外務委員会 第14号
- 発言数
- 309 件
- 登壇者
- 15 名
- 会派数
- 3
- 開催日
- 1959/12/09
会議録
○委員長(草葉隆圓君) ただいまから外務委員会を開会いたします。 まず委員の異動について報告いたします。 本日、石田次男君が委員を辞任され、その補欠として辻政信君が選任されました。 —————————————
○委員長(草葉隆圓君) 日本国とヴィエトナム共和国との間の賠償協定の締結について承認を求める件、日本国とヴィエトナム共和国との間の借款に関する協定の締結について承認を求めるの件、以上衆議院送付の両件を一括して議題といたします。 昨日に引き続き質疑を続行いたします。
○吉田法晴君 ちょっと議事進行。従来政府は、戦争開始の時期は一つであるとして、一九四四年八月二十五日を固守してこられました。昨日その点についてなお念を押したあと、森委員から、昭和十六年十二月八日という官報告示を出して総理の食言あるいは政治的責任をとるべき問題であるとして提示をいたしましたが、十分な答弁が得られないで、私どもきのう退場をいたしたのでありますが、きょうは総理もおいでになっておりませんし、この問題については論議を後日に譲りたいと思います。そういう申し入れをしておきます。
○佐多忠隆君 まず簡単なことから聞きますが、現在のサイゴンの駐在大使、アメリカの駐在大使はどなたですか。
○政府委員(伊関佑二郎君) ダーブローという人です。
○佐多忠隆君 ダーブロー。それからアメリカの援助機関というのがありますね、これはあとでさらに詳しく聞きますが、USOM、これの最高責任者、団長はどなたですか。
○政府委員(伊関佑二郎君) ガーデナーという人です。
○佐多忠隆君 ガーデナー。それからMAAGの団長は。
○政府委員(伊関佑二郎君) ウイリアムズ中将です。
○佐多忠隆君 これは軍人ですか、ウイリアムズ中将は。
○政府委員(伊関佑二郎君) 軍人だと思います。
○佐多忠隆君 七月三十日、アメリカの上院対外関係分科委員会で七月三十日から始めました——ワシントンで始めておりますが、南ベトナムにおけるアメリカ援助のひどい乱費、むだ及び窃盗的な実情調査、これをアメリカの上院対外関係分科委員会で始めておりますが、これがどういう状況であり、どうなったか、結論はどうなったか、それをちょっと御説明願いたい。
○政府委員(伊関佑二郎君) 七月二十日から六回にわたりましてアメリカのスクリップスハワード系の新聞がこのベトナムにおけるICAの資金等について批判をした記事を載せたわけでございます。これがいろいろ問題を起こし、アメリカの上院外交小委員会はこの記事を契機としましてベトナム米国援助に関する特別調査を行なう旨決定いたし、ベトナム駐在の米国大使ダーブロー、USOMの団長ガーデナー及び軍事顧問団の団長ウイリアムス陸軍中将の三名を本国に一時召喚いたしました。これが七月二十六日でございます。これら三名は八月十八日サイゴンに帰任いたしましたが、米上下両院からそれぞれ視察団が派遣され、おそらく十月援助計画に関する調査のためサイゴンを訪れる予定であるが、これはアメリカ側援助機関のみを対象とするものであって、もちろんベトナム側に干渉するものではないというふうなことを語っております。この調査団が現実に参りましたが、その結果がどうであったかという点については、今のところ私の方はまだわかっておりません。
○佐多忠隆君 お話の通りに、サイゴンの駐在大使——今おっしゃったダーブロー、アメリカの援助機関USOMのガーデナー、それからMAAGの団長のウイリアムス中将、そういう人々がサイゴンから召喚をされ、アメリカの南ベトナム援助に関していろいろ査問委員会で査問を受けております。その査問をした責任者はだれですか。
○政府委員(伊関佑二郎君) 上院の外交委員長フルブライト氏は、こういうことを言っております。自分はこの新聞の批判から大して大きな印象を受けなかったというふうなことを述べております。それから下院の極東太平洋地域小委員会議長も、批判の裏づけが必ずしも十分でないというふうなことを言っておりますので、大体こういう方々が調査の責任者と考えております。
○佐多忠隆君 そうでなくて、査問の責任者は有名な例の民主党上院議員マンスフィールドだと私は聞いておりますが、間違いありませんか、マンスフィールド……。
○政府委員(伊関佑二郎君) 仰せの通りであります。
○佐多忠隆君 そこでマンスフィールドが今申し上げましたような南ベトナム援助の現地責任者を全部召喚をして、そうしてしかもアメリカ上院対外関係分科委員会で査問をしている。しかもそれは南ベトナムにおけるアメリカ援助のひどい乱費、むだ及び窃盗的な実情調査をやったと伝えられておるんですが、そこで私がお聞きしたいのは、その内容がどうであったのか、結論はどういうことが出たのかということを詳細に御報告を願いたい。
○政府委員(伊関佑二郎君) ただいま御説明申し上げた程度しか、われわれにはわかっておりません。
○佐多忠隆君 これは御承知の通り、若干は秘密会でやって非常に問題になった会のようですが、しかし、秘密会以外のところでもいろいろ論議が行なわれておるはずでありますから、この内容は当時非常に騒がれた問題だし、内容はもっと詳しく明確にわかっておるはずだと思うので、その御報告を願いたいと思います。
○政府委員(伊関佑二郎君) アメリカのことでもございますので、われわれとしましては、それほど詳しい報告を今のところまだ受け取っておりません。
○佐多忠隆君 アメリカのことではありますが、これも後ほど私がお尋ねをする日本の問題にも、直接に関連をして参りますので、非常に重大な問題です。これの詳細な調査ができておらないというのはまことに遺憾ですが、一つことで注意を喚起すると同時に、一両日中、少なくとも二、三日中にこれに関する詳しい調査を一つおやり願って、次の機会に詳しく御報告を願いたいと思います。それが前提になって、私以下お尋ねをするような問題が出て参るわけですから、一応この問題は、これ自体はあとにいたしておきますけれども、至急に詳しい調査を出し、さらに次の機会に詳しく質問に答えていただきたいと思いますが、外務大臣いいでしょうか。
○国務大臣(藤山愛一郎君) アメリカの上院における外交委員会の問題でありますから、どの程度に詳しく調べられるかはわからないと思いますけれども、調査はいたさせまして提出いたします。
○佐多忠隆君 どの程度にわかるかわからぬとおっしゃいますけれども、これは七月三十日から始めておる。もうすでに相当時日を経過した問題である。それから上院の外交委員会における査問委員会ですから、お調べになれば詳しくわかることは当然だと思います。それを一つお約束を願いたい。
○国務大臣(藤山愛一郎君) 今申し上げましたように、その会の性質が秘密であるかどうかも私どもはっきり存じておりませんが、そういう状況でありますから、非常に正確のものが得られるか得られないかはわからぬと思いますが、とにかく調査はいたして、出せる限りの程度の調査はお出しいたしたいと思います。
○佐多忠隆君 外務大臣はこの査問委員会のあったことを、その内容を何も御存じないのですか。
○国務大臣(藤山愛一郎君) 内容につきましては、私も知っておりません。
○佐多忠隆君 これは今われわれが南ベトナムの問題を審議しており、しかもその賠償なり、技術援助なり、協力なりというものが非常に問題になっているときなんです。私たちがこの問題を重要視するのは、アメリカにもそういう問題があるので、それとの関連においていろいろ問題が出てきておるので、非常に重要視しているわけですから、ちょうどこの調印がなされたころからこの問題は再燃をしているわけですから、ほとんど御存じないというのはまことに心外ですが、あるいは非常によく知っておられながら問題が厄介なこんがらがってくる問題になるので、知らぬとしらを切っておられるのかもしれませんが、まさかそんなことはなさらないと思いますが、いずれにしましても、今申し上げたような詳しい調査と、次に質問に答えていただきたい。そこでこの問題をまず前提にし、大体この問題を中心にして私は質問をして参りたい。 そこでまず第一にお尋ねをしたい点は、ゴ・ディン・ジェム政権の性格、実態、内容、推移というような問題でありますが、ゴ・ディン・ジェム政権というのがどういうふうにして成り立ってきて、どういう推移をたどったかということからまず御説明願いたい。これは事務当局でけっこうです。
○政府委員(高橋通敏君) 御承知の通りかと思いますが、ベトナム国が独立しまして、まずバオダイの政府として出発したということになっておりますが、その後一九五五年前後になりましてジェム首相とバオダイ文首との間の葛藤、いろいろな内紛が起こったということが伝えられております。その結果といたしまして、いろいろなそのようないわゆる内政的な紛争の後に、一九五五年十月の二十三日に国民投票が実施せられまして、圧倒的な多数によってジェム首相が大統領となった。そこにおきましてゴ・ディン・ジェムの政府が樹立され今日に至っている、こういうふうなことであります。
○佐多忠隆君 ゴ・ディン・ジェム氏がアメリカによってバオダイ政権の中に引き出され、それがどういう経緯をたどって、ゴ・ディン・ジェム政権とかわっていったのか。特にその間においてアメリカとフランスの関係がどういうふうになっていたのかという点を、もう少し詳しく正確に御説明を願いたい。
○政府委員(伊関佑二郎君) それほど私たちもあまり詳細なことは存じませんが、やはり、バオダイというものは、フランスの系統であり、ゴ・ディン・ジェムというものは、アメリカがサポートしておったということは、これは一般的に知られているかと思っております。
○佐多忠隆君 その程度のことならば、今の中学生でも知っていることなんで、そんなことをここでわざわざ聞いているわけじゃない。ゴ・ディン・ジェムがバオダイにかわってからアメリカとの関係がどうなったのか、あるいはかわる推移においてアメリカがどういうふうにしてそれを引っぱり出してきたのか。それを契機として日本と南ベトナム政権との関係が非常に緊密になり、さらに賠償交渉が積極的に展開をしていったというのが、後ほどいろいろお聞きしますが、事件の推移だと思う。今申し上げた通りに質問をしているのですから、同時にさっき申した査問委員会の問題がここから発展をしている、そうしてそれが日本に関連を持ってくる、そこのところを私たちは明瞭にしたいので、今申し上げた点を特にお尋ねしているわけです。
○政府委員(伊関佑二郎君) 私の方はそういうふうな大きな傾向——バオダイが親仏的なものであり、ゴ・ディン・ジェムが親米的なもの、アメリカのサポートを受けておるというふうな大きな傾向は存じておりますが、その背後におけるアメリカとジェムがどういうふうな交渉があったかというふうなことまでは存じません。
○佐多忠隆君 どうも今その程度のことならば、今申し上げたように中学生の知識であって、そんなことをここで貴重な専門家の皆さん方にお尋ねしようとは思っていないのですよ。それなら町に行って街頭録音で中学生に聞けばわかることなんです。日本政府が特にそのころになってから非常に緊密に協力関係その他を打ち立てるものとして関係を急速度に結んでいかれた。そうしてわざわざ総理が訪問までされて交歓されたその相手方。私は、政治的な関係がどうだとかこうだとかいうことまで、根掘り葉掘り聞こうとは思いません。それは、あなた方の事実の説明から、私自身が判断をいたします。ただ、事実としてその推移関係がどういうふうになったのかということをお尋ねをするわけです。
○政府委員(伊関佑二郎君) 先ほどから申し上げておりますように、詳しい推移についてはわれわれは承知しておりません。調べておりません。
○佐多忠隆君 それで答弁になるとお考えですか。それじゃ、もう少し具体的にお聞きしますが、ゴ・ディン・ジェムが政権に引っぱり出されたのはいつですか。
○政府委員(伊関佑二郎君) ゴ・ディン・ジェムが首相になった時期と存じますが、五五年の七月ごろであったかと思います。
○佐多忠隆君 そうじゃなくって、バオダイ政権が……訂正されますか。訂正して下さい。
○政府委員(伊関佑二郎君) 五四年の七月に首相になっております。
○佐多忠隆君 バオダイ政権が内紛を起こし、いろいろ問題が起きて、そして腐敗堕落の極に達した。そういう面がいろいろ問題になって、しかもフランスが非常に弱り果てたそのときに、前から経済援助、軍事援助で相当関係をしていたアメリカが、今おっしゃったように、一九五四年七月——それ以前に引っぱり出す工作をしておると思いますが、五四年七月にゴ・ディン・ジェムが首相に就任をした。そのゴ・ディン・ジェムという人はどういう前歴の人であり、特にアメリカとの関係はどういう関係の人だというふうにお考えになりますか。お調べになっておりますか。
○政府委員(伊関佑二郎君) その辺の詳細につきましては、調べて……。私は存じません。
○佐多忠隆君 どうもそういうことじゃ、きょうの質問は進められないですがね、委員長。少なくともその程度のことは……。大体、一番重要な点ですよ。戦争の始期その他も重要かもしれませんけれども、ごく最近のことなんですから。
○政府委員(伊関佑二郎君) 年次ははっきりいたしませんが、まあフランスに対する反仏運動というふうな形で、ディン・ジェムはアメリカにのがれて、アメリカに当分おったというふうな経歴は持っております。
○佐多忠隆君 今ちょっとお話のように、前は何をしておりました、前は。のがれる前、かつて……。
○政府委員(伊関佑二郎君) そこは、その点調べてございません。
○佐多忠隆君 これでやれますかね、委員長。これはどうしますか。まだほんの序の口ですが、これは。
○小林孝平君 ちょっと理事と相談したらどうなんです。
○井上清一君 説明員にやらせる……。
○政府委員(伊関佑二郎君) 従前から独立運動をやっておったということは存じておりますが、それ以上の詳細につきましては、今のところ存じません。
○小林孝平君 説明員がわかるのかどうか、まあ一応相談したらどうか。ただ引っぱってきたって、説明員はそれを知ってるかどうかわからぬ。
○政府委員(伊関佑二郎君) 調査をいたしまして、なるべく早くお答えいたします。
○森元治郎君 ヴィェトナム便覧に書いてあるよ、あなたが出した。
○佐多忠隆君 実は、非常に意地悪いようですが、私、ヴィェトナム便覧で大体のことを見たのだけれども……。だから、その程度のお答えぐらいはあるかと思ったんだ。そのヴィェトナム便覧が、実はここのくだりは非常に晦渋でわからないのですよ、私自身。私自身がわからないものだから、これをお書きになり、これを主幹しておられる責任者は、もっとそこいらをよくおわかりになっていて、ただ筆者があまり上手でなかったので、こういうふうに晦渋だからわからないのだろうから、まずここのところを明瞭にして、それから本題に入らなければ、私にも正直のところそこがはっきりわからないのですよ。そこで責任者、当局者にもう少し聞きたい、打ちあけたところそうなんですよ。実に、ここのところはわからない。
○小林孝平君 前から言ってるんだ。外務省の文章は難解、晦渋だよ、日本語は。英語は知らぬけれども、外国語は知らぬが、日本語はわからぬよ。もう一度国語の教科書でも一つ勉強したらどうか。委員長、どうかね、休憩したら。
○吉田法晴君 委員長、答弁ができなければ休憩。
○説明員(小林智彦君) ゴ・ディン・ジェムは、民族主義的立場から独立運動をしておりました。反仏運動をしておりました。戦争中は日本人もそういう運動に参加して、ゴ・ディン・ジェムを擁護いたしております。しかし、戦後フランス側からにらまれまして、非常に逃亡生活を続けたわけでございますが、一時日本にも参りましたこともあります。そうしてアメリカにたしか二年間ほど亡命いたしておるはずでございます。 その間、フランス側はバオダイ政権を擁立したわけでございますが、バオダイ政権は、あの当時の調書にもございましたように、相当苦しい立場にありながら独立いたしたものでございまして、その後フランス連合軍の苦戦に伴いましてディエンビエンフーの敗退ということで、ジュネーブの休戦協定ができたわけでございますが、そのころからベトナムの政権の立て直しをしなければならないということが、フランス連合の内部でも、それからまたいわゆる自由陣営側でもそういう動きが強くなりまして、そうしてアメリカ側も当時、フランス連口を通じてインドシナ、特にベトナムに対して相当の援助をいたしておりましたから、たしか前に数億ドルに上る援助をしておったはずでございます。そうしてベトナムの政権を民主的な基礎のもとに、しかも反共といいますか、北ベトナムに対抗できるそういう政権を作りたいということを、もちろんアメリカ側は考えておったわけでございます。しかし、フランスとの間にも相当、アメリカとの間にもいろいろな微妙な関係がありましたので、なかなか問題はむずかしかったわけでございますが、ゴ・ディン・ジェムの人となりと、それから彼の持っておりますいろいろな理想主義的な傾向、そういうものが高く買われまして、また、南ベトナムにおける彼の人気、彼はカトリックでございますし、それから南ベトナムには相当カトリックが、たしか現在でも二百万おります。そういうような関係で、彼の信用も厚く、また戦争中、戦後を通して、彼が自分の理想に対して操を通したという関係から、彼が選ばれまして、たしか一九五四年の夏ごろだと思いますが、彼が総理大臣に選ばれまして、そうして彼が施政についたわけですが、依然として当時はバオダイ帝の時代でございました。 バオダイ帝はいろいろとうわさのある人でございまして、その後、たとえばフランスの保養地でございますか、そういうところに行きまして、なかなかベトナムに帰ってこない。そうして、ゴ・ディン・ジェムのやり方に対しても必ずしもおもしろく思っていない。ゴ・ディン・ジェムの人気に対してもはなはだおもしろくないというような関係、それから政治のやり力が根本的に違いまして、ゴ・ディン・ジェムはやはり根本的に社会改革をしたいという、相当社会主義的な意欲を持っておりましたので、いろいろな面で下からの改革をやりたいという、バオダイから見れば非常に急進的にも見れるほどの政策をいろいろ考えておったわけでございます。そうしているうちに、二人の仲が、バオダイが皇帝として、そうしてゴ・ディン・ジェムが総理大臣として、政治をやっていくにたえないような事態にまで発展していったわけでございます。ベトナムの民衆のゴ・ディン・ジェムに対する信頼が厚くなることと反比例して、バオダイに対する不信任の気持が非常に広まっていったということでございまして、そうして一九五五年に至りまして、ゴ・ディン・ジェム政府がついに、国民投票を行なうことによって、民意を問うことによって、バオダイ帝の存続を認めるか、それともゴ・ディン・ジェムを新しい民主的な政体を作るためのベトナム国の元首として認めるかどうかを問う国民投票を行なうことに、その十月の六日付の公示でもって決定いたしまして、そうして二十三日に、先ほど条約局長から申し上げました通りの国民投票が行なわれ、九〇何%かの圧倒的多数をもってゴ・ディン・ジェムが元首に選ばれたわけでございます。 それで、その年の十月の二十六日に共和国宣言というのを行ないまして、政体が正式に変更されたわけでございます。
