文教委員会 第6号
- 発言数
- 166 件
- 登壇者
- 14 名
- 会派数
- 5
- 開催日
- 1977/03/16
会議録
○藤尾委員長 これより会議を開きます。 国立学校設置法及び国立養護教諭養成所設置法の一部を改正する法律案を議題といたします。 本日は、本案審査のため、参考人として、京都大学学長岡本道雄君、早稲田大学総長村井資長君、都立三田高等学校校長長谷部正治君、国立教育研究所主任研究官梶田叡一君、名古屋大学教育学部助教授天野郁夫君及び三輪光子君の六名の方々の御出席を願っております。 参考人各位には、御多用中のところ、本委員会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございました。本委員会におきましては、目下国立学校設置法及び国立養護教諭養成所設置法の一部を改正する法律案を審査いたしておりますが、本日は、本法律案によって設置されます大学入試センター及びそれに伴う入学試験の諸問題等につきまして、参考人各位のそれぞれのお立場から、忌憚のない御意見をお述べいただき、審査の参考にいたしたいと存じます。 これより参考人各位から御意見を承りたいと存じますが、議事の順序といたしまして、午前中、参考人各位から御意見をそれぞれ十五分程度お述べいただきまして、午後、委員の質疑に対しお答えをいただきたいと存じます。 御意見は、岡本道雄君、村井資長君、長谷部正治君、梶田叡一君、天野郁夫君、三輪光子君の順序でお願いをいたします。 まず、岡本参考人にお願いいたします。
○岡本参考人 私、岡本でございますが、国大協の——国大協というのは、国立大学協会といいまして、国立大学の学長の会でございますけれども、そこに入試改善調査委員会というのがございまして、それの委員長をいたしておるわけでございます。今日、私たちが研究してまいりました共通一次についてお聞きいただけますこと、大変ありがたいと思っております。 皆様方十分御存じのことと思いますけれども、概略と申しますかそういうものを簡単に御説明させていただきます。 まず、入試地獄と申すわけでございますけれども、地獄が入試の改善だけで解消するというものではないと思いますと同時に、地獄といいますと、およそあらゆる地獄がございまして、私、国立大学の学長も大変地獄におるわけで、人生そのものが地獄でございますので、私は必ずしも地獄とばかり思ってないのですけれども、大変大きな社会的な問題なものですから、入学試験そのものを改善することによってちょっとでもこれがよくならないかというのが目的でございます。それで、改善でございますから、大学に入ることそのことについて、これは抜本的な改革ではないということはまず前提でございます。それで、国大協がこの問題を取り上げましたのは四十五年ごろからでございます。国大協が発足して間もなくからこの問題を取り上げておるのでございますが、御承知のとおり大学というところの特質と申しますか、みずからが意図してと申しますか自主性を持ってやるということが大変重要でございますので、この入試制度の改革に私どもが最も注意をいたしましたと申しますか、運びについて留意いたしましたのは、各大学の自主性というもの、その意思を尊重しながらこれを運ぶということでございまして、そのために五、六年という長年月がかかっておるわけでございますが、それはかつて、御承知のとおりこれに似たものに能研のテストとか進学適性試験というものがあったのですが、それが失敗に終わった根幹というものがやはり各大学の自主性というものから出発しておらなかったということにあるものですから、コンセンサスをしっかり得ながら進むということに重点を置きましたために相当長年月がかかっておることは御承知のとおりでございます。 それで、そういうものを得るために特にどういう点を注意したかと申しますと、これは国大協としてはいままで取り組みました取り組みの中では最も大きい取り組みだと言われておりまして、毎年度二百人に余る学長及び専門員がこれに取り組んでおりますが、国立大学協会で、何らかの成果が出ますたびに、これに対して注意深くアンケートをとっております。御承知のとおりアンケートそのものは、これには大変問題がありまして、その内容をしっかり読んでその意味を把握して、そして適当な答えを得るということが大事でありますが、多くのアンケートは必ずしもそういうふうにいっておりませんので、この点特に注意をいたして、私どもはまず、そういう報告が出ますと、説明会と申しましてその内容に関して説明の会を催しまして、全国を北海道から九州まで七地区に分けまして、私どもがそこに参りましてその報告書の説明をいたします。同時に、そのときにアンケートの質問の内容、これはこういうことを聞いておるのだということを詳しく説明いたしまして、そういうアンケートをこの五、六年の間に五回そういうものを注意深くとっております。そのたびごとに各大学のその時点における意見というものをしっかり把握しまして、そこにおける意見というものに沿って研究の進路を調節しながら進んできておるというのでございます。 その最後が、最後と申しますか、今日、五十四年からこれが可能であると判定したと申しますのは、昨年の六月にその意味できわめて細かいアンケートをとりまして、数字では七六%が賛成であるというアンケートでございましたが、その中の中立なものとそれから反対なもの、それを全部挙げまして、そしてその一つ一つについてそれを皆の前で分析いたしました。これは読み方が足らぬからわかっておらないのだというものもございますし、それから本質的に確かに問題になるけれども、この点についてはこう考えておるというようなものを一つ一つ説明いたしまして、その結果が、六月の総会の結論はこれは入試の改善に資するものと認めるというところまで持っていったわけであります。それから昨年の十一月、これがこれに対する最後の総会でございましたが、このときはその前に六月においていろいろ問題とされましたことを詳しく研究しましたその後の結果を事前に各大学に送りまして、そして各学長に十一月の総会には自分の大学の意見をまとめて持ってきてもらいたい、そういう要求をいたしておりまして、そしてこれは総会において三時間をかけましてどの学長からも意見のあるものをはっきり聞いて、そしてここでコンセンサスといいますか、まだそのときいろいろ意見もございましたが特に、また後から申しますとおり、二次試験のあり方というものについていろいろの意見もございましたけれども、いずれにしてもまず五十四年から出発してよろしいという結論を全会一致と申しますか、そういう形で得たのであります。 最前申しましたように、この改善を今日まで持ってきます間に最も留意いたしましたこの各大学のコンセンサスを得てその経過を進み、しかも最終的にはコンセンサスをもっておのずからの規制をもそこから生まれるものである、たとえば法令とか何かで縛るよりもコンセンサスというものをしっかり軸にしようというのが私の主張でございましたが、そういうことで至っておるということでございます。 この内容につきましては、もうすでに御存じでございますので詳しくは申しませんですけれども、共通一次というものがございまして、これはもうこの試験の一番根本でありますのはすでに御存じのとおり、大きな大学はたとえば数学の教授だといいますと四十人だとか五十人持っておりますのですが、ところが小さい大学になりますとなかなかそうはまいりませんのですけれども、御承知のとおり入試というものは毎年毎年これを行いまして、しかも毎年問題を変えて何とかしてやろうと思いますと、これはもう大変なことなんです。それで、そのためにややもすれば問題が難問奇問に陥るということ、不適当な問題があるということはこれは自然の勢いでございまして、これは入試を何とかいうものにしようという大学の意思が逆に、また裏目に出まして、そういう難問奇問というようなものに走っていくわけでございますが、そういうものがやがて高校教育をゆがめる結果になっておるということでございましたが、このことは高校の方の意見としましては大変痛切なことでございまして、毎年その年の入試の問題についての批判集というものが各科目について大きなものが出ておりますけれども、そういう努力にもかかわらずやはりこれが高校教育のひずみに大きな役割りを果たしておるということで、特にこの問題を出題する方も、これは大きな大学では想像できない苦労を多数の小規模の大学の先生が毎年味わっておるということで、この点、現在同年度の四〇%近くが大学に行くという開かれたといいますか、きわめて大衆化した大学において共通の問題をよく全国から集まった専門家が全知全能を傾けておると申しますか、その際高校の方の意見も十分これを聞きまして、そしていい問題をつくって、そして高校教育の正常化に資することができると同時に、やはりこれは達成度といいますか、どういうところまで達しておる、高等教育を受けるのにどれくらいな、ここまでは要るというようなもの、これは資格試験とか選抜試験いろいろ問題がありますけれども、そういうものをしっかりつかむ、達成度を見るということでございますが、それと、これが共通一次、共通にやりますけれども、大数を扱うものですから、その処理がある決まった時間の間にこれを処理するということになりますと、これは勢いコンピューターで処理するということになります。コンピューターといい、客観的テストというものについては、すでにこういう試験とか学問とかいうものについて偏見もございますけれども、このごろこれは実際の問題見ていただきますとよくわかるのですが、マル・カケ式の問題といいましても、十分思考力も試すなかなか複雑な問題になっておりますが、それでもやはりコンピューター処理というものから来る問題に対する制約がございます。 たとえば表現力とか理解の過程とか、そういうものを見るとか、それから実技とか芸術的な技術なんかがございますけれども、いずれにしても第一次試験の方法ではテストできないものがあるわけでございますが、そういうものは二次試験でやる。しかも、正常な高校教育というものは、そういう記憶もですし、理解、表現あらゆるものを含んだのが正常なものでございますから、しかも大学入試というものが高校教育の面に反射してまいるのでございますから、その意味ではまんべんなくというと語弊がありますけれども、全体をテストするという意味で、二次試験というものの内容にはそういう制限がございます。それと適性と能力を見るということでございますけれども、適性というものが何だということにはなかなか問題がありますが、一番わかりやすい意味では、体育の学校とか芸術の学校なんかは適性というものがあるわけですが、また適性というものが各学問でどの学問をテストすればどの方向に適しておるということにはなかなか問題があるのですけれども、いずれにしてもこの適性と能力を見る、それと各大学固有にやるというような意味が二次試験には入っております。それで最前コンセンサスも同じでございますけれども、およそ入試というものはその大学の教育の一環である、出発であるという意味で、各大学が固有で行うということに対しては大きな執着がございますので、その意味でも第二次試験で固有のものを行うということは意味のあることだというふうに考えております。 そんなことがプリンシプルでございまして、これを実施するということでございますが、時間がございませんので詳しいことはよしまして、これを実施する主体は、これが一挙法案に盛っていただきます入試センターというものでございますが、一括して行う部分はそこがやります。それから、各大学では実施委員会と申しますかそういうものが各大学で行い、それで中央になりますところが入試センターでございますけれども、この入試センターが管理部と事業部というものが二課ずつございます。これが管理部、事業部でございますから、その内容御想像がつきますように、一括して行うべき入試をここで行うわけでございます。これは大数を扱う、実際にやる部分でございますが、この中で私が一番特徴的で大事なところだと思っておりますのは、研究部というものがついております。これは五部ございまして、情報処理、追跡とか評価、方法、入試制度というような五部でございますが、現在私どもは、この入試の方法が五年やった、六年やったと申しながらも、これで決して完全なものであるとは思っておらないのです。これを現実にやりましたときに多くの矛盾や問題が生まれてくると思うのですけれども、それを研究部で徐々に研究、追跡して改善していくんだという点が大変大きな点だと私は思っておるのです。それで従来、文部省は各大学に入試改善のための費用を出しまして、この入試に対しては相当な力を入れてまいっておりますけれども、これは各大学がばらばらに散発的にやっておったものでございます。しかしこのたび初めてこの日本で、入試というものを系統的に、持続的に取り上げて研究する、しかも自分たちとしてフィードバックするべき材料を持っておるのですね、そういうものができますこと、私はこれが大変大きなことだと思っておりまして、この点は、ある意味で日本が高等教育につきまして入試というものに初めて本格的に取り組んだということになるんではないかと思っておるのです。 そういうことで、共通一次の現段階におきましては、いろいろな批判がございますことも知っております。しかしながら、国大協のやってまいりましたこの研究は、いま申しましたような、大学の意思というものをきわめて尊重しながら運んできたということと同時に、人数でも申しましたように二百人に余る学者を毎年投入してきわめてじみな研究を積み上げておるという意味で、これは今日、国立大学に実施してもよろしいというところまでまいったのでございますけれども、しかし、まだ決して忘れておるわけでございませんので、日本の入試そのものとなりますと、公私立の問題が重大な問題でございます。そういうところにも及ぼしていくのにつきましても、やはりこれが責任の持てるものでないといけないという意味で十分研究をしていくということの出発であると思っておりますので、このセンターが研究部を持っておりますということにつきましては、私どものこれに対する取り組みの一端として十分な期待と今後の努力の方向を意識しておるわけでございます。 そんなわけでございますので、どうぞひとつ国大協の取り組んでまいりましたこの共通一次というものに対しまして温かい理解をお持ちいただきまして、御意見を承ると同時に一緒に育てていただくという方向に御協力いただきますように、心からお願い申し上げる次第でございます。ありがとうございました。
○藤尾委員長 次に、村井参考人にお願いをいたします。
○村井参考人 村井でございます。 入試センターということと国立大学に共通一次試験をとり行うということが法案の中に盛られるようでございますが、もちろんその中に私どものような私立大学等を含んだ他の大学にもこれを利用することができるようになっておりますので、その点はよろしいわけでございますが、ただ、この設置場所が東京都となっておりまして、何となくスタートが、やはり文部省が国立大学のために考えた一つの案という印象が強いので、私立大学関係者でば実はいままで余りこれに関心を持っていなかったということが一つございます。 それでまず最初に入学試験の問題が高等学校以下の教育を阻害しているということは、もう周知の事実でございますが、それでは実際入学試験で苦しんでいる学生がどれくらいいるのかと申しますと、これは私どもの想像でございますが、大体六十万人の進学者がおりまして、浪人もおりますから七十万か八十万おりますけれども、その中で国立大学を受けている者あるいは私立大学の一部を受けて受験に苦しんでいる学生は、私は恐らく七、八十万人のうちの四分の一くらいではないかと思うのでございます。試験地獄、試験地獄といっても、学生にそれこそおじぎをしても来てほしい大学がかなりあるのでございます。学生の方が実は見向きもしないのでございます。ですから、試験地獄というのは特定の大学の問題ではないか。しかもその数は全体の中ではやはり収容定員が少ないものでございますから、問題になる。大変身近なことでございますが、早稲田へ十五万人の受験生があるといたしましても、実際全国で本当に予備校等で非常に苦しんでいる学生というものは、実際は二十万かそこらしかいないのではないか。そうしますと、いま岡本先生がおっしゃいましたように、もちろんこの統一試験ですべてが解決されるものではないということでございますが、この法案の中に、このことによって入学試験の現状の改善の一環とするということが書かれております。この一環という限りはやはり他の部分の全貌を実は知りたいわけでございます。本当から言いますと、一部分ということだけでありますと、余り論ずることが少ないわけでございますが、とにかく一環でございますので、やはり他の部分を考えないといけない。そういうような意味で、私は少し他の部分に触れても意見を申し上げたいと思います。 ということは、最初に申しましたように、一部分のことであるということにいたしましても、やはり統一試験とかあるいは高等学校の学力の到達度を見るというようなこと、かなり古くからもう大学へ進学するものは必ず高等学校の内申書をつけるということになっております。いま高等学校の先生方は大変だと思うのですけれども、この内申書を、一校だけ受けるわけではございませんから、年に百万通か二百万通つくっていらっしゃるのでございます。ところが、その内申書を受ける大学側でどういうように利用しているか、私どもの方では非常に苦労して、全国の、特にその中の学力についてはいろいろな形で過去のデータを使って換算して、それをまた数量化するというようなことをやっている学部もございますが、大部分の学部ではあるいは全国の大部分の大学では成績については全く見ない、その中に書かれている性質とかあるいは適性とか一部分のことだけは見られましょうけれども、やはり試験の成績本位になっている。そういうような意味で、私は統一試験ということの意味を十分理解いたします。そういうような意味からいたしますと、私はこの統一試験が、実際はそうでないかもわかりませんが、何となく国立大学側の都合で採用されたという気がいたしますが、これはやはり全国の高校の学生の学力の到達度という形で、むしろ高校以下の教育の度合いを調べ、同時にまた、その中等教育以下の教育の改善に使うという意味で、ある意味では必ずしも大学へ来る人だけでなくて、すべての人の学力到達度を調べることで、高等学校以下の側で、むしろ大学の入学試験の第一次試験ということと切り離されることがいいのではないかと感ずるわけでございます。そのことはやはり高等学校側のむしろ今度は学校差をなくすること、だんだんに学校差を解消していくことに役立つと思いますし、それからまた、その学力の到達度を見ながら、実際に到達度がたとえば一〇〇のものならば一〇、二〇しかいかないものが非常に多いならば、やはり高等学校教育の教科内容が程度が高過ぎるというようなことから、日本の中等教育以下の程度が高いということが日本の誇りになっておりますけれども、それは一部の人にはよいかもわかりませんが、大部分の国民が落後者であってはならないわけでございます。そういうような意味で、この統一試験をぜひ高等学校以下の教育の到達度として行って、そしてそれが中等教育以下の日本の教育を考え直すのに利用されるといいと思います。大学側は、その到達度を見て、全国の統一された内申書というものがわかるわけでございますから、大学としてもそれを一次試験にかえるとかあるいは書類審査の参考に覆いうことで、大学側の入学手続が非常に簡単になって、いまいわゆる二次試験といわれておりますが、それが本当の大学の入学試験が非常に簡略化されますし、ある場合にはやはり人数の制限もその内申書によって制限を行うことができると思うのでございます。まず第一点、そのことを申し上げておきます。 それから当然、いま申しましたように、国立大学だけの問題ではございませんから、私立大学もそれに加わらなければならない。加わる場合には、いま申しました高校の学力の到達度の内容ということであれば、これを利用しようとしまいといろいろありますから、それは学校の側の自由でございまして、いわゆる高校生に対して二重負担というようなことはなくなります。それから、そのことのもう一ついいことは、必ずしも高校に行かない、独力で勉強した者のためにもそれを行う。そしてそれをただ三年度で見ないでも早く、勉強の好きな子は二年度でもあるいは極端に言えば一年度でもその試験が受けられる。そういうようなことで、六・三・三の十二年のものをあるいは十一年でも十年でも大学へ行かれるという利点も出てくるのではないかと思います。 いずれにしても、これは国立大学でなさることですから、いまそれ以上のことは申し上げないわけでございますが、実際入学試験制度の改善の一環というのであれば、他の部分にはどんなことがあるかということは、これは御承知のことでございますが、まず国立大学について申しますならば、われわれとしては、やはりあれだけの国費が投じられているのであるから、そこへ来る人はできるだけ国民の立場で、ただ頭脳、学力が高いというだけでなくて、もう少し国民を広い目で見て、私はいわゆる国立大学の学区制というようなことをよく言っておりますが、たとえば東大は−もちろん幾つかのブロックに分けまして、まず第一に旧帝国大学を学区制にしまして、必ずしも学科によっては全部がそろっていないところもありますから、そういうところは全国に開放してもいいし、それからまた、これを余り学区にかたく縛らないで、七割とか八割はその学区内の学生が進学する、後の二割か三割だけは全国で競争させてもいいのではないか。やはり国大協でお考えになるならば、そこら辺まで実は考えていただきたかったわけでございます。 本当はそれよりか、公私立というものが高等教育においてもう少し国の立場で同一の取り扱いを受けられるようになればいいという感じがいたします。それは、やはりいま私立大学は非常に経営上苦しんでおりますが、もっと内容をよくしていく。国立大学においては同じ基準を使われておりますから同じ程度と思いますけれども、私立と国立大学の経済的の格差、教員と学生数における格差、設備施設の格差というものは非常に大きなものでございます。これをできるだけ早く詰めていけば、この入学試験の困難さももっと緩和するのではないかと思うわけでございます。 大きい点はそれだけにいたしまして、時間がございませんので、後は幾つかの点について項目だけを申し上げておきたいと思いますが、大学ということの問題は、むしろ大学卒業ということ、つまり学歴を得るだけのために大学へ来る学生がありますので、むしろ大学卒業ということあるいは学士号を廃止するというようなことが一つの問題点になるのではないか。そのことは実は国民の意識の問題であり、あるいはまた社会の状況とかあるいは社会の構造の問題でございまして、やはりこれだけ工業化された社会あるいは管理化社会という中にありましては、専門の技術なり専門の学力を持った者も必要でありましょう。ですけれども、一般の大学はもうそう言わずに、ここまで大衆化した大学では、いわゆる人間形成という形で、そこで人間形成に必要な平均的な科目はどういうものがあるかというようなことで、三十単位か四十単位取ればそれで高等教育の任務は終わるのだ、後は専門の学問をする場あるいは専門の研究をする場として大学を位置、つけるということで、むしろそういうような意識を変更するように制度も変えていく必要があるのではないか。そういうような意味では、いまの六・三・三・四という形がもしも普通のノーマルの形といたしますと十六年間でございますけれども、小学校ももっと一年ぐらい早くからできますし、そういうようなことから、中学校と高等学校のそれぞれ三年は短過ぎるので、これを合わせて五年制かあるいは四年制にするというようなことで、そこで一年あるいは二年短縮できます。そして大学は、普通の場合は三カ年で大体のことはいいということでありますれば、今日の短大卒ぐらいが実は大学出ということになるわけで、それ以後はもう今度昨年できましたあの専修学校の規則を活用しまして、もう大学というのはみんな三年で終わってしまう、それ以外は専門学校で、学問、研究に携わる人はもっぱらそちらへ行ってやるということで、いわゆる大学というイメージを少し国民に変えさせるような制度をつくっていったらどうか。これは今度の法案とは関係ございませんけれども、ぜひ国民の意識を変えること、それから、確かに学歴社会といってもそういう専門家は必要でございますし、また学者をつくっていかなければ日本は今後立ち行かなくなりますが、学者を養成するのも、何も大学だ、大学院だ、帝国大学だというようなことでなくて、古い大学にはそれだけの力もありますけれども、全部古い大学は専門学校あるいはインスティチュートという形にして、本当の専門家養成という形に持っていってはいかがと思います。 十分ではございませんが、一応時間が参りましたので……。
○藤尾委員長 次に、長谷部参考人にお願いいたします。
