内閣委員会 第14号
- 発言数
- 82 件
- 登壇者
- 5 名
- 会派数
- 2
- 開催日
- 1971/04/13
会議録
○天野委員長 これより会議を開きます。 理事辞任の件についておはかりいたします。 理事伊藤惣助丸君から理事辞任の申し出があります。これを許可するに御異議ありませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○天野委員長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。 次に、理事補欠選任の件についておはかりいたします。 ただいまの伊藤惣助丸君の理事辞任に伴いまして、理事が一名欠員になっておりますので、この際、その補欠選任を行ないたいと存じますが、先例によりまして、委員長において指名するに御異議ありませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○天野委員長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。 それでは、理事に鈴切康雄君を指名いたします。 ————◇—————
○天野委員長 文部省設置法の一部を改正する法律案を議題といたします。 質疑の申し出がありますので、これを許します。受田新吉君。
○受田委員 文部大臣御苦労しておられますので、文部省設置法の改正案に関連する基本的な文部行政の問題をお尋ねしたいと思うのです。 文部大臣は、長期にわたってといっていい程度に文部大臣の任にいらっしゃって、ある程度文部行政に自信を深めておいでだと思います。学校紛争のさなかに大臣に就任されて、異常なばかりの苦労を重ねられ、よく耐え抜いて今日を迎えられたことに深く敬意を払いたいと思うのです。それだけに文部行政に精魂を打ち込まれた大臣の方寸をめぐる夢が大きくわき出ているとも思うので、その点、基本的な文部行政をお尋ねしてもお答えがすぐできると思うのです。 いまの日本の国の現状というものの中に、著しく技術革新といいますか、科学技術の進歩を見まして、そこに大学紛争の種になったような原因として人間関係がおろそかにされてきた、精神面がおろそかにされて物質面がぬきんでてきたというのが大学紛争の原因であると大臣もしばしば話され、私たちもこれを常に追及してきたわけなんです。ところが、そうした時代の流れの中に、文部省というものは、やはり国家百年の大計の上に教育方針を打ち立てられ、人間の形成のための行政を組まれていかなければならぬという問題を持ったお役所でありますから、そうした人間性を回復する問題、人間優先社会への復元という問題については、やはり文部省が本気で取り組まなければならぬと思うのです。社会のこの物質万能の世界の中に人間性の回復あるいは人間優先という、そうした社会への出発点というものに対して、大臣、あなたは教育行政の面において、あるいは教育の面においてどういう夢を持っておられるか、これはあまり長々という意味でなくして、すかっと一分か二分かで御答弁願える基本的な——これは大臣を長くやられると夢がすぐ答えられるのが普通です。どうぞ……。
○坂田国務大臣 いまおっしゃいましたように非常にむずかしい問題でございますが、確かに今日非常に産業構造、社会構造が変化をしまして、それに人間が対応していけないような時代を迎えておる、人間回復の時代である、これはもうおっしゃるとおりに私も考えております。ところが、四、五百年前でございますか、ヨーロッパにおきましてもルネッサンスというのがあったわけですが、それも中世時代に人間性が抑圧されて、そしてむしろ古きギリシア、ローマにはそういう人間性豊かな時代があった、そういう人間性を回復すべしという運動が起きたわけでございます。その契機になったものは何かといったら、その当時は自然科学の発達だったと思うのです。ところが、その後自然科学の発達がもろもろの産業構造の変化を来たし、社会を便利にさせ、いろいろ福祉につながることをやってきたが、四、五百年の後にその自然科学の発達によって逆に今度また人間性そのものがむしばまれる一面を持っておるということに気づき始めた、あるいはそれを先取りしたのが若者たちの反抗であったともいえる、こういうふうに私は理解をします。したがいまして、その人間回復を現代においてどうやるかということについて、教育の上において、やはりもう少し物中心じゃない、あるいはお金中心じゃない、心中心といいますか、心の復活、精神活動を活発にするといいますか、そういう面に教育が持つ役割りというものが非常に大きいというふうに思います。戦後の二十五年を考えると、戦争に敗れまして物がなくなって、とにかく物をまずつくるということが先決でございましたけれども、むしろ逆に今日では、物の豊かさによって心が貧しくなってきている。その心の貧しさを取り除くということが、やはり教育の一つの課題である、また政治的課題である、かように考えておるわけであります。
○受田委員 簡にして要を得た答弁と思います。私、そうした国の政治の上に、行政の上に心の重要性を高めていくという問題についての高邁な御意見を伺ったわけですけれども、そこで今度具体的にお尋ねしていきたいのです。 戦後の荒廃の中に物質万能主義が芽ばえてきたということ、敗戦という痛苦の中にある程度やけばちの気持ちが芽ばえておったということ、そういうものがだんだんとついてきて、GNPの強大を盛んに誇るような時勢になってくると、そこで再び今度は心のふるさとに呼びかける時期が来た。その面で、教育行政の面において文部省設置法の「文部省の任務」というところには、「学校教育、社会教育、学術及び文化の振興及び普及を図ること」「これらの事項及び宗教に関する国の行政事務を一体的に遂行する責任を負う行政機関」が文部省であることをはっきりうたっているのでございます。つまり精神的な面は全部ひっくるめて文部省が担当しておる。宗教の面まで、それを統制する意味でなく、いろいろな行政事務を担当しておられるのですが、いま国民的に、つまり経済が豊かになったこの段階で、ふとわれわれが行きずりの青年男女と会うても感ずる問題があるのです。大学の学生あるいは高校の学生たちが、おじいちゃん、おばあちゃんを誘導して列車に乗せる風景をあまりいまは見受けられなくなった。私自身も教育界育ちでありますが、戦前の風潮の中には年寄りを大事にする、それから親に対する敬愛、きょうだいのむつまじさ、友情、こういうものが精神的な柱として非常に濃厚であった。いまの時代にそれが欠けてきておる。座席もお年寄りがそばに立っておっても譲ろうとしない。いまのお年寄りは、若い世代には年寄りに奉仕し、また自分が老いたら今度若い者に疎外されている、こういう悲劇の人々になっておると思うのです。こういう道徳問題を大臣はどう考えておられますか。
○坂田国務大臣 この問題も、実を申しますと先ほど私が申し上げた問題と関連するわけでございまして、物質万能主義というふうに流れてきたその結果は、自己中心、自己の権利だけを主張する、そういうことにつながっていった。だから、思いやりだとかなつかしさだとか、そういうものがなかなか出てこなかった、あるいはそういうことに対する価値というものを親からもあるいは学校制度の中においてもあまり身につけるようなことにならなかったという点があるんじゃないかというふうに私は一つ思います。 それからもう一つは、先ほど申しますように、自然科学的思考方法と申しますか、何か物質みたいに、つまり人間関係というものもアトムみたいに考えてきた。それはやはり一つの欠陥、ある面においてはプラスの面もあったかもしれぬけれども、ある面においては人間としてあるいは生命あるものとしての認識というものが足りなかったんじゃないか。たとえば理科教育とかあるいは科学技術教育というものを非常に強調された。ところが、その科学という科学の中には生物科学も入るわけでございます。たとえば植物であるとか動物であるとか、そういう生命現象というものをやはり小さいときでも、たとえば花に水をやる、太陽に向ける、そうすることによってすくすく育つ、アサガオが咲く、そしてそれがきれいだ、はぐくむという気持ちを子供のときから持つというようなこと。あるいは小さい動物、小鳥やなんかを飼う、それにはやはり愛情というものが伴ってくる。ところが最近の都会の子供たちは、デパートに行きましてカブトムシを二百円くらいで買ってくる。これはちょうどおもちゃの自動車を買ってきて、それをこわしてしまうのと同じように考えてしまって、これを殺してしまっても、なにあしたまたデパートに行って二百円出せばこのカブトムシは買えるんだ。そうじゃなくて、われわれが昔チョウチョウが菜の花に飛んでおるのを見たような、そういう生きたままの生物としてそれをながめるという、そういうことが学校教育の中においても事欠いてきておるんじゃないか。生物というもの、人間それ自身も生物の中の一つとしての考え方というものがだんだん薄くなってきておる。やはりそういうようなものをもう一ぺん見直すということが大事なんだ。 それからもう一つは、これは人口問題ともからんだのでございましょうけれども、あるいは生活問題ともからんだわけでございましょうけれども、二人以上の子供ではとても生活できないんだというようなことで、一人とかあるいは全然子供を持たない、あるいはバースコントロールを徹底的にやってしまうというようなことで核家族ということになってしまう。そういたしますると、おじいさん、おばあさんというようなことがわからなくなる。そうしてその結果は、いろいろな人間としての習慣あるいは日本人としての習慣というものが忘れられる。したがって、あの塩月さんが いろいろな本を出しますと、そういうものを核家族の若い人たちがこぞって買う、したがってそれがまたベストセラーになる。こういうことは、昔ならば自然と家族制度の中において、おじいさんやおばあさんや、あるいはお年寄りから若い夫婦が学んだようなことが学べなくなって、そして塩月さんの本が売れるというようなことにもつながっていくわけなんで、やはりそういうふうに考えますと、お年寄りに対する子供たちの考え方あるいは年寄りの子供に対する考え方というものがだんだんなくなってきているということは、やはりゆゆしい問題ではないだろうかというふうに私は考えております。
○受田委員 大臣、ちょっと質問の対象が大臣の所管事項からはずれてきますが、関連があるからお尋ねするのです。 いま地方選挙の最中ですね。大臣も御苦労されておられると思いますが、またあさってから次の統一選挙が始まる。私もこのたび各所を歩いてみてしみじみ感じたのですが、過疎地域におけるお年寄りの悲惨な姿というものを感ずる。つまり若い者がみんな町に出る、そしてお年寄りが郷里を捨てがたくてふるさとの古い家に一人残っておる、足腰が立たなくなってもまだがんばっておる、そして脳溢血や心臓病で死んで、三日目か四日目になくなったのを発見されたのを私もちょいちょい聞いたのです。そして、なくなったというので町から親のところへ帰ってきたが、また家を始末して出ていく、こういうのがちょいちょい出てきておる。これは非常に悲惨な人生です。若い者はおる、おるけれども、若い者は、お年寄りに愛情があっても実際はなかなか実行してない。そこでお年寄りは、今度老人の福祉年金が二千円が二千三百円になって、それをもらって、子供も多少小づかいくれるという程度で細々と暮らしておったが、ついにこの世を去っていった。こういうところに国民年金の増額という問題が一つある。 それから、もし老人医療の制度がもっと行き届いていれば、お年寄りが弱っているようなうちは、あるいは相談員がもっと数多くいれば、あるいはお医者さんが居宅診療で、お年寄りは寝ておる、子供たちは町におるのだが、ちょっとぐあいを見てあげようかというので診察でもされたら、あるいは心臓病や脳溢血の予防の方法もあるはずです。同時に、このお年寄りは心臓病で弱っている、血圧が高い、子供さんが東京に行っておるが、ちょっとこれは危険だから子供さんに、親が重い病気になっていますよと知らして子供を呼び寄せるとか、もうお医者さんから見れば、これは十日か二十日のうちにあぶないというのはわかるはずなんだ、それを子供たちへ通告して、そこで最後の親孝行ができるはずです。そういうときにお年寄りのうちに居宅診療する制度もない、相談員も数多くないからお年寄りのうちに見舞いにも行けないあわれな人生、そういう老人福祉対策に制度上の欠陥があって、お年寄りは治療を受けると三割国民年金の負担をしなければならぬというような心配から、金がかかる治療を受けないというので治療も遠慮する。そうすると十七歳以上のお年寄りの治療はできるだけ国がめんどうを見るような老人医療法をつくるとか国民年金を増額してあげる。