文教委員会 第28号
- 発言数
- 280 件
- 登壇者
- 6 名
- 会派数
- 2
- 開催日
- 1963/06/27
会議録
○委員長(北畠教真君) ただいまより文教委員会を開会いたします。 委員の変更について御報告いたします。 本日、佐藤芳男君、森田タマ君が辞任され、その補欠として、山下春江君、沢田一精君が選任されました。 —————————————
○委員長(北畠教真君) 本日の委員長及び理事打合せ会について御報告いたします。委員会の運営について協議した結果、本日は、義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律案の質疑を進めることに決しました。 —————————————
○委員長(北畠教真君) それでは、これより義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律案を議題といたします。 質疑を行ないます。御質疑のおありの方は順次御発言願います。
○小林武君 福田局長にちょっとお尋ねしますが、検定前のあの国定のときには、あれはどういう法律的な根拠に立っていたのですか。小学校令の第何条でしたか、あれ一つということになりますか。
○政府委員(福田繁君) 国定時代におきましても、いろいろ時代によって根拠は違うでしょうが、ただいま昭和十六年に制定されました国民学校令を見ますと、国民学校令の第六条に、「国民学校ノ教科用図書ハ文部省ニオイテ著作権ヲ有スルモノタルベシ」、こういう規定があります。これが根本になっております。これ以前の小学校令によっても大体同様だと思います。
○小林武君 この「文部省ニオイテ著作権ヲ有スル」そういうことに国定教科書のあれがあったのでありますが、前の委員会におきまして、文部省から教師の責任の問題について御答弁があって、そのときに、教師が教育の実際に携わっておって、たとえば教科書等を教えることによって、もしそれが誤りがあったとか、あるいはその教育が正しい教育でなかったために、子供に事実にたがったことを教えたり、あるいは非常に将来に大きな影響を与えた場合には、これは教師自身の責任ではなくて、文部大臣の責任である、こう言われたのでございますが、それは検定制度のもとにおける教科用図書あるいは学習指導要領、その他あるわけでありますが、そういう教育の内容に関する、今申し上げたような教育の内容としても、私に言わせれば全部ではないと思うのですけれども、そういう問題の一切は、これは今のような検定制の教科書を使うというようなときにおいても、国定の教科書を使って、しかも、この国定の教科書から一歩もはずれてはならないというような、そういう制度のもとに行なわれたときも同じに考えられるということは間違いのように私は思うのですけれども、その点は文部大臣は同じように考えられておるのでしょうか、その点についていま一度御答弁願いたいのですが。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 検定した教科書、教科用図書以外は、原則として使ってはならないとしております限りにおいては、教科書は使わないでよろしいという自由はないわけであります。制度上。その意味において検定された教科書を必ず使え、その教科書に盛られておることは、基本線として堅持しながら教えねばならないということを含んでおるものと私は考えます。
○小林武君 もう一つお尋ねしますが、今も文部大臣がお話になったように、検定をされた教科書、これは使わなければならない、こういう規定になっております。検定された教科書ならば何を使ってもいい、そういう自由は法の中に保障されておるわけですね。これについてはどうなんですか、間違いないでしょうな。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) もちろんそのとおりでございます。検定された教科書以外を使ってはならない、検定された教科書である限りはどれを使ってもよろしい、そういう趣旨と思います。
○小林武君 そうしますというと、一体その法にきめられておることを制限するということは、これは誤りではないですか。たとえば何種か選んで最後は一種目に厳選されて、これ以外のものは使ってならないということになるわけですね。今度の場合にそういうことになるのじゃないかと思うのです。採択の仕方を考える場合、こういうことは今の文部大臣のおっしゃったことから考えてみて間違いじゃありませんか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) それは私は本質的に間違いではないと思います。程度の問題についての批評はあり得るかと思いますが、検定された教科書を必ず使うという結果にはむろんなることであります。しかも、検定された教科書は数多くございましょうが、その中でどれがいいかを選択するという過程を経まして、最後には一つになることは必然的な算術的な結果であるわけであります。それが地域的にある区域を限って一つであるということが望ましい場合、採択権限を持っておるものが相談をしまして、地域的にある一種に最終的にはきめるということは、学校教育法第二十一条等の本質を変えるわけじゃございませんから、違法であるというものではむろんない。むしろ、そのことが適切であるという理由があるならば、むしろ妥当であるという考え方に立ち得ると思います。
○小林武君 この件についても、あまりこまかく長いこと議論をしようとは思いませんけれども、学校教育法二十一条の中に規定されておる文部大臣の検定を経た教科書、文部大臣において著作権を有する教科用図書、「前項の教科用図書以外の図書その他の教材で、有益適切なものは、これを使用することができる。」、二十一条の中にはかなりの、何といいますか、幅のある規定をされておると私は思う。私はその中で、一体、検定に合格した教科用図書のうちのこの一つだけを使いなさいということは、これは法律の解釈からいくと、たいへんな誤ったやり方だと思うのですが、そのことはさておいて、一体、検定されて検定に合格したということは、この検定に合格した教科書の中に順位のようなものがあるのですか。いい教科書とか、悪い教科書とか、それからまた地域的な何々ということを言われましたけれども、教科書を検定する際に、そういう日本の国の地域の問題とか、これが日本のどの学校において使用されてもけっこうだというような、そういう角度からの検定はなされないわけですか。私は考えまするに、検定に合格したということは、どれも内容的にも質的にもりっぱな教科書だと判定を下したものだと思うんです。甲乙がないもののように考えます。もしそのことについて、これを採択することについて、いろいろとこの教科書が自分の教えている子供に適当であるかどうか、地域的な配慮とか、いろいろなあれをやれるのは、学校の教師くらいはやれるかもしれないけれども、それ以外の人たちがそういうことを言うのはちょっとおかしいし、特に文部大臣の考え方の中に、検定の教科書で地域性の問題が出てきたり、それからこの中にいい、悪いがあるというようなことをおっしゃるということは、これは非常な間違いだと思いますが、この点はどうなんですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 検定に合格した教科書は、学校教育法第二十一条の第一項に言う意味において、どれも甲乙ないという、検定効果というものはそういうものだろうと思います。ですけれど、その同じ検定を受けた教科書に甲乙なしとしましても、教える上から、あるいはその地域的な立場から比較検討しましてベターである、よりよきものである。同じ検定教科書であるにしましても、いずれを好ましとするかという判断の余地があるはずだと思います。そのことがあり得るであろうから、競争的に教科書会社が編さんして検定を受け、種類がたくさん出てくるということを制度上いいこととして今日までやってきておると思うわけでございまして、同じ検定効果としては同一価値でありましょうとも、いずれが便宜か、よしとするかという判定の余地はあろうかと思います。
○小林武君 今の大臣の話は私も同感なんです。その点ではね。検定された教科書というものにもいろいろの特色がある。これは検定制度のよさで、よい教科書を作るという意味から言っても、これは奨励されなければならないと思うのです。そういう結果が生まれてくるということも、いろいろな特色を持って出てくるということも、私は予想していくのが当然だと思う。その点までは同じなんですけれども、大臣の考え方に一番私は——これは今の大臣のおっしゃることではなくて、今まで何べんか大臣と質疑をかわして参りまして問題を感ずる、特に前回問題を感じたことは、大臣のおっしゃるお話の中に、指導要領という基準があるが、今の教科書は検定といえども国定と同じようなものだ。だから、その内容による教育によってあやまちが起こった場合には、文部大臣が責任を持つ。さらには、そのことを発展させて言えば、教師というものは教育の内容や、あるいは教育の実際問題についてかれこれ言うべき筋合いのものではないというような考え方が、この間から御答弁の中からうかがわれる。だから、非常に心配して今のような質問をしたわけですけれども、あなたは、この間そういう御答弁をなさったことをお認めになりますね。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 現行法から当然そう理解すべきものだと思っております。
○小林武君 間違いありませんな。——それから、もう一つそこで確かめておきたいんですけれども、今のように、あなたはかなり自信を持って国定と同じだというところまで検定教科書を持ってきたことについて自信をお持ちのようでございますけれども、それでもなおかつ、その教科書の中には多少の特色というようなものが存在しておる、だから教育をするにあたって何種目かにしぼり、さらには最終的には一種目にしぼるということがあってもよろしいと、こういうことを述べられておるわけであります。一体、地域制の問題とか、教育上の効果の問題ということになりますと、これは対象としての児童生徒ということを考慮からはずして考えられることはないわけでございまして、そういうものを一体判定できるのは教師をおいてないと私は思うんですが、あなたはどうお考えですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 原則としてそういうものかと思います。しかしながら、現に教職にあるなしということに限らないと思います。また、教職の経験があったことのみに限定されるべき性質のものでもなかろう。要は衆知を集めて、その検定された教科書の中でも地域においてこれが一番いいんだと結論を出す場合の判定は、なるべく広い視野に立って、また現場の教師の体験も織り込みながら選定される、採択されるということが適切だと思います。
○小林武君 わかったようなわからないような話なんですね。私あなたに聞きたいことは、そういう教科書に対するいわゆる何といいますか、判定といいますか、判断といいますか、どれが子供に一番適当であるか、自分の教えている子供に適当であるかどうか。もっとそれが広まれば、この地域制から考えてこの教科書が適当である、こういうことを判定するのは、衆知とか何とかいろいろなことをおっしゃいますけれども、結局、一番そのことの判断をするものは、文部当局としても教育委員会としても、当然どうなんですか、これは教師が最も適当なものだというふうにお考えになるのかならないのか。それじゃあなたは教師ではだめなんだというもしお考えがあったら、その教師ではだめだというお考えもひとつ述べていただきたい。教師だけにまかされないという理由があるならば、それもひとつ述べていただきたい。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 原則として教師が一番適当な担当者である、そう思います。教師だけになければならないかと言えば必ずしもそうではあるまい、こういうふうに思います。教師だけで採択しては適切でないということを、この選定眼そのものから申し上げる気持はありません。問題は、検定された教科書の中でこれを使うのだと最後的にきめまして、それに基づいて教師が教える、そういう関係に立とうかと思いますが、これを採択するんだという決定そのものは、これはやはり教育行政のうち内において処理する課題だと思うのであります。そうします際に、採択権限、採択責任を持っておる教育委員会が、今、小林さんも指摘されますように、私もそう思うのですけれども、原則として教師が一番選定するのには適当な人であるという意味において、その教師の意見を千分に取り入れて採択という行政的な決定をなすという段取りを踏むべきことは、これは当然なことと思うのであります。そう申しますゆえんは、後ほどそういう点にも触れると思いますけれども、今のように申し上げる意味は、採択するんだということそのことは、教育活動に関連はしましょうが、教育行政の立場においてこれを採択したということを住民に責任を持つべき課題だろうと思う意味において、教師の意見を聞き、さらに衆知を集めて、ベストを尽くしてよき教科書を選定するということにたどりつかねばならない責任が教育委員会にはあろうかという意味において申し上げるわけであります。
○小林武君 文部大臣が、たくさんある検定教科書の中からどれを採択するかということについて、その選定をするのに最も適当なのは教師であるということを認めたことは、たいへんけっこうだと思います。私も全く同感なんであります。もちろん、こういう場合に、教師だけが思い上がって自分たちだけでなければわからないというような態度に出るというと問題が私はあると思いまして、地域の住民がどういう要求を持っているか、あるいは衆知を集めるという意味で教師がいろいろな子供の教育を通し、家庭を通して住民の要求をやはり教科書を判定する場合においても受け入れていって、その中から教師としての責任の立場で選定するという態度がもちろん内容としてあるわけでありますけれども、そういう立場からも私は教師が一番最適だと、こう思うのでありますが、そこで、そういう立場に立ちますというと、私は今の大臣の言葉にちょっと一つだけお尋ねしておきたいのでありますけれども、教育行政に携わっている者は、たとえば今のように一番適当な教師の意見が採択ということを決定して、どれを採択したかということを住民に知らせる、いわゆる事務的な問題だけが、わが学校においては、わが学年のこの子供には、この教科書を採択し たということを住民に知らせる、そういう知らせる事務的な問題だけが教育行政の仕事だというふうに今の大臣の答弁から判断してもよろしいか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) そうとは思いません。採択権限は教育委員会にありとする前提で申し上げておるのでありますが、採択されました教科書がすべて検定教科書以外のものでないわけですから、それ自体では問題はございませんけれども、いずれがベターかという判定の結果については、判定するに至るまでに教師の意見が十二分に取り入れられておるとしましても、そのよしあしを誤って、ベターでないものを選んだということがかりにあったとしまして、そのことについての責任者はだれかというならば、それは教育委員会だと、学校の先生そのものじゃないという関係に立つのが採択ということだと思うのであります。その意味において、単に知らせるなんということでなしに、採択した結果について住民に責任を負う、その責任体制の中にある採択権者、採択責任者たる教育委員会というものを考えます場合、単に知らせるなどということではなくて、結果についても責任を負うという意味における教育行政の仕事だ、こう思います。
○小林武君 それではさっきの話はちょっとおかしいのですがね。大臣はさっき、どれが一番いい悪いではなくて、子供というものを対象に考える、くどいようですけれども、地域的な問題とか、いろいろなことを考慮して、そうして教科書を採択するのに、その選定眼を持っているものは何といっても教師が第一だとあなたはおっしゃった。その正しい選定眼を持っているというか、あるいは一番正しい判断ができ得る教師の判定を、間違いがあるから、そいつを直そうというのは一体どれほどえらい人間がそれをやるわけですか。行政に携わっている者が一体そういうことができると思いますか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 少し申し上げる意味が徹底していないように思いますが、補足して申し上げます。たとえば教科書の検定は文部大臣の権限であり責任だとされますけれども、文部大臣みずからが検定の能力があるということではむろんなくても検定するに当たっては、どの教科書会社で作りました教科用図書の中で、どれが検定に合格するかいなかということを、学習指導要領をいわば基準に判定をする、その能力というものは、これもまた教師ないしは教育的に特に専門的な勉強、努力をしておる人にお願いをしないことにはできない道理であります。しかしながら、検定した結果については、文部大臣が国民に責任を負わねばならぬという建前だと思うわけでございますが、それと同じ意味で、その地域で検定された教科書の中から選定する、採択するという行政行為それ自体は教育委員会の仕事であり責任である。その仕事、責任を果たす場合に、仰せのとおり、教師が一番どれがいいかを判定する能力のある人だということには間違いはないわけでありまして、その先生の意見を十分に取り入れて、万誤りなきを期する努力をする責任が教育委員会にある。その努力の裏づけによって、これを採択しましたという事柄と結果については、住民に責任を負う立場は教育委員会だ、こう申し上げたわけであります。
○小林武君 ますます文部大臣のお話はおかしいと思うのですね。今おっしゃることは、ちょうど私が言ったことと同じことを言っていると思うのです。あなたは、検定するということは法律的には文部大臣がするということですね。しかし、文部大臣にはそういう能力のあるないは別だと思いますが、全然ない人間もあるし、ある人間もある。あるいは文部大臣にもすべての教科はどうかしらないけれども、ある程度できるような人もないとも限らないのですね。しかし、文部大臣が直接手を触れて、これはよろしいとか、これはだめだとかいうようなことを、これはやらないということは明らかなんです。したがって、文部省の中における人と、あるいは外部の調査員とか、そういう方々のいわゆる判定の能力、検定の能力があるといいますか、そういう方々の手をわずらわして検定という仕事がなされる。しかし、なされた結果については、文部大臣の責任でございますということをこれはいっているんですね、そうでしょう。だから、私はさっき、そうすると、検定の事実の仕事というものは文部大臣は手を触れていないんです。その結果についての責任は私にありますということをいっている、そうでしょう。だから、それを採択の場合に持っていった場合には、数ある教科書の中から採択をするのは、教師が一番適当だとあなたは言っている。教師が一番適当だとあなたはおっしゃっているでしょう。そうしたら私もあなたの意見に賛成なんです。教師以外に、これを使うべきだ、これを使わなければならないということを決定するものはないと思う。しかし、どの教科書を使っているかということについて、あなたがさっき言ったように、住民に知らせるというような、そういうような仕事は教師がわざわざしなくても、あるいは教育委員会がやってもいいのかもしれない。しかし、採択という事実は、これは教師がやるということになるのですね。検定という仕事の事実は、検定に携わる役人であったり、あるいはその他委嘱された者がやる。そういうことになると、結局選ぶのは教師だということになるわけでしょう。そういうことになりませんか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 採択能力は教師が一番適任であろう、これは小林さんと私も同感であります。採択行為という行政行為それ自体、それはだれがやるかということは教育委員会がやるんだ。その採択行為を最終的に決定づけるまでは、どれがいいかの比較検討の能力のある教師の意見が十分に反映さるべきものである。その反映された裏づけのもとに教育委員会が採択という行為を最終的にする、そういう関係を申し上げたわけであります。
○小林武君 今の点については、もう少し突っ込んだ話をあとでしたいと思いますが、あまり横道に入っていくとあれですから、実は私が取り上げたかったのは、この間の続きの問題なんですが、この間も申し上げましたように、教職員免許法というのがあって、その三条、五条、二十一条、二十二条というのをこの間あげたわけです。その教職員免許法の今あげた四つの条項を見ますというと、その中で、教師というものは専門的な仕事であって、その教育という仕事に対して責任のある行動というものを免許法によって取得しているといいますか、あるいは認められているといいますか、そういうものなんです。そういうことを、一体、文部大臣としては、この免許法が示している教師の専門性というものは具体的にどういうことになるのか。と申しますのは、この間のあなたの御答弁の中から出てきた教育における一切の責任はどうも文部大臣にある。そうはおっしゃらなかったけれども、私が解釈していえば、教育のことについてはお前たちはわれわれのいうとおのやっていればよろしいのだ、その責任は文部大臣にある。大体戦前と同じような発想でものを言われている。戦前にも免許状というものはありましたけれども、戦前の免許状と今の免許法は違うわけでありますから、今の教職員免許法における教師の専門性というようなものを一体どの程度にお考えになっているか、これを少し承りたいわけであります。なお、そのことについて、福田局長にもお尋ねいたしますが、文部大臣はあまり具体的な事例についてはそう説明ができないかとも思いますので、補足的に、ありましたらひとつあなたからも御答弁いただきたいと思います。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 御指摘のとおり、具体的には私は御説明することはできません。私が理解しますのは、「教諭は、児童の教育を掌る。」とある。そのことが専門職の意味でもあり、かつまた免許状の出てくる根源であろうと思います。換言しますれば、教育活動そのものは、免状を持った先生でなければやっちゃいけないという関係に立とうかと思います。
○小林武君 ちょっと福田局長の前に、「教育を掌る。」ということ、今、大臣のおっしゃった「教育を掌る。」というようなことは、これは一体具体的にはどういうことなのか、そういう点もひとつ福田局長からお願いしたいと思います。
○政府委員(福田繁君) 学校教育法におきまして、教員の職務を書いておりますが、「教諭は、児童の教育を掌る。」というような表現になっておりますが、これは平たく申しますれば、教育を担当するということだと考えております。したがいまして、学校というものにおきまして、子供の教育を直接に担当するものである、こういうように考えているわけでございます。したがって、先ほど御指摘になりました免許法の名条項に従って、それぞれ一定の資格が必要とされております。段階もございますが、したがって、その免許状を取得するに必要な内容といたしましては、それぞれの学校において一定の教科課程に即して教育を担当できる能力と申しますか、そういうものを付与するための資格だと考えております。免許法の規定そのものよりも、むしろ教育公務員特例法の中に教育職員は専門的職員だという一般教員の特例法がございます。したがって、専門的職員の根拠はこちらにあろうかと思いますが、具体的な内容につきましては、御指摘のように、それぞれの教科課程に即して教授能力のあると認められるそれぞれの資格を教育職員免許法で規定している、こういう関係になろうと思います。
○小林武君 質問に全然答えてくれてないことなりますが、今の福田局長の言葉じりをつかまえるわけではありませんけれども、免許法に、教員の専門性というものが免許法よりか別なところにあるということは、そういうことは一体できますか、そんなばかなことはないでしょう。それは特例法にもそういうことを書かれておりますけれども、免許法そのものはそういうことではないですか。二十一条、二十二条というものは罰則でしょう。三条、五条という問題、免許状を与えられることについて書かれている。これにはさらに複雑な、ちょっと私も実際これは読むのに容易ではないくらいたくさんの条項があるわけです。非常にやはり高い程度の専門性を要求する免許状の資格条件がきめられているのです。検定の条件の。しかも、そういうあれを持っていない者を事実教育に携わらした場合にはこうだという罰則までできているわけですね。このことによって少なくとも専門性というものは十分この免許法の中にあるのじゃないですか、どうなんですか、その点をひとつ言って下さい。あるかないか、それだけでけっこうです。
○政府委員(福田繁君) 免許法の中にそういう趣旨のことが規定されてあると思います。
○小林武君 それは特例法のほうが重要なんですか。
○政府委員(福田繁君) 先ほど申しましたのは、教育公務員特例法の規定は、一般の地方公務員に対する特例として、教育職員その他の専門職に関する特例を規定しております。したがって、その趣旨は、教育公務員自体がすなわち専門的な職務を持っているという建前からそういう規定ができているのでございます。そういう趣旨のことを申し上げたつもりでございます。
○小林武君 そこで、私は教科書の問題についても、荒木文部大臣のお話によっても、教科書を選定するということについて一番いい選定眼を持っているのは教師だということを言われている。免許法も教師にそういう専門性を要求している。もしそういう免許状のない者が教員を、実際教育の仕事に携わった場合においては罰則もある。こういう教師の高い専門性というものが法においてきめられている限りにおいては、その専門性は十分に尊重されなければならぬと思うのですけれども、これは教科書の問題を論ずる場合には、教科書の内容の問題についても同様なことだと思う。ところが私は、こういう免許状のもとで教師というものは教育をつかさどっております。その「教育を掌る。」という、具体的には社会科でも、あるいは理科であろうと数学であろうとも、あるいは家庭科であたって、「掌る」ということは相当広い領域にわたった教師の責任というもの、そういうものが認められなければならないわけですね。今の免許法のあれはどうですか。御存じのように大学四年を終了した者、これが基準ですね。いわゆる最高の教育を受けた者です。そういう者だとしたら、専門性を一体認めるというような——今、教科書の議論をやっているのですから、ほかの議論をやっているのじゃない。教科書の議論をやっている。教科書の議論をやって検定の問題を論ずれば、この間、参考人を呼んでいろいろお話を聞いた中にもあるように、具体的な内容の面にわたってもいろいろ問題がある。それをどう判断するかというようなことは、これは教師にとって重要なあれなんです。そういう点を考えますというと、「教育を掌る。」というようなことを、「教育を掌る。」ことが一体専門性を述べていることですというだけじゃだめなのです。「教育を掌る。」ということは具体的に一体どういうことなのか。社会科なら社会科というものを教える場合においてどれだけの一体専門性というものが尊重されるのか。保健体育をやる場合には一体どれだけの専門性が尊重されるのか。文部大臣や文部省の役人が、責任はおれが持ってやる、ぐずぐず言わぬで、とにかく言うことをやれというふうな式のものでは私はないと思う。指導要領に書いてあるというようなことを言いますけれども、この指導要領も、たとえば小学校の学習指導要領というものを見ても、まあ、いらざるところまで書いてあるということになっておるが、これ一つでもって一体教育ができるというようなものじゃないんです。われわれの経験からしてもそういうことは言われない。だからあなたのほうで、文部大臣の責任です。教師には大した責任はないのです。つまり私に言わせれば、教育基本法第十条にある国民に責任を負うということについての判断がまるっきり私たちは違う。それを今確信をもってあなたたちがおっしゃるからには、もう少し具体的に、この本委員会の討論を通して国民に知らしてもらいたい。どういうことですか。私は文部大臣がそういう問題について御存じがなければ、福田局長から、「教育を掌る。」ということはどういうことか、具体的に一つの例をとってやってもらいたい、社会科なら社会科の例をとってやってもらいたい。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 具体的なことは、必要があれば政府委員からお答えを申し上げます。教諭が教育をつかさどるということは、先刻も申し上げましたが、法令の範囲内において制限され、留保されておるもの以外はすべて行なう。免状を持った先生が教えるんだ、こういうことだと理解いたします。私が、文部大臣が責任を負うとか、文部省が責任を負うとか申し上げます意味は、法令の範囲内において文部大臣に留保せられた責任、権限に関する限りは文部大臣が負わねばならないということを法みずからが定めておる、こう理解するからでございます。その点を繰り返し申し上げれば、学校教育法二十条の教科に関することは文部大臣がこれを定めるということは、文部大臣の責任において基本を定めて、それを国民に責任を負う角度において定めるということだと思います。そのこと自体は教師といえどもそれに従って教えなければならない。つかさどることに対してそれだけの条件が留保されておる姿だ。また、使う教材の中で教科書というものは、検定された教科書は必ず使わねばならない。第二項の規定はむろんでございますけれども、本則は、検定された教科書を使うということと、それを使って教えるにあたっては、学習指導要領、学校教育法二十条から導き出されました学習指導要領の線に沿って教えなければならないという制約はある。その条件のもとにおいて教師がつかさどる、そういう関係だと理解するのであります。
