法務委員会 第31号
- 発言数
- 63 件
- 登壇者
- 9 名
- 会派数
- 2
- 開催日
- 1968/05/21
会議録
○永田委員長 これより会議を開きます。 神近市子君外七名提出の死刑の確定判決を受けた者に対する再審の臨時特例に関する法律案を議題として、審査を進めます。 本日、本案審査のため参考人として、東京教育大学教授福田平君、中央大学教授下村康正君、九州大学教授井上正治君、弁護士後藤信夫君の御出席をいただいております。 この際、参考人各位に一言ごあいさつを申し上げます。 参考人各位には、御多用中のところ、わざわざ本委員会に御出席いただきまして、まことにありがとうございました。参考人各位には、本案につきましてそれぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただきたいと存じますので、よろしくお願いいたします。 それでは、参考人の方々には、最初お一人十五分程度ずつ順次御意見をお述べいただき、そのあとで委員の質疑にお答えいただくこととし、まず、井上参考人からお願いいたします。井上参考人。
○井上参考人 井上でございます。私の意見を申し上げます。新しい制度をつくりますときはよほど慎重でなくてはならないと思うのでありますが、本案に対します私の結論を申し上げておきますと、その趣旨において私は賛成でございます。ただこまかい一、二の点につきましては異論を持ちますが、その点はあとで触れることにいたします。 私が本案を拝見いたしまして最初に感じましたのは、イギリスにおきます恩赦権による再審の手続というのとたいへん似ているということでございます。イギリスは御承知かと思いますが、刑事上訴法によりまして原則としてニュートライアル、再審の制度を廃止いたしました。しかしながら、必ずしも全面的に再審という制度がないわけではないのでありまして、先ほど申し上げましたように、恩赦権によって裁判所に再審理に付する制度が残されております。結局イギリスでは、よほどの場合にはやはり何とか救済の道を講じなければならないという思惑から存在する制度だと思いますが、このたび本法案が提出されました経緯を拝見いたしましても、全く同じような感じがそこへあらわれているのに、実のところ敬意を表するものであります。 この法案に反対する意見は、おそらく次のように言うでありましょう。裁判が確定いたしますと、裁判の効力といたしまして既判力が生じます。既判力と称しますのは、すでに一度裁判を受けた者は再度審判を受けることができない、審判を拒否するのだ、そこで再審というような特別の制度でその例外をつくるには、文字どおり例外でありまして、きびしく条件をきめなくてはならない、こういうふうな考え方から、突然こういう法案を出すことは、例外をゆるめることであって、訴訟理論に反するという意見が、反論として出ると予想できます。しかし、その際考えくてはなりませんのは、確かに既判力というのは、何度も何度も繰り返し国民が裁判を受けることによって人権を危うくすることを防ごうとするものでありますが、既判力は既判力のためにあるのではなくて、既判力という制度も一つの合理的な理由を持っているのであります。その理由はいま申し上げたことに代表されるのでありますが、そこで、他面その既判力が予定している合理的理由を破るだけの理由が何らか予想できるときには、もちろん既判力をゆるめて再審の手続をとるということにも、十分理由があるものであります。観念的に既判力を振り回して再審を拒否するということは、理論のための理論でありまして、再審という訴訟制度を実は十分な理解をしていないばかりでなく、多くの場合誤解を与えかねないのであります。 この法案に関しますそれでは合理的な理由というのは、どういうところにあるだろうかということを考えてみることにいたします。私は、大きく二点あるように考えるのであります。 第一点は、何ぶんにもこの提案理由書を見ますと、七名の者となっておりますが、七名の者は非常に長い間死刑が確定したまま放置されているというのであります。もちろん今日まで死刑が執行されなかったことにつきましては、刑事訴訟法にのっとって当局はそれなりの説明をするでありましょう。繰り返し再審請求が行なわれたがために死刑が執行できなかった、こういう弁明があるでありましょうが、いずれにいたしましても、その理由は那辺にあるにしろ、長い間死刑が執行されなかったがために、国民はこれら七名に対します判決に疑惑を持つに至ったことも争えません。裁判は、国民の信頼の上にしか成り立ちません。とりわけ刑事裁判は、国民の信頼を失ったならば、専門的な用語で申し上げれば、訴訟の文化性を全く喪失してしまいます。国民の信頼をつなぎとめてこそ、刑事裁判はその権威と効果とを維持することができるのであります。これら七名に対します死刑判決が、どういう国民の情緒的な批判であれ、何となくこの裁判はおかしいのではないんだろうかという疑惑が事実として、また結果として残ったということは、返す返すも残念なことではありますけれども、そうであるがゆえに、何とか国民の疑惑を晴らす新しい制度が考えられなくては、訴訟の文化性を維持することが困難となってまいります。そういう合理的な理由が、既判力という学者が考え出しました理論を曲げてでも、既判力を犠牲にしてでも新しい審査が、審判が要求されることになると思います。 第二の理由は、これは学問的な一つの感覚に基づくのでありますが、私自身は死刑という刑罰を残すべきではないという学説に立っております。しかしながら、死刑の廃止ということは、なかなか言うべくして困難であります。それぞれの国には、それぞれの長い歴史と伝統があります。現にわが国におきますたとえば内閣官房の内閣審議室、毎日新聞社あるいは日弁連の調査によりましても、六〇%から七〇%の国民が死刑を残せという意見に賛成をしております。しかし、世界の傾向を見ますと、だんだんと死刑という刑罰は廃止されていきます。いま急に死刑を廃止しろというのではなくして、将来進むべき方向を何らかの形で示すということは、私は刑罰、特に死刑という制度に対してきわめて重要なことだと考えております。死刑再審法案がこのたび提出されますことは、死刑というのはまことに慎重なものだということを国民に啓蒙する意味において、単にそれは啓蒙のための啓蒙ではなくして、将来の立法のために国民によく理解してもらうために、十分その理由があると考えます。これが第二の理由であります。 こういう観点から見まして、私は既判力ということをたてに本法案に反対する見解には、どうも賛成しかねるのであります。そしてそういう総論的部分と申しますか、それを前提にして考えますときに、本法案のこまかい一、二の点に関しまして意見を申し述べさしていただきます。 再審は例外であるという考え方に立ちますと、再審を求めるための証拠は、四百三十五条六号のことでございますが、「明らかな証拠」を新たに提出しなくてはならなくなっております。これを学問上は、証拠の明白性及び証拠の新規性と呼んでおります。証拠が新規である。とりわけ証拠が明白であるということはどういうことかというと、これまでの学説及び裁判所の実例に徴しますと、次のように理解されております。すなわち、新しく提出する証拠だけで原判決をくつがえすことができる、しかもそのくつがえすというのは、原判決に何か疑いがありそうだという程度ではなくして、原判決は間違っているというところまで立証できなければ、証拠の明白性があったとは言えないという非常にきびしい態度をとっております。しかしながら、フランスのルーが言っておりますように、刑事裁判におきます再審というのは、民事裁判とは違って、既判力を破って新しく審理をするにしても、利害関係を持つものは、被告人以外ほかにはいないんだ。だから、そうきびしいことを言わなくて、もっとゆるやかに解釈をすべきではないかと言われておるのでありますけれども、それは現在のわが学界及び実務では通用しないことになっております。ここでも既判力という制度は、非常に大きな威力を発揮するのであります。それを条件にしていたのでは本法案はほとんど効果を発揮することができませんが、そこで本法案によりますと、提出されます証拠は「明らかな証拠」である必要がなく「相当な証拠」でよろしい、こういうことになっております。「相当な証拠」という考え方は、理由書にもありますように、アメリカのニョートライアルの制度では、「重要な証拠」という形でこれがあらわれております。またフランスにおきましてもドン・ドュードバーブルは、証拠を「明らかな証拠」というほどきびしい解釈をする必要はないという見解を持っております。私が理解しますのに、「相当な証拠」と申しますのは、先ほど申したように、その証拠だけでというのではなくして、いままである証拠と合わせてみる。また第二に、原判決が間違っていることが決定的だと言われるほどのものでなくても、原判決に疑いを投げかけるに十分な理由があるというところまで証拠が出せたならば、再審に付そう、こういう意味におきまして、私は、十分理由がある、それこそは文字どおり相当な規定であると理解いたします。 ただ一点、こまかいところでございますが、再審を開始するかどうかの審理におきまして、参審制度がとられておる点について言及さしていただきます。私自身は、この参審制度をとろうという立法者、立案者のお気持ちは十分理解できます。裁判は自由心証主義で、裁判官の理性がすべてを支配するというふうにいわれておりますが、それはまことに観念的な考え方でありまして、裁判官には裁判官独自の論理と心理があります。そのために、再審にかけるといってみたところで、おそらく原判決を破るには相当な勇気が要るでしょう。とりわけ一度死刑を言い渡されて、これだけの時間がかかり、そしてまた国民の間からいろいろ批判の出ておる事件を、実は無罪だと言い切ろうとするには、かなりな決断がなくてはできません。そのために、何かショック療法の一つとしてしろうと裁判官を加えておけば、あるいは裁判官の心理と論理を牽制することができるという配慮であろうかと思うのでありますが、しかしながら、この法案に関しまして、この法案についてだけでも参審というわが国にこれまで置かれていない制度をとるということには、よほど慎重な研究と討議が必要であるように思います。また、しろうと裁判官を加えてみても、どれほど結果として期待される効果があがり得るかどうか、これには疑問を持っております。ドイツの参審制度は、参審員であるしろうと裁判官が十分その機能を発揮し得るように、商事事件であるとか労働事件であるとかいうことにおいてとられておる制度でありまして、それをそのままここに取り入れようとすることは、いささかことばが過ぎますが、若干場当たり的な立案の感じがなくもありません。この点はどうにも私には異論が残るのでありますが、そのことを除きましては、まことに妥当な立案であると賛意と敬意を表するものであります。以上で終わります。
○永田委員長 井上先生ありがとうございました。 次に、福田参考人にお願いいたします。
