予算委員会公聴会 第1号
- 発言数
- 71 件
- 登壇者
- 18 名
- 会派数
- 4
- 開催日
- 1969/03/17
会議録
○委員長(塩見俊二君) ただいまから予算委員会公聴会を開会いたします。 公聴会の問題は、昭和四十四年度総予算についてでございます。 本日は、午前中お二人の公述人の御出席を願っております。ただいまから順次御意見を伺いたいと存じますが、その前に、公述人の方に一言ごあいさつを申し上げます。 本日は、御多忙中にもかかわりませず、本委員会のために御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。委員一同にかわりまして厚く御礼を申し上げます。 それでは、議事の進行上、お手元に配付いたしました名簿の順序に従いまして、お一人三十分程度で御意見をお述べをお願いいたします。お二人の公述が終わりましたあとで、委員の方々から質疑がありました場合、お答えを願いたいと存じます。 それでは、力石公述人にお願いをいたします。
○公述人(力石定一君) ただいま御紹介にあずかりました力石でございます。今年度の予算に関しまして、公共部門と民間部門の資源配分であるとか、あるいは景気調整機能であるとか、あるいは地域間の資源配分、こういうふうな諸側面に関しまして、一般的に私の感想を述べさせていただきます。 まず最初に、ことしの予算の国民総生産の伸び率と、予算の伸び率の関係に関しまして、景気に対してどういう影響があるかというふうな問題が討論されております。景気調整機能を財政の伸び率でもって、国民総生産の伸び率との間の相関関係でもって、過熱に対しては財政を伸ばさないように、あるいは不況のときには財政を伸ばすというふうなフィスカルポリシーの考え方が一般的に行なわれておりますが、この考え方に対しまして私は多少疑問を持っております。といいますのは、現在のように社会資本の不足が非常に激化している状況のもとで、景気が悪いときのみ財政を伸ばすということですと、景気が悪いときというのは、大体四十カ月循環で不況がやってまいりますとしますというと、大体三年に一回か四年に一回のときに社会資本の充実策をとる。その他のときには、むしろ過熱を警戒してこれを押えるというふうな政策になってしまうわけであります。そうしますと、社会資本ストックが国民総生産に対する割合、あるいは民間資本のストックと社会資本ストックとの比率、こういう点で見ますと、漸次社会資本が比率が落ちていくわけでございます。最近の傾向を見ますというと、国民総生産に対する社会資本ストックは、昭和四十年以後、低下傾向をたどっております。民間資本ストックに対する社会資本ストックの比率につきましても低下傾向をたどっております。で、「経済社会発展計画」では、国民総生産に対する社会資本ストックの比率を一・〇三にするというふうに目標に掲げられているにもかかわらず、これから去るような形で四十二年の〇・八三、四十一年は〇・八六、四十年は〇・八七というふうに低下傾向を示しておる。ことしの予算の政府資本の形成、政府固定資本形成は一〇・四%の前年に対する増加率でございますが、国民総生産の増加率が一四・四%でございますから、国民総生産の成長率よりも低い政府固定資本形成の伸び率になる。こういうことになりますというと、国民総生産分の社会資本ストックもまた低下傾向を続けていくということになるわけであります。そうしますと、社会資本の充実をはかっていくという経済計画の方針から、この政府予算案はそれを裏切る方向に編成されているということになるのではないかと思うわけであります。 そこで、こういうふうな景気調整手段として財政の伸び率を運用するというやり方は、日本のように社会開発の非常におくれた国では非常にとりにくい政策であり、こういう社会資本不足をますます激化していく傾向になってしまうわけであります。そういう経済運営のやり方ではなくて、西ヨーロッパやあるいはアメリカ、カナダで最近注目されておりますように、景気調整の用具としては財政の規模をいじるのではなくて、必要な計画に従った財政の支出はふやしていきながら、景気の過熱のおそれのあるときは税収を操作する、すなちわ税率を操作する。たとえば法人税率でございますが、これは昭和四十年に不況対策として税率を引き下げられました。これは当然過熱期においてはもとの水準に返すべきものであります。そういう調整政策をとらなければいけないのではないか。また、公債につきましても、日本の公債に対する考え方は、基本的に公債不発行が正しいのだという考え方に立っておりますけれども、フィスカルポリシーの基本的な考え方からしましても、建設的な資本勘定につきましては長期の償還期間を置いて公債に依存していく、そうして景気調整の用具としての公債は、いわゆる経常勘定における赤字を不況のときには積極的に出していくという、赤字財政政策を不況のときにとっていくというのが基本的な考え方であります。ところが日本においては、その二つのいわゆる公債を出すか出さないかということが調整の手段になろうとしている、だと考えられております。しかし、資本勘定に関する公債については、これは当然長期的な幾世代もにわたってその負担をしていくという観点から、償還期間も長くとりながら、公債によって資本の支出を行なっていくべきであります。 で、フィスカルポリシー、景気調整政策、景気刺激政策としての赤字財政というのは、経常勘定における赤字を積極的につくり出していくことである、この間の区別がどうもはっきりしていないのではないかという感じがするわけでございます。こういうことから過熱を警戒する場合においては、むしろ税制を操作して税率を引き上げて税収をふやすという形をとり、公債を削減しないで、当然、資本勘定分については公債に依存する必要があるわけでございまして、この公債を削減いたしますというと、かえって民間資金と政府資金との間の資金配分のバランスからいいまして、国民経済の成長と規模との関係、国際収支との関係で、当然、日銀は通貨発行量を限定されております。その限定された通貨発行量のワク内において公共部門と民間部門の取り合いにおいて民間部門を優先させることになり、民間資本がむしろ過熱を激化させる形で走り出してしまうわけであります。したがいまして、むしろ設備投資の過当競争のために資金を与えることになってしまうような公債を削るという方式は、かえって過熱対策にもならないというふうに考えるわけであります。また、現在の景気の見通しを見ますというと、過熱問題だけではなくして、すでにかげりの問題が問題になってきております。耐久消費財部門において古い3Cが一巡してきた。自動車部門における過剰生産がすでにあらわれ始め、古い耐久消費財部門における過剰生産傾向があらわれてまいります。こういうことからも社会資本の充実についてもっとはっきりとした態度を予算はとるべきではないか、そういう点でことしの予算についてはたいへんな疑問を私は持っているわけでございます。 その次に、公債その他、税収その他によって社会開発資金をしっかりとっていくという観点に立ちますというと、財政の規模が大きくふくらんでまいるわけであります。また、政府固定資本形成もGNP成長率を上回るような比率で発展していかなければならないということを前提といたしまして、その次には今度はその量だけではなくしてその中身、その効率の問題が問題になります。この効率に関しましては、幾つかの観点から根本的に考え直すときにきていると考えます。 第一に問題になりますのは、政府固定資本形成の中において道路の政府投資というものがあまりにも過大過ぎるのではないか。自動車向け道路投資に非常な力を注いでいるということにたいへん問題が起こってまいります。一つは、それは国有鉄道との関係で問題が起こってきます。国有鉄道と道路輸送との間の関係におきまして、長距離道路輸送に対しまして政府は財政面から道路投資でもってたいへんな補助金を与え、援助を与えておる。そして、これが国鉄はみずからそういうふうな設備投資や、あるいは安全施設やなんかすべて自分で負担しなきゃならないのに、道路輸送のほうは安全施設も道路投資もすべて社会、国家に依存して、そして不平等競争関係がそこに成立し、道路輸送者は、たとえば日本通運であるとか、こういうふうな道路輸送業者は国鉄の貨物を次々と奪いとっていくわけであります。その結果、国鉄のほうは貨物の収入が減退する。しかも貨物の原価に見合った適正な料金をつけることができないという状況に落ち込んでまいります。そこに貨物運輸収支における大きな赤字要因が形成されてくるわけであります。このことは社会全体から見ると、社会的な費用を含めた道路輸送、鉄道輸送との間の効率関係を見るというと、かえって長距離の重量の運送については国鉄のほうがコストは安いわけでありますが、にもかかわらず、自動車運輸に奪い取られていくという関係が出てきて、その赤字要因が運賃値上げにはね返ってくるわけであります。旅客運賃は黒字であるにもかかわらず、これを引き上げなければならないというところに追い込まれていく。しばしば赤字線対黒字線という形で赤字線をなくするということが言われますけれども、国鉄のように全国的な地域的経済発展というものを考えて、国土利用を考えて行なわれるところの企業につきましては、当然、赤字線というものはあるのがあたりまえであります。どこの国だって赤字線というものは公共的な目的から——私鉄の場合は、これは黒字線を中心にして形成されるわけでありますけれども、国鉄は赤字線というのがあるのは当然であります。にもかかわらず、その赤字線を次々と整理していくという形で国鉄の公共的機能が減退していくということになるわけであります。 その問題を考える前に、貨物における運輸収支の赤字、そしてそれを基本的に引き起こしているところの道路輸送との関係というふうなものを考えていかなければならない。西ドイツではすでに長距離の重量の道路輸送に関しましては、これを規制する、そして国鉄に中心的にこれをやらせるようにするというやり方をとっていますし、フランスの場合は、その不平等を是正するために道路輸送に対して非常に大きな税金をかけて平等性を確保するというやり方をとっております。イギリスは、かつてはこの二つの運輸能力の総合調整という観点から、道路輸送業者を国有化いたしまして、二つの公企業間において適正な資源配分を考えていくというやり方をとって不平等競争を是正してまいりました。このことが基本的に現在の運賃問題についてよく考えていかなければならない点ではないかと思うわけであります。日本の場合においては、その三つのパターンの中でどれかを選ぶということなしに、そのことをたな上げしてこの運賃問題を論ずるべきではないというふうに考えるわけであります。 それからもう一つの公共投資の中で中心となっている道路輸送が問題なのは、道路投資をやりますと、これはわりあいと金がかからない、鉄道よりも金がかからないものですから、こちらに重点を置いて公共投資をやりますと、そうすると、マイカーの利用度がだんだん激しく高くなってまいります。そうすると、マイカーがどんどん普及してまいりまして、そのマイカーを人々がみな利用するようになりますと、バスであるとか国鉄であるとか、こういうふうなものの運輸収支がやはり脅かされてくるわけであります。社会全体のコストから見ますと、マイカーの維持費だとか道路費用だとか、そういうものを社会全体の費用として考えまして、これと公共輸送体系と比べますと、明らかに公共輸送体系のほうがコストが社会的に見ると安いのでありますけれども、負担が、ただ近視眼的に考えると政府の負担としても道路投資のほうが安いのでこちらに傾斜する。そうすると、その結果、公共輸送体系が崩壊する。その結果ついには公共輸送体系がないと不便でございますので、セカンドカー、サードカーというふうにアメリカ型に自動車の普及が進んでいき、余儀なくされた自動車保有にまで進んでいくわけであります。 こういうことになりますと、むだな消費生活、そこにたいへんな消費支出を国民に課さなければならない。国民経済的に見てもたいへん非能率な運輸交通体系になってしまうわけであります。そういうことを考えますと、道路投資よりも公共輸送を中心に考えなければならないということであります。また、大都市における過密状態を見てみますというと、自動車輸送が発展してくると隘路がどんどん出てまいります。これを隘路打開のための道路投資に重点を置いていく。こういう投資に重点を置きますというと、これはすぐ、現在高速道路が低速道路になってしまっているように、ほとんど何といいますか、自動車の供給力に対して見合わないわけでありまして、この二つの戦争においては、必ず自動車が勝ち道路が負けてしまうということになってしまいます。こういうふうな非効率な道路投資にあまりたくさんの資源をさくことは社会的に非効率である。したがって、むしろこういう部面では自動車利用、マイカー利用を規制するというやり方のほうが合理的であるわけであります。そして、道路投資の主要なものは、そういう自動車道路の建設よりも生活基盤、われわれのどろんこ道やその他を直していき、近代的な舗装道路に変えていくという形で、そちらに重点を置かなければならないというふうに考えるわけであります。道路投資一つとりましても、量としてはふやさなければならないわけですが、これの全体の資源配分、部門間の資源配分、あるいは公共部門と民間部門との資源配分ということを、全体を最も効率よくするにはどういう割合でこれに配分したらいいかということをもっと考えていかないと、いままでの道路投資一辺倒のやり方というものは、たいへん問題がこれから起こってくるのではないかというふうに考えるわけであります。 それからその次は公共投資の地域間の資源配分でございまして、大都市の過密を解消するためのさまざまの公共投資はこれからも必要ではございますが、同時に、地方に対して公共投資を優先させる。そして、たとえば、イタリアでやっておりますけれども、公共投資の半分は必ず南部の後進地域にやって、工業や産業をそちらに誘導するようにやる。こういうふうな地域間の配分をよく考えてやりませんと、もとのもくあみにすぐなってしまうようなところのみに資源を投入することになってしまう。で、過密が起こらないで、結果としても社会的な費用が最も少なくて済むような形で、道路投資を、地域間の資源の配分をよく考えなきゃいけないということでございます。 それからもう一つは、地域間の資源配分という観点から言いますというと、政府の購入ですね。公共投資のために資材を購入するわけでございますが、この資材購入を地域間の優先順位を考えること。たとえば、同じくイタリアでは、発注の——イタリア国鉄でやっておりますが、発注の半分は必ず南部から行なう。そうすると、政府がしっかりと注文してくれるので、喜んで後進地域に産業が展開する。そして地方に最適の都市が生まれてくるという形で、大都市の過密が制御されてくるというふうな機能が果たされています。これは地域開発のために特別の資金が要るわけでございませんで、発注のしかたさえそういうふうにコントロールすればいいわけです。たとえば、電電公社の場合に、中小企業に対してある割合の発注を残しております。こういうやり方をとっておりますが、このやり方を地域間の配分についてもっと考えていったら、過密地域に向かって人口があまりにも集まり過ぎるのを制御することができるのではないか。この点についてのくふうが今度の予算には——こういう面についていままで予算編成については全然考えられておりませんが、そこをもっと考えていただきたいということでございます。 それからその次に、政府の固定資本形成の中で、生活関連的な固定資本形成についての効率をよく考えてみたいわけであります。たとえば住宅投資でございますが、政府の行なう住宅投資、これを去年の建設白書で、政府が施策として行なうものと民間が行なうものとの数字が、国際比較が出ております。それによりますというと、日本の場合、政府施策住宅の中に公庫住宅を含めておりますが、これは政府の援助住宅として民間部門に配分されております。そして、基本的に、公社、公団や、あるいは都営住宅であるとか、そういう政府が直接行なう住宅、この住宅の比率が日本では大体一二%でございますが、これはフランスとドイツについて見ますと三五%ぐらいに達しておりますし、イギリスでは四六%ぐらいに達しております。スウェーデンでは六三%、オランダが五〇数%に達しております。このように住宅投資は主として公共投資として供給される。消費の社会化が行なわれているわけでございます。こういう形になぜなるかと申しますと、大都市の周辺にどんどんスプロールしていって、そのあとを、どろんこ道を直してやったり、あるいは通勤疲労が非常に激しいので、複線化を進めていったりというふうな形で、あとを追っていくような形の公共投資で援護していきますというと、結果としてはたいへんたくさんの金になってしまうわけです。そこで、初めから計画的に、輸送体系との連携を計画的にとりながら、公共的な形で住宅を供給したほうが、社会全体としてはかえって費用が安く済むというので、スプロールしたあとを追っかけたんでは、とても金がかかってしょうがないから、計画的に供給しようというので、公共住宅供給というのが比率が高まってきたわけでございます。日本の場合はそれが一二%でおさまっているのは、あとを追っかけたいろんな施設、道路を直したり下水をつけたり、あるいは国鉄の通勤ラッシュ解消の投資をやったりというようなことをあまりしなくても、国民は何とかがまんしてくれるので、政府としては個人にお金を出して、そしてマイホームをつくらせる。スプロール型のマイホームをつくらせるほうが、政府としては安上がりだという近視眼的な政策がとられてきた。しかしながら、だんだん国民はそういう状態にがまんできなくなって、ヨーロッパ型の、スプロールしたあとでは必ずそういうしりぬぐいをしてくれという要求が高まってまいります。それに全部応じているというと、結局初めから公共住宅という形で集団的に公共投資との関連をつけながら、最も効率のいい住宅供給をやったほうが、かえって安上がりだという結果になってしまうわけであります。日本の場合はそういう過渡期にあるわけでありまして、生活関連の公共投資も、そういう効率を考えて、社会全体の効率を考えて、政府がみみっちい態度をとることによって、社会全体の効率はかえって悪化するというふうなことのないような財政支出に変えていかなければならないということになるかと思います。また、政府部門がそういう公共住宅供給にあたりましては、利子につきましても、大体住宅金融は二、三%の非常な低利でございます。日本のように五%というような高い、あるいは民間資金を使った場合、もっと高くなりますが、そういうふうなものでは、家賃が高くなりますし、勤労者向けの住宅はなかなか供給しにくい。またいい土地も得られないということになるわけでございまして、こういう点でも住宅供給の社会化という、公共部門と民間部門の資源配分というものを考えたやり方がとられる必要があるのではないか。そういう点での反省が全然見られないということは、どうも残念であるというふうに考えるわけでございます。 次に、公共部門の行ないます、現在非常に重要になっておりますのは教育投資でございます。教育投資というものは日本ではどういう考え方をしているかといいますと、個人が何とかそのお金をためて、そして大学にまで進学させるというふうな形で教育投資を私的投資と考えているわけでございます。なぜこのような形になるかと申しますと、政府が教育に対する支出をわりあいと渋ってきたというところに基本的な原因があります。たとえば数字的に申しますと、日本の大学生は、高校生までの支出はそれでもまだかなり力を入れておりますが、特に大学の点でこれが非常にはっきりしておりまして、大学生が同一年齢人口に占める比率は、日本は一八%でございます。西ヨーロッパ諸国が一割以下で、あるいはフランスは一二%ですが、西ドイツが八%、イギリス五%というふうに、非常に大学生の比率が少ないわけです。日本は二倍以上の大学生比率を持っている。それに対して大学への公教育費が国民所得に対する割合を見ますというと、日本が〇・六%でございまして、イギリスやドイツは、イギリスが〇・七%、ドイツが〇・九%というふうに、日本は進学率が倍なのに公教育費の国民所得比率は、西ドイツやイギリスよりも低いというような関係になっておるわけでございます。その結果として、公立大学で吸収できる大学生の比率が約二割にとどまってしまって、八〇%は私大のほうにはみ出してしまうわけであります。ところが・西ドイツでは私大生の比率は〇・八%、ほとんど公立で吸収している。フランスも九五%は公立で吸収している。こういうかっこうになっております。イギリスの場合は公立大学はありませんで、全部私立大学でございますけれども、この私立大学に対して八〇%の政府補助をやっておりますので、基本的には八〇%は公立大学で吸収していると同じようなかっこうになっております。ところが、日本は私立大学に八〇%はみ出しまして、これに対する、私大に対する政府の援助はわずか二%にすぎないわけで、経費に対して二%しか援助しない。こういうかっこうになりますから、結局のところ、大学生の教育内容というものは非常に荒廃してまいります。私立大学は、これは独立採算でやる。しかし教育事業というものは、これは公共投資であるべきなのに、何とか採算をとった形の、つじつまを合わせる形の経営に私立大学ではならざるを得ない。その場合には授業料は必ず騰貴いたします。 これが大学の学生の教育投資について、いかに効率化をゆがめているかを数字的に見たものは、これは文部省の調査によりますと、四十三年度の高校生の一〇%をとりまして、これが進学した場合においてどういうかっこうになっているかを見たものでございます。高校生の成績を一から五までとりまして、三以下の人というのは、もう大体大学の教育にはあまり適しないのですが、三以下の点数の成績の人、これが国公立大学では大体一・九%含まれております。ですから大体において三以上の大学教育に適するような人たちが国立大学では吸収できている。ところが私立大学では、二八・七%が、高校時代の成績が三以下の人たちで占められております。これは八万円という授業料、あるいは入学金はもっと高いわけですが、こういうふうな障壁に妨げられまして、私立大学には、お金は払えるけれども頭があまりよくないという人たちが流れ込んでくる。頭はいいけれどもお金が払えないという人たちは、ここの障壁に妨げられて就職組に回ってしまうわけであります。就職組の中で成績が三・五以上の者が三一・二%もおります。ですから、こういう人たちが私立大学の、先ほど言いました二八・七%と入れかわってもらう必要があるわけでございますが、入れかわってもらうためには、授業料障壁というものが低く押えられなければならない。ところが、こういうふうな格差が出てまいりますというと、教育効率の悪い、教育効果がない教育が行なわれている。こういう人たちは、その大学期間、大学に在学している間じゅう遊んでいるという、非常な労働力の遊休化が生ずるわけでございます。 まあ、そういうふうな効率の面におきまして、公的支出を渋ることによって、社会全体では非常な非効率状態がここにあらわれてくるということになるわけです。で、この大学教育費は、西ドイツやイギリスやその他の国に対しまして二、三倍の進学率なんでございますから、〇・六%という大学への公教育費を二、三倍に上げていく、一・数%というふうな比率にまで高めていくということが、長期的な計画にならなければなりません、そういう長期的な計画に基づいて、まず私立大学に対しては、まあ一%ふやすといたしますと、いま国民所得に対して一%というと四千億くらいになりますが、四千億の半分は私立大学に、この教育効果のない人たちを、学生を採用しないという形で投入する。あと半分は地方の公立大学に投入いたしまして、こちらのほうに大学生を吸収するというふうにする必要がございます。このことは、大都市における過密対策にもなるわけでございまして、東京におきましては、中学校、高校生よりも大学生の数が非常に多くなっている。東京都の人口の五%が大学生だといわれておりますが、これに関連するいろいろな人々が大都市に集中しております。このことは、教育環境としてもたいへんよろしくない過密都市において教育が行なわれ、学生のノイローゼ状態を非常に激化するわけでございまして、こういう観点からも、私立大学の学生数を減らすように、ここに補助を導入する、そして公立の地方大学にキャンパスを拡大し、先生の人数をふやして、こちらに学生を吸収するようにして、学生の地域的な配置というものを、大学の地域的配置というものを基本的に変えていく必要があるんじゃないか。東京及びその周辺に五〇%ぐらいの大学生が集中しておりますが、こういうものを地方に分散させるようにすることが必要でございます。こういう観点からも私大経営にまかしておりますというと、どうしても経営立地上、大都市に集まってくるのが、これは当然でございます。収益性を考えますと、そういうふうに立地してしまう。それを地方に分散させるという観点からも、公的な支出は拡大されなければならない、これが大学教育の効率化という観点からの資金の使い方のポイントでございます。 あと、もう一つは、たとえば社会施設の中で重要な病院なんか、病院のベッド数で見ますというと、昭和三十年代の初めの公共ベッドと民間ベッドの比率を見ますという、公共ベッドが大体四一%あったわけです。それが年々縮小してまいりまして、民間ベッドの比率が高まり、昭和四十年には三三%という、公共部門のベッド数が三三%に低下してきている。民間がどんどん発展し、公共部門が縮小する。このことは、地方におったらいい医者にかかれないというので、大都市に人口が集中してくるということになってまいります。しかも、民間の病院では、医は仁術なりという原則に従った医療給付というものがどうも行なわれがたい傾向がございます。こういう観点からも、地域配置や医療サービスを適正にするという観点からも、政府の医療投資、医療に対する支出というものをもっと拡大していかなければいけないんじゃないか、この辺についての比率を絶えずにらみながら、何%に比率を変えていくかということを、公私比率というものを頭に描いた予算編成をやっていただきたいというふうに考えるわけでございます。 全体といたしまして、日本の財政は、古いチープ・ガバメント主義というものを残しておりまして、国民総生産に対する大体二〇%ぐらいの政府部門の収入になっておりますけれども、これをヨーロッパ並みの三〇%ぐらいにまで拡大していく、公共部門の比重を高めて、そして地域配分と民間部門との間の相関関係というものをよく調整していく、消費の優先順位というものを考えていくというふうか財政政策にこれからは転換していかなければならないのではないか。そういう観点から絶えず財政編成を考えていただきたいと思うわけであります。 そのためには、税収のとれるところからもっと税金をとるようにする、このことが必要であります。たとえば社用消費に対するコストに落とせる範囲を、イギリスのようにせいぜい二〇%ぐらいにまで下げていく。いまは八〇%ぐらいコストに落とせるわけでございますが、これを二〇%ぐらいにまで下げていく。そうしまして、社用消費から税収を吸い上げていけば、民間のぜいたくな消費に対して公共消費を拡大することができるわけでございます。あるいはキャピタル・ゲインに対する課税を強化し、あるいは法人税率をもとの水準に1不況の名のもとに下げたのをそのまま既得権としてしまわないで、もとの適正な国際水準に引き返していくというふうなこと、あるいは利子配当の分離課税とか、そういうふうなものを除去していくというふうにして、税収をもっとふやしていかなければならない。それから公的資金の面に関しましては、郵便貯金であるとか簡易保険であるとか、こういうふうなものの資金の吸収能力をもっとつけるような方向に、たとえば預金の頭、上限であるとか、あるいは簡易保険の上限であるとか、そういうものを取っ払っていって、資金が公共部門に吸い上げられるようにして、民間部門の間と資金供給能力をバランスさせるようにしていくというふうな処置が必要でございます。 それから、税収に関しまして、たとえば大企業の総付加価値に対する租税公課の比率を見てまいりますと、日本は大体相場として一〇%ぐらいの税金を払っております。公共部門からたいへんな援助を受けているわけでございますけれども、あまり——一〇%という数字は、国際の大企業と比べますというと、大体国際大企業は一五%から二〇%ぐらいの税金を負担して、そしていろいろな形で公共部門からめんどうを見てもらっている。日本は一〇%ぐらいしか負担しないでいろいろめんどうを見てもらっているという関係になっておりまして、この点でももっと税収を、法人税率その他で、あるいは特別措置の整理というようなことでふやしていくことができるわけでございます。 こういうふうにして、福祉国家ということを名のり、社会資本の充実ということを名のるとすれば、そのことばに合致したような財政編成をとっていきませんと、日本の長期的な資源配分のバランスといろものはますますくずれてしまって、エゴイスチックなガリガリ亡者ばかりが生活しているような社会になってしまうのではないかと思うわけでございます。 そういう意味で、予算の公共性というものを、私が先ほどから申しましたような比率を絶えずめどに持って、たとえば研究開発投資を民間の企業が要求する場合に、国民総生産に対して一・六%ぐらい、これを二・五%ぐらいにまで上げなければならない。そして公私の比率は、公共部門が七割で民間部門は三割だというのが、まあ国際的な情勢から見た比率でございますが、そういうふうな長期的なめどを立てて、そちらの方向に財政を編成していくということが強調されているわけでありますが、これと同じような考え方を、すべての社会開発部門について頭に置いた予算編成をやっていただきたいということを考えるわけでございます。 どうもありがとうございました。
