海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号
- 発言数
- 86 件
- 登壇者
- 13 名
- 会派数
- 2
- 開催日
- 1958/10/30
会議録
○田口委員長 これより会議を開きます。 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する件について調査を進めます。先般の理事会の協議によりまして、本日は主として引揚者及び遺家族の就職問題、海外残留同胞の国籍及び引き揚げ後の国内における取扱いの問題を中心として議事を進めることにいたします。 なお、理事会におきましては、右の調査の参考に資するため、去る十三日、南方地域より引き揚げてこられました野倉幸一君及び去る十六日、ソ連地区から引き揚げてこられた平出盛正君に参考人として本日御出席を願い、事情を聴取し、あわせて引き揚げの経過等を承わることにいたしましたので、委員長から、あらかじめ御両人の御出席を願っておきましたが、右の理事会の申し合せ通り決定するに御異議ございませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○田口委員長 異議なきものと認め、さよう決定いたしました。 これから参考人より事情を承わることにいたします。 この際、委員長より参考人に対し、一言ごあいさつを申し上げます、参考人各位には、帰国早々御多用のところ御出席をわずらわしまして、厚くお礼を申し上げます。本委員会は、いまだ海外に残留されておる同胞引き揚げ問題の早急な解決及び遺家族援護の推進のため調査をいたしておるわけでございますが、今回、それぞれソ連地区及び南方地域から引き揚げてこられたことにつきまして、その引き揚げに至るまでの経過、残留地における国籍問題、帰国後の就職問題等につきまして、実情を忌憚なくお話し下さいますようお願いいたします。 それでは、まず野倉幸一君から御説明を願います。
○野倉参考人 自分は野倉幸一です。南方に派遣されたのは――元東京第一陸軍造兵廠に自分は勤務しておりました。その後勤務中、兵隊検査の命令が来て、そこから兵隊検査を受けて、要するに、義務として自分は軍隊に入隊して、市川の国府台の東部七十三部隊に入隊いたしました。その後、大体一年くらいそこに勤務しておりましたけれども、一年後には満州方面に派遣されました。それで、満州国境の石門子というところにおいて国境警備に当っておりましたところ、そのときに、要するに第二次大戦が勃発しました。それ以来南方作戦に入りまして、それから自分はずっと南方の方に連れていかれたのですけれども、そのとき行ったところがジャワでありました。あちらこちら行きましたが、小さなことは大部分忘れております。 ジャワにいて敵前上陸をしました。敵前上陸は、スラバヤのちょっとこっちのクラガンに上陸しまして、チエップからずっと行ってマラン、ここにわれわれの部隊初め全部の部隊が居坐ったわけです。それで、自分はジャワのスラバヤに一時おりまして、そこで勤務しておったときに、本隊の方に戻ってこいという命令があったので、自分たちはジォカルタの方に移りました。それが一九四三年のころです。それから間もなく、関東軍の直轄のもとに戻れという命令がありまして、われわれ大隊は満州の元の本隊にすぐ帰ってきました。その後、大体三、四カ月の間はそこにおりましたが、すぐに内地の元の原隊に復帰を命ぜられ、同時に、自分は満期命令を受けて、前の部隊に大体十五日くらいおりました。それで、自分が満期命令を受けて内地に帰りましてから、その後造兵廠に勤めました。その勤めた期間は、大体六カ月くらいしかありませんでした。それから間もなく、南方帰還者とか、あるいはいろいろな者の申し込みがあったのですけれども、ちょうどこれが僕に当ったのです。それで、すぐ南方野戦造兵廠の自分は軍属になりました。そのときの編成に、軍属というあれが設けられておって、自分は軍属の陸軍雇員になりまして、そこからすぐ南方造兵廠に派遣されました。その後、南方造兵廠におって勤務を遂行しておりましたが、一九四五年のころです。そのときに、ちょうど日本が負けて終戦ということになりました。自分の方は、向うが負けたのだから、こっちは何でもないと思っていたので普通にしておりましたけれども、ある程度命令に従わなければならぬものですから、それで、みながいろいろな案を練ったわけです。というのは、日本人の、何も悪くない、いい人もみな殺されていきますから、これではいかぬ、命だけは一つ守ろう、ここでむだ死にしては何もならない、自分たちは何も戦ってはいないのだから、犬死にしてはいかぬ、何とかして将来のインドネシアのため、あるいは日本のためを思って生き抜こうという決意をきめた。それで、命のある限りはそれをやり抜こうということになった。ちょうど四五年にインドネシアは独立の声をあげた。これは一番最初、北部から始まってきましたから、南の方のわれわれは、各個人個人、一人々々が、独立に際してはどういう兵器が必要であるかみなよくわかっておるので、兵器をどんどんどこからともなく集めながら、インドネシア軍の何も知らない人間、その中にはイギリスやオランダやいろいろな人種がまじっておりましたが、そういう者と一緒に僕たちが努力しながらどんどんやっている間に、あっちに戻ったり、こっちに戻ったりしているうち、しまいには山の中に入れられるようになってしまいまして、それで、山の中に立てこもって、ゲリラ戦術を、独立の日までねばって、やれるだけやっておったけれども、自分たちが運よく生きながらえたのは、これに神様のお助けだろうと思っている。生きるとは夢にも思っていなかった。