○長谷部参考人 三田高等学校の校長の長谷部でございます。 大学入試制度の改善のことは、直接私どもが生徒を指導をし、直面をしていることでございますので、きわめて高い関心と熱意を持ってこの推移を見守り、また私どもの立場で御協力できる点につきましてはできるだけ全力を挙げて御協力もしていきたい、こういう観点でこれまで来ております。 昨年の十一月に国大協が一つの構想を御発表になられました。それは、共通一次試験、二次試験という形で行われる御承知の構想でございますが、私どもは、その方法が最善のものと考えるまでには至っておりませんけれども、一つの改善の方途を探っていき、その道に手をかけていくという意味におきまして、高等学校としてはやはりその方式を歓迎して、でき得る限りその実現が有効にかつ円滑に行われるように御協力をしたいと考えております。同時に私ども高校として、御検討願わなければならない幾つかの問題点がございます。実施に当たりまして御検討をいただきたいということもございますので、これらについて十分におくみ取りをいただいて、私どもの高等学校の教育が正常な形が維持されるということをねらいに置いてこの改善の方法が推進されることを希望したいと思っております。そこで私は、当面昭和五十四年度から実施されると言われておりまして、もう目前にそのことが高等学校の上に出てきておりますので、具体的にあらわれております国大協の構想の幾つかの点について、高校として希望したいところ、改善してほしいと思う点を取り上げて御説明をしてみたいと思います。 まず第一に、第一次共通学力試験でございます。これはいままでのお話にもございましたが、高等学校の教育の達成度を測定するということになっておりますが、その際に、必修科目として課せられている科目についてその達成度を見る。これは普通課程及び職業課程共通に必修をしている科目であるということで、そういう基準で、その範囲内で第一次試験の問題は作成されるものであるというふうに国大協は申されております。これは私ども大変結構なことだと思います。その限りでは、全国高等学校がみな同じように必修科目を履修しているわけですから、これについていろいろの問題を差しはさむ余地はございません。ただその際に、国大協の考えておられますのは、五教科、六ないし七科目ということを申されております。五教科と申しますと、英語、国語、社会、数学、理科ということでございますが、そのうち社会と理科につきましては、選択科目で二科目を受験をする、理科について基礎理科というものを履修した生徒については一科目でよろしいということから、六ないし七科目ということが出てきておるわけです。これは高等学校の方の側から考えますと、七科目ということは受験の立場の生徒のことを考えますと、やはりこれは過重ではないであろうか。いま七科目の試験をやっておる大学は、東京大学を初めごくわずかな大学でありまして、大多数は五科目あるいはそれ以下ということで国立大学もやっております。そういうことは、その五科目以内でも十分に大学に適する適性能力というものは判定し得るのだ、こういうことの理解に立っていると思いますし、私ども直接生徒の指導に当たっている者から見ましても、多く試験をやればそれだけよくわかるというわけでもありません。それが逆に生徒の負担に非常に大きくかかっていくということになりますとマイナスの結果の逆の面が出てきはしないか。そういう意味から、教科目については御検討いただけないものかという考えを持ちます。 さらに第二次テストでございますけれども、第二次テストは、各大学が独自に問題を作成をして実施するということになっております。そしてその際に考えられる部門は、学科の試験あるいは面接、小論文、あるいは技術を要する大学においては、これは体育とか芸術とかという方面ですけれども、その技術試験というようなものを含めて第二次試験というふうに考えておられるわけでございます。高校の方からいたしますならば、共通第一次試験をりっぱな問題を出してもらう。しっかりとしたりっぱな問題を出していただいて、必ずしも第二次試験のところで学科の試問を課さなくてもよろしいのではないか。小論文とかはあるいは考え方を見るとかあるいは表現を見るというようなこともありますので、小論文を書かせることは結構だろうと思いますし、面接によってその人柄を見るというようなこともできると思います。ですから、そういう意味で面接も結構だろうと思いますが、まずは第二次試験を行わなくても済むような問題はできないものかというようなことを一つ考えます。それは、いまの大学が独自に問題を出すというそこにやや不安を感ずるからであります。難問奇問は出さないということを言われておりますけれども、一次試験の上にさらに高度な問題あるいは特別な問題を提出されるということになりますと、やはりこれまたそれに対応した学校側としては指導もしなければならない、あるいは生徒はそれのための受験勉強をまたやらなければならない。本来生徒の過酷な受験による負担を軽減をして、明るく伸び伸びとした豊かな高校生活を送らせたいというところにねらいがあるとするならば、いたずらに生徒を過酷なものに追い込むようなことは、ひとつ十分に御配慮をいただかなければならないと思うからでございます。もし学科試験を第二次試験において課するということでございますならば、せいぜい必要最小限、一ないし二科目程度ということが私は適当であろうと思います。これはいろいろ伺っているところによりますと、大学側の先生は、それでは満足できないとおっしゃっているそうでございますが、十分に御検討をいただきたいものと思います。 次に、実施時期の問題でございます。第一次試験を実施する時期について、巷間伺っておりますところでは、十二月の末ということを昨日の新聞あたりでも伺っております。これにつきましては、私どもの高等学校の教育課程を十分に履修をさせていく、満足な形にまで、完全にというまでにはいかないかもしれませんけれども、十分に履修をさせるという時期を考えますと、十二月では少し早過ぎると思います。私どもも、一番適切な問題の処理とかあるいは入学手順の期間等もございますので、そういつまでも後に持っていくことはできにくいだろうと思いますが、二月の初めあたり、どんなにぎりぎりに詰めても一月の終わりあたりまで延ばしていただきませんと、三年生の教育課程の履修を満足させていくということはむずかしくなってまいります。もしもこの十二月段階での実施が強行され、それが国大協のみならず、今後の公立大学、私立大学等の関係もございいましょうけれども、そういう形になったときには、やはり学校におけるいろいろな教育活動の全体的計画の中にも、将来として影響を持ってきはしないであろうかというようなことまで懸念されるわけでございます。問題の作成からコンピューターによる処理、あるいは発送の問題、いろいろな点を考えますと、国大協の先生方の御苦労もよくわかります。その間に追試験ということを御配慮いただいているということもございますので、非常に日にちがかかる、五十三ないし五十五日が必要だというふうに伺っておりますので、合格発表から逆算いたしますと十二月になるという御説明でございますが、何とかその辺をお考えいただいて、もう少し後に延ばしていただくことを希望したいと思います。 次に、推薦入学の問題が、私どものまた問題にもなってきております。特にこれは職業課程の出身の高校生についてのことになると思いますが、まあ普通課程の生徒についても従来どおり推薦入学ということが行われておりますので、この枠を広げていただくことは大事でありますけれども、特に職業高校の生徒につきましては、専門の科目についての知識、技能というものはすぐれたものを持っております。しかし、従来行われていたような意味におきまして大学の受験を普通課程の生徒と全く同等に取り扱われますというと、これはどうしても一方の専門の方面に十分に時間を割き、勉強をしているという観点からいたしますならば、当然そこには開きが出てくると思われます。そういう意味で、この職業課程の生徒の持っている専門的な知識技能、そういうものを十分に生かされて推薦入学の際に御考慮いただきたいと思います。さらに入学試験の科目につきましても、他の科目とその専門科目、たとえば工業とか農業という方面で履修しておりますその科目とを一部代替させて試験を受けるという方法は検討できないものか。一次試験でそれをやるということは、先ほどお話し申し上げましたとおり、必修科目という線できておりますので無理かもしれませんが、少なくとも二次試験において何らかの学力試験を行われるような場合に、専門の科目をもって代替させるということはいかがなものであろうか、ぜひこれを考えていただきたいものと思います。 次に、調査書の尊重の問題がございます。先ほど村井先生から調査書についてのいろいろな御意見が伺われましたけれども、調査書は学校での三カ年にわたる生徒の学習活動のさまざまな点について記載されておりまして、その内容は、一次、二次の試験によってくみ取ることのできない大事な要件が、生徒の適性、能力について記載されておるわけでございます。したがって、この調査書の尊重ということを、この大学入試制度の改善に当たってぜひ取り上げていただきたいものだと思います。ただ、先ほどのお話にもありましたとおり、現行行われております調査書の内容、形式その他につきましては、やはりもっともっと研究をする必要があろうと思います。先ほどの村井先生のお話のような意味で、大学で大事にされていないというところには、やはりそれだけの意味があるのだろうと思います。その点をやはり今後十分に高等学校も研究をし、文部省にも十分お願いをして、調査書がこの新しい入試制度改善の上で生かされるように工夫をしたいものだと思います。大学の入試に当たりましては、複数の資料でやっていただきたい。一次試験、二次試験、それから調査書というふうなもので総合的に判定をしていただくことが最も公正であろうかと思いますし、また生徒の適性も見られるだろうと思います。 次に、国立大学の入試時期が一本化されるということがございます。従来一期校、二期校というふうに分かれておりまして、生徒には二回のチャンスが少なくとも与えられておりましたけれども、それが今回この共通一次試験を実施するに伴いまして一本化される。そういう意味では、本来この入試制度の改善が一発勝負を避けるのだという立場で考えられておりましたけれども、この一本化ということによって逆な形、あるいは別の形で一発勝負が入り込んでしまったような感じすらいたします。第二志望が生かされる何らかの方法をお考え願えればと考えます。 次に、国立大学がこのたびの問題でありますけれども、先ほどのお話にもありましたとおり、大体約二〇%が国立大学の受験者であり、他の八〇%は私立大学をねらっておるのが全国的現状であります。そういう意味から、いろいろ問題はございましょうけれども、国、公、私立がこの改善の方向に御参加願えるように、その実現に努力していただきたいものと考えます。 あと今後考えられる問題といたしましては、入試センターの充実ということでございます。入試センターは問題の作成から答案の処理からその他すべての統計処理ということをいたしますし、またそういう意味で最も信頼していかなければならない、信頼される機構を持たなければならないと思います。これが何らかの欠陥があるということになりますと、入試制度そのもの、あるいは共通一次テストを含めた入試制度の改善そのものが壊されてくる危険もございますので、入試センターの設置につきましては、私どもはりっぱなものをこしらえていただきたい。同時に各大学におきましても、入試選抜についてのこれに対応し得る機関を設置していただきたい、用意することが必要ではないかというふうに考えます。 時間が参りましたので、これで終わらせていただきます。
○藤尾委員長 次に、梶田参考人にお願いいたします。
○梶田参考人 国立教育研究所におります梶田でございます。 私は、国立教育研究所におきまして、教育におけるいろいろな評価の問題テストとか通信簿とか指導要録とか、あるいはこういう選抜試験の問題とか、あるいはそれが子供たちに与える影響だとか、あるいは社会に対する影響といいますか、社会の中のシステムとしてこういうものを考えるときどうなるだろうか、こういうことをずっと担当してきたわけであります。しかし、これからお話しいたしますことは私個人の意見でございまして、研究所と一切関係ございませんので、念のため申し添えさせていただきます。 いま御審議なすっております大学入試センターの問題についてまず申し上げますと、私はそういうセンターを設置されるということ自体には非常に賛成したいと思うのです。これまでわが国ではなかなか、テストであるとか選抜制度であるとか、あるいはそういうことを含めた選抜と学校教育全体システムといいますか、こういうこととの関連であるとか、こういうことが組織的に研究されてこなかったように私は思っております。したがいまして、こういうことの問題が起こりますと、すぐにある意味で印象批評といいますか非常に上っ面の議論が多かったのじゃないだろうか。やはりどこかでそういうセンターをつくって、大規模に模擬試験なんかもやりながら研究を積み重ねていく、またその模擬試験が本当の試験になっていろいろな意味での共通テストになっていく、こういうことは非常に有意義なことじゃないかと思います。 しかし、問題は、この大学入試センターを設置なさる、この中で何をどのようにおやりになるか、ここにかかってくると思います。率直に申しまして、現在構想されているような形での共通第一次試験及びそれに付随したいろいろな措置ということで、そのねらっていらっしゃることが改善される、あるいは解消されるというようなことになるかという点になりますと、私は大きな疑問を持っているわけであります。一般には、こういう入試センターを設け、そして共通第一次試験をやる、そのことによって現在の大学入学者選抜にまつわるいろいろな問題受験地獄と言われたり入試地獄と言われたりしているような問題がかなり解消されるのじゃないだろうか、こういう期待を持って見られているわけですけれども、ここが非常に危険な点じゃない雇うかと思うわけです。 現行の大学入学者選抜制度は、原理的に異なった二つの大きな問題を抱えているように私は思っております。 その第一は、いわばシステムの問題といいますか、大学教育というもののシステムの問題のように思うわけですが、これは端的に申しまして、東大を頂点とする一部有名校に志願者が集中し、非常に競争が激烈になっている。それと同時に、少さい時からその受験準備のために多くの親や子供が狂奔する、そういう社会現象ができている、こういうことが一つあると思います。 それから第二は、入学者の選抜が多くの場合、詰め込まれた知識の量といいましょうか、あるいは一過的な学力といいましょうか、つまり済んだら忘れてしまうような知識であるとか、あるいは受験技術、これを見るような学力検査、これは意図とは違いまして結果としてそうなっているわけなのですが、こういうものに基づいてなされているため、これを目指したいわゆる受験準備教育によって、小中学校あるいは高等学校の教育に大きなゆがみを生じている、こういう点が第二点として挙げられるかと思います。つまり第二点というのは、ある意味で大学選抜の方法論、技術的な問題と考えていいと思います。 もちろん、共通第一次試験では、このうちの第一の問題、大学教育のシステムに関する問題を解決することは不可能であります。これは志願者の有名校集中、あるいはそれに伴う問題といいますのは、結局のところ大学間の格差を是正し、すべての大学を個性的なものにする、こういったことを通じまして、どの大学に入ってもだれもが独自の固有のプライドを持てる、こういう方向へ大学自体の改革を進めていかない限り、抜本的な解決は得られないだろうと思います。またこの問題は、一期校と二期校の区別をなくすといったようなことによっても解決いたしません。たとえば大学格差がそのまま残っているならば、一回だけのチャンスにかけるという形で有名校を目指す競争はそのまま残っていくでしょうし、結局これは国立大学受験のチャンスが一回だけになるというデメリットだけになるのじゃないだろうか、こういうふうに考えられるわけです。 共通第一次試験は、そう考えますと、結局さっき申しました第二の問題、大学入学者選抜ということの方法論、あるいは技術的な問題にかかわるものというふうに考えざるを得ないわけなんですが、この点につきましても、私は率直に申し上げまして大きな疑問を持っているわけです。この疑問は何であるかといいますと、端的に言いますと、これはマークシート方式、これだけによっておやりになろうとしている、これに集中的にあらわれていると思います。私の言葉で言いますと、これは技術優先的な発想、選抜ということの原理とか本質とかいうことを二義的にお考えになったのじゃないか、これは極論になりますが、私はそういうふうにまで考えるわけです。 もちろんマークシート方式、これは御承知のように問題に選択肢をつくりまして、その選択肢の番号を塗りつぶす、これをそのままコンピューターの読み取り装置にかければ、いわば機械的にしかも高速大量処理ができる。したがいまして、こういう方法は客観性を確保し、それから高速大量処理をするというためには非常に適しておるわけなんですが、この方法が果たして学力というものを測定するのに適しているのだろうか。だから、高速大量処理、客観性の確保と、こういうことを優先して考えれば、これはいいわけなんですが、これがはかろうとするその対象自体をつかまえることができるだろうか、こういうことを考えてみないといけないと思うわけです。 一般的に申しまして、多肢選択方式あるいはマル・バツ式、こういうことによってはかれることというのは決まっておりまして、そこから漏れる部分は非常に大きいわけです。どういうものが漏れていきますかと申しますと、まず第一に正解が必ずしもないようなもの、あるいは、まず正解のあり得ないものというものがございます。たとえば、ある文学作品を読んでそれをどういうふうに読み取った、こういったものには正解がございません。人によってはこれは高い、低いとか、深い、浅いという判定はできるかもしれませんが、これは正解がございません。つまりこういったものには、そういう選択肢をつくるということは適さないわけです。第二に、正解が一義的に定まらないもの、あることはあるのだけれども、しかしなかなかそれが一義的には決まってこないというようなもの、あるいは正解が一義的に定まるとしても多様な表現が可能であったり、あるいはかなり詳細な表現をしないとこれをきちっとあらわせない、こういったもの、これも多肢選択方式では原理的に無理なわけです。一例を挙げますと、小学校の低学年の社会科で、お母さんが洗たくするのは朝ですか、昼ですか、夕方ですか、こういうような問題がテストの問題に出るなどということが問題になったことがあります。これは事実そうだったそうですけれども、これは家の人の仕事を理解するというような目的のために出されたんだそうです。この場合に、笑い話みたいな本当の話なんですけれども、正解は朝なんだそうです。お母さんが洗たくするのは朝なんだそうですが、これは選択肢をつくって、朝、昼、夕方、これをつくりまして、どれを選んでもある意味で正解、ある意味で間違いかもしれません。これはお母さんの生活の実態に対応していて、しかもなぜお母さんが朝洗たくをしないといけないのか、昼洗たくしないといけないのか、夜しないといけないのかということが理解できていれば全部正解なわけです。たとえばこういった問題は多肢選択によってもできるわけです。これはある意味では基礎的な知識の問題なんですけれども、基礎的な知識の領域であってもこういうことができないものがあるわけです。もっと高次のもの、表現力、論理的な展開力、創造性等々これがこれによってはかれないのは自明のことと言っていいと思います。あるいはそれ以上に、先ほどもちょっと申しましためいめい持ちの正解があるようなもの、私にとって正しいこと、私にとって納得できること、こういうことを問題にするような領域ではだめなんです。 こういうような技術的な限界を持っておりまして、ではそういうことはよくよく考えてやっているのだ、専門家が集まってやっているのだとおっしゃるかもしれません。しかし実際に国大協がおやりになりました模擬試験、この中にやはり私が言いましたような欠陥が非常に色濃くあらわれていると思います。たとえば国語の試験で漢字の試験がございました。かたかなで書いている部分についてそれぞれそれを漢字に直すわけですけれども、選択肢がありまして一、二、三、四、それぞれ似たような漢字が書いてある。どれが本当かというわけです。これをもしも漢字書き取りと同じ能力をはかっているというふうにお考えになるのでしたら、これは私は大きな間違いだと思います。これは、類似のものから正しいものを選ぶのをよくやりました。日常的な場面で言いますと、何もないところで漢字が書けるという能力ではなくて、辞書とか漢字表があるときにその正しい漢字を見つけるという能力であるわけです。これは非常に素朴な例ですけれども、もう少し込み入った例では、ある文章を読んで論旨はどれかというような問題が出ておりました。論旨として適切そうなものは一、二、三、四とある。そのうちどれが論旨としてふさわしいか。しかしこれも自分で論旨を読み取るという場合にはだれも草案なんかを準備をしてくれないわけです。これは役人で偉くなればだれか下役がつくってくれるかもしれまんが。もしそうであるならば、これは論旨を自分で読み取る能力ではないわけでして、大体似たようなもの中からどれがふさわしいかを見つけ出す能力、こういうことになるかと思います。 一般的に申しましてこういうたぐいの問題が非常に多かったわけですが、つまり多肢選択法において正解を得るというのは、第一に正解をあらかじめ知識として持っていたという場合がございます。第二に消去法その他の方法によって選択肢の中から正解である可能性の最も高いものを選び出す、こういう力を持っていた、こういう場合がございます。第三に選択肢の表現からヒントを得ることなく、独力で正解に達する力を持っていた、こういう場合がございます。これはよほど注意しないと第三の力をはかっているつもりで実は第一、第二の力しかはかっていない、こういうことになるわけです。詰め込まれた知識あるいはクイズを解くような能力、これになりますと非常にゆゆしい問題になるのではないか。なぜかと申しますと、今度共通第一次試験をおやりになれば、これを幾ら第二次試験と組み合わせると言いましても、高校以下の教育における一つの目標となります。たとえば足切りに使うなんていう話も一部出ていたりいたしておりました。もし足切りに使われるのならば、まずそれを突破しなければいけない。そうすればそういう問題をどうやって早く適切に正確に解くか、こういうことがまた高校以下の受験教育で目指されることになると思います。そうなってきますといまより以上に多分教育をゆがめてしまうでしょう。マークシート方式、つまり多肢選択方式であるいはマル・バツ式で覆えるようなそういう学力の非常に狭い領域、これだけしか考えない、こういうことになるのではないかと思います。 それでこれが非常に大きな問題なんですが、これと第二次試験と組み合わせてうまくバランスがとれるかどうか。これはよほど高校までの教育において到達すべき学力というものの中身を明確にしていただいて、その中で第一次試験がどこを扱っているのだ、第二次試験ではどういうことをやってくれということの脇分けといいますか、こういうことがあらかじめなされてない限り、第一次試験ではこういうことしかやりません。後は第二次試験でやれということは、少し無責任と言うと語弊があるかもしれませんが、それだけでは第二次試験はいいものはできないのではないかというような気がいたします。 こういうふうに批判的なことを申し上げたわけですけれども、ではこういうことの試みは全然意味がないかと申しますと、私はそうは思わないわけです。たとえば大学入試センターをおつくりになり、そして鋭意二年間でも御努力になる。これによってたとえば五十四年度からそう問題のないことがやれるかもしれないという、そういう希望も私は持っております。しかしそのためには必要な前提がございます。つまり技術的な面だけに限りましても必要な前提がございます。 これはまず第一に、高校までに到達すべき学力の内容は何であるかということをきちっと押えていただくということであります。いままではどういう範囲のということばかりが考えられ、どういう内容の、たとえば物理で言うとどの辺まで扱う、化学で言うとどこまで扱うということが問題にされておりましたが、どのレベルのということが余り考えられていなかった。たとえば同じように何々がわかると言っても、わかり方にいろいろございます。非常に低位なものは覚えていればいい。その次の段階になりますと、それを何か別の表現ができるくらいそしゃくしていないといけない。第三にはそれが実際の問題解決に使いこなせる、こういうレベルがあるかと思います。第四にはそういうことを言わなくてももうその人の知的な構造の中に組み込まれてしまっておる、こういうことがあるかもしれません。内容、領域だけでなくて、それがどのレベルまで必要なのかということを考えていただかないと、問題形式ができないわけであります。覚えておればいいということでしたら、先ほどの多肢選択でいいわけです。しかしそれが使いこなせるということになりますと、これは問題文はいまおつくりになっているものでいいのですが、解答欄は記述式でなければこれはどうしようもありません。こういう学力の内容を明確に洗い直す。たとえば到達目標というような言葉が最近ございますが、こういうような形ででも明確にしていただく、これが第一点でございます。 第二点は、今度はそういう学力の内容とか能力レベル、これに対応した方法をお考えいただく。つまり先にマークシート方式があって、それのためにということではなくて、まずはからないといけない学力というものがあって、その学力のそれぞれの要素と申しますか、あるいはその節目、節目といいますか、そういったものを測定するにはどういった方法がいいだろうか。この辺は確かにマークシート方式でやれるでしょう。この辺は作文でもさせないといけないということだったらそれをさせないといけないだろうと思います。こういうことでおやりになればどうだろうか、こういうふうに考えております。ではコンピューターは使えないのかということになるかと思いますが、私は使えると思っております。たとえば作文をさせた場合でも、一番めんどうなのは作文だと思います。たとえば読み取りはできないでしょう。しかしたとえば一つの作文を幾つかの観点において五人の判定者を準備しておいて、判定をしていただくわけです。一番最高点をつけた人と最低点をつけた人を除いて、真ん中の三人の点数を平均する。ちょうど体操なんかの競技でやっております。たとえばこういったようなやり方で点数を出して入れていく、こういったようなことだったらできると思います。要は、やはりこういうことを見ておかないといけないということがあるならば、それに見合った手数とか金とかこういうことをかけないといけないのじゃないかということだろうと思います。 最後なんですが、いま言ったようなことで技術的には一応の解決がつくのじゃないか。そういうことを入試センターで鋭意おやりいただければ、たとえば五十四年度から実際に大量にといいますか、全国に実施するということも可能ではないかとは考えるわけですけれども、しかし、それと同時に、より抜本的な大学の改革ということをお進めいただきたい、こういうことを考えているわけです。それには私は二つあるだろうと思います。一つは、非常に個性を持った大学というものをもっともっと国の力でつくっていただく、あるいはいまある大学をそういう方向に育成していただく、これは私立大学に対する助成なんかも含まれると思います。第二は、学歴というものが実力と関係なく物を言うというような、そういういろいろな社会の要素がございます。これを一つずつつぶしていく、なくしていく、こういった方向へいろいろな施策を考えていただく、こういうことが必要かと思われます。こういう背景があって初めて、いまお考えになっております大学入学者選抜制度あるいは選抜方法ということも意味を持ってくるのじゃないか、こういうふうに考えております。 どうも失礼いたしました。
○藤尾委員長 次に、天野参考人にお願いいたします。
