文教委員会 第12号
- 発言数
- 101 件
- 登壇者
- 14 名
- 会派数
- 5
- 開催日
- 1978/04/07
会議録
○菅波委員長 これより会議を開きます。 国立学校設置法及び国立養護教諭養成所設置法の一部を改正する法律案を議題といたします。 本日は、本案審査のため、参考人として都留文科大学学長大田堯君、神戸大学学長須田勇君、東京大学教養学部教授西義之君、千代田区立富士見小学校校長藤本一郎君、東京学芸大学教育学部教授山口康助君、和歌山大学教育学部教授山田昇君の六名の方々に御出席を願っております。 参考人各位には、御多用中のところ本委員会に御出席いただきまして、まことにありがとうございました。 本日は、本案のうち、特に教員大学及び教員大学院の問題につきまして、参考人各位のそれぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、審査の参考にいたしたいと存じます。 これより参考人各位から御意見を承りたいと存じますが、議事の順序といたしましては、初めに参考人各位から御意見をそれぞれ十五分程度お述べいただきまして、午後、委員の質疑に対しお答えをいただきたいと存じます。 それでは、まず大田参考人にお願いいたします。
○大田参考人 昭和四十五年から五十二年、昨年の十一月まで七年間にわたって、国大協の教員養成特別委員会の仕事を東京大学選出の委員としてしてまいりまして、三つの報告書を出しました。その三つの報告書の観点なども踏まえながら、主として今回のこの新構想と言われる二つの教員大学の問題について、私の見解を述べさせていただきたいと思うわけでございます。 国大協は、一九七四年、つまり昭和四十九年の十一月に「教育系大学・学部における大学院の問題」と題する報告書の中で、これは三つの報告書の中の二番目でございますが、その中で、今回予想されております新構想大学院、教員大学に関連をいたしまして三つの点を問題にいたしております。その第一は、教員人事行政の手段と化して、大学が大学としての本来の性格を失って一種の教員研修所になるのではないかという心配でございます。第二番目には、既設教育系大学学部との関係というものが不明確であるという疑義。第三に、大学運営上の観点から見ても、その配慮の中に特別の措置があり、それが問題を持っているのではないかという疑義。そういう主なる疑義を提起しておるわけでございます。 私が昨年十一月に委員を辞任いたしました以後におきまして、最近、国大協がその疑義を取り下げたという意味の報道が行われておるわけでございますけれども、私の理解する限りでは、国大協の基本的見解は変わらないと思うのでございます。なぜならば、そもそも、国大協の教員養成特別委員会としての見解というものは、私の在任中に関する限りは、委員会の合意に基づいた意見書を全国の大学にアンケートとして出し、それを受けとめて修正したものを総会で報告し、そして了承を得て発表したというのが私がこれから述べる三つの報告書の基本でございます。そういう丁寧な手続というものが、今回の国大協の疑義取り下げという新しい報道にもかかわらず、行われたという事実を私は存じませんので、国大協としてのこの問題に対する基本見解というものは、この三つの報告書を中心に依然として変わらないものであると私は信じているのでございます。そういう見解から意見を述べさせていただくわけでございます。 国大協がこの七年間、私の在任中に検討いたしました点は、戦後の教育刷新委員会以来の戦後教育の理念というものに立ちまして、その基本精神は、教員養成は大学において行う、こういう基本精神でございます。教育養成は大学で行うというのは、ただその教員養成が大学と名のつく施設で行われればそれでよいという意味ではとうていございません。教員養成は大学で行うという思想は、最初のわれわれの国大協の調査報告書にもありますように、戦後教育改革の原点の一つでもあると言われているほどでございまして、戦前戦中の教員養成というものが原則的に国家の要請にほとんど一方的に従属をしまして、閉鎖的な、教員のみを養成する特別の機関において集中的に行われだ、それらを通じて、国民教育の全体というものが国の支配にゆだねられてしまったという、非常に厳しい歴史的な反省に基づいているということが言えるのであります。このような閉鎖的で従属的な教員養成のあり方を克服いたしまして、研究と教育の自由が確保されている大学一般において、まず第一に自由な学問研究者としての資質を備え、自由な真理探求者としての資格を備えるということ、第二に一定の教員としての専門性を修得していくということ、このことを終えた者に対して広く教員たるの資格を期待するという、そういう精神であります。この意味における教員養成を大学で行うとか、あるいは教員養成における開放制を支持するという考え方は、われわれが行いました一九七二年の報告書で全国にアンケートをとりました場合にも、この基本的態度というものはほとんどすべての大学が支持したのでございます。意見の分裂はこの点についてほとんどなかったということが、委員長の責任で、後書きで八十七ページのところにそのことは明記されておるのでございます。 ところが、今回のいわゆる新構想による教員大学というのは、その発想そのものが、右の国大協の支持する教育理念というものとは歴史的な文脈においてまず異なっているというふうに認識されるのであります。詳細は後に御質問にでも答えて申し上げることといたしますけれども、昭和三十三年以後における教員の政府主導による計画養成、こういうものに対しましては、一貫して三つの報告書は違和感を持って、その本来の主張である、教員は大学において育てるという精神で答え続けているというふうに考えても間違いがないと私は思うのでございます。 昭和三十三年以後の行政のもとでの教員養成がどのように行われたかのるるたることはここでは繰り返しませんけれども、その実際に行われた方向に対しましてこの三つの報告書がどのように認識しているかと申しますと、端的に短く一つだけ申し上げますと、ごく最近の「大学における教員養成」という、昨年十一月総会において承認された報告書の結語の中、一番最後の中に、教員養成への取り組み方に見られる「その欠陥の根本は、中央的規制の強化に傾斜して、現実に教員養成の歴史を担い、その現場であるところの、既設の教育系大学・学部の整備、その学問的強化をややもすれば軽視し、これを低水準のまま固定して来たことである。」と述べておりまして、大学側の至らざるところを反省しながらも、その根本的な欠陥を以上のように述べているということは注目すべきことでございます。 このような精神に立ちまして、今回のこの二つの教員大学の問題について、引き続いて問題別に多少私の見解を述べさせていただきますと、教員養成には、計画的に養成した方がよろしいという考え方、それから一般大学の中で学問的知見を十分に身につける中からさらに教師の資格をプラスしていく、そういう考え方というふうに大きく分かれていると思うのであります。この二つの見解というものについて歴史的に見ますならば、前者は古く、まだ公教育が幼いときにそのような専門的計画養成をいたしました。後者、つまり最近になるにつれまして、世界の傾向は、広く一般大学において育てると同時に、高度の専門性を与えていくという方向に向かっているということが事実でございます。この二つの精神は、そのように、ある点で歴史的に、何といいますか、進展が見られるものでございますけれども、確かに実験に値しますから、これを実験するということに私はやぶさかではないのであります。戦後、そういう実験を既存の大学内においていろいろ行っていくということはむしろ必要であると私は思うのであります。 しかしながら、国がイニシアチブをとってそれをやるというのは私は問題があると思うのです。仮に大学の方が怠けておりまして、国が率先して一つの企画をやらざるを得ないというような局面にあるといたしましても、仮に承認するといたしましても、計画というものを国民の前にガラス張りで提起する。国大協であるとかその他の公・私立大学の団体であるとか、あるいは教師そのものの状況にある、内容を知っている教師団体、それら関係学会、そういうものにあくまでその内容をガラス張りにして考えていくということをやるべきであろうと思うのです。国大協との間に協議が数回行われたということでございますけれども、私の知る限りは、昭和五十一年五月、昭和五十一年十一月、そして、聞くところによると五十三年一月十八日、その間にもう一回ぐらいあったような記憶があるのでございます。しかしながら、この協議というのは決してネゴシエーションという意味の協議ではございませんで、まあ声をかけるという、きわめて特殊、日本的な話し合いであったというふうに言ってもよく、そこで問題が煮詰められたなどという協議形態をとったという記憶は私にはございません。最後のものについては私は存じないのでございます。 次に、大学院における計画養成という問題について、私は若干の疑義を持っておるわけであります。学部を充実して、その基礎の上に大学院をつくるというのが文部省の従来の見解であったと思うのであります。そのために、大学の学部には予算をつけても大学院の方には予算をつけないのであります。つまり、学部の充実ということを前提にするということがずっと文部省の戦後の姿であった。七〇年代に入って若干その趣旨とそれたような動きが見えるのでありますけれども、概して言えばそういう趣旨であったと思うのです。 ところが、今度の兵庫教員大学は大学院の方が先にできてしまう、五十五年度、学部は五十七年度。上越教員大学の方は五十六年度学部で、大学院は五十八年度ですけれども、それはいわばすぐ引き続いてというような状態であります。なぜこういう、学部の充実を待たずして大学院をつくるのかということ、私のようにいわゆる旧制大学に育った者の大学院観というものが古いのかもしれませんけれども、このように軽率に大学院がつくれるものかということに私は一種の違和感を感ぜざるを得ないのであります。まして、今度の教員大学の構成の仕方は、学部は初等教育教員の養成でしょう。それから上の方は主として教員の研究、研さんの機会を確保することを趣旨とする。つまり、学部と大学院との間に目的のずれがあるという、これはきわめて特殊な大学院であると言うほかはないと思うのであります。このようなきわめて特殊な大学院を政府発想において行うというのであることに、私は非常に大きな疑問を持つわけであります。私は、戦前戦中の反省にかんがみ、政府が発議するときにはきわめて原則的で謙虚でなければならない、そして現場に対して大胆な実験を保障するというふうな姿が、戦後の民主社会における大学教育の育て方であると思うのですが、そのような私の見解とは著しく違っているというふうに判断せざるを得ないのであります。 次に、大学レベルの計画養成、一般大学での教員養成さえも、計画養成という点については大きな学部レベルでもいろいろ問題が世界的にあるのに、大学院で計画的な研修、養成をやるということは、これはひどく異例なことのように私は思うのであります。国大協は第一回の報告におきまして、大学院は「とくに教員の現職教育を主たる目的として構想されるべきではない」ということを、これは第一回の報告の八十ページでございますけれども、述べてきておるのでございます。私は、教職の研究というのは高度になればなるほど専門分化するというふうに考えておるわけでございます。したがって、教職の研究が高度に専門化いたしますと、学校教育の経営や教育指導の一般原則についての深い研究分野というものが大学院で行われるということは、私は決して不賛成ではございません。必要であると思います。しかし同時に、教職の研究が深まるということは、広く、各分化されたそれぞれの教科、そういうものを大学の中で学習していくということにならないと教師の研修にならないのであります。それゆえに、もし大学院レベルでの教師の研修を考えるのならば、単に学校教育のいわば教職教養的な部分でなくて、各教科の勉強を深めるということのために一般大学との関係がどう用意されているのか、その辺のところも今回明らかではないというふうに私は思います。 最後に、既存大学との関係というもの、及び、それとは別に、そういう教員大学を創設するということの意味が依然として不分明であると私は思います。いやしくも新構想ということを考えるためには、学制改革の展望というようなものをはっきり持った新構想というようなものであることが必要であると思うのですが、今度の新しい教員大学の構想を見ておりますと、当面の初等教師の不足を補うとか、研修による教師の、エリートといいますか、教師管理というようなにおいさえもするような、いわば当面の要求が先行していて、将来の国民の教育という、大きな歴史的な展望に立った新構想の上に、新しい大学のあり方というものをまじめに追求しているというふうには考えられないのであります。この点については、私はやや、新構想との関係で考えてほしいということがございますけれども、ここでは述べる時間がございませんので、この程度にしておきたいと思うわけであります。 一方において、教育系大学などを課程−学科目制などという、一般大学よりも一段低いレベルに財政的に位置づけながら、それらに訂正を加えないでなお新構想と称して新しい大学院構想を上げていく根本的な理由というものを、明快に国民の前に明示していただきたいというふうに私は希望いたします。 以上でございます。(拍手)
○菅波委員長 次に、須田参考人にお願いいたします。
○須田参考人 私は教育学の専門ではございませんで、基礎医学、脳の生理学を専攻してきた者でございます。しかし、本日ここで申し上げる私の立場は四つの面がございまして、第一には、国立大学の学長として、大学についての行政上、研究上その他について国民の負託にこたえていくということでございます。第二には、国立大学協会の中に大学の組織制度を検討いたしております第一常置委員会というものがございますが、そこの委員でございまして、ここではここ三年にわたりまして大学院の問題を、修士課程、博士課程を分けずに討議を重ねてきたわけでございます。その大学院の討議を踏まえての教員大学における大学院という見方が一つございます。それから第三には、教員養成制度特別委員会の委員長として、従来のこの委員会の線を踏まえまして、そして現在の状況から判断して、この教員大学——大体私はこの教員大学という名前は大変好まないのでございますが、いまそう言われているようでございますからこの言葉は不本意ながら使いますけれども、この教員大学についてのいろいろな問題の討議、特にその中で大学院の問題について申し述べてまいりたいと思います。第四は、この教員大学が兵庫県の社につくられるということでございますので、私は神戸大学の学長でございますから、同じ県内にもう一つ教員養成の大学ができるというほかに類のない状態でございますので、その立場からこれを考えていく。この四つの点でございます。 いま大田先生も述べられましたように、教員養成がどのような状況で従来行われてきたかということでございますが、私が神戸大学の学長になりまして一番驚いたことの一つがこれでございます。一体、こういう形で教員を養成していっていいのか。戦後三十年近くなろうとしているのに、その間少しもその状態を変えずにこのような状態が続けられているということは、これでいいのかという非常に驚いた問題でございます。大学の間に格差があることは御承知でございます。また、大学の学部、神戸大学は九学部ございますが、その間にそれぞれの学部の格差と申しますか、相違が著明に目立っている点もございます。 そういうものがどこから来ているかと申しますと、結局大学における教学組織に関係がございます。大学における教学組織は、御承知のように、学科・講座制、学科があってそして講座がある、あるいは学科があって学科目がある、それからもう一つは課程があって学科目がある、さらにもう一つ課程なしで学科目だけあるという教養部のようなものもございますけれども、これはすべて教育研究をやってまいりますために必要上分かれてきた区分だと考えられます。それぞれの研究領野における学問上の分類、分化に応じたのが講座制であり、そしてそれを集約したのが学科制でございましょう。それからまた教育のように非常に広い範囲、ありとあらゆる学問分野にわたっておりますので、確かにそこでは一応講座制というようなものをつくるのはかなり無理があるかとも存じます。そして、そういう意味から、あるいは学問分野に対応しないという意味からここでは課程制がとられております。課程制がとられているのが悪いとは私は決して思っておりませんし、国大協の専門の方々もそのように考えておられるようでございます。ただ問題は、そのようにしまして課程制をとり、学科目制をとりましたものが教学システムの一つの区分けという範疇から離れて、これに予算上それから人員配置が固定して決定的にこれを支配してしまった。そしてそれがこの三十年間続いてしまったというところに一番の問題があるように私は思います。 時間が余りありませんので詳しいことはとにかくとして、予算の点から申しますと、教育学部のような学科目制のところの予算の額を一といたしますと、修士課程はその一・二倍、博士課程はその二倍というのが一般的に申せることでございます。 〔委員長退席、唐沢委員長代理着席〕 それから人員配置につきましても、いろいろ細かい違いがございますが、現場の教育という面から申しまして一番大きな問題は、教授に対する助手の配分が非常に偏っているところにあると私は思います。旧制の帝国大学では、教授に対する助手の割合は一・七というようなものでございます。それからまた旧制の医学部を中心といたしましてできました新制の大学では〇・九七という助手の配分でございます。そして医学部を持っていない、わりあい新しい新制の大学、これは大体六つか七つの大学の平均でございますが、そこでの教授対助手の比というものは〇・三六でございます。ところが、教員養成をやっております教育学部になりますとこの比が非常に下がりまして〇・一、すなわち教授十人に助手一人というような割合になっております。このことは、実際に教育研究をやってまいります場合の最も大きな大学現場での問題でございます。 そういうような非常な違いがあって、それが固定化しております。この三十年、これを破ることはほとんど不可能でございます。それが、博士課程であるとか修士課程があるかないかによって決まっているのですが、国立大学におきましては博士課程は、昭和二十八年以来四十九年の大学院の設置基準が変わりますこの二十年間に、医学部関係を除きまして、ほかの学部、ほかの学科についての博士課程は一つも置かれていないのでございます。ですから、初めに十二大学に置かれましたまま、博士課程というものは四十九年までふえていない。そしてまた、この間、ことに自然科学系においては一校も博士課程を持ち得なかったというのが、現在の国立大学の新制学部の置かれている状況でございます。それに対比いたしまして、同じ期間に私立大学では五十二の博士課程が置かれております。こういう差がどこから来るかということは、日本の将来を思い、そしてまた、いまのように博士課程があるかないかですべてのことが大きく変わってくるという制度上の面から考えますと、非常に私は遺憾なことだと思います。 修士課程についても同じようなことが言えまして、修士課程がつき始めましたのは昭和三十八年からでございますが、四十九年までの間に教育について修士課程が置かれましたのは、四十年代に入ってわずか二つでございます。その間、ほかの研究科につきましては三十六置かれております。そして、御承知のように、教員養成の学部というものは全国におよそ四十七くらいあるのでございますが、そういうものはそのままの状態、課程−学科目制のままこの二十年を経過している。ここに教育学部の置かれている問題がございます。 何が一番問題であるかというと、この課程−学科目制というものは初めから研究を前提としていない、教員養成という言葉があらわしておりますように。これは教育学部であるはずでございますが、そこでは研究というものを意図されていないというところに一番の問題がございます。 しかし、四十九年の大学院設置基準の改正によりまして、大学院に関する考え方は従来と全く変わってきたのでございます。このことは非常に特記すべきことであり、また日本の学問のため、大学のために非常によろしいことであったと思いますが、全くその性格を変えたと言ってもよろしいのではないかと思います。従来、御承知のように博士課程というものは業績主義でございます。業績を積んで、それに対して博士の称号を与えるのでございますが、四十九年以降の博士課程につきましては能力主義がとられております。一定の課程を経て、そしてある能力が認められた者には博士を与えるという非常な性格の違いがここにできております。そしてまた、従来、学部を充実してその上に大学院をつくるというやり方一本しかなかったものに対して、学部とは無関係に大学院をつくることができるということを明確に示したのがこの四十九年の改正でございます。いま申しましたように、この二十年、三十年にわたって、ある意味で放置されております新制の大学において、この設置法の改正がありましたために、各大学はそれぞれの工夫をこらして、それぞれ大学院の修士課程あるいは大学院の博士課程を置こうと思っていまいろいろな検討を加えております。これは第一常置委員会の方でつぶさに調べまして、そしてこれを整理して文部省にも申し上げているのでございますが、しかし、何分文部省は大学院問題懇談会というところに諮問をしている最中でございまして、まだこれの答申が出ておりませんので、各大学の要望というものは明確な形ではこたえられていないのでございます。でございますが、とにかくそういうふうに大学院の問題というのはここで性格が変わったと見ることができるわけでございます。 それで、各大学から出ております。十一大学の集計のうち、教育学部はいま申しましたように四十七ぐらいでございましょうけれども、明確な数、私は必ずしも正確ではございません、大体そのぐらいでございますが、そのうちの三十三の教育学部というものは、これは大学院設置に対して積極的に考えているという事実がございます。しかし、その三十三の、大学院を構想しているそれぞれの大学というものの大学院の置き方はいろいろでございます。いわゆる連合大学院というものを考えているところもありますし、総合大学院というものを考えているところもあれば、従来のような積み上げ方式の大学院を考えているところもございます。ですから、ここで御理解いただきたいのは、大学院というものの設置形態はかなりいままでとは変わって置くことができる、こういう事態になったということでございます。 もう時間が余りございませんので詳しいことを申し上げる余裕がございませんが、教員大学の大学院について申し上げてまいります。 これはいままで大田先生も述べられましたように、国大協といたしましては、任命権者の推薦というようなものが前提となっているか、あるいは特別な処遇がこれに加えられるか、あるいはブロック制というようなことによって、あるブロックに上下関係を持つと思われるような、そういう教員養成の大学ができるという、この三点については強く懸念を持っているわけでございます。よく、国大協は、新しい構想の教員養成の大学院、これはいま構想されているものだけという意味ではございませんけれども、それに反対であるということが言われますが、国大協としては、記録を調べました限り、明確に反対は唱えておりません。これは、新構想と言われる大学の説明なり、そのことが関心を呼びましたときの教員養成制度特別委員会におきましても、反対ではない。いいものができるように、そして従来ある各教育学部にいい影響が及ぶように、特別委員会としては当局と協議をしてまいりたいということを前の委員長も申しておられます。そういう姿勢でこれを監視していくというのが私はこの委員会の一つの任務であろうと思います。ただ、ものを、これを甲であるか乙であるかということを争って、そして一方を決めて、できてしまったら後は何も見ないというのでなくて、国大協がとろうとしている立場は常に、できたものに対しても批判を加え、これのレベルを上げていこうということが任務でございます。 そういう意味から申しまして、国大協は、ただいま申しましたような三つの点が残っているならば、これに対して非常に批判的な態度によってその是正を強く要求するという立場でございます。ただ批判のしっ放しということではなくて、どのようにかしてこれを是正して、いいものをつくり、大学院もただいま申しましたように新しい形のものができる時代になっておりますので、それをつくって、そしてまたこれがいい影響を持つように、こういうことを考えているわけでございます。 これはまた後で御質問がありましたときに申し上げますが、ある意味で私はその懸念は晴れたと思っております。これは国大協の全体の会議にかけたものではございませんから、国大協がそのように考えているというのではございません。国大協の教員養成特別委員会の委員長として私がそう考えているということでございますから、その点、どうぞ誤解のないようにお願いいたしたいと思います。 そしてまた、この新しい大学というものは、その構想を聞いてみまして、私はこれは現職教育の大学院だとは見ておりません。現職教育の大学院というような、何か研修的な大学院がつくられていくという、もしそういうようなことがあれば、これは大変古い形の大学院で、大いに批判しなければならないと思いますが、従来、全く教育学部出身者あるいは教員に閉ざされておりました教育学あるいはその実践に関する探求をやる場がここに設定されるもの、そのような理解でこの新しくできる大学院を私はとらえております。そしてまたそうでなければならないと思います。いまさら新しいものをつくるのでございますから、これは従来のいきさつがどうであれ、国民の一人一人が最後までこの大学ができ上がるのを監視しながら、そういうものに育て上げることが一番大切であり、国立大学協会としてもそのような姿勢は決して間違っているものではない、私はこのように思っております。 兵庫県にできることにつきましては、もう時間がございませんので、申し上げるのはまた何かの機会にさしていただきます。 それから一言最後につけ加えさしていただきますが、新聞などで問題になっております入学手続上の問題でございますが、これについての見解を一言だけ申し上げたいと思います。 この入学についていろいろな御見解があるように私は伺っておりますが、これはいろいろ御議論をしていただいて、ただいま申しましたように人事管理などの面につながっていかないようにすることは当然でございますが、入学の手続と申しますものは、従来の修士課程、博士課程においても現職者に対する手続がございます。それが「入学者選抜実施要項」、これは昭和四十六年に大きな改正がございましたが、その後毎年その年度の実施要項についての指示と申しますか、この言葉は、私、法律用語かどうか知りませんが、通達が、これもいけませんね、こういう言葉を使うといけないかもしれませんが、その要項についての文部省からの通知がございますけれども、そこには入学についての必要な書類のことは書いてないわけでございます。従来ともこれは各大学がやってきたわけでございます。各大学、しかも研究科でございますから各研究科がこれの基準を決めてきている。神戸大学は八つ研究科がございますが、そこでも現職者の入学についてはそれぞれ基準を設けております。そのときには、教員に対してということだけでなく、一般の有職者に対しては所属長の許可あるいは承認あるいは同意を得ればよろしいということになっております。それで所属長というものをどう解釈するかも各国立大学で考えればよろしいことでございますが、参考までに私の大学を申しておきますと、教員については学校長ということでございます。それから技師その他については部課長ということを言っているところもあれば、社長という表現をとっているところもございますが、これらのことは私は最終的には大学で決めるべきことというふうに考えており、いまつくられます大挙院がいままでと違った形の大学院でも、形は違っておりますけれども大学院という機能において違わないならば、入学の手続、入学試験その他についても従来と変わるものではない、私はこのように理解しております。 以上でございます。ありがとうございました。(拍手)