あるいはもう一つ人間の心のふるさとを大事にするということであれば、お年寄りの健康診断はひんぱんにしてあげて、そして危険信号をあがったら子供に役場から通告して、町長からでもいい、おたくのおとうさんが少し健康がおぐあいが悪いようだが、御本人はお年寄りでがんばって子供にも通告せぬとおるようだが、どうか帰って、あなたのおとうさん、おかあさん重体の傾向がある、これを見てあげぬか、こういう手だてをしてあげれば人間社会がどんなにうるわしいものになるかと、今度の地方選挙で各所を歩いてみながら感じました。 これはやはり精神面を高揚する文部行政の一環がこれを手伝わなければならぬ問題だと思う。厚生行政は人間を大事にするけれども、やはり人間の心を教育するのは文部省である。社会教育の必要性、そういうものが少し欠けてきておる。現在のお年寄りは若い時代に非常に苦労している。苦労して今日を迎えて、さらに死の瞬間までそうした若い者との人間関係の断絶による不幸な生涯を閉じるという傾向がある。大臣、そういうことが現実に起こっていることはおわかりでしょう。それをどう救っていくかという問題がある。それは私は文部省の指導要綱の問題なども関連して——教科書編さんに対して国が干渉してはならぬことも私はよくわかります。そこで学校の教科書を編さんする会社の良心も今度は必要になってくるのですが、この道徳の根源である父母に孝にという問題、あるいはきょうだいが仲よくするとかいう、こうしたかつて教育勅語に書いてあった文句ですけれども、その中でどこにも共通の問題として、この孝というものは私は道徳の根源だと思うのです。孝は百行の本というのは今日としても変わらない名言であると思いますね。そういうものを柱として、かつての忠という意味でなくして、孝というものが道徳の根源であるというかっこうに文部省が大方針を立てられてしかるべきである。そして、ちょっとそういうものに対しては空気の悪い問題が起こりがちなのは、地方で昔の教育勅語をずっと配られる議員さんがあるんですよ。文部大臣の御郷里はどうか知らぬけれども、私の郷里などは教育勅語を各家庭に配る議員立候補者があるんです。それはたいてい自民党です、例外なしに。自民党の候補者になられる方が教育勅語を印刷してずっと家庭に配られる。これはやはり印象的にそういうことでなくして、ほんとうの道徳の根源というものは何かというもっと高度の指導を自民党でもなさってしかるべきであるという意味で、党の立場とそれから文部行政という立場と両方から、大臣はそこの焦点におられるのですから、そうした道徳の根源を孝に置く、これはすべての道徳のスタートである、こう私は感ずるのですが、それに対する御見解とこれに対する対策をお答え願いたいと思います。
○坂田国務大臣 私は先ほどから申しますように、やはりお互いの人間関係、親子、親が子供を思うようにあるいは子供が親を思うように、あるいは兄弟との関連、これはやはり一番大事な点なので、モラルというのはまずそこだと私は思っております。ですから先生おっしゃる点は、私そのとおりに考えております。そういうものを大事にし、そしてまたそういうものを身につけるような青少年の教育というものが、実は戦後欠けていたんじゃないか。これはやはり強調すべきであるし、先生方もその点を十分お考えいただきたいし、同時に今度は家庭においてもそういうことを子供たちが自然と身につけなければいけないというふうに思います。それから社会教育の場面においてもそうだと思います。 今日生涯教育ということがいわれるわけでございますけれども、学校制度だけではなくて、死ぬまで何らかの意味において教育を身につけたい、あるいはいろんな技術やその他のものを身につけたいという欲望は私は死ぬまでございます。そのためにやはりそのチャンス、機会を国があるいは社会が与える、これが非常に大事じゃないか、それを私は生涯教育の意味であるというふうに考えておるわけでございます。先ほどおっしゃるように老人が——確かに医療の問題もございます、あるいは所得政策のいわゆる国民年金の問題がございます。これはある程度制度とお金を充実すればできる問題でございますけれども、しかし、たとえばスウェーデン等において相当の社会保障制度が確立しておりましても、生きがいという問題はまた別な問題として残っておるわけでございます。それはあたたかい心が一般の社会にあるかないかという問題、あるいは自分自身が生きがいを感ずるかどうかという問題でございますが、その生きがいを持つかどうかという問題については、まさにこれはやはり生涯教育の部面で、その人自身がお年寄りになられましても何らかの生きがいを感ずるようなものを与える、あるいはチャンスを与えるということが国として、社会としても必要だというふうに私は考えます。
○受田委員 私は、これは文部行政だけではなくて、大臣は閣僚として内閣の全面的な国政に参画されておられるわけですから、終始ひとつ心を配っていただきたいのですが、人間尊重のための行政としては厚生行政も入ればその他の財政の担当の行政も入ってくる、そういうものをひっくるめて、とうとい生涯を守ってあげる。この世に生まれた者は死ぬ瞬間まで国のあたたかい政治の恩恵に浴したと喜べるようなかっこうにしていく。それは同時に、基本は教育というものが柱になってくると思う。それで私、幼児から老人までの生涯教育というものにあたたかい心づかいをする基本的な問題は、閣僚のあなた御自身が一番大事な責任者という意味で、ひとつ長期に文部行政を担当されておられるだけに御検討願いたいと思うのです。 そこで今度は、具体的に生涯教育の問題を各分野にわたってお尋ねしたいと思うのでございますが、ゆりかごから墓場までの人生をあたたかく抱く厚生行政が要ると同時に、それを貫く生涯教育のために、まず小さい子供から教育の問題については国が責任を持っていかなければならぬ。中教審の答申などにもそれが見られるわけでございますけれども、幼稚園教育という問題を義務教育化する前に、まずなさねばならないのは、公立の幼稚園設置というものを市町村単位で義務づけする必要がないか。私立幼稚園の奨励とあわせて、公立の幼稚園の設置義務を市町村に負わせるような方向へ前進させる。これは義務教育就学前の教育としてきわめて大事な問題であり、またいわゆる幼稚園教育というものは、学校教育体系の中へきちっと、もうすでに国がつくっているわけでございますから、教育体系の中につくったものを具体的に実践する意味で、義務教育化される前に設置義務を負わせるということが私は必要だと思うのですが、いかがでございましょうか。
○坂田国務大臣 御承知のように、中教審の答申におきましても、幼児教育の重要性ということにつきまして述べておりまして、その中に「幼稚園に入園を希望するすべての五歳児を就園させることを第一次の目標として幼稚園の拡充をはかるため、市町村に対して必要な収容力をもつ幼稚園を設置する義務を課するとともに、これに対する国および府県の規政援助を強化すること。」、こういうふうに中教審でも述べておるわけでございますが、これを私たちとしてはどういうふうに受け取っていくかということが次の段階に出てくると思います。でございますが、やはり義務化していく前に市町村に設置義務を負わせるという一つの方向は、私はこれから先当然出てくる課題であるし、またやらなければならぬ課題であると思います。 その場合にひとつ問題なのは、全国の公立、私立幼稚園と両方あるわけでございまして、これを全部、せっかく都市部等におきましてかなりの普及率を見ております私立幼稚園というものを全然考慮することなくして、画一的に公立幼稚園の義務設置ということになりますと、やはり問題があるんじゃないか。やはり公立と私立幼稚園とを並行させて、場合によっては私立幼稚園に対する助成の措置等も考えながら普及させていくということが望ましいのではなかろうか。またそういうような市町村に義務設置をお願いするからには、それに必要な財政援助はもとより、そういうようなことをやる前提といたしましては、幼稚園の先生というものの養成は一体どうするのかというような問題、あるいはまた幼稚園の教育内容と申しますか指導要領と申しますか、そういうようなものも従来ございますけれども、これについても今日的観点において、これでいいのかどうなのかということについてもただいま検討しておる。いろいろの諸条件はございましょうが、方向といたしましては先生の御指摘のほうへ進まなければならないというふうに考えております。
○受田委員 この私が指摘していることは、公立幼稚園を市町村に設置してないところがある。そういうところへ一つはつくる。それから私立幼稚園と両方みがき合いをしていくというかっこうで、したがって私立学校の職員の給与費の国の補助についても、その私立幼稚園にも及ばなければならぬわけですから、そういう意味でいえば、財政的な援助も私立へもはかりながら、また公立もひとつそれを用意しておく、こういうかっこうにしてはどうかということです。ちょっと、事務当局でけっこうですが、公立幼稚園の設置されている数と、それから私立幼稚園の数の比較、それから公立幼稚園未設置の町村の数をちょっと示していただきたい。
○宮地政府委員 これは実は私ども昭和三十九年から七年計画を立てまして、幼稚園の設置を促進してまいりまして、一応四十五年度で五四%、これは全国平均でございますが、五歳児の五四%が就園することができるようになっております。もちろん公、私立合わせてでございます。ところでその内訳は七〇%近くが私立でございます。 それからさらに別の統計的な数字で申し上げますと、全国の市町村で幼稚園を持たない市町村が現在千四百九十四市町村ございます。きわめて極端な例ですが、横浜市などはあれだけの大きい規模の都市で公立幼稚園がございません。そういったようなことで、全国的に見ますと非常にアンバランスでございます。 またもう一つ保育所、これは教育目的、設置目的が、形としては明らかに幼稚園と違うのでございますが、実態としては、また世の父兄としては、それをほぼ同じような考えで見ておられる。あるいは幼稚園に行くと金がかかるが、保育所へ行くとあまりかからないといった経済的な面での選択が行なわれたり——先生の御質問にお答えできましたかどうか、いろいろなそういった実態でございます。 なお、昭和四十六年度で大体全国平均で五六%の就園率を見ることになろうかと思います。それから保育所のほうが、ちょっと厚生省の詳しい資料を持っておりませんが、二〇数%の五歳児が保育所に行っております。したがって合わせますと八〇数%の子供が幼稚園ないし保育所に行っておるということでございます。したがいまして、数字的には一七、八%、二〇%弱の子供が保育所にも幼稚園にも行ってないということで、私どもといたしましては、先ほど大臣がお答えになられました中教審の中間報告、これは近く正式答申がございましょうが、その趣旨を受けまして、中教審の趣旨を実現するためには、どのような計画で今後何年後に市町村に義務を課することができるかといったようなことを四十六年度中にいろいろ作業いたしまして、今後何年計画でその中教審の趣旨、先生御指摘の町村の義務設置ということについて具体的な裏づけをもって計画的に推進したい、こういうふうに考えております。
○受田委員 具体的に計画をお持ちのようですから、これは非常に急いで進めてもらいたい。もう経済成長が異常なばかりに伸びたこの際に、小さいときから、幼児教育のスタートから、国が力を入れるという時代が来ておると思うのです。いま保育所の話も出ましたが、これも、設置目的が違っているのですけれども、幼児教育には間違いない。一方は保育ということが入っている。最近のように勤労者の家庭が子供を預けて仕事に行く、こういう意味からも、共産圏の国々を見てもそういうところが非常によくできている。つまり、子供を預けながら勤労に従事しているというのは世界共通なのです。私たちそういう意味で、勤労者の家庭の子供を責任を持ってめんどう見てくれるというほうの、託児所を兼ねたような意味の保育所、あるいはそういう意味を兼ねた幼稚園教育というのも、これは総合的に見ていっていいと思うのです。そういうほうへひとつ心を配ってもらいたい。 もう一つ、幼児から力を入れるのは交通安全教育だって同様なのですが、幼児の、六歳までの子供の死亡率、交通事故というのは異常な比率で高いわけです。これはそれ以後の年齢に比べると三倍から四倍という数字を持つほど、六歳までの子供の交通事故死というのは数が多くなっておる。なぜ多くなっておるかというと、幼児に交通安全教育がしてない。諸外国の幼児は、すでによちよち歩けるころから親が交通安全教育をやっているわけです。したがって、交通標識などもよく覚えているし、交通機関も知っている。幼児期間からそうした交通安全教育は必要だ。親が交通標識を知らなければならぬ、社会全体がそういうものを知っていなければならぬという社会教育面において、幼児から年寄りまでの交通安全教育は、日本は世界文明国の中で一番おくれておると思うのです。最もおくれておるこれを一挙に取り返すという意味から、社会教育の一環として交通安全教育というものは幼児からスタートしなければならぬ、かように考えるのです。そうしたらいまの事故は大幅に減ってくる。イギリスのザ・ハイウエー・コードという交通安全教育のバイブル、教科書みたいなもの、それから学校でも大学に交通工学科、交通学科というものを置いた大学がほとんどであるということを考えると、日本はそういう交通に関する専門の教育というものを幼児から大学までやっていないということになるのです。この問題はやはり警察に交通安全をまかすというばかりでなくして、安全教育は、教育の面では文部省が引き受ける、警察庁のほうが安全教育教科書を出すのでなくして、文部省がそういう教科書を奨励する、交通安全教育教科書などは、別に中央集権などといっておこる者はだれもおらぬわけですから、これこそぴしっと国が基準をきめて、モデルをつくって、そういう教科書を大いに読ませる、あるいは教育するようにすべきだと思うのですが、いかがでしょう。
