本会議 第11号
- 発言数
- 5 件
- 登壇者
- 2 名
- 会派数
- 2
- 開催日
- 1985/12/10
会議録
○議長(坂田道太君) これより会議を開きます。 ————◇—————
○議長(坂田道太君) 御報告いたすことがあります。 議員松沢俊昭君は、去る十一月十日逝去せられました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。 同君に対する弔詞は、議長において去る十一月十四日贈呈いたしました。これを朗読いたします。 〔総員起立〕 衆議院は 多年憲政のために尽力された議員松沢俊昭君の長逝を哀悼し つつしんで弔詞をささげます ————————————— 故議員松沢俊昭君に対する追悼演説
○議長(坂田道太君) この際、弔意を表するため、稻葉修君から発言を求められております。これを許します。稻葉修君。 〔稻葉修君登壇〕
○稻葉修君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員松沢俊昭君は、昭和五十七年一月以来、大腸がんのため再三の大手術を受けられ、文字どおり満身創痍の状態にありながら、持ち前の闘魂たくましく不死身の活動を続けてこられましたが、去る十一月十日御家族の手厚い看護のかいもなく、新潟大学附属病院においてついに逝去されました。まことに痛惜の念にたえません。 ここに私は、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、謹んで哀悼の言葉を申し述べたいと存じます。(拍手) 松沢君は、昭和二年十月、新潟県五泉市町屋において農家の五男として生をうけ、幼いころから、「弱い者いじめをしちゃいかぬ」、「どんな人にでも親切に接しなさい」という、お母さんのやさしくて厳しい薫陶を受けて成長されたと聞いております。 君は、昭和二十年、終戦の年に新潟県立村松中学校を卒業後、村松町の小学校に代用教員として就職されましたが、生来の正義感から、当時の学校関係者による配給物資の不正に激しく抗議し、憤然退職せられることとなり、直ちにその身を農民運動に投じられたのであります。松沢君は、郷党の先輩にして農民運動の指導者であり、本院議員でもあった故石田宥全君の門下に入り、日本農民組合新潟県書記を振り出しに、農民運動の先頭に立ち、ひたすらこの一筋道を生涯歩むことになりました。 昭和二十九年には、相次ぐ米価抑制に抗議し、全国から上京した農民とともに座り込みを行ったのでありますが、君はその際、米価審議会会場わきの煙突に登り要求貫徹を訴え、煙突上で二日間の籠城をやってのけ、「煙突男」として全国に勇名をとどろかせました。純情熱血の好漢、松沢青年の面目躍如たるものがあり、ほほ笑ましく、追憶の情新たなるを禁じ得ません。(拍手) 昭和三十三年金日本農民組合連合会が組織されましたが、君は、その若き影武者であり、貢献大なるものがあったと言われています。そして、全日農の重要な役職を歴任した後、昭和五十九年二月、ついに二十万農民の代表として全日農会長に推されました。君の満足、推して知るべく、君は会長就任の抱負を次のように述べておられます。すなわち、「我が国農業再建のため労農提携の幅を広げ、広く市民運動とも手を組む」と。日農運動の大きな新しい目標を提示しておられるのであります。その意気まさに天をつき、二十万組合員の君に期待するところ極めて大きかっただけに、在任二カ年に満たぬ間の君の死は、君自身の無念はもとより、組合員の悲嘆の集まるところ、全日農の損失はかるべからざるものがある次第であります。 そもそも新潟県の社会党の歴史は、戦前、かの有名な北蒲原郡木崎村小作争議に端を発する農民運動の同志たちによって創始されたのであります。松沢君は、今や故三宅正一、井伊誠一、玉井潤次、稻村順三、清澤俊英、石田宥全氏らの先覚者に迎えられて、静かに黄泉に眠ることとなったわけでございます。 君の議員としての政治活動は、昭和三十年郷里五泉市議会議員に始まります。