○福田参考人 福田でございます。死刑確定者再審臨時特例法案、この法案を拝見いたし、また提案理由を拝読してまいったわけでございますが、この法案が提案された根本動機といったようなもの、これが死刑の執行をできるだけ少なくしていこうという人道主義的な思想にあるということは、否定できないところと存じます。そうしてこうした考え方につきましては、私ももとより賛成でございます。現在直ちに死刑を全面的に廃止するかどうかは別といたしましても、できるだけ死刑の適用範囲を縮小し、またその執行をできるだけ慎重にするということは、すみやかに実現されることが望ましいことと考えております。こうした意味におきまして、この法案の根本精神といったものには同感いたすのでございます。 それではこの法案そのものに賛成かと申しますと、どうもこの法案の内容につきましては、にわかに賛成いたす気持ちになれないのでございます。そこで、以下ごく簡単に、私がこの法案に賛成できかねる理由を述べさせていただきます。 私の気持ちに一番ひっかかるのは、この法案第一条の適用対象の限定でございます。同条は、「この法律は、昭和二十年九月二日から昭和二十七年四月二十八日までに公訴を提起された者でこの法律の施行前に死刑の判決が確定し、この法律の施行の際その刑を執行されていないものに係る再審の請求について特例を定めるものとする。」と規定しております。再審は申すまでもなく、確定判決に対して主として事実誤認の不当を救済するために認められる非常救済手続でございます。そこで、特に占領下において起訴された未執行の死刑確定囚についてだけ非常救済手続たる再審特例を認むるためには、それだけの合理的な理由、すなわち、これらのものについて、一般的に見て事実認定が不当である可能性が大と認められる理由がなければならないかと存じます。この点につきまして、提案理由は三つの点をあげておられます。すなわち第一に、本法案の対象となる事件は、終戦直後の混乱した社会情勢のもとに発生したもので、捜査段階で慎重を欠くものがあったばかりでなく、連合国に対する配慮や占領軍の政治的影響力により、手続の公正が一〇〇%保証されていたとは限らないということ。第二に、新刑訴施行後日が浅かったため、捜査官、弁護人が手続にふなれで、人権尊重上に完ぺきを期することができなかったうらみがあるということ。第三に、これら死刑囚の事件は、いずれも黒白半ばし、決定的、物的証拠を欠いたという疑いがある事件であるということ。この三点があげられておるのでございます。しかしながら、この三つの理由それ自身、占領時代に誤判の可能性が大きかったということを納得させる理由としては不十分ではないかと思われますが、かりにこの期間に右の理由から誤判の可能性が大きいことが肯定されるといたしますと、それはこの期間にあるすべての事件に当てはまることではないかという疑惑が生ずるのでございます。そしてこの期間に自由刑の言い渡しのあった者に対して、なぜ再審特例が認められないのか、さらにこの事件ですでに死刑が執行されたものについては、なぜ再審特例が認められないのかという疑問が生ずるのでございます。自由刑の場合は死刑の場合とやや意味が違って、前者は回復可能であるが、後者は回復不可能であるという立場をかりに認めまして、一応この点を度外視いたします。死刑について見ますと、占領期間中に公訴の提起があって死刑が確定した事件は、二百数十件あるそうでございます。そうしていまだ未執行の者は七名ということでございます。そういたしますと、この法案は、同じ条件にある者の七名についてだけ再審特例を認め、その他の二百数十名には認めないということになるわけでございますが、これはいかにも公平を失しているように思われます。死刑の執行が済んでしまったのだからしかたがないでは済まないと、私は思うのでございます。もしすでに死刑が執行された者の遺族が、同様の再審特例を認むべきであるという要求をなしてきたときに、これを拒否する十分の理由を見出すことは困難でありましょう。したがいまして私は、この適用対象の限定には、どうしても合理的な理由を見出し得ないのでございます。もちろん、この限定が再審に特例を設けることによる確定判決の持つ法的安定性の動揺を最小限度に食いとめようとされた提案者の御意図を理解できないわけではございませんが、しかしながら、この限定は合理的理由に基づくものでなく、そのために他の事件との対比において公平を欠く感じを与えることは、否定できないと存じます。そして一般的な準則を定める法律におきまして、公平を欠くということは最も大きな欠陥であると考えるわけであります。 なお、右の期間に誤判の可能性が大きいと認められるかどうか、このこと自体私ははなはだしく疑問であると存じます。占領時代に不正な裁判が行なわれた蓋然性が高いということが事実として示されれば別でございますが、提案理由に示されている程度の理由では、間接統治下の占領時代に特に誤判の可能性が大きいと認められるという結論を肯定することはできないように思われるのでございます。そういたしますと、占領時代における事件一般について再審特例を認むる必要がないばかりでなく、いわんや公平を失してまで未執行の死刑囚についてだけ再審特例を認むる理由はないように思われるのでございます。 次に、この適用対象の問題が解決いたしましたとして、たとえば死刑囚一般に再審特例を適用する、こういたしまして、それではこの法案に盛られた内容の再審特例を認めることが妥当かどうかという点でございますが、この法案の内容につきましても、私は若干の疑問を持っておる次第でございます。すなわち、法案六条の、再審請求を東京高裁の専属管轄としている点、九条の再審開始の決定に対して異議申し立てを許さないという点、十条の再審請求棄却決定に対しては、重大な事実誤認を理由として特別抗告をすることができるとしている点などにつきまして、私は疑問を抱いておりますが、私が一番疑問といたしますところは、先ほど井上教授がお触れになりました第七条の再審請求に関する審判は参審によるとして、ここに参審制を持ち込もうとしている点でございます。参審制度の可否それ自体は、訴訟構造ないしは司法制度の重要問題でございまして、私自身この点について十分に検討いたしておるわけではございませんが、しかしながら、ただ、こうしたわが国に未経験の制度を最初に再審請求手続に採用するということは、はたしてどのようなもであろうかと存じます。しかも、再審請求に関する審判は、いわば、法律審的構造を持つものでございまして、しろうとの裁判官を導入したところの参審制は、ここではあまりなじまないものではないかと存ずるわけでございます。 以上、簡単でございますが、私といたしましては、いま申し上げた理由からこの法案につきまして賛成いたしかねる次第でございます。以上でございます。
○永田委員長 福田先生ありがとうございました。 次に、後藤先生にお願いいたします。
○後藤参考人 私は、日本弁護士連合会人権擁護委員会を代表して、再審の臨時特例に関する法案を支持し、かつ、その提案理由に全面的に賛成するものでございます。 わが国では、明治十三年の治罪法で認められた再審が旧々刑訴法及び旧刑訴法を経て現行刑訴法に引き継がれ、人権擁護のために一大改革が行なわれたのであります。にもかかわらず、再審の理由については、七十八年前の権力主義時代の過酷厳重な規定がほとんどそのまま踏襲されておりまして、基本的人権尊重の新憲法の精神は、全く無視されている形でございます。 そこで、日弁連におきましては、吉田石松翁の再審事件をきっかけとして、現行再審制度を緩和するために、改正要綱をつくって政府に申し入れましたところ、衆議院法務委員会では、再審制度調査小委員会を特設してくださいまして、学界や実務家の意見を徴されたのであります。ところが、議会の解散によって中止となって、今日に及んでおります。私は、その小委員会で参考人として意見を述べておりますので、御参照いただければありがたいと思います。 さて、日弁連要望の再審制度の改善がいつ実現できるか、実現するにしても、それがいつになるか。もしその間に死刑の執行が行なわれるならば、冤罪を訴えている死刑囚の生命が奪われ、悲惨な結果におちいるのであります。そこで、本法案が国会に提出されたゆえんでありますが、その対象となった死刑囚の多くは、現に冤罪を訴えているものであります。そして社会の多くの人々も、これらについては誤判の疑いをもってそれを見詰めております。それなのに、これらの者に対してきびしい再審法規のもとに、再審への道を閉ざし、彼らの悲願を退ぞけ、社会の人々の疑惑を一掃することもなく彼らの生命を奪うことは、まさに新憲法の精神に反することはなはだしいと言わねばなりません。 国民の人権の擁護と社会正義実現を目的とする日弁連八千有余の弁護士は、九千万の国民とともに双手をあげて本法案に賛成するものでありますが、法的安定性を重視されている検察官や裁判官は、必ずしも賛成ではあるまいと思うのであります。それは、再審の結果無罪になることが、直ちに検察官や裁判官の責任ではないにしても、場合によっては、そのために捜査当局の失態が明らかになり、また、裁判官としては、同僚や先輩あるいは後輩の黒星を認めねばならぬということになるからであります。したがって、実務家としての私の経験によれば、検察官も裁判官も、再審法規の改正を喜ばず、現行法規の運用についても、無慈悲といえるほど形式的に、技術的に、冷酷無情に解釈される傾向のあることを痛感しているのであります。したがって、本法案において参審の規定を設けられたことば、本法案に魂を入れるゆえんであり、その実効あらしめるに最も効果的であると私は存ずるのであります。 裁判は、神がさばくものではございません。また、化学的に分析し、機械的に測定して事実を認定するものでもございません。被告人の供述も、関係者の証言も、常に真実に合致するとは限りません。検察官も人間であり、裁判官も感情の持ち主であります。捜査や裁判の段階において、誤解あるいは偏見のために、千に一つ、万に一つの誤判がないとは断言できないのであります。高度の科学性にささえられた現代の医学でさえも、多くの誤診があると聞いております。だとすれば、裁判官の自由な心証にゆだねられた事実認定による裁判が、絶対に誤判なしとは言い切れないのであります。 最高裁判所刑事局の調べによりますと、全国の裁判所に出される再審の訴えは、毎年約八十件、そのうち五件ぐらいは再審裁判で無罪になっているそうであります。そしてそのほとんどは、有罪の判決確定後、真犯人が発見されたとか、犯人が実は身がわりであったというような、誤判を疑う余地のない明らかなものであります。この事実は、いかに誤判が多いかということを証明すると同時に、証拠の真偽やアリバイの存否などを争って無罪になるというケースがほとんどないということから見ましても、この種の事件にもなお多くの誤判があることが肯定できるのであります。 本法案は、一定期間内に起訴された死刑囚でいまだ刑の執行を受けていない者を対象としているのでありますが、これらの者になぜ誤判が多いか。それは提案理由にも述べてありますように、事件の発生が終戦後の社会情勢の混乱の時期であり、あるいは事件そのものに進駐軍関与の疑いがあり、かつまた、新刑訴法施行後幾ばくもない関係上、捜査当局はもとより、裁判官、弁護人など、実務に習熟していなかったからであります。 