予算委員会公聴会 第2号
- 発言数
- 34 件
- 登壇者
- 12 名
- 会派数
- 3
- 開催日
- 1970/04/08
会議録
○委員長(堀本宜実君) ただいまから予算委員会公聴会を開会いたします。 公聴会の問題は昭和四十五年度総予算についてでございます。 本日も午前中お二人の公述人の方に御出席を願っております。これから順次御意見を伺いたいと存じますが、その前に公述人に一言ごあいさつを申し上げます。 本日は御多忙中にもかかわりませず、本予算委員会のために御出席をいただきましてまことにありがとうございます。委員一同にかわりまして厚くお礼を申し上げます。 それでは議事の進行上、お手元に御配付いたしました名簿の順序に従いまして、お一人三十分程度の御意見をお述べ願いまして、お二人の公述が終わりましたあとで、委員の方から質疑がありました場合、お答えをお願いいたしたいと存じます。 それでは藤野公述人にお願いいたします。
○公述人(藤野忠次郎君) ただいま御紹介にあずかりました藤野でございます。 まず最初に、貿易、主として世界貿易という立場から本予算につきましての概括的な感想を申し上げますと、われわれは絶えず国際競争のまっただ中に投げ出されておる立場でございますが、こういう立場からは、この貿易全般に関してもう少し財政金融面でないしは貿易政策面で強力な支援がほしかった、かように存じております。しかし、一方国全体の立場から申しますれば、財源の問題とか盛んに論議されております社会資本の蓄積が必要と、こういうことのために貿易にばかり金を回すわけにいかないということもございましょうし、またわれわれも、貿易と申しましても、これは私企業の一つでありますから、本末転倒のないようにできるだけ国家にたよるべきではないというようなことも深く考えておるのでありまして、こういう立場から申しますと、本予算につきましては、国際経済面から見ますと、十分とは思いませんが、まあまあ賛成であると申し上げたいと存じます。 かような考え方をいたしますにつきましては、国際経済とかまた金融面でのいろいろな事柄をどう考えているかということについて荒筋を申し上げたいと思います。たまたま日本の輸出はいま現在好調を続けておりまして、世間では、日本の輸出は定着したから、もはや心配はないというような雰囲気が相当あるように感じられます。しかし、たまたま私は昭和四、五年、世界不況の——日本でも御記憶のとおり、非常に破産続出、台湾銀行もああいうふうになるという、世界不況が起こったさなかにアメリカにおりまして、その後、順次満州事変、それから日支事変の初期、その後はたまたま今日の中共に約六年、終戦は北京で迎えたというような推移をたどり、それから、戦後朝鮮事変を経て順次合理化ができて、こういうふうな輸出環境になってきたということを考えますと、振り返ってみて、今日の情勢を夢のように思うと同時に、世界貿易というものがなかなかそう安定する、ことに日本の輸出が定着するというふうなことは、そう気やすく考えられないのじゃないか、かように私自身肌で感じているわけです。大体日本の輸出貿易自体が非常によかった、特に一両年の輸出の好調ということは、これには理由がもちろんありまして、相当大きな理由は、世界的好況に恵まれたという点が多いわけですが、こんな調子が続くものではありません。いずれ世界的なインフレの傾向、これも順次おさまる、経済正常化ということになると、各国の輸入需要が減退してくるという傾向もございましょうし、その意味からも日本の輸出もまた鈍化してこやしないかという点も考慮に入れなきゃならぬと思うわけであります。一方また、米国をはじめとして東南アジア全体でも、いろんな理由から、やはり保護貿易主義的な動きが出てきておりますが、こういった保護主義的な傾向はなかなか容易にはおさまらない性質のものであると考えられます。その上、後ほど申し上げまする円自体の問題がありまして、国内的には円の購買力がいろいろ諸物価の高騰によって順次減っていると、その同じ円が国際的に割り高であると、こういう二つの矛盾した面を持っているわけです。これらの問題がやはりいろいろ後日に災いを残していくかもしれない。一方また、いままでの日本の輸出品は、世界の需要に適しているものが多かったわけですが、これ以上に輸出の速度を伸ばすというためには、もっと高度の商品とか、プラントなどを伸ばす必要があるわけでありまして、西独の場合には、あれは百億ドルから二百億ドルになったのに約五、六年かかっておりますが、日本の場合には一進一退をこれから続けるかもしれませんし、そう簡単にはいかないような気がいたします。ただいまちょっと西独の問題に触れましたが、西独の場合には輸出環境が御承知のように全く違っておりまして、例のEEC、あの間に特定区域を設けまして、地域経済、こういう対象がありましたから、自由にその間を往復しようということで、非常に平たんな、比較的日本よりはむしろ環境としては恵まれたということがあったわけであります。われわれの場合には、そう貿易環境を甘く見てはいけないのじゃないか。また、いろいろ貿易に関する諸施策を考える場合にも、このような点に配慮していただきたい。特にこれから後の、これ以上に発展させるための貿易ということになると、貿易政策の根幹に、太い流れになっていくと思われることは、経済協力の問題と、開発輸入、資源の開発輸入ということが中心となっていくのではなかろうか、かように考えられます。 世界景気の先行きでございますが、このところ各国の経済が相当に成長していることは確かです。しかし、貿易面から見ますると、経済成長のほかに、インフレの進行ということが貿易拡大に大きな助けになっておる。もちろんインフレは、実際は経済の実態をむしばみますし、それが引き続いて進行するようですと、世界経済はまあ数十年前に経験した破局的段階を迎えるということもなきにしもあらず。あのときには世界不況が起こったわけであります。もちろんこういったインフレ傾向を食いとめようとしまして各国が十分いろいろな努力を必死になってやっておる最中でありますから、効果があがってくればだんだん世界の経済も平常の姿に戻りまして、貿易も落ちついた形になってくると、かようにまあ考えられます。 そんなわけでございまして、世界経済とか貿易の前途を考えます際にインフレの問題が登場してきますので、この点にちょっと触れてみたいと思いますが、現在世界の主要国で物価が上がっている、物価上昇のテンポが非常な勢いでありまして、消費者物価は大体平均して上昇率は前年に比べて五%以上になっております。日本は昔は有数な相当きわ立ったインフレ国の一つとされていましたが、最近ではアメリカ、英国、フランス等の上昇テンポが非常に速く大きくなって、日本の場合にはそれに比較すると少し全体的には調子がいいんじゃないか、比較の問題では。そういう意味からやっぱり国際通貨としての円の価値がわりあいに高い、相手が非常に悪いから、悪い程度がもう少し向こうのほうが激しい、こういうことだろうと思います。 大体かようにインフレには世界的に共通な特徴があるように思います。その一つとしては、各国における賃金のコストアップが目立っておりますが、これは労働力需給の逼迫をまあ反映しているわけで、ある程度これはやむを得ない点があるかとも存じます。一方またいまのインフレの特徴として、米国のインフレ自体が世界各国にインフレとして輸出されているという事実であります。アメリカという非常に大きなインフレ市場にどんどん物資がいま輸出されております。ということは、アメリカ向けの輸出国の総需要を急速に膨張させて、その輸出国のインフレとなって反映してくる。また、米国の旺盛な需要が世界的に原材料の価格を高めておりまして、運賃にも及び、それが各国の物価を結果的に押し上げているということもございます。 資金の面で見ましても、アメリカのインフレのために、欧州から流れる資金の金利が高くなり、それが各国の国内金利を高めて物価にはね返ってきているという実情であります。そこで結局は、アメリカがこのインフレを始末できるかどうか、その結果景気がどうなるか、非常に注目されるのは当然であります。 このような観点からアメリカの景気を見ますと、米国の経済は昨年九月から鈍化の傾向がございます。しかし、景気は鈍化しておりながら物価のほうは下がっておりません。いずれ物価も順次下がりてまいることとは期待しておりますが、現在のようにきびしい引き締め政策を続けることは失業者につながる、失業者の増大また社会不安の醸成ということで、そう引き締め政策をアメリカとしても長く強行することはできない。物価のことを考えると、あまり大きな手は打てないでしょうが、いずれこのままでは済まないので、何らかの緩和手段をとっていくということになるかと思います。まあ、さような金融政策を転換しても、その効果は普通六カ月以上どこの国でもかかるといわれておりますので、おそらく下期の経済はいまより幾分はよくなるでしょうが、たいした景気の上昇は望み得ない。大体いまぐらいの感じで、インフレの速度を多少ゆるめながら推移していくのではなかろうかと、かように考えております。米国以外の先進国でも、インフレ抑制のためにそれぞれ引き締めの政策はとっておりまして、これが逆にいわゆる発展途上国の経済にも圧力となって加わってまいりますので、今年の世界貿易は昨年と違ってあまり活発にはなれまい。昨年度は前年比一二、三%の伸びと推定されておりますが、本年は大体過去平均の八%ないしは九%どまりの伸長ではないかというふうに考えられております。 かようなわけで、ことしの世界経済は全体から見て低調裏に推移していくと思われますが、日本の貿易という立場からながめますと、これはまだインフレのほとぼりが十分にさめ切っておりませんし、繰り越し約定も相当ありますので、まあ日本の貿易という立場から見た場合には、薄曇りの天気だという程度かと思います。 このインフレの点に触れましたが、世界貿易拡大の前途をはばむものに、もう一つ非常に大事な保護貿易主義という考え方があるわけであります。基本的にはもちろん貿易の自由化は戦後の世界貿易をリードするという旗じるしで、にしきの御旗みたいになっておりまして、各国それぞれその達成に努力を払ってきました。しかし、ここのところ、貿易の自由化は各国の産業界から相当きびしい抵抗を受けておることも現実であります。もちろんどこの国でも自分のからだには自由主義と保護主義という矛盾した対立する体質があわせて内蔵されているのが普通ですから、自由化が進んで外国品の輸入が多くなればなるほど、国民の一部や関係業界から強烈な反対運動が出てくることはまず当然でありましょう。自由化が世界経済の発展にとっては、大きな視野からはもうこれは必要不可欠の原理であるということに違いはありませんが、実際はさほど簡単にこの原理を受け入れるものではないということも一応頭の中に置かなければならない、かようにわれわれは考えております。また、発展途上国各国におきましては、それぞれその国なりの保護主義が目立っております。この場合は、主として日本の強大が気にさわる、それがある程度までつまらないことから排外感情に結びつくということが多いようでございます。まあ簡単に申せば大きなものは悪いものだ、強いものは悪いというような気持ちがあるわけでして、この種類の感情を発生しないようにするということはなかなかこれは困難な問題であります。ただいま貿易の自由化についてのみ申し上げましたが、為替や資本面でも同じことが言えるわけであります。この障害をほんとうに克服していくというためには、根本的に言えば、もちろんこれは日本自身が進んで自分の市場を開放して、輸入制限をすっかり取り除いて、関税も下げる。そうして自国の産業構造を一そう高度化していくということなどは当然必要だと思いますが、とにかくそれはそれとして、世界の各国に保護貿易的な空気が、動きが出ておりますので、その面から見ても、そうわが国の輸出の前途は簡単ではないと申し上げたいわけであります。 次に、国際通貨という点から貿易の環境を見ますと、これは昨年や一昨年よりは平穏になってきております。それは御承知のように、マルク、フランの調整が一応落ちつきまして、金相場も安定して、また例のSDR、あれが発効したということもあって、国際通貨市場が心理的に安定感を増してきているからであります。ただ、アメリカ自体の国際収支の改善は本格的には少しも進んでおりません。また他方、日本の場合には黒字が増大する、増大しておる事実があります。かように黒字の国と赤字の国のふつり合いが目立ってきておりますので、この傾向がならされてくる、平衡がとれていくということでなくて、逆にますます強まるという懸念もないわけではないんで、この辺にまた国際通貨の不均衡を是正するという必要性が依然としてこれはくすぶっておるわけであります。そこで、本年も後半になりますと、この不均衡を是正する声がやかましくなって、黒字増加の激しい国が為替レートについても当然はたから、うちから多くの議論を呼び起こすことになるんではないかと、かように感じております。 以上申し述べましたように、日本の輸出の先行きを考えますと、いまの好調を喜んでばかりもいられない要素がたくさんあるわけでありまして、この障害に打ち勝って日本の国際競争力を生かしていかなければならないわけでございますが、しかし、せっかくの国際競争力が宝の持ちぐされにならないように、その力を生かしながら、かつ相手方にも比較的順調に、おだやかに日本商品の受け入れをしてもらうという方法をこれからは考えるべきだと、かように存じます。こういう立場から見ますと、これからの輸出増大をしていく、百億ドルを日本は四年ほど前にこえたわけですが、これから二百億ドルにまさになんなんとするというわけでありますが、今後の問題につきましては、先ほど触れましたように、貿易上のいろいろの制限を大幅に緩和して、世界の体制に応じた新しい産業構造づくりを行なうことが必要でございます。また、輸出品の高度化と同時に、バラエティーの多岐化をはかっていくということが必要であります。輸出品の高度化ということにつきましては、メーカー、商社ともに頭をひねって努力を重ねておりますが、ここでは輸出入銀行から援助を受けて予算に関係のあることも考える。プラント類を例にとって、輸出の将来をプラントについてはどうかということを探ってみたいと思います。 私はある意味におきましては、まだまだ本格的の輸出に定着してないんだ、日本の場合には。たとえば実際できるのにかかわらず、一例を申せば、ネクタイならフランスとかイタリアとか、このめがねのふちでも、ドイツのものがいいとか悪いとか、実際上は実力があってそういうものをつくっているにかかわらず、特殊の電気工学を除いてはなかなかまだジャパニーズ・プライス、アメリカ・クォーリティということばがあるくらいで、だいぶ安かろう、悪かろうというジャパニーズプライス、そういう意味を多分に持っているわけなんですが、いまはそういった時代を過ぎまして、相当品質のいいもの、しかも値段も、競争力があるということで、だいぶ世界の評判は日本商品に対する見方が変わってきておりますけれども、これからさらに一つの日本というビジョンといいますか、多分に精神的なところになってくるのじゃなかろうか、自分でやりながらやはり外国品のほうがいいんだ、だから値段が高いのはあたりまえだというふうな考え方が国民全体の間にまだ、万年筆一つとってもネクタイをとっても、くつ、そういうことについても、そういう考えがある間はまだ本格的の、いままでは相当数量と値段で押しまくった、しかし、ほんとうに定着するというのは、ここまで全体の心がまえが、これは官民とも一体になっていくというところに通じていく、そこまではまだいってないということを痛感するわけです。 先ほどちょっと触れましたプラント類ですが、これは大体相手国が喜ぶことでありまして、相手国の輸入制限を招くというようなものではないわけです。低開発国の産品と競合してまた追い上げに苦しむというものでもありません。したがって、これから当然このプラント類の輸出ということには、相当力を注ぐべき品目である、そう考えております。ところが、日本からの一般のプラントの輸出は、はなはだ全体から見ると先進国の間では少ないわけで、わずかに五%足らず、アメリカは二六%、西独は二五%とプラントの輸出については世界貿易の中で、それから見ると非常に、いままでのところ日本のシェアというものは四・八%ぐらいですから、五%未満の微々たるものであります。それでこのプラント輸出には、この輸出の援助ということに対しては各国ともに非常に、政府自体も協力体制をとっております。ニクソン大統領は、米国の輸銀に対して、輸出金融を増強して、その規模を六九年度の二十九億ドルから七二年には百億ドルにふやし、米国政府の同時に掲げる七三年度五百億ドルの輸出目標達成を容易ならしめるように要請したという報告もございます。われわれといたしましても、国際競争場裏において思い切って勝負ができるというように、日本輸銀必要資金は十分に確保していただきたい。また、この予算に示されました数字は最小限度のものであると考えている次第であります。相手の国から喜ばれて、しかも世界経済のためにもなるという立場からは、別に経済協力という問題があるわけであります。最近南北間の格差がいよいよ大きくなっている。これは国連でも御承知のように、第二次開発の十年としてこれからこの問題の解決に取り組もうというわけですが、これはなかなかちょっとやそっとの経済協力ということを簡単な——つまり経済協力するのは先進国の義務であると、こういうふうに国連は一応いっているわけですが、この経済協力の問題は非常にむずかしいのみならず、大体いま百二十五、六カ国のうち過半の九十五、六カ国は非常にいわゆる低開発国で、先国進というのは二十人ですから、二十人で九十五人を不足なく援助独立をさしていく、絶えずこれに向かって経済的の援助をしていくということになってきますと、人口的にいえば二十人が九十五人を助けるのでなくてもっと大きな比率になるわけですから、これはよほどの覚悟が必要であって、いわゆる例のピアソン報告でも、これは日本もGNPの一%ぐらいまではやれと、こういうことになっておるわけですが、これは相当気の長い、しっかりした腹を据えてかからないと、なかなかこれはむずかしい問題だろうと思います。当然経済力が充実して国際収支上の不安も少なくなるという、日本の地位が世界的に高くなっているわけですから、いろいろ先進国側からは援助の強化を期待されて、現実に発展途上国から強い要請があるわけであります。一方、わが国自体の立場から見ましても、輸出市場の開拓維持というような必要性は依然続いておりますし、経済の大型化に伴って企業の海外の進出希望のケースがふえてきております。また、日本が必要とする膨大な資源を適確に有利に輸入するためには、どうしても自分の資金による海外資源の開発輸入、こういうことをはかっていかなければならないという事情にありますので、これらを含めまして経済協力はやはりたいへんな仕事ではあるが、これからの経済交流の主役として強力に推進される必要があると思います。経済協力については、国連は、先ほど申しましたように、持てる者の義務であるといっておりますけれども、実際協力している国の様子を見ますと、まあそこに、義務といって言いあらわせば、金持ちが乏しき者を助ける義務があると、こういうふうな言い方ですが、実際を見ますと、たとえばアメリカの場合にはそういうふうに確かにやっているわけですけれども、そのやっている内容が多分に反共政策とか、あるいは人道主義とか、そういった政治的配慮も相当ある。それからフランスとか英国とかやはりやっておりますが、これはどうも昔自分がコントロールしたアフリカその他宗主国としてめんどうを見ているというようなニュアンスの、やっている形は同じですが、そういうふうなにおいがするわけです。それでは経済協力を日本がする場合にはどういう基本の心がまえがいいのか。ただ金があって進歩したから助けるのがあたりまえだというようなことでいいのか悪いのか。やはり日本の場合には、そういったアメリカとは経済の規模も違いますし、大きくなったとは言いながら刻苦精励した結果の積み上げですから、かたがた平和国家ということを旗じるしにしているし、ますます経済の、それが一一%にしろ一〇%にしろ、引き続いて今後経済成長を続ける以外に方法がない、人口を減らすとかあるいは耐乏生活をしているということはできない国ですから、こういう国がやっていく場合には、一体基本の考え方はどうか。人のおつき合いをする、やはりこれは長い目で見てそれが大ぜいと交わりながら、一時は、短期的には、非常に日本の金を持ち出すわけです、金、技術を。短期的には引き合わないが、長期的にはそれが日本のためになるのだという考え方でいいのじゃないかと、これは私の全くの私見でございますけれども、そういうふうな、それぞれの国においてニュアンスが違っても、やることはやるのだからいいじゃないか、かように私は私なりに考えておるわけです。 この経済協力の具体的の方法になりますと、これは当然円資金が必要で、政府のやること、民間のやること、これがそれぞれ協力していく。政府は財政面並びに金融面においていろいろの円必要資金に優先的な扱いをして、資金量の問題あるいは期間の問題、金利の問題こういうことをやらなければならぬ。 第二には、政府ベースでの経済援助の比率が日本は他の先進国よりは現実には劣っておりますので、今後はその主体である直接借款をふやす必要があります。相手国の情勢に応じまして、二国間または国際金融機関を経由してインドネシアでやっているようなBE方式、BE方式はいわゆるボーナス・エクスポートと言いますけれども、たとえばある肥料なら肥料を輸出して、その金は受け取るけれども、持ってこない。そしてそれを向こうの政府と協力して、別のたとえば農業構造の改善とかそういうことに使わせる、こういうふうなBE方式、これが相手国の財政援助にもなるわけであります。 第三は、政府ベースの援助の中では技術協力ということの拡大が必要であります。日本の技術援助はきわめて低水準にありますので、発展途上国の自助努力を発揮さしていくためにもこの一そうの拡大が望まれるわけであります。もともと持てる者が持たざる者を助ける、搾取しないのだ、相手国の経済発展に寄与貢献するのだ。ただ一方的にいままでのようにいろいろな例があるわけですが、そういった優越感を持ってやるのではなくして、自分の利益だけのために投資するのじゃなくて、その当該国の発展に寄与貢献するのだ、したがって、義務がある、こういう以上は、同時にこれを受け取る側のほうもやはりこれは自分で立ち上がるのだ、いつまでも恒常的にぶら下がるのじゃなくて、自分でも立ち上がるという、やはり両方側の気持ち、こういうことが非常に基本的にはなってくるのだと思います。 民間ベースの延べ払い輸出がわが国の輸出に相当貢献して、経済協力上重要であることにさらに注目しまして、この政策を弾力的に進めていただきたい。 また第五には、民間ベースの海外投資を推進する具体策を講ずることであります。これは税制上も、それからいろんな金融上もございますが、さしあたり、また保険とかいうものも入ってきますが、こういった諸政策の充実が望まれるわけです。 第六番目には、民間ベースの投資に関連する開発輸入、先ほども申し上げました開発輸入の促進、海外資源の確保あるいは片貿易是正の観点から、一次産品の積極的な開発輸入をはかってやるといげことが必要だと思います。 以上、貿易事業界全体として民間の考えていることでありますが、経済協力問題を通じて重要なものは、やっぱりこの資金の問題と被投資国との利害調節、感情の問題、それから現実に最近ペルーでも起こりましたし、インドネシアでもかつて起ったように、ただ出かけていって自分だけのために穴をあけて帰ってしまう、一方的に搾取するんだと、こういうこと、利害調整の問題、これは十分考慮に入れる必要があると思います。 経済協力の問題その他は非常にむずかしい問題ではありますけれども、日本も世界の一人として、ほかの国と平和に交わりながら栄えているということが現状でありますし、その交わりの中に、やはり南北の融和という問題があるわけなんですが、こういうことを考えないでやっていくということになると、日本自体として大きな損をする。私が平素考えていることは、戦前三大国になって、それでまあいろんなことがあって失敗して破産したわけですが、それから二十四、五年たった今日、またたく間にまたここで経済的に三大国の一つになっちゃった。ここで全体として、まあ性質は違うけれども、本質的に同じような間違いを二度繰り返すか繰り返さないか、ここは非常に大事なところへ来ているんじゃないか。もし日本が鎖国——やはり保護貿易的傾向を、今日の形の日本があまりにとっていくと、そうすると相当その結果マイナス面が起こる。世界の歩みからはずれてしまうということも考えられる。したがって、必要に応じては保有外貨のまま民間にこれを貸し付ける方途を考えたらいいんじゃないかと、こういうことも感じております。また、もちろん何もそんなに経済協力援助しないで、おくれているんだから、相当生活程度がまだ低いんだから、日本全体として国内にもっと重点を置くべきだと、まずそれを先にすべきだと、人のことは二の次と、こういう議論にも十分根拠があることはあるわけですが、まあその辺はかね合いになると思うんですが、結局できるだけ輸入をふやして円資金を回収する一方、総資源の配分にゆとりをつけて、これからの国内社会資本を充実していくようにすれば、内外とも満足ができるようになるのじゃないか、かように考えております。 この本予算によりますと、東南アジアを中心とする経済協力推進のために、海外協力費に二百九十億円、資金運用部から三百十億円が融資されます。また、アジア開銀にも三十六億円の出資がされておりますので、まあこの程度のことはぜひとも実現したいと、かように存じます。 だいぶ話が長くなりそうで恐縮でございますが、大体、非常に円の問題とか、中共の問題とか、いろいろな問題、私もつい最近ソ連から帰ってきたばかりですが、ソ連の問題とかいろいろあるわけですが、これは後ほど時間がございましたら、御質問がございますればその場合にお答え申し上げたいと思いまして、とりあえず私の申し上げたいことは、だいぶ時間も経過しておりますので、この辺で終わらせていただきます。どうもありがとうございました。(拍手) —————————————