ゲリラ戦術をやっているとき、生きるということは全然考えていなかった。死んでしまうのが普通であった。どんどん死んでいく一方であった。マラリアやその他の病気になっても薬がない。たまに当って生きる人も、薬がないために、まわりで助けることもできずに死んでいく。それからつかまったりもする。こういうように、死んだ方にはいろいろの状況がありました。中には、自分で気違いみたいになって死んでしまう人もありました。そういう方が相当にありましたが、戦って戦って戦い抜いて、まるで山のサルみたいになって、木の根でも何でも食えるものを食ってやっていけば必ず生きられる、着るものも、向うは裸でも生きていかれる、だから、裸といわんばかりの格好でこたえて参りました。一九四九年のおしまいごろに、初めてインドネシアとオランダ政府との間でいろいろな会談があって、その結果、われわれの方が勝ったということになった。それでわれわれは、ああ、これは独立したのだ、ありがたいというわけで、すぐ町の方へどんどん入って行った。まるで気違いのような格好で、人間のような格好をしておりませんでした。暑いところですから、早く頭の毛も伸び、まるで熊襲とでもいいましょうか、そういうような格好で町に入ってきて、インドネシアの旗を立てたりしたわけであります。それで自分たちは、オランダ人の申し送りを経て、造兵廠関係の者は造兵廠に入り、あるいは各人が任務につきながら、独立が完成するまで任務に邁進して、五二年までインドネシア独立義勇軍として勤務しておりました。 その後、大体オランダ人やいろいろな者がそこから追放されて、軍の方は、ほとんどオランダの軍人は一人もいなくなって、インドネシアの軍隊ばかりになりました。自分たち日本人も、もう敵はいなくなったから、これ以上戦争をやる必要はない、これは、もっとほかの建設だとか、いろいろなことをやることが必要である、これはそんなに力は要らないからというので、みんな一斉に、ほとんど全部が軍隊を出て地方人になったわけです。そうして、地方の普通の国民として、いろいろな工業的なこと、あるいは貿易のこと、あるいは何のことというふうに、みんなまちまちに、自分のできる方面にお互いに手を伸ばした。そのときは、残ったわれわれ同志もたくさんおりません。前にはジャワ島だけでも大体三千人から四千人くらいおりましたが、もうそのときは大しておりませんでした。おっても千人もおりませんでした。それでわれわれは、それに従事していたところ、その間に日本に帰りたいというような希望があった。インドネシア政府の法律に間違ったことをしたために帰されたとか、あるいは頭が悪くなって、気違いみたいになったので帰さなければいけないとか、いろいろな者が出ておったけれども、そのときは、まだほんとうに日本とインドネシアの連絡というものははっきりついておらなかったので、そのままにしておったのですけれども、日本の領事館とか公使館が設けられるようになってから、一九五四年あたりから、だいぶ帰り出した。あるいは奥さんを連れて帰られたとか、子供がいる人は子供を連れて帰られたとか、あるいは南方の奥さんは要らないというので、自分ひとりで帰ったとか、いろいろな人がおりました。中には、私は死ぬまでここにいるという方もおりました。今さら、こんないい年寄りが帰っても何にもできやしない、もう手おくれだ、今どき帰ったって、若い人がたくさんいる、力もなくなったし、大したこともできないし、また頭も古いし、帰って何になるという方もずいぶんおられました。それで、向うで結婚されて、お子さんが生まれて、そのままずっとおられるという方もおりました。また、このくらいの状況になってきたならば私も帰りたい、しかし、今帰って何をするか、それだけの技術を持っておらぬ者が帰って何になる、飯も食べていかれない、奥さんをもらうだけの力もない、それなら南方にいれば楽で、そんなに骨を折らなくても飯は食うだけは食っていかれる、貧乏しても食っていかれるから、その方がいいという方もおりました。そのうちには、いい時期もあろうとか、もう少し待て待て、何とか一旗上げなければならないといって、延ばしている方もおりました。また、日本の方との貿易とか、いろいろなことがありました。それに対して、これまで来たら何とかなるだろう、裸で帰ったら人に笑われるとか、恥かしいとか、言うことは各人によっていろいろありました。しかし、自分の友だちにも帰りたいという人は相当おります。果してそれが言葉だけで帰りたいと言っているのか、ほんとうに帰りたいのか、それはその人その人によって違うと思いますが、帰りたいというのには間違いないのです。内地の方がいいというニュースもありますから、向うでは食べていかれるけれども、やはり内地の方がいいなということで、今別に困っておらなくても、帰りたいという人は相当おります。ただ、今の状況は、向うでは大体ほとんどみな結婚しております。中には正式に結婚している方もおられますが、名前だけの結婚、内縁の妻みたいにしている人もおられました。その場合、ある程度まで情に引かれる、あるいは、あまりにもよくやってくれた、捨てて帰ると、あとの日本人のためによろしくないと考えている人もおられる。われわれは財産も何もない、ただ別れて、犬の子を捨てるようにしていくことも、女の親戚だとか、あるいはいろいろな関係上、これもまた簡単にできない。中には、一時帰って、何とかしてという人もありましたけれども、何とかじゃしょうがない、そんなことでは、やめた方がいいというので、迷っている方も相当あります。帰りたいことは帰りたいけれども、時期が悪いとか、あるいはもう少し待て、そういう人が相当おります。