○宮地政府委員 所管が体育局でございますが、便宜上私がお答えさせていただきます。 私ども、先生が御指摘のように、特に日本は最近いろいろ自動車等が西欧諸国並み、それ以上の状況に急速になっておりますが、安全教育というものが十分でなかったということは率直に認めております。従来も学校では学習指導要領というのがございまして、若干そういう点もございましたが、特にこの四十六年から小学校に新しい学習指導要領ができまして、そこでも十分交通安全教育を強化するような指導要領をつくりましたし、さらにいま体育局のほうで、もっと詳細な手引き書といったようなものをつくっておるようでございます。それから幼児につきましても、幼稚園段階では、健康な生活に必要な習慣や態度を身につけさせるといったようなことで一部やっておりますが、いま先生の御指摘のように、社会教育を含めてもっと小さいころからという御趣旨、異存はございません。今後一そう努力いたしたいと思います。
○受田委員 ついでに、交通安全の問題に触れ、また交通学、交通工学というふうな専門の勉強のほうにも通ずるわけですからお尋ねしておくのですが、日本の大学で交通工学を設置している大学というのはきわめて少数である、欧米の国では交通学あるいは交通工学を大学の学科に大半は置いておる、日本だけどうしてこれがおくれておるのか、大学学術局、どなたか御答弁できませんかね。これはごく少数しか置いてないのです。大学の学科設置について文部省はどういう指導態度を持っておられるのか。時代は交通時代になっておる、そういうときに、交通工学とか交通学科というものが当然設置されてしかるべきだと思うのに、設置された大学というのはほんとうにりょうりょうたるもので、最近において一、二これを見るという程度です。国立大学などではどこか一つあるかないかわからぬような状態じゃないかと思うのですが、それは答弁できますか。間に合えば答弁してください。
○村山(松)政府委員 御指摘のように、交通工学というような標題で学部なり学科を置いたものはほとんどございません。現在までのところ、たとえば交通機器の問題といたしまして機械工学系統の学科で取り扱ったり、あるいは交通施設という観点から土木工学科関係、ここでは交通土木学科というようなものも若干できておりますけれども、そういう観点で扱い始めた程度でございまして、御指摘のようにたいへんまだおくれております。
○受田委員 大臣、これはぜひ交通事故解消の意味からも、交通の未来学を実現する意味からも、大学に交通専門の学科を置くという指導方針を大臣みずからが——これは欧米はぴしっと大半の大学が持っているのです。日本は著しくおくれておる。大臣が英断をふるわれれば、国立大学に交通専門学科が置ける、結論は簡単にいくわけでございます。 さらに前進をしますが、高等学校の入学、これは最近の数字で、中学校を出た者がどれだけ高等学校に行くか。非常に数字が高まってきておるはずですが、高校進学率というものが何%までいったか、おおむねでよろしゅうございます。
○宮地政府委員 詳しい数字は八二・何%でありましたが、大体において八二%の進学率を見ております。
○受田委員 高校の進学はそこまできたわけで、異常なばかりに率が高まっておるわけでありますし、もうじき九〇%以上に上がるところにきておるのじゃないかと思うのですが、もう国民の大半は高等学校に行くのは常識になってきておるのです。もし全日制高校に行けない場合は定時制高校がある。定時制高校で勤労しながら学べる道が開かれておる。これは制度の上にも生まれておるのでありますから、全員高校進学を実現せしむるべきで、文明国として、近代国家として、すべての国民が高等学校までは義務教育化されるという時代を当然つくっていくべきです。これはわれわれ民社党としても十年も前ごろから、スタート当時からこれを掲げてきたわけでございますが、大臣、高校の義務教育化というものについては、一応夢はお持ちですね。それから全員高校入学という道を開く意味からも、義務教育化するということが必要だと思うのです。 それともう一つ、今度あわせて答弁してもらいたいのは、大学へ行く場合に、欧米の先進国がやっているような、入学は非常にみやすい、しかし卒業はなかなかきびしいという方式をとれば、試験地獄の解消、ややこしい入学の際の大学入試盗み事件などというものも起こらなくて済むのですね。入るのはみやすく出るのはきびしい、入口は簡単に入れるが、出口は狭い門である、そういう大学教育を大臣胸に描いておられるかどうか。
○坂田国務大臣 高等学校でございますが、東京あたりは、もう九〇%をこしておるわけで、言うなら、もう義務化しておるといっても過言ではないぐらい高い。こういう国は、おそらく世界でもめずらしいのではないかというふうに思っております。したがいまして、中教審におきましても、この義務制の問題については重要な課題として検討いたしております。 もう一つ考えなければならぬのは、そういうふうになりましたが、小学校、中学校の義務教育はかなり定着してきた、しかし高等学校の段階では、やはりもう少し多様化をする必要があるんじゃないかという問題が一つございます。しかし、この多様化をいかにするかという問題、これには、いろいろの考え方があるようでございまして、この点は中教審でも考えておりますが、もう少し私たちのほうでも考えていきたいと思います。 それから高等教育機関、つまり大学に入りますのも、当該年齢人口の大体二〇%をこえておるわけでございまして、これも世界的に見ましてかなり高い。ことにヨーロッパ大陸から考えますとかなり高い。そしてまた、その傾向はさらに高まっていくということでございます。そしてこの入り方、あるいは出方の問題でございますが、これは、やはりそれぞれの国の伝統と申しますか、制度と申しますか、いろいろ違っております。ヨーロッパでは、特にフランスのごときは、高等学校卒業資格が同時に入学資格でございますから、非常に大量に入ってまいります。入ってまいりますが、翌年には、たとえば去年ナンテール分校なんかを視察をいたしますと、一万入ってくれば、その翌年にもう四〇%は切り捨てるということです。毎年そういうことをやるのだったら、なぜ選抜試験をやらないのだ。それはたいへんなことです、これはナポレオン以来の権利でございまして、それをもし変革するということになると、これは、またフランス革命をもう一ぺんやらなければならぬというようなことにもなりますということを、現在のギシャールという文部大臣も申しましたし、前のフォールさんも申しましたし、その現場の学長も申しているわけでございます。しかし、われわれ日本人から考えると、せっかく一万入ったのが四千人も切り捨てられるのだったら、前の段階で切り捨ててよさそうなものだと思うのですが、そこはそうはいかない。しかし逆に今度は、その悩みもあるわけなんで、それだけ入ってくると施設設備、教官も一応は用意しなければならない。二年、三年になれば、それはある程度しぼんでくることも統計的にわかるわけでございますから、それで済むといたしましても、まあその辺の問題がございます。しかし、たとえば医科とか工科とかある種類の学科については、最近むしろ日本でやっているような試験もいたしましてセレクトしているということをフランスでも聞きましたし、それからドイツでもそういうふうに漸次変わってきているということでございます。日本におきましても、選抜のやり方については、いまいろいろ改善改革をやっておりますが、しかし、これというきめ手はなかなかないのじゃないかというような気がいたしているわけでございまして、いろいろなものをやはり総合した選抜制度というものを新しく生み出したい。それから、やはり一たん大学に入ったら、もう出してしまうのだというような安易な考え方ではなくて、もう少し——それはヨーロッパ等で行なわれているようにまではいかないにいたしましても、ほんとうに実力のない者はどんどん留年をさせるとか出さないとかいうようなことは、むしろ考えていかなければならないのではないかと思いますが、全体としては、やはり日本は日本のいろいろな習慣もございますし、それぞれ国によって違うように思うわけでございます。
○受田委員 高校のほうもそうですけれども、大学の場合も夜間の大学で勉強できる——国立大学でいまあるのは、広島と横浜に夜間部があるにすぎない。県庁の所在地に国立大学がそれぞれあるはずでございますから、その国立大学で経費がかからないで夜間の学部で勉強できる、勤労学生のために門戸を開く、これは非常に大事な問題だと思うのでございます。国立大学のりっぱな施設が、夜開放するとこわれるかというと、夜学ぶような学生のほうが、学校を破壊するような考え方をしない。昼間働き夜学ぶ学生は学校を大事にする。そういう意味で、これは各県一つ一つの国立大学に夜間部を設置して、勤労学生のために門戸を開くという大方針を打ち立てるべきだと私は思うのです。そうすると、つまり大学の門が、昼間と夜と両方開かれるわけなんです。学生が夜のほうに殺到すれば、同じ大学の施設を二重に使えて、建物を別に増設しないで教育が倍できるということになるわけです。経費の上でも非常に節約できるし、人物も大量に養成できる。むしろ勤労しながら学ぶという意欲を持った者に良質のものが発見できると私は思うのです。私の提唱に間違いがあれば間違いだと言ってください。賛成なら賛成と言ってください。具体的な施策の上にあらわすならあらわす、こういうことでお答え願いたい。大臣でなくて事務的に……。
○村山(松)政府委員 国立大学の夜間部につきましては、御指摘もございましたように、あまり多くはございません。ただ二つという御指摘でございますが、現在四年制の大学で九大学で十二学部できております。御指摘の横浜と広島のほかに、たとえば室蘭工大の工学部、それから名古屋工大の工学部、それから大阪外語大学の外国語学部、それから大阪教育大学の教育学部、これは教員養成でございます。それから神戸大学では法学部、経済学部、経営学部、三学部とも夜間部を設けております。それから岡山大学の法文学部及び九州工業大学の工学部でございます。合計九大学の十二学部に夜間が置かれております。そのほかに短期大学にいたしましても、国立の夜間の短期大学は二十ございまして、入学定員にいたしまして三千百二十名でございます。このように文部省としては、夜間部の必要性は、勤労青年教育の観点から必要と認めまして、大学に対しましても奨励して、漸次ふやしてまいっておりますけれども、問題は、大学としてはやはり教育研究ということからいたしまして、夜間の教育まで持つと負担になるということで必ずしも喜ばない傾向がございますし、また勤労青年教育というたてまえでやっておりますが、場合によりますと昼間の学部に入れない者が入ってくる。つまり職業を持たない者が夜間部に入ってくる。その間に教育上の調和が必ずしも保たれないというような問題点もございます。そのような問題点をできるだけ解消しつつ、夜間部につきましてはできる限り拡充いたしたいという気持ちは持ち、かつやっておるわけでありますけれども、その点不十分なことは御指摘のとおりでございまして、なお努力いたしたいと思っております。
○受田委員 そうした夜間部を幾つか持っている。私近いところですから広島はよく知っている、それからこの近くは横浜もよく知っているからいま二つを指摘したわけですが、そのほか合わせて九つあるそうですけれども、私は、大体国立大学は県庁所在地に一つあるいは大都市にあるわけですから、そこでは勤労学生が必ず五十人や六十人が勉強したい意欲に燃えていると思うのです。それに教育の機会を与えてあげるという意味で、全国的に、ある特別の事情があるところは別として、大学は夜間部を各府県単位で一つずつは持つ、こういう配慮をするようにしてはどうか。今度都立大学にも夜間部を設けてもらいたいという要望も出ているわけです。これはまあ今度都知事がそれを実現する時期がきておると思いますけれども、それは地方は地方として、国立が夜間部を持つというのは勤労者に非常に大きな希望を与えるわけなんです、安上がりで勉強ができるわけだし、施設もりっぱなところで勉強ができるわけですから。そのほかに増置計画はないのですか、いま。
