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87回国会衆議院1979/03/14

法務委員会 第5号

発言数
79
登壇者
10
会派数
4
開催日
1979/03/14

会議録

佐藤文生自由民主党

○佐藤委員長 これより会議を開きます。  法務行政に関する件について調査を進めます。  この際、参考人出頭要求に関する件についてお諮りいたします。  法務行政に関する件(安楽死問題)について、本日、参考人として日本安楽死協会理事長太田典礼君、安楽死法制化を阻止する会世話人・作家野間宏君、東海大学附属病院看護部次長池田節子君の出席を求め、意見を聴取いたしたいと存じますが、御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

佐藤文生自由民主党

○佐藤委員長 御異議なしと認めます。よって、さよう決しました。     ———————————————

佐藤文生自由民主党

○佐藤委員長 この際、参考人各位に一言ごあいさつを申し上げます。  参考人各位には、御多用中のところ本委員会に御出席をいただき、まことにありがとうございます。本日は、安楽死問題について、参考人各位それぞれのお立場から、忌憚のない御意見をお述べいただくようお願い申し上げます。  次に、議事の順序について申し上げますが、太田参考人、野間参考人、池田参考人の順序で御意見をお述べいただくこととし、なお、御意見の開陳はお一人十分ないし十五分程度に取りまとめてお述べいただくようお願い申し上げます。  次に、参考人に対し委員から質疑がありますので、さよう御了承をお願いいたします。  それでは、まず太田参考人にお願いいたします。

太田典礼日本安楽死協会理事長

○太田参考人 今日は、法務委員会に参考人として出席を求められまして、自分並びにわが協会の意見を発表する機会を与えられまして、ありがとうございます。早速陳述に移ります。  人間は、だれしも一日でも長生きしたいと望んでいますが、死は必ず訪れてまいります。したがって、すべての人は苦しまずに安らかな死を迎えたいのであります。ポックリ寺参りが盛んになっているのも、そのあらわれでしょう。でも、大抵の人は神仏に頼れば必ず安らかに死ねるとは思っていないようです。かなえてもらえなければ安楽死をというのが十人に九人もあるという数字も発表されております。  わが国の安楽死運動は、世界的にはかなりおくれておりますが、ようやく三年前に安楽死協会をつくりました。安楽死が無理なく実現されるようにと願って、自来、そのために広く一般の理解を求める努力をしてまいりました。  そのうちの一つの大きな目標として、安楽死の法制化を目指しています。しかし、一般にはそういう法制化は時期尚早ではないかという御意見が強いので、それも十分承知しております。われわれはいま直ちに法制化しようというのでもないが、その時期を早めるための努力をしておると御了解願いたいと存じます。したがいまして、われわれは安楽死を法律をもって全部縛ろうという考えではございません。また、法律を安易につくろうというような考えでもありません。非常に慎重に検討いたしまして、法制化しないと安楽死が非常に困難だという場合が多いので、安楽死の法律化をば必要であるという考えから二年余りの時間をかけまして、法案委員並びに助言者六名によりまして、お手元に差し上げましたような草案をつくり上げた次第であります。  起草者の名前は草案の後に列記しておきましたが、医師並びに弁護士なんか多数おりますが、石川治、沖種郎、北山恭治、榊原亨、佐羽城治、飛田人徳、吉成博孝、和田敏明。助言者といたしまして植松正、太田典礼、香山仙太郎、北山六郎、鮫島武次、成田薫。このうちに医師が五名、弁護士が五名、法律関係者とかあるいは元大学の学長あるいは名誉教授あり、元代議士も三名あります。  アメリカでは、御存じのとおり八つの州に現在法律ができております。一九七六年にカリフォルニア州にできまして、七七年にはあとの七つができたのであります。これは原文をここに持っております。これは法務省並びに国会に提供いたしまして、法務省も全訳をし、国会図書館の方も全訳しておりますので、それを逐次発表されておりますが、われわれはそれを原文と同時に全文を一つの本にまとめて出版したいという考えで、目下印刷中でございます。できましたら、また差し上げます。  こういう法律を原文と照らし合わせまして綿密に検討いたしまして、さらに昨年十一月に第二回国際会議がサンフランシスコで開かれました。そのときの決議文にも大体似たような趣旨が盛られておりますので、これも参考にいたしまして、われわれはこの線に沿って厳しい条件をつけ、乱用、悪用への歯どめをつくり、国民の合意を得られるようにと努力したつもりでございます。昨年の暮れに法制化を阻止する会というのができましたが、どうかよりよい法律への前向きの批判であっていただきたいと思います。  草案は、「末期医療の特別措置法」の名称で、消極的安楽死にしぼったものであります。  第一条の「目的」では、「全ての人は自己の生命を維持するための措置を受容するか否かにつき自ら決定する権利を有する。従ってこの法律は不治且つ末期の状態にあって過剰な延命措置を望まない者の意思に基づきその延命措置を停止する手続き等を定めることを目的とする。」と言って、個人の権利を尊重し、これに従って手続を規定したものでございます。  第二条は「定義」でございまして、「「不治且つ末期の状態」とは、合理的な医学上の判断で不治と認められ、かつ死期が切迫している状態」、「「過剰な延命措置」とは、その措置によっても患者が回復の徴を呈せず単に死期を延長するにすぎない措置をいい、苦痛緩和のための措置は含まない。」としております。苦痛緩和は正当な医療行為であって、必ずしもここに盛る必要はないという考えでございます。  死の判定は困難だと一般に言われておりますが、それは病気の初期においては非常に困難でございますが、末期に至りますと、ほとんど確実とは言えないまでも判定はできやすいのでございます。不治、末期の判断は慎重でなければなりませんが、確実性が非常に高まっておるということを前提としております。  問題は、第三条の意思表示でございまして、文書の作成など細かく規定しております。意思表示のできる規定では、「十五歳以上で、意思能力ある者」とまず規定しております。この年齢については大いに議論のあったところでありますが、民法などを参考にいたしまして一応十五歳としたのでありますが、十八歳あるいは二十歳の成年でなければならぬという意見もあることと存じます。  第四条は意思撤回についてでありまして、第五条はその意思の代行権についてであります。原則としては、意思の表示は代行できるものではないというふうに規定しておりますが、ただし意思能力のない者、幼児その他につきましてはどういうふうにするかということが、非常に大きな議論の焦点になったのでありますが、意見の対立も強くて、なかなかこれは結論に達しなかったのでございます。しかし、これは第三条の「意思能力ある者」の裏返しでございますので、それと関連して議論されなければならぬのであります。  まず、年齢について赤ん坊から何歳までとするか、さらに問題なのは、精神薄弱者、精神病者、植物人間など、程度によって意思能力のない者と意思能力がある者とありまして、このあるかないかの線の引き方が、現在の医学並びに心理学の段階におきましてもきわめて困難で、どこに線を引くかということを法律をもって規定することは無理ではないかという結論になりましたので、その場合は裁判所の審判にゆだねてというふうに、大変あいまいなことにいたしておるものでございます。いずれこれは、法律がいよいよということになりますと、必ず問題になると思います。  なお、安楽死への強い反対が心身障害者団体から出ておりますが、この法律の限界を超えたものでございます。この規定によりましても、この法律の限界を超えたものとして御了解願いたいと存じます。それができたら次々エスカレートするのではないかという御心配も、したがって無用ではないかと思います。  第六条は「不治且つ末期の状態」の証明、だれがどういうふうに証明するのかということを規定しております。  第七条は「医師の行為の免責」で、民事上、刑事上の責任を問われない。  第八条は「文書保管の義務」でございまして、五年間といたしました。  第九条は「生命保険契約との関係」で、自殺とみなされてはならない。  第十条は「罰則」でございます。この罰則のうちには「第三条、第四条及び第六条の文書を破棄し、又は隠匿した者、文書に虚偽の事実を記載した者、虚偽と知りつつ証人として署名した者、及び文書を偽造し、または変造した者」「第八条の義務を怠った者」について懲役または罰金に処する。  以上でございます。  アメリカ八州の法律並びにサンフランシスコ宣言の原文と全訳は、ここに持参しております。これは資料として近く単行本にして出版の予定で、目下印刷中でございます。  さて、わが国の現状を見ますと、全国のあちこちで、またしては安楽死事件が発生しまして裁判にかかりました。その都度、被告に対する一般の同情が高まり、減刑嘆願書なんかが出されまして、ほとんどが執行猶予の軽い罪になっております。これは一般に安楽死を罰してはならないという意思の表明ではないかと思います。  すでにわが国では、法律の問題はかなりおくれたのであります。アメリカ並びにイギリスのロンドンあたりでは、もう二十世紀の初頭に何回も法案が提出されております。しかし日本では、法案は提出されておりませんけれども、昭和三十七年の十二月の有名な名古屋高裁の判決文に、附則文として六つの要件が列記されております。この要件があれば安楽死は認められる可能性があるということを言っておるのでございます。これは皆さん十分御存じと思いますが、   (1) 病者が現代医学の知識と技術からみて不治の病に冒され、しかもその死が目前に迫っていること。   (2) 病者の苦痛が甚しく、何人もこれを見るに忍びない程度のものなること。   (3) もっぱら病者の死苦の緩和の目的でなされたこと。   (4) 病者の意識がなお明瞭であって意思を表明できる場合には、本人の真摯な嘱託又は承諾のあること。   (5) 医師の手によることを本則とし、これにより得ない場合には医師により得ない首肯するに足る特別な事情があること。   (6) その方法が倫理的にも妥当なものとして認容しうるものなること。 であります。これは世界的にも初めてのことでございます。アメリカでもたくさん安楽死の裁判がありますけれども、どういうわけだか、安楽死に真正面から取り組んではいないで、妙なすりかえとかをやって、そして無罪になっているのが多いのでございますが、これはアメリカもびっくりしまして、直ちに世界各国へ報道されました。  この死の判定とか苦痛の内容、倫理的方法などについては、いまなお疑問を投げかける人がおります。申しましたように、不治であるということはだれが決めるのか、どうして決めるかという問題とか、苦痛とは何か、倫理的方法とは何かというような議論も盛んに出ておりますが、これは切りのないことでございますので、刑法学者の間でも、これは一応の基準として論議される現状にございます。  また刑法関係者の間には、必ずしも法律をつくらなくても、判例を積み重ねればそれでいいではないかという判例積み重ね論というのがかなり有力でございます。しかし、これにも不幸にして名古屋高裁以上に一歩前進した判例がまだ一つも出ていないのであります。同じように有罪として執行猶予の刑になっております。無罪になった例はございません。  なお、この六要件は積極的安楽死です。いわゆる苦痛が非常に強い、もう死ぬに決まっているという場合に、それを早く死なせるというのです。これをイギリスでは初めマーシーキリングと言っておりました。いわゆる慈悲の殺人である。これがまた反対論者のつけ目になっておりますが、その後医学が進歩いたしまして、人工心肺などの人工装置が発達いたしまして、カレン裁判に出たように、また交通傷害などによる植物人間もふえてまいりまして、見込みのない場合にも高度な延命治療が現実に行われているのであります。しかもそれが営利と結びついたところに、われわれは問題を大きく感じておるのであります。  そこで消極的安楽死、もはやだめだという者に治療をしない、不作為の行為、これが大きな問題になってきたのでございます。それで、これについての規定が非常に必要だという意見も強くなっております。現に名古屋高裁の判事であった弁護士の成田薫先生も、あのときは消極的安楽死がそう問題になっていなかったが、今日では消極的安楽死の要件をつくらなければならぬというような御意見でございます。この草案はそれへの一つの試みでございまして、必ずしも回答というわけではないのであります。  しかし、消極的安楽死は日本ではまだ一度も事件になっていないのです。うやむやのうちに済まされているのです。だから、いろいろな人が言うのは、消極的安楽死は現実に医者がやっているではないかという意見もかなりあります。しかし本当の数字は、とても半分に及んでいません、盛んに行われておるのです。われわれが身近に知っておるのでも、がん末期でいよいよだめだ、死んで息を引き取るまで点滴注射と酸素をやられておるのです。そこに問題があると私は思うのです。私じゃなしに、協会としても盛んに研究会や何かやりまして、生命は絶対であるということが本当かどうかという検討に入っておるわけでございます。一般では、医学教育では生命は一日でも長くしなければならぬということをはっきり申されております。それが現在の医学教育の基本になっておりますが、これがどうも危ないというふうに、われわれは結論が出かかっております。  たとえばヒポクラテスは医学の神様のように言われております。そのヒポクラテスのいわゆる誓い、オースというのが、そもそもヒポクラテス自身のものであったかどうかも疑問でありまして、その後相当の人が手を入れていることは間違いございません。その中にも延命の理論は一つも出ておりません。むしろ、ヒポクラテスの全集の中にある「医術について」というところにいきますと、もっと完全に逆の線が出ております。ヒポクラテスは合理的な自然良能法で自然主義でございまして、生も自然であるが、死も自然であるという立場に立っております。したがって、医の及ばないものは治療を頼まれても断るべきだとはっきり書いておるのです。また、医の及ばないことを頼む方も、患者の方も間違いであるとはっきり出ておるのです。  ところが、なぜ日本の医学では生命延長論が第一に掲げられているか。このかぎを探ってみますと、蘭学時代にフーヘランドという有名なドイツの医者、これはオランダを通って入ってきたのですが、これの「医戒」という本がありまして、この中に非常にはっきりと、医者の任務は生命を尊重すると同時に一日でも長引かせなければならないということが出ておるのです。どうしてこういうふうにヒポクラテスが曲解されたか、ひっくり返されたか、この問題を検討しておるのでございますが、どうやらこれは、中世期の医学がキリスト教の影響を強く受け過ぎて、当時自殺を罪だとすると同じような思想が医学の方へ入ってきたのです。自殺の罪のことは五世紀の時代から十一世紀に向かって非常に強くキリスト教の中に出て、これが一般法の中へ入ってきたといういきさつがありますが、中世期は僧院で医術が行われておりました。そしてそれが非常に強く、キリスト教の神は絶対である、その絶対者のつくった人間の生命は絶対であるという絶対論が出てくるのでございます。それまでのはヒポクラテス、前に申しましたように、生命は自然ですよ、だから自然に死ぬものだという考えでありますが、絶対になるわけです。これはキリスト教がローマ帝国の国教に指定されまして、その庇護を受けますと、皇帝の絶対制が神に結びついてまいりまして、それがまた生命に結びついておるというようなことから、蘭学時代のフーヘランドにその影響が出てきます。  もちろん当時ヨーロッパでは、ヒポクラテス派医学というものはちゃんと健在しておったのですが、なぜ蘭学者がそういうものを一方的に入れたかといいますと、やはり新しい技術は出世と金に結びついておるというので、それを吸収するのに急であって、その思想的な矛盾について恐らく感じることができなかったものと私は察しております。そのいわゆる蘭学医学の基本方針が明治に持ち越されまして、今日の医学教育の基礎をなしておると言ってもいいのじゃないかというふうに考えております。今日は医学関係者が少ないようでございますが、これは改めてまた討論したいという考えであります。  そういうわけで、一部にはもちろん、安楽死が法制化されたら医者や看護婦の治療の意欲をそぐおそれがあると言う方もあるようですが、これは熱心の余り過剰意欲になっているのでありまして、皮肉を言いますと、もう少しお医者さんが手を緩めてもらった方が楽じゃないかというふうな考えも出ないではありません。一般に、どうかいたずらに拡張解釈をしたりあるいは誤解をしたりしないで、現実をよく直視していただきまして、今日の医学上の矛盾を御批判いただきまして、誤解なく正しくこの法案を御検討下さるようにお願いする次第でございます。

