本会議 第13号
- 発言数
- 5 件
- 登壇者
- 2 名
- 会派数
- 2
- 開催日
- 1989/05/23
会議録
○議長(原健三郎君) これより会議を開きます。 ————◇—————
○議長(原健三郎君) 御報告いたすことがあります。 議員亀岡高夫君は、去る三月十三日逝去されました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。 同君に対する弔詞は、議長において去る四月二十六日贈呈いたしました。これを朗読いたします。 〔総員起立〕 衆議院は多年憲政のために尽力し 特に院議をもってその功労を表彰され さきに議院運営委員長の要職につき また再度国務大臣の重任にあたられた議員正三位勲一等亀岡高夫君の長逝を哀悼し つつしんで弔詞をささげます ————————————— 故議員亀岡高夫君に対する追悼演説
○議長(原健三郎君) この際、弔意を表するため、上坂昇君から発言を求められております。これを許します。上坂昇君。 〔上坂昇君登壇〕
○上坂昇君 ただいま議長から御報告がありましたとおり、本院議員亀岡高夫先生は、去る三月十三日、日大板橋病院において逝去されました。 亀岡先生は、二月二十四日の大喪の礼に参列されましたが、式の開会直前にお体の不調を訴えられ入院されました。激動の昭和の時代に別れを告げるようにみぞれまじりの雨が降りしきり、寒さが身にしみるときでしたから、私ども参列者ひとしく先生の御容体を案じ、一日も早い御回復をお祈り申し上げておりましたが、三月に入り一時健康を取り戻されたと伺っていたやさき、御容体が急変し、御家族の手厚い看護と医師団の懸命な治療もむなしく、ついに不帰の客となられたのであります。この突然の計報、この現実に接し、まことに哀悼痛惜のきわみにたえません。 私は、ここに、皆様の御同意を得て、議員一同を代表して、謹んで哀悼の言葉を申し述べたいと存じます。(拍手) 亀岡先生は、大正九年一月、福島県伊達郡桑折町において、広く蚕種業を営んでおられましたこの地方の名家「亀源」の十一代当主亀岡源四郎氏御夫妻の次男としてお生まれになりました。 恵まれた御家庭で厳しくも温かい幼年時代を過ごされ、やがて地方の名門校旧制保原中学校へ進まれましたが、そのころ我が国は未曾有の経済危機に見舞われ、全国的な事業の倒産、失業が相次ぐ不況に加え、東北地方を襲った蚕の伝染病である微粒子病の蔓延に遭い、三百年余の歴史を誇った名家「亀源」も衰退の一途をたどり、学校の月謝の納入にさえ事欠くという状況に追い込まれたのであります。時に先生十二歳の少年でした。しかし、このような逆境に遭遇されても、先生の天性の資質はいささかのおくれも見せず、雄滝な希望を少しも失うことなく、明るく勉学にまた剣の道に打ち込み、旧制中学五年間の青春を謳歌されたのであります。 中学卒業を控え、人一倍向学心に燃えておられた先生は、同時代の困窮にも志を失わなかった優秀な青少年たちがそうでありましたように、両親に経済的な負担をかけたくないとの一心から、陸軍士官学校への進学の道を選ばれたのであります。全国のたくましい俊秀が蝟集する陸士に進まれた先生は、世界の動向に目を開き、あすの日本を思い、ひたすら勉学と訓練にいそしまれておりましたが、時あたかも、重なる経済恐慌のもと、軍部の台頭著しく、内にあっては五・一五事件に次ぐ二・二六事件、外にあっては満州事変を経て日中戦争が勃発し、戦争の暗雲が深く立ち込めておりました。 昭和十五年、陸軍士官学校を卒業された亀岡先生は、直ちに陸軍歩兵第十六連隊に入隊、たけなわになりつつあった中国本土の戦線に従軍されたのであります。 その後、日本は第二次世界大戦に突入し、前線における兵士ともども国民も塗炭の苦しみを受けることになりますが、特に前線における先生は、最激戦の地ガダルカナルの交戦において、先生の率いる部隊は壊滅的な打撃を受け、多くの部下を失われたのであります。さらに中国南部、ビルマなどの最前線を転戦され、二十三歳の若き中隊長として我が身を盾にして部下をいたわりながらの戦闘を続けてこられたのでありますが、中隊百二十名中生還実に八名、先生御自身も数発の砲弾の破片をその身に受けられるという壮絶な激戦の中、まさに九死に一生を得て、昭和二十一年五月、四年半ぶりで故国の土を踏まれたのであります。 帰国後、先生は直ちに戦死された亀岡中隊の御遺族を訪ねられ、ガダルカナルやビルマでの戦友たちの活躍ぶりを報告されたのでありますが、こうべを垂れて報告に聞き入る戦友の御遺族とともに無惨無益の戦争を再び引き起こしてはならないことを心にかたく誓われたのであります。 