○唐沢委員長代理 ありがとうございました。 次に、西参考人にお願いいたします。
○西参考人 私は教育学を専門としている者でもございませんし、教育行政についても何の知識もない、経験もない者でございます。専攻はドイツ文学でございますので、きょうは参考人としてお呼びいただきましたけれども、世の有識者の一人として呼ばれたのだろうというように自己了解いたします。私は有識者であるかどうか、むしろ無識者ではないかと思っておりますが、ただし、私は全然小・中・高の教育に関係がないというわけではございませんで、実は家内は現在でも小学校に勤務しておりますし、弟も高等学校、家内の姉も小学校、家内の兄は中学校というふうに一家全部教育に関係しておりますので、小学校から大学まで、私も含めまして、一通り、非常に表面的かもしれませんが、事情を承知しているつもりでございます。 ここ数年の教育についての議論は非常に盛んでございまして、余りいい言葉ではございませんが、いわゆる落ちこぼれの問題、学業についていけない子をめぐって議論が交わされております。この問題も一段落した感がございますが、私の調べました限りにおきましては、原因は非常に多岐にわたって複雑をきわめております。ある人たちの言うように、教育課程が非常に過密であるからというような、単純な原因にのみ帰せしめることは必ずしもできないような印象を私は持っております。 〔唐沢委員長代理退席、委員長着席〕 無論、教育課程もむずかし過ぎたということがありましたけれども、これもまた、昨年来の精選の作業によって新しい教育課程に移るはずでございます。 たくさんの原因のうちのもう一つ重要なことで、新聞などでよく問題になりますのは、教員の質の問題ではなかろうかと思います。これも多くの教育関係者の指摘するところだろうと思います。いまや教育課程が新しい段階に入りましたので、いよいよ教える側の資質の向上、これも四、五年前からの懸案であったと思いますが、これがクローズアップされてきたわけですが、これはむしろ遅きに過ぎたのではないかという感じを私は持っております。 戦後、日本の教員養成の問題は大きな転換を遂げまして、師範学校が廃止されました。一般教養を、大学において教養をつけるということが非常に重視されましたし、さっきもお話がありましたような免許の開放制というようなことも、大いに戦後の教育に寄与したところがあったと思います。たとえば師範学校が改組されて学芸大学になった場合でございますけれども、これも一般教養科目が非常に充実されておりますし、それと同時に、二年生の終わりごろからピアノの実修だとか、習字、図工、体育、これは教育としての体育ですが、こういう科目が入ってきますし、三年生、四年生でも、教育心理学、また各科にわたって理論的な問題のほかに、いかに教えるかという実技についても教えられますし、三年生の九月ごろから十月にかけて付属小・中学校で実習がございますし、四年生になりますとさらに三週間の実習があります。中学校の先生になるにはさらに二週間出かけるというようなこともありますし、養護学校へも二週間の実習があるはずであります。したがいまして、形式的に見ますと、学芸大学は教員養成に関してはかつての師範学校の欠点とみなされていたものを克服しまして、新しい時代に即応した教員養成に実績を上げているということは言えるだろうと思います。 しかし、御承知のごとく、戦後、先生になるには学芸大学が唯一の道ではなくなりました。一般の大学、短期大学でも所定の単位を修得して所定の実習を済ませますと教員になることができます。非常に悪い言葉で言えば、単位というのは別に優でなくても、ひどい場合には就職の滑りどめとして教員の免許を取っておこうなんというような不届きな場合も実はあるわけでございます。短期大学卒業の学生が先生として質が悪いときめつけるわけでは全然ございませんけれども、一番肝心と私が思います実習、教師に一番大切な実習という点におきまして、たとえば学芸大学は付属小学校・中学校を持っておりますが、一般の大学、短期大学はきわめてまれでございます。もっぱら協力校という形で実習の希望者を受け入れていますが、実際これが果たして機能しているかということになりますと、これは新聞などでもしばしば報ぜられておりますように、余り大きな実績を上げていないかに聞いております。一般の小・中学校では、協力校と申しましても、自分たちの授業の真っ最中にどやどや実習生が来まして、その中には滑りどめ式のやじ馬もいたりしまして、授業を乱されたくないという気持ちが大いにあるに違いありません。私の知っております東京学芸大学の場合では、ここには山口先生もいらっしゃいますが、一クラスに五人か七人の実習生を付属小・中学校で受け入れているそうですか、協力校では一クラスへの配属がもっと多くなる。十人以上。ただ見学しているだけというような実習で、しかも、大体コネを頼って自分の出身校に行って何となく見せてもらってそれで実習が終わり、そして実習の単位をもらうというような現状をしばしば耳にするわけであります。 短大、大学院を含めて、昭和四十八年の統計では、卒業生は四十三万七千人おりますが、そのうち教員免許状を取った者は延べ二十万人ということであります。実際に就職したのはどのくらいかといいますと、三万三千というような事実があります。つまり、運転免許証並みに免許状が、ひどい言葉で言えば乱発されているということも、先生の実力に対する何か疑いのようなものを助長している感じがいたします。きのうも朝日新聞を見ていましたら、すみっこの方に広告がございまして、こうございました。「塾ブームの中で、小学校教員免許は意外なところで見直され、その現実的な有用性のために、免許取得に励む人たちが、とみにふえています。小学校2級免許は、認定試験で取得することができ、又、大卒や短大卒の方々には試験科目の免除などもあって、さらに有利になります。本協会の教職講座は、」云々というような宣伝文句が出ておりましたけれども、先生になるというチャンスが開放的になって非常に広がったということは一つのメリットかもしれませんが、その裏目も出てきているのじゃないかと思います。 その裏目の第一は、安易な単位取得で一応の資格が得られるということであります。やはり、先生になるということには目的意識が必要であろうと思います。もちろん短大でも優秀な学生さんがいることは否定いたしませんが、私が甲南女子大学の学長さんの鰺坂先生にお聞きした限りにおきましては、関西では短大卒業の先生が二五%から三〇%になっているというようなことを言っておられました。もちろん私は短大出の先生方がだめだと言っているわけではございませんが、いずれにいたしましても短大二年で二級の免許状を取る。それから一方学芸大学その他では四年で一級の免許状を取る。ざらにそれにプラス実習の弱みというものが非常に大きな影響を与えているのではないかと思います。 たとえば、私の知っているケースを御紹介いたしますと、ある県の国立大学の教育学部へ入ることができない、そういう力のない子が都会に出まして短大へ入る。そして教員免許状を取る。そしてまた、政治家の方がいらっしゃるかどうかは知りませんが、有力者のコネでまたもとの自分の郷里へ帰って先生になるという方々もあるようであります。これは、小学校ではとにかく全科目担任でございますので、短大である専門の単位を取りましても数学の場合に非常に弱いなんということは起こるケースがあるし、そのことを私はしばしば自分の身近な者から聞いております。 そうすれば、学芸大学をもっと予算をつぎ込んで拡張をし、ここに大いに先生の養成を委託すればいいではないかというふうな意見もあるかと思います。私は、学芸大学の実情をいろいろな若い人たち、卒業者からしか聞いていないので、批評はできませんが、学芸大学はそれはそれなりにりっぱな業績を上げておると思いますけれども、これは数人の学芸大学卒業者、昨年就職した連中でございますが、ここに参考人として呼ばれるということを聞きましたのでちょっと聞いてみましたところが、ぜいたくは言わないけれどももっと実地に役立つ教育技術を教えてもらいたかった、余りにも概論風のものが多かったというのが全部の私の聞いた限りの返事でありました。こういう意見は私の大学でもいつも聞きますので、大学というのは、そんなにすぐに世の中に出て役に立つことを教えるところではないのだ、実地というものは実地でのみずからの経験で学んでいくものだというふうに言っておいたわけでありますけれども、四年学び、かつ実習もかなりやったという学芸大学出身者にしてやはりこの嘆きかあるということは重大なことだろうと思います。と申しますのは、日本では、大学を出ますと力があろうがなかろうがたちまち一クラスを持たされ、いわば一国一城のあるじとしてクラスを教えていかねばなりません。きょううまくいかなくてもそのうち経験を積めばうまくなるさというわけにはいきません。もうその日その日が勝負でございます。 それで、この実地研修ということですが、さっきから実地研修が非常に軽視されている感じを私は受けたのです。私の誤解かもしれませんが、理論とともにこの実地研修が、戦後開放的になったがために、あるいはなったそのひずみと申しますか、案外軽視されてきたのではなかろうか。たとえば、私がある本に、小学校の一年生の先生で黒板の字がしっかり書けないではないか、初等学年、一学年の先生が黒板に字を書く場合に、子供の書くスピードと同じように先生も書くべきではないかということを書きましたら、古い先生方からひどく感心されまして、いや、そういうことは昔はきっちり教えられたのだけれども、このごろはそういうことも教えられないというようなことを言われました。もちろん、この感心された先生方というのは悪名高き師範学校の古い先生方でございますけれども、このごろは子供と同じスピードで黒板に字を書くというような基礎訓練がない。あるいは黒板の前をうろうろするなとか、そういう非常に厳しい日常のマナーが身についていないで非常に苦労をするということがここにあらわれているのではないかと思います。 それで、教員養成大学というのが、私はまだその概念をはっきりつかんでおりませんが、もしそういう意味で、そういう実地というものと理論というものをもっと密接に結びつけていくということにおいて新しい視野を開いてくれるならば、私は大いに歓迎すべきことだろうと思います。 それから、特に私か望みたいのは、昔と違いましてこのごろは、障害児教育だとかいうような特殊教育の問題だとか、それから中学校におきましてよくあります非行の問題、あるいは、これは極端な例かもしれませんが、殺人の問題ということで、生徒指導というような問題が、前のいわゆる旧型のあれよりも非常に重要視されてきている。いわゆるカウンセリング的な訓練であります。こういうものは、単に児童心理学というような学問の単位を取っただけという先生では間に合わなくなってきているのではなかろうか。教員養成大学が、これは既成の大学も一つの役割りを果たしていると思いますが、また新しい構想で現代の新しい事情に適応できるようなものを仕込んでいくということは非常に重要なのではなかろうか。それで、これは既成の大学に求めることが不可能かといいますと、これは私にもわかりませんが、私、自分の体験で申しますと、既成の大学でやろうというのはなかなかむずかしい。特に東京大学みたいな古いところではなかなかむずかしい。それじゃ新しい大学をつくるといって、解体して筑波などに持っていくと天下の大騒動になります。ですから、新しい大学は新しい大学としてつくればいい。そして既成の大学と競争的共存し、互いに刺激を与え合えば、もし新しい大学が実地に流れ過ぎて研修大学のようになればまた批判も起こるであろうし、現在の既成の大学に欠けているものをまた新しい大学は補うこともできて、互いに刺激を与え得るのではなかろうかというように私は考えます。 とにかくこのごろは進歩が早い時代でございまして、あるアメリカの学者の計算によりますと、柳沢吉保時代の知識を約一〇〇としますと現在は一六〇〇ぐらいの指数になるんだそうでございます。きのうの知識がきょうはもう古いというようなことさえもちろん起こります。もちろん、教育の根本は何も新しい知識を追っかけるということにはないわけでございますけれども、しかし、私はときどき、知識の耐用年数というようなことを考えます。これは私、大学におきましても感じます。日々勉強をしなくてはならないというふうな印象をいつも持ちます。これは私のような文学なんという古いところをやっております者でも、その教え方、特に語学などの教え方というのはもう日進月歩と言ってもいいくらいでございまして、私なんかの大学は、ただ向こうがわかればいいというふうにいままでは教えておりましたけれども、このごろは、なぜ英語をやるんですかとか、なぜドイツ語をやるんですかなどと言い出す学生も現に出てきております。私の答案の下の方に「ぼくはやりましたけれども、なぜやっているのかわかりません」などというような落書きがあることがあります。なぜ、どうして、というようなことも、大学の先生などはいままで軽視しておりましたけれども、私たちは改めて取り組んでいる。何か自嘲的に、小学校の先生の授業を参観した方がいいんじゃないかなあというような冗談さえ出るころであります。そういう意味で、新しい大学が私が期待しているような大学になるかどうかは今後の問題でありますけれども、そういう大学であってほしいというふうに思うわけであります。 それから最後に、時間がなくなりましたので一つ。 私は新聞ぐらいでしかこの事情を知らないのですが、入学資格の問題でいろいろなことが書かれておりますけれども、これも、私の大学などでもやはり海外留学などということがありまして、一年、二年留守をいたします。その場合、月給はやはり出ます。月給が出る場合には、やはり学長の許可も要るし教授会の許可も要るしというふうに、たとえば二人も三人も一度に志望しますと、海外留学もいいかもしれませんけれども授業は成り立たない、そういう意味で、ある意味での制約も必要であろうと思います。それから、帰ってきてすぐほかの大学へ行ってしまう人もいる、失礼してしまう場合があります。そういう意味で、帰ってきたらもとの学校にやはり義務として何年か勤めるべきで、われわれは大体三年というふうになっていますが、やはりそういうようなことも教師としてのマナーとして、人と人とのつき合いの上の問題と言ってもいいのですが、必要であろうかと思います。 ただ一つ、懸念は、これがいい先生を養成するということでありますが、本当はできない先生を養成してもらいたいわけであります。それをどうするか。いい先生は目立つので、大学院でもどこでも推薦できる。しかし、悪い先生、できない先生を本当は教育してもらいたい。そこをどうするかを考えていただきたいというのが私の結論でございます。(拍手)
○菅波委員長 次に、藤本参考人にお願いいたします。
○藤本参考人 私はいままでの先生方と違いまして、現場を預かる校長でございます。小学校長の立場から、教員大学の問題について私の見解を申し上げてみたいと思います。 結論から先に申し上げますと、私はこの大学の創設には賛成でございます。 その理由につきまして幾つかの観点から申し上げてみたいわけでございますが、ただいままでにもお話が何度となく出ましたように、現在、世論は、教育に対する、特に学校教育に対する批判がきわめて厳しいわけでございます。特に学校教育の刷新充実を求める声が非常に高まっております。これにこたえるように、文部省はさきに学習指導要領を改定をいたしまして告示をしたわけでございますが、学校現場では、五十五年度の新教育課程実施に備えて、現在移行措置期間に入ったわけでございます。私ども全国連合小学校長会といたしましても、学校教育の充実刷新ということを早くから声を大にして要望もいたしますし、もちろん自分たちでこれについての推進を心がけているわけでございます。 これも先ほどお話が出ましたが、教育刷新ということを申しましても、教育課程を改定したからすぐに刷新ができるとか、あるいは施設設備を整備したからこれでもう教育は十分できるんだというものではございません。やはり何といいましても一番大事な問題は、教育を実際に進めている教師の問題であろうと思います。昔から教育は人にありと言われるように、教育課程あるいは教育施設設備等を運用するのはあくまでも教師でございます。そういう意味で、教師には特に専門職としての高度な資質や能力あるいは優秀な教員の養成ということが急務であると考えるわけでございます。 全国連合小学校長会は、昭和五十一年の七月でございますが、小学校教員養成の改善とその方策について種々検討したことがございます。これは小学校教員養成についての改善点につきましていろいろ討論したわけでございますが、その中に「教員養成にかかわる大学教育の教育内容の改善」ということで私どもの要望する幾つかの点があるわけでございます。そのうちの幾つかを申し上げてみますと、一つは、小学校教育課程の性格や内容の理解ということをぜひ十分にしてほしい。この点につきまして幾つか読み上げてまいりますと一「大学における一般教養ならびに専門分野についての研究、履修は、教職者としての水準の維持向上に資するはもとより、将来その分野における指導的役割りを期待する上でも、大きな意味を持つもので、もとより大切である。しかし、大学卒業後、もっぱら小学校教育にたずさわるものとしては、小学校教育課程の全体構造を初めとして、各教科、領域等の目標・内容・方法についての基礎的理解が備わっていることが必要である。また、この教育内容は、教育実習との緊密な関連を持たせて、いっそう実践的に履修できるよう計画されるべきである。」という考えを一つ持っているわけでございます。 また、教育実践そのもの、及び実践の周辺にあって必要とされる実務の教育につきましては、次のような幾つかの項目を挙げてございます。ちょうど十二項目ほどございますが、項目だけ紹介申し上げますと、これにつきましては「教育現場に配置された新卒教員が、その当初から本格的な教育実践に当たり、合わせて校務の一部を分掌しうるよう」にしてほしいということから挙げているわけでございますが、「各教科領域の指導計画と指導方法。各教科領域の目標・内容・方法と評価の方法。的確な児童理解に基づく個人の指導と集団の育成。学年・学校経営への積極的な参加。 児童の心身の健康、安全の管理。学級経営の目標・内容・方法に関する計画の樹立と実践。出席簿・指導要録等の表簿の取り扱い。学級・学校事務。教材・教具・学校施設・設備一般。 地区教育委員会との関連。父母・地域社会と学校との協力。研修・指導・行事関係文書の作成・発送・収受・処理・保管等。」というぐあいに、幾つかの新卒としても必要な点を挙げているわけでございます。以上の項目は、大学を卒業したばかりの新卒の教員に対して求められるものでございまして、教員にはそれだけの専門性が必要であるということの証左になろうかと思います。 しかも、教員はほかの職業と違いまして、教室に入りますと全くほかのものと隔絶されるわけでございます。つまり、先輩のしぶりとかそういうものを見よう見まねで覚えるというようなことや、しばらくの間アシスタントをして後に一本立ちになるというわけにはまいらないわけでございます。しかも、教育を受ける児童の側は、一刻一刻が成長の過程にあって、やり直しはきかないわけでございます。ここに教員という職業の厳しさを感ずるわけでございます。そのようなわけで、教員は、みずからの経験と研修とによって成長していくことが要求されていると言うことができると思います。 そうは言いましても、教員も人間であります。人間としての弱点を持っております。すなわち、常に研究と修養に努めなければならないと義務づけられているにもかかわらず、少しなれてくると惰性で教育をしがちであるということは否めない事実でございます。一方、前に申し上げましたように、教育の充実発展の立場からすれば、教員がその生涯を通じ常に研修を積み重ねて、その専門職としての資質能力を高めていくことがきわめて重要でございます。このような教員の努力を助ける意味でも、現職教員の研修を目的とする新しい構想による大学院を創設し、研修の体制を整備する必要があると考えるものでございます。 特に、新指導要領によりますと学校教育の創意工夫ということがかなり強調されております。これは学校教育を推進していく上にきわめて大切なものであるというように考えるわけでございますが、こういった創意工夫のできる教員を養成していくという意味からも、教育課程の理論とか、実際的な教育指導の方法とか、教科の専門的な事項、あるいは学校経営など、教職に必要な高度の専門的な研修を行わせるということが必要と考えるわけでございます。つまり、大学院における学問的に高い水準の研究と研さんの行われることが望まれるわけでございます。 私は一つの実例を挙げて申し上げてみたいと思いますか、私の学校に東京学芸大学を三年前に卒業した一人の男の教師がおります。けさもその教員と話し合って出てきたわけでございますけれども、彼の言い分を聞いておりますと、教員養成を本当に真剣に考えるならば大学の四年間では不足であるということをはっきり言っております。四年プラス一年ないし二年の実習期間がぜひ必要だ。その後さらにできれば二年程度の研究期間が与えられるならば高度の専門性を身につけた教員が生まれるに違いない。自分の体験から彼はそういうことを述べておるわけでございます。彼は自分の経験から、就職後一年間は、教室でぶつかる現実が大学では学ばなかった問題が多く、本当に苦しんだ。しかも、実習期間には、授業の経験はあっても、教育課程の作成とか学級経営上の諸問題、特別活動などは全く経験することができなかったというようなことも述べております。彼の日常生活を観察しておりますと、ついここ半年ぐらいになってやっと明るい表情が見られるようになったわけでございます。前に申し上げました学級経営あるいは児童理解あるいは児童管理といったことに苦しみなから、活路が見出せないで来たというのが二年半ぐらいの彼の実態かと思います。いまやっと自分なりに納得するようになったと、明るい表情で毎日勤務しているような状態でございます。この男子教員は、私から見ますときわめて優秀な教員でございますが、彼が大学院で専門的な研究を深めたならば、恐らくきわめて専門性の高い優秀な教員となることをいま予想しているわけでございます。 〔委員長退席、唐沢委員長代理着席〕 もう一人、私の学校には昨年採用した女子の新卒の教員がおりますが、時間の関係もございますので、この例は省かせていただきます。 最後に、東京都には、昭和二十二年ごろだったと思いますけれども、そのころから教員研究生という制度が置かれております。当初は東京大学あるいは教育大学、お茶の水大あるいは芸術大学等、方々に聴講生として派遣されておりましたが、現在では都立教育研究所を中心にして一年間の研究を進めているわけでございます。この教員研究生は希望者の中から試験によって選抜されてはおりますが、次の点にいろいろな特色と同時に問題点も持っているわけでございます。一つは、非常に若い優秀な教員の中に希望者が多いということでございます。それから、経験者は、つまり教員研究生に行った経験者はこの制度を非常に推奨しておるわけでございます。また、この経験をした教員は、現場に戻ってリーダーとして活躍している者が非常に多いということでございます。ところが、わずか一年のために、研究が緒についたと思ったらもう戻らざるを得ないというのもこの経験者の声でございます。つまり、期間が短いということが一つの嘆きのもとになっているようでございます。 まだ申し上げたいことがございますが、時間も参ったようでございますので、以上のような理由から私どもは教員大学の創設を要望するわけでございます。 大変失礼いたしました。(拍手)
