文教委員会 第7号
- 発言数
- 51 件
- 登壇者
- 10 名
- 会派数
- 5
- 開催日
- 1977/04/05
会議録
○委員長(宮崎正雄君) ただいまから文教委員会を開会いたします。 委員の異動について御報告いたします。 本日、高橋誉冨君及び小野明君が委員を辞任され、その補欠として山本茂一郎君及び久保亘君が選任されました。 —————————————
○委員長(宮崎正雄君) 理事の補欠選任についてお諮りいたします。 委員異動に伴い、理事が一名欠員となっておりますので、これより補欠選任を行いたいと存じます。 理事の選任につきましては、先例により委員長の指名に御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○委員長(宮崎正雄君) 御異議ないと認めます。 それでは、理事に中村登美君を指名いたします。 —————————————
○委員長(宮崎正雄君) 次に、参考人の出席要求に関する件についてお諮りいたします。 教育、文化及び学術に関する調査のため、本日、日本私立大学連盟の監事であり国際基督教大学長の中川秀恭君、本田技研工業株式会社最高顧問本田宗一郎君、日本経営者団体連盟専務理事松崎芳伸君、東海大学教授村松喬君を参考人として出席を求め、その意見を聴取することに御異議ございませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○委員長(宮崎正雄君) 御異議ないと認め、さよう決定いたします。 —————————————
○委員長(宮崎正雄君) 教育、文化及び学術に関する調査中、指定校制度等学歴偏重問題に関する件を議題といたします。 本日お招きいたしました参考人は、日本私立大学連盟の監事であり、国際基督教大学学長の中川秀恭君、本田技研工業株式会社最高顧問本田宗一郎君、日本経営者団体連盟専務理事松崎芳伸君、東海大学教授村松喬君、以上四名の方々でございます。 この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。 本日はお忙しいところを本委員会に御出席いただきましてありがとうございました。 それでは、議事の進め方について申し上げます。本日は、指定校制度等学歴偏重問題について、忌憚のない御意見をお述べ願いたいと存じます。なお、議事の都合上、御意見をお述べ願う時間はお一人十五分程度にお願いいたしたいと存じます。 それでは、まず中川参考人からお願いいたします。
○参考人(中川秀恭君) 指定校制度等学歴偏重是正問題についての私の意見を参考として申し上げます。 昭和五十二年一月十五日リクルートニュース速報というものによりますと、いまの学生は八割が大企業のエリートサラリーマンを夢見ている。言うならば寄らば大樹の大樹教が蔓延している、こういうふうに書かれています。言いかえますと、大部分の大学の卒業生は大手一流企業ないし官庁等を指向しているということでございます。 その理由を考えますと、まず第一には、大企業ないし官庁に入る場合には、特権階級的な意識を満足させることができるということであろうかと思われます。第二番目には、倒産などの心配がない。第三番目には、福祉関係の施設などが整っている。したがいまして、第四番目には生活が安定している、こういうようなことで大手一流企業ないし官庁を指向するものと思われます。こういうふうにいたしまして、中小企業には見向きもしないで、大きい会社、有名な職場ばかり選ぶ傾向が強くなっているというふうにある大学の就職部の方は言っております。 次に、当の大学の卒業予定者ないしその家庭の態度を見ますと、大企業や官庁などに入るためには有名大学に入学し、いわゆる指定校というものの枠内に入っておく必要があります。そこで、幼稚園から始まりまして、小学校、中学校、高等学校、さらに塾、こういうものを通しまして受験競争に熱中いたしまして、有名大学に入学し、そうして指定校となって、そこから出て、一流大手企業、官庁等に入って生活の安定、満足感を味わおうと、これが大体平均的な人生に対する考え方のように思われます。 このようにいたしまして、社会の大部分の人々にとりましては、いまや大学は就職予備校的なものとなっておると言っても言い過ぎではありません。事実先ほど引用いたしましたリクルートニュース速報によりますと、五千人以上の大企業へ国立十一大学の学生が六四%内定しているのに対しまして、私立大学は一八%、その格差が一対三・五ということになっているということでございます。 さらに、翻って企業側の態度をそんたくいたしますと、第一番目には、殺到してくる入社希望者に対して、企業はいわゆる指定校制を設けまして、人材の選別をしようといたします。それにはそれなりの理由があることもよく理解できるわけであります。五十二年三月一日号のリクルートニュース速報によりますと、経済同友会の調査の結果がそこに出ておりますが、このように指定校制をとるというための理由として挙げられている主なものが三つばかりあります。第一は、採用事務の簡素化を図る。これは言いかえますと、大学がいわば企業にとりましては第一次の選別をしてくれるわけでございまして、一流大学へ入っているものは大体第一次の試験に合格していると、こう見られますから、採用事務は著しく簡素化されるわけでありましょう。次に、優秀な人材を確保することができる。さらに第三には、採用実績があるというようなことで、ほかにも理由がいろいろ挙がっておりますが、パーセンテージの多い理由を見ますと、大体この三つの理由で指定校制というふうなものがとられているようであります。 指定校制と申しましても定義の問題がございますが、私はここでは一般に企業が学生を採用する際に一部特定大学を指定し、他を締め出すやり方というふうに考えて私の意見を申し上げておる次第でございます。 こういう状況に対しまして、私がそこの監事をしております日本私立大学連盟は、昭和五十一年十月五日付で大泉孝学長名をもちまして、文部省の大学局長、労働省の職業安定局長あてに「大学卒業予定者の雇用問題について」という文書を差し出しまして、指定校制について特に善処をしていただきたいということをお願いしておるわけであります。 大体の状況を以上お話ししましたが、以下は私の所見でございます。 このような私立大学連盟等からの善処方の要望等に対しまして経済界はどういう態度をとるかと申しますと、大学卒業者の採用は慈善事業ではなくて、企業が生き残るための懸命の行為であるというふうにおおよそ要約できるのではないかと思います。しかしながら、有名校の卒業生のみが果たして理想的な人材であるかどうかには疑問があります。現在わが国にたくさんの大学がございまして、そうしてその間に、歴史上またその他の理由によって格差があることは事実でありまして、これは否定できません。そうしてまた、なるべくいい大学へ入りたいというのは人情の自然でありますから、そこにおのずから受験競争のあることも事実であります。しかし、考えてみますと、年に一回の入学試験、それも一日とか二日で行われるその試験に失敗して、そうして二流ないし三流の大学へ入った学生も、試験自身が果たして学力の検査に適当であるかどうかという問題は別にいたしまして、その後の努力次第で四年間を通じて実力を身につけることは十分可能でありますし、そういう人も多く出ていると思います。そのような人のためにやはり機会を公平に与えるということは、企業の側にとりましても人材確保という点から実行してよいことではないかと私は考えております。 次に、私の所見の第二番目でございますが、国立、公立大学もそうであると思いますが、特に私立大学にはそれぞれ学風というものがあります。入学試験におきまして多くの科目に平均的に合格点を取って入学する国立大学とはおのずから異なるところが私立大学にはあるのであります。学業においてすぐれているばかりでなく、風格のある人材が私立大学から出ているというのはこういうためであろうかと思われます。企業におかれましては、この点についても考慮を十分に払い、変化に対応し、制度的な固定した物の考え方から自由な人材を採用することは、今日流動をきわめている世界の情勢の中で企業が生き残る上から見ても必要なことではないかと考えます。 次に、私の見解の第三の点を申し上げます。いままでは主として企業の側についての私見を申し上げましたが、大学の側にとりましても教育上反省し改めるべき点が多々あると思います。 その第一は、価値の一元化、絶対化を排することであります。言いかえますと、官庁であるとか大企業を指向するというふうな、そういう固定した価値観を批判し、それを是正するという努力が大学にとっては必要であろうかと思われます。これは必ずしも大学における就職部の部長ないしは責任者が考えることだけではなしに、大学における研究、教育等を通じまして、そういう一元的な価値観、小市民的なそういう価値観を批判的に見直す必要があろうかと思われるわけであります。 大学側に反省すべき第二の点は、官庁、大企業に就職することはもちろん結構でございますが、しかし、すぐれた資質、能力を持つ魅力ある卒業生が社会のただ中に身を挺しまして、福祉、厚生のために名もない人間として奉仕し、あるいは初等、中等の教育のために一生をささげることも人間としての生きがいであることを大学の教員その他は教えなければなりません。あるいは国際的な舞台で十分に活躍することも必要でありましょう。 反省すべき第三の点は、小市民的なマイホーム主義的な生き方を求めるのが今日多くの人々に共通していると思われますが、しかし、そのようなところに自己の人生の究極の価値を置くのではなくて、究極的には宗教的な価値を高く掲げ、それを基準として他のもろもろの価値を相対化しながら、官庁、大企業、社会福祉、教育界あるいは学界等あらゆる部門で誇りを持ち、自由に全力を尽くして生きることのできるような、そういう人間を鍛え上げることが大学にとっての大きな責任であると私はかたく信じております。 最後に、私の意見を申しますと、指定校制あるいは学歴偏重というような問題に対しまして、文教政策的に対策を立てることは望ましいことでありますが、しかし、この種の問題は政令などによって一挙に解決できる性質のものではありません。むしろ種々の方策によって世論を喚起して、この狂気のような進学競争を冷静化し、他方、大学における研究、教育を通じて学生に志を高く持たせるなどということによりまして徐々に改善するほかないと思います。 以上、私の意見を終わります。
○委員長(宮崎正雄君) ありがとうございました。 次に、松崎参考人にお願いいたします。
○参考人(松崎芳伸君) 松崎でございます。 「指定校制度等学歴偏重」という題目なんですが、逆にしまして、まず学歴偏重問題、その次に指定校問題というのをお話ししたいと思います。 学歴偏重ということが起こりましたのは、私は、徳川時代三百年の間、例の士、農、工、商という階級制があった。ところが、幕末黒船が来襲して、徳川体制における支配階級であった上級武士団だけでは日本の国難を救うわけにはいかないというふうになって、下級武士団、農、工、商といったような人たちからも人材を吸収して国の危難に立ち向かおうとしたと思うんです。その場合に人材というのは、結局世界情勢のわかる人、学問のある人ということだったと思います。で、その結果、下級武士団、農、工、商の人たちが明治維新という偉大な革新を日本にもたらした。そうして一方において明治政府は教育の普及というようなことに非常に力を入れた結果、みんなが小学校の義務教育に行き、読み、書き、そろばんというものができるようになった。 そこで起こりました問題は、みんなが読み、書き、そろばんができるようになったものですから、その中でも学問のある人間を見つけるのはどうすりゃいいかということを明治政府及び民間企業も考えた。そこで出てきたフィクションは——あくまでこれはフィクションです。大学を出た人間は小学校しか出ていない人間よりもより学力があるんだという擬制をした。その結果、まあ、ちょっと言葉は悪いですけれども、あいつはぼんやりしておるんだけれども大学を出ておるんだから潜在能力があるんだろうというふうにして、そのぼんやりしたのを課長にしても、ほかの人間も、あいつは大学出ておるんだからということでまあ納得をした、そういう風潮が出てきたと思うんです。したがって世の親たちは、いわゆる子孫のために美田を残すということよりも借金を質に置いてでも子供を大学に出してやりたい、そうすれば自分が一生苦労してきた下積みの生活を子供の時代には脱却することができるというふうに考えるようになったと思うんです。したがって日本の教育熱というものは、いま中川先生おっしゃいましたように、ともかく幼稚園からも義務教育をするんだというような風潮にもなってきた、教育ママが出現したということだと思います。 で、総評が昭和三十年代でしたか、高校全入運動というのを春闘のスローガンに掲げられたことがありましたけれども、まさにこの高校全入運動を掲げたころにおいて、日本は高度成長の爛熟期に入ってきた。