがまず厳しく襟を正すことが大切であると考えております。  二十四ページから三十三ページにわたる第四章「「脳死」を「人の死」とすることに賛同しない立場で」は、いわゆる少数意見でございます。  ここでは、まず脳死を人の死とする論理に対する批判が行われ、多数意見では脳死が死であると断定するが、多くの人を納得せしめるものではないとし、脳死を死とすることにいかなる論理的根拠も見出しかたく、実感としても納得できないと述べております。また、脳死を死と認めた場合、末期医療への努力がなおざりにされたり、人間の体が医学資源として保存利用される等の危険をはらんでいるとし、さらに、死の概念を変更することは、現行の多くの法規との整合性が問題であると記されております。  次いで、二十八ページ、「「脳死」を「人の死」とする社会的合意の不成立」という項目のもとでは、多数意見の中で社会的合意が達成されたと言うのは暴論であると批判しております。次いで、「少数意見の思想的立場」について、多数意見のよって立つ思想的前提、すなわち科学主義、理性主義、人間機械論、西欧主義といった思想に安住できず、近代西欧文明を批判的に摂取しようとするものであると説明しております。  しかし、「臓器移植について」は、一転して、脳死を死と認めることには賛成できないものの、脳死体からの臓器を利用するものを含めて移植医療に何らかの道を開くことには決して反対ではないとし、ただ、「移植の条件」として、次なる四項目を挙げました。  すなわち、一、脳死については、現段階における最も厳格な定義及び判定基準――脳循環、脳代謝の途絶などを意味いたしますが、によって決めるべきである。二、脳死状態から臓器を摘出・移植するに当たっては、本人の意思が事前に文書によって明確に表示されていなければならない。三、レシピエントに関しては、その選択が公平に行われ、医学的適応性が確認されていること、またインフォームド・コンセントについても確認されていることが必要である。四、臓器の摘出・移植を行う施設は、患者の自己決定権を尊重する制度を設けていなくてはならない、であります。  かくして第四章までの記述を終わり、最後の第三十四ページには「おわりに」といたしまして、本調査会の結論が述べられております。  脳死臨調の答申の立場は、多数意見にあるように、脳死をもって人の死とすることはおおむね社会的に受容され合意されていると考えてよいとした上で、一定の条件のもとに脳死体からの臓器移植を認めるということでありますが、事脳死に関してはいわゆる少数意見があったことは、ただいま述べたとおりでございます。  ただ、脳死体からの臓器移植に関しては、少数意見も含め、委員全員がその意義を認めているところであり、今後良識に裏打ちされた臓器移植が推進され、それによって一人でも多くの患者が救われることを希望するとしてこの報告を閉じ、もって答申とした次第でございます。  以上、私の個人的な意見、考えはできるだけ排除いたしまして、客観的に私どもの臨時脳死及び臓器移植調査会の審議経過並びに結論を紹介させていただきました。  御報告を終わります。どうもありがとうございました。(拍手)

岩垂寿喜男日本社会党・護憲民主連合

○岩垂委員長 ありがとうございました。  次に、武下参考人にお願いいたします。

武下浩社会保険小倉記念病院長・日本学術会議会員

○武下参考人 御指名いただきました武下でございます。  お手元に私の資料を準備してございますので、それを見ながらお聞きいただきとうございます。私の発言の立場を明らかにしますために、「脳死の研究をしてきた医師の立場から」というような題をつけてございます。私は、特に脳死につきましては、脳死判定基準について、後で申しますが、日本脳波学会の判定基準それから厚生省判定基準、二つの判定基準の作成に携わってまいりました。  私は麻酔蘇生学、集中治療医学、救急医学が専門でございまして、脳に関しては、脳を生き返らせる、表現が間違うといけませんが、死んだ者は生き返らないのですが、よみがえらせる脳蘇生という仕事をしてまいりました。しかしながら、重篤な脳障害で、現在行われ得るすべての適切な治療手段を尽くしましても回復の可能性が全くなくなる患者さんが現実にはあるわけでございます。今から私が申し上げますことは、このように最善を尽くした後の話であるということを御理解いただきとうございます。  結論だけ先に申しますと、私は今回の法案に賛成でございまして、特に今までの経緯それから現在の我が国の置かれた状況を考えますと、妥当なものと考えております。  それではまず最初に、「脳死とは」ということでお話ししますが、原病、検査所見、経過から把握する臨床的概念であります。私の資料の中に絵がついておりますので、それを見ていただきたいと思います。三ページとページを打ってあるところです。  既に御承知のとおりですが、お手元の図にありますように、脳は精神活動、知覚、運動と関係する大脳、そこの「脳の構造」のaというところに「大脳」と書いてありますが、運動の調節をする小脳、小脳は生命、意識とは関係ございません。これは連動の調節であります。  脳幹には、図のbの方で矢印で示してございますが、その全長部、脳幹部というのはaの方で見ますと大脳の下の方、脊髄の間にあるところですが、その全長部にわたりまして存在する脳幹網様体という部分がございまして、その上の方には意識を調節する機構がございます。下の方には呼吸、循環を調節する生命の維持に不可欠な部分がございます。そのように、脳幹網様体というのは非常に重要なところでございます。  下の図に移りますが、例えば脳内出血の場合、脳というのは図のようにかたい頭蓋骨に囲まれておりますので、脳内に出血が起きまして、bの方をごらんください、急に容積が増加しますと頭蓋骨の中の圧、すなわち頭蓋内圧と言っておりますが、これが上昇します。この状態はCTなどの画像診断で的確にとらえることができます。すると大脳の一部は脳の下の方に圧迫されまして、2の「脳死の病態」のbのところで「①脳内出血」とありますが、それがちょうど、テントと言いますが、大脳と小脳を区切る境の組織があります、そこを越して下の脳幹部を圧迫し、障害を起こすことがわかっております。この場合は出血が起きたというようなことが書いてございます。  この間あらゆる治療を試みますが、効果が出ないときは次第に増悪しまして、患者は深い昏睡にとどまり、呼吸は著しく障害され、血圧も下降傾向となってまいります。呼吸障害に対応するため人工呼吸器による呼吸補助が必須となります。ついには、自分で呼吸すること、自発呼吸が消失しまして、脳幹に中枢を有するいろいろな反射、例えばひとみに光を当てまして瞳孔の大きさを見る、ああいったような反射が消失してまいります。病態は全く不可逆性となります。この状態が脳死で、脳死とは脳幹を含む全脳機能の不可逆的消失であると定義されております。  脳死の原因としては脳血管障害、今例に挙げた脳出血はその代表でございますが、これが最も多く、厚生省研究班の調査では全体の六五%を占めております。しかし、このような状態は全体の死から見ればわずか約一%と推定されております。  先ほど説明しましたように、脳死状態では必ず器械による人工呼吸が行われております。人工呼吸により心拍が維持されまして、自分の家族が脳死に陥っている場合、家族の方がそれを見た場合は、これは、皮膚は温かく、色もよく、脈もよく触れます。「見えない死」と言われるゆえんであります。  脳死は全体の死から見ればまれでございますから、これは一般の人々にとっても、よほど自分の親族にそういう状態が起こらない限りは目につかない状況でございます。また脳死は、病院の中でも救急部でありますとか集中治療部とか脳神経外科、そういったようなところでしか見られませんので、これは医師の中にも脳死を見たことのない医師はおります。その意味では、まさに脳死は、家族にとっても社会にとっても医師にとっても「見えない死」なのであります。脳死の現場を何度も見た者でありませんと、脳死が生とは質的に異なるもの、圧倒的な現実感で迫ってくるものであるということを説明することが大変困難でございます。  図に示してございますが、先ほどの図の一番下でございますが、植物状態では、脳幹、つまり意識を調節するところ、呼吸、循環を調節するところがあるこの脳幹という部分は機能しております。呼吸は自力で可能なので、人工呼吸は必要ありません。この点で根本的に違いまして、植物状態は脳死に見るような死の現実感というのはございませんで、これは正常の場合とは質的な違いである、そのような感じがいたします。  今申し上げましたことから、脳死は、病気の原因、意識の水準など神経学的な所見、CTなどの検査所見、治療に対する反応と経過から把握する臨床的概念なのであります。  次に、「脳死判定基準」について御説明申し上げます。ここでは私は、竹内基準で脳死は間違いなく判定できるということを申し上げたいと思います。  我が国で最初の和思臓移植が行われて二十七年たちましたが、それをきのうのことのように言い立てる人もいますし、また、全く忘れたかのように言う人もいます。いずれも医学の進歩と時代の流れを無視していると思っております。  和田移植を契機としまして、日本脳波学会は新潟で初回の会を開きまして、一九七四年に最終案を公表いたしました。そのときの脳死の定義は今日と同じですが、脳死の脳には脳幹を含むとしたのは当時としてはまことに卓見でありまして、その後各国でできました脳死判定基準は、すべて脳幹機能の不可逆的消失を強調しております。この当時の脳死の定義は新潟宣言と呼ばれました。  しかし、時既に、脳死、移植はタブーとなっておりました。その脳波学会基準の流れをくむのが厚生省判定基準、班長の名前をとりまして、杏林大学学長の竹内先生の名前でいわゆる竹内基準と呼ばれておりますが、現在日本脳波学会基準の流れをくむのが厚生省判定基準、こういうふうに理解いただきたいと思います。この基準が最もよく知られており、多くの専門家の支持を受けております。公表以来九年の歳月に耐えているのであります。例えば日本救急医学会は、「脳死判定は厚生省脳死研究班判定基準に従うものとする。」としています。  裏をごらんいただきますと、日本救急医学会理事会の「脳死患者への対応と脳死体からの臓器移植について」というのがございまして、その「脳死の判定について」というところで明らかにそのことが書かれてございます。  竹内基準では、深い昏睡、脳幹反射、先ほどちょっと申しました対光反射など七つの反射ですが、脳幹に中枢を持つ反射が消失し、自発呼吸が消失し、その上脳波が平たんになることを確認して、一定時間をおいて再検査して変化がないことを確かめます。この前三者、一、二、三、四と番号を打っておりますが、前三者は世界各国の判定基準に共通の骨格であります。  ここで申し上げたいことは、脳死の定義の中にあります全脳機能とは、臨床的に検査できる脳機能のことでありまして、米国大統領委員会報告もそのことを明確に断ってあります。この場合、脳機能の不可逆的消失を確認しているので、脳の機能死を判定していることになります。  これに対し、脳死は器質死、つまり脳の細胞が壊死に陥る、破壊されるということでなくてはならないと主張する人があります。器質死とは、細胞が壊死に陥った状態をいうのであろうと想像いたします。想像というのは、器質死という用語は医学辞典にはありません。正統派ユダヤ教ではこのようなことを言っておりますが、それでは器質死をどうやって証明するかについては触れていません。  この器質死をどうやって証明するかについて、一部の人は、脳血流測定で判定できる、このように言っておりますが、その根拠は、脳は普通の体温下で五ないし十分間も血流が途絶えますと機能を回復することはございませんので、そのままの状態が続けば細胞は必ず崩壊するということを前提にしておるのであります。しかし、いずれの脳血流検査も、脳への血流が完全に停止したことを 証明するのは難しく、一般的に行われている脳血管撮影でも、他の方法を用いれば血流が証明されることもあります。  また、ここが重要な点ですが、脳血流の検査をしましても、器質死の考えでは、いつ脳が死んだかということを判定できません。従来の死の判定で心停止をもって死としますときも、心臓の個々の細胞が死ぬことを意味しているのではありません。あくまでも心臓の機能を判定しております。  我が国における脳死論議が大変混乱いたしましたが、その大きな理由は、細胞レベルでの死、つまり器質死、脳死判定基準、人の死は何か、この三つを同じ次元で同時に議論したからだろうと私は思っております。  幸か不幸か、脳死判定は神経学的所見を中心としたベッドサイドの検査で可能な臨床診断なのであります。機能死、器質死論争が盛んであったころ、日本医師会生命倫理懇談会に呼ばれて、私が竹内学長と一緒に答弁いたしましたその内容が、私の資料の一番最後にございます。これは全部読む時間がございませんので、後で読んでいただければ幸いです。下の方に、脳死臨調で、ちょうどその当時日本医師会副会長をしておられましたが、村瀬先生と一緒にヒアリングに呼ばれましたときに、村瀬先生が、この私どもの書きました補遺の文章についてのコメントを下に書いておられますので、それも読んでいただきたいと思います。  竹内基準は国際的にも評価されており、同時に我が国の医療水準を反映しています。日本医師会生命倫理懇談会、脳死臨調の報告も、脳死の判定は竹内基準を必要最小限とし、必要に応じて補助検査、これは専門的になりますが、脳幹の機能を電気生理学的に測定する聴性、音を聞かせて脳波をとるのですが、誘発電位というのをとるのですが、聴性脳幹反応、脳血流測定などを行うというのが趣旨であります。  この必要最小限というのは、私は大変大きな意味を持っておると考えております。竹内基準で十分に脳死の判定が可能で、間違うことはありません。示された前提条件、除外例を厳格に守り、確実に検査を行えば、竹内基準による判定は科学的である、私はそのように考えております。竹内基準は、聴性脳幹反応とか脳血流測定を無視しておるのではありません。必須としていないだけです。  ここで、だれでも統一基準があればよいと考えるでしょうが、もし統一基準をつくるのなら、必要最小限で間違いのないものにすべきであるというのが私の考えです。もしも必要でない複雑な検査を多くつけ加えた場合、移植が国際間にわたるような場合にはどのようになるのでしょうか。日本だけが他国では必要とされていない検査が多く入っていて、そうでない他国の脳死判定基準で判定された臓器はいただくということは、私は筋が通らないのではないかと思います。法律ができて、省令で予定されている案が通れば、それが我が国の統一基準的なものになりましょう。私は、予定されている案はよくできていると思います。国際的に認められる案でありましょう。  その次は、「脳死と人の死」。医学的に脳死は人の死、しかし人の生死は社会の約束事、これが私が申し上げたいことです。  人の死を理解するには、医学、生物学的知見が重要であります。先ほど既に脳死臨調の概略をおまとめになった御発言からありますように、そこで重複するようなことは避けたいと思いますが、日本学術会議は、一九八七年、既に脳死は医学的に見て個体の死を意味するとし、この見解は医学界の大勢であるとしました。日本医師会は、一九八八年、脳の死をもって個体死と認めてよいという見解を出しております。脳死臨調の多数意見では、先ほど御説明ありましたように、脳死では意識、感覚など脳固有の機能とともに、身体各部に対する脳の統合機能が不可逆的に失われた状態と考えられるので、医学的に脳死は人の死としております。  脳死状態になりますと、一般的対応では数日のうちに心停止、心臓がとまります。私は、脳以外の臓器は、時間の長短はあれ人工的に機能を維持できること、これは私の資料の日本医師会生命倫理懇談会の補遺の中にも出てまいりますが、人工的に機能が維持できるということです、脳以外は。人は精神と肉体との統一体であり、その人がその人以外の何者でもないことに最も深くかかわっているのは脳でありますことから、脳死をもって人の死とする考えに賛成であります。このような考えは、世界の医学界共通の認識と思います。私は、脳死が人の死であることを前提とする今回の法案を妥当と考えます。  しかし、人の死は医学だけで決められるようなものではなく、人の生死を分かつ根源は医学の問題ではないと考えます。人の死は社会思想や文化と無関係ではあり得ません。脳死の判定基準や死に関する法律についてはコンセンサスが得られると思いますが、人の死については最終的には個人の価値観、死生観にかかわる問題なので、いろいろな考え方をする人があっても不思議ではありません。私が強調したいのは、自然科学的事実を幾ら積み重ねても人の生死を分かつことはできない、こういうことであります。  命は抽象名詞でありまして、医学はこの測定できない抽象名詞、命を対象としたことはありません。命は測定できないものであります。命を落としたと言いますけれども、落ちたのを見た人もいませんし、命拾いしたと言いますけれども、拾っているのを見た人もございません。私は、脳死判定問題が混乱したときにいろいろ考えまして、結局、医師には人の死を正確かつ適時に決定する責務がありますが、人の死というのは社会の約束事であり、あらかじめ了解しておくべき事項である、このように思いました。これは当然のことで、今ごろ気がついたかと言われればそれまでですが、私は、社会の約束事である、あらかじめ了解しておくことである、そのように考えております。  最後に、「臓器移植立法」。これについては、もうどうぞ速やかな審議をお願いしたいというのが私の結論でありますけれども、法案が、死体の中に脳死体を含め、脳死をもって人の死としていることは妥当であります。また、法案にある脳死体の定義も適切であると考えます。省令として予定されている判定法、竹内基準に準拠は、医学界からも十分に支持される内容と考えます。しかし、脳死をもって人の死としても、それを家族が悲しみの中で受容できなければ、その個人の死とすることはできません。医療側の時間をかけた十分な説明が必要であります。  脳死判定後の処置は、家族と医療側との成熟した関係の中で進められることになります。かつては、脳死と判定しましても積極的な治療を求める家族が多うございましたが、私の最近の経験では、脳死と判定されました後、これは治療を消極的にしていく、つまり家族の側に死の尊厳というものに対するお考えが大変強く出てきたように思います。法案で脳死体への処置が引き続き医療給付の対象になっていることは、脳死後心停止に至るまでの経済的配慮を意味していますので、人々の不安の解消に役立つと思います。  臓器移植とは、臓器提供者の善意を生かして、移植以外に救われることのない患者に行う医療技術であります。そこに善意があり、救われる人があり、それらを仲立ちするすぐれた医療技術があれば移植は非常に有意義と考えます。  しかし、臓器を提供することについても移植を受けることについても、肯定、否定の立場があって当然であります。私は、双方の立場を認め、これらすべての人々の考えを尊重する社会の姿勢が重要と思います。このような考え方は移植以外のこれからの医療にとっても大切であろうと思います。  臓器提供に当たって本人の生前意思の重要性は言うまでもありませんが、現在の医療は、一人の医師対一人の患者という単純な関係ではありません。医師を初めとする医療者、患者と家族、社会の三極構造となっており、家族の意思は極めて重要であります。また、社会が納得しないような医療は成り立ちません。この点に関し、移植条件の整備、移植を公平、公正に行うための機構づくりは必須であります。移植医療に当たって、提供者の家族の心情に対しては格段の配慮が必要であることは言うまでもありません。  私みずからの経験から次のようなことを申し上げます。  愛する人の脳死を迎えた家族の心情には、発病、どういう状況で起こったのか、これは突然に起こる場合が多うございますから、発病の様子、脳死に至るまでの医療がどうであったか、患者側と医療側との間にどのような人間関係が築かれてきたか、そして患者が家族の中でどういう立場にあったか、そのような関係、これらすべてが複雑に交錯したものがあります。そこに立ち入る移植は、医療の原点である人間尊重、家族の医療への信頼なくしては全く不可能であるということであります。  医療界、医学界の責任はまことに重大と自覚しておりますが、移植学会の条件整備も整い、全国的腎臓移植ネットワークも既に完成しております。これを脳死体に広げるということは可能であろうと考えます。  私は今まで脳死を研究しておりましたので移植に立ち入ることは努めて距離を置いて避けてきたのでありますが、十年も前にアメリカから飛行機で帰りますときに、同席しました隣のアメリカの心臓外科医が、私が脳死の本を読んでおるのを見まして、日本人が外国に移植に来るということをよく知っておられる方でした。その方が、私が脳死をやっているということを知りました。やおらカメラを出しましてその中に新しいフィルムをつけかえて、自分のドナーカードを飛行機のテーブルの上に置いて、ぜひとも、あなたが脳死の講演をするときには最後にこのスライドを出してほしい、ドナーカードです、米国ですら臓器が足りないのにこれはどういうことであるか、いろいろ日本に困難な事情があることはわかっている、しかしそれはしばらくの間であってほしい、我々の国民にも足りないのです、このことをどうぞ認識してほしいということを言われて以来、私も移植に積極的に発言するようになりました。  法案に対して慎重審議すべしとの声は、脳死臨調以来の議論がなかったかのように聞こえます。二年の歳月と多額の費用をかけた脳死臨調答申後、既に三年半経過いたしました。臨調の継続性を重視した速やかな対応を切にお願いして、私の発言を終わります。(拍手)

