文教委員会 第27号
- 発言数
- 372 件
- 登壇者
- 17 名
- 会派数
- 4
- 開催日
- 1963/06/25
会議録
○委員長(北畠教真君) ただいまより文教委員会を開会いたします。 きょうの委員長及び理事打合会について、御報告いたします。 委員会の運営について協議した結果、本日は、まず義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律案について、参考人の意見聴取並びに質疑を行なうことに決しました。 以上、御報告いたします。 —————————————
○委員長(北畠教真君) それでは、義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律案を議題といたします。 これより、本案について、参考人の方々より意見を聴取することにいたします。ただいま御出席の参考人は、東京教育大学教授家永三郎君、東京都教育委員会委員長木下一雄君、埼玉大学教授海後勝雄君、教育出版株式会社社長、社団法人教科書協会会長北島織衛君、以上の方々でありますが、板橋区立上板橋第一中学校教諭吉村徳蔵君は、間もなくお見えになる予定でございます。 この際、参考人各位に一言ごあいさつ申し上げます。 本日は御多用中のところ、本委員会のためにわざわざ御出席を賜わりまして、まことにありがとうございます。ただいま本委員会は、義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律案を審議しておりますが、本案は、広く関心を持たれている法律案でございますので、この際、各方面から御意見を承ることになり、本日、御出席を願った次第でございます。したがいまして、各参考人の方々には、それぞれのお立場より本案に対する御意見をお述べいただければ幸いと存じております。 それから、本日の議事の進め方について申し上げますが、最初に各参考人から順次御意見をお述べ願い、全部の参考人の意見陳述が済んだ後、委員の質疑にお答え願うということになっております。 なお、参考人一人当たりの御意見をお述べいただく時間は、理事会の申し合わせにより、お一人約十五分程度にお願いすることになっておりますので、お含みおき願います。 それでは、まず、東京教育大学教授家永三郎君からお願いいたします。
○参考人(家永三郎君) 私は日本の歴史を専攻する研究者でありまするから、この法案を教科書行政の歴史の流れのうちに位置づけることによって、この法律がもし実現した場合に、どんな役割を果たすであろうかということを考えてみたいと思います。 御承知のように、戦前においては、小学校においては国定教科書が用いられ、文部省の定めた画一的な内容によって教育を行なうように義務づけられておりました。しかもその画一的な教育の内容は、反民主主義的、軍国主義的、非科学的な内容に満たされておりました。ことに私の専門といたします日本歴史の教科書のごときは、客観的史実ではない神代の物語や、神武天皇の話などから始まっている非常に非科学的なものであったことは、戦前に小学校を御卒業になった方々ならば、どなたでも御承知のとおりでございます。中等学校では検定教科書が用いられておりましたけれども、それも、文部省の定めた教授要目によって内容をこまかく定められておりましたから、多少のバライアティはあったといたしましても、国定に準ずる画一的な色彩の強かったことはいなめません。非民主的、軍国主義的、非科学的という性格は、中等学校の教科書についても同様だったのであります。 このような教育が、民主主義的、平和主義的、科学的な国民を育成するのに役立たないのは当然であります。 満州事変から太平洋戦争に至る日本の悲劇をもたらした原因はいろいろあるといたしましても、一九四五年の日本の破滅を引き起こした責任を論ずる場合は、戦前の画一的、反民主主義的な教育が大きな責任をまぬがれないのであり、そのような教育を国民に押しつけてきた教育行政こそ、最も大きな戦争責任を問われなければならないのであります。 戦後における教育の改革は、このような教育の責任を反省し、教育行政を根本的に改めるところから出発いたしました。教科書行政について申しますと、国定教科書制度を廃止し、義務教育学校の教科書をも検定といたしまして、しかも、戦前の検定のように拘束力の強い教授要目で画一的な検定を行なうのでなく、検定の基準となる学習指導要領も拘束力のない試案にとどめまして、できるだけバライアティに富んだ教科書をいろいろと作らせ、教師に自由にそのうちから選択させることになったのであります。教科書に対する国家統制を最小限に押え、画一化を避け、日本国憲法の精神にのっとった民主主義的、平和主義的、科学的な教育が可能となるように道を開いたのであります。 ところが、不幸にして、十数年くらい前から制度の改悪がたびたび行なわれまして、戦後の新しい教育の理想がくずれて参りました。第一に、学習指導要領に拘束力が与えられ、さらにそれ以上に、教科書検定が強化されまして、教科書の内容が再び画一化されようとしつつあるのであります。ことに、それが、憲法の精神に反する反民主主義的、軍国主義的、非科学的方向に画一化されようとしております。そればかりでなく、教師の自由な選択の幅が狭められ、いろいろな地域において統一採択という名で、地域的な教科書採択の統制が進められておりまして、だんだん、内容からいいましても制度からいいましても、国定に近い制度に復帰しつつあるように思われるのであります。この法律案は、いわばそのような教科書画一化を、さらに一段と進めるものと考えられるのであります。義務教育学校の教科書を無償とするのは、もちろん憲法に定められた国家の当然の義務でありますが、この義務の履行が今まで放置せられ、今ようやくこれを実行するにあたって、採択の広域統一と教科書出版会社への統制という、国家統制を制度化する抱き合わせがついているということは、まことに遺憾なことと申さねばなりません。いわば無償というごちそうに国家統制の強化という毒薬をふりかけたようなものでありまして、幾らごちそうが食べたくても、毒薬のかかったごちそうを食べることは、とうていできないのであります。この法律が実現すれば、教師は教科書を選ぶ自由を法律的に奪われまして、戦争前のように天下り式に与えられた教科書で画一化された内容を教えなければならないという、全く自主性のない兵隊同様にされてしまうのであります。戦前の悲劇を知っている者にとって、戦慄を禁じがたいものと言わなければならないのであります。 それでは一体、何ゆえに教育者の自主性を奪い、出版会社の統制を行なってまで、天下り式に教科書を統一しようとしているか。その実質は何であるかということを考えてみますれば、それが教科書検定に非常によく現われております。結論を先に申しますと、憲法の要求する民主主義的、平和主義的、科学的な教育を次第に骨抜きにいたしまして、それに相反する教育内容を画一的に国民に与えようといたしまして、いわゆる教科書検定の強化などを行ない、できるだけこの教育行政担当者の欲するような内容の教育を一般に及ぼそうとするところに問題の本質があるように思われるのであります。しかしながら、検定である以上、いかに検定を強化しても、やはり若干そこに、この教育行政担当者の欲せざる内容が残ることが考えられますので、その点をさらに完璧にするために、さらに採択において教師の選択の自由を奪い、教科書会社を整理して教科書の数を少なくし、できるだけ国定に近いものにもっていこうとするのが、この法律案の実質的なお考えであると推測せられるのであります。このことは、私は単なる憶測によって申すのではありません。私は現在の教育行政の真の理念が何であるかということを、確実な証拠によって知っております。最近の教科書検定の実情が、それを明白に物語っております。私は日本歴史の教科書を執筆いたしまして、昭和二十七年度、三十年度、三十三年度及び今年度の四回にわたり、その原稿を検定に提出しているのでありますが、そのたびに検定権者から示されます指示あるいは不合格理由というものを見ますと、教科書行政の目ざすところが何であるかということが、非常に具体的に明らかにされるのであります。 たとえば、三十年度の検定において文部省は、教科書原稿に、貴族院、枢密院の存在が民主主義の発達に妨げになったとしるされているのに対して、この断定は妥当でない、これらがあったために、政党の横暴を防いだのではないかという意見を申して、その修正を求めております。これは明らかに過去の非民主主義的な機構を弁護するという以外に理解できないのであります。また、日清戦争の戦死軍人の遺族というさし絵がございますが、これはあの有名な帝室御物の松井昇という画家のかいた作品でありまして、遠くてごらんになれないかと思いますけれどもこういうさし絵でございまして、戦死軍人の未亡人が、遺児とともに遺品を前に涙をこぼしている絵であります。これは、はなばなしい勝利の蔭には、こうしたいたましい犠牲者のあったことを忘れてはならないという説明をつけておきましたところ、少なくとも写真の説明だけはとってほしいという要求が出ております。また太平洋戦争のところに、原子爆弾に傷ついて逃げまどう広島の婦人や子供というさし絵に対して、削除したほうがよいという要求を提出しております。これらは明らかに、戦争の惨禍を隠蔽することによって、戦争に対する国民の忌避の念を消し去ろうとする意図にほかならないのであります。 教科書検定におきますこのような傾向は、だんだん年を追うて激しくなりまして、今年度の検定のごときは、私の原稿を拠出しましたのは昨年の八月でありますが、八カ月たった本年の四月になりまして、ようやく不合格の通知を送って参りました。これでは、あらためて修正して画提出しても、今年度の展示会には間に合わないということになっておるのでありまして、このような検定手続の引き延ばしによって、欲しない教科書を使わせないようにするという、その点においても、はなはだ問題があると思うのでありますけれども、その不合格の理由として挙げられたところの内容には、さらに重要な看過すべからざるところのものが多いのであります。私は本年四月十二日に文部省に出頭いたしまして、文部省の渡辺、村尾、貫三調査官と、私及び出版社員四名と、合計八人列席の席上で、渡辺調査官から、口頭でその不合格理由を尋ねたのでありますが、不合格理由の中には、確かにケアレス・ミステークの指摘もございます。しかし、合格した理由を見ましても、ケアレス、ミステークを認めました上で、それを修正して訂正されるという措置がとられております。したがって、この点は、特に著しく私の教科書にケアレス・ミステークが多いというのでない以上、根本的な理由とは考えられないのであります。むしろ史実の選択に著しい欠陥があるというところに、実質的理由があると推測されるのであります。どのような点が、史実の選択の点において著しい欠陥を示すものであるかということを具体的に尋ねてみましたところ、たとえばここに日本書紀の神代の物語及び神武天皇以後の最初の天皇数代の間の記事が、皇室の日本の統治を正当化するために作り出した物語で、そのまま客観的な歴史事実でないということをしるしました一節に対して、かような記述だけで、これらが古代の文献として有する重要な価値がしるされていないのは適当でないという趣旨のことを示したのであります。しかしながら私の教科書には、はっきりとこれらの文献の価値については別の場所に書いてあるのでありまして、それを書いてないというのは不当であります。しかも、ここに書きましたことは、すでに戦前において、津田左右吉博士が膨大な著作によって厳密に論証された公開の定説でありまして、このような記事があるから、一方的な記述であるかのごとき理由で、これを不合格の理由の一つとするということは、神代の物語や神武天皇の物語は作り話であることをはっきり書いてほしくないという非科学的な意図を示すものとしか解する余地がないのであります。また、たとえば明治憲法が、立憲主義的にいろいろ徹底しない点があるということを書きましたのに対して、こういうことだけを書いて、アジア最初の憲法という積極面に言及しないのは一方的な記述であるということを不合格理由の一つとしてあげました。しかしながら、この教科書は日本史の教科書でありまして、アジア史の教科書ではございませんから、アジア最初の憲法であるということよりも、それがたとえば自由民権運動の中で提示された国民の憲法理想に比べても、いかに後退したものであるか、またその後の運用の点で明治憲法が、はたして真に民主主義的な憲法としての機能を発揮したかという点こそ根本問題であり、この点を書いたことが、少しも一方的だと考えられないのでありまして、ここにもやはり、過去の非民主主義的な機構を隠蔽しようとする意図が現われていると思うのであります。 最も驚きましたのは、太平洋戦争の記事についての不合格理由でありますが、私の提出した原稿、これがその実物でございますが、やはり遠くてはっきりおわかりにはならないかと思いますけれども、このページに空襲の写真、広島の原子爆弾を受けたところの厚真、それからこちらに戦時風俗としてもんぺをはいている風俗の写真をあげておりますが、これらは非常に戦争の暗い面ばかりを出している。ところがその次に、学徒動員と学徒の軍需工場における勤労動員の写真が出て、ここでは国民が戦争に協力している明るい積極的な面が出ているが、その次のページには、戦争の惨禍という題で傷痍軍人の写真が出ている。こういうふうにして全体が非常に暗い、もう少し明るく書けないかということを言われたのでありますが、太平洋戦争を明るく書くというのは、一体どういうことでありましょう。戦争賛美の教科書を作れということであるとしか解せられないのであります。それは憲法、教育基本法の精神に対する反逆であり、文部省は、このような反憲法的精神に立脚して、教科書検定を行なっているということを実に赤裸々に示すものであると言わざるを得ないのであります。 実例はこのほかたくさんございますが、時間がございませんので省略いたします。これは私一個の経験でありますが、似たようなことは、世界史の教科書の検定についても行なわれておりまして、私は現に、東京大学のある教授が、ある教科書について文部省から求められた修正要求の材料というものを用意して参りましたが、これはしばらくおくことにいたします。 このように検定を通じて、はっきりうかがわれる教育行政の実態とにらみ合わせて、この法律案の持つ役割を考えまするならば、この法律案が実現し、採択の統一が行なわれ、出版社の整理が行なわれることは、まさしく憲法の精神を破壊するような方向に向かって教育を統制し、画一化しようとするものであるとしか考えられませんので、私としては、かような法律案には声を大にして反対を叫ばざるを得ない次第でございます。 これをもって私の陳述を終わります。
○委員長(北畠教真君) ありがとうございました。 次に、東京都教育委員会委員長木下一雄君にお願いいたします。
○参考人(木下一雄君) 義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律案は、まずその無償の範囲につきまして、国立公立及び私立の義務教育諸学校の全児童生徒を対象とし無償とする、教科書は選択教科の教科書を含めまして、全教科の教科書とすることになっており、国はその教科書を児童生徒に給与することになっております。このような措置につきましても、多くの経緯がありましたことは、すでによく知られているところであります。 その一つは、私立学校をも無償の対象にするということにつきまして、私立学校は国公立の学校とは異なり、授業料の徴収を認められているから、義務教育無償は、国公立の学校を通じて実施される建前のものであり、教科書無償の措置を私立学校にまで及ぼすことはないという議論も行なわれました。 次に、無償とする教科書の範囲に、中学校の選択教科の教科書を含めるのはどうかという意見もあったわけであります。また、教科書を無償といたしましても、これを貸与制にしたほうがよいか、給与にしたほうがよいかにつきましての検討が行なわれまして、また、費用の負担区分につきましても、この施策は義務教育の一環のものでありますから、国と地方とで負担すべきものであるという主張もありまして、その間、ずいぶん研究を重ねられたわけであります。 そして、とにかくそれらの経緯を経まして、国公私立の義務教育諸学校に、全教科の教科書を選択教科の教科書を含めまして給与することになったのであります。 このような法律案が得られましたことは、国が義務教育充実のために画期的な実施に踏み切ることになったものといたしまして、この無償措置の円滑に実行されますよう、まず、このことを前置きといたしまして述べた次第でございます。 無償措置の実施につきまして基本となりますことは、採択のことであろうと思います。このことにつきましては、現在行なわれております方式をもとといたしまして、広い視野から総合的な方策を立つべきものであると存じます。近年都市を単位とする広地域の共同採択の傾向が強くなってきているようでありますが、これは教育の共同研究、講習会等が、このような地域単位で行なわれることが多いこと、児童生徒が近接地域に転校する際に支障のないこと、早く確実に供給が期待し得ること、採択のための研究が教職員等によりまして綿密に行ない得ることで、多くの利点があるからであろうと存じます。 このような共同選定による傾向からいたしまして、現在かなり多くの教科書が、各種目について発行されてはおりますが、実際の採択の結果は、このうちの数種に集中することになっております。たとえば、小学校第一学年の国語は、現在十種ほど発行されておりますが、このうち、採択部数のうち、順に、五種を取ってみますと、その採択部数は、全採択部数の八八・四%を占めていることになっております。同様にいたしまして、社会は九四・四%、算数は八八・九%、理科は八九・九%になっております。これは全国の場合でありまして、東京都の三十八年度の調べを見ますと、小学校の国語科の、これは全学年を通じた計算でありますが、十三の発行会社がありまして、そのうち七種までが採択数が多く、それ以下は急激に数が減少いたしまして、全く比較にならない少数になってしまいます。同じように、社会は六種まで、算数も六種、理科は五種にすぎません。それ以下はほとんど比較にならない数になるのであります。 これを中学校について見ますと、国語は十三種ありますが十極ぐらいまで、社会は十二種ありますがこれも十種ほど、数学は十六種で十一種、理科は十四種で九種、英語は十二種で六種であります。 これによって見ますと、都道府県教育委員会が選定委員会を設け、当該都道府県内の学校で採択すべき教科書を一教科について数種選定するということは、むしろ現行の採択の方式の実情に即したものと解してよいと思います。この法律によって、国が特別の方策を打ち出したものとは考えられません。このことは、供給を確実に、円滑にするため妥当な方法であると存じます。 次に、都道府県教育委員会は、現在多く行なわれております共同採択地区の規模の限度なども考えまして採択地区を設定することになっております。これも合理的であると存じます。そこで、採択地区には、地区内の教育委員会の共同による採択のための協議会が設けられ、協議会は地区内の学校の校長等の意見を聞き、都道府県教育委員会の選定しました教科書の数種のうちから一種を選定し、市町村教育委員会は、この協議会の選定に基づきまして、所管の学校の使用する教科書を採択することになっております。この採択の方法は、さきに文部省に設けられました臨時義務教育教科用図書無償制度調査会におきまして、慎重に審議されました結果の答申の趣旨を十分尊重して定められたものと存じます。それは、法案と調査会の答申と対照いたしますれば明らかであります。 なお、教科用図書選定協議会委員の構成につきましては、別に教科用図書分科審議会から建議が出ておりますが、それらにつきましては、十分取り入れていただきたいと思うのでございます。 次に、都道府県教育委員会で教科書を選定いたします場合には、できるだけ広い視野に立ち、学校教育の指導の方法、児童生徒の学習上の効果等の条件を総合的に検討し、数種を選ぶ場合に、各教科書の特色を十分考慮し、そのような観点に立って選定すべきものであると考えます。教科書に順位をつけるような数種の選び方はとらないほうがよいと思うのであります。また、採択地区の場合につきましても、同様に広い視野に立つことが大切でありまして、東京都などでは十一市三郡二十三特別区という膨大な行政組織で、その中には住宅地区、商業地区、工業地区、それに農山漁村地区から僻地もあり、大島、八丈島、三宅島、青ガ局など離島地区までありまして、それぞれの地区にかなった教科書ということも考えられますが、それはかえって非常にむずかしいことであります。また、私どもはむしろ広くこれを東京都民の教育の立場から考えたいと思うのであります。もちろん教科書選定につきましての地域性を考えに入れないというのではありませんで、現に東京都教育委員会では、長野県の信濃教育会で御編さんになりましたもの、北海道で作られた教科書は、その教科書のよくできておりますこととは別に、東京という地域にはぴったりしないという理由で、採択に至らなかったことがあります。東京都民の教育という立場からいたしまして、教科書選定の上の考え方によい参考となる事実があります。それは、東京都の教育におきましては、教育の人事をすべて東京都教育委員会が統一して行なっていることであります。そのため、ただいま申し述べましたところの二十三特別区、十一市三郡、住宅地区、商業地区、工業地区、農山漁村、僻地、離島、すべてを通じまして教員人事の交流ができるのであります。このことは、教師としての体験を豊かにし、指導者としての識見を高め、それぞれの地区の児童生徒の都民としての教育に大きな寄与をなしているのであります。教科書の選定、採択につきましても、同様のことが考えられるものと思います。住宅地区の児童生徒も、商業地区の児童生徒も、工業地区、農山漁村、僻地、離島の児童生徒も、広く東京都民の視野に立って教育を受けるものといたしますれば、その主たる教材となる教科書も、都としてはそれらのすべての地域に通ずる数種を選定するのがよいと思うのであります。また、現在では教科の指導もいろいろと進んでおります。現に、僻地等の学校にはテレビ、ラジオが施設されるようになりまして、最も新しい教科指導が僻地にまで直結するようになりました。それぞれの府県におかれましても、これは市、これは郡町村と分けて考えられることも多くありましょうが、教育のこと、教科書の選定などにつきましては、府県単位で数極を選定し、しかる後、おのおのの採択の地区で一種を選定するのが妥当であるように考えられます。 以上でありますが、重ねて申し上げますことは、本法案は義務教育を充実するための画期的な施策であり、教科書無償制度の円滑な実施に必要な具体的な措置を規定しようとするものでありますので、すみやかな成立を期待するものであります。
○委員長(北畠教真君) ありがとうございました。 次に、埼玉大学教授海後勝雄君にお願いいたします。
○参考人(海後勝雄君) 教育学専攻の立場から、若干の見解を申し述べたいと思います。 この法律案の内容を拝見いたしますと、ほぼ三つの点に問題があるようであります。第一は無償給与をするということであります。第二は採択権の所在に関する問題であります。第三は教科書出版業者の指定に関する問題であります。 このそれぞれの関係を最初問題にいたしてみますと、教科書の無償給与のために派生して、第二の選択権の問題が必然的に取り扱われ、それからさらに進んで業者指定の問題に至るという、一貫した説明であるかのようでありますけれども、しさいに内容を検討いたしますとき、それぞれ質の違った問題であるというふうに読み取らざるを得ないわけであります。 第一の無償給与の問題は、むしろ社会保障的な性格が強いものでありまして、父母の教育費負担、生計費より支出することを次々に排除し解放していくという国際的な教育の動きに乗っておる問題であると考えます。第二の採択権の問題は、これは現場の教師の自主的な採択、関心、研究、活用、こういう問題に対して、これをいわば行政上の上位機関に引き上げるということでありまして、教育実践の場に対するいわば行政的な規制に関する原則の問題でありまして、第一の無償給与の問題とは、おのずから性格を異にするものであります。 したがって、この両者の関係を考えますと、無償給与の問題であるならば、無償給与を貫きまして、よりよい教科書が子供に与えられ、教師もこれに打ち込んで満足でき、父母もこれを支持するという線で、無償そのものだけを貫くというのが当然であろうかと考えます。逆に採択権、広域採択の問題を出してみますれば、広域採択であるから無償という必然的な関係はないのでありまして、有償のまま広域採択をしたり、行政規制をすることも考えられるわけであります。したがってこの両者は、本質的な関連、必然性を見出しがたいと解釈せざるを得ないのであります。 このような三つの問題点の相互関連が不十分であり、理解困難であるために、さまざまな憶測を生み、疑問を生み出し、問題が出るのでありまして、私は立法の精神からいたしますれば、それぞれ独立の単独立法として考えるべきでありまして、異質なものを混合して一つの法案として出すことに対して、第一に疑義を感ずる次第でございます。 次に申し上げたいことは、第一点の無償についてでございます。第一に考えたいことは、この法案で考え、すでに学校教育法なり、学校教育法施行規則の中で解釈されております教科書概念は、今日の世界の進歩した教育概念に比べまして、ほぼ三十年ないし四十年おくれた教科書概念であるというふうに解釈するわけであります。その理由は、教科書を唯一の基準といたしまして、これに権威を与え、一ページずつ学習さしていく、修得さしていくというその教育の考え方が、ことに今世紀に入りまして、各国とも、特に強くアメリカにおいてくずれて参りました。したがって、いわば一極の分解的な進歩を遂げて参っております。たとえば子供が使います教科書は相当大きいもので、りっぱなものになって、一つの参考的な図書になり、そのほかにワーク・ブックという、子供が記入し、照合いたし、家に持って帰るようなものに分解し、教室には、児童用の百科辞典のようなものを使い、そのほかテープ・レコーダーなり、ラジオなりテレビなり、あるいは教材教具を総合いたしまして、最も効果的な児童生徒の諸能力の発達をはかる方向に、大体国際的に動いてきておるのが現状でございます。 この法案を見ますと、たった一種類に限定いたしまして、おそらくページ数、定価も限定いたされまして、これだけ子供に与えて、一ページから終わりまでやっていくというような方法をとります場合に、今日のこれだけの文明の進歩、科学技術の発展、社会的な諸問題について、理解の徹底という国際的な教育の動きに対して、はたして日本の子供を乗せていけるのかどうか。この辺に、この法案におきまする教科書一種概念は、すでに四十年ほど時代おくれの感があるという点で、根本的な考え直しが必要ではないかと、このように考えるわけであります。 次に、同じく無償の問題につきまして、教科書概念のほかに、無償概念がございます。フリーと申しますフリー・エデュケーション、これは教育と名がつく経費の父母の生計費からの支出を次々に解除して参りまして、特に私の数年前参って見て参りました北欧諸国のたぐいでは、授業料、教科書はもとより、学用品、給食、子供の疾病に対する医療、これらの点について、父母の経費負担を解除する計画の上に立って、ほぼ実現しておるところを見て参りました。これは私は、社会福祉的な政策の一環としての教育無償政策であるというふうに考えました。この動向が北欧諸国はもとより、イギリスその他の国でも、今日文教政策が、国民福祉政策のプログラムとして登場いたしております時期に、実現の時期不明確のように読み取りましたけれども、わずかに教科書だけを、しかも一種類を、値段のきまったものを、これを無償にするという程度では、これまた、世界文明諸国の今日の動向に対して、はたしてこたえ狩る文教政策であろうか。これらの国々から来た人に対しても、少なくとも私自身は恥ずかしくて説明ができないようなものである。これについては、予算の問題もありますけれども、その程度の文明諸国の今日の段階によく目をつけて、日本だけが後進国的な措置に落ちないような政策樹立があってしかるべきであろうと考えるわけであります。これが無償についての第二の理由であります。 第三に、私は貸与の問題を考えるべきであろうというふうに思います。それはこれらの国々のりっぱな、今の日本の値段で申しますと二千円、三千円というような教科書を幾種類も子供に与えまして、これを自由に使わせておりますけれども、このような新しい教科書概念に立ちます場合に、私は貸与する方法——給与するのは、子供が記入し消費するワーク・ブックのようなものと、こういうようなことが考えられるのではないかと思うわけであります。もしも戦後のわが国の教科書行政が、内容検定、定価、分量、このようなもので拘束いたしませんでしたならば、アメリカその他の国のようなりっぱな教科書が次々に出て参ります。その場合に、おそらく父母負担の問題が登場いたします。その場合にプログラムに上りますのは、貸与案であろうと考えます。これが自由主義的な問題に対する徐々の解決と、教科書の改善の方向であったと思うのであります。今後、この値段もきめられ、分量もきめられ、内容についての規制は申しませんけれども、国際的に比較いたしまして、実に、日本では無償——よその国も無償でありますが、日本も無償にしたおかげで、みすぼらしい教科書——発展も進歩もない教科書、あたかも外国でのワーク・ブックのたぐいの教科書を国として、すべての子供に与えるというようなことで、はたして国際的な今日の発展に伍していけるのだろうかどうか。このような三点を考えますと、無償措置についても、もっと慎重に検討いたし、従来の教科書行政の線を一度破って、国際的な動きにも日をつけて、根本的な考え直しをする時期である。そういう意味で、無償供与の部分について、私は今回の法案自体再検討を考えてほしいし、そのための企画、教育学なり今日の世界の動向を検討しておる学者研究者の意見を十分聞くべきである。私は国際的な今日の戦後の段階で、きわめて希望の持てる状態にいくか、そうでないかという段階に差しかかっておるように考えるわけであります。 次に、第二の採択権の問題でありますけれども、私が今日、やや遺憾に感じますことは、一部のマスコミそのほかを通じて、現在の日本の数十万に及ぶ教師に対する不信感のごときものの発言がまき散らされておるということであります。これが父母の耳に入りました場合に、父母がそれぞれ自分たちの子供の教師に対する不信感を持ちますならば、これは日本の青少年のはつらつとした、国際競争の中に伍していくエネルギーに対して、きわめてマイナスの現象を出す憂慮すべき実態である。私は教育の現場に接して、それが仕事でありますけれども、日本の教師は、私は十数カ国の教師とつき合って海外を回って参りましたけれども、決して劣っておりません。熱心であります。すぐれた素質の者が教員になっております。教員不足で困っておる国とは事情が違うのであります。私はそういう点から、今日の知識階級としての教師に対する信頼感を持っておりますし、日常の実践に対しても敬意を払っております。全体の教師を頭の中に描いた場合に、決して一部の宣伝、マスコミに乗ったようなことではございません。教師自体が子供と接し、子供の能力を育て、ほんとうに日本の子供のりっぱな成長を期するために、日々仕事に当たっておるわけでございますけれども、彼らは立身出世を考えておるわけではございません。給与は御存じのとおり非常に低い給与でありまして、しかもその教える内容については、真理、真実と申しますか、本物以外は教えられないという、そういう教育的良心で活動いたしております。たとえば所得税等の申告で、どんなに上手な申告をしようと苦心いたしまして、数学の学力低下を嘆いておるのが日本全国の現状であるとかりにいたしましても、学校では絶対に、そのような指導はいたしません。正しく一文も残らず申告を出して、期日までに納入しろと教えております。地域の慣行として、正しからざる選挙が行なわれましても、学校では、絶対にそのようなことは、一度も教えたことはないはずでありまして、このような教師と子供のかみ合った現場を尊重して、愛情を持って保護する気持がなければ、日本の教育は、何らか外部的な力によってゆり動かされるだけでなくて、教師の意欲を減退させ、ひいては日本の青少年の無気力を結果するのじゃないか、こういうふうにも考えます。選択にあたっては、教師を信頼いたしまして、教師の自主的な研究選択にまかせるべきでありまして、どこか上位の行政機関において決定する考え——採択権の所在について、もっとはっきりした考えを立てるべきであろうというふうに思うわけであります。広域採択の問題について、採択の実情に即したものに立法化するというような意味のことがあるようでありますけれども、実情は決して満足すべきものではないと私は考えます。望ましい実情ならば、これに合せるべく、望ましくない実情であれば、これを改めるべき方策を考えるべきであろうと思うのであります。と申しますのは、現場の教師に尋ねてみますと、展示会へ行ってもおもしろくないそうであります。ほぼ画一に企画された教科書で、用紙の色がどうだとか、さし絵が多いとか少ないだけを見に行くことが、何かナンセンスでこっけいのような気がするというのであります。このような事態は、何が原因で導き出したものであるか。教師に対する採択の関心を失わせる傾向は、何が出したのであるか、この点をわれわれとして、はっきり考える必要があると思うわけであります。その中でも、なおかつ、たとえば東京都の教師たちは、短かい時間でもさきまして、分担して教科書の研究をやり、出版者に対する希望も述べるというようないじらしい努力をしているのでありまして、そういう点についての理解をもっとよく持って、教職者に対する考え方を行政の立場、公務員的立場、場合によると行政的な執行者の末端というような考えでなくて、ほんとうに日本の子供を責任を持って育て、しかも直接、国民全体に対して責任を持っておるのだと、その方向へ持っていくのか、行政的な執行事務である——われわれ教育学の立場では、そういうことは考えないのでありますが、そのような立場に持っていくのか、そのいずれか、そういう立場をはっきりいたしませんと、広域採択の実情に合わせたというようなことでは、価値的な考えを欠いたものじゃないかというふうに考えるわけであります。なお採択の問題とからみまして、教科書の内容に対する行政的規制の問題が大きいのでありますけれども、これまた、諸外国では文部大臣なり文部省が、教科の中身にわたって規制拘束することは、少なくとも自由諸国、文明国にはないことでありまして、この点は、歴史的な理由もありまして、たとえばイギリスの文部省等で聞いたところからも、十分の理由があって、行政的な規制拘束は避けるのだという原則を持っております。時間がございませんからその説明は省略いたします。 以上、この法案の内的な構成の不十分に対する疑義、それから教科書観、無償観について、あらためて考え直す必要があるという指摘、及び採択権の場合について、教師に対する信頼と教育的熱意をいかに出させるかという、そういう観点から考えまして、本法案に対しては慎重に研究をすべきであって、速急な、あるいは強行をするような掛買を避けたいというのが私の気持でありまして、全国のあの子供たちに直接かかわる問題であるだけに、政治的あるいは行政的な、いわば手荒な措置は、何とかこの際避けてほしいと、もっと教育的な立場から慎重に研究してほしいということが、私の見解でございます。 以上でございます。
○委員長(北畠教真君) ありがとうございました。 次に、教育出版株式会社社長、社団法人教科書協会会長北畠織衛君にお願いいたします。
○参考人(北島織衛君) 私は、社団法人の教科書協会の会長をいたしておりまして、教育出版の社長をやっておる北島でございます。 この無償の問題が起きましてから、何分ともに画期的の問題でありますし、またわれわれ発行業者に影響するところも甚大でありますので、協会におきましては理事会で十分討議をいたしました。理事会は、御存じと思いますけれども、教科書の、いわゆる大中小の各発行業者から理事が出ておりまして、大体、教科書の全体の空気を反映するものと思っております。さらに、総会を開きまして、全会員を集めまして、この問題に対する意見を聞きました。その理事会に、及び総会にも、文部省から局長及び課長の御出席をいただきまして、十分に趣旨及び意図につきまして御説明を願い、またわれわれの疑問と思うところにつきましても、忌憚なく意見を述べ、質問をいたしまして、協会といたしましては、全般的にこの法案に賛成であるという結論を得た次第でございます。 少々詳細について申し述べたいと思いますが、この法案ができます前に、去年の四月から十一月まで無償制度調査会が文部省内に設置されました。私も教科書協会の会長といたしまして、その委員となったわけでありますが、この法案は、その調査会におきまして、各方面の御意見が出まして、小委員会も設けられ、そうして出ました結論を、大体において正確に反映しているものと思っておる次第でございます。 最初に無償がいいか——無償の場合に、給与がいいか貸与がいいかということを論ぜられましたが、いろいろ御意見もございましたが、現教育の段階においては、やはり貸与より給与にすべきだ、発行業者といたしますと、貸与ということは、そのあとに、採択期間が三年に一ぺんというふうになりましたので、貸与ということになりますと、非常に発行業者の業態が危殆に瀕するというのですか、非常に投機的の傾向を帯びますので、給与ということに全面的に賛成しておる次第でございます。 初年度、本年度におきまして、この無償の措置が一年生に実施されましたが、この実施の過程におきましては、われわれとしましては、間違いなく全児童に正確に学年の初めに渡るようにするために、文部省といろいろ事務的の折衝をいたしましたので、本年度は、大体におきまして大過なく実施されたものと思っておるわけでございます。 その節、委員会におきましても、われわれ発行業者におきましてもお願いしましたのは、ぜひこれは全額国庫負担でやっていただきたい。そして中央決済でやっていただきたいということをお願いしたわけでございます。これは昭和二十六年に、地方と折半負担ということで一瞬行なわれたことがございましたが、そのときに非常に事務的に手数を要しまして、決済に一年半ぐらいかかった。それで日本銀行の融資あっせんを各社が受けましたのですが、日本銀行からも、また融資あっせんした銀行からも、こんなに長く決済がかかり、こんなに目鼻のつかないところでは、とても今後金融を続けていくわけにいかないというような強い要望もございましたので、私どもとしますと、その例を引きまして、調査会におきましても、全額国庫負担、中央決済ということをお願いいたしまして、本年度は、それで行なわれるようになったわけであります。したがって、われわれ業者としますと、今後とも、これは国庫全額負担、そうして中央決済にしていただきまして、なお、できます限り多くの前波金を前払いの形でお払い下さるようにお願いしたいと、こう思っておる次第でございます。 指定の問題は、国庫買い上げになりますし、無償の制度ができますと、ある程度の資格制限というものはやはり必要になってくることはやむを得ないんではないかと私は考えております。現有の教科書は、検定制度を前提といたしまして、発行業者の自由な創意と競争によって教科書の質的向上を期待しておるわけでありますが、しかし、やはり教科書というものは健全な基盤で発行されなければならず、これをやたらに、無制限にすることは過去にもあった例でございますが、非常に危険な問題が起きまして、採択は受けたけれども、製造ができない、肝心なときに児童に渡らないというような問題が起きましたので、やはり企業の健全のために、そして健全な企業であったほうが、いい教科書が出せるわけでありますので、そういう意味において、ある程度の制限はやむを得ないんではないかというふうに考えております。 問題になります編集の専従者が五名ぐらい必要——これは現在の発行しております教科書会社は、ほとんどこの程度の編集の専従者を持っておりますので、別に問題はないと思います。 それから欠格の資格といたしましては、刑事罰を受けた者とか、破産者であるとかという者を企業経営を担当する者から除く、これはむしろ当然のことだと私は考えておる次第でございます。 〔委員長退席、理事豊瀬禎一君着席〕 それから一千万の資本金という制限が文部省から御内示があり、教科用図書分科審議会におきましてもきまったようでございますが、現在一つの教科書を編さんして出しますのに、二、三千万の命がかかるんではないかと考えます。しかも、編集、検定、採択、製作というのに約三年間の、一つの教科書を作りますためにかかりますので、資金の回転その他から申しましても一千万という資本は妥当である。むしろこれから始める業者にとっては一千万ではなかなかやれない。しかし、これは借入金等の問題がございますので、一千万という資本は、現在の段階においては妥当であるというふうに考えておる次第でございます。 それから次に、立ち入り検査の問題がございますが、これは業者といたしましても非常に心配いたしまして、文部省その他にも、詳細に御意向を伺ったわけでございます。これが度を過ぎて行なわれますと、経営に対する行政府の介入という面が悪用される危険があるので、文部省に対しまして、われわれ業者といたしまして、特に入念に伺ったわけでありますが、文部省の御見解によれば、これは教科書の指定制度に伴う当然の法案として入れるべき条項であるし、文部省としては、その発行業者が指定の基準に適合するかどうかという点にだけ限るのだという御説明がございましたので、その意味におきまして、われわれは了解しておる次第でございます。なお、しかし、実際の運用にあたっては、特に適切な御配慮をなされるように希望する次第でございます。 採択は、今お話のございましたように、実質的に申しますと、大体現状の線を法文化したという形になっております。ただ、発行業者の希望意見を申しますと、各都道府県で作られます選定委員会の各委員の選定にあたりましては、その実情に即しまして相当の幅をもって選定していただきたい。それから、選定された五、六種類の教科書については、順位をつけないようにぜひしていただきたい。そうして、これは大体五、六種というふうに、われわれ承わっておりますし、実際そういうふうに行なわれると思いますが、しかし、いやしくも全県一本一種というような点は、国定にもつながる問題でございまして、 〔理事豊瀬禎一君退席、委員長着席〕 検定の精神を踏みにじるものでありますし、ある意味において不公平な取り扱いが行なわれる危険もあるかとも存ぜられますので、五、六種類の相当の幅をもった選定をしていただくと同時に、それについて順位をつけないようにしていただきたいというふうにお願いする次第でございます。採択の期間は、大体当局の御説明及び教科用図書分科審議会の決議によって三年というふうにきまったように承っておりますが、今までは毎年採択が行なわれておりましたが、毎年の採択というものは、むしろわれわれ業者といたしまして、過去の経験にかんがみまして非常に精神を消耗するし、それから肝心の編集に力を入れるという余裕がなくなる。それから、各社が過当競争に陥る危険もあるというために、むしろわれわれといたしまして、少くとも私が会長に就任いたしましてから、どうか毎年の採択ということはやめていただきたい。ちょうどわれわれは毎年々々、全国参議院選挙をやられているようなもので、とてもかないませんということをお願い申し上げまして、文部省のほうでお考えいただいて三年になりましたことで、われわれとしては、大いに喜んでおる次第でございます。 なお、定価の問題につきましては、今回、定価の委員会というものが設けられまして、各界の有識者の方に、この教科書の定価の問題を御検討願うというふうな段階になっておるように承っておりますが、われわれとしましても、無償給付であり、国家の金で買い上げられるということで、定価が合理化され、低廉化していくということは、根本的に申しますと賛成でございますが、しかし、行き過ぎまして、いい教科書、意欲的な、そうして良心的なものを作る意欲を発行業者に失なわせるような、また新しい教科書が、自由な競争裡に平等な資格で参加できないような厳しい建て部数、大きな建て部数を想定した定価を算出するようなことは賛成いたしかねる次第でございます。どうか今後、国家の買上げ価格の問題につきましても、以上の点を十分御考慮いただくように要望する次第でございます。 これで私の発言を終わります。