○天野参考人 名古屋大学の天野でございます。 私は、大学では教育社会学、比較教育学という領域を専攻しておりますので、その立場から私の考えていることを述べさせていただこうと思います。 最初に、私の基本的な考え方を申し述べさせていただきたいのでありますが、今回の共通第一次試験につきましては、これまでの方々が御指摘になりましたように、不確定な要素が少なからず残されておるわけでございますが、それを当面は実施に移して推進していくことが入試地獄を緩和するための少なくとも第一歩になるのではないか、こういうふうに考えております。 もちろん、共通第一次テストは、それだけでは現在の入試地獄を抜本的に解決する対策とはなり得ないわけでございますので、その意味で、今回の改革に過大な期待を寄せたり、また、過大な評価をするのは、厳に避けなければならないと考えております。しかし、実施の過程で一歩々々改善を加えいく、また、それを長い目で見て寛容な態度で見守っていく、育てていく、そういうことによって現在の入試地獄を若干でも緩和する方向に向かっていくのではないか、そういうふうに考えております。 これはすでに御承知のことと思いますけれども、現在欧米のほとんどの国々は、共通テストあるいはそれに類似する共通の入学者選抜の方法というのを持っているわけでございます。これはそれぞれに起源が違うわけですが、大体三つくらいの要請に対応してこういう制度がつくられてきたというふうに考えることができると思います。 一つは、入学者の質を標準化していく。つまり、大学教育を受けるにふさわしい人間はどういう人間であるか、そういうことを調べていく、そういうためにテストを行うということがございまして、悪い言葉になるかもしれませんが、入学者の品質管理といいますか、そういう観点から試験が行われる。これはたとえばドイツのアビツーアやフランスのバカロレアというふうな資格試験がこれに当たると思うわけでございますが、これを標準化というふうな形で呼ぶことができるかと思うのでございます。 二番目の要請といたしましては、やはり合理化の要請というのがあったというふうに思われます。それぞれの大学が個別に選抜をやっているということは、大学にとっても、また、受験生にとっても大変むだが多い。むだを省くために大学が共同して合理的な選抜方法を考えていく。アメリカの共通テストというものは一九〇〇年に始まっておるわけでございますが、こういった大学が共同で合理的な選抜をやっていくという発想がその底にあったというふうに考えることができると思います。 それから、三つ目でございますが、これは入学者の選抜の方法というものをもっと公正なものにしていく、あるいは民主化していく、教育機会の平等化を図っていくという意味での共通テストというものの支持基盤というものもあったというふうに考えます。つまり、選抜を家柄やそれから財産というようなもので決めるのではなくて、客観的にはかられた能力で決めていく、共通のスタンダードで客観的に評価して入学者を選んでいく、そういうために共通の学力テストをやる、そういうふうな発想もあったというふうに考えております。 こういうふうにそれぞれの国によりましていろいろな形で共通テストが出てきたわけでございますが、それをどういう形で実施するにいたしましても、最大の前提になっておりますのは、何といっても大学人がこれを共同して支持し、運営していくという精神であったろうと思います。つまり、共通テスト制度といいますものは、大学人の間に共同の精神というものがなければ、どのように国家によって、権力によってつくられましてもうまく動いていくものではない、あるいは失敗に終わってしまう、そういうふうなものであると思うわけでございます。 そこで、日本の問題を考えてみますと、日本の場合には、もちろん、こういう機会の平等化を図るとか、選抜の合理化を図るとか、あるいは入学者の標準化を図るというふうな要請がなかったわけではございませんけれども、なかなかそれが共通テストの実施という形に結晶しなかった。戦前から何度か共通テストに類する試みは行われてきたわけでございますが、それはいずれもこれまで失敗に終わってきた。これは準備不足とかその他いろいろな理由もございますでしょうけれども、どうも私には、基本的には大学人の間でこれを守り育てていこうという共同の精神というものが存在しなかったのではないか、そういうふうに考えるわけでございます。 その結果、現在どういうことになっているかと申しますと、千に近い大学や短大がある、これらの大学や短大がそれぞれめいめいが入学試験の問題をつくって、期日を異にして入学試験をやっておる。私立大学の場合には学部によって入試期日等が違うわけでございますから、毎年恐らく何千回という入学試験が行われておる。そのために、何万あるいは何十万という入試問題が毎年つくられては捨てられていく。そして一月から三月にかけましては、大学の教師も受験生も受験受験に明け暮れるというふうな状態が生まれているわけでございます。 その結果どういうことになっているかと申しますと、入学者の質の標準化というふうなことはまずなされる望みはない。大学によって入学者の質は非常に多様であるということが一つの結果として出てきているわけでございます。また、二番目には、毎年毎年たくさんの入学試験問題がつくられていくわけでございますから、どうしても難問奇問が生まれやすい、そのために受験生は苦しめられるという状態が生じております。また、非常にたくさんの時間やお金やエネルギーがむだに費やされている、そういう状態が出てきているわけでございます。そして、結果的には教育機会の平等化というのも必ずしも達成されていない。そういう現状からいたしますと、国立大学協会が今回共通の第一次テストを行うということを、幾つかのメリットを持っているというふうに考えることができると思います。 この共通テストの趣旨につきましては、岡本先生からもいろいろ御説明がございましたけれども、私は、基本的にはこれは入学試験の入学者の選抜の合理化を図るものである、先ほど三つ挙げたもので言いますと、合理化という要請にこたえるものであるというふうに考えております。ともかく八十数校の、九十校近くの国立大学の間だけでもまず入学試験を共同でつくろうではないか、それから一期校、二期校をやめて、同じ期日に同一の問題で試験をしようではないか、そうしてもっといい問題をつくっていこうではないか、それから選抜をそうすることによって一層公正なものにしていこう、あるいは機会の平等化を図っていこう、そういうふうな目的からこれが出てきたものであるというふうに私は理解いたしております。 そういう点でこれは一つの大きな進歩であるわけでございますが、もう一つ私が重要だと思いますのは、何といっても、この案が恐らく日本では初めて大学人の間の共同の意思といいますか、共同の精神に基づいて構想されるようになったということでございます。国立大学協会は国立大学だけの連合体でございますけれども、この案はそれぞれの大学、学部におりてまいりまして、そこで慎重な審議を経て、ほぼ合意に達したところでこういう案が出てきているわけでございますので、そういう意味では大変画期的なことである、どうしてもこの芽を育てていく必要があるのではないか、こういうふうに思っております。 そこで、共通テストの具体的な問題でございますが、実はこれはまだ今後に残された不確定な要素が非常に多いのではないかというふうに考えます。技術的な面については別といたしまして、一体この共通テストを今後どういうふうに利用していくのか、あるいはどういう方向に伸ばしていくのかによって、それがどういう価値を持つのかも変わってくるのではないかというふうに思うわけでございます。 先ほど申し上げましたように、今回の国立大学協会の共通第一次テストというのは、入学試験の共同化あるいは選抜の仕方の合理化という形で出てまいったわけでございますけれども、将来の方向としては恐らく二つ考えられるだろう。一つは、それを入学試験の共同化ということで、国立大学だけの選抜の手段として使っていくということであるわけでございます。その場合には、そういたしますと、多分だんだん入学試験の問題というのは、かなり高度なものになっていく可能性というのが非常に強いと思います。いまも出ているわけでございますが、第二次試験と第一次試験との組み合わせをどうするかという問題がございます。第二次試験を簡単なものにして、よりきめの細かい選抜を行っていくためには、どうしても第一次試験をかなり高いものに持っていかなければならないというふうなことが出てくるかもしれないというふうに思っています。そういう方向に行きますと、次に出てまいります問題は、第一次の学力検査を重いものにして、第二次試験を学力検査によらないといたしますと、学力検査によらない選抜の内容というもの、つまり何によってこれから選抜をしていくのか、面接とか論文とか言われていますが、それはどの程度客観性、評価の公正さを保証し得るのかというふうな問題が出てまいると思います。 また、国立大学の入試の共同化という考え方でまいりましても、第一次試験をどこまで足切りに使うのか使わないのかというふうな問題が、これも出てまいると思います。もし足切りに使わないといたしますと、今度は第二次試験でのよりきめ細かい選抜というのが事実上不可能になるというふうな危惧も感ぜられるわけでございます。非常に手間暇がかかってしまう。私どもの学部で若干試算したところによりますと、たとえば受験生が一千人というふうな、私の大学は約六十人規模の大学でございますが、十倍といたしまして六百人の規模にいたしましても、これに十分ずつの面接を行うといった場合にどのくらいの時間がかかるか、まるまる一日を費やしても終わらない、そのくらい労力がかかるというふうな結果が出てまいりますので、もし受験生が十倍、二十倍というふうになった場合には、事実上、技術的に処理が不可能なような状態が起こってまいるかもしれない、そういうことも考えられるわけでございます。 もう一つの方向といたしましては、今回の共通第一次テストをむしろ高等学校での学習の到達度をはかる学力検定的なものにしていくという方向が考えられると思います。この場合には第一次試験は比較的簡略なものにしておいて、第二次試験でより高度の学力をはかるというふうな方向が考えられるわけでございます。これは現在国立大学協会が考えております方向にかなり近いものではないかと思うのですが、その場合には、第二次試験の科目は二、三科目程度、三科目程度が標準的なものになるだろうというふうなガイドラインが出されております。 もし、現在考えられておりますように、国立大学の第二次試験が二、三科目程度に抑えられるといたしますと、これは実は現在私立大学が行っている入試と非常に近い形になってくるわけでございます。私立大学は現在ほぼ三教科型、つまり理科系で言いますと英語、数学、理科、文科系で言いますと英語、国語、社会というふうな三教科によって入学者の選抜を行っているというタイプが多いわけでございますが、非常にこちらの方に近い線になってくる。もしそういう方向に行きますと、この場合にもいろいろ問題があるわけでございますが、私立大学がこの入学者の選抜方式に参加し得る可能性が開かれていくというメリットが考えられるのではないかというふうに思います。つまり第一次の試験は比較的簡略なものにして、私立大学もこれに参加していく。第二次試験はそれぞれの学校が独自に選抜を行う。その場合に、国立大学も私立大学もほぼ共通に三科目あるいは二、三科目の学力試験を行ういとうふうな方向が考えられるわけでございます。この場合にも難問奇問が第二次試験で根絶される保証がないというところにまだ問題が残されているわけでございますが、一応そういう方向が考えられるだろう。 いずれにいたしましても、国立大学の第一次共通テストが実施された後になりましても、共通テストの性格を、今後、いま申し上げました国立大学だけの入学者の選抜方法の合理化という方向でいくのか、それとももっと私立大学も含めた入学者の選抜方式の改善、あるいは先ほど三つ挙げたので言いましたら、入学者の品質の管理といいますか、標準化という方向を推し進めていくのか、そういう問題が残された問題として出てくるだろうと思っております。 最後にもう一つ問題点をつけ加えておきますと、最初に申し上げましたように、入学試験制度をどのように変えましても、それだけで試験地獄というものは解消されないということは、これはこれまでの方々の御意見ともほぼ同じで一致しているわけでございますが、私もそういうふうに考えております。 これは結局、高校を卒業して大学に入るというこの一点に選抜の機能というものが集約され過ぎているということにあるわけでございます。つまり、どの大学にはいれるかということによってその人の将来が決まってしまう、そこに選抜の機能というものが集約され過ぎている、そのために入学試験に大きな圧力がかかってくるということになっているわけでございます。 したがって、この圧力をどういうふうに分散させていくのか、つまり入学試験だけに圧力が非常に大きくかかってまいりますと、どれほど技術的な改善をいたしましても、やはり試験地獄というものは残っていくだろう、その圧力を何らかの形で解消をしていかなければいけない、そういう問題があると思います。そうしてこれは、これも繰り返し言われておりますように、学歴主義社会と言われる社会全体の問題であるわけでございますが、同時に大学自体についても制度的に変えていかなければならない問題が幾つかあるだろうというふうに考えます。 これまで挙げられております案を申し上げれば、入学した後での選抜をもっと厳しくする、つまり、簡単にはいれるけれども、なかなか卒業できないような制度にする、あるいは大学の間で学生が自由に移動できるようにする、あるいは一たん社会に出た後でも自由に大学にはいれるように門戸を開いた大学制度というものをつくっていく、そういうふうないろいろなことが考えられるわけでございますが、いずれにしても、入学試験の技術的な完成といいますか、精緻化を図っていくと同時に、入学試験という一つの時点に選抜をめぐる圧力が集中しないように、それを分散させるための努力を別途していかなければならない、そういうふうに考えます。 以上、非常に一般的なことを申し上げたわけでございますが、いずれにいたしましても、今回の入学試験の制度の改革というのは、一人前の大人となって始まるわけではないのであって、赤ちゃんとして生まれてくる、そういうふうなものであると思います。これを大事に育てていくということが一番大事なことではないかというふうに思っています。 アメリカの共通テストの制度の歴史というものを見てみますと、この制度は一九〇〇年に東部の十二の大学が連合して始められたわけでございますが、その最初の発足時には、東部あるいは現在でもアメリカきっての一流大学であるハーバード大学はこれに加入しておりませんでした。一九〇四年になってハーバード大学は初めてこれに加入したわけでございます。加入いたしました後も一九一五年までは、つまり、十五年近くにわたって、ハーバード、エール、プリンストンという御三家と言われますアメリカの一流大学は、この共通テストのほかに、自分たちで独自の学力試験を入学者の選抜に際して行っていたわけでございます。それを廃止したのは一九一五年でございました。そしてようやくこのころからこのテストは根をおろし、より完全なものへとの成長を始めたわけでございます。 そういうわけでございますので、一つの制度が生まれましてから成長を遂げていくまでには長い時間がかかるということでございます。この制度につきましても、そういう意味で、ただ生み落とすだけではなくて、それが大人になるまでじっくりと温かい、同時にさめた目でこれを見詰めていく必要があるのではないか、こういうふうに思っております。
○藤尾委員長 次に、三輪参考人にお願いいたします。
○三輪参考人 ただいま御紹介いただきました三輪でございます。 私は、ただ、一人の母親としまして、皆ごりっぱな参考人で、先ほどお出になられました先生方のようにうまくは話せませんし、またなかなかむずかしい言葉遣いもできませんので、どうぞよろしくに御解釈いただきたいと思います。 私、いま高校におります子と、昨年大学に入りまして、また来年大学を受けます子とで、合計しまして四人の子持ちなんでございますが、その間に、高校の場合、学校群になります前の子と、また学校群に入りましてからの子供、いろいろとそれをかみ合わせましての問題、また大学入試の問題、また大学入試につく試験地獄というもの、そしてまた、いまのように毎日のように飛び込み自殺、また何かのことでお子さんの首つりがある。その自殺に対して、自分のうちのことでは確かにないことなんですが、何とかならないのかという気持ちで、何人か子供を毎日見たりまた子供と接しておりますと、人ごととは思えないわけですね。 ただ、私いまきょうここでの大学入試センター、そういうのを設置するということにつきましては、大変よろしいんじゃないかと思います。ですが、いま一期校、二期校、またほかに私立というふうに、子供にとりましては、一応単純に考えましても受けるときには三回のチャンスはあるわけです。それが今度一期、二期がいわゆる共通テストになりますと、私いま以上に、反対に言えば、ある時期からまたそれが徐々に手直しされたりして、先ほどの先生がおっしゃられたように長い目で物を見、長い目で育てていくということになれば、確かにそういう制度もよろしいんじゃないかと思いますが、現実にうちの子供も、私立に行っております子も、高校に行っております子も、都立の子も、いろいろと種々雑多ではございますが、その中でやはりいまの学校群制度というものは大変弊害が出過ぎて、またここのところ都立へ入りましても、都立をほうって私立へ行くという、猫でしたらちょっとからかってやれというみたいな形の学校扱いで、親御さんにしても、またお子さんにしてもそのようなお気持ちのところが大変多いということを、昨日ある学校の卒業式へ出ましたときに、大変嘆かわしいという来賓の方なり校長の声なりがございました。そうしますと、それに皆が、学校の先生方頭を抱えていますことは、やはり私ども単純に考えまして、国立に入れるにこしたことはございません。しかし、いまのように一期、二期でこういうふうに物を決めていき、また特殊な形を持ちますそういう制度というものになってきますと、それに伴ってまたそれに沿ったような塾が出て、今度塾のはんらんで、そうして子供が週一回ぐらい塾の講義を受けるために北海道から子供が飛行機で出てくる。これは本当で、現実であって笑い話どころじゃないわけですね。 そういうものが本当によくいくまでには、それはどんなことにせよいろいろな段階があることはよくわかります。ですが、これが全部が全部もろ手を挙げて賛成できるとは申せません。私もう少し検討していただく余地があるんじゃないかと思う。そしてまた反対に、今度は私立へ行く人のあり方というものが、またある意味では非常に私立にも偏った形をとるんじゃないかしらと懸念される面があるわけですね。 ですから、私は、それとは違いますが、もう少し見直されていいのは各種学校、専門学校というものです。こう言っては大変失礼ですが、いま一番勉強するのは専門学校また各種学校の生徒です。やはり自分のものを、二年なら二年、三年なら三年のところを、それを三年以上のものを身につけて出ようとするわけですね。ですから、どうしても力が入ります。勉強するにもだれがために、親御のために勉強するんじゃない。だれがせいにするわけでもない。そうしますと、この各種学校というものをもう少しレベルを高くに、そうしてある意味では、国立の場合——それこそある学部を四年間で出たけれども、どこも就職する先がない。そうしてその後職業補導所へ行って二年間やっている。もうそのお子さんは現実に学校を出ているわけですね。予備校へ行ってある学校なら入れるんだから、それなら頭を切りかえて各種学校へ行く。ですが、各種学校というものが余りにもレベルを下に見られているいまの現状では、もう少し先生方の国立というものも含めまして——やはり母親の私たち、ただ一母親があるいろいろな横のつながりで、お母さん、学校、先生方のそういう声を聞きますと、一期、二期というものともまた並行していただきながら、先ほど村井先生がおっしゃったように、子供たちがもっと専門的な、また本当の勉強が身につく、そういうものを並行していただけないかというふうな切なる母親の心として、時間は短時間でございますが、どうぞよろしくにお聞き取りをいただけたらと思っております。ありがとうございました。
○藤尾委員長 これにて六参考人からの御意見の開陳は一応終わりました。 午後から各参考人に対する質疑をちょうだいすることになっております。ただいま石川要三君、嶋崎譲君、有島重武君、曽祢益君、山原健二郎君からそれぞれ質疑の申し出がございます。 この質疑に関してでございますけれども、参考人の中、岡本道雄君はできれば午後三時までに帰りたいという御要望がございますので、あらかじめ御了承をいただきたいと存じます。 午後一時十分より再開することとし、この際、休憩いたします。 午後零時十八分休憩 ————◇————— 午後一時十二分開議
○藤尾委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。 国立学校設置法及び国立養護教諭養成所設置法の一部を改正する法律案を議題といたします。 午前に引き続き参考人より御意見を承りたいと存じますが、御意見は委員の質疑に対してお答えをいただきたいと存じます。 なお参考人各位に申し上げますが、発言の際は委員長の許可を得て御発言を願いたいと存じます。 また、念のため申し上げますが、参考人は委員に対し質疑はできないことになっておりますので、御了承を願います。 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。石川要三君。
○石川委員 それでは午前中諸先生からいろいろと御高説を拝聴いたしまして、そのお話を聞いている中で、私なりに幾つかの問題点をお尋ねをしたい、かように思います。 まず最初に岡本先生にお尋ねをしたいわけでございます。先生の先ほどのいろいろの御高説の中で大変私も共鳴する点がございました。特にかつて進学適性検査あるいは能検テスト等におきましては、その取り組みが十分でなかったというようなことから成功しなかったというその反省もなされ、そしてさらに今回そういう反省の上にこの新しき試みでございます統一のテストということにつきましては、すでに二百人を上回る先生方の御努力と、そして相当の、五、六年の歳月を要しましてきわめて慎重に御検討をされて、今日先ほどの話を承ったわけでございます。まことにその点につきましては敬意を表したいと思いますが、その中で、お話を聞いておりますと、どなたのお話の中にもございましたのですが、結局私立の大学の将来の参加ということがきわめて必要であるということを拝聴したわけであります。この点につきまして、今後の私立の参加に対して国大協としてのお考え、そういった点を主としてさらにちょっと突っ込んでひとつお話を承りたい、かように思います。
○岡本参考人 お答えします。 まず国大協が相当な年月をかけて、毎年二百人、延べ千人近くでやったということでございますけれども、繰り返し申しておりますとおりこれは四十万近いものを扱うというきわめて大数でございますね。いささかのミスがあってもこれは大変でございますし、その試験そのものについても、いまいろいろ御意見を承りましたように批判もございますので、それで、これはまず最初に国立大学が、いままでも三回模擬テストをいたしておりますので、そういうものを踏まえて、できるだけ確実にできるということを確認いたしませんと、この際に私立を一緒にいたしますと恐るべき数になるわけでございます。そんなことで、この国の大学の入試地獄というものを解決するためには私立大学というものを無視して考えられないわけですね、八〇%が私立であって二〇%が国立ということなんですから。この国の入試一般ということになれば当然私立というものが大きな問題なんです。それはよく承知しておるのですけれども、まずこういう大きな規模においての改革というものは間違いがあってはいけませんので、その点国立でできるだけのことを尽くして、そしてこの数でやってみて、そして公立、私立に及ぼしたい、そういうことに考えております。公立についてはもうすでに意見をほぼ統一していただきまして、参加をしたいということでございますけれども、私立大学の方も、これまた大学の自主性でございますから、まだ全体にまとまってこれに参加したいという結論に至っておらないように思っておりますので、その点、この国の大学の入試の問題というものは国公私立全部含めたものでないと本当の解決にならないという意味におきまして、私立の参加というものも十分展望を持って考えておりますけれども、まず国立でこれをできるだけ確かなものにして、そしてやがてそういう方向へ動かしたい、そんなことを考えておるのでございます。
○石川委員 まず国立大学が率先して意見を統一して十分に御研究をされてスタートするのだ、こういうことで、その点につきましては全く同感でございますが、私が聞きたいのは、今後将来に向かって、すでに私立の大学に対しての参加の呼びかけとかそういったようなことについていろいろと着々準備をされていらっしゃるかどうか、そこいらの意欲をどういうふうにお持ちになっているか、そこいらをもう一度お尋ねをするわけであります。
○岡本参考人 いま申しましたように、私立の大学の参加というものは、この国の入試というものを考えますと、当然展望として持っておりますけれども、いまのところ国立に関してこの内容を少しでも遺漏のないようにということで精いっぱいでございまして、公立に関しましては、その参加の実際につきましていま検討中、それは向こうの方が積極的に意思の統一をしておいでになりましたのですから具体的にも検討いたしておりますけれども、私立に対しては、まだ具体的にその参加を検討したという段階には至っておりませんので、その点今後の問題だと思っております。
○石川委員 同じ問題をほかの先生に聞いてもいいわけですが、たまたまいま最終的には私立の大学の参加ということがどうしても必要なように私には伺われます。したがいまして、村井先生にお尋ねいたしますが、先ほど先生のお話の中で、特に設置場所が東京であるために私立側としては関心が薄いというような率直な感じを表現されました。それと同時に私立大学側としては、私の受けとめ方によれば、非常に積極性がないというふうにも受けとめられたわけであります。いま私が申し上げましたように、やはり最終的には私立大学というものもあわせてこれに参画をするということが非常に大きな効果というものがあるのではないかと私は思いますので、そこいらの意欲、そこが私は、やや消極論のように承りましたので、重ねてお尋ねしたいと思います。
○村井参考人 実は私立大学には三つの団体がございます。ですからそれぞれの団体で受けとめ方あるいは意欲というものが異なっていることは当然だと思います。ただ私は、この問題が表面に出ましたときに、国大協と言っても、これはやはり文部省がやることですし、あるいは国がやることだから、私大が除外されていることは大変残念なことだということを申しました。そういう意味では、やるなら一緒にという意欲は十分あるわけでございます。ただ、今度出ております内容からしますと、何と言っても、国立の第一次選抜試験の形式をとっております。ですから同じ内容のものであっても、やるならば、選抜ではなくて、高校の学力到達度という形にすれば、これは私学としては、当然内申書に出てきますから、大変受けとめやすい、そういう意味では積極的な意欲があるわけでございます。
○石川委員 いま村井先生の率直な考え方で、私も自分の主観というものも多少違ったような点をわかったわけであります。入試センターに委託方式でやるというふうになっておりますし、これが即国の機関であることは間違いないと思いますので、文部省がやるんだからということで何か先生が初めから除外、と言うとちょっと語弊がありますけれども、そういうふうに考えられていること自体、そうでなく、いま高校の学力の到達度ということでやれば、もっと私どもも参画する意欲を持っているんだというようなお話もございました。いずれにしましても今後私立大学というものが参加することが大きな一つの今後のこういったような問題の課題ではないかと思いますので、過去のいきさつはいずれにしましても、積極的なさらに今後の御努力をひとつお願い申し上げたいと思います。 次に、さらにまた岡本先生に返りまして、これはほかの先生方からもそんなような点を再三お話の中で承りましたけれども、私どもも聞いておりまして、第一次、第二次の組み合わせというものが非常にデリケートな、しかも大切なことではないかと思うのです。先ほど言った、一次試験はコンピューターで多数の方をやる、そういう方法、それから各大学の個性的な面の第二次、ここいらの組み合わせというものはきわめてむずかしいと思うのですけれども、そこいらを、私どもは教育には専門外でございますけれども、その組み合わせの理想的なあり方といいますか、もう一度ひとつそこいらをちょっとお聞かせ願いたいと思います。
○岡本参考人 去年の十一月に、この共通一次試験を五十四年度から実施可能であると判定いたしましたときにも、この一次はよくわかったが、二次の試験のあり方というもの、及び一次と二次とをどう組み合わせるかということがこの共通一次試験の成功のかぎであるという認識でそれについて相当議論いたしたわけでございます。私はこの研究の途中からも、かつてはこういう考えを持っておったのです。最前も申しましたように、入試は大学教育の一環と言いますか、その初めでございますので、各大学が固有の試験を行うべきである、こういう発想から出発いたしておりますので、第一次試験を全国で共通にするからには、二次試験というものはできるだけ各大学独自のものにしておいた方がいい、そういう発想で、二次試験にはさわらないという態度で来たのですけれども、四十九年ごろから私は、第一次試験というものが固まれば固まるほど、第二次試験に対しても、独自なものを残すとしても、やはりガイドラインというか、一般的な考え方というものは提示した方がいいんじゃないかというようなことを申しまして、研究してまいったのでございます。この第二次試験というものは、各大学が独自にやる試験だという意味と、それから第一次試験がほぼ固まったということは、しかもそれが大数を扱うという意味で、最前もお話がありましたように、コンピューターで処理するという大きな欠点がございます。したがって第一次試験のやり方でカバーできないものがある。高校教育というものは単に記憶するだけでございませんので、表現力とか理解力とかあらゆるものがまんべんなく教育されることが高校教育の理想でございますので、高校教育の正常化を目指すならば、第一次試験の中でコンピューター処理ということでテストすることができないものがあるなら、やはりそれは第二次試験においてそれを課することが高校教育の正常化を助けるものであるという意味で、基本的なものは第一次試験に即して第二次試験というものは考えられなければいかぬ。コンピューター処理によるその欠点を補わねばいけないということと、もともと共通一次を考えましたときに、難問奇問が高校教育をゆがめているのだということでございますから、そういう精神も第二次のときには当然生きなければならぬことですし、そういう第一次、共通一次というものの精神とその実態、内容、そういうものをよく知ることによって、それの補完的なものにする。さらに積極的な面としては適格性を見る、適正を見るというようなことをやればいい。これが第二次試験の基本的な憲法みたいなものだろうと私は思っておるのです。それでこの点について、第二次試験の科目が何科目だとかなんとかいうことはもう枝葉末節のことでございまして、私は、大体第二次試験のあり方で科目のことをまず出すということ自体変だと思っておるのです。第一次試験でコンピューター処理によるテストでできないものはどの科目にもあるわけです。たとえば国語においてはこの面は一次で見られるけれどもこの面は一次では見られないというものがあるわけですから、おのずから試験の質が違うはずですけれども、その点、憲法的にはそういうものだと思っております。 それからこの一次試験、共通一次試験は、いまもお話がございましたように、各国でやっておるものでございますけれども、たとえばアメリカなんかではあらゆる方向に共通試験をやるのですね。それで、国民自体が自分を客観的に評価されるということになれておりまして、テストしてもらった点数を持って歩き回るというのが平気なんです。日本人は基本的な性格が違いまして、自分を客観的に評価されるということにむしろ抵抗を感じているんじゃないかと思うのですね。これは精神一到何事か成らざらんで、おれは何でもできるんだけれども努力しなかったんだとか、何かそういう性格がありまして、客観的テストというものを受け入れる精神的素地が外国とは違うと思います。その意味で、日本が共通一次に各大学固有のものを加えるということに大変意味がある、そういうふうに思っております。 それから組み合わせばパーセンテージでどの程度ということでございますが、これは学校に応じて、それから一次試験そのものの実態を各科目についてどういうふうに比重を持たせるかというようなことは各大学の自由だということにいたしております。
