文教委員会 第3号
- 発言数
- 10 件
- 登壇者
- 3 名
- 会派数
- 1
- 開催日
- 1964/02/14
会議録
○久野委員長 これより会議を開きます。 文教行政の基本施策に関する件について調査を進めます。 質疑の通告がありますので、これを許します。長谷川峻君。
○長谷川(峻)委員 文部大臣に御質問申し上げます。というのは、せんだって予算の説明がありましたが、そのときに文部大臣の所信の表明があったのです。文教行政に関する所信がこの委員会で述べられたのですが、これはちょっと最近にない異例なことだろう。しかもその中にうたわれておるのを見ますと、非常にこの委員会として文部当局とフリー・ディスカッションしながら、いろいろいまから先に進める問題がありはせぬか。この委員会の性質上、時に重箱のすみをほじくるようないろいろなことを言う必要もありましょうけれども、私は、大きな流れとしての文教政策というものは、こういう場面において、こうした所信表明などの出たときにわれわれの持っておる感じなどを申し上げながら進めていくことがいいんじゃないか。早い話が、この中を見ますと、最近、「物質文明の繁栄に比し、精神面でのおくれが痛感され、人間性の涵養、国民精神の高揚が強く要請されて」いるとか、あるいは「民族の繁栄、国家の発展は、安逸と放縦の中から生まれるものではなく、高い理想を求めてあらゆる艱難に耐え、」こういうようなことなどは、私は、この委員会のいろいろな議論の中に、一つの法案の解釈あるいは予算の使い方などについての議論の上に、こういう問題について共通の場所を求めていかなければならぬのじゃないか、こう思いまして、気のついた二、三について、原則だけひとつお伺いしたいと思います。 早い話が、私は民族の繁栄とか国家の発展、これが文教政策の根本的なものであるとしますと、最近ようやく、きのうおとといあたりが昔の紀元節でありましたが、町、村においても日の丸の旗を出している。これは政府の勧奨があるわけではなし、何でもないが、終戦後十九年にしてようやくそういう空気になってきた。一方では戦争のために一ぺん取りやめたオリンピックがいよいよことしの十月ということで、非常に新聞面をにぎわして、建設関係はほとんどその予定まで間に合うということを言われながら、一方においては国際会議、協議がインスブルックあたりで開かれる。そうしたときに国民の中に国旗というものについてあらためてひとつ思い直す必要があるのではなかろうか、考えるものがあってもよろしいのではなかろうか。それをチェックする思想がおかしいのではないかということは、否定できないと思うのです。早い話がこの国会の衆参両院の上に一昨年の四月から国旗があがった。これは議院運営委員会において数年間主張してようやくできたことなんですね。当時といえども、それは戦争のイメージが日の丸につながるものであるといって非常な御抵抗があったけれども、あげてみるとよろしい。国権の最高機関である国会の上にわれわれの時代にあげていることは一つもふしぎではないし、見た者も気持がいい。これがひいては総理官邸はじめ各役所の上にあがる。そうしたものがそちこちの一つの空気を起こしているゆえんでもあり、また民間運動としても起こっているゆえんだと思うのです。 そこで私は前々から主張しておりますが、暗い戦争のイメージの日の丸というものを、オリンピックという、世界の青少年、民族が共通で戦う場所で、民族の力、鍛練、精神、こういうものがオープンで戦われる。人種の差もなければ、貧富の差もない。そしてそれがときに日の丸の旗になりあるいはアメリカの旗になり、西ドイツの旗になり、ソ連の旗になる。そういう場合に私はこの十月のオリンピックにおいて日本の青年男女が戦ったその姿の中に、清新にして明朗、健康、こういう新しい国旗に対するイメージなどをつくる一つのゆえんにもなりはせぬか。暗いイメージがあったならば、こういう場合に取り返す一つのチャンスではないかということを考えますと、先日以来名古屋地方で国旗の問題について非常に日教組の諸君も柔軟な態度を示したというような話も聞きますから、内閣においても一部お考えおきあっているらしいのですが、国旗とか国歌というものについて、文部省当局はこの際あらためてひとつ腰を据えて考えもし、ある場合には手を打つ必要もあるんじゃなかろうか、こう思いますが、こうした金のかからぬ精神面の問題において手をつける必要があるのではないかということの大臣の所信をまず私はお聞きしたいと思います。
