文教委員会 第12号
- 発言数
- 135 件
- 登壇者
- 15 名
- 会派数
- 5
- 開催日
- 1970/04/23
会議録
○委員長(楠正俊君) ただいまから文教委員会を開会いたします。 委員の異動について報告いたします。 昨二十二日、鬼丸勝之君及び長屋茂君が委員を辞任され、その補欠として大谷贇雄君及び宮崎正雄君が委員に選任されました。 ―――――――――――――
○委員長(楠正俊君) 著作権法案を議題といたします。 本日は、参考人として日本写真家協会総務委員丹野章君、日本雑誌協会著作権委員会副委員長豊田亀市君、日本映画監督協会専務理事西河克巳君、日本映画製作者連盟製作部会委員藤本真澄君、日本芸能実演家団体協議会常任理事高橋寛君、著作権制度審議会委員野村義男君の御出席を願っております。 この際、委員を代表いたしまして一言ごあいさつを申し上げます。 参考人の皆ざまには御多忙のところ御出席をいただき、まことにありがとうございます。本日は、目下当委員会におきまして審査を進めております著作権法案について、参考人の方々の御意見を承り、本案審査の参考にいたしたいと存じております。何とぞ忌憚のない御意見をお述べくださいますよらお願い申し上げます。 なお、議事の都合上、まず御意見をお一人十五分程度で順次お述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。 また、御発言の際はそのつど委員長に許可を受けることになっております。どうぞよろしくお願い申し上げます。 まず、丹野参考人からお願いいたします。
○参考人(丹野章君) 私は写真著作者の立場から、この著作権法全面改正の法案につきまして、一言意見を述べさせていただきたいと思います。 申すまでもなく、著作権というものは一般的に、古い所有権の観念である物の所有権に対してともすれば弱い立場に立たされがちであります、そういう立場の著作者を守り、その創作活動を保障するというふうな使命を本来持っているものと私どもは考えております。そういう立場からこの法案を評価してみますと、私どもはこういうふうに考えております。 まず、本改正案は現行法よりはいろいろな面ではるかにすぐれているというふうに私どもは評価しております。これは、たとえば現行法二十四条、二十五条がここでは廃止されているというふうな面が大きいと思いますが、しかし、そのすぐれているということは、私どもにとってはこれはあたりまえのことではないかというふうに考えます。といいますのは、この現行法が施行されましてからことしで約七十一年目に相当すると思いますが、そういう長い年月を経てこの改正がされるということを前提にして考えますと、いろいろな点ですぐれているということ、これはまず当然のことと言わなければならないんではないかと思います。それでおそらく、現行著作権法が明治三十二年に施行された当時私どもがもしこれを評価したとすれば、まあ百点満点で俗な表現をすればおそらく九十点ほどの評価をできたんではないかというふうに私どもは考えております。そして、その現行著作権法がそれから七十一年たった現在、歴史的社会的な条件が非常に変化している今日では、おそらくまあ百点中十点ぐらいに下落してしまったのではないかというふうに考えられるんです。そこまで下落したからこそやはりこの法の全面改正が必要になったのではないでしょうか。私どもはここでつくられる新法に少なくとも新しくここで九十点をつけられるようなもの、九〇%の賛成をできるようなものを希望したいというふうに考えております。 そこで私どもがこの法案を見ますと、先ごろ衆議院のやはり文教委員会で私どもの渡辺参考人が申し上げましたことですが、失礼だとは存じますけれども、全体として約三〇%、点数にして三十点ぐらいの評価しかできないというふうに申し上げたわけですが、私も全くそれについて同じような意見を持っております。またそのときに同じ衆議院の文教委員会で、参考人として出られた文芸家の丹羽先生は、八〇%賛成、八十点の評価をされた。これは私どもから見れば非常に意外な感を深めたわけです。おそらくこれは著作権法全般ではなくて、文芸だけの部門についての評価というふうに私どもは考えております。それでは私どもの場合三十点という低い評価をしているのはちょっとおかしいじゃないかというらお考えもあると思いますので、それについてざっと御説明申し上げたいと思います。 第一には、現行法の二十四条、二十五条、こういうふうな著作者が権利者でないというような乱暴な特例が廃止されたこと、これは大きく評価する点です。これだけでもすでに私どもとしては三十点の評価をできるというぐらいのものだと考えております。また、そのほかに、保護年限が全般に延長されたことも評価できる点です。しかしこれは新しい社会的な状況の中で、私的利用についての複製手段を今度は問わないことになった、そういう点など、著作権そのものを制限する条項の若干の拡大、こういうものとやはり相殺されてしまうようなものではないかという点で、これは必ずしも大きな評価をすることはできないというふうに考えております。特に主として写真など対象にしまして差別扱いが残っている。この法案の五十五条「写真の著作物の保護期間」について大きな差別を残しています。これについては重要な問題と考えております。もしこの写真差別の条項その他差別的な条項がなくなれば、すなわち死後五十年の一般的保護に改められたとすれば、大きくやはりこれ以上の評価が、少なくとも全体について七〇%の賛成というふうなことが私どもはできるというふうに考えております。 そのほかの点につきましては、私どもの要望書にもたびたびあげておりますように、人格権の問題についての幾つかの点、それから映画の権利の帰属、これらの点が改善されれば、おそらく今日の時代においてもほぼ百点というふうに評価することができると考えております。もちろん私どもしろうとのことですから、法律としての文章表現の問題、その他こまかいニュアンスについての評価は全くこの中には含まれておりません。 以上まことに僭越ではございますが、私どものこの改正案への評価の割合いというか、位置づけというか、そういうことを理解していただくために申し上げました。 そこで、私どもがいま一番問題にしています五十五条、写真は公表後五十年だけ保護するということ、どうしてこういうことが出てくるのかということをあらためて考えてみたわけでございますが、いままで著作権制度審議会の過程、文部省当局の説明、また保護期間の暫定延長をきめた第五十五国会での経過など、すべてを通してみまして、ただ一つでも私どもを説得できる、またそういう説得性のある差別の理由というものを承ることができなかったわけです。たとえば、社会性、公共性の強い著作物は早く社会全体の役に立てるようにしたほうがよいというふうな御意見もたびたび聞かれております。私もこれについて全く同感でございます。ただし、それについては写真だけを開放したのでは不十分だというふうに考えております。すぐれた社会的著作物が、単に企業の利益のために利用されることでなくて、ほんとうにすべての国民大衆のものになるようなことこそ実は望ましいものではないかと思います。そして、それには単に作者の社会奉仕のような形でそれが行なわれるのではなくて、十分な社会的な保障、すなわち国家的見地から行なわれなければならないというふうに考えております。そういう意味ではこの著作権法の問題とは別に、今後の検討またはそれについての立案等が必要だというふうに考えております。まあこれは一つの例に過ぎませんが、このほかにユーザーの立場からこの種の御意見がいろいろあると思います。写真だけの問題であるかどうか、それらについてやはり著作権全般の問題なんではないか、または著作権法の問題ではないのじゃないか、そういう点にひとつ判断の基準を置かれていろいろ御検討をお願いしたいというふうに思っております。しかし、十年一日のように、このような理由にならない理由が繰り返し出されてくるというのは、はたしてどういうわけなんでしょうか。これは私どもが考えますには、写真に対する誤った認識に基づいているものではないかというふうに考えるわけです。まあいわば偏見というものなんではないかと考えるわけです。それはやはり写真のジャンルというものが歴史的に非常に浅いということと、まあたかだか百数十年の歴史しか持っておりません。それと、その間における私ども写真家または写真に携わる者としてのやはり社会的な努力が足りなかったということは、大いに反省するわけでございますが、やはり歴史が浅いということからくる多くの偏見を負わされているのではないかというふうに考えております。 ここでまた一つ大きな問題は、写真に限らず、表現のジャンルが違えば著作物の成り立ちや創作の形態それから創作のプロセス、またその創作上の困難さ、容易さ、その他そういう問題は千差万別の状態があると思います。また分類上一つのジャンルとされているものの中でも、一つ一つの作品、または傾向の違ったものを取り上げてみれば、それぞれの間に大きな違いがあるのだと思います。そういうふうに創作の方法やプロセスで一つ一つ区別していったとしても、無限に複雑になってしまうのではないかと思います。それだけでなくて、こういう考え方は、著作権について考える上に、実質的な何の意味も持たないのではないかというふうに考えます。どんなに苦労して時間をかけてつくりあげたものでもつまらない写真はつまらないものであり、写真のほうのことばで、よく「私にも写せます」というコマーシャルがありまして、これが引用されるわけですが、そういう方法でとったものでもすぐれているものもありますし、またたくさんくだらないものもできております。そういうふうに優劣もまた必ずしも著作権法の問題ではあり得ないと思います。ですから写真の創作方法が若干他と異なるというふうなことは、写真を差別条項の中に置くという理由には何らなり得ないというふうに考えております。いま「私にも写せます」ということばが出ましたが、これも写真についての安易性というかそういう写真の評価を低めるという意味でよく引用されておりますが、この著作権法について御努力なさっている文化庁の安達次長さんも相当なカメラマニアでいらっしゃるように拝見しております。三日前には写真そのものはなかなかうまく写せなかったわけです。技術的修練がどうしても欠かせない必要条件だったわけです。それが今日では、「私にも写せます」というふうに言われるように、だれでもこれを使うことができるというふうになってきたわけです。これはある面で、一昔前には、機材も非常に高価で一部の人々のその好事家の芸であったというふうに言えるわけですが、それが文章や絵画のように、ほんとうに普遍性を持った表現手段になってきたというふうに私たちは考えているわけです。ですから、これが反対の意味で写真の著作者が無限にふえていく、しかも非常に簡単にとれるのだから著作権を与える上にこれは何らかの区別をしなければならないというふうに言われることは、全く当たらない議論だというふうに私どもは考えているわけです。もちろん一般的にいえば私ども写真のほうのジャンルのものが、しろうと芸で絵画や文章がちょっとましに書けるということがあったとしても、それはそれだけのことに過ぎないように、多くの「私にも写せます」式の写真、これはやはりその範囲を出ないものだというふうに考えております。専門家でもやはり創作の上に情熱を燃やすことができないようなときには、やはりすぐれたものはできない、こういうことも写真についてもあたりまえのことなんです。しかもすぐれたものが社会的に報いられるかどうかもまた別の問題です。写真の歴史はたかだか百数十年ですが、わずかの間でもすでに名作といわれるものも数多く残っております。またその半面、うたかたのように消え去ってしまった数数知れない多くの作品もあります。どうか私ども写真家も法の前に平等であるように、ぜひ改めていただきたいというふうに考えております。 それからもう一つのよくあげられる論議としましては、写真は現実、事実などのコピーではないかというふうな疑い、そういう考え方、そういうものがあるわけです。私どもが常々現実と向かい合って写真を創作しておりまして、やはり芸術とはそういうふうに一片のカメラ創作によってコピーできるほど生やさしいものだというふうには考えておりません。写真家は一般的に客観的な事実をまず重視するということを大切にしておりますけれども、たかだかやはり現実から自分が受けた感動を、どう記録しようかと苦心する程度にすぎないわけです。写真ということばもここにわが国独得のことばとしてあるわけですけれども、真を写すというふうに受け取られておりますが、諸外国ではこういうふうな表現をしておりません。フォートグラフィーとかリヒトビルトとか、たかだかやはり光の絵というふうな表現がされておるように、やはりこれは一種の創作表現のための単なる手段にすぎないというふうに考えるべきだと思います。私どもが考える日本語の写真というのは、そういう意味では事物の本質的な真実を写しとりたいというふうな願望表現的なことばだというふうに考えております。この現実や事実と作品になったものとの関係もまたよく御考察いただきたい点というふうに考えております。このほかに写真はやはり偶然性が強いのではないかというふうな論議もありますけれども、これはあらゆる偶然というものも、やはりその決定的瞬間というふうに写真のほうではことばがよく使われておりますが、やはりそういうチャンスが人間をとらえてくれるのでなくて、人間そのものがチャンスをしっかりとつかまえない限りこれはとらえることができないものだというふうに考えております。 もう一つの大きな理由とされておるものに、条約関係があります。また外国の立法例というものがあげられております。現在、世界の約三分の二の国が写真について公表時起算を採用しておるというふうに私ども承っておりますが、これは言ってみれば、そのまま三分の一の国は死後起算を採用しておるということになると思います。最近でもわが国と文化的、経済的に非常に関係の深いアメリカが、いままで長年とってきました公表時起算というたてまえを死亡時起算に改めようとしております。もうほぼこれは成立する段階にきているというふうに考えていますが、公表の基準そのものがあいまいであるというふうなことが、そのための最大の理由ではないかと考えております。アメリカはもちろん改正の以前から写真についての差別はしておりません。また文化面で非常に交流の深いフランスでも、写真差別というものを一切しておりません。あらゆる著作物を平等に保護しております。アメリカ、フランスの二つの国は、わが国とともに現在写真表現の分野では世界の三大写真国といわれるようなまあ写真の表現の活発な国であります。そういうふうに条約というものは、やはり加入国の普遍的なその加入の可能性というものを重視ずるために、写真についていろいろな国のその進歩の度合いによって事情を抱えている国々のまあ加入を助けるために、やはり設けられている条項であって、写真について死後五十年を必ずしもこの条約上の義務規定としていないということはそういう趣旨だと思います。これはわが国としては、現在のわが国におけるこの写真の置かれている状況、こういうものから考えまして、当然独自の選択をして、この進歩的な三分の一のグループに入るか、若干写真について後進的な三分の二のグループに入るかという選択の問題ではないかというふうに考えております。また、公表時と死亡時につきましても、私どもはただ保護が厚いことだけを望んで死亡時起算を要望しているということではないのです。公表時より五十年以後になおかつ残ってそれが利用されていく作品、そういうものは写真についてもそうたくさんあるというふうには考えておりません。しかし、もし公表時起算がこのまま施行されるとすれば、この進歩のもとにおいて作者の生存中にも保護は切れるという事態が出てまいります。また、さきにもこのアメリカ法のところで触れたように、公表の時期が明確に認定し得ないこと、それから五十年後になってその一作品ごとに切れていく保護の終了をどうやって確認するのか、これはおそらく善意の利用者でもこれについて非常なとまどいをされるのではないか、はたして将来におけるこの混乱の責任をだれが負うのであるかというふうに考えますと、これは重大な問題だと考えております。また、もしそれを防ぐために管理機構をつくるとすれば、こういうものはどういう方法によってできるのか、私どもはおそらく不可能なことだというふうに考えております。 この今次改正にあたりましては、七十一年目にあたる大改正でありますから、ただいたずらに現行法の慣例、またそれからの距離その他にこだわらずに積極的に改正の方向を求めていただきたいと思います。もし本委員会の諸先生方に私どもの主張に対する疑問その他御質問があれば後ほど何なりとお聞きいただきたいというふうに考えております。 それから今日ユーザーの方々でさえも基本的には写真についても死亡時起算を採用すべきだという意見をすでに持っておられるというふうに承っております。それは当然やはり使用者の立場からいっても明確な著作権の期間、著作権があるのかないのかという判定をされることができるという条件をやはり必要とされると思います。そういう点から考えましても、死前時の作品は死亡時起算にぜひしていただきたいと思います。 〔委員長退席、理事永野鎮雄君着席〕 本来、著作行為というものは写真に限らず、やはりなま身の、生きている人間がするんだというふうに考えております。この法案の中にも団体、法人の著作物というふうな考え方が盛られておりますが、これはやはり複雑な現代社会の中でこういうこともあり得るという点で私どもはこれをやはり認める立場をとっているわけですけれども、本質的に言えば、団体、法人が著作するわけがないのでありまして、そういうふうに公表時起算、発行時起算というふうなものはやはり人間の生涯というものを基準となし得ないような、死亡することがないもの、団体だとか法人だとかいう組織による創作、著作、それから無名著作物ですね、そういうものに対して採用すべきものであって、やはり死前時としての人間の著作物については、写真についてもやはり死後五十年というふうな保護をぜひ与えていただきたいと思います。もしこのまま公表時起算のままで施行するようならば、第一発行年または第一公表年というようなものを発行のたびにその発行者に明示させることを義務づける規定が盛り込まれなければ全く将来に禍根を残すことになると思います。また、そういうことを盛り込むことは全体の法体系の上から大きなアンバランスになるのではないかというふうに考えております。そういう点からもぜひ平等な保護を期待したいと考えております。 また、ユーザー側としてはフェア・ユースの問題について、ニュース写真その他の問題について提起されておりますが、これは先ほど申しましたように写真のみについて狭く考えずに、将来の課題として、おそらくこの附帯決議でもされて慎重に検討される必要がある問題だと思います。そういうようないろいろな意見を足して二で割るような形で公表時起算、しかも短かくもなく五十年ということで、死後起算でもなく、公表時五十年というようなこの法案に盛り込まれている、まあ言ってみればいろいろな意見を足して二で割ったような表現の――表現というか、そういう規定はぜひこの際廃していただきたい。ぜひその点に慎重御審議をいただきたいというように考えます。 また、私どもの要望しているその他の点でも、教科書利用について通知の時期が法案上欠落しているというように考えております。これは実質的な使用者の義務規定になっていないわけです。通知の時期がいつでもいいということになれば、これは使用後、はるかに時日がたってからでも通知をすれば済むということになりますので、ぜひこういう点は通知の時期を事前に著作者に通知するというように改めていただきたい。 また改変について、著作物を一部改変するということは用字、用語その他というような表現になっておりますが、やはりこれは明らかに用字、用語の変更、それから印刷技術上の問題というように限定して表現されるべきであって、教育目的に照らして必要な範囲でなどというようなことでは、やはり時代だとか、社会の状況によって著作物が変えられるということの大きな根拠になってくるんではないかと思います。 それから氏名表示権についても、これはユーザー側の人たちも要望しておりますように、氏名表示そのものというのは、やはり著作権を守る上に非常に重要な基礎になるものでありますから、これを完全に義務づけて、改めて確立する方法に改善していただきたいと思います。 また、映像表現のジャンルにあるものとして、私ども写真家と密接な関係にある映画につきましても、最近では写真家が映画づくりに参加することも非常に多くなっております。また独自に映画をつくるということもふえております。そういう点も含めまして、この映画についての不思議な条項がこの中に含まれておりますが、言ってみれば、これは私どもに関係のあった現行法の二十四条、二十五条、著作者初めから著作権者でないというような規定、そういうものに相当すると思います。これはあまりにも、この法案の中で、商業映画のみを意識してつくられたからではないでしょうか。これらの点はすべて契約事項として、当事者間にゆだねられて何ら不都合はないというように考えております。まず著作者だけが著作権者だという大きな原則にこれは改めていただきたいというように考えております。 非常にざっぱくな意見ではございますが、私どもの意のあるところをくんでいただきまして、十分国会で審議をお願いしたいというように考えております。以上で私の意見を終わります。
○理事(永野鎮雄君) ありがとうございました。 次に、豊田参考人にお願いいたします。
○参考人(豊田亀市君) 私は日本雑誌協会のものでございますけれども、日本書籍出版協会にも属しております。出版社は雑誌もたくさん出しておりますが、書籍も出しておりますので、ほぼ問題が多くの場合共通でございます。この二つの協会に属している立場から、ただいま丹野参考人からこまかく御説明がありました写真の問題について、私どもの考え方を簡単に申し上げてみたいと思います。 結論的に申しますと、私どもは写真の著作物の保護期間についての法案の五十五条の考え方に反対でございます。対案といたしまして、芸術的なものと写真の報道的なもの、この二つは本質的に違う要素があるので、分けて考えていただきたい、これが第一のお願いの点でございます。もう少しこまかく申し上げますと、芸術的なものの場合は死後の二十五年、報道的なものは公表後の二十五年、そういうように分けていただいたほうが妥当ではないだろうかというふうに考えております。そして、先ほど丹野参考人からもお話がありましたように、著作権表示をやはり義務づけていただきたい。これが反対をするにあたっての私どもの対案でございます。 理由を申し上げますと、なぜ芸術的なものと報道的なものを分けていただきたいからという理由を、歴史的な観点から、あるいは国際的な観点から、あるいは学説的な観点から幾つか分けて考えることができるのではないかと思いますけれども、法律的なことについては私どもしろうとでございますので、あるいは部分的に間違いをおかした発言をするかもわかりませんが、率直に申し上げます。 歴史的に考えてみますと、一般の著作権の保護というのは基本が、基本といいますか、三十年でかつてあったわけでございます。三十年が今度の法案の死後五十年までに変わってくる過程の中では、三十年、三十三年、三十五年、三十七年、三十八年、そして五十年というふうに変化をしてきたと思います。写真は一般が三十年であった時点で十年でございました。一般が三十三年、三十五年と変わっていく中で、写真は十年のままで、三十七年に一般の著作物が上がったときに十二年、現在では三十八年に対して十三年でございます。これは、この長い期間どうして一般の著作物と写真が分けられてきていたのか、いたずらにこれを分けてきたのではないし、慣行的にそうしたのでもおそらくないだろうと思います。写真というものの中に一般と分けるべき要素があったから、この長い期間この二つは分けられてきていたのではないだろうかというふうに思います。 次に、国際的な視野でこれを見ますと、条約関係はたいへんむずかしくて、私ども大きなことは言えないのですけれども、日本の著作権法と非常に、非常にというか決定的な関係のございますベルヌ条約ローマ規定は、一般と写真の区別を公認しております。公認しているという事実があるわけです。また日本の著作権法とのかかわり方の違いはいろいろありますけれども、たとえばブラッセル規定、ストックホルム規定、ユネスコの万国著作権条約、そういったような周辺の一応参考として考えるべき諸状況の中でも、両者の差異を認めているという文章は見られるのではないでしょうか。実際問題として、一般の著作物と写真を分けている国はたくさん一流国にあるのではないでしょうか。たとえばイタリア、オーストリア等はその代表的なものだと思います。 次に、学説的な面からどういうふうに考えたらいいのかということになります。これを学説といったような大きな言い方をすべきでは私はないと思いますが、少なくとも水野錬太郎博士の昔から、写真というものは率直にいって創作性に弱い部分があるのではないかというふうに考えられてきているのだと思います。これは写真というものを軽視するという意味で私は申し上げているのではございません。 ここでちょっとお断りいたしますけれども、私ども出版者は一応使用者の立場というふうに考えられておりますが、現実は私ども権利者でもございます。非常にたくさんの写真をつくっておりますし、権利者の集団でもあるわけで、両方の立場から考えて、さらに話を進めたいというふうに思います。 写真の機器が年々進歩いたしまして、現在では写真機の生産量、機器の能力、そういった点で日本の写真というものは世界一流であるというふうに思います。それから、日本人の資質といいますか、芸術的な感覚といいますか、といったようなものも一応すぐれているというふうに思いますが、写真家の中に非常にすぐれた人材がたくさん輩出をいたしたことも事実で、写真自体は明らかに一般の芸術と全く同じ芸術であるという部分が非常に多いことを認めるべきだと私どもも思っているわけです。しかし、片方で機器の発達によって報道性というものもまた非常に進歩してきたのではないか。もともと一般の芸術と写真とを分けるという考え方はあったにせよ、さらに機器の発達と芸術家的な資質というもののある方がたくさん写真の仕事をなさっているという現状から、芸術的なものも非常に高いものができるようになったし、報道的なものも非常に報道的なものができるようになったといったような、セパレートした状況が現時点ではないかというふうに思います。 私たちは、一般の芸術と写真を分けていただきたいという考え方の中に、写真自体は一般の芸術と被写体とのかかわり方が違うのではないかというふうに考えております。たとえば絵の場合と写真の場合では被写体のかかわり方が明らかに違うと思います。絵というのは最初から最後まで創作意欲、創作という仕事の中でそれが制作されるわけですけれども、写真の場合には被写体自体にもある意味では表現の権利というものもありますし、肖像権とのかね合いもあるわけです。これを割り切って結論づける場合には写真は芸術であると言えるわけですけれども、被写体自体は何かネグされている要素はないでしょうか。肖像権という問題とからんで考えていいかどうかわかりませんけれども、そこにも何か割り切った考え方がなければ写真は一つであるとは言えない要素があるのではないかと思います。 ところで、一般の著作物について法案は、十条二項で「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道は」著作物でないというふうに規定しております。「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道」というのは写真の場合も明らかにあります。現在では、表現というのは明らかに文章だけではなくて漫画で表現してもものは表現できます。アメリカの場合には、たとえば歩兵の操典などは劇画で表現している、イラストでもって銃の扱い方を教えているといったような例があります。これは字の読めない兵隊さんに銃の操作を教えるには劇画のようなもの、イラストを使う、そういうコミュニケ-ションの方法を使っているわけです。そういう意味では写真と文章とは区別できない表現の手段である場合もあるわけです。そこから、十条二項の「事実の伝達にすぎない」ものは著作物でないとするならば、写真も「事実の伝達にすぎない」機能を持っている。「すぎない」ということばには多少べつ視がありますが、そういう意味ではこの場合全くないと思います。事実を伝達するものとしての写真は存在することは事実です。文章の場合に保護の対象からはずして写真の場合に保護をするというのは、この部分だけについて少なくとも過保護ではないでしょうか。 それから、法案の公表後という考え方は、私は五十年という一般の保護の数字にならったというか、こだわったように思います。私ども芸術と写真と、ないしは一般と写真を区別していただきたいと申し上げる中で、芸術的なものははっきりと一般の著作物に最も近いものと考えるべきであって、法案よりもむしろ保護してもいいのではないかとすら芸術的な場合は思います。したがって芸術的な場合には死後起算と考えるほうがむしろいいのではないか、そう思いまして、芸術的なものは死後二十五年、報道的なものは公表後二十五年というふうにお願いをしたいと思っているわけでございます。 立法上の問題を抜きにして、私の全く個人的な考え方を申し上げますと、報道にあたるものは保護がゼロ年であるかあるいは生存間であるか、その二つぐらいでいいのじゃないか。そのかわり――そのかわりということではなくて、芸術の場合はむしろ一般の著作物と同じように死後五十年でもおかしくない。写真でも全くの芸術である場合もあるわけです。したがって二つに分けることがもしできるならば、ゼロ年と死後五十年でもおかしくないというふうに私は思っています。しかし立法上の問題もあります、国際条約との関係もございましょう、そういうことで二十五年というような考え方、あるいは写真が、いままでその部分は過保護でしたが、持っていました既得権といったようなことも考えれば、私どもが申し上げている死後二十五年と公表後二十五年との併用ということは暴論ではないというふうに考えております。また表示義務がどうしても必要であるというふうに考えますのは、表示がなければ混乱する、これは明らかです。それからもう一つ、公表後というような考え方の中に、私どももその考え方を一部出しておりますが、公表後の認定というのは著しくむずかしいのではないでしょうか。写真を使って私ども記事をつくり報道していく際に、著作権関係を調べるという作業が最初に出てくるわけですが、公表後というのは一体だれがどこで認定して、それを整理しておくのか。そういう作業は言うはやすいけれども、実際にはほとんどできないのじゃないか、公表後を調べていく作業はむずかしいのじゃないか、仕事の上でそう思います。したがって私ども自体も二つに分けて、一つを公表後ということばを使っていることに矛盾があるわけであります。しかし、少なくとも芸術に関するものは死後と明確に分けていただいたほうがいいのではないか、そういうように考えます。 〔理事永野鎮雄君退席、委員長着席〕 法案は総じて、全体について私ども言う資格はありませんが、少なくともこの写真の問題と、それから衆議院文教委員会での美作参考人が申し上げました、翻訳権十年、これはナショナル・インタレストという立場、ナショナル・インタレストということばがいいかどうかこれもわかりませんが、日本にとって得なことをあえて捨てる必要はない。そういう意味で翻訳権十年留保の規定は残していただきたい。写真のこの問題と翻訳権のこの二つの問題は、われわれにとってかなり重要な問題でございます。したがって法案の成立を急ぐというよりも、むしろ十分時間をかけて決定していただきたい。現在の法案がスタイルとして非常に悪いことは事実ですけれども、それを捨てることを急ぐあまりに、成立を急ぐあまりに、審議すべき事項あるいは出ている矛盾をはらみながら成立することには疑問があると思います。したがって、できるだけ十分時間をかけて御審議いただいて、よりりっぱな法案として成立させていただきたい、そう思います。長い時間ありがとうございました。
○委員長(楠正俊君) ありがとうございました。 次に、西河参考人にお願いいたします。