○委員長(塩見俊二君) どうもありがとうございました。 —————————————
○委員長(塩見俊二君) 次に、尾関公述人にお願いをいたします。
○公述人(尾関通允君) 尾関でございます。 私は、物価問題に関して考え方を述べよということでありますが、卸売り物価については格別問題とすべき事柄がないと信じますので、消費者物価について主として意見を申し述べたいと思います。 基本的には、物価の上昇に対してできるだけ厳密な——厳格でありません、厳密な政策態度が必要であると同時に、従来の物価上昇の結果として生じたゆがみの是正については大胆かつ弾力的な行き方が望ましいのではないか、このように考えます。 その理由でありますが、第一には、高度成長を続ける現在の日本の経済の環境下では一般に物価が上がりやすい条件を経済自身の中につくり出しているということであります。第一に、高度成長のもとでは、生産関係もそれから需要の構造も急速に変化いたしておりますし、消費面でも消費内容の高度化や多様化が急激に進んでおります。そのために、需要に対する供給力の対応あるいは適応は常におくれがちになっております。そこで、需給のアンバランスから物価上昇を招きやすい、こういう条件ができております。しかも、その条件は次から次へと出てきておるのであります。第二番目に、国民性は機を見るに敏でありまして、それが経済成長をささえる重要な要因の一つにもなっておるのでありますが、物価面ではこれは明らかにマイナス、したがって上昇を刺激する要因となって働いているかと思います。それから第三には、成長は所得の増大をもたらしますので、物価高を吸収する力が大きくなっております。そこで、物価高に対していろいろ消費者のほうから文句が出ますが、結果においては、それで需要が減るということにはならず、値上げが結局は受け入れられていっている、こういう事実がございます。以上のような条件に加えまして、物価問題にはとかく感情論が入り込みやすい、これが往々にして実態認識を誤らせる結果となっております。それがまたひいては、効果的な物価対策を打ち出しにくいという問題をつくっております。それからさらに、議会制民主主義のもとではとかく数の力がものをいいますので、政治がそちらの面をお向きになりますと、その面の価格が上がってしまう。こういう複雑な問題もあろうかと存じます。 〔委員長退席、理事米田正文君着席〕 感情論の例といたしましては、昨年秋のサンマの問題がありました。サンマは非常に不漁で供給が不足して値上がりしたんでありますが、これを感情的に受け取ってしまう結果、これもあたかも政策の誤りであるかのごとくに問題を提起し、物価が上がるからサンマさえも食べられなくなったんだ、庶民の台所はこういう面からも脅かされているんだと、非常に素朴でありますけれども、感情的な、しかし問題の本質をつかない誤った見方がだれかに指摘される。そういう見方がだれかによって行なわれると、それにみんながついていってしまう。そこで効果的な手というものは打てない、こういうかっこうになってまいるかと思います。予算の政府案を頭から無謀なインフレ予算、こうきめつけてかかる感情的な批判と同じでありまして、こういう批判からは私は決していい政策というものは生まれてこないんではないかと思います。それから、政治が数の力のほうを向くとその面で物価が上がるということの典型的な例は米であります。 そこで、どうしても行政府と立法府を含めまして、政治全体がもっと物価に対して厳密なかつ実際的な態度をとるべきだと思います。なぜならば、こういう問題が現在の物価上昇からは生じておるからであります。第一に、物価上昇に対してすでに一種のなれを生んでいるのではなかろうかと見られることであります。政府みずからが年に四・五%とか五・五%の消費者物価の上昇を既成事実として経済見通しの中に予想して織り込んでいく。政策的には、その見通しを下回った場合にこれは政策的な成功、それをこえた場合に初めて政策上の責任が生ずる、こういう状態にすでになっております。そういう状態のもとでは、価格引き上げというものは、先ほど申しました片方で受け入れる力が大きくなっている面もありまして、通りやすい、これは当然なことだろうと思います。 それから、もう一つ大事なことは、価格の上昇が政策効果を減殺していく。言いかえますと、政策を食ってしまっている。食ってしまうというのは言い過ぎかもしれませんけれども、公共事業費にしましても、社会保障費関係にしましても、名目的な増額ほどには実際は追いついていかない。公共事業費につきましては、聞くところによりますと、大体年に七%ぐらい物価上昇に伴う目減りがあるそうであります。したがって、四十三年度の予算の公共事業関係費は実質的には横ばい、四十四年度予算案で見ますと、公共事業関係費はざっと一五%の伸びであろうと記憶しておりますが、実質的には一〇%以下にとどまる、こういうことになってしまうのであります。社会保障関係につきましても、その点は同じことが言えるかと存じます。 次に、米などに見られますように、安易な価格引き上げが、情勢変化に対する生産者あるいは販売担当業者の適応力を弱める結果を招き、効率化をはばむ結果を招いている、こういう事実があります。 それから、次に、物価上昇は多分に構造的な要因に基づく面が多いのでありますが、そこへの手の打ち方がおくれるために、ややもしますと、総需要の抑制というやや焦点の当て方の違った政策手段がとられまして、国民経済全体の運営の方向を誤る、こういう困った事態もときには生じ得るのであります。その典型的な例は、三十九、四十年不況の場合であります。国際収支はすでに改善を見ているにもかかわらず、物価が上がっている。構造的な面に目を向けないで、総需要を抑制しようということで無理やり経済の伸びを押えつけてしまった結果非常な不況になった、こういう面があります。どうしても物価について厳密な態度がほしいのであります。 そこで、そういう目で見ますと、最近といいますか、四十四年度の予算編成の背後にある政府の経済政策には若干の前進が見られるのでありまして、この点は相応に評価すべきだろうと考えます。第一は米価の据え置き方針が確認されている ということでありますし、第二に、地価の安定策、土地の有効利用、この方策がだんだん整ってきているということであります。それから第三には、公共投資が四十三年度に比べますと相当に増額されている。これらの点は、かなりの前進であろうかと存じます。 米価の据え置きは、米を中心にした食糧価格の上昇が従来の消費者物価高のおもな原因だったことから考えますと、当然とはいえ、私はきわめて適切な措置であろうと考えます。 それから、地価の上昇は、直接、間接に商品価格に転嫁されてまいりますし、したがって下がるべき商品価格が下がらない、あるいは下がりにくいというような問題も生じることになります。そこで、地価公示制度の発足、あるいは税制面からの土地供給の促進、さらに都市再開発法案の提出、建築基準法の改正、こういうような問題は相当に前進的なものである、そう評価すべきであろうと考えます。ただ、地価公示制につきましては、各行政省庁の足並みが必ずしもそろっておりません。で、地価公示制については、こういうことをたとえば考えるべきではないかと考えます。それは、公共用地の取得はもちろんでありますが、たとえば免許事業である金融機関の営業店舗用の土地取得などについても、この制度の趣旨を尊重するような行き方を各金融機関に対して監督官庁であります大蔵省が指導することが望ましいのではなかろうか。たとえばこういうような配慮が必要であろうと考えます。 それから、公共投資でありますが、これは決して十分でありませんけれども、四十三年度に比べますと、四十四年度はかなり大幅な増額を見ております。やや長い目で見れば、物価安定に寄与するであろうと考えます。 しかし、物価、あるいは土地対策、公共投資面で若干の前進があったといいまして毛、全体としてはまだ決して十分とは言えないと思います。その一つは、公共料金をどう考えるのか、この点がどうもはっきりしていない。このままでは食料品にかわって公共料金の上昇が消費者物価を押し上げる主役になってくる、一種の役者交代がここで行なわれる可能性があるのではなかろうかと思います。そうかといって、もちろん、たとえば国鉄の運賃などを頭から上げてはいけないということではありませんのでありまして、むしろ受益者負担の原則などからいきますと、上げるべきものは上げるのが筋であります。ただそれについては、全体の交通輸送政策というものが一体どう考えられているのか、その中で通勤輸送対策あるいは新線建設などを一体どう位置づけていくのか、そこら辺がどうもはっきりしていない。そういうものをなしに運賃を上げていく、しかもその中では国鉄は上げるけれども私鉄は上げない、そういう一種の矛盾した政策態度が見られます。どうもそういう点、私ども理解に苦しむところであります。 それから、次に移りまして、中小企業関係では、中小企業に対する過保護の問題があります。たとえば、中小企業安定命令の発動による設備制限や出荷調整を認めるのにもつと厳格な態度が必要ではなかろうか、こう考えます。消費者物価を押し上げている要因の中には中小企業関係の値上がりがかなり多いのでありますが、それもまた中小企業白書の指摘のとおりだろうと思うのでありますが、しかし高度経済成長の中では実は中小企業にとっても非常にチャンスの多いことをまあ物語っているはずでありまして、高度成長の中では中小企業にとっても非常にチャンスが多いはずであります。それにもかかわらず過保護をいたしますと、結局過保護の上に眠ってしまって、中小企業そのものがこの経済環境の激変に適応していけないという問題を起こしますし、適応していけないためにかえって安易に価格転嫁が行なわれている、それが消費者物価を押し上げていく、こういう関係になろうかと思います。したがって、中小企業に対する過保護はできるだけやめていく必要がある。どうもそこら辺の認識が割り切れていないのではなかろうか、こういうふうに考えます。 それから次に、輸入をどう考えるかであります。昨年は、御承知のように、大型景気と国際収支の大幅の黒字基調という場面が両立いたしました。このことは、国際経済が順調に動き、かつ日本ではめをはずした成長をしない限りは、日本の外貨準備は順調に今後蓄積されていくだろうということを意味しているかと思います。その場合に問題になってくるのは、生産性の低い産業部門を一体どうするかでありまして、これも、そういうところに定着さしておくのが望ましいんだという考え方と、そうではない、それはそういう生産性の低い産業部門に関係している人々を不幸におとしいれるだけだという考え方と、二つあろうかと思います。私はもちろん後者をとります。そのためには、生産性の低い部門についてももっと競争の風にさらしていく、そこで外国商品との競争を刺激するために輸入政策をもっと活用していく、そういうことが必要になろうかと思います。ところが、その辺もまだよくわかっていないように見受けられます。 それからさらに、流通部門の近代化促進についても、依然として抜本的な対策というものはいまだしという印象があります。これらの点について、もっと厳密な判断に基づく適正な政策が出てきてしかるべきではなかろうかと、このように考えます。 反面、物価につきまして、ある一面では弾力的な政策態度が必要ではなかろうか、このように考えます。物価の安定を主張するあまりに、サービス料金をあくまで据え置くように固執いたしますと、サービス需給のアンバランスという問題が起きます。たとえば、この前の大雪の日に、タクシーの出動台数というのは極端に減っております。ああいうときには、いわば非常事態でありますから、特別の料金を上のせして、実際に活動するタクシーの台数をなるべく減らさない、そういうような機動的な対策が望ましい。それをあくまでタクシー料金を上げちゃいかぬというようなことでやりますと、結局最も必要なときに必要なサービスが得られない、こういう困った結果を生み出すのではなかろうかと思います。 それからもう一つ例をあげますと、これは公的な住宅の家賃について言えることでありますが、たとえば東京の公営住宅などでは、同一の住宅団地内で一種住宅の家賃が二種住宅の家賃よりも安い。本来ならば、二種のほうが安くて一種のほうが高いのが本来の姿でありますが、二種のほうがかえって割り高になっている。こういう、ことばは悪いのでありますが、ばかげた現象ができております。それから公団住宅につきましても、たとえば二十三区の中の非常に便利なところで、二DKで四千円台の家賃のものがあるかと思えば、都心まで通勤一時間もかかるようなところで、同じ二DKで二万円の家賃ができております。それからもう一つ典型的な例をあげますと、ある私鉄の沿線でありますが、駅の目の前にできている団地の家賃に比べまして、その同じ私鉄の駅から歩くと二十分もかかるような不便な場所にある団地の家賃が、その二倍もするような形が現在できつつあります。同じ公的な住宅であって、こういう家賃のアンバランス、社会的な不公平が出ておる。これも、物価の安定ということでこだわってしまって手をつけないと、この不公平がまかり通る、一種の社会不正義がそのまま容認された形になると思います。この原因は、申し上げるまでもなく、地価の上昇、それから建築費の上昇に伴いまして、新しく建設された団地ほど建設コストが高い。ところが、団地ごとに独立採算制をとって家賃を算出いたしますので、よほど側面から別の手を打たない限りは、こういう不公平、不正義の家賃体系ができ上がってしまう。まあ家賃体系と言えるほどのものじゃないと思いますけれども、こういう困った面が出てくるのでありまして、これらの面については、もっと弾力的な行き方でもって調整していく、そういう面に政策的な知恵が働かなくてはいけないのではないかと思います。 それからもう一つ物価について違う局面を申し上げますと、公共のものを大事にすることが物価の安定につながるのではなかろうかと思います。公共の設備や場所を大事にし、よごさない。よごした人は、これは社会生活のルールに違反したものでありますから、それなりの負担をしていただく、こういうことも政策として当然考えられていいのではなろかうかと思います。電車やバス、駅のホーム、あるいは公園など、こういうところへ、たとえばたばこの吸いがらを捨てるとか、紙くずを捨てるとか、あるいはもっと、冬の寒いときに酔っぱらったあげくにこういうところをよごす。そういう人たちは、必ずだれか別の人に、そういう場所を掃除しろ、こう強制しているわけでありますから、実質的に強制している、口では言わないですけれども実質的にはだれかに掃除を強制しているわけですから、少なくともその掃除代ぐらいは出してもらうということにしていかないと、私どもはやはり全体の社会生活コストの上昇を避けられない。こういうところにも政策の目を光らせてほしいと思います。特に、成長が進みまして、社会が豊かになりますと、物の使い方が荒っぽくなります。公共の設備をいたずらにいたためり、あるいはよごしたりしがちになります。新しい社会の中でそれなりの新しいモラルができていくまでには時間がかかりますので、そういう面でも、これは政治のほうからの呼びかけが必要ではなかろうかと思います。 以上のような点が、物価に関連いたしました私の考え方であります。 もっと言いますと、たとえば消費者教育がうんと必要ではなかろうか。これは、最近はどうか知りません、しばらく前に聞いた話でありますが、たとえばまっすぐに伸びたキュウリは下のほうに小さな穴のあとがあるそうであります。これはなぜかといいますと、消費者がゆがんだキュウリをきらって買わない。そのために、生産者のほうで釣り針の先に糸をくくって、その糸に小さな石を結びつけて、それをそのキュウリが花をつけて実ができかかったころに一番下のほうへぶら下げるのだそうであります。下から引っぱっておきますと、キュウリがまっすぐ伸びて、消費者が好んで買ってくれる。こういうような手間をかけてわざわざ物を高くしている、こういう面が至るところにあるのだそうであります。そういう点については、これはもっと行き届いた消費者教育というものが必要ではなかろうかと思いますが、そういう点までいろいろ詳しく述べますと、とても三十分ぐらいでは足りませんので、この辺で終わりにいたします。 —————————————
○理事(米田正文君) それでは、公述人の方に御質疑のおありの方は、順次御発言願います。
○羽生三七君 力石さんにお尋ねをいたしたいと思いますが、予算の公共性を高めるということで多分に啓発をしていただきまして、まことにありがとうございました。その中で一つお伺いしたいことがあるんですが、それは公債政策のことであります。公債政策がいいか悪いかというような議論はきょうはいたしません。お尋ねいたしたいことは、たとえば昭和四十四年度予算で国債費が二千七百八十八億円、そのうち利子が千五百十五億円、こうなっておりますが、これで、毎年何千億の公債を発行していく場合に、結局どういう時点が来れば公債政策から脱却できるのか。できないとすれば、ある一定の時期が来ると、四千億や五千億の公債を発行しても利子とほぼ同じになるのではないか。これは明確に数字的にそうなります。 〔理事米田正文君退席、委員長着席〕 したがって、どういう条件下で公債政策から脱却できるのか、そういう点が非常に私疑問に感じられますので、この点ひとつ御教授をいただきたいと思います。
○公述人(力石定一君) 私は公債政策は脱却する必要ないと思います。政府部門が公債を発行できなくて民間部門だけが社債を発行できる、そういう変な経済はないわけであります。政府が資本支出として行なうべきものは当然これは数世代にわたってこれを負担するという観点から、公債は必ずいつもあるのがあたりまえだと思います、建設投資に関しましては。で、公債の上げ下げは、これは経常部門における赤字を赤字公債として行なわれた場合、これを景気が好転したときに償還してなくしていく、黒字にしてこれを返していく、これはけっこうなんですけれども、政府部門が当然長期的な見通しのもとに長期投資として行なったものについては、これは公債としていつも残っておる。そして、その公債が国民総生産に対する比率が一割か二割ぐらい絶えずあるということは、これはもうあたりまえのことだと思います。そういう意味で、全然ないような状態、財政法に従って——まあ、財政法の解釈にもいろいろございますけれども——全然公債を持たないような財政が理想的だと考えることは、これは民間にのみ金融資金を独占的に使わせて政府部門はそういう公共的なことをやれない、長期的な設備建設はやれないということになりますから、これは理論的におかしはのではないか、こういうふうに考えます。
○羽生三七君 そういう根本的な公債政策の是非を論じておるのではないので、私の申し上げるのは、本年は四千九百億ですが、その程度の公債をかりに今後発行するにしても、何年かの後にはほぼ利息がそれと同じことになって、価値がどれだけあるかということについてお伺いしている。
○公述人(力石定一君) 利息は当然払うべきだと思います。その公債を持っているのですから、それについての利息は払っていかなければならない。利息がふえてくればもちろん税金の負担になります。ですけれども、それは、公債という政府が負債を負うという行為、そのことを否定しない以上、それに伴ってやはり利子を税金から払わなければいけない。したがって、そういうものをなくしてしまおうということは無理だと思います。また、そういうものをなくすことがいいことではないと思います。そういうふうな、公債を全然不発行の状態にしたいということを絶えず考えながら財政編成をやるために、社会資本ストックの国民総生産に対する比率がだんだん縮小してきて、そうして両者のアンバランスが激化してきたというふうなことになっているのではないかと思いますけれども、そういう意味で、利子負担はふえてもけっこうですし、それがたとえば公債発行額と同じぐらいの率に達するとか、そういうようなことがたとえ将来起こったとしても、それは国民総生産に対して、たとえばアメリカのような軍事予算が非常に大きくなると、これは浪費的な支出、これは財政消費でありますが、そういうようなもので国民総生産に対する公債の比率が大きくなることは望ましくないわけです。だけれども、建設投資に関してそういう比率がある程度高くなってくるということは、別に悪いことではない、こういうふうに考えます。
○木村美智男君 力石先生にちょっといまの公債問題でお伺いしたいのですが、やはり学問的に、これは赤字公債であり、これは建設公債だというふうに、理論的にはきちっとするかもしらんですが、現実の問題としては、必ずしもいま政府が言っている、建設公債だとはいっても、実際の問題はやはり赤字公債、実質的には赤字公債的なものがある。それで、やはりどうも理屈どおりにすっきり割り切れないのですが、たとえば赤字公債である場合には、先生のおっしゃるように、好況時にはそれをなしていってできるだけこれをゼロにしていく、こう言われるのですが、それじゃ、ある程度やはり建設公債について歯どめというか、そういうものが一つきちっとできてないと、やはり雪だるま式に利息ばかりがふえていって、これは税金負担という形での国民の相当の負担になっていくことだけは間違いないので、しかも、公債の性格として、必ずことし発行したものよりも来年度少なくというのはなかなかできないのです。返済ということはできても、発行額をどんどん減らしていくという関係は、好況でない限り、なかなかこれはできないわけです。だから、その国民負担の問題について何らかの一つの歯どめというものがきちっとされて、そうして、ある程度、利子負担というのはこれ以上は大きくならないのだという形がやはり明確にされて、それはしかも建設公債に限るのだというしっかりしたものがないと、学問的にだけこう言われて、公債はどんどん発行してよろしいのだ、こういうことを言われると、私に言わせれば、暴論的に言われると、私たちこれはちょっと根本的に公債問題についてどうも混乱をしてくるものですから、その辺どうなんでしょうか。
○公述人(力石定一君) 雪だるま的に公債がふえていくというのは、たとえば戦時経済、準戦時経済のときは雪だるま的にふえていく、そういうふうな場合に歯どめということを考えることはいいのですけれども、平時経済の場合は、雪だるま的にはふえていかないで、財界はむしろ率先して公債発行に対して反対いたします。というのは、自分の設備資金を確保したいために、公債はできるだけふえないほうがよろしいわけです。政府部門にその資金を取られてしまう。したがって、財界自身が歯どめのようになっていますから、その辺は社会党は苦労しなくてもいいのじゃないか。たとえば好況になって自然増収がふえますと、必ずそれは公債の額を減額するために使うという行動をとりますね。あれは結局、財界が設備資金を確保するために、政府はできるだけ引っ込めという行動をとっていることでありまして、そういう圧力は平時経済のもとでは財界は絶えずかけるわけです。そのことのほうが、設備資金について最も優先的な配分を受けることができるわけです。準戦時経済になりますと、逆に軍事行動を行なうために公債を国民に押しつけて、そうして雪だるま的に拡大をしていくということになりますけれども、歯どめ自身は財界が持っております。それから、国際収支の歯どめがございますから、国際収支の赤字になるような形での資金の、日銀信用の運用の拡大というものはできないわけでございますから、そういうワク内にとどめるべく資本自体が圧力をかける。国際収支の歯どめが絶えずかかってくるわけでございます。それを無視した形の公債発行というふうなことは、保守的な財界というものは平時済経のもとではとらない。アメリカの例でございますけれども、共和党になればなるほど公債発行に非常に反対なさいます。民主党の方のほうがむしろ社会開発のためにある程度公債を使ってもやらなければならんというふうになりまして、進歩的な人のほうが公債に対しては肯定的な態度をおとりになる。反動的な人は、公債発行されるとそれだけ設備資金をとられるから困るとか、税金負担がふえてまいりますというと、累進課税を強化せよという声がどうしても起こってまいります。勤労者はこれ以上税金負担をできないことは明らかでございますから、そうすると、財界も税金負担がふえてまいります。したがって、財界の税金負担をふやさないためにもそういう公債発行はあまりふえてこないほうがいい、それから財政全体もふくらまないほうがいい、こういうふうに平時には考えるわけです。一たん緩急ある場合に逆に変わりますけれども、逆に一たん緩急あった場合に、社会党の人たちが、そういう軍事的な浪費をやることは困る、こういうふうにやられることは、それは進歩的だと思いますけれども、平時のもとでそういうふうにやられるとかえって保守的だ、こういうふうに私は考えます。
