社会労働委員会 第13号
- 発言数
- 136 件
- 登壇者
- 7 名
- 会派数
- 2
- 開催日
- 1973/04/05
会議録
○田川委員長 これより会議を開きます。 戦傷病者戦没者遺族等援護法等の一部を改正する法律案を議題とし、質疑を行ないます。 質疑の申し出があります。順次これを許します。高橋千寿君。
○高橋(千)委員 私は、これから主として戦傷病者並びに戦没者の遺族に関係する事柄についてお尋ねいたします。 私も遺族の一人でございますが、戦争が終結いたしましてから、もう二十八年間を経過しております。当時直接、間接に戦争に参加された方々はたくさんいらっしゃいます。例外なく相当年をとっていらっしゃいますが、このような方々に対して国からのあたたかい援助が必要だと思うのです。このたび援護法が、処遇その他の点でだいぶ改正されましたけれども、その改正の重点はどこに置かれておりますか。まず基本的な点についてお尋ねします。
○高木(玄)政府委員 ただいま御審議をいただいております今回の改正法の重点は三つございます。第一が、支給金額の引き上げでございます。第二が、対象範囲の拡大でございます。第三が、特別給付金制度の継続、増額でございます。 まず、第一の支給金額の引き上げでございますが、これは障害年金、遺族年金等の年金額につきまして、恩給のほうで傷病手当なり公務扶助料が二三・四%引き上げられますので、それと同じ引き上げ幅で、本年の十月分からこの年金額を引き上げるわけでございます。これによりまして、障害年金について申しますと、第一項症の場合ですと現行百四万円でございますのが百二十八万三千円に、それから遺族年金が現行二十四万円が二十九万六千百円に、それぞれ二三・四%引き上げられます。そのほか重度の障害年金受給者に対する特別加給なり、あるいは後順位の遺族年金なりも、それぞれ恩給に準じて引き上げております。 それから当委員会の附帯決議でお取り上げいただいておりました軍人軍属と準軍属との間の年金額の格差でございますが、これはいままで準軍属は、軍人軍属の年金額の十分の九相当額でございましたが、これを全く軍人軍属と同額にいたしまして、年金額の格差をなくしております。 それから次に、対象範囲の拡大でございますが、これは今回軍属、準軍属につきまして日華事変中の本邦等におきます勤務関連傷病に起因する障害年金、遺族年金を支給するような道を開いたのでございます。これは従前は軍人についてのみ認められておりましたのを、今回の改正によりまして、軍属、準軍属につきましても、この対象範囲を広げたわけであります。 それから第三に、特別給付金制度でございますが、これは戦没者の妻、それから戦没者の父母に対する第一回の特別給付金制度が、父母につきましては昨年の五月、妻につきましては、本年の四月に最終償還が終わりますので、それをその後どうするかということで検討いたしてまいりましたが、この制度を継続することにし、また金額も第一回の三倍相当額に引き上げることにいたしております。 以上、三点が今回の改正の重点事項でございます。
○高橋(千)委員 金額が二三・四%引き上げられたとおっしゃいましたが、これは恩給法に基づくものであって、従来は物価をもとにして、さらに物価と公務員給与の差の六割をもとにした増額をやってまいりましたが、今回は公務員給与に直接スライドさせてきたのですが、今後もこのような方式で増額していくのでしょうか。
○高木(玄)政府委員 今回は恩給の金額の引き上げがいままでと方法を変えまして、二カ年分の公務員給与の引き上げ率を加えた額で二三・四%というものをはじき出して引き上げております。それに遺族年金も、従前から遺族年金の額というのは、ちょうど兵の公務扶助料の額と相当いたしておりますので、恩給額のこの二三・四%の引き上げ額と合わせたということにいたしております。
○高橋(千)委員 それから勤務関連に関する障害者並びに遺族の範囲が拡大されたのですが、それに支給される金額については今回何も触れておられないのですが、今後引き上げられるお考えはございましょうか。
○高木(玄)政府委員 この勤務関連によりまする障害年金、遺族年金につきましては、これは恩給法の特例傷病年金、それから特例公務扶助料とそろえることになっておりまして、これはそれぞれ本来の障害年金、遺族年金の七割五分相当額というふうに法律で定まっております。したがいまして障害年金、遺族年金の額が引き上げられておりますので、この額もそれにつれて引き上げられている、こういうことになります。
○高橋(千)委員 さらに今後戦傷病者、戦没者遺族などの援護に対して、どのように臨まれるかお答え願いたいのです。
○高木(玄)政府委員 やはり今後の重点は年金額を充実していく、引き上げていくという問題になろうかと思います。最近のように物価の上昇が非常に著しい場合におきましては、なおさらのこと、これは遺族なり戦傷病者の生活の一つのささえになっておりますので、こういった年金額の引き上げ、充実ということを今後もはかってまいらなければならぬ、かように考えます。 また、遺族の方々がこれからますます年齢が高年齢になってまいりますので、そういった老境に入った方々のお立場というものを考えて措置をしていかなければならぬだろうと思います。そういった考え方の一つが、今席の特別給付金の継続、増額というものも、そういった考え方に基づいて行なわれたものでございます。
○高橋(千)委員 次に、特別給付金についてお伺いいたしますけれども、父母などに対する特別給付金を見ますと五年償還でございます。償還期限もすぐ参ると思うのですが、この後さらに、このような特別給付金制度を継続していく方針なのでしょうか。もし継続していかれるならば、その額はどのくらいにされるか、お答え願いたい。
○高木(玄)政府委員 父母に対する特別給付金は昨年五月十五日で第一回の最終償還が終わったわけでございますので、今回この制度を継続することに定めて、ただいま御提案申し上げている法律の中に、その継続のことをうたってあるわけでございますので、これをさらに五年経過後に第三回目の特別給付金制度を設けるかどうか、これはその時点におきまして判断したい、かように考えております。 いまのところは、この第二回目が発足するばかりでございますので、その時点で考えさせていただきたい、かように考えております。
○高橋(千)委員 それから、このたびの特別給付金は、日華事変以後の戦没者の遺族が対象になっておりますが、時局的に微妙なつながりを持っております満州事変以後の遺族には、これが適用されておりません。これらの方々について適用ワクの拡大をお考えでございましょうか。 また満州事変の未亡人の数はいまどのようになっておりますか、お知らせ願いたいのです。
○高木(玄)政府委員 今回の特別給付金は満州事変の遺族には適用になっておりません。日華事変以後の遺族に支給することになっております。と申しますのは、今回の特別給付金制度は前回の特別給付金制度の継続でございまして、満州事変の遺族は前回の特別給付金のときに適用対象になっておりません。第一回の特別給付金も支給されておりませんので、それの継続でございます今回の第二回の特別給付金制度においても同様の扱いをしておるわけでございます。 なお、満州事変におきます戦没者の数は四千二百名で、おそらくその遺族の数は現在では八百名程度ではなかろうかというふうに考えております。
○高橋(千)委員 満州事変の未亡人の方々の数はだいぶ少のうございますので、この適用ワクをどうしても、いっときも早くかけていただきたいと思いますが、お願いいたします。
○齋藤国務大臣 御承知のように、ただいま御提案申し上げておりまする特別給付金は日華事変以後のものでございまして、満州事変当時の遺族の方々にも何とか特別給付金をという非常に強い要望があります。これは先生のところにもそういう要望がたくさんきておることと存ずるわけでございまして、私どももこれを何とか解決してあげたいなという気持ちを持っております。気持ちを持っておりますが、現在の法のたてまえが日支事変以後というふうな仕組みになっておりますので、もしこれをやろうとすると、やはり別な法律をつくらなければならぬというふうな問題もあるわけでございます。 それからまた、満州事変当時の遺族の方々に対する処遇が、あの当時の社会情勢からいうて比較的手厚く行なわれたというふうな事例があり、日華事変以後の方々とはだいぶその辺の趣が違うんじゃないか、こういうふうな比較均衡の問題もありますので、いま直ちにこの特別給付金制度をそこまで広げるのがいいかどうか、多少私も迷っておるところでございますが、そういうふうに戦争で夫をなくされ、子供をなくされた方々の気持ちを思えば、やはりそういう要望というものはできるだけ、何とか理屈をつけて心配してあげるのが、私は、いま生き残ったわれわれのつとめじゃないか、こんなふうな感じもいたしておりますので、今後もう少し慎重に検討したいと思いますので、今後の検討事項ということでお譲りいただくようにお願い申し上げたいと思っております。
○高橋(千)委員 再婚妻その他の問題についてお尋ねいたします。 昭和二十一年二月一日から昭和二十七年四月の二十九日までに再婚し、解消した者には適用されておりますが、戦没者未亡人の中には四月二十九日以後解消した人と、そのままにおられる方々と、いろいろの方々がございますが、昭和二十七年四月二十九日以後解消した方には期間の延長をお願いしとうございますし、そのまま再婚したままにしていらっしゃる方々の例に、たとえばここに遺族会で発行しております「遺族通信」の中に、その相談欄に、こんな境遇の方が問いを寄せられておりますので、ちょっとお読みします。 この方は長男と結婚され、長男の方が戦死され、弟と結婚され、その弟さんもなくなった方でございますが、「両親も早く死亡したので年金は貰えず、長男も大きくなっていたので貰う期間が短く、私は再婚した為に全く貰えません。戦死した人の家族を守る為に再婚した女が、何か悪い事でもしたように、すべての恩典を奪われて、長い一生をめちゃめちゃにされて、何の補償もしてもらえないのは何故でしょうか。」という問いなのでございます。 そのほかまだ、この恩典をいただきたいために、再婚していながら籍を入れないでいらっしゃる方もおられます。その方の間にあってなした子供さんは私生児というような形になっておられる。このような、現在なお戦争の犠牲を身にこたえつつ苦しい生活をしている人たちがたくさんおられるのだろうと思いますが、このような方々に対して、国のあたたかい思いやりを何とかとられないものかと思います。いかがでございましょうか。
○齋藤国務大臣 いまお話のありましたように、長男にお嫁さんに行って、長男が戦死されて次男のところに縁づかれる、これはやっぱり、私どものいなかなどにもこういう例がたくさんございます。そういう方々が、二十七年でございますか、その間にどうのこうのということで制限をされて扶助料も何ももらえない、こういうふうな事例があるわけでございまして、そういうお気の毒な方々はやっぱり、一つ一つ家庭の事情なりいろいろな事情で違いますけれども、お気の毒な方々があるわけでございます。 私どもとしては、今日までに遺族会のいろいろなそういう具体的な調査をもとにしまして、一つ一つ拾い上げるような気持ち、そういう気持ちで今日まで努力いたしてまいりましたが、こういうふうないろいろな未処遇の問題とかいろいろな問題が残っていると思うのです。だいぶ片づいたような気もいたしますが、社会にはまだ残っておるような感じもいたしますので、今後とも遺族の具体的な例で、これはやはり気の毒じゃないか、これはやはり国家がもっとあたたかい気持ちでめんどうを見てあげたほうがいいんじゃないか、こういう例が私は間々あると思うのです。そういう例は具体的に拾い上げまして前向きに救ってあげる、取り上げていくように今後とも努力をいたしたいと考えております。
○高橋(千)委員 その点はよろしくお願いいたします。 また次に、戦傷病者相談員、戦没者遺族相談員の方々がいらっしゃいますが、この方々の活動状況、それから、どうなっておりますか、その方々の人数と、またその謝礼金についてお伺いいたします。
○高木(玄)政府委員 戦傷病者の相談員、戦没者遺族の相談員は、これはそれぞれ戦傷病者、戦没者遺族の方々の援護の相談に応じまして、いろいろと必要な指導なり助言を行なうということでございまして、現在沖繩を含めまして全国に、この戦傷病者の相談員、戦没者遺族の相談員それぞれ九百四十名、一県当たり二十名の割合で配置いたしております。このうち特に戦没者遺族につきましては、先ほど申しましたように、遺族の方々が老境に入っておられますので、いよいよその援護を充実させる必要があるという趣旨から、この遺族の方の相談業務というものをさらに強化する必要があるんじゃないかということで、本年は遺族相談員につきましてはいま申しました九百四十名から、四百七十名増員いたしまして千四百十名、五割増しにいたしております。これは一県当たり二十名でありましたものを三十名配置するということにいたしたわけであります。 これらの方々に対します謝金は、現在月額五百円でございます。
○高橋(千)委員 いまお聞きしますと、五百円というたいへん低い数字でございますけれども、こういう老齢化していらっしゃいます遺族の方々の相談をしていらっしゃる方々に、月に五百円とはあまりにも少な過ぎるのではないかと考えます。こういう方々に大いに活躍していただくためにも、いま一そう大幅に引き上げていただくお考えはございませんでしょうか。
○高木(玄)政府委員 御指摘の点まことにごもっともでございますので、私どもは今回は戦没者遺族の相談員の増員のほうに力を入れましたので、謝金の増額のほうには力及ばなかったのでございますが、この月額五百円というのはいかにも低うございますので、今後この増額につきましては、精一ぱい努力させていただきたいと思います。
○高橋(千)委員 いっときも早く待遇改善をお願いいたしたいと思います。 次に、未帰還者の問題についてお尋ねいたしますけれども、昭和四十七年三月末現在における未帰還者数は三千五百九十七人となっており、その地域別の内訳は、中華人民共和国二千九百四十九人等と厚生白書でなっておりますが、中国との国交樹立現在、調査の状況、そして今後の処理方針はどうなっておりますか、お知らせ願いたいのですが……。
○高木(玄)政府委員 ただいまお話しございましたように、中国におきます未帰還者の数は、私どもの調査では二千九百名でございます。そのほかに自分の意思で帰国しないというふうに私どものほうで認定しております者が千四十名おられます。それから、戦後死亡宣告によりまして死亡として戸籍を処理された方が約一万三千五百名おられるわけであります。この方々につきまして、厚生省といたしまして、ただいまこの三種類の方々の名簿を作成いたしております。この名簿ができ上がり次第これを中国大使館のほうに外務省を通じてお送りいたしまして、中国との国交が開けたことでございますので、中国大使館を通じてこの未帰還者の調査業務を今後促進してまいりたい、かように考えております。