○唐沢委員長代理 ありがとうございました。 次に、山口参考人にお願いいたします。
○山口参考人 私は歴史学者としまして、教育の方は専門ではございませんでした。戦後、文部省で二十一年間、初等中等教育局の社会科担当の教科調査官といたしまして、社会科、特にその中の歴史教育、神話教育あるいは道徳教育等、指導要領の策定の仕事をさせていただきまして、三年前、昭和五十年の四月に現在の東京学芸大学に移りまして教員養成に携わっておるわけであります。先ほどの大田先生や須田先生のような、大変大きな組織、国大協とかあるいは学長職とか、そういうお立場とは全然違いまして、もっぱら、何とか教員の卵を健全なりっぱなひなにかえしてやろうということで、現場の第一線で毎日仕事をしている者でございます。はからずも、この四月一日付をもちまして東京学芸大学の附属竹早小学校長並びに同幼稚園の主事を仰せつかりまして、きのうは幼稚園の五歳児、それから小学校二年から六年までの子供たちに始業式で話をしてまいりました。教育の第一歩は、とにかく子供たちが自分のことは自分でするというしつけこそ一番大事なんだ、それだけをあいさつに述べてきたわけであります。今回の新しい、新構想の教員大学が二つできます法案御審議中でございまして、私のような者が参考人としてお役に立つかどうかわかりませんが、先ほどのような、現場の第一線で学生と接触し、あるいは教育実習をもっぱら担当しております立場から二、三の意見を述べさせていただきたいと思います。 第一番目に、西先生も先ほど大分お述べくださいましたように、東京学芸大学といいますのは、教員養成大学のいわば一番誇りを持った、戦後の教員養成大学の筆頭にあるつもりで仕事をしております。しかしながら、内部の実情と申しますと、やはり、研究室育ちの教官と、それからいわば現場の実践経験を持ち、あるいは教科教育を担当している教官との間で、教員養成につきましてあるいは教育実習につきまして、はっきり言いますと対立的な意見が分かれております。前者の方は、一般教養、基礎的な学問というものをどんどんやればそれでいいんだという考え方でございますし、後者の方は、もっと教育技術をしっかりと大学学生中に身につけてやらないと現場の教員になった場合に困るのだということで、両極端に分かれているように思います。私の意見としましては、どちらも行き過ぎでありまして、もう少し第三の道を大学人自身も、あるいは文部省も、教員養成ということについてお考えいただきたいというふうに考えるわけでございます。 確かに、戦後のアメリカ教育使節団報告書に示唆され、あるいは学芸大学が発足しましたときの考え方としましては、在来の大学学部は学問の特定領域の専門家、スペシャリストを育成するものであるが、これからの新しい大学は、広い領域にわたる知識と実践的な判断力、実行力を備えた高い教養を持ち、ゼネラリストとしての、一般教養人としての人間育成を教育目標とすると、はっきり戦後うたわれましたように、その路線で進んできているわけであります。しかしながら、すでに三十年、少しもその方向が変わらずに三十年参りましたが、時代の進展の著しい今日、私は、部分修正を当然すべき段階にもう来ていると思います。理想としては一般教養、基礎的な学問というものを与えること、当然でありますが、教育は決して学問だけでできませんで、その学問を基礎としながら、そこに教師たる一人の人間の人格と申しましょうか、人柄というものが加わっていきませんと、つまり、性格的には、単なる科学ではなく、科学を基礎とし、それを超えた芸術的な性質を持ちませんと教育はできないのではないか、こういうふうに思います。 そういう意味で、今日の教員養成あるいはその中の教育実習、いろいろなところにいろいろな問題が転がっておりますが、細かく述べる時間はございませんので先を急ぎますが、戦後の三十年を反省いたしますと、どうしてもこの辺で、スペシャリストであると同時にやはり教養人である、大変むずかしいことでございますが、そういう問題を従来の古い既存の大学の成り行きに任せずに、新構想の上越並びに兵庫県にできます二つの教員大学が新しくできてみること、つくってみること、これが私は真っ先に必要なことだと思います。そしてそれが既存の大学の教員養成に対していい刺激になる。刺激になるということはもう十分期待されることであります。 第二番目に、教育実習の現状でございますが、諸外国と比べましても日本の教育実習期間が著しく短いということが取りざたされております。イギリスの十五週、フランスの十二週、西ドイツの十週、それに対して日本は小学校教員四週、中等教員二週ということでは余りに少ない。ただ、私どもの大学は大変恵まれておりまして六週間。三年次のときに付属学校で教育実習を三週間やり、四年生になりましたときに今度は都内の協力校、一般の公立学校に協力校をお願いしましてそこでまた三週間やりますので、そういう付属校を持たない一般大学ないしは私立大学、短期大学等と比べれば教育実習の制度的な面はきわめて充実している大学でございます。しかし、問題は、ただ期間が長ければいいだけではなくて、藤本先生の先ほどの御意見の中に、いまの若い教師たちに、もっと教育実習か長ければよかったという感想があるとおっしゃいました、そのとおりだと思いますけれども、総合的に言いますと必ずしも長いだけがいいのではなくて、問題は質の問題、何に重点を置いて教育実習を組んでいくのか、カリキュラムとの関係がございますが、そういう問題だと思います。そうしますと、やはりこれも大変抽象的な言葉でございますが、教師になろう、教師というのはいい職業だ、教師に自分の生きがいを感ずるという使命感、そういうものを何らかの形で既存の教員養成制度の中にも持ち込んでいく、あるいは若い情熱を持った学生たちにそういうともしびをともしてやるということが、私は現在のあらゆる問題を解決する糸口であろうと思います。 たとえば、ことしの二月に私は養護学校、幾つかあります。東京都内でも八王子あるいは町田、いろいろございますが、東久留米にあります付属養護学校に四十五人の四年生の学生を連れまして、この学生たちは副免、つまり二級免許状を取るために、中には、別に免許状は要らないけれども児童理解の立場から、養護学校の子供たち、ダウン症とかあるいは自閉症とかあるいは知恵おくれの子とか、そういう子供たちをぜひ自分で二週間でもいいから見てみたいという学生たちを含めまして、四十五人連れまして二週間の教育実習に行きました。私は連絡教官でございますので四回くらいしか学校へ通いませんでしたけれども、そのときの付属養護学校の先生方の迎え入れ方が、大変いまの世の中には珍しいほど、涙の出るほどうれしいことを言ってくださるわけです。うちの学校では、教生、教育実習生が来てくれると大変助かります。少しも迷惑なことはありません、こういうあいさつですから、教生たちも張り切らざるを得ないわけであります。そして実際に短期、わずか二週間でございましたが、終わりました最後の反省会で、四十五人の男女学生たちに一人ずつ、二分間ずつ感想を述べさせましたところが、生まれて初めてこんな充実感を持った、こんなに教育というものは奥深く、またやりがいのある仕事か。何といいましょうか、初めて教生がダウン症やあるいは自閉症の子供と会ったときは、何を語りかけても一言も答えない、終日無口でいる、そういう子供が、最後の二週間日ごろになりますと向こうから声をかけてくれたということに対して、若い学生は大変な感激を覚えているわけであります。 したがいまして、事情が許しますならば、教育の原点とも言うべき特殊児童、あるいは養護学校、五十四年から義務実施されますと全国に置かれますが、そういうところでまず教師になろうとする者の教育実習をやらしてみる。義務化するといいますと、これまた大変制度的には手続がむずかしくなりましょうけれども、ともかくそういう形で、単なる黒板の書き方、指導案の立て方、あるいは発問の仕方というような技術の問題でなくて、もっと人間というもの、人間の根本に触れ、そして自分の眠っておった情熱がかき立てられるような、そういう経験を何らか広くこれからやっていきたいものだ、こういうふうに考えます。 それからもう一つは、結局、そういう単なる教養でもなく単なる技術でもないと言いますと第三の道を選ばざるを得ませんけれども、やはり学生には学問の喜び、学問をする喜びと知的な喜びというものを大学の中で、大学の講義の中でぜひつけてやらなければならない。いまの子供たちは、西先生もおっしゃったように、大分大人になるのがおくれております。大人にならずにおりますので、やはり大学生となったならば、そこに学問することの喜び、知的な喜びというものを大学はつけてやらなくてはいかぬ。これは制度を変えろなんということじゃなくて、現在の制度の中でも大学教官たる一人一人が自覚すればできることであります。そういうふうにしていく必要があります。 〔唐沢委員長代理退席、委員長着席〕 それから三番目に、これは新構想大学の設立に全面賛成すると同時に、関連して一つお考えいただきたいと思いますことは、西先生もちょっとお出しになりました教員免許状の、言葉は悪いのですが、いわゆる乱発状態ということを何とかひとつ政府でお考えいただきたい。数字は先ほどおっしゃいましたので申し上げませんが、運転免許証さえ、さえと言っては語弊がありますが、三年間で書きかえられるわけです。ところが教員免許状だけは、取ってしまいますと、中身がどんなに薄れても、一生、死ぬまでこれはもう免許状として通用している。これは、ほかの世間の職種と比べて大変優遇され過ぎている。やはり三年か五年で免許状を書きかえるぐらいのひとつ考え方を御検討いただきたい、こういうふうに思います。私ども大学教官はちゃんと選考基準の中で、講師から助教授、助教授から教授になるときは全部審査されているわけですから、それでさえなまぬるい大学の状況でございますから、ひとつそういう問題もお考えをいただきたい、こういうふうに思います。 とにかく、教育実習というものの第一線におりまして感じますことは、私は三年次生の社会科、教育概論あるいは各論、あるいは歴史教育、そういうものを担当し、あるいは大学院の院生を担当しておりますけれども、教育実習が行われます三年次の前期と後期のちょうど真ん中、九月ごろの教育実習が行われます前の三年生の一学期前期といいますのは、どんなにこちらが本気で講義をしましてもなかなか反応が鈍いのです。ところが、教育実習を秋にやってまいりますと目の輝きか違ってきます。一つ一つ教官の言うことにうなずく、あるいは疑問を提出する、反発する。大変な反応でありますから、教育実習が教員養成の過程においてきわめて重要な位置を占めていることは疑うことができません。しかしながら、いまの学生の中に、一部でございますが、教育実習に反対する学生あるいは教官がおられます。その理由は、学生によく聞きますと——過去、学内で教育実地研究委員会の委員を二年間やりまして、教育実習生六百名からの教育実習を各学校に派遣してお願いをしまして、その成果を総括する立場におりまして、やってみましてよく聞きますと、東京都内にいろいろ公立学校がございますけれども、やはり職員室の空気を見てきただけに、教員になることに失望を感ずるという学生があります。私はこれは大変貴重だと思います。差しさわりがありますから名前は挙げませんけれども、校長先生は教育委員会やPTAの方ばかりお向きになっておる。先輩教員の中には組合の闘争のことにばかり熱を上げて、教室のことはほったらかしている先生がいる。職員室の中は少しも和合とか融和とかお互いに励まし合うということがなくて、もう本当に荒れほうだい。精神的な仕事をする教育の職員室の場が荒廃している。これなら、自分は希望を持って教員になろうと思ったけれどもやめた。あんなところへ、あんな職場に一生拘束されるのはいやです。こういうことをはっきり言う学生か、数は少ないけれどもございます。 ですから、そういうものを総合いたしますと、どうしてもそれは両方兼ねることがむずかしければ、新しい大学として新構想の大学ではスペシャリストを御養成くださっても結構ですけれども、やはりそれを押し及ぼしていく、全体に押し及ぼしていくようなことを考えてほしい。たとえば戦前の旧師範と比べまして、いまの大学を卒業しました学生たちは、学校に就職しましてもみんな一人前、偉い顔しているものですから先輩も指導しにくい、先輩もまた余り手とり足とり世話をしないという、そういう弊風がございますから、それの制度は少しも変えなくても結構ですから、そういう問題もひとつ内実的に中身の問題として考えていきたい。 最近のニュースによりますと、インターン制度を廃止した後の外科医の知識と技術が大変低下をしたというので、外科学会では認定医、法律的な拘束はないそうでございますが、試験をして認定をして、認定医というタイトルを与えて、広い教養のもとに知識と技術を育てようとする外科医学界の様子を最近NHKのニュースで、四月三日の夜でございましたが、聞きましたが、それも他山の石としてわれわれはぜひ参考にさせていただきたい、このように思います。 大変取りとめもございませんでしたが、後刻御質疑に答えることにしまして、これで私の参考陳述を終わります。(拍手)
○菅波委員長 次に、山田参考人にお願いいたします。
○山田参考人 私は、教員養成の歴史的研究ということに従事しながら、教員養成の学部で、将来教師になることを目指している学生諸君に教育史、教育学の教育をしている立場から、つまり既設の教員養成大学学部の立場から意見を申し上げてみたいと思います。ただし、私もこの教員大学の具体的な検討の過程には全く関与しておりませんので、公表されたごくわずかの一般的な説明資料から判断しているだけでございまして、特に専門的な意見というよりも、きわめて一般的な意見を述べるということにとどまるだろうことを御了解いただきたいと思います。 第一に私が申し上げたいことは、その教員大学についての検討する材料が私たちにほとんどない、ごくわずかしか持っていない、そのことの問題についてまず申し上げたいと思います。 一つの新しい大学をつくろうというからには、その組織、機構あるいはカリキュラムなどについて基本計画というべきものが一般に公開されて、それについて十分審議されるということが必要であるというふうに考えるのですが、この教員大学につきましては、一九七一年の中教審答申、それから七二年の教養審建議、それから七四年の新構想大学の調査会の報告書などが公式の考え方として明らかにされているわけでありますけれども、いま申しました三つの文書は、新構想教員大学の一般的な方向について示しておるだけでございまして、具体的な新大学設置のためのマスタープランというものについては明らかにされているとは言えないのではないかというふうに考えるわけであります。この三つの文書に基づいて、その後、設置のための基本計画が検討されてきたはずでありまして、それに基づいて現在教員大学の法案が提出されているわけですが、私の理解では、この三つの文書でそういう新大学をつくるということについての提案がなされるまでの過程におきましても、あるいは提案された以後の具体的な検討の過程におきましても、その検討に多くの大学人が参加してきたとは言えないのではないかというふうに理解しております。また、参加していたとしても、非常に明朗な形のものではなかったというふうに理解しております。私はたまたま、先ほど須田先生、大田先生からお話がございました国大協の教員養成制度特別委員会の専門委員として、正式には文部省から二回にわたってその内容についての説明を聞きました。そういう機会がございましたので、大学人の参加が不十分であったということについて必要以上に強調する、そういう立場にはないかもしれませんが、たまたま私が接したそういう機会があったということだけでこの問題が非常にオープンに検討されてきたということにはならないのではないか、こういうふうに理解しております。新しい大学をつくろうとする場合には、やはり既設大学等との関係もございますので、広く大学人の意見を聞く、こういうオープンシステムが実質的に保障されなければならない、こういうふうに考えるわけであります。このことを最初に申し上げておきたいと思います。 二番目に、さきに申し上げました三つの文書による提案と、現在具体化されてきた教員大学の具体案の間には、とにかく幾つかの点で違いがあることは確かであるというふうに私は理解しております。つまり、教養審建議や調査会報告書の内容と、それから先ほどお話のありました国大協のこれに対する批判、そして国大協の批判に対して説明をするという形で、ことしの一月十八日に先ほどの国大協の特別委員会におきまして文部省の方から説明がございました。この特別委員会では、文部省からのその説明について了承するということがあったというふうに私は理解しております。細かい点には触れませんが、一つは教員大学の入学者選抜の問題であり、二つ目の点は大学院修了者の修了後の処遇の問題でありまして、三つ目はこの教員大学の管理運営の問題であった。それらの点について、確かに従前の三つの文書による提言とこの特別委員会での説明とは違っていた点があった。特別委員会としては、それらの点についての説明を受け、若干の質疑の後、そういう説明を受けたことについて了承したということがございました。その評価の点についてはなお異論があると思うのですけれども、そういう説明を受けたことについては了承したわけであります。教員大学が実際どうなるかということについては、やはりこの法案とあわせて基本計画を明示していただいて、それについて十分な審議を尽くしていただくということが望ましいのではないか、私はこういうふうに考えております。 私がとにかくここで一番申し上げたいことは、この新大学と既設の教員養成大学学部との関係の問題でございます。この新構想大学の調査会の報告書におきまして、あわせてこの既設の教員養成大学学部の大学院設置についても触れられておりますけれども、この調査会の報告書では、現状では既設の教員養成大学学部には独立に大学院を設置できる状況ではないというふうに断定しております。私はその点に関しましては、その断定の判断基準が問題があるというふうに考えておるのですが、そういう断定に基づきまして、既設の大学における大学院の設置方式として、学内の他の部局の協力を得る方法とか、他大学の協力を得る方法とか、数大学の共同によって大学院を設置する方法とか、そういう三つの方式が具体的には検討されるべきだと提案をしております。国大協の意見書ではこの点につきましては、新大学が既設の大学に対して特別の位置を獲得し、既設の大学学部が下部機構として位置づけられるごときことがあるとすればその弊はきわめて深刻である、こういう指摘をしてございます。あるいは新大学がカリキュラム等についての画一的モデルを提供することによって、教員養成を画一化するというような問題があるのではないかということも一般に危惧されております。 それはともかくとしまして、この国大協の教員養成制度特別委員会の席におきまして、文部省から、昭和五十三年度予算案において、東京、大阪、愛知に続いてと申しますか、さらにそれ以外の既設の教員養成大学学部についても大学院を設置する方向で、二、三大学ないしは四、五の大学に調査費をつけたいという意向が明言されました。それと同時に、「教員養成大学に設置する大学院の審査方針について」これが教員養成大学学部の大学院を設置する際の基準となっておるものでございますけれども、これについても従来のものを再検討する。従来の基準は、東京学芸大学や大阪教育大学などの大規模大学の審査には適合したかもしれませんけれども、これを手直しして、さらに従来置かれていなかった既設の教員養成大学学部についての大学院の具体化に一歩前進するということが明言されたというふうに理解しております。この審査方針の手直し問題については委員の関心も深かったわけでございまして、かなりの質疑があったというふうに覚えております。そういう点で、既設の教育系大学学部の大学院設置について、従来なかったと申しますか、従来から一歩前進した姿勢が文部省の方から示されたことは、須田先生のお話にもございましたが、事実でありますけれども、それにもかかわらず、実は私は個人的には、先ほどからも触れられておりますけれども、新大学設置と既設の教員養成系大学学部の整備の関係の問題が一番問題を残しているのではないかというふうに思っておるわけであります。 この新大学と既設の教員養成大学学部の関係の問題につきましても、国大協の意見書では、教員大学が新構想と言っているけれども、どのような点が新しいかも点検を要する。それから新大学院の専攻分野、その内容、カリキュラム、付属学校等のあり方についても格別新しいものはないではないか。現行の教育系大学学部の本質的かつ自主的な改善整備に優先してこの新しい大学大学院を新設する必然性という点では説得力が乏しいではないかという点を指摘してございます。新大学について現在まで明らかにされている構想の範囲では、私もその点に関して十分答えられていないのではないかというふうに感じておるわけでございます。これだけの新大学設置のための人的、物的資源を投資するということがあれば、既設の教育系大学学部がどれだけ整備されるであろうか。それを差しおいて新大学を対抗させようとするという点には何かあるのではないかというふうに考えていってしまう、そういう気持ちが、既設の教員養成大学学部の立場から申しますとどうしても起こってくるわけでございます。 既設の教員養成系大学学部が弱体であるということの問題について、もう少し触れてみたいと思います。 既設の教員養成系大学学部の整備方針というものについてよほど明確にしていただく、そのことについての御審議を、この教員大学の問題と対置させてこの機会にぜひお願いしたいと考えております。 既設の教育系大学学部には、新制大学が発足してから三十年の間に、先ほど申しましたようにことし発足する愛知を含めて三大学に大学院が置かれただけでありますけれども、戦後、教育改革の際に、中等レベルの師範学校が三段跳びに大学に転換したということについてはずいぶん反対や疑念もあったようでございます。教員養成大学学部は確かに人的、物的条件が大変貧困であったことも事実であると思います。しかし、私は、現在まで戦後改革によって新制大学が発足してから三十年間、あるいは師範学校時代からの遺産をも含めて、この間に蓄積してきた研究設備、そして人的条件の整備は無視することのできない大変大きなものがある、こういうふうに考えております。 例を挙げてお話しする時間的余裕はございませんけれども、簡単な実例を挙げてみますと、私の所属している大学などはおんぼろ大学として大変有名でございます。しかし、そのおんぼろ大学の中で、最近整備されたマイクロフィルムにおさめられました紀州藩文庫、あるいはまた、まだ予算がついていないために未整理の明治期の文献が土蔵の中に埋もれておりますが、この資料が一万点を超える。この紀州藩文庫なども実は利用されて、漢文の松下先生は先年学士院賞、恩賜賞を受賞されるほどの研究成果を上げられた。そういう先生が、研究者であると同時に地域の教師を育てる教育に熱心に取り組んできた。そういう例は枚挙にいとまがないと言えると思います。 そういう貧困な条件が問題にされる既設の教育系大学学部ですが、全く新しくつくろうとする大学に、この程度の条件でも新しく設備し整備していくということは決してたやすいことではないというふうに私は考えております。そういう点を考えますと、やはり既設の大学の利点はもっと生かしながら、足らざるを補って整備していくという点についてもっと力を入れていただきたいということを私ども考えておるわけでございます。 時間が残り少なくなりましたけれども、教員養成大学学部に大学院が置かれてこなかったことの意味は、決して人的条件の貧困、施設設備の貧困だけの問題ではない。つまり、教官の力量が低かった、施設設備が貧困であったからということだけに結びつけてしまうのは問題がある。ほかの要素があるというふうに私は考えております。つまり、教育系大学学部と申しますのは、教師をつくるのには、文科、理科あるいは芸術科、さまざまな百科諸芸を専門とする人々を抱えているわけでございまして、一つの学部の中にさまざまな専門学部を小型にしたようなものか幾つもあるのが現実でございまして、一つ一つの専門領域をとらえてみますと、施設設備、スタッフ等の点で専門学部に比べてとてもかなわない、そういう特別な事情をもともと教育学部というのは持っているわけでございます。だから、既成の学問体系を寄せ集めた形で、それを基準にして考えましたらこれはもうもともと勝負にならないわけでございまして、規模の大きな教育大学だけが辛うじて基準に達する、こういうことでございます。この点で、現在再検討されている審査方針によっても、私は、教育系大学の大学院設置は大きく門戸は開かれにくいのではないかと考えております。それに対して、もっと小規模な教育大学学部でも余り無理をしないで大学院が置けるような政策的な努力で、見すばらしい大学院を無理につくるということではございませんけれども、余り画一的な基準によらずに整備をしていただく。大学院の問題だけではありませんけれども、既設の教育系大学学部をまず育てるという点についてぜひ御審議をお願いしたい、こういうふうに私は考えております。 なお申し上げたいことはございましたけれども、時間の都合で以上をもって意見陳述にかえさせていただきます。(拍手)