○委員長(堀本宜実君) 次に、渡辺公述人にお願いいたします。
○公述人(渡辺兵力君) ただいま御紹介を受けました渡辺でございます。 私、農業政策の専攻ではございませんが、四十五年度の農業施策あるいは予算に関連いたしまして、一研究者としての立場で若干の意見を述べさしていただきます。 四十五年度の国家予算の説明書を拝見いたしますと、基本方針の中で「農林漁業の近代化」という表題で、本年度の農業施策の概括的なことが述べられております。それによりますと、従来の農政の目標を実現するための諸施策のそのほかに、米の需給改善策の拡充等、「農政の新たな展開を図る」というふうに書いてございます。そしてその具体的な対策といたしましては、米については両米価の据え置き、四十五年産米百五十万トン以上の生産調整といったことのほかに、七、八項目の施策がうたってございます。これらの個々の施策は、それぞれ当を得たものというふうに考えられるわけでございますけれども、各施策を相互に関連させて実際に行なうということを考えますと、いろいろ問題があるように思われます。したがいまして、その辺を十分に御審議いただきたいと思っております。で私は、きょうこの「新たな展開」ということ、おそらくこれは昨年来いわれております総合農政ということをさしていると思うのでありますが、予算書でも、その他重要経費という項目の中に、総合農政費というのがございまして、約四百七十八億弱が計上されております。したがいまして、総合農政という問題を中心に私見を述べたいと思っているわけでございます。確かに四十五年度の農業施策は、いわゆる七〇年代の農政の第一年度に当たりますので非常に重要だろうと思います。日本農業をめぐる諸情勢及び農業自体が御承知のように、大きな転換期に向かっておりますので、この時期にあたって政府が農政の新たな転換、あるいはその展開ということを決意されたことは妥当な御判断だと思います。総合農政の問題は非常に大きな問題でございますのでそのすべてについて私見を述べる能力もございませんが、大体以下五つの点にまとめまして考えを述べたいと思います。 その第一点は、何ゆえこの新たな農政というものを、総合ということばで呼ぶようになったかということであります。で、御承知のように、これはおそらく米過剰問題というものがきっかけになりまして、総合農政という新しい農政への展開が始まったものと思います。必ずしも米の問題に結びつきませんでも農業をめぐる諸情勢というものは、いわゆる基本法農政そのままの続行では対処し切れないというふうに理解することもできるわけでございます。先般農林省から公表されました「総合農政の推進について」という文書を拝見いたしましても、長期的な展望に立った基本方向と、四十五年度の施策というふうに分けて述べられておりまして、問題のこういう長期的な展望と短期的な施策というふうな取り扱いは妥当な考え方ではないかと思います。ところが、基本法農政から総合農政への転換ということの意味をどんなふうに理解するのがよろしいか。これはいろいろな考え方があろうかと思います。私個人の意見といたしましては、この総合ということばを単に形容詞あるいは政策のスローガンに終わらせてはならないのであって、文字どおりこれからの農政が総合的に運用されることが必要なんだというふうに思いますので、まず第一点としてこの問題を取り上げたわけであります。私の理解では、この総合ということばを使った意味に相互に関連がございますけれども二通りの見方と言いますか、意味があろうかと思います。その一つは、農政の運用を総合的に行なっていかなければならないのだと、そういう問題意識で総合農政ということをうたったこと。それから第二は、日本の農政の政策の対象というものが従来の対象から逐次変わっていかなければならない。もっと総合的に政策の対象を求めていかなければならない。この運用と対象とは決して切り離した問題ではなく、関連がございますけれども、一応そんなふうに分けて理解してはどうかと思っております。で、前半の第一の、側面と言いますか、運用の総合性ということにつきましてはそう多く述べる必要がないかと思います。農政固有のいろいろな行政的な手法はいろいろございますけれども、従来ややもすると、個々の手法がばらばらに実施されていて、それらの総合効果と言いますか、そういうことを十分考えずに行なわれていたということも言えるのでありまして、今日及び今後の日本農業の諸情勢を考えますと、従来の農政の固有の手法でもその運用の面では十分総合的に運用する必要があるだろう。で、先ほど申しました「総合農政の推進について」という文書でも触れられておりますけれども、農政担当分野以外の各般の政策分野との関連的な運用ということが必要だというふうにも述べてございます。これもたいへん重要なことでありまして、結局、ややもするといわゆる縦割り行政といわれる体質があえて農政に限らずございますが、非常に困難な問題かも存じませんけれども、この縦割り行政の壁をぶち破って、そしてできるだけ相互行政を関連させながら運用していくという姿勢が総合農政という新しい呼び名の重要な意味の一つかと思います。 それから第二番目の政策対象という側面の問題でありますが、農政企画当局は、新しい総合農政の意味を総合食糧の供給という意味づけと、それから農業の生産から流通、消費という一貫した農業活動、これを政策の対象にするんだと、まあそのような二つの意味づけをして理解しているように聞いております。このような見方はそれなりに妥当と思います。しかし、私の考えでは、それとともに日本の農業の長期的展望に立って考えますと、もっと広い視野に立って農政の対象を求めていくべきではないかというふうに思います。これまでの農政をかりに基本法農政というふうに呼ばしていただきますと、基本法農政は産業としての農業というものを政策の対象にしてきたかと思います。しかし、これからの日本農業を考えますと、産業としての農業を政策の対象にするという考えに固執していたのでは、今後の農政の基本的な対象といいますか、課題を見失うのではないかというふうな意見を持っておるわけであります。その問題をもうちょっと具体的に申しますと、従来の農政、これは戦前の農政を考えましても、農村問題、あるいは農業問題という表現で、農政の対象を一括してとらえてきたというふうに思われるわけであります。ところが、昭和三十年代来の持続的な高度経済成長の段階に入って以来、農村あるいは農業というものを構成しておりますそのほかの要素といいますか、要因、たとえば農家、農民、農地、農産物と、こういった各要素が高度経済成長下における都市化あるいは工業化といった激しい作用を受けまして、それぞればらばらになり始めたと、したがって、そのばらばらになってまいりますプロセスで、国民的レベルでの判断が、あるいは評価がだんだんだんだん違ってきたように思うわけであります。農業、農民、農地、農産物、あるいは農村と、こういったすべて農という字がついたことばでありますが、このそれぞれの要素から次第に農にあらざるものというふうな分化が進行いたしまして、その分化についての国民各層の評価というものがそれぞれ違ってまいったわけであります。戦前、農は国の本なりということばがございましたが、このことばは戦前段階ではそれほど多くの説明を要しなくても国民の大方の層にすんなり受け入れられた。そういう受け取り方を昔はしておったわけでありますが、戦後、特に最近及び今後の問題を考えますと、そういう簡単なものではなくなったと、そこで農政は、ばらばらになっております農業なり農村を構成しております各要素をもう一ぺん再び新しい形で統一していくという大きな課題を持っておるのではないかと、そんなふうに思うわけでございます。そういう意味で農政の対象を総合ということばで新しく再認識していく必要があるのではないかと思っております。でありますので、本来ならば七〇年代の農政の初期にあたって、十分日本農業の動向なり、見通しを検討いたしまして、狭い産業としての農業の立場だけで農業問題を考えるのではなくて、もっと広く国民的な立場での農業に対する再評価といったようなことをして、農政の体系を立てる必要があるのじゃないかと、そんなふうに思うわけであります。 第二点は、総合農政がそういう考え方の転換の現実的なきっかけになりました米過剰という問題でありますが、私の理解では、今日のいわゆる米過剰の問題というのは、単なる一時的な過剰ではなくて、構造的過剰というふうに呼ぶべきものではないかと思っております。構造的過剰というのは、お米をめぐります生産、価格・流通、消費の各過程のこれまでの構造の中に、今日の需給不均衡をもたらした原因があるのだと、そういう理解でございます。したがいまして、米過剰問題の解決には一時的な生産抑制策だけで、これが根本的な解決をするものではなくて、まさに構造変革、かなり長期にわたると思いますけれども、日本農業の構造変革ということに徹した施策を遂行しなければ、米過剰問題は解消しないんではないかと、そういう理解でございます。 御承知のように、なぜやや突如としてお米がこんなに余ったかということにつきましての学問上の検討が十分なされなければなりませんけれども、ごく常識的に考えましても、これまでのところは米づくり、すなわちいままでの稲作生産構造のままで米づくりに努力することが、一番有利なような生産環境にお米があったわけであります。したがって、お米の生産が伸びた、他方近年の国民食糧消費構造というものは急速に変わっております。と同時に、人口の大量かつ急速な地域間移動ということがこの数年来始まりました。その両方の要因でお米の総消費量の減少が加速されたと思います。したがいまして、お米につきましては生産・流通構造の分野の構造的な変化は遅々としてしか進行しなくて、消費構造のほうがかなり急激に変わった。その二つの構造的なアンバランスが今日の米過剰をもたらしたんではないかと、そういうふうな理解でございます。 で、米の生産構造は伝統的な零細規模のもので、それからその経営の形は、厳密にいいますと、稲単作と申せませんけれども、大まかにいえば、稲単作の組織である。そうしてあまりこれまで強調されませんでしたけれども、依然として今日の日本の稲作は農村の村落社会というものによりかかってでき上がっておるという側面、こういった生産構造の硬直性といったものが非常に米過剰をもたらした根本的な原因ではないかと考えておるわけであります。これを転換いたしますには、相当な時間と努力を要する問題であって、いわゆる農業構造政策というものをかなり徹底的に推し進める必要があるのではないかと、さように思います。したがいまして、米過剰問題に対しましては、短期的な施策としての生産調整と、長期的な施策である構造政策、この両方を組み合わせて強力に実施していくということが必要ではないかと思います。 で、四十五年度の農業施策農林省の分を拝見いたしますと、構造施策の推進ということが第一にうたってございますので、その意味で賛成でございますが、中身を拝見いたしますと、必ずしも米経済の構造変革というようなまあ問題意識が強く打ち出されているとは受け取れませんで、何かお米についてはお米の減産といったやや消極的なかまえが感じられるので、その点いささか何といいますか、今日の農政問題の基本的な理解にもの足りないように、私見では受け取っておる次第でございます。 第三点は、そういうお米過剰の問題をきっかけにして展開された総合農政の国の施策の組み立ての問題で、個々については時間がございませんから触れませんが、長期的な展望として六つの基本方向が示されております。やや要約して申しますと、大規模高生産性の近代的農業を育成するのだということ。それから二番目に、米の生産調整と地域ごとあるいは需要に応じた選択的増産を進めるのだということ。第三番目に、農産物価格安定と流通加工の近代化。四番目に経済自立農家の育成。五番目に離農の援助と促進。六番目に新しい農村社会の建設。こういう長期的な施策としては六つの基本方向をあげて、これは大体昨年行なわれました農政審議会の答申案の線に近い一つの政策方向かと思います。 これを受けて、四十五年度の施策として十二の施策がうたってございます。で、それに応ずる予算編成項目になっておりますが、技術的に予算編成項目とこの施策の柱とはぴったり一致いたしませんけれども、構造改善、米対策、選択的拡大といったような農政の主要分野におきましては、予算とこの政策の方向とがほぼ一致しております。で、単に予算の支出面だけを見まして農政の性格というものを判断することは誤まる場合が多いと思いますけれども、今年度、四十五年度の農林予算の中で、やはり食管会計の経費が三割七分近くを占めておりますので、農業構造政策に関連した農業構造改善関連事業支出というのは二五%前後かと思います。比率だけで云々してはなりませんが、いま少し本格的に構造政策へ取り組むことが望ましいように、予算書の数字の上では感じ取れるわけでございます。私の理解では、農業構造の再編成ということが、四十五年度農業施策を出発点といたしまして必要な大きな問題ではないかと思っております。 そういう意味で、第四点に、農業構造の再編成問題に若干触れたいと思います。農業基本法の農政で、構造政策の目標として、自立経営の育成ということをうたいましたけれども、これが必ずしも期待どおりに進行しない。一方において農業労働力の激減と、その労働力の構成が逐次老齢化、女性化という形で悪化しております。で、自立経営の育成の大きな条件であります大規模高生産性農業というものは、土地をあまり使わない養鶏、養豚といったような分野と、それから大都市の近郊地域でかなり大規模の高い生産性の農業はぼつぼつ出てきておりますけれども、土地を広く使うという形の大規模高生産性農業の育成のほうは、どうも農業基本法当時の予想に反してもう一つ実現していない。そこで、本年度の農政の柱として大規模高生産農業を育成するんだという方向を示したことは妥当な政策方向と思いますが、ただ農業の規模を大きくするというだけではなくて、何をつくるかというその編成がえ、作目構成の編成がえという問題がございますが、この点も皆さま御承知のように、これまでは米プラスアルファと言われるような取り扱いで、米以外の作目が位置づけられておりました。そのアルファの中が中心になるような農業というものが十分に伸びなかったわけであります。この原因につきましてはいろいろ考えられますけれども、やはり一番大きな問題は価格政策の側からの誘導というものが、これまで十分にされていなかったのではないかと思います。 そこで、これからの農政的な問題としては地域に合った、あるいは需要に見合ったプラスアルファの分野の増産に対して価格政策の誘導ということを十分考慮する必要があるんではないかと思います。 いま一つは、何か米作農業というのが、これまでの日本の農業の実態でございまして、この長い体質のせいかと思いますけれども、お米の生産調整という声を聞くと、それだけでもう農業はだめなんだという、そういう受け取り方が農業者をはじめ、農業界全体に何となくただよってまいります。これは日本の農政が伝統的に増産をスローガンとしてまいったわけでありますが、その増産スローガン農政が突如としてお米の減産というふうな姿勢を示すと、もうそれだけで農業はお米がだめなら農業はだめだと、こういう受け取り方をしがちでございます。そういうムードの中でだんだん農業への意欲というものを一般の農業生産者が失いつつあるのではないかと思います。これはきわめて重大な問題かと思います。 したがいまして、これからの農政の運用の面でそういう一種の消極的なムードというものを十分打破して、もっと積極的な姿勢を示すように運用していただくことが望ましいと思います。構造政策というものが農政の中できわめて重要な政策分野であるということは、だれしも今日認めるところでございますが、基本法以来の農業構造改善事業を中心とした構造政策がいろいろ批判もございますけれども、ややもすると画一的に施策が遂行された、この点が確かに反省すべきことかと思います。ところが今日の持続的な高度経済成長の状況のもとで、御承知のように、農山村地域では過疎化現象が起こっております。そしてまた都市近郊地域の農村は市街化の侵入ということでかき回されているわけであります。その二つの地域の農業構造はいわば異常な形、あるいは歪曲された形の変化が起きまして、農業の縮小あるいは農村の崩壊といったような現象が見られます。極端な市街化地域と過疎化段階の地域を除いた大かたの農業地域あるいは農村地域、そこでもいろんな形の構造変化が起こっております。この農業構造の変化が日本列島の中で画一的に起こっていない。場所によって非常に違った構造変化をしておる。その事実認識が構造政策の面でやや欠けておる、いままでは欠けておった。しかし、これからは地域農政と申しますか、ほんとうの——ほんとうというのは言い方が悪いのでありますが、構造変化の違いということを十分認識した構造政策の実施が必要ではないかと思います。農政に地域の問題を盛り込んだ考え方は、四十五年度の施策の面にも出ておりますが、それはどちらかと申しますと、適地適産といいますか、どういう作物をどういうふうにしてつくるという問題のときに、地域の事情に適したものをつくるように奨励していこう、そういう考え方でありまして、構造改善という場面での、あるいは構造政策という場面での地域のとらえ方にもう一つ不十分な点が見られるように思うわけでございます。 構造政策の目標として基本法農政は、いわゆる自立経営の育成ということをねらってまいったわけでありますが、本年度の施策では、構造政策の具体的な目標を、基本法で定義した自立経営以外に、その農業以外の収入をひっくるめて農家の所得を高める、それを私は経済自立農家と呼んだわけでありますが、その経済自立農家の育成というふうに、言ってみれば構造政策の具体的目標を拡大解釈をしておられるように思います。これは構造政策の目標として一歩前進と、私個人としては考えておるわけであります。そのために、離農の援助とか、農業経営者の養成といった人を対象とした一種の選抜施策に踏み切っておる、他方で基盤整備の大型化とか、農地の流動化、あるいは農業金融の強化といった関連施策を打ち出しております。こういう施策が、先ほど申しましたように、地域農政という形でほんとうにそれぞれの地域の構造変化の違いを踏まえた形で運用されることが必要ではないか、かように思っております。 先ほど日本の総合農政の政策対象をもっと総合的にとらえなければならないということを申しましたけれども、農業なり農村を構成しておりますそれぞれの要素が違った動きをしてきておるという問題提起をしたわけでありますが、産業としての農業部門ということを考えますと、これには学者によっていろいろ違った見解がございましょうが、純経済的な損得勘定で日本の経済を展望いたしますと、傾向として農業部門が逐次縮小化しておりますが、最近のように、あるいは最近までのように、数年後にはもう経済の規模では、もう一つ日本ができるくらいなハイスピードで今後も経済が進むといたしますと、そういう高度経済成長の過程では、日本は農業がゼロに近い国になる可能性も予測できるかと思います。その場合の農業は産業としての農業でございます。そういう国はまだ世界中にあまり例を見ないわけでありますが、はたしてそういう予測状況を想定してよろしいのかという問題がございます。私はそういう状態は望ましくないというふうに考えますが、産業としての農業を純然たる経済部門としてどうするのが得か損かということを、日本経済全体から推しはかりますと、そういう予測も立ちかねない。だといたしますと、日本国内に農業を存続させるのはまた別の価値基準で考えなければならないのではないだろうか。従来のように単なる産業としての農業という地盤で問題を考えていたのでは、これからの日本の農業の根本的な問題を見失う、というとやや言い過ぎになりますけれども、先ほど申したのは、そういう問題提起でございます。 同じような問題になりますが、農地という農業を構成しております要素、これにつきましては、常識的には農地は農業生産の基本的生産手段であるというふうに理解しております。ところが、今日の情勢は、農地の持ち主である農家は、これを私的財産というふうに考えている、価値評価している人がふえてきているわけでございます。農地の評価が、生産手段から私的財産へ分かれていっておるということであります。 一方におきまして、高度経済成長下で都市がどんどん膨張してまいりました。そこで、いわゆる緑地という問題がだんだん重視されてまいりまして、緑地空間の価値というものが今後ますます重くなってまいるかと思います。いろいろな学者の展望では、将来の日本では余暇というものが——まあ通称レジャーと呼んでおりますが、広い意味の余暇というものがますます大きな割合を占めて、いかにして余暇を送るかということがわれわれの大きな生活問題になると言われております。そのような展望の中で、農地というものが今後国民にとってきわめて重要な緑地空間資源になるのではないかと、さよう思うわけであります。この問題は必ずしも私の専門ではございませんけれども、都市が膨張しておりますいわゆる都市建設、そういう地域で、緑地空間の問題が最近は大きな現実的な問題になりつつありますが、将来は、日本列島全体を舞台にして、いかにして緑地空間を確保し、保全していくかということが国民全体の大きな問題になろうかと思います。その場合に、既存の農地という形の土地が緑地空間の有力なる資源ではないかと、さよう思います。そういう農地を維持していくための農業、いわば主客転倒の形になりますけれども、そういう側面からも農業の問題を考える必要があるのではないかというのが私の意見でございます。 なお、農民、農業者という要素もやはり分化をしてきておるわけで、農業者は農地の土地所有者でありますが、だんだんいわゆる地主化した行動を、特に都市近郊の人たちはとっておりますし、他方、半分農業者、半分は非農業者であるという兼業就業の形が一般化してきております。こういうふうに考えますと、ほんとうに農業の好きな人というのは非常な数に減ってきておる。一体農政は、人を対象とした場合に、どの人をほんとうの農政の対象とするか、こういう問題に今日ぶち当たっております。今後この問題も、ある意味で、はっきりしていかなければならない。まあ、いろいろ見方もございますけれども、表現としては適当でないかもしれませんが、一種の選抜というような形を農政がとらざるを得ない時期に逐次参っておるというふうに思われます。 いま一つ大きな問題と思いますのは、ほんとうの農業者といいますか、農業だけをやっているそういう農業者と、半ば非農業にも従事している人と、全く農業に従事していない人たちが一緒に生活する、そういう場所で今後の日本の農業が行なわれるようになるかと思います。昔のように純然たる農家だけが住んでおる村落で農業の大半が行なわれているという、そういう時代から、農家以外の人たちと一緒に生活しながら農業をやっていく、そういう時代に移っていこうかと思います。その場合に、どういうふうに、地域社会といいますか、あるいは農村の環境を整備したらよろしいか、この問題が残念ながら学問的にも十分まだ解明されておりません。