○灘尾国務大臣 現在の国民生活の状況から考えまして、また特に今年度は東京でオリンピック大会が開かれるという特別な時期に際会しておるわけであります。このような時期においてただいま国旗あるいは国歌についての御所見を伺ったわけでございまして、まことに私は適切な御所見と伺ったわけでございます。われわれはこの国土の上に生まれ、また死んでいくわけでありますが、お互い国をなすものが常に自分の国土を愛し、自分の国土に誇りを持ち、そうしてまた日々の努力、日々の活動を通じまして受け継いだこの日本というものをさらによりいいものにして次の世代に送っていく、これが無限に継続していかなければならないものと心得ておるわけでありまして、そのようなことを考えます場合に、お互いに国のシンボルであるところの国旗でありますとか、あるいはお互いがともどもに高らかに高唱する国歌であるとか、そういうふうなものについては格別大切なものとして取り扱ってまいらなければならぬと思います。文部省といたしましては、御承知のよりに学習指導要領においても、国のお祝いの日でありますとか、そういうとさにはお互い国民がこぞってお祝いをするその日の意義を十分に幼い生徒あるいは児童に徹底する、同時に国旗を掲げるとかあるいは君が代を斉唱するというふうなことは、きわめて望ましいことであるということで指導いたし、まいっておる次第でございまして、この点は時期が時期でもございますし、また国民の精神面についていろいろ考えさせられる問題が多いときでございますから、お話しのとおりに、一そうの努力をし、趣旨の徹底もはかってまいらなければならぬ。特にまたオリンピックを控えまして、日本の国旗はもちろんのことでありますが、諸外国の名誉ある国旗が日本にくるわけでございますので、この国旗というものに対するわれわれの考え方、われわれの取り扱い方というふうなことにつきましては、今後の国際生活の上におきましても非常に大きな意義を持つものと思いますので、オリンピック関係の国民運動の一環といたしましても、この日本の国旗に対する理解あるいは尊重の念、ないしはまた、外国の国旗に対しても同様なことを徹底してまいりたい、このような考えで各方面の御尽力をわずらわしておりますのが現在の段階であります。御趣旨につきましては十分私どもも留意いたしまして、遺憾のないようにいたしたいと思っております。
○長谷川(峻)委員 パナマ運河の問題一つにしましても、アメリカの国旗を高等学校の学生が破ったことからあれだけの国際紛争が生まれ、数年前に長崎のデパートの上にあがった中共の国旗をさかさにしたとかしないとかいう問題から日中の間の経済関係がおかしくもなり、それが政治的に発展している。私は自国の国旗を尊重し切れないところの民族なり青少年というものは、国際的になった場合でもこういうエラーをやるものだ、こう思います。ですから国旗、国歌尊重ということが、保守反動であるとか、かたくなな民族主義だというふうなコンプレックスを一掃されまして、国際人になるためにも日本の青少年が断固として、やはりやるところはやってもらわなければならぬと私は思います。これはただ庶民の間に生まれる、自分の家なり国を守るという運動にまかせるわけにはいかぬ。もちろんそれも大事でありますが、何と申しましても、私は文教政策をあずかって永遠の問題をここでおやりいただく現時点における文部当局の方々に、オリンピックの国民運動にも適用もされましょう、あるいは民間のいろいろな運動にも適用されましょう、一方また直ちに法律的、と申してできるかどうか知りませんが、そういうところにまで手を伸ばされて進まれんことを特に御要望申し上げます。 次は、やはり私たちは日本の文学なり日本の学問というものが、そうつまらぬものじゃないという自覚を持って、なおかつよそから吸収していく。H・ウェルズが書いたように、とにかく二十世紀の民族で、白色人種にあら、ざる民族で西欧文明に到達して追い越そうとしたのは、わずか日本人だということを「アウトライン・オブ・ヒストリー」の中に書いてある。文藝春秋など見ても、今度芥川賞をもらったのは、何と、つまらない題名なんです。