○高橋(千)委員 いっときも早く、帰ってこられる方をお待ちの方がいらっしゃると思いますので、してあげていただきたいと思います。 最後に、昭和四十八年度の戦没者遺骨収集の件についてどのような計画をお持ちでしょうか、御説明願いとうございます。
○高木(玄)政府委員 戦没者の遺骨収集につきましては、いままで、昭和二十八年から三十三年まで、五カ年計画で一わたりの地域の遺骨収集を政府の手で行ないました。それから昭和四十二年から四十六年までもやはり年次計画をもって実施いたしましたが、何と申しましてもこの遺骨の収集につきましては、いままでも努力はしてまいっておりますものの、不十分でございます。そこで四十八年度におきましては構想を変えまして、戦後三十周年を迎える昭和五十年ころまでに遺骨収集をもっと大々的に思い切ってやりたいということで計画いたしまして、四十八年度では従来の遺骨収集費をはるかに上回る二億三千万円の予算を計上いたしまして、四十八年、四十九年の二カ年度でおもな戦域についての遺骨収集を強力に行なうとともに、それで残ったものを最終的に仕上げの意味で五十年度にやりたい、かように考えております。 なお、遺骨収集につきましては、本来政府の責任において実施すべきものでございますが、いままでも民間の方々、たとえば遺族会なり戦友会の方々に協力していただいております。それもいままでの遺骨収集は、そういった方々の全く持ち出し、手弁当でやっていただいておりますので、それでは非常にまずいということで、本年から三分の二の補助率の補助金九千五百万円を計上いたしまして、政府が行きますときにそういった民間の方々にその補助金によって一緒に行っていただいて遺骨収集に当たりたい、こういうふうなことも計画しているわけでございます。
○高橋(千)委員 一日も早く収集されんことをお願いいたしまして、私の質問を終わらせていただきます。 〔「委員長、関連質問。ことばの使い方で……」「理事を通せ」と呼び、その他発言する者あり〕
○田川委員長 大原亨君。
○大原委員 私のほうからは、いままで本委員会においてもしばしば議論はしたのですが、きょうは大体二つの点について質問をいたしたいと思いますが、一つは戦傷病者戦没者遺族等援護法の中にある準軍属として扱われております国民義勇隊、この問題と、それから従来から議論をいたしておりました防空従事者の問題、それが一つでありますが、これはかねてからの質問で懸案のことであるし、原爆被爆者特別措置法等の附帯決議も出ておることであります。その詰めの質問をいたしたいと思うのですが、もう一つは、戦争中広島県の忠海、これは池田さんの生まれられた近くでありますが、そこに大久野島という毒ガスの島がありまして、そこに動員学徒等が働いていた、これが援護法の適用から排除されてきた問題という二つの点について、質問をいたします。 戦争犠牲者に対する公平な救済措置というのは、従来からしばしば議論をしてきたところであります。そこで政府の施策は、軍人や軍属あるいは準軍属という分野で昭和二十七年に本援護法が制定されまして以来、軍人恩給の点については、これは除外した特別の法律をつくりました。それから公務員については、これはもちろん国との特別権力関係によりまして、戦争犠牲者に対しては国や公共団体等の官公吏に対する援護措置があるわけであります。 そこで、いままで本援護法を審議する過程の中で、準軍属の問題をかなりウエートをかけて範囲を拡大をいたしてまいりました歴史があるわけであります。 〔委員長退席、塩谷委員長代理着席〕 その中で調べてみますと、昭和二十七年の制定当時には、被徴用者、総動員業務の協力者、それから戦闘参加者、特別未帰還者あるいは国民義勇隊、そういうふうになっておるわけでありますが、齋藤現厚生大臣は、当時は中央の政府で厚生省の課長をしておられたということですが、国民義勇隊を準軍属として加えてまいりましたが、その法的な根拠と、それから国民義勇隊の適用者は大体何人くらい適用されておるかという問題、こういう法的な根拠と実態について、ひとつお答えをいただきます。
○高木(玄)政府委員 国民義勇隊を準軍属にいたしました根拠でございますが、昭和二十年の三月二十三日に「国民義勇隊組織ニ関スル件」という閣議決定がございます。その閣議決定を根拠にして国民義勇隊員を準軍属といたしておるわけであります。そして今日までこの国民義勇隊員でどの程度この遺族援護法の年金等が出ておるかと申しますと、この国民義勇隊関係では弔慰金の裁定者が一万三百三十六件でございます。それから遺族給与金の裁定件数は六千九百二十五件でございます。今日までそれだけの数の弔慰金なり遺族給与金が支給されているということであります。
○大原委員 その遺族給与金という年金の裁定者が六千九百二十五件あるわけですが、その内訳をお答えいただきたい。
○高木(玄)政府委員 六千九百二十五件の内訳は、国民義勇隊員に属しました学徒が四千六百二十八件、本来の国民義勇隊員が二千二百九十七件でございます。
○大原委員 国民義勇隊のその一万数千件の弔慰金の中で、六千九百二十五件の適用者があるわけですが、たとえば東京空襲とか広島の原爆はこれは入っておるわけですが、長崎が一人も入っていないというのは、どういうことでございましょう。
○高木(玄)政府委員 長崎におきましては、国民義勇隊は未組織でございました。
○大原委員 いまお答えのように、昭和二十年の終戦当時、本土決戦のどたんばで国民義勇隊をつくって、生産と農業と兵役を一体化して、そして本土決戦に備えよう、こういうふうに勅令でなしに閣議決定でやったわけでありますが、この閣議決定の日付は、いまお話がありましたように、四月の十三日というふうになっております。
○高木(玄)政府委員 三月二十三日です。
○大原委員 三月二十三日ですか。三月二十三日というふうになっているのですね。 あれは私が指摘したのだが、二十二日と違っていたのを、いつ修正したのですか。もとの国民義勇隊の法律は二十二日になっておったものを、この閣議決定の封印を解除いたしました昭和四十二年かに、これは間違いであったといって私が予算委員会で指摘をしたことがありますが、これはいつ改正の措置をとりましたか。一日違っておったわけですね。
○高木(玄)政府委員 いまちょっと調べておりますが、先生の御指摘がございまして、当初三月二十二日となって一日間違えておりましたのを、昭和四十一年か四十二年ころの改正で、三月二十三日というふうに正しくしたというふうに思います。
○大原委員 三月二十三日の閣議決定で八月までずっと続きながら、国民義勇隊が広島とか——東京はあまりないけれども、広島を中心にずっと数県被害者が出ていますね。しかし他の県でなかったということはないのですよ。他の県で、長崎がなかったというようなことは、これは防空法に対する所管の問題で、従来からずっと内務省と陸海軍がけんかしていたわけですよ。私が調べてみますと、けんかしていて、やっぱり本土決戦に備えて、国民義勇隊で兵役法に匹敵する全国民を動員する体制をとらなければいかぬ、こういう閣議決定に基づいて「国民義勇隊組織ニ関スル件」を閣議決定いたしまして、そうしてこれはむちゃくちゃでありますけれども、法律の根拠のないのに全国民を戦闘に動員したわけですね。それが、特に原爆の関係でいうと長崎、あるいはその他の地域、東京等において国民義勇隊でこの援護法の適用の対象者がないというのは、私はこれは考えられない。 沖繩があぶなくなった、やられた、本土決戦に備えて、三月の閣議決定でこういう強引なことをやったわけです。総動員法という授権立法の根拠があるわけでもないし、法律に根拠がないことで、閣議決定でやった。一方においては内務大臣が本部長であった防空本部があったわけですが、それは一体どういうことなんでしょうね。これはあなたのほうで実態の追跡がなされていないのではないか。いかがでしょうか。
○高木(玄)政府委員 国民義勇隊関係の閣議決定を見てまいりますと、この国民義勇隊は「都道府県毎ニ国民義勇隊本部ヲ設ケ当該区域内国民義勇隊ヲ統轄セシム。本部長ハ地方長官トス」ということでありまして、さらに別の閣議決定には「国民義勇隊の中央機構ハ特別ニ之ヲ設ケズ」というふうにいたしております。 おそらくこれは各都道府県ごとにその組織化がまかされたというふうに思われるわけでございますが、非常に私ども意外に思うのでございますが、この国民義勇隊が、いわゆる大きな都市において完全に組織され、国民義勇隊の活動に入っておりましたのは広島市だけなのであります。これはどういうわけでそんなにおくれたのか、私ども非常にわからないのでございますが、実際問題として私どもの調査したところでは、この組織化が進んでいなかったというふうになっているのでございます。
○大原委員 私が閣議決定を出してもらいましたその閣議決定の中には、昭和二十年六月の二十六日には国民義勇隊協議会という中央組織をつくりまして、会長一名、副会長一名、委員おおむね三十名で、そして義勇隊の事務局総長をつくりまして、一人勅任の事務総長を選任いたしまして、事務局次長も勅任ということで、数人の勅任を入れまして事務局の機構をつくっているわけです。 だから援護局長、それは論争しないが、あなたが言われた趣旨はわかるわけです。つまり戦争だからむちゃくちゃの閣議決定で動員していると思うが、しかし、それにしても本土決戦ということになると、中枢部依存は、現地で空襲や艦砲射撃のときに対応できない、こういうようなことで全国民を動員したわけです。ですから、現地に重点を置いた。後にこれは六月の決定ですが、閣議決定で協議会を設けまして中央組織をつくったわけです。だから六月の段階で、ぼくはかなり全国においては国民義勇隊の組織があったと思うのです。 閣議決定はいま見てみますと、中身はむちゃくちゃですよ。男でありましたら六十歳未満、女性でありますと四十五歳未満、これらは兵隊と同じようなこういう体制で、軍の命令下に本土決戦に備える、こういう趣旨のものでありますね。だから全国組織、協議会をつくっているということは、現地中心だけれども全国の協議会をつくるという構想は、これは国民義勇隊の組織化が進んでいないからやったのか、あるいはそれがかなり進んだ段階で、中央での統制組織をつくったのかということになりますと、内務省との間における論争が続いたわけですけれども、これは私としては追跡のしかたが足りないのではないか。これはやはりいろいろな新聞報道等を見てみまして、たとえば長崎に一人も国民義勇隊の犠牲者がなくて、広島にはこんなにあるというのはどうもおかしいし、広島は軍都であるということもありますけれども、それにしても東京などもこれがあるのではないか、首都でありますから、ないのはおかしい、こう思います。 このことを議論するだけが目的ではありませんから、これは問題としておいておきましょう。いずれにいたしましても、この方面の追跡は足りないわけです。 そこで、国民義勇隊と旧防空法関係のことで欠落している問題を、これからお尋ねするわけでありますが、先般も指摘いたしましたが、昭和二十年四月十三日の閣議了解で、内務大臣が本部長、次官が副本部長を——ずっと内務省を中心に都道府県それから市町村というふうに、それぞれ本部を設けた防空組織があったわけでありますが、これは昭和十六年に大改正をいたした法律に基づくものであります。 そして、いまお話しのように、三月二十三日に閣議決定で国民義勇隊を設けまして、そして、警防団組織等を全部動員いたしまして、国民義勇隊に編制がえをして、兵役法に基づくと同じような、これは六月に国民義勇兵役法というのをつくっておりますが、閣議決定だけでやってはいかぬだろう、こんなことは、ということで、おそらく義勇兵役法という簡単な法律をつくったらしい。これは六月二十二日に制定いたしております。これは陸海軍大臣の請議に基づくものですから、軍の所管であります。これを調べてみましてもそうでございますが、第一条は「大東亜戦争ニ際シ帝国臣民ハ兵役法ノ定ムル所ニ依ルノ外本法ノ定ムル所ニ依リ兵役ニ服ス」義勇兵役法という兵役に服す、こういう兵役法に匹敵するような義勇兵役法をつくっておりますね。 そこで防空関係法と義勇兵役法の二本立てになりました。義勇兵役法は軍が直接指揮をする、こっちのほうは内務大臣が指揮をするのですが、しかし、その背後には、軍隊が監督指揮をするということになったものですから、四月十三日の閣議了解で一体化、警防団と義勇隊との一体化を了解事項として閣議で決定をいたしております。 そこで、法制局に対して、この見解について私は再三にわたって質問いたしましたし、先般も質問いたしまして、防空法関係の従事者は国民義勇隊との差を設けるというふうな法制上の理由はない、こういう見解が示されました。 そこで、念のためにあらためてお聞きいたしますが、厚生省もその見解を政府見解として了承しておるはずであるが、いかがでしょう。
○高木(玄)政府委員 ただいまの点につきましては、昭和四十二年十二月の予算委員会におきまして、吉國、当時の法制局次長だったと思いますが、吉國次長の答弁がございます。この答弁をちょっと読み上げてみますと、「この国民義勇隊として活動した者と、防空法のもと防空の実施に従事すべき旨の下命を受けて活動した者との間には、実質的には差はないというただいまの御指摘は、まことにそのとおりだと思います。また三月二十三日以後、この国民義勇隊の閣議決定がございましてからあとは、おそらく防空関係もこの閣議決定に基づいて実施せられたものと思いますので、その関係で不幸にあわれた人に対しましては、現在の援護法の準軍属として取り扱われるべきものだと法制上考えられます。」 さらに、四十四年の予算の分科会におきまして、大原先生のお尋ねに対して、同じ吉國政府委員が「御指摘の国民義勇隊として活動した者と、防空従事者として防空法によりまして下命を受けて活動した者との間には、実質的には差はないという大原委員の御指摘は、まことにそのとおりであるということをお答え申し上げました。」というふうに、重ねて答弁を確認しておられます。この点は十分承知いたしております。
○大原委員 大臣もお聞きいただきたいし、出席の皆さんもお聞きいただきたいのですが、なぜ防空従事者がこの援護法の対象から抹消されたのか議論になったことは承知しておりますが、法制局の見解があって——閣議決定で三月に出発をした。しかし六月には義勇兵役法で、法律できまっておる。そういう義勇隊の関係と防空法の関係は、法律上の権利義務の関係から言うなれば、国の権力の関係から言うなれば、同じようなものだという見解があるわけですけれども、国民義勇隊のほうは準軍属に入っておるが、旧防空法の関係はなぜ入らなかったのか、その経緯についてあらためて私はお聞きいたします。
