法務委員会 第3号
- 発言数
- 68 件
- 登壇者
- 12 名
- 会派数
- 3
- 開催日
- 1959/11/12
会議録
○委員長(大川光三君) ただいまからつ法務委員会を開会いたします。 理事補欠選挙についてお諮りいたします。先般の古池理事の委員辞任並びに一昨十日の委員異動に伴いまして、ただいま当委員会の理事が二名欠員となっておりまするので、この際その補欠五選を行ないたいと存じます。前例によりまして、互選の方法を省略いたしまして、委員長の指名によることに一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○委員長(大川光三君) 御異議ないと認めます。それでは私から井川伊平君、高田なほ子君をそれぞれ理事に指名選任いたします。 —————————————
○委員長(大川光三君) 本日は検察及び裁判の運営等に関する調査といたしまして、先般の委員会に続きまして少年犯罪対策に関して参考人の方々から御意見を伺うことにいたしたいと存じます。 最初に参考人の各位にごあいさつを申し上げます。御承知の通り、最近におきまする少年犯罪の実態は、件数におきまして年々激増の傾向がありまして、二十五年ごろに比べますると三倍にもなっているという驚くべき数を示しておるばかりではなく、犯罪の態様におきましても、年少者において特に粗暴犯、性事犯、凶悪犯等のより悪質の事犯が増加するというまことに憂慮すべき実情にあります。 このような事態に対処いたしまして、法務省におきましても、現在少年法や関係法規の全面的再検討のみならず、さしあたって運用上の改善方策について重点的に検討を進めておられるということでございますが、当委員会におきましても、少年犯罪防圧のため早急に総合的検討を行ない、相互的な対策を樹立することの緊要なことを認め、その基本的重要語問題について、すでに数次にわって調査を行しなって参った次第でございます。先般の委員会におきましても、七名の参考人の方方からこの問題について御意見を伺ったのでございますが、本日はさらに少年法の改正非、非行少年の矯正補導に関する諸問題のみならず、少年犯罪対策の一般問題につきまして、参考人各位のそれぞれのお立場から十分な御意見を伺いまして、少年犯罪対策法制確立のため、当委員会の審査の資とすることにいたしたいと存じます。参考人各位におかれましては、日ごろ御繁忙中のところ、当委員会の意を了とせられまして御出席いただきまして、まことにありがとうございました。厚く御礼を申上げます。 それではこれより御意見を伺いたいと存じますが、お手元にお配りしてございまする調査項目は、一応の御参考のためでございまするので、これにこだわらず、御自由に少年犯罪対策についての意見をお述べいただきさたいと存じます。それから時間の関係でございますが、御陳述は、御一人二十分程度にてお願いいたしたいと存じます。また、委員の方々に申し上げますつが、質疑は参考人の方々のお話を全部終わりましてからお願いすることにいたしたいと存じます。この点御了承を願います。 それで最初に弁護士の大竹武七郎氏からお願いをいたします。
○参考人(大竹武七郎君) 最近、少年犯罪が激増し、かつ悪化しているといわれております。なるほど統計面を見ますと増加しておりますが、その内訳を見ますと、特別法違反が特に著しく増加いたしておりまして、約八割を占めております。しこうして特別法違反の中にも暴力行為法違反、銃砲刀剣類等所持取締法違反のように、その特質が刑法犯に類すると認められるものもありますけれども、その絶対多数を占めておるものは、道路交通取締法違反であります。刑法犯についていえば、殺人、放火はあまり増加しておりません。増加しているのは、傷害、恐喝、脅迫等のいわゆる粗暴犯と強姦等の性的犯罪並びに業務上過失致傷または致死の罪であります。窃盗は、その絶対数は多いには多いのですけれども、最近特に激増しているというほどではないと私は思います。要するに粗暴犯、性的犯罪、交通関係の犯罪が増加しております。しこうして十八才本満の年少少年も十八才以上の年長少年とあまり違わないようなことをする傾向があるように思います。 何ゆえ、かような犯罪が増加し、またその原因いかん、従ってこれに対する対策いかんということにつきましては、すでに多つ論ぜられており、私が特にここにつけ加える必要もないくらいでありますけれども、今申し上げました通り、特に粗暴犯、性的犯罪、交通関係の犯罪が増加しているという点に限りまして、その原因を考えてみますと、私どもが朝から晩まで、騒音、雑音に悩まされて、神経がいらいらしている、また万事がスピード・アップされまして、ゆっくり考えているひまもない。思ったことは直ちに実行に移してしまう。すなわち、即行牲を持っているというように習慣づけられ、また、戦後、性的表現も従前よりは一般に開放的になり、ゆるやかに見られるようになっております。また、住宅の不足ということが相当その原因をなしているように私は思います。その他一般に少年犯罪の原因として世間で論ぜられている事柄は、いろいろあるのでありまして、私が今ここに特に申し上つげるまでもないと思います。、従ってこれに対する対策として考えられるものの中には、社会政策、教育、道徳、宗教の範囲に属するものが多いと思いますが、これは私の専門外でありますから、この点を省きまして、直接私が取り扱っております法律の問題に入りたいと存じます。 少年法の問題として論ぜられておる一つの点は、いわゆる先議権の問題であります。旧少年法時代には、まず検事が取り調べ、保護処分相当と認めたものを少年審判所に送っておりました。現在の少年法は逆になり、警察からきた少年事件は、検事が家庭裁判所に送り、同裁判所が調査し、起訴相当と認めたものを検察官に逆送することになっておりります。この点に関して家庭裁判所は、少年については保護優先が当然であるから現行法の建前が正しいのであると主張し、検察官側は、少年に対する保護の必要は否定しないが、犯罪の種類、程度いかんによっては、治安維持のために起訴処罰しなければならぬものもある。しかるに現在は、家庭裁判所の調査審判は、全く非公開の席で行なわれている。事柄が犯罪並びに治安に関するにかかわらず、検察官は立会権も異議申立権もない。しかし、具体的個々の事件の処理につき、必ずしも納得したいものもある。かるがゆえに、旧少年法のように、検察官に先議権を与えるか、少くとも立会権、異議中立権を与えるべきだというふうに主張しているのであります。しこうして、この主張は、検察官会同その他の場合に、絶えす繰り返されて主張されているところでありまして、単なる思いつきの議論とか、あるいは失地回復的な意味を含めた主張と見るべきものではない、そういう単純なものではないと私は考えております 私は、少年法全般につき、当分の間法律の改正を行わず、運用並びに施設の改善でいくべきだという考え方を持っておりますから、この点につきましても、また同様に結論であります。ただし、具体的個々の事件の処理が妥当であったかいなかは、その内容を見なければ何とも言えませんが、一般的に言って、この点に関しては検察官側に不満があるということは家庭裁判所側におかれても心にとどめておくべき事柄ではないかと私は考えます。家庭裁判所も、検察庁も、その職務上の立場から保護とか処分とかいっておりますけれども互いに排他的に考えているわけではありません。また同じく国家機関でありますから、しかして関連した仕事をしているのですから、具体的個々の事件の処理についても、また一般的な問題としても、もう少し隔意なく意見を交換し、究極の目的を達するようにお考ええ願えないものでしょうかという感じを持つのであります。私はただいまの意見といたしましては、右のように考えておりますが、今後もなお、検察官と家庭裁判所との間に意見の相違が絶えないようでありますならば、私もまた法の改正等を考慮しなければならないという意見に、後にあるいは変わるかもしれませんが、現在は、今申し上げた程度の考えを持っております。 なおこの点に関し、弁護士の一部の者の中に、事、犯罪に関することであり、少年であるから、思うことが十分言えない場合もあるかもしれない、また、少年院送致等の処分を受けた場合に、抗告権があることになっておりますけれども。、少年はそれを実行することが実際にできない、これらの理由から考えて、つき添い人は弁護士に限ることとし、または国選弁護制度と同じようなつき添い人制度を設けよという主張をする者が、最近現われてさきております。しかし、これは、主張の仕方いかんによっては、弁護士が職域拡幅のため、そんな主帳をしているかのごとくに誤解されるおそれもあります。また、国選弁護のような法律上の強制の制度となりますと、弁護士としても負担が重過ぎると思います。現在でも、弁護士がつき添い人となることは、法律上禁止はされておりませんから、これを適当に運用すればよいのではないかという議論もあり、弁護士会の大多数の意見を制するに至ったとか、あるいは弁護士会としての意見というところまではいっておりませんけれども、ただいま申し上げたような議論が起こっているということを御参考のため申し上げておきます。 これらの議論、家庭裁判所の審判というものを、純然たる行政上の保護処分と見るか、訴訟構造の一つの形と見るかということにも関連しているのであります。私は、旧少年審判所を改組して、現在の家庭裁判所にした理由の中には、裁判官を中心とし、訴訟形態に近づけ、少年の人権を保護するという考え方が含まれていたものと思います。なお、家庭裁判所の裁判官や調査官は、少年を保護し、これを改過遷善させようという善意でやっておられることはもちろんでありますけれども、少年自身は、少年院送りその他の保護処分が、身体はまたは自由の拘束を含むために、これを希望しておりません。また、その父兄も、必ずしもこれを希望していない場合があると、私は実際の経験上考えております。しかして、それを一がいに、無知無理解のいたすとことであるとしてしりぞけ得ないところに、問題のむずかしさが存在していると考えております。 次の問題は、家庭裁判所の調査官と裁判官との関係であります。昭和三十三年九月一日現在の我判所職員録を見ますと、たとえば、東京家庭裁判所においては、判事十五名、判事補六名、調査官九十一名、調査官輔四十七名、技官五名がおります。これらの人々が、少年部と家事審判部の両方に分かれて仕事をしているのでありますが、少年部において、裁判官一名につき調査官または官補七、八名または八、九名が配置されておると聞いております。しかして、全国的に見て、家庭裁判所の裁判官は、若い人が相当多数を占めております。はなはだしい例といたしましては、判事補になったばかりで、子供を育てた経験のないことはもちろん、まだ結婚さえしていない人も、まれにはあるようであります。これらの少壮裁判官は、大学を出て二十何人に一人しか合格できないという国家試験をパスし、その上二年の研修を終った人々でありますから、素質は優秀であります。また、法律もよく知っておられます。しかしながら、ただそれだけで少年を扱うのが適当かどうかということは考える余地があると私は思うのであります。裁判官御自身もあえてごの地位をみずから希望しておつきになったかどうかという点に私は疑問を持っております。少年事件は概して法律解釈がむずかしいという、よりも、相手が相手ですから、取り扱い、または処理がむずかしいのであるから、相当社会生活の経験も、事件取り扱いの経験もある人が望ましいのではないでしょうか。 次に、調査官は社会学、心理学、教育学というような学科を専攻された方が多いと聞いております。法律を専攻した人が、とかく法律的にものを考えがちであると同じく、これらの専門学をおさめられた方々は、やはりその専門の立場から少年または少年事件というものを見る傾向があるのではないかと思います。しかも、これらの調査官は非常に多数の志願者の中から選抜されて、その地位を得た人々でありますから、素質はきわめて優秀な人が多い。また、昭和二十四年に少年法が施行されて以来、勤めておられる方もある。全体の人数も非常に多い。あるいは語弊があるかもしれませんけれども、調査官というものが担当の勢力を持ち、一種の雰囲気を作っているというようにも外部からは見えるのであります。ところが、裁判官は若く、短期間で転任されます。また一日の一人の取り扱い件数が多いために、人の少年に十数分しか面接できない場合もあるようであります。いきおい調査官の報告にたよることとなり、その他まあいろいろな事情もありましょうけれども、審判がはたして法の趣旨に従って裁判官を中心として理想的に行なわれているかどうかということに疑いが持たれるのであります。私は調査官の人選の方法とか、人数とかいうものをかれこれ申し上げる趣旨ではないのでありますが、裁判官の数が少な過ぎる。また、その人選について考え直す必要があるということを申し上げたいのであります。それらの方法によりまして、少年法の理想としているところを、さらに一そうよく実現するようにしたいというのが私の申し上げたい要点であります。 次に少年法の年令の点も、結論を先に申し上げますれば、私は当分の間現状維持が適当であると思います。その理由は年令をいかに規定するかということは、わが国の実情に即して考えなければなりません。少年の身心の発達状況、学校卒業年令、民法、選挙法等の年令の関係、犯罪の状況等、諸般の事情を総合して判断しなければならないと思います。現在わが国では十八才で高等学校を卒業し、実社会に入る者が多いのであります。途中つまづかなければ、二十二、三才で、大学を出ることになります。少年法は十八才未満を少年として、いたのを昭和二十六年に改正して二十才に引き上げたのであります。その後まだ数年しかたつていないのであります。これらの事情を考え合せてみますと、二十才という線は常識的にも納得いく線であり、実情にも合うのではないかと思います。急にまた改める必要もないのではないか。改めれば、非常に犯罪を防止するために役立つとまでは私は考えられないのじゃないかという感じがいたしております。最近、少年犯罪激増、悪質化の声が高いため、または十八才以上の年長少年がたまたま悪質な犯罪を犯した例があったためか、とにかく世間の一部には年令を引き下げ、年長少年には刑罰をもって臨むべきであるという声があります。それとは反対に年令を引き上げ、ますます保護施設を拡充強化して保護を徹底すべきだという主張もあります。また十八才から二十二、三才くらいまでの年長少年または青年、この青年は青い年と書いた青年、青年を取り扱う特別の裁判所を設けるがよいということを一案として考えておられる方もあるように開いております。しかし、私はいわゆる少年犯罪の増加または悪質化は冒頭に述べました通りであり、またかりに少年犯罪が増加し、かつ悪質化したといたしましても、それが直ちに少年法の年令の規定が悪いからだとか、または運用が悪いからだというのは、即断に過ぎると思います。主たる原因は他にあるのではないかと考えております。かりに百歩譲りましてせいぜい言えることは、運用が適切でない場合もあったことが、犯罪防止に十分効果発揮し得なかったことが幾らかあったかもしれないという程度と思います。現在の二十才を引き下げ、または引き上げたところで、それが直ちに犯罪防止に影響するかどうかということについては、私は自信が持てないのであります。試みに外国の立法例を見ますと、十八才を限界としているものが最も多いように私は考えます。二十才、二十一才としているものもありますけれども、数において少ないと思います。たとえば米国の三十一州は十八才、西ドイツは十八才を少年とし、それ以上二十一才までを年長少年とし、東ドイツでは十八才、フランス、オーストリア十八才、英国は十七才とする等いろいろあります。また普通裁判所のほかに少年裁判所を設け、または普通裁判所の中の少年部で取り扱う等、特別の配慮をしておりますし、裁判官の人選についても、相当の経験者をもってこれにあて、または裁判官のほかに参審員二名を加えて審判する等、慎重を期していることがうかがわれるのであります。各国はおのおのその国の過去およびに現在の社会的事情、その国の法体系に合うように立法しているのであつて、にわかに優劣は言い得ないと思いますけれども、わが国の少年法や家庭裁判所の制度が、一般的に見て法律または制度として他国に比較いたしましておくれているとか、見劣りがするとかということはないような気がいたしております。外国の法律や制度そのものについては、学者の紹介したものもあり、法務省、最高裁判所等において詳しい調査研究をしておられます。私もその資料等を拝見さしていただいておりますが、それらの資料に基づきましてよその役所でお調べになつた資料を、私がここで披露するというのもいさきか気がひける感じもいたします。私といたしましては、それらの国の法律や制度がいかまなる必要に基づいて設けられたか。ことにその結果、どういう成績を上げているかという点についてのつ十分な資料を持ち合わせておりませんので、今のところ、新しい立法、新しい制度を設けるについての考えをまとめかねておる次第であります。従って、その点はさしあたりこの程度にいたしておきまして、私はそれよりもむしろ現行法制のもとにおいての実情から見て、家庭裁判所の裁判官の行員、人選並びに運用の面の改善をはかること、少年院、保護観察所、保護司等の執行機関及び少年鑑別所の人員の整備強化、物的施設の改善、拡充の方がさらに一そうの急務であると思ております。およそ法律とか制度とかというものは、いかに精巧に作りましても、立場の違う者、考えの違う者から見れば、批判の余地は必ずあります。その法律や制度がよく効果を発揮し、その目的を達成し得るかいなかということは、結局その運用の衝に当たる人いかんにあると思います。ことに少年問題については、特にそうであるというように考えております。少年は敏感であります。取り調べの結果いかんは、自分が身体の自由を拘束されるかどうか、また自分の一生に関することでありますから、取り調べを受ける場合は、真剣そのものであります。従って、取り調べをする人の人格、その一言一行は、非常に敏感に少年に影響いたします。その意味において家庭裁判所の裁判官及び調査官並びに少年係警察官にその人を得るかいなかが、最も重要な事柄であると信じます。少年問題が社会的に見て重要な問題であり、その職務がきわめて貴重なものであることは何人も理解し、異論のないところであります。しかしながら、みずから進んでその地位について、この難問題と取り組もうというような篤志家は、なかなか見当たらないのであります。ここに困難があるとは思いますけれども、結局私は現在の状態から見て、法律を改正することを考えるよりも、適任者を得ることに努め、物的施設も改善し、人的物的に施設の拡充強化をはかることこそが、目下の急務でありと信じております。 なお、これに関連して申し上げますが、少年鑑別所は、新しいアイデアに基きまして、設けられたものであつて、医学、心理学等の専門の立場から少年をよく鑑別して、犯罪の原因、処遇方法をきめようとするものでありまして、与え方としては私も賛成でありますが、現状は大いに改善を要するものがあり、人的にも設備的にも拡充強化をする必要があるように思います。その他少年院、保護観察所等また、みなしかりであります。特に申し上げておきたいのは、保護司のことであります。これは全く民間の篤志家にまかせつぱなしでありまして、通信交通の実費にさえ不足する額しか与えられていない実情であります。もちろん、これらの人々は報酬を目的としているのではなく、みずから進んで社会のため、少年のため奉仕しておられる方々でありますけれども、それだからといって、国家が現在のようなことしかしないというのはよくないのではないか、あまりにもまかせつぱなしに過ぎると私は思うのであります。少年を改過遷善せしめることに、はたしていいかどうか、実績が上がるかどうかというような疑問を持つのであります。これらの執行機関の活動いかんということが、少年保養の成績が上がるかどうかということに重大な関係を持っております。にもかかわらず現在の状況はまことに遺憾な点があり、どの機関も、人も、予算も直接多くの少年をかかえ込んでどうにもならないという状態にあるように考えております、国会におかれまして、これらの点に関し従来御配慮を賜わつておるとは存じますけれども、さらに一段の御高配を賜わりたく、切にお願い申し上げる次第であります。
○委員長(大川光三君) ありがとうございました。 続いて、警視庁少年課長片淵琢朗氏にお願いをいたします。
○参考人(片淵琢朗君) 第一線におりまして肯少年の犯罪事件の処理、あるいは補導活動、そういうものを現場でやっております私どもといたしまして、実務の面から私ども日常考えてえておることを出し上げたいと思います。 第一番目は、非行少年の早期発見対策の問題でございます。 青少年の問題、非行青少年を善導する、再教育をするという場合に、一番大事なことは、なるべく早くこれを発見いたしまして、適当な指導教養を加えるということ、これが大事であること、今さら私が申し上げるまでもたいわけでございまして、警察といたしましては第一線におまして、主として街頭補導その他の方法によりまして、非行青少年の早期発見に当たっております。例年概数二万人に近い不良行為のあった青少年を発見し、その一〇%、約二千人に近い問題の進んだ、問題性の深い子供の処理をいたしておるわけでございますが、私がここで申し上げたいことは、警察が独自でやっておりますところの街頭補導その他による非行青少年の期発見ではありませんで、もう一つのことについて、実は申し上げたいと考えるわけでございます。 最近、青少年の犯罪が非常にふえておる、しかもその非行青少年の年令がだんだん下ががっておるということ、これはもう再三言われておりますことで、私が今ここで申し上げる必要がないわけでございますが、十三才、十四才、十五才、その辺の子供が大人の顔負けするような犯罪をやりますので、私どもといたしましては、その辺のところに、私どもの少年補導の重点を置くべきではないかというようなことを実は考えまして最近一つの調査をやってみたわけでございます。これはどういうことかといいますと、百人の問題少年の経歴を調べまして、たとえば無断外泊でありますとか、けんかでありますとか、そういった普通不良行為、さいわれておりますそういうよな非行がいつの時代に現われたかということを、百人の少年につきましてさかのぼって実は調べたわけでございます。非行の初発と頻度の傾向等に関すそ調査ということで実はやったわけでございますが、こまかくなりますので、結論だけをさきに言わしていただきたいと思うわけでございますが、非行化いたしました青少年に、初めて具体的な非行が外見上わかるような形で現われる年令、それは私どもの調査によりますと十二才、十三才、十四才の時期に現われるようでございます。単なる内容、性格の問題ではございませんで、具体的な非行の現われる年令がそうだということを私申し上げておるわけでございます。その年令を考えてみますと、これは小学校の高学年、あるいは中学校の一、二年、そういう時代に非行化する、少年の非行が、非行化の徴候として現われるということを意味するわけでございますので、私どもは私どもの補導の重点をその時代に置くべきであるというふうに実は考えまして、昨年あたりから今年にかけまして、そういう方針で補導活動をやつておるわけでごしざいます。この場合に私どもが一番残念に思いますことは、学校との関係がなかなかうまくいかないといううでとでごでざいます。で、私どもは街頭で非行少年を早期に発見するための努力をいたしておりますけれども、学校の先生は、学校の校内においてその問題少年をもっと早く発見しておられる場合が非常に多いわけであります。私ども校外で発見しました子供の問題につきまして学校に参りますと、学校では、実はこういうことがこの子供にありまして弱っておるのだということはおっしゃるわけで、私どもより早くこの問題少年が発見されておる。ただそれが発見しただけにとどまっておりまして、何らの措置がとられておらないという場合が非常に多いわけであります。最近の経験では、学校と十分な打ち合わせをいたしまして、そういう子供に対する指導の、教育の手続を関係機関と協力の上とるといったようなことで成功していることがあるわけでございますが、一般的にこういう問題についての学校側の態度を見ますと、非常に消極的でございます。まあ話をいたしておりますと、学校教育法の求めるところはそこまで期待しているわけではない、これは学校の教師として要求される以上の仕事であるといったような考え方もあるようでございますし、あるいはその子供をできるだけそっとしておきまして、早く卒業さしてしまいたい、それがいいのだといったような、そういう考え方もあるようでございますし、これを表面化すると、学校の名誉に関するから、そっとしておこうといったような考え方もあります。そういうようなことで、せっかく発見されております子供がそのまま放任せられておりまして、ますます非行が進んでしまう、非行の程度が深くなってしまう。で、具体的にもっと激しい犯罪なんかを犯しまして、これに対して補導の手を加えよう、再教育の手を加えようとするときには、もう病状が進み過ぎておりまして、なかなかうまくいかないというようなことがあるわけでございます。で、私はたくさんの非行青少年を扱いました経験からいきまして、十二才、十三才、十四才の時期に、学校の先生がもっと本気になってその子供を社会人としてりっぱに育て上げるという努力をされますならば、私は、高校に行ってからの問題、あるいは社会に出まして就職後に起こる問題は半減するに違いない、そういうことで一つやろうではありませんかということで、学校といろいろ話をするわけでありますが、先ほど申し上げましたようなことがございまして、なかなかうまくいかない。まあしかし、それを消極的な仕事でございますけれども、早期に発見して早期に治療するという立場からいきますと、やはり学校がその気持になって動いていただくということをやっていただくことが、最も効果のある方法ではないかということを実は確信いたしておるわけでございます。そういう方針で、昨年から本年にかけまして、小学校、中学校、義務教育の過程にある子供につきまして、そういう考え方で協力をして成功した例を五十例ばかり実は持っておるわけでございますけれども、それをやるについて非常な努力が要るということ、それからまた、ついに成功しなかったという例もそれ以上にあるわけでございまして、この辺のところを、当法務委員会の関係ばかりではない、文教委員会の関係もあることと思いますが、何らかの具体的な手を打つことを考えることが必要ではないかと考える次第でございます。 それからその次は、法律改正の問題でございます。年令の引き下げの問題、その他いろいろむずかしい問題が出ておるわけでございますが、先ほど大竹先生からも御意見がございましたように、私は、ただいま少年法なり、児童福祉法なり、りっぱな法律があるわけでございますが、その法律が求めるところ、法律がねらいといたしておるところを、まず完全に実施することの方がやはり先ではないかということをいつも考えるわけございます。私ども第一線の警察といたしまして、いろいろな方面と関係を持って仕事をやっておるわけでございます。法務省関係では保護司の方、あるいは厚生省関係では児童委員さん、そういう方と関連をもって、手をつないで仕事をやっていこうと思います場合に、まことにお気の毒なことには人数が少ない、費用が十分ではない、また必ずしも人選に当を得ていないというようなことで、法律の予想しておるような仕事は決して一般的に行なわれていないのではないか。そういうことが非常に目につくわけでございます。そういうことをまずやるということが先ではないかということを考えます。たとえば、私どもが年々一万九千の犯罪少年を扱います。これを家庭裁判所に送るわけでございます。その家庭裁判所で、その一万九千の少年を扱われる家庭裁判所の人員、これにつきましては、大竹先生からもお話がございましたように、これは人力の限界を越えた仕事をしなければ追っつかないのではないかと実は思うわけでございますが、そのような状況でございます。従って実際こまかくこれを調べてみなければわからぬことだと思いますが、私の感じとして申し上げますと、たとえば不開始になるもの、あるいは不処分になるもの、これが非常にたくさんあるわけでございます。それも担当の期間を経て初めてそういうことになる。第一線ではせっかくこの子供を送った、裁判所の方に書類は行っておる、早く何とかしてもらいたいというふうに考えておるにもかかわらず、非常にお忙しいためにその処理がおくれるということは、これがいつも起こる問題であります。それが少年法対する一つの不信となって警察にはね返ってくる。何をしておるのだということで、私ども町の人から追及されることがしばしばございます。これは結局何と申しますか、掲げておる法律の理想は非常にりっぱなんでございますけれども、それをやるだけの力が、現実には与えられていないということ、そういうことではないかと思います。今申し上げました裁判の面におきましても、あるいは検察の面におきましても、あるいは保護司の面におきましても、児童委員の面におきましても、すべてそういう点がある。そういうことをまずやれるようにしてやってみて、それから法律の改正の点は考えたらいいのじゃないかということを私は感じております。 もう一つ、これも速記録を見ておりましたら、神崎先生からも出ておりましたが、私どもの第一線における仕事をやります場合の根拠的な法規というものが、少年法の中には見当たらない。これを整備する必要があるのじゃないかというような話がございました。それについて私の意見を少し申し上げたいと思います。現行の少年法におきましては、警察官の地位というものは、少年法の四十一条によって、司法警察員として捜査をやりまして、その組果たまたま犯罪の嫌疑はなかったけれども、家庭裁判所の審判に付すべき事由、たとえば虞犯、そういうようなことがありました場合に送致の義務が与えられておる、それだけなんでございます。それ以外に、一般人と同様この通告の手段が警察には与えられておるだけでございまして、それ以上警察には何ものも求められていないわけでございます。ところが、第一線におきましては、警察は犯罪予防の立場からこの仕事をやっております。虞犯少年をたくさん扱います。事実上送られる虞犯少年のほとんど全部は、警察を通じて行った者であるわけでございます。ところが、規定の方からいきますと全然そういう規定がないわけでございまして、われわれの仕事をやります手続、これは単なる事実行為をやっておるにすぎないわけであります。そこで、われわれといたしましては、虞犯少年の送致通告、これを現在の法律のように一般人と同じ程度に規定しておるという点を改めてもらいまして、虞犯少年の発見と送致、そういう仕事を警察官の職務として、少年法上も義務づけてもらうということが必要なんではないかと思います。 それから時間の関係も、ございませんので、全部にわたって申し上げるわけにはいかぬと思いますが、おとなの場合に認められております微罪の処分に類似する警察だけの処理と申しますか、そういうものを認めてもらうようにしてもらえないかということであります。先ほどちょっと申し上げましたように、警察から送りました事件が非常に多過ぎる。それを完全にこなすためには、裁判官をうんとふやさなければいけない、あるいは調査官を倍以上ふやさなければいけないということになっておるわけですが、逆に送る事件を減らすということもあるわけでございます。私どもといたしましては、第一線で仕事をいたしておりまして、法律ではもうあらゆる事件を起こした少年を検察を通じて裁判所に送ることになっておるわけでございますが、ワン・タッチでこれを離した方がその少年のためになるという場合がしばしばあるわけでございます。で、そういうような場合にも、必ず書類を作りまして家裁に送らなければならない。全然警察で選択をする、選別をする余地が与えられておりません。で、一面今申し上げましたように、行きました事件は、裁判所で長らく停滞いたしておりまして、必ずしも十分な調査とかそういうものが行ないがたい実情であるとすれば、少年法が施行以来十年を過ぎ、少年警察が生まれてから十年の経験を得ておるわけでございますので、私どもの、何と申しますか、少年補導、少年処遇の力というものを御信頼いただいて、おとなに認められておりますような微罪処分、そのようなものを認めていただくわけにはいかないかということであります。まあそれをすることによって、事件を正しく適当に減らすことができるというだけではありませんで、実際にワン・タッチで離した方が、その子供のためにも、私どもはそのような措置があることが必要なのではないかと、そういうふうに考えます。 そのほか緊急保護の手続、あるいは凶器を持っておりますところの虞犯少年、そういうものの措置、いろいろ第一線で仕事をやっておりますと、法の不備のために非常に困惑する場合がございます。その不備の点を、これは警察官職務執行法の改正問題のときに出ておりましたが、あの問題をこの少年法の改正というワクの中で考えていただくわけにはいかないかということでございます。 それから最後にもう一つ申し上げておきたいと思いますのは、当法務委員会の参考人の数人の御陳述の中にもあったようでございますが、少年犯罪が非常に凶悪化しておる、粗暴化しておる、増加しておるというけれども、必ずしもそうではないんだと、それは警察を初め関係機関、あるいは関係の団体等が青少年犯罪に対して特殊な関心を向けるから、今まで表面化しなかった、今まで半数の漏れておったものが現われるにすぎないので、ふえておるんではないんだという議論がございます。私どもやはり自分で仕事をやつておりまして、その点を感じまして、ほんとうにふえているのであろうか、ほんとうにこれは私どもがやるから数がふえるので、実際は昔からあったことではないだろうかというようなことを考えることがございます。しかし実感としては、そういうふうに考えましても、やはりふえているというふうに結論をつけているわけですが、最近それを説明する一つの資料がございますので、それについて申し上げたいと思います。 それは警視庁の捜査第四課、御承知と思いますが、暴力団の検挙をやります課が昨年できまして、そうしてもう一年以上の時を経過いたしております。この暴力団の捜査をやります班では、少年ということを特に、われわれ少年警察のように少年ということを特に考えて仕事をしているわけではございませんで、組織的な暴力を検挙、粛正する、そういうねらいで仕事をやっているわけでございますが、その捜査四課で扱いました検挙人員の中に、少年がどの程度の割合で含んでおるか、その趨勢がどうなっているかということ、それをここに現わしてございますので、御説明してみたいと思います。ことしの、捜査四課が発足以来大体一年になりますが、その間に検挙いたしました暴力団の人員は一万二千七百二十七でございます。で、その中に成人、おとなが九千百五十二名おります。少年は三千五百七十五名おります。この比率は成人が七一%、少年が二九%となっておるわけですが、この数字をその直前の、昭和三十三年と比較してみた表があるわけでございます。昔はこういった事件に少年の含みます人員は一〇%ないし一五%でございました。ところが、この表によりますと、現在が今申し上げましたように七一%と二九%でございますが、その前年におきましてはおとなが七五%、少年が二五%でございます。少年の含む割合というものが現実に上がっております。これは数字ではっきりデータの上に現われたわけですが、私ども日常いろいろ重大な暴力団事件、あるいは集団の乱闘による事件、そういうケースを扱いますると、最近はそのような暴力団の中に青少年、十六才、十七才くらいの子供を含めまして青少年が入っている割合がだんだんふえつつあるのではないかということを実は感じておったわけですが、今申し上げました資料によってその点がはっきりした。私どもがやるからふえるのではないかさいったようなことが、あるいはこれは間違いで、やはり凶悪化し、粗暴化しつつあるのだということを、この表から実ははっきり受け取ったわけでございます。 それからもう一つ申し上げておきたいことは、例の新聞、雑誌、マスコミと犯罪の問題でございます。どこの会合に参りましても、新聞、雑誌、映画その他青少年の保護育成上好ましくないものを何とか処置できないかということを、しばしば私どもに対して要求せられることが多いわけでございますが、私どもが持っております統計によりますと、これはまあごく最近のものでございますが、ことしの一月から七月までの統計、これで私どもが映画を見てやった、あるいは出版物を見て強姦をした、テレビを見て強制わいせつをしたといったような直接的に出てきた原因と申しますか、動機が出ております場合を集めてみますと、二十五件くらいでございまして、私はこの数字はきわめてわずかな数字でございまして、直接私どもが認知し得たものがそうあるだけでございまして、私はこれ以上に実は深いところに問題がさらにあるのではないかと思います。たとえば出版物、最近は非常にわいせつなエロ雑誌が多い、そういったようなものを見ますと、青少年がそれによって犯罪は犯さないまでも、興味と関心がそちらに向きまして、その後の生活に大きな変化が起こる。それが後々の非行化と大いに関係を持つといったようなことが非常に多いのではないかと思います。映画で暴力団の生態を見まして、それに関心を持ってその方に進んでいく子供もある。直接犯罪の原因にはなりませんけれども、まだ、何と申しますか、思想的にも、人生観の上においても、固まったものを持っておらない青少年の今後の生活の態度と申しますか、そういうものに目に見えない影響を与える。その方が私はマスコミというものの責任として重大に考えてわらわなければならぬと思うわけですが、そういうような事情がございますので、私どもはこれをいかにして規制するか、いかにしてマスコミを処理するかということ、これについては具体的な方法論としてむずかしい点もあるわけでございますけれども、何とかしなければならぬのだということは、いつでも考えております。 以上、私時間十分ございませんで、はなはだまとまりのないことを申し上げたわけでございますが、私の陳述を終わりまして、もし御質問がありましたら、あとでまた申し上げたいと思います。