○参考人(西河克巳君) 私は日本映画監督協会の専務理事をしております西河克巳でございます。 日本映画監督協会と申しますのは現在の日本の映画監督の主たるメンバー、二百二十名おりますが、この全員が参加をしております協同組合でございまして、私もまたその監督の一人でございます。本日は、映画製作者の立場を代表したという参考人はほかにあまりいらっしゃいませんので、私は単に映画監督協会の代表としての意見だけでなく、実際に映画の製作に携わっておるカメラマン、俳優その他多くの芸術家、技術者の心情をも反映させるような気持ちで意見を述べさしていただきたいと思います。 著作権法全般につきましては、私は全くの法律的にもしろうとでございまして、理解の及ばないところがございますので、これは省略させていただきます。また、今回のこの著作権法はもうすでに衆議院を通過しておりますし、その間いろいろと問題点の多い法案であるというようなことは衆議院の討議あるいは附帯決議などによってすでにもう皆さま御存じのとおりでございます。特に、映画に関しては、他の著作物と区別をする数々の特殊な規定が設けられておりまして、その規定が志向するところは著作者の保護というよりもむしろ著作者の権利の規制、制限、ひいては企業の保護というような点に重点が置かれているのではないかというふうに私どもは考えております。したがって、私どもはこの法案の中にある映画に関する特別の規定はすべて削除していただきたいというふうに考えております。しかし、本日は時間の制約もございますし、この点についての詳しい意見は差し控えさしていただきたいと思います。なお、この点につきましては衆議院の文教委員会で、参考人として私ども監督協会の大島渚理事が出席いたしまして意見を述べておりますし、また各委員の方の御質問にもお答えしておりますので、その議事録を御参照願えるならばたいへんしあわせだと思います。 幾つかの問題点の中で、本日は特に法案の第二十九条について重点的に意見を述べさせていただきたいと思います。 この法案の第二十九条によりますと、「映画の著作物の著作権は、その著作者が映画製作者に対し当該映画の著作物の製作に参加することを約束しているときは、当該映画製作者に帰属する。」というふうになっております。これは簡単に申しますと、映画に限って著作権は著作者にはなくて製作者にあるということであります。これをもう少し形を変えて置きかえて言ってみますと、たとえば小説や学術論文などを出版する際に、その著作権は書いた人にはなくて出版者のほうにあるというような形になるわけでありまして、私どもまことに乱暴な規定ではないかというふうに思います。そもそもこの法案には、一般的に著作者の定義というものがございます。それは、第二条の、著作者とは「著作物を創作する者をいう。」ということになっておりますが、映画に限り特に著作者の定義がまた別に設けられておりまして、すなわち、第十六条に、映画の著作者は制作――これは二十九条の中で言われておる製作者とは違うもので、プロデューサーをさすものだそうです、制作、監督、演出、撮影、美術等を担当してその映画の全般的、全体的形成に創作的に寄与した者であるというふうになっております。著作権法の常識といいますか、私たちしろうとの非常に常識的な認識から申しますと、当然ここに例示された人々が著作者であるのだから自然の理として著作権を持っているというふうに考えます。そのつもりで法案を次々に読んでまいりますと、第二十九条に至って突然映画に限り著作者には著作権がなくて製作者にあるのだというような条項が飛び出してまいりますので、私どもとしてはたいへんびっくりするわけでございます。この製作者というものは著作者の定義をするところでは一度も出てきておりませんし、また第十六条と第二十九条との間には何らの脈絡というようなものも感じられませんので、私どもはまことに不自然かつ乱暴なものであるというふうな一種のショックを受けた次第です。このようなことがどうして起きるのかという原因を私どもなりに考えてみますと、この著作権法案が昭和三十七年でしたか、審議会が設けられて研究され始めたというふうな過程からわれわれ傍観したりまた参考人として意見を述べたりするような形でずっと見守ってまいりましたそのプロセスにおいて、どうもこの映画会社、企業保護の意思があまりにもこの法案作成の過程に働き過ぎておって、その結果、思わず本末転倒してしまって、著作権者の権利の保護よりも著作者の利用者の保護、ひいては著作者の権利の制限という点に重点が置かれ過ぎてしまったのではないかというふうに私たちは想像しております。著作者に転作権がありましてそれを保護するのが著作権法案の立法のたてまえであるというふうに私たちはしろうと考えに思っておるのでありますが、それが何の手順も踏まずに、一方的に著作者の当然の財産権である著作権を取り上げて製作会社に帰属させてしまうということは、これは憲法にうたわれている財産権の保護、つまり憲法第二十九条に違反するものであるというふうに私たちは思います。また、この著作権法の第二十九条というものは、単に著作者の財産権を奪うというようなことだけでなく、著作者人格権についても重大な侵害をすることになっております。それは第十八条で、二十九条によって著作権が製作者に帰属した場合は公表権も製作者に移ったものと推定するという意味の規定がございます。この公表権と申しますのは、われわれ著作者側にはたいへん重大なものであります。たとえばわれわれ映画監督が非常に心血をそそいで一つの作品をつくり上げる。しかし、つくり上げてみると、さて、いざとなると公表する権利というようなものが全く押えられている、それはもう法律によって自動的に奪われているというようなことになりますと、この映画監督、われわれ映画監督を含めてすべての著作者が制作意欲を盛り上げて制作するというふうな意欲は全くそがれてしまう、あるいはまた制作良心というようなものも失われるのではないかという懸念がございます。私は昭和十四年に松竹に助監督として入社いたしまして今日まで仕事をしておりますが、そのころから映画の機械というようなものは一向に変わっておりません。十年一日のごとく、何か黒板のようなボード、カチンコというものをたたいてやっておりますし、ミッチェルというような機械もさして変わっておりません。照明器具が若干軽量になって進歩をしたというような、やや付属的な機械が進歩したという程度のものでございまして、機械がものをつくり上げるという性質のものではございません。全くこれは人間が集まって人間がつくっていくという性質のものでございます。したがって、これに携わった芸術家、技術者の意欲というものは映画の成果を制するものでございます。これが二十九条のような、並びにそれから影響を及ぼした十八条というようなもので、この制作に関係する芸術家、技術者の制作意欲をそいでしまう、あるいは制作良心を失わせるということになると、重大な影響が起きるものと思います。その結果、この法案の当初にうたってあります、文化に貢献するというようなことは、むしろ反対の結果を生むのではないかというふうに思います。またこのような条文は他の著作物についてこれを当てはめて考えてみると、これはたいへんな乱暴な規定だと思います。そういう意味でこれは全く著作権法の立法精神に反したものであるというふうに私どもは考えます。 では、どうしてそういうふうな乱暴な不自然な規定がここに入らなければならなかったのかということが私はまず疑問に思うわけです。また映画に限りなぜ著作者に著作権がないというようなことを規定しなければならなかったか、どうして著作者はそのまま著作権者であってはいけなかったのかという疑問が起きるわけでございますが、この点についてはこの法案の提案理由の中で文化庁次長が補足説明をされていらっしゃいます。それによりますと、大体次の三つのことがその要因としてあげられております。 その第一は、映画の著作者の多様性ということでございます。これは多くの人間によってつくられるから著作者は複数である、つまり共同著作である、そのためこの著作権の取り扱いが非常に複雑になるであろう。たとえて言うならば、まずその著作物を利用しようとするときに、監督に許諾を得なければならない、その次にカメラマンの許諾を得なければならない、プロデューサーの許諾を得なければならない、あるいは美術監督に得なければならないというふうに、こう数が多くてはとてもまあ事務的には煩雑であってめんどうであるというふうな意味だと思います。しかしながら、これを一たび別な角度から考えますと、共同著作物というものは決して映画だけに限ったものではございません。これは御存じのように、最近の出版物などは非常に数の多いものでございます。ですから必ずしも共同著作物であるからこれは著作者に著作権があるとたいへんやりにくいのであるというような理屈にはならないと思います。また、もう一つのその裏づけとしましては、この法案の第六十四条にも共同著作物に関する規定がございます。それによりますと、共同著作物の著作者人格権は、共同著作者全員の合意が必要である。しかしながら、各著作者は、信義に反してその合意の成立を妨げてはいけない。また、共同著作者はその著作者人格権を行使する際、代表者を定めることもできる。こういうふうに規定されております。そうなりますと、この六十四条の運用あるいはこれに類する法案の制定によって十分この共同著作者であるという、まあ混乱と申しますか煩雑さというものは運用上救い得るものであるというふうに私たちは考えます。したがって、ここでわざわざ映画に著作者の多様性というようなことばでこの共同著作者の複雑さをことさらにうたいあげるということは、法案をいたずらに複雑化するものであるというふうに考えます。 それから、その第二の映画製作者の寄与の大きいことということが言われております。これは映画会社がお金を出してつくるという意味だと思います。資本を投資する、そしてその危険負担率が非常に大きいというふうな意味だと思います。それからまた派生的に当然危険負担率が大きいために映画製作者がみずからその企画を起こす、そしてその企画によって著作者たちが著作をするというふうな例が比較的多くなるであろうというふうな意味合いであるかと思います。しかし、これもまた別の角度から考えますと、このような配慮というものはどうも著作権法の中で行なわれるものとは違うのではないか、これは次元の違う問題であるというふうに私たちは考えます。たとえば、これもまた一つの別な例に置きかえてみますと、最近の出版物には出版者が企画をしましてその企画の意図に従いまして執筆者が選ばれ、そして執筆者が執筆するというふうな例は非常に多くなっております。これは皆さま御存じのことでございまして、出版が盛んになる、あるいは大資本化するに従ってますますこういう例は多くなってきております。そしてこういうふうな大きな企画、あるいは多大の資本を投じるというものほどそういう出版者が企画をみずからするというふうな傾向が強くなってきております。その場合、これは企画は出版者が起こしたものであり、かつ資本の多大のものを投じておる。たとえていうならば、最近は豪華出版というものが非常に多いです。三万円の本を千部刷ればこれは三千万、二千部刷れば六千万ということになります。その他皆さん御存じのように、非常に多額の投資をしてその危険負担をしょっておる出版というものがございます。これは出版者がみずから企画をしてやっておるというのが実情でございますが、こういうものが危険負担をしょっているから、これはやはり出版者に著作権があり、著作人格権が自動的に帰属するものであるというふうに考えるのとやや同類のものでございまして、これは映画だけに特にこの製作者の寄与ということを設けてするのはややこじつけであるというふうに私たちは考えます。 次に、第三の映画の利用を容易ならしめるために権利を集中する必要があるというふうにいわれております。これは字句に関する限り私たちも決して反対ではなくて、同感できるものであります。やはり映画の公平な利用という点では、なるべく権利は集中しておいたほうがいいということは私たちも考えます。しかしながら、利用容易ならしめるため権利を集中するということ、そのことがすぐ製作者に帰属させるということにどうして直結するであろうかという点に私たちは根本的に理解のできないところがございます。これにはやはりいろいろな方法があるのではなかろうか、このような憲法違反ではないかと疑いのあるほど飛躍した論理でもってここにすりかえてしまうというようなことは、これは完全に論理の飛躍であり、すりかえにすぎないというふうに思います。この点については前にも述べましたように、第六十四条の共同著作物の規定というような例もございますので、必要によってはこの条項を補強し、または修正するというようなことで十分その目的は達せられるものというふうに私たちは考えます。 それから二十九条の、不当性というような毛のは、以上のようなところが要件でございますが、この二十九条に関しては、私たちはさらにもう一つ奇妙な印象を持っております。それは三十七年の制度審議会発足以来、この著作権法案の中でも、映画に関する条項は非常にたびたび各項とも変更されております。いろいろと変わってきております。ところがこの二十九条だけは最初からしっかり固定しておりまして、ずっと終始一貫字句も変わらずいままできておるわけです。第六次案といわれる今日まできておるわけでございますが、ただ一回だけ第五次案というふうなものがございまして、この法案の一つ前ですね、これにちょっと違うところがございました。これは製作者に帰属するという前に、「契約に別段の定めがない限り、」というふうな字句が入っております。ですから、契約に別段の定めがない限り製作者に帰属するというふうなことになっておりまして、この件に関しましては、映画製作者連合会と申します製作者の連合体で、つまり通称映連と申しますけれども、この映連と文化庁の佐野著作権課長との間に質疑応答がございまして、その速記録を拝見しますと、映連側が第四次案になかったこのような字句をどうして入れたかということを質問しております。それに対して佐野課長がお答えになっておるのは、最終段階で法制局との討議で、法制局の意見を入れてこの字句を入れたというふうにお答えになっております。また、その入れた理由として、一つは関係出車者の意思に全くかかわりなく著作権を映画製作者に移してしまうということは法律論として問題がある、もう一つは、現状では関係当事者間で契約による権利の処理が行なわれているのであるから、それを全く否定する形で法文を書くということは好ましくない、こういう二つの理由で、「契約に別段の定めがない限り、」という字句を入れたのだというふうに佐野課長がお答えになっております。そしてこの第五次案というものは四十三年四月二日に閣議で決定されております。ところがこれは国会には御存じのように提出されませんでした。そうしていよいよ今度の法案が提出されるという直前になりまして、これがどういうわけですか、何の説明もなく突然削られてしまったわけでございます。先ほどの五次案につけ加えられた字句が削られてしまったわけでございます。私たちはまことに狐につままれたような気分を味わった経験がございます。いまでもまことに奇妙ないきさつであったというふうに思っております。 大体、以上が、第二十九条がどのような観点から見ても著作権法の精神に反している、しかも現在の条項よりもむしろ改悪、固定化するものでありますから、第二十九条は本法案から削除していただきたいというふうに私どもはお願いする次第です。 私の意見の主眼点は大体以上でありますけれども、これのやや補足的な意味で、現在の映画界においてそれでは現行法のもとでこの著作権問題というのはどういうふうに扱われているのかということで御説明して、一つの参考意見というふうにさしていただきたいと思います。 現在はわれわれ映画監督あるいはカメラマン、俳優すべてこれはほとんどは契約によって映画会社といろいろな諸条件を取りきめて仕事をしております。したがって、この著作権法に関する問題もこの契約文書の中の条項として取り扱われるというのが習慣でございます。どういうふうに扱われているかというふうに言いますと、まず一般的に申しますと、御存じのように、現在の日本の映画界には映画五社というものがございまして、たとえば先ほど申しました映画製作者連盟というふうな組織もございますが、この映画五社が大体統一した契約フォームをつくっておりまして、これを私たちのほうに示され、そしてまあそれに対して若干のやりとりなどがございまして契約をするわけでございます。もとよりこの契約は個人契約でございますから、個人によって全くまちまちであり、違っていていいのでありますが、金額その他若干の条件には差がございますが、この著作権に関するような条項としましては、一切の権利が会社側にあるというふうな条文で処理されているのが一番多い例でございます。これは先ほど申しました五社の統一フォームというふうな形の中で取りきめられているものでございます。この一切の権利が会社側にあるというようなことは、私たちとしてはまことに残念なことでございまして、できればこれを排除したいというふうな運動がたびたび起こされましたし、また個人的に交渉、抵抗をされた芸術家、技術者の方もおります。しかしながら、後ほどこのことに触れて御説明したいと思いますが、現在の日本映画界の欧米先進国その他と非常に違いますところは、映画五社というものが独占的な態勢で映画界に存在しているということでございます。このためにこの著作権の条項で非常に抵抗し、あるいは争うというようなことをしておりますと、個人契約であります以上、その個人が自分の希望する会社で希望する仕事をしていくという上ではたいへん支障があるわけでございます。したがって、まあしかたがない、不承不承であるけれども、仕事をしていかなければならないというために、一種の泣き寝入りのような形でこれにはんこを押して契約しているというようなのが実情でございます。まあ一般的にはそういうことでございまして、ただ、非常に少ない例としては、日本の国内における配給権といいますか、上映権といいますか、著作権といいますか、それは契約した映画会社にあるけれども、海外輸出の際の権利を留保するとか、あるいはそれについて報酬を受けるとかいうふうな契約を一部的にされておるという実例もわずかではありますが、いままでございます。それからまた、御存じのように、劇場用映画としてつくられたものが最近ではテレビに放映されることが非常に多くなりましたので、この件につきましては、先ほどの映画製作者連盟と私たち監督協会との間には協定ができておりまして、それによりまして一定の金額が支払われるというふうになっております。ただ、ここで考えますと、この二十九条というようなものがそのまま法律として成立して実施されるということになりますと、このような既得権に関してもあるいは一部的な留保条件というようなものに関しても根底からゆるがされて、非常に現状より悪い状態になるのではないかというような不安も私たちは持っております。こういうふうな状態が現在の私たちと映画会社、つまり著作権に関する当事者間の実情でございますから、こういうふうな状況から見ますと、私ども考えますのに、私のほうからは非常に不満とあれでございますが、会社側のほうから見ますれば、現行法であってしかもこういう契約による処理というふうなものでやっている以上、現在の会社の力、五社の力というふうなものから考えまして十分会社側に権利があり、しかも公正な利用というような意味から考えても何ら不都合はないんじゃないかというふうに考えておるのじゃないかと私たちは考えております。もっと考えるならば、二十九条のようなものができると、むしろそのために公正な利用が妨げられるおそれがあるのじゃないかというふうなことを考えます。それは現在のような当事者間の契約による状態でありますにもかかわらず、この会社側によってできた映画が封鎖されるというような、あるいは公表がとめられる、いわゆるお蔵になるというふうな例がございます。こういうものは大小いろいろでありまして、新聞その他ママスコミに載って騒がれた社会的な問題として幾つかのことがございます。 その一、二をここでちょっと申し上げてみますと、かつて昭和二十九年松竹による「壁厚き部屋」という映画が製作されました。これは小林正樹監督でございます。ところがこれは松竹によってできたときに、これは反米的であるというふうな意味合いで当時の松竹会社としてはこれを公表することは差し控えたいというふうな意味で公開が封鎖されました。しかしこの作品のうわさはいろいろ世上伝わりまして、マスコミ、評論家、その他一般愛好者、世論からたいへん突き上げといいますか、公開を要望するというような声が非常に強くなってまいりました。それと若干社会情勢が時間がたつに従って違ってきたというようなこともございまして、二年後の三十一年に初めて公開されたということがございます。このときには、やはりうわさにたがわずこの作品は非常に優秀なものであったという世評を得まして、小林正樹監督はこの一作によってその名声、地位評価を得たというようなことがございました。次に、昭和三十五年に松竹で大島渚監督によって「日本の夜と霧」という映画がつくられました。これは公開三日で打ち切られまして、そのままお蔵入りということになりました。これは内容が安保問題を扱っておりまして、その扱い方が当時の松竹としてはやはり会社として方針に合わないというふうな意味合いであったと思います。それからごく最近になりまして、昭和四十三年四月、日活で鈴木清順という監督の作品、これは全作品四十本を社長の命令によって封鎖するという事件が起きました。これは現在も東京地方裁判所で裁判係属中でございます。裁判で争っております。まだ結審しておりません。で、この状態は、鈴木清順監督というのはもう昭和三十年以来日活で作品をとっておりまして、四十本とったのでございますが、あるとき日活の社長の意向を害したといいますか、気に入らないという状態が起きまして、さかのぼってとの全作品四十本を公開しないというふうなうき目を見たわけでございます。その理由は、難解な個所がある、この鈴木という監督の作品には非常に難解な個所があって、この難解な個所があるという作品は一般大衆にとって非常に悪い印象を与える、したがって日活という会社の企業イメージをダウンするものである、だからこの作品を封鎖するということでございました……。
○委員長(楠正俊君) ちょっと速記をとめて。 〔速記中止〕
○委員長(楠正俊君) 速記を始めて。
○参考人(西河克巳君) 以上のようなことがございますので、必ずしも映画製作者に集中的に権利を帰属したからといって、公正な利用がはかられるとは考えられないというふうに私たちは考えます。そういうふうな事情、現状でございますので、私たちはこの二十九条というものは、たいへん今後の映画の製作あるいは映画界の趨勢あるいは文化の貢献というような点でむしろ逆コースを促すものでありますので、ぜひとも第二十九条は削除していただきたい、こういうふうにお願い申し上げて、私の意見を終わります。
○委員長(楠正俊君) ありがとうございました。 次に、藤本参考人にお願いいたします。
○参考人(藤本真澄君) 私は日本映画製作者連盟の製作部会の委員としてきょう出席しておるんでございますが、日本映画製作者連盟というのは日本の代表的な五社で結成しておる会でございまして、その出席しておるメンバーは各社の製作責任者、製作担当重役というようなもので結成されておるわけでございます。私は同時に日本映画プロデューサー協会、日本映画製作者協会の、この前は理事長をしておりましたし、現在は監事をしております。したがいまして私は映画製作者として今日までまいりまして、現在では東宝の製作担当重役をしております。そういう観点から私は私の意見を申し述べさしていただきたいと思います。 私は昭和十六年にプロデューサーになりましてすでに二百八十本以上の映画の製作をしております。かねがね私の考えておりますことは、日本の映画製作者の地位を向上し確立するということにあったのでございます。最近プロデューサー、一般的には映画製作者と訳されておりますが、ことにテレビジョンの発達で、プロデューサーということばが非常に使われておりますがこれはそれぞれ皆さんが考えていらっしゃいますことが、多少皆さんで理解のしかたが違うんじゃないかというふうにも考えます。それから現実に映画五社の中で、映画製作者なりプロデューサーといわれておりますけれども、その会社の待遇なりそのプロデューサーの権限なり地位というものがそれぞれの会社で違う。私は主として東宝で仕事をしておった人間でございまして、東宝では由来プロデューサー制度というものを採用しております。プロデューサーというもの、昔からそういう職責をしておる人はあったわけなんでございますけれども、近代的にプロデューサーということばが世界的に使われ始めたのは、映画がトーキーになりまして、非常に複雑になってきた、非常に広範な人が映画製作に参加するということで、それまでは、映画がサイレント時代は、監督がプロデューサーをおおむねかねていたわけなんです。だから、プロデューサーの実際の仕事はその会社の所長なり何なりがして、監督なら監督、まあ小津安二郎なら小津安二郎という人は、事実上はプロデューサーであったとわれわれは解釈しておる。そういうように映画の企業が非常に複雑になってきて、非常に多岐になってきて、非常に複雑な事務もたくさんあるということから、分担してその仕事をする人間が必要になってきたということがプロデューサーの一つの発生である。それと同時に、トーキーになりまして、アメリカでもウェスタン・エレクトリックとかRCAとか大きい資本が映画に入ってきた。そのために、映画資本家が映画をつくるけれども、彼らは映画のつくり方を知らない。それで映画をつくる技術者を必要としてきた。たとえば日本においても、それまでの松竹なんかは、松竹という興業会社であり、映画のエキスパートの現在の社長の城戸さんとか日活の池永さんという資本家であると同時にプロデューサーをかねた人がおられたのですけれども、東宝の場合は、御存じの植村澄三郎の息子の泰二とか大橋新太郎の息子の大橋武雄というような人、大沢徳右衛門の息子の大沢善夫というような人がPCLとJOという会社をつくった。昭和十年ころつくったわけです。それで彼らは資本は親からもらって映画に投資した。しかし、映画の制作技術というものを持たなかった。そのために映画製作者というものが発生した。それで、東宝におきましては、現在副社長をやっております森岩雄が映画制作者としての第一号みたいなもので、それまでの事実上のことは、さっき申しましたように、ほかの会社でも映画制作者というものはありましたけれども、プロデューサーとか制作者ということばで呼ばれていなかったということだと思うのでございます。それで東宝におきましては、森岩雄氏がプロデューサー制度というものを確立して、映画はプロデューサーを中心につくるべきであるという考え方が一貫しているわけであります。でありますから、プロデューサーということを一言で言えば何であるかと言えば、映画の経済的、芸術的、社会的な責任者が映画のプロデューサーだと思うのであります。その映画のプロデューサー、映画のシナリオライター、原作者という者は一応著作権で別になっておりますので、それを除外しまして、監督なりキャメラマンなり俳優なり美術なり衣裳なりそういうスタッフを編成して、企業の場合、それで幾らの金で何日間で映画をつくるということに対して責任を持つのが私は映画製作者だと思うのであります。だから、東宝におきましては、映画の制作監督という名前を使っておりません。演出という名前を使っております。演出の部分を担当している者である。だから並列的にプロデューサーの下に置かれた演出の部分を担当する技術者だというふうにわれわれは解釈している。それが最近東宝でも監督ということばを使っております。これはいまはなくなりました監督協会の会長であった溝口健二先生が東宝で「武蔵野夫人」という映画を撮影されるときに、東宝のそういう趣旨もある程度社会に徹底したじゃないか。ひとつわれわれも監督協会で会長をやっておるのに演出という名前だと困るから、監督にしてくれないかという話もありまして、われわれもわれわれの考え方がある程度社会でも徹底したという観点から、溝口さんの「武蔵野夫人」以来、東宝でも監督という名前を使っております。でございますから、映画の一切の社会に対する責任、さっき言いました経済的な これはいま私の言うプロデューサーというのはエグゼキューティング。私は東宝の場合は製作責任者、その下に私のところに十何人のいわゆるプロデューサーがおります。それが一本一本担当しておる。厳密に言えば、プロデューサーズアシスタントなんです。アソシエート・プロデューサーということばは協力制作者ということが正しいのだと思いますけれども、一応これをプロデューサーという名前で呼んでおります。で、たとえば、その社会的な責任を持つということ――これは戦争時代になりますけれども、戦後、戦犯の摘発というものが行なわれました。それで多くの監督は戦争に協力した。戦争に協力することは戦争が始まれば当然のことであるけれども、戦争を挑発したような映画ということで戦犯の摘発が行なわれた。そのときに監督は一人も戦犯者が出ておりません。そのときの会社の責任者が、製作の責任を社会的に持っておる、そのときの担当重役なり、社長がみな戦犯になったわけでございます。戦犯になって追放を受けたわけです。映画監督は一人として、そういうものを実際的につくった映画監督は一人とも戦犯になった人はおりません。また、名乗り出た人もありません。全部会社の経営者がその責任をとっているというような意味なんでございます。それで映画の今度二十九条にあることが、西川君が言ったように、監督の立場としてはいろいろ問題がある。それから監督と申しましてもいろいろピンからキリまであるというと、非常に失礼でございますけれども、自分の企画でこういうものをやりたいから、こういうものをこれだけでこういうふうにやりたい、プロデューサー的要素をかねている監督もいるわけです。それからまたわれわれのほうでこういうものをこういうふうに、この俳優で、これだけの日数でやらないかと言ってやる場合もある。いろいろ千差万別でありますので、それを一様に律するということはほんとうはなかなかむずかしいことでございますけれども、この法律として規定される場合には、私は映画製作者にあるという考え方が一番正しいのではないかというふうに現在考えているわけです。それで、私自身は東宝で、いわゆるアソシエートプロデューサーを森岩雄の下でやりまして、そうして東宝の争議のときに東宝をやめまして、藤本プロダクションというものをつくり、それから自後東映なり、日活なり、東宝なり、新東宝という各社で映画をつくったわけなんであります。それで、そのときは私は資本はありません。資本はありませんから、それぞれの会社が資本を出して、その下でいわゆるプロデューサーをつとめた人間でございます。これはプロデューサーと会社のエグゼキューティブ、これは会社の責任者との商取引だと私は思うのでございます。たとえば「青い山脈」という映画におきまして、私は一プロデューサーで、東宝からそのときに二千五百万円で私は請負作業をしたわけですが、二千五百万円東宝は出資をして、私につくらした、藤木プロダクションがつくりました。そのときの著作権は私が持っております。それは会社に交渉して私が著作権を持つべきであるということを主張して、その当時のことばで言えば、私は会社から戦い取ったわけです。現在においても、そういうような仕事の形において制作者に、いわゆるここで言うプロデューサーに、フィルムメーカー、要するに会社のほうをいわゆるフィルムメーカーと言うのだそうですが、エグゼキューティブなり会社がその人と話し合って、その著作権を共同に持つこともしばしばあるわけです。きょうから黒沢明君の「どですかでん」という映画をつくりますが、この映画は東宝と黒沢君のおります四騎の会というものの制作になっております。これは資本は両方から出す関係もありますので、著作権は東宝と四騎の会が、両方が持つ、共有するという形になっております。こういう例はいままでもたくさんあります。これはすべて契約によるわけでございます。たとえば参議院議員である青島君が私のほうでとりました。この場合、青島君は金は出しておりませんけれども、彼は制作者として私と一緒に仕事をしました。それから俳優として、作者として、音楽家として仕事をしております。彼は代償を取らずに、それだけを全部投資した形で映画をつくったのでございますけれども、その場合は青島さんと私との話し合いで著作権は東宝に帰属しております。個々の場合で違うのであって、個々の制作者との話し合いによって、その著作権の帰属というものはきめております。私たちは実力のある監督、それから、実際にそういう製作者的な仕事をする監督には、東宝においては製作者の仕事をしていただいております。でありますから、この前大島渚君が衆議院でいろいろお話になったようですが、大島君は監督としていろいろお話をされたようですけれども、大島君が事実上、彼は幾つかの映画をつくっております。しかし、あれはおそらくATGというところの共同著作権になっているのじゃないか。だからおそらく、これは明らかでございませんけれども、大島君もあの場合は製作者としての権利を大島君も共有しているのではないかというように解釈しております。私たち東宝で、ああいうものが行なわれた場合だったら、当然大島君は監督であると同時に制作者なんでありますから、製作者としての著作権を彼は持つことは当然だというふうに私は考えております。それからそのプロデューサーというものは、結局一番最初申し上げましたように、多くのスタッフを統括するということが一番大きい責任で、一番対社会的にも、それから経済的にも、芸術的にも責任を持つものでございますから、当然これは制作者が私は権利を、著作権というものは行使すべきものであるというふうに考えております。それからさっき西川君が「壁厚き部屋」とか、「日本の夜の霧」という問題、これは個々についての公表、封切りにおくれたというような問題についていろいろ問題がありました。これは私も個々についてはその当時の会社側は小林君なり大島君との話し合いのしかたが悪かったし、いろいろな問題も会社のほうにも私は責任があると思いますけれども、その作品を発表しての社会的責任というものを会社がとる以上は会社のプリンシプルに違う、その時代としてこれは発表すべきでないと考える作品は、私は差し控えることがあるのは当然だと思う。会社の金で多くのスタッフを使って会社の機構をもってつくったものが、会社の意思と反したものができたら、会社が会社のリスクにおいてそれを公表しないことは当然だというふうに考えます。しかしこの「日本の霧」の場合あるいは「壁厚き部室」の場合妥当だったかどうかということは別問題ですけれども、そういうものがあり得る。ある場合には非常に技術が拙劣で、こういうものを出すと会社として損だという場合には、あるいは封切りを延ばすという場合もあり得るし、それから社会的に影響があって、会社のプリンシプル、会社は一定の方針を持っておりますが、その方針に反するものができた場合に封切りを延ばすなりおくらすのはこれは当然なことだ。またそれは会社が社会に対する責任をとることだというふうに私たちは考えております。 それからさっき丹野さんなり西河さんが、今度の法案が商業映画の偏重であって企業への保護であるというふうに言われておりましたが、現在の資本主義というのは、この時代においてやはり大きな会社はリスクをとってやった以上、これはある程度それなりに保護されるのは私は当然だと思います。その場合、金は出資しないけれども、精神的、たとえばスタッフが全員それに参加する、スタッフが全部一監督の責任において編成されてそういうものに投資される。とにかく資本の中の一部がそういう労働対価において投資されるというような場合に、共有の著作権を持つというようなこともあり得る。それは個々のプロデューサーとの話し合いにおいて私は解決すべき問題だと思います。だから私は力のある監督がプロデューサーを兼ねることは賛成ですし、また現実にやっておりますし、その人とは会社は個々の話し合いによってそれは解決すべきものだというふうに考えております。しかし大多数の監督、いま二百数十人の監督がおられる中でさっき西河さんが言われたように大多数は会社との契約によってやっておるのじゃありません。これは毎月一本なり生活の保障というものがある程度大なり小なりあり、会社に与えられている主として会社の企画によるものを会社の機材を使って会社のスタッフを使ってやる場合に、その監督は私は監督というより演出者と呼ぶほうが正しいのだというふうに考えております。大体私の申し述べたことはそういうことでございます。 私はおおむねこの第二十九条に賛成する立場で参考の意見を述べた次第でございます。 また足らないところはあとから補足させていただきます。