それから、妻を連れていく金もなければ、向うへ行っても手に職もないから、妻を連れていって果してどうなるか、かえって親戚の者に迷惑をかける、あるいはいやなことを言われるのではないか、そうすれば自分も気持が悪い、また、インドネシアの奥さんを連れて帰っても、子供が一ぱいいて食わせられない、それから内地は寒いということがある、その寒いことも、どのくらい寒いのか忘れている人が多いですから、それにも耐え忍べない人がいるし、相当考えて、みなほとんど奥さんを持っておられます。けれども、一時の奥さんと正式の奥さんというんですか、個人々々、その人によって内容はあまりはっきり打ち明けていない。単に妻だということは聞いておりましても、正式に結婚したか、あるいは一時の妻として置いてあるかは、はっきりわかりません。まあ、わかる人はわかっておりますけれども、自分たち全部はわかりません。けれども、大体日本へ帰るときは、子供のいない人だとか、あるいは正式に結婚していない内縁の妻を持っておる方は、みなそのまま置いて帰られるという気持は、はっきりしています。中には、子供がいても置いて帰ってしまう。そんなものは要らないとか、帰るのにそんなものを連れていっても何にもならないとか、その人その人によってみな違うのです。全部が全部これであるとは一がいに言えない。みんな個人個人、その人の内容でもっていろいろ区分すれば、区分の仕方があまりにも多過ぎるから、一つ一つ区分することは僕たちとしてはできないわけです。大体南方の方は、帰る気持はみなあります。中にはインドネシアのパスポートを持って一ぺんこっちへ帰って、親兄弟を安心さして、また向うの任務につこうという方もおります。だから、帰るということはほとんどみなです。中には、帰られないという人もある。どうしても帰られない。帰ればまだ敵がおるような感じで、工合が悪い方もおるらしいです。そういう方は二、三耳にしております。南方におられる方は、現在、一部はちょっと生活や何かに困っておられる方もおりますけれども、一般的に、日本人の方があそこに住まっておられて、現在のところ評判もよく、悪い人も出ない。個人個人が非常に友好的に生活しております。けれども、中に困っておる人というのはほんの一部で、なまけ者とでもいいましょうか、そういう人はちょっと困っております。南方の困ったというのは、内地のようなことはありません。内地の困ったというのは、ほんとうに困ったのかもしれませんけれども、南方の困ったというのは、ほとんどが自分で好きで困ったにすぎない。自分で勝手に困らしたんでしょう。困らせなかったら困るわけはない。南方で困るようだったら、どこの国へ行っても使いものにならないと友だちにいわれておる。要するに、南方で何にも仕事ができなかったという者は、どこへ行っても仕事はできない。仕事ができないんじゃなくて、なまけるんです。それだけの気力が鈍る。そういうほんとうに困った人は、南方ぼけと申しますか、そういうように、少し頭の程度がぬるいことになっている。子供とも言えない、気違いとも言えない、話に言えない、言葉に表わせないような形にその人はなっている。 普通、だれでも南方に行けば、食べていくだけは楽に食べていけるが、やはりぜいたくはできない。インドネシアの国内で、いろいろな暴動が起きたり、これだあれだということがありますから、ぜいたくはできませんけれども、まじめによくやっておられる方は、生活に対してはちっとも困らないのです。寒さのことはないし、いつも暖かいし、着るものだって、ろくなものはなくても十二分にあって、どこに行っても間に合うようにできている。中には、僕らと別れるときも、われわれは野倉さんが見た通り、この通りやっていますから、帰ったら内地の人によろしく、また、内地から新しくこられた方も、帰ったらよろしくと言っておりました。われわれの友だちは、言葉もできるし、どこへ行ってもみんな非常によく力を合わして、応援して、心を合わしてやっている、一生懸命やっておられます。貿易関係の方なんか、みな何々貿易、何々貿易という社長さん連中がみんなあそこに来ておられる。残留した方は、ある貿易の会社があれば、それに加わってやっておる人がほとんどです。中国人と一緒にやっている方というのは、前にはたくさんおったけれども、現在のところは、ほとんど日本人の商社で働いている。あるいは大使館、野村商事、あるいは鹿島貿易だとか、いろいろなところがたくさんあります。そういうところで、みな腰をしっかりと、昔と違って、みなまじめにやっておられますから、向うにおられる方の心配はありません。南の方はほかと違いまして、日本人は、現在のところは非常に受けがよくてよろしいのです。だれがどこへ行っても、日本人で粗末にされる人は一人もありません。一部にはあるかもしれませんけれども、一般的に日本人の方は、新しくこられた力、あるいは戦前から残留された方もおられるのですが、独立義勇軍に参加した者は非常に優遇を与えられておる。人のできない、また、やらせないことをやらしてもらえるという無理もきくし、いろいろな方面に対して、非常に友好的にわれわれ残留者はやっております。今後は、より以上にその方を利用して、上手に現在の国民と合わして、南方建設あるいは南方のいろいろな方面の仕事をやっていく方がいい。幾らやってもやり切れないほど仕事はある。技術者もほとんど南方にはおりません。南方政府でも、ジャワ政府の上の人でも、技術者を非常にほしがっておる。しかし、技術者はだれでもいいとはいわなかったです。要するに技術者というものは、なるたけ費用がかからない、できるだけ費用がかからない、国内だけでもって有効に使える人間が非常に向うでもほしくてほしくてしょうがないし、幾ら足しても足りない。幾ら人を教えてやってもまだ足りない。それに一番早いのは、われわれ日本人です。残留した方が一番です。