私は、その例として、本法案の対象にはなっておりませんが、この期間内に起訴されて、一審死刑、二審もまた死刑、そして上告審で破棄差し戻された結果、危うく冤罪を免れた事例をあげてみますと、昭和二十三年、静岡県下で起きた殺傷事件の被告人近藤勝市外二名がそうであります。昭和二十五年、同じく静岡県下二俣での惨殺事件で被告になった須藤満男もそうであります。これらの事件は、有能な弁護士の熱意と努力の結果、一、二審の死刑が幸いにして無罪になったのでありまして、もし最高裁判所が多くの事件と同じように、控訴判決には憲法違反がない、また、従前の判例にも違反しないとの一点張りで上告を棄却していたならば、二審の死刑判決が確定して、無実の者が処刑されることになったでありましょう。五十年目に初めて青天白日の身となったいわゆる日本の岩窟王といわれたかの吉田石松翁にしても、一審の死刑が控訴して無期になったからよかったものの、生命があったからこそ雪冤の悲願が遂げられたものの、かりに控訴が棄却されていたとするならば、彼もまた死刑の執行によって冤罪をそそぐことはできなかったでありましょう。おそるべきは罪なくしてその生命を奪われる死刑囚であります。 最高裁判所や法務省では、重罪犯に再審開始の決定が下る例の少ないのは、ほとんどが最高裁まで争われ、慎重の上にも慎重な審理が尽くされているからであると言うのでありますが、弁護人の立場から見れば、必ずしもそうとは考えられません。それは検察と弁護の攻撃防御が力の均衡を得た場合のことでありまして、その両者に著しい格差が生じたときには、誤判の危険がまことに多いのであります。本法案の対象となっている免田栄の場合が、まさにその顕著な例であります。 免田は、昭和二十四年の熊本県下の一家四名の殺傷事件の被告人でありまして、一審で死刑、控訴、上告を経て判決が確定してはおりますが、誤判の疑いがきわめて濃厚であります。なぜならば、免田の事件については、判決と決定において、有罪と無罪の二つの裁判があるのであります。その一は有罪の原審判決であり、その二は再審開始決定の無罪の判断であります。有罪の原審判決は、本件が新刑訴法施行わずか二週間後の起訴であったのと、検事の論告に対し十分反駁抗争の理由があったのに、担当の弁護人はそれをなさず、一、二審を通じて弁論要旨も提出せず、また、控訴についてもその理由を主張せず、特に法律的に最も苦心を要する上告も、法律を全く知らない被告人本人の手続においてなされ、弁護人の理由書の提出もなく、終始防御権放棄の状態だったのであります。弁護人の怠慢というか、無為無能というか、免田にとってまことに不運な事件だったのであります。これに反して、再審開始決定の無罪の判断というのは、本人自身の再審請求を受理した裁判官が、きわめて良心的に、また人道的に、積極的に審理を進め、検事が手元に残して公判に提出しなかった免田に有利な十八名の参考人の供述調書を検事から取り寄せるとともに、原審ですでに取り調べを受けた十九名の証人を再び喚問し、さらに三十一名にも及ぶ多数の新しい証人をも喚問したほか、重ねて犯行現場を検証するなど、慎重に事案を検討した結果、無罪を認めて再審開始を決定したのであります。もちろんこの決定に対しては、検事としては当然即時抗告をしたのでありますが、これに対して弁護人は何の反論もなさず、そのためにせっかくの再審開始も取り消されたのであります。弁護人がその取消しの決定に対してもまた何らの異議をなさず、特別抗告の理由書も提出しなかったことは、前同様であります。たとえ再審開始の決定が取り消されたとはいえ、それは再審で判断した無罪の証拠に新規性と明確性がないという形式的の理由でありまして、実質的に無罪の判断そのものが否定されたわけではございません。なぜならば、有罪の確定判決は、わずかに九ページ、二千六百七十八字で、すこぶる粗雑冷酷であるに反し、再審の無罪の判断は、実に百六十一ページ、五万四千八百十字に及んでおりまして、高明な見識を有する裁判官の慎重な審理によって真実に肉迫しているからであります。私は、この裁判官の正義感に心から敬服するものであります。 要するに、一たび確定した判決を再びやり直すことは、法的安定性尊重の立場から軽々しく許すべきでないことは当然でございますが、その反面、一たび確定した判決といえども、冤罪のおそれがある場合には、基本的人権の尊重という趣旨から、許される限り救済の道を開くべきであります。それが新憲法の精神であります。誤りは誤りとしていさぎよくこれを是正し、無実の者をして冤罪に泣く者なからしむることこそ、裁判の権威を国民に示し、国民をして裁判に対する信頼を深からしむるゆえんであります。 再審によって誤判が判明することは、決して恥ずかしいことではありません。もしことさらに再審への道をふさぎ、冤罪者の生命を奪うようなことがありましたならば、それこそが重大な犯罪であります。有期刑の囚人はなお生命があるので将来冤罪を救う道もありますが、もし万一死刑囚を処刑した後真犯人があらわれるようなことがありとしたならば、日本の裁判史上に一大汚点を印することになりまして、被告人としても、また国家としても、比類のない痛恨事であります。冤罪を訴えるこれらの被告人は、立法を促すことのできるような何の力もございません実に哀れな境涯にあるのであります。 私は、本法案に対し、代議士の諸先生が、高い人道的立場から党派を越えて御賛成あらんことを心から切望するものであります。これで終わります。
○永田委員長 後藤先生ありがとうございました。 次に、下村参考人にお願いいたします。
○下村参考人 下村でございます。死刑及び死刑囚の問題に関しまして、本法律案の提案者の皆さま及び各参考人の方々が甚大な関心を寄せられまして、この問題に対する世論の啓発という点にも大いに役立つであろうということについて、私は心から敬服するものでございます。基本的には死刑廃止論という思想があるようにも伺っておりますし、また、今日この問題について私は別に意見を述べる意図も持っておりませんが、かりに死刑存置論の立場に立つといたしましても、必ずしも現行の制度が善良である、最高のものであると考えているわけではありません。できるならばやはり死刑は廃止したい。ただ、社会情勢との関係においてこの問題をどう取り扱うかという点において意見が分かれていると考えるほうが、妥当ではないかという見解を私は持つものでございます。こういう前提に立ちまして、実は死刑の判決が確定いたしましてからすでに長いものについては十数年拘禁されているという状態が存在する。もしかりに今後この死刑囚について死刑の執行ということが行なわれますと、法律論は別にいたしましても、一般の人が事実的に受け取る感覚といたしましては、何か死刑と有期懲役刑の最高の刑罰をあわせて執行されたというような印象を持つのではなかろうか、こういう点について、私は多少すっきりしないものを感じております。しかし制度上は、これはむしろ死刑囚側から出される再審請求の結果として、慎重な態度のもたらした結論であると考えることもできるわけでございますが、何ともこの二つの刑罰を併科するというふうな機運を一体どう考えるべきだろうかという疑問を素朴にまず持つことを皆さま方に紹介しておきたいと思います。しかし、その反面、もし本法律案が現実化いたしまして、再審が開始されて、その過程でやはりもとの確定判決が正しかったということになりますると、一気に死刑の執行ということにでもなりますと、逆に本法律案が死刑の執行を促進するというふうな効果を持つには至らないであろうかという点において、これも多少疑問を感ずるものでございます。結論として、先ほど福田教授が説明されましたような一般論、さらに、これから説明申し上げますような理由に基づきまして、その基本的な思想、特に人道的な考え方に対しては満腔の同情あるいは同意を禁じ得ないものでございますが、やはりにわかに賛成しがたいという立場に立たざるを得ないと考えるものでございます。 いま問題を今回の臨時特例に関する法律案に限ってみますと、私は次のように考えるものでありまして、まず一般論といたしまして、これまで諸参考人の方のお触れになった点は重複いたしますので割愛するといたしまして、御存じのように、再審制度は、法的安定性を犠牲にすることによりまして、実体的な真実の追及、正義の要請を認める制度でありますから、ここではどうしても法的安定性という考え方と、それから実体的な真実主義というものとが鋭く対立いたします。しかし、判決の確定という法的安定性を無視することが相当でないことは、いま各参考人からも述べられたとおりでございます。したがって、まさしく非常救済手続としてだけ再審制度の存在を認めなければならないということになるわけですが、他面また実体的真実主義という原則も、やはり十分考慮されなければならないと思います。問題は、法的安定性と正義の要求の対決という、法の本質に関するきわめて困難な問題に遭遇するわけでございます。この間、世界観の相違によって結論もまた多少動揺してくると思います。しかし、いずれにせよ、再審制度は、例外的ということばの持つ意味の解釈についてはまた異論があると思いますが、しょせん例外的に、確定した判決の既判力をくつがえす場合を認めるものですから、その点において、法一般の理論に従いましても、例外法の解釈は厳格でなければならないという要請が出てまいります。そうしませんと、確定判決の持つ法的安定性に寄与する力はおろか、裁判に対する信頼の念を失わせます。あるいは少し先ばしった考え方かもしれませんが、再審でもう一度やり直しがきくならばという安易な考えが通常手続の公判に影響を与えるようなことになりますると、ますますもってぐあいの悪い結果になるのではないかと思います。 さて、本法律案はいわば例外法のまた例外法を規定しようとするものであると考えて差しつかえないと思うわけでございますが、はたして再審制度をさらにゆるめるだけの合理的な根拠が存在するかどうか。言いかえますと、例外のさらに例外を認めるだけの合理的な根拠があるだろうかという点が、問題になってまいります。この点、各条文についておもな点を拾い上げながら少し考えてみたいと思いますが、まず第一条に関しまして、占領下といいまして、これは私は多少事実に暗い面があるかもしれませんが、多少の混乱はあったかもしれませんが、無罪を有罪としたり、なかんずく無罪を死刑に処したというようなことがはたしてあったろうかと考えますると、どうも否定的な方向に私は傾かざるを得ないのでありまして、特に最近は死刑廃止論、存置論、非常にやかましいころでございます。昔でもこの死刑の問題については、裁判所が十分慎重な審理を尽くし、特に今回問題になっておりまする七名の件に関しましては、最高裁判所まで十分慎重な審理を尽くされたと考えますので、私はこの点、占領下であったからといって、特にその合理性を疑うだけの根拠があるだろうかという点については、疑問を持つものでございます。これらの事件については、自白以外に有力な物的あるいは人的な証拠があるということも、この判決に示されておりまするし、特に私は、社会状態というものがそう急激に移り変わるものであるかどうか、占領下の状態が終わったとたんに裁判が正しく行なわれるようになったと解すべきではないのではなかろうか。