○委員長(北畠教真君) ありがとうございました。 最後に、板橋区立上板橋第一中学校教諭吉村徳蔵君にお願いいたします。
○参考人(吉村徳蔵君) 私は、現在中学校一年生の担任をいたしておりまして、新教科書の無償に関する法律が実施されたことを心から喜んでおります。と申しますのは、ここに子供たちが作った憲法ノートというのがあります。この憲法の第二十六条を子供たちが読むたびに、義務教育が無償になっているのに、どうして私たちは小学校のときから、いろいろと費用を払ってきたのですかといこうとを聞かれて実は困っているわけです。この条文はおかしいのではないかということをときどき言われて困っておったことが、今度はなくなるのではないかというので、たいへん心から喜んでおります。父母と共に、また教育費の負担が減ったことを心から喜んでおります。 私は学校をあけて参りますときには、できるだけその理由を子供たちに申しまして静かに自習するなり、また課題を与えて、やっているように言ってくるのでありますが、今回私が国会に行くと申しましたところが、ではひとつ国会議員の皆さんにお願いしてほしいと子供たちが申しました。第一に出ましたのは、ひとつ古い校舎を早く直していただきたい、その次出ましたのは、プールを作ってほしい、その次出ましたのは、掃除用具が少ないから掃除用具を多くしてほしい、こういうことでございました。いろいろ注文がございましたが、その中に教科書は国定にしてほしいという要求は出ておりませんでした。教科書についても、いろいろと子供たちは注文を出しておりまして、ある女の子供は、教科書について望むことといって、こんな個条書を書いております。まず社会科の教科書には、たくさんの写真やグラフを載せていただきたい、数学の本は、どうも文章がわかりにくいから、文章をもっとわかりやすくして、むずかしい言葉を使わないでもらいたい。それから国語の本には有名な物語など、本が厚くなってもいいから載せてほしい。それから教科書はひとつ使う人の身になって、天然色の写真や表、グラフ、有名な物語など、めずらしいものを載せてほしい。それから表紙には、すてきなデザインのもので勉強するのに楽しくなるような、きれいで上等な紙でできているものを作ってほしい。また、ある男の子は、教科書はもっと厚くてもいいから、もっと詳しくしてほしい、そして参考書を一々買わないでも済むようにしてほしい、また、国語のときにむずかしい語句が出てきたら、教科書のうしろを見ると、むずかしい字句の意味が載っているような辞書もつけてほしい。いろいろな注文がございますが、また間違いやすいと思うような字にルビをふってほしい。もう少しおもしろい義務教育の本をただにしてほしい。音楽には、うっとりするような歌がたくさん載っていていいけれども、ひとつ英語の本にも歌を載せてほしい。 こういう子供の声を総合してみますと、教える中身のことは、子供たちは十分わかっておりませんけれども、現在の教材に対して、いろいろな点で要望なり、子供なりの教科書に対するイメージを持っていることはおわかりだと思うのであります。こういう子供たちの要請にこたえまして、私たちはもっといい教科書を作らなければならない。また、作っていただきたいと思っております。 ところで教科書が、ただになるということは、私たちのひとしく望むところでございますが、同時に、先ほど来いろいろとお話がありましたように、教科書が安くなる、あるいはただになりさえすれば、中身がどうでもよいかというと、そうではないと思うわけであります。義務教育が無償になったということが、教育の中身が貧弱になったということでは、今、高度成長を遂げている日本といたしましては、やはり何か矛盾があるのではないか。今ここに、私自分で使っておる教科書を持って参りましたが、たとえば日本の自然を教えますと、自然の、たとえばここにデルタの地帯、それからここにリアス式海岸と、こういうのがありますが、これは子供たちは色もありませんし、非常にわかりにくいわけです。で、私たちはやむを得ず、こういういろいろな——ちょっと時間を取らして恐縮なんでございますが、たとえばこれをこういうふうに見せますと、そうすると子供たちは、ああっと言います。あ、それは先生、扇状地じゃないの、こういうふうに、別に説明しなくてもわかる。それからもっとわかりやすく、たとえばここに——教科書の中には、川の蛇行というのがございまして、これを見せれば、子供たちには一々説明をしなくても蛇行ということはよくわかります。ひとつ教科書をよくしていくということの中身として、ちょっと私は例を申し上げたわけですが、私たちはそういうふうに授業をやる場合、いろいろと工夫をしております。しかし私たちの力では、なかなか十分できないことがある。たとえば一本の川と外国の川とがどれだけ違うのか、アマゾン川ということを聞きましても、南アメリカのところにアマゾン川という川幅をただ線でやったんでは、これは実際アマゾン川とわからないわけです。実際河口に立ちまして、東西南北に写真をとってみると、回りが水ばかりであった。高度千メートルか二千メートルのところからとってみたところが非常に幅の広い、まさに海のようなものであったというスライドや写真があったときに、初めて子供たちに、アマゾンならアマゾンのイメージを豊かに与えることができるおけです。 そういうことを実は私たちが現場でもってやりますと、私、また教科書に、そういうものがあったり、すぐにそこで使えるものがあったらいいなと、こういうふうに思っております。で、このものは別に外国のものではございませんで、日本のものでございまして、ただ定価が非常に高いわけです。二千八百円するものですから、とても一人々々の子供に、今のような状況の中では与えられないわけですけれども、今後の、教科書を作っていく上にやはり参考にして、子供たちの先ほどの、要望の中にありますような、いい教科書を、そして楽しく勉強できるような教科書というときに、ぜひ参考にしていただきたいと、こう思うわけであります。 と申しますのは、中学生は、大体一学年の教科書は、千円からまあ千二百円ぐらいの見当でございます。私の学校まあかりに千六百人の生徒がおりますと、その千円が、もし無償になりますれば、百六十万円の金額が、相当浮くわけでございます。その金額で教材教具を買いますと、だいぶ買えるわけであります。ことしの私たちの教材、教具の費用といたしまして、ざっと六十万でございます。それを九教科、また、ほかのいろいろの部で分けますと三万円にしかならない。これは技術、家庭科の先生などは、とてもこれだけでは足りない。技術、家庭科だけでもって数十万、多いときは数百万ぐらいの費用が必要である。私なども、たくさん地球儀を持って子供たちに教えたいと思っておりますけれども、たった二個しかございません。一学級四十五人のところに、二個の地球儀でやるんですから、二十人が一つの地球儀に集まりますから、いかに地球が小さいかということしかわからないわけです。これではとても、地球の意味を子供たちにわからすことができませんので、そういう今の費用を教材に使いますと、そういう価値が出て参ります。そういう点で、教科書の無償に関しまして、教育の中身が貧弱にならないようにということを、ぜひお願いしたいと思っております。 私たちは、できますなれば、教科書は、自分たちが実際教える現場でもって、少し時間的な余裕と条件を与えて下さいますれば、私たちは子供たちと一緒にいいものを作りたい、こういうふうに思って、意欲を持って、私たちが授業できるようなものを作っていただきたい。そのことに国が惜しみなく援助を与えていただけますならばありがたいと思っております。 現場教師といたしまして、先ほどの海後先生のお話と重複するのでございますが、よい教科書というのは、どんな教科書かということを少し申し述べてみたいと思うのでございますが、まず教師と子供とが一体となって学習ができる、しかも楽しい教科書でなければならないことはもちろんのことでございます。しかし、楽しく学べるということだけでなくて、その内容が、子供たちをほんとうに賢くするものでなければならないと思います。今の子供たちは、実は今後四十年たちましても、やっと五十数才でありまして、二十一世紀に、皆さんよりもあるいは若い年令になるかもしれません。だと、まさに働き盛りでございます。そのとき、二十一世紀の時代を想像しますと、どんな時代であるか、そのとき子供たちが、かつて小学校、中学校で習ったことが何の役にも立たないことであっては、やはりまずいと思います。また、そのときの政府や一部の人たちのための内容が、われわれに与えられたりするということであっては、現場の教育を担当する者としては困る。そのことに関しまして、実は私たちは、こういうふうに考えております。 今のおとなの人は、子供たちが学力がないと言われておりますけれども、一体、その原因はどこにあるか。その一つは、やはり教科書の編さん上にも大きな問題があるのではないか。私は社会科を教えておりますけれども、先ほどの子供の意見にありましたように、たいへんむずかしい字句などが出て参ります。どちらかと申しますと、国語の教科書が一番やさしくて、それを使って考えなければならないほうの理科だとか数学、社会科のほうが、ずっとむずかしい字が出てくる。これではちょうど、さびたナイフでかたい木を切るようなもので、一向に切れないわけです。で、こういうことに関し、また、たとえば数学でも九九が小学校の二年生と三年生にまたがっておりまして、これはなかなか——私たち子供のときには、九九といえば、小学校の二年か三年のときに、まとまって毎日音楽の時間のように暗記をしたものだと思っております。これが今では、またがっております。そういう点で非常にいろいろ教科書の編さん上問題があるのではないか。一つは学習指導要領の問題にも及んでくると思うのです。そういう教科書をよくしていくためには、やはり今、先ほど海後先生がおっしゃいましたように、根本的にもっと、ただ、教科書をただにする、ただにしないというだけの以前に、もっと大きな子供の学力を高めるために何をしなければならないかということがあるのではないかと思うわけです。 で、いや、そんなことは心配ない、検定教科書があるから心配ないということがあるかと思いますけれども、しかし文部省検定済みの教科書を使っていれば、それでみんないいのかというと、なかなかそうはいきません。私たちの仲間が調べましたところが、家庭科の教科書にこんな例がございます。それはカレーライスの作り方というのがございます。「ルウ」の割合いを見ましたところが、小麦粉と油の割合が、それぞれ各社みんなまちまちでございます。一体これは、どれが文部省特選ライスカレーかとみんな笑ったのでございます。それでは子供たちは、一冊の本を見て、自分たちが習っているライスカレーが一番いいと思っておりますから、水っぽいのや油っこいのや、カレーの多いのや、どんなのを食べさせるかわからない。若い先生たちに、君たちお嫁さんをもらうのに、どこの会社の教科書で習ったかよく聞いてからお嫁さんをもらわないと、えらいことになるから、教科書の選定をよくやったらいいということを申したわけでございます。 この教科書につきましては、私どもは検定して下さる方には御苦労で感謝しております。いろいろ間違っていることをなくしていただくことに非常に感謝しておりますが、ただ、基本的な観点では、ただ、教科書を検定したら、それで完全なものができるというふうには私たちは考えておりません。これは私の言葉ではいけませんと思いまして、たまたま読んでおりました福沢諭吉先生がこういうことをおっしゃっております。「そもそも教科書の完全、不完全というも、実際に完全なるものは望むべからざるのみか、またいかに完全のものを用うるも、書籍の力によって生徒を導かんとするがごとき、とうてい人力に及ばざるところなれば、文部省の検定は、ただその有害を認めたるものを排斥するにとどめて、いやしくも無毒のものは一切不問に付すべきのみ。」また「世間の人は案外に眼識に乏しからず、めいめいに取捨して適当なものを用うるに、他人のお世話は待たざるなり。もしも文部省がみだりに検定を窮屈にするのみならず、一種の偏見をかまえて、その間に我意に調合することこれまでのごとくならんには、ただ教育の発達進歩を妨害するに過ぎざるのみ。みずから省みてみずから悔悟すべきものなり。」これは明治三十年四月二日に福沢諭吉先生が書かれたものでございます。 最後に採択の実情について、ちょっと私の感想を申し上げたいわけでございますが、先ほど木下先生は数社にしぼられたほうがいいと、そしてまた、たとえば中学校の社会科は十二社のうち十社くらいに集中しているというお話でございます。私の区で調べましたところでも、やはり十二社のうち九社に固まっております。ところがその中では、少ない一社、二社というのもあります。しかし、会った先生方にお話を聞いてみますと、むしろ一社、二社を選ばれた先生のほうが、実はこれはほんとうにいい教科書と思っているのだといって、むしろたいへん卓見を持っていらっしゃる先生もあるわけです。ですから、一社だ二社だということによって、その教科書が悪い教科書ということには私はむしろならないのじゃないかというふうに感じております。また私たちが教科書を選ぶ際には、一人ではございませんで、職場のいろいろな仲間と集団でもって討議をしておりまして、そして採択が終わって、いろいろな学校の先年たちと、君のところは何を採択したか、僕のところはいろいろ検討したけれども、どうもこれがいいのじゃないかと思ってこれでやってみる。それでは、ひとつお互いにこの一年間、どっちの教科書が教えよいか、ひとつやってみようじゃないかといって、また、その結果をみんなで持ち寄るようにしているわけでございます。で、私たちはそういう点で、義務教育費用は安くなり、教科書が無償になるということによって、教科書が一種か二種になってしまって、そういう私たちの研究の意欲がなくなるということをたいへんおそれるものであります。私は子供たちに、こんなことを聞いてみました。来年の教科書を先生はちょっと選びたいのだけれども、君たちも一緒に行くかねと言ったところが——これは冗談に言ったのですが、生徒はみんな一斉に行くという。ところが、これは十何種類もあって、とてもわからないよといったら、先生、僕たち大ぜいで行けば、みんなで読むから、先生が一人で読むよりずっといいのじゃないかと、こういうふうに言われました。私たちは子供たちと一緒にも考え、また父母と一緒にも、いい教科書を選ぶように指導すべきではないか、こういうふうに考えております。これがほんとうに憲法、教育基本法にのっとっておりますような、国民に対し責任を負うという教師の態度ではないかと思っております。 現在東京都で広域採択ということが問題になっております。東京都では、なかなか各学校みんなそれぞれ独自の立場で教科書を選んで少しも差しつかえがございません。ところが広域採択について、私たちはいろんな疑義がございますので、とのことを区議会に陳情いたしましたが、そうしたところが・区議会でも、この陳情はちょっと待ってほしい、と申しますのは、文教委員の方々が、この法案はまだ全然見たことがないということでございます。そして、この法案はまだ見たことがないから、もう少しあとで陳情してほしいということでございます。そうすると、区の担当者であらせられる文教委員の方が見ていないということは、私たち現場の教師にとって、たいへん不安を覚えるわけであります。そういう点で、この法案が審議されるにあたりまして、慎重に配慮されることを、そして私たち教師が、今後あまり政治的な問題で右左にやられることなく、のんびりとヒバリとともに、子供たちと一緒に、大空のもとでのんびりと愉快に教育のできるような環境に、私たちを置いていただきたいと、こういうふうにお願いいたしまして、私の意見を終わらしていただきます。
○委員長(北畠教真君) ありがとうございました。以上で参考人の方々からの意見の聴取は終わりました。 これより参考人に対する質疑を行ないます。御質疑のおありの方は、順次御発言を願います。
○千葉千代世君 家永参考人にお尋ねいたしますけれども、先ほど日本の検定の歴史みたようなことをおっしゃったのですが、世界史の中に検定についてどのような傾向があったのか、もしお知りでしたら、お述べいただきたいことと、もう一点だけお伺いいたします。 いろいろ御意見を拝聴いたしましたけれども、家永参考人は、御自分の経験の中から、どういうように検定したり、また採択を行なったり、出版とか発行について、お考えを持っていらっしゃるか、憲法や教育基本法に沿った一番いい教科書行政は、どういうことにあるべきかというお考えをお持ちでございましたらば、この二点だけお答えいただきたいと思います。
○参考人(家永三郎君) 第一点からお答えいたします。先ほどちょっと申し上げましたように、東京大学のある教授、はっきり申しますと、東京大学教養学部で西洋史を講じておられる吉岡力氏から私が御本人の、今回の検定の際に、文部省の係官から受けた指示の具体的内容、数百項目あるようでありますが、それをプリントしたものを送っていただきました。それには、同じ西洋史の他の研究者が執筆された教科書についての研究の結果を古岡氏が聴取されたものが書き込んでございますので、私は自分の体験ではございませんから、あるいは正確に博達することができないかもしれませんけれども、私がこれを見ました限りで感じたことを二、三具体的に申し上げますと、これは私の場合とは違いまして、私の教科書は、最初から不合格ということで、不合格の理由が示されたのでありますが、この場合は、これは一たん合格したものに対して、合格後修正の要求を出して、その要求を何とか処理しないと展示会に出せないようになっております。したがって、合格といっても、一応仮合格のようなことになっているわけですが、その際に、文部省の係官から要求された修正の意見でありますが、たとえば、第二次世界大戦における独ソ開戦に関しまして、ドイツとソ連との関係が次第に悪化した。そうして一九四一年六月二十三日に、ドイツは突然大軍をもってソ連に攻撃を加え、ここに独ソ戦争が勃発した、と書いてありますが、このあたりを、もっと具体的に独ソ開戦の理由を書けという修正要求が出ておりますが、それは具体的には、ソ連の進出がドイツを刺戟したために戦争が起こったのではないかという意見が示されたそうであります。なおそのほかに、他の社の教科書に対してなされた修正要求の際には、ソ連がポーランド、バルト三国の占領を行なったことを、ここにあわせて書けという要求があったそうであります。そのほかに、またソ連の領土拡大の事実をあげまして、こういうことは大西洋憲章にソ連が参加した事実と矛盾するのではないか、その点がないのはおかしいではないかというような例もあるようであります。なお、チェコスロバキアの政変が、ソ連の武力、圧力によって行なわれたのであるということを書かなければいけないというような修正要求も出ております。また、ヤルタ会談の結果に基ずくソ連の日本に対する宣戦布告についても、ソ連が中立条約を破って宣戦したのだということを書くようにという指示があったということでありますが、これらの例を見ますと、著しく現在の冷戦という状態を踏まえて、あるいはナチスを弁護し、あるいはソ連を一方的に非難する意味を教科書のうちに含ませようという意図がはっきりとうかがわれるのであります。 中立条約侵犯の問題につきましては、私が特別に研究をいたしておりますが、これは中立条約締結直後の御前会議におきまして、独ソ戦の結果、ドイツに有利に展開したならば、直ちに武力を発動して北辺の問題を解決するということが、御前会議で決定されております。日本側はむしろ実質的には、中立条約をじゅうりんいたしまして、関東軍特別大演習と称して、をソ満国境に集中し、攻撃を受けたソ連を牽制したような事実がありますので、もしそれらの経緯を全部書けというならば、単に形式的に中立条約がなお維持されていたので、それを破ったのがソ連の侵犯であるということだけを書くということは、これは著しく不公正だと言わなければならないのであります。 そういうような修正要求を見て参りますと、これらの世界史に対する修正要求も、著しく政治的であるという印象を禁ずることができないわけでございます。主な例だけ二、三申し上げした。 次に、第二点のお答えでありますが、私は教科書のように学問あるいは教育という非常に非権力的な仕事、学問、文化というような精神文化の領域に関する問題につきまして、権力——それが文部省の権力であろうと教育委員会の権力であろうと、一方的に公権力を持つところの権力が介入して、二つのどちらがよいかというような選択の問題において、公権力において決定するということは、その本質に反すると思うのであります。そればかりでなく、このような措置は、教育法本法の精神にも反するのでありまして、教育基本法の第十条の教育行政というのは、単に外的条件を整備するだけであって、教育の内容に介入するものでないというのが当初の精神であったはずであります。昭和二十二年十二月二十五日発行の「教育基本法の解説」という吾物は、文部省調査局長辻田力氏の監修でありまして、辻田氏のはしがきによりますと、これは当初の調査局審議課長西村巖、文部次官宮地茂、同じく天城勲、同じく安達健二などの諸氏が執筆しているということになっておりまして、もちろん形式的には、公的な注釈書ではなく私的な著述でありますけれども、文部省のお役人が、公的見解に反する注釈をお書きになるはずはございませんので、これは私的な著述の形を借りた文部省の公的見解と思われるのでありますが、その中では、学問の自由の尊重は初等教育においても生かされなければならないと明記されておりますし、また教育行政の目的は、教育内容に介入すべきものではなく、教育の外にあって教育を守り育てるために諸条件を整えることをその目標に置くべきだということがはっきり書いてあるのでございます。私はこういう教育基本法の精神こそ、正しい解釈だと思うのでありまして、その意味から申しますと、検定というものも、それは非常にワクをはずれた特殊なものだけを排除するということであれば、あるいは差しつかえないかと思いますけれども、たとえば独ソ開戦のほんとうの理由が何であるかとか、あるいは太平洋戦争のくだりは、どういう写真を入れたらよいかというような非常に微妙な問題につきまして、こうでなければいけないといって、そういうふうに書かなければ、これは教科書として使わせないというふうなことを権力で決定するのは、教育基本法の教育行政に与えられた使命を逸脱するものであると考えます。したがって、私はもし検定制度を続けるならば、それは最小限、全く常識的にみて不当なものだけを排除する。たとえば巻頭に特定政党の名前をあげて、次の選挙にはこの党に投票しましょうということを書いた教科書があったならば、そんなものはもちろん許されないと思いますけれども、しかし学問上の見解が書かれるようなところで、それを権力によって、こっちの見解でなければいけないというようなことを検定によって行なうのは不当であると思います。これに準じまして、採択におきましても、どういう教科書をこの学校で採択すべきかということは、これはやはり教師なり、あるいは先ほど他の参考人が言われましたように、子供の意見も聞くということも必要かもしれませんし、あるいは父兄の意見が反映するということもよいかもしれません。その他自由に、どういう人から意見を聞くこともかまいませんけれども、しかし権力によって、この教科書を使えと天下り式に決定することは、これはぜひとも避けなければならないと思うのであります。私は教師に、裁判官のような強固な独立性があることを必要とするとまでは申しませんけれども、かなりそれに近い考えがあってもよいのではないか。少なくとも自由な批判によって教師自身が反省して、いろいろ考えを変えることは必要かもしれませんけれども、教師がほんとうによいと信じていることを、権力によって禁止したり、あるいは教師が欲しないものを権力で与えるというようなことはやめるべきであり、したがって採択も、また各学校の自主性に待つべきであり、統一採択ということはなすべきではないと思います。 同様に、出版社の規制につきましても、劣悪なる出版社が淘汰されることは、これは現在の資本主義社会の機構のもとではやむを得ないところでありますが、それに法的規制を加えて特定の業者のみを保護し、劣悪なる業者を意識的に排除するというようなことは、自由競争の資本主義の原理にも反しますし、その辺は、やはり自由なる競争にまかせるべきである。ほんとうに現場の教師がいいと思う教科書が採択され、そのような教科書を発行している出版業者が、自然に生き残るというような形にすべきではないかと思います。実は私自身は、教科書は自由発行、自由採択ということが原則であり、本来は検定制度をも廃止すべきであるという考え方を持っておりますけれども、検定制度全廃——あるいは御異論があるというならば、せめてこれは明白に、憲法なり教育基本法の精神に反するものにとどめまして、いやしくも学問上見解が分かれるような問題について、どちらか一方にきめなければならないというようなことだけはぜひやめてほしいと思っております。これが私の意見です。
○千葉千代世君 今の問題に関連いたしまして、海後参考人にお尋ねしたいと思いますが、たしか先々週の朝日新聞だと思いましたが、海後参考人がお書きになったものを拝見いたしました。その中に教科書の権威ということがちょっと出てきたようでした。私は明治生まれでございまして、新聞をまたぐということも、非常に気になるんです。いやしくも字の書いてあるものをまたいだり、粗末にするということは、骨の髄までしみ込んでいやなんです。ところがそれはやはり教科書に権威を持たされ過ぎておったんじゃなかろうかというようなことがちょっと書いてある、というのは、やはり教科書をちょっとでもよごしたんじゃ、これはいけないというので、ほんとうに神様の次は教科書だというようにして、新しい教科書を買いますと、私は仏壇に供えさせられたり何かして、そうして誓ったような、そういう中に生きてきましたから、やっぱりそういうようなことは、一生骨の髄までしみ込んで、なかなか抜けないわけですが、教科書の権威ということについて、海後参考人はお書きになったのですが、そのことについて、外国ではどうなっているかということと、それから、さっきちょっとイギリスの問題に触れかけて、時間がないというのでおやめになったのですけれども、やはり特定の政党が教育を支配するということではいけないと私は考えておりますし、イギリスあたりでは、どうなっておりますか。文部大臣の権限だとか、過去に教科書に対して、どういう点があったかということを伺いたいと思います。 それからもう一点は、文部大臣が検定したり教育課程を押しつけたりすることは、教育関係の体系から考えて、どうなっているんでしょうか、その点をお聞かせいただきたいと思います。 まだございますが、私ばかり質問しても何ですから、また時間がありましたら、もう少し質問させていただきます。
○参考人(海後勝雄君) 第一点教科書の権威性の問題でありますが、私は教科書の中身の背後にある真理、真実、科学、人間性、こういうようなものが権威の根源であると解釈いたしまして、それを代表する限り、教師が権威を持つべきであるし、それだけの教養、信念を持つべきであるというように考えます。教科書は、いわば教授用の諸媒介物の一つでありまして、ティーチング・エイズというのが、そういう意味でございます。朝日新聞には、あまり悲惨でありますから表現を差し控えましたけれども、数年前の洪水の際、子供がランドセルを背負って溺死しておる、こういう新聞記事を見たのであります。私はこれは、そういうことを教えてはならぬ、教科書は焼いても、灰にしたって、それはかけがえのない命を大事にしろ、こう教えるべきだと思うんです。こういう観念が明治以来、どうしてできたか。日本だけが例外国で、このような教科書についての神秘観念のごときもの、これは今日、決して教科書を粗末にするということを教える必要はありません。大事にしなければなりませんけれども、何か絶対的な権威、しかもその権威が学問、研究なり、真理、真実から出ませんで、何らかの政治的、あるいは産業経済の要求の手段であるかのごときから出ますことに対しては、私は本来の意味の権威をやはり堅持したいというふうに考えまして、いわれのない迷信的な神秘感、権威感は、この際、教科書から排除しなければならないというふうに考えるものであります。 私は、イギリスの学校でウィンチェスター・パブリック・スクールというイギリスきっての名門校でありますが、符宿舎の掃きだめに、教科書がたくさん捨ててあるのを見まして、こいつはひどいなという感じを持ちましたが、捨てる必要はないことでありまして、ただ、日本における教科書神秘感というようなものが依然として教科書についてつきまとったり、その上に乗っての立法のごときは避けたい、こういうふうに考えるわけです。 第二の、イギリスの例でありますが、イギリスはもちろん、その他のヨーロッパ諸国と同じようでありまして、文部大臣は指導要領を出したことはありませんし、検定制度はありませんし、教科書は、全然自由でありまして、採択は個々の教師が校長と相談しながらきめる、こういうことは長年やっておりまして何ら支障がない、こういうことであります。私はそれで大丈夫かという疑問がありましたから、文部省へ参りまして、責任者に二度ばかり尋ねたことがあります。なぜ文部大臣、文部省は、教科内容の規制をしないかという質問をいたしましたら、こういうことを申しました。第一は、政治権力が、政府、政党が交代するたび教科書を裏返しにするようなことを教えられたのでは、イギリスの子供はごめんだからやらないのです。なるほどこれは民主政治のルールから申しますと、当然考えられることで、苦い経験があるようであります。 第二は、時の文部大臣の人格、教養、宗教、信条等その他文部大臣の性格的な問題によりまして、教科書の内容が規制されるようなことは、イギリスとしては考えたことがありませんから、しないことにきまっておる、こういうことであります。私はこの点につきまして何か公教育であるから政府、文部省なり、文部大臣がこまかいところまで規定するという、そういう観念は外国にはございません。日本のように学習指導要領、中身は先ほどの、ライスカレーの作り方からパンツの縫い方まで、文部大臣の名前で公示して官報に記載するということは異常なるできごとで、われわれ普通、国際的な教育の感覚からいたしますと、これはびっくりするような事実であります。私は、なぜそういう必要があるか、私自身は必要さえ感じません。公教育と申しますのは、よく公教育だから法的規制、行政的な拘束が当然だと申しますけれども、公教育の概念は、たとえばアメリカの歴史で申しますと、親が自分の子供の教育費を出すのではなくて、みんなで子供に対する愛情と責任から、公共の税金でみんなで教育しようというのが公教育概念の起こりでありまして、行政官的な拘束とは無縁の概念であります。これは私は、公教育における概念の一般的説明をするのではありませんで、たとえば教育基本法の十条、国民に対して直接責任を負う、教師は全体に奉仕する、こういうような考え方そのことこそ、公教育の考え方でありまして、国民の現状じゃありませんで、ほんとうに子供を思い、将来、社会、民族の発展を考えながら教育を考える、その国民の意思、こういうものに直接責任を負うという意味でありまして、教育基本法第十条でも、その反対の、教育が直接文部大臣に対して責任を負うという表現がないのは、そういう意味でございます。したがって、イギリスの例をあげるまでもなく、私は、教育内容に対する規制の問題については、各国とも自制いたしまして、きわめて敏感に反発するものであるということを御理解になった上でお考えいただきたいと思うわけであります。私は日本だけが例外的な、世界の民主主義国の、特に戦後の方向に逆行しなければならぬ理由が、どこにあるか、どうしてもわからない。なぜ、そういうことをしなければならぬのかということについての十分納得のいくような御説明がほしいように思うわけであります。 第三番目の文部大臣の問題については、今、一緒に触れました。 イギリスの場合、指導要領もなし、その他の国でも、シラバスと申しますのは資格試験の要項のようなものでありまして、あのような詳しいものではありません。項目だけが大部分であります。イギリスでは、視学官制度が完備しておって、内容を監督しておりますから大丈夫だという文部省の文書の御説明がありますけれども、視学官は、文部大臣の区署を受けておりませんで、権限独立の立場から、女王に直属いたしておりまして、文部大臣をも査察の対象にいたしておりまして、女王に報告を出す機関でございます。もちろん教師に対する査察、勇気づけの活動もありますけれども、たとえば文部大臣が不当な発言がありました場合には、このハー・マジェスティス・スクール・インスペクターによって査察の報告書を提出されるわけであります。こういうような第三者的機関でありまして、別に文部大臣にかわって教科内容の拘束、統制をいたしておるということとは、全然性格が違う存在であるということを申し上げておきたいと思います。
○小林武君 家永先生にお尋ねをいたしたいわけでございますけれども、日本史の教科計の原稿をお書きになって、その検定の結果について、この原稿は、正確性、内容の選択に、著しい欠陥があるという理由で、これが不合格になったというようなことがございましょうか。ありますか。
○参考人(家永三郎君) そういうことがございます。今年度の検定でございます。
○小林武君 私、その中で、こういうようなことを、内容の問題の中で、こういうことがあったということを聞いているわけであります。それはその教科書の中の百八十七ページ——原稿の百八十七ページの中に、教育勅語の取り扱いについて、そのものを出さず一方的な批判だけでは全貌がわからないと、こういう内容選択に欠陥のあること、正確性の問題について欠陥があることを指摘されたと聞いておるわけでございますけれども、実はこの間から、文部大臣並びに文部省の当局と教育勅語の問題について、かなりの質疑をかわしておるわけであります。この質疑の中では、文部省はさっぱり全貌を明らかにしないで、教育勅語のきわめて一部分を取り上げて、非常に私どもとしては不満な回答を与えられたわけでありますが、これとは逆に、この問題に関しては、先ほど申し上げたような指摘がなされているわけでございますが、もっとこの点について、詳しい何か当時のやりとりがございましたならば、ひとつお示しをいただきたいと、このように考えます。
○参考人(家永三郎君) まず最初に問題になりました教科書原稿の本文をちょっと朗読いたします。それは「教育勅語」という小見出しでありまして、「憲法によって、法律上から天皇主権の国家体制を確立した政府は、——これは明治憲法の制定を意味しておりますが、——「精神的にも国民のこの体制に対する忠誠を確保しようとして、一八九〇年(明治二十三年)教育勅語を発した。」そのあと小文字にかわりまして、「その翌年、勅語に対して礼拝しなかったキリスト教徒内村鑑三は、不敬漢として排斥され、第一高等中学校教師の職を失った。そのころから学校では、御真影への最敬礼や教育勅語の捧読を行なって、国民精神の統一をはかろうとした。」こうございますが、これに対して、これが不合格理由の一つとなっております。その際に、文部省の渡辺調査官が申されましたことを、私の記憶であとからメモしたメモによりますと、教育勅語の内容を少しもしるさないで、このようなことだけをしるしているのは一面的な扱いである。そういう趣旨のことを言われたと記憶しております。そこで私は、直ちにその場において、これに反駁いたしまして、ここでは確かに教育勅語の内容は書いてない。しかし、私の学問的な研究の結果によりますれば、教育勅語の社会的役割というものは、その内容によってというよりも、むしろそれがこの三大節あるいは四大節などの祝日において、おごそかな口調で捧読され、子供たちが頭をたれてこれを聞くというような儀式を通じて子供たちの精神に影響力を与えたということが主であって、あのむずかしい漢文口調の教育勅語が、小学校の低学年の児童などに全部理解されたはずはないわけであり、したがって、教育勅語の内容ということは私は客観的な、社会的役割においては、それほど大きなものであったと認めることはできない。むしろ教育勅語の精神に基づいて、修身教科書その他の国定教科書が編さんされ、その中で教育勅語の定めていることが、具体的にこの子供たちに伝えられた。その点がむしろ重要であるから、自分は別の場所において国定教科書の特色を具体的にあげてある。したがって、実質的にはこの教科書原稿では、教育勅語の実質的内容に触れてあるわけであって、教育勅語の内容が書いてないということは、これは意識的に書く必要がないということを判断したから書かなかったので、決して一方的な取り扱いではなく、むしろ勅語が出たとたんに内村鑑三事件などが起こっているところにこそ、大きな歴史的意義があるのである、そういう説明をいたしましたが、これに対しては、調査官からは別に再反論はございませんでした。そのいきさつは以上のとおりでございます。
○小林武君 今の点につきまして、いま一点だけお尋ねをしておきたいわけでありますが、一方的な批判だけでは、全貌がわからないという、こういう言葉の中には、私は全貌がわかれば、そういう批判が出てこないというような受け取り方も出るように感ずるわけであります。この言葉の中からは。で、私はそういうことを単に推測いたしまして、いいがかりをつけるという気持は毛頭ないわけであります。何時間にもわたりまして、同じことを何べんも何べんも繰り返して、この質疑をかわしたわけでありまして、私自体とすれば、教育勅語そのものに対する文部省の考え方というようなものに、非常に私は不安な感じを持っておるわけであります。今の憲法のもとにおける教育というようなものは、少なくとも明治憲法下の教育、その明治憲法下における教育勅語の精神によってなされた教育というものが、非常な大きな欠陥をもっていたために、その反省の上に立ってこそ、今の教育が成り立つというふうに考えておりますので、そういう角度からの質問をいたしているわけでありますけれども、それについては、なかなか、教科書を書く方々には、こういうような指摘をいたすのでございますけれども、全貌を明らかにしてもらえないものですから、その際に何か、全貌を明らかにすれば、教育勅語というものは決して見捨てたものではない。私は、ある文部大臣から、教育勅語のどこが悪いという反論を受けて、だいぶぎょっとしたことがあるものですから、もしもそういうことがおわかりになったら、そのときに話が出ましたならば、お尋ねをいたしたいという気持でお伺いをしたわけであります。別段なかったようでございますから、その点は、ひとつ後刻に譲ることにいたしまして、そのほかに、二百五十九ぺ−ジの中にある学習指導要領、検定基準の問題があるわけでありますけれども、それほど大きく取り上げる問題ではない、枝葉の部分を強調しすぎるというようなことで、この点は、先ほども申し上げましたように、不合格の一つの原因といいますか、そういうものになったように私は調べたわけでございますけれども、そういう事実はあったのでございましょうか。
○参考人(家永三郎君) お尋ねのとおり、そういうような意見が調査官から出まして、これは念のために、そのところの原文を読んでみますと、「一九五六年(昭和三十一年)の教育委員公選制の廃止、そのほか学習指導要領・教科書検定基準の改訂、教員に対する勤務評定の実施などの重要な措置が次々に実行されて、教員や教育に関心の深い人々との間に論争を引き起こした。」と書いたわけでございます。これは別に内容がいいとか悪いとかいう価値判断は一切入れませんで、ただ、そのような事実だけを羅列したわけでございますが、こういうことは井かないほうがいいという意味で、こんな枝葉末節なことまで書くのはおかしいではないかという趣旨の発言がございました。それで私はそれに対して、これは、実は戦後の歴史の中で教育問題は非常に大きな意味を持っている。現に、こういうことがあるからこそ、今私たちとあなた方との間に論争をしているのではないかとまで申しましたけれども、それに対しては、さらに重ねて調査官から再反論はございませんでした。
○小林武君 いま一つだけ家永先生にお尋ねをいたしたいわけでございますけれども、私はこの教科書の原稿とは違う教科書だと思いましたけれども、その中で、先生の、憲法に書かれております。政府の行為によって戦争を引き起こすというようなことに対する反省が史実を通してなされないというと、ほんとうの歴史教育というものの意味がないとかいうような意味の御趣旨の、そういう立場からの教科書に対する記述がございました。それに対して、その点が問題点であるというような指摘を文部省がしたというふうに、これは聞いておりまして、このことについても、この前の文教委員会で質疑をかわしました。なおその点については、文部省の関係の人たちがはっきり記憶にないようなお話がございましたので、後刻そのことは、調べてはっきりしてもらいたいというようなことを計ったわけでありますけれども、そういう事実はなかったものでございましょうか。と申しますのは、私は少なくとも憲法の前文に書かれておりますところの、政府の行為による戦争、これを再び再現させるようなことがあってはならないというこのわれわれの、一体規定は、教育の中に、はっきり私は強く生かされなければならないと思うのです。そのことを忘れて今の新教育が行なわれるということになれば、私はも大問題だと思う。 ところが、そういう点について、どうも私の考え方では、最近の教科書の問題につきましても、指導要領の問題につきましても、当初のそういう考え方が、だんだん権力によって薄められていく、こういうふうに考えておりますから、事が重大だと考えておるわけでございますが、そういう点について、ありましたら、ひとつ、お聞かせいただきたいと思うわけです。