初めは知らないことがあっても、すぐ言葉ができるし、ほとんど向うの人種になり切ってしまっているから、早い。何事をやらしても、覚えるのは早いです。だから、知らないこともすぐ覚えて、技術者以上にやるだけの力を持っている。相当向うに使われておるけれども、まだ日本人もだいぶ足りないものですから、現在のところは、あちこち引っぱりだこになっておる。それで、内乱の起きたのは一時的なもので、何でもないです。ジャカルタ地区の内乱というのは、要するに表でやっている仕事で、中のジャカルタの都市は平穏なものです。国民の動揺は一つもありません。普通にやっております。 帰る方の状況に関しては、大体自分で今覚えていたことはそのくらいよりほかありませんけれども、もし、僕の言うことで足りないところがあったら、質問していただいたらよろしいと思います。自分は言葉と言うことが、どうも続けてうまく順序よくいかないし、どうも日本語もほんとうにやっと話すくらいですから、一つその点はあしからず……。どうも日本語がうまくないものですから、かんじんなところをお話ししたいのだけれども、そのかんじんのところが、そこまでちょっとむずかしくて……。それですからよろしく。もし、質問されたら、僕の知っているだけは言います。あとはよくわからない。ほんとうに冗談じゃない。一生懸命汗かいて、寒いのだけれども、汗が出てしまってしょうがない。だから、これはなかなかむずかしいですから、一つこの辺でよろしいでしょうか。
○田口委員長 次に、平出盛正君にお願いいたします。
○平出参考人 私、平出盛正です。私は昭和十八年の一月に、広島集合で、満州旅順の六四部隊に入隊いたしました。その後、ハルピンの関東軍砲兵幹部教育隊、そこで約一年教育を受けて、昭和の方はさっぱりわからないですが、西歴一九四四年、下士官伍長に任官し、大連の要塞に勤務しておりました。それで、一九四五年の七月末に奉天へ転属され、そこで新しい部隊を編成したわけです。四五年の八月十五日に終戦となりまして、その後、当然捕虜として集合しなければならないのですが、私たちの部隊はまだ編成されたばかりで、また、その当時ソ連の進駐軍の命令で、満鉄と電電は捕虜にしないで解除する、こういうようなわけで、おれも満電だ、おれは満鉄だというようなことで、結局私たちの部隊は解散してしまって、隊長は一人だけが集合地に行ったのであります。そういうわけで、私たちも、それならその方がいい、何とかして捕虜にならず、内地へ帰りたいと、翌四六年の一月まで奉天の町を逃げ回っておったのです。ところが、進駐軍が捕虜の人数を数えたところが足りないわけで、結局男狩りにかかって、四六年の一月に逮捕され、二月に入ソしたわけであります。 初め入ソした地区はチタという町ですが、私たち、大体二千人がその町へ着いたわけです。その当時ソ側としては、その二千人をどこで使うか計画ができておらず、七月までチタの捕虜収容所に暮していたのであります。七月に命令が来まして、カザック共和国のカラカンダという炭鉱町へ行ったわけですが、その当時、もう四五年の八月以降、日本軍の捕虜が炭鉱に全部働いておりました。そのため、私どもは地上勤務で、都市建設をやっておりました。そうして働いているうちに、四九年――そのころは、もう捕虜の帰国が逐次できておって、そのために、私たちが炭鉱勤務に変っていったわけです。それで四九年十月、私は新炭鉱建設の作業中、落盤のために負傷したわけです。その後、すぐに病院に入院したのですが、そのころ、まだ捕虜は捕虜の病院がありました。ところがその当時、日本軍の外科医がみな帰国しておらなくて、ドイツ人の外科医に手術してもらったわけですが、言葉も通じないし、苦労をしました。そうやっているうちに、五〇年の五月、六月、私たちの地区の一般の捕虜は、全部帰国、こういうわけで、収容所の捕虜病院が閉鎖されたのであります。その後、カラカンダの市立病院に転送されて、約二カ月、もう一回手術をするという医者の診断があったのですが、モスクワからの帰国命令が来たために手術をせずに、五〇年の八月初め、汽車に乗せられてハバロフスクに着きました。どうしてかというと、ハバロフスクには――その当時ソ側から日本政府に、捕虜の輸送についてという知らせがあったわけですが、病人が九名残っている。その九名のうち、四名がハバロフスクにいた。もう一人が私、この五名が五〇年の八月ハバロフスクにおったのですが、すぐ帰らずに、九月一日に出発してナホトカまで行きました。しかし、日本から引揚船がこないのと、その当時私はまだなおっておらなかったが、ほかの四人はなおっていたので、結局、私だけがナホトカから三百キロのウォロシロフという町の病院に入院させられました。ほかの四名は、またハバロフスクに帰ったと思うのですが、その病院に入院しましたところ、そこにまた新たに四名いて、結局これで病人は九名になったわけです。私が入院したのを見て、彼らは、五〇年の九月ごろに帰れると思っておったが、私が入院してきたものだから、もう一年くらいおそくなるのではないかということになったのであります。結局、私もそこで何回も手術を受けたのですけれども、翌年の五一年の八月、また検査があった。ほかの四人の者は、もう手当も手術も全部終っておる。ところが、私はそのときまた悪くなって、もう一回手術を受ける準備をしておったわけで、結局八名が帰って、私一人が残ったわけであります。それで次の年を待つ、またその検査ころになると悪くなる、また手術をしなければならぬ。結局いつなおるのだか、いつ帰れるのだか、それがわからぬ。両親には四八年に手紙を書いたきり、その後文通もできず、日本の状態も全然わからない。こういう大けがをしたために、かたわにはなる。一応不安にはなっておりましたが、結局五三年、五四年、全部で十一回の手術を受けました。