○小林武君 局長。
○政府委員(福田繁君) 大臣の御説明申し上げましたとおりでございますが、もちろん学校におきまして教師が専門的な知識あるいは能力を持って生徒の教授にあたる。もちろん知識だけでなく、人格的なものもございますが、そういった専門的な知識その他によって子供を教えるということが「教育を掌る。」ことだと考えております。しかしながら、そのつかさどるにあたりましても、もちろん大臣が申しましたように、現行の法令の範囲内においてこれを、教育を担当するということは当然であろうと思います。したがいまして、個々の事例をあげるまでもなく、一般的にそういうように私どもは考えておるわけでございます。
○小林武君 法令の制限というのは、その法令の中には憲法、教育基本法は入っての話でしょうか、どうですか、文部大臣ひとつ。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) もちろんそうでございます。
○小林武君 そうすると、お尋ねいたしますが、いわゆる教師の専門性というものが非常に強く教職員免状によっても要求されて、その専門性の上に立って、いわゆる国民に奉仕しなければならないということになりますと、憲法や教育基本法の条章に示された学問の自由とか、教育の自由とかいうようなものに、抵触するような、そういうもし他の法令の制限というようなものがあった場合にはどうすればいいのですか。もう一ぺん言いますよ。憲法、教育基本法に示されておるところの問題、手っとり早く言えば、その中には学問の自由とか、その学問の自由から出る教育の自主性、自由とかいう問題が出てきますが、こういう問題に抵触するようなものが、たとえば学習指導要領でもけっこうですし、基準によってできた検定教科書の中にそういうものがあった場合に、一体その法令の制限というものをどのように考えているか、どのように考えたらいいかという、質問をするのもばかばかしい話ですけれども、そういうことを言わなければならないような世の中ですから、ひとつ御質問いたします。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 検定教科書あるいは学習指導要領には、憲法、教育基本法その他の法令に違反するようなことがあってはならぬものと思います。
○小林武君 あった場合はいかがいたしましょう。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) あった場合は訂正されねばならぬと思います。
○小林武君 訂止されるということは、訂正される手続を経ないうちは、それでは教師というものは、そういう誤ったことを教えなければならない一体義務がございましょうか、責任がございましょうか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 明らかに誤っておる場合には、その誤りを指摘しながら改正をすみやかにやる努力をする権限、責任も教師にあると思います。誤ったものを誤ったと知らずに教えたことありせば、この前のご質問になりますが、それは教師の責任にあらずして、指導要領なり検定教科書の検定をした文部大臣に責任がある、そういう関係だろうと思います。
○小林武君 たいへん御同情あるお言葉のようでございますけれども、それがそもそも行き過ぎというものだと私は思います。教師はやはりその責任を文部大臣に転嫁する前に、みずからその責任を負わなければならない、そのことを、何度も私は基本法十条ばかり引っぱり出しているのですけれども、基本法十条には、直接国民に責任を負うということを書いているのです。あなたに責任を負いかぶせておいて、教員はほおかぶりせいとは基本法には書いておらない、だから教師というものは、そのことについて直接責任を負わなければならないと思うのです。その点はもうあなたの考え方とは違う。もちろん文部大臣も責任はありますよ。そういう誤ったことをやったということについては文部大臣の責任ももちろんあるのです。文部大臣として。しかし、文部大臣の責任があるから、教師の責任はございませんというような考え方は、これは非常に古い、これは教師が責任をいたずらに、自分に責任があるというようなことを言うのでなくして、みな私が悪いのですという調子のものではないのですよ、これは。私が主張するのはそういうことでなくて、ほんとうに教育を正しく行なうという場合、何といっても教師は責任を自覚しなければならぬ。そうして、国民全体に責任を負うという態度をとらないと教育上の誤りをおかすことになり、また、その誤りの上から起こる問題はたいへんな問題が多いということを考えて言っているのです。だから、私は決して文部大臣などに責任がないという、文部大臣同情論から言っているのではない、文部大臣が負うベき責任というものは、きわめて限られた文部大臣の責任である。教師の責任というものは、きちんとそのほかにあるのです。あなたは、だからそのことをひとつ認めなければいかぬ。お前たちはそんなことは知ったこっちゃないというような考え方の中から、教師はともすると、あなたたちのあやまちをそのまま受け売りして、大事な自分の教え子や、日本の将来の国民に対して、とんでもないことを教えるということになるのです。そういうあやまちを過去において日本の教育がようやっておったものだから、そういうことをなくするために、厳然として、このことは教師がみずからの責任を自覚しなければいかぬ、そういうことを教育基本法第十条はきめているのであります。だから、ひとつ御同情ならばやめていただきたい、御同情以外の何か意図ある考えならば、それこそ直ちにひとつやめてもらいたい。そのことはひとつここで終わりまして、専門性ということをお認めいただいたということでよろしですな。そこで、私は教師にはそれだけの責任というものがあるということには文部大臣も御異存がないように思うのです。それは文部大臣や文部省の役人の方々が大幅な責任を持っておって、教師はたいした責任がないのだ、分量的に言えばたいしたものではない、大体上の命令に従ってやっていればいいのだというようなものでは今の教育はないということです。でありますから、教科書採択の問題でも、教科書を扱う日常の教育実践の問題でも、教師には大きな責任がある。その責任を教師が負わされている限りにおいては、私は教師はそれに照応するだけの権利というものが伴うベきものであると思うのです。それはどういう権利であるかというと、何をどのように教えるのか、そういう教育上の問題で、教育上の自由、研究の自由という、私はそういう権利の保障がなければ、教師はほんとうに国民全般に対して責任を負うというような教育ができないように思うのですが、文部大臣の御見解はいかがでございましょうか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) お答えをします前に、教育基本法第十条の教育行政の項に、教育は国民全体に対し直接に責任を負っている云々とあることを、教師が直接国民に責任を負うという意味合いに御解釈のように拝聴いたしましたが、私はそういうことでなしに、これは民主政治、民三主義のもとでございますから、教師は公務員である場合は、公務員として全体に対する奉仕者であるという意味合いから、前のくだりを受けまして、一部の勢力に支配されちゃいかぬ、国民全体に奉仕する立場でなきゃならぬ。そのことは主権者たる国民の意思として定まる法律に従って教育がなされねばならないという意味で、教師といわず、教育に携わる公務員ことごとくそういうことで教育行政、教育活動をなさねばならぬ、こういうことだと理解するわけであります。したがって、教師ももちろん国民に責任を負うという角度から言い得る部分はあるにいたしましても、法律に定められた事柄につきましては、その法律の定める範囲内においては教師に責任があると解すべきでなく、法律の定める権限、責任を持った者に責任ありという考え方でないならば、私は憲法以下の法治主義の建前に立った国の制度というものは改直できないものであると思うのであります。学問の自由は特に大学について三として言われることで、国民一般も学問の自由権は過去のものという説であることと私は承知しておりますが、だからといって、教育の自由とおっしゃいましたが、小中学校、高等学校に関します限りは、百パーセントの教育の自由というものが教師にあるはずがない。法律でそうでなく制約を加えている点がおありとするならば、それには厳粛に従わねばならないとする、そのらち内において教育をつかさどるという意味における自由がある、そういうことだと考えます。
○小林武君 だいぶまたこんがらがってきましたけれども、それでは問題を先に出されましたから、教育基本法十条は、するとあなたのおっしゃるのは、この十条に書かれておりますことはあれですか、あなたの御解釈によると、直接に責任を負うということは、教師が国民に対して直接に、全体に対して直接責任を負って行なわるべきものであるということはこういうことに解釈していらっしゃるようですね。その責任は直接ではなくて、あなたのおっしゃることだというと、間接ということになるんじゃないですか。一般の行政機関——文部大臣、一般の行政機関が内閣に責任を負うことによって間接に国民に責任を負うという形で今の一般行政は行なわれているわけです。そうでしょい。そういうものがやはり教育の場合にもあるわけですか。私はあなたの教育基本法十条の解釈をそのようにとったんです。教師もいわゆる公務員のあれであるから、いわゆる一般行政の機構と同じようなもので内閣に対して責任を負うことによって間接に一体国民に責任を負うておるんだ、こういう御解釈のようです。私は教育基本法第十条の規定というものはそういうものでないと思う。そういういわゆる教師の教育に対する責任の問題というものに誤りがあったから、教育基本法第十条は、教育は直接国民に責任を負うということを明記したと、こう思うんです。このことは憲法から出た教育基本法ですから、憲法の中にきめられるようなことを特別別にして教育基本法を作ったということはあなた御存じなんでしょう。そういう建前からいってどうなんですか、この点は。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 国民全体に対して直接に責任を負うというのは法令に従って行動するということと同義語だと思います。法令によって禁止されておることはやっちゃならないし、法令によって認められておることは責任があるし、権限があるという立場に立って、一部の不当な勢力に属することなく国民全体に対して責任を負うという立場に立つものだと、さらに言いかえれば、今申し上げたように、そのことは法律制度に従って行なう、積極、消極両面とも法律制度に従って行なうという意味で国民に責任を負うと、そういう趣旨だと思います。
○小林武君 あなたのおっしゃることは、いつでもごまかしがあると言ったらしかられるかもしれませんが、どうもやはりおかしい。先ほども、法令に従うということの中で、私は法令の中に、だから憲法や教育基本法も入っているものと質問している。自由とか何とかいろいろ言っておりますね。教育の自由、学問の自由というようなものは、憲法や教育基本法の中に示されているから、それに従ってやっている。法令に従ってやっているのです。憲法や基本法にたがうような法令があったらおかしいでしょう。そういうおかしなものがこのごろたくさん出かかっているので困っているのですが、また、そういうものが出たら徹底的に直さなければいかぬと思うのですが、また、出ぬ前なら、大いに討論して、これはどうかして出さないようにしなければならない。だから国会というところは、一生懸命、数の問題ではなくして、事の是非の問題、正否の問題でひとつやらなければならぬことだと思うのですけれども、あなたにお尋ねしているのは、直接責任を負う、教育というものに直接責任を負うということ、このことは、先ほどあなたのおっしゃることだというと、私は言っているのですよ。一般行政責任と同じに考えているのではないか。たとえば福田局長は、直接国民に責任を負うということはないのです。これは内閣に対して責任を負っているのです。あなたもそうでしょうね。そうして間接的に国民に責任を持ったそれとは違うのだ、教育というものは違うのだというところから、この教育基本法第十条というものがあるように私は理解しているのだが、もし、これがしかし誤りだということであって、根本的にお前はとんでもない勘違いをしているということならば、これは改めなければならぬということですが、委員の一人としてとんでもないことを覚えているということになるとたいへんだが、この点はどうですか。私はそう理解している。間接ということはどういうことですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 私はそうは理解いたしません。今、行政機関の例で、福田局長が文部大臣に責任を負うようなことのお話でしたが、組織内において、文部大臣に責任を負うという相互関係はあるかもしれません。命令、服従という関係のある範囲内において。ところがそのことを、それ自体、行政組織法なり、文部省設置法なり、組織命令なりということによって定まっているから、そういう関係に立つという意味において法令を通じて国民に責任を負っている姿だと思うのであります。この十条でいいますことは、学校の先生に限って、そういう法令とはかかわりなく、直接国民に責任を負うといってみたところで負いようがない。すべて法令の定める内容において責任を負うという関係が出てくる。そのことを先ほど来申し上げておるわけです。繰り返さしていただけば、学校教育法二十条、二十一条に定めておる限りにおいては、文部大臣が国民に責任を負わねばならぬという定めになっている。さらに教員は教育をつかさどるというのは、法令の制限があるものは、留保されているものは留保されたその余の部分について、公務員として、教師として責任を負うということに法令がそう定めておるからそうなる。すべて法治主義によってやるべきであって、法律というものによってやるべきであって、戦前のように勅令とか命令でもってやっちゃならぬぞということに関連を持たして、そのことを明らかにした条文がこの第十条だと思うのであります。
○小林武君 戦前のお役人であったあなたが、勅令が法律でないと、広い意味の法令でないとおっしゃるのですか。あれは法令のうちに入らぬですか、勅令は入らぬですか。そんな議論はここでしてもしようがないですけれどもね、子どもだましみたいのことをあまり言わないようにしてもらいたい。ただ私はあなたのおっしゃることが納得いかない。「教育は、」と基本法には書いてある。これは私は「教育は、」ということを書いた場合においては、必ずしもここは教師だけということでもないと思う。しかし、あなたの言葉の中に、教師が直接国民に責任を負いようがありませんではないですかということをおっしゃるのは、これはほんとうになげかわしい事態だと私は思います。そんな考え一体教育基本法をお読みなのかどうか。具体的に一体教育という仕事をどう見ていらっしゃるのか。それはさておいて、教育基本法を審議しているときの政府答弁でもこのことについては触れているのですよ。「従来官僚とか一部の政党とか、その他不当な外部的な干渉——によって」これは文章はちょっとそこら違うかも。しれませんが、趣旨はそのとおり。「干渉——によって教育の内容が随分ゆがめられたことのあることは、申し上げるまでもない、——不当な支配に教育が服してはならないのでありまして、教育権の独立と申しますか、教権の独立ということについて、その精神を表わしたのであります。」ということを教育基本法の審議の過程において政府委員が答弁しております。このごろは文部省あたりもだいぶいろいろな妙な異論を立てているようですが、あのときは国民をだますために国会でそういうことを言ったんですか。ちょろまかし答弁ということになるわけですか。それとも、その後において内閣において当時の解釈と違ってこういう解釈をすべきだというようなことが一体きめられたのですか。答弁するときはこういうふうに答弁せいときめられたのですかどうですか。あるいは文部省内においてそういう意思統一を行なったのかどうか、それはどうですか。当時の速記録を調べてお互いに言ったか言わないか確認してもいいですよ、そういう趣旨のことを言ったか言わないか。言ったとしたらどうします。文部省には古い方もいらっしゃるわけだし、勉強家もいらっしゃるだろうし、私がインチキを言っているというふうにはお考えにならないと思う。どうなんですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 今おっしゃるとおり、政府答弁そのものを、私は速記録を見ていないのでその点はいかがかと思いますけれども、第十条は教育行政全般について規定しておる条文だと思います。「教育は、」ということは、今もおっしゃるように、教師のことだけをいっているのでないこともきわめて明瞭であります。「不当な支配に服することなく、」というのは、民三憲法下、法治主義日本において不当な支配に服するなんということは、それ自体憲法違反であり、法律違反であることは明らかですけれども、あえてこれをそう書きましたゆえんのものは、民主政治と戦前の天皇政治のもとにおいて現実に行なわれたところのもろもろの弊害等を考えあわせて、特に注意的な趣旨であろうかと思いますが、前段もあると思うのであります。それと一体をなして不当な支配に服することなく、憲法の表現を借りて言うならば、公務員は全体の奉仕者である、一部の奉仕者であってはならないという考えを念頭に置いて、国民全体に対して直接に責任を負って行なわるべきものであるというのは、主権者たる国民の意思表示であるところの法律に従って教育行政が行なわれねばならぬ、教育というものばそういうものなんだということを明確にしたものだと私は思います。
○小林武君 まずあなたの十条の解釈は、まあこれからも討論できますが、ひとつお尋ねをしておきますが、先ほど言ったこの教育基本法に対する政府委員の答弁、教育基本法審議における九十二帝国議会ですかね、衆議院で述べた答弁というのは、これは事実でありますか、ありませんか、どうですか。第一にこのことを明らかにしないうちは水かけ論ですよ。どうなんです。
○政府委員(福田繁君) 教育基本法制定の帝国議会の議事録も、私は、参考に見ておりますが、当時の政府委員の答弁といたしましては、教育者が単なる独善に陥って、勝手なことをしていいということではないのでありまして、教育者自身が国民全体に対して直接に責任を負っておるという自覚のもとに、教育は実施されなければならぬということを規定したものだ世という趣旨のことを述べております。したがって、御指摘になりましたような点に関しまして当時の政府委員が述べましたこと、あるいは最近いろいろ解説等がなされておるようでございまするが、趣旨においては私は変わっていないと考えております。ただ、言葉のニュアンス等はいろいろ書く人によってあるいは違うかも存じませんが、その基本的な考え方においては変わっていないというように私は思います。
○小林武君 福田さん、福田局長、あなたの答弁は親切でありませんし、少なくとも真剣な討論をしている者に対する答弁になりませんな。私の先ほど申し上げたところは確かにこれは速記録の抜き書であります。でありますから、その点については先ほども言ったとおり断ってあるわけです。録の抜き所確かにこれは速記から、私は前後いろいろなことがあるから、その点については先ほども言より録の抜き書であります。でありますから、私は前後いろいろなことがあるから、その点については先ほども言ったとおり断わってあるわけです。しかし、私の述べようとすることは今のこととはちょっとかけ離れているのです。「従来官僚とか一部の政党とか、その他不当な外部的な干渉——によって」、そこのところが若干抜けている。「によって」というところに何かもっと言葉が入っているように思うのです。それは書けなかったからね、時間がなくて。「教育の内容が随分ゆがめられたことのあることは、申し上げるまでもない、——不当な支配に教育が服してはならないのでありまして、——教育権の独立と申しますか、教権の独立ということについて、その精神を表わしたのであります。」と書いてある。教育権の独立、教権の独立、不当な支配に服さないという。その不当な支配とはどういうものであるか、過去において。そういう点についてあなたに質問している。だから、教育は直接国民に責任を負わなければならぬということを言っているのです。あなたはそのとき、あなた答えたのはあれは何なんですか。教師が勝手なことをやってもいいなどとは言っておらぬなんという答弁をするということは、明らかに意図的発言ではありませんか。だれがそんなばかなことを一体討論しているのですか。教育の自由や学問の自由というのは、勝手なことをやるということは、どこにそういう規定がありますか。そういう認識ですか、あなたは。教育の自由というようなこと、学問の自由というようなことは、勝手なことをやるというのですか、あなたは。そういう態度でものを言ってもらいたくないのですよ。一体そういうあれはどうですか。私の今述べたところは、一体、政府答弁の中になかったか。それからお尋ねしますが、そのときの政府委員はだれだったか、そういう答弁をしたのは。
○政府委員(福田繁君) 私申し上げましたことがご質問にはずれて申しわけございませんが、当時の政府委員は辻田政府委員だろうと思います。したがって、ご指摘のありましたような記録はあると私も思っております。
○小林武君 記録はあるというただいまの御発言、事実ある、こういうことですね。
○政府委員(福田繁君) 速記録をただいま手元に持っておりませんので、ご指摘になりましたような速記録があるだろうということを申し上げておるわけであります。
○小林武君 あるだろうですか、速記録をだれかに取り寄させて下さい。速記録を持ってきてひとつ明らかにしないというと、この文部大臣はなかなか言を左右にされるとまでは言いませんけれども、どうもつぼのはずれた答弁をなすって、私の思うような答弁をしていただけない、思うようなということは、何も同意するということではない、同意してもらいたいという意図は毛頭ございません。しかし、事実の確認は両者においてしなくちゃならない。それではしばらく待ちましょう。
○委員長(北畠教真君) 速記をとめて。 〔速記中止〕
○委員長(北畠教真君) 速記を始めて。
○政府委員(福田繁君) 先ほど御指摘になりました点は、当時の政府委員から述べたことと思います。
○小林武君 そうしますと、そういうことから言いますと、文部大臣の十条の解釈というのは少しおかしいのじゃないですか、少しどころじゃない、だいぶおかしい。それからあなたがおっしゃる中に、それは天皇制のときのことでというようなことを言っている。天皇制のときには何で間違いがたくさんある、それも認めます。天皇制というものがさまざまな間違いを起こしたことは認めます。あなたと同じ、その点は。ただ、天皇制以外は間違いないなんというのは日本国憲法には書いていない。この憲法の中にも政府は間違いを起こさないということは書いていない。その証拠に、前文のところに重要なことが書いてある、一番われわれにとっておそろしい問題、憲法が一番重要視した戦争の問題について書いてある。政府の行為と責任、この間から何べんも言っておる、再び戦争の惨禍を再現するようなことがあってはならないし、こう書いてある。政府といえども、不当と、こう言いたいのだけれども、政府の行動に相当の監視の目を向けなければならないということを、この中に書いてあるじゃないですか。言外に言っておるじゃありませんか。国民が主権者であるということは、政府の行為が万能でないということである。政府を信頼しないでいけというようなことではないにしても、政府を、いつも国民は主権者として十分な監督をして、誤りのないようにするということをいっておる。だから、あなたのおっしゃるような立場でものを考えるというと、何か教育基本法十条は、教師がさっぱり責任がないような立場で解釈をしておる。文部大臣が責任を負えば、とにかくすべて済むことであって、教師が国民全体に対して直接責任を負うなんということはないんだと、こういう論法なんだな。これは誤りだということ、辻田という政府委員が、九十九帝国議会のときに、過去の誤まりの上に立って、教育というものの独立的な権利、教育権というようなものの立場で、直接国民に責任を負えということを言外に表わしているじゃありませんか、そう御解釈になりませんか、どうですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 旧憲法時代のことをわれわれが引例しますことを、帝国憲法時代だから誤りがあったといったようにおとりになっておるとすれば、私の真意ではございません。帝国憲法時代は旧帝国憲法のもとに秩序があった。ただ、その場合に、俗にいわれますように、袞龍の袖に隠れるというようなことがなかったかといえば、あったとされておる。そのことは、旧帝国憲法のもとにおいても、制度の逸脱であるということは誤りとしてあると思います。そういう意味において申し上げると同時に、主権在民でなかったのに、今度は主権在民になったという角度から、新たなものが、念を押してでも考えられ、指摘されねばならないという性格が、憲法にも、その他の法律にも随所に出てくるゆえんもそこにあるという考え方に立って申し上げておるのであります。今、審議のときの、当時の政府委員の答弁等を御引用になりましたが、それはそれといたしまして、その答弁といえども、不当な支配に服してはならないということに、特に力点を置いて説明もしておるように承ったのでありますが、要は、第十条というのは、単に教師のことだけでなしに、教育行政関係一般のことについて規定しておるものと思うわけですが、その教育行政が不当な支配に服してはならないんだと、憲法の不当な支配に服するということは起こっちゃならないはずだけれども、そういう支配に服しないように心がけてやるべきであるという心がまえを前段にうた、い、それと相照応しまして、一部の者に対して支配されないで、国民全体に直接責任を負って行なわれねばならないというのは、教育行政機関といえども、教師といえども、一部の者に影響されちゃならぬ。国民全体に責任を負うとは、裏から申せば、主権者の意見である法律というものによって許され、命令されたことをけんけん服膺してやれと、そういうことだと思うのであります。その法律に違反した場合は、国会を通じて国民が責任を糾弾するであろうし、なすべきことをなさないというときも、また国会を通じて、法律、制度にもとっておる意味において国民が糾弾するであろうという道が開かれておるのが民主政治だと思うのであります。そういうおきてに従ってやらねばならないのであって、法律というおきてにないことに従って教育行政を行なうことは許さぬということを第十条は鮮明にしておる、こう思うのであります。