○村山(松)政府委員 一般的な問題といたしまして、夜間部につきましてはできるだけ拡充するように努力はいたしておりますけれども、四十六年度具体的な計画は持ち合わせておりません。
○受田委員 大臣もう一度。これに関連するのですが、定時制教育とよく似通っているのですが、私立大学に通信教育がある。そこでは夏休みなど学びに来る学生がある。そうすると、雇用主がそれに対してほんとうに持持ちよく歓迎してくれればいいが、仕事の都合であまり歓迎しないのが多い。このスクーリングに対して何かの助成、あるいは雇用主に対して、勤労学生に対する便宜を供与せよというような指導は加えておるのかどうか。通信教育制度を設けておる以上はそうした——大学学術局長のほうから答弁してもらった上で大臣に結論を出してもらってもいいんですが、スクーリングの際における雇用主の便宜供与というものをもっと親切にすべきじゃないか。私数多く事例を知っておるんですけれども、まるで人目を避けるようにして勉強する青年がたくさんあるのです。雇用主がどうぞ行ってくれというて歓迎しない。そうした私立大学が持っている通信教育制度を国が認めている以上は、それに対して何かの財政的な手だてもしてあげるべきではないかと思うのです。つまり通信教育に要する本人の経費、宿舎その他の便益等を含めて、その大学の問題だけでなくして、国として通信教育に寄せる考え方を聞きたい、こういうことでございます。
○村山(松)政府委員 通信教育の在学生の実態を見ますと、比較的多いのは公務員、それから教員、教員もまあ公務員の一種でありますが、自衛隊の隊員、それから日本女子大の家政学部のごときは性質上主婦ということで、御指摘のように民間企業の雇用者は公務員に比べると少のうございます。そこら辺に通信教育に通う便宜供与の点で問題があろうかと思いまして、文部省としても、機会がある場合には便宜供与の要請をしておるわけでありますけれども、これまた必ずしも十分でございません。 ただ、問題を一つ指摘いたしますと、通信教育にいたしましても夜間にいたしましても同様でありますが、雇用主としても、従業員がそういうところに通うことによって知識、能力を高めるということが企業の労働力の向上にもつながるというような観点がございますと、教育に通うことについて歓迎するというような傾向も出てまいります。そこで、企業と教育を受けることが両立できるような方向で考えるということも一つ必要じゃなかろうかと思います。 なお、さらに経済的な便宜供与といたしましては、日本育英会のほうで、通信教育のスクーリングに対しましては特別額の奨学金を若干でございますが出しております。
○受田委員 育英資金の問題が出たから、それにちょっと関連するのですが、国立、公立、私立にまたがって、ごく最近の統計で、学生数と育英奨学金の支給者数との比較を承りたいと思います。
○村山(松)政府委員 これは四十四年度の日本育英会の育英資金の貸与状況の締めくくりでございますが、日本育英会におきましては、御承知のように奨学生の採用基準といたしまして、本人の成績と経済的な困難度と組み合わせました採用の基準を設けております。長年やっておりますので、大体基準に当てはまって採用される者の実績というものもございます。大体その実績をもとにしまして、各学校種類別に配分をいたしておるわけでありますが、四十四年度の貸与人員は約三十二万でございます。うち大学の分が十八万六千でございます。十八万六千の内訳といたしまして、国立大学の一般が三万人、それから特別貸与が約四万人、それから公立大学の一般が約八千人、特別が五千人、それから私学の一般が約五万四千人、特別が一万七千六百人というような内訳でございます。そのほかに教員養成関係はまた若干特別の配慮をいたしております。国立と私学ということで申し上げますと、一般と特別合わせまして国立が七万一千人、私学も大体七万一千人という内訳になっております。
○受田委員 これがちょっと問題がある。何年前かちょっと私はこれに触れたことがあったと思うのですが、その後の情勢の変化が多少あるように思うのです。国立に学ぶ学生の総数と私立に学ぶ学生の総数、私立には表面の数字と裏の数字があるということがあるとするならば、それを含めて国立の学生数、私立の学生数を、文部省が把握している数字をお示し願いたいのです。
○村山(松)政府委員 四十四年の時点で申し上げますと、国立大学は二十一万六千人、私学は百二十一万四千人という内訳になっております。
○受田委員 そこで国立二十一万に対して七万、三人に一人奨学金をもらっている。私立は百二十 一万の中で七万しかもらっておらぬのでございますから、これは十七分の一、十七人に一人しかもらっていない。国立は三人に一人、私立は十七人に一人。私はこの奨学金というのは、家庭の困難度とか経済的な事情、成績とかいうものについては、そう公立と私立は大差ないと思うのです。 そこで、成績という点について、大学の成績ということになると、国立に行く学生のほうが私立と比較したら成績がいいという、そういう比較論はこの場合は成り立たない。その大学における成績を中心にいくべきであるという意味からいうと、国立に学ぶ者が三人に一人の奨学金をもらっている、私立は十七人に一人しかもらっていないというのは、大きな国立優先の原則がここに出ておるように思うのですが、これはどういうところに差が出ておるのか、ちょっと御説明願いたいのです。
○村山(松)政府委員 先ほど御説明申し上げましたように、育英会のほうで、成績と経済的条件につきまして基準を設けております。それで実は長年やっておりまして、ある程度実績が出ております。実績を基礎にいたしまして最近の傾向で修正しながらやりますと、結果的にはこういう数字になっておるわけであります。
○受田委員 これは一つ問題があるのですよ。実績をもとにしてやるというその実績は何の実績をもとにしておるのか。生活の困難度、これは何を基準にしておるのか。つまり国立に学ぶ者は三人に一人もらい、私立に学ぶ者は十七人に一人、これは設立者の差によってこういうふうなものができ、そういう学校別の成績によるのか、あるいは全体でどこかでその成績の基準をきめるものがあって、それをもとにしてやるのか。つまり成績というのは大学別の成績かどうかですがね。
○村山(松)政府委員 成績と申しますのは、大学においては一年次から採用いたします。そして少なくとも特別貸与の奨学生につきましては、高等学校の成績のほうが最初においては選考の要素に強く作用いたします。そういうことから実績ができてまいるというのが一つでございます。 それから、国立と私立とで現在数が非常に離れております最大の原因は、成績や経済的条件もさることながら、実はこの貸与人員の総数があまりふえておらないということに原因がございます。つまり貸与人員が逐年それほどふえないのに学生数のほうはふえておる。特に私学において学生数の増加が著しい。その結果国立と私立との育英会の採用人員が非常に開いた、こういうことであろうかと思います。
○受田委員 そこに一つ問題が発生しておると思うのですが、第一年度は高等学校のときの成績を基準にしてやる、これはわかる。事実そういうことは言えると思うのです。ところが、二年、三年となってくれば、その大学で奮励努力した成績によっていくべきであって、高等学校のときの成績がいつまでもついていくべきではない。それから、基準を国立何名、私立何名というある程度の大ワクをきめるべきであって、育英会まかせというところに一つ問題がある。つまり国立が従来三人に一人であるならば、私立も原則としては三人に一人でしかるべきである、私立大学でそれぞれ奮励努力する者にも、国立大学にあって勉強する以上に希望を与えなければならないわけですから。学校によってこれだけの差がついておる。つまり五倍以上の差がついておるのです。国立に学ぶ者は三人に一人、私立は十七人に一人しかもらえない。十七人に一人とすれば、ある程度くじ当たり運というような比率になってくるわけですから、せめてこの点は——私立のほうがだんだんふえた分はワクが広がっていない、国立のほうは現状でふえていないので、ワクは依然として残る。私立は前の実績で、人数がふえているのにいつまでもふえない。これが問題なんだ。つまり総数に応じた育英資金のワクをきめるという方針に切りかえるべきじゃないか。これは大臣、公私立の処遇の問題の基本に関係があるのです。つまり私立学校のほうはどんどん最近ふえておる。ところが育英資金のワクはふえない。国立、私立のワクはそのままで来て、人数がふえた割りに私立に行かぬ、こういう消極的な、まるで明治時代の遺物のような御答弁を大学局長がしておられるのだが、やはりふえたら、ふえたに応じた人数をふやすべきだと思うのですが、いかがでしょうか。
○坂田国務大臣 その点いま私聞いておりまして、ちょっと問題があるように思います。もう少し検討をさしていただきまして、もしそういう意味の不均衡が正せるものならば正したいというように考えます。
○受田委員 その均衡を正さなければならぬのです。これは明白なんです。つまり文部省が非常に消極的な、従来の明治時代の数をもとにしたようなかっこうで考えておられるので、社会に対して貢献をしておる人材は、私立のほうが学生数においてもいまのような六倍も倍数があるのに、国は同じような育英制度の同じ人数しか、七万ずつしかやっておらぬ。これを世間に公にしたら、私学に学ぶ者に対して失望させますよ。こういうものを明らかに数字の上で示すと、そうかということになって、国が国立にばかり力を入れて——同じ奨学金を出すならば、やはり人数というものを原則に考えて、その人数の中で、その大学の中で奮励努力をする者に大いにやるというかっこうでいくべきだ。高等学校のときの成績を最後まで持っていくような考え方に、一つの文部省の古い指導精神、まだ明治時代の精神が残っておる。これは私としては、いま数字が、数年前に私が指摘したときと比較して一向に改まっていないだけでなしに、私学の数がぐんぐんふえておるというのに一向に配慮していないことをきょう初めて数字の上で確認したのです。大臣として、この公立、私立、国立の大学に対して国が公平を期しようとするならば、育英資金の点で公平を期してあげる、これが一番手っとり早い公平を期する問題ですよ。助成等の問題が私立学校にきびしい現状においては、この道が一番手っとり早いお手伝いの方法である。 そこで格差解消の問題として、国、公、私立の格差問題の一として、私一つだけ具体的に例を引いてみたのですが、大学を一握りのエリートのためにのみ開放すべきものではなくして、国民のための大学ということは、しばしばいままで大臣も私のそういう意味の質問を聞いていただいておると思うのですが、ここでひとつ市民大学、つまり一般の市民のための大学という問題を考えるべき時期が来ておる。つまり教養の問題、国民全般の教養を高めていく、芸術的にも科学的にもぐんぐん国民大衆を成人教育という立場から高めていくために市民大学を設置する、そういう意味で、その市民大学には、国立大学も適当に開放されるように、そうした公の機関が、たとえば、市が、あるいは町村が主催する、あるいは特別の社団あるいは財団というような法人が計画するときは、大学の施設が、ごくわずかな使用料等で開放されるような、いわゆる市民大学の設置に文部省はどういう夢を持っておられるか。国民のための大学、つまり国立大学を国民のために開放する。また、これは当然私立にもそれを勧奨すべきであるのですけれども、この私の市民大学の設置と、そういう国立大学の施設の開放という問題についての御見解を承りたいと思います。
○坂田国務大臣 これは生涯教育の段階に入りますと、いま先生御指摘になりましたような形において大学が市民に対して研究の成果を還元していくということは、当然出てくるのじゃないか。中教審でもそういうような考え方を実は持っておるわけでございます。そのはしりと申しますか、すでに大阪大学におきましては、昨年も、それから一昨々年でございますかも、市民大学講座という公開講座を始めまして、昨年度は私その開議式に参りましてあいさつもしましたし、また、私も直ちに今度は一市民になりまして講義も聞いたということでございましたが、非常に熱心に聞く人たちが多うございます。それは中堅の三十歳前後の人たちも多うございますが、中には相当の年をとった人たちが来ておられるということでございまして、各大学がこういうようなことをまず考えていくべきではないか。それからもう一つは、放送大学が四十七年度以降発足をする、こういう形でそういう機会が与えられる。またそれに対するカリキュラム等をわれわれは考えていかなければならぬということでございまして、これからの大学、つまり国民のために開かれた大学というもののあるべき姿は、いま先生の御指摘になりましたような方向へ進む、また、そういうふうに考えていかなければならないというふうに思っております。