しかし、これからの農政は、そういう新しい形の農村と申しますか、私は、都市でもない、農村でもない、都郡地域ということばで呼んでおりますが、そういう新しいパターンの地域社会というものをつくっていく仕事、これも農政の担当する分野に相なるのではないかと思います。 で、農産物につきましても、従来われわれは、農産物といえば耕種・養畜といわゆる直接的な農業生産の生産物が農産物であって、その農産物を国民に安定的に供給すればよろしいと、そういう理解をしてまいったわけでありますが、御承知のとおり、今日の国民一般の方々の関心は食品にあるわけでありまして、農産物が人の口に入る食品の形になります場合に、いわゆる農業関連産業という一つのプロセスを経なければなりません。そういう意味でも、農産物自体についても形を変えた分化現象が出てきておりますので、これを農政がどういうふうにして扱うかという問題がございます。 少し長くなりましたけれども、最後に、先ほど申しました農業、農家、あるいは農業者、農地、農産物と、こういう農業を構成しております諸要素の乗っかっておる農村地域でありますが、この農村地域が、御承知のように、都市化、工業化の波をかぶって急速に変貌しております。その問題に対して、四十五年度の農業施策では、新しい農村社会の建設という柱を立てて対処していこうとされておりますが、その点は私は妥当な政策の方向と思いますけれども、その内容を拝見いたしますと、いわゆる生活環境整備とか、農村の雇用機会の増大——これは工場誘致ということのようでありますが、あるいは地域振興、山村振興とか、過疎地帯の振興とかいう、いわゆる地域振興、この三つの施策が新しい農村社会の建設という施策としての内容になっているように思いますけれども、そしてまた、この新しい農村社会の建設という、農政としては新機軸の施策が、必ずしも予算面で十分ではないように受け取れますが、こういう問題意識が、テーマとしては正しいんですけれども、もう一つ、先ほど来の考え方から申しますと、政策の問題意識として欠けておる。欠けておると言うと語弊がございますが、不十分に思います。と申しますのは、農業の構造的な変化が農村全体の構造的な変化を引き起こして、今日の情勢は、村が崩壊していく——やや極言的な表現になりますけれども、そういうきざしが見られます。日本として伝統の農村そのままの姿で維持していくことは今日のような情勢の中では望ましくないと思いますけれども、くずれっぱなしでよろしいかという問題をもう一ぺん徹底的に検討する必要があろうかと思います。変わっておりますけれども、新しい形で村をつくり直すという問題が、単に産業としての農業の立場だけではなくて、将来の日本の国民社会全体の場で、日本の農村というものが崩壊して小さい都市のような形になってしまったままでよろしいかどうかということが大きな課題だと思っております。残念ながら、この問題につきまして学問的研究の成果が必ずしも今日の段階で十分ではございません。大いにこれから研究をしていかなければならないことでありますけれども、いずれにいたしましても、これからの新しい農業活動が行なわれます場としての村をつくり直すという問題に、これからの農政はもっと積極的に取り組んでいく必要がないかと思っております。 やや時間を超過いたしましたけれども、私の、今度の施策の項目と予算を拝見して感じた意見は、構造政策というものを大いに今後進めていかなければならないけれども、もう一歩長期を考えますと、農業構造の政策からもっと問題を広げて、農村構造政策といった広い視野の総合農政を推し進めていく必要があるのではないかというような意見にまとまるかと思います。(拍手) —————————————
○委員長(堀本宜実君) それでは、公述人の方に御質疑のおありの方は順次御発言を願います。
○足鹿覺君 ただいま渡辺公述人から、たいへん示唆に富んだ、立場をかえた御構想を拝聴いたしまして、若干見解を異する点もあるわけでありますが、日本農業の体質を改善し、これを新しく立て直すということにつきましては必要であろうと存じます。ただ問題は、構造政策は、何と申しましても直面しておる第一義的な問題は農業経営そのものの改善にある。政府の構造改善事業は作目別生産奨励のような形になっております。しかし、先ほども渡辺さんが御指摘になりましたが、地域農政ということになりますと、現在水稲の基幹作目としての特化係数は全国で三十一都道府県に達しておりまして、これが基幹作目としてあるのであります。これをどうするかということは、そう簡単にはまいりません。また、あるいはみかんとかあるいは養蚕とか、その他の果樹とかを基幹作目としておる都道府県も相当あるのであります。要は、複合生産の体系をどの地域にどのような耕地利用の形態を構想して進めていくか、こういうことについての具体的な政策手段としての形が示されない限り抽象論に終わるのではないか、かように私どもは政府の施策を批判しておるわけでありますが、これについての御見解を承りたい。 第二点は、これに関連をいたしまして、地域別の営農類型の問題でありますが、政府は米の生産調整や休耕、作付転換を上から下へと割り当てるだけで、ことしっきりの間に合わせのような考え方で進めておるようであります。そこで、先ほども申し上げましたように、それはそれといたしまして、何としても構造改善に必要なのは田畑輪換、まず基盤整備を進めていく上においては、やはりそれが先行した形で進めなければならないと思うのであります。そういう点において初めて地域的な営農類型のモデルもでき上がるものだと私どもは考えます。しかし、これをささえる政策手段として、価格の安定、あるいは金融制度の抜本改正、販売流通対策等の所得対策が必要でありますし、先生はあまりお触れになりませんでしたが、私は、政府がどのように力んでも、やはり農業、農民団体の自主的な活動を促すということがまず主体的な問題であろうと思いますが、現在の農業、農民団体のあり方をめぐって御所見があれば承りたいと思います。 第三点について申し上げますと、今度の「総合農政の推進」を見ますと、近代的農業によって相当程度の自給率を確保することが必要であるという表現を使っております。従来の自給体制の強化ということばが引っ込んで、相当程度の自給率を確保する、こういうことにとれます。これは、渡辺さんがいま述べられたこととやや一致しているようでありますが、このことは、兼業農家を中心とし、食糧の国内自給政策を大体あきらめるというような意味にとられがちでございます。しかし、畜産が発展をしたと言いますけれども、その畜産をささえておりますものは輸入食糧であります。問題を指摘いたしますと、現在の米の収量は一ヘクタール当たり四トン以上に達しました。三百二十五万ヘクタールに植えつけますと十数年を出ずして——まだまだノーという意見と、また、全国平均は上昇しても頂点は下がる、こういう傾向をとるであろうという意見と、二つあるようであります。朝日新聞社が「稲作日本一」を長い間おやりになり、日本農業に貢献をされたことに敬意を表しているのであますが、それすらおあやめになった。しかも、最近の傾向は頂点が下がりつつある。こういう状態であります。したがって、米そのものの自給もそう楽観を許さないと考えても、これは杞憂にとどまるものでもないとも私は思っておりますが、先ほどの畜産の発展と飼料問題でありますが、トウモロコシにつきましても三百九十五万トン輸入されております。これは昭和四十二年でありますが、マイロが二百五十万トン、合計六百五十万トンの大量の輸入がなされ、現在輸入されているトウモロコシのヘクタール当たりを二・五トンと計算をいたしますと、二百六十万ヘクタールに相当する膨大なものであります。今後卵やブロイラーはますます消費が増大し、これを国内で生産をするということになりますと、四倍くらいに私はなるであろうとも思っております。そのための飼料生産面積は五百二十万ヘクタール程度を要するのではないかと試算をいたしておりますが、つまり、いまの日本の畜産は濃厚飼料にたよって、飼料を輸入して家畜にかえるという一種の片寄った、本来のあるべき畜産の姿ではないと思っておるのであります。 〔委員長退席、理事吉武恵市君着席〕 この上に、小麦が四百十三万トン、大豆が二百十七万トンも輸入されておりますが、これらの輸入増大を見込みますというと、今後相当程度の自給というような消極的なことではなくして、いわゆる民有林、国有林等のいわゆる畜産資源としての活用を含んだ大規模な体制というものが一面において講ぜられてしかるべきではないか。しかるに、観光資本その他がどんどん食い込んで、それらもだんだんむずかしくなってきている。いま渡辺さんの御構想は、産業としての農業の前途に対しての御見解を発表されましたが、私どもは、以上述べたような形から、米は余っておっても、飼料、小麦、大豆等、全般のいわゆる総合食糧は非常に不足しておる。こういう見地から日本農業というものの構造改善を考えていく必要があるのではないか。この点について若干見解が異なっておるようでありますけれども、それはそれとしての御見解を承りたい。 第四点は、新経済発展計画と高生産性農業についてでありますが、いまも渡辺さんが言われましたが、一体高生産性農業、いわゆる近代的農業、大規模農業というもの、それから最近はシステム化農業というようなことが言われておる。特にこのシステム化農業というようなものは、いわゆる農工一体論で、もしこのまま日本の政策が進んでいきますというと、いわゆる制御装置がきかないような地域がたくさん出てくると思います。そういうところに、いわゆるある程度の拘束力を持ったいわゆるシステム化農業、装置化農業、東畑四郎君が述べられておるような、そういうものが私は可能なのかどうか。あまり次から次とスローガンを変えて、そしてそれに達する政策手段がいつも明確でないということについて、私は非常なふんまんを覚えておるものでありますが、特に政策手段についてを中心に、何か御所見があれば承りたい。 ただいまはいろいろと示唆に富んだお話をいただきまして参考になりましたが、見解の相違は相違として、私の力説した最後のことは、政策手段がいつも欠けておる、また、農業、農民団体の自主的なこれらに伴う活動が欠けておる。とこらに大きな欠陥があるのではないかと思いますので、その点についても公述人の御意見をお聞かせいただければ幸いだと存じます。たいへん失礼いたしました。
○公述人(渡辺兵力君) ただいまの御質問並びに御意見、たいへん広範囲にわたりまして、御質問の、御指摘の問題点のすべてに、お答えと申しますか、私の考えを述べることができないかもしれませんが、どうも記憶力が悪くて申しわけありませんけれども、さようごかんべん願います。 第一点は、構造改善事業のやり方についての御意見であったかと思いますが、第一次構造改善事業につきまして、私の個人的な理解では、あれをもっていわゆる農業構造政策を強力に推し進めていくことは、学問的な立場では無理があると考えました。しかし、何もしないよりもいいことであるというふうな理解を、最初のころ、しておったわけであります。で、十年間の施策のあとを振り返って共通的に言えることは、先ほどもちょっと触れましたように、構造改善事業がやや画一的に行なわれてきていたのじゃないかという点で、その点では先生と基本的には同じ理解かと思います。 そして、第二点の問題に関連するかと思いますけれども、私の意見は、先ほど述べましたように、構造改善事業が中心になると思いますけれども、そういった構造政策関連の施策は地域の事情というものを十分踏まえた施策でなければならないだろうということを申し上げたわけであります。その場合に、日本農業というものは、先ほどの御指摘のように、日本農業全体を見ますと、日本という地域を考えた場合に、稲作がその地域の基幹作目として組み立てられた農業でございます。で、そういう稲作を地域の基幹作目として組み立てている農業を今後ともいまのままで続けていっていいかという問題は、今日の米過剰問題が出てまいります前から、われわれは、これではいけないということを考えておって、いろいろ書いたり主張もしておったわけでございます。したがいまして、日本の農業の構造改善では、米は日本じゅう至るところでつくっていたわけでありますが、やはり国内で米に相対的に不適当な立地条件のところの稲作を逐次ほかの作目に転換するという施策を本腰を入れて推し進めていく。——まあそれが、地域別に生産のガイドポスト、経営類型のガイドポストになるようなものを地方農政局単位でつくるのだというような施策が四十五年度施策として打ち出されておりますが、私は、私見では、こういう施策はあまり賛成ではないわけでございます。受け取り方で、ずいぶんこういう問題は違うのでありまして、農業生産者の側からすれば、政府がここはこれに適しておると言って、そのとおりのものをつくって、はたして経済的な変動があった場合に責任を持ってくれるか、また、当然持ってくれるからこそこういうことを言うのだろうという受け取り方をするだろうと思うのでありますが、われわれの立場では、政府はそれだけ自信のある情報をいま握っていないのではないかというようなことで、こういう考え方に必ずしも全面的に、施策として推し進めることには賛意を示さなかったわけでございますが、しかし、それぞれの地域の農業者が、自分の地域ではどういう農業をしたらよろしいのだということを、判断するに足りる十分な情報を国が農業者に提供する、その努力は大いに今後すべきである。その点、その一つの形として、いわゆるガイドポストも意味があるかとも思いますけれども、もっといろいろな、農業の選択が自信を持ってできるような情報を提供することが必要ではないか。今日、ちょっと逸脱して恐縮でございますけれども、土地について、土地の実態というものがどういうものかという、最も農業をやる観点からいって必要な統計資料さえ必ずしも十分ではございません。そういう問題は個々の農業者の力ではできない性質の問題であります。そういうことこそ、国の力でそういった資料の整備ということに努力する必要があるではないか、まあさよう考えております。 先ほど田畑輪換方式のお話がございました。この問題もずいぶん前から学者が主張し、あるいは試験研究も進んでおる問題でございますが、田畑輪換方式でも、これを画一的にどの地域に当てはめていいというものではないかとも思います。したがって、どういう場所では田畑輪換方式という農業生産の土地利用のしかたが最も適しておるかという、そういう情報がいま供給されているかといいますと、必ずしもそういう点が供給されていない、そういう先ほど来の御意見、私もごもっともと思うところが幾つかございますけれども、いまの問題はさよう心得ます。かなりその問題に関連して重要な御発言——農業団体なり耕作農民なりの自主性というものを殺す、殺すと言うと大げさでありますけれども、やや軽視した上からの施策が多いのではないかという御意見のように承りましたけれども、先ほど私は、全体として農業に対するファイティング・スピリットが失われていくような感じを受ける農政の転換は問題だということを申しましたけれども、表現が違いますが、私は現実のムードとして、農村その他を回ってみますと、先ほどのような感想を持ったわけです。そういうムードを一そう推し進めるような、受け取る側がそういうムードになるような施策の運用は大いに慎まなければならないのではないか。 しかし、農民あるいは農業団体の自主性ということでありますけれども、自主性という問題が短期の利益ということにすりかえられてはいけないと思います。米の問題をめぐりましては、ややもするとそういう観点から自主性の主張が出てこないとも限らない。米の転換ということは、先ほど申しましたように、極端に言えば神武以来の日本農業の体質を変えるという大問題でございますから、そう簡単に一片の法制制度、二、三年の予算をたくさんつけたということだけで行なわれるものではない。 〔理事吉武恵市君退席、委員長着席〕 農地改革に匹敵する構造転換の問題ではないかと思います。したがって、われわれ農業関係者はすべて農業というと、お米から出発してものを考えるくせがついておりましたけれども、そういうくせをいかにして払って、そうして相当ねばり強く日本の農業の構造を、もちろんお米を地域基幹作目とする地帯は相当残ると思いますけれども、そうでない地帯に米以外のものを地域基幹作目とした新しい日本農業を打ち立てると、そういうふうに問題を考えますと、先ほど申しましたように、今度の農業施策が、ちらちらっといろいろな形で施策が出ておりますけれども、根本的にそういう腹づもりで転換をしたかというと、まだそこまではいっていない。しかし、おいおいそういう方向に逐次農政の転換が必要ではないか、さようなふうな考え方でございます。 それから、国民の食糧自給の問題、これは純然たる経済計算でいきますと、先ほど申したような一つの予測も可能かと思います。これはモデルの立て方によって変わってまいりますけれども、可能かと思います。しかしながら、先ほど私の私見は、そういう純経済的な損得勘定だけで農業の問題を考えることはできない、それではいけないという基本的な理解に立っております。そういう理解との関連において、今日あるいはここ当分毎年の日本の国民の必要とする食糧をいかにして供給すべきであるか、ということになりますと、先ほどの御意見のような問題が出てまいりまして、まだ膨大な土地資源が農業に利用すべきか、林業に利用すべきか、あるいはいわゆる直接観光施設用地に利用すべきか、いろいろ土地利用の選択の可能性がございます。その場面でもってどのような利用が最も国民全体として適正であるかといったようなことが、これはどこでだれがどういうふうに判定するかわかりませんけれども、おそらく問題であって、その場面における農業の役割りというものを考えました場合に、先ほどの御意見のような形の発展の可能性は十分ございます。農業施策の中にでも、まだ全体としてのウエートは非常に小さいわけですけれども、大規模な未開発地域の開発のための調査費のようなものも入っているようでございまして、これは単なる調査だけではなくて、先ほども申し上げましたように、ここにはどういう作目が適しておるか、あるいはそれを生産していくのにはどういう形が一番よろしいかということを判断するための基礎情報がどうも日本の農業関係ではまだ決して十分ではないと言えるかと思います。米については非常に高度な知識を社会水準として一般的に持っておりますけれども、米以外の農産物の知識になりますとたいへんがた落ちというのが現状のように思います。そういう意味で、われわれ研究者の責任でもございますけれども、新しい形の米以外の作目で発展する農業のためにどういう情報を組み立ててよろしいかということは、御指摘のように、今後もっと力強く推し進めていかなければならない問題かと思っております。で、お米を増産してもっと国民に多く食べさせると同時に、畜産物——需要が伸びるであろう畜産物を国内でつくるか輸入するかという問題、これは非常にむずかしい、学問研究の場面だけで限定いたしましてもむずかしいわけでございますけれども、全体の方向としては、日本の農業生産というか食糧生産は、次第に非農業関係の生産と同じような構造に漸次近づいて、いま少し近づくだろうと思います。えさを輸入し、鶏のごときはひなまで輸入して結局賃稼ぎのような形で卵をつくっておりますが、いま日本の農産物のうちで鶏の卵が、国際価格水準で必要があれば輸出できるレベルに近くなっております。非常に皮肉といえば皮肉でございますけれども、日本の高度経済成長の中心になっております加工産業の生産構造と近い構造を持った農業部門がそのレベルに接近しておって、先ほど御指摘の本来われわれがイメージとして描いている本来の農業、大地を使う農業、そういう点でたいへんな立ちおくれがある、その立ちおくれをいかにして回復——回復といいますか、積極的な国際農業と競争のできる体質に切りかえていくかといったような問題、これは先ほどの問題に戻りますけれども、御指摘のような土地利用を拡大するという方向が一つ考えられますし、今日の既開発の農地の使い方の面でも可能性は零ではございません。現に将来の日本の農業の芽生えのようなものはいろいろな形ですぐれた経営が各所に出ておるわけで、ああいう経営をより一般化する。それができないのは何かといった点の究明に立った施策をもっと推し進めていかなければならないかと思っております。 それから最後にシステムの問題がございましたけれども、私の理解では、経済審議会の農業小委員会のほうでまとめられた報告に、農業の草地化とシステム化ということが言われて、それ以来急に有名なことばになりましたが、私は、十数年前に島根県の大東町というところで、ほとんど鶏のないところに十万羽養鶏というものを大東町の方方が二、三年の間につくり上げられました。その調査その他に関係しておったわけですが、大東町が十数年前につくり出した町ぐるみ十万羽養鶏というあの形が今日農業、いわゆる農業のシステム化の具体的な姿でございます。したがって、これはシステム化ということの解釈はいろいろあるかと思いますけれども、東畑委員会のレポートを読みました限りにおいては、私が関係した十数年前の町ぐるみ十万羽養鶏と基本原理は変わっておらないかと思います。要するに、ばらばらに生産をするんでなく、ある地域が全体として一つの工場なり企業のような形にシステマタイズされた農業生産の形ということではないかと思っております。したがいまして、そういう形は一件一件の経営の規模をなかなか大きくできない環境の中で、全体としての商品としての農産物の数量をまとめて品質、規格をそろえていくという生産の仕組みとしてはシステム化という方式をもっともっと日本の農業も取り入れていく必要があるのではないかと、さよう思っております。
○岩動道行君 私は藤野さんにお尋ねをしたいと思いますが、わが国の国際経済が非常に進展をいたしておりまするが、これに関連をいたしまして問題をごく限定して、昨日日本銀行の政策委員会で輸出金利の引き上げをいたしました。これの妥当性等について伺いたいと思いますが、まずその妥当性についての御所見、さらにこれの影響でございます。これは輸出価格に影響をいたしてまいりますが、これによって日本の輸出力が弱まるのではないだろうか、鉄鋼等につきましては私は相当のまだ競争力があると思いまするが、雑貨類あるいは繊維類、こういったようなものはかなり発展途上国に対しては困難な状態にありまするので、この金利の引き上げが影響をしないかどうか、ことに中小企業の約千三百社にのぼる輸出業者等は相当の影響を、無視できない影響を受けるのではないか、こういうような点が心配をされるわけであります。そこでもう一つは、さらにプラントの輸出について特別な配慮が必要ではないだろうか、こういう点も先ほどのお話からうかがえるわけでございまするが、これらの点についての御所見を伺いたいと思います。