○小林武君 まず問題をやはり明らかにするために、文部大臣にひとつ、先ほどの政府委員の答弁について、ちょっと確かめておきたいのですけれども、「不当な支配に服することなく、」というところに力点を履いて、そのとおりだと思いますが、その「不当な支配」というものの中に、いろいろあるということを辻田政府委員も述べている。あなたはその「不当な支配」のうちの特に力点というのは、どれだと思っていらっしゃいますか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 「不当な支配」というのは、法律上の権限のないものが支配を及ぼすことだと、どれこれといって、だれがどうしようとも、法律違反の越権行為は許さぬ、こういうことだと思います。
○小林武君 私はそういうふうにこの文字は読まないのですがね。「官僚とか一部の政党とか、その他不当な外部的な干渉」、この「その他不当な外部的な干渉」の中には、文部省のいろいろな歴史を——いろいろな歴史というとたいへんえらそうに聞こえますけれども、文部省のたとえば教科書編さんというような一つの仕事に、過去のいろいろ軍部の干渉がものすごくあったということは、文部省自体もお認めになっているはずだと思う。文部省の教科書編さんにかかわる人たちが、どのくらいひどい目にあったかということも、当時の軍部にいろいろ圧迫を受けたことを述べておられる。そうすると、私はもう一ぺん聞きますがね、いいですか、あなたの先ほどの御答弁では満足していない。「官僚とか一部の政党とか、その他不当な外部的な干渉」、その今のあなたの御答弁は、この中のどれに入っているわけですか。その他大勢の中に入っているのかどうかということです。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 「官僚」というのは、新憲法下の公務員という意味であれば、公務員が不当な干渉をする、法律違反の干渉をするということは許されぬ、そういう意味における干渉に服するということなど、もってのほかである。あるいは一部の政党、これに服してもいかぬ、影響力を及ぼされちゃいかぬ。これは第十条に明記しているところでありますが、私ども日教組その他の外部勢力、そういうものに、法律に基づいて、合法的でない勢力の影響下にあらしめてはならない、こういうことだと思います。
○小林武君 あなたは少し考えてものを言って下さいよ。私は今ね、辻田政府委員の答弁について言っているのですよ。いいですか。「従来」という、この辻政府委員の時間的な指摘があるのですよ。そのときに日教組というは、あなた、日教組なんてよけいなことじゃありませんか。何で日教組をここへ出す、なぜあなた、そういうことを言わなければならぬのです。辻田政府委員の言ってるのは、「従来」と言って、過去の日本ですね。少なくとも戦前の日本のあれを指摘している、時間的にいえば。それから「一部の政党とかその他不当な外部的な干渉」、この中に日教組を入れて考えるなんということは、これはもう全く大臣、言葉が過ぎますよ。だから日教組の幹部をどろぼうだなんて言ってね、あなたはこのあれを混乱さして、そうして最後にお経だか何だか読まなければならないようなことになるわけですよ。私はそういう挑発的なことを言ってもらいたくないのですよ、いいですか。そのことについてくどくど言いません。「従来官僚とか一部の政党とか、その他不当な外部的な干渉」、この中の力点は一体どこにかけてこの政府委員は答弁されていると思いますか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) さっきのお答え、ちょっと脱線しておりました。その「従来」という前提があることをつい念頭になしに申し上げたものですから。御質問の「その他」の中にその当時日教組があったとは思われません。その意味で今おっしゃる意味で申し上げれば、これまたさっきお答えしましたように、どれに力点ということはないと思います。いやしくも民主憲法下、法治国において不当な支配を及ぼすものは、いかなるものといえども許さるべきでないという趣旨のことを言い、それが戦前、帝国憲法下におきましては、先ほどちょっと触れましたように、帝国憲法は帝国憲法なりの秩序がそれ自身あったと思いますが、その秩序に従わずして越権行為をしたことなしとしないその例示的な課題として、今読み上げられたようなことが言われたと思います。それは軽重厚薄があるはずがないので、「不当な支配」という意味ではどれもこれも許せないという趣旨のものだと、そういうことだと思います。
○小林武君 文部大臣ね、私の説明も悪いかもわからないけれども、あなたもよく聞いて答弁して下さい。もちろん、わざと言うのであればこれは話にならないのですけれどもね。官僚とか、一部政党とか、その他外部的干渉とこう言っている。私はそのあげられたいわゆる不当の支配をやった人たち、あるいは集団というようなもの、そういうもののうちどれが一番教育に影響を与えたかとお考えになりますかと、こう言っている、そういう考え方、当時そういうことを言っているが、あなたは一体どれが一番干渉したとお思いになりますかと言っているので、不当な支配が悪いとかいいとかいうことを聞いているのではない。どれが一番一体不当な支配というようなものをやったか、そのことを聞いているのです。それはどれも甲乙ありませんというなら甲乙ありませんでよろしい。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 現実のそういうことがあったとしまして、それぞれが何についてどの程度どうしたかということについては存じませんので、その意味においては裏づけのある甲乙をつける意味のお答えは困難でございます。不当な支配である限りにおいては同様に今後も断じて避けられるべきものだ、こう理解する。そのまた気持を政府委員は申し上げたのだろうと、こう想像いたします。
○小林武君 この「官僚とか一部の政党とか、その他不当な外部的な干渉」というようなもの、これを文部大臣は考えられた場合に、官僚であろうが政党であろうが、どれもが干渉しては悪いというようなことを今おっしゃって、あなたはぼかそうとされたのですけれども、「官僚」、「一部の政党」と、こう述べているからには、官僚とか一部政党がそういうことをやったということは明らかだ。官僚がそういうことをやるということは、帝国憲法の中においても何の中においても、表立って不当な干渉をやることが正当だとは言っておらなかった。しかし、こういうような毛のが、結局、事実は不当な干渉をやっていたということだけは認めないわけにいかぬでしょう。先ほど豊瀬委員の話によると、前には福田局長はそのことについてははっきりした答弁をなさっているそうです。ここで再度、福田さんに答弁を求めて福田さんを困らせるような気持はないけれども、もうすでに言ったことだから、聞く必要もないのでやらないけれども、はっきりしているのですよね。そうでしょう。そういう事実の上に立って「不当な支配に服することなく、」、だから官僚の言うことであろうが、これは文部省の役人も入っているのですよ、私たちはそういうことでは経験者だ。つづり方教育をやった者を三年も四年も監獄にぶち込んでおいたというような事例だってある。教員を連れて行って、臣民の道、皇国の道に徹せずということでもって、さまざまの難行苦行をやらしたというような事実もある。そのときに、もしその感想の中に妙なことを書けば直ちにとにかく処分される、文部省の命令だといって。たとえ事実がなくても、疑いをかけられたことだけでも、お前たちは二度と再び教師になることはできないんだぞ。事実そういうやり方をやられた。僕らの友人の中にもつづ方教育の一味と疑われて、とにかく引っぱられた。疑われただけだから帰されたけれども、その男は再び教職に帰ることをみんなが拒否して、ついに教員になることができなかったというような事例もある。そういう経験者なんです。われわれはそういうあれを見てきたんです。正しい教育を行なうということについては、先ほど私が言っているように、正しい教育を行なうと言うあなたは、法令に何とかかんとか、いろいろなことを言うけれども、正しい教育というものがどういうものであるかということは、これはもう議論する余地はないんですね、真理にそむくようなことはできない。教育が正しいということは真理に即していなければだめです。人間の発展というようなものに即さない教育をやろうとしたならば、それは間違いです。そんなことはどんな権力の力をもってしてもだめだということは、日本国民は痛いほど経験している。そういう立場に立った教育というものの自由は教師にある。正しい教育の一体要求がされるならば、それを裏づける権限というものがなければならない、それが研究の自由なんであり、教育の自由なんだ、こう言っている。それをあなたは認めようとなさらない。法律にそむいたらたいへんだとか、教育基本法の十条の解釈は間違っているなんというあなたの考え方が違うと言うのは、そういうことを言っているのだ。一体それで文部大臣通りますか。直接責任を負うということは、この十条は、教育の場合は国民に直接責任を負うということですよ。あなたが何と言おうと、辻田政府委員の中にも言われていることはそれなんです。ある意味では司法権と同じような立場で言っている教育権というようなことも言われている。ある文部大臣をやった学者は四権分立とかいうようなことを言われたこともある。そういう立場で教育というものが直接国民に責任を負うということを言っているんですよ。あなたはそれを認めないという立場から教育基本法十条の解釈をいい加減にするということになると、これこそ文部大臣としては私は重大な責任問題だと思う。その責任をこそまず追及しなければならぬと思うくらいです。あなたがんばりますか、教育基本法第十条は、教師が直接国民に責任を負うということとは違う、文部大臣が責任を負うんだから、お前たちは言われたことをやっていればいいということを、あなたここでがんばりますか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 第十条の解釈は先刻申し上げたように思います。直接全国民に責任を負わなければならないということは、教師に限らず、文部大臣に限らず、文部官僚に限らず、教育委員、教育長といえども、教育行政を担当する者は、すべて一部の考に支配されちゃならぬ、不当な支配に屈服してはならぬ、全国民に責任を持って行なう、こういうことでなければならぬということだと思うのでございまして、全国民に責任を負うということは、主権者たる国民の意思に従って定められた法律制度に従って行なうということ、責任を負わねばならぬときに具体的にどうして現われるかとならば、国会を通じて主権者たる国民に責任を負わねばならぬという関係に立つ、そういう考え方、やり方で教育というものは行なわるべきだということを宣明しておるものだと思うのでございます。教育権があるとか、ないとか、別途、四権分立という説があることも聞いてはおりますけれども、立法論として言われる分には別ですけれども、あるいは学者が、自分の説を将来に向かって改善すべき意見として言うのも当然だと思うのです。現行教育基本法第十条及び学校教育法以下のすべて、すべてこれ主権者たる国民の意思の表われであります限りにおいては、それに従って行なうということであって、教育の自由とおっしゃいますけれども、百パーセントの自由が個々の教員にあるということではないと私は思います。教諭は教育をつかさどる意味において自由がある、それは当然だと思いますが、それには制約がある。制約とは何か、これは法令に従わねばならないということで、一言にして言えましょうけれども、特に学校教育法二十条に示すところの教科に関すること、あるいは二十一条以下に示しますところの検定された教科書を使わなければならない。それを中心に教育を行なわねばならぬし、二十条に基づいて定めておる学習指導要領の線に沿って教えねばならないという制約は、教育者の自由な教育活動の中に制約としてある、そのことは主権者たる国民の意思として明らかにされておるということだけを申し上げておきます。
○豊瀬禎一君 ちょっと関連して聞きますが、法律の定めるところにもとっては、あなたのお好きな言葉を使うと、いかぬぞよ。これは教育基本法第十条に定めなくとも、すべてに通ずるものです。このことはあなたは容易に理解できると思うのです。十条に御承知のようにカッコして「(教育行政)」として教育行政のあり方を示しておる。その前段に教育の本質を明記しておる。教育というものはこういうものだから、文部大臣は日教組の悪口を言ってはいかぬぞよと書いてあるのが十条なんです。不当の支配に屈することなく、その最たるものは官僚であった。これは大臣、少なくとも文部大臣をしておるあなたが、過去のどれがどの程度であったか知りません、こういう責任の最小限度を放棄した答弁をされてはいかぬのです。過去の事実に対しては、基本法の十条がある以上は、特にこれを設けた精神から、過去の不当の支配というものは何であったか、このことについては多年論議をして、政党であり、特に指摘しているのは、教育行政権を持っておった官僚であった。だから、不当な支配をしてはならぬ、屈してはならぬという教育の本質を、文部大臣初め教育行政を担当しているものは自覚をして、教師の問題、国民に対する直接の教育権についてはすべて干渉しないで、君らのやることは諸条件の整備だけですよと、こう教えているのでしょう。それをあなた、法律の定めるところに従ってやるということは、国民に直接責任を負うことだ、こういうすりかえをするならば、法律の定めるところによってやるのは単に教育だけではないのです。法治国である以上、すべての社会秩序というものは、法律が一つの最低の基準になっている。だから、ここの書き方はですよ、過去は官僚、政党、軍閥、それが不当に支配をしてきた教育です。この事実の中で、特に軍閥は解消したが、教育行政という行政権は残った。したがって、教育行政というものは、過去の実績から最も教育に対して不当の支配をした歴史を持っている。だから、教育行政はこういう自覚のもとにやりなさいよと、こう言っている。前段は教師の本質論ですよ。ここで初めて教育基本法というものが——ほかのあらゆるものが憲法、法律しかないのに、教育基本法を作った法律制定の趣旨は、あなたの御存じのとおり、国民学校令によると、教師は校長の命を受けて教育に従事する、このことは、天皇から大臣から知事から校長まで直結した命令権を持っておって、この教育権というのは、上からの命令権を遮断することによって教師と国民と生徒との間を直結させることにならなければ民主教育はできないというアメリカ教育使節団のミッション・レポートに基づいて、このことが論議されて制定されたのですよ。あなた方の書いておられる新教育指針の中にもこのことはきちんと書かれておる。だから、小林委員も再三質問されておるように、教育をつかさどるという面を越えないで校長は監督する権限しかない。教育内容については教師の掌握するところで、そのことは教師の独断を禁止するために国民に直接責任を負うということで明記して、教育の本質的あり方をきめた。そうして最も教育に不当な支配をした歴史を持つ行政権者に対しては、お前たちはこの職務の内容にタッチしてはならない、教師に干渉してはならない、校舎を建て学級定数を減らし、快的な条件で生徒が教育を享受し、教師が教授に携わることができるようにしなさいという教育行政権者の心がまえを明記した。だからカッコして、「(教育行政)」とちゃんと書いてある。だから、前段の小林委員の質問に対しては、教育は行政権者の介入を遮断して、教育の現場で児童というものを対象とする教師と児童、この関係においてのみ初めて国民に直接責任を負うという関係が存在するのだ。これを否定したら、これからの質問が全然進みませんよ。教育基本法に対してあなたが正当な理解を持たないということになれば、正当な理解をするまでこの質問を続けなければならぬですよ。法律の定めるところに従ってやるのだ。そんなむちゃな答弁がありますか。基本法十条のことじゃないです。一般の国家の秩序体系のことでしょう。だから教育行政学者が、この基本法十条その他に指導要領を参考資料として出さない政令を作ったことは教育基本法違反であるということを言っておるのはそこのことです。あなたは政令も法律のうちだと、こう言っておるけれども、検定教科書を使わなければならない、使い方は教師に、学校教育法の教育をつかさどることによって一任されておる。こういう関係をすなおに理解されて、そのことに対して、教師が面接生徒を通じて国民に責任を持つという教育をつかさどることに対して、教育行政は指導要領とか、政令とか、そういうもので足を踏み込んではなりませんよというのが十条の精神ですよ。今まであなたと小林委員の応答を聞いておるというと、全くこの十条を制定された、教育行政の心がまえを示す前に、教育の本質を特記したこの精神を冒涜していますよ。もう一度答弁して下さい。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 先ほどお答えしたとおりに解釈するのが正しいと私は存じます。今、豊瀬さんも御指摘のように、先刻私も触れましたが、不当な支配に服することなくなどということは、憲法下におきまして、法治国日本において言わずもがなのことだと思います。それをあえて教育基本法が繰り返し注意的宣言とおぼしきことを掲げたゆえんのものは、豊瀬さんも言われ、小林さんも指摘されましたが、私もそう思いますが、帝国憲法のもとに、申すまでもなく御承知のように、教育行政に関しては法律というものはなかったと私は記憶いたします。翼賛機関であった帝国議会そのものが、今の国会とはむろん違いますけれども、それにいたしましても、立憲君主制の建前において国民から選ばれた、当時は臣民から選ばれた人々によって構成される帝国議会というものがあったが、その帝国議会の協賛を経たものを法律として、勅令やその他の命令とは別個に厳粛に扱っておったという体系だったと思います。今とはむろん違いますけれども、その法律ですらも書かないで、すべてこれ勅令で定められておった、そういうことについて反省というか、教育刷新委員会の人々も、GHQの存在を念頭におきながらではございましょうが、そのことの反省も念頭にあって原案も作られたと聞いておりますが、そういうもろもろのの反省そのことが、言わでもがなであろうけれども、かつてのような誤りはなさないように、教育というものは不当な支配に服してはならぬ。民主憲法下、そんなことはないだろうけれども、実力によって、あるいは現実の権威の前におじおそれて不当な支配に服してはならぬぞという面と、さらに、積極的には全国民に奉仕する、これまた憲法の趣旨そのままですから、これはまた言わでもがなのことと思いますけれども、さらに念のために、全国民に責任を負うという立場に立って行なわねばならないぞということを宣明しておると思うのであります。全国民に責任を負うという態度は、一体それは何だというならば、これは繰り返し申し上げるようですけれども、主権者たる国民の教育行政についての意思表示であるはずの教育に関する法律に従い、法律が委任した政令その他の命令に基づく秩序に従ってやらねばならぬぞということが、前段と後段と相照応した教育行政についての積極、消極両面の心がまえを私は規定しておると思うのであります。教育の自由があるとかないとかいう町版は、もっと具体的に法律の条文について申さざるを得ないと思いましたので、申し上げたのは、また繰り返しになりますけれども、学校教育法に明記しておるところの教諭は教育をつかさどるということで、その趣旨は現われておると思います。その範囲において教育の自由があり、自由があるならば国民に責任を持つ、国民に責任を持つということは、教師についても、結局は国会を通じて主権者たる国民が、非違があるならば、間違いがあるならば糾弾する、消極的な違反があるならば、不当があるならば国会を通じて糾弾するということ、そのこと以外に全国民に対して責任を持つという具体的な現われ方はない道理でございます。教諭は教育をつかさどると申しましても、それは法治国日本において、おのずから制約があるものは制約に従うべきものであるぞということが、これまたもとに返れば第十条後段の事柄である。権力の支配云々ということがよく言われますけれども、その権力が文部大臣、文部省あるいは教育委員会等にあるとする、学校長にあるとしますならば、その権力は帝国憲法下の権力にあらずして、主権者たる国民が教育行政を行なうについて必要なりとして定めた公務員に与えたところの責任ある、裏から言えば責任、表から言えば権限であるというものですから、それは不当な支配じゃない、法律で定められた支配には服しなければならないし、法律に定められない支配は不当である、そのけじめをはっきりして教育行政を行なえ、こういう趣旨の宣明が第十条だと理解しております。
○豊瀬禎一君 スーパー・マーケットの商品がひっくり返ったような答弁をされたのですが、直接国民に責任を負うということは、教育学的な立場から申し上げると、長くならないように簡単に言いますが、たとえば指導要領で道徳の規範を示すとする。ところが、国民は宗教、信条等について自由権を持っている。だから、ある敬愛という——体験のほうの経験ではない、祈りのほうの敬虔、そういう道徳的な信条を養わなければならぬという理解をしておる文部省の役人もある。また、そういう信条の人とは別の信条を持つことも許されておる。だから、道徳観、価値観というものは国民自身に選定をする自由権がある。だから、こういう道徳律を教えなさいということを教育行政で、政令であろうと何であろうとしてはならない、これが直接国民に負うということの具体的な現われなんですよ。それをあなたは法律によって政令に委任された。だから、政令に定むるところによって国民の価値観に対しても踏み込んでおるんじゃないですか。これが不当の支配ですよ。そして国民に直接責任を負うということに対して実質あなたはそれを侵しておる。法律の定めるところに従がうのが国民に直接責任を負うという具体的な現われだ、こういう言い方をするならば、基本法十条でそういうことをあげる必要はないのです。帰って議事録を読んでごらんなさい。公務をつかさどるという公務の中には教授の機能は含まない。教授の機能を発揮するために必要な運営一般である。したがって、教員の、あるいは教授の機能の中に校長は踏み込まない、それが同条の前段の校長の権限である。職務である。その次に教諭は教育をつかさどるという、教師にその教育権を与えたのは十条を受けておる。神を信ずる父兄に対しては、いずれの神を信じようとも、またどのような道徳律を、あるいは価値観を持とうともそれはその人の自由権である、こういう立場に立って指導要領や教科書検定の場合に特定の価値観を人間に注入してはならない。求めてはならない。これが国民の教育を受ける自由権の主要な内容であり、教師が与えられておる教育権の制約事項であり、逆にあなた方の立場の行政からみると、そのことにタッチしてはならない、それをあなた方が政令によって踏み込んでいって、そのことをいかにも合法だと考えて、法律に委任された政令に定めるところによってやるのが直接国民に責任を持つんだ、こういうたわけた答弁をなさるなら、わざわざ十条に、また基本法の前文にこうした問題を、何といいますか、宣言する必要はないのですよ。そして特に教育行政権を持っておった文部省が軍部に牛耳られたとはいえ、教育内容に、国民学校令によってあなたと違う荒木文部大臣が末端まで支配しなければならないということで、初めて校長の命を受けて教育に従事する、世界の教育史にない国民学校令の教育の内容に対する命令権を校長に与えた、このことを遮断するのが新教育の根幹であるという立場に立って十条をきめ、十条の精神にのっとって教師の教育権というのを明示された。これに踏み込んではならないぞというのが十条なんです。ここから初めて教師の教育権というのが出てきておる。そしてその責任というのは、それぞれ憲法その他の定めによる教師の分野の中にまかされておる。それを教育行政が責任を果たしておるとか、果たしておらないとか、それを干渉してはならない、そういう新教育の骨髄と申しますか、あり方というものに対してすなおに理解しない限りは、今後あなたと教科書問題について論争していったって、基本法の解釈の間違っておる人と法案の審議をする意味がないじゃないですか。どうしてもあなたは自説を固持しますか。局限して聞きましょう。教育において国民に直接責任を負うということは、教育行政権あるいは法令、政令等で国民の教育の内容あるいは価値観を選択する自由を拘束をしてはならないということである。このことについて理解できますか。反対なら反対の根拠をきちんと言って下さい。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 教育基本法自体が特定の宗教教育をやっちゃいけないということは明記しておりますから、先刻例示されましたような特定の宗教の宣伝になるような徳目を、たとえば道徳教育の指導要領に掲げてそれを教えることを要求するということは、それ自体が憲法違反であり、教育基本法違反でもあるということは明瞭であります。そうでなくて、道徳教育につきまして申しますならば、客観妥当性のある、憲法にも違反しない、教育基本法にも違反しない、その他の法律にも違反しない、しかも、その趣旨に従ったものが教えられることは必要であると思います。学習指導要領そのものが、かりに部分的に間違っておることがあるならば、その間違いは正すべき責任が文部省にあることは当然であり、そのこと自体を全国民に責任を負う立場という意味合いにおいて国会で糾弾されるということも当然であるという約束事が、私は民主政治、民主主義だろうと思うわけであります。その根源は、もう何度も申しましていかがかと思いますが、学校教育法二十条の教科に関することは、これは文部大臣の立場で定めて、そうして教育内容の基本線を定めることを通じて行なうように責任を持たされておる。その二十条を受けて現われましたのが学習指導要領であるということを申し上げておるのであって、そういう制度に従って文部省の立場ではやらねばならぬぞと、学校教育法の命令どおりにやっておる。そのことをいたしてはならないという意味合いが第十条の後段の一部分である。仰せのとおり、法律に、主権者たる国民の意思に従ってやらねばならぬということは言わぬでもいいことじゃないか、私もそう思います。しかし、それは、「不当な支配に服することなく、」ということはいわずもがなのことであることは明瞭であります。それをあえて教育基本法にうたっておりますのは、何度も質問者がおっしゃられたように、旧帝国憲法のもとのもろもろの誤りを念頭に置きながら、新憲法下にあるはずがないことだけれども、現実の問題として不当な支配に服するなんという卑屈な考え方でやってはならないぞ、さらに積極的には、国民の意思に従って法律制度によってやるということを厳粛に守るべきだぞということが第十条に意図している第一項の趣旨であることは間違いないと思っております。
○豊瀬禎一君 もう一つだけ。教科のことは所轄省が定める、文部省がきめる、このことは定めておりますよ。ところが、定め方が十条並びに学校教育法二十八条に違反して、おるというのです。いずれの神を尊ぶかということを例にあなたはとったが、それはすりかえだ。正直という道徳がいいのか、勤勉という道徳がいいのか、それを教育行政権で規範を与えてはならないというのが十条の精神であり、憲法の基本的人権ですよ。極端に言えば、正直を選ぶか虚偽を選ぶか、ニヒルの立場をとるか、いずれの道徳をとるかは各自に与えられた基本権である。それを、憲法に定めてあるから、教育基本法の趣旨に合うから、道徳の手本の中に、指導要領の中に勤勉ということを教えたほうがよろしいでしょう、こういうことを教育行政が干渉してならないと言うのですよ。豊瀬禎一の子供は、豊瀬禎一と子供が話し合って、どの道徳がいいか、どういう道徳教育がいいかを選ぶ権利がある。それを指導要領とか、その他で規範を示してはならない、こういうことなんですよ。だから、指導要領そのものが日本では外国にないようにタッチしておりましょう。それはこうこういう趣旨に従ってやりなさいということだけでよろしいのですよ。それを法律でやると問題になるものだから政令に委任してやって、そして政令によってあなた方は基本法の精神を犯した指導要領を作る。最初は通達であったけれども、政令に直していって、今それが一つの文部省の教育統制の末端における作用をなしておる。そこから狂い始めておるのでしょうが、あなたはやはり憲法や基本法にあるものなら、教育行政権者が、もっと端的に言うと、およそ文部省がどういう道徳がよろしいだろう、こういうことを国民に売りつけてよろしいと考えておるのですか、それだけお答え下さい。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 憲法、教育基本法、学校教育法等の憲法以下の法令に違反したことは、学習指導要領でも定むべきではない、こう思います。