○高木(玄)政府委員 防空従事者でございますが、これにつきましては国会におきまして四十年以後再々当委員会の決議がございました。厚生省といたしましては、昭和四十二年に援護問題懇談会というものを設けまして、防空従事者を援護法上いかに処遇すべきかという点について御検討願ったのでございます。その援護問題懇談会におきまして厚生大臣に出されました意見が、旧防空法の第六条ノ二の第一項の指定を受けた者、つまり防空監視隊員、これを準軍属として援護法上処遇するのに相当である、適当である。しかし、その他の者は、援護法上、防空監視隊員に比べて性格なり、勤務の態様等から見て準軍属として扱うのは適当でない、かような答申をいただいたわけでございます。 〔塩谷委員長代理退席、委員長着席〕 その答申に基づきまして、四十四年の改正におきまして防空監視隊員を準軍属にした、こういう経緯でございます。 それではなぜ防空監視隊員を準軍属として扱ったかということでございますが、防空監視隊員は軍の防空計画の一環となっておって、軍の定めた法令により、基準によって行動することとされておった。それから原則として勤務の態様は常勤である。しかも相当重い罰則、がつけられた、こういった観点から、防空監視隊員は準軍属として扱うのに適当である。医療従事者等は、これに比べますと、性格なり勤務の態様は準軍属とするに至らない、こういう御見解であったわけであります。
○大原委員 これは医療従事者、医師や歯科医師、薬剤師、助産婦、看護婦、保健婦、そういう医療従事者がどのような特別の訓練をし、どのように日常からの活動やあるいは警戒警報が発令されました後の対応措置をとったか。たとえばここに写真があります。広島県防空本部救護班という腕章をつけて、かばんを持ちまして、きちっとしてやっている。あなたの言うように、そんなこと言ったら関係者おこりますよ。警防団もそうですけれども、いいかげんなことでやっていたとか、あまり大したことはなかったといったら大ごとです。職場をかってに離脱したならば、軍が直接やっていたのだから——ですから、そういうものではないわけです。そういうものではないのに、これは欠落していたわけです。防空監視隊員は防空法で議論いたしましてから、そこだけは取り上げられたわけでございます。 防空監視隊員で準軍属として取り上げられたのは何名ですか。
○高木(玄)政府委員 防空監視隊員として遺族援護法によります給付といたしまして、弔慰金が二十七件、遺族給与金の二十一件、合計四十八件給付いたしております。
○大原委員 地域別にわかっておりますか。
○高木(玄)政府委員 地域別にはわかりません。
○大原委員 東京空襲も入っておりますか。
○高木(玄)政府委員 入っております。ただし、防空監視隊員というのは、防空監視哨に勤務していて、敵の航空機の来襲に際しまして、その方向なり機種等を監視しておったわけでございまして、おそらく防空監視哨は大都会のまん中ではなく山間部なり島嶼部に設けられておったのであります。東京空襲の分ももちろん該当すれば入っておりますが、おそらぐ東京空襲そのもので防空監視隊員の給付が出ていることはないんじゃないかというふうに思います。これが非常に件数が少ないのは、そういう山間部に勤務しておったためではないかというふうに思うわけでございます。
○大原委員 長崎県はどうですか。
○高木(玄)政府委員 いま申しました中の県別は、ちょっとわかりかねます。
○大原委員 なぜ防空法の犠牲者をこのように抹殺したかということですね。私はそれに関連して調べたことがあるのです。お聞かせいただきたい点は、この防空本部を日本が敗戦いたしましてから解散したのですが、いつごろ解散いたしましたか。
○高木(玄)政府委員 ちょっとわかりかねますが、調査いたします。
○大原委員 私の調査によりますと、昭和二十一年の一月三十一日に防空法廃止としてありますから、その前に解散をしたのだろうと思います。これはかなり前だろうと思います。内務省が占領軍によって廃止をされましたのは、齋藤大臣はよく知っておられると思うのですが、二十二年の十二月三十一日というふうに私の手元の記録にあります。内務省はやはり戦争中悪いことをたくさんしておるから、占領軍が解体命令を出したのだろうと思うのですね。そこで、その前に防空本部は早々と解散をしておかないと、非戦闘員を権力で戦闘に参加させたという点で戦争犯罪を追及される。そこでアメリカ軍が上陸いたしまして、ポツダム宣言に基づき占領を始めましたときに極東委員会その他において議論がなされるという情勢の中でやった。したがって、そのことは、ずっと四十三年まで、あるいは援護法ができましてからも、この問題について議論があったときも抹殺された、こういうことになるのではないか、こういうふうに推定あるいは断定に近い事情があるわけでありますが、これはいかがでしょう。
○高木(玄)政府委員 御承知のとおり、援護法におきまして処遇いたしておりますのは軍人、軍属、準軍属、この三つございます。そして申すまでもなく軍人、軍属は軍を構成するものでございまして、戦闘本務の遂行に当たっておったわけでございます。準軍属と申しますのは軍人、軍属に準ずる立場において戦争に協力させられていたということでございますので、準軍属として処遇いたしますためには、軍とのかかわり合いが相当強い、あるいは法令等の強制力によって戦争に参加させられていた、こういう実態が必要であろうかと思うのであります。 そこで防空法関係の防空監視隊員につきましては、勤務がまさに軍と一体的に、軍防空の一環として、しかも防空監視隊令によりますと、防空監視隊員の業務というものは軍の定める基準に従って行動しなければならぬというふうに規定されております。それから空襲等の場合だけじゃなく常時監視に当たっていた。つまり常勤的状態で、しかも業務違反に対しては重い罰則があった。こういった点から申しますと、いまも申しますような準軍属として扱う実態があったのじゃないか、かように思います。 たとえば警防団について申しますと、警防団の根拠法令は警防団令でございますが、警防団令には警防団の業務違反については罰則はございません。それから警防団は軍防空の一環というよりも民防空、地方の防空組織の一環でございます。そういった実態を考えますと、軍とのかかわり合い、罰則のないこと、そういったような点から言うと、警防団員は準軍属として扱うのは適当でない、こういう扱いになったのじゃなかろうかというふうに考えております。
○大原委員 あなたはよくわかってないんだ。防空法には罰則があるんですよ。防空法あるいは勅令、政令に基づいてやったのは、たとえば防空監視隊もあれば、警防団員もあれば、医療従事者もあれば、隣組の地域防空もある。それが国民義勇隊の決定と一緒に軍の直接指揮下に入って本土決戦に備えるような体制になった。これは私がいままで経過を具体的に説明したとおりです。 その中にはちゃんと罰則があるのです。隣組の防空活動をやっておった人だって、個別的に従事令書は出ていなかっだけれども、隣組防空組織に対しましては、ちゃんと包括的な名簿による包括的な命令が出ておったわけです。それぞれの段階における本部長はおったけれども、直接には軍が入ってきまして指揮した。国民義勇隊を閣議決定して一体的に運営するという方針をずっときめたわけですから、その中では直接軍が指揮しておったわけです。そこでかってに所定の持ち場を離れた場合には懲役や罰金があるわけです。ですから、あなたが警防団はかってな行動をとってもいいとか罰則がなかったと言うのはうそですよ。
○高木(玄)政府委員 防空法には警防団という字句は一つも出ておりません。警防団なら、その設置の直接の根拠法令は警防団令であろうと思いますが、防空法で警防団がどういうかかわり合いを持つかと申しますと、防空法の第二条に防空計画の規定がございます。「防空計画ハ勅令ノ定ムル所ニ依リ主務大臣、地方官庁又ハ地方長官ノ指定スル市町村長之ヲ設定スベシ」こういう規定がございます。警防団令によりまして、警防団が市町村の区域ごとに設けられまして、そして警防団令の第一条で防空という業務が課せられております。したがいまして、当然警防団は防空業務に従事しておるわけでございますので、市町村長が防空計画を立てる場合には、当然防空を行なうことになっております警防団を防空計画の中の柱に据える、これは当然のことと思います。そこで、今度は旧防空法の第十二条に「行政官庁、市町村長若ハ第三条第一項ノ規定ニ依ル防空計画ノ設定者ノ為ス防空ノ実施ニ従事スル者」「之が為傷疾ヲ受ケ、」等々につきまして「防空計画ノ設定者ハ勅令ノ定ムル所ニ依リ扶助金ヲ給スベシ」こうございます。 したがいまして、防空計画に基づく防空の実施に従事する者ということで警防団員がここに入ってまいりまして、防空法に基づく扶助金の支給対象になっているという関係になるのでございまして、警防団それ自体を防空法の中では一つも規定しておりません。防空計画というものを通じて防空法十二条に基づく扶助金の対象になっている、こういう関係だと私は思います。
○大原委員 そんな法律の解釈はないでしょう。つまり、防空法に基づいて防空計画をやるわけですよ。そして警防団は勅令でやるわけですけれども、防空計画の中に警防団が中心的にあるわけですよ。それから施行令その他を見てみましたら、やはり順位としては、ちょっと見出せぬけれども、防空監視員それから警防団員、それから医療従事者、ずらっと書いてある。それは報国隊的なものや、あるいは隣組防空の問題等がある規定がずっと各号にある。それは確かにどこかの条章にある。
○高木(玄)政府委員 先生のお持ちの資料の七三ページの防空従事者扶助令の第二条に列記してある、こういうことでございます。
○大原委員 それから防空法に基づく罰則、これは中身を言ってごらんなさい。
○高木(玄)政府委員 防空法の罰則につきましては、第十九条に「左ノ各号ノ一二該当スル者ハ一年以下ノ懲役又ハ千円以下ノ罰金ニ処ス」とありまして、一号は「第六条ノニ第一項ノ規定ニ依ル命令ニ従ハザル者」これが防空監視隊員に対する罰則であります。それから十九条ノニの「左ノ各号ノ一二該当スル者ハ六月以下ノ」……(大原委員「第七条、第八条」と呼ぶ)第十九条ノニの「第六条第一項若ハ第二項」「ノ規定ニ依ル命令ニ従ハザル者」とございまして、第六条の第一項、特殊技能を持った者、つまり医療従事者であり、第二項の防空の実施について特別の教育訓練を受けた者、この者についての罰則でございます。
○大原委員 だから、それに適合するのじゃないですか。特別な訓練を受けた者でしょう。
○高木(玄)政府委員 防空法第六条の第二項は「防空ノ実施ニ関スル特別ノ教育訓練ヲ受ケタル者」ということでございまして、警防団員一般をさしているのじゃございません。「特別ノ教育訓練ヲ受ケタル者」というのは、警防団員の中でも特別の教育訓練を受けた者という趣旨でございまして、これは防空法に関する通達等を見ましても、たとえば「防空法等施行ニ関スル件」という昭和十六年十二月十九日、地方長官あての通達が出ておりますが、この中に「防空法第六条第二項ノ規定ニ依ル従事命令ハ概ネ警防団員、学校報国隊員等ニシテ特別ノ教育訓練ヲ受ケタル者ニ対シ必要ト認ムル場合ニ之ヲ為スコト」ということでございまして、警防団そのものあるいは警防団員全員に対して従事命令を出しているのじゃございません。 あくまで警防団員の中の防空の実施について特別の教育訓練を受けた者に対して従事命令を出す、こういう法律上の規定になっているわけでございます。
○大原委員 六条二項は「地方長官ハ勅令ノ定ムル所ニ依リ防空ノ実施ニ関スル特別ノ教育訓練ヲ受ケタル者ヲシテ防空ノ実施ニ従事セシムルコトヲ得」こうあるのですが、いまとの関連もありますけれども、いまのところは警防団は仕分けをして、この間の議論のように基幹警防団員である、一般の警防団員である、あなたはこういう考え方だろうと思うけれども、しかしこの文章は、あなた読み方が違うんじゃないの。警防団やそういう集団に対しては、そういう隊に対しては隊長として特別の教育訓練をするんだという趣旨でしょう。それをより分けて、訓練を受ける者と受けない者をやることはないでしょう。 警防団は、消防団や、いわゆる消防的なもの、消極的なもの、当初そういうものを警防団に切りかえて国民義勇隊的な任務を与える、こういうふうにだんだんと切りかえていったわけですから、警防団——消防団というのはなかった。警防団になっておった。警防団を差をつけて、特別の訓練を受けた者と受けない者との差をつけることができる。それはことばの上では、そういうことが言えるけれども、実際上は、警防団は警防団として毎日毎日団体訓練をやってきたわけですよ。それはだれでも認めておることじゃないですか。
○高木(玄)政府委員 防空法と警防団員の関係はいろいろ調べたのでございますが、防空法の六条の二項が設けられましたときの国会における政府委員の答弁にこういうのがございます。 「大体此ノ六条ノ第二項デ予期シテ居りマス点ハ、例ヘバ警防団ノ内部ニ於ケル所ノ団員デアリマシテ、相当防空ノコトニ関シマシテ教育訓練ノ徹底シタモノデアリマストカ、或ハ今日警視庁等ニ於テ行ツテ居りマス学生ノ消防隊ト云フヤウナモノ、或ハ学校報国隊ノ中デ特ニ防空業務ノ為ニ訓練ヲセラレタモノデアルトカ、サウ云ツタヤウナモノヲ大体予定致シテ居ルノデアリマス、サウシテ是が防空業務ニ従事スル命令ヲ受ケマシタ時ニハ、ソレゾレ防空要員ノ一ツト致シマシテ指揮系統ニ入リマシテ活動ヲ続ケルト云フコトニ相成ルノデアリマス」というふうに当時の政府委員が、この法律の改正のときの審議の中で述べておるわけでありまして、あくまで警防団の内部で特別に教育訓練を受けた者に従事命令を出すのだというふうにしておるわけでありまして、警防団員全員について従事命令を出すという趣旨ではなかった、かように思います。
○大原委員 これは昭和十三年から十六年のときの大改正のときの議論だと思うのですよ。しかしそれ以降は、あの当時もそうですけれども、国会の議論はほとんど議論らしい議論をしていないのだ。全く総動員令ができるような情勢ですから、ほとんど授権立法ですよ。ですから、その当時そういう議論をしたということは、終わりごろになったら全然適合しない。 それから警防団員は、医療従事者もそうですが、一人一人に本部長である地方長官から従事令書が出ているわけです。また防空従事令書が出ていない者と出ている者というふうに、えり分けることができぬと私は思う、昭和二十年に入ってからの措置において。一人一人従事令書が出ているのですよ。それから隣組とか職場の防空というのは包括的に出ているのです。名簿を出して隊に編成をしておるわけです。そして隣組の防空その他を含めてそうだろうという警察庁の関係の私に対する質疑応答がある。警察関係や消防関係の質疑応答があるのですが、そういう隣組防空とか職場防空というものに対して罰則があって、医療従事者に対して罰則があって、警防団は罰則がないということはないのですよ。その中から防空監視員を出したり、いろいろな勤務をきめてやったわけですから。 それは当時のことをかなり年輩の人はみな知っておるはずですから、一人一人に従事令書が出ていたということと、防空法上の罰則以上のものの適用がないということはない。一年の懲役であるか、半年の懲役であるかということは別にして、警防団に罰則がないということは全然ないですよ、いかがですか。
○高木(玄)政府委員 警防団を規定いたしておりますのは、昭和十四年の警防団令でございますが、この警防団令は勅令でございます。それまでの消防組規則を改正して警防団令をつくったわけでございまして、そこの警防団令によりまして「警防団ハ防空、水火災消防其ノ他ノ警防ニ従事ス」というふうに防空の業務に従事するということが第一条に定められております。そして警防団員につきましては「団長及副団長ハ地方長官、其ノ他ノ団員ハ警察署長之ヲ命免ス」というわけでございまして、警察署長が団員を命じたり免じたりする、こうなっております。そして警防団令そのものには罰則はございません。