佐藤文生自由民主党

○佐藤委員長 次に、野間参考人にお願いいたします。

野間宏安楽死法制化を阻止する会世話人・作家

○野間参考人 それでは、十分間ないし十五分という非常に短い時間で十分自分の考えをお述べすることはできませんですが、できるだけ簡単に皆さん方にお聞きいただきたい、このように考えます。  ただいま太田典礼氏から、アメリカの例が非常にふんだんに出されてまいりました。そして私も、アメリカの生物学者のメダワーという方の「ライフサイエンス」という書物の中の安楽死を認めてもいいではないか、そういう意見を読みましたときに非常に愕然といたしました。私は、この方が非常にすぐれた生物学者で、現代生物学の中で非常に際立っている人でありながら、なおかつ、生物学者ですから生命の問題を中心にして理論を立て、考えている方でありながら、なぜこういうところに足をすくわれるのだろうかと非常に疑問に思っておりました。しかしその他の生物学者の考えをいろいろな書物の中で読んでまいりますと、アメリカにおいて、安楽死というものが必ずしもそのように簡単には取り扱われてはいないということ、考えの違いというものが非常に大きな幅であるということを確認いたしました。  現在、生物学はこの三十年来非常に大きな成果を上げまして、これまでの物理学を中心にしました自然科学を根底から覆してきているわけであって、それがために、いろいろな教科書あるいは哲学書というものも大幅に書きかえなければならない。現在の日本の教科書の副読本を見ましても、非常に急遽、動物学、植物学の教科書にしても現代生物学の理論に基づいて大幅に書きかえられてきておるわけです。余りにも急遽書きかえなければならない、そういう状態に来ておりますので、副読本というものは、植物学のものにしろ動物学のものにしろ生物学にしろ、余りにもずさんな参考書になってきております。  私は文学を中心にしてやってきておりますが、文学は人間にかかわる一切のものを取り扱わなければならないという立場にありますもので、いろいろな経済学の問題その他、素人ながら、あるいは政治学というものにも頭を突っ込み、最近は主として現在の自然科学の中軸に育っております生物学の勉強もやってまいりましたが、生命の問題を考える、これはおぼろげながら科学において明らかにされ始めてきており、生命というもののなぞに初めて自然科学がいどむことができ、そして第一の生命の自然科学的法則といいますか、これがおぼろげながら展開されてきまして、さらにもう一つ、一段高い段階で新しい法則が見つかるのではないかという想定がされております。  しかし、これはもうとうてい見つからないのだ、分子生物学あるいは生物物理学あるいは免疫学、そういうものでとうてい見つからないというふうに言われておりましたが、先日、イギリスのネーチャーという雑誌で日本の利根川博士が一段高い段階で生命の法則を解明したという報道が新聞に出ておりました。これは日本人です。アメリカへも留学された方ですが、スイスの研究所で、新しい、一段高いところで生命の理論というものを解明したという報道がされておりまして、私は私の予測が−私は、必ずもう一段高い次元で生命についての理論が見出されるに違いない、そういうふうに推定しておりましたけれども、その推測が決して誤っていなかった、そういうように考えます。  生命について考える、あるいは発見していく、そこに中心を置いてもう一度人類を見直してみよう、見直そうじゃないか、これが今日の一つの非常に重要な新しい世界の進んでいる道であるということ、これは皆さん方もすでに御存じのことと思います。そしてそれは、キリスト教の方にしろあるいは仏教の方にしろ——この新しい生命理論というのは、かなり仏教の理論に通ずるところがあるわけです。ヨーロッパ近代における物理学中心の科学、これから抜け出さなければならない、そういう点で、ヨーロッパの人たちは日本の仏教思想になだれを打つように入ってきておりますけれども、私は、こういうふうにあわてふためいてヨーロッパが仏教に進んでくる、そういうのは少し困る、ヨーロッパはヨーロッパなりで自分の近代合理主義の限界というものをとことんまで突きとめていただきたい、そうして西と東の理論の貫く普遍的なところに立たなければ、ヨーロッパ追随ではだめであり、また東洋追随、そういう形でいろいろな考えが進んでいくのでは、全世界が本当に自分の理論の限界を認め合って、お互いに新しい考えあるいは理論、さらにはその下にある直感といいますか、あるいは非常に多くの人々の中に生きている生命観といいますか、そういう非常に意識の下にまで根を持っている生命観というものを掘り出してくることはできない、こういうふうに考えてきておりまして、そういう中で安楽死法というものが出てきて、それがもっぱらアメリカの一部の学者の理論あるいは州における法制化、そういうものに基づいて出されてきておるということは、今日の世界の思想界あるいは芸術界、文学界あるいは経済界あるいは政治界、そういう中でのすぐれた人たちの意見とは全く反対なところで、これが進められるおそれがある。  たとえば身障者あるいは弱者と言われる人たち、こういう人たちが最近非常にふえてきております。がんの患者もふえてきている。そして病人の数もふえてきておる。これは一方では医学の進歩、展開ということもあるでしょうが、病院には非常にいい病院もありますけれども、現在、病院はほとんど満員の状態でありまして、三時間待って三分の診察。私は、京都の医科大学の学生と話し合いましたら、非常に学生さんたちが嘆いて、私たちはどういうお医者さんになったらいいでしょうか、そういうことを私に問われて、医療制度をどう見るかという問題を討論をしたこともございますけれども、この生命に、死にまさる苦痛を取り除くということを書いてありますけれども、死にまさる苦痛は果たしてあるのでしょうか。死というものは非常にわからないものであり、恐怖に満ちたものでありますけれども、しかし、私たちの日本人の心の底には、この死の恐怖をまともに見詰めて、それと闘い尽くして死の恐怖を克服して、そして死の中に入っていく、ここに本当の生命を全うするという考えが生き残っており、私は、いまもこういう考えをもっと本当の意味で思想的なものに練り上げていくべきであると考えておりますけれども、死にまさる苦痛というもの、これは私は、そういうことはない、もし苦痛というものを言うならば、お医者さん方は、その苦痛を取り除くための最大の努力、最大の医療、これに邁進していただきたい、この研究に取り組んでいただきたい、こういうふうに考えます。  また、医師の方の誤診というもの、私も両のほおがはれてきまして、約三カ月半検査を受けたことがございますが、いっときは、診療所で検査を受けまして、ミクリッツ氏病という病名、これは私が医師から聞いたわけではございません。看護婦さんがうっかりと漏らした。お医者さんと話している間に、看護婦さんがこういう病名を漏らしたのです。そこで私は、自分の家内に、百科事典を引いてミクリッツ氏病の項目を引いて書いてきてくれと頼んだ。そして読んでみますと、両のほおがはれる、それからまた唾液腺がはれる病気であって、とうてい治療は不能である。もう死ぬということなんですね。そして、翌日からレントゲンをかけますと、いよいよ来たかと思いましたが、どうしてもおかしいというので、私は東大の方へ、東大の病院をたまたま友人が世話してくれまして、入りまして、また一カ月半ほど全身を検査していただきました。そして消去法で、結局はミクリッツ氏病ではないのだけれども、やはりそれに近い壊血病の疑いはあるが、疑いは晴れた、しかしなお一年の期間、注意して見なければならない、そういう警告を受けて退院しまして、ようやく一年を過ぎて死から免れた。  そのときに、私が入院した部屋が、ちょうど岸本さんという宗教学者であって、この方はがんと闘いながら、十年間自分の死を自詰めながら、死の恐怖を克服して、そして死なれた、その部屋だということを退院のときに聞かされました。私のような、非常にばかげたようなことをしでかしてきた俗人であり、小説というものは俗人を書き、決して英雄ばかりを書くというものではございませんし、おまえの文章は日本で一番難解だというようなことも言われてきておりますけれども、しかし、死ぬまでに何とかして工夫をして、自分の仕事も完結したい。いつ死ぬかわかりませんが、完結したい。まだ死の恐怖が残っておりますけれども、しかし安楽死というふうな死に方ではなくて、本当の意味の死、それを迎えて、その死の恐怖を克服して安らかに死んでいきたい。人間は、個人個人が死ぬということがなければ、人類というものは成立しない。人間がいつまでも生き残っているようでは、人類というものは成立しないということは、もうすでに皆さんもお考えのことだと思いますが、そういう意味にとっても、この死というものは非常に重要で、死を簡単に取り扱い、法制化するということ、これは人類が成立する、そういう意味においても、人類の生と死というものに非常に反していると私は考えております。  非常に考え不足のところもあると思いますが、どうか御参考にしていただければありがたいと存じます。ありがとうございました。