○豊瀬禎一君 それ答弁ですか、あなたの。僕の質問に対する答弁がそれですか。僕の質問事項をもう一ぺん言ってみなさい。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 何でも定めてよろしいか、そういうことではないという御意見を含めての御質問であったと思いましたから、何でもよろしいと心得ているわけではない。憲法、教育基本法、学校教育法その他主権者たる国民の意思で定められた制度、法令に逸脱すべからず、こう心得ておりますと申し上げたわけであります。今例示されました、いかなる徳目が教えられるべきかいなかということすらも、それ自体が教育行政機関がなすべきことではないという仰せですけれども、私はそう理解いたしません。それは学校教育法二十条、二十一条で明記しておることであり、特に義務教育の場においては親の手元から切り離して一定時間を教育の場で薫育するという制度であります。そして教師が教育をつかさどる立場で教え、指導してもらうわけですが、その場合に二十条、二十一条という制約を念頭に置きながら、それに従って基本線は動かねばならぬぞという制度に法律そのものがなっておる。それに従わなければ、むしろ国民の意思にかなうゆえんじゃないということを申し上げているわけでございます。学習指導要領そのものが、憲法ないしは教育基本法に違反するとは考えません。
○豊瀬禎一君 学習指導要領のごとき内容を、二十八条の教育権を持っておる教師に押しつけてはならない、こう言っているのです。私の先ほどの質問はそのことではなくて、憲法や教育基本法や学校教育法には、諸学科はこういうことを教えなさい、こう書いてある。学校教育法には、これに合っておるから道徳観、価値観も、行政権が、これが一つのお手本ですよと示してよろしいかと聞いておる。よろしいというならどういう条項でよろしいか、それだけを簡単に答えなさい。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 私はよろしいと思います。
○豊瀬禎一君 根拠は。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 毎度申し上げておりますように、学校教育法二十条ないしは二十一条もそれに関連してくるかと思います。
○豊瀬禎一君 その中に、教科に関する事項ということが書いてある、このことも問題になっておる一つです。小学校の教育のことについては、十八条に法律で基準が示してある。これらの取り扱いに関して、最低限度必要な措置をきめなさいというのが「事項」です。それを明治憲法時代の亡霊の残存が、まだ文部省におるものだから、教育の歴史と内容についての変遷についてごまかしをして、教科に関する内容を規制していってしまっておる。「事項」ではなく、そこに、文部省の第一の旧教育に対する復活の触手がある。それをすなおにあなたは政党の大臣として、文部省の官僚が意図しておる、そういう旧教育への復活を見抜く力がなければ、文部大臣としては新教育はできませんよ。階級的な解釈じゃなくて、あるいはイデオロギー的な解釈じゃなくて、この条文を作る際に使節団、教育に基づいて、いろいろ論争した過程の中から——指導要領が法律に違反をしていないから何でもやってよろしいということではない。検定教科書を手にして、小学校では、十八条の趣旨に従って何を教えていくかは二十八条で定められている。それを、こんなことを教えなさいという指導要領、法律ではない指導要領のほうが、ほんとうの法律に優先する、生きものとなって現われてきておる。教育内容、特に価値観に対して教育行政が介入していくということは、過去の教育界ならいざ知らず、現在の教育界においては、ソ連、中国さえも排除しなければならないという方向をとっている。これをひとり日本だけが世界に類例のない指導要領という綿密な、どなたかのお話のように、こまかなところまで手を取って、足を取って、違法ではないでしょう、内容は憲法にもとるような趣旨のものではないかもしれませんが、私どもは、それがあると見ているのだけれども、かりに一歩譲って、すべて憲法、基本法に合うような内容であっても、そういうものを行政権者が示し、押しつけているということは十条に違反するんだと、こういう理解ができませんか。日本だけでしょうが、指導要領が、行政権者が教育の内容に対して規制を与えて、基準を示している。よそは、簡単なさらさらっと、これが十八条に書いてあるようなところをきめて、あとは、教師と父兄でやりなさいと、こうなっている。理解できませんか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 学校では価値観についても教えられるべきものと思います。教師が教育をつかさどるという立場で教える内容だと思います。ただ義務教育と後期中等教育に関しましては、大学ではないのですから、未成年者であり、がんぜない子供だから、特に義務教育においては、義務として制度づけられておる。その場合における教師が教えるべき内容として、価値観のことも必要である限りにおいては、全国のことごとく憲法の趣旨に従った同じ価値観が与えられるべきだと思います。その場合に、個々の教師が価値観を教えるということが本質的にあるといたしましても、個人的な主観に基づいた教え方は、義務教育の場合は許されないという考え方に立つことが、学校教育法第二十条が予定していることだと思うのであります。したがって、憲法違反でもないし教育基本法違反でもないし、学校教育法に基づいて学習指導要領が定められ、そうして検定教科書が検定され教育が行なわれておる。指導要領それ自体の中身が適切であるかどうかという批判の余地は、あるいはあるかもしれませんが、批判の余地がないように、完全なものに仕立て直していく責任も、あわせて文部大臣に課せられておる、こういう筋道だろうと私は思います。
○豊瀬禎一君 私の質問の順番の際に、この問題につきましては、終戦直後からずっと今日までの過程がありますから、あなたと再度議論いたしましょう。これで終わります。
○小林武君 やっぱり基本法十条について、どうもなかなか文部大臣は奇妙な論理をもっておられるので、閉口しておるわけですけれども、一つは、今度は角度を変えてひとつ質問いたしますが、文部大臣というのは内閣に対しての責任というのは、どういうことになりますか。 それから福田局長にお尋ねいたしますが、文部省の役人というのは、一体内閣に対して、どういう責任を負うのか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 文部大臣が内閣に対しての責任は何だというお尋ねに、どうもすぐさま明確なお答え困難なような気もいたしますが、各省大臣、国務大臣は、内閣を組織して閣議を経て政府の態度をきむべき事柄についてあずかり、その範囲において、内閣との相互関係における責任があると思います。
○小林武君 文部行政に対して内閣について、どういう責任を負われるのですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 文部行政につきましては、これこそ法令によって、文部大臣に専属せしめられた権限と責任を行使する限りにおいては、内閣に対する関係というものは当然には出てこないと思います。ただ、慣例上、閣議を経なければならないとされる、運用されるものがございますから、その範囲においては、内閣との関係が出てこようかと思います。
○政府委員(福田繁君) 文部省の役人は、行政長官としての文部大臣を補佐する機関でございます。したがって、それぞれ分掌事務をもっておりますが、その範囲において、文部大臣を補佐いたしております。したがって、文部大臣が内閣に対して責任をもっておることにつきまして大臣を補佐する機関でございますから、そういう大臣を通しての責任をもっておるものと考えております。
○小林武君 福田局長にお尋ねいたしますが、文部大臣の補佐という立場で責任を果たしていくということはよくわかりました。当然だと私は思うのであります。その場合、あなたのお仕事は、基本法十条の直接国民に責任を負うという場合は、どういう形でやるわけですか。ひとつそれは感じや何かでものを言わずに、差本法という一つの法律のあれで答えていただきたい。責任があるのかないのか。
○政府委員(福田繁君) 教育基本法十条のいわゆる「教育は、」というものでございますが、これは先ほど来大臣からお答え申し上げておりますように、教育の事業に従事している者は、行政機関にある者も教師もみんな入ると思います。したがいまして、そういった関係におきまして、行政機関にあるものといたしましては、先ほど申しましたように、それぞれの分掌事務において、行政機関の長の補佐として適切に行政を遂行する責任と義務を持っております。したがいまして、そういう自分の分掌事務について責任と義務を持っておる限りにおきましては、これはやはり法令に従って適切な行政を行なうという立場でございます。 したがいまして、国民に対して、私どもは責任を持つという関係は、やはり法令に従って行政事務を遂行するという限りにおいて、出てこようと考えます。
○小林武君 福田局長にお尋ねいたします。まあ局長の御答弁を聞いているというと、直接国民に責任を負うということは、道義的な意味ですね、道義的な。あなたが先ほど御答弁なさったことは、文部大臣の補佐機関として文部大臣を通して国民に責任を負うということがあなたの法律的な、法的なそれは義務でありましょうか。法的に言って、国民に責任を直接負わなければならない理由は、あなたの場合おありですか。
○政府委員(福田繁君) 私は、この基本法十条の考え方といたしまして、先ほど申しました教育の仕事に従事しておりますものの心がまえを、これは示したものだと考えております。したがいまして国民一人々々に対して責任を負うという、そういう自覚のもとに、公務員といたしましても、定められた法令に従って自分の仕事を適切に遂行する、そういうことになるだろうと思うのでございます。
○小林武君 御答弁はまことに正直だと思います。私もそのように思います。道義的責任だと思います。心がまえですかね。あなたのおっしゃるとおり心がまえの問題、しかし教育基本法というのは、心がまえを書いた問題でしょうか、どうでしょうか。教育基本法という法律は心がまえの問題でしょうか、福田局長にお尋ねいたします。
○政府委員(福田繁君) 私は基本法十条について、さように考えております。
○小林武君 基本法という法律の中で、十条だけを取りわけて心がまえとし、あとのところは心がまえでありませんか。それを質問いたします。
○政府委員(福田繁君) 教育基本法は、それぞれ教育の目的あるいは方針等について、基本的な考え方を規定しております。したがいまして、教育の目的あるいは方針等につきましては、当然、これは教育行政なりあるいは教育の方向として、これは守っていかなければならない原則を示したものと考えられます。 そういう意味におきまして、第十条も原則であるとも思いますけれども、この規定そのものは何と申しますか、綱領的な規定と申しますか、いわゆる教育に従事するものの一つの考え方と申しますか、心がまえの規定をここに置かれているものと考えております。綱領的という言葉は、これはかつて田中耕太郎先生も使ったように記憶いたしておりますが、そういう規定だと考えております。
○小林武君 福田局長にお尋ねいたしますが、教育基本法第十条は心がまえの問題、考え方の問題ということですが、教育基本法を通して考えて、ほかの前文本各条も同様に心がまえの問題であり、考え方の問題だというふうな、こういう論理が成り立つと思いますと、——私は法律論のことについては、あなたのほうがずっと詳しいのですから、専門的なことはあなたのほうに御教示を受けたいというぐらいの気持でおりますけれども、そういうことをあなた断言なさった、道義上の問題だというような御発言であったが、そのことは、文部省的見解ですか。それとも法制局その他においても、これは一致した同意見でございますか。その点をお尋ねいたします。
○政府委員(福田繁君) 心がまえという言葉が、あるいは適切な表現でないかもわかりませんが、そういう原則あるいは方針というものを教育基本法は規定している、それを受けまして私の感じますのは、公務員としてあるいは教育の事業に従事する者の心がまえとして受け取るわけでございます。 たとえば第七条の社会教育の規定におきましても、社会教育の一つの方針あるいは奨励さるべき方向というものを規定しております。それを受けました場合には、やはりそういう方針を受けて、社会教育を振興させるという、一つの受け取り方としては心がまえと考えても差しつかえなかろうと思うわけでございます。
○小林武君 いやみを言うわけではございませんけれども、教育基本法は、法律第二十五号だというのですが、心がまえということの法律的な意義は、どういうことになりますか、法律としての解釈上、心がまえということは、これからいろいろ出てくると思いますが、心がえと、心がまえでないものもあるわけですね、先ほど文部大臣は、教育上のいろいろな問題については、戦前においては法律では、それを制定していなかったということはわれわれも承知している。それが教育基本法という一つの法律になってきている、きわめて特徴があると思うのですね、法律として制定されました教育基本法を眺める場合に、心がまえとしての議論——あなたのお話だというと、さらに一条ふえて第七条もそうだと、こういう議論です。先ほど私が推測をいたしましたように、教育基本法そのものは心がまえの問題だと、心がまえを法律が制定しているのだということになるわけですが、そういうことになると、法律上、心がまえというのは、どういう一体われわれに拘束性を持ち、国民に対してどういう義務づけをし、教育という実際的な仕事の上で、一体どういう拘束力なり影響力なりを持つのか、これをひとつお尋ねいたします。 なお、このことは明らかにしなければなりませんから、あなたの御見解だけで私は承知できない問題です。私のほうでも、ひとつ調べますけれども、一応あなたの解釈をお聞かせいただいて……。
○政府委員(福田繁君) 教育基本法は、法律の形をとっておりますけれども、教育上の非常に重要な原則あるいは方針というものを法律の形において制定した、いわゆるこの教育方針なり、教育上の原則というものを宣言する規定だと考えております。いわゆるまあ宣言的な条章だと考えております。 したがいまして、それぞれ具体的な実際行動を規定する法律は、これに基づいて他の法律によって、これは規定されていくというのが通例の解釈であろうと思います。私ども、そういう意味において教育基本法の解釈をいたしておるわけでございますが、まあ心がまえという言葉自体は、あるいは適当な表現ではないかと思いますけれども、そういう趣旨のものだと考えております。
○小林武君 ちょっと、今よく聞こえなかったから、間違っているかもしれませんけれども、あなたの御意見は、すると、この教育基本法というのは教育の原則、方針をきめたもので、法律の形はとっているが、宣言的なものだと、教育の宣言的な一つのものであると。したがって、この法律というのは、あれですか、何といいますかな、法律としての拘束力といいますか、あるいは法律としての規制力といいますか、そういうものはどうなんですか。あまりないということをおっしゃったように聞こえたんですが、間違いありませんか。
○政府委員(福田繁君) 私は、法律としての効果がないというように申し上げたつもりではございません。先ほど申し上げましたように、法律の形をとって重要な教育上の方針なり原則というものを、ここに宣言したような形をなしておりますから、したがって宣言的な規定だということを申し上げたわけでございます。したがって、あるものはこの方針に基づいて具体的な行為を律する規定は、他の法律によって、これは行なわなければならない、こういう意味に申し上げたわけでございます。
○小林武君 あなたのおっしゃることは、一応こういうふうに理解いたしましたが、よろしゅうございますかな。——宣言的な規定である、法律的な形をとっているが宣言的な規定である、その方針の具体的なものは他の法律によって規定しなければならない。——そうなりますというと、この、他の法律が出てこない場合、あるいは他の法律が出ても、この教育基本法の条、あるいは前文に規定されたことに合わない場合ですね、そういう場合は、これはどうなることになりますか。これは宣言的なあれですから、具体的な問題で法律が出た場合には、これらの問題はたいして国民を拘束し、あるいは政府を拘束し、教育行政に携わるその他の人々をも拘束するということにはならないわけですか。いわゆる無力なもの、お飾り的存在、こういうようなことになるわけですか。 私はそうは思わないんです。厳然として教育基本法というものがあって、少なくともそのことを具体化する法律というものが出る場合には、教育基本法にきめられたことに従って具体化されなければならない。一歩もたがってはならないと。文部大臣もよく言うように、一歩もたがってはならないような形で出なければならない。したがって、法律の形をとってはいるけれどもというような発言は、これは法律家とか法律の専門家とかいうことから言えば、何でもないことかもしれないけれども、私に言わせれば、これはいささか基本法を軽視した発言だ、表現だと、こう考える。宣言的な規定であるということは、何かこのことが守られなくても、いろいろな解釈をしてもけっこうだというふうに、どうも考えられるのでありますが、どうでしょうか、この点。
○政府委員(福田繁君) 少し私の言葉が足りませんから誤解を生じたようでございますが、これはお飾り物で、守らなくてもいいという意味で申し上げたつもりでは毛頭ございません。これは制定当時から教育憲法と言われるぐらいに、教育の基本的な理念なり方針というものをここに打ち出した法律でございます。したがって、非常に重要であることは申すまでもありませんが、具体的な法的効果を生み出すには、それぞれの方針に従った具体的な法律が必要のある場合が起こる。したがって、それは教育基本法に従って制定され実現されなければならないということを言う意味において申し上げたつもりでございます。そういう趣旨でございます。
○小林武君 今の福田局長のあれで、非常にこれが重要な教育憲法とも言われるべきものだという、そういうことは当然であって、当然ではございますけれども、あまり当然なことを聞かないものですから、たいへんその点は共鳴をいたしました。 そこで、この第十条について棚田さんにもう二度お伺いいたしますが、あなたはどうなんですか。文部省というところは、教育行政を行なうところでありますね。この教育行政を行なうということにつきまして、あなたは文部大臣の補佐の仕事をしている。これは文部省の役人全般でありますけれども、あなたは補佐している。だからあなたは教育行政をやる者として文部大臣を補佐するということが、あなたに与えられた私はたった一つの務めだと思います。この点は間違いはないと思います。 ということは、あなたは教育行政に携わっている者として考えなければならないことは、国民に奉仕するとか、国民について責任を持つとかいうことが、もしありとすれば、これは何といっても、一般行政機構の中にある方と同じに、大臣を通し、内閣を通して、あなたは国民に責任を負うということになりませんか。どうですか。
○政府委員(福田繁君) それはそのとおりだと思います。
○小林武君 したがって、十条におけるところの責任の問題が、直接の責任ということになりますと、あなたの先ほどおっしゃった心がまえの問題ぐらいになるだろうと思います。法的には、あなたは一般行政機構の中の人間として——直接国民にということはないわけです。あなたが、今御答弁なさったとおりだ。 したがって、今度は、直接という問題が出てきます。この直接ということは、文部大臣の見解とはだいぶ違ってきますね。いわゆる文部大臣にまかしておけばよろしいというようなことには参らぬ問題である。どうですか。 荒木文部大臣は、ただいまの福田局長の答弁から推して、あなたの教育基本法第十条の解釈は、なおかつ間違いでないとがんばりますか、簡単にひとつお願いいたします。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 今の政府委員との応答を承っておりましても、文部省の役人であれ、どこでも同じでございますが、行政組織法あるいは文部省設置法等、それ以下の政令等によって定められた秩序に従って、自分の職責を行なうことが、直接国民に責任を負う姿だと、法令に従ってやるのであって、法令に従わない不当なる勢力の支配下にない。それを避けること、それ自体が国民に責任を負っていることだ。また、もし不当なる支配に屈して文部大臣以外の命令で動いたとするならば、そのことが法律にたがうゆえをもって、国民にその面の責任を負わねばならぬ、同じことであります。教師と文部大臣と文部省の役人と、何ら違うところはない。しかしこの不当な支配に屈すべからず。正当な支配には服しなければならない。正当な支配でも及ぼしてはならないとあるならば、みずからが責任を負うというのは、その法律の許した範囲内の行動をすることが責任を負っている姿だ、こういうことだと思います。
○小林武君 あなたはまあ何か——何が出るか、鬼が出るか、ジャが出るかということで心配して、盛んに警戒線をたくさん張って無理をなさっているが、やっぱりおかしいんじゃないですか。直接責任を負うということは、そういうことじゃないです。さっきも福田局長が言っているとおり、福田局長は、直接国民に責任を負うというようなことは、どういう形をとるのかといったら、間接責任の形をとるというのです。間違いないのです。直接国民に責任をとるということは、直接国民に触れるものでなくちゃ直接責任がとれないのです。そんなことを福田局長がやったら三日ももたぬでしょう、首になって。これはあたりまえだと思う。文部大臣の言うことをきかないで、直接何かやっておったら、たいへんなことだと思う。ところが、教育の仕事に携わっている者の中には、そうでないものが必要なんです。だからそのことを教育基本法に書いてあります。あなたはその解釈をどういう理由か、よくこちらのほうが推察すれば、鬼が出るかジャが出るかということを心配なさっているようでもあるし、悪く考えれば、非常に反動的な考え方だと私は思うのです。たとえば、あなた先ほど辻田政府委員のことについて、私が何べんも同じところを読み上げたにもかかわらず、教育権の独立などというようなことは、立法論では言えるかもしれないけれども、今どきそんなものは存在しない。われわれの間では、一体教育権の独立なんということは考えられないようなお話だった。しかし、そのときの辻田政府委員の答弁には、ちゃんと書いてある、教育権の独立と申しますか、教権の独立ということについて、その精神を表わしたのであります。ということを言っているのです。あなた、そのことを教育権の独立だとか、教権なんということを言ったら、何を言われるかわからないという恐怖心を持っておられるのかどうか知らぬけれども、そういう恐怖心は、これはお持ちにならないほうがいい。そういうことをお考えになるというと、私は日本国憲法下の、教育基本法下の文部大臣としては、いささか私はあぶないと思う、危険だと思うのです。 次に、それではあまり同じようなことを言っても、あなたの考え方は、なかなか直らぬようですから、ひとつお尋ねいたしますが、私の考えでは、教育権の独立というような考え方が、文部省の政府委員の口からも出てくるほど、戦後の教育というものは、いわゆる教育に対する直接の国民に対する責任という形をとると同時に、教育の自由や研究の自由というようなものが重視され、こういう一つの考え方があるから、あなたが、今いろいろおっしゃるところの教育諸法規も、また、この原理を念頭に置いて書かれたものが多いのです。いろいろ改悪されたようなものもございますけれども、たとえばあなたが一生懸命になって先ほどからおっしゃっている学校教育法二十一条は、「小学校においては、文部大臣の検定を経た教科用図書又は文部大臣において著作権を有する教科川図書を使用しなければならない。」と響いてある。その中には、教科用図書がたくさんある、教科用図書の検定、教科用図書の中から選ぶ権利というものは、ちゃんとここに書いてあるじゃありませんか。教育委員会は、と書いてない。ここに「前項の教科川図書以外の図書その他の教材で、有益適切なものは、これを使用することができる。」有益適切なもの、これは検定を経てないものでも選択することができると書いてある。このことは準用されて、高等学校の場合も、中学校の場合も認められているわけでしょう。どうなんですか。これは違いますか、私の解釈は。あるいは教育課程の問題につきまして、学校教育法施行規則二十五条は、そう書いてありませんか。「小学校の教育課程については、この節に定めるもののほか、教育課程の基準として文部大臣が別に公示する小学校学習指導要領によるものとする。」と書いてある。この中においても、教育課程は教師が作るということも書いてあるし、基準は指導要領によれと書いてある。このことは、少なくとも先ほどから言っているところの教師の専門的な立場というようながもの、指導要領がいろいろ改悪されたことについては大いに問題がありますけれども、それについても、専門性を持っているとろこの教師というものについて、教育に対する教師の直接国民に対して責任を果たすような幅が、まだあるということがあるのじゃありませんか。どうです。御意見は。あなたが幾らがんばられても、そういうことになると思いませんか。 そのほかにも、どうですか。たとえば地方教育行政の組織及び運営に関する法律の十九条三項を見ましても、一体、指導主事が指導命令をするというようなことを、この中に書いてありますか。どうなんですか、そういう点は。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 先ほど来申し上げておるとおりでございますが、私が終始申し上げているのは、教科、教育課程について、教師に自己の判断で行動する範囲がないと申し上げたことはいまだかつてありません。逆に申せば、そのことも申し上げたことですが、学校教育法に規定するところの教諭は、教育をつかさどるということは、それは建前だが、終始法令の制約は受けざるを得ない。その法令とは何だということは、学校教育法二十条、二十一条ということについて、文部大臣に教科あるいは教科書検定ということが留保されている。その留保されている権限に基づいて、定められたことに従ってやらねばならないという条件づきで、教諭は、教育をつかさどるのだと、こういうことを申し上げておるわけであります。
○小林武君 そうするとあなたは、専門職として専門的な教育の仕事に携わっている者は、教師みずからの判断といいますか、教師みずからの仕事の上において、真実を教え、それから直接子供につながり、国民に責任を負う形でやる仕事というものの領域にあるということは、認めるわけでしょう、そういうことになりませんか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 直接国民に責任を負うと言われることですけれどもそれは一体何だということを、私は先ほど来私の理解に立って申し上げましたが、ただ、直接国民に責任を負うと書いてあるから、何か責任を負うことらしいということは、それだけで、すべてが解明されるものでなくて、全国民に対して責任を負うということは、裏を返せば主権者の意思で定められた法律制度に従って行動するのだ、そのことが国民に責任を負うということであり、それに違反すれば、国民にかわって国会を通じて責任が追及されると、この相互関係を全国民に対して責任を負うということだと私は解します。