岩垂寿喜男日本社会党・護憲民主連合

○岩垂委員長 ありがとうございました。  次に、濱邊参考人にお願いいたします。

濱邊祐一東京都立墨東病院救命救急センター医長

○濱邊参考人 私は、東京都立墨東病院救命救急センターで医長を務めております濱邊と申します。  本日は、このような若輩者に、大先輩である諸先生方と席を同じくいたしまして私見を述べさせていただく機会をお与えいただきましたことを、まずお礼申し上げます。  さて、今回この厚生委員会に参考人として出席されていらっしゃいます方々を拝見いたしますと、臓器移植に沿った言い方をしますと、臓器提供側と言われる施設に属する者は私だけということになろうかと存じます。とすれば、今回の法案に対してそうした救急医療の第一線の立場からの意見を述べろという仰せであると解釈し、話を進めたいと存じます。  先ほど申しましたように、私は救命救急センターというところに勤務しております。この救命救急センターというところは、おおむね人口百万人当たり一カ所の割合で設置されており、その地域の救急医療の最後のとりで的な責任を担っているところであります。  収容される患者は、重症患者が大半を占めます。交通事故や労働災害事故の犠牲者、加害行為による被害者あるいは自殺患者などの外傷患者、心筋梗塞やクモ膜下出血、重症のぜんそく等の疾病、薬剤、化学薬品、有毒ガスなどによる中毒あるいは重症のやけど、さらには誤嚥や溺水に伴う窒息による心肺停止と呼ばれる、いわば仮死状態の患者さんなども合まれております。  我々の救命救急センターは東京の下町、墨田区にあって、今申し上げましたような患者さんを年間六百五十名ほど収容しております。重症の方が多いためか、うち二百名弱が死亡退院となっており、その中の二十ないし三十名ほどの患者さんが脳死状態からの死亡であると考えております。脳死状態に陥ってしまう患者さんの原疾患としては、交通事故による頭部外傷、働き盛りの方のクモ膜下出血あるいは窒息等の心肺停止からの蘇生後などが挙げられます。  さて、そうした救命救急センターといういわば救急医療の最前線に十年以上勤務してきた者の立場から今回の臓器移植法案を見たとき、幾つかの問題を指摘せざるを得ません。  まず第一は、今回の法案が、脳死イコール人の死ということがおおむね社会的に受容され合意されているという前提に立ってつくられているということです。この前提は正しいのでしょうか。  この前提値さきの脳死臨調の答申に基づくものと言われていますが、御承知のように、その答申には、脳死は人の死ではないという立場の少数意見なるものがつきました。こうしたことは前代来聞のことであると聞いております。つまり、脳死イコール人の死ということは、脳死臨調においてですら合意されていないということなのです。  それでは、実際に脳死患者が発生する、例えば我々の救命救急センターという現場ではどうでしょうか。  結論から言いますと、脳死状態に陥ってしまった患者さんの家族が脳死状態というものを正しく理解していることはほとんどありませんし、まして、脳死状態と説明されて、すなわちそれは既に死んでいることなのだと納得する家族は皆無です。  脳死イコール人の死であることは既に社会的に合意されていると主張される方々が、その根拠としてよくアンケート調査なるものを引き合いに出されますが、そうしたものに一体どれほどの意味合いがあるのでしょうか。大半の人は、脳死状態の患者を見たこともなければさわったこともない。最愛の人が脳死状態に陥ってしまったという経験も、ほとんどの人がないのです。  先ほど申し上げましたように、脳死状態に陥ってしまう患者さんは、元来健康であった若者や働き盛りの方に多く認められます。言いかえますと、脳死は予期せぬときに全く突然にやってくるのです。  脳死状態に陥ってしまった患者さんの、そんなことを想像すらしたことのない家族は、そのベッドサイドに座り、聞こえるはずのない耳元に声をかけ、感じるはずのない手足をさすり続けています。どんな小さな変化も逃すまいと必死なのです。そして、患者がまだ生きていると実感しているのです。そうした家族と同じ気持ちでケアに当たる看護婦も、脳死状態の患者さんに毎日おはようとあいさつをし、語りかけながら処置を行っているのです。  脳死イコール人の死ということが本当に合意されているのだとしたら、こうした家族や看護婦の行動をどう考えたらよいのでしょうか。どれほど脳死状態ということを説明しても、家族にとっての実感を否定することはできないのです。  今申し上げてきましたように、脳死に最も近い現場の実感として、脳死イコール人の死ということは決して合意されているものではありません。だとすれば、そうした真実ではないことを前提とした法律案はその存在基盤を失ってしまうこととなるのではないでしょうか。できることならば、そんな根拠のない前提を必要としない臓器移植法案なるものを再考していただきたいと存じます。  もちろん、逆にこう考えることもできるかもしれません。現時点で脳死イコール人の死ということについての社会的合意がないのであるから、今回の臓器移植法を成立させることによって、法権力によって脳死イコール人の死であると決定するのだという考えです。確かにそのことは、脳死状態の患者さんからの臓器摘出を容易にし、移植医療を進めるということの上では有効なことかもしれません。  しかし、脳死患者の発生する現場ではどうでしょうか。朝元気に出かけていった家族が、その日の夜には救命救急センターのベッドに横たわっている、そしてその数日後には脳死状態に陥ってしまう。救命救急センターに収容されている家族の心の中は、どこを見ても、どうして、信じられない、納得がいかないという、まさに混乱のきわみなのです。  そうした混乱した家族をケアするのも、実は我々救急医療のスタッフにとっては重要な仕事であると考えます。事実、我々はこれまでの間、脳死状態の患者さんを死亡と宣告せずとも患者さんの家族に受け入れられるような医療を実施してきました。そのためには、我々スタッフと患者さんの家族との信頼関係が何よりも重要なことなのです。そうした信頼関係とは切り離された法律の条文で脳死イコール人の死と決定されることは、そうした我々のこれまでの努力を否定するものではないでしょうか。  救急医療の現場というものが、救命ということに最大の努力をし、そしてそれがもはやかなわぬとなったときに、やがて訪れるその最愛の人間の死を残される家族に納得させる場であるとするならば、脳死イコール人の死ということを法権力によって決定することは何の意味も持たないところか、むしろ多大な困惑と混乱を救急医療現場に持ち込むだけなのだと言わざるを得ません。それが我々の実感です。  救急医療に従事する者の立場から申し上げますと、脳死イコール人の死ということを前提とせずとも移植が可能な臓器移植法というものをお考えいただきたいと存じます。  脳死臨調の答申などを拝見いたしますと、もし脳死が人の死でないとするなら、社会的に死とされていない状態の者からの臓器の摘出は、これまでの医のモラルから見て到底認められないなどというお考えがございますが、もし本人みずからが脳死状態の何たるかを十分に理解した上で脳死状態での臓器提供を望んでいるのだとしたならば、その意思を否定することのできる権利を我々は持ち合わせているのでしょうか。むしろ医のモラルに反しているのは、本人の意思に反して、あるいは本人の意思が不明であるにもかかわらず、既に死体だということで臓器を摘出してしまうことの方ではないのでしょうか。  法案の第二の問題は、この臓器摘出の承諾の問題です。つまり、患者本人の臓器提供の意思が不明のときは、その家族の承諾のみで提供が可能だとしている点です。このことは、法案の中でうたわれている臓器提供の任意性ということと深くかかわってくる問題であろうと考えます。  救命救急センターは臓器提供側であるとさきに申し上げましたが、しかし、この言い方は誤解を与えます。つまり、臓器を提供するのは、我々救命救急センターの医師ではなく、脳死患者本人なのだということなのです。単に我々は脳死患者の代理としてその意思をかなえるだけなのです。  そう考えますと、患者さんが脳死状態に陥ってしまったとき、主治医である我々がとり得る行動というものは、本人がドナーカードを所持していなかったかどうかを家族に確認すること、そして、所持していれば臓器提供を望んでいたと判断し、もし所持していなかったとすれば臓器提供を望んでいなかったと判断し、以後の行為を患者本人の意思に沿って行うことであると存じます。厳密な意味では、これ以外に臓器提供の任意性を保証する方法はないものと考えられます。  しかし、今回の法案は、脳死臨調でも述べられたように、家族が患者の意思をそんたくして臓器提供をする道を残しております。御承知のように、そんたくということでは患者の意思を正しく判断できないところか、むしろその意思に反することもあり得て非常に危険なことだという意見も根強くあります。百歩譲って、そんたくによっても患者自身の意思が正しく判断されるものとしましょう。しかし、その場合の家族のそんたくの任意性はどうやって保証されるのでしょうか。  今回の法案に付随して、そうした任意性を保証する具体的な方法を記載した「脳死体からの場合の臓器摘出の承諾等に係る手続についての指針骨子」なるものが公表されております。その中では、次のようなことがその手続として記載されております。  すなわち、我々のような主治医が、患者がドナーカードを所持していたかどうかを家族に確認するだけではなく、ドナーカードを所持していない場合には、家族に臓器提供の機会があることを告知し、患者の意思をそんたくして臓器提供の可否を答えるように求めるということです。果たして、こうしたことでそんたくの任意性、すなわち臓器提供の任意性を保証することが可能なのでしょうか。脳死患者の家族と接する我々の経験から申し上げれば、残念ながらそれは不可能です。  最愛の家族が脳死状態という瀕死の重症であったり、あるいは今まさに死んだばかりだというときに、冷静さを保てる人間は皆無です。霊安室でお線香を上げているときに、本当に息子は死んだのでしょうか、ねえ先生、本当は生きているんですよねと胸ぐらをつかまれたことは、一度や二度ではありません。  そんな状態であるときに何かの決定を下すこと、まして、それがそれまでに世話になっている主治医からの要請に基づくものであるとき、その任意性は全く信用できないものであると言わざるを得ないばかりか、場合によっては臓器提供の強要に結びついていくものであると考えます。それが救命救急センターでの家族の精神状態を長年にわたって見聞してきた私の結論です。  たとえそこに弁護士や移植コーディネーターなるものを同席させたとしても、事態は変わりません。そうしたことは、最近マスコミに取り上げられている幾つもの実例によっても明らかではないのでしょうか。  実は、このことは当の医療関係者も承知しているのです。臓器提供を遺族に承諾させるのは救急の主治医の先生方が適役なんですよ、それまで世話になっていた人間に言われるのが一番効くんですね、お世話になった先生がそれほどまでにおっしゃるならばというわけです。この言葉は、移植医の先生方から何度となく聞かされた言葉なのです。そしてこのことは、諸外国ではいざ知らず、この日本では、患者さんの家族が置かれている立場を如実に物語っているものと言えましょう。  臓器を一つでも多く移植医療に提供することができるようにするために、こうした家族の立場を利用することは確かに有効なことかもしれません。しかし、混乱している家族を慰め、そして最愛の人間の死を少しでも受容させていくことが救命救急センターの役割の一つであるとするならば、そうした場で家族に患者の意思のそんたくを要求することは、我々にとってとてもつらいことであると言わざるを得ないでしょう。そして、そうしたことを要求する今回の法案もまた、我々にとってはとてもつらいものと言わなければなりません。  さて、脳死臨調の答申を受けて提出される臓器移植法案に私は大きな期待を持っておりました。それは、その法案に移植医療が社会から認知されるためのルールが盛り込まれると思ったからです。  救命救急センターに勤務する立場から別の言い方をしますと、不幸にも脳死状態に陥ってしまった私の患者さんとその家族の混乱が少しでもいやされ、もしその患者さんが臓器を提供してもよいという意思を表明していたのだとしたらそれがかなえられるということ、そのためのルールだということです。  ところが、これまでに見てまいりましたように、今回の法案は、移植医療の適正な実施を目的とするという基本理念から外れ、移植医療を推進すべく、たとえ臓器提供の任意性に疑義が生じようとも、移植に必要な新鮮な臓器を一つでも多く獲得しようとすることをその最終的な目的にしているかのような印象を我々に与える期待外れのものとなってしまいました。  さて、脳死臨調でもその整備の重要性が指摘された移植ネットワークというものがあります。これは、移植医療の根幹にかかわる臓器の配分の公平性を保証するものですが、今回の法案の成立を積極的に推し進められているはずの移植医の先生方の中で、こうした移植ネットワークのルールを無視あるいは軽視される方がいるという昨今の報道に接しますと、この法案の本当の意図はどこにあるのかという疑いを禁じ得ません。  移植を一日千秋の思いで待っていらっしゃる患者さんが数多くいらっしゃることは百も承知です。だからこそ、臓器移植というものが社会から認知される適正な医療となるために、臓器移植法というものが、臓器を待ち望んでいる方と同様に、あるいはそれ以上に、臓器を提供したいんだ、上げたいんだと思っている方々の意思を間違いなくかなえさせるためのもの、つまり善意のあるいは任意の提供者側の視点に立ったものであることを強く求めます。  なお、お手元には、平成五年七月十日付の朝日新聞「論壇」に掲載されました拙文「臓器提供の”承諾”が持つ危うさ」と、平成六年四月二十二日付週刊金曜日第二十三号の「何のための「脳死」推進なのか」とをお配りさせていただいているかと存じます。あわせてお読みいただきますようお願い申し上げます。  最後になりましたが、我々救急医療に従事する人間にとって、移植医療が社会的に認知されるための必要条件は、実はまず何よりその救急医療の充実にあると考えております。救急医療体制の不備で、本来なら救命し得たはずの患者が脳死状態に陥ってしまった。そんなことが全くない医療環境にあってこそ、初めて脳死・臓器移植論議が始まるのだと思います。  救急医療の最前線にいる者として、残念ながら、我が国の救急医療体制にはまだまだ問題があると告白せざるを得ません。だからこそ、臓器移植を考えるのと同様に、あるいはそれ以上に救急医療というものを考えてほしいということを最後にお願いして、私の意見陳述を終わります。  御清聴ありがとうございました。(拍手)