○佐多忠隆君 そのゴ・ディン・ジェムが亡命をしていた、アメカリに亡命をしていたというのは、いつからいつまでですか。
○説明員(小林智彦君) ただいま詳しい記憶はございませんけれども、政権に復帰するちょっと前までだと記憶しております。
○佐多忠隆君 その前に政治的な経歴としては。
○説明員(小林智彦君) その前に、たしか大臣をやっておったことは一度あったと記憶しておりますが、詳しいことは覚えておりません。
○佐多忠隆君 私もそこのところがわからないのですけれども、元内務大臣をやって、非常な弾圧をやった、民族運動に対する非常な弾圧をやったということがいわれていたり、いや、それは大臣じゃなかったのだというようなこと等がいわれておるのですが、そこのところがはっきりわからない。それは正確にはどうなんですか。
○説明員(小林智彦君) 私も大臣をしていたことがあるということをどっかで読んだような記憶があるのでございますので、ばく然とそういう記憶があるのでございますが、おそらく、彼はフランスの総督府から完全ににらまれておりましたから、そういうことはなかったのじゃないかと考えておりますが、その点、私の記憶が非常におぼろげなものですから、はっきりしたことは申し上げられません。
○吉田法晴君 その辺は、パスケ総督の推薦によって、ユエ王朝の内務大臣に推薦をされた。で、総督がパスケ、そのパスケ総督の推薦によって、ユエ王朝の内務大臣にお話の通りになった。フランスの植民地主義を助けて、弾圧をやった、あるいは搾取をやったということを、私聞き及んでおりますが、違いますか。
○説明員(小林智彦君) 彼の立場から、また彼の政治的理想からして、彼がフランスにくみしてベトナムに対して弾圧をやったという、そういうことはちょっと考えられないと思いますが。
○吉田法晴君 これは事実ですか、あなた御存じないか。私が調べたところでは、パスケ総督に推薦をされてユエ王朝の内務大臣になった。当時三十二才ということであります。一九三三年。そういうことを私は聞いておるのだが、それは違うと言われるのですが、違うなら違うようにお答えを願いたい。
○説明員(小林智彦君) その当時内務大臣になったという事実が、ユエ王朝の、要するに一つの地方の内務大臣になったということは考えられますけれども、そのことによってゴ・ディン・ジェムがフランスの手先となって弾圧政策をやったというふうなのは、これは解釈の問題じゃないかと思いますが。だた事実の問題ということよりも解釈の問題にあるのではないかと思います。
○吉田法晴君 パスケ総督の推薦を受けたというのはこれは事実だよ。それからどういう政策をやったということは、具体的な事実をあげないで反駁——僕は、こう調べておるのだがどうだというように質問しているのだから、具体的にあげて下さい。
○説明員(小林智彦君) 当時、フランスの統治下にあったものですから、大臣になる場合においては、たしか総督の承認といいますか、何らかの同意といいますか、そういうのが必要であったのではないかと思いますが。
○佐多忠隆君 そこのところが、私にもはっきりしないので判断がつきかねるのですが、今の皆さん方のお話を聞くと、これは元来ユエ王朝のときに内務大臣として、しかも、総督の推薦まで受けて採用をされて非常に弾圧政策、強権政策をやった警察官僚的な人物、それがその後、今お話もありましたように、いろいろな関係から退けられて、フランスに関する限りは反対という形で反仏運動をやって、そういう意味で民族主義者としての一面を持っているという形、同時に、しかし、アメリカに亡命をして、しかも、アメリカではダレスの庇護を受けて亡命をして、そして依然としてフランス植民地主義に反対をしていた。ただし、フランス植民地主義に反対をしていただけであって、現地の広範なホー・チミン政権その他を引っくるめての民族主義に対しては絶対に反対だし、従って、反共主義という形での人物としてダレスにかくまわれて二年間をアメリカで亡命をしていた。そしていよいよフランスが八カ年の内戦によって非常に弱り果てたときに、以前からのアメリカの援助をもととしてアメリカがこれにてこ入れを始めて、これを反共主義者として、従って、そういう一面においては民族主義を弾圧をする、ただし、反仏主義という形においては民族主義者という面を出している、そういう意味で典型的な反共主義者であり、かつてのファッシスト、あるいはナチスと同じような性格のものであると、こういうふうにいわれておるのですが、そこいらの性格判定を今までのお話、報告によって外務大臣はどういうふうにお考えになりますか。
○国務大臣(藤山愛一郎君) ゴ・ディン・ジェムが現在において非常に反共の闘士であることは、韓国の李承晩大統領と数回の行き来もしておりますし、肝胆相照らすというふうにもいわれておるくらいで、相当強力な反共主義者であろうと思っております。過去においての経歴からいろいろ見まして、やはり一つの反植民地主義者であったことは事実だろうと思います。性格的には相当強烈な性格を持っていた人ではないか、そういうふうには考えておるわけでございます。
○佐多忠隆君 その点はなお外務省の方でお調べを願って、あともっと、今、非常に不明確でありますから、正確な調査に基づいた資料その他によってもう一度この問題に返って参りますが、従って、そういう意味で留保しておいて次に移りますが……。
○吉田法晴君 ちょっと委員長、ゴ・ディン・ジェムというのはベトナムの大統領でなければいいのですよ。アジア局長あるいは小林説明員が出ておられますけれども、私どもが調べた以上のことも知られない。自分が知っている以下のことしか知られない。しかも、ヴィェトナム便覧を、これは在外公館で最初原稿を書いたのかもしらぬけれども、外務省で出されたこれ以上のものは何も知らぬと、こういうようなことでこれは審議に臨めますか。ヴィェトナム便覧に書いてある以上のことは知らぬと、こういうことが今の答弁で説明をされたわけですが、藤山外務大臣、あなたが調印をされて、そうして批准を求められておられるのですけれども、相手が何であるのか、そういうことも全然わからぬと、こういうことで審議が進められますか。怠慢もはなはだしい。戦争始期もあいまい、あるいは戦争損害もあいまい、あるいは調印をした相手の政府の実体についても十分の説明ができぬ。それは彼のおい立ち、あるいは植民地主義者ではなかった、反植民地主義者であったと言われるけれども、そうじゃない。これはフランスの官人学校を卒業しておるといういわば植民地主義者として育っている。それからあとには、これは今、佐多さんから御指摘がございましたけれども、ダレスの庇護のもとに教会におるという名前でアメリカナイズされておる。そしてこのディエンビエンフーの陥落直前、非常なバオダイ政権の不利、フランスの不利な状態の中にアメリカのひもつきとして仏印に送られているわけですよ。そういう実体を隠そうとされるのならば別問題です。あまりに知らな過ぎる。もっとこの次までに十分調べてきていただきたいと思う。これじゃ審議は進められませんよ。
○国務大臣(藤山愛一郎君) 御承知のように、先般も申し上げました通り、今日では外務省の仕事が非常に広範多岐にわたっております。従って、なかなか全部の関係を一人の局長が十分に知っている、即座に答弁できるほど知っているという状態にないことは違憾でありますけれども、まあそういう状況にあるわけであります。御質問のような点につきましては、後刻できるだけ詳細に御報告をいたさせます。
○佐多忠隆君 私は、そういうことを即座に、局長が全部御存じになって即座にあれしろとは申しませんよ。それはこの調査でこうなっていますというくらいの答弁はここでできるように、資料なりなんなりはおそろえになって持ってきていらっしゃるのが当然であろう、少なくとも事務当局なり政府委員としては。そういう感じがしますので、さっきから不満を言っている。どうもほんの入口のところであまり引っかかっておりますと本題になかなか進みませんから次に入ります。 次に、そういう性格のゴ・ディン・ジェムが今お話のように一九五五年十二月二十三日、国民投票によって国家主席にあらためて当選をして、それで完全にゴ・ディン・ジェムにかわった。そうして、先ほど十月二十六日とおっしゃったが、そうじゃなくて、私の記憶では十二月二十六日共和制が布告をされて、総統に就任をした、こういう事実になっておると思いますが、それはどうですか。
○説明員(小林智彦君) 一九五五年の十月の二十六日でございます。
○佐多忠隆君 そうすると、これはおそらく、便覧で見たんだから、便覧が間違いですね。便覧も十月となっていますね、これは私の間違いです。そして、この辺からフランスとの関係がいろいろ複雑になって参るのですが、しかも、その前に国民投票その他において、アメリカ側が手を入れたり、いろいろな問題が錯綜してきておりますが、これらももっと詳しく御説明を聞きたいと思いますけれども、先を急ぎますから、他の機会に譲って、さらに参りますが、その後フランスの軍隊とそれからゴ・ディン・ジェム政権の軍隊との関係がどういうふうに変わっていったか、さらに、アメリカ側の軍関係がどういうふうに変わっていったか、どういうふうになっておりますか、その辺の御説明を願います。
○説明員(小林智彦君) フランスとベトナムとの軍事関係でございますが、ジュネーブ協定以前でございますが、一九四九年ごろに、一番初めフランスとベトナムとのフランス連合内における軍事関係が一九四九年の軍事取りきめでもって規定されまして、それからその関係がジュネーブ協定以後まで続きまして、ジュネーブ協定以後は、ベトナム側からの強い希望もございまして、一九五五年の暮れからたしか交渉が始まったと思うのですが、一九五六年の三月に、フランスとベトナムとの間に協定ができまして、フランス軍隊が撤退するという取りきめができました。そしてそれからたしか一定の期日を経まして、全部フランス軍隊は撤退いたしております。 それからアメリカとの関係でございますが、これは一九五〇年に、アメリカとフランスとインドシナ三カ国を含めました五カ国の間に、インドシナ共同防衛に関する簡単な取りきめができております。それは軍事関係と申しましても、技術援助関係でございます。その取りきめが現在でも有効でございます。で、先ほど申されましたMAAGというのは、その取りきめに従って存在している軍事顧問団でございます。
○佐多忠隆君 そうすると、今のお話で一九五六年の三月三十日のフランス派遣軍撤退に関する協定で、フランス軍は全部あそこから撤退をしてしまって、それにかわってベトナムの国防軍がそのあとを引継いだ。ただ問題は、アメリカ、フランス、バオダイですか、インドシナ三国ですか、政権間に調印をされた例の軍事同盟条約、これは一九五〇年ですね。一九五〇年にその軍事同盟ができて、それに従って軍関係の諸君が、フランスの派遣軍にかわって、アメリカの若干のものがかわって南ベトナムに入ってきている。そうしてしかもその根拠は、基本法は、軍事同盟条約だと、こういうふうに考えていいですか。
○説明員(小林智彦君) 一九五〇年の五カ国間の取りきめは軍事同盟条約ではございませんで、純粋の軍事技術援助取りきめと申しますか、一種のMSAのようなものだと思うのですが、たとえばインドシナの防衛に必要な一定の軍需物資とか、そういうものをアメリカから援助を受ける、それについて、たとえば一定の軍需物資について、その使用法なりなんなりについて技術的な援助をする、現在MAAGのアメリカ人がおりますが、これは確かに軍人が来ておりますが、そういう共同防衛というのは軍事行動ではございませんで、そういう技術的な援助といいますか、人数は私、はっきりは覚えておりませんが、たしか二百人程度だと思いますが、そういう技術的な援助ということでございまして、共同防衛と申しましても、軍事同盟というものと全然性格を異にするものと考えております。
○佐多忠隆君 MAAGその他のことにつきましては、これから後ほど聞いて参るつもりですからおきますが、それでは一九五〇年のものはMSAに類する技術援助協定的なものと、しかも、それは現に存続しておる、こういうふうに考えておいていいですね。
○説明員(小林智彦君) お説の通りでございます。
○佐多忠隆君 それでいいですね。そうしますと次に移りますが、ジュネーブにおけるベトナムの停戦協定、これはいつ行なわれて、その主要な内容はどういうものであったのか、その点を、これはしばしば問題になりましたから、局長から御答弁を願いたいと思います。
○政府委員(高橋通敏君) ジュネーブ協定は、御承知の通りベトナムとラオス、カンボジア、おのおの三国について休戦協定が行なわれておる次第でございます。ベトナムにつきましては、ベトナムの北の方はベトナム民主共和国でございますか、国防次官とフランス連合軍の総司令官との間にこの協定が調印されたわけでございます。内容は休戦協定でございまして、おのおの双方の間で軍隊その他軍事資材の増援を禁止する、非常にばく然たる表現でございますが、とにかく双方が休戦をいたしまして、その休戦の状況を凍結するという内容の協定でございます。
○佐多忠隆君 あとからお尋ねすることに非常に重要な関係がありますので、まずその重要な、今おっしゃった重要な条文、非常に簡単ですから、これは説明員でも何でもいいですが、まず第七条を一つ読んでおいていただきたい。
○政府委員(高橋通敏君) 第七条でございますか、「軍人員たると文民たるとを問わずいかなる者も、行政の運営及び救済に関係のある者並びに特に合同委員会が許可を与えた者を除くほか、非武装地帯内に入ることは許されない」。
○佐多忠隆君 それから第十六条。
○政府委員(高橋通敏君) 十六条は「増援部隊及び補充軍人員のヴィエトナムヘの入国は、この協定の効力発生の日から禁止される。 もっとも、軍団及び軍人員団の交代、一時的任務による個人のヴィエトナムヘの到着並びにヴィエトナムの国外への短期間の休暇又は同国外における一時的任務の後の個人による同国への再入国は、次の条件の下に許可するものと了解される。」(a)、(b)、(c)と条件がございます。
○佐多忠隆君 いいです。それからその次の第十七条。
○政府委員(高橋通敏君) 「(a)あらゆる種類の武器、弾薬その他の戦争物資たとえば戦闘機、海軍機、砲、噴射推進発動機、噴射式武器及び装甲車等の形態での補給物資のヴィエトナムヘの搬入は、この協定の効力発生の日から禁止される。 (b)もっとも、戦争物資、武器及び弾薬で、敵対行為の停止の後破壊され、損傷され、消耗され又は使用済みとなったものは、同一の形態及び性格のものに一個対一個の原則に基いて取替えることができるものと了解される。戦争物資、武器及び弾薬の取替えについては、第一条に定める暫定的軍事境界線の北部に駐とんするフランス連合軍には、第二条に定める撤退の期間中これを許可しないものとする。 海軍機は、……」
○佐多忠隆君 そこまででいいです。それから次に第十八条。
○政府委員(高橋通敏君) 「この協定の効力発生の日の後は、新たな軍事基地の建設は、ヴィエトナムの領域を通じ禁止される。」
○佐多忠隆君 それから第十九条。
○政府委員(高橋通敏君) 「この協定の効力発生の後は、外国の管理を受ける軍事基地は、各当事者の再集結地帯内には設置することができない。両当事者は、各自に指定された地帯が……」
○佐多忠隆君 それだけでいいです。 それから、ここにないのですけれども、第二十四条というのもやはり今の軍事条項に関連しておりますか。ちょっとその前の文だけを読んで下さい。
○政府委員(高橋通敏君) 「この協定は、いずれの当事者の軍隊にも適用するものとする。各当事者の軍隊は、非武装地帯及び他方の当事者の軍管轄下にある領域を尊重するものとし、また、他方の当事者に対し不利な行為及び作戦を行わず、かつ、ヴィトナムにおいてはいかなる封鎖をも行わないものとする。」
○佐多忠隆君 以上、非常にくだくだしくお読み願ってまことに恐縮でしたが、以上から見て、この休戦協定、戦闘行為停上に関する協定が軍人の増強を許さないのみならず、軍事基地の建設を許さない。さらには軍備の増強等も、今後は南北を通じて許さないということをお互いにフランス派遣軍とベトナムの間で約束をし合っておるのですが、この協定の拘束力はさらにあとのゴ・ディン・ジェム政権、その他にも確実に継承されていると、こういうふうに考えていいかどうか、その点はどうですか。