○菅波委員長 これにて参考人各位の御意見の開陳は一応終わりました。 本会議散会後再開することとし、この際、休憩いたします。 午前十一時五十四分休憩 ————◇————— 午後一時五十分開議
○菅波委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。 国立学校設置法及び国立養護教諭養成所設置法の一部を改正する法律案を議題といたします。 午前に引き続き、参考人より御意見を承りたいと存じます。 御意見は、委員の質疑に対しお答えただきたいと存じます。 なお、参考人各位に申し上げますが、発言の際は委員長の許可を得て御発言願いたいと存じます。また、念のために申し上げますが、参考人は委員に対し質疑はできないことになっておりますので、御了承願います。 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。中村靖君。
○中村(靖)委員 自由民主党の中村靖でございます。 きょうは参考人の諸先生方、御多忙のところ大変御苦労さまでございます。午前中、特にいま問題になっております教員大学の問題等に関しましていろいろと貴重な御意見を私どもにお聞かせいただきまして、まず冒頭にお礼を申し上げておきたいと存じます。 早速、幾つかの問題点について参考人の諸先生方からなお突っ込んだ御意見をぜひ伺わせていただきたいと存じますが、先ほど何人かの先生方からも御指摘のとおりに、教育の問題を考える上におきまして、教員の資質の向上ということはだれが見ましてもまことに大切な、そして重要な問題でございます。先ほど藤本先生がお話の中で御指摘ございましたけれども、たとえば学習指導要領を改定するとかあるいは施設設備の充実を図るというようなことも大変大切だけれども、やはり何といっても、教育を正していく、あるいは教育を刷新していく根本の問題は教員の資質の向上であるというようなことをおっしゃっておりました。私も全く同感であるわけでございまして、教員の資質を向上することについて反対をする者はもとよりないわけで、ぜひそういう前向きの姿勢で私どももこういった問題にこれから取り組んでいきたい、きょうもなおぜひ先生方に御意見を伺いたい、このように考えるものでございます。 まず最初に、須田先生に少し確認をさせていただきたい点がございます。それは、先生が先ほどいろいろなお話の中で、国大協としてはこの教員大学院大学の問題については幾つかの懸念を当初持っていた。しかし、いろいろと関係機関等と議論をしてきた段階において、自分としてはこの懸念はある程度晴れたように思う。念のために、国大協としてではなく自分の意見だ。特に特別委員長としての意見だというようなことを午前中のお話の中でつけ加えていらっしゃったわけでございます。その点について、本年の一月二十日に先生が国大協の教員養成制度特別委員長として発表された資料を私いま手元に持っているわけでございますけれども、特別委員長として、そういった懸念があったけれども、いま文部省が具体的に考えていることについてかなり評価できるというような趣旨の御発言を一月二十日になさっておるわけでございまして、先ほどのお話を伺っておりますと、何かまだ国大協として正式にこの二十日の委員長の御発言が確認あるいは確定をされていないかのごとき感じが私はしたものですから、その点をまず確認をさせていただきたいと思いますので、先生、どうぞよろしくお願いいたします。
○須田参考人 国大協としての意見でないと申し上げましたのは、国大協の意見として正式に申し上げるのには国大協の総会にかけてそこで御賛成を得なければならないから、その手続を踏んでおりませんのでそう申し上げたのでございます。
○中村(靖)委員 それではこれから次回の総会に正式におかけになって、この二十日の委員長としての御意見がはっきりとお決めいただける御方針なんでしょうか。その点、ちょっと念のために。
○須田参考人 それは教員養成制度特別委員会にまず諮りまして、そこで御賛成を得ましたら総会にかけるつもりでございます。
○中村(靖)委員 よくわかりました。こういう問題はより慎重に議論をされ、納得のいく形で国大協としても意見の御決定をいただきたいと思っておりますので、その点はどうぞよろしくお願いをいたしたいと思っております。 〔委員長退席、唐沢委員長代理着席〕 先生、先ほどのお話の中で、特に現在神戸大学学長さんとして、同じ県の中に教員大学が設置をされるかもしれない、今度の法律案が成立をいたしますとそういう形になってくるわけでございますから、そういった意味での御関心も非常に強くお持ちではないかという感じがいたします。いままで文部省は各県ごとに国立の教員養成大学を、あるいは学部を設置するということで、四十七の大学学部が設置をされておるわけでございますが、その原則からすれば、複数の大学あるいは学部が設置される県がここのところで出てくる可能性があるわけでございまして、先ほど先生は時間があれば御発言をしたいとおっしゃっておりましたし、私どもも実は大変重要な点でありますので、この点について須田先生の御意見をいまお伺いをさせていただけると大変ありがたいと思いますので、よろしくお願いをいたします。
○須田参考人 先ほど兵庫県の状態を申し上げなかったわけでございますが、兵庫県に二つの教員養成系の学部なり大学なりができますことは、もしこの二つが内容において違うものでありますと二重構造になりまして、上下関係は、表へ出して言う言わずにかかわらず、みんなの心の中に生まれてまいりますので、そういうことは、事教育に関して好ましくないと考えております。したがって、この新しい考えで教員が教育のことについて探求する場が兵庫県にできますそのころまでには、神戸大学といたしましても神戸大学独自の工夫をこらしまして、そうして修士課程が置けるような努力をしていきたい。そうした暁には、二つの大学がありましても、兵庫県の現在の情勢で申しまして決して過大な教員の自給組織にはならない。それからまた、兵庫県にできますとそこへは兵庫県下の教員が多く入るということも考えられますか、そういうような状況を考えましても余り無理がないというように試算をいたしております。 それで、神戸大学の各学部の状況を見ますと、博士課程を持っておりますところ、つまり全国的な視野から人が目をつけております学部での、兵庫県、それから近畿、全国という学生の分布を見ますと、およそ三分の一ずつになっております。しかし、教育学部などはこれは大体六〇%は兵庫県下の人間が入っております。ですから、この新しい大学ができましても、最大限六〇%と考えますと、いまできたと仮定いたしまして三百人の定員の二百名、その六〇%というものは、兵庫県の教師、中・小の教師が一万六千名おりますから、その数に比べてネグリジブル、数としてはネグリジブルでありますから、これが財政その他の理由によって、たとえ受験者が、前に私が申しましたようにいままでの大学院の入学のときと同じ手続をとってそれだけ入っても、不都合は来さないのではないか、そのように考えているということでございます。
○中村(靖)委員 ありがとうございました。 大田先生に御意見をお伺いいたしたいと思いますが、きょうの参考人の諸先生方の御意見を先ほど来伺っておりまして、こういう分け方がいいかどうかわかりませんけれども、おおむね賛成の先生とおおむね反対の先生と、色分けがかなりはっきりとついていらっしゃるような感じに私は伺ったわけでございます。 大田先生は元国大協の有力なメンバーとしてこの問題にいろいろと御苦労なさっていらっしゃった先生でございますし、少しく先生の御意見を伺わせていただきたいと思うわけですけれども、私も当初、この四十九年十一月の時点での国大協特別委員会の、先ほどの言葉を使わせていただければ、懸念というものは確かに一理あったような気もいたします。私にも理解のできる面が多々あるわけでございます。しかし、文部省当局としてもあるいは関係各機関としてもかなり慎重に、先生方の御意見も伺いながら、軌道修正という言葉が当たるかどうかわかりませんが、軌道修正をされながら、問題点をなるべくなくすような形でいままで努力をされてこの成案かできたというふうに私は理解をしておるわけでございます。 で、先ほどもどなたかの先生のお言葉の中に旧師範学校のことがちらっと出ておりました。よく世間でも旧師範学校の欠点をわれわれ耳にすることがあります。旧師範学校には欠点も多々あったと思いますけれども、いい面もやはりかなりあったのではないか。たとえば書物中心主義の教育ということもさりながら、教育実習というようなことに非常に重点を置いて、先ほど西先生でございましたでしょうか、子供と同じようなスピードで字を書くように努力をしろというようなことを前には教えたものだというような、実例を引かれてお話をなさっておりましたが、そういうような実習にも力を入れるということがやはり非常に必要だと私思っております。 そういう意味で、既存の教員養成大学学部のいままでの行き方の中で、もちろん学長さん、学部長さん、各教職の先生が並み並みならぬ御努力をなさってきたとは思いますけれども、やはり反省すべき点も多々あるのではないか。やはり直していくべき点は大いに直して、既存の教員養成大学学部もよりわれわれの期待にこたえて、いい先生を世に送り出すという努力をぜひしていただかなければならないというふうに私は思っておりますので、大変恐縮ですが、大田先生に、既存の大学あるいは学部のいままでの経過あるいは反省といったような点、あるいは反省が必要だ、どういう点で反省が必要だという、もう少し具体的に突っ込んだお話をこの機会にぜひお聞かせいただきたいと思っております。
○大田参考人 既存の教育系大学学部だけでなく、一般の大学全体がよい教員を育てるということについて努力をしなければならない、その点の努力が欠けていたのではないかという反省は、国大協の三つの報告をお読みいただきますならばいろいろな点でその点を指摘してあるつもりでございます。特に一般大学の場合におきましてはどうしても教員を育てるという意図が十分に実現されていないという点のあることは確かでございますし、それから既存の学部、教育系大学学部におきましても、先ほどお話がありますように、実習についても不十分な点があるだろうし、あるいは免許状というようなものについても、その免許状を受けるに値するだけの充実した教育を受けたかどうかにも疑問はあるだろうと思うわけです。けれども、そういう問題点というのは、単にそれらの大学の努力が足りないということだけで済まない問題がございまして、つまり、それらを進めていくだけの条件についての配慮が行政の側において十分であったかどうかということになると、非常に大きな問題点があると私は考えております。必要があればそれらの問題点について列挙いたしますけれども、そういう両面から今日の既存の大学における教員養成の不十分さというものは追及しなくてはならないだろう、このように思います。
○中村(靖)委員 大学側だけでなしに、行政の面でも努力の不足があったのではないかという御指摘がいま先生からございましたけれども、確かに両々相まって今後も努力をしていかなければならない。私どもも、もとより政治の立場で最善の努力を今後もしていきたいというふうに思っておるわけでございます。 大田先生にもう一つ追加して御意見を伺っておきたいと思っております。先ほどもどなたかの御意見の中で出ておりましたけれども、今回の大学院に現職の教員の方が入学を希望する、受験をするというときに地元の教育委員会の同意を必要とするということになっておるわけでございまして、一昨日の文教委員会で、地元の市町村教育委員会の同意なのか、都道府県教育委員会の同意が必要なのかというようなことでいろいろ議論がありました。後日の委員会で文部省の統一見解をお聞かせいただくことになっておるわけでありますけれども、特にこの問題などは先生としては気になさっていらっしゃる一つの点じゃないかというような気もいたしますので、この点、大田先生からちょっと突っ込んだ御意見を伺わせていただきたいと思います。
○大田参考人 私、その点についても問題を感ずるわけですけれども、私がきょう主として参考人として申し上げましたのは、もっと根本にある、大学のつくられ方というものが国民の前に明らかにされないうちにできてしまう、こういうことを、むしろつくられ方の前提というものを問題にしているというふうに御理解いただいた方がいいと思うのです。 それから、いまの件に即しましては、私は校長というものにもっと信頼を持たせていいのではないか。つまり、同僚教師、あるいは部下かもしれませんが、その同じ職場にいる教師というものを掌握している校長が、進むとか進まないというような問題、入学する、しないの問題についてもやはり大いなる責任を持っていい。そこで済むような問題ではないか。必要があれば校長が教育委員会に相談をして、そのかわりを用意するとかいろいろ配慮すればよろしいけれども、私は最終的に校長が責任を持っていいというふうに思っております。
○中村(靖)委員 重ねて先生に申しわけありませんが、先ほど山口先生のお話を伺っておりますといろいろな詳しいお話がありまして、その中で私の感じた点は、こういう新しい構想というのも大切に育ててみたらどうか、やらせてみることだというような御表現をたしかなさったというふうに記憶をいたしております。そして、こういう新構想の大学あるいは大学院ができることによって、先ほど私が触れましたような既存の大学や学部によい刺激を与えることも可能ではないかというようなお話があったように思うのですが、その点、少ししつこいようで恐縮でございますが、先生のお考えを伺いたいと思います。
○大田参考人 確かに刺激が必要だというふうに私は思うのですけれども、その刺激の出場所というものは、もう少し既存の大学相互の間での創意というものが認められるような状況の中で刺激をし合うということが一番いいかっこうだろう。行政の方から模範を示すという場合には、あくまでも非常に大きな原則に沿い、つまりいままでの大学を生み出していく原則に沿い、しかも慎重に問題を出していって、しかも国民の前によくわかるように、みんなで議論できるような形で生み出していく、そういう慎重な手続が、事この大学や教育の問題については必要だ、そういう考えでございます。
○中村(靖)委員 続きまして、山田先生に少しお伺いをさせていただきたいと思います。 山田先生は、戦後新しい制度になって三十年間に、既存の大学や学部が培ってきた蓄積とか実績というものは無視できるものではないというような御意見を先ほどのお話の中でなさったというふうに思いますが、私も、確かにこの点は忘れることのできない問題だ、確かに軽視できない、あるいは無視できない実績をすでに既存の大学や学部はお持ちになってきていらっしゃるというふうに考えるものでございますけれども、そのことと、今度の新構想の大学あるいは大学院を設置するということと必ずしも矛盾するものではない。先ほど申し上げましたように、既存の大学や学部をりっぱに育てていくという責任が私どもにもありますし、先生方にもそういった御指導、御協力をぜひお願いしたいわけでございまして、文部省としても、新構想の大学あるいは大学院をつくる、あとはもうどうでもいいということをもちろん考えているわけではないと思います。当然、既存の大学や学部をいままで以上に充実をさせていくということについては大変御熱心であるというふうに私は確信を抱いておるわけでございまして、その辺の点につきまして、先ほどのお話をもう少しく突っ込んでお聞かせいただければと思っております。
○山田参考人 特にお尋ねいただいている点がどの点かということが必ずしも明確でございませんけれども、私、先ほど、三十年間の努力と蓄積、その中でさまざまな、貧困ななりに改善への努力が続けられてきたことについて申し上げました。にもかかわらず、いわゆる制度的に見ますと、今日、日本の大学は、大学というからには大学院を持っている大学こそ大学であるというのがむしろ通念になってきているという状況の中で、教育系大学のみが、特に小規模の教育大学の場合には先ほど申しましたような理由で依然として大学院にはなかなか手が届かない。そこに大きな格差と申しますか、大学間格差というような実情がこれはもう一般的に認識されているところだと思うわけであります。 そこでまず、私たちはかねてからそういう格差是正と申しますか、教育系大学学部に対する整備充実ということを強く要望してまいったわけなんですけれども、それの十分手当てが行き届かないままに教員大学の方がどんどん走り出しているということの関係について、私たち教育系大学学部に置かれている人間としては、はなはだ気持ちのしっくりしないものがある。この機会にぜひ、そういう意味で既存の教育系大学学部に対する整備充実の方針を一層明確なものにし、また本気でお考えいただけないものか、こういう気持ちを申し上げたわけでございます。ただ、その既存の教育系大学学部の整備充実の場合にいろいろな問題点、つまり、現在文部省でお示しいただいている方向づけだけで、果たして既設の教育系大学学部の整備充実が十分達成し得られるであろうかという点については、私いろいろ、なお疑問とする気持ちを抱いておりましたので、先ほどのような御意見を申し上げたわけであります。
○中村(靖)委員 先ほど西先生がいろいろ貴重な御意見をお述べになりました一番最後に、自分としては本当は、優秀な先生になお勉強してくれというよりも、悪い先生という言葉がいいかどうかわかりませんが、悪い先生になお教育ができる、そういうような制度こそ本当は望ましいのだという結語のようなお話がございまして、私それを伺っておりまして、この教育の問題を考える上において全く重大な御指摘だったなということを実はつくづく感じおりました。大変私ごとで恐縮ですけれども、私も小学校と中学校に行っております子供を一人ずつ持っておりますから、子を持つ親として何かぎくりとさせられた御指摘だったと思っております。こういう先生にこそ本当はなお研修を積んで資質の向上をしてもらいたいと思いましても、制度的にはなかなかむずかしくて、もうかなり資質の向上している先生がより意欲的に研究をされ、あるいは研修をされるというようなかっこうになってしまう。そういうアンバランスな点というものは、やはり私どもがこれから肝に銘じて配慮をし、また新しい制度もつくり上げていかなければいけないのではないかなということをその際つくづく感じたわけでございまして、時間が許せばなお突っ込んで西先生にその点についてお話を伺いたい気持ちが重々ございましたけれども、与えられました時間がやってまいりましたので、きょうのところはこれをもちまして私の質疑を終わらしていただきたいと思います。 諸先生方、ありがとうございました。
○唐沢委員長代理 嶋崎譲君。
○嶋崎委員 日本社会党の嶋崎譲でございます。 お忙しいところをありがとうございました。きょうの参考人の諸先生の御意見をお聞きしまして、来週再度委員会で私たちか審議するためのいろいろな参考意見を聞かしていただきたいと思います。 最初にお聞きしたいのは、私たちが立法府で新しい大学をつくろうというようなことになった場合には、私たちは憲法や教育基本法その他で保障されている大学の自治というものを尊重して審議をしなければならぬと思っております。それだけに、全国の国立大学の組織の中でも、今日国会に上程されております教員養成の新しい構想の大学については、先ほど御指摘がありましたように今日まで三つの大きなリポートが出ております。それと並行して、国の方といいますか、文部省を軸にしまして、教員養成の審議会や、その後新構想の教員養成大学に関するいわゆる鰺坂調査会と言われるようなものが出てきております。そういう中で、先ほどから説明がありますように、国大協のリポートは全国の国大協の総会で決定されながら出てきている。片一方は文部省のいわば審議会の提言や答申に基づいて計画が行われてきている。こういうことになりますと、私たちが立法府として議論するときには、大学自治というものを尊重しますから、国大協で追求されてきたものの上に、十分にその意見を反映させて新構想の大学がつくられるべきだ、こう考えます。 そこで、最初に須田先生にお伺いをいたしますが、先般、一月二十日に特別委員長として「教育系大学・学部における大学院の問題」について説明をされましたこのメモを手がかりにお聞きをしたいと思うのですが、国大協では、この特別委員長のメモに関連して、来る四月の十八日に特別委員会を招集して審議をするとお聞きしていますが、そのとおりでございましょうか。
○須田参考人 いま予定しておりますのは四月十八日でございますが、これは前からの予定でございまして、ここで大学院問題一般を討議してまいる。その中であるいは、いま問題になっている私か出しましたメモもございますので、そのことも当然討議してまいるつもりでございます。
○嶋崎委員 先ほどの御説明の中にもありましたように、特別委員長としての見解として御発表になったので、まだ国大協としてのまとまった見解ではない。だとしますと、現在の段階では、国大協として、国会に提出されている上越と兵庫の教員大学のあり方について、提案されている中身については十分なる審議が行われたということになるのでしょうか、ならないのでしょうか。
○須田参考人 国大協では決定はされておりません、あるいは国大協の議決機関を経た意見ではございませんけれども、教員養成制度特別委員会というのは教員養成に関することの審議をかなり任されておりますので、このメモに書きましたような事柄はそこでの委員会の全部の方のお耳には届いていると思います。そういうのが現状でございます。