岩垂寿喜男日本社会党・護憲民主連合

○岩垂委員長 ありがとうございました。  次に、川島参考人にお願いいたします。

川島康生国立循環器病センター総長

○川島参考人 今回提出されております臓器の移植に関する法律案につきまして、実際に臓器移植を担当する側の人間として意見を申し上げたいと思います。  現在、循環器病センターを担当いたしておりまして、また長年心臓外科医として仕事をしてまいりましたので、心臓移植の立場を中心に、まず臓器移植の現況についてお話しし、その後今回の法律案についての意見を述べたいと存じます。  心臓移植は、御存じのごとく一九六七年にバーナード博士が実施いたしまして以来、現在までに三万例を超える手術が行われております。肝臓移植につきましても四万例に近いと報告されております。心臓移植の予後は、当初は決して良好ではありませんでしたが、次第に改善してまいりまして、一九八八年以降の全世界におきます手術例約一万七千例について見ますと、一年生存率が八〇%、三年生存率が七二%というよい成績であります。肝臓移植についてもこれに近い成績が報告されております。  この成績は実際にはもっと不良であるという御意見もございますが、私が申し上げましたのは全世界の集計でありますので、もちろんそれよりも成績の悪いところもあれば成績のよいところもございます。実際に、成績のよいところでは三年生存が九〇%を超えているといったすばらしい成績も報告されております。  また、心臓移植につきましては、手術に成功しても、その後の生活は惨たんたるものであるといった言い方をされる方もおられますが、何回か学会で報告されているところでは、手術後の活動性というのは八〇%から九〇%の方がほぼ正常になっております。手術後の状況が悪ければ臓器移植というのがこれほどまで普及するはずはないのでありまして、成績がよいことを普及している事実が物語っていると存じます。  そういうわけで、近年は欧米諸国のみならず、アジアにおいても臓器移植は広く行われております。心臓移植について申し上げますと、台湾の百例を初めといたしまして、現在まで報告されているだけで二百五十例に達しております。  一方、我が国の状況は御存じのとおりでありますが、これを必要とする患者さんがいないわけではございません。心臓移植の最もよい適応であると言われております心筋症につきましては、最近では六十歳未満でこの病気で亡くなられる方は年間約八百例と報告されております。このすべてが心臓移植の適応になるわけではありませんが、その約半数保ぐらいであろうと思われております。  いま一つ心臓移植の適応になるのは冠動脈疾患であります。欧米では心筋症とほぼ同じ数の方がこの病気で心臓移植を受けておられますが、我が国では、そもそも冠動脈疾患による死亡が欧米よりも少のうございますので、これで心臓移植の適応になる方はそれほど多くはないと思います。したがいまして、全体で約五百人から六百人ぐらいの方が心臓移植の適応になる方であるというふうに思われます。そして、この方々が、現在世界で普及しております心臓移植の恩恵を受けることなく亡くなっておられる方々であります。  そして、当然のこととして、今日これほどまでに議論がなされておりますので、従来臓器移植というものを御存じなかった患者さんの多くが、マスメディアでありますとか担当の医師からの情報によって、臓器移植を受ければ救われる可能性があるということを御存じであります。したがって、今日では多くの患者さんが臓器移植、この法案の実現を一日千秋の思いで待ち望みながら亡くなっていっておられるわけであります。  その中で、ごく一部の裕福な方とか、あるいは幸運にも周囲の人たちの努力によってたくさんの資金を集めることのできた人たちだけが、外国へ手術を受けに行っておられるわけであります。臓器移植は不平等な医療であるということをおっしゃる方もおられますが、我が国で臓器移植ができないがために、それ以上の不平等を生じているわけであります。  こういった募金活動はしばしば美談として報告されてはおりますけれども、先ほども武下先生からお話がございましたように、外国の立場からいたしますと、それでなくても少ないドナー臓器を、外国人である日本人が横から来て持っていくわけでありますから、決して快く思われているわけではありません。ただ、日本においても臓器移植が開始されるためには、臓器移植を受けて元気になった人たちが日本の社会に復帰して、臓器移植のすばらしいことを理解していただくというのが一番の近道であるとして、協力をいただいているわけであります。事実、これらの患者さんは、我が国に帰ってこられまして、手術前とは全く違った生活をエンジョイしておられます。  心臓について申し上げますと、現在までに外国で移植を受けられた方は二十三名でありますが、そのうち二十名の方が生存しておられます。赤ちゃんを除きまして、現在生存中の二十人のうちで移植後六カ月以上を経過しておられます十五名については、すべての方が社会復帰しておられます。  ところが、一方では、外国へ行くことができないままに、とにかくも心不全による死亡を免れるがために、補助人工心臓をつけて、その機械につながれたままで臓器移植法案の成立を待っておられる方もおられるわけであります。  ところで、この臓器移植の適応の範囲につきましては、それぞれの関連学会がこれを定めておりますが、心臓移植につきましては、これに加えて、日本循環器学会が心臓移植適応検討会を設けまして、個々の患者さんにつきましてその適応を検討しております。昨年までに三十六名の患者さんをこの検討会で心臓移植の適応と判定いたしましたが、そのうち八名の方が外国へ行って心臓移植をお受けになりました。残る方々のうちの半数、十四名の方は渡航することもできず、心臓移植を受けられないままに亡くなっておられます。  このように心臓移植は、他に治療手段のない末期的な心疾患に対する治療手段として、既に確立されたものであります。したがって、内科系の心臓病専門医が八割を占めております日本循環器学会におけるアンケート調査の結果でも、日本で心臓移植を行うべきでないという方はごく一部の限られた人にとどまっております。  さて次に、今回の法案についての意見を申し上げたいと思います。  臨調の答申におきましても、臓器移植は法律がなければできないというものではないと申されておりますが、法案が提出された現段階におきましては、この法律なしに脳死体からの臓器移植を行うことは、極めて困難というよりも不可能に近いと存じます。  また、臓器移植を日常的な医療として定着させるためには、これが公平、公正に行われなければならないことは言うまでもありません。そのためには、臓器売買の禁止といった規定も必要であります。したがいまして、今日このような臓器移植に関する法律を制定するということは、極めて妥当であると考えます。  そして、重ねて申し上げますと、今回提出されております法律案は、臓器移植に関する諸条件をくまなく勘案して作成されたものであります。私どもは、この法案が原案のままで成立することを強く希望するものであります。  特に、本法案で問題になりますのは、脳死が人の死であるか否かということと、臓器移植に対しての本人の意思をどのように判定するかというこの二点であると存じます。脳死を人の死とすることは、二年にわたって行われました臨調審議の多数意見でもありますし、先ほども武下先生から御説明のあったところで、私も全く同意見であります。  ただ、ここで、脳死は人の死とは考えないが、臓器移植の実施は賛成であるという意見のあることについて、少し触れさせていただきたいと思います。この場合、恐らく、臓器を摘出することの違法性を阻却するということをお考えになっていると存じます。しかし、違法性を阻却すると申しましても、脳死が死でないと考えるならば、心臓摘出のときをもって死と考えなければなりません。臨調でもこのことは既に論じられたということは先ほどもお話しのとおりでありますが、私どもは、違法性を阻却してやるから殺人をしなさいと言われても、到底それはできることではないということを申し添えたいと思います。  さて、脳死が人の死と認められた場合に、本人の意思が明らかな場合は問題はございませんが、法案では、本人の意思の不明な場合には、それをそんたくした家族の同意を得られた場合には臓器の摘出を行って差し支えないとされております。この点につきまして、本人の書面による同意がなければならないという御意見がございますが、従来から行われております腎臓移植につきましても、ドナーカードを持っておられる方からの臓器提供は、全体の五%にも達しておりません。したがいまして、全国民ことごとくが臓器提供に関しての意思を明らかにしておくという制度を確立しない限りは、書面による本人の意思をもって臓器提供の可否を決めるということは、余り実際的ではないと存じます。  しかし、だからといって、本人の意思が不明なままで臓器提供をしてよいということにはならないという御意見がございます。脳死体が死体であるとする限りは、臓器提供は実質的には従来の死後の解剖と同じでありますので問題はないわけでありますが、この御意見は、あくまでも脳死体を死体とは考えられない、あるいは考えにくいというところに問題があるかと存じます。確かに、皮膚が温かくて心臓が打っておるという状態で、これを死体であると言われても、これは天動説の時代に地動説を聞かされたと同じでありまして、従来の感覚からすれば、確かに、信じがたいのは当然のことであります。  したがって、この法案は、決してそのような方に対して臓器提供を強制するものではないと私は理解しております。御遺族の同意が得られない限りは、臓器を摘出することはあり得ないわけであります。  この場合、脳死を死と考えておらなかったかもしれない故人の意思を家族がそんたくすることは認められないとする御意見がございます。しかし、これを認めないということは、逆に、脳死を死と考えていたかもしれない故人の意思を踏みにじることになります。国民の間に、脳死を認める考えの者がこれを認めないとする者の数を上回っている今日、脳死者のすべてを脳死を死と認めない人であったとみなして法案をつくるということは、問題があると考えます。故人の意思を最も理解していると思われる家族がそれをそんたくするのが最良の方法であり、そんたくすることが難しい場合には、臓器提供は断ることで問題はないと考えております。  ところで、そうはいっても、家族がそんたくするとすれば必ず強制に近い状態になるという御意見もございます。私も、そのような医療現場に長年おりました者といたしまして、それに近い状態が絶対に起こらないということは申しはいたしません。しかし、だからといって、個々の人間がみずから判断することを否定して、一律に故人の意思をそんたくすることを禁じてしまうということは、逆に、臓器提供に前向きな遺族に臓器提供をしないことを強制することであります。遺族がみずからの意思でその行動を決定する権利を抑制することの方が、より重大な問題であると考えます。  要するに、この法案は、一方に臓器を提供したいと考えていたと思考される脳死体があり、それに同意をされる家族がおられ、一方では臓器をいただきたいという方がおられる場合に、その間を取り持って一つの生命を救うことを可能にしようという法案であります。そういったことは好ましくないといってその行動を差しとめる権利は、第三者にはないと考えております。  あえて申し上げますならば、臓器提供は最高のボランティア精神の発露であり、臓器移植は医療における善意の象徴であります。私たちは、善意の行動を医療の場において支援したいと考えているものであります。  最後に、本日は言及いたしませんでしたが、先ほど述べられました。臨調で指摘されました臓器移植についての移植側の準備につきましては、ほぼ完了したと考えておりますが、今後とも、移植に関連した各学会、移植関係学会合同委員会、あるいは、この委員会においてその規約を定めました臓器移植審査委員会などの活動ともあわせまして、襟を正して、この臓器移植が国民に信頼される医療になることを目指して努力していく所存でありますことを申し添えさせていただきます。  前半でお話し申し上げましたことの主なものを資料としてお配りさせていただいておりますので、御参考にしていただければ幸いであります。  以上で説明を終わらせていただきます。ありがとうございました。(拍手)