○政府委員(高橋通敏君) 一般的にはそのように考えていいかと思います。ただ、こうこまかい法律技術論になりますと、いろいろな問題があるようでございますけれども、一般的にはそのように考えていいと思います。
○佐多忠隆君 一般的、全般的には、これがこのままフランス派遣軍の司令官のサインであるけれども、それは一般的、原則的には、全般的にはそのまま継承される、こういうふうに考えてよろしいですね。
○政府委員(高橋通敏君) お説の通りでございます。ただ、フランス連合軍総司令官がベトナムの軍も含みまして署名したというわけでございます。御承知の通り、当時からゴ・ディン・ジェムはこのような処理方法に全般的には反対しておったという事実がございます。しかし、全般的に、一般的に考えまして、やはり拘束すると思います。
○佐多忠隆君 それはゴ・ディン・ジェムが野党の一人として、局にない者として無責任に、われわれがちょうど反対をすると同じように反対をしていたでしょう。政府のあれとは関係ないと思います。そうしますと、さらにこれは二人の署名になっておりますから、その他の諸国に対する制約はどういうふうに考えればいいのですか。
○政府委員(高橋通敏君) これは原則的には、法律的にはございません。その当事者間の問題として考えるべきだと考えます。
○佐多忠隆君 そこで、それに引き続いて例のジュネーブ最終宣言が出されたんだろうと思うのですが、これについて簡単に御説明を願いたいと思います。
○政府委員(高橋通敏君) この会議の経過のうちに最終宣言といたしまして、いわゆる、ジュネーブ共同宣言が採択になったわけでございます。この宣言はこのでき上がりました休戦協定、おのおの宣言の加盟国の大部分は協定の当時国ではもちろんございません。休戦協定の当時国ではございません。従いまして、そういう意味合いにおける拘束力というのがもちろんないのは当然でございますが、ただこのような処理をするということにつきまして、この共同宣言に参加した国々はこれを了承するとか、あるいはこれを確認するとか、あるいはこれを祝するということを述べております。すなわちこのような処理をするということに対して賛意を表明したという宣言と考えております。
○佐多忠隆君 そこで、たとえば第四項目に、一つ一つ読んでもらっては恐縮ですから私の方からも簡単に申し上げますが、第四項に「本会議は外国軍隊及び軍人員並びに一切の武器及び軍需品をベトナムに持ち込むことを禁止する。ベトナムにおける戦闘行為停止に関する協定の諸条項を順守する。」こういう規定がありますね。これは間違いありませんか。 それから第五項目には、「本会議は双方の再集結地域内に外国国家の支配するいかなる軍事基地も設定しない旨のまた双方が各自に指定された地域がいかなる軍事同盟の対象をなすものでもなく、また戦闘行為再開のために、あるいは侵略工作に利用さるべきでないということを確認する義務をもっておる旨のベトナムにおける戦闘行為停止に関する協定の諸条項を順守する。」こういうふうな規定もあります。その他いろいろありますが、要するに全般的に、原則的には前の停戦協定で両者が話し合ったことは、ジュネーブ会議の人たちはこれを順守する、これを守っていくと、そういう国際的な約束を取りきめする、宣言をするというふうに解釈してよろしゅうございますか。
○政府委員(高橋通敏君) 大きな大体の方向としてはそのように私どもも考えておりますが、ただ今お読み上げになりましたうちの、それを順守するということよりも、ここでは了承するという、いわゆるテーク・ノートというような言葉を使っております。従いまして、それに拘束されるとか、そういうふうな強い意味合いのものではないと、ただこういうふうな方向のことをここで文字通り了承しておるという意味であろうかと思います。
○佐多忠隆君 そこの文字はそうあれをしませんが、とにかくそういうことのあったことをテーク・ノートする、そして今後は大体においてそういう心がまえ、そういう気持で問題を処理していくということに間違いはありませんね。その場合に各代表が宣言をいたしておりますが、アメリカ代表も単独宣言をしておる。従ってこれによると、アメリカも大体心がまえとしてはこれを了承しておると、こういうふうに見てよろしゅうございますね。
○政府委員(高橋通敏君) お説の通りでございます。ただ、法律的な拘束力という意味でなくて、このような関係を了承していこうという気持を表現しておると思うのであります。
○佐多忠隆君 そうしますと、大体今お話の通りに停戦協定あるいはジュネーブ会議の最終宣言によってベトナム民主共和国の国防軍とインドシナの連合軍はもちろん、それを引き継いだベトナム共和国の軍隊もこれを順守をし、さらにあの会議に集まった諸君は最終宣言でそういう心がまえを話し合った。こういうことを前提にして、さらに次に進みますが、そうしますと、あのときに国際監視委員会なるものができましたね。あの国際監視委員会について、どういうふうな構成であり、その後どういうことをやったか、どういう報告書を出しているか、それらの点について御説明願いたい。
○政府委員(伊関佑二郎君) 国際監視委員会は、たしかカナダとインドとポーランド、その三国で構成されております。当初はハノイの方におりましたものが、最近はサイゴンの方に移っておるというふうな形になっております。それに対しまして違反の事実がございますれば、それを年次報告に出しておりますが、南ベトナムの違反というものがある程度報告されております。件数等につきましては今はっきり覚えておりません。そういうのが大体 の状況であります。
○佐多忠隆君 あれの議長は……。
○政府委員(伊関佑二郎君) インドで ございます。
○佐多忠隆君 インドが議長で、インド、カナダ、ポーランド三国で構成をして、現在に至るまで活動をずっと続けておるのですか。
○政府委員(伊関佑二郎君) ただいまはサイゴンにおりまして活動いたしております。
○佐多忠隆君 それから、これがたくさん報告書を出していると思いますが、あとでその報告書からの問題を問題にいたしたいと思いますが、ここで資料を要求しておきますが、この監視委員会の報告書をお出し願いたい、よろしゅうございますか。
○政府委員(伊関佑二郎君) 一九五六年から五九年の初めまではあるそうでございますから提出いたします。
○佐多忠隆君 それでは後ほどそれをお出し願います。それから、その場合に三国で構成をされておりますが、ジュネーブ会議の共同議長とこの委員会との関係、あるいは委員長とあの会議の共同議長との関係、それからどういう交渉をその後ずっとやっておるのか、その辺を御説明を願いたいと思います。
○政府委員(高橋通敏君) 共同宣言の十三項にございますが、会議参加国はカンボジア、ラオス、ベトナムにおける戦闘行為の停止における協定の尊重を確保するため必要となることある措置について研究するため国際監視委員会から参加国に通達されるすべての問題について協議することに合意する。このようになっております。
○佐多忠隆君 詳しい報告書はあとでいただきますが、ここで主要な問題になったこと、それからそれに対してジュネーブ会議の共同議長がどういうふうな連絡を受け、どういう態度をとり、どういう意見を述べたか、それらの点についての事情を御説明を願いたい。これから入っていく問題に非常に重要な関連がありますので。
○説明員(小林智彦君) たとえば休戦監視委員会がジュネーブ協定の条項違反の事件があったということを認めた場合には、共同議長あてに監視委員会の委員長の名前で手紙を送りまして、それで適当な処置を要請するということになっております。たとえば先ほども幾らか件数がございますと申し上げましたけれども、こういう件につきましてもすでに若干送ってきております。しかし、今のところそれに対して共同議長国が、たとえば新たにジュネーブ会議の構成国の会議を開いて何らかの処置をとるというところまで、そういうことは全然報告は受けておりません。わかっておりますのは、これこれの件について共同議長あてに手紙を送ったということは、それぞれ各中間報告というのがございまして、休戦監視委員会のインテリム・レポートの中にメンションされておりますから、その範囲においてはわかっております。
○佐多忠隆君 その一々の報告書の内容の問題については後ほど触れます。監視委員会自体についてはその程度にして、次に移ります。 そうしますと、ベトナムに対して先ほどお話がありましたようにフランス軍が完全に撤退をして、そのあとにアメリカの軍事顧問団、その他の軍事的の指導といいますか、支配というのが全面化しているわけですが、そのゴ・ディン・ジェム政権とアメリカの関係をもっと具体的に明瞭にするために、一体アメリカからゴ・ディン・ジェム政権あるいはそれになります二、三年前から南ベトナムに対してどういう援助がなされ、どういうふうな結果をもたらしたかということについての御説明を願います。
○政府委員(伊関佑二郎君) アメリカからの援助は、直接軍事援助と非軍事援助いわゆるICAによるものと、この二つがございます。非軍事援助につきましては、五五年からの数字をここに用意いたしております。軍事援助につきましては、これがベトナムの予算の中で何パーセントを占めているかということは調べております。
○佐多忠隆君 ここ数年間のアメリカのベトナム援助特に経済援助にどれだけいったか、それから今の軍事援助にどれだけいっているか、それらの点についてもっと数字をあげながら、もう少し詳しく御説明願います。
○政府委員(伊関佑二郎君) まず経済援助から申し上げますと、これは債務負担と現実に出したものと両方ございます。五五年に三億二千三百万ドルくらいでございます。それから五六年に二億二百万ドル余でございます。五七年二億五千八百万ドル、五八年が一億七千八百万ドルであります。それから五九年になりますと、これはまだ一億七百万ドル、これは七月から三月ということになっておりますから、一年になりますともっとふえるのではないかと思っております。軍事援助そのものの国別の数字というものは、これはアメリカ側で発表しない、しておりません。ただいま申し上げました数字は経済援助の方の数字でございます。
○佐多忠隆君 軍事援助も実績だけはずっと発表しているでしょう。
○政府委員(伊関佑二郎君) この何と申しますか、アメリカのICA資金でもって物を輸入いたします、そうしてそれを国内で売却する、そういうものが予算の中に入って参りまして、それが軍事費の何割かを占めております。そういう意味における数字というものは発表されております。
○佐多忠隆君 いや、そうでなくて、そういうICA援助がベトナムの予算の中に占める比率という問題でなくて、アメリカの軍事援助自身が幾らあるかという、ベトナムに対して、実績としては、国会に出していると思うのですが、それははっきりわかりませんか、今のその経済援助と対比して。
○政府委員(伊関佑二郎君) 総計十一億ドルというふうな数字がございますが、これは経済援助の合計になるのじゃないかと私は思いますが、軍事援助の方は発表しない、極秘にされているというふうに報告されております。
○佐多忠隆君 いや、それはよく普通に通常いわれるアメリカの対ベトナム援助、一九五四年から一九五九年の六年間で十一億四千三百万ドル、そのうちにラウンド・ナンバーにして軍事援助は六五%、これは普通の新聞や雑誌でもいつも引かれる数字です。国会のここで責任者にお聞きするのはそうでなくて、各国別のあれは国会ではっきり出しているはずですから、その数字から見て過去数年間において、今お述べになった経済援助に対する軍事援助がどれだけになっているか、こういうことをお尋ねしている。
○政府委員(伊関佑二郎君) 私の方はこのICAの援助の数字は持っておりますが、直接の軍事援助というもの、これは物の形でも参るかもしれません、その点につきましては数字を持ち合わせておりません。
○佐多忠隆君 そのICAの援助というのはさっきあげられた経済援助のことですね。
○政府委員(伊関佑二郎君) その通りでございます。
○佐多忠隆君 それでは今数字をお持ち合わせになっておらないので後ほど正確に、それは発表をしないのかどうか、私の記憶では、私ちょっと調べたのでは、過去の実績に関する限りはずっと各国別の軍事援助費を出していると思いますが、それを改めてお調べ下さってさらに次の機会に御答弁を願いますが、いいですね。
○政府委員(伊関佑二郎君) われわれの方は発表しておらぬと思っておりますが、調べて、もし出ておりましたら御報告いたします。
○佐多忠隆君 これからMAAG、TERM等の援助の具体的な問題に入って参ります。それと日本の財界なり技術協力の関係をお尋ねをしようとしておりますから、あらかじめ申し上げておきます。
○委員長(草葉隆圓君) これにて休憩し、午後二時より再開いたします。 午後零時十五分休憩 —————・————— 午後二時十六分開会
○委員長(草葉隆圓君) 休憩前に引き続き、委員会を再開いたします。 ベトナム賠償協定関係両件の質疑を続行いたします。
○佐多忠隆君 午前中ジュネーブ休戦協定、あるいは最終宣言等についていろいろお話を聞いたのですが、とにかくあれによって両方通じていることは、武器や戦争資材の増強をやらない、軍事基地化をやらない、兵員の増強をやらない、そして平和的な解決の方向をさらに積極的に進めるということを各国が申し合わせ、各国がそういう心がまえで今後やっていくということになっておると思うのですが、この点については藤山外務大臣も考え方は同じであるし、もっと平和憲法、平和外交を主張される藤山外務大臣としてはさらにそれを積極的にお考えになっておる、こういうふうに考えてよろしうございますか。その点に対する大臣の御所見をまず伺いたいと思います。
○国務大臣(藤山愛一郎君) ジュネーブ協定につきましては、われわれ調印の当事国ではございませんけれども、しかし世界が、できるだけいろいろな紛争の起っております問題を、平和的に解決するということは望ましいことでありまして、その精神というものはやはり尊重していくべきだ、こう考えております。
○佐多忠隆君 この点はあの協定、最終宣言には今お話のように直接に日本が参加をしておりませんが、心がまえとしては、態度としては全く同感だという御意見、その通りだと思いますが、さらにバンドンのアジア・アフリカ会議においても同じ南北の問題が出て参りました。そのときにあのバンドンのアジア・アフリカ会議には、藤山外務大臣も当時全権団の顧問としていらっしゃったし、私も同じように顧問として御一緒に参りましてつぶさにあのときの状況を見聞をいたしておったから、この点は外務大臣もはっきりしておると思いますが、あのときには南北両ベトナムをおのおの一つの単位としてこれを招請をして、相互にいろいろな論議をしてもらった。そのときにやはり一番重要な問題は、南北分かれていることは非常に不幸な状態であり、南北の統一をすみやかにやらなければならないし、そのためには武力抗争という問題を捨てて平和共存をしなければならぬということで、非常に議論になって。とにかく平和共存でなければならないし、すみやかな機会に休戦統一への方向に進まなければならぬということは、アジア各国の一致した意見であったし、日本も同じ態度だったと思いますが、藤山外務大臣もあのときの御記憶から、その点はさらに態度をお変えにならないし、そういう方向にはさらに進めなければならないというふうにお考えになっておりますか、どうですか。
○国務大臣(藤山愛一郎君) バンドン会議にはお話のように佐多委員、曽禰委員等と御同行したわけでありまして、私もあの会議の席の情景というものを存じております。当時の状況から申しまして、南北両代表というものは必ずしも同席を快くしないような態度でおりましたけれども、会議全体の空気からすれば、今お話にありましたように、できるだけ早く統一ができますならば、好ましいことであるという空気であったことは申すまでもございません。
○佐多忠隆君 あのときに例の有名な平和五原則が打ち出され、平和的な共存、すみやかなる統一という問題が出され、そうして少なくともすみやかに休戦をしなければならないという空気が、アジア・アフリカ諸国の一致した願望で、その決議が起きてそれがきっかけになって、先ほどから問題にいたしておりますジュネーブ協定ができたという経緯であったと思うんですが、あのときに一番重要に論ぜられた、特にベトナムの問題を中心にして、一番具体的に問題になった点は、何だったというふうに外務大臣はお考えになりますか、御記憶になっておりますか。
○国務大臣(藤山愛一郎君) 当時バンドン会議におきまして、やはり平和的な話し合いによる解決ということが、一番みんなからの望れまたことでありまして、それぞれ出ておりました南北の代表者というものは、自分が全ベトナムの代表者であるという立場において、出て来ておりました関係上、必ずしも出てきております代表の意見というものは一致しておらなかったと思います。しかしできるだけ早い時期に統一をすることが希望であるというみんなの空気、それを受けまして、むろん何かの統一の方法があり得れば、それは好ましいことだというふうに考えられたと思うのでありまして、問題の焦点はやっぱりそういう点にあったと考えております。