○公述人(藤野忠次郎君) ただいまの御質問にお答え申し上げたいと思います。かねてわれわれが反対はし続けておったのですが、この輸出金利を一%上げると——もっともその時期については一カ月ほど延ばすということなんですが、これはこの業界自体、特にただいまおあげになりました業界にもいろいろございますけれども、当然これは一般的に響いてくるので、金額的から申しますと、一%をこれから上げるということによって、私は自分の経営している会社のことを考えて、それが大体日本全体の約一〇%足らずですから、年にして約百億ぐらいの負担になってくるわけなんです。そこで、どうしても既契約、すでに契約ができてしまっているもの、それを急にこれこれこういうわけだからこうしてくれということはなかなかできないので、この分はもうどうしてもこれは除外してもらわなきゃならぬと、かように考えております。そうでなくても、たまたまこの輸出の面では円高の問題がありますし、それから昨年九月から引き続いて行なわれております金融引き締めの問題がありますし、この金融引き締めの効果は特にいまこれは私の経験でも初めてですが、この四十数年、今日ぐらいこれは大企業間に資金がない、銀行にも金がない、こういうことはまあ実に初めてです。大企業は大企業なりにいろいろ金融調達の方法があると、したがって、その点では中小企業よりかえって楽じゃないかと、多少締められても楽じゃないかということがあったのですけれども、今度は資金需要が依然として強いと言えばそうかもしれませんけれども、大企業間がしわの寄せっこをしているのが現状で、毎日実務の大半がそれにいまとられているのが現状です。そこへもってきて、そういう環境のところで、まあドルが多少余ったから、輸出が順調だからということもあると思うのですが、ここで輸出金利を上げると、一%でありますけれども上げると、もちろんこの日本の姿というものも外国から見た場合に多分にこれはまあ相対的の関係があって、あまりみんなが悪いものだから、日本だけがとにかくいろいろ事情があるにしても三十六億なり四十億、あるいはさらにもっといくのじゃないかということがしょっちゅう報道にも出ますし、そういった相対的の関係において日本の輸出金利が世界に比べて安過ぎると、だから、もう少しそいつを何とかしなければならないという外部からの要請も多分にあったと思うのです。しかし、どうしてももうすでに上げるということがきまった以上は、これはやはり両面からこの手心、手心と言いますか、施策、つまり既契約は除外する。それから同時に、輸入の面の金利を、これはひとついままでなかったことですけれども、これを相関関係を持たして、輸出金利を上げるならば輸入金利のほうも今度は下げていく。そうでなくてもまあ外貨がたまり過ぎるじゃないかということで、円の切り上げをしたらどうかというような問題、これも諸外国では論議されておりますので、ここで今日現在起こっていますことは、これは業界にも非常にそれぞれの事情がありまして、必ずしも全体的に同じことじゃないのですけれども、たとえば造船の輸出、あれで現に起こっていることは、三つの方法をやっているわけなんです。これもやはり外国の買い手、日本の売り手、造船所の力の強弱、これのかね合い、押しっこということもありまして、第一の方法は、もうすでに約六十五、六億ドル、既契約があるわけです。これは為替の危険にさらされているわけですね。いずれもこれは延べ払いですから、これから八年ぐらいの間に決済される。そこで造船の関係では、輸出、船の輸出についてはこれはどうしても円建てにしてもらわなければ困るということをこちら側は言うわけです。最近大きなところ、すでに十分そういうもう船台のふさがっているようなところ、注文を十分とっているところは相当強くそれを言うわけですが、そうすると、それでもついてくるというのが一番いい例で、こちらにとって一番いい例です、円建てで契約ですから。それからその次は、やはりどうしても円建ては困る。ていさいも悪いし、世界の通貨であるアメリカがドル建てをやめて円建てということはぐあいが悪い。さりとて将来危険性のある——円の切り上げの問題があるかもしれぬ。そのときに不測の損害を一方的にかけるのはぐあいが悪いから、それじゃおれのほうでドル建てではあるけれども危険を自分のほうで最高と思われる危険を負担しよう。それは最近六%ぐらいなんです。で、彼らは一般に円が将来切り上げの問題が起こった場合にでも、やはりマルクや何やと違って、円の場合はせいぜい最高一〇%ぐらいだろう、こういう気持ちを持っているに違いないので、それで最初は五%、いまはある場合には六%ぐらいの変動まではドル建て契約でもこれはおれのほうで負担をする。しかし、それ以上のほうは日本側でやってくれという場合。第三の場合には、全く円の将来に対する危険は全部日本側が負担して、そうしてドル建て、それはやっぱり力の強弱、買い手それから売り手、これの関係もあると思うのですが、そういう問題もありまして、ここでただいま御指摘の日銀の来月十五日、かりに一カ月先からとしても、これはすでに国際競争力が相当ありと思われる産業はとにかくとして、発展途上国から、たとえば韓国や台湾、シンガポールその他から非常に追い上げを食うという、金融問題のほかに、そういった繊維、雑貨関係には相当これは影響してくると思われます。ただ、私が特にお願いしたいと思うことは、輸出貿易の好調によって、輸出なんかどうでもいいじゃないかというような風潮なんですが、これはそうではないので、御承知のような特殊な国ですから、この国はもう全くある意味においては世界の例外であって、もうわずかばかり、国民総生産の一〇%足らずでも、その金額はとにかくとして、輸出をやっていかなければ破産に通じるというこれは特殊な性格を持った国で、天然資源——経済発展を続けるということが基本である以上、なお、総生産から見ればわずかかもしれませんけれども、輸出ということを絶えず絶えず心に置かなければ、結局必要原材料が入ってこないわけですから、工場が閉鎖……。今日まあ金属関係の会社でも、何とか金属株式会社といったって、実際上もう掘るものはないわけで、地下資源は全部海外に求めなきゃならぬ、非鉄にしても。そういう状態になってきてますから、この金利の問題については、対外的関係があるにしても、それの対応策は同時に考えていただくということのほかに、やはり時々刻々多少の変化はあるにしても、輸出ということはこれはもう頭の底から各人が一刻も去ってはならぬことだと、かように考えております。ただいまの御質問に対しまして適当な答弁になっておるかどうかわかりませんけれども、感じておることを申し上げました。
○鈴木強君 私は幾つか伺いたかったんですけど、時間がおくれてますから、藤野さんに一つだけ伺いたいんですが、まあその発展途上国への援助のしかたですけれども、これが非常に問題になっておりまして、御承知のような、一生懸命協力をしてやって、逆に悪口を言われてるというのが日本の海外協力ですね、経済協力の実態だと思うんですよ。そこで、特に東南アジアとかアフリカ地域のそういう感情がどこから出てくるかというので、いま使節団が行っておられるんですか、近く行かれるか——アフリカと東南アジアのほうへ行かれるようでございますけどね。そういうところまで財界あるいは貿易業界、産業界が乗り出てると思うんですけど、あなたがいま、イエローヤンキーとか、エコノミックアニマルとかいうような悪評を日本にぶつけてきてるのは、一体どこに原因があるとお考えになっておるのか、そして、それを直していくのには経済協力をどういうふうにしたらいいかというお考えがありましたら、もう結論的に簡単でようございますから、回りくどいことは要らないですから、お願いします。
○公述人(藤野忠次郎君) ただいまのお話の、エコノミックアニマルとか、日本人がきらわれると、せっかく協力しながら、ということは確かにあるわけなんで、これは私は非常に、まあいいにくいんですけれども、これは人種の問題、これが根本的には——これから貿易拡大、資本の自由化、世界クラブに入るという日本ですけれども、これが非常に問題だと思うんです。たとえば中南米、アフリカあたりで、日本が輸出し、商売をやる、同じ会社へ、イタリアあるいはフランス系がやって、それが破産になった場合に、彼らは回収して、日本の場合に回収できないと。これは中米でも南米でもその例はあるんですが、これは黄色人種——非常にこれは誤解を招きやすい説明になりますけど、私はそういうことを痛感しておりますし、今日どこを歩こうと、日本をほめない人はないし、大体もうりっぱな先進国だということではありますけれども、どうもそれほどのことを——白人の間からは、日本人は何を言ってるんだかよくわからぬということ、あまりものを言わないということ。一方、兄弟親類縁者からは、一人だけが栄えて、あとはみんな苦しい暮らしをしておるということもありましょうし、つまりいばってるというふうに映るわけです。それから非常な誤解が起こって、有色人同士の間がある意味の優越感、劣等感、こういうことが日本人自体にもあると思うのですけれども、これは会をやってみればすぐわかるわけですが、もう日本人だけが一緒になっちまうと、決して軽べつするのでもなんでもないけれども、つい形としてはあまり社交的でないから、その必要もなかったし、いろいろな歴史の事情も、日本独自のことがありましょうし、ことばは概して普通外国語にはあまりたんのうでないということもあって、ほんとうはそういばるのじゃない。われわれの親類縁者に対して、ちっともいばりくさるわけではないけれども、進んで公私ともに打ち解けないものだから、こちらがむしろ遠慮しているんですが、それがいばっていると、おれたちを相手にしないというふうなひがんだ気持ちで映る。白人の側には、何もものを言わないし、言ってもよく意思表示がはっきりしないというふうな考えを持たれてる、そういう要素が折り重なってるんですが、これは結局これだけ進んだ東南アジア地区、有色人種のうちでは何といっても一人だけ。この一人一人が、日本人全体の一人一人が自粛自戒して、いばるわけじゃなくて、やはりほんとうに親身になって、いわゆるよく国際マインドといいますけれども、これはなかなか実際は実行にあらわすことはむずかしいですけれども、そういう気持ちでまずこれは、相手をどうこう、こうこういうことより、そういう事実はあるわけですから、一人ずつが、日本自体が、日本人の一人一人がやっていくということでないと、この間の繊維の問題にしても、その他にしても貿易輸入制限の問題にしても、アメリカの言うことにまるで東南アジアの連中も賛成しちまうと、つまり、日本はひとりドアを締めて、都合のいいときにはガットの場でやれと言いながら、ガットに反するようなことをやっているじゃないか。いろいろなことであるわけなんでして、これはもう一人一人が時間のかかる問題、それからしんぼうの要る問題ですけれども、一人一人が、日本人が範を示すと、いばる意味でなくて。そういうことで努力の積み重ね以外に、一々それは間違っているんだ、これは間違っているんだと言って弁解して歩いたところで、なかなか急には納得できないと思うんです。はなはだあっちへ行ったり、こっちへ行ったりして恐縮ですけれども、要点だけ申し上げました。
○委員長(堀本宜実君) 他に御発言もなければ、質疑はこの程度にとどめます。 公述人の方々には、長時間有益な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。お礼を申し上げます。 午後一時再開することといたしまして、これにて休憩をいたします。 午後零時二十八分休憩 —————・————— 午後一時十四分開会
○委員長(堀本宜実君) ただいまから予算委員会公聴会を開会いたします。 午後もお二人の公述人の方に御出席願っております。 御意見をお伺いいたしまする前に、公述人の方方に一言ごあいさつを申し上げます。 本日は、御多忙中にもかかわりませず、本委員会のために御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。委員一同にかわりまして厚くお礼を申し上げます。 それでは、これより順次御意見をお述べ願うのでありますが、議事の進行上、お手元に配付いたしました名簿の順序にしたがいまして、お一人三十分程度で御意見をお述べ願いまして、そのあとで委員から質疑がありました場合には、お答えをお願い申し上げたいと存じます。 それでは、下村公述人にお願いを申し上げます。
○公述人(下村治君) 最初に物価の問題について申し上げたいと思います。 現在物価について非常にやかましい議論が行なわれておりますが、その場合にいま言われております論点の第一は、消費者物価の値上がりだけではなくて、卸売り物価が値上がりをしている。このことが今日の物価問題がきわめて憂慮すべき問題を含んでいることを示しているということではないかと思います。この点について考えてみますが、今日の卸売り物価の上昇の中身をよく調べてみますと、どうも言われているように、インフレ的な物価状況を示しているとは言えないように思います。日本の卸売り物価の動きの非常に大きな特徴は、農産品あるいは雑貨関係の低生産性部門の生産品、これが着実に年に三%、四%程度上がっているということのほかに、非鉄金属と鉄鋼が驚くべき異常な暴騰をしているということ、と同時に、機械工業製品と化学工業製品がほとんど横ばい、どちらかといいますと下がりぎみであるということではないかと思います。申し上げるまでもなく、今日の日本の経済の中核を形づくるもの、日本の経済成長を先導する産業部門は機械工業であり化学工業でありまして、この機械工業と化学工業の部門において平均的に価格が横ばいか下がりぎみであるということは、日本の経済の根幹にインフレ的な状況がないということを示していると言わなければならないのじゃないかと思います。 アメリカでありますとかヨーロッパの国々の卸売り物価も、日本と同じように、あるいは日本以上に上がっておりますけれども、これらの国々の卸売り物価の動きの非常に大きな日本と違った相違点は、機械工業の製品、化学工業の製品が、やはり卸売り物価全般の動きと同じように上がっていくということであります。この点において、平均指数があたかも、日本も欧米諸国も同じように上がっているように見えますけれども、その背後にあります経済の実態は、日本と欧米の諸国とでは全く違うということが事実ではないかと思います。したがって、日本の場合でいいますと、非鉄金属の値上がりでありますとか、鉄鋼の値上がりというような、一時的な異常な事情によって上がっているものが、その事情がなくなりますと、やがて卸売り物価指数の値上がりの動きは、全くはなくならないと思いますけれども、年に一%前後という程度におさまるに相違ない、こういうように考えられると思います。 それならば、一%程度の卸売り物価の値上がり、これが日本のインフレ的な状況をその程度に示していると言うべきかどうかといいますと、これは明らかに日本の産業政策、貿易政策、それが非常に強い保護主義、輸入制限的な条件を前提としている、そのことを前提としてあらわれている現象でありまして、急激な成長に、どちらかといいますとおくれぎみな低生産性部門において、保護政策のもとで何とかうまく、何とか成長についていこうとしながら、なかなかついていけないそのおくれを反映した摩擦的な値上がりだというように考えなければならないのではないかと思います。基本的に言いまして、したがって、今日の日本の物価状況は、たとえば総需要抑制といったようなことで対処すべき問題を持っていない、こういうように判断しなければならないんじゃないかと思います。 次に、消費者物価の上昇であります。消費者物価の上昇は、過去十年来、きわめて顕著でありまして、世界で最も消費者物価上昇の高い国が日本であるということになっておりますけれども、これが卸売り物価安定という条件を背景にして進行してきたということが、また日本の消費者物価上昇の非常に大きな特徴であると申してよろしいと思います。今日の状況においても、この基本的な構造が基本的には変わっていないということは、いま申し上げたとおりでありますが、卸売り物価安定を維持しながら、消費者物価が急速に上昇するということは、一体何であるか、これが実は根本的な問題であると申さなければならないと思います。このことは、日本の経済が急速な成長を遂げながら、同時に、為替相場を安定しながら、その急速な成長を実現している。このような力を持った、このような傾向を持った経済であるということと、根本的にからみ合った現象であると言わなければならないと思います。通俗的な物価論は、経済があたかも国際貿易を持たない、あるいは経済があたかも成長をしないで、静止的であるというような前提のもとに成り立つ物価論を機械的にそのまま日本の現実の経済に適用しようとしている、そういうところからきた誤りを含んでいるのではないかと思います。成長する経済、日本のように急速に成長する経済においては、物的な生産部門において急速な生産性向上が進行しております。そうしてその急速な生産性の向上に伴って、急速な賃金上昇が進行しております。為替相場が安定であるということは、この生産性の向上と賃金上昇とが同時に並行して比例的に進行しているということを意味しているはずであります。急速な成長の中で急速な賃金上昇が進行している、生産性の向上に比例した賃金上昇が進行している、だから為替相場が安定である、国際収支が健全であるという結果があらわれているわけであります。 このようにして成長が進行いたしますから、この賃金上昇、所得上昇は物的な生産部門から一般的にすべての経済部門に波及を起こします。サービス部門でしたがって同じような所得上昇が起こるわけですが、サービス部門において賃金上昇なり所得上昇が起こりますと、これは当然にその部門においてのサービス価格の上昇が起こる。したがって消費者物価のように、物の価格とサービスの価格と総合した物価を考えますと、そこには当然に物価上昇が起こるということになるわけであります。生産性の向上と関連して当然に物価の上昇が起こる。これは今日の日本の消費者物価上昇の根本的な特徴であります。急速な成長があるから、為替相場安定を維持しながら、急速な成長が進行するから、したがってその急速な成長が順調に円滑に実現される過程において、当然に消費者物価がある限度において上昇しなければならない、こういう結果が出ているわけであります。 日本の今日までの消費者物価の動きを振り返って見ますと、大体においてこういうような形で、一人当たり国民総生産の上昇に合わせて消費者物価が大体比例的に上がっております。その比例の割合は、一人当たりの国民総生産の上昇率の三七、八%という程度であります。一人当たり国民総生産が二〇%上昇するときには消費者物価が七・五%ぐらいは上がっている。一人当たり国民総生産が一〇%ぐらい上がるときには消費者物価は三・七、八%上がっている。こういうような形で実は日本の消費者物価の上昇が起こっているわけであります。このことが、実は日本の消費者物価の動きと欧米諸国の消費者物価の動きと、根本的に違えている条件であります。欧米においても、消費者物価は、日本と同じように、あるいは日本よりも低い程度に消費者物価は上がっております。五%、四%というような消費者物価上昇が起こっております。日本は、これらの国に比べますと、非常に高い上昇率でありますが、しかし、上昇率の絶対値がアメリカやイギリスや、フランスよりも高いから、日本のインフレーションの程度が高いんだというように考えると間違ってくるのではないかと思います。その背後にあります所得の上昇傾向、一人当たり国民総生産の伸び率と比較してみますと、日本はアメリカやイギリスに比べますと、はるかに低い、正常な値、三七、八%というような割合でしかありません。ところが、アメリカについて見ますと、最近の状態では、これが五、六〇%の値上がりになっております。一人当たり国民総生産の上昇率の五、六割の消費者物価上昇が起こっております。イギリスの場合は、もっと極端でありまして、一人当たり国民総生産の上昇率の八割、九割の割合で消費者物価が上がっております。絶対値は小さいのでありますけれども、しかし、その上昇は小さくても、実は根本的にイギリスやアメリカの経済の中にインフレ的な条件が入っているということを明らかに示しております。こういう意味において、実は日本の消費者物価上昇の傾向は、基本的にいいまして、インフレ的な条件を持っていない、正常な経済成長に伴って正常に起こるべき程度の上昇しか起こっていない、こう申さなければならないと思います。 で、若干の補正をしなければなりませんが、一つは、現実の経済成長の過程においては、先ほども卸売り物価のときにちょっと触れましたけれども、すべての経済部門が同じような速度で順調に生産性向上を実現するわけではなくて、先導部門が急速に進行するのに対して、おくれている部門ではなかなかついていけない、生産性向上のおくれを生ずるわけであります。このようにして生産性向上がおくれるところでは、どういうことが起こるかといいますと、賃金水準、所得水準は、一般的な平準化の影響のもとに先行して上がってしまいます。生産性の向上はおくれる。したがって、コストが上がりますし、経済全体は、需要の状況がいいわけですから値上がりが起こってくるということになります。 こういう形で、現実に日本の経済では、低生産性部門の値上がりが通常の場合よりも増幅されて起こっております。その増幅は輸入制限あるいは保護政策、そういうような政策によってこれらの低生産性部門が維持され、保護されているために、その条件がさらに強化されているというのが事実のようであります。こういう形で、通常の消費者物価伸び率が、やや増幅された形で消費者物価の上昇が起こっているというのが、今日の日本の消費者物価の現実の姿ではないかと思います。 もう一つの調整すべき問題点を申しますと、現実に今日の経済ではもはや起こりませんけれども、昭和三十三、四年度ごろまでには起こったことであります。経済が十分な雇用状態でない、雇用状態が不十分な状態においては、先導的な、先行的な経済部門の生産性向上は急速に先行しますけれども、おくれた部門では生産性向上が起こらないと同時に、賃金あるいは所得水準の波及の過程も順調にいきません。したがって、急速な成長は起こりますけれども、その成長の中で、先行部門では所得水準が急速に上がるけれども、おくれた部門では所得が上がらない、賃金が上がらない。つまり、いわゆる所得格差の拡大現象が起こります。昭和三十三、四年度ごろまでの成長においてはそういうような所得格差拡大の過程が進行しておったわけで、そういうときには消費者物価の上昇の圧力はそれだけ弱くなります。経済が急速に成長しても、そのわりには消費者物価が上がらないという結果が出てまいります。で、この事実を振り返って、経済成長が起こっても消費者物価が上がらないで済むじゃないかというような議論をすると、これは間違いになるわけです。そういうような消費者物価の緩慢な上昇は、実は所得格差の拡大ということで、日の当たらない部門に就業した多数の人たちの犠牲の上にあらわれている現象にすぎないというように考えなければならないのではないかと思います。いわゆるトレードオフ論というのが今日流行しておりますけれども、このトレードオフ論は、日本のような形で生産性の急速な上昇によって大きな消費者物価上昇が起こっている場合と、欧米のようにあまり大きな成長力がないのに無理に成長しようとして消費者物価が大きく上がっている場合との違いを無視した形で議論が展開されている点に、大きな問題を含んでいるのではないかと思います。アメリカやイギリスのような場合ですと、無理な成長をすることによって過大な消費者物価上昇が起こっております。したがって、こういうような国では、もっと成長率を下げるように抑制をするほうが国民の利益ではないかというような問題を考える余地が十分にあります。しかし、日本のように、成長率が高いから、つまり生産性向上速度が大きいから、生産性向上の速度に応じて賃金上昇速度が大きいから、それに関連してサービス価格が上昇する、そういう形で消費者物価が上がっておりますところでは、トレードオフ論の議論は成り立たない。速く進みましても、おそく進みましても、所得水準が高くなったときには、同じ所得水準になったときには同じ消費者物価が実現されるだけでありまして、これはトレードオフの論が適用されるような状況ではないと申さなければならないかと思います。日本の物価問題を考えまして、一つ、調整を必要とするといいますか、抑制を必要とする問題点があるといたしますと、これは外から日本に波及をしてくる、外国から日本に進入してくるインフレの問題であります。先ほど申しましたように、イギリスやアメリカは明らかにインフレの条件を内包しております。アメリカのようにIMF体制のキーカレンシーの国がインフレでありますと、このインフレは世界じゅうに固定為替レートのもとでは波及してまいります。われわれは、それをそのまま受け入れるか、あるいは何らかの形でそれを阻止するかを考えなければならないということになります。それをそのまま受け入れることも一つの方法であります。しかし、これをどうしても阻止したいと思うならば、阻止する方法があります。しかし、それは国内の総需要抑制というような国内的な措置では不可能であります。可能な唯一の合理的な方法は、国際的な方法によって水ぎわでこれを処理するという以外にありません。つまり、為替レートの切り上げがあります。為替レートの切り上げをすれば、外から来るインフレは十分に防ぐことができます。アメリカのインフレの程度を年に二%か一%かというように評価することができるといたしますと、われわれがそれを防ごうと思うならば、日本の円レートを年に一%、二%というオーダーで毎年毎年間違いなしに切り上げるということを予告をしておけば、十分な対抗策ができるということではないかと思います。日本経済が当面しております問題は、そういうような、したがってインフレ問題、物価問題ではないと私は思います。われわれが当面しております問題はもっと大きな問題ではないかと思います。もっと大きな歴史的な課題がわれわれの前にあると言わなければならないのではないかと思います。 その第一は、国土建設ということではなかろうかと思います。国民総生産は昭和四十五年度において二千億ドルという大きさになります。昭和四十一年に千億ドルぐらいの経済があったものが、もはや二千億ドルという大きさになろうとしております。