○嶋崎委員 いままでの国大協の、たとえば昭和四十七年十一月の調査報告書、それからまた四十九年十一月の、教育系大学・学部における大学院の問題というリポート、それから昨年の十一月の、大学における教員養成−その基準のための基礎的検討−、これらは常に、特別委員会で審議されました報告を、国大協といったって大学の自治は各大学の自治の連合でありますから、それぞれの大学で審議された上で総会が行われるという手続をとりながら確認されてきたと思います。私たちはこの立場を尊重しつつ、提案されるであろう大学がどういうものだろうかということをいままで待っていたわけであります。 ところが、この委員長のメモないし発表が、あたかも国大協を構成する各大学での特別委員会の議論に基づいての議論を集約をして出てきたかのような印象を強く国民に与えていると思います。そういう意味で、いままで国大協がこういう教員養成制度などについて見解を発表してきた手続に比べると唐突な印象を免れないのですが、いままで特別委員会のメンバーをされていた大田先生や、その中に専門委員として参加しておられました山田先生に、今度のような発表の形式はいままでの国大協の発表の形式から見て突如として、と言うと大変語弊がございますけれども、そういう転換がこの時点で行われたのか。私たち国会で審議するとき大変むずかしいわけです。大学でお決めになれば、大学自治問題になってまいりますから私たちはそれ以上大学に干渉できません。したがいまして、この非常に重要な転換であるだけに、来週も審議をしなければならないわけですから、大学全体がどのような意向でいくんだろうかということを懸念するだけに、この発表の手続などについて、時間も短いので一言ずつ見解を述べていただきたいと思います。
○大田参考人 私は一月十八日の委員会にはもう任が解かれておりましたからわかりませんけれども、私の七年間のこの委員会に尽くしてきた経験から申しますと、国大協というところは実に多様な意見があるところでございますから、これをまとめていくというのには大変な苦労を要するわけでございます。したがいましてそれだけに慎重な配慮をするべきだというように私は思うので、新聞で報告を見ましたときに唐突な感じを受けたということは免れがたいことであります。
○山田参考人 須田先生がさっきからおっしゃっておりますように、委員長個人の見解と申しますか、そういう形で受け取っていただけばその限りでは支障がないんじゃないかと思います。ただ、須田先生もおっしゃっておりますように、この後予定されている委員会で、そのメモの示している方向について改めて特別委員会として話し合いを特たれる、こういうことでございますので、メモの段階ではやはり委員長個人の見解というふうに私は理解しておるのでございます。
○嶋崎委員 経過としては、したがって、私たちも十八日の特別委員会の結論を見守り、さらに、国会は法律審議をそういつまでもやっておるわけにはいきませんので、われわれの審議や判断が早急にできるように、国大協の総会をどういうふうに詰めてやっていただくかをぜひお願いをしておきたいと思います。この法案は来週いっぱいぐらいで集中審議が終わりそうな気配でありますだけに、われわれの審議が終わったわ、後から別の見解がまとまったわということでも困りますし、それからまたそれ以前でないと議論をする参考にならないだけに、大学自治を尊重する立場からぜひ御努力を願いたいと思います。仮に今度この法律が通りましても、実際にこの大学が動き出すのは二年後ないし三年後になっております。先ほど来参考人の先生方からもありましたように、基本構想なるものがありません。私たちは審議する材料を持っておりません。したがいまして、須田先生がさっきの御発言の中で、国大協の中で、そういう競争関係といいますか共存関係の中でそういうタイプの大学ができていくこともいいし、それについて批判をすることも可能だとおっしゃられたのは、立法府が法律を通した後にできる大学が、国民のためのものになるかどうかを考えるときに大変重要な経過の問題になると私は思います。 そこでお聞きしたいのは、国大協という組織は各大学の大学自治を基礎にした組織でございます。一たび大学ができましてそこに入ってしまいますと、筑波大学の場合であっても今度の大学の場合であっても、大学がお互いの大学の中身について批判することはできなくなってしまいます。それだけに、国大協が今後できるであろう大学について共存の関係や、より国民のためになる大学ということを期待されているとするならば、大学が実際に動き出すまでの間に、国大協としては、創設準備室を中心にして構想されてきている大学についてわれわれ立法府でも見守れるように、国民自身がわかるようにするような手だてはどうお考えでしょうか。
○須田参考人 私、午前中にも申しましたように、この大学ができていく経過というものを委員会としては十分見守っていって、そして前の委員長も申しておりますように、文部省を通し、準備室と直接意見を交換しながら、国大協総体の、つまり大学の本質から見た形で間違いのないようなものができるように、文部省及び準備室にはこれから意見を反映していくつもりでございます。これは、教員養成制度は特別委員会としてだけでも動けるものでございますから、そのようにするつもりでございます。
○嶋崎委員 文部省ペースで、気がついたら始まっていて、できてしまってから中身を知らされるという立法府軽視のことにならないようになるためには、大学自治の立場で国大協がどのように対応していくかということが非常に重要になってまいりますので、いまの御発言のような御配慮を心からお願い申し上げたいと思います。 そこで、参考人の西先生や藤本、山口先生などからも御指摘がありましたように、確かに、日本の教育というものは、制度の枠だけではなくて、教師の中身といいますか、質の問題が戦後三十年の経験の中からいまや問われていると思います。ところで、今度新たにできる新構想の大学といいますか、二つの大学は、学校教育学部で小学校の教員をつくることをねらっております。その一つの理由は、小学校の教員が不足しているということ、同時に専門的な教師が足りないということであります。だとすると、既設の教育系の大学や学部でなぜ小学校の専門的な教師が育たないのか、その点について大田先生や山田先生などからちょっと突っ込んだ意見をお聞かせいただきたいと思います。 その際に、昭和三十年前後からつくられた教員免許制度のあり方、これが障害になっていないかどうか。第二番目に、参考人の諸先生からもちらっと出てきておりましたが、大学の中で教育学部は、大学設置基準で課程−学科目制という、教育のカリキュラムの特性から課程をとることになっています。ところが、そのことが財政的、人的に教育研究を充実させることの障害になっているのではなかろうかなどの、いわば教員養成に必要な条件を満たすに当たって、既存の教育学部や教育系大学でなぜつくられないかということの隘路になっている問題、つまり、これは行政で改革しなければならないことだし、私たち立法府が予算をつけるに当たって検討しなければならない問題ですから、なぜいままでのところで育たないのか、こうすれば育つのではないかというような点。そしてまた、育たないからといってでは新しくつくればそこで育つという保証がいまの免許制度その他であるのかどうか。たとえば一人八教科という小学校教員のやり方などかいいのかどうかなどについて、専門的な御意見を大田先生、山田先生にお聞きしたいと思います。
○大田参考人 この問題は小学校教員だけの問題ではないと思うので、わが国の既存の大学における教員養成全体の問題にかかわる問題だと私は理解をいたしております。 これには三つばかり問題があると私は思うのですけれども、一つは教員の処遇の問題ですね。これは教員という仕事がやりがいのある仕事であるかどうかという問題。この処遇の問題で、経済的な待遇の問題につきましては大分改善されたわけでございますけれども、景気、不景気によって教師の価値がいろいろと動くということ自体にまだ不十分な問題か残っておると私は思いますし、俸給とかそういう経済上の待遇以外に教師の社会的待遇、処遇の問題も残っていると思うのです。たとえば、教師がプロフェッショナルな仕事として大学で研修を続けることに対するかなり自由な保障というものが一般大学であっていいと思いますし、そのような地位が保障されることによって教師の意欲というものは相当変わってくるのではないかと思います。 それから、取り急いで申しますけれども、小学校教員の問題につきましては、実は現在の小学校の先生方というのは御承知のとおり六教科以上の教科を担当しなければならない。これは本当は人間ではちょっとできないと私は思うのですが、そういう超人間的なわざをさせられている。こういうタイプの人間をつくるのには、大学における学問の研究とうまくなじまないと申しますか、こういうタイプのままに国民教育の教師を置いておくという発想では大学が受け入れにくいのも無理はないということになるのです。でありますから、そういう面を改革していくという展望のもとで、新構想の中でそれこそ教師の教育の仕方を考えていく必要があるというふうに思っております。この教師の処遇の問題が第一です。 もう一つは、もっと大学自体に教員養成の責任を持たしてほしいというふうに私は強く要望したいと思います。たとえば、教員養成の方針というのは大筋は教養審で決まってくるわけですが、それらに国大協なり公大協なり私大協なり、場合によっては教員団体から代表を送れる、こういう形になりませんと、みんなが責任を持って教師を育てるという気にならない。少なくも大学において教員を養成するというのであるならば、大学人の代表が堂々とそこに行ってその立場から教師養成を心配する、こういう仕組みにならないで、つんぼさじきに置かれている。今日の新構想も同じですね。大部分の大学の教師はつんぼさじきに置かれていると言ってもそれほど誇張ではない。そういう責任を持たされないというところに、教員養成は大学で行うというプリンシプルはありますけれども、実はこれは架空なものになっていて、実際上その原理に見合うような形での大学の責任ある参加というものが保障されてないという点を、今回を機会に根本的に反省していただきたい。国大協は第三回目の報告の中で、教養審に対して国大協などなどから代表を送るという仕組みに変えてほしいという要請も出しておりますので、その点にも注目をしていただきたいと思うわけです。 最後は大学自身の反省でございます。これはたくさんございます。大学自身がよい教師をつくっていくということ、そのことの工夫の中で大学がよくなっていくのだ、いい教師をつくるというそのことに即しての大学改革が大学自身をよくするのだ、こういう観点から大学自身が反省をしなければならない。 こういう三つの点を含めて考えませんと、効果ある教員養成はなかなかむずかしいと思います。
○山田参考人 質問にお答えするという形だけでは答え得ないような、非常に根本にかかわる問題ですのでうまく答えられるかどうかわかりませんが、小学校教員の養成についての問題だと思います。 既設の大学でなぜ小学校教員の専門的教育が十分でなかったのかという問題ですが、私は、国大教の第三レポートでも触れておりますように、やはり大学自身、教員養成系大学学部が、いわゆる課程−学科目制自体がそうですけれども、中等学校教員養成を中心とするパターンになっていて、どうしてもそういう教育形態に傾斜しがちで、このことは文部省の方も言っておられますけれども、それは事実でございまして、そのために、小学校教員をいかに教養するか、いかにすぐれた教師をつくるかということについて、この三十年の経験の中ではやはり弱かった側面である、こういうふうに考えております。ただ、弱かったには違いないけれども、全然無視してきたのかというと、そうではなくて、それぞれの大学がそれぞれの集団的な討議を通じて、どうしたらいい小学校教師をつくれるのだろうかということでの、ピーク制と言っておりますが、そういう努力とか、あるいは、先ほど大田先生のお話にありましたような、学制改革をも展望して、高学年の教科担任制を担える教師あるいは小学校の職場の中で教科の指導的教員を育てる、そういう含みを持って、つまり小学校の教師のあり方そのものを変えていくことへの展望も含んで、各大学で小学校教師の資質を高めるための努力はそれなりに続けられてきたというふうに私は理解しております。 そのときに、御指摘のありました教員免許制度がやはり一つの壁と申しますか、特に小学校教員の資質についての条件を規制している免許制度が一つの壁になっていることは事実であろう。つまり、余りにも多方面的に、高等教育レベルで一人の人間が教養を受けなければならないという、そういう無理が免許制度によって規制されているという、そういう側面はある。だけれども、これも必ずしも絶対的な規制ではなくて、そのことを踏まえながらも、各大学での自主的なカリキュラム構成、個々の授業内容の質的改善の努力は続けられてきた、こういうふうに考えております。 もう一つの、制度の問題ですけれども、私が先ほど指摘した点を御了解いただくのには大変いろいろな説明が必要だと思うのですが、一つ一つの専門領域だけで比べたら、その専門領域の専門学部と比較しましたら、それはもうお話にならないほど研究、教育の体制は弱いのでございます。だけれども、それらを百科諸芸にわたって抱えていることを生かした整備の仕方、大学院づくりの仕方を既設の教育系大学学部についてはどうしても考えていただかないと突破口は開けないんじゃないか、こういうことを考えておるのでございます。
○嶋崎委員 時間も迫っておりますので、最後に、先ほど須田先生の、昭和四十九年の大学院の設置基準の改定が大変大きな改革だったというお話を承りましたが、あの際、文教委員会で私も大分長い議論をいたしました。ただ、先ほどの発言でちょっと私が理解できなかったのは、四十九年の設置基準で改正をされたのには幾つかございます。たとえば学部を持たない大学院をつくる。それには連合大学院というタイプもあれば、共同利用研究所の上に独立大学院をつくるというタイプもあれば、また同時に、マスターコースを持たずにドクターだけのコースをつくるという場合もあれば、マスターだけをつくるという場合もある。きわめて多様な道を開いたという意味では改革だったと思います。しかし、改革の根底にあるものは、学校教育法や国立学校設置法という法の仕組みで言われているように、学部を基礎にして大学院というものを考えるという基調は変わっていないと思います。そういう観点で、古く言えば昭和二十四年の大学基準協会にさかのぼりますけれども、大学設置基準の何条かにもありますように、学部と大学院の関係というものは明示されております。そういう意味で、確かに四十九年の大学設置基準は大学院のあり方について多様な道を切り開いたものであるということは認めますけれども、今度上越と兵庫にできます教員大学の学部と大学院は、そのような基本にある学部と大学院ではない。つまり、学部がしっかりした上に大学院ができる。学部教授会で、大学院は研究科委員会で教授会ではない。あくまで学部というものを基礎にして考えて、その連合であったり、その上にドクターだけであったりする考え方が貴重なんだと思います。そうしますと、今度の教員大学並びに大学院は、小学校の教師を養成する学校教育学部、大学院の方は中学から高等学校の教師たちが研修をするために入学できる制度、ここには連続性といいますか、積み上げがない。つまり積み木細工のような形で大学がつくられているという意味では、四十九年の設置基準を広く解釈して適用すればできないことはないが、理念からは少し外れた特殊な大学のつくり方だと私は思いますが、先ほど須田先生のおっしゃった観点から見ますと、四十九年の設置基準に基づいて普通の大学と同じようにできると判断してよろしいでしょうか。この点について最後に須田先生と大田先生のそれぞれの御意見を聞かしていただいて、私の質問を終わります。
○須田参考人 大学院に関する限りは、いま考えられている教員大学の大学院は、四十九年に改正されました大学院設置基準の、いま先生のおっしゃいました独立大学院に似た形がとり得るもの。この大学が果たしてそれをとっているかどうかは私確認はいたしてございませんけれども、大学院だけ先につくることも可能でありますから、これをつくって、そしてそれに見合った形で学部の方の教員構成あるいは教育研究組織をつくっていくというやり方もあってもよろしいんじゃないか。これが全般に、それだからといってどれもこれもこれをやるとか、そういう意味合いではございませんけれども、やはり私、新しい改正になりましたその趣旨の中の一部分を生かしていま申したようなものをつくろうと思えばつくれるんじゃないか、こういうふうに考えております。
○大田参考人 すでに申し上げましたように、私はかなり異例の大学院のつくり方だというふうに思っております。特に、先ほど御指摘のとおりで、学部と大学院の目的というものが違うものの組み合わせのような印象を強ういたしております。こういう非常に異例なものもいろいろ数多く実験してみるというのも結構でございますけれども、それをやるのであるならば、個々の大学が責任を持って大胆にやってみる。しかし、行政がそういう非常に大胆な、従来の線から急に外れたような、そういうやり方をするというのはやはり適当ではないのではないかという印象を強く持っております。
○嶋崎委員 時間が参りました。どうもありがとうございました。
○唐沢委員長代理 有島重武君。
○有島委員 公明党・国民会議の有島でございます。 きょうは諸先生方に大変貴重なお話、大変ありがとうございました。時間が限られておりますので、諸先生に項目だけかためて御質問申し上げて、順番に答えていただければよろしいと存じます。 当然のことでございますけれども、私たちの立場としても、既存の教員養成における制度的欠陥を明らかにして、これをどう改定していくかということ、それから財政的な欠如をどのくらい充足していくかということ、こういったことがこの法案の審議を契機としてひとつ明確にならない限り、軽々に賛成はできかねるというように私たちは思っているわけでございます。もう一つは、新しい教員大学の構想のねらいというものを文部省側から言っているわけですけれども、この御議論はいままでもたくさんございましたけれども、こうしたものがもう少し明確に、かつ、その構想に沿って今度の大学ないしは大学院の設置が本当に効果的に機能するのかどうかというような点はやはり明らかにしなければならないし、もう一つは、どんな新しい制度でも発足しちゃったときにそこに多少の混乱を呼ぶわけでありまして、その混乱が、一時的に混乱するけれどもすぐに解消するものか、あるいは永続的にしこりを残すものであろうか、その辺のところも見届けないと軽々に賛成はできない、そのような態度で私たちはおるわけでございます。 それで、大田先生に最初にお伺いしていきたいのでございますけれども、先ほどのお話の中に、既存の教員養成大学がしばしば軽視されているというようなことを言われたと思うのですけれども、このことをやや具体的に言っていただきたい。 それから、須田先生に伺いたいことは、全国四十七の教育学部は課程制になっておる、研究的でないところに問題があるということを言われたと思いますけれども、教員養成のための学部に特にそういったことが顕著にあらわれておるのか。あるいは他学部もまた、現在の大学というものは何か小学校、中学校の延長のような様相が強く出ておって、学究的ないしは探求的な場所でないというような御批判を含んでいらっしゃるのか、特に教員養成のところにそれが強くあらわれているのか、その辺のところを伺いたい。 それから、須田先生にもう一つでございますけれども、山口先生の御意見の中に、教員の人間的な一つの使命感、生きがいというような問題と同時に、学問に対する喜びを知ってもらっておく、そういうことが大切なんじゃないかというようなお話もございましたけれども、そういうことはまたどの関連で仰せられたのか、その辺のところを少し詳しく教えてください。 それから、西先生に承りたいのは、西先生は東京大学の教養学部の教授をしていらっしゃると承っているわけですけれども、特に教員養成のための語学の教え方というものがあるのかどうか。語学の教え方を教えていくというような意識といいますか、方法といいますか、そういったものがおありになるのだろうか。だとすれば、教員養成のための語学というようなところに、他の学部に籍を置きながら教員の資格を取ろうとしている学生さん方は教員養成の学部の方の語学のやり方、学部間の単位の互換というように学びに来るべきじゃないかというふうに、私は先ほどお話を承りながらそんなことを考えていたわけなんです。 それから、やや外れるかと思いますけれども、基礎的な語学力というものは大学の中に抱え込んでいかなければならぬものか、あるいは大学以外のところでこれを修得してきてもらうというふうにする方が今後望ましいのではないか。たとえば高校課程でもってしっかりマスターしてもらっていることになっているわけでございますけれども、にもかかわらず、大学の教養学部あるいはずっと大学の中で語学というのをもう一遍やっているわけですね。それを、私どもの考え方ですと、専門の外国語学校というのをもう外につくってしまって、そこでもって基礎的なものは修得してもらう。大学に来てやる語学というのはやはりもう少し目的のはっきりした語学をやっていくべきではないかというようなことを常々私たち考えもし、主張もしているものですから、西先生に対する御質問はそんなような意味からの質問であります。 それから、西先生が最後におっしゃった基礎的な教育マナーといいますか、学校におけるマナーというものがいま欠落しているということを言われましたけれども、これについて、先生は、そうした教育のマナーというものを教員養成の過程においてマスターさせた方がいいというふうにお考えなんでしょうか。あるいは、欠落している、そういった認識はみんなにあると思うのですけれども、それは学校内で、就職して、校長さんなり先輩の先生方からそういったマナーは厳しくしつけられていくというのがあたりまえじゃないかというふうに、私はお聞きしながら思ったわけです。と申しますのは、きのう、おとといあたり、新入社員の姿がテレビなんかに映っておりますけれども、相当いい大学を出て呉服屋さんになって前かけをかけるところだとか、てんぷら屋さんになったとかございまして、やはり新入社員に対してはそれなりのしつけを相当するわけですね。だからさっきの、字をゆっくり書くとか、そういうようなことというのは大学でもってそれを教わってくるというよりも、現場でもって責任を持ってしつけるということに属するのではないかというように私は思ったものですから、その辺の御意見を承っておきたい。 それから、藤本先生と山口先生は賛成のようなお話でありました。その賛成理由として、藤本先生は、教育全体を刷新していかなければならないという世論がある、これにこたえ得る。文部省は確かにいろいろとその措置を講じておるけれども、とりわけ人の問題であるというようなお話までわかったのですけれども、今度の新しい大学、大学院をつくることが確かにそういった世論にこたえる措置になり得るかどうかというような、何かそういったしっかりした、期待ということだけじゃなくて、何か確証を持って言っておられるのかどうか。こういったことがあるんだという確証がおありになればそれを承っておきたいと思います。 それから、小学校の校長をしていらっしゃる藤本先生に承りたいのは、現職の先生方がいろいろ研修に出ていらっしゃると思うのですね。おたくの学校でもそういったことがおありになると思うのです。現職教育について、先生方が本当に喜んで研修に参加していらっしゃるかどうかというような実情ですね。 それと、もう一つは、いわゆる内地留学というふうに言われているのだそうですけれども、半年だとか一年だとか、大学の学部に行って勉強していらっしゃるという制度もあるように聞いておりますけれども、先生の御関係のところでそういうものに参加されている先生方がおいでになれば、そういった実情を何か少し教えていただきたい。これが効果が上がっておるのか、あるいは形式的になっておるのか。それから、先生からごらんになって、そういったいわゆる内地留学ということからさらに一歩踏み出して、大学院に送るという必要が現場でも本当に感じられているのかどうか、その辺のところの感触を、これは藤本先生とそれから山口先生から承りたいと思います。 いろいろあるわけですけれどもこのくらいにいたしまして、あと各先生方に、山口先生から御指摘がありました、教員養成の中で実習ということが非常に大切である。この実習の目的は、何か専門的な技術ないしマナーを習得するのが目的なのか。山口先生の御意見だと、そのねらいはむしろ教育の使命感ないしは教育愛というものに目覚める、触発されてくるというところにあるんじゃないかというような御意見であったかと思うのですけれども、こういった山口先生の御意見について諸先生方はどんなふうにお考えになるか。 それから、さらに山口先生がおっしゃったのは、特殊教育の場を踏ませることがそうした点から非常に有意義であるという話でございました。私どもそういうことを常々考えておったわけでありますけれども、この山口先生の御意見に対してほかの先生方から、異論がある、あるいは賛成である、そういったような御意見を承らしていただきたい。 以上、ずっと、べたべたと言いましたけれども、よろしくお願いいたします。