○委員長(大川光三君) ありがとうございました。 次に、東京家庭裁判所調査官山本晴雄氏にお願いいたします。
○参考人(山本晴雄君) 調査官の立場から、非行少年の問題を述べさしていただく機会を得まして、大へんありがたく存じておる次第でございます。 非行少年の数から申しますると、東京が同じ年令の子供千人中十二人、全国的に見ますと十五・九人になっておりまして、私はその陰に教育界の方たち及び両親の方たちのなみなみならぬ努力というものが、この数に押えているということを感じまして、非行少年の防止の意味におきましては、あわせてその角度から教育界の充実を考える次第でございます。現在わが国の教師一人当たりの児童数または一学級の定員というものは、各国と比較にならないくらいに多うございまして、たとえば中学校を例にとって見ますると、日本は五十人以下、それに対しましてイギリス、西ドイツ、フランス、ソ連、アメリカ、ことごとく四十人または三十人以下になっております。また、教師一人当たりの児童数も日本の方は非常に多うございますが、さらにその法律のワクをこえまして、実際には法定児童数以上の児童を学級の先生方がかかえておられるのでございます。それでは、個別指導も十分に行きわたらないわけでございます。 またさらに、カウンセラーの問題でございますが、カウンセラーがアメリカでは相当に学校教育において活躍しておりますがこれがわが国の学校ではほとんど設置されておりません。足立区の本木地区におきましては、今の非行少年の発生率は四十人、羽田三十人、府中四十人、八丈島三人、目黒の柿ノ木坂が二人、こういうような開きがございますが、そのような非行少年の発生率の多い地域におきましては、特にその方面の中学校教育というものの充実が要請されるわけでございます。また合わせまして、方々の研究の結果によりますと、両親の態度、特に小学校時代における両親の態度が非行少年を生むと言われておりまするが、アメリカの有名なグリュックの研究におきましても、両親がしっかりして親切である、こういう場合には非行少年が出ない。また、マッコードの調査によりましても、父親のモラル、母親の愛情と注意、こういう問題が非行少年を予防していると言われておりまするが、あわせてそういうカウンセラーの段置などによりまして、両親の教育というものにまで目をつけられると、さらに教育が充実し非行少年が予防されるのじゃないかと思うわけであります。 次に、非行少年発生の問題で大きく気がつきますことは、年令の問題であります。今お手元に差し上げてある資料に詳細にございますが、私どもの調査では、大体非行少年が実際に犯罪化しますのは、平均いたしますと、男子が十五才、女子も十五才、それからよくなります時期というのも平均いたしますと男女ともに十九才前後であります。従いまして、この時期の常状不安定というものが非行を生んでいるのじゃないかということが考えられるわけでございます。それで十八才未満の子供に対しましては、国家が三つの解釈をしております。児童福祉法におきましては児童と考え、少年法におきましては少年と考え、文部省の指導要領その他におきましては、これを青年前期と考えております。一体どちらがほんとうであるか。私は大体この層の者は、もはや青年前期以上、もう十八才以上になりますと青年中期になっております。従いまして非行少年の理念というものを、かわいそうな子供を救うという中世紀以来の社会福祉観念よりも、むしろ青年教育という理念に基づきましてやることが適当ではないか、またこの理念に基づきまする限りにおきましては、年令の引き下げの問題などは必然に起こつてこない問題であります。この時期の子供の非行につきましては、アメリカのマサチューセッツ州のケンブリッジという町とサンマービルという町で、キャボット博士が一九三九年から一九五五年にわたりまして調査をいたしておりますが、この十六年間の追跡研究におきまして、十五才未満の者が一八%、十三才から十七才が四八%、十八才から二十二才までの者が二四%、二十二才以上の者が一〇%、大体二十三才以後に少年非行というものはやむという実験的なデータを出しております。この青年期の特性と申しますのは、自我に目ざめる、その半面にときにはわがままになるということであります。いま一つは、冒険性及び攻撃性が出てきて、アバンチュールを好み、反抗的になるという性格であります。いま一つは、家庭から離れまして友人、集団との間に安定感を持つということでございます。親の言うことなどはうるさい、家庭ではおもしろくない、しかし友だちと一緒に話したり友だちと一緒にいると楽しいという心理的な特性でありまして心理学者はこれをことごとく心理的離乳期と呼んでおります。いま一つは、異性意識の覚醒ということでございます。こういう青年期の心理的特性が、こういうほかの条件あるいは小さいときの家庭の問題もあるかもしれませんが、あるいは遺伝的な性格の問題もあります。そういうものがマイナスの因子と結びつきましたり、あるいは悪い友だちとつき合うということによって非行が現われてくるということが実態ではないかと思われるわけであります。で、このケンブリッジ、サンマービルの調査をまとめまして、今年マッコードという人が犯罪原因論というものを書いておりますが、その結論におきまして、結婚によって常状が安定する、非行というものはその意味におきましては、結婚までの不安定期の現象であるという考え方になるかと思われるのでございます。従いましてそれに応ずる対策というものが、同時に考えられるわけでございます。 そこで比較されますのは、日本の家庭裁判所はアメリカの家庭裁判所をまねたと言われておりますが、アメリカの家庭戎判所の少年審判の状態と日本の家庭裁判所の少年審判の状態は、まるっきり違うのでございます。たとえば、アメリカのクック郡の家庭裁判所の少年部におきまして扱いました事件は、十才未満の幼児が三六%、生まれたばかりの赤ん坊が三%、扱われておりまして、非行少年はそのうちの五二%しか占めていない。扶養を要する少年二四%、放任された少年一七%、学校をなまける、怠学一・八%、こういう状態でございまして、十四才以上二十才未満の約九九・八%は犯罪少年でございますので、この犯罪少年を扱っておりまする日本の家庭裁判所とは性格が違っておりまして、その点からも、青年を指導するという裁判所に性格を改めるべきではないかと考えられるわけでございます。 次に、早期発見、早期治療の問題について申し上げたいと思います。ただいま片淵さんからもお話がございましたが、私も、早期発見、早期治療ということに目を注ぎたい思うのでございます。で、家庭戒判所で審判不開始ということが問題となりますが、私どもの追跡研究におつきましては、その七五%は、その後事作を起こさないで更生をしている。あと二五%というものが、審判不開始という決定のミスであったと思われることであり、この点を、今後家庭裁判所におきましてはさらに科学的にやる必要があるかと思われるのでございます。ただいまお手元に資料を差し上げておきましたように、私もこの十年間、非行少年の特性というものはどういうところにあるか、また、特に、犯罪を繰り返す累犯少年の特性というものは、どんなところにあるかということの因子を研究することに費やしたのでございますが、まあただいまの暫定的な結論におきましては、非行少年の特性といたしましては、友だちが悪い、余暇の使い方が悪い、それから、女の子の場合には不良の異性と肉体関係を持っている、性格が忍耐や節制を欠いている、こういうものが大きく見出され、累犯少年の場合にも、やはり、友人が悪い、余暇の過ごし方が悪い、それから、不良異性交遊、それから、性格がまずい、こういう点がやはり見出されておりますが、さらにこれらを組織的、全国的にやる必要がございますので、そのためには最高裁判所などに科学調査審議室というものを設けまして、裁判の適正化というものをはかることが必要と思われるわけでございます。 最近は、非行の予測に関しまして、法務省の安倍検事によって、クリュックが非常に推賞されておりまするが、私は、グリュックの研究だけでは不十分でありまして、もう少し組織的にやる必要があるということを考えています。たとえば小松川事件を中心といたしまして、グリュックのグリュックの非行の予測因子に従っていえば、小松川事件は起こらなかったであろう、こう断言されているのでございますが、あの小松川事件の少年には、一人の兄、一人の弟がございますが、この兄と弟はまだ非行化されていないのでございます。たとえば、先ほどのケンブリッジ、サンマービルの調査におきましては、非行予測の因子といたしまして、精神の健康度、社会的適応性、社会的攻撃性、権威の受容性、家庭のしつけ、家庭の崩壊、少年の近親者の非行の発生、この項目によりまして予測をしておりますが、この十六年間の試験の結果、この項目でよいと評価された者の八〇%は犯罪を犯していない。この項目で悪いと評価された者は、六〇%が十六年間に犯罪者となっている、こういう追跡研究ができております。今後この方面の開拓が、最高裁判所におきましてもいよいよ開拓されることが希望されるわけでございます。 早期発見、早期治療に連関いたしまして、私は、やはり少年法の年令を十二才以上までに引き下げてはどうかということ、言いかえますと、中学生の時期というものは最も非行化しやすい危険期でございますので、これを少年法の児童相談所の先議優先というのでなくて、直接に家庭裁判所で扱うというような形態に改めるべきじゃないか。で、いろいろな理由はございますが、一例を申しますると、中学二年生の共犯者の半分は児童相談所に送られ、半分は家庭裁判所に送られる。主犯者は児童相談所に送られて、共犯者は家庭裁判所で処分される。その中には必ずしも合理的な判断、判決だけが行なわれるとは見がたいのであります。 次に、早期発見、早期治療のいま一つの問題といたしましては、少年鑑別所の問題でございます。で、これの充実については、何ら異存はございませんが、ああいう形態のものが、ことごとく少年鑑別所であるかどうか。この点で思い出されますのは、アメリカのオヴザーヴェイション・ホーム、観察室とでも申しますか、小さな規模のところへ、あまり要保護性の強くない子供を集めまして、そこで行動観察をしながら、鑑別をする。大きなところに一せいに置きますと、いろいろな子供が集まって参りますので、非行性の弱い子供などの診断というものに不向きであるということが考えられるわけでございます。 次に、少年院に対しましても同様なことが考えられますので、私は補導委託の充実ということを考えております。補導委託と申しますのは、判決の前に、三カ月なり、六カ月なり、普通の民家に預けましで、大体十人くらいから二十人くらい、東京家庭裁判所では、預かるようなところへ預けておりますが、そういうところへ預けまして、長期に補導をさせるということでございます。で、東京におきましては、たとえば原泰一氏のところに預けました子供は九〇%が更正をしております。また、この補導委託を活用いたしますると、非行少年の補導に最も必要な職業補導もできるのでございまして、私どもの方で職業適正検査や、興味検査をいたしまして、その結果この子は大工が適当だ、そう思いまして大工さんのところへ預けた子供もございますが、もうすっかりよくなっております。また足立区で、一昨年でしたか、学校の先生をなぐった少年がございますが、これも、学校時代ではございましたが、家から引き離しまして、ある料理屋さんに預けましたが、そのときは非常によくなっておりました。 で、ケンブリッジ、サンマービルの研究の結果としましては、非常に悲観的な結論が出ております。三百二十五人ずつの子供を二組、三百二十五人の一組の方は、全然カウンセリングをしてない子供、もう一親の方は、カウンセリングをしながら十六年を経過したのでございますが、カウンセリングを受けた組も四一%が犯罪、起こし、カウンセリングをしないで、ほうりっぱなしにした子供も、三七%犯罪をいたしまして、カウンセリングの効果が薄いという結論をマッコードは出して非常に悲観的な結論を出しました。そういたしまして、その結果といたしまして、非行少年の更生にはミリュー・セラピィのはかはない。環境療養のほかはない。悪い友人や、家庭から離しまして、そこで情緒の安定や、職業指導などをやるというような、そういう施設の拡充ということが望ましいという結論でございます。その意味からも、補導委託の拡充ということが、今後非常に必要ではないかと思われるのでございます。 それからまた補導委託を利用いたしますことにおいて、集団犯罪を分散させることもできるのでございます。私の扱いました事件においても、五人組の中学生の集団犯罪その他を、こういう立場で分散しまして預けまして、ほとんどその後の経過がよかった例がございますが、こういう集団犯罪が多い時期におきましては、今後補導委託組織の拡充が、この点からも必要だと思われるのでございます。 それからいま一つは、試験観察の拡充でございまして、終局の決定がきまるまで、調査官が試験観察をするということになっております。大体判決はあまり延ばしませんので、三カ月ないし六カ月になっておりまするが、私は試験観察の機能を保護観察所に移しまして、もう少し長くやる。まあ一種の我判所のひもつきのようになっておりまするが、そういうような形態というものも早期に考えたらいいんじゃないかと思われるのでございます。 次に、保護観察につきましては、もういろいろな方が発言しておられますが、私は保護観察は、一体これを不利益処分であるか、利益処分であるか、この立場は非常に大事な問題と思うのでございます。私は臨床心理学的な指導をいたしましたり、あるいは工業のあっせんをいたしましたりする、そういう立場から考えてみますると、これは不利益処分ではなく利益処分ではないか。従って保護観察はもっと裁判所でやっていいのではないか、保護観察が大体百人中一〇%でございますが、これを三〇%ぐらいまでに引き上げることも考えられるんじゃないかと思われるのでございます。 次に、少年院に関しましては、これの小規模化につきましては、前回の参考人からお話があったようでございますから省きます。同時に、私は短期少年院並びに長期少年院、イギリスのボスタルのような形態の比較的長く置けるような要護性の強い少年、それを特別少年院が大体一年六カ月ぐらい置いているようでございますが、成績の悪いようなものは、やはり特別の少年院というようなものをさらに作る必要があるのではないかと思われる。また少年院に関しましては、刑務所に比べますと、職業の種目が非常に少ない。職業指導、職業教育というものは、非行少年には必要でございまして、考え方によりますと、アメリカが六・三制を作りましたのも、上の学年の子供に対しまして職業指導をやるというためでございますが、まして刑罰でない、教育という立場で非行少年を考えます場合には、少年院の職業種目というものは、もっと子供の個性に応じたものが望ましいと思われるのでございます。 次に、家庭環境調査との連関から考えてみますると、家庭裁判所にやはり科学調査室を置くことが望ましい。親権者の決定、子供をどちらにやるかという場合に、私が扱いました事件におきましても、父親の方にやりますと、非常に子供が将来不良少年になるというおそれが強い子供もございます。こういう子供につきましては、家庭裁判所に科学調査室、少年鑑別所のほかに科学調査室を作りまして、そこで診断をするということが望ましいわけでございます。この場合に、よく鑑別所との関係が問題になります。東京家庭裁判所には、科学調査室を置いておりますので、少年鑑別所の方の感じは、あまりおもしろくございません。しかしながら、重大な病気の場合には一人の医者で診断するのでなく、立会診察ということが必要でございます。練馬のひんぴんたる放火事件が、鑑別所においては分裂病と判定され、家庭裁判所の医官におきましては分裂病ではないと鑑定された少年がございます。これは逆送になりまして、検察庁で桜ケ丘病院で調べてもらいましたが、これは分裂病ではないという判定になっております。ただし、桜ケ丘病院では精神薄弱と認定して家裁へ戻して参りました。私の方は三つの知能検査によりまして、これは精神薄弱ではないと考え、また鑑別所の方も精神薄弱ではないという判定をしたのでございますが、このように精神薄弱であるか、分処病であるか、こういう点を鑑別所だけの独善的な診断に譲るということは、やはり司法権の独立を害するのではないかと思われるのでございます。その点からも、家裁裁判所に科学調査室を、設置することが望ましいと思われます。 最後に、調査官の性格でございます。家庭裁判所の調査官というものは何であるかということは、私はいまだにはっきりしないのでございまして、最高我判所ではこれはソーシャル・ケース・ワーカーだと言われる。いわゆる個別的な社会事業家と、こう解釈しているのでございますが、そうだとするならば、私は厚生省や法務省に移管すべきである。むしろ裁判所自身が三権分立を乱しているものであるという解釈をもちまして、前々家庭局長の宇田川氏に申し上げて大いに怒られたこともございますが、それにもかかわらず、やはり私は依然としてソーシャル・ケース・リーカーであるということには、疑問を持っておるわけであります。いわゆる社会事業家として指導までもやるということは、裁判所としては行き過ぎではないか。やはり診断という点に限るべきかと思うのであります。その点に関しまして少年審判をどういう機構にするか、私は調査官を家庭裁判所につけておくということには反対でございます。調在官は処分意見を裁判官に提出しなければならない。今のように裁判官が監督的な地位にありますと、それに牽制されざるを得ない。現に今はそういうことはございませんが、以前にはある地方の家庭裁判所で、調査官は裁判官におそるおそるどういう意見にしましょうかということを聞きにいく。裁判官の方は、それじゃこういう意見にしなさい。調査官は裁判官の言いなりの意見をつける。しかも、そういうことが抗告事件になりますと、調査官の意見はこうであったということになるわけであります。私も今まで抗告事件にだいぶあったことがございますが、私はいつも調査官の処分意見というものは神聖なものである。従って何人にも指揮命令を受けない、法の建前はそうなっておりますので、それを厳守しておりますが、調査官の私の意見は保護観察、裁判官はこれを少年院に送致いたしました事件が抗告になりまして、やはり私の意見の通りになって差し戻しになりまして不処分の決定になったこともございます。最高裁判所が調査官の予算を出します場合には、非常にこれを科学的な社会学、心理学、教育学、医学、こういうことを大々的に並べまして、いざ通ります場合に、調査官の使い方というものは、必ずしも私どもの意に満たないのであります。たとえば調査官に出頭勧告というものをやらしております。相手方が出頭しない、なぜ出頭しないか、それが出頭するように言ってもらいたい。これでは返信料付の十円切手の代用でございます。調査官は、そういう使い方をすべきではないと思います。そういう角度から、調査官は裁判所と離すべきであるということを考えまして、私の構想といたしましては、ちょうど海難審判所と海難審判理事官がございますように、そういう立場で別個の鑑定をなるべくすべきである。こちらは処分意見を何人にも牽制されないで出す、裁判官はこれをとろうととるまいと別個である。こういう角度にすることが望ましいと思うのでございます。 さらに根本的には、一体この少年の教育というものを、法律を専攻した判事が決定することが適当なりやいなやという根本問題でございます。若い、年寄りということを離れまして、やはり私はそういう教育の経験があり、また相当の年配である人が処分意見を出し、決定もする、こういう体制が望ましいのじゃないか。少年法が最初に設けられました場合は、教育の経験または少年の保護の経験のあったもの、こういうことになっておりまして、それが現在は心理学、社会学、教育学のエキスパートと申しますか、むしろそういうものを専攻した人を調査官として試験によって採出する。それによって大学の新卒の調査官が試験に合格するわけでございますが、そういうような調査官の採用方法よりも、むしろ保護観察官もやった、学校の先生もやった、しかも心理学、社会学、教育学の教養もある、なかなかむずかしくはございましょうが、そういう方を理想としては採用し、そうしてそれに単に調査官という立場からばかりでなく、審判官といたしまして、私は少くとも保護観察以下の処分というものは、そういう意味の審判官が決定を下す。 その場合に、司法機能として検事の先議権をどうするかという問題でございますが、私は一応検事の方も少年検察として発達することが望ましいのでございまして、検察官の方で保護観察以下の意見をつけてきたものは、必ずしも裁判官が裁判所内でその方面の法律以外の専攻した心理学、社会学、教育学を学び、しかも少年の教育に経験がある審判官というものの決定にした方がいいのではないかと思うのであります。この点は、アメリカのレフェリーがほぼそれになっております。さらにまた、日本のように、法律家の裁判官が少年の教育を決定するということは、まことに珍しいのでございまして、イタリア、オーストリア、スイス、ドイツ、フランス、イギリス、スエーデン、ことごとくそういう少年の教育に経験がある方たちが、参審員という形において、少年の教育方法の決定に参与しておるわけであります。この点におきましては、少年審判官が保護観察以下の決定をします場合に、少年院送致以上の決定、少年の刑事事件の決定におきましても、こういう参審制度というものが必要ではないかと考える次第であります。
○委員長(大川光三君) ありがとうございました。 以上をもちまして午前の参考人の方々からの御意見の開陳は終わりました。 これより質疑に入りたいと存じます。御質疑のある方は、順次御発言願います。
○高田なほ子君 三人の方に御質問申し上げたいと思うのですが、御質問申し上げる趣旨は、私どもはそれぞれきょうおいでになった方々の御意見は、非常にりっぱな、また傾聴すべき御意見であるというふうに、非常に感謝しておるわけです。しかし、まだまだこの二十分間の時間が短いために、十分に理解することのできない点があります。その理解したいという意味で御質問申し上げるわけですから、そういう意味でお答え願いたいと思うわけです。 まず第一番に、大竹先生にお尋ねしておきたいことがございます。それは、先議権の問題についての御公述の中で、検察側は家庭裁判所の調査によって起訴されるとか、少年院に送られるとか、また逆送されてくるとか、いろいろ手順があるわけだが、しかし、そのことについては検察側においては若干の不満がある。しかし、この不満に対して家庭裁判所のやり方といいものが当を得ない場合には、検察側の先議権も認めなければならないような心境になるというような御発言があったと思うのです。私の聞き誤りですかどうですかわかりませんが、基本的には大竹さんの御意見は、先議権というものは、今は必要ないじゃないかというような御意見であったのですが、しかし、検察側と裁判所側が年中ごたごたとするようなことになるならば、先議権を認めないという自分の理論というものについては、ちょっと固執できないというふうな御意見があったのですが、どうもそこらの考え方が私に十分に理解できないわけです。この点についてもう一度お話願いたい、これが一つです。 それから第二点は、裁判官に人を得ないということについて、非常に強く力説されたわけです。私は裁判官とか調査官とか、あるいは少年係の検察官というものに適当な人、つまり少年を深く理解し、愛情を持ち、将来の計画を立てるために十分な内容を持つ人がこれに当たらなければならない、こういう御意見に全面的な賛意を表するわけなんです。しかし、現在そうでないということについてどういう欠陥が現われているのか、必ずしも、人を得ないという現状がどんなふうになっているのか、こういう点について、実務家としてお知りの点があれば、承らしていただきたいというふうに思います。 もう一点は、少年院の送致処分を受けた少年に比べて、それよりももっと情状の重い少年が検察官送致を経て執行猶予の処分を受けて社会に復帰することが非常に早い、ところが、執行猶予も何も受けないで、ただ少年院にずっと入った場合に、第三者から見て処分の均衡を欠くというようなそしりを免かれない点もあると思うのです。この点の調節というものをどういうふうにした方がいいのか、この三つの点を、大竹先生から伺わしていただきたいと思います。
○参考人(大竹武七郎君) 第一の御質問に対しましては、検察官側に、こういう事件は起訴した方がよかったのじゃないかという感じを持っている場合があるように私は見受けているのであります。しこうして、私もまた、それに同感の場合もあるわけなんです。がしかし、そういう事件は私は数多く経験はしていない、そこで私が考えますことは、同じ国家機関である検察庁と家庭裁判所ですから、もう少しお話し合い、また連絡協議ということがなされていいのじゃなかろうかと思うのでありますが、しかし、現状は意見と称する紙きれを一つ上へつけまして、あっちへいったりこっちへいったりしている、それ以上のことはお忙しくもありましょうけれども、あまり具体的に意見を述べ合うということが、ないとは申し上げませんけれども、どうも不十分ではないかと私は考えております。それから具体的個々の事件を離れまして、一般的な少年事件の扱いとして検察官、家庭裁判所の係員が年に何回かお集まりになって、それで一般的な問題として御協議なさる、意見の交換をなさるということが望ましいと私は思うのです。ところが、ごく形式的に年一回か二回お集まりになって、ただお互いの意見を、相変わらず同じ意見をお述べになるだけであって、突っ込んで、打ち解けてお話し合いになるという機会が持たれていないところが多いように私は承知しているのです。そういう点をもう少しやってみていただきたい。私はそういう意味におきまして、そういうことを期待しながら、当分の間現状を見送りたい、しかしながら、依然としてそういうことが行なわれないということになりますれば、具体的個々の事件をたくさん寄せ集めて考えてみて、どちらの言い分が正しいかということを検討しなければならぬ問題になってくるというふうに私は考えるのであります。そういう段階になれば、私がきょう申し上げた自分の考えがあるいは違った結論になる場合があるかもしれませんが、しかし、現在は今申し上げたような考えでおります。こういうふうに申し上げたのであります。 それから裁判官に人を得ないと言いますと、いかにも今の裁判官全部が悪いように私が申し上げたように誤解を生ずると思いますが、そういう意味ではなくて、あまりにも年のお若い方がいらっしゃる、最近私が弁護士としてある少年、この少年は家庭裁判所に御厄介になったことがあって、保護処分に付せられて、そうしてまた犯罪を犯して、今度は二十才をちょっとこしておりますために、普通裁判所へ起訴された、私がその弁護人になったという事件であります。この事件につきまして、少年を私の家へ呼びましていろいろ過去のことなんか聞いてみたんです。また、家庭裁判所とか少年問題とかということの参考にもと思いまして、私がいろんなことをその少年に、家庭裁判所の調べを受けたときの状況なんかを聞いてみた。まあ、その場合だけじゃなく、私はしょっちゅうそういうことをやっているんですが、その最近私が聞きました少年は、こういうことを言っている。私は家庭裁判所へ行ったけれども、判事さんには十分か十五分しかお会いしなかった、しかもその判事さん、非常にお若い方で、科学的に考えると君はこうだと、科学的にこちらが判断するとこうなるというようなことを、科学的を数回繰り返してわずか十分か十五分の間におっしゃったらしいんです。そこでその少年が、先生、科学的々々々って何ですかねって、やや皮肉のような潮笑的なような意味で言うていた経験がある。こういうことは私、ごく最近の例ですから、それを特に取り上げて申し上げているんですけれども、私が二十才をちょっと過ぎたような事件を扱っておりますと、家庭裁判所の御厄介になった経験が一回も二回ももっとも多い人が多いのであります。そういう人から聞いてみますと、やはりもう少し社会情勢なり、裁判事件の御経験のある方、また先ほどお話しのありましたように教育とか、実際とにかく子供をお預かりになった経験の深い方の方がいいんじゃなかろうか。で、最近またこういういい例もある。私が二十才ちょっと過ぎた少年の窃盗事件をある裁判所でやったんですが、その裁判官は非常にまあお年を召した方、元は書記官をやっておられた方、その方が取り調べをしていると、なるほど法律的とか、頭は非常に切れるという感じはしないんです。しかしながら、子供に対しては感じがいいんです。で、最後に判決を言い渡した後に、君、こんなつまらんことやってまたしょうがないじゃないか、自分の身だから、自分でもう少し大切にしなきゃいかんじゃないか、自分の身をかわいがりなさいよ、ということを懇々と説論された。それで、法廷を出ますと少年しきりに考え込んじゃいましてね、それは先生、あれは裁判官の言うことほんとだなあ、というようなことを言うんです。私はこれが必要なんだ。少年事件はどうせ窃盗か詐欺かけんかか、そんなものですから、そう法律的にむずかしいものじゃない、法律解釈としてはそんなむずかしい事件じゃないと思うのです。だから、やはり人格の円満な、よくバランスのとれた、社会学、心理学、法律学というような点のよくバランスのとれた知識経験をお持ちになった方が望ましいんだというように私は考えているのであります。そういう私の考え方から申しますと、たくさんの家庭裁判所の裁判官の中には、どうも私の理想に合わない方も少数ながらいらっしゃるんじゃないか、こういうことを感ずるのであります。 第三点の、執行猶予になった場合のことでありますが、この場合におきましても、無条件の執行猶予の場合もあり、保護観察のついている執行猶予もあります。従って今のお尋ねは、保護観察のつかない執行猶予の場合と理解いたしますけれども、そういう場合におきましても、裁判所は父兄なり雇い主なり、または篤志家を証人または参考人の形でお呼びになりまして、そうして将来の身柄の引き受けをどうするかというようなことを、一々お調べになっておられると私は思います。それを調べないで、いきなり執行猶予を言い渡す、または観察づきでない執行猶予を言い渡しつぱなしという裁判のやり方は、実際に行なわれていないと、私は自分の経験から考えております。そういう場合に国家なり団体の設けた保護観察の機関に付託されることにはなりませんけれども、しかしながら、父兄が引き受けていなかに連れ帰るとか、または雇い主が十分監督するということになれば、それも一つの方法ではなかろうかというように私は考えております。しかしながら、ごく少数の例で、今お尋ねのように観察なしでと申しますか、あるいは観察の点が不十分のまま執行猶予が言い渡されておるという事例がないとは申し上げられないのですが、大体は今申し上げたように手当をした上で執行猶予の言い渡しがされておるのが実情であるというふうに私は解釈いたしております。