千億ドルから二千億ドルの経済に変わる過程において、日本の国土は、御承知のように、公害の問題あるいは過密の問題を焦眉の問題、緊急の問題として処理しなければならないような事態に当面しているわけでありますが、しかし、これから五年、十年の後にどうなるかということを考えますと、さらにもっと極端な状態があらわれてくるということを予想せざるを得ないわけであります。昭和五十年度あたりではおそらく国民総生産は四千億ドルの水準に達するでありましょうし、昭和五十五年度あたりではおそらく七千億ドルをこえるというような水準に達するに違いありません。たいへんな経済であります。千億ドルから二千億ドルに大きくなる過程においてわれわれは公害問題に追いまくられるような事態に当面しておりますけれども、この二千億ドルが四千億ドル、七千億ドルとふえる過程においてはどういう問題が出てくるか、これは想像に余るようなものがあるはずであります。それに対してわれわれは備えなければならないというのが今日の事態ではないかと思います。たいへんな金が要りますけれども、大きな投資をし、大きな金をかけてこの国土を公害から守る、この国土全体を円満な、円滑な経済生活、円滑な社会生活ができるような条件を維持するということでなければならない。たいへんな投資を必要としますけれども、この投資の力は、経済の成長が、その成長の中から生み出すということもまた忘れてはならないのではないかと思います。そういう意味において、われわれは非常に雄大な歴史的な建設計画を、この国土の上においてこれから行なわなければならないような事態に当面をしておる、これが第一の課題ではないかと思います。 第二の課題は、徹底的な輸入の自由化ということではないかと思います。今日までの日本の経済は、輸入をいかにして制限するかということを基準にしてまいったわけであります。これまでの日本の経済が輸入超過の経済であった、あるいはこれまでの経済においてわれわれは人口過剰であった、そういうような条件を背景として考えますと、それは不可避であったし、不可欠であったと言わなければならないかもしれませんけれども、しかし、今日の日本の経済は、すでに人手不足でありますし、すでに大幅な輸出超過経済になっております。今後の経済は、ますます人手不足になりますし、ますます輸出超過の幅は拡大するに違いありません。そのような条件を背景としてわれわれがなすべきことは、輸入を徹底的に自由化する以外にないはずであります。輸入を自由化することによって、われわれは輸出超過を適当な大きさに押えることもできますし、それによって日本の経済成長が世界経済の中で円滑な、円満な位置を占めるということが可能になりますし、また同時に、そのような輸入の自由化によって、われわれは生産性の低いところから日本の貴重な労働力、技術力、資本を引き離して、もっと生産性の高いところにこれを投入する、集約をする、それによって国民全体、国民経済全体の生産性をさらに一そう飛躍的に向上する機会が生まれてくるということではないかと思います。そういう意味において、輸入の自由化は、今日われわれが当面しております大きな歴史的な課題であると言わなければならないのではないかと思います。輸入を十分に自由化いたしましても、輸出超過がなくなって輸入超過になるということはないはずであります。日本の経済は今日それだけの力を持った経済になったと言ってよろしいと思います。過去十年、十五年間、日本は高度成長したといわれておりますが、この高度成長によって日本の経済がなし遂げました一番大きな点は、このような形で日本の経済が十分な輸出力を持った経済、十分な国際競争力を持った経済、十分な輸出超過を残し得る余力を持った経済をつくろうとしているということではないかと思います。 したがって、十分な輸出超過がなお時とともに大きくなっていくはずでありますから、それを背景としてわれわれはさらに積極的な資本の輸出、積極的な経済援助をしなければならない時代に入ろうとしているということになります。われわれが積極的な資本の輸出、積極的な経済の援助をすることによって初めて日本の国際収支は均衡を維持することになります。したがって、日本の経済の成長と発展が世界経済の成長と発展と円満に両立をするという条件が初めてでき上がるということになります。 予想される国際収支の経常勘定面での黒字の可能性は、いろいろの考え方があると思いますけれども、私の予想によりますと、今日のような日本の経済力が順調に成長発展する限り、時とともに非常に大きなものになる。おそらくその絶対値は、過去十年以上の間アメリカが出してきました経常勘定の黒字に匹敵するぐらいのものになろうとしていると言ってよろしいかと思います。したがって、言いかえますと、日本の経済は、これからの五年、十年の間において、アメリカと匹敵するぐらいの雄大な大規模な対外経済活動——資本の輸出でありますとかあるいは経済援助という形での対外経済活動を行ない得る経済になろうとしている、またそれを行なわなければならない経済になろうとしているということではないかと思います。 このようにして徹底的な輸入の自由化を行なう、あるいは大規模な積極的な資本の輸出なり経済援助を行なうということは、日本の経済にとっていろいろな問題をはらんでおります。いろいろな問題を波及させます。われわれは国内において輸入自由化に対応していろいろと構造改善の努力をしなければならない。われわれが資本の輸出をするために、あるいは経済援助をするためには、国内においてそれだけの余力を、それだけの活動を抑制をするということにつながってまいりますけれども、しかし、そのような問題を含んで総合的に日本の経済が生きるためには、われわれは国内において大規模な建設をなさなければなりませんし、雄大な海外経済活動を行なわなければなりませんし、それにより前に徹底的な輸入の自由化も行なわなければならないということではなかろうかと思います。 これからの日本の経済は、そのようなことを同時にすべてやり得るような力を持った経済になろうとしているということも、これからの日本の経済の一つの大きな特徴ではないかと思います。何よりも大事なことは、そのようなことを頭に置いて、日本の経済が世界の中でこれから何をなすべきか、何をなし得るか、世界を日本のためにどのようにリードするかというような形で総合的な統一的な戦略的な政策をきめなければならないような状況に当面をしているということではなかろうかと思います。 いろいろ申し上げましたけれども、ことばが不十分で十分に私の意をお伝えすることはできなかったかと思いますけれども、要するに、今日われわれが当面しております問題は、物価問題、インフレ問題というようなことではない、もっと大きな歴史的な課題がわれわれの前にあらわれて、その大きな歴史的な課題、五年、十年、十五年というような長期を展望してわれわれが何をなすべきかということを考えますときに、これまでの弱小な、弱体な日本の経済を頭に置いて考えては間違ってしまうような事態の変化が起ころうとしている。日本の経済が非常に巨大な世界の中において巨人の国になろうとしている。そういうようなことを頭の中に入れて、それにふさわしいような雄大な建設的な活動を国内的に、と同時に国際的な規模で行なわなければならないという問題が、今日われわれが当面している最大の課題ではなかろうかということだと思います。 そういうような観点から四十五年度の予算の問題も考える必要があるのではないか。四十五年の予算を問題にするにあたりまして、現在の予算案が膨張予算ではないのか、総需要抑制といいながらこれは総需要刺激の政策になっておりはしないか、警戒型であるのか中立型であるのかそれは疑問じゃないかというような観点からよく議論がなされているように伺いますけれども、しかし問題の本質はそうではなくて、むしろ、われわれがいま当面しておりますような歴史的な課題を頭に置いて考えますと、この予算はやや控え目過ぎる、むしろ小さ過ぎる、萎縮し過ぎた予算になっておりはしないか、このことがむしろ重大な問題ではないかというような感じがいたす次第でございます。 以上でございます。(拍手) —————————————
○委員長(堀本宜実君) 次に、宮尾公述人にお願い申し上げます。
○公述人(宮尾修君) 宮尾でございます。 最初に、本日ここにはからずも公述の機会を与えてくださいました委員長並びに委員の諸先生方及び私の出席につきましてさまざまにお世話くださいました事務当局そのほかの皆さま方に、厚くお礼申し上げますと同時に、立つことができませんためにすわりましたまま意見を申し述べる失礼をお許しいただきたいと思います。 ごらんになりましておわかりのように、私は身体障害者であります。それも、私の姿からこれもお察しいただけると思いますが、軽い障害ではございません。私が所持している身体障害者手帳には両上下肢機能障害一級と記載されておりますが、これは現行の障害等級におきましては最も重度な障害であることを示しております。私がいますわっています車いすは、こちらの係の方が御用意になったもので、国会に車いすがあるということは身体障害者に対してそれだけ政治の手が差し伸べられているしるしのように思えてたいへん感激した次第ですが、私は家にいるときでもこうして車いすにすわったままでおります。そうして、言うまでもないことですが、一日とか、一週間とか、あるいは一月とか、そういった限られた時間、そのようにすわったままでいるだけではありません。私が車いすを使用するようになりましたのは比較的最近でありますが、それでもすでに四年の余になります。そして、これからも死ぬまで私はこの車いすの上でこのいまの同じ姿勢を続けなければならないのであります。車いすを使用するようになります前は、二十年近くをかたい木のいすで過ごし、さらにその前は床の間の置きもののように、畳の上にすわっておりました。つまり、私の生活は、夜眠っているときにからだを横にしている以外は、明けても暮れても、同じ部屋の同じところにじっとしたままの状態をしいられているのであります。 公述の糸口として例にあげますことは穏当を欠くかとも存じますが、先日の日航機乗っ取り事件におきまして、私たち国民が最も心を痛め、ひとしく案じ抜きましたのは、狭い機内に長時間閉じ込められた乗客の方たちの状態でした。私なども毎日テレビの前にくぎづけになっていた一人でございます。ですから、山村先生の勇気に満ちた御行動によって乗客の方たちが自由になられたという報道に接しましたときは、わがことのようにうれしく思い、ほんとうに安堵したのでありますが、それと同時に、私の生活——生涯にわたってこうして一つ同じ車いすにじっとしていなければならぬ生活も、もちろん事情は違いますが、一種の監禁状態ということでは非情に類似したところがあるのではないだろうかというのが私の偽らぬ実感でございました。報道によりますと、機内に閉じ込められている間、乗客の方たちは全く行動の自由を奪われ、思うように便所へも行くことができなかったということであります。暴力によって脅迫され、生命の危険にさらされていた場合と比較はできないと存じますが、肉体の置かれた状態だけを見ますならば、私の生活は、一生金浦空港で立ち往生した「よど」号の中にいるようなものであると申しても過言ではございません。生まれますと同時に脳性小児麻痺にかかり、両手足の自由を失いました私は、一人では歩くことも立つことも、また、起きることも寝ることもできません。衣服の脱ぎ着はもちろんですが、入浴、食事、排せつと、日常生活のあらゆる面におきまして、ほとんど全面的な介護の手を必要としております。私の場合、これら介護の大部分を母にたよっていますので、たまたま母の手がほかのことでふさがっていたりいたしますと、それがあくまで、私はいやでも待たなければなりません。つまり、思うように便所へ行けない状態や、あるいは便所に閉じ込められる状態が生じるのであります。だれが悪いのでもなく、自分が重度の身体障害であるための不便であると承知しておりましても、あらためてそれがのろわしく思われ、自由に動く手足に恵まれた健康な人々を羨望せずにいられないのもそういうときでございます。おそらく「よど」号の八十時間の中で、乗客の方たちの最も求めたものは自由であり、広い外界への解放であったと存じますが、それはそのまま私が求めているものであるだけでなく、日常の中で絶えず感じ続けている切実な願望であります。しかもこの願望は、いつになりましてもかなえられる見込みがございません。いかに求め、あこがれましたところで、私が歩けるようになり、一人で外出できるようになる可能性はないのであります。心臓移植をも試みるまでになりました最近の医学の進歩には目をみはるものがありますが、脳性麻痺などによる身体障害を完治する手段は発見された様子はございません。昨年の七月、アメリカが人類初の月着陸という快挙をなし遂げましたとき、「人間が月へ行くまでに科学が発達したというのに、なぜおまえの足一つなおすことができないのだろう」と母は申したものですが、私もこのときは、前者における驚くほどの進歩を知るほど、後者における驚くほどの停滞にいまさらあ然とならずにはいられませんでした。調査によりますと、養護学校における最近の傾向として、脳性麻痺の者が児童に占める割合が年々増加しているとのことであります。これは施設の増加による特殊教育の普及の結果、いままで忘れられた存在として家の中に放置されていたのが次第に顕在化したためとも思われますが、そうであれば一そう、この病気の原因を究明し、根本的かつ完全な治療方法を発見する必要があると存じます。そのために国が中心となり、ガンに対するのと同様な態度で、たとえば国立の脳性麻痺センターとも言うべきものを設置し、基礎的研究と総合的かつ科学的治療の充実をはかられますことを、その際特にお願いする次第でございます。 政府提出昭和四十五年度予算案につきましては、新聞、テレビ等で報じられた範囲の知識しか持たぬばかりでなく、これを論じるだけの勉強もいたしておりません。それにもかかわらず、こうしてつたない意見を申し述べることを思い立ちましたのは、何よりも私自身の生活と心の真実をお話しすることによりまして、重度身体障害者に代表されるいわゆる心身障害者と呼ばれている者たちが、どのような毎日を生きているのか、そこで何を悩んでいるのか、求めているか、考えているのか、そこにある問題は何か、国の政治に何を期待しているのか、何をしてほしいと思っているのか、それらにつきましてありのままの姿を申し上げたかったからでございます。 私は先ほど、障害のために不自由な日常をしいられていることを述べ、またそれゆえに自由と解放を強く願っていると申しましたが、これはすなわち、私の生活がいかに苛酷であるかを訴えたかったのと同時に、心は健康な人たちと少しも変わらぬことを申したかったのであります。人間の価値が肉体の外見や機能の優劣ということで左右されるのであれば、私は明らかに価値の低い存在かもしれません。けれども、人間らしい心を持って、人間として生きるという努力を果たすことの優劣であるなら、私は自分を確かに人間であると信じているのであります。そして人間であるということは、健康な人たちがそうであるのと同じ意味、同じ権利と責任において、この社会の一員であることを示すものだと思います。したがいまして、私がこれからお願いいたしますことも、単に恵まれない者に対する安易な同情やあわれみの保護を要求するというのではなく、国民の一人として社会の成員にふさわしい生活を築くための、人間的願いから出発した社会的保障措置を求めるものであると御理解いただきたいのでございます。最近は一般における理解と関心も次第に深くなり、社会福祉の仕事を志す人もふえていると言われております。しかしながら、ややもすると、単なる一時的れんびんの対象として身体障害者を見る傾向がないとは言えません。たとえそれが善意であるにしても、そのような傾向の根本にあるものは、障害者に対する一種のべつ視でしかなく、そこにとどまる限りは、どんな対策も真の解決はもたらさないと存じます。私はその意味におきまして、政府当局はもとより、国の政治に携わっておられる方々が、もう一度社会福祉の根底にあるものをお考えいただきたいと思うのでございます。 わが国は現在、目ざましい経済成長の結果、かってない繁栄と豊さの中にあります。それに伴いまして、各分野における社会保障、社会福祉の対策も強化されました。各種の施設も数多く設置されるようになりました。私が育ちました時代には全国に一つしがなかった肢体不自由児の養護学校が現在は最低一校ずつ各県にあるのを見ましてもこのことは言えると思います。私が学齢になりました当時は戦争中であることも重なり、私のような子供が正規の教育を受けるなどは思いも寄りませんでした。それで、やむなく近所の子供が使い古しました教科書をもらいまして、一人でノートに写しては文字を覚えた記憶があります。つまり、私は義務教育の機会すらも与えられなかったわけでございますが、それでも今日、このようにつたないながらも意見をしるし、こうして発表することができますのは、そのときともかく文字を学んだからにほかなりません。この事実は教育の重要性を逆説的に証明していると申すことができるのではないでしょうか。すなわち、一貫した教育を受けることによって、体系的知識と専門的技術を習得することができたならば、私のようなきわめて障害の重度な者でも、何らかの職業につき得たのではないかと思われるのでございます。私に残されています機能としては、かろうじて文字を書くこと、話をすることでありますが、これを活用して職業につながるようにいたしますためには、どうしても知能的に高度な能力を持たなければなりません。そして、言うまでもなく、そのような能力は、基礎からの体系的教育と、対象の特性に沿った適切な指導によって初めて得られるものであります。私が職業につくことができず、したがって経済的にも自立できずにおりますのは、もちろん手足の動かないことによるのでありますが、もし、いま申しましたような教育を受けていましたなら、あるいは収入の道を開く可能性もあったのではあるまいかと思わずにいられません。特に最近は著しい社会構造の変化と技術革新に伴い、職域、職能の細分化、専門化が進みつつあるように思われます。手足、五官のすべてが健康でなくても、そのうちの一部分の機能が活用できるならば、相当に重度な障害者にもつき得ることの可能な職種がふえてきているのではありますまいか。社会開発を目標とした投資効果の面から考えましても、障害者に高度な教育を施すことは決してむだではないと信じます。教育されなかったために残された能力も生かし得ないまま、いたずらに無為の日日を送らねばならないことは、単に本人にとって不幸なだけではなく、国家社会にとっても大きな損失ではないでしょうか。 養護学校の増加に見られる特殊教育の普及は喜ばしいことですが、さらに進んで大学・専門学校と同等の内容と資格を備えた高等教育機関の設置を検討し、また、一般大学等への障害者の入学については、最大の便宜と配慮をはかる措置をとっていただきたいと存じます。特に、外見的障害度で判断するのではなく、知能を的確につかむことによって障害者の特性を把握し、知的職業分野への進出を積極的に助成していただきたいと存じます。教育はだれにとっても生きる上での最も重要な基礎でありますが、身体障害者にとってはことにそうなのであります。私の場合を考えましても、からだにある創造的機能の中で、健康な人たちと同様の能力を発揮できると思われるところは、この知能しかございません。ところが、教育の機会を奪われました結果、それを豊かなものにすることができませんでした。そのために私は職業へつながる道を発見できなかったのみでなく、知識、教養の貧困、社会性の欠除等、さまざまな問題と直面させられております。教育の機会を奪われましたことは、就職の機会、結婚の機会、自立と更生の機会を奪われることでもあったと言えるでありましょう。この意味におきまして、教育だけはすべての肢体不自由児が受けられますよう、養護学校の義務教育制の実施をでき得る限りすみやかに法令で明示することを強く求めたいと存じます。また、すでにその年齢を過ぎている成人未就学障害者に対しましても、巡回派遣教師の制度を全国的規模で確立することにより、最低義務教育終了程度の教養と知識を与えていただきたいと存じます。 私の生活が母の存在を抜きにしては一日も成り立たないことは先に申し上げたとおりでございますが、いつの間にかその母も六十歳を過ぎてしまいました。ふだんは見なれているので気にもとめませんが、何かのおりに頭に白いもののあるのが目についたりいたしますと、母が老いつつあることを感じないわけにはまいりません。そして、自然の順序が私にもたらすであろう将来における一つの現実を思いますと、さながら暗黒の砂漠に一人で立たされたような激しい不安と焦燥を覚えずにいられないのであります。生活を維持していくのに必要な経済的能力はもちろん、身のまわりを処理する能力も皆無の私にとりまして、両親の死後ないし老化廃疾した場合の生活こそ最も深刻な問題であります。本年より国の手に移管されることになりました心身障害者扶養年金制度は、そうした場合の生活保障として、月額二万円を障害者もしくはその保護者に支給するというのでありますが、それによってこの問題が解決するとはとうてい思われません。私には妹が二人おりますが、二万円を渡すことで、両親ですら容易ではない私の扶養と日常の介護を、妹に押しつけることができるでありましょうか。親にかわって保護する者の負担をわずかでも軽減しようというこの制度の趣旨には反対ではございません。しかしながら、この制度の基調になっております家族主義的発想は、現在急速に進行している核家族化の時代に逆行するだけではなく、障害者の福祉をはかる第一の主体である国や自治体の責任をあいまいなものにしているように思われます。私がおそれますのは、この制度が存在することにより、本来の意味における社会保障の実現がおくれることであります。確かに現実の状態では、親が死んだ場合、兄弟など肉親の世話になるほかないのかもしれません。私にいたしましても、そういうことになりましたならば、施設に入るか、妹のやっかいになるか、どちらかでございます。入れるような施設があればよいのですが、もしなければ、好むと好まざるとにかかわらず、私は妹のやっかいにならねばならず、妹は私の生活を見なければなりません。その結果、どんなにぐあいよくいったとしても、妹が私を負担と感じ、私が負い目を覚えることは避けられないと思います。あとでお話しいたしますが、家族に気がねをするあまり、余病がひどくなるまで医師を呼ぶことができず、手おくれになって死亡した例が最近もございました。そこまでいかないにしても、親と暮らしているときのような自由さがなくなるのは確かだと思います。これはぜひ御理解いただきたいと思うのですが、拝害者は障害があるというだけで、健康な人が何の不思議もなく持っている自由をすでに失っているのであります。その上さらに多くの気がねや負い目を感じるような生活をさせることが社会福祉の精神に沿ったものであると言えるでしょうか。障害者を一人の人間として認めるならば、それにふさわしい生活保障、現在の時点で申し上げますと、施設、ホームヘルパー、そして所得保障の三つの面から総合的な対策を立てていただきたいと存じます。ここにあげました三つのうち、施設、ホームヘルパーについては事新しくお願いするまでもないのでありますが、予算書を拝見いたしますと、重症心身障害児関係の支出を除くと、特に目立った計画がないように感じられます。なるほど心身障害者福祉協会施設整備費として、国立コロニーの施設費が計上されてはおります。しかしながら大きな施設を一つつくっただけでは、全国に何十万といる障害者を救えるものではありません。それと同時に、各県各自治体、できれば人口五十万について一カ所ぐらいずつの割合で小さな施設の建設を考えるべきではないでしょうか。そしてそれを自治体の任意にゆだねるのではなく、国の政策として推進し、財政援助等の必要な措置を講じていただきたいと存じます。ホームヘルパーについても、予算書では、施設職員の給与改善、補装具給付費の増額などとともに身体障害者保護費として一括して計上されておりますが、来年度からは独立の項目にして計上していただきたいと思います。ホームヘルパーというものが単に常時世話をしている家族のピンチヒッターでしかないのであれば、それほど力を入れる必要はないかもしれません。けれども、社会全体の共同事業として身体障害者の福祉を守るという原則が確立しているなら、ホームヘルパー制度を飛躍的に充実させることこそそうした原則の要求しているものではないでしょうか。 所得保障の問題もこれと全く同じであります。一方に福祉年金並びに拠出制の障害年金があって、一方に心身障害者扶養年金があるというのが現在までの身体障害者に対する年金体系になっておりますが、これらはいずれも自己保障的ないしは恩恵的性格を帯びているように思われてなりません。