○羽生三七君 根本的な議論を進歩、保守でやるつもりはないので、ただ私は、さっき申し上げたその利子でその年度の公債発行額に相当するような時点になってきたときにその効果というものはどういう意味があるのかということをお尋ねしておるので、それでも効果があるということがちょっとふに落ちなかったものですから、その点だけお聞かせ願いたい。
○公述人(力石定一君) 利子がその発行額と同じくらいになったとしましても、国民総生産に対する公債の発行現在高がGNPに匹敵するくらいにまで上がってくるというようなところまでなってきていないという現状のもとでは、その利子負担についても政府は甘受すべきであるというふうに私は考えます。
○鈴木一弘君 これは力石先生にぜひお伺いしたいのですが、いまありました長期公債を出して公共投資、社会資本のストックをすべきである、これはわかるのですけれども、その場合に、現在の日本の体制のときには建設公債の伸びのほうが社会資本投下の伸びより少ないという感じがあって、赤字公債的な性格がある。むしろ、先ほどもお話がありましたけれども、政府勘定をいわゆる資本勘定とそれから経常収支勘定、こういうものに分けるという考え方を立てなければならないのじゃないか、その点についての御意見はどんなふうにお持ちになっていらっしゃるかということ。 もう一点は、あと二点ありますが、一つは非常に社会資本のストックが低下しておることはわかりますけれども、政府の固定資産形成を伸ばしますと、現在でも政府のストックというものは、戦後急激にというか、民間のストックよりも大きいのじゃないか、個人個人の場合を見れば、国が栄えて個人が栄えていかないと、こういうような形態になっているのではないか、その点の疑念がありますので、この点についてはどうお考えか。 いま一つは、先ほど税金の問題が出ておりました。その税の問題の中で、いわゆる利子配当分離課税等はこれは撤廃すべきである、あるいは資産所有から生じる収入については税を高くすべきであるというお話があったのですが、これは所得税の体系が、現在のは、資産、資本から得るところの収入の場合も、勤労によって得た収入の場合も同じ所得税体系の中に織り込まれてくるわけです。私どもこれは分けたほうがよろしいのではないか、こう思っておるわけです。勤労による収入に対する所得税体系とこれは完全に分けて、そうして高率な税を課さなければとてもおっしゃるような実現はできないだろうと思いますので、この三点、いま申し上げた三つの点について。
○公述人(力石定一君) 最初に申されました資本勘定と経常勘定に分けるということ、これは賛成でございます。そういうふうに分けた形の——イギリスでやっておりますけれども——そういう形の予算編成方針にしたほうがよろしいと思います。 それから二番目の民間資本ストックと社会資本ストックとの関係でございますが、 〔委員長退席、理事米田正文君着席〕 民間資本ストックがふえることが、比率が高まることが望ましいのではなくて・現在では、生産が社会化されなければならないと同じように、消費も漸次社会化されていかなければならない。たとえば、マイカーよりも公共バスであるとか、あるいは公共輸送体系であるとか、あるいはマイホーム——あのスプロール型の個人住宅——よりも公共住宅というふうに、そういうふうにしていかなければ都市生活というものは合理的、効率的に行なえなくなってきている。そういう意味で社会資本ストックが民間資本ストックに対する比率というものは漸次上がってくるのが当然でありまして、経済社会発展計画では、大体民間資本ストック分の社会資本ストックを昭和四十六年に〇・五三に近づける、現在は〇・四八ぐらいでございますが、これが昭和三十年度には〇・五七でありますが、それがずんずん縮小してまいりまして、現在〇・四八まで下がっている。それを少なくとも〇・五三まで上げようという計画でございますが、これではあまりに遠慮し過ぎておるので、もっと昭和三十年の水準まで返していくぐらいのやり方をしないと、マイカー、マイホーム主義のガリガリの勤労大衆が生まれてきて、そういう人たちが減税を主張して、福祉国家への方向に対して逆方向の圧力を絶えずかけるというぐあいの精神文明に漸次なってくるわけでございまして、それよりもむしろ公共的な消費を優先させる観点でものごとを考えるとしますと、民間資本ストック分の社会資本のストックの比率は数字としては上がってくるべきであるというふうに考えられます。 それから、三番目のキャピタル・ゲインに対する課税でございますが、それを切り離してという形にやらなくとも、累進課税原則というものがほんとうにまじめに貫かれるように、分離課税というような抜け道をなくして、これは先進国にどこにもない制度でありまして、利子配当分離課税なんというのはどこにも見られませんが、こういうような制度をなくして、累進課税が高所得者にそのままストレートにかかるような形にしていけば、おっしゃるようなことを考えなくともいいのじゃないか。総合累進課税、総合体系でやっていけばいいのじゃないか。分離しますと、かえって今度はそういう分離的に得をするような形で高所得者が圧力をかける可能性もございます。大蔵省の少し前の調査ですが、納税人口〇・一%、これの実効税率収入に対する税金の割合ですが、これを出しております。これによりますと、イギリスが七〇%、ドイツが五〇%、アメリカが四〇%に対しまして日本は二三%という数字が出ております。そういうふうな、最高所得者に対して実効税率が最も低下してしまうような、累進構造をゆがめてしまうようなあり方に対して、これを修正するということが重点であろうというふうに考えます。
○塩見俊二君 一つだけお尋ねしたいと思います。 冒頭に申されました景気調整に対する公共事業なりその他の建設事業なりの御意見は、私も非常に敬服をしてお聞きしておったわけであります。その中で、景気調整の手段として、税の増減といいますか、税制の運用ということを非常に重大にお取り上げになったように思いますが、日本の現状から申し上げまして、確かに日本の税金というのは大体GNPに対して二〇%前後のところで、欧米諸国よりも高いということは私は言えないと思うわけであります。しかしながら、日本の経済が発展をしたと言いながらも、まだイギリスやドイツのせいぜい二分の一、あるいは三分の一という個人経済の状況でございます。アメリカに対しましても四分の一というような状況でありますので、この税の負担の国民生活自体に対する影響というものは、これは諸外国よりも日本のほうが非常に強いと思うわけでありまして、例にあげられましたけれども、この法人税の税率いかんにつきましても、もう日本の現在の状況では、その影響を直接生活に受ける日本の人口は非常に多いのであります。こういうふうな状況でございますので、単純に法人税の上げ下げとかあるいは所得税の増減というようなものでもって、少なくとも日本のいまの経済状況では、そう効果のある大幅な税の増減というものは非常にとりにくいのじゃないか、あるいはこのこと自体が非常に社会不安を起こすのじゃないかとすら私は考えておるわけであります。したがって、その考え方を否定するわけではありませんが、しかし、こういう際における公債政策というものにもフィスカルポリシーとしての相当の重みというものを考えていかなければならぬという感じがするわけでございますが、その点についての御意見を承りたい。
○公述人(力石定一君) 税負担率が上がってくると、たとえば法人税を一つの例にとりますと、非常な混乱が起きるというふうな御意見でございますが、よく法人税率を引き下げる場合には、自己資本比率を改善して資本蓄積を強化し、そして経済成長を伸ばしていくという目的のもとに行なわれるわけでございますが、そういう段階は、日本経済としてはもう過ぎたのではないか。で、むしろ法人税率が下がるのとパラレルに自己資本比率は悪化しております。ですから、法人税率を下げても自己資本比率は改善されないで、逆に、法人税負担が下がりますと、その分だけ所得が残りますから、それを引き当てにして借金をまたまたふやして、そして設備投資をやりまくるというふうに、過当競争を促進するような役割りを租税特別措置や法人税の安さというものが果たしておるんじゃないかと思います。むしろその結果として、設備生産性が非常に悪い。設備購入額分の付加価値で設備生産性をはかってみますというと、国際企業に比べて半分ないしそれ以下というふうなものが非常に多いわけです、大企業で。そのことは、結局法人税率があまり安いために、慎重な設備投資計画、あるいは産業再編成をもっとまじめに前向きに取り組んでいくというようなことがやられなくて、むしろキャッシュ・フローが残りますので、これを引き当てにしてまた借金負担をふやしていく、そして企業の財務内容を悪化し、国際競争力をその面では——資本自由化のもとでは、財務内容が悪化しておりますというと、簡単に乗っ取られてしまうような、そういう状況をつくり出してしまうわけでありまして、むしろ払うべき法人税はちゃんと払って、引き締めぎみに設備投資計画を立て、そして非効率な設備投資競争をやらないで、絶えず共同投資であるとか、あるいは産業再編成をまじめに前向きに考えていくというふうな形で、資本のビヘービアをきっと引き締めるという効果が法人税率にはあるわけでございます。そういう意味で、過熱を防止するということだけではなくて、今後の産業再編成という観点からも、そういう法人税率は当然国際水準並みを負担させていく、そして地域開発やその他の社会的なベネフィット、ソシアル・ベネフィットに即したような形の犠牲を払ってでも、たとえば、南九州に対して最近松下電器が設備投資をやるという決定をされたようですが、あれは、企業としては多少マイナスでも、とにかくあそこへやることが、雇用の地方分散、人口の地方分散、そして地域開発のために非常にいいのだというのでこういう決意をされたわけですが、松下電器のようにぼろもうけしているとああいうことができますけれども、普通の民間企業はああいうことはできません。ちゃんとした税金を取っておいて、そしてそういうところへ行くものに対しては税金をまけてやるという形で、特別の措置をとっていくというふうにすべきであります。それを、依然として終戦直後の時期の、生産力が非常に低い段階における設備投資に対する誘引政策を、生産力増強を主力として考えたところの、量的拡大を主として考えたところの法人税政策をいまでも持ち続けるということは、かえってソシアル・アンバランスを激化させるだけではなくて、民間企業のあり方としても、一時的には、その企業は得するように見えますけれども、大きな目で見るというと、産業体制というものを非常に軟弱なものにし、資本自由化のもとでは、外資によって乗っ取られてしまうような財務内容になってしまう、そういう意味で、財界人ももっとその点を大局的な観点から考えて、国際水準並みの租税負担率というものは、かえって自分にも大きな目で見ると得なんだという考え方をしてもらうようにしていく必要がある、そういう意味で、政治家は、財界人にそういう説得と教育をされることが必要なんではないかというふうに考えます。
○矢追秀彦君 力石先生にお伺いしますが、先ほどマイカーの問題を少しお話しになりましたが、私も考え方には非常に賛成でありますが、レジャー産業の問題です。それから、国民レジャー生活が今後非常に発展していくと思うのですけれども、福祉国家という問題とレジャーという問題についてどうお考えか、特に物価との関係もからめてお伺いしたい。
○公述人(力石定一君) 国民のレジャーというものも、民間企業を中心として、たとえば、労働時間が短縮される、所得も水準が上がってくる、そうすると、レジャーの消費支出、あるいはレジャーのための時間が浮いてまいります。これに対して、レジャーに対する需要が拡大するのに対して、主たる供給者が民間企業であるという形になりますというと、必ず国民の消費生活の内容は、個人的な消費が優先されて社会的消費が減退してくるという形になります。したがって、レジャーに対して十分な公共的な対置のしかた、たとえば公園をふやすとか、あるいは地方に都市を分散させるような形の配置計画をとって、レジャーのために疲れて帰ってくると、夏に海岸へ行ってもふらふらになって帰ってくるというふうなことがないような、過密都市の形成を除去するような形で公共投資を、先ほど言いましたような政策をとつていくとか、レジャー時間というものが人間的な疎外から回復される内容を持ったものにしていかなければならないのであって、民間企業が中心となってこのレジャー産業を発展させますというと、必ずこれは人間疎外型のものになります。たとえばテレビジョンばかり発展いたしまして、住宅や、学校や、上下水道とか、あるいは公園とか、そういうものが無視されておりますというと、テレビ人間という変な人間が出てきて、大学をこわしたりなんかするようなことになってしまうわけでございます。そういう意味で、この個人的な消費というものの持っている——これは生産過程において人間疎外型の非常に単調労働、こういうものから人間性を回復するために、個人的なそういう消費というものが必要だという形で、それを放任しておきますというと、この個人的な消費内容自体が、人間疎外型の商業主義に利用された消費内容になってしまうということになりますから、レジャー消費の内容における公共消費の優先ということを考えて、国民経済としては指導していく必要があるんじゃないかというふうに考えます。 そういう意味で、マイカー、テレビというものの普及率が、テレビの普及率は、ヨーロッパをすでに越えて、ヨーロッパ水準に対して一六〇%というような高い水準に達しております。マイカーの普及率は、現在はまだ二十人に一台ぐらいの比率でございますけれども、これをバンなんかも含めて考えますと、相当の比率に達します。全自動車の中で、外国では八割が乗用車でございますが、日本では六割五分がマイカー及びバンでございます。したがって、全自動車の普及率を見ますというと、七・六人に一台の自動車をすでに持っているという形に日本はなっております。イタリアが六・六人に一台、イギリスが四人に一台、アメリカの場合は二・一人に一台というぐらいになっておりますけれども、ほとんど欧米型の水準に、バンを含めていきますというと急速に近づいております。こういう自動車普及率をそのまま放任いたしますというと、かえって、さっき言いましたようなテレビ人間と似たような自動車人間、非常にエゴイスティックな人間が形成されてくるのでありまして、自動車消費というものについては、現在でもすでにモータリゼーションが少し行き過ぎて「もうたりてるゼーション」に近づいているんじゃないかと言われておりますけれども、そういう段階に入ってきておる。したがって、日本の国内において、そういうむだなレジャー消費よりも、住宅を、学校を、病院を、ということを重視した形の消費の指導が必要ではないか。そういう方向での予算編成が必要だ。 それから、自動車部門に関しましては、もっと輸出をするようにしてもらいたい。現在生産に占める輸出の割合が、ヨーロッパ諸国では大体四割から五割に達しております。ところが、日本はまだ一五%ぐらいでありまして、これを輸出に傾斜したような形で発展さしてもらうように、自動車部門の指導が行なわれる必要がある。 特に、外資に対する態度でございますが、外資が入ってくると、個人主義的なそういう消費を刺激する宣伝能力というのはもっともっと拡大されて、日本人の消費内容というのがこの外資によって操作されてしまう可能性がございます。そういう意味で、外資に対しては慎重な態度をとる必要がございますし、また、外資が日本の自動車部門の主要なウエートを占めるようになりますというと、日本の自動車の輸出比率は上がってまいりません。イギリスでは、外資の自動車部門の生産に占める比率が、一九五五年の三三%から、最近は五三%に上がってまいりました。これに対して、生産に占める輸出の割合が、五五%から三五%に向かって下がっております。外資がふえればふえるほど、輸出比率が下がってまいります。輸出比率が下がってきて国内中心の、現地市場中心の売り込みが行なわれるということになると非常に困るわけです。輸出を伸ばしていく観点からも、外資は、対米輸出をしないとか、あるいは自分の子会社のあるところには輸出しないとか、こういうふうにして、世界戦略でテリトリーをきめておりますから、現地市場中心になります。そういうふうな自動車産業の発展というのは、日本にとって望ましくないので、この辺でモータリゼーションはとめてもらって、せいぜい輸出してもらわなければならない。そのためにも、外資に自動車産業は乗っ取られないような政策がこれからは必要であろうというふうに考えます。そうして日本の民族産業としましても、輸出比率を高めて、そちらで需要を伸ばしていくようにすること。それから国内の自動車産業の乱立状態、これを早く集中化して二社ないし一社に集中化して、これが適正な供給を行なっていくという形に持っていく必要があるのであって、自動車部門がたとえばモデルチェンジを絶えずやって、 マイナーチェンジも含めますというと非常にひんぱんにチェンジをやっております。ところがルノーとかフォルクスワーゲンなんというのは、実に堅実なモデルチェンジでずっとやってきておりますけれども、日本の民族産業はもうすでにアメリカ型のそういう国民の消費生活を自動車部門に吸い寄せていく、吸い上げていくというふうな活動が非常に激しくなっております。こういうふうな自動車産業メーカーのあり方というものは、これからは当然問題にされなければなりませんし、そういう意味で、自動車税の引き上げを昨年行なわれたこと、あるいはカーよりもHをというふうな考え方が出てきたこと、あるいは先ほど申しました都内への自動車の乗り入れの禁止であるとか、あるいはパーキングの禁止であるとか、あるいは自動車が入れないような道をたくさん次々とつくり出していくという、そういうふうな規制政策によって、モータリゼーションにブレーキをかけるということが、国民生活のためにも必要なのではないか。現在では、排気ガスの問題であるとか、あるいは自動車事故の問題であるとか、こういうふうな問題で、社会的な弊害というものが非常に大きくなっておって、いわば平時経済のもとでの死の商人的な性格を持ちつつあるわけでございます。そういう性格を持たせないような自動車産業にしていかなきゃならないという点で、レジャーとの関係ではそこのところが一番重要だというふうに考えます。
○野上元君 尾関先生にひとつお伺いしたいのですが、先ほど尾関さんのほうから、物価あるいは公共料金、中小企業の問題等についてお話をいただきました。結論的に言えば、経済というのはあまり感情に走っちゃいかぬ、あくまでも合理性を追求して、その上でりっぱな結論を導き出していかなければならない、またそれ以外に方法はないのだ、こういうふうなお話がありました。私も全く同感でございまして、経済は、これはもうわれわれが幾ら感情に走ってみたって、みずからの自律運動を合理的に進めるだけでしょうから、結局行き着くところに行き着く、こういうことになろうと思います。 ただ、私お聞きしておってちょっと懸念をいたしますのは、極端に申し上げると、私の認識が誤ったのかもしれませんが、いわゆる優勝劣敗、あるいは適者生存というような原理を強く感ずるわけです。強くというよりも、そのほうにウエートがかかってくるというふうに感じるわけです。たとえば、中小企業に対する過保護の問題、これをやっておると、業者自体が時代の流れに適応できない。いわゆる柔軟性を失っていく。したがって、競争の風にさらして、その中で訓練をしていく。そこに中小企業の高度成長経済下における発展のチャンスを持っていくのだ、こういうお話がございました。公共料金の問題にしても、あまり公共料金をストップ、ストップと言っておると、結局企業自体が台なしになってしまう、適応性を失ってしまう、こういう思想が、尾関さんの大体の考え方の中に流れておるんではないか、こういうふうに私、認識したわけでございます。これは一つの経済理論であろうと思います。しかし、今日のようにずっとそれを、アダム・スミス以来それがずっと行なわれてまいりまして、そういうことではいけないのだ、いわゆる適者生存、優勝劣敗ではいわゆる何といいますか、社会の公平な発展が期せられないのだというので、たとえば最近いわれておりますように、ケインズの経済学とガルブレイスの政治学が結婚すべきである、そうしてこれがミックスした中で、一つの近代に即応した政治経済というようなものが生まれてくるべきである、こういうふうに最近いわれておるようです。そういう点について、尾関さんとしてはどういうふうにお考えになっているか、そのことの結論だけひとつお聞かせ願います。
○公述人(尾関通允君) お答えいたします。私のことばが足りなかったと思いますが、的確な見通しのもとに正常な努力をする人たちが報われるような経済政策でなくてはいけないということで、弱いものがつぶされたら、つぶされたままにしておけということでは毛頭ございません。ただ、世の中が激変しておりますので、新しい環境になるべく適応するような努力を引き出していく、そういう努力に対しては、もちろん全面的にできるだけの支援をすべきだろうと思います。
○秋山長造君 尾関さんの先ほどのお話の中で、流通部門に適正な政策が必要だということがあったと思うのですけれども、流通部門に対する適正な政策ということは、具体的にあなたどういうことをやるべきだとお考えになっておるか。なかなかこの流通部門ということは、われわれもいつも口にはいたしますけれども、なかなかこれはほんとうに適切有効な、しかも実行可能な具体策というものが見当らないので、われわれ自身も率直に言うて悩んでいるわけです。こういう機会ですから、流通部門にどういうことをやったらいいかという案がありましたら、ひとつお教え願いたい。
○公述人(尾関通允君) 私にも実はあまりいい知恵があるわけじゃありませんけれども、ささやかな経験からいきますと、たとえば私は前に埼玉県の霞が丘団地に住んでおりましたが、近所でできる農産物が一度東京へ帰って、それからまた消費者の手元へ戻ってくるということである。それから湘南のほうへ一度まいりましたら、非常に物価が高いので、生鮮食料品なんか案外に高いので、ふしぎに思って聞いてみましたところが、近所でできるものが、やはり東京へ行ってまた戻ってくる往復の輸送費だけ上積みになっているというようなことを聞きました。そういう意味からいきますと、産地と、いや、生産者と消費者をもっと直結させることを考えるべきではなかろうか、それが一番手っとり早い。したがって、そういうものを一挙にやりますと、今度は卸なり小売りなりを担当している人がまいってしまいますから、そういう部門をできるだけなるべく急いでふやしていく、そうすることで、現在の流通部門担当者を競争の過程へだんだん持っていく、そうすれば、ここら辺の経費というものは相当に節減されてくるのではなかろうかと思います。あまりいい知恵はございませんけれども、たとえばそんなところに、非常に身近な対策というのが考えられるのじゃないかと思いますが。
○秋山長造君 もう一間、これは力石さんに、ちょっとあと戻りしますけれども、お尋ねしたいのですが、先ほどのお話の中で、住宅に対する公共投資の比率が、日本の場合非常に低い。西欧諸国と比較して数字をあげられたのですが、この数字から見ますと、これは問題になりません。日本の場合、これだけ住宅不足、住宅難という声のやかましいにもかかわらず、依然として住宅に対する公共投資がこういうように一二%というような低位にとどまっているということは何が原因ですか。この点を、もちろん政府の姿勢ということも、これはおおまかに言えばあるでしょうけれども、もっと掘り下げて、この御説明を願えたらいいと思うのですが、何が原因で一体こういう住宅投資が低いのか。