○高田なほ子君 今のでもう一点大竹先生に伺いたいのですが、家庭裁判所と検事側との意見の交換が大へんに不十分だという点、今伺いまして、なるほどと思ったわけです。こういうわけだからこの点は十分に検討した結果、やはり先議権というものはある程度認めなければならないような状態になるかもしれないという予測を今お話しになったと思うのです。もしこの先議権を認めるということになれば、現在の検察陣が果して今家庭裁判所が少年に対していろいろの処分をする場合に、身体の状況とか、精神状況とか、家庭の状況とか、社会環境とか、非常に精密な親切な調査をして結論を出すわけですけれども、検察の方は犯罪捜査というところに常に重点が注がれて、それにまた全力が注がれておるので、はたして非行少年に対する取り扱いを検察陣に先議ということの立場をとらせるならば、ほんとうの意味での少年更生のために十分な措置ができるかどうかということについて、私は大へん疑問を持つのでございます。この点について再度お教え願いたいと思います。
○参考人(大竹武七郎君) 先議権の、その点に関しましては、私はかりにそういう時期に逢着いたしましたとしても、犯罪の種類を限定すべきじゃなかろうかということを考えておるのであります。すべてのものを検察官が全部先議するということになりますれば、今の陣容ではとてもやりきれないだろう。また事件の内容いかんによっては、家庭裁判所の方に回した方がいいものもあり、また交通違反その他のもので家庭裁判所のお取り扱いにふさわしくないと申しますか、なじまないと申しますか、そういう種類のものもある。またごく極端な凶悪犯、悪質犯罪等につきましては、どうしてもやはり検察官にまかせなければならない場合もあるのじゃないか。さきに保護処分を受けた経験があるものが、また犯してきたとか、あるいは犯罪の種類が極端に悪くて、どうも保護という点になじまない、不適当だと考えられるものもあるのじゃなかろうかと、罪名別にも考え、内容からも考えて措置するようなことがあるいは必要になるのじゃなかろうかということを、これは先の見通しとして考えておる次第でございます。
○高田なほ子君 次に片淵さんにお尋ねしたいのですが、犯罪件数が増加した、また増加していないということについては、何か見方がいろいろあるように思われるわけです。それは一番初めにお話し下さった大竹先生のお話しでは必ずしも犯罪というものがふえているんじゃない。実は若干違ったようにお話しになっておったようですが、必ずしもそう激増した程反のものではないというふうに私は受け取っておるわけです。ところが、片淵さんの方は犯罪件数が非常に激増しているんだということで結論を出しておられるわけなんです。一つの条件に対して、違った結論が出ているということについても、私は少し疑問が残っておるのです。そこで、犯罪件数がふえたということの一つの例として、暴力団捜査のデータを出されて説明されておるようです。なるほど、このデータによりますと、成人と少年とが、どういうような率でもって犯罪の事実の中に加わっているかということから、数字から見ると確かにふえたように思われますけれども、この暴力団の組織というのは、少年犯罪の件数がふえたかふえないかということのデータとして取り上げるということについては、少し私は疑問があるわけです。なぜなれば、犯罪をするというような要素を持った少年たちが今たくさんうろうろしているわけです。就職難であるとか、それから中学から高等学校にいくときにすべっちゃったというのや、高等学校から大学にいくのにすべっちゃって浪人しているというような者や、大へん今の社会環境というものが悪いわけですね。子供たちに恵まれない社会環境である。そういうような社会環境の中でたまたまです、たまたま携われるままに暴力団の中に入っていったという子供たちもかなりあるのではないが。つまり社会環境が非常に深刻になって、その結果としてこの少年の暴力団に入っていくという率というものが高まっているんじゃないかという私は気がするわけです。つまり、社会条件というものがその背後にあって、少年犯罪というものがふえていっているんではないかという見方を私はするわけです。ですから、必ずしも私はこの数字が即少年犯罪の増加の貴重なデータになるというふうには考えておらないわけなんです。この点あなたはどんなふうにお考えになっておりますかね、それを一つ承りたいと思います。
○参考人(片淵琢朗君) ただいま御質問のありました点について申し上げます。犯罪少年の事件が統計の上でふえたということ、これはもう統計が示しております通り事実であるわけです。これが新たにふえつつあるのか、われわれが能率を上げましてそれでそのために件数が今まで倍数となって埋もれるはずのものも表面化しておるためにふえておるように見えておるのか、これは実際のところ、私どももはっきりこうだと言い切る自信は実はございません。ただ、まあ御承知の通り警察部内は少年警察の陣営と刑事警察の陣営とあるわけです。刑事警察の分野におきましては、事件が起こりますと、その事件を捜査いたしまして、そして犯人に到達する。その場合に刑事警察でやりまして犯人に到達して、その中にどの程度少年を含んでいるかということによって、その質の変化によって少年の事件がふえたか、減ったかを判断することはできるのではないか。そういうふうに実は考えられるわけです。最近は今先ほども申しました通り、一つのデータとして捜査四課の仕事の中にどのくらい少年が現われているか、いわゆる暴力事件をやる少年が現われてくるかということの説明のために申し上げたわけでございますが、もちろん仰せの通り、いろいろな悪い社会的な条件を背景として起こるものでございますし、この少年が暴力団の中にどれくらい入っているかということだけで、少年事件がふえたか、減ったかということを論証するつもりもないわけでございますが、私の申し上げようとしたことは、作為的なものではなしに、捜査活動をやりました結果、その中に少年をどの程度含んでおるかということによって、先ほど疑問を呈しておきましたように、実際ふえておるかどうかということに対する答えの一つの材料にしたい、そういう意味で申し上げたわけでございます。
○高田なほ子君 暴力団というのはおとなと子供、すべて子供、子供と言っていますが、一緒になってやるとき、おとなはとってもこういう悪いことになれておって、逃げ方でも早いし、それからつかまらないような、やり方も巧妙なことを知っているらしい。子供たちはすぐつかまっちゃうんですよね、うろうろしていて。そうしてうろうろしていたチンピラどもがこうしてつかまって、こういう数字にあがってくるとなると、ちょっとやはり私納得いかないんですね。これは議論するわけじゃないのですが、大へん子供のいろいろな犯罪の陰におとながあやつり、しかも一朝事ある場合には、一もくさんに彼らは姿を消し、そうしてがんぜない者が網にかかるということ、これはまあ、どっちが悪いということでなしに、この中に含まれる少年の数というものについては、相当研究しなきゃならないんじゃないかという気がするわけです。 次にお尋ねしたいのですが、大へん貴重な御意見は、学校との関係をお話しいただいたわけです。結論として学校の先生方の努力がもっともっと傾注されるならば、非行少年の早期発見、早期対策というものが完璧にいくであろうというような御意見でございました。私もこの御意見には全く全面的に賛成するわけですが、しかし、現実問題としてはなかなか理想通りにはいかないというようなお話しでございました。そこで具体的にお聞きしたいのですが、学校の先生方と警察が非常に協力をして成功したものと成功しなかった例があるのだと言っておられましたが、お聞きしたいのは成功しなかった例を伺いたい。どういうところに欠陥があって成功しなかったのか、その原因を伺いたいことが一つ。 それからもう一つの質問は、これは大竹先生のと関係するわけでありますが、先議権をやはり検察の方に認められて、ワン・タッチで即決審議でいくべきではないかというような御意見であったと思います。ところがこういうふうになさると、検察官が先議して起訴する事件が非常にふえるということが予想されるわけです。こういう事件に対して裁判所が今度少年法の五十五条に基づいて保護処分を相当と認めて家庭裁判所の方に事件を移送するわけですね。そうすると家庭裁判所の方では、それに従って件数がふえてくる。ふえてくればまた渋滞してしまうというような悪循環が繰り返されるおそれもあるので、リン・タッチ即決審議、先議権ということと、それから今のスローモーなことを解決するためにこうするのだということは、どらもはっきりとした結論が出ないように思うのですがね。この点どんなふうにお考えになりますか。
○参考人(片淵琢朗君) 最初の学校の教師との協力作業が成功しなかった例についてのその原因ということでございますが、一つは私ども話し合いをしております過程で、学校教育法なりの考え方、まあそれが個人の一人々々の少年についての、不良化した少年についてのケース・ワーク的な仕事、これは学校教育の範囲外であると考えておられる先生もある。そういうところでは、なかなか話をしても乗ってきていただけぬ。それは、そういう法律的な問題は別といたしまして、まあ何とかしなければならぬ。しかしとても一人の子供につきっきりで子供のめんどうをみるということは、現在の教師の数からいってとても不可能である。何とかお手伝い願いたいというような気持でも学校がなかなか乗ってきてくれない場合もあります。 それから一番多いケースというのは、その学校とすればこの問題が警察ざたになる、向こうではやはり警察ざた、われわれ少年警察の立場からいきますと、普通の刑事警察において事件を扱う態度と全然違っておるはずなんですが、それについての不安といいますか、学校の不名誉を思ってこれを持ち出してこない。われわれの方から校外において起こりました問題についてこういうことがあった、何とかしなくちゃいかぬじゃないかと思うが、こういうことで具体的な材料を持っていきますと、それに応じて最小限度の動き方をしていただくわけですが、そうでない場合には、このいろいろな個々の問題少年についての非常に詳細なデータを持っておられましても、それをひた隠しにして、ただその子供をよその学校にやるとか、あるいは施設に入れるとか、あるいは卒業を待つとか、そういう態度にしか出られない場合が非常に多い。そういうことのために協力活動がうまくいっておらないということが起こっております。 それからあとの問題、これはちょっと私の説明に対しまして誤解があると思いますが、ワン・タッチで放してもいいようなケースも相当あるので、そういうものは送らぬようにしたらどうかということを私は申し上げたわけです。で、検察官の先議権とは実は関係のないこととして申し上げたわけでございます。と申しますのは、まあ現在は簡易送致という形式が一つ認められております。再非行のおそれがなくて事件が軽微であって、これはもういいじゃないかという場合は、今の警察に対しては簡便な方式による送致が認められております。しかし実際上は簡易送致になりましても、そのケースについて、まあこれは警察にも責任がある場合もあるわけですが、さらに調べられる子供にとっては、もう事件が終わったものと思っておるのに、忘れたころになってその事件がさらに取り上げられるということで、子供にとってはかえってマイナスになる場合がある。 それから私どもが実際扱っておりますと、親もしっかりしておる、先生あたりも、学校の担任教師あたりもその子供について非常によくめんどうをみる意思がある。本人自身もそのときの非行について、やや重い非行ではあるけれども、今後の更生と申しますか、それが明らかに見られる。そういったのを書類にいたしまして家裁に送って三カ月か、あるいは四カ月、五カ月くらいたってさらにまた呼び出して処理をするということよりも、その最初の段階においてもう事件を、何といいますか、伏せてしまうということが、少年警察に認められないかということでございます。で、先ほど検事さんの話が出ておりましたが、現在の状況ではあらゆる事件は少年警察から検察庁に、これは家裁に直送するものも一部分ございますが、そうでないものは全部検察庁を通ずるわけです。ところが検察庁にはほんとにわずかの検事さんしかおられませんで、これは実際は通るだけ、主として少年事件に関係のある成人について一応送致しておるだけで、ほとんど通るだけになっております。そういうようなことでございますし、で、検察庁にある期間とまりましてそれからまた家裁にいきまして、ある期間積んでおかれる。そのあとでまた措置されるということになって、せっかく事件はもう片づいたという印象を受けておる子供が、これはやはりだめだ、戎判所まで書類がいってしまった、というようなことで、子供の更生を妨げるというようなケースも少なくないと思います。そういうものについて少年警察に対してワン・タッチでこれを放すような方法を考えてもらいたいというのが私の趣旨でございます。少年警察の発足以来十年になりまして、子供の非行危険件判定その他につきましては、ロールシャッハ方式をとりましたり、いろいろな科学的な非行判定の研究もいたしておりますし、実際第一線でそれも用いておるわけでございます。で、必ずしも権威のない扱いは、最近においてはしていないと私は信ずるわけでございますが、そういう意味からいって微罪釈放に当るような措置を少年警察に認めてもらいたい、そういう趣旨でございます。
○高田なほ子君 今の問題にちょっともう一つ掘り下げて伺いたいのですが、この少年警察官というのは、いつも私服でいろいろ行動をされるのかどうか私わかりませんが、その点どうなのかということと、それからどうもおまわりさんというのは、おっかないですよね。特にちょっと悪いことをしても、子供は自分でこれは悪いなということを承知しているわけなんですね。そういうような場合に、警察官がこれに直接タッチしていくことがいいか悪いかということについては、やはり問題があるのじゃないかという気が私はするわけです。非行少年の早期発見のために少年警察が活動して下さるということは、これは十分わかりますけれども、この非行少年の早期発見に、警察官が第一線に、法律を改正して義務づけてまでもタッチするというよりは、むしろ家族とかまた親族とかそれから友人、教員、そのほかに少年保護司、それから児童福祉司、保護観察調査官、こういうような方々がむしろ非行少年の早期発見のために第一線に立たるべきであって、第一線に警察官がタッチなさるということについては、相当慎重な態度でなければならないというふうに私は考えます。ところが、あなたの方は虞犯少年の早期会見と問題ある者の送致を、むしろ警察官に義務づけた方がいいというふうに言っておられるわけでございますが、私は、そうすると、児童保護司とかそれから児童福祉司とか、調査官とかそういうような方々のお役目にまで突っ込んでしまうような気がするのですけれども、この点どうなんですか。
○参考人(片淵琢朗君) ただいまのお話は、警察が青少年の早期発見活動に積極的な動きをせぬほうがいいのではないかというお考え方ですが、一般的に警察というものが、現在社会から受け取られた姿からいいますと、そういうような御意見ももっともだと思います。ただ、少年警察におきましてどの程度——一ぺん見ていただくとわかると思うのですが、学校あたりとも話しましていろいろ協力活動をした経験もございますが、少年警察の理念というものは、あくまで刑事警察とは根本的に違っておりまして、むしろ教育と非常に似た考え方、教育者と似たような考え方の仕事を、実は私服でやっております。そういうようなことで、一緒に協力活動をされた方については、その少年警察の活動というものを高く評価していただいておるわけですが、今の現実のいわゆる早期実現といいますか、非行青少年、問題青少年が発見せられて、児童相談所なり、家庭裁判所なり、子の他のところでいろいろ措置されておりますが、その九〇%までは少年警察の活動によって発見された子供が処理されているわけであります。もし御説の通り、警察がそういうようなことをやる必要がないならやらぬ方がよろしいというようなことで、現在かりに手を引きますとすると、年年発見されております問題者が、全部町にそのまま放り出されてしまう、そういうようなことにな可能性があります。今おっしゃった児童委員とか、児童相談所とかいろいろな関係機関がございますが、ありていに申しまして、そういった機関が、少年の保護関係機関すべてについて言えることだと思いますが、ほとんど語弊があると思いますけれども、法律の求めるような活動をしていないというのが現実だと思います。たとえば学校で問題を処理していこうとしますれば、これは児童相談所、児童委員さんの問題です。ところが、その地区の児童委員さんが本気でそういったような仕事をやっておられるかというと、全然それはやっておられないと言ってもいいような状態であります。御承知かとも思いますが、あれは民生委員さんが兼任でございまして、年とった方が多いのです。最近の子供の心理とか、そういったようなものについてはほとんど無縁の方が多いような状況であります。中にはりっぱな御婦人がおられまして、例外的にほんとうによくやっておられる方もございますが、それ以外は必ずしも法律が予想しておるような仕事をやっておられない。児童相談所もいろいろございますが、児童相談所は、まるで門をあけて待っているだけでございまして、そこまで持っていくような親がないというのが実情でございます。だからわれわれは発見したものを児童相談所に持っていく、学校の先生に、こういうことがある、これは児童相談所に持っていったらどうでしょうという話をして持っていかせる、それがわれわれの役目だと思っております。で、そういう意味で私どもは早期発見をして、それを全部私たち警察で処理をするということは考えておりません。ただ警察だけで今申し上げましたように、発見して、われわれといえどもその子供がここでは放した方が本人のためになるというような場合が非常に多いものですから、しかもそれがやむを得ず法律に定められた通りの手続に従って送りますと、半年くらいかかってもまだ措置されない。その結果は何もしない、結局不処分とか不開始ということになる場合が多いのであります。七〇%から八〇%近いものまでが不処分でございますから、そういったものの中に、われわれが処理して、もうお帰りなさい、よくお父さんの言うことを聞いておやりなさい、と言って帰していいものが相当あるように実は考えます。それでそういうふうにやってもらったらどうかという次第でございます。 〔委員長退席、理事後藤養隆君着席〕
○高田なほ子君 それじゃ山本さんにお尋ねしたいと思います。お聞きするところによると、山本参考人は大学の教授もおやりになっていらっしゃったというような御経歴の持主だと伺って、非常に御意見を期待していたわけですが、教育の充実というところに重点を置かれて話されたごとに、大へん敬意を表したいと思います。ただ、大竹先生の御意見によりますと、調査官というものに対する御意見と、それからあなた自体が調査官というお立場の間で何かちょっと食い違うような点があるように思うのです。その点伺いたいのですが、大竹先生のお説によると、調査官は社会学とか、心理学とか、教育学、こういうような立場からものをごらんになっている。素質は優秀だけれども、結局いうところの調査官としての真使命を達成し得るような調査官がどのくらいおるかということについて疑問を持たれているわけです。私も大へん失礼な申し分ですか、やはり疑問を持つわけです。なぜ調査官に、いうところの老練な優秀な人材を集めることができないのかという、優秀というのは素質が優秀じゃなくて、調査官として優秀な人材を集めることがなぜできないのだろうか、その原因を伺うことが一つ。 それからもう一つは、調査官がかなり裁判所の中で隠然たる雰囲気と勢力を持っているという御発言があったわけです。はたして調査官というものは、裁判所の中で雰囲気というところの隠然たる勢力を持っているのかどうかということが一つ。 もう一つは、東京家庭裁判所で少年事犯を取り扱う件数は非常に多いようにデータで伺っておりますが、しかし裁判官の数は少い、従って、この調査官が一生懸命調査したものを、大竹先生が指摘されたように、十分間くらいでさっさっさっと処理をしていくというこのやり方というものについて、私もお話を伺って疑問を持つわけです。こういうやり方ですと、どうも子供を取り扱うのに、こういう粗末なやり方でいいかということに疑問を深く持たざるを得ないわけですが、幸いにして山本さんからはこれを解決するために、参審制度の必要性について力説されたと思うのです。現在の調査官というものは、はたして審判官としての資格を持ち得る現状であるかどうか、この点が一つ。いろいろ質問の内容がたくさんございますが、まとめて言えばそんなところです。 それからもう一つ、補導委託の充実の問題が少年取り扱いについてあげられております。この補導委託の充実はもっともなことでありますが、はたして実態はどうなっているのか、ほんとうに望むような補導委託というものは行なわれていないのじゃないかという疑問を、私どもは持つわけです。だから実態をお話しいただきたいということが一つ。 それからその次は、少年法の法改正にいろいろな議論が集中しているわけですが、年令をぐっと引き下げて、十二才に引き下げたらどうかというような御意見を今承ったわけですが、はたして十二才に引き下げて窓口を広げて所期の成果を現在の機構で上げることができるかどうかということについて、非常な疑問を持つわけです。従って十二才に引き下げるということの法的な理由について、もう一度承りたいことが一つ。もし十二才に引き下げるとするならば、その機構は一体どういうふうに改正をしなければならないのかというような点についても触れさしていただきたいと思います。
○参考人(山本晴雄君) 大へん私どもの痛いところをおつきになった御質問で感激にたえません。一体、調査官にどうしていい人を集め得ないか、これは待遇の問題でございます。大正十一年に少年法がしかれまして、そのときに調査官の前身である少年保護司が設けられましたが、そのときの待避は審判官とほとんど待遇の差はなかったのでございます。そうして教育界の優秀な人を集めるという考えのもとに行なわれました。現在の高等学校長の、まだ当時の中等学校長の待遇と同じであり審判官より少し低い、大体において変わらない、しかし、古い年をとった保護司の方は、審判官よりも待避がいいという形式で出発したわけでございます。しかるに、終戦後給与体系があるいは一級、二級、三級と変動され、あるいは一級から十五級まで変化をする。その過程におきまして、裁判官は、司法の優位の原則によりまして従来とまるっきり違った格づけにまで高められました。また、書記官も高められました。また、事務局長も高められました。しかるに、調査官の方は、事務局長の下の事務官のような位置に落とされまして、裁判官とはまるっきり待遇が違っております。二、三年前にある大学の助教授の方が調査官になられましたときも、従来の十一級から十級に格下げされて調査官になられました。また、私が工業大学におりましたときに助手をしておりました者が、その当時は私の俸給の半分でありましたが、現在は私の給与よりも約五千円高い給与を、高等学校教諭の資格において受けております。また、私の給与は主任調査官としては比較的いい方でございますが、それでも同期の裁判官が八万円であるのに対しまして、私の給与は三万八千七百五十円。高等学校の先生でございまするならば、私よりも約八年ぐらい年下の方の給与と同じになっております。こういうわけでございますので、大学から参ります場合、または教育界から参ります場合には、給与の引き下げを覚悟して参らなければならないという状態でございます。 それから第二点の、隠然たる勢力ということでございますが、これは解釈のしようでございまして、何か裁判所で発言いたします場合、または外部のお客さんがいらっしゃる場合に、調査官はほとんど出席しない。すみっこの方にただ黙って聞いている。また、部内の重要な問題におきましても、裁判官会議において処理いたしまして、調査官はノータッチという状態であり、従いまして、私どもの気持から申しますると、裁判官の勢力はあまりに強く、調査官はすみっこに小さくなっている、こういうことで逆な解釈をしております。 次に、少年事件数が多いのに、裁判官の方では十五分か十六分で片づけるということ、これは事実でございます。私どもの方は、一つの事件を調べます場合に、一日も二日もかかります。小松川事件、美空ひばり事件、あるいは竹やり事件その他重要な問題につきましては、ほとんど一週間もその問題にかかりっきりの状態でございます。しかし、これは裁判官の人数の関係でそうせざるを得ない状態でございまして、逆にこれはいわゆるレフェリーの問題、審判官制度というものが確立された場合には、裁判官はもう少し少年院送致あるいは刑事事件というものをもっと詳細に扱われて、その他のものは密判官に譲られる、こういう体系によって解決される問題ではないかと思うのでございます。 次に、補導委託先の実態につきましては、理想的に参っていないところが相当にございます。従来の保護団体か廃止されましてその中で補導委託と変わったところなどでは、相当に考慮を要する問題もございます。従いまして、私どもの理想といたしましては、これは鳥取の家庭裁判所がよくやっておりますが、職親にほんとうに二人か三人ずつの子供を預ける、そういう体系に将来変えるべきではないか。鳥取の家庭裁判所のやり方を、将来見習うべきではないかと思うわけでございます。 次に、十二才に引き下げた場合に、現在の機構でやれるかどうかということになりますと、やはり現在の人員ではやれないので、どうしてもそこに審判官なり、または調査官を改称しました理事官、こういう人たちの増員というものが期待されると思われる次第でございます。
○高田なほ子君 この十二才引き下げの問題は、まことにおもしろい問題だと思うんですよ。アメリカの少年審判のお話を伺ったところが、十才未満、それから生後間もなくの者も少年審判で取り扱っているというようなお話しで、そういう理想的な形の中から、今の十二才引き下げというような御意見が出てきたのだろうと思いますがね。生後間もない者をどういうふうにやって審判するのか。これは親のほうを審判するようになるのですかね。そのことが一つと、それから今の調査官の待遇問題で、私も実はこの法務委員会でも、この間問題にしたところなんですが、大学の助教授から調査官に希望しておなりになるときに、現在給与されている給与よりも格下げでもって採用されるということについて、これはずいぶんおかしな話じゃないかと思うんですが、こういうようなことでは、大へん言葉が過ぎるかもしれないけれども、優秀な調査官を得るということは、ずいぶんむずかしいような気がするんですが、私、裁判所の意見を聞いたら、今取っている給与よりそう格下げをして採用するということはないんだ、そんなことはないといって、裁判所側はあなたの今おっしゃったことと違う御答弁をしていらっしゃるんですが、すべて教育界から調査官におなりになる場合には格下げをして採用されるというようなことになっておりますのでしょうか。大へん驚くべき事実だと思いますが、この点。
○参考人(山本晴雄君) 赤ん坊の問題は、要状養少年でございます。家事事件の親権者決定の問題に当たるわけでございます。 それから次に、調査官の給与の問題でございますが、調査官は最初には七の一として採用されます。これが初任給大学卒業生二万六百八十円でございます。それに対しまして、高等学校教諭、これは教育職俸給表の二の一でございますが、これが一万一千三百十円、小学校の先生の場合もやはり一万一千三百十円でございます。初任給がその通り違っております。それから現在入りました調査官で四等級までの者は、かなり学校と並行しておりまするが教育界から入った者はことごとく格下げでございます。格下げせざるを得ないような状態でございます。これは全国的に私、調べておりませんが、以前に調査官の会同の場合に、教育職から入った人ばかりを聞いてみましたが、大体五千円から三千円給与は減らされて採っております。その原因は、教育界におきましては、職階制は学校長と教諭でございますが、調査官の場合は、首席調査官、次席調査官、主任調査官、平調査官、調査官補というようなこういう準司法官としては考えられない職階制を持っておりまして、首席調査官ならば非常に待遇をよくする。次席調在官の待遇はそれに次ぎ、主任調査官の待遇はそれに次ぎ、平調査官の待遇はそれに次ぐ、こういう段づけになっております。小松川事件を調査いたしました富士森調査官は平調査官でございますが、これは自分の調査意見をつける場合には、何人の指揮、命令も受けておりません。また、彼は小松川事件の最初の事件、あの少年が最初に窃盗事件をやりましたときにも、富士森調査官が調べておりますが、これは調査官の意見は、あのときは保護観察の意見でございます。安倍検事は、小松川事件の場合に、家庭裁判所の決定が最初は不処分であったから悪かった、その次に深入りした、こう言っておりますが、あの事件におきましても、裁判官はそう決定しておりますが、富士森調査官は、あの少年については性格として窃盗常習癖がある、家庭の保護能力もよくない、そういう立場から、あの第一回の窃盗事件のとき、すでに保護観察の意見を出しております。その保護観察の意見を出しますにつきましても、裁判所長、裁判官、首席調査官、その他何人の指揮、命令も受けないで、独自の意見をもって決定しておるのでございます。そして、調査官はソーシャル・ケースワーカーという、社会事業家という行政官的な考え方をもって待遇をきめた、準司法官的な行通の考え方で待遇をきめた。そのために職階制を引用し、そのために、教育界から入ります場合には、首席調査官になりますると、まず比較的、教育界と同じ待遇を受けますが、平調査官として入ります場合には、今申し上げましたような待遇にならざるを得ない。で、学芸大学助教授の檜野助教授が家庭裁判所の調査官になりましたときも、その当時の行政職の俸給で十一級をもらっておりましたのが、家庭裁判所の平調査官になりましたために、十級職の格づけで入っております。以上でございます。
○高田なほ子君 これは、私は少年犯問題とは間接的なことでありますけれども、法律的に少年法の改正などが叫ばれておるおりから、やっぱり調査官の仕事というものは非常に重大な仕事だと思いますので、今伺いますと、ずいぶんひどい待遇をされておるようですけれども、こういうようなことについて意見を開陳する機会というものは、調査官の場合はないのでございましょうか。
○参考人(山本晴雄君) 従来、調査官の意向を聞きます場合に、最高裁判所は首席調査官だけの会同を開いております。裁判官に対しましては、裁判所長会同のほかに、何々係り裁判官会同というものをやっておりますが、調査官に関しましては、首席調査官会同だけを開きまして、平調査官の会同を全国的に聞きません。また、一般の会同を開きましたといたしましても、現在の態勢では、首席調査官の意見に押されまして、思うことが言えない、こういうような状態でございまするが、むしろ、最高裁判所で平調査官の会同を開きまして、自由な討議をさせるといたしますならば、そういう意見は十分に出るかと存じます。また、私もこの問題は一番心残りでございましたので、待遇の改善運動を起こしましたが、そのときに、最初に反対し、また抑圧したのは首席調査官であります。こういうわけで、首席調査官側は、職階制の上に自分たちの地位をより高くしよう、最高裁判所が大蔵省へ説明いたします場合も、首席調査官は大ぜいの調査官を監督するんだから、さらによく、さらによく、こういうような考え方で、首席調査官の地位、待遇を高めようとする、それがくずされるということは、首席調査官としては反対せざるを得ないという立場になったのじゃないか。そのために、一般の調査官は、自分の待遇、給与に関しましては、思うことが言えないという状態であります。
○高田なほ子君 ありがとうございました。
○赤松常子君 時間がございませんから、簡単にちょっと一、二点お尋ねをしたいのですが、大竹先生に。いろいろ問題をお取り扱いになりまして、側面的にごらんになる立場でいらっしゃいますが、こういう少年問題、それから、特に不良少年が相手の仕事の中で、婦人が相当受け持っていい部面があると思う次第でございますが、母性的な愛情を持って接していくことが、いろいろな場合に、男子の方がなさるよりは、婦人が受け持って、よりよい効果を上げる面がありはしないか、こういう点について御意見をちょっと伺いたいと存じます。