○佐多忠隆君 特にあのときに非常に問題になりましたのは、御記憶に新ただと思うんですが、平和共存、従って武力を使わないで、平和共存をする、そのためには休戦をしなければならない、そのためにも、それからその後平和的な統一をするために、植民地主義に対しては絶対に反対だ、従ってまた帝国主義に対しては反対だ、その帝国主義は古い形の帝国主義であろうと、新しい何らかの形による帝国主義であろうと、他国を経済的に政治的に、さらには特に軍事的に支配をし、圧力を及ぼし、特に支配をし、そういうものを育て上げるということは、絶対にやるべきでないということで、しかもその新しい帝国主義とは何ぞやということで、いろいろ論議がありましたが、これは具体的な名前は出しませんでしたけれども、フランスにかわるアメリカの新しい帝国主義、それから一方ではまたいやそうじゃなくて、それだけでなくて、中国の新しい膨張主義、そういうものをひっくるめて、特に新帝国主義は極度に警戒をしなければならない、それに対して絶対反対だということが強調をされ、そういう意味でならば、新帝国主義にあげてアジア・アフリカ諸国は反対だという主張、決議をし、従って日本もそれに同調をして同意をした、こういういきさつだったと思いますが、その点は大臣はどういうふうにお考えになりますか。
○国務大臣(藤山愛一郎君) バンドン会議の主要な論争の一つというのが、今の帝国主義にあったこと申すまでもないのでありまして、いわゆる植民地解放、あるいは旧来の帝国主義に対する戦いと申しますか、そういうものは排除していこう、ただ、今、佐多委員も御指摘になりましたように、そういうことに対しまして、コテラワラ・セイロンの首相とインドのネール首相とが論争をしたのを目の前で私ども見まして承知しているのですが、コテラワラ首相は、いわゆる帝国主義の概念の中に、共産帝国主義を入れるべきだという主張を強くされまして、相当論戦があったという事実もございます。そういうことでありますから、全体の空気を通じて他国による、何と申しますか巨大な他国の支配勢力というものの排除に、相当の意見がみなから取りかわされ、その空気の中であの会議が行なわれたことは申すまでもございません。
○佐多忠隆君 その点を非常に明瞭に御記憶になっているので、そこで外務大臣にお尋ねをするのですが、アジア・アフリカ諸国のそういう空気であったにかかわらず、最近の情勢は、特に今、南ベトナムに限って問題を申し上げますが、南ベトナムにおいてはそうでない、新しい帝国主義というような形の事態が進みつつあるのじゃないか、というふうな感じが非常に強いのですが、その点は外務大臣はどういうふうにお考えですか。
○国務大臣(藤山愛一郎君) 現在の南ベトナムにおいて、何か新しい他国の特別な支配が起こりつつあるというふうには、見られないのではないかと思うのでありまして、従来の帝国主義のわゆる搾取というような状態も起こっているとは思っておりませんし、またむろん南ベトナムが自由主義陣営の一員として、自国を防営するために他国の協力を仰ぐというような形においては、他国の援助はございますけれども、特にいわゆる帝国主義のような形における支配が行なわれているとは考えておりません。
○佐多忠隆君 それをどう認識するかが今後の問題を扱う上において、非常に重要なことでありますが、それでは具体的な事実について一つ一つお尋ねをしていきますが、先ほどベトナムに対しては、フランスにかわってアメリカが軍事顧問団その他を出して参っておりますが、そのアメリカが大体後退して、この四年間くらいの間に、ベトナムのいわゆる国防軍、常備兵力というようなものがどういうふうに形成をされてきたか。その点の御説明をまず願いたい。
○説明員(影井梅夫君) お答え申し上げます。一九五四年のジュネーブ協定成立当時におきまして、いわゆる南ベトナム総兵力は大体二十四万名というふうに見られております。それから現在のいわゆる南ベトナムでございますが、その兵力、これは在サイゴンのわが大使館からの報告に基づくものでございますが、総兵力十五万、その内訳といたしましては、重師団四、軽師団六、その他地方軍団ということになっております。
○佐多忠隆君 先ほどの二十四万というのは、正規軍で二十四万ですか。
○説明員(影井梅夫君) 大体正規軍によるものというように了解しておりますが、なお、こまかくは調査いたしまして、お答え申し上げます。
○佐多忠隆君 それでは、この点はもう少し正確に、終戦のときに、それがどうであったか、それから今お話のように、その後四年間に、どう形成されて、現在はどうなっているか。これはある意味では、非常にわかりにくいあれかもしれませんが、概括的に、常識的でよろしゅうございますから、あとからでもいいですから、一応お調べになって、報告して下さい。
○説明員(影井梅夫君) 御承知のように、これは他国の軍事に関するものでございますので、御指摘のように、非常に詳細正確なものは、持ち合わせございませんけれども、できる限り資料に基づきまして、調査いたして御報告申し上げます。
○佐多忠隆君 それから、やはりアメリカに支配が移ってから、飛行場の建設、あるいは軍用道路の建設が非常に大規模に進められつつあるということがいわれておるのですが、この点を、どういうふうにお考えになっているか、実際はどうだという調査になっているか、それをお聞きしたい。
○説明員(影井梅夫君) これは同じく、在サイゴンのわが大使館からの報告によって調べたものでございますが、主要な空軍の基地、これは、サイゴン、ニャトラン、ツーラン、バンメツオ、この四カ所。それから主要な海軍基地、これは、サイゴン、カムラン、ニャトラン、ツーラン、この四カ所ということになっております。
○佐多忠隆君 軍用道路。
○説明員(影井梅夫君) 現在、私どもの調べでわかっておりますところでは、サイゴンから約三十キロメートルばかり東、ちょっと南にふれておりますが、サイゴンとビエンホア、この間の道路約三十キロ。必ずしも軍用道路ということではないようでございますが、これが完成しておるということで、あといろいろ計画はあるというふうに承知しておりますが、それは単に計画にとどまっているということのようでございます。
○吉田法晴君 軍隊の数、それから軍用基地、その他について正確な答弁がないのですが、衆議院の段階で、速記録によっても、それから新聞その他によっても、地図まで掲げて、松本委員等から質問があった際に、空軍の基地が十五、ジェットの基地が六、海軍の基地が五、潜水艦の基地が一、それから戦略道路についても、今サイゴンからの一本だけを認められましたけれども、図面によりましても、これは何本と計算するのか私にもわかりにくいけれども、南から中部にかけて既設のものが数本ありますことは、これはお認めになったのじゃないですか。 それからもう一つ、軍の問題についても、私どもが調べたところでは、フランス連合軍の一部になっておった歩兵だけで、それが大隊までしかなかった。現在では陸海空の三軍で、師団、兵団に組織されている正規軍が十五万、その後重火器の装備を持った六万の義勇軍やら、あるいは事実上軍隊組織になっておる警察隊が四万五千、自動火器を装備している地方警備隊が十万、これらを加えると三十五万五千という数字になり、さらに予備兵のリストに載っておる十一万五千を加えると、動員し得る南ベトナムの全兵力は四十七万にも達するというのですが、それはどうですか。
○説明員(影井梅夫君) 先般、衆議院の外務委員会でございましたか、委員長席のうしろに地図をお掲げになりまして、こういう事実を承知しておるかという質問がありました際に、伊關アジア局長から、外務省といたしましても、そういう説がある、その説は、何に基づいておるかと申しますと、これは主としてハノイ放送、北越からの情報というものに基づいて、こういう説がある、ということで、外務省が在サイゴンの久保田大使から受け取ったものがございますという意味で、御説明申し上げたというふうに記憶しております。 なお、その北越の情報に基づきます各軍事基地、それから兵力等が、ほんとうであるかどうか。これは、どうもわれわれ調べる方法もございませんので、この点は、何とも申し上げかねる次第でございます。
○吉田法晴君 しかし、久保田大使から来たというのを、あるときにはこれは信憑性がない、都合のいいときには信憑性がある、こういう態度では、これは公正な態度とは私は言えぬと思うのであります。具体的に場所もあげて今言われました。これは、空海の四つずつの飛行場を言われましたけれども、サイゴンだけでなくて、あるいは空軍基地については、ドウンドンにしても、ソクチャンにしても、あるいはニヤバンにしても、あるいはカントにしても、キニヨン、ツイホワにしても、あるいはカンガイ、あるいはコントム、あるいはプレイク、あるいはユエ、カントリ、まだあります。リソン島、バンメツオ、それからソンマオというのですか。それからジェット機の基地は、バゴイの近く、それからバンメツオ、これは北の方かと思うのですが、それからバンタウ、それからサイゴンの付近で二つと、具体的にあげてある。その後照会をされたかどうかわかりませんけれども、衆議院の段階に否定はなさらなかった。否定はなさらないで、私はお認めになったと、新聞その他で拝見をするわけでありますけれども、今の御答弁は、衆議院での審議の際の発言も否定するがごとく肯定されるがごとき答弁ですが、それじゃ、まじめな態度とは言えんじゃないか。
○説明員(影井梅夫君) 私が申し上げました意味は、衆議院の審議の際に、伊關アジア局長は、わが日本の外務省は出先の久保田大使から、久保田大使は、これは北越の情報に基づくものであるということを、はっきり断わって、そういった情報を受け取っておるということでございまして、久保田大使自身の判断というものは毛頭入っていない形で受け取ったものである、そういう意味の発言をされたというふうに考えております。 それからこの北越情報に基づくいろいろな戦略基地その他、これが実際であるかどうかということは、もちろんこれは調べ得ることならば、調べた方が望ましいかも存じませんけれども、現在出先の大使は、非常にいろいろの任務を控えておいでになりまして、いろいろ仕事をおやりになるについても、優先順位があるんじゃないかと考えております。 従いまして、現在までのところ、この北越情報に基づくそれぞれの軍事基地の所作、これが、ほんとうであるかどうかということについて、久保田大使自身の判断あるいは観察というものについては、報告を受けていない、こういう次第でございます。
○吉田法晴君 報告は受けておらぬ、その後調べてはおらぬ、しかし、衆議院であげられた事実について、否定をなさるという元気まではないわけですか。
○説明員(影井梅夫君) 衆議院で、伊關アジア局長から申し上げましたのは、ただいま申し上げました通り、わが外務省といたしまして、こういう北越情報は持っております。 で、あのときに掲げられました地図、それが、われわれが持っております北越情報と一致いたしますということを申し上げただけでございまして、否定とか肯定……、もし肯定ということでございましたならば、われわれの持っております情報と、それからあすこへお掲げになりました地図、これが一致するものでございます、という意味では、肯定申し上げております。こういうふうに考えております。
○佐多忠隆君 その情報の出所いかんによって、いろいろ数字が違ったり、模様が違ったりはいたしておりますが、しかし、その相違は別として、基本的な方向なり傾向は、軍の装備増強がなされておる。それから飛行場の新建設、軍用道路の建設が、非常に積極的になされているという事実だけは事実としてお認めになる以外にないんじゃないかと思うのですが、その点に関連して、一体ベトナムに限らず、アメリカは、外国に対する援助ということを、それの目的を、どういうものと考え、どういうふうに進みつつあるか、これは、ベトナムでも同じですが、その他の東南アジア諸国でも同じ、これを外務大臣、どういうふうに理解しておられますか。
○国務大臣(藤山愛一郎君) アメリカが東南アジアの各国を援助いたします場合に、むろんこの二つの形があると思います。経済的な援助をやって、その国の経済発達を助ける、同時に政治的な、あるいは軍事的と申しますかの面において、それぞれの国が、おのおの自分の力で防衛し得るようなことに協力していくという形において、これを援助していくという、二つの方法があろうと思います。 ベトナムにおきましても、当然、その二つの方法がとられていることだと存じております。
○佐多忠隆君 項目としては、今お話のように、軍事援助があり、経済援助がある。 しかもその経済援助は、大臣よく御承知の通り、防衛支持援助という形での援助、これは経済援助として考えられて、防衛産業の援助という形になっておると思います。従って実質上は、ほとんど大部分が軍事援助である。数字的に見ても、これははっきりしていると思うのですが、だから私は、けさほどから軍事援助と経済援助との割合等を、特にベトナムについて、明確にしてほしいということを申し上げておるのです。 その数字が、今できたかどうか、まだできないのか、あとでいただけるかは、あとで聞きますが、とにかくそういう形での軍事援助が六五%なり七〇%に及んでおる、しかもラドフォード——これは例の、外国援助が非常に問題になったとき、NATOの理事会その他を前にして、アメリカの外国援助を、どう考え、どう進むべきかということが非常に議論をされたときのラドフォードが一九五七年五月二十八日でしたが、アメリカの上院の外交委員会において述べた言葉は、外国援助の第一目的は、これを受ける国に基地を建設し、軍事力を築くことである、こういうふうにはっきり、そのものずばりと言明をし、そして国務相ダレスが、これを支持して、いろいろ論議があったにかかわらず、こういう方向にはっきりした、それに関連して、例の有名なダレスが、従って西ドイツと日本には、核装備にさらに進ませるのだという言明をやった、あのころのことですが、そういう方向で、そういう非常にはっきりした目的意識を持って進めて参っております。もっとも去年の暮れから、特にことしの後半期になって、これが批判を受けて、今いろいろ論議をされていることは御承知の通りでありますが、少くともこれまでは、そういう方向でやってきた。 これがそのまま南ベトナムに、具体的に数字的に、これからあと、いろいろお聞きしていく上に、はっきりしておると思うのです。しかも日本が、それに関連してきておるということを後ほどいろいろお尋ねしたいと思うのですが、そういうふうに外務大臣お考えになりませんか。
○国務大臣(藤山愛一郎君) 東南アジアの諸国は、御承知のように今第二次大戦以後、それぞれ植民地から解放されて独立をいたした国であります。従ってそれぞれの国が、万事すべての施設におきまして完備しておらぬ、あるいは完備と申す状態どころか、あるいはいろいろなものの建設の過程にある、こういうことが言えると思うのであります。 そこで、自分の国を守るための所要のいろいろな措置、つまり防衛的な措置というものも、これはある程度、独立国になりました以上、整備して参りませんければなりませんし、また他面、経済上の問題、経済建設という問題についても、これらの国が、早急に、それらのものを建て直して参らなければなりませんから、そういう面において、経済的な援助も、まあ必要である。 従って、私の考えておりますところでは、むろんアメリカとしても、そういうような考え方のもとに、両方の援助を、できるならば並行してやって参りたいというのが、これが、アメリカの当然の考え方であろうと思います。ただ経済方面の問題は、やはりその国のそれぞれの事情によりまして、自力発展も相当可能でありますけれども、軍事上の問題になりますと、やはり相当な援助を得なければ、十分な防衛力を維持することもできない場合もございます。特に、まあ財政負担の面からいいまして、そういうふうに考えられる点が、それぞれの国において多いと思います。 でありますから、若干、そういう意味におきまして、軍事援助というものが先行したり、あるいはある時期には、大きな幅になっていくということも、まああり得ることでありまして、そのこと自体は、私は、それぞれの国を援助する一つのやっぱり方法であろうかと思うのでありまして、むろんアメリカの軍部の人たちの考え方は、軍人という立場から、相当軍事力強化を言っておりましょうけれども、アメリカの全体の政策が、軍事強化という面だけではないことは、われわれそう了承しておるわけでございます。
○佐多忠隆君 そうではなくて、事実は逆で、ほとんど全部、大部分が軍事援助に偏しておるので、それが今、ようやく批判の的になって、もっと重点を置き変えなければならない、方向を変えなければならないということで、今、大臣のお話になっておるような問題が出てきておると思うのです。しかし、これは、いろいろ論争になりますから避けますが、いずれにしても、ほとんど大部分、第一主目的として、今、ラドフォードが言っておるように、基地を建設し軍事力を築くということを、第一目的にして、外国援助が、積極的に大規模になされており、しかも南ベトナムは、その典型的なものだというふうに考える。 先ほど、ちょっと出しましたこのラドフォードの上院外交委員会アメリカ証言の問題でありますが、これが、その後の外国援助に対するいろいろな問題をかもし出しておるときの話でありますし、これは、今後安保条約との関連において非常に問題になる資料でありますから、これは後ほどでよろしゅうございますが、このときの聴聞会における詳しい事情を調書にして、あとでよろしゅうございますから、お出しを願いたいと思います。 で、次にそれでは外務大臣にお尋ねしますが、最近、一九五九年の上半期くらいまでの間に、アメリカに実権が移ってから、いわゆる軍事使節団というようなものが、アメリカから南ベトナムにどのくらいきておるか、どのくらいの往来があったというふうにお考えになりますか。
○国務大臣(藤山愛一郎君) アメリカの軍事顧問団が行っておりましたことは承知いたしておりますが、どのくらい特別なミッションが往復したかということは、私、承知いたしておりませんので、政府委員から説明いたさせます。