○委員長(楠正俊君) ありがとうございました。 次に、高橋参考人にお願いいたします。
○参考人(高橋寛君) 私は社団法人の日本芸能実演家団体協議会の常任理事の高橋寛でございます。 私どもの協議会は俳優、その中には俳優と言えるかどうかむずかしいところでございますが、いわゆる能役者、文楽それから演出家も若干おりますが、そのほか音楽関係の演奏家、歌手、指揮者、この中には邦楽もありますし、また洋楽もある。それから舞踊、これも洋舞も日本舞踊もございますが、舞踊家の皆さん、そのほか演芸家、落語、講談といったふうなところでございますね。そういうたくさんの協会が、もう戦争前から、あるいは戦後たくさん協議会その他協会などをつくりましたが、それが三十団体集まりまして、あまり世界にも類がないようでございますが、ここに一つの協議会をつくって、著作権法などが契機になったわけでございますが、いま運営されている団体でございます。設立されましたのが四十一年の十二月、翌四十二年の五月には社団法人の許可を得ております。私たちは大体人数から申しますと、ほぼ会員団体の数は三十でございますが、その下に所属している芸能人の数というものが大体二万一千人ぐらいを傘下におさめているわけでございます。一方、社団法人の著作権資料協会が発行いたしております出演者名簿というのを見ますと、大体ここには八千五百人ぐらいしか登録されていない。どうしてこんな差があるのかということになりますというと、日本の一億総タレントのような世の中が戦後あらわれまして、どこからがプロであり、アマであるかということの差別が非常にむずかしい職種でございます。しかし、出演者名簿に集録されておりますのは、主としてマスコミ関係に出演をする方々の名前が八千五百ぐらい書かれておるのではないかと思いまして、私どものほうにはそれらの方々はもちろんのこと、そのほかもっぱらお弟子さんに芸能を教授することをもって業としているというような専門芸能家も含まれておる。そうなりますと、どうしても二万一千人以上の人間がここにいるということになるわけでございます。これだけの人間が長年にわたりまして著作権法の改正をお願いし続けてまいりました。ということは、御承知のように、現行著作権法におきましては、第一条の著作物の例示の中に、演奏歌唱というものが入っておりまして、これは例の桃中軒雲右衛門のレコードのにせものが出たという事件に端を発して、大正九年に鳩山一郎先生らの御努力によりまして、やっと演奏歌唱というものも、また著作物であるという例示が入ったわけでございます。ところがこの演奏歌唱者の私たちが、はたして現行法で十分に保護されてきたかということになりますと、これははなはだ怪しいものでございます。 その理由は二つあると思いますが、一つは、演奏歌唱というものの中に俳優等の演技も含まれるかどうかという論争がございます。その発端が浪花節であった以上は、浪花節の節の部分にだけ著作権があって浪花節のたんかと申しますが、あのせりふの部分にはこれは著作権がないということはちょっと言えないわけであります。浪花節のせりふが著作物ならば、俳優のせりふもまた著作物ではないかということも言えないわけではないわけございますが、これが法廷で争われたということも私寡聞にして聞いておりません。また、ここに舞踊家の舞踊が入るかということになりますと、これははなはだ悲観的に考えざるを得ないということで、実演家のすべてが、演奏歌唱という文字にたよって著作権を主張することにはかなり無理があろうと私たちも考えておるわけでございます。 もう一つは、例の三十条八号という現行法のレコードを興業または放送の用に供することは、これは偽作とみなされない、出所を明示すればいいんだというようなことがありましたために、皆さんもよく御存じのラジオなどのディスクジョッキー、ある放送会社などはもうほとんどのプログラムがレコードにたよっているのではないかと思われるぐらいに、レコードをかけることによって放送事業が成り立つというふうな不思議な現象まであらわれている。こういうようなことでは、せっかく私たちが演奏歌唱というような名前をもって、著作権者だとみなされていたとしてもあまり実益を伴わない。そこでもっとすっきりした形に、隣接権条約というようなパイロットもあることでございますから、諸外国並みに私たち実演家の権利を保護する法制に改めていただきたいということをお願いし続けまして、今回やっと著作隣接権制度が新しく盛り込まれました著作権法をここに見ることができるということは、私たちたいへんな喜びでございまして、私たちは一日も早くこの著作権法が成立することを待ち望んでいるわけでございます。 まず、そのことを前提といたしまして、それじゃ今度の法案に対して芸能人は何にも意見はないのか。さらに希望するところはないのかと言われますと、これには幾つかの問題点がございます。それを御参考までに申し述べまして、皆さま方の審議の一つの参考にしていただきたいと考えております。 その一つは、まず著作隣接権の保護期間でございます。これが今度の百一条を見ますというと、行為をした、実演をした後の二十年ということになっておるわけでございますが、先ほど申しましたような現行法の演奏歌唱の保護期間は、本人の生存間とその死後三十年間すでに私たちは既得権として持っておるわけでございます。それが法の改正にあたって行為後二十年に短縮されなければならない、縮められなければならない根拠はどうも私どもには理解いたしかねるところでございます。審議会の答申その他におきましても、このことはあまり深く論議されたように思えないんでございますが、その理由の一つとしては、先ほど申しましたように、実演家の幅が広がって大ぜいの実演家が保護されるようになったからいいじゃないかということもあったかのようであります。しかしこれは、じかに演奏歌唱者であるというような実演家にとってみればとんでもない話でございまして、仲間の幅が広がって保護されるようになったから、個人の権利は縮まっていいんだということはどうも論理のすりかえのような気がいたします。また、実際問題といたしましては私たちが年をとった段階で、現在私五十でございますが、七十になると、きょう午後私仕事をやりますが、これがもうすでに保護がなくなってしまうんだ、七十になったときに。これはやはりやり切れない気持ちがいたします。同じ作品に同じように創作的に寄与するところのほかの著作者、作家とか、作詞家とか、作曲家とかあるいは監督さんとか、そういうような方々の場合には、これが死んだ後五十年も保護されるにもかかわらず、その中で非常に大きな比重を占めるであろうと思われる俳優については、まだ生きているうちに保護がなくなっちゃうということは、これはやり切れないわけでございます。先ほどからいろいろと映画の題名が出てまいりましたが、私、戦後につくりました昭和二十年の九月か十月ですが、黒沢明監督の演出によります「虎の尾を踏む男達」という勧進帳の作品、これはすばらしい作品でございましたが、これもアメリカさんの御事情によって日本の封切りは延びた作品でございますが、これがついこの間榎本健一さんの追悼のために新宿のコマ劇場で再上映されている。私、忙しくて見にいかれませんでしたけれども、たいへんなつかしい思い出とともに、東宝から再上映するぞという電話一本いただけない。もちろんお金などはいただけない。これは、どうもやはり非常におかしいのじゃないかという気がする。この原因は、私たちが契約でいいかげんな契約をしていたという私たち自身の責めもございます。しかし、戦後つくった作品がもう権利がないんだということは、やはり非常にさみしい。また、これが今度の新法案の経過措置で見ましても、これは短いほうの年に合わせることになっておりますから、かりに私が「虎の尾を踏む男達」という作品について権利を持っていたとしても、新法によって二十年のところで切られてしまうということになるわけなので、これは私たちとしましては、あえて言うならば、ほんとうは死後五十年でもいいんだと思うんですけども、ただ映画への出演者の数は多いですから、どっかに一人生き残っていたという人を追いかけて、その人の死後五十年ということになるのじゃ、これは流通上ほんとうに困りますから、せめて行為後五十年、バナナのたたき売りじゃないけど、さらに縮めるならば、行為後三十年以上はこれは認めていただくことが当然なんじゃないだろうかというふうに考えております。行為後三十年以上の保護を切望いたします。また、パイロットになりましたいわゆる隣接権条約、実演家、レコード製作者及び放送事業者の保護に関する条約の中に書かれておりますのは、二十年より短かくてはならないと書かれているのであって、三十年以上であってはいけないよとは決して言ってないわけであります。御参考までに申し上げますと、オーストリアの著作権法では隣接権の保護期間は三十年でございます。スエーデンでは二十五年です。西ドイツでも二十五年です。だのに三十年という既得権を持っている私たちが、今回二十年に短縮されるということの理由がよくわからない。ここを十分にお考えいただきたいと思います。 二番目の問題点は人格権でございます。 実演家の人格権、これは演奏歌唱者にはもちろん人格権がございました。今回何もなくなりました。実演家には人格権は認めないということなんでございますが、まあ人格権の内容としての公表権ということにつきましては、録音録画いたしました時点において私たちは、これでいいですよとか、悪いですよとか言うわけですから、あまり問題ないのでございますけれども、ただ、氏名の表示権の問題になると、これは全部の俳優さんの名前をタイトルに出さなきゃならないということも困るでしょうが、同一性保持権、ここが一番私たちはほしい。自分の演技が収録された段階と映像になった段階とが全然違った形になってお客さまに提供されるということはやはり演技者としては耐えがたい問題でございます。それは、一般の名誉声望の、つまり民法上の訴訟によって名誉回復の措置が講じられるではないかとおっしゃられるかもしれませんけれども、御承知のように、私たち演技者というものは、いわば経済的な利益もさることながら、この名誉声望そのものが商売みたいなものでございまして、この名誉声望が侵害されてしまったときに、裁判で長年かかって、勝って、おまえ勝ったんだから名誉回復の措置を講じてやろうとおっしゃられても、そのときはもう人気がなくなっちゃっているわけです。そこで勝ってみたって始まらない。だから、どうしても予防的に名誉声望を害するような利用のしかたはしてはいけないよというくらいのことは書いていただけませんというと不安でたまらないという問題がございます。ぜひ実演家に名誉声望の侵害を禁ずる権利を与えていただきたいと思います。これは隣接権条約に入っております国々ではほとんど全部認めているようでございます。イタリアでも、オーストリアでも、トルコでも、アルゼンチンでもスエーデンでも、西ドイツでも実演家の氏名表示権と名誉声望を害してはならないということだけを書かれておるわけでございまして、ぜひ日本でもそのようにはからっていただきたいと思います。 それから、もう一つ、これはレコードの二次使用に関するところでございます。九十五条でございますが、先日晴海で新しい電子機械の発表がございました。いわゆるビデオ・カートリッジ・レコーダーと申しますか、VCR、これは世界に先がけて日本の電子機械工業界が発明したたいへんな国民としての誇りだと思いますけれども、これの持っております特性というものは、アメリカのEVRというのがございますが、エレクトロニック・ビデオ・レコーダー、それからセレクタ・ビジョンというような、SVというようなものもあるように聞いておりますが、これらのものは、いわばメーカーがつくった番組の入っているテープをかけて楽しむほうの機械でございまして、日本のVCRというのは、しろうとの方がただいま空中に放射されているところのこのテレビの電波をとらえまして、そのまま自由にレコーディングできる。音も映像も、しかも、カラーでレコーディングできるわけでございます。それを自分の好きな時間に再生して楽しむことができるという機械、これはたいへんな技術革新で、ただ放送界、映画界のみならず出版界その他が、いまそのいわゆるソフトの製作態勢を整えつつあることは、もう世間周知のことでございますが、もしこれが出てきたときに一体映画の問題とからんで私たちはどう措置すればいいのか。今回の新法が審議されます最初の審議会の答申の段階では、まだこれほど具体的なものが出てこようとは考えていなかった。したがって、今度の法案の中にこれへの手当が十分に行なわれているというふうには考えられないわけでございます。それが御家庭で楽しまれる分には問題がないけれども、先ほど申し上げましたように、レコードが放送で使われるときには二次使用料がわれわれに支払われるということになったわけですが、この市販の映像を伴う、いわば映画とレコードとの中間ぐらいに存在するようなカセットテープというふうなものが、これが放送の世界に逆輸入されて、このビデオテープ、しかも互換性がことしじゅうに解決するそうでございますが、Aの機械でとったものがBの機械にかげられるという、そういうことによってどこのメーカーのものにも雑誌半分くらいのカセットテープを突っ込んでいくという、そうすれば自由に見られるということになるわけですから、これが放送の世界に持ち込まれて、ディスクジョッキーのようにビデオ・ジョッキーができる可能性が十分にある。ことにUHF局その他CATV、新しいメディアが続々と出てきておりますので、そういうとこでは十分な製作体制を持っておりませんから、そういうものでプログラムを組むことは可能なわけです。またリクエストに応じて、お客さんが町で売っている何とかというあの曲をかけてくださいという電話が一本あれば、それをかけるというケースも出てくるだろう。こうなったとき、映像を伴わない音だけのレコードを放送に使ったときにはお金を払えと書いてあるけれども、映像を伴ったらただでよろしいということは、どうにも理屈に合わないことではないだろうか。やはり九十五条の中で、商業用のレコードのみならず、これまた二条の定義のほうから言いますというと、カセットテープは商業用映画の著作物になるでしょうから、当然レコードと同じように商業用映画の著作物が放送で使われるときには、やはり実演家に二次使用料を支払えよというふうに定めていただくことが当然だろうと思うんです。ということは同時に、そう入れますならば、現在旧作の劇場用映画は盛んにテレビで放映されておりますが、あれは私たちただでございます。監督さんには幾らかお金が行っているようですけれども、私たちはただ。それでスポンサーがついて、放送局ももうかるし、映画会社もただで提供しているわけじゃないんです。幾らかお金を放送局のほうからとっていらっしゃると思うけれども、そういう問題も一挙にこれは解決するわけでございまして、ぜひ九十五条の中に市販のビデオテープを使って放送をやったときには二次使用料を支払えということを入れていただきたいと思います。 以上三つのことが私たち芸能実演家の新法に対する希望でございますけれども、しかし冒頭に申し上げましたように、それらもろもろの希望はありながら、なおかつ芸能人としては非常に大きく当面している問題解決のためには、現行法よりも新しい今度の法案のほうがはるかに私たちを実際益してくれるものであるという認識の上に立ちまして、新法が一日も早く成立いたしまするよう、そしていま述べましたようなものが今後の研究課題としてさらに審議会等で検討されて、また近い将来流動するこの芸能界に適したような修正が加えられていく、一ぺん新しい法律ができたら、これはもう十年、二十年変わらないものだというふうな観念にとらわれず、常に時代に即した修正が加えられていくようなことが考えられてくるならばしあわせだと考えております。
○委員長(楠正俊君) ありがとうございました。 次に、野村参考人にお願いいたします。
○参考人(野村義男君) 著作権法案につきまして、意見を述べさせていただく機会を得たことを感謝いたします。 著作権審議会は昭和三十七年に文部大臣の著作権法改正の諮問を受けまして、四年間にわたる審議の末昭和四十一年四月にその答申を提出したのでありますが、新法案の内容はほとんど審議会答申の線に沿っておりますので、審議会の一員としておおむね賛成するものであります。 せっかく機会を与えられましたので、数個の問題について審議会の経過等を回想しつつ御審議の御参考になることを申し上げたいと思います。 申し上げようとすることは写真、映画及び隣接権などに限らせていただきます。 まず第一に写真でありますが、これはどこの国でも立法に当たって著作権法制上の特殊問題として従来から困難を感じておるものであります。御承知のように、従来の文学あるいは美術、そういうような著作物と違って機械が中に入る、これが発生過程において重大な役割りをつとめるということが、著作物というものは法案にも書いてありますように個人の独創性並びに個人の個人性の刻印であると、こういうこととマッチしないからであります。機械がまん中に存在するということは、著作権理念の上で非常な抵抗を感ずるわけであります。これは写真ばかりでなく映画、レコード、放送、これなどもまん中に機械が存在いたします。しかもこの機械は、最近では機械もつまりハードウェア、ソフトウェアというところのフィルム、ビデオ、そういうものも非常な進歩をして、その組み合わせの使い方によって放送、レコード、写真、映画というようなものが使え、出てくると、この機械的媒体性があるものですから、ベルヌ条約あるいは万国著作権条約のような多辺的条約、また各国の国内法上の中でもこれらの機械媒体著作物というのは、一般の文学的または美術的な著作物と全く同一の基準においては取り扱われておりません。すなわち現在御審議中の著作権法案でも、同じような機械媒体を使うのだけれども、写真自体と映画自体は著作物でございます。だが放送自体やレコード自体は著作物としてではなくて隣接権ということにしてございます。このような機械的媒体著作物というものは、この四者の間に別々の区別をするべきではないではないかと、こういう議論も国際的には存在するところであります。 これを写真にとりますというと、写真というのはベルヌ同盟の中でもどうして扱っていいか、一八八六年にベルヌ条約というのができたんですが、そのときにも写真はどうしたらということ、この機械的媒体性が抵抗を感じて条約の中には書いてない。付属書の中で、各国でもしも美術的なものとして扱う国があるならば国内法でそうしてもけっこうですと、そうすれば外国人はこれに均てんします、これだけのことしか書いてありません。各国の任意のままにまかせてあって、これは条約に書いてある内国民待遇の原則によって外国人もそれに均てんします、こういうことになるだけであります。先ほどおっしゃったように、現在わが国の加盟している最近最終の条約である一九二八年のローマ条約の中では、その中で二十有余にわたる著作物を列記しております。しかしその中には写真というものを入れておりません。あるいは新法案の成立によって廃止されるところの現行法、現行法の附則の第四十六条の第二項に写真版権条例というものが載っております。しかしこの写真版権条例というものを、国際的にはこれは工業的なことを書いてあるんで、版権とは書いてあるけれども著作権ではないのではないかと、こういうことであります。ややアカデミックな学説的なことを申し上げてあれですけれども、審議会の経過として申し上げているのでございますが、 一九五七年のフランスの新著作権法、これもたくさんの保護著作物をあげておりますが、その中に美術的または記録的性質の写真著作物というのを保護著作物の中にあげております。これに対して、現在フランスでは一番この著作権法の大家といわれているパリ大学の教授であるアンリ・デボアという人がおるんですが、フランスの判決というものは、もし学説を引用するならば必ずこの人の本を引用する。この人はいまもなお頑強に写真というものは著作物とは少し違うのではないか。フランス議会が写真を美術と同じランクに引き上げたことは間違いであると言っております。しかし同教授も、写真が自由かってに複製されたり自由に利用されたりすることを当然としているわけではありません。別の次元の法制が必要であるということを説いております。同教授の理由とするところは、やはりこの写真は機械をまん中にはさんでいること、こういうことを述べているんであります。ベルヌ条約などが著作物の保護期間について一般的な文芸、美術の著作物とは別にして、これら写真とか映画とか、あるいはさらに応用美術だというようなものに短期の保護期間、特別の保護期間を設けていることは御承知のとおりであります。これは申し述べてまいりましたような特殊性に基づくものということができます。たびたび条約のことを申し上げますけれども、条約に関する著作権に関する多辺的条約は各国の容認することができるコンセンサスとも見るべきものがあって、このような短期間な特殊期間も世界的な基準ではないかということが言えるかと思います。最近では諸国で著作権法の全文改正をやりまして、ドイツ、フランス、イギリス、いまアメリカもやっておりますが、そのときに苦心をしているのはこの写真の取り扱いであります。こういう機械媒体の入った著作物の取り扱いであります。ドイツ新法は一九六五年にできたんですが、ドイツ著作権法改正運動というのは一九三三年からやっております。六十五年になるまでも、日本でやっているような法務省試案とか二次案、三次案というものを出しておりますが、三十三年の原案には写真というものは著作物ではない、隣接権である。こういうようなのも出しております。また法務省が出した試案と称するものも同じような案を出しております。最後に国会に出たものは、これは芸術的な部分は著作物である、芸術写真でないものは隣接権である、こういうような取り扱いをしております。このようにしてドイツなどでも本来の芸術的なものにあげるか、あるいはそうでないか、しばしば迷った末、いま言ったような二本立てのようなことになっているのであります。さらにはスウェーデン、デンマーク、この国では著作権のほうは法律の名前を文学的及び美術的著作物の著作権に関する法律、こういう名前をつけ、写真については別の名前をつけて、もう一本法律をつくっている。写真的映像の権利に関する法律ということを言っております。写真のほうには著作権という字を使っていないわけであります。これは写真の特別法とも言うべきものであります。これは前に述べましたフランスのデボア教授が言っているところの何か別の次元のものではないか。だから同教授は応用美術のように何か別の法律をつくるべきではないか。そうすれば、いまここで御審議を願っていらっしゃる芸術写真あるいはそうでない写真、そういう区別も非常に困難だ。あるいは死後五十年とか発行後五十年といっても行くえ知れずになる。そういうことをするには、あるいはデザインのごとく、あるいは応用美術のごとく何か登録制度をしく別の法律をつくるべきではないかということを言っているわけであります。さらにドイツにおきましてもミュンヘン大学のウルマーという著作権の大家がございます。これは一九六七年のストックホルムの著作権条約会議の議長でありますが、この人も、ドイツ法はこういうふうに一般と芸術と分けたけれども、この区別は容易なことではない。だんだんに法の施行に伴って実際にはそういう区別が出てくるだろうけれども、法というのは規範をつくるものだ。だから自分の個人的な意見としては何かの別の次元の法律があっていいのじゃないか。こういうことを私見として書いております。ちょうどアンリ・デボア教授の言っていることと同じであります。またイタリアの著作権法でも、写真というものは隣接権で著作物のリストの中には入っておりません。審議会におきましてはこのような立法例、予想せられる条約事情、学説などを参考といたしまして、現行法においてはすでにもう写真を著作物としてあげていることにかんがみまして、その点は従来のたてまえを維持する、ただ保護期間については一九五六年のイギリス法等の例を参酌いたしまして、発行後五十年とすることを決定いたしたものであります。当時現行法が十年であるものを五倍の五十年にするということについては賛否両論の意見がありまして、結論に踏み切るには相当の勇断を要したものであります。これらの点にかんがみまして法案の五十年というのは適切ではないかというふうに思われるわけであります。 第二に、映画の著作物についてであります。映画につきましては、審議会の担当小委員会の審議は、著作権の所在をどこに定めるかという問題に没頭したと言っても過言ではありません。これも日本ばかりで起こっているのではなくて、どこの国でも立法にあたっては困った最大の難問であります。一九六七年のストックホルム著作権会議でも、私は政府代表顧問といたしまして参加いたしまして、さらにこの映画の小委員会などにも参加をいたしましたが、一番の大きな問題はこの映画の問題である、映画問題のために会議は決裂をするのではないかというところまでいきました。御承知のように、諸国の制度にはいろいろな制度があります。ありますが、現時点において条約なりあるいは世界の立法が大体採用しつつあることは、映画の著作権の運用をどこかに集中したい。で、集中するならば、映画企業の発意と責任を有する映画製作者、それに属せしめるのがいいのではないか、こういうことになるのと思います。もちろんその内容、方法に至ってはいろいろニュアンスがあってその国の著作権事情その他によって違うのでありますが、たとえば映画の著作権は映画製作者に直接に属するというイギリス方式、あるいは米法の原理であるマスター・アンド・サーバント――雇い人のものは主人のものだというやり方のアメリカ方式、利用権は映画製作者に属するというようなドイツ方式、あるいは著作権は大体日本の第十六条のように書いてあるけれども、原則として譲渡契約をしなければならないような形になっているフランス方式、あるいは法定譲渡をするイタリア方式、あるいは映画の著作権は製作者が行使するというチェコスロバキア方式、あるいは外国に出たものの利用についてはかくかくのものは反対ができないというようなことを書いているストックホルムの条約方式、いろいろな方式がありますけれども、ねらっているところは集中したいということであります。 審議会といたしましては、これらの方式のおのおのについて多数の参考人の方々の意見を伺って研究を重ねたのでありますが、映画の著作権は映画製作者に帰属する方式が最も適切であるということに結論をいたしました。映画の著作権というものは主として利用権でありますが、今度の新法でいうところの著作権というものはすなわち利用権である、これは従来から現実にも映画製作者が行使している。これは先ほどお話があった、残念だが泣き寝入り状態でも会社側は行使しているという現状であり、また先日衆議院で文化庁側から説明があったともいわれます製作の目的とか多様性とか、そういうものとして映画製作者に集中したほうがいいということで、大体この集中のことについては異論がない。態様の違いはあるけれども、集中するのがいい。この製作者の利用するということが幾分の違いはあっても、ベルヌ同盟と万国著作権同盟で十数年前から作業部会をつくって、世界のいろいろな人を集めて部会で研究をして、そうして集中したほうがいいというのは一九六七年のストックホルムまでの一貫した原則というふうになっています。
○委員長(楠正俊君) ちょっと速記をとめて。 〔速記中止〕
○委員長(楠正俊君) 速記を始めて。
○参考人(野村義男君) そういうことで、映画の著作権の所在というのはこれは物権的なもので何人にも対抗し得るものであるからはっきりしておくほうがいい。だからその国際委員会などでもでき得ればそういう立場をとりたいということを言っておるので、著作権の所在が原始的に確立している。それも集中管理の方式において確立しているということが必要であるということで、私もそういうことを思っている次第であります。 もう時間がないので結論的に申し上げますと、今度は隣接権ですが、隣接権は、現在の隣接権と言われているわが法律の演奏歌唱というものがはたして一般の実演家を保護したものであるかどうかということについては、立法過程上非常な疑義がある。これは対レコードの関係だけを書いたのではないか。当時鳩山さんの出された法案の原案は、当時の一九六五年まで有効であったドイツの著作権法第二条第二項をそのまま書いたものでありました。それは対レコード関係と実演家の関係を書いた条文であります。それが最後の段階において演奏歌唱と独立され、さらに二十二条の七というレコードのことと分かれてしまったものだから、どうもその間の事情がわからなくなって、非常に広く解釈されるようになった。あるいは先ほど高橋さんの言われた、それが俳優までも入るのかというような疑問もあるわけであります。そういう疑問を感ずるものですから、審議会としては演奏歌唱というものを現行法がはたしてそのごとくやっているのかどうか、そういう意味でいいのかどうかということに疑問を感じているわけでありました。ことに著作権で実演家あるいはレコード等を保護することは間違いではないか。そういうことで、ドイツでもこの第二条第二項というものは間違いであるということになっています。したがって、新法案では実演家というものは隣接権のほうに書いてあります。同じような規定がスイスの著作権法第四条にもあるのですが、これもスイスの連邦裁判所は、これはレコードの海賊版を保護したものである。ちょうど日本で言う雲右衛門レコードのことを言うものであって、これを使って実演家を保護したりあるいはレコードを保護したりするものではない。こういう判決を下しております。そのようなことがあるものですから、どうもこの第一条の演奏歌唱というものがはたして実演家を保護しているかどうかということに多大の疑問を感じているわけであります。そのほか隣接権条約等も二十条で期間を二十年としてあるということもあり、さらにレコードの二次的使用のごとき、いままで認められなかった権利が広がるし、実演家の範囲が多くなるということなんですけれども、範囲も広くなり態様もふえたということで、いまのところは二十年でいいのではないか、こういうことで二十年としたのでありまして、これが先ほど申し上げた、条約というものは各国の容認し得る基準である、こういう点において二十年でよいのではないか、こういうように思います。 以上でございます。