○大原委員 そんなことはないですよ。国民義勇隊法だって二年以下の懲役にしておるのですよ。警防団は一体的にやっておるのだけれども、編成がえをしたわけだけれども、警防団に罰則がないということはないですよ。法律の調べ方が足らぬですよ。それはちゃんと権力で拘束しておるのです。がんじがらめになっていますよ。
○齋藤国務大臣 私ちょっと御説明申し上げますが、私の記憶に間違いがなければこういうことでございます。 警防団令ができましたときには、消防組という組織がなくなったわけでございます。これは御承知のとおり。すなわち警防団令というものは、いわゆる組織法でございます。組織勅令でございます。組織をつくるという勅令であります。それが、その組織化された人がどういうことをやったときに罰則になるか、それは防空法できめておるわけなんです。その防空法できめている罰則は——組織に罰則があるはずはありません。これはだから警防団令には罰則がない、私はそのとおりだと思うのです。組織ですから。 そこで、その警防団という組織が、防空行動にどう結びつくか。それはいわゆる防空法に基づいて防空計画をつくるときに、警防団の行動がそこで律せられてくるわけでございます。それは法律的にはそのとおりでございます。そこで律せられるわけで、その律せられる方の罰則があるのですが、その防空法の罰則はどういうときにかかるか。それは地方長官が防空計画の実施として指定を受けた者が罰則を受ける、こういう法の体系になることは当然でございます。それは法の体系として当然のことでございます。防空計画に従事し、そして違反行為があれば罰則を受ける。それは防空法で刑罰があるわけでございます。 そこで、先般来私申し上げているのですが、私はこの警防団を何とか遺家族援護法の中へ取り入れる方法はないか、これは私の発想の出発なんです。そこで、それを何とかしようと思うにはどうすればいいかと考えたのが防空法の第六条。そこで何とかこういう人たちを援護法の中で救済しようとすれば、第六条の規定を活用するきり方法はない。こういう結論なんです。というと「地方長官ハ勅令ノ定ムル所ニ依リ特殊技能ヲ有スル者ヲシテ防毒、救護其ノ他防空ノ実施ニ従事セシムルコトヲ得」というので、従事命令が出たならば、間違いなくその防空法の規定によって救うことができる。そこで、さしあたりどういう者がおるかというと、はっきりしておるのは医療従事者。医療従事者は間違いなく一人ずつ行っているはずでございます。それから、警防団員はそれじゃどうか。警防団員は一括して行っているはずはない。これは法律にそのとおり書いてある。「特殊技能ヲ有スル者ヲシテ」と、者なんです。一人一人に行っている。 そこでどんな者に行っているであろうと、これからは推定になるのですが、幹部要員は指定して行っているはずだ、こう推定したわけなんです。ですから、幹部要員というものがこの指定を受けていれば、私は間違いなく第六条によって救済される、そこまではわかるのです。これは大原先生もそこまでは賛成していただけると思う。ところが、今度、そういう命令なんかはもらってないじゃないか、あの当時。それは戦争のさなかでありますから包括的に、もう警防団員の下のほうは町村で一括して包括的にやっておったのじゃないか、それもこれの中に入れられぬかというのが大原さんの御意見だと思うのです。そうなれば、何もかもみな入っちゃう、こういうことになるわけです。 そこで私の考えたのは、要するに個別的にやるというたてまえではありますが、ですから援護法の中で適用するとなると、基幹要員として指定を受けた者、これは援護法でやります、こういうことになるんですが、その字句を入れたときの法解釈として、包括的にやった者も救済されるような仕組みができぬものであろうかということを、先般来私は大いに悩み悩んでいるという話で実は申し上げておるわけでございます。すなわち第六条に基づき——言うなれば、私もっとはっきり言います。第六条に基づき特殊技能を有する者として防空その他の業務に従事することを指定を受けたる者、こうしておいて、その解釈として何とかならぬかな、こういうところで思い悩んでおるんだということを中村委員や大原委員に、先般来私答えておるのでございまして、まだ私も結論は得ておりません。結論は得ておりませんが、そう思い悩んでおるという私の心境だけをこの前申し上げたわけでございます。 それを大原委員は、包括的なものまでみんな表向き入れろ、こうおっしゃると、第六条の規定からはそういう解釈は出ませんよ。せいぜい第六条から出る解釈は、警防団員のうちの基幹要員として指定を——したかしないかは別ですよ。現実行為はこれは指定し得るのです。ですから、そういうものの指定を受けた者ということでいく以外に道はないのではなかろうか。私はもう当初から私の心境を語っているのですよ。ということをどうか御理解をいただければ、まあやり方は大原先生と多少方法は違うのです。結論的には何とかしたい、こういう心境であることは、非常に同情をもって御理解いただけると思うのでございます。
○大原委員 ただそれは、言うている範囲のことについてはわかっておる。わかっておるが、それも一部分である。つまり警防団とか医療従事者、防空監視員もそうですが、それは防空法上の権利、義務の関係については、権力関係については、あなたのお話のとおりですが、警防団は一人一人に対してやっぱり従事令書が出ているのです。署長という話があったけれども、それは知事の名前で出ておるというふうに私は解釈している。その例もある。医療従事者についてもある。ひな形がここにある。写真がある。だから一人一人に出ているのと、それから防空従事者の扶助令もいつも出されるのですが、罰則を設けているという扶助規定もあるわけです。そこで防空監視員と、第二には警防団員、第三には防空法第六条第一項の規定に基づく地方長官の命令により防空の実施に従事する者、こういうふうにあるわけです。二番目に書いてあるのが警防団員です。 そこで個人個人に従事令書が出ておるのは間違いないのであって、たとえばこのうらはらの関係を見るのには、国民義勇隊の事態が進んでいったあとをずっと初めから見ればわかるのですが、二十年の四月の十三日に、「状勢急迫セル場合ニ応スル国民戦闘組織ニ関スル件」というのがあって「一億皆兵ニ徹シ其ノ総カヲ結集シテ敵撃滅ニ邁進スル為状勢急迫セル場合国民義勇隊ハ左ニ準拠シ之ヲ戦闘組織ニ転移セシム」というのがあるわけです。「一、状勢急迫セハ戦場トナルヘキ地域ノ国民義勇隊ハ軍ノ指揮下ニ入リ夫々郷土ヲ核心トシ防衛、戦闘等ニ任スル戦闘隊二転移スルモノトシ之カ発動ハ軍管区司令官、鎮守府司令長官、警備府司令長官ノ命令ニ依ル 右ノ為兵役法ニ規定スル者以外ノ帝国臣民(概ネ年齢十五歳以上五十五歳以下ノ男子及年齢十七歳以上四十歳以下ノ女子ト予定シ学齢以下ノ子女ヲ有スル母親等不適格者ヲ除ク)モ新タナル兵役義務ニヨリ「兵」トシテ動員シ統帥権下ニ服役セシメ得ル如ク必要ナル法的措置ヲ講ス」こういう閣議決定が四月になされておるわけです。 これは沖繩決戦ということで、本土決戦ですけれども、ですから情勢は非常に変わってきて、何でもできるような万能の軍の指揮下に非戦闘員が参加するようになっているわけです。それを国民義勇隊の組織の点については追跡のしかたが援護局は足らぬけれども、それにしても、この警防団というのは民防空全体のやっぱり中核部隊になっているわけです。隣組やその他に対しましてどんどん指揮するような関係になっていて、そしてバケツリレーで屋根にのぼったりおりたり、はしごをのぼったりおりたり、そういうことをやっていたんです。警防団員が中核になってやっていた。これはまぎれもない事実である。 そういう言うなれば準軍隊的な組織下にあったわけですから、罰則があるないの議論は厚生大臣の話でしませんけれども、そういうことで、言うならば個人個人に命令書が出ておる問題については、これは私はどういう理屈をつけても差別をすることはできないだろう、こういうふうに考えますが、結論としては同じであっても、私の主張に対して御見解を明らかにしてもらいたい。
○齋藤国務大臣 法の解釈として私申し上げますと、個別的な、個人を指定して従事令書を、防空法に基づいて指定を受けた者は当然援護法の中で処理せられるべきものであると私は考えております。この点については、あなたと御意見は同じでございます。 ただ問題は、何らかの指定を受けたかどうか、それは別として、包括的に防空法の中の防空業務に従事せしめられたものをどうするかというのが、そこに多少残るわけでございます。その辺をどういうふうな法解釈でいくか、そこが悩みの種である、こう私は申し上げておるわけでございます。
○大原委員 そこで、防空従事者について、なかんずく従事令書が出ている者につきまして、いままで特に警防団と医療従事者につきましては、救済措置を特別支出金という形で、法律上の措置でとってきたわけですが、もう一回あらためて援護局長のほうから警防団員に対する特別支出金を出した者と、医療従事者に対して出した者の死亡、傷害別の全国の合計をひとつお答えいただきた い。
○高木(玄)政府委員 防空に従事して死傷した警防団員につきましては、昭和四十四年、四十五年の二カ年にわたりまして自治省から特別支出金が出ております。そして傷病警防団員一人につき五万円が出ておりますが、これが四百六十八人、それから死亡警防団員一人につき七万円が出ておりますが、これを受けた者は二千百四十四人でございます。それから防空に従事して死傷した医療従事者に対しましては、昭和四十五年度に厚生省におきまして特別支出金を支給いたしております。傷害特別支出金五万円を受けた方が四名、それから遺族特別支出金七万円を受けた方が百四十七名でございます。
○大原委員 そこで、特別支出金をいろいろな議論の中で一応出したわけでありますが、これによりまして人員はかなり掌握できるわけです。それで、大臣とこれ以上の議論をするつもりはありませんが、警防団員の基幹要員と非基幹要員を差別する、この中でより分けるというようなことは実際上できないと私は思っておる。あなたは特別な命令を受けたとか、あなたはできないとかというようなことはないと私は思う。それはできないと思うのです。その結論だけ、これはあなたに言ってもいかぬから政府委員に……。政府委員が事務を処理するのだから。
○高木(玄)政府委員 警防団員につきまして、基幹団員と普通団員に分けるという方針がとられたことは事実でございますが、今日におきまして基幹団員であったか普通団員であったかを識別することは不可能だと思います。また自治省が出されました、いま言った合計二千六百十二人の方のうち、基幹団員とか普通団員に分けていることはない、全部一体として警防団員として扱っているだろう、かように考えます。
○大原委員 そこで大臣、これはいままで原爆関係で議論してきたわけですが、原爆ということでなしに、焼夷弾と艦砲射撃等みんな入ってくるわけです。ただし沖繩等におきましては、軍の命令で一緒に突入したり、被害を受けたりした人は当然戦闘参加ということで適用になっておりますね。軍属や準軍属の中にもございます。それは事実です。 そこで、いま申し上げました点については、理論上も実際上もいままでの経過から見て、今日ではおそいのですけれども、これは理屈の上からも実際の上からも無視できないことであるから、当然にこれは援護法を修正するという大臣のお話のように修正すべきである、修正して準軍属の中に入れるべきである、こう思います。これを否定する法制上の見解もないし、事実上の見解もないと思うのですが、いかがでしょう。
○齋藤国務大臣 この問題につきましては、先般来お答えいたしておりまするように、法を修正してということまでは私は言っておりません。援護法の適用の中で何とかめんどうを見る方法はないだろうか、見るとすれば、こういう方法があるのではないだろうかということを、率直に私の心境として申し上げておるにとどまっております。これは、中村先生にも申し上げたとおり、心境ということで常に私はやっておるわけでございまして、政府提案の法律を自分で私が修正するなどということはできるものでもございませんから、私は心境を率直に語っておる。これはどうか御理解いただきたいと思います。 何とか援護法で救う道はないだろうか、救おうとすればこういう方法である。ところが、方法というと今度は大原先生と意見の違うのは、個別的な指定はないだろうか——それは気持ちは同じなんだ。そこで、私は、修正ということは申しておりませんが、心境は、何とか入れたい。これはいまでも私の心境は変わりありません。はっきり申し上げます。
○大原委員 齋藤厚生大臣にお情けをかけてもらおうとは思わぬわけだ。これは法律をもってちゃんと権利義務の関係においてきちっとやっておるじゃないか。戦争犠牲者に対する公平な国の措置じゃないか。一自民党の考えではない。一厚生大臣の考えではないじゃないか。そのことを国会で審議したではないか。こういうことを私は言っているのだ。だから、援護法の対象となるという結論において一致したのであるから、援護法の中へ入れるということは当然ではないか、こういうことを言っているのです。あなたのお情けじゃないですよ。 あなたのほうは、この資料だって、政府が戦後隠し、隠してきたのだよ、この閣議決定を。総務長官と官房長官の判があって初めて極秘の文書を出したわけだ、最近になって。しかも閣議決定の日付が間違っておったのだ。いかにそこつに、かつごそごそとやったかということがわかるのだ。二十二日を二十三日と間違っていたのだよ。間違った日の閣議決定を基礎として義勇隊を最初は適用しておった。そこをぼくが指摘したから、すぐ直した。国会の審議で事実が明らかになって、当然のこととして法の公平とか、つまり、国の権力によって戦争に動員したことは間違いないのだから、その法律の理論については法制局が言っているわけですし、事実については質疑応答したわけですから、それで明らかになった以上は、法律を改正すべしということは、当然の理屈じゃないか。そんな当然の理屈について、多数でやったり、それから厚生大臣の一存でやるというようなことじゃないですよ。国会というものはそういうものではないはずだ、国会対政府の関係で議論しているわけですから。そういうことは許せない。いかがですか。
○齋藤国務大臣 私は、先ほど来たびたびお答え申し上げておるように、こういう方々については何とか援護法の適用の中に入れたいということを、あなたの御質問に答えておるわけでございます。法律をつくるということは立法府のお仕事でございますから、それは国会でおきめになることでございます。私は、質問に答えて、何とか援護法の中に入れたいのですということをはっきり申し上げているのです。十分その点は御理解いただけると思うのです。入れるにはどういう方式があるかということまで私は懇切丁寧にお答えをいたしておるつもりでございます。