○参考人(家永三郎君) ただいまお尋ねのありましたのは、昭和三十三年度の教科書検定の際のことでございまして、このときも、私の原稿は当初不合格となりましたが、この年から初めて、不合格理由書を文書で文部省から申請者に交付されることになりました。そのときの不合格理由帯に、次のようなことが書いてございます。 第一に、この教科書では「事実の取捨選択に妥当を欠いているところが少なくない。」詳しいことは略しますが、第二は、「記述が往々評論に流れ表現や語調に教科書として適当でないところが認められる。」とありますが、第二は、これだけであります。第三に書いてあることが非常に重大でございまして、第三に、「過去の史実により反省を求めようとする熱意のあまり、学習活動を通じて祖先の努力を認識し、日本人としての自覚を高め、民族に対する豊かな愛情を育てるという日本史の教育目標から遠ざかっている感が深い。」こういうように書いてございまして、したがって、この教科書原稿は教科書として認めがたいという結論になっております。これに対しまして、私は直ちに異議申立書を作成いたしまして、文部省に提出いたしまして、これに対して、逐一反駁を加えたのでありますが、第一、第二の理由に対しては、このような総括的な、抽象的な理由で不合格にされたのでは、検定権者の恣意によって、いかなる教科書でも排除できることになり、はなはだ困るということを申しました。第三の理由について、次のように申しました。「過去の史実により反省を求めようとする熱意のあまり、云々」ということが挙げられておりますが、そもそも「過去の史実により反省を求めようとする」ことは、憲法前文の「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすること」の「決意」、ならびに「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努め」る精神から当然要請されるところである、教科川図書において、憲法の精神を発揮することに「熱意」を注ぐのは、他のあらゆる要請に優先して要請せられるところであると考えます。「日本人としての自覚を高め、民族に対する豊かな愛情を育てる」ということも、この憲法の精神にもとづく「反省」を前提とするときにのみ、はじめて日本国憲法下の教育目標にふさわしい内容をもつことになるのでありまして、「過去の史実により反省を求めようとする」ことなく、「過去の史実」を盲目的、無批判的に美化することが、「日本人としての自覚を高め、民族に対する職かな愛情を育てる」ゆえんであると考えるならば、そのような考え方は、日本国憲法および教育基本法の精神に反するもの、と言わねばなりません。このような理由にもとづき、不合格理由の第二には納得いたしかねます。」こういうように答えた次第でございます。これがただいまお尋ねの件の具体的経過でございます。
○中山福藏君 私は、一つ家永さんにお尋ねしたいのですが、先ほど選定採択というものを政府がいろいろ考えるということは、いわゆる教育に対する毒殺である、非常に非民主的だ、非科学的だと、いろいろの言葉がございました。そうして、あなたの御主張になりました掲示を、要求されたお写真——広島なんかの例をお出しになりましたが、いかがでしょうか、私がお聞きしたところでは、これは毒殺という感じは起こらないですね。私は弁護士なんです。だから、すべて物事は一方的な主張を聞いておっちゃあ判断はできない、りっぱな判決はできないわけですね。それで原告と被告との双方の証拠というものをまず提示さして、その証拠の上に立った主張というものを受け入れて、初めて正確な判断ができる、これは当然の帰結だと私は考える。 そこで、今日の歴史家が、すべての裁量並びに主張というものを持っておられると思うのです。そういう場合に、最大公約数の結論を得るということは、これは国家として、歴史家として私は一番必要な問題じゃないかと思う。自分の主観的な立場だけを基準にした、そういう論評を試みられるということは、いかがなものでしょうか、これをまずお尋ねいたします。
○参考人(家永三郎君) 学問の世界におきまして、いろいろの学者が討論をいたしまして、最大公約数的な結論が出ることもございます。しかし、中には、学問というものは妥協ができませんので、少数意見で、これはどうしても正しいと思って固執する場合も、これはやむを得ないかと思います。たとえばガリレイの話のように、たとえば法王から地球が回わるということを言うなと言われても、言わなければならないということもあろうかと思います。したがって、学界において、最大公約数の結論が出ている場合には、できるだけ教科書は、そういう最大公約数、普通私たちは通説と申しておりますが、通説を書くのが常識であろうと思います。しかし、場合によっては、学者の信念によって、少数説を書かなければならないこともあろうかと思います。少なくとも根拠のない、全然学界で問題にならないような荒唐無稽なことを書くことは、教科書としてふさわしくないと思いますけれども、学会において一応理論的な、根拠のある学説として通用するものがありました場合には、これを文部省が一方的にいけないということで、排除することは、私は不適当だと思いますので、私のほんとうの理想を申しますと、教科書は、必ずしも一校一種類と限る必要はない。もし併用が許されるならば、いろいろの種類の教科書を教室に備えておきまして、子供たちに、この教科書には、こういうことが書いてあるが、ほかの教科書を見てごらん、この教科書には違うことが書いてある、どっちがいいだろうという判断をさせることができたら理想的ではないかと思いますが、そういう意味でも、多少違った教科書が併用して出せるくらいの雅量はあってもいいと思います。 それから、ただいま法律の御専門の方の御評論、御意見がございましたが、それについて、私ども教科書執筆者が検定のやり方に非常に不満を持っているということを申し上げました。ただいまお話のありましたように、法廷では、原告被告の言い分を十分主張し合った上で裁判官が判定いたすのでございますが、教科書検定では、全然裁判官が何ぴとであるかわからない。いつの間にか知らないうちに裁判が行なわれていて、判決が出てきて、ああ、おれは死刑になったということが初めてわかるのであります。それからあと、異議申立を出しましても、それはほとんど取り上げられないのでありまして、決定がきまるまで、一言も著者の立場を弁明する機会を与えてくれないのです。おそらく検定が済むまでに、私たちの意見を聞く機会が与えられまして、それも、ただ形式的に聞いてやろうかというのではなくて、ほんとうに学問的立場から、こういうことでは困るではないか、考え直してくれ。しかし、これはこういう理由があるのだと言って話合いをすれば解決がつくことも相当あるのではないかと思いますけれども、現在のようなやり方では、私たちは結果が出るまで、一言も意見を寄せ、自分の教科書の説明をするチャンスがないわけであります。 それから、もう一つ検定が済んでからも、ほんとうはこれに対して、救済の道がなければならないはずでございますが、最近では行政不服審査法というようなものがございましたにもかかわらず、私は不合格通知を受けましたときに、それでは不服の申立をしたいから、その方法を教示する義務が裁決庁にあるはずだから、教示してくれと申しましたところ、調査官は、そういう法律のあることさえ御承知ないようでありまして、とうとう教示してくれませんでした。そういう意味で教科書検定において、教科書のいろいろな立場を聞くということは、先生のおっしゃったとおり、私も賛成でございますが、それが行なわれていないことを残念に思う次第であります。
○中山福藏君 今おっしゃったことはよくわかります。私の言ったのは、別に判決と同一視せいということではないのです。まず標準は、そういう最大公約数の点において、現在はやるよりほかないであろうということを私は申し上げた一のです。 それからもう一つお尋ねしたいのです。私は、実は平泉の三つのミイラを見るまでは、藤原基衡なんかおったのはうそだろうと考えていたところが、現実にあのミイラを現地におもむいて見て、歴史の裏づけが初めて正確なものであるということを感じたのです。ただし、あなたが先ほどおっしゃられました天孫降臨の問題とか神武天皇の存在の否定とか、それはおったともおらないとも、だれもこれを証明する人はないのです。今日から。ただし、こういうことを学者としてお考えを願うことはできないのでしょうか。日本の古代人は、一つの理想を持っている。哲学的な理想を持っている。天地大自然の整然たる法則に基づいて、人類社会の構成をはからなければならぬ、こういう高遠なる卓越した識見のもとに、われわれの先祖が、国家というものはかくあるべきものだ、人類社会はかくして成長して、いくのだ、いわゆる竹の皮がはげるように、旧制度がだんだんはげて、タケノコが育つように社会が伸びていかなければならない、そういう一つの高遠な理想を立てて、これを口述して、言い伝えてきたものであるというような歴史家としてのお考えは、そこに生まれないものでしょうか。そういうことから、国家というのは、一つの理想というものを全体として持っていなければならない。理想のない社会は、縄のきれた、遠心力も求心力もない社会、これはばらばらなものです。そうすると、だから教育の目標というものを、どこに置くかということは全国の教育家が、一応考えていただかなければならない。教育の目標を置かずに、ちりぢりばらばらに思い勝手の議論をしておったら、国家全体としての連帯責任を果たせないと私は考える。私は政治家として、そういう観点から、この御質問を申し上げるわけです。だから歴史家として、これはうそだ、全然根拠がないとおっしゃられるのは、それはあなたの御意見なんでしょう。それを一つお伺いして、私の質問を終わりたいと思います。
○参考人(家永三郎君) お答えいたします。ただいまの最初の神武天皇云々のことでございますが、これはたいへん失礼ながら、ただいま先生のおっしゃられましたことは学界では全然通用いたしません。これは学界の、先ほどおっしゃいましたお言葉を私が使わせていただきますならば、最大公約数は、はっきり神代の物語、神武天皇の物語は作り話だということになっておりまして、これは学界の常識でございますから、私はその常識に従って書いたまででございまして、決してただいまおっしゃいましたような私の個人的な、私一人が言っていることを書いたのではございませんので、津田左右吉博士の膨大な研究によって厳密に実証されました結論を私がただ伝達的に書いただけでございますので、その点はどうぞ誤解のないように御理解願いたいと思います。 それから第二点の国家の理想ということでございますが、確かに古事記や日本書紀にも、その当時の記紀の編さん者の理想としたであろうと思われるいろいろなことが書いてございますが、それは何といっても七世紀や八世紀の昔の人、しかも朝廷の役人という限定された立場の人の理想でございまして、これをそのまま二十世紀の日本国民の理想とすることはできないと思います。理想そのものが、時代により変化し、発展し、進歩していくことによって、日本国家は発展していくものであり、いつまでも数千年前の、あるいは数百年前の理想が固定して、それを今日そのまま理想とすることはできないと思います。そこで、今日われわれが、だれも異論のない理想として共通に持つべきものを教育の精神とすべきだと思います。 それは何かと申しますと、それは申すまでもなく日本国憲法、教育基本法でありまして、先ほど朗読いたしましたように、過去の侵略戦争に対する反省を痛烈にいたしまして、将来、絶対に戦争のない民主主義的な国家を建設するという、これこそ国民のだれしも異論のない最大公約数であり、この精神を持って教育をするのが、ほんとうであろうと私は考え、私はその精神に従って、自分のすべての仕事を律しているつもりでございます。一言、お答えいたします。
○中山福藏君 私は、もうやめるつもりでしたけれども、もう一ぺん聞かしていただきますが、よく御趣旨はわかります。私がタケノコの例を引いたのは、それなんです。だから、しかしタケノコはタケノコなりに成長していかなければならない。日本は日本というタケノコなりに伸びていかなければならない。しかも日本というこの地理的な立場というものを一応考え、それから世界動乱のいわゆる流れというものを一応私どもは目で見て、脳の細胞でこれを分析していろいろ考え、教育は、ものを批判する力を与えるのが教育なんですから、ものを裁断する力のない教育は無価値です。ただいま、いろいろ憲法の前文の、おっしゃる人類の福祉、世界の平和、これはもうだれも願うところなんですね。しかし、一つの例をとってあなたに訴えておきたい。私の家内が一昨日病院から退院したんですパンの残りをその窓にとまるハトにくれておったところが、翌々日は、もう一羽連れてきた。そうしてまた、同じパンをやったところが、前にきたハトは、あとにきたハトに食わせないのです。私はこの平和の象徴であるハトすらもそうである。だから、ハトすらもそうでありますから、世界の平和の象徴としてハトばかりお書きになっておる。しかしながら、単に理想、空想だけでは、胃袋は承知をしないということをお互いに教育家として、政治家として考えなければならない。今日の世界の歴史は、胃袋から始っておると言って差しつかえないと私は見ておる。ソ連でも中共でも、あるいは各国の戦争でも、原因はそこなんです。人間の胃袋なんです。これはいろいろな社会運動というも。のもこの点から始っておると見ているんです。ですから、歴史とか憲法の前文とかだけで片づけることはできませんよ、教育の問題は。そういうところは、どういうふうにお考えになっておるか。これは最後のお尋ねなんです。私は教育家にお尋ねするんです。
○参考人(家永三郎君) ただいまお伺いいたしましたのは、御意見のようでございますが、先ほど非常に高遠な理想を持つべきだとおっしゃいまして、しかし後段になりまして胃袋の問題になってきて、非常に唯物的な問題が出まして、どうも私、そのどちらが先生の御真意であるか、ちょっと判断に苦しむのでございますが、私はもちろん文章に書いてあることが、文字どおり信頼性を持っていて、それを権威としろというようなことを申すつもりもございません。憲法も、もちろん人間の作ったものでございますから、歴史的な限界があることは当然だと思いますけれども、私たち今日の日本人として共通の話し合いの場所を持つとするならば、やはり憲法以外にないのではないかという意味で申したわけでございます。 それを具体的に、どうするかということについて私はもちろん歴史学者として、世界の情勢のいろいろなことを勘案いたしました上で、やはり私としましては、絶対に平和主義を堅持すべきだ、そういう結論に到達しております。しかし、その内容は、ちょっとあまりに委員会の主題からかけ離れますので御遠慮いたしますけれども、決して文字を権威として振り回わす、ちょうど昔、私が批判いたしましたような、教育勅語を捧読するというような形で憲法の前文を捧読しようというのではございませんので、御了承願いたいと思います。
○高山恒雄君 北島さんにお尋ねしたい。先ほどあなたの御見解を聞いたのですが、今度の法案で非常に教科書の限定がされるということになる場合、現在でも、この三十七年度を見ますと、非常に少ない数しか出版ができない会社があるわけですね。四十数社だというふうに今お聞きするんですが、その中で先ほどのお話を承っておりますと、大体編さんするだけでも三千万円くらいの金が要るのだ、こういう御説明を聞いたわけです。それで昨年の実績から見ましても、大体東京書籍、教育出版、これはふたばと統一をしておるようですが、さらに学校図書ですか、この三社が大体六〇%近くを持っておるわけですね。あとは非常に少数なんです。一番最低は六百四万ですか、これだけしかやっておりません。最高は三千八百七十八万冊やっておるわけですね。こういうふうに大と小があるわけですが、三年間に資本金の一千万円を増額して、その間に、編さんするのについても三千万円くらいの金が要るのだ。そうして教科書が少数に限定されてくる。こうした場合、いわゆる落後する会社はないのかどうか。協会長として、十分御審議をなされたと思いますが、それから浴後してつぶれていくのだ、こういう危険性はないのかどうか、それが一つ。 なおまた、多くの今度のこの法の改正に基づく問題から来る組合員の非常な不安が各会社に起こっておるようですが、こういう問題は、一体協会は十分承知しておられるのかどうか。むろん、労働者には犠牲はないのだ、また落後する会社もないのだ、こういうことが確認できれば、御心配もないのでしょうけれども、逆に、労働者は不安を持っている、多くの私たちにも投書が来ておる現状ですが、そういう面に対する経営者の立場からの見解を一ぺん聞かしてもらいたい、こう思うのです。
○参考人(北島織衛君) お答え申し上げます。今度の採択の方式は、先ほど木下先生からお話もございましたが、大体において現状の形を、過去十何年たちましてなってきている現実の形を法律にきめたというふうな形でなっておるのでございます。したがって、この法律ができたために、こういう採択方式になった場合に、特に落後するとかいうようなことを私どもは懸念をしていない。むしろ、三年に一ぺんで、毎年毎年やっておりますれば、やはり資本力その他の多い大会社のほうが、いろいろな面で有利になりますが、三年に一ぺんで、その間に編集を研究いたしまして、非常にいい品を出すというゆとりができる面で、そういう心配はないのじゃないかというふうに考えておるわけでございます。 それで、組合員の不安ということは、いろいろあるかと思いますが、現実の問題としまして、今は、第一番にお答えしましたと同じように、会社自体の経営、編集その他が適切を得れば、特にこのために不安を生ずるということはないのじゃないかというふうに私は考えております。どんな会社でも、こういう情勢でありますから、経営よろしきを得なければ浴後するというようなこともあるかと思いますが、今度の採択のため、あるいは今度の法律案のために特に落後する、あるいは落後するために従業員に不安を起こすという点は比較的、そうないのじゃないかというふうに私は解釈しております。
○高山恒雄君 そうしますと、現有三百万円の資本金であっても、一千万円の資本金に変えることもたやすいということが前提でなければいかんと思いますね。さらに、編さんだけはやれるが、ほとんど仕事は下請の家内工業にその製本は移しておる、こういう会社も私はあろうかと思うのです。大体一万冊くらいしか出していないところもありますし……、それだけを私はやっておるとは思いませんが、そのほかいろいろなものを印刷はやっておるのでしょうけれども、そのうちの三〇%なり四〇%というものが、教科書が、こうして種類が少なくなった、そのために、非常に大資本を擁するところの、先ほど言った三千五百万とか八百万とか、そういう多くの冊数を持っている実績のところに取られるというような私は危険性があると思ってお尋ねしているのですが、それがないということならば、資本金を一千万円にふやすということも、協会では、たやすいことだと、こういう見解のもとに、今度の問題に賛成だという気持なんですか。その点ちょっとお伺いしておきたい。
○参考人(北島織衛君) 私が文部当局から承っている話では、五年間で資本金を一千万円にするというふうに承っているわけです。それで、現実問題といたしまして、資本金がごく少ないところもございます。それは三者堂なんかも、そうでございますが、ごく古くからやっておりますために、仕事の量からいって非常に多いのですが、教科書には……。しかし、資本金が少なくてやっておるというところもございますが、こういう会社を通観いたしまして、大体三年で一千万円にするということは、そうむずかしいことではないと思います。また、教科書会社という以上は、これから出る新しい会社の場合も考えまして、最小限度一千万円くらいの資本がなければ、事実上やれないのじゃないかというふうに解釈しているわけでございます。
○高山恒雄君 もう一つ、そうしますと、これは私がさっき言ったように、非常に零細企業があると思うのです。零細企業というのは編さんだけをやって下請けに皆出すというようなところがあると思うのです。そういう場合には整理統合されるという観点に立っておられるのか、そういう点、ちょっとお伺いしたい。そういう会社はもうだめだ、したがって整理統合もやむを得ないのじゃ、ないか、こういう立場に立っておられるのか、お伺いしたいのであります。
○参考人(北島織衛君) 零細企業と申しますが、どういう程度のどういう会社を善うかよくわかりませんが、教科書を出している会社は、専業で教科書だけを出している会社と、それからほかにいろいろな出版もされまして、教科書も出しておられるという会社もございます。したがって教科書では、ごく部数が少ないですけれども、ほかのもので相当出しておられます出版社で、有名だと言われるようなところもございます。私は、今おっしゃる零細企業の範囲がよくわかりませんが、それを整理統合しなくちゃならぬというような段階になるかどうかということは、はっきり見通しをつけておりませんが、そういう心配は比較的しておりませんのでございます。
○高山恒雄君 もう一つ、私はさっき申しましたように、東京書籍と教育出板、学校図書は、三千万台を突破しておるわけです。ところが最低は、私が申しましたように六百四万冊が一番最低、これは三省堂だとか光村あるいは中教、日本書籍、こういうふうに小さいのがあるわけですね、これは私はその書籍だけ、教科書だけをやっておる会社ではないと思います。あなたのおっしゃるように、他の印刷もやっておられると思うのです。ところが私が申し上げたいのは、かりに五〇%ずつやっておった、教科書が半分、その他の印刷を半分やっておったとしますね、その場合に五〇%のウエートがくずされた場合、その企業が成り立たないじゃないか、これだけ過当競争が激しいのに、あなたみずからも過当競争が激しい、こうおっしゃっておられるのですが、私どもが見ても、そう思うのですよ、そういう会社が、私は幾つか出てくるおそれがあるのじゃないか、こう思うのです。そういう点が将来、いかんということが起こってくるのじゃないか、したがって、整理統合というようなことも、企業合理化という面からお考えになっての、協会の、今度の法案の改正には賛成という御意見ですか、こういうことを聞いているのです。
○参考人(北島織衛君) 私は、協会長といたしまして、理事会においても、総会におきましても、みんなの自由な意見を聞きたいと思いまして、理事会におきましても、よその人に——書記、事務局その他の者に退席してもらいまして、それから、どんな話をしてもいいんだから、ひとつ自由に話していただきたいということを申し上げたわけです。しかし、その席上におきましては、今先生の御質問になるような声はございません。むしろ大いに張り切ったような御意見を聞いておりますので、ちょっとその点はあれなんですが、今のお話の光村その他というのは、みんな相当の大会社でございまして、ものによりましては六百万冊というものはあるかもしれませんが、全体の冊数といたしますと、かなりの冊数を倒しておるわけでございます。しかし、これから新しく始められる方が、こういう制度のもとで、いきなり百万、二百万をとることはなかなか困難かと思います。しかし新しい意欲的な教科書を出される方に対しては、やっぱりある程度初年度に採用されて、それから順次広まっていくというケースも多うございます。そういう方も、たとえば五万部なら九万部の採択しかなくてもやっていかれるような方策は、先生及び文部当局において御考慮を願いたいと、こう思っているわけです。
○高山恒雄君 最後に、私らいろいろ聞きますところによりますと、これは読売新聞でしたか、やはり落後会社が出るのじゃないかという論説が書いてあったことは御承知だと思います。ただ問題は、文部省関係に今まで勤めておった方が、大きな会社には、重役の仲間に入っておられる方が多数おられると思うんですよ。そういう関係者もあろうと思うのです。したがって、そうした、早くいうならば、今日の産業から見ても、系列化ということが非常に大きくクローズ・アップしていることは御承知のとおりです。そういう特定の会社に文部省がつながって、その認可をしていく。こういうおそれがあるのじゃないかという危険性を私らは感ずるのです。今度の法案の改正から見て、あなたはさっきおっしゃるように、各社の代表者を呼んで聞いた。したがって、みな喜こんで賛成だ、こういうことであれば、その心配はしないでいいということになるのですが、それはほんとうに合理化的な問題はない、特定の企業にこれを認可をしていくというようなおそれはない、こういうふうに断定しておられるのかどうか。もう一つ、その点聞きたい。それで質問をやめます。
○参考人(北島織衛君) 最初、これは審議会におきましては、許可制だったんでございます。それが文部省からの説明及び法案におきまして、認可制になりまして、われわれとしまして、当然、どうして許可制だったのが認可制に変わったのかということをお尋ねしました。認可となると、やはり官庁の主観がかなり入る危険があるし、法制局とも打ち合わせした結果、指定制がいいんではないかということから指定制になった。その指定をする場合に、現在の既存の教科書は、全部指定をするつもりであって、心配はないというお話でした。その後のたびたびの折衝におきましても、その指定というものは、現在やっている業者は指定を受けられる。それから三−五年間に、資本金を一千万円にするという義務はございますが、その他編集の専従者が五名とか、いろいろございますけれども、大体において受けられるという点については、業者としては、全然心配しておりません。それが実情でございます。
○委員長(北畠教真君) 午前中の質疑はこの程度にして、午後一昨半より再開いたすことにし、これにて休憩いたします。 午後零時五十四分休憩 —————・————— 午後一時四十五分開会
○委員長(北畠教真君) これより委員会を再開いたします。 若干おくれまして、参考人の方にはまことに申しわけなく存じております。 午前に引き続き、参考人に対する質疑を続行いたします。 御質疑のおありの方は順次御発言を願います。
○辻武寿君 海後先生にひとつお伺いするわけでありますが、先ほどのお説の中で、日本の教科書ですか、あるいは教育とおっしゃったか、私の聞き違いであるかもしれませんが、三十年ないし四十年おくれているというお話がありました。これは教科書の内容であったのか、あるいは制度の問題であったのか、その点をひとつお伺いしたいことが一点。それから、教科書に沿って一ページずつ教育するような教育であってはならない。国際的な傾向として総合教育をやらなければならない。そして、一つの教科書では子供を乗せていくことはできないではないかというようなお説であったと思いますが、日本の教育も総合的にやってきていると思うのです。テレビを使ったり、ラジオを使ったり、あるいは映画を見学させたりやりまして、その中に教科書を織り込んでやるということは、私も教職にたずさわった経験も過去にあるのでありますが、一つの教科書を使い果たすにも、なかなかこなし切れないで非常にあわてたこともあるのでありますが、一つでなくて、もっとたくさんの教科善を使うべきであるというような御趣旨なのでしょうか。それから、おくれているという意味をお聞かせ願いたいと思います。
○参考人(海後勝雄君) 教科書観のおくれ三十年ないし四十年と申し上げました。これは私が四十年と申しました根拠は、アメリカの場合、教育学者のジョン・デューイが、古い教科書一冊に権威を与えて、教科書を中心にして授業を進める方法は、今日の文明の進歩の中ではすでに時代おくれである。したがって、子供たちの多様な活動を要求し、学習も多様であるべきだ。こういう批判をいたしましたのが今世紀に入ってからほぼ二十年のころです。最初の意見は一九〇〇年前後に出しましたけれども、ややまとまって教科書教授法の原理として述べたのは一九二〇年ごろであろうと考えましたので、その当時すでに批判された形態のものが今日依然として日本でその教科書観が残されておるとすれば、これはそのぐらいの年数のおくれであると、こういうふうに申し上げたわけであります。なお、教科書につきましては、国によっていろいろな活用の方式がございまして、たとえばイギリスの場合、小学校程度でありますと多く一冊の場合もございますけれども、この場合には日本の教科書に比較いたしまして、きわめて圧縮された骨だけの教科書でありまして、まず記憶のメモであるというような印象を受けるわけであります。したがって、それに相当自由の聴聞をおきまして、生徒の思考、考える活動その他の活動、他の参考書を見る機会、教師がこれを敷衍いたしまして、さまざまな教授法を工夫する余地、こういうふうなもので、かりに教科書一冊であっても、ほとんど全部を駆け足でやらなければ終わらないというような教科書ではないように思うわけであります。なお、同じイギリスでも中等学校程度になりますと、基本になる非常に簡潔な教科書は一冊ございますけれども、そのほかに図書室から貸し出した同様のかなり性格の違う教科書、参考書を準備いたしまして、それらをわたりながら教師も指導し、生徒も読んでくる、こういうような学習形態がヨーロッパでも次々とられて参りまして、一冊の教科書を第一課から最後の課まで、教科書そのものを残りなく教えるという形がくずれてきておるわけであります。アメリカの場合には、これはもっと変っておりまして、一冊の教科書という観念よりはワーク・ブック、参考図書とその他の教科用のもろもろのエイト——補助手段というものの総合構成で学習が進められている。私はアメリカのような形態が進歩しておるというふうに考えますので、今度の法案で一冊にしぼるということは逆行ではないか、そういう見解を申し述べたわけであります。
○辻武寿君 次に、木下先生に質問いたしますが、非常に教育委員会のほうに権限が強く持たれまして、現場の教師の意見が反映しにくい今度の制度ではないか。これは官僚統制であるという声が非常に強いように私は聞いておるのでありますが、木下先生のこれに対する御意見はどういうような御意見でありましょうか。
○参考人(木下一雄君) 官僚統制でありますとか、国家権力でありますとか、あるいは先ほどの文部大臣の権限とかいうことにつきまして、私はちょっと違った考えを持っておるものであります。何か今の世の中に多くそういう議論を持っておる人があるようでございますが、文部大臣というものは何かこう国民にとって好ましからざる存在であるかのような感じを与える。何か政府というものは国民といつも相反するような考え方を持っていというふうに解釈をして、さような面から御意見を聞いておりますと、いかにも今度の教科書は数種を選んで一種をやるということが国家統制であるとか、そのことだけでたいへん悪い法律のように解釈をする、一方的に聞いておりますと、まことに何にも知らない人はさような感じを持つのでありますけれども、一体、文部大臣というものは、やはり国民のいろいろ、大いにたよろうとするところがあって文部大臣というものができているのじゃないかと思うのであります。やはり文部大臣のお考えは、国民の教育に対する責任をお考えになりまして、教育のことをお考えになっているということは、国民として文部大臣を好ましからざる存在のように、いかにも国民の意思に反するように解釈する立場もおありでしょうと思いますけれども、私どもはまた正直に、すなおに、文部大臣というものは国民の教育ということの立場からお考えになっているという、こういう考え方をやはり国民として持っていいんじゃないかと思いますし、私はそう善意に解釈いたしまして間違っていないと思うのでございます。したがいまして、今度の法律を直ちに国家権力で統制のためにするのであるということは、今までの教育問題にも、ずいぶんそういう解釈が取り上げられて参っているのであります。私は東京都の教育委員会におりまして、さようなことからいたしまして、何か東京都の教育委員会も、全国の教育委員会も、みなこれは一つの権力の——またこの権力の解し方にもいろいろあると思うのでありますが、統制の仲間のように解釈されておりますのは、これははなはだ私は今日の民主主義の教育行政を行なうものといたしましては、少し行き過ぎた御判断ではないかと思うのでございます。という前おきを申し上げまして、今度のこの教育委員会が選定をするということにつきまして、何かここに教育委員会の権限があらためて増したように御解釈のところがおありのようでありますが、現在、東京都の教科書採択につきましてのことを申し上げますと、現在、東京都の教育委員会が東京都の教科書採択につきましてはその権限を持っているのであります。でありますから、この点につきましては新しく法律ができましたのと、ちっともその点において変りはないという解釈をしていいと思うのであります。東京都におきましては教科用図書採択専門委員会というのを毎年設けておりまして、これには約百人の委員を置きまして、各教科にわたりまして教科書の選定をいたすことになっておりますが、そのほかにも教科書の内容につきまして、研究員を持ちまして検討もいたしております。さようなことからいたしまして、この教科書採択専門委員会におきまして、十分慎重に審議いたしました結果、東京都の教育委員会として適当でないというものは省きまして、これに適当であると認めるものをもちましてその目録を作りまして、東京都の教育委員会は、本年度におきましてはこれだけの教科書を適当と認めるということを各地区の教育委員会に配りまして、それに基づきまして、各学校におきまして選択をして決定をしたものを、またさらに報告をしてくることになっているのでありますので、東京都教育委員会が採択の権限をはっきり持っているということでございます。ただ、先ほどもお話が出ましたように、その数が非常に多いものでありますので、各学校におきましては、その表に基づきまして各学校において決定をいたしまして、これを採用しているわけであります。今度の法律案によりまして、その点、各都道府県の教育委員会におきましては、数種を選定するということになっておりますので、現在までの表によります教科書数よりは、これははるかに数が少なくなってきておりますけれども、しかしながら、先ほど申し上げましたとおり、実情におきましては、結局数種と申しましても、中学校におきましては、多くとも八種、九種、小学校におきましては四種、五種、六種ぐらいに、結局実情はまとまってくるわけでございます。それとの実情と関係を持ちまして、しかし、たとえば九種までにいたしましても、あるいは五、六種にいたしましても、それを選定するということは、これは今までよりはたしかに非常にむずかしいことになると思います。そこで、現に東京都教育委員会として考えておりますことは、相当の予算措置をいたしまして、やはり各学校の先生方が持っておられる考え方を土台として、選定の順序を踏んでいかなければならないということで、あらためてそれにつきましては、すでにこの法案が成り立つ前にいろいろと研究をいたしておりまして、これには東京都としても、あらためて選定協議会を作るにいたしましても、また、その前の資料を集めるものといたしまして、各学校の先生方の持っておる考えを十分反映させるための一つの、何らかの組織も作らなければならないと思っておるのでございます。さようにいたしまして、決して東京都教育委員会におきまして、数種選定はいたしますけれども、これによりまして、今までの権限よりもさらに東京都の教育委員会の権限を強化しようなぞというような考えは毛頭持っておりません。心持ちにおきましては、やはり一つの学校の内部における教師の考え方を十分くみ取る、そこに何かの組織を作りたいということを考えておるのでありまして、決してただいま御質問にありましたような権限を強化するというようなことはありませんし、考えておりませんし、また、現場の教師の意見も十分聞くという立場にしておる次第であります。それでも、さようなことで今度の法律案が通りましても、一向差しつかえがないというふうに私どもは考えております。なお、つけ加えて申し上げますことは、先だってもある小学校の研究会に参りまして、ある研究発表者の教師の申しましたことは、自分たちはかりに指導要領というものを頭におかないで、自分たちの学校だけで、あるいはお互いの同僚と研究した、まじめに研究した結果の結論をもって指導要領をながめてみると、期せずして指導要領と一致するということを研究会の発表で述べた先生がございます。私は先ほども御意見がちょっと出たようでありますが、教科書というものはございますが、しかしながら、これは教材として大事なものでございますけれども、先生の教師としての研修してできました先生としての持っておる知識なり識見なりというものは、すでにりっぱな教科書の内容なり、それらのものが、ちゃんともう頭の中にでき上がっておるということが、これが一番大切なことであろうと思うのでございまして、私は教科書のどれがいい悪い、あるいはどれが特色を持っておるということを選定する用意のためにも、東京都の教員は多いのでございますけれども、さような選定のできる一人々々の教師のりっぱな教養なり識見を高めておくということを先決問題として考えておきますれば、今度の教科書法が通りましても、これが統制のためだとか、あるいは権限をしいて増すものだという教員は解釈を持ちませんで、やはり妥当なものであるという信念を持つように至るであろうと思うのでございます。
○成瀬幡治君 北島さんに伺いたいと思うのですが、出版に携っておられるわけですが、今後、教科書というものは一体どんな方向に育てあげていくか、いい教科書にしていくには。たとえば、吉村先生は現場でこういうようなことで苦労しておる、こういうことについてのお話があったわけですが、出版社というのですか、教科書を作られるほうの側としてはどんなふうにお考えになりますか、どういうふうに組んだらいいか、こういうことをお尋ねするわけですが、その趣旨は、先ほどちょっと私が、海後先生はどうだ、無償のことについてはいいが、無償の方法は二つあるじゃないか、貸与と支給の二つあるじゃないか、したがって、貸与にしたほうが安上がりで、しかもいいものが出てくるのじゃないか、諸外国等もそういう例が多いというようなお話、あるいは教科書とワーク・ブック、あるいはある書物などによれば一教課数冊主義というようなことまで言われておるようでございますが、したがって、どういうふうに教科書というものを今後育て上げたらいいか、相当たくさんなお金のかかるということにもなるし、あるいは色刷りを増す、あるいはグラフを入れていく、地図を入れていく、相当厚くなっていくのだろうか、どうなっていくのだろうか、読みやすくされる場合はいろいろなトータルがあると思うのです。そういうふうなことについての御抱負といいましょうか、お考えをまず最初にお伺いしておきたいと思います。
○参考人(北島織衛君) 非常にむずかしい問題でありまして、われわれは出版業をしておりますけれども、学識のほうは比較的乏しいほうなので、はたして正しい御返事ができるかどうか心配しておりますが、貸与という問題と給付という問題も委員会において十分討議されました。貸与という場合には、相当、これは外国の例もそうでありますが、いろいろな教科書のものを学校が持っておりまして、それを、教科書というものは教材の一つとしまして、掛字にしろ、あるいはいろいろなテレビ、ラジオもそうだと思いますが、そういう教材がそろっていた場合の教材の一つとして使われますときに、貸与という形は外国でも行なおれておるようでございます。しかし、これには膨大な費用を必要といたします。そういう形の教育を行なうために、私、調査会及び教科書協会の会長といたしまして無償の問題を研究いたしました場合に、今年度に使われました金が七億、これから三年までやりましても、十七億くらいの金なのでありますが、その予算ですらなかなかいただけないというような実情にありますときに、お話しのように貸与の形にして、教材の一部でほかの資料を整えてというようなことをいたすということは、はたしてできるかできないかといいますと、予算の上から見るとほとんど不可能に近いのじゃないかというふうに考えます。それから貸与につきましては、ただいまこれを三年なり五年なり持たせるためには、かなり堅牢なものをいたしますと、コストにおいても非常に高くなりますので、おそらく三年くらい持たせるためには、今の教科書は一年一冊でございますが、それの二倍とか二倍半ぐらいかかりましてそう経費の節約にならぬ。それから日本の教育は、やはり教科書を中心にした教育が行なわれておりまして、やっぱり現在の児童は教科書を中心に考えておる。したがって、家に持って帰る場合にも、予習、復習のときの問題もございますし、あるいは日本の児童のあれといたしまして、教科書に自分の参考のことを書き込むとか、いろいろな問題のことがあるわけです。これは給付していただきたい。それからはなはだ勝手な意見となるかと思いますが、発行業者の場合でも、三年に一ぺんしか教科書が出せない、三年目にはたしてその教科書が採択になるかならないかということは、教科書業者の立場から申しましても非常に企業が不安定になるということから、給付にしていただきたいということをお願いしたわけでございまして、貸与というのは、教育のいろいろのほかの資料が整えば、教育の理想的の形であるかもしれませんが、今の現状、それから予算の関係、いろいろの点から申しまして、ちょっと直ちに実行するということはむずかしいのじゃないかというふうに考えております。
○成瀬幡治君 もう一言お聞きしておきたいのは、諸外国、いろいろと出版関係で、やはりその道の大家ですからいろいろと研究しておいでになると思いますが、諸外国の方向は、教科書というものは、ただ一つのものにせずにいろんなものをそろえて、そうして教育の効果をあげていこうという、そういう方向にあるのか、いや、そうじゃなくて、一冊に集中して、一冊だけで安上がりでいこうとする方向にあるのか、そういう点についてはどういうふうにお考えになっておりますか。
○参考人(北島織衛君) それは私が聞いております。知っております範囲では、先生が申されました前者のほうであると思います。
○成瀬幡治君 ざっくばらんに言って、実は安上がりで金のかからぬように、無償だとはいうけれども、なるだけ教科書は安上がりで、そうして悪かろう安かろうというようなものを押しつけていくのじゃないだろうか、それは大体世界の向いている万両と逆な方向にいくのじゃないか。したがって、せっかく無償にするならいい方向に踏み切って、この際いろんなことがあろうけれども、なるほど二十億あるいは三十億に近いお金が要るということになれば、これはたいへんなことかもしれませんけれども、二兆億の中における義務教育費として、たくさんの子供がだれでも受けなければならない教育に対して、二十億の金が多いか少ないかという議論は、私はいろんな見方があるのじゃないか、もっとかけてもいいじゃないかという議論もある、いやそうじゃない、もっとちびらなければいかぬという意見もあるかもしれません。私がお聞きしたがったのは、あなたたちはそうじゃなくて、いい教科書を作っていきたいのだ、そういうことをほんとうにお考えになっているのじゃないか。ただ、それが文部省等の予算制約等があって、まあそうかもしれないけれども、まあこの際しょうがないからというようなことなのか、それとも先ほど、全国参議院を毎年やっているようなことでえらくてかなわぬからというようなところで、妥協的な意味でおやりになっておるのか、私は少なくとも教育の問題については良心的にいい方向に育てあげていかなくちゃならぬという熱意というものが業者にもなければならぬし、もちろん教育学者にもなければならぬし、現場の先生にもなければならぬし、われわれがみんな持っている最大のものだと思うのです。そういうときに、一番安い、一番安価な々法で、こういうところをスタートしてしまうということは、これは非常に遺憾だと思うのです。ですから、そういう点についてどういう情熱をお持ちになっているのかということがお尋ねしたいのですよ。それをどうかぼやさずに、私はざっくばらんにひとつお聞かせが願いたいのです。