○委員長(楠正俊君) ありがとうございました。 以上をもちまして、参考人からの意見聴取は終わりました。 これより参考人に対する質疑に入ります。高橋参考人に対する質疑の申し出がございますので、これを許します。安永君。
○安永英雄君 お疲れのところ、ほんとうに恐縮でございますが、高橋さんのあとの予定もありますから、短時間のうちに要点だけを質問申し上げますので、簡潔にお答えが願いたいと思います。 まず、芸能実演家という方々のこの法律案についてのお考え、御意見を承っておるのでありますが、結局、この法案は、実演家にとって、その範囲もあるいは権利も非常に拡大されておる。特に隣接権、こういった問題が新たに加わって、この法律案についてはとにかく一日も早く成立をさしてもらいたい、こういう御意向でありますけれども、その反面、三つの点について立場を述べられ、いわば修正あるいは反対、こういった意味も含めて御意見がありました。そして、希望だが、今後の問題として修正をしていただきたいという積極的な意見までつけ加えられたわけでありますけれども、私ども参議院は、いまから慎重に審議していくわけでありますから、いまおっしゃったような点について、この国会の会期中に、私ども不審な点あるいは不合理な点等は徹底的に検討を続けてまいりたいというふうに考えております。特に文化庁あたりは、いまあなたがおっしゃったところをとって、実演家団体については、非常に賛成なんだ、大喜びされているのだ、権限も非常に拡大したと、あなたのおっしゃったとおりの裏を言って、したがって、三十年という保護期間の実績があるのに二十年にするのはこれは当然だという理由にあげて、いま盛んに審議をしておるところです。したがって、私くどくは申しませんが、いまおっしゃった点は重大だと思います。すでに今日まで認められた三十年というのを二十年に持っていこうというのですから、あるいはまた人格権なんかはほとんどない、こういった点は今度の法律の他の部門とも関連して明確にしておかなければならない点だと思いますので、この点私どもこの法律案成立については全力をあげますけれども、こういった点については遠慮なくひとつ御意見をおっしゃっていただきたい。 そういった意味で、私は二、三質問を申し上げてみたいと思うのです。 まず、十六条の問題でありますが、ここで先ほどから映画部門でいろいろ御意見を拝聴いたしたのでありますが、この十六条の中で、映画というものは当然共同著作物であるという考えのもとに、それでは著作者というものがだれかということをこの十六条で規定をいたしております。そこで「制作、監督、演出、撮影、美術等」ということできめておって、ここに実演家とか俳優とか、こういった者には全く触れてきていない。これはしろうと考えでありますけれども、いま大体映画を見ておる、こういった一般の国民の皆さんの印象としては、これはなるほどどういう監督、どういう映画会社がつくったかという問題も頭にはありましょうけれども、言いかえますと、映画それ自体見るほうから言いますと、俳優さんがつくったとは言いませんけれども、見るほうは、ほとんど俳優さんの画面の中であらわれたしぐさ、こういったものを見て、明らかにこれは映画の共同著作物としての中の一番大きな私は著作者だというふうに考える次第です。したがって、「等」ということで非常に苦心をしたところだろうと思うのです、原案を出しました者としては。この点について実演家の高橋さんの立場から、この点はどうお考えになるのかお聞きしたい。
○参考人(高橋寛君) 十六条の問題について私どもの見解を申し述べます。もちろん私たちは映画というものは、製作者だけのものだとも思いませんし、監督さんだけのものだとも思わない。たくさんの芸術家が共同してつくる共同著作物であると考えておりますので、俳優たちの中には、映画の著作者の例示の中に俳優という文字が入っていないということはけしからんじゃないかという声が非常に強くあることは、これは事実でございます。そのとおりだと私は思っております。ただ「等」と、前に「その他」というふうな表現の案もあったようでございますけれども、「等」「その他」の中に俳優が入るのかどうかということになりますとたいへんむずかしい。ただ私たちがなぜ十六条の問題を特に積極的に取り上げて意見を述べなかったかということになるわけでございますが、これは、たとえばここに俳優という文字が入ったといたしましても、諸外国の例を見ましても、それが参与した俳優のすべて、主演者から通行人に至るまですべてが入るのかどうかということになりまするというと、非常にこれはむずかしい、またその解釈について、常に紛争が起こるというようなことになってきますというと、むしろ俳優間において、あいつまでは著作者として認められる、おれは著作者でなくなるのかということになって非常に困るわけであります。それじゃあそれはそのままほうっておいていいのかといいますと、そうではなくて、これが九十一条の著作隣接権者が持っている権利、実演家が持っている権利といたしまして録音、録画権というものが与えられているわけでございます。つまり隣接権というのは一言で言いますと、最小の契約ですっきりきめておけよと、これだけの権利のことがおまえたちに与えられておるのだから、これらのことについては十分に契約できめておけよ、その契約の範囲内でしか相手は使えないもんだぞと、簡単に言っちまえばそういうことで言われているんだと思うのでありますけれども、その録音、録画権というものを行使することによって、私たちはそれが映画であろうと、ビデオテープであろうと、何であろうと、自分たちの演技をかん詰めにいたしますときに、その利用を許諾する時点において、これは利用の方法及び許諾の条件の範囲ということが明示できる。したがってこれは国内だけであるとか、あるいは劇場用映画だけであるとか、あるいは、逆にこれはテレビ映画であるから、劇場に使うときにはもう一ぺんお金下さいねということがはっきりきめることができるんだということになっておりますものですから、私たちはあえてこの一番問題の多い映画の著作者の中にただ名前だけ入っても実益がないと考えて、名前は主張しなかったわけでございます。
○安永英雄君 よく立場はわかりました。しかし、基本的にここにこの俳優という項目がはっきり出るということが本筋だというふうに承わるわけであります。まあ、今度の法律案の中では、別のところである程度保障されているというのですが、ゆくゆくはここのところは俳優は著作権の中にはっきり明示すべきだという立場もお伺いいたしましたが、そうすると、それを受けて二十九条の場合、先ほどから監督さんの立場なり、あるいは制作者の立場でいろいろ問題になっておりました。またあとでいろいろ質問もしてまいりたいと思いますけれども、二十九条の中ではっきりこういった著作権というものが製作者のほうに帰属するというふうに明記されております。これと十六条とは非常に関係があるわけですけれども、あなたのとっております立場というものは、先ほどお答えありましたが、しかし私は実演家の立場として基本的には二十九条をどうお考えになるのか。それから特に二項の問題は実演家に非常に関係があるのじゃないかと思います、二項の問題について、いわゆる放送という問題について。このあたりについての御見解をひとつ承わりたいと思います。
○参考人(高橋寛君) ただいまの御質問のとおり、私たちは基本的には映画の著作者の中に俳優も入ってしかるべきものだと考えておりますから、となりますというと、二十九条においてこれが無条件に映画製作者に帰属するということについてわれらは知らぬと決して言っていられないわけでございまして、私どもの見解としましては、第五次案にありましたような「契約に別段の定めがない限り、」というような文言がやはりあったほうが実態に即しているのじゃないか、監督協会さんがおっしゃられておることも、契約で実際処理されているのだと言っておられるわけなんでございまして、私たちもまことに情けない契約ではあっても、とにかく契約で処理をしてきたわけでございます。その契約面の内容に法は立ち入るわけではないでございましょうけれども、「契約に別段の定めがない限り、」ということが入っているならば、よりすっきりするのではないかというふうに第一項については考えております。 それから第二項についてでございますが、これは御指摘のとおり、たいへん私たちにも、間接的ではありますが、影響を及ぼす条項でございまして、ここに「もっぱら放送事業者が放送のための技術的手段として製作する映画の著作物の著作権」はこれこれの権利だけが放送事業者にいくのだよということが二項に書かれてあるわけでございますが、製作の実態を眺めていますというと、今日御承知のように、各放送事業者というものは、番組を直接製作せずに、いわば傍系の会社であるとか、第三者の小さいプロダクションがつくったようなものを買いとりまして、これを電波に乗せていく、いわば電波を発射するほうの専門の会社にいまどんどんと整理されている。番組をつくるほうは放送事業者ではない。放送事業者というのは定義でありますように、番組をつくる会社のことではないので、電波発射会社のことでございますから、ここがつくったものだけはつまり一般映画として区別して扱われるということにこれはなるわけなのであります。そうなりますと、大部分のテレビの番組、テレビ映画というようなものも、ビデオテープというようなものも、これはどうも第二項のほうのものではなく、第一項のほうの一般の映画として扱われることになるのではないか。そうなりますと、まあ私たちといたしましては、最初の契約をいたしますときに、どうしても劇場用並みの出演料を要求せざるを得なくなるのだろうというようなことは、日本のマーケットの狭いところで細々とテレビ映画をつくっておられる企業についてはこれは重大問題である。私はやはり映画というものはどういう目的でつくるのか、これはテレビ映画なんだから、これだけの予算でこうつくるのだという、そのときには、その製作者が何人であろうとも、やはりそれに見合った形の契約を結んでおくべきであって、これが大評判であるから劇場に出すのである、あるいは外国にも出すのであるというふうなときには、これはあらためて追加のお金を払えばいいのだというふうにしたほうが、どうも企業のためにも、われわれのためにもいいのじゃないかというふうなことを考える。とするならば、「もっぱら放送事業者」という字句をむしろけずってしまって、だれがつくっても放送のための映画というものは一般映画とは違うのだぞというふうに一項と二項とをはっきり実態に即したものになすったほうがいいのじゃないかというふうに考えております。
○安永英雄君 よくわかりました。 次に、実は衆議院のほうでも論議が一時集中したことがあるわけでありますが、カセットビデオの問題であります。今日くらい科学技術の進歩、こういった問題で特に映画放送、こういったものが日に日に発展をしていくわけでありますが、ビデオカセットに象徴されるように、とにかく本屋さんで本買ってきて、本棚に積んでおいて、そしていつでも好きな本を好きな時間に、またその本の内容を好きなところを読める、こういった形になってきそうな気がするわけであります。きそうな気がするというよりも、現実にそういった問題はもう目の前に迫ってきておるわけであります。したがって、私どもとしてはそういった目の前に迫っておる科学技術の進歩に伴って、こういった著作権の問題も大きく変わろうとしておるし、現実の問題としてあすからでも変わるかもしれない。変えなければならないというような状況も考えて、せっかくこの審議をしているこの時期に、それを見越した一応法律案というものをやはりつくるべきじゃないか。これは先ほどおっしゃったように、一たんつくってまた修正ということは、これは今度の法律案、明治三十何年にできた法律がようやくいま変わろうとしておるわけでありますから、やはりなかなか修正その他はできない。私どもとしてはやはりこの機会にそういったものまで含んで、この法律案の中に規制しておく必要があるのではないかということで、私どもは検討しようというふうにいま入っておるところであります。特に実演家の皆さん方と、この問題は非常に私はかかわりがあるのじゃないか。映画もさることながら特別関係があるというふうに考えますので、この点について先ほどちょっと触れられましたけれども、将来そういった方向にいけば、あなた方についての影響というのはどうくるのか。まあことばは悪いですけれども、いまの法律案と、こういったものでにっちもさっちもいかなくなる。利害関係、こういったものはどうなっていくのかお考えがありましたらひとつ御明示いただきたいと思います。
○参考人(高橋寛君) たいへん重要な問題だと私たちは思っているのですが、これには、ビデオカセットの問題には二つの側面がございまして、一つは放送に私たちが出演したものが、私たちの目の届かないところ、手の届かないところの全国の御家庭で自由に、つまりいわば家庭用の映画みたいに固定されてしまうのだという面ですね。これが大問題なんでございまして、いわばいまNHKの受信契約が二千二百万世帯ぐらいだろうと思いますけれども、その家庭が全部映画製作場みたいなことになり得るわけです、理論的には。そうすると、ぼくたちは一回放送に出演しますと、どこでどういうぐあいに複製されて、何回でも使われるかわからないという危険を感じなくてはならない。あれは御承知の方もあるかと思いますけれども、複製して録画する機械はこんな小さいのですけれども、映すのはあの例の家庭用のブラウン管でございまして、あれで再生するわけですから、それをせっかく自分が興味があって録画したもの、あるいは市販されているビデオのカセットテープを買ってきたときは、それのほうをどうしても見ちゃうわけで、新しくテレビやっていてもだれもそっちのほうにチャンネルを合わしてくれないのじゃないかという、これは放送事業者にとってもゆゆしき問題であろうと思うので、ただこれは実演家だけの問題ではございません。これのほうの手当てを一体どうすればいいのかということ、これは私もいまなかなか名案を考えられないわけで、そういうことにつきましては、私たちも放送事業者も、その他関係のあります団体が集まって、寄り寄り協議を始めているところでございます。それで法的にこれをどうすればいいかということになりますというと、これは家庭で使われるものについては、これは自由によろしいよということが新法の中にあるわけでございますが、問題は、これを使いましてビデオカセット喫茶店であるとか、あるいは貸しビデオ屋であるとか、あるいはホテルなどでお好みに応じてシリーズ物を流すとかいうようなことをやられる。あるいはこれに新たにコマーシャルがくっつくというようなことになってまいりますというとこれはえらいことになる。ですから、営業用に不可欠のものとして、そういうものをビデオカセットを御利用になるときには、やはり権利者に金を払ってくれというふうに、いわば九十五条というレコードの二次使用料のところに、さらにこのカセットの問題を加味した文言を入れていただくということが大切なんじゃないか。さらにそれが、いま九十五条は放送事業者と音楽の提供を主たる目的とする有線放送というものの場合だけ、実演家には二次使用料が払われることになるわけですけれども、ここをやはりパチンコ屋であるとか、あるいはそういうビデオ喫茶であるとかいうふうなところまでやはり手当することを考えていただかないというと、これはえらいことになるかもしれないという気がするわけでございます。ただ、まだできておりません世界でございますから、これは何とも言えない問題でございます。 それからもう一つの側面と申しますのは、放送事業者なり、あるいはそれの関係会社なり、あるいはレコード会社、映画会社、その他出版会社などが特にその機械のために、いわゆるソフトの部門でございますが、新たに番組を制作して、その中に入れて市販するというケースのほう、これのほうはまさに私たちが最初の録音、録画権によって、つまり契約上処理し得るものであるから、新法でも何ら差しつかえがない、問題は先ほど申し上げた第一の、一般家庭でとられているものと、それを営業用に使ったときのものと、ここを区別しての手当が私たちとしては望ましいというふうに考えております。
○安永英雄君 最後にもう一点お伺いいたしたいと思うのですが、九十五条の、いまおっしゃった項目の問題ですけれども、実演家に二次使用料を支払うという規定がありますが、その二項に、「前項の二次使用料を受ける権利は、国内において実演を業とする者の相当数を構成員とする団体でその同意を得て文化庁長官が指定するものがあるときは、当該団体によってのみ行使することができる。」こういう項目があるわけです。したがって、先ほど御意見を拝聴いたしておりますというと、高橋さんが所属されておりますのでも三十団体ばかりあるし、そして二万一千人ぐらい所属している、しかし実際プロかアマかわからないと、こういった実態もある。こういう実態を聞きますというと、そこだけにしかもうまとめて文化庁長官の仲介で、そこにいった場合、各人がその主張をして、その団体には入らないとか入るとかいう問題もありましょうし、また団体すらわからぬという、いわゆるアマ、プロのあいまいさというのもあって、全国の構成員で団体をつくる、こういったことははたしてできるのかどうか、現在の実際の実態あるいはこの二次使用料をもらうときのこの団体がはたしてできるのかどうか、ここらあたりは、この法律が成立しますと直ちに発効するわけですから、受け入れ態勢そのものが非常に混乱しておる、これは文化庁長官という名前までここでは珍しく出している一項目なんですよ。これはたして文化庁が処理できるのかと思いますけれども、あえてここでそういった金銭の授受まで文化庁が乗り出してきているところを見ますと、自信があるのかないのか、私は今後の審議で明らかにしていきたいと思うのですけれども、幸い高橋さんがお見えになっておりますから、現在の実態なり・これが発効したあとの受け入れというのはスムーズにいくのかどうか、この点の御見解をひとつお述べ願いたいと思います。
○参考人(高橋寛君) 私たちが所属いたしております日本芸能実演家団体協議会というものは、まず現在考えられるほとんどの芸能人を網羅しているのではないかということは最初に申し上げましたけれども、幸い今度はいわゆるバラエティ・アアーチストと申しますか、いわゆる著作物を演じないところの方々、たとえば奇術であるとか曲芸であるとかいうような方々も、いよいよ新法ができるぞということになりましたので、いま続々とてまえどもの団体に加入を申し出ておられる。たとえば大神楽というふうなのがございますね、こういうふうなものも今度は新法で保護されることになるわけなんで、大神楽の協会なども加入を申し出ております。それから奇術のほう、これも加入を申し出ておられます。今月の末に私どもの理事会がございますが、そこではそれらの方々の加入申請について審査することになっておりますので、相当幅広い人たちがさらに私たちのところに、一つの組織の中に入ってくるということが見通されるわけでございます。ただ大ぜい集まっているからいいじゃないかということにならないのでございまして、私たちとしましては、もう昨年から二次使用対策委員会というものを設けまして、一体これを最も合理的に……、ここにたいへんつまり要件が書いてあるわけでございます、三項以下に。これの要件を満たすためにはなかなかなみなみならぬ努力を要するわけでございまして、それの整備のために、主として委員会の構成は音楽関係の団体から委員を選出いたしておりますけれども、その方々によっていま原案を作成中でございまして、その中には御指摘のように、つまりアマチュアの分、もっとおもしろい例を申し上げますと、宮内庁雅楽部の分はわれわれのほうから宮内庁のほうにお納めしなければならないのではないだろうかとか、自衛隊のほうのブラスバンドについてはやはりわれわれ経由で納めなければならない性質のものであろうとか、いろんなことが出ているわけでございますが、そういうふうないわば職務著作であるかどうかというふうな部分につきましても、あるいはアマチュアの方の演奏につきましても、これらについてどうわれわれはお金をプールしていかなきゃならないか、それを全部くろうとが自分たちの福利厚生のために使っちゃうものじゃないですからね、これはやはりそこで確保しなければならない。とするならば、一体どのくらいのレコードが放送で今日使われているのか、それでそのことによってどれだけの実演家というものがいわば機械的失業と申しますか、機械の発達に伴ってなま演奏のチャンスを失うということが大問題なんですけれども、そういうふうなものの実態はどのくらいになるであろうか、というようなことについて、私どもだけではこれは調査は非査にむずかしいので、実は民間放送連盟さんとも新法についていろいろとお話し合いをする懇談会を定期的に、私ども月一、二回持っておりますが、昨日もそのことをお願いをいたしまして、民間放送連盟のほうでも、そのデータを集めることのために一緒に協力しようとおっしゃってくだすっているわけでございます。さらには、それはレコードに吹き込まれる時点あるいはレコードを使用された時点において考えるべきであろうかどうかというような問題、それから一人一人が取りに行ったならば一体幾らぐらいのお金になるんだろうというような問題、これもたいへんなんで、一人一人が取りに行ったら電車賃のほうが高かったというんじゃ意味がないんで、そういう意味で、ぼくは文化庁長官の指定する団体を通じてということになるんだろうと思うのですけれども、やはりできるだけ一ヵ所の窓口で受ける態勢を整えなければならない、その事務能力も持たなければならないということを鋭意研究いたしております。それで特に私が申し上げたいことは、このいわばレコードの二次使用料あるいは幸いにしてカセットテープの二次使用料も入るようになったとするならば、これはいわばほんとうに二次的なもので、自分が運動したからレコードが使われたということじゃございません。問題は本人がじかになまで出演することのかわりなんだからといって、本人だけお金を受け取ればいい問題じゃないので、もしそれがレコードが使われなければあるいは音楽番組ではなくて、ドラマ番組をやったかもしれない、あるいは舞踊の番組をやったかもしれないということもあり得るわけでございますから、いわば全芸能人の出演のチャンスが失われる、外国では一週間に何時間以上レコードを使ってはならないというふうなことを業者と芸能人の団体とが取りきめているようなところもあるようでございますが、日本ではまだそこまでいきませんけれども、将来はそこにいくべきであろうと思う。そういういわばみんなが迷惑することについてのある保障と申しますか、失業対策と申しますか、そういう助成金的な意味を多分に持っているようなお金のような気がする。一枚使ったから幾らというふうな印税のようなものだけでは考えられない性格のお金だというふうに思いますので、もしできればそうやっていただいた、入ってきたお金は各自に十円ずつ、二十円ずつ分配するのではなくて、それが老齢実演家の年金になるとか、あるいは芸術活動の振興に使われるとか、新人の育成に使われるとか、そういう有意義なことにみんなで使っていくというようなことに私たちが割り切っていけるならば、仕合わせであると思っております。ただ、やはりアウトサイダーの方の分も取りにおいでになるかもしれませんから、これはプールしておくということについてまでこまかくいま研究を進めつつある段階だということでございます。
○安永英雄君 どうもありがとうございました。これで終わります。
○大松博文君 いま高橋さんにいろいろお聞きしますと、早期成立をお望みになっておられる。しかしこの著作権の保護期間というものが非常に反発されている、これは私十分わかるわけでございますけれども、三十年が二十年になったとすれば、これは十年短縮という気がいたしますが、実際は二十のとき実演すれば、これが六十歳まで生きればそれからまだあと三十年というと、これは七十年ということになります。そういうことがもう今度は実演録音してその後二十年ということになりますと、大きな差が出てきますということは、私これは十分わかりますし、職業的生命があるうちに法律上消えてしまうということになれば、この実演家、芸能家というものに対しては非常に今後の生活上も私は問題があるように思います。これはよくわかりますし、今後隣接権の十四条もございます、しかしまた二十条もございます。こういうことからして検討すべき問題だとも思います。そしてもう一つ言われましたのは実演家の人格権がないということ、これはまあ十八条、十九条というものがございます。しかし、私にすればやはり実演家というものに関しては同一性保持権という二十条も、実演家というものの生命というものは名声、声望だ、これが生命であって、これを害されれば生命はなくなってしまうものだ、こういうことからしましてもいま指摘されたことは私は十分わかります。しかし、こういう実演家の人格的利益が尊重されなければいけない。現在この民法上の不法行為というものによって規定されておりますが、その上に著作権法でなおかつ規定しなければいけないようなことがこれは将来あるのかもわかりませんが、現在それがあってお困りになったか、それともお困りになったことはないか、その実情がありましたら、それをお聞かせ願いたいと思います。
○参考人(高橋寛君) 第一の、保護期間の問題でございますけれども、これはさて二十年が三十年になったらばそれで満足なのかと言われると、いや三十年よりは五十年のほうがいいということになってくるわけなんでございまして、多ければ多いほどいいというのが率直な気持ちでございます。しかし、二十年というのはあまりにも低過ぎはしないかということは御理解いただけたことではないであろうかと思いますけれども、問題は二番目の人格権の問題、これはどういう実害があったかというと、つまり古いものが、自分が未熟だったときのものがいま出されて不愉快だということは、これはやむを得ないと思うのです。よく森繁さんがかごかきになってワンカットだけ出てきたというのがありますけれども、これがまあ人格権の侵害になったかどうかということになりますと、これはちょっとむずかしいだろうと思う。あまりいい例ではありませんけれども、女優さん、おとなしい方がだまされてしまいまして、顔は自分のやつだった、ところがぱっと次のカットをつなげてみたらば、全然他人の何かシルエットか何かで、くもりガラスの向こう側に美しきシルエットが見えた、そうするとこれはごらんになるお客さまのほうは、あれは池内淳子のからだであろうかなんて思ったり何かすることなきにしもあらずなんですね。そういうふうなことはもちろん監督さんのところでチェックしてくださるし、映画製作者のほうでも非常識なことはなさらないと思うけれども、やはり本人がこれはけしからぬよと言うだけの権利は与えられてしかるべきものだろうという気がするんです。 それからもう一つ、私などよく声の吹きかえをやりまして、きょうもわがまま言って早く退席さしていただきますのは、例のバートランカスターの声を私一手に引き受けて吹きかえておりますんですが、声の演技者なんかでもしばしばそういう被害が起こるわけです。この前東映でおかしなのがありましたけれども、あまりじょうずでない女優さん、視覚的にはたいへん美しいんですよ、ところがセリフがうまくないということのために、演技のほうだけ本人にやらせておいて、セリフのほうはセリフのうまい女優さんを連れてきて全部吹きかえてしまう、これは外国でもやっておりますがね、日本でもそういうことがある。それが両方の人間が合意してやっている分には一向差しつかえないけれども、本人が知らないうちに、私の声じゃないものが出てきたということになると、これはやはりゆゆしい問題だろう。 それから、私などは理屈っぽいものですから、しばしば国会議員の役をやらされたり、国際会議の役をやらされたりする。これは非常に演技としてはむずかしいところで、見よう見まねでやるんですが、たとえば採決に当たって自分はイエスと答えたい、ところが、党議決定によってノーと答えなければならない場面があったとすれば、そこにはたいへん複雑な腹芸を要するわけでございます。ところが腹芸を要してやっと自分はノーと答えた。ところがあとから見たらば、都合でもって途中カットしてしまって、しかも他人にイエスということばに吹きかえられていたということ一これは賛成、反対なんというのは簡単に私たち吹きかえてしまいますから、そういうふうなことが行なわれると、何のためにわれわれ芸術創造をやったのかわけわからなくなってしまう。そういうようなことを考えますと、やはり本人が納得して固定した形、それを著しく一まあ適当にはいいですよ、監督さんがこれがもっともだと思うところまではいいですけれども、これが著しくゆがめられて、名誉、声望を害されるよう改変が行なわれるということについては、これは私たちは異議を申し立てるだけの権利を持っていたいと思うわけでございます。
○大松博文君 お忙しいところもう一つだけお尋ねしますが、それではいままで民事調停上で何か解決されたことがございましたか。私あまり聞いたことがないのでございますけれども、ありましたらお聞かせいただきたい。
○参考人(高橋寛君) まことにお恥ずかしいことでございますが、どうもいままで日本の芸能人は裁判なんということは大きらいでございまして、陰でブウブウ言っておるくせに、週刊誌のいろいろなことがありましても、これをはっきり裁判で争ったということあまりないんですね。私も寡聞で、あるいはあるのかもしれませんけれども、そういう訴訟を起こさない、また訴訟を起こした結果ははたして自分にプラスになるかどうかということになると非常に疑問に思うものですから、いつでも何か適当なところで妥協をして示談になってしまうというケースが多かったのではないか。ですから、むしろそういう一般の訴で争うよりも、われわれ芸能人としましては、もう著作権法の中で著しい名誉を棄損するような利用行為は利用者のほうが行なわないのだというふうになっていてくれるほうが助かるわけなんでございます。
○大松博文君 ありがとうございました。
○委員長(楠正俊君) 午前中の委員会は、この程度とし、午後一時四十五分まで休憩いたします。 午後一時八分休憩 ―――――・――――― 午後一時五十三分開会
○委員長(楠正俊君) ただいまから文教委員会を再開いたします。 休憩前に引き続き質疑を行ないます。 ちょっと速記をとめてください。 〔速記中止〕
○委員長(楠正俊君) 速記を始めて。 質疑は社会党、自由民主党、公明党、民社党、共産党の順でお願いいたします。まず社会党からお願いします。鈴木君。