○小林武君 あなたの考え方については、これはやはり法律をどう解釈するかという問題になりますから、文部大臣と私との間のやりとりというのは、これはなかなかやっていても尽きないようです。しかし、このことは、やはり国家の機関の中にも。法律というものを正しく解釈することを専門の方も、そういう機関もあるわけですから、そこでひとつ私も急速に、そういう手続をいろいろとっていきますから、そのときに譲ることにいたします。 ただ一言、あなたに言っておきますけれども、あなたの教育基本法第十条の解釈は、これは全く日本国憲法なり教育基本法なりの精神を根本的に踏みにじっている解釈であるということだけは、ひとつ申し上げておきましょう。 そこでお尋ねいたしますが、私は憲法、教育基本法の関係において、第十条についての解釈が、今のような解釈では、実はもうがっかりしたわけです。文部大臣が今のような御解釈をなさっているということになると、いささかどころではありません、これはがっかりした。これはおそらく私、教育現場にあるものすべてががっかりするだろうと思うのですがね。これはもう校長といわず教員といわず、あるいはその他の教育関係の職員のすべてが、やはりこの憲法それからまた教育基本法十条の解釈、今のようなやり方で、文句があれば国会へいってものを言え、国会でもって多数を制しなければ文句はとおらないのだ、こういう、国民の側からいえば、そういうことです。こういうようなことが一体教育基本法の解釈だとすれば、これはまあ情けないことになったと思うのですけれども、いささか力が抜けるけれども、私はもう一つこの問題について、文部大臣にお尋ねしておきたいわけですが、教育基本法の前文から見て、この法律は、憲法の精神を直接受けて制定されたものであると、こういうふうに考えることについては御異議ございませんか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) これは前文自体で書いてもおりますし、書いていなくてもそうだと思います。
○小林武君 書いていなくてもというのは、どういうことですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) きわめて自明のことだと申し上げるわけであります。
○小林武君 きわめて自明のことというのは、もう少し具体的に御説明を願えませんか。私は少なくとも今までの議論で、だいぶあなたの基本法に対する考え方についてショックを受けた。今それなのに、教育基本法が憲法の精神を、前文見なくてもちゃんと憲法の精神を直接受けたものであるというようなことを言われるというようなことになっても、軽々しくああそうですかというわけにいかぬ。具体的に一体この基本法は、その前文から見て、前文から見なくても、基本法は憲法の精神を直接受けて制定したものだという、そういうあなたの見解の理由を、もっと具体的に親切にお話を承りたい。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 前文にも書いてありますから、きわめて明瞭であります。かりに書いてなかったと仮定しましても、教育に関する基本法という以上、憲法の趣旨を受けておることは自明であろうということを申したのであります。
○小林武君 そういう自明なものを教育基本法として制定した理由を、文部大臣はどのようにお考えでございましょうか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) これは私の承知しておりますところでは、終戦になりまして教育勅語が廃止されました。教育に関して基本的な事柄というものが、いわば空白になった、新しい憲法はむろんできましたけれども、憲法そのものが教育の基本ともなるべきことを比較的具体的に詳しく規定しておりませんので、新憲法下の教育がどんなふうな方向づけであるべきかというものがないということで、教育刷新委員会の人々が慎重協議の上に原案を作り、それを政府案として提案し制定された経過にかんがみましても、新しい憲法下の、先ほど政府委員は教育憲法ともいうべきものだと申しましたが、そういう建前に立って立案せられ、審議せられ制定されたものと心得ております。
○小林武君 私は、こういうことを聞いているんですが、このことは事実でしょうか。あなたはまた、そのことをお認めになりますか。憲法制定のときに、この教育基本法の内容に盛られているようなことを憲法自体の中に入れようかというような、そういう考えもあった。しかし、このとき憲法の中からはずして、教育根本法ともいうべきものを、ひとつ新たに制定しようというようなところから、それが基本法になった、元来憲法の中に規定しようとしたものが教育基本法になった、こういうふうに聞いているんですが、その点は、大臣はお認めになりますか——そういうことを聞いておりますから。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) そういう説があったことは聞いております。
○小林武君 説というのは、そういう話があったというくらいのところの言葉だと思いますが、それはどうなんですか、事実なのか。そういう精神なり事実なりの上に立って、あるいはそういう立法の経緯によって制定されたものであるかどうかということについて、知らなければけっこうですけれども、知っておったら、はっきりそういうふうにお答え願いたい。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) そういう説があったことを聞いておりますが、だれがいつどういう場所で、どういう具体的内容で言ったかということまでは承知いたしません。
○小林武君 文部大臣は、何か説ということになると、きわめてあったかないかわからないような、あるいは相当重要な意義を持っておるというようなことについて肯定しないような御意見なんでありますが、私は、こういうことを当時の文部大臣が、憲法を審議しておる過程において言われたということを聞いておるわけであります。これは憲法の中に教育の基本になる問題をひとつ、直接規定してはどうかというような、そういう意見に対して、当時の田中文部大臣は、教育根本法ともいうべきものを早急に立案して、議会の協賛を得たい、また、教育権の独立というようなことも、この教育根本法に入れるべく研究しているという意味のことを言われたように私は承知いたしておるわけでありますけれども、大臣は御存じないのですか。大臣が、もしそういうことについて、説として、うわさの程度として聞いたというならば、福田局長は、そのことについてどうであるか、御存じであるか、あるいはそんな話はない、大臣の言うとおり説としては聞いたことがあるけれども、事実は、それほどのものではないということであれば、また、そのように御答弁願いたい。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) さっき申し上げたとおりでありまして、田中さんが、そう言われたかどうかという意味においての記憶は念頭にございません。
○小林武君 記憶の問題ではないのですよ。
○政府委員(福田繁君) 当時の田中文部大臣が国会において、そういう発言をされたことは聞いておりません。
○小林武君 それは国会の中で審議の過程で、そういう答弁をなすったという事実はありませんか。
○政府委員(福田繁君) それは私知りません。
○小林武君 これは私も、この点は速記録を見てきたわけではありませんからあれですが、これは憲法審議の過程でなされた田中文相の答弁のように聞いておりますけれども、全然御存じありませんか。
○政府委員(福田繁君) 記憶はございません。
○小林武君 記憶がないとか知らないとかいうことは始末が悪いですよ。しかし、この点については、文部当局としては十分お調べになる価値があるというか、知っておかなければならない問題だと思うのです。これが説であったり、風説であったりすると、これは問題にならないことでございますけれども、もしも、憲法の審議ですから、これは妙なところで行なわれたものでないように私は思うのです。想像ですけれども。どっかよその会場に行って、ふろしきを広げたという話ではこれはないのです。憲法審議の過程の問題なんですから、憲法審議の過程の中から出てきた問題ですから。もしそういうような重大な問題を文部省として聞いたこともないという話ならば、これは私はいささか事が重大だと思うのです。私らのような、そういうことについて比較的関係の薄かった者でも、そういうことを聞いているのですが、お調べを願いたい。これはそのことがはっきりしてこないと、一体基本法というものに対する考え方が甘くなっちゃう。この法律を解釈するのに、道義的責任みたいな話になっちゃう。私は少なくとも、民主教育及びその制度、制度的な保障というようなものが、この教育基本法の中に十分に盛られていると思う。憲法に規定すべきようなことを、この教育基本法の中に規定した、そういう事実があることによってこそ、私は教育基本法を守ることは憲法を守るような、そういう重要性を持っておると思う。その点ですね、私は民主教育というもの、今の新しい教育を文部大臣も非常に重視されておりますけれども、私はそれ以上に非常に重要視いたす者として、憲法と教育基本法 教育基本法の憲法秩序の中にある位置というものはきわめて重い、同じ立場にあるといってもいいくらい重要なものだ、これをやめることは絶対に許されないのだ。こういう考え方に立っておるのですけれども、どうぞひとつ、知らないというものについてはあれですが、私も探しますが、文部省のほうでも、ひとつ探していただきたい。そのことについては、ひとつこの次の委員会ぐらいまでに……。 ここでまたお尋ねいたしたいのですけれども、先ほどからだいぶ教師の責任の問題が議論されましたけれども、これはやはり教育基本法に書いてあるからというような議論では、どうも事実に即したような話にならないので、ひとつお尋ねいたしますが、たとえば教師は文部大臣の考え方をもってしても、文部大臣に対して、教師が何といいますか、責任を負うという形で、国民全体に責任を負えばいいというような御発言ですけれども、それにしても、直接日常教室の中で教育の仕事を行なう場合に、文部大臣を相手にしてやるけわじゃない。生きておる、毎日成長し続ける子供を相手にしてやるわけです。失礼ですけれども、文部大臣の顔を思い出す教師は一人もいない、子供に対する愛情、責任、またその親、国民に対する責任を脳裏に浮かべながらやっておると思うのです。そのことのためには、私はよい教育をするという意味において、教育に関するあらゆる事項に対して研究する自由が与えられておると思う。文部大臣の話を聞いておれば、研究していいものと悪いものがあるというような、こういう、どうも発想があるのですね。私はそういう考え方の中から、教育ばかりでなく、もし、これを学問ということに限定して考えれば、この中から学問の発展ということは出てこない。そういうことをやろうとした為政者という者、権力者という者が、学問の発展を阻止した、あるいは停滞させたというような事例は、はこれ日本ばかりでなく、どこの国にも、そういう事例があるわけです。私は、文部大臣の考え方に、そういう研究の自由ということについて、この研究はしてはいかぬと、教師は、この種の研究はやってはいかぬ、端的にいえば、ほんとうに自由な研究というものは許されないのだという考え方があると判断しておるのですが、どうでしょう。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 学問の自由は、国民全体にあると思います。また、それが学問の自由という名において具体的に尊重される場は、一番幅広いのは大学だと理解されておる、こう思います。教師に研究の自由があることは、私も同感であります。
○委員長(北畠教真君) 速記をとめて。 〔速記中止〕
○委員長(北畠教真君) 速記を起こして。 暫時休憩いたします。 午後四時二十分休憩 —————・————— 午後五時八分開会
○委員長(北畠教真君) これより委員会を再開いたします。 休憩前に引き続き質疑を行ないます。御質疑のおありの方は順次御発言願います。
○小林武君 先ほど大学というところには、学問の自由ということが大幅にあるという、そういう御答弁だったですね。教員の場合には、それでは研究の自由というものはないのかどうか、それは制限を受けるものなのかどうか。というのは、私の質問は前にも何度も申し上げましたけれども、教師の仕事の専門性の立場からいって、免許法等にも明らかなように、その仕事は非常な研究というものを必要とするわけであります。この教師の仕事の特性からいって研究の自由ということが要求される、仕事の面から。また、先ほど来申し上げました民主教育というものをやる教師の立場からいって、一体、研究の自由が制限されるなどということは考えられないわけですけれども、文部大臣の御答弁を聞いているというと、何かそこに制限がある、大学ではというような何か条件づきのようなことをおっしゃる。その点をもう一度明らかにしていただきたいと思います。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 学問の自由は国民全部にあると思います。ただ、いわゆる学問の自由というのは、主として大学における学問の自由について大学の自治との関連においても理解されるというふうに承知いたしておるのであります。その意味で教師に学問研究の自由があるということは当然のことだと思います。
○小林武君 そこで私は文部大臣にお尋ねをいたしたいのですけれども、日本教職員組合というところで教師集団が教育研究活動をやっている。私は当初からこの問題に深い関係を持った者として、教師が自分の費用をもってだれにも拘束されない立場に立って、しかも自分の行なっている教育という仕事の重大性を考えて自主的に研究活動をやってきた。この研究治動は非常な長い年数を経て、私は日本の教育の上において非常な大きな貢献をしたと思っております。このことに対しては、ひとり教育界だけではなくて、いろいろな方面からのその研究の業績に対して私は賞賛も受けていると思うのであります。こういう日本教職員組合の研究に対して、いわゆる教研活動に対して、文部大臣は非常に刺激的な言葉をもってこれを誹謗しているということを私はたびたび聞いているわけです。こういう事実があるかどうか、そのことをお伺いしたいと思います。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 誹謗しておるというつもりでこれに触れたことはありません。研修の自由があることは教師の個々の自主的な研修でありましょうとも、組合みずからが研修することそれ自体、研修、勉強、学問の自由の範疇に属するものと思います。ただ、私が日教組の教研活動について触れますときは、常に申しておりますのは、日教組の全国大会で定め、その定めました教研大会の趣旨が、文部省の定めた教育課程を骨抜きにする、そのための研修だという意思を表示しながらやるところの研修は、そのことが教育の現場にはね返ってくることをおそれますがゆえに望ましくない、こういう趣旨で批判したことはあります。
○小林武君 ただいまの御答弁によると、全国大会でこれを定めと、こうおっしゃるが、その全国大会で定めというのはどういう意味なのか、ひとっこれをお聞かせいただきたいと思う。それから趣旨と申しますが、あなた「趣旨」という言葉を使われたが、教育課程を骨抜きにされるおそれがあるからこれは望ましくないと、骨抜きにされるというところに望ましくないという理由があるのかどうか、その点もう一度確認をしてもらいたい。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 文部省が定めました教育課程を骨抜きにするという目的をもってやられる教研大会には弊害があり、そのことを中心に批判をいたしました。
○小林武君 全国大会というのは何のことを言っているのか、その点を。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 私の承知しますところでは、日教組の全国大会で教研集会の大会を催すことを常に決定している、こう承知いたしております。
○小林武君 そこでお尋ねいたしますが、全国大会——すなわち文部大臣のおっしゃるのは、おそらく私の想像では定期大会、そういういわゆる日教組の最も重要な機関で決定されているということを指摘されていることと思いますが、そのこと自体に何か文部大臣としては望ましくないと考えることがございますか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) そのこと自体にも私は疑問を持ちます。と同時に、組織の機関で目的を定めて教研大会を定め、そうして実施される、その結果が教育の現場にある意味で反映することありせば望ましくない、こう思いますから批判をいたしております。
○小林武君 これはひとつ問題があるが、この次にやりますが、それではお尋ねいたしますが、文部大臣が先ほどお話しなさったところでは、教師にも組合にも研究の自由はあるという、研究の自由というのは、内容的に文部大臣が気に食わないとか、文部省が好ましくないとかいうようなことで一体批判されるべきものなのかどうか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 一般的に申せば、学問研究の自由に制約があるはずがないと思います。その意味における自由は教師にもあると思います。しかしながら、休憩前の御質疑に対しましてもお答えしましたように、教師は小中高においては、その学校におきましては教科に関することは文部大臣が定めなければならない、それに準拠して教えられねばならないということは法律上の要請だと思います。したがって、その法律上の権限として定められた根拠に基づいてあるところの教育課程そのものを骨抜きにする目的をもっての研修というものは、自由ではございましょうけれども、教師なるがゆえに好ましい、好ましくないの批判というものは当然あるべきものと思います。
○小林武君 しかし、文部大臣は研究の自由ということですね、研究の自由ということの解釈を何か間違えていらっしゃるのじゃないですか。いかなる内容のことを研究しても、あるいはそれが第三者が誤りだというようなことに考えられるようなことでも、あるいは権力者が気にくわないような研究であっても、何であっても、これを学問的に研究しようというようなこと、教育的に研究しようというようなことは、これについてかれこれ異議を差しはさまれるということでは、研究の自由、学問の自由というのはないのじゃないですか。あなたのお説をそのまま承るということになると、いわゆる文部大臣と関係を持っている人たちの集団とか何とかいうものは、文部大臣の考えていることに沿うた研究でなければ望ましくないということになるわけでしょう。それでは一体研究の自由というのはどこにありますか。私は学問の研究でも何の研究で本、すべて疑問を持ち、その中から真実を発見して最もよい方法を発見するというような気持がなかったら、私は教育でも学問でも発達というものはないと思うんです。これ以上のものはないのだという考え方に立ったら進歩がもう停滞しちゃうのです。一体正しいか正しくないかということは、学問をやるものは学問を通してやって見なければ、研究して見なければわからないのです。文部省の考えられている指導要領、そういうもの冬。正しいかどうかというようなことは、いかにあなた文部大臣であろうが何であろうが、かりに池…さんであろうが、おれが考えるからこのことは、正しいのだというようなことを言い切れますか。研究というものは、そういうものに対して自由が与えられているからこそ、私は常に進歩発展していくのだと思うんです。あなたは口ではすべてのものに研究の自由があると、こう言っていながら、なぜ一体、日教組という大きな集団が非常な努力をしてやっていることについて、そのような望ましくないとかいうような干渉がましいこと——と言いたいが、干渉がましいぐらいじゃない。あなたのほうは口をきわめてこれを誹謗し、宣伝いたしているではありませんか。どういう理由ですか。それはどういうあなたの自由なんですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 先ほど来申し上げます日教組の教研大会というものは当然批判さるべき対象だと思います。一般論として国民すべてが学問研究の自由を持っておる、学問の自由を持っておるということは、私もお説のとおりだと思います。ただ、ここに公務員として、特に教師として——教師と言いましても大学の教授じゃない、小中学校、高等学校の教師という立場においてものを考えます場合、その教師なるがゆえに組合を作れる、また、組合員であることは組織の決定には忠誠を誓わざるを得ない立場にあると理解しますが、正規の機関でその教研の目的をはっきり定めて教研行動をやるという場合に、教育課程は法律に基づいて文部大臣が定めねばならないとしてあるから、定めておる教育課程そのものを骨抜きにする目的をもって教研大会を組織の名においてやるということ、そのことは望ましくないことは私は当然だと思うのでございます。そのことは、その教研行動を通じまして、教師である組合員が組織の要求なるがゆえに教育の現場にそれを反映させるおそれがあるという意味においては、当然私の立場からは批判すべきものと思うのであります。
○小林武君 それでは、あなたは研究の自由は教師にはないと、こう考えるべきだということですか、そういうことでしょう。研究というものについて、研究の内容、目的その他についてかれこれ文句をつけられるということになったら、研究の自由ということはないわけでしょう。たとえばどうなんですか。学問の自由とか、研究の自由とかいうようなものは、権力にかれこれ言われる筋合いのものじゃないと思うのです。キリスト教がどんなに神の教えがどうであっても、結局、天体というものはどういうものだという、そういう科学的な発見に対してかれこれ言うことができないのと同じですよ。押えようたって押え切れないのですよ。そういうことによってキリスト教自体も発展できないのですよね。あなたのおっしゃることはもう明治憲法下のものの考え方と全く同じなんですね。政府がこういう考えを持っているから、お前たちはそのこと以外については研究してはいけない、研究をすれば、そのはね返りが実際教育上に影響を及ぼすから研究してはいけないとかいうようなことは、これはもう明治時代の憲法のものの考え方と同じじゃないですか、明治憲法下の考え方と。私はこういう経験があるのですけれども、何か国史の教科書か何かで、新田義貞が剣を稲村ケ崎で投げたさし絵を見て、これは剣を投げたから潮が引いたのではなくて、潮の引く時期に剣を投げたからそれで潮が引いた、その時期を見分けるということがなかなか大衆、当時でいえば軍勢どもの非常に士気を鼓舞するのに都合がよかったのだと言ったら、うんとしかられたことがある。そういうことはさし絵の指導としてははなはだ行き過ぎである、そういうものの考え方が戦前の学習の中には間々あった。教科書の誤りを指摘することさえ問題になるという時代だった。そういう考え方と同じじゃないですか。文部省のきめたことについて反対の結果が出ると困るから、研究については批判しなければならないということと同じじゃないですか。ただ、この際あなたに申し上げますけれども、日教組の教研大会というのは、学習指導要領を骨抜きにすることが目的だなんということは目的になっておりませんからね。もう少しあの膨大な資料をひとつお読みになっていただきたいと思う。そのことが、何か何回も何回もやってきたこの教研活動の大きなあれだと思ったら間違いですから、そのことが目標だなんということをお考えになっていただきたくない。そんなけちなものじゃないのです。ただしかし、文部省の考えであろうが、何であろうがですよ、国民に責任を負うところの教育ということ、真実を教えなければならない教育の仕事、憲法に保障されたそういう民主教育の線を守るためには教師は研究しなければならぬ。研究の自由を得て、研究の中で突きつめていかなければならない。その研究の結果から、あるいは自分たちの考えの誤りというものを発見するかもわからない。研究活動の中からさまざまな問題を、教師自身も自分の考え方の誤り、あるいは教育実践の中においてこういうことはまずいとか、こうあるべきだというようなことはたくさん生み出してきているわけです。それに対してあなたがなぜ批判しなければならないのか、批判されておそろしいようなことがあるのですか、あなたたちの中に研究の自由を押さえなきゃならないほど弱味があるのですか。なお、あなたの言葉尻をつかむわけでもございませんけれども、教育課程というのはあれでしょう、文部省がきめるわけでないでしょう。どこにそんなことが書いてありますか。教育課程は先ほども言った学校教育法施行規則二十五条、基準はそれは確かに小学校学習指導要領によらなきやならぬであろうけれども、どうなんですか、文部省はそういうあれですか。文部省の考え方に間違っているような研究をする者については、これは小学校であろうが、中学校であろうが、高校であろうが批判して、あるいはその研究をじゃましていくというような態度を改めないつもりですか。それではあなた憲法違反でないですか、教育基本法違反でもありませんか。どこにそんな権利があるのです。あなたたちに。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 政府の言うこと、なすことであろうと、文部省のやっておることについて批判をするということそれ自体を私は禁止せねばならないなどとはひとつも思いません。しかし、いかなる国民といえども、自分の研究成果について、結果について、それが発表され、行動に移された場合に、批判されることはこれは当然のことであります。そのことを批判されることそれ自体は、国民の学問の自由、研究の自由を制約することではないと思う。ただ、ここに先ほど申し上げましたように、教課に関することは文部大臣がこれを定めろということになっておる。それに基づいて教育課程が、基本が定められ、学習指導要領が定められておる。そのことを対象として骨抜きにするという意思を持っての研修が教育の場で具体的に現われることは、これは当然批判さるべきことだと思うのであります。意見があるという程度にとどまるものならば、何らそれ自体を批判する立場は私どもにはないと思いますけれども、教育の現場に、すなわち学習指導要領の趣旨ないしは教課に関する、教育課程に関することが定められておって、それを骨抜きにするという目的を持って、十分研修の結果が教育の場に具体的に持ち込まれたということでありせば許されないことであり、そのおそれがある限りにおいては、これに警告を発し、批判をすることは文部大臣の立場上当然のことだ、こういうことでありまして、何ら憲法に抵触するわけのものではなく、むしろ、日教組という組合組織がさような目的をもってやっておる限りにおいては、そのことがむしろ憲法的に見ていかがであろうか。職員団体の本来の行動の範囲以上に出ておるのじゃないかということを私は疑わしく思うくらいであります。
○千葉千代世君 関連質問。文部大臣は日教組の教育研究活動について非常に把握が間違っていらっしゃると思うのです。教育基本法の中にあるほんとうにこの平和を求めて、真実を貫いていく、こういう民主教育を確立していきたい、こういう大綱で教育研究活動は進められているわけであります。したがいまして、現場の先生方が毎日の教育活動を通じて、この辺はこう直したらいいのじゃないか、いいものはいい、悪いものは悪い、悪いものをよくしていくという努力がなければ教育の発展はないと思うのです。そういう意味で、現場の先生方が取り組んだレポートを出して、そうして、みんなで全国的にどうだろうかというように意見をかわすわけです。これはあくまでもよりよいものを求めていく。したがって、教育課程についても、文部省が教育課程をどう改めていくかということは、改悪の方向にいくのではないだろうか、一体これはどうだろうか、こういう疑問を持って心配するのは当然だと思うのです。その研究活動も押えていかなければならないとなりますというと、結局、昔のように、教師は馬のたてがみを抑えて真っすぐだけ見ていくという前提に立った教育の位置づけとか、自分の現場の教育活動をも全国の先生方とどれくらい進んでいるのか、おくれているのかということを見る芽をつんでしまうのではないかと思うわけであります。骨抜きにするために日教組が教育研究活動を進めているという前提のもとにおっしゃいますけれども、そうではないので、どこでそれをごらんになりましたか。それからもう一つは、先生たちが集まって、そうして自分たちの資質の向上をはかっていこうということが、やっぱり組合の規約の中にあるわけなんです。ですから、資質の向上の一面として、教師であれば当然の研究活動をしていかなければならない、そういう観点からお答えいただきたいと思います。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 教師が一人一人研究活動をやる、あるいは自主的にグループをなして研究活動をやる、その肝自体何らの制約があろうはずもありません。ただ、さっきも申し上げるように、その研修成果が現実に法律に定められている、それに準拠して教育が行なわれなければならないとあるものを、現実に、日教組のいうごとく、骨抜きにする行動があった場合、そのことは究明をさるべきことだと思います。そういうおそれがある目的をもって行なわれる教研活動、そのことに警告を発することは、当然だと申し上げるのであります。その教研大会の趣旨、目的というものは、私の承知する限りは、毎年々々の運動方針にその目的意識は明瞭にされていると理解しております。