○参考人(大竹武七郎君) 私も同じように考えます。ことに、相手が子供なんですから、子供がやはり母親的愛情に飢えておるというようなケースがときどき見当たるのです。しかし、それもやはり私の考えでは、受け持って下さる御婦人があまり若い方じゃ困る、相当の社会経験をお持ちになった方で、いろいろな点の知識なり御経験がよくバランスのとれた方が望ましい。そういう方が出られますならば、そういう方に受け持っていただいた方がいいような事件もある、こういうように考えます。
○赤松常子君 私ども、仲間の人に、そういう機会にいろいろお話も申しておりますし、いろいろむずかしい試験もございますけれども、婦人みずからがやはり意欲的にこういう職業に出ていくということも、婦人みずからがまず考えなくちゃいけないことでもございましょうけれども、やはりいろいろ伺ってみますと、婦人が出ていってよりよい効果を上げる面がずいぶん多いように思いますので、そういうことについてもお取り上げをいただきたいと思っております。 それから、山本先生に聞いておきたいのでございますけれども、いろいろ外国の例をお伺いいたしまして、非常に参考になったわけでございますが、今までは非行の起きる年令層及び現在の事件についていろいろ心配しておりましたけれども、今伺いました資料の中では、だんだん落ちつく年令及びその経過というものが相当調べられておりますようでございます。また、おひまに、資料を私どもに配っていただきたい。私はきょうはそういう面でいい勉強をいたしました。時間もございませんから……。
○理事(後藤義隆君) 別にございませんか、もう皆さんお急ぎでございましょうし——それでは、ほかに御発言もないようでございますから、これにて午前の部は終了することとし、委員会は休憩することにいたします。 この際、参考人各位に一言ごあいさつを申し上げます。本日は長時間にわたりまして、貴重な御意見を詳細にお聞かせいただきまして、まことにありがとうございました。当委員会の審査のため、きわめて有益な御意見を伺いましたことを厚くお礼を申し上げます。 それでは、これにて午後一時三十分まで休憩いたします。 午後零時四十六分休憩 —————・————— 午後一時五十一分開会
○理事(後藤義隆君) それではただいまから法務委員会を再開いたします。 最初に参考人各位にごあいさつを申し上げます。 御承知の通り最近におきまする少年犯罪の実態は、件数におきまして年々激増の傾向にございまして、二十五年ごろに比べますると、三倍にもなっておるという驚くべき件数を示しておるばかりでなく、犯罪の態様におきましても、年少者において、特に粗暴犯、性犯、脅迫犯等のより悪質な事犯が増加するというまことに憂慮すべき実情にあります。 このような事態に対処いたしまして、法務省におきましては、現在少年法や関係法規の全面的な再検討のみならず、さしあたって運用の改善方策について重点的に検討を進めておられるということでございますが、当委員会におきましても、少年犯罪の防遏のため、早急に総合的な検討を行ない、総合的な対策を樹立することの緊要なことを認めて、その基本的重要諸問題について、すでに数次にわたりまして調査を行なって参った次第でございます。 先般の委員会におきましても、七名の参考人の方々からこの問題について御意見を伺ったのでありますが、本日はさらに少年法の改正、非行少年の矯正補導に関する諸問題のみならず、少年犯罪対策の一般問題につきまして参考人各位のそれぞれのお立場から十分な御意見を伺いまして、少年犯罪対策法制確立のため当委員会の審査の資とすることにいたしたいと存じます。 なお、参考人各位におかれましては、日ごろ御繁忙中のところ、当委員会の意を了せられまして、御出席をいただきましたことはまことにありがとうございます。厚くお礼を申し上げます。 それではこれより御意見を伺いたいと存じますが、お手元にお配りしてございます調査項目は、一応の御参考のためでございますので、これにこだわらず御自由に少年犯罪対策について御意見をお述べ願いたいと存じます。それから、時間の関係もございますので、御陳述はお一人二十分程度にお願いいたしたいと存じます。 それでは最初に千葉大学教授望月衞君にお願いいたしたいと思います。
○参考人(望月衛君) 望月です。いろいろ手を相当打たれていらっしゃると思います。特に警察などでもいろいろ努力をしていらっしゃると思うのですけれども、今までの少年犯罪に対する考え方というようなものが、根本的に何か切りかえを必要とするのではないかと思います。私が一番今影響を受けているなと思いますのは、子供を持っている観たちでありますけれども、警察の統計資料なんかが方々に配られまして、それでみんなに強い印象を与える。PRの効果としては、なかなかよろしいのでありますけれども、私どもは常々そのあとに参りまして、警察の資料というものは考え直しておかなくちゃいけない、これは決してうそを言っているのではないけれども、次のような点について考え直していかなくちゃいけないんじゃないかということを申しております。 根本的な青少年犯罪の解釈の仕方という問題ですが、その第一は、警察等の統計は、これは件数なんですね。件数がおもに出ておりますので、たとえば去年一件のものがことし五件になったといえば、これは五倍ということになりますが、これがはたして警察の取り締りとか保護とかというような方針に関係があるのではないのか、たとえば、売春を取り締る月間というようなものを作られて、補導や何かに当たられるとすると、その月の売春の犯罪件数がふえてくる、そういうものをそっくり受け取るのは、これはあぶないんじゃないか、あくまでも警察のは行政統計なんで、これがいわゆる社会の実態を示す統計であるとばかり受け取ってはいけない。行政統計としては、これはもう正直なものとしてとってよろしいかもしれないということを申しております。 それからもう一つは、やはりそれに関連をいたしますけれども、児童憲章のできる前後から、青少年が悪くなったという声を、実際に悪くなっておりますけれども、その声がマスコミに乗りまして大へん強くなっている。一般に昔からそうなんでありますけれども、同じことをいたしましても、おとなだと大自に見られて、子供が大目に見られないような傾向がありましたけれども、最近そういうような傾向が強いのではないか。たとえて申しますれば、電車の中でもってだれかが禁煙のところをたばこを吸っておった、おとなが吸っておりますと、しようがないおじさんだと思っているかもしれませんが、大体大目に見ている。ところが若い人が吸っておると、これは大へんみんなに抵抗を感じさせる、こういうようなおとなの心理というものがかなり助長しているのではないか。そういうふうこともかなり公平に扱わなければいけないのではないかということを申しております。 それからもう一つは、青少年の犯罪と申しますけれども、これは青年期の特徴といたしましては、いろんな可能性を持っているので、そいつをためしてみよう、そういうトライ・アント・エラーと申しますか、試行錯誤と申しますか、一生懸命いろんなことをやってみる、当然その中には失敗することもあるし、成功することもございます。失敗するものは、このごろ多いというのでありますけれども、これは警察の統計などでも失敗をする、犯罪をするということは、これは実際には基準がかなりはっきりきまっておりまして、少年法だとか、刑法だとかいう法律できまっておりますからあげられますけれども、この成功、うまくやった、少年がこのごろ大へんよくなったということについては、判断の基準はなかなかとりにくいものでございます。たとえば警察でもって表彰するとすれば、人命救助か、火災を報知したとか、あるいは警官と協力して犯人を逮捕したとか、これしか表彰するものはあまりないようであります。発明をするとか、大へんいいグループを作った、そういうようないい面においては、これは教育者が大いに買っているところがある。最近は子供が大へん明るくなった、民主的になったということを申しておりますけれども、そういうものは警察の統計には出ないで、案外明暗が激しくなっているとも考えられる。その点では教育者は大いにどういう点がよくなったかということを、教育評価、その他の割合に客観的な方法でもってこれを評価していかなくてはいけないのです。つまり極端に申し上げますと、今まで、女の人でありますが、女の人はあまり悪いことはしないのであります。女の人は強盗もしなければ、殺人も男よりずっと件数が少ない。そのかわりあまりえらいのも出ていない、大したものはない、大へん申しわけない言い方をいたしますけれども、私は女の強盗が出るようになれば、もう少しえらいのもできてくるかもしれぬと思います。これはいろんなことをやってみて、失敗する人間と成功する人間とかはっきり分かれてきた時代というのは、これは両方が極端に出るのは同然だと私は思うのです。そういうふうに何かトライをしてみる、何かやってみようとしてうまくいかなくて、それでしりぬぐいをしてやれなくて、だんだん悪くなってきたという者がおりますから、一面では一生懸命やったところが大へんうまくいったと、何かチャンスをうまくつかまえてまわりの社会が保証してやると、その試みが大へん成功するというところがあるのではないかというふうに、何といいますか、陰影が濃い。今の青少年というのは、どちらかというといろいろなことをやってみる。そういう意味では陰影の濃いいい青年もたくさんおるのではないかと思います。そういうことを私どもはPTAなどにおきましてはそういうふうなことを一生懸命言っておるわけでございます。それから今のマスコミニュケーションの問題が相当これはからんでいるので、これに対して大いに自粛してもらわなくちゃいけないのじゃないかと思う点がございます。というのは、青少年の犯罪というのは、これはいろいろな見方がございましょうけれども、まあ一般によく言われますことは、性格の弱い人間がそういうことをやる。適用ができなくて、それではずしたという人間が多いわけです。自分は強がろう強がろうとした、自分が決していいと知りつつ悪いことをやっているのではなくて、学校がもっとできればいい、あるいはもっと小づかいがもらえればいい、もら少し明るい生活がしたいと思いながら、何ともならないで苦しんでいる連中が多いわけであります。たとえばやくざでも愚連隊でも、このごろの練鑑の歌なんかでもそうでありますように、歌なんかを歌いましても、その歌が、おいらの涙をだれも知らないとか、どうせおいらは泣けて泣けてしょうがない、こういうふうな歌が多いわけです。非常に悪いことをしながら、二面では自分が社会ののけものになっているのだ、弱いのだということを自覚している。弱いがゆえに悪いことをやっているのであります。ですから、何とかして手がかりをつけて、自分たちが強くなりたい。みんなにこわがられてみたいというような考え方を持つのは当然だと思うのです。自分に欠陥のある者がみんなからこわがられたい。そばを通るときにはよけて通るような、そういうような強い人物になってみたいというような強がりがあると思います。それを今のマスコミニュケーション、けさの新聞からがもうすでにそうでありますけれども、こん棒でもって女の子を三、四人なぐった。これはさっそく通り魔という言葉をまた使いました。この前の事件にも通り魔というものがありまして、まことに通り魔的であります。通り魔的でございますけれども、魔というのは、これはマジックを使うスーパーマンみたいなものが出てきましてみんなにおそれられる。そういうふうな強い者というふうな印象を与えるので、言われた人間はつかまるまではいい気持だろうと思うのですね。自分は月光仮面みたいだ、十二面相みたいな代表的な人物で、みんなにこわがられている。これは、私はきのうも新聞社から電話を受けましたときに、通り魔という言葉だけはもう使うなよということを言っておきましたけれども、また使っています。そういう犯罪者や非行少年というようなものに対して、そういうこわがるような印象をみんなに与えるということは、あの人たちをさらに強めるのじゃないか、そういうので、私は、むしろこれは治療をすべきさもの、あるいは病人である、社会病理学的の見地から見たところのこれは適用不良者なんで、どこかで治療をしなければいけない、直してやらなければいけない、救ってやらなければいけないというふうな線に持っていけば、より効果的であろうと思うのです。実際に治療をすべきものが多いのじゃないかと思います。 そればかりでなくて、警察でお掲げになる、あるいは補導協会のようなところで、どこでもというわけじゃございませんけれども、いわゆる悪より守るという言葉ですね、こういう言葉などでも、非常に印象が悪の方が強いように印象づけるような言葉を使います。これはポスターなどでも、これは統制すべきものではないと思いますけれども、みんなの社会思潮というものを変えなければならないと思います。良家の青年が道をまっすぐ歩いていると、すぐに両側から愚連隊がやってきて、悪に誘われてどうにも抵抗できない。そういう性質のものでは私はなかろうと思います。誘われそうになりますのは、最近の読売なんか見ましても、自分自身がすぐ誘われてもいいような顔をしている子供が誘われるのです。たとえば非行少年が女の子を誘惑いたしますときに、どういうところを目につけるか、これはたわいのない一つの目じるしがあるんですけれども、定期入れを出しましたときに、定期入れの端っこのところに鈴がついている。般若のお面がついている、こういうアクセサリーをつけている女の子は、大体制服を着ておりましても、そういうふうなところに気を使っているのは誘うのも楽だ、こう言っております。何か自身誘われたいような人が誘われるので、実際にあたり前に学校に行っている子供たちというのは、あたり前に勉強しておれば、そんなに誘われるはずはないのであります。中には秀才がねらわれることも、たまにはあります。タンス・パーティの券を売るというようなことから、だんだん引きずり込むという手もございますけれども、一般にPTAのお母さんなんかが心配するように、そこらをまっすぐ歩いていれば、悪に染まるというような考え方は私はおかしいのではないか、これがまた、そういうマスコミニュケーション等のそういう表現の仕方というものも、ぜひ気をつけなければいけないし、それから少年を指導する立場にある人たちも、いいものを悪から守るというよりも、いいもの同士が力が強いのですから、どうか悪の少数のものを救ってやろうという気持にならなければならぬ、私はこういうことが根本の問題であって、考え方というものは、そういうところに私はあると思うのです。 それから今のこの警察のやり方を私はそんなに悪く言おうと思っているのではないのですが、母の愛の手に返すという言葉です。これは大へんけっこうな言葉で、家庭愛というようなものが大事なことは言うまでもございませんけれども、非行少年をつかまえまして、それをただ今まで通りの母の手元に戻すだけで、はたして解決ができるのかどうか。家庭の教育というのは、かなり封建的で、原因が実はそこにあった、それをまたおっ母さんがかわいがってやりさえすれば、子供は悪いことをしっこないからまた帰れ、昔思想善導いたしますときに警察に母を呼んで涙で改心させた母物的な考え方がありますけれど、ちっとも学校に返すということは言わない。学校の中にもそういうものを治療するとか、あたたかく迎えてやるというような、そういう教えるばかりでなくて、そういうものを何とか相談を受けて、いろいろ相談をしてどういうふうに処置をしたらいいか、もう少し科学的な方法そういうものが考えられてもいいんじゃないかと思います。今まではどうも何といいますか、悪い者をすぐに法律関係の方に持っていって、少年院に入れる、鑑別所に持っていくというようなことでございますけれども、私どもの立場から申しますと、これは具体的にはどういう方法をとるかといえば、私は今、現在大学でカウンセラーをやっております。学生相談であります。これは心理学が私で、あと教育学部の先生が相談をしております。それから下宿の相談など、経済的問題を受けられるのと、それから精神病の教授が参加してるのとあります。千葉大学でありますけれども、件数は今はっきり覚えておりませんけれども、大体私が窓口になるのが、一週間に一人や二人はあります。私のところには下宿の相談には参りません。私のところに来ますのは大体ノイローゼの者、それからあとはたわいもないのがだいぶ来ますけれども、男友だちができたけれども、何の話をしたらいいだろうというたわいのないものもやって参りますが、これも大体みな相談してやりますが、大体は三分の一程度精神科の病室に電話をかけて相談をいたします。あるいは精神衛生研究所の方に回します。これが全部虞犯少年とか、不良になる者ではなくて、大学に来るくらいの者でありますから、もう危機は突破したのでありますけれども、これが高等学校の生徒、あるいは中学校の時代にああいうふうな煩悶を持っておったならば、さぞやこれは家出もしただろうし、それからおかしくなっただろうというような者がだいぶ参っております。そうすると、これはただ私どもは、応用心理学会ではだいぶ前からこういうことを陳情するとか、意見を具申したらしいのでありますけれども、カウンセラー制度ですね、学生、生徒ばかりには限りませんで、私どもの理想から申しますと、教育委員会に所属をしているところの精神医学者と心理学者のような人が中心になります。いわゆる精神修養で直すというように一点張りでいかれる人格者という方もまざっていいと思いますけれども、科学的に解決をするような治療の前段階にあるようなそういうようなものを方々に作られる、これは何か手前みそのようになるのでありますけれども、そういう治療の制度というものをやはり確立する。それからそういうところになぜ子供たちが相談に来ないのか問題なんですが、そういう機関がありましても、たとえば警視庁の中に少年相談係というものがありますけれども、あの少年という言葉がよくないのですね。私はつくづくそう思います。十九、二十になるそういうような人間が、おめおめ警視庁の少年相談係、少年課というようなところには行きにくいだろうと思います。私はむしろ青年課と言った方がいいと思います。それで、「悩むよりまず相談に一走り」というようなポスターがかかっておりますけれども、そのポスターの絵というのは、警視庁の絵ですけれども、どういう画が書いてあるかといえば、金ボタンをかけたかわいい坊やの絵が出ておる、そういう所に十七、八のもうやくざに半分なっているような人間がおかしくて、だれも相談には来やしません。私は警視庁に、なぜ少年課を青年課に改めないのか、青年の方が問題じゃないかと私は申し上げているのですが、少年法という名前自身がおかしいと思う。もっとさかのぼれば児童憲章の児童という名前もずいぶんおかしいのです。ですから青年というのが少年とは違って少年とおとなとの間だという名称をここでもって何か作られたらどうか、青年なら青年に対処する何かがあるべきだ、十八才でも二十才でもけっこうでございますが、少し下の方を切っていただいたらどうか。大体生長加速現象がありまして早熟の現象がある、初潮などでも前は十三・七、これが一年半ぐらい早くなる、当然男の方も早くなっております。ですから下の年限を幾つにするかということが問題です。中学ぐらいのところから青年で取り扱ったらどうかと思います。それまでは少年でけっこうだと思います。 大体私はそれで申し上げることは終ったのでございますが、このごろの青年が悪くなったということなんですけれども、一体そんなに悪くなったか、私どもの調査で、特に性の問題が非常にでたらめになったというような話を聞きますけれども、これは山本宣治氏が昔大正時代、私どもが学生時代、あるいはここにおられる方々が青年でいらっしゃった時代の統計では、大学の学生の童貞率ですね、童貞を保っている人間というのがちょうど半分ぐらいで、あとはこれはみんな知っているわけなんです、買っていたのです。その当時は、いやあんなものを買うのは排泄みたいだというようなけしからぬことを言っていた時代がございました。ところがこのごろは、今の青年が悪い悪いとおっしゃる方が、あるいは早熟になって悪くなっただろうとおっしゃるけれども、これは大学の童貞率というのは大へん高いのです。八〇何パーセントが大学生でもって童貞ということは、これは大阪大学の朝山新一教授が綿密な調査をしております。童貞であることがいいか悪いかそれは別といたしまして、童貞であるのが望ましいとすれば、これなんかでも、相当こんなのは客観的に出るデータの一つではないかと思います。このごろは売春婦を買いましても、感心なことにその反省を求めますと、そのときは私は愛情があったというようなことを言う、大へんぬけぬけとした言いぐさのようでありますけれども、相手の女の人権を尊重しようという気持なのだと思ってとってやれば、なかなかうまいことを言うものだと思います。大へんその点は近ごろの大学生というものは、りっぱになってきております。それから単にそういう接する接しないの問題ではなくて、このアウトレットの回数、放出の回数、性をどのぐらいにはけておるかというような回数も、男女共学制になりましたようなせいですか、昔よりも早熟でありながらそういうふうにエネルギーを放出しないで済んでいるようであります。詳しくは朝山新一氏の調査の方を直接にごらんになればいいと思いますが、これはほんの性に関することだけでございますけれども、そう単純に悪くなった悪くなったと統計面には出ておりますけれども、いい面も積極的な面も合わせて考慮していただきたい。そうして失敗をしたんだ、よくなろうと思ったけれども、ぐれて失敗した、学校の成績で一番をとろうと思ったが、五番に落ちたので、ぐれちゃったんだという、そういう子供たちを治療してやる、救ってやるという態度というのが、おとなたちのとってやるべき一番同情のある、将来のある者に成功を体験させてやるためのいい方法ではないか、そういう心がまえが一番大事じゃないかと、私はそう思っております。 時間が参りましたので、これで一応終ります。
○理事(後藤義隆君) どうもありがとうございました。 それでは次に、映倫管理委員会青少年映画審議会副委員長の関野嘉雄君にお願いいたします。
○参考人(関野嘉雄君) 関野でございます。私は私の専門といたしております文化財と青少年との関係の点につきまして考えておりますことの一端を申し上げたいと思います。 このごろ、ことに映画その他のいわゆるマス・コミ文化財が青少年の非行を誘発する重大な要因になっているという意見が活発になってきておりますけれども、この問題につきましては、昔から完全に対立した二つの見解が今日まで行われておるわけでございます。一般の人々の場合におきましては、映画その他が青少年を悪くする非常に重大な要因になっているという主張が絶えず繰り返されてさております。ところがこれに対しまして、主として学界関係の見解でございますけれども、こちらの方ではそういうマスコミ文化財と青少年の非行との間には、ほとんど何らの連関がないという意見がこれもまた昔から決定的な状態になっていると私は考えます。 〔理事後藤義隆君退席、委員長着席〕 でこの完全に相反した見解がずっと展開されておるわけでございますが、私ども今この問題についていろいろ実験的な研究調査を行なっておるわけでございますけれども、私個人の見解を申し上げますと、映画その他のマスコミ文化財が青少年の非行に全く関係がないと言い切ることは、かなり困難のように思いますけれども、しかしこれが重大な要因になっているという言い方には、私は非常な疑問を惑ずるものでございます。でこれについて現実に、たとえば映画を見た結果としてかくかくの非行を犯した、かくかくの犯罪を行なったというような事例かいろいろと公表されておりますけれども、しかし実際問題として、その間の必然的なつながりを立証するだけの確実なデータに基いているわけではどうもないように私は考えます。かつてこれは関係方面から発表された資料の一つでございますけれども、たとえば「忠臣蔵」という映画を見て窃盗を働いたという報告が出ております。私は「忠臣蔵」を見たことが窃盗を働くどういう理由になるのか全然想像がつきません。それからまた「地獄門」という映画を見て放火の罪を犯したという事例がございます。なるほど「地獄門」の映画の中に展開されるあの炎々と燃えさかる光景を見て興奮するということはあるかもしれませんけれども、しかし、その映画の中に火災の場面があったかゆえに放火するというようなことになりますと、映画の中ではそういう火災などの場面を扱ってはいけないということになりかねないと思います。「地獄門」の火災場面を見た青少年が何十万、何百万あるかわからないんでございますが、そのうちのたった一人がその場面を見て興奮して、そのほかの原因もからまって放火したということもあるいはあるかもしれませんが、それなるがゆえに「地獄円」のあの炎上の場面が青少年の非行を誘発したという言い方は、私はきわめて疑問だと考えるわけでございます。あるいはまた「ロビンソン・クルーソー」や「トム・ソーヤーの冒険」などを読んで子供たちが舟をあやつってどっか小さな島へ飛び出していってしまうというようなことが、やはり非行の事例にされておりますけれども、こうなって参りますと、受け取る青少年の側の問題でありまして、その原作の「ロビンソン・クルーソー」や「トム・ソーヤーの冒険」の責任ではないと私は考えるわけでございます。でこういうふうに考えて参りますと、もちろん映画というもの、あるいは映画・テレビその他のマスコミ文化財というものが、青少年たちの社会環境の一端を形作っております以上、青少年の非行なり青少年の不良化なりというものと全く関係を持たないということは確かに言えないと思いますし、ことに非常に刺激の強いものを数しげく見るということによりますと、だんだんいわゆる非行への傾斜が強まってくるというおそれがないではないと私も考えますけれども、しかし一般的に申しますれば、ことにノーマルな青少年の場合について考えますと、映画その他のマスコミ文化財の役割というものは、どんなに高く買ったって、一つの導火線か、せいぜい導火線に火をつけるマッチの程度以上には出ないのだというふうに私どもは考えます。ほかに何にも原因がなくて、そういうマスコミ文化財を見たり聞いたり読んだりしたために非行を働いたというような事例は、ほとんど存在しないというふうに私どもは考えております。現にいろいろな事例がございましても、たとえば一カ月か二カ月ほど前に東京の大新聞に載せられておりました関係方面の調査資料を見ましても、非行少年六万何千人のうちで、映画によってある非行を犯したということを一応自供したといわれる青少年の数は二百何十名であったと思います。二百何十名でも私はないにこしたことはないのでありますが、六万何千人のうちでたった二百何十人が、警察の自供をかりにそのまま受け取るといたしましても、たったそれだけの数がそういう非行を犯したというがゆえに映画が悪いと、あるいはテレビが悪いというような言い方は、少しく早計に過ぎはしないかと思いますし、先ほど申しましたように、何十万、何百万の青少年が同じ映画を、同じテレビの番組をずっと見ているということを考えて参りますと、普通の、ノーマルな青少年の場合——性格も、生活環境もノーマルな青少年の場合におきましては、マスコミ文化財から直接に刺激されて好ましくない行為を働くということは、ほとんど実際問題としてあり得ないというふうに考えるわけでございます。 しかしそうは申しましても、私も映画その他の青少年に対する好ましくない影響が全くないとは考えておりません。しかし、それは直ちに青少年の行動の上に展開されるような姿ではなくて、映画を見たからすぐ窃盗を働いたとか、性的犯罪を犯したとか、そういうような行動の上にすぐ現われてくるような影響の仕方ではなくして、映画をあるいはテレビの番組を繰り返し繰り返し見ていく間に、おのずから青少年の心の中に積もり積もってくる影響、そういう外面的な影響よりも、内面的な影響の方がはるかに大きいし、はるかに重要視する必要があるということを考えるわけであります。好ましくない要素を持った映画やテレビの番組、そういうものは私はそんなにたくさんはないと思いますけれども、そういうものばかりをかりに一生懸命に続けて見ていくという青少年がいたとしたら、これは確かに一つの大きな問題が出てくるように思うわけでございます。で、こういう文化財についての対策というものは、そういう青少年に対する内需的影響の重要性というものを考えて、その面から具体的な方策を考えていくというのが一番適切ないき方ではないかと考えます。 こうなりますと、これはすでに教育的な対策であり、教育的な指導であるということになってくるわけでございます。私はこういう教育的な指導、教育的な対策というものが、こういう文化財関係の面では最も重要であるということを痛切に感ずるわけでございます。ただ、もちろん先ほどからも申しておりますように、今日の映画その他のマスコミ文化財の現状が、すべて完全に健全であるということはもちろん言えません。中には青少年に好ましくない影響を与えるおそれがあるというふうに見られるものもきわめて数は少ないと思いますけれども、存在し得る。また班に存在もしているかに見えるわけでございます。こういうものにつきましては、いわゆる教育的指導の域を越えまして、さらに幅の広い社会的対策もまた必要になるということは当然考えられるわけでございます。こういう考え方に立脚いたしまして、今日世界大ていの国におきまして映画に関する青少年の観覧制限ということを実施しているわけでございますが、ただこの青少年に対する映画の観覧制限の実施にいたしましても、二つのタイプが現に見られるわけでございます。一つは、映画というのは原則的に青少年に見せるべきではないのだ、ただそのうち青少年に見せても差しつかえないと思われるもの、あるいは青少年に積極的に見せたいと思うものだけを青少年に見せることにしようという、私はこれを一部容認的な行き方と申しておりますが、そういう考え方と、もう一つは、逆に大部分の映画というものは原則として青少年に見せて差しつかえないのだ、ただ、そのうちの一部に青少年にふさわしくないものが出てくる場合があるから、これについては観覧の制限を行なう必要があるという考え方でございます。これを私は一部制限的な行き方と申しておりますけれども、世界各国の通例を見ますと、一部容認の行き方をとっておりますのはわずか一つか二つの国でありまして、あと大部分は一部制限、すなわち原則として映画は青少年に見せて差しつかえないものである、そういう考え方とっているようでございます。現に日本で映倫が行なっております、いわゆる十八才未満の青少年の観覧遠慮を望んでおります成人向きの指定という行き方も、これは一部制限の考え方に従っていることは申し上げるまでもないかと存ずるわけでございます。 こういうふうに好ましくない映画については年令別に青少年の観覧制限を考慮し実施していくという必要が一応あると私は考えておりますが、しかしもちろんこれだけで対策が講ぜられるわけではございません。映画全体をより健全なものに持っていくという仕事、さらに進んで積極的に青少年に見せるべき映画の生産と上映というものを大いに奨励するという行き方、さらに一切の根本といたしまして、青少年に映画その他のマスコミ文化財を批判的に受け入れる態度、能力というものを育成することに重点を置くという行き方、そういうものがすべて並行的に総合されて参りまするところに初めて、青少年についてのマスコミ文化財に対する指導の行き方が具体的に現われてくるというふうに考えるわけでございます。 こういうことにつきまして、いわゆる立法措置をもってこれに当たるかどうかということにつきましては、議論のあるところでございまして、現に世界各国の例を見ましても、法律に基づいて実施している国があり、また法律によらずして実施している国もあるわけであります。これにつきましてはいろいろと意見があり得るわけでございますから、私個人といたしましては、こういう問題に関しましては、業界の自粛と一般社会のこれに対する協力、激励という二つの行き方や中心として進むべきではないかというふうに考えているわけでございまして、私はマスコミ文化財が青少年の非行を直接誘発するということには十分な根拠がないと考える立場を申し上げたわけでございますが、しかしさればと申しまして、これも先ほど申しましたように、現実の映画の世界には、あるいは現実のマスコミ文化財の全体の世界の中には、必ずしも青少年にそのまま与えることを適当としないものが若干あるということは確かでありまして、そういうものを業界自体においてなお一そう健全化していくような努力がさらに積極的に進められるように持っていくということがきわめて大事だというふうに考えますと同時に、一般の社会の人人がその業界と一体的になって、これをある場合には指導し、激励し、叱咤し、これと協力して一緒になってよりよき文化財が生産され、配給されるように進めていくというふうな行き方が最も望ましいものだと考える次第でございます。これにつきまして一応私の考えておりますことの一端を申し上げた次第でございます。
○委員長(大川光三君) ありがとうございました。 それでは次に保護司をしておられます橋本政東君にお願いをいたします。