○鈴木力君 まず最初に丹野先生に一つだけお伺いいたしますが、いままで写真についていろいろの議論がございました。その中で一番の問題になるのは、報道写真と芸術写真ですか、そう言い切ることができるかどうかわからないのですけれども、この区別がつかないからということが一つの問題になっております。それからもう一つは、報道写真と芸術写真をやはり著作権の権利を与える場合にも区別してやるべきである、こういう意見も相当あるのです。私はどうもよくわからない点は、これを専門家から見て、一体報道写真と芸術写真というのが区別がつくのかつかないのか、それからつくべきなのか、つけるべからざるものなのか、その辺を教えていただきたい、こう思うのです。たとえば、われわれがこの法案を審議しますと、写真は著作権が公表後五十年ということになっております。そうなりますと、五十年間を経た上で、なおこの著作権という権利を主張するような作品となりますと、その最初に製作をされる場合の写真は、報道を目的とするものであっても、ある年限を経ると報道の目的ではなしに、もう少し別の価値というものがこれに生じてくるのではないか、そういうふうに考えてまいりますと、どうもこの報道写真と芸術写真というふうに区別をするという考え方がよくわからないのです。この辺を一つ教えていただきたいとこう思います。 それから豊田先生に一つお伺いしますが、豊田先生には写真のことではなくて、おっしゃることは大体わかったつもりですが、今度の法案で図書館の場合、図書館は図書館を利用する人のためにはこれを複製をすることができるということが認められておるのです。そういたしますと、現在図書館というのは非常に数が多くなっております。どれだけの数があるか、ちょっと私もいま計算した資料はありませんけれども、大体市町村立の図書館まで含めますと、あるいは最近はもう学校の図書館が非常にたくさんある。それからこれはまだ文化庁にもただしておりませんのではっきりしておりませんが、たとえば、いまあるいろいろな企業の中でも研究室、資料室というようなものが非常に多くなってきておる。こうなってきますと、図書館という数が膨大になりますときに、それの複製を図書館という理由で認められた場合、出版をする側に立たれましてどういうことになるのか、一向その支障がないのかどうか。これはもちろん著作権者のほうにもいろいろあるだろうと思うのです。たとえば文学的著作物が、相当のところが図書館でどんどんどんどん複製をされていく、こういうことになってきたら、出版の立場から言ったらどういう影響があるのか、その辺をひとつ伺いたいと、こう思います。 それからもう一つは、先ほどおっしゃったおことばの中に、法案を成立をさせることに急ぐのあまり審議が不十分で通すべきではない、そういう御意見のように伺ったのでありますが、やっぱりいろいろな問題点を深く審議をして、そうしてこの法案の成立というのは多少おくれてもいい、そういうお考えのように伺ったのですが、その真意をちょっと伺っておきたいと、こう思います。 それから西河先生にお伺いしたいのは映画関係でありますが、いろいろと実例等も教えていただきましてたいへん勉強になりました。そこで、お伺いいたしたいのは、基本的に著作者が著作権を持つという立場が正しいということはよくわかったのでありますが、私どもがこの法案を審議してみて、私ども知識が足りないものですからよくひっかかるのは、外国では多くの場合、やはり制作者が著作者の権利、著作権を持っている。外国の例を見ますと、そういう例が多いように見えます。もしそうだといたしますと、この外国の映画の製作者と著作者の関係と、日本の場合には製作者というのは、さっき藤本先生からもいろいろお話がありましたが、たとえば五社なら五社で、一つの株式会社が製作者として著作権を握る、こういうこのあり方が日本と外国との間に実情が相当違うものがあるのではないかと私は考えられるのであります。 それからまた、これはほんとうは高橋先生に伺うほうがいいのだろうと思いますけれども、お帰りになりましたので、もう一つだけ伺いたいのは、俳優なりあるいは監督なりに対する製作者側といいますか会社側の扱い、俳優の会社側に対する権利の行使、こういう点について外国と日本との大きな相違点がないのか。たとえば私が聞いてりますところでは、アメリカあたりでも看板女優というような有名な女優さんでもきちっとした権利が与えられておる。そして、たとえば映画に出演しない期間はそれぞれの保険で守られておるとうような、そういう権利まできっちり与えられてるというふうに聞いておる。しかし、日本の場合にはそういう方々の権利というものがほとんど認められていないというふうに聞いておるのです。そういう間の違いをひとつ教えていただきたい、こう思います。 それから藤本先生に一つだけお伺いいたしますが、プロデューサーが製作者になるのが正しい、そういうお説と承ったと思うのでありますが。そして、映画の製作をなさる場合に、実際はプロデューサーのところがほとんどのおぜん立てをするといいますか、事実上の製作者である――製作者といいますか、映画をつくる、したがってプロデューサーを持っている会社側が著作権を持つことが正しい、こういうふうに承ったのでありますが、もしそうだといたしますと、プロデューサーを含めて、逆にぼくは著作者側にプロデューサーが入るというのが正しいのではないか。映画をつくるという、プロデュースしながら監督さんもあるいはの他の関係する皆さんがそのもとに映画をつくっていくという場合には、製作者というより、むしろ著作者のほうに近いのではないか、プロデューサーの意見が、会社側というよりも。だから著作権法という一つのたてまえから言うと、著作者側が持つ権利というのが著作権である。これが一つの前提といたしますと、逆にそういう立場のプロデューサーの方は、著作者側のほうに入っていて、著作権という一つの権利者側に立つべきではないのか。そういたしまして、あとで運営上の場合には、そのときには先ほどからいろいろ伺いましたところの何といいますか、契約事項がありますからそこで協議をされるべきものである、こういうふうにどうも私は考えるのですけれども、その辺のお考えをひとつ承りたい、こう思います。それだけお伺いいたします。
○参考人(丹野章君) 御質問は、写真において報道的な写真とそうでないものとの区別がつくものかどうかということだったと思います。それからもう一つは、それをつけて区別すべきものかどうか、この点につきまして、まず報道性の強い写真、またはそれ以外の性格の強い写真さまざまにあると思います。これは一見してそういう区別のつくものもあると思います。しかもこれは写真だけの問題ではなくて、文芸、美術、その他あらゆる著作物のジャンルにおきまして、それぞれそういう性格を持っていると思います。そういう意味で、これは何らかの定義をつければ、しいてつけようと思えば文章の上でつけられないことはないんでしょうが、実際には写真作品において芸術性と報道性、記録性などというものは一体であって、形式と内容が不可分であるように、それらのものが表裏一体になって作品を形成しているわけです。そして、そういうものの統一の中にこそ写真の創作性があるということは現在ではもう常識になっております。そういう意味で、これを切り離すということは、必ずそこに何らかの非常に大きな無理ができる。切り離してどっちかの中へ入れてしまうということはできないというふうに考えます。両方どちらかの性格を兼ね備えているものが非常にたくさんある。それは写真だけの性格でなく、著作物全体について当然そういうものだというふうに考えております。したがって、こういうものを著作権法上区別をつけて、保護の扱いを区別すべきではないというふうに考えております。またニュース性の問題について、これはフェア・ユース事項の拡大としての日本雑誌協会からの新しい提案として考えるべきではないかと思います。現在までは新聞記事などをフェア・ユースの対象として著作権法のワクからはずしているというふうなものでありますから、こういう事実の伝達、または時事の雑報にすぎないもの、それ以外の性格を全く持たないものそういうものが、もし写真の中にあったとすれば、こういうものも当然自由使用の対象として考えられるかもしれないと思います。これはやはり今次著作権法の改正に盛り込むべきものでなくて、新しい提案として今後の検討にゆだね、先ほどもお話がありましたように、文字だけでなくイラストレーションなども含めましてそういうものを研究してみる、そういうものに値するのではないかというふうに考えております。ですから私たちがいま考えております著作権法の対象になる写真、こういうふうに限定して考えますと、これは報道、芸術その他もろもろの区別をつけて扱いに差をつけるというふうなことは全く考えられないというふうに思っております。一応それだけでございます。
○参考人(豊田亀市君) 先ほどの御質問にございました図書館等における複製、それについての考えを申し述べます。 初め、この法案が、現在こういう文章になっております前の段階で、三十一条ではなくて三十条のところでございますが、「家庭内その他これに準ずる限られた範囲内」というところが、確かに閉鎖的なといったような文章の段階を経ていたのじゃないかと思いますが、私どもといたしましては、図書館の場合でも教授用の場合でも、それから私的使用の一般的な場合でも、その文章が拡大解釈をされた場合に出版者として困るというような考え方を提出しておりまして、現在の三十条は「家庭内その他これに準ずる限られた範囲内」という文章でいままでのプロセスの中で振り返ってみますとかなり明確に、明確にといっていいかどうかわかりませんが、総体的には、いままでの文章よりはわかりやすくなっているのではないか、そういうふうに考えております。 御質問の三十一条でございますけれども、これはこの全体の中で私ども三十一条の、このパンフレットで申しますと三行目に「事業として」ということばがございますが、これがちょっとひっかかるというか、内容をはっきりさせていただかないと、拡大解釈のおそれがあるというふうに考えておりますけれども、私どもとしては何回か文化庁あるいは関係当局の方にお願いした幾つかの中で、多少とも取り入れられている部分として、三十条、三十一条の辺を解釈いたしております。部分的には多少の問題があるかもしれませんけれども、一応このくらいの形で問題はないのではないかというふうに結論として言えると思います。ただ先ほどちょっと申し上げましたように、「その営利を目的としない事業」として、以下ずっと文章がありまして、「著作物を複製することができる。」「事業として」というようなところを、「その営利を目的としない」範囲内でとかといったような限定的な文意が強いほうが将来問題がないのではないかというふうに考えているだけでございます。しかし、これも一般に複製あるいは制限の全体を通して読みますれば、ほぼ輪郭がわからなくもございません。この点については大きな問題というふうには考えておりません。 それから先ほど法案について私が申し上げましたのは、午前中のお話にもありましたように、現行法が非常に長い間改正されないで今日まで来ているし、これがまた近い将来、さらに検討される前提で成立するということは望ましくない。一ぺん成立したらかなり長い期間、やはりこれが生きていくということが必要なことであるというようなお話が先ほどもございましたが、そういった事情から一たびできればやはりこれを考え直していく、こまかく検討していくという機会は失われていくのではないかと危惧されますので、こまかい点多少調査あるいは検討が残っているとするならば、そういった時間を少しでもかけて成立さしていただいて、そのあと長く生きていく著作権法にすべきではないかという趣旨でございます。全体としての原則的な考え方は成立の大勢に異議はもちろんございませんけれども、ただ急ぐことによって落としていった部分に将来いろいろの混乱が予想されるならば、多少の時間――長い年月から見れば半年なり一年なりといった時間は問題ではないのではないかという趣旨でございます。
○参考人(西河克巳君) 御質問が二つあったと思いますが、最初のほう、外国ではこの監督の、あるいは映画著作者の権利がどういうふうになっているか、著作者に著作権がない例が外国には多いようだが、それはどういうふうになっているか、なお、そういう実例を日本に勘案して考えた場合、日本の映画界の実情というもので差しさわりがあるか、あるいはどういう違いがあるかというような御質問だったと思いますが、たいへん残念なことに、私たちの団体では十分な調査機関というものを持っておりません。そのために非常に信頼の置ける外国の資料というものはまだ入手いたしておりません。したがって、これは文化庁のほうが一番完全な信頼の置ける資料をお持ちだと思いますので、その実情に関しては文化庁のほうに御質問いただいたほうが非常に正確だと思います。私どもが持っております資料は非常に簡単なものでございまして、ただそういうもの、あるいは文化庁のほうからいろいろお教えいただいたりした資料によれば、やはりそれぞれ国によって非常に違いがあるようでございます。その著作者の規定、あるいは著作権者の著作権のあり方というようなものにも非常に違いがあるようでございます。それはまた国際条約の加盟の状態というようなあり方、たとえば日本はベルヌ条約に加盟しているけれども、アメリカは加盟していないとかいうようないろんなまた背景もあるかと思います。したがって、外国の実情というものを非常にここで自信を持って申し上げる資格がございませんので、たいへん残念ですがその点に関してのお答えは省略さしていただきたいと思います。ただ、それが私どもが多少とも得た資料によりまして外国の実情をおぼろげながら推察をして日本の実情といろいろ考えあわせ、研究というようなことはいたしております。 その見地から私の意見を申し述べますと、やはりいまここで大体映画の著作権というようなものがありますのは、主として欧米先進国でございまして、私どもが参考にするのもまたそれでございます。この欧米先進国の著作権に関する考え方の背景というものには、著作権というようなものが起きる、あるいはそれ以前から一種の商法というようなものから派生した契約制度というものが非常に早く発達しております。この点では特に日本の映画界ではこの契約制度というものがいまだにまだ不完全でありまして、契約の不完全から起きた利害関係のトラブル、ここでいいます著作者と製作者、映画会社との間のトラブルというものがいまだに年中ひっきりなしに起きております。大小にかかわらず起きております。これは日本の社会における契約制度というものの後進性というような、特にまた映画界においては主たる芸術家や技術者が契約でやっておるのにかかわらず契約制度が非常に不安定であって、後進的である、この責任は私たち芸術家、技術者にも半分の責任がありますけれども、何といいますか、日本の社会の一つのその面での後進性だというふうに思っております。そういうような関係で、そこに私たちの置かれている日本映画界の先進欧米諸国と違う実情があるのです。これは一般論としてはそういう実情でございまして、それをさらにもう一つ進めますと、日本映画界の諸外国とさらに違う特性というのは、先ほどもちょっと申し述べました映画五社というものが独占的な体制で日本の映画界にあるということでございます。この独占的な体制がある以上、なかなか自由な需要供給関係に基づいた当事者間の自由な合意に達した契約というものがなかなかできないわけでございます。どうしても力の圧倒的に強い者に巻かれざるを得ない、屈服せざるを得ないというような形で現在の契約は続けられております。ですから、こういうふうな状態のもとで非常に契約制度の進歩した、その点で先進的な諸外国と比較するというところに一つの問題点が出てくるというふうに私たちは考えております。ですから、諸外国の例というものは当然非常によく研究される必要があると思います。したがって十分御研究の上御考察をしていただくのはけっこうでございますが、この日本映画界の非常に特殊な状況というものも同時に勘案されまして御考察されるようにお願いいたします。 それから二番目の御質問ですが、これは主としむ俳優に関する御質問のようでございましたが、現在の俳優が会社側に対して権利の処理関係をどういうふうにしておるか、なお外国とその件に関して日本との違いはどういうふうになっておるかというふうな御質問であったと思います。これは俳優のほうのことでございまして、私たちが完全なデータを持ってこれを私がお答えするということはちょっと無理でございますけれども、私たちはやはり一種の同業者に近いもので、一緒に仕事をしておりますので個人的に、あるいは直接、間接的にいろいろなことを聞いて知っております。そういうふうな立場からその範囲内の、私たちの知っておる見解を申し述べますと、現在はほとんどこの問題に関しては、やはり先ほど申しましたように契約の制度でもって行なわれております。ただこれがほかの一般の監督以下カメラマンその他の著作者と違いまして、俳優の中には非常にいわゆる商品価値といいますか、そういうものの力によって会社に対して発言力が強い、これは完全なる需要供給の関係というふうにも申せますが、そういう関係で会社に対して強いという俳優がおるわけでございます。これは監督その他の芸術家、著作者に比べて俳優の中にはそういう顕著な力を持った者がおります。会社側にとってもぜひその俳優でなければ企画が成立しないとか、会社の望む利益が得られないというふうな俳優がおります。こういう俳優はやはりそういう力によってそれなりにそれぞれの条件をつけて契約で条件を獲得しております。この件に関しても私たちもただいろいろと聞いたり、読み聞きする程度ではございますが、外国においても完全な契約によって歩合で報酬を受けるとか、配給の何%というふうな報酬の受け方をする、あるいはまたそれ以上に非常にこまかい、先ほども御質問の中にありましたような労働条件に関しても非常にこまかい細則を設けてこの契約を結ぶというようなことが行なわれているようであります。これに比べれば日本の非常にトップスターとか、いま言いました非常に実力のある、力のある俳優でもそれほどこまかい契約はしていないようでございます。これはやはり日本映画界の先ほど申しました後進性といいますか、私たちの意識を含めて契約に関する意識が低く、かつまた努力が足りないというところだと思います。 大体私の知っている範囲はその程度のことでございます。
○参考人(藤本真澄君) いまお話のあったように、映画の制作者、プロデューサーは第十六条で、この新しい法案によりましても映画の著作者となっておりますので、当然主たる著作者の中でもほかに比べて大きい部分を占める著作者ではないかと思うのでございます。それで要するにその著作権を持つのは、いま言いますプロデューサーというのは、さっき申しました明確に英語でいえば、アシスタントプロデューサー・アソシエートプロデューサー、会社に雇用なり契約しているプロデューサーが実際の仕事をしております。しかし、実際には東宝におきましては私の下にそれがいまして最後の責任は私のところにくるという形になっておる。私は会社の役員として社長にかわって事務を代行している。一切の権利というものはそういう点で会社に帰属するものであるというふうにわれわれ考えております。しかし、制作者というものとフィルムメーカーとは、契約によっては当然制作者が、プロデューサーが権利を持つ場合もあるのも当然でございます。たとえば三船君が映画をつくっている。三船君は俳優であると同時に、彼は製作者でもある場合、この場合に、彼が三船プロでつくる写真は全的に東宝が出資しておりましても、彼が全的に著作権を持つという場合もあり得るわけでございます。われわれは、そのプロデューサーを非常に重要視しておりますというのは、これは日本の映画会社では東宝だけでございますが、いまのテレビで放映されます。このテレビで放映されますと、テレビの放映権の問題につきましてもいろいろ各協会で考え方が違うのでございますが、映画製作部会でわれわれがいま監督ないしシナリオライターにお金を払っておりますが、これはテレビのないときにつくった映画があるわけです。それを放映して会社はそれで新しい利益をあげる。そのつくったときに予期しない利益を得た、予期しない利益を得たので、それに対する利益を均てんするために、シナリオライター、従来はシナリオライターも著作権がなかったわけですから、シナリオライター並びに監督に謝礼金としてお金を払っている。東宝は同時にプロデューサーにも額は少のうございますけれども、謝礼金というものを東宝はプロデューサーに払っております。そのようにプロデューサーというものを東宝の場合には重要視しておるわけでございます。それからこれはいま西河さんへの御質問があったのでございますけれども、西河さんのお答えと大体合っているのですが、アメリカにおける、たとえば諸外国におけるプロデューサーの権利というものは日本のようなものではなく、日本の後進性ということをおっしゃいましたが、まさに後進性でございまして、アメリカは非常に強烈なものです。これはベルヌ条約とかそういうものがあるので、多少条件は違うのですが、アメリカなどは一切のことをその取締役社長である人が持っている。会社の責任者が持っている。たとえば黒沢明君が日本で「トラトラトラ」という写真をやる。そうすると彼はロスアンゼルスから一本の電報でがっとかえられちゃう。あしたから来るに及ばずとなると、その監督はあしたから会社へ出入りすることもできない。そういうふうな力を会社が持っている。そのときにアソシエートプロデューサーのアピールによってニューヨークなりロスアンゼルスのほうでそういうふうにきめれば直ちに監督を取りかえてやるというような状況で、映画を実際につくっている著作権を持つ会社がそれほど強い権利を、日本などでは考えられないような強い権利を持つ。日本などではまだまだそれに対して人情論などがありますから、この監督はうまくない、不十分であるといっても、その監督をなかなかかえることができない実情であります。 それから俳優につきましても同じようなことで、アメリカなどの会社の俳優に対する義務がある。さっきもお話しのあったように、その中に利益に対してプロフィットを払うというようなことがあるのです。東宝なんかにおきましても、東宝のつくった写真に三船君が「山本五十六」という写真に出る。そうすると三船君がそれによってプロフィットを取っております。これはもう日本の代表的な世界的なスターだからそういうことが行なわれる。プロフィットを取ると同時に彼は役に対して注文することもある。アメリカなんかでは俳優もそういう権利を持つと同時に義務を持つ。この俳優は何ポンドであるといったら、その俳優は非常にコンディションがでぶでぶに太ってしまったら彼は権利を喪失するわけで、あるいはペナルティーも払わなければならぬということも行なわれる。美容上、自分の肉体的条件をいつでもフルコンディションに持っていって撮影に従事しなければならぬというような規制ももちろん契約で受ける。これは相互問題であって、さっき西河さんが言われた後進性、そこまでこまかく規定していない。日本でもある俳優に自動車を会社で支給するというようなことが、あるいは自動車で送り迎えするというようなことが条件に入っておる程度で、大体あまりこまかい規定はないというのが現状だというふうに思います。西河さんの質問でございましたが、参考までに私の見解を申し上げました。
○鈴木力君 もう一つずつくらいお伺い申し上げたいのですが、丹野先生に一つだけですけれども、かりに写真のほうで、その写真になる時期にはやや報道写真といいますか、報道を目的とされたような写真であっても、そして今日いわゆる写真の専門家の目から見て非常に現実的な価値のあると言われておるような写真の実例が相当あるだろうと私は思うのでありますけれども、そういう例があったら教えていただきたい、こう思うのであります。いま私はそのリストは持っておりませんけれども、たとえば原爆なら原爆、ああいう状況の写真であって、今日なおかつ専門家からいわゆる写真という芸術的な面からいわれても非常に値打ちが高いというような評価をされておるものが相当たくさんあるはずだと私は思っておるのでありますが、いま写真集なんかをときどき拝見をしても、相当古い、われわれしろうとの目から見れば、当時は報道写真かなと思うようなものであっても、いま非常に貴重な価値を持っておるものというのがあるように見受けられる。そういうものがこれは全部というわけにいかなくても相当あるだろうと思いますが、その辺の事情をひとつお伺いしたいと思います。 それから豊田先生に、さっきの図書館の話なんでありますけれども、ちょっとしろうとで心配しておるのは、数が非常にふえてきた。そういたしますと、たとえば法律書でありますとか、ああいう専門的な本なり論文なり、あるいは学術書なんかは出版部数が非常に少ないと思っております。かりに一万部にならない、三千部くらいしか出版しないというような、もっと少ない専門書もあるように聞いております。ところが図書館がそれぞれそこで大事なところを全部複製をしてしまうというようなことになってきますと、さらに三千部なら三千部というものをもっともっと縮小されてしまうのじゃないか。そうしますと、かつての、県に一つとか、中心都市に一つしがなかった時代の図書館ならいいのですけれども、法律によりますと、さらに政令で定めるものというまで広がっておるわけでありますから、そうなってきますと、もちろん著者の著作権というようなことも相当侵害されはしまいかと思うのですし、出版側のほうでも影響がありはしまいかというふうに思ったものですから伺ったのです。その辺は、さっきはたいした心配にならないというふうに伺いましたけれども、どんなものですか。 それからあと映画関係につきましては、これは西河先生、それから藤本先生どちらからもお答え、あるいはどなたからでもけっこうなんですけれども、どうしてもやはり私は著作者というものが規定してありまして、法律にプロデューサーも著作者の中に入っておる。そうしてこの人たちが著作者だと、こうきめておいてそうして一方ではストレートに、まあ五社でいえば会社になる。会社の社長が著作権を持つ、この点がどうも、私は法律のたてまえからいいまして、どうしても納得ができない。で、プロデューサーの役目というのは非常に重要な役目である、そこはよくわかります。そうしたらプロデューサーも含めて著作者になってるんですから、やっぱり著作権というのは、そこにプロデューサーも含むとすれば、著作者のところに権利が、著作権というものがいくべきであって、そこから切り離して、まあ東宝さんの場合には、先生がプロデュースをやっておられて、重役をやっておられるから、会社になっておる。全部みなそうなってるということにもならないだろうと思うので、法律のたてまえからいうと社長が著作者になっている場合には、もちろん当然その社長も含めて著作者になるわけですから、そういういき方のほうが法律として筋が通るのではないかというふうに考えての質問でございまして、そこで、この契約関係とのあれがあるんですが、かりに著作者側に著作権を与えておいて、そうして会社側との間に契約で、場合によれば著作権は会社側に譲渡をしたり、それからさっき三船さんの話が出ましたけれども、ある場合には三船さんに著作権が出てみたり、こういう形が出てくるのだろうと思う。そうすると、著作者に著作権を与えておいても、一向不自由がないじゃないかというふうに考えられるんですが、その辺はいかがなものでしょう。これは西河先生と藤本先生にお伺いいたしたいと思います。
○参考人(丹野章君) ただいまの御質問でございますが、例示を幾つかいたしたいと思います。まあ、それとは別に、私たちが写真をつくる場合も、また写真以外の芸術家の場合も同じだと思いますけれども、最初の意図、目的として、芸術的価値をつくり出そうというふうな意図、目的によって、著作、創作をなさる方というのはまずいないんではないかと思います。何らかの、自分の中に鮮烈な目的、意図、そういう意識が働いて、そして初めてその創作に着手していく、創作をする、そういうものが自然にやはり芸術的な価値を生み出していくというふうに考えております。ですから、私は先ほども申し上げたことなんですが、最初の目的が報道的な意図、ドキュメンタリーな意図であったものが、後に芸術的な価値を持つというんでなくて、これはやはり最初からそういうものであればこそ、また強い芸術的な価値を持ち得るのだというふうに、やはり一体のものと考えております。そういう意味から、著作の上の当初の意図、それから手段、経過その形、それから結果の優劣、そういうものによって区別すべきではないという意見を一貫して申し上げているわけですが、この例としましては、日本においては、戦後のものでは土門挙さんの「ヒロシマ」、これはりっぱな写真集になっておりまして、現在でも非常に高いそういう価値を持っております。それから、これはまあ参考までに申しますと、いま著作権の暫定延長で、かろうじて著作権を維持しております。そのほかに、私どもの写真家協会で、一昨年写真表現による百年史という展覧会を催したわけですが、この中にも、そういうもので数々のすぐれたもの、これはほとんどがそういう種類のものでございまして、とったときには、まさに自分が芸術家であるとか、芸術的価値をつくり出そうというふうな考えにとりつかれてとっているんでなくて、熾烈な記録的な意識、また報道者としての情熱、こういうものをもってとったものが、いま見ても脈々としてそういう精神が伝わり、かつ非常に深い感動を与える。いわば芸術的な価値を持っているというものが数多く見られております。一つの例としては「大石橋の戦闘における名誉の戦死者」という明治三十七年の小倉倹司さんのとられた戦争写真、こういうものなんかも非常に展覧会を見られた方たちに大きな感動を与えております。またそのほかにも外国の例ではユージン・スミスの「スペインの村」「田舎医者」その他数々の賞を受けたフォト、エッセー、ドキュメント、こういうものが現在でも非常に高い芸術的価値を持つものとされております。ロバート・キャパのスペイン戦争における「たおれし兵士」などというふうなまさにどう考えても芸術的価値などを意識してとったものでない、つくられたものでないというものが、やはり十分な迫力と芸術的な価値を持っておることはすでに明らかに立証されておりますし、すべて多くの人が知っておるところだというふうに考えております。
○参考人(豊田亀市君) 先ほど私が申し上げました図書館の複製の件は、多少誤解せられて受け取られたきらいがございますが、お話の趣旨は、本来、私どものほうでそういう心配があるのであるということで、お話しする筋であるかもしれません。複製は著作者及び出版者の立場からいたしますれば、制限をすることにこしたことはないわけで、当然そういった心配があると思います。ただ複製機械が非常に発達をしておりますけれども、たとえばここに千ぺ-ジの本がありまして、それを新しく複製するという場合に、千部とか二千部という場合には、それ相応の部数に比例したコストダウンということで本ができておるわけでありますが、図書館でここで三冊つくろうという場合、それをそのままとっても市販で売っております木よりも安くつくることはできません。ゼロックスなどを使いましても一枚幾らというのを計算しますと、非常に高いものにつくわけで、本屋に本がないから新しくつくるといった、勉強心その他から使う場合は別といたしまして、一般に本を買ったほうが安いんじゃないかというようなこともございます。ただ、理論的に複製が範囲がだんだん広がっていくということは、著作権者の権利も侵しますし、出版者にとってはいいことではないと思いますが、まあ法律というものが、どういう体系を持つべきか、私はわかりませんけれども、少なくとも図書館であるワクは使うということは妥当なんじゃないかと思うわけです。ただ、その限界というものが、文章でどう表現されるか、当然拡大解釈されていくことをおそれながら、なおかつこの辺はある程度しようがないんじゃないか。実践的には複製がどこまで将来安くできるようになるかということとかかわると思いますけれども、日本の木の定価は世界で一番安いのでありまして、紙自体の値段と印刷の手数その他かけますと、買う場合のほうがむしろ安いのじゃないかということもございます。この辺はどちらがいいか、むしろ文章をどう善意で解釈して運用するかということになるのじゃないかと思います。
○参考人(西河克巳君) 著作者に当然あるべき著作権が、なぜ著作者にあっては都合が悪いのか、まあどうして二十九条を設けなければならないのかというようなことは、先ほど来、私どもの意見として、むしろ著作者にあるべき著作権は当然であって、それが製作者にいかないと不都合があるというふうなことは考えられません。著作者にあるべき著作権が当然そのままあって決して不都合はないと思いますが、ただ不都合がないということのニュアンスの背景をちょっと補足いたしますと、先ほど来藤木さんがたびたびおっしゃっておられます現在の日本の映画界における著作権者の、まあ契約上の処理に関しては、まあケース・バイ・ケースであるという御意見でございましたけど、これに関しては、その限り、私たちも将来はともかくとしまして、いまの日本映画界のこの実情の中では、やはり結果としてはケース・バイ・ケースというふうになるのが一番現実に密着した妥当な方法だというふうに考えております。ただ、そのためには、二十九条というものがございますと、これがケース・バイ・ケースにならないわけでございます。というわけは、現行法ではこういうものがございませんので、ですから私たちとしては不満ではありまするけれども、その力関係によってある一、二の人はその権利をとれる、あるいはまあやり方によってはあるいはそれが団体の力でそういうものが一部獲得できるというふうな余地があるわけでございますが、したがって、まあケース・ハイ・ケースという現象も起きてくるわけですが、この二十九条が成立してしまいますと、そのケース・バイ・ケースの余地がなくなるのではないかというふうに私たちは考えております。したがって、そういう意味でこの二十九条がもう致命的にぐあいが悪い、もっと拡大するならば、この映画に対するすべてのこの特別な規定がたいへんその点でじゃまになるというわけですが、特にこの二十九条があるために、現状のような運営の方法さえできなくなるであろうというふうに思います。
○参考人(藤本真澄君) 私、申し忘れたのでございますけれども、映画の製作者に一番重大なものは映画の編集権だと思います。最後になってとったものをつなぎ合わしてどういうふうに編集するかということです。これが一番大きい問題なんで、この場合これを会社が持たなければ映画をつくるもの、プロデューサー、会社の考えるものと違うものができても困るわけです。それで違うものができては社会的にも責任を会社はとれないというので編集権というものをわれわれが持っている。これがなくては、日本の監督は編集権がなければ美術的自殺であるという考え方も非常にありますので、これは聞きますところによりますと、「トラトラトラ」のときに黒沢君が編集権を要求したが、一顧も顧みられずに、編集権というものは当然会社にあるものだというふうにアメリカ側は判断したというふうに聞いております。そういう意味で、最後に編集権を会社が持っている、会社が編集するわけではありませんから、その場合に会社の代表者である私が、作品が二本立てである、写真の内容からいって、一万尺あって長い、九千尺にするとか九千五百尺にするとか、五百切る、三百切るということは日常起きているものです。最後の決定権というものは会社が持っているもので、会社が持たなければ、会社が責任を持って映画をつくることはできないので、そういう意味で当然私たちは第二十九条が必要であるという見解に立っておるものでございます。