だといたしますると、先ほど福田教授も説明されましたが、昭和二十七年四月二十八日までの状態と翌日からの状態とで大きく考え方を変えるというのは、いかにも不公平な感を免れないのではないか。二十八日までの者はこの特例の恩恵に浴し、翌日からの者はこれに浴しないということになりますと、それが死刑犯罪であれ、あるいはそれ以下の犯罪であれ、何とも不公平という感じを免れないのではないか。進んでは裁判の威信を害し、あるいは裁判を否定するというふうな極端な結論にも走りかねないということを憂えるものであります。 第二条に関しまして、先ほども御説明がありましたが、「相当な証拠」ということばに明白な証拠を改めようという点がございます。この相当ということばは、刑法のいまの改正の準備委員会等でもいろいろ問題がございまして、いかにも多義的である、つまり考え方によってさまざまな解釈が可能であるという点が問題になっております。たとえば緊急逮捕に関する二百十条の規定には、「充分な理由」ということばが出てまいります。概念上、「相当な理由」ということばを用いた百九十九条の通常逮捕と区別されるわけでございますが、この「充分な理由」ということばについてすら、必ずしも有罪の判決を受けるに足る十分な理由という意味でもございませんし、また公訴を提起するのに十分な理由である必要があるかどうかという点についても、争いがあるぐらいでございます。これよりゆるい「相当な」ということばを用いますと、結局は一般的になるほどとうなずける程度のものであれば十分であるというような解釈も可能になってまいります。ところが、判決が言い渡されますときに裁判官の心証形成といたしましては、当然合理的な疑いを越える程度まで証明されていなければならないわけでございます。これは特にアメリカ法から学びましたビヨンド・ア・リーズナブール・ダウトということばの翻訳として有名でございますが、この合理的な疑いを越える程度に証明された事実について言い渡された判決を、後にこの「相当な証拠」という程度のもので打ち破ることができるということになりますると、一体この関係はどうなってくるのであろうか、論理的な矛盾を感ずるのであります。 また、第五条については、実際上死刑事件についてはもう慎重にこの執行停止ということが再審請求の場合には行なわれているようでございますので、むしろ逆に、これを利用して執行停止をねらうというきらいがないのでもないのではないか。これが逆に死刑と自由刑を併科するような現実の事情にもつながっているのではないか、こう考えますると、特に第五条を置くほどの必要性があるかどうかという点についても、疑問を持っております。 さらに、先ほど参審制の問題について参考人の方々からも御意見がございましたが、確かにものの本によりますると、陪審裁判よりは参審のほうが誤判のおそれが少ない、こうはいわれております。しかし、わが国の現実を見てみますると、なぜ一体陪審裁判というものが一度採用されながら停止されて今日に至っているか。必ずしもお上に対する信頼という意味ではございません。何か一般国民の間に、専門の裁判官に裁判してもらうよりも、しろうとの人にさばいてもらうほうが危険性が高いというような危惧の念があるのではないか。これは参審制についても同様に言えることです。井上教授の説明にもございましたが、私は特にこの未経験な制度を、今回死刑という重要な問題をテーマとする法律案において急遽これを採用するということは、はたしてプラスになるのか、マイナスになるのか、きわめて疑問が多いと同時に、にわかにこれを死刑犯罪に適用するということの点が、一番やはりひっかかってまいるのでございます。 第九条、これに関しましては、当事者主義に反するような気がいたします。当事者主義といいますのは、御存じのように、武器対等主義ともいわれております。攻めるほうと守るほう、これが同等の武器を携えて公判延で相争う、こういう原則でございますが、もちろん私は形式的な意味で当事者主義が保たれるべきであるとは考えておりません。やはりどうしても被告人側のほうが立場上弱い面がございますので、被告人側に特に強力な手段を提供して初めて検察官側と対等に渡り合うことができるという意味での当事者主義というものを考えているわけでございますが、門前払い式に、この条文において一方にのみ権利を認め、一方に権利を認めないというような考え方は、その意味においてもやはり当事者主義に反するのではないか、こう考えます。 さらに第十条に関しましては、いかにもこれは現行上訴制度の基本的な構造に違反する疑いがございます。もともと特別抗告といいますのは、専門用語でございますが、違憲問題の解決であるとか、あるいは法令解釈の統一という最高裁判所の任務を全うさせるために認められた制度でございますので、ここでかような大きな変則的な規定を置くことは、この考え方とどう比較するのであろうか。要は、問題は一国の裁判制度の根本に触れる大問題でございます。 以上述べた各則的な説明は、もとをただせばやはり総則的な説明の基礎において理解さるべきものでございますので、大きな疑問点が残る限り、さらに例外の例外を認めるというような法律案は、やはり作成すべきではないのではなかろうか。もちろん再三繰り返されておりますように、底に流れる死刑廃止の思想であるとか、あるいは長期にわたって拘禁された死刑囚をさらに死刑の執行に導くということに対する一般的な道義感情、あるいは素朴な感情、こういうものは十分尊重しなければならないと思いまするし、この法律案に示されたお考えにも、大幅に私は賛成する点を見出すのでございますが、この特例に関する限り、なお検討の余地がかなり残されているような気がいたしますので、にわかに賛成しがたいという結論において、福田教授と同一の結論に到達するものであることをここで申し述べることにいたします。以上で終わります。
○永田委員長 下村先生、ありがとうございました。 —————————————
○永田委員長 これより参考人各位の御意見に対し、質疑を行ないます。 この際、委員各位に申し上げますが、井上参考人が所用のため退席いたしたいとのことでありますので、井上参考人に対する質疑を先にやっていただきたいと存じます。 質疑の申し出がありますので、これを許します。大竹太郎君。
○大竹委員 それでは、委員長から御注意がございましたので、まず井上先生にお尋ねいたしたいと思います。井上先生の御意見によりますと、死刑の判決があり、しかも確定をしていながら死刑の執行が十年以上も行なわれておらないということは、裁判に対して一般が不信を抱いている、そういう面から見ても、もう一度調べ直す、人道的な面から見ても調べ直すべきじゃないかという御意見だと思うわけでありますが、いまの御意見をお聞きいたしますと、戦前、この期間以前のもので死刑執行が残っているのはないそうでありますが、その後におきましても、十年以上死刑の執行が延びているものがあるそうでございます。そういたしますと、先ほどの御意見、十年という期限がいいか悪いかは別といたしまして、長期にわたって死刑の執行が行なわれていないようなものについては、すべてこういう法律が必要だ。これは期間を区切ってありますから、そのつどそういう法律を出して再審をする、そのほうがいいというふうな御意見にも受け取れるのでありますが、その点はいかがでありましょうか。
○井上参考人 私は、結論的には、占領下だけに限る点はどれほど合理的理由があるかということにちょっと疑問を持っているのです。問題は、やはり非常に長期間死刑が執行されておらない、三回再審を申し立てたあとは執行してもいいということになっているのに、やはり何となく延び延びしたことは、どういう説明があっても、国民に死刑判決に対する大きな疑問を投げかけたという意味でありまして、それを立法技術としてどういうふうに限るかという点は、いまのところかなりくふうが要るわけで、おそらく占領下という形で区切ったと思うのですが、占領下ということ自体には、提案理由にしるされているような理由が必ずしもあって再審をしなければならないものかどうか、そういう合理的な理由づけになるか、これは疑問に思っております。だから、単なる立法技術の問題だと私は理解しております。
○大竹委員 それで、たしか冒頭に英国の恩赦法ですか、にお触れになったと思うのでありますが、私はそのほうは全然調べておりませんからわからないのでありますが、やはりいまのような御意見からいたしまして、必ずしも占領下に限ってはいないんだというようなお考えからいたしますと、やはりこれは裁判の手続というようなものを離れて、おそらくイギリスの恩赦法というのはそうなんじゃないかと思いますが、一般的にどういう条件をつけるかは別といたしまして、特殊のものについては恩赦によって減刑をするということになるんだろうと思いますが、そういう立法の方向にいったほうがよろしいんじゃないでしょうか。その点についてお伺いいたします。
○井上参考人 イギリスは恩赦権を行使して、そしていわゆるニュトライアルと申しますか、再審の手続をやらせよう。私は、恩赦権に基づく再審の手続そのものがはたして望ましいかどうかということになると、問題があるように思うのですが、私の言いたかったのは、思想として相通ずるものがある。何ぶんにも——繰り返し強調させていただくと、かなりの期間死刑が執行されていない。これに対して先ほど免田事件もあがりましたし、福岡県の中国人ブローカー殺し事件にしても、国民の間に何か大きな疑惑が残ってしまった。この事実はぬぐい切れない。福田教授がおっしゃるように、たとえばいま一定期間が限ってある間に死刑が言い渡され、執行された者もたくさんいるに違いないのですけれども、それらすべてを再審しろというのではなくて、いま残っているうちの何人かには大きな疑惑が残ってしまった。ところが、それだけを取り上げて再審するわけにいかないから、それを包括的な規定として再審しようということでありますし、また第二に、恩赦権に基づくところの減刑手続ということをしてみたところで、はたして国民の疑惑を解くことができるかどうか、またそれがそう容易に立法できるかどうか、そういうようなところにも疑問があるのでありまして、繰り返し強調したいことは、私が、裁判の結果に対して国民が疑惑を抱くようでは、刑事裁判の権威と信頼を失う、それが刑事裁判の一番の危機だという考えからであります。
○大竹委員 先ほどのお話で井上先生に対する御質問はこれだけでございますので、もしほかの方がありましたら、そのほうを先にやっていただきたいと思います。
○永田委員長 猪俣浩三君。