私も福祉年金を受給しているのでございますが、少額のためでしょうか、かえって施しを受けているような気持ちになることがあります。扶養年金の問題でも申しましたが、福祉年金にも保護者の所得制限という妙なものがいまだについております。さらに、生活保護は世帯分離をしなければ受けられません。私がお願いしたいと思いますのは、このように家中心の考え方から障害者を見るのではなく、社会の一員として認め、遇してほしいということであります。さしあたり、先にあげました三つの年金制度を一本化することにより、やはり二万円程度を国からの月給という形で支給することができないか、検討していただきたいと存じます。この問題につきましては、やはりからだの不自由な友人が、「島田療育園や秋津療育園では、収容児童一人につき月額四万円から五万円の補助を国がしている。決して不可能な制度ではない」と申しておりました。もちろん、対象になる数が違いますから、直ちに比較はできませんが、いずれにしましても、障害者個人を何らの制限もなく受給対象にした所得保障措置が望まれます。そしてそのような措置が施設の増設やホームヘルパー制度の充実とあわせて有機的に一体化された働きをするとき、初めて社会保障らしい実体のあるものになるのではないでしょうか。親の死後という問題も、そこから改善していかぬ限り適切な回答が出てこないように思われます。 私は千葉県に住んでいるのですが、雑誌を中心にした重度身体障害者のグループづくりを呼びかけ、ことしで四年になります。「羊の声」といいまして、タイプ印刷のささやかな文集にすぎませんが、いつの間にか十一号を数えるまでになりました。グループに参加している人の障害はさまざまですので、警くようなこともございます。たとえば足で字を書く人がおります。この人は四十歳になる女性ですが、脳性麻痺特有のこわばりのために両手が全く使えません。足の指に鉛筆をはさんで文字を書くのでありますが、読みにくいながら、はがきにこまかく書いてきたのなどを見ると、いささか感心させられます。その他両手両足切断のからだで人形づくりをしている人、佝僂病の人、筋ジストロフィーの人、ポリオの人、脊髄損傷の人、骨髄炎の人。先ほどの、家族に気がねをするあまり、医師を呼ばなかったために手おくれのようなことになって死亡した人は、リューマチで二十八年間寝たきりでした。次に読みますのは、その人が生前書いた文章の一部でございます。 「大きな期待と注目された家庭奉仕員制度、(設置することが出来る)と条文一行で軽く片付けられているだけで、地方自治体は何んの拘束も受けず、義務を課されていないのである。それかあらぬか、地方都市の大部分が返上という。理由は金がない、予算がないのきまり文句。が、果して本当か……」 この人が死亡したのは去年でありますが、見舞いに行った人の報告によると、建て出しの二畳あまりの部屋の中で、しみだらけのふとんにくるまったまま、枯れ枝のように細くなっていたということでした。死因はリューマチの進行が原因の腎不全だったのですが、重度身体障害者に対する無料往診制度のようなものがあったならば死なずに済んだのではないでしょうか。私にしても、血圧をはかったこともなければ、血液型も知りません。被病した場合の往診と並んで、家庭訪問による巡回健康診断の制度をいま直ちにでも実施していただきたいと存じます。 次に、筋ジストロフィーで歩行不能な女性の文章をやはり一部御紹介しますと、「先年来、親たちが集まって、筋ジストロフィー協会”というものをつくり、関係方面への陳情や世論に対する訴えをつづけているようでございますが、まだこれといって心の安らかになるような対策をいただいておりません。新聞やテレビもそのときは取り上げて下さいましたが、持続的な関心を寄せて下さるまでいかず、この頃はまた忘れられたようでございます。総理大臣様。私たちのような病者たちは、こうした病いに冒されたのは身の不幸とあきらめて、ただじっと堪えている以外ないのでしょうか。そして太陽のない部屋のなかにすわったまま、淋しく短かい一生を終るしかないのでしょうか」。これは「佐藤総理大臣様」という題の文章でした。 もう一つ、脳性麻痺の女性が書いたものを読ませていただきます。「私の家は父、兄夫婦と三人の甥、私の七人家族ですが、みんな非常に良くしてくれております。でも、それだけにふっと悲しくなるのは、いつまでもこの状態がつづいてくれるか、信じきれない気持が私のなかにあるからでしょう。やはり重度障害の友人の例ですが、お母さんが生きている頃は、兄さんのお嫁さんまでが車で方々へ連れて行ってくれたのが、お母さんがなくなると、連れて行くどころか、何んのめんどうもみてくれなくなった、という話しを聞きました。 人間はみんなお金です。お金さえあれば、他人でもめんどうをみてくれる。ないと、兄弟でも冷たくなる。お金がなければ、どうにもなりません。私がいいたいのは、障害者をわが子にもつ親御さんたちは、その子のために一円でも多くの貯えを残していただきたいということです」。 この女性は私と同じ三十六歳ですが、家が農家ということで、家族が野ら仕事に出たあと、留守番のようなことをしながら小説を書いているそうであります。「自分の書く小説なんか、小説ではないかもしれない。しかし、それでもいいのだ。書いている、そのことが自分にとっては生きがいなのだから」と、先日も手紙をくれましたが、政治はこのような私たち身体障害者の上に七〇年のことし何をもたらしてくれるのでありましょうか。 以前、「国に何をしてもらいたいか」というアンケートをとったことがあります。一番多かったのは、福祉年金の増額と所得制限の撤廃、次がホームヘルパー制度の確立、在宅投票制度の復活、施設の増設と充実、医療保護の完全実施、住宅改善資金の支給というような順序でした。 このうち、特にここで申し上げておきたいと思いますのは、在宅投票制度復活の問題であります。この制度は戦後一度実施されたのが、一部に不正があったというので、その一度だけで廃止になったと聞いております。しかし、なぜ一部の不正のために、より多くの者から投票の権利を取り上げてしまったのでしょうか。そのために、以後二十有余年の間に行使されなかった票の数は非常におびただしいものがあると思います。私自身、選挙権を得てから十六年になりますが、投票したのは一度しかありません。テレビを見ていますと、万国博覧会は毎日全国から集まってくる見物客でにぎわっているようですが、私のような歩行不能の障害者は、万国博覧会どころか、国民の最も重大な権利であり、義務である選挙の投票ができないのであります。棄権したくて棄権しているのではありません。いわば棄権を強要されているわけですから、考えてみますと、これほど理不尽な、基本的人権を無視した話もないように思われます。一刻も早く在宅投票制度の復活することを願わずにいられません。 私は、グループをつくることによって、私のような重度身体障害者、そして在宅障害者が、考えていた以上に大ぜいいることを知りました。それは、私の問題が私だけの問題ではなく、みんなの問題であり、全体の問題であると知ることでもありました。ややもすると、私たちの存在は社会の片隅に押しやられ、政治の舞台から消えてしまいがちであります。年々社会福祉費が増額しているとはいいますものの、予算の全体から見ますとき、それは微々たるものにすぎません。また法律の面から見ても、身体障害者福祉法、同雇用促進法、児童福祉法、母子保健法あるいは生活保護法と、関係づけられる法律は幾つもありますが、障害者を援助する上できめ手になるようなものは見当たらない感じであります。関係省庁にしても、厚生、文部、労働、通産、運輸など、個別になり過ぎており、しかも相互の連携が欠けているように思われます。また、率直に申し上げますが、この国会におきまして、身体障害者の福祉対策をめぐり激しい論議が行なわれたという報道に私は接したことがございません。あるいは異論の余地がない問題として、与野党一致の御配慮をいただいているのかもしれませんが、それにしては対策のテンポがのろいように思われるのでございます。新たな年代を迎えて、日本がいま歴史始まって以来の繁栄の中にあることは、おそらく何びとも否定できないでありましょう。しかもなお、多くの重度在宅身体障害者が、孤独と窮乏と不自由の中に置かれていることを、同様否定できる人もいないに違いありません。かってない繁栄と、そこから取り残された者たちの孤独と窮乏と不自由、このあまりにあざやかな対照こそ、現代社会の亀裂とひずみのあからさまな姿ではないでしょうか。そしてこのような亀裂を埋め、ひずみを解消することこそ、政治に課せられた緊急の任務なのではありますまいか。私はその意味におきまして、社会保障、社会福祉のために、より一そうの努力を政府に求めたいと存じます。もちろん障害者自身が強く生きる心を持たねばならぬことは言うまでもありません。新訳聖書の一節に、「艱難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生じる。そして希望は絶望に終ることはない」ということばがあります。私は至って無信仰な人間でございますが、しかし、少なくとも自分に残されている自分の能力は信じております。そして私だけではなく、すべての障害者、いかに障害が重く、いかに過酷な生活をしいられている者にも、何らかの意味で信じるに足る能力は残されていると思います。 この機会に、全国のそうした障害者たちが、その残されている能力を信じるところから立ち上がることを呼びかけるとともに、政治に携わる方々が、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利がすべての国民にあることを明記しております憲法の精神にのっとり、真の人間尊重といえるような施策の実現を果たしてくださいますよう心からお願い申し上げまして、私の公述を終わります。 ありがとうございました。(拍手) —————————————
○委員長(堀本宜実君) それでは、議事の進行上、若干変更をいたしまして、宮尾公述人の質疑がございましたら、この際お願いをいたしたいと思います。 御不自由でございますので、なるべく簡便にお願いを申し上げたいと思います。
○公述人(宮尾修君) いや、ゆっくりでけっこうです。
○鈴木強君 重度心身障害の立場にある宮尾さんから、いま切々と御意見を承りまして、胸をつかれるものがございました。 いまお述べになりました幾つかの御意見の中で、二つほど御質問をいたしたいのでありますが、おかあさんがなくなったあと、この不自由な自分はどうなるだろうかというようなそういう御心配を持っておられます。そこで、お話のように重度心身障害者のための施設をさらにふやして、原則的にはその施設の中で生活を営まれるほうがいいことなのか、それとも、ホームヘルパーというものをもっと拡充し、それから障害福祉年金、こういうものを、あなたのおっしゃるようにできれば月給制みたいにしてほしい、そういうものが確立した場合には、在宅で生活するほうがいいのか、それはいろいろ家庭の状況とかあると思いますけれども、あなたは、基本的に将来を展望してお考えになる場合に、その重点を、もしどっちを先にやるかということになったら、施設のほうなのか、あるいは、ホームヘルパーあるいは年金の増額であるかどうか、そういうことを一つ伺いたい。 もう一つは、身障者に最低義務教育は与えてほしい、さらには高校なり大学なりにできるだけ進ましてほしい、これも全くそのとおりだと思います。そこで、いまテレビとかラジオとか、特にNHKが中心になっていると思いますが、教育放送をやっておりますね。あなたがテレビ、ラジオでNHKの放送を聞かれ、あるいは十二チャンネル、あるいは十チャンネル、これは教育放送、教養放送をやることになっているのですが、そういうのをお聞きになっておって——いまとりあえずの措置ですね。抜本的なことはおっしゃるようにするとしても、こういうテレビ、ラジオ等を通じて、もう少しこうしてほしいというような具体的な御意見があったら聞かせてほしいと思うのです。それだけ宮尾さんにお願いいたします。
○公述人(宮尾修君) まず第一の質問から、お答えしたいと思いますけれども、基本的には、社会の一員として生きるということが一番よいことだと思うのです。ですから、生活していくに足る所得保障と、それから身のまわりの始末さえつくならば、普通の社会の中で暮らしていくのが一番いいと思うのです。結局われわれの一番の欠点というのは、社会性がないということなんです。なぜ社会性がないかといいますと、まず第一に、小さいときには親が隠してしまいますね。最近でこそずいぶんそういう点は改善されましたけれども、そういうのは、まず親が、こういう子供がいると何か劣等感を持って隠してしまう。そうすると、健康な子供と遊ぶ機会がなくなってしまう。そこで第一に社会性がなくなりますね。すると、大きくなってから今度社会に出ないということで普通の人と交流することがなくなってしまう。ですから、施設に入らなければならないという人もいると思いますけれども、できるだけ普通の人の中で生活して暮らしていけるような、そういう体制ができることが一番望ましいことだと思うのです。ですから、もちろんそうなってもなお施設に入らなければならないという人は、それはいると思います。ですから、施設が要らないというのじゃなくて、逆に言えば、施設にやってしまえばいいというのでは困ると思うのです。やはりどこまでも中心は、普通の人として特別な人として見ないということですね、とにかく。ですから普通の人として見れば、普通の生活を普通の社会の中で送っていくというのが一番いいわけです。そのためには、何と何が必要かという観点から考えていただきたいと思うんです。 それから、第二の問題ですけれども、テレビなどを見ておりますと、おもにNHKなどは高校教育を放送でやっておりますね。ですけれども、わりあい私などは義務教育程度の頭もありませんから、高校教育のそういう映像をぱっと流されても理解できないものがありますね。そういう意味では、何としても基礎というものを教えることが必要だと思うんです。ですから、そういう意味ではどうしても養護学校の義務教育制というものをまずしくということ。それから一般の、普通の学校の中に障害児をどうして入れていくかということ。——何でもかんでも養護学校に入れてしまえばいいということではないと思うんです。先ほども申しましたように、できるだけ普通の社会の中に解け込ませて、普通の人と同じような生活をすることが望ましいわけですから、教育においても普通の子供の教育の中にどうやって障害児を繰り込んでいくか 解け込ませていくかということを、片方で考えていかなくては困ると思うのです。そういう意味で義務教育制をしくということ、それから普通の学校の中に、どうやってそういう障害児を入れていくかということが、片方の努力でなされなければならない。それから、私などの問題は、もうそういう年代が過ぎてしまって、教育を受けるべき年齢に教育を受けないで来てしまったわけですが、そういう人たちに対して、どういうことをするかという問題が一つある。だから先ほども言いましたように、巡回家庭教師のような形で先生を回して、まあ小学校程度の知識のある人には中学の知識を与える。中学の知識を持っている人には今度は高校の知識を与える。そういうことが必要だと思うんです。そしてやはり、それが単に知識を与えるというのではなくて、できるだけその人の何か職業的なもの、あるいは何かしようという仕事につながるような知識の与え方、そういうものが望まれると思います。どうもちょっとよくわかりませんが……。
○足鹿覺君 たいへん感銘をして拝聴いたしましたが、失礼であり、かつ立ち入ってお尋ねするようでありますが、義務教育を受けなかったという、さっきのお話ですが、お話を聞いておりますと、非常に深く勉強をなすったとお見受けいたしました。そこで、あなたが御苦労になりまして、義務教育を受けないにもかかわらず、ただいま御公述になったような体系的な整ったことについて——賢明であるとはいえ、それにはそれだけの御努力なり、何かまたそれに伴う協力者があったのか。また、そういう勉強をされるのに何か独特のくふうなり、創意があったと思うんでございます。それらの点について、いま巡回家庭教師のお話も出ましたが、体験を通じてもっとあなたの気持ちがあれば承りたい。 それから第二点は、体は不自由であるけれども、心は健康であるという、さっきのおことばでありまして、それは高度成長の経済社会にあって、何らか仕事につながる余地があると思うと、こういうお話でありました。それらの点について、何かあなた方の労苦なり、あなた方の中で、こういったようなことは、というようなことを話し合っておられるような点がありましたならば——そういうヒントといいますか、そういった試案といいますか、そういったようなものがありましたならば、それもあわせてお聞かせをいただければ幸いだと思います。
○公述人(宮尾修君) どうもたいへん何というんですか、メッキを金とお間違いになったような御発言で恐縮したんですけれども、全然勉強なんてしていないわけです。私の——そうですね、小さいころのことは母があそこに来ておりますから、もし小さいころのことでしたら、母のほうがよく知っていると思いますけれども、小学校の一年から六年までの課程は、先ほども述べましたけれども、近所の年上の子供がありますね、その去年使った教科書——あのころは教科書も学校に入らない人間には売らなかったわけですね、戦争中でしたから。ですから、買おうと思ってもないわけですから、近所の子供に使ったのを回してもらって、それをうちで広げて読んで、その読んだところをノートにした。最初は字でも算数でも母が教えてくれたわけです。ですけれども、読み書きは教えられても、数学というのは、何しろうちの母も無教養のほうですから、すぐにもう教えられなくなってしまいまして、それがそのままいまもたたっております。つまり読み書きというものを覚えれば、国語的な教養は身につくわけです。ですから、活字によって入る知識というものは、それで身につくわけです。ところが、そういう数学的知識、それから物理的知識、それから外国語、そういうものは全然覚えることができないわけですね。それはやはり、ちゃんとした人に教えてもらわないと身につかないです。それで私が、ちょうど小学校六年を卒業するという、普通の子供ですと、その年に戦争が激しくなって、空襲になりまして、とても勉強どころではないという騒ぎになってしまった。それに続いて戦後の食うや食わずという時代が続きましたから、とても親のほうも子供のめんどうを見切れないで、私はほったらかしにされまして、それっきり体系的な勉強というものはしたことがないわけです。あとは自分で読み書きを覚えたということで、好きな本とかを手当り次第に読んだという——読んだといいましても、先生方の御知識から比べれば万分の一ぐらいのもので、ほんとうにそういう意味では自分が知識がないから、どうしてもきょうここでも強調したように、何といっても教育というものは人間の基礎ですから——自分のことを考えても、教育を受けなかったということが最も致命的な欠陥になっていると思うわけです。ですから、私がどうやって何を学んだかという御質問にも、ちょっとお答えができかねるわけですけれども、私個人のことを離れまして、一般的な問題として言いますと、やはり第一に親がそれなりの気持ちを持って教えなくちゃだめだということですね。第一に親の責任だと思います。何といっても一番そばにいるのは親ですから、親が障害に負けてしまって、この子はもうだめなんだというふうに最初からあきらめてしまったら、ほんとうにだめになってしまうわけですね。ですから、障害はあるとしても、自分で自分のできることを何とか努力していこうという、そういう強い性格づくりをまず母親がして、それで最低の知識は教えていく、やはりそういうことが必要じゃないでしょうか。あとの教育というのは、やはりこれからは、それは国なり地方自治体なりが力を入れて、その人の残された能力をどうやって伸ばしていくかという、残存能力というわけですね、残存能力をどうやって伸ばしていくかという、そういう線に沿った教育、方法というものを開発していかなくちゃならないだろうと思います。ですから私の体験に沿って教育というものを考えろと言われましても、実は答えに詰まるわけなんです。 それで、その第二の御質問ですけれども、それは職業につながる道というようなことでしたね。職業につながるような道が発見できたら、ぼくはこういうところに出て来てこういうことを言わなくても済むわけなんです。そういうことが発見できなかったから、全体で考えなければならないということを申し上げているわけなんです。やはりそれは障害の程度ということが非常に大きく左右しますね。たとえば足が歩けなくても手がきく人は、いまはもうかなり職種があると思います。やはり足もだめ、手もだめということになりますと、なかなかむずかしいということで、私などはまあ字を書くことぐらいしかできませんから、そういう意味で、専門教育、高等教育を受ければ、そういう知的な職業——そこで速記の方がおられますけれども——そういう職業とか、私の友人で翻訳をやっている人間がいます、そういう職業とか、そういう文化的な職業ですね、そういうものに何かあるのではないか。まあ最近はそれからプログラマーなどがどうだろうというような意見もありますけれども、私はそれがどういうものかということがわかりませんので、ちょっとお話しできかねますけれども、結局いまは身体障害者雇用促進法というものがあるわけですけれども、その雇用促進法というものが、名目だけで実質的な内容がどうも伴わないということが私たちの間で話になっております。ですから、こういう国会議事堂をはじめとする各官庁が、率先して身体障害者をお雇いになるという、そういうふうなムードづくりをやっていただくということが、障害者の職業を生かす上で何かいいあれになるのじゃないだろうか、そういうふうに思います。 それから、この問題はいろいろむずかしいので、所得保障ということをぼく先ほど言いましたけれども、どうして所得保障ということを言ったのかといいますと、結局、働くということをどういうふうに解釈したらいいのだろうかという問題にもなるわけですね。お金になるということが働くということだということに規定してしまいますと、全然お手あげの障害者というのはいるわけですから、そうじゃなくて、そういうその人が何かまわりのために役立つ、あるいは世の中のために役立つ、極端なことを言えば、うちの人の留守番のようなことでも、うちの人のために役立つ、それも仕事じゃないだろうか。そういうふうに仕事というものの中身を大きく考えることで、そういう重い身体障害、重度な障害者の役割りというものを認めるという、そういう考え方がこれから必要なんじゃないだろうか。狭い考え方、たとえば毎月四万円も五万円も取れなくちゃ働いているということにはならないのだということになりますと、ちょっとわれわれとしては困るわけなんです。ですから、そういう意味でこれからの働くという意味で、できるだけ中度、軽度、重度の障害の度合いに応じて訓練施設とかそういうものをつくるということも必要ですけれども、働くという概念そのものを、狭い意味に固定させないで、広くとって、その中で少しでも収入のある労働に近づけるというにはどうしたらいいだろうかと、そういう方法を考える必要があるのじゃないかと思うのです。 どうもこまかいことはメモしてこなかったものですから、ちょっとお話しできないので残念ですが、思いついたらまた申し上げたいと思います。
○委員長(堀本宜実君) 次に、下村公述人に質疑のおありの方は順次御発言を願います。
○羽生三七君 先ほどのお話の中で、貿易の好調から外貨の保有がふえた場合、現在の為替レートとの関連で外貨が幾らでもふえていってよろしいのか、あるいは適正保有量というものが想定されるのか、あるいは小刻みのレート改正をやれば別に保有高なんというものは想定する必要がないのか、その辺よくわかりませんので、ひとつお聞かせいただきたいと思います。