○大原委員 何回も附帯決議等でやって、法制局の見解を求めながら議論をした。厚生省はなぜ大蔵省に対して、この援護法の改正についての予算要求をしなかったのか。きょうは大蔵省も出席しておるはずであるけれども、大蔵省にそういう予算要求があったかなかったか。要求があったものを抹殺したのであるならば、大蔵省の見解を明らかにせよ。いかがですか。
○高木(玄)政府委員 その関係については、厚生省としては要求しておりませんでした。
○大原委員 なぜ要求しなかったのか。
○高木(玄)政府委員 防空従事者の問題でございますが、実は警防団の関係と防空法との関係を先ほど来私御説明いたしましたが、いろいろ詰めております場合に、いろいろなむずかしい問題にぶつかっておるわけでございます。特に旧防空法の六条二項による従事命令というものが現実に発せられたかどうかという点を調べてまいりますと、どうも当時の戦争下におきましては、そういった従事命令というものを出さずにいろんな強制関係が事実行為として行なわれておったのじゃなかろうか。してみますと、この六条の二項、これが一番警防団とぶつかってくる規定だと思うのでありますが、この六条二項の実態というものが私どもとして十分つかめてないという点に問題があると思います。
○大原委員 なぜかといえば、これは非戦闘員を、民間人を戦闘に権力で、軍が背景で巻き込んだ。そういうことが占領軍にわかると戦犯として追及を受けるからというので、全部命令を出して資料を抹殺して、そしてこの勅令を、閣議決定を封印したのだよ。だから、この議論はタブーとして、占領中はもちろん、惰性としてやってこなかったというだけのものであって、こんな義勇隊の閣議決定が背景となってむちゃくちゃなことをやっている、そういう事態の中において、そんななまやさしいものではなかったはずですよ。だから、そういう点については、大蔵省は先般の私どもの質疑応答で理解をしております、そのことはよくわかります、こういうことを答弁した。大蔵省は理解しているかどうか、いかがですか。
○田川委員長 ちょっと速記をとめてください。 〔速記中止〕
○田川委員長 速記を始めてください。
○大原委員 この問題はいままでの経過もあり、社労の委員会の決議もあることですから、国会の意思もはっきりしておることですから、いままでの質疑応答を踏まえて、理事会において責任ある協議をしてもらいたい。私は国会議員の審議権で議論をしておるわけですから、こういうままで過ごすわけにはいかない。ただし、きょうのこの事項については、私は保留いたしておきます。この問題については保留いたしておきますから、委員長から見解を述べてください。
○田川委員長 ただいまの大原君の御発言のとおりに、理事会でこの問題の話し合いをいたして決着をいたしたいと思います。
○大原委員 そこで、これはもう一つ置き忘れられた問題ですが、これは広島県竹原市忠海町の沖にある大久野島の毒ガスの問題です。この毒ガス島は陸軍の工場であったわけですが、戦争中は大久野島というのを地図から抹消したわけです。軍の地図からも、一般の地図からも抹消したわけです。これは毒ガス製造の場所ですから抹消した。 そこで、大蔵省の共済関係、旧令共済の関係、軍属の関係等も御出席をいただいておるわけですが、その工場で働いていた職員、労働者はどのような雇用関係の者、身分関係の者であったか、この点をひとつまずお答えいただきたい。
○鈴木説明員 旧陸軍兵器廠でございます忠海の兵器製造所に従事いたしました旧陸軍共済組合の組合員に対しましては、その業務を共済組合連合会が承継しております関係上、これに対する救済措置については私のほうで所掌いたしておりますが、従事いたしておりました身分関係の内容という点については、必ずしも私明確にお答えできる内容を承知しておりません。以上のとおりでございます。
○大原委員 陸軍が直接経営しておった大久野島の毒ガス工場は、そこで働いている者は原則としてこれは軍属です。軍属ですから、軍属に対する措置はこれはあるはずです。そこで、援護局の所管の総動員法その他の関係のそういう身分、命令で働いていた人があるはずであるが、その実態についてお答えをいただきます。
○高木(玄)政府委員 昭和十九年の八月に学徒勤労令が出されまして、以後動員学徒というのがいろいろな工場等におきまして、兵器の生産に従事いたしたりしたのでありますが、この大久野島におきましては、ちょうど昭和十九年の十一月ころから急遽本格的な風船爆弾の製造が行なわれまして、大体昭和十九年の十一月から昭和二十年の二月ごろまでこの風船爆弾の生産が行なわれたわけであります。 おおむねその時期と軌を一にいたしまして、まず昭和十九年の十月一日から昭和二十年の二月二十八日まで吉名国民学校の生徒七十二名が大久野島に行っております。それから昭和十九年十一月二十日から終戦時まで竹原高等女学校の生徒五十一名、それから昭和十九年十二月から昭和二十年二月二十八日まで三津高等女学校の生徒五十二名、それから昭和十九年十一月一日から昭和二十年二月二十八日まで瀬戸田高等女学校の生徒百六名、それから昭和十九年十二月一日から昭和二十年三月二日まで大乗国民学校の生徒二十四名、それから昭和十九年十一月十五日から昭和二十年二月二十八日まで忠海西国民学校の生徒九十三名、それから昭和十九年十一月二十日から昭和二十年二月二十八日まで幸崎国民学校の生徒四十九名。以上が島に入りまして、風船爆弾の製造に主として当たっておったというふうに私どもの調査ではなっております。
○大原委員 大久野島は、これは大蔵省の関係ももちろんあるわけですけれども、大蔵省の関係は旧令共済で、旧軍のいわゆる工場等の軍属のあと始末をやっているわけですが、それに対しましては不満足ではあるが一応措置をとっておって、なお課題になっている問題があるわけです。 そこで問題は、総動員法に基づく動員学徒等がここに動員をされておったということでしょう。それで風船爆弾をつくっておったので、毒ガスじゃない、こういうことをのどから手が出るくらい言いたいというような援護局長の答弁であるように私は推察をいたすわけですが、それは一体だれから聞きましたか。
○高木(玄)政府委員 この大久野島には東京第二陸軍造兵廠忠海製造所というのが昭和二年に置かれまして、昭和四年ごろから毒ガスの製造を行なっていた、そして製造が本格的に行なわれたのが昭和十二年から十六年ごろ、この辺が最盛期だったようでございます。そして昭和十九年七月には毒ガスの製造は中止されております。これは戦争当時のこの忠海製造所の所長であります山中さんとか、当時の工務係長であった向井さん、そういった人たちの証言によりますと、十九年七月には毒ガスの製造は一切中止した、こういうふうに聞いております。
○大原委員 だから、できるだけ残酷なことや危険なことはやっておりませんということを山中所長は言うだろう。それは言うだろう。ただ問題は、あの島全体がかなり広い島で、いま国民休暇村になっておりますが、これは木は全部枯れておったし、中に入って働いていた人は工場で直接働こうが周辺におろうが、ホスゲンやイペリット等の毒ガスの影響を受けておる。こういうことはいろいろと事実が明らかになっておる。初めはたいしたことないと言っておったけれども、だんだん明らかになってきた。そこで十九年七月以降中止した、こういうふうに言われておるわけですが、しかし貯蔵とか移動とかという作業は残っておったということもあるし、またやめたという、中止したということ自体が疑わしいという議論もある。いろいろなものをつくっておったから、そういう議論もある。あるいは軽度のくしゃみ性の毒ガス等をつくっておったという話もある。 しかし、いずれにしても、私はそのことについては別の機会に議論をいたしますが、この忠海支所の所長の田中元中佐が責任者でありますが、元軍属の場合には直接認定患者でなくても、原爆のように認定患者でなくても保健手帳をもらっている。医療については気管支を中心とする治療がで出てるような手帳をもらっているわけです。それは十九年の七月以降であっても、その島に入った人については健康管理を要するということでもらっておるわけです。しかし動員学徒で入った人が、かなり後遺症があったというふうに自覚症状があり、近くの人も言っているけれども、これは放置をされておるわけですね。 法律的に言うならば、援護法の対象に、動員学徒であるから準軍属としての処遇を受けるはずである。その点について不公平があるのは、一般の軍属とあるいは徴用工、徴用工は総動員法で徴用されるけれども、本工として採用されるから、総動員法関係でも軍属になっておるわけですが、いまの話の動員学徒等においては差別があるということの問題については、どういうふうに考えておるか。
○高木(玄)政府委員 ただいま先生仰せられましたとおり、動員学徒は援護法上は準軍属として扱われております。したがいまして、この動員学徒が動員学徒としての業務に島で従事しているに際しまして、その業務の遂行に関連して障害を受けた、あるいは死亡したという場合には、当然この遺族援護法によりまして障害年金なり、遺族の方には遺族年金が出るわけでございます。 昨年の暮れに、この動員学徒でありました七名の方から、県を通じまして援護局のほうに障害年金の申請がただいま参っております。そこで、ただいま援護局におきまして、その内容を慎重に検討しておるところでございまして、先ほど申しましたように、当時大久野島に入った動員学徒としての業務との関連においての障害であるということがはっきりすれば障害年金を支給する、こういうことになるわけでございます。
○大原委員 大久野島で働いたことによって現在にもし後遺症がある、こういうことだとすれば、あるいはその経過の中で死没をしたということが明確になれば、つまり因果関係が資料によって立証されるならば、それに対しては援護法の適用をする、こういうことですね。これは非常にもっともらしい答弁であります。だけれども、これは裏返してみると、因果関係が明確でなければやらぬ、こういうことですから、何もやらぬことにもなる。これは非常にりこうな答弁であります。 そこで、審査の経過についてお聞きしたいのでありますが、そういう因果関係が立証されるような方がおりましたか。
○高木(玄)政府委員 昨年の暮れに出てまいったばかりでございますので、ただいまこれについて下調査を実施いたしております。そのためには、当時の動員学徒の勤労の状況、それから当時の大久野島の内部の状況等を調べる必要がございますので、職員を広島に派遣いたしまして、そういった関係の方々のいろいろのお話を聞いたり何かしまして、ただいま慎重に調査をいたしておるわけであります。 いずれにいたしましても、これに障害年金を支給するという態度をとりました場合には、援護審査会にかけて障害年金支給というふうな決定をいたすわけでございます。
○大原委員 毒ガスというそういうものによる汚染という特殊事情があるわけです。そこで年数がたちますと、後遺症としてはひどくなっておる人もあるし、現象としては違った現象になる人もあるわけです。実際には、いまになってこれを対象として取り上げるということは、おそいわけです。これもやっぱり防空法の問題ではないが、毒ガスの工場ということで、できるだけ事態を小さくしよう、悪いことをしていない、こういうことを立証するために、資料を抹殺したり過小評価をしたりしているわけです。時間がたつと、これは因果関係の立証は非常にむずかしいわけですよ。ましてや死没者その他の問題についてもむずかしいわけです。現象としては、医師の診断というものは、その点については直接間接に他の病気になっている場合が多いわけです。 しかし、いずれにしても、後遺症として疑わしい場合においては、その人々に対してはやはり援護法の適用をするという観点で、いまになってやるわけですから、そういう観点でこの適用をやるべきではないか、こう思いますが、いかがでしょう。
○高木(玄)政府委員 先生のただいまの御趣旨を体しまして検討してまいりたいと思います。
○大原委員 そこで問題が残るのはどういうことかといいますと、徴用工は軍属になっておりますから、軍属等につきましては健康管理のための手帳を一応全部出しておる。しかし、援護局の管轄にある動員学徒については、同じ場所でいたいけな少年少女たちが働きましても、これはないということになりますと、いままで一方の軍属のほうで旧令共済のほうで改善措置をとったことと、この間に差ができるわけです。援護法そのものの適用の問題とは別に差ができるわけです。 だから、差ができるということは、そういうことで意思能力のない未成年者等を含めて動員をいたしました、そういう観点からいたしましても、あるいは援護法を審議しておる精神からいいましても、健康管理すらできないような健康手帳であったならばいけないのではないか、そういうことについては一体どこが責任を持ってやるのか、旧令共済を管轄している大蔵省の給与課がやるのか、残務整理をやっているのがやるのか、この二つは一体だけれども、あるいは厚生省の援護局がやるのか。援護法とは別の分野における毒ガスの後遺症という問題に対する健康管理の問題については、一体どこが責任をもって処理をするのか、この点につきましてひとつ見解をお聞きいたします。
○高木(玄)政府委員 現在のところ動員学徒に対します健康診断はどういうふうになっておるかと申しますと、広島県におきまして、これらの方々につきまして予算措置を講じまして、広島大学の医学部に健康診断を委託しております。私どもはその健康診断の結果を県のほうから知らせていただいておる、こういう状況でございます。
○大原委員 それでは、動員学徒で、総動員法関係、援護法の関係のそういう対象者に対しましても、そこで働いておる者は片方は、軍属や徴用工等は健康手帳を持っているわけですが、こっちでも健康手帳を出す、そういうことですか。
○高木(玄)政府委員 動員学徒の方々に対しては健康手帳は出ておりませんが、先ほど申しましたように、広島県が広島大学医学部に委託して、健康診断を定期的に実施している、こういう状況にございます。
○大原委員 健康診断だけでなしに、気管支関係の病気については毒ガスにたくさん接触しておるということで、片方は健康手帳が出ておる。原爆のような関係のものは健康手帳が出ておるわけです。症状があらわれなくても原爆の場合だったら、範囲が広いところで自己負担分について出しておる。これは不徹底なんですけれども出しておる。そういう類似のことが軍属については旧令共済の関係、大蔵省の給与課の関係でなされておるわけですが、この問題についていろいろ議論があったのですが、一応なされておる。動員学徒のほうについてはなされていない。なぜかというと、軍の関係は旧令共済の関係ではないと言って逃げるわけですね。それは不公平じゃないですか。 意思能力のない未成年者を含めて動員学徒で動員しておきながら、大久野島の毒ガス島で働かせておきながら、健康管理をしないということはいけないのではないか、不公平じゃないか、一体どこが処置をするのか、厚生省としては処理できないから県にやらせる、県にやらせる場合には県で支出があった場合は国が見る、いろいろあると思うけれども、これはほうっておくという理由はないではないか、援護法に関係して重要な問題、数は少ないけれども重要な問題、こう思いますが、いかがでしょう。