五泉市議にあること二期、次いで昭和三十八年、新潟県議会に歩を進められ、その二期目半ばにして昭和四十四年、引退された先達、石田宥全君にかわり、第三十二回衆議院議員総選挙に勇躍立候補し、選挙民の絶大なる支持と信頼を得て、見事初当選の栄を果たされたのであります。(拍手) 本院議員としての松沢君は、公職選挙法改正特別委員や災害対策特別委員として幅広く活躍されましたが、とりわけ農林水産委員会においては、理事として重責を担われ、日本社会党きっての手腕、力量を遺憾なく発揮されました。特に米価問題については、米価審議会委員の経歴もあり、その専門的知識と実際的手腕は高く評価され、党派を超えて同僚委員諸君の尊敬を集められました。また、国土審議会特別委員としても、北陸地方開発や豪雪地帯対策に多大の業績を残しておられます。 党にあっては、米価・食管対策委員長や農林政策委員長を歴任されるなど、一貫して農林漁業畑の重鎮として、余人をもってかえがたい大きな存在でありました。(拍手)君は、社会党が目指す農業基本政策とも言うべき総合食糧管理法案、農業生産振興法案、農民組合法案取りまとめの大役を果たし、これら農業三法案をひっ提げて、本院農林水産委員会において舌鋒鋭くその所信を披瀝し、並みいる同僚議員を感嘆せしめたと仄聞いたしております。 佐藤守良農林水産大臣が新潟県における君の葬儀に当たり弔辞を寄せて、「君の死は、農産物市場開放を迫られている現下の厳しい世界情勢に直面する我が国農業の現状にかんがみ、偉大な農政家を失ったことになるのであり、農林水産省にとっても大きな損失である。」と申し述べております。本院議員一同の同感とするところであります。(拍手) 松沢君は、また、早くから日中友好親善関係の促進に尽力されたことは、周知のとおりであります。昭和三十一年、初めて訪中された翌年の春、お嬢さんが誕生されるや、君は、時の周恩来中国首相にあやかるべく周子さんと命名されたのは、中国と生れ出た我が子に対する深い愛情のあらわれであります。訪中二十数回に及ぶ中国通としての松沢君は、中国要人からも、日中国交回復の最初の道をつけたいわゆる井戸掘り人として、格別の信頼と敬意を寄せられているところであります。そして昭和四十八年には、かつて教鞭をとられたことのある新潟県村松町に中国語研修所を開設し、多くの優秀な人材を育成して中国に送り、日中経済交流にも大きく貢献するところがありました。 松沢君は、本院議員として議席にあること四期十一年四カ月、それは余りにも短過ぎるの一言に尽きます。君を新潟大学の病室に見舞った志苫参議院議員に対し、「おれのこの病気はあと十年もすればみんな治るようになるだろう。しかしおれには間に合わない」と微笑さえ浮かべて淡々と諦観の心境を吐露したという。まことに悲哀寂蓼のきわみであります。その志半ばにして五十八歳の生涯を閉じなければならなかったのは、いかばかりか心残りであったことでしょう。私は、がん制圧に対する我が厚生行政に期待するとともに、がん撲滅の日の一日も早からんことを祈らずにはおられません。(拍手) 松沢君よ、君の生涯はまさに倒れて後やむの気概があり、常に一片の私心なく、名利を求めず、ただただ憂いを農民大衆にはせた見事な生涯であった。松沢君のおのれに対する厳しい政治姿勢は、広く私ども政治家の範とするに足ると申しても過言ではありません。(拍手) 十九歳の青春の身を結党間もない社会党にささげて以来、ここに社会党結党四十周年の日から旬日を出ずして君は倒れた。有言実行の熱血漢、庶民と苦楽をともにし、人間愛と善意をもって生きると言い切った大衆政治家松沢俊昭君よ、君を失いましたことは、日本の今日の憂うべき世相にかんがみ、惜しみても余りあるところであります。社会党のみならず、本院にとりましても、また国家にとりましても一大損失であります。(拍手) 私どもは、もはやこの議場に君の雄姿を見ることはできません。しかし、我が国農民運動の歴史に刻まれた君の足跡、また憲政史に残された君の業績は、さんとして後世永く残る一条の光芒であります。(拍手) ここに、松沢俊昭君の人となりをしのび、生前の功績をたたえ、心から御冥福をお祈りして、追悼の言葉といたします。(拍手) ————◇—————
○議長(坂田道太君) 本日は、これにて散会いたします。 午後一時十八分散会 ————◇—————