「センチメンタル・ジャーニイ」、読んでみてもわけがわからぬ。羽田から東京へくる途中を見ても、羽田からこっちはみんな横文字で書いてある。そうすると、少なくともわれわれが明治時代に非常に誇りに思っておった作家である夏目漱石なり、森鴎外なり、あるいは幸田露伴の「五重の塔」でも、そういうものをいまの高等学校の生徒が読めるだろうか、どうだろうか。これは終戦後、文部省でもいろいろおやりになっていると思うのですが、やはり国語問題について、少し掘り下げてみる必要がありはせぬか。私たち、子供のときに片かなから習ったが、いまは平がなから習っている。途中から片かなに入る。送りがなをつけるといったって、片かなでつけなければならぬのはさっぱりわからぬ。新聞を見ても、広告を見ても、片かなのほうが多い。こういうふうに粗雑乱雑きわまる。イギリスの場合わざわざグリークを習わせたりするのは一体どういうことだということから思うと、ただただ便宜主義だけではいけないのじゃないか。やはり民族の伝統をわれわれが受け継ぐ。それをまた残していく場合に、少なくとも明治時代の文学なり書物というものが読めないようなものをやったって、一体何になるか。それが科学技術ということになるかどうか。こうした問題について、私はほんとうにものを読んでみて痛感するのです。そういうことに対する改善の施策が——最近また、なっていないとか、なっているとか、新聞雑誌をにぎわしておりますが、こういう問題についての本質的な点について、ひとつ御見解をお伺いしたい、こう思うのです。
○灘尾国務大臣 国語の問題は、われわれしろうとにとりましては非常にむずかしい問題であり、同時にまた、現在論議せられております国語問題というものはかなりむずかしく議論をしておられるのではなかろうかというような心持ちがいたすのであります。長谷川委員も御承知のように、文部省で所管いたしております国語審議会におきましても、いろいろむずかしい議論が行なわれて、かなり混乱を来たすという事態がありましたことは、御承知のとおりであります。ただ、私は、あまり極端な考え方でもって一つの国の国語というものを論ずるということは、実際問題としてどうであろうかという心持ちがいたしております。ただ学問上の議論なら、それでけっこうでありますけれども、われわれが日常使うことば、あるいはまた、日常書くことばというような問題についてまず取り上げていかなければならぬのじゃないかと思います。そうなりますと、現在日本で行なわれていることばというものは、結局漢字とかなとまぜ合わしたものが、あるいは書かれ、あるいはことばとして用いられているという状況であります。文章の上で言えば、いわゆるかなまじり文というふうなものが論議の対象とならなければならぬのではないか、こう思うわけであります。それにつきまして、いろいろな方面からいろいろな議論が——これまでの国語審議会等の審議の成果に対しで御批判があるわけであります。私は、国語審議会の従来果たしてまいりました仕事につきまして、かな宙じり文というものをどういうふうに考えていくべきか、また、この問題から考えましたときに、あるいはいまの子供は昔の——昔のといいますか、すでに明治時代に書かれたいまお話になりましたようなものはろくに読めないではないか、こういう御批判も確かに深刻に考えなければならぬ問題だと思うのでありますが、同時に、学校教育の段階においてどのような文字を用いて教えていくか、あるいは漢字がむずかしいというのなら、どのような程度の漢字を教えていったらよろしいか、こういうふうな問題は、教育上の問題としてあまりにも雑然としており、あまりにも混乱しておる状態では困る。そこに何らかの基準というものがなければいけないのではないか。また、官庁の文書でありますとか、あるいは法律の文章等につきましては、やはり文字につきましてもある程度の基準というものがあってよろしいのではないか、かように考えるわけであります。従来国語審議会等でやってまいりましたのも大体その線に沿うての検討であった、かように思うわけでありますが、さりとて、これがいまの文学書でありますとか、こういうふうな問題にまで及んできて、そういうものが満足に読めないというふうな状態でも困るわけでありますけれども、一応学校教育の面、あるいは官庁の文書、あるいは新聞の書き方、そういうふうな問題につきましては、ある程度の基準を持ってやったほうがいいではないかということで今日までやってきたと思うのでございますが、ただ、その成果につき、はたしていままでの結論が妥当であったかどうか、その問題はあろうかと思います。