○大田参考人 私には、既存の大学というものが格差があるというのですか、軽視と言われましたか。(有島委員「はい」と呼ぶ)軽視されているという言葉を私が使ったかどうかはともかく、おっしゃるような事実というものですぐ頭に出てまいりますのは、たとえば教員養成系大学について言いますとその課程−学科目制の問題などがすぐ出てくるわけですね。これは積算基準の問題など含んで、講座制大学と差があるとか、いろいろ出ておるわけですが、私が非常に重視したいと思いますのは、どなたかもおっしゃっていましたけれども、教師というものになるのには、学問をすることの実感といいますか、学問をすることの喜びと申しますか、そういうことを身につけた、つまり探求精神というものが板についた人でなくてはならないというふうに私は思うわけです。いろいろな学問上の知識、技術を知っているということは、ちょうど窓から風景をながめているということと外を実際歩いてみるということの違いのようなものがありまして、学問する実感というのは、ただ知識や技術を伝授されたということで済まないようなところがあるわけです。そのような、学問をすることの実感を身につけるような大学の状況というものが必要であるというふうに考えますが、現在のいわゆる教員養成系大学、それはそれだけじゃありませんで、私どももかつて属しておりました東京大学を含めてそうですけれども、学問することの実感というものを培っていく条件というものが非常に欠けている。特に課程−学科目制などというようなものが決まっておりまして、そして単位を取るために単位から単位へと飛び歩くというような、そういう状況の中でいい教師はできないというふうに、私は強くそう思うわけでございます。 そういう意味におきまして、こういうところを直さずにおいて別のところで何かやってみても、いい教師ができるという保証はないのではないかと考えられるほどでございます。そして、いま現在そういう教員養成に当たっておられる四年制の大学なら四年制大学で、一つの学問なら学問をしっかりやられて、四年の後で一年ぐらい集中的に教師としての職能的勉強をなさるというような組み合わせの実験も緻密に組んでやってみる。いまの別科とか専攻科というような形じゃなくて、もっと本格的に、四年制の段階ではある学問というものをかなり身につける、そして最後に教師になるために専門的な教師の教養というものを集中的に身につけるとか、別科や専攻科を変えていって、そういうふうな計画的な教師養成というようなものの実験なども慎重にやっていけば、私は、手近なところからいい教師をつくるような方法というものが見出せるのではないか、そんな考えを持っております。
○須田参考人 ずいぶん大きな御質問をいただきまして、まだ後にたくさんお答えになる方がございますようですから余り深いことは申せないかもしれませんけれども、課程−学科目制それ自体が悪いとは思っておりません。教育学部のようなところでは課程制というのはむしろ向いた形ではないかと私は思っております。しかし、課程−学科目制というものが固定化されまして、初め申しましたように、これに人間の配置あるいは研究費の配賦というものが何かランクづけられてしまったところに問題がある。また、たとえば修士課程を置くとすぐ課程−学科目制をやめて、そして学科・講座制にしなければならないかのような考え方も私は必ずしもとるものではない。課程制のまま学科目というように、細分化されましたものを、ある一つの方向によってこれを統合していくというようなことが行われれば、制度としてはこのままでも差し支えない。しかし、教育学部のような非常に実践的な学部においての人的配置はきわめて不適当だ。したがって、これは大学院をつくるとかつくらないとかいう問題でなくて、教育学部それ自体の強化ということはどうしてもしなければいけない。 前にも申しましたように、よく比較されますのは医学部の教育との比較でございますけれども、医学部の教育では、医学の教育と医療の教育とは一応別個になっているわけでございます。このような形で医療というものまでも、すなわち個々の生徒の教育というものまでも抱え込む限りにおいては、いまのような形でなく、少なくとも医学部程度の助手をつけることがまず先決だと私は思っております。医学部では、教授一人に対して助手は四・二七という数でございます。教育系の大学ですと、修士課程を持っている二つの大学でも助手の比は〇・二四でございますし、六つの教育系の大学では〇・一六でございます。そのほかの大学ですともっと低いのもございまして、これを上げませんと……。助手というものがいて、そしてここに入ってまいります学生と教授との間にあって実践をやっていかなければならない教育学においては、まずこの点を直すことが大学院問題とは別個に必要なことである。 そして、大学院というものは、先ほどお尋ねにありましたように、ここでこそ学問に対する喜びというものを味わわせる場所でなければいけない。ですから、私は前にも申しましたように、現職教育というような考え方で新しい大学院をつくるならば、それはつくるべきではない。ここはやはり、いま申しましたように、学問の実際に触れて、そして学問の喜びというものを味わう、あるいはまた別の言葉で申しますならば、その人間が自分をよく見詰めて、そして自分の中に残っていく、あるいはそこで形成される核は一体何であるのかということをこの二年の間にやって、そうしてそういう核を、中心を持った学生がほかの教科をそれを中心として結びつけるような、そういういわゆるクロスディシプリンと呼ばれるような形の教育が行われなければならない。ただ教科が多いからといってパラレルにこれを並べただけでは決して統合はされない。ですから、修士課程においては、どこの修士課程もやはり自分を見詰めるということが一番大切な共通のものであるし、この教育学部においても、教育学部の修士課程においてもそういうものができなければならない、そんなふうに思っております。 大変舌足らずな面もございますが、お答えになりますか。
○西参考人 私への御質問は大変またむずかしい問題で、ちょっと答えにくいことがたくさんございます。 私は、さっきからお話に出ておりますところの異例の大学院に属しておりまして、私は教養学部の比較文学、比較文化という大学院に属しております。これは全く学部がないというところでありますが、こういう異例の大学院が許された、そしておもしろい研究をする学生をたくさん収容しているのを大変うれしいと思っておりまして、余り大学院を旧来の大学院と考える必要はないんじゃないかというふうに自分でも考えております。 そこで、比較文学及び比較文化というのは非常に語学を必要といたします。これはとにかく比較するのでございますから、日本文学とドイツ文学、あるいはドイツ文学と英文学、ドイツ文学とフランス文学というふうに、でありますから最低二カ国語は絶対これを必要といたしますので、非常に語学を鍛えますし、比較を出ました学生は大体において高等学校の語学の先生に就職しているのが多うございます。 それで御質問では、ちょっと私、頭が悪いのでわかりにくかったところがありますけれども、大学の中に抱え込むべきかということでございますが、教員養成のためというのは現在のところは英語ということになると思うのですが、これは必ずしも大学だけで十全のものは、これは高等学校教員及び中等学校教員の英語の先生ですが、ちょっとむずかしいんじゃないか。だから、いまおっしゃいました目的のはっきりした語学というのは私は賛成でございまして、目的がどういう目的か私にはわかりませんが、中学あるいは高等学校で教えるという目的を意識した教育は今後あってよろしいんじゃないかと思います。 それから、第二点だと思いますが、現在の語学全般について申しますと、これは私の個人的な考えですけれども、必ずしも大学で二カ国語をやる必要があるかどうかということは、学科、学部によって柔軟性があっていいんじゃないかとは思っております。たとえば、私は農学部のドイツ語なんかを教えることがありますけれども、自分で教えながら、農学部の学生に、果たしてドイツの農業が日本の農業に何か影響を与えているかどうかなんて考えますと実に奇妙な意識を抱くことがあるからです。これは話がちょっと横道にそれました。 それから、基礎的な教育マナーの問題でございますが、これにつきまして教員養成の過程で教えるべきかどうか。確かにこの問題は重大でございますが、私はさっき非常に簡単な例を挙げましたものですから、何だ、その程度なら教えられるじゃないかというふうに誤解されましたのはこれは私の至らぬところでございますか、確かに、私もあるところで先生方の集まりでこのことを力説したことがあります。そうしたら、その聴講の先生から長い手紙が来て、先生の言うのは全くもっともであるけれども、一体、同僚や先輩が教えられるか。第一、人が授業をやっているときにおれも授業をやっているんだ、そういう現実において、今他人の授業をのぞいたりなんかすることが果たして昔ほどいいかどうか。なぜむずかしくなったかというと、昔は師範の人たちは先輩、後輩の意識でかなり結ばれていたところがあります。ですから、先輩から怒られても「はい」で済んだのですが、このごろはなかなかそうはまいらなくなってきた、そういうことも一つある。第二は、こう言ったらここにいらっしゃる校長先生にさわるかもしれませんが、校長先生もまたちょっと言いにくくなってきている。また指導主事も言いにくくなってきている。やたらに教室をのぞいたりなんかすると怒られちゃうということもあります。そういう意味で、たとえば、御反対の方もいらっしゃるかと思いますけれども、主任制度なんというのが構想されたのも、そういう教育指導ということが欠けているという点が考慮されたのじゃなかろうかしらというふうに私どもは考えております。 そういうわけで、非常に細かいことぐらいのマナーでしたらそれはお互いに言いやすいということがあるかもしれませんけれども、やはり根本的な問題はちゃんと教えるべきではないだろうかというのが私の素人考えでございます。それで、研修ということを私やたらに強調しますので何か悪い印象を与えるかもしれませんが、そうではございませんで、教育こそまさに理論的な深さと実践が非常に密接に結びついたものだという意味で研修を強調しているだけでございます。
○藤本参考人 質問の第一は、教員養成の上の素地となり得るということについての確証があるかと、大変むずかしい問題でございまして、確証となりますと、私もそういう確証までははっきりつかんでおるわけじゃありませんですけれども、一つの専門領域に精通するということは教師として非常に大事なことだと思いますが、小学校の教師はそれだけではりっぱな教師とは言えないと思うのです。と申しますのは、学習指導のむずかしさというのは、小学校の段階ではその内容以上に、その指導課程なり教材研究なり、児童の発達段階あるいは児童理解というところに問題があるわけでございます。そういう点から言うと、現場を経験した教師が大学院へ行って、さらにそういった児童理解なり教育課程なり、あるいは指導技術というものをより深めて帰ってくることが現場において大いに裨益するところじゃないか。またさらに専門領域について詳しい教師が出てくることによって、校内における校内研修等のリーダーになって、校内の研究を高めていくという上に大いに効果があるのじゃないかというように考えております。 それから二番目の、現職の教師の研修について、喜んで出ているかということでございますけれども、これは東京都の例で申し上げますと、都立教育研究所で研修をやっておりますが、これに対する私の学校などの希望者はかなり多いわけです。ところが、希望があってもそれだけの収容能力がないためにやむを得ずその年は行けないという教師が何人も出ておりまして、これは私の学校だけではなくて、都内各学校において見られる姿だと思います。そのほか、教師の研修は、研究団体の研修とか市町村教育委員会の行っている研修とか、たくさんございますが、いずれも希望はかなりあるということを申し上げておきたいと思います。それから内地留学制度については、まだ私の学校で最近経験をした教員はおりませんけれども、これも希望者が非常に多いわけです。東京都の教育委員会としては希望の中からすぐって出しております。先ほどもちょっと触れましたけれども、一年間、東京都は長い方だと思うのですが、一年間のために、研究に取り組んでこれからというところでもう期限が来てしまう。非常に残念ながら、もう半年なり一年、せめて一年あれば研究が実るという段階で大概出てしまわなくてはならない。まして半年のものについてはそういう度合いがさらに強いのではないかと思います。 以上でございます。
○山口参考人 二点お答えいたします。 一つは教員の資質向上の問題でございますが、最初に中村先生から御意見がありましたように、師範学校の人は非常に視野が狭いということが、戦後の教員養成大学になりましても世間では言われているようでございますが、戦後は大分違いまして、私ども大学教師がびっくりするほどいまの学生や若い教師は視野が広いのです。問題は、専門職としての教師としての基礎的、基本的な知識の訓練、修得が非常にないがしろにされている。この点を何とか改めていかなければならないのじゃないか、こういうふうに思います。それは、現在給与が座布団式に積み重ねられた横割りになっておりますけれども、教師の中には、一生、校長や教頭にならなくてもいい、子供がかわいくてしょうがない、教室で授業をすることがもう生きがいなんだというタイプと、それから教頭、校長のように大変管理運営に向いている方と、そして研究が好きな人と、三つありますから、縦割り三本立てぐらいはひとつ考えていただきたい、こういうふうに思います。そうしますと、今度できます新しい教員養成大学の性格は、ざっと伺っただけでございますけれども、将来の予想としましては、その研究型、授業研究のベテランがそこで育ってきて、現場に戻って、同僚教師をそういう面でリードする、あるいは貢献することになるのではないか、こういうふうに私は感じます。 それから第二点の、小学校教員は、中学校教員もそうでございますが、私は、名門の大学を出ているとか、学歴がいいとか、いい資格を持っているとか、そういうことよりも、初等中等の教員の一番大事なことは何といっても神経質でないことだと思います。神経質な教師はやはりだめです。それから魅力のない教師はだめです。子供たちが絶対ついていきません。そういう意味で、大変むずかしい、制度化なんかはとてもできないような、いわば人格形成、先生のおっしゃる教育愛、使命感、こういうものを何とかつくっていきたい。これは立法府で立法なさる場合、行政当局が行政施策を施される場合のいわば根本に、いつもその問題を、なかなか明確にはできませんが、その問題をひとつ腹の中に置いて施策や立法をお進めいただきたいというふうに私はお願いいたします。 最後に、特殊教育、養護学校の経験を教育の原点としてすべてに経験させろということになりますが、これは制度上直ちにということはなかなかできないと思いますが、この問題もまた、五十四年養護学校義務化を迎えておりますので、そういう姿勢で、国民全体がそういう気持ちで、日本の教員の資質向上の一つの重要な手がかりとして進めていただくような世論を起こしていただきたい、こういうことでございます。
○山田参考人 特に御質問がなかったと思いますけれども、簡単に申し上げます。 第一に、最初お話のあった既設大学の制度的欠陥を改めることを並行的に検討することを強調したと思いますが、私が意見を申し述べてきたことと全く一致する点であります。その際、須田先生がおっしゃった、教育学部の充実を前提とするということはもとよりですけれども、私は、大学院設置ということに限って言えば、先ほどから申しておりますように、教育系大学の大学院の審査方針を、レベルを下げるのではないけれども、よほど柔軟なものにしていただくことが非常に大事ではないかと考えます。 第二に、新大学が効果的に機能するであろうか。効果という問題にお答えするのではありませんが、もし現職教育の機会が新大学等に限られているということになりますと、新大学の修了者に目に見えた特別の処遇をしなくても、教育の現場に帰ったときに彼らか与える影響ははなはだ大きいものがある。そういう観点でも、既設大学の同時整備が伴わないと混乱があるのではないか、こういう点を考えます。 第三に、教育実習の意義や、特殊教育の場を踏ませることの意義については御指摘のとおりでありまして、具体的な教育現実をさまざまな形での大学の学問探求と結合させていくということについては、既存の大学でも自主的にさまざまな形で努力してきております。 以上であります。
○有島委員 ありがとうございました。
○唐沢委員長代理 曽祢益君。
○曽祢委員 本日は諸先生、本当にお忙しいところ、貴重なお話をいただきましてありがとうございます。若干、自分の見解を交えながらさらに伺いたいと思います。 〔唐沢委員長代理退席、藤波委員長代理着席〕 私は一昨日の文教委員会の本法案の質疑の際に文部大臣にも申し上げたのですが、今回の法律改正による上越並びに兵庫の教員大学並びに教育の修士課程の大学院設置に、私は一概に反対ではない、いろいろなアプローチがありますから。日本の戦後三十年の学校、そこには開放的ないい点もあるし、まだ整理が十分にできていない点もあるので、したがって私は、一つの先導的試行みたいなものかもしれませんので、こういうものをやってみるのに一概に反対はできないような気がいたします。 しかし、文部省にも言ったのでありますけれども、どうも文部省の大学問題あるいは学校の先生の養成、免許等の問題を見ておりますと、上積みの新しいことはやるけれども、一番大きな大部隊の方はいささかほったらかしているというきらいがあるのではないか。そういう意味で、特に本日の御意見は、六人の先生方の中で大体二つに分けるならば、教育関係の大学のあり方としてこういうような、ぽかんと、と言っては悪いかもしれぬけれども、教員養成のための学部とそれから大学院を持った新しい大学をつくる前に、全体の教育大学の学部と修士課程とのあり方等を考えた方がいいのではないか。程度の差こそあれ、やや批判的な方々、それは主として大体大学の方々ですね。もう一つの方々は、小学校等のレベル、現実から見て、むしろいまの教員の養成、資格等の問題から見ての御注文、こういうふうに分けられるのではないかと思うのです。西先生の場合は大学であるけれども、御家庭の構成等からいって、大学の先生ばかりではなくて、御家族の多くの方が教職をなさっておられたり、また広い意味での国民的な、親御さんの視野からも物を見たお考えのように伺ったわけです。 そこで、若干のアプローチの違いはあるけれども、大田先生、須田先生、山田さんのお話の中にも、特に大田、須田両先生の場合には、表現の若干の違いがあっても、やはり先生たる者は学者としての研究心というか魂というか、こういうものを持っていなければならぬ。私は全くそうだと思うのですね。この点は、小学校の先生を主に考えていられる藤本先生や山口先生でも同じだと思うのです。むしろ、ぼくら昔の旧制の師範学校の先生たちに教わった方ですけれども、昔の先生は魂を持っていたですね。それは全部が研究家として学者の魂かどうか知らないが、学問に対する情熱と、人となりのすぐれた影響力というものは大きかった。ですから、別に養成の方からいってあるいは免許の方からいって、教えるテクニックを無視してはいかぬ、そういう方面の修得をしてもらわなければいけない点はわかるけれども、基本として、特に大学院に関してはなおさらのこと、ディシプリンを越えたような自分の学というものを持っている、そのくらいの者でなければ小学校で教える先生としても実は足りないのだ、こういう意味のお考えについては、私は、大田先生、須田先生と全く同感でございます。だから私は、実務家的の家庭の親の希望を直接に受ける政治家的立場から見ますと、学校で教わる生徒の立場、それを持っている親の立場からいって、日本の先生、特に幼稚園、小学校の先生の質の問題、それに対する教養、養成、それから資格認定あるいは実習等々考えると、これは開放はいいといったって無責任じゃないか。いささかケーオスという感じがしてならないのですね。だから、こういうふうに開放したのはいいけれども、やはり一つの先導的試行でいいものをつくって影響を与えていって、内容をよくしていくということも私は非常に必要なんじゃないかと思うのです。 特に私が指摘したいのは、何といっても小学校、幼稚園の先生こそ本当にもっともっと勉強してもらいたい。資格を与えるについても、いままでやってしまったことを全部否定するわけではありませんが、開放はいいけれども、個人が方々に行って単位をぽんぽん取ってきてということでは本当はいけないのではないか。もうそろそろ教育専門大学という、言葉は悪いかもしれないが、教育系大学でインテンシブに、むろん自分の好きこのみもあるでしょうけれども、必要な単位を修得するという行き方ですね。あちこちから一つ一つ単位を持ってきて、それで単位を埋めていくというだけでは。だけとは言いませんけれども、これはやむを得ない臨時の体制であって、そういうものは、国の立場からいって、国会の立場からいって、それは何も官憲とか行政機関というのじゃありませんよ、学校のシステムの今後あるべきことを考える政治の立場からいっても国民の立場からいっても、もっと整理して、もっとしっかりしたパターンにだんだんレベルアップして、それを統一といいますか、必要なパターンにどんどん入れていかなければいけないのではないか。その場合にもう一つ私は非常に問題になると思うのは実習。ですから履修の単位も果たしてあれでいいのかということも問題になる。 〔藤波委員長代理退席、委員長着席〕 第三の問題は、これは先ほどの、魂と人となりが必要であると同時に、教えるのはやはりテクニックですから、教えるテクニックというものはやはり何といっても必要です。これはテクニックと言ってはいけません。だけではありません。しかし、本当に教えてみて、余りにも実習というものが低く見られ過ぎているのではないか。幼稚園、小学校で四週間ですか、中学校、高校で二週間。しかもその二週間たるや自分の母校へ行って適当に参観してきたらいい、そう言っては悪いけれども、そういうくらいの全く形式化しているとすら言われているのですね。そんなことでよかろうはずはない。もっともその程度だったら恐らく各教育委員会で選考の際に必ずしも丸をつけないでしょう。十七万人のいわゆる資格はあるけれども、採用される者は四万人、おのずとそこにふるいかかかっていることは認めますけれども、それで制度的にいいということではない。まことにお粗末だ、全くアトランダムですね。それではいけないので、特に実習というものにもっと重きを置いて、これは厳重に、と言っては悪いですけれども、本当に実習をやらせる。 そうなってくると、少なくとも教育系の大学でぴしっとやるということとも関連はしてきますけれども、学芸大学の付属小学校には、有名校扱いで子供がたくさん受けにくる、どう選抜したらいいかということをやっているが、それ以外は実習の協力校がほとんどなくて困っているといったような状態、これは一日も放置できないと思いますね。教育系の上積みの、りっぱな将来の小学校の先生を養成するための修士課程、結構ですよ、それは大いにやらなければならない。しかし、この資格付与なり試験等のことをほっておいていいはずはない。先ほど、たしか西先生のお言葉だったかと思いますけれども、一遍資格を得ても、三年か五年目に資格審査をする。その間は必ず研修させてあげる、そういう機会を与えるけれども、資格の検定は三年、五年ごとにやる。これは安全ドライブのためのドライバーのあれと同じことで、必要欠くべからざることだと思うのですね。安易なと言っていいくらいの実習がほとんどで、やったかやらないかわからないで先生としての道につけていいというのは、やはりわれわれの責任としては、国民に対し、父母に対して申しわけない感じがいたすわけであります。 もう一つ、これも一昨日、私、うろ覚えで大変恐縮だったけれども、私が若いときにフランスの大学に一年ばかり行ったことがあるのですけれども、そのときの経験からいって、何しろ学校の先生というものは、もっともこれはどの程度だかはわかりません、必ずしも小学校ではなく、リセクラスの先生かもしれませんが、これは普通の大学卒業生じゃないのです。いわゆるフランスのグランゼコールを卒業して、エコール・ノルマン・シュペリウールの三つのグランゼコールの一つに、要するにノルマリアンが、だからドクトゥールじゃない、もう一つアグレジュの資格を取った人くらいが、恐らくこれはリセの先生だとは思うのですけれども、もう少し、下級の学校の方じゃないかもしれませんが、そのくらいの、本当のフランス人の何というか花の資格の人が教師になる。それでもやはり、六八年でしたか、パリの大学紛争が起こることもあるのですけれども、いずれにしても、それくらい先生の位置というものは、学問のレベルにおいても、それから国民の何といいますかその人に対する評価においても、非常に高いものだということを教えられた経験もあるわけです。 以上のような見地から、やはり日本の教育の現状から見て、文部省の今度のこの企図は私は滑り出させていいと思うのですけれども、そうだとすれば、一般の教育系大学がこのままでいいということにならないし、ことに幼・小を中心として、まずそこに重点を置いた学校の先生の養成に関する改善をすべきことをどんどん、一つ一つ手をつけていかなければいかぬような気がいたします。 質問の前に自分の意見を申し上げて大変恐縮でございますけれども、恐れ入りますけれども私の方がお願いした関係もあるので西先生から先にお答え願えますでしょうか。いま申し上げましたこと、よろしゅうございますか。それから大田先生、須田先生、藤本先生、山口先生、山田先生、御感想でも結構でございますけれども、お願いいたします。