○安永英雄君 野村さんに質問を申し上げますが、時間もありませんから端的におっしゃっていただきたいと思いますが、制度審議会の答申というものと、この法律案、ここに食い違いがありますかどうか。 それから映画問題について先ほど審議の過程を幾らかお話願ったわけでありますが、特に私お聞きしたいのは、今日までの審議会の論議の中でたとえば五次案の中で、「契約に別段の定めがない限り、」というようなことを一応審議の結論として出されたというふうに私は聞いておるし、それを受けた閣議のほうでもそれを決定したということを聞いておるわけです。したがって、これは今日までずっと映画の問題で審議会が討論をされた中で、きわ立った一つの変化だと私は思っておる。そしてまたそのことが今度の原案の中ではこれは消えてなくなっておる。これもまた非常に大きく私、注目をしておるところなんですが、この五次案において「契約に別段の定めがない限り、」つまり先ほどおっしゃったように集中したいというのは、これは審議会の大体の方針だったし、異論は他にはなかったとおっしゃるけれども、その集中をするという論議の過程の中で、著作権は製作者に渡すけれども、契約に別に定めがあった場合には必ずしもそうはならないという意味の結論が一応出たという過程があったと聞いておるわけでありますが、その結論といったものをめぐっての審議の経過、こういったものをお聞きしたいわけです。その二点だけひとつ……。
○参考人(野村義男君) 第一点の、食い違いがあるかという問題については、さきに申し上げましたように、細目については表現その他についてはありますけれども、全体としては委員会の線を通している、こういうことをお話しいたしました。 それから第二の点については、「契約に別段の定めのない限り、」ということは、審議会では出しておりません。ただ審議会の文句に書いてあるのは、この当事者が別な約束をすれば債権的な効力は持つ、著作権というのは物権でございますから、だれもが対抗できるものだ、だれにも対抗できる、ものが当事者の意思で変わるということは、物権理論に反するわけなんですね。だからそこで当事者の意思で契約の際に、ここのところは三円増してくれ、五円増してくれ、これはどこにやらないでくれという、そういうような債権契約をすることは妨げるものでない、こういう意味で言っておるわけでございます。それからある何次案の中で政府側でそういうものを入れたのも物権契約と債権契約の関係をよくわきまえないでそうしてそういうものを入れた結果、結局物権的な権利の所在を債権でかえ得るというようなことが出てきたので、だんだんぐあいが悪いということがわかってとったものだと思います。したがって審議会としてはあそこに書いてあるのは債権的な条件をつけてもいいけれども、著作権そのものの所在ではないと、こういうふうに割り切っておるわけでございます。
○委員長(楠正俊君) 次に、自由民主党の質疑を願います。大松君。
○大松博文君 最初、野村さんにちょっとお伺いしたいのですが、二条に「著作物思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。」という規定がございますが、私、この写真に関しまして、はたしてこれが著作物であろうかどうかという疑問を抱くのでございますが、この審議の過程にそういう何か話が出なかったかどうか、ちょっとお聞きしたいのです。
○参考人(野村義男君) 私は午前中に、写真的著作物についていろいろ意見を申し上げました。その中で著作権理念としては、写真がそこに書いてある思想、感情を創作的に表現したとかいうことについてはやや疑問がある。したがって、一八八六年の当初ベルヌ条約その他、あるいは現にお机の上にあるベルヌのローマ条約、その中にも著作物のリストの中に写真は上がっていない、こういうことを申し上げたわけであります。しかしながら現在の日本の著作権法、現行法の中では初めから写真というものを著作物扱いにしている。しかしそこには世界の大勢なり条約上その他疑問があって、期間その他の点で別な扱いをしている。本来なら死後三十年、三十三年、三十八年あるいは死後五十年であるべきものが、公表のときから十年というふうにいまなっておる。これはその中の著作物性に疑問があるということのあらわれであったわけであります。現在ではベルヌ条約のブラッセル条約の中では、写真というものは保護をする著作物の中に上がってきました。上がってきたということは、著作物に対する要件が必要である。思想、感情を表現したものが著作物である。だから従来の写真よりはピュアリティーといいますか、性格がレベル・アップされて、この著作権法で保護される写真というのは、ここにあるところの思想、感情を創作的に表現したもの、それ以外は著作物ではない、こういうことを申し上げたわけであります。
○大松博文君 丹野さんにお伺いしますが、著作物一般として小説とか絵画がある。それと写真と対比した場合に、写真というのは次元の異なるものと私考えられるのじゃなかろうかと思うのです。たとえば小説を書く場合に、小説家が同じものを二度書くということはまあ不可能だろう。また絵画にしましても、横山大観がたとえば富士山をかいた。そうした場合に、今度は同じものをまた大観にかけといっても、私はこれは不可能だろうと思う。そうしますと、写真が同じ場所で同一のフィルムを使って、そしてまたカメラも同じメーカーの、そして同種のカメラを使って、そうして同一データといいますか、まあ現在でしたら、しぼりとか、シャッターとか、距離とか、こういうものだって技術の進歩によって、人間の技術云々じゃなくて、機械が撮影してくれるというようなことに変わってきておるような現象だというようなことをいろいろ考え合わしたときに、無数に同じものができるという可能性も出てくるだろう、そうしますと、芸術写真だとか、また報道写真だとか、いろいろ言われておりますが、こういう点につきましても、非常にいろいろな困難な問題が起こってくるだろうと思います。これにつきまして、丹野さんの御意見をお伺いしたいと思います。
○参考人(丹野章君) 写真がたとえば小説と相当に異なるんではないかということは事実だと思います。しかし、これは小説と絵画が大いに異なるんではないかということと同じように事実だと思います。そういう意味で、写真はほかのジャンルとはっきり異なっております。しかし著作物性についての疑問とおっしゃる問題については、何ら根拠がないというふうに考えております。たとえば、ただいまの御質問の、小説家は同じものを書くかという問題ですが、やはり小説家も同じテーマを繰り返し、繰り返し追求されるはずです。これはあらゆる形をとって作品にあらわれてまいります。また絵画の場合でも同じモチーフ、同じテーマをやはり執拗に追求されている画家がたくさんございます。そしておのおのそれぞれに芸術的価値もあり、著作物としての独立性があるはずでございます。またその中には非常に似通ったものもあり、デッサンの過程では、もうほんの指先が一つ違っているというふうな程度の作品もたくさんあるはずでございます。これは必ずしも発表されているかいないかは別として、そういうものが存在していることは事実であり、また発表されているものもたくさんあると思います。写真の場合でも、たとえばいまのように、同じ作家が同じテーマ、同じモチーフ、同じ被写体を繰り返し追求するということはたくさんあることでございます。ただ、いまもう一つの例としてあげられたように、全く同じ条件で、別な人がとるというふうなことがあるかどうか。あったらどうかというお話ですが、これは全く同じ条件というのが偶然にあり得るのかどうか、これは偶然というものをどう考えるかによるわけですが、その同じ場所、これを選択するだけでも非常にたいへんです。全くそばについていてこれを模倣するということはあり得ると思います。これは小説でも、絵画でも先生の絵を見習ってそれをかき移す。同じポジションからかく同じ色彩をつける、こういうことはあり得ることだと思います。もしそれが適合になされるならばお互いに独立した著作権を持つと思います。しかし適合でない場合には、ある意味では模倣であり、著作権侵害になるものもあるかもしれません。しかし、それが全く偶然に、全く同じポジションから同じ被写体をとり、同じフィルムで同じカメラを使い、同じ露光時間で、同じ現像方法、同じプリント濃度その他あらゆる条件が、そこにそろうことがあったとしたら、これは全く別の著作物になる。これは疑いのない事実であり、小説の場合も同じだと思います。全く違う場所で、なんの脈絡もない人が同じ小説を書いたとする、同じ和歌を書いたとすれば、これはどちらにも権利があると思います。ただ発表の時点によってどちらかが優先権を主張するということはあり得ると思いますが、何ら変わるところはないと思います。ただいまの映画の話なんかでも、その作品に発意と責任を持つプロデューサーの権利云々されているような中で、たかだか一個の小さなカメラという機械を駆使して、しかもシャッターを押す、押さない、その場所でとるかどうか、あらゆる条件を自分の発意と責任で行なっていく写真家にはたして著作物性に疑問が持てるものかどうか、ぜひこの点をお考えいただきたいと思います。
○大松博文君 先ほど野村さんにお聞きしたことと関連いたしまして、写真というのは、もちろんこの一枚一枚著作権が与えられることになるというようなことを考えますときに、著作権法以外に、またこの保護という観点からしましても、特別な立法措置をしたらいいのじゃなかろうかという気がするわけですが、丹野さんの御意見はいかがですか。
○参考人(丹野章君) 御質問の趣旨は、写真について特別な立法をしたらどうかということですか。
○大松博文君 はい。
○参考人(丹野章君) これはたとえば、先ほど野村先生のお話もありましたが、スウェーデン、デンマークでは、写真的映像の権利に関する法律というものをつくっておられるということもあります。私どもこれを決して更新的な方法だとは必ずしも考えないわけです。写真的映像の権利――ですから要するに写真的な映像であれば、たとえば著作物性を持っていてもいなくても保護しよう、こういうふうなことだと思います。それに対しまして、いまここで審議されております著作権法は、その第二条でも明記しておりますように、やはり一定のワクをつくりまして、著作物というものはこういうものである、写真的映像でなくて、写真的著作物というような表現をしております。写真的著作物だけを保護しようという法律が現在審議されているわけであります。私どもは、写真的映像すべてが著作物だというふうには必ずしも考えておりません。非常に多くのものがその著作物の対象になると私は信じておりますが、著作物の対象にならないものがカメラの中から出てくるということはあり得ることだと思います。これはどういうものかについては一つ一つ例示をする用意はありませんけれども、これは文章によって、表現されたものがすべて文芸の著作物であると言えないのと同じように、写真についても同じだと思います。ただこのスウェーデン、デンマークの写真的映像の権利に関する法律というものは、そういうふうな著作物といえないものもすべてを保護しようというふうな考えでつくられたものだというふうに考えております。またこれとは若干異なりますが、オーストリアなどの例では、やはり写真作品については死後五十年というふうに一般的な保護をしておりますし、いまのスウェーデン、デンマークの例で言えるような写真的映像の権利、こういうふうなものについては隣接権で、またそれも含めて保護している、こういうふうな念のいった保護をしている国はあるというふうに存じております。ですから日本で、現在著作権法で著作物の対象になる写真、いわゆる写真著作物を保護する法律をつくっていきまして、これでなおかつ保護できない写真がたくさん出てくるとすれば、そのときに改めて写真について、写真映像全般について保護するような別な法律を考えれば足りるというふうに考えております。
○大松博文君 先ほどちょっとお伺いしていると、芸術性と報道性とが表裏の関係にあるというようにちょっと私理解したのでございます。よその例で言いますと、写真の先進国は大体フランスとかイタリア、こういうふうに言われておりますが、こういうところにおいても報道性のあるものとそうでないものとに分けている。まあたとえばこの前に浅沼委員長が刺されたというようなときの写真がこれがはたして芸術性があろうかなかろうか、これは私は芸術的でないという気がするんでございますが、まあ芸術性というものは長い目で見て価値のあるものだと。そうすると浅沼さんが刺されたときのようなものは、これはまあそのときの報道的なものであって、その後においてはもう価値が減少してしまうものだということからいうと、もう価値というものもゼロにしていいんじゃなかろうかという気も私するわけです。そしていま聞きますと、オーストリアですと、死後五十年、そしてまたそれ以外のものは公表後二十年というようになっておりますが、報道的なものをゼロにせよと言ってもこれはむちゃだからして、それには金銭的な補償も与えるということをすればどうだろうかという私考えを持つわけですが、丹野さんの御意見いかがでしょうか。
○参考人(丹野章君) それは先ほども参考人意見として申し上げた中にありますように、国家的な見地で、やはり社会性の非常に強いもの、報道性に限らないと思いますが、社会に早く還元して自由に使えるようにしたいというふうな内容を持つ著作物があるとすれば、写真に限らずそういうジャンルそのものをこえて、創作の方法を問題にせずに、そういうものはやはり国家的見地で何らかの補償をして社会に開放するような措置、こういうものは講ぜられてしかるべきだというふうに考えております。
○大松博文君 次に豊田さんにお伺いしたいんです。 雑誌協会のほうでは、写真の使用というものにつきまして、いままでですと死後十三年、それが公表後五十年というふうになる。雑誌協会のほうでは、死後二十五年、これが芸術写真については死後二十五年。そして報道写真については公表後二十五年にしていただきたいという御意見があったということを私聞いております。この死後二十五年といいますのは、ちょっと午前中も申し上げましたが、たとえば三十歳のときにまあ創作され、公表される。そうすると、この方がまあ七十歳でなくなられたとしますと、これは六十五年間ということにもなってきます。そういうことをいろいろ考えますと、死後二十五年という、これも非常に長いんじゃなかろうかという気もするわけですが、これは写真を使用する立場からいった場合に、芸術写真と報道写真を区別するというのは、一体これの基準というのはどこに置かれるつもりだろうか。そしてまたどのような特性を持っておられるんだろうか。また利用上で報道写真というのは、現在芸術写真と対比しまして、どれだけの比率を占めているんだろうかということをお聞きしたいんです。
○参考人(豊田亀市君) ただいまの御質問に対して私の考えを申し述べます。 まず第一に、写真そのものが著作物であるかという疑点があるわけですけれども、そこから現行法も、改正法案も両者の区別が多少あるというふうに思いますし、私どももそういう疑問は持ちながらも、実際に法律の文章の上では何らかの表現をしなければならないとすれば、保護の期間において区別をつける、あるいは二つを分けるというふうに考えざるを機能的に得なかったということでございます。 先ほどから写真の認識論的な意味で、幾つかの考え方が出ているわけでございますけれども、芸術と芸術的というものは私は明らかにあるというふうに考えているわけです。著作物としての議論があるなしをこえまして、たとえば先ほど丹野参考人のお答え中で、ロバート・キャパというフランスの有名な報道キャメラマンが非常に芸術的な報道写真をとった。芸術的な報道写真ということだと思いますが、その例が出ておりましたが、ロバート・キャパにせよ、その弟のコーネル・キャパにせよ、この二人とも、芸術的なものもとっておりますし、報道的なものもとっておるのではないか、撮影をするときの企図が一つ問題になると思うのです。芸術的な意識でとったか、報道的な意識でとったかということもありますし、私どもの立場からいたしますと、それを報道する作業の中でニュースとして扱おうと思っているのか、あるいは芸術的なものとしてこれを扱おうとしているのかという観点が一つあるのじゃないかと思うのです。そして一枚の写真を前にして、これがニュース的なものであるか、芸術的なものであるかは、ことばで論理的に説明することは多少困難ですけれども、実技的に申し上げれば、私はそうむずかしくないというというふうに思います。たとえば、先ほど例にあがりましたキャパの写真の場合は、私は芸術的であると思います。浅沼委員長が刺されました写真は、あれを芸術的であるというふうに論断するのは無理があります。あれはやはりニュースだと私は思います。 この二つの例でわかりますように、やはり歴然とした区別はあるのではないか、一応著作物としての議論を抜きにしまして、結果から見て、製作のプロセスを抜きにして、やはり二通りあることは事実なんです。それは写真を扱っております私どもから見れば、判然としない部分も若干はあるかもしれないけれども、これは世の中のたいていの場合、その中間にある若干の部分については不明であろうと思います。ことに写真の場合は使うときに私ども多少でもおもしろい、ないしは人の感じを刺激するという意味で報道写真の中からも情感のあふれるものを選びますけれども、情感があるからだから芸術的だというふうに言っていいかどうか、使う場ではかなり明瞭な意識で使っているということができるのじゃないかと思うのです。ただ使う場の意識を法律の文章をつくるときに投影させているものかどうか、そういったことはやはり私わかりません。ただこの区別はむずかしくないと実技的に思います。現にたとえばイタリーでこれを区別しているとすれば、どういうような基準で実際にキャメラマンがそれをとり、それを編集者が使っているか、そういった調査をやはりすべきだと思います。私ども著作権法のためにだけふだん働いているものではないわけで、調査はしておりません。しかし日々出版界のだれかが外国に出張して仕事もしておりますので、実際にはどんな区別で運用されているか、学問的な問題もあるでしょうけれども、実際の場でどう識別しているのかということは、必要であれば私は調べることができる、また多少時間を与えてくださるならば、むずかしいけれども、ある基準くらいは出せるのじゃないかと、私個人としては思っております。
○大松博文君 この報道写真は、社会性より見まして早期開放すべきものだということを思うわけでありますが、先ほども私ちょっとこれを丹野さんにもお話ししましたが、こういうことからしますと、先ほどゼロ年でいいということまで言った。そうしたところが雑誌協会の話では、公表後二十五年という御意見を出しておられる。こういう時期がたてば希少価値が減っていくというものでございますので、私はゼロ年でもいいという考えを持っておるものでございます。それともう一つ、今度は公表後五十年ということになりますと、この公表ということが一体どういうことを公表というのかということからしますと、この雑誌協会のほうにしましても、そういう点からして管理という面に非常に困難なことが生じてくるのじゃなかろうか、この点もひとつお伺いしたいと思います。
○参考人(豊田亀市君) 公表ということばは、私どもできることなら死後ということが明確だと思っておりますけれども、芸術的なものに対してある位置を私どもは認めたいというふうに割り切って考えていい。芸術的なものは死後という線で考えたなら、公表というのは実際に技術的には非常に困難です。それをつかむことはむずかしいのではないかと思います。写真のネガないしはそれをしまってある袋のようなもの、何かそういったものの中へ、何年何月どこに公表したのだということが明確に記され、それがどこかへ登録されるとか、あるいはそういう機関を新しく設定するといったようなことなしに、ただばく然と公表というふうにはしたくないというふうに思っています。当然最初に私お願いいたしましたように、著作権の表示をやはり義務づけたほうがいいのではないかということの中には、そういった部分がわりあい明確になっておりませんと、公表の認定ができない。つまり、すみやかに報道的な写真を使うことが報道関係ではできなくなる、そういうことを憂えているからでございます。何かそういった機関を新しくつくるとするならば、人も用意しなければもちろんいけませんし、何かそういった機関のルール、写真家と私どもとのそういった話し合いほかが新しく問題として出てくるというふうに思っています。公表と死後というのを両方統一意見として私ども出しておりますのは、一つには芸術的なものを認めながら、一つには認めてない部分もあるということの表現ということになります。
○大松博文君 次は西河さんにお尋ねいたしたいのでございますが、西河さんのほうでは、二十九条の削除ということを非常に要望されておられます。これは私、この著作権法というものは、これは国際条約、また民法、商法、いろいろなものに関連するものだと思います。そして、これには十五条に「契約、勤務規則その他に別段の定めがない限り、」ということがございまして、こういうことをいろいろ勘案いたしますときに、映画製作者は、これは完成した映画を映画館などで上映する目的で、巨大な資本を投下します。そして、経済的な危険もおかしながら、できるだけりっぱなものを、いいものをつくろうという念願を持って、そして監督とか技術者を雇い、一本の映画をつくり上げる。それを財産的に行使しようとしたときに、この権利者としての著作権がないということになれば、これは私たいへんなことになっていくだろうと思うのです。監督というものも、それを当然前提としてこの映画製作には私参加したものだろうと思います。そして、先ほどちょっとお聞きしましたときに、いろいろ私感じたことでございますが、映画会社と監督の契約関係は一体どうなっておるんだろうか。聞くところによると、年間契約であるというようなことを聞いておるわけです。そして、契約のときに双方が納得の上で契約しておるんじゃなかろうかという気もするわけでございますが、こういう点について御意見をお聞かせ願いたいと思います。
○参考人(西河克巳君) お答えいたします。 最初に映画会社が非常に多額の投資をして、金銭的な危険負担を負ってそれを製作するのであるから、それから生まれる権利というものはその危険負担をした者にあるのは当然ではないかというお考えだと思いますが、これはつくられるものによってたいへん意味が違うと思います。たまたまいまここでかん詰めをつくるのであるというようなもの、あるいは衣類をつくっておるのだ、これに多額の投資をしてあれする、それで、どうしても危険負担に対して、当然それに関するすべてのあがった利益に関しては、その危険負担をした者がもらわなければやれないではないか、これは当然だと思いますが、私たちがここでいま問題にしておりまする著作物というものは、そういうものと本質的に性質の違うものであります。その点が私たちの認識の上でいまちょっと食い違いがあるかと思いますが、そういう本質的に違いがあるものですから、そういうふうな比喩によってそのままそちらに論理がすりかわるというわけにはまいらないと思います。そのことは午前中に私どもの意見を述べました中にすでに申し上げました。それはまあ出版にたとえてあるいは形を変えて比喩してその例を申し上げたものでありますが、危険負担をするのであれば、現在の出版でもたいへん多額の危険負担をしてやっているものはたくさんあるのでありますから、それもまた映画と同じように危険負担をした出版者にすべて権利が所属するのが当然ではないかというような理論になると思います。そこがやはり著作物というものの本質的な一般商品と違うというところでございまして、そのためにこの著作権法というものが審議され、重大な法案として改正されようというふうになっているんだと思っております。 それからその次に、現在そういう問題に関して、現実にわれわれ監督がどういうふうな契約をしておるかということも、私の午前中の意見の中でも申し述べましたし、先ほど御質問をいただいた回答の中にも、ややそれに触れたお話をいたしましたが、簡単にもう一回申し上げますと、あくまでも形式としては、相互の自由契約ということでございます。したがって、ちょっと御質問の中にありましたように、その製作に参加するときには、当然その権利は映画会社に行くものと思って参加しているのではないかという御意見がございましたけれども、そういうふうには思っておりません。行くような要素と行かないものと、それぞれそのときそのときによって違うものである、それは参加のしかたが、またその態様がさまざまであります。これは先ほど藤本さんも同じような御説明をされておられましたが、現在の日本映画界の実情では、監督のその映画に対する参加のしかたも非常にさまざまでございます。したがって、現時点ではやはりケース・バイ・ケースでいくのが妥当であるという考え方でありまして、最初から、参加した限りはすべての権利は会社側、製作者にあるのだという認識の上にやっているということは全くございません。
○参考人(藤本真澄君) いま西河参考人の述べられた中で、出版者の危険負担の問題ですね、出版者と著作者の関係と映画製作者と監督の場合が同じであるという考え、これは全く私は違うと思うのです。出版にもいろいろありますでしょうけれども、出版なら、特定の作家がものを書いて、それに対して出版者が、ある場合には、こういうふうにしてくれと言うことはあるでしょうが、大体それが同様な形で出版されると思います。監督の場合は、監督の単独作業ではないわけです。監督は幾つかのパートの中の演出の部分を持っている技術者でしかあり得ない、製作者がそれをまとめて、会社の代表者がそれを認めて、そしてそれが製作されるのであって、そこに会社の意思なり多くのほかのパートの人の芸術的活動が付加されてその合成されたものが、それが集大成されたものが映画著作物であって、その中の演出の部分を監督は担当しているにすぎないというのがわれわれの考えでございまして、西河君の言うように、出版者と著作者の関係と同一であるということは、全くわれわれは考えられません。
○参考人(西河克巳君) よろしゅうございますか。
○委員長(楠正俊君) 西河参考人。
○参考人(西河克巳君) ただいまの藤本さんの御意見にちょっと私、誤解を招くおそれがあると思うので、弁明をさしていただきたいと思います。 出版というものの認識が幾らか私と藤本さんとの間に違いがございますので、そこでそういう食い違いが起きていると私は思いますが、これは出版と映画が全く同じものであるというふうには私は考えません。したがって、全く同じ取り扱いを受けなければならないというふうにもまた思いません。しかしながら、従来行なわれた出版、いわゆる小説家が小説を書いて出版する、あるいは学術論文を学者が書いてそれを出版するというような単純な出版はいまでもございますが、現在の出版はますます多様化してまいりまして、非常に総合的な著作者の集合体でつくり上げた出版というものもたくさんふえております。特に大規模な投資をして行なわれるものほどそういうものが多いのです。それは皆さまもすでに御存じのように、現在のようにいわゆる映像化、視覚化というようなことが進んでまいりまして、写真、絵画、映画あらゆるイラスト、あらゆる方法を使って著作物をつくっております、出版物をつくっております。そうすると、この中にはそれを執筆をする執筆者あり、あるいは絵をかく者あり、写真をとる者あり、それをイラストする者ありというふうに、しかも分野を変えた著作者が総合して、あるいは協力してそれをつくり上げているという例は非常に最近ますます多くなっております。そういうふうに出版物というものでさえこう変わってきておりますので、ある意味ではやや非常に類似な形になってきたというふうに私は思っております。ですからそういうふうな意味で、私はたまたま出版という形をわかりやすくするために例をあげたので、全く同じだとは思いませんが、その形が藤本さんのおっしゃるように全然根本的に違うものだというふうには思いません。現在では非常に類似してきたというふうに考えます。
○大松博文君 この前、大島さんが、この法案は非常な改悪だというようなことを言っておりましたが、まあ西河さんはあまりそういうことを言われておりませんが、まあ現行法では映画の著作者が一体だれであるかということは明白にうたわれておらなかった。それがこのたびはこの十六条におきまして映画監督というものも著作者として規定された。そして、著作者人格権も認められた。そしてテレビの放映またその他の再編成とか、無断カット、こういうものをかってにしちゃいけないという規定がここに一つ設けられてきました。こういうことからいうと、私はこれに対する評価というものもしていいんじゃなかろうかというのが一つ。 もう一つだけお尋ねしますが、まあ映画人という方が非常に反対しておるということを私は聞いておりますが、しかし、監督だけでその他のシナリオ作家とかあるいは俳優、そういう方々があまり反対しておらなくて、早期解決をはかっていただきたいというようなことを言っているというこを私聞いておるのでございますが、その点どうでざいましょろか。
○参考人(西河克巳君) お答えいたします。 私はまあ改悪というような表現でそれをことさらに強く申し上げておりませんが、改悪であることには間違いないので、その点は私も衆議院に参考人で出ました大島渚も根本的には変わりません。ただ私は法案そのものはもちろん全般的な改悪だとは思っておりません。保護期間の延長その他いろいろ改善された点もありますので、法案としてはいい分もあると思います。しかし、映画に関しては現行法でただいま私たちが現実にその権利関係を処理しておる実態よりも、この法案が施行されて実施されたときの状態が、私たちにとって権利関係が悪くなると、そういう意味では明らかに改悪であるというふうに考えております。その最も重要な点である第二十九条、これができたために非常に改悪である。そのためには、これがあるならば十六条でいろいろ著作者の規定を設けてもこれはやや空文に近いものになるというおそれがある。少なくとも現状よりは映画監督としては悪くなるというふうに考えております。ですから、この点に関してはもう明らかに改悪であるというふうにお答えしたいと思います。
○大松博文君 藤本さんにお聞きしたいのでございますが、このたび十六条で監督者の人格権というものが認められた。そうしますと、映画製作者の立場から、これを尊重していかなければ私はいけないと思いますが、こういう点に対して今後いままでと異なった何か配慮をされるおつもりはございますか。
○参考人(藤本真澄君) 私は、何といいますか、映画の著作者として製作者、それから監督、演出、それから撮影、美術等が法律として認められたこと、たいへん喜ばしいことだと思うのです。遺憾ながら、いままでの映画業者、これはわれわれの仲間にもそういう人がいるのですが、自分のところで買った写真を、自分のところで有名な監督のつくった写真をかってに切って、監督に無断で切って上映されたというようなことが、非常にいままで数多くの例があったわけです。そういうものに対していままで法律的な何ら制裁が加えられない。自分が金を出してつくらしたものは自分の自由にしていいのじゃないかというような古い考え方を持つ企業者がたまたまいままでにも多くあったわけなんです。そういうものが今度のこの法律で保護されたということは、非常に私は喜ばしいことだというふうに考えております。それから映画製作者が著作権をこれで持ったからといって、それを乱用するということはやはり慎しまなければならぬ。映画というものは多くの人の労力と多くの人の芸術家の意思と努力によってできたものであるということで、著作権を持ったものが、それでは著作権を乱用していいということではない。ただし今後の問題は経営者の意識といいますか、良心といいますか、常識といいますか、そういうものが全く発揮されてこそ、やはりこの著作権法が意味をなすものだというように私は考えております。
○大松博文君 今度この二十九条ができまして、映画の著作権が製作者に帰属しても、契約というものは契約自由の原則がございまして、海外配給とかテレビの放送とか、そうしてまた十六ミリにするとかという技術改革、こういう複製、こういう特殊の場合の利用というものがございます。これを製作者と監督者が契約することが必要だと、またこれも可能だ。現在アメリカで、いろいろこういうものに対して契約をしておるということは私聞いておりますが、日本におきましては今後こういう契約をするということに対する御意見をお聞きしたいと思います。