○受田委員 坂田先生が下松へおいでになってお話をされたことがあります。私そこへ聞きに行った人の話を、文部大臣としてお話になられたことも承ったのですが、別に教育の中立性を侵した意味の発言ではありません。あなた御自身がそうした大衆の中へ飛び込んだあいさつ——そこへ集まるのは自民党的な人たちでなくて、文部大臣という立場であれば、各党の人が文部大臣に、文部行政やらいろいろ道徳の話を聞こうじゃないかということで集まってくる。それ自身がもうりっぱな市民大学、そういうふうにしなければならぬ。ところが、実際はそういう計画をする人が、大臣が来られるということになると、教育委員会とかあるいは男女の青年団というものが共同主催でやればいいが、やはり自民党の方々がその計画の主催をやるということになってくると、集まってくる者がやはりそういう類は類をもって集まってくる危険があるわけです。そういうときには、できるだけ市民大学的な性格をもって大臣が行かれる。それからまた、それに対しては文部行政の経験のある野党の支持をする立場の人も行くとか、こういうふうに一党に偏しないで大衆をリードしていくようにしなければならぬと思うのですね。ここに非常に大事なことがあるので、市民大学の性格は、広く、たとえば青年の家においてもそうです。文部省が特定の政治的な色どりのないかっこうで、そこできわめて公平を期する努力が要ると思うのですが、これは社会教育関係の問題になってくるので、担当の局長はきょうはおられないから、大臣に答弁をしていただきますが、そういう配慮を欠いたときに、つまり教育の中立は自民党の政策をとることが教育の中立であるというような印象を国民に与える、こういう危険があると思うのです。その配慮は大臣しておられますか、どうですか。
○坂田国務大臣 私自身といたしましては、就任以来、少なくとも文部大臣というからには、そこの中に共産党の人がおられようとも、あるいは社会党の人がおられようとも、あるいはテープにとられても、印刷にされても、ちゃんといいような話をすべきであるというふうに心がけております。
○受田委員 お互い、いまごろ情報化時代ですから、演説もかりそめにできない時代が来たわけなんです。小林先生の先例もあってね。小林前法務大臣も、ここではしばしば何回かお目にかかっておるし、個人としても性格のすかっとした人に見えるけれども、そういう不用意な発言問題も起こってくる。ところが、おやめになるとちっともそれが反省しておられない発言になってきておるというところに非常に問題がある。大臣として非常に公平を期しておられる心組みというものは、あなたの発言の内容を私は伺っておりますが、大体いいと思います。いいと思いますが、ただ、その扱いをした方々が事前にそういう方向の扱いをしたかっこうになってきておるのに、だれでも話を聞きにいくことがむずかしい。お世話する人が自民党的な人がお世話する。教育委員会だけに純粋に限っておくとか、一切党の者は関与するなというような形になればいいが、そういうところはやはりやむを得ぬ事情もある、政治家でいらっしゃるのだから。だから、やむを得ぬところもあると思いますが、大臣として常に心づかいをそこへおいておられるということは一応認めさしてもらいましょう。 そこで今度は、社会教育に関係して小、中学校の問題に触れていく問題が起こってくるのですが、生涯教育をこれから扱います小学校、中学校の教員の定数、学級の生徒の定数、そういう問題が、文部省としてはきわめて全国画一的に行なわれておる危険がある。過疎地と過密地の配慮というものにもっと積極的に取り組む必要がある。特に過疎地域は人がどんどん減ってきて、山間僻地などは、さっき指摘したようにお年寄りだけがばかに多くなって、年寄りだけの比率が高まって、子供や若い者がおらぬようになってきておる。しかし、そこに何人か学童がおるわけです。そういう地域には学校は廃止されて指導者はいないというようなきびしい現実にぶつかっておるのですが、学校の教員の定数、学級の生徒の定数について、すでに四十四年から進行中の五カ年計画で一学級四十五名の目標で前進しておる過程において、この四十五人の完成した時点で——昭和四十八年です、その時点で、四十五人になる学級がどれだけあって、それ以下のものがどれだけになるめどを持っておられるのか。人口の動態が突然変異があるかもしれぬが、一応形の上で四十五人という昭和四十八年の目標時点の定数できまりそうな学級の数と、それ以下の数と、それから平均的にはどのくらいのところになるかをお答え願いたいのです。
○宮地政府委員 四十八年度には御承知のように四十五人以上の学級は解消されます。ですから、すべて四十五人以下ということになります。 いま、たいへん恐縮ですが、先生の突然の御質問ですからちょっと詳細の数字があれでございますが、現在四十万学級のうち、四十一人以上の学級が十二万学級ございます。したがいまして、残りの二十八万学級は現在でも四十人以下ということになります。大体そのくらいの比率でございますから、四十八年度、二年後のあれは、四十人以下が二十八万学級、四十人から四十五人が十二万学級、大体そういった比率で間違いなかろうかと思います。
○受田委員 その数字は、複式学級の数字を含んだ学級かどうかです。
○宮地政府委員 複式学級を含んだ数字です。
○受田委員 外国では、この複式学級というのが案外多いと思うのです。つまり、人数の少ないところはまとめてやる。いま複式学級はどれだけあるか、文部省がつかんでおる数字をお答え願います。
○宮地政府委員 日本では、小、中合わせまして、概数で恐縮ですが、約一万五百学級が複式でございます。
○受田委員 その複式学級というのは、日本では問題が一つある。つまり、非常に寒村になった、それで、人数が少ないから、一年が一人、二年が三人とか、三年が五人とかいうかっこうで先生がやっていくわけなんです。その先生の苦労は、これはたいへんな苦労なんです。寺小屋式、塾式教育になる。そういう教育を担当する人に対する処遇はどうです。複式学級を担当する先生の苦労、つまり学年別の勉強を三様に分けてやるという苦労に対する手当というのはできておるかどうか。
○宮地政府委員 一般にそういう学校は僻地にございますので、僻地学校の先生の僻地手当でございます。それに、単級複式であるか、あるいは三個学年複式とか、御承知のように複式もいろいろございますが、それに応じまして、いわゆる多学年学級担当手当、特殊勤務手当としてのそういう手当が出ております。
○受田委員 多学年学級担当手当、ちょっとその数字を示してくださいませんか。
○宮地政府委員 いわゆる単級複式、一年生から六年生までのが、四十五年度までが百二十円でございましたが、それを百七十円にいたしました。それから、二個学年を一緒にいたしますのが、七十五円が百十円、三個学年を一緒にいたしますのが、九十円であったのを四十六年度から百三十円、そういうふうにいたしております。いま申しましたのは日額でございます。
○受田委員 日額の計算ですが、その日額の計算は、勤務する日だけですね。つまり、日曜は省くのかどうかです。
○宮地政府委員 先ほど申しました日額へ二十五日を掛けております。
○受田委員 そこに問題が一つある。つまり、百三十円へ二十五を掛けたって三千円程度です。そういう程度でこの多難な複式学級をやっていく。僻地手当だとか隔遠地手当というのが別個あったとして、なおかつ、その三様の教育の準備をしなければいかぬ。これはたいへんなことです。聖徳太子です。単級などになると、六年を全部やらなければならない。六つの頭が要るわけです。その先生の苦労というのは、これはたいへんなものです。そういう先生たちに対する金額——いま多少日額は上がっておるけれども、何かもっと別に御苦労に謝する方法はないでしょうかね。
○宮地政府委員 ちょっと先生のお尋ねの直接のお答えにならないで恐縮ですが、四十四年に、第三次五年計画で教員定数の整備をいたしました。そのときの考え方といたしまして、それぞれの複式をつくります場合のやり方で、クラスの学級定数を、たとえて申しますと、小学校の三個学年複式は、二十五人を基準としておりましたが、それを十五人で一クラスといったようなことで、複式の一クラスの子供の数を減らすということと、それから、単級複式、一年生から六年生までを一緒にするというようなことを四十八年度には解消する、それから、五個学年、四個学年までは解消して、三個学年複式以下にしたい、そういうことで、直接教員の多学年学級担当手当のアップも今後考えていきますが、基礎としてそういったくふうもいたしております。
○受田委員 単級で一年から六年までをなさる先先などは、いま上がって百七十円、これは一年から六年までを全部自分で勉強して当たらなければいかぬので、たいへんな苦労ですよ。普通の者にはできない。これは相当熱心で愛情がないとやれません。六年分を一挙にやる。先先、そう思わぬですかね。(「そう思いますよ」と呼ぶ者あり)そう思うでしょう。一年から六年までの勉強を、人数が少なくてもみんなやらなければならぬ、この苦労はたいへんなものだからね。ほんとうは、これは一人といえども一人の先生がやるというのが当然ですが、いま、単級を廃止して三個学年以下にするという方針をお話になったということは非常に前進です。私は前から、この問題は非常に残酷物語、一年から六年までを一挙に受け持つ単級の先生というものはたいへんだと思っておったのですが、それを今度半分以下にせられるということは一歩無進。四十八年からそれを整理されるということですが、せめてそういう先生に対しては——人数が少なくても六年分を全部勉強しなければならぬ。また、そこでもし先生の努力が足らなかったら、そこで学ぶ生徒は、学童は、先生がいいかげんに教えてくれた生徒というものになる、一方で教えながら一方で自習させておくのだから。単級で卒業して偉大な人間になるということになれば——わが党の西尾末廣前委員長は単級で鍛えられて、それから今度香川の本土へ渡って初めて一人前の勉強をさせてもらった、と島の生活をいつか私に話してくれたことがあったが、複式学級というときは先生が、特に六年などのときには、つまり同じ時間に六様の教育をせなければいかぬのだから、自習がほとんどになってくるんだね。これはたいへんなことなんだ。日本国民にそういう犠牲をつくってはいかぬから、私はそういうところは少なくとも二組の複式程度にしておくのが精一ぱいだと思うのです。これは先生が不幸であり、子供が不幸です。だから相手の人数にかかわらず、教員定数は確保するというかっこうでもっていくべきで、あまり人数の少ないときには、せめて二学年、複式を二つくらいにとどめておくようなかっこうにしていく、こういうところで文部省は配慮していく、いま三学年というようなお話ですが、漸次そういう方向で計画はあるのですかどうですか。いままでこういうことを質問した人は、文教委員会でもあまりないのじゃないかと思うのだが……。
○宮地政府委員 四十八年度までに三個学年複式までに直していきたい。ですから、たとえば一年から六年まで一人ずつで六人の小学校があるとして、二クラスになって三人ずつというふうにいたしたい。それで、私どもこれで十分と思いませんので、四十九年度以降教員定数をどのようにしていくか、いろいろ検討課題がございます。クラス四十五人というのをもっと下げるとか、あるいは事務職員をふやすとかいったようなことでいろいろしなければならないことがございますので、いま直ちにこうするとは申せませんが、複式学級を先生がおっしゃるような趣旨に、もっと子供のため、教員のために、教育が十分受けられるような方向に検討していく、その課題の一つであるというふうに考えております。
○受田委員 これは人権尊重の政治の上から、大臣、単複学級というのは御認識されたと思うのです。そういうのがあるのです。一年から六年まで一人の先生がやる、これは悲劇ですよ。そこで教える先生に、たとえば音楽のへたな先生がおる。そうすると、西尾先生は、おれはもっと声がよかったのに音痴になったのは、そういうときに先生が音楽を教えてくれるゆとりがなかったのだと嘆いておられた、いい先生だったがと。そういう悲劇があるのです。これは教育上の大問題であるというので、私としては、一人といえどもそれに先生がつきっきりで寺子屋式でやってあげる、そのためにいまちょっと局長例示された事務職員というものをひとつ増置しなければいかぬ。たとえ人数がいかに少ない学校でも一つの学校ということになれば、事務職員を一人置く。それから養護教諭を一人置く。これはその地区の大衆のためにも、お医者さんが間に合わぬというようなときには養護の先生がちょっと手当てをしてくれる。どんな小さいところでも養護教諭は必ず一人置く、どんな小さいところでも事務職員は一人置いて、そういう補助をしてもらう、こういう方針はその後どういうふうになっておるのですか。