したがって、借金を質に置かなくても子供を上級学校に入れてやることができるようになった。片方において大学の数は——まあ政府はどんどんどんどんおつくりになって、いまや短期大学を合わせれば九百三十四も大学があるんです。かつて日本の大学が八百台でありましたころに、私の友人が西ドイツへ行ったそうですが、日本には大学が八百もあるという話をしたら、ドイツ人が目を丸くして驚いた。よくそれだけの大学で、学生にものを教えることのできる教授を養成することができたな、と言って驚いたんだそうです。しかし、ともかく私は、大学がたくさんできる、そこで大学卒業生がどんどん多くなるということは日本民族の資質向上という面から大いに役に立つことであると思います。ところが、大学の卒業生に希少価値がなくなったことも事実なんです。いまや青年三人に一人は大学出であるということになっておる。新規学卒で就職戦線に出てくる三三・一%が大学卒であるという状況になってきておる。そういうときに優秀な人間を採用する、これはいま中川先生がおっしゃったようにリクルートセンターの調査でも企業の存廃という問題を新しい騎士である新入社員にかけるんですから、一生懸命その優秀な人間を探そうとするのは、これはやむを得ないと思います。問題は、その優秀であるかどうかということの判定なんです。先日も私は八王子にあります大学セミナーですか——ところへ呼び出されまして、指定校制度を企業側がとるのはけしからぬというつるし上げを受けたんですけれども、そのときに、ある大学の先生が、わが校の卒業生の中にも優秀なのがおるんだ、なぜ企業はそれを採らないんだとおっしゃった。で、私はその先生に質問したんです。あなたが優秀だと言われるのはどういうことですか、ということなんです。あなたの講義を一生懸命に丸暗記して、そうして試験のときにそのとおりに書いたのがあなたは優秀だと思われるんでしょうと。記憶力が優秀であることは私は認めますと。記憶力だけでは実社会はいかぬのです、というお話を申し上げたことがございますが、結局人間の能力を判定するということが短時間の面接試験、筆記試験というようなことでできるかどうか。よく私は冗談で言うんですけれども、鼻の穴に寒暖計を突っ込んで、四十度以上あったら優秀なんだ、三十九度以下だったらだめなんだというふうな方法でも開発してもらったら私は非常に指定校なんということは言いませんよ、という話をしたんですが、そんなことはできておりません。 結局のところ、いま指定校制度ということがやかましく問題になりますのは、これもいま中川先生おっしゃいましたように、要するに、まず試験場の問題です。全国九百三十四、四年制大学だけで四百数十というところに案内状を出して、そこの学生が皆押しかけてきて、その試験場は恐らく日大講堂とか武道館ぐらいのものが幾つも幾つもなければ収容しきれません。まずそういう問題を、指定校制度を廃止を唱えられる文部省さんはお考えになったらどうか。それを各個別企業に押しつけるのはどうかなという感じがまず第一いたします。それから第二番目には、その受験生がカンニングをする、そのカンニング防止のための監視員をどうするんだとか、あるいは試験成績を採点をする採点員をどうするんだとかいうような問題が出てきます。指定校制度というのは、根本はそこにあるんじゃないかと思います。会社の人事部長が、A大学、B大学は優秀なんだと、C大学、D大学はだめなんだというような、大学の格づけをするということはおこがましい限りなんです。しかし、なぜ現実にそういうことが行われるかと言いますと、まあ、わが社においてA大学、B大学の卒業生を過去に採ったことがある。その経験によりますとまあまあだと、したがって、A大学、B大学の後輩である卒業生ならまあまあ安心できるんでないか、しかし未知のC大学、D大学はそこの卒業生を採ったことがないからとんだくずをつかむおそれなしとしないというふうなことを感じておるんじゃないかという感じがいたします。 ですから、私は結局のところ、たくさん過ぎる大学卒業生というものに対する選別をまず国家の手でおやりになるのも一つの方法じゃないかという感じがします。いま医科大学の卒業生はこれは私立、官立というのを問わずに国家で試験をして、そうしてその大学を卒業しかつその国家試験をパスしなければ医者の免許状をくれないんです。そのような方法を法文系、理工、農といったようなところにも拡大したらどうかというのも一つの案だと思いますが、それにはまた相当な金がかかる。そういたしますとタックスペイヤーとしての国民から見ますと、そんなことをする必要ないじゃないかと、むしろ大学の中で、十分にわが校の、本学の卒業生であるということを胸を張って言えるような学生にだけ卒業免状をおやりになるという方が安上がりじゃないかという感じはするんです。 この間私はマレーシアへ行ってきたんですが、あそこのマラヤワタという会社がございます。日本の八幡製鉄と向こうの合弁事業ですが、このマラヤワタの人に聞きましたら、日本の大学の卒業生を、マラヤワタに限らずマレーシアの企業が大学卒として採りますとマレー大学の優秀な学生が来てくれないんだという話を聞きました。それはなぜかと言いますと、日本の大学は入学試験は非常にむずかしい、しかし中に入って四年間マージャンをやり漫画本を読んでいればところてん式に押し出してくれるんだと、そういうことをマレーシアの人も知っておるから、日本の大学の卒業免状を持っておっても珍重しないんだという話を聞いたことがございます。本当かうそか知りません。そういうふうな認識を持っておるということはこれは非常に重大なことじゃないかと思うんです。 それで、この大学の中の教育という問題は、知はこれは本当に四年間漫画本を読み、マージャンをやっていればところてん式に押し出してくれるんだということについては、かつて高度成長時代青田買いという問題が非常に出ました。このときにも企業は非常に攻撃されたんです。大学の先生方は、まだ卒業の一年前、二年前から、今度卒業したらわしの会社へ来いよ、とつばきをつけておくと、そうすると、その学生が勉強しなくなって困る、だからそんな青田買いはやめろということを言われたことがございます。私どもそのとき言うたんです。なぜ勉強しなくなった学生に卒業免状をお出しになるんですか、というわけです。卒業免状を出すか出さぬか、つまり本学の卒業生としての実力を持ったかどうかという判定は大学の先生がだれに遠慮することもなくできる問題なんです。にもかかわらず、四年間たったからところてん式に押し出さなきゃならないんだ、とおっしゃるのはおかしいじゃないですか、ということを申し上げたことがございますが、どうも入学試験ばかりむずかしくて、卒業は四年たてばできるんだという教育の内容というものは、ここにも大学局長もおいでになるようですから、大いに検討し直していただきたいと存じます。 それから指定校、指定校と言われますけれども、いまも中川先生おっしゃいましたが、経済同友会の調べで、一三%も企業が指定校制度をとっておるという結果が出ておるそうです。その内容を聞いてみますと、結局求人票を特定の大学に出すと、それを指定校だと言っておる、そして私のところは指定校制度をとっておりますという答えになっておるようです。現実に私のところの日経連の教育部の諸君が、おたくは指定校制度をとっておられますか、と聞くと、とっておりますという答えが出る。それじゃあ、その特定の大学以外の学生が入社試験を受けに来たときには門前払いをされるんですか、と聞くと、いや、そんなことはありません、とおっしゃる。どうも、いわゆる指定校制度というんじゃなくって、最近労働省が選定校制度という言葉を発明しておるそうですけれども、選定校制度をとっておられるところが多いんじゃないかという感じがいたします。指定校制度そのものが、私は、おまえ賛成か、と言われりゃ、反対であります、と言うことはもうはっきりしておりますが、問題は、その指定校制度というものをとらざるを得ない、指定校制度じゃなくて選定校制度ですか、でもとらざるを得ない実情だということはよく御認識いただきたい。要するに、私は四年間——たとえば卒業免状をやるというんじゃなしに、本学の卒業生であるということを、先生方が胸を張って言われる、言い得る学生だけに卒業免状をお渡しくださるということにすれば大分問題の解決に役立つんじゃないかという感じがいたします。 終わります。
○委員長(宮崎正雄君) ありがとうございました。 次に、本田参考人にお願いいたします。
○参考人(本田宗一郎君) 本田でございます。 指定校制度、学歴偏重問題のことでございますが、もうすでに中川先生からも松崎さんからも言われておるわけでございますが、うちのことを言えば、うちでは全然それには関係ございません。われわれの会社はほとんど、筆記試験も少ない、ほとんどやらないという程度でございます。そして、会ったときの態度とかいろいろなことで決めておるというのが実情でございます。極端な言い方をすれば、おまえたちが、いつも試験官が気に入っているような人を入れるんじゃ、おまえらより大体以下だよ、と。おまえのわからぬ、気に入らぬやつを入れた方がよっぽど会社は伸びるんじゃないか、私はそう思うと。まあ、ちょいちょいそう言っておるんですが、そうもいかないから最小限のやはり試験はするそうでございますが、ほとんど面接でございます。 それから、私は私なりに考えまして、学校教育というのは非常に私は必要だと思うんです。必要ではあるけれども、人間というものは確立性確立した、いわゆる決まったものじゃないと思います。芸術的な絵、同じ芸術でもやはり絵を好む芸術の人もあり、歌も——これの先生もおられるんですが、やっぱり歌の方の方もあるだろうし、いろいろ顔形が違うように、特徴がみんなあるわけなんです。それを一つのものにおさめてしまって、大学出たからこれは知恵があるんだとか、いいとかと言って決めてしまう人間に権利があるのかということを私はまず疑りたいんです。そういう意味において、学校自体をもう一遍考えていただきたいと思うんです。というのは、私は自分の感想ですから非常に当たっていないことが多いんでございましょうが、日本の学校制度を顧みると、大体明治初年においてちょんまげを結って、そして二本差しでいた。とにかく世界でいけば相当まあ後進国、昔で言うなら野蛮人であったと思うんです。そのときからこれだけの、わずか百年の間にこれだけのいわゆる物をつくったというのは、確かに私は学校の、いわゆる文部省の力というのはすばらしい威力を発揮しただろうと思うんです。これは私は認めます。しかしながら、いま時代は変わっております。舞台は変わって、われわれは知ることより教える立場になっているのが現在でございます。その現在でありながら、昔のような知っていることが偉いんだという考え方自体の教育が非常に私は問題だと思うんです。そうではなくて、やっぱり人間は顔形が違うように、やはり人の性質も得意もみんなそれぞれ違っております。一つの枠に入れていいとか悪いとかというのはおかしいんです。言うなれば、私は先生のエゴで、これはクイズだと思うんです。クイズに合格したからといってそれが優秀であると名前つけることがいけないんで、大体人間に等級をつけるなんていう権利はないはずなんだと、私はそう思う。そういう意味においてもっとわれわれもちろん経営者側も気をつけなければならぬけんど、昔の教育をいまだに追っているところに非常に問題があろうかと思うんです。こういう点も私は非常に改革してもらいたい。中には学校を落ちたために、ほかのことでは非常に優秀ではある、学校で教えないことが優秀である、これはもう世界的に優秀であるにもかかわらず、ただ学校が、先生の知っているクイズをできるかできぬかでこれを落ちこぼれとかという名前をつけてしまうような風潮、これは世間の一般の風潮であるけれど、しかしこういう問題がいろいろ若い世代に与える影響は大きいと思うんです。こういう意味においてやはり一つの型にはまった教育をするというより、私はもっと好んでいろいろなものができるようないわゆる制度をしていただきたい、一つでもいいから、いいものを見つけたらそれを伸ばしてやってもらう教育をしてもらいたい。たくさんいればみんな私はできないと思うんです。やはり人間というのは一つの得意なものがあってその人を支えてくれると思うんです。みんな全部が満点というものは神様以外にはないと思う。まあ、神様に私はなったこともないし、見たこともないから知らないけれど、うわさに聞くとそんなことを言っておるというぐらいの程度でございます。こういう点ではもうわれわれすでに二本差しから時代が変わっているということをまず認識してほしい。知ること私は大事だと思うんです。知ることは大事であるけれど、これは先生が教えたことを知っているというだけの問題であって、世間に役立つとか、役立たぬとかということの判定にはならぬと思う。こういう点で点数をつけるっていうのはおこがましいことだと、こう思うわけです。 