○公述人(力石定一君) これは、先ほどこちらの塩見さんでしたか、御質問ございました。一人当たり国民所得が非常に低いので、公共部門はそれほどたくさんの税金を取れないのだという議論、これがやはりネックだと思います。といいますのは、一人当たり国民所得・たとえば・西ドイツで一九五四年には五百十ドルでございます。一人当たり国民所得で五百十ドルでございますけれども、GNPに対する租税負担率は当時すでに三五%に達しております。日本はすでに千ドルに達しておりますけれども、依然として二〇%、一人当たり国民所得が低いんだから租税収入が低いのはあたりまえだという議論は成り立たないのでございまして、西ドイツでは一人当たり国民所得は低いなら低いなりに、それに見合った公私の配分を考えて、三五%を以前から持っておる。現在も三五%でございます、まあ、多少上がりぎみでございますけれども。ですから、GNPの中の、当然成長したらそれに見合うところの社会保障であるとか、あるいは住宅であるとか、こういう社会的な消費については、ちゃんと何割かは必らず確保するという形の成長パターン、民間をまずわあっとやらせておいて、そしてこれはあとで待ってなさい、そして待ってよ、待ってよと言って、いつまで待ってもそこはやってこないような成長のパターンをとるか、あるいは、初めは乏しい状態でも、とにかく公私の比率はそこできちっと三五%取っていく、それでもって成長パターンを続けてきて、ソーシャル・アンバランスが起きないような成長をやっていくか、この二つの指導の仕方の相違ではないかと思います。したがいまして、日本の五百十ドル段階というのは、日本では一人当たり国民所得、昭和三十五年に五百三十ドルに達しておりますから、この段階ですでに三十何%あっても全然ふしぎではない。で、一人当たり国民所得が低いことが租税負担率を低からしめる基本的な原因だという考え方が基本的に間違いでございまして、一人当たり国民所得のいかんにかかわらず、何%を公的なものに何%を民間でやるかということについての、国民の民度の問題、民度がこのパーセンテージに反映するのでございまして、一人当たり国民所得が伸びたからこの比率が高まってくるというものではないという経験がヨーロッパの場合にはっきりと示されております。もう一つ例をあげます。フランスの場合に、一九四九年に四百八十ドルです、一人当たり国民所得。これに対してGNPに対する租税負担率は三六%でございます。で、六二年には千ドルをこえましたけれども、依然として三五%。こういうふうに、低ければ低いなりにそれに合った公私のバランスを考える。成長したら必らず社会保障をそれに見合って何%か、三十何%の、その公的な消費を確保するというふうなやり方をとっておる。このやり方がとられれば、この住宅供給に占める社会的な供給の比率を高めることが可能ですし、また、こういう社会的な住宅投資を強化することによって地価その他に大きな影響が出てまいります。スプロール型に人口はどんどん郊外に出てまいりますというと、土地がどうしても騰貴いたします。たとえば中級住宅地、たとえば三鷹あたりの地価が坪当たり十万円、二、三年前は十万円ぐらいでしたけれども、この十万円——三鷹ぐらいのところに当たるような中級の住宅地地価を各国の首都について見てみますと、大体において一万円前後で、ボンだとか、パリ、それからロンドン、こういうところは大体それぐらいの数字でおさまってる。それはさっき言いましたように、公共住宅投資でもってかなり勤労者の分はそこで吸収されてしまいますから、だからスプロール型に土地の奪い合いが起こらないということが第一。それから、土地税制についての規制がちゃんと行なわれている。それから、大都市に人口が日本のようにどんどん集まり過ぎないように地方に分散しているというふうな政策がちゃんととられておりますので、住宅はこの土地に対する費用が非常に安くて済むわけでございます。で、まあ、そういうふうな国民経済における公共部門というものに対しての考え方、民度というものが、日本の場合とヨーロッパの場合では基本的に相違してるんだということが基本的な原因ではないかと思いますが。
○山高しげり君 尾関先生にお尋ねいたします。先ほど消費者教育の必要ということをおっしゃったんですけれども、それはよくわかりますけれども、例にお引きになった、まっすぐなキュウリの話ですが、消費者が、値が高くなってもいいからまつすぐなキュウリをつくってくれと言ったわけではないのですから、消費者をだれがどこで教育するかという、そのところまで伺わないと、ちょっとはっきりしないように思います。で、いまは、結局消費者がものを知らないために高いものを買わされていると、こういうふうに言われて、消費者教育さえすれば、その問題も解決するような考え方がわりに多いんですけれども、消費者が知らない間に生産者が値をつり上げるためにまっすぐなキュウリをつくって売るというようなことを、消費者が教えられてから抗議を言って値が下がってくるという、そういう筋道を通って悪いこともありませんけれども、端的に生産者にもう少しそういうようなことをさせないという働きかけ方も、物価を上げない一つの方法になるように思う。必らずしも消費者教育だけが物価を引き下げる大きな役割りを持っていると思えませんし、それから、日本の消費者保護行政というものが始まったばかりでございまして、抽象的に消費者教育の必要は非常に言われますけれども、それをどこでだれがやるかという問題がまだはっきりしていないようでございます。その辺を伺いたいと思います。
○公述人(尾関通允君) 御指摘の面が確かにあろうかと思います。しかし、キュウリについて見ますと、最初にそもそも始まりましたのは、曲ったものもあるしまっすぐなものも店に出ておる。そこの中で買う者が、やはりまっすぐなものから買っていくというところから生産者がヒントを得て、買っていくというふうに聞いております。かっこうのいいものはやっぱり高くなりますということを認識していただくことがまず第一じゃないかと思います。 それから、私の非常に小さな経験でございますが、新幹線に乗っておりましたら、ある御婦人でしたが、車内を売り歩く売り子に、あっちのたなにある荷物をこっちに移してほしいなんということを言っておりました。どうするかなと思って見ておりますと、移してもらったのに対しては、ありがとうと一言言っただけで別段何も謝礼をしない。こういう感覚が現在まかり通っている。それから、レストランなんかに入りましても、「おい水をくれ」とか「あれを持ってきてくれ」、こういう「くれ」というような調子でものを言う。そういうことが今度はそういうところで働く人たちの自尊心というものをひどく傷つける。そこで、よほどいい条件でなければ、そういうところではなかなか人間が働こうとしない、したがって、非常に高い人件費を出さなければならないということになるという、そこら辺に消費者がもっと賢くなって、そういうところで働いている人たちもりっぱに労働しているのだということを認識して、相手の人格を認めるような取り扱いをすれば、そういう人たちは働きやすくなる。それから、夜の夜中まで店に買いに行くというのは、やはりそういうところで働いている人たちの労働を過剰にするのだというような認識が出てくれば閉店時間も出てくるでありましょうし、商売の時間というものも限られてくる。そうすれば、そうべらぼうな人件費を負担しなくても済むようになる。そういう面でいろいろ消費者自身ももっと気をつけなければならぬ面があると思います。御指摘の面も確かにあると思います。
○山高しげり君 どうも労働過重の問題になると、家庭の中で、夫と妻の関係で御主人などの教育もしなければならないというふうに論旨が発展しそうに思えますけれども、消費者としては格別食品に着色してほしがったり、またつやをつけてほしいということもないのですよ。ゴマはゴマでそのまま売ってくれていいものを、いつの間にか着色をしているとか、あるいはまた、それをすりつぶして原型のままでゴマを売らないというようなことが、一々消費者の要求でできているかどうかという点に疑問があるのです。なるほど、曲ったキュウリとまっすぐなキュウリと並んでいれば、少し高くてもまっすぐなキュウリを買う主婦もおりましょうけれども、しかし、同じキュウリにしても曲ったキュウリのほうが安いと思って買っておる主婦もありますので、ただ消費者の責任にだけ——愚かな消費者であるか賢い消費者であるかという、消費者の知識教育だけで論じることはどうもできないのでありまして、正しい生産をさせるという力も政策の中に働いて私は当然だと思いますけれども、いまは消費者行政のことがたいへんやかましく言われて、ともすれば消費者のほうが過保護になりかねない危険もございますので、私は、あくまで消費者の責任というのではなくて、生産者にも責任を持たせるということが生産の部門でも考えられなければならない、消費者教育だけでそれが足りるとは思わない、こう思いますが、いかがでしょうか。
○公述人(尾関通允君) その点も御指摘のとおりだろうと思います。
○二宮文造君 尾関先生にお伺いしたいのですが、先ほどの物価の刺激の要因の中に、政治が顔を向けると物価を刺激してしまう、そういう場合にお米の例をおあげになりました。そういう面からは、四十四年度の予算編成にあたって政府が米価の据え置きを考えたという点をおあげになりました。これはお説のとおりだろうと思うのですが、ただ、御承知のように、今度は米につきましては、自主流通米と、こういうふうな道が開かれるわけであります。議論の段階として、うまい米とか、あるいはまずい米とか、こういうような議論の段階もございますけれども、この自主流通米という制度がそういう意味で消費者米価にはね返ってくるんじゃないか。うまい米を食う、そのために結局家計の米に対する支出が増大してしまう、こういう心配も一部にあるわけであります。したがいまして、予算編成の中で自主流通米という制度を開いて、しかもその自主流通米が消費者物価にはね返ってこないように運用さるべきではないかと、このように私ども思うわけでありますが、この点について御意見を伺わせていただきたいと思います。
○公述人(尾関通允君) 理想を言えば、御指摘のとおりでありますが、非常に長い間現在までの食糧管理制度になれてまいりました。その上に米の生産あるいは米価の決定というものが成り立っております。これを一挙に望ましい方向へ持っていくことは、無理であろうと思います。過渡的に自主流通米というようなものができて、これがだんだん望ましい方向へ持っていくそのための糸口になるという意味で、私は評価できるんじゃないかと思います。自主流通米が消費者米価の上昇にはね返ってまいりましても、消費者米価そのものを大幅に値上げしたというやり方と比べますと、おそらく上昇は小幅にとどまるだろうと思います。そういう意味では、これは上げるのを押えるためのやむを得ない便宜手段というふうに私どもは理解したいと思います。
○二宮文造君 そうしますと、御意見によりますと、自主流通米における消費者米価の押し上げは必ず出てくると、しかしそれが、いわゆる政府が消費者米価を上げるよりは、相対的な金額といいますか、それが少なくなるから、やむを得ない面があるんじゃないかと、こういうようなお考えでしょうか。
○公述人(尾関通允君) そのとおりであります。
○多田省吾君 物価の問題で尾関先生にお伺いいたしますが、先ほどは食料品にかわって公共料金が消費者物価値上げの主役になるんではないかというお話もございました。それについて、たとえば公共料金に近いような姿で電気料金なんかの問題もあります。電気ガス税の問題もありますが、それ以上に電気料金なんかは、これは衆議院の予算委員会でも追及されたのですが、明確な答えはなかったわけであります。非常に定率償却あるいは定額償却の問題で——どっちでもいいわけではありますけれども、もし定額償却にすれば六百数十億の東京電力なんかも余裕が出てくるわけでありますけれども、定率にして定額よりも六百数十億を落としているわけでありますが、こういった問題。これも、この前は中国電力なんか値下げしようとしたら寄ってたかって足を引っぱられたというような姿もありましたし、また電力会社といえば政治献金の御三家といわれるような姿もございます。そういった面で、通産省の指導監督というものが非常になまぬるいのじゃないか。むしろそういった下げられるものは少しでも下げるように努力をして精神的な波及効果を十分勘案したほうが物価問題については相当効果があるんじゃないか、こういうことも考えられますし、あるいは最近言われている問題で高級官僚の天下り、通産省、あるいは防衛庁、さらには厚生省というような問題で、結局官界と財界の非常に密着した姿がございます。それによって、いまは薬価基準の値下げなどもすでに行なわれてはおりますけれども、私たちはまだまだ足らないと、こう思っておるわけであります。こういった問題というものがいわゆる消費者物価の値上げをしている大きな要因になっているのではないか、こう考えます。それについて尾関先生はどのようにお考えになりますか。
○公述人(尾関通允君) いまの電力料金の問題は、私は、物価問題というよりは、もっとやはり産業政策の問題であろうと思います。ただ、定率償却を定額償却に変えたら余裕が出てくるからそれは下げ得る財源になるのではないかという御指摘に対しては、一方で非常な構造変化が進んでおりまして、電力についてもやはりいろいろやらなければならぬことがある。そのためにはできるだけ償却はやったほうがよろしいという立場から、現在の段階でやはり定率償却でいったほうがいいのではないか。それでもなおかつ余裕があって、個々の電力会社で自主的に下げるということであれば、これはむしろ下げることを認めるべきだ。ほかの電力会社が波及をおそれてそれを阻止しようとすれば、それに対してはやはり政策の知恵というものが働かなければならないと思います。 後段の問題については、これはどちらかといえば政治の問題でありますので、ちょっとお答えに困るのであります。このくらいでよろしゅうございますか。
○木村美智男君 尾関公述人に一つ聞きたいのですが、生産性の低い部門に競争を起こさせるという考え方は、私は産業政策的な意味も含めて働かさせてもいいと思うのですが、中小企業が今日過保護になっているという考え方は、いろいろな面から考えてどうもわからないのでございますけれども、この点は一体どういうことなんでしょうか。むしろ物価対策的な意味で言えば、中小企業やサービス業におけるやはり合理化、近代化というものが不十分なるがゆえに、やはり最近の大企業その他一般の賃金の上昇に伴って人を確保するためにはある程度賃金を上げなければならぬ。このことが中小企業製品なりサービス業の料金をやはり高めていっているということの観点で、むしろ中小企業については、保護というよりも、もっとぼくの考え方で言うなら、ばく大なやはり資金を投入をして、急速にいまの構造的な要因という政府が指摘するその場所に、そういう部門に相当の資金を投入をすることによって近代化、機械化をはかる以外に物価対策としてはむしろないので、中小企業過保護どころか、中小企業がむしろ何というか取り残されている、こういう考え方なんですけれども、この点ちょっとよくわからぬのですが、お伺いしたいのです。
○公述人(尾関通允君) 数十万の中小企業が千差万別でありますので、御指摘のような面も確かにあろうかと思いますけれども、一方では、中小企業団体法に基づく安定命令というようなもので、これは次の構造変化に対応する、あるいは適応する態勢を整えるために、一時的に出荷の制限なりあるいは設備調整なりをやるということで認められておるのでありますが、これが長いものではすでに十数年になっておる。そこで競争制限が行なわれておる。そのためにそれじゃ新しい適応態勢が整えられておるかというと、そういう業種ほどかえって整えられていない実情であります。時代は新しい適応を要求しておるのに、中小企業の適応態勢はおくれっぱなし。その原因はどこにあるかといいますと、この安定命令の上に結果としてあぐらをかいてしまっておる、緊急避難的なものがいつの間にか安住の家になってしまっている、そういうような面があります。こういう面では、明らかに過保護だろうと思うのです。ですから、保護が足りない面も確かにあろうと思いますけれども、そういう面が多々あるということを私は忘れてはいけないのではないかと思う。それがまた、生産性向上意欲、それによる価格の引き下げの可能性というものを押え込んでしまっているのじゃないかと考えられるわけです。
○木村美智男君 尾関先生、私はむしろそういう意味で言うなら、今日不況カルテルといったようなものこそこれは問題なんであって、こういうものがむしろ取り払われていかなければならぬと思う。そういう点で、先生の言われるようなことなら、たとえば、再販売価格維持契約といったようなね、こういうものこそ、その中小企業の生産性を阻害し、あるいはその近代化をおくらして、国際競争にも太刀打ちできないような仕組みにさせている、こういうように理解をしていけば、私それなりにわかるのですがね。それが中小の保護ということに一体なってくるかどうかという問題は、ちょっとやっぱりどうもまだ疑問なんですけれどもね。過保護ということになっているか。
○公述人(尾関通允君) いろんな見方ができるだろうと思いますけれども、その中小企業対策の中に過保護の一面がある。経営の中身にまで立ち入りかねないような政策が行なわれている面が多分にあるのでありまして、施策の面でやるべきことは、経営の外まわり、たとえば、努力する人については、条件さえあれば、できるだけ低利の資金を、いまのように五年か七年じゃなくて、もっと十年、十五年の長期の資金を安定的に供給する問題でありますとか、あるいは、こういうふうに構造変化が非常に激しい世の中でありますから、情報を的確に中小企業にも供給する。有力企業に比べまして中小企業の情報入手源は非常に制約されております。貧弱な情報源しかありませんので、そういうものをもっと豊富に的確に迅速にしてあげるというような、経営の外まわりについて大いに努力すべきである。保護の局面が少しずれているのじゃないかという印象を持ちます。そういう、ずれたところで保護をおやりになっている。そういう面では過保護の面があるのじゃないかというふうに、へ理屈をこねたようなかっこうになりましたけれども。
○中村喜四郎君 力石先生にお願いしたい。 先ほど、示唆に富んだ住宅宅地対策等の問題に触れられたわけですが、日本の場合に、公共投資、社会開発、社会部門の開発をする場合にも、用地買収等に多大にかかる。特に東京の場合には、事業部門の八割くらい用地買収にかかってしまう。西欧のように定着した民主主義の中での、土地とか住宅とか、そういうものは公共のものだという、こういう観念の中に進められているために、比較的政府投資は少なくても大いに事業ができる。日本のようなこの姿の中で地価対策を具体的に進めていくためには、どういう策がいまの時点でいいか、外国との例の比較において、ひとつ、比較対比されたものがあれば、御説明願いたい。
○公述人(力石定一君) 地価対策の基本的な考え方は、三つあると思います。先ほどもちょっと申し上げましたけれども、人口が大都市に集中しないようにするということ、元せんを締めないと人がどんどんどんどん集まってきて、たとえば今度の総合開発計画では、関東地方を含めまして四千万人ぐらいの人口がここに住むというような予想、あるいはそれをちょっと落として三千何百万人という予想を立てて、予測をされておりますが、こういうふうな過度集中を肯定するような考え方にヨーロッパ諸国では立っていないで、むしろ逆に、最適規模——大体一番まあ土地に対する奪い合いも少ないし、そして公害も少ない。都市公害も少ない。物価も、土地が上がるだけではありませんで、過密都市になりますというと、たとえば水道が足りなくなって水道料金を上げなきゃならない。あるいは道路が麻痺してきたのでバスが動かなくなって、その結果料金が上がらなきゃならぬというふうに、過密がまたインフレーションの原因でもあるのですね。その一つとして土地の騰貴があるわけですが、こういう過密インフレーションに対処するために、ヨーロッパ諸国では、基本的に産業立地をコントロールする、就職の機会を地方に与えるということを第一に考えている。日本でも、新産業都市という考え方がございましたが、このビジョンはよろしいのですけれども、これを実際に実行性のある計画としてやられるためには、先ほど言いました公共部門の資材の購入は、地方に工場をつくった、いわゆる車両工場を地方につくったものから優先的に国鉄は買ってあげるというふうな形で、地方に産業を分散して、そこに人口が定着するようにしますというと、比較的、地価に対する、土地に対する奪い合いというのは少なくて済むわけです。ところが、大都市に集まりますというと、需給均衡が非常に大きくなってきて、狭い土地に向かってたいへんな需要者が殺到するという結果になります。この分散政策について実行性のある政策を何も日本では立てなかったというところに基本的な原因がある。税制面につきましても、分散効果を持つような税制政策を、先ほど私一つ申し上げました。 それから、ヨーロッパ諸国では公企業がたくさんございまして、ルノーだとかフォルクスワーゲン、イタリアですとENIとか、こういうふうな公企業がたくさんございまして、この公企業が率先して地方に工場をつくって、そしてそこに人口を引き寄せて、磁石のような役割を果たしておる。そうすると、最適規模が幾つも全国に散らばった形で発生してきて、そこでみんなが仕事の機会を見出すことができる。あるいは、社会文化史的な面に関しましても、先ほど言いましたように、公共部門が計画的にこれを吸収するという形に重点を置いておりますので、地方に大学や病院が分散して配置される。その結果、人口がそのまわりに定着するというふうな、定着をはかるような国家の機能というものが非常に強力であるわけです。それから電力にしましても、フランス、イタリア、イギリスでは、電力は大体全国的に一社化され国有化されておりまして、地方ほどむしろ電力料金が安いような形成のしかたをする。日本の場合は九社で、先ほども話がございましたが、乱立で競争しておりますので、大都市の電力会社は、電力の利用者が人口が多くて、また工場も非常に多い、その結果、スケール・メリットが発揮されて、コストが下がる。その結果、料金も比較的地方電力よりも安くつけることができる。その結果、東京電力や関西電力は安いというので、工場がどんどんそのまわりに立地する。そのまわりに立地するので、そこで過密現象が激化していくということになるわけであります。 この過密現象の中には、単に物価を騰貴させるだけではなくて、公害を激化させる。電力会社が燃やす石油の硫黄分を幾ら下げても、発電のための石油の燃焼量というものが累積的にふえてまいりますと、環境基準としては一向に改善されないという結果になるわけです。したがって、都市の公害を規制するためにも、電力料金が根本的に問題になる。公害多発産業を大都市に引き寄せているこの料金体系というものを修正するようにしなければならない。そこで、中央的な管理を行なっているような国々では、地方へ行けば電力料金がかえって安くなる。利益がプールされておりますから、コストは地方のほうが高くても、そちらのほうを料金を安くする。そうして工場が集まってまいりますと——日本では一番高いのは九州電力ですが、九州に工場が集まってくれば、最低料金を下げてコストよりも二まわりくらいつけておっても、だんだん工場がそこに集まってくるというと、たくさん燃やしてスケール・メリットが出てまいりまして、コストは下がってくるわけです。そしてつり合うようになる。そういう意味で、九電力の公益企業体が競争するという、ことに一つの問題があるのではないか。公益企業体というものは、競争が資源配分を最適化しない産業である。したがって、これは統一的な管理、計画的な管理のほうが適しておる。製造工業の中には競争が資源配分を最適化するものがたくさんございますが、公共部門の中の特に公益事業体というものは、競争は必ずしも資源配分を最適化しないで、かえって過密を激化するという傾向がございます。そこで、そういう形が公共部門を有効的に地方に分散させ、そしてそこに人口を定着させるようにしておれば、土地の価格はそんなに高くならないわけであります。 こういう政策を一切ほとんどとらないで、中小企業に多少免税をしてあげるから行きなさいという程度のことでやっておるわけです。そうすると、たいてい中小企業なんかは、不便さに耐えかねて、行きて帰らず、沈没するということになってしまうわけでございまして、もっと本格的な、そういう政府の有効な政策がとられる必要があるんじゃないか。それによって、まず、土地に対する奪い合いが起こってくるのを防いでいく。 二番目の柱は、先ほど申しました住宅の公共的な供給でございます。奪い合いが起こらないように、交通体系、あるいは上下水道というようなものと絶えず並行して、計画的に住宅供給を行なっていって、そして勤労者の主要な部分はそこで吸収されてしまう。郊外住宅を求めるのは、たとえばイタリアの例ですが、ある人が言っておりましたが、郊外に住宅を建てるのは、ジーナ・ロロブリジーダみたいなたいへんな金持ちが郊外に住宅を建てる。勤労者は大体都市内において高層住宅に住んでいる。こういうシステムになるわけですが、日本のように、個人でかってにやりなさいということになりますというと、郊外に向かって殺到します。最初は都内の木賃アパートに住んでいるのですけれども、だんだんと所得が上がっていき、子供がふえてきますというと、郊外に向かって殺到する。そしてそこの地価を高めていくわけであります。その地価が高まったあとでいろいろな公共投資をやるとなると、たいへんな金がかかって、買収費その他に公共資金の大部分が吸収されてしまって、なかなか追いつけないというふうな非効率な状態になってしまう。そういうことがわかっておりながら、全体としてそういうふうなサービスをしなくてもあまり文句を言わないような国民であるならば、安あがりだから、個人でかってにやりなさいというふうな体制になるわけです。その結果、価格は騰貴して、非常なマイナスが起こってくるわけです。そこで、公共部門が中心となって住宅を供給するという、住宅供給の社会化政策をとることによって、かなり土地問題に対する殺到する需要というものを吸収していくことができる。これが二番目の柱です。 三番目の柱は、おっしゃいますように、土地に対する私権の制限、たとえば土地増価税をとるとか、あるいは公共部門が先買い権を発動して、土地を先に確保するようにする、あるいは収用権を強化することによって土地の相当部分を地方自治体が保留しておくようにするというふうな、いろいろな私権制限政策がその第三番目の柱として登場してまいります。 この三つがうまく合いますというと、比較的地価問題というものは頭を悩まさなくて済むような方向にいけるのではないかと思うわけですけれども、ただ、三番目の私権制限ということだけを強調して、前の二つが抜けますというと、これは勤労者に対する無理じいが起こってまいりまして、その反撃があまりにも強くて、かえって、なかなか有効な政策が打てないということになるわけでありまして、いわば窮そネコをかむようなところに追い込んでおいて強権を発動しますというと、これは非常なひずみが強くなってまいります。したがって、そういう殺到する有効土地需要というものを、需要の面で調整し、そうして供給の面でコントロールする、両方が必要なのではないかというふうに私は考えるわけであります。
○理事(米田正文君) 他に御発言もなければ、質疑はこの程度にとどめます。 公述人の方々には、長時間有益なる御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。 午後一時再開することといたしまして、これにて休憩いたします。 午後零時二十二分休憩 —————・————— 午後一時十八分開会
○委員長(塩見俊二君) ただいまから予算委員会公聴会を開会いたします。 午後もお二人の公述人の方に御出席を願っております。ただいまから順次御意見をお伺いいたしたいと存じまするが、その前に公述人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。 本日は御多忙中にもかかわりませず、本委員会のために御出席をいただきましてまことにありがとうございます。委員一同を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。 それでは、議事の進行上、お手元に配付いたしました名簿の順序に従いまして、お一人三十分程度で御意見をお述べを願いまして、公述人の方々の御都合もありますので、まず、藤井公述人の公述が終わったところで、同公述人に対し、御質疑のおありの方は御発言を願います。 それでは藤井公述人にお願いをいたします。