岩垂寿喜男日本社会党・護憲民主連合

○岩垂委員長 ありがとうございました。  次に、山口参考人にお願いいたします。

山口洋順天堂大学医学部循環器内科主任教授

○山口参考人 私は、順天堂大学循環器内科の山口洋でございます。  まず初めに、私を臓器の移植に関する法律案についての参考人として御指名くださいましたことを、衆議院厚生委員長初め御関係の方々に深く感謝いたします。私は、言い尽くせないといけませんので、ちょっと文章を読ませていただきたいと思います。  私の意見を述べさせていただきます。  脳死を容認して、臓器の摘出を法律的に認めたとしても、我が国ではそのままでは心臓移植の容認につながらないことをまず指摘しなければなりません。それは、臨床の医学界あるいは医療の現場における脳死以外の未解決の問題が余りに大きいからです。  もし国会で臓器移植法案が可決され、施行されることになりますと、腎臓、肝臓はともかく、私は、心臓はこれらの二つの臓器と切り離して論ずるべきだと考えますが、肝臓、腎臓の移植に比べますと、それに要する医療の規模と質が大きく異なる心臓移植の場合、絶対必要な条件がまだ整っていないままで無理押しの手術が行われることが懸念されるのであります。  不完全な条件のもとで心臓移植のスタートを許してしまうと、我が国のように医の倫理のコントロールがきかない国では、今後半世紀以上にわたって後悔し続ける内容のものになりかねません。結論から申しますと、時期尚早と言わざるを得ないのであります。  それでは、必要な条件とは何かを説明いたします。  まず第一に、心臓移植施設を一つに絞ることです。第二は、移植医療によってじゅうりんされがちな医の倫理を守るべく歯どめをかける、全日本的で公正な心臓移植管理・維持機構を設立することです。これには、実際に手術をする立場の移植医は加えるべきではありません。第三は、現今の医療保険制度では到底カバーできない心臓移植にかかる高額医療費を援助し、財政基盤をしっかりさせる心臓移植財団を設立する必要があることです。第四は、インフォームド・コンセント、説明と同意の問題です。  それでは、まず第一の、施設を一つに絞ることから説明いたします。  先ほどの森亘先生の御説明にもありましたとおり、脳死臨調の答申以後、移植関係学会合同委員会が設けられ、心臓移植施設の選定に議論を重ねてこられました。残念なことに、当合同委員会は移植外科医の発言力が強い性格の委員会であるため、実際に患者を管理し治療している主治医たる心臓内科医からの、心臓移植施設を一、二に絞ってほしいという提案は押し切られ、八施設もの多くが容認されました。  表向きの理由は、日本の交通事情から、心臓提供者、すなわちドナー発生現場と、移植を待っている患者のいる病院の距離が近いことが必要であるとのことですが、欧米の例でもわかりますとおり、二、三時間はかかっても臓器運搬のシステムが整っていれば問題はなく、日本のごとき小さい国では、飛行機とヘリコプターを利用すればこの問題は解決できます。  それ以前の問題として、心臓手術の実績も条件も悪い施設で、かつドナーが初めからそんなにいないことがわかっていながら、地域性とか運搬距離を言い出すことは間違いであります。心移植を本当に必要とする患者は、移植外科医が主張するほど多くはいないこと、最近のすぐれた薬物による内科治療で心不全を乗り越えて社会復帰できる患者がかなり多く、日本と欧米とでは対象が異なることを認識しなくてはなりません。ここが腎移植と基本的に異なるところです。  さらに、心臓移植を行うための高度のチーム医療、医療体制、財政基盤、手術技能、人材、清潔度等々を総合してみたとき、これら八施設は、欧米の一流心臓移植病院と比べて問題にならないほど劣っていると言わざるを得ません。国会同委員会では、八施設のうち、国立循環器病センター、大阪大学、東京女子医科大学の三施設を最初に移植を実施すべく推薦されましたが、その三施設といえども、今のままでは上記条件が十分満たされているとは言えないのです。不備な条件下で心臓移植を始めたら、その成績は言わずもがなであります。生命を救わなければならないはずの患者が、手術したために死んでしまうということにもなりかねません。  先日の医療事件、すなわち本邦にせっかく新設された移植腎ネットワークシステムから逸脱して、別途に米国から輸入した不健康腎を移植学会理事長みずからもそれを用いて手術し、その釈明に、移植医療には試験的、研究的要素も医学の進歩のためにはやむを得ないと理事長みずから発言されているのには驚きを隠せません。動物実験と変わらない発想なのです。患者を助ける人間の医療にあるまじき、人命尊重、医の倫理を無視した一部の移植医の考えがうかがい知れるのであります。  このような問題を解決するにはどうしたらよいでありましょうか。私は、次のように提案したいのです。  条件の整った立派な心臓移植センターを一つ新設するか、あるいは既存の施設から一つを選出し、財政的にも制度的にも、もちろん看護婦、医師、パラメディカルスタッフの人材も、世界の一流施設にまさるとも劣らない立派なセンターとなるべく援助し、充実を図ってあげることです。そして米国から経験豊富な大家を招いて、心臓移植手術を一例一例教えていただきながら、地道にスタートしていくことです。そうすれば、最初から欧米の一流施設に劣らない好成績の心移植が日本でスタートできることになります。おれがおれがという功名心は、もうどうでもよいのです。本当に患者を助ける内容のよい心臓移植医療を着実に開始し、進めていくことが大事なのです。  繰り返すようですが、現在の日本の病院は、心臓移植という大がかりな手術を受け入れる経済的余裕も、病院運営体制も十分ではありません。したがって、心臓移植手術一例を行うために手術室や重点病棟もそれに集約される体制となり、他の手術は大幅に削減あるいは中止せざるを得なくなるのです。その結果、心臓手術以外の医療に大きな影響が及び、病院の経済的負担と機能の障害は大変なものになると予想されます。初めの数例は無理して行えても、堅実な心臓移植治療として定着するのは不可能となることは目に見えております。  以上の条件を実現するためには、半官半民の心臓等臓器移植財団の設立が必要であると考えます。これは、一例の心臓移植が推定五千万円以上もかかる高額医療費を現行医療保険制度下では到底カバーできないことも含めて、財源供給の有用な財団となり得るものだと信じます。  さらに、施設を一つに絞ることの意義はほかにもあります。  心臓移植のような各専門家の能力を結集した総合医療を基盤とするチーム医療の手術を日本で始めるには、一施設に絞って年間五十例以上を行わないと、術者の技術のみならず、チーム医療全体の機能が向上しません。手術成績そのものばかりでなく、術後の長期成績もよくならないのです。経験数増加と成績向上曲線に示されるとおりであります。  米国では現在百五十その病院で心臓移植を行っていると言われておりますが、その中で、年間十例以下の施設では、新しいすぐれた免疫抑制剤が開発された現今でもその成績は目立って悪く、問題になっております。我が国でも、このまま脳死と臓器移植が法制化され、心臓移植を始めても、臓器提供者、ドナーの問題も絡んで年間十例以上となるところはせいぜい一、二施設にすぎないと予想されますから、米国の例に見るとおりその成績は恐らく悪く、医師への不信感は募るばかりとなることを憂えるのであります。  そればかりか、狭心症のバイバス手術の歴史が示すとおり、移植外科医と心臓内科医あるいは看護婦等医療界内部での合意と信頼関係はまだできていませんから、さらにそれをあおることになります。  最後に、インフォームド・コンセントの問題が、重大な要因として心臓移植医療にブレーキをかけております。  インフォームド・コンセントとは、患者あるいは患者の家族に十分な説明をした上で同意を得ることであります。ここでは、臓器提供者も臓器をいただいて移植を受ける側も、両方が入ります。あいまいな説明や、都合の悪いことをはっきり言わないような説明は許されないのです。まだ今の日本では心臓移植手術で死なないという保証もないのに、移植すれば助かるのにとか、移植させないで見殺しにしているといった表現は、移植医ばかりでなく、マスコミなど第三者の言葉として安易に飛び出るのはおかしいのです。  たとえ手術が成功しても、何年間、どんな生活内容で、これをクオリティー・オブ・ライフと言いますが、どんな内容で生きていられるのか、あるいは生きなければならないのか、正しく詳細に知らせる必要があるのです。さらに、臓器提供者側の家族にも脳死であることを十分に説明し、臓器を摘出した後の体がどんな状態になるかも本当のことを知らせねばならないのです。しかし実際は、肉親が臨終と言われた悲しい、ろうばいした精神状態では、とても医者やコーディネーターの言葉を冷静に理解し、判断し、それに回答することは困難と言っても過言ではないでしょう。  今、心臓移植がルチーン化している欧米先進国でも毎年臓器提供者が減少し、深刻化しております。欧米先進国といえども、脳死体からの臓器摘出は安易な医療行為とはなっていないのです。むしろ、現今では反省期に入っていると言えるほどです。このことは、昨年十二月に放映されましたNHKスペシャル五十分番組、「臓器移植法案」をごらんになればおわかりいただけると存じます。  以上の理由から、心臓移植を日本で定着させるには、まず何としても施設を一つに絞るべきであります。その施設の財政基盤を充実するために、官民一体で心臓移植財団を設立し、その財団の中に、移植医主導ではなく、むしろ内科医、看護婦初め多くの専門領域の代表者が協調的に役割を分担し、心臓移植医療の質と倫理を管理維持する機構を設け、心臓提供者側からも信頼される形で臓器、心臓が安心して着実に提供されるようなよい体制をつくることが大切だと思います。  「急がば回れ」ということわざのとおり、必要で十分な条件づくりをまず完了することこそ、我が国の心臓移植を正しく発展させる道なのであります。  以上です。  今お手元にお渡しいたしました。順天堂大学という茶色い封筒の中に入っております三点の文献でございますが、一つは、昨年、平成六年十月十七日に朝日新聞の「論壇」に出させていただいた私の主張を要約したものであります。  二番目は、「内科」という雑誌の、座談会「内科医からみた臓器移植 内科フォーラム側」という題でございまして、これは特に内科の代表的な、心臓移植に関係している学会の代表者の司会あるいは演者でございます。もう一人は肝臓移植の方の第一人者の内科医でございます。  先ほど川島先生から、日本循環器学会でのアンケート、八〇%賛成ということだと申されましたけれども、この中には私も入っております。しかし、賛成には条件つきというものが今申しましたように入っております。それをすべてひっくるめて賛成はというふうになりますので、アンケートというのは極めて気をつけて解釈しなければいけないものだと思っております。特に、このアンケートを行った方は、このフォーラムにおられる戸嶋教授でございまして、現在も施設を一、二に絞ってほしいと主張されている方のお一人でございます。  それから三番目は、現今のアメリカで最も新しいカレント・オピニオン・イン・カルジオロジー、現在の意見、見解ということで、最も新しい移植に関する文献でございまして、世界で一位と言われる臨床病院、ミネソタ州にあるメイヨー・クリニックのエヴァンス博士によって書かれたもので、この方は、アメリカ政府から臓器移植の社会的、経済的問題点を調査するようにと依頼をされて、行っている専門家でございます。  ドナーカードにつきましてちょっと私見なんですが、私ごとなんですが、私の一人娘で医者になったばかりの者が、アメリカに留学いたしまして、デューク大学で現在勉強中ですが、自動車のドライバーズライセンスを取りましたときに、自分はお父さんと違ってドナーカードに判こを押すんだ、いや、お父さんでも反対したわけではないんだ、しかし、ドナーカードに判こを押すのだけはやめてくれ、僕が行く前に君から臓器がとられちゃうじゃないかという議論を先生の、アメリカのボスの前でしておりましたら、そのボスのアメリカ人が、いや、お父さん心配しなくていいよ、本人がドナーカードに判こを押しても、あなたのような親の承諾を得ないで勝手に臓器をとるということはアメリカではないのだということを聞かされて安心いたした次第でございます。  御清聴ありがとうございました。(拍手)