○猪俣委員 ちょっと一点。これは後藤さんを除いて皆さん共通の点でありますが、御存じのように、この法案は議員立法であります。わが国の国会では、内閣提出の法案がほとんど大部分で、議員立法というのは少ない。そういう点、法制審議会で官僚や学者が集まって大いに法律議論を戦わせて出てきた法案と、多少ニュアンスが違うわけです。われわれのこの法案の根底には、死刑廃止の思想があるわけです。これが前提であります。ただし、いま死刑廃止が法制審議会で論議されている最中だから、議員立法として出すことはふさわしくない。しかし、根底はそこにあるわけです。そしてわが国の再審の門が非常に狭過ぎるということは、これは日本弁護士連合会がしばしば建策するし、当法務委員会におきましても、小委員会を設けて、長い間検討してきた点であります。そういうことが前提にある。 そこで、いま目の前に、きょうでも、ただいまでも判こを押すならば、すぐ命を絶たれる死刑囚が控えておる。これをどうするか。しかも、これにはみんな共通する点がある。皆さんは占領中のことについては、学者であられるから無理もないが、実際の法廷をやっております後藤弁護士はじめとしてわれわれは、占領中の裁判はどんなものであったか、それはつぶさに申し上げれば御首肯いただけると思いますが、きょうはわれわれの意見を言うのではない、皆さんの意見を聞くのですから、省略いたします。これは学者先生の御存じないような状態であったわけです。だから、松川事件だ、下山事件だ、鹿地亘事件だ、青梅事件だ、いろいろなものが起きてきた。これは言いますまい。とにかく私ども政治家として頭に去来するものは、いま判こを押すなら直ちに命を失われる者があるということを前提として、この法案ができたものであります。 そこで、いま井上先生はお急ぎのようでありますが、それはそれといたしまして、参審制度について非常に疑問を投げかけられておるようなわけでありまして、これはわが国において新しい制度でありますが、しかし成功したにせよ、失敗したにせよ、陪審制度というものがすでにわが国で経験済みなんです。ただ、その欠点を除去したドイツの参審制度というものを、われわれは考えておる。なぜこれを考えたかと申しますと、日本の裁判官は非常に自信に満ちている。それはけっこうなことでありましょうが、自分たちの下した、同僚の下した判決に対して、勇気を持ってこれを破棄するということは、なかなかたいへんなことなんです。私どもは、こういうふうに、再審のような場合においては、既成の裁判官のほかに、やはり豊かな専門知識を持っておるが既成の裁判官ではない人から参加してもらえば、初めてここに再審のほんとうの意味が出てくるのじゃないか。同じ裁判官が——それは人が違い、階級は違っても、同じ裁判官という衣を着ておる人では、何べんやっても同じことになるのじゃないか。再審する以上は、ここに新しい型の人を入れて、そのかわり陪審制度のような大衆じゃないのです、やはりドイツの再審制度のように、選ばれた人たちを入れて——ただし官僚じゃない、そういう人たちを入れまして、判事と同じ権限に基づいて、ここで裁判してもらうというのが私たちの構想なんでありますが、そういう構想でも、井上先生はやはりあまり賛成いたしかねるのでございましょうか、これをお尋ねいたします。
○井上参考人 私自身は、裁判制度といたしましては、あるいはいろいろ御意見あるかもしれませんが、むしろ陪審制度を支持しているのです。だから、いわんや参審制ということであれば当然賛成しなくてはならないわけでありますけれども、国家の制度をいまつくろうとしますときに、一挙にこれまでない参審制ということを採用することが、立法技術として当を得ているだろうかという点が一つの疑問であります。 それから第二は、いま猪俣先生がおっしゃいますようなしろうと裁判官を加えてみて、はたして裁判官を期待どおりに牽制できるだろうかという点であります。なるほど裁判官自体に対しましては、私は学問上不信感を持っているということばを使えば問題がありますが、やはり官僚でありますから、全面的な信頼を置くことができないし、また信頼を置かないたてまえで訴訟技術を考えることが学問としてすぐれていると私は信じております。だから、おっしゃいますように、新しく再審手続を始めてみたところで、裁判官によって再審手続が行なわれるならば効果が薄いじゃないかという疑問ももっともでございますけれども、そこいらを利益較量いたしました結果でも、いま早々に参審制を採用することはいかがなものだろうかと考えるのであります。口頭弁論に基づいて再審手続を行なうことになっておりますので、その限りでは、これまでのような再審の申し立てないしそれに基づく手続よりももっと国民の監視が深いという意味において、十分とは申せませんが、一つの期待が置けるのではなかろうか。結局立法における妥協であります。お答えになりましたでしょうか。
○永田委員長 神近市子君。
○神近委員 正直のところ言って、法学者という方々の御意見をきょう聞けば、非常に片寄った常識から離れたようなことをお考えになっているのが法学者というものだということが、きょうはよくわかったわけです。たとえば井上先生は死刑廃止論を支持する。これはまたあとの先生方にいろいろお尋ねしようと思うのですけれど、旧刑事訴訟法、戦争以前の旧憲法時の刑事訴訟法が、今日改善された形跡はないのでございましょう。いまやっとこれを審議しているというのが、いまの状態だと思うのです。そうすれば先生方は、あとで行なわれるところの改善のあるヒントを与えるというのが御任務ではないかと思うのです。いまお説を伺っておりますと、法の安定性というようなことが頭にもうしっかりと入っていて、それをくずす、あるいはそれを改善していくという方向に、非常に疑惑をお持ちになっているのではないかと思うのです。私は、これはあとでも御質問しようと思っておりましたけれど、一体法の安定性というものは、法務官僚あるいは法務関係の先生方の安定性というものか、あるいは国民自身が感ずるところの安定性か、どっちが大事であるかということを、私は今度の事件でいまいろいろお説を聞いていて疑問に思うのです。井上先生は死刑廃止には賛成だ。大体世界の情勢を見れば、イギリスのように、二十年もかかったということでありますけれど、とうとう死刑廃止に踏み切った。そして進歩的で世界に愛される国北欧三国、あるいはドイツ、そういうところが死刑廃止に踏み切ったということは、私どもの国においても同じようなことを考えるべきではないかと思うのです。参審制度というものに対する御批判があるようですけれど、日本だって陪審制度というものはやってみたのですよ。やってみて、どうもぐあいが悪いのでこれを廃止して、刑法の一番ビリのところに——私はあまりに裁判というものに対する疑惑があったので、この委員会で法務省関係の方々に一度御質問したことがあるのです、なぜ陪審制度をやめたか。ところが、日本の民度、知性が低くてというような原因だったようで、日本の国民がもっと知性が高くならなければ——私はあとでこの問題を考えてみますと、日本の国民の知性が低いということでなく、封建制度が非常に長かったということ、そのことが、法律に対して批判をする習慣を日本人は持たないということになったと思うのです。この参審制度は、陪審制度でいわゆる市井の人たちの意見で死刑だとか重罪だとかいうことを決定することが不適当だと思われて、参審制度というものができたと私は伺っております。陪審制度の持っているところのウイークネスをちょっと改善しようというのが参審制度でありまして、これは三人であってもいいし、五人であってもいい、ともかく民間の意見をここに入れる。いままで国民が裁判というものに一切タッチできなかったところにこれを入れるというところに大きな考え方があるのでして、私は、井上先生のような進歩的といわれるような人が、これに疑惑を持つとか、あるいは反対とかとおっしゃるのが、どうもわからないのです。その点どういうようなこの法の安定性ですか。あるいは法律の上では一切の進歩を阻止しなければならないというお考えなのか、どちらなのかを聞かせていただきたい。
○井上参考人 御質問は三点あったと思いますが、第一点は、神近先生は私の意見をどのようにお聞きになったのかわかりませんが、私自身は、いま先生がおっしゃったような意見を述べたつもりです。法的安定性というのは、法的安定性のためにあるのではない。どうも法律上の制度なりあるいは理論なりは、理論のために理論があり、制度のために制度があるのでありますけれども、特に強調いたしましたように、国民が大きな疑惑を持っている事件に対しては、法的安定性は席を譲らなければならない。そうでなければ、訴訟の文化性といわれているものを失うという、かなり弾力的な意見を私は申し上げたつもりであります。その点では、先生と別に意見は異ならないと思うのです。 第二点は死刑の問題でありますが、この点も、申し上げましたように、私も死刑は廃止すべきだ。私の学説でいけば、即刻廃止すべきだと思っております。これは年来説いております。しかしながら、立法いたしますときには、何といっても国民の支持ということが必要でありまして、国民を——よく私は学生にも言うのでありますが、神聖なところでなかなか例が悪うございますけれども、初めて女性に会ったときに、さっそく結婚しようと言ったならば、きっとほっぺたをひっぱたかれるだろう。最初はやはり、どこか散歩でもしましょうとか、お茶でも飲みましょうとか、一歩だけ結婚の方向へ近づけるような方法がとられる。法律を立法したり法律を解釈したりするときもすべてそうであって、強い抵抗があるところでは、なるほど啓蒙的にはどういう理論なりスローガーンでも掲げることはできますけれども、それ自体は立法の技術ではないと思います。だから、なるべく死刑を廃止する方向へスピードアップするにはどうすればいいかということが考えられなければいけないので、その意味において本法案に賛成だと申し上げたので、だから、死刑を肯定すると申し上げたつもりはありません。 第三点は、先ほど猪俣先生にお答えいたしましたところで、御説はもっともでありますし、私自身は陪審制を支持しますけれども、はたして先ほど申し上げたような諸点から本法案の立法において妥当であろうかどうかということに疑問が残るという意味で、結局第三点だけがいささか違うのでありますが、そのほかの点はあまりおしかりを受けることはないように存じます。
○神近委員 どうもそれは失礼いたしました。参考人から御説を伺うということはきょうが初めてではないのですけれども、四人の方々がそれぞれおっしゃることがこんがらかったというようなわけで、たいへん失礼いたしました。井上先生に対する私の御質問は、その点で終わります。
○高橋(英)委員 ちょっと関連で。井上先生、国民の疑惑云々ということばがたびたび出たようですけれども、国民の疑惑というのは、どういうことを意味するのか。その考え方によっては、正直者が損をして、もつれをつける者が得をするというふうな結論になるおそれもあるわけです。岩窟王のときに、私も協力してああいうふうなことになったぐらいで、必ずしもこの案に反対というふうな立場ではありませんけれども、この事実関係を、真実をほんとうに知らない人たちが、興味半分に騒ぎ回る。マスコミを中心とするそういうふうな薄っぺらなというかどうか、そういうふうな騒ぎがあることが、国民の疑惑を惹起したというようなことになると、それが国民の疑惑だというふうなことになると、もつれをつけたほうが得になって、正直な被告は損をするというふうなこともあり得ると思うのですが、そういう点についてはどのように考えますか。