○千葉千代世君 文部大臣は、日教組の教育研究活動の集会にお出でになったことがありますか、ごらんになったことがありますか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) ございません。
○千葉千代世君 どなたにそれをお聞きになりましたか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 私は今申し上げたとおり、毎年の運動方針そのものに、日教組みずからが教育課程を骨抜きにする目的意識を掲げており、そのことがそのとおりである限りにおいては、先ほども申し上げるようなおそれがあるから、警告を発する意味で批判をしておるのであります。
○千葉千代世君 現場の教師は、ものすごく真剣で、もっとまじめなんです。ですから、だてや酔狂で全国一緒に集まって、たくさん費用をかけて、時間をかけて集まるわけじゃないのです。やっぱり求めるものが切なるものがあるからこそくるわけです。その内容の柱になっているものは、やっぱり教育基本法の中にある精神に基づいてやっていろわけです。ですから教育課程というものが、どうもこれが教育基本法の精神が侵されるのじゃないか。それならもっといいものを作っていくようにみんなで考えようじゃないか。そういう先生方の意見が出たらば、これを組み入れていくという教育行政がなければいけないわけです。ですから、文部大臣のほうとしては、先生方の批判が出たらば、そういう問題があるのか、それならその批判を組み入れて、お互いによい研究をしていこうという立場、これは私たちが見て回った世界の教育行政なんです。文部大臣はそうではなくて、自分の気にいった研究をするものには補助費を出す、そうでないものには、教育委員会に命令して、出席させぬように陰に陽に妨害しているわけです。だから、民主教育をはばむものは日教組ではなくて文部大臣みずからなわけです。日教組はそんなファッショなものじゃないのですよ。これは規約をきめるについても、研究題目をきめるについても一人々々の意見が十分に組み入れられるように、各分会の会議があり、それから市、郡の会議があり、県の会議があり、またブロックの会議がある。それから全体の会議があるというので、組合員の気持というものがあらゆる場に反映できるような構成になっており、そういう運営がされておるわけです。五十万の教師が日教組の執行委員のきめたものを、これだけでやれ、はいなんというそんなファッショな組合ではないんです。むしろ、現場の先生方の教育意欲というものが執行委員会に向かって、たくさんの資料を出して、これはこうあるべきだ、それをもとにして、それからことしの課題は何と何だろうかということをみんなで持ち寄ってきめるわけなんです。ですから、組合の要求によって先生方が研究させられているのじゃないんです。逆なわけなんです。そういう把握が間違っていらっしゃるのじゃないですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 日教組は組合として組合綱領を持っておるわけであります。組合綱領の趣旨には忠実に従うという約束に成り立っておるものと思います。一方において、それぞれの集団としての目的意識を持ち、そうして組織の大会を通じてその年その年の運動方針が組まれ、その運動方針そのものに教研集会のことが定められる。その教研集会の目的意識は、まさに文部省の定めた教育課程を骨抜きにするものであるということは日教組みずからが明記している。その目的なればこそ、組合員であるから教研大会に出席する、そういう関係に立とうかと思います。そこで、そういう教研大会をやって、倫理綱領に基づいて教育の現場で勤労に従事する性格を持った教師でございますから、その相互関係を念頭において考えます場合、法律によって定むべしとされておる教育課程そのものを骨抜きにされることは、少なくとも大学でない、小中学校、高等学校の教育の場においては黙過できないことだ。もし意見があるとすれば、その意見が、組合でなしに、学校もしくは自主的な教研グループの研修の結果として、文部省へ、もしくは教育委員会等へ意見として出されて、その結果誤りがあるとするならば、改めるまでは、骨抜きなどということで勝手にやるべきことではなかろう。主観的な立場でどうするということでなくて、法律で定めたルートを通って決定された教育課程、あるいは学習指導要領という趣旨に基づくべきものであろう。そうであるならば、骨抜きにされるということが現にあるとするならば、そのおそれありとするならば、好ましいことではない、こういうことを申しておるのであります。
○千葉千代世君 骨抜きという言葉に私はこだわっているわけではないのです。そうではなくて、日教組のきめた命令によって教育研究活動が行なわれているというわけなんです。日教組というのは一体どれを指すのですか。日教組といえば全国五十万が組織しておりますから、五十万の一人々々が日教組の組合員なんです。現場の先生方なんです。組合員でなくて研究したものというのはどういうことなんですか。より多くの意見を集めていくというのが、これが民主主義のルールでしょう。より多くの、一人でも多くの意見を——反対の意見もあれば、賛成の意見もあるし、もっとよくしていこうという意欲のあるものもあるでしょうし、たまにはめんどうくさいからもうこれでいいというものもある。いろいろの意見の人がある。それらの意見を総合するには、総合する場所がより広くて、判断の材料がよりょくならなければ、よりいい意見が出てこないわけなんです。ですから、ことしの研究活動についてこういうことをやろうなんということであれば、組合員一人々々の意思というものが働いて、ずっと現場から上ってくるわけです。きめられたことは組合員自身がきめたことなんです。日教組のだれかがきめて、それを押しつけて命令して、教育課程を骨抜きにしろなんて命令してやっておるようにあなたは思っておりますが、そうではないわけです。非常な誤りがあるわけなんです。
○小林武君 文部大臣がいかにいろいろなことを言われても、大体骨抜きにするようなことがありとするならば——これは予想です。ありとするならば、そういう予想のもとにあなたが教育研究活動を妨害するということは、口で何ぼりっぱなことを言っても、研究の自由、学問的な研究の自由というものはあなた認めておらないのです。そうでしょう。一体教育という仕事をどうお考えになっておるか。教育という仕事がどういうものであるかということも、あなたは御存じないように思うのです。非常に創造的なものであり、それには自主的な性格を持たせなければならないということも、教育の実際面に入った者はよく承知できる。あなたはそれを考えない。法律できめられたものとか、あるいは、おれは文部大臣であるから、おれの思うとおりにならないような研究は許さない、教育は許さないとかいう感じが前からの質疑でもって明らかなのです。基本法十条に対する解釈自体からして、あなたのほうではとにかくそういう考え方がつきまとっておるわけです。どうして一体そういう想定をするのか。かりにですよ、かりに、あなたたちの言っていることが五十万の教師の研究によって骨抜きにされなければならないようなものであったならば、教育のために骨抜きにされるのは当然でありませんか。骨抜きにされないようなりっぱなものであるならば、幾ら研究してみてもそのものはくずされないですよ。研究というものはそういうものだと思うのです。研究を通して一体これはりっぱなものであるか、りっぱなものでないかということがわかるのですから。研究をしてみないで、こいつはけしからぬとか何とかいうことならば危険なんです。日教組の場合は、教育指導要領のいろいろな問題をとらえて、危険なものであるかどうか、誤りであるかどうかということを研究を通して検討していこうというのです。だから、日教組はほかの運動方針や何かと違って、ことしこの結論を出してこれに従ってどうするなんというものは研究活動の中にはないのです。ある意味では、いつでも常に未完成のものなんです。結論なんて出るものじゃないのです。常に現場の事実の中から検討されてやってくるのです。そういう片方のほうは研究の原則を踏まえて、基本を踏まえてやっている。それにあなたは一体、ありとするならばというような一つの予想をもって研究の自由に対して妨害を加えるというようなことは、これは文部大臣という職責からいっても誤りでないかと思うのです。あなたはどこにそういう研究の自由を妨げるだけの根拠がおありなのですか。文部大臣の職責として一体そういうものはどこにあるのですか、ないでしよう。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) それこそが教育基本法第十条に根拠を求めてしかるべき課題かと私は思っております。すでに申し上げたとおり、日教組の倫理綱領は間違っておると思います。教師に政治的中立などあり得ない、あるいは政治的には何でもなすという考え方に立たねばならないと理解されるところの倫理綱領、それに忠実でなければならない立場にある組合員、その組合員が組織の決定に基づいて集められて、そうして骨抜きにする目的を持つという目的意識をはっきり掲げて教研大会がやられるということは、教師の勤労内容が教育活動それ自体である限り、組合としての骨抜き目的というものが大筋としてはリードされていくべき方向であろうと想像することは当然の帰結だと思うのであります。現場にその骨抜き目的の倫理綱領に忠実な角度から導き出された骨抜き目的の教育活動が持ち込まれないことを期待しますけれども、すでにして倫理綱領を持ち、運動方針でそのことを明確にしております限り、持ち込まれるおそれを感じないほうがおかしいと思います。そのおそれがあると考えられる限り、そのことについて文部大臣の立場で批判を加える、これは当然の私は職責と、その意味において思います。
○小林武君 まあ被害妄想というか、そうでなければよほど意図的なことを日ごろお考えになっておる方の御発言のように思われるのです。私も長い間、日教組の中におりまして、その間に十一代ですか、文部大臣がかわった。その文部大臣の中で教研集会というものを見て下さった方はたった一人、その文部大臣のお話を聞くと、文部大臣が教研集会に行くといったら、そでをつかんで引き戻そうとした文部省の役人がいたそうです。振り払ったか振り払わなかったかどうかは知らないけれども、自分の目で確かめないうちは批判することはできないということで、その文部大臣はおいでになった。私は当時、責任者として、文部大臣がこられるということを聞いた。聞いたのはどこから聞いたかというと警察署から聞いた。文部省とかその他そういう関係のところから、ただいま大臣が行かれるからという話を聞いたのではなく、警察署から聞いた。今、文部大臣がそちらのほうに向かわれたがどうなさいますかという、こういう通知の仕方です。そういうばかげたことを一体今まで文部省というところはとってきた。そのおそれがありとするならば、なぜ研究集会の中に文部大臣はきてみないのか。私は大会にくることについては一度反対したことがある。大達文部大臣が、私に、札幌大会にぜひ出席したいと、こう言った。私はそのときに率直に申し上げた。大達文部大臣がいらっしゃって、札幌大会にきていただくということは私は実は困る。なぜならば、教育二法その他で非常に両方とも相当興奮している時期だから、大臣がいらっしゃったときに、ヤジったり悪口を言ったりするというようなことは、大会の運営上はなはだ好ましくないからかんべんしてもらいたい。文部大臣はどうなってもかまわんからひとつ呼んでくれと、こう言う。そのときにも私は大臣さんに、それよりかも教研集会をごらん下さい。日教組というものを一番理解されるには教研集会が一番です。大臣はぜひおいで下さいということを言った。しかし大臣さんは大会を非常に御執心になった。私はついにどうしてあんなに札幌大会に大達さんが熱心になられたかということは、今でも理由がわからぬですけれども、なくなられたし、お聞きする機会もなかったのですけれども。たった一人、そのたった一人の松田文部大臣の御批判は、文部省ではどういうふうに受け取っておられるか。私は松田さんから聞いた。文部省で、なぜ一体、文部大臣みずからきてそれを見ないのか、単なる想像ではないですか。文部大臣は見ないでいろんなことを言われるようですね。その前にひとつ私はお尋ねしておきたいことは、倫理綱領をひとつあなた言ってみて下さい。あなたの言った倫理綱領と違う。私は十年間も日教組の中にいたんですから、責任者として。あなたの今言った倫理綱領はどこを探してもない。倫理綱領とは何を指して、どういう部分を指して、日教組が大会で決定したその倫理綱領にはどういうことが一つ々々、何々がどう書いてあるか、それを言ってもらいたいと思う。それを言わずにいいかげんなことを言ってもらっては困る。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 倫理綱領は十項目から成り立っていると承知しております。簡単に注釈が加わっておる。それだけでは理解しにくいと見えまして、日教組のみずから表わしましたパンフレットで注釈書があると承知しております。この倫理綱領は単純なスローガン的なものだけでは真意は理解できない性格のものと理解しております。注釈書もあわせ読んで理解されます結論は、この歴史的課題解決のための有能なにない手となるような青少年を育成せよということを目的意識として掲げておる。その基本的な考え方は、階級闘争理念に立つ労働者の意識を持って団結こそ最高の倫理なりという考え方に立って、さっきも触れましたように、この歴史的課題解決のためには教師は政治的には何でもやるという覚悟でなければならない。したがって、教師に政治的中立などはあり得ないという趣旨をもって倫理綱領が十カ条にわたって書かれておる、そのことを私は指摘するのであります。
○小林武君 そういうことを断言されるからにはちゃんと示していただきたい。それからもう一つ、倫理綱領とその短い解説だけでは判断できない、いろいろ推しはかって見ればこういうことだということを述べられた。そのことをひとつ、どういう根拠によって、書かれてあるもの以外のどういう根拠によって政治的には何でもやるなんてどこに書いてありますか、言って下さい。何でもやるというところを読んで下さい、政治的には何でもやる。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 「新らしく教師となった人々に」と題する解説書に書いてあります。
○小林武君 倫理綱領のあれを読んで下さい。倫理綱領をまず言って下さい、あなたが十項目と言った。それからあなたの気に入るようなことを読んで下さい。どこにそういうことが書いてある。政治的に何でもやるとか、階級的な立場に立ってやるとか、どこに書いてありますか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) このことにつきましては、先般、当委員会におきましてもその点に触れて資料も提出をいたしております。今申し上げたことをもっと——具体的には全部私も記憶しておりませんので、必要ならば政府委員から補足いたさせます。
○小林武君 先般というのはいつのことか知りませんけれども、私は新参者ですから前の委員会については聞いておりません。しかし、新しい者は過去のことについて質問してはいけないということもないでしょう。私はあなたにそのことの説明を求めます。それだけのことを断言されて、政府委員に説明させるなんということはないでしょう。文部大臣の責任でやって下さい。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 全部暗記しておりませんので、補佐させる意味で政府委員から申させます。
○小林武君 そういう無責任なことは言わないで下さい。あなたが少なくとも日教組の倫理綱領をとらえて、政治的に何でもやれるというようなことを結論までつけた。どこにそういうふうなことが書いてありますか。あなたはそれだけのことを言い切るからには根拠がなけりゃならぬですよ。私は先ほどからいろいろ議論をしましたけれども、根拠は述べてあるはずですよ。教基法第十条では、あなたとたいへん意見が食い違いましたけれども、私は少なくとも政府委員がどう答えて、条文は何と書いてあって、こう言っている。あなたも議論するならば、それだけのひとつあれをやって下さい。私はそういう議論をここでやろうとは思いませんでしたけれども、本意ではありませんけれども、あなたがやって、とにかく説明して下さい。簡単にひとつやって下さいよ。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 今その資料そのものの持ち合わせもありませんし、時間もとりそうでございますの で、政府委員のほうが手っとり早いと思って、補佐させる意味で政府委員に言わせようということでございます。
○小林武君 私も先ほどから、政府委員がお答えになったほうが都合のよろしいものは政府委員でよろしいと思った。私はそういうことについて横車を押す気持は毛頭ないのです。あなたが倫理綱領について十分なお考え方を持たないで、あいまいな程度の御理解であるなら、私もそのことについて政府委員からの答弁で満足していいのです。ところが、あなたは何ですか、至るところで日教組征伐、日教組の倫理綱領は革命教育の何とかだと言いふらしている。それだけのことを言い切るのですから、日教組征伐こそ、文部大臣荒木萬壽夫の責任である、こういうことまであなた断言なさるくらいなんですから、あなたをそう考えさせたあなたの執念というものが倫理綱領なんです。その倫理綱領をここで申し上げられません、資料もございませんということをおっしゃるということは、ちょっとおかしいじゃないですか、あなた。あなた、何でそこまで、妙なところまでいったのですか。教員の研究の自由なことを議論するのに、わざわざあなたは引っぱり出したのですよ。私はそんなことを議論するつもりはなかった。また、きょうもそういうことで長く時間を取ろうとは思っておりません。あなたが文部大臣をやっているうちに、いつかひまなときに徹底的にやろうと思っておりますから。あなたはたくさんの人がおる中で言ったことです。あなた、やって下さい。政府委員の考え方というのは必要ないです。補佐する人の話をこういう重大な問題で聞く必要はないですよ。
○委員長(北畠教真君) 速記をとめて。 〔速記中止〕
○委員長(北畠教真君) 速記を起こして。 暫時休憩いたします。 午後六時十三分休憩 —————・————— 午後七時三十六分開会
○委員長(北畠教真君) これより委員会を再会いたします。 休憩前に引き続き、質疑を行ないます。 御質疑のおありの方は順次御発言願います。
○小林武君 まあ先ほどからるる私が申し上げていることは、教育という仕事の専門性、これはまあ免許法そり他から見ても当然肯定されることだ、それから教育という仕事自体が世の中の進歩に即応していくというか、ある意味では世の中の進歩というものの先頭を切っていく、こういうような性格のものであって、そういう教育の性格の上に立って教師が仕事をするという場合に、やはり研究ということが非常に重大なんで、その重大な研究を怠れば、これはもう教師は私は資格がないと思いますけれども、それに専念し、それに努力をするということは、どんな人でもこれはやはり認めなければならぬ。そのためには研究というものは、さまざまな制限を受けてやるものでもなければ、このテーマ以外にしてならないとかいうものでもないのですね。どこまでもやはり教師の自主性、教師の創造的な意欲の上に立った研究活動、したがって、その研究活動に要求されるものは研究の自由である。ところが、そのことは憲法や教育基本法の中にも私は明らかに認められているにもかかわらず、文部大臣の話を聞いているというと、どうも、端的に言えば、指導要領のワク内での研究は認められるけれども、指導要領のワク外にはみ出たような研究をやるということについてはこれを批判し——私は批判というようなものであれば、これは厳密な意味における研究上の批判ということであるならば、これは私は、別段目に角立てて討論する理由のないことだと思うのですけれども、これは誹謗である、文部大臣の言動は。それから教育研究そのものを認めないという態度が、日本の教師集団の研究活動に対してもそういう態度があるが、一体これはどうしたことか。あなたの研究の自由ということは、指導要領のワク外に出ていけないという研究の自由なのかどうか、この点について答弁してもらいたい。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 指導要領のワク外に教師の研究活動が出ていけない、そういうことは一ぺんも申したことはございません。憲法に保障しておる学問の自由というのは国民すべてに適用される課題である、ことに御指摘のとおり、教師という立場の者が勉強し、研究しなければならないという趣旨は公務員法にもございますのみならず、教育公務員特例法にも、勉強しなければならないという趣旨のことがあります。また、文部省であれ教育委員会であれ、教師が勉強をする便宜を与えなければならぬし、援助しなければならぬという趣旨のことまであると私は記憶しております。そのとおりだと思います。
○小林武君 ただいまの答弁については、私もそうでなきやならぬと思うのです。ところが、そういうワク内にとどまっていなければならないという制限がないものとしたら、たとえば指導要領自体にも疑問を抱き、指導要領自体について疑問を抱いて、これを教育の上から肯定できる問題なのかどうか、こういう一体疑問を持って研究するということも認められていいと思うのです。私は学問なんというものはそういうものだと思うのですよ。教育上の問題だって同じことだと思う。こういう指導要領でいいかどうか、これが完全な、日本の国民を養成する一体教育内容であるかどうかという疑問を持つ、あるいはどうもこれについては自分は反対の考えを持っている、そのことを確めるために研究をする、そのことも当然認められるべきものだと思います。これが研究の自由だと思う。だから、必ずしも研究の自由というようなものは、学問の研究というようなものは、すべての人に満足をもって迎えられておることではないと思う。特に文部大臣というような立場にある人たちが、文部省の指導要領を何とかして完全に実施したいというような考えに立った場合に、必ずしもその研究というものは、あなたの意に沿うものだけが研究だとは、そう言われない、その点はどうですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 今おっしゃるような意味でならば、むろん指導要領それ自体を検討することは当然として、検討する結果、指導要領それ自体の誤りを指摘し、よりよき意見が出されるということは望むところでございます。私が申し上げるのはそうであったとして、そのことを直ちに現実行動に移す前に、その意見が望むところであると申し上げますゆえんのものは、学校それ自体、もしくは教育委員会と一緒でもけっこう、直接、文部大臣に対してその意見を述べていただくという結果が出てくる意味においてむしろ期待することだと、そういう意味で指導要領であれ、教科書それ自体であれ、場合によっては法律制度そのものについても意見というものは検討の結果出てくるものと思います。そういうものは教師それ自体の立場において意思が表明せられ、そのことが文部省にも述べられるということは望むところ、ただし、それ自体は別個の法人格を持った集団でございますから、あえて日教組に限らず、教職員組合それ自体は政治団体でもないわけでございますから、今申し上げたような意見、批判等が、教育委員会、もしくは文部省に述べられるという機会は、私は教師プロパーの立場において期待するところであります。
○小林武君 そうしますというと、研究の自由の中には、研究をひとつ営むところの団体の種類によっては研究の自由がない、団体によって制限を受ける、そういうことになりますか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) そういうことではございません。何人といえども、国民それぞれが研究、勉強、学問の自由を持っておる。教師もまた持っておる。それが研究の成果を発表することも含めて自由であると解されると思います。ただ、学習指導要領なり教科書検定を受けた教科書以外使ってならないという教科書も含めまして、それについては検討を加え、意見を述べることは自由であることも含めまして、勉強、研究の自由があると思いますが、だからといって直ちに自分の研究成果のいわば主観——客観的な研究をなす努力はなされるでしょうが、いわば主観でしかないと言えると思いますが、それだけでもって教科書の改訂あるいは学習指導要領の改訂というものが行なわれる以前に、その意見を取り入れられて、より適切な改訂が行なわれる以前に現実行動に移すということは、教師の場合の研究の自由の中に含まらないであろうということを申し上げるのでございます。
○小林武君 そこで、今皆さんともお約束しておるわけですから、私もなるたけ妙なところへ入らないようにと思って質問をしているのですけれども、あなたはすぐそういうところへ持っていくからだめなんです。あなたはとにかく余談があって、それでもってとにかく議論を進めていくから、いつでもあなたと議論をやっていったら、行かなくてもいいところへ巻き込まれていく、僕があなたに聞いているのは、学問の研究をやる、あるいは教育上の諸問題を研究するという、そういう研究をする団体に、この団体ではいけないとか、あの団体ではいけないとかいう差別はないでしょうと聞いている。差別があったらば、それは研究の自由ということにやはり触れると思うのですよ。お前のところではこういうことをやっていけないとかね、こういうことはないでしょう。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) むろん一般的に申しまして、いまさっき、団体いかんによって差別があるかというふうなことをおっしゃいましたから触れたわけでございますが、団体によって、その意味においての差別があるはずがないと心得ております。
○小林武君 その意味においてというのは、団体によって差別がないということでしょう。何かそのほかに何か含みがあるのですか。そうすると、あなたは、結局はどういう団体でもですよ、研究の自由というのは与えられているでしょう。あなた先ほど言っているような議論は、大体お答えになっていることは私はまともだと見ているのです。そうしたら団体、どんな団体であっても、あるいはどんなサークルであっても、どんなグループであっても、こういうことをやってみたいということについて自由があるはずです。たとえば、文部省の方がひとつ教育学的なことを研究しようといったところで自由があると思うのです。文部省の人たちが研究して悪いこともないでしょう。その点では同じじゃないですか。どんな団体でもいいということならば、何かいわくがあるような話じゃなくて、あるならばあると、そこではっきり言ってもらいたい。どれならばだめだと言ってもらいたい。また、そうすると妙なことになるけれども。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 個人でも団体でも研究の自由があることは当然であります。