岩垂寿喜男日本社会党・護憲民主連合

○岩垂委員長 ありがとうございました。  次に、斉藤参考人にお願いいたします。

斉藤誠二中央大学法学部教授・筑波大学名誉教授

○斉藤参考人 中央大学の斉藤でございます。お手元にお届けいたしましたレジュメに従いまして言わせていただきたいと存ずる次第でございます。  まず結論から言わせていただきますと、私はこの法律案に基本的に賛成いたしたいと思うのでございます。その理由は、大きく分けますと二つございます。  その一つは、この法律案は、先ほど来ほかの参考人の方から御指摘ありましたように、脳死は人の死であるという考え方を前提といたしておりますが、私もかねて脳死は人の死である、このように考えてきておりますので、私たちの考え方からは当然この法案は支持できるものだと思っているのが第一の理由でございます。  第二に、この法案の大きな骨子といたしまして、これも先ほど来御指摘がございましたが、臓器の摘出につきまして、本人の意思が明確な場合には本人の意思に従う、しかし、本人の意思が明確でない場合は遺族の意思に従うとしておりますが、これは死体とかあるいは死体損壊罪というものの法的な性格を考えてまいりますと、法律論として十分に支持することができるものだと思っているからでございます。  この二つの理由を多少敷衍して、以下時間の許す限りにおいて言わせていただきたいと思うのでございます。  まず第一に、脳死は人の死かという点でございますが、およそ法律学で人の死というものを考えます場合は、人間として、人を人としてどこまで保護していくのかということを考えるからでございます。人を人としてどこまで保護するかといいますと、当然のことながら、生物体としての人間がその生命の中枢を失ったとき死ということになることは言うまでもございません。これは刑法における殺人罪の法典の位置から見ても明らかなことでございます。  ところが、現代の医学におきましては、人の生命の中枢は脳にある、このように言われていると聞いております。そうだといたしますと、当然のことながら、人の生命の中枢が失われたとき、すなわち脳の機能が消滅したとき人は死ぬという脳死説が妥当であろう、このように私たちは考えているのでございます。  そればかりではございません。既に古典的な定義と言われておりますいわゆる三徴候説の中にも、実は脳死というものを知る手がかりがあった。瞳孔が散大するというのは少なくてもこれは脳死ということを意味していたのだと思われるわけでございます。  それのみならず、一九七一年にフィンランドで法律上認められてから世界のほとんどの国々で脳死が法律上あるいは事実上認められているということは、今さら言うまでもございません。パキスタンあるいはポーランドなど、ごくごく少数の国で脳死が否定されているというところでございます。しかもこれは、我が国とほとんど同じ憲法の人権の保障、基本権の保障をいたしておりますスイスで、これはやや古いことになりますけれども、一九七二年にスイスの連邦裁判所は、脳死を認めることは人格権を保障することには反しないという判断をいたしております。  ところで、言うまでもないことでございますが、脳死を人の死としないで移植の道を探ろうという考え方が、先ほど来御指摘あるところでございます。  これも大きく言えば二つに分けることができようかと思いますが、一つは脳死を人の死とするのを家族とかあるいは本人の意思に任せよう、あるいはまた移植の場合についてだけ脳死を人の死と認めようとする考え方でございます。  しかしそれは、既に脳死臨調の答申にございますとおり、死というのは客観的でなければならないものでございますので、死を客観的とすることとなじみにくいと思われますし、また移植の場合にだけ脳死を人の死とする立場、いわゆる二元論とか差別的死の概念と海外では言われております考え方でございますが、これは死の判定というものを移植の必要性ということで認めていこうとすることで、これまた、かつて一九七六年でございますが、ヨーロッパ評議会が死の判定というものは他の目的で決めてはいけないとした決議などの精神からいって、明らかに妥当でないと思われるのでございます。  ところで、これまた先ほど来御指摘ございました。脳死を人の死としないで脳死体から移植を認めようという考え方でございます。いわゆる違法性阻却説とかあるいは責任阻却説と言われている考え方でございます。こういう考え方ができますれば確かによろしいわけでございますが、今日まで主張せられておりますいわゆる違法性阻却説というのは、お手元のレジュメにございますように、大きく分けますと三つの考え方に分かれようかと思うのでございます。  第一は、臓器を受け取る方、すなわちレシピエントの生命を保護する利益が、脳死患者、臓器を提供しようとするドナーの生命を保護する必要性よりも大きい、レシピエントの生命を保護する必要性がドナーの生命を保護する必要性よりも高いという優越的利益説と呼ばれている考え方でございます。しかしそれは、脳死臨調の最終答申にございましたように、人の命に価値の差を認めるということで、これは妥当でない考え方であろうと思われるわけでございます。  第二番目に、可罰的違法性説、可罰的違法性阻却説という考え方がございます。これが世間で言われている違法性阻却説の中心と思いますが、今まさに死にかけている脳死患者、これが明らかに私から臓器を摘出していいよという意思があれば、意思がはっきりと示されていれば、これは処罰するほどの違法性がなくなるという考え方でございます。しかし、この考え方は、脳死の場合ならばなぜ臓器を摘出してよいのかということを説明している考え方とはならないと思われるのでございます。  と申しますのは、例えば末期のがん患者が私の臓器を摘出していい、これは意識の混濁がない、極めて意識は明瞭だ、そのときに臓器を摘出してよいと言ったら、それは臓器を取り出してもよいのかといいますと、現在の普通の法律感覚からいきますと、そのような場合、臓器を摘出することは許されないということだろうと思いますが、まさに可罰的違法性説、可罰的違法性阻却説からまいりますと、このような場合にも臓器を摘出してもよいという理屈にならなければならないわけでございます。  さらに、これは考えるほどの価値もない学説かと思いますけれども、尊厳死援用説という考え方がございます。レスピレーターなどを脳死患者から取り外すという尊厳死と同じように、一種の尊厳死として心臓なら心臓を摘出することはできないかというのですが、これは非常に、考える必要もないほどの暴論だと思います。そのような論理を進めてまいりますと、何もレスピレーターをとる、心臓をとるばかりではなくて、今脳死患者でこれがはっきり意思を示していれば、生前に意識がはっきりしているときに意思を示していれば、その首を切断するというようなことも十分可能だという論理につながるからでございます。非常に残念なことでございますが、今日まで出されておりますいわゆる違法性阻却説というのは、どれも説得的な、効果的な説明をしていないのでございます。  そのほかにいわゆる責任阻却説、脳死患者から臓器を摘出することは、これは違法ではあるけれども責任がなくなるという考え方もあることは今さら言うまでもございませんが、しかし、このような考え方によりますとその行為は違法だということになりますので、そうしますと臓器の摘出に反対だというグループがやってきて、正当防衛だと言ってこれを阻止することができるわけでございます。  もちろん、比較的最近になりまして、これは脳死臨調の最終答申が出たのと時を同じゅうしまして、生命倫理研究会の脳死と臓器移植問題研究チームの臓器の摘出に関する法律(試案)とか、あるいは日弁連の、これは本年三月に出されたのが一番新しいかと思いますが、この法案に対する修正案などが出されていることは言うまでもございません。  しかし、残念なことですが、この日弁連の修正案にいたしましても、生命倫理研究会の試案にいたしましても、なぜ、脳死は人の死でないのだ、にもかかわらず脳死患者から臓器を摘出することができるのかということについて、納得のいくような説得的な説明が示されていないのでございます。  ところで、最後に、レジュメの(3)というところでお書きいたしておきましたが、臓器の提供についての本人の生前の意思がはっきりしている場合には本人の生前の意思に従うけれども、生前の意思がはっきりしない場合には遺族の意思に従う、この法案の骨子となる部分でございますが、この点につきまして私たちはこう考えております。  脳死は人の死だということになりますと、脳死体というのは、これは遺体、死体ということでございます。それから臓器を摘出するということでございますが、残念なことに今日まで刑法学では、遺体ないしは死体損壊罪というものの法的な性格を十分に検討いたしてまいりませんでしたが、ゲルマン法以来、実は私たち人間というのは死んだ途端に物になるのではない、私たちが生前持っている人格というのは依然としてなおかつ一定の範囲において続いているのだ、こういう考え方がヨーロッパなどでは有力な考え方として今日まで続いております。死者の名誉というものが保護せられていることなどを考えてみますと、これは特別奇異な考え方であろうとは思いません。  私たちが死んだ途端に私たちの体は、私たちは直ちに物になり、これは踏みつけられたり切り刻まれたりしてよいものではないと思います。やはり一定の範囲において私たちの人格が存在している、なおかつ続いている、こう考えますと、本人が生前にはっきりと、私が死んでから臓器を摘出してよいよという意思を示していた場合にはもちろんその意思に従うけれども、もしその意思を示していなかった場合には家族がそれを代行するということは、十分に理論的に説明がつくと思われるのでございます。  ちなみに言わせていただきますと、本人の生前の意思がはっきりと示されていたときだけ臓器摘出を認めるという立法例は、私の調べた限りではございません。ただ一つだけ、一九八一年にドイツの裁判官のグループから出された意見、これは大きな意見になりませんでしたが、本人の生前の意思がなければだめだという案はそこにだけ見られたわけでございます。  最後に、一言だけつけ加えさせていただきますと、今回のこの法案というのは、人の死として括弧内で脳死を含むと書いてあるので、これをこそくというような御意見があるやにも聞いておりますが、しかし、死の定義を正面から示さないというような立法例などもしばしば見受けられます。  例えば、やや古いことですが、一九八二年のオーストリーの病院法では、脳死に基づく臓器摘出というものを認めたものですが、しかし、このオーストリーの病院法では、死の定義を正面から示していないのでございます。したがいまして、今回の法律案の文言がこそくだというような御意見は、私にはにわかに承服しがたい、このように思うのでございます。  御清聴ありがとうございました。(拍手)