草の根、谷川の水に飢えをしのいだ苦しみの四年半に健康を害された先生は、帰国後結核を患われ、二年間の闘病生活を余儀なくされたのでありますが、病臥の中でみずからの歩まれた道程を顧み、「私のこれからの人生は、目の前で倒れていった戦友たちのためにあり、その死をむだにすることなく、主権在民の平和な国づくりにささげなければならないのだ」とかたく心に誓われ、政治に命を投げ出すことを決意されたのであります。 平和で豊かな故国日本の再建を目指し、先生の情熱は、「まず雪国地帯を貧困から解放し、豊かな農村を築こう」という信念に昇華し、健康が回復するや、縁戚に当たる渡辺良夫代議士の知遇を得て、昭和二十七年、積雪寒冷地帯知事会の結成に奔走、みずからその事務局長に就任され、実践を基本とする政治への道に飛び込まれたのであります。その後、昭和三十五年衆議院議員に当選されるまでの間、東北地方農業振興法、積雪寒冷特別地域道路交通確保特別措置法等の立法化に向けて努力を傾注され、恵まれない積雪寒冷地帯の振興対策に実に偉大な功績を上げられたのであります。 このような熱情あふれる実践活動の中で、先生は、終生政治の師と仰ぐ吉田茂、佐藤榮作両元総理を初め多くの先達の知遇を得、多大の薫陶を受けられるなど、先生御自身の政治家としての礎を築かれたのであります。 先生のたゆまない活動は、先生のお人柄と相まって、やがて「亀さん」の愛称で広く郷土の人々の信頼と期待を集め、勇躍立候補された第二十九回総選挙におきまして見事初の栄冠を得られ、国政への第一歩をしるされました。 本院に議席を得られてからは、平和を希求し豊かな国民生活の実現を目指す政治信念に基づき、農林水産、地方行政、逓信等々の各委員会を舞台に、実践に裏づけられたその豊富な経験と卓越した見識を生かして縦横の活躍をされましたことは、議員諸君のよく知るところであります。常に誠実に、しかも冷静沈着に国政の審議に当たられる先生に対し同僚議員はひとしく敬服してきたところでありますが、特に、与野党勢力が伯仲し激しく対峙するという厳しい政治状況にあった昭和五十四年、先生は推されて議院運営委員長の重責を担われました。議院運営委員長としての先生は、「国会は、良識とよき慣行に従い、各党の真摯な協議によって運営されるべきものである」との信念に立たれ、持ち前の鋭い政治感覚とすぐれた調整能力をもって難しい局面に遺憾なく対処され、党派を超えて厚い信望を集められたのでありますが、この先生の議会人として示された識見こそ、今日の状況にかんがみ我々の範とすべきものと存ずるのであります。(拍手) 亀岡先生は、この間、自由民主党にあっては、教育宣伝局長、経理局長、副幹事長の要職につかれ、重要な施策の立案、推進と党の運営、強化に大きな役割を果たされました。一方、政府にありましては、佐藤内閣のもとで郵政政務次官、内閣官房副長官を歴任され、着々と実績を積み重ね、その手腕は高く評価されるところとなりました。そして、昭和四十八年十一月、田中内閣において建設大臣として初の入閣を果たされましたが、雪が取り持つ二十年余の交友田中首相の期待を受け、当選五回、新進気鋭の登場でありました。 就任早々先生はかねてからの懸案である中央高速道の建設問題に取り組まれたことは注目すべきことであります。すなわち、一部の地域において騒音問題がネックとなり、交渉が難航し、強制着工も必至という状況に立ち至りましたが、話し合いによる解決を決意された先生は、みずから反対住民の懐に飛び込み、意見を交換し、わずか二週間後には地域住民の理解を得ることに成功、円満に工事が進められることになったのであります。先生の粘り強さ、誠実さに加えて日ごろの実行力が遺憾なく発揮された結果であると言うことができましょう。また、良好な都市環境の形成を図りつつ宅地開発を推進していくための種々の法律の成立に尽力されるなど、建設大臣として多大の事績を残されました。 昭和五十五年七月には鈴木内閣の農林水産大臣として再度入閣されましたが、農村を愛し農民の立場に立って農政に心を砕かれていた先生にとってはまさにうってつけのポストと言えたのであります。在職中、農業の将来像を見きわあながらその基本方向の確立を目指し、食糧管理法の改正、水田利用再編対策、冷害・豪雪等自然災害対策、林業・水産業振興対策等々多岐にわたる重要・施策の推進に努力されたのであります。とりわけバイオテクノロジーの開発、実用化に尽力されたことは、先生の卓抜な先見性を物語るものと言わなければなりません。 