それからもう一つは、先ほども松崎参考人が言われたように、学校へ入ったらサボっているという、これはどうかと思うんですね。そんな、試験をせずに全部入れておいて、サボるようなやつは片っ端から出しゃいいんであって、どうも初めの門だけ固くして、後はずるくするなんていうのは、これはとてもじゃないけれどわれわれには耐えられないことだと思う。 それから、私がここで一番感ずることは算数のことなんでございますが、私も御承知のとおり技術屋でございます。かなり算数の方は商売上強いと思っておるんですが、実際中学校の本を見て私はわかりません。解けなかったんです。こういうことが実際われわれに必要であるかないかということを私はまず考えてもらいたいと思うんです。われわれが生活するに、そんな高等な微分、積分がみんな要るのかということ、要る人だけがやればいいんであって、何でそんな余分な負担をかけなきゃならぬか。それよりむしろ得意なものを見つけて、その得意なものに対して私は教育すべきだと、こう思うんです。こういう点は非常にむずかしくなるかもしれませんが、これは学校だけの問題ではなくて、家庭の親たちにも非常に責任があろうかと思うんです。こういう点で、家庭の親たちとすればやはり算数がいい、あれがいい、これがいい、百点をとれば鬼の首を抜いたように、うちの子供は優秀だと思うかもしれぬけんど、実際そういうように思わせるという教育制度自体にも問題がある。これは家庭にもあろうが、そういう問題がある。 それからもう一つは、何でも知っていれば優秀であって、りっぱかということをまた聞きたいんです。この間の爆破犯人、あれなんかは化学を知らなかったらああいう問題は起きなかったかもしらぬ。知っていることがすべてが幸福ではないと私は思うんです。大事なことは、一番大事なことは、その人の人間性豊かなものを育て上げるということに終始していただきたい。もし人間豊かであるなら、世の中はカンニングは勝手次第なんです。学校だけなんですよ、カンニングしちゃいけないというのは。世の中はカンニングうまくやる方が利口なんですよ。こういうこともあわせて私は改革してもらいたいと思う。カンニングはしちゃいけないという時代は昔のいわゆるちょんまげ時代の、言われた初期の時代によかって、いまじゃもう知るということは、コンピューター押せばできることになります。知るということは人に聞けばいいんであって、むしろ素直に聞いて、だれでも教えてくれるようないわゆる人間性豊かな人であるなら、専門家は喜んで教えてくれると思うんです。こういう点からいって、もう一遍これ教育というものを人間を中心に考えていただきたいと、こう思うわけでございます。 それからもう一つは、これはテレビとか、そういうものの影響の問題でございますが、うちのおやじたちが非常に、これ学校教育とはちょっと違うかもしれませんが、子供が言うこと聞かないなんということを言っています。ところが、これには非常に私は問題があろうかと思うんです。というのは、子供はテレビで何でも知っているんです。親たちよりよく知っているんです。一番テレビを見ないのはおやじなんです。それが、ごてごて言うもんだから、おやじわかっちゃいねえなと。子供は何も、実行は伴わないけれど、経験もないけれど、知ってはいるんですね。そして、おやじは古いということになる。こういう点でもやはり結局、何というか、もう時代が変わっているという現実というもの、テレビもある、ラジオもあるという現実の上に立って、もう一遍明治時代の教育を考え直してもらうときが来ている。コンピューターもあるんだし、それから日本でわからなければ、国際電話もありゃ、何でもある。アメリカの出来事がわれわれのすぐ目の前に映像として映っている時代であるということをもう一遍私は、教育者全部、全体が、教育というものを全体を考え直して、そうして施策をしていただきたい、こう思うわけです。 まあ、これだけでございます。
○委員長(宮崎正雄君) ありがとうございました。 それでは、次に村松参考人からお願いいたします。
○参考人(村松喬君) 村松でございます。 お三方がほとんどのことをおっしゃいました。その中で私も全く同意見あるいは共感する点、それから多少意見を異にすることもございますので、私は私の考えとして申し上げます。 まず指定校制ということは、企業がやっていることでございますので、この企業の考え方と、それから態度ということをまず先に検討してみたいと思うんです。で、指定校制ということが社会的に見てどういう影響を与えているか。それから教育に対してどういう影響を与えるかということをまず検討してみますと、その影響は、これは悪影響だと言わざるを得ないわけです。その指定校制が出てくるということについては、現在の教育の行政の問題が根底にもちろんあるわけで、大学間の格差の問題、そういったことがあるんですが、指定校制をやるということでもって、まず教育にどういう影響を与えるかというと、これはもう当然のことですけれども、有名校を目指しての受験競争をはなはだしく激化させるということで、これは去年からことしへかけての受験の様態を見ればわかることだと思います。 そこで、その教育と企業の関係ですけれども、企業は実をいって、教育がつくった人間をその企業のために活用させてもらうという立場のはずでして、決して人間を採用してやるんだという立場ではないはずです。そうだとすると、この指定校制が教育に悪影響を及ぼし、大学の格差を温存させ、受験競争を激化させるというようなことであるとするのならば、それに対する責任をはっきりとらなければならないし、責任を感じれば当然その企業の立場で指定校制というようなことはやめていかなければならない。そういう論理になってくるはずなんですけれども、どうも企業はそういうふうに考えないようです。先ほど、はなはだ失礼ですけれども、松崎さんがおっしゃったように、企業は武道館を二つも三つも使ってやったらば暇もかかるし、それからお金もかかる、それからカンニングの取り締まりをどうするんだというようなこと、そういったようなことは文部省で考えてくれということでしたけれども、しかし私に言わせると、そのような企業は企業としての社会的評価が非常に高いわけですから、それは名誉なことと考えて、そこで十分な手間とそれから時間、それからお金もかけてやる、そういう責任が企業にはあるはずなんです。したがってどうも、考えてみると、企業というところは人間を採るについて全く自分の都合、自分の論理だけで人を採っており、それがどういう影響を社会、教育に与えているかということについて全く検討もしていないし、考えてもみないし、もちろんしたがって反省もしていないのが現状ではないかという気が私はするわけでございます。こういう企業の態度、これはひとつやはり今日の意味からいうと企業の社会的責任の問題なんだということでお考えを願いたいと思うんです。 企業は、いままでといいますか、ここ数年ですね、ことに石油ショック以来ですけれども、社会的責任ということを企業の側からしきりに言い出してきているわけでして、その社会的責任の感覚は人間を採るということについてその社会的影響を検討してみた上で、やはり製品だとかそれから売り方だとかという、そういう面だけではない意味での社会的責任をこの際自覚していただきたい。そうするとやはり指定校制というようなことは当然やめて、そしてその入社試験ですね、採用試験は開放的にやっていかなければならないということになってくるはずだと思うんです。また恐らくそういう意味も含めて政府では文部大臣とかそれから労働大臣が企業に対して指定校制をやめてくれるようにという要請をしているはずだと思うんですけれども、どうもこの政府の態度はちょっと及び腰のような感じがあって、余り期待はできない感じもあるんですけれども、しかしそのように世論が動き始めるということについての引き金は十分に引いているんではないかという評価をしております。 それからいままでその指定校制の論理になる現在の教育についての問題が出ているわけですけれども、その点については現在の大学のあり方、それから全般的な教育の中での教育の与え方、それからその受け取り方というようなことについて私はいま松崎さんに一つ異を立てましたが、同時に、入学試験の改善だとか、それから大学では入り口だけが非常に狭くって出る方は大変やさしい、そういう式ではいけないんだという御指摘などは全く同感です。そこでおっしゃられたことなんですけれども、医者などのたぐいには国家試験がある。それを法文系でもやったらどうかというようなことなんですけれども、これは私は実は賛成しかねるわけで、どうも国家試験がそのように全般のところに及ぶということは、これは教育に対する国家支配という形が非常に大きく作用することでして、それだけでも好ましくないことだという気がいたします。いずれにしても、問題はどうも大学間の格差の問題が根底にあるようでして、この点についてはさきの文部大臣の永井さんが四頭立ての馬車ということを言いまして、私はそれを一応評価いたしました。四頭立ての馬車というのは、大学入試の改善とそれから大学間格差の是正、それから教育課程の改善とそれから学歴偏重社会の是正ということだったわけですが、今日のこの審議ももちろんその中の一つを行っているわけでして、さて、そう四頭立ての馬車だとして見ますと、この四頭立ての馬車がそれぞれ別の方向を向いたり、ただそこに馬がいるというだけでは話にならないわけで、教育が動いていく、あるいは変わっていくのには、この四頭の馬車が同じ方向を向いて同時に歩みを進めていかなければならないわけですが、いまのところ学歴偏重社会の是正と言いましても指定校制ははっきり存在するというようなことで、馬が同じ方向を向いていない、むしろ逆な方向を向いている。それをどういうふうに御者が首をそろえるようにするかというそういう段階だと思うんですが、そういう意味から言いましても、大学間の格差の是正ということと指定校制の問題、学歴偏重の問題ということは根を一にすることでして、これは同時に考えていかなければ、一方で企業のエゴに立脚した論理というものもまかり通ることになってしまいます。 そういう意味で、私は教育の行政が持つ意味は非常に大きいという気がいたします。そして指定校制という問題から出てくることはどうも大学が多過ぎるということでして、この問題も先ほどちょっと出ましたけれども、私は、これほど進んだ先進社会を形成した日本では大学の数が多過ぎるというようなことはもちろんないわけでして、社会を進展させていく原動力としてはより多くの人がより高い教育を受けるようになっていかなければ将来を保障することはできないというふうに考えているものですから、大学の数が多過ぎる、あるいは大学生が多過ぎるというふうには思いませんし、またそう見るべきではなくて、問題はやはり大学間の格差の問題だという感覚をこの際はっきり持つ必要があると思うんです。そして、大学間の格差があり、そして一方で企業の論理から出てくる指定校制がありますと、それが一般の親に対する影響はこれはもう絶大なものがあるわけでして、したがってこの幼稚園から東大を目指しての特訓というような気違いじみた状況が現在の社会に巻き起こされてくる。それに伴って塾だとか乱塾時代というような現象も起きてくるということでして、そういうことを解決していくためには、やはり指定校制の問題と切り離して大学間の格差を放置しておくということはできないはずだというふうに私は考えます。そしてそこから私が考えていることは、企業が自由に、そして企業が企業のために人を採るということはこれは当然の考え方であって、それが社会的あるいは教育的に悪影響を及ぼさないようにする。これが重大なことですが、その基盤としては、やはり大学そのもののありようを変えていく。現在の大学のようなことではなくて、やはり広い意味での高等教育が全般に保障されるようなそういう大学というものを保障するということが必要だと思うんです。ということは、直接的に言いますと、現在国立の大学が、実は非常に私は、日本の社会、それから国民の教育、高等教育に対する意欲にこたえるという意味からいって少な過ぎる。非常な枠がはまっていまして、全国で短大を含めて一千近くある、そのうちの一割にも満たないものが国立だということは、これは私は大変おかしなことだと思います。むしろ積極的に国立大学をふやしていって、そうしてその国立大学と私立大学の比率が、少なくとも国立大学が半数を超えるという比率にまで持っていかないといけない。そしてそれによって私立大学が私立大学としての特色を持ち得る状況になるというふうに私は考えるんです。国立の大学が千のうちの八十ということですから、やはり国立が一つの意味での頂点という感じを持つわけです。また授業料という経済的な問題もそこにあるわけでして、そういう、言えば国立大学はまだ特権的な地位を保持している、そしてその補完という意味での私立大学ということになってしまっていると思いますので、どうも私は高等教育に対する国の考え方というものが十分でない。もっとこれを、現在大学生を現在でも多過ぎる、そして学力も下がってきているというような批判があるわけですけれども、これは先ほど松崎さんが御指摘のように、入るのをやすくしてそして出るのを難くするというそういう方式、これはアメリカ方式ですけれども、そうやった方がはるかに大学生の学力が高まるということはこれはもう明らかなことだと思うんです。そういう意味での大学の改革ということを伴った上で、私は学歴問題ということを考えてみる必要があるというふうに思っているものです。 そのほか申し上げたいこともございますけれども、大体私の意見はこのようなところです。