○参考人(橋本政東君) 橋本でございます。私は私に与えられました調査項目の三つの点について、逐次に私の考えを申し上げます。 その前にこれは先生方でなく、一般国民にぜひPRしていかなければならないと思うことを最初に申し上げます。それは犯罪者予防更生法の第一条に、犯罪予防活動の助長それから社会の保護、個人及び公共の福祉増進を目的とするためには、すべての国民は前項の目的達成に、「その地位と能力に応じ、それぞれ応分の寄与をするように努めなければならない。」ということを規定しております。このことは私ども保護関係に従事しておる者は知らない者はおりませんが、一般の人は知りません。そこでこの点を、つまり私はかようなことを申し上げることは、犯罪の予防、すなわちその犯罪者の予定更生ということは、社会の連帯責任だということを申し上げたいからであります。これが根本的な対策の中心をなすものであろうと私は常にさように考えております。 それでは調査項目の第一、「少年犯罪に対する一般問題」として、(イ)の「少年犯罪特に少年の粗暴犯・凶悪犯・集団犯の増加につき考慮すべき事項」という点について、私の考えを申し上げます。これは私は二つの面から原因をながめて、その原因に対して対策を講ずればいいんじゃないかと考えるのでありまするが、それは警察やあるいは警察庁等の統計によって、その統計がどこまで信用し得るかはわからないといえばそれまででございまするが、少年の犯罪数がふえておるということは事実であるようであります。そしてそれがどこに原因があるかということを私は考えてみますると、二つの面から考えられる。一つは、少年自身の心の問題、第二は、社会的な問題と思うのであります。その心の問題というのは、最近における家庭及び学校、社会、三つの教育の場における子供たちの受けておる教育でありまするが、一番大事なものはつまり道徳律の低下であります。外国ではキリスト教団であろうと、マホメット救国であろうと、子供のときから神様にお祈りをして御飯をいただくとか、やすむとかいうようなことをいたしまするが、日本は仏教国といい、あるいは神教といい、しながら、大よそ仏け様にお詣りしてあるいは神様にお詣りをして御飯をいただくとか、やすむとかいうようなことはほとんど、まあないことはありませんが、ない。こういう点につきましては、私はもともとから日本人の道徳律はそう高くない、かように思っておったわけですが、最近、つまり終戦後においては特にそれが激しいのではないかという気がいたします。それに関連しまして、結局、誤った自由主義と申しまするか、そういう教育が行なわれて自己中心主義的な生活、これが今日の子供のすべてを支配しておるということであります。 次は、国民としての指導理念が、子供たちに与えられていない。かようなことを申し上げますると、きわめて私は封建的に見えまするが、たとえば教育勅語でございます。教育勅語の中にあります通り、親に不孝しろ、夫婦はけんかしろ、兄弟は仲悪くしろという教えはないはずであります。そのことは、いかなる時代であろうとも、決して悪い指導理念ではないはず。そういったものが現在の子供たちには与えられていない。つまり国民としての指導理念が欠除しておる。バツク・ボーンがない。そこで結局子供たちは、さっき先生からのお話しもありましたが、弱い。弱いから強くなりたい、その強さを、つまり劣等感から、何かの形において人に認めさせようというところに犯罪が起こるということも事実でございまするが、これを逆の方面から見まして、英雄主義という考え方が全然ない、こういうところに私は心の問題がある。 次は、自信の喪失。そういったことから青少年が自信を喪失して、これは二、三年前に白鴎高校で全生徒にアンケートをとって調査をされた実例がありますが、結論は自信の喪失であります。そういったことが青少年の犯罪の増加傾向に対する心の問題。 次は社全的原因でありますが、御承知の通り、終戦後は非常に男女関係が解放され過ぎておる。これがため青少年問題として取り上げられておる刑法犯に類する犯罪の約七割というものが、婦人に関する犯罪であります。この点は男女関係があまりに解放され過ぎておる。これは社会的現象、それからマスコミの関係でございまするが、これは専門家の御意見もございましたし、あとで少し触れさせていただきますが、これは関係なしとは私は申し上げられない。次は遊び場の増加でございます。終戦後における遊び場が実に多過ぎる、こういう点が社会的原因。それからもう一つは、物価が高い。従いまして、多少の小づかいでは間に合わない、こういうことも社会的原因の一つであろうと思います。次は、これは最も大事なことでありますが、犯罪に対する処分の温情過多であります。最近における青少年犯罪に対しては、温情過多のきらいがあります。この点はますます青少年を不良化に導くという考え方を私は持っております。要するに、日本には現在事由があり過ぎるということでございます。これが一つの社会的原因ではないかと、かように考えます。 そこでこれらに対する対策はどうあるべきかということでございまするが、第一の心の問題につきましては、これは何といいましても教育以外にはなかろうかと、つまり学校、家庭、社会の三つの教育の場における教育、これが一番大事なことであろうと思います。で、社会的原因につきましては、それぞれ専門家によって社会的な政府の施策を施されればよろしいと、かように私は考えます。 第二は(ロ)の「保護処分優先主義につき考慮すべき事項。」「刑事処分の範囲を拡大する必要性の有無について」ということであります。私は結果的に申しますると、これは非常に大へんむずかしい問題でありまするが、刑事処分の範囲を拡大する必要はないと思います。ただし、現在の家庭裁判所の機構と処遇方針は、これは大いに変更されねばならないと思います。その理由の第一といたしましては、現実にここにも送っていただきました統計にもございますが、青少年が起こしておる犯罪数というものは、いわゆる成人の犯罪数に比べますと非常に多いのです。ところがこの青少年が成年に達しますと、犯罪が減るのです。これは統計上明らかであります。で、少年自身に尋ねてみます。そうしますと、こういうことを言うんです。まだ今やっておっても前科者にならない、だから今のうちやるんだと、これはほとんどの不良少年が言うことであって、二十を過ぎたらそういうばかなことはしないと言う、これが実態であります。実際問題としてこの統計をごらんになれば、もう、すぐわかることであります。同時にその二十を過ぎますと、この子供たちはやはり心の成長を遂げておりますから、つまりむちゃなことはしなくなる、それが一つ。それからもう一つ、この青少年の刑事処分を拡大して、どんどん刑務所に入れたりすることは国家の経済的見地から不適当だということは、御承知の通り、一人の人間を刑務所に収容いたしますと、約八万円から十万円経費がかかります。これは大へんな経費になります。それで現在は保護処分という制度で国家的な経費を安くしようということも考えられると思うのであります。 第二の、家庭裁判所の機構と処分方針を変更すべき必要があるということは、これも統計をごらんになればわかるし、これはことしの十月に福原保護局長が、「自由と正義」という弁護士会の雑誌に出している統計をちょっと引用いたしますが、刑法犯の該当少年で、家庭裁判所で不処分になったパーセンテージでございますが、昭和二十七年に七六%、二十八年が八三%、二十九年が八八%、三十年が七三%、三十一年が七一%、つまり七割以上というものが家庭裁判所で不処分になってしまっている。この事実は、多少なことをやってもパーになる、だから一向差しつかえないという考え方を、少年の心の中へ植えつけている結果になるのであります。そこで、家庭裁判所の処分方針というものは、これは考え直さなければならない。つまり、保護処分の優先主義の行き過ぎであるという感じがいたします。で、実際不良少年に当たってみますると、練鑑まではまだいい、練鑑まではまだいいが、少年院はあまり好ましくない。しかし少年院でも、前科にはならないからまだいいというのが、不良少年の多くの者の言う言葉であります。それからこれに対しましては、家庭の両親、兄弟等がいけない。とにかく前科にならなければいいということになれてしまう。そのために家庭における指導といいますか、しつけといいますか、そういうものがだんだんルーズになってくるという実態があります。さらにこの対策としても、たとえば隔離教育の問題でございまするけれども、刑務所に入れれば非常に費用がかかる。しからば野放しにしておくかどうかということ、つまり三回、四回つかまって、家庭裁判所へ行って不処分になる。これは結局もっと大きな不良性を養っていく結果になってくるのでございまして、言葉をかえますと、前科者、三回不処分になった者は三回の前科ということが考えられるのです。前科ということは、刑務所へ行った者を前科というなら、これは別でございますが、そういう意味ではなく、だんだん不良性の前科ということが考えられると思うのです。そこで、これは私に言わせますと、あとでちょっと申し上げたいと思うのですが、不良少年の不良性というものは、これは伝染病だという気がいたします。これはあとの場合に申し上げます。そこで、こういう連中に大体温情過ぎる、過多である。そこで心理的圧迫を多少やはり加えなければいけない。たとえば十の悪いことをした場合に、この少年を指導するのに、十の心理的圧迫もしくはその他の愛情でもけっこうですが、加えましてこれを押える。今度は十五の悪いことをしたときに、十五の力をもってこれを押えないとおさまらないわけであります。ところが、十のときに十五の圧力を加えて押えておきますと、今度十五の悪いことをする芽が出てこない、こういう事実を考えなければいけないと思うのであります。 次は、(ハ)の「非行少年の早期発見対策」でありますが、これは何といいましても家庭が一番大事、家庭の保護者が一番注意しなければいけないと思うのでありますが、子供たちの起居、動作、服装、持ち物、こういう関係等を見ておりますとこれはどういう心の動き方を、しているかということはすぐわかるのであります。たとえぽ郵便、電話に非常に敏感になる。これはもう確かに何かがあるということがわかる。こういうことは家庭の人たちが注意をすれば、非行少年の早期発見ということは、そうむずかしいということではない。それをほうっておくからこそ、もうだめになっていくのであります。この問題につきましては、学校でも同じことであります。学校の先生が注意をして見て下されば、そういうことはすぐにわかるのであります。ところが、学校というものは、どうも面子にこだわって、何か自分の学校の生徒が悪いことをしたということになりますると、これは警察にも言わなければ、だれにも言わないで、つまりくさいものにふたをして、自分のところで始末をしよう、ところが、その始末は実際問題としてしかねる。こういうのは、学校がちょっと考え直さなければいけない。それからもう一つは、校外補導の強化であります。こういう点は早期発見に私は役立つと思います。 次は、各警察署単位に青少年補導連絡会というのができております。この補導連絡会の活用ということを考えなければいけないと思いまするが、実際問題として、私もその委員の一人でございますが、あの青少年補導連絡会の委員というのに権限がないんです。法律上の権限が何もないにかかわらず、補導しろということになりますると、これはもうとんでもない問題であって、私は最初から反対しているのでございますが、もうすでにできてしまったものはやむを得ないと思います。もし、その補導連絡会を活用するとすれば権限をもう少し与えなければいけない、かように私は考えるのであります。そして町で私どもが、あるいは警察と協力して補導いたしたという場合にも、これは警察が手帳につけて、あるいは学校に、あるいは父兄に、あるいは補導連絡会の委員に、それぞれ可能な範囲で通報して、そうして導いてやるという方法をとらないなら、補導連結会が何の意味もなさない、私はかように思う。ただし、その場合注意しなければならぬことは、警察の手先になるということが、これは困ることであります。そういうきらいがないわけではありません。 その次に、もう一つこれは警察の問題でありまするが、たとえば本庁でどういう指示がしてあるかわかりませんが、私どもが預っている子供が、かりに家出をした。その場合に、私は保護司として捜索を依頼する。この場合、雇い主もしくはその家族から申し出ないと捜索願いを受理しない。これが事件を深く大きくしていく一つの原因である。ところが雇い主は、悪いことをして逃げた者を、わざわざ捜索願いまで出して警察に行って届出をするようなばかはおりません。あんな者はどうでもいいというのが普通でございます。そこで担当保護司が捜索願いを出したら、当然これを取り上げて、警察では直ちに捜索をするというような手段を講ずる必要があるんじゃないかということであります。 次は、少年相談でございますが、先ほども出ておりましたけれども、第一、警察署のあのいかめしい門がまえを通って行って、また大ていの少年係というのは二階のすみの方にありますが、そんな所へとことこ行って、うちの子供はどうでしょうといって相談し得るお母さんもお父さんもおりませんければ、本人もおりません。その相談室が一般犯罪でも何でも一緒の所へ持ってきて、しかったりなだめたりして調べている。そんな所で身上調査ができるものではありません。私も署長と話したのでありますが、少年相談所と少年調室は別にしてくれ、そうしなければ人が来ない、できれば警察のそとにしてもらいたい。警察の門をくぐるということはあまり好まない。だからできれば警察のそとにしてくれということを言ったことがありますが、こういう点を十分研究されれば、不良少年の早期発見ということは、そうむずかしい問題ではない、かように思います。 次は、「科学的調査研究機関の充実」という問題でありますが、これは私の専門でございませんけれども、私どもが常に思いますることは、各関係機関に、この科学調査機関を充実される必要があるということは、これはあとでも触れますけれども、実際必要でございます。どういうものが必要であるかということは、私の専門外でございますから、よくわかりませんけれども、たとえばさっきお話しに出ておりましたカウンセリング、この研究がもし行なわれているとすれば、そういった関係機関に専門家を置いておくということ、あるいはグリュックの犯罪予測理論の研究に基づいた調査、そういったものもあってしかるべきだろうと思います。さらに私はもう一つ一番大事なことは、どこの学校にも校医というものがおります。校医というものは、それは腹痛を起した、あるいはけがをしたというときにめんどうをみるのが校医でございまして、その子供の心の中でどういう動き方をしているのかというのを治療する校医はおりません。この点が日本で一番欠けているんじゃないか。従いまして、科学的調査研究機関を充実する必要があるとすれば、私は学佼にそういうものを置くべきである、かように考えます。 第二は、非行少年の矯正、補導に関する問題、これは三番目になっているのでございますが、これについて意見を申し上げます。この施設の強化、充実につき考慮すべき問題でありますが、これはさっき申し上げましたが、科学的調査機関を設置するということ、たとえば鑑別所において鑑別いたしまするが、その性格やIQというようなものが出て参ります。ところが大ていの者はそうでございますが、鑑別所に収容されますると、いわゆる何と申しまするか、拘禁反応を呈します。拘禁されてその拘禁反応を呈して、静かになってから鑑別するのではございますけれども、そこに現われる鑑別結果が必ずしもだれにも、信用され適用される鑑別結果であるかどうかわからない。私はいつもそう思う。そこで科学的な調査研究ということは各部門に持っておって、各部門で研究したものを総合して初めてその少年なり犯罪者の性格なり、あるいは指導方針なりIQなどを査定するのが正しいのじゃないか、かように思うのです。 それからもう一つ、私どもは子供たちを預かっておりまして絶えず思いますることは、この保護観察の対象外の人間でございます。これは鑑別結果がきわめて十分でないために、すでに、つまり医者で言えばさじを投げていい病人を私どもに預ける。これは結局科学的調査機能が不十分であるから、たとえば料神病質の者がおった、これはわからないで、これをそのまま保護観察処分として私どもの方に回ってくる。ところが、手をかけてめんどう見ますと、どうもおかしい。調べるとまさに気違いの一歩手前じゃないかということがわかってきます。そこで町の精神医その他に見せて調査いたしますと、これは精神病者だということになってくる、これはわれわれの保護観察対象の圏外であって、これは別な方法を講ずべきものである。こういうものが科学的調査機能が十分にできておったら、私どもに来る前に、すでに処置されるということになるわけであります。 それから各関係機関は個々には十二分に機能を発揮しておりますが、縦横の連絡が不十分なために、非常に工合が悪い。たとえば警察から検察庁へいく、検察庁から家庭裁判所、家庭裁判所から今度は得た結果に応じて少年院なり、あるいは観察所に回るわけでございまするが、この縦横の連絡が不十分なために、すみやかに処置し得べきものが処置されないでおるという事実はたくさんございます。 次は、アフター・ケアの施設ということが私は大事だと思うのです。これはつまりこういうことであります。少年の場合におきましても、あるいは青年の場合でもそうでございますが、保護観察処分になって満二十歳まで、もし満二十歳に満たない場合は一年間ということになっております。ところが、人間の精神をただき直すということ、あるいは社会に適応させるということは、半年や一年でできるものではありません。そんな簡単にできるものなら何でもない。ところが、非常にきわめて短い期間において保護観察期間が満了いたしますると、これが満了で釈放されておるといいますか、つまり野放しになるわけです。ところが社会適応性をまだ持っていない、つまり肺結核の患者がもうよかろうといって社会に出て実際なおっていなかったのと同じことです。これを収容する、あるいは指導する施設は全然日本にはございません。おとなの場合もあり得る。私は少年に対して、虞犯少年というものがありとせば、おとなに虞犯成人というものがあって、この虞犯成人の処置はだれが持っておるか、一つも持っていない。こういうところに犯罪が行なわれる、私はかように考える。これに対しては、何らかの施設を作る必要がある。たとえば医療の問題にしましても、知能問題、保安、たとえば保安処分というようなことも一応ここで考えてしかるべきだろう、かように考えるのであります。 そうして収容期間の問題に触れて参りますが、さっき出し上げたように、半年や一年で人間をため直すというようなことはできません。これは十分一つ研究される必要がある。たとえば少年法によりますと、普通は二十才、あるいは大ていの場合一年きり収容しません。一年たちますと仮釈放、仮退院、特に悪い場合に二十三才、あるいは病気その他の理由によって二十六才まで置くことができるという少年法の規定はございまするが、実例はあまりございません。そこでこの収容期間というものはもう一考する必要があるのではないかと私は考えております。 次は、収容少年の処遇、特に保健衛生云々という収容中の待遇についてでございます。これはどうも私に言わせますと、よ過ぎる、まるきりこれはホテルのような感じです。ごらんになればわかります。昔はあんなではなかった。これはアメリカが占領して囚人にも野球をさせろ、水泳をさせろ、野球しないと怒られる、現にそういう実例がたくさんございます。そんなことからつまり自由主義が少し過ぎたのではないかと思いますが、これはもうりっぱなものです。たとえばきちょうめんな生活はさせておりますけれども、四時なら四時、五時なら五時という時間がきまして、少し成績がいいと、八畳に三人ぐらいの者がまるで宿屋に泊っているようなことで、寝ころんで雑誌を読むことも自由でございます。それは至れり尽せりです。待避というものは、心理圧迫をしなければあんなところへ行ったってへとも思わない、喜んでおります。貧しい家庭の子供だったらはるかにいい生活でございましょう。大名とこじきの違いぐらいといっても差しつかえない。それだけりっぱなものです。 次は、「施設内における矯正教育、補導教育の実態とその効果について考慮すべき事項」でありますが、これは実際問題として少年院に入れる方がいいという考え方と、入れない方がいいという考えががございまするが、私の場合は入れてもいいが、教育の仕方を変えてもらいたいということ、特に職能検査をしておいて、それに適合する職業をつけなければいけない、社会に出てきて役に立たない、何がために少年院に収容されたか、ことに心の教育なんというものはまず少ない、こういう点はよほど考えなければいけない。たとえば職業なんかでも、長い期間収容できませんから、すぐに覚えられる職業を教える、たとえば床屋であるとか、洗濯屋であるとか、自動車の運転であるとかいうことなら簡単に覚えられる。印刷であるとか織物であるというようなものをやらしたって、短い収容期間の者には役に立ちません。現に刑務所からおれは三年間印刷やっていたのだ、大したものだ、刑務所でもほめて出します。それを印刷会社に入れますると、てんで役に立たない。ということは、町の印刷工場というものは、その工場のしきたりもありましょうが、それに適応する機械を使っているのであります。たとえば刑務所なんかでは、それは至れり尽せりの機械を備えて教育しております。それが町へ出てきたって役に立ちません。これが実態であります。そういう点もよほど研究されなければならないと、私はかように思います。ことにさっき申しました人間教育、これも自由であり過ぎます。施設内の教育は自由であり過ぎる。本人が圧迫感を感じない、これではもうてんで反省ということはあり得ない、精神教育が足りないということが私は言いたいことであります。かつて私はある特少へ行きまして、分類課長に会っていろいろ話しましたが、どうですか、お宅から出た者はみんなよくなって出ますかという質問、私がそういう質問をしたのです。出てよくなるのは不思議ですよ、ここへきてよくなるというのは間違いで、出ていっていいのは、ここへきたことが間違っているのだ、こういう言い方なんです。これも一つの事実だ、真理だと私は思うのです。 それから収容者の分類でございまするが、よくいわれる監獄太郎、これはよほど注意して見ないと分類できない、とにかく中にいるときは模範少年である。出てきたあくる日から悪人であるのを監獄太郎といいます。とにかくいるときは上手にやる、りっぱなものです。それを見破る力が施設の中にない、出てきたあくる日から悪人です。こういうところがやはり教育の仕方が悪い。 それからもう一つは、初めて入った者と何べんも入った者と厳然と区分けをして教育するということ、とにかく少年院へ行きますと悪いことばかり覚えてくる。いいことは覚えてきません。ですから初入者と再入者とは接触の機会を与えないようにする教育が必要であるということであります。 次は、仮退院をしたり、あるいは刑務所から出てきたりした場合の問題がここに書いてございますが、これはひもをいつでもつけてくる。出てきたやつはそとへ出て必ずひもをたぐってやっている。従って再犯が非常に多いということであります。これを何とか方法を講じてひもを断ち切る、もう出ていったら、お前たち交際相ならぬぞという何か手段を講じられないものかということでございます。 なお、第三番目にあります「退院、仮退院の際における少年の社会復帰、再犯防止についての問題でありますが、これは私に言わせますると、さっき申し上げた科学的調査機関というものを少年院などそういうところに置いておいて、たとえばグリュックの犯罪予測機構、あれを活用して調査して見る。これがもし再犯の予測が当った部分があるとすれば、そういったものを観察所なり、あるいはわれわれ保護司に流してくれる、そこまでの手続をしてくれないと、実際の補導方針を誤るということになるのであります。さらにこれは私に言わせますると、施設内における教育の状態、成績、生活記録をきちょうめんに報告してほしい。観察所なりあるいは保護司その他に。まあ早いことを言えば考課長ですね、一種の勤務予定、そいつをつけて回すということになりますると、出てきたものを指導する方針がはっきりここに立つ。この考課表は全然ついて参りません、私どもには。こういう点に欠陥がある、かように考えます。 次は(ホ)の問題で、「保護観察所の活動の強化充実につき考慮すべき事項」でございます。これは私はもう絶えず言うことでありますが、現在保護観察所というものはなっていません。全然お話しのほかです。たとえば東京の保護観察所をごらんになればわかりますが、机と机が接して、こういう格好で事務をとっておる。そこに対象者がやってきて、ここで今後の指導方針の話し合いをする。電話はかかってくる、お客さんは来る、そんなところで一生これからどうしようか、とにかく刑務所なりあるいは少年院から出てきて、そうして一生の社会復帰の第一歩をやろうというのに、そんなところで人間と人間の触れ合いなんてできっこない。あの狭いごたごたしたところで……。第一、私はその点において保護観察所の建物と設備を全然改善する必要があると思います。第一、あそこに朝早くから呼び出されてきておる対象者の何十人というものが、夏はいいとしましても、冬、火ばち一つない、たった一つの薄暗い電灯のもとにふるえながら待っておる。寒いからです、こわいからじゃない。そこに何十人も待っておる。しかも朝っぱらから呼び出しておいて、昼飯を食う傷所もなければ、パン一つ売っていない。こういうところに呼び出しておいて、子供たちによくなれといっても、それは無理です。私どもが観察所に行きましても、控室もございません。こういう施設であの対象者を何千人も取り扱っておるということ自体が間違っておる。第一、観察官の数が足りません。今、東京の観察官はおそらく一人で三百人ぐらいの人間を持っております。一つの区で保護司が大体八十人ないし百人おりましょうか。その八十人ないし百人の保護司を一人の観察官が指導鞭撻しておいて、そうしてその保護司が持っておる対象者というものは、約三百人おります。それは全然できるものじゃありません。保護観察官はケース・ワーカーでございますから、この対象者をいかに善導して社会に適応させるかということが、任務であるはずであります。にもかかわらず、まるで事務官です。封筒書きをしなければならん。そんなことでは観察官の任務は何もできません。従って私は観察官はすみやかに増員する必要があると思います。同時に、観察官を増員していて、そういうむだな封筒書きや、何かをさせない。つまりケースワーカーとして向上させるためには、どんどん研修し勉強させる、こういうことであると存じます。 観察所の建物の設備は、むろんそういうことでありますし、それからもう一つ、場所を選んでいただきたい。これはあとから出ることでありますが、東京の保護観察所は千駄ケ谷にある。あの千駄ケ谷をごらんになればわかりますが、右も左も温泉マークです。あそこへ刑務所から、あるいは少年院から出てきた子供たちが行くわけでございます。いい影響があるわけはございません。手を組んで歩く男女ばかりです。全くああいう場所を選んだということはどうかと思います。 それから今度は観察所の機動力です。たとえば私どもも何べんも経験がございますが、子供が逃走します、それを直ちに観察所に報告する。それを私どもは警察の力を憤りて捜索する。ようやく発見されたとしましても、私どもには逮捕権がございません。従って観察所に通告するだけでございます。観察所に通知しましても、その観察官が一人で三百何件というものを持っておりますから、すぐに飛んできてつつかまえるということもできない、自動車一つございません。そんをなことでは、一人で何百人という対象者を持つということ自体が間違っておる、観察所に機動力を持たせるということ、さらにたとえば、東京あるい北海道のようなところでは、絶えず言われることでございますが、観察所の出張所もしくは支所を置くべきであるということ、東京のこの広いところに、千駄ケ谷にたった一カ所でございます。しかもああいう狭い所、これでは観察機能を十分に発揮するということは不可能でございます。 それともう一つは、先ほど申し上げました科学的な調査機関を設置するということでございます。そうして、私どもの手に来た対象者が、これははたして保護観察の対象圏内のものか、すでにそよりも一歩越えた事症者であるかということを見きわめる必要がある、かように思うのであります。同時にこれは観察所に対する予算をもっと増額してやらなければならない、私ども自身が、ケース・ワーカーとしての勉強を絶えずしなければなりませんが、これに対して全然予算はありません。これはあとの保護司の問題につきまして申し上げまするが、こういうものに対して、観察所は何らの予算も出してくれない、観察費を持っていないからです。それから、あるところへ就職させます。そこで物をかっぱらうとかあるいは金を取るかして逃げます、この場合補償ができない、これは雇用損害補償費が一件最高一万円であります。そんなことで雇い主を探せ、いや、職親がどうだと言いますが、これは喜んで雇ってくれる人はありません。そういう実情でございますから、こういう点につきましては、政府はすみやかに予算の増額をされ、損害賠償あるいは援護資金というものを多分にお使いになる必要があるのではないか、かように考えます。 次は、(へ)の少年保護司、それから児童福祉司の補導活動につき、考慮すべき事項でございまするが、これにつきましては、まず第一に私申し上げたいことは、待遇を改善していただきたいということであります。私どもが実費弁償金という名前のもとに弁償金をもらっておりますが、少年一件につき百九十円でございます。環境調査調整費といいまして、たとえば、今度こういうものを刑務所から出すがどうだ、これはうちへ引き取っていいか、返していいか、こういう職業につけていいかということを問い合わせてくる、それを調査に行くのでございます。それが一件九十円でございます。今の時代に九十円でその調査ができるかということです。はなはだしいのは、七回、八回調査に出かけます。それも自分の近所ならいいが、遥かによその遠い所まで調査に行かなければならない場合が非常にあるのです。あるいはまた、施設に面会に行かなければならぬ、もう出るが、はたして本人がどんな感情を持っているか、何がしたいかということはわかりません。従って、面接に行って、お前は何をしたいのだ、実際お前はあのおじさんのところに帰っていいのか、そういうことも間かなければならぬ、その費用さえくれません、全然ないのです。こういうことで保護司を使う、一体政府は甘え過ぎると言いたいのです。これは、私どもは給料をくれということは絶対に言いません。私どもは喜んで社会に奉仕するのでございます。従いまして給料は一銭もいただきたくない、給料をもらってやるようなら、やらぬ方がいいと言いたいくらいでございます。ところが、所要の経費は思してもらわないと困る。それを現在、実費弁償金という名前で出しておる、これは実費になりましょうか、一件九十円、こんなものは実費にならない、実質ならほんとうの実費を出すべきである、それができなければ、実費弁償金の名前は変えなければいけないと私は思う。 それから、保護司会の運営資金でございます。保護司会は、各地区に八十名ないし百名の保護司が集まって、保護司会というものを持っておって、いろんな研究をしております。これに対しては全然運営資金が出ません。私どもがみずから会費を出して運営しておる。これが実質であります。こういったものを保護観察所に対して政府は全然考えていないということは、まことに残念だと思います。たとえば、さっき申し上げましたが、地方の施設に面会に行く、これに対して、かりに予算がなければ、申請によって、無賃乗車券一枚くれればいい。これさえも出ない。民生委員をごらんなさい、東京では都内全都無料パスを持っております。ところが保護司をごらんなさい、それがない、民生委員というものはその近所の住民の福祉をはかるため、調査して歩くのです。電車に乗ってよそへ行く必要はない。私どもの場合、さあ逃げたとか何だとかで、絶えず歩かなければならない。にもかかわらず定期もくれない、こういう点に非常な手落ちがあるのではないか、そうしますと、単に逃げた場合でも、私どもには登見に手間がとれるわけです。非常に時間がかかるということでございます。 その次は、行過改善の中で一つの権力を一つ与えてもらわないとやれないということ。先ほど申し上げましたように、非行少年が逃走いたしました場合に、私どもには逮捕権がございません。これは御承知の通り、現行犯、人殺しをした、いや盗んでいるというときに、これを進補するということはいわゆる国民逮捕権と申しますか、日本国民の何人にも与えられておる。警案官でなくてもいいのですよ。そうでなくて逃走したというものが、どっかで発見されても、私どもは逮捕権がございませんから、どうにもならない。つまり警察なりを通じ、そして観察所を通じて家庭裁判所に請求して通告をする権利きりない。これじゃ間に合わない。これが一つの問題。 それからもう一つは、盛り場に立ち入る権利、これを一つ保護司にも与えてしかるべきだ。児童福祉司もそうだと思う。これは私どもが行ったらてんで相手にしてくれません。昔はよく警察官が、映画館なんかに警官の席というのがありましたが、今はございません。ああいうものは警察官には必要ないのかもしれませんが、私どもには特にそういう点が必要だと思います。た、とえば後楽園のスケート・リンク、あそこに行ってみますと、それは実に半分以上は学校をサボって来ておる学生でございます。あそこへ行きますと、まじめな人がその日のうちに不良になってしまう。これはひどいものです。不良少年というものは不思議なものである。非常に人見知りをしない。今会ったのが百年の知己であります。従って共犯をした場合をごらんなさい。全然然知らないものと共犯をしている。顔が今会っただけで、オッス、これだけで友達になってしまう。それだけです。そういった場合、私たちがかりに盛り場に入り得たとすれば、これは自分の対象者でも、何でも未然につかまえることができる。そういうことが私どもに与えられてない。 第二点は、保護司に対する表彰制度を大幅に活用してらいたいということであります。つまり給料をもらっておりません。これはもらわないのがいいのでございますが、いわゆる保護母法の十三条に法務大臣が表彰することを書いてございます。