○宮地政府委員 理想といたしましては、先生がおっしゃいますように、一人二人の子供しかいない学校でも先生と事務職員がおる、あるいは養護教諭がおるということ、それに私ども異存ございません。しかしそれは高い理想としてそういうことを頭に描きますが、現実の問題といたしましては、そこの形に到達するまでの努力といたしましては、四十八年度までに完成いたします計画では、養護教諭は小学校では八百五十人の生徒に対して一人とか、あるいは事務職員は小学校ですと三百五十人に対して一人とかといった積算はいたしております。それでは、八百五十人に一人では小規模学校へはいかないではないかということができますので、今回の計画ではその点を考えまして、僻地学校の一定の数に対して一人とか、あるいは無医村地区には一人とかいったような補正数を考えまして、一応四十八年までの形はそれでいく。それから第四次五年計画におきましてはそれをもっと詰めていくということで、理想としての先生の御趣旨に反対は毛頭ございませんが、そこまでいくまでの過程におきましては、以上のような年次計画を立てつつ進んでおるわけでございます。
○受田委員 大臣、これは国策の基本になる問題としてあなたがお取り上げ願いたいのです。いいですか。僻地で戸数が十軒か二十軒しかない、子供が二人か三人しかおらぬ、そこへ養護教諭を、人数は少なくても一人は置く。いまは養護教諭に例をとるが、そうすると、その十軒なり二十軒なりは無医部落で無医村にもならぬ、つまり末端の一単位にすぎない小さな部落、そこに養護教諭が一人おられるならば、学校の子供だけでなく、十軒なり二十軒の部落に、お医者さんに電話をかけて来てもらうのもたいへんなときに、急病だというときに、医師の手当ては養護教諭はできないけれども、ちょっとした処置はできる、またちょっとけがしたというときなどは養護教諭さんがお医者さんにかわってすぐ処置ができる。養護教諭の資格をとるのには準医師程度の教養は身につけておる、技術をつけておる人だから、そういうのが十軒なり二十軒なりの部落に一人ずつおるということは、これは学校教育だけでなくして、その部落に白衣の天使がおいでたような光明としてその地域に光ると私は思うのです。それを文部省が考えてあげて、部落に一人の養護教諭が出ることでその地区の人は人命に非常に大きな希望を持つ。お医者さんのいる部落は二里も三里もあるところへ、今度学校へ養護の先生が来られた。この部落はちょっとぐあいが悪いときにはこの先生にやってもらうのだというようなことで——私がかつてモンゴルを訪問したとき、五年前ですが、あそこには大医師、小医師というのがある。大医師は普通の医師、小医師というのは看護婦さんのことです。その大医師と小医師、そして体質が極度に悪化したモンゴルが、独立後五十年にして、スヘバートル以来五十年の歴史において、遂に、共産圏であるが、モンゴルの国民の悪い体質を改善したのです。私はそういう実績をながめてまいったのです。これは普通はモンゴルへ行けませんよ。簡単には行けない。まだ国交が回復されていない。私はそれを特別に行かしてもろうた。そういうことでモンゴルの小さな部落には小医師がおるのです。そしてその小医師がその地区の健康を守ってあげた。だから日本の国にも、過疎地の小さな学校にも養護教諭を——八百五十人なんていうくだらぬ基準を設けないで、もう一学校一養護教諭は必ず置くという基本線をきょうからでも私は立ててもらいたいと思うのです。これはその地区の社会教育にも関係する、社会保健にも関係してくることです。大臣、これは英断をされたい、そうたいした予算ではないですよ。学校単位に必ず養護教諭を一人置くということはすぐ予算化されたらいいと私は思うのだが、どうですか。いまちょっと予算的な積算の基礎をどういうふうに置かれるかは問題として、一学校に一人ずつ養護教諭を置く。町場ではいいとして、つまりその周辺の医者のおらぬところへ養護教諭を置くという数字だけでもいいのです。いわゆる小医師です(「趣旨賛成」と呼ぶ者あり)賛成だという党派を越えた賛成意見がわき起こっておるのであります。
○宮地政府委員 現在三万二千校といたしまして、一万七千校には置かれておる。そういたしますと、残りの一万五千校には置かれていない。先生の御趣旨によりますと、全部置くとすれば一万五千人をすぐということでございますので、教員の給与平均が年間一人百二十万円ですから、百二十万円の一万五千倍というと何億になりますか、そういう数字になります。
○受田委員 その程度ですね。ただその中でその周辺にお医者さんのおるところはいいです。お医者さんのいない地区、つまり無医村でそうした小さい学校、これはお医者さんの恩恵に浴しないのだから、つまり厚生行政に——坂田先生は厚生大臣やられたでしょう。あなたは両方やられただけに、いま私の提案していることは非常にあなたに共感いただけると私は確信しておる。無医村解消という前提としても、養護教諭というのは、これはその地区でそうした準医師、小医師の任務を果たすという意味で、その地区だけを対象にされて配置されるというこの措置をやられたら、これは愛情ある名文部大臣になって一挙に令名が天下に響くようになると思う。やってくれませんか。これはそうむずかしいものじゃない。無医村に当たる学校がどれだけか。
○宮地政府委員 無医村に当たります学校が百十九校ございます。これは先ほど申しましたように、無医村地区には一人の養護教諭を政令で積算することにいたしております。したがいまして、無医村地区に養護教諭が一人ずつは四十八年度までに行き渡るということにはなります。ただ先生がおっしゃいますのは、部落、村におっても、へんぴの部落にはというそこまでですと、ちょっとどのくらいその部落がございますか、あと計算しなければわかりませんが、それにおことばを返すわけではないのですが、実は養護教諭の仕事は、先生も御指摘になられましたし、もちろんおわかりですが、やはり医療行政と教育行政、形といたしましてはやはり養護教諭は先生、教師で、医療に従事するということはできませんので、そこのところを、住民の気持ちはわかりますし、現実に即してその養護教諭はお手伝いされると思いますが、まっこうから医療行政のために養護教諭ということになりますとちょっと、反対ではございませんが、いろいろ混乱もございます。ただ実質的には無医村ということを考えて養護教諭は積算はいたしております。
○受田委員 私は、無医村へ養護教諭を百十幾つ回したと同じように、無医部落、しかも無医部落は距離が離れている、そこにある学校ですよ。つまり一里、一里半も離れているところでお医者が間に合わないから、養護教諭だからちょっとした手当てはできるのです。そのために養護教諭というのは養護という名前がついておるので、だから血をとめる、ちょっとしたけがの軽い手当てはできる。また人間のからだの構造も一応勉強しておる人なんですから、教育者であると同時にちょっとした手当てができるために養護という名がついている。その点、そういうほんとうに離れた部落は実態調査をしていただいて、そういうところは急いでいまの無医村へ養護教諭を派遣したと同じような形で、そのスケールをもっと広げていただくということを私は提案しているのです。大臣、おわかりでしょう。あなたは厚生行政と文部行政を一緒にやられるた人だから、両方つながりがあるのですから、ぜひその点をひとつ考えていただきたい。 そこで大臣、今度は医学部のことですが、大学のインターンというものは、これは国立大学のインターンの研修の手当と、それから私立大学の附属病院のインターンの手当が違うという問題があるのです。これは手当は基準を一つにすべきではないかという要望に対して、つまりインターンは、私立の大学の附属に行っても国立の大学の附属に行っても、やはりインターンとしては研修のための経費を同率にしてあげるという配慮をしておるかどうか。
○村山(松)政府委員 御案内と思いますけれども、医師法の改正によりまして、インターンというものはなくなりまして、大学卒業後直ちに国家試験を受けまして医師になります。ただ、二年程度の研修が望ましいこととされまして、研修に従事した場合には、それを報告するという制度に相なっておるわけであります。それにいたしましても、これは医師の資格を取得した後の研修の問題でございますので、所管としては原則としては厚生省ということに相なっておるわけであります。ただ、国立大学の病院でそういう研修に従事する者につきましては、便宜文部省でそのための謝金なり手当を計上するということでここ二、三年来やってまいっておるわけであります。そこで、結果的に私学の者につきましては、原則どおり、厚生省のほうで配慮をされる。実質的に大体同等にするという考え方でやっておるわけでありますけれども、国立の場合には、四十六年度からはこれは謝金から手当に切りかえることを考えております。それから私学の病院のほうにつきましては、厚生省でそういう研修に対する施設並びにその指導者に対する配慮という形式になっておるものですから、全く同等にはなっておりません。しかし、実質的にはなるべく同等にするように、両方協議しながらやっておるのが実情でございます。
○受田委員 いまインターン研修手当と言ったのは、医師研修手当です。速記録を直していただきたい。 つまり医師の資格を取っているので、医師研修手当に当たるわけです。それが国立の場合には大体七十万円、私立の場合は四十二万円という程度で、その差が出ておるという問題が一つあるのですね。これは謝金から払うといっても、国立は全部国費のまかないになるわけですからきちょうめんにいくが、私立の場合は大づかみでお礼をそのほうに回せというようなかっこうになって、実質的には手当として手元へ残るものは国立のほうが安全に残るわけなんです。私立の分は手当が大づかみになっておる関係で、非常に不安定です。つまり、それを払うところもあれば払わぬところもあるということで、同じ医師研修手当、従来のインターンに当たるところを、やる人で差別されるというのは、これはやはり国立大学は文部省、私立大学の附属病院は厚生省になるというところに開きがあると思うので、十分話し合いをしていただいて、同じ文部省所管の大学附属病院でありますからできるだけ公平にいくように、これは医師研修手当として、大学の附属病院という場合はむしろ大学の延長みたいなものですから、文部省が中心になってやられるほうが話がわかりやすいのじゃないかと思うのです。そういうことで、それを公正にしていただくのは、私立と国立のアンバランスを是正する問題につながっていく。 最後に、集約して大事な問題をお尋ねさせていただきます。 それは特殊養護学級というものが特別の子供たちのために用意してあるのですが、県立高等学校などで身障の坊やたちの入学を拒否しているところがあるのですね。つまり体育の時間に体育についてこれないとかいうことで、頭脳も明断だし、ほかの部分には故障のない子供たちを、身障であるというだけで公立高校などで入学を拒否している学校があります。これは文部省御存じでしょうか。
○宮地政府委員 実はつい先般、埼玉県のほうで、浦和高校を受験した子供が特殊教育対象の障害児であったということで入学を拒否されたという新聞報道がございました。そのことでございましたら存じております。そこで、私のほうで県のほうへ照会してみました。そうしましたところ、県の高等学校の入学決定にあたっては、中学から出された調査書と学校でいたします入学試験とあわせて総合判定をするということで、その子供の調査書は、もちろん体育等がほとんど見学というような形でございましたが、調査書のほうの点数は合格点より若干よいけれども、入学試験の科目の二科目ばかりが合格点よりも相当低かったといったようなことから、総合判定をして合格点に達しなかったので落ちました。たまたま結果的には、その子供がハンディキャップチルドレンであったために落ちたというふうに見られがちであるが、実はそういうことで総合判定した結果であるという報告を受けました。 それから、これは同じ埼玉県と千葉県でございましたが、その他に当たりましたところ、やはりそういった障害児が入学をしておるということで、それは調査書のほうと入学試験とあわせて合格点に達した。とかく障害児は、特に身体的な障害児は体育等が見学が多うございますが、もちろん五点評価で五点にはならないとしても、見学ばかりしておったからゼロとか一点とかいうことじゃなく、しかるべき評価がなされております。したがいまして、私どもは総合判定の結果落ちるということであればやむを得ないが、障害児であるからというので、それだけの理由で高等学校の入学試験を落とすということのないようにということは重ねて注意はいたしておきました。