佐藤文生自由民主党

○佐藤委員長 ありがとうございました。  次に、池田参考人にお願いいたします。

池田節子東海大学附属病院看護部次長

○池田参考人 私は、安楽死とか尊厳死とかというような、死を選ぶ権利の有無というようなものを真っ向から論じるというつもりは全くございません。私は看護婦でございますので、医療の中にありまして、毎日毎日がこの生と死の谷間にうごめいている魂というか心、そういう状態の人たちにかかわり合いを持って仕事をしておりますと、人間にとって生ということ、生きざまというのですか、人間が一生を生き終わる状態というものをいつも見せつけられまして、どうやれば私自身の生の問題、または死の問題を含めて、医療者として、人間にとっての安らかな死というものを全うし終えるものに携わることができるか、それをいつも思っているわけなのですけれども、私どもがどろどろになって仕事をしているその現実と、こういう安楽死というようなものが法制化される、そういう空気というものは全く何かなじまなくて、頭の上のどこかを吹き飛んでいっているような感じがいたしまして、そういうことが本当に目の前に、あんなに生きること死ぬことに苦しんでいる人たちに、安らかな死をもたらすものなのかなということを感じながら、参考人の席のところで伺っておりました。  私は、そういうわけで、人間にとりまして魂が安らかに生を全うして死というものを迎え入れるようなことがあれば本当に平和だな、平安だな、そういうことを願いながら病人を診ております。その中で、二つぐらい、つい最近私が経験しましたことを申し述べまして、それで十分だとは決して思いませんが、そういうことを経験する中で、医療者としての人間的な成長があるんだなということを実感している、それをここで申し述べさせていただきたいと思います。それが私の参考人としての務めかなと思いますので……。  実は、子宮がんの末期の方で、五年以上生存しておられたのですけれども、再発いたしまして亡くなられるという方に出会いました。その方が、末期の状態のときに大変苦しい苦しいとおっしゃいます。その苦痛を軽減するために、麻薬を静脈の中に点滴する。それは、ずっと続けていけば確かに生命を短縮することになるかと思いますが、最大限に配慮された治療として、痛みを軽減するという意味で選ばれた治療でしたけれども、その方が静脈の中に麻薬を打ちながら苦しさを——ある期間眠られるのですね。眠っていらっしゃる、それが苦痛が軽減されているという状態なのですけれども、その方のおそばに行きまして、お注射を要求されるときに、四時間ずつの間隔がないと打てない。確かに、看護婦が呼ばれる、まだ時間が来てない。患者さんの方では、そんな冷たいことを言わないで打ってくださいよ、こう言われる。  そういうやりとりをしておられるそばに私がおりまして、そうねえ、三時間、まだちょっと時間が短いわねえ、何かあと一時間を待つような方法はないかしらねえというふうなことで話をしていますと、その方の痛みというものが、人と話をしている間にふっと軽くなっていくという時間があるのです。特別に私がそこで何かをやるというわけではないし、私に特別な力があるというのではないのですけれども、二人で話をしていますと、それも別に人生論とか宗教観とか、そういうものを話すわけではないのですが、あたりまえの話をしていますと、その四時間日が来るまで待てる。四時間たったから、お注射を打ってしばらく休みますかというふうな状況というものがありまして、その苦しい苦しいとおっしゃっていることが、確かに肉体的な痛みというものもありますけれども、それ以外の意味が含まれているというふうに思えるわけなのです。  ですから、その苦しみというものの中に何が含まれているのだろうな、こう思っておりますと、こわいとおっしゃるのですね。死ぬことがこわい。死の恐怖が私をいま一番苦しめている。自分が苦しいと言っていることは、そういうものが大部分含まれている。痛みどめというか、そういうものを処置されますと自分は眠る。そういう苦痛は考えなくて済む。恐怖感にさらされないで眠っていることができるから、その痛みどめを要求する。肉体の痛みもとまるし、自分のそういう気持ちの安らぎというものが、安らぎというより、むしろ考えなくて済むという状態が来るから、注射を要求しているのだとおっしゃるわけなのです。死の恐怖って一体何なのでしょうねと話をしておりますと、とてつもない、どこかわけのわからないところに自分がすっと追いやられていってしまうような形で、それを見送っているものというのは、しゃれこうべのような顔が浮かんでくるのですよねというふうな話をなさるのです。孤独なんですねと申しますと、それがたまらないのだ、こう言われるわけです。  ですから、その方は、そういうペインクリニックで処方された薬をいただくということは、確かに肉体の痛みというものを軽減すると同町に、自分の死の恐怖をひとときでもいいから忘れられればいいな、そういう思いでやっておられる。私のような者でもそばにいて差し上げますと、薬じゃなくて、死の恐怖感というか孤独感の中でおびえておられるその人の気持ちを紛らすというのでしょうかね、しばらくでもその恐怖から遠のいていることができるということを私は体験いたしました。  そういうかかわり合いの中で、いよいよその人に、医学的なといいましょうか、人間の生命、生命といいましても生物学的な意味での終末、末期の状態がやってくるわけです。それは、血圧が下がるとか、意識がもうろうとなってくるとか、脈圧が少なくなっていくとかいうふうな状況が来るのですけれども、そのときに、何かとてもさびしくてたまらない、自分が死んだらどこへ行くかわからないから、さびしくてしようがないので、何かいい話をしてくださいと言われるのですね。私は、宗教的な意味で深い宗教心というものをまだ持ち得ていないものですから、病人がそういう状況に置かれていてどういうふうに孤独なのかということがわからないのです。言葉としての孤独感は私もわかるつもりですけれども、実感しておられるそのことがわからない。  何かいい話をと言われても、私はできませんでしたけれども、二人で私の知っている範囲の賛美歌を歌ったのです。そうしたら、その方が一緒にハミングしながら、麻薬を静脈に入れながらの状態の肉体の痛みの中でも眠られるのです。小指を握らせてと言って、私の両方の小指を握りながら、その小指を握るということが私にはどういう意味なのかわかりませんけれども、その方と触れ合っている、つながっているという感じがありまして、二人で歌を歌っていますと、すごく気持ちが安らいできて眠れるということで、本当にすやすやとお眠りになるのです。  私はこの事実が何なのかということはわからない。だけれども、現実には、死のうとしている方の心は本当に安らかなんだなという思いがしまして、死んでいこうとしている人がこういう安らかな時間を持てるということは、人間の死というか生の終わりというときに大事な時間なのかなということを実感しながら、その場にいたということがあります。  こういうことを体験しているわけですけれども、その方は確かに、末期になりますと、気管支などにたまるたんを自分で吐き出す力がなくなってくるのですね。下手をしますと、そのたんが気管にたまって窒息死する、死を早める、ほっておきますとそういう状態が来るということで、マウスピースといいまして、くちびるを自分の力でかまないような補助器具を口につけてやりまして、気管の中にチューブをたやすく入れられるようなものが口にはめてありました。それがとれないようにばんそうこうでとめてあるのですけれども、これは確かに自然の状態ではないわけですから、過剰な医療行為、治療行為の中に入ると言われるかもわかりません。  しかし、たんがたまるのを防止するためのそういう措置がしてありまして、それがしてありますと、その方と言葉での交流はできませんが、窒息という不慮の出来事を防止するということで、物が言えない状態だけれども、まあこのくらいのことは仕方のないことなのかなと思いながら見ておりました。その方に、つらいですねえ、苦しいですねえと声をかけますと、意思の表示ができないので、この辺の筋肉を動かされるのですね。それは、見方によっては意味のない偶然なことかもわかりませんけれども、私は一心にその人に、つらいですねえという思いで声をかけているから、それに答えるかのごとくに、それの後にこの辺の筋肉が動きますと、ああ、やっぱり私が言っていることがこの方はわかるんだなと思うわけです。  そのときに、要するに生物学的な状態というのは、お医者さんが末期状態としてチェックなさるその数字的なものとしては、確かにもう末期の死の徴候としてあらわれている。血圧は百をうんと下っている。七十、六十と低い。意識も遠のいたり戻ったりするもうろうという状態。これだったら普通、私も看護学校で基礎医学を習いますが、とても正常な人間の意識は活動していないというふうに見られるような状態かと思われますけれども、意思が疎通するのですね。常時疎通するとは思えませんけれども、ああわかっていらっしゃるなということが、私がそういうふうに思えるような状態で意思の疎通がある。そうしますと、もう治療の効果もない、死を直前にしている人の判断といいますか、それはいまの医学でたくさんの経験例の中から出してきておられることだとは思いますけれども、それで画一的に見ていいものなのかということは、私も直にそういう病人を見ておりますと、それでいいのかな、でも、この方は確かに意識が通じるよというふうなことを思うわけなんです。  いま私どもがこの法案の中に書いてございます「不治且つ末期の状態」ということを判断していくというのは、いままであるような知識、医学の考え方でいいのかなという気があります。もっともっと深めていかなければ、その辺についても一人一人の人間についてはまだまだ十分じゃないなというふうな気がいたします。看護をする身の立場の者にとりましても、できるだけ医学が、知識といいますか、開発された治療というものを、人間にとって幸せにそれを使えるという形で使いながら、命をできるだけ大切に長引かせるというか、人間と意思を疎通させながら濃厚な治療を施していく中に、私どもは、人間にとっての看護者、そういう立場で安らかな死というものを求め続けていくという機会が与えられる。  もしもこれが亡くなられる方の意思として、死ぬ権利というのでしょうか、そういうことで正常な意識の状態のときにそういう文章が書かれていて、いよいよというときに、それを施行する側から一方的に、死ぬ権利ということをこの方は主張しておられるからということで、命がもしも人為的に縮められたら、一体どういうことになるのだろうなというのが大変私はいま不安になっております。  もう一つ、重症の心臓障害の子供。四つに分かれている心臓の部屋がたった一つしかないような状態で先天性の奇形で生まれた子供が、つい最近亡くなったというケースに立ち会いました。  そういう重症な心臓障害の子供が一年十一カ月生きていて、歩き始めたら余病が起こりまして死の転帰をとったということなんですけれども、そういう子供というものは、生かせられるも殺されるも自分の意思では表示ができないわけですね。どんなに濃厚な治療を受けて苦しい思いをしても、子供は自分でそれを拒否することができない。そのときには、医者と家族というもがどういう態度でその子の生命を尊重していくかということが問題になると思うのですけれども、それを私はつぶさに体験いたしました。  子供は純真です。なされるままに清純な気持ちで、ただもう本当に何一つ防備なしに自分の体をさらけ出しているのですね。そのときに治療を与える先生というのは、生命のとうとさというものが満ちあふれて、その治療をしておられる。重傷といいますか、インテンシブ・ケア・ユニットというところにその子は管理されておりましたから、いまの近代医学のあらゆる装置を体につけて、それでその子供は一言も苦痛を述べずに、なされるままに治療を受けておりました。十日間に四回も、こんな小さな体で手術をしていくわけなんです。そういう奇形の子供というのは大変珍しい。私の病院でも初めてのケースですので、先生方がもしかして実験的なということでなさっている、そういうことがあったら困るなということで、家族の方がそれを感じ取っておられて、それを医者に言うことができないでいらっしゃるということがもしあれば、私は、医療の内部の者としてそれを言わなければいけないかなと思って、その家族の方のところに行ったわけなんです。  そしてその方に、これ以上の治療、もう切り刻んでくださいますなというお思いがおありだったらと思ったのですけど、口に出せないで、黙って御両親の話を聞いておりましたら、四度目の手術のときに、それを親としてお受けするということを返事をしたときの状況を私に語ってくださいまして、先生は本当に気魄を持って自分の息子の命のことだけを思ってこの手術をする、もしその手術中に命がなくなるかもわからないけれども、みすみす目の前で見過ごすことはできない、先生の中にはただならぬ御決意がありましたから、一も二もなくお受けしますと言いましたとお父さんがおっしゃるのですね。私は、自分があさはかな知恵で何か準備していたことが言葉が出なくて、ああそうですか、そうだったんですね、先生はそういうお気持ちで四度目の手術ということを御決意なすっていたんですねと申し上げて、それで私は、そういう家族と医師とのつながりというものを目の前に見せつけられたという思いがしました。  後での話ですけれども、その主治医と同時に心臓の専門の先生が手術に立ち会われて、その先生がおっしゃるのに、あの主治医は、あの子供の命のことは人の子の命なんて思っていないよ、わが子以上にあの子のことを思って、本当に身を細めるばかりに夢中になっているなというふうに、看護婦に漏らされているのですね。  それで、私はそのことを聞きまして、ああ本当にむずかしい問題だけれども、いろいろな濃厚な治療と言われるような過剰な医療処置と言いましょうか、延命処置と思われるようなものの中にも、それをやっているその人間、医者を含めて、私ども看護婦も入ると思いますけれども、その人たちが、どのように一つの生命に対する尊厳というような気持ち、とうとさというものを持ってそれに当たっているかということの大事さ、それを家族も一緒に命のとうとさというものを祈り心地で見詰めていっている、こういう人間同士のこととしてみんなが見詰め合う、こういうものはすばらしいなと思いまして、私ども医療者というものが、いまは確かに私も含めて医療の現場というものは、最初に太田先生がおっしゃられましたように本当に荒廃しております。これは私、本当に自分が内部の者としていたくいたく感じていることでございますけれども、それだけに、こういう私ども医療者をはぐくんでもらわせてもらいたいな。それは単に技術とか知識とかというものにとどまらず、そういうものに携わる者の人間性といいますか、人格を一転させるような形での教育、その育成、そういうものにぜひ当たらせてもらいたい。  これが人命尊重というか、人間の生命を尊重するという意味でみんなが考えていることの一つの中に、こういう末期医療の特別措置法というような安楽死を法的にというようなことも出てくるかと思いますけれども、それ以前に、私は、自分が身を置いております医療の場というものの中で、いままだたくさんのことを研究し、人間にとって本当の意味でのためになる、幸せにつながる、命を大事にする意味での医療ということ、医療の場の改善といいますか改め方、それに携わる者の人間的な改造、改善、本当に本質的にひっくり返るような教育の場を与えられてほしい、それが優先するのではなかろうかというふうに思われてなりません。これが私の意見です。