○公述人(藤井丙午君) 八幡製鉄の藤井でございます。私に対する公述は、今後の産業政策のあり方についてというようなことでございますので、若干愚見を申し上げまして御参考に供したいと存じます。 御承知のように、日本は鉄鉱資源も石油資源、繊維原材料その他主要工業原材料を持たないまことに資源の貧困な国でございますけれども、幸い国民の努力によって御承知のようにここ十年間、年率一〇%といったような非常な高い経済成長を続けて今日に至っておりまして、四十三年度のGNPは大体一千四百五億ドルと見込まれる次第でございまして、私どもが関係しております鉄鋼業におきましても、大体四十三年度で六千八百六十万トン、これは粗鋼でございます、そして四十四年度はおそらく七千七百万トンの粗鋼生産になるだろうとわれわれ予定いたしております。しかもその中で、輸出は鋼材で千三百万トン、粗鋼にいたしますと千六、七百万トンでございますが、いずれにいたしましても世界第一の鉄鋼輸出国になっておるわけでございます。まあアメリカの一億二千五百万トン、ソ連の一億トンに比べますと、大きな開きがまだございますけれども、しかしフランスが二千万トン、イギリスが二千五百万トンあるいは奇跡の繁栄をうたわれました西ドイツにおいてすら、ここ数年間三千七百万トンといったようなところを低迷しておるに比べますと、鉄鉱資源を持たない日本が、四十四年度七千七百万トン程度の生産ということは、これはまさに脅威的といわざるを得ぬわけでございまして、しかも非常に安い、いい鉄を供給しておるというて、多少コマーシャルみたいになりますけれども、そういうわけでございますので、したがって、それを材料とする造船工業も四十三年度はおそらくグロストンで八百九十万トンの建造高になるであろう。むろん世界第一であり、世界の造船の約四〇%、そして輸出造船は世界の輸出造船の約五〇%を占めるという、これは圧倒的な国際競争力を持っております。自動車もまた自由化の問題がいまいろいろいわれておりますけれども、これまた大体四百三十五万台という四十三年度の生産見込みでございまして、これもドイツ等を抜きましてアメリカに次ぐ第二の自動車生産国になって、かなりの輸出の額に達していることも御高承のとおりでございます。石油産業にいたしましても原油がほとんどございませんけれども、大体四十三年度で一億四千万キロリットルの原油の輸入精製、それを原料とする石油化学とその他の化学産業をも含めまして、これまた世界第三位であるわけでございます。かように重要産業は一位もしくは三位という状態でございまして、いわゆる世界の三大工業国にのし上がっておるわけでございます。これは結局国民の非常に教育水準の高い、しかも勤勉なそして貯蓄性向も、最近はレジャーだ、バカンスだといいますが、世界の最高の貯蓄性向という、こういった優秀な日本民族のエネルギーと申しますか、バイタリテーと申しますか、そういったものがこの繁栄を築き上げたわけでございますけれども、しかしながらこの背景といたしましては、やはり日米安保条約によって、日本の国土の安全、生命、財産の安全が保障されておるという大前提があって、しかも戦後経済援助のみならず技術革新といわれるもの、あるいはオートメーション、マスプロダクションといったような近代的な設備のほとんど大部分を、アメリカから輸入し導入したというような背景、あるいは軍事費負担も、最近では一般予算の中で九%程度になりましたけれども、数年前まではほとんど軍事費的な、いわゆる防衛費の負担なしに、資本蓄積の大部分を公共投資なり産業投資なりに投入できたからこそ、こういった世界に比類のない経済成長ができたのではなかろうかとわれわれは考えておる次第でございます。しかしながらいまや国際経済環境も非常な大きな変化が起こってまいりまして、従来のような高度成長が、はたして持続できるかどうかという大きな問題にわれわれは当面しておるわけであります。と申しますのは、その国際経済環境の一つの大きな変化は、いわゆる貿易の自由化から資本の自由化へ、三十年代後半はいわゆる貿易の自由化、そうして四十年代に入りましていよいよ資本の自由化をわれわれは迫られておる段階でございまして、すでに鉄鋼業、造船業といったような国際競争力の強い産業は、第一次からもう一〇〇%自由化されておりますけれども、そういうわけでございまして、いよいよ国際経済時代というものを迎えまして、われわれは単に安いいい品物をつくっておるというだけでは競争できない、そこにはいわゆる革新的な技術力であるとか、あるいは資本の調達力であるとか、あるいは市場の開拓力であるとか、あるいはまた経営の管理能力、こういったあらゆる企業の総合的な力でもって国際競争に耐え得るような日本の産業体質、経済体質にしていかなければならぬ、こういう大きな問題にわれわれは取っ組まなければならぬ状況でございます。したがいまして、いま申しましたような鉄鋼とか、造船であるとか、あるいは自動車、あるいは機械、そういったいわゆる先端産業、あるいは戦略産業的なものを企業の再編成、産業の再編成——いわゆる企業の合同であるとか、合併であるとか、企業の提携であるとか、そういうことを通じて国際競争力を一段と強化していかなければならぬ、なかんずくこれからの大きな問題点は、非常な技術革新が進んでおるということ、これが第二の問題であります。 御承知のように、戦後は日本の経済が非常に急速に発展したということは、いま申しましたように、主としてアメリカから技術革新的なものを導入し、あるいは新鋭設備を導入して急速な日本の産業の近代化を行なったわけでございますけれども、これからは資本の自由化の問題に関連しまして、従来のように、簡単にパテントとかノーハウというものが、それだけが輸入できないような状況になって、大体資本と抱き合わせて輸入するといったような傾向が非常に強くなってきておるわけでございます。その意味におきまして、私どもこれからはむろん海外の科学技術を取り入れることは当然といたしましても、自主的に科学技術を開発し、新製品あるいは新工法を開発して、その面からの国際競争力をどんどん強化していかなきゃならぬという、これは時代的な大きな要請をされておるわけでございます。したがいまして、この技術革新にいたしましても、まあ日本は幸いにして教育水準は高うございますので、いままでのところは海外のそういう技術革新なり、あるいは近代的な設備を輸入し、導入いたしましても、それを消化していくだけの技術水準があったということ、これは日本の強みでございます。しかしながらこれからは、ただ模放経済的なことはもう許されない。日本みずから自主的に技術を開発し、新製品を開発し、あるいは新工法を開発して国際競争力を強めていかなければならぬ、こういうことになってまいるわけであります。その点につきましてちょっと大きな問題点は、日本は御承知のようにまだ非常に資本の蓄積が少のうございます。したがって、研究開発投資もたいへん立ちおくれておるわけであります。アメリカ等の例をとりますと、大体科学技術の開発については七〇%がいろいろな形でこれは政府が行なっておりまして、あとの三〇%を民間が行なっておるというのが大体の数字でございます。ところが、日本はそれと全く逆に、いわゆる政府関係の科学技術の開発に関するウエートというものは大体が三〇%でございまして、あとの七〇%は民間の努力によって、民間の研究開発投資によってこれを行なっておるというのが実情でございまするので、その点につきましてわれわれは予算を拝見いたしましても、もう少しこの科学技術振興等について御考慮願いたい。と申しますのは、これからは御承知のように宇宙開発あるいは原子力あるいは海底開発、こういった時代にいま進んでいくわけでありまして、同時にまた、一方においては情報革命であるとか、あるいは物的流通革命であるとか、とにかく何でも革命という字がつくほどどんどん時代は進展しておるわけであります。ある学者の説によりますと、過去二十年前に生産されていなかったものが現在世界生産の四〇%を占めておるということだそうであります。そして、おそらく今後二十年後には現在生産されていないものが世界生産の六〇%を占めるであろうという想定をなしている学者があるわけであります。事ほどさように、技術革新を中心に産業構造も高度化し、したがって社会構造——最近でもごらんのように、都市への人口の過度集中といったような、あるいは地方の人口の過疎化といったような、そういった産業構造の変化からくる社会構造の変化、それに伴うまた社会意識の構造の変化という大きな問題にもこれはつながってくるわけでございますが、いずれにいたしましても私ども鉄鋼業であるとかあるいは石油精製あるいは電力あるいは自動車、こういった方面は、今日までこういったいわゆる装置産業といわれる関連産業におきましては、自主的な努力でこういった技術開発をどんどんしておりますけれども、いま申しますようにこういった宇宙開発であるとか、海底開発であるとか、原子力であるとか、こういった大きな問題、あるいはまた最近問題になっておる公害対策についての脱硫設備の開発であるとか、あるいはまた工業用水がだんだん不足してまいりまするので、海水を普通の工業用水、淡水化すといったような、こういったものをこれは一企業を越えた国策として、国家予算によって技術開発をするといったような努力をしていただきませんと、あるいはそればかりじゃございません、ほかの大きな大型プロジェクトといったような技術開発は、これはぜひとも政府の力によって、あるいは官民の共同の力によって開発していかなければ、日本は先ほど申しましたような大きな変革期に遭遇して非常な立ちおくれを来たすのではなかろうかという心配を私どもはせざるを得ぬわけでございます。 そこで、第二の問題に関連して少しお話し申しますと、世界の各国——アメリカは御承知のようにこういった問題に対処してすでにかなりの寡占経済が進んでおるわけでございますが、ヨーロッパにおきましても企業の合同、合併、提携といったようないわゆる産業再編成が行なわれておるのでございまして、鉄鋼業について一つ例を申し上げましても、たとえばイギリスにおきましては、全鉄鋼メーカーを合同いたしまして、いわゆる鉄鋼公社つまり国有国営の形態をとって一社にまとめてしまっておる。そうすることによってイギリスの鉄鋼業の国際競争力を強化することに現実になっておるわけであります。あるいはまたイタリアにおきましてはフィンシデルというこれも国策会社ができました。実は一週間前にその代表者が数人、鉄鋼視察団として参りました。そういう状況にもなっておるわけであります。また西ドイツにおきましても御承知のようにオーグストテッセン、ヘッシュ、こういった二大グループに鉄鋼業が再編成されておるわけであります。フランスにおきましても御承知のように、これまたユジノール、バンデルシデロール系統の二つのグループに製鉄業が編成される。こういうわけでございまして、国内の占有率いかんという問題ではなくて、国境を越えて、あるいはものによっては世界的な企業の提携、合同まで行なわれるといったような非常に大きな産業の再編成が各国も行なわれつつある状況でございます。 第三の問題は、先ほどから申しますように、日本には非常に知的水準の高いしかも勤勉な、貯蓄性向の高い労働力が非常に豊富にあったということが日本経済の高度成長を可能ならしめたこれが最大の原因と申し上げてもよろしいわけでございまするけれども、その豊富な労働力にそろそろ限界がまいりまして、労働の需給関係が年ごとに非常に逼迫してまいりつつあるという状況でございます。これはもう申し上げるまでもなく、一つには、戦後のベビーブームが一巡しましたあと、日本の出産率ががたっと落ちてきて、少ない少ないと言われるフランス等よりもはるかに落ちておる。私はっきりした記憶がございませんけれども、大体アメリカ並びにヨーロッパ諸国、フランスを含めての諸国の出産率は千人に対して大体十七、八人でございます。ところが日本はもう千人に対して十三人を切っておる。おそらく十二・七、八人ではなかろうか、こういうふうに非常に出産率が低下しておるということが最近の労働力不足の一つの大きな原因である。 もう一つは、これは喜ばしい現象ではございまするけれども、御承知のように上級学校への進学率が非常に上がりまして、昨年度の高校進学率も御承知のように七六・七%といったような率に達した。大学生も、御承知のように、同じ時代での占める率が二〇%という、つまり八百六十幾つかの大学——これは短大も含めてでございますけれども、百六十万に近い大学生になりまして、大学生といいましても、量質ともに非常に変貌して、これが教育制度、大学制度等のいろいろな矛盾と相関連しまして、目下学園紛争が続いておるということは、これはもう御承知のとおりであります。そういうわけで、一方では出産率の低下、一方では教育水準の急激な上昇という面から、いわゆる産業労働、ブルーカラー、こういった労働力がたいへん減ってまいりまして、ホワイトカラーが逆にどんどんふえていっておる。産業の労働人口構成から申しましても、非常なアンバランスが生じつつあるという状況でございまして、こういう意味で、これは一面におきましては、大、中、小企業を問わず、働く人たちの所得水準も上がり、生活水準も上がってきた。これはまことに望ましい傾向ではありまするけれども、一方では、こういった労働の需給の逼迫から、ことに労働集約度の非常に高い中小企業等において非常な労働力不足という問題が起こりつつあります。このことが、また同時にベースアップ等を通じて中小企業製品の物価の上昇ということになりまして、あるいはまた農産あるいは水産等の一般の生鮮食料品の値上がりという問題とともに、物価問題、消費者物価の大部分の問題は、この食料関係と中小企業製品の物価高に基づいておるのでありまして、いわゆる基礎産業的なもの、大企業経営的なものは、これはもうほとんど卸売り物価は横ばいでございまして、私ども鉄鋼業について申しますと、十年前を一〇〇%としまして、現在の鉄鋼価格はまだ九二、三%という、これだけ物価が上がり、これだけ賃金が上がっているにもかかわらず、まだそういった状況でありまして、まあそう言っちゃはばかり多いことでございますけれども、世界で一番安い、いい鉄をつくっている。アメリカあたりは、大体いまトン当たり百七、八十ドルあるいは九十ドルしておるのに対して、日本は大体百三十ドルから三十五ドル見当でございまして、その間の値幅が四、五十ドルございますから、先ほど一千三百万トンの鋼材の輸出と申しましたけれども、そのうちの半分の六百五十万トンはアメリカに輸出されておるという状況でございます。 もう一つ、これは会社のコマーシャルみたいになりますけれども、いまニューヨークで、ワールドトレードセンターという世界最大最高の、ちょうどいまのステートビルよりもっと高い、ああいうのを二本建てた、世界最大最高のビルがつくられておるわけでありますが、その使用鋼材は全部私どもの会社から輸出しておる状況でございまして、そういうことがアメリカの鉄鋼業を非常に刺激して、輸入制限について国会へメーカーが非常に働きかけておる。したがいまして、ことしは、われわれ業界としましても自主規制をして、二五%くらいの思い切った自主規制をいたしますが、しかし、最近ではヨーロッパ諸国からも非常に膨大な引き合いがまいりまして、おそらくアメリカで落ち込んだ穴は、われわれはヨーロッパ、その点で埋めることができますので、ことしも依然として千三百万トンの輸出は可能である。ということは、結局砕いて申しますと、四十三年度鉄鋼の原材料は、鉱石が七千万トン、石炭が三千四百万トン、スクラップ銑鉄が六百万トン、その他重油等を入れまして十八億ドルという膨大な原料を輸入しますけれども、千三百万トンの鋼材を輸出しますと、大体十八億六千万ドルぐらいの輸出になるわけですから、おつりが六千万ドル、そのほかに、造船であるとか自動車であるとかその他機械等に含まれておる素材としての鉄が八億ドルでございますから、結局、鉄鋼業は基礎産業であると同時に、非常に大きな貿易収支の上でも輸出産業としての役割りを果たしておる。ことばをかえて言いますれば、貿易収支だけの面から申しますと、わずか千三百万トンの鋼材を輸出することによって、原材料代を払ったあげくにドルをかせいでおる。そうすると、国内で使う五千三百万トン程度の鉄鋼はビルディングになったり機械になったりあるいは社会資本——いろんな形に、住宅になったり、電化製品になったりしますけれども、そういうことは国際収支からいえばただということになる。つまり五千三百万トンの鉄が何らかの形で国に温存され、蓄積されると、それだけ日本経済がぐんぐん大きくなっていくということでございまして、日本経済が発展しておる姿というのは、結局、具体的に言うとそういうことでございます。しかし、これはいま申しましたような大きな三つの制約にわれわれは当面しておるわけでございます。 そこで、まずこれからの産業政策のあり方としましては、産業構造をどんどん変化せざるを得ない。たとえば、国内の総生産を産業別に見ますと、日本では、農業が一一・五%、工業が四五%、その他のいわゆる第三次産業等が四三・五%という数字でございます。ところが、アメリカでは、農業はわずかに三・三%、それでも食料品が余剰で困っているくらいの状況でございます。そうして工業関係が三七・八%、その他の第三次産業が五八・九%、こういう形になっておる。西ドイツにおきましても、農業はわずかに四・二%、工業が五一・九%その他の第三次産業は四三・九%、イギリスにおきましても、農業が三・一%、これは食糧輸入国でございますが、工業が四六・六%、そして第三次産業というのは五〇・二%、フランスも同様にかなり農業の比重は高いといわれておりましても、これは七・四%、工業が四七・三%、その他が四五・三%、こういう状況でございまして、しかもこれは産業別のいわゆる就業者——働く人たちの割合いを見ますと、日本では第一次産業が二二・一%、第二次業が三三・五%、第三次産業が四四・三%、だんだん近代化的な産業人口構成になってまいりましたけれども、しかし、アメリカの第一次産業が五%、第二次産業が三三・二%、それから第三次産業が六一・八%と比べますと、非常にまだ第一次産業が多いということがこれでわかります。西ドイツにおきましても、第一次産業は一〇%、第二次産業が四七・三%、そして第三次産業が四二・七%、こういう状況になっておるわけでございまして、まだ、輸出は伸びた、近代工業化したと申しましても、産業構造の面から見ますとまだまだ立ちおくれておるという感じがしないではございません。たとえば、輸出に例をとってみましても、アメリカの輸出が大体昨年で三百三十億ドル、西ドイツが二百四十七億ドル、イギリスでは非常に斜陽斜陽と申しましても、まだ百五十四億ドル、それに対しまして日本が百三十億ドル、こういうことを考えましても、まだまだ一億の民族が、非常な高い文化的な水準を享受するような状態になるまでには、もっともっと、輸出を百五十億ドルから二百億ドル見当にしないと、とうてい国民所得の増大なり、あるいは快適な国民生活を営み得るような状態にはなり得ない。ことに農業の近代化につきましては、もう国をあげて非常に御努力をなさっておりますけれども、いま申しましたような産業構成から見ますと、もっともっと農業の近代化、あるいはまた日本の非常に大きな産業構成の比重を占めております中小企業につきましても、近代化、合理化、そのための合同なり、あるいは協業化なり、こういったものをどんどん進めて、特色のある、個性のある中小企業をどんどん育成強化しなければならぬというふうに私どもは解釈しておるわけでございます。特に中小企業の場合は、先ほど申しましたように労働力の不足ということが決定的な一つの問題点でございますので、労働力を節約するための、いわゆる省力化のための近代化がよほど思い切って推し進められなければならない。そのために政府予算でも、中小企業関係はかなり潤沢に盛られておりますけれども、それはいわゆる運転資金的な金融が非常にウエートが多うございまして、いわゆる産業構造を変化するといった意味の配慮がまだまだ不十分ではなかろうかという点を私どもはあえて御指摘申し上げたいと思う次第であります。 それからもう一つは、先ほど申しましたけれども、これからの輸出はただ単に安いいい品物を出すというだけではなくて、いわゆる国際経済化時代になりまして、ワールドエンタープライズ、つまり国際企業化時代になってまいりますので、資本と技術と密着したわれわれは競争力を強化しなければならぬ。そういう点でわれわれはよほどこれから前向きに問題の取り組み方をしなければ、やがて日本の経済成長も、あるいはまた国際競争力も頭打ちになるおそれがなしとしない。なかんずく、私は特にきょうお願い申し上げたいのは、先ほども申しましたように、科学技術の開発についても、もう少しこれを政府の予算面でも御配慮を願いたいということでございます。理由はさっきるる申し上げましたけれども、たとえば通産省の予算を拝見しましても、石炭対策費——これは重要な問題でございますけれども、産業的には、これはどちらかといえばうしろ向きの資金でございます。それが八百八十五億円も計上されておるのに対しまして、技術開発費は大型プロジェクトが四十七億、その他を含めて全体でわずかに百七十億程度というまことに微々たるものでございまして、これはそう言っちゃ失礼でございますけれども、われわれ民間、特に鉄鋼業だけの例をとりましても、少なくとも、民間の企業でも、これぐらいのことは鉄鋼業だけでもやっておるということを申し上げたいのであります。あるいはまた科学技術庁関係の予算を拝見しましても、ことしはかなり増額されましたけれども、まだ九百十七億、原子力関係が二百九十七億、宇宙開発が六十一億、海洋開発が八億、大型工業技術開発が四十七億、まあかなり増額されておることは、これは私どもも認めるにやぶさかではございませんけれども、アメリカの宇宙開発費だけでも一兆何千億円といったような——二兆でしたか、数字を先般新聞で拝見しましたが、とにかく日本の予算の総額の三分の一近いものが宇宙開発費だけでも投入されておるというようなことを見ますと、いかにこの科学技術に対して政府の予算的な配慮が少ないかということを、われわれはあえて申し上げざるを得ないのであります。 それから、第四番目の問題点としまして、これからは日本は国内の経済発展をはかることは当然といたしまして、海外へもよほど積極的な進出の姿勢をとるべきではなかろうか、特に日本は東南アジアにおける唯一の工業先進国として、開発途上にある東南アジアの諸国に対しまして、資源の開発、産業の建設はむろんのこと、教育、保健衛生、文化、あらゆる面におきまして日本は協力援助の手を積極的に差し伸べるべきではなかろうか。と申しますのは、日本の輸出構造を見ましても、大体昨年度の例を申しますと、北米に対して三一・五%、ヨーロッパ方面に対して一〇・三%、東南アジアは二八・一%、西南アジアが三・三%、それから中南米が五・九、大洋州が四・五、アフリカが八・一と、これで自由諸国圏で九五%でございます。そしてわれわれは中共貿易、ソ連貿易等に努力をいたしますけれども、まだ東ヨーロッパを含めた共産圏貿易が全体としてわずかにまだ五%であります。こういうことは、よほどもう少し国民の皆さんに経済の基本知識として周知徹底していただくように私どもはお願いしたいと思います。こういうことで日本経済が成り立っておる、つまり購買力のある欧米の先進国なり、あるいは東南アジア等の自由主義諸国に対する輸出が九五%、それで日本経済が成り立っておる。資源の貧困な日本が、こういった輸出によって国民経済なり国民生活が成り立っておるということの認識を十分に持っていただきたい。われわれは決してソ連貿易、中共貿易を軽く見るわけじゃございません。せっかく努力しておりますけれども、共産圏貿易はわずか五%といったような輸出構造であるということは、これはただ単に経済的だけでなくて、政治的にも重大な意義があるということを私は率直に申し上げざるを得ないのであります。そこで、この東南アジア等の開発途上国の輸出が四九・九%、約五割を占めておるというこの事実、これを考えます場合に、私どもは従来のような、こういった開発途上国に対する経済援助なり産業政策のあり方で、それでいいのかどうかという問題、そのためにはわれわれはもっともっとこういった開発途上国に対して、積極的に、いい意味での経済協力、資源の開発なり産業の建設なり、こういった前向きの姿勢をもうそろそろとらなければ、日本はこれまたやはり立ちおくれを来たすおそれがある。と申しますのは、たとえば石油資源、あるいは非鉄金属等の資源におきましても、インドネシアの例をとりましても、これは東南アジアにおける最大の資源国でございますけれども、ほとんど欧米資本によって大部分の利権が押えられておる、取られておるという状況でございます。私も実はそういうことを感じまして、日本の石油資源がもう九割近く中近東に依存しておる、しかも、七一年以降、アメリカの軍事力が全部中近東以東から引き揚げるということになってまいりますと、真空状態になってまいります。中近東は王国であり、土侯国であり、貧富の差が激しゅうございますから、いつ何が起こるかわからないというような状況でございます。こういうところに九割近くも日本のエネルギーの対象が依存しておるということは重大問題でございます。でございますから、アラスカ、あるいはカナダ等の油田の開発等に——私自身も九州石油開発という会社を興こしまして、インドネシアの南カリマンタンに日本の六割という広大な油田の権利を確保して、探鉱からいよいよ試掘の段階に入っております。幸いにこれが当たりますれば、非常に硫黄分の少ない、つまり〇・一以下のロー・サルファーの油でございます。輸送距離も中近東の半分以下で済む。マラッカ海峡を通らなくてもいいから、五十万トンから六十万トンのタンカーでも運べるという状況でございます。これは海底でございまするから、はたして当たるか当たらないかわかりませんけれども、こういうふうに日本の石油資源も分散確保するといったような政策をはっきりとらなければならないと思います。そういった問題に対して、石油公団等に対する今年度の予算も八十五億ほどいただきましたけれども、そう言っては失礼でございますけれども、ほんのスズメの涙の程度でございまして、こんなことではたしていいのかどうか、こういった意味で、民間企業も東南アジア等の開発のおくれた国々に積極的に進出するのは、これは当然でございますけれども、政府におかれましても、ただ漫然たる経済援助でなくして、そういった一つの産業政策の構想のもとに、積極的な進出というか、経済援助協力の態勢を打ち出していただきたい。 それから、もう一つ最後に申し上げたい問題は、御承知のように、いまやかましい産業公害の問題でございます。これはむろん企業の責任に帰属するところが大部分でございますけれども、先ほど申しましたように、まだ脱硫についてのほんとうの意味での技術の開発、あるいは設備の開発が行なわれておりません。大気汚染の一番の問題点は、これは一つはこういった脱硫装置の不完全なことと、しかも、硫黄分の多い中近東の原油を輸入しているということでございますので、一つは先ほど申しましたように、インドネシア等で、ロー・サルファー、低硫黄の油田を確保するという問題と並行して、脱硫の技術なり設備の開発について政府ももう少し思い切った手を打っていただきたい。こういった公害対策についても、若干の予算は組んでおられるようでございますけれども、まだまだ問題の基本的な解決についての取り組み方の姿勢とは私どもは解しがたいというふうに考えておるわけでございます。 それから、最後に、大学問題を含めまして、これからの日本は、いま申しましたように、労働力がどんどん窮迫してくる。そうなってまいりますと、問題は、いかに人間能力を開発し、いかに創造的な能力を開発し、高揚していくかということが、これからの日本経済のみならず、政治、教育、文化、あらゆる部面を含めての、日本の将来の発展のこれが中心課題になるわけであります。その意味におきまして、現在の教育制度なり、これはどちらかと言えば、率直に申しまして、大学への進学のための、上級学校への進学のための準備勉強のようなふうに教育がだんだん変形しつつある、六・三・三・四制が全部悪いとは申しませんけれども、教育制度なり教育課程等について、よほど根本的に日本の民族の能力を開発する、創造性を高めるような教育のあり方に変えていただく必要があるのではなかろうか、このことがやはり大学問題の解決につながる大きな問題であるというふうに考えております。むろんそれには、民間の企業におきましても、能力主義、実力主義に徹して、従来の年功序列とか、あるいは学歴偏重といったような弊害を打破することが、やはりこれは教育を刷新する一つの大きな背景をなしているわけでございますから、企業はそれぞれの立場でこういったほんとうの意味での人間能力の開発のための、あるいは創造性を高めるための能力主義、メリット・システムというものを積極的に採用しつつありますけれども、教育の面でもそういった御配慮をいただくことがたいへん必要じゃなかろうか。 はなはだ簡単でございますが、概要を申し述べまして、失礼をいたしました。