○石川委員 いまの答弁であるいはもう答えになっているかもしれませんが、ちょっと問題点を変えて質問しますが、要するに第一次の試験と第二次の試験、それから第二次の中に面接なども含まれている、そういうような人物評価も入って総合的な判定で最終的に合格、不合格が決まる、こういうふうに解釈していいわけですね。その採点の配分といいますか、これは各大学で自由なんですか。そういうふうに解釈していいんですか。
○岡本参考人 その点が各大学の自由ということになっておりまして、これは恐らく、いまのところ五〇%、五〇%にしようとか、一次を三〇にしてこっちを七〇とか、おのおのみな考え方が違うと思いますけれども、多くは半々ぐらいのことを考えておるようでございます。これも一次試験の内容が次第に定着してまいりますと一このごろ一次試験の評価が徐々に定着しておりますのは、実はこれは問題の内容なんです。出しました問題が、この共通一次が一番主眼としましたのは、衆知を集めていい問題をつくるということでございましたものですから、これが年を追ってなれてまいりますに従いまして、その問題の実際をごらんになって、これはなるほどよくできておるということで、徐々にその点の評価が高まっておるのですが、これが実際、今後回を重ねまして、これで大体いけるんでないかというような評価になりますと、そちらに徐々に比重がかかってまいると思います。これは今後の実態によっても変わりますし、現在では各大学のそのとり方いかんによってその点は自由だということにいたしております。
○石川委員 今後の実態によっていろいろと変わってくるというようなことで、第一次試験のウェートがだんだん高くなることは、そういう傾向になろうかと思いますが、先ほど三田高校の長谷部先生のお話の中に、第二次試験をむしろ大学側がそこでぎゅっとむずかしくするというようなことで、そこいらに難問奇問が伏在しているんじゃないかというような心配をなさっておりました。いま岡本先生の話によれば、そういうことはないようにも承りますが、そこいら、先ほどの長谷部先生に対して、むしろもう少し安心を与えるようなことで、そういうことがどうしてないかということを、ほとんどあり得ないんだ、御心配ないんだ、胸をたたいて大丈夫だというような意味の説明をもう一度お願いいたします。
○岡本参考人 いまのお話、これが本当に方々でみな心配をされておることなんです。それで、私は最前憲法と申しましたけれども、こうして国大協が五、六年もかかって自発的にやりましたときに、共通一次に一つの精神は持っておるわけでございます。それで、いま二次の科目をたわいなくふやすと申しますか、おれのところはおれのところのやる試験だというような声も聞くこともあるのですけれども、本当に国大協がこれだけじみな努力を積み重ねて共通一次というもの——入試地獄と言われるこの現状を見て、これは放置できない、大学自体の手でできるだけの努力をしようとして積み上げたこの一次試験の内容が、大学人によってもし二次試験にいま御心配になっておるようなものがあらわれるなら、これはもう大学自体が批判されるべきであって、そういうものも含めて、やはり入試センターというようなものがよくフィードバックして、そしてコントロールしながらいくべきものだと思っております。その点、一次試験の精神といいますか、そういうものがしつかり理解されるなら、二次試験に難問奇問が続出していって、科目が同じようにふえていくというようなことは、大学の良識としてはない、私は、それを、まあ信じるだけではだめかもしれませんけれども、そんな気持ちでおるのですけれども……。
○石川委員 何か私が両方を組み合わせておもしろがっているように誤解されると失礼でございますが、そういう意味ではなくて聞くのですけれども、今度は長谷部先生にお尋ねします。 いま岡本先生の御意見を聞きまして、先ほど先生が、むしろ第一次にりっぱな試験をやっていただければ二次試験の方は学科試験は含まれなくてもいいのじゃないかというような意味のお話をされました。しかし、まあ素人ですけれども、やはりいろんな、第一次試験だけではとても満たされないその面の補完的な意味で、どうしてもこれは第二次試験も必要だし、その場合に、普通というか、それに対して特殊といいますか、そういう面の学力、知識というものの到達度合いを知る意味におきましても、私は、やはり学科試験というものもやむを得ないのではないかと思うのですが、さっき先生は、それはなくてもよろしいではないかというような、まあ難問奇問の不安も含めて、お話をされましたけれども、その点について、特にいまの先生のお話を聞きまして、さらに先生の御意見も今度は承りたいと思います。それが第一点。 それから二点目は、その総合的判定によって合格、不合格、これは非常に結構だと思うのですが、先生の、現場の高等学校の校長先生としての立場から見ると、総合判定というものの採点の配分は、どういうふうなものが理想的なふうにお考えになりますか。 それから三点目は、今度はチャンスが一発勝負になってきたというようなことでございまして、これはむしろデメリットだと言われましたが、では、そのチャンスが一回のデメリットをなくす具体的な方法はお考えになっているかどうか。 その点、三点伺います。
○長谷部参考人 いま岡本先生のお話を聞いてやや安心をしたわけでございますが、一次試験で、二次試験においては学力試験はなくてもいいであろうということを私が申し上げましたのは、私は実は三段階を考えています。 まずは、この一次試験をしっかりとしたりっぱな問題を作成をして、大学の教育に適する適性を判断できるほどの問題をつくるということが前提になります。そういう場合に、あえて第二次試験で高度な試験を課して、そこで受験生を苦しめなくてもいいであろうというのが、第一段階でございます。 第二の段階になりますと、さらにそこを補完する意味におきまして、そういうことは理想的な問題がなかなかできにくいということもありますので、それを補完する意味においては、面接なり小論文なりというものを課していくことが、第二段階には考えられてくるであろうと思います。 第三段階に至って初めて第二次試験で学科試問というものを考慮してみるというふうな、段階的にやはり考えてほしい、一番最初からまずは一次試験は一次試験でハードルの低いところをやっておいて、そして二次試験のところで高いハードルを課して、そこで大学が独自に問題を出し、そして選抜するのだと、こういうふうな発想は、直ちに行くということについては賛成できないという意味で申し上げたわけで、先ほどの、時間がありませんでしたので少しはしょりましたが、私の申し上げたい趣旨はそういうところにございます。ですから、何でもかんでも二次試験で学科をしなくてもいいというところまではいっておりません。 二番目の、総合判定の場合にどういうふうに割合を考えるかということでございますが、私は、まずは、この第一次試験と第二次試験につきましては、先ほど岡本先生のお話にございました五分五分ということもあるし、二次の方を七分とかいうような話がありましたし、最終的には第一次試験が安定した場合にはウエートは第一にかけていいというお話がございましたが、私は一番最初の第一次試験はやはりウエートを持たせるべきであろう、第二次試験にウエートをかけるというと、これは先ほど来心配しております大学の独自性、主体性ということによって、これはかなり危険がひそんでいるというふうに考えられます。ただ、その際ぜひお願いしたいと思いますのは、ガイドラインということが言われておりますけれども、これの規制力というもの、各大学を規制する力というものが果たしてあるのかどうか。ただ書き上げられていてみんなの努力目標であるということなのか、それともかなり強い規制力を持っている、あるいは文部省あたりの一つの規制というものがそこに働くものなのかどうか。そういうことによって、いまのガイドラインの問題がはっきりとされてくるであろうと思います。そこで、配分の問題は、いまのように第一次試験にウエートを置くということが私の考え方です。それから調査書とか何かの問題をどういうように何%に読むかということについては私もどうもいま具体的に何%という配分をまだ考えておりません。具体的にはなかなかむずかしい問題だと思います。しかし、要は生徒が大学の教育を受けるにふさわしい能力を持っているのかどうか、適性があるかどうかということの判断の上の大事な資料であることは間違いないので、これを選抜の資料として取り上げるということはやっていただきたいものだ。ちょっとその辺については、はっきりしたお答えができなくて申しわけございません。 それから第三点ですが、第二志望を何らかの形で生かしてもらいたいということを私は先ほど申し上げました。これについては、実は文部省に置かれております入試改善会議の方のお考えの中で一時こういうお考えがございました。大学合格者の定員の一部分を、いっぱいにとってしまわないで少し余分の席を残しておいて、その部分だけ何%かの分を合格の余地をとっておいて、それを第二志望の者にもう一度受けさせるというようなお話が一時ございました。これも一つの案だろうと思いますが、しかし大学の長い歴史や特色というようなものを考えますと、論理的にはあり得ることではありますけれども、実際問題として、第一次試験、第一回目の試験で席をあけておいて、第二次志望の生徒のためにそれをとっておくということを果たして大学側が承知するかどうかという問題点があろうかと思います。 私が一つ考えております方法で、これがいいかどうか、あるいはできるのかどうかということは大学の先生に伺ってみないとわかりませんけれども、各大学で合格を発表した後取り消しが出てくる、あるいは場合によっては定員に満たないでということもあるかもしれません。つまりそういう欠員が生じた場合にその欠員の状況を公表してもらって、それに対して、第一回で失敗した生徒が第二回目にチャレンジする機会を持たせてやる、こんなことはいかがなものであろうか。これは大学の方の方々の実際的なお考え、技術的にむずかしいとか、あるいは場合によれば、自分の学校で志望をした者を吸い上げていく、繰り上げていく方がいいのだとかいろいろな御意見があろうかと思いますので、実現可能かどうかわかりませんが、そんなことを考えてみたりしております。 いずれにしても、何らかの形で一期、二期が一本化されたこの趣旨は、それぞれの格差意識というものをなくしていくというような意味、それから共通テストというものの性格から見てやむを得ぬことであろうと思いますし、これが何年か後にだんだん定着してくれば不安は残らないと思いますが、いま直ちにはそういう段階でなく、一次、二次ということになれてきているわけですから、当分の間第二志望を生かせる何らかの道はないか、私も実は模索をしている段階でございます。
○石川委員 重ねてお尋ねします。 学校の校長先生として、PTAあるいは生徒、先生方、そういったような方々の共通試験の実施の受けとめ方についてちょっとお尋ねします。
○長谷部参考人 組織的に調査をしたというわけではございませんですけれども、と申しますのは、この共通一次試験の方式、あるいは二次というものについての要綱等の中身がまだよくわかりませんので、調査ということはできません。ただ、折を見て生徒にも問いかけ、父兄にも問いかけ、教師にも言っておりますが、教師の方は大体賛成しています。ただ、二次試験についての問題がまだ明確でないのでその点を明らかにしてほしい、こういうことを注文をつけております。それから生徒の方の場合も、ほぼそういう方向でやってみようという気持ちのようでありますけれども、これもまだ実際はどういう問題が出、どういう方式になるかという具体的な経験がありませんので、やはり不安は持っておると思います。これまで三回のプレテストを国大協がやってくださいまして、私の学校でも参加をしております。しかしこれも非常に少数の生徒でございます。というのは全体の数が限られて、全国で二千名とか三千名とかというようなことで、それを全国に割りますから、一校、私どもの学校でも十五名とか二十名ぐらいしか予備テストに参加できないわけです。しかも東京都内で見ましても、わずかに十校ぐらいしかそれに参加できないというようなこともございますので、実際に一次テストがどんなものであるかという理解の上に立って、生徒の動向をつかむということはまだ困難であろうと思います。ただ、五十四年度から実施されるのだということは、どうもほぼ明確なようでありますので、実は現在の一年生がそれに該当いたしますものですから、父兄会の席やあるいは生徒のそうした進路指導等の時間におきましては、これについてのオリエンテーションのような形での指導はしてきております。父兄の動向につきましても明確なところはつかみかねるところではありますけれども、父兄の方は一番問題なのは、先ほどの御質問にもございました二回のチャンス、あるいは私立、公立がまた参加して一斉にとなりますと、よけい幅が狭まってくる。私学についてはまだまだ先という認識がありますけれども、公立がそれに加わって、それが国立と全く一斉にとなりますと、さらに二回のチャンスが——一期、二期、公立という三回のチャンスが一回に狭められるというようなことで、うちの子供はどうだろうかというような不安は持っているようでございます。したがいまして、この方式についての理解をもっともっと深めた形でいきませんと、生徒並びに父兄の不安は直ちには解消できないだろうというふうに私は考えております。またそういう努力をしなければならぬだろうと思っております。
○石川委員 もう時間がなくなりましたので、それでは最後に天野先生にお尋ねしたいと思いますが、先ほど先生から先進諸国の状況それから歴史的経過等につきましてお話を承りました。そういうようなことをお話の前提にして日本がようやくここで共通試験というものの実現に向かって第一歩を踏み出そうとしているわけですが、むしろ世界の先進諸国の流れ、時代の流れから見れば、私はその流れが逆流でない流れに沿っているというふうに先生のお話から受けとめたのですが、そのように理解していいものか、逆にやっていたけれども、それをよしたというようなことの例があるかどうか、そういうふうな点をひとつお伺いしたいと思います。
○天野参考人 ただいまの御質問でございますが、私は今回の改革が世界の各国の入試制度の改善の方向に沿っておるというふうに思っております。ただ最近新聞等にも書かれておりますが、ドイツやフランスでは従来のアビツーアやバカロレアという入学資格試験制度について問題が出てきていることは確かでございます。ただし、これは日本と違いまして、入学資格試験でございまして、その試験に合格した者は全員自動的に大学への進学を約束される、そういう制度になっておるわけでございますが、大学の収容能力がそれに追いつかないので、そのために、アビツーアやバカロレアをとったけれども入学するまで何年も待たなければならない。あるいは特定の学部に進学希望者が非常に殺到する、そのために改めて入学者の選抜試験をしなければいけないのではないかというふうな動向が出てきているわけでございます。しかし、現在考えられております国立大学の共通第一次テストというのは、そういう性格のものではないと私は理解しております。むしろアメリカが行っておりますような共通テストに近いものでありまして、これは入学志願者の学力を試す、そして一定点数以上の者であれば国立大学の入学が許可されるされないということではなくて、それを参考に選抜を行っていくという方向でございますので、そういう意味で、現在世界で問題になっております従来の資格試験の限界というものとは当面は関係のない改革ではないか、そういうふうに思っております。
○石川委員 終わります。
○藤尾委員長 嶋崎譲君。
○嶋崎委員 社会党の嶋崎譲です。大変きょうは御苦労さんです。短い時間ですので、質問に御無礼なところがあったりするようなことがございましたら、最初におわびを申し上げておきたいと思います。 参考人の諸先生や三輪さんの意見をお聞きいたしまして、私は共通して受けた印象の第一は、今度の国大協が大変な御努力をなさって出した第一次共通テストの実施は、いま大学入試という問題をめぐって大変社会問題化してきている根本的な問題に対してメスを入れるよりも、入試という観点から、より技術的に対応できる方法がないかという、その第一歩として試みられるという点が、岡本先生もそれからまた長谷部先生も天野先生も共通していたように思います。 そこで、まず最初に岡本先生にお聞きしますが、そういう意味で技術論的な対応にむしろ力点があって、広い教育論的な課題というのは今後の課題だというふうに考えてよろしいでしょうか。
○岡本参考人 最初に申しましたように、入試地獄というものは決して入試そのものの改善だけでなにするものではないのであって、しかしその場合でも入試そのものに対して少しでも改善をしていこうということでございますが、立場が技術的であって、教育全体に対しての観点はどうかということとでございますけれども、その点は、もし言いますならば、高校教育の正常化というようなこと、これが私は大変大きな問題だと思っておるのです。現在は、小学校は中学校の準備、中学校は高校の準備、高校は大学の準備、いつでも現在が次の時代の準備であるという、この行き方は根本的に問題だと思っておるのですね。あしたに道を聞かばというわけで、現在に徹し切ることがその人生を全うすることであるということは、高校の教育の中でそれを素直に全部やっておれば次の過程が生まれるのだ、そういうものが高校の教育の正常化、またそこにおける生徒のあり方をこの共通一次の入試によって——これが科目が多過ぎるという批判もありますけれども、そういうところから、高校で教えられる理想の教育をそのまま試してみるということがそういうことに資していかないかというような、これが教育的な視野だと言えば、そういうものを一つ持っております。
○嶋崎委員 しかし、いま国立大学の入試の場合に根本的に問題になるのは、大学側の受け入れるキャパシティーが少ない。受験者が多い。したがって選抜をしなければならない。ですから、大学入試は選抜試験なわけですね。一方、今度は大学に行く適性能力というものを第二次試験でテストするということであっても、これもまた受け入れが少なくて受験者が多いわけだから、選抜しなければならない。したがって選抜という技術的な対応をせざるを得ないということの改善、これがいまの改善の問題だというふうに考えざるを得なくなると思うのです。これは、日本の今日の入試をめぐる大問題であります。これは、大学制度の改革や、大学に行かなくとも大学に行った資格をとるバイパスの制度をどうつくるかとか、多くの課題を考えなければなりません。しかし、いまの国大協の岡本先生の意見ですと、高校教育の正常化という観点で見た教育的配慮だということがわかりました。 そこで次にお聞きしますが、私立大学の場合に、これは一次試験を行う。それに伴って、難問奇問を消すということのために高校教育に影響を与える。その影響を受けた人たちが今度は私学にまた受験してくるという、直接的ではないが、教育的な影響を持ちながら私学に影響を与えるわけです。そういう意味で、この問題は単に国立大学の入試の問題にとどまらず、きわめて圧倒的な、八割を占める私学を志望しようという高校の生徒たちに非常な影響があると私は考えますが、この国大協がこういう実施に向かって努力された過程で、私学はどのような形で、ないしは何かで御意見を聞かれる機会があったかどうか、これを村井先生に。 それから、高等学校の場合は言うまでもなく今後の教育内容に大変な影響を与えてくると思います。大学入試という技術的——私は根本は技術的な対応のように思えますけれども、そのことが高等学校教育の画一化というような問題も起こしやしないか。特に高等学校は義務教育じゃありませんから、独創性と自律性というのは大変重要でございます。そういう場合に、入試に対応して高等学校の教育が変わってくる、変わるであろうということが予想されます。そういう影響を持っている問題であり、しかも高校生が受験するに当たって、受験科目、受験の実施時期、大変影響が大きいわけでございます。そういう意味で、高等学校の先生方の御意見を聞く機会や、それからまた実施に当たっての意見を聞くいままでの手続はどうなっていたか、これを高校の先生にお聞きしたい。 それから、主婦の立場から見まして、一昨日の私の質問で、十二月の下旬ということが新聞で報道されました。ですから、いま高校一年の生徒は大変心配されている。御父兄も大変心配していると思う。いままでの国大協の昨年の結論で、まだ日ば浅いですけれども、一年生の人に来年の暮れにはもうそういう第一次テストという対応があるとすると、父兄の側にはこういう国大協のいままでの動きというようなものについて知らされる機会はあっただろうかという疑問を持つわけであります。 それぞれ、一口に言って国民的立場に立って、私学の立場、高等学校の立場、国民の立場から見て、国大協の今日のテストをつくるに当たって、御意見をそれぞれ聞く機会というものがこれでよかったのか。たとえば主婦の場合ならば公聴会みたいなものがあっていいのではないかとか、それからまたブロックごとの意見を聞く会がどこかにあっていいのではないかというような気がいたしますが、そういうことを含めて、それぞれの立場で国大協の結論のこの過程に対してどういう御意見をお持ちか、どういう手続があったか、短い時間で率直に御意見を聞かしていただきたい。
○村井参考人 ただいまの私大側の意見がどういうように聴取されたかということでございますが、これはたしか四十九年の五月でしたか、十月の自民党の文教部会でしたか、そこで高等教育の刷新と、この入学試験の問題を取り扱った。パンフレットが出ております。そのことを各私大に配布いただきまして、これについて、私大は三つございますが、私大連盟では検討いたしました。 その結果としては、この統一試験の進行状況に余り私どもはタッチしませんでした。これは国大協がなさっていることとして。だけれども、この入学試験の弊害を除去するのは統一試験あるいは試験制度だけの問題ではないんだ、あくまでもいま受け入れ口、つまり入りたい学校がふえれば受験戦争が緩和されるのだという立場から、私大としては量的拡大はやめて、今後は質的の充実改善に努めようということで、私大連盟でもそういうような委員会をつくってやっております。 そのパンフレットは総会でも公表しておりますが、その中では、あくまでも入試を緩和するのは受け入れ側、つまり大学の格差をなくするというその方向について、その努力をしようではないかということで来ておりますので、この問題に直接触れたことはいたしておりません。 ただ、先ほど石山委員からの御質問のときに、どうも意欲が薄いように受け取れるという御質問があったのですけれども、確かにそういうような前提は、あくまでも格差をなくしよう、国立と私立、公立の間の格差をなくしようということで努力しております。なかなか遅々としてそれが実行されておりませんが、そういう形で受けとめております。
○長谷部参考人 高等学校が大学、特に共通一次テストというものを通じて画一化した傾向に陥らないか、そういう危険がないかというお尋ねでございますが、これは実はそれぞれの高等学校は受験だけを考えているわけでもございません。いろいろ各学校の行事その他を通じて全般的な高等学校教育というものを推進しようとしておりますので、これによってそうスポイルされるということにはならないだろうと思います。 ただ、進路指導という形の中でどうしてもこの問題は取り上げられてまいりますので、そういう進路指導の形の中でこれが体系化されてくるということは必要でもあるし、またそういう傾向になるだろうと思います。 それから、一般の教師たちにこういうものを浸透させていく手順はどういうふうな手順でやったかというお話でございますが、実は全国の組織としての校長会というのがございます。それは、それぞれのブロックがございまして、支部組織といいますか、ブロック組織になっておりまして、東京の中央といいますか中心にはそれぞれの研究委員会を設けてこの問題を直接的に研究を進め、そうしてそれを各ブロックとの間で常に交流を図ってまいりました。そしてその中で各地域の校長会にお願して、それぞれの地域の先生方の意見をも十分くみ取ってほしい、そうしてそういう中での御意見を各地区から持ち寄ってほしいということをお願いをしたりしております。 それから第二には、それぞれのブロックで、そのブロック別にその所在地の大学の先生と校長会が音頭をとって、先生たちとの間の交流の会を、理解を深め合う会を持ってほしいということをお願いをし、そういうものの中身が事務局の方に寄せられてまいりまして、またそれを各地域の方にもそれぞれ流していくというような方法を一応とっております。非常に円滑に、十分にというわけにはいかないかもしれませんけれども、一応そういう手順をとって教育現場での意見を吸い上げる道はとっておるように思っております。 以上です。
○三輪参考人 ただいま主婦の立場からということでお答えさせていただきます。 いまの段階で、新聞などで拝見する以外には、一般のお母さんは、国大協とかまた共通テストのあり方とかは恐らく御存じないんじゃないでしょうか。 私どもの学校では、現在のところ、まだそういうお話など出ておりませんが、一応PTAの方に関しまして、もしそういうものを一般のお母さん方にも浸透するようにという御希望がありましたら、校長とも相談し、皆さんにできるだけのお話し合いを、また校長会など何度か開きまして、納得のいく線でそういうことに当たっていき、子供ともよく話し合っていきたいと思うのが私の気持ちでございます。よろしいでしょうか。
○嶋崎委員 いま三田高校の長谷部先生のお話で、高等学校には恐らく国大協の考え方を校長会 に御説明をしていく会があったかもしれませんが、高等学校の側から見て、第一次テストについて先ほどたくさんの御意見を長谷部先生お出しになっておられます。科目の問題、実施時期の問題、それから推薦、職業課程なんかを含めての専門的な第二次テストのあり方の問題、それから入試時期の一元化ということで二回のチャンスが奪われるということに関連して二回のチャンスを与える方法はないかというような問題、二〇%の国立大学であるが八〇%以上の私立の人たちの参加ができないかどうかというような問題、たくさんの諸課題が長谷部先生からもおっしゃられている。そういう意見が国大協の今度の決定に当たって反映していないのではないかという感じを私は受けたのですが、いかがでしょう。
○長谷部参考人 これは、私どもの方は望む側でありまして、受けとめてくださる方の側に極力お願いをするという形でございます。そこで、その都度、これはこういう点でむずかしいことがあるというふうなお話は承っておりますけれども、私が申し上げました問題点というものは、そう直ちにそのとおりこれが実現できるかどうかはむずかしいかもしらぬけれども、しかし、高等学校としてはこういうものを持っているので、末長く、息長く私どもとしては希望を申し上げて生かしていただきたいものだということは申し上げております。それが取り上げられているかどうかについては、国大協の方でひとつお考えいただきたいというふうに思っております。
○嶋崎委員 岡本先生にぜひお願いしたいのは、いまの高等学校の先生の立場、それから父兄の立場、私大の立場、そういう非常に広範な国民のコンセンサスを得る努力がまだ必要なように私は思うのですが、そういう意味で私たち国会の文教委員会のメンバーは国民の立場を代表して国の文教を論じているものでございます。したがいまして、委員会での質問は政府に質問をするのであって、国大協の結論に対して国大協に御質問をするというかっこうで委員会の運営ができないのであります。そこできょう参考人として来ていただいたのですが、国民の立場を代表する私たち文教委員会と国大協の代表の方々とこの問題について早急に国民的な立場からのコンセンサスを得る努力を今後していただきたいという希望を持っておりますが、それには応じていただけるでしょうか。