佐藤文生自由民主党

○佐藤委員長 ありがとうございました。     —————————————

佐藤文生自由民主党

○佐藤委員長 これより質疑に入ります。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。青木正久君。

青木正久自由民主党

○青木委員 きょうは、参考人の皆様にはありがとうございます。  安楽死の問題は大変微妙な問題を含んでおりまして、いまお話を伺いましても、早急に結論を出すというわけにはまいらないという感じがするわけでございます。ある分野におきましては、安楽死を論ずることがタブー視されております。しかしながら、ことしになりまして安楽死法制化を阻止する会もできましたし、さらにその以前から太田先生の日本安楽死協会の草案も出ているようなわけでございます。私ども素人といたしまして、医薬が非常に進歩すればするほど、いわゆる死に苦しみが長くなるのじゃないかというような感じもいたしまして、やはりこの問題をとことんまで突き詰めていかなければならない、こう考えているわけでございます。  そこで、まず太田参考人にお伺いいたしますけれども、不作為の安楽死ですね。目の前に死期直前の患者がうめいているとき、だれでも、楽にしてやりたい、こう思うわけでございますけれども、この場合、そういう薬が与えられれば二、三日あるいは四、五日命が長引くというようなときに、実際は不作為で薬を与えない例があるのじゃないか、太田先生もそうさっきおっしゃっておりましたけれども、裁判所では安楽死をいま認めておりませんので、なかなか言いにくいと思いますけれども、実際に不作為の安楽死がどの程度行われているか、お伺いしたいと思います。

太田典礼日本安楽死協会理事長

○太田参考人 いま御質問がございましたが、不作為の行為というのはやらないということなんでございますから、苦痛がある場合にもやらないのかと聞かれますが、この法案では、苦痛軽減はこの中に入っていないのでありまして、苦痛の軽減は医療行為として当然やるべきである。ただ問題は、そのために命が短くなるようなことがあると、これは積極的安楽死の中に入るわけでございます。  不作為の行為というのは、苦痛とかそうでなしに、もう助からないというのに——それも医者がやるのじゃないですよ、家族、本人から、もうこれ以上点滴はやめてくれという要望があった場合にはこれをやらない、こういう意味でございます。

青木正久自由民主党

○青木委員 そういう例はどのくらい行われておりますか。

太田典礼日本安楽死協会理事長

○太田参考人 そういう例はもう余り行われないのですよ、現在は。もういよいよだめだと——私の友達もこの間死にましたが、死んでしまってからでなければ点滴は外さないですよ。だから、幾ら頼んだって医者はやらないのです。ほとんどの病院がやらないのです。これは国立の病院でのできごとでした。  ですから、一般にはやらないですよ。一般に安楽死がやられておるというふうに言われておりますが、それは、苦痛で困る、もう生きる見込みがないのだから早く死なせてくれという場合にあり得るという程度でございまして、不作為の行為については現在の医者は、金はもうかりますよ、一日長引かせたら、だから絶対にやりませんよ、普通は。一部の医者が、実地医家の会とかそういうのが、イギリスのホスピスの例を引きましてこういうような方法でやると、ホスピスの問題、ちょっと横道にそれますけれども、あそこでは点滴も酸素吸入も一切やっておりません。ですから、もう完全に消極的安楽死を実行している病院でございます。退院したいと言ったら退院させますけれどもね。ですから、そういうふうな医療が現に行われておるという事実です。  日本にはないです。苦痛で困るからというのを安楽死させたというような報告が一部に出されおりますけれどもそれは看護婦さんのデータで頼まれたうちの二五%とか一五%やったというのがせいぜいでございまして、大部分は打ち捨てられています。そういう希望を出してもほとんどが、法律がないからといって断られています。実際にはないというふうに考えていいと思います。

青木正久自由民主党

○青木委員 池田参考人にお伺いいたします。  先ほど、四時間ごとに麻薬を静脈に注射する、三時間たって患者がぜひひとつ打ってくれというような極限の状態の場合、池田参考人としては、三時間で麻薬を打てるようにした方が患者のためにいいと思いますか、悪いと思いますか。

池田節子東海大学附属病院看護部次長

○池田参考人 三時間でそれを打ったとしても、致命的ではないと思いますけれども、インターバルを四時間保つというのが、その人にとっての許せる枠だと思いますので、何か別の方法を講じながらでも、やはり四時間は保った方がいいというふうに思います。

青木正久自由民主党

○青木委員 太田参考人にお伺いいたします。  この草案によりますと、これはすべて医者がやることになっておりますけれども、これは当然だと思いますけれども、ただ、先ほどお引きになりました昭和三十七年の名古屋高裁の判決ですね。安楽死は「医師の手によることを本則とし、これにより得ない場合には医師によりえない首肯するに足る特別な事情があること、」こういうことがあるわけでございます。  しかし、大体医師は人の命を救うのが天命でございまして、その医師が自分の行為により他人の命を絶つということに対しては、大変な恐れを持っていると思いまして、それなりにやはり、安楽死をすれば倫理的な責任を負うのじゃないかという考えから、決断がなかなかできないという場合が、もし法案ができ上がりましても、あると思います。一方、安楽死を正当化する理論の一つとしては、やはり人道主義ということが言われるわけでございまして、目の前に本当にのたうち回っている患者を見れば、これは早く楽にしてやるのが側隠の情ではないか、こういうことがあるわけでございます。  そういたしますと、この決断の場合、医師がその決断をするわけでございますけれども、実際に安楽死を行わせるのは、医師の監督のもとに、たとえばその複数の親族ですね、この人にやらせる方法というのは考えられないでしょうか。そうすれば患者の方も、これは親族に薬をもらえたという納得もいくでしょうし、また親族としてもある程度の納得がいくでしょうし、また医師の側としても、これは自分で手を下したのではないという安心感があると思うのですが、この点、いかがでしょう。

太田典礼日本安楽死協会理事長

○太田参考人 名古屋高裁の、医師の手によるべきだというのは、これはもちろん積極的安楽死でございまして、私たちがいまつくりました消極的安楽死は医師の行為を中止するというのでございまして、ちょっとニュアンスが違うのでございます。  その場合に、医師が治療を中止するわけですね。そういうのももちろん責任がかかります。だから、それにはやはり本人の意思に従ってということがあります。本人の意思です。ですから、医者が勝手にやるというものではございませんので、医者は本人の意思に従ってやるということですから、良心的苛責は本当はないわけです。それを、法律がないとなかなか医者はやらないのですね。もうやめてくれと言ってもやめないですよ。  これは余分な話になりますが、現にこの間、最前申しました私の友達が、いよいよ死ぬ間際になって、まだやめてくれぬから、私が見舞いに行きますと、とにかくこれを外せと言うのです。外した上でゆっくり話したいのだと、こう言うのです。ところがそれを外してくれないのですよ。なぜ外してくれないかと言ったら、家族の承認があれば外す、こう医者が言っているのです。家族とは何かということになると、先妻の長男が跡継ぎでございまして、看病しているのは後妻さんなんです。どっちが責任をとるかということになったときに、どちらもすくんでしまって申し入れをしなかったので、私がその人たちと話をして、正当に、医者としてではなしに、姻戚の一人としてそれをまとめて申請するということにしたのでありますが、家族ということになりますと、なかなか、その家族の参考になる程度で、家族に責任を持てといったら、責任持てないのですよ。  そういうこともありますので、一応本人の意思と、それに家族が賛成するという程度ではないかと思います。

青木正久自由民主党

○青木委員 野間参考人にお伺いいたします。  先ほど、安楽死に対するヨーロッパの考えと、それから日本の考えにつきましてお触れになりましたけれども、キリスト教世界では、人の生命というものは神様が与えてくれたのだ、これを奪うのも神様だという思想があるわけでございます。しかし、アジアあるいは日本におきましては、そういう神様が人をつくったという思想はほとんどないと思います。そこで、安楽死を実現するとすれば、むしろヨーロッパよりも日本、アジアにおいての方が認められる可能性が強いというような気がいたすわけでございます。  そこで、これは非常にむずかしい微妙な問題でございますけれども、本当に極限にきた場合、いろいろ制限をつけまして、最小限度の安楽死というものを認めることはできないかどうか。たとえ安楽死に関する法律ができましても、カレン・クイランさんの例を見てもわかりますとおり、なかなか実行する人もいないのじゃないかという気もいたしますけれども、その点ひとつお伺いいたします。

野間宏安楽死法制化を阻止する会世話人・作家

○野間参考人 その点、日本の考えの方が安楽死を認めやすいというふうにお考えのようでございますけれども、それは逆ではないか。もちろんキリスト教は自殺を禁じておりますけれども、アメリカにおいても大統領は大体代々キリスト教信者の中から選ばれておるわけで、日本においてこそ逆に安楽死に対する反対が起こってくる。  たとえば親鸞の考えています自然法爾という考えがございますが、これは自然の法のままにというふうに解釈されていまして、人間が死に直面しますときに——人間の命というものは自然によって生まれてくる。もちろん父親と母親から生まれてくるわけですけれども、その父親と母親も、またその前の父親と母親もずっと続いておりますけれども、しかし、その命は草の根とか微生物とか空気とか、そういう環境一切につながっており、命そのものも自然であって、死に直面したときに、できるならば皆が大自然そのものに直面して、大自然の働きそのものを受け取って、そして死の恐怖を克服して自然の法のままに帰っていく、そういう自然観というものが日本で最もすぐれて成立するのではないか。  そういうふうに脅えておりましたところ、さっきも申し上げましたように、利根川博士が新しい生命理論を分子生物学を免疫学を統一することによって解明された。アメリカ留学を通過しておりますけれども、もちろんこれは非常にすぐれた理論であって、ノーベル賞は必ずしもすぐれているとは言えませんけれども、ノーベル賞に値するものであると学者の人たちは評価しておりまして、もはや現代生物学は発展しないというふうに言っていました、そういうのを日本の学者が展開したということも、やはり日本の自然科学といいますか、そこに根差しているのではないか、これは私の推測にすぎませんが、そのように考えます。  決して日本が安楽死をヨーロッパよりも認めるということはないと考えます。この問題は本当に何十回、何百回と論じ尽くさなければとうてい——日本人全体あるいは世界全体で、もう一度論じ返したい問題だと思います。

青木正久自由民主党

○青木委員 最後に、草案についてひとつ太田参考人にお伺いします。  この十五歳の点、これは私ども、どうもいかにも低過ぎるという感じがするわけでございますけれども、どういう根拠から十五歳に決定されたわけでございますか。

太田典礼日本安楽死協会理事長

○太田参考人 民法の遺産相続人は十五歳の規定がございますので、法律的には十五歳も認められるというふうに解釈いたしまして、一応そこに線を引いたのでございますが、最前申しましたように、それでは無理だという意見もありますので、これは必ずしもこだわってはおりません。

青木正久自由民主党

○青木委員 終わります。

佐藤文生自由民主党

○佐藤委員長 鳩山邦夫君。

鳩山邦夫自由民主党

○鳩山委員 池田参考人にお伺いをいたします。  この末期医療の特別措置法案をお読みになっての感想を伺いたいわけでありますが、正常な意思を持っているようなときに文書を作成して署名捺印をする。そしていよいよ病気がひどくなって、さっき参考人がおっしゃったような最終の段階を迎えるわけでございます。そのときの幾つかの会話が、幾ばくかの時間が大変貴重なものであると参考人は先ほどおっしゃいました。  私が恐れるのは、署名をした、あるいは文書を作成した時点では、いよいよのときには過剰な措置をやらぬでくれと言っておいても、実際にそういうような最終段階を迎えたときには、患者さんの気持ちが変わってくるのではないか、そういうおそれを私はこの措置法案に感じるわけでありますが、池田参考人はいかがでございましょうか。