○佐多忠隆君 はっきりしておきますが、マーグのことは、あとで聞きますから、そうではなくて軍事使節団が、どれだけ往来したかということのお答えを願いたい。
○説明員(影井梅夫君) 正確な数字が、ただいま手元にございませんので、後刻調査いたしまして、御報告申し上げます。
○佐多忠隆君 これも、調査してあれしていただきたいのですが、私が、断片的に外国の新聞その他から拾ったものでは、一九五九年六月一日までに、四年間の間に五十一のアメリカ軍事使節団がアメリカの軍事計画の実施を監督するために南ベトナムに往来しておる、こういう状況になっておるようですが、この点も、それじゃ今お手元にわからなければ、後ほど、ちょっとチェックして、調べてお出しを願いたい。
○説明員(影井梅夫君) 私どもの手元にあります資料によりまして、できるだけ調査をいたしまして、御報告申し上げます。
○佐多忠隆君 いずれにしましても、ラドフォードのその外国援助の第一目的に従って、しかも今言ったような、ひんぱんな往来がなされて軍事建設、軍事力の増強が、積極的になされておる。これは後ほど、もっと論を進めて参りたいと思いますが、先ほどくどいほど御引用願ったジュネーブ協定あるいは最終宣言の精神に完全にもとっておるのみならず、AA会議、アジア・アフリカ会議のバンドン精神にも完全にもとった措置であるように私たちは考えるのですが、この点も議論になりましょうから、先に進みます。 それじゃ次に、いよいよ問題のマーグですが、マーグというものの目的、構成、任務、そういうものについて、一応御説明を願いたい。
○説明員(影井梅夫君) ただいまの御質問を、ベトナムの場合に限りまして御説明申し上げます。
○佐多忠隆君 けつこうです。
○説明員(影井梅夫君) ベトナムの場合に限りまして御説明申し上げますと、アメリカのマーグ派遣の基礎になっておりますのは、一九五二年一月三日、アメリカとベトナムとの間に結ばれました相互防衛協定、これが基礎になっております。この相互防衛協定の前文、プレアンブルにおきまして、その目的をうたっておりますが、これは自由諸国民の独立、平和及び安全の維持、共通の利益をはかるということが目的にうたわれております。そのマーグのこまかい組織その他等は、私どものところにはわかっておりませんが、大体の構成を推しはかるという意味におきまして、われわれの手元にわかっておりますのは、このマーグの将校及び兵士と申しますか、いわゆる士官と兵でございますが、この人数が一番多いときで三百四十二名であったということがわかっております。
○佐多忠隆君 一番多いときは、いつになっておりますか。
○説明員(影井梅夫君) この調査は、実はベトナム共和国政府の公表しております刊行物によってやったわけでございますが、その中に、最高時三百四十二名の時期が、いつであったかということは明らかでございませんが、ただ一つ明らかな点は、ジュネーブ協定以後になってから急にふえたということはない、このことは、明らかなようでございます。
○佐多忠隆君 このマーグの任務、構成その他は、どうなっておりますか。
○説明員(影井梅夫君) これは、まずアメリカの負っております義務でございますが、これは米国の国内法規に従いまして、相手締約国の必要といたします設備、資材及び役務を提供する。それから、この協定に基きまして提供されます援助、この主要目的は、相互防衛の目的のみに限る。それから、その他必要な現地通貨を提供するとか、あるいはこの援助を、最も有効に用いるために、定期的に両国政府間で協議をするというふうな規定があるようでございます。
○佐多忠隆君 そこのところが、私の新聞によってあれしたところでは、人員は一九五四年に二百名であったものが、一九五八年には二千名になっている。こういうふうになって、休戦協定以後に激増をしておりますが、その点、あなたの方の調査は間違いじゃないのですか。
○説明員(影井梅夫君) 一九五七年の十二月に、その人数が二千名になっているという報道は、これは北越の方から流された報道があるようでございまして、北越から、そういう報道があったという事実は、私どもにも報告を受けております。
○佐多忠隆君 僕のやつは、北越でなくて普通の、いわゆるブルジョア新聞です。それじゃそれは、さらにくわしく、もう一ぺん調べ直していただきたい。 ただその任務としてどういうことをやっているのか。
○説明員(影井梅夫君) このMAAGがどういうことをやっておりますかということにつきましては、われわれ外部から見ておりました場合には、正確な内容は知り得ないということでございます。
○杉原荒太君 関連して。先ほどからの答弁を聞いておりますと、質問と照応して目的とか任務とか聞いておられるのに対して、私の聞いているところでは、何か協定の目的などを言っておられるようだが、その協定の中に、実は相互防衛協定だから、それは全般の目的が書いてあるのだから、特にこのMAAGについても情報があるに違いないし、そこに任務等もきめてあると思うが、そこを何か混同しているような気がするのですが、そこのところはどうなんですか。
○佐多忠隆君 だから、相互防衛協定を、一応協定文を前文その他を読み上げれば、その中のMAAGがどういう任務を持っているか、それはちゃんと規定があるはずです。
○政府委員(高橋通敏君) ただいまの点でございますが、協定の第四条かと考えますが、わが方のMSA協定第七条と同じような意味合いにおきまして、アメリカ合衆国政府の職員がこの協定に基づいて供与される装備とか資材とか役務でございますが、そういう役務に関しまして、その援助の進捗状況を観察するというふうな任務が与えられている、かように考えております。
○佐多忠隆君 そうすると、これは、われわれの俗な言葉で言えば、南ベトナム軍の編成装備及び訓練の監督ですか、そして軍事基地や戦略道路の建設の監督、大体こういうことになるのだろうと思いますが、そうですね。
○政府委員(高橋通敏君) 一般的に申し上げまして、そのようなアメリカからなされたところのアシスタント、援助でございますが、その援助に関しまして進捗状況のオブザベーションを含むところのMSA協定、こういうふうな協定の遂行と申しますか、実施について責任を負うというふうなことでございます。
○佐多忠隆君 それで少しわかってきたようですが、そうしますと、さらにもう一ぺん、先ほどアメリカ軍要員の南ベトナムの問題ですが、これは私、さっきはっきりしなかった、MAAGだけなのか、これからお尋ねをするTERMその他もひっくるめて全部の軍要員なのか、そこのところがわからなかったから、MAAGに直接関連して申し上げませんでしたが、それらをひっくるめるのか、あるいはMAAGだけか知らぬが、とにかく非常な正確な数字で申し上げますと、一九五六年一月六日から一九五七年十二月八日に至る期間に、九百五十七名アメリカの軍要員が増員をされている。それは、もっともっと正確に言えば、二千二百人が入ってきて千二百四十三人が出たために、差引九百五十七名ふえた、こういうふうになっているのですが、その点はどうですか。
○説明員(影井梅夫君) 先ほど私からMAAGの最高の人数が三百四十二名だと申し上げました。これは、MAAGの将校及び下士官、兵等の総数でございますが、その他に文官というものがあるかと存じますが、ただいま御指摘の員数は、そういった文官も含めたものかと思います。今すぐは手元に数字を持ち合わせておりませんので、これも調査させていただきたい、かように考えております。
○佐多忠隆君 軍要員ですからね。その中に文官が入るのかどうか、いずれ詳しくあれしていただきたいと思います。私が、午前中、国際監視委員会の報告を出してほしいということを申し上げたのですが、私は、実はあなた方がよく北越情報とかなんとか言われるから、はっきり申し上げますが、今のあれは、国際監視委員会が第九次中間報告に、明瞭に、正確にあげている数字ですから、あなた方が、私が前から通告してあるのだから、お調べになっておれば、この程度のことは私でもわかるのですから、専門家にはもっとはっきりわかるはずだと思います。従って、先ほどおっしゃったジョネーブ協定以後少なくなっているということは、どうも無責任な単なる推測にすぎないのです。国会では、もう少しそういう点は厳重に、正確に御報告を願いたい。外務大臣、その点は一つ注意をしておいていただきたい。
○説明員(影井梅夫君) ただいま御指摘の第九次報告書、これは実は至急差し上げたいと思いまして、現在コピーをとるために回しておりますので、手元に持ち合わせておりませんので、御了承願いたい、かように考えております。
○佐多忠隆君 だから、それあたりをお調べになっておれば、今のことははっきりわかるし、そう推測によるいいかげんな答弁でなしに、もっと正確にできるはずです。国会ではその程度の正確さを期するように、一つ御注意を願いたい。
○吉田法晴君 ちょっと関連して。これは、衆議院でも問題になったりしたので、藤山外務大臣も御承知だと思いますけれども、国際監視委員会の報告の中に、数字等もちゃんと出ている。それから、これはTERMだと思いますが、臨時装備回復使節団の期限が切ってあったと思いますが、撤退を求めたことも、これは御承知だと思う。そうすると、ジュネーヴ協定の後に、これはアメリカの軍から、いろいろ名目は違うけれども、軍からジュネーヴ協定違反の兵力の増員あるいは装備の持ち込みあるいは訓練装備その他の戦力の増強があり、あるいは軍事基地等の増設があったということは、国際監視委員会で指摘しているところです。そうすると、はっきりジュネーヴ協定違反がその後あったということが指摘されているわけじゃないですが、藤山外務大臣。
○国務大臣(藤山愛一郎君) 国際監視委員会におきまして、いろいろな点が、違反の点が指摘されたということは、衆議院でも申し上げております。ただそれが二議長団に報告された、その後の処置がとられておらぬように考えております。
○吉田法晴君 どういう措置がとられたとかなんとかいうことを聞いているのじゃないのです。客観的な事実として、課長は北越情報とかなんとか言われるけれども、国際監視委員会という公平であり、それからその報告をアメリカがどう聞くかということは別問題にして、事実としてジュネーヴ協定後、そのジュネーヴ協定に反する行為がアメリカ側から南ベトナムにあっておる。あるいは兵員の増員なり、あるいはMAAGの新設なり、あるいは軍事基地の増設が行なわれておって、そういう点はジュネーヴ協定違反だと、あるいは退去を求められたり、あるいは増員を非難されたり、ジュネーヴ協定の精神に従ってもとに戻せと、こういう指摘があったことは、これは事実じゃありませんか。その内容を含んでお伺いをしておるわけです。どういう措置がとられたかとかなんとかいうことを聞いておるわけではありません。
○国務大臣(藤山愛一郎君) 今申し上げました通り、国際監視委員会において指摘されましたものを一々私は存じておりませんけれども、よくあるということは申し上げておりますし、承知しております。
○説明員(影井梅夫君) 御指摘の通りに、国際休戦監視委員会におきまして、これはベトナムの場合には第十六条の違反になるかと存じますが、そういった点が指摘されたことがあるということは事実でございます。なお、補足させていただきたいと思いますが、ただいま御指摘のTERM、これは臨時の施設の回収ミッションとでも申しましょうか、これは、一九五六年にベトナムに到着いたしております。しかしながら、TERM、このミッションがベトナムに到着いたしますに際しましては、事前に国際休戦監視委員会に対しましてその任務を通報いたしております。すなわち、この使節団の任務は、旧兵器をより分けたり、これを整理したり、取りこわす、そうしてそれを国外に撤去するということを目的とする使節団でございまして、この使節団がベトナムに参りますことにつきましては、国際休戦監視委員会に正式に通報し、また同委員会は、この使節団がベトナムにおきましていろいろな作業をする、その作業にあたりましていろいろな便宜を与えるということを申し出ております。で、ただいまのこのTERMという使節団は、その事業に対しまして、国際休戦監視委員会に毎月定期報告を出すということをやっております。これは、本年の六月末休戦監視委員会の方からその任務が終了したというふうに認定をされまして、本年の六月末にベトナムから退去しております。こういうことになっております。
○佐多忠隆君 今ちょっと断片的にお触れになりましたように、国際休戦監視委員会は、実はアメリカのMAAGに対して非常にきつい警告なり非難をしておる。これは、第七次報告書だったと思います。南部駐在のアメリカMAAGに関しては、委員会は、南部当局に同顧問団関係資料の提供方を要求したが、今日に至るまで提出をしていない。これは、委員会に対する協力行為に関する第二十五条の規定の協定違反である。委員会は、南部当局の第十六条、これは、さっきお読み願いましたからはっきりしておるように、軍人員の入国禁止に関する規定、その不履行の問題が二十七件、第十七条、これもさっきお読みになりましたが、武器、戦争資材の持ち込みに関する規定、この不履行が六件も記録をした。委員会がさらに別に国際委員会支部の監督実施を拒むこと四回に及んだ。そういうふうにして、少なくとも国際休戦監視委員会は、このMAAGに対して警告をし、しばしばジュネーヴ協定違反を指摘をしておる、この事実だけは、一つはっきり銘記をしておいていただきたい、後ほどの議論に関係がありますから。これに間違いありませんね。
○説明員(影井梅夫君) 第十六条直接の問題六件御指摘になりました。これは、私どもの手元にもその通りの資料を持っております。そのほかに、十六条以外のいろいろな手続関係の違反等の指摘も多少あったかと思います。合計二十一件だったように思います。
○吉田法晴君 それは筋が違う。十六条違反が二十七件、十七条不履行が六件、合わせて三十三件じゃないか。別に、国際委員会支部の監督実施を拒むこと四回。
○説明員(影井梅夫君) 御指摘のような件数、実は現在手元に正確な件数を数として持っておりませんので、それから、原本はただいまコピーを取るために手元に持っておりませんので、正確な件数についてすぐ御返事申し上げられない点を御了承願いたい、かように考えております。
○佐多忠隆君 非常に不備なようでありますから、これは後ほどでよろしゅうございますが、この報告書その他をお出し願って、次の機会にさらにこの問題についてはいろいろあれします。ただもう一点、TERMの問題でありますが、TERMは、団員はどのくらいですか。
○説明員(影井梅夫君) 実はTERMに関しましては、当然ベトナムとアメリカとの間に何らかの協定があったのだろうというふうに考えて、いろいろ探したのでございますが、私どもの手元には、その協定そのものは入っておりません。従いまして、ベトナムの共和国政府の公表その他によって判断する以外にないのでございますが、その公表されたものの中から探しましたところでは、最高限の員数を三百五十名とする、しかしながら、実際にはその員数が三百五十名に達したことはなかった、この範囲のことがわかっておる次第でございます。
○佐多忠隆君 私の調べによると、それは、団員四百十五名というふうになっておりますが、後ほどもう一ぺん私の方もよく調べてみます。先ほどお話のありましたように、これは、南ベトナムに入ってくるときに、戦争により荒廃した施設の回復ということで話し合いをしてきたにかかわらず、実際にやったのは、ベトナム軍隊に兵器や装備の補給をやった。そこで、先ほどお話しになった国際休戦監視委員会の非常な問題となって、TERMは一九五九年六月末までに南ベトナムから退去すべし、ということが言われて、これはしばしば勧告されている、そういうふうに私たちは調べておりますが、この点は、そうでなくて、今お話のようなことで、しかも、すでに六月末に退去したのですか。どうですか。
○説明員(影井梅夫君) 私どものこのTERMに関しましていろいろ集めております情報源というのは、先ほど申し上げました通り、ベトナム共和国政府の公表というものによってやっているわけでございます。それ以外に、現実に大使館なりその他が調査をするという方法もないわけでございます。この調査によりますと、退去と申しますか、そのベトナムを引き揚げました理由、これは、そのTERMの任務が終了したということでございます。そうしてまた、TERMは一九五九年六月末に引き揚げたとなっておりますので、私どもは、これは現在引き揚げが完了しておるものと考えております。
○佐多忠隆君 それなら、その点も資料が出てからもう一ぺんはっきりしますが、もう一つお尋ねをしたいのは、MAAGあるいはTERMが手がけたところのサイゴンの造船所それからサイゴンの港、それらに対する復旧、補給、増強、そういう問題はどうなっておりますか。お答え願いたいと思います。
○説明員(影井梅夫君) 私ども、MAAGなりTERMがベトナムに参りまして、どのような行動をしたかということをずっとフォローはいたしておりませんが、ただいま御指摘の造船所に関してでございますが、この造船所でどういうふうなことをやっておるか。特にまあ日本との関係において調べたものがございますけれども、アメリカのそういった機関がこの造船所においてどういうことをしておるかということは私どもにはわかっておりません。