○岡本参考人 いまのついでに、これまでどういう努力をしてきたかということをちょっと申しますと、四十九年には高校の方からモニターをなにしていただきまして意見をお伺いした。それからその次には、一番最初に申しましたように、アンケートの説明会に大学だけでなしに高校の方の方もお願いして、そういう会もいたしております。それから高校長の方からなにしております。それから最前も申したことですが、今後のコミュニケーション、これは今度できます入試センターにはやはり高校の方の意見を反映する部分を必ずつくらなければならぬ、今後そういうものをフィードバックしながらやっていきたい、そう思っております。 それから最後の、そういう委員会と国大協が——きょうは、私は、国大協はぜひ出てこいということで、参ってお話をさせてもらっているわけですが、そういうものがぜひ必要だ、入れろ。理解を深める上に大変必要なことですから、機会がありましたらそういう機会を持たさせていただきましょう。
○嶋崎委員 そこで一つお聞きします。 村井先生も梶田先生もおっしゃっておられ、関連しているわけですけれども、今度の国大協の第一次共通テストが到達度のいわば測定という考え方をとっているように国大協の本部では言っております。ところが、その到達度というものがまさに客観的にはどういうものなのか。もちろんこれは歴史的段階においていろいろ違ってきましょう。日本の文化も違い、科学技術も発展していくし、いろいろありましょうが、梶田先生からは、その到達度は範囲の問題で、内容的な問題についてどれだけ煮詰まっているのだろうかという疑問をお出しになって、コンピューターシステムでは、機械でもって非人間化されたものがデータとして出てまいりますからいろいろな能力のテストにも限界があるが、しかし対応の仕方いかんによっては変え得るという御意見がございました。私大の村井先生からは、実はこれが私立大学の方で内申書的性格のものと一緒に利用できるものだと非常に幸いだということをおっしゃっております。そうなりますと、これは内申書的性格が非常に強いんだと思いますね。こういうことに関連して、特に梶田先生にお聞きしたいのですけれども、高等学校の教育にはどのような影響が出てくるとお考えでしょうか。
○梶田参考人 どういう第一次共通テストをお使いになるかによってずいぶん違ってくるだろうと思いますが、少なくともいま模擬試験でおやりになっているような形のものでありますと、こういう多肢選択式というものはいわゆる受験技術で非常にカバーできる面が強いわけです。したがっていま以上に受験技術と、一過的学力といいますか、覚え込むのだけれどもすぐに忘れてしまうようなもの、こういうことが少なくとも高等学校教育というか、高等学校における受験準備教育の中でクローズアップされてくるのじゃないだろうか。特に受験校として有名な学校というのは、いま以上にゆがんでくるおそれがあるというふうに思っております。 〔委員長退席、登坂委員長代理着席〕
○嶋崎委員 先ほど御意見をいただいた中で、岡本先生と天野先生との間に、国大協で意見が分かれているような印象を私が受けたんです。と申しますのは、岡本先生は、高等学校の卒業の到達度、これが国大協で出されている第一次試験の基本的な性格で、第二次試験は大学への適性というものを加味した試験で、一次、二次を総合的に考える、といままでの考え方をおっしゃいました。天野先生は、これを足切りとして使えばこうなる、足切りでなければこうなるというようなことから、第一次テストがある程度やさしいテストで到達度ということであれば、第二次テストでは試験がレベルアップしていくという意味で、難問奇問と言われるものが解決できるかどうかという問題が残る、一方でこうおっしゃつた。また他方で、これを足切りに使うということであれば、一第一次テストそのものが選抜的性格で、到達度ではなくなってしまうという御意見のように思えて、国大協の中で、この第一次テスト、第二次テストの場合は、そもそも第一次テストの到達度というものについてどのような議論があったのかお二人の意見ではつかめないのですが、食い違いがあるかないか。両方、ちょっと御意見を簡単にまとめていただきたい。
○天野参考人 お答えいたします。 私は国立大学に所属しておりますが、国大協の共通一次テストの問題の専門家ではございません。私の研究分野の立場から発言させていただいたわけでございます。 それで、私は、国立大学協会が学力の到達度をはかるという形で第一次試験の構想を考えているということは、国立大学の一員としてよく知っておるわけでございます。ただ、これからの方向としてどういう方向に行くかというのは、不確定な要素がかなりたくさんあるのではないか。その不確定な要素の一つとして、第二次試験のあり方では、こちらにも行く可能性があるし、こちらの方に行く危険性もある、そういうことを申し上げたわけでございます。ですから、国大協内部での意見の対立というのではなくて、国大協の考えておられます立場は岡本先生のおっしゃったとおりでございます。私は研究者の立場として、そういう危険性があるということを御指摘申し上げたということでございます。
○嶋崎委員 主婦の三輪さんにお聞きしますが、さっきの御発言の中にありましたように、いま日本では大変な塾で、受験生が大変悩んでおられる。御父兄も大変悩んでおられる。直感的に見て、今度の国大協の第一次テストが行われたら、いまの塾の状態が、それに合わされた塾が出てきて、受験生や父兄が悩まれるというふうにお考えですか、いかがでしょう。直感的な感じとして意見を伺いたい。
○三輪参考人 お答えいたします。 やはりそういうふうなものを受けるがために、それに沿ってのまた別な意味での塾ができ、いま以上に別な意味で過密されると思います。
○嶋崎委員 私もそう思います。格差を前提にして選抜試験をやっているのですから、大学の格差の解消にならない。それから第一次テストは、国大協は問題の正解は全部公にする、そして平均点は出すと言っているのです。そうしますと、各人が大体どの程度のレベルかというのがみなわかるわけですね。数年後には生徒たちも、おれはどの大学並みという能力を自己判定できる条件ができるから、それに合わせて塾がまた対応したテストや何かの仕事を始めていくと想定されますから、私も、おっしゃるように塾ははやるというふうに思います。直感的な意見、私も同じ意見でございます。 そこで、もう時間もありませんから……。国大協が大学入試センターというものをおつくりになった場合の報告書を見ますと、その報告書は実施をするに当たってのレポートであって、第一次試験に必要な、ないしは高等学校教育の到達度を調査したり、青年たちが学校に進学していくということの進路がどのような形で行われているかというような基礎調査の部分は全然ありません。したがいまして、入試センターは実施センターとして発足するという国大協の考え方に対して、私大や高校の方で、たとえばイギリスやアメリカでもやっておりますが、入試は決してこんな五年や六年ぐらいではありません、もう今世紀の初めからであったり、それからイギリスなんかでも一九四三年から大改革を始めて、国民の前にレポートが五つも十も出ている。そうしてブロックごとにエグザマイニングボードができている。そうして共通のテストをやりながら物すごい努力をしていますが、そのときに決定的なのは、基礎調査のレポートが出ているということであります。わが国の場合に、日本の青年が、与えられた大学という国道筋がラッシュになっていて、そこで選抜が行われるが、それが与えられていますから、どうしても与えられたものに対する適応のための大変な試験勉強のみをやっている。そのために高校教育が大変ゆがんできていると私は思うのです。ですから、そういう意味で、大学入試センターというものを大学で言えば共同利用研究所的なものにして、今後の入試のあり方というものにとってもっと広範な基礎調査をやるようなセンターとして運営すべきだと私は考えているわけであります。そういう意味で、入試センターを一口で言うならば、日本の高校を出ようとしている生徒がどのような人生進路を選ぶかということに関連して日本の学校教育の制度がどのような関連を持っているかということを基礎的に調査をしなければ、入試の改善をやったってなかなか基本的な対応にはならない、そういう調査をやる機能を研究センターは果たすべきではないか、こう考えております。その点について、国立大学のことですが、私立大学の先生も非常に密接な関係があるだけに、もし入試センターが発足するならばそれについて岡本先生、村井先生、天野先生に一言ずつ短く、あとまだ質問がありますからお答え願えれば大変幸いでございます。
○岡本参考人 いまの御意見まことにごもっともでございまして、私が最後に申しました入試センターが研究部門を持っているということが画期的である、これが初めて国が本格的に長期的な入試に対する研究をやろうとしたということでありまして、いまおっしゃいましたような基礎的な研究を今後ここでやっていかなければならぬ、そういうように思っております。
○村井参考人 私大側として統一試験に余り積極的でないのではないかということは、やはりこのことによって根本的には何ら改善されない、その点がはっきりしているからでございます。そういう意味では、どうしてもこの入試センターというものを国大協的な色彩でなくて、文部省が国の立場で国の教育をどうするかということで、中等教育から高等教育まで含めた意味で、むしろこの入試センターという名前が余りふさわしくないのですけれども、やはりこれを中心にして日本の教育制度の改革ということで、教科内容にしても高校が重過ぎるのでいまの落後者があるわけですから、その点も含めて、それからまた大学のあり方も大衆化した大学ということで、大部分の国民が大学へ行けるような道を開きながら、しかも大学というものはこういうものだ、そこでもって落後する者はやむを得ないというような形にやっていただきたいと思います。
○天野参考人 ただいま御意見いただきましたように、確かにわが国では公正な選抜をどう行うかということについてこれまで十分学問的な関心が払われてこなかったと私は考えております。ほかの国では入試制度をどうするかということにつきまして非常に詳細な調査研究が行われておりますことも御指摘のとおりでございます。 〔登坂委員長代理退席、委員長着席〕 また、わが国ではこれまで何回か能検テストや進学適性検査等の経験を積み重ねてきたにもかかわらず、その過去の失敗の経験から学ぶところが非常に少ないというのもマイナス点であろうかと思います。これからは入試問題につきまして、これまでのように大学の先生の片手間仕事に任せておくのではなくて、専門家をやはり養成していく必要があるだろうというふうに思います。また、これはテスト技術の問題だけではなくて、社会的に影響するところも非常に大きいわけでございますから、心理学的なあるいはさまざまな領域の研究者がこの問題に関心を持ち、センターを単なる実施機関ではなくて調査研究機関として育てていく、そのための予算をやはり国は十分に投ずべきであるというふうに私は考えております。
○嶋崎委員 参考人の皆さんの御意見をお聞きしまして、私も大変いろいろな問題点をまた新たに教えられたわけでございますが、今度国会で審議されていますこの法律は、一昨日の私の質問でもはっきりしましたが、再来年の暮れから実施するということで事態が動いているわけでございます。したがいまして、新聞でそういう報道が行われますと、高校一年の生徒を持っている御父兄や高等学校のいまの先生方が、いまのようなたくさんの問題を考えながら大変不安な状態に今日あるというふうに私は判断するわけであります。それだけにこの入試センターというものができること、それがいま私が言ったような研究内容を含めた、基礎調査を含めたものであってほしいということ、そういうことを含めましてもう一つ、後期中等教育以下の教育にこれがどんな影響を持つであろうかということも含めるような調査を十分にやるということ、そういうふうに運営していくことと同時に、もう一つは、再来年実施ということは私は実施してよろしいと思うのです。しかし、その実施がいまの段階でまだなかなか国民的コンセンサスを得ない、私たちも国大協の皆さんにお聞きしたいことがいっぱいでございますだけに、試行的テストとして位置づけながらそれを調査研究していくというような運営の仕方にしていくのがいま国民の立場なのではなかろうかというのが、私たち立法府の中にいる人間の考え方でございます。非常に急いでいるように印象づけられておりまして、余り急ぐとかえって先で問題を起こしはしないかという不安を持っているのでございます。それだけに、四十九年以降実施されたこのテストを、最初からコンクリートなものとして出発せずに、試行的な性格というものを持たせ弾力的な運営が行われる方が、そしてそれを積み重ねていく中でいろいろな調査研究が並行していくというふうに対応していく方が将来の国民のためではないかと私は判断するわけでございます。そういう意味で、国大協の方とそれからそういう観点から見まして梶田先生、高等学校の立場、国大協の立場、私学の立場から見てそういう運営の方がいいのではないかという私の判断について、ひとつ一言ずつ御意見を承らせていただきたいと思います。
○岡本参考人 国大協はすでに三千人、五千人、一万二千人と小規模ながらやってまいりまして、このたび十二万といったか二十万といったか、これはちょっと予算を値切られて八万よりやれないことになったのですけれども、そういう試行をやっております。本番を試行的にというのはまたなかなか問題がありまして、私は教育は間断ないものだと思っておりますので、そういう言葉をそのまま使うわけにはいかぬかと思っておりますけれども、やはり十分フィードバックをよくしてという御意味だと思っております。五十四年から行うものについては十分これを研究の対象として実施したい、そういうふうに思っています。
○村井参考人 国大協が取り上げられて実施されることですので、いま私大関係としてこれがどうこうと言うことよりか、やはり実際問題として私大にも国大と併願する学生あるいは学校、これがかなりあるわけなんです。そういうような意味で、私大の影響がどうかということがやや心配になるわけですけれども、当分の間やはり様子を見守っていく以外にはこれはやむを得ないことではないか、そういうように思っております。
○長谷部参考人 このたびの国大協の構想が全く完全であるとは考えられませんので、おっしゃるとおり試行的な性格というものはあろうかと思います。しかしながら、大学の入試制度を改善しようというその性格は確かに持っていると思います。ですから、これを推進していくという方向で、ただ現実に私どもは生徒を扱っておりますので、それが五十四年度から直ちにかかわってまいります。そういう意味で、生徒にかかわる大事な問題については、これは試行であるということよりも、大事な問題として幾つかは押さえていかなければならないだろうと思いますが、いま先生のおっしゃるような方向で結構じゃないかと思います。
○梶田参考人 入試センターの運営ということにつきましては、先生のおっしゃるとおりだろうと思います。 ただ、ここで私の方からちょっとつけ加えさせてもらいますと、四十九年の最初の模擬試験のときから、原理的な意味でいろいろと問題があるのじゃないかという声は幾つか出ていたわけなんです。しかし、それからいままでそのときの方針そのままで国大協の側でおやりになっていた。今後は、この問題というのは一国大協の中だけの問題でありませんで、やはり日本の教育の将来にかかわるものである、こういう意識で、とるべき意見はだれが言っているかにかかわらずとっていただき、また必要な検討は十分積み上げていただいて、開かれた検討をお願いしたいと思っております。
○嶋崎委員 どうもありがとうございました。
○藤尾委員長 岡本参考人は所用のため三時に退席されますので、これより岡本参考人に対し、集中的に質疑を行います。有島重武君。
○有島委員 公明党の有島重武でございます。 委員長からの御指示どおりに私は与えられた時間、岡本参考人に質問させていただきますが、先ほど天野助教授の方からの御指摘がございましたように、国大協が一つの画期的な試みをなさった、そして数ある国立大学の意見を一つにまとめられて一つの仕事をしようとしておられる、このことについて私は大変希望を持ち、また敬意を表したいと思うわけであります。それだけに、この画期的な最初の試みが事志と反して挫折するようなことがあれば、これは将来のために大きな禍根を残すのではないか。それですから、そのためにもこれは大変慎重にと申しますか、めどをちゃんと定めなければいけないのではないだろうかというふうに思うわけであります。 そこで、いまお話を聞いておりますと、これはさまざまな問題点は含むけれども、まず選抜効果というような問題で、技術的な面については大変工夫がこらされておる。これは認めざるを得ないでしょう。それから教育的な配慮、これが実は一番大切な問題なんでありまして、教育という土台の上に立った選抜であろうと思うのです。その教育的な効果につきましては、先生のいまのお話では、高等学校、中学校、小学校がいまは準備教育のようにされておる、この弊害を取り除くことはできると思います、こういうことが一つのねらいになるわけであります。そういたしますと、五十四年から始めてみたところ、たった一つの教育的なメリットがかなわない、かなわないどころかやや悪化するようなことがもし万一あればこれは大変なことであって、国大協そのものがほかの問題をこれからやろうとしても大変なことになる、やりにくいことになるのではなかろうか、そう思うわけであります。 それをめぐって二、三御質問させていただくのですけれども、第一番にテストの本質について、いま教育学の立場からいろいろなお話がございましたけれども、五年、六年、七年の長い間に国大協の方でテストの本質について御研究がいままで余りなかったのかどうか、そうした小委員会というようなものが設置されていなかったのか、いなかったとすれば、これは大変なミスではなかろうかと私は思うのですけれども、いかがでございましょうか。
○岡本参考人 この改善が技術的なものに堕しておって、テストそのものに対するフィロソフィーが十分されておらないのではないかということは方々でもよく言われておりまして、私もその点は十分自覚もしておりまして、その点で、冒頭に申しましたように、これが入試そのものの改革でなしにわずかに改善であると申しましたのはそこにありまして、テストそのもののフィロソフィーといいますか、そういうものからこれを考え起こすべきであるということには私も十分自覚を持っております。その点はテストそのものに対する哲学でございますけれども、教育全般ということに関しましては、テストそのものがきわめて多方面からテストされるということが必要なわけですね。それを従来の一個の試験では果たせないということで、このたびは達成度というものと適性というものを二回に分けて見たというようなところは、テストそのものに対する一つの理論と申しますか、そういうものでもあるわけなんです。 そんなことで、きわめて技術的とはいいながら、技術面における考え方としては、そういうものを背景に持っておる。それから教育そのものに関しましては、最前申しましたように、その時期に徹することが人生を生きることであるというようなわけで、きわめて多彩なものをテストしよう、全体にわたってテストしようというようなことでございました。
○有島委員 お話では、テストの本質そのものについては本格的なメンバーを組んでの御研究というものは余りなかったように承れるのですけれども、確かに私たちは本当に素人でございますけれども、一つの到達度と申しましても、上限到達度とでも言われるような、どこまでこの子供はできているのだろうという問題もございますし、ミニマムエセンシャルをどのくらい充足しているのかというようなことばおのずから違うわけでありましょう。それからまた一発勝負というようなお話でも、これは何回やろうともテストは一発勝負である、そういった性格は免れないというようなこともあるわけでございますし、それから選抜効果と教育効果あるいは管理効果、それから検定、こういったものはそれぞれ違うのだというようなことも、ぼくたちも素人でございますけれども、そういったような網羅的な何か御研究といいますか、そういったものがそちらから出された資料の中には何ら載せられていないわけです。それからそういうものに対してのアンケートというものも何らなされていなかった。これからは勉強いたしますというようなことでは大変おぼつかない。心配をいたしております。これが一つです。 それから、さっきからお話がございましたけれども、コンピューターを用いましてコンピューターに乗っかりやすい問題、それからコンピューターには乗せられない問題これはもう御研究済みであろうと思うのです。そういたしますと、コンピューターアピールと申しますか、そういうようなことも出るであろうといういまのお話、私もそう思いますし、岡本先生もそれはそういうことも避けられないかもしれない、こうお思いになるでしょう。そこで国大協としては、これからの大学生にはある程度のコンピューターアピールのような、そういう一つの器用さといいますか、素早さが必要である、そのように積極的な御判断を持っていらっしゃるのか、あるいはこれは試験だから避けられないという程度に思っていらっしゃるのか、その辺のことはいかがですか。
○岡本参考人 最初に達成度の問題でございますけれども、これは選抜試験というような意味で高等教育を受けるというレベルを考えております。高校の達成度とはいいながら、高等教育を受ける達成度である。 それから一発勝負ということに関しましては、私は今度一期、二期の廃止をいたしまして、私立も加わるということで、大変一発勝負であるということが問題になっておるのでございますけれども、実はこれは少し乱暴で、特にお母様などには申しわけない言い方になると思いますけれども、何とかしてこれは受験の機会を一回でもというわけで、文部省なんかも、ある定員をのけておいてというようなことも考えておるようでございますが、共通一次そのものが二回に分けて行うということと、それからいま申しましたように、試験そのものは一発は避けがたいと申しますか、その意味ではむしろ積極的にまじめな努力を積み重ねて一発にかけるというような人生の生き方も人生の生き方として大事じゃないか。この点は私の私見ですけれども、人生そのものが一発であるという意味で、まじめな努力で一発にかけるなんというのはむしろいいなになんじゃないかと思っております。 それから、コンピューターそのものでございますけれども、コンピューターは必要悪と申しますか、ある意味でこういうものになれることが教育であるというようなことはもちろん考え得ないわけでございますけれども、大数をきわめて客観的に扱う場合にやむを得ないのではないかと考えておりますが。
○藤尾委員長 曽祢益君。
○曽祢委員 民社党の曽祢でございます。 非常に時間が短いので残念ですけれども、岡本参考人に伺いたいと思います。 基本的に私は、よく言うのですけれども、諸悪の根源は大学の入試にある、それについて国大協が取り組んでこられた姿、それに基づきとにかく第一次テストを近くさらに試験をやりながら五十四年までに間に合わせよう、この積極的な努力とコンセンサスを国大協のみならず事実上公立もこれに加わわった形で大体できる、そこでとにかく早く入試センターをつくろう、この積極的な方向に賛成の一員でございます。ただ私は、この一次試験と二次試験と合わせてみないとどれほどの効果があるのか、やはり一次試験をやって、それにダブると言っては少し素人的で、必ずしもダブらないのでしょうけれども、受験の立場から言えば、やはり一次試験で相当学力をやる、さらにそれを補うかどうかは別として、二次試験がやられるというのじゃ余りメリットが少ないのではないか、そういうような感じがいたしますので、少なくとも早く二次試験に関する国大協側のコンセンサス、まずガイドラインかもしれませんが、ガイドライン以上に相当固めてワンセットとしてこれでどうだという判定をする資料をいただくことが非常に必要だと思うのですが、その点どうお考えでございますか。また同時に、そういう意味で、現在おやりだと思うのですが、二次試験に関する国大協側のコンセンサスづくり、ガイドラインの進み方、いつごろそれが発表されるかをまずお聞きしたいと思うのです。
○岡本参考人 二次試験のガイドラインというか、それ以上に二次試験というものをはっきり示すべきである、これは大変多くのそういう希望がございまして、この点は最前から申し上げましたように十分考えてまいりましたのでございますけれども、繰り返して申しておりますように、入試は各大学が独自でやるものだというなにがございまして、これは率直に申しまして国大協の総会でも半分に分かれておりまして、ガイドラインをしっかり示すべく入試改善委員会はそこまでやれというグループと、それは困る、むしろ各大学の自主性に任すべきだというのが分かれておりまして、それでガイドラインというようなところで緩く結んでおるのですけれども、しかし受験をされる方の方になりますと、その両方がはっきりわからないと準備に関しても非常に不安だとおっしゃる気持ちもよくわかりまして、この点、外からごらんになってこれをはっきりせよとおっしゃいますこともよくわかるのですけれども、また大学自体のそういう独自の考え方もございまして、この点ば十分御満足を与えておらないと思います。しかし具体的には、入試要綱といいますか、そういうものがこの夏前には示されるわけですから、各大学がどういうふうな二次試験を持つかということにつきましてはそのころに具体的に示される、そういうことでございます。ただ国大協が一ばからげに二次試験とはこういうものである、こうあるべきであるというようなことは、これほど、六年ほどかけてコンセンサスを得たということでもおわかりになりますように、大学の特質からいって、なかなか言うこと自体がむずかしいことなんです。それで大変この点は神経質に考えて、各大学の独自性に任しながら、しかし受験生には不便をかけない時期にそれを具体的に発表するというふうに注意はいたしておりますのですが……。
○曽祢委員 従来からそういう点で苦慮されたろうと思うのです。第一次だって初めからガイドラインくらいのつもりで、コンセンサスをつくるのに非常に苦心されたと思うのです。ですから形がスタートをするときはガイドライン程度でも、実際上第二次試験のパターンが第一次試験を実施するときまでにはっきり示されて、それが大体われわれの納得できるものであるかということが非常に重要だと思うのです。今後とも取りまとめについての御努力をお願いする次第です。特に私の希望から言えば、大体学力試験は第一次でやってしまって——先ほども問題になっているようにマル・バツ式のマークシートでは能力そのもののテストがちょっと足りないから、学力のテストをもう一つやる必要があるのかないのか、これも問題です。それから、これは後で伺うのですけれども、村井参考人の先ほどのお話によると、むしろ一次テストは内申書くらいのものでいいんじゃないか。二次テストが大体同じものができるんだったら、私大の方も将来これに参加するか考えてみようというお考えもあるし、私はむしろ第一次テストで大体学力をカバーできるような内容のものをやって、あとはそれこそ内申書とか、あるいは大変だろうけれども個々面接とか小論文とかごくごく限っての、技術的なあるいは理工科的な大学等については一つくらいの科目の学力試験を加えることでいい。そういうことにしなければ、第一次試験をやってまた第二次試験、しかも第一次試験のテストの結果によって本人は当落が決まってないわけでしょう。第二次試験に行って学校側によって最後に当落が決まるか、あるいはその前に、ある学校では第一次試験の結果を学校だけ知っていて本人には知らさないで、実際に受験に行くと足切りをやるということがあるのじゃないですか。そうなってくると、そこまでやってさらにまた二次の学力試験というのでは、私らが期待しているようなあるいは国民が期待しているような、何回も何回も同じような学力テストをやらないでくれという意味から言えばちょっと期待に反すると思うのです。ひとつそういう意味でぜひガイドラインの内容について御検討を願いたいと思うのです。 時間がございませんから続けて、先ほど梶田参考人が指摘された非常に技術的な問題ですけれども、やはりマークシートだけでやるのでは一部偏った能力テストしかできないのじゃないかということについて、国大協の側でも最近はマークシートでやっても相当バランスのとれたテストができるような出題を考えているというふうに私は伺っていたので、その点について相当な自信のある反駁があろうかと思うので、ひとつその点をお聞かせ願いたい。 最後に、試験の期日についてはここのわれわれの委員会においても問題が出ましたけれども、どう考えても十二月の初めというのは、終わりの時期を考えるともっともなようだ、膨大な一次、二次の作業が終わって、それから四月の入学を迎えるということだと相当な時間がかかるということはわかるけれども、これは長谷部参考人の御指摘を待つまでもなく、高校の教育の方からいって、最悪ではないけれども、第三学期がパアになるというような時期ですから、これを何とかもう少し現実的におくらすということをもっと真剣にお考えになる。場合によったら大学の学期をおくらしたらどうかといういささか革命的な意見も当委員会では出ているのです。そういう意味において試験期日の問題については、もっと高校の最後のフィニッシュの学業を教える問題について、履修の問題との関連でもっと検討していただきたいと思いますが、以上の点についての参考人の御意見をお聞かせ願いたい。