○参考人(北島織衛君) 全国参議院の選挙をしているようでかなわぬと申し上げましたのは、採択が毎年々々変わりますので、考えてみますと、教科書というのは、四月から使われます。採択は七月に行なわれます。そうしますと、前の年に、十分、先生が御研究になって採択いただいたものを、わずか三カ月ぐらいしか使わないで、すぐに採択がえということは非常に早過ぎるのじゃないかということを私は考えております。それからもう一つは、そういうことをやりますために、非常に出版会社の労力も資金も必要といたします。たとえば展示会に教科書を出しますのですが、それはわれわれの会社では、たとえば三千万冊の教科書を出しておりますが、展示会に見本本を送るだけでも何千万円という金が運賃を含めて要るわけなんであります。そういう経費的な面からいってもむだである。したがって、教科書というものは一度採択いただいたら、今の非常に安い定価から申しますと、編集費の償却でも三年でできるかできないというような価格でございますから、三年間ぐらい据え驚いて、その間にわれわれも現場の先生方の御意見を十分伺って、落ちついた、そうして自信のある編集のほうに力を注ぎたい、われわれ申しますと、教科書というものが運動による、あるいは印刷が色がいいとか、あるいは紙がいいとか、製本の仕方がいいという形で採択されるのはむしろ邪道じゃないか、内容によって選択される形にしてほしいと思っております。事実、展示会に参りましても何百種類本が並んでおりまして、先生方がいかれまして、これを一日や工員や三日やでごらんになることはほとんど不可能です。それで、ただいまお話のありましたように、あるいは編集がいいとか、製本がいいとかいうようなことで採択されるような傾向になるおそれもありますので、そういうふうな形にしていただきたいということを申し上げたわけであります。それで、教科書の定価の問題もしばしば問題になりまして、私も調査会におきましても、文部省に対しましても十分意見を申し述べておりますのですが、国家で買い上げられる、国民の血税によって買われるものであるから、どうしてもこれは安くならなければいかぬ、安くなくちゃいかぬという御要望も非常に強うございまして、その間におきまして、われわれは定価はできるだけ安く、しかし、内容にはわれわれの自信の持てるものというところで日夜苦慮している次第でございます。決して安かろう悪かろうという教科書を出すという気持ではおりませんのでございます。その点をひとつ御理解を願いたいと思う次第でございます。
○成瀬幡治君 今、教科書というのは一体どのくらいもうかるのですか。一冊作って、あなたが正直に、これは今度、定価委員会ですか、何かそんなものができると思うのですが、教科書というものは一体今どのくらいもうかっておられるのですか、一瞬についてというとおかしいかもしれませんが、何部ぐらい刷ったらそれはベイしていくのか。それで、それ以上刷ったらもうかるということになりますれ。最低限度はどのくらいなのか、そうして、もうかるとするならばどのくらいもうかるのか、あなたのところ、これは一つ当てたわいという木があったらおっしゃっていただきたいのですが。
○参考人(北島織衛君) よその会社の例はあまりよく知らないのですけれども、大体今の定価の建て部数というものは十二、三万が建て部数になっております。したがって、十二、三万以下の部数しか採択がなかった場合には、おそらくその部門としましては、その教科書としましては赤字になるのじゃないかと思っております。しかし、これは調査会におきましてもその他においても、もっと定価を低廉にするためにもつと大きな建て部数にしなくちゃいかぬ、お金を出されるほうの側は、これは三十万部あるいは二十万部以上にして定価を安くしなくちゃならぬというような御意見も強いようでございます。結局これは今後持たれます定価委員会において、その定価について業者のいろいろ費用を詳細に企画庁及び大蔵省、文部省で御査定になりまして、それでやっていくというふうな定価をきめていくという形になる段取りになっておるわけでございます。
○成瀬幡治君 どのくらい利益があるのかということはなかなか言えぬ問題だと思いますが、今度は、先ほど前渡金をたくさんくれよというお話もあり、いろいろなことがあり、その前波金もおそらく利子の安い金を、少なくとも開発金利ぐらいな金を御要求になるかわかりませんが、あるいは無利子の金をとおっしゃるかもわかりませんけれども、なかなかなことだと思いますが、もう一ぺん最初に戻りますが、なぜ支給にしたかという点について、貸与にするのは、支給だというと三年に一ぺんでもいい、貸与ならば——採択がですよ——貸与のときでも私は三年に一ぺんにしたらいいと思うのですよ。ところが、それは印刷技術の上からいって、表紙やいろんなものにたくさん金をかけなければならぬから、それは非常に困難だ、それはむずかしいのだ、そのくらいのことをするならば内容のほうに金をかけたいのだから、そこで、まあ毎年支給をしていく、しかし採択は三年に一ぺんだ、こういう議論なんですか、そういうお考えなんですか、それでいいのだと……。
○参考人(北島織衛君) よく御質問の意味がわからないのですけれども……。
○成瀬幡治君 それじゃもう一度言いますが、支給をする場合、無償支給するわけですが、支払は御案内のとおり、あなたの今度の主張等があって三年に一ぺんの採択ですね。ですから、三年間は同じものを印刷して出せる、あなたのほうは。これを貸与にしても、もし三年に一度の採択にすれば、三年周あなたのほうは同じものを作ることができるわけですね。
○参考人(北島織衛君) それは違います。
○成瀬幡治君 ああそうか。一ぺんに済んじゃうから、三年に一ぺんになって、あとは刷れない。したがって、そうすると、三年に一ぺんの採択というと、表紙や紙の質をよくしなければならぬから、したがって、高いものになって出版会社のほうは利益がない。おれのほうは毎年売り込みでえらいから、三年に一ぺんだということになったと思いますから、それを採択のほうも三年に一ぺんにすれば、全国採用を三年に一ぺんやればよい。ですから、そうでなくて、貸与にしておけば、表紙はうんとよくし、紙の質をうんとよくしなければならぬから、教科書の代金がうんと高くなってしまって無意味なんだ。だからこの際は支給のほうがいいのだ。こういう御意見なのか、こういうことなんです。
○参考人(北島織衛君) 調査会におきまして、一年間、児童が使った木を各学校から適宜集めまして、委員の方にお目にかけたのです。日本の今の児童は教科書が主たる教材になっております。その破損が非常にひどかったのであります。それで、こういう教科書を三年もたせるためには、外国のをごらんになりますとりっぱな製本をしております。その程度まででないにしても、その半分くらいの堅牢さで丈夫なものを作らないと、児童に同じ木を三年間学校備えつけにして使うわけでありますから、それは無理だ。そうなると非常にコストも高くなるのじゃないかということが一つの議論なんです。それからもう一つは、日本の教育におきましては、やはり外国と違いまして、それが主たる教材になっておりますので、児童がやはり家へ持って帰りまして勉強するわけでございます。そのときに貸与の木を貸せるかどうかという問題も一つございます。それからやはり進学のときになりますと、前の年の教科書からやはり自分で一応見なければいかぬというような問題で、外国のような教材の一部分、いろいろ教材のある中で一つの教材だというような形で十分に豊かな教育が行なわれておるところでは別でありますが、日本のような状態では、それは無理ではないかということが一つの理由でございます。それから教科書会社にとりましても、一冊、本を作りまして、それが貸与になりまして、三年間据置というようなことでは教科書企業は成り立たなくなる。三年に一ぺんで、今度はまた採択がどうなるかわからないというのでは非常に教科書会社としては危険な状態になるので、ひとつ貸与という問題については、発行業者といたしましては賛成いたしかねるということを申し上げる次第であります。
○成瀬幡治君 木下先生に伺いたいのですが、先生は小学校の先生をおやりになったし、最後には師範学校の校長等をやっておやめになって、いろいろ御意見等がおありになると思うし、この道の権威者だと私たちは承知しておるわけであります。方向は、教科書はいわゆる教材のただ一つだという、そのウエートの占め方なんですね。こういうことが好ましいのか。そうではなくて、やはり日本でも教材の一部というような方向に育て上げていくべきなのがいいものか。先生は教育委員会等にも関係されて、行政のほうにもいろいろな造詣のある方と存じますから、学者としてでなくて、行政も含めて、いわゆる教育行政と申しますか、そういう立場から、この際御意見を伺っておきたいと思います。
○参考人(木下一雄君) 教科計がただ一つということで御質問が進められておるようでございますけれども、教科書がただ一つということまでになります今度の法律案によりましての経過をたずねますと、多くの教科書の中から数種を選定をいたしまして、そしてその数種の選定の中から採択地区におきまして、また協議会等ができまして、その数種の中から一極を選定をする、こういうことになっておりますから、一種にたよるということの解釈の仕方だと思うのです。一種になる、一種を最後に選びますけれども、それまでには多くの経過を経ておりますし、また、かようなことになりますと、各都道府県におかれましても、当然この選定のための協議会ができることになっておりますから、そういうところで結論的に数種選ばれましたというのは、おそらく私はその都道府県の学校長並びに教職員のすべての一つの判断というものが共通にそこに結論的に得られたものである、こういうふうにまたいかなければならないと思うのでございます。そこで、およそ一つの学校経営におきましては、校長が一体今何を考えておるかということを教師は全部知っていなければいかぬと思う、また、校長といたしましては、自分の学校の教員というものは、一体一人々々がどういう考えを持って学級の経営に当たっておるかということを、十分、校長としてはのみ込んでいなければならぬ。したがいまして、一つの学校内におきましても、校長の考えておることは教員が全部了解する、一人々々の先生方の考えておることは、校長がほんとうにこれを十分理解しておるという形がそのまま、私は地方教育委員会におきましても、都道府県教育委員会におきましても、そういう形のお互いの理解というものが十分ありまして、そうしてその中から数種を選ふということは、決して一つを、ただ形式的に統一したものだということでは、そういうような教育はおそらく現場においてはあり得べからざることで、もしも現存もそういう形のものがあったとするならば、今後の教育におきましては十分さような点のないようにしなければいけないというふうに考えております。
○成瀬幡治君 私がお尋ねしておるのは、そういうことでなくて、教育行政官として、教科書というものが、教材のただ一つのと言いましょうか、ほんとうにウエートの重い今のあり方なんですね、日本のあり方が。それに対して、将来非常にこれではおもしろくないのだ、もう少し教材というものの中の一つだというような方向にいくことが非常に好ましいじゃないか。しかし、それには日本の国力というような問題もあろう、だけれども、そういうことに対しては教育委員長等を長年おやりになり、行政的にも、私はすなわち政治的ないろいろの問題についても十分御関心があると思うから、したがって、現時点においてどういうようなお考えになっておるのか、その御判断を実は伺っておるわけなんです。
○参考人(木下一雄君) 教科書は一つでございましても、その教科書を教師の力によりましていかようにもこれを生かすことができるのでございまして、その点は現場におきましての一人一人の教職員の指導の力によると思うのでございますが、また教科書一つだけでは足りない、いろいろのワーク・ブックのお話も出たようでございますけれども、私はよりどころになります教科書一つを十分に使いこなせば、いろいろそこから応用も出てくるしいたしまして、むしろいろいろのものをもって——先ほども意見が出たようでございますけれども、いろいろの教科書をもって比較をするというようなことが子供の日常の指導において入ってくるということであるならば、私はむしろ子供に、ほんとうの真に何を指導すべきものであるかというポイントをはっきりととらえて、そのポイントからいろいろの応用の力が出てくるし、思考、考え方も出てくるしというようなことには、かえって不向きだろうと思う。私は一つの教科書でけっこうだと思います。それを活用するという指導があれば十分であろうと思います。
○成瀬幡治君 ありがとうございました。私の意見と少し違って——何か教科書が一つあればいいんじゃないか、財政が非常に許さないから、まだまだ日本としてはやむを得ずこの辺でしんぼうしたらどうだろうかという御意見かと思いましたら、そうではなくて、教科書はただ一つでけっこうという御意見でした。それは御意見として承っておきます。 次に、これは採択のことでちょっと伺いたいのですが、国が認定をしておったり、あるいは地方が認定をするとか何とかということで、地方が認定をしておるところに、フランスがあるとか、あるいはデンマークがあるとかというような例が出ておった。国が認定をしておる場合には、ノルウェー、ベルギー、あるいはスイス等があるようですが、主たる国は、大体、学校または学校の先生が自由に採択をしておる国が非常に多いように思うのです。もちろんこれは教科書の発行がそれじゃどうなっておるかということに関係してくるのですが、これはもちろん社会主義国家のソ連であるとか、中共であるとかというようなところは、これは完全に国が教科書を発行しておるわけでありますが、どうも諸外国と申しますか、自由国家群の多く、いわゆる民主主義を非常に旗じるしに掲げておる国——人民民主主義ではなくてですね。そういう国が非常に多いのですが、こういうことに対しては、先生は都道府県教育委員会が採択されてけっこうなんだと、こういうような御意見のようでございますが、それは日本の実情に合っているからいいんだというのか、あるいは日本が今後も民主主義というものを守っていく上において、これは非常に大切なことなんだから、都道府県がやったほうがいいんだ、これで日本の国は十分民主主義というものが守っていけるのだというお考えなのか、その辺はどうなんでしょうか。
○参考人(木下一雄君) 私は、ただいま御質問のありました、教師がどういうふうな考え方をもって——毎日の日常の児童、生徒の指導の上にどういうような方針をもって進んでおるかというようなことは十分考慮に入れませんければ、すべて成り立たないと思っております。その点は十分尊重する、尊重しなければならないのは当然だと思っております。しかしながらであるから、教科書はすぐ教師が選ぶのが至当である、こういうふうには必ずしも考えていない。 〔委員長退席、理事吉江勝保君着席〕 と申しますのは、教師がどういうような考え方を持っておるか、どういうような方針で指導するか、さような根拠に立ちまして、私どもはまた都としての教育も考えておりますが、また、私どもとして考えておることが十分現場の教師にも考えていただかなければならないことでありまして、形式の問題ではないと思います。
○成瀬幡治君 最後に、家永先生、あるいは海後先生にお伺いしたいと思うのですが、教科書を国が作ったり、それから国が認定する、これをやっている国があるわけですが、その諸国は一つの思想をもってそういうことをやっておるのか、そうではなくてその国の、憲法なり、あるいは教育基本法というのが日本にあるのですが、これが諸外国にあるのかどうか存じませんが、そういう学問の自由に反しない、家永先生の言葉でいえば、学界の常識をこえたものを排斥するというようなものさしで国が検定をしたり、あるいは国が発行しておるのか。そうじゃなくて、一つの思想というものをもってそれを押しつけるために発行をしておるのかどうか。諸外国でやっておる国があるというのですが、そういう例をひとつお聞かせ願いたいと思います。もしそうじやなくて、国が発行するということを忌みきらっている国がある、そういう国は、それはなぜそういうことをやってはいかぬとしておるのか、その守ろうとしている一番大切なものは何なのか。いわゆる権力の支配ということを断ち切ろうとしておるのか。先ほど海後先生のお話を聞いておりますと、イギリスの文部大臣の性格や何かで変っちゃいかぬので、子供がそういうものに振り回されてはいかぬというお話だったと思うのですが、それはイギリスだけかどうか知りませんが、そういう国が、そういう発行をしなかったり、あるいは国が検定をしておらぬところは、どういう立場でしておるのか、何を一体守ろうとしているのか、あるいは国が発行しておるところは、何を押しつけようとしておるか、そういう点について例をあげて、もしおわかりになればお教えを願いたいと思います。
○参考人(家永三郎君) 私は日本専門の研究者でございますので、たいへんお恥ずかしいことでございますが、外国のことについては自信のあるお答えをしかねますから、日本のことでお許し願いたいと思いますが、戦前に日本の国定教科書が行なわれておりましたのは、まさしく政府の考えている世界観、人生観を国民に注入する目的であったと思います。そして終戦直後の新しい教育改革の際にやめようとしたのは、まさに政府の世界観を国民に注入することをやめようとするために国定制度を廃止し、検定制を廃止し、しかもそれは憲法や教育基本法の精神に反するものだけを排除して、できるだけそのようなものを作ろうという趣旨であったと私は理解しております。外国についてはお答えできませんで申しわけございませんが、日本の場合は、まさにそうであったと信じております。
○参考人(海後勝雄君) 外国の詳しい例、専門に研究しておるわけじゃありませんが、私が行って見た程度では、多くの国の中には国が発行しているところもあるようであります。ただし、この国が費用負担をするという問題と、中身を統制する問題は別でありまして、それらの国へ参りますと——ヨーロッパあたりの国でありますが、文部省へ参りますと、すぐわれわれの国ではサポート・アンド・ノー・コントロールと合言葉のように申します。財政的な援助、協力をいたしまして、中身の統制、支配はしないのだ、こういうことでありますから、発行、費用負担の問題と中身統制の問題もやはり分けて考えておりますし、われわれも分けて考えなければならぬ、そういうふうに考えるわけであります。イギリスあたりで、国が相当教育費の負担をいたしております。大学あたりにつきましても大きい負担をいたしておりますけれども、これは大学財務委員会という非政府機関——ノン・ガヴァメンタル・オーガニゼーションに一括して賦与いたしまして、それを自主的に配分する、こういう具合に用心しておるのがサポート・アンド・コントロールの原則であります。きわめて良心的でございます。そういう点を間違えて発言するその国の方もないことはないようでありまして、戦前のイギリスで、教育史によりますと、文部大臣ジョージ・トムリンソン氏のときに、国会でやや狂信的議員が発言いたしまして、イギリスでも文部大臣が教育課程、カリキュラムを指示したらどうだという発言をいたしましたところが、文部大臣は、重要な仕事がほかにあるので、そういうことはいたさないと、こういう簡単な答弁をいたしまして、質問者は満場の失笑をかったと、こういうような記録があるくらいでございまして、この点はいわゆる費用負担、発行の問題と内容統制の問題を画然と分けまして、サポート・アンド・ノー・コントロールの原則、援助して統制せず、これの考えを育てていく、これが民主主義の原則である、こういう考えに立っております。外国で、たとえばソビエトの場合でありますけれども、国が発行する傾向を初期からとってきておるようであります。そのための機関を持っております。教科書、教具の発行機関であります。ただし、内容につきましては、数年前の国際教科書会議、東京で開かれました、それに私は出席しておりまして、ソビエト側の発言を聞きましたけれども、国定ではない。社会主義国のごとき国定の教科書の場合という発言がありましたら、代表のナルテニスキー教授は憤然と立ちまして、ソビエトは国定教科書ではない、現に私の教科書を民間の教科書として採用されている。特に第二十二回党大会以来、地方分権の線を強く出して参りました。中央の一律規制を避けて、ソビエトなりの民主主義の方向を打ち出すということを旗じるしに掲げておりますが、実情はどの程度にいっておるかわかりません。 〔理事吉江勝保君退席、委員長着席〕 同じ社会主義国で、ユーゴのごときは、完全に文部省を解体いたしまして、ノー・ガバメンタル、非政府的な組織機関に一任いたしまして、地方分権の方向をとっている、これが社会主義の正道であるというふうに申しております。ですから、社会主義国では、国定で国が発行するというようなことは簡単に言えないのでありまして、今日の動きは、同じく自由諸国と同じように、次第に私はサポート・アンド・ノー・コントロールの方向をとりつつある。これがやはり世界の子供を大事にし、教育を生き生きとさせる原則であろうというふうに考えております。
○千葉千代世君 吉村参考人に伺いますけれども、教科書を広地域採択にもっていきたいと考えている人々が、その理由の中にこういうことをあげております。隣りの学校とこちらの学校と教科書が違っておったんでは、教育研究の活動をする場合に不便ではないか、同じ教科書を使っていれば、かえって研究に便利じゃないか、こういう議論をおっしゃる方がありますけれども、現場のお立場からどのようにお考えでしょうか。
○参考人(吉村徳蔵君) 私の場合はむしろ逆でして、いろいろな違った教科書を持っていたほうが、僕たちの場合としては研究にかえって便利である。いろんな書き方、同じ歴史なら歴史の序列にしても、エピソードが入っているとか、絵が違うのがあるとかいうことによって、子供の考え方がずいぶん違って参りますので、そういう点で、いろいろな教材を与えてみて、子供の考え方が変わるというようなほうが私たちの研究にとっては便利であると思っております。
○千葉千代世君 またもう一つの理由として、子供が転校していった場合に困るから、そういう声があるから、広地域採択にすれば世話がないではないかということを聞きますが、子供がよその学校から転校して自分の学校に来た場合に、その学校で使っている教科書をとるのにはどのくらいの手数と日数がかかるでしょうか。
○参考人(吉村徳蔵君) 確かに転校してきた子供が新しく教科書を買い直さなければならないという点では負担になると思います。これは今後の問題で考えていただきたいことだと思うのですが、子供たちは、よそから転校してきた子供が参りますと、教科書を、君の教科書は違うなと言っております。そうして、僕たちのとちょっと違うけれどもと、同じようなところをやはりあけて、そうして一緒にやっております。そうして別に不思議にも何とも思っておりません。それから、今申しました教科書は取次店から大体早くて、四、五日、おそくとも一週間から十日以内、大体、十日までかかったことは全然私の経験ではございません。
○千葉千代世君 先ほど木下参考人がおっしゃったわけですが、教科書を採択する場合に、教育委員会に採択権がある、しかし、それは小学校に渡して、現場の先生方がいろいろ相談をして、これによってそういう意見がまとまってきて、それを許可する、こういうふうに伺ったのですが、私はそうして考えていった場合に、現場の先生方が自主的に教科書を採択されたりする、こういう方向で御審議なさって、そうして教科書をきめて、それを校長を通して教育委員会に申請する、こういう形式だと解釈したのですが、どんなものなのでございましょうか、吉村参考人に伺いますが、実際の現場の実情として。
○参考人(吉村徳蔵君) 先ほど木下さんからお話ありました点ですけれども、東京都の教科書は、たとえば北海道とか、長野県とか、そういうところで作られた教科書は採用してはいかぬということは言われておりますけれども、今まで教科書会社が全国的な規模で出されている教科書については、どれも採択してはいけないというふうに言われておりませんので、いわゆる、今問題になっておりますように、数種にしぼっていっておるわけではないのです。その点で私は、特別、採択上に不便を感じませんので、全体の中から選んでいく、そういう点で今までは私たちは、そういう権限ということでは教育委員会にあるかもしれませんが、私たちは自主的に自分たちが一番いい教科書を現場で選んでいる、そういう考え方で教科書を選んでおります。
○千葉千代世君 現場の先生方がいろいろ教育の実績の中から研究活動をなすっている。その研究活動はやはりあくまで自主的になさっていらっしゃるように聞いているわけです。ところが、ここ二、三年来、とれこれの教育研究会をすると、文部当局から、あるいは県教育委員会からその研究会に出席する人は内々指名がいって、そうして、その学校の仲間も知らないで行っている方もあるということを聞いたのですが、そういう実例はございましょうか、どうか。また、海後参考人に伺いますけれども、当局が出席を指名したり拘束したりして研究活動を進めている国が、先生のごらんになった国々でございましょうか、現実はどのようになっているのでしょうか。私はこの前に各党婦人議員代表で行きましたときに、ちょうどアメリカのニューメキシコに行ったときに、ニューメキシコ州の先生方の大会があるということを聞きました。そこで、私はそれは文部省から、たとえば連邦政府からそういう命令があってやるのかと言ったところが、いやいや、これは中央集権、特に教育の中央集権は絶対に排しているのだ、州の中で先生方が意見を出し合って、今度こういう大会をして、あるいは教材が足りないからそれを州に要求しようとか、いろいろ相談し合って、出席については御父兄と話し合って、そうして自主的にできているのだと聞いたわけです。私はそういうふうに考えますと、どうもこの二、三年、文部省が指導して、たとえば外国に校長さんをやります場合にも、文部省主催の校長講習会ですか、研究会ですか、それに出た者でなければ選に入らないということもうわさを聞いているわけです。そういう意味で自主的な研究活動の点についてお尋ねしたいと思います。
○参考人(吉村徳蔵君) 最初のほうの研究会の出席のことについてでございますけれども、そういう事実は私は聞いております。実は私の知っている江戸川区の社会科の先生でありますが、文部省の主催の研究会に出たいと思っていらっしゃったのですが、実際に出るということを申し述べましたところが、実はもう前からきまっているのだからと言って、君は出てくれては困るということを、そのような意味のことを言われて、たいへんおかしな研究会だなと思ったということを私に漏らされました。そういうことを聞いております。
○参考人(海後勝雄君) 外国の場合でございますけれども、先ほどから申しましたような原則から、特別な、いわば全体主義的な国の場合にはわかりません、そうでない限り、講習——教師の再教育と申しますか、リフレッシャー・コースというふうに申しておりますけれども、この種の教師の研修については、ほとんど私が参りました国では民間的な組織団体が主催いたしまして、場合によりますと、政府その他から財政援助がある場合もあるようでありますけれども、文部省が、面接講習を主催し、教科書の内容を徹底するというようなことは私は存じません。またイギリスの例になりますけれども、教師のリフレッシャー・コースはいろいろな団体がいたしておりまして、保守党が主催するもの、労働党が主催するもの、教員組合が主催するもの、これらの研修の集会に自由に選んで、自由に出席しながら、あるいは場合によりますと、大学が主催いたしますが、このようなものに対して出席が強要される、中身が行政的あるいは法的な規制を受けるというような事例は、少なくとも自由諸国においては私は聞いておりません。
○小林武君 木下先生に御質問いたします。文部大臣の話が出ましたけれども、文部大臣の話に反論するというような意思は毛頭ないわけでございます。それは、御意見でございますから。ただ、ちょっと関連いたしまして、教育基本法の十条ですね。教育は直接国民全体に責任を負うべきものであるという定め、この趣旨は、いわゆるこの階層的な行政、階層的な行政機構のもとで教育は行なわるべきでないと、こういう考え方を定めたものと思います。これは私は木下先生が戦後の教育その他について非常にいろいろな面で寄与されておる。いわばわれわれの大先輩であられる、そういう方でありますからお伺いするわけでありますけれども、そういう定めがある。教育がやはり人間の内面的な形成の仕事であるというところから、やはりそういう行政の行き方が定まったと思うのです。少なくともそういうところから文部省の解体論というようなものも、教育基本法制定の当時にあったことは、これは間違いのない事実のように私は聞いているわけです。何も文部大臣が気にくわないとか、文部大臣に文句をつけなければ民主教育が行なわれないなどというような、そういうさもしい考え方でいろいろな問題が起こっておるのでは私はないと思うのです。こういうことを考えますと、私は東京都の教科書の採択の問題、これは板橋の第一中学校の吉村先生がおっしゃるように、東京都の場合は、私は模範的に行なわれているように思うのです。これは何と申しましても、東京都の学校では、学校で選ぶのか、教師が選ぶのか、とにかくその点では現場というものの立場から教科書が選ばれ、これが区で統制されるとか何とかいうことではないというふうに私は今まで承知いたしておる。こういうやり方は、今申し上げたいわゆる教科書の採択の面でも、都であるとか、あるいは道府県であるとかいうように、とにかく数種を選んでそれを少なくとも押しつける。押しつけると言ったらはなはだ語弊があるかもしれませんけれども、そのワク内でどうこうという問題になりますと、しかも、それが教師の手で行なわれるかどうかということについては、これは徹底されておりませんわけですから、そういうことになりますというといろいろの問題があると思います。ただ、今はその問題については時間の都合上やれませんので一つだけ申し上げますと、そのために東京都では、私は一番教科書の業者と教師との間に問題が起きていないということだと思うのです。私は採択という問題を考えた場合に、何といってもやはり教科書にまつわるさまざまな醜いものが起こってはならないということが第一だと思うのです。このことが東京都の場合では、理想的な形とまではちょっと言い過ぎでございますけれども、少なくとも教科書検定制度のもとで採択が行なわれるという面では私はうまく言っているように思うのです。なぜ私がそういうことを申し上げるかと言いますと、明治二十年ですか、日本に教科書の検定制度が、いわゆる戦前の検定制度というものが起こった。それがとにかく都道府県ですか、そのころは都はなかったから府県ですが、府県の選定委員会のようなものができて、そして当時の記録によりますと、手数百種に上る教科書の中から、その選定委員の手で選ばれるというようなことから非常な問題が起こって、いわゆる教科書疑獄事件と言われるようなものが起こったわけであります。私はそのことがやがて——そのことだけではございませんけれども、そのことが大きくやはり国定に踏み切らせるところの、国定になるところのやはり大きな原因だったと思うのです。私はそういう事実を考えますときに、今、日本の教科書の問題を論ずる場合に、家永先生のお話ではございませんけれども、過去の歴史的な事実に対して反省点を求めないというと、またぞろやはり問題が起きないとは言われないと思うのです。まあ北島さんは、先ほど参議院議員の全国区を二度も三度も毎年やられてはたまらないということをおっしゃられましたけれども、私はこの気持はよくわかるわけです。やはり教科書会社といえども、自分の会社を発展させようという角度から、自分の教科書のよさというようなものをほんとうに認めてもらいたいという、そういう意図、これは私は当然あってしかるべきだと思うのです。そういう一体会社の競争というものが激甚になった場合に、私は絶対間違いはございませんというようなことを、過去の実績の中から言い得るかどうか。東京都が問題が起きないということは、そういうことが起きないような、一つの学校が、それぞれの立場で採択しているということから、いわゆる教師が採択しているということから、そういう問題が避けられていると思うのです。私はその点について、非常に深い経験をお持ちの木下先生は、そういう過去の事例等をお考えになって、この採択の問題は、特に先生が強調された点でございますけれども、ほんとうに一体これが、今度の教科書無償の措置として。一体妥当なものであるか、絶対日本の教育に暗影を投ずるようなことがないものであるかどうか、そういう点についての御意見をひとつお聞かせいただきたいと思うわけであります。
○参考人(木下一雄君) 初めに、質問にお答えいたしますのに、ちょっと伺っておかなければならぬことが一つあるわけであります。教育基末法十条と文部大臣の関係につきましてお尋ねがありまして、そして、その文部大臣を対象とするものでないということでございますが、そうすると、文部大臣というのは、一体どういう存在であるか、ちょっと伺っておきたい。
○小林武君 文部大臣というようなものについて、どういうものであるかというようなことは、ここで長々と申し上げることは、まあ私にはおそらくそういう能力がないだろうと思います。これは文部大臣がいつもおっしゃることでありますから、私もその言葉をかりまして、能力がないのでありますけれども、私は先ほどから申し上げておるように考え、教育基本法十条にあるところの問題は、学校教育法の中にもそういう問題があるわけです。たとえば小学校の教科に関する事項に、この場合には十七条、十八条の規定がある。この十八条、十七条の規定に従って監督庁が定めるとしておりますけれども、その同じ法の百六条には、右の監督官庁とは、当分の間、文部大臣たることを定めると、こうしてあります。この文部大臣を当分の間定めるということは、私の知識では、先ほどから申し上げたような理由から、地方教育委員会が発足してこれができるまでが当分の間だと、こう思っておるのです。百年も当分の間が続くということはないというようなことを、この間論争いたしましたけれども、その当分の間というのはそう解釈しておる。その後いろいろ変化のあったことは私も認めるといたしましても、当初のやはり日本の国の民衆教育というものは、少なくとも先ほどから申し上げました階層的な機構による教育行政のもとでは、正しい教育が行なわれないという戦前の経験を通して、その反省の上に立つ九一つの教育行政のあり方だと思うのであります。私は文部大臣というものをそのようにとらえておるのであります。しかし、この考え方はきわめて一部の不逞のやからの考え方ばかりでは私はないと思うのであります。たとえば、ちょっと名前を忘れましたけれども、臨時行政調査何とかというあれの中にも、文部大臣の問題について触れておられるということを私は新聞で見ているのです。それについて文部省が何か見解を発表されたとか何とかということも聞いている、これは一応、一体あの教育権というような問題、それがまあ先ほどもお話の中に出ましたけれども、一体、司法その他の行政というようなものと分けて、四権分立というようなことになるかどうかは別といたしまして、教育というものは、今申し上げたような角度から、いわゆる上からの命令で一体行なわれるものじゃない、これは木下先生もご存じだと思うのであります。またそのことによって、教師は父母、大衆に責任を負うということが、そういう行政のもとでは圧殺されてしまうわけでありますから、そういう角度で文部大臣というものを私は見ている。文部大臣というものは、本来ならば教育的な諸条件を整備して、教師がほんとうに国民全体に対して責任を負えるような教育をやることに大いにひとつ力をつけるというのが、私は新しい時代の文部大臣の使命だと、このように考えているのです。ただそのほかの文部大臣論になりますというと、私はちょっと今申し述べるあれがありません。
○参考人(木下一雄君) ただいま日本の戦後の教育につきまして、いろいろのあり方につきまして御説明がありましたので、お答え申し上げます。御承知のとおり、言うまでもないことでありますが、現在の日本の教育が、ただいまお話のとおり、教育基本法にいたしましても、国民の総意において教育の目的を定めたものでございます。時の教育は、天皇のお言葉によりまして、勅令、その他によりまして、命令の形でできておりますけれども、新しい私ども憲法と教育基本法を持ちましたものは、少なくとも国民の総意において教育基本法を定め、教育の目的を定めておるのでありまして、これによりまして文部大臣が国の教育を行なうという形は私は命令ではないと思うのであります。やはり国民の総意をもとにして、教育につきましていろいろ文部大臣としての仕事をやるのでありまして、その点は、今、小林先生のおっしゃいましたとおりのことを文部大臣はやっておる信念であろうと思うのであります。同時に、この階層的な教育をしてはならぬということでございますが、私は同感であります。現在の日本の教育は、さような階層的な教育をしてはいけないと同様に、また一つの階層をもちまして一つの社会を考えたような意味での運動による教育を考えてはいけないと思うのであります。この辺は、私は教育の責任者といたしまして、なるがゆえに、教育委員会の職というものは、自主性を持った、いかなる不当な支配にも服しないような立場において教育委員会が教育の自主性を持って行なわれることになったと思うのでございまして、私は少なくとも教育の行政を行なっておる立場といたしまして、階層的にはさような考えは持っておらないのでございます。それからその次のことでございますが、東京都の教育委員会は現在すでに教科書採択の権限を持っております。そして、先ほども数回にわたりまして質問にもお答え申し上げましたとおり、教科書採択の委員会をもちまして、それによりまして決定いたしましたものを各教育委員会、学校に流しておるのでありまして、それがすでに東京都教育委員会で決定したところのものを流しておる、したがって、その決定したものの中について各学校において選んでおるという形でありまして、この点におきましては、さような順序をはっきり、先ほども申し上げましたとおりであります。ただ、違うところは、今まで各学校に流しました教科書数と、今度の法律によります数極というのでは、大へんなそこに開きがございますことは事実であります。したがいまして、この数種ということにつきまして検討をいたしまして——ところが最初に申し上げましたとおり、東京都の実情は、東京都教育委員会におきまして決定いたしましたものを各学校に流しましても、結論といたしましては、やはりこの数種に相当する教科書の決定をみておるのであります。つまり東京都には、小学校が約千に近く、中学校が四百、高等学校が二百ございますけれども、さような多数の学校で選びましたものが、結論といたしましては数極になっておるのであります。したがいまして、その数種ということにつきまして、それぞれ吟味すればいいということでありますが、しかしながら、結論はそうでありましても、あらためて東京都の教育委員会におきまして数種を選ぶということにつきましては、そこに十分な用意が、今までどおりの形でやっていることはできませんから、そこに予算措置もいたしまして、この数種を選ぶということにはどういう方法をとったらばいいかということをやはり考えておりまして、そしてそこにはやはり現場の方面からの十分な反映を持たなければならぬという考え方で、今それらの機構を検討中なのでございます。したがいまして、根本の精神におきましては何ら変化するところはないわけでございまして、あらためて東京都の教育委員会が数種にしぼるということで、御心配になりました明治三十六年ころのあの教科書事件に相当するようなものが再び起こるかという御心配をいただきまして、これは将来のために十分用意はしなければならぬと思うのでありますけれども、歴史的にだいぶいろいろ議論が出ましたが、社会が推移いたしますれば、それと同時に教員の頭も推移して参ってきております。明治三十五、六年ころのあの事態をまた繰り返すような教員は東京にはおらないのじゃないかというふうに考えますので、口はばったいようでありますけれども、私は現在の東京都の教員なり、スタッフを信頼いたしまして、さような事件のないようにできるだけ努力するつもりでございます。
○小林武君 たいへん失礼でございますけれども、若干私の質問が悪かったのだと思います。それで誤って先生に解釈されたのだと思うのであります。私は階層教育と言ったのじゃない。階層的行政機構、こう言ったのであります。たとえば、われわれが国民に責任を負うということが、教育に対して。これは教育基本法の中に特に今度入った最も重要な事項だと私は思うのです。国民に直接責任を負う。このことは戦前の教育を考えた場合には、どうしてもこのことの徹底がない限りにおいては新教育は行なわれないわけなんです。その階層的な教育行政ということをわれわれはどう受けとれるかということは大事なことだと思います。木下先生のお話しによるというと、文部省がとにかく負っている。さらにそれが内閣総理大臣という、国民によって選ばれた多数の政党の中から選ばれたのだ。国民の信頼がそこにあるのだから、その内閣の中の文部省、その文部省の命令を教育委員会が受けて、その教育委員会の言うとおりにわれわれがやっておれば、国民に対して直接の奉仕ができるのかどうか、責任がとれるのかどうかということになります。私はそういうやり方が階層的な教育行政だ。私の考え方はそうじゃない。国民に直接責任を負うということは、そういうことじゃないのだというのであります。でありますから、そのことは少くも日常の教育実践の中ではっきりさせられなければならない問題だと思うのでありますけれども、これはほかの方なら申し上げませんけれども、先ほどから申し上げますとおり、日ごろ非常に尊敬申し上げておる木下先生でありますから、この点やはり私は先生の口からはっきりした御意見を承りたいのであります。それからいわゆる金港堂事件と称する明治時代の問題なのであります。この点は先生どうお考えになっておるか知りませんけれども、私はこの中に教員と名のつくものが一人もいないとは申しませんけれども、教員といっても、教員というにしてはちょっとどうかと思う、いわゆる教育行政家と言われる人たち、あるいは宮内大臣のだれがどうしたとか、県知事がどうしたとか、代議士がどうしたとかいって、いわゆる現場の教師がこの問題にあまり関与してない。このように私は記録の上からは承知しておる。間違いであればひとつ御指摘をいただきたいと思うのであります。でありますから、先ほど私が例を引いたのは、東京都の場合で問題が起きないということは、直接教員が自分の手で、自分の教育的信念で教科書を選ぶというやり方をやっている場合には、私はその種の問題は起こらないということを申し上げた。ところが、一たんこれが、先ほど申し上げましたような選定委員というようなものになった場合には、教員がそれに——木下先生はそれについて十分、都下三万数千とか、四万とかいう教員の希望を十分受け入れてと、こうおっしゃいますけれども、なかなか口のとおりにはうまくいかないということは、私は組合運動をやってよくわかっておるわけであります。そういうことを考えますときに、私は今度の制度の中には多分にその危険性がある。問題は今日は現場の教師ではないのであります。こういう問題になったときに、そのときにどんな熾烈な一体競争が行なわれるか、その競争の結果がどういうあれを生んだか、私はかんぐって言えば、問題を起こしておいて、とてもこれじゃたまらぬから国定にしてやろうかという腹がまえがあってやっておるんじゃないかと、ことさらどうも疑い深い性格かもしれませんけれども、実は疑っておる次第であります。そういうことを木下先生は大丈夫だとおっしゃることができるか。私は木下先生、ほんとうに教育者の先輩として、そういう確信をお持ちになるのは、現場の教師にまかせるというところ、現場の教師がほんとうに直接国民に責任を負うという形の中からこそ生まれてくるように私は思うのでありますが、その点について、先ほどの質問ではちょっと誤解があるようでありますので、もう一度御答弁をお願いします。