○井上参考人 おっしゃることはごもっともなわけで、マスコミが騒いだから疑惑になった、あるいは何とかという作家が雑誌に書いたから疑惑になったというような意味ではないのでありまして、先ほど後藤参考人もおっしゃたように、免田事件に至っては、まことにどう考えても何となく疑惑が残る。どっちが正しいかということをやはり考えさせられる問題だと思うのであります。また、福岡県の中国人ブローカー殺しの事件にいたしましても、やはりいろいろな資料が手に入ってみると、その資料を集めようという努力、あるいは周囲の人がその資料を集めてくるまことに人道的努力、そういうものはあだやそこらでできる問題ではないので、やはりそういうところからも客観的に何か疑いが晴れないものがある。疑惑があるというよりも、疑いが晴れないものがわれわれに残るという意味であります。
○永田委員長 井上参考人には、御多用中のところ、貴重な御意見をお述べいただき、ありがとうございました。どうぞ御退席ください。 引き続き、参考人の方々に対する質疑を行ないます。大竹太郎君。
○大竹委員 それでは、順序が多少変わりますけれども、後藤先生に質問さしていただきます。 後藤先生の御意見をお聞きいたしますと、いろいろお述べになりましたけれども、要旨は、どうも日本の現在の再審制度というものは、先ほど猪俣委員もちょっと言われたようですけれども、非常に門が狭過ぎる。ことにこの死刑廃止というような立場に立つ場合には、死刑判決を下し、そうしてこれを執行するというような場合においては、もっと再審の門を広くして慎重に調べるべきであるというような御意見があったと思うのでありますが、そういたしますと、先ほど井上先生にお聞きいたしましたように、この特別な期間に限って再審をするということではなしに、あらゆる時期において、あらゆる事件について、日本の再審制度というものをもう少し広げるという面から検討し直し、改正するべきだ、こういう結論に達するやにお聞きいたしたのでありますが、その点いかがでございましょう。
○後藤参考人 ただいま御質問のように、日本の再審制度というものが、七十八年前の規定と同様な、おそらくそのままの形で今日に至っておりますので、原則として、また理想としては、これは早急に全面的制度の改正が必要だということを考えておるわけでございます。ところが、本法案の点につきまして考えると、いろいろ適用対象が限定されているということにいろいろ疑問があるというような説もございましたが、われわれ実務家の関係においては、適用対象の被告人を調べてみると、ほとんどが再審を主張しているのであります。死刑因もその前後を通じて相当数にのぼっておりますけれども、これらはあまりその再審というものを請求しておりません。特に本法案において限定されておる期間内において、その冤罪を主張する者が多いのでございます。そこで、ただいま御質問のように、この再審制度の全面的改正はどうしても必要であるけれども、それにはやはり相当の期間があるであろうし、そうなると、いつ何どきその死刑囚の死刑が執行されるかもしれぬ。もう再びその生命は帰らないという一つの高い人道的立場から、例外のまた例外かもしれないけれども、とりあえずこの数名の者の生命だけは維持する必要があるだろう。そうしてもう一ぺん再審の規定を若干緩和してそうして裁判をやり直して、それがほんとうに犯人かどうかということが判明したならば、国民もひとしくこれを納得するであろうという考え方から、本法案の提出に日弁連としては賛成しているわけでございます。なるほど、先ほど立法の公平という問題についていろいろ御議論がございましたが、あらゆる法律の制定を見ますと、やはりどこかに一方に偏し、一部の利益をはかり、全般的の関係を忘れているというような法案が、数多くあるわけでございます。したがって、本件につきましても、その公平の観念から見るならば、若干この数名の者に限ったということに不公平だというそしりがあるかもしれないと思いますけれども、事は人道上の問題であり、生命を喪失するかどうかという問題のために、とりあえず多少の異論はあったとしても、本法案を通すべきである、かように日弁連のわれわれとしては考えております。
○大竹委員 それでは次に、福田先生にお聞きいたしたいと思います。 井上先生、後藤先生、いずれも日本の再審制度については、率直にいえばどうも厳格過ぎる、条件が厳格過ぎる、もう少しこの法律の何といいますか、安定性、また裁判の既判力というようなものを犠牲にしても、この再審制度というようなものをもっと活用していくべきだという御意見のように承るわけでありますが、私不勉強で外国の再審制度その他については一向わからないのでありますが、先生のお立場で、はたして日本の再審制度というものは、そんなに先進国から見て厳格過ぎる制度になっているのかどうか、そういうような点について御意見を承りたい。
○福田参考人 お答えいたします。私は、この現在の日本の再審制度と申しますものが、諸外国に比べて厳格過ぎるということは言えないと思います。御承知かとは存じますけれども、現行刑訴の再審理由も、包括的な再審理由でございまして、これをフランス刑訴などに比べますと、制限列挙事由をあげております国に比べると、はるかに私は弾力性があるのではないか、こう思っておりますので、この点につきましてわが国のが特に再審の門が狭いというふうには考えておりません。先ほど井上教授がお話しになりましたイギリスの例でも、イギリスは原則としてニュートライアルをやらない。そして恩赦でやっている。私は、このほうが再審の制度としては日本よりはよほど狭いのじゃないか、こう考えておる次第であります。 それでは現行の再審制度そのままでいいかと申しますと、これは考慮の必要がある。あるいは現在日本に行なわれている再審理由の範囲であっても、なおかつもう少し幅を広げたほうがいいということになりますれば、私はやはりこれを検討してみなければいけない、こう思っておるわけでありまして、この点は再審一般の検討、すなわち再審理由を広げますということは、同時に確定力の動揺というこの二つの問題がございます。したがいまして、あまり再審理由を広げていきますと、上訴がもう一ぺん行なわれるという形になってくる。これが一番危険でございます。したがって、この二つの勘案をして、どこまで再審理由を認めるかということは、かなり慎重に判断しなければいけない。将来必要があれば、私は再審理由というものを検討する必要があるかと存じますけれども、先生御質問の日本の再審理由がそれほど諸外国に比べて狭いかと申しますと、私としては狭いとは申し上げられない、こういうことでございます。
○大竹委員 いろいろお聞きしたいことはあるのですが、ほかの方もおありでありましょうから、最後に下村先生にお聞きいたします。 先生は、平和条約の実施に伴う刑事判決の再審査等に関する法律、昭和二十七年法律第百五号という法律、失礼なお話ですが、御承知でございましょうか。
○下村参考人 拝見しております。
○大竹委員 これは御承知のように、昭和十六年十二月八日から平和条約発効までのいわゆる連合国人に対する日本の有罪判決があった場合には、被告人として十分な陳述ができない状況で裁判がされたものと認められた場合には、平和条約発効後一年以内に再審の請求ができるという法律だと思うのでありますが、こういう点から見ますと、先ほどちょっと例をあげられたように、連合国人が関係をしておった刑事事件というようなものに対しては、この法律の直接の適用がない場合においても考慮する必要があるのじゃないかというようなことが考えられてならないのでありますが、それについて先生のお立場からどう考えるか、所見を伺いたいと思います。
○下村参考人 お答えいたします。これについては、かなり文献も出ているようでございます。私はその全部に当たったわけでもございませんが、私の結論だけを申し上げますと、やはり敵対関係にあった連合国人に対する場合と、それから同じ国民に対する関係とでは相当開きがあったと考えるのは妥当でありまして、連合国人に対する特例があるからといって、それがにわかにわが国民に同じ結論をもたらすものであるとは、私は考えておりません。やはり敵対関係の有無ということがかなり事情を左右していたのではないか、こう考えますので、それはそれとして合理性を持っていたのではないか、私はこういう結論でございます。
○大竹委員 終わります。
○永田委員長 神近市子君。
○神近委員 いまの問題ですけれど、あなたは、連合国が終戦直後平和条約によって百五号ですかの法律で、軍国主義の間の裁判のやり直しをやった、それと同じことが日本に行なわれるのはどうかと思うと、いま御返事ですね。ところが、いろいろと考えてみますと、連合国の人たちがいる間の裁判というものに非常に間違った、誤判というか、気がねをしたという形跡がたいへん強いのです。御存じだろうと思うのですが、いま二十万人の署名をとって、数十万の人の零細な資金カンパをして、この解明運動が行なわれている福岡事件というのがあるのです。その事件の調査を非常によくやっている方があるのですけれど、それを見ましても、連合国の人たちの裁判所に行って圧迫が非常に強かったということ、この一例を見ましても——免田事件も同じであります。アリバイがちゃんとあるのに、そうして西辻という八代の区裁判所の所長さんが、判事が二年間の月日をかけて免田栄というものはアリバイがちゃんとある、これが無罪だという判決をなさったのに、福岡側がこれを異議を申し立てて無罪にはしなかったというような事件、こういうことを考えれば、連合国がいた間の裁判にいろんな圧力があったということが、想像できませんか。私どもは、この事例を一、二見ても、外からの圧迫、福岡事件のときは、裁判所の公判廷にまでなだれ込んで、みんな死刑にしろなんというふうなことを言った、そういう事実がちゃんと調べ上げられて、事実だとしてあるのに、あなたはそれを否定するようなことをいまおっしゃったように思うのですけれど、そういうときは泣き寝入りしていなければならない、被占領国は泣き寝入りをしていなければならないということになるのですか。
○下村参考人 お答えいたします。確かに、軍事裁判その他含めまして、手続法の違いから生じた混乱であるとか、あるいはいまおっしゃったような意味で、連合国関係の利害がそれにかかわっておりましたり、私はよく知りませんが、いまお話しのような疑いの持たれるケースがあったかもしれませんが、それが直ちにこの特例を合理化するだけの力を持っているかどうか、この辺に私は疑問を持っているわけでございまして、そういう事実がなかったとか、あるいは疑いのあったような事実を否定するという意味じゃございません。それは御主張になる方もございますし、また反対する方もございましょうし、これは結局どちらをとるかという結論で分かれてくるわけでございますが、私は、あえてそれを否定しようというのじゃございません。それだけの理由で、はたしてこの再審制度のさらに例外を設ける制度をここで取り入れるだけの合理性があるかどうか。決して単なる法的安定性であるとか法理論の上にあぐらをかいて、理屈で、議論で解決しようというのじゃございませんで、やはり法的安定性とか判決の既判力という事柄自体に国民多数の利益が裏側にひそんでいるという考え方も当然可能でございますので、かような意味で、具体的な事件について私はどうこうということは申しませんので、ただそういう理由だけで、はたしてこの特例法案を合理化できるかどうか、この点になお検討の余地があるし、疑いの余地もあるんではないか、こういう意見でございますので、はっきり申し上げておきます。