○参考人(藤本真澄君) まあ午前中も高橋さんからお話があり、それから委員の方からもお話がありましたが、ビデオカセットの問題、その他映画の利用範囲というものはこれからますます広くなりますので、それをどういうふうに規定していくかということにつきましては、なかなかむずかしい問題であって、個々に解決していかなければならぬ問題がある。ビデオカセットの問題などを法律的にどう解釈していくべきかということについても、私質問を受けましても、こう私は考えるということはなかなかむずかしい問題に属するものである。そういうものを、権利を持っている映画製作者がある常識を持っておれば、その映画製作者が著作権を持って、それで利益を得た場合には、それを当然著作者に均てんするというようなことが私は常識的な問題じゃないかというように考えておるわけです。しかし、この契約によっていろいろなことがやはり解決されなければならない問題がある。というのは、テレビの放映権の問題がある。これはテレビができていないときにできた映画を上映することによって映画会社が利益を得たので、その製作スタッフのおもなものに、映画著作者のおもなものに利益を均てんしてやる。今後はたとえばテレビの放映権を含めて演出をするとか、脚本を書くということも起こり得る、また会社がそれを要求することもあり得ると思うのです。そういうことは個々に解決すべき問題だと私は思います。 それから、これは午前中の繰り返しになりますけれども、映画製作者、監督で実力のあり、まあ実力より実際に映画の発意と責任に対して一部分の責任を持っておるような人の場合は、会社もまたその人たちに、契約によって その人は東宝の場合には監督をディレクター・プロデューサーにしております。ディレクター、監督であると同時にプロデューサーの仕事もやっていただいて、それが、ある場合には著作権を共有するというようなことも考えられるので、私は、映画製作者、フィルムメーカーが著作権を持ったからといって、フィルムは自分のものであるという考えでもって著作権の行使を乱用するというようなことは十分慎むべき問題であって、これを悪用しますと非常に悪い結果が出てくる問題である。しかしまた、映画が文化的な所産であるということ、それから最近ことに日本映画が非常に内容について指弾を浴びておるということも、そういうことに対しての全責任は、午前中申しましたように、映画の経済的な社会的な芸術的な責任というものを映画製作者がとる以上、そういう責任は、あくまでも社会に対しての責任を映画製作者がきびしくとらなければならないということを私は痛感しております。
○大松博文君 野村さんにお聞きしたいのですが、隣接権問題がございますが、これは非常にいろいろあちらこちらでやかましく言われておりますが、この隣接権というものは、昭和三十六年にローマでございますか、隣接権条約ができまして、それにのっとって、この著作権というものは国際法上非常に関連性があるということから、三十年を二十年というように変えられたんじゃなかろうかと思いますが、そのときのいきさつをひとつお話し願いたいと思います。
○参考人(野村義男君) この隣接権と申しますのは、御承知のように、今度の法案あるいはローマの隣接権条約では、実演家、レコード製造者、放送事業者と、こういうものの三者の組み合わせ関係を保護しようと、こういうような条約であります。 それで、隣接権というものと著作権というものは根本的に次元が違う。著作権というのは、ここに定義が書いてあるように、「思想又は感情を創作的に表現したもの」である、こういうことを言っています。しかし、隣接権の中の、ことに実演家でも、お手元の条約集の九一ぺ-ジの第三条に実演家という定義がございますが、その定義を見ると、簡単に言えば、他人の著作、あるいは学術、文芸、美術の著作物をパフォームし、実演し、舞ったり歌ったりするものだと、こういうことをいっているわけです。だから、実演家というのは、自分がつくったものを歌うのではないので、他人のつくった作詩、作曲を歌うので、著作権というのは自分が内面をつくり、さらに外面形式をつくると、こういうところにあるので、次元が違う。だから、いかに俳優がうまく演じようとも、あるいはうまく歌おうとも、せりふをうまく言っても、それは他人のことばをしゃべっているにすぎない。しゃべり方にいろいろ技巧はあるけれども、要するに著作物の精神は人の書いたものだと。こういうところで、著作権とは非常になじまない。なじまないが、非常に自分はクリエートしている。たとえば幸四郎とか吉右衛門とか、そういう人の「俊寛」というごときは、自分がりっぱな「俊寛」をやっているのでありますが、これも、こっちでは実演家といっておりますが、フランス語では、解釈しまたは実施するアーチストと、こういうのが条約文でありますが、要するに、実演家というものは、文芸著作物を解釈したり実施したりする人だということで、著作権自体とは違う。一九二八年の著作権条約の中でも、ある国では実演家というものを著作権で保護しろといって出てきたけれども、会議は、審議の結果、どうも次元が違うからだめだと、だから各国で保護をしたらよろしゅうございましょうと、何か考えたらよかろうと、そういう希望を表示したにとどまった。さらに一九四八年のブラッセル会議でも、同様なことが出てきた。これも審議をしたけれども、著作権にちょっと似ているけれどもどうも少し違うと。だから将来各国は実演家の保護ということを十分に国内法その他で考えるべきだ、あるいは国際的にも考えるべきだ、そういう希望を表明したにとどまった。その後、ILOが、レコード、放送、ああいうものによって自分の実演がかん詰めにされたから、あらゆるところで放送に使われる、あるいはレコードが方々で使われる、その結果テクノロジカル・アンエンプロイメント、機械的失業ということが出てくる。それを救済するには、このレコードと放送とそれに乗るところの実演家というのは保護しなければ困るということで、ILOとユネスコとベルヌの著作権同盟で六年ぐらいかかりまして条約をつくったのが、先ほど大松先生おっしゃった一九六一年のローマの隣接権条約であります。そういうところで、次元がだいぶ違う。さらに、放送も隣接権の一つとして保護をする、レコードも隣接権として保護をすると、こういうことで、だいぶ著作権とは次元が違う。 そこで、午前中申し上げましたけれども、日本の現行法の第一条に書いてある演奏歌唱というのははたして全面的に実演家を保護しているのかどうかという質問を申し上げたのですが、そういう質問も審議会としても考慮いたしまして、次元がまるで違う、だが、ほかの法律にやることはないから、ここへ別な章を設けて、著作権に隣合った権利だということにしてあります。英米、アングロサクソン系、アメリカには全然実演家の権利というものは著作権法にはありません。あるいはイギリスでもない。現在、この隣接権条約に入っている十一カ国ぐらいには少し書いてありますけれども、他の国にはない。イギリスでは、ただ、黙ってレコードしたら刑事制裁を加えるぞということをいって、私権はつくっておりません。そういう意味で、今後発達する権利であって、日本なんかはこの際非常に勇断をもってこういう法案をつくっているということになるわけだと思います。
○大松博文君 隣接権者といいましても、いまお聞きしますと、ワンチャンスを与えるだけだと、いわゆる以後契約だというような私解釈をしたのでございますが、しかしやはり隣接権者だって、ドイツあたりでは人格権を認めている。これは同一保持権なんかを認めている。これは私は認めるべきだ。たとえば、いかに作曲がよかったところで、たとえばピアニストですと、これはろくでもない私なんかがやれば、もうそれは消えてしまう。もう価値のないものなんです。歌を歌う場合でもそうだ。私が歌えばこれはもう歌にもならぬが、美空ひばりが歌えば歌になるというようなことにもなっていくだろうし、やはりそういう、実演家にしましても、これは創作的なものが加わってこそ初めてそのものが生きてくるということからいきますと、やはり人格権というものは認めるべきだという気が私はしますが、その点いかがなものでございましょう。 そして隣接権というものだって、隣接権条約というものも現在十カ国しか入っておらないということを私は聞いております。そして、それ以外の国も人格権を認めている国がございます。そして入っている国というのは、私ちょっと控えてきたのでございまするが、ブラジル、 コンゴ、チェコ、デンマーク、エクアドル、ドイツ連邦共和国、メキシコ、ニジェール、スウェーデンとかいう国だそうでございますが、ほとんどの文明国が入っておらないというようなことから考えますと、今後日本でも認めてほしいということはあちらこちらでも言われております。世界各国だって私そういうほうに持っていかれる傾向にあるんではなかろうか。ただこの隣接条約でそれをうたっておらないからというようなことと、そしてまた二十年をくだらないことということはあるもんだからして、こういうことになっているんじゃなかろうかというような気がするわけでございます。その点の御意見をお伺いしたいと思います。
○参考人(野村義男君) このローマの隣接権条約の会議にも私は代表顧問として出かけたんでございますけれども、この中でも人格権の問題というのがだいぶ論議になりました。それまでのいろいろな委員会でも論議になりましたけれども、どうも先ほど申し上げた著作権との違い、言ってみれば瞬間的に消えていく、機械技術が発達してレコードができ、テープができてとめられるようになったから、要するにとんでもないところで使われては困るというような著作権と類似な概念である。だからなるべく著作権に近づけようとするけれども、元来は簡単に言えば人のものを歌い、人のものを言うことであります。その瞬間になくなる表現、あるいはいまの美空ひばりにしても、その日の歌い方によってできふできはある。常に同じものを歌っているわけではないと思います。本人に聞けばそういうことを言っているだろうと思います。そういうことで実演家の人格権というのを認めることも非常にむずかしい。さらに、隣接権は三つ一緒になっているんだから、放送を出した、再放送したけれども、これはひどい発信機で、NHKなり民放さんが出されたところがゆがめられていやな音で出ている。あるいはレコードをカフェやテレビでやっているけれども、これもトランスミッターが悪いから非常に悪い音が出ている。これも一種の放送自体あるいはレコード自体の人格権ではない。そういうことが出てくるわけです。そういうことで、意味はよくわかるけれども、まだそこまでは言い切れないと、こういうことで委員会あるいは会議の経過ではそういうことになっているわけでございます。それは大体午前中から申し上げたように、条約というものは各国の国内法上のみ得るところの最低限である、こいうことで、今度は著作権法の中でもベースが違うのだから、たとえば実演家の保護期間にしても生存間ということは問題にならない。やってから何年というようなこと、あるいは固定してから何年ということでだいぶ次元が違うので、いろいろなものが違っているわけであります。そういうことで話題にものぼり、それから審議会でもいろいろな審議をしましたけれども、人格権をいまのところそこまで持っていけないのではないかと、こういうことでございます。
○大松博文君 もう時間がまいりましたので、あと一つだけお願いいたしますが、附則十四条、十五条、これをつくりますと国際条約には入りにくいんではなかろうかというようなことを言われておりますが、しかし、こういうものは抜きにして、入ったほうがいいのか、それとも入らずにこのまま日本独特のものでそのままいったほうがいいのか、それとも、このままにしておきまして、そのうちに日本のこういう実情を知らしめて、そして納得さしていくというほうがいいのか、私ここのところがわからないのでございますが、野村さんはそのほうの専門家でございますので、今後一体日本がこの条約には入っていこうとしているのか、それともそのままで、現状のままでいこうとしているのか、入るほうがいいのか、それとも入らないほうがいいのか、その点の御見解を最後にお聞きしたいと思います。
○参考人(野村義男君) 私は、条約にということは、ブラッセル条約でございますが、入っていくほうがいい、こういうふうに思います。ベルヌ条約というのは一八八六年、一八九六年、一九〇八年、一九二八年、一九四八年、一九六七年と六つぐらい条約があります。これはユニオン、同盟をつくっているベルヌ同盟というところの条約でございます。だから場合によってみれば自由党の何といいますか設立約款あるいは社会党の設立約款、共産党の設立約款というふうなもので、それを大会を開いて三年前の大会規約、十年前の大会規約、そういう人が入っている。おれは一九六一年の会員である、あるいは自分は六〇年の大会規約の会員である、そういうことはできないのですね。だからベルヌ同盟をつくってお互いに著作権を保護しようという以上は、最近の条約、最近の大会を開いてつくった条約が世界を、締約国を約束させていく、こういうものであるべきだと思います。最近ではたとえば国連規約も、たとえば自分は六十年の国連規約の当事者である、自分は当初からの国連規約の当事者であるということでは困るので、ある定数が批准をすればすべての締約国を拘束する、こういうふうなことをやっているわけでございます。ただ今日一九二八年のローマ条約とか四八年のローマ条約とか、あるいは日本とタイ国の間は一九〇八年のベルヌ条約であるというようなことは、もとの条約に、国連規約のような多数国が批准をすれば組合規約だからみな守れという当初の規定がない、ないからどうもどうにもしようがないからそういう関係を生じているわけであります。だから最近、二、三年前に条約に関する条約法の会議というものがウイーンで行なわれましたけれども、たとえば多辺的条約というものはある定数の国が批准したら締約国は会議にこなくてもその条約に拘束される、新条約に拘束される、こういうことをしていかないと困るわけであります。そういう意味で新しく党規約ができたのだから新しい党規約をみな守ってもらいたい、ただ法律上のテクニックだけでそういうことができないので、三つも四つも組合規約があっては困る、こういう意味で新しい条約になるべく入ったほうがいい、こういうことでございます。それから、いまのままで入れるかどうかということは、いま文化庁、文部省で議事録を見ますと、御研究のようであります。アメリカなどは相当上院で条約に留保ができると書いてなくても、ある程度の留保宣言みたいなのをかってにつける、かってにつけた宣言は人が文句を言わなければそのまま通用する、こういうこともあるので、何とかしてそういう形を取るか、あるいはあまりさまつなことだから、これだけのさまつまで条約に入れないということはないだろうから何とか方法を見出すべきだ、これは先生方あるいは外務委員会、外務省あたりでよく御研究をなすって、そういう入る方途を講じていただきたい、こういうふうに私は思います。
○大松博文君 「当分の間」というのは臨機応変によってきめるというわけですね、「当分の間」となっていますのは。
○参考人(野村義男君) 「当分の間」というのは、いま言ったようなことが、できれば数年のうちにそれをやってもらいたいと、外国では当分の間というのは永久のことだという格言もあるので、そういうことがないように、数年の間にそういうことをしていただきたい、こういうふうに思います。
○大松博文君 どうもありがとうございました。
○委員長(楠正俊君) 次に、公明党の質疑を願います。内田君。
○内田善利君 限られた時間でございますので、きょうは特に参考人にもおいでいただいておりますので、きょう聞いておいたほうがいいと思われる二、三の点についてお伺いしたいと思います。 まず、引き続いて野村参考人には申しわけございませんが、いまの問題につきまして、ブラッセル規定批准は急ぐべきだという御趣旨だったと思いますが、このブラッセル規定批准について、審議会ではどのような審議がなされたのか。また、外務省等とも打ち合わせ、審議が行なわれたのか。この点についてお伺いしたいと思います。 と同時に、「当分の間」ということが問題になりましたが、この問題についてはどのように進めていくのか。この点についてお伺いしたいと思います。 以上でございます。
○参考人(野村義男君) 審議会ではブラッセル条約に入るがどうかという諮問を受けたことはないので、ブラッセル条約などがあるがいかなる改正をしたらよろしいかと、こういう諮問を受けているわけでございます。これはよその国の諮問のしかたと変わっていて、イギリスあたりでは、同じような調査会ができても、ブラッセル条約に入るにはいかなる改正を加えたらいいかという諮問をしているのですが、日本ではそういうことは言っておりません。言っておりませんけれども、この国会その他で文部大臣もおっしゃっているように、もう日本の国際的立場は非常におくれていると、それにはブラッセル程度まで上げなきゃならぬと言っていらっしゃるように、ブラッセル条約というものを横目ににらんで審議をしていたわけであります。 それから、特にお尋ねの「当分の間」のところ。これは、レコードを使って金を取るということは日本では初めてでございます。これは、日本の開聞以来と言ってはおかしいけれども、日本にレコードというものが入って来てから、レコードを買ってきて使って金を取られるということは、かってない。当初のころは、一九〇一年のたとえばドイツの著作権法でも、レコードを使っても金は払わなくてもいいという意味のことが書いてあります。あるいはアメリカの著作権法の中でも、レコーディングをすることは著作物の複製ではない、こういうことを書いてございます。だから、多くの国ではレコードを使って金を取られるという思想なんかはない。日本でも全然ない。ありそうになったころには三十条八号というものを設けて、レコードには金を取られないということになっていて、レコードから金を取るということは初めてのことである。ところが、世界じゅう、レコードをパーフォーマンスをやって金を取らないというところは、日本だけになった。世界じゅう、どこの国でも金を払う。そういうことでありますものですから、ことにこのブラッセル条約などで金だけは払えよというふうにローマ条約とは違った改正をしたので、そういうことになって金を払うようになるわけであります。ただ、隣接権条約――一枚のレコードの中には作詞・作曲家と、それからレコーディングをしたレコード会社の努力と、それから実演家という歌を歌う人の四人の権利者が一枚のレコードに入っているわけであります。作詞・作曲家の権利のほうはベルヌ条約、それからレコードと実演家のほうは隣接権条約のほうである、隣接権条約というのは初めてくるのだし、だからもう放送だけに限って、キャバレーとかそこいらのパチンコ屋とか、そういうところから取るのはやめようということを、隣接権条約については審議会でそういうことをいたしました。これは隣接権条約の中にそういうことができるようになっているものですから、審議をした結果、これは放送と大所だけでいいではないか、いままでかつて払ったことのないレコードの中でそういう取ることはやめよう、こういうことでやめたのでございますが、著作者のほうは、これはベルヌ条約の関係があって、どうしても払わないというわけにはいかない、だが、いろいろなことがあるから政府は十分それを見きわめて法律を変えてもらいたい、こういう答申をしているわけであります。答申の結果は御承知のような附則のようなものができておりますけれども、これも先ほど申し上げたようなやり方で救済できる方法も考え得るのではないかと、こういうことでございます。
○委員長(楠正俊君) ちょっと速記をとめて。 〔速記中止〕
○委員長(楠正俊君) 速記を始めて。
○内田善利君 藤本さんにお伺いしますが、先ほどの御説明の中に、お蔵入りした映画があったと、これは会社がリスクを持っているから、会社のプリンシプルに合わないようなものは封切りを延期するような場合もあり得るのだ、こういう趣旨のお話だったと思いますが、それからるるいろいろお話を聞いております間に、会社のリスクというのは一体どこまであるのだろうと、最初の企画のときにすでに責任があるのじゃないかと、プロデュースのときにも責任があるのじゃないか、それができ上がってきて、会社の趣旨に反するからこれはオミットするのだというふうに私は受け取ったわけですけれども、会社はあくまでも最初から最後まで責任があるんじゃないかと、そのように受け取ったわけですが、でき上がってきたものが趣旨に合わなかったからお蔵入りさせたというふうに受け取ったわけですけれども、この点をもう一度御説明を願いたいと思います。
○参考人(藤本真澄君) 先ほど申しましたことは、やはりそのときの会社の責任者なり、そのときの芸術家との話し合いが十分に行なわれてなくても、やはりそれは会社にも責任があったと思うのです。さっき西河さんが言われた場合は、これは松竹の場合と日活の場合でございますけれども、日活の場合などは、私から申しますのはあれでございますが、これは会社のほうがどうかと思うようなところがあるのでございますけれども、松竹の場合も、私も写真を見ておりますけれども、あのときの社会情勢として、松竹の会社のイデオロギーからああいうふうになったというふうなこともあり得るというふうに、私は、個人としては判定しますけれども、そのときの社会情勢の見通し方なり、その芸術家の思想なり、その芸術家はどういうものをつくるかということがあらかじめわかっているべきことなので、それは業者のほうにも責任があるというふうに考えております。
○内田善利君 映画をつくる場合のプロセス等については詳しく知らないわけですけれども、私たちとしましては、あの俳優が出ている映画だと、だからひとつ見に行こうとか、そういった、俳優を中心にしたり、あるいはあの監督は過去にもこういう映画をつくっていると、見に行こうというような、単純なといいますか、こういった素朴な考えで映画を見に行く場合が多いと思うのですね。そういった個々の方々の権利というものがこの法案ではおもに認められていないように思うのですけれども、この点についてもう一度西河さんからお願いしたいと思います。
○参考人(西河克巳君) 御質問の意味がちょっといまわかりにくかったのですが、まあ私の理解ですと、まあ映画の場合には俳優を見にいくとか、監督の知名度ですね、知名度によって行くという場合が多いから……。私ちょっとそこのところ御質問の要旨がわかりかねたので、恐れ入りますがもう一度その要点をおっしゃっていただきたいと思います。
○内田善利君 そのように俳優あるいは監督等の実績あるいは名声等を中心にして映画を見にいく場合が非常に多いと思うのです。そういった個々の演出あるいは音楽あるいは監督の方々等の権利というものが、この法案では非常に薄いように思うのです。この点についてどのようにお考えになっているか、もう一度お伺いしたいと思います。
○参考人(西河克巳君) 要点わかりましたのでお答えいたします。それは先ほど来私の申し述べておりますこととややまた重複するように思いますが、どうも監督、俳優に関しまして実際の権利関係の処理というものは、先ほど申しましたように契約ですべて処理されておりますので、実情はあれでありますが、契約でされております実情から考えまして、今度の著作権法の改正で著作者というようなものがあがっております中に、監督は著作者の中に入っておりますから一応著作者として明記された。だからよりよき地位を得た。著作権法上よりよき地位を得たというふうにお考えになる方もあるかと思います。いまの御質問では権利が薄いではないかというふうにおっしゃられましたので、私は全くそのとおりで、まことに権利は実際は薄いというふうに考えておるというように御返事いたします。 それから俳優に関してはこれもたいへん権利が薄いと思います。それは先ほど芸団協のほうの参考人が、高橋参考人ですか、お話しになりましたけど、これは一種の俳優を代表した形でお話しになりましたが、俳優の協会の中には映画俳優協会というものもございまして、これも先ほど高橋参考人がおっしゃっていたような、芸団協の中には入っておるのですが、実際はやはり違う行動をしておりまして、この著作権の参加のしかたに関しても、この二十九条に関しては、芸団協の下部組織でありながら映画俳優協会は二十九条に反対するというような決議を、監督協会その他と同じ集会に出て決議しておりますような状態で、確かに非常に薄いのでございます。この点に関して監督のほうの立場から映画俳優というふうなものを見ますと、この十六条の中に映画俳優が入っていないということにも多分に私としては疑問を持っております。したがって、監督協会としては十六条の規定のしかたそのものもたいへん疑問を持っております。 さらにこの際申し述べれば、先ほどの大松委員のお話しの中にもあったシナリオライターが入っていないということもたいへんおかしいというふうに私は思っております。それは原著作者ではずれたからということになっておりますから、これは原著作者で当然文字を書いて著作するのですから、どこまでいっても原著作者である。やはりあくまでも映画の著作者として最初から参画する性質のものはこの中に含まれるべきである。これは先ほどちょっとお話しのありましたように、欧米諸国の中の特に欧州系統のあれでは監督と一緒にすべて著作者に入っておりますから当然私はそういうものはほんとうに入るべきだ。これは入っていないことも法案としてはすでに不完全なものであるというふうに思っております。これはやや蛇足でございますが、映画俳優に関しても監督に関しても非常にそういう権利は薄いというふうに思っております。
○委員長(楠正俊君) 多田君。
○多田省吾君 最初に丹野先生にお伺いしたいと思いますが、いままで写真というものが虐待されてきたように感じます。水野錬太郎博士の著作を見てみても「他の著作物の如く多くの労力を要するものにあらず」というふうに差別をしておりますし、いままでのベルヌ条約あるいは万国著作権条約等を見ましても、非常に理解が浅かったように思います。先生のお話を午前中お聞きしまして、フランスあるいは今度アメリカも改正しようとしているものが死後五十年というふうに伺ったのでありますけれども、そのようなフランスとかあるいはアメリカとか、そういう国々のいわゆる日本における写真家協会のようなものといわゆる雑誌協会のようなものとの話し合いがうまくいっておるのかどうか。それから写真技術の発達というものがきわめて独創性を要求されている、芸術性を要求されているということは私もそのとおりだと思います。ただ、現在やっぱりカメラの性能がだんだんよくなって、だれでもとれるという状態になりますと、その点においてやはり豊田先生がおっしゃったように芸術性のある写真と報道写真と分けたほうがいいんじゃないかということも言われるわけですけれども、その点はどう考えておられるか。 それから先ほど丹野先生は死後五十年を要求しておられるわけでありますけれども、いまの改正案というものが公表後五十年ということでございますので、豊田先生のほうからも著作権法上したほうがよいのではないかという要求があるわけでございますが、それをどう考えておられるか簡明に……。
○参考人(丹野章君) アメリカ、フランスの雑誌協会と写真象協会との話し合いの関係はどうなっているか、これについては残念ながら私のほうで特にデータを持っておりません。しかし、十分にこういう関係がうまくいっておることは事実だと考えております。ただ、この両国ともやはりそういう美術ないしそういう著作物を尊重するというふうな思想が発達しておりますから、契約関係も発達しておりますし、その関係は十分円満にいっておるはずだと考えております。また写真の大衆性ということ、そういうものの中から報道的な写真も生まれている、これをどういうふうに考えるかというふうなことなんですが、これはたとえばこの法案の第十条にも一つこういう項目があります。第十条二項に「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道は、前項第一号に掲げる著作物に該当しない。」こういう項目がありまして、これは第一項というのは、大体こういう文章、言語の著作物を対象にしておるわけですが、先ほど豊田参考人のほうからこういうふうなものにやはり写真だとかイラストも含めるべきではないかというような提案があったんだと考えております。そういう点については、新しい問題提起として、今後の検討にゆだねるべきだというふうに考えておるわけです。これは大松先生が報道写真についてはゼロ年というふうに考えられるんじゃないかというふうにおっしゃったのも、煮詰めてみればこの問題だというふうに考えております。ですから、これはフェア・ユースの問題としてこれがただ無償であるのか、それとも相当な補償をしてということかどうかは別として、今後の問題だと思います。ただ、ここで言っております事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道というふうなものが、イラストとか写真の中にはたして存在するかどうかというものはまた別な問題だと思いますけれども、研究には値すると思います。また、現在のこの規定のままでも必ずしもここにある表現で新聞のニュースとかそういうものがすべて含まれて著作物の対象からはずされるというふうには考えられない面もあると思います。おそらく、こういうものは、一応、社会通念で処理されているでしょうが、裁判で争われるようなことになれば、いろいろ複雑な問題が出てくると思います。
○多田省吾君 あと、著作権の表示。
○参考人(丹野章君) 公表後起算というふうなことでもし強行されるとすれば、表示というものは義務づけられるというようなものとセットで出てこなければ、やはり実質的に、何というんですか、混乱を招くだろうというふうに考えます。ただし、たとえば、そういう特殊な義務づけを写真にだけ押しつける、また写真にだけ登録制を義務づける、そういうふうなことになれば、このベルヌ条約の基本的な無方式主義というふうな体系に大きくまた影響してくるんじゃないかと思いますので、それが法的に、また条約関係の上で可能なのかどうか、また、そうすべきかどうかという妥当性については、私は大きな疑問を持ちますけれども、このまま無責任な形で、公表後五十年というふうな規定を、いろいろな意見を足して二で割ったような形で出してこられるということは、全く無責任な形なんではないかというふうに考えております。
○多田省吾君 次に、豊田先生にお尋ねしたいと思いますが、衆議院でもちょっと論ぜられたようでありますが、いわゆる三十九条の無断転載が非常に大幅に拡張された、全文転載、あるいは署名原稿も場合によっては転載できるということでございますが、新聞協会なんかもこれに対しては反対しているようでございます。それをどう思われますか。 それからもう一点は、翻訳十年留保の件で、若干午前中お話ございましたけれども、私もやはり、著作権の保護とか、あるいは日本の大国意識なんて、そういうことから考えれば別でありますけれども、やはりおっしゃったように、ナショナルインタレストというような面から考えて、日本の特殊性から考えて、これはもう少し延ばしてもらったほうがいいんじゃないかと思っているわけでありますけれども、これが強行された場合、もう来年の一月の一日以降あらわされた本に対してはどうしようもないわけでございますけれども、そのために本が値上げされるというようなことがないかどうか、その辺のことをお尋ねします。
○参考人(豊田亀市君) ただいまのお話、二つのうち、あとのほうから申し上げます。 翻訳権十年の問題は、書籍協会で翻訳者の非常にたくさんの方に調べていただいた場合に、十年留保の規定を残すべきであるという意見が、たしか七、八〇%の方から寄せられていたというふうに思います。これは出版者のサイドからではなくて、著作者の立場でお答え願ったもののデータでございました。実際には、この規定がなくなることによって本が定価が上がってくるかどうかというようなことよりも、いいものが日本に紹介される率が少なくなってくるのではないかということのほうが、むしろ大きな問題じゃないかというふうに思っています。ナショナルインタレストということばを、午前中私つかいましたけれども、数字にして言えば、日本の全体の財政面から言えばそう大きなものではないと思いますけれども、少なくとも、矛盾なしに存在している既得権――これは矛盾かどうか、その辺はまた立場によっていろいろ違うと思いますが、存在し得る既得権を、あえて放棄することはないのではないか。少なくとも、日本人のだれも損しないものをあえて放棄する、はたしてそこまで日本が一流国であるかどうかということも、もう少し謙虚に私どもは考えていいじゃないかというふうに思っております。 それから三十九条の問題ですけれども、これは新聞協会からも提案がありましたと思いますが、雑誌協会及び新聞協会は、現在同じ考え方でございます。