○委員長(宮崎正雄君) ありがとうございました。 以上で参考人の方々の御意見の開陳を終わります。 これより質疑に入ります。質疑のある方は順次御発言を願います。
○松永忠二君 一、二お尋ねをいたします。短い時間の御意見の開陳でありますし、また私の質問をいたします時間も短いことでありますので、要約をしてまたお答えをいただきたいと思うんです。 まず松崎参考人にお願いをしたいと思うのでありますが、私はいま話のあった企業の社会的責任というものは、この際やはり果たしていかなけりゃいけないのではないかと思います。これだけに大学が大きくなったとか、あるいは大学の多様性というものも、相当大きな力で経済団体がその考え方を述べて、それに影響されて出てきた面も非常にあったと私は思うわけであります。しかも、いま現在指定校制度なり学歴偏重というものが中学校なり高等学校の教育の正常を破壊しているという現状から言えば、どうしてもここでそういうものを改めていくという努力が必要だと思うわけであります。しかも、日経連の会長が所長をしております日本青少年研究所というところの発表を見ますと、すでに学歴社会はないのだというような、そういう発表も実はしているわけであります。学業成績がよくなくても人物としてすぐれていると思われる者を採用しているものが六五%というような数字も出しているわけであります。そうなってまいりますと、そういう面からも実績も出ているのでありますから、この際やはり日経連は、経済団体としてこの問題に対する一つの基準的なものを、考え方をまとめるもう段階にきているのではないのか、そういうように私は思うんでありますが、この点についてそういう考えをお持ちでありましょうか、ひとつ、まずその点をお聞きをいたします。
○参考人(松崎芳伸君) お答えします。いまの私もちょっと舌足らずだったかもしれませんが、指定校、指定校と言うのですけれども、いわゆるこの大学、この大学以外は受験させないんだという意味の指定校はほとんどないんです。いわゆる労働省がこのごろ開発した言葉でいきますと、選定校制度というのが多いんじゃないかというのが、いまの私は現状だと思います。したがって、私は指定校はいままでもよくなかったと思いますが、選定校制度ぐらいのところで、この九百三十四もある大学についての個別企業の対応策というのは、そこらあたりが一番妥当なところではないかなという感じがいたします。
○松永忠二君 私は、もう少し進んで指定校が選定校といいますか、これについてもお話がありましたように、私は政府側にもやはり協力すべきものがあると思うわけです。あなたが言っておられるように、どれだけたくさんの人が集まってくるかという問題もあります。これについてどういうふうに会場を提供するのか、あるいは協力できるのかという問題も私はあると思うんです。同時にまた、採用の仕方について、申し込みの仕方について、大学側に一つの中心のセンターを置いて、そこに申し込めば各企業に全部通知がいくというようなことになれば、一ところへ申し渡し、そこで指定校をとっていなければ、もうとってないということも明らかになるわけでありますが、これは個々の企業と個々の大学がやるいまのやり方を改めていかなければできぬと思うわけですが、それ以上に私はやはり企業側の一つの個々における、さっきお話が出ました指定校制度なり、学歴偏重ということがいかにいまの教育を害しているかということに対する企業側のいわゆる協力、責任というものをはっきりさせる必要があると私は思うんであります。選定校制度という程度でなしに、ここでやはりもう一歩そういう努力をしていただきたいということを希望として申し上げておきます。 本田参考人にお聞きをいたしますが、あなたのお話は、もう自分のところではもう面接で、あれはやってないというお話もあり、私は結構なことでありますし、あなたからは特に学校教育の内容もやはり時代に沿って改善すべきだということ、これも全くそうだと私は思うわけでありますが、ただ、一つの企業がそれをやっていただけでは、私はいまの日本全体の弊害は是正はできない。どうしたらあなたの考え方を拡大することができるのか、波及することができるのかというこの問題について、あなたのお考えはどうなんでしょうか。
○参考人(本田宗一郎君) お答えします。 よそへ拡大というような大それたことも考えてないけれども、われわれ、御承知のとおり、戦後ゼロから出発した会社でございまして、後進的ないわゆる会社で、言うなれば新興会社でございますし、もともとずっといったら名門会社じゃございませんので、われわれのところには人材と、世の中で称するような学校から来てくれなかったということがわれわれには非常に幸いであったということを言いたいんです。それだからこれだけ野性味を帯びて伸びたんだと、こう思うんで、われわれの伸びたことをひとつ各企業で認めていただければ大体おわかりだと思うんですが、しかし、これはよそに強制するわけにはいきません。しかしながら、われわれはわれわれの傘下のいわゆる協力してくださる工場の方々、いろいろなこともございます。そういう方々には極力、人物本位で採りなさい、学校出は仕事はできぬだよ、人物だよということをいつでも私は申し上げておるわけでございますが、これはやっぱり実績を持って示す以外にないと思います。やっぱり同じ企業でおってもなかなか、われわれと考え方を異にする企業もございますので、それをわれわれが、政府じゃございませんので、こうだということができませんが、だんだん私はこれは進行していくんではなかろうか、こう思っています。われわれにしてもやっぱりそういうふうな努力はすべきだと、努力というか、まあ、自分のできる範囲のことからやっておるわけでございます。
○松永忠二君 本田さんのお話もごもっともで、他の企業に押しつけられる問題ではありませんけれども、私はすでに本田技研そのものの成績の状況、自動車産業における影響力もあるわけでありますので、やはりその影響のあるところで業界の考え方を指導していただいて、さっきのお話も、私の意見申し上げましたように、経団連などという、そういうものが相当大きな力を持っているわけであります。ここが積極的に出るか出ないかということがこの学歴打破の一つの大きな成功をするかしないかの私は一つの大きな力になると思うのであります。そういう意味では、やや私たちは、いまの教育の中で学歴偏重というものの占めている影響力というものについて、企業として一つの検討を十分やはりしていただきたいということを、文教に関係している者として特に強くお願いをしたいと思うところであります。 中川参考人に御意見を聞かしていただきたいのは、こういう問題に対する文教政策の影響力というものには限度があるということを申し上げると一緒に、やはりもう少し幅広い各面の努力が必要であり、特に教育そのものの目標なり基本点というものに相当大きな問題点を持っているというお話はごもっともなことだと思うのであります。ただしかし、同時に、学歴偏重なり指定校制度の弊害というものは身をもって体験をされていると思うのでありますが、こういう機運を拡大するにはどういう方法をもっととっていかなければいけないのか。顧みて教育に従事する者としてのお考え方もそれはごもっともでありますけれども、そういう意味から何か、このとき、この時期に文部大臣なりがそういう考えを広く述べ、これに総理大臣も呼応して、政府の問題として取り上げようとしておるときに、もっとやはりこれを一つの大きな時流として、いまの教育のいわゆる方向を正しいものにするという意味で、先生のお考えになっておる方策として何かあるものをお考えでありましたらば、さっき申し述べられましたほかの方法で何かお考えがあれば、お聞かせをいただきたい。
○参考人(中川秀恭君) お答えいたします。 いま松永先生おっしゃいましたとおり、多面的なアプローチの仕方が必要だと思うんですが、それには、たとえばきょうのこの委員会におけるように、文教政策の問題として国会がお取り上げになるというようなことは非常に大きな社会的影響があると思いますし、またそれが、先ほどどなたか参考人がおっしゃいましたように、引き金となっておるということは事実だと思います。そういう意味では、政策の問題としてお取り上げになるということは何よりも私は大事なことだと思います。そうしてそれに対して、たとえばジャーナリズムが協力をして、朝日新聞などはそうですが、大変教育問題を取り上げていらっしゃいますが、そういうことになれば、大きな世論としてまず起こってくるのではないか。しかし、それだけではまだ不十分でございまして、やはり先ほど松崎参考人がおっしゃいまして村松先生がお取り上げになりましたような、企業の社会的責任という面からこれは十分取り上げる必要があるであろうと思います。 ただ、これは、私どもなどが取り上げて論ずることのとうていできない面でございますが、松崎参考人がおっしゃいましたように、何か両国にあるあそこの大きな建物を借りてやらぬといかぬというようなことで、指定校制はやっぱり必要なんだとおっしゃるだけでは、ちょっと企業の社会的責任の面で舌足らずではないかと思いますので、私は、これは第二の面として当然社会的責任が企業の側に慎重に取り上げられる必要があると思いますが……。 さらに、第三には、私申し上げましたように、大学の側の研究、教育の面における反省が非常に大事だと思います。この面では、私は、何と申しますか、指定校制、学歴偏重というふうな枠にとらわれない考え方を助成していくことが必要だと思います。たとえば、指定校制を廃止しろ、学歴偏重を是正しろということは、やはり大きな企業に入っていく、あるいは官庁で重要な役職を占めるためには均等な機会を与えるというようなことにつながっておりまして、そこではやはり、大企業に行ったり官庁に行って偉い人になったりすることが社会的にはすぐれたことで、人間に幸福を約束するんだというふうな考えが前提視されておりまして、なるほど、それは是正すべきものでございますけれども、大学における教育は、やはりそういう枠にとらわれないような人間を鍛え上げていくということが大事ではないか。言いかえますと、大学の中では、国家試験に通ってエリートのコースを歩む人が出てもいいわけですし、それから、医者や弁護士になる人が出てもいいわけですし、当然それは社会の指導者を養成する責任がございますから必要だと思いますが、しかしまた、すぐれた資質を持った人間が名もない仕事を一生涯通じてやっていく、そうしてそこに生きがいがあるというふうな、そういう人間をあまた出すというような、いわば人材の多面的養成と申しますか、そういうことが必要であろうかと思われます。そういう意味では、大学は、一面においては指定校制ないし学歴偏重を是正すべきであるというふうに唱えますし、機会の均等を主張いたしますが、同時に、そのような枠を超えたもっと高い価値が人間にはあるんだと、したがって、大企業に入るということは人生最終の目的ではなくて、相対的なものにすぎないんだと、こういうふうなことを私は四年間の大学教育を通じ、あるいはその後の大学院における教育等を通じまして、やはり日本の若者に鍛え込む、そうして同時に、それが家庭によっても理解されるというようなこと、これが大学におけるこの問題に対する態度ではないか、また責任ではないかと思います。 そういうわけでして、文教政策の面における努力、企業の社会的責任という面における努力、また大学の教育、研究を通しての人間形成における努力、こういうものが相寄りまして世論をだんだん形成したりして、正しい方向に導いていくようになるんではないかと考えております。