○委員長(塩見俊二君) 藤井公述人に申し上げますが、貴重な御意見を承りまして、まことにありがとうございました。同公述人は所要の特別の御用件もあるやに承っておりますので、直ちに同公述人に対する質疑のある方には御発言を願いたいと存じます。
○前川旦君 これは予算の本筋とはちょっと違うかもしれませんが、先ほどのお話の中で、もうちょっと意見を伺いたいと思ったことがありましたのは、石油資源の分散というお話をなさいましたが、そこで、私ども詳しいことは存じませんが、新聞等で知っておりますのは、たとえばシベリアからサハリンへ持ってきて、そこから北海道までパイプラインを敷こうと、こういうような提案もあったというような話も聞いております。そういう面をどうお考えになりますか。シベリア開発についての日本の役割りや将来についての御意見をあわせてお伺いしたいと思います。
○公述人(藤井丙午君) お答え申し上げます。 電力業界、ガス業界等におきましては、先ほど申しましたように、公害対策の一環として、そういった天然ガスなり、あるいはそれを集約しましたLPG等の輸入についていろいろな計画をお立てになっておるのでございます。まあ手近なところで申しますと、いまのインドネシアと、それからシベリアと、あるいは旧樺太、こういったところが大きなソースになるわけでございまして、各社各様のいろんな計画を進めておられます。われわれも、シベリアにつきましては、御承知のように、そういった石油資源のみならず、鉄鉱資源、つまり鉄鉱石、石炭等の膨大な資源があり、また、材木等につきましても、林産物の非常な豊富な資源があるわけでございますから、すでにかなりの輸入はしつつあるわけでございますけれども、これからは積極的にこういった開発も、当然米ソの協力のもとにおいて行なわれる方向にあると思います。ただ、問題は、これは多少政治的な問題になるわけでございますけれども、米ソの平和共存の体制が非常にはっきり確立されるという、あるいは中ソの関係が調節されると、こういったようなことの見通しが十分立たないと、一方的に打ち切られたりいろいろする危険がなしとしないわけなんです。われわれは、現在、鉄鉱石につきましても、インドなりあるいはオーストラリア、特にオーストラリア等では三千万トン近い契約をしている。石炭も一千万トン、一千五百万トンぐらいのいま契約をしている。順調に入っております。まあついででございますけれども、いま大型の専用船で運ぶものですから、オーストラリアからわずか七百円から七百二十円くらいのトン当たりの運賃でくるわけでございますから、国内の貧鉱をあさるよりよほど有利でございます。しかし、これは政治的に非常に安定して、また、外交も正常化しておるからそういうことも可能でございますが、われわれは前提として、米ソの平和共存がほんとうに成り立つと同時に、日ソの外交が正常化することが一番望ましい。いまお説のように、そういうことを踏まえて、できるだけシベリア開発に協力し、また、日本に足らざる、日本に不足しておるそういった資源の有効活用について考えると同時に、まあソ連といわず中共といわず、先ほど申しました東南アジアの諸国にいたしましても、ある意味では資源開発、産業建設が進みまして民生が安定しますれば、そこに膨大な潜在的なマーケットがあるわけでございますから、そういう意味ではわれわれ非常に注目している次第でございます。
○二宮文造君 藤井公述人にお伺いしたいと思います。 先ほど日本の輸出の九五%が自由諸国である、共産圏諸国に対しては五%である、この現状は政治上重大な意義を持つ、ここまではお話をいただいたわけでありますが、そのあとのことにつきまして、たとえばいまもシベリアの開発の問題がお話になりましたけれども、日中貿易の面でありますが、覚え書きの件でいま難航しております。いわゆる政経分離という現政府は原則のもとに問題を処理していくと、こういう姿勢を続けているわけでありますが、藤井公述人のお考えとして、日中貿易の現状と、産業界としての将来の展望について、もう一言御説明いただきたいと思います。
○公述人(藤井丙午君) 申し上げます。 先ほども触れましたように、われわれは、日中貿易につきましても日ソ貿易につきましても、拡大に努力いたしております。ところが、現状は、御承知のように、なかなか政治的にもむずかしい関係にございまして、急速な拡大がいま望めない状況でございます。と申しますのは、政治的だけではございません。たとえばわれわれ鉄鋼業に例をとってみましても、中共から輸入し得る鉄鉱石がわずかに五万トン程度であります。石炭が、燃料炭が、年によって違いますけれども、五、六十万トンであったり七、八十万トンであったりします。それしか輸出する余力がないのです。ですから、私どもは中共の代表の方々とも接触して申し上げておるのですが、もう何百万トンでも何千万トンでもお買いします、それがコマーシャルベースで合理的な価格で輸出をしていただくならばお買いしますと申し上げておりますけれども、遺憾ながら、現在の開発段階、特に輸送の関係、あるいは港湾の関係、港湾の関係と申しますと、われわれ十二、三万トンの巨大な鉄鉱専用船、石炭専用船、あるいはオイルオアと称して、石油を南米に運んで、南米から鉄鉱石を日本に持ってくるというような三角輸送、こういったことを考えてやっておりますから、先ほど申しましたように、オーストラリアからでも二ドル、あるいは二ドル以下でくるという状況になっております。ところが、中共は港湾も整備をしてない、あるいは輸送力も非常に弱い、そういったことから、せいぜい入って一万トンクラスの船しか入らない、しかも、それが三千トンくらいの一日の積み荷の能力しかないということになりますと、非常に高いものにつくわけです。しかも、量が五万トンくらいしか鉄鉱石がない、それも海南島で日本が掘った積み残りを輸出するという実情でございまして、買おうにも買えない。つまり中共でもソ連でもそうでございますけれども、大体がバーター方式に近いようなやり方をしている。向こうの輸出力、購買力とこっちの輸出と見合った貿易をしておるわけでありますから、七千万トン、ことしは七千五百万トンも鉄鉱石が要るのに、五万トン程度の鉄鉱石では、そう言っては失礼でございますけれども、日本の経済は成り立たない、こういうことでございます。それから、われわれは、日中貿易も日ソ貿易も拡大をすることについて努力をいたしますけれども、やはり先方の経済、産業の発展段階に応じて、そういった供給力、同時に、購買力があるかないかということがきめ手になるわけであります。それには政治的な要素もありますけれども、しかし、実際はいま言ったような実情にあるということを申し上げておきます。
○秋山長造君 いまの点にちょっと関連したようなお尋ねなんですが、ごく大ざっぱな話なんですけれども、大体日本の貿易関係は、共産圏貿易、それから東南アジア、中近東、それから欧米と、こういった三つに大ざっぱに分けられるのですが、その比率は、先ほどおっしゃったところによると、東南アジア、中近東という一局部に非常に片寄っておる感じがするのです。これを、何ですか、将来の構想、あるいは本来の貿易のあるべき姿ということから考えた場合に、大体この大分けにして三つの地域に対する比率ですね、それぞれ何%くらいずつになるのが一番健全なというか、理想的なというか、石油でも市場を分散確保したいというお話があったのですが、これは貿易についても同じことだろうと思うのですが、貿易市場を分散確保するという状態が望ましいのではないかと思いますが、大体大ざっぱな数字でよろしゅうございますが、どのくらいの数字になるのが一番望ましいとお考えですか。
○公述人(藤井丙午君) これは非常にむずかしい御質問でございまして、これはそれぞれの国の、先ほど申しましたように、資源の開発なり産業建設なり、経済の発展段階とその購買力いかんという問題でございますので、われわれとしては、各国ともバランスのとれた貿易のあり方が望ましいわけでございますが、いま何%が理想的だとおっしゃいましても、申しましたような先方の国々の経済力の問題、その発展力いかんという問題に関連する問題でございまして、まあしいてとおっしゃるとなれば、対米輸出も、対欧輸出も、あるいは日ソ貿易も、中共貿易も、東南アジア貿易も、いずれもそれぞれ飛躍的に拡大することが望ましい、そのことが、資源のない日本としましては、国民経済を発展させ、国民生活を豊かにするという最も望ましい姿だというほか、各国の国情がそれぞれ違っておりますので、いま構成比をどのくらいが望ましいということを申し上げるのは、ちょっと私には能力がございません。
○鈴木一弘君 先ほど資本の自由化の話があったのですが、資本の自由化のあとには、労働力の自由化、流通の自由化ということがいわれておりますが、その労働力の問題で先ほど産業構造の変化ということのお話があったわけですが、将来考えられるのは、保税加工のような形とか、あるいは企業の資本の対外投資の自由化による進出とか、あるいは不足している労働力を外国から引っぱってくるとか、こういういろいろなケース等があると思うのですけれども、労働力の自由化という問題についてはどういうようなお考えをお持ちなんでしょうか。
○公述人(藤井丙午君) これは、戦時中に当時の朝鮮から炭鉱労働者を入れましたことが戦後後々まで尾を引いて非常な深刻な問題を展開したことは御記憶に新しいところで、外国の労働力を輸入するということは、東南アジア諸国が、以前と違って、それぞれ独立して、民族的な自尊心を持ってまいっておりますし、そういった立場を尊重する意味から申しますと、なかなかこれは言うべくして困難な問題ではなかろうか。それよりも、いまなお話が出ましたように、日本の民間企業がどしどし現地に出かけまして、現地の資本と協力して、そうして現地で事業を起こし、現地の産業建設なりそれぞれの国々の経済発展に協力する形で伸びていくということが望ましい姿ではなかろうか。私ども、さっき石油のお話をいたしましたが、石油を掘ります場合に、インドネシアには三九%掘った油をただあげましょうと、そのかわりに六一%コストを含めて掘らしていただく、そういった生産分離方式をとっております。それから、各企業によっては、いまお話しのように、現地で労働力を活用して、現地の発展と結びつくような形でかなり成功しておる会社もあります。そういうことを積極的にやっていくべきで、いままで、どちらかといえば、経済援助、財政援助的なもの——これも必要でございましょう。必要でございましょうけれども、再生産に結びつくような形の経済協力援助が望ましい。民間は民間のリスクにおいて見ていく。そのためには、海外経済協力基金等もかなり今度は増額されましたことは望ましいことでございますが、そういったものも、実際の活用面においてはなかなか手続がむずかしい。もっと簡素にして有効に働くような運営をぜひ考えていただきたいと思います。
○委員長(塩見俊二君) 委員長から申し上げます。 冒頭に申し上げましたとおり、藤井公述人の所要の時間も超過をいたしておるような模様でございまして、まことに遺憾でございまするが、これをもって質疑を打ち切りたいと存じます。 —————————————
○委員長(塩見俊二君) 引き続きまして、磯村公述人にお願いを申し上げます。
○公述人(磯村英一君) こういう機会を与えられましたことにあたりましてお話を申し上げまする前に、教職にある者といたしまして、ここ一年近くにわたりまして大学の紛争が続いております。私の属しておりまする大学もその例に漏れません。こういう事情というものを引き起こしましたことに、教職にある者といたしまして非常に深く反省をいたし、できればそういう事情がすみやかに適当な調整のつくということを期待いたしておりまするということを申し上げておきたいと思います。 たまたま私に与えられました題は地域開発問題でございますが、同じような問題につきまして、去る二月の上旬に、アメリカの下院の公聴会に招きを受けまして、三日間にわたりましてワシントンで公述をいたしてまいりました。たまたまその公述をいたしました日の「ワシントンポスト」に、日本の大学の学生十数人がアメリカ大使館に侵入をいたしましたその記事が非常に大きく紙面に報道されました。写真とともに、その下には下田大使の謝罪のことばが出ておりました。下田大使がロジャーズ国務長官に最初に会ったそのときが謝罪のことばであったといういささか皮肉の説明もついておりました。そういう記事が出ましたその日の下院での議員の方々の前での公述でございますので、やはり責任上何らかの説明をいたさなければなりません。したがいまして、教職にある者といたしまして、外国の高官にまでそういう影響を及ぼしたということについて非常に大きな責任と反省を持つということを申し伝えたのであります。 たまたま私がアメリカの国会からの話を急に受けまして、ヨーロッパから二人、アジアから一人でございましたが、地域開発問題につきまして公述をいたしまするように求められましたその問題につきまして、出発の前夜に、学生が数人家に参りまして、アメリカに行くことをやめるようにと、こういうお話でございました。すべての手続を終え、要旨も伝えてございますのに、そういうことはできないということを申したのでございますが、学生は、大学紛争の渦中でございましたものですから、たって渡米することをやめるようにということでございました。で、私は、向こうで話す要旨というものをじゅんじゅんと話をいたしました。私が話しまするいわゆる日本の地域開発といったようなものが、その結果というものが、やはり基地問題につながり、沖繩の問題につながる、アメリカの国会での最後の結論というものがそういう問題につながるんだから私は行くのであるということを私ははっきり申しましたのでございます。最後的には学生も同意をいたしまして、そうして私は予定どおり出発をいたしたのでございますが、実はこのことを向こうの下院のそのお話の冒頭に申しまして、日本の大学の教授というものは、いま、外国へ出るのに、二つのビザを持たなければならない、私はここへ来るのにアメリカ大使館のビザとそれからスチューデント・ビザという二つのものを持っているんだと、まあこれはある程度までユーモアに申したのでございますけれども、そういう事情の中におきましてわれわれが外国に参りまするにもそういう一つの反省を持たなければなりませんでした。また、私がここで皆さま方に申し上げますることも、そのまま、大学紛争とは申しませんですが、おそらく、彼が参議院において何をやったということはそのまま国民の一人である学生の耳に達しまするという、そういうことを考えましてお話を申し上げる次第でございます。 〔委員長退席、理事江藤智君着席〕 私が、日本の地域開発ということを特に外国人に理解してもらいますると同時に、日本のわれわれが基本的に考えなければなりません問題に、五つの条件があると思うわけでございます。 第一の条件と申しますのは、これは皆さま方もよく御案内のことと思うわけでございまするが、日本が、太平洋戦争中におきまして、一千五百万に達しまする住民が都市並びにその近郊から農村地帯に疎開をしたと、こういう事実でございます。この数字は詳しくは申し上げませんでございまするが、あるいはその当時の満州、あるいは東南アジア、そういうところに出ました人たちも加えまして、同時に日本の都市といわれます地域から農村に疎開をいたしました者を数えますると、大体千五百万、当時の日本の人口の五人に対して一人というものは都市というところから農村に移っております。世界の歴史を通じまして、これほど大きな民族の地域的移動があったということは、これはないことでございます。これが、日本の今日の、先ほど藤井公述人も言われましたような、地域の開発、都市の繁栄というものに実はつながっておる非常に大きな要因でございます。すなわち、申すまでもなく、都市と農村というものは、戦前におきましては生活の内容においても意識においても非常に違っておりましたんですが、都市の住民というものは農村に疎開をして、そこでの生活というものが農民に依存をして生活をしたというところに、日本の国民それ自体の都市と農村の意識的な格差というものがかなり平均化されたということが一つあげられると思うわけでございます。 第二の問題は、これが今日も皆さま方の予算審議の基礎になっておるかと思うのでございますけれども、主食の配給制度というものが戦前から今日までも続いているというこの事実でございます。戦前におきましては、農民は、みずからつくった米というもの売って生活をしておりました。そのために、農民それ自体というものは、白米を食べるということは、これは非常なぜいたくでありましたんですが、それが戦争の激化に従って、都市、農村を通じて同じ配給の米を受けると、こういうことは、これはまさに戦時中の特別な措置でございましたのですけれども、これは日本の地域の生活に非常に大きな影響を与えておりました。それが今日までも続いているという、こういう事実でございます。この話をアメリカの国会でいたしましたらば、それから二日続きました討議の中で、おまえのほうの国は社会主義体制をとっているのかと、こういう質問をした議員がおるんでございます。確かに、たとえ大臣であろうと、あるいは一サラリーマンであろうと、今日におきましても基礎的には同じ配給というものが生活の基盤になっておりますんですが、これは戦前戦後を通じましてすでに三十年以上もこの制度が続いているということは、これは日本の社会の体制の上におきまして実に大きな影響を持っているわけでございます。私は、この点を一つの理由にあげておきますのでございますけれども、との主食の配給制度というものが、ややもすれば単に食管会計というものの赤字をどのように調整するかということだけでこの制度それ自体のあり方を論議するということは、これは必ずしも思慮あることとは言えないのではないか。三十年近くにわたりまして、日本の都市、農村を通じての生活の基礎的な安定をもたらしたその一つの補償である。その補償の累積というものが今日の赤字になっているということになりますると、そのことは十分考えられた上で新しい体制というものを考うべきものではないかということでございまするが、これは意見になりますのでそれ以上申し上げませんでございますけれども、第二の点といたしましては、この配給制度というものの存在が日本の地域開発の上におきまして非常に大きな役割りを果たしております。 第三の点で申し上げますると、第三の点は、やはり農村につながるわけでございますけれども、第三の点は、農地解放に伴いまして小作が地主に大部分変わり、その変わりましたということによりまして、従来日本の社会運動というものが主として農民運動であったものが、これが都市のいわゆる工場労働者というものが中心になったというこの質的な変換というものに非常に響いておるのでございますが、その点も一つあげられるのでございますけれども、最近の事象として考えられまするのは、農地解放後すでに二十年を経過をいたしまして、今日におきましては、その地主となりました農民が、世代の交替ということになってまいりますると、さて自分の得ました農地というものを子供に均分するということが非常にむずかしい。農地が細分化いたしますると生活に響いてまいりまするので、できるだけ農地は細分化しないでこれを子供に伝えたい。しかし、一方におきましては、民法の改正によりまして均分相続という制度がございます。したがいまして、この制度のもとにおいて農地をできるだけまとめて子供に伝えようといたしますると、その場合においては二三男に対してそれに相当するものを与えて長子相続的な姿をとる。これは、農林省の統計によりましても、現実におきましてそういう姿をとっておりますのが八五%以上にのぼっております。事実上長子相続的な農地の受け渡しが行なわれているのが現状でございます。で、問題は、そのある程度まで補償をもらいました二三男がどこへ行った、こういうことでございまするが、これが実は都市に出まして大学の教育を受けるということになっておりますのでございます。今日、大学の問題はいろいろな内容を含んでおりまするけれども、多くの大学の学生がどこから来ているかと申しますると、いま申し上げましたような背景を持った学生が大学に集まってきております。したがいまして、そういう学生それ自体というものは、ある程度まで教育の資金を持って都会に出て、そうして生活をし、しかも、このような姿で出てまいりましたのですから、再び農村に帰るということはほとんどございません。これがいわゆる都市化というものをもたらしました、地域社会の中における人間の移動ということをもたらしました第三の原因になっております。 第四番目の原因と申しまするのは、これは言うまでもなくモータリゼーションという傾向でございまして、日本の地域開発の中におきましてかなり一つの跛行的現象、バランスのとれない現象と申しますると、日本では国有鉄道というものが非常に大きな役割りを果たしまして、そうして今日その赤字財政を問題にするほどに鉄道というものが日本列島というものにかなり行き渡っております。しかし、鉄道というものは、いわゆる都市と都市とを結ぶだけでございまして、都市そのものを中心にしました周辺の移動というものについては必ずしも十分な役割りを果たしていない、ほとんど。したがいまして、鉄道がつきますると、どういう現象が起きるかと申しますと、今日言われまするいわゆる過疎的な現象が起こってしまいまして、そうしてその比較的開発がおくれておるところの人たちは、鉄道ということによって比較的開発が進んでいる都市のほうへ集中してしまう、こういう現象を起こしています。ところが最近になりまして、いわゆる自動車というものが発達してまいりますると、必ずしも鉄道によらないで地域の開発というものがあり得るのじゃないかという姿、すなわちモータリゼーションというものが発達してまいりましたために、いままでのように鉄道によるところの都市にまいりまする人口の流入というものが、自動車というものの利用によって、ある程度この従来の農村あるいは比較的進んだ都市の周辺に定着する傾向というものを一つ生んでおります。この傾向というものはまだ途中の状態にございますので、したがいまして、日本の地域社会というものが変貌いたしまするのは、この傾向に沿っていけば、さらにそのような傾向というものは進むのではないかと、こういうふうに予測されるのでございます。 最後に申し上げまするのは、今回この放送法等の改正によりましていわゆる超短波放送というものがかなり地方というものに根拠を持つようになりますると、東京を中心にしました——東京の国会におけるこの状態というものは、そのまま日本列島のすみずみまで伝えられるというこの状態、すなわちマスコミニュケーションというものが日本列島のすみずみまで行き渡るということになりますと、ここに、この日本の地域社会というものが、他のアジアの諸国あるいはアメリカあるいはヨーロッパの大部分のような非常に地域の広いところの地域開発の現象とは非常に違った状態というものがここに出てきたと言わざるを得ないわけです。で、非常に比喩的に申し上げますると、ちょうど日本列島全体というものが、巨大なこの航空母艦みたいなような姿にやがてはなるのではないか。あるところで一つのボタンを押しましたならば、そのボタンでもって、その組織のどんな末端にいるものもその瞬間に反応するというような、そういう組織の中に進むのではないかということが、地域を開発いたしまする一つのビジョンとして考えられておるわけでございます。それがすでに皆さま方の御審議の材料になっておるかと思うのでございまするが、新全国総合開発計画というようなのは、大体いま私が申し上げましたようなこの原因を背景にしまして、それを将来に予測をしてみますると、そういう姿というものに、この姿が描かれるのではないか、このように予測をしてるようでございます。しかし、問題はそういうこの地域的な変貌というものが具体的に、たとえば東京をどうするとかあるいは大阪をどうするとかいうような問題ではございませんで、非常に重要なのは、そこに住んでいる住民の、あるいはそこのいわゆる日本の国民自体のそういう地域に対する意識というものが、非常に変わってきたことでございます。