○岡本参考人 コンピューター処理ということにつきましては、最前御指摘がございましたように、それ自体にも問題はあると思っておりますし、それからコンピューター処理ということに関しまして各学科目にテストの限界というものはやはりございます。それで科目別検討委員会というのが長らく各科目について研究しました結果、国語とか英語の表現力なんかについてはコンピューターではむずかしいだろう、それから数学の思考過程を試すのはやはりむずかしいだろうというようなことになっております。そこで最初から申しておるとおり、十分検討はしたけれどもコンピューターにはやはり限界があるというので、二次試験を何とかやりたいということでございます。 それから期日につきましては御指摘のとおりでして、実は国大協自身も九月入学ということを国際的に見ましても一応考えたのでございますけれども、この点については最前の御指摘などに全般的にこれが技術的に堕しておるという点がございましたと同じように、これは可能な程度の改善をやろうというところから出発しておるものですから、これは議論の途中では出ておりましたけれども、それについてさらに追求して、そうしようというところまで申しませんでしたけれども、期日についてはそういう基本的な改革ができるなら、これは大学教育だけでなしにほかにも関連のあることですから、こういうところでそこまで踏み切ろうということでありましたら、私は十分考えなければならぬ点だと思っております。
○曽祢委員 ありがとうございました。
○藤尾委員長 山原健二郎君。
○山原委員 共産党の山原です。参考人の皆さんには大変御苦労でございます。また国大教が長年にわたって検討されましたことについて敬意を表明します。同時に私たちもこの法案の賛否を問われる段階をいずれ迎えるわけでして、大変不明な部分がある中でこれを議論しなければならぬという、大変苦労をいたしておるわけでありますが、幾つかの点について岡本先生に伺いたいのです。 一つは入試センターの管理、運営の問題ですか、たとえば大学の自治という言葉もありますけれども、政府、文部省からこの入試センターのそういう自主性が保障される歯どめがあるのでしょうか、伺いたいのです。
○岡本参考人 この点は最も重要な点でございまして、国大協としましてもこのセンターを計画いたしました最初からこの点を十分考えて、どこかの大学に付属させるということすらもよくないのではないか。それで各大学の共同利用と言いましても、本当にそれが独立するのでなしに、最後まで各大学が使う共同利用なんです。そういう意味で文部省はもちろんのこと、一つの大学にも所属しないという点にきわめて留意して発足させようと計画しておるわけでございます。これの運営につきましては運営委員会あるいは評議員会と二つございまして、運営委員会というのはきわめて多くの学長、各大学の専門家あるいは学識経験者、それから評議員会というのは各大学の教官と所内、所員ということでございますけれども、これはやはり出発後もその人選などにつきましても国大協がある程度関与いたしまして、これが独立して運営していけるものであるように十分留意したい、そういうふうに考えております。特に、この中には最前申しましたように研究職が存在いたしますので、この意味では教特法と申しますか、本当に教育者としての独立性、研究者としての独立性を維持、堅持できるように努力するつもりであります。
○山原委員 この問題が出まして、ややもするとこの入試センターによっていわゆる入学試験地獄というものが解消されるんではなかろうかという一つの幻想が出てまいります。基本的な問題として国公私立間の格差の是正とか重要な部分が忘れられてはならないのであって、その点で国大協としてはこういう技術的な問題も検討したけれども、しかし問題は基本的に解決しなければならないものがあるのだということがかなり強調されなければならぬと思いますが、その点はいかがでしょうか。
○岡本参考人 仰せのとおりでございまして、基本的に申しますと最前のことを繰り返すことになりますけれども、最前も話がございましたように、日本で大学制度とか入試の問題に本格的に取り組んだ委員会というものも何も出発してないわけですね。その意味で、入試の改善というものがややもすれば技術的なものに堕しておるという批判は私自身も十分感じておりますので、その点は最前から申しますように、入試センターというものが出発しましたら、そういうもので本格的に入試というものに長期的に取り組んでいかなければいかぬということは痛感いたしております。これまで文部省としてもずいぶん力を入れて、各大学に入試問題の改善委員会というものをつくるように経済的援助もいたしておりますけれども、やはり分散しておる実情もございますし、専門家がまとまって長期的に本格的に研究するというものは、本当にこのたびが初めてでございますので、その点はどうぞひとつ御協力をお願いいたしたいと思っております。
○山原委員 三つ目の質問です。いままでの経過において御質問があったかもしれませんが、ちょっと出ておったものですから……。私学側の意見というものはほとんど聞かれていない状態ではないかというふうに承ったのですが、そういうことでしょうか。
○岡本参考人 それはある程度事実だと思います。ただ文部省は入試改善委員会というものを持っておりまして、これは国公私立全部含んでおります。その中には国大協の試験の委員も含んでおりますので、絶えずそこヘフィードバックいたしまして、国大協の案に対する見解というものをもらっております。その意味では、そこで公立にも私立にもこの国大協の計画というものは絶えず流れておるというふうに考えております。
○山原委員 一つはこの入試センターの自主性の問題と、もう一つは関係者の意見が十分反映できるような体制がとられるかどうかというところに私は大変問題があると思っているのです。たとえば高等学校側の意見というものはいままでどういうふうに反映をされてきたかということと、これからどういうふうに反映されるかということですね。機構的にどうなっておるのか。文部省の私に対する答弁では、たとえば高等学校との間に連絡協議会をつくるなどということを言うのですね。しかし機構的にそんなところまで論議をされたりあるいはそういう構想を持っておるのかどうか、この点を伺います。
○岡本参考人 高校の教育の正常化というわけでございますから、高校の意見というものは私大変大事だと思っておりまして、従来やりましたことにつきましては、最前申しましたようにモニター制度で高校の意見を聞きましたり、アンケートをとりますときに説明会をいたして高校の方と連絡をとった、それは現場で当っておる人ですが、それから校長会などには絶えず連絡をとっておるというようなことでございます。将来につきましては入試センターの中に高校の意見をフィードバックできる部分をつくろうということを、最前申しましたようにはっきり計画いたしております。そしてさらには、これもまだはっきり決定してはおりませんけれども、運営委員会などの中に高校の方の人も入れようじゃないかというようなことも話に出ておりまして、この点高校との関連というものは十分重視してまいろう。そのセンターの機構に関連しましてもそういうことを実際に議論いたしております。
○山原委員 研究部というのを非常に重視された御発言でありますが、この研究部の中に、これは追跡調査を行うということですが、そういう機構の中に高等学校の意見を反映できるような機構的な問題を考えておられるのですか、アンケートとか意見を聞いたとかということでなくして、機構としてそういうものをお考えになっておるかどうかですね、伺いたいのですが。
○岡本参考人 この研究部門を重視していくということでございますが、この研究部門の研究員というものは独立した研究員でございますから、これは研究の自由があってそのものをどうということはなかなかむずかしいことですけれども、いまも私が申しましたのは、たとえば運営委員会というものをつくってその運営をいたしますのですけれども、そのときに高校の方の方を一名ぐらい入れてというような機構に関連して高校の意見が入りやすいようにいたそうということでございます。もちろん研究部門は研究者のこれは自主性でございますけれども、高校の方の研究をやろうということは当然起こるわけでございますけれども、おまえには高校の方の研究やれというわけにはまいらないものですから、その点はそういう機構が高校の方の意見を重視するということであれば自然研究部門の方にも影響してそういう研究も行われる、そういうふうに思っております。
○山原委員 最後に、これは高等学校教育内容に対する影響が非常に大きくて、塾すらコンピューターシステムになっていくという状態ですね。そうすると、高等学校教育内容そのものが共通一次試験によってある場合によっては画一化される可能性だってないとは言えないと思うのですね。そういう意味で非常に重要な問題を含んでおります。いままで幾たびか模擬試験をやられているわけですけれども、模擬試験と本番とは全く違った状態が出てくるわけですね。本番はまさにパニック状態が出てくる。いままでの模擬試験でも幾つか違った正解例が出てくるというふうな状態で、コンピューターに一たび入ってそしてどっちが正解かという問題が出てきた場合に、これは取り返しのつかぬような、機械は突っ走っていくわけですから、そういう点で相当慎重な態度がとられる必要が私はあると思います。そういう意味で、先ほど嶋崎先生からも出されておりましたように、場合によりましては国大協と私ども国会との間にこういう相当煮詰めをやらないと安心して法案を成立さすことは大変むずかしいという感じがいたしますので、その点ぜひ国大協の方におきましてもお考えをいただきたいと思うのですが、最後にいかがでしょうか。
○岡本参考人 現在の時点でお話し申し上げたところで十分御安心をいただけないということであるかと思いますけれども、これは実は六年というのはかかり過ぎたという御批判もございますとおり、相当国大協としては慎重に慎重を重ねて今日まで積み上げておるのです。 それで、たとえば大変失礼な言い方ですけれども、いろいろ私は方々へ行って、この間実はテレビで質疑なんかしたこともございましたのですけれども、本当を十分知ってもらってない点があるのですね。しかし、議員さんたちは本当に緑のなにをなめるようにお読みになっておるという話を聞いておりまして、先生方にはそういうことはございませんのですけれども、国大協といたしましては、この問題については十分慎重に取り組んでおりますので、この点お目にかかってお話しすれば、なるほどそれでよろしいとおっしゃっていただける部分が多いのじゃないか。それから、この部分はまだ十分でないのですという点は、むしろこちらから指摘しましてはっきり申しますけれども、まず五十四年から出発していいということにつきましては、きわめて用心深い大学の者がまずそう判定したというふうにお考えいただいていいじゃないかと思っています。
○藤尾委員長 これにて岡本参考人に対する質疑は終わりました。 岡本参考人には御多用中のところ本委員会に御出席いただき、長時間にわたり貴重な御意見をお述べいただきましてまことにありがとうございました。どうぞお引き取りいただきます。 参考人に対する質疑を続行いたします。有島重武君。
○有島委員 村井参考人に承りたいと思いますけれども、私立の大学がこの共通試験、これに参加するかしないかということは、これも大きな問題であろうかと思いますけれども、どういう状況が形成されてきたらば話に乗ろうというような御用意がおありになるんでしょうか。また、積極的に国大協の方にこのような状況をつくれというような申し入れをなさるような御用意もおありでしょうか。
○村井参考人 私立大学は御承知のようにかなり大学の性格が、設置基準にはのっとっておりますが、いろいろバラエティーがありまして、この問題に対しての受けとめ方に対しては、実は三つの私立大学の団体の間で意見がそれぞれ違うわけでございます。その中では多くの大学がいまのままの形でこれに参加するということには消極的な大学が多いようでございます。 私は前に意見を述べましたように、これが内容的には同じ——先ほども岡本参考人が言われましたようにやはり高等学校の学力の到達度だというようなことを言われておりましたので、それならばこれを第一次入学試験というような形にとらずに、あくまでも高等学校側の学力の内申書の中のものとして取り上げていただくと、私大側としてはこれを採用するかしないか、また採用の仕方も非常にたやすくなってまいりますので、恐らく私は、私大側としてはいまのこのままの形ではむしろ取り上げるのにはちゅうちょされるところが多いのではないかという感じがいたします。 と同時に、前から言っておりますように、とにかく受け入れ側のキャパシティーが狭いからなんですが、とにかく大学の入学定員はそんなに窮屈ではないのですから、この窮屈でない定員のところへみんなが分散して志願できるように、いわゆる拡散といいますか特徴を出すような方法、その方がむしろ先決でございまして、これだけを取り上げていきますとどうも消極的な意見が多いのではないかと思います。
○有島委員 長谷部参考人に承りたいと思うのですけれども、現在の高校生の方々の中に落ちこぼれと俗に言われる方々が多いということをしばしば聞きますし、私も実際にいろいろな方に会っているわけですけれども、中学卒業の学力、これを高校卒業時になお充足していらっしゃらないような方がいるのではないかと思うわけですけれども、いかがでござましょうか。
○長谷部参考人 お説のようにかなり進学率が上昇してきておりますので、その生徒の学力あるいは全体的な能力、そういう面での格差というものは確かにございます。それで、その中身がどういうことであるか。たとえば数学の方でどういうことが学ばれていないかとか、あるいは英語が非常に学力が低いとかいうような具体的な事例もございますけれども、中には学習意欲そのものが必ずしも十分でないというようなものも場合によってはあるように聞いておりますので、高校としてはそういう問題は確かに重要な課題でございます。こういう生徒を見捨てていくというわけではございませんので、これを何とか引き上げていかなければならない、そういう努力が必要であろうと思います。
○有島委員 梶田先生に承りたいのですけれども、中学校の卒業時において中学校のカリキュラムをミニマムとしてこれを充足するということは、これは不可能なのではないかと私は考えているのです。しかし、高校卒業時ないしは大学を受けようという方々であるならば、少くとも義務教育、中学校の五科目ですか七科目ですか、そういうことについては、これをミニマムエッセンシャルとしてこなしているということが必要ではないかというふうに私は思うのですけれども、御意見を承りたい。
○梶田参考人 中学校の段階で履修したことのうち、どういうことがミニマムエッセンシャルに入るかということでまた少し議論があるだろうと思うのです。というのは、いまのカリュキュラムの定め方は何々をやるということであって、その結果どこまでいくということが規定されていない。しかしそのことを抜きにいたしましても、先生のおっしゃるように、せめて中学校までやったことぐらいはみんな身につけているというのが多分学校教育の責任じゃないだろうか。何かいま、落ちこぼれあるいは落ちこぼしと言われるような者が出てもある意味でしようがないじゃないかという雰囲気もなきにしもあらずなんですけれども、やはりそこでもう一度学校教育というものの社会的な役割りといいますか、責任というものを考え直してみなければいけないのじゃないかというふうに思います。
○有島委員 再び村井参考人にお願いいたします。 少なくとも大学教育と言うならば、高校におけるいろいろな履修をある程度マスターしてこなければならない。ということは、これは法律の上にもそうなっているわけですけれども、現実には中学校の課程、これを充足しておらない方がいまは相当いらっしゃるという現実がございます。これは御認識であろうと思うのです。そして国立、私立を通していままでの入学試験、選抜試験というものは、試験を受けてみて、点をつけてみてその上位何名を採るということが風習であったろうと思うのです。しかし、中学の学力を備えていないと認められるような結果になった場合には、まだ人数の定員は余っていようともこれは御遠慮いただく、そういう試験のあり方ということはお考えになる御用意はないでしょうか。
○村井参考人 大学へ入る生徒の学力が中学校程度では、これはもう設置基準から言ってついてこられないわけですから当然ふるわなければならないし、ふるっていると思います。ただ、そういうのも入っているというようにいまおっしゃいましたけれども、まあ、私はそのことは大学側としては考えたくないと言うのですけれども、前々から何回も言っていますように、いま大学の格差とは何かといいますと、これはやはり大学に魅力がないということ、あるいはその中には学力の低い学生しか集まらない大学というようなことが起こるかもわからないのですが、これは学生の側に責任があるのではなくて、むしろ入れ物を預かっている大学側に責任があるのであって、学力のないのが大学へ来られるというのは、どうしてもそういうものを除去しなければならない。それは統一試験のような問題以前の問題であるわけでございまして、ぜひ大学側としては、そういうような学生は入ってきてもついてこられない、ですからもしもその学力が全体として低いならば、それはそれなりに日本の教育を考えますと——アメリカは高等学校までの教育程度は確かに日本よりか低いし、高等学校までは非帯に楽なんですね。それでも大学へ来てからそこで勉強することによって、日本よりも優秀な世界的な学者がたくさん出ているわけですから、その点を考えて大学の教育の内容が高まるような方法を考えることがむしろ統一試験以前の問題だということを私はたびたび申し上げているわけです。
○有島委員 天野先生に伺いますが、現場にいらっしゃるわけですから、それでいまの村井先生に承ったのと同じことなんですけれども、角度を変えて申しますと、中学の数学、英語あるいは国語、それを本当に充足していれば大学の教育というものはついていかれるのではないかというふうに言われている面もあるわけなんです。私もそのように思っている一人でありまして、私も中学は出たはずなんですけれども、中学の英語のリーダーをちゃんと充足していればこんな惨めなことはないであろうと思われるときがたくさんあるわけであります。中学までのここを本当にミニマムエッセンシャルとして充足する、これをしっかりしておけば国立学校の受験も大概できるのだ、そう言う家庭教師のベテランの方もいらっしゃるわけです。それで現場の実感として、中学までの基礎というものがどのように評価されるであろうか。もちろんそれは高校に行ってくるわけですから高校でいろいろ学んでいる。そういったことも、これはどの辺までの到達度であるかということはあろうかと思いますけれども。ちょっと聞き方が逆になりますけれども……。
○天野参考人 大変むずかしい御質問で、どういうふうにお答えしていいのかよくわからないのですが、現在私は名古屋大学という国立大学におるわけでございますが、まあ、非常に学力の高い学生が入ってくるということになっておるわけでございます。それでも先生方の間では、最近は学力の低下傾向があるのではないかというふうな評価が出ております。それで、現在の中学校の水準をマスターしていればいいかということは、私は専門課程の学生だけ教えているものでございますから、マスターしておればついていけるかいけないかということはちょっとむずかしい問題でございますが、私の現在の感じで言えば、国立大学の現在行っている教育の水準には、名古屋大学のような選抜の非常に厳しい大学に入ってくる学生でも必ずしも十分についていけないような面が出始めているのではないか、そういう感想を持っております。
○有島委員 長谷部参考人に伺います。 統一テストというものは、大規模なテストを行いますと、これはかつて昭和三十六年にいたしました文部省の学力テストにしても、あるいは業者がやっております大規模テストにいたしましても、学習者、受験生が確かに評価される。けれども、高校の校長さんもまた評価されてしまうのではないか、その点はどう感じていらっしゃいますか。
○長谷部参考人 その点は、現在でも大学の合格状況などというのが週刊誌等に出されましてかなり言われているわけで、そういうものについて私どもは余り関心を持ってもいませんし、とにかく信念を持ってやるつもりでいままで来ております。 共通テストがどのようになりましても、それによって高等学校が評価されてくるであろう、そしてそれに対して何らかの意を払うであろうというようなことは、いま考えておりません。
○有島委員 重ねて承ります。 私が第一次試験を受けたといたしまして、私は自分で換算して大体三十五点か四十点であったといたします。ところがその統一テストは高校でもって予習、復習をしていれば大体できる範囲であるということになっておる。私はそれを十二月か一月か二月かに受けたとする。それで、これはそんなにできなかったと私は自覚を深めた。ところが、それが三月になったらば高校を卒業してしまった。そうすると、私は、この高校は何という高校であろうか、こんなにできない自分を卒業させてしまうのかというふうに思うであろうと思うのですね。そういうようなことが起こり得ませんか。
○長谷部参考人 現在の高校の卒業を考えてみましても、ある面では非常に厳しく、落第をさせて、つまり卒業をさせないで留年をさせてという、そういう方針が一方にあると同時に、できるだけ生徒の総合的な能力を考えて、数学とか英語とかという一つの学力の欠落だけでなくて、その点だけを指摘するのではなくして、総合的な人間成長というものを考えて、これが社会に出ていった場合にはかなり役に立つ人物として活動できるであろうというような観点もあるわけです。 そういうわけで、単に学力の問題だけでその人物を評価するというよりも、将来のことに期待をかけて進級させ、卒業させるという場面もかなり現実的にはございます。ですから、いまのお話のように、一部面をとったら、あるいは私はこんなはずではないというふうに感ずるかもしれませんが、学校としては、もっと励ましを行って、そして気力を持って将来を過ごしていくような、そういう指導を行いながらやっているのが実情であろうと思います。しかし、社会全体として見たときに、ああいう者を卒業させて高校生として通用していいのか、こういうような御批判も耳にすることは確かであります。
○有島委員 三輪参考人に伺います。 いわゆる受験地獄と申しますけれども、子供が一生懸命勉強してくれるということは親にとってはうれしいことだと思うのですね。ただ、どこまで勉強したらばいいのかしらということがわからない、あるいはある程度学校の成績をとっても、それで試験に受かってくれるかどうかわからない、そういったところに不安といいますかいわゆる地獄と言われるようなことがあるのではないかと私なんかは感じているわけです。 それでいまの中学の学力の話、まだこだわるようですけれども、学歴ということは別にしても、この子供が社会で本当に役に立っていくために中学で教わったことをみんな本当に身につけているというのは大変親切な教育ではないかと私は提言したいし、それから、それが高校卒業時には中学の実力は本当に持っておる。それから今度は、もし一次テストというならば、その中学の学力を高校卒業時になおつけていなければ、これは大学を受けるのはあきらめましょうという、あきらめもつくのではないか。したがって、私は、その第一次テストというもので、中学の学力を本当に充足しているかどうか、その辺を見てもらうことができれば、親としてもずいぶん安心だし、それからあきらめもつくし、また高校の先生も大分安心して落ちついて物を教えてくださるのではないだろうかというふうに思う。ぼくも、素人だから、そう思うわけ。参考人の御感想を承りたい。
○三輪参考人 先ほどの一次テスト、共通テストといいますと、一次から二次にかけまして、そしてまたその段階で高三の最後の勉強が残っているわけですね。そうしまして、一次がどういう形にあろうとも、一次が済んで次の二次に行くまでが、非常に緊張度と、ヘビの生殺しのようなことで、いまの子供が、全般的にいいまして、それに耐えられるか、その期間の緊張を保てるかということが、非常に何か考えさせられます。 それと、先ほどから私お話を伺いまして、自分の子供の様子を見ていますと、小学校、中学校と、本当に子供がそれだけ全部先生から教わる学力というものを身につけられるかどうか、それほどの欲がないのが現実じゃないかと思うのです。そして、やはり中学の後半から高校の前半にかけて、やらなければ、いまの子供じゃないですけれど、ぼくもかっこうが悪いとか、何かの形なりに自分で感じとれば、それが本当のほんまものであり、中学の段階である程度マスターできない者でも、自分なりの努力では、別に塾へ行きませんでも、その子なりの能力をもってやれると思います。そしてまた、塾へ行ったがための弊害もありますし、また、家庭教師というものを置きました場合の弊害も、よさ悪さ両方出てくると思うのですね。 そうした場合に、やはり、先ほど申しましたように、ある程度実社会に出て、たとえば高校を出ましても、また、国立を出られればなお結構ですけれども、私大にしましても、出ました明くる日から社会に役に立つ人間であればよろしいのですけれども、中学、高校の学力というものを全部マスターした子でもむずかしいでしょうし、そこには大変に本人の精神的なものというのが加味されての、それが本来の勉強なり人間形成も含めての勉強であり、四年は出たけれど使いものにならないというのは、出る意味もなさないと私は思います。 ですから、そこで、先ほど申しましたように、専門校なり各種学校というものを、今回のこの国立入試センターというものを設置されるなり、またこれからそういうものを具体的に持っていきますのなれば、その学校をも、そういう学部のあり方を取り入れながら、並行して考えていき、社会へ出ても役に立つのでしたら、四年大を出た四年の時間のもったいなさ、空間というものをやはり少し考えてほしいと母親として切実に思うわけです。ですから、マスターするしないは本人の努力であり、また、欲が出てくる時期が、その子が遅ければ、これまた遅くにしかマスターできないでしょうけれども、恐らく自分で考えれば自分でやっていくのじゃないかと思います。いかがでしょうか。
○有島委員 ありがとうございました。 では、最後に一問だけお二方に聞きたいのですけれど、先ほど長谷部参考人が、生徒に対して負担を重くするとか過重になるとかいう言葉をお使いになった。私は大変それが気になるわけですけれども、負担というのは、学校側で、将来これが本当に役に立つのだろうと思うと確信を持てる、そういう教科内容であるならば、どんなに負担をかけてやってもこれは親心であろうと思うのですね。先ほどおっしゃった負担というのは、こんなことをしても将来本当にこの子供のために役に立つんだろうかという危惧の念をお持ちになりながらさせる勉強、それを過重負担というふうにおっしゃったのではないかというふうに私は承っていたのですけれども、それを最後に承っておきたい。