○松永忠二君 松村先生にお願いをいたしますが、私は先生がお考えになっているように、指定校という狭い枠でなしに、学歴偏重がいまの教育にどういう深刻な影響を与えているのか、またこれを打破しない限りは、このいまの教育の荒廃を打破しない限りは教育の正常的な発展はあり得ないと私は思うわけです。そういう意味においては非常に深刻な事態に至っていると思うわけです。そういうふうな意味で、いまのお話のあった大学教育の格差是正というようなことに真剣な努力をするという必要は、もちろん十分行っていかにゃいかぬし、また入学試験制度の改善等もなされなければできないと思うわけでありますが、ここでやはり政府が何をなすべきなのか、この機運を醸成するためにどういうことを腰折れでなしにやっていかにゃできないかという点について何かお考えがあったらお聞かせをいただきたい。 そうして私自身は、学歴を基本とした就職という採用試験はあり得ない。いわゆる大学を出なければできないという、いわゆる企業の採用の資格というものはあり得ないと私は思うわけです。やはり、かつて日本の国でも実施をし、いまでも公務員の採用試験等には生年月日で受験資格を決めているわけです。何も大学を出なければできないというわけでは私はないと思う。そういう意味では、いわゆる採用の条件として学歴を指定しないという考え方も一つあると思うし、また、よくお話が出てきますように、卒業証書廃止論という議論もあります。あるいはまた公立、私立を、いわゆる大学をやめて法人の大学に制度的に改めていくべきだという意見も傾聴すべき意見としてある。お話のように余りに広い国立、公立の大学の数と私立の大学を比べれば、これでは幾ら金があって私立を補助してみたところがどうにもならぬというような感じもいたしますので、根本的にそうした制度の改革も必要だと思うわけでありますが、こうした問題に触れて、やはりこの際このいわゆる深刻な教育の問題を解決する意味からいって、ここでひとつやはり一致努力をすべきではないかという、何か具体的なお考えがあればお聞かせをいただきたいと思います。
○参考人(村松喬君) お答えします。 いまおっしゃられた、政府は何をなすべきかということは、当面どういうことを考えてどういうふうに実施すべきかと、そういう意味と受け取ってよろしゅうございますか。政府が企業に対してどのような態度をとるかということは、現在海部文相にしろ、それから福田総理にしろ指定校制についての批判的な考え方をされて、その解消の方向で物を言っておられるということが一つありまして、しかし現状、その政府の考え方をそのまま企業に押しつけるということは法律的にはできないことだろうと思いますので、そこで私は先ほど申し上げたように、国民的な世論という意味でこの企業の社会的責任ということを申し上げたわけです。公害だとか、それから製品そのもの、その売り方、そういったことについての批判は現在国民の中に相当広く理解される問題になっているわけですが、どうも指定校制の問題についてだけむしろ国民の一般の側がその指定校制に乗っかって自分の子弟をいいところへ押し上げていこうという考え方がむしろ一般的な様相だというふうに私は見るわけです。そういう意味から言いますと、親の考え方というものをこの際変えるように、いわばこれは価値観の転換ですけれども、そういうことをやはり教育の中でやっていく必要が私はあると思います。教育をよくしていこうという考え方ではみんな一致しますけれども、そしてその意味で批判されるのが常に教育の行政、それから教師なんです。しかし教育を支えて動かしていくのは、それにプラス親の存在でして、親の教育要求というものが実を言いましていまの教育に非常な圧力をかけて、そしてこの親の教育要求は現実に全く即応しての判断なんですが、そういう親の教育要求が教育に圧力をかけ、そして教育をゆがめているという現実もまた無視することはできないと私は思います。 ですから、学校教育の中でその点をきちんとするということも一つ必要ですし、それから一般的な感覚から言って、親に対する指定校制などということの不合理、それからそれがどんなに、言えばむしろ人権の問題にも触れることなのではないかということについての啓蒙、これはやはり行政という立場でもやってもらいたいことだという気がします。それから、そういう役を果たすのが私はまた一つジャーナリズムの役割りだというふうに思っておるわけでして、そういう考えで実は私はおととし、親を教育の問題から免責にしてはいけないのだという意味で「親が学校をだめにする」という本をある出版社、これは松下さんのところの研究所なんですが、そこから出したことがあるんです。「親が学校をだめにする」という本を出しましたらば、これが親の顔を全く逆なでにするような題だったもので、ろくすっぽ売れなくて、全く内容的な意味での効果がなかったのですけれども、しかし親が学校をだめにしているという意味は非常に強いのだという認識を親自体が持つことは非常に大事なことだと私は思います。で、そういう意味から言えば、むしろ四頭立ての馬車を言い出したりしている行政の方が一歩先を行っているという気がいたしますので、その点では行政が格差是正の問題、これと実は真剣に取り組んでほしいと思うんです。この問題に真剣に取り組む姿勢を文部省初め国民に対して明らかにしていけば、指定校制の問題などということもおのずから解消してくるはずだというふうに私は考えます。直接的に企業に対してということになりますと、国民の側には余り実は力がなくて現状残念ですけれども、そういうことだといたしますと、私は行政が持つ力がやはり非常に大きな意味を持つわけでして、そういう点を考えていただきたいというふうに思っております。
○久保亘君 村松先生いろいろお詳しいと思うので……。私は、いま学歴偏重主義といいますか、学歴偏重の日本の社会的な風潮を一番よく知っている人たちの間で、自分の子供の教育については学歴中心主義の立場を非常に強くとっている、そういうことが現実にあり過ぎるように思うんです。だから、この改革というのは観念的にいろいろ考えられてもなかなかむずかしい。だから、どこかで何か思い切った改革の方法というのが考えられないと、たとえば学校の教師というのは学歴偏重社会というのを非常によく知っております。ところが自分の子供をどうするかということになれば、非常に進学率の高い学校へ子供を出そうとするというような風潮がありがちだし、これは社会的また企業の面でも指導的な立場にある人の場合にはそういう傾向が非常に強くあらわれているのじゃないか、こういう感じがするんですがね。その点については、大学で実際にいまそういう面について専門的に御検討になっている立場ではどんなお考えをお持ちでしょうか。
○参考人(村松喬君) お答えします。 たとえば現在の教育に対して批判的な教師でも、自分の子供のことになると、自分が批判している体制、状態の中に子供を押し込んでしまうという例は必ずしも少なくないと思います。これは教師という職業とそれから親という立場とが全く矛盾してその同一人物の中に存在するということなんですが、そういう矛盾を現在含んでいることは事実だと思います。で、そうだとすると、なかなか改革と言っても現実にはできないわけでして、実を言って私は、だからそこで、余りいい言葉ではないけれども、改革については行政が持つ勇断というものが必要になってくると思うんです。ある面であるいはこれは国民に強いるという形ができるかもしれないんです。たとえばイギリスの中等教育の、例のコンプリヘンシブ・スクールというものですが、総合高校。この考え方が現在でもイギリスの社会の中で非常に大きな抵抗に遭遇しているという事実があるわけです。しかし、労働党政府が、これをやはり国民的な見地からすると、いままでのようなグラマースクールとか、あるいは十一歳の試験だとかというようなことではなく、人間を教育するという意味では好ましくないので、やはりみんなが行くコンプリヘンシブ・スクールを拡大していこうという意味で政策的に進めており、そして現実にこれがやはり次第にそのパーセンテージを高めているという事実はあるわけでして、そのに人間の問題と、それからやはり時の政府なり権力を持っている側の考え方、そうしてそこが人間というところに中心を置いて行政あるいは施策を立てていき、そしてそれが正しいという自信を持つのならばその行政の内容、政策の内容を推進していくという勇気を持ってほしいと思うんです。そういう意味から言って、現在の文部省にしても、大学間格差それから高校の格差ということが決してよくないことだということはこれは言っておられるわけですから、そういう意味での格差是正の努力を払ってもらいたいということです。その努力を払わないで四頭立ての馬車というような、言わばスローガンだけでお茶を濁されては、その国民の側としては実態が変わっていないということを十分に承知しているわけですから、文教行政に対する信頼も余りなくて、そしてむしろ塾が必要だという親の直接的な要求の面での教育の中での動きが激しくなっていくという現在のような状況になってしまい、そしてこれが教育の荒廃だというわけで、そしてこれがむしろ塾が学校教育を空洞化しているという実情から、塾がむしろ逆に必要なんだと、学校教育を補完するという意味で必要なんだという論理にすらすりかわりそうになっているところを見ますと、やはりこれは行政という立場であるべき姿というものをきちんと踏まえて、そしてそれを実施していくという一つのはっきりした姿勢というものが示されるということが私は必要だというふうに考えます。
○久保亘君 いまの問題は時間がありませんからあれですが、私は、私の出身地に東大に学生をたくさん入れる有名な私立の高等学校がありまして、ここに県外から入ってまいります子供たちの実情というのを調べたことがあります。それを見ておりますと、むしろ学歴偏重社会に対して非常に挑戦をしているというか、それを改革しなければならないということを考えておられる立場の方々の子供さん方も非常に多いというようなことがありまして、なかなか大変な問題だなという気持ちがするわけです。 で、時間がありませんから、もう一つお尋ねしたいのは、いま大学の卒業生が、卒業の半年ぐらい前からでしょうか、企業訪問、会社訪問というのを盛んにやっておりまして、これが企業に採用されるための前提条件のようになりつつあるように思うんです。この企業訪問というのを、正確には会社訪問と呼ぶんでしょうか、このあり方というのを大学の側からはどうお考えなのか、それから企業の側からはどうお考えなのか、村松さんと本田さんの方からお答えいただければありがたいです。
○参考人(村松喬君) 簡単にお答えします。 会社訪問ということは、私は高度成長の過程において、いわば売り手市場ということから出てきた一つの現象ではないかというふうに考えております。つまり売り手市場の論理が大学とそれから企業の双方に適用されて、そしてそこで出てきた一つの慣習であったというふうに思います。私どもの時代には、就職について、直接もう入社試験を受けるというようなことでして、会社訪問というような慣習はなかったと記憶しておりますので、やはり昭和三十五年以降、高度成長、そして大学生も急増するし、それを上回って経済が拡大していった、そこで出てきた売り手市場の論理ではないかという気がしております。
○参考人(本田宗一郎君) ただいまの会社訪問でございますが、うちでは全然そういうものをしておりませんので、機会均等でございます。だから、よそでそういうふうな話があるということは、いま初めて私は聞くぐらいのもので、意外に思っているわけです。それどころじゃなくて、まあ自分のことで申しわけないけれども、私が推薦したのが皆この間全部落っこちてしまいまして、非常にうれしいことだと考えております。
○久保亘君 それでは松崎参考人にお尋ねしたいんですが、この会社訪問というのは、大体その会社が採用試験を受けさせてくれるために頻繁にその会社に顔出しをしておかにゃならぬと、そして向こうに一応その人物を下検分をしてもらった上で、採用試験のときに、おまえも試験を受けさしてやろうと、こういうことになる仕掛けのようなんでありますが、そのために学生は卒業前の何カ月間大変苦労しているというようなことがあるようであります。しかもその会社訪問をしていく中で、私が知っております学生などがよくいろんな話をしに来るんでありますけれども、まあ、どこどこの会社に行ったけれども、あそこはもう私の出た大学なんかじゃ、何遍訪問したって採用試験の対象として認めてもらえないと、こういうようなことを言う学生もおります。だからこの会社訪問の制度というのが、これは制度というよりも、学生の側からいま盛んにやっていることなんでしょうが、そのことが実質的に企業側の採用の前提条件となってきつつある。そういう状態については、これは好ましいこととお考えなんでしょうか、それともそういうことはない方がいいと、学生は卒業までは学園にあって最大の努力をすべきものだとお考えなんでしょうか。 それからあわせて、中川参考人の方では、大学の教育的な立場からは、いまの卒業前の学生の会社訪問というのは、果たしてどういう位置づけができるのか、その点についてお聞かせいただきたいと思います。
○参考人(松崎芳伸君) 私は大学の入社試験試験日の労働省の懇談会の座長をしておりまして ことしも十一月一日から入社試験、十月一日から会社訪問解禁ということを決めたばかりでございます。私自身の考え方は、いま先生がおっしゃいましたように、大学の卒業免状をもらってから入社試験をする、いま八十歳ぐらいの人は皆そうですから、それの方がいいと思いますけれども、どうも大学側は、その十月一日じゃ遅過ぎるんだから、夏休み中に会社訪問させるようにしろというふうなことを盛んに言っておられまして、妥協として、十月一日会社訪問、十一月一日入社試験ということに決まっております。
○久保亘君 会社訪問は必要ですか。