○高木(玄)政府委員 援護法そのものにそういった健康手帳を出す、健康管理をやるという制度がございませんので、結局現在のところ県にお願いしておるというのが動員学徒についての実情でございます。
○大原委員 軍がやったのですよ、そのあと始末を大蔵省給与課は——私どもは法律をつくりなさいと言った、そうしますと、原爆被爆者特別措置法という名前の法律をつくるのならまだいいでしょうが、しかし大久野島の毒ガス、これは神奈川県にもあるのですが、大久野島の後遺症等、被害者に対する健康管理に対する法律をつくるというのは、かっこうが悪いというわけだ、日本は毒ガスをつくっておったということを法律で書くようなのはかっこうが悪いというわけで、行政措置でやっておるわけだ。だから、それは国の責任であるから、県がやっておるけれども、国がカバーすべきじゃないか、こういう簡単な議論ですよ。 これは厚生大臣、聞いておってどうですか、ほうっておくのはあかぬでしょう。
○齋藤国務大臣 先ほど来のお話、十分承っておりますが、総理府のほうに各省連絡協議会等もございますので、そちらのほうで十分慎重に検討いたします。
○大原委員 慎重に検討すると言っているが、これはぜひやってくださいよ。
○齋藤国務大臣 慎重に検討いたします。
○大原委員 これはおかしいんですよ、やはり法の盲点ですよ。確かに盲点です。だから十九年七月にやめておったといっても、そのあとの人も運搬その他のことで空気接触その他する機会が多いわけですから、毒ガス島で働いておろそういう人々については、軍属については健康手帳を出したわけです。だから青少年、動員学徒に出さないというのはおかしい、こういう議論です。しかも、大蔵省のほうは金を持っていて財政を握っているから、そういうことをやったわけではないのですけれども、原爆をにらみながら行政措置をやった。だから、それを動員学徒についてはやるという責任はないという、大蔵省や旧令共済のやるなわ張りでもない、権限もないというのですが、しかし、毒ガスをつくっておったのは国であるから、やっても何もふしぎがないと思うのですよ。 だから、厚生大臣もひとつよく大蔵大臣を説得して手続上、そこへ予算を出しておいて、それを包んでやればいいわけですから、そういうことも含めて国務大臣としてこれを前向きで善処してもらいたい、よろしゅうございますか。
○齋藤国務大臣 先ほどもお答え申し上げましたように、この問題については、連絡協議会がございますから、そちらのほうでいろいろな問題を含めて十分慎重に検討いたします。
○大原委員 それで、あとの質問者もあるわけですが、前の防空法の関係、国民義勇隊の関係に戻りますけれども、戦争犠牲者については公平でなければいかぬですよ。しかし焼夷弾が落ちて、財産のところまでいけということはいまは言わないですよ。みんなが、ある意味であちらこちらに全国民が行っているわけですから。 しかし、事人命にかかわる問題については、援護に遺憾なきを期するということは、なお二十数年たった今日でも、国会としては、政治の上においては大切なことであるというふうに私は思いますので、きょうはそういう問題点の発端となるべき問題について質問しましたけれども、この点はひとつそれらの質疑を踏まえて、国民の立場から不公平がないように善処されるように強く要望をいたしまして、保留分を残して、私の質問を終わります。
○田川委員長 田口一男君。
○田口委員 質問に入る前に、私はこの問題については初めてでありますから、基本的な問題二つだけ大臣にお聞きをしたいのです。 といいますのは、この法案の審議にあたって、実は率直に申し上げれば、たいへん私複雑な気持ちを持っておるわけです。といいますのは、一つには私自身の経験もあるのですが、私ごとで恐縮なんですが、家内のおやじが戦死をしておる。それからあとでまた申し上げたいのですが、ちょうどこの法律が施行された前後に県の職員としてケースワーカーを五、六年やってまいりました。そういった実態、経験からも、なお複雑であるし、さいぜんからいろいろと議論をされておりますように、この法律ができてから二十年たつ今日、なお十分でない、援護が公平にいっていないのではないかという意見が私の地元でもたいへん強く出ております。そういったことや、さらにまた先ほども御意見がありましたように、いわゆる南方方面に遺骨が放置をされたままになっている。さらに別な観点から、内地における空襲などによって家財、人命を失ったその援護についてどうしてくれるのだという意見も強く出ておることも御承知のとおりであります。 こういったように、戦争が終わってから、もうかれこれ三十年になろうとしておる今日、いまなお十分な援護措置がなされていないという反面、これもまた御承知のように、四次防であるとかなんとかいって、たいへんきなくさい話がまたぞろ出てきておる。こういった状態を私考えますと、たいへん複雑な気持ちを持たざるを得ないのですが、私は、そういったことを踏まえて、近い将来この法律というものがいい意味で必要がなくなるということが望ましいのではないか。そういう意味合いから、いま大原先生からもお話がありましたように、ひとつ十分この法律の内容を充実したものにして、近い将来にいい意味での法律が必要でない事態を迎えるべきだ、このように私自身考えておるのですが、そういう気持ちについて、まず厚生大臣の所信といいますか、先ほど言われたような心境というものを、まずお聞かせをいただきたいと思います。
○齋藤国務大臣 戦争が済んで、すでにだいぶ歳月を経過しておるわけであります。そうした中にあって、私どもは、戦争の犠牲者に対する援護というものについては、できるだけあたたかい手を差し伸べるべきものである、こういう考えをもって今日まで来ております。日本の今日の繁栄、平和憲法を国民が選択をした、そういう背景には多くの犠牲者がおることを私どもは忘れてはならない。したがって、犠牲者に対しましては、できるだけの援護をしなければならないという考えで今日まで来まして、こうした法律は、国家に対して特別の関係のあった方々についての法律でございますが、できるだけ援護の手を厚くするということで努力をいたしておるわけでございます。 そういう中において、基本的な線は相当整備されてまいりました。しかしながら、遺族の中にはいろいろなこまかい問題がたくさんございます。個人の生活において、その場合、場合によって非常に違う。そういうものをできるだけ、一つでも二つでも拾ってめんどうを見るようにしなければならない、こういうふうな考え方で努力をいたしておるわけでございまして、そういう意味から、毎年いろんな未処遇の問題、あるいは特別給付の問題あるいはいろんな年金の問題、こういう問題を改善をしておるわけでございます。ある意味からいえば、一日も早くこういう法律がなくても済むような社会になってもらいたいという気持ちは私もそう思います。しかし、まだまだ解決されていない未解決の問題がたくさんある。そういう問題について、私は、一つ一つ拾っていくという以外に道はないのではないかということで努力をいたしておるわけでございます。 いずれにせよ、国家繁栄の陰にある犠牲者の方々については、これで十分だということはなかなか言えないと思います。したがって、今後一そうそういう面に努力をしていきたい、こういうふうに考えておる次第でございます。
○田口委員 よくわかりました。 そこで、いま援護ということばが出てきたのですが、別にことばじりをとらえる意味じゃありませんが、社会援護という考え方について、先ほど申し上げた自分の経験から感じておることをずばり言って、その辺の定義といいますか、扱い方をひとつお聞きをしたいと思うのです。 先ほどケースワーカーの経験を持っておると言ったのですが、ちょうど昭和二十六年、二十七年、それから二十八、二十九、三十年ごろまでの間に私が扱った被保護世帯、生活保護ですね、大体八十二、三世帯あったのですが、それを大きく分けますと、三つの世帯構成、それから生活保護を受ける原因というものが出てくると思います。 〔委員長退席、伊東委員長代理着席〕 その第一はいうところの母子世帯、それから第二は老人世帯、第三は、いまもそういうことばがあるかどうか知りませんが、医療の単給から始まって併給という状態になってしまう。 その第三の問題は別といたしまして、第一の母子世帯の生活保護を開始する原因をさらに調べてみますと、一つには、その当時はこういう援護法がありませんでしたから、すべて生活保護法で包括しておって、夫が戦死をする、子供が戦死をする、こういったことで収入の道がないから、結局生活保護を開始せざるを得ない。こういう世帯につきましては、母子世帯の中でも一つの類型として言えると思うのです。 それからもう一つの母子世帯は、引き揚げてきて、その途中で夫がなくなったとか、それから戦争当時ありましたように、疎開ということで強制疎開をさせられて、おやじさんが軍需工場なりその他で都会に残る。妻と子供が縁故をたずねていなかに疎開をする。そのおやじさんが空襲その他でやられて、身寄りといっても、あの当時ですから、そうそう生活が十分でない。結局生活保護の開始をする。こういう母子世帯の二つに、大別すると分けられると思います。 さらに、第二の老人世帯の場合にも、いま言いましたように、働き手が戦没したとか病死したとか、いろいろありますけれども、老人問題は別といたしまして、この母子世帯を考えますと、いまの時代と多少年齢的に違いますけれども、総領の十五は世の谷間、末の十五は世の盛りといった言い方があるのですが、いずれも子供が当時の小学校六年からせいぜい中学校一、二年、たいへん苦しい状態であったことは大臣も御理解できると思います。 そういう状態の中で援護法ができて、昭和二十七年、それから二十八年に、これはたいへん悪いことばなんですが、それを一つの理由にして生活保護をどんどん切っていく、廃止をする。このことはあとでも申し上げますけれども、そういう状態の中で、母子世帯のうちの遺家族については、この援護法ができたことによって生活保護の分を切ってしまう。自立をするということばを使うのですが、一応被保護世帯ではなくなる。ところが一方の母子世帯の場合には、そういう援護の措置がありませんから、依然として残るわけです。母子寮に入っておる。そういう母子世帯が自立する、保護を廃止するようになるのは、その子供たちが中学校を卒業して都会に働きに行って、その収入を認定して保護を廃止する。そういう以外に自立の方法というものはない。 この二つの例だけを考えてみますと、今日、援護法ができてから二十年たつのですが、援護法だけではなくて、いろいろな社会援護の法制が、中身は別として整備されたことは、私も承知いたしております。老人には老人福祉法、心身障害者にはそれぞれの福祉法なり精薄福祉法、また母子世帯については母子保健法であるとか、いろいろな法律ができております。 こういう社会援護という法制が、中身は別として一応整備された今日、この遺家族援護法というものは一体社会援護という範疇に入るのかどうか。むしろ社会保障の政策の一環として社会援護ということを考えるならば、この遺家族援護法というものはどういう位置を占めるのか。社会援護という一つなのか。それとも戦後処理の一連の法規として、この法律が独立して別に位置づけられておるのか。こういう点が、自分自身の経験からいっても、また今日いろいろな意見を聞く中で、どうも頭の中でわからない。その辺を、ただことばの上で整理をすればすっきりするというものじゃありませんから、一応そういった法体系の位置づけを、社会援護なのか、それとも戦後処理の一環の法規なのか、こういう点についてどのように見ておられるのか、その辺のところをひとつお聞きをしたいと思います。
○齋藤国務大臣 お話のように、戦後の荒廃した中にあって非常に大きな問題でありましたのは、母子問題であったわけでございます。特にそれが、私も当時役所におりました関係上承知しておりますが、戦争によって夫を失った母子の方々が最初一番強く浮かび上がってまいりましたし、それから、お述べになりましたように引き揚げられた方々、そういう方面の問題が浮かび上がってきた。すなわち、戦争の犠牲者ともいうべき戦争未亡人ということから始まってきたわけでございます。当時は、先生も御承知のように占領軍がおりました関係上、軍人、軍属を特別に扱うことはよろしくない、それはすべて一般社会保障の中でやるべきである、こういったふうな考え方から、そういうことは援護することはできなかったわけでございますが、その後、要するに戦争の犠牲者のうち国と何らかの特別な権力関係にあった者は国家賠償的な考え方においてめんどうを見るべきである、こういう考えになり、その他の原因による母子、老人問題等については一般社会保障の中でいくべきである。現在においては、援護については二つの体系が存在すると私は思うのです。国家賠償的な体系と、一般社会保障的な体系と、二つあるわけでございます。 もとより一般社会保障体制が整備されてくれば、国家賠償的なものもカバーできるかもしれません。しかしながら、諸外国どの国においても大体の様子を見ますと、やはり国家賠償的な援護の体系というものは行なっており、そしてまた残っておると思います。特に日本においては、戦争のいろいろな犠牲者が戦後二十数年たちまして、あの当時若かった未亡人の方々も老齢に達し、老境に入り、寂蓼の感にたえない気持ちがあるわけでございますから、私はいまの段階においてこうした国家賠償的なものをやめるということはできない。いなむしろ、老境にある人々の寂蓼を慰める意味においても、私は一つ一つ拾って援護をしていかなければならぬと思います。思いますが、やはり大きな国の政策の一つとして考えてみるときには、社会保障の内容の充実、これに私は全力を尽くしていくべきだと考えております。 たとえば生活保護を考えてみましても、戦争の荒廃したあの中においては、やはりいわゆる扶助基準の算定等につきましても、マーケットバスケット方式を採用いたしました。その後はエンゲル係数を基礎とした、それから最近においては、通常の一般国民の消費生活というものを頭に置くようになってきた、こういうわけで、扶助基準一つとっても基本的な構想というものは、やはり私は前向きに進んできておると思います。 ですから、私としては国庫賠償的な援護、これはやはり捨てるわけにいかない。と同時に、いなむしろそれ以上に、一般的な社会保障、これの充実のためには、いま以上に一般の国民の消費生活の水準に近づけるように、さらに一そうの努力をしていかなければならないのじゃないか、こう私は考えておるわけでございまして、今後ともそうした社会保障といいますか、一般人としての取り扱いということをさらに一そう強化していく、これは必要であろう、かように考えておるものでございます。