池田節子東海大学附属病院看護部次長

○池田参考人 私も、この法案を読ましていただいたときに、そのことが一番気になりました。死期が迫っている状況というものは、その場に直面しないと、人間の意識といいますか、潜在的にはいろいろあるものが出てこないということがありまして、早々と書いていたことが、直前になったときに自分の気持ちと違うなと思いはしないか、現実にございます。私の友人ですけれども、突然交通事故に遭いまして生き死にの境になったときに、第一番に発声した言葉は酸素、酸素と自分がわめいたということなんです。やはりそのくらいに生きたいという願望が非常に強いというふうに思います。

鳩山邦夫自由民主党

○鳩山委員 最後に一つだけお伺いいたします。  太田参考人にお伺いいたしますが、「「不治且つ末期の状態」とは、合理的な医学上の判断で不治と認められ、」云々と書いてありますね。この「合理的な医学上の判断」というものが可能であるかどうか、私は大変疑問に思っております。何もルールドの水のようなものが実際にあり得るかどうかは、私にはわかりません。あるいはメスを使わないような手術をして本当に成功しているような例が、週刊誌で語られているようにあるかどうかも、私はその真偽のほどはわかりませんけれども、明らかに言えることは、西洋医学に対して東洋医学というものも厳然と存在をしている点でございます。  私もまた、実は東洋医学のお世話になっているわけでありまして、私の知っているある方は、現実に指圧でがんも治しましたし、心臓弁膜症なども簡単に治してしまうのでございます。そういう例は私も目の前で見てまいりました。東洋医学の構成というのは、先生御承知のように、陰陽五行説で成っているわけであって、西洋医学的な概念とは全く違うわけでございます。もちろん東洋医学の先生方もがんという言葉は使われますが、実際には、東洋医学の教科書にはがんという言葉はないわけです。陰陽五行説に基づいて、どこかのバランスが狂っている状態と判断をする。  したがって、何も西洋医学よりも東洋医学の方がまさっているというわけではありませんけれども、いわゆる一般の病院で行われているのは、ほとんど西洋医学でありますから、西洋医学上何か不治と思われるようなものでも、東洋医学的な陰陽五行説に基づいて治療すれば治癒する可能性があるというようなケースもあり得るのではないか。つまり、世の中に存在するありとあらゆる生命を救済する手段、そのすべてをもってしてもどうしようもない状態を不治というならば、実際問題としては、その不治という判断を下すことはできなくなるのではないか、私はそのように思いますが、いかがでございましょうか。

太田典礼日本安楽死協会理事長

○太田参考人 東洋医学がすぐれている点もございますが、西洋医学の方がはるかにすぐれているので、明治から西洋医学に切りかえられたのです。それも、十分に治った例もあるという程度でございますが。西洋医学にいたしましても——科学というものの基礎に立ってわれわれは生活しているのです、電気でも何でも全部が。しかし、これは絶対ではございません。飛行機だって落ちるのです。科学は蓋然性に基づいて成り立っているのでございますから、医学の不治とかそういう判断も蓋然性であって絶対性ではございません。この点を誤解のないようにお願いいたします。

佐藤文生自由民主党

○佐藤委員長 横山利秋君。

横山利秋日本社会党

○横山委員 三人の参考人の皆さん、きょうはどうも御苦労さまでございます。  お話を伺いまして、私どもが、法務委員会として皆さんにおいでを願いました提唱者の一人として、なぜおいでを願ったのか、どういう考えであるかという点をも一言触れて、御意見を伺うことにいたしたいと思います。  毎年毎年、安楽死ではない嘱託殺人が後を絶たないのであります。先般も東京高裁でございましたか、執行猶予の判決をいたしました。私の地元の名古屋でも、親が植物人間の子を殺して執行猶予になりました。この嘱託殺人、仮に法制化をしたら、安楽死と名づけてもいいと思うのでありますが、その事例というものは年々歳々法廷で論争になっている。私どもとしては避けて通れない一つの問題が、常に私どもの目の前にあるわけであります。私どもは学者でもございませんし、評論家でもございませんから、安楽死の一般論よりも、現実起こっております法廷の問題、現実起こっております嘱託殺人の問題について、法務委員としてどう考えたらいいのであろうかというところから問題が発しているわけであります。  それからもう一つは、池田さんがおっしゃいますように、医療の充実、社会保障の充実、確かにこれが大前提であることは言うまでもございませんし、この前提なくして安楽死を立法をする、単独にそれだけで立法をするということは考えられないことだ、私ども、こうも思っております。しかし、政治の世界というものは大変厳しゅうございまして、それがなくても、いま申しましたように、嘱託殺人が毎年あるという現実をどうするかという問題がございます。  それから、太田先生のこの案の中で「自ら決定する権利を有する。」これは宣言的な文章でありますが、それをもってしても、この法案の最後にあります、最後的な判断は医者にゆだねられておる。そこを私は重視をいたしたいと思うのであります。医者の倫理というものはどうなのか、こういうことが時として、時代が移って、時代に伴い、あるいは医学の進歩に伴って、医者の倫理も変わっていくのではないのか、こういうことを私は考えています。  それから、太田先生がおっしゃったように、恐らく同僚諸君は皆そうであろうと思うのでありますが、だからといって、私どもがいま直ちに立法を急ぐ気持ちは毫もありません。明白に申し上げます。避けて通れない問題であるけれども、どこから手を打ち、どういう探求をしていくか、国民の皆さんがどう考えているのだろうか、この問題は単に抽象的な論争にゆだねるばかりではいけないのではないか、国民の中で深くその議論をしていって、情勢が成熟するならば、またその立法の可否を問おう、こういう気持ちが私どもの考えであります。  それから、安楽死一般論では、これはとても本当のものにならないと私どもは考えています。名古屋の高裁の判決でありますように、あるいはまた協会の草案でありますように、安楽死というものは、議論をするならばだれでもそう思うように、きわめて局限された厳重な制限のもとに行われる安楽死、それがいいか悪いかという論争でないと、嘱託殺人を野方図に、教唆殺人を野方図に、あるいは一部の皆さんが御心配になる身体障害者の皆さんの不安、看護婦さんの不安、そういうものを誘発する。したがって、真剣に論争するとするならば、きわめて局限された、厳重な制限下に置かれた安楽死というものが一体妥当かいなか、それでもいいというのか悪いというのか、そういう問題の中で議論をしないと、宙に浮いた議論になってしまう、そういうふうに私は思っています。  これが、私が質問を申し上げます前提としての意見でございます。  さて、太田参考人にお伺いしたいと思うのでありますが、いま私が言及しました一条で、「自ら決定する権利を有する。」これは大宣言だと思うのであります。それであって、なおかつ第六条で、医者が判断しなければだめなんだ、最終権限は医者にゆだねておるというところなんであります。これは、この書き方にずいぶん誤解を生ずる。自分が死にたいと言えば殺してくれるという感覚を一条で与えておる、内容は実は医者の判断が最終判断だということについて、誤解を与えるおそれがあると思いますが、いかがですか。

太田典礼日本安楽死協会理事長

○太田参考人 御質問、ごもっともでございます。しかし、基本的には個人の意思というものに従ってやるのだが、その具体的な判断、不治、末期というものは一体だれがやるかということになると、これは家族が決めることもできません。やはり現在のサイエンスの医学によってこれを決定する以外にないのでございますので、そういう形になっておるのでございますが、これは決して医者の免罪符になるようなつもりでつくっておるのではございません。その点をひとつ、非常に不十分でございますし、矛盾があると思いますけれども、それ以外に決定する能力のある人はないというふうに判断してのことでございます。どうぞあしからず。

横山利秋日本社会党

○横山委員 野間参考人にお伺いいたします。  文学の世界を私から申し上げて大変恐縮でございますが、森鴎外の「高瀬舟」の引用をいたしますと、   「私は弟と二人で暮らしていましたが、弟は身体をこわし、私が働いています。弟はすまない、と剃刀でノドを切り自殺を図ったのです。苦しがっておりましたので剃刀を抜くと傷口が大きくなって弟は死んだのです」   庄兵衛はその様子をまのあたりに見るような気がした。いずれ死ぬ弟である。これが人殺しというものだろうかと思った。 これは、有名な森鴎外先生の「高瀬舟」の文章の引用でございます。  つまり、この安楽死とおぼしき問題は、この弟がのどを切った、痛がっている。それのかみそりを抜いたら傷口が広がった。これは一体安楽死と言えるかどうかはわかりませんが、少なくとも森鴎外は安楽死を象徴したことを書いておる。そして庄兵衛というのはお役人でございますけれども、お役人がその事態を見るような気がした、こう言っております。  現実に判決の状況で申しますと、鹿児島地方裁判所で行われました奥さんを殺したというのは、昭和二十七年に奥さんがリューマチと肺結核。足が痛んだ。決して歩けない状況ではなかったが、ほとんど寝たきりだ。済まない、済まない、死にたいと口癖のように漏らした。いすに乗って首つり自殺を図ったこともあった。それ以来、児玉は足場になるようなものはすべて片づけるようにした。児玉は懸命に尽くした。その献身ぶりに同情する近所の人も少なくなかった。きょうこそ死なせてと美枝さんが真剣に言ったので、睡眠薬を飲ませた。ふとんにあおむけに寝させて、足をそろえて、そして児玉も睡眠薬を口にした。奥さんの首にひもを巻き、力いっぱい絞めた。児玉の自首で警察が調べたところ、美枝さんの遺書が見つかった。病気が苦しい。夫にも苦労をかける。私は夫に死なせてもらう。夫が罪にならないようにして。便せん一枚。書いた時期は事件の一カ月前。検察官の論告、決して安楽死ではない。なぜならば美枝さんの死期が迫っていたわけではない。首を絞めた方法も適当ではない。被告の行為は嘱託殺人である。一年六カ月の求刑。判決は懲役一年、執行猶予二年。裁判官が述べている。「あらゆる事情からみて同情できる。しかし、第三者に相談するなど方法はなかったか」こういうことで判決は結んでいるわけであります。  私ども、この種の嘱託殺人、安楽死に通ずる嘱託殺人の判決記録を取り寄せてみまして、まことに同情に値する。ほとんどが執行猶予でございます。この間の高裁で執行猶予になりましたものもずいぶん評判を呼びましたけれども、あれも子供を殺したら、奥さんが後で自殺をして、子供を殺した夫を許してやってもらいたいという遺書を残した。それも由縁して執行猶予になったのだと思うのであります。  こういうふうに考えてみますと、私どもの周辺に、ある意味では、先生の話と違うけれども、東洋的な親子関係、嘱託殺人というものが随所にあるというふうに思うのでございますが、この裁判官が言っております「あらゆる事情から見て同情できる。しかし、第三者に相談するなど方法はなかったか」ということが一つの示唆を与えておると思いますが、どうお考えでございましょうか。

野間宏安楽死法制化を阻止する会世話人・作家

○野間参考人 まず「高瀬舟」の例でございますが、これは一つの問題提出としての作品であって、森鶴外の実生活においてはこの逆であったわけです。実生活におきましては、この「高瀬舟」執筆の前に、お嬢さんの茉莉さんが発病しました。だから安楽死を企てようとしたのです。ところが、死期切迫の診断であったのですけれども、その病気は誤診でありまして、安楽死をしなくてよかった。、実生活上はこういう逆なものであった。その実生活の逆のものを逆手にとって安楽死の作品を提出した。これが小説の一つの問題提出の仕方であったと思います。そういう点をお考え願いたいと思います。  それからもう一つは、最近非常にたくさん起こってきております親が子供を殺す、逆の子供が父親を殺す、この場合に、いろいろな精神異常というものがあったか、なかったかという問題、この問題をもっと究明する必要があるのではないだろうか。いっときの発作と言ってしまいますが、そういうことではなくて、日々にそういう治療ですね、子供がお酒飲みで借財を重ねる、そういう場合にそれを弁償しなければならない、そういうのが積み重なってきて、どうしようもないという、そういう状態に追い込められたときに、それを相談して解決する相談所というものがあるかないかという問題があると思います。あるいはまた、そういうアルコール中毒といいますか、アルコール中毒患者を収容しまして、それを医療でもって徹底的に治していく、そういう病院があるかどうか、そういうことも現在必要なのではないか。  それからまた、最近の十三、四歳から十六、七歳にかけての少年の死の問題については、日本政府もようやく特別委員会をつくって対策を立てておりますけれども、生きるという問題、生きるというのは何なのか、あるいは死ぬとは何なのかという、この問題をもっと徹底的に、つまり成人式に——成人式というものかありまして、これが各市町村でお祝いされており、私も招かれて行きましたけれども、非常に着飾って華やかな式でありますけれども、それよりももっと前に、人間が生きるとは何なのか、死ぬとは何なのかというふうな、成人式の場合は選挙権を得るという、そういう非常に重要な問題が生じていますがゆえに、それはなされたと思いますけれども、それより前に青少年に、生きるとは何なのか、死ぬとは何なのか、あるいは人を殺すとは何なのか、あるいは虫を殺すとは何なのか、植物を殺すとは何なのか、微生物を殺すとは何なのか、そのあたりまで、最近は微生物が死滅していくがゆえに非常に環境汚染というものが生まれてきているという、そういう問題も同時にございますが、いまはそういうことを問題にされていませんので省きますけれども、そういう生きることの重要さ、これをもっと取り上げていただきたい。  私の理想としますのは、各病院に内科も外科も精神神経科というものを同時に置きまして、外科手術を受けた人も精神的高揚を図る、生命の高揚を図る、内科の方も精神的にそういう高揚を図って、それによって生命を回復していくということが同時に行われる、そういう病院が欲しい、そういうふうに考えております。