○参考人(松崎芳伸君) いや、私は必要はないと思います。卒業試験が済んでから、自分の考え方でどこかの会社を選ぶというふうにした方がいい、それは理想としてはそのとおりだと思います。
○参考人(中川秀恭君) 卒業前の会社訪問の教育的位置づけということでございますが、私はどうもこういう点に疎いので恐縮ですが、やはり需要供給の関係も大いに物を言っていると思うんですね。たとえば大学の数が少なくて高度経済成長しているときであったらば、私の知っている限りでは、ある大学の出身者がある会社の重役ですと、その重役はその大学へ行きまして、皆を集めてどうだどうだと、こういうふうに勧誘するわけですが、いまはもう大学生の方が多いわけですから、企業はそれほどのことをなさらなくても学生の方が今度は熱心に訪問をしていくというので、私はこれはある程度本人の熱心さのあらわれということで、やむを得ないのではないかというふうに考えております。 それから大学の側にとりましては、四年生になりますと、卒業論文はほぼでき上がっておりますし、単位も三年生までにほぼ取りまして、四年生になると、わりに時間の余裕ができます。それで皆は、将来のことでありますので、夏休みが過ぎましてそろそろ訪問していいという時期になると、いろいろ訪問するのではないかというふうに考えます。私の大学は小さな大学でございますが、それほど猛烈な会社訪問はやっておりませんですから、それについての教育的な弊害などについて真剣に問題になってはいません。が、しかしこれも悪いからやめろと言うほどのこともなさそうで、学生自身がやはり自分の卒業の要件等を満たしておるということになれば、やはり熱心にやるということもやむを得ないのではないかというふうな考えを持っております。
○白木義一郎君 四人の先生方、それぞれの立場で大変有益な御意見を伺ったわけですが、拝聴いたしておりまして、率直に申し上げますと、だんだん伺っておりますうちに、学校は企業が、企業は学校が、と言っているうちに、大体行政府が、それからそのうちにお前たち政治家がなっとらぬじゃないか、とはおっしゃいませんでしたけれども、何となくその底流にそういうお考えのあることを私はうかがえます。そのとおりと受けとめまして、今後さらにこの方の改革を進めてまいる決意を強くしたわけでございます。 そこで若干お尋ねをさしていただきたいと思いますが、中川先生あるいは村松先生から御意見が述べられ、いま当委員会でも文部大臣を中心として盛んに論議されております学校間の格差ということなんですが、教育の場において確かに教育を効果あらしめるためには、環境等の整備をし、また格差を取り除かなければならないことは言うまでもないことですが、むしろ教育の場においては、学生自身の格差、人間的な格差という問題に着眼をすべきじゃないかと、このように思います。で、実践からお述べになりました、本田さんのような実践からいろいろと御苦労なすって御意見が出たわけですが、たとえば無機物の鉄材であっても、おたくの会社の手にかかると、すばらしいスマートな自動車になって走り出す、こういうことがそれぞれ部分部分にりっぱな役目を果たして、そしてシビックなりアコードになって世界へ走りまくるというような点を考えますと、やはり人間間の格差という言い方が正しいかどうかは別といたしまして、やはり教育というのはどうしても人間対人間の命と命の触発から偉大な効果が生まれるんじゃないかという意味で、この大学の格差是正ということが強く言われておりますけれども、それ以前に——どういうふうに申し上げたらいいか、とにかく一人一人格差があるわけです。いかにしても本田さんのようになりたい、本田さんと起居をともにしても、なれる人、あるいはそれ以上になる人もいろでしょうし、なれない人もおりますけれども、本田さんの手にかかると相当人間は開発されるんじゃないか、能力を開発されるんじゃないかというような点が教育の大事な問題じゃなかろうか。こういうように思いまして、行政の面においては各大学の格差を当然なくしていく努力をしなければなりませんが、学校の先生、あるいは教育者の側に立った場合には、生徒、学生の格差をなくしていくことにもっともっと努力をしていただきたい。 さらに村松先生は、親が教育から免責になってはならないと、こういう御意見ですが、よくわかるんですが、実際問題として、親じゃちょっと、子は教育ができないから学校へやるんであって、親の子供に対する責任というのはこれはもう一生免責されるはずもないわけです。教育という場において、親が教育できるぐらいなら無理して学校へやる必要もないわけです。そんな点あと、よろしかったらもう少し要約してお教え願いたいと思いますが、まず中川先生、村松先生に、人間の格差、学生の格差是正ということについて何かお考えがありましたらお伺いしておきたいと思います。
○参考人(村松喬君) いま白木先生のおっしゃった人間の格差ということは、恐らく人間それぞれさまざまな能力を持っておって、その能力が違うんだということを意味していると思うんです。人間そのものに格差があるというふうにお考えだといたしますと、実は私の考えと全く違いますし、で、おっしゃっているニュアンスから伺うと、人それぞれ違った能力を持っており、そしてそういう意味での違いがあるのだからそれをという、そういうお話だったと思うんです。——そういう認識を前提にして申し上げますと、人間の能力は画一的なものではなくって、非常に数学ができる者もいるし、できない者もいる。数学ができなくてもそのほかの人文的な学問ではすぐれた人がいるというようなことであるわけですから、そういう意味で私は、教育の多様化ということは絶対に必要だと思います。おっしゃる意味での格差をなくすというその一つの方法は、教育を多様化するということだと思うんです。しかし、その多様化は、現在行われている職業教育の、高校における職業教育の多様化ということでは全くなくって、それぞれのつまり、すぐれた方の能力を伸ばす、そして及ばない側面の能力の問題は、むしろそんなに問わないという意味での多様化ということをしなきゃならぬということでして、これは私は高校の段階からすべきだと思うんです。つまり、数学の点数が低くっても学校の中で評価されるようなそういう、英語ができなくても数学ができれば評価されるというような、そういう仕組みに学校を変えていくということが絶対必要でして、こういうことをやりますと、いままでの総点数主義の秀才主義ということではとても間に合わなくって、むしろ一般的な意味での教育の論理を秀才のあるいは英才の論理から鈍才あるいは劣等生の論理に教育の観念を切りかえるということが私は必要だと思うんです。そうすることによって、つまり、学校教育の中で劣等生というものをなくしてしまうということになるはずです。で、そういう考え方で教育を全般的に見れば、それぞれの学校がいい学校、そうでない学校という意味での格差を持つということははなはだしく不合理であるわけですから、学校、そうして、ことに公立あるいは国立の学校は、国民全般に対してのそれぞれの段階での教育を保障するというものでなければならないわけで、税金で建っているわけですから。そうすると、いままでのようなエリートをつくるとか、それから学力の高いものをつくるというところに焦点を置いた一般教育というものはあり得ないはずでして、したがって、それぞれのところで大体において共通の水準、それを目指しての学校の存在ということになっていくはずだと思うんです。 そういうことをやると、大学の学力が下がっちゃうじゃないかといいますけれども、ここに新制の教育の意味があるわけでして、六・三・三・四というふうに一般に考えますけれども、六・三・三・四、大学院と、天井を抜いて考えなければならない意味がそこにあると思います。大学の教育は、高い意味での一般的な市民教育を与える場だということですね。で、専門的なそしてより高度の学問的研究というものは大学院に任せられているんだということでないと、大学に、その大学が持っている四年間の能力以上のことを現在強いているような感じがあるわけですから、そこのところを私は整理して考える必要があると思います。で、そういう意味からいいますと、いまの教育というのは、格差というのではなくて各人それぞれの能力を持っているという意味からいって、非常に画一的な教育をしているので、そこはやはりこれからは改めていかなければならないというふうに考えます。
○参考人(中川秀恭君) 白木先生の御質問でございまして、学校間の格差並びに学生自身の人間的格差ということでございますが、主たる御質問は学生間の格差ということですが、学校間の格差についてちょっと申し上げたいと思います。 私は、学校間に格差がある——格差というとちょっと語弊がございますが、いろいろ違いがあるということは、これはやむを得ないことだと思っております。ただ、望ましいのは、それぞれの大学が自由に競争ができるような条件を平等に与えるということでございまして、これはやはり国公私立の大学がございますが、何といっても国立大学の方は自由に自分の大学を発展させるために非常に有利な条件がありますし、公立もほぼそれに近いと思いますが、私立になると非常にそれが劣っている。こういうことでは自由な競争が大学間にできません。ここに私は文教政策が大きな影響力を持っておりますし、諸先生のひとつ御指導によりまして、そういう出発点における条件をなるべく同じようにして、国立、公立、私立を問わず自由に競争させる。そうしてその結果は、格差というよりはむしろそれぞれの大学がいろいろ特徴を持っていく、この大学にはこういう特徴があるというふうなことにだんだんなっていく。水準の違いでなくて、そこで養成する教育の仕方、研究の仕方、そういうものによる非常に好ましい特徴が出るようになることが理想的ではないかと考えます。 学生の格差の問題でございますが、これはいま村松参考人がおっしゃいましたように、人間的格差ということは考えられないので、むしろ教育的な結果から出てくるところの格差ということだと思いますが、私は、できるだけ学生が自分の適性を展開することができるようなそういう、自由にしてゆとりのある大学の教育が行われることが非常に必要だと思っています。たとえば理学部なら理学部へ入りますと、そこでカリキュラムがぎっちり組まれておりまして、それ以外の研究はできない、馬車馬みたいに真っすぐにしか進めないというようでは、とうていゆとりのある、しかも適性を展開させるような自由な人間はなかなかできにくい。そういうふうに教育する大学があってもかまいませんが、しかし、そうでなくて、もっと適性を自由に伸び伸びと展開するようなことの可能な大学があってもよろしいと私は考えておる次第であります。もちろん、入るはかたく、出るはやすしというのはけしからぬという意見が圧倒的でありまして、私もそれには賛成でございまして、私の大学では一年が三学期制になっておりまして、一学期、二学期で悪い点取ると警告いたします。第一回の警告、第二回の警告、それでなお成績が直らないとその人は退学になりますが、そういうのは出るはかたしということに該当するかどうか。これは格差とは言えないので、その大学ではほかの学生と一緒に勉強するのは都合が悪いから出ていってもらいたいということで、格差というのにはちょっと当たらないと思いますが、そういう警告を受けずに勉強しているような人は——私のところは教養学部という学部がございまして、上に大学院が三つばかりありますが、教養学部ではいろいろな学部に相当する学科がありますけれども、自由に単位があっちこっちで取れるようになっておりまして、非常に日本では例外的なような人間が出ましてあっちこっちで活躍しておりますが、これは全部の大学がそうしろということはもちろんできないことでございますが、そういうふうなゆとりのある自由な、いわゆる教養学というふうなものを基礎としてやる大学があってもよろしいということで、格差を適性の自由な展開ということに転化いたしまして、それができるような大学における教育条件を整えることは大学にとっては非常に必要ではないかと思っております。