○公述人(下村治君) 時間が足りませんでしたので省略いたしました問題点ですが、外貨保有量というものが経済にとって意味がありますのは、その経済が国際収支で相当大きな赤字を出す危険を常に持っている、その赤字を、金融する方法がなかなか見つからないという危険がある、 〔委員長退席、理事吉武恵市君着席〕 そういうときに外貨準備高が意味があるということになると思います。長期的な期間をとって見ると国際収支は平均してバランスをするという可能性を持っているようなときには、一時的な赤字が出るだけでありますから、そういうときに出てくる赤字は、国際的な協力あるいは国際的な協力なしでも商業的な通常の国際金融取引で調達できるわけでありますから、特別の外貨準備を大量に持っていなければ間に合わないということはないわけであります。よく、万一の場合に備えて外貨が必要であるといいますけれども、たとえば大震災のときのような事態に対して、われわれがかりに外貨を持っていませんでも、十分に外資の調達はできるはずでありまして、外貨がなければたいへん困るということは、通常は考えられないわけです。つまり、これまでわれわれが外資がなければたいへん心配であるという事態にありましたのは、国際収支が赤字ぎみで、ちょっと経済が行き過ぎますと大幅な国際収支赤字になって支払いに困るような事態が出てくる、さて外国に言って借りようとしましても、日本の経済に信用がないのでそうたっぷりとは貸してくれない、そういうような状態に置かれておったから、外貨がないということは当局にとって非常に大きな心配の種であり得たということではないかと思います。今日の日本の経済、これからの日本の経済は、それとは全く逆に、国際収支は年々黒字幅を大きくしていくわけです。経常勘定は今日すでに年額で二十億ドルの線をこえつつありますけれども、この経常勘定黒字はさらに三十、四十、五十億ドルというふうにふえていくほかないと思うのであります。こういうようにいつでも金の余る傾向にある経済では、金が足りなくて困るということは出てこないわけです。万一何かの機会で総合的な収支では少し赤字が出るという可能性が出ましても、その可能性は、われわれが外国に金を貸し過ぎたために出てくる赤字ということになるだけだと思います。したがって若干の調整をすれば、あるいは若干の国際金融上の措置をすれば、簡単に乗り切れるというような状態にあるわけで、あらためて手持ちの外貨準備残高を引き落とさなければ国際決済上困るという事態は予想されないと申してよろしいと思います。こういうような基調を持った経済では、したがって外貨準備残高というのは、もはや無用の長物に近くなると言ってもよろしいと思います。使うことがない、万一の場合の保障として、まあ当局の安心の種にはなりますけれども、現実には使うことがない、さらに今日はSDRという制度が発動しておりますので、いまのように黒字ぎみで国際収支は黒字になるかバランスをするかというだけでありますと、IMFのシステムの中で毎年毎年つくられますSDRというのは、日本のSDR残高は年とともに累積するだけであります。国際収支であえて黒字を出して外貨をためませんでも、SDRそのものが毎年毎年累積していくわけですから、したがって、積極的に外貨をさらに積み増ししなければ不十分である、というような条件は発生しないと考えてよろしいと思います。 そういう意味で、今日の日本の経済の状況、これからの日本の経済の状況を前提にして考えますと、日本は今日の外貨準備残高、これからSDRがだんだん累積していくということで、それ以上あえて積み増す必要はないという事態にすでに到達をしていると申してよろしいと思います。したがって、これからの国際収支問題についてわれわれが目標をどこに置くべきかという形で考えますと、経常勘定の黒字に見合うだけの資本輸出と経済援助を行なって、その経済援助、資本輸出の金額は、経常勘定の黒字以上でもなければ以下でもないというように、ちょうど経常勘定の黒字を資本輸出や経済援助で消化するようなことを基準にすべきである。黒字が残ってそれが、外貨がたまればたまっただけいいじゃないかということでもありませんし、黒字以上にやり過ぎてアメリカのように国際収支問題で苦しんでしまうということもやるべきじゃありませんけれども、ちょうど外貨がたまらないような、したがって、SDRはたまっていくというような状態を追求すれば、これが理想的なことではないかと思います。 こういうような政策を追求するということは、今日の日本の経済にとって言いますと、まず第一に輸入制限を徹底的に自由化しなければならない。第二にそれでも出てくる国際収支の経常勘定黒字に見合って、積極的な資本輸出、経済援助をしなければならない。その前提は、当然に三百六十円レートを維持しながらそのような条件を維持するということであると思います。三百六十円レートをなぜ維持しなければならないかということは、さらに次の問題になりますけれども、結論的なことだけを端的に申しますと、生産性の向上と賃金水準の平衡ということが、為替レート安定の根本的な条件であるということからくると思います。生産性の向上と賃金上昇とが平衡するような経済、これは経営者側から言いましても、労働者側から言いましても、満足すべき条件のはずでありますから、したがって、労使関係は最も平和な状態を維持するに適当な状態でありますし、したがって、生産性向上、したがって経済成長、生活水準向上のためのインセンティブを最大限に維持し得る経済条件だといってよろしいと思います。為替レートの引き上げを行なうようなことをやりますと、生産性向上以下に賃金上昇を押えなければ、経済が持っていけなくなるようになるわけですから、したがって、これは経済の安定的なバランスのとれた円滑な成長にとっては、きわめて有害な条件をしいて取り入れるということになるわけであります。そういう意味で、実は為替レート安定を目標として、経常勘定にふさわしいような対外経済活動をちょうどその限度において行なうというのが一番理想的な状態、外貨準備はSDRの増加以上はふえませんけれども、それで十分であるというのが、今日の日本の状況ではないかと思います。先ほどの話の中で、外国から入ってくるインフレを押えるためには、為替レートの切り上げ以外に、引き上げ以外に対処する方法はないということを申しましたけれども、これはいま申しましたこととほかに別の問題でありまして、われわれは国内経済の条件からくる国際収支黒字問題のほかに、外からくるインフレ問題も持っている。したがって、外から来るインフレ問題に対処するためには 〔理事吉武恵市君退席、委員長着席〕 いま私が最初に申しましたことのほかに考慮すべき問題がある。その考慮すべき問題を処理しようとすれば、為替レートを年一%か二%ぐらい絶えず引き上げるというような政策をとる以外にない。それをとらなくてもいいわけですけれども、それをとらないとすれば、それは日本の経済がアメリカの経済と同じテンポのインフレーション的な上昇、賃金上昇、生産性の上昇の程度を越えた賃金上昇、したがってその程度のインフレの上昇をがまんをする、甘受をする、そういうようなことを選択をするということになるということではないかと思います。為替レートの問題に対しましては、したがって、そのように私は、基本的には為替レート安定を維持しながら経常勘定の黒字にふさわしいような資本輸出、経済援助を行なう、あるいはその前提として徹底的な輸入の自由化を行なう、これが一番望ましい現実的な方向ではないかというように考えております。
○矢追秀彦君 先ほど日本経済はまあインフレではないと、こういうようにおっしゃったわけですけれども、確かにそういう議論もあると思いますけれども、やはり現実の問題としては物価が上がっておる。それからやはり通貨の貨幣の価値も下がってきている。通貨の発行高もふえておるし、物があって上がるのだからインフレではないというような言い方をされましたけれども、生鮮食料品なぞはやはり足りない。そこで上がってきておる。米などはそれは確かに余っておるかもしれませんが、それは食管制度というものでささえられている。特別なそういうものがあるから、やはりそこに上がってきておる。輸入は安いものが輸入されておっても、関税の問題とか、あるいは肉の場合はやはりそういう何かの処置がとられておる。砂糖にしても安定法とか、そういうもので全部上がってきておる。まあいろいろな点から総合しまして、私はやはり現在の日本経済はインフレであると言いたいわけなんですけれども、したがって、そのインフレの定義ですね、これをどのようにお考えになっておるか、こういう点をお伺いしたいのです。 それからもう一つは、数年前の不況下においても物価は上がったわけです。この現象はどう考えられるか。それから今日まで経済も発展をしましたし、好況になりましたけれども、日本経済の基盤自体はそんなに変わってきていないのじゃないかと思うわけです。やはりその不況下における物価高と同じように、そのまま物価高が続いてきておる。こういった点の現象をどうとらえられておるか、その点お伺いしたいと思います。
○公述人(下村治君) 不況下において消費者物価が上がってきたということが、そしてもう一つつけ加えますと、消費者物価の上昇下において為替レートの切り上げが、引き上げが問題になろうとしている。このことが日本の経済をインフレと呼ぶに値しないということを端的に示していると言わなければならないと思います。で、インフレ経済の一番大きな特徴は、為替レートが下がってしまう危険が出てくるということであります。過去十年間物価問題についていろいろな方がいろいろなことを言ってきたわけですけれども、その中で一番はっきりしておりますのは、このような物価上昇、このようなインフレ状況の中では、必ず国際収支が赤字になって為替相場が低下するに違いない、こういうことが言われておったことであります。名前をあげて恐縮でありますけれども、笠信太郎さんの十年前の議論がそうでありますし、七、八年前の美濃部亮吉さんの議論がそうでありますし、さらにやや公式の意見を申し上げますと、昭和三十八年の十一月の末に出ました物価問題懇談会の意見書がそうであります。今日のような物価状況が続けば必ず国際収支は悪化すると、こう言っているわけであります。これが通常インフレ的な物価問題を考えるときの常識であります。為替レートが下がるに違いない、そういう事態が進行することがインフレであるというように考えてよろしいと思います。これは定義という問題ではなくて、われわれがインフレ問題を論ずるときに、何が警戒すべき問題であるか、何が病気の本質であるかというときに、それに伴って出てくる姿は、為替レートは低下せざるを得ない、国際収支は悪化せざるを得ない、そのような事態が進行すること、これはインフレ状況の根本的な特徴と申してよろしいと思います。今日の日本の経済は全く逆でありまして、デフレによって、総需要抑制によっていかに不況が起こりましても、なおかつ消費者物価は下がらない。そしてそのような事態が回復されて非常に急激な成長が進行するにもかかわらず、国際収支は黒字になってしまう。このことは、経済の実態にインフレが存在しないということをはっきりと示していると申してよろしいのではないかと思うのです。なぜそういうことが起こるかといいますと、これはつまり、先ほど申しましたように、生産性の向上によって経済が成長していく。その生産性の向上と比例する程度に、賃金があるいは所得が名目的に上昇していく。それ以上でも、それ以下でもない。そういう経済が現実に進行していく、そうしてその事態を推進しておりますのは機械工業であり化学工業であり、いわゆる近代的な産業であるということになっている。急速に成長が進行しますために、それについていけない産業部門が当然に出てまいります。ついていけない部門においては、そのおくれのためにいろんな付随的な現象が起こる。これはいま御質問の中で御指摘になりましたような、野菜の値上がりが著しい、米の値上がりが著しい、これは端的に言いまして、輸入制限とそして国内の保護政策によって事態が増幅されて、値上がりの状態を増幅をしておるということが、経済成長のうちに付随的に、副次現象としてあらわれておる、あるいは経済成長に伴って摩擦的な現象として起こっているということではないかと思います。その中で基本的に起こっておりますことは、国民経済の中心において、生産性向上に見合った賃金上昇が起こっている。賃金上昇が起こっているということは、これは別のことばで言いかえますと、労働力の値打ち、人間の値打ちがお金に対して、生産物に対して成長とともに高まっていく、人間に対してお金の値打ちは下がっていく、人間に対してものの値打ちは下がっていく、そういうことが進行しているということをあらわしているということではないかと思います。 もう一つ、つけ加えて申しますと、先ほど申しました昭和三十八年の暮れごろの物価問題懇談会意見書は、今日の物価状況はきわめて重大な段階にあるということをいっております。結びにそういうことばが出ておりますが、きわめて重大な段階にある、このままでまいりますとたいへんなことになるというわけですけれども、そのような判断を背景にして、昭和三十九年の三月から急激な引き締めがとられたことは御承知のとおりだと思いますが、その引き締めが何を起こしたかといいますと、日本経済が大混乱におちいった、破滅の寸前まで追い込まれたというのが実態だと思います。つまり、日本にもしもインフレ状況があるならば、あれほどの強い引き締め政策は、十分に日本の経済を健全状態に戻したはずでありますけれども、実際には、そのような思い切った政策は何を起こしたかというと、経済の大混乱以外ではなかった。そして消費者物価は下がらないで上がってしまった。これはつまり経済の中で、経済のメカニズムといいますか、経済のロジックといいますか、経済の正常なメカニズムに沿って上がっている物価現象を、異常な不健全なインフレ現象と取り違えて押えようとかかると、これは健全な経済過程そのものを混乳におとしいれる危険性が非常に大きいということを端的に示しているのではないかというふうに思っております。
○横川正市君 二つお聞きいたしたいんですが、一つは、労働力の配置の問題なんですが、第一次産業、第二次産業、合わせまして大体五〇%、それから第三次産業と称せられる部門に大体五〇%というふうに、雇用の状態というのが生産部門からサービス部門へ大幅に動いてきているわけです。このことは、実は私は、物価と原価の関係、それから需要と供給の関係、さらに成長下における完全雇用の問題等の中に、やはり何か現在日本の経済の中には不健康な面が強まってきて、そのことが将来一つの問題点になるのではないだろうかというような気がするわけであります。その点についてお伺いいたしたい。 それからもう一つは、日本の黒字現象に海外の事情というものが非常に大きく影響しているんではないだろうか。たとえば、イギリスのポンド危機の原因、フランスのフラン危機の問題あるいはイタリアのインフレの現象、それからドル危機、こういう背景をなしているものは、やはり第二次大戦以降の戦後処理がまだ十分いかないという状態なのか、それとも新しい要因がその中に生まれてきていて、事実上その国の生産に大きな影響力をもたらしてきているのか、この点が一つの関連を持つのではないか。あるいは開発途上国の生産につながらない今日の紛争状態、これは分裂国家の場合も同じでありますし、それからその他の東南アジアあるいはラテンアメリカ、アフリカ、それらのいろいろな国を見てみましても、完全にその一国の経済状態というものを維持していく基盤がつくれないうちに紛争が起こってきている。そういうことが実は日本の経済状態に影響して黒字現象というものを生んでいるんじゃないのか。こういうふうな点が言えるわけなんですけれども、黒字現象ということの根本にある、たとえば、競争力が十分日本の企業について、他と競争して海外市場というもので大きな期待と収益をあげる、そういう状態になったから今日の黒字現象になっているのか、それとも国際間におけるいろいろな紛争状態が依然として終息しない、拡大していく中でこの問題がささえられているというふうに判断すべきなのか、その点をひとつお教えいただきたいと思います。
○公述人(下村治君) 第一の点でありますが、日本の経済成長は工業部門によって推進されて今日のような急速な成長を実現をしているわけです。その工業部門の成長の特徴は、急速に生産性を上げ、急速に近代化して、そして急速に国際競争力を強めることによって外に対して輸出力を強める、内に対して輸入競争力を強める、そうして労働者に対して高い賃金を可能にする、それを支払う、したがって、国内のマーケーットが急激に大きくなる、そういうような循環を可能にすることによって進行してきたと申してよろしいと思います。で、そういうような過程が労働需要にどういう姿をとっているかといいますと、工業生産の増加のわりには労働需要があまりふえない。国民総生産が増加しますと労働需要がふえるという形で製造工業の雇用がふえてまいりますけれども、その間の割合といいますか、関係が、工業生産の増加のわりには製造工業就業人員はあまりふえない。国民総生産が一割ぐらいふえるときに製造工業の雇用は一割二分ぐらいしかふえておりません。最近五、六年間の日本の経済成長は、そのような近代化、合理化を実現しながら推進されていると申してよろしいと思います。それですから、製造工業就業者の人口の増加はあまり急ピッチではない。にもかかわらず生産性は上がりますから、したがって、賃金水準は急ピッチで上がっていく。これが経済全体に大きな波及効果といいますか、平準化の作用をして、農業部門においても所得水準が上がらざるを得なくなる、サービス部門においても所得水準が上がらざるを得なくなるというようなことが進行していると申してよろしいと思います。全体としては労働人口は五千万人前後のところで押えられておりますから、その中で何が起こっているかといいますと、農業部門から大量に就業人口が第三次部門に入っていく、むろん第二次部門に入っていきますけれども、大きな部門が第三次部門にも入っていくという形で、高い所得機会を持った就業条件が第二次産業だけではなくて、第三次産業においても生み出されるということで今日の経済ができ上っているということではないかと思います。第三次産業部門では、現実には日本の古来の過剰サービス的なサービス形態がたくさん残っておりますから、したがって、もっと合理化すれば合理化する余地のものがそのまま残りながら、高い所得機会を与えるような形になってしまっている、そういうようなきらいがあります。しかし、流通問題について考えてみましても、その他のサービス業について考えてみましても、近代的な組織、近代的なサービス供給の形態というものも、これも急速に導入され始めていることは間違いありませんので、一般的な生産性の向上の圧力はサービス部門にも現に進行しておって、たとえば旅館業のサービスを考えてみてもわかりますように、旧来の伝統的な旅館サービスはもはややっていけない。新しい形で、ホテル的なサービスに切りかえないと旅館もやっていけないというような事態の変化が現に進行していると思います。このようなことがサービス部門全体について進行していると思いますが、少しばかり時間のおくれがあるためにいろいろな摩擦が起こっているというのが現実の事態ではないかと思います。 消費者物価問題にもそのようなことが反映しているということは言わなければなりませんが、大きな一般的な流れとして考えてみますと、工業部門で非常に急速な近代化、合理化、それによる生産性の向上、それによる賃金の上昇、こういうことを推進力として、そこで人を集めますけれども、集め方が少ない。と同時に、ほかの第三次部門での就業機会が急速に改善され、向上されて、そこに大量の就業者を収容するという事態が進行している。同時に、農業のような第一次産業部門では就業者が激減をする。その激減もやはり農業の伝統的な経営形態によってブレーキがかけられた状態で抵抗を受けながら進行しているというのが今日の事態かと思います。就業者の割合について御指摘がありましたけれども、今日の状態では就業者の構造からいいまして、不健全な状態が出ているとか、こういうような状態がそのままいけばたいへんなことになるとかいうように言うほどの事態はないのではないかと思います。ただ、サービス部門についていいますと、先ほど申しましたように、過剰サービス的な生産性の低いサービス形態といいますか、生産性という概念はもともと成り立たない部門ですけれども、過剰サービス的なむだなサービスによる過剰雇用という形態は、おそらく経済全体としての進歩の流れの中で、したがって所得水準向上の流れの中で、おそらく解消するといいますか、改善されざるを得ないような事態が進行しているということで、これからもおそらく製造工業の就業者割合、あるいは第二次部門の就業者割合、第三次部門の就業者割合は今日の状態とあまり大差ないような割合を維持しながら、これから生産性の向上を進めながら生活水準の向上が実現されるという過程に移っていくのではないかというように思っております。 それから第二の問題点でございますが、日本の国際競争力の強さが今日の国際収支の強さの原因であるのか、あるいは国際的な条件、特に国際的なインフレの状況というようなことがわれわれの国際収支の改善の原因であるかというように申しますと、これはたとえば昭和四十四年度の輸出超過四十億ドル、経常勘定黒字二十五億ドルというような事態を評価いたしますと、これは両方の要因が働いておるといわなければならないと思います。日本の国際競争力が強くなったことと、ヨーロッパ、アメリカのインフレ状況とが重なって現実の輸出超過四十億ドルを生み出したし、現実の経常勘定黒字二十五億ドルを生み出すに至ったと言ってよろしいと言うほかないかと思います。ただ、その中で外国のインフレ状況と国内の競争力の強化の条件とがどちらがどの程度のウェートで働いておるかというように考えますと、私は日本自身の国際競争力の強化が決定的な要因であるというふうに考えております。アメリカのインフレ的な状況によって日本の輸出がふえました部分は、輸出超過四十五億ドルといたしますと、その四十五億ドルの中で五億ドルあるいは七億ドルというオーダーであって、その残りは日本の国際競争力の強化によって生み出された部分である。したがって、今日の日本の国際収支の強さ、黒字基調を生み出しました根本的な要因は日本の国際競争力の強化、日本の経済力の強さであると断定してよろしいかと思います。なぜそういうような断定ができるかといいますと、これは日本の経済がほかの欧米諸国に比べまして、段違いに生産性の向上に努力をつぎ込み続けてきた経済であるということから結論できると思います。日本経済とヨーロッパの経済とは同じような努力をしておるわけではなくて、日本の産業界はヨーロッパの産業界、アメリカの産業界と比較にならないような大きな努力、大きな熱意を生産性向上なり産業の高度化、国際競争力の強化につぎ込んだ経済であると申してよろしいと思います。これは国民総生産の中で民間設備投資の占めるパーセンテージの高さにあらわれております。日本の最近の数字を申し上げますと、この割合が二〇%になっておりますが、昭和三十一年度一五%になりましてから大体十四、五年一五%ないし二〇%の間を維持し続けております。同じ割合をアメリカで計算しますと、大体六、七%にしかすぎません。イギリスで計算しますと八%か九%ぐらいにしかすぎません。つまりそれほど日本の産業、日本の経済は急速な生産性向上に努力をつぎ込んでおる経済であると言ってよろしいと思います。このことが、世界全体が国際収支の赤字に苦しんでおる中で日本は輸出超過の経済になったということを意味しておるわけです。世界じゅうが同じように競争しておるといたしますと、世界じゅうが同じような赤字状況に近い状態、その中でやや赤字になる国と、やや黒字になる国が分かれるというぐらいのことではないかと思います。日本の輸出の世界貿易全体に対する弾性値といいますか、世界貿易がふえるときに日本の輸出は何割ふえるか、世界貿易が一〇%ふえるときに日本の輸出は何%ふえるか、その比率は日本では二倍あるいは二倍半というような割合になっております。世界全体の輸出の伸びよりも日本の輸出の伸びは二倍ないし二倍半というように大きな割合でふえておる。日本だけがそういうような伸び方をしておる。その背景にあります基本的な条件は、やはり日本の産業界の努力によってつちかわれた国際競争力の強化以外にはないというように判断するほかないのではないかと思います。