岩垂寿喜男日本社会党・護憲民主連合

○岩垂委員長 ありがとうございました。  次に、原参考人にお願いいたします。

原秀男弁護士

○原参考人 御指名をちょうだいをいたしました原秀男でございます。弁護士でございます。  初めに、私の立場を申し上げます。  私は、脳死状態からの臓器移植に反対いたしません。移植以外に救命できない患者が手術を待っておられるからであります。それだからといって、脳死体を死体であると法律でお決めになることについては賛成できません。社会的合意ができていないと思うからであります。また、法律が制定された後の法律的ないろいろな手当てがなされていないと思うからであります。脳死体を死体と法定することだけが唯一の解決法ではないと思うからであります。  私は、脳死臨調、臨時脳死及び臓器移植調査会において、梅原猛委員とともに少数意見を述べました。答申書第四章に「「脳死」を「人の死」とすることに賛同しない立場で」として記述しております。ただいま森先生から、公正な、極めて公正な御紹介がありましたので、この点については余り申し上げないようにしようかと思います。  日弁連の統一意見についてちょっと申し上げます。  日弁連は、本年三月、「「臓器の移植に関する法律案」に対する意見書」を公表いたしました。今までの日弁連の議論を整理いたしまして、御院において御審議中のこの法律案と対照できるようにしてございます。お手元の日弁連意見書の末尾に、修正案として掲げられてございます。  日弁連は、思想、信条を異にする弁護士一万五千人が共存する団体でございます。脳死を人の死と考えている人から、わからない、決しかねる、死ではない、いろいろな考え方が共存しております。移植につきましても、絶対に認めない、こういうごく少数意見から、移植を行うべきだという大多数の意見に至るまで、いろいろな議論がなされております。  しかし、脳死状態を人の死とする社会的合意はまだできていない、ここでは一致いたしております。現実に心臓移植を待っている患者のことを思うと、それだから心臓移植は絶対だめだ、これも言い切れないというふうにも一致いたしております。  そこで、平成六年、昨年に日弁連は、個々のケースごとに処罰するか否かの検討をすべきだ、個々のケースごとに検討すべきだ、こういうことを言ったのでございますが、これがこの厚生委員会の調査室の資料の百五十七ページにある日弁連意見でございます。  ことしの日弁連意見はさらに進んで、脳死移植ができるための条件を法律条文の形にしてまとめました。この統一意見は、日弁連の全国五十二の単位会から選出されております人権委員会と刑法委員会と、そして理事会、これがその都度単位会の意見を聞きながらまとめたものでございます。しかも、十何年以上にわたってまとめた結論でございます。お手元の日弁連意見書の冒頭にそのことが書かれております。  社会的合意について一言申し上げます。  学会では、脳死を人の死とする学説が哲学、生物学、宗教学、法律学などの分野で定説になっていないということは申し上げるまでもないことだと思います。  医療の現場でも、脳死患者を死体として扱っておりません。看護婦さんは、お口をすすぎましょう、体の位置を変えましょう、床ずれができるといけませんからねと声をかけながらやっておられます。おしりをきれいにしましょうね、すぐ済みますと言っております。私は、この場に立っておられる、寝食を忘れて救命をしておられるお医者さんと看護婦さんの後ろ姿に合掌いたします。医療の手段はなくなっても、看護、介護は続けているのであります。法律で脳死体は死体だと規定したら、このような温かい扱いはどうなるのでございましょうか。期待できるのでしょうか。  当分の間、医療費を保険から出すことにしたらいいじゃないか、こう言われました。しかし医療の現場で、法律上は死体なのだけれども、遺族が頼むから口をすすいだりおしりをきれいにしているんだ、こういうことを口に出したり態度に示したら、家族はどんな思いをするでございましょうか。お金の問題だけとは思えないのであります。  お知り合いの方が脳死になったら、お香典を持っていかれる方はいないと思います。脳死は死体と思っている方でも、お見舞いを持っていかれると思います。これは、死に瀕している絶望的な患者を看護している家族の心を思いやる温かい心が風俗になっているのだと思います。僕は、これが社会的合意だとまでは言いません。しかし、これは温かい風俗だと思います。法律で死んだこととすることに決まっちゃったら、お香典を持っていく方はいるでしょうか。  死亡診断書についても、現在、医学的に人の死と確信しておられるお医者さんでも、脳死を判定したからといって、その時刻を診断書にお出しになる方はほとんどおられません。一人おられたことを知っておるだけであります。なぜでしょうか。脳死は人の死であるとの医学上の定説ができていないからであり、国民的な確信に反するからでありましょう。  私の個人的体験を一言だけ言わせていただきます。  私は、五年前に上行大動脈を川島先生の病院で取りかえていただきました。ここに人工の臓器が入っております。そして、このとおり元気にいたしております。これは川島先生の病院のおかげでございます。したがって、医療に対する不信感は――それは不愉快な、困ったお医者さんはおられました。しかし、あの病院にはそういう方はおられませんでした。患者さんもそうでした。これは、あえてここでお礼を申し上げる機会をいただきたいと思います。  そして、私がこのようなことを申し上げますのは、私の心の底に、人工呼吸器をつけられておっても生かされているのだ、私は宇宙の力で、神仏の力で、社会の力で生かされているのだと思っております。自分の力で生きていると思っておりません。そういうのが底にありますので、脳死患者を見ましても死んだのだと思えないでいるのじゃなかろうかと思っております。  さて、違法性阻却論と学説について申し上げます。  脳死を人の死とする立場をとらない以上、脳死判定を受けた人は生きているということになるのだ、ドナーからの心臓摘出は殺人罪だ、違法性阻却論はドナーとレシピエントの生命の間に軽重をつける考え方だ、本来平等な生命の価値に差をつける考え方だ、医のモラルから見ても認められない、こういう御主張があることをよく承知しております。しかし、違法性阻却論は反対だと主張される刑法学者はそんなに多くありません。刑法学者の約半数は、責任阻却論もしくは違法性阻却論によって、脳死状態を人の死としないで移植を許容する学説を主張しておられます。このことは、脳死臨調答申、それからお手元の刑法通信に学者の説を紹介しておきました。しかし、これは全部ではありません。ほんの一例でございます。  脳死状態というのは、人の体にあらわれました客観的な自然的事実であると思います。生きている、死んでいるのだというのは、この自然的事実に対する評価だと思います。生きていると考えようと、死んでいると判定しようと、対象である脳死状態に変化は生じません。脳死判定によっても生きていると考えれば殺人罪にはなると言っているだけなのです。殺人罪だと言おうと言うまいと、そこに寝ておる患者さんの状態は変わらないのであります。悪い言い方をしますと、表現の技術の問題であります。言葉の遊びだと言う人すらもおります。  例えば、脳死状態の妊婦を死体にはできない、だから生きていることにしたい、それでは実質的な脳死判定はやっても公式の脳死判定はやらないで済めばいいじゃないか、こういう御議論があります。これも表現技術の問題であろうかと思います。  脳死状態の人がまだ生きていると考える者は心臓移植に反対だと言え、そうでなければ死体と認めなさい、認めなければ法律で死体だと決めるほかはない、そうなれば命に軽重をつけたことにならない、医の倫理にも反しないという御議論をされるのでありましたら、私は反対であります。  世論調査について、これもいろいろございますが、脳死臨調が終わった直後にNHKが世論調査をやりました。「脳死は限りなく死に近いが、人の死とは認めない。しかし移植は厳しい条件付きで認める」これが六二%。「脳死を人の死として移植を積極的にすすめる」これが一五%。私どもの少数意見は、NHKの調査では多数意見でありました。  脳死臨調の多数意見は、社会的合意が成立するためには、事柄に正当性、説得性が必要だと言っておられます。脳死を人の死とすることについてはおおむね社会的に受容され合意されていると言うのであります。多数意見は、正当性、説得性がない世論は無視してもいいとお考えになって、このようにお書きになったのじゃないかと私は考えております。社会的合意の成立要件の中に、説得性がないものはだめだ、正当性がないものはだめだ、愚論はだめだ、こう言い切っていいのでございましょうかという疑問を持つものであります。  生命倫理研究会試案というのがございます。今も御紹介がございましたが、学者、評論家、作家などの有識者が集まっておつくりになったものであります。立場を異にしまする有識者の方々、脳死を人の死と確信する方も、死でない、割り切れない、それぞれの説を厳しく構築しておられる学者たち、あるいは有識者の方、例えば立花隆さんあたりも含めてつくられまして、脳死を死体と言わずに、脳死状態の人からの摘出を許容する法律案でございます。問題にならないとおっしゃらずに、ひとつ中を読んでいただきたいと思います。その趣意書がございますが、その趣意書もぜひ参考にしていただきたいと思います。苦しい苦しい選択であるということを言いながら、脳死を人の死だと思う人も思わない有識者も、臓器移植というものの重大性を考えてつくられたものだからであります。  現行法で、「死」及び「死亡」という用語を用いた条項が四千五百五十三、法令の数にして六百三十三もございます。脳死ということを頭に入れて立法した法律は一つもありません。一つだけあります。それは、脳死臨調設置に関する法律であります。しかし、御案内のように、廃止されました。これからつくられる法案は、脳死を頭に置いた法律が初めてできるのであります。そして、新しい法律ができれば前の法律は改正されたものとするという頭で解釈するのが原則であります。  死体解剖保存法によれば、死体からの解剖はできることになります。人工呼吸器をつけたままの病理解剖、組織解剖もできるはずでありますのできなければなりません。エイズの菌ですか、ウイルスですか、何か入れちゃって、その開発する薬を入れて経過を見るということもできるはずであります。もし、そんなことはしない、させないとおっしゃるならば、死体解剖保存法に脳死は含まず、死体に脳死を含まずと改正する必要があると思います。  司法解剖は、御案内のように、家族の意見も聞きません。本人の意思にかかわりなく解剖いたします。裁判官の許可状によります。これも、脳死体を含まずというふうに改正しなくていいのでしょうか。私は、改正していただかなきゃならない、そう思っております。  このように一つ一つ考えていったら、大変な法律上の混乱が起こるのではないかということを心配せざるを得ないのであります。もし、死体解剖保存法を改正する必要がないとおっしゃるならば、この法案の(脳死体を含む。)を考え直していただく必要があるのじゃないかと私どもは考えております。  私は、脳死は、もはや絶対に救命できない状態で、限りなく死に近づいた特殊な状態だと思っております。しかし、自分が脳死になったら心臓を提供します、差し上げますという方に対して、それは自殺だからやめなさい、そういうことは申しません。また、脳死は人の死と確信して脳死移植を進めておられる移植のお医者さん方に、それは間違いだ、処罰されますよと言いません。犯意がないということで、法律は、殺人、自殺幇助の刑事責任がないと言っておりますよと申し上げます。家族からの損害賠償請求に対しても、確信を持っていたら大丈夫な場合もありましょうねと申し上げることができるかもしれません。できなければ、これは正当なお医者さんの医療行為である、そういうふうに言ってあげたい。  そのためにはどうすればいいか。脳死を人の死と考えない人を含めて、多くの人から祝福されるような法案を実現するためには、刑事責任からの解放、民事責任、不法行為責任からの解放、そして、医の倫理の非難からの解放、これをするための条件を立法されればいいのではないかと思います。そして、ドナーをふやすことの努力をされるべきでありまして、このように、脳死体を死体であると法律上で定義をつけ、その定義を変えることが果たして唯一の解決方法であるのかどうか、私は疑問であります。反対であります。  脳死臨調の最終意見は、末尾から六行目から三行目に、次のとおり述べております。「本調査会の結論としては、「人の死」についてはいろいろな考えが世の中に存在していることに十分な配慮を示しつつ、良識に裏打ちされた臓器移植が推進され、それによって一人でも多くの患者が救われることを希望するものである。」これが脳死臨調の最終意見であります。そして、私の結論でもあります。  つたない意見を聞いていただきまして、ありがとうございました。厚く御礼を申し上げます。(拍手)