○小林武君 そうでしょう。それならば、研究をしているところの問題について、一体今後あなたは、誹謗するようなことや、あるいは研究の意欲をそぐようなことは、御承知のとおりこの研究に関する限りはないということになりますね。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 研究ということそれ自身は、今も申し上げましたとおり、個人であれ、団体であれ自由だと思います。それに対して批判をするということは別個の問題であると思っております。
○小林武君 私は先ほども言いましたが、たとえば研究の結論というようなものはなかなか出ませんけれども、一応の研究の成果というようなものは、結果というようなものは出るのですね。それが完成されたものでなくともやはりある。そういうものについて研究の立場から、たとえば民主教育というような問題についてもいろいろな見方があるでしょうから、そういう点について、だれだれの研究についてはこういう弱点がある、こういう誤りがあるとかいうような研究上の批判というものは、これは許されます。しかし、その批判が研究そのものを妨害するような、あるいはそのことによって研究することが何か不当であるというような、こういう印象を与えるようないろいろな批判というものは、これは批判でなくて妨害なんです。研究の自由の阻害なんです。そういうことはなさらないでしょうねというのです。僕はあの研究の成果はこういうことをいっているけれども、あれについては教育学上から見れば僕はやはり違うと思うとか何とかということは、それはけっこうなんです。学説の違いということもあるでしょう。そういう場合にはひどいものであるということも、私も多少外部から見ていて考えることもありますから、そういうことの論争だとか、批判だとかはけっこうですけれども、研究そのものを妨害したり、研究そのものをとにかくできないような、外部から非常に疑惑を持って見られるようなものの言い方で批判するということは批判のうちに入らない。学問上、研究上の妨害だ。そういう妨害的なことはやらないということですな。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 研究、勉強の自由がある。その勉強することそれ自体を妨害することは許されぬと思います。ただ、研究方法、研究成果含めまして批判されることは当然であります。
○小林武君 文部大臣の批判というのは、先ほどの私の言う批判と同じものでしょうか。それとも批判と言わないで、その場合に研究の妨害といったほうの問題に入るでしょうか、どういうことでしょうか。私の批判は学問的な立場、あるいは教育的な研究の立場に立って、あの研究の成果については自分は納得しない。僕の研究のあれはこうだということでやり合うことは当然だ。それがなければ草間上の進歩も、研究上の進歩もないと思うのです。だから教育に対して、もうほんとうにさまざまな議論ができるということ、このことが私は教育を進歩させると思うのです。学問上のことでも私は同じだと思う。自由にそれぞれの立場に立って、自分の学説を主張するということは正しいことであります。そういう意味のことをおっしゃっているのか、あなたの批判は。そうでないのか、どうなのですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 学問することが自由であり、研究することが自由である。それに関する限り何人も容喙することはできない。完全に自由である。ただ研究する方法、研究成果それ自身及び研究成果の具体的活用、そういうことにつきましては批判を受けることも当然だと、これはもう一般的にいってそういうことだと思います。
○小林武君 私は研究の自由という問題について、今の文部大臣のおっしゃることはちょっと理解ができないのです。具体的にどういうことをおっしゃっているのかわからないのですが、ひとつ今のことを、態度、方法とか、結果の処理の問題とか、いろいろあるようでございます。その点について御説明をお願いいたします。理解ができません。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) さっき申し上げたとおりでございます。
○小林武君 そんなことないですよ。そんな無責任なことないですよ。そんな無責任なことありますか。だから僕は文部大臣は無責任だと言うのですよ。私はね、先ほどから同じことを何べんも言っているんですよ。お互いに研究し合って、その研究し合っている研究者同士、あなたも私は研究者であって何も不思議でないと思います。文部大臣として教育に対して一つの見識を持っておられる、何も学校の先生でなければだめだとか、大学の教授でなければならぬということは私はないと思います。これはお父さんでもお母さんでもけっこうだと思います。その研究者の立場から、私はたといそれがりっぱな研究に対して素朴なそれは一つの批判であっても、研究するという立場からの批判というものは、これは認めらるべきだと思います。そういうことを私は何も言っているんではない。そういう批判であるならばこれは認められる、ただし、あの研究は不届きである、ああいう研究をしているから、とにかくあれはどうだとか、結局その研究自体が進められないような、研究の妨害になるようなこういうやり方というものは、私は研究の批判ではなくて、研究の立場に立つ批判ではなくて研究の妨害だと思います。研究の自由のそれは妨害をしているということになるわけです。こう言ったのです。そうしたらあなたは、研究するということについての自由は持っていると言いますから、それはやってもいい、しかし何ですか、研究の方法、研究の結果の処理の仕方、そういうような、ものによってはこれは何といっても批判をしなければならぬという意味のことをおっしゃっていますが、具体的に一体どういうことなのか、ひとつ聞かしてもらいたい、こういうのですよ。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 研究することは完全に自由だと思います。また、それに対して批判がなされることもこれまた批判する側から立てば自由である。そういうものだと思います。研究することそれ自体を抑圧するとか、あるいは妨害するとかいうことそれ自体もなすべからざることである。そう思います。ただ、批判さるべき対象としましては、勉強しておる内容それ自体についての批判ももちろんでしょうけれども、勉強する態度、勉強した結果が発表されたというその発表を通じての批判、あるいは研究成果が実行行為に移ることがあるとして、その実行したであろうことそれ自体、これまた批判する側は批判する自由がある。また批判されることについて、批判されたことに異議を差しはさむ、反論することは別としましても、批判することそれ自体があるべからざることだという関係じゃなかろう、そういうことを申したわけであります。
○小林武君 そのことを具体的に言って下さい、よくわからないというのですよ、あなたのおっしゃることは研究の自由を抑圧することはいけないことだということは私もあなたと全く同意見なんです。文部大臣、もういいですか、あなたはたいへんいいことをおっしゃっている。研究することは自由だ、それを抑圧することはできないということは、これはいいことなんです。抑圧というのですから、力を持ってこれをあれすることはできないと思いますね。だから、そういう態度というものは、私は研究の自由だと思います。しかし一つひっかかることは、あなたがそれから言った言葉なんです。研究する態度、その結果を通じて行なうところ、結果を通じてどうとか、それから成果を実行の行為に移すということについて、これについては批判することができる。こういうことは具体的に言えば、一体どういうことなんですか、抑圧するということはいけないことだ、こういっておりながら、これをつけるのは一体どういうことか。そうすれば、これは抑圧するというような意味を含まないことだと思いますね、抑圧の中に入らない事項でしょう、抑圧するということは悪いということだから抑圧しない、批判というのは、これは一体どういうことなのか、説明をいただきたい。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 少し具体的に申せば、ある教師が勉強をして、——小林さんの引例されましたことを拝借に及べば、学習指導要領それ自身を勉強してみた、しかし、この学習指導要領は自分としては反対だという結論を持った。それまでは勉強の自由であり、何ら異論を差しはさむ余地のない勉強の態度だと、その結論が出たからといって、さらに学習指導要領そのものと反することを現に行なうという場合には、当然批判さるべきであろう、こういうことであります。
○小林武君 学習指導要領に反することとは具体的にはどういうことでしょう。これは学習指導要領という言葉を使われたから私は申し上げるのですが、学習指導要領——たとえば小学校なら小学校の学習指導要領、その学習指導要領に反すること、この反することというのは、具体的に教師としてやり得ることは一体どういうことなんでしょうか。私は教育の実際に携わった人でないと、なかなかこの点についてはわかりにくいことだろうと思うのですね。だから僕は、お役人さんのいうことは、机上ではいろいろ通用しても、現場にいったらなかなか通用しないような議論をなされるということを感ずるわけです。一体、学習指導要領に反することというようなことは、たとえばどういうことなんでしょうね。もしもかりに反することというようなことが、たとえばこの間、参考人を呼んでいろいろなことを聞いた場合に、歴史的な事実についてこれは取り扱うなというようなことを、そういうことをどんどん——あれですか、たとえば、こういう歴史的な事実が教科書には書いてなかった。しかし、教科書にはないけれども、こういう問題を取り扱う際にはこういうことも子供に教えてやらなければならない、そういって取り扱った場合には、これはあれですか、反するということになりますか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 学習指導要領に、まあ学年別にこういうふうに教えるということがあるといたしまして、その指導要領に書いてある基本線に沿って、その趣旨をかえって充実させる意味において取り上げられたことは別に違反しているということにならぬと思いますが、学習指導要領に基本線として定められているそのこと自体を違った——たとえば一年生ではこういうことを、二年生ではこういうことをと学年別に分けて書いてあると記憶しておりますが、二年生、三年生で教うべきことを一年生で教えるほうがよろしい、そういう勉強の結果であったら、学習指導要領が改訂されない前に、自分の主観で、三年生で教うべきことを一年生で教えるということは当然批判さるべきだと、そういうことになります。
○小林武君 ほんとですか、これはまあそういう例が適切であるかどうかということになるわけですけれども、たとえば、単級で教育をやる場合、複式、複々式の学校でやる場合なんというのは、事実上、そういうことが行なわれているのじゃありませんか。そういうことを認められておりませんか。それは、教授の、事実上、そういうことはあるのじゃないですか。今、絶対許されないということになっていますか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 今、例外的な場合を指摘されましたが、それは認められておるという意味において、それ自体が批判さるべきことではないということであって、一般論と申し上げれば、さっきのように考えるわけであります。
○小林武君 そういう例が適切でないということは、文部大臣、責めませんよ、文部大臣知っているわけでもないのですから。しかし北海道の学校に行ったら、六割近いものが複式ですよ。そういうところに行って、今のような議論をしたって、だめなんですよ。だから、私は、ほんとうのことを言って、おおげさに、皆さんが、学校の教師のさまざまな工夫をかれこれ言うのは、ちょっと、おかしいと思うのですよ。現場に、やはり密着していない方の御意見だということを、ときどき感ずるわけです。革命教育をやるなんといったって、一体、革命教育なんというものが、どうやってやられるものか、週に二十何時間も、三十時間近い授業をやらされておって、しかも、それは、小学校で毛、何から何まで、みなやらなければならぬ。あるいは子供の発達段階では、もう話にならぬです。 そういうようなことで、少しあなたたちの考え方は、ほんとうにやはり現場に密着したものの考え方じゃないのです。私は今、そういうことをここであなたと論争してもしようがないと思いますからね、これ以上やりませんけれども、やっぱりあなた、お考え願いたいことは、教師というものは、研究の意欲がなくなったものは、ほんとうはやはり教師としては不適格だと思うのです。それは私ども、今の人間の教師としての能力といいますか、何といいますか、実力といいますか、そういうようなものは、多少低くても、この教師が、とにかく少しずつでも伸びていく、子供と一緒に成長していくこいうような、そういう教師であるならば、私は教師としては資格があると思いますけれども、現状にとどまっているとか、逆にだんだんぼけてくるというようなものは、私は教育者としては、これは一番不適格な人間だと思うのです。そういうことから考えたら、教師の研修の大事さということは、一番これは、だれよりかも、やはり教育行政をやる人たちは、それに目をつけて、どうしたら研修がよくできるかというような条件の整備に、うんと力を入れてくれたらいい。ところが私は、残念なことに、条件の整備ではなくて、へんな研究やったら承知しないぞとか、こういう研究やってるのはけしからぬ、大体研究の妨害のようなことばかりやっているから、私は日本の教育は能率を落としていると思うのです。だから私は、あなたがあとのほうでひっつけた研究の態度——何のことですか、この態度というのは。私は態度というのは、あなたたちが言おうとするのは、こんなことじゃないかと思っているのですよ、実はね。文部省の考えているような考え方に、こいつは同調するかしないか。しないというような態度でやるような研究はけしからぬということを、考えているのじゃないか。そういう人間が研究した結果というものが出てきた場合は、文部省のやり方に反対するというようなことが出てくるのではないか。あるいは日常の活動でもって、その成果によって実行に移して、われわれの考え方を骨抜きにしようとするのじゃないかという、そういう考え方に立脚しているところに、私は誤まりがあると思う。これでは研究の自由はないでしょう。先ほどから私が、るる申し上げているように、疑問を持たなければだめですよ。自分が完璧にいいと思うようなことでも、自分のやっていることにも間違いはないかというようなことを感じながらきわめるところに研究があるのじゃないですか。ましてや、過去の教育において、権力がさまざまな間違いを起こしたということは教育基本法にも憲法にも言っているじゃないですか。文部省の政府委員が教育基本法を作るときに、官僚やその他の権力が教育にさまざまなあれを、害を及ぼしたということを答弁しているじゃありませんか。みずからがやった人が、みずからのことを反省しているじゃないですか。あなたはさっき、あなたの論法を聞いているというと、帝国憲法時代だから、そういうことはあったけれども、今の憲法のもとでは絶対あやまちがないような何かものの言い方をしようとしますけれども、とんでもない話だ。いつの時代でも、権力というものは政府行為というようなものの中にも、とにかく批判の目を向けて、そうして憲法や基本法の精神にしたがった方向にいかなければならぬというようなことは憲法や基本法の中に書いてあるじゃありませんか。 だから、研究というものは、どこまでも自由な態度でもってやらせるということが必要なんです。教師の私はそれは権利だと思うのです。権限だと思うのです。それなしに国民全体に責任を負うとか、日本の将来に責任を負うというような教育はできないですよ。上からくることは、はあはあそうですかといって、どうして一体、それだけのあれが持てますか。幾ら荒木文部大臣ががんばっても、私は教育の、今五十数万、六十万というような教員のやっている教育の責任を一身にこの荒木が負いますといったところで負えませんよ。だれも許さぬですよ。今起こった教育の問題を後ほど批判するというようなことが起こり得ることもあるんですからね。そのときに、あのときは荒木さんが文部大臣であったから、荒木さんのところへ文句を言いに行こうなんという人は一人もおりません。先生は何を教えてくれたんだということを言いますよ。そういう立場で、教師の権限というものを認めるのでなければ、私はだめだと思うんですよ。あなたはしかし、まあ、腹の中に日教組の問題や倫理綱領の問題があるので、なかなか答弁がしにくいようですが、私もまた、それに触れないように質問するということは、これはまた容易でない、やれば大体このくらいの話に終わってしまうわけですけれども、まあ、ここではあなたの答弁は必要としません。とにかく教師にそういう権利を持たすのは当然だということを私は申し上げたい。 それからもう一つ、私は今の教師の問題を考えるについては、やはり教員組合というものを抜いて考えることはできないと思います。これはあなたは、どうお考えになっておりましょうか。私はある国の——日本じゃないです。ある国の大学の教授という人に訪問を受けて、いろいろ教育上の話を聞いたら、あなたは、——私に——これから進歩的ないろいろなことをやるなら、教員組合をお作りになったらいいでしょうということを言われた。文部省へいったら、別なことを言われた。教員組合を作りたらいけませんよ。教員組合でなくて、日本でいえば研究団体のようなものを作りなさい、こう言われた。私は文部省の考え方について、やはりそういう点が心配なんです。教員組合運動というようなもの、もう世界どこの国へ行っても認められたことなんですね。教員組合を作るということが教育上に非常に悪影響を及ぼすなんということをいう、そういう議論を言う時代ではないんですよ。あなたはこの前でしたか、私の前で言ったんですね、アメリカの教員のつめのあかでもせんじて飲んだらどうですかというような演説を僕ら聞かされた、ということは、アメリカの教員は、教員組合なんというものを作らないということをあのときは大衆に訴えたと思うのですけれども、私はそういう見解でも、ずいぶん狭いと思うんですね。確かにアメリカの教員組合というのは数が少ないんです。しかし、アメリカ大使館からもらった情報によりますというと、去年、ニューヨークの教員が、その少ない教員組合に自分たちの問題をまかせるか、それとも非常に大きな教育団体であるNEAですか、それにまかせるかという投票をやった。ニューヨークの教員は結局教員組合にまかした。これはたいへんなアメリカの教育界の画期的なできごとであるというような意味のことが、そのアメリカの大使館からもらった情報の中に書いてありましたね。ほんとうにアメリカの教育をよくするためには、ニューヨークの教員は四万何ぼとかあるそうですけれども、それらの人間がほとんど投票したそうですけれども、教員組合運動というものに、自分たちのあれをまかせようということをやったそうです。私は、そのことのいいとか悪いとかということを今ここで述べるわけではありません。とにかく常識ですよね。世界の常識ですよ。だから、私は、教員組合運動というものについて、日本の教育を考える場合には、あなたに質問をしておかなければならぬと思うんですよ。 お聞きしたいことは、一体どうでしょう、教師の自主的な立場に立って、教員組合という集団を作って、そうして教員が自分たちの問題を解決し、その自分たちの問題というのは、やがて教育と全く関連のないことではないのです。教員の政治的な、あるいは経済的な問題を解決していくということになりますというと、社会的、経済的地位の確立というようなことを考にてやっていった場合に、これは教育と無関係ではない。そういう団体ができて、そしてまたその目標の中に、教育もよくしていこうという考え方を持った場合、こういう一体教員組合の結成、そういう集団の存在というものは、あなたの考え方からいってどうでしょう。そういうものはけしからぬという考えでしょうか。やむを得ないと考えられますか。当然だと、好ましいとお考えになりますかどうですか。そういう点についてのご意見を承りたいのです。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 御質問の趣旨を十分に把握してないような気持でございますが、教員組合、職員団体である教員組合を作ることは自由であって、それ自体に一点の疑いも、疑問も私は持ったことはありません。そして法律に定めるところの、もろもろの勤務条件の維持、改善について、法律で保護される性格を持った団体として行動することは、これは自由であり、そのほかに、事実問題として、その教員組合という団体が何をしようとも、法律の範囲内である限り、かれこれ言われるべき筋合いでもあるまいと。ただ、職員団体として保護されないであろうとは思いますけれども、事実問題は、かれこれ言うべきことでもないと思います。組合は自由に作れる、何人もこれをはばむことはできないという建前になっておると承知しております。
○小林武君 組合ができて、組合の活動をするということについては、これはあなた御異存がない、異論がないようでございますが、この教師が、日本の教育をよくしていこうと、日本の教育の問題で、いろいろな研究をしようというようなことについては、これはどんなものでしょうか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 今も申し上げましたように、団体として保護される範囲内ならば、法律に規定したとおりの行動半径であるべきであり、その他のことについて集団として行動しますことは自由であると思います。組合としての法律の定むる行動半径以内の実際行動が、法律の範囲内でなければならぬことは当然といたしまして、そのうち内にある限り法によって保護される、行動半径以外のことは自由だと思います。
○小林武君 それでは、たとえばそこにおけるところの研究とか、教育に対する研究とか、あるいは教育に対してさまざまな意見をまとめるとかということについても、別に異論はないわけですね。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 御質問の焦点がちょっと……。もう一度お願いします。
○小林武君 今のあなたのお話の中で、ちょっと含まれているかどうかということが心配なものですから、お尋ねいたしますが、たとえば教員組合というような集団が一つできる〜、これについてはあなた労働条件の問題とか何とか、そういうことをやることについてはけっこうだと、こうおっしゃったのですね。 そこで、私はその教員の集団というのは、さらに自分たちの労働条件の問題だとか何とかいうことを解決するということは、いい教育をやろうという問題とつながるわけですがね。これはだれもいなめないと思う。労働者がたくさん金を取るとか、自分たちの生活をよくしようということは、そのいい労働条件の中でうんと能率の上がるようなことをやろう、生産を高めていこうという、あれがあるからで、自覚のある組織労働者というものの手によって、どんどん生産性は高められていく、どれいの手によっては生産は高められなかった、ある時期を過ぎると、近代の労働者というのは、労働組合を作ることによって生産というものを高めていく、これが教員の場合でも同じことだと思う。教師としてのいろいろな労働条件、そういうものを高めてよくし、賃金の問題についても、とにかく教師としての十分研究もできるし、とにかく教師としての生活が、りっぱにできるということを獲得することは、教育をよくするということと、やっぱり直接つながる、だからこれらの団体が教員組合として、あるいは父母の団体であるとか、子供という大きな集団、そういうものと、かかわり合いを持ちながら教育を高めていこうとする研究や、あるいはそういう運動をする、あるいはそういう教育のさまざまな催しの中に、自分たちの意見を集団として述べる、こういうこともあなたは別に、これはけしからんというふうなお考えはお持ちではないでしょうね。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) それが法律上禁止、制限されてない限りにおいて事実上、団体として行動しようと、それは自由だと思います。
○小林武君 法律上というのは、どういうことでしょうね。その教育をよくしようということが、何か法律に触れるというふうなことが想定されますか、教育をよくしようというので法律に触れるというようなことは、そういうことは具体的にございますか。あなたたちの考えの中には、そういうお考えがずいぶんあるのですがね、あるようなんですが、それと、もう一つ、この間これは高山委員からも御質問が出ておったのですが、たとえば、文部省の中に、さまざまな審議機関のようなものがある。そういうようなものに、この教師の集団の意向というものを取り入れるような、そういうやり方は今まででも文部省に要求してきた。当初においては、そういうことが認められてきた、たとえば教科書の問題についても教科書の問題で、そういう教師の集団から出た人たちがいて、そうして自分たちの集団としての意見を述べるということがあった。だんだんそういうものがなくなって、そうして文部省と教師との意見の開きがだんだん大きくなって、最後は対立し、対立が激化するというような好ましくない方向に行ったのですけれども、そういうような問題については、どう考えておりますか。法律に触れるとか触れないとかいうことはちょっとよけいなことで、法律に触れたら悪いにきまっておる。法律に触れるということは、どういうことを意味しておるかしりませんが、すなおに、一体そういう教職集団の意見というものを反映させる道というものは、あなたはお考えにならないのかどうか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 教育をよくするという包括的なお話でございますので、ちょっとお答え困難ですけれども、今引例されました文部省と教員組合との団体交渉というのは、制度上当初は認められておった時期があったと思います。法律が改正せられて、それがなくなった、そして今のたとえば地方公務員法という法律によって、職員団体の行動半径が附記されたその限りにおきましては、法定された行動半径以外の事実上の行動というものは、法に触れない限り自由であると思いますが、その範囲においては、法律上の保護は集団としては受けられない範囲の事実行動だろう、こういうふうに思います。
○小林武君 今の、ちょっとあれは、文部大臣は何か団体交渉のようなふうに解釈されたのですが、ちょっとそれとは違っておったのですが、どうなんですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 審議会のメンバーの中に、教職員組合の推選したものが入っておった時期があった、今ないのはどうだということのようでございます。これは今がまともな姿だと思います。
○小林武君 今がまともな姿という、あれほどういうことでしょう。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 教員組合というのは、法律的にその集団としての行動半径が規定されておる。それが職員団体であり教員組合だと思います。この団体は、その行動半径に関する限りにおいての集団であって、審議会等の委員のメンバーに、職員組合の、教職員組合の代表者が入るということは性格が違うものと、私は思います。もし教員の専門的な経験を生かす意味において、その意味において学識経験者として審議会等に入ってもらうとするならば、たとえば学校長、たとえば教育研究団体の代表者、そういうがごとき人を、その角度から選ぶのが当然であって、職員組合から選ぶということは筋が違う問題だと、私は思います。
○小林武君 当初、それでは選んだときは、どういうことになったのですか。今のやつが本筋だけれども、その本筋以前のときは、それでは、どういう理由で入れたのですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 今お答え申し上げたような趣旨が混乱しておったのじゃないかと想像します。
○小林武君 福田局長にお尋ねいたしますが、それは混乱のために、そういうことになっておったのですか。
○政府委員(福田繁君) 私の承知しておりますのは、かつて教科書に関する審議会等に入っておったときがございます。これはもちろん文部大臣の諮問機関でございますけれども、当時の情勢上、これはやむを得ず入れたというような状態でございます。