○受田委員 これは全国各地にあることなんです。いまの埼玉の問題だけでないのです。つまり、心身障害児の場合は非常に条件が悪いようになっている。つまり、その子のために不幸だといって入れてくれないところが事実問題として各所にある。これは文部省だけでなく、われわれはちゃんと知っています。私の県にだってそれがある。それが起こったから、私は県の教育長以下に訴えて、この子の家庭はこういうふうな家庭でこうだといって訴えて、結局入れてもらったのがちょいちょいあるのです。私はそういうことを聞いたらすぐ行って調べてみると、成績は基準の中に達しておる。ただ、入ると体育の時間でついていけないし、本人に不幸だという理由です、理由は。これは一つの大きな問題です。そこで、足がびっこだとかなんとかいう者で、ほかの条件が足りているのに入学できないというような子供をなくするための措置として、養護学級とか、そうした特殊学級の設置を府県に義務づけて、またその数をふやしていくという基本方針は私は要ると思うのです。そういう条件が悪いだけで、しかし力は持っているという者を、特殊の教育をしながら、あるいはそういう養護を考えながら教育する学級をすべて義務づけて設置するというふうにしていくと、安心して、そのぐあいの悪い人たちに希望を与えてくれると思うのですがね。特殊学級及び養護学級の義務づけ設置ということについて文部省は前進した考えを持っておられるのですか、これをちょっとお答え願いたいのです。
○宮地政府委員 現在特殊学級につきましては、実は障害を持っておる子供——従来から特殊教育は、盲とろうというのは戦前からも日本では行なわれておりましたが、盲ろうでない、精神薄弱、肢体不自由、病虚弱、こういったようなものは、比較的新しい観点からこういった学校の設置が行なわれております。同時に、盲とかろうではないが弱視であるとか難聴であるとかいうことで、普通学級では無理だという子供には特殊学級をつくるとか、さらに最近の自閉症などは教育方法も十分開拓されておりません、そういったようなことで、基本的にまだまだ解明しなければならない点がある。これは、大臣等の御発案で今回審議をお願いしております特殊教育の総合研究所をつくったのもその一つでございます。そのことも基本的な問題であると同時に、御指摘のような特殊教育の学校、学級、これは年次計画をもって小、中学校に推進していきつつございます。ただ、そう申しましても、精薄、肢体不自由、病虚弱といった養護学校については、現在一校も県として設置してない県が二十九県もございます。そこで、第一目標としては未設置県を解消する。それからさらに、それが済んでという意味じゃなくて、それと並行して特殊学級を増設していくということで進んでいきたい。したがって、未設置県の解消は、少なくとも二、三年後には特殊学校の未設置県は解消できると思います。したがいまして、同時に設置義務を課するとかいうことも数年後には当然考えられますが、しかし、はたして一県に一校で設置義務が免れるという形式的な考え方もいかがか。むしろ実質的に、先ほど先生、無医村よりも無医部落だとおっしゃいましたように、形式だけじゃなくて実質的にも養護学校がもっと充実していく、そういうことを考えますと、いま直ちに二、三年後に義務設置ということはなかなかむずかしゅうございますが、これはそう遠からない期間において特殊教育の学校は設置義務を課したい。特殊学級につきましては、中教審の中間報告にも相当前進したお考え等もございます。そこで、年次計画をもって来年の千二百学級の特殊学級の増設、こういうことでやっておりますが、各市町村に特殊学級をいま直ちに義務づけるというのはきわめて非現実的でもございますので、十分そういうことを努力目標としつつ計画的に増設していきたい、こういうふうな考え方でございます。
○受田委員 この問題は厚生行政と常にからみ合ってくるのです。したがって、教育の機会均等をうたっている日本の憲法の精神から、自分のからだの条件が悪いばかりに教育の機会を失わしめるというかわいそうな人をつくってはいけないのです。それが一人であっても、一人のために学級をつくるべきですよ。だから、いま直ちに理想のものはと言うけれども、理想ではなくて、これは当然やるべきです。つまり、憲法の精神を生かす上においては、教育の機会均等を実行する上においては、たとえ一人といえども学級を一つつくっていく。そしてその先生に十分活動してもらうというかつとうにすべきで、ある暫定期間的には事は簡単なんです。いまあるいわゆる五カ年計画なり十カ年計画を実行する過程において、その養護教諭は、養護教諭の資格がなくても、あるいは特殊学級の特別の教養を身につけていなくても、一般の教師がそういう子供を担当してもらえばいいのです。そうすると、過疎地域において、学校が統合されたりなどして、教員が余ってしかたがない県もある。そういうところでは、先生をどう処分したらいいかということに教育委員会が頭を痛めておる。そういうところは、過疎地域になっただけにそういう国の恩恵に浴することが薄くなるのだから、せめて特殊学級などを設けさして、そこに割り当てられた先生が、たとえ特殊の教育の教養を身につけていなくても暫定的に教育を担当する、こういうふうにすれば過疎地帯における教員の過剰問題が解決する一助になると思うのです。それを私はあわせて研究してもらいたい。教育行政をつい十ぱ一からげに見る傾向があることを改めて、実情に即して問題の解決をはかられるということであれば、そういうところで問題の解決がはかられると思うのですね。 もう一つ、局長さん、私は非常に不安な点があるのです。 養護学級あるいは特殊学級の設置を義務づけるとばく大な金がかかるというお考えがあるようですが、これは金はいかようにかかっても一人の生命と教育の機会均等を実施するという上ではやむを得ぬという国策をはっきりしておけば解決する問題であると同時に、そういう問題は文教行政だけでなくして、ほかの行政面からの財政的な援助——地方交付税などをきめるときに、文教だけに限定せぬで、ほかの行政面と一緒にやれば片づく問題じゃないですか。厚生行政などで一緒にやってもらうとか、組んでやる。共同闘争です。 それからもう一つ、どの学校にもこれに似通う問題として、用務員で学校の警備に当たる人がおります。この人々も、置いているところと置いていないところがある。それから、公民館に主事を置くことができる。置くことができるで、設置義務がないから、置いてあるところもあれば置いてないところもある。町村に社会教育主事を置いているところもあれば置いていないところもある。置いているところは地方交付税で幾らか恩恵に浴するように見えるけれども、しかし十ぱ一からげにされるために差し繰られる県もあるという問題もあるのですが、文部省はこういうところをきちっとしてもらいたいことが私の願いなんです。つまり、社会教育主事は置け、それから公民館主事も置けと法律に明確にうたっておく必要があると同時に、うたわなくても、置くことができるとなったら、置かなければならぬものとして予算措置をとってもらいたい。そうすればいまのような養護学級の先生、特殊学級の先生、公民館の主事、社会教育主事あるいは事務職員、こういうものが交流できるような身分上の保護も加えながら、地方の過疎地帯の教員過剰問題が解決する。私の構想に文部省は何か共鳴できるかできぬかお答えがあると思うのです。だれから答弁してもらえばいいか、事務当局でどなたか……。
○宮地政府委員 私の所管外のこともございますが、私の過去の経験で恐縮でございますが、社会教育主事につきましては、社会教育法の改正が十二、三年前にございました。それで全市町村に社会教育主事を置きたいということで年次計画を立てまして、たしかこれは政令で人口一万人以上が必置になっておると思います。もし間違いがございましたら、訂正さしていただきます、所管外でございますので。ただそれ以下が政令で義務づけられていないということはございますが、社会教育主事は統計的にはそういうことで年次計画で相当伸びておると思います。ただ話がそれて恐縮ですが、たとえば幼稚園の教諭等も、交付税積算上は標準都市に対して何人という積算をいたしておりますが、現実には交付税上措置しているだけ置かれていないというあれがございます。先ほど申しました横浜には全然公立の幼稚園がないわけです。しかし積算上はされておる。ところが、それでは不合理ではないかということで、一応形として積算しても全然公立幼稚園を置いてないところがあまりにも激しいではないかということで、二、三年前からそれを一定数を減らすといったような、補正係数をかけるとかといったようなことで、先生の御趣旨はまことにごもっともでございますが、いまあるいは都合の悪い例だけ引いたようでございますが、交付税で財政措置をしても市町村がそれを国の趣旨どおりに行なってない。それが交付税のいいところであるかもしれませんが、そういう実態もございます。したがいまして、幼稚園を置くとかあるいは社教主事を置くとか公民館主事を置く、これは文部省としては何ら異存がない、計画的に置きたいということでございます。したがいまして、先生の御趣旨に基づきまして、テンポの早いおそいはございますが、文部省としてはかねてから努力いたしておると存じます。
○受田委員 私のお尋ねしている趣旨、ちょっとごみごみ質問したようなかっこうですけれども、大体答弁とマッチしておると思うのです。養護教諭それから公民館の主事、社会教育主事、一般の小、中学校の教諭、それから養護学級、特殊学級の担当者また事務職員、こういう者は制度上資格が変わっておっても転用して勤務させられるような、つまり養護の教諭でなくても養護学級のそういう資格を暫定措置で与えることにしたり、そういうことで教員の過剰地域を解消する問題を私は一つ取り上げてみたわけです。つまり先生を処分するのに困る地域がある。教育学部卒業生の一割も新就職者がないというような県がいま各所に出ていますけれども、そういう地域では過疎地における特別の苦労を考慮しながら、いまのような特殊な職種へ配置転換させる。その配置転換のときに資格上の問題が起こってくるが、それはある程度適当にごまかして、と言ってはいけませんが、適当な方法でやる手があると思うのです。たとえば、どこの学校でも学校図書館の司書は司書の資格がなければいけぬ。しかし司書補という分に準用するようなかっこうで、学校の先生が余ってしかたがないところでは、それぞれの学校の図書館の司書の仕事をやってもらえばいいわけなんです。そういうふうに人的資源の流用を文部省は考えてあげるほうがいい。あまりしゃくし定木に考えると人事異動というものは無理になりますからね。人事異動の流れがりゅうちょうにいくようにするためには、いまのような社会教育主事は必ず置く、公民館主事を必ず一人ずつみな置いた積算の基礎にしていけば、各町村も各学校もそれぞれ設置しますよ。全部置くことにした計算になっておらぬのでしょう。ある数しか積算の基礎になっていないんでしょう、地方交付税の交付が。つまり全部の町村に社会教育主事を置く、全部の町村に公民館主事を置く、各学校に図書館があれば図書館の司書を置くという計算になっていないでしょう。ばらばらにしかなっていないでしょう。そこに問題がある。他に流用するとかいう問題はそこから発生するのです。全面的にそれをやっておけば、置かぬ学校があったら目立つのですから、これはおかしいじゃないか、県も条例でぴしっとやらざるを得ぬようになる。全面的に法律できめられた職種を配置する、そのための地方交付税の積算基礎はそれを全部入れたものにして交付する、こういうふうにすれば問題は解決するのじゃないでしょうか。