文部省としましては、全部かなで書けとか、全部ローマ字でやれという議論もどうかと思いますし、さりとてまた、かなづかいでありますとか、あるいは学校教育上必要とする漢字の数でありますとか、こういうふうな問題についてある程度の基準を示す上におきまして、いままでやりました成果が適当であるかどうかということをさらに検討してみる必要があるのではないかというので、御承知のように、一昨年国語審議会のメンバーの選考仕直しをしたと申してもよろしいような処置をとりました。そして、国語審議会を進めていったわけでございますが、従来とってきた態度がよかったか悪かったか、あるいはまた、従来やってまいりました処置が適当であるかどうか、こういう点についても十分検討していただき、そしてまた、今後取り上ぐべき問題は何か、こういうふうな問題について御検討を願ったわけであります。そして、最終結論とは私も思いませんけれども、一応の報告を今回委員の任期が切れる前にいただいたわけであります。 そこで、先般、国語審議会の委員の任期の切れた場合において、あらためてこれの人選をいたしましてさらに検討を進めていただくということにしたわけでありますが、この前の委員をきめる際に、かなり大幅なと申しますか、思い切った委員の、語弊があますけれども、差しかえといいますか、入れかえといいますか、そういうことをやって、その方々によって御検討を願った結果、最終結論ではございませんが、さらに掘り下げて検討していただく必要があるというので、その見地から今回の委員の選考をいたしましたようなわけであります。これについては、いろいろ御批評もございますけれども、要は、国語審議会で現在とあまり関係のない極端な議論ばかり戦わしておっても成果は得られない、むしろ現、実に即して、そしてその現−実をふまえて国語というふうなものについては改善の問題を考えていくことが適当ではないか、こういうような見地から御審議をお願いいたしておるわけであります。 いずれにしましても、非常にむずかしい問題でありますので、私どもこの問題には頭を悩ましておりますけれども、広く学識経験、識見のある方、そういったふうな方によりまして、何かわれわれの気持ちに合うような結論を−出していただきたいものと期待をいたしているような次第でございます。
○長谷川(峻)委員 国語審議会の内部の問題になりますと、私たちも学者じゃありませんから、送りがながどうのとか、いろいろな問題についてはちょっと議論はできません。しかしながら、これは大臣とおそらく同じだろうと思うのですけれども、やはり明治時代の文学書くらいは、高等学校くらいの学生が読めるような態勢に持っていかないと、国語問題もさることながら、そういう文学の伝承のためにもならぬのじゃないか。このことや審議会の問題等々については、いずれ所管の局長などからお話を承ることがあると思いますけれども、そういうお気持ちでお取り扱いを願いたい、こう思うのであります。 それからもう一つ、さらに問題が出てきますのは最近のテレビです。テレビというものは郵政省の役所の所管だからというので、全然文教委員会でお取り上げする機会がなかったことをいかにも残A、心に思っているものですが、ことばがいま非常にはやるのはテレビである。われわれのわからぬようなことばがじゃんじゃん、そのときのタレントの気分でつくられてずっとはやるわけです。ですから、ことばを美しくするということからいたしましても、テレビについて文部省が、しかも灘尾さんは国務大臣としても十二分に御発言なりお考え置きをお願いしたい、こう思うのです。というのは、数日前にちょっと外国の通信を読んでみますと、アジア地域のテレビ。セットの台数が出ているのです。一九六三年末で日本がちょうどテレビが千五百万台です。それからネールのインドがわずか六百五十台、台湾が十七万五千台、中共が二万台、韓国が三万台、沖繩が七一万三千台、タイ国が十万台です。そう・しますと、日本で千五百万台ということはたいへんなことなんです。