○神近委員 あなたが疑うとおっしゃるのは、どういう点ですか。
○下村参考人 その疑いというのは、事実についての疑いではございませんで、この再審という制度が現在刑事訴訟法上存在しているわけでございますし、これについてはもう少し規定をゆるくしろとか、あるいは現行法どおりでいいという意見があるわけでございますが、私は、さらにその例外を認めるには、相当合理的な根拠がなければいけないのであって、いまお話のありました一、二の事件についての具体的結論をどうこうするというならば、別段の措置がとられてもいいのではないか。ただ、この法律案によってそういう問題をまかなおうとするには、やはり疑問の余地があるし、もっと検討を要する点があるのではないか、こういう意見でございます。
○神近委員 この時期に起きました松川事件だとか青梅事件だとか、いまいろいろ事件が無罪判決が出ております。ところが、労働組合のようなところは、バックがあって、お金も十分に集まるし、その運動もできる。だけれど、この事案は、個人の場合にはその力がないということ、それはこういうような法律が必要であるという結論でつくられたものでありますけれど、その点で、あなたがおっしゃるような反対論というか、あるいは慎重論というのか、これは私どもは非常に納得のできないものがあるのですけれど、それはどういうようにお考えになりますか。法の安定性——法の安定性ということについてもあとでお伺いいたしますけれど、一体何のための安定性なのか、法務行政が支障なく行なわれるということの安定性、それが法の安定性というのか。あるいは国民がああそうか、そういう真実かというようなことで納得するというところに法の安定性はあるのか。どっちにあるのかということが、私の一つの疑問でございます。
○下村参考人 お答えいたします。私は、冒頭に述べましたように、現在かなり長い期間にわたって拘禁されておりまする死刑囚もございますので、いまここで死刑を執行するということになると、やはりこういう理論を離れてもすっきりしない感じが残るという点では、全く同様でございます。ただ問題は、国民の大多数がこう思っておる、ああ思っておるということを、どのようにして一体測定したらいいのか。おっしゃるような御意見も国民の意見だとは思いまするが、またこれに反する国民の意見ということも考えられるのではないか。ここで私は法的安定性の理論について学問的なこまかい説明はいまいたしませんが、やはり法律があることによって、一般国民が法律があるからこういう状態が維持されておる、あわせて正義が行なわれる、こういうふうな気持ちを持つような状態をかりに法的安定性、こう呼んでおきますると、ただ国民の考え方に従うだけで、はたして正義が実現できるのかどうか。これは古い命題ですが、正義は世界のために存在するのか、それとも世界は正義のために存在するのか、古くいわれておる議論もございまして、私はこういう問題の出し方自体には疑問を感じますが、やはり刑事裁判にしても、民事裁判にしても、ただ国民の気持ちに一致すればいいというだけではございませんで、そこに正義がどこにあるかということをやはり解く機能を持っておるのではなかろうか。ただ、今日のような世の中におきましては、価値が分裂しておりますから、一体その正義とは何かということになりますと、労働問題であるとか、価値観の対立する事件においては、当然二つの結論が出てくると私は思うわけでございますが、私自身はそういう立場に立って、今回の法律案の場合にやはり無理があるのではなかろうか。決してお考えのような根本趣旨であるとかあるいはいまおっしゃられましたような国民の意思というものを無視いたしましたり反対する意思じゃございませんで、やはり法律の持つそういう機能という点がら考えてみますと、事をよほど慎重に運びませんと、かえって悪い結果をもたらすおそれがある、こういう点をおそれるわけでございます。
○神近委員 いまおっしゃった悪い結果というのは、どういうことですか。
○下村参考人 お答えいたします。やはり裁判に対する不信であるとか、あるいは国民裁判的な感じで、一般の裁判を否定する。さらにもっと例をかえてみますると、だいぶ具体的な事件が出てまいりましたが、憲法が保障している三権分立という考え方からも、立法権による司法権へのある種の干渉というふうな悪い考え方を、国民の一般に植えつけることにならないだろうか。こういう点がなるというのじゃありませんで、考え方としてはそういう点もおそれられますので、その点を取り上げて弊害と申し上げたのであります。
○神近委員 あなた方は法律の勉強をなさって、その立場でものをお考えになるということは、これはやむを得ないことだと思うのです。だけれど、法律というものは何のためにあるのか。国民の生活をスムーズに流れさせるためのものが法律でしょう。ところが、裁判というものが今日いろんな疑惑を持たれている。国民が——無関心の層はありますよ、人のことは人のこと、おれのことはおれのことで、法律なんというものは何の法律がどこにあるのか、ちっとも関係なく生活する人もある。だけれど、大体において、裁判というものに対する今日の不信というものは非常に強いんですよ。どうもあなた方のお話を聞いていると、法学者という人たちは、ひとつ頭を切りかえていただかなければ、納得のできないところがたくさんある。国民のためのものですよ。少数の官僚あるいは法学者のための法の安定性というものでない。自分たちの主観で考えるものと——客観的に考える場合には、これは国民の生活のなだらかな流れのためにあるもの、そういうような考え方からいけば、こうやってはっきりと無罪あるいは無実の罪というようなもので死刑になるという人たちのことを考えると、私どもはあなた方のお考えに非常に批判的であります。そして、私は別に個人的にはどこにも関係はない。ただいろいろ陳情やあるいは状態を見れば、何かはっておけない尊貴な生命というものを考えるのが、この法案なんです。だから、あなたがこの法案に疑惑があるとかあるいは疑問があるとかというふうなことをおっしゃるのは、あなたがつかまっている法の安定性という、曲がった旧憲法下の刑事訴訟法によるところの安定性を、まだ今日までそれだけを握っていらっしゃるというふうに私たちには感じられるのです。その点であなたはやはり自分の考え方が正しいというふうにお考えになるか。
○下村参考人 お答えいたします。なかなか手きびしい質問でございまして、私はここで議論するつもりは毛頭ございませんが、私は私なりに、はたして国民がそんなにこういう裁判について疑惑の目を向けているのかどうかという点についてかえって疑惑を持っておりまするし、また法的安定性であるとかあるいは法理論で固まった頭で世の中を見るといま言われましたが、そうならないようできるだけ法律学周辺の生理学、社会学あるいは文学等についても人一倍努力しているつもりでございますが、機会がございましたら、そういう点については、また現在大学でどういう研究をして、どういう内容の講義をしているかということを御説明する機会が得られれば非常に幸いだと思いますが、私は私なりに、いまおっしゃった考え方とは違う結論を持つものであることだけを、ここでは御案内申し上げておきます。
○永田委員長 猪俣浩三君。
○猪俣委員 福田さんにお尋ねいたしますが、あなたは死刑廃止論に賛成ですか、反対ですか。
○福田参考人 お答えします。私は、死刑は漸進的に廃止していく方向にいくという立場で、現在すぐ全面的廃止論には反対でございます。
○猪俣委員 漸進的に廃止とは、どういうことになるのです。
○福田参考人 これは現在の法制審議会でも私は主張しておりますけれども、現在死刑の適用される刑罰が多い、これをまずできるだけ少なくしていくということでございます。死刑の範囲がこれで減少します。次に、死刑の言い渡しないしは執行というものを、現実的に少なくしていく方法をとる。これは訴訟的な手続といたしましては、たとえば死刑の言い渡しについては裁判官全員一致の意見を必要とするという手当てをする。次に、死刑の判決が言い渡された後については、今度は中共などで行なわれておりますような死刑の執行猶予制というものを採用する。こういう方向に持っていきますことによりまして、世の中に死刑が現実に行なわれなくなってくるということが、次第次第に社会の中につちかわれていく、私はこういうふうに考えておる次第であります。そうしてその段階、すなわち死刑の規定が刑法典にあっても、現実に死刑がほとんど執行されない、あるいは死刑の言い渡しがほとんどないという社会、その段階で全面的廃止に踏み切る、これが私は最も現実的な死刑廃止への悲願に向かっての方向だ、こういうふうに考えておるわけであります。
○猪俣委員 それからいま一つ、いまの再審は非常に門戸が狭いというわれわれの見解なんですが、あなたはいまの再審の制度でいいというお考えですか。
○福田参考人 この点は、私自身はっきり結論を申し上げにくいわけでございますけれども、先ほどの御質問のとき、日本の再審制度が諸外国と比べて非常に狭過ぎるかということになりますと、私は、必ずしもそうではないということは事実として申し上げられる、こう思うわけであります。私自身再審の制度を現在のままでいいかどうかということになりますと、これは非常にむずかしい問題でございまして、すなわち判決の既判力とニュートライアルとの関係について、どこをどこまで勘案さして広げていくかという点につきまして、なお十分な考えがまとまっておりませんので、はっきりした即答はできない、そういうのが現在の気持でございます。