○宮地政府委員 先生の御質問はいろいろな考えが入っておるように承りますので、ちょっとお答えしにしにくいので、あるいは御質問の御趣旨じゃないかもしれませんが、教諭定数を設定いたしますときには、現実に非常に過疎になってその県は定数が減っていくと思われましても、そういうことを十分勘案しましてなま首を切らないということを最大の眼目にやっておるわけですが、これは定数設定上の基礎です。ところが、あるいは学芸大学を卒業した人がその年に採用されないという問題につきましては、だからといってその年に定数をふやすということは、ちょっと私どものほうとしてはできない。五年間の定数というものを考えますので、五年間の先食いをしてその県がやればまた別でございます。ですから現実のなま首を切るような計画は全然いたしてないということと、それから現実にその年にそういった新規採用者を云々ということは、ちょっと別に考えたいと思います。 それから交付税の積算、これは確かに標準の人口十万の都市を一応設定いたしまして、そこには幼稚園が幾つ、公民館が幾つ、したがって職員数が幾らといったようなことで設定するのですが、その場合も、やはり法律がございます場合は、法律に根拠を置いた数字がそこで積算される。幼稚園は義務設置になっておりませんから、したがいまして、そのときは一応仮定の数字が置かれるわけでございます。あとは運用でなされますので、先生のおっしゃいますお気持ちはわかりますが、定数設定をその年その年でやるということは、国としては五年くらいの計画を立てませんとどうにもならない。五年間の先食いをなさって県、市町村がおやりになるのは自由である。 それから事務職員をやったり養護教諭をやったりいろいろということは、私どもは気持ちはわかりますが、定数をもっともっとふやしたいというときに、養護教諭は置かぬでもほかの人でも間に合うんだとなりますとちょっと計画が立ちませんし、おかしい話ですが、大蔵省としても、だれでも間に合うんならいいじゃないかということにもなりますので、ちょっとそこは、お気持ちはわかりますが、私どもとしてはやはり職種職種で定数ははじいていきたいというふうに考えます。
○受田委員 私の質問をよく理解していただいてない点があるのです。たとえば養護教諭の資格がない人がおっても、養護教諭は置かなければならぬ、事務職員も必ず置かなければならぬ、こういうふうな必ず置くということにするならば、教員が事務職員にもなれる、養護の資格のない者が——養護教諭が足らなければ早急に養成すればいいし、つまり養護教諭も置く、事務職員も置く、そして学校図書館——町へ行くと必ず学校図書館があるのです。そこには先生が兼務でやっておる。兼務でやらないで専任を置けばいいのです。専任の司書の資格がなくても司書補という制度もあるんだから、そういうふうにして置いて、必ず養護教諭も事務職員も学校図書館の職員も、それから社教の主事も公民館の主事も置くことにして、そして置く人が足らなければこれを流用していく。養護教諭を置かなくてもいいという意味じゃないのです。必ず置く、全部置く、その置くようなかっこうで、たとえば標準定数法の対象からはずれてくるのがいまたくさんあるわけだから、それを全面的にやるということになれば、その地域ごとに相当充実した職員の流用、つまり一般の小、中学校の先生をそういうところに適当に流用さしていけば、その地域は教員が余ってしようがないという問題の処理に非常に役に立つということを私いま指摘しておるので、あなた方のほうで標準定数法で教員の割り当てをする、その割り当てをしたときに、いま申し上げたような職種の分は対象に入れていないのがたくさんあるでしょう。それを全面的に入れたら教員の過剰問題が解決する一助になるということを私は申し上げているのです。それで、いまの用務員でもそうでしょう。学校警備、警備員でも置くところと置かないところがある。全部置くことにしてあるかどうか。ちょっと一例を言いますが、用務員を全面的に置いておるのか、ある特定のところにしか置いてないのかを御答弁してください。
○宮地政府委員 用務員は必置職員になっておりませんので、形式的に法律的には置く必要はございません。したがいまして、現実の問題としても小規模学校には用務員は置かれていないのが相当ございます。
○受田委員 つまり標準定数法のワク外の問題だということですね。そこで、そういうものも置いて用務員を置いていけばどの学校も警備が安全になってくる、宿日直がなくても用務員で片づく問題が起こるわけですから、そういうものも学校へ、たとえば年とって一般の先生の勤務はできないがせめて用務員でもというような人も、早くやめて用務員をやってもいいという——用務員を、小使のような感じじゃいけませんよ、学校警備員という意味で解釈していけば、やめてそれに転用できる人もある程度できるはずです。そうした意味で、用務員はちょっとこれは職種的にははずれてくるけれども、そうした社会教育主事、公民館主事、養護、事務、そういうものを全面的に置く法律改正をすべきではないか、もしそれが法律の改正がなくても、運用の面でこの標準定数法に準じた扱いとしてどこへもそれを置くというふうな措置をとるべきではないか、特に過疎地帯にそういう配慮をしていくべきじゃないか、いまの横浜の例のように、実際それを割り当てても何も割り当てる対象がない、それが零のようなところがあるということでございましたが、そういうところには、それを割り当てる分が実際に用いられていなければ取り上げればいいでしょう。もしやらなければやるように命令的に勧奨すればいいわけです。文部省の指導が悪いんじゃないですか、自治省の指導が悪い、こういうことにもなるわけで、私が要望していることは、どこの学校にもいま申し上げたようにみんな置くようにしてあげなさい、あらゆる職種がさっとそろって学校がりっぱに地域社会の柱になるように文部省は考えてあげなさい、そして教員の配置先がないといって早く首を切ったり、あるいは新卒が行く先がないというようなことを何とか解決するためには、いまのようなある程度事務職員などには適宜転用して、またもとへ戻すような法律的改正が必要ならばそれをやったらいい、それをひとつ要求しているわけです。 それから最後に、いま教育学部に人材が集まらない。各大学別に見ると教育学部が競争が一番楽です。これは教育学部を出ても就職先がない。特に中国地方などはほとんどそうです。つまり教育学部へ行っても就職先がない、先輩が教育の世界以外に行っておるという悲劇の現状が災いしておるということと、教育者の待遇が十分でないという二つの面が起こっておる。そして、さっき文部大臣が指摘された人間の尊重という点に、教育者の喜びがある程度欠けている。教師の喜びを味わうことができないということになると、教育学部へ行ってもしようがないじゃないかということで、教育学部の志願者がだんだん率が下がってくる。こういう意味から教師の優遇、それから卒業したら就職がりっぱにできる、こういうような喜びを与えるようにしていかないと、学芸大学あるいは地方の国立大学の教育学部というところへ人材を吸収することができない、またその他の大学から教員を希望する者に希望を与えることができないという問題が私はあると思うのです。この解決策はどういう方法をとればよいと思うのか。文部大臣、人間を教育する強烈な使命感に立った人を育成するためには、いかにしてよい教師を育成するか、最後に私はこれは国の大事な問題としてお尋ねしたいのです。
○坂田国務大臣 教育が非常に大事だということはるる申し上げましたとおりでございますが、そのためには人を得るということ、人材を得るということ、その点から考えまして、私はやはり教職員の待遇というものをまず考えていかなければならないというふうに思います。 それからもう一つは、教員養成制度というものをやはり抜本的にここで改正する必要があるというふうに思います。 それからもう一つは、全体としての風潮、教育という仕事が非常に大事であるということを先生たちみずからも自覚をしていただくし、また誇りを持ち、またそこに生きがいを求めるような、そういう風潮をつくっていかなければならないというふうに思っております。
○受田委員 ちょっとそれじゃあっけないんです。そのために具体策はどうあるべきか、たとえば待遇改善について教特法の改正がいま出されておる、そういう問題が一つ、それからいまのような俸給表の中で教諭はもう最後まで教諭で一本の俸給表がある、これをさらに一階級上げて教職の最後を飾ってあげるとかいうふうな俸給表上の処遇改善、それから精神面に非常に希望を与えるようなやり方は具体的には何があるか、そうした具体性を持った対策というものを持たぬと、ただかけ声だけじゃ教育界に人材は吸収できない、こう思うんですがね。
○坂田国務大臣 待遇改善というのは全然具体性がないというわけじゃなくて、私たちもこの抜本的な待遇改善の調査等も実はいまやっておるわけでございます。中教審等におきましてもそういうような御指摘がございます。それを踏まえまして私たちとして具体策を検討しておるわけでございまして、いずれそれは発表したいと思っております。 それから、ただいま申しましたような教員養成の大学のあり方についても、ひとつ抜本的な改善をしたいということなんでございまして、それをどのようにするかということについては、いま少し時間をかしていただきたい、こういうことでございます。 それから全般といたしまして、やはり教職というものの仕事が非常に大事なんだということが、ちょうど物質万能主義が反省をされて、知的あるいは精神的、あるいは心の問題を取り扱う専門職だということが、少しではございますけれども見返されてきておる。たとえば私たちの同じ年代で、大学を卒業して相当の商社等に入った人たちが、いままでは何か非常にえらいことをやってきたように思ったけれども、何か歯車の一環をになっておって、創造的な喜びというか、そういうものを感じなかった、もし自分でもよかったら、少し再教育を受けてでも教育の仕事をやりたいというような希望がある、しかしどうもいまの文部省の基準その他、資格を得るのは非常にむずかしい、何かこれは考えてもらえないかというようなことを二、三話を聞くのです。そういうようなことも私は柔軟に、あるいは新たな再教育等の機関を考えてあげるということも必要じゃないかというふうに私は思うのですが、そういう機運もかなり出てきているのじゃなかろうかというふうに思うので、その機運をやはり醸成していくということは非常に大事なことじゃなかろうかというふうに思っておるのでございます。
○受田委員 私これで質問を終わりますが、文部大臣、文部行政の中で優秀な教師を養成するということは、やはり基本の柱なんです。そのためには、教師の処遇をどういうふうに改善していったらいいかという問題と、教師であることの喜びを感じさせるというその二面がやはり二つの柱になる。それで、いまの教育委員会という教育行政の制度にも問題がある。つまり、地方で市町村長が教育委員を任命するときに、つい思いつきで議会の承認をとるというかっこうで、自分の気持ちに合うたような人間の任命を簡単にしていくというようなところで、教師が教育委員会のメンバーに敬意を払うような人間が実際は選出されていないところが各所に起こっている。それから中央においても、文部大臣はとにかくごりっぱではありますけれども、時の文教行政が特定の政党に支配されるという形がとられないように、たとえば中央教育委員会というようなものを設けて、国会で承認された委員が人事院の人事官のようなかっこうで任命されて、そして、その中央教育委員会が民主的運営の教育方針、教育行政を担当し、文部大臣は、文教担当の国務大臣として予算的にそれを、ちょうど給与担当国務大臣があるようなかっこうでしていくとかいうような制度上の問題等も一つの夢として考えていいと思うのです。つまり、教育委員会の権威が地方ではくずれておる、こういう懸念もあるし、そういうところから、教育行政に当たる人が非常にりっぱであって尊敬に値する人であるような指導も加えられなければならない。そうした教育行政上の配慮もしながら、教育に職を奉ずる喜びをしみじみ感じさせるような方法を御検討願いたい。 ただ、もう一つの処遇の問題は、これはやっぱり教師として、専門職的な待遇というものをある程度考えてあげるべきだと思うのです。一般公務員とは変わった特別の手当、そういう特別の給与法、いまのような校長、教諭というようなかっこうのものでなくて、できれば教諭も校長給一等級がもらえるんだというような、融通がつく待遇を考えてあげて、そしていまの俸給表を、教特法で場当たり的に四%なんというようなことではなくして、本俸の引き上げというところに心づかいをしてあげる、そして、給与が上がるほど昇給のテンポも昇給間差も鈍っておるものを、一般の公務員に準じたような、上級に上がっても昇給間差などがもっと広がっていくような扱いをするとか、いろいろ教特法の問題としても問題点があるので、それはまたその機会に譲るとしまして、待遇ということは、やはり人間を集めるのには大事な要件でありますから、教員の処遇改善という問題については、大臣、十分今度の教特法の問題などとは別の、本物の給与法の改善に心を砕いていただきたい。国の政治をささえる中心はやはり人間づくりである。後世に人を残す大事な仕事をされる文部省が、役所根性を改められて、人間を大事にする役所であるというところへ大臣以下の全職員が精魂を打ち込んで御尽力を仰ぎたい。これを最後にお願いして質問を終わります。長々ありがとうございました。
○天野委員長 次回は、来たる十六日金曜日、午前十時委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。 午後一時十六分散会