戸数に割ったら八割くらいにいっているのです。ところがこれから出てくるところの電波というものは、郵政大臣じゃないからあれですけれども、いずれこれは合同委員会でもという話がこの前の委員長時代からあるのですが、これは全部郵政省が許可しているが、国民の波なんです。一ぺん設備すれば波はただでいくのです。世界で一番テレビの発達しているのは日本とアメリカ。日本はアメリカの次です。ところがそこ から出ているいわゆる教育放送、教養放送、こういう番組などについて全然手をつけていないから、−手をつけるというと、すぐ官僚統制だという諸君もあるけれども、全然手をつけていないから、ああいう一億白痴化運動が行なわれる。これはいずれ同僚議員からも話が出るでしょうけれども、二、三日前に高等学校の諸君が自分の車を持って、睡眠薬を飲んで強盗をやった。その原因でも、前の晩テレビで見た、ストッキングを頭にかぶると化けものみたいに見えて顔がわからぬ、それで私たちはやったのだとはっきり書いてあるのです。いかに影響力があるか。ことばの上に影響力があり、しかもがんぜなき青少年の行動と思想の上に影響がある。このことを文教政策の上にお取り上げにならなければならぬ時代がきているのじゃないか。それば民間放送なんというものはたいへんな配当です。波さえ送ればいいのです。そういう問題がある場合、文部省といえども文教政策の建前から堂々と御発言願いたい。そしてNHKとか、あるいはじゃんじゃん出てくるだろうところの民放、しかも最近はまた財界が数億の金を出して第十二チャンネルをやろうとしておるが、こういうもので教育放送の番組のパーセンテージが一体はっきり守られておるかどうか。再免許ということもある。アメリカの場合には、あれだけ自由主義の国でありながら、ミノー委員会というやかましい委員会が生まれて、ようやくそれが是正の方向に向かっておる。ゆえにせんだってケネディが死んだとき、何と四日間、全部コマーシャルをやめて実況放送をしています。これは日本のいまの商業主義なら絶対できないことです。いまの制度といまの雰囲気では……。そういうことを思いますと、それをひっくり返した場合のわが国の青少年の教育あるいは思想、行動の上に与える影響力がいかに多いかということを思いますと、私は灘尾文部大臣にぜひひとつこの際、これは郵政大臣の所管であるかもしらぬが、文教政策の上からこうした問題について積極的な行動と発言をお願いしたいと思います。何と言ったっていまはマスメディアの時代であります。一番影響のあるのはこれです。しかし文教委員会においてこれが論ぜられたことなし。これは非常な隘路であり欠陥であると私は思っておるのでまりまして、これについてもひとつ大臣の将来の御方針なり心がまえをお願いしたいと思います。
○灘尾国務大臣 テレビの普及状況は世界第一のスピードをもって普及しておるということは御指摘のとおりで、非常な勢いで普及しておるわけでありますが、テレビのわれわれ国民生活に対する影響あるいは効果というようなものは、積極消極の両面があろうと思います。積極的にわれわれの生活内容を豊かにするという意味におきまして、あるいはまた学問教育というふうな関係から申しましても、かなり大きな役割りを果たし、また今後果たさなければならないものではないか、かように考えておる次第であります。同時に現在行なわれておりますテレビの内容と申しますか、そういうふうなものが直接これを見る人たちに与える影響が非常に強い。ことに若い青少年に対する影響力が強いだけに、このテレビの及ぼす消極面についてわれわれが非常に考えなければならぬ点があるということは、これは申すまでもないことだと思います。現在のテレビを見ました場合に、私も長谷川委員と憂いを同じくする場面が少なくないのでありまして、何とかもう少しテレビ放送をする上において考えてもらわなければならない点が多々ある、このように思うわけであります。現に政府といたしましても、最近の青少年の犯罪の増高等を憂えまして、これに影響力があると思われるマスコミ、新聞その他出版物の問題もございましょうし、同時にまたいま申しましたテレビ、このような点についてもとくと考えていただきたいという意味で、関係の業者の方にも集まっていただきまして、いろいろお話し合いもいたし、その自粛改善を要望いたしておるところであります。