岩垂寿喜男日本社会党・護憲民主連合

○岩垂委員長 ありがとうございました。  次に、青木参考人にお願いいたします。

青木慎治国際移植者組織・TRIOジャパン会長

○青木参考人 私は、本来、ここに立っているのが大変不思議な立場なんです。  と申しますのは、一九八九年の三月に肝臓移植をサンフランシスコで受けました。といいますのは、八七年に、私はその当時、皆さんにもなじみのあった椎名悦三郎という立派な政治家の秘書を長年務めておりまして、選挙区へ行っておりまして、選挙区は岩手でございますが、花巻から帰ってきて、どうもおかしいなと思ったのが、夜半に大吐血をいたしまして、そのまま救急車に乗せられて最寄りの救急病院へ担ぎ込まれたわけです。私自身にも、また家族にも、このままいけば、静脈瘤破裂という状態で生死は定かでない、だから呼ぶ方があったらお呼びくださいというようなことでございました。  それから十数回吐血を繰り返しまして、たまたま、若い医師なんですが、相性のいい、そして非常に積極果敢な医師に出会いまして、青木さん、このまますると、あなただから言うが、まあ、もって半年、あるいは二、三カ月で亡くなられると思う、ただ一つ救われる道は肝臓移植しかない、こういう御託宣を得ました。その時分、ちょうど椎名素夫さんが、二回目であったと記憶しますが、代議士に出ておりまして、私が素夫君のところへ電話を入れまして、中山太郎さんの、自民党の中に生命倫理議員連盟でしたですかがあるから、日本で移植が受けられるのかどうか調べてほしいと申しましたら、いや、もうとてもじゃないが、慎ちゃん無理だよ、このままでいったってめどはつかない、こういう対応でありました。  私は、自分の命ですから、ちょうどその時分、五十八歳でありました。それで、五十八歳でむざむざと吐血を繰り返しながら死ぬというのでは何とも死に際が悪い、やれる方法を全部講じた上で死んでみたい、こう思いまして、アメリカの友人に、おれは死にそうだ、とにかく臓器移植以外に救われる道はない、こういう医師の判断なんだと。  私がささやかに調べましたデータによると、サンフランシスコ、それからロサンゼルス、ピッツバーグ、その他いろいろ成功例の多い病院が幾つもあったのですが、人種的な偏見ということがあって非常に受け入れが難しいという情報も私は得ておりましたので、なかんずく、カリフォルニア州法でもって、一〇%はアメリカンシチズンでなくても許容する、そういう州法があるところが望ましい。ましてや、私の親友がサンフランシスコにおりましたので、その縁をたどって行くことを決意いたしました。  日本航空に尋ねましたら、あなたのような重病人は乗せるわけにいかない、主治医、家族が付き添わなきゃだめだということで、主治医に話をしましたら、いや、青木さん、私は、医者冥利に尽きるから、あるいはアメリカへお連れしたことで私は後悔することになるかもしれないけれども、とにかくやるだけやってみましょう、私はこの病院を首になってもいいからつき合いましょうと言ってくれまして、日本航空の好意もあって、点滴瓶をぶら下げながら……。  私は、秘書をしておりましたときには体重がおよそ六十七キロございました。御承知のように、私の親分の椎名悦三郎は事を省くにしかずという方でありまして、二十五年の議員生活の中で議員会館に座ったことはたった一日という大変おもしろい方でありまして、私ども秘書が選挙区の手入れその他あらゆることに走り回っておったわけで、物食いもよし、酒も飲み、体重もありました。しかし、そのときには三十五キロという、もう吹けば飛ぶような哀れな姿になっておりました。  それから、御承知かと思いますが、食道静脈瘤というのは気圧に対して非常にもろい。ですから、飛行機に乗ると気圧が変わるので、恐らくその気圧の変化で静脈瘤が破裂をして大吐血をする可能性もあるということで、私の主治医は、まるで魚釣りに行くようにアイスボックスの中に血小板それから輸血その他もろもろの道具を入れて担いでくれまして、大吐血すれば私を通路に寝かせて、そして肝性脳症というのにかかるのだそうで非常に暴れる可能性があるから押さえつけて、それでも行こう、こういうことでありました。  サンフランシスコへ着きまして、幸い一カ月待っている間にドナーが出てくださいまして、そして私はめでたく移植を受けることができました。そして、驚いたことに、たしかICUから普通病棟へ移されて五日目であったと記憶するのですが、五日目にカレーライスが出てまいりまして、えっと思いまして、あれだけ食道の静脈瘤が破裂をして内臓はぐしゃぐしゃになっていた私にカレーライスを食べさせるというアメリカの医療に驚きました。ところが、ミスター青木、これはもう大丈夫なんだ、君は臓器移植を済ませて普通の人間になっているのだ、こう言われまして、カレーライスというショック療法によって、私は何でも食べられるのだという認識を持たせていただきました。  話が前後いたします。私がきょう参考人としてお呼びいただいたゆえんは、日本移植者協議会、全国腎臓病患者連絡協議会、全国心臓病の子供を守る会、胆道閉鎖症の子供を守る会、日本肝臓病患者団体協議会、そして私が主宰をしておりますTBIOジャパンのいわば代弁者としてここでしゃべらせていただくということになりました。  これも前後いたしますが、TRIOジャパンについて少し御説明を申し上げますと、これはトランスプラント・レシピェンツ・インターナショナル・オーガニゼーションという大変長い名前の頭文字TRIOをとってトリオと呼んでおります。現在の会長はロバート・ケーシさん、ペンシルベニア州の元州知事で、心臓と肝臓を同時移植したという方であります。ついこの間も読売新聞その他で、大統領選に打って出ようかというようなうわさもちらちら出ておりました。  今レシピエントという呼び方が非常に多いのですが、あえて私どもは移植健康人というふうに呼ばせていただいております。私は、一九八九年に手術をいたしましたので、今六年と三カ月でございます。ごらんになっていただくように、私は手術を受ける前よりもむしろ健康であります。  長年、振り返ってみますと、ちょうど椎名が裁定をしました三木内閣が出現する当初に、私は目が真っ黄色でどうもぐあいが悪い、だけれども休むわけにいかない、毎日多忙に過ごしておった。そして、片や鼻から出血をするととまらないというような思い当たる節が幾つもありましたが、とにかくそんなことも言っていられませんので、健康を過信をしておりましたから、構わず働いておりました。その時分からもう既に悪かったのだろうと思います。それで、調べていただきましたら、私の場合には今で言うC型肝炎ウイルス、ウイルスによる肝硬変でありました。ですが、私のときにはまだC型肝炎という言い方がなくて、非A非B型肝炎ウイルスという呼び方をしておったようです。  皆さんもそうだと思うのですが、これは、なってみて初めてわかること、大吐血をして、えっと思うことでありまして、恐らく議員の先生方、皆さん毎日御多忙であらせられるので、自分の御健康のことはとんとお忘れになって走っておられることと思いますが、私のようなことが身近にあるということは御認識いただきたいと思うのです。  そのときに、どうやって救うのか。もちろん、人工臓器が開発され、また異種移植というものが開発され、手術を受けなくて肝硬変なり肝がんなりまた拡張型の心筋症なり、それから胆道閉鎖というようなことが移植を受けなくても治るということなら大変結構なことなんでありますが、悲しいかな、現実は移植以外に救命の方法はないというのがただいまでございます。  ですから、現実的に考えたら、やはり命を救っていただくためには移植しかないわけですから、私は医師ではありませんので、また法律家ではございませんので、患者の立場で物を申させていただくわけですから、難しいことは申しません。しかし、ただいま、こうやって私どもTRIOは、国際的にいいますと二千人の移植健康人をメンバーとしております。日本においても、約二百人メンバーがおります。私のところには、心臓、肝臓、腎臓、あらゆる臓器移植を済ませた移植健康人がたくさんおります。そして、みんなそれなりに社会復帰を果たして毎日働いております。そういう事実を御認識いただいて、この移植法というものを、まあ御批判はいろいろあるでしょう。先ほどの濱邊先生のお話にもあったような、お立場上いろいろな御苦労もあるでしょう。しかし、今もう脳死臨調二年、そしてそれ以後また二年。私が最初に中山太郎さんとお話をしたときから考えたらもう八年ぐらいたっていまして、いまだに移植というものが行われていない。腎臓や骨髄、角膜その他のものはできておりますが、要するに本来の移植というものは一例も行われていないというのは、少し異常なんではないかと思います。  海外のことも、もうこれは皆さん御承知です。アメリカであろうと、ドイツであろうと、フランスであろうと、もう先進諸国で移植は一般の医療です。例えば、私の入院していたサンフランシスコでも、私を取材に来た人は一人もおりません。ですが、日本へ帰ってきましたら、あそこにいらっしゃるマスコミの方々が大勢いらっしゃって、大変物珍しげに取材をされ、そして私が大体参考人でこういうところでしゃべること自身がおかしな話だと思っているのですが、一般の医療なんです。なのに、なぜか日本ではできていない。これは一体どういうことなんでしょうか。  かつて私が仕えた椎名悦三郎が外務大臣に就任しましたときに、外務官僚さんを前にしてしゃべったことを思い出します。懸案になっていて、君たちが机の上にたくさん積み上げている案件の中で、おれが責任をとったら解決するものがあるならみんな言っておいで、机の上に並べておいたからといって問題の善悪、正否が出てくるものではない、長く積んだから論議を尽くしたということではないんだということを椎名が申しまして、日韓国交が回復したわけであります。  私が議員の諸公にぜひお願いしたいのは、もう十分に論議は尽くされたのではございませんでしょうかと。そして、反対意見あって結構です。世の中に四九%の方の、反対のない話の方がまゆつばで不思議なので、反対の方あって結構です。しかし、病に苦しみ、そして移植以外に救う道のない患者さんまでそれに巻き込まないでいただきたいのです。幸い五一%の方は、これは各新聞の世論調査を拝見しても五一%以上の方が賛成をしておられるのですから、もうコンセンサスは既にできたり、このように考えていただいて結構かと思います。  ですから、毎日、私のところの会員さんでも、本当に、会うたびに一人二人とくしの歯が欠けるように、きょうあの人が出ていないけれどもどうしたんだと言いますと、いや、実は昨日亡くなりましたというようなことが行われておりますのでは海外へ行けばいいじゃないかといいますが、御承知のように、海外へ行くということは文化ギャップから考えても大変なことなんです。  私がこのTRIOジャパンというのを創立したゆえんも、自分の経験からいって、言葉が通じないところで、ましてや衰弱し切って三十五キロになっている自分が意を尽くしたことを言うということは大変でございました。一月間のウエーティングの間でも、本当に、毎日もうあす死ぬのかな、我アメリカにて客死するのかな、こういうふうに思いました。しかし、ある日突然にポケベルが鳴って、さあ、ミスター青木、オペレーションだよと言ってくれたときに、普通は恐怖心が出てくるはずなんですが、私は欣喜雀躍いたしました。ああ、やっとこれでおれは、死ぬか生きるかわからない、これはもうさいころみたいなものですから振ってみなければわからぬが、とにかく目的を持って渡米して、そしてその機会に接せられるんだなということで、全く恐怖心はございませんでした。  それから、これも前後しているかもしれませんが、フォローの段階で、私も人並みに拒絶反応というのに遭いました。これは御承知のように、自分の免疫力が私の臓器を異物ととらえて攻撃するという医学的なことなんですが、私はこう思いました。私の手や足、その他すべての臓器が動くのは脳の支配である、ならば、私がマインドの世界で、私がちょうだいした臓器、この方に対して私が感謝と、それからどうぞひとつ仲よくやっていただきたいという思いを伝えるならば、私は、神がかり的塗言い方かもしれませんが、必ず、新しく入ってきてくださったドナーの方の肝臓、それから私の従来の臓器とが仲よくやってくれるに違いないというふうに念じまして、もちろん医学的な免疫抑制剤というものの効果があってこれを脱したわけです。  ちなみに、皆さんもごらんになったことはないと思いますので、ここに免疫抑制剤の実物を持ってまいりましたが、これが私が一日に百二十五ミリグラム飲んでおりますサイクロスプレーンの現物でございます。こういうふうにカプセルになっておりまして、非常に安直に飲むことができます。それから、これはFK506といいまして、藤沢薬品さんが開発しました日本国産の免疫抑制剤であります。これも二通りありまして、これを飲むかあれを飲むかは主治医の判断するところであります。  反対派の方がいつもおっしゃるのには、この薬を飲むと大変な副作用が起きるよということがいつも反対の理由の冒頭に来るのですが、私、六年数カ月これを飲み続けておりますが、いまだこれによる副作用は一遍もございません。また、仮にあったとしても、どんな薬にだって効能書きを読めば大変恐ろしいことが書いてあるわけで、そんなことが本当にあること、あっては大変だから書いてあるだけのことで、私は、飲んでいる本人として言わせていただくと、さほどの問題もございません。  それから、あと、感染症がいつも問題になっておりますが、この感染症も、私は、手を洗う、それからうがいをするという大変素朴なやり方でもって――一度風邪を引きました。それから、目にウイルスがついて感染症らしきものになりましたが、こういう素朴な予防法を講じることによって今もこうやって元気にしております。  その辺のところを、これはもう私だけじゃございません。私のところのメンバーは全員本当に元気です。きのうの晩も、そこのキャピトル東急ホテルで――石井直志さん、この人は早稲田大学の仏文の教授です。それから野村裕之君、彼は青山学院大学の英文科の講師であります。それから木内君、この方はうちの職員でありますが、この人は心臓移植の移植健康人ですが、あとの二名の方は肝臓移植を受けた健康人でございます。みんな現場へ復帰して、特に野村裕之君の場合は、四十数歳にして移植手術を受けて、そして日本へ帰ってきて、何と子供が生まれたのであります。彼はもうとっくに死んでこの世にいないはずの人間が、アメリカの女性、キャリンさんという方と結婚をしまして、そしてベビーが生まれました。私はもうこの一事を見ても、生きることの喜び、生きているということはこんなにすばらしいことなんだなということを日々実感しているのであります。  これも話があっちへ行ったりこっちへ行ったりしておりますけれども、私は、五十八年間の病気になって移植を受けるまでの人生と、そしてこの六年間は、本当に匹敵するより、むしろこの六年間の方が充実して生きさせていただいたと思っています。というのは、これも皆さんに実感していただけたらなと思うのですが、もう本当に森羅万象が全部新鮮に見えて、ああ生きているんだな。例えば、私、この委員会、廊下を歩かせていただいて、十年ぐらい前にここをうろちょろうろちょろしておったわけですが、ああおれは再びここのじゅうたんを踏めたんだなという感慨を非常に持ったのです。クオリティー・オブ・ライフということを今しばしば言いますが、本当に価値ある生きざまをさせていただけているのも、柳田邦男先生の御子息のような愛、善意のプレゼントでもって、私ども移植健康人はこうやって生きさせていただいているわけです。  それから、移植の父と言われるアメリカのピッツバーグ大学のトーマス・スターズル博士に言わせると、ミスター青木、あなたの髪の毛にも、あなたの細胞にも、あなたのドナーのDNA、遺伝子が混在しているんだ、あなたは一人じゃないんだ、ウイデンティティーなんだよ、アイデンティティーじゃない、ウイデンティティーなんだ、日本流に言えば同行二人ということなのでしょうか、そういうことを科学的にも医学的にも実証していただいております。  もう時間でございましょうからやめさせていただきますが、どうぞひとつ、そういうことを御理解いただきまして、反対の方、結構でございます、ですから、ドナーカードにもノーとお書きになる自由をお持ちなわけですから、どうぞひとつ、理解ある御決断をいただきまして、一日も早く移植法を成立させていただきますようにお願いいたしまして、私のお話を終わらせていただきます。  ありがとうございました。(拍手)