○参考人(木下一雄君) 教育を行ないます者が、国民に直接責任を負うということは、あまりにも今日私どもの常識でありまして、東京都教育委員長として、私もまた東京都民に直接責任を負うものという頭でやっておるのでありまして、これはもう問題になっておりません、現在、と私は考えております。したがいまして、階層ということが、いろいろ見当違いになりましたのは申しわけないと思います。私自身は少なくとも国民に、東京都教育委員会の場合は、都民に対して直接責任を負ってやっているつもりであることを繰り返して申し上げておきます。それから明治三十五年、六年の教科書事件でございますが、私は幸いにもそのころすでに中学校の生徒でありまして、その事件をよく承知いたしております。私の存じ上げておる教育者等におきまして、非常な不幸な方ができたことも記憶いたしております。したがいまして、さようなことから、今日さような事態の起こらないように——起こらないと断言するということは、これはまことに僭越な断言だと思うのでございますけれども、起こらないように、さようなことにつきまして努力をするという御返答でお許しいただきたいと思います。
○小林武君 もうこれで終わりますけれども、私は教育委員長としての木下先生、文部大臣としての荒木さん、これがそれぞれの立場で国民に責任を負わなければならない領域がある。そのことを少しも否定する気持はない。しかし、教師は教師として教育委員長にも文部大臣にも指導を受けないところの国民に対する直接の責任というものがあるということは、私は木下先生にお認めをいただきたいわけでございます。これは教師をやったことのある者としてぜひともそのことはお認めをいただきたいと思うわけであります。もう一つ、私は最後に非常にひっかかるのは、どうも、先生はその当時中学生でありました。その中に教師のあれもひっかかったとおっしゃいますけれども、私は教師がひっかかったということだけをおっしゃいますことについては、私は片手落ちどころではない、これは非常に不公平な判断ではないかと思うのであります。当時の全貌というのは、私は生まれておりませんからはっきり申し上げることはできませんけれども、一体どこに重点があったのかということを聞きたい。一体、いわゆる高宮といわれる人間にあったのか、政治家といわれる人間によけい問題点があったのか、私の判断では、教師の中にそれは一人もなかったとはいわない、それは巻きぞえのようなものだ、ほんとうに飛ばっちりを受けたようなものだと私は思っているんです。そのことに誤りがあるならば、どこまでもこう問題の責任は教師にあるとおっしゃってもけっこうですけれども、そうでないならば、別な言い回しの仕方を、問題の重点はどこにあるかということを明らかにしていただかないと、何しろだいぶ古いことでございますから、誤解が生ずるおそれがありますので。
○参考人(木下一雄君) これはよく承っておくだけでいいと思うのでございますが、私はただいま教師もと申し上げたと思っておるんでございます。もしあれでしたらば、さように訂正をしていただきたいと思います。
○高山恒雄君 木下先生に御質問したいのですが、先生は審議会に入ってみえるのですね。そこでお聞きしておきたいことは、五大市から今度の改正案に対しては県に委譲することについては非常に普遍的な認定制度になる、こういう意見が強く出ておるわけです。それはなぜかと申しますと、都市の大きところに限って同じ選定委員会等ができるのでしょうが、そういう委員会にわずかの人しか入れない、多数で押し切られるということは地域の状況はわからない、こういう変則的な結果になりがちだ、こういうことを主張されておるわけです。私は聞いてもっともだと思うわけです。したがって、先生にお聞きしておきたいことは、ここに十五名の方ですか、審議会に出ておられるのですが、文部省の小林さんを入れますと十六名ですか、この委員会でこの五大市の問題が問題にならなかったのかどうか、もし問題になったとすれば、どういう見解に立っておられるのか、この点をお聞かせ願いたい。
○参考人(木下一雄君) そのことにつきましては、特に五大市のためにということの審議はあまりなかったように記憶いたしております。しかしながら、都道府県を単位として設定をするということでこの法律案はできておるというふうに考えております。
○高山恒雄君 私はそこが聞きたいのじゃないですがね。私の聞かんとするところは、今後持たれる委員会の構成ですね。その構成によっては、そうした五大市の意見というものが入らないままに選定される場合がある。国定教科書の場合でもこれは差があったわけです。二つなり三つなりの種類があったわけです。ところが、そういうふうに多数の原理によって、地域の状態を十分入れないままにきまるおそれを私たちは考えるということが、五大市の考え方だと思うのです。私は聞いてもっともだと思うのです。したがって、先生は、そのときにはそういう意見は出てなかったけれども、実際をいうとそういう危険性があるということを私は案ずるのですが、先生はその点についてはどうでしょうか。
○参考人(木下一雄君) 私は一番初めに十五分の時間で申し上げました後段におきまして、直接五大市のことは申し上げませんでした。しかし、これは五大市が各都道府県と同じような立場に立つということにつきましては、さような意見の取り上げ方はいたしませんと述べましたけれども、あとで速記録をごらんいただきますと、これは五大市だけ特別に取り上げるべきものではないということがよくわかるであろうと思うのでございます。私は都道府県を単位といたしまして五大市もその中に含ませるのが当然である、これは後ほど私の述べました意見を十分ひとつ速記等によりましてお読みをいただきますと、よくわかると思います。
○豊瀬禎一君 時間がありませんので、失礼ですが、質問だけをそれぞれの方に一括していたしますので、お答え願いたいと思います。 まず、家永先生にお尋ねいたしたいのですが、本法案の採択、発行等の問題、広地域採択の問題、あるいは業者指定の問題、言葉をかえますと、本法案の持っている本質的の性格というものが、教科書の統一化、ひいては教育の統一化、教師の自主性の剥奪、こういった結果を一そう助長するものと思われますか、否定されますか。 次に、海後先生にお尋ねいたしますが、私立学校は御承知のように現行法においてもかなり大幅な自主性を持たされております。ところがこの法律案ができますと、都道府県教育委員会が選定した教科書の中から使わせられる結果になってくる、新たに私立学校に対しての自主性を奪うものと私は判断いたしますが、見解を承りたいと思います。 次に、木下さん並びに吉村さんにお尋ねをいたしたいのですが、まず木下さんにお尋ねしますが、従来、東京都において行なわれておった教科書の採択方式の長所があるとお考えでしたら、その長所を述べていただきたい。 吉村さんにお尋ねしたいのは、従来の方式により欠陥があったとお考えになるならば、その欠陥を具体的にお聞かせいただきたい。 それから北島さんにお尋ねいたしますが、私の名刺は、あなたの加わっている各会社の重役室には何枚かあるはずと思います。私がそれぞれの会社の重役から直接聞いたところによると、本法案に反対したいのであるけれども、文部省の某課長が深夜電話をかけてきて、反対すると検定問題に悪影響を及ぼす。こういった点を私は直接聞いたのです。重役から。協会として、文部省がこの法案に対する賛否の意見をしかるべき機関、しかるべき場所において、また自由な立場において披瀝することに対して何らかの拘束的な言辞を弄したかどうか、それが一点。あなたの加わっておられる協会のうち、会社側としては、全員一致とおっしゃったのですが、今日もなお至急親展電報、至急親書等によって、会社名を使って、あるいは労組名を使って宿舎に反対の要請の電報が参っておりますが、この点を全会社こぞって本法案の早期成立を願っていると把握しておられるか、部分的には反対の点もある、必ずしも法案の成立を一致して希望していないと判断するのですか、いずれでしょうか。それから第三点は、労働組合、あなたの会社の労働組合も含めて非常に強く本法案に反対している。労働組合はすなわちあなたのところの従業員です。実質的にあなたの会社を働きながら動かしている人々が反対意見を持っているにもかかわらず、あなたは協会を代表して賛成意見を述べておられますが、従業員と会社の関係は、この法律案について協会として今日までどういう扱いをされてこられたか。第四点は、あなたが意見を述べられた際であったと思いますが、指定の問題に触れられて、健全な企業でなければならないと述べられましたが、ここ二、三年の間に、あなたの協会の中で教科書を採択させるについて汚職等の事件を起こした会社が何社あるか、その会社等はあなたの健全な企業ということにはずれると思うが、新たに指定を受ける際には、過去に、教科書をとってもらうために、教師、教育委員会、文部省の役人等に買収その他の汚職等の事件を起こした会社は、みずから当然、あなたの意見に立って判断すると辞退さるべきだと思うが、あなたの健全な企業というのは、会社の資産とか、機械という物質的な面であって、従来、教科書採択に対して汚職等のあった会社はささないのかさすのか、さすとすれば、こういう過去の不潔な体験を持っておる会社は辞退さるべきと思うが、この点に対してどういう御見解を持っておられるか、以上です。
○参考人(家永三郎君) 私に対する御質問は、私が最初陳述いたしましたとおり、ただいまお尋ねのとおりの危険が多いと私は判断いたします。
○参考人(海後勝雄君) 私立学校でありますが、私立学校は、私の考えでは、教育希本法の目的及び方針の条項に一致しておる限り、あくまで個性が尊重され、特色を発揮し、これを希望する父母及び子供の教育の要求を満たすべきであるというふうに考えますので、私立以外の学校と同じく、基本的には教科書の採択に対する拘束をすべきでない、特にこの問題は私立学校の場合に重要であるというふうに考えます。
○参考人(木下一雄君) 東京都教育委員会におきまして現在行なっております採択の方法の長所といいますのは、学校並びに各教員の考え方を十分反映しておるということであります。
○参考人(吉村徳蔵君) 私に対する質問は欠点というか、欠陥ということだったと思いますが、まず展示会場というものがすぐそばにないということ、それから常設されておりませんので、いつも行って見られないということ、それから採択の期間がたいへん短かい、そのために十分な検討ができないということ、それが今まで私の感じた欠陥だと思っております。
○参考人(北島織衛君) 文部省のほうから反対意見があるのはけしからんというようなあれがあったということは私は回答をしておりますけれども、そういうことは私は受けておりません。それから業者の中に反対意見がある。これは先般も申しましたように、理事会におきましても、総会におきましても、他人を退席させまして意見を聞きましたときに、反対意見はございませんでした。そりから労組の反対というのも私は聞いておりません。それから第四番目の指定の問題、これは過去におきまして、われわれ協会の中にこういう問題が起きた、まことに申しわけないとざんきしておる次第でございます。昨年度から業者におきましても管理委員会を作り、お互いにきびしく過去の誤ちを改めて、今後健全にいこうという方向にいっておりますので、指定を受ける受けないということが、この汚職の件と関連があってということでありますが、私はこれは一応、行政官庁の御意見にまかしたいと、こう思っております。
○豊瀬禎一君 再度、北島先生にお尋ねいたしますが、文部省の検定を担当しておる諸役人、教育委員会の人々あるいは現場教師に対して、教科書をとってもらうための、あるいは検定を受けるための買収と汚職等の事件は何を除けば防がれるとお考えですか。逆に言えば、どういう制度の中からそういうことが起こってきたとお考えですか。
○参考人(北島織衛君) 非常にむずかしい問題でございますが、私は今まで採択権の所在や何かが非常にあいまいであった、それから毎年々々展示会が置かれるような状態であったというようなことが原因してこういうふうになったと思うので、調査会及び文部省に望みましたのは、どうか採択権の所在を明らかにして、その採択をなさる方が、供応とか、その他そういうことに動かされないりっぱな方を選んでいただいて、その方が教科書の内容によって採択するという方式を確立していただきたいということをお願いした次第でございます。
○委員長(北畠教真君) これにて参考人に対する質疑は終わりました。 本案に対する参考人の意見開陳及び参考人に対する質疑は終了したものと認めます。 参考人各位に申し上げます。本日は長時間にわたり貴重な御意見をお述べいただきましたこと、まことにありがとう存じます。委員会を代表して厚くお礼申し上げます。 —————————————
○委員長(北畠教真君) 引き続き政府に対する質疑を行ないます。御質疑のおありの方は御発言願います。 速記をとめて。 〔速記中止〕
○委員長(北畠教真君) 速記を起こして。
○米田勲君 この委員会は、政府提案の教科書無償措置法案について今日まで審議を続けてきました。われわれはこの法案がもし成立した場合に、日本の教育に対して重大な事態を引き起こすことを非常に憂慮して、あらゆる角度から検討を加えるために、特に文部大臣、福田局長等の答弁をわずらわしておる次第であります。しかし、私はこの法案を今日さらに進めるには、あらかじめ明らかにしなければならないことがありますので、その点に質問をまず集中していきたいと思います。 最初に、法制局長に対して私は質問をいたします。法制局長の答弁は、現在の日本の法規の正確な解釈の立場に立って私の質問に簡潔にお答えをいただきたいことをあらかじめ希望をしておきます。質問の第一は、国会の議決を求めるために国会に対して法律案が内閣から提出をされる、この場合の法律案の提出責任者はもちろん内閣であります。そこで私は、内閣というこの機関は法的に言ってどのような構成メンバーを指すのか、それをまずお伺いをいたします。
○法制局長(今枝常男君) ただいまの内閣の構成はいかなる構成員をもってなる機関かというお尋ねのように了解いたしましたが、これは国務大臣をもって構成する機関と了解いたしております。
○米田勲君 第二の御質問は、われわれは平素常識的に政府という言葉を使うのでありますが、行政機関である政府とは法的にどのような構成になっていると解釈することが正しいのですか。
○法制局長(今枝常男君) ただいま御指摘がありましたように、政府という言葉は一般に常識的に使われておりまして、この言葉の法的な意味としての正確な定義づけは決定的にはございません。しかし、まず内閣と同意義に使われる場合が一つございます。それからもう一つは、内閣並びに内閣の下にある、下部機構全体を合わせたような意味で使っていることもございます。したがいまして、法的な定義を的確に申し上げることはむずかしいかと存じますが、おおよそそのような意味に使われていると了解いたしております。
○米田勲君 ただいまのお答えですと、内閣という機関と、政府と常識的に言っている機関とは必ずしもイコールでないということはよくわかりましたが、そうしますと、法律案の提出責任者は政府というよりは内閣であるというふうに解釈をすることが正しいと思いますが、いかがですか。
○法制局長(今枝常男君) ただいま仰せのとおりであると存じます。
○米田勲君 次に御質問いたします。内閣の責任で国会に提出される法律案は、実際にはその立案過程において各省の内局のメンバーが内部的に立案に参加をするわけでありますが、これら各省の内局のメンバーは、提出された法案の提出責任者の中には含まれておらないと解釈をすることが正しいと思いますが、いかがでしょう。
○法制局長(今枝常男君) 法律の立案につきまして内閣の下部の機関が参与いたしますのは、これは責任者に対する補佐の立場で関与いたしておると考えております。したがいまして、これらの立案に参画する下部機構それ自身が直接に責任者ではないと考えております。
○米田勲君 次の質問に移ります。立法府における法律案の審査に際しまして、法案の趣旨の説明あるいは法律案に対する質疑応答、または法案審査に必要な資料の提出などは、内閣を代表する所管大臣が責任を負うてこれに当たるわけであります。その際、各省大臣の質疑に対する答弁の補助、補佐をするために、議院の了解のもとに政府委員が補足答弁を行なうことができるようになっております。この場合、政府委員のすべての答弁に対する責任は所管大臣が負うべきものであると考えますが、いかがですか。
○法制局長(今枝常男君) 政府委員の答弁は、大臣の補佐としていたしておるわけでございますので、終局的の責任は大臣にあるものと考えております。
○米田勲君 政府委員となるためには、毎国会のつど、議院運営委員会の承認を得て、議長が政府委員として任命をすることに現在なっております。もし、政府委員として、ふさわしくないと判断されるような事由が発生した場合、その国会の会期の途中において政府委員をやめさせるためにはどのような法的な手続が必要ですか、お伺いをいたします。
○法制局長(今枝常男君) ただいまのお尋ねに対しましては、直接に法的の手続が規定いたされてはいないと了解いたしております。したがいまして、これは実際上の政府との間のお話し合いによって事が進んでいるだろうと理解いたします。
○米田勲君 これは任命の手続からいって、その逆に、議院運営委員会でその問題を検討をして、議長に進言をし、議長の計らいによって政府委員を途中でやめさせるという手続はとれるものと私は判断いたしますが、いかがでしょうか。
○法制局長(今枝常男君) 今仰せの手続が、これによって当然に一つの効果を生ずるかどうかという見地からお算えします場合には、少し問題が変わると思いますが、そういう意思決定が国会側においてなされました場合に、政府はこれを重んじて、その手続を運んでいくものであろうというふうに理解いたします。
○米田勲君 各省の内局の長の法律上の地位は、国家行政組織法の第七条に定める内部部局の長にすぎないのであるから、一定の所掌事務について、みずから国の意思を決定したり、あるいは外部に対し表示をする権限を有するいわゆる行政官庁ではないと解釈をすることが正しいと思うが、法制局長の所見を承りたいと思います。
○法制局長(今枝常男君) 一般的には仰せのとおりであると存じます。
○米田勲君 国家公務員には一般職と特別職とがございますが、なぜこのように身分が二つに分かれているのでしょうか。さらに一般職と特別職の法律上の立場は異なるものであるかどうか、この点についてお答えをいただきたいと思います。
○法制局長(今枝常男君) 一般職と特別職との間の相違を一言に尽くすことはむずかしいかと思いますが、概して申しますれば、事務的な職責を持っております職員につきましては、大体これを一般職といたしまして、任用の資格を限定いたしましたり、あるいはその職務上の活動についての制限をいたしましたりする必要がございまするので、これを一般職といたしておると思います。それからこれと異なりまして、政務的な職務に従事するような場合、あるいはまたその他、ただいま申しましたような限定をすることに適しないような特殊の職務は、これは一般職からはずれておるように理解をいたしております。
○米田勲君 ただいまの御説明でほぼ理解をしたわけですが、特別職にある国家公務員は、主として政治的官職など、その特殊性を考慮して国家公務員法の適用を除外されていると理解して いいわけですか。
○法制局長(今枝常男君) そのように理解いたしております。
○米田勲君 また、これに対して一般職の職員は決定された政策の実行をその任務とする、したがって、一般職はその性格から政治的中立が要求され、また、職務専念の義務、信用失墜行為の禁止、政治的行為の制限、さらに私企業からの隔離等、制限が課されているわけであると解釈をしておりますが、誤りはございませんか。
○法制局長(今枝常男君) そのとおりであると存じております。
○米田勲君 法制局長にお尋ねしますが、各省の内局の長は国家公務員法上の一般職であるという私の判断には間違いありませんか。
○法制局長(今枝常男君) そのとおりでございます。
○米田勲君 さて、一般職の職長にあっては人員院規則などできびしいしぼりはかけられていますが、政治的行為の制限を受けておるのであります。この点では、特別職にある職員と異なって、政治的な場に介入するような行為は厳に慎しまなければならないと理解をしていますが、この点はいかがですか。
○法制局長(今枝常男君) 私もそのように理解いたしております。
○米田勲君 一般職の職員の職務遂行上の言動は、すべて現行法規を逸脱することを許されないことはもちろんでありますが、一般職の職員は法令上の範囲内において決定された政策に基づいてその職務を遂行すべきものであって、それが中立性を要求される国家公務員法上の一般職の責務だと私は思うのでありますが、いかがですか。
○法制局長(今枝常男君) ただいま御指摘のありました限りにおいてはそのとおりであると存じます。
○米田勲君 さて、内閣から現行法に対する改正法律案が国会に提出をされ、立法府の法案審査が継続しておるときに、一般職にある政府委員が当該委員会において所管大臣を補佐して、国会議員の要求によって答弁に当たる場合にも、その法的な身分から考えて、法案の持つ趣旨、内容を正しく理解してもらうために、十分で的確明快な答弁を行なうということについては別に問題はございませんけれども、法案の内容に批判的主張もしくは反対の主張をする議員の主張を裏づけとする質問に対して、誤解をされている事柄について解明をするという限界をこえて、積極的に議員の所論、主張に反発をし、もしくはこれらの主張に対し否定的な討論をなすことは政府委員としては許されない行為であり、また、法案審査を混乱させるような発言は許されないと思うばかりでなく、公務員の義務に違背をすると私は思うのでありますが、法制局長の見解をお伺いしたい。
○法制局長(今枝常男君) ただいま御指摘の問題は非常に微妙な問題でございますが、少なくとも一般職の本来の職務の範囲を越えたきらいがあるのではないかと存じます。義務違背ということがもし法律的な問題としてとらえられますならば、これを的確に違法というような意味で義務違反と申せるかどうかには多少の問題があると思いますが、少なくとも適正な範囲を越えた行為であるというきらいがあるように存じております。
○米田勲君 一般職の公務員がまだ国会において審査中の法律案の制定を積極的に支持をしたり、または法律案の制定を促進せしめる意図をもって、もしくは実質的に法律案制定を推進するための何らかの行為は私は違法だと思うのでありますが、いかがでしょうか。
○法制局長(今枝常男君) この問題も、違法ということのとらえ方によるかと存じますけれども、先ほど申しましたように、法の意図する本来の職務の適正な範囲を越えていることになるのではないかと存じます。ただ、これが的確に法によって限界づけられていないという意味において違法というふうに言えるかどうかについては、言葉の意味によって多少の問題がございますが、適正な範囲を越えることになるというふうには言い得るのではないかと思っております。
○米田勲君 私は一般的、抽象的に、今、法制局長にお尋ねをいたしましたので、的確な御答弁がいただけませんが、これは今の場合無理だと思いますが、しかし法制局長、こうではありませんか、少なくも今の問題については明確に違法と断定できないまでも、私がただいま述べたような行為が、一般職の職員、政府委員にあった場合は、政治的中立性を犯すおそれがあるという不当な行為という断定は少なくもできると思いますが、見解はいかがですか。
○法制局長(今枝常男君) 妥当な限界を越えるものになろうかということにつきましてはお説のようであろうかと存じます。
○米田勲君 各省の内局の長はその省の大臣を内部的に補作するにすぎないのでありますから、局長の名において外部に対し、または不特定多数の者に対して、現に国会で審査中の法律案の制定を、大小にかかわらず推進するような行為は、国家公務員法から見て不法行為だと私は思うのでありますが、いかがですか。
○法制局長(今枝常男君) 先ほど来申し述べましたと同じような理由によりまして、これを不法行為というふうに断定することができるかどうかについては多少の問題が残るかと存じまするが、妥当の範囲を越えることになるのであろうと存じます。
○米田勲君 私は法制局長のただいまの答弁は満足できません。しかし、ここでこの問題をあまり時間をかけて輪講することは適当でないと思います。私は少なくも一般職の国家公務員、政府委員が、その置かれている法律的な立場からいっても、現在、立法府において審査中の法律案の制定を積極的に促進するような種々の行為は絶対に違法行為だと考えておるのです。しかし、それはもう少し厳密に行為そのものを分析をしてみないと、法制局長としては、法律の立場から明確に私の主張を肯定されないのだと思いますが、少なくも、私はそういう行為は不法な行為だというふうな主張をいたしておるのであります。やや重複をするきらいがありますが、政府委員は、法案の国会審査に当たって所管大臣の補佐をすることの必要を認めて、実際には議運の承認を得て議長が任命するものなんでありますから、政府委員は、その審査中の法案に対しては、各議員の自由な質疑を通じての言動をいささかでも妨げるような行為は許されない、こういうふうに私は考えております。また、議員の思想、信条、あるいは法案に対する見解に対して公の場所で批判を加えて反対をし否定をするような行為は少なくも許されない。ましてや積極的に外部の国民、不特定多数の人々に対し、このような行為をとることは、国会における、立法府の審査権を侵害し、立法府を軽視する不法行為であると思いますが、これはいかがですか。
○法制局長(今枝常男君) ただいま御指摘の行為は、国家公務員法等公務員関係法律が予期いたしておりますことの精神をそれるものであると存じます。なお、これらの行為が国会の審議権を侵害するかどうかということにつきましては、これも侵害という意味によるかと存じますが、このようなことによって国会の審議の権威が害されるのとは、ある意味においてはしないわけでございますけれども、公務員側からいたしましては、そのような行為は国会の審議権を尊重するということの立場を逸脱しておるということになるだろうと思うわけでございます。
○米田勲君 局長に対する私の質問は以上で終わりますが、続いて福田局長に対して質問をいたします。 教育委員会月報なるものが文部省初中局地方課の名において編さんされ、文部省が著作権発行者となっておりますが、この教育委員会月報の責任は、具体的にだれが負うことになっておりますか。
○政府委員(福田繁君) 御指摘のありました教育委員会月報は私どもの役所の仕事の一部として役所で出版いたしております。したがいまして、その責任は私にあるものと考えております。
○米田勲君 これは文部省と末尾のところにはなっているわけですね、著作権者発行者が。具体的には文部大臣が責任を負うのですか、どうですか、その点。
○政府委員(福田繁君) これは文部省の刊行資料でございますが、それぞれの各局では、それぞれ分担しております仕事の範囲においていろいろな資料を作成をし、それを刊行をするのでございます。したがって、教育委員会月報は私どもの仕事の関係上これを刊行し、配布する。こういうようなことをいたしておりますので、したがって、そういう意味におきまして私の責任でございます。
○米田勲君 最後の一言だけ言えばいい。私の責任である。間違いありませんね。
○政府委員(福田繁君) さようでございます。
○米田勲君 次に質問を続けます。この教育委員会月報は、文部省所管内にある中央、地方の教育関係機関に配布されているものかどうか、配布の範囲を簡単に説明して下さい。
○政府委員(福田繁君) 都道府県教育委員会等に配布をいたしております。
○成瀬幡治君 関連。ということは、何か法制局長がお帰りになるということですから、もしお帰りになるということなら、一言お尋ねしておきたいと思います。 今、米田委員の質問に対して、米田委員は違法ではないか、こういうことに対しまして、違法ではないかもしらんけれども適当ではないということになると、そうすると、不当ということになるわけですが。日本語は非常にややこしくて、合法、非合法ということもございますが、そうすると、非合法じゃないのだけれども、それは合法でもないのだ。こうなってくるとだんだんわからなくなっちゃうのですが、非常に好ましくないということもあると思いますが、一体、国家公務員法違反なら違反になる疑いがあるのか。それとも、それに対して疑いは全然ないと言われるのか。その疑いがあるということは非常に重大な問題だと思うのです。ですから、言葉はいろいろ表現はございましょうが、米田君が違法じゃないか、こう言っておる。違法じゃなくてそれは適当じゃないのだ、こうおっしゃる。私は言葉としてお聞きしたいのは、何と申しましょうか、法に反しておる、いわゆる国家公務員法に違反をしていやしないか。少なくとも国家公務員法から見ればそれはファウルの行為だ、こういうふうに言えばどういうふうにお答えになりますか。
○法制局長(今枝常男君) たいへん御説明にむずかしい問題でございますが、私が違法と断ずることを差し控えました意味は、国家公務員法におきましては明文をもって一定の政治行為を禁止いたしておるわけでございます。ただいま御指摘のような行為は、そういう意味におきましては明文をもって禁止されておる行為の中には入っていないわけでございます。そういう意味におきまして、これをすぐ違法あるいは合法——不法でもよろしゅうございますが、要するに、直接、法に違反するというふうに申し上げることには少し問題があるんではないか、こういう意味でございます。それでこれを妥当を欠くのではないかというような意味で申し上げました趣旨は、直接、規定に違反はいたしませんけれども、国家公務員法がそのような規定を置いております趣旨は、一般職の職員には一般的に政治的中立な立場にあることを予期していると考えるべきじゃないか、こういう意味におきまして、法が予期いたしております精神には反するじゃないか、反し得るであろう、こういう意味におきまして、これを普通の意味において使います違法と言ってしまうのには少し言い過ぎであろう、こういう意味におきましてそのように申し上げたわけであります。つまり国家公務員法そのものに直接規定をしてあるところには違反をしてこないわけでございます。しかし、一般的な精神からいって、そこまで公務員側においてはそういう精神をもって、つまり国家公務員法が予期しているような精神をもって職務を行なうことが正しいのではないか、こういう意味においては少なくとも法の予期する正しい限界を越えておるのではないだろうか、こういう意味で、違法ということには困難があるかもしれませんが、適正な範囲を越えておるということになるのではないか、こういうふうに申し上げたわけでございます。
○成瀬幡治君 これは局長にお尋ねをするのは少し筋が違うかもしれないと思いますが、そうしますと、今言っておるような行為そのものは条文にないんだ、明文化されてないんだ、したがって、このことによって国家公務員法違反として処罰されるということはないだろう。しかし、戒告ぐらいはあるだろうという程度のところへいくわけですか。それとも注意もせずに、これはお前いかんぞよというぐらいのところで済まされるというのか、そこら辺どうなるのですか。
○法制局長(今枝常男君) お尋ねの点は、実は行政の裁量の範囲のことでもございますし、そういう形のお尋ねに対して、私が一つの判定的な立場でお答えをすることはどうも適当じゃないんじゃないかと存ずるわけでございますが。
○成瀬幡治君 そうしたらこういうことは局長、これは、それじゃ国家公務員法から言ったら、条文にないんだから、したがって、処分の対象にはならぬと、こういうことは明確に言えましょうか。
○法制局長(今枝常男君) 国家公務員法で直接規定いたしております処分、つまり禁止事項に対して違反した場合に、先ほど仰せのような処罰規定を置いているわけでございますが、これによって処罰されないことは、これはもう申すまでもないことかと存じます。
○米田勲君 先ほど関連質問の要求が成瀬委員からありまして、お答えを聞き逃がしたわけで、たいへん失礼ですが、この教育委員会月報は全国の教育委員会に配布をしている、こういうお答えがあったのでしょうか、どうでしょうか、もう一度。
○政府委員(福田繁君) 各都道府県の教育委員会を中心に配布をしているということでございます。市町村の教育委員会等にももちろん一部行っていると思いますが、これを購入してもらっているところもあると思います。
○米田勲君 そうすると、福田局長の今の答弁は、都道府県の教育委員会並びに地方の教育委員会に配布をしておる、こういう答弁だったと思いますが、間違いありませんか。
○政府委員(福田繁君) 行っている先は都道府県あるいは市町村の教育委員会だと思います。ただ、それを文部省が無料で配布をしているか、あるいは教育委員会のほうで購入してやっておる、そういう違いはあろうかと思います。
○米田勲君 よけいな答弁は必要ないんですよ。私は簡単でいいんですから、都道府県教育委員会並びに地方教育委員会に配布しております。こういう答弁ならそのように言って下さい、はっきり。いかがですか。
○政府委員(福田繁君) 都道府県の教育委員会でございます。
○米田勲君 そういう答弁があれば、私はさらに次のことを質問いたします。これは都道府県の教育委員会あるいはまた地方教育委員会にも買われておるというようなことを含んで答弁をしましたが、私の判断では広く国民にも読ませておるのではないかと思いますが、その点はいかがですか。
○政府委員(福田繁君) 特別な御関心のある方は購入して読まれる分は、別に私のほうとしては、それをとめておりませんので、購読されている方もあるかもわかりません。
○米田勲君 あなたはなぜそういう答弁をしなかったのですか、初めから。だから私は前もって聞いている。あと違った答弁が出てくるのでは審議を妨害しますよ。的確に一言で言いなさい。あなたはばく然と、今、都道府県教育委員会、地方教育委員会に配布している、ほかに心ある者が自分で自発的に読んでいるかもしれない、こういう答弁ですが、この答弁の仕方はおかしいですぞ。なぜか、昭和三十八年五月号の八十ページにこういうことが書いてある。あとがきに、「本月報の一部を市販するようになってから、本号で二年目を迎えることになった。」云々と書いてある。これは市販されている。しかるに何ですか、あなたは、私が知らないで質問していると思って平気であんな事実に相違した答弁をしているじゃないか。このあとがきには明瞭に二年前から市販していると書いてある。つまり市販しているということは、広く国民に読ませる意図を持って編集発行していると断定しても間違いではないはずである。したがって、先ほど私が質問したときに、いかにも教育委員会という直接教育行政機関の内部的の中に配布されているかのような印象を与える答弁をしているが、これは事実相違している。との月報五月号の八十ページに書いてあることは事実と違うのかどうか、お答えしなさい。
○政府委員(福田繁君) 八十ページに書いてありますことは間違いないと思います。私先ほど申し上げましたように、これは教育委員会を対象にして出している刊行物でございます。したがって、教育委員会の一部に無償で配布しているものもあろうと思いますし、市販されているものを教育委員会自体で有償で購入するということもあるわけでございます。そのことを申し上げたつもりでございます。
○米田勲君 局長のその頭脳でそのような答弁するとはけしからぬぞ、何だ君は。この木に明らかに二年前から市販していると書いてあるじゃないか、市販しているということはどういうことですか。議員の質問に対してごまかしてはいけない、市販しているということはどういうことですか、答えなさい。
○政府委員(福田繁君) これは教育委員会等におきまして購入する道として、こういう市販の方法をとっているのです。
○米田勲君 福田局長、そんなことを平気で議員の質問に答えるのか。ここにいる傍聴者を含んで、市販とは君以外はみな知っている。知らないのは君一人だ。市販だというのは、常識的に、国民に読ませるために町で売っていることじゃないか。そんなことがわからないで政府委員になっているのか、もう一度答えなさい。
○政府委員(福田繁君) 市販というのは、一般に売るということでございます。
○米田勲君 私ちょっと声を大きく今言いましたが、自分の性格でまことに不敏の至りだと思う。君が答弁をまともに答えぬからです。私はあえてあなたに大きな声で言うは気はない。的確な事実を答弁すべきですよ。君はあえてそういううそを答弁しているが、何度聞いてもうそを言う。そういう態度でわれわれの法案審査に政府委員として発言をしているから妙なことになる。正直にありのままを答えるべきですよ。このことはそれまでにして、その次に進みます。この雑誌は有料か無料かお伺いします。
○政府委員(福田繁君) 市販しているものについては有料でございます。
○米田勲君 局長はこの月報の責任者でありますが、有料であるなら、なぜこの雑誌の末尾に価格を明示しておらないのか、その対象に対して、対象が異なれば価格は適当に変化をするのかどうか、そのために、価格を明示してないのか、有料である場合には、価格を明示することは私は常識だと思うのだが、その点はなぜ書いてないのか。
○政府委員(福田繁君) 市販しているものについては五十円という定価をつけております。
○米田勲君 それは別の印刷をしているのですか。別印刷で定価を書いたものを印刷しておるのですか。
○政府委員(福田繁君) 文部省で使います分については定価を印刷しておりませんが、一般のものについては定価をつけております。
○米田勲君 私は市販をしておる教育委員会月報に、有料であるにかかわらず定価を記載していないことは不当だと思う。まあそれは横道にそれ過ぎるから、もとへ戻します。稲田局長は、この文教委員会に付託をされ、ただいまわれわれの手元で懸命に審査中の義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律案の、この国会における通過をあなたは強く期待をしておるかどうか、それをお聞きします。
○政府委員(福田繁君) 希望いたしております。
○米田勲君 福田局長にさらにお尋ねします。われわれ日本社会党が、この政府提出の法律案に対して国会議員としてきびしい批判をし、強く反対をしておる、反対の考え方を持っておるということをあなたは知っているかどうか、それを答えていただきたい。
○政府委員(福田繁君) 知っております。
○米田勲君 この法律案は、形式論はとにかくとして、実質的に文部省の行政権限が拡大強化をされる、すなわち採択方式の改悪、教科書業者の指定、教科書会社の営業所等への立入調査、こういう問題を取り上げても、検定権の強化の改悪と相待って、文部省の行政権限を比較的に拡大をし、実質的に教科書の国定化につながるとわれわれ社会党の国会議員団は強く憂慮をし、この法案に対して反対をしておることをあなたは知っておられるかどうか。
○政府委員(福田繁君) ただいまお述べになりましたような表現では私は伺っておりませんけれども、いろいろ問題点があることを衆議院の審議の過程において指摘をされました。その限りにおいては承知いたしております。
○米田勲君 福田局長は、この教育委員会月報の五月号に、「教科書行政の諸問題について」、こういう題目で論文を発表しておることを認めますか。
○政府委員(福田繁君) 執筆をいたしました。
○米田勲君 この論文中、五ページの十行目から次のような主張が述べられております。すなわち「この方式に対して、一部の者は教科書の広域採択を推し進めることは教科書の国定化につながるものとして反対を唱えているようであるが、この方法はあくまで現行の検定制度を前提としてとられるものであるから、教科書の国定化につながるという非難はあたらないと思う。」、あなたにお伺いをしたいことは、あなたのこの論文は法案の趣旨を説明しておる。と同時に、福田局長の主張をもあわせ論述をしておる、こういうふうに私は理解をするのですが、あなたはそれを認めますか。
○政府委員(福田繁君) 私はこの法案が提出されましてからは、いろいろなところで説明をいたしたわけでございます。これも実は、先ほど申し上げましたことに関連するわけでございまして、私のしゃべったことをここに登載したわけでございますが、そういった意味で法案の説明として各所で聞きます話は、文部省は国定教科書を作るのだろうというようなお話をあちこちで聞いたわけでございます。そういうものに対する説明としてこれは書いたものでございます。
○米田勲君 あなたはこの論文の全部の表現が、法案の趣旨説明だとがんばりますが、もう一度お尋ねします。
○政府委員(福田繁君) 検定の問題は、御承知のように法案の中にはございません。したがって、検定の問題に関する限りは法案そのものではございません。しかし、法案に関連して検定の問題等が出て参ります。そういう、先ほど申し上げましたようないろいろな御意見がありますので、それを関連して申し上げたわけでございます。