○西参考人 ただ傾聴しておりまして、これでお返事にしたいと思いますか、全く賛成でございます。
○曽祢委員 先生、伺ったのですよ。ことに養成に関して、時間の問題ばかりじゃないけれども、資格付与に関する条件等についてもう少しきちんとした、厳しいといいますか、条件をつけなければいけないのではないか。あるいは免許を三年、五年ぐらいで更新すべきだというようなことについて、先生の御意見を伺いたい。
○西参考人 全くお説のとおりだと思いますけれども、非常にむずかしい問題だと思いますし、特に私がまるで、これを誤解されると困るのですが、短期大学の学生諸君の教員免許状が少しいいかげんだなんということを言いましたけれども、これを短期大学から取り上げるとかなんとかということになりましたら、これは医師税制の改正と同じくらいで、文部大臣の首の一つや二つは飛ぶんじゃないかと思いますので、長い——長いと言ってそうゆっくりもしていられないかもしれませんか、皆さん方で知恵をお出しくださって、改正の方向に行ければなお結構だと思いますが、私としてもなかなかむずかしいのじゃないか、そういう感じしかいまは持っておりません。
○大田参考人 賛成を申し上げる部分も大いにあるわけですが、ちょっと一つだけ申しますと、ドライバーにたとえてのお話がございました。教育をする教師というのは、人生と学問に対する問いをいつも持ち続けなければならない。しかも新鮮な問いを持ち続けなければならない。そういう新鮮な問いを維持することが絶対不可欠な条件であるような教師に、三年ごとにどの程度のあれだというふうな形ではかっていくというのは非常にむずかしいのではないか。そうではなくて、むしろ教師が生きがいを持てるような条件をつくるというところに国民全体が関心を持たなくては解決がつかない問題だろう、これが私の見解なんです。
○須田参考人 私もただ拝聴しておりましたので、余りまとまったことを申せないかもしれませんけれども、感想を私一つ申し上げますと、いまの教育学部の現状を、そんなにたくさん知っているわけではないのでございますが、見ておりますと、日本人は大変勤勉でございまして、取れるものならどんな免許でも取ってしまおうということがいまの教育学部の先生づくりをある面で混乱させているのじゃないか。小学校課程に入りながら、中学校の教師の資格も何の教師もというので学校の中を飛び歩いている。これでは自分を見詰める時間がない。だから、むしろその面での指導というものが大学でもっとあってしかるべきじゃないか、このことが一つでございます。 それから、いままでの教育学部の状況を見ておりますと、どこの学部でもその学部の後継者というものはその学部がつくっております。ところが教育学部に関します点では、これは最初は教育学部が師範学校から脱皮をいたしまして、いままでは学問をやらなかったから学問をやりなさいということをさんざん言われて、そうしてその学問をやる人というのは師範学校にいないからというので、専門の教育学を修めた方あるいはほかの学部の方が来て一生懸命やっておられる、そういう状況がありますために、そこで後継者を養っていくということよりも、何かここでは追い立てられたような状況がある。ところがいまになって、そんなに専門を深くやらなくたっていいのだから、一般を広くやったり実践をやらなければいけないというように周りから責めるのは私は大変気の毒なような気がする。もう少し教育学部が落ちついて自分の後継者を自分の手で養成できるような、そういうゆとりを先生方の方も持つ。学生もいま申しましたように自分をよく見詰めて一つの道へ進むような、そういうことができたらと思います。感想でございます。
○藤本参考人 私も自分のところへ質問の矢が飛んでくるとは思っておりませんでしたので驚いたわけでございますが、私が先ほど申し上げましたことについて舌足らずの点があったように思うわけでございます。それは、小学校の教師だから学問的なものは浅くてもいいのだということは決して申し上げているわけではございませんでして、それも先生かおっしゃるように深くなければならないという前提のもとに、さらに小学校では児童理解とか教育技術というようなものが特別に必要なんだ、中学、高校〜違う大事な点じゃないかということで、先生のお説とその点は全く一致しておりますので……。 以上でございます。
○山口参考人 曽祢先生から御指摘いただきました社会的信用を高めなければいかぬ、国民的な信用を高めなければいかぬ、全く同感でございます。それは、実は四年前に文部省の海外教育事情視察団の団長を仰せつかりまして、一カ月でございますが、そのうちポーランドに一週間、それからオランダに一週間、つぶさに見てまいりました。ポーランドでは、十年教師、それから二十年たった場合に、優秀な教員には何千ズロチという報賞制度をとっておりました。それからソビエトは、モスクワに三日間しかおりませんでしたので文献で知るだけでございますが、勲章制度をとっております。日本にはこれはとても私はなじまないと思います。ところが日本は何をやってきたかといいますと、高度経済成長時代からずっと金で始末をつけてきたと思います。金で始末をつけるのではもうだめで、石油ショック以来転換点に立っておりますので、先生のおっしゃる国民的な信用、社会的な信用を高める、それに生きがいを設けるべきだと思います。学校の社会、教員社会といいますのは大変狭くて、ピラミッド型になっておりまして、先ほど中途半端に申しましたが、三本立て給与案というようなことを私が考えますのは、差をつけない。授業が熱心な先生、授業のうまい先生、管理運営にたけた先生、研究職、これをみんな平等にしたらいいんじゃないか、こういう考えでございます。 以上でございます。
○曽祢委員 実習について何かございませんか。実は、これも私の過去のあれで恐縮なんですけれども、あなたの小学校の生徒をやっていたのです。その時分にはむろん青山師範と言ったんですが、その付属小学校の生徒ですね。それで教生といいましたね、いまでも教生というのですかね、学校を卒業をしてこれからもう教師になるというような人が、あれは何週間ですかね、少なくとも私は二週間や三週間ではなかったと思うのですけれども、本当に教師対生徒という関係かできるくらいみっちりと教え、教えられたものですよね。それは全部それをやれというのは無理かもしれないが、少なくとも自分の学校で参観してこれで済ませたというようなことは断じてあってはならないわけで、実習を通じて子供と触れ合う。学問も大切だけれども、特に初等教育の先生たる者か実践に入るすぐ前の実習というのは、そのぐらいやはり時間もかけるということが必要だと思うのですが、その点、加えてお答え願います。
○山口参考人 師範時代は、聞くところでございますと二カ月ぐらいやっておるようでございます。現在は東京学芸大学は、一般、全国的なレベルから見ても大変充実しております。中身としましては、先生おっしゃるとおり教育実習生、教生が指導の先生、指導教官と一生つき合うようでございます。感激の手紙もよこしております。それで学生に申しますことは、やはり実力をつけることか第一だ。基礎的、基本的な知識、指導要領に言われている程度の問題は確実に自分で間違いなく実力をつける。その間に指導教官との間の人間的な触れ合いが一生続くような方向で進めていきたい。教育実習はそういうふうに考えております。
○山田参考人 それでは一言申し上げます。 自分の学問を持っていることが大切である、初等教育の教師こそ勉強してもらいたい、こういうお話、強調されましたか、そのお話を聞きながら、私、別に用意した資料に、古い資料なんですが、大正十三年の文政審議会で沢柳政太郎博士が、「小児ノ病気ヲ治ス所ノ医者ハイイ加減ノ考デ宜イト云フコトノ言ヘナイト同ジヤウニ、此小学ノ幼年級ヲ担任スル所ノ教師ハ如何ナル学力ガアッテモ如何ナル素養ガアッテモ決シテ有余ルナドト云フコトハ言ヘナイ」こういう主張をされているのを思い起こしておりました。 二つ目に、実習の意義を強調されましたが、その重きを置くということをどういうふうにやっていくのか、これが問題であろうと思います。特に現在、実習校の確保とかいろいろ困難な問題を抱えている中で、時間を長くかけるということだけか問題なのではなくて、集中実習以外にも、たとえば教科教育、教育科学をこの教育実践とできるだけ結びつけたものにしていくとか、そういうことについて多数の教育大学学部が探求し、かつ悩んでいるというのが現状であるというふうに私は考えております。 以上です。
○曽祢委員 どうもありがとうございました。
○菅波委員長 山原健二郎君。
○山原委員 日本共産党の山原健二郎です。 きょうは六人の先生方に大変遅くまで御教示をいただきまして、ありがとうございます。 私の質問は二、三の点についてお伺いするわけですが、一つは須田先生に対しまして、先生の方で出されました教員養成大学の大学院の問題についてというメモでございますけれども、これは須田先生の私案ということで確認をしてよろしいでしょうか。
○須田参考人 教員養成制度特別委員会の委員長としての見解と、こう御理解いただいて結構でございます。
○山原委員 そうしますと、委員長の私見ということになるわけですね。
○須田参考人 それで結構でございます。
○山原委員 「説明メモ」となっておりますが、この説明はどこに向かって説明をするのでしょうか。また、それはすでに行われたと判断をしてよろしいのでしょうか。
○須田参考人 教員大学及びその大学院については、従来いろいろな御意見もあり、それから問題点もありましたので、そして国大協もまたこれに対する一つの懸念を持っておりましたので、そういうことに対する事情をどこかで委員会としてはなるべく早く出しておいた方がいいというのが、これは私個人の考えでございます。出せば必ず議論が起こってくるであろう。そういう考え方は少しいけないかもしれませんけれども、ただこのまま総会まで待って云々ということよりも、一つの見解を文部省が示した段階で、その見解に関連して私は答える形で、私のと申しますよりも、委員会の見解を述べておいた方がいろいろ議論の材料になって、事は次第に深まっていくのではないか、私自身はそう考えて、そうして何か発表の場を求めたのでございますが、私自身そういう発表手段を持っておりませんので、養成課の方にお願いして、文部省関係の、つまり文教関係のことに御理解の深い記者の方にお会いしてこういうことを申してみたいということで、私から申して設定してもらったものでございます。ですから、記者に話したのではございますけれども、私はやはり、開かれた大学をつくっていくということは、国民の一人一人がそれを知るということから始めなければならないと思いますので、そこで新聞記者にこのようなことを申したわけでございます。
○山原委員 そのお気持ちはわかりますし、またそのことによって多くの意見が出てくるということを期待された特別委員会の委員長としてのお気持ちはわかるわけでございますが、それがそれでは国大協の意思として確定をされていく、あるいは須田先生の委員長としてのこの御意見がそのまま受け入れられるかもしれませんし、またそれに対していろいろな意見が出てくるかもしれませんが、国大協としての一定の意思統一の道行きといいますか、大体いつごろまでにそういうものができ上がるか、その辺の見通しをお聞かせいただきたいのです。
○須田参考人 先ほどもちょっと申し上げましたように、四月十八日でございますか、委員会を開くことを設定いたしましたのは、国会の審議があるいはそのくらいのところに、私なりに考えまして、終わるのかもしれない。そこで、どういう御議論が出るかによって、それを踏まえて私どもまた審議をしてまいりたい、こういうようなことで一応日は設定したわけでございます。それで、いまいろいろ御審議の様子も私承りましたので、これはその委員会に諮りまして、このままの形で総会に諮って皆さんの御賛同を得るものとは私は思っておりませんので、委員会としての見解を出していただき、その委員会としての見解を出していただきますのにはいろいろな国立大学の御意見を集約して、そして委員会で取りまとめることもしながら委員会としての結論を出し、間に合えば総会に諮って、そして国大協の一般の意見にしてまいりたいというふうに思っております。
○山原委員 大変恐縮でございますけれども、国大協としましてもいままで一定の批判をされてきたわけでございますが、一月二十日にこの委員長さんのメモが出ました。いまお話しのように、このメモが一般的には、新聞記者の方に発表されたわけですけれども、ここで国大協のいままでの懸念が、単に委員長さんの懸念が晴れるということだけではなくて、国大協としての態度がここで評価の方向に変わったという時期、それが一月二十日、しかも国会には予算が提出をされる時期、またそれが文部省からの法案提出の一つのきっかけになっているのではないかということで、私どもそういう意味ではいささか面食らうと申しますか、非常にその辺の動きというものについて懸念をしたわけです。一般的に民主主義の原則から言いますならば、特別委員長には多くの権限が与えられておるかもしれませんが、しかし、特別委員会というものが存在する以上、そこの合意なしにこういうメモが新聞記者に配られて、それが法案提出のきっかけになる、あるいは国会における審議促進の要因となるということになりますと、大変私どもとしては不愉快な思いがするわけでございますけれども、率直にお尋ねしますが、そういう点ではどういう御判断をされたのでしょうか。
○須田参考人 大変申しわけないのですが、私、余り国会の事情をつぶさに存じませんので、どういう手続でこの法案がいつごろどういうふうにかかるかということを実はよく了知していなかったわけでございます。そこでそういうような効果をねらったものではございません。
○山原委員 恐らくそういうお気持ちではなかったと思いますので、それ以上この問題を申し上げませんが、もう一つは、いままで管理運営の面につきましてもさまざまな点で、たとえば中教審で言われましたような上級教員をつくるとかいうような懸念に対してもずっと長い期間にわたって批判をしてこられた国大協が、この時点で評価というふうに委員長がお変わりになるには、文部省から、先ほどもお話がありましたように資料が提出をされたということでございますが、その資料、実はきょう私どもは文部省からいただいたわけでございます。この資料と、私どもが国会として文部省からいただきました資料との間にはかなり重要な部分で食い違いがあるのです。たとえば、現職教員がこの新構想大学を受験します場合に、願書提出に当たって教育委員会の同意が必要であるというのは、皆さんにお配りになったこの資料の中にはございません。それが出てくるわけですが、この間に委員長さんの方には、こういう教育委員会の同意が必要であるなどということが説明をされたのでしょうか。少なくとも文章上はないのですが、その辺の真相はどんなになっておったのか、お伺いしたいのです。
○須田参考人 ただいまの御質問の点でございますが、特別委員会といたしましても、いま御指摘いただきました管理運営の面であるとか入試に関しましてはやはり関心を非常に強く持っております。そこで、文部省からこの資料に基づきまして説明を受けました後に委員あるいは委員長から質問をいたしました。 それで、いまお尋ねの入学手続と申しますか、入学試験についての点でございますが、この点だけについてそのときのいきさつを申しますと、説明がありました後に質問が委員の中から出まして、そうしていろいろな点が確認されていったわけでございます。たとえば推薦入学については現在のところ準備室では考えていない。特別に配慮するというのは、単なる学力試験だけをやって人を入れるのじゃない。これは非常によくわかるわけでございます。いまの大学でも修士、博士の入学試験というものは単なるペーパー試験ではないのは御存じのどおりでございますから。そういうような話もございまして、しかし、何といっても従来からこの大学の受験その他についての方法が人事管理につながる面があるのではないかという危惧が非常に強いのだから、それがないということをここで明確に示してもらう必要がある。細かいことよりも、そういうことを考えていないのだ、それならばどういう手続でこのときに入学者を取り扱ったらいいのかということを当然ここで御質問がございました。 そのうちの一部分だけを申しますと、問題はこういうところにもありました。一般の人が受験して、受験した後に何か手続をするのか、受験前に手続をするのかというような点の御質問も委員の中からございました。しかし、これは大学人の委員会でございまして、それぞれの大学では修士なり博士なりの入試というものはどのようにやるかはよく御存じでございます。これは午前中にあるいは申したかもしれませんが、所属長の承認、許可あるいは同意をもらって、そうしてこの受験をするというのが一般のいままでのしきたりでございますので、皆さんの頭の中にも私の頭の中にも、そういうことは当然あるのだということは考えておりました。それで、いまのは受験手続でございますから、当然これは入試前に行われるものでございますね。その辺のところで文部省の側の説明でございますが、文部省の説明の中に、入試については教育委員会の了解を得ることが必要であるというような言葉はここで出ております。そういうことが必要であるということはおっしゃっておられます。しかし、皆さんも、やはり身分を保有したまま最終的に学生生活を続けるのだから、いずれかの時点でそういうことは当然行われることであろうというお考えがあったのか、それはそのままで、それに対する深い質問なしに通っております。これがそのときの状況でございます。
○山原委員 先ほどのお話で、入学手続が人事管理につながらないことということがございましたね。それは一つは推薦という言葉などもありましたが、それが今度は教育委員会の同意。その教育委員会の同意というのは、どの教育委員会か、これは文部省の統一見解を出すということになっておるわけですけれども、先生の先ほどのお話の中でたとえば所属長のというお話がありましたが、これは校長さんのことを示しておるような受け取りを私はしたわけです。それと違って、いわゆる行政機関といいますか、県の教育委員会にしましても任命機関が同意を与えるということが願書提出の前提になるということになりますと、これはかなり重要な部分ではなかろうか。要するに、大学が受験生を受験させてそれを選択するのは大学の自治に関する問題でありますけれども、そこに行政機関の恣意が動くということになってまいりますと、これは大変重大な問題であります。そういう意味で、文部省の説明の中にそういう、同意という言葉であったかどうか知りませんが、手続上の問題が出て、質問をされる者もなかったというお話、そういうことも聞きながらなおかつ委員長さんとしてはこれは評価すべきものというふうに御判断をなさったわけでございますか。
○須田参考人 いまはその部分だけを取り上げて申しましたので、その部分が非常に強く御印象に残ったかもしれませんけれども、質問の流れの中で出てきました教育委員会という言葉はそう強い響きを持っていなかったんじゃないかと思います。それよりも、その言葉が出る前に、人事管理には続けないようにいろいろ工夫をしてまいりたい、またそれについて意見があるならば申してくれというようなこともありまして、私も私見を申したりなどいたしたわけでございます。そういう中で出てきておりますので、そう強くこれを必須の条件とするというような印象で私たちは受け取っておりません。私の受け取り方が悪かったという御指摘はあるいはあるかもしれません。しかし、私は前から申しておりますように、この大学院は一般のいままでの修士課程の大学院と本質的に変わるものじゃない、私はこういう理解を持っておりますし、それから、それならば入試についても同じような手段方法がとられる、それは従来の慣習によってこれこれであるからと、こういうふうな理解でございます。その辺、言葉でございますから、流れの中での言葉が、出ないと言うとうそになりますし、それが出て強く響いたと言うとこれもまたうそになりまして、大変むずかしいのでございますが、どうぞ御了解いただきたいと思います。
○山原委員 私は、文部省の資料の中にそういう文章といいますか文言が入っておれば、もっと討議の仕方が変わってきたような気もするのです。ところが、私どもいただいているこれはもう制度化されていまして、「この場合、現職のまま在学することを希望する教員は、出願に際し、教育委員会等の同意を得るものとする。」こういう明確な言葉が出てまいりますと、これは委員長さん、そこまで受け取っておられなかったと思いますが、私は文書で受け取りましたから強烈に感じているわけです。そうしますと、この文書はもうごらんになっておると思いますが、いまの段階ではこの同意の問題についてはどういうお考え、評価をされておるか、一言お伺いしたいのです。この点、大田先生、またこの問題に関係してまいりました山田先生にもこの同意の問題についての見解を簡単に伺いたいと思っていますが、先に須田先生の方からお願いいたします。
○須田参考人 それは先ほども申しましたように、入学試験の選抜、入学者選抜の手続というものは大学が決めるものでございますので、こういう言い方はあるいは不謹慎かもしれませんが、文部省のお考えがどうであっても、これは大学の主体において決めればよろしい問題だ、こういう私の理解でございます。それは当時から現在も変わっておりません。
○大田参考人 こういう問題は非常に微妙な問題でございますから、私の希望から申しますと、やはり国大協と文部省の間に一種のネゴシエーションというか、その部分についてきちんと文書を含む交換を要するような事項ではないかと思うのですね。それを口頭のやりとりでもってという傾向が強いように思うのですけれども、かなりネゴシエーションとしてのはっきりした交渉関係といいますか、そういう意味の協議をぜひやっていただかないと、われわれ、こういう微妙なやりとりなんていま初めて聞くわけでして、そういうふうにあっていいのですかね。大学をつくるという場合に、しかも大学の自治の問題を考えるというときに、いまここで初めて聞かなければならないとか、初めて見なければならないという、重要な問題がそういうことになっているということは私は非常に残念に思います。
○山田参考人 先ほど須田先生の説明されたとおりでありまして、私も記憶だけで、そのときのテープを聞き直したわけでもありませんが、そのとき配られた文書に基づきまして話し合いの中で、人事管理者は学力について評定をする立場にはないのであるから、大学の行う試験に合格した者について推薦をするのである、こういう話し合いが基調であったというふうに理解しております。その話し合いの中で、これも先ほど須田先生から御説明ありましたが、ただし受験に際して所属長の了解を得ることは必要だろう、こういう話が出たことは確かでございます。私はその点について厳密に考えておりませんでしたが、いずれかの時点で所属長の了解を得ることは当然必要なことである、こういうふうな受けとめ方をしておりました。 以上でございます。