ただこの問題につきまして、放送番組その他について政府がどういうような関与のしかたをするかというところにかなり問題があろうかと思います。ただ往年のような取り締まりとか検閲とかという形で臨んでいいものかどうかということについては、いろいろ議論のあるところであります。政府といたしましてもこの関与のしかたの問題につきましては、かなり重大なことでありますから慎重に検討し、お話し合いをしなければならぬと思います。いずれにいたしましても、現状におきましては私どもも長谷川さんと同じような心配をいたしておりますので、こういうふうな問題について害毒を社会に及ぼさないように、特に青少年の教養という面におきましてほんとうに役に立ってもらうようにわれわれも努力しなければならぬというふうに考えます。具体的な方策をいま申し上げるだけの用意がないことをまことに申しわけないと思いますが、私もこの方向においてさらに検討もし、努力もいたしたいと思います。
○長谷川(峻)委員 テレビの問題になりますと、編集権あるいは芸術性とか、いろいろな問題が出てきまして、なかなかむずかしい面もあることも承知しております。しかしながら私は何といったって一番影響力のあるものをほったらかすわけにいかぬと思うのです。しかもことしは放送法の改正の年なんです。民放のほうからも、あるいはいろんなところから要望書も出たり、電波審議会の諸君も案を出そうとしておるのです。それでこちらのほうが動かないと、一郵政省の小役人が電波を握っているのです。それにのぼせ上がってかましいことばかりやっておると、業者そのもの、会社そのものがどこかで行き詰まると思う。そのときの攻勢といいますか、リアクションというのは大きいと思うのです。ですから私は大臣が、民放関係、いろいろな放送法の改正があるその案の中に、これだけの影響あるものを——家庭教育もいい幼児教育もいい、母親学級もいい、学校教育もいい、いろいろなことを所管して一番関係の深い自分のほうとしては、ぜひこの辺とこの辺だけは考え直してくれとか、考えてくれというふうなことにいくことが、業者に対し会社に対し、あるいはそういう関係者に対する一つの親切でもあるし、またマスコミで被害を受けるものに対する善意でもあるのではないか、こう思いますので、これはひとつ国務大臣としてお考えおきを特にお願いいたしたい。 それから、せんだってから新聞をにぎわししておる道徳教育の資料で、いろいろな昔の偉い人たちの名前が出ておるのを私は新聞で拝見したのですが、それについて若干お尋ねしたいと思うのです。 私はああいう名前を出して具体的に教える一つの参考にされることを非常にけっこうだと思うのですよ。というのは、青少年で海外にやる諸君を私も選考委員などになってやっておりますが、日本の大学生諸君が会社に入るとき、尊敬する人物はと書かされますと、大体ベートーベンですね。べ−トーベンあたりを書くと、クラシックを聞くということと、思想的にもたれにもやかましく言われないということで、ベートーベンとかその辺でいくのですよ。ですからそういう意味で、私たち一人一人の人間は弱いものだから、かつての先輩があれだけ苦しいことをやったから自分もひとつその苦しみに耐えていこうじゃないかというところにわれわれの努力がある。学習は学問をただ習うだけですけれども、勉強はつとめるほうですから、それぞれの見方は違うかもしれぬが、理想らしき人間像というものを与えて、それを講話してもらい、激励をしてもらうチャンスをつくることは非常にいいことだと思うのです。 ところで大臣、ひとつこういう話はどうでしょう。私たちは大学という本は習ったのです。中庸も習ったのです。しかし一体日本は小学はやらない。小学校という名前をなぜつけたか私は疑問に思っているのですが、本を四、五冊引っ張り出してみますと、こういうことを発見した。道徳指導書にはいろいろなものを入れているだろうと思うけれども、世の中で一番欠けたものと思われているのは最小のモラルです。電車の中で人に迷惑をかけないとか、たんつばをはかないとか、あるいは人に迷惑をかけない、この最小のモラルがいまの世の中に欠けておるから、レジャーブームの中に何かしら陰惨さを感じている。その小学という本を読んでみますと、中国で小学という本が出て、大学の前に読まされた。日本でもこれをやっていたのです。