○長谷部参考人 私が過重というふうに申しましたのは、受験ということを考えて、いままでもそうですけれども、予備校に通ってやらなければむずかしい問題を解けないんじゃないかとか、あるいは大学の試験がむずかしいんだから、そのために特別の、夜の目も寝ずに受験勉強をしなければならない、こういうふうなことが非常に心理的に生徒に圧迫を加えていくという、そういう心配からの言葉であったわけです。それは考え方によって大学受験の受験勉強だって大変にいいんだ、これだってためになることである、人間形成にもいい、苦しみに耐えるということで非常にいいんだ。これは私どもがときどき生徒に言う言葉なんです。ではありますけれども、しかし、全体的に見たときに、かなりそれが生徒の一般の心理の中にしみ通っておって、もう明けても暮れても受験のことばかり考えなければならない。そしてそのために、楽しくあるべき、あるいはもっと伸び伸びと過ごされるべき高校生活がスポイルされるということであったならばこれは異常ではないか、こういう意味で生徒の負担とかあるいは過重というふうなことを申したわけです。ですから、先生のおっしゃるような意味で学問に徹していくあるいは苦労を重ねていく、そういう観点で見ますならば、それは人によっては、生徒によってはそういうことは問題にならないかもしれませんが、一般的に申したときにはやはりそのことが非常に頭を支配していることで、受験ということが頭を支配しておりますので、大学側のそういう面への配慮を望むという意味で申し上げたわけでございます。
○藤尾委員長 曽祢益君。
○曽祢委員 村井参考人に御質問さしていただきます。 〔委員長退席、登坂委員長代理着席〕 先ほどから先生のお話をずっと承っておりますと、国大が走ってやっているのにどうもわれわれの方から参加したらどうだと言う方がおかしいんじゃないかと思うのです。本当は国大も私大もそれから文部省も一緒になって、大学の問題もいろいろありますけれども、大学改革もいろいろありましょうし、学歴偏重社会を直すとかいろいろございましょうが、少なくとも、大学の入試そのものが現状のままでは非常にぐあいが悪いということも間違いのないことで、大学の入試改善をやる。私はさっき非常に時間がないもので、乱暴な表現で諸悪の根源は大学の入試にあると申し上げたのも、皆さんもよく御承知のように、大学の入試の内容が本当にいわゆる難問奇問型であり、そのことがやはり高校の教え方、中学の教え方、小学校にまで悪い影響を与えているのじゃないか。そしてそれが進学塾というようなことに発展して、いわゆる受験技術だけを学校外で非常に練る。やはりそういうことの頂点は大学入試にあると思うのです。一番いい例として考えるのは、私自身が、たとえば大学の入試の中で数学などとてもわからないから英語の試験を見ると、なかなか意地悪くできているんですね。そして、ああいうマルチプルチョイスにうまくなれた者が、そういうものに練度を重ねた者がパスしやすい。そうなってくると、中学の英語そのものがそのために曲がっていく。結局日本人が大学まで卒業して十年ぐらい英語をやってみたけれども、外国に行ったら、聞いてもわからないし、しゃべることはできないし、読むことはある程度わかるけれども、書くことなど全然できない。そういったのが外国語のあれにも投影してくる。そういったようないろいろな観点から考えて、いまやこの受験地獄の頂点にある大学入試そのものを何とかして改善していかなければならない。特に高校のレベルでこなせるようなものに抑えるということ、これはもう国民的要請だと思うのです。ただ、そういう場合でありますから、たまたま国大の方が前から手をつけておられてスタートしたのは私は激励してあげたいような気持ちがするのだけれども、本来ならば国大も私大も、ことに量においてはるかに大きな私大も入ったままで、文部省も加わりながら大学入試改善の協議会か何かできて、そこでコンセンサスをつくってやるというのが望ましい姿だと思うのですね。それができていないで、むずかしいと思った国大が時間がかかったけれども案外スタートを切っちまった、こういう状態だと思うのです。したがって、それだから先生の発言の内容が冷たいと言うのじゃありませんが、どうも伺っておりますと、やや否定面の方が多いのです。たとえば、設置場所が東京だから私大が全く関心がない、あるいは第一次試験は内申書のようなものでいいんじゃないか、国大もひとつ学区制でもおとりになったらどうだ等々、さらに六・三・三の改定の問題にも触れられていろいろ御意見の陳述があって、非常に参考になったのですが、私は、いま直ちに私大の方でこれにどう対応するかばかりではないのですが、そういう意味で、やはり大学の入試の改善については私大の方でもいろいろお考えになっているのではないかと思うのです。まだコンセンサスはできていないと思いますし、国大以上にバラエティーのある私大のことですから当然だとは思いますが、大体この入試改善についてどういうふうにやっていったらいいか。国大のパターンは別として、ひとつ御意見を拝聴させていただきたいと思います。
○村井参考人 私大で入試改善ということなんですが、入学試験が日本の教育の諸悪の根源だ、確かにそうだと思うのです。ですけれども、入試地獄が起こる原因というものが入学試験ではないのであって、やはり選ぶ学校の数が少ないということなんです。ですから、私どもは決して今度の国立大学の統一試験をただ冷視しているというわけではないのですけれども、これでは解決しないであろうということから、もっと根本のことを考えていただきたい。これはもう新制大学ができた当時から、私立大学は昔と違いまして新しい設置基準で、国立と同じ基準でやるべき、だと言われながら、なかなかそういかないものですから、つい多数の学生をとっていわゆる大規模大学ができた。それでも基準にはちゃんと合っているわけです。にもかかわらず、その大学の格差というものはそういう基準ではもう是正できない面があるわけですね。そういうようなことですから、どうしてもこの大学の格差を是正する方向のことを考えないと、入試だけの問題では、これは日本の教育が改善できないというそういうことから大変冷淡なように受け取られたのでございます。ですけれども、じゃいまのままでいいかどうかといいますと、確かに難問は出ると思いますが、奇問が出たとすれば、これはそのときの出題者のミスでございまして、確かに十倍も二十倍も来る学生を学力の到達度というような形での見方をしますと、差がつかないわけです。ですからどうしても入学試験ではなくて落第試験というものをやらなければならないという、とにかく原因が入学試験にないところに問題があるわけです。ですから私はどうしても日本の教育改善のためには、大学側が確かにそういう責任があるとするならば、確かに大学側にもあるわけですけれども、そうさせているところの日本の教育の実態というものを改善しなければ、もう入学試験だけでは改善できないのではないか。私立大学でも、私立大学間で入学合格者に対して、たとえばその年の受験料から、授業料からすべてを取るというような二重取りのないようにということで、その点は改善されております。けれども、入学試験のやり方は、独自に大学が、本当に直接学生が志願してくれば、やはり自分のところへ来た学生としてそれを試験するということで、いまこれを国立のように私立も統一に持っていくということになりますと、なかなかこの点ではむずかしかろうとは思うわけでございます。ですけれども、先ほど来申し上げましたように、高等学校の進度ということで、いまの国立の統一試験もやはり到達度を見るのだとおっしゃっておりますから、到達度を見る点においては内申書にそれを入れるということであれば実態は同じなんです。ただ受け取り方がその大学側の一次試験ではないので、高等学校の成績なので、だから実態は全く同じでも受け取り方が変わります。そうしますと、私立大学としても、大ぜい来ますとやはりどうしても二次試験になりますけれども、もしも到達度だけが内申書で来ますと、大学では一本の入学試験ですね。そのときにはやはりそれでなければ見れないような論文も面接もあるいは適性検査もできますので、全く国立と同じように使えるわけです。ですから、いまの段階では少なくともそういう意味では、実はあるいは足切りになるおそれがあるわけです。国大協では原則としては足切りにしないということですけれども、人数が多過ぎますとどうしてもいい試験ができないのですから、人数を定員の二倍、三倍にしぼります。そういたしますと足切りになります。私どもの例でいきますと十五万人というのも、たとえば三万人ぐらいの学生しか来なければ、一万人採るのも非常にいい試験ができますので、決してそれを採用することにはやぶさかではないし、また私立大学が全部はそれに乗りかねるのではないか、そういうような意味で大学入試一次試験と言わずに、それは内容は同じものを高等学校の学力到達度試験と言っていただけば大変幸せだと思います。
○曽祢委員 確かにおっしゃるように、私らはそう考えている。大学の改革もいろいろな小改革を並行してやらなければ、入試だけをいじくって日本の教育制度そのもののゆがみ等が直るわけでありませんので、おっしゃるとおりなんです。 そこで、いま国大協がやろうとしている第一次試験が、趣旨としては高校のノーマルな、正常な到達度を標準にして、その客観的な標準で第一次試験をやろうということだと思うのです。 ただこの際、もう一つ村井参考人に伺っておきたいのが、いま国大がやることに対する賛成というかグリーンライトですか、ゴーという信号を出すか、もう少し慎重にやるかという問題もありましょうけれども、もう一つ、これは新自由クラブという名前を挙げてもいいと思うのですけれども、むしろこれはフランスやドイツの例にならったのかは別としてそれこそ大学入試は、要するに大学の入試であるとともに高校卒の学力試験あるいは受験資格試験ですか、大学入学のための資格試験と言ったらいいのだと思うのですけれども、そういうものを一挙にやったらどうかという一つの考え方ですね、法案の形にはなってないようですけれども。そういうのもありますけれども、これについてはどうお考えですか。
○村井参考人 大学の統一入学試験を高校卒の、あるいは大学への進学資格試験、そういうような見方は、これはさっきから申し上げておりますように、将来あるいはそういうことが可能であるかもわかりませんが、いま早急にその問題を取り上げますと非常に混乱が起こるのではないかという感じがいたします。ですから、あくまでもいまの日本の高等学校、中学校あるいは小学校の教育を平常に行わせる方法は何かというそれを決めた上で、これが平常にいっていたら高等学校がだれでもそう困難なく理解できる、その範囲が、たとえば平均点で言って百点満点で六十点ぐらいとれるようになっていれば、その中から資格のある人とかない人を分けてもいいのですが、そういうような分け方はやはり人の区別でなくて差別が起こる、つまり知能だけのことでそれを判定すると危険が起こるわけです。ですから、もっと人間評価を広い意味で行うことができるならばこれは資格試験としてもいいのですけれども、なかなかそういう資格をつくることはむずかしいのではないか、そういう気がいたします。
○曽祢委員 どうもありがとうございました。 次に長谷部参考人に伺うのですけれども、大体において長谷部さんの方は一つの改善の道として肯定的に歓迎しておられ、その円滑な実施には協力したいという立場から、検討してほしいこと、その中には一つは実施の時期、これは私は非常に現実的な、ごもっともな御意見だと思って、十分に国大協の方にも文部省の方にも考えてもらわなければいかぬと思うわけですが、その他さらに先ほど言われた点、一々ごもっともなところが多いと思うのです。職業高校等については推薦入学の道を開いてくれ、調査書を尊重せよ、第二次志望が生かされるような何らかの方法を考えてほしい、最後に国公、私立については全部入試改善に結局合流してほしい、これも希望としてはそうです。けれども、スタートとしては別の流れでいま行っているからしようがないと思うのです。 そんなわけでございますが、大体高校の方の意見は国大協の方にも相当反映しておるし、今後とも反映させていくという自信をお持ちでございますか。
○長谷部参考人 おっしゃいましたとおり、私たちはこの国大協の構想の線に沿ってこれを実現するように協力をし努力をしてまいりたい。ただ、車には乗って、おりるつもりはありませんけれども、どうも乗り心地の余りよくないところがあるので、その点を少し修正していただきたい。これは国大協の方のお話を伺いますと非常に合理的にきちっと理屈が通っておりまして、そのとおりで御説明のとおりですが、現実問題として私どもは生徒のことを考えますと、いま申し上げたようなことがございますので、車からおりる気持ちはありませんけれども乗り心地をよくしてほしいということで、どうも先ほどたくさん申し上げて恐縮でございましたが、お願いをしているわけです。国大協の方にも変わりなくお願いを申し上げていきたいというふうに思っております。
○曽祢委員 それはまことにごもっともで、どうもこういう重大なことを試行錯誤なんかという言葉を使ったらばなはだ不謹慎きわまりないのですけれども、試行じゃないけれども、やはり実施前にいろいろな、それこそテストのテストをやるわけでしょう。実施までには相当な自信があって、国民に対してこれでいくんだという自信がある。しかもやってみて、後でまた足りないところを直していく、これは当然だけれども、いよいよ実施に踏み切るときに、これで試行錯誤をやりましたなんということでは、それほど国民なり受験者をばかにしたことはない。ですからそういう意味で、やはり実行の上で改善、改良を加える必要はあると思うのですね、そのつもりで意見のあるところはどんどん出してください。よろしく。われわれもそれを取り入れる方向で考えていきたいと思います。 それから、天野参考人に伺いたいのですが、先ほどドイツのアビツールとかフランスのバカロレアの話もされました。やはり私は一つの考えとしては、確かに大学入試の資格試験を一本でやったらどうだという、これは一つの考えだと思うのです。ただ、日本の場合にはいま国大がスタートを切って、少なくとも国大、それからそれに公立が加わった形で、とにかくやろうとしていることは私はいいことだと思うのです。それが段階ですから、いますぐに、先ほどの新自由クラブの案について、これをけなすわけじゃないけれども、日本としては一つ跳躍がある、飛躍があり過ぎると思うのですが、そういう意味で、大学の入試の資格試験をやったら、後は、もう器の方がちゃんとできているような場合ならばそれでもいいわけですが、しかし、それにしたがって、パリあたりではなるべくパリ大学に行きたいというと、パリ大学の校舎が足りなくなるとか、それでなければ待ってろというようなことになって、どうしたっていわゆる選別ということは起こりがちですね。しかし、基本的には、そういったような大学の試験という形でなく、しかもその内容についてこれほどみんなが頭を悩ます、そのことがまた下手をすると初等中等教育にまで悪い影響を投影する、試験制度がひとり走りしてしまう、そういうことにもなりますから、入学試験ということの持つ危険からいえば、一つのアイデアとしては、いっそのことバカロレアみたいにしちゃったらどうだ、フランス人なんかはバカロレアを自分のテストの意味で通るけれども、必ずしも大学に行かぬですね。自分の力試しの意味で通っているけれども、大学に行かなくてもいいというのが幾らもいる。これは日本人の頭の構造をよほど変えなければ、いま大学の入試の資格だけを与える試験で、後はいらっしゃいというわけにはいきませんね。ですから必然的に、現在の制度からあるいは現在のならわしから、一歩前進して、改善にいかなければならないと思うわけです。 そういう場合に、国大協の第一次試験に、きょうだけでも二つの意見が出ているのですよ。私は、第一次試験は学科試験でいいんじゃないか、内申書もあるでしょうけれどもやはり学科試験、そして第二次ぐらいになったらもうむしろ全然、第一次試験の内容を非常によく勉強しまして、そして梶田参考人からの御注意なんかも受け入れて、いわゆるマルチプルチョイスによって、何かそこだけみがいた者が通ってくるんじゃないように注意しながら、学科試験は原則としてそれにして、それで第二次試験というものは、要するに人物考査と言ったら悪いけれども、内申書も加えて、それから、大変ですけれども、やはり作文を書かせてみれば大抵頭の構造はわかりますよ。これは体操の採点みたいに数名の人で点数をつければ、そう間違った個人差は出てこないから、手数はかかるけれどもなるべくそういうことにした方がいいと思うのです。 先ほどのお話の中に、それとの比較においておっしゃったんじゃないですけれども、たまたま第二次を二、三科目にすれば、私大がどう出られるかは別として、ちょうど私大の三科目試験制度と合致するから、あるいは私大さんが合流するのにもいいじゃないかというようなお話がありましたけれども、それらの点についてもう一遍あなたの御意見を伺わしていただきたいと思います。
○天野参考人 外国の例を幾つか最初に申し上げたわけでございますけれども、私は、日本がこれから行っていく共通テストというのは、ドイツやフランスのやっているような資格試験制度の方にいくのはすでにむずかしい段階に来ているんではないか。と申しますのは、これは高等教育の発展ということについていろいろな考え方があるのでございますが、まあ一握りのエリートが大学教育を受ける段階には、ああいうたぐいの一定の資格を持った者だけを大学に入れるという発想が最も社会に受け入れられやすいものであったわけでありますが、現在は大学に進学する人たちの数が非常にふえている。その人たちの能力というものもまた非常に多様化してきている。そういたしますと、特定の試験によって一定の資格を持った者だけを入れるということは、それ以外の人たちの教育を受ける権利を奪ってしまうことになるのではないか。ですから、現在では高等教育というものは、むしろ中等以後の教育、つまり高等学校を終わった人たちがだれでも行けるような教育として考えていかなければいけないのではないか。そういう発想に立ちますと、ある一定の資格を持った者だけを大学に入れるという考え方とは合わないことになってまいるわけでございます。 現在アメリカでさまざまな形で共通テストが行われているわけでございますが、これはいずれも入学を志願する人たちの学力を検定しているのであって、それの一定水準の者だけが大学教育を受ける資格があるというふうにいっているわけではございません。ですから、それぞれの大学は、出てきた結果を見て、自分たちのところに最もふさわしいと思われる学力の持ち主を入れておる。特に州立の大学の場合には、オープンアドミッションと申しまして、無試験で学生を入れるというような方向をとっているわけでございます。 日本の場合に、現在のように四〇%近くが進学するという段階になってまいりますと、さらにその上に資格試験を行うということになりますと、これはやはり教育の機会を非常に制約することになるのではないか、私はそういうふうに思っています。むしろ、いまのように十八歳で卒業した段階で試験をして資格を与えるということになりますと、これまで高等学校の教育だけ受けて社会に出ている人たちあるいはすでに職業についている人たちがもう一度大学に入りたいというときにその資格を奪うことになるわけでございますので、この辺の配慮からいたしましても、日本の共通テストというのは、資格試験ではなくて、やはり学力検定的な性格を持つ方がよろしいのではないか、そういうふうに考えております。 それから、第二次試験の問題でございますが、これは実は非常にむずかしい問題があるわけでございます。というのは、現在国立大学は最も公平な選抜の方法として学力試験を行っているわけでございます。というのは、それにかわるより公平で客観的な評価の基準というのがないわけでございます。また、国立大学は、国立大学であるゆえに私立大学以上にそういう客観的な選抜という責任を期待されておるわけでございます。この点からいきますと、国立大学が人物考査、面接等によって、必ずしも客観的にすべての人たちを納得させることのできないような方法で入学者を選抜するということについて、社会がどの程度許容的な態度をとってくださるかということが非常に大きな問題になってくると思います。これは何年か前でございますが、慶応大学がある高校の有名な野球の選手を入学させないということで大変社会的な喝采を博したわけでございますが、この場合には、学力で選抜するのが最も公正であるという社会的な基準に私立大学も順応しておるということでございます。国立大学が、人物を重視して、つまり客観的にだれが見ても納得するような形でない基準でとることができるかどうか、そういうふうな問題が恐らくこれからさまざまな形で問われるのではないか、そういう意味で大変むずかしい問題があるというふうに思っております。 それから、もう一つの御質問は何でございましたでしょうか。
○曽祢委員 結構です。ありがとうございました。 今度は梶田参考人、簡単に結論的で結構でございますが、あなたが指摘されたいろいろマークシートや何かに通ずる学力テストの少なくとも落とし穴がありますね。そういう点について指摘されたのは、私は詳しいことはわかりませんけれども、改善の苦心味においてごもっともだと思います。国大協の方は、そういうことは十分にわかっている、いまそういう手練手管にたけた者だけがパスするようなものでない、出題の方でずいぶん研究が進んでいるのだ、これは心理学も加わっているかもしれませんが、きょうは詳しいことを承る時間はなかったのですけれども、確かにそういうように言っているようであります。さらにその点について、そういうことの可能性もあるけれども、まだ現時点ではもっと勉強しないと危険だというような御意見かと思いますけれども、その点ひとついまの国大協のかなりこなしつつあるという点を含めて、もう一遍御回答を願いたいと思います。
○梶田参考人 結論的に申しますと、国大協の方々がおっしゃっていることはいいと思うのです。ただ、実際に出てきているものがそういう形になっていないわけなのです。これは事実そのとおりなのでして、これはテストを見ればわかりますし、それからテストをどういう意図でつくったか、意図と実際にでき上がったものとのつながりを見ればわかると思うのです。こういう意味では、先ほど一番初めに申し上げましたように、わが国にはそういう学力の、あるいは能力の測定の専門家が育っていない。いま国立大学にそういうことを専門にしている人はほとんどいないと思うのです。残念ながら、たとえば多肢選択でここまでやれるはずだということを風聞で聞いておっしゃっているに過ぎないのではないかというのが、私の印象と申しますか、私が受けている感じであります。このことは改善できないことではございませんで、先ほどちょっと一端だけ申し上げましたが、たとえばいまアメリカなどではずいぶんこういう面の研究が進んでおります。どういう能力だったらどういう方法ではかればいいということが、ずいぶん議論としても、実証的な研究としても進んでおりますので、こういうことを十分に御研究になれば、私はいまのおっしゃっていることにかなり近いものを、マークシートということに必ずしも固執しないで、しかしコンピューターを使いながらやっていけるのではないかと思っております。
○曽祢委員 最後に三輪参考人に、簡単に結論的なことで結構でございますけれども、きょうの議題でございます、大学入試の改善の一つの方法といたしまして、国大それから公立の大学入試改善のための入試センターをつくって、五十四年から第一次試験をやって、ある程度の学力をテストし、第二次では、これはまだわかりませんけれども、残った学力テスト等にいろいろな内申書なりあるいは作文等の方法を加えていく。そういう方向でいくことは、やはり現在よりも一つの改善の方向だとして大体賛成でおありなのか、その御意見を聞かしていただきたい。主婦の立場からで結構でございます。
○三輪参考人 終局的には賛成でございます。ただそれまでに、長谷部先生がおっしゃったような問題と同じ考えでございまして、そこが大変ひっかかるような思いで不安がいっぱいでございます。
○曽祢委員 終わります。
○登坂委員長代理 山原君。
○山原委員 三十分の持ち時間ですから、全部の方にせっかくお見えくださっていますのでお聞きしたいのですが、途中で時間がなくなったらお許しいただきたいと思います。 最初に村井先生です。いまお聞きしますと、文部大臣も文部省の方も、私学の方にも参加していただきたい、またこれから話をして何とか納得してもらいたい、いわば説得したいというような意向で答弁がいままでなされておるわけですが、きょうの先生のお話を伺いますと、それなりの理由をもって参加することができないようなお話だと思いますが、そういうふうに現段階で理解をしてよろしいでしょうか。
○村井参考人 これは私個人の考えも多少入ってまいりますけれども、やはりいまのこのままの形で全私大が参加するかどうかということは、これはひとつ保留させていただきたいと思います。ですけれども、国立と兼ねて受ける学生の多い大学では、一応統一試験をなさるならば、それはそれなりに利用価値があるというように考えております。
○山原委員 一期校と二期校の一体化の問題ですが、予想といたしまして、これが行われますと私学の方に志願者がかなりふえる、あるいは殺到するというような事態が起こるのではないかと思いますが、この点はどのように予測されていますか。
○村井参考人 はっきりした予測はまだ立てておりませんが、やはりふえる可能性があると思います。ですけれども、もしも国立から来る学生が私学の方にある場合、いま申し上げましたとおり、このテストを利用するという立場からすれば、そこである程度学生をしぼることができるわけですから、ただ国立大学の足切りには例外的には使ってもいいと書いてありますから、そういう意味で受け入れば可能だと思います。
○山原委員 長谷部先生に伺いますが、先ほども休憩の時間にちょっと話が出ておりましたし、またこの委員会でも何名かの委員の方から出ているわけですが、十二月の末に共通テストが行われるということになると、高等学校の三学期の問題ですね。わずか三年間の重要な時期、総仕上げの時期、しかも三学期だけではなくて、私も高等学校の教員をしておりましたけれども、二学期というのは、スポーツにしましても体育祭、文化祭、生徒が最も生き生きと活動する時期ですね。その時期の十二月に試験が行われるということになりますと、とにかく高等学校三年生というこの時期が全くめちゃくちゃになってしまう。教育課程の問題から考えましても大変な事態が起こるのではないかという心配をいたしているのですが、先生の方ではこの点どういうふうにお考えでしょうか。
○長谷部参考人 いまのお話しのとおり、二学期の末ということになりますと、それの準備ということで、心理的にも生徒は落ちつきを失ってくるであろうということも一つ考えられます。それから、やはり教育課程そのものが、三年生の選択科目その他がございますけれども、そういうものの履修がまだ完結しない段階で試験を受けるということになろうかとも思います。 これについては、国大協の方としてはある程度配慮をする、つまり試験の提出の範囲を一部分カットするというような形で配慮するというようなお話がございます。これも大事なこととは思いますが、ただ、全国の高等学校が全く同一のプログラムといいますか順序で教科の指導が行われるとは限りませんので、ある学校にはカットされたことが都合がいい場合があるかもしれないし、あるいはそうでない場合も出てくるであろうというようなことから考えますと、そのカットの問題も一言でオーケーということにはならないものもあろうかと思います。当面、五十四年度あるいはその後二、三年のところは何とかしのいでまいりますけれども、やはり教師のさがと申しますか、生徒には何とか力をつけ、大学を志望する生徒には入れてやりたいという気持ちがございます。そういたしますと、やはり十二月の末を一つのめどに考えたいろいろな進路指導とかあるいは教科指導のプログラムとかいうようなものが考えられるのではないだろうか、それが全体の教育課程の編成の上に影響を持つことになりはしないかという懸念を私どもは持っておる。こういう観点から、もう少し時期をずらすことが適当であるという結論が校長その他教師の声としてもあるようでございます。 以上であります。
○山原委員 いまでさえ高等学校教育が大学の予備校化したというふうな問題が出ておる中で、さらにそれが手前に来るということになりますと、大変大事な問題がここに介在しておるというふうに考えておりますが、次へ質問を移りたいと思います。 入学生徒の負担増の問題ですけれども、科目を少なくするということ、あるいはいまの七科目では負担が多いというお話が先ほどあったわけですが、少なくしても問題があると私は思うのですね。だから、高等学校の教科を三科目にすれば、大体それに集中していく、他の教科が軽視されていくという可能性が出てまいりますし、また、科目をふやせば、お話しになったように、生徒の負担が増大するという関係があると思います。大体幾らくらいの科目が一番適切かという問題も一つの課題だと思うのですが、その点、御研究になっておりますでしょうか。