横山利秋日本社会党

○横山委員 私の質問が少し舌足らずであったかもしれませんが、参考人が御引用なさいましたいわゆる尊属殺、子供が親を殺す、その場合は安楽死の問題とはちょっと次元が違いまして、ここでは時間がございませんけれども、乱暴しているから、アルコール中毒だから、子供が親を殺す、親が子を殺すという場合は本日の話題の外にあるわけでございまして、安楽死の問題は、きわめて限定された、名古屋高裁あるいは協会から出ております、死にまさる苦しみ、本人の意思、医者の診断等々を兼ね備えた条件下においてどうかということなんであります。それから、いま私も、そういう病人を大病院が総合的に、集中的に何とかしてやれないものかという点について全く同感でございますが、ところが世の中というのはなかなか思うようにならないものでございまして、ここに池田さんも出席しておみえになります「「死ぬ権利」を論ずる前に——いわゆる植物状態患者の医療はいかにあるべきか」という座談会がございます。  そこで注目をいたしますのは、稲本先生、京都大学名誉教授、麻酔学の先生ですが、こういうことをおっしゃっておられる。   最近ICU、集中治療というものが大きな病  院にだんだんできてきまして、重症患者に対す  るケアを集中的に行うようになりました。それ  は心臓だとか脳外科もICUがしっかりしてい  るからこそ、手術の成績がどんどん進んできて  います。これには優秀な看護婦さん、それから  医師も優秀な人がそこには集まってきまして、  看護婦さんなんかも意欲のある人が必ずそこに  集まってきます。ところがそのICUで、もし  もそこの死亡率が五〇%をこえると、意欲がだ  んだん落ちていくのです。それからそこへ入れ  るのは急性に動く患者だけであって、悪性腫瘍  の患者などは、これは医の倫理からいえばそれ  ももちろん入れてやらなければいかぬのでしょ  うけれども、これを入れるということになりま  すと、このICUが崩壊する危険があるので  す。先ほど申しましたように、一〇%になった  らどうなるかということを、アメリカでもちょ  っと言っています。アメリカも、ICUのベッ  ドがそれで占められてしまうとどうにもならな  くなるというのです。これは看護婦さんなんか  も本当にチームワークで動いていますから、そ  こで一瞬の治療が間に合わなかったら危いのだ  というようなことでもってしょっちゅう監視し  てやっているのです。幾らそれだけやったとこ  ろでホープレスの患者ばかりが入ってくるとい  うことになると、やはり医療としてはなかなか  意欲を出すことがむずかしいのです。だからそ  ういうふうなところがいま非常に問題になって  きつつあるのではないでしょうか。そういうこ  とだからこそ尊厳死というようなことも何かを  やらなければならぬ必要性というものが出てき  たのではないか、経済的な面はもちろんのこと  ですが、そういうふうに思うのです。と、体験者が言っておみえになる。つまり、われわれが先生のおっしゃるように常識的にそういうことをやったら、今度はそこからまた尊厳死という問題が逆に出てくるということが指摘をされておるわけであります。  そこで、今度は池田さんにお伺いしますが、同じくここの座談会で、東北大学教授、脳神経外科学の鈴木二郎先生が言っていらっしゃいます。   要するに人間の生命というものはもう非常に  貴重なもの、何よりも貴重なものです。ですか  ら、そこに幾ら金をかけたって私はいいと思う  のです。どんな治療をしたって、その人の生命  が長引いて、意識が出るような治療であれば、  幾ら金をかけてもいいと思うのです。ただ、そ  の金を患者や家族が負担できない。そこで先生  がおっしゃるようにそれを安楽死とかという問  題でやろうという意見も出るのです。しかしい  ま安楽死というものは世界のどこでも認められ  てはいないのです。これは七七年の座談会でございますから。  それを認めてない今の社会ではやはりその生命維持に対して援助してやらなければならない。弱者が生存するというのが文明の根本的なものですから、やはりそういうような立場で根本的にやらなければならないわけです。しかし、その意識のない患者さんのまわりには家族とか近親者がいるわけです。どんなにその時代の最高の治療をしても意識が回復しないということがわかっていて、それでも家族がその生命を長引かせたいということであれば、社会はそれに対してある程度の金を出してやるべきだと思うのです。それから家族がもうお医者さんの言うことを聞いて、患者さんはかわいそうだけれども医学の力ではもうどうにもならないのだということがわかって、先生何とかしてやれないかというような状態になれば、今度はそれに対して安楽死という問題が出てくると思うのです。安楽死といっても、もちろん消極的なものです。たとえば感染が起こっても感染に対する治療はやらないとかです。しかし生きているのですから栄養はやらなければならない。 これは池田さんもそばでお聞きになっていらっしゃる、鈴木先生の御意見であります。  つまり、先ほども問題になりましたが、積極的な安楽死ということは、お医者さんはやっていないであろうと思うのですね。しかし、消極的な安楽死ということは、言わず語らずのうちに行われているのではないか。太田先生はそういうことはないとおっしゃいますけれども、私は、お医者様の倫理、近代科学における倫理、総合的な立場から見る医者の決断というものは、長引かせればそれでいいというような判断、倫理というものは過去のものになっているのではなかろうか、医者の判断として言うならば、消極的な安楽死というものは現実にひそかに進行しているのではないか、そう思うのですが、池田さんはどうお考えになりますか。

池田節子東海大学附属病院看護部次長

○池田参考人 積極的な安楽死と消極的な安楽死というものの、そのとり方がよくわからないのですけれども、つまり安楽死ということの意味がよくわからないのですけれども、確かに栄養剤を点滴静注しながら、回復に見込みがある間は強心処置をとっていくということで、その心臓の機能が除々に衰えていってこれ以上薬か——本来薬を用いるのは、その人の生命力に補助する意味で使うわけですので、それ以上使っても無理かなという場合には、その薬が用いられなくなっていくという現実はあると思います。     〔委員長退席、山崎(武)委員長代理着席〕

横山利秋日本社会党

○横山委員 私は、いまの池田さんのお話が現実的な状況ではなかろうかと思う。  池田さんのおっしゃるように、何が積極か何が消極かと言いますと、積極というのは刃物で突き刺したりあるいは毒薬を投入したり、まあそんなことをする人はないのですが、しかしお医者さんが関与しない世界では、現実に首を絞めたりするのがあるのですね。私どもが議論するのは、お医者さんが関与しなければならない場合、自己の意思があっても最終的にはお医者さんが決断をする、お医者さんの決断が、仮に将来立法化するとしても、最大限に尊重されなければならない。  それでは、お医者さんの決断というのは何だろうか、医者の倫理というのは一体何だろうか。それは単に医学だけの判断でお医者さんがやるだろうか。家族の心理、私は家族の経済状態という言葉を使いたくないのですけれども、しかしながらそれも若干の配慮をして、お医者さんが家族の顔も見渡し、本人の苦痛も見渡し、そして総合的に判断する医者の倫理が実際問題としては動いているのではなかろうか。お医者さんはそれは口に出して言わない、看護婦さんも見ても見ない顔をしている、やらなくても知らぬ顔をしている、そういう場合、そういう条件というものが近代社会の中に存在しているのではないか。それにわれわれは目をそらせておる、医者も黙っておる、そしてその条件に当てはまらない人、つまり医者にそういう決断のしていただけない人がいわゆる嘱託殺人、そして法廷で罪を問われておる、そういうような条件下にあるのではないかということを指摘して、私の質問を終わりたいと思います。

山崎武三郎自由民主党

○山崎(武)委員長代理 飯田君。

飯田忠雄公明党・国民会議

○飯田委員 本日の参考人のお方様には大変時間が遅くなりまして申しわけございませんが、五つの点につきましてお尋ねをして、お教えを請いたいと思います。  まず第一は、安楽死というものは一体何であるかという問題につきまして、先ほど太田典礼参考人は、苦しまない死を願うことだ、こういうふうにおっしゃいました。苦しまない死という問題でありますが、これにつきまして野間参考人は、宗教的な問題もお話しになりました。私は、この安楽死の問題は、根本的には死に直面して精神の安定を得ることにあるのではないかとは考えるものですが、結局、死への恐怖からの解放の問題であると考えますが、これにつきまして、宗教的な安楽死と医療技術に関する安楽死と二つあるということは、きょうの参考人のお話からうかがい知ることができるわけでございます。  そこで、宗教的な安楽死の問題について、精神統一と観念の転換という問題がどの程度のものかということについて、恐らく相当の議論があると思います。ここでは詳しいお考えを承ることはできないと思いますが、野間参考人にこの問題をお伺いし、それから医療技術に関する安楽死の問題について、消極的な安楽死を考えておるというお話ですが、結局は苦痛を排除する措置の問題ではないか。そうしますと、むだな医療方法による苦痛排除の問題だというふうに私は受け取りましたが、そうであるかどうかという点。  それから、もし苦痛排除が消極的安楽死の本質であるといたしますと、それは積極的な安楽死への転換も考えられるのではないか。積極的安楽死も苦痛排除でございます。両方とも苦痛排除。問題は程度問題、どのところで、どういう方法で苦痛排除をするかという問題になってくるのですが、その点につきまして、特に消極的安楽死を主張なさいます太田先生にお伺いをいたします。  まず最初に太田先生からお話を承りまして、その次に野間先生のお話を承りたいと思います。

太田典礼日本安楽死協会理事長

○太田参考人 ちょっと質問の要点がはっきりわかりませんでしたが……。

飯田忠雄公明党・国民会議

○飯田委員 それでは簡単に要点を申しますと、まず、安楽死は死に臨んで苦痛を排除する問題ではないか、それが本質ではないか。そこで苦痛排除の問題として、むだな医療方法を排除するというのが消極的安楽死であるというふうに先ほどお伺いをいたしました。  ところが、苦痛排除ということが安楽死の本質であるとすると、結局それは積極的安楽死への発展が考えられるのではないか。つまり、消極的安楽死と積極的安楽死というものは余り境界が明らかでないのではないか、こういうことをお尋ねをいたしたわけです。

太田典礼日本安楽死協会理事長

○太田参考人 積極的安楽死と消極的安楽死と境界はきわめてあいまいでございます。だが、それをある程度まとめて、われわれは法律化しておるのでありまして、苦痛の排除ということは積極的に入りますけれども、末期の場合に、もう助からない者でも苦痛を訴えます。苦痛というのは痛みだけではありません。非常に寝苦しいとかいろいろな問題がございますので、そういう意味では消極的な安楽死でそれを片づけるというふうに——肉体的苦痛の排除につきましては治療行為として十分やっていただく。  問題は、そのために死が早まるかどうかという問題にあるので、積極的安楽死は非常にむずかしい問題になりますので、現在は消極的安楽死が世界的にもこういうふうな形になっておりまして、アメリカの法律も全部消極的安楽死でございます。また、国際会議で決議いたしましたのも、現段階においては消極的安楽死にしぼろうということになっておるのでございます。  私は、消極的安楽死は一般にはやられていないと横山先生にお答えしましたが、一般にはやられていないのでございまして、実際には昔から、もうだめだというときに、カンフル注射はもうやめてくれとうちの人が言いますと、これはやめても何にも差しつかえないというので黙認されてきておるのであります。それは前からございます。しかし、現在のように延命措置が非常に強くなりますと、なかなかやめてもらえないという現実だというふうに御解釈願いたいと思います。