どういうことを書いておるか。私は、二、三冊本を読んでみると、進退の節、灑掃——掃除、兄弟あるいは親子の関係、あるいは自分と主人の関係、こういうものをずっと列記して中国で教えて、それさえ習えば大体世の中に出て最小限度の道徳はできる。人に迷惑をかけない、人にも尊敬をされるのだというふうなことで、小学を習ったのです。それから治国、斎家、修身、平天下とある。ところが日本の場合は、大学で治国、平天下はやっていて、最小のモラルを忘れているんです。ですから、私は小学で教わるようなそうした最小のモラルというものは、いまの学校教育の中に一体どの程度入っているか。これをもう一ぺんお入れを願えないだろうか。なぜ、そんなことを私が気がついたかといいますと、中国では学問する以外に出世の道がなかった。そこで進士の試験を受ける。日本ではちょうどあなたが通られたような高等文官試験です。数万人の中からわずか数人しか進士の試験は受からなかった。それを受かった者がある大学者のところへたずねていきまして、もう自分の生活の保障もできた、学問も非常にできたというので、その大先生にこれからどういう本を読んだらいいかと聞いたら、あなたは小学を読んだかと聞かれてびっくりして、内心憤慨して帰ってみたものの、何さま大先生なもんだから、うちへ帰って小学という本を探して読んでみた。それから数カ月してまた大先生のところへ行って坐ったとたんに、あなたは小学をだいぶ読みましたねと言われてびっくりしたということがある。お互いの社会で一番大事なことは行をする、掃除をすることであり、兄弟であり、友だちに親切であり、そういうモラルというものである。ですから私はいまの指導要領とかいろいろ教育書ができ上がるのでしょうが、そういう基本的なものが今度の道徳教育の中にどの程度入れておられるか。日本は終戦後そういうモラルが足りないから、お互いが大臣の所信の中にうたわれているものに共鳴もし、推進も願いたいというふうな世論の問題にもなってくるのではないか。この点について所見をお伺いしたいと思います。
○灘尾国務大臣 いろいろ教えていただいたわけでありますが、この道徳教育の仕方等につきましては、いろいろ意見のあるところであります。いずれにしましても、われわれとしましても、長谷川さんのおっしゃったような人間として一体どういうことをわきまえていかなくちゃならぬか、自分というものについてどういう心がけでいなければならぬか、あるいはまたこれから世の中へ出ていき、あるいは家庭においても同様でありますが、人間関係に処してどういうふうにしたらいいのであるか、こういうふうな問題はぜひ小さいときから身につけてもらわなければならぬと思うのであります。文部省が示しております学習指導要領の中に、こういうことは身につけられるようにうまく指導してもらいたい、こういうものは私は大体盛り込まれてあろうかと思う。ただ、いままでの実績から見ますと、どうもまだ十分にいっていないのじゃないかというので、今回道徳教育の指導要領というので先生方の参考資料として、これでうまく指導してもらいたいということをいたしたわけであります。その中にこういうことをやってもらいたいという事項、世の中に出て必要な点は大体掲げてあるように存じておる次第であります。問題はどうして実効をおさめるかというところがわれわれの関心であります。この問題は幾ら教科書をつくりましても、幾ら指導材料を出しましても、これが行なわれなければ何にもなりません。またいわゆる押しつけというふうなことでなくて、ほんとうに子供さんがその気になってやっていくように身につけてもらわなければならぬわけであります。この問題は今後ともに私ども努力しなければならぬと思いますが、項目等についてはほぼ網羅しておるのじゃないかと考えます。なおまた参考資料として配りますものにつきましては、これはことしに限った問題ではありません。一ぺんそのことを書いて出しますと、あそこも足らぬ、ここも足らぬという問題が出てくる、そういう点はやはり皆さんのお考え、世間の声によって改善をし、充実をしていくように心がけたい、かように存じております。なお詳細な点はひとつ政府委員からでもお聞き取りを願いたいと思います。
○久野委員長 次会は公報をもってお知らせすることとし、本日はこれにて散会いたします。 午後二時十三分散会