保護司に対して表彰をしておりますのは、まず法務大臣、それから観察所長、それから地方更生保護委員会の委員長、それから保護司今会連盟の会長、これだけでございます。この連中が謝状式ないしはす表彰をするのでございますが、それも十年たったらお前さん非常によくやったという、あるいは二十年たったらよくやった、そういうので……それから特に優秀なる保護司に対して、功労があったからといって表彰いたしますが、ただそれだけのことです。一体人間というものは、だれでもそうだと思いますが、おとなでも、子供でも同じ。勲章一つつるということを非常に嬉しがるものなんです。そして保護司を喜ばせて使うということを政府は考える必要がある。金はかかりません。表彰したって表彰状紙一枚よりも、何か勲章に類するようなものをつけてやって、お前さんよくやってくれたと言ってほめれば、喜んで、よく働きます。それをしないで、やってくれ、やってくれ、これは少し政府もひど過ぎますペただと思います。 それからもう一つ、現在の表彰制度でございますが、大体順番にやっておる。表章というものは、お前さんはこの年においてこういうりっぱないい仕事をやってくれたから表彰するのだ、来年はその人がそれ以上のことをしても表章しないで、今度はほかの人を表章する、これは個違いだと思います。来年またしてもいいわけです。一向差しつかえない。ところが順番というものがあるらしくて、そういうことをやっていく。これは私はへたな表彰のやり方だと思う。昔戦争で功労があった場合、大昔は金鵄勲章一つきりくれませんでしたが、その後は二つでも、三つでも、その功労のつど金鵄勲章をくれて、三つでも、四つでもつるした。こうしたことは一向差しつかえない。早い話が喜ばして、おだてて仕事をさせるといったことを考える方がいいのじゃないか、私はかように考えます。 次は、「少年犯罪誘発の原因とその対策に関する問題でごでざいます。このうち(イ)の分はつまりマスコミと犯罪の関係でございますが、専門家のお詰も先ほどございましたので、深く私申し上げませんが一、二の実例を申し上げます。私はマスコミと少年犯罪と担当深い関係があるという考え方のもとで申し上げまするので、あるいは食い違いが起こるかもしれません。たとえば、私どもは何百人、何万人の中に巻き込まれたたった一人のわが子ということを考えてみたい。何百万人の人間が映画を見て、そうしてわずかな三百人、五百人のものがその影響を受けて正いことをするということは、何でもないように見えますけれども、その何百万の中の悪いことをするに至ったわが子たった一人、その場合一体どういうことになるか。これを親の立場から私はこれを考えてみたい。たとえばこういうことがございました。これは四国の問題ですが、ある大学のりっぱな総長が四国に講演に見えたときに、あるお父さんがこういうことを言った。どうも先生このごろ大学に共産主義者が多くて困ります。うちの子も共産主義者になったらどうなるかと思って実はびくびくです。どうぞそういうことにならないように先生は教育をして下さい、ということを、大学総長に申しました。ところがその総長いわく、私の学校には二万人の生徒がおるが、その中に五十人や白人の共産主義者ができても仕方がございません。こういうことを言った。そこでお父さまはまっかになって怒りました。あなたは一万人がや二万人の中の五十人か百人か知りませんけれども、私には子供がたった一人です。それが共産主義者になったらどうなるか。あなたの学校にはやりません、といって、怒ってその子供をやめさせたという実例がございます。こういうことを私どもは親の立場として考える必要があるのではないかと思います。たとえば実例を申し上げますると、処刑の部屋という映画が以前ございました。あれは不良少年が睡眠薬を女に飲ませて、そしてホテルかなんかに連れ込んでいって暴行する映画でございましたが、私は現在、ある輪姦をした不良少年を担当している。これはいろいろ調査いたしました結果、被いわくあの処刑の部屋の映画を見てやっておる。最初睡眠薬を飲ませたけれども相手が飲まなかった。そこで五人連れで暴行してしまった。これは今私担当しております。そういう実例もございます。 それではあまり長くなりましたから、特別立法措置の問題とかいろいろございまするが、この辺で打ち切りますが、「ただ最後に一つ申し上げたいことは、学校教育が今日非常に工合が悪いということであります。つまり経験主義、それから民主主義というような考え方から、今日の教育をやっておられるようでございまするが、それが子供たちにきわめていい結果を与えていないということは、つまり自己中心的な生活ばかりしておるということでございます。つまり集団、社会人の子であるということを忘れてしまっている、教えられていないということです。集団、社会人の子であるということを忘れて、自己ということだけを教えておる。こういう教育のあり方は、私は大へんな間違いであるということ、つまり国家観念なんということは全然教えていないということでございます。第一学校の先生たちは順法精神を教えべきはずのものがそれを教えないで、子供たちに法律を守れといっても、これはてんで問題にならないということでございます。 最後にもう一つ申し上げたいことは、私は不良少年のばっこということは、伝染病だと思う。つまりさっき申し上げたように、不良少年はさっき望月先生のお話もございましたが、こいつはいけるなと思うとすぐにわかる不思議に。オッスと言いますと、その日から直ちに友達、その伝染性というものは実にひどいものである。私は少年を縛って刑務所に入れたり、せっかんすることよりもなぜ伝染病を大きな見地から防ぐ方法を考えられないか。たとえば結核の予防であるとか、最近はやっておりますガン、そういったものに対しては予防週間をこしらえて国民全部に訴えて、病気というものを予防しようとしておりますが、不良性というものは、目に見えません。とにかく事件をやったあとでなければ、あれは不良だったということがわからないだけに、つまり隠れた病気を持っておっても気がつかないと思う、実際問題として。一人の不良を野に放しますというと、非常な勢いでもって伝染する。これは伝染病です。これを予防することを考えずして対策を論ずるのは、これは根本から間違いである。私はかように考える。大へん長くなりまして申しわけございません。
○委員長(大川光三君) どうもありがとうございました。 次に大阪少年初等協会専務理事の宮田秀太郎君にお願いいたします。
○参考人(宮田秀太郎君) 私宮田でございます。私が御説明申し上げる内容は、非行少年の問題でございます。戦後日本の青少年の非行が急激な傾斜を画いて上昇カーブを画いておるということでございます。そういうふうな問題についてどういうふうに考えていったらいいか、この問題に対する解明の仕方というものを考えてみる必要があると思うわけでございます。 もともと、日本人の性格というものはどういうふうな性格であるかというようなこと、そういうふうな点から見ていく必要があります。さらにまた、この問題をアメリカの西部海岸におるところの一世、二世、三世、こういう人たちの西海岸における非行、不良行為、こういうふうなものとの関連づけを見た場合に、これは戦前、戦中、戦後を通じまして、日本人の非行というものが非常に少ないわけでございます。驚くべきほど少ない。最近内地に来られました、日本に来られました西部地方の都市の市長さん方も異口同音にそういうことをおっしゃっておりますし、また、かつて進駐軍として来られた警察関係の人たちの話もそうであったと思うのであります。さらにまた、そういうふうに文献にも出ておったと記憶しておるわけでございます。そういうふうな人類学的な立場から言って、日本人というものは、現在の姿がそのままのものであろうかというふうなことになりますと、十九世紀的なロンブロゾーの学問体系というものがくずれてきておるのではないか。従って日本的な条件のもとにこれらの青少年の非行というものがあるのではないか。 では、そういうふうな日本的な特徴とは何だろうか。そういう条件を作っているものは何だろうか、ということを解明していく必要があるというふうに思うわけでございます。もちろん、この解明の仕方でございますが、いろいろな学問体系にわたっておるということであります。個人的な問題といたしましては心理学、あるいは精神医学、あるいは教育の面では教育学であるとか、あるいは行刑学であるとか、あるいは社会学、犯罪社会学というふうないろいろな学問の体系というものが、広い分野にわたっておる。従ってこういうふうな広い体系づけられた中からそのエッキスを出して、日本的な特徴というものは何かということを浮かび上がらせていく、こういう作業が今日非常におくれておりますけれども、現在与えられておる課題であり、明日への課題ではなかろうか、こういうふうに私は思っておるわけでございます。 もちろん、犯罪の指向、犯罪の件数その他につきましては、法務省当局なり、あるいは警察当局で御発表になっておられると思うのですが、警察庁で御発表になっている数字、これはいわば警察の方でおわかりになった数でございます。従って警察以外のところで犯罪が発生し、不良行為が出ておるという数字、これはXでございます。従って浮かび上がっている数字がそれだけだというだけでございまして、埋没している数字というものはどのくらいであるか、ということはわからないわけでございます。そういうふうに考えてみますると、アメリカの社会学者が言うように、約わかっている三倍はあるだろうという数字、こういうふうな学説を唱える人もおるわけでございます。私は日本の現在の警察の機能から言って非行という、犯罪という刑法犯については大体八〇%はわかっておる、あるいは七〇%から八〇%はわかってくるというふうに見ているわけでございます。従って犯罪少年という数は、そこに、三、四割ぐらい加えれば、そういう非行というものの内容が浮かび上がってくる、こういうふうに見ておるわけでございます。ところが、虞犯であるとか、不良行為というものの数字をどういうふうに見るかという点、こういう点になりますと、現在出ておりますところの何十万かの数字、この数字については、もっと広範な数字が含まれてくる、こういうふうに見ておるわけでございます。その実証的な例示の仕方といたしましては、大阪におきます第三学区と申します一つの地区の少生少女のデータをとったわけでございますが、男にお尻をさわられたとか、あるいは小さいいたずらをされたというふうなことが、女生徒の場合ほとんどあるわけでございます。そういうふうなものは警察統計には出てきていないというふうなことになるわけでございます。そういうふうなことから考えてみますと、不良行為というものは、もっと広範に広く広がっている、こういうふうに見ているわけでございます。 そういうふうなことで、ではどういうふうにこの内容をつかんでいくかということ、これの一番土台になるものを私考えてみる必要があると思うわけです。どういうふうに見ていくかということ、これは私そういう総合的な分析のほかに、地域における分析が必要だと思うわけでございます。どういうふうな分析をしていくかというと、これは非行発生地と非行少年居住地域とのいわばその相関関係と申すのでしょうか、モビリティと申すのでしょうか、そういう関係を明確にしていくということ、これが必要であると思うわけでございます。多くの社会学者なり心理学者が言うように、少年の非行というものが彼らの持っている能力、判断力、こういうふうなものからいって、非行を犯した、そういう事実関係よりも、なぜそういうふうなことを犯したかという理由ですね、いわばファクターになっている、要因になっているもの、あるいは原因づけられるもの、そういうふうなものを追跡していく必要がある、そういうものを明らかにしていく必要がある、こういうふうにいわれております。これは私もっともだと思うわけでございます。従ってそういうふうな要因になっているもの、動機、原因、こういうふうなものを追跡し、さらにそういうふうなものが出てきたところの土壌というものがどういうふうな土壌であるかということ、こういうものを見ていく必要があると思うわけでございます。私見ますのに、ニューヨークの例でございますが、ここには人種的にプエルトリコ人がニューヨークの全人口の七%を占めている。ところが非行少年は約三〇%近くプエルトリコ人によって犯されている、こういう事実がある。日本の都市の場合、大阪の例でございますが、大阪は約五百万の人口を持っておりますが、その中に朝鮮人、韓国人が約十三万なにがしいるわけでございます。約四十人に一人がそういう人たち、外国人によって構成されている、そういう特徴があるわけでございます。そういう大阪の街における非行というものが、日本人一・四に対し九・四というふうな比率でございます。パーセンテージから申し上げますと、約八倍の非行率があるというふうな状況、こういうふうなその土地における条件というものをみつめていくということが必要であると、私は見ているわけでございます。もちろん、私は人種的にそういう人たちが悪いのだというふうな立場をとるものではございません。ニューヨークの場合にいたしましても、大阪の場合にいたしましても、そういう人たちが住んでいる、生活している場におきます非常な経済的なあるいはその他の条件がありまして、その条件の中で生きている限りにおいて非常な世の中にスムーズに生きていけないようなものが生まれてきている。従ってそこにいろいろな抵抗が起こって非行に走る、そういう醗酵するものが非行になってきている、こういうふうに見ているわけでございます。従ってそういうふうな、地域というものをよく見ていくということ、また、この問題を社会科学的な立場からもっともっと究明する必要があるというふうに私ども見ているわけでございます。なるほど大都市には犯罪が多いわけでございます。またこのいただきましたグラフをみましても、年々多くなってきております。では、少ないときと多いときとの関連をどういうふうに考えるかという点、この点につきましても考えてみる必要があるのじゃないかと思うわけでございます。大都市における一つの動向といたしまして、昭和二十年のときに学童疎開が始まった、そのときにおける郡市における子供というものは少ないわけでございます。従ってその年における大都市の青少年犯罪というものは少ないわけでございます。ところが戦後、二十三年くらいですか、ちょっとはっきりした記憶はございませんが、いわゆる都市人口の流入というものを規制しております。それが解けたのでございますが、それ以後において青少年児童というものはずっといなかから帰ってきております。そういうふうな社会的な関係を考えずに、統計だけ見ておっても全然意味をなさない。こういうふうに思うわけでございます。 従って私は、そういうふうな観点から見ることと、さらに具体的にもう少し突っ込んでお話を申し上げますると、じゃ、都市に非常に犯罪が多いじゃないかということ、この都市における犯罪の増加という問題は、都市における児童というものがどんどんふえてきております。しかし、この児童のふえ方というものが問題になるわけでございます。従って、たくさんの数字が上がった東京であるとか、大阪であるとかいうふうなところは、非常に青少年の非行の具体的な数字というものはどんどん上がってきます。しかし分母になる児童人口、そういうふうなものから割り出した場合に、非常に比率が違ってくるわけでございます。私どもの調査いたしましたのは、昭和二十五年度と三十年度について調査したわけでございまするが、東京には一万人について三十六人、愛知が二十六、京都が三十人、大阪が二十三、兵庫が二十一、神奈川が十八というふうなのが昭和二十五年度の数字でございます。昭和三十年度におきましては、東京が十九、愛知が十二、京都が二十五、大阪十七、兵庫が十七、同じく神奈川十四、こういうふうな一万人についての人口割りの非行というものが出てくるわけでございます。そうしますると、量の多いことと、質的な内容というものと違ってくるのじゃないかと、こういうふうな点もその中に入ってくるわけでございます。これは一例をあげたものでございまするが、さらに詳しくやっていく場合は、正確に児童人口というものを分母とし、非行少年あるいは不良行為をする少年というものを分子にして、そうして計算をしていく必要がある。こういう原側的な、最も必要なことがやられていない。こういうところに、何が盲点になっているか、何が対策の重点に置かれるべきかということがあいまいにぼかされておる。従ってこういう点を明らかにし、そこに対策が生よれてくるべき問題じゃないかと、こういう理解の仕方をしておるものでございます。ことに最近学生が非常に多いと、大阪におきましてもさようでございまするが、三五%から四〇%くらい、多いというふうに言われております。ところが、学生が多いのは、私はあたりまえだと思うのです。と申しますのは、御承知のように、小学校なり、中学、高校というふうに段階別に学校があるわけでございまするが、大阪における児童人口が百二十万かと見ているわけでございます。ところがその内訳でございまするが、小学校の場合に約六十四万六千何がし、中学校で二十三万一千何がし、高等学校で約十二万、約百万というものが学生、生徒でございます。百二十万のうちに百万というものが学生諸君でございます。従って、教師の目から見れば、そう悪くないのだがなと、そういう考え方があるわけでございます。ところが数的に言えば、学年諸君がべらぼうに多いじゃないかと、こういうふうなことになるわけでございますが、ところが、そういうふうなことになりましても、基本的に考えてみた場合に、この問題は百二十万のうちの百万なんです。百万の学生生徒で全犯罪の、全非行の三五%なり、四〇%、こういう数字になるわけでございます。考えてみますると、大阪におきまする非行でございまするが、一万三千のうち約五千名でございましょうか、それが非行をおかすということ、そういうことになりますると、一万人のうち五人ということが学生、生徒の非行ということになるわけでございます。それ以外のところに実は問題があるわけなんです。一応、学校教育の中で学生、生徒に対する教育なり、非行を犯さないためのいろいろな措置がとられておるわけなんです。ところが、それ以外のものは何かというと、これは働く青少年であったり、あるいは失業者群であるわけです。従ってそこに青少年対策の重点が置かるべきだと、こういうふうに私どもは理解しておるわけでございます。もっとも古い人たちは、最近の中学生と前の中学生を比較せられる方がかなりおるわけでございます。しかし、こういうことも基本的に考えなければいけないことは、あたりまえのことがあたりまえに通らない、一つの錯覚があるわけなんです。なるほど、前の中学は、一つの選抜された人たちが戦前は中学に行っておったわけでございます。今は義務教育なんです。小学生がそのまますとエスカレーターに乗って中学に行っている、そういう違い。これは制度的にも違うし、賢的にもそういうふうに雑多なものを含んでいるということ、こういうことを理解した上での以前の中学生と今日の中学生論という議論の仕方が、空論するわけでございます。従って基本的なものの考え方が、はっきり関係機関の方々によって、あるいは一般の社会において理解されていない。そういうふうに、非常な青少年問題に対するおくれがあるのじゃないかと、こういうふうに私ども見ておるわけでございます。 それからもう一つは、都市における大きな問題はスラムでございます。これは東京にもありましょうし、大阪にもありますし、全国の都市にあるわけでございますが、こういうスラム対策をどう考えるかということ。なるほどスラムというものはいろいろな点で人生のうらぶれた人たちの集団地域でございます。また、そこにはいろいろな非道徳的な暗いものが、町をおおっておるわけでございます。従ってそこにおける道徳律と申しましょうか、あるいは低下された道徳というものがその町の空気になっておるわけでございます。そういう環境が作られておるわけでございます。従ってそこには学校教育の日に当たらない子供たち、これは無籍児童というのが相当おります。長期欠席であるとかいうふうなことじゃなしに、全然学校に行っていない不就学児童、あるいは学籍がないという子供、こういう子供がおるわけでございます。今まで私ども調べにも参りました。いろいろとそういうふうな研究をする立場にあるものですから、いろいろな施設、研究所というようなところへ参りましたり、調べておりますけれども、やはり中学校を終わっていないというのはかなりあるわけでございます。また、中学を終わったとしましても、その学校教育が完全に受けられていない。そこには長欠があったり、サボがあったり、いろいろな問題を起こしているというふうに思うわけでございます。そういうふうなことから、私はスラムというものが一つのそういう集団的な非行少年を出す地域だと思うわけでございます。これは一つの民生の問題であるかもしれませんけれども、民生だけで解決できる問題じゃない。ここには都市計画的な立場から、あるいは労働関係の立場から、あるいは警察の立場から、あるいは法務省の方方、こういうふうな方面の方々の全国的な協力によって、そこに強い力を加えていかなければ、スラムという問題は解決しにくいと、こういうふうに思っておるわけでございます。児童福祉法にいう立法の精神なり、あるいは憲法にうたう精神からいって一番重点的に注がれるべき防犯対策、あるいは不良化防止対策というものはどこにあるかというと、こういうスラムをおいてほかのことを論ずるのは、いささかおかしいのじゃなかろうかと、こういうふうな気がするわけでございます。堤防にいたしましても私そう思うのでございます。暴風雨がある、そういうふうな場合、一番弱いところにやはりそういう完全な一つの築堤工事をやっていく、防潮工事をやっていく、こういうふうなことでないといけないのじゃないか。じゃ、いろいろ青少年対策というものが打たれるわけでございますが、何が重点で、何が早急に打たなければならない点か、こういうふうなことを考えてみる必要があるというふうに理解するわけでございます。 なお、こういうふうな問題について、考え方として毎年々々そのつど考えるのじゃなしに、やはり年次計画というものが必要だと思うのです。経済にも五カ年計画なり、あるいは十カ年計画があると思うのです。青少年問題についても私同じような考え方を持つわけであります。こういう不就学児童の問題、あるいはいろいろな重要な問題があれば、それを毎年もっていって、ことしにおいてどれだけその政策がうまく遂行できたか、八〇%の完成であればあと二〇%翌年度でやっていく。積み重ねというものはそういうものだと私は理解しておるわけであります。ドイツにおきまする青少年対策というものは五〇年から始って第十次計画になっております。あの場合、西ドイツ自身が考えたことは、第三次までは、貧しい青少年がたくさんおったということ、離職者がたくさんおったということ、これの救済の問題、それから道徳心の高揚の問題、これを第三次までやって、第四次以降は青少年活動をどんどん打ち出していっておるわけであります。現状分析をどこに置き、その分析に応じてどういう対策が打ち出さるべきか、こういうようなことを考えないといけないのじゃないか。その年年の出まかせのやり方では、とうていこの問題を解決する方向に向っていかないのじゃないか、こういうような理解をしておるわけであります。 非常におわかりにくかった点もございましたけれども、またあとで御質問があればお答えいたしたい、かように存じております。御清聴ありがとうございました。
○委員長(大川光三君) ありがとうございました。 それでは最後に、足立区立第一中学校教諭林友二郎君にお願いをいたします。
○参考人(林友三郎君) 林です。私は東京の足立区の第一中学校で十年半ほどどこへも出ずに勤めております。こんなところに来ましたのは初めてでして、言いたいことがなくさんございますけれども、限られた時間内でどれだけのことを皆さんにわかっていただけるかわかりませんけれども、できるだけ具体的に現場教師らしい話をしたいと思います。 御存じだと思いますけれども、私たちのいます足立区というところは、東京でも一番にそういう非行少年とか、不良少年とかと呼ばれる、その呼び方自体私は感心いたしませんけれども、そういう子供の多いところです。最近最高裁の事務総局の編集で、「東京都における非行少年の生態学的研究」というものが出て、その中にある統計資料がのっかっておりますが、昭和二十八年のときには、私たちの区は第二位、北区についで第二位に非行少年が多かったのだそうです。三十一年にはトップであります。 それから参考までにその環境の一断面を紹介いたしますと、被保護者、生活保護とか、医療保護とか、そういう被保護者の実人員が三十一年度においてやはり一番多いところであります。それから赤ん坊、乳児の死亡率、それが一番多いところであります。それからテレビ、今では非常に聴視者がふえておるわけですけれども、その聴視率が低い方から二番目であります。 そういうふうなところでありまして、そういうところでは、私たちの学校はどんなような位置づけになるかと言いますと、そういう問題少年の数あるいはひどさ、そういうところではまあ中間か、それよりちょっと下ぐらいではないか、こういうように見当をつけておるわけであります。そういう狭いところで私たちが無我夢中になってとっ組んできましたお話しで、しかも具体的な話ですから、ごく一部の限られたところというふうな感じを抱かれるかもしれませんけれども、そういう特殊のように見えます中に、特に都市の子供の放り込まれている問題が集約的に現われているのだというふうな考え方で一つお聞きを願いたい、そういうふうに思うわけです。 具体的に話を進めていきたいと思います。去年のことですけれども、さる英悟の先生が授業に出たわけですね。一人の子が、今Yと呼んでおきますが、その目つきが気になる、何となく薄暗い目つきをしているし、何となく自分をもう捨てちゃっているようなふてくされたような感じもするしというので、授業が終ってから呼び寄せて、やさしく話しかけたわけです。お前、勉強してみたくないか、それから中学校を卒業したらどんなことをするのだという調子で話しかけましたとき、結局まあ僕も勉強したいということを言ったわけですね、それで、それじゃ僕がお前の勉強を手伝ってあげるから、放課後残って僕と一緒に勉強していけということでその子をつり上げたわけです。そのときにその子がその先生に何と言ったかといいますと、僕のことを、だらけたら、先生、ぶんなぐったって何したっていいというのです。ちょっと悪くなりかかっているのじゃないかという子ですが、ぶんなぐっても何したっていい、だけど最後まで僕を捨てないでおくれよということを、その先生に断ったのです。この言葉を裏返していえば、その子たちが結局どこへいっても今まで捨てられていたのだということをはっきり現わしていると私たちは解釈するわけです。これがその子だけの問題でなくて、問題少年とかいわれる子の場合はほとんど全部だといっていいのではないか、自分というものを受け入れてくれる場所、それがどこにも見つからない、うちはもちろん、それから学校にさえなかなか見つからないと思っているのですね、そういう子は……。それで先生というものはしかつめらしい顔をしてむずかしい学問を教えて、おいらにはとてもわからない、それで五十人も六十人も詰め込んだところで一人々々なかなか手にとって教えてくれない、ここでもおれは勉強できないからだめだ、どこにも行き場がないという感じをそういう子たちは持っているわけです。それからこの子の家庭の事情なんかは後ほどの話でたくさんしたいことがございますが、省いておきます。まあ一例を申し上げますと、この子のところへは、その先生がいまだに一週間に一ぺんずつ土曜日に通ってうちでもって勉強を教えてやったり、将来の相談にのってやったりしております。もちろん、そんなお金はその先生のポケットマネーです。どこからも出ているわけではありません。それでその中で非常に立ち直ってきまして、将来のことも考え、うちのことも考えられるようになって、自分は夜学に行くというのです。そのうちの事情は、その子のうちにはソースがないのです。きょうは先生がメンチカツか何か買っていくから、お前は御飯をたいて待っている、お母さんは勤めに行っております、お父さんはいません。行って、先生と二人で七輪に火を起こして、先生とメンチカツで御飯を食べようとしたら、ソースというのは、どこのうちにもあるかと思ったら、先生、おれはソースなんて使ったことがないからないよという。そういうところの子が先生に教えられることによって、今度はっきりと目の前に現実を見つめることができるようになった、これは成功してきた例です。そういうふうに問題少年といわれる子供はどこにも自分の救い場所がないのだと思い込んでいるということが一つ言えると思います。 その次、これは私自身がぶつかった例ですけれども、この子は一年生のときからちょこまかしていまして、からだも小さくて、小学生並みの子でした。ただのいたずらっぽい子供というような感じがしなかったでもなかったのですが、勉強はもちろんできません。注意力も、五分か三分ですぐ忘れてしまうというような子です。これこそ心理学的な、あるいは精神病理的な診断をまずしなければならないような例でありますけれども、この子のそぶりが何となくおかしくなったのは、二年生の初めごろです。それまでまあ気のついている面もありながら、やはり常時その学校の中へ泊っているわけでもなければ、その土地に住みきりにしているわけでもありませんから、わからない面がたくさんあるわけです。大体学校の先生があの目つき、おかしいなと思うころは大てい二、三カ月おくれています。私たち相当早いという自信がありますけれども、そういうあれがあります。そういう子がおれのバツクにはそういうやつがいるのだということを言い出したのは、二年生ころだとしますと、運動会のときに、私胃が悪いものですから、外へパンを買いに行こうと思っていたら、その子が、先生、おれ弁当ないよと言うのです。昔、終戦直後ですと、学校へ弁当持って来られないで、うちヘウドンかサツマイモ食べに行った子がありましたが、近ごろですから、そんなのはないはずなんですが、弁当ないと言うのです。三千メートル一生懸命走ったので、私がほめてやったのがきっかけなんです。そうしたら弁当ないよと言うのですね。食べちゃったかもしれないけれども、とにかく育ち盛りの子がちょっとしか食べないのだから、それじゃ、僕はパンを買いに行くから二つ三つ買ってきてやった。それ以後、学校の廊下で私の顔を見ても、道で会っても、私の顔を見ると、先生中華と言うのです。中華というのはラーメンのことです。この子にとってはラーメン食べることが最上の希望だったわけです。だんだんその子とつき合っているうちにわかったのですが、その子の家では、サンマのひらきを一枚全部まるごとその子食べたことがない。おれは一回でもいいからサンマのひらきを一人で食ってみたいと言ったのです。そういう家庭では、晩の御飯食べることが、子供たち同士の生存競争なんです。食べたい盛りです。お父さんはある工場の守衛さんみたい、お母さんは夕方から飲み屋さんに行っている。部屋は一間で、お父さんは帰ってきてからゴムのりを使って靴の内職をやっている。コムのりや何かでうちの中はまっ黒で、その子の寝るところは戸だなに寝る。で、その子の下に四、五人子供がいる。そういう子ですから、家庭訪問してみますと、上がりばなのところは砂だらけで、学校では上ばきと下ばきを区別しておりますから、上ばきと下ばきをちゃんと区別しろと、お前はうちに帰って畳の上にげたで上がるかと言ったら、はい、上がりますと言う。そういうわけなんです。こういう子に対して僕たちはどうしたらいいのか。うちへ頼んでも、お父さんは出かけて帰ってくるのは夜だし、入れかわりにお母さんが出ていく。それから夜はお父さんは内職している。こういうことです。そういう事例に表わされているように、親が子供を見るひまがないというのが多いのです。また近ごろは、教育過剰のために子供がつつき回されて悪くなるというようなことをたまに聞くことはありますが、私たちが接している範囲では、そういう例はまだ一件もございません。朝五時に出かけて夜九時に帰ってくる、組長さんくらいになって、工場でいい月給もらうようになったお父さんでも、それをやらないと責任が済まされないという家庭から出ているわけです。 ほかの子については、うちのこと先生しゃべってくれるなよと言う子があるのです。どういうのかというと、そういう話が出ることによって、だんだんつり上げてくるわけです。お父さんはやっぱり心臓弁膜症で寝ている。カバンか何かの職人です。お母さんはちょっと頭のよさそうな人ですが、ほかに弟の入院の看病で知り合った人のところに行っちゃった。朝、ぼろぼろのアパートの部屋で、その子とおやじさんが目をさます。その子が御飯をたく。おやじさんは心臓弁膜症ですから起きられないから、床の中から小言を言う。それでいやになって学校休んだということが何回かあるわけです。その子は実際、お母さんはそういうふうによそに行っているわけです。また、お父さんはどっかの女の人を連れ込んで抱いているところを、自分がひょっとふすまをあけて見たことがある、そういう子なんです。 そういう子を私たちかかえ込んで、そういう子の問題を突っついてくると、その子がつながっているその地域の中学を卒業して一年、二年という年令の子がいた、その子はこれは卒業していないんです。途中から先ほどお話しのように長期欠席で学校に出られなくなって自然除籍になった子です。そういう子供が世の中に対するうらみというようなものをどこに一番向けるかというと、学校に向けている。一番面接的な、一番近い学校に向けているのです。学校というのは先生だ、彼らは先生と言わずに先公と言います。