この変わりというものは一体何であるかと申しますると、それは、従来は比較的狭い地域の中におきましての生活というものに対する関心というものに焦点が置かれておりましたのですが、いま申したように、国会のことは直ちに同じ次元でこの地域に伝わり、地域の意見というものも皆さま方の御努力で直ちに政治に反映するというような、そういう状態になってまいりますると、たとえばある地域の問題でございましても、その地域の問題は、日本全体の問題とどうつながるかというようなそういう取り上げ方に変わってまいりました。これを最近使われておりますることばで申したならばよくシビルミニマムと、こういうことばを使います。シビルミニマムということばは何であるかと申しましたならば、いままでのような、あるいはこの千葉であるとかあるいは浜松であるとかあるいは高松であるとか、そういったようなところのまず地域を中心にした住民の欲求というものが一体何であるか、その欲求の標準化したものは一体何であるかということに対して、政治がやはりこれは関心を持たなければならない、そういうことでシビルミニマム、こういうことばが出ておりますのですけれども、国民は決してこのシビルミニマムで納得しているものではございません。比較的進歩的な考えを持っておられる地方の首長の方が、このシビルミニマムということばを使うのでございますけれども、住民は、その地方の財政がどうだから、自力のところはこういう程度の仕事ができるのだということでは、それだけでは満足いたしません。一方におきましては、ナショナルミニマムということが、絶えず現在の日本の国民の中には、これは入ってまいります。憲法の条章によれば、国民は、健康にして文化的な最低の生活をする権利を持つというようなことは、学校ばかりではございませんで、今日におきましては、主として中年の女性方が勉強しているような、そういうセミナーとか、サークルでももう始終いわれるわけでございます。つまりナショナルミニマムとシビルミニマムという、この二つというものを合わせて考えなければ、今日の国民というものは納得しないような状態になっておりますのですが、これは一面から見ますると、地域の問題というものは、ある地域の、一定の地域の問題でございますけれども、それは、同時に広い次元で解決をしなければならないという、こういう一つの考え方というものが強く出てきていると、こういうふうに思うわけでございます。その結果が、これからあとは、私はアメリカの国会でも申したのでございますが、日本の国民のこういったような、ナショナルミニマムに対する要求を頭で考えると、自分の地域社会の中に、もし全く生活環境と違った基地があるとしたならば、あれは一体何のためにそこにあるのだというそういう考えを持つことは、これはむしろ自然のことではないかというふうに説明をいたしたのでございますし、また実際そのとおりの問題で、現在日本の政治の上におきまして、基地というものが非常に大きな役割りを占めてきているのではないか、私自身もそのように思うわけでございます。すなわち、ことばをかえて申したならば、国民のシビルミニマム的な考え方がナショナルミニマム的までに、いわゆる平たく申せば民主化と申しますか、あるいは国民の知識が進みましたその時点の中に浮かび出てきたものが、すなわち基地問題であり、また同じく沖繩の問題ではないかと、日本の戦争の歴史なり、あるいは戦争の結果というものを体験しないで、その結果だけを、もし若い人たちが教えられたなら、一体その沖繩というものが、一体どういうことであるかということに対してのきわめて自然な考えというものが、沖繩の日本本土への復帰という問題につながってくるのじゃないかという説明をいたしたわけでございまするが、これは、やはり私は地域開発の中におきましても、同様な発想があってよろしいのではないかと思うわけでございます。で、したがいまして、私は新全国総合開発計画が、経済企画庁で準備されましたその草案をもらいましたとき、日本列島に対する将来像ということであれば、沖繩なり、あるいは北方領土というものに対してのビジョンというものがそこにやっぱり加わって、初めて新全国総合開発計画ではないか、そういう発想のない限りにおいては、今日のこの政治の情勢からいっても、必ずしも十分なものではないのだという発言をしたのでございますけれども、私は皆さま方に、日本の地域開発というものは、そういう非常にシビルミニマム的なものからナショナルミニマム的なものに変わっていく。その変化の中で国民というものは地域開発も見ておりますし、それに伴うところのいろんな施策というものも見ているんだということをお考えいただきましたらば、非常にしあわせかと思うわけでございます。 こういう施策の中で、それでは一体具体的にはどうかと申しますと、確かに政府のほうにおきましても、そういう施策をいま申し上げましたような国民の意識の変化に従いまして、計画を考えておることは事実でございます。経済企画庁は広域生活圏ということばを使いましたし、建設省は広域中核都市ということばを使いましたし、あるいは自治省は広域市町村圏という考えを出しまして、市町村というものを合併しないで、そして、現実においては一つの都市が中心になって、そして、この住民のシビルミニマムというものをできるだけナショナルミニマムに近いような体制に持っていこうとする、そういう努力がいま申し上げました三つの構想のあらわれだろうと思うんでございますけれども、まだ、これはまとまって国会の皆さま方の御審議の場にはのぼっていないと思うわけでございます。しかし、一面におきましては、すでに前回、国会の御審議で途中になりました府県の合併促進というものが行なわれて、出ております。これなんかは、まさに一つの地域開発の直接の問題につながるわけでございまして、たとえば、最近東京都の周辺の市長たちが集まりまして、そして東京都知事に対しまして、一つの提言をしようじゃないか、それは何かと申しますると、たとえば無認可の保育所に補助金を出すということを、美濃部知事がこれを東京都で決定いたしますと、直ちに周辺の市町村に婦人の方が参りまして、東京都で出すんだから、自分のほうも出せ。下水道に流し込みまする水洗の使用料を撤廃するということになりますと、それまた周辺がすぐに希望してくる。こういうことは財政があればできるかもしれませんけれども、それはできないんだ。そういうことでこういうのは一体の行政でない限りにおいては、あまりにそういうことだけ言われたんでは、自分たちの行政というものに対して影響を与えるというのがその発想らしいんでございます。こういう点を考えてまいりますると、先ほどの藤井さんのお話のような経済的視点ばかりではございませんで、地域住民の生活の均分化と申しますか、いわゆる機会の均等という面から考えましても、ある程度の地域の総合的な傾向というものは、これはどうしても出ていく方向になるのではないか、このように思いますが、こういう経過というものをそれでは進めてまいりますと、あるいは新幹線、東名、中央高速なんというものができますと、いわゆる東海道メガノポリスということで、東京、名古屋、大阪にいろいろなものが集中するんじゃないかという傾向が指摘されまするが、私は、ここに非常に大事なことが一つございます。政府は、議会の要請をいれられまして、いまから五年前に新産業都市促進法というものをつくり、工業整備特別地域というものを全国——その後の指定も合わせまして、二十一カ所これを指定しているわけです。で、この計画というものは、その当時におきましては、日本の地域開発におきましての一つの時期を画するものであるというほどに国民の期待を受けたものでございますけれども、それが一体政府の発想に出なかったということは私は申したくないんでございまするが、議会からの御提案であったかということが響いたかどうかは、これも別といたしまして、必ずしも所期の目的を達していない。所期の目的を達していない内容におきましては、その後に対しまする政府の指導なり援助というものは、決して初め期待したようなものではございません。その結果、逆に出たものは何かと申しますると、比較的その新産業都市の建設に非常に努力したものは、その地域にかえって公害現象が起きるという、そういう結果を招いてしまいました。したがいまして、新産都市の指定の当初におきまして、多数の地域というものがあすにもきれいな空気と、きれいな水と、それから美しい地域の中で産業が発達するというような、そういうビジョンを描きましたものが、むざんにもそれが実現されない状態の中におります。そこへもってまいりまして、今回の新全国総合開発計画というものが、まだちょうどその半ばの状態にあるところへもってまいりまして、新全国総合開発計画というものを、非常に何か大きなビジョンでもってその上にかぶせようとするこういう傾向がございますけれども、はたしてこういう形でもって国民のこれから納得がいくのかどうかということにつきましては、やはりある程度の反省を見ていく必要があるのではないかと、こういうふうに思います。で、したがいまして、政策としては、そういうことを申し上げましたのですが、こういう状態の中におきまして、 〔理事江藤智君退席、理事米田正文君着席〕 先ほど、農村からは都市に人口が流れ出て、しかも都市の中では、藤井さんも言われましたように、人口が非常に少ないんだと、いわゆる人間の不足が訴えられるんだと、人間開発ほどこれから重要だと、こういうことでございますけれども、私はこれに対しまして一つの別の考えを持っております。それは何かと申しますと、再び最初の大学の現状に戻りますのですが、今日の大学の学生というものが、ああいう状態におりまする内容の一つといたしまして、あまりにも現在のマスコミを中心にしました家庭の生活というものは、若い世代というものが教育を受けないですでに成熟をしていると、こういう一つのアンバランスがございます。すなわち、教育というものにそぐわって一般の教養も進むのではなくって、教養に類似するものは早く身につけてしまっております。それからあとで比較的ゆるやかな学問が入るということでございますから、ここに学生それ自体の中においての抵抗というものが出ます基本的な問題がございます。したがいまして、私は、現在中教審でいろんな大学それ自体の問題を検討しておられますけれども、私は、就学年齢というものを早め、なるべく早く社会に人を送り出しまして、そしてそういうことをするような努力というものが、これが考えられなければいけないんじゃないかと、したがいまして、現在かりに二十二、三でもって大学を出るということになりますと、それではあとはどうなることになりますかというと、私は、そのあとで、これは国のレベルで四十四、五歳にもう一回教養、あるいは技術を身につける一年ぐらいの有給の休暇というものを与えまして、そして、そういうものを取った場合におきましては、それの定年制というものが六十か、あるいは六十五になっても私はいいのじゃないかと、現在のような大学の程度の教養で、それが単なる定年制の延長というようなことで五年なり、三年なりを延ばしたわけでは、必ずしも能力が余った者が延びるわけではございません。もし、四十四、五歳の間に一年間の有給休暇的なものを国家が保障して、そこでもって再び修得していきましたならば、おそらく現在のいわゆる人間の能力というものをかなり高めるばかりでなくって、現在の能力の不足というものをそこに助けることになるのではないか、これを人間開発の中におきましてのいわゆるマンパワーの倍増計画といってもよろしい、こういう一つの考え方というものがなければ、先ほど藤井さんが言われましたような、ああいう単なる産業なり、経済の要請だけでもって人間というものの能力を使うというものでは不十分で、それを、能力をみずから高めたそういう一つの自負心を持って従事する産業において、初めて日本の経済なり産業というものも、その裏打ちができるのではないかと、このように考えるわけでございます。 したがいまして、以上のような観点から考えてまいりますると、日本の地域開発というものは、二つのいま矛盾した考え方がございます。一つは新産都市というような、地方に分散する計画というものも一応進んでおりますけれども、その上にかなり東京、名古屋、大阪を中心にしたいわゆるこの中央に権力を集中するような考えが出ておりますが、これを一体どのように調整するかということが一つのポイント、もう一つは、そのような大きな変動の中において一番問題でありまするマンパワーという、人間の力というものをどのように生かすかということで、私のような考えというものが一つあり得るのではないか、こういうふうに思うわけでございます。 以上まことに簡単でございますけれども、私が申し上げましたのでございまするが、最後に再び、アメリカの国会の一人の議員が、来年はおまえのほうは七十年だ、そのときに博覧会が開かれるそうで、うちの者がぜひ日本へ行きたいというから切符を注文しようと思うのだけれども、一体日本は大学のああいうことでだいじょうぶなのか、こう言われました。これはアメリカ人的率直な考えでございますけれども、しかしそのままに聞き流すわけには私はまいりませんと思うわけでございます。調和と進歩というようなシンボルで発足しました万国博覧会が、もちろん国民の一人といたしましてそのような方向で進みますることを期待いたしまするのでございまするけれども、それに対しましては、この状態の中においての一体進歩と調和というものが、単なるお祭り騒ぎの中における進歩と調和でございましたならば、私はかなり考えなければならない問題が含まれてくるのではないかということを思いました。このようなものを含めまして皆様方の御配慮をいただければ、国民の一人として非常なしあわせだと、かように思います。
○理事(米田正文君) それでは公述人に御質疑のおありの方は、順次御発言を願います。
○野上元君 磯村先生にお伺いしたいのですが、私もぜひひとつお会いして、ゆっくりお説を拝聴したいとかねがね思っておりましたので、きょうは非常に恵まれた機会で、感謝しておるわけですが、時間がありませんので、あまりむずかしい問題、理論的な問題を長時間質疑をするわけにはまいりません。したがいまして舌足らずのところも出てまいります。したがってまた何回も往復して質問したいのですけれども、それもできないと思いますので、ひとづかいつまんで質問を申し上げてみたいと思うのでありますが、先ほど来、いわゆる現代社会の移り変わりつつある姿というものを幾つか例をあげて、最終的なビジョンというのは、日本列島が一つの航空母艦のようなものになるのではないか。したがって一つボタンを押せば、すべてのものが動員されるというような一つの未来像を描かれたわけであります。問題は、すべてそういう未来像が、磯村先生が考えられておるような未来像と合致しておるのかどうか。たとえば農村からどんどんと都市に人口が流れ込んでくる。そしてメガロポリス的な様相を都市が帯びてきた。したがって先生が書いておられる「人間にとって都市とは何ぞや」という問題も拝見いたしましたが、それには幾つかの条件がありますが、その条件をはたして満たすような都市が、このままの状態でいてもできるのかという問題があるわけであります。もし好ましい状態であるとするならば、現在のままで私はけっこうだと思う。現在のままの制度なり経済なり、政治なりがそのままの姿で続いていけば、好ましい一つの未来につながっていく、発展していくということが言えるわけであります。しかし先生が、いまの状態のままで進んでいった場合の未来はこうなるのだというその未来像が、いわゆる人間疎外が非常にはなはだしいものであり、いまのような大学問題を含んで、青年諸君が非常に不満な社会ができ上がるという問題があるわけです。もしいま、それが将来においてつかむことができるならば、学者の皆さんがあるいは二十一世紀の将来をいまつかむことができるならば、そうしてそのモデルが正しいとするならば、それが誤っておるものという結論であるならば、今日の事態を修正しなければ意味がないと思うのです、学問を追求してみても。研究はされておるけれども、現状はこうですよというだけの研究では、私はいわゆる二十一世紀を先取りした大学の研究ということにはならぬような気がするのです。したがって、その点を私は非常に重要に考えておるわけであります。午前中は経済の力石さんが見えまして、現在の都市のいわゆるスプロール化しつつある都市、ぶざまなかっこうで伸びつつある都市ということを言っておられましたが、このままの状態で放っておくとたいへんなことになってしまうというような問題も、実は話されたわけです。私たちも選挙で各地を歩いてみますと、まことにそのとおりなんですね。全く無計画に都市は郊外へ郊外へとスプロールしていっておるわけですね。しかも非常に何といいますか、ドヤ街的な地域、非常に何といいますか、みじめな状態で、ただ家さえ建てばいいというようなスプロールのしかたをしておるということがわかるわけです。したがってそういう傾向がいまの段階にあるとするならば、私はこれは修正しなければならぬじゃないか、いまの段階において。そうして十年たった、二十年たったとか、あるいは二十一世紀にはこういう社会ができました、当時はそういうことは予想できておったのだ、こういうだけでは、私は大学の研究というものが、人類社会にとって貢献しないのではないか。いわゆるミネルバのフクロウのように、日が暮れて鳴いたというだけでは意味がないというような気がするのですが、その一点をまずお聞かせ願いたい。もちろん、ソビエトの学者は既知の問題を土台にして未知の将来をはかるなどということは、それ自体がもう誤った方法論である、こういうようにソビエトの学者も言っておりますけれども、私はよくわかりません。よくわかりませんが、少なくともわれわれとしては、早く未来を描いて現在の軌道を修正していかなければ、その誤った未来へ突入していくのではないか、それではわれわれが何を努力してみても結局現象を追いまくっている、こういうような気がしてならないのですが、その点をちょっとお聞かせ願いたいと思うのです。 それから、シビルミニマムの問題なんですが、これはシビルミニマムということばは、これは行政府のほうから言うことばですね。少なくとも東京の都市に住んでおる人は、これだけの条件だけは与えられなければならぬ、こういうのがシビルミニマムだと思うのです。ただ住民のほうからいうと、シビルマキシマムを望んでいるのじゃないでしょうか、あるいは国民からいえば、ナショナルマキシマムを望んでおる、それに向かって実現していくことこそが政治の任務であり、学者の任務である。そのビジョンを描いていくのが学者の任務ではないかというふうに考えるのですが、その点はどういうふうにお考えになっておるか、そういう点をお聞きしたいと思います。そうして先生がロブソン氏と会話されたことでございますね、ロンドン大学の教授の。あれも拝見しましたが、要するに先生方の研究が、すぐれた研究が日本の政治の中に生かされておるかどうか、あるいは日本の経済の中に生かされておるかどうか、日本の行政の中に生かされておるかどうかが、非常に重要だと思うのです。でなければ、私は全くもったいない話だというふうに考えておるのですが、それらの点について、ひとつお聞かせいただきたいと思います。
○公述人(磯村英一君) たいへん御丁寧な御質問をいただきましたのでございますが、一番最初にお話しございました、日本列島の将来像、というようなことばでは申し上げなかったと思うのですが、何か私の話の不十分から、将来は航空母艦的なものになるんじゃないかというふうな御印象を受けたかと思うのでございますが、私は必ずしもそういう立場ではございません。はっきりそうじゃない。しかし、多くの方々のお考えが何かそういうイメージを与えているということにつきまして、むしろ私は批判的立場をとっております。それは、いわゆる一つの未来論的論争になるのでございますが、未来論というのは、現状というものから飛躍するのが未来論で、現状から進んでいくものは未来論じゃないというのが発想になっております。そうなりますと、いま申し上げましたような、非常に象徴的になると、将来日本列島は航空母艦みたいになって、その指令塔が東京になるのじゃないかと、こういうような考え方でございますが、私は、それに対しては、次の御質問のシビルミニマムの展開はまさにそのとおりでございますけれども、私はいわゆる住民の自治ということを考えてまいります。住民というものは、確かに皆さま方のように国政を審議なさるために、あるいは九州の果てからこちらでお仕事をなすっていられる方があると思うのでございますけれども、全体の住民は必ずしもそういう生活を送らない。やはり九州のあるいは指宿なら指宿というところの中で仕事をしている、そこに自分の生活意識というものの非常に強い執着を持っているといたしますと、その広がりはかなり広がるかもしれませんですけれども、直ちに日本列島全体のものに広がるということは私はあり得ないんじゃないか。すなわち、いまおっしゃいました、私が発想が悪いから御指摘がございました、かりにシビルミニマムということのことばをお許し願いますと、シビルマキシマム的なものの考えというものは出るかもしれませんですけれども、シビルマキシマムは直ちにナショナルマキシマムにはこれは通じないんだ、そこに地方自治というものは私はやっぱりあり得るんじゃないか、それをナショナルマキシマムのほうにどのようにつなげるかというところに、政治という路線というものをやはり考えていくべきじゃないか、そのようなふうに考えます。したがいまして、私は決して航空母艦的に日本というものを考えるということは必ずしも適当じゃない、その意味において新全総に対しまして若干批判的である、こう申し上げました。 第二番目の問題は、まさに御指摘のとおりでございまして、確かにこれは行政路線、つまり知事とか、あるいは、そういう関係の市長とかが、みずからの政策の到達し得る希望的な標準としまして一応言えるわけであります。住民の側から申しましたら、まさに御指摘のとおりでございます。 第三番目の生かされていないのではないか、こういうことでございまするが、生かされていないということは、遺憾ながらおことばのとおりに受けとめざるを得ないと思います。私もかつては役人の経験も若干ございますんですけれども、もう少し謙虚に、あるいは相互に謙虚と、こういうふうに申したいのでございますが、これは日本のいろいろな問題の解決の上におきまして、何か学者と行政官と、あるいはその中においての専門家というのが、あまりに判然と分かれまするところに、お互いの知識というものを十分に利用しない傾向がございます。これなんかはもっと打破すれば、いまおっしゃいましたような、もう少しわれわれも努力しなければならない。と同時に、官僚主義の中におきましてやはり意見というものをもう少し謙虚に取り入れてほしいということを考えるわけであります。
○野上元君 ちょっともう一つだけ。磯村先生、私も先生が航空母艦になることを望んでおるということを申しておるんじゃないのです。現状のままでいくと、そういう状況になる可能性がある、こういうふうに言われた。しかし、磯村先生はそれに対して、好ましくないという考えを持っておられるとするならば、いわゆる現代においてすでに将来が予知できるわけですから、好ましくない状態にいくんですから、と学者は判断するということになれば、現状の軌道を修正するのが、一つの私は学者の任務ではないかというように考えるわけです。もちろん磯村先生のように都市を主として研究されておられる人たちの責任ではありません。これは当然経済をやり、法律をやり、文学をやり、あるいは医学をやり、心理学をやり、そういう人たちが全部集まってバランスのとれた将来のビジョンを描きながら現在を修正していかなければ、今日、御承知のように産業社会ですから、利益社会がどんどんとこのまま発展していくということになると、またまた人間疎外の問題で若い人たちが永久にこの現体制に反抗しなきゃならぬ、こういう社会が続いていくのじゃないかということを実は心配しておるわけなんです。その点の修正の方法というか、修正をすべきではないか、あるいはその修正の方法というのはどういうふうにしたらいいかという点はどうでしょうか。
○公述人(磯村英一君) 具体的に申し上げまするといろいろ長くなりまするのでございますが、私は、現実の問題として出てきておりますのは、日本の行政の体制の中におきましての非常に段階的なものをまずはずしていくべきではないか。それは何かと申しますると、何も私は町村合併をしろとか、あるいは直ちに府県をどうこうということではないんでございまするが、先ほど申し上げましたように、住民の意識が、あるいは経済の行動それ自体というものが、かなり現在の行政の範域というものから離れて行動している。したがいまして、まずこれの合理的な調整ということがすみやかになされるべきではないか。そうでございませんと、先ほど申したように、たとえば、たいへん選挙のことなんか申して恐縮でございますけれども、選挙なんかの場合において、あまりにも限られたる地域の中だけにおける関心ということになりますと、これはそれが投票行動に反映しない。もっと広ければと、こういうことは、これはかなり現在の若い世代の中におきまする投票行動の中に見られることができるわけであります。したがいまして、問題が広がっておる。考え方も広がっておる。それだったらば、そこのまず生活を規制しまする体制それ自体というものを、ある程度まで調整していってよろしいのじゃないか。現在都市が六百近くございます。町村になりますと三千以上ございます。その上に四十六の県とそれからその上にさらに首都圏、近畿圏あるいは中部圏といったようなものがございまするが、それだけではございませんで、あらゆるほかの行政それ自体というものが縦割り的に下にいっている。まずこういう路線というものをば、住民の意識というものが、ある程度までその域地社会のことを総括的に認識できるような体制になし得るのではないか。そういうことが考えられますので、その面での問題が一つあると思います。 それからもう一つこの機会に言わせていただきますると、日本の都市づくりと申しますか、地域づくりの中におきまして、なぜこれだけの過密現象を来たすかと申しますると、すべての力というものが市のまん中にある、こういうことでございます。私は友人が熊本の知事だったものでございますから、熊本の知事が、熊本県庁というものをつくる場合に、どこにつくったらいいかと申しましたから、私は熊本の市のなるべく外のほうにつくったらよろしいと、こういうふうに申しました。それは、熊本というのは、まず市民のためには市役所が中心でございまして、熊本県庁というものは熊本県の行政の中心でありまするから、それがもう熊本の市の中に立地するというようなそういう一つの条件というものは、かなりもう違ってきております。最初の案としては、熊本城と一緒にして、そこにつくるというお考えでございましたのですが、それはどこから見ましても、交通の路線からいって、自動車が何台も通れなくなるようなことが目に見えておりますので、私は、これを離してつくられるのが、これがまず地域というものを住民のものにする、地域行政というものを住民のものに近づける要素じゃないかというので、友人に話しまして、これは一つ実現したのですが、非常に具体的なことを申し上げるのでございますけれども、そういうことも考えます。したがいまして、東京とかあるいは名古屋とか大阪とか、そういう大きい都市の中で、県庁と市役所というものがまん中でもってその建物の高さを競うというような状態の中に、非常に具体的なものを申したのでございますけれども、私は、まずそういうところから改めていってよろしいのじゃないか。それ以外のことまたいろいろございますけれども、一、二の例を申し上げますと、そういうところから地域住民とそこの政治行政をいたしますものとの合理的な体制をつくっていく、そういうところに自治意識の向上もございますし、地域開発の合理性もそこに出てくるし、また全国的な開発というものの地元への定着性ということも考えられるのではないか、このように考えております。