○猪俣委員 占領中の裁判に対して特例を設けることに対しましては、お二人とも否定的のようでありますが、私は鹿地亘君の不法監禁事件を担当いたしまして、いかに当時の占領軍が無理をやったか、これの証拠というものは全部占領軍、いま言えばCIAの前身だったキャノン機関から提出されたものです。それを日本の検察官は全部証拠として出して、自分自身で捜査したのが何一つないのです。みんなこのアメリカのキャノン機関と称するものが提出したものばかりなんです。そうしてこれが全部でたらめのものなんです。こういう実情です。今度は、一審で一カ月の懲役、一年の執行猶予というような、検事の顔をようよう立てるための、無罪の判決みたいなことをやったのです。いま控訴中ですが、おそらく控訴審では無罪になるでありましょう。そういう事例が多々あるわけなんです。松川事件だの、それから青梅事件は、とにかく裁判所で無罪になったのですからあれですが、現に生きた事例といたしましては、青森県下に婦女を暴行して殺して金をとったという男がつかまって、十年の懲役——これは死刑にならなかったからいいんだ。十年の懲役を服役して出てきたとたんに、真犯人があらわれた。これはことしの新聞にみな出た。お調べになっているかどうかわかりませんがね。真犯人があらわれて、それが真犯人と認定されました。そうすると、この男は、これがもし死刑だったらどうしますか。取り返しがつかぬ。だから、この再審の問題を死刑囚だけに限るな、ほかの犯罪についてもという御議論もあったのですが、私どもはいま言ったように、死刑廃止論を根底にして——これは回復しがたいのです。それに対して慎重にしてもらう。さっき申しましたように、いま法務大臣が判こを押せば、直ちに命が失われる人があるのです。これに対して、政治家としてこれをほうっておいていいかという問題に逢着しているわけなのです。 そこで、正直言いますと、私どもは死刑廃止論であり、再審を根本的に変えたいのですが、こればいま法制審議会で長々議論をやっている。この法制審議会の結論が出るのは、いつになるやらわからないのです。まだ三、四年かかるのじゃないか。そうすると間に合わぬ。そこで、実は非常に限定したわけだ。これは皆さんの心配するような法の安定性、裁判の安定性というものと調和させるために、非常に限定して、占領中、しかも死刑だけに限るというふうに、そうしてもうそれが確定して、あすからでも執行できる状態の者だけに限定したわけです。もし、いま福田先生おっしゃったように、漸次死刑廃止に向かいたいというならば、これはその第一歩ですよ。ほんの限られた者に対し、これこそ漸進なのです。一般のあれじゃないのです。占領期間中、しかも共通の、どちらにも有罪、無罪の証拠がはっきりしない。そのために刑の執行も今日まで延びていると思うのです。全部がそういう事件ばかりです。その共通のものを取り上げて。とにかく死刑廃止の第一歩、再審制度改定の第一歩として、これをやり出したわけなんです。いま福田先生も——それから下村先生は先ほど死刑廃止賛成の御意見でありましたから、福田先生も段階的に廃止したい、いずれも死刑廃止には御賛成である趣旨でありますならば、福田先生の段階的解消の第一歩として、こういう法案を出してどういうものだろうか、こう思うわけですが、これはしかし、あまり議論するようでちょっと適当な問題じゃないわけでありますが、あなたの段階的死刑廃止論の前提として、この法案に御賛成いただけませんか。
○神近委員 関連しまして。いま猪俣先生から先生方の御賛成を願ったのですけれど、元最高裁の谷村唯一郎という方が最高裁の時代に、上告を棄却した後に真犯人が出てきたケースが三つあったということがいわれているのです。これは最高裁判例集の中に出ているそうですけれど、こういうことを考えれば、私どもがいま取り上げている七人の人たちの無実の罪というようなことが、明らかにされるということがなくもない、私どもはそういう信念のもとにこれを提案したのであります。その点で、どうかこの旧刑事訴訟法にだけよったところの、原則的な法の安定性とか何とかというものにとらわれるあなた方のお考え方を、ひとつここで反省していただきたいと思います。
○下村参考人 いまの御意見、そのとおり承っておきますが、あわせて私希望したいことは、非常にけっこうなお考えであると思いますし、基本的な考え方にはわれわれも賛成しておりますが、ただ、法治国家においては、やはり法律制度というものを尊重することが非常に大切であることは、もう説明するまでもございません。ただわれわれがいま表明した疑問というものは、われわれが法律的な立場に立って考えた場合に、もっとよりよくするならばこういう点を考えてほしい、こういう点も盛り込んで発言しておりますので、できれば再審のこの特例の法律案だけではなく、再審制度全般、さらには通常の刑事裁判のあり方についての刑事訴訟法等の構造、特に終戦前の覆審主義から、現在事後審に変わって、第一審公判中心主義というような訴訟構造の変更もございますので、この点もひとつ御検討いただきまして、私どもの主張もあながちそう頭のかたい法理論ばかりでなくて、そちらのほうで立てなければならない道も立てた上で筋を通しませんと、やはり新しき酒は新しき皮の袋にというたとえもございますので、万遺漏のないような御立案を願えれば私どもとしても非常に幸いであると思いますので、この点ちょっと付言しておきたいと思います。
○猪俣委員 学者の方々の御議論、いろいろありますが、占領期間中の裁判の公正というものにつきましては、もう少し具体的にお考えを願いたい。それは、ここにも書いてありますけれども、証拠法の刑事訴訟法の改正、これは実に弁護士はまいったのです。いまの司法研修所を出た者は実によく熟練しておりますが、すでに弁護士をやっておったものは、アメリカ流のそのままの刑事訴訟法にされてしまって、あの改正につきまして、実は法務省に頼まれまして、私どもたびたびGHQへ行ったのです。これは日本に適用するのはまだ無理だといって交渉したのだが、がんとして応じない。法律をつくるにしてもそういう態度であり、絶対に自分たちの提起したことを曲げない。そういうわけでありますから、立法にも裁判にも相当干渉したことは、明らかな事実なんです。彼ら自身がそれを認めて、先ほど大竹君が質問したような法律ができているわけなんです。ですから、この点についても、もう少し具体的事例を皆さんもお調べいただきたい。私どももいろいろいま持っていますが、私どもが皆さんに意見を申し上げる機会じゃないのでやめておきますけれども、ただ、このいまの刑事訴訟法が施行当時、実に裁判が十分に人権を保障できない、弁護陣のほうが弱体であったわけです。それは事実なんです。それは後藤先生なんかもよくお認めだろうと思う。全く証拠の提出方法がよくわからなかった、そういうこともありまして、これも私どものこの法案を提出する理由になっていますが、もう少しその辺も御検討いただきたい。私どもは希望として申し上げておきます。
○高橋(英)委員 関連してちょっと一言お尋ねしておきたいのですが、参考人どなたでもいいのですが、いま日本に憲法改正論があるわけです。これは猪俣先生や神近先生が言われるように、占領下にこしらえられた押しつけ憲法ということであります。私も憲法審議に参加した一人ですが、私の注文で一カ条入れてもらった、変更してもらったところもありますけれども、それ以外のものは、御承知のように押しつけ憲法なわけなんです。そうすると、占領中にこしらえた立法なら、憲法はじめみなこれは改正するのがほんとうだというような議論も成り立つのですが、いまのああいう御議論と憲法改正論との関係、調和といいますか、そういうものについて、どういうお考えをお持ちになりますか。やはりいまの猪俣氏らの主張をそのまま憲法問題に持っていきますと、憲法改正論も成り立つというふうなことになるわけですけれども、どうお考えになりますでしょうか。
○下村参考人 まず年少の私のほうから、僭越ですが、お答えさせていただきます。やはり問題は別で、かりに憲法が翻訳憲法であれ、押しつけ憲法であれ、よいものはやはりよいと判断しなければなりません。ただ形式的には、それでは連合国軍が立法させたものは全部同じに考えるという論理も成り立ちますが、やはり実質的に考えなければいけないと思いますので、私はそれはそれ、これはこれで考えるべきであって、向こうを立てればこっちも立てなければいけないという改憲論には、私はにわかに賛成いたしかねます。
○神近委員 後藤先生に伺いたいと思いますけれども、前に三十八年ごろですか、国会の中に再審制度の調査小委員会が行なわれて、そのときにいろいろ御意見が出ているようで、実は詳しく拝見いたしましたけれども、いま小野清一郎先生ですか、が主任になって改善されているところに、再審法に対するベターな案が出ている。それからあなたが刑訴法の四百三十五条ですか、に対するいろいろ御批判があったようですけれども、どの点を改善すればもっと国民の納得のいくようになるか、先生の御意見をひとつ聞かせていただきたいと思います。
○後藤参考人 どの点と言われましても、幾つかございますが、結局再審理由の証拠の新規性と明白性の問題でございます。新しい証拠は発見しても、それだけではいけない、明確性がなくてはならぬ、いわゆる原判決をくつがえすに足る強力な証拠でなければならぬ、こうなっているわけでございます。そこで、改正するとするならば、新しい証拠が必ずしも原判決をその証拠だけでくつがえすだけの強力なものでなくてもいい。少なくともその新しい証拠は、原審で出された証拠と相総合して、そして無罪になるであろうという一つの蓋然性があればそれでいいじゃないかということが、再審の問題では根本の問題として常に論議されております。その他いろいろありますが、一番大事なところはそこでございまして、しかもその判断はだれがするか、こうなりますと、これは裁判官がやるわけです。ところが、先ほど申し上げましたように、やはりその裁判官は裁判をやり直すということはお好みにならない。いやだということになりまして、結局はその自由心証という、その証拠の取捨判断、事実の認定は、裁判官が自主に——これももちろん良識とか、常識とか、経験とかありますが、自由に判断していいという一つの権能をお持ちでございますために、結局それが先ほど申し上げましたようなきわめて冷酷な、形式的な判断で終わって、結局被告人のためには利益ではない、あらゆる再審事件はつぶされていくという一つの弊害があるわけてございます。先ほどから学者の先生方は、この再審の規定ではさほど不自由はないというお話でございましたけれども、われわれ弁護士が実際において再審事件に取り組んでいろいろとやってきた経験から見ますと、この日本の再審制度、いわゆる再審の規定は、きわめてきびしい。しかも、それを裁判される者は再審が最もきらいな裁判官であるというような点から見まして、あらゆる再審がみなことごとく退けられているのが現状でございます。私も、日弁連で吉田岩窟王事件の主任弁護人として、三カ年半たいへん苦労しました。その他免田事件も、いま特別委員長としてたいへん苦労しております。あるいはその他梅田義光の北海道の事件も、やはり再審事件と取り組んでおりますが、あらゆる事件が実際の実務の面においてきわめてきびしい。おそらく救われるという可能性が非常に乏しいということを、学理上あるいは学界の一つの考え方と別個に、実務家としては現実の裁判に臨んで痛切にそれを感じているわけでございます。
○神近委員 その裁判官が再審を非常にきらうということは、その裁判官が、もし再審で前の裁判が間違いであった、あるいは過酷であったというようなことが立証された場合に、裁判官というもののこれは身分に——誤審をしたとかあるいは再審によってくつがえされた、こういうときには、裁判官の身分なりに多少の関係、たとえば立身とか、あるのだろうと思うのです、裁判官にも。そういうために阻止されるということが起こりますか。起こるように弁護士側からごらんになってみえますか。
○後藤参考人 これは私は弁護人の立場からそういう感じがするし、あらゆる事件でそう感じているということを申し上げるのであって、裁判官の側から見れば、自分は公正にやったのだというような御弁解があり得ると思うのですよ。しかし、私たちがここでそういうことを申し上げるためには、現実の事件について幾多のそういうこまかい理由と根拠を知っているから申し上げたわけでございます。しかし、ここはもう時間がありませんから、省略します。
○永田委員長 この際、参考人各位に一言ごあいさつを申し上げます。 本日は、御多用中のところ、貴重なる御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。厚く御礼を申し上げます。 本日は、これにて散会いたします。 午後零時四十四分散会