その当時、もう全部一般の軍人、捕虜は帰っておるし、私たちの地区には、どこに日本人がおるんだか一つもわからないし、引揚船はあるが、一人や二人の引き揚げに引揚船なんてくれないし、こうやっておったのでは、いつになったら帰れるのかわからないし、退院はもう近い。そういうわけで、私もそれまで苦しい思いをしたけれども、帰国したい一心で生きてきたのであります。大へんつらいことには、私たちの町には当時私が一人だったのです。収容所があるわけでなし、退院させられたら、その日から食っていかなければならない。仕事をしなければならない。こんな体であっては生活ができない。結局、先ほどの方も言われたように、自分の生命、生活のために、私は一時ソ連の国籍を受けるようにしたわけです。これは、日ソ国交の回復とともに必ず帰れるということがありましたし、また、その後日ソ通商貿易というようなこともあって、いつかは帰れる。ただ、その日が近いか遠くなるか、それだけが問題で、五五年の三月、いろいろ向うの方の援助がありまして、まだパスポートはおりなかったのですが、三月末に退院して、四月一日から働くようになりました。それで、今度帰国するまでそこに働いておりました。そして、ソ連の国籍を持ってこのたび帰って参りました。大体経路としては、そういうことであります。
○田口委員長 ただいま参考人よりそれぞれ事情を承わりましたが、これより参考人の説明に対する質疑を行います。山下春江君。
○山下(春)委員 野倉さんと平出さんは、外地で非常に長い間、生きるために御苦労された様子を今伺いましたが、心から御同情申し上げ、よく健康で再び帰ってきていただいたことを、心からお喜び申し上げます。 そこで、まず平出さんにお尋ねをいたすのでありますが、あなたの今お話になりましたように、四八年に一度文通したとおっしゃったのですが、そのことで、四八年には、あなたがとにかくソ連に生存しておられることがお留守宅ではわかっておったので、お留守宅の方は一生懸命あなたに早く帰ってきていただきたいと思って、いろいろ努力された。それにもかかわらず、あなたが今日までお帰りになれなかったということが今のお話でわかったようでありますが、なお、その一番大きな妨害になったものは何であろうかということを承わりたい。
○平出参考人 四八年に三本、これは赤十字の方で、軍事捕虜の特別なあれが通っておったわけなんですが、そのとき、私どもも帰れると思っておりましたら、四九年になっても、いつ帰れるかわからない。結局、手紙を書いてもだいぶひまがかかるものですから、三本出して、私が大体ソ連で捕虜になって生きておることだけ知らした。私だってもっと書きたかったのですが、帰国の日を待っておるうち、結局、四九年に作業中にけがをして入院してしまった。そして、一週間目に私の帰国命令が来ておったのですが、重体であるために帰れなかったわけです。結局、今まで長引いたというのは、私は四九年の十月から五五年の三月まで一度も退院しておらぬのです。それまで五年何カ月というものを、汽車にも乗っておりますが、その間、そういうふうに長い間入院生活をしておりましたので、その間に両親からの連絡もとれずに、話では五〇年には一般軍事捕虜が帰ったから、捕虜の身分ではもういかぬというような話を、私は病院に入っているから、町に出て行って聞くわけにいかぬので、話だけで、結局うやむやになってしまったのです。それで、今言ったように、いつかは日ソの国交が回復する、そうすれば何としてでも帰国はできる、する、やってみる、そういう気持で、五七年の初頭、日ソの国交が回復して、そのときに初めて両親のところへ九年ぶりに、死んでるか生きてるかわからぬけれども、書いたわけです。ところが私の家族は全部生存しておったわけです。そこで、向うでも私はラジオとか新聞で見ておりますが、日本の状況というものはほんの一部しかわからない。不安がありまして、帰ってきて、こんなによくなっているとはわかりませんでした。両親からも、その後一年半、帰国するまで文通しておりまして、帰ってくれば復職もできるし、そういうわけで、私も安心して手続を始めて、許可が出るまで一年ばかり、結局今年の今月帰ってきたわけです。
○山下(春)委員 よくわかりました。あなたの長い間の入院生活のために、どんどん文通をしなければあなたの消息がつかみにくいこっちの状態ということもよくわからなかったために、いいんだろうというようなことがあったようでございまして、それはよくわかりました。とにかく、それでも御両親はあなたの生存をその後承知されたようでございますから、その間の手続は何も障害があったのではなくて、あなたのそういうお考えから、そうであったということがわかりましたので、その点は、この委員会の立場としては、それでけっこうなのであります。 そこで、あなたのような事情で、まだソ連本土に残っておられて、帰れないでいるお方があるとお思いになりますか、どうですか。
○平出参考人 私一人でカラカンダという町からウォロシロフという町の陸軍病院に転送されて、五〇年の九月にこの病院に入院して、五五年三月に退院したので、その間、今の病院で残された九人のうち八人の方が帰りましたから、それ以外に、私自身としてその町にはだれ一人――これは私が国籍をとって働くようになってから、いろいろなところを歩いて、日本人がいるかいないか調べて歩いたわけですが、結局最後に一人見つけたんです。この方は四七年、どういうふうにして入ソしたのか知らぬのですが、精神病人で、精神病院に入っております。その方に一度面会に行きましたが、まだほんとによくなっておらず、それが去年の五月ごろで、私は死んでるんじゃないかと思います。大へん衰弱して、飯も食べず、歯がぼろぼろ落ちてくるくらいです。足なんかはほんとに骨と皮ばかりで、自分で寝台から起きるのがやっとで、手伝ってもらうほどでした。あとは、私三、三日前に手紙をいただいたんですが、その方は、その方がほんとに帰る気持があって手続を始めたら、絶対に帰れると私は思っております。