○足鹿覺君 二つお尋ねしたいのですが、数日前に物価問題の——名称は忘れましたが、審議会の会長から、物価に対して行政介入をやることはよろしくない、こういう申し入れがありました。その例にとられておりますのが肉類であるとか、あるいは牛乳であるとかいったような、主として第一次産品について農畜物等が対象になっておったようであります。これを行政介入と見るのか、あるいはまたいま下村さんの御指摘ように、日本の異常とも思われるような急激な高度成長についていけない日本の歴史的な零細農が生んだ農業の生産性の低さ、また農畜産業そのものが持っている季節生産性、いわゆる資本が年一回ないし一回半しか回転しない、こういう特殊性から見て、これに対しての再生産確保のための行政施策あるいは施策がとられておるということは、私はそれなりに意味があると思うのです。それをただ単に行政介入として物価を引き上げておるというような事例に当てはまるものかどうか、疑問を持って見ました。たとえば、輸入の問題をひとつとって考えてみましても、アメリカのCCCは、ある程度の価格保障の役割りをしたもので、安くなったものが日本へ入ってくる、こういう経過も御承知のとおりだと思います。ということになりますと、現在の日本の農業生産性の立場からは、未来永劫とは申しませんが、その体質改善が行なわれ、需給事情を反映した価格を形成するという状態は、私はある程度の時間的余裕を見てなすべきではないか、こういう感じをいつも持っておるわけであります。にもかかわらず、数日前に、ああいう行政介入がいわゆる消費者の立場から見ては矛盾と考えられ、それが物価をつり上げているのだという断定を下すということについては、総合的なものの見方としては、私は妥当であるかどうか、疑問に思っておるものでありますが、そういった点について御所見をひとつ承りたいと思います。 それから、これはきわめて素朴なことでありまして、米価が上がるから賃金が上がる、したがって物価が上がるのだ。つまり、循環論が従来とられてまいりました。これはある程度政治論的な表現をも加えて、純粋の意味からいいますというと異論がありますが、ややもすればそういう論がなされてまいりました。ところが、御承知のように、昭和四十三年度の米の生産費は、前年度に比して一三・九%の上昇でありました。ところが生産者米価は五・九%のアップでありまして、いわゆる八%は生産費を割っておるという結果になっております。そしてまた四十四年産の米の生産費は、前年比一一・五%アップであります。ところが昨年は、米の過剰問題等も反映いたしまして、政策的にこれが据え置かれました。そうしてまた来年度予算におきましても、政府みずからが四・八%の物価の上昇を見込んで予算を編成したにもかかわらず、米価は据え置かれて、二年据え置かれることになるわけであります。といたしますと、いわゆる米価の値上げが物価の値上げの要因になる、それが労賃にはね返るというような従来とられておったような論法は、この二カ年間は少なくとも適用できない、こういう印象を私は持つわけでありますが、下村さんがそういう御議論を従来なさっておったかどうかということは、私は存じませんが、巷間でそういう議論が行なわれておった。ここ二カ年間のこの現象にもかかわらず、ことしの米価も去年の米価も据え置かれたにもかかわらず、去年は物価が五%以上上がった。来年度においても四・八%を予想される、それ以上に上がるのではないか、こういうことがいわれておることは、私どもには納得がいかない。そういう面をどういうふうに理解されますか、伺いたい。 で、私の見るところでは、最初の質問に関連してちょっと補足して申し上げますと、たとえば畜産物、肉類にしましても卵にしましても牛乳にしましても、消費が伸びない。全体としては上昇傾向をたどっておりますが、牛乳の飲用率にいたしましても、外国に比べますと、その三分の一、もっとひどいですね。少ない。肉の消費も少ない。卵の消費も少ない。ということは、高いから消費が伸びないという、そういう議論も成り立ちますけれども、反面、いわゆる大企業は大きな経済成長を遂げましたが、それをささえておる九五%の中小企業、下請企業というものに働いておる賃金労働者の賃金水準がきわめて低い。そのために耐久消費財の時代的要請に従って支出がふえ、家計費の面で節約して、肉類、卵、牛乳等の消費を落とさざるを得ないような実情に追い込まれているのではないか、こういう感じを私ども持つわけでございます。そういう点について、御所見がございましたならば伺いたい。 どうしたならばもっと消費が伸びるか。たとえば牛乳を例にとりますと、去年は一三・八%牛乳の生産量がふえております。ところが伸び率は一〇・三%に過ぎない。そこで、法に基づいて政府が加工乳の不足払い制度を実施するというような形になっております。ところが、事実その飲用牛乳の消費が伸びないということは、ほんとうの純粋の牛乳ではなくて還元乳が市中に出回って、都会の人々はどれが純粋の天然乳であるのか、あるいはカゼインと乳糖と甘味剤を合わせてつくった還元乳であるのか、なれということはおそろしいものでありまして、わからない。しかし、それを取り締まる基準がないというために、いわゆる純粋な天然乳が消費が伸びない、こういうのが実情のようであります。 こういった矛盾の中に、ただ単に、行政介入をすることが物価を引き上げるのではないか、こういうようなものの考え方については、やはり調整のとれた、調和のとれた私は考え方とは受け取れないように思いますが、そういう点について御高見を承りたい。
○公述人(下村治君) 物価安定政策会議の行政介入についての提言のお話であったと思いますが、この提言、率直に申しまして、行政介入ということばで玉石混淆に問題をぶち込んでありますので、一般的に論じますといたしますと、いま御質問で御指摘になったように、私も同じように同感をしております。行政介入によって物価が上がっている。これが消費者物価問題に非常に災いを生ましているというような問題提起は、われわれが当面しております物価問題を論じますのに、きわめて不適切であると申してよろしいと思います。 指摘されましたいろいろな分野は、物価問題の側面からのみ論ずべき分野ではなくて、もっと他の目的、他の着眼点から、他の問題として論ずべきであって、その結果として物価にどのような影響、関連があるかということが物価に波及するだけである、というのが非常に多いのではないかと思います。たまたまそれが高い物価を必要とするというようにかりにいたしますと、公衆衛生上のためにそれが値上がりしなきゃならぬというのは、これは公衆衛生がそれを要求するというような形で物価に影響するわけです。公害問題が今日非常にやかましくなっておりますけれども、公害問題にいかに対処するかというときに、対処のしかたは、結局それを除去するためのコストをわれわれが何らかの形に負担するという以外にないはずでありまして、コストを負担するということは、税金を負担する形でもあるいは値段が上がるという形でも、とにかく物価問題からいいますとマイナスの形をとらなければならない、そういう問題であると思います。しかし、それを物価問題の観点だけから政府が公害問題に介入することによって値上げになって困る、それはやめなきゃならぬというようなことであっては困るわけです。問題は介入のそのものの合理性、そのものの価値、そのことが行なわれている現実の行政の姿の能率、有効性ということであって、値段が上がったか下がったかということは本質的な問題ではあり得ないということではないかと思います。 ただ、指摘されたいろんな分野の中で、政府があるいは行政機関が介入することによって、問題の解決に対してブレーキがかかってるという分野がないわけではないと思います。これはただいま御質問の第二点に関連したことであると思いますけれども、米の問題あるいは畜産品の問題、乳産品の問題、あるいはその他のいろいろな工業製品について考えてまいりましても、これまでの日本経済の中でこれらのものが果たして、これらの産業部門、その産業部門に働いている、経営が果たしてまいりました歴史的な役割りが終わって、新しい形で脱皮しなければならないような状況が急速にあらわれつつあるというのが今日の日本経済の非常に大きな特徴ではないかと思います。米の生産はこれまではいままでのような形で維持しなければならなかったでしょう。牛乳についてもしかり、あるいは畜産品についてもしかりといったようなことであると思います。いろんな商品についてわれわれはそれを生産する産業部門、経営——主として中小の生産性の低い経営でありますけれども、それを維持することが一億の国民あるいは七千万の国民といったような国民が失業におちいらないで、あるいは飢餓におちいらないで何とか生きていくために不可欠な条件であったと、経済全体が混乱におちいらないで続いていくための不可欠な条件であったということがこれまで長い間、五十年、百年の間続いてきたということが事実じゃないかと思います。 そういうような長い間大きな役割りを果たしてきたいろいろな産業部門いろいろな経営がこの日本の今日の段階では歴史的な役割りを終わってしまって新しい形で転換しなければならないような時期に差しかかっている。そういう段階に差しかかっている。これは今日の日本の経済の非常に大きな特徴ではないかと思います。新しい日本の経済の中で、たとえば農業の生産はいかにあるべきか、畜産はいかにあるべきか、あるいはサービス産業はいかにあるべきかといったような問題の変化が起こらなければならなくなっている。その問題の状況の変化に対して従来どおりの行政組織、行政活動というものが実は時代錯誤の状況になっているものがたくさんあるということは、これは否定すべからざる事実であろうと思います。新しい歴史的な状況にふさわしいような行政の方針の変化あるいは指導の方向の変化、あるいはそれを前提として産業界そのもの、経営者そのものの適応の努力が要請されるようなところになっている。人手不足というのはそういう問題状況の変化を端的に示しておりますし、国際収支の大幅黒字と大幅な輸出超過というものがそういう状況の変化を端的に示している一つの現象であると申してよろしいと思います。いままではわれわれは失業者が多かったからいままでのような輸入制限、いままでのような国内産業を保護しなければならなかった、いままでは輸入超過であったからこれまでのように国内の零細の産業、能率の悪い産業でも保護し育成しなければならなかった、これがそうでなければならなかったわけですけれども、これからの時代で一億の国民がさらに一そう生産性を高め、さらに一そう所得水準を高めるためには思い切って生産性の低い仕事のやり方を断念しなければならない、思い切ってそれをもっと生産性の高い仕事に変えなければならない、変えるための苦労、変えるための努力をしなきゃならぬ、場合によってはそれを韓国や台湾やタイのような国国にゆだねて、われわれはもっと生産性の高い産業に転換していかなきゃならぬ、そういうような意味で、非常に大きな歴史的な旋回運動を国民全体として、産業界全体としてやらなければならないような時代になろうとしていると思うのです。そうすることがつまり国際協力の観点からいいましても、あるいは低開発国の経済的な繁栄なり、政治的な安定なり、世界の平和の条件を強化するということのためにわれわれがなし得る非常に大きな貢献の一つの手段であるというような事態がいまあらわれようとしているということではないかと思います。そういうような観点から、これまで行なわれてきたいろいろな行政なり、行政の介入のやり方なり、組織なりというものは根本的に考え直さなければならないのではないか。しかしこれは物価問題ではないと思います。物価問題から論ずべきことではなくて、一億の国民のこれから十年、二十年の間の運命をいかに切り開くかという問題の一つの側面として論ずべき、あるいは扱うべきことではないかというように私は思っております。
○梶原茂嘉君 簡単にお伺いしたいんであります。 四十五年度の予算が下村さんのお考えでは萎縮型といいますか、こういうふうな感じがするというふうなお話でございます。それに関連しまして、現在の税制なり特に国債の発行問題をどういうふうにお考えになっておりますか。現在の四十五年度、もう少し積極的な体制をとろうとすればどうしても何らか収入面にくふうをしなければいかぬ。ところが御承知のように減税の問題が一面にあり、一面国債発行については非常にわれわれ消極的な方針をとってきたわけですね。それらの関連をどうお考えになるか、これが一つ。それから、よかれあしかれ五十年、六〇年代におきましては経済の高度成長の過程で経済成長があまり過激になることに対する牽制調整が行なわれたわけですね。その場合は経済成長の過熱といいますか、それに対する一つの警戒としては、国際的な背景のもとに国際収支の赤字という警戒信号があって、それをよりどころにして調整が行なわれてきたわけだと思います。現在におきましても経済の安定成長路線ともう少し高度成長路線と二つあるようでありまして、現に民間設備投資が昨年来やはり過熱の様相を呈しておるというわけで、日本銀行中心の金融上の調整が行なわれておることは御承知のとおりであります。ところがお話しのように、最近外貨保有が急速に増強されて、今後の見通しとしても国際収支の危険、赤字ということを想定することがほとんどなくなったわけであります。そうすると、これから先の日本経済の高度成長はこれを調整し制約していくきめ手がなくなった感じがします。もしあるとすれば、それは下村先生とちょっと違うかもしらぬけれども、一般に言われているように、円価の切り上げという一つの国際的な情勢を背景にしながら、その問題が出てきている。それによって過激的な成長を制約するということがあり得るんではなかろうかという気持ちもするわけでありますけれども、これから先の経済の成長の度合いといいますか、激しさといいますか、それらについて何らかの調整をしていく必要が特にあるのか、そういうことが観念としてはあるけれども、現実の政策としてはそういうことは適当じゃないと、こういうふうに考えていったほうがいいのか、その点についてのひとつ考えをお示しいただきたいと思います。 それからいま少し——御質問申し上げるのにちゅうちょを感ずるのですけれども、下村理論というものが今日までの実績においてはっきりした一つの成果を天下に示しておるわけですね。今後七〇年代に入って、下村さんは六〇年代よりは若干成長の度合いが鈍るであろうというふうなお考えのように伺っていたのでありますけれども、何か先ほどもお話になりました構想、見通しに思わざる障害といいますか、支障といいますか、そういうものがあるのではなかろうか。もしあるとすれば、どういうことを障害としてお考えになっておるのか。その点をお伺いしたいのですが、そういう心配が全然ないのか。
○公述人(下村治君) 第一の問題点は、国債発行ということであったと思います。私は御指摘のように、国債をもっと出して、減税をもっとやって、歳出をもっとふやしたほうがよかったのではないか。国土建設のスタートを切るためにも、先ほど宮尾さんが切々と訴えられましたけれども、ああいう問題に対処するためにも、対処するために大きな金は要らないわけですけれども、わずかの金があればいいわけですけれども、それをあえて削って総需要抑制に努力をするということがいかなる意味があるか、非常に疑問だと思います。そういうようなことをするために減税をもっと減らさなきゃならぬというような危険があるなら、可能性があるなら、減税をやめるのではなくて、減税をやって国債を出すべきであるというのが、今日われわれが日本の経済力を背背にして予算を考えるときに一番正しい現実的な考え方ではないかと思います。国債が三千億円発行されるのと一兆円発行されるのとの間に、今日の七十兆円、八十兆円というオーダーで運営されております日本の経済に正きな変化が出るはずがありません。三千億円、四千億円の国債ならばうまくいく、一兆円ならばたいへんなことになるということは起こり得ません。一兆円の国債発行が三年、五年と続いて、それならば悪影響が出ないかといいましても、これも何の影響も出ません。経済が七十兆円、百兆円というオーダーにふえていきますから、年に国民総生産の伸びは二十兆円——十兆円から二十兆円というオーダーでふえていくはずであります。十兆円、二十兆円というオーダーでふえる経済において、国の予算が一兆円程度の国債を発行しましても、これは別に有害であるどころか、むしろ有益な変化が金融情勢にあらわれるぐらいのことではないかというように考えたほうがよろしいと思います。まして、そのことによって日本の経済が当面しております歴史的ないろいろな建設的な事業が、それだけ思い切って、それだけ勇敢に、それだけ積極的に行なわれるとすれば、それがはるかに国民の利益であると言うべきではないかと思います。最初に申しましたように、いま日本はインフレ問題——総需要抑制で除去すべきようなインフレ問題は持っていないと言うべきだと思いますので、私はそういうように考えるわけであります。 第二の問題点は、日本のこれからの経済が黒字基調の、しかも大幅黒字基調の経済になるとすれば、この経済の動きにブレーキをかける、調整をする、そういう問題についてどういうような考え方があり得るか、為替レートの引き上げというようなことがそのための対策として考え得るのではないかというような御趣旨であったように拝聴いたしましたけれども、率直に申しまして、日本の経済の成長は、民間設備投資が急速に、着実に、力強く伸びることによって生産性が急速に伸び、生産力が急速に拡充をする、そういう生産能力、生産性の強さを背景にして、その強さを追っかけて総需要がふくれるというような形で成長が進行しておりますので、このような経済成長が続く限り、これを調整しなければならないという事態は予想されないと申してよろしいと思います。 これまで日本の経済が国際収支赤字のために調整せざるを得なかったのはなぜかといいますと、国際収支が赤字になっても、外資の導入によってそれを処理することはできない、そういうぎりぎりの限界に直面をした。少なくとも政府当局、日銀当局はそのような限界に直面しそうだという恐怖を持ったということがあるからだと思います。もしもわれわれが十分に外資導入の機会があったといたしますと、その国際収支赤字は外資の導入によって処理できたはずであります。外資の導入によって国際収支の赤字はなくなる。そうしますと、経済の成長はブレーキをかけられないままに成長できたでしょう。生産性の向上はそれだけ早く実現されましたし、国際競争力の強化はそれだけ早く実現されたわけでありましょうから、したがって、そのときは国際収支は赤字になっておりますけれども、やがて一、二年の後には国際収支を黒字に変える力が出てくる。過去十年、十五年間日本の経済は赤字基調の経済から黒字基調の経済に大きく振りかわっておりますけれども、これが今日までの日本の経済の大きな特徴であります。それを推進したのは民間の設備投資がほかの国とは比較にならないぐらい、やり過ぎだと言われるぐらいたくましく強かったということからくると思います。今日も、これからも程度は違いますけれども、おそらく違うと思いますけれども、同じような形で成長いたすでありましょうから、したがってその生産性向上、生産力拡充によってささえられた成長が続く。しかも国際収支面では赤字が出ませんから、それにブレーキをかけなければならないという事態は出てこないはずであります。で、問題があるといたしますと、黒字が出過ぎる危険がある。したがって、われわれは何よりも輸入の自由化を早くしなければならない、資本輸出をできるだけ思い切ってやらなきゃならぬ。特に海外資源の確保のための資本輸出というのは、むしろ焦眉の急務になっているというぐらいのことではないかと思いますが、そしてもっと大事なことは、大規模に積極的な経済援助を発展途上国に向かって行なうということではないかと思います。それによって処理できないような黒字はおそらく出てこないと思います。したがって、為替レートの切り上げを必要とするような事態を予想しないような政策的な調整をすべきである。それでもなおかつ黒字が出そうだということでありますと、それは率直に申しまして、そのようなときには日本では賃金水準が低過ぎるのだ、所得水準は押えられ過ぎているのだ、政府需要が小さ過ぎるのだというように考えてよろしいのではないかと思います。為替レート切り上げをするよりも実はそこに問題があるということになると思います。今日の段階で為替レートの切り上げをいたすとしますと、これはたいへんに困った事態になると思います。それは輸入制限が非常に強いという状況が根本的な条件になっておりますので、強い輸入制限はしたままで為替レートの切り上げをいたしますと、輸入はふえません。制限された状況で、輸入はふえません、そして影響を受けますのは輸出産業だけであります。輸出産業として自由競争にさらされながらやっと生産性を高めて国際競争力を築き上げようとしている企業、限界的な産業、これが為替レートの切り上げにおいて積年の努力を一ぺんにふいにされる、そういうような事態が起こるだけでありまして、経済の成長がそれだけ阻害をされます。賃金水準上昇の可能性がそれだけ阻害されるということが起こるだけであるといってよろしいのではないかと思います。 それから第三の問題点は、これからの成長について私自身減速の過程が始まるのではないかというように論じております点についての御質問ではなかったかと思いますが、これは日本の経済が二千億ドルという高さの経済、一人当たり二千ドルに近くなりますけれども、二千ドルといいますと今日の西欧の大国、イギリス、西ドイツ、フランスの中間ぐらいになるわけでありますから、たいへんな高さの経済でありますし、二千億ドルという規模そのものは、西ドイツとイタリアを一緒にしたぐらいの規模の大きな経済になるわけで、ここまで到達をした日本の経済の位置を前提にして考えますと、産業界がこれからどのような展望を持ち、どのような目標を持って事業計画をするかというときに、これまで過去十年、十五年間にあったこととは違った変化が起こるに違いない。過去十年間に日本の経済は四倍半になっておりますし、十五年間に七倍になっておりますが、この十年、十五年の間に今日の台湾ぐらいのレベルの経済がイギリスと西ドイツの中間ぐらいのレベルの経済に急速にかけ上がったわけです。このいわゆる高度成長の過程で、日本の産業界の目に映る日本の経済の展望あるいはその企業家の目に映るマーケットの広さ、国内市場から世界市場へ、小さなマーケットから大きなマーケットヘ、非常に大きな、急速な、いわば革命的な変化を遂げ続けてきたということではないかと思います。このことが設備投資の急増を引き起こしたということではないかと思うんです。十年間に五倍近くに設備投資はふえておりますが、このような変化はこれからは予想されない。われわれの今日の技術能力を前提にして考えますと、一人当たり国民総生産がアメリカ程度にはおそらくはならない。アメリカよりも平均しては低いレベルでしょうから、われわれが今日持っております日本の産業界の能力そのものだけで考えますと、アメリカの所得水準よりも少し低いぐらいのところが限度ではないかというように考えることができるんじゃないかと思います。一人当たり国民総生産四千ドルぐらいが一応の限度、これは大まかな当てずっぽうの数字ですけれども、アメリカが一人当たり今日四千六、七百ドルになろうとしているわけですから、それよりもやや低いというような程度の数字をあげただけでありますけれども、現在二千ドルに近づいている、それが三千ドルなり四千ドルに接近するとすれば、もはや能力の限度であるというようなところにすでにきている。これから五年、十年、一人当たり四千ドルに接近をいたしますのはおそらく昭和五十年度ごろではないかと思いますが、昭和五十年といいますと、もう五、六年先にしかすぎません。それほどにわれわれは高いところにすでにきている。これからの成長は、われわれのアメリカとの間の開きと、われわれ自身の、これから四年、五年、十年と世界全体の技術水準の向上、その中で日本自身のイノベーションの自立的な自発的な能力の開発、そういうものによってこれからの経済、これからの産業は開拓していかなければならないところにきているということだろうと思います。そういたしますと、企業家の事業計画の増加のテンポあるいは設備投資の増加のテンポが、過去二、三年のように年に二五%——二七%の増加というようなことはここで一服をして、増加が年に一五%、一〇%、八%というようなペースにだんだんと減速をしていく。そのような設備投資の減速を背景にして、国民総生産全体の伸びの速度も過去十年に四倍半というような速度であったものが、これからの十年間には三倍とか三倍半とかいったようなペースに逐次、漸次減速を始めるということになるのじゃないか。日本の産業界の健全な常識、健全な新事業計画の能力、そういうものを前提にすればそういうような形で動くのがむしろ自然ではないか。過去三年間のペースがあと五年、六年と機械的に延長線上に突っ走るということを想定するのはむしろ非現実的であるということではなかろうかというふうに考えます。
○委員長(堀本宜実君) 他に御発言もなければ、質疑はこの程度にとどめます。 公述人には、長時間有益な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。(拍手) 以上をもちまして、昭和四十五年度総予算についての公聴会は終了をいたしました。 明日は午前十時から委員会を開会することにいたしまして、本日はこれをもって散会いたします。午後三時五十五分散会