○米田勲君 私が今この論文中の五ページ十行目から読み上げた「この方式に対し」から「非難は当たらないと思う。」という個所は、明らかにあなたの主張であります。法案の説明ではない。一部の反対者の意見に対して、稲田局長のその反対は間違っておる、当たっておらない、こういう所論であります。これをしも法案の趣旨説明だとあなたは言い張るつもりかね。常識的に判断をしても、あなたの主張は通らないと思いますが、どうですか。
○政府委員(福田繁君) もちろん私の考えも入っているわけでございますけれども、説明としてここではこういう言葉を使ったわけでございます。
○米田勲君 「一部の者は」云々から、「その非難はあたらない」というそれは、法案の趣旨説明ですか、そういう言葉は。あなたの主張ではありませんが、局長答えて下さい。
○政府委員(福田繁君) 「この方式に対して、」と書いてございますこの方式は、すなわち上のほうに書いております採択の方式でございます。したがって、採択制度に関する限りはこの法案に一章設けられております。それに関連してこの検定の問題を述べたわけでございます。
○米田勲君 私の聞いておるのはそういうことではないのです。この論文の全体は、各所に法案の説明だという個所のあることは認めます。しかし、私が指摘しておるこの個所はあなたの主張を述べたものではないか、明らかに反対意見を持つ者に対して、それを否定した主張をしている、あなたは。それを認めませんか。
○政府委員(福田繁君) もちろんこれは私の意見でございます。
○米田勲君 私の主張であることを認めたことを確認をいたします。そこで、この論文中、先ほど私が指摘した個所に「一部の者」といっているのは、具体的に言いますと、あなたのお考えではだれなのか、具体的に説明をしなさい。
○政府委員(福田繁君) 私これしゃべりましたのは何月の何日であったか、はっきりわかりませんけれども、だいぶ前のことでございます。したがって、当時の私の頭にありましたのは、各種の会合等に出て参りまして、こういう意見を聞く者、あるいは学校の現場の人たち、そういうことをさしております。
○米田勲君 この「一部の者」の中に、先ほどから私は質疑応答の過程であなたに確認をしたのだが、われわれ社会党の国会議員団が含まれておるとの確認は間違いではないと思うが、いかがですか。
○政府委員(福田繁君) この論文を出しましたその時期から考えて、それはまだ社会党の議員の方の御意見がこの中に含まれる時期ではなかったと考えております。
○米田勲君 稲田局長、君は先ほど私に、この月報は福田局長の責任において発行されておる。責任は私が負うのであると言われている。この月報の五月号というのは去年の五月であるかどうか、お答えしなさい。
○政府委員(福田繁君) 今年の五月号でございます。
○米田勲君 五月号に掲載する限り、その中にある論文は、たとえ、いつお話したことであろうと、五月号に掲載をしたからには責任を持たなければならない。その「一部の者」の中には、話をしたときが早いから社会党の国会議員団は含まれていない。まことに詭弁です。あなたは五月号にこれを掲載することをみずからの責任でやった。やった限り、五月になって、社会党の国会議員団がこの法案に対して反対をしていることを知らないで載せましたか、その点はいかがですか。
○政府委員(福田繁君) 先ほど申し上げましたように、衆議院の審議の段階において、いろいろな問題点を指摘されましたことは、私も承知いたしております。しかしながら、ここに伴いております「一部の者」というのは、学校の現場の人たち、あるいは私が会合に出まして聞いた人たちでございます。
○豊瀬禎一君 ちょっと関連して。福田さん、黙って聞いていると、あなたはとんでもないごまかしの答弁をしているのですが、衆議院の審議が始まってから日本社会党が法案に反対していることを初めて知ったような口ぶりですね。そうして、あなたがそれをしゃべったころは「一部の者」というのは、学校の教師その他だと、あなたはそれを、議事録に載っているのにそんなでたらめな答弁をして責任を持てますか。僕が本会議場で義務教育諸学校に対して教科書を無償で出すということに対して反対討論をしたことを、反対的な立場に立って質問したことも御承知でしょう。それから、本委員会で審査の際に、日本社会党が教科書の無償に対して憲法の建前から父兄負担の解消をはかるべきであって、教科書をこういう形で無償にするということは反対であるということは何国会から主張していますか。当委員会でもこのことはやっていますよ。それを衆議院にかかってからやっと知りました。これをしゃべったときはその時期ではありませんでした。何ですか、そのごまかしは。当時あなたは文部省の局長をしておったはずですよ。このごろ、ぽつんと大学を出てきて採用されたものであれば、あるいは知らないと言えるかもしれません。本会議の私の文部大臣、池田総理に対する質問は、あるいは答弁は聞いていないかもしれません。あるいは速記を読んでいないかもしれません。しかし、文教委員会で長期にわたって審議された事態ですよ。そして日本社会党は明確に反対討論を行なった。その法律に基づいて調査会の意見が出て、実施に踏み切ったのでしょうが。その当時から、義務教育諸学校の教科用図書をこういう形で無償で給付することは反対であるという社会党の主張をあなたは知らないとでも言うのですか。何か衆議院段階で知ったと言うのですか、知らなかったというのですか、それとも知っておってごまかしたのですか。知らなかったというのなら政府委員としてきわめて無責任だ。本会議で問題になった法案に対する日本社会党の態度を知りませんと、こんなぬけぬけしたことを言えるのですか。どちらですか。
○政府委員(福田繁君) 豊瀬委員の本会議での御質疑の模様は拝聴いたしました。しかしながら、この論文につきましては、これはだいふん前に私がしゃべったものを速記の中からとったものでございまして、そういう点については全く関係なくこれは書かれたものでございます。
○豊瀬禎一君 だいぶん前というのですが、いつごろですか。私が教科用図書を義務教育諸が学校においてこういう形で配布するということは反対であるという日本社会党を代表しての質問をしたのは第四十三国会、今国会ではないのですよ。数回前の国会ですよ。あなたがそれをおっしゃったのは、あの国会より前という意味ですか。またごまかすつもりですか。あなたがそれをおっしゃったのは今国会で法案を提出してからあとでしょう。日本社会党が義務教育諸学校において教科用図書をこういう形で無償配付するのは反対であるという意思表示をしたのはずっと以前の国会ですよ。しかも、それは本会議で質問をし本委員会で問題になったことでしょう。調査会を設置する法案であって無償の法案ではないという立場に立って、また無価の配布の仕方についても反対をしたのですよ。あなたがそこでおっしゃったというのは、多分私は四十国会か三十八か、九国会だったと思いますが、それより以前という意味ですか。それから今日までずっとそういう主張で反対運動を続けてきたということですか。
○政府委員(福田繁君) 正確な日時を覚えておりませんが、これはことしの一月だったと思います。
○米田勲君 あなたが幾ら一月にしゃべろうが、十二月にしゃべろうが、あなたの責任は免がれない。なぜかというと、これはことしの五月号に載せている。載せた責任者はあんたなんだ。そうであれば、この全部に対して、あなたは署名入りで出している限り責任を持たなければならない。それは認めるでしょう、どうですか。これも認めませんか。
○政府委員(福田繁君) 私の書いたものでございますから私の責任でございます。
○米田勲君 なぜあなたはすなおに、「一部の者」の中に社会党の国会議員団も含んでおりますと、すなおになぜそう言えないのですか、なぜ避けようとするのですか。この場所で、社会党の国会議員団を、この「一部の者」の表現の中には含んでいる。なぜかというと、先ほどあなたは社会党の国会議員がこの法案に反対していることを知っておりますと言っている。知っておってこの論文を五月号に掲載をしている限り、あなたは、この中に含んではおらないという主張を幾らしても責任は免かれない。その責任ははっきり負わなければならぬでしょう。どうですか。
○政府委員(福田繁君) もちろん責任はございますが、私が先ほど申し上げましたように、この当時私がしゃべりましたことは、そういう教組や現場の先生方の中にこういう考えがございました。それに対して、こういう表現を使ったわけでございます。
○米田勲君 あなたは五月号にこの論文が掲載されることを承知していなかったのかどうか、承知していませんでしたか。
○政府委員(福田繁君) 私はこの責任者でありますけれども、実はこういうものを五月号に載せるということはあとから聞きました。
○米田勲君 ばかげたことを答えるのではない。君の署名入りの論文だ。君はその責任さえ負えないほど貧弱な男か。そんな政府委員を相手にしているからろくなことにならぬ。なぜ責任のとるべき場所で明確にとらないのだ。自分の署名入りの論文を出して、その中の全部に責任を負えないような言辞を弄するとはけしからぬ。いかがですか。
○政府委員(福田繁君) 先ほど来申し上げておりますように、この論文につきましては、私の責任であったということを申し上げておるわけでございます。
○米田勲君 したがって、私は、この「一部の者」であるという表現をなおかつここに注釈をうけないで五月号に載せた限り、この「一部の者」という言い方は、社会党の国会議員を含んでおらぬと幾ら主張をしても、その主張は成り立たぬと私は思う。いかがですか。
○政府委員(福田繁君) 表現は非常にまずいわけでございますが、私はそういう気持はなかったことを申し上げておきたいと思います。
○米田勲君 文部大臣にお尋ねします。今、福田局長はそのような答弁をしておる。私はしかし常識から考えても、署名入りの論文の全文に責任を持てないような局長の答弁は私は納得できない。さらに、その論文がたとえいつのときに書かれたものであろうと、言われたものであろうと、五月号に署名入りで載せた限り、その全文について当然責任をとらなければならぬ。そのとらなければならない文章の中に、「一部の者」と明確に言っておって、その論文を載せた時期は、社会党の国会議員が明かにこの法案に反対をしておるということを知りつつ、この論文を載せた。したがって、私はこの「一部の者」の中には署名入りで論文を載せた福田局長が何と答弁しようと、社会党の国会議員団を含んでおるという常識的な解釈を肯定せざるを得ないと思いますが、文部大臣はどう思いますか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 先ほど来、政府委員との質疑応答を通じまして、政府委員が教育委員会月報の発行及びその内容について、政府委員が責任があると、こう申しておりますけれども、この責任者は文部大臣だと思います。それは文部省に著作権があるということである限り、文部大臣が責任を負うことはこれは当然だと思う。それからその内容につきましても、一々私が検閲するわけじゃむろんございませんけれども、内容そのものについても文部大臣が責任を持つべき課題だと思います。また、法案審議中でございましょうとも、政府が閣議で決定をして御提案申し上げた以上は、政府としてはそれを正しく理解してもらう努力をすることはこれは当然だと思う。その意味において、文部大臣の補佐機関という立場で、所管大臣たる文部大臣にかわって法案の内容を正しく理解してもらうという意味での論文を発表したりすることも、これは私は妥当なことだと思う。それからさらに今御指摘の、この「一部の者」というのが、執筆者の感覚からいけば、日教組やらあるいは講演の場所における質問者ということを今申しておるようでございますが、それでございましても、御指摘のとおり五月号に載っておれば、現に国会審議中でございますから、社会党なり、あるいは共産党にいたしましても、反対だという態度であることは直接、間接知り得ておると思いますから、その点は御指導どおりだと思います。ですけれども、そのことは文部大臣の責任の立場において豊瀬さんの御質問があったとすればお答えもいたしております。その他委員会等でも私自身もその反対の立場に立たされた所論の一端として、国定化につながる危険があるというその点をどう思うかというお尋ねがありまして、そういうことは考えてもおりませんし、そういうことになるはずはございませんという趣旨のことを私が御答弁申しております。そのことをいわば受けて、所管大臣としてそういうことを国会で申し上げたことを受けまして、提案されました法案の趣旨をPRするという立場に立って、今のようなことを引用するということはあり得ることでございますし、そういう意味において私は妥当性は欠いていない、かように考えております。
○米田勲君 巧みな言葉ですりかえようとしても私はだまされませんよ。先ほど福田局長が、この月報の責任は私にありますと言ったのは、それは形式的な法律上の責任ということになれば文部大臣の答弁が当たっておる。しかし実際的に、実際的な責任は福田局長が負って編さん、発行しておる、だから私は福田局長の答弁でその点は間違いないと思う。それを何もあなたが無理やりに、そんなのに目を通したこともないだろうに、責任をそこまで形式的に負わなくてもいい、しかしそのことは問題はない。私は文部大臣がこの月報全体に対して、私が責任者です。責任があります。こう幾ら言われても、この論文は署名入りであります。あなたが負おうとしても負えないようになっている。月報全体は文部大臣が責任を負おうとしても、署名入の論文にまであなたは責任を持つ資格がない、これがまず一つ私の主張。責任を負おうとしてもそれは負えない、無記名であれば別ですよ。無記名であれば、文部大臣がある場合には記名しているから、署名しているから。それともう一つは、文部大臣はこんがらがって答弁したのではないかと思います。政府委員である福田さんと文部大臣である荒木さんの立場は違う。あなたは内閣の国務大臣の立場ですから、あなたが提案をした法案に対して、反対論に対して大いに反駁をし、自分の考えが正しいことを国民に述べることは何ら差しつかえない、それは私は認めます。しかし、政府委員であり、国家公務員の一般職である福田局長があなたと同じことを言う理由はない。おのずから制約がある。あなたには十分許されることであっても稲田局長には許されない限界がある、その限界を私はついている。まず、月報の責任はわしにあると言ったが、署名入りの文書まであなたは負う資格があるかどうか、これが一つ。あなたは法案の趣旨説明どころか、社会党の反対しているのはけしからぬ、こういう現出だとして、どんなに大きな声で国民に向かって呼びかけても何ら差しつかえない、私は提案の責任者であり、その責任を負う人だ。しかも国務大臣という立場である、国会議員であるからかまわない。その荒木文部大臣の発言と同じようなことを稲田局長が言うことだから、うけて言ったのだから差しつかえないということはめちゃくちゃな話です。あなたのやることは何でもやれる、あなた言うことは何でも言えるという立場ではない。それをあなたはこんがらがしている。この二点はどうですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 署名入りでございましょうとも、文部省の名において出版し、発売をして配布しておるというその中の論説であります限り、やはり文部大臣が責任を最終的に負わねばならぬものと思います。それはむろん一々見ておるわけではございませんけれども、見ないでそういうものが、そういう内容で発行されてもよろしいという態度をとって黙認してきておるという意味においては責任を負うのは当然だと、かよう思います。ただ、この「一部の者」云々という表現は、註釈なしに表現されたところに誤解を生むおそれはあると思います。本来ならば、文部大臣がいつ幾日、委員会なら委員会でこう言っておる、国会で言うとおりだと思うというふうな表現ならば一番無難だったろうと思います。
○米田勲君 文部大臣の答弁には納得ができません。福田局長と私はこれからまた質疑をします。あなたは五月号にこの論文を署名入りで掲載した、この論文全体についてあなたはどうしても責任をとらねばならぬ。幾ら荒木文部大臣が責任をとろうとしてもあなたの責任は解除されない。そしてこの「一部の者」という表現は、文部大臣ではないけれども、註釈のついていない限り五月号に載せたのであるから、当然、社会党の国会議員が反対をしておることを承知の上でこれを載せておる限り、この中に社会党の国会議員が含まれておるという私の解釈が正しい、それをあなたは認めないか、認めるか。
○政府委員(福田繁君) 社会党の委員の皆さんでいろいろ指摘されている点はたくさんあると思います。私は先ほど申し上げましたように、ここで書いておりますものは、そういう意図で書いたものではないということを申し上げております。
○米田勲君 意図のあるなしにかかわらず、あなたはこの文章を署名入りで出した限り、責任を負わなければならぬですよ。私はそんなつもりではなかったということを幾ら抗弁してもあなたの責任は免れない、そうではありませんか、この点はいかがですか。
○政府委員(福田繁君) それは書きました限りにおきましては責任はございます。
○米田勲君 したがって、私の「一部の者」という中に、社会党の国会議員が含まれているということを指摘されて、その指摘にあなたは肯定せざるを得ない、そうしてまた、そのことについての責任を負わなければならない、この問題には、ただいま私が指摘している問題には問題が二つある、その一つは、この論文が、本法案の趣旨を単に説明したにすぎないという主張は断じて許されない。それは他の個所を指摘すればそういうことは言い得るけれども、論文全体は、これは趣旨説明ですということはいえない、これは福田局長も先ほど認めた、「一部の者」云々から「非難はあたらない」というところまでは明らかに私の意見です。主張ですと認めておるところからいって、それがはっきり肯定されるわけです。さてそれを、その責任を指摘した場合、先ほど私が法制局長に質問をして答弁がそれぞれ行なわれましたが、この一般的な質疑応答の中に、明らかに法制局長は、国会でまだ審査中の法案を外部に対し積極的に推進するような行為に私は該当する、こういうふうに主張をするのです。なぜかというと、積極的に推進するような行為、これはあなたが最初に話をしたこの月報自体が、教育委員会の内部的に、あるいは文部省の内部で配布されているにすぎないということであれば、私はある程度了解できます。ある程度。しかし、これは明らかに市販をされておる、市販をされているから、国民に対してあなたがこのことを、この主張をしたということはどうしても免れない。——何ですか、吉江さん何ですか、何か文句あるのですか、気をいらいらさせるようなことを言わないで下さい。あの人がきちんと答えれば私はいらいらしないのだが、盛んに逃げ回るからね。——市販をした月報である限り、国民に対してこの論文を発表した、論文を発表して、この法案に反対する者の非難はあたらないとあなたは否定している、つまりせんじ詰めていえば、われわれ社会党の国会議員をも含む反対論者に対して、その反対意見を否定する論文を国民に対して公表をしたのは——ずいぶん大げさだなという気持で斎藤さんは聞いているようであるが、私の言うことには間違いはないでしょう。福田局長どうですか。
○政府委員(福田繁君) さように解釈されると、どうもいたし方ありませんが、私はそういう趣旨じゃなかったということを繰り返し申し上げておきます。
○米田勲君 あなたが善意であるということと、責任を負わなければならないということとは違う、幾ら善意であっても、あなたのやっている行為は、明らかにこの法案が審査されている最中に国民に対して反対意見を述べる、われわれ社会党の国会議員をも含む反対論者のその主張を否定したという事実だけは残る、悪意がなかった、こういってもその責任は残ると思うがどうか、もう一度答えて下さい。
○政府委員(福田繁君) 繰り返し申し上げますように、この論文についての責任は私にあると思います。
○米田勲君 国会で審査中の法案を、国家公務員法による一般職にある福田局長が外部に対し、積極的にこの法案の通過を促進する行為と認められるような論文を国民に公表をしたということは、あなたのこの行為は、本来、職務権限外のことであって、場合によっては一般職公務員としての政治的中立性を害する。少なくも百歩を譲って、中立性を害するおそれがあると私も思うし、このことは法制局長も、先ほど私が不法だと言ったことについては肯定をされず、不当であるということは申し述べておられる。あなたは、あなたの持っておる、あなたの置かれておる一般職の公務員の職務権限の限界を、この点については、この「一部の者」以下「非難はあたらない」という個所までのあなたの主張は、職務権限を逸脱していると私は指摘をしておるのです。いかがですか、その自覚がありますか。
○政府委員(福田繁君) 私は公務員でございますから、公務員法の範囲内において行動することは当然でございます。しかしながら、自分の所掌しております仕事についてPRしたり、それを推進するような事柄は別に公務員法に違反するとは私は考えておりません。
○米田勲君 私は百歩を譲って、法案の趣旨説明をなさる立場までは認める、私個人は。他の議員はどうか知らぬが、私個人は、法案の趣旨説明のところまでは認めてよろしい。しかし、あなたが法案に反対をする者の主張に対して否定をするような論文を国民に公表するということが許されていいのか。しかも、そのことが、われわれが懸命になって、このことで論議をしておる最中である。そういう時期に反対論者の意見を否定するような論文を国民に公表するということは好ましいことかどうか、その反省があるかどうか。好ましからざる行為であるという反省があるのかないのか、その点だけ答えて下さい。
○政府委員(福田繁君) 国会の審議の最中でございますので、法案の取り扱いについては私どもの力の及ぶところではございません。国会において御決定を願えばいいわけでございます。したがって、そういう観点から申し上げまして、私どもとしては、公務員として許される範囲においてやっておりまするということは常に考えておるところでございます。もしそういう点を行き過ぎであるというようなことで御迷惑をおかけしておりますならば、それはもちろん十分反省をいたしたいと考えております。
○米田勲君 私は御迷惑がかかるとかかからぬとかいう、そんなことを指摘しているのではない。あなたの職務権限の範囲内で行なうべきことを逸脱して行為をとっておるということ、行為しておる、それを指摘しているのです。そのために迷惑だとか迷惑でないとかいう、そういう常識的な話しをしているのじゃない。私のあなたにお聞きしたいのは、少なくも法案審査中、その法案に国会議員のある者が反対しておるのに、その反対論を、国民に向かって、あの反対意見はあたらないのだ。その反対意見は間違っておるのだということを言うことは、あなたは適当でない行為だと、少なくも好ましからざる行為である、不当行為である、むずかしくいえば、不法とまでは、きょうのところは法制局長が証言しませんでしたから言わないけれども、その言葉に該当するあなたの行為は、それは認められますか。
○政府委員(福田繁君) もちろん審議に影響するような言動はすべきじゃないと私も考えております。しかしながら、この文章そのものはそういうものではないと私は考えております。
○米田勲君 鶴田局長は、先ほど私が質問した際に、「一部の者」から「あたらない」というところは、私の意見ですと言ったじゃないか。それをまたそういうことを言うのか。法案の趣旨説明が大部分を占めておることは認めるのです。しかし、少なくも私の指摘しておるところは、あなた自身が私の意見ですと言っておる。私の意見は、今のあなたの置かれておる立場と、この法案が審議されておる過程から考えて、国民に対して反対論を否定するような主張をすることは許されないと、私は先ほどから指摘している。それが、しかしながらからあとに答えたあなたの答弁は許される、不当でない、好ましくないということはあたらない。こう言っておる。もう一度この点を答えて下さい。私はそういう答弁のあるうちはとにかく了承できません。
○政府委員(福田繁君) 繰り返し申し上げてたいへん恐縮でございますが、先ほど申し上げましたように、ここのこの法審議に対して云々という言葉には、私が当初申し上げましたように、全然そういう意図をもって言ったわけではないことを御了承いただきたいわけであります。
○米田勲君 むずかしくしないで下さい。僕は予定したとおり、きちんとむだなことを言わないように整理しておるのだ。きょうはむだなことを言わないように一言一句全部書いてあるのです。だから、あなたはむだにならないように。一方で肯定しながら、すぐそのあとで否定するのでは何を答えたのかわからない。私の聞いておることは、法案の審査中に反対意見を持つ国会議員のいるのを知りながら、政府委員であり、一般職であるあなたが国民に対してその反対論はあたらないと反駁することは許されないと指摘している。それをあなたは肯定できないのですか。私はそういう反省さえも政府委員のあなたにないということならば、これから何時間でも争いますけれども、あなた認めるべきだ、少なくも。百歩譲って私は言っておる。どうですか。
○政府委員(福田繁君) この文章はあいまいで、その点は申しわけございませんが、国会議員をさして申したのではないということを繰り返し申し上げます。
○米田勲君 福田局長という人は、だんだん今の質疑応答を聞くと性格がわかってきた。私は責任を負うところだけは人間はすぱっと責任を負うべきだと思う。自分のやった行為が自分の命を落すようになっても責任はとらなくちゃならない。官僚の悪いくせですよ。自分のやったことに対して謙虚に反省する気がない。少なくも署名入りで出したことは、私の指摘しておる限りにおいては、あなたは責任を感じなければならぬし、そのことは妥当でないと反省があってしかるべきだ。これを言った時期はずっと前なんだから、そんな意図で出したのじゃないと答弁を幾ら重ねてみたところで、あなたの言っておることは、私の指摘した限りにおいては責任は免れないということを何べんも言っておる。あっさり責任を認めなさい。その点については責任があります。妥当ではない。少なくも好ましくないということくらいは答弁をなすったらどうですか。時間がむだですから。
○政府委員(福田繁君) その点に対しましては、先ほど適切な言葉ではなかったということを申し上げたわけであります。
○米田勲君 私は一つは、今、国家公務員法に身分があるあなたが、職務権限を逸脱して、国民に対して好ましからざる不当な発言をしておるということに対して、まずあなたの責任をひとつ指摘しておきます。と同時に、これは官僚の諸君が今まで平気でだいぶやっている。国会で審査中の法案に対して、その法案を通過させるために、国民に対して反対意見に大いに反駁を加えるような行為は、私は少なくも国会の審査権を確立するためにも、国会の権威を高めるためにも、官僚が法案審査の過程においてそういうことをすべきでないという考え方を持っておるので、その点をあなたに指摘しておる。だから、今後あなたが法案審査の過程において、こういう反対意見を非難をしたり否定をしたりするような行為をさらに続けられる考えがあるかないか。それとも反省をして、自後そういうことについてはやらないように全責任を負って努力するというようにでも答えるか、いずれかの答弁をして下さい。
○政府委員(福田繁君) 誤解を生じました点ははなはだ遺憾でございますので、将来反省をいたしまして、こういうことは懐しみたいと考えます。
○米田勲君 次に質問を移します。福田局長にお尋ねしますが、昭和三十六年の秋、あなたのところで教科書の無償給与実施要綱というものを作った、文部省内において。これは極秘の文書として作った。そのことを認めるかどうか。
○政府委員(福田繁君) 私は三十七年の一月から現在のポストにおります。存じません。
○米田勲君 その当時も、あなたは文部省の重要な役職についていたからこの教科書の無償給与実施要綱を知らぬはずはない。これは極秘文書になっておって公表されていない。限られた人にしか渡されていない。しかし、この実施要綱を文部省内において作ったという事実に相違はない。知らないという答弁では納得しない、知っている人をそれではここにかわりに連れてきてもらいたい。あなたは知らぬはずはない、この実施要綱を作るために参価している。いかがですか。
○政府委員(福田繁君) お尋ねでございますが、別に曲げて申し上げるわけではございません。事実そのまま申し上げますと、私はそれには参画いたしておりません。
○米田勲君 参面をしておらないということをあなたは言うのだから、うそを言っていると私は反駁しません。しかし、少なくも文部省内にこの実施要綱が作られたということだけは、あなたはそれは知らぬとは言えないでしょうね。あなたの役職からいって、それは知りません、見たことはありません。こういうことだけは言わせませんぞ。もしあなたがそう言うなら、私は別の手段をもってその答弁の誤まりであり虚偽であることを立証します。いかがですか。
○政府委員(福田繁君) お手元にございますならば拝見をいたしたいと思います。
○米田勲君 あなたはこの実施要綱を作ったことを知らないというのかどうか、それを先に答えなさいよ。
○政府委員(福田繁君) 当時、私は別の仕事をいたしておりましたので、参画もいたしておりませんし、存じません。
○米田勲君 あなたが局長になってからこういう文書を見たことはないですか。
○政府委員(福田繁君) どういう内容のものかおっしゃっていただかないと私もここで判断に苦しみます。
○米田勲君 とぼけるのもいいかげんにしなさい。秘密文書だからといって、社会党の国会議員が知らぬと思っておるのは大間違いです。これを指摘されたらはっとしているんじゃないか、あなたはばれたなと思って。これを知らぬはずはないですよ、あなたは。あなたはそういうふうに、先ほどからの答弁と一緒に、これを知らぬ存ぜぬで押し通すならそれでよろしい、いつの時期かそのことについて責任をとらせます。別の方法をとります。この実施要綱の中にこういうことが書かれている。義務教育教科書については、国定化の論もあるが、現在、検定は云々と、少し長いですから省略しますが、厳格に実施されているので内容面においては実質的に国定と同一であると表現してある。さらに次のような文章があります。今後、企業の許可制の実施及び広域採択方式整備のため行政指導を行なえば、——これを編さんした当時は、まだこの法案を出すという腹はきまっていなかった。行政権限でこれを進めようとしておった時期なんです。今後、企業の許可制の実施及び広域採択方式整備のための行政指導を行なえば、国定にしなくても五種程度に統一し得る見込みであるので、国定の長所を取り入れることは——長所という言葉がごまかしですが、現行制度においても可能である、こう書いてある。あなたは、これを見たことないと今のところがんばっておりますが、この文書を知っておりますかといわれたらどうしますか。私が今読み上げた文書を覚えあるか。
○政府委員(福田繁君) 表現は全く同じかどうかは存じませんが、そういうような意味の資料を衆議院の文教委員会で出されたことがあります。そのときに拝見をいたしました。
○米田勲君 結局この実施要綱の中に書かれておることにずっと目を通す、と、政府がこの法案を国会に出して、われわれに趣旨説明をいろいろしておって、この法律案からいろいろな疑義が生じて質問をしているが、その質問に対する答弁と、この実施要綱に書いてあることとは明らかに違う。違う個所が少なくもある。私はこの実施要綱は、この法案の文部省のほんとうのたくらみを明らかにしたものだと指摘したい。国定教科書、教科書の国定化は絶対にいたしませんということを文部大臣は何度もこの国会で答えている。しかし、実施要綱に——これも文部大臣は知らなくても、あなたは責任をとらなければならぬのだが、実施要綱は、自由民主党の文教部会の人たちにも、その当時すでに渡していろいろ相談をしているが、明らかに国会の答弁とは違うことが書いてある。文部大臣、これはいかがですか、この点。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 現行制度そのままでも実質的には国定といえるかもしれないということは、一昨年でございましたか、衆議院の文教委員会のどなたかの質問に対してお答えしたことはあります。今でもそう思っております。その意味は、国定ということの定義ですけれども、戦前のいわゆる国定教科書なんという意味じゃなしに、内容が学校教育法に基づいて検定される、検定されたもの以外には使ってはならないと法律に明記されておる、あるいは文部省が著作権を持つもの以外は使ってはならないということが建前になっておることは、それ自体が内容だけからいうならば、国の立場で義務教育諸学校の教科書というものは、内容、基本を定めて国民に責任を負う、そういうことになっておるという意味において、それを国定であるというならば、今でも現行法でそうであります。そういうことを申し上げたことはあります。
○米田勲君 文部大臣がそういう答弁をしたら、今度は逆に、先ほどの福田局長の論文に影響を及ぼしてくる。そういうことを実施要綱に書き、文部大臣もそれを認めたならば、それでは福田局長のいう「一部の者」云々の批判は当たらないというのは事実じゃないじゃないですか。批判は当たっている。そういうおそれがあるという、実質的にはそういうことになるのじゃないかということをわれわれは何べんも指摘をしておる。実質的にはそうなる。そういう言い方をすればなると、今認めた。認めたならば、それでは福田局長の論文の「一部の者」の「非難はあたらない」、これはどういうふうに解釈しますか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) さっきも申し上げたように、国定ということが一体定義が何だということが問題ですけれども、もし国定ということを、国の立場で検定を通じて、その基本的な線は国の責任で定めねばならないということを国定だというならば、現行法そのものがまさにそのことを明記して認めている。それは私だけの個人的な見解でどうなるというものでなしに、学校教育法第二十条ないし二十一条、及びそれに相照応します中学校の規定もあると記憶しておりますが、そのことを目して、国の立場で内容を定めるということが国定だとするならば、今の現行法そのものも国定だと、これは私はもう数年来同じ見解を申し上げ続けてきておることであります。
○米田勲君 今度は福田局長にお尋ねをいたしますが、それは文部大臣の見解なんだが、しかし、この実施要綱の中にある実質的に国定と同一である、国定の長所を取り入れることは現行の制度においても可能である、こういうような表現がある限り、あなたの主張している「一部の者」云々の「非難はあたらない」ということは逆であって、当たっておるから、当たっておるという結論になる、これは、私に言わすと。今、文部大臣はそれを肯定している。「一部の者」云々、批判は当たらないということは間違いじゃありませんか、当たっている、どうです。
○政府委員(福田繁君) 私はここに書いておりますものは、あくまで現行の検定制度のもとにおいての採択問題を書いておるわけでございます。したがって、国定教科書というようなものでなく、現在は、御承知のとおり検定教科書なんですから、したがって、そういう意味合いでここに書いてございますので、私は国定の教科書になるという考えは持っておりません。
○米田勲君 大臣は、今、福田局長の答えたことを聞いていないですね。あなたと違うことを言っている。あなたのほうが間違いですか、どちらの言い方が間違っておるのですか、両方真実であるということはあり得ない。二人の意見は違っておる。大臣、どちらの意見が正しいのですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 両方とも正しいのでございます。先ほども申し上げましたように、国定の定義を、私が前提として申し上げた意味で申すとするならば、学校教育法二十条、二十一条を通じて、実質的には現行法そのものが国の立場で内容をきめろとなっておるのだから国定といえるでしょうと、そういう定義に基づく国定であります。いわゆる国定化というのは、私の理解に従えば、すべて文部省が著作権を持ち、そうして全国一種類にして、協賛してよりよき教科書を制作しようという意図をなくした姿だと私は思うのですけれども、そういう定義の国定化ならば、文部省ではだれも考えておらない、そういう意味において政府委員の言いますことも、私の言うことも両方とも正しい、こういうことをお答え申し上げます。
○米田勲君 われわれも教科書の国定化を論ずるときには、あなたのいったように、文部省で全部教科書を作って、そうしてそれを昔のように、昔のような教科書方式にするということを意味して国定化になるのじゃないかと主張しておるということを知っていませんか。実質的にはこれは国定化の様相が出てくるのではないかということを指摘しているのであって、同じことなのです。何も形式的なことを論じているのではない、われわれの論じていることは。それをあなた知っていますか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 今言われた意味では私ははっきりは知りません。いわゆる国定化というものは戦前の姿を意味しているものと、そう考えて、国定化なんていうものはする意思は毛頭ございません。また、先ほどお答えした私の言う現在でも国定であるという意味は、学校教育法に明文で定められていること、そのことを実質的にいえば国定といえるでしょう、こういうことでございます。新たに法律を改正して現行法と違ったことをしよう、こういうことじゃないと、こういうことであります。
○米田勲君 われわれが、実質的に国定化になるのではないかという心配をしておる、そういう主張をしておることも文部大臣は知っているはずです。それが従来のやり方よりも一歩を進めて、文部大臣が教科書会社を指定したり、教科書会社へ行って営業所や作業所に入り込んで立ち合い調査までやる、生殺与奪の権を握るわけです。指定されなかったら教科書会社はつぶれちゃう。それほどの権限を拡大していけば、従来でも検定制度の中で好ましくない傾向があることは、先ほど参考人の方の発言の中にもうかがわれるんだが、それよりもさらに今度の方式を進めることによって、強大な権力を文部省が握って、教科書会社が変な気に食わない書き方をしたら、そんなものは指定からはずしてしまう、こういうような膨大な権限を握るようになるんであれば、これは実質的に国定化と同じことではないかと社会党は指摘をしているのです。何も社会党が戦前の教科書のように、「文部省」と表紙に書いた、あんなふうになるんだという、そういう主張はしていないのです。今まで。それを知りながら、今になって、わかりましたなんていう妙なことを言っても因りますよ。しかし、私はそのことでさらに文部大臣に答弁を求めようとは思わない。私は今、福田局長とやっておる。そこであなたの、「一部の者」云々の「非難はあたらない」ということは、これは、先ほどの法案審森中に、一般職の身分にあるあなたが自分の意見を国民に発表をして、国会議員の中にいる反対意見を反駁をするような行為は、不法という立証をするためには準備がもう少し必要であるが、少なくも不当である、好ましからざる行為であるということはあなたも認めた。したがって、今後ないようにしたいと言っておる。私はしかし問題は別なんです。今、国定化の問題を、この実施要綱の中に明らかにうたっておるのに、それに参画をしているあなたが、少なくも編さんのときに参画をしていないにしても、局長になってからその文章を読んでおるのに、五月号にこの論文を発表したということは少なくとも不当である。皆さんに、私はここで国会議員の法案審査に自由な討論を行なっているということを確保するためにも、与党の皆さんも十分われわれと同じ立場で、政府委員や一般の公務員が法案の成立促進運動に類するようなことは、われわれの参議院の権威のためにも排除すべきである。再びこのようなことが繰り返されることについては、断固私は排除するために戦うことを今申し上げておきたいのですが、こういう官僚の傾向はけしからぬのですよ。私はここで皆さんにこういうことを披瀝しておきます。かつて私は、最近のできごとですが、全国から集まった教育関係者多数のうちから、迷惑をかけては困ると思ってごく少数の者にしてくれと頼んで、その代表者を連れて稲田局長に面会を求めた。その面会はすでに事前に了解を求めてある。その了解をしていた時刻に行った。ところが官房長を通じて、その面会をしたいという陳情者の中に好ましからざる者があるという理由で面談を断った。私と豊瀬議員と二人があらかじめ打ち合わせて連れて行ったにかかわらず、その陳情者の中に好ましからざる者がおるといって面談を断った。いろいろ話し合いを官房長としたら、その者を外へ出してくれ、出してくれれば会うと言う。私はこの人たちは全国から集まった人を案内してきたんだから、そういう立場なんだから了解をしてくれといって、官房長を通じて福田局長にさらに了解を求めている最中に、彼は今村課長と結託をして行方不明になった。今村課長がやってきて、局長はどこへ行ったかわからぬ。わからぬはずはないではないかと言ったら、探してきたようなふりをして、車庫へ行ったが車もない、どこを探してもいません、こういうことを言わせて、そしてわれわれに、もう局長はおらぬから帰れと言う。官僚はこういうことをする。私がおこったら五階からおりて来た。そこで、あなたはなぜわれわれがわざわざ陳情者を連れて来ているのに、まだその交渉の最中に姿をくらますのはけしからぬと言ったら、今村課長に対して、私が五階にいることは君は知っているじゃないかと、はしなくも組んで隠れたことがばれた。こういう行為は皆さんどうですか。国会議員の立場を侮辱している行為です。最近の文部官僚の中には、こういうやからが続々と現われる傾向がある。私はこういうことを排除しなければならぬと思っている。文部大臣いかがですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) お目にかかると約束して、約束の時間にその約束を果たさないことは適当ではないと思います。
○米田勲君 与党の皆さんは非常に時間を気にしておられるようですから、福田局長の問題には多少もう少し残ったところがあるのですが、私は文部大臣に対して質問を続けます。昭型三十八年三月五日午後五時四十六分、参議院のこの文教委員会で次のような文部大臣の発言がありました。「二重取り云々という言葉は、法律的に、道徳的に許されないことをしているというように解するのが良識的な言葉の使い方でありますから、私が帯広で言った二重取り云々という言葉は間違いであって、大臣としてまことに遺憾でありました。今後、用語にはとくと注意いたします。」、これは荒木国務大臣のこの委員会における発言であります。あなたはこの発言を今もはっきり記憶しているかどうか、お尋ねいたします。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 記憶しております。