○小林武君 当時のやむを得ない事情をひとつお述べ下さい。
○政府委員(福田繁君) 私の聞いておりますのでは、当時の審議会の構成等につきましても、一々当時の進駐軍から、いろいろサゼスチョンなり、指導を受けたわけであります。そういう関係もあったと思います。
○小林武君 それでは進駐軍の要請によってやむを得ず入れたということを確認してよろしいですか。
○政府委員(福田繁君) 私はそのように聞いております。
○千葉千代世君 関連、私はたしか昭和二十四年だったかと思いますけれども、やはり文部省の中に、文部大臣の諮問機関でありますPTA審議会というのがあったわけです。ミス・カロンという人がいて、そのときに審議委員に入ったわけです。同じく日教組から三人入っておって、その後も入っていた。同時に教科書の検定委員の中にも入ったのです。それは進駐軍からいわれたのではなくて、当時の文部行政が戦後の中で、やはり皆の意見を多く取り入れてやっていく、それには教員組合皆の意見を持ち寄って、そうしていろいろな意見がたくさんあるところから、そういうところの意見を参考にしたらいいじゃないかといって、これは審議会が自発的にやったのです。別に進駐軍は、確かにPTAのときにミス・カロンという人が来ておったですけれでも、進駐軍からいったのではないわけなんです。だから、そういう意味でやはりあらゆる人の意見を聞いて、そうしてより広い研究の場を持っていくという、やはり審議会の本質が生かされておったのじゃないでしょうか、私はそう解釈しております。 ですから、今もその当時からずっと、昭和二十九年で終わったと思いますけれども、PTAの審議会には、たしか文部省社会教育課で二宮さんという人がおったわけですけれども、あの方が中心で、よく会を開いて、文部大臣なんかもずっとおいでになったりして、その同窓会みたいなものがあるわけなんです。それをときどきやっておりますけれども、実にいろいろのお母さんの代表もあれば、校長さんの代表もあれば、組合の代表もあるし、いわゆる学識経験者の方々もお出になったこともある。そういった何ですから、今でも話し合ってみて、ほんとうに意見が自由に言えて、いい会であったなあと思っておりましたが、PTAを作る当時の理想と違って、だんだんPTAはお金を集める会になったのは残念ですが……、そういう会を持っているのですけれども、ですから、進駐軍が言ったからどうということではないと思うのですが、いかがでしょうか。
○政府委員(福田繁君) 私の申し上げましたのは、教科書の審議会のほうのことで、あります。
○小林武君 福田局長にお尋ねいたしますが、今、千葉委員の問題ですね。これはどういうことですか。教科書だけ切り離すのでなくして、文部省が、そういういろいろな審議機関に教員組合の代表を入れておった、私はこれは正しいと思うのですよ。これは、あなたはあれですか。今の答えですというと、教科書のほうはやむを得ざる事情、進駐軍からおどかされて、やむを得ざる事情だと、こういうことでしょうね、千葉委員の今言ったあれは、おどかされないでと……、どういうことですか、やむを得ざる事情というのは。
○政府委員(福田繁君) 私は千葉委員の御指摘になりました、その委員会なるものを詳細には承知いたしておりませんけれども、私の記憶するところでは、それは文部省の審議会ではなくして、PTAの規約あるいはあり方というものを進めるために、文部省以外のところに別の組織として作られた委員会ではないかというふうに考えております。これは法律上設けられました諮問機関ではないというふうに私は理解をしております。
○千葉千代世君 私は文部省の審議会だと思って入っておったのです。たしか辞令みたいなものをもらったのです。審議会委員を命ず、文部大臣。それと同時に、いろいろな審議会ができたのです。みんなやはり文部省が一緒だったのです。
○政府委員(福田繁君) 私は社会教育審議会ならば、そういうことはなかったと思いますが、千葉委員の御指摘になりましたのは、別の委員会か何かではないかと思います。
○小林武君 しかし、PTAの関係ならば、文部省の所管でないですか、それは文部省の、それじゃあ関係の人たちは、一人も出ていないあれですかね。どういう人が出ていたか、そういうことになりますがね。まさか千葉委員がどっかの、全然文部省もようわからぬ、組合もようわからぬというような人が出ておったのではないでしょう。千葉さんは、古くから組合運動をやった人です。その人が文部省を見間違ったり、組合員を見間違ったりということはないでしょう。あなたそういうことをおっしゃるのは、ちょっとおかしいではないですか、わからぬというのは一番いい手ですけれども、あなた、ちょっとそれについては無理があるのではないですか。
○政府委員(福田繁君) 私が記憶しておりますのは、そういう委員会でございます。
○小林武君 記憶の問題でないですよ。これは重大なんですよ。この問題は記憶しているとか、していないとかの問題でないですよ。そういうことではないでしょう。文部省の関係のそういう団体に、当時は教員組合の代表という者も入れたという、この事実はちゃんとあるのではないですか。その事実を、あなたは片一方のほうは、おどかされてやむを得ずというようなことを言って、片一方のほうは、よう知りませんというようなことは言えますが、一切そういうものは、進駐軍におどかされてやりましたということなら、そういう答弁をなさいよ。あなたのほうは、聞けばたくさんいるのだから……。
○政府委員(福田繁君) 千葉委員の御指摘のありました委員会は、調べてお返事をいたします。
○小林武君 そこで、私は、教員組合に対するあなたたちの考え方というのは、実にあやふやだということを非常に痛感するわけです。おどろかされてやむを得ず、教員組合などとは、文部省は話もしたくなければ、相手にもしたくなかったんだけれども、進駐軍におどかされてやむを得ずやったというような、こういうことを今ごろおっしゃるようなことでですね、こういうあなたたちの態度がね、私は、あの戦後から今日に至るまでの間に、日本の教師の集団と文部行政というものを非常に悲しむべき方向に持っていった大きな原因を一つなしていると思うのです。私たちは、文部省の人たちとか教育委員会の人たちと接触を持っておった経験持っているわけであります。その中で、それぞれ、今は教育委員会においても、文部省においても、いわゆる大幹部といわれるような人たちが、当時の若い人たちの中からたくさん出てきた。そういう人たちを見ているというと、あの当時の状態と今の状態と、よくもまあこんなに人間が変わるもんだと思うような、こう思うのですよ。よくも人間というものは、こういうふうに変われるものだと思う。荒木さんは知らなかったから、もともと地が、こういう人かなあと、こう思っておりますけれども、長くやはりわれわれと接触を保ったような人たちの中には、教育委員会の中にも、あるいは文部省の中にも、私はそういうことを感ずる人が相当いるのです。まあいろいろなことを言うと差しさわりがあるから、個人的な問題は言いませんけれどもね。私はそういうものの考え方が、実際日本の教育をある意味において毒しているとさえ言えると思う。 たとえば、私はもう、この問題については、ほんとうに残念だと思うのですけれども、新教育指針の問題について文部大臣にお尋ねしたところが、文部大臣は、そんなものは知ってはいないと、こう言う。その新教育指針に対して、それでは文部省というのは一体どういう態度で、あれを教員一般に出したのかということを回答を求めたら、実際あれだけのことを書いておきながら、ほんとうに三くだり半というが、三くだり半といいたいような報告をしたわけです。当委員会に対して。官房長もたいへん率直に、大した御期待に沿うほどのあれはできませんでしたと。なるほど御期待に沿うほどのことじゃなかった、その内容も。私はこんなことで、日本の教師に対して一体文部当局は責任を感じないかと思うのですね。法律でも政令でもないと、占領当時の事情を背景にした参考資料である。わしたちには責任はないのです。こういうようなものの言い方です。これは。現在では教育の指針は、憲法、教育基本法、学校教育法等の法令に明記されている。何ですか、それは一体。こういう一体無責任なことを、今あなたがおっしゃるように、進駐軍におどかされてやむを得ずと、こういうことなんです。マッカーサーによって、マッカーサーの指令を徹底させる必要は、今はもはやなくなりましたと、これはマッカーサーに言われてやむを得ずやったんですと書いてある。あなたたちはマッカーサーに言われたら、うそでも何でもみんなどんどん国民にいって、国民の一番大事な教育の問題を惑わすようなことも平気でやるということなんですか。福田さん、このあなたのほうから出た報告書について、そういうことを書いていますからお尋ねするんですけれども、これを僕は言うじゃないですよ、あなたのほうで書いた……。しかし、私はきょうこの中に、新教育指針の内容なるものを書いて持ってきている。これを見ると、私は少なくとも教育基本法や憲法の趣旨に沿うたことが、少なくとも内容の主たるものをなしておることが、この項目の中に全部書いてあるんです。あれだけ膨大なものを出しておきながら、一体そういうようなあれですか、回答であなた教師に対して済まないと思いませんか。これを見て一生懸命になってやったやつは、どういうことになるんです。お前らばかなことやった。実は、おれはそんなに熱心じゃなかったんだけれども、マッカーサーに言われてやむを得ずやったんだと、本心は別なんだよと、こういう言い方ですわね。しかし、その間の事情というものは私はわかりますよ、文部省はどう変貌していったかということは。あなたどう思いますか、こういう回答をお出しになって、何もあなたあれですか、責任を感じませんか。そんなことわからぬ教師のほうがぼんくらだということになりますか。あなたの所見を聞きたいんです。
○政府委員(福田繁君) すでに資料で申し上げましたように、当時の体系のもとにできた資料でございます。したがいまして、その中に書いてある事柄につきましても、憲法その他の新しい方針を記述していることは確かでございます。しかしながら、この新教育指針そのものは、新しい教育内容というものができるまでのひとつのつなぎと申しますか、そういう趣旨でできたものでございます。 したがって、その後において学校教育法あるいは教育学習指導要領というようなものがだんだんきまって参りましたので、したがって、画然その中に、必要な部分は新しいものに引き継がれてきた、こういうように私どもは見ております。 したがって、過渡的なものとしてそういうものが出たわけでございまして、本来法律とか、あるいはまた政令とかいうようなもので形式があるならば、当然廃止の手続をとるべきものであった、こういうように考えております。したがいまして、そういう手続が何らとられなかったことについては遺憾でありますけれども、当時の事情としては、そういうものでございますので、現在の新しい教育のやり方としては学校教育法、学習指導要領に基づいて、十分そういう趣旨もくみ取られて実施されているわけでございます。
○小林武君 私は、意地の悪い言い方をするようですけれども、この中に書かれてあることは、あれですか、法律でも政令でもないのだから参考資料なんだ、マッカーサーの命令で伝達せざるを得ないからしただけの話だ、責任がないのだ、こういう考え方は、あなたの出した報告書の中にありますね。このことは認めますね。認めるか認めないか言って下さいよ。
○政府委員(福田繁君) 当時、司令部の助言を得たことは一笑のようでありますが、何人かの関係者によって、その助言に基づいて、そういう新教育指針というものを書いた。したがって文部省において、それを発表したという点においては文部省の責任はあると思います。
○小林武君 あなた今助言ということを、一言われましたけれども、「マッカーサー指令を徹底させることはもはや必要ではない」と、こう書いてある。指令ですか、助言ですか。指令と助言は同じですか。
○政府委員(福田繁君) 私申し上げましたのは、それを書くに至りました経緯については、これは司令部の助言があった。その助言の内容はおそらく指令を徹底させる趣旨において、そういうものを作れ、こういうようなことであったと思います。
○小林武君 あなたに聞いているのは、指令ですか、助言ですか。あなたのほうの理解では指令と助言とは同じことに理解しているのですか。こう聞いているのです。
○政府委員(福田繁君) 指令と助言とは違うと思います。
○小林武君 それじゃ、この文章の中には、指令と書いておりますね。「もはや指令を徹底させる必要はない」と書いてある。指令ですか。
○政府委員(福田繁君) その意味は、現在においてマッカーサー指令を徹底させる必要はない。こういう意味だと思います。
○小林武君 現在、そういう必要はないということは、何の関係があるのですか。何の関係で、そういうことを言い出さなければならぬのです。だれに言う言葉ですか、それは。私が資料を要求したから、今さらマッカーサーの指令を徹底させる必要はないということは、何にひっつけてそういうことを言うのですか。言う必要のないことではないか。もしもこれが助言であるならば、何でそんな言葉をつけなければならないか。マッカーサーの指令と言ったら、たいへんびっくりするような男だから、ひとつひっつけてやろうかというようなあれですか。何か必要あって、それを書いているのですか。あなたのこれはあれですよ、この文章読んだら、あれですよ、マッカーサーの指令によってやったのだけれども、今やマッカーサーの指令を徹底させる必要がないのだから、もうこの新教育指針なんていうようなものは、ほご紙同然とは書いてないけれども、そういう意味で、あなたのほうでは言っているのでしょう。マッカーサーの指令でしょう。 委員長、さっぱり局長返事をしてくれないのですがね。戦後の混乱した時期であるから、占領政策の徹底、こういうことも書いてある。マッカーサーの指令を徹底させる必要はもはやない。こう書いてある。これは指令なんですか。重大なことなんですよね。新教育指針というものを理解する上において重要なことなんです。あなたたちは、マッカーサーがおそろしくて書いたのなら書いたと言えばいい。指令だから、とてもこれはもうたいへんなことになると思って書きました、読んで下さるほうは、別な意味で読んで下さればけっこうだと、こういうお考えであったかどうか。当時、そういう考え方があったようですね。これからアメリカ進駐軍がやってきたら、おそらくアメリカは日本に対して、アメリカ流の教育をやるだろう、それには抵抗しなければならぬというようなことを、当時の文部高官が談話を発表したということは、朝日新聞ですか、そういう談話を発表したということは、今でも記録に残っている。国体の護持に専念しなければならないような趣旨の、あれをやったのでしょう。だから、そういう意味であなたたちは、一時を糊塗するために自分たちの意思に沿わないようなことをやっているのだ。それを受けとめる教員たちのことは考えなかったのだ、こういうことならば、こういうことのようにはっきり言って下さい。私はこの間の報告を、そういうふうに文意をとった、間違いないでしょう、私の読み方は。
○政府委員(福田繁君) その資料そのものについての説明をしたちもりでございます。したがって、その資料そのものは、当時のマッカーサー指令なり、占領政策というものを徹底させる趣旨においてできた資料だということを前提といたしまして、現在は独立している日本国でありますから、マッカーサー指令を徹底させる必要はもはやないのだ、そういう意味におとりいただいてお読みいただきたいと思います。
○小林武君 ばかにするにもほどがある。今マッカーサー指令を徹底させる必要がないなんて、一体気違いみたいな言葉じゃございませんか。だれがそういうばかなことを考えているのですか。マッカーサーはもう死にかかっておる。アメリカの遠い果てから指令なんか受け取る、何をそんなことをびくびくして断わり書きする必要があるのか。私はこれをだれが書いたか知りませんけれども、これを書いた人は、相当意図的に書いたと思います。私は少なくとも、まじめな要求に対する資料の書き方じゃない、この文章は。一体マッカーサーの指令の徹底が今必要がなくなったというのを、われわれに何で報告しなければならぬのですか。なぜそれが必要なんですか。そうではないでしょう。そうではなくて、あなたたちが書こうとすることは、これはマッカーサー指令なんです。新教育指針などというようなものの内容は、さっきもあなたが、言ったけれども、やむを得ざる事情、占領軍におどかされてやったのだ、だから価値がないのです。たいしたものじゃないのです。こういうことでしょう。
○政府委員(福田繁君) そういう意味で申し上げたのではないと思います。その趣旨は、すでにそういう時の背景を持って出された資料でありますから、現在の段階におきまして、そのものは、いわば自然的に効力はなくなっておる、こういう趣旨のことを言いたいために書いたのだと思います。
○小林武君 そのうしろのほうだけはほんとうですな。効力はなくなったほご紙同然ですと、私なりの言い方で言えば一番端的なんです。ほご紙同然な、こんなものを今ごろ出されたって、一体何のきき目がありますか、そんな、ものの言い方でしょう、そのために書いているんですね。とにかくあなたたちの出す文章としては非常に失敬な文章だと思う。 そこであまり憤慨ばかりしていてもしようがないから、当時これをお出しになった文部省の責任者はあなたではないのですけれども、一体受け取るほうの教師の側というのは、あるいは教育に関係する側というのは、この新教育方針をどう受け取ったと御判断になりますか。
○政府委員(福田繁君) 当時、それを書いた人も、おそらくまた、それを読んだ人も、そのとおりにまじめに考えたと思います。
○小林武君 まじめに考えて、現在もなおかつ、そのことについて、一つの教育の指針としておりましたならば、それはどういうことになりますか、だれの責任ですか。
○政府委員(福田繁君) 先ほど申し上げましたように、その以後におきまして、学校教育法、あるいはそれに基づく学習指導要領というものが、教育内容がきめられております。それに従って、教師は教育を実施してもらうことが当然であります。したがって、そういう意味において、そのとおりに、もし抵触する部分があるとすれば、そのとおりにそれを守っているということは、これはあり得ないと思います。現在の学習指導要領その他によってきめられております教育内容というものを当然にやるべきでございますから、私ども、そういう者はいないだろうと考えております。
○小林武君 その中で、教員組合運動について書かれたところがございますね。福田さんは、そのところを御存じですか。
○政府委員(福田繁君) 読んだことはございますが、今ちょっと正確におぼえておりません。
○小林武君 正確ということは、大筋についても御存じないということですか。福田さん、あなた御報告をわれわれに出したのでしょう。それであなた、そのときに新教育指針なるものをあなた局長ですから、みずからそういうことをやられなくても私はけっこうだと思うのですけれども、少なくとも、私どもが何を問題にしているかということについては見当はおつきになっている。たしかあのとき、私はそういう問題に触れたような気がするのですが、あなたはあれですか、ほんとうにそういう問題については、ここで発表できないほど不正確なことにしかなっていないのですか頭の中で……。
○政府委員(福田繁君) 読めばすぐわかると思いますが、記憶が薄らいでおります。だいぶ前ですから。
○小林武君 読みなさい。そこで読んで下さい。
○政府委員(福田繁君) ただいま手元に持っておりません。
○小林武君 そんなことありますか。持ってきなさいよ。資料を要求しているんですからね。あなたのほうで、そんな準備がないというのはおかしいですよ。
○政府委員(福田繁君) 私は本日、資料要求を伺っておりません。
○小林武君 本日は資料要求をしなくてもですよ、資料要求を出しておったらどうなんですか。その資料について、その直後でなければ説明の必要はないということですか。私はまだ新しいのでよく承知いたしておりますが、私はその資料を要求したときに、どのくらいかかりますか。こう聞いたんです。なぜ聞いたかというと、このことについて、少なくとも文部省が今の教育と関連して、この問題についての御意見をひとつ述べて下さいということを、文部大臣が御存じないというものですから、私は希望したんです。そうなりますというと、私は今の教育との関連においてやるということになる。なかなかかなり大きなこれは資料になると思ったんです。ですから私は、皆様方のいろいろなあれもあることですから、御事情もあることですから、どのくらいお待ちしたらよろしゅうございましょうといったら、二週間という。それから二週間たっても出ないわね、私も実はちょうど選挙の時期でございましたから、ずいぶん長らくあけておりました。その後官房長に、できましたかと言ったら、できましたという、出して下さいと言ったら、しばらく忘れておって、二度、三度催促をして出していただいた、そういう経緯があるのです。この資料について、あれですか、資料を配付されたときの直後でなければ、あなたたちは、それは答えられないというあれでもありますか。これは私のわがままな言い方ですか、議員として。そういう慣例があったら、ひとつお知らせをいただきたい。私もむちゃは言いたくない、ルールは守りたいですから。
○政府委員(福田繁君) あるいは私の誤解かもわかりませんが、書いたもので差し上げたのが、私は資料だと考えておりました。したがいまして、もしきょうお尋ねがあるということがわかっておりますれば、用意いたしまして、そういうものを持って参ったはずでございますが……。
○小林武君 持ってきて下さい。持ってきて、聞かなければならないことです。私もきょう持ってこなかったのは不覚でありました。たいへん大きなものですので、きょうは持ってくるのをちょっとなまけたということもあるのですけれども、文部省はお持ちになるだろうと思ったから……。なぜかというと、私は、今の教員組合運動のところで、ぜひともお尋ねしたいことがあるのです。ただし、私は、文章を読まなければならぬということは言わないのですよ。あなたが大体、どの程度のことということになれば、私も、大体のことはうすうすわかっているのですから、そんなに一字一句違わないようにというととは、要求しているのじゃないのですから、福田さんが、大体、こういうようなことですということを言えば、決してむちゃは言いません。
○委員長(北畠教真君) 速記をとめて。 〔午後九時七分速記中止〕 〔午後九時二十二分速記開始〕
○委員長(北畠教真君) 速記を始めて。
○小林武君 教員組合の問題について今読み上げられたところ、もっとあるような気がしますね。教員組合運動というものは、あやまった教育に対する干渉に対しては抵抗しなければならない。そういうことが書いてあるところがあるのです。そういうような一体、教員組合に対する考え方というものが非常に大きな変わり方をした。あなたは、指導要領において、新教育指針の内容は訂正されていったとおっしゃるけれども、一体その教員組合、労働組合というようなものに対して、もう、やはり当初のころあったでしょう、教科書の中にはね、そういうものは一体指導要領の中で、どういうふうに取り扱うというように変わったか私はよくわからないのですが、労働組合というのは述べてはない。教員組合なんというものに対しては認めない方向にいこうというようなことが新指導要領の中にあるんですか。
○政府委員(福田繁君) 指導要領に、さようなことはないと思います。もちろん憲法に保障しております団結権については、それぞれの段階において、教科書その他においても取り上げられております。したがいまして、労働組合等につきましても、教科書にも取り上げ、あるいはまた、学校の教育の場においても、そういうものを教えておるわけでございます。
○小林武君 まあ今の答弁は、私の聞いていることに直接答えているようにも思えませんけれども、私はこれは、あまり長くなるのでやめまして、一つお尋ねいたしますが、新教育指針というようなものが、とにかくやはり大きく、その中に盛られている内容の中には、そのまま残されているもの、あるいは教育基本法の中に引き継がれたものもあるし、先ほども雑談の中で申し上げましたけれども、まるっきり戦後の教育が現在の教育に至るまでの間に、何か外国から押しつけられた異質のものとして、そこに位値づけられたものじゃないのですか。そういうことを一つ考えたときに、私はその取り扱いについて、われわれのところに出されたような文書というものは、あなた遺憾の意を表されたけれども、遺憾の意ぐらいではおさまらぬということです。同時にあなたたちは、一体そういうものに対して非常に真剣に取り組んだ当時の教師に会って、どうですか、世の中が変わったんだから、頭の切りかえをやったらどうだというようなことが言えますか。私は役人と教師の違いは、そこに始まると思うのです。あなたたちはどうも文部大臣で……、私は、割合に気楽だと思うのです。法律が変わったんだから、こうなったんだと、これは役人の考え方なんです。教員が人にものを教える、教員組合というものは、こういうものですと、労働組合の運動というのは、こういうものです。教員の組合もできました、教員組合というのは、今までなかったけれども、こういうふうに考えなければなりませんと、教師が子供に教えて、五年ほどたったら、あれは、とんでもない考え違いのことであった、今はこうなった、こういうふうに簡単に切りかえられていけないところに、教員の仕事があるのです。だから、真実に執着を持たなければならない、執念を持たなければならない、そうでないというと、大恥をかくということは、これは戦前の教員をやったものは、みんな赤恥をかいた、文部省の中にだって、そういうことについて経験を持った人もないわけではないと思う、役人ばかりではないから。学者という立場、あるいは教師という立場で相当骨身にしみるようなことを味わった人がおるはずだと思う、文部省の中に。そういうことに対して、一体福田さんは、初中局長としてどう考えていらっしゃいますか、どうですか。あなたはこれほどの文書をお出しになった方ですから、ぜひあなたの心境を聞きたい。そうしてこのことは、少なくとも教育の問題を論ずる上において、あなたの意見を参考にしなければいけない、文部省とわれわれの間で、この問題をどこまでも究明していかなければならない問題だと思う。 どうですか、あなたはあれですか、その当時の教師が、この新教育の指針をどのような気持で、これを受けとめ、それをどう自分の中で消化していくか、現在、そのことについて、一体どう変わってきて、それに執着しているような教師がいたら、これはばかということになりますか、法律が変わったのに何だということをあなたはさっき言ったが、そういうことで、簡単におさめられると思っておりますか、どうなんですか。
○政府委員(福田繁君) 私は、現在の指導要領あるいは新教育課程の扱い方におきましても、新教育指針と百八十度変わっているとは考えておりません。と申しますのは、御承知のように、この新教育指針が出ました一瞬は、修身、地理、歴史の授業というものが、進駐軍の命令によってストップされました。したがって、それにかわるべきものとして、新しい教育の内容をこういう形で示したものでございます。したがって、いろいろ表現は違っておりましても、この中の相当の部分は、現在の新しい教育課程の中におきましても、考え方として引き継がれておるものと考えます。 たとえばこの新教育指針の中にございますのは膨大でありますけれども、第一部は、新教育の理論を述べております。第二部は、新教育の実際を説いております。その中で、新教育のあり方として、たとえば人間性とか、人格とか、個人の尊重とか、あるいは宗教的教養の向上とか、民三主義の徹底とか、そういうような現在の教育基本法において取れ上げられているような問題も、この中にすでに同様に取り上げてございます。したがって、これは百八十度転換しておるとは考えておりませんので、そういった意味で、私は現在の学校の教育内容におきましても、当時の新教育の指針というものが引き継がれている部分が相当あるというように考えているわけでございます。
○委員長(北畠教真君) ちょっと速記をとめて。 〔速記中止〕
○委員長(北畠教真君) 速記を起こして。 本案に対する本日の質疑は、この程度にとどめ、これにて散会いたします。 午後九時三十四分散会