○山原委員 私どもも、現職の教員が報酬をもらいながら二年間にわたって研修するということになりますと、全く思いつきのままではいかぬとは思っていますけれども、しかし、大学の側からするならば、多くの志願者に受けてもらって、その中から、大学の教育の構成を考えて入学者をとる、これはすべて大学に任されておる問題です。たった二百人で、二つの学校ができたって四百人ですね。仮に文部省はこれから十校にふやしたとしても二千人です。全国百数十万の教員の中で、小学校だけとすればそうでもありませんけれども、しかし各県に割ってみると、私は高知県ですけれども、実際一人か二人か、三人程度のものなんですね。それが受験をされ、合格していくということを考えますと、そこでたとえば十名受ける、二十名受けたときに、それに対してここでチェックが行われてこないという保障、歯どめは全くないわけです。そうなってきますとそこで行政機関の恣意が動く、ということになりますと、これはいままでの大学のあり方から考えますと非常に重要な部分を含んでおると思いますので、私の考えとしては、受験はする、そして合格をした場合に、率直に言って事務的な事務処理でいいと思うのです。それは後の人事配置とかいろいろおっしゃっていますけれども、そんなものは技術的に幾らでもいまの県の教育委員会でできるわけでして、そういったことを理由にしてそういう重要な部分に、しかも制度化するということはどうしても納得がいかないものですから執拗に須田先生にお聞きして、申しわけございません。 それからまた、私どもは、国大協のいろいろな御研究、またそれによって出られた結果については、これは尊重しなければならぬという態度をとっていまして、この前の入試センターの場合も、国大協のせっかくの長い検討の結果の御決定でありますから、ついに各党一致してつくりました。しかし、何しろ将来にわたっての教員、しかも現職教師を養成するという重大な問題が、ただ単に口頭で、大学局長いらっしゃいますけれども、特別委員会へ行ってこういうお話があった、あるいは課長が行ってお話があった、これは国会では全然問題にならないことです。どんなお話をなさろうとそれはまさに雲散霧消して、何の資料も私たちにはありません。だから、私の大事にするのは、このいただいた文書、これで論議をしなければ今度の新構想大学のイメージがわいてこないという面があります。管理運営の面でも、皆さんに差し上げたところにはいままでの法律と変わるものではないという書き方をしておられますけれども、私どもいただいたところでは、「運営について学外の教育関係者等の有識者の意見を求めるなどの工夫を図る。」こうなってきますと、またこれが筑波大学の参与会とまではいかなくても、参与の問題とか、そういう制度化の問題が出てくる。実際、いまの大学が地域社会の人たちの意見を聞くなんてあたりまえのことなんです。それはどんなやり方でもできるわけなんですね。それを参与などというものに制度化していかなければならぬのかということになってくると、これは相当論議をしておかなければならぬというような二つの面から、私は最初申し上げましたように、須田委員長のこの文書につきまして私なりにまた逆の意味で懸念を持ったわけですが、須田委員長の方も、こういう文書が明確になってきた場合に、御自分のお考えをいま御発表になりましたのでその点よくわかりました。 その次に、一つは、今度の新大学の場合ですが、資質能力の向上ということが出てくるわけです。これはもちろん当然のことでございますけれども、しかし、先ほどからも各委員の方が御質問なさっておられますように、ではこの新大学でなければ資質能力の向上はできないかということにもなってまいりますし、また一面、いままでの既存の教員養成大学では資質能力の向上というのは不十分であったのだ、だから新しいものをつくるんだというふうに展開をするのか、その辺がどうもイメージかはっきりしないんですね。だから、今度の新構想大学をつくる必要、必要性があるのかということすら、審議しているうちにこの胸の中にわいてくる疑問でございます。したがって、これをどうするかということですが、私どもは文部大臣の御説明を聞きましても、もちろん既存の大学についてはこれを充実していくことが当然のことでございますというお話は聞くのです。お話は聞くけれども、現実に出ておるのは愛知教育大学に大学院をつくるという問題、それから先に、では各県にありますところの教員養成大学にどういうふうな現職教育、養成できるような体制をとるかというような展望、プラン、計画というものがないことには幾ら言われたって信頼できない。しかも、この二つの大学に膨大な金が投入されていく。いまの文教予算の枠というものがそれほどむちゃくちゃに増大できるという情勢にはないと思うのですね。そうしますと、この二つの大学に相当のお金が必要になってくる、しかも育てるのは当面、二百名、二百名の四百名という、そこに莫大なお金が投入されていくことは、既存の大学のそういういままで三十年間にわたって養成をしてきたこの実績あるいは経験というものから要求をしてきたことが、今度は逆に押さえ込まれていくんじゃないか、またここで教員養成の面で逆のマイナスが出てくるのではないかという心配をしておるわけでございますが、この点についてどのようにお考えになるかお伺いしたいのです。これも須田先生、大田先生、また現職で教員養成大学に勤めておられる山田先生の御意見を、もう時間がありませんが、一言ずつお伺いをしたいと思います。
○須田参考人 現職教育ということよりも、修士課程でございますから、繰り返して申しておりますようにここは学問を探求する場である。そういう修士課程にいままで日本ではどのぐらいの人間が入っていたかと申しますと、御承知だとは思いますが、大学卒業者の五%ということで、四十年以来大体その線で来ております。博士課程は一%という線でおさまっておりますが、これは諸外国に比べますと大変低い線でございます。そうしますと、いま毎年教員養成学部を出ます学生がおよそ二万人、その五%でございますからまあ千名ぐらいでございますね、これが定着したときのあるいは修士課程の教育学部の学生かもしれない、これはわかりませんけれども。そうしますと、いま構想されているようなものがやたらにたくさんつくられるという、初めのときには私は非常に危惧を持ったんです。それからまた、ことに教科の現場での領域の研究、教科領域の研究、教授法教授その他のことを主体とした教師を集めるということは大変困難でございますから、そんなにたくさんできるということは私非常におかしいと思いました。 それから、これは第一常置委の方でこの問題を討議しているんでございますが、各大学に実は五十一年の秋でございますかアンケートをいたしまして、そうしてその中に教育学部からの御返事もあるのでございますが、これは先ほどもちょっと申しましたように、三十三の学部から新設の大学院を考えている。しかし、これをよく検討してみますと、学生をどれだけ募集して、現職教育とそれから卒後すぐ入学する者との比をどういうふうにするか、あるいは現職教育だけやるのかというような点も余り明確でございませんで、現職教育をやろうということが明確に出ていた大学は非常に少ないのでございます。そうするとほかの大学はまた別の意味でいろいろお考えになっている。 そういうような実情を考えますと、私としては、新しい形の大学院がこの程度、三つか四つ、それに旧制の方から現職が幾らか出てくれば、数字の上では大体修士課程の要望は満たされるものじゃないか。ですから、それよりも増して教育学部それ自体を強化していくことが教員の資質を高めることには欠くことのできないものだ。これは大学院だけでやるものじゃなくて、むしろ学部教育を徹底してよくやっていかなければいけない、そういうのが私の考えでございます。
○大田参考人 これはお答えというよりむしろお願いでありまして、私の手持ちの資料では、この新構想の教員大学というものがどういう意味を持ち、また既存の大学の充実によってできないのかというふうな疑問は私依然として残っておりますので、ぜひ今後の審議を通じまして国民の前にそれをわかるようにしていただきたいというふうに思います。
○山田参考人 いまの点については須田先生とちょっと、ニュアンスが違うと思うのですが、私は、既存の教員養成大学学部が現職教員を受け入れる手だてを持つことについて、個人的には、もっと積極的に検討されなければならない。そのためにも、既設の大学学部の整備、さらに大学院設置ということが促進されなければならないし、その隘路が取り除かれていかなければならない、こういうふうに考えております。
○山原委員 他の三人の先生方にお尋ねしなかったのですが、時間の関係で大変申しわけございません。どうもありがとうございました。
○菅波委員長 湯山勇君。
○湯山委員 先生方には大変遅くまで御苦労でございました。非常に貴重な御意見を拝聴いたしましてありがたかったのですが、もうここでなければ聞けないようなことだけお尋ねいたしたいと思うのです。 きょうの御意見の中で一番耳に残っているのは、須田先生の教員大学という名称は好きでないというこのお言葉、しっかり耳に残っておるんですが、これがもう何かすべてを象徴したような感じかいたしますので、その理由等はお聞きいたしません。一体どういう名前にしたらいいと先生はお考えになっておられるか、これが一つです。 それから、同じく須田先生にお尋ねしたいのは、神戸大学で先生のところにも教育学部がおありになるし、それから小学校教員養成の課程もお持ちになっていらっしゃる。そこへ今度また教員大学というのができて、そして同じような小学校教員の養成課程、それが来る。このことについて、これもずいぶん先生おっしゃりたいこともたくさんおありになると思うのですが、ここだけとお思いになるところだけ端的にお述べいただきたいと思います。 それから、あとの先生方にお聞きする方を先に全部聞いてまいりますからあしからず。 拝聴いたしておりまして、須田先生、大田先生、山田先生から、教員大学というのは大学院が中心でしょうから、大学院という以上は学問の研究、真理の追求ということを失ってはならないという御指摘がございました。これに対して藤本先生は、現職教員の研修を目的とする大学というものかあってもいい、欲しいということで、これははっきり御意見が分かれておりました。 そこで、このことと関連してお尋ねしたいのは、まず藤本先生ですけれども、現職教員の研修というのはこういう大学院という形でなければできないかどうかという問題が一つです。 それから、代表して大田先生からお答えいただいて結構なのですが、いま述べられている教育の特に実践面ということになれば各科教授の仕方ということが端的に出てくると思うのですが、主として、そういう各科のそれ自体の研究じゃなくて、文学の研究とか地震の研究とかというようなことじゃなくて、それの教え方というものが果たして大学院で真理追求の対象になるものかどうか、それだけの価値かあると考えられるかどうか。とにかく無限の真理を追求していくという対象にいまのようなものがなり得るかどうか、このことについてお答えいただきたいと思います。 それから三番目の問題は、仮にそれか真理追求の対象になるということになって、果たして今日、日本の大学、学者の皆さんの中で、大学院でそういうことの指導ができる先生か確保できるかどうかという問題です。たとえば藤本先生はりっぱな校長先生ですが、学科は何がお得意なのか存じませんけれども、とにかく東京都の現在おられる大学、大学院の先生で、この教科の指導については実地に指導もできる、子供たちの前にも立てる、そして本当に身につくような教科指導の仕方のできる大学の先生にお心当たりがおありになるかどうか。 それから、山口先生のところの先生で、毎年企業やいろいろなことで研究発表をしておられますが、たとえば理科の教授の仕方というようなことで、そういうりっぱな研究をして論文を出しておる先生がおありになるかどうか。山口先生に特に申し上げたいのは、文部省の古い履歴書をごらんいただきますと、かつて林伝次という教科書課長さんがおられました。この先生は埼玉大学の学長さんをなさって亡くなった人ですが、現に小学校でも中学校でも教壇に立って国語の授業をして、そういう指導をやっておられましたが、そういう先生がおられるかどうか。山口先生は教科書の調査官もやられたから、歴史の教育を小学校の教壇に立っておやりになって実際に御指導がおできになる方じゃないかと思いますけれども、その点、いかがでしょうか。 それから西先生、私ども若いときに「ドイツ語四週間」という本が出まして、四週間勉強すればドイツ語が達者になるかと思って、私も若いのにまかせてやりましたか、なかなかどうして、四週間じゃ読むことも書くこともできない。しかし、いま考えてみると非常に貴重なものであったと思うのですけれども、果たしてそういうものが学問として成立するものかどうか、お考えを聞かしていただきたい。 山田先生には、和歌山大学には村上四男という、地理ですか歴史ですかの先生がいますか、いまのように直接各教科の教授法について研究して、県内どこへ行っても指導しているという人がいるかどうか。ひょっとすると、せっかくスタートしても期待に沿うような教授陣の構成というのはなかなかできないのじゃないか。私の知っているところで申しますと、各教科の教授法等についてはなかなか人がいないですから、結局集中講義という形でよそから借りてくる、そういう形でしかやれていないという大学が多いのです。和歌山大学あたりはどういうふうにしていらっしゃるか。 いま大変まちまちにお聞きしたのですが、お聞きしたいことを一貫したいために失礼な質問になりましたけれども、それらの点についてお述べいただければありがたいと思います。
○須田参考人 名称の問題でございますが、御存じのように、高度工業化社会がそれにかぶせられて、情報化社会の相貌が非常に強くなってきた。したがって、それによって真理に対する考え方も変わってまいりましたし、工業化社会の影響を受けて分業、分化というものが非常に激しくなってくる。それに情報化社会が重なりましたために、情報がきわめて断片的になっております。そしてまた情報の寿命も非常に短いのが特徴でございます。このことは大学として考えていかなければならないことでございまして、そういう断片的な情報を統合するということかこれからの教育の一つの中心にならなければならない。ことに小学校教員を目標といたしますときには、常に言われておりますように、数多くの教科をどのように統合するかということが非常に重要な問題になってくると思います。ですからそういう意味合いで、この大学院の性格を明確にするために、私は統合教育大学院という名前がよいというふうに個人では思っております。——私、統合と言いましたか、総合の方がよろしゅうございます。統合というと非常に強い意味になりますので、総合教育大学院という名前を私自身は考えております。 それで、私の考えですから同じ文脈なのですが、兵庫県にこういう新しい大学ができることで影響があるか。これは当然あると思います。ですから、そこで起こる影響をいい影響に変えるように神戸大学としては受けとめていかなければいけないのじゃないか。これからできる大学院は開かれた大学院であるということがよく言われておりますので、そういう点では国民に開かれると同時に、神戸大学のような場所にあります大学は、これからは地域に開かれた大学であることか非常に大切な要素になってくる。地域と連動して、地域の状況を大学の中にフィードバックすることがこれからの大学に課された研究、教育に次ぐ第三の機能だと私は思っております。 そういう意味合いから、この大学ができましたときには、先ほどから出ておりますように、確かに教員を求めることがむずかしいならば、そこに何か連動した形での考えというものを出す。しかし、これはあくまでできました大学に寄っかかるというのではなくて、私なら私の大学が十分考えて自力でいける大学院をつくった後に、その大学院が連合する。すなわち、連合大学院ではなくて、大学院連合というものによって地域がまとまっていくことが必要なのではないか。初めから足らないから連合しようというのじゃなくて、それぞれ十分充足するようなものをつくって、その後に連合することによってお互いに補強もし合え、補完もし合え、そして強力ないいものができていくのではないか。そのような形で、もしできますならば影響をよく受けとめて、私どもの大学にも新しくできる大学にもいい効果を及ぼすようにできたらと、こういうように思っております。
○藤本参考人 現職教育は大学院でなければできないかという御質問でございますけれども、これは現職教育の程度によると思うのです。簡単な、あるいはそう深くない程度の現職教育なら、これは日常やっておることでもございますし、大学院でなくとも十分でさると思いますけれども、私の申し上げますのは、そういう軽度の現職教育ではなくて、もっと底の深い、奥の深い研修となると大学院でやるべきではないか。その一つは、現職の教育者に高度の研究、研さんの機会を与えることによって、現職者が研修意欲を燃やしてくるという一つの効果が考えられると思うのです。自分も大学院へ入って研究しよう、研さんしようという意欲をわかせるというところに一つの大きな効果が出てくるのではないか。また、修了者が現場に帰ったときに、現在の学校の研究は個人研究ではなくなって、大方が校内研修あるいはグループ研究等の姿を持ってきているわけでございますが、そういったときにリーダーとしてその役目を果たしていくという大きな効果も考えられるわけでございます。本人だけではなくて、周囲に及ぼす影響というものが二番目に考えられるわけでございます。それから実践的な教育研究の推進ということについても大きな効果を期待できると思うわけでございます。その他細かいことはまだたくさんございますが、以上のような観点から大学院の設置の必要性というものを強く感ずるわけでございます。 それから、二番目の御質問は非常に端的な御質問で、現在の大学教授で小学校の教壇に立って十分指導できるか。これは山口先生初め関係の先生方、大ぜいおいでのところで申し上げて大変恐縮ですが、いきなりはできないと私は思います。いきなり小学校の教室へおいで願って、さあ御指導くださいと言ってもできないと思いますけれども、そのことと、教授の先生方が教師に対して指導をする指導能力というものは別だと思うのです。たとえばボクシングの例で申し上げますと、トレーナーは必ずしもボクサーでなくていいわけです。ボクサーを育て上げるためのトレーナーであればこれは十分できるわけです。従来もそういう先生方がたくさんおいでになって、現場の研究に対して大いに裨益をしていらっしゃるということを申し上げておきたいと思います。 以上です。
○大田参考人 全体としてのよい教師像というものを大学あるいは大学院の一部局でつくるということは絶望的にむずかしいと思いますね。よい教え方などというものは深い意味における芸術、あるいは芸術よりももっと深いと言いたいくらいのものでございます。でありますから、一大学院部局というようなところでできるようなものではないだろうというふうに思います。 しかし、そうかといって大学院レベルで教育実践の研究が不可能かというと、そういうことはないので、教育実践の研究をある角度から大学院レベルにおいて研究することは可能であると私は思うのです。ただ、しかし、それは相当いろいろな学問領域に分かれて、そしてそれを教師がインテグレートしていくというような特別の操作を必要とするだろうと思います。そして、大学院あたりでその教育実践の質を高めようとするのには、自分はこの部分が欠落しているからここの学問部門を補おうというような選択において行われるわけですから、単にいまここで用意されている教員大学という部分だけでトータルなよい教師ができるとは思いません。特に各教科の場合におきましては、それぞれの一般大学の学部なり大学院、そういうところに分かれていく、そういう保障がなければやはりよい教師というものをつくれないと思います。
○山口参考人 義務教育の小・中学校と大学との関係は、先生御指摘のように従来からよく言われまして、大学の先生は教科教育専門の先生でも、理論は言うけれども実践はさっぱりできないということがよく言われます。しかし、実際に教鞭がとれるかどうかという問題は、先ほどおっしゃいました林竹二先生でございましょうか、宮城教育大学前学長……(湯山委員「伝次」と呼ぶ)じゃ、伝次先生は存じません。林竹二先生という、先年まで宮城教育大学の学長をしておられた先生は、東京の永田町小学校でも実際に授業をおやりになりましたが、これは例外的だと思います。私も小学校、中学校の免許状を持っておりません。ですから実際の指導は小・中学校の先生に任せますけれども、概して申しますと、小・中学校の先生は、実践はベテランでも理論化することが大変不得手。そこを大学の教官が理論化する、また探求した理論を小・中学校で実際に実践してみる。現に私どもの大学では毎月一回、小・中・高等学校、大学教官合同の研究会を持ちまして、そういう実践を理論化し、理論をまた実践化するということをいたしております。それから、この四月に着任しました付属小学校では、きのう始業式をやりまして、明日入学式でございますが、教官構成を見ますと、旧師範学校を出ましたのが大正十三年生まれの副校長と大正十五年の教務主任、あとは二十数人全部学芸大学卒でございますので、かなりそこのところが変わってまいる傾向にございます。ですから、実践と理論の統合と申しましょうか、そういうことをやっていけば、必ずしも大学教官が小学生や中学生を実際に教えなくても教育の資質向上には十分役立っていくだろう、こういう見込みを持っております。
○山田参考人 教育実践あるいは教科教育、教材研究を直接に真理追求の対象として研究をしていく、あるいは教育をしていく、そういう指導者が確保できるのかというお尋ねでございました。確かに御指摘のように、特に教材研究、教科教育研究といった分野で非常にすぐれた指導者を確保しがたいということは、現在どこの大学でも大きな悩みでございまして、そのことはただ単に教員養成大学学部の持っている問題というにとどまらず、これまでの歴史的背景、つまりそういった分野の研究者養成、後継者養成の政策、そういう深い歴史的背景ともかかわっていると思いますので、私たちとしましては、その問題については集団的に、文科の人も理科の人も芸能、体育の人も、私たちは国籍を持った研究者、教育者と言っているのですが、それぞれの専門に堪能な人が集まって、子供の発達や教材研究、授業の研究に従事していく体制づくり、これがいま一番大切なのではないだろうか、こんな議論をしばしば繰り返しているわけでございます。 教員養成の基本的な考え方の問題については、歴史的にも、アカデミーの研究というようなことに非常に傾斜をして考える立場と、もっと教育現場の具体的な実践の方にどちらかといえば比重を置いて考える考え方とが繰り返し議論をし、また欧米でもそういう議論の流れがあるわけでございまして、必ずしも一つの行き方だけで教員養成の行き方というのが決められてしまうということではないんではなかろうか。私たちとしては、アカデミックな研さんと職能的な教養とをどう統一して、それをすぐれた教師として育てていくのか、また現場のすぐれた教師になっていこうと努力している人々に対して大学がどう寄与できるのか、そのことを集団的に考えたい、そういう方向を模索しているということなんです。御指摘のように、教科教育分野でのでき上がった研究者、教育者がいるかと問い詰められましたならば、そのことについてはやはり現状では大変困難な問題があるということは事実でございます。
○湯山委員 非常に貴重な御意見をいただいてありがとうございました。 私が言いたかったのは、たまたま御答弁の中でよい教え方というのは芸術よりももっとむずかしいという御指摘がありましたが、そういうたとえがいい、悪いは別として、先生方おっしゃったように、一律にこうすればできるんだということが、もしそこで討議され、でき上がったものということになれば、それは初歩の先生、ごく出たばかりの先生の指導にはうんと役立つと思います。しかし、そのことが研究で、たとえば二カ年間大学院で勉強したからいい授業ができるようになるということの保証は絶対ないということを先生方にわかっていただきたいと思って申し上げたまでのことでございます。 どうもありがとうございました。
○菅波委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。 参考人各位には、長時間御出席いただき、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。厚くお礼を申し上げます。(拍手) 次回は、来る十二日開会することとし、本日は、これにて散会いたします。 午後四時五十三分散会