○多田省吾君 次に、西河先生にお尋ねしたいと思いますが、衆議院のほうで、大島監督からも、この法律が成立した場合は、ほとんど著作者の権利を契約で主張するということは、もう絶対に不可能だと思う。たとえこの二十九条がなくとも、九九%、契約をする場合には、著作権は全部会社に差し上げますという契約を、ぼくら、させられてしまうと思う。まして、この法律ができたら、一〇〇%、もう何の権利の主張もできないと、こうおっしゃつているわけでございますが、私も、内田委員と同じように、やはり監督の立場というものは、芸術的な良心とか、あるいは手腕とか、あるいは創意くふうとか、そういった非常に大きなものがあると思いますし、やはり、私たちしろうとでありますけれども、あの監督のものが見たいというように、大きな映画に対するウェートを占めていると、こう思うわけでございます。それが何の権利もないというようなことは、ちょっとおかしいと、私も思います。それにつきまして、まあ、二十九条がなくなればよろしいんでございましょうけれども、大島監督も、場合によってはフランスあるいは西ドイツのように、少なくとも映画製作者に譲渡されたものと推定する規定、推定規定にすればまだいいんじゃないか。あるいは、先ほどからお話がありましたように、一昨年閣議決定までしたところの「契約に別段の定めがない限り、」という、この項目ぐらいは入れておいたほうがよろしいんじゃないかと、こういうふうなことも思うわけです。この二つの場合に、まあ九九・何%になるかは知りませんけれども、いまのよりはいいんじゃないかと思いまするが、その辺のお話をお伺いしたいと思います。
○参考人(西河克巳君) お答えいたします。 大島君が衆議院で発言しました、二十九条がかりになくても、九九%は会社側の言いなりの契約をせざるを得ないであろうということは、これはほんとうに数字が九九という正確な数字で――数字の問題でなく、一つの表現の問題だというふうに受け取っていただきたいと思います。その限りでは、大島君の言っているとおりだと私も思っております。ですから、二十九条がなくなれば、もうそれに越したことはございません。少なくとも、それが九九%かあるいは八八%になるか、何であっても、まあ、現状維持もしくはそれより幾らかでもよくなるというような可能性があるわけでございます。しかしながら、これがただいま御質問のあったように、どうしても通らない。その場合には、二十九条があっても、それが法定譲渡でなく推定譲渡であるというふうなニュアンスのものに修正される、もしくは、先ほど出ました第五次案にあったところの「契約に別段の定めがない限り、」というふうな、これもまあ一種の推定譲渡的ニュアンスだと思いますが、こういうふうなものがあったほうがいいのではないか、ということは、二十九条がどうしてもあるんだということになれば、いまの二十九条よりはいいということでは確かに御質問のとおりでございます。そうでありますが、それでもまあいまの二十九条そのままよりはいいというようなことでありまして、非常に、やはり、なおかつ、私どもは現在の日本映画界の、先ほども申しました契約制度の不備というようなことから、なお、かなり多大な不安を持つものでございます。
○多田省吾君 時間がございませんので、最後に藤本先生に。最初の契約の場合の、まあどういう法律であっても、とにかくもう少し監督に権利を与えられるような方向に進むことはできないものかどうか。それから、アメリカの場合は少し極端でございますけれども、いまお話しのあったフランスの場合なんかはどうなっているか、その現状をお聞きしたいと思います。
○参考人(藤本真澄君) 率直なことばで申しますと、監督と申しましてもピンからキリまであるわけなんで、その人の芸術的な能力というか、作品の中にある仕事の占める割合というものは、これは数字的に評価できませんけれども、それはもう監督の力でずいぶん違うものだというふうに思う。非常に能力のある監督の場合は、私たちはその人に製作者を兼ねてもらって、それで場合によっては著作権を共有するということも、先ほど言ったようなこと、そういう場合も考えておる。しかし、多くの会社の契約しております大多数の監督は、おおむね会社の企画者が企画したものを、与えられたものを会社の命に従って、会社のスケジュールに従って、演出する演出技術者なんです。その人たちには私は著作権は与える必要はないというふうなものが、私の午前中から申している私の考え方でございます。 それから、フランスの場合なども、私もそれほど詳しくは存じませんけれども、フランスのような場合は、要するに小さい会社、日本でいうとインデペンデント・プロデューサーみたいな、日本のようなメージャーじゃなくて、非常に小さい会社がそのとき一本一本でもって金を借りてプロダクションをつくってやるという形が比較的多いんじゃないかと思う。だからある程度の中小といいますか、中ぐらいのある程度の会社の場合は、それの資金をつくったものがやっぱりその著作権を持っているのではないかと考えられる。そのときに特定のある監督と契約があれば、その監督と共同プロデューサーのような形で著作権を共有するということがある。しかし、向こうの場合はディレクター・プロデューサー、ディレクターが金を借りてきて、会社が借りてきて自分がプロデューサーを兼ねるというような場合も相当あるように私は聞いております。
○多田省吾君 どうもありがとうございました。
○委員長(楠正俊君) 次に、民社党の質疑を願います。松下君。
○松下正寿君 時間がだいぶおくれておるようでございますから、ごく簡単に質問して、簡単にお答え願えればよろしいわけなんですが、先刻からいろいろお話を伺っておりますというと、西河さんと藤本さんとの間にだいぶ食い違いがあるようでございますが、これはお立場上、当然のことであって、それについて私はどちらの味方もするつもりはございません。ただ、私はメーカーのほうに有利に考えたらいいか、あるいは監督その他の方々に有利に考えたらいいかという問題よりか、今度の改正法案というものの法的整備、おかしくないような法律にしていただきたいということには、大いに関心を持っているわけであります。実は一昨日文化庁次長にいろいろお伺いしたわけでありますが、非常に丁寧懇切に御説明いただいて、非常にありがたいと思っておりますが、まだ私がきっぱりと納得できない点があるわけであります。 そこで、第一に野村さんにちょっとお伺いしたいと思いますが、ちょっと筋が違うかもわかりまんが、第二十九条の問題ですが、第二十九条のあのことがやはり憲法第二十九条とちょっと食い違うような感じがするわけなんです。つまり改正法案の第二十九条では、これは当然メーカー――まあ会社であるか会社でないか、それは別としておいて、当然会社のほうに行くわけです。そのほかにやはり著作権が行くわけですが、著作者は別にあるから、著作者の人格権というものは、当然こは認められている、これは非常にけっこうだと思いますが、ただ、人格権以外の著作者が憲法第二十九条における財産権というものを持っておるのか持っていないのかという問題、その点が一昨日の質疑応答でどうも私はっきりのみ込めなかったわけでありますが、いろいろこの審議会の経過の御審議のうちに、こういうような問題が出たかどうか、…由なかったとすればちょっとおかしいのじゃないかと思いますが、もし出たとするならば、どういう結論に達せられたかということを初め御説明願いたい。
○参考人(野村義男君) 二十九条と憲法との関係ですけれども、二十九条で言っていることは、著作権が原始的にどこに発生するかということを書いているんだと思います。したがって、その前にこの映画に参加することを約束したら、そう入るということで約束するしないを前提にして約束したらこういうことになると、こういうことを言っているんで、その憲法云々の中には反しないのではないかというふうに思います。 それから審議会の審議経過においても、一たん与えた権利を取るということだといろいろ問題が起こるかもしれないが、そこに意思の働く余地があればよいのではないかと、こういうふうな審議があったように覚えております。
○松下正寿君 その点がまさに同じような御意見を一昨日文化庁次長からお伺いしたわけでありますが、それはその原始的権利というものが当然発生し得るかどうか、憲法第二十九条における財産権というものは、これは著作者にある。まあ著作者というものは監督なりあるいは俳優なりと、いろいろ考えられると思うのですが、それは人格権を持っておるわけでありますが、人格権以外に財産権があるかないかの問題だと思うわけですね。財産権がないとすれば、この改正法案において新たに、つまり立法措置によって新たなる権利というものを発生させることができると思うのです。そうでなくて、財産権というものが原始的にあったとすれば、やはりこれを取り上げるといっちゃ、ちょっと極端で、それほど悪いものでないと思いますが、やはりそこに疑問があるのじゃないか。そうしますというと、一番やはり安全な方法は譲渡という形式をとるのが一番憲法上絶対に異議のないとろじゃないかと、まあフランス方式あるいは西ドイツ方式などの場合。そういう措置をとられないで、もう原始的に著作者、これはまあメーカーであるにせよその他であるにせよ、それに与えるのだというふうにきめてかかることが法の完備という点から見て適当かどうか、その点、ちょっと私は疑問に思いますが、この審議会の経過でなくて、野村さん個人の御意見を伺いたいと思います。
○参考人(野村義男君) 私は、この法律の目的は、松下先生御承知のテレオロジーであると、人間の効用を達するためのものである。したがって、この世界で困っている映画の著作者あるいは著作権者がだれかということの哲学的あるいは科学的探求をするのではなくて、何がこの著作権法の第一条の目的とすることに一番合うかというパブリック・ポリシー、国のポリシーをきめるものであると思います。ことに憲法では財産権の内容は法律で定めると、こういうことで、この法律の目的に合うようにだれにか著作権を所属させたら一番この法の目的を達するかというパブリック・ポリシー、国の政策、法律というものは、大体国民があなた方を通じてポリシーをきめると、そのポリシーをきめたのがこういう形である、こういうふうに思います。したがって、かえって譲渡をしたというと、一ぺんやったものを取ったようなことになるけれども、そうじゃなくて、法律の規定で財産権の内容を定めたと、こういうふうに解したいと思います。
○松下正寿君 私はまだそこに非常な大きな疑問が残るわけでありますが、野村さんにこの問題についての、まあ当事者でないと思いますから、これ以上論議をすることはこの委員会の目的に沿わないと思いますから、私は不満であるということだけを申し上げて、この問題を切り上げたいと思います。 次に、西河さんにお伺いしたいのでありますが、この二十九条については非常に反対であるというふうに伺って、その御趣旨もよく理解できます。その点は藤木さんと全然反対の立場に立っておられますが、どっちも私よく理解できるわけでありますが、ただ私、実情を知らないからちょっとお話が少し抽象的に聞こえるわけであります。具体的にこの二十九条が施行された場合に、監督さんの立場から、つまりメーカーでない監督さんの立場からどういったような具体的な不便あるいは不利というものが予想されるかということをちょっとお話し願いたい。
○参考人(西河克巳君) 先ほどややそれに類似する御質問をいただきまして、類似したようなお答えをしたような気がいたしますが、私たち映画監督は、たびたび申しますように、契約によっていま映画会社とその権利関係を処理しておりますので、実情は現在はケース・バイ・ケースであります。ただ、一般的には映画五社の圧力といいますか、力とわれわれとの力の差によってわれわれのほうが非常に不利な状態の契約をしておりますが、しかし、その中でも幾つかの例外がありまして、この著作権に関してある程度留保をするというような契約をしておる実例もありますし、また一部、先ほども申しましたように、テレビに対して劇場用の映画を放映するというような場合に、映画監督協会と映画製作者連盟との団体協約のような形で、そのつど規定した謝礼といいますか、金を受け取るというようなことも現在やっております。したがって、その権利関係というものはいろいろばらばらでありますから、現在の二十九条がそのまま通りますと、そういうばらばらの少し都合のいい、私たちのほうに有利なちょっと出っぱった部分、こういう部分が法定で削られてしまう。あとの部分は先ほどのお話しのように大島君が表現したように九九%不利なのですが、現在でも。しかし、ちょっとわずかでも残っておるちょっと出っぱった私たちに有利な部分、将来このままなら多少可能性のある部分、こういうものが法律でなくなってしまうというような状態になると思います。
○松下正寿君 現行法ではこの点があまりはっきり書いてないからケース・バイ・ケースでやってくる。このケース・バイ・ケースでいろいろ契約される場合には、有利な場合も不利な場合もある、これは勢力関係ですから別問題として、これが法制化されて著作権者が一本ということになってしまうというと、ケース・バイ・ケースでいろいろ契約するチャンスがなくなる、そういう意味でございますか。
○参考人(西河克巳君) 全くそのとおりでございます。
○松下正寿君 それで西河さんの立場は非常にはっきりわかりましたが、私は両方からの言い分、十分に聞かないというと何か自分自身でよく納得できないものですから……。藤本さんの立場から、いまそういうようなケース・バイ・ケースでやってきたから比較的に監督なりその他の関係者の権利が、あるいは利益が保護されてきたのだと、こういうお説で一応私にも理解できたわけでありますが、藤木さんの会社側の立場といいましょうか、この立場からはっきりとそうであるというふうに同意されることは困難だと思いますが、そういったような強い説があるわけでありますから、これに対してどういうお考えでございますか。
○参考人(藤本真澄君) さっき先生から御質問のあったことでございますけれども、この法律が通ったからといって格別に私は監督の権限なんか大きく変わるとは考えられません。現在においてもその特殊な――午前中にも西河氏から説明がありましたように、主たる監督とは大体五社が統一のフォームの契約しております。特殊な監督に限って要するにその製作者に登用して著作権を渡すというようなことが行なわれているのです。そういうことは今後も行なわれるのではないか。私は運営の上において運営を全うすれば、そう大きな弊害は起きない、従来と何ら変わりはないというふうに私は解釈しております。
○松下正寿君 ありがとうございました。
○委員長(楠正俊君) 次に、共産党の質疑を願います。須藤君。
○須藤五郎君 まず藤本さんに尋ねるのですが、あなた最初の公述の中で、映画をつくるがいわゆる資本家はつくり方を知らないと。私も東宝の社長の松岡君よく知っています。松岡君に映画がつくれる道理がないのです。ところが東宝の監督さんたちがつくった映画が、その映画のつくり方も何も知らない松岡君に著作権が帰属してしまうということは私はどうもおかしいことだと思うのです。 それから、あなたは公述の中で、監督にもピンからキリまであると、こういうこともおっしゃった。これは私も芸術家の端くれとしましてそのことばは少し言い過ぎではないかと思うのです。というのは、今日のエログロ、ギャング映画をつくっておるのがもしもプロデューサーの責任だというならば、プロデューサーにもピンからキリまであると、こういうことははっきり私は言えると思うのですね。そこで私はひとつ質問をするわけですが、第十六条で映画の著作者に人格権、財産権があるのかどうか。もしも人格権がある、財産権があるというならば、どういう形で人格権、財産権があるのか。映画をお蔵にしたり、つくった映画を切りさいなんでいろいろ編集してしまう、それも監督の意思を尊重してやるならばともかく、ただ営業の面からそういうことをやることがはたして監督の人格権を尊重していることになるのかどうか。ぼくはやはり営業権は会社にあっても、著作権というものはやはり監督やそれを実際につくった人にあるべきものだと、そう思っているその立場から質問をする。これが一点。 それから、私は質問をずっと各参考人に集めてしますから、各参考人がその立場で答えていただきたい。 今度西河さんに私はお尋ねするのですが、この法案がこのまま通過するような場合、この二十九条をそのままにしてこの法案が通過するようなことになった場合に、いまの映画界の労使の間に悪い影響を与えはしないか、問題が起こりはしないかという点が一点です。 それから第二点は、この二十九条に「参加」のときにということばがありますね。参加のときにもうすでに人格権も財産権も製作者に帰属するという条項になっておりますが、そのときにあなた方監督さんや俳優、カメラマン皆さんが受けるいわゆるギャラというものは、その後奪われてしまうところの人格権、財産権を失うに足るだけの大きな報酬を受けておるのか、人格権や財産権と比較して何ら悔いのないだけの代償物をあなたたちは得ておるのかどうか、こういう点を西河さんにお尋ねいたします。 それから今度は写真家代表の丹野さん、私たちが作詩をする場合、また作曲をする場合には、自分の感情、思想を文字にあらわし、または音譜に書きあらわすわけです。そのときに私たちにはもう著作権というものができるわけですね、著作権が保障されるわけです。で、あなた方が写真をとられるときの心がまえについて私は伺いたいのです。あなた方は詩人が詩をつくるときの心がまえ、作曲家が作曲をするときの心がまえと何ら無関係な、思想や感情を見詰めてそれを何か表現しようかというような気持ちじゃなしに、単にただこう、写真機をものに向けてぱちぱちと無関心にシャッターを押すにすぎないのか。私はそうではないだろうと思うんですが、あなたたちのその創造性、それについて伺いたい。もしも詩人や作曲家と同じ気持ちで写真をとられるとするならば、私は詩人や作曲家に著作権が与えられて、しかもその著作権は死後五十年守られる、こういうことにこの法案はなっておりますが、写真家だけ不合理に発表後五十年とか、そういうことになることにはどうしても私は不合理な点があると思う。やはり詩人や作曲家と同じように、あなたたちのその芸術的な創造性というものは同じように守られていくべきものではないか、こういうふうに思うんです。その点を一点。 それから、写真についてのいわゆる条約関係について伺いたい。また、外国における写真についての立法例について伺いたい。もう一つは、写真におきますところの機械、いわゆる写真機ですね、この写真機が中に介在するから芸術性を認めないとか、独創性を認めないというような意見が出ますが、その写真家と機械との関係ですね、それについて伺いたい。 私の質問はそれだけです。
○参考人(藤本真澄君) いまお話しのありました中に、映画の資本家が映画製作を知らないからこういう事態が発生したんだと、私の話は、そういうことを申しましたのは、プロデューサーの発生ですね、発生の過程において映画資本家がプロデューサーという技術者を必要としたと、それが動機になって、複雑多岐になったためにそういう技術者を使用したというところからプロデューサーの発生ということを申し上げたことだと思います。しかし、現在の社長なりが全部映画を知らないということではございませんから、その点は誤解ないように。大映の永田さんのように非常にエキスパートの力もいらっしゃるのでございますから、一様に資本家が映画を知らないということはあり得ない。 それから、ピンからキリまでということばを使いましたが、これは妥当なことばではないかと思いますが、内容を察知していただきたいと思います。私もピンからキリまであると思っている、プロデューサーもピンからキリまであると思っているものであります。ですから、さっき須藤先生がおっしゃたように、監督に無断で芸術性を冒涜してかってに切るようなプロデューサーがいたとすれば、これはピンじゃなくキリのプロデューサーだと。そういうプロデューサーがいるということも遺憾ながら事実であるということを申し述べて、私の回答としておきます。
○須藤五郎君 そのキリのプロデューサーに著作権が行ってしまうということは、これは全くおかしいことじゃないでしょうか。
○参考人(藤本真澄君) その点につきましては先ほど、こういうりっぱな法律ができても、その運営を誤るとやはりそれがうまくいかない、やはりわれわれが、映画製作メーカーが、映画のメーカーが著作権をかりに持ったとしても、その運営はよほど慎重にされなきゃやならぬということをさっきから私が申し上げた次第でございます。
○須藤五郎君 私が申し上げましたプロデューサーのピンからキリは、技術の面だけじゃないです。頭の中の問題です。
○参考人(藤本真澄君) それは私も同感です。
○須藤五郎君 それが最も大きい問題だと思うんです。 どうぞ西河さんお答え願います。
○参考人(西河克巳君) このまま二十九条が通過いたしますと、まあ労使の間というふうなおことばでございましたが、私たち著作者と会社側との権利関係というものは先ほど申しましたように、私たちの立場から見るとケース・バイ・ケースというような余裕さえなくなるという、非常に悪いものになるというふうに予想いたします。それからもう一つ、午前中にも申しましたが、この影響といたしましてやはり著作者が製作意欲を失うということ、それから良心が非常に薄れてくる、つまり楽しみがないということでございますね。現在のように権利関係が明確でないということは、力関係というあれで、自分のやり方いかんによっては、努力によってはそれが得られるという可能性があるために制作意欲がわくわけでございまして、そういうものを藤本さんもお話になりましたように、実際に獲得している著作者もいるわけですから、そこに励みがあるわけですが、こういう二十九条が通ると励みが全くなくなるというふうに私たちは考えますので、そういう精神的に悪い影響がある、ひいては映画の質的な影響、あるいは文化の貢献というようなことに逆行するというふうに考えます。 それから二十九条があるまま、法文どおりそれを承諾して参加した、そうすると、著作権は、財産権はそのまま会社側に行ってしまうのだが、そのとき財産権を失うに足る十分なる報酬を得ておるのか。現在は二十九条はございませんから、十分なる報酬を得ているかどうかははっきり知りませんけれども、実際にはこれに類したようなことは個々の著作者、特に監督、俳優と映画会社との間には起きておりまして、たとえば海外の輸出などの権利はないはずだ、そんな約束はないから、そのものはもらいたいというような請求をした場合に、あなたにお払いしておるこの報酬というものは実はそういうものを含んでおるのであると、私のほうでは最初から解釈しておったというふうな回答をする会社もございます。ところがその場合に、じゃあそれに見合う報酬を得ておるかというと、そういうことは全くありませんで、むしろそういうふうな回答をする会社のほうが映画界の中でも賃金レベルが低くて、芸術家、著作者に払う金も非常に額が低いというようなのが実情でございます。したがって、これはあくまでやはりしょせんは力関係によって現在できておるので、力の弱い者はどうしても名目では報酬を含んで払ったといわれても、受け取るほうではとてもそんなものは含んでおるとは思えない金額で受け取らざるを得ないというふうになりますので、この上さらに二十九条というようなものができまして、それを法定でそういうふうになってしまいますれば、これはもうさらにそれを請求するということのときに、それを含んでいる、含んでいないということより、それを含ませる必要はないというふうなむしろ言い方も出てくる余地もあるかと思いますので、現在も受け取っておりませんし、二十九条が通ればさらにそれは受け取りにくくなるものだというふうに解釈します。
○須藤五郎君 その場合、労使間のあつれきとか、いろいろなことが起こって、映画界に混乱が起こりませんか。
○参考人(西河克巳君) それは、私はいわゆる契約者の一人でありまして、いわゆる一般の労働組合に入っておる製作協力者あるいは技術者というようなものと関連が比較的薄いのでありますが、ただ私個人の想像では、やはりその間に個人闘争で非常に取りにくくなる、個人ではもともと弱いのが取りにくくなるので、どうしても団体の力で取ろうというふうになれば、いわゆる獲得方針といいますか、闘争方針のようなものが転換せざるを得ないだろうということから、自然の勢いでそういう労使間の争いといいますか、そういうふうな活動が激しくなるために労使間の交渉、あつれき、争いは当然ふえると思います。
○参考人(丹野章君) 御質問の第一、思想、感情と写真創作の関係、これにつきましては、写真もその他の表現方法も全く違うものはないというふうに私たちは信じております。写真の創造性といいますのは、やはり内容であるところのテーマ、それからモチーフ、そういうものが形式としての構成、構図、光の効果、そういうデテールを与えられまして表現になるわけでございます。しかし、予てのためにはまずこのテーマを追求し、モチーフを表現にまで高めていく。こういうふうなことに、まず作者が情熱に基づいた発意を持たなければ、こういうことに取りかかれもしませんし、完成することもできないと思います。それは何に基づくかといえば、やはり自分の、作者の自己の中に持っている思想性、またそういう感情、そういうものをも含めた全人間的なものの中から発してくるもの以外に何もないと思います。これは写真の場合でも他のいかなるジャンルでも全く同じだと思います。思想なしに創作することはできないというふうに考えております。しかし、どこのジャンルにでもイミテーションはあると思います。そういうものを抜きにして、形式だけに片寄った作品が決して少なくないことも事実だと思います。しかし、そういうことは、他から判断してそれを保護するとかしないとかいうふうな区別をすべき性質のものではなくて、やはり社会的な評価によって、それがいろいろと、何というのですか、歴史的に位置づけられていくべきものだというふうに考えております。そういう意味で、たとえば、先ほどから写真についての報道性だとか、いろいろな御質問もありましたけれども、やはり公表時起算のままでは片手落ちであるし、これを死後起算にするか、死後起算にしたほうがいいという御意見が非常に圧倒的に、これはユーザーからも諸先生方からも多く出ているわけでございますけれども、それをあえてせずに、クレジットだとか、公表年を、公表することを義務づけて公表時起算というものを強行したとすれば、まあそういうことができないことはないだろうというふうに私は申し上げたわけで、決してそういうふうに、クレジットを義務づければ公表時起算でもよろしいというふうに認めたわけではないのです。この点、念のためにもう一ぺん申し上げておきたいと思います。それは、公表時起算にして、なおかつそういう特別な登録だとか、クレジット、公表年、そういうものの義務づけをした場合には、写真に対するいわれのない差別を一そう深めるものであって、私たちは断固としてこれに反対するものであります。 その次に、先ほどから写真の芸術性とかいろいろなお話もありましたが、この芸術ということばは、やはり必ずしも芸術という概念がことばときちっと一致していない面もあると思います。人それぞれによって違うものがあると思いますので、やはり今度の法案にある「思想又は感情を創作的に表現したもの」と、これが妥当な表現だとは私は必ずしも考えませんけれども、ここに、これを書かれた方も、芸術的なものというふうに書かれなかったところは一つの識見だというふうに考えております。もっとも、思想、感情を表現した学術というものはどういう関係になるのかとか、職、業別電話帳は思想、感情とどういう関係にあるのかというふうなことになれば非常にむずかしい問題だとは思いますけれども、一応そういう意味で、何かばく然と、著作物というものはこういうもので、写真機を使えば全部著作物じゃないんだよと、万年筆で原稿用紙に書けば全部著作物ではないんだというふうな意味のことは、よくわかる表現だというふうに私どもは考えております。 その次に、午前中、野村先生から条約関係、外国の例、また写真における機械の介在というふうな問題などについて御指摘があったわけです。この機械性については私どもにもわりあい専門の問題ですが、この条約関係、外国の例、こういうものについては、オーソリティーである野村先生に反論するというのは非常にむずかしいことだと思っておりますが。一言わせていただきたいと思います。 まず、機械性については、機械がまだいまのように普及、発達していない時代には、機械性ということが一つのやはりモダンな、新しい形としてずいぶんもてはやされたものだと思うのですが、いまでは逆に、こういうものに対して、ハンドクラフトに対する郷愁というものも非常に強いと思います。また、年齢的ないろいろな関係もありまして、ハンドクラフトということが著作物の一つの条件であるのではないかというふうなお考えを潜在的に持っておられる方もあるんじゃないかと思います。手仕事でつくらなければ、何となくとうとくないのだというふうな考えは、この際すでにもう過ぎ去ったものというふうに考えていいんじゃないかと思います。オートマティックの毛のが必ずしもいいというふうにも言えません、当然。ただ、機械というものは、カメラだけではないのでありまして、原始的には、どんな表現手段でも記録手段でも、みなやはりハンドクラフトであったと思います。手以外に使うものはなかったと思うのですが、やはりそれが、直線を引くためには定木が生まれてきたと思います。定木もやはり広い意味で機械だと思います。それではコンパスははたして機械ではないのかということになれば、コンパスでも機械です。コンパスで書いたデザインは著作物ではないのかというふうなことも、もし疑問として出されるならばあわせて提出していただきたいものだと思います。で、いまのようにコンピューター時代といわれる中で、カメラというのは、機械、機械とおっしゃいますけれども、いまから百数十年前につくられてから基本的に一向変わっておりません。決して私たちは何か摩訶不思議な機械だというふうに考えておりません。非常に単純な、人間の使う、車だとか定木だとかコンパスだとかというものと、そう大きな違いはないと思います。こういうものを駆使して、しかもそれは、ある一段階にそれを使い、そしてすべての条件を入間がコントロールして、そしてなおかつそれの発意とすべての責任を負う、あらゆる選択と、自分の思想、感情を盛り込んで表現していく、こういうものについて疑問を抱かれるのは、いささかアナクロニズムではないかというふうに考えております。そういうものは、やはり歴史的に見ましても、この条約関係を見ても、先生は先ほどおっしゃいましたが、一八八六年にベルヌ条約ができたと、当初、条約の中には写真という例示が入っていなかった。これはまああたりまえだと思います。ダゲロタイプという世界で初めてといわれるような写真ができたのは一八三九年、それからたかだか数十年の後、まだ写真というのもそんな身近なものになっていない中で、これを取り上げるほど、何というのですか、その当時はテンポが速くなかったのじゃないかと思います。それからローマ規定、一九二八年にも例示がないといいますけれども、写真に関する規定は厳然として存在しております。それから、その後条約関係はどんどん進んでおりまして、わが国は、一九四八年といいますと戦争終わってからわずか三年ですから、この会議に参加できなかった関係だと思いますが、ブラッセル会議ではもう写真がはっきりと例示されております。それだけでなくて、このブラッセル会議の法律改正の外交会議においては、フランスが提案しまして、写真著作物を一般的保護の至高の座に近づかしめるという原則を提出しているわけですが、これについて各国が一致しているわけです。そしてその方向に歴史は進んできているということも事実だと思います。
○委員長(楠正俊君) 簡単にお願いします。
○参考人(丹野章君) それから、野村先生がたくさん引例された中の例、これは写真について疑問を出される多くの例の中の一部だと思いますが、これに劣らないほど多く、写真が何ら一般著作物と違いはないのだ、本質的な違いはないのだという説もたくさんあったはずでございます。そして、アンリ・デュボア教授の学説が、真に、ほんとうに説得性があれば、賢明なフランス国会が、こういうふうに、一九五七年に新しい著作権法をきめるときに、それを取り入れたはずではないかと思います。そういう点もまた、この良識の府である参議院においてぜひ十分に御検討いただいて、今後、いま、写真を死後起算にするということについて基本的にはほとんどの方が否定されていないという事実の中で、ぜひこの点を修正した上ですみやかにこの法案を成立さしていただきたいというふうにお願いいたします。
○委員長(楠正俊君) これにて参考人の方々に対する質疑は終了いたしました。 参考人の方々には、御繁忙のところを長時間にわたり御出席くださり、貴重な御意見をお述べいただきまして、非常に参考になりました。委員を代表いたしまして、厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。 本日はこれにて散会いたします。 午後五時散会