○白木義一郎君 そこで、ただいま大きな問題になっております指定校制度あるいは学歴偏重問題について、企業の側に立ちますと、松崎さんのおっしゃるとおりだと思うんです。しかし、だんだん世間がやかましくなっておりますから、松崎さんは指定校制という言葉を使わずに、選定校制度というところまで妥協されているように思うわけですが、しかし、私たちは、末は博士か大臣かというようなことで小さいときから耳慣れて育ってまいりまして、親とすれば当然、大学の学長にもなってもらいたいし、教授にもなってもらいたい。大会社の社長にも経団連の指導者にもわが子がなってもらいたいというのは、これは無理からぬことだろうと思うんです。そこで、企業はこういうメリットを中心に、社会的責任といっても、株主に配当する責任もあるんだというようなことをおっしゃられると、もうそれでその議論は終わりになるんじゃないかと思います。そこで、政治家ですと、その点は十分検討いたしまして善処いたしますと、こういうようなことになるんですが、やはりそれぞれ現代社会で指導的な立場にいらっしゃる皆さんですから、やはり一面は企業を守るとか、あるいは大学を守るというような立場から、今度は、時には社会的責任にお立ちになって、大学側も社会に対して責任があるし、企業の側も責任が十分あるし、われわれ政治家も皆さん方以上に責任があるというような観点に立って、こういったような問題はやはり十分お互いが意見を交換し合って進めていく以外にないと思うんです。 また機会がありましたらいろいろ御意見を伺いたいと思いますが、やはり何といっても、本田さんのように実践から出てきた御意見というのは非常に説得力があるわけです。人生はカンニングが必要なんだと、私もそのとおりに思いますが、これは学長や大学の先生が言うとこれは大問題になりますが(笑声)そういったような実際の人生の涙とそれから汗の中から出たものが非常に、無限の可能性を秘めた青少年には非常に大事な教育になるんじゃないかと思いますので、先生方も、また企業のトップにいらっしゃる皆様も大いにひとつ青少年に対する社会的責任もさらに御考慮願って、何とかみんなでいい方向へ持っていかなきゃならない、このように感想を申し上げて終わらしていただきます。 ありがとうございました。
○小巻敏雄君 最初に企業のサイドの方にお尋ねを申し上げたいと思います。 いま日本じゅうを巻き込んでいる学歴社会、それから子供のときからの過当競争ですね、これで教育自身が本来の目的から離れて去っていくというようなことで、教育関係者、一般国民の中にも憂慮の声がかなり広範にあると思うわけですね。そういう場合には大体企業サイドが加害者の側として描かれてくるわけなんですね。教育ママというのは、時にはママゴンだとか言って加害者サイドに挙げる人もありますけれども、まあ、大体被害者のサイドだというふうに見るわけですね。しかし、こういう点で特に松崎さんあるいは本田さん一言でも、そういう今日の教育が、いや、そういうことはないと、頼もしくりっぱにやっておるということであるのか、何とかせにゃならぬ状況になっておるというふうに見られるのか、その辺一言御見解をいただきたいと思います。
○参考人(松崎芳伸君) いまどきの若い者は、というような言葉でよく表現されますけれども、私は、いまどきの若い者は、私の息子なんか見ておりましても私よりずっとりっぱにやっておると思っております。
○参考人(本田宗一郎君) ただいま若い者が、という話がちょうど出ましたですが、実は、先ほどテレビの問題をちょっと言ったんですが、現代は昔と違ってテレビで、子供は体験しなくても全部知っているんです。ところが、おやじが来てそこで小言を言うから、そんなことは知っているよ、おれは。おやじは古いなあ、というのが現在の若い人で、それは、おやじの言うことを聞かないということで、そこで子供をきめつけてしまうというのは、要するに時代のやっぱりずれで、本当から言えばおやじの方が、テレビ、ラジオができたからそれに向かって前進しなきゃならぬのが昔のままにいて、前進するんじゃなくて、いまそのまま自体が自分であるという現在、そこの違いが非常にあっていろいろな問題が起きると思っておるわけです。そういう点から見ていきますと、いまの若い者、若い者と言うことをよく聞くが、私は絶対に言ったことないですが、おやじの方が古いに決まっている。もう古うなかったらこれ大変で、われわれの若いときも、いまの若いやつらはろくでもないやろうだとさんざん耳にたこができるほど聞かされて、現代はその連中が月に行けるまでに発展しているという現実を見ていくときには、やはり若い人たちにおやじ連中はもっと信頼を置いて理解のある態度を示すことが必要であり、学校でも同じことが言えるんではなかろうか。そして、しかも私は、エリート意識を持ったいわゆる明治時代の、先ほども言いました、まずちょんまげからわれわれになるには、やはりそういう明治の、知るということから始めなきゃならぬ一番初歩な学校であったんです。それがいままでまだつながっていて、知ることがすべてに、人生に偉いんだと、知っていることが偉いんだという感覚がまだ大人に残っている。だから、それで家庭でも、子供は塾でもどこでも通わせて、子供らしい遊びをしていない。いつもすぐに大人にしちまう。大人はちょうど、子供に言わせれば盆栽いじりをするのと何ら変わりがない。ワイヤーでがんじがらめにしているというのが現在のおやじ連中だと思うんです。そういう点では、学校教育だけでなくてやはりおやじから、子弟からまずこういう問題を解決しなければ本当はいけないんじゃないか。これはかつて、われわれがわれわれの、この明治維新から現在に対してかつてなかった、いわゆる世代である。これは全世界がそうであったが、ことに日本は徳川時代の封鎖によって長い間封建時代を過ごした国民であるからして、ことにわれわれはそれがまた急激に発達したというところにかなり大きな矛盾があると思うんです。これは学校自体も考えなきゃならぬが、おやじ自体も、われわれ自体も考えなけりゃならぬことだと、こう思っております。
○小巻敏雄君 確かにいま新憲法と新しい教育で育っているんですから、松崎さんのおっしゃるようにりっぱにやっておると、こうありたいですよ。まあ、ぼくは学校畑を歩いてきたわけですからそう言いたいです。それからまた、本田さんの方ではまあ、親の思想的な立ちおくれというんですかな、これを克服して子供を伸び伸び伸ばせと、こう言われているわけなんですが、実際には昔なかったことがたくさん起こっていまして、小学生が自殺するなんということはなかったです、昔には。それだけ追い詰められた子供があるということとか、あるいは小学生が子供を生むなんということも、それも余りなかったです。体が大きくなっておりますからね。そういうことでも出てくるわけですね。やっぱり目をつぶっていられないような出来事というのがたくさん出ておるわけですね。けんかをして頭をなぐったら、手の方が壊れたというような、まあ、体が十分できていないというような問題も出てきておって、やっぱり一つの公害に覆われているということは今日の教育問題として、これはすべての、幸いに自分の子供がうまく育っている人も含めてこれは国民みんなで見ていかなければならぬのじゃないかと私は思いますし、その中で受験過熱というのが一つの、こういう一種の公害下の子供たちとでもいうような状況を生み出しているというのは一般に言うところなんですね。やっぱり、その点ではきょう問題になっておる点に即してひとつ子供をながめていただきたいと思うわけです。 学歴社会について言えば、まあ、大学に大ぜい行くようになったんだから私立大学にも金を出せと、私立高校にも金を出して公立と差のないようにしろと、文教行政の中でも一生懸命やっているし、一定の範囲で文部省もこれを実現しようとしておるんですが、やっぱりそのときに義務制でないものは受益者負担だと、こういうことになりまして、受益者負担をさせる方が公平だという論理はいまも一貫して生きておるわけですね。しかし、いまずっとこう企業の発展その他を見ておれば、二十年余り教育をしてきたものをぱっとただで採用試験で採って、それで力のあるところは、特に一人一人にものすごい金をつぎ込んだ東大の学生や京大の学生を採るんですからね。そしてGNPも伸ばしているんですから、受益者が負担すると言えば、最大のGNPを上げている人がここのところにかなり負担をしていかなければ筋が通らぬのじゃないかというように私は思うんですが、かく大きな経営を連ねて責任を持っておられる日経連の経営者の立場としては一体これらの問題はどうお考えになるのか。やっぱり今日人材養成というのは、昔の親方だって自分のところへ置いて仕込んだんですよ、弟子というのは。ところが、国費をものすごくかけて、一人ずつにどのぐらい金がかかっているかというのをおながめになったら、今日の状況での大きな受益者はこれはやっぱり日本の大きな企業が一番受益者だ。人材教育の点から見てですね。そして、これに対して、しかもここに過当競争が起こって、それを国全体に対して公害的な作用を及ぼしているということになれば、そこのところには受益者としても一定のルールと申しますか、今日の段階に合わした対応を考えられる必要があるんじゃなかろうか。一面では、学校は選別機能になっておりまして、人材の供給役目を教育基本法とは別に果たしておりますからね。これらの点についてもひとつルールをつくろうというような点お考えになるんじゃなかろうか。それからまあ、一つの公害的状況については、やっぱりそれを解決することのできる最大の実力者は公害を出す方なんですからね。やっぱりひとつ日経連等では企業経営者としての立場でここに新しい姿勢で意見を取り込まれるべきじゃなかろうか。まあ、それは公害問題で、水俣の問題でどのぐらいまあ日窒がしぶとかったかというようなことを考えてみましても、企業の論理というものはなかなかそう簡単にはいかぬかもしれませんが、その点について再度お伺いをしたいと思うんです。
○参考人(松崎芳伸君) いま申しましたように、いわゆる指定校制度というものを厳密にやっておるというよりも、むしろ先ほど言いました選定校制度の方が多いんじゃないか。といいますのは、九百三十四の大学へ全部求人票を出して、そして受験させるということが非常に事務的にむずかしいという面で選定校制度に落ちついてきておるんじゃないかという感じはします。 それから、先ほどちょっと言い忘れましたけれども、この学歴偏重ということが日本の明治以降の社会に非常に、日本国民の中での階級意識というものを希薄にしておるんじゃないかと思うんです。といいますのは、大学を出てなけりゃだめなんだと、これはまあフィクションですけれども、みんながそう思うようになったものだから、まあ、本田さん横に置いて相済みませんが、社長の息子でも大学を出てなけりゃ社長にはできないんだというふうな認識が出てきた。いわゆる労働者階級の息子さんであっても大学を出ておれば課長になり、部長になり、重役になり、社長になるということも可能であった。ここが私は日本の学歴偏重の持つ一つのメリットであったと思うんです。ただしかし、今日は九百三十四も大学ができて、非常にたくさんの大学卒業生が就職戦線に出てくるということになりますと、大学が少なかったときには希少価値があった、大学の卒業生に。その希少価値を認める方法論はどうかということに私は帰着するんじゃないかと思います。で、その指定校というのが教育ママ及び幼稚園、あるいは塾というような問題を生んでおるということは、それはまさにそのとおり非常に遺憾なことではありますが、問題はその希少価値をどうやって見つけるかというところにある。特に日本人というのはあいつがやるならおれもやる、という意識がもうほかの民族に比べて最も強い民族だそうですから、おれも大学を出ておるんだ、あいつも大学を出ておるんだ、だから同じように課長にしなきゃならぬじゃないか。このときに課長のポストは数少ないんだという問題が出てくる。だからその希少価値の見つけ方ということで指定校制度というのはもう論理に矛盾しておることはこれは私もはっきり認めるんです。認めるんですが、希少価値をたとえば社長の息子だから優秀なんだというふうなことじゃなくて、妥当にみんなが納得する方法で見つける方法はどこにあるかというのが、いまこの大学生がうんと多い高学歴化社会になったときの企業のいま一番模索しておる課題じゃないかというふうに考えております。