それで、そういう考え方をこのつながりから持っていた子でありますが、こういうふうな子たちを次から次へとかかえ込んで私たちどういう指導をしたかといいますと、先ほどの例の中の一、二の者が、第一こういう手を加えていく中で、先生僕たちを守ってくれと言い出した。はっきり向うから頼みに来るところまできたわけです。これを僕たちは通路がはっきりついたというように言うのです。大ていの問題少年というのは、大人と聞いただけでも何にも話をさするのがいやになるというというのが始まりなんです。まともにお説教をしてもきかない子が、先生七守ってくれと言うところまでなった。それから特に私たちが忙がしくなりまして、放課後残して勉強する、不良が誘いに来るから八時、九時ごろまで学校に置いておかなければあぶない。最後のころはどうしたかというと、不良からもぎ取ったときにどう言ったかといいますと、結局こわいんだと、こわいなら先生がりはっきり守ってやるということで、十月ごろから年の暮れまで毎日ぶつ通し八時、九時ごろまで何人かの先生が手分けしてそういう子のめんどうを見ていったわけです。それで冬休みは私たちの学校の教師が全員でぶち当たりましてやっていったわけであります。先ほどのお話しにちょっと出しましたある若い先生は、暮れのボーナスが出ても自分の金を一文も使っていない、ズボン一本も買っていないんです。都合四、五カ月の間に六、七万円の自分の金を使っている。その先生が二人の子は自分のいなかに連れて行ってめんどうを見る、一人の子は大阪の親戚のおじさんのところにやる、残った二人の子は、不良というのは、愚連隊というのは大体寝坊ですから、午後から動き出しますから、午後になったら変なことはしないように先生たちのうちを一軒々々回りながら、先生たちが毎日受け持って、きょうは何々先生の家、きょうは何々先生の家と順番に冬休み遊びに行きました。暮れの三十一日のときに、先生三カ日ぐらい休みてえなと言った、そんな調子でその子たちのめんどうを見てきました。だから私たちの話は通るようになりました。それから地域の不良からもぎ取ることはできました。 ところが、そこでぶち当たった問題はどういう問題かといいますと、一度そういうものにひっかかった子供たちの頭の中身です。それをどうやって立て直すかということで、ずいぶん苦労いたしました。こういうような例がたくさんあるわけです。大人の子供を見る目が、最初から虞犯少年だ、あるいは非行少年だ、というふうに、子供に全部責任を転嫁するような響きのあることに対して、私たち非常な不満を持ちます。決して生まれたときから悪くなっているという子はいやしません。生まれたときから指先が曲がって生まれたという子はありません。必ず育ってくる中で、どっかに無責任な大入の扱いを受けて悪くなった子です。それを悪くなったからお前は刑罰で取り締る、お前は法律でどうするという問題じゃないと思います。それが一つ。そういう例は家庭の中にももちろんあるわけです。ある大した子じゃないのですが、友だちと仲良くなって一度泊まるようになると、奇妙に離れて行ってしまうと、お父さんが言う、うちの子が悪いからですねと言う、謙遜かもしれないが、そういうせりふを使われるわけです。友だちは、お前の家には南京虫がいるから泊まれないと言うわけです。そういうときに、お父さんが子供に責任を転嫁して、自分自身を変えていくということをしないで、これは子供に責任を転嫁するということは、親にはもちろん教師にもあるし、それから世の中一般の大人全体にあるのじゃないか、こういう点をまず考え直さなければならない。お父さんはこう言うのです。お前みたいのは、八丈島に何か施設があるらしいのですが、八丈島にやっちゃうぞ、子供は、やれるならやってみろ、そんな所にやれっこないっじゃないか、先生は、親が申請すれば入れないこともないよ、そうしたらやさぐれしちゃうと言うのです。やさぐれというのは、家出のことなんです。知っちゃいねえよという言葉をよく使います。 そんなような例で出ておりますように、私ども結論として考えたいことは、まず、子供を二方で甘やかすなといいますけれども、私たち教育現場で接しておりましても、甘やかしてばかにされるような先生なら、辛くしてもばかにされるのです。それから、彼らはちゃんと、そういう一般の子も、非行児とか問題児と言われる子も含めて、ちゃんと犬がかぎ分けるように、子供、だれが自分の味方であるか、敵であるかということをかぎ分けます。それを、彼らに自分の味方とも思われていないのに、幾らきびしく、えらそうなことを言っても、一回は聞いても二回目は聞かないということであります。そういうことで、やはり心底からやつらを最後までめんどうを見てやるんだということを、これがおとなの方に要求されるむしろ道徳じゃないか、そういうふうに考えるのです。つけ焼刃のそういう権威なんというものは権威とも言えない。いわんや、そういう刑罰を重くしたりなんかして、それで変えることができるなんというふうな考え方は、おとなが自分の責任を転嫁するということが言い過ぎなら、一種のあせりでしかない、そういうふうに考えます。 それから、一般の生徒との関係なんですけれども、どこからどこまでが不良で、どこからどこまでが不良じゃないのか、生徒側に話し合わしてみたら、それは水とお湯みたいなもので、何度から何度までがお湯で、何度から何度までが水だかわからないのと同じようなものであると、うまいことを言いましたけれども、私たちが現実を見ましても、トップ・グループ、それに続くグループ、その下ということは、はっきり線を引きにくい場合があります。傷害事件などを起こしまして、はっきり警察の御厄介になるというようなのは、はっきりしているでしょうが、それに続く者もある。それを、一般の子と共通のようなこともあるわけですが、こういう集団の中で、先ほど社会性とか集団の中の一員というお話も出ましたけれども、これを私たちは実際にやっていくわけです。やっていく中で一番感じますのは、一般の子も含めて、一人々々が、最近特に三、四年間、ばらばらになってきているんじゃないかという傾向があります。これの非常に大きな原因になっておりますのが、入学試験を先頭といたします、やっぱり一種のけ落としみたいなものです。内申書というのはちゃんとパーセンテージがきめられていまして、最高の点が五で、最低が一なんですけれども、それを七%と、こうきめてあるわけです。生徒が三百人いますと、〇・〇七をかけまして、二十一人か二十人、四捨五入して計算するわけですけれども、そうすると、一人でも狂いがあったら、その内申書というのは高等学校で受け付けられない仕組みになっております。相対評価になっておりますから、一人五を取るのがふえてきますと、それと同じ数だけ、五だった子でも四に落ちる子がある。子供たちは競争しなければならない。非常にできる子で、非常にものわかりのいい子でも、こういうことを言っている。先生は、自分たちだけ得をする人はきらいだと言った。私たちも自分だけ得をすればいいという考え方が勉強の上にある。なぜかというと、やっと整理したノートや、数学などでいいやり方を見つけ出したとき、人に見せたくない気がする。自分のうまい考えを人に見せたくないという考え方がやっぱり起こってくるのですね。そういう子供の競争を助長する例はたくさんあるわけであります。特に、就職組、進学組というふうな差別的な考え方が、近来非常に強くなっておりますけれども、もうすでに今までも、就職、進学組と分けられた学校で非常な事件が起こっております。それから、そう分けていなくても、ある中学校では、一番できる女の子が何をされたかというと、強姦された例があります。それから、ある学校では、勉強できる組の子供が、勉強できない組の就職する子に、卒業式の日になぐられたという例があります。子供の中にそういう差別を助長して、ひけ目をますます僕たちおとなが助長していくのじゃないかという感じを持つわけであります。彼らの目というものは、現実に目がすわってこない。お母さんが内職しているというのに、なぜ、らちが内職しているかということを目の前に据えて見られない。なぜ見られないかというと、受け入れてくれる場所がないから、現実に目がすわらない。安心して現実が見られない。そでれで、自分のできない将来に耐えて、その場限りのそういう虚無的な喜びだとか、頽廃的な思想というものが入ってくる。そういうようなものを助長するような材料というものは、社会に幾らでもころがっている。簡単にいえば、金がもうかればいいという者がたくさんある。それから、失礼ですけれども、汚職だとか選挙違反ということがある。子供の政治に対する考え方の、希望のなさというものは、はなはだしいものがある。それから、実は非常におかしな例ですけれども、悪いことをした子供あるいはおとなのもらい下げなんかに、地域の有力者が行くという例がある。 先ほど体面の問題が出ましたけれども、必ずしも先ほどの参考人の方と意見が一致しませんけれども、確かに学校の面子にこだわるというものがある。こういうようなものは捨てなければいけないと思います。それは、校長さんは校長さんで、やはりそういうことが気にならざるを得ないところへ追いやられているから、どうしても気になるらしい。新聞記事になることが一番こわいらしい。私どもは、そんなことはかかわりなしに一緒にやってきました。 現場でやっていまして、先ほどカウンセリングの問題が出ましたが、二十八年ごろに、私どもの方ではカウンセラーを、大学の先生に一週に一ぺん相談に来ていただいて、カウンセラーと一緒に研究したこともありますけれども、今まで実践してきまして一番感じますのは、クラスの生徒が非常に多いということ、どうしても三十人以下にしてもらわなかったら、子供を親身に指導することはできません。その点を考えていただきたいと思います。それから、教育現場というものを、のびのびと教師が自分の独創力を発揮して、力を合わせて働けるような場所にしていただきたいということ。非常に急ぎまして言い足りない点があるのですけれども、時間を超過しておりますからこれで……。
○委員長(大川光三君) どうもありがとうございました。 以上をもちまして、午後の参考人の方々からの御意見の開陳は終わりました。 これより質疑に入りたいと存じます。御質疑のある方は、順次御発言を願います。
○高田なほ子君 大へんけっこうな御意見をそれぞれの方から伺わしていただいて、まことに感謝にたえないのです。非常に広範な問題について各方面からの御意見を賜わりましたので、いろいろの質同点があるわけですけれども、全部というわけにも参りませんが、お伺いしたいと思います。私が御質問申し上げる立場は、それぞれ第一線で一番直接接触をしていられる活動家の御意見でありますので、この意味において、いろいろの御指導をいただきたいという意味での御質問でありますから、そういう意味でお答えをわずらわしたいと思います。 第一番にお尋ねしたいことは、望月先生にお尋ねしたいのですが、これは参考人の方々の意見の相違を今ここで上追及するという意味ではない。しかし、保護司の橋本さんの御意見の中にありましたが、今日の学校教育は、非常に自己中心主義の教育が行なわれておる。結局、それは道徳律の低下になってきているのだというような御意見の開陳もあったわけであります。直接、教育という面に携わっておられる先生の目からごらんになって、今日の教育がはたしてその自己中心主義の方向にいき、そのこと自体が道徳の低下という方向に影響を持ってきておるのかどうか。これは教育家として確信を持ったり一つ意見を拝聴したいと思って、決して駁論という意味ではありませんけれども、一応私は伺っておきたいことが一つです。 それから第二点、望月先生にお伺いしたい第二点は、御意見の中に警察のあり方についてお話がありましたが、母の手に返せという警察の言葉は一応もっともだけれども、しかし、そればかりが能ではない。やはりこれらの子供たちを返すところは、学校に返さなければならないという御意見には同感でありますが、はたして今日の学校に返して林先生の御意見の中にもあったように、返した学校そのものが、これらの子供を受け入れる態勢ができているかできていないか、これは非常に私は問題点だと思うのです。特に望月先生の御意見の中には。科学的な解決方法がとられなければならないというような御意見がありましたが、はたしてこの料学的な解決方法というのは具体的にどういうことであるのか。今、学校に対してはたして子供たちが、お考えになるような程度にまでいくかどうかというような点に非常に疑問を持つ一人一でございますので、以上の点についてまず望月先生からお伺いしておきたいと思います。
○参考人(望月衛君) 自己中心的になってきたという、この表現大へんむずかしいので、まあ何といいますか、自分のことさえよければどうでもいいというふうなやり方になってきたというふうにとってもいいと思いますが、それが自己中心的というのはちょっとわかりませんですがね。ですけれども私は自分でもって、何か押しつけられた道徳でなくて、自分でもって考えてきているようにはだいぶなってきていると思います。それで今までのような孝行をしろとか、節制をしなければいけないというふうなことを言われて、野放図もない者が、それがほんとうはみなわかっているのですね。自分はもっと勉強しなければいけないということがわかっておりまして、しかもできない場合の心の葛藤というようなものが、非常に多くの者を苦しめているという面もやはり考えてやらなくちゃいけない。少くとも自分で何かこういうふうにやるのだという方針を打ち立ててやること。それから少くとも先生が子供を教える場合に、不良になっちゃいけないというときに、一緒にディスカッションを先生もしてもらわなくちゃいけない。そういうような場面を作らなければ、私は何を言ってもだめだと思うのです。静粛にしようとか、勉強しようとかいうときに、一緒にディスカッションして、先生が一員として参加して作っていく、そういうふうな活動が昔と比べれば大へんよくなっておる。その点は自己中心的というと、まあそれも一種の自己中心的かもしれませんけれども、自分たちの中から発見していくという、これは大へんよくなってきているように思います。ただし、先ほども橋本さんがおっしゃったような、何か小さいときから訓練をして頼りにするようなものがないという淋しさですね。宗教的な解決法とか、何にも批判もしないで小さいときから訓練をして、もうその通りするのだ。この御飯は神様にいただいたものだから感謝を捧げてというのは、これはそういう儀礼といいますか、そういう習慣というふうなものは、今日本では作られつつあるかもしれませんけれども、何かあった方が便利であることは大いにあると思います。そういうことはあると思います。確かに日本では宗教心というふうなものがないので、寄っかかりが一つ足りないのですね。だから教育者としては大へん骨が折れると思います。 それから母の手に返すばかりではなくて、学校の教育に返さなくてはいけないということ。私はそれは最後に林先生がおっしゃったことからも関係がありますが、要するに通路がつけばよろしいのです。母親の中に通路のつかない母親があるわけです。何を言ってもお前が悪いのだ、もう改心してくれればそれでいいのだという、全然取りつきのないような母親の手に返すことは、私は賛成ではないのですけれども、これは学校の先生、いろいろな通路の可能性を持っているとよろしいのですが、母親もこのごろはだいぶものがわかって参りまして、ずいぶん一生懸命考えてきたように思いますので、母親の手に返していい場合もございます。だけれども今の警察の方々の母親の手に返すというのは、何かはっきり言ってしまえば、学校というものに信頼をおいていないのか、先生というものがどうもこのごろは赤が多いとか、そういうふうなお考え方でもって、もう母親の手に情愛だけでやっていけ。それは大へん大事なことなんですけれども、何かどうももとへ返してしまおう。親子関係を中心にした教育を行なおう。何か上と下とのつながりの中だけで、一つの権力とか、それから信条とかいうものを、上から押しつけられるような形でもって母の手に返すのでしたら、私は賛成ではないのですが、そういうことをある意味で多少中和するために私は学校の手とか、先ほど林先生のおっしゃったことは非常に感銘を受けたのですけれども、何か通路をつけるところであれば、どこでもいい。友人であってもいいと思います。大学生あたりでも友人のもとに返しただけでも悩みが非常に解消する。恋愛問題でも何でも、教師がタッチしないうちに、学生の中で解決している例がたくさんございます。少なくとも通路を、水路をつけてやりたいということなんです。私のカウンセラーというのも、要するにだれにも言えないことを、私のところに行って全部しゃべってしまうというのが、とても効果を出すのですね。父親がそれができるのならそれにこしたことはないけれども、ただそれが言い出しにくいので、私どもがかわりに聞いてやるということです。ですから母の手に返さずにというのは、私は少し言い過ぎかもしれませんが、学校の手に返すということはどうか。警察の方なんかでも考えていただきたい。しかし今のところ学校にその能力ありやいなやというと、それは先ほど伺った通りだと思います。私どもの子供の行っている学校でも、六十人くらいに、五十八、九人のところで、ほとんど名前がわからない。やはりそれを外国並みに三十人ぐらいのところでもって教育ができたらば、さぞやいいだろうと思います。予算的な措置もあります。 科学的な解決法の具体策というのは、先ほど宮田参考人の方からお話がございましたね。私は先ほど指摘はうっかり忘れましたけれども、件数ではなくて人数で数えてもらいたいということを申し上げたのですけれども、確かにおっしゃるように分母がないのです。警察の統計はこれは業績の統計でありまして、実態調査ではない。これは実態調査というものを大がかりなやり方でもって、はたしてどのくらい悪いかということは、どこかでもってかなり大がかりにやれば、ちょうどイギリスのロンドンの警察がやっているような、あるいはイギリスではそういう青少年に対するマスコミの影響とか映画の影響、そういうようなものを非常によくやっておりますけれども、そういうことを日本でもやってみる必要があります。社会学者などが参加をいたしまして、今までのそういう統計があまりに警察の手にゆだねられているようにしか私には見えないのです。あれは何件あったから人員を増してもらいたい、あるいは何とか事務室を作ってもらいたいとかというふうな、警察官僚をふやしてもらいたいという線にはつながるかもしれませんけれども、これは実態統計にはちっともなっていないわけですね。そういうまず根本の問題、それから宮田さんがおっしゃいましたようなほんとうの実態を調べる活動というのがなされて、それに立脚してやっていただきたいと思います。確かに学生の数は多いのです。確かに高等学校と中学校の不良の数が多い。昔の高等学校と今の高等学校では、確かに今の高等学校の方が悪い数は多いのですが、人数は全然問題になりません。そういうことは無視して、昔の中学はよかったといっても、先ほど申した通り分母がちっともわかっていない。そういうところから始めていただきたいと思います。
○高田なほ子君 林先生、学校に返せということについて、今いろいろ御意見が重ねられたのです。私も全くその通りだと思うのですけれども、家庭に帰っても受け入れられない。学校に帰っても先生方は、今御意見のように大へんな御苦労をし、時間的にも、それからお話しの中にあるように、絶えず貧困にさらされた子供に対しては、先生個人がポケット・マネーを削りながらこれは守っていかなければならない。しかし学校もやはり限度があるのではないか。先ほど保護司の橋本さんから、校外指導に重点を置けというお話があったし、今の林先生のお話を聞けば、校外指導に重点を置くどころじゃない。それこそ八時、九時まで子供たちを守るために、全力をあげて先生方が戦っておられるけれども、なおかつ学校に対しても私は壁があるのではないかと思う。一体その壁をどうしたらいいのか。私は先生に、個人にそういう経済的な負担を負わせてこの子供を守ってくれという、それほどまでは私は考えたくない。その精神はありがたいですけれども、そのシステムは妥当ではないと私は考える。だからそれをどうしたらいいか。先生方、まあ現場の先生方、こういうような点はどういうふうな御討議をなさっておられるかそれを承りたい。 それからついでに、やはり今の先生は非常に順法精神を子供に教えないでというような御批判があったわけなんです。これはどういう点をお指しになっていらっしゃるか、ちょっと私わからないのですけれども、どうも今の先生が順法精神を子供に教えないということについての御意見も、林先生から承っておいた方がいいような気がするわけです。この二点をまあとりあえず承りたいと思います。
○参考人(林友三郎君) 私たち心がまえとしましては、学校の中でよくしなければ、よくする場所がないと、そういう心がまえでずっとやっております。それだからこそ、先ほど八億、九時と言いましたのは、まだあれでも軽いくらいなんでして、遠くから通っている子供の家に、一週間七日のうち五日も家庭訪問で、帰りは真夜中だ。お宅は夜学の先生ですかと言われている先生もたくさんあるわけです。とにかくわれわれが歯を食いしばってこの子たちを守ってやらなければ、守る場所がないというのが実感なんです。ですからそれでやってきちゃった、やってきちゃったということが言えると思うのです。先ほどの先生は、ボーナスでスボン一本買わないで、四カ月で自分のお金を五、六万使ってしまったというのがあります。ほかに一万使ったとか五千円使ったというのはたくさんあるわけで、そういう予算の出どころなんというのはどこにもないのです。区の区長さんなんかも、それは御苦労さんでしたとおっしゃって下さるけれども、それ以上の答えはできない。やはりそれがPTAの非常に熱心な方が、先生大へんだからというので、今年度五百万円組んで下さいました。下さいましたけれども、学校のお金というのは非常に使いにくくできておりますから、これは先生を信用して、先生が持って行ったら受取も妥らないくらいにして使って下さいと言ってくれました。これは考え方としては、PTAの方自体の非常に御好意ありがたいのですけれども、私たちとしてはそれが公の費用から、もっと区費とか、部費とか、あるいは国の費用から出るべきじゃないかとこういうように言えます。 それから学校の中で全部そういう子を抱え込みきれたか。これはきれないからこそ、そういうものは私たちはさきざき、前々からわかっているのですけれども、とにかくやってみてから結論を出そうというので、またまたやってきちゃったというのが現状なんです。それで今年の三月になりましたときに、一人の子ははっきりとお医者さんの鑑定を受けて、それで入れる場所をきめましょう、こういうことを考えた。もう一人の子につきましては、委託保護しましょうということを考えたわけです。で、さる病院の大学の先生のところに、その担任の先生が相談に行きましたら、こういう問題については、今世界中困っているので、こういう子を入れる場所がない、とおっしゃったのですね。じゃいるのはここよりないのだから、やっぱりやっていくのだということでやっているだけの話です。だからそういうのがあったら非常にいいと思います。二十四時間教育を、ほんとうに子供の立場を考えた考え方でやって下さるところがあったら、これは非常にいいと思います。もう一点は……。
○高田なほ子君 先生は子供に順法精神をさっぱり教えないというのはけしからんというふうな意味の御意見があったのだが、私は学校の先生方が、子供に順法精神を指導してないというふうには受け取っていないのですが、これはどうですか。
○参考人(林友三郎君) あるいは近ごろの社会的な教育問題で、私たちがデモをやったり、赤旗を立てたりということをお指しになっているのかそれはわかりませんけれども、私たちは法律にのっとってやっているつもりですし、むしろ非常に大切な問題は、私たち考えますのには、私たちがそういうことをやらなければならない社会的な条件というものと、子供を非行化させておる条件というものと、やはり共通のものがある。私たちが戦ってやっていくことが、実は子供を守ることなんだという現場の実感に支えられて、私たちはやっているんです。私たちがなかなか引かないというのは、うしろに子供がいるから引けないのです。これははっきり申し上げたいんです。じゃあ、どういう先生がというとおかしいですけれども、やっているのかといいますと、ほんとうに現場で身銭を切って、私たちがなんといいますか、自分たちだけで子供をおんぶして、この悲壮な気持で守っておるというような感じになることがあります。そういうあれで教育活動に熱心であれば熱心である方ほど、実は一生懸命外でもやっておるというのが、実際のところじゃないでしょうか。これは私たちの実感なんですけれども、そういうふうに思います。まあ日が足りなくて何かと思いますけれども。
○高田なほ子君 映倫の関野さんにお、尋ねいたしたいのですが、関野さんよろしゅうございましょうか。
○参考人(関野嘉雄君) はい。
○高田なほ子君 マスコミの影響についていろいろお話がございました。でマスコミの影響について、いろいろ資料もあるんですけれども、全然これは影響がないとは言いきれない面もあるかと思いますけれども、この映倫委員会というものもありまして、相当にやはり研究されて、らっしゃる実態も私たち知っておりますんですけれども、映倫委員会の委員のメンバーというものは、大へん失礼な申し上げようですけれども、少しお年がお取りになり過ぎている感があるんじゃないかという気がするのです。もう少し若いですね、今の世代にマッチするような方もお含めになるような御意図はないかどうか。そうでないと、この映倫委員会のなんですかね、ほんとうの意味での映倫委員会の使命が果たせないんじゃないかという気がいたしますが、この点はいかがでございますかということが一つ。 もう一つは、子供というものは不思議なものでして、大人もそうなんですけれども、見ちゃいけないというものはよけい見たいし、行っちゃいけないというものはよけい行きたいのではないかと思う。私は映画はあまり子供に制限させない方がいいという、私は個人的な見解をとっておるんです。むしろ、悪い映画も世間にあるんですから、どんなに見るな見るなと言っても、これは入ってしまってこれは見ればしょうがない。その悪にどういうふうに抵抗するかということを、教育の中で子供の中に植えつけていくということの方がむしろ大事なので、やたらにこの制限々々といわれることが、はたしていいか悪いかということについて、これは相当研究しなければならない問題じゃないかということが一つ。で、最近文部省推薦映画というのがあるのですが、私どもの子供なんかも、文部省推薦となると、どうもカビくさくて見たくないというんですね。これは正直な言い分だと思う。しかしほんとうは最近文部省の推薦映画も、カビくさくはなくなってきておるんです。しかし、なんとか推薦映画、なんとか推薦映画という、いわゆる官僚臭のべたべたと張られたようなものについては、やっぱり青年の心情としては見たくながるのですね。こういうような点をどんなふうになさるつもりか。大へんばくとした質問になりますが、意のあるところをお汲み取りいただきたいんです。 それから最近のテレビでございますけれども、これは映倫委員会の範囲内に入らないもののように思われますが、最近私もテレビに関心を持ちまして、ずっとかなり長時間見ることがあるのです。そうするとやたらになんですかね、あまり感心しないのが多いんですね。その場ふさぎの商業主義、こういうものはなんとかできないかな。これは法律で規制せよというんではないですよ。こういうものはなんとかもう少し高めていく工夫というものは御研究にならないものかなという気がするのですが、この点はいかがでございましょうか。三つの点についてお伺いしたいんです。
○参考人(関野嘉雄君) ただいまの最初の問題でございますね、これはどうも正直なところ、私ども関係者としてなおよく研究いたしまして、高橋委員長ともいろいろお話し合いをした上でないと、私今この席でどうと申し上げるわけにはちょっと参りません。映倫の構成メンバーを刷新したらどうかというお話でございまして、御趣旨はよくわかりました。これは帰っていろいろ研究さしていただきます。 それから制限すれば、よけいそっちの方へ引きつけるような気持が呼び起こすのではないかという御意見でございますが、これは確かにそういう意見がずいぶん行なわれておりますし、またそういう面もありはしないかと思っております。しかし、これは私個人の意見でございますが、別に世界各国の事例にならうというつもりは毛頭ありませんが、大ていの国で、やはりこういう制限を実施しているということには考えさせられるものがあるように思うわけでございます。お話しのように家庭や学校での指導が十分に行なわれますならば、これはもちろんそういう制限の必要はないことになるだろうというふうに思います。私どもそういう家庭や学校における指導を大いに普及し、徹底させるようにこれから大いに努力していかなければならないことは、まことにその通りだと考えますが、それと並行して今日の段階では依然としてある程度の制限は、やはり若干難点がございましても、一応考えなければいけないのではないかというふうに思っておるわけでございますが、これもしかし、なお一そう研究してみたいと考えております。それから推薦の問題でございますが、これはまあ文部省の選定とか、私どもの方の青少年映画審議会でも青少年向き映画の推薦をいたしております。もちろん、これはまあ押しつける意味とか、そういうことはございませんで、青少年が見るならばこういうものを一つ目安にしたらどうかと、そういう意味において取り上げておるわけでございますので、観覧の目安を提供するという意味では、何らかの役割を果たしているのではないかというふうに考えております。ただ、この推薦がお話しのようにひどくカビくさいものとか、そういう方向に走ってしまったり、またあまり強制的な印象を与えるようなことになりますことは、これは大へんまずいことだというふうに思っておりまして、その点は私どももいろいろ戒心する必要があるということを感じております、 最後に、テレビの番組改善の問題でございますが、これは私も実は毎晩子供と二時間ないし三時間テレビの番組を一緒に見ておりまして、いろいろ考えさせられる点があるわけでございますが、まあこれは御案内と思いますけれども、映画、テレビ、新聞その他、関係各方面が一緒になりまして、マスコミ論理懇談会というものを設けて、マスコミ全体がお互いに連絡し合い、話し合いをいたしまして、マスコミ全体としての刷新、向上を実現していこうという態勢を今整えてておるわけでございますが、その内部でいろいろとテレビ番組の改善ということも検討されておるわけでございます。商業放送でございますと、いろいろ商業放送という点にからまるいろいろなファクターが御承知のようにございますので、なかなか簡単に参らない筋合いがあるかと思いますけれども、関係者はみんな一生懸命になって、少しでも向上の実を上げていきたいということを努力しておりますことは、私どもそういうマスコミ論理懇談会の席に出席いたしまして、しみじみ感じておるわけでございます。これはテレビの番組内容の改善のためにそういうふうに考え、かつ努力しております人たちに、なお一そうの指導激励というものがいろいろな方面から与えられるようになることがきわめて望ましいというふうに考えておるわけでございますが、同時にやはりこれに関しましては、家庭と学校におけるテレビの見方についての指導というものを普及徹底させることが一番大事ではないかというふうに考えて参りますと、やはり私は問題の根本は、教育的な対策であり、教育的な指導であるというふうに、考え方が落ちついてくるわけでございます。お答えにならなかった点があろうかと思いますが、一応私の感じを申し上げました。
○高田なほ子君 業界はあれですか、相当自粛をするために緊密な連絡をおとりになっていらっしゃるのでしょうか。私この点不勉強でわかりませんけれども、テレビなんかでは、成人映画といわれるようなものでも、ずいぶん悪どいのが出ますね。これは幾ら映画だけを制限してみても、テレビのほんとうにまる裸になって騒ぎ回っているというようなばかばかしいああいったようなものは、業者もおわかりになっていらっしゃるのじゃないかと思いますけれども、ああいうのをなさるのですが、業者の自粛はどの程度にやられておるものか、はなはだ疑問に思って今伺っているわけなんですが、どうなんですかね。
○参考人(関野嘉雄君) 私はそのことについてお答えする適当な資格を持っているかどうかちょっとわかりませんけれども、私が先ほど申しましたことは、テレビでそういう番組を編成する当事者、それからテレビ局にいろいろ考査室と申しまして、そういう番組内容の社会的影響やその他をしょっちゅう目を向けているセクションがございますけれども、そういうところの人たちは、かなり一生懸命になってたんとか直したい、少しでも手落ちのあるところは改めていきたいということに一生懸命になっておりますことは、私ども非常に強く感じております。ただ、一これがテレビ放送会社体ということになって参りますと、少しまた違った力が働いてくる場合があろうかと思います。両方の力のからみ合いがどうなるかということで、問題はいろいろ違ってくるのじゃないかというふうに思います。