岩垂寿喜男日本社会党・護憲民主連合

○岩垂委員長 ありがとうございました。  次に、柳田参考人にお願いいたします。

柳田邦男ノンフィクション作家

○柳田参考人 私は、作家として三十年近く医療関係、特に現代人の生と死というものを、事故とか災害あるいは病気、戦争、さまざまな局面でとらえて書いてきたわけでございますけれども、たまたまそういう活動の中で、自分の母を植物状態一年三カ月という形でみとり、また二十五歳の次男を一昨年脳死で十一日間の経過の中でみとりました。また、義理の兄を肝臓がん末期で、最期の瞬間には十分な別れの手も持たずに医師によって排除されて、心蘇生というむだなことをされて見送ったというつらい経験もございます。そんな中を通して、この脳死・臓器移植問題について私なりに感じていることを、考えたことを申し上げたいと思うのでございます。  やはり、物事というのは体験しないとわからないというか、見えてこないというか、そういう問題がございます。特に人間の命とか死とかいう問題はそういう側面を非常に強く持っているというふうに思うわけでございます。私自身、脳死の息子の死後腎提供によりまして二つの腎臓を中年の男性と女性に提供したわけでございまして、その提供を受けた方はいずれも大変経過がよくて、そして特に男性の方は、それまで非常に家族の中でも社会的にも気難しい性格の方だと言われていたのが、人が変わったような丸い性格になって周りから喜ばれて、また本人も人生の歩み方が変わったというふうに自覚されているとコーディネーターを通じて聞いているわけでございます。  臓器移植というもの、これはすばらしいものでありまして、確かに人の命が救われるということに対しては私も感動を覚えるのでございます。また、そうした移植手術を可能にする医学の進歩というものに対しても敬意を表したいと思うのでございます。しかし、にもかかわらず、ちょっと待ってほしいという気持ちを持っております。それは今回の法案の内容に関してでもあります。一体、脳死と言うときに、それはだれの死を議論しているのかということをまず考えてみる必要があると思うのでございます。それは他人の死なのか、自分の死なのか、あるいは家族の死なのか、それによって随分違ってまいります。そのことを御理解いただくために、まず私自身の経験を申し上げたいと思うのでございます。  一昨年の夏、八月でございますけれども、二十五歳の次男が、十二年ほど神経症を思っておりましたが、みずから命を絶つという行為をいたしました。救命センターに運ばれまして、心蘇生に成功し、心臓と自発呼吸が戻りましたけれども、その状態から見て、うまくいって植物状態、場合によったら脳死に入っていくであろうというような診断が出ました。そして十一日間の経過があったわけでございますが、最初の二、三日は父親である私は大変動転いたしまして、事態の把握あるいはどう対処すべきかということについては全く混乱の中にあったというふうに思います。もう一人、二十九歳であった長男がおりまして、随分助けになりました。家内はショックで精神的におかしくなって寝込んでしまいました。  そういう中で、どう受けとめていくかというのは大変難しい問題でございます。私自身、医学や科学については随分知識を持ち、また脳死問題についても数十冊の本を読んでおりまして知識は持っておりましたけれども、頭の中で考えていたことと現実に自分の身内に起こること、そしてそれに自分がどう対処するかということは異質なものでございます。  そして、五日目あたりに、ほとんど脳死状態であろうということで第一回の脳死判定が行われ、六日目に第二回の脳死判定が行われまして、いずれも脳死と判定されました。ちょうどそのころ心も次第に落ちついてきまして、どうしようかということを長男と話し合いました。次男の場合、その数カ月前に、やはり世の中のため人のために何か役に立てればということで、骨髄バンクのドナー登録をしておりました。何か、若者がこの世に生きてそれなりに生きた意味を持ちたいと思ったのでしょう。その気持ち、その意思を生かすにはどうすればいいか。まず骨髄移植として、骨髄提供がこういう状態の中でもできるのかどうか、それは当然骨髄を受ける側との組織適合がなければだめなわけで、無理とは知りつつもドクターに頼んで調べてもらいました。当然、血液及び組織の適合型が合う患者さんは見つかりませんでした。  何かかわるものはないかという中で、ドクターの示唆で死後腎提供があるのではないかということが示されました。それは息子のリビングウイルにはありませんでしたけれども、たまたま私のうちは、私の仕事の関係で家族でよく脳死あるいは尊厳死、安楽死、臓器提供といったことについてはしばしばディスカッションしておりました。そんなことで、息子の考え方というのもよく知っておりましたので、息子の場合、脳死による臓器提供はやりたくない、何か怖いという気持ちは持っていたけれども、死後であれば何か臓器提供はいいというようなニュアンスの発言をしていたので、私と長男とそして寝込んでしまった家内とそれぞれに意見を交わして、腎提供しようかということを結論として出しました。  またその間、次男は大学ノートで十冊にも及ぶ日記を残していたものですから、それを私も長男も必死になって彼の人生観というのを読み取りました。彼の意思を酌み取るということは大変な努力を必要としました。そして、やがて八日目でございましたけれども、もう息子の意思として、無益な延命はしてほしくないという意思を持っていたことが明らかであったものですから、ドクターに頼んで昇圧剤の点滴をやめてもらいました。最低限の輸液だけにしてもらいました。ところが不思議なことに、それから逆に心臓の活動がむしろ活発になり、心拍数も血圧も健康状態よりも幾分いいぐらいな状態がさらに三日も続いたのです。  そういう中で、私は、また息子も、看護婦さんと一緒になって一日三回体をふき、あるいは看護婦さんは、髪を洗い歯を磨きひげをそり、非常に丁寧に面倒を見てくださいました。そのケアはとても行き届いておりました。床ずれなど全くできないほどきれいな体で、血色もよく、本当にすばらしい体でございました。  そういう中で、息子が図らずも言ったのですけれども、何か話していると答えが返ってくるというのですね。体全身で返事してくれる。決して脳と話しているのではないのですね。人格とか人間とか、あるいは愛する肉親というのは、その脳が生きているからとか、死んでいるからそこにいるのかいないか、あるいは生きているのか死んでいるかというのではなくて、そこに体がある、全身がある。その全体が、二十五年の人生を共有し、あるいは生活を共有し、喜びや悲しみも共有した。そういう共有関係にある命というものが見えてきて、それが無言の会話となって毎日続いたわけでございます。  そういうものを支えてくださったのが担当医や看護婦さんたちで、私たちは最後まで普通の患者さんと同じようにケアをします、いっぱい、いっぱい言葉をかけてあげてください、そういう励ましてございました。  私自身、先ほど申し上げましたように物事を科学的に考えるという習性を身につけてきたつもりでございますが、こういう経験の中でいろいろなことをまた新しく発見しました。  それはどういうことかと言いますと、人間の命というものには、生物学的な命だけではなくて、人生を共有し合い、喜びや悲しみを共有し合った精神的な命というのが非常に重要だということでございました。ヘミングウェーの小説の「誰がために鐘は鳴る」の冒頭に、イギリスの詩人ダンの詩が載っておりました。人が死ぬということは、同時にそれは愛する者の中の何かが死ぬことである、だから残される者のために鐘が鳴るのだということを詩でうたっておりますけれども、まさに残される者にとっても何かが失われ、そしてまた、そこで生きる命と死ぬ命とが同時に進行しているということ、それをはっきりと認識したわけでございます。  そしてもう一つは、そうした中で死というものを受け入れていく上で、時間の重要性、ゆったりした時間経過というものが極めて重要で不可欠だということでございました。脳死判定があったとき、まだ苦悩の中にあり、そうした中で、腎提供しようかどうしようかとか、あるいは昇圧剤を続けようか、息子にとっての尊厳死とは何なのか、脳死にだって尊厳死はあるはずだとかいろいろなことを考えておりました。そういうのが、七日目、八日目と日がたつ中で、納得し、受容し、そして我々自身の、残される者の、言うならばグリーフワークというものを自分でつくっていかなければいけないわけなんですね。それを支えてくれたのが非常に温かい医者や看護婦さんたちでございました。もし脳死判定で、この人はもう死体です、輸液もやめてお引き取りください、もうあとは火葬に回すだけですというような索漠とした医療現場になったらどういうことになるのでしょうか。  今、そういう肉親の脳死の現場にいて思ったことでございますけれども、死というものを受け入れる、それは大変な問題ですけれども、そこで私も、知識を動員して脳死が死であるということはどういうことなのかということを考えてみました。そうしたらそれは、今まではごく自然に心停止がやってきてああ死んだのだと思うのを、今見えない、ここで元気でつやのある、すべすべした肌を持った愛する息子を、全く死と思えないけれどもそこで死としてしまう、あるいは死体としてしまうということには三つほど問題があるなと思いました。  一つは死を急がされるということ、二つ目は生活感覚の中では納得し受容するのが困難だということ、そして三つ目には、これは竹内一夫先生もおっしゃっていたことですが、脳死というものは死のプロセスの最初の段階にすぎないということでございますけれども、言うならば、死が始まっているわけですが、完結はまだしていない。しかし、脳死を死体とするということは、死が始まったところで、そこですべてが終わったということを同時に宣告することになるのではなかろうかということであって、全体としてこれはかなり強引な死の線引きではないかということを思ったわけでございます。  それは、言うならば死の青田刈りと言ってもいいのではないかと思います。しかしそれと同時に、私は、やはり臓器提供によって救われる人がいるならば、脳死段階での臓器移植を是とする人が提供する道というのはもう開けてよろしいのではないかという気持ちもまた捨て切れませんし、今でも持っております。多くの調査を見ますと、脳死を是とする、脳死を人の死とするのを是とする答えがかなりの数を占めてはいますけれども、皆さんそれぞれ、だれの死について考えているのかということは不明確でございます。本当に身近な、愛する肉親の死としての脳死なのか、それを死体と見るのかどうか、そういう世論調査ではなかったのではないかと思います。  そこで、私がもう一つ気づいたのは、先ほど言いましたように、だれの死かというのをもう一度、一人称、二人称、三人称という形で明確に確認する必要があるということでございました。一人称の死は、言うまでもなく、自分がどう死ぬかあるいはどういう死の美学を持つかということでございます。二人称の死は、愛する肉親あるいは恋人あるいは戦友、そういったものがどのような死に方を迎えるのか、それに対してどのようなかかわりをするのかという立場でございまして、非常に重要でございます。そして三人称の死は、それ以外の人でございまして、ドクターにとっても患者の死は三人称の死であるわけでございまして、そういうときにどういう死を迎えるか。本人では決められない突然死であるとかあるいは災害死であるとかそういう場合には、どうしても二人称の死がその死の完成、死の形のあり方を決める上で非常に重要でございまして、そこに家族なり肉親というものが登場するわけでございます。そして、その中で共有する命の問題やゆったりした時間の重要性ということが大きな課題になってくる。  そこで、最後に提案したいのでございますけれども、今回の法案は、脳死臨調を受けて「死体(脳死体を含む。)」というようなことで書いてございます。しかし、実際の現場で体験するという立場からしますと、死というものはだんだん死んでいく、あるいはプロセスとして生じるものであって、強引な線引きをするよりは、脳死段階でもう既に本人の生き方なり信仰なりさまざまな形でそれを死として臓器提供を是とする人もいいでしょう、あるいはゆったりと最後まで心停止を待ってみとりたいという人も多いでしょう、あるいは途中で、よく頑張った。もうこの辺で人工呼吸器を外して見送るからなというようなことになるそういう家族もいるでしょう、そしてまたそういう途中の段階で、十分闘ったからもうここで臓器を提供して世のため人のためになろうというふうに考えを煮詰める人もいるでしょう、それらすべてが認められるようなそういう死の定義のあり方、あるいは法律のつくり方というものを今こそ考えていただけないかと思うわけでございます。  古い法律に照らし合わせて、これはできるできないという考えではなくて、こういうふうに医学の技術が進んだ中で、新しい時代、新しい人間の生き方と死に方を決めていくには、新しい発想、思想、そして法律というものをつくっていく、創造していく、そういう発想が必要なのではないか。それは、私の考えでは二十一世紀を展望する新しい生き方なのではないかなというふうに思うわけでございます。  西欧合理主義あるいは科学主義というものは一か〇か、イエスかノーかという形で物事を選別してまいりまして、それは医学・医療においては疾患というものを臓器、組織、細胞、遺伝子という物の単位で細分化して見てまいりました。しかし、そういう中で、人間の命の中の非常に大事な部分である愛とかいたわりとか優しさとか、そういうものが医学・医療の中で忘れ去られかねないような状態にございます。それを取り戻すためには、人間のあいまいな部分、とても大事な部分というものをどのように取り込んでいくのか。一か〇かという発想自体がもう間違っているのではないかという考えで二十一世紀の我々の生き方を探っていくというその前例としてでも、この脳死の問題というものを法律でどう決めていくか、あるいは医学界がどう取り組むのか、画期的なアイデア、発想というものを生み出していただきたいと思うのでございます。  私の限られた体験ではございますけれども、やはり時代は、ことしの四月、名古屋で開かれた第二十四回の日本医学会総会が、人間の医学という大きなテーマで新しい医療を目指そうとしておりました。そういう時代の流れに対応できるようなすばらしい発想をこの脳死や臓器移植の問題の中にも取り込んでいただけないか、こう願うわけでございます。  一つの体験であっても、私なりに長年いろいろ取材したり研究したりしたものとにらみ合わせながら、以上のようなことを考えて皆様に知っていただきたいと思ったわけでございます。  どうも御清聴ありがとうございました。(拍手)

岩垂寿喜男日本社会党・護憲民主連合

○岩垂委員長 ありがとうございました。  以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。  参考人の方々におかれましては、御多忙中、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。委員会を代表して厚くお礼を申し上げます。  次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。     午後零時三十二分散会

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