○米田勲君 文部大臣は、従来、文教委員会における質疑に対しては、ほとんどメモなしで答弁しているけれども、それは自由ですが、ただいま私が読み上げました発言は、特に慎重にして、あらかじめ文書にしたためられたものを間違いなく読み上げるという慎重な態度をとられた。その発言であります。それをあなたは今記憶している。私はまずここでお聞きしたいのは、あなたの自発的意思であったのかどうか。それともだれかから強要されて、あの事態を切り抜けるために、不本意であったが、その発言をしたというのか、どちらでありますか、お答えを願います。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 質疑応答を通じまして、その用語のその部分が適切でないと思ったから発言をしました。
○米田勲君 もちろん文部大臣が他から強要されて言ったなどと答弁するはずはありません。そのとおりです。私は次にお伺いをいたしたいのは、あなたがみずからの意思で自由な判断に基いてこの文教委員会に先ほどの発言をしている。それは会議録にそっくり載っている。私はこの際あなたにお伺いをしたいが、あの日以来、あなたは文教委員会の皆さんの前で発言をしたあの言葉は、自分の行為の中で必ず実現するという努力を今日までしてきたかどうか、お答えを願います。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 努力をしてきました。
○米田勲君 一応今のところは、あなたの言うことを確認だけにしておきます。努力をしてきたと確認をします。私はあなたが全国の各地でとほうもない発言をして歩いていることが、たびたびこの委員会で問題になっていることはよく知っておるところであります。たとえその発言が意識的無意識的のいずれであっても、そういうことに関係なく、自分の講演の内容が全く事実に相違するものであったため、多数の善意な国民に誤った概念を植えつけるということになったために、そのことが、この委員会で問題になった給与の二重取り云々というこのあなたの講演の内容は、日本の教職員組合の専従者たちに詐欺か横領をしていたと同じ言葉を言ったのではないかとわれわれに追及されて、その言葉を反省をして、先ほどの発言があったのだ。私はこの日教組の専従者の給与の二重取りということは、あの委員会で間違いでありましたと言っているんだから、今もその考えに誤りはないか、変化がないか、お伺いをいたします。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 二重取りという表現は適切でなかったと今でも思います。あの時もちょっとお答えしたと思いますが、二元的に出ておることが適切ではないと、こういうことに言うべきであったと思っております。
○米田勲君 そういう言葉を文部大臣はよく使うが、この場合の二元的というのはどういうことですか。組合の専従者は給与は国からもらっていない、都道府県からもらっていない、自治体からもらっていない、給与は専従期間中は全部組合が支払っている、ただ、現行法のもとでは、復職をし、教壇に帰った場合には退職金等年限が通算をされるということになっておる。これは現行法がその権利を認めているのだから、現行法の建前を、当然、文部大臣も否定するわけにはいかない。それなのにあなたは、きょうもまた言うのだが、二元的であるというのはどういうことですか。国から、一方はこっちのルートで出し、一方はこっちのルートで出しておる、こういう点状の二元的ですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 私がそのことに言及しましたのは、常にそうでありますが、日教組のILOに対する一結社の自由委員会の結論、そのことを氷解する意味においてそのことに言及すること以外に言った覚えがございませんが、その意味において、結社の自由委員会の結論としては、ILO八十七号条約批准と同時に在籍専従者の制度を廃止するという日本政府の態度が妥当だという結論を出した、そのことは、注釈を加えるならば、お説のとおり俸給は組合から出ておる、しかしながら、専従者としての在職期間に対するその期間は、今もお話のとおり通算されることになっておることは現行法上周知のことであります。ですけれども、本来、自主運営、労使不介入ということを建前とする八十七号条約批准を機会に、その条約の趣旨に従って法律を改正して、二元的に出ておる部分を一元的にするということにしようとする考え方をPRしておるわけでありまして、立法論としての将来の問題を解明しておるわけであります。すなわち月給もそうですけれども、一時退職金も、さらにまた年金、恩給も、専従期間中の者がそれに照応するものは組合で持つのが労使不介入の原則、自主運営の原則に適合するであろう、そういう考え方で政府案が今まで出されておるのだ、それと同じ趣旨のことを結社の自由委員会もそれが当然のことだという結論を出したのだ、こういうことを言っておるのでありまして、そのことを二元的と私は言うべきであったと思っております。
○米田勲君 あなたはこの問題については、今、委員会で話したような話の仕方、言葉の使い方で国民の前に言うべきですよ。なぜここで言うのとよそへ行って言うのとは違うのですか。あなたはなぜ給与の二重取りなどという言葉で国民の判断を迷わそうとするのですか。悪意に満ちた言葉ですよ。私は文部大臣が今ここで説明したことを外へそのまま行って言うなら、そのとおりでいいですよ。しかし、あなたはこの問題に故意に触れて、どこでも日教組を誹謗するためにどこででもこの問題をやっている。そしてまた、あの文教委員会の発言があってから、約束を守る、言葉使いには特に注意をしますという約束を守って努力をしているというのはまっかな偽りである。そのことを後刻明らかにいたします。この委員会では記憶を呼び戻すためにあなたに話して聞かせるのですが、給与の二重取りをしているという言葉は、給与の取得の仕方に詐欺か横領をしているということになるのではないかという私の質問に対して、そのとき、速記録に載っておりますが、文部大臣は、通常そう解釈されるとはっきり答えておる。さらに、日教組の専従者が給与の二重取りをしているという印象の演説は、聞いておる聴衆に少なくも正常な判断を誤らせる内容であった、日教組の専従者の給与の取得は現行法規に照らして何ら違法なことは行なわれていないというわれわれの追及に対して、あなたは、そのとおりですと答えて会議録に載っている。さらに重ねてこのとき、日教組の専従者は専従期間中給与の取得の仕方に不法行為があるというのかという私の質問に対しても、不法行為はありません、こう切除に答えたことが速記録に載っている。今ILOの問題をくどくどと、よく聞く話であるが、繰り返して言っておるが、私が本日問題にしていることは、あなたがかつてこの委員会に、あの事態を収拾するために約束したことを破っておるから問題にしている。だから、あの当時あなたの確認したことを、一々あなたの記憶をよみがえらせるために今読み上げておる。そこで、あなたにお伺いをしますが、「大臣としてまことに遺憾でありました。今後、用語にはとくと注意いたします。」というこの発言に相違するような行動があった場合には、あなたは委員会に対して食言をしたということになるのだが、それは覚悟の前でしょうね。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) もちろんでございます。
○米田勲君 それではお聞きをいたします。文部大臣はことしの五月行なわれました全国の小学校長会並びに全国の中学校長会に出席をして祝辞を述べられたことを認めますか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 認めます。
○米田勲君 この二つの会場で祝辞を述べた際、文部大臣は精神的、肉体的に健康な状態にあったとあなたは認めますかどうか、お答えを願います。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 認めます。
○米田勲君 文部大臣は、小学校長や中等校長の任免について何か法律上の権限を持っていると考えておりますか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 持っておりません。
○米田勲君 それはどういう対象に対して持っておりますか、小学校長、中学校長の任免についてですよ、権限を持っていると言いましたね、何を持っているのですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 持っておりませんと申しました。
○米田勲君 わかりました。それではお伺いしますが、文部大臣は、小学校または中学校における学校経営、教育計画、教育活動について直接指揮命令をしたり、監督をしたりする権限を法的に持っているとお考えですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 直接にはないと理解しております。
○米田勲君 ところで、この小学校長会全国総会、中学校長の全国総会で、あなたは冒頭こういうことを言っている、この総会は、いわば地方長官会議ともいうべきもので、文部大臣としてこの会議に出席し祝辞を述べることは当然のことであります。こういう発言をしておりますが、それを認めますか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) たぶんそう書ぃたと思います。
○米田勲君 小中学校長の全国総会を地方長官会議ともいうべきものだというのは、一体どういう意味なのか、きわめて問題のある言葉ですが、あなたの真意をお伺いします。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 同じく文部省、教育委員会、学校長という立場で、全国民に対して教育行政の面でサービスする意味においては、同じ系統に属するものと心得ております。したがって、その意味において地方長官という名称が今日あるはずもございませんが、通俗に、いわば私の気持を率直にわかってもらう意味合いにおいて、地方長官会議みたようなものだという意味合いのことをどこででも申し上げております。就任以来、小中学校の校長会、都道府県市町村の教育委員長、教育長会議等に対しましては、万障繰り合わして出て祝辞を述べ、あるいは所信を開陳するということは私の職責からしても当然なさねばならないことと心得ておりますから、その意味で、せっかくお集まりでございますから、常に万障繰り合わして参りまして皆さんにお話をするということにいたしております。その意味でございます。
○米田勲君 私は文部大臣が会議に行って祝辞を述べたことについて問題にしておるのではない。祝辞の述べ方に問題があるというのです。あなたは日本の民主政治の中で地方長官会議などというものはないと言っておる、今も。そういう、ありもしないような言葉を使って、この小学校長会や中学校長会に、地方長官会議ともいうべきものだから、私が来て祝辞を述べるのは当然だということはあまりにも一時代おくれでありませんか。あなたの頭はこんな言葉しかないのですか、祝辞を述べに行って。何ですか。大体皆さん思い起こすでしょう。文部大臣が小学校長の全国総会に行って地方長官会議のようなものだ、わしが訓辞を述べる、この姿は戦争に負ける前の日本の姿だ、しかも文部大臣は、小学校長や中学校長に対して任免権も何もない、学校経営に直接くちばしをいれる権限も何もない。教育計画だって文部大臣は何も権限を持っておらぬ、そのことについて。そういう立場にある人が、何ですか、地方長官会議とは何ごとか。これは昔、政府が地方の長官を任命して、ときどき大臣が長官を集めて訓辞をした、そのときの地方長官会議でしょう。大体こういう言葉を使って今まで各所でやりましたと、ずうずうしく先ほど答弁をしておるが、こういう言葉は改めるべきものだ、威嚇をしておるような言葉に聞こえませんか。わしは君らの長なんだから、ここで訓辞とは言わなくても、祝辞を述べるのは当然だ、そういうものの言い方は誤りでありませんか。それを今まで全国各地でやったということは、適当でないことをずいぶん長くやったということになるんだが、いかがですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) それは一種の比喩的な表現でございまして、新しい憲法下に地方長官会議などというものがあるはずがないことは万人の知っていることであります。今の知事会議にいたしましても地方長官会議などとは申しません。そのことは私も知っておりますし、小中学校の校長さんたちもむろん知っております。その場においてさような言葉を使うということは、いわば教育の責任者として文部大臣の立場において、現場でそれぞれの学校の責任者として御苦労願っておる方々に、ともに顔を合わせて語り合う機会を得ることが、私が光栄にも思い、喜ばしくも思い、そういう意味で当然なすべきことだ、こういうことを念頭において、手っとり早く一種の比喩的な、なかば冗談に聞いていただくことも当然予期しながら、校長会議にも文部大臣が従来は出たことないそうですけれども、出席しておる気持はそういう気持かと御推察いただけるであろう、こう思って申したことでありまして、ことさら権力者ぶろうとか、何とかいうふうな気持は毛頭ないし、相手様もそういうことには一人でもお感じになったとは私は思っておりません。
○米田勲君 ただいまこの委員会で答弁がありましたが、私はあの言葉は比喩であったんだ、冗談なんだ、ユーモアで言ったんだ、そういうことは一応認められますよ。しかし使う言葉が地方長官会議などという、そういう言葉でこのことはユーモアがあっていいじゃないか、そうは済まされない。私はそう思うんだ。それはなぜかというと、最近、文部大臣は日本の教育行政上盛んに文部省の権限を拡大することに狂奔しておる。今、審議中のこの法案も私はその一つだと見ている。文部大臣が考えている教育行政は、あなたがいかにうまいことを言おうと、戦前のやはり教育の中央集権化の方向に漸次歩幅を広くして進んでいるのだ。私はそういう一般的な傾向と、この地方長官会議とを結んで、適当でない、こういう言葉で、現場の先生が苦労して働いている、御苦労さんでしたという、文字どおり、言葉どおりあなたが考えているなら、ユーモアにしろ、こんな言葉が出てくるはずがありませんよ。もっと適当に人々をねぎらうような言葉がないのですか、ほかに日本の言葉には。私は文部大臣として、今後この地力長官会議のようなものであるというような言葉は使ってもらいたくない。誤解が起こる、いかがですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 誤解は私は起こらないと思います。相手によりけりでございまして、良識を持ち、地方長官会議などというものが物理的にも存在しない。この新憲法のもとにおいて、そういう用語を使うこと、そのことがむしろ親近感をそそるくらいのユーモラスな表現だと思います。したがって、そのことをもっとほかの言葉で言える方法はないかは、検討はいたしますけれども、まだ絶対にそのことを言ってはならないということまでは私は思いません。
○米田勲君 ふざけた答弁するな。何だ。人が誠意をもってそういう言葉は適当でないから使わぬほうがいいじゃないかといったら、そういう言葉はなるほど君のいうように不適当な言葉だから、今後は使わぬようにしようと、なぜ答えないのだ。なめたような発言をして。もう一度答弁してみなさい。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 地方長官会議という用語を使いました私の趣旨は、先刻申し上げたとおりでございます。むろんもっと適切な表現ということを私自身も考える努力はいたします。
○米田勲君 そう初めから言ったらどうですか。何も問題なことはない。そういうまずい言葉は不用意に使われた、それは使わぬほうがいいですよといったら、そのとおりたといって答えたらいいじゃないですか。まことにくだらぬ男だ。そんなことで余憤を漏らしておってもまずいですから、次へ進みます。 文部大臣は、この祝辞の中で道徳教育の強化を提唱しております。私は民主主義政治の中に生きる人間に倫理や道徳が学校教育や社会教育を通じてつちかわれなければならないということは、方法論は別にして賛成をいたします。民主主義政治の中で道徳や倫理は要らぬのだと、そんな主張をするばか者はおそらく良識のある者にはない。私がわざわざこれを申し上げるのは、あなたがこの祝辞の中で指摘した幾つかの問題があるからです。あなたは道徳教育を提唱している人なんだ。この祝辞の冒頭でも提唱している。そういう人がこの祝辞の冒頭に、こういうことを言っている。私が日教組征伐と言うとばかの一つ覚えといわれるかもしれないが、私はそんなことは平気だ、こう前置きして、次の話をやっている。何事ですか、これは。日教組征伐とは何事ですか。文部大臣にそんな日教組を征伐する権限があるのか、これもまたユーモアで言ったと言うか、答えなさい。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 私の日教組征伐と申します意味は、日教組の定めております。持っております教師の倫理綱領と名づける組合綱領が不当なものだからであります。そのことを誤りを指摘し、反省を求めるということが日教組征伐ということであります。
○米田勲君 民主政治のこの世の中に、征伐という言葉があって妥当ですか、あなた。しかも、一国の文相が国民の前で、ある団体に対して征伐をするとは何事だ。君の使う言葉にはこのようなでたらめな無責任な言葉がある。征伐という言葉があるのですか、この日本の民主政治の中に。あなたはそういう一つの意図がある、私はこういう意図で日教組征伐という言葉を使っているのだと。幾ら解釈をしても、日教組征伐という言葉が妥当ですか、あなたは。そういう言葉を使う資格がありますか。しかもずうずうしく、ばかの一つ覚えと言われるかもしれないが、私はそんなことは平気だと、得々として言っている。日教組の行動について私は納得のできないところがあるとか、反省をしてもらいたいところがあるとかという穏当な言葉をなぜ使えないのだ。こんな日教組征伐という言葉を使って、大衆になぜ文部大臣はくだらない話をするのだ。私は全く情ないから怒っているのだ。君のような者を相手にしてこんなことで憤慨をするのはまことに残念ですけれども、しかし一国の文相が、たびたびにわたって国民大衆の前で日教組征伐とは何事か。世界のどとの国にあなたのような文部大臣がいるか。私はもうこのことはふんまんにたえない。今後、日教組征伐という言葉でなく、今あなたがここで説明した言葉を使うべきだ。日教組征伐という言葉は今後も使うかどうか、お考えをお聞きしたい。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 日教組征伐の意味は先刻申し上げたとおりであります。日教組征伐などという出、言葉はなるべく使わないで、内容的なことで解明したいと思います。
○米田勲君 私はこの日の文部大臣の祝辞についてずっと全文を見たのです。この祝辞の中には各所に封建的なにおいがふんぷんとしております。しかも私の判断をもってすると、この男は非常識なのでないかと疑われる言葉があります。何百人の大衆の前で、文部大臣として演説をするのであるから、大いにうぬぼれていい気になっているのじゃないかということを感ずるような旨葉使いで祝辞をやっている。私は今の内閣が人つくり問題でいろいろ論議をし、具体的な政策を打ち出すために努力をしている、言葉の範囲においては賛成なんだ、やり方は別だ。文部大臣が先ほど言うように、日本の国民に対する倫理、道徳の面を、しかも民主政治下の国民にふさわしい倫理、道徳をつちかっていくということは賛成だ。その意味においては賛成なんだ。しかし、道徳を提唱するあなたが、こういう数々のくだらない言葉で何のために私は国民の前に立っておるのかということをあなたに反省させたい。少なくも道徳、倫理を説くからには、もっとまともなことを言うべきだ。言葉使いについてももっとまともな言葉使いをすべ罪なんだ。法律的にいっても許されないことを言ってみたり、相手の人格を傷つけるようなことを言ってみたり、非常に文部大臣としてはふさわしくない行動が多い。あなたはそれを反省しませんか、どうですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) いろいろと御批判はあろうかと思います。なるべく洗練された用語を使って自分の考えを解明するということは、心がまえとして当然なさねばならぬ、こう思います。
○米田勲君 私はこの祝辞を聞いて、大ぜいの校長さんにそのあと会った。その批評はこうです。あなたにそうつらつけなく言う人はいないから聞かしてあげます。文部大臣はあれしか言えないのか。話が終わって拍手も今度はパチパチと数が少なかった。それは、あんな祝辞では当然のことだ、こう言う校長さんがたくさんいました。あなたは自分で、校長さんたちにまともなことを聞かせたつもりでいるであろうけれども、あなたの回りにいる役人は、あなたのその祝辞に対して、もちろん批判をするとおこるかもしれないから言わないだろう。しかし、私は好意的にあなたに言っておきます。こういうくだらない祝辞を繰り返していくことは、あなた自身のためにもならぬし、日本の教育のためにもならぬし、日本の新らしい政治を生み出していくためにも、マイナスはあってもプラスはないということをはっきり私はあなたに言っておきます。今後注意しなさい。 そこで、私は文部大臣に大事なことを一つお聞きします。大臣は、祝辞の中で、またまた日教組専従者の給与問題に関して次のような発言をしております。日教組の専従者は教師でありながら教師たる活動をしないで、現場教師と同じように、月給も上がり、退職金ももらってきた。これは皆国民の血税で支払われている、給与の二重取りである。給与の二重取りといえば泥棒になるが、泥棒になるがとはっきり言っている。このような給与の二元的体系を改めて、専従者の全部の給与を組合でまかなえというのである。終わりのところだけは私は認めます。そういう自民党が考えを持っているということは認めます。しかし、その前に言ったことは何ですか。これは、あなた言ったことを認めますか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 先ほど読み上げられました、私がここで発言しましたこと、そのことに触れまして、自分の間違いであったことを訂正をした、そういうことを言ったように思います。
○米田勲君 あなたは三月五日ですか、この委員会でわれわれにある一つのことを約束しましたね、先ほど言った、内容は繰り返しません。そのことに明らかに違反する祝辞を述べているでしょう。それは認めますね、どうですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 二重取りであるということをあらためて言った覚えはございません。
○米田勲君 記録によって明らかですよ。それでは給与に触れて祝辞を述べませんでしたか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) これは先刻来お答え申し上げておるように、日教組のILO提訴の問題を解明するということでそれに触れました。
○米田勲君 これは皆国民の血税で支払われているとあなた言った記憶ありますか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 私は常に月給は組合から払われておる、退職金と年金、恩給の部分が国民の税金で払われておる、このことは提訴しましたILOからの決定によっても、むしろやめたほうがよろしいという政府の案を支持する結論であったという趣旨のことを常に申しております。
○米田勲君 私は自由民主党の諸君が良識があるので、この文部大臣の言っておることは穏当でない、間違いだということをお認めになると思うのですが、大臣は自覚をしていない。私は、ILOの関係で自分の所信なり、自分が今後法律改正をして、こういうふうにしたいということを述べられることは自由ですよ、それを言ったのをけしからぬとは言わない。ただし、あなたにお聞きしますが、現在、一体われわれの国民の基本的権利というものは何で守られているのですか、憲法でしょう。われわれの権利は憲法によって守られておる、あらゆる権利が。しかしその権利のうち、いろいろな都合から法律で一部制限をしたり禁止をしたりしていることがある。しかし、あなたがまたまた持ち出した、この給与の二重取りという問題は、これは一体、違法な行為をしていないということは明らかなんでしょう。それをまた繰り返してこういうことを言ったということは断じて許されない。そうしてまた、与党の諸君、給与の二重取りと言えばどろぼうになるがとまで言っておるんですよ。これで許されますか。われわれ野党が、こういう文部大臣を相手にしてそれでよろしいのだと言えますか。私はね、たとえ与党の人たちでも、そういうべらぼうなことを言う文部大臣は許さぬというのが常識だと思うのです。給与の二重取りと言えばどろぼうになるがとは何ですか。あなたは与党の理事や豊瀬君の前でそういう意味のことを言ったと言っておる、どろぼうということを。どうですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) どろぼうになるということで、間違った表現だということで私はそれは取り消した。そういうことでなしに、二元的に出ていることがILOの精神からいっても適切ではないという結論が下されたということに触れまして申しました。
○米田勲君 納得できないぞ。文部大臣、あなたにもう一ぺん言います。あなたは三月五日ですが、「二重取り云々という言葉は、法律的に、道徳的に許されないことをしているというように解するのが良識的な書架の使い方でありますから、私が帯広で言った二重取り云々という言葉は間違いであって、」と認めている、これが速記録に載っている。間違いだということを明らかにわれわれの前で認めておるのに、なぜそれではこの祝辞の中で、給与の二重取りをしておる日教組の専従者は、教師でありながら教師たる活動をしないで給与の二軍取りをしておると、そしてこの給与は国民の血税で払われている、給与の二重取りというのはどろぼうになる——それで当然なことをあなたは言ったと解釈しておるのかどうか。三月五日のときにそんな約束をした覚えないと、速記録に載っていることは認めないのかどうか、もう一度答弁して下さい。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 速記録に載っておるように、私がその用語の誤りを指摘されて取り消しましたことを御被露に及びまして、それは本来二元的だと言うべきであったと、そのことをILO八十七号条約批准を機会に、自生運営、相互不介入の考え方でILOの賛成するところだと、政府のその考えが正しいんだという結論が出たという趣旨のことを申したわけであります。
○米田勲君 だから、私は先ほどもこのくだりの最後のところ、給与の二元的体系を改めて、専従者の全部の給与を組合でまかなえと、そういうふうにすべきだと、ここは認めておるんですよ。これを認めているからといって、この前を認めるわけにはいかぬ。あなたは給与の二軍取りといえばどろぼうになると、そう祝辞の中で述べたでしょう、これは認めるでしょう。そのことは、一体、三月五日のこの委員会で約束したことと違わないのですか、違っているのですか。文部大臣、お答えなさい。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) そういうことで指摘をされまして、用語の誤りを気づきましたから取り消しましたという経過を述べたのであります。したがって、それは二元的に出ておることが適切でないと、こういう立場から政府案が出ておるのだという趣旨のことを解明し、取り消さねばならないような用語を使ったことを参議院でおしかりを受けて取り消しましたことを述べたのであります。そこで、それは誤りであって二元的云々と言うべきであったということを申しました。
○米田勲君 言葉たくみにごまかそうたってそうはいかぬぞ。あなたは給与の二重取りといえばどろぼうだと言っているのだ。その給与の二重取りをした相手は日教組専従者だといっている。教師でありながら教師たる活動をしないで、現場教師と同じように月給も上がり、退職金ももらっている。これはみんな国民の血税で払われている。給与の二軍取りだ。給与の二重取りといえばどろぼうだ、これを言ったあなたは、前の三月五日のわれわれとの約束を明らかに破っているということは認めなければならない。言わないのですか、言ったのですか。これは文部大臣が、この参議院の文教委員会でこのことを言わぬというなら、私はこれから証人をたくさん連れてきてやります。このことを言ったか言わないか。文部大臣言ったのか、言わぬのか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 給与の二重取りといえばどろぼうであるということを意味するというので、参議院で叱られました、それで、なるほどそうだと思ってそれを取り消しました。本来、二元的に支払われておることが自主運営という立場からいかがであろうということで政府案が出されております。そのことをILOの結社の自由委員会の結論としては、それが当然だという趣旨の決定がなされた、そういうことを申しました。
○米田勲君 私はここでまことしやかに述べていることを認めない。あなたが祝辞の中で言っている言い方はそういう言い方でない。そんな言い方であったら、日教組の専従者が給与の二重取りだという発言をしたために、文教委員会でいろいろ問題になったから私は取り消した、実際はこういうことをしたいのだと、こう答えたのだったらいい。しかし、あなたは順序を立てている。教師でありながら教師たる活動をしないでと、ちゃんと目的があって、前から押してきている。今ごろになって、給与の二重取りということを言ったために参議院でしかられた、だからそういうのでない、二元的な給与の体系を改めたいのだ、こう言ってごまかしてもだめですよ。なぜ自分の言ったことを認められないの。この文教委員会にくるととたんにあなたは言葉が違う。外で大きな熱を吹いたとき堂々とやっているじゃない、それをなぜそう言ったと言わないの。また間違って言った、これはまずいことを言ったくらい言えないのかね、あなたは。僕はあなたに先ほどばかにしたような質問をしたでしょう。そのときの健康状態がたしかだったのか、私は何か狂って言っていると思っているんだ。そうでしょう。文教委員会であれだけ問題になって、そうして与党の理事の諸君が困り抜いて、そんなばかなことを言った文部大臣を中心にこの委員会がごたごたになったのを、与党の理事の諸君が文部大臣といろいろ話し合って、この間一日半あまりかかっている。そしてあのお経を読んだ。そのお経を読んだのにまたこういうことを言っている。あなた気違いでないのか、私はあえて聞きたい。何でそんなことを言わなければならないのか。あなたの言っていることは法律的に間違っているのだぞ。どうしてあなたは日教組の専従者がそれほどにくいのですか。事実無根なことをどろぼうという言葉をつけたり、給与の二重取りをしたと言ったり、それほど君は日教組の専従者を国民に誹謗したいのか。何でそんな情けない気持になっているのか。気違いでなかったら二度、三度こんなことを言う者はいませんよ。一国の大臣が。あなたは気が狂っていませんか、もう一度質問します。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) さっき申し上げましたように、給与の二重取りという表現をしたのだが、そのことはどろぼうしたということを意味するじゃないかということでその不当性をしかられました、そこで参議院で取り消しました。本来、二元的に出ておるというととが適切であるまい、こういうことを言うべきであったと、そういうふうに申しました。
○米田勲君 与党の諸君、おかしいということはわかるでしょう、私の指摘しているのと。そういうことを言いたいのなら、なぜあなたは、日教組の専従者は教師でありながら教師たる活動をしないでと前置きしましたか。この前置きはなぜ必要ですか。あなたの説明に、日教組の専従者は給与の二重取りをしているということを私が言ったために、けしからぬことを言うといってみんなに指摘をされて取り消した、これだけでいいじゃないか。それなのにあなたはその前に、日教組の専従者は教師でありながら教師たる活動をしないで、現場教師と同じように給与が上がり退職金ももらっている、これはみんな国民の血税だ、そんな言い方が前置きになぜ必要なんだ。そんな必要はないではないか。あなたが今ここで言っているようなことを祝辞の中に述べるとすれば何のためにこの前段が必要なんだ。違うのだ、あなたは今困ってきたからそんなことを言っている。あなたは明らかにこういうことを言って誹謗した。これは日教組の専従者に加えた侮辱であるばかりでなく、本委員会に対して侮辱を加えている。明らかに食言している。そういう言葉づかいは今後使わないように注意をするとまで読み上げさせられていながら、あえてこういうことを繰り返している、あなたは文部大臣をやめなさいよ、みずから恥じて。われわれはあなたを中心にして政府から提案した法律案をまともになって審議はできませんよ。気違い相手にやっているようなものだ。何を言い出すかわけがわからぬ。私はこれを率直に取り消してもらいたい。校長会で言った祝辞の中で、口が走ってこういうことを言ったことは全く私が悪かった、そういうことは取り消します。あやまりますと、この委員会でそう言いなさい。そうすれば私はこの際、やむを得ずこの委員会の運営のために譲歩をするが、譲歩をしてこのくだりは終わりにするけれども、私はそう言わない限り、何としてもこのことはこの委員会で明らかにしますよ、言った、言わぬの問題については。大体この会場にいる良識のある人が、あなたの言っているこのことを認める者がいますか。ときどきあなたは精神がどうかなるんじゃないですか。情けないと思わないかね、われわれにこんなことを二度、三度指摘されて。いかがですか、反省はありますか、少し。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 先ほど来申し上げておりますように、参議院でおしかりを受けまして、そのことを取り消したことを発言したことは、うそを言ったわけじゃございませんので、本来は二元的に出されておるのが適切でないというべきであったということを話をしますことは、私はそれ自体間違ってない。事実しかられましたことを率直に解明するということ自体は、私が適切でないとおっしゃるのですけれども、当然の事実を言ったにとどまった、こう考えます。
○米田勲君 文部大臣は今の発言を譲らないというのであれば、この委員会で、校長会のときに祝辞を述べた内容が私の指摘するようなものか、文部大臣が答弁をしておるようなものか、いずれかを明らかにしてもらいたい、委員長。——こういう虚偽の答弁をして私は引き下がらない。委員長。
○委員長(北畠教真君) 速記をとめて。 〔午後六時十八分速記中止〕 〔午後六時三十四分速記開始〕
○委員長(北畠教真君) 速記を起こして。 暫時休憩いたします。 午後六時三十五分休憩 —————・————— 午後八時十八分開会
○委員長(北畠教真君) これより委員会を再開いたします。 休憩前に引き続き、質疑を行ないます。御質疑のおありの方は御発言願います。——文部大臣。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 日教組に対し、これを誹謗するような言葉につき、三月五日の本委員会において、私が取り消しを言明いたしましたことは、今なお記憶に新たなところであります。五月の全国中学校長会総会での私の言葉が先刻問題になりましたが、当日、私は参議院においておしかりを受けたかつての私の言葉を明らかにし、これを取り消した旨を述べるとともに、給与の二元的云々と結論を申した次第であります。しかるところ、米田委員から、参議院において取り消した内容を繰り返し説明する必要がないではないか、結論だけでたくさんではないかとのおしかりを受けましたが、御指摘にあってみますると、米田委員仰せのとおり、結論だけでもよかったと思います。私の真意は結論にあるので、重ねて日教組を誹謗する意思のなかったことを御了解いただきたいと思います。もちろん、私といたしましては、今後も発言について十分気を配りたいと存じます。
○米田勲君 ただいま文部大臣が、体感前の私の質問に対してただいまのような答弁があった次第であります。私は、すでにとの委員会の教科書法案の審議が小林委員から続行しておる過程で、この問題を特にやらせていただいた経緯からかんがみても、本件でこれ以上さらに質問を続けるということは本意でもないし、今の大臣の発言を一応了とします。ただ、私は、この際つけ加える必要はないかのように思いますけれども、私の言っていることが実際に文部大臣の演説の中にそのとおりあったということを、私は今もそう考えておるわけです。文部大臣の説明のようではなかったのだということを今も考えておるわけです。この日本教育新聞、これは何も組合と関係のある新聞社ではございませんが、この中に「町のグレン隊なみ」「文相日教組攻撃を一席」と、こういうふうに見出しをつけて新聞が書き立てるほどやはり問題があるわけです。その中で「在籍専従者の給料は全部組合でまかなうべしとの判決はILOの立場からは当然の措置だ。組合の雇い人にしかすぎないものが、給料の二重取りをしているのはけしからん。組合から一銭ももらっていないことはないだろう。それに国民の血税を給料としてとっている。授業もしないのに昇給し、やめれば退職金も血税からもらうなど許せぬことだ。」、これは日本教育新聞のあれで、私の先ほど申しているのは速記録の翻訳です。 ただ、最後に一言文部大臣に申し上げて私のこの件の質問を終わりたいと思いますが、大臣がいろいろなことを、文教行政を進める際に意見を吐かれることは私は大いにけっこうだと思う。しかし、人間は、民主社会なんですから、自分と立場が違い考えが違う者の意見は十分どこに真意があるのかということを謙虚に聞く必要がある。自分の考えに合わない、けしからぬやつだと、頭からそうきめてかかって、そうしてただそれに反撃を加えるだけで、それを罵倒するだけで事が運ばれるようなことではこの社会は前進しない。そういう形の中からは前進しないのです。だから、今後文部大臣に強く希望をしたいことは、従来とも全国各地で日教組の諸君にばりざんぼうですな、私に言わせると、ばりざんぼうを浴びせているが、そういう形でなくて、もっと国民が聞いてもなるほどなという言葉と内容ではっきりあなたの考えを述べられることが賢明なんです。そうすれば誤解も起こらないし、聞いているほうも内容がよくわかるということで、やはり社会の進歩のためにプラスになるのですが、今のような大臣のかまえ方では、私はこの日本の教育をよりよい方向に進めるためにはむしろ弊害があってもプラスにはなっておらぬということを指摘したいのです。ただいまの発言がございましたから、さきにも申しましたように、これ以上のことはきょうは言いません。しかし、私は、二度にわたるこの問題の取り扱いによって、必ず文部大臣は三たびこのことを繰り返さない、三たびこのようなことを繰り返されないことを信頼して、この際は私の本件に関する質問を終わります。
○小林武君 前回に引き続きましてお尋ねいたしますが、前回の私の質問は、いわゆる民主教育の内容というものはどういうものか、民主教育は一体どういうものかというようなそういう立場からの質問をいたしたわけであります。これについて幾多のやりとりがございましたけれども、その中で、要約いたしますというと、文部大臣は憲法並びに教育基本法のワクを一歩も出ることなくやりたいというような発言をなさっておるわけであります。ただし、そういう御発言はなさっておりますけれども、必ずしも個々の問題について考えた場合に私との意見の一致がなかったことは、これはこの間の質問によって明らかになりました。しかし、まあ一応そういう御態度をお持ちになっておるというのでありますから、その点についてはここでさらに繰り返すというようなことは、審議を進める上においてどうも時間を取り過ぎる、さらにはそういう問題の内容はもっと具体的な法律の内容に入った場合にもやり得ると考えますので、ここでひとつ打ち切りまして、きょうは、民主教育を進めるという場合に教師というものはどういう責務を一体国民に持っているのか、またどういう権利を持っているのかという点について御質問をいた、したいわけでございます。 私はまあ具体的な問題からひとつお伺いをいたしたいのでございますけれども、文部省がかつて出しました「憲法の話」という書物があるのでございますけれども、その中には、文部省の方々も御存じでありましょうし、文部大臣も御承知のことと思うわけでございますけれども、憲法九条のいわゆる軍備を持たないということ、こういう問題につきましては、まあ平たくいえば一門の大砲も一隻の軍艦も持たないことだというようなこういう説明がなされているわけです。しかし、そのことが現在、そういう教え方をしなければならないとされておった教師が、現在の日本の再軍備の状況を見ました場合に、一体どうこれを理解してよいのかということになるわけであります。そこで、私は文部大臣にお尋ねをいたしたいわけでありますけれども、あなたが日ごろおっしゃるところの、憲法、教育基本法のらち外に一歩も出ないのだというこういう建前に立った教育、しかもそれについて誓いを立てている日本の教師の立場として、そういう憲法にかかわる問題に大きな変化が起こった場合に、教師の立場としていかなる解釈をするのが妥当であるか、この点をひとつお尋ねをいたしたいわけであります。 もう一つ、私は過去において経験していることがあるのでございますけれども、敗戦後私どもは生徒と一緒になって教科書に墨を塗ったわけであります。この点がとにかく誤りであるから、この教科書を全部そのまま使うわけにはいかないと、その誤りの場合に教師が墨を塗った。生徒にもそのことを話して、この点はわれわれが学ぶというとたいへん工合が悪いのだからということで墨を塗ったわけでございますけれども、私どもはそのときにこういう理解をしたわけであります。たとえどのような一体文部省の指導があったにしろ、あるいはそれを受けてさらにわれわれ教師に伝えたところの県やあるいは道の教育部というようなものがあったにしろ、教科の内容について誤りを教えたということは、教師の責任として子供に対してはなはだ申しわけないと、これは教育自体の責任であり教師の責任であるという立場で、まことに申しわけないというそういう反省の上に立って、この情けない作業をやったことを経験いたしておるわけであります。こういう教師の考え方というようなものは、私は今の民主教育の中においては一そう強烈なものでなければならないと思うのでございますけれども、文部大臣は一体どのようにお考えになるのか、この点をひとつ御説明を願いたいわけであります。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 教諭は教育をつかさどるとあったと思いますが、そのつかさどります場合、教科書について今お話がございましたが、教科書は文部大臣の検定をしたものを使わねばならないという建前になっております以上は、学習指導要領並びに教科書に基づいて教えねばならない、そういうものだと解します。