飯田忠雄公明党・国民会議

○飯田委員 次に、野間先生にお伺いいたしますが、安楽死というのは結局は死への恐怖からの解放だ、これは私もそのように感じますが、それを現実に行っていく方法としまして、死に臨んでの精神統一、それから観念の転換、こういうものを民衆に、一般大衆にどういうふうにして推し進めるのかという問題があろうと思います。つまり、安楽死というものを観念論として論ずるのではなしに、現実に安楽死の問題を考えた場合に、それが必要であると思いますが、そういうことは可能であるとお考えでしょうか、いかがでしょう。

野間宏安楽死法制化を阻止する会世話人・作家

○野間参考人 安楽死というものは何であるのかという問題ですね。これを考える前に、先ほどからたびたび出てまいりますけれども、具体的に嘱託殺人とかそういう問題が出てきている、これを認めるか認めないかというふうなところでしぼって、そして安楽死というものはどういうものかというところへ論を進めるのではなくて、いま現在、人間が死ぬとか生きるとかということ、こういう問題が非常に薄れてしまっていまして、自分が生きている、この世界の中で、あるいは地球の上で、あるいは日本で生きているという、そういう意識が非常に薄れている。それをどうして取り返して、本当に生きているというのはどういうことなのかということですね。このことを取り返さなければ、私は、日本は非常に大変なところに落ち込んでいくというふうに考えざるを得ないのです。日本の命運といいますか、これをそんなに楽観できないのです。ただ受験地獄で、そのために青少年がちょっとしたことで母親に反抗して、何とかが買ってもらえなかったからといって自殺するとかという、そういうふうに報道はされておりますけれども、もっと深い問題が日本の底にあるということを申し上げたいのです。  それは何だということを言ってくださいとおっしゃられましても、私は、それを述べるには一時間とか二時間とか、日本論といいますか世界論みたいなものをここで申し上げなければならないのです。非常に大きな問題が私たちの前に差し迫っている。たとえば毎日新聞では、日本のイエバエの七〇%の性染色体のXYがXXになってしまっている、こういう状態が差し迫ってきている、こういう問題をどうして青少年の人たちに知らさないのか、こういう記事が出ていまして、ぼくは皆に読んでほしいと言い回っているのですけれども、問題にされない、私の近辺の人は問題にしてくれておりますけれども。そういう性染色体が日本のイエバエの七〇%、カドミウム汚染とか夢の島のごみ焼却場、これは有機燐から来ているわけですが、それはハエだけじゃなくて、かもあるいは虫にも及んでいないか、これは国立衛生研究所の発表です。それはただ一端にすぎませんけれども、もっと非常に大きな問題が特にこの狭い日本の中に差し迫ってきているのではないか。これは一例にすぎませんが、そういう大きな問題があると思います。

飯田忠雄公明党・国民会議

○飯田委員 死の判定につきましては、医師の判定であるということが一般的に認められると思いますが、安楽死の場合に、選択の前提が医師の判断だということになりますと、医師の能力、医師の倫理観の欠如とかあるいは医師の宗教的精神の欠如、そういったものが根底となりまして、安楽死なのか、そうでなくて殺人なのかという限界が明らかにならないようになるのではないかという心配があります。  こういう問題につきまして、看護部次長をしておいでになる池田先生、いかがお考えでしょうか、お尋ねいたします。安楽死は医者が決めますね。結局、医者がこれはどうするかと決めるのですが、その場合に、それを決めるのは医者の倫理観、医者の宗教観というものが非常に大きな影響をもたらすのではないかと思いますが、そういうことはないでしょうか。

池田節子東海大学附属病院看護部次長

○池田参考人 生かすとか殺すとか、そういう決め方ではございませんけれども、たとえば治療という意味で薬を使っていきますのに、その分量、それからその使い方によっては毒物にでもなるような薬はたくさんありますけれども、そういうものの判断をするときには、おっしゃられますように、人格的というか全人的なものが作用すると思います。

飯田忠雄公明党・国民会議

○飯田委員 次に、安楽死について法案をおつくりになりました太田先生にお尋ねをいたしまするが、あらかじめ本人の意思表示がされることを前提としておられる。それから署名押印のある証人、こういうものの存在を合法化の根拠としておいでになるわけですが、こういう本人の意思表示あるいは証人の存在を安楽死を合法化する根拠にするということは、形式で実体を支配してしまうことになるおそれが多分にあると思います。つまり、刑法上の犯罪を証人とか本人の意思表示によって犯罪でないようにしてしまうおそれが多分にあるのではないか、このように考えられます。いわゆる病人を捨ててしまうという考え方、それを合法化することになりはしないかという心配があるのですが、この点につきましてお伺いをいたします。

太田典礼日本安楽死協会理事長

○太田参考人 大変むずかしい問題でございまして、なかなかうまく答えられないと思いますが、本人の意思表示というのは、署名人も必要だ、いろいろと必要なことは明らかでございます。だから問題は、意思表示をすることはそうむずかしいことではないのです、能力がある場合は。必ずしも署名人が要るというわけではないと私は思いますが、ただ、それが末期になって、いよいよになって意思が変わるじゃないかという意見がございましたが、その場合は、前もって意思表示の撤回の規定をつくっております。  ところが、いよいよ土壇場になりますと、実はぐるっと変わる人があるわけなんです。そういう場合は、われわれはちゃんとした手続をとらない限りは認めてはならないと思います。というのは、末期になるとレプレッションが起こりまして、自分の意思だか何だかわからぬような混乱に陥る場合が少なくないので、それをそのまま認めていきますと非常に混乱するのであります。ですから、いよいよ死ぬ間際になって変わるじゃないか、そうしたら、それに従うかというふうに簡単に撤回させるということも問題だと思うので、あらかじめ撤回の手続をとっていただきたいというふうに考えております。

飯田忠雄公明党・国民会議

○飯田委員 それでは最後に一つお尋ねいたしますが、安楽死が論議されてまいりまする場合に、いつも言われることは、そばで見ておるのに耐えられないほどの苦痛だ、非常に病人が苦しんでおる、こういうことが根底にあるようでございます。  死ぬ本人自身はもうすでに意識を失って、うめき声を上げましても、それは意識のないうめき声である場合もありますし、そうでない場合もありますが、とにかく本人が本当に苦しんでおるかどうかは精神上の問題だと思います。非常に宗教的に訓練された人であるならば、精神の安定によって本人自身は苦しんでいない、にもかかわらず肉体的なうめき声は自然発生的に出てくるものであろうと思います。精神の安定と表面上肉体的に出てくる問題とは必ずしも一致しない。  ということでありますと、これまで安楽死の問題を論じておりますことは、結局、本当に死に瀕しておる本人自身の問題よりも、むしろその周辺におる家族の問題じゃないかと考えられるわけであります。家族の経済的な問題、家族の見るに忍びないという精神的な問題、それから看病疲れという肉体的な問題、こういうような問題が集ってまいりまして、そして死に瀕してもうどうしても助からぬのだから、安楽に殺してやったらいいのではないかという、その隠れみのに隠れるのではないかというふうに私どもには考えられるわけでありまするが、もしそうであるとするならば、これは病人の治療誠意の問題であり、病人の家族救済の問題、また宗教、文化、教養政策の問題、そういうところに本質があるのではないか、こう考えるのでありまするが、これにつきまして野間先生、太田先生、池田先生、簡単にひとつお教えを願います。

太田典礼日本安楽死協会理事長

○太田参考人 意思の決定は前もって精神の健全なときに書いておくということを規定しております。ですから、ぼやけてしまってから変更されては困るという意味でございます。  さらにもう一つ、何でしたか……(飯田委員「結構です」と呼ぶ)

野間宏安楽死法制化を阻止する会世話人・作家

○野間参考人 家族の経済的問題とか家族の心労、これは非常に大きいと思うのですね。現在の医療制度で、私も病院に入っていたこともございますが、その当時から比べて、完全看護と言いながら重病の方は夜は付添婦の方を頼む、一日一万円を超える代金、これが一カ月あるいは三カ月続きますと非常に高額な医療費になってまいります。  そういう点から言っても、家族に対する負担が申しわけないという考え、そういうことが生じてきますと、何らかの形で早く死の方へ近づきたいという、そういうふうな意識の変化が生まれてきて、本当に生き切る、病院に入って治療を受けるということは、病気を治して再び生きて世の中へ、まあ病院も世の中でしょうけれども、自分の働き場所へ戻って生き切る、それが目標だろうと思うのですが、そういうふうにはなり切れない、そういう医療制度。そういう医療制度が非常に不備なんですね。  健康保険の問題にしても、健康保険が非常に赤字であるということでありますけれども、しかし、ヨーロッパの例とかアメリカの例とか、いろいろ出されますけれども、そういうところでは、軽い病気、かぜとかそういうものについては自己負担が非常に大きいのですが、重病になりますと確実に国が保障する。重病になればなるほど、全治療代を保障しているわけですね。そうしますと、そういうふうな親族に遠慮をするという形は出てまいりません。そういう点が非常に大きいと考えます。

太田典礼日本安楽死協会理事長

○太田参考人 ちょっと私、いま申し落としました。  もう一つ、末期において精神的安定が必要だということをおっしゃいました。われわれは医師としても、単に注射をするだけではなしに、精神的な慰安が必要だということは百も承知しております。ただ宗教的な問題が出てきますので、これはイギリスのホスピスがカトリックを中心としたモデルのようになっておりますが、法律に宗教的な問題を盛ることは無理ではないかと考えております。

池田節子東海大学附属病院看護部次長

○池田参考人 確かに家族の心労とか経済的な負担というのは本当に重荷だろうと思います。そのためには、やはり殺してほしいというふうなことになるのでしょうけれども、そうしますと、今回出されておりますように、本人の意思で死ぬ権利ということがどだい違ってくるのじゃないかというふうに私には思われます。

飯田忠雄公明党・国民会議

○飯田委員 どうもありがとうございました。終わります。

山崎武三郎自由民主党

○山崎(武)委員長代理 正森君。

正森成二日本共産党・革新共同

○正森委員 私は、まず最初に池田参考人に伺いたいと思います。  ただいまの参考人の御発言を伺っていて、医療従事者として医療に非常に熱意を持たれて、しかも患者の立場に立って、きめ細かく看護しておられる様子がよくわかりまして、まず最初に、敬意を表明さしていただきたいと思います。私は、参考人が御出席になりました「ジュリスト」の六百三十号というのを読ましていただきました。先ほどお述べになりました子宮がんの女性の患者の例は、ここに出ている例をさらに詳しくおっしゃったものだと思いますが、お礼を申し上げさしていただきたいと思います。  そこで、池田さんに伺いたいと思うのですが、ここで京都大学の名誉教授で麻酔学の稲本先生がおっしゃっておられますが、この座談会が行われますきっかけになりましたのは、アメリカのカレン事件というのに基づくものだと思うのです。その中で稲本先生は、実はカレン事件というのはむしろ睡眠薬中毒が一番考えられるのじゃないか、ですから、本来人工レスピレーターというのをそんなに長くかけない方がいいようなケースだったのじゃないかという問題提起をしておられるのですね。  それからまた、この内容を見ますと、判決がレスピレーターを外してよろしいという決定が出て、両親も頼むものですから外したら、その後、かえって呼吸がよみがえって、症状がある意味ではよくなったと思われる、そこから、いよいよ脳死じゃなしに中毒による麻痺だったのじゃないかという見解を述べておられるのです。  そうしますと、私は、いよいよ安楽死というようなものは慎重にやらなければならないということの例証でもあると思うのですが、いかがお考えになりますか。

池田節子東海大学附属病院看護部次長

○池田参考人 睡眠剤の中毒でそういう状態になったときに、レスピレーターをつけるということが妥当なのかどうかということは、私にはわかりませんけれども、その座談会のときに、そばについておりました看護婦、カレンさんのそういう状況のときに出たり入ったりしている看護婦たちが見かけたことは、レスピレーターが自然に外れているという時期というか、そういう偶発的な状況があった、それでもカレンさんは自力で呼吸をしているということを看護婦たちは見ていたということだそうです。ですから私は、そういう意味では、レスピレーターである時期呼吸を補助してつくって、それを除去するときの貴重な判断といいましょうか、それはお医者さんにとって非常に重要な行為だろうというふうに思います。