○秋山長造君 いまでもそうですが、ここ数年来特に新産都法ができる前後から、もう各地方自治体で地域開発という四文字が、いわば合いことばのようになりまして、明けても暮れても地域開発地域開発、おそらく磯村先生なんかこれでずいぶん全国あっちこっち引っぱり回されたのじゃないかと思いますが、ただこの地域開発という問題は、われわれ東京で考える地域開発、それから地方へ行って問題にする地域開発が、多少ズレがあると思うのです。東京で考える地域開発というと、いわゆる新産都だとか工特地区、こういう地帯の開発整備というようなものが、どうにもすぐ一番に頭に浮かんでくる。ところが地方へ行きますと、そういう工特地区とか新産都地区とかというものは、地方では一番立地条件のいいもので、いわばほうっておいてもいずれそこへ人口あるいはいろいろな工場等が集中してくるだろうということが予想される地区ですね。一番恵まれた地区です。そこで地方で問題になっている地域開発というものが、そういう大規模な新産都、工特地区というものでなしに、もう一つランクの低い、いわばいま過疎問題、過疎対策というものが非常に頭痛の種になっていますが、そういう恵まれない地方の、人口がどんどん減っていく地帯を、何とか産業を開発して、そうして過疎現象というものを何とか食いとめていきたいということが、地方政治ではやっぱり開発問題の中心になっていると思います、地域開発の。ですから一口に地域開発といってもだいぶ違うと思うのです、われわれ東京で議論する地域開発と。やはりほんとうに地方の政治行政を担当している人たち、あるいは一般地方住民が頭を痛めておる地域開発問題というのは、むしろ過疎地帯の地域開発問題だと思うのです。これに対する政府の手だてとして、あれは後進地域工業開発促進法でしたか、それからたとえば辺地における公共的施設の整備何とかという、要するに辺地でのいろいろな公共施設についていろいろな補助金を出すという、こういう特別立法を断片的にはやって対処されてきたわけですけれども、とてもこんなもので食いとめられる情勢じゃないのです、この過疎現象というものは。そこでこれを裏返すと、また大都市に対する無計画な人口の集中、過密現象、これと全くうらはらな関係にあるもので、これのバランスをとっていくという意味からも、いま地方で一番問題になっておる過疎問題、過疎地帯に対する地域開発というものをどういうように考えたらいいのか。いまおっしゃる町村合併、もうほかに方法がないものだから、何か過疎現象を起こしている町村を三つか五つか合併して一つにすれば、何かそれで当面救われるような幻想にかられやすいと思うのです。また、そういうことで町村合併というものが全国的にずっと行なわれる機運のようですが、そこらがどうも私……。それで、過疎現象というものを一体形式的な町村合併ぐらいで食いとめられるのかどうか。それからまた、町村合併によって、いわゆるいま私が言うような地域開発というようなものが可能なのかどうか。また、それによって過疎現象というものを食いとめ、さらに都市に対する無計画な人口集中というものを緩和できるのかどうかというような点について、ひとつ御意見を伺いたい。
○公述人(磯村英一君) はっきりした態度を申し上げたいと思いますのですけれども、私は、この過疎ということばに対しまして非常に抵抗を感じます。過疎というこの発想それ自体というものが、いかに現在のいわゆる地域開発と申しますか、日本の政治行政の上におきまして、非常に間違ったイメージを与えているのじゃないか。過疎ということばの発想の中におきましては、一定の地域に住民が住んでおります、その住民の人口が若干減ります。そうしますると、これはもう過疎地帯だと、こういうふうにくるわけであります。それじゃ一体そこの住民がそこで生活をしていることが原則なのか、あるいはそこから外へ出ていくということが、何か地域それ自体のマイナスの要素になるかのようなイメージを与えていることは、あたかも封建時代の大名が自分の領土の中に自分の住民というものが定着しているというような概念でなければ、私は過疎なんという発想はできないのじゃないか、極端な表現で申しますと。したがいまして、過疎ということが問題になりまするのは、そこにいる住民の数ではない、またそこに住んでいる住民が、問題はどのような生活をするかということが問題でございまして、したがいまして、人口の多い少ないをもちましてこの過疎現象ということを言うことは、これは私は非常に問題じゃないか。同じような意味におきまして、これは逆の理念としまして過密と申しますると、過密とは何ぞやということになりましたらば、人口がよけい集まっていることが過密ではございませんで、そこに集まった人間が一体動きがとれないことが問題でございますので、したがいまして、そういう発想の上からいきますと、現在行なわれているところのこの過疎という概念につきましては、私はそのままちょうだいすることはできない。したがいましてそうなると、先ほど申し上げましたように、それでは町村合併ということだけが過疎対策なのか、こう申しますけれども、私は決してそうとは考えておりません。かりにそういうところから人口が都市に向かって流動するということがございましたならば、その流動したあとの町村というものの生活の水準なり、あるいはそこの農業の形態なり、あるいは林業の形態なりというものが、一定の、その点におきましては、いわゆるシビルマキシマムとはいきませんけれども、シビルミニマム的な範囲内でもってそこの生活というものが十分に維持できれば、私はそれは過疎ということばはこれは言わないでもよろしいのじゃないか。問題の政策はその点に集中すべきであって、地域内におけるところの人口の定着現象、その定着というものを数で数えたものからくる過疎の現象というものは、これは非常に間違ったイメージというものを与えているように思うわけでございまして、この現象で、もう一つ申し上げたいのは、現状のような状態を考えてまいりますと、市町村行政というものの近代化のプロセスからいきますと、やがては市町村に勤める人がいなくなるおそれがございますです。こういう面も、いまから考えていかなければなりませんですね。現在の全国の市町村の役場でもって、どのような人を新しく補充してそして行政をするかということは、実に深刻な問題になりつつございますね。それだから私もまた合併をしろ、そう言うわけではございません。ただ、そういう要素が加わっているということを考えてまいりますると、一つの対策として考えられるのが、いわゆる町村の行政それ自体の合理化的な傾向である、こういうことで、何も合併しなくてもその町村の行政というものを、あるいは非常に有能な民間団体に委託するなんという考えだって、これはあり得てもいいんじゃないか。しかし、これは伝統的な日本の自治意識から考えますると、それは必ずしも適当ではないと考えますので、先ほどのような議論が出るわけであります。したがいまして、もし過疎地帯の対策ということをかりに考えましたならば、消極的な面からいきましたならば、たいへんどうもきびしいことを申し上げて恐縮でございますけれども、社会保障的な面でもって一定の生活というものは当然これは保障さるべきじゃないか。多数の人が外へ出ていってしまって、そこの生活水準が下がるというようなことがございましたならば、それはその生活の低下に対しまして、私はこれはある程度まで国がその生活を保障するような態度になってよろしいのではないか。決してそれは社会福祉といったような、そういう限られている問題ではございませんで、私はその地域のある程度の繁栄と申しますか、生活水準と申しますか、そういうものを維持し、それから生産を維持するためにそこにとどまるという、しかもそのとどまることが、外へ出たほうが有利なのにもかかわらずとどまるというんならば、それに対して国家は何らかの保障をする。すなわち、もし現在のような、いわれまする過疎現象というものの地域に対する対策としましたならば、社会保障的なアイデアでもってここに過疎現象というものに対処すべき方向があるのではないか、このように考えます。
○秋山長造君 先生と議論するつもりはないのですが、確かに理論的に考えますと、いまおっしゃるとおりだと思うので、まあ池田さんが所得倍増政策をとられたときに卑近な例として、いまリンゴ五つある、それを十人で食っていると、それを人数を半分にすれば一人当たりのリンゴはまる一つずつ食えるようになるんだと、こういう式で農村人口をうんと減らして所得がそれだけ倍になるんだというようなたとえ話をやられたことがあるんです。それと先生のいまの話と同じだというのではないですけれども、理論的に考えればそれは十分了解できるのですけれどもね。私は、ただ人口だけを問題にしているわけじゃないんです、過疎問題を。ところが、人口が減っても食いぶちがふえれば、それはそれでそれなりに、いままで大ぜいの人口で恵まれないところで分け合って暮らしていたのが、人数が減るわけですから、それだけ一人当たりの所得なり何なりというものはふえるはずなんですけれども、ところが実際のいわゆる過疎地帯の実態を見ますと、人口もどんどん減っていくが、同時に社会的にも経済的にも何的にもどんどんさびれていっているわけですね。だから、まあ非常に大きな政治問題になり、社会問題になっている。たとえば学校なんかを一つとってみても、いままでは複式学級も何もなかったのが、子供の数が急激に減っていくものだから、今度は複式学級ができたり、極端な場合は単級になったり、先生の数も配分が減っていく。そうすると、一人の先生で何学年も一学級で一度に教えなくちゃならない、こういうような状態になってくる。これは何もかもそうなってくるわけですから、だから人口がふえるとか減るとかということが何も第一義じゃないけれども、しかしそのいわゆる過疎問題をかかえた町村の実態を見ると、ただ人口が減るだけでなしに、それとほぼ並行して社会的にも経済的にも文化的にも、いろいろな面でやっぱり過疎現象が起きているので問題だと思うんです。やっぱりこれも自然の現象なんだから、それで別に人間の幸、不幸に直接関係はないんじゃないかといえばそれまでですけれどもね。だけども、やっぱりなにじゃないでしょうか、総合的な見地から考えると、やっぱり都市と農村あるいは山村、そういうものの間には、おのずから一つのバランスというものがとれていくということのほうが望ましいんじゃないか。バランスをとるためにことさらに不自由してがまんしろ、都会に出るならもっといい生活ができるのに、バランスをとるために農山村で不自由してがまんしろ、祖先の墳墓の土地にあくまでもとどまるべきだという強制はできませんけれども、強制せぬでもおのずから踏みとどまって、都市と農村とのバランスでとれるような状態に持っていくのが政治だろうと思うのですけれども、そこらが非常に実際問題としてむずかしくて、地方政治の担当者は一番一頭を痛めておる問題じゃないかと思いますのでお尋ねしたわけなんです。もし何かさらにお教えいただければしあわせだと思います。
○公述人(磯村英一君) 一言だけ申し上げますが、ただいまバランスとおっしゃいましたのですが、非常に重要なんでございまして、われわれもそういうことを平衡減少的対策だと始終申すのでございますが、その場合において、それではたとえば比較的都市に立地しました工場にいろいろな条件をつけて、農村地帯に行けとか、そういうことを政策として出すのでございますけれども、実際におきまして私はそういう点で一番考えなければならぬのは、むしろ政治とか行政それ自体が優先すべきじゃないか。私は日本人のこの伝統的な考えからいきましても、そういう政策の場合におきましては、ややもすればそれでは学校は都市の外に出ろ、工場も出ろ、こう言うのですけれども、その出る前に、私一番出やすいのはむしろ行政それ自体が出やすいのじゃないか、こういう考え方でございます。いかに行政的な体制というものが、日本の地域社会の形成におきまして中央集権的な姿をとっているかということは、先ほど熊本県の例で申しましたような意味でもって御理解が願えるのじゃないか。したがいまして、最近市町村合併なんかがよく問題になりますと、どこに市役所を置くかということがすぐ問題になりますが、私はそれなんかまさにナンセンスであると、こう思うのであります。もう自動車が使え、しかもいろいろな通信機関が発達しているところならば、極端なことばで言えば、山の上でもいいじゃないか、乱暴な発言でございますけれども。そういうふうに申しますが、まず行政なり政治の姿勢それ自体が、いまおっしゃいましたようなバランスの方向に進んで向かっていただくということが一番望ましい傾向じゃないかと考えます。
○二宮文造君 磯村先生の先ほどのお話で、地域開発というものを観点において新産都市の指定があったと、しかしまた反面、太平洋岸のメガロポリス化、いわゆる巨大都市化、この相関関係と申しますか、むしろ相克という面で問題の提起がございました。そのとおりだと思います。 ただ一つ具体的に問題をお伺いしてみたいと思うのですが、御承知のように、本土と四国の連絡架橋という問題が、いま大きくこれはもうすでに政治問題化しております。ルートをどういうふうに決定するかということで、政治が相当にタッチしてまいりました。ルートの決定もできないというふうな段階にあることは御承知のとおりであります。そもそもこの連絡架橋の問題は、もうすでに三本の候補地があがっておりますが、それぞれの名分をつけております。たとえば明石−鳴門の線におきましては、いわゆる四国は京阪神の経済圏に依存している、したがって経済効果から見れば、あるいは淡路島の開発という面から見れば、当然このルートが正しいものと、こういうふうな意見の提起がありました。また今度は、まん中の瀬戸大橋でございますか、その面につきましては、日本海を太平洋に結ぶのだ、いわゆる山陰地方をおくれております四国と結んで、いわゆる地域開発という本来の目的に沿ったところはこのルートと、こう主張する。また三番目に、もう一つの西寄りの何という名前でしたか、尾道から今治にかけるルートのこの主張者は、離島の振興というふうな大義名分を掲げてやっております。先ほども申しましたように、これが政治問題化しているということは別としまして、本来の地域開発、こういう面から考えてみまして、まあ先生も何かそういう面でお書きになったものがあったと、私、非常に失礼でございますが、おぼろげに記憶をしておるわけでございます。そういう観点から地域開発という面について、この四国と本土との連絡架橋についてはこういう考え方が望ましいんではないか、御意見が伺えれば幸いだと思うんですが。
○公述人(磯村英一君) 率直にお答え申し上げます。 二つの視点が考えられると思います。一体、この橋をかけるということ、まあ経済圏をつくるのか、あるいは経済圏というものをただ結ぶのかという、その発想というものが基本的になければならないと思うわけでございます。で、私はまあどちらが結果的にどうだということは、これはもう全然別問題といたしまして、純粋に論理的に考えてみた場合におきましては、日本列島といったようなものの中におきまして、四国というのは、いわゆる唯一に近い離れ島と言ってよろしいかと思います。したがいまして、問題は四国をどう開発するかということが、これが地域開発の至上命令だと思うんでございますが、その場合において橋を三つ考えますると、今度の新全国総合開発計画の中で初めて中・四国経済圏というものを発想しております。ところが四国の方のほうに何か御異存がありまして、中・四国何とかと、こうなっておるのでございますけれども、まあ問題はそこにもございますけれども、私の考えとしましては、四国というものが中国地方とつながることが日本の開発の上において役に立つのか、あるいは近畿の圏につながることが日本の開発の上に役に立つかという非常に高い次元での考えがあると思います。 その場合において今度、橋というものが第二に考えられますと、橋というものは二つの性質を持っております。それは橋というのは単に道路のつながりである橋と、それから地域をつくる橋と二つございます。で、橋というものがかなり距離が長くなりますと、この橋というものは単なる交通路線でございます。しかし、橋というものができるだけ短くなりますると、その地域の双方が——その橋というものは路線ではなくてこれは面開発になります。すなわち、前に申し上げましたのが、橋というものが線の開発でございます、リニアの開発でございますが、こちらはスペースの開発になるのじゃないか。で、こういう点から考えてまいりますると、三つの橋のうちでどれが経済圏的スペースというのをつくる可能性を持っているかということは、その時点でもって橋というものが私は考えていくべきものじゃないかと。したがいまして、この三つ一緒にかかれば、これはけっこうでございますが、そんなことはとうてい予測できないことでございます。 それともう一つは何かと申しますると、その橋というものが、二つの地域をつなげますと、地域相互の間に地域の格差がございますと、一方の都市の地域というものはかなり一方に、これは経済的に吸収されてしまうおそれがございます。地域開発の要点というものは何かというと、二つの地域というものが橋でもって結合されましても、相互に繁栄を競うところに私は地域の開発があるんじゃないか。以上の四点から考えまして、すなわち、橋というものは本土と四国を、これをつなぐ場合において四国の全体の開発というものを考えるかどうか。第二番目においては、橋というものは面的開発というものとして巨額な投資をするのでございますから、面開発をすべきではないか。と同時に、その橋の両端においてはできるだけ経済規模、あるいは文化的水準というものが、あるいは市民の生活というようなものが比較的同じようなもので競争できるようなものがある。これが私は日本の地域開発の巨視的な面からいたしまして、判断の基準になるべき根本の要因ではないかと、こういうふうに考えております。具体的にどうこうということは御遠慮申し上げたいと思います。
○川村清一君 ただいまお話にも関連していると思うんですけれども、実はこの地域開発の問題ででございますが、それを目ざして全国地域地域に地域開発法という法律があるわけです。東北開発法とか、中国開発法、また四国開発法、九州開発法。この開発法の歴史を考えてみますと、昭和二十五年か六年に、北海道開発法というのができたのが、これは開発法の最初でございまして、そうして北海道開発庁という役所もでき、開発庁長官という大臣も誕生したわけであります。その当時におきましては、北海道開発法が生まれなければならない客観的な情勢、状態というのがあったわけでございまして、非常にこの土地が広大であり、人口が希薄であり、また国といたしましても、終戦後いかにして食糧を確保するか、いかにしてあり余った人口を吸収するか、その場所をどこに求めるかというと、北海道以外にないじゃないかということで、全国あげて北海道を開発しなければならないというので北海道開発法というのが誕生したわけであります。これは一つのはっきりした理由がわかるわけでありますが、その後各地域に開発法ができた。これは決して私は要らないというのではないのですが、ただ全部できてしまったら——四国にもできる、中国にも、それから九州にも、東北にも、北陸にも、全国各地に開発法ができてしまえば何にもないのと同じでないか。少し極端な議論かもしれませんけれども、何にもないのと同じじゃないか。そうしてお互いにセクト的になっていろいろな問題を別に考えるのではないか、政治問題も別に考えるのではないかといったようなことに私は考えるのです。 そこで先生にお伺いしたいことは、そういう各地域の開発法というものはこの際ネグるといっちゃ悪いんですが、やめてしまって、全国総合開発法という一本の法律の中でまとめてしまっていったらどうかということなんです。それからただいまのお話にも関連してくるわけでありますが、日本列島は非常に長いわけですね、したがって、北の端の北海道と、南の端の九州では、これはもう自然条件も、いろいろな条件がみな違うわけでありますから、したがって、同じことをやれといったってなかなかできない。ところが各地域とも開発といえば、その中身はすぐ工業開発なんです。重工業を誘致するとか、あるいは工場をいかにして誘致するとか、開発とは何だ、開発とは工場誘致なり、工業開発なり、こういってもいいような議論が行なわれているところに私は一つの矛盾を感ずるわけでございます。したがって、各地域地域は、日本全体の経済の中において一つの占める、何といいますか分野を持っている。たとえば日本全体の経済の中において、北海道に対しましては、どれだけの一つのこういう面に寄与せよという責任を与える、分担を与える。九州に対しては、全国の経済の中において九州はこれだけの一つの任務を持ってやりなさいと、これは全国的な視野の中でそれをきちんとして定める。そうなればあながち工業だけでは私はないと思うのです。これは農業であってもいいと思うのです。食糧の面において、これだけの食糧をあなたの地域ではこれだけ日本の経済の中において責任を持って生産しなさい、こういうようなことでひとつ開発というものを考えていったらいいのではないかというような気がするわけなんです。ただ問題は、開発の目的はあくまでもこれはそこに工場ができるとか、何ができるとかいうことじゃなくて、その地域を開発するということは、その地域に住んでいる住民の生活をいかにして向上するかということなんですから、東京に住んでいる人も、北海道、九州に住んでいる国民も、同じ日本国民として同じ生活を享受する、そこに目的があるんであります。そういう同じ生活が享受できるという、そういうことをしっかりわきまえて、前提にして、それでやはり開発というものは工場だけじゃなくて、あるいは農業であるかもしれないあるいは漁業であるかもしれない、また工業であるかもしれないといったような形でやって、その全体的な開発を進めていくべきじゃないかと、これが地域開発というもののたてまえでないかと私は思うんでございますが、いかがなんでございましょうか、先生の御意見を承りたいと思います。
○公述人(磯村英一君) ただいまの御意見、現在の首都圏をはじめとしまして、現在三つございます。おそらく、放置すればこのままあるいは瀬戸圏とか九州圏とか、そういうふうになるおそれがあるんじゃないかと。それよりか全体的でという御発想でございますが、まず根本は首都圏整備法ができましたときに、ただいま御指摘のような理論的な間違いが実はございました。で、最初は、首都圏整備法ができましたときは、首都建設法でございまして、東京をどうするかという問題が中心でございました。ところが、それでは不十分だというので、何か圏だけを関東地方に広げてしまいました。したがいまして、現実において首都を建設するという目的というものはかなり薄れてしまいまして、何か一府六県と申しますか、一都六県というものの開発のための企画的調整をするんだという役割りになってしまいまして、東京の首都をどうするかという問題は非常に薄れてしまいました。この構想ができて、実は首都圏整備法ができましたその影響というものがほかにかなり大きな影響を与えた。ほんとうは、極端なことを申しますと、東北地方なんかはかなり首都圏整備法の影響を受けました。福島県あるいは山形県なんかの人口の流入が、首都圏整備法によるいろんな開発地域ができましたために人口の流入がかなり激しくなりました。その影響というものがさらにあるのじゃないかということで問題を敏感に感じまして、近畿圏整備法ができた。そのあとでは、国会におかれましても、もう整備法はつくらないのだという、ただいま御指摘のようにありますにもかかわらず、今度、中部圏開発整備法ができてしまいました。こういう一つの何と申しますか、地元的なあるいは特殊な要求に次々乗っていって現在のような状態でございますので、したがいまして、基本的に一体、整備法それ自体というものが日本の地域的開発というものにどれだけ役に立っているかという、そういう視点からいきまするとかなり問題で、一番最初に御指摘の北海道開発とは、これは全く内容を異にしているのじゃないか。もし、北海道開発のようなああいう形でもって首都圏なり近畿圏なりあるいは中部圏をやるならばまた問題は別だと。したがいまして、もし実施するならば、そういう方面に進んでいくべきであるし、そういう場合には、おそらく、ほかの九州圏もあるいは中・四国圏もできるのじゃないかと思います。それがいいか、悪いか別問題でございますが、現在のような何か中途半端な一つのいゆわる圏的な地域開発はどちらかにこれは整備さるべきであるという時点から、ただいまの御意見につきましては、これを整備するという方向ならば確かにそういう整備する方向はあり得ると。ただ、あり得ると思うのでございますが、さてその場合において、水の利用であるとかあるいは高速道路をどうするかという問題を、それを現在のようないわゆる縦割り的な、官庁だけの、縦割り的な官庁とそれを受けとめる県だけでやれるかという問題は一つございます。一つございますけれども、それがもし、この中央で強く縦割り的行政というものに対する何か調整的役割りを果たすのでございましたならば、ただいまの御意見につきましては、私は賛成でございます。
○理事(米田正文君) 他に御発言もなければ、質疑はこの程度にとどめます。 公述人の方には、長時間有益な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。 明日は午前十時開会することとし、本日はこれをもって散会いたします。 午後三時四十四分散会