○佐多忠隆君 日本との関係は、これから聞いていくのですから、それはあとでお聞きしますが、その前に一般的にそれに対してMAAGなりTERMが、日本との関連でなしに、どうしたかということを聞いておるのです。なければ、簡単にさっきおっしゃったですが、TERMは施設の回復に来たんだというお話でありましたが、これも国際監視委員会の第七回中間報告がいっておる。南ベトナムは——ニアベ港というのですか、ニヤベ港というのですか、この港は商工を発展させるためと称しておるのに、国際監視委員会第七回中間報告によりますと、ニヤベは軍事基地であり、合法監視もなし得なかった、こういうふうに中間報告の中にはっきり言っております。そして、新聞の伝えるところによると、海軍基地の軍事施設、それからバソンの修理工廠の拡張にMAAGは非常な重大関心を払って、これに積極的な工作をしておる。——これは中間報告でなくて新聞ですよ——そういうふうになっている。この点は、しかしお調べがないようですから、のちほどさらに詳しい調査が出てきてから、あらためていろいろお尋ねをします。 それで、問題を今度は次に移しまして、今いろいろお聞きをしましたように、アメリカ側はゴ・ディン・ジェム政権を立てて、フランスにかわってここに経済的な政治的な、さらには軍事的な支配といいますか、指導といいますか、権を完全に握って交代をして、そうしてしばしば監視委員会の警告を受けながら、ジュネーブ協定に違反の警告を受けながら、軍事施設の建設、軍の要員の増加を非常に積極的にやってきている。こういうことが、大体はっきりなってきたと思うのです。しかも、それは休戦協定後の問題だし、これからお尋ねをするように、賠償交渉が植村使節によって非常に具体的になってきていたのと、ちょうど時を合わしておる。いいですか、非常に時を合わしておる。例の沈船協定がだめになって、しばらく問題がストップして、その間にごたごたがあって、ゴ・ディン・ジェム政権ができて、そして五六年の初めですか、五六年の末から賠償交渉が非常に積極的に始まってきましたが、ちょうどそのときに、今いろいろお聞きしたアメリカの南ベトナムに対する積極的な施設なり工作が始まって、非常に時を同じくしているのです。その点だけは一応銘記をしておいていただきたい。 そこで植村甲午郎さんのことをお聞きいたしますが、一番初めに植村甲午郎さんが南ベトナムにいらしたのはいつのときで、どういう任務をもってどういう話し合いで行かれたのか。これは大臣が非常によく御存じですから、大臣からまず御答弁をいただきたい。
○国務大臣(藤山愛一郎君) 植村氏が初めに行かれたのは五六年の三月だと思います。その際は東南アジア全体を回ろうという意味で回られたのだと私ども思っておるのでありますが、その際ベトナムに寄られたことも事実だと思います。
○佐多忠隆君 東南アジアを回られましたが、どういう任務をもって、どういう資格で回られました。
○国務大臣(藤山愛一郎君) 当時どういう任務で回られたかは私はっきり承知いたしておりません。しかしその途路ベトナムに寄られまして、そしてベトナムの政府といろいろな話をされたことと思うのでありますが、それが賠償の機縁になったというふうに私考えております。
○佐多忠隆君 植村さんをその後特使にお使いになり、全権に起用されてその辺の経緯がはっきりしない、そこいらから問題の間違いが出てきておるのです。どうも大臣、そこいらがはっきりしないということはまことに私不満足ですが、特にこれまであの問題が非常に議論されていて今に至るまでまだそのときがどうだったか思い出せない、知っていて白ばくれておられるのならば非常に悪質だし、そうでないとすればあまりにものんき過ぎるし……。それじゃ政府委員の方がよく御存じのようですから政府委員に……。
○説明員(影井梅夫君) 植村さんが最初にベトナムにおいでになりましたのは、昭和三十一年の三月のことでございますが、そのときわれわれが承知いたしておりますのは、植村さんは当時カンボジア及びベトナム両国を民間使節として訪問されると、この機会に、たまたま賠償問題もちょうど同じ年の一月から再燃しておりましたので、そしてまた先方は当初二億五千万ドルという非常に巨額の要求を出してきておりまして、まあ一時デッド・ロックに乗り上げたという形でございましたので、植村さんに側面からベトナムに対して、そのような巨額の要求をしていてはなかなか話が成立しないと、側面から先方の意向を打診し、その切り下げをはかっていただく、そういう目的のためにベトナムで賠償問題も取り上げていただくというふうにお願いした、このように承知いたしております。
○佐多忠隆君 そのときの外務省との関連はどうなんですか。
○説明員(影井梅夫君) これは現在まで記録ではっきり残っておりますのは、当時そういった賠償問題に関しまして先方の意向を打診していただくというために、旅券の面でございますが、公用旅券を差し上げたということになっております。
○小林孝平君 ちょっと外務省はどうかしているのじゃないですか。この間も私が日本工営の久保田氏は関係あるかといったら全然ない、こういうので、外務省のれっきとした調査員であり、公用旅券を出しているような人を大臣は知らないとおっしゃった。まあ大臣はいいとして、あなた方は皆うしろにいて、知らないはずはないのです。それを言われておる、今も。冗談じゃないですよ。旅券だけじゃないですよ。当時の外務省のアジア局長は中川君でしょう。中川君はちゃんと頼んでいるのですよ。そんなばかな答弁はないと思う。しかも、これだけ問題になって——この問題は、ことしの三月十六日の衆議院の外務委員会において、植村さんがちゃんと言っているのです、外務省から頼まれた、当時の外務省のアジア局長中川君からも、賠償の問題を話してきてくれと、こう言っているんです。こんなことを知らないはずはないと思うんです。それを、そう白ばくれて、旅券でもってごまかそうとは何です。当時、この外務委員会の出席者として、政府委員からアジア局長、当時のアジア局長板垣、外務省の賠償部長吉田健一郎君が出席していますよ。そのほか、委員外の出席者として、外務省の事務官、出ておるんですよ。こういう佐多さんの重要な問題に、公用旅券だけで片づけようなんということは、ちょっと私はおかしいと思うんです。こんなことを調べてないはずはないじゃないですか。この間から何べんもこれは問題になっているんです。
○説明員(影井梅夫君) 私の御説明が悪かったかと思いますが、先ほどベトナムに対しまして、その賠償に関する意向を打診していただきたいということで、これは当然外務省といたしまして植村さんにお願いしたわけでございます。単にお願いしたということのみならず、そのほかの関係は何かないかという御質問かというふうに考えまして、そのほかにという意味で、たとえば旅券は一般旅券でなくて、公用旅券を差し上げております、こういう意味で申し上げたのでございまして、単に公用旅券を差し上げただけで、あとは外務省は全然無関係である、そういう意味で申し上げたのではございません。
○小林孝平君 それは、あなた、あとからそんなことを言ってもだめです。私、ちゃんとよく聞いておりました。そんなふうなら、休憩して速記録調べてごらんなさい。そんな、ごまかしちゃいけませんよ。ちゃんとこっちはあなた方の言うことは何でも聞いているんですよ。速記録だって全部調べてある。あなた方、そんなことを調べていて、白ばくれておる。これが核心で、これから佐多さんがやられようという核心だからぼかしている。久保田氏の問題も同じだ。知らないと思ってそんなことを言っちゃいけませんよ。これは私が質問するんじゃないけれども、そういう心がまえで答弁するなら、そういう心がまえでまた質問するから、私はこれまでにしておく。
○説明員(影井梅夫君) 私、最初に申し上げ方が悪かったかと思いますが、ベトナムの賠償問題につきまして、先方の意向を打診していただきたい、具体的にどういうふうな方法が外務省としては講ぜられたか、これは昨年の七月でございますか、植村さんに衆議院の外務委員会に参考人としておいで願ったときだったと記憶しております。あるいは、昨年の、月は間違っておるかもしれませんが……
○小林孝平君 ことしの三月です。ちょっと発言中ですけれども、これは賠償の問題を頼むとか頼まぬというのは、あなたの責任じゃないですよ。答弁するならアジア局長したらいいでしょう。何を言っているのです。あなたはそんな——大体おかしいんだ、こんなことを軽々しく。あなたの関係じゃないじゃないですか。あなたが頼んだとか頼まぬとかいう問題じゃない。答弁ならば、アジア局長がやるんです。ほんとうは大臣は知っているか知っていないか知らないけれども、一応知らないと言うから、それなら、アジア局長なんです。賠償問題というのは、税金でやるんです。一課長が植村さんに頼んだとか、植村さんに頼まないとか、そんな問題じゃない。答弁なんか要りませんよ。
○佐多忠隆君 当時伝えられたところによると、植村さんが一九五六年三月に東南アジアに行かれた。これは特需——植村さんは御承知の通り、経団連の防衛産業何とか委員会ですか、の委員長、そうして特需がだんだん少なくなるので、その特需を補充するために、そういう軍需商品の輸出市場調査、それを特殊な使命として行かれるんだ、そうして、そういう調査を外務省が公用旅券を出して頼んであるんだ、こういうふうに伝えられておるが、大臣、その辺のいきさつはどうか。
○国務大臣(藤山愛一郎君) 植村君が経団連の防衛産業委員会をやっておりますことは、私も承知をいたしております。ただ、当時行かれましたのは、そういう目的で行かれたかどうかということは、私存じておりませんので、植村君の立場、経団連の立場としては、一般的な調査でなかったかと実は私記憶しておるのでありますが、植村君自身が行かれましたのは、当時、私、会議所におりましたけれども、十分な記憶を持っておるような先生の用件というものを私存じておりませんでした。ただ、先ほど佐多委員の御質問がありましたので、その点を申し上げたのでありますけれども、外務省につきましては、中川アジア局長がその機会に、賠償問題についても話をしてもらいたいという要請をしておりましたことは承知いたしております。
○佐多忠隆君 それじゃ、もっと別な点からお聞きしますが、日本のいわゆる特需なるものが、植村さんが行かれるまでの前後を通じて、実績としてどういうふうになっていたか、どういう問題をはらんでいたか、これと、今のベトナムの話し合いのきっかけとが非常に問題になりますので、これを一つ御説明願いたい。
○国務大臣(藤山愛一郎君) 当時、経団連におきまして、いろいろな観点から、日本の外貨収支の問題を議論いたしておりまして、そうして日本の外貨収支を十分な、何と申しますか、バランスのとれたというか、あるいは外貨上の手当をいたしますためには、特需が非常に重要だというような論議があったことは、われわれも承知いたしております。ただ、私は経団連にも関係いたしておりましたけれども、特に会議所におりました立場でありますから、防衛産業委員会その他の内容、あるいはその努力については、十分承知いたしておりませんので、植村君がその特需を十分拡大したいという気持は持っておったと思いますけれども、しかし、直接に兵器産業の注文等の視察に行ったとまで、詳しいことは存じておりません。
○佐多忠隆君 日本からアメリカ軍が撤退したのは、例の、あなたが行かれたとき——あれはいつになりますか。
○国務大臣(藤山愛一郎君) 主として日本から撤退いたしましたのは、いわゆる一昨年の岸・アイク会談直後が一番多く引き揚げたというふうに存じております。
○佐多忠隆君 そうすると三十三年からですか。
○国務大臣(藤山愛一郎君) 三十二年になりますか……。
○佐多忠隆君 それで、はっきりわかるのですが、事務当局の手元には、特需は例年どういうふうに推移してきたか、ちょっと正確な数字を出していただきたい。
○説明員(内田園生君) 特需が開始されましてから昨年末までの収入の累計は、約五十一億ドルでありますが、昭和二十七年度は約八億ドル、それから三十二年度には五億五千万ドル、三十三年度が四億八千万ドル、三十四年度上半期二億三千万ドル、三十四年度の推定が約四億五千万ドルとなっております。
○佐多忠隆君 三十三年度実績は幾らになっておりますか、もう一ぺん済みませんが。
○説明員(内田園生君) 四億八千万ドルであります。
○佐多忠隆君 それで大体わかるんですが、今お話しの通りに、昭和二十七年がピークで八億二百万ドル、特需が非常に多かった年で、貿易上の収支のあれをこれでカバーする非常に重要な機能を果した。それからだんだん減って、今お話しのように六億台になり、三十一年、植村さんが、さっき問題の植村さんが市場調査に出かけられる三十一年から三十二年にかけては、五億台を割ってしまうだろうということが非常に心配をされ、同時に、今お話しのように、アメリカ軍の大量撤退があったために、こういうものも関連をして五億ドルを割ってしまうだろう。そこで、この特需を何とかカバーしなければならないし、それは国際市場に、特に東南アジアに、しかもアメリカのICA資金をバックにして、むしろ国外に出て特需をカバーするということが絶対に必要になってくるし、そのために、国内の防衛産業の充実をはからなければならない。それがまた、日本の再軍備を強くするゆえんでもあるということで、あのときにそういう非常な問題になって、植村さんが、三十一年の六月でしたか、三月でしたか、出られた。その途次に、最も重要な地点として今のベトナムに行かれたと、こういうふうに私たちは、記憶を今からいろいろたどって、今のお話その他をあれすると、考えるんですが、大臣、そうですが。
○国務大臣(藤山愛一郎君) 植村君は、経団連の有力な人でありますから、むろん、わが国のこの経済全般について非常に関心を持って、そうして特に日本の外貨収支と申しますか、そういう問題に深い関心を持っていたことであることは、むろんでございます。同時に、防衛産業委員会を主宰しておられたことも事実でありますが、しかし、植村君自身が東南アジアに回られましたのは、そうした直接に軍需品というようなものよりも、もう少し、もっと広い見地に立って考えられて、当時は行かれたのではないかと思うのでありまして、何か特需と申しましても、全体の兵器その他等を考えて行かれたわけだとは思いません。かりに特需というものを主体としておられましても、そうだと思っておりますが、それ以上に、私は広い見地に立って行かれたことだと思っております。
○佐多忠隆君 そこはいろいろ見解の相違になりますから、他日に譲りますが、それならば、それであのときの調査団として、ベトナムではどういうことを話され、この間からの説明によると、側面的に援助をされたというが、どういうふうな援助、どういうふうにやってもらいたいということが外務省のお話だったのですか。
○国務大臣(藤山愛一郎君) 当時植村君が行かれたときに、外務省が特にベトナム側の意向を打診するという気持がありましたことは、当然だと思うのでありまして、そういうような機会に、民間人である植村君にそれを委嘱して、そしていろいろな向こう側の希望を率直に聞いてくることが、賠償交渉に便益であったと思います。当時すでに、先ほど政府委員から申し上げましたように、その春と申しますか、あるいは前年の暮れと申しますか、すでに沈船引き上げの問題を別にして、賠償交渉が再燃しておるわけでありますから、そういう意味において依頼をしたと思うのでありまして、特別に何か交渉をするという立場では、当時植村君はなかったのじゃないか、こう思っております。
○佐多忠隆君 どうもそうでないのですが、事実を繰ってみるとそうでないのですが、それは後ほど質問を申し上げることにいたします。 それならば、そのころから外務省は、ICAとの関連において、どういうことをやり、特にアメリカのベトナムの軍部当局というか、あるいはICA、あるいはMAAG、TERM、それらとどういう交渉をし、それと日本との間にどういうふうな問題を持ち込んでこられたか、その辺のいきさつをお伺いしたいと思います。
○説明員(影井梅夫君) 私どもの課では、今すぐ思いつくあれがないので、あとで経済局の方に照会いたしまして、御回答申し上げるということに御了承いただきたいと思います。
○佐多忠隆君 すると賠償部の方もわからんですか。これはどこで……。
○政府委員(小田部謙一君) ICAと特に交渉したというようなことは、賠償部の方ではわかっておりません。ただ、ICAの金でアメリカが、このベトナムの貿易のうちの大部分がICAの金でまかなわれてきた、それからどういうものが買われてきたか、そういうようなことはわかりますが、特に話をしたというようなことは聞いておりません。
○佐多忠隆君 すると、たとえばベトナムのアメリカの大使館あるいはICA、MAAG等から日本のアメリカ大使館に話があり、日本のアメリカ大使館から日本の外務省に話があるとすれば、どういうところが直接の担当部局になりますか。このころICA、MAAG等いろいろなあれをやっておられる……。
○政府委員(小田部謙一君) 今のところ賠償部の方でもわかりませんし、アジア局の方でもわかりませんが、もしそういうようなアメリカ大使館を通じましてICAの方から連絡があるとすれば、経済局であると思います。
○佐多忠隆君 これ以上問答を続けても……。ではその事実を一ぺんはっきりした上で、大臣のいろいろな御意見なり、御所見を聞きたいと思っておりますが、そんなこまかいことを大臣に聞いて大臣を困らしてみても意味のないことですから……。
○国務大臣(藤山愛一郎君) おそらくICA資金の問題は、経済局だと思うのでありまして、もし御質問等で必要がありますれば、この次経済局の者を呼んでおきます。
○佐多忠隆君 これからその問題に移っていきますので、そこからさらに発展さしていきたいのですが……。
○吉田法晴君 大綱は大臣御存じあるはずだと思うのですが、知らなければしようがありませんが、経済局関係なのでこれを知らないと言われると、経済局長を呼び出して審議を続けるかどうかする以外に方法がない。佐多さんの質疑はこれ以上進行しませんから、ここで佐多さんの質問はきょうのところは保留さしていただいて終わりたいと思います。