○長谷部参考人 特別にデータをとって、あるいは追跡調査というふうな形をとってのものではございませんけれども、主要の——主要という言葉が適切かどうかわかりませんが、国語とか社会、数学、理科、英語というような科目について、生徒の能力、適性を見るということからいたしますと、それはいろいろな試験をやればいいのです。一番いいとは思いますけれども、それはいまのお話のように負担の問題にかかわってくる。かといって、非常に少なくていいか、負担が軽くなってそれでいいかというと、またそうも言えない。つまり、能力、適性を見るに一番ふさわしいものはどの程度であるかということを私どもの経験的な見方をした場合に、それぞれ一科目というところで十分に見られるであろう。これは直接的なことではございませんけれども、現在東京都の高等学校の入学試験が英、数、国の三科目で行われております。この三科目にした以前は、すべての科目、九科目について試験が行われておりました。それを三科目にしぼるについて、東京都の教育委員会がいろいろな調査をいたしました結果、三科目の結果を見てもその他の教科を類推することが可能である、そしてそれは著しく大きな隔たりはないという観点に立って、三科目にしぼった過去の経験がございます。もちろんそれには、その他の教科、試験に乗せられない科目の指導とかいうものについては十分に配慮するという条件がございます。また、入学選抜の資料の上ではその他の科目も十分に査定されておりますから、そういう問題がございましたが、それらを一つの参考に考えたときに、五科目をそういうふうに十分なしっかりした問題によって査定をいたしますならば、いたずらに社会を二科目やらなければいけない、理科を二科目やらなければいけないという論理はわいてこないのではないか、こういうふうな考え方に立って、社会も一科目でよろしかろう、理科も一科目でよろしかろう、そして合計五科目程度でよろしいのではないかというふうに考えてみているわけでございます。
○山原委員 梶田先生に伺いたいのですが、共通一次試験のマークシート方式に対する意見がいろいろ出ています。私、ここに幾つか持ってきていますが、その中で、これには非常に制約があるということで、何回かすれば種切れになるであろうというようなこと、また、数学や理科その他の各教科ごとにいろいろな意見が出ているわけでござますが、そういう可能性があるのかという問題と、こういう方式、あるいはコンピューターの問題がかなりこの段階で問題になってきたと思いますが、この点では相当経験も積み、あるいはそれに対する研究も現在なされているのでしょうか。その点、伺いたいのです。
○梶田参考人 いまお尋ねの点につきましては、やはり一番大事なのは学力のモデルといいますか、たとえば高等学校卒業時、あるいは中学卒業時に何かできていないかということをどう押さえるか、それとのかかわりで方法を考えるというこの発想が逆転しているためにいろいろと問題が起こっていると思うのです。 直接お答えする前にちょっとそこの辺を申し上げますと、たとえば、いまアメリカでかなり長い間、二、三十年かけまして教育学者たちがいろいろな能力レベルを分けていろわけです。たとえば、知的なものだと知識から始まりまして、知識、理解、応用、分析、総合、判断と、こう六段階に分けている。それぞれに測定の仕方が違ってくる。知識のレベルだったら、なるほどいわゆる多肢選択。知識というのは記憶しているかどうかですから、多肢選択法か、あるいはブランクをつくってやるような方法、これでいい。しかし、理解になるとやはり何かの形で記述しないと、理解というのは変換能力ですから、そしゃくしているかどうかですから、自分なりの変換というのが出てくる。もう一段上の応用になりますと、これは少なくとも多肢選択的なものでは全然だめなんです。その上はもちろんだめだ。そういうような問題がございます。 それで、直接のお尋ねの点になりますけれども、じゃ多肢選択だけでやっていたらどうなるか。これは使っていて必ずしも同じ問題を繰り返すことにはならないと私は思うのですけれども、ただ、選択肢のつくり方に、長いことやっていればどうしても無理がくると思うのです。同じようなことをはかろうと思って、似たような選択肢を四つか五つ準備する、そうすればどうしてもそこに無理がくる。これは難問奇問に入らないかもしれませんが、少なくとも無理のある設問になることは事実だと思うのです。その無理を避けようと思ったら、どうしても選択肢が手がかりになって正解がわかってしまうような、今度はクイズ能力で答えられるようなものになってしまうといった問題があるわけです。ですから、マークシート方式だけにこだわっていると、一部分、学力のある部分、非常に低次のレベルしかはかれない。このことを先ほどから申し上げているわけです。 じゃ、そういうことについて、たとえばそれとコンピューターの利用なんかにもかかわりますが、どれだけ研究が進んでいるかということなんですが、コンピューターの情報処理についての研究というのは非常に進んでおります。だから、マークシート方式なんかも出ておりますし、あるいは、そこからどうやって組み合わせてどういう要因を出していくかなんということも進んでおります。ただ、アメリカではそれと連結して、じゃ何をそこのデータに入れていったらいいかというデータ自体の性格づけの問題の研究が進んでおりますが、日本ではそれがない。ですから、先ほどちょっと言いましたけれども、教科の専門家と情報処理の専門家だけがいて、その中心の、教科の中身をどう変換してデータの形にしたらいいかという測定の専門家がいない。だから、ちょっと話がおかしくなっているのじゃないかというようなことを思うわけです。したがいまして、コンピュピューターの利用については、日本でもある意味では非常に進んでおりますけれども、妥当な利用の仕方、特に教育における妥当な利用の仕方という点では、まだまだこれからだと言わないといけないのじゃないかと思っております。
○山原委員 ちょっと私もよくわからないのですけれども、たとえば模擬テストが行われた場合、正解を示していないものですから、各新聞社が正解を専門家と相談をして出した場合に、一つだけの正解があるはずなんですが、三つ出てくるというのですね。これは例がここに出ておりますけれども、国語の場合です。そしてそういう誤りはもう起こせないという努力は続けられるでしょうけれども、もし仮に正解は一つだという場合、これがもう一つの場合もいいのだ、あるいはもう一つのものも正解の部類へ入るのだということになったときに、コンピューターがはじいてすでに点数が出てしまった後で、もとへ戻してそれを正解として生かして点数に加えるなどということはできるものでしょうか。
○梶田参考人 そのこと自体はできます。もちろん、もとのデータだけを取っておけば、前にこれを正解にしていたけれども、後ではこれを正解に変えますということさえ入れれば出てきます。 ただ、問題なのは、国語なんかで一つが確かに本当の正解だ、二つは灰色ぐらいで、それからあとの一つが完全に誤答だというようなものはたくさんあるわけなんです。それを、その中の一つだけを正解として、あと三つ全部が誤答というふうに見ていいかどうかという問題は残ると思います。
○山原委員 国語の場合は、普通の試験をやっておりましてもそういう場合がずいぶん多いのですね。そんなことがどうなるのかなと、余り細かいことに入ってもいけないと思いますけれども、ちょっとお聞きしたわけでございます。 天野先生にお伺いしたいのですが、先生のお話はこの入試センターの問題についてこれを大事にして育てていくという立場でお話しになったわけでして、その中で足切りの問題が出ているわけです。足切りはしてはいかぬというような高等学校側からの意見も非常に強い。では、足切りしないというような場合には、先生の御意見では今度は二次試験の方にちょっとウエートがかかってくるようなお話になってまいりますと、いろいろ質問している中でもよくわからないのですが、いつの間にか二次試験にぐっとウエートがかかってくるというような心配も私はしているのですが、足切りの問題と二次試験のウエートの問題、その辺ちょっと御意見を承っておきたいのです。
○天野参考人 先ほど岡本先生もお答えになりましたように、二次試験をどうするかという問題は、現在それぞれの大学の中で学部のレベルまでおりて審議されているわけでございます。私どもの学部でもその問題をいろいろ審議したわけでございますが、国大協の出しておりますガイドラインというものには、足切りをする場合でも三倍程度のところにとどめるのが望ましいというふうな表現が出ているわけでございます。それから、受験生あるいは高校側からは、足切りに使うのは望ましくないという非常に強い要求があるということも確かでございます。 ただ、技術的にあるいはさまざまな制約があるわけです。たとえば第一次テストに二日間を費やしてテストをやる、第二次テストは一日程度でやらなければこれまで以上に受験の日数がふえるではないか、そういうふうな話もございます。それでは、一日の間にどの程度綿密な、詳細な人物、適性等にわたる評価ができるかというと、これは技術的に非常にむずかしい。どうしてもある程度の倍数まで人数を切って、その上できめ細かい選抜をやらざるを得ないのではないか、そういうふうな意見がたとえば私どもの学部の中などでは強いわけでございます。実際に七倍、八倍、十倍というふうな受験生が押しかけてまいりました場合に、もし足切りをしないでやるとすれば、どうしてもそういう適性や能力をきめ細かく見るような選抜方法はとりがたいものですから、学力試験におんぶせざるを得ないだろう、それを余りにも強調し過ぎますと受験生にとっては二重負担になる、こういうジレンマの中に実は私どもあるわけでございます。夏までにそれが集約されるそうですが、どういう形で出てくるかは別といたしまして、そういうジレンマの中でそれぞれの大学や学部がこれから苦労して妥当な点を見つけ出していくということになるだろうと思うのですが、足切りを全くしないということになるとそういう問題が起こるということは、私どもの間でずいぶん議論になっているということを申し上げておきたいと思います。
○山原委員 三輪さんにお伺いするのですが、私は三輪さんの御家庭の事情その他を全くわからないものですから大変失礼な質問になるかもしれませんが、四人お子さんがいらっしゃるということです。そうしますと、私ども一般の公務員と話をしましても、たとえば二人子供を私学の高等学校へやるのにももう経済的にもたないというまさに悲鳴の声を聞くわけですね。御家庭の事情をここでお伺いするわけにはいきませんけれども、どうなんでしょうか、三名も四名も入学適齢の子供さんを抱えた場合の御家庭の主婦として率直な気持ちを一言言っていただきたいのですが。
○三輪参考人 率直に言いますと、どのぐらいかかるかとか、そういうことですか。
○山原委員 一般的に言って経済的にどうとか、そういう気持ちですね。抽象的で結構ですから。
○三輪参考人 やっぱり大変です。ですから、私立へ行きます子供には留年は認めませんというのを最初から条件にしております。と言いますのは、やはり私どもサラリーマンですし、それに生活、またいろんな子供のつき合い、そういうのを考えますと、本当に私立へやりたくてやるわけじゃないですね。ですから、私の一番下の子供の件なんで自分ごとで大変恐縮なんですけれども、これは最初ある私立へ入れておりました。それはやはり上へずっとつないで大学を出てほしいという何か親の安易な考えでしたのですが、どうしても推薦で行くといいますのは、よほど本人ががんばらない限り、最低の線で推薦で上がりましても、後の入る学部とか、本人も中へ入るまで大変なのに、今度出るとき全然物にならない。物にならないと言ってはあれですけれども、本当に何か親でも子供に対する不安度というのが非常に持たれたものですから、そして学校のあり方にもちょっと疑問を生じましたので、それで今回高校に上がりますときに思い切りまして都立の農芸高校へ入れました。そしてそれの中で土木科という緑地土木の方へ入れました。本人は余り勉強好きな方じゃないのですが、最初私立へ行っておりましたとき、入るとき大変勉強したはずなのに、出るころに余り勉強しませんでも最低の線でも上がるような状態にありましたけれども、これでは先が思いやられるし、月謝は大変だし、これでは親もたまらないということで、親も本当に入ったからよかったようなものですけど、急遽切りかえまして、そして一つのものを持たしていく。職業高校を選んだのはそういうことにありました。そうしましたら、本人が俄然、中学時代もっと進学率もいい学校で大変勉強も厳しいはずだったのが、どういうのでしょうか、友達関係、先生との関係、その他の問題とかいろいろなものがありまして、結局私たちが思っていた私立というのとは全然違ったわけです。そういうことも考えまして、この子にはこれが行く道だと思いましたのと、やはりサラリーマンですから、そう何人も私立を出られましても親も大変ですので。 そしてこの後の件ですが、これがいま高二で、ことしこの春に高三になるのですけれども、来年に受験ですね。ですが、この子の場合は、一応三年間職業高校の土木科というものを出まして、そしてその上に大学へどうしても行かなければならないのじゃなくて、この子のために四年間の後の土木科なり林業なり何かの形をどういうふうに学部を選ぶかは、まだそんなこと全然話し合っておりませんのであれですが、ただ、どうしても社会人として必要だし、学校を出てその明くる日からでも何かの形にでも社会人として使える、またお役に立てる子供、人間、大人になってほしいというためで、この人のためには大学云々じゃなくて四年間の勉強が必要だからそういう土木科のある学校を選んで進学させる、そういう形ですので、案外四人いますためにほいほいというようなことばございませんので、できるだけ費用のかからない、そして子供に沿うようにというような気持ちで私たちサラリーマンはやっておるつもりでございます。
○山原委員 どうもありがとうございました。 最後に、これは私全く愚問でありますけれども、難問奇問というのは定義はどなたに聞いたらわかるでしょうか。たとえば、天野先生、難問奇問というのはどの程度のものでしょうか。教科書がありますね。幾つかの教科書を使っておるわけです。副教科書ですか、そういうものもある。そこからはみ出したら難問奇問になるのか。その辺はどんなふうにお考えになっておりますか。
○村井参考人 私は難問奇問というのはおかしいという気がするのです。やはり大学の側で入学試験するためには、あらゆる高等学校の教科書を先生方に全部渡すのです。毎年毎年新しいのも古いのも渡します。ですから、その中から出ますから、そこで、そこから外れた問題を出さないようにと言っているわけです。ただ、難問奇問よりか、その中からうっかり出すのに、人が見落とすようなところの問題を出す、だから、それは難問じゃなくて愚問なんですね。難問奇問というよりかは、やはり大学側としては、あくまでも高等学校の教科書を基準にして出すのですから、そう難問奇問はないはずなんです。ただ選ぶときに、選ばれたものが、それが難問というよりかは愚問なんですね。愚問があるいは難問に通ずるかもわかりません。私はそう感じます。
○天野参考人 私も受験問題作成の専門家ではございませんので、大変むずかしい御質問なんですが、私は、制度として申し上げたいのは、現在のようにそれぞれの大学が毎年毎年受験問題をつくっておる。それは先生方が非常に努力してつくられるわけですが、先ごろ新聞でも問題になりましたように、ある出題をほかの学校が使う場合に、社会的な非難が非常に強いわけですね。ですから、どんなにいい問題でも、それが蓄積されて何度も繰り返し使われるということはない。したがって、だんだんオーソドックスでない問題がつくられるようになる。私は娘を持っておりますが、たとえば私立中学校の入試問題などを見ますと、これは明らかに現在の小学校のカリキュラムでは解けないような問題が出ているわけでございます。大学につきましても、高校長協会などで入試問題の検討をやっておりますが、そこでも、これは現在の高校のカリキュラムではとても解答ができない、そういう問題が毎年何例も何例も挙がっておるわけでございます。何が一番公正に受験生の学力をはかる問題であるのかということについての詰めが、現在の段階では——村井先生のおられます早稲田大学のような大きな、しかも経験を積んだ大学の場合は別でございますけれども、小規模の大学の場合には、ほとんどそういうことが行われていないのではないか。そういうところから難問奇問が出てくるのではないか。 難問奇問の定義そのものではございませんが、そういうふうに考えております。
○山原委員 難問奇問の問題で、私ども子供のときに、昔、第一高等学校の英語の試験に、英語の短文かと思って一生懸命直訳しようと思って努力しておると、何遍も読んでいるうちに、結局「古池や蛙飛びこむ水の音」という芭蕉の句だったというのがありますね。これは大変ユニークではあるし、ユーモラスでもあるし、そういう性格を持った試験というもの、よき時代のこれは難問奇問の部類に入るかもしれませんけれども、しかし、それはまた、ときには子供たちのひらめき、そういったものを点検する意味でまた意義もあるのじゃないかというふうに思うのですね。 そうしますと、いま私たちは漠然と難問奇問と言っておるのですが、ここらもまた検討する必要がある。特に、いま高等学校の教育の中で、教科書に沿って、そしてその中からはみ出して、この部分はどうしても教えなければならぬという先生方の希望や、また先生方の特性というものもあるわけですから、そういうものをどういうふうに把握するかという問題ですね。これは今後検討する必要のある問題だと私は思っているわけです。だからその辺、きょうはこれでおきますけれども、難問奇問の問題につきましても、これほど入試問題が重要な政治課題にまでなっておりますので、これからの問題についても、これから十分検討していく必要があるのじゃないかと日ごろ思っておりますので、最後にそのことを申し上げまして私の質問を終わります。ありがとうございました。
○登坂委員長代理 木島喜兵衞君。
○木島委員 理事会の予定外でありますけれども、委員の皆さんから御理解いただきまして。……。みんな時間がないものですから、大変にはしょっていらっしゃる部分があったと思いますので、短時間だけそれに関する御質問をさせていただきます。 いま、第一問は、難問奇問の話がございましたけれども、高校の教科書を中心にして多肢選択でいけば問題は一定の限界がある。そして、それを何年間か繰り返せば同じ問題が出てくる。同時に受験産業は、すでに旺文社等は同じコンピューターを入れておりますから、何年かたてばみんながいい点をとるようになってくる。みんな同じくなったら、そうして足切りを余りやらないということであれば、足切りをやろうとしたって、みんな選択に困りますな。みんな東大を受けますね。そうなってくれば、おのずから、選択するためには、いま言った難問奇問にならざるを得ないとするならば、一次共通テストというものは意味がなくなってくるのではないか、二次試験だけが中心になってくるのじゃないか、そういう運命を持っておるのではないかと思うのでありますが、これは梶田先生にお願いしますかな。
○梶田参考人 そういうふうに予想することは私は不可能ではないと思うのです。いまの一次試験は、ですから、結局どの程度これから改善していくか、あるいはその改善の意欲があるかということでずいぶん話は違っていると思うのですが、いまお考えになっているマークシート方式だけでおやりになろうということですと非常に難問奇問——ただ、難問奇問という定義が非常にむずかしくて、たとえば教科書に出ていなければ難問奇問か、そういうことではなくて、知識と理解のレベルだけでしたら何か範囲の中でやればいいわけで、その上になりますと、新しく出てきたデータとか新しく出てきた材料を使って自分がどういうふうに考えるかということを答えるような問題をつくるのが多分正統な作問だろうというふうにも思いますし、ですから、ただ、そういうものはもちろんいまのマークシート方式ではできませんから、マークシート方式をやりましたら、どうしても受験産業ペースの現象が何か非常に拡大してくるのじゃないか、そういうふうに私思います。
○木島委員 その次に村井先生、これは国立と私立の格差を拡大することに大変役立つのじゃございませんか。どうでしょう。
○村井参考人 そのことは私は申し上げませんでしたが、確かに、これをもしも国立だけでやりまして私立が採用しなかったら、新しい格差ができます。必ず格差が広がるということはそのとおりと思います。
○木島委員 天野先生、これは国立だけでも格差が拡大する、その格差は、言うならば、いまは自然発生的格差、今度は公認格差、共通テストをやりまして、点数のよけいな者はある国立大学へ行く、点数の低い者はある国立大学へ行く、公認国立格差になりませんか。
○天野参考人 これも大変むずかしい御質問なのですが、実は明治三十五年に旧制の高等学校が共通テストを採用したことがございます。これは六年ほど続きまして廃止になりました。その際、なぜ廃止になったかと申しますと、これは共通テストをやって成績順に各学校に振り分けるということをやりましたために、天下の秀才はことごとく一高に集まってしまうということで、地方の高等学校から非常な反対が出ましてこれが廃止になったというケースがございます。ですから、今回の場合にも、国大協側は、大学の格差が明らかになることを避けるために個人的なデータの公開ということはしないというふうに言っております。これは非常にむずかしい問題でございます。何らかの形で格差は明らかになってくるかもわかりません。 ただ。その格差の問題をどう考えるかというのは、これはかなり社会的な問題でございます。アメリカでは確かに、アメリカの大学受験の案内書を拝見しますと、この大学に入るには、たとえばハーバードに入るには共通テストで何点とっていなければ入れないというふうな数字がきちっと書いてございまして、大学は全部、非常に入るのがむずかしい大学、それほどむずかしくない大学というふうに七ランクぐらいに分けられてランキングがついておるわけでございます。でも、これを見ましても、アメリカの一般の父兄や子供たちは別に何とも思っていないわけでございます。この辺の社会の受けとめ方が最終的には格差の問題を決める手がかりになるのではないかと思っております。 〔登坂委員長代理退席、委員長着席〕
○木島委員 次に長谷部先生と三輸さんに……。 私立がこれに参加しませんから、国立を受けようとした人は、いままで一期、二期あったけれども、それでもさらに滑りどめで私立を受けますな。大抵受けると思いますね。国立を受けるけれども、一つ受ける、それから私立を受けますね。私立は、いままでの試験の制度ですよね。国立は、こういう新しい制度。すると、これは受験生にとっては二重過重ですね。二重の塾ができますな、二重の予備校ができますな。そういう弊害について、どうお考えになりますか。
○長谷部参考人 どういうふうな結果が生まれるかわかりませんが、ただ予想されるところは、国立大学を受験をする生徒が非常にふえるだろうと思います。つまり、テストをやってみようという形で、自分が入れる入れないは別といたしまして……。
○木島委員 それはいいです。私の質問に答えてください。
○長谷部参考人 塾がふえるかということですか。
○木島委員 つまり、二重の過重になるだろう。国立を受ける人は、いままでの試験の形態の私立も受ける。そうすると、いままでの準備もしなければいかぬですね。そして、新しいマークシートの練習もしなければいかぬですね。そのいままでのものと新しいものと二つを必ず一ほとんどが滑りどめに私立を受けるでしょう。とすれば、二重の過重になるし、その二つを勉強するところの進学塾も予備校もできるだろうし、そうなっていったならば、高校の正常化が唯一の教育的な配慮だというその高校そのものが、ますます正常化されなくなっていくということにならないのかという問題です。
○長谷部参考人 その辺は生徒の方の受けとめ方だろうと思いますし、また共通の一次試験の内容と私学の方の問題の内容の共通性があるかどうかの問題にかかわると思います。両方が全く異質のものということではないだろうと思います。かなりダブる面があるだろう。ただ、マークシートというのは、これは方法論として私学は取り扱わないということのようですから、あるいは多少やっているかもしれませんけれども、方法論的にはあるかもしれません。しかし、基礎的学力をつけるという観点からすれば、そう大きな違いはなくていくんじゃないかというふうに私は見ております。
○三輪参考人 私も、いま長谷部先生と同感でございます。
○木島委員 天野先生、国立大学の一部の大学あるいは一部の大学の学部がこれに反対し、協力せず、実施しなかったときに、この問題はどうなりますか。その可能性は十分にあり得るわけでありますから。
○天野参考人 これは、私よりも岡本先生がお答えになるべき問題だと思うのですが、これまでのところでは、すべての国立大学が一致してこの実施を支持しているわけでございます。あるいは中にはどうしてもこれまでどおり五教科七科目なり五教科八科目なりの試験をやりたいという学部が出るかもしれません。これは、大学自治の現状では、それを拒否することはできないだろうと思います。ですから、その学部がそういう七科目、八科目のテストを実施することになると思いますが、その場合には社会的な指弾を受けるであろうというふうに思います。ですから、その問題は出てくるかどうかわかりませんけれども、出てきた場合にはそれを正当化する論理を大学の、あるいは学部の側が提出しなければならないということになるのではないかと思っております。
○木島委員 今度一期校、二期校をやめると言いますけれども、しかし、二度のチャンスという話がございましたがね、一期校をばらして、たとえば旧帝大を一期と二期に分けて、いわゆる格差じゃなくて、チャンスを二度与えるということでもって、仮に抽せんでも何でもいいや、ということについての御意見は。これはやっぱり高校と主婦の方、長谷部さんと三輪さんがいいかな。
○長谷部参考人 いろいろな考え方はあろうかと思いますけれども、高校側はなるべくそうでなく、やはり……。
○木島委員 高校としてはどうですか。同じ共通第一次テストをやっても、二次は二回のチャンスを与えた方がいいじゃないですか。いまの一期、二期をやめるということと別の意味で一期、二期をやったらいいじゃないですか。
○長谷部参考人 第二次試験を二つに分けてやる、こういうことでございますか。これは従来と同じような形になります。それはそれでいいだろうと思います。
○三輪参考人 同意見でございます。
○木島委員 最後でありますが、いままで文部省に聞いておりますと、センターは一時共通テストを前提としたセンターであって、その研究であり、運営であると言うのです。いま皆さん方に聞いておりますと、大変いろいろな問題がある。したがって、一次ということを前提にせずに、入試制度がどうあるべきかという、もっと広い意味の研究センターでなければならないのではないかと思うのですが、その場合には、たとえばそういうものであれば私学も、あるいは高校もそこに入って入試改善、日本の入試制度全体の改革がどうあるべきかという、そういう研究センターに御協力いただけますか。村井先生、長谷部先生ですな。
○村井参考人 法案の提案理由の中にも現状の改善のいかんということで、そうして私学が参加するとなっておりますから、当然私どもは参加して、そこで協力したいと思っております。 だから、そのときに、実はひとつ余分ですかもわかりませんが、申し上げたいのは、国立でまず当分やるならば、国立の学制をなくして、もう地域別に国立大学の旧帝大と幾つかの府県の大学をまとめた形でそこの地域の住民を七割なり八割入れて、あと二、三割を全国競争させる。そのことを提案したいと思っております。
○長谷部参考人 先ほど岡本先生からのお話のとおり、高等学校の意見も十分聞く機会を持つ、運営委員にも参加させる、こういうお話でございますので、そういう意味でセンターに高校が参加することについては、私どもは希望いたします。
○木島委員 ただ、制度が不十分なままでも動き出しますと、いろいろの矛盾が出てきてもひとり歩きしながら曲がり曲がり曲がっちまうおそれがあるものでありますので、そういう意味であなたに質問いたしましたから、お許しください。どうもありがとうございました。
○藤尾委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。 参考人各位には、御多用中のところ長時間御出席いただき、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。(拍手) 次回は、来る二十三日開会することとし、本日は、これにて散会いたします。 午後四時四十八分散会