○山下(春)委員 平出さんが住んでおられた町には今御説明にあったように、一人に会っただけだということでございまするから、平出さんのおられた町には、もはやそういう方はいないということはわれわれも信じられるのでありますが、ソ連の本土に残っているあなたのような方々が、われわれの引揚委員会の調査及び厚生省、日赤等が一生懸命やっております調査からいうと、現実には、まだこれくらいあるという名簿が実はあるのでございます。そういう方が生きておられるかどうかは、はっきりいたさないのですが、かりに、おられるとして、ソ連本土におられるそういう方は、ソ連に日本の大使館があるということを御承知でいらっしゃるのでしょうか。
○平出参考人 私は五五年の三月に退院して働くようになってから――四九年にけがして入院するときは相当の金もありましたが、長い病院生活で金を全部使い果してしまって、退院したときは着のみ着のままで、そのときラジオでも買って日本の放送を聞きたいと思っておりましたが、それもできず、大体五六年の暮れであったか、私はラジオを買いました。それで日本からの放送を直接聞いておりまして、日ソの国交が回復して、モスクワに日本の大使館ができる、その大使はだれだ、こういうような放送を私は聞いておりましたから、私としては、日本の大使館にお頼みしたわけですが、ほかの方々のことはよく――私のいる町に日本人がおって、話をしているのだったらわかりますが、そういうわけで、私自身向うにおりながら、現在ソ連本土にどのくらいの日本人がどこにおるというようなことは、私自身わからない。
○山下(春)委員 日本の大使館ができまして以来、ソ連本土に残っておられる方々のために、大使館ができたんだから、どうぞ大使館へ連絡して、相談してもらいたいというようなことは、あとで外務省に伺いますが、多分一生懸命今皆様方に知らせようと努力しておられると思うのでありますが、何せ広い国のソ連のことですから、十分行き届いていないために、帰りたいと思いながら、その手続をどうしていいのか、あるいは大使館が存在しているのも知らない方があるのではないかと私どもは心配しておるわけであります。そこで、私どもの思うのに、あなたのようにソ連の国籍を持っておられますと、大使館ではソ連人と思っているので、非常に調査がむずかしいのではないかと思うのです。どの名簿を見てもソ連人として載っているので、日本人だということを判定することは、大使館自身も大へん困っているのじゃないかと思うのです。あなたが、とにかく生活をするためにソ連の国籍を取られたということなんだが、実は、日本人なんだということを大使館に知らせる方法、大使館がそれを確認する方法、そんなようなものが何かとられているか、そういう方法があるかどうか、実際はそれができていないかどうか、一つあなたの感じを聞かしていただきたいと思います。
○平出参考人 五七年の初頭から日ソ国交が回復して、国際郵便も自由に書けるようになりました。私は最初は両親のところ、それから日本大使館に手紙を書きました。それに、こうこうこういうわけで、私は日本人で、元軍人で、元の捕虜で、こういう者である、しかし、現在はこういうようなわけで、こうなっておる、それで、私は両親から戸籍抄本なんかも取りました。それから大使館の方でも日本政府、日本外務省、日本厚生省に連絡してみたところが、これはほんとうに未帰還者のこうこうこういう者である、日本にまだ本籍が残っておる、そういう証明書も私は大使館からいただいて参りました。この点には、日本の大使館としても、日本政府から未帰還者のこういう表が来ておりますから、それを見れば、私がソ連の国籍になっておっても、未帰還者の名簿に入っていれば、それでいいんじゃないかと思います。
○山下(春)委員 その点は、日ソ国交の回復に伴ってソ連に日本の大使館ができたということで、われわれは、引き揚げ問題でこの大使館がどのような役割をし、どのような努力を続けてもらっておるかということをつまびらかにできませんでしたが、今平出さんの、大使館に手紙をすぐ出した、あなたのように、みんな、日本の大使館がモスクワにあるから、それにすぐ手紙を出そうと考えてくれればどんなにいいだろう、今話を伺ってそう思うのですが、大使館がすぐ厚生省その他に問い合せて、あなたのところに証明書を送った。平出さんが帰ってこられたことによって、初めて大使館の人たちが非常に努力して下さっておるということも私どもも聞くことができて、大使館ができたことの意義のあったことを、今さらながら認識するのであります。 そこで、これは非常に東京都を表彰しなければならないような問題ですが、平出さんが東京都の交通局に関係しておられたそのもとの職を、そのまま十三年間留保してくれて、あなたがお帰りになると、すぐにその前の職に復職させた。これは引き揚げ問題の一番大事な問題で、今野倉さんがるる述べられたように、これという職も手についていない。十三年間の外地における生活の関係で、いろいろな複雑な事情が自分の身辺にできている。その子供とか、あるいは異国で結婚した妻だとか、そういう者を大ぜい引き連れて国内に帰っていっても生活ができるかどうかということのために、非常にあなた方の帰国しようという決心を鈍らしているのではないかということが非常によくうかがえたのであります。その意味では、平出さんを東京都がもとの交通局に復職させたということは、長い間この引き揚げ問題を扱っていて、非常に心あたたまる東京都の措置に対して、私どもも感謝を惜しまないものであります。そういう問題が、やはり外地にいる方は――野倉さんにはもう一度伺いますけれども、平出さんなんかも外地におられまして、今あなたがおっしゃったように、ラジオで聞いてみても、いろいろな新聞やその他のものを通じてみても、国内の復興がここまできているということがわからないので、日本へ帰って果して食べていけるのだろうか、どうだろうかということが一番御心配であったろうと思うのですが、そういうことは、今外地に残っておられる方の大きな心配の種であるかどうか、そういうことのために決心も鈍らしている方があるのではなかろうか、どうだろうかということを、あなたのお感じで一つお聞かせをいただきたいと思います。