○国務大臣(藤山愛一郎君) 何か具体的に問題が起こりました場合には、私のところまで話が参りますけれども、通常東京に駐在しております大公使館がこういうような話で、あるいは民間に連絡するというような問題については、一々私のところに参らぬわけでありまして、従って私としては具体的なそういう事例がどういうふうにあったかということは存じておりませんので、ICA関係は、主として経済局だと思います。従って経済局の者を呼びまして御答弁させることにいたします。
○辻政信君 私はこの委員会はきょうは飛び込みでありますから、過去においていろいろ詳しく論議されたことがあったら、適当に御答弁は省略をしていただいてけっこうであります。 まず最初に、質問の核心に入る前に、藤山外務大臣の外交に対しての根本的な考え方、と申しますことは、二つの中国、二つの朝鮮、二つのベトナムがあります。これを大臣はアジア的な観点から一つにしようとする努力をなさるか、それとも国際共産主義というものは相いれないから、現状のまま力のバランスの上に外交を進めようとされるか、その方針について伺いたい。
○国務大臣(藤山愛一郎君) 私どもといたしましては、分裂国家というものは、まことに残念なことであるわけでありまして、過去長い間の歴史を持っておりました国が、その原因のいかんにかかわらず分裂をしておりますことは、残念なことだと思います。従って平和裏にそれらの分裂国家が統一国家になりますことを庶幾いたしますことは、外交の根本的な立場だと存じております。ただ、分裂国家の場合に、今日はなはだ残念なことは、御指摘のような思想的な形において分裂している。思想的の対立を持たないで分裂しているという国家は、何と申しますか、同じ自由主義をいただきながら、別個の個人的な考え方、あるいはそういう意味で分裂しておりません、現在は。従いまして、根本的には先ほど申し上げましたような態度をとって参りますけれども、容易にこれが統一を実現し得るということが非常に困難だという事実も、また一面では、現実の認識として持って参らなければなりません。でありますから、今日私どもといたしましては、これが不可能だとまで見ることは適当でないと思いますけれども、現在の事実はそういう事態にあるということを、十分に認識して処置して参らなければならぬ、こういうふうに考えております。
○辻政信君 では今度の協定で、南北の統一ができないうちに、南だけに賠償を支払う、その結果が南北の対立というものをむしろ激化させるか、それともそれを緩和させるとお考えになるのですか。
○国務大臣(藤山愛一郎君) 私どもといたしましては、今回の場合におきまして、できればむろん統一が早くできまして、そうしてそれに対して賠償の責任を持つことが望ましいこと申すまでもございません。がしかしながら、今日統一ができておりませんし、また、それが非常に困難でもあり、かつ、長引いていくという事情にありますれば、やはりわれわれとしては、全ベトナムを代表する国としてベトナム共和国を承認もいたしておりますし、またそれに対してサンフランシスコ条約の義務も背負っておるわけでありますから、これに対して適宜払いますことが必要であって、その事自体は決して日本が何か別個の意図を持つわけでございません。全ベトナムの国民の将来の福祉のためになるように考えてやることでありますから、その事自体は大きく統一を妨げるものではないと、こう考えております。
○辻政信君 では、南北の統一を妨げている最大の原因は、どこにあるとお考えになりますか。
○国務大臣(藤山愛一郎君) むろん、今日公正な選挙によって統一を行なうということが望ましいことなんであります。ただ、今日までそれらの公正な選挙を行なうという方法につきましていろいろ問題が起こる。その問題が起こってくるということは、やはり思想的な立場からくることも大きな影響があるということは、これは認めざるを得ないと思うのであります。しかし、そういうような方法論についていろいろな議論があるということが、これが一つの大きな原因だと思います。
○辻政信君 これを妨害している原因は、アメリカのつっかい棒にあるのじゃないか。南に対するアメリカの支援がなくなったならば、南北はどうなるとお考えになりますか。
○国務大臣(藤山愛一郎君) これは南に対してアメリカが支援をいたしておりますということは、自由陣営の一国として当然だと思いますが、ただ、南にアメリカが支援しているというだけでなしに、北にソ連が支援しているということも、また同じような意味において解釈しなければならぬと、こう思っております。
○辻政信君 まさにその通りでありますが、それじゃ南に対するアメリカの支援と北に対するソ連の支援と、たとえば経済的に、軍事的にいずれが比重が大とお考えになっておりますか。
○国務大臣(藤山愛一郎君) この点は、軍事的に知識が乏しいものでありますから、いずれがその最あるいはその質において大であるかということは、私から申し上げにくいと思うのでありますけれども、やはりいろいろな意味においてソ連なりアメリカの支援というものが両国に対してあるという事実を認めるという以上に、それを大きく分けて考えるということは、ちょっと不可能だと思っております。
○辻政信君 私の知る限りにおきましては、南に対しましては、ほとんどがアメリカの経済的、軍事的援助というものが、南ベトナムの財政の主体をなしておるように考える。しかし、北に対するソ連なり中共なりの影響力というものは、多分に政治的なものであります。思想的なものである。経済的、軍事的な具体的援助というものはきわめて少ない、こういうことを考えますが、いかがでありますか。
○国務大臣(藤山愛一郎君) 北に対する共産諸国の援助というものは、具体的にわれわれとしても、そう数字的につかむわけにも参りません。従いまして、どの程度の規模であるのか、あるいはそれが南に対する自由主義諸国の援助よりも非常に小さなものであるかどうかということは、にわかに断定できないのではないかとこう考えております。
○辻政信君 それじゃさらにお伺いしますが、ベトナムにおきまして、民族主義と共産主義との関係、これがどこまで協調していけるとお考えになっておりますか。
○国務大臣(藤山愛一郎君) 民族主義と共産主義というものは、全くある意味からいえば別個の思想体系の上に立つものだと思うのでありまして、共産主義国でも民族主義の上に立ちますし、自由主義国でも民族主義の上に立つ、こういうことでありますから、民族主義と共産主義とをすぐ対決させるわけにはいかぬのではないかというふうに考えておるわけであります。
○辻政信君 このベトナム問題を解決なさるときの一番の要点はそこにあるのでありまして、ベトナム革命というものは、ほかの革命と少し本質が違っております。それは、日本軍の進駐によって、まずフランスの政治的軍事的支配を断った。それから終戦後は、フランスがそれを奪回しようとしたことに対して、ホー・チミンの越盟軍が武力でもって、八年間の抗戦の後にフランスの支配を断った。もう一つ残っているものがあります。革命はまだできておらない。何が残っておるかといえば、ベトナム全体を通じての華僑の経済的支配というものが、革命の最後の目標として残されておる。現在はその段階にあるわけです。そうなってくるというと、インドネシアにおいても現われておると同じように、華僑の経済支配を脱するという民族主義的な動きが、共産主義という政治的な進出を阻む、それが大きな特色をなしている。でありますから、北ベトナムがたとい国際共産主義のレッテルを張られておっても、その中身は徴妙な関係にあるから、それを外務大臣はよく認識をされて、もう少し高い見地からこの問題を処理されぬというと、害をあとに残す。こういうことを考えますが、いかがでありますか。
○国務大臣(藤山愛一郎君) むろん各国における民族主義の運動というものは、一律一体に考えるわけには参らぬと思うのでありまして、それぞれの国の歴史的な過程、あるいはその国の、ただいま御指摘のありましたような華僑の問題、経済的支配の関係、植民地国におきましても、西欧の政治的な支配と同時に、経済的なある面では華僑の支配というものも、現実には歴史の過程では現われておるわけであります。そういうことでありますから、一律に東南アジア各国の民族主義運動というものの性格を判断することは危険であるということは、私も十分承知いたしておるつもりでございます。ホー・チミンが必ずしも初期共産主義者であったかどうかということについては、疑問の持てる点もあるように思います。私、岡田君がベトナムのあの歴史の本をくれて、読んでみろというお話がありましたので、私も通読はいたしました、北ベトナムの成立過程についての……。まあ詳しくは覚えておりませんけれども、しかしそういうことでありますから、やはりそれらの問題について、国際的な問題を考えていきます上においては、むろん相当過去の歴史的な民族運動の成り立ちというようなものについて、十分な理解を持たなければならぬことは当然でございます。ただし現状において、少くも北が共産主義の影響を政治的にも、あるいは社会的にも相当大きく受けておりますということは、これははっきり言えることではないか、こう存じております。
○辻政信君 私は、終戦前と終戦後に分けまして、かなり長くベトナムにおりました。特にベトナム人に接触した一人でありますが、そうして得た印象は、南北を通じて例外なしに、ホー・チミンに対してはこれは百パーセントの信頼です。イデオロギーをこえたいわゆる民族独立の英雄としての信頼が深いのであります。これに対してバオダイであるとか、ゴ・ディン・ジェムという人は、失礼でありますが、ほとんど名前が知られておらない。こういうことから考えてみると、単にホー・チミンを表面上のレッテルだけで赤呼ばわりをして、そうして北は共産圏だからこれは手をつけられない、南は自由主義諸国の一つであるから結ぶというような考え方はあまりにも皮相ではないか、おそらく私の観察では、アメリカの突っかい棒をはずしますと、半ならずしてホー・チミンが全ベトナムを統一するであろう、これは私確信を持って申し上げます。イデオロギーのいかんではない。そういうことを考えると、今アメリカの軍事的な要請によって日本の賠償問題というものが南に偏するということが、はたして将来のベトナム全体に悪影響を及ぼさぬか。特に藤山さんは、二つに分割したものを一つにする努力が必要であると、アジア的な観点からこう述べられておるあなたの根本方針に後害を残すということを実はおそれるのであります。現職の大臣として、公開の席上では、はっきりそういうことは明言できないかもしれません。その立場は了解いたしますが、どうかこの問題の本質をお考えになるときに、そこまで見通した立場で、お急ぎにならない方がいいのではないか、お急ぎになることは決してプラスにならない、こういう感じを深くいたすのであります。これはおそらくデリケートでありますから、お答えができないだろうと思いますが、胸の中によくおさめて、この問題を会期延長とか多数の力で押し通そうというようなむちゃをやらないように、特にお願いいたします。 次は具体的な問題に入りまして、まず賠償と貿易との関係になりますが、この協定が成立する結果として、一番心配をしておることは、北ベトナムとの貿易というものが中断をされはしないか、この点であります。現在北ベトナムからは、ホンゲイ炭が約四十万トン入りまして、これが日本の化学工業、ガス工業、練炭工業、こういうものと密接に結びついておるのであります。また、これの見返りとして、いわゆる消費財がかなり出ておる。なるほど貿易の実績からいえば、南の方が九〇%をこえておる、これはアメリカとの関係であります。アメリカとの関係がなくなれば、貿易の将来性というものは、どうみても北の方に密接になってくる、こう思わざるを得ない。その点について、予算委員会の席上で、池田通産大臣の答弁は、北ベトナムの石炭とかその他のものは、日本以外に買う国がないから、これをやっても貿易の中断にはならぬだろう、非常な楽観的なことを考えておられる。しかし私が調査した結果によりますというと、あまりに楽観過ぎております。現に幾つかの商社が北ベトナムを相手に民間協定を進めておりますが、この進め方において著しい一つの動きがある。その動きは、ことしの年末までは話を進めるが、年の明けた来年のことになると、絶対に返答しない、保留をしておる。そうしてこの国会においてベトナム賠償がいかに解決されるかということを注目をしておる。こうなって参りますというと、これを強行することによって、おそらく北ベトナムの貿易というものは、政治的な大きな理由から完全にストップされる。ストップされた影響が化学工業、あるいは、ガス工業、あるいは練炭工場に、無煙炭の七〇%以上というものをここから仰いでおる現状において、これらの民間業者が数年間築いてきたこの努力に対し、その損害に対して、国としてどうするかということをお考えになっておるかどうか、これは大臣だけの所管ではございませんが、外務大臣としてはどうですか。
○国務大臣(藤山愛一郎君) 今回の賠償は、ただいま辻委員が御指摘になりましたような意味において私どもは実はやっておらぬのでありまして、アメリカの軍事援助に何か結びつけて賠償を急いでやるということでは私はないのでありまして、数年来交渉をして参りました結果、サンフランシスコ条約の義務を果たしますために、われわれとして誠心誠意これを解決していきたい、そうして七年にわたります、長時間にわたったこういうものについての戦後処理をまとめていきたいというのが気持でございます。従って、北ベトナムに対して、特にこの賠償を通じて敵意をもって何かやっていくというのではございませんので、ただサンフランシスコ条約に調印した責任を果たしますため、それは南のベトナム共和国に対して果たさなければならぬのでありますから、そういう点を十分北の方面においても了解していただきますならば、私は必ずしも政治的に見まして、北ベトナムとの通商関係がこれ以上悪くなるというふうには考えておらぬのでございます。この考え方は楽観に過ぎるという御意見もあるかもしれませんけれども、私としてはそう考えております。また同時に、今お話のありましたように、今日ホンゲイ炭の必要ということも日本には相当なウエートがあることもわれわれ承知いたしております。従って、調印をいたしました今日まで、これらの商取引が途絶いたしておりません関係から見ましても、まあわれわれとしては将来必ずしもすぐに途絶してしまうというふうに考えるべきではないと、こういうふうに考えております。
○辻政信君 中絶しなければそれにこしたことはありませんが、私の言うことは、最悪の場合に中絶したならば、民間業者が数年間努力した今日のこの結果を、政府は何らかの形において補償する用意があるかどうか、それを承っているのであります。
○国務大臣(藤山愛一郎君) 国内のこれらの業者に対して何か補償をするとかいうような問題になりますと、私の直接の所管ではございませんので、そういう点については十分われわれとしても御意見のところは承って、所管大臣の方にもお話をいたしておきます。
○辻政信君 先ほどサンフランシスコ条約の問題が出ましたから申し上げますが、この賠償という性格がアメリカの政策によってかなりゆがめられている。最初はポーレー案が出ました。その次にストライク案になっている。それからジョンストン・ドレーパー案になっている。この賠償方式の移り変わりを見ますというと、純賠償という性格が、アメリカの共産圏に対する軍事、外交上の要求に利用されたといったらおかしいけれども、賠償本来の性格がゆがめられて来つつある。そして現在は日本のこれに対する戦争の罪の償いという性格をはずされてしまいまして、アメリカのアジアにおける政策に賠償という名目でもって同一歩調をとらすような傾向が過去の歴史の上において立証されておる。これはそうお考えになりませんか。
○国務大臣(藤山愛一郎君) 日本の立場から申しまして、賠償交渉に当たりまして、ビルマ、フィリピン、インドネシア、ベトナムと交渉をやってきておりますけれども、日本の立場としてはそういう曲げた考え方を終始一貫いたしておらないのでありまして、むろん賠償によって物資を供与することになりますから、受入国側においてどういう考え方でこれを受け入れていくかということは別個の問題だと思いますので、日本としてはやはり賠償というものは、戦争中に迷惑を与え、あるいは苦痛を与え、そうしたものに対して誠心誠意日本の誠意を尽くしていくという立場を終始一貫とって参っておるわけでございます。
○辻政信君 大臣としてはそれ以上お答えになることはできぬと思います。腹の中じゃお感じになっておっても。これはそこまで追及しません。 それじゃ特別円の問題に移ります。フランス本国との間に契約されておった戦争中の費用、それを決済なさっておられますが、あれは平和進駐の昭和十五年から終戦までのすべての軍費を含んでいるものかどうか。
○政府委員(高橋通敏君) 特別円につきましては、フランスと協定を結びまして、その解決をいたしております。それで、その解決はいろいろな内容を含みますが、もちろんその特別円——軍費としてフランス政府から提供を受けた。ピアストルの対価としての円、その債務としての債権債務関係をこれで解決しております。
○辻政信君 私の問いに答えていただきたいと思う。それはわかっておる。わかっておるのですが、日本がフランスに渡した金額というものは、平和進駐のときから終戦までの金額を含んでおるかどうか、それを聞いておる。
○政府委員(高橋通敏君) それは、協定のフランスの仏印銀行と正金銀行との間の勘定がございますが、その勘定も、終戦後には十三億という勘定債権が出たわけでございます。従いまして、このような一つの金額をどこにきめるかというのはこれは別問題でございます。どういう金額において解決するかということは別問題でございますが、このような関係で、日仏間に発生しました債権債務関係をこれによって解決をしたと、こういうことでございます。