○小巻敏雄君 企業は生き残るために人を採るんだから自由にやらしてくれというような話も出ておるやに聞きますし、武道館を借りなければならぬとか、まあいろいろありますけれども、やっぱりそれじゃ、省庁なり公社なり国家企業というのはまた巨大企業ですよ、これも。これは親方日の丸だからと言われるのかもしれませんが、これみんな別に指定校制というのはしかずにやって、結局のところは学歴社会をつくり上げているわけですから、指定校制をやめれば学歴社会がなくなるというふうに甘くは考えないわけですね。ただ、問題は、社会的責任を自覚して、そして無政府時代ではなくて交通法規に従うんだというようなことで方法を考えられるような姿勢になられるのかどうかということをお伺いするわけですが、この点はもう少し御研究をいただきたいと思いますね。まあ、それは本田さんのように新しいところでは余り問題出てきていないかもしれませんが、ひとつ御先輩の松下あたりを見ますと、初めは先生のところのようであったでしょうけれども、昭和三十五、六年、まだ大学へ行く人が一〇%ぐらいだったときからほとんど大学卒が幹部職員は一〇〇%になっていますからね。二代目以降ということになれば同じ問題を恐らく繰り返されると思いますからね、それは。それで、年寄りが若い者の言うことを聞かぬわけにもいかぬから、そうなったらしようないわけでしょう。そういう点を考えると、やっぱりここらでひとつ経営者としての知恵を出して考えていただきたいと思います。 大学の先生方にお伺いをするわけです。大学の格差というのはそれはまあ精神的には存在しなくても、教育条件として、というふうなことを言われたわけです。ここでの中川先生、大学は入るをやすくして、全入さして、そしてえりすぐった者を卒業させろということは、特にこの問題に新しく関心持った人はみんながそう言うわけですね。まるでこの発生は系統の発生を繰り返しているかと思うほど、初めて関心を持った人は皆そう言われるわけです。まあ、それはいいことですとは言われても、私学では、今日の状況では根本的な授業料に依拠して大学を賄っていくという限りでは、そういうことをやれば一割しか卒業しないというようなことになればつぶれる大学が出てくるとか、今日の構造上やりにくいんじゃないでしょうか。たとえばこういうことをやるにしても、最小限の条件でこれだけのことをやらなければそうならぬというようなことがあるんじゃなかろうか。それから大学院を置こうと思ったらちょっと身代限りするんじゃないでしょうか。こういったふうな条件の問題について、言われるような状況をやっていくために最低必要なこと、条件、こういうような点について私はひとつ中川先生にお伺いしたいと思いますし、最後に村松先生に、同じような状況にある西ドイツとかアメリカとかフランスとかと比べてみて、どうして日本ではこういうふうに爆発的に現象が出てくるのかということですね。具体的な構造の違いの中で同じ資本主義国で、発達した資本主義国でここにはどういう違いがあるのか。その違いが明らかになれば、もとから正す意味で学ぶ点も身近にかなりあるんじゃなかろうか。そういうような点と、それからやっぱり学歴の根源はとりあえずやっぱり各省庁、官界の問題と民間企業の問題、並行してあるんじゃないかと思いますけれども、官界の学歴社会、こういうもののあり方と是正についてひとつ先生の方からお伺いをしたいと思います。まあ、簡潔で結構でございますからよろしくお願いします。
○参考人(中川秀恭君) 私は入りたい人を全部入れて、そうしてえりすぐった人だけを卒業させたらいいだろうということは、しばしば入学試験などのことが問題になると言われますが、これはできないことだし、またそうしてはいけないことだと思っております。したがいまして、問題はどういうことになるかというと、やはり選抜試験ということになりまして、国立大学では第一次共通試験というものを次第にやるように、五十四年からですか、やるようになっているそうですが、私は、理想的に言いますと、大学へ入るための資格試験のようなものを国公私立共通に、国ではなしに公団とか何とかというそういう組織がやるようになって、そしてそこで大学入学資格試験を通った人がそれぞれの大学で選抜を受けるというふうになることによって、今日見られるようないわゆる狂気的な受験競争というものがやや鎮静化するんではないかと思います。ただ、これだけでもって問題が解決するというんでなしに、先ほど申しましたように政治が働く、あるいは企業の社会的責任その他あるいは大学の供給の仕方等がいろいろそれぞれの役割りを持って協力をする必要がありますが、入学試験というものを適正にやりますと大分鎮静すると思います。何かウルトラCのような入学試験の問題が出ますと、実力などではなしにそういうものを解くための特殊な技能を身につける必要がありますから、そういうことで予備校などでやっても学問が本当に伸びるかどうか問題ですが、もし大学入学資格のための試験があって非常に実力を見ることが適当なようなそういう出題しますれば、その点は解決ができるのではないか。これが私はまず入学試験という点から見た最小限の条件ではないかと思います。 それから格差のことですが、格差は何といいますか、大学のレベルが違うということはどこの国にもあることですから、これはそれぞれの大学は自由競争をやって皆が一生懸命になってやるところと、そうでもなくて月給だけもらうような先生がおればそこやはりだめになりますから、これはある程度はやむを得ないと私思いますが、ただそういうところでもすぐれた学生はままおりますから、そういう人に機会の均等を与えるというようなことは必要であろうと思いますが、しかし格差があるのはあたりまえだといって知らぬ顔するのはこれは間違っておりますので、私はやはり、大学間の自由競争ができるような最小限の条件は政治的にもまた受益者負担という面から見ても行うのが日本の国では大変大事なことじゃないかと思っております。
○参考人(村松喬君) お答えします。 先ほどの御質問ですが、これは日本で特に進学についての爆発的な状況があるのはどういう理由なのかということだと理解しますので、それを考えますと、一つには歴史的な経過ということと、それからもう一つは現状ということがあると思うんです。歴史的に見ると高等教育を受けるということは戦争前の日本では社会階層と密着しておりまして、非常にごく限られた階級が高等教育を受けるという姿である。したがって、そこにそんなに混乱は起こらなかった。で、教育そのものもエリート教育であったので上層階級の者が大体高等教育を受けるということで推移してきたんですけれども、しかしそれは要するに、高い教育を受けられない階層を非常に抑圧した上でそういう状況があったというふうに認識しますと、戦後になって教育の機会均等ということが日本の中では実は奇跡的にと言っていいくらいに発展し、また実行されたということで、従来その抑圧されていた階層の高等教育に対する意欲がここで爆発的に出てきたということが一つ歴史的な経過としてあると思います。 それから現状ということになると、このような状況は必ずしも日本だけではなくて、たとえばドイツの場合に、あるいはフランスの場合に、イギリスの場合にというふうに考えてみても、多少は進学についての混乱ということがあるようなんですが、しかし、まあ、日本ほどではどうもないようなんですが、これは先ほど申し上げた社会階層の問題と相当関連があると思います。日本の社会は戦後急激に民主化して、むしろ単一の社会階層の国という珍らしいいわば非常に進んだ民主化された様態をつくってしまった。これは総理府の調査によって国民の意識を調べてみると、国民の九〇%が自分は中産階級だと思っているという事実がはっきりしている。つまり単一の社会階層、モノクラスなんですが、それに比べるとヨーロッパの社会というのはいまだに封建社会であって、階層が非常にはっきりあり、それが厳しい。そういう社会では戦前の日本の社会と同じような意味での階層的な整理がされるということで、進学についての爆発的な状況は日本ほどには起こっていないというふうに私は理解しているんです。ですから、あるいはむしろ日本の進学状況、そうしてそれに伴う大混乱というのも、ある意味で日本の社会の先進性を立証しているということにもなるんだというふうに私は見ております。
○委員長(宮崎正雄君) 速記をちょっととめて。 〔速記中止〕
○委員長(宮崎正雄君) 速記起こして。
○有田一寿君 私は松崎参考人の意見に大体賛成でございまして、もう簡単に、時間のこともございますから、村松参考人にお伺いします。大体私は明治以降百年かかっていまの学歴社会ができたわけですが、これが仮に是正されるとしても三十年はかかるだろう。ですから余りあくせくとヒステリックにやっても効果はない。じっくり腰を据えて考えるべきではないかというふうに考えておるわけでございます。共産主義国家ならば一日でできましょうが、自由主義社会ですからなかなかそういうわけにいかないと思います。先ほど村松参考人が行政が取り組むべきだということを二回にわたって強調なさいましたが、その意味はわからないことはございませんけれども、これはもう大変長期にわたると私は思うんです。それよりもむしろ村松参考人がジャーナリズム御出身だから多少の皮肉になるかもわかりませんけれども、いま学歴社会を批判攻撃するのはマスコミで大変激しいわけですけれども、しかしながら、ことしを見てみましても、サンデー毎日を初め週刊誌は、東大合格者はどこどこだ。これによけい入ったのは何々高校、ということを大変な勢いでこれを取り上げている。商業主義ですから仕方がないとして、テレビの場合も、NHKを初め先般は東大合格者五十名をスタジオに呼んで、お母さんどうしてこれを教育なさいましたか。どの塾に行かれましたか。九四%は行ったという数字が出ます。そうすると、それを見ている子供たちはやっぱり塾に行って東大に行かなきゃだめなんだ、というような気になるでしょう。だからジャーナリズムもやはりたてまえと本音が余りに違い過ぎる。だから三十年以上私はかかるだろうと思うわけでございまして、各方面でこれは努力しなきゃならぬ。それから行政で、いまお聞きしたいのは、行政でこれをやるという場合に、入り口を広くして出口を狭くするということは、現実にはなかなかこれはできないんです。またすべきでないと思いますが、日本で大学区を設ける、学区制を設けるということはとても日本の甘えたいまの国民の空気では私はむずかしいと、まあ義務教育は別ですけれども、大学区を設けるということは大変むずかしい。これをどうお考えかそれを承りたい。その場合も、前提条件として格差是正が完全にできておれば結構ですけれども、過去の伝統というものは消すことができないわけですから、仮に予算配分して同じくいくようになったとしても、過去の伝統というものは消えない。そこにやはり親も行った、子も行きたいというこの人間の情を消すことはできないんじゃないか。これが一点。 それからもう一つ、これは企業は採用をさせてもらっているというお言葉をお使いになりましたが、それでもいいんですけれども、私は学校もまた卒業生を採用してもらっているという感触がないと、これは両々相まってのことはむずかしい。やっぱり企業をそこまで孤立させるのはどうかなと。大体インドが一番大学生が多いんでしょうが、二百万人から御承知のようにおりますが、これは就職の機会はもうわずかしかないわけですね。それだけの大学生が社会に出された後何をしているか。ほとんど托鉢僧をしているのが現状でございますね。そういうことを考えますと、日本は大変恵まれていると思うんです。だから、私も三十年か五十年後を目指して、学歴主義でない社会の建設を目指すことにおいては決して人後に落ちませんけれども、企業がこうだ、大学はこうだ、あれはこうだ、ということでは、まずジャーナリズムからそれは直してもらわないとむずかしいんじゃないか。ここにいらっしゃる、こちら全部記者席ですが、記者の方々にもここに大学を出ていない人、有名大学を出てない記者の方が何人おられるでしょうか。私は全然お聞きしていないけれども、恐らくこれは一人もいないんじゃないでしょうか。それほど新聞社という大企業も学歴主義なんですよ。NHKを初め官庁、学校の教師もうほとんどそうです。まあ本田さんのような天才的な方々は別ですけれども、これは、例外をもって原則を律すべからずということわざがございますが、なかなかむずかしい。以上皮肉を交えましたが、後三分残っていますが、それでお答えいただけば結構です。
○参考人(村松喬君) それでは三分間でお答えいたします。 大学区というのは、大学の地域的な大きなことを言う意味ですね。
○有田一寿君 そうですね。行政が指導する場合それしかないでしょう。
○参考人(村松喬君) 指導する……。まあ、地域的な意味での大学をつくるということは、私はやはりひとつ目標にすべきだというふうに理解しているわけです。それからこの伝統の問題ですけれども、これは伝統必ずしも今日に機能するということも言えません。その代表的な例が私は東大だと思うんです。その意味で私は非常にラジカルな言い方で申しわけないんですが、東大撲滅論というのを私は展開しているわけで、東大がなくなってしまうということが持つ意味を理解しますと、私は東大をやめて、そして新しく別の大学をつくる。それは筑波でもいいです。筑波は感心しない面もあるかもしれませんけれども、新しい大学、そして東大はやはり大学院という全国の大学を出た人を収容する学問研究の場に切りかえるというふうにした方が、すべての大学のためにいい。そしてその影響は非常にいい影響を進学という全国民の意識に対して与えるであろうというふうに考えます。それからジャーナリズムの問題ですけれども、これは私も現在のジャーナリズム、しかしこれはジャーナリズムと言いましても一様ではなくて、それをやっているのは新聞社を含みますけれども、週刊誌というところです。新聞そのものでその問題を扱っているというところはないわけでして、この週刊誌の態度というもの、これは私は非常に大きなマイナスを日本の教育に与えていると思います。ですから、新聞社にしても週刊誌を出しているところはやはりその意味での厳しい反省をしてもらわなきゃならぬ、というのが私の考え方です。
○委員長(宮崎正雄君) 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。 参考人の方々に一言御礼を申し上げます。 本日は貴重な御意見をお述べいただきましてまことにありがとうございました。 本件に関する質疑は、本日はこの程度にとどめます。 本日は、これにて散会いたします。 午後四時三十分散会 —————・—————