○田口委員 私は、いまここで社会援護ということについての法律論といいますか、そういったことについて議論をする気持ちは持っておりません。いま大臣おっしゃったように、一般的な社会保障政策というものを中身をもっと濃くしていく、このためにお互いに大いに努力をしなければならぬということは論をまたないと思うのですが、そういう意味合いの中で、いまいったように国との関係でこういう遺家族、それから準軍属、いろいろな方にまで範囲を及ぼしていきながら援護を強めていく、そういう気持ちはわかるわけです。 そこで、今度はやや具体的な問題に入りたいと思うのですが、今回再度交付をされます特別給付金というものの性格について、私はこれはけしからぬとかどうとかということじゃありませんから、そういう意味でお聞きをいただきたいのですが、当初昭和三十八年ですか、十万、二十万出された、あの特別給付金の制度については、私はこれを肯定をいたします、金額ということは別にしてですよ。 こういう話があったわけですね。先ほど申し上げたように、生活保護の廃止をする。一片の通知じゃだめですから、その前月にそういった母子世帯を訪問をするわけです。おたくは今度援護法の適用になって年金をもらい——当時収入の認定には給付金が入りませんでしたけれども、そういったものが入ってくるのですから、生活保護を来月から切りますよ。そうすると、その戦争未亡人という言い方はおかしいですが、それらの方々が私に言うには、あまり薄情じゃないか、おやじが生きておったら生活保護なんか受ける必要はない、それが無理やり召集をされて戦死をしてしまったから生活保護を受ける。その戦死をした者についてこういうものが来たんだから、生活保護と給付金とは別じゃないか。それで生活保護を切るなら、死んだおやじを返せということを、私は行く先々でそういった世帯の方に言われた経験を実は持っております。 そういう意味合いからいえば、この四十七年に受けた大臣の私的審議会の給付金に対する意見、そこでも述べておりますけれども、こういった方々に対する精神的な慰謝料、慰謝料といえばおかしいんですが、そういう気持ちでの給付金を出したということについては、私は常識的にうなずけます。うなずけるんですが、一番初めの大臣のお気持ちの中にも、その延長だろうと思うんですが、さらに再度給付金を出すということと、それから一般的な社会保障をもっと充実をしていくという、そういう施行目的、その辺を考えると、三十八年に一回出し、十年たった今日もう二回出すということについて、この審議会にも一部少数意見かどうか知りませんが、意見が述べられておるように、やはりすっきりしないものがあるんじゃないか。 だから私は、これはやめておけというところまではなかなか言い切れぬのですが、そういう気持ちがある反面、今度またそれが増額になって国債が交付をされるのですが、新しく認定になった方についてはまた二十万ですね。三十八年に交付したと同じ金額の国債を交付をするということになると、この審議会がいっておるように、物価がだんだん上がってきた今日の情勢に合わないから、従来の二十万を六十万にするんだ、こういう増額の気持ちは、それを読んだ限りではわかるんですけれども、新たに交付を受ける者について三十八年と同じ金額というのは、ちょっとその辺矛盾があるんじゃないか、出すということを前提にしていった場合。じゃ三十八年には二十万であったけれども、当時の経済情勢がそうであったから二十万にしたけれども、今回新しく認定をして国債を交付するには、いまの経済情勢にふさわしいように六十万にしましょう、それはいいと思うんです。その辺の律し方といいますか、割り切り方をどういうふうに厚生省のほうではやられたのか、そこのところをお伺いしたいと思います。
○齋藤国務大臣 特別給付金についてのお尋ねにお答えいたしますが、実はこの制度をいまから十年前に私ども考えましたときには、戦争で夫をなくされた方、そういう妻の座に対する一つの敬意と申しますか、感謝といいますか、慰謝と申しますか、子供をなくした父母に対する慰謝、そういったふうな気持ちを何とか法体系の中であらわす方法がないだろうかということで議論が出たわけでございます。 そこで、こういうふうな特別給付金というやり方がいいのか、あるいは扶助料等その他について特別なかさ上げのやり方がどうであろうか、いろいろ議論が実はあったのです。そしてさらに十年という期限で切るのがいいのかどうか、これも一つ問題だろう。こういうことは期限なんかを切らないでずっとやったらどうだというような意見なんかがありましたが、やはりこの問題については一応十年ということで切ってみて、そのときの時点において、やはり遺族の方が喜んでいただける方式でないと意味をなしません。そういうようなことで、十年たったときにもう一回考えてみようじゃないか。恩給扶助料のかさ上げという形でいったほうがいいのか、年金という形でいったほうがいいのか、あるいはこういうような交付公債という形でいったほうがいいのか、あるいは十年たったそのときに、ひとつ考えてみようではないかということで、実はこの制度をつくるときに初めから再延長はしないというふうな考え方ではなかったわけでございます。 したがって、来年になると、もうそろそろ十年になる。遺族の方々の気持ちはどうだろうか、やはり年金という形にしてしまったらどうだろうかということも、実は昨年意見があったわけです。あるいはまたこのまま金額を改定をして再延長するやり方もいいかなということも考えました。しかし、役所側がどちらにしようということをいろいろきめるのもどうであろうか。やはり遺家族の方々の御意見も聞いてみたらいいだろう、こういったような意味、それから専門学識経験者の方の御意見も聞いてみよう、こういうことで昨年、厚生省に懇談会をつくって御意見を聞いて再延長しよう、こういうことになったわけでございます。 したがって、当初から十年で打ち切るという考えはありませんでした。率直に申しますと十年で打ち切るんだという考え方はなかった。いな、むしろ年金という形でいったほうがいいのか、こういう交付公債という形でいったほうがいいのか、その辺でもう一回意見を聞くとかしないと——さしあたり十年刻みの特別交付金という制度にしようということになったわけでございまして、そのいきさつなり、私どもがその当時やりました気持ちをどうか御理解いただきたいと思うのでございます。 そこで、最初やった方々の金額が上がるのだから、それじゃ今度拡大された者についてもやったらどうだ。これは私、一つの御意見だと思います。しかし、この問題はすでに御承知のように交付公債として二十万なら二十万というものを差し上げているわけですから、それを今度は増額するということになると、また別の交付公債を発行するということにもなるわけでありましょう。同時にまた考えようによっては、いままで二十万円、十年でやってこられた方は、何だ、私らだって去年あたり物価が上がっているじゃないか。それを十年間二十万ということでやってきたじゃないかという意見が出てもいけない。そこで、そういう方々については、先に差し上げた交付公債の額で一応やってみて、そしてまた期間が切れたその時点においてどういうふうにするか、またその時点において関係者の方々のお気持ちを承り、金額も考えてみたらどうか、延長するかどうか。さらにまた年金という形でいったほうがいいのか、金額をどうすればいいのか、そうしたお気の毒な方々のお気持ちを十分考えて、その時点において考えてみようではないか、こういうふうなことにいたしたわけであることをひとつ御了承願っておきたいと思います。
○田口委員 この特別給付金の問題はいまもお話がございましたように、言うなれば、いわく言いがたしということはあると思うのですね。その辺は私も理解できます。しかし、三十八年に当時の交付公債二十万もらった。それから今回新しく範囲が拡大された。三十八年四月一日以降に死亡された方もまた二十万。私は下世話な話をするのですが、当時二十万の交付公債をもらって毎年二万円ずつ利札を郵便局に行ってもらってくるわけですね。まあ私の女房のおふくろなんかは、いい小づかいという意味で、その当時は二十万円という金額ですから年に四回ですか、ところが十年たって物価ということを考えたときに、第一回の利札の二万円の金額と最終の十年目の二万円の利札とは、二万円には違いないけれども、金の値打ちからいったら一万円くらいしかない。これは残念ながら事実なんですね。 ですから、いま言われたように、年金という額で今回四十六年、四十七年の公務員のベースアップ二三・四%を導入するというそういう考え方が一方であることは認めますけれども、いわく言いがたしの特別給付金ですから、すっきりしないと思うのですが、今度の六十万の交付公債をもらった場合に、いまの六万円は六万円そのままにして受け取れるのですが、十年たった五十八年の六万円というのは三万円ですね。そうすると、新しく認定された二十万の方の利札二万円というものは、同じ率で減価していくのですから、その辺は一緒じゃないかと言われるかもしれませんけれども、やはり新しく認定された——認定されなかった理由というのは法の不備によって認定されなかった、はっきりいえば。それならば、新しくスタートする交付公債についても、二度目の六十万と同じにしてもいいじゃないかという気持ちをわかってもらえると思うのです。 一方で恩給にはスライドをやった。これもいいじゃないかという理屈もある。しかし現実に交付公債をもらう側の人は、毎年毎年もらって、それが小づかいになり、若干家計の補助になる。新しく認定された者は前例により二十万。どうもその辺のすっきりしないことを解消するためには、国債の制度からいって、そう物価の状態に見合って利札の六万円を十万円にしようというのはむずかしいでしょうけれども、そういうことが何らかの方法で考えられないのか。この辺、くどいようですが、もう一ぺんお尋ねしたいと思うのです。 〔伊東委員長代理退席、委員長着席〕
○齋藤国務大臣 私は田口委員のお気持ちほんとうにわかります。そのとおりだろうと思うのです。十年前の二十万円と今日の二十万円とだいぶ違います。しかし、この制度はむしろ一時金のような公債だ、こういうふうにお考えいただきたいと私は思うのです。一時的に十年間これで慰謝と申しますか、妻の座に対する感謝料として受け取っていただきたいということなんですね。 そういう気持ちで実は出発しておるわけでございまして、一時金的な性格であるといったような意味合いもあります。そういうふうなことで、私はお気持ちとしてはそのとおりだと思うのです。しかし、そういう方々もありますが、それじゃいままでもらっておった方々についても、十年間すっかり変わっておるわけですから、物価なり所得なり全部三倍以上、恩給だって三倍もふえている、こういう時点でございますから、私はそういうことは免れないと思います。しかし気持ちは十分理解いたしております。
○田口委員 そういう問題は理解をしていただくということだけでは済まないのですが、じゃ、今回範囲拡大によって二十万の交付公債を受ける方法について、二十万という金額をひとつ検討してもらいたいという要望をして、次の問題に移りたいと思います。 さっき少し話をいたしましたが、母子世帯のうちの第二の分類、おやじが空襲でやられた、それから引き揚げの途中に死んだ、こういった母子世帯を救う方法がないか。実は先ほど大原先生のお話にあったように義勇軍の問題、防空法の問題など、いろいろその辺に出てくると思うのです。私はこの問題については深く入りません。 ただ、そういった経験を通して厚生省できょう実ははっきり約束してもらいたいと思うのですが、最近各地で、昭和二十年八月までに空襲を受けた都市が相当ありますけれども、空襲を記録する会であるとかなんとかいうのが、私の聞いたところでは全国三十三カ所、そういった組織ができておるそうです。三重県の津市もごたぶんに漏れずやられまして、このほどそういう記録する会が誕生いたしました。そういったことに関連をして、これはいつか新聞で、厚生大臣も呼ばれまして、そこで善処するというふうな話を見たのですが、民間の戦災犠牲者の救済方法についていま相当に高まってきております。これは東京都戦災死者遺族会の方からもらった資料なんですが、空襲によって死んでも障害者になっても、何ら援護の対象になっていない。ところが空襲によってどれだけ死んだのか、空襲などによってけがをした方なんかはどれだけいるのか。これはいまのところ公式な場で全くつかまれていないということなんです。 一体厚生省のほうでは、戦後二十何年たった今日、こういう問題の調査は、さっきもお話があったように、占領軍のそういう思惑から調査をすることを禁止をされておったんじゃないかという推測もできるんですが、ひとつぜひとも調査をしてもらえないだろうか。すでに昨年の十二月に、愛知県では県議会でこの問題を取り上げて、桑原愛知県知事がこう言っておるのですね。この問題は全国的な問題である。国に対して救済の立法化を要求したい。また全国知事会議でも内々問題になっているので、知事会会長として問題を提起したい。さらに民間戦災障害者の実態の調査をする、こういう答弁を県議会でやっておられるのです。 まあ調査をして、調査をしたからすぐに戦災犠牲者を救済をするという、私はそこまでせっかちには言いませんけれども、先ほど申し上げた母子家庭のそういった例からいって、何らかの救済ということを、交付公債を出してそれで慰謝するとか、いろいろの方法があると思うのですが、立法上の問題は別として、こういう戦災犠牲者の調査ということをやってもらいたい。そのやる意思があるかどうか、その辺きょうはひとつはっきりとお約束をいただきたいと思うのです。
○齋藤国務大臣 実は戦災者全般についてではありませんで、身体障害者の問題について、私一言要望を受けております。戦争によって非常なけがをした、そういうふうな人たちが、現在の身体障害者福祉法その他によって十分な援護を受けてないといったふうなことから、身体障害者について実態を調べてもらえぬだろうか、こういったふうなお話がございました。同じように愛知県にもあったようでございます。 しかし、これを全国的に調査をしようということになりますと、これはもうたいへんなことでございまして、実際できない、私ははっきり申し上げておるわけでございます。すなわち、その空襲によってどういうけがをしたか。もう戦後二十数年たちまして、人口の移動は急激に行なわれておりますし、そのたとえば四日市で空襲を受けても、いま四日市に住んでいるかどうかもわかりません。よそに動いております。それと、証明する手段もない、こういうようなことで、私は全国的な戦争による身体障害者の実態を調べるということはできない。しかし、ある地域において、サンプル的に実態がどうなっているかということは、ひとつ考えてもいいでしょうということで、先般来援護局、社会局にも話をしております。幸い、愛知県の名古屋市でやろうなんという計画もありますから、これはなかなかつかめないと思いますが、どういう実態になっているのか、サンプル的にひとつ調べてみようかといったようなことは、いまのところ考えておるわけでございます。それは身体障害者についてだけでございます。 そこで、いまお尋ねのような戦争によっていろんな被害を受けられた方々の実態というものを全国的に調査する、これは私は言うことは簡単でございますが、これはなかなかできないと思うのです、実際の問題。二十数年たった今日、なかなかこれは実際上の問題としてできないんじゃないか。何かいい方法でもあれば別でございますが、これは実際上できないんじゃないかということを私は憂えておるわけでございます。 しかし、そういう方法が簡単にできる——しかし、そういうことをやることによってまた、それならばあと救済をどうしてくれるんだというようなことになっても、これはたいへんなことでございます、実際のところ。実態を調査する。そうするとあとは救済、救済といっても、なかなかこれはもうあの当時のことは証明ができないのです、実際のところ、いま。そういうふうなこともありまして、私は率直にこれだけは申し上げますが、全国にわたって実態を調査するということは困難である、こういうふうに私ははっきりと申し上げざるを得ないのではないか、こういうふうに考えております。 この前も私のところに見えました方々には、家を焼かれた、死んだ。なかなかこれはわからぬのです、ほんとうをいいますと。その個人個人にはある程度わかっているものもあります。しかし全国的にこれを正確につかむ、これはできませんよということを、私もそれははっきりと申し上げておるわけでございまして、お尋ねの、御質問のそういう点については、戦後三十年もたった今日、実際上むずかしい問題ではないか、こういうふうに考えております。