正森成二日本共産党・革新共同

○正森委員 次に、太田参考人に伺いたいと思いますが、あなたのきょう委員会に提出されました法案の案ですね、それの第一条を見ますと、「全ての人は自己の生命を維持するための措置を受容するか否かにつき自ら決定する権利を有する。」という非常に大きな大前提が述べられているわけですね。  そうしますと、たとえばいま腎臓の機能が働かなくなった人は、透析をすることによって非常に生き長らえているわけですね。この透析というのは、この定義によりますと、明らかに「自己の生命を維持するための措置」ですね。しかし、それがいまや医療では当然だれでもできるし、しかも、これは保険等で社会的費用によってできるということになっているわけです。しかし、これが数十年前で、もしこれが保険ではできない、一部のお金持ちだけしかできない、費用が莫大にかかるということになれば、いまは透析によって元気に働いている人まで、安楽死の対象になりかねないという大前提になっていくと思うのです。ですから、あなたのこの第一条のこういう大前提は、前提としては非常に飛躍があり過ぎるのじゃないかと思いますが、いかがですか。

太田典礼日本安楽死協会理事長

○太田参考人 大前提というのは飛躍があるように解釈される危険は十分あるということは承知いたしております。  しかし、人工透析を受けるか受けないかということは、本人の意思がまず優先しなければならぬのでございまして、それがいま人工透析が必要であるかないかという医者の判断がずいぶんあいまいになってきた。必要でないものをやるから、途中で変になって、やらなくてもいいものにまでも適用するような危険がいま出てきているわけです。だから、人工透析の問題は、費用もたくさんかかりますけれども、別個の問題として討議しなければならぬというふうに考えております。だから、基本的な権利として人工透析を受けられる、金がかかるかなということは、野間先生が言われたように、社会保障でやってもらってもいいことだし、基本姿勢としては、これは一応正しいと私は考えております。

正森成二日本共産党・革新共同

○正森委員 私がいま問題を提起しましたのは、私の体験にも基づいているのですよ。  太田典礼さんが「自然死法要綱案」というのを「時の法令」の五十三年六月十三日号で出されました。それを見ますと、一九〇三年、ニューヨーク州の一千名を超す医師によって安楽死を認める要求が出されて、州医学会が次のような通告をした、こういうのが載っているのです。それを見ますと、「末期のガン患者や臨終に近い結核病者に対して、安らかな死によって生命を短縮することは許される。」、こういうのが一九〇三年、いまから七十年前の状況ですね。  そうしますと、私は大学在学中に結核が再発しまして、右の肺に空洞があり、左肺はほとんど全部やられて、その上に腸結核になって、医者の方は御存じだと思いますが、鶏鳴下痢というのが始まるのですね。朝にもう下痢が始まる。これは明治時代の感覚から言えば末期症状であります。それがたまたま戦後でございましたから、パスだとかチビオンだとかヒドラジドだとか、そういうのを飲むことによって治すことができるということで、六年間闘病生活をして治すことができたのです。そのときに医師は、ここで成形手術をすれば右の肺の結核は治るかもしれないが、あなたはもう社会活動ができなくなる、なぜなら左肺はもう余り機能していないのだからということで、幸いそういう薬ができたから、苦しいだろうけれども、時間がかかっても薬と安静療法で治しましょうということで、幸い六年たったら治って、いま現在は衆議院議員であります。この私も一九〇三年には安楽死の対象になっておったのかということになるわけで、やはり医学の進歩によって変わってくるのだ、また社会的な保険があるかないかによっても変わってくるのだということを私は感じざるを得ない。これはもう返事は結構です。私の意見として申し上げます。  そこで、そういう前提に立って太田さんにもう一遍、一点伺いたいと思うのです。  私は何も、きょうお出しになりました法案の要綱の是非について論議をするつもりはございません。しかし、第四条の「意思の撤回」のところを見ますと、「前条第一項の場合において、本人がその意思を撤回するには、本人がその文書を破棄するか又はその文書にこれを撤回する旨及び日付、氏名を自書しなければならない。」こうなっております。ところが「過剰な延命措置を拒否する意思の表示」のところでは、本人に意識があるときには本人がやるけれども、本人が自書署名をなし得ない場合には、それが本人の意思だということを医者が二名立ち会って署名捺印すれば、それでいいとなっているのですね。  そうすると、延命措置を拒否するときには、そういう至れり尽くせりの措置があるのに、四条の撤回する方は、病状がさらに進んでいると思われるのに、本人がそれを破るか、あるいはその文書に自分で撤回する旨を日付と氏名とともに自書しなければならないということになりますと、この法案自体に撤回を容易には認めないという意思が働いていると思うのですね。  私はそう思っておりましたら、先ほど同僚委員の質問の中で、太田さんは簡単に撤回を認めてはいかぬという非常に大胆なことをおっしゃったと思うのですけれども、そうなりますと、これは単に安楽死法じゃなしに、もっと突き進んで患者の生命の持続を許さないという社会的な意思であるというようなことになってしまって、重大問題を引き起こすと思うのですが、いかがですか。

太田典礼日本安楽死協会理事長

○太田参考人 意思の撤回を安易にしてはいけないという考えはあります。しかし、そこで規定していますのは、意識がない人のことを言っているのではないのです。意思のない人の代行を言っているのではないのです。自書する能力がない場合の署名をだれかに頼む、意思ははっきりしているという場合ですから、それは誤解のないようにお願いいたします。決して矛盾はしていないと私は思うのです。

正森成二日本共産党・革新共同

○正森委員 私の質問に直接お答えになっていないですね。  第四条は、明らかに意思があることを前提にして、撤回するときは文書を自分で破るか、あるいは撤回する旨並びに日付と氏名を自書しなければならない、ここで切れているのですよ。ところが、生命の過剰な延命措置を拒否する場合には、これは自分が自書署名し得ない場合は、そういう意思を表示したこと及び医師が立ち会ったということで二名署名捺印したらよろしい。こちらは至れり尽くせりなんです。撤回する方は、それよりさらに進んでいると思われるのに、自分で破るかあるいは自分で書かなければいかぬ。これは明らかに撤回をやりにくくするということで、少なくとも同じような体制をとらなければ立法論としてもおかしいと思われるのですね。そうじゃないですか。  しかし、そう思っておりましたら、あなたが撤回は容易には認めてはいけないんだということを先ほどおっしゃったから、ははあなるほど、撤回させないで、なるべく死にやすくするんだなというように思ったのですが、そういう理解でよろしいか。

太田典礼日本安楽死協会理事長

○太田参考人 容易にしてはいけないというのは、意思がぼやけてしまっているときに、もうそれを簡単に認めるというような規定では、非常に危険があるという意味でございます。  それから、過剰な治療の場合にも、意思ははっきりしているけれども署名する能力のない場合の代行、代書ですね。ですから、意思の代行とは違いますので、決してそれとは矛盾していないというふうに思います。

正森成二日本共産党・革新共同

○正森委員 よく御説明がわかりませんが、それじゃ、簡単にイエスかノーかで答えてください。  第四条には、第三条に定めておるような、医師の立ち会いで本人が意思表示をすれば、本人が署名できないという場合でも認められるのですか、認められないのですか。

太田典礼日本安楽死協会理事長

○太田参考人 本人が署名しなければ認めないというのは事実です。

正森成二日本共産党・革新共同

○正森委員 いまの御答弁で、撤回の場合の方が非常に困難であるというようにこの法案がつくられているということが、非常に明らかになったと思うのですね。  次に、伺いたいと思いますが、これはあなたのこの「自然死法要綱案」だけでなしに、そのほかにも、たとえば安楽死法制化について反対される立場の方も触れておられるわけですが、これは野間先生に伺いたいと思います。  ドイツでは、アメリカ、イギリスと違って、安楽死法案については非常に慎重だったのです。ところが、それが一九三三年に一変いたしました。それはなぜかというと、「ナチスは」「一九三三年のドイツ刑法覚書と三四年の刑法で、安楽死を認めると共に、更に勇み足の一歩をふみ出して、「価値なき生命の抹殺」項をもうけて、血の純潔を守るためとして、ユダヤ人の大量虐殺へ狂奔したのである。」これは太田先生の著書の中に書かれているのですね。  もちろん野間先生は御存じだと思いますが、われわれはこの法案についていま早急に意見を申し上げようとは思いませんけれども、野間先生のお立場からして、こういう法案が軽々にできた場合に、先ほどもおっしゃいました、家族の経済負担があれだから自分が延命装置除去の方に署名するとか、そういうようなことになる。あるいはそれがひいては家族の中で、うちの年寄りはなぜ延命装置なんか要らないというのにあらかじめ署名してくれないのだろうかというふうに言って、そういう視線を身に感じるというようなことが、野間先生は五人の発起人のお一人だと思いますが、他の、たしか松田道雄先生とか武谷先生のお書きになったものに出ていると思うのですが、こういう問題についてどうお考えになりますか。簡単で結構です。

野間宏安楽死法制化を阻止する会世話人・作家

○野間参考人 いまおっしゃられた御心配ですね、当然起こってきますことで、つまり、直接に申し上げるのは悪いように思いますが、この安楽死法案の試案の中には、ナチス的考えがかなりにじみ出ていると申し上げるほかないのです。

正森成二日本共産党・革新共同

○正森委員 それじゃ時間がございませんので、最後に池田参考人に伺いたいと思います。  この同じ「ジュリスト」に載っている座談会の中で、稲本先生が次のようにおっしゃっておられます。私はこの言葉に非常に打たれるところがあったのです。そこを読みますので、御感想を承りたいと思います。「われわれ古い世代の者は患者の生命に関することは本当に最後の一瞬までベストを尽くして、ほとんど患者とともに倒れるぐらいの意気込みで治療をするというふうなのが普通でありましたけれども、このごろは技術的に進歩したかわりにそういうふうな精神的な方面は幾分昔のヒポクラテス時代からの教えと少し離れてきているんじゃないかというふうな感じがしないこともありません。」こう書いておられます。これについての感想を承って、私の質問を終わります。

池田節子東海大学附属病院看護部次長

○池田参考人 私もそのように思います。と申しますのは、医療機械が大変発達いたしまして、お医者さんが手を下すというよりも、機械の管理下に病人が置かれているということがございまして、これは先生に限らず看護婦の場合もそうですけれども、自分の手を使って患者を診るということよりも、ともすると機械をチェックして回っているというような現実に直面しまして、大変恐ろしいことだと私自身も思っております。

正森成二日本共産党・革新共同

○正森委員 終わります。

鳩山邦夫自由民主党

○鳩山委員 委員長、ちょっと関連質問一つだけよろしいでしょうか。

山崎武三郎自由民主党

○山崎(武)委員長代理 だれに対してですか。

鳩山邦夫自由民主党

○鳩山委員 太田参考人に対してです。

山崎武三郎自由民主党

○山崎(武)委員長代理 どうぞ。

鳩山邦夫自由民主党

○鳩山委員 太田参考人に一つだけお伺いをしたいのでありますが、先ほどの正森代議士の質問に答える際、参考人は、もうろうとした意識の中で容易に撤回を認めることは危険であるという表現を使われたわけであります。そのような簡単な意思の撤回を認めると、自分たちが考えている法案の意味が薄れるとか、そういう表現であれば別でありますが、もうろうとした意識の中で容易に撤回を認めると、これは危険であるという、一体何が危険なのか。そのことによって人が死ぬのじゃない、こういうケースには安楽死させてくださいと言った、その方が意識がもうろうとなって多少生命が長引くだけ、それが出てくる結果であって、私は何が危険であるかわからないのですが、その辺を御説明いただきたいと思います。

太田典礼日本安楽死協会理事長

○太田参考人 危険であるというのは、本人の意思表示があいまいにされる危険がある、そういう意味でございます。健全なる精神のあるときに意思表示をせいということが危険にさらされる危険だ、そういう意味でございます。

鳩山邦夫自由民主党

○鳩山委員 なるほど、それを危険と表現なさったわけですね。

太田典礼日本安楽死協会理事長

○太田参考人 そうです。

鳩山邦夫自由民主党

○鳩山委員 わかりました。これは主観的な問題でありますから……。終わります。

山崎武三郎自由民主党

○山崎(武)委員長代理 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。  参考人各位には、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。厚く御礼申し上げます。(拍手)  次回は、明後十六日金曜日午前十時理事会、午前十時十分委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。     午後零時四十二分散会

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