○小林武君 まず、一つの質問に対する答えはございましたけれども、文部省の「憲法の話」という木についての問題については御答弁がなかったわけです。これは一体どのようにお考えになりますか。これは直接教育と関係があるわけですね。当初、日本の教師に対して、憲法第九条の問題についてはかくかく教えるのがほんとうだと、こう出ているわけです。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 今御指摘のその「憲法の話」というものがどういう性質のものか、私存じませんので、そのことについてちょっと申し上げかねますけれども、先ほど触れられました憲法第九条の解釈の問題、それについて今自衛隊が現にございますが、自衛隊のことをどう理解し、どう教えるべきかということにつきましても、学習指導要領ないしは教科書を通じてしかあり得ないことと存ずるのであります。
○小林武君 第一の質問に対する文部大臣のお答えは、このように理解してよろしいですか。これは私は今の教科書の問題で問うたわけでございませんけれども、国定教科書なら国定教科書、この当時は国定教科書。国定教科書によって教師が教えた。このことは教育の中にどんな誤りがありましても、その教育についての結果ですね、日本の民族の将来、国の安危の問題に大きな影響を与えるような事態を引き起こした場合においても、教師は教育的責任はないものと判断するとあなたはお考えになっているわけですか。そういうことでしょうね、あなたの先ほどの御答弁では。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) さっき申し上げたとおりでございますが、学習指導要領及び教科書の線に沿って教えねばならない立場にあるのが教師であると、こう思います。
○小林武君 質問に答えていただきたい。学習指導要領並びに教科書の線に従ってやっているということになれば、そのことから起こった教育上の大きな誤りというものは教師自身にはないと、こうあなたはお考えになるから、今のような御答弁をなさったわけですね。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) そのとおりでございます。教科書の間違い、学習指導要領の間違いがあるとすれば、それは文部大臣が国民に責任を負わねばならぬと思います。
○小林武君 それから、もう一つの点ですね、憲法第九条に対する考え方が、戦後わずか十数年の間に、文部省の見解というものが大きく変わっておる。このことは、極端にいえば、前には白であったものが今度は黒と教えるというようなこと。このことは、文部省の命令であるならば、文部省の解釈であるならば、教師はどのように教育課程が変えられても、指導要領が変えられても、あるいは文部省の見解が変えられても、教師はそのままそれを子供に教えなければならない責任があるとお考えになって今の御答弁をなさったことでしょうが、どうですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 教科書、学習指導要領というものを通じて、憲法の解釈であれ、文部省の見解というものは国民に対する責任の立場において述べられる。したがって、その線に沿って教える責任が教師にあると、こう申したわけであります。
○小林武君 あなたの答弁はなかなか要領を得ない答弁で有名なんですけれども、これはあれですか、そういう憲法九条の解釈について文部省はさまざまな解釈ですわね、一つは、当初の「憲法の話」の中に出てくる解釈では、少なくとも今の再軍備の状況は絶対認めないという角度から解釈をしておるわけです。現在は、あなたのほうでは別な解釈をしているということは指導要領によって明らかであります。存じておる、私もその点。そういう変え方は文部省というところが自由になさって、それを教師にそのような教え方をするのだということを示すところの一体あなたたちは当然の立場というものをお持ちだと考えるわけですね。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) そうだと思います。
○小林武君 なるほどよくわかりました。 そこで、お尋ねいたしますが、そういうことは一体、今のようなお考えというようなものは、憲法のどこに書かれてあり、教育基本法のどこに一体今のような文部大臣の御答弁は書かれてあるのか、ひとつお示しを願いたいわけです。条章を明らかにしてこれは御説明を願いたいわけです。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 憲法及び教育基本法が、今申し上げたことを具体的に規定しておるということを申し上げたんじゃございません。今の憲法及び教育基本法の趣旨に根拠を置きながら、のっとりながら、学校教育法が定められておることは申すまでもございません。その学校教育法第二十条ないし第二十一条、それが根拠となりまして学習指導要領が定められ、また教科書の検定されましたものが発行せられ使用されるということに根拠を置いて申し上げておるわけであります。
○小林武君 それはおかしいでありませんか。一体そういうことが憲法の中にも教育基本法の中にも具体的に示されていないということは、これはあなたおかしいじゃないですか。憲法や教育基本法を一歩もはずれないようにというのは、あなたのこの間からの始終言われたことなんですね。そのことが具体的に一体どこの条に当たるかということが明らかにされないで、今のようなことをおっしゃる。学校教育法のことを今述べられておりますけれども、教育法のことはやがてやるにいたしまして、憲法や教育基本法のどこにあるということは、あなた指摘できませんか。おかしいじゃありませんか。どこに一体そういうあれがありますか。教師というものは文部省の言いなりになって、あるいは政府の言いなりになって教えておれば責任はないのだというところが、どこにあるのか、ひとつ具体的に示されないというと、私は単に文教委員会の中の議論だけにとどまる問題でなくて、この種の問題は少なくとも全国の教師の問題なんです。同時に教育委員会の問題でもあり、同時に子供を持つところの親の問題であり、子供の問題なんです。憲法の中に明らかに民主教育を受ける権利を二十六条は示しておる。その二十六条の一体「教育」ということは、今のようなあなたの御解釈でよろしいということがどこに書いてあるか。それを示さないでおいて、一体文部大臣のお役目が勤まるかどうか、あるいはあなたが全国の数十万の教師に対して、教育はかくあるべしなどというような号令をかけられる理由がわからないのだな。そういう薄弱な一体根拠のもとにやっておられるおけですか。明らかにして下さい。そんな子供だましのようなことを言うから、大体もっと時間が短くていいやつを、幾らたっても同じところを行きつ戻りつしなければならない。あなたは、ある意味では、議事を一体引き延ばすために何か答弁をなさっておるようにさえ曲解したくなるわけであります。明らかにして下さい。どこにありますか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 憲法が具体的にあらゆることを条章に明記しているわけではございません。法律案を提案する権限と責任を政府に与えておると思います。その法律案が憲法、教育基本法の趣旨にのっとって立案さるべきことも当然であって、それがさらに国会におきまして主権者たる国民にかわっての立場において審議されて法律となる。その法律そのものが憲法及び教育基本法の趣旨に従っておるという前提において、その法律が今指摘しましたような条章に基づいて先ほど来申し上げることを定めておる、こう解するのであります。
○小林武君 そういう話は、第一日目の討論の中であなたの話は聞いているんです。そのことから、あなたとの間に、憲法二十六条の問題を中心にして十分議論がされ尽くしたのです。憲法の中に国民が民主的な教育を受ける権利があるというようなことは、少なくともその討論の中でだんだん明らかになってきている。あなたはその憲法の中に一体、そういうあなたのおっしゃるような無責任な教師の教育のあり方を規定してあるという個所があったら、示していただきたいのです。教育基本法の中にはそういうことが書いてないとありますけれども、ほんとうにないのですか。具体的にどうなんですか。なければこっちで言ってやってもいいんですけれども、あなた文部大臣だから、あまりおそれ多いことを言ってもいけないから、こっちは言わないでがまんしているわけですがね。どうなんですか。教師というものは、教育というものは一体そういうものでよろしいのですか。文部省の言うことに従ってやっておれば子どもに対する責任というものはもうないのだと、それが政府がどんなあやまちを犯そうと、それは教師として知ったことではないのだ、だからネコの目の変わるがごとく文部省の解釈なり政府の解釈が変われば、それに従って唯々諾々として教師は教育に携わればいいというようなことがどこに書いてあるのですか。どこに書いてあります。そういうことが。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) それは先刻申し上げましたように、学校教育法二十条、二十一条、そのことが今申し上げたことを示しております。新しい憲法は民主憲法である、民主憲法のもとの政治、行政のあり方はいわゆる法治主義をもって貫いておる、その法治主義の立場に立って法律が制定される、その法律そのものは主権者たる国民の意思であるという前提に立って、今学校教育法の条文を御指摘申したわけであります。
○小林武君 まああなたの言うことを一応まず聞いて、そうして学校教育法第二十条、二十一条の中にそんなことがどこに書いてありますか。学校の教師は、誤りであろうが何であろうが、文部省の言うとおりになっておれば責任がないなんというようなことはどこに書いてありますか、そんなことは。二十条、二十一条にそういうことが書いてありますか。二十条の問題は十七条、十八条にかかわる問題、「規定に従い、監督庁が、これを定める。」ということであります。二十一条は「文部大臣の検定を経た教科用図書又は文部大臣において著作権を有する教科用図書を使用しなければならない」、「前項の教科用図書以外の図書その他の教材で、有益適切なものは、これを使用することができる。」と書いてあります。何でも与えられたものを言いなりになってやって、責任は教師にはないということが、二十条と二十一条のどこの中に——二十条の法意なんでありますか、法の意味なんでありますか。どこに書いてありますか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) たとえば小学校で使ういわゆる教科書というのは、文部大臣の検定したものあるいは文部大臣が著作権を持つものを使わればならないということが、そのことを示しておると私は思います。教科に関することを監督庁たる文部大臣が定める。そのことは学校教育法の施行規則を通じまして学習指導要領というものが告示されて、それが具体的な第二十条との照応した内容である、こう理解するのであります。したがって、具体的な例示をされましたことについて申し上げておるわけですが、教科書にもし誤りがあったとする、その誤りがあったものを教えた場合の責任は一体どこにあるかというお尋ねでございますから、その教科書の誤り、その誤りのゆえに教師が誤ったことを教えたということありせば、それは教師の責任にあらずして文部大臣の責任である、こう申し上げたわけであります。
○小林武君 実は思い上がっていただきたくないということを言うわけです。何でもおれの責任だ。あんたが幾らおっしゃっても、文部大臣が何百年も勤まった人もなければ、そう言ったら何ですけれども、あなた比較的長いほうですね。一年か一年足らずの文部大臣が、その文部大臣がですよ、日本全国の教育に携わる者、そのすべてに対しておれの言うとおりになっておればいいんだ、責任はおれにあるのだというようなことで教育が進みますか。そういうものの考え方がないところに、日本の憲法や教育基本法があるわけなんです。そういう考え方に立たないというところに特徴があるわけなんですよ。国定教科書の場合に、だれですか、岸田国士さんですか、だれですか、ちょっと忘れましたけれども、教科書のことを非難したら、誤りがあるということを指摘したら、上御一人をないがしろにするとかなんとかいうことで、非常な非難を受けたというような神話があるようでございますけれども、そういう戦前の考え方とおよそ違った考え方が今の教育にあるのですよ。あなたの考え方は少なくとも明治憲法下の考え方です。教育勅語の中における教育ならばまだしも、今の教育の中にどこにあるのですか、そういうことが。教師というものはそんなに一体だらしのないものなんですか。あなたの教師観はそうですが。上から来るものを素通しして、子供に毒になろうが毒になるまいが、おれの責任ではないのだ。上から来るものならば下にやればいいのだというような、そういうあれですか。 私は、ある大学の教授の戦前の教師に対する批判の中で、いつでも忘れない言葉があるのです。白墨を手にして黒板を背にした教師は、これはもちろん小学校、中学校の教師だと思いますが、下士官的存在であったというようなことを言われておった。上の命令に従って、あやまちであろうとなんであろうと下につぎ込むことしかできなかった教師、それに対する痛烈な批判が戦後そういう形で表現されたことを私は知っているわけです。そういう教師の出現を許さないというのが憲法や教育基本法の考え方なんですよ。あなたのおっしゃることは、憲法や教育基本法のどこ探したってないと思う。どこにあるかと言ったら、学校教育法にある。学校教育法のどこにあるかといって今度聞かれたら、あなたは今度は指導要領だと言う。そういう逃げ方をなさらないで、憲法そのものの中にこう書いてある、憲法の大要はこのことをこういうふうに示しているのだというあなたは説明をしなきゃいけないですよ。基本法の中にはもっと具体的に書いてある。具体的に書いてあるのだから、あなたはその点についてこれはこう解釈すべきだというはっきりした見解を出さないで、私の責任ですというようなことを言うことは、あなたはそれでいさぎよしとするかしらぬけれども、日本の教育を誤るもはなはだしいことだと思う。どこにありますか、そういうこと。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 憲法や教育基本法が具体的なことを一々規定しておるとは私は思いません。先刻申し上げたように、法律によって行政が行なわれる。その教育行政の今御指摘の部分についての根拠となれば、学校教育法にあります。そのととを申し上げておるのであります。教科に関することに限っては、これは教師に責任があるのでなしに、文部大臣に責任がある。教科に関することを監督庁たる文部大臣が定めねばならないということが、具体的には学習指導要領となって現われておる。その線に沿って教育が行なわれねばならないという建前になっておる。教科書はさっき申し上げたとおりになっておる。その教科書と学習指導要領に関する限りは文部大臣が国民に責任を負わねばならぬということを明示しておる個条だと私は思います。したがって、その範囲に関しまする限り、学習指導要領の誤りのゆえに、あるいは検定教科計の中の誤りのゆえに、誤って教えた場合の責任はどこにあるかとおっしゃるならば、教師にあらずして文部大臣にあると、間違いを訂正せねばならない責任があるし、個々の教師がその誤りによって起こるところの誤った教育の責任を負うという立場じゃない、こう申し上げておるのであります。
○小林武君 文部大臣に同じことを質問するわけでありますけれども、それではあれですか、あなたのお考えは、教師に対する、いわゆる教師が国民に対する教育上の責任ということは、これは文部省のいわゆる言いなりになるということが責任を果たすということにたるわけでありますから、そのことが子供にどんな影響を与えようとも、日本の将来に対してどんな影響を与えようとも、それは教師というものは知ったことではないのだ、文部大臣の命令、文部省の命令、指示に従ってやっておれば、教師としての責任は、この日本国憲法下における民主教育の責任を十分に果たした、こうあなたは断言なさるわけですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 学校教育法には、さっきも触れましたけれども、教諭は教育をつかさどるとあります。教育をつかさどる、そのことについて国民に教師が責任を持つことは当然であります。先ほど来の御質問は、教科書についてのものの考え方、教科書についての具体的な誤りがあった場合の御質問、そういうことであると思いましたから、教科書に限り文部大臣に権限が与えられ、責任が課せられている。内容となれば何だといえば、学校教育法二十条、二十一条ないしはそれに関連する条文で明示されている。そのことに関する限りは、誤りがあった場合に教師の責任ではなしに文部大臣の責任である、こう申し上げておるのであります。教科書そのものあるいは学習指導要領そのものに書いてある以外のことについて教育活動があるということは、教育をつかさどるということからも当然でありまして、教科書なり学習指導要領以外のことについては、教師といえども憲法ないしは教育基本法以下の法令の範囲内においてつかさどっておる限りの責任は国民に負わねばならぬ、これは当然のことだろうと思います。
○成瀬幡治君 関連して。大臣、伺いますがね、責任があるということは、逆にいえば教育に干渉をするということになるわけです。文部大臣の権限において。そこで、非常に責任を感ぜられておることは、それはまた別な問題として、だから、おれはひとつ大臣権限を発揮して、教科書なら教科書の例をとると、どこまで干渉しようというような考え方を持っておられますか。責任だという以上は、責任を果たすのに干渉がなければならぬ。こっちを向いておったらこっちに戻さなければならぬ。あるいはあっちを向いておったらこっちに引っぱってこなければならぬ。そこで、あなたは干渉ということを当然行なわれなければならぬと、こう考えるのか、責任があるのだから、干渉するのだと、こういう態度で臨んでおいでになるのか、その辺はどうでしょう。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 端的に干渉する権限があるなどとは考えておりません。教科書に関する限りは、文部大臣が責任を持って検定を通じて正しい教科書を作ることをやらねばならない責任がある。教師は検定を受けた教科書、それを教える責任があると。そういう関係において責任と申し上げるのでありまして、それ以外に何か指図がましいことをしてよろしいと、そういうことじゃございません。また、学習指導要領も、学校教育法二十条に根拠を置いて文部大臣が定めねばならない権限と責任が与えられておる。それが学習指導要領であるわけですから、教師はその学習指導要領の趣旨に従って教える責任を負わされておるということを申し上げるわけであります。それにたごうことはできないという内容の、それを干渉とおっしゃるならば干渉にもなりましょうけれども、それ以外の干渉がましいことがあるはずがない、こういうことであります。
○成瀬幡治君 あなたが文部大臣をやっておるときには一つの教科書ができて、あなたでないお方が大臣になられた場合には教科書が違うというようなことがあったら、たいへんなことだと実は思っております。そこで、の問題があるということと、一つの中立的な機構が教科書の問題については仕事をやる。大臣の権限がある、権限があるとおっしゃるけれども、大臣が何人かわってみても、教科書というものは変わっていかないのだ、一つの特別な色はついていないのだ、こういうふうにわれわれは受け取っておるわけですよ。また、そうさしてはたいへんなことだと、こう思っておるのです。それに対してあなたは権限がある、権限があるとおっしゃいますけれども、逆にいえば、何か荒木色のついた教科書ができて、あとで北畠さんが大臣になったら北畠色のついた教科書ができはしまいかと心配するのです。また現に、一つの方向に向かいつつあるということを見のがしてはいかぬわけです。戦後、教科書の中身がずっと変わってきておるということは事実なんです。そういう点についてどういうふうにお考えになっておるのか。権限があるから、おれの教科書はこっちに向いたものを作らしていくぞ、こういう考え方で一つの機構なりあるいは運営に当たっておられては、私はこれは非常に心配なんですよ。あなたがおっしゃる、文部大臣には権限があるのだと。これはわかりますよ。しかし、運用面で権限を発揮されるということは、逆にいえば干渉されるということになります。ですから、その辺のところはどういうふうにしておきめになるのか。また、あなたは、何と申しますか、教育行政を扱っておられる上においての心がまえは、おれは権限がある、権限があるというふうに胸を張っておやりになったらたいへんだと、その辺のところを心配しつつ伺っておるわけです。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 私は文部大臣という職責を申し上げておるのでありまして、具体人の何の何がしによって教科書ないしは学習指導要領の内容がネコの目のように変わるということは許されない。変わることがあるとしましても、変わるについては変わるだけの憲法、法律、それに基づいてのものの考え方から変わらねばならないから、変わることがあるとはいたしましても、個人的な趣味ということも適切じゃありますまいが、個人的な何の何がしという文部大臣の好みによって変わるなどというととでなしに、義務教育ないしは後期中等教育に関する限りは、大学は別ですけれども、教えられる内容の基本線だけは、大筋だけは文部大臣という立場で国民に責任を持て、間違ったことは許さぬぞ、言いかえれば、憲法や法律に反したような教科書というものは使われないようにしろ、学習指導要領も、常に進展してやまない世界の動きでありますが、日本の動きでもありますが、その動きの中に前向きに常に憲法、法律の趣旨を体して改善すべきものは改善していくという内容も含めて、文部大臣という職責が国民に対して負されておる責任であり権限である。そういう考え方を申し上げておるのでありまして、繰り返し申し上げますれば、文部大臣何の何がしという人間のものの考え方によって変化があるはずがない、あらしめてはならない、そういうふうに考えます。
○成瀬幡治君 大臣、憲法も変わっておらないわけですよ、戦後。それから、教育基本法も全然変わっていないわけなんです。しかし、たとえば中学校なりの社会科なんかを見たら一番よくわかるわけですが、非常に変わっておるわけなんです。そこで、心配をしておることは、大臣の形式的に私は責任があるとおっしゃることはいいです。形式的なことは。しかし、それはあくまで形式論であって、実質的には、そういう大臣がかわるたんびに色がつかないような組織なり機構があって、事教科書の問題についてはやっている、こういうことなら納得がいくわけなんです。ところが、どうもそうじゃない。実際あなたが権限がある、権限があるとおっしゃっているように、教科書に対して毛、あなたが、どうも荒木思想が教科書に反映しているかのごとき、実際教科書の方向が示されているようになって、非常に不安なんですよ。だから、いろんな点で疑義が出てくると思うのです。ですから、これはほんとうに形式論であって、なるほど法規の体裁からいえば権限があるのだ。しかし、実際はそういう干渉は一切しませんよ、こういう立場でおられるのか。どうもそこのところを、権限がある、あるということをしばしばお聞きしているのですが、どうも干渉しておいでになるような気がして、非常に心配でしょうがないのですよ。全然干渉などはしておいでになりませんか。全然何も知らずにいる、教科書のことは、どういう格好であるいは検定等が行なわれ、あるいはどういうような形でやっているというようなことについては、あなたは報告は受けておられる程度で、こうすべきだ、ああすべきだというようなことはやっておいでになりますか、なりませんか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 実務的に申せば、文部大臣は一々教科書の検定をみずからやるわけじゃございません。また、学習指導要領を作り、あるいは改めるにいたしましても、自分みずからがペンをとって、どうするということじゃむろんございません。学習指導要領につきましては、審議会がございまして、審議会の構成メンバーに権威ある方々をお願いをして、その方々が文部大臣にかわって検討していただく。そうである限りにおいては、日本一のりっぱな学習指導要領に違いないという信頼感の上に立って、文部大臣の責任を表わす意味でサインをして、それが学習指導要領の場合ならば官報に告示される姿で現われるということでございまして、その学習指導要領そのものが、干渉とおっしゃいますけれども、それに準処して教育が行なわれねばならない、検定も行なわれねばならないという意味においては、制約があるというか、そういう作用を通じて国民に責任を持たねばならぬ。もしそれ、そこに誤りがあるとするならば、誤りを知らないで告示をしたという立場の文部大臣が国民からしかられねばならない。国民はむろんそのあやまちを改めろということを要求されるでありましょうし、直ちに誤りがあるならばそれを改める努力をしなければならぬという責任となって現われる。いかにそれを指摘しましても改めないならば、文部大臣何の何がしそのものを取っかえるということも国民は要求できると思います。内閣全体がその誤りがあるにかかわらず改めないというならば、これは選挙を通じて主権者たる国民は全部を取っかえることができる。そういうつながりにおいて国民に責任を持ってやらねばならないぞということが学校教育法上明記されておるという意味で、責任と申し上げ、権限と申し上げるのであります。
○小林武君 関連の質問とは多少——関連でございますから、関連がないわけではございませんけれども、若干私の討論した問題とははずれていったわけでありますが、私はあなたの話を先ほどから聞いておりますというと、結局あなたの考え方は、文部大臣とそれから教育委員会、それから学校の教師と、こういうような一つの階層的な教育行政のもとに教師は責任を負わなければならないということを、あなたは言っているのですよ。文部省の役人は、文部大臣の命に従ってやる。その命令が誤りである場合には文部大臣の責任であって、その命を受けてやった役人はその責任はないのだ、こういう考え方。池田さんの誤りがあれば、あなたはその誤りであろうが何であろうが受けてやって、その責任はあなた自身のものではない。こういう一つの階層的な行政機構の中で、教師も同じく責任を負うべきだという考え方に立っている。これは間違いないでしょう。だから、あなたは教育の内容、指導要領、あるいは文部省がネコの目の変わるがごとく、憲法第九条というような重要な問題についても、見解が変わっても、それは変わったなりに教師が教えておればよろしい、こういうふうにおっしゃる。どこにそういうことが書いてありますか。教育基本法第十条にはそんなことは書いてない。「国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」、これが今度の教育の最も重大なところなんです。あなたの説に従ったならば、一体国民全体に対して直接に責任を負うということはどういうことなんですか。あなただけが責任を負うということをこの中に書いてあるか。「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。」と後段に書いてある。教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負うということ、これは私は新憲法のもとにおける、その新憲法の精神を受けて作られた教育基本法の最もも大なところだと思う。教師は国民の教育要求にのっとった教育を行なわなければならないということなんです。そのことを基本法に明記しているでありませんか。このことをあなたはどう考えていらっしゃるのですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) そのとおりの趣旨のことを部分的に申し上げているわけであります。先刻来申し上げておりますように、たとえば学校教育法二十条、二十一条、これがまさしく国民に直接責任を負うという範疇に属する課題であり、また教育公務員特例法、地方教育行政の関係の法律、そのことに定めております範囲内においては、教育委員会、教育長が直接住民に責任を負う。教諭は教育をつかさどるとある。その範囲においては教師もまた国民に直接責任を負うということであるのでして「不当な支配に服することなく」というのは、憲法、教育基本法以下の法律上、その責任と権限のないものによって支配されてはならない、こういうことと私は解釈します。
○小林武君 そういういいかげんのことを言ってもらっては困るわけです。あなたも法律読んでいらっしゃる。教育基本法第十条は、教師に対して、うそであろうが何であろうが、上から来たものは素通しで教えろということは書いてない。だから、直接国民に責任を負うということを書いておるわけです。もしもその教育にあたって真実を曲げなければならないような不当な支配に対しては服してはならないと書いてあるのです。しかも、あなたが幾らいろいろなことで強弁しましても、あなたも御存じのように、教師の専門的な仕事、このことは免許法によって明らかでしょう。教育職員免許法の三条、五条、二十一条、二十二条、こういうところによって教師の専門的な仕事ということが明らかにされているではありませんか。その明らかにされている専門的な仕事ということは、あなたのおっしゃるように、教科の内容について間違いがあれば文部省の責任だ、文部大臣の責任だと、すまして一体うそを教えるというようなことはできないことを示しているんですよ。どうお考えになりますか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 先ほどお答えをしたことを出でませんが、先刻例示されました、教科書に誇りがあったとして、その誤っている教科書について誤った教え方をした場合、責任はどこにあるか、こういうお尋ねに対してお答えしたのでございますが、教科書は使わねばならない、検定した教科書以外は使っちゃならないというのが本則である限り、教師はその教科書を教えるという責任が当然にある。責任が当然にあるとするならば、その教科書の誤りのゆえに談った教え方をした場合の責任というのは、教師にあるにあらずして教科書にある。教科書にあるということは、学校教育法第二十一条の明示するがごとく、文部大臣の検定に欠陥があるからだというところにさかのぼって、文部大臣が国民に直接責任を負わねばならぬ、そういう論理体系を申し上げているのであります。もしミスプリントがあって、これはおかしいと思っても、なおかつそれをあえて教えねばならないということとは違います。しかし、不幸にしてそういうことに感づき得なかった場合に、そのままミスプリントの間違いを教えたことによる、国民に対し、あるいは児童生徒に対し不利益を与える責任は那辺にあるかというと、教師にあらずして、さかのぼって教科書にあり、教科書と検定したその検定に欠陥があるがゆえに、文部大臣が国民に対して責任を負うのだ、それが民主政治だと思います。また、教育基本法十条でいうところの、直接国民に対し責任を持って教育行政を行なわねばならぬ趣旨だろうと思います。
○小林武君 間違いだらけのことを言っておるとさえ言いたいくらいですが、あなたが教科書の検定その他について責任を負うというのは、これは当然なんです。どんなつまらぬ教科書を作っても、しかしその教科書は教師によって教えられなければならないというような責任はないと思うのです。教科書に、ミスプリントと言ったが、ミスプリントばかりではない、明らかに真実にたがうようなそういう問題にぶつかった場合には、どんな権力がこれに対して干渉をいたしましても、教育基本法十条はその不当な支配に服することなく真実を教育することを国民に責任を負わなければならないのですよ。だから、先ほどから言っておるように、教員には免許法があって、その免許法の中において教師の専門性ということがはっきり示されておる。たいへん何か文部大臣は責任感が強いというようなことを考えていらっしゃるようでもあるけれども、とんでもない間違いだと思う。そもそもあなたの考えは、先ほどから言っておるように、教育基本法や憲法に立却した教育観でない、教師観でないと私は思う。あなたのようなお考えの中からは、子供に対して教師が責任を負うておる、あるいはその父母に対して責任を負うておる、日本の国に対して教育に対する責任を教師が負うということは出てこない。文部省はそれで済むのですよ、文部省の役人というのは。文部省の役人ばかりでなく、役人というのは割合便利なところがある。大臣がかわり政党がかわれば、さまざまな命令でさまざまな考えに立って仕事がやられる、またいろいろやらなければたいへんなことになるのだから、その点はわれわれも役人というものはやむを得ないと思う。しかし、教育はそうはいかぬのです。教育はそうはいかぬから、基本法十条に直接国民に対して責任を負うということを明示いたして、教師に対する、教育に対する責任を明らかにしている。こういう責任をあなたは認めないのですか。教師の責任というものをあなたは認めないわけですか、どうなんですか。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 教師の責任を認めないと申し上げたわけじゃ毛頭ございません。教諭は教育をつかさどるという範囲内において責任を持つべきことは、これは当然のことであります。ただ、そのつかさどる内容の中で、事教科書に関する限り、また学習指導要領に関する限りは、教師それ自体の責任じゃないと、誤りがあった場合にどうだというお尋ねに対してお答えしたとおりであります。それはあくまでも教科書をこれだと定めた文部大臣に責任がある、学習指導要領の内容はこうですよ、これに従って教えなさいと言った文部大臣に責任があるということを申し上げているわけであります。その法律上のいわば文部大臣に課せられました責任、与えられた権限、その部分だけは文部大臣が責任を負い、その他の部分については、ある部分では教育委員会が責任を負う、他の部分では学校長が負う、その他の部分ではつかさどる教師に責任がある、そういうことを法律上きちんと定められて教育が行なわれている、それが民主教育の姿である、こう理解しているというのであります。
○小林武君 あなたの考え方は、少なくとも教育基本法の第十条とは全く別な考え方です。私は今その十条の解釈をやる前に具体的な例を一つあげてみますというと、どうですか、戦争の終わったあとですね、戦争の終わったあと教師に対して教育に対する責任の追及が行なわれたことがある。あなたも御存じだと思いますが、その責任の追及のときに、これはアメリカの占領軍というものもあったでしょう、それから国民自体の責任の追及もあったでしょう、特にいわゆる教育を受けた若い人たち、特に戦争の中で非常な苦しみをなめた人たちの教師に対する不信感というものが出てきたんです。そういう形の責任追及があったときに、一体あの当時の一つの教育行政というものは上の命令に従わなければならない、しかも教師の教育上のものの考え方についてもきびしくこれを統制したいわゆる教学官と称する、ある意味では教育界の思想検事といわれたこれらの連中が、お前の考え方ははなはだ穏当を欠くとか、非常に危険な思想を持っているとかいうようなことで、教師を集めて徹底的な臣民の道、皇国の道をわれわれにたたき込んだというような事実がある。そういう形でつぎ込まれてきても、一体教師の責任というものはのがれることができないんですよ。習った子供たちは、一体先生たちはおれにどういう教育をしてくれたんだ、先生たちの言ったことは全部誤りじゃなかったかという、こういう反撃を受けた。当然だと思うんだ、それは。アメリカは、占領軍がそれらの教師のとにかく目ぼしい者に対して教育界から追放するというようなことが起こった。そのときに一体どうであるか。それらの教師にこうあるべきだといってこれを押しつけたところの役人に対する追放というのはそうなかったんです。役人は適当に自分のポストをかえて、適当に回っていっちゃう。確かに戦犯として捕えられた者もあるだろうけれども、そういうもとにおいての責任の追及というのはなかった。教師はどうしたって子供と対決し、国民と向かい合っている限りにおいては、教育に対する責任というものは、これは古い時代のああいう形の中で教育をやらされておる教師といえども避けることができない。そういうことに対する反省というものが、少なくとも教師自身の中に非常に強く焼きつけられているというところから、新しい教育に対する考え方、その中での教師の責任というものが今の教師の胸の中にでき上がっているのですよ。あなたは今ごろ文部大臣の責任はどうであるとか、教師は一体どんなことを考えても責任はございませんと、こういうようなことを言うということは、これは明らかにあなた教育基本法や憲法というものに対する間違った見解を持って、そうして教師を、ある程度これは曲解すれば、そういうようなあなたの見解のもとに教育統制を思いのままにやりたいというようなところにねらいがあるように思われて仕方がないわけです。少なくともほんとうに憲法や教育基本法を理解してあなたがいらっしゃるならば、少なくとも教師の責任というもの、基本法十条に示された教師の責任というもの、教育の責任というものは、これはもっと正しい理解をしていなければならぬ。 教育をつかさどるなんていったところで、つかさどるとは一体何か。そのことについてのあなたの御説明は何もないでしょう。教師の専門制については、免許法の中にこの条とこの条と条をあげても、あなたはそれに対するあれは述べておらぬではありませんか。一体どういうのです。私はそういう無責任な答弁を聞きたくないんですよ、文部大臣から。せめてあなたから聞くときには、憲法や教育基本法の立場に立ってやってもらいたい。あなたのような考え方の間違いがあるから、政府の考え方も信用してはいけないというような意味のことを書いてある、戦争の問題については再びこういう惨禍を受けないようにしなければいかぬと、こういうことまで書かれているんですよ。どうなんですか。まああなたの答弁はいつも同じですから、ひとつ今晩お休みになって、十分お考えになって、一体、憲法、教育基本法の中から私どもの納得のいくような御説明をしていただきたい。今、どこの国——どこの国でもない、どこの県の教師といえども、だれ一人として、それから教育に関係する単音といわずだれといわず、憲法、教育基本法十条の考え方というものはあなたのような考え方とおよそ違う。教育基本法十条によって教師は教育に当たらなければならないということを書かれているわけですから、もっと新しい説を、古い説だかわからないけれども、珍説というのかどうか知らぬけれども、そういうことをお立てになるなら、もう少しやっぱり具体的に説明をして、私の納得のいくような説明をしてもらいたい。
○国務大臣(荒木萬壽夫君) 免許法があって教師が専門職である、それは私は理解しておるつもりでございます。それは教育活動それ自体は免許を持った者以外はやっちゃ、いけない。教諭は教育をつかさどるということはそういうことだと思います。しかし、それには条件が幾らかある。それはつかさどると書いてあるからといって、全部何でも教師が、ある具体人が思いのままにやることは許されないぞ。その条件とは、小中校に関する限りは、教科に関することは文部大臣に留保しておくぞ、それが文部大臣の立場から国民に責任を負えということである、具体的には学習指導要領ということで責任を負うということである、その線に沿って専門職たる教諭が教育をつかさどるということであると私は解します。教科書につきましても、検定を受けた教科書以外使ってはならないというのが本則、だから検定を受けない教科書を勝手に使っちゃならない。ただ、ただし書きに関する部分はまた別だということで、教科書と学習指導要領に関します限りは、専門職である教師が、教諭が教育をつかさどる立場で教えるにしても、その線は守って教えなさいよという建前になっておる。そのことが民主教育それ自体であり、それがまた教育基本法第十条の趣旨にもかなうゆえんである、こういうふうに私は解します。
○小林武君 先ほども言ったとおり、これからの答弁はひとつ、この次よく考えてきてやってもらいたいと思う。教職員の免許法によって示された専門制の問題、そのことの中にはうそであろうと何であろうと教えろなんということは何にも書いてないのだ。教科に対する責任があるからこそ、免許法というものが出るわけです。あなたのように教科書や指導要領に問題点があれば、これは文部大臣の責任で、お前たち教員はうそであろうが何であろうが上から示されたものは何でも教えろ、そんなばかなことはこの法体系の中にないですよ。あるならば、もっと筋の通った話でやってもらいたいと思う。私は、実に教育を知らないにもほどがあると思うんです。これは大問題と思うのですよ、あなたの言っている今の発言というものは。しかし、時間もおそいようでありますから、これからのあれは明後日に保留いたしまして、きょうは打ち切ります。
○成瀬幡治君 資料要求だけ……。 次の私の質問に対するちょっと資料要求だけしておきたいと思います。 第一は、文部省にどういう関係があろうとも、お見えになった方で、現在教科書出版会社に勤めておみえになっていると申しますか、関係をしておみえになる、たとえば顧問というようなことまで含めて、広い意味で関係を持っておられるお方が、まあ名前をあげる必要はないと思いますから、ここのAの出版会社には二人おる、Bは一人だ、あるいはCにはないというようなふうの表でけっこうでございますから、一覧表を出していただきたいと思います。 それから、二つ目の資料は、政令が非常にたくさんあるわけです。そこで政令案があれば、政令案を出していただきたい。もし政令案が出ていなければ、政令要綱でけっこうですから、そういうものを出していただきたいと思います。
○政府委員(福田繁君) 第二の資料はすでに差し上げてあると思います。——差し上げておったと思いましたが、まだ出ていなければさっそく提出をいたします。私の思い違いで、出ていないようでございますから、すぐ出します。
○成瀬幡治君 第一のほうはどうですか。
○政府委員(福田繁君) 一も、私の知っている範囲は調査をいたしまして、差し上げたいと思います。
○委員長(北畠教真君) 速記をとめて。 〔速記中止〕
○委員長(北畠教真君) 速記を起こして。 本案に対する本日の質疑はこの程度にとどめ、これにて散会いたします。 午後九時四十四分散会 —————・—————