昭和五十六年八月農林水産大臣として中国を訪問された際、中国の万里副首相から遺伝子の組みかえによる植物の品種改良の重要性を説かれ、冷害や病虫害に強い稲をつくるための日中共同研究の申し出を受けられたということでありますが、この面での日本の立ちおくれを痛感された先生は、帰国後早速研究者を中国に派遣するなど日中共同研究開発の端緒をつけられ、さらに、自民党内にバイオサイエンス議員懇談会を結成し、そこでの貴重な提言をまとめるなど、日本のバイオ農業の発展に大きく道を開くもとをつくられました。 かくして、亀岡先生は、本院議員に当選すること連続十回、在職二十八年七カ月の長きに及び、昭和六十年十月には永年在職議員として院議をもって栄誉ある表彰を受けられました。(拍手)この間、よく国民大衆の要望実・現、国政の進展に貢献された功績はまことに大きなものがあると存じます。 亀岡先生は、常々、「私は必要以上の物は欲しくない。戦争で内地を出たとき百二十名の戦友のうち生き残ったのはわずか八名だけ。このことを思うと私は今でも胸が詰まり、自分だけ豊かになろうなどとは決して思えない。だから私は、社会のため、人のため一生をささげる決心をしたのだ」、こう言っておられましたが、戦争の悲惨な生死彷徨の体験からにじみ出たこの言葉こそ先生の「政治の心」の原点をなしており、そこに、昭和三十五年本院議員に初当選以来、「権力に屈せず、権力を乱用せず、全力に左右されず、暴力を排して勇気ある政治活動をとる」との一貫した政治姿勢が打ち出され、さらに「郷土の発展なくして国の繁栄はない」とする実践が生まれたと思うのでありますが、先生のこの政治信念にかんがみ、今私たち政治家が顧みなければならないことの余りにも多いことを銘記すべきではないでしょうか。(拍手) 私は、先生が政治に情熱を燃やしながらも胸中ひそかに寂蓼の念を抱かれていたことは、奥様に先立たれたことではなかったかとお察しするのであります。昭和五十九年六月、深い深い愛情と理解の中で苦楽をともにされ、先生の政治活動を陰の力で支えてこられた糟糠の秀子夫人は、先生を残してその生涯を閉じられたのであります。奥様が五年有半の病床にあったとき、先生は、議員会館の事務室にファクシミリを備えつけ、御自宅の奥様の病床につなぎ、通信文によるお二人の対話を通じて毎日奥様を力づけてこられたということであります。この愛情あふれるお二人のありように涙を隠すことができません。 昭和六十四年、すなわちことしの元旦を迎えられた先生は、「元旦、快晴。空に一片のくもりなし。久しぶりに一家六人で新春を迎える。偉民夫妻を養子に迎え、小生もおじいちゃんになった。楽しき限りなり。女の子二人は、いずれも気性よく、家内万々才なり。これにて小生は何等の心配なく、安心、安心……。朝、何年ぶりかで揃って正月料理でわが家は賑やかになった」と手帳に記され、奥様亡き後の寂しさから久しぶりに解放され、名家「亀源」の再建と後顧の憂いなきを喜ばれたのでありますが、それもっかの間、三カ月後には先生御自身も奥様の後を追われたのでありました。先生の心情をしのび、万感胸を打たれるぽかりであります。 人を愛し、郷土を愛し、国を思うことは、まず家庭を大切にするところに始まるという教えを身をもって残された亀岡高夫先生の人生観に私は深い感動を覚えるのであります。(拍手) 輝かしい科学と文化が躍動する二十一世紀を目指し、内に経済大国にふさわしい豊かで文化の薫り高い国民生活を築き上げ、外に軍事力によるこ とのない対話と共栄の国際社会の樹立を期して我が国の役割を改めて見詰め直さなければならないこのとき、平和のとうとさを身をもって知悉され、座右の銘「平生飛動の心」に培われた鋭い洞察力とすぐれた先見性を持った政治家亀岡高夫先生を失いましたことは、本院のみならず、国家国民にとりましても、何物にもかえがたい大きな損失であり、悲しみであると申さなければなりません。(拍手) しかしながら、いつまでも悲しみにひしがれていることは許されません。先生の残された大いなる足跡と教訓をそれぞれが心に銘記し、今こそ国民に信頼される政治の確立に向かって邁進することこそ亀岡先生に対する私たちのはなむけであると信じます。 ここに、謹んで亀岡高夫先生の生前の御功績をたたえ、その人となりを追慕しつつ、安らかな御冥福を心からお祈り申し上げ、追悼の言葉といたします。(拍手) ————◇—————
○議長(原健三郎君) 本日は、これにて散会いたします。 午後一時二十五分散会 ————◇—————