○平出参考人 その点は全く御同感であります。私の場合、長い捕虜生活の間で、それに手紙でそんなことが書けません。ただ元気だ、もうすぐ帰れる、そのくらいしか書けない。生活のこととか、ソ連はどうだとか、また両親なんかでも、今日本はこうだとかいうようなことは書けない。書いたところで、結局手に入らないわけです。そういうわけで、その長い間、新聞、ラジオなんというのはほんとうに一部です。それともう一つは、一般の捕虜は、五〇年までは、日本政府は引揚船として前は興安丸を使っておりましたが、私たちは、その捕虜の最後の帰国にも間に合っておらず、今ソ連にどのくらい日本人が残っておるのか、それもわかりません。一人や二人のために船をちょいちょい出してはくれない、その問題もあります。それと生活の問題、これです。このたび、私が東京都の交通局で、このようにあたたかく迎えられて、復職できたということは、ほんとうにありがたいと思っております。
○山下(春)委員 平出参考人のことに対して、私はもう一つ外務省に伺っておきたいと思うのであります。平出さんは、今御本人がるる述べられたように、まだソ連国籍の人でありますが、この国籍問題は、今後どういう手続をもって平出さんの国籍を正しくしていただけるか、あるいは今度聞くところによると、外国人だからというので、税関で関税をとられたというような手続もあったかのように聞きます。それらの問題について、外務省の御見解を承わりたいと思います。
○山下説明員 平出さんが帰国されるに当って、まずわれわれの方としては、平出さんがソ連国籍のままソ連外務省の出国許可を得て日本に渡航されてくるという報告を受けたので、その国籍問題を、そのまますぐその場で解決するということは、ソ連と日本との問題で、日ソ間の外交交渉になる可能性がありまして、引き揚げがおくれるおそれが多分にありますので、法務省並びに入国管理局、それから厚生省とみんなで相談しまして、とにかく、一刻も早く引き揚げ自体を解決するために、ソ連籍のままでもかまわないから入国許可を与えるということにして取り扱ってきて、少くとも、御本人が日本人であり、ソ連籍を取ったのは、生活のためにやむを得ず取ったのであるということであれば、なるたけ御本人の意思に沿うように国籍問題を解決していこうということで、法務省側と研究を続けておるわけであります。もっとも、国内においてどういうふうに取り扱うかということは、外務省よりも、むしろ法務省、入国管理局、あるいは将来これでソ連の国籍を離脱するというような場合には、あるいは外務省を通ずるなり、あるいは在京ソ連大使館を通じてはっきりさせるということになるのではないかと考えられます。
○山下(春)委員 平出さんというソ連国籍人であられる方を、できるだけ帰国がスムーズにいくために、とりあえず出国許可のパスポートをお持ちになっている平出さんをすみやかに日本国内に――言い方からいうと、お帰りになるのではなくて、おいでになるわけなんですが、それでも、何でもいいから、とにかく早く帰っていただくということについて、今後をどうするかということは、今お話のようなことであろうかと思いますから、これは平出さんの今後の御意思によりますが、ただ、考えてみますると、東京都の交通局がきょうまで十三年あたたかい気持でこの平出さんの席を一つあけておいて、そのまま復職さしたということは、日本国内で行われておる恩給の措置とか、いろいろ日本国内で受けられる利益と権利の問題に今後非常に大きくつながってくるわけです。ソ連人として東京都の交通局で何十年お勤めになっても、そういう恩典は受けられないわけでございますから、東京都が、きょうまで席をあけて待っていてくれたというその熱意、愛情の中には、そういう恩典を受けさせたいという気持があるからに違いないのですが、今のままにしておいたら、そういうことが受けられないということになる。これは平出さん本人の御意思でございますから、無理にそれを離脱させるというわけにいきませんが、その辺ちょっと平出さんに伺っておきたいのでございます。あなたはこの国籍問題をどういうふうに処理していきたいとお思いでございますか。
○平出参考人 私も、そのときは結局生活上――結果はもっともよくなったわけです。それは、帰国を一日でも早めたわけです。私が国籍をとらずに、一般の捕虜であったなら、幾ら手続をしたところで、日本政府はどういうふうに考えているか私にはわかりませんが、今ちらほら四人とか五人とかの引揚者に引揚船を出すかどうか、結局、私はこれまでは結果がわからなかったのです。こんなに早く――結局ソ連の国籍になっておって出国許可の届をしたところが、一年半かかりましたが、ソ側としても許可を出し、これも書類では、休暇をもらって帰って、また帰ってくるのか、それとも全然帰るのか、二つあるのですが、私は全然帰る。私の考えでは、ソ連の国籍を取って私を帰すのかと思っておったところが、ソ連の国籍のままになっておる。私も今日本へ帰ってきて、日本人でありながら、ソ連の国籍でいたくありません。全部こちらで手続がとれて――ソ連を出国してから三カ月の間に、東京だったらソ連大使館に住所の登録をしろということになっておるのですが、まだ行ってない。なぜかというと、まだ手続が全部済んでおらぬので、気が落ちつかないものですから……。最後に、私はこれを大使館に持って行って、日本国籍になった、こう言っておけばいいのではないかと思っております。