○辻政信君 その日仏間の債権債務関係をいつからいつまでと、この期限があるでしょう。それをどう見ておられるか。
○政府委員(高橋通敏君) いつからいつまでという問題でございますが、これは終戦特にそのような債権があったわけでございます。債権と申しますか、それは仏印進駐以来いろいろな物資その他の貿易の輸出入がございますし、それを一部は支払いますし、御承知の通り支払ったり、その他でその勘定が引き続いてきて、終戦直後に十三億の勘定が出たわけでございまして、すなわちそういうふうな債権債務関係がそこで生じましたので、この債務を解決したと、こういうことでございます。
○辻政信君 そうしますと、結局平和進駐をした昭和十五年から終戦の年までのこの一切の取引関係を清算をした、こう見てよろしゅうございますね。
○政府委員(高橋通敏君) それは現実の交渉の実体の問題と、それからお尋ねの法律的な問題とはちょっと別だと思います。法律的な建前といたしましては、これは建前の問題でございますが、これは何と申しますか、法律的に考えますれば、一九四四年の八月二十五日、あの開戦前のときの帳簿残高と申しますか、それの解決であるというふうな一つの法律的見解が立ち得るかと思います。
○辻政信君 実際は一九四四年八月二十五日になっておりますか、帳簿の締めくくりは。あるいは終戦のときになっておりますか。
○政府委員(高橋通敏君) 終戦のときに帳簿は締めくくったわけであります。閉鎖したわけであります。
○辻政信君 そうなりますというと、あなた方が開戦の期日というものは昭和十九年の八月二十五日である、それまでは平和進駐である、それからあとは交戦になったとしつこく説明しております。これは間違っておるのですか、実体は。理屈からいえば、少なくともフランスへ返す分は、昭和十九年の八月二十五日までの分を返すべきであって、それからあとは交戦をして被害を与えた現地に賠償の形式で返すのが建前じゃありませんか。
○政府委員(高橋通敏君) この債権債務関係の解決の実体と、それから法律的建前と、さっき分けて申し上げた次第でございます。日本側は一九四四年八月二十五日が開戦の日であるという、これがわれわれの法律的な腹がまえと申しますか、建前でございますから、そういう法律的見地からいえば、その当時の帳簿残高は約六億でございますが、それを支払うというふうな法律的な立場になるわけでございます。しかし一方、それは日本側の法律的立場でございまして、この法律論からいいますれば、フランス側もフランス側の法律論があるわけでございます。従いまして、この法律論で交渉をするというと、法律論だけではお互いに平行線になりますし、解決がつかない問題でございますから、そこで、実際的解決といたしまして、この債権債務関係を解決をしたということでございます。
○辻政信君 そうすると、あなた方がフランスの主張に押しまくられて、理屈はないのだが、負けたからといって押しまくられて、払わぬでもいいものをフランス本国に払った。少なくとも十三億から六億を引いた七億というものはそうなりますね。十九年の八月二十五日までのその帳じりが、あなたの説によると六億だった、そしてほんとうに払ったのは十三億だとおっしゃる、それでよろしゅうございますか。
○政府委員(高橋通敏君) その点になりますと、その協定自体の問題、その他協定に即したいろいろな法律的な点もいろいろ考えるわけでございますが、そうなりますと、協定には金約款がございますし、またそれに近い約束事もあるわけでございます。従いましてそういう点を考慮に入れますと、帳簿に現われている額よりも、数十倍の額を支払わなければならないということになるわけでございまして、従いまして、そのような法律論に深く立ち入ることを避けて、とにかくできるだけこれを少額に見積ってこれで解決をした、こういう事態でございます。
○辻政信君 フランスのピアストルを現地で使ったが、フランスの本国から物を買った例はない。フランスのピアストルを使って現地の物資を買い、現地の労力を徴用しておるのですから、金はフランスの貨幣を使ったが、与えた影響というものは現地に残しておる。その現地に残された損害と苦痛に対して払うのが賠償であります。従いまして、この本質からいいますというと、金塊を三十三トン返し、その他特別円の処理をしたことは、フランス本国に支払ったことは根本的な間違い、いかがでありますか、外務大臣。
○国務大臣(藤山愛一郎君) これは日本が仏印の進駐の直前に、基本協定を結びまして、そしてフランスとの債権債務関係になっております。フランスと申しますか、あるいは仏印銀行と正金との債権債務関係になっております。でありますから、これは四四年八月二十五日を一応の法律的時限として、そしてこれをフランスに支払いますことは、その協定から見て当然しなければならぬことでありまして、それをどうフランスがベトナムとの間に処理するかという問題とは別個の問題だと考えております。
○辻政信君 ただいまの答弁でちょっとふに落ちぬのは、フランスがベトナムとの間にどう処理するかは別な問題だとおっしゃるが、この協定をやったときにはベトナムは独立しておるじゃありませんか、フランスという国と。いかがでありますか、フランスの支配下になかった。
○政府委員(高橋通敏君) その点この債務は、私どもはフランス政府と日本政府との国対国の債務と、こう考えております。従いまして、これをフランス側に支払うということによって、われわれの債権債務関係はこれで解決したものと考えております。ただいま大臣お話しの通りでございます。しかしそれをフランスが仏印とどういうふうに処理するかということは、仏印とフランス側との独立前後を通じての交渉と申しますか話し合い、それによって解決されるべき問題で、これはむしろフランスとベトナムとの関係の問題である、このように考えております。
○辻政信君 理屈じゃそういうふうに逃げられますが、このことがいわゆる沈船引揚協定で二百二十五万ドルというごく少額で一応決定しかかったものを破棄されて、そして今日のように二百億近い金をベトナム政府から開き直って要求された大きな動機になっておる。それは大臣どうお考えになりまりか。
○国務大臣(藤山愛一郎君) ベトナム側がどういう感触を持っておるか、当時のつまびらかな事情を私存じておりませんけれども、しかし日本としては、当然日仏間の基本協定によります義務を、決済を履行いたしますことは、日本としてやらなければならぬことでありまして、その額をどこにきめるかということは、交渉の結果きまったことでございます。従ってフランスがそれをどういうふうに独立国としてのベトナムとの間に協定をするかということは、これは日本の関知しない別個の問題、こういうふうに存じております。
○辻政信君 なくなった重光外務大臣がこの点は非常に反対をされた。それを岸さんになって気前よく払ってしまった。それが今日二百二十五万ドルでいいやつを、二百億払わなければならぬ大きな原因になっておる。これは岸外交の一大汚点です。あまりに軽率だったとお考えになりませんか。われわれは戦争をしたけれども、フランスの本国に対しては何一つ損害を与えておらない。いわゆる特別円で決済されたすべてのものは直接間接ベトナムの現地から吸い上げた、その本質をわきまえずに、岸外務大臣の時代に重光さんが反対したという経緯を知りながらやってしまったことに、今日の禍根があると率直にお考えになりませんか。
○国務大臣(藤山愛一郎君) 私どもこの問題の処理にあたりましては、ただいま申し上げたような態度で日本がやってきたんだと存じております。またそうやりましたこと自体は必ずしも不適当ではなかったと、こう考えております。
○辻政信君 大臣は正直な方だと思っておったが、今の御答弁は納得できませんね。三十三トンの金塊とあの金をベトナムにやっておったならば、おそらく今日のような賠償問題はベトナムからは要求されておりません。フランスに対しては本国に損害を与えたことはないのです、われわれは。いかがでありますか。
○国務大臣(藤山愛一郎君) これはフランスに損害を与えたから特別円の決済をしたというのではなくして、今の日仏基本協定によります残高の決済ということだと思うのでありまして、その意味において当然そうやらなければならぬことを処理されたんだと、こういうふうに存じております。
○辻政信君 これは藤山外務大臣がおやりになったことではない。岸大臣の責任でありますから、藤山さんの立場ではそれ以上お答えになることはできぬだろうと思うが、特別に経済人であるあなたは、今の御答弁に対してはおそらく良心的に納得できないものがあるだろう。それ以上は追求いたしませんが、この問題の処理に見のがすことができない大きなミスを犯しておる。だれでもよろしいからお答え願いたいが、南ベトナム、ベトナムから昭和十九年から二十年にわたって日本の軍費として仏印総督に要求した貨幣はどのくらいになりますか。先ほど調査をお願いしておいたが。
○政府委員(高橋通敏君) 昭和十九年の上半期でございますが、一億二千、下半期が一億五千ピアストルになっております。それからそれに追加で八千万ピアストルございます。二十年のうち上半期が一億五千ピアストル、それから下半期が四億ピアストルくらいになります。
○辻政信君 これの軍費はどういうふうに使われたとお考えになっておりますか、軍費の内容です。ごく大ざっぱで。
○政府委員(高橋通敏君) これは軍費でございますので、私どもは現地軍の維持休養のための物資の調達に使われたというふうに考えておる次第であります。
○辻政信君 そうじゃなしに、この貨幣のおそらく半分以上は現地におった八方ないし十万の兵隊の俸給に支払われておる、人件費であります、平和進駐をやっておる。ほかの地区においては軍票を使っておるが、この地区ではフランスの貨幣でもって俸給を渡しておる。それを兵隊がフランスの銀行に預けておった、仏印の。そして終戦と同時にその仏印の銀行から預金の全額を引き出して、そして帰ろうとするときに大事件が起こっておる。そのことについて御調査なさった方がありましたら、どなたでも御答弁を願いたい。
○政府委員(高橋通敏君) 別に承知いたしておりません。
○辻政信君 ですから、そこに大きなあやまちを犯しておるというのです。今から読み上げるのはその当時の実情の手記でございます。これを御参考までに大臣に申し上げておく。「昭和二十年八月二十日頃より「サイゴン」飛行場及びプノンペン飛行場に仏軍進駐先遣隊が空中より逐次到着「カンボチャ」全地区及び南部ベトナム地区に駐屯していた日本軍人及び軍属は逐次「西貢」飛行場を中心とする周辺に集結を命ぜられ、八月二十八日頃概ね集結を完了したが再度連合軍命令により「サンジャック」を最終集結地と指定、九月十日前後該地に移動終結完了、当時の集結人員は、陸軍軍人軍属総計約五万」これはサイゴン周辺サンジャックにかけて五万です。「日本軍集結地の駐屯司令官は長久少将」これは私はよく知っております。その副官をやっておった人の手記であります。責任者の手記でありますから間違いありません。「主として宿舎の割当及人員の収容、現地自活に関する連合軍との折衝に当っていた。」そうしますと、「九月十二日頃、仏軍の命令により、終結地広場に於て三日間に亘り、武装の解除及所持品の点検が行れ、武器以外に」次の品目が完全に押収されておる。それは時計全部、カメラ類、双眼鏡全部、貴金属類全部、仏印特別円ピヤストル全部、こうなっております。なお「当時の記憶よりすれば、時計は集結人員の殆んど全員持ってゐた。」カメラは約一万ほどあった、取られたのが。「従って右数量が押収されたわけである。仏印特別円は、将校は一人平均四五〇〇ピヤストル位で、全然所持していなかった者は皆無でありました。「五万名の日本軍人平均三〇〇〇ピヤストルは押収されたものと考へてゐる。総額は多額に上った事は事実である。」かりに三千ピアストル平均で五万の人がフランスの将校からまき上げられたとすれば、一億五千万ピアストルになります。「右現品押収の際の仏軍司令官(中佐)は何れ内地帰還の際は時計、カメラ、特別円は個人毎に返却の上持帰らせると言明せしに拘らず、内地上陸迄それについては何等の指示がなかった従って時計、カメラ、双眼鏡類及特別円等を邦貨に換算すれば莫大な金額となるわけである。」 ここに持って参りましたのはそのときの受領証です、十数年前の。それをごらんに入れますが、こういうことになっております。これは現金並びに有価物件回収証明書、日本軍をして集めさしております、フランスの司令官が。提出現金、仏印通貨一金一千五百二十五円也と、ピアストルでしょう。提出有価物件評価額、これはゼロ、その受領証が二十年の十二月二十日、そうしてこれを持った人にこの受領証をサイゴンで交付しておる。仏軍が点検の上で、金と照らし合わせて。そうして帰るときには、その受領証によって支払うということを約束しながら、今日に至るまで支払いされておらない。そうしてこの書類は広島の税関に入ったときに一応保留されまして、税関からこういう心得の印刷した文書とともに、数年後にこの人のところに返ってきておる。五万が全部こういう処置をとられておる。戦争に負けたから、武器を取られることはこれはやむを得えないが、この金は略奪した金じゃない。日本の政府が当時の仏印軍に対して支払った俸給であります。しかもその俸給が仏印の貨幣で支払われて、使い道のない仏印でありますから、大部分が仏印の銀行に預金をしてあった。そうして引き出して帰るとたんに、仏軍司令官が受領証を渡して、それを没収しておりながら、今日返還の処置をとっておらない。でありますから、特別円の処理をするときには、当然この事項を調査して、それを差し引かなければならないはずである。そういうことが調査もされておらないし、無関心であるという状態で、あの岸さんのやられた特別円の決済というものに大きな過失があった。今からでもおそくはない、今からでもおそくはないから、それをフランスにお示しになって、払うべきものは払ってもいいが、フランスが押えたものは、フランス人がどろぼうでない限り、これを勘定に入れて、そうして今払おうとする二百億円のこの賠償金額から差し引くのが正当な処置であると思うが、外務大臣いかがでございますか。
○国務大臣(藤山愛一郎君) 当時の事情は私詳しく存じておりません。今お示しのありましたような問題があったかなかったかも存じておらないわけでございますが、今お示しをいただいたようなことがありましても、ただこの問題は、おそらく今回の賠償とは別の問題ではないかと思うのでございまして、それらの点については、われわれもにわかに今何とも御返事いたしかねると思っております。
○辻政信君 別の問題というのはおかしい。戦争に負けても、固有の個人の財産というものは取り上げられない。これはれっきとしたものを取り上げておる、受領証まで出して。これを不問に付して、そうして向こうの帳尻だけ払うということはないはずです。もしこれを切り離すならば、あらためて再調査して、その受領証のある者にフランスの本国から返還させるかどうか、その処置をおとりになるかどうか、あるいは二百億のその賠償金額を是正されるかどうか。これをはっきりお答え願いたい。
○国務大臣(藤山愛一郎君) 私どもは、ただいま伺ったことでありますし、今にわかにこれをどう処置するかという御返事は、この席ではいたしかねると思います。
○辻政信君 それではよく研究して、次の機会にその御返事をお待ちします。とにかく国から払った月給ですから、国家が。それを、個人の財産を召し上げられておる、それを国も補償せず、また賠償にも考慮に入れないということは、非常な片手落だと私は思う。観念で議論しておるのではないのですから、この席上で御返答は無理でしょうから、よく御研究なさった上で、次回に御返答いただくようにしたいと思います。
○政府委員(高橋通敏君) ちょっと補足させていただきますが、ただいまの御指摘の点でございますが、仏印の特別円の処理は、これは帳簿残高の十三億とかあるいは五億であるとか、そういう数字そのものの決済というふうには考えていないわけでございます。これは御承知の通りでございます。これに特別金約款や、それに近い条項を考慮に入れますると、六十億であるとか、あるいは百三十億になるとか……。そういうことに深入りすることを避けまして、とにかく十五億で、この交渉によって支払う債権を押えた、この経緯は先ほど申し上げた通りでございます。そうして戦後におきましては、ただに仏印のみならず、そのようなことは多々各方面においても起こったことではなかろうかと考えておる次第でございます。そのような問題につきましては、実はこれは純法律問題として申し上げますが、平和条約第十九条の請求権の放棄とか、いろいろな平和条約の条項の問題も考えなければならない。そういうことになりますと、そういう問題も一応法律問題としては権利の放棄ということに考えざるを得ないのじゃないかというふうに考えておる次第でございます。
○辻政信君 これは私どもの計算で、正確なものではございませんが、大体五万人の者が一人平均二千ピアストル取られたとして一億ピアストルになります。そうしますと、これを今日の金に直しますというと、五百億円、これは国家のものならばいざ知らず、国が国民に払った俸給です。もし請求権を放棄するというならば、国が、その私有財産の没収された者に対して補償するというのが当然です。そういうことについて、この次の機会までに書類をもって御返答願いたい。 これで私の質問を終わります。
○委員長(草葉隆圓君) 本日は、これにて散会いたします。 午後四時四十一分散会 —————・—————