○高田なほ子君 考査室の話が出ましたけれども、はたしてこの考査室が文化の向上のために公正な役割を果たしているかどうかということについても、これは特に映倫の関野さんですから希望までに申し上げたいのですけれども、この点についても御研究いただきたい。たとえば政治的というよりは、政治的面識な問題を取り上げるようなものだけびしびし切っていって、それでまる裸になってふざけ回っているばか者には一向平気だ、こういう偏向的な感覚がこの考査室の中にありはしないかというような疑同も私は持っている一人です。ですからういう点についても十分一つ映倫の方面の第一線としてお働き下さる関野さんでありますがゆえに、お願いを申し上げる筋合でございますからよろしくお願いしたい。 次に、保護司の橋本さんにお尋ねしたいのです。大へん保護司の皆さんはお話しにならないようなひどい待遇で、身ぜにを切って第一線で非常な御苦労して下さっておりますので、私どもこの委員会でもしばしば保護司の待遇問題等については、やかましく議論をすることもございますが、私どもの意に満つるような実現がまだできないということについて、深くこれはおわびを申し上げたいと思います。しかし、法務当局もこの点については十分認識をしておるような面もございますので、一そう一つがんばっていただきたいと思うわけであります。本日はいろいろ貴重な御意見を伺ったわけでありますが、この中で少しお言葉が足りなかったので、私が誤解しているのかもわかりませんから、この点をお伺いさせていただきたいと思います。その前に、まず実態を少し伺わしていただきたいのですが、保護司を何と申しましょうか、委嘱する基準がございますが、人格及び行動につき社会的信望を有する方、以下四項まで。健康問題もございますが、この中で時間的余裕を有する方という一項があるわけですが、一体今の保護司の方で、時間的な余裕を持っておる保護司さんというのはどのくらいございますか、どうもこの条件に合わない方が委嘱されている場合が多いように伺っていますが、この点いかがでしょうか。 それから、保護司の定数が全国を通じ五万二千五百人というふうに法律でもって定数がきまっておりますが、橋本さんの御経験によりますと、現在の保護司の定数で、はたしてこれをまかなっていくことが妥当であるかどうか、こういう点。 それから、先ほどの御開陳の中で、遊び場か多過ぎるという言葉が出たわけですね。社会的な条件の中で非行少年、犯罪少年がふえるのは、牲の解放とか、遊び揚が多過ぎる、物価が高いのでお小づかいが足りないということの中での遊び場が多過ぎるということ。私は子供や青年の遊び場というのは、全くないのじゃないかという気がするわけです。遊び場というのは、要するにおとなの遊び場で、特に地方の財政を補うための射幸的な遊技場が多過ぎる。これはみんなおとなを遊ばせるための、マージャンから、玉突きから、パチンコから、競馬、競輪、実におとなの遊び場は数限りなくあるのですが、一体子供の遊び場というものは、これでいいかということにぶつかりますが、これは多過ぎるというのはちょっと違うのじゃないでしょうか、この点。 それから、非行少年、犯罪少年の処分が、温情に過ぎるのではないか、こういう御意見でございますが、その例として、十五の悪に対しては十五の圧力をかけて、圧力というのはよくないかもしれません、十五の悪をしたものについては、やはり十五の力の拘束を加えてこれは更生させなければならないというようなお話しですが、どうもここらが具体的に私十分つかめません。 それから、収容少年の待避がよ過ぎるというようなお話しでございました。これは私は収容少年をほんとうに更生させるという見地から見た場合に、現在の待遇については、必ずしも万全ではないという意見を持っておるわけです。先ほどおっしゃったように、八畳のところに三人いるなんというのはホテルと同じだというようなお話もございましたけれども、そういうところもあるかもしれませんけれども、実際はずいぶんひどいところもあるようでございますし、かなり食べものについても不満、足りないような面もずいぶんあるように私ども考えておるわけでありますが、よ過ぎるというのは、よ過ぎてはいけないかということになるわけなんですが、この点はよ過ぎた方がいいのじゃないかという気がするのですが、もっと悪くしろという意味ではないでしょうねということを聞きたい。 それから、少年院に行けば、悪いことばかり覚えてくるということで、大へん少年院のお方がお聞きになったら悲しまれるのじゃないかと思うのです。そこで、少年院の退院者の成績について、東京家庭裁判所の科学研究室から、先ほど資料としてこれちょうだいしたのですけれども、少年院の退院者についての成績をずっとデータをあげているのですけれども、経過が良好であるというのは五四・三%、経過やや不良というのが二一・四%、経過不良というのが一六・五%というふうに、経過がいいというようなデータが出ておるわけであります。特別少年院に行くような、要保護性が進んだ少年の場合も、退院後半分は更生している。しかし、あとの半分については、まだまだ諸条件がそろわないために更生しきれないというようなことがあげられています。また、この更生をどういうふうになって更生をしたかというような原因なんかを大へん詳しく書いてありますが、就職がきまったとか、子供が自覚したとか、それから、少年院に収容された間に親の愛情を知ったとか、あるいは保護司のお世話に感じたとか、警察官の補導によるとか、親が死んだとか、友人の忠告とか、雇い主の愛情とか、要するに愛情ということが、更生の大きな原因になっているように思うのでございます。ですから、いかがでしょうか、少年院に行けば悪いことばかり覚えてくるというのは、少し違うように思うのですけれども、ごらんになる角度が私と違うので、こういう違いが出てくるのではないか、こういう点について一つお話し願いたいと思います。
○委員長(大川光三君) なお、委員長からお願いいたします。ただいま高田委員から御質問の要旨は、決して参考人の御意見に議論をするとか、反駁する意味はないのでございまして、委員長の方でも、きわめて参考人が率直に意見をお述べ下さったことに対しては、敬意を表します。
○参考人(橋本政東君) お答えいたします。第一の問題の、保護司の資格の中で、時間的余裕があることが一つの条件になっておるのに、はたしてその時間的余裕のある保護司がたくさんおるか、あまり多いように見受けないかという御質問であったと思いますが、それはお説の通り、非常に忙しい人が多いのです。従いまして、かりに一区に百人の保護司がいたとして、実際親身になって少年たちの、あるいは退所者のめんどうをみていくというのは、その何割程度ではないかと考えます。はなはだしく時間的に余裕があり、しかも熱心な人は一人の保護司で二十五人くらいかかえております。忙しい人は一件も持っていないという保護司もおります。それは事実でございます。従いまして、その点について保護司の選考制度ということは、もう一考を要するのじゃないかということは、お考えの通りだろうと思います。 第二の点の、定数五万二千五百人で足りるかということですが、今申し上げましたように、かりに百人の保護司がいて、全部が二人ないし三人持っているかというと、持っていない人がおるというので、はなはだしきは二十五人も持っている。たとえば私の保護区である文京区で一人の保護司が平均幾らの人数を持っているかというと、昨年度の統計では七・六人持っております。従いまして、この数からいきますすと足りないということは言えると思います。私どもの経験によりますと、最高三人が一番いいところで、それ以上持ったらめんどうを見きれません。二十人なんて持っていたら、もうほとんどやれないと思います。従いまして定数は足りないと思います。 それから第三、遊び場が多過ぎるということ、これは遊び揚の見方の問題だと思いまするが、確かにお説の通り、子供の遊び場は少なくてほとんどないといっていいくらいで、おとなの遊び場のみ多いという、その通りでございます。ところがおとなの遊び場が多過ぎるために、子供たちはそこへみな入っていってしまう。つまり子供の遊び場がないからということになりまするが、しからば子供の遊び場というのはどういうものかということを考えますと、たとえば青少協で子供の遊び場ということをよくいいますが、運動場がない、従って道路でまり投げをする、けがをする、こういう問題につきましては、私ども青少協の委員として盛んに学校の開放であるとか、お寺、道路の開放というようなことをやっておりまするが、そういうことだけが遊び場というふうに私どもは解釈しない。たとえばスケート・リンクなんていうような遊び場、これは子供が多いのでございまして、後楽園のスケート・リンクなんかは、言葉が過ぎるかもわかりませんが、不良の温床といってもいいくらい、これはちょっとその筋の会社関係の人に怒られるかもしれませんが、事実そうでございます。私どもは警察官と一緒によく補導にでかけます、また見学にも参りまするが、実にそれははなはだしいところで、ちょっと見ただけで悪いやつに引っぱられる。そういった面から遊び場が多過ぎるということを申し上げましたが、実際おとなの遊び場が多過ぎるので、そこへ子供が入り過ぎるのです。従って健全な遊び場ということは、どういうものかということを研究してそういうものを作ればいいわけであります。私どもはその方面に実際やっておりますが、なかなかできないのが実情でございます。 その次の、処分の温情に過ぎるということであります。これは一例を申し上げましたが、家庭裁判所の受理事件に対する不処分事件か多すぎる。従いまして、これが一回ならいざしらず、二度三度呼ばれて不処分になりますと、なれっこになってしまう。つまり、子供たちはよく言いますが、パアになるという言葉を使う。つまり、母なりあるいは保護司なんかが努力してやって、これをパアにしてやるということがしばしば行なわれます。裁判官も非常に温情がありまして、見込みがあるという考え方からパアにするのだろうと思いますが、ところがパアになった連中はどうかというと、前科を重ねてきておるような、精神的なものですけれども、そういうことになる。従いまして、その点に私は耐情が過ぎると申し上げたのであって、私ども保護司のやり方は、さっきおっしゃった通り愛情一つでいっております。つまり、だまされてもだまされてもまただまされて、さらにだまされる。そのだまされることのいやな者は、保護司になれないというのが私の考え方であります。そういうつもりで指導しております。従って、愛情ということが一番大事である。それは愛情の向け方もいろいろありましょう、技術面で。私の言うのは処分に対する温情という言葉でありまして、これは言葉が足りなかったのでありますが、そういう点で温情に過ぎると申し上げた。 それから施設の内部の問題でございまするが、それは悪いところもございましょうけれども、実際方々私行ってみますると、非常にりっぱなのです。そして出てきた者に聞きましても、自分の家で食べたことのないものが日常食べられる。これは現在非行少年という対象になった人たちは、昔は非常に、さっき株先生のお話しの中に下流社会に多かったが、最近は中流家庭以上に多いわけです。従って、待遇が必ずしもよいとは言えないかもしれませんが、私どもの扱いました人間に、つまり少年院から出て来た者、それから私が現実に施設に行って、私ども行くたびにそこの飯を食わしてもらったりしますが、非常にりっぱです。昔はくさい飯と言いましたが、決してくさくございません。りっぱなものです。そういう意味において私は温情過ぎるという言葉を使ったわけでございます。よ過ぎてはいけないかということですが、私はこれはよ過ぎちゃいけないと思います。ということは、悪いことをしても彼らは反省しない。何とも思わない。これはあとの質問になりますが国連して申し上げますが、悪いことばかり覚えてきてよくならないじゃないと私申し上げましたが、それはよくなった者もたくさんございますが、その統計がどういう点からきているか私よくわかりませんが、現実に私どもの扱った人間で、よくなるのはごくまれです。私どもは今まで、七、八十人もめんどうを見て、よくなったのはたった四人きりです。あとは全部だめです。たとえば私、女子の収容所から二人女の子を、これはいい、模範だというのを連れてきまして、私の家に置いて、つまり女中みたいにして使ったのでありますが、これは仮退院で、その家はいいのです。ところが退院証書が来ました翌日、ぱっと逃げ出しちゃった。そして再び同じようなことをやっておる。それから第二番目にもらいました女の子は、私の家に来まして、一週間ほどよかったのですが、出入りの米屋と一諸にどっかへ行っちゃった。そして一晩泊まって翌日帰ってきた。そして、これは家庭は非常にいいのですが、一カ月ほどめんどうをみましたが、結局退院証書が来るとその日に飛び出した。これは女の子の場合、たった二つの私は自分の家に収容をした例でございます。あとは男でございますが、先ほど申し上げましたように約六、七十人のうち、よくなったと私の思うのは、四人で、あとは令部だめであります。そういうのが私の大体の体験でございます。従いまして、そうしていろいろ聞きますると、こういうことを言うのです。たとえば収容されるまでは何も知らないのですが、収容されまして、マッチがなくてたばこを吸うのですが、彼らはこれはどうするかというと、こういうものを、ごみ、これをまるめてこするのです、板の上で。そうしますと炎火する、こういうことをほとんど覚えてこないものはいないぐらいでこれは一類、分類において一類と言われて、いい成績だというのですが、たばこの吸いがらを拾ってきて分けてやる。そこで中で吸う。その火も今のようにきれなんかをもんで発火させる、いろいろなことを覚えております。私は悪い面だけ言っているようでございます。それはよくなるのもたくさんおりましょうけれども、私の体験では悪いのが多いということであります。そういう意味において私は申し上げました。大体そんなものでございました。
○高田なほ子君 それでは宮田さんに最後にお尋ねしたいと思うのです。児童人口と非行少年の比率の問題について大へん興味深くありがたく拝聴したわけです。その中で学生、生徒の非行問題についてそのデータがあげられておりましたが、特に働く少年、つまり少年工等の対策に重点を置くべきではないかという御発言がありまして、私も同感しているわけでありますが、そうして働く青少年に対する対策、これは全然時間がないために御意見を拝聴することができませんでしたが、もし御意見をこの際伺わせていただければ、大へん仕合せだと思います。 第二点は青少年問題に対するおとなの考え方のおくれの問題について意見をお述べになっておられたようです。今日の中学生と昔の中学生というものが非常に質的な変化をとげながら成長しているわけでありますが、これに対して現在のおとなが的確にこれを把握しているかどうかということについて、疑問を投げかけておられるような御意見であった思う。このおくれをどうするかという問題は、大へん大切な問題であると思いますので、もしこれをどうするかということについての御意見があれば伺わしていただきたいと思うのです。この問題は林先生も現場の先生として、もし御意見があれば伺わしていただければ大へんしあわせでございます。 それから最後に、最近のスラム街の問題が、ちょいちょい出るのですけれども、木枠的に私ども取り組んでおらないのでありますが、日本の政治の中でスラム街の問題というのは、ほんとうに取り組まなければならない問題だと思うのですけれども、一番先にどういうところから、これを手をつけていったらいいか、いろいろこの中にいろいろな問題があると思うのですけれども、実務家として最も緊急にこの中で手をつけるべき問題は何かということに触れていただきたい。以上です。
○参考人(宮田秀太郎君) 第一の御質問についてお答えをしたいと思うわけでございます。私ども、先ほどのときに御説明申し上げました通り、情勢分析をする上において大切な要素を御説明したわけでございますが、大阪におきまする働く青少年という場合、これは全国的なウエートから見ると、大阪の場合非常に多いのでございます、私ども承知している限りにおきましては、大阪車内における事業場というものはどのくらいあるかということを、中小企業の街と言われている大阪の実態、こういうものから分析してみますと、大阪には十六万六千八百二十九という事業体があるわけでございます。これは小さな商店から、小さな工場から大きな工場まで含めた数字でございます。そこで働いている数、稼動人員と申しますか、これが百四十五万といわれております。さらに小さく区分けいたしますると、零細企業が非常に多いわけでございます。ここでは一人から四人までという数字が十一万七千三百九十四、五人から九人までが二万七千七百九、十人から二十九人までが一万八千八百一、こういうふうな数字から見ますと、大阪の企業というものが大企業の系列下にある小企業、あるいは商店、こういうふうなものが非常に多いわけでございます。そういうふうな地域の内容だというふうでございます。 この働く人についての福祉というものがどういう形でやられているかということ、これは青少年全般の問題から考えなければいけない。私、政府自身がおとりになっているいろいろな施策、非常にけっこうな施策がたくさんあると思うのです。そういう働く青少年の福祉というものが、労働省であれば毎年十一月一日から始まって、働く青少年の福祉を守るという運動があるわけであります。また、県庁福祉という立場からいけば、これは未青年者ということでしょうけれども、これは毎年五月になれば一般の児童を守る福祉日というものがやられるわけでございます。法務省の関係になると、たしか七月だと思うのですが、社会を明るくする運動がございます。これはその中にあの運動をずっと見てみますると、ほとんど中核的になっているというものは、最近の傾向としましては、青少年問題が取り上げられておる、いわば各省が各自の立法をされた記念であるとか、あるいは何かのことでおやりになっていらっしゃるところが、集中的にそういうふうな青少年問題を、総合的におやりになると、なお一そう効果が出てくるのじやなかろうか、PRにしても、同じことだ、また施策にしてもそうじゃないか、そういう総合的な施策というものがお考えになっていただければなおけっこうだ、こういうふうに思っておるわけでございます。 それから失業者群とその予備軍、この犯罪、非行というものは非常に多いわけでございます。この実数は実は半失業者というものは、若い人たちでございますが、この実数というものはなかなかつかみにくいわけでございます。従ってこの人たちが非行比するという数字は、たしか二〇何%、三〇%近くあったと思うわけであります。そういう人たちは現在に絶望しておるわけなんです。そういうふうな絶望状態から、非行に走っていくという条件が出てくるわけでございます。従って働く職場というものをやはり考えてやる、こういうふうなことを、やはり一連の労働省なり、あるいは厚生省なり、いろいろなお役所筋がございますが、総合して青少年問題をお考え願いたいというふうに思うわけでございます。また、働く青少年という場合、大阪の特殊性からいって、やはりそういう大きな場を作ってあげる、やはり大阪における彼らのセンター的なものを、りっぱなもりを作ってあげる、こういうことが必要じゃないかと思うわけでございます。毎年大阪には二万人という中学校を卒業してくる子供が入ってくるわけっであります。これは各府県から来ますけれども、おもに西日本であります。西も東もわからないような子供たち、方言が違う子供たち、習慣が違う子供たち、こういうふうな子供たちが、大阪という大きな、巨大な街に入ってきた場合、これにスムーズに入ってくる場合はいいのですけれども、なかなかいろいろな抵抗があったり、ぶち当たり、ひっかかるものが出てくる、そこに問題が出てくる。従って最初の大阪の街になれるまでの施策、あるいは郷里とつなぐもの、こういうふうなもので、働く青少年のためにりっぱなセンターなんかをこしらえていただければ大へんいいのじゃないか、私、青少年対策というものは、一本の柱になって、また一つは心非行少年の対策だ、この二本立であるわけでございますね。そうするとその一本の柱の、青少年対策の中に、そういうものを織り込んでいく、こういうふうにしていただけば大へんありがたいのではないかと思っておるわけでございます。 それから第二番目の、おとなたちのおくれでございますが、資料として二十部持って参りました通り、私ども大阪少年補導協会というものは、青少年問題というものは国民的な課題であり、民族的な課題であり、国家的課題である限りにおいて、どういうふうに国民が参加するか、この問題に当たるわけでございます。幸い少年補導協会というものが、大阪の財界人の、商工会議所の会頭を初め、トップ・クラスの社長級が、青少年問題は大へんな問題だ、一応この問題について強い関心を持ちまして、財界人だけが発起人になって、少年補導協会を作ったわけであります。いろいろ事業をやっております。ことしは不良週刊誌と、不良雑誌追放に三十五団体が寄りまして、やったわけでございます。それから会館を、約二千二百万円で建てたわけでございます。これは民間の大阪財界の二百社の、トップ・クラスを初め二百社の会社の社長さんたちが醵金していただいて、それで建てたわけでございます。そこには、やはり常設の展示室を設けたわけでございます。統計であるとか、あるいはいろいろな資料であるとか、百貨店などでよく防犯展とか、いろいろやられておりますけれども、一週間とか、あるいは時間的に制約される、こういうことでは、広い運動にならないのではないか。年中無休の、日曜日も働く人、お母さん方のためにも、晩も見にいらっしゃいというような展示室を設けたわけです。これは世界各国のいろいろな統計資料なり、あるいは防犯的なもの、あるいは補導に必要なもの、また高校生の考え方、いろいろなものを出しております。最近の持ち物であるとか、そういうふうなことで、国民運動としてこれをやっておるわけです。常設のいわば展覧会でございます。それを一つ、これは全国、北海道、南は九州から、いろいろな、各種の指導者の階級の人がお見えになっていらっしゃいます。また学生諸君も、学生諸君というのは、大学の社会福祉心理学の学生です。あるいは現場の教師、警察官、こういうふうな人たちがごらんになっていらっしゃいます。それから啓蒙運動をどうするかということ、これは、基本的な実はペースで進まなければいけない問題だと思うのです。どういうふうなことかと申しますると、そういう重要な問題を正しくどういうふうに受け入れ、吸収してもらうかということ、こういうことで、お手元にお配りいたしました少年補導という雑誌がございます。これはほとんど無料でお配りしておったわけです。定価六十円とつけておりますけれども、有償の分と無料とございますけれども、こういうふうな本を出しまして、一般の府民の方々に御理解願おう、専門誌が実は少ないわけでございます。社会病理的な、精神医学的な、心理学的な、行刑学的な、いろいろな点から、この問題をこなしていこうというようなことで、各方面の方々にお願いいたしまして御執筆を願い、また実務家の方々にも御参加を願って、執筆していただいて、財界人も、また各工場の方も、実務家も御勉強願いたい。また、お母さん方もこれを、婦人会を通じて下部に浸透してもらって、話し合いの一つの資料にしてもらいたい、こういうふうなことをやっておるわけでございます。非常に簡単な御説明で、ちょっとおわかりにくかったかと思いまするが、ともかくも大阪におきましては、財界は 一つそれでは金を出しましょう。全財界人がこの問題に立ち上ってくれたこと、私、その事務局をお預りしておるわけでございますが、さらにまた、各大学の学長にお会いしまして、官公立の関係の学長でございますが、財界は金を出そう、学界からは一つ私はお知恵を借りたいというようなことで、学界からは教授陣以下御協力願っておる。実務家は一つこの問題を一生懸命お願いしたい。従って総合的な立場でこの問題と取り組まなければ、解決はむずかしいのではなかろうか。こういうふうなことで、いろいろ運動をやっておるわけでございます。
○高田なほ子君 大へんいろいろ伺わしていただいたのですが、そのおくれというのは、私は精神的なおくれというふうにお聞きしたかったわけです。いろいろ大阪は、財界の方や何かがやって下さって、一生懸命やって下さっているわけですが、具体的に言うと、五十ぐらいのお父さんの頭と、それから青年の頭というのは、こんなに違うのです。こんなに違う。高いひさしの上でいろいろなことをおやりになるよりは、やはりこのギャップというものをどういうふうにして埋めていくかということについて、工夫が払われているかどうかということを実はお聞きしたがった。それが問題だと思うのです。
○参考人(宮田秀太郎君) その点は、一人でそういう役割を果たしたり、一つの小さな組織だけでやるわけに参らないと思うのです。従ってどういうところが問題点になっているかということ、現在の青少年問題の課題、その重要な問題は何かということ、そういうふうに青少年の心理であるとか、いろいろな問題を、本に出しまして、婦人の方々に読んでいただくわけです。これをいろいろな機会に総会にかけてもらったり、PTAにかけてもらったりして、そこでまたその方が代表になって御説明願う、各級の指導者の方々の全員の参加ということ、こういう立場で国民軍動的な、小さくいえば府民運動的なもの、こういうところから推し進めないと、一つの組織、一つの団体、一つの学校だけでは解決つかない、全府民運動にもっていこう、こういうところで、三千部が、読む率からいえば、私の調査では三万人の指導者層が大阪では読んでおるわけなんです。そういう人たちが、一つ一つそういう問題を深めていって、理解してもらおう、路地裏まで浸透してもらいたい、こういうふうな趣旨でございます。
○委員長(大川光三君) 参考人、先ほどの高田委員の御発言に関連いたしまして、御意見がございましたら伺いたいと思います。
○参考人(林友三郎君) おとなのおくれということなんですが、確かにその通りなんですが、私たち自身も、子供に接すれば接するほど、いかに教師というのは、子供の気持を知らないものかということを自分自身感じます。もちろん、私たちの考えから見て、父母の子供に対する考え方がまた非常にずれているということを感じます。私たちと父母との問もずれている、私たちと子供の問もずれている。そういうことをしょっちゅう感ずるわけです。その例は、先ほど申し上げました中にも、ちょっぴりずつ出ていると思いますけれども、それを取り戻すための活動としましては、あらゆる機会をつかまえて話し合いをやっているわけです。学校としましても、そういう地域会というのがありまして、これは全校を分担して、まだまだ形だけというふうな傾向が多いのですけれども、一年に何回か、十何世帯一つの班にしまして、そこへ出かけて行って、父母と教師と、場合によっては子供も入れて話し人合いをやるわけです。学校全体としてできているそういう組織のほかに、私たち自身、自発的に、あの辺のお母さんが先生たちと話し合いしたいそうだというときには、大てい始まるのは、まだ早いですが、夜ですけれども、七時か六時半くらいから始めまして、十時半くらいまで話し合って掃ってくる。そういう具体的な、ほんとうにやはり結局末端にいる私たちが足を使わなければだめなんだということを痛感しておりますので、今度それじゃズレの具体的内容ということになりますと、ちょっとむずかしいですけれども、とにかく足を使って幾らでも私たちは動くから、先ほど申し上げましたように条件を整えてもらいたいというので、整えないうちはやらないというわけじゃないのです、これだけやっているわけですが、条件を整えてさえいただけば、そういう具体的な足を運んで動くことがもっともっとできるということですね。クラスの人数も少なくしてもらいたい。三十人くらいにしてもらいたい。それから先ほど申し上げましたように、公の費用で私たちが動くものがまかなえるようにしてもらいたい。幾らでも私たちは動く気がある。これは外側から見た、形式面からそういうことが申し上げられると思います。具体的におとなの考えている頭の中と、子供の考えている頭の中、それから私たちの教師としての頭の中、これは先ほど申し上げましたようにずれているのですが、甘い、きびしいという話はいつでも出てきます。これに対する見解なんかもいろいろ話し合っていく中で、だんだんはっきり共通した見解が出てきているようです。ですからとにかく話し合う機会を十分に持てるように条件を整えてさえいただけば、私たち幾らでもやるというふうにお答え申し上げるよりほかに、今こまかい問題になりますと、まあ言えないんじゃないかと、そういうふうに感じます。先ほど申し落としましたけれども、そういうふうな例では、個々のいろんな子供のしゃべったこととか、お母さんやお父さん方と話したことを、一人の先生が大体四カ月くらい大学ノート何冊か、まだ四百枚くらい小説めいて書いておるということがあるのです。とても話しきれないわけです。そんなことです。
○高田なほ子君 そのメモを私いつか見せていただく機会があったら見せていただきたいと思いますが、林先生はこの問題に取り組まれて過労のために、だいぶ病床にあられたと伺っておりますが、月月火水木金金と、いつ一体教師は休まれるのです、その使命感に徹せられるということについては、全く敬意を払うし、全学をあげての御努力については、ほんとうに頭が下がるわけですが、教師も人間であると思うのです。健康を害され、それからポケット・マネーを一万も二万もお使いになって、ほんとうに私自分が責められるような気がしてならないわけですが、いかがでしょうか、一週間に一ぺん日曜日半日くらいの休暇は今お休みはおとりになることはできないでしょうか。
○参考人(林友三郎君) 日曜日も家庭訪問することがちょくちょくありまして、そういうことでは私いけないと思っております。ですから先ほどから申し上げておるように、そういう条件を整えてもらいたいと何度も申し上げるわけですけれども、どうしようもないから動いているのが実情なんです。私が病気したわけではないので、私よりもっと動いておる先生が何人もいらっしゃる、下宿のおばさんが、うちに下宿しておる先生はうちにいるときはガリ版を切っているか、昼寝しているかどっちかだ、夜は二時三時だという例は私たちのところだけではありません。幾らでもあります。現実にそれをやらないと、どうにもならないからやっているので、ことしの二月ですか、うちの学校の先生でそういうことをやっているうちに、奥さんの病気が悪くなって入院しちゃったという方もあるのです。その先生自身は悪くならなくても、こういうことは、私たち強くどうにかしてくれと言うよりほかにないのです。もちろん、自分がそういうことをやっているから、それでいいんだというふうな考え方ではいけないと思います。やはりだれでも超過勤務手当というものはないですから、私たちの場合は法規にきめられただけならば、朝八時に行ったら四時か四時半に出ちゃっていいのかもしれませんけれども、むしろそれからあとが、活動の時間になるということが多いのです。一週間のうち早く帰れる目、早いというのは七時半か八時のことですけれども、早く帰れる日というのは二日か、多いときで三日くらいです。大ていあとは九時とかそういうことです。これは地域によって違いましょうけれども、そういう現実が非常に広くあるということは断言できると思います。
○高田なほ子君 私は今先生の御苦労は、ほんとうに身にしみますが、教員組合運動というものが、世の中の人にやたらに非難ごうごうたるものがあるのですが、そうした先生方がそういう中で組まれます運動というものについては、もう少し多くの父兄の方にわかっていただけるような努力をなさることが大へん必要じゃないかと、私はこういう意見を持っております。ですからこの意見にはお答えいただかなくてもいいですが、どうかわれわれもがんばりますから、一生懸命、健康を害さないで一つやって下さるようにお願いします。大へん私ばかり質問しまして……。
○委員長(大川光三君) 先ほど御質問のスラム街の問題を答えていただきましょうか、宮田参考人に伺いますが、先ほど高田委員からスラム街に関する御意見があれば伺いたいという質問がございましたが、この機会にお答えいただきたいと思います。
○参考人(宮田秀太郎君) この問題につきましては、むしろ関係各省の方々その他の方々からお教えを願いたい、問題の重要であるということに対する指摘をいたしたわけでございますが、これに対する対策というものは、私はあまり考えておらないわけでございます。ただ言えることは、スラムに対する実態調査ができてないということ、そういうふうなことから、これに対する実態調査を大がかりに相当やっていく必要がある、あるいは半年、あるいは一年以上になるかもしれないと思うのです。スラムからスラムに入ってくる人たち、スラムから出て行った人たちの追跡、さらに現状、こういうふうなものを考えていくということ。それから都市構造の上で、スラムというものが必要悪という、必要な悪といいますか、あるいはぜひ必然的に起こってくる排泄物だという考え方があるかもしれないと思うのですが、しかし、そういうようなものをどうしてなくしていくかというようなこと、そういうことについてはやはり分析が必要だと思うのです。胴体だけではなしに、そういうふうに前とうしろの関係を見ていく、これは各機関の方々が合同して調査に当っていく。スラムの一番根本的な欠陥というものは、きわめて衛生的じゃないということ、あるいは道徳的に悪いということ、あるいは住宅的にはきわめてまずしい住宅だ、そういうふうなものを都市計画の上で考えていく必要があるのじゃなかろうか。あるいは大きな公園であるとか、あるいは彼らたちに希望を持たすような、あるいは慰安になるようなそういうようなものが近くにないだろうか。そういうふうに関係の各省、関係の各機関が寄ってその問題を、その実情を分析した上に立ってお考え願ったらどうか。こういうふうに思っているわけでございまして、非常に抽象的でございますが、問題の重要点の指摘というだけで説明させていただいたわけであります。
○委員長(大川光三君) ありがとうございました。ほかに御発言もないようでございまするから、これにて本日は終了することにいたしたいと存じます。 なお、参考人各位に一言ごあいさつを申し上げます。本日は長時間にわたりまして貴重な御意見を詳細にお聞かせいただきまして、まことにありがとうございました。当委員会の審査のためきわめて有益な御意見を伺いましたことを厚く御礼申し上げます。 それではこれにて散会いたします。 午後五時二十三分散会