○田口委員 むずかしいということは、私も二、三これにタッチをしてわかるのですけれどもね。私いまから言うのは、中都市、三重県の津の例ですから、東京、大阪、名古屋なんかと比べれば、これは比較にならぬとは思うのです。しかし、この中都市である三重県の津でやった一つの例を申し上げると、もうあれからだいぶんの年限がたっておるんですから、じかに経験をした人たちは大体五十年配の上の方ばかりです。そういった方々に呼びかけて、それぞれつてを求めて当時の写真や地図、各種の記録を集めて、いま実は走り回っておるわけなんです。その結果わかったのは、これは一つの例ですからなにですが、二十年の四月七日に、午前十一時半、市内の神戸国民学校に小型爆弾十八発が投下され、三十一人が爆死したとか、こういう中都市ですから比較的空襲の回数が少なかった、死んだ数もたいしたことはないということで、こういうことがわかるのですが、そういったものを国が各府県、市町村に依頼をしてやろうとすれば、これはつかめるんじゃないか。 ただ問題は、つかんだその結果、いま大臣心配をしてみえるように、実はこれこれの死者がある、これこれの障害者がございます、その障害者の生活実態はこのようになっておる。そうなると、これについて遺家族援護法と同じ精神から、国家で何らかの補償をしなければならぬだろう、こういうことになるにきまっておるんじゃないか。そういうことになるから、ひとつ調査はむずかしいということになるんじゃないか、まあうがった考えを言えば。しかし、私はそういう点を前提とほんとうはしたいんですが、やはり一番初め大臣が基本的な考え方を申し述べられたように、結局二度と戦争をしない。非戦闘員までああいうふうな状態になったということを国の責任において、二十七年、二十八年たった今日調査をすること自体、今日的な意義があるのではないか。こういう点で、たいへん困難が伴うと思うのですが、ひとつ調査はぜひともやってもらいたい。このことをお願いしたいわけです。
○齋藤国務大臣 もう私が申し上げるまでもなく、戦後数十年経過いたしまして、戦争の悪夢というものはもう忘れたい。これは私はみんなの心境だと思うのです。犠牲といえば、まあ全国民が犠牲者なんです、これはほんとう言いますと。軍人ばかりではない。これは全国民が何かしら犠牲を払って、戦争に対する批判は別として戦ってきたわけでございます。そこで、いまそれを調べてどうするんだ、こういうことに私はなると思うのです。身体障害者のような方々は身体障害者手帳を持っております。そこで私は戦争でこうなったんだけれども、援護は少し足りないじゃないか。具体的に出てくるんですね。それも全国的に調べるということは実際できません、証明がないのですから。私は戦争のためにこうなったのですという、裏づける、証明をする人がだれもいない。 そこでサンプル的に人口の移動の少なかったようなところでは、あるいはできるかなという感じを私は持って、要望に、その部分についてはお答えをしたことがございますが、戦争全体について、家を焼かれ、一家離散し、死亡し、障害を受けた。なかなかこれは——わかるのですよ、話は。私は非常にわかります。先生のおっしゃることはわかります。そういう苦しみを、二度と戦争はしたくないという気持ちからいっても、その実相を記録的にでも調べておいたらいいだろう、これは私はわかります。 しかし記録的に、それは全国民の方々に非常な御努力を願ってやることは、実際的にできるだろうか。それだけの理由でできるだろうかということになってみますと、なかなかこれは実際上やろうといっても、やれないんではないか。やっぱりその結果、家を焼かれた者にはどうする、死んだ者にはどうする、それなら協力しよう、これはわかります。ところが、ただ記録的にということでございますと、せっかくの御意見を交えての御質問でございますが、実際上、困難ではないか、こういうふうに私は考えておる次第でございます。
○田口委員 くどくは言いませんが、そういう記録にとどめるということに今日的な意義がある。ずばり言ったら、それ以外に先ほどの社会援護という観点から、こういった方々にも国の責任で、戦後処理の一環としてやるべきじゃないか。これは当然言いたいところなんです。それを援護する具体的な立法措置としては、先ほど大原先生からお話があったように、防空法であるとか何であるとか、国家権力とのかかわり合いがどうしても中心になってきますから、その辺は、大原先生の御意見をひとつ十分に検討してもらいたいということで、これは終わります。 二つ目は、今回の改正によって、勤務関連傷病による障害者の処遇ということで、いわゆる日華事変での文官、軍属といったものが新しく範囲拡大されるのですが、これに関連して、二、三具体的な事例を申し上げて、ひとつ善処を要求したいのです。 すでに勤務関連傷病として四十六、四十七年などの法改正によってはっきり範囲が拡大された軍人、準軍人であっても、日華事変と大東亜戦争では、当時の呼称に従って大東亜戦争という表現を使いますが、むしろ日華事変のほうが、軍人、準軍人にしろ、文官にしろ、軍属にしろ、大東亜戦争のそれと比較をすれば、勤務関連傷病ということははっきりつかめる。これは御存じだろうと思うのです。 たとえば日華事変では、現役、予備、後備とあって、予備、後備は、召集をされた場合、即日帰郷というのがありましたね。ちょっとどこかからだに故障がある。だから、勇躍駅頭で送られたけれども、こそこそ帰ってこなければならぬ。さらに、入って一週間なり十日なり、勤務に耐えられなくなって精神病になったり、結核になった場合には、当時はまだ軍病院が完備をしておりましたから、たとえば三重県の例でいいますと、歩兵三十三連隊に入隊した場合、即日帰郷じゃなくて、一週間後、十日後に、どうも頭がおかしいというふうな応召者に対しては、当時の久居陸軍病院、榊原というところに精神病の専門の病院があるのですが、そこに入れる。そこに入った人は、勤務との関連で精神病になったんだ、また結核になったんだということで、カルテなんかでいまも記録されておるわけです。これははっきりわかる。 ところが、大東亜戦争ということになって、昭和十六年十二月八日以降——十六年、十七年は日華事変の延長ということで、その辺はまだ整備をされておりましたけれども、特に昭和十九年末から二十年にかけて召集された者については、即日帰郷というものもほとんどなかったわけです。指が四本切れるとか、足に少々の障害があっても、全部そのまま編成をして、野戦は行けませんから、海岸方面の防備隊に配属をする。そこで精神病になる。こういう方々は、日華事変の当時のように、発病したから軍病院に入院させようというふうなことは全くなされていなかった。そして八月十五日に終戦になって復員をした。当時はああいう状態ですから記録も何もない。そういった方々が勤務関連傷病ということで死んだり、いまなおそういう病気で苦しんでおっても証明するすべがないわけですね。 ですから、今回これを拡大したということについては私は異議を唱えませんけれども、むしろ四十六年、四十七年あたりに、はっきりとした勤務関連傷病については、実際に厚生省として救い上げる——援護審査会あたりでは相当目こぼしといいますか却下したものが多いんじゃないか。ですから、今日まで、概数でけっこうですけれども、勤務関連傷病で、軍人、準軍人などで障害年金、遺族年金、さらには弔慰金なんかの申請をして、大臣がこれを却下と裁定したものは何件くらいあるか、申請件数と却下裁定件数についてお聞きをしたいと思います。
○高木(玄)政府委員 ちょっと勤務関連だけを取り出して調査した資料はないようでございます。
○田口委員 では、勤務関連じゃなしに、全体の場合にはどうなんですか。
○高木(玄)政府委員 これは四十七年十二月末現在の遺族援護法によります障害年金の裁定の状況でございますが、軍人、軍属、準軍属合わせて六万四千三百十件受け付けております。このうち可決されたもの、つまり障害年金受給者ときまりまして障害年金が支給されている者は五万九千二百五十一名で、申請に対する率からいいますと九二・五%が障害年金を受け取っておる。却下されたものは四千七百九十六件でございまして、却下率は七・五%ということになっております。
○田口委員 率でいえばわずか七・五%なんですが、この四千七百九十六件、七・五%に限っていった場合、その却下の理由を、私、ちょいちょい、それぞれ該当する方から聞いておるのですが、精神病、結核、こういった勤務関連傷病が多いんじゃないかと私は思うのです。その一つの例を申し上げますと、申請をして、すでに却下をされたのですが、これは精神分裂症で、勤務とはどうも関連しない、こういうことなんです。ここでそういったことをこまかく取り上げるいとまはないのですが、他の例を聞いてもほとんどが、昭和十九年の末から昭和二十年の初めに召集されて、それで軍隊におって、即日帰郷じゃなしに、そのままほうり出されて復員をした。当時ぶらぶらして、あの当時はまだ強制措置というようなことがございませんから、いわゆる座敷牢のようなところに閉じ込められて大半は死んでおるのです。そういった方が四千七百九十六件、七・五%の大半を占めるんじゃないかと私は思うのですが、その辺のところはどうなんですか。
○高木(玄)政府委員 内容を分析してみないとわかりませんが、おそらく却下したものは、公務による傷病でなかったというケースが多いんじゃないか、それから障害の程度が障害年金を支給するほどではないというふうに認定された、そういうケースが却下件数の中には多いんじゃなかろうか、かように思います。
○田口委員 却下の理由をそれぞれ調べてみなければわからぬと私は思うのですが、この援護法の立法の精神からいって、小指一本とれても、これは障害になって対象になりますけれども、多少でも心身に障害をこうむっていたら、あの忌まわしい戦争に参加をしなかったら、そんなことにならなかったという気持ちはあると私は思うのです。その他の防空法とかなんとかいうことは、私は一応抜きますよ。ここでいま指定されておる軍人、軍属、準軍属、この限りの中で、戦争に関連し、それによって何らかの障害を受けたということであれば、それは援護法の対象にすべきじゃないか。ちょっとすりむいた、まだそこにあざが残っているというふうな、程度の問題はあるのでしょうけれども、その本人にとっては重大なショックを受けておるわけですから。ましてや精神病なんかという場合に、往々にして勤務関連とはなりがたい。 ですから、勤務関連になりがたいといって却下するのではなくて、いま私が申し上げたような法の趣旨からいくならば、当然にこれは申請を受理して、それぞれの項目に当てはまる援護の措置をすべきじゃないか。ですから、九二・五%というのじゃなくて、九九・九%くらいまでは援護の対象にすべきだ、こう私は思うのですが、どうも援護審査会というところでは公務災害と同じような考え方で、特に精神病、結核については勤務関連がないということで却下されておる。その不満というものは、その遺族の執念といってもいいのですが、たいへん強いものがあるわけです。 ですから、今後他の分野についてこの援護法を波及、拡大をしていくということも大いに必要でありますけれども、直接的に軍人、軍属、準軍属で、そういう却下になったものを積極的に、ことばは悪いのですが、拾い上げる、申請があればそれを大いに裁定をしていく、こういうことが必要なのじゃないか。その点についてひとつはっきりした御見解を承りたいと思います。
○高木(玄)政府委員 ここで勤務関連傷病と申しますものは、当時の軍隊等の勤務の態様からいたしまして、勤務の影響が否定できないと考えられる傷病でございまして、具体的には勤務従事期間中にかかりました肺結核、精神病、こういったものが勤務関連傷病になるわけでございます。ただいま御指摘がございましたように、終戦直前の傷病等につきましては、当時の状況でございますので、はたしてそれが在隊中に罹病したのかどうかということの直接的な証明がないというケースが相当あろうかと思います。しかし、そういったものにつきましても、復員、帰郷後に受診いたしました医師のカルテ等によりまして、総合的に判断いたしまして在隊中の罹病が推定される者については、やってまいりたい、かように考えます。 それで、こういった障害年金の審査にあたりましては、ただいま先生の言われたようなお気持ちは十二分に体してまいりたい、かように思います。
○田口委員 私は、これは執念ということを聞かされたものですから、名前は言いませんけれども、一例だけ申し上げたいのです。 終戦まぎわになって召集されて、海軍の嵐部隊の基地隊員として四国方面におったらしいのですが、召集になったといっても、終戦まぎわですから、一カ月か二カ月だったと思うのです。そのまま頭がおかしくなって終戦になった。ああいう当時ですから、勤務ということも記述のある状態はなかったと思うのですが、軍医の的確な治療方法もなく、帰郷させるということもせず、そのまま入隊をさせておいて、それで敗戦になった。そこでもう散らばった。その者が復員をいたしまして、結局ぶらぶらしておった。当時はみんな異様な目つきをしておったと思うのですが、それ以上に異様な目つきをして、たいへん危険な状態であった。そこで、さっきも言ったように、座敷牢のようなものをつくって、結局死んでしまった。二、三精神病院なんかに見てもらったというのですが、こういう例に対して、すでに審査会の意向としては、精神分裂症というものは勤務に関連しない。そこで、その遺族が実は泣きついてきておるわけですよ。これは一件だけの例で私は言うのですが、ほかにもあるわけなんです。 私は県の職員の経験からいって、確かに勤務関連ということはむずかしいと思うのです。特に内部疾患の場合にはむずかしいと思うのですが、先ほど申し上げたように、援護法の精神からいって、多少これはおかしいなと思っても、援護法の対象にするということがいいのではないか。ひとつ積極的に援護の対象にする、そのことが戦後処理ということに対して、最も前向きの姿勢で取り組んだことになるのじゃないか、こういう点を要望いたしまして、私の質問をこれで終わります。
○田川委員長 次回は公報をもってお知らせすることとし、本日はこれにて散会いたします。 午後一時二十六分散会