○山下(春)委員 非常にうれしいような、悲しいような、こもごもの思いが盛り込まれている問題ですが、今平出さん御本人の御意思によりますと、この委員会は裁判所でも何でもありませんから、確認するわけでも何でもありませんが、平出さんは日本に帰ってきて永久に住むのですから、当然自分は旅行者ではなくて、日本に帰って永住するのだという決意を持ってソ連の土を離れられた、その気持を、何とか法律的にスムーズに早く、それぞれのお係りで手続を、平出さん自身もなさるでありましょうが、応援してあげて、早く日本人に復帰していただいて、そして東京都が扱ってくれましたあたたかい処遇が平出さんのために役に立ちますように、本委員会としてもそれぞれの役所に切にお願いをしておく次第であります。平出さんにはありがとうございました。 今度は、野倉さんに私は二つ三つお尋ねしておきたいと思います。あなたの今のお話では、どうも帰ってくるのにも、家族の問題や、あるいは帰っても、これという手に職も持っておらないから生活も不安だ、国内の事情もあまりよくわからないというようなことで、踏み切れない方があるように聞きましたが、あなたの御承知の限りで、インドネシアにまだそういったような方々がどのくらいか残っておられることを御承知でしょうか。
○野倉参考人 自分としては、全ジャワ島地区内に、われわれの友だちとして、同じような立場にあって残った方は、大体百三十名くらいと思っております。スマトラは除いてです。
○山下(春)委員 今ジャワ島に約百人くらいそういう気持で残っておられる方があるということでございます。御本人があまり苦痛もなく、ここでもう生涯暮そうという方を無理に帰っていらっしゃいというのが本委員会の趣旨ではございませんが、しかしながら、今るるとして述べられたお話の中に、皆さん帰りたいということがどこかにこびりついていることがうかがい取れるのであります。この百人もの残っている人に対しまして、厚生省の方でも、むろん調べはついておると思うのでありますが、今言われたように、奥さんと子供をたくさんかかえて帰ってこられるということに対して、引き受ける方の責任者である厚生省で、これをどういうふうに考えたらいいかということに局長は踏み切っておられましょうか。それがきまれば、ちっとも心配しないで、みな家族を連れて帰っていらっしゃいとわれわれも声をかけられるような気もするのでありますが、何か、仕方がないから向うで生活しようという裏には、それらのもろもろのものがくっついておるから踏み切れないようで、腹の底は帰りたいというのがほんとうのように思われます。われわれ委員会としては、そのほんとうの心の底にひそんでいるものを何とか達成させてあげたいと思うのでありますが、どのようにお考えでありましようか。
○河野説明員 私どもの調べによりますと、ジャワに残留している邦人の数は、大体百十六名程度というふうに掌握をいたしておるわけでございます。ごく最近に外務省から資料をちょうだいいたしました。そのうちの六十七名の個人々々の状況を調べたものをちょうだいいたしております。それによりますと、いろいろ個々の事情は違うように思われるのでありますが、大体においては現地にお残りになりたいというような、特にジャワの国籍を取得したいというふうな希望を述べておられる方が相当あるように伺っておるわけであります。まだ先ほど申し上げました数字から見ますと、六割くらいの数字でございますので、その他の人方につきましても、さらに調査をしていただきますように、外務省にお願いいたしておるところでございます。それらの事情がはっきりいたしまして、さらにまた考えるべき点は考えて参らなければならぬと考えます。 それから帰って参りましてからの就職の問題は、労働省にかねてからお願いをいたしておるわけであります。労働省におきましても、一般の内地におられる方々の就職のお世話とは区別をいたしまして、非常に力を入れてお世話をいただいておるように承知をいたしておるわけであります。たとえば、帰って参りますれば、あるいはお宅に伺うとか、あるいは職業安定所の窓口におきましても、一般の窓口とは別に、直接所長なり課長なり、責任のある人がお会いして、いろいろ御相談に乗る。日本の国柄といたしまして、国がどこで雇えというような命令ができませんので、なかなか思うにまかせない面はあるかと思いますが、そういうふうなことで、できるだけのお世話をいただいておるわけであります。今後帰ってこられる方々につきましても、なお示そう努力していただきますように、私どももまた労働省によくお願い申し上げたい、かように考えているわけであります。
○田口委員長 本日、政府関係では外務省アジア局の南東アジア課長影井さん、それから欧亜局の東欧課長山下さん、厚生省援護局長河野さん、未帰還認否部長吉田さん、それから労働省は、雇用安定課長の廣瀬さんがおいでになっております。御承知を願います。
○山下(春)委員 野倉さんにお伺いします。今あなたは、ジャワに百名くらいと言われました。厚生省、外務省が調査した数字は百十六名くらいということで、これは非常に近い数字が出ておるのでありますが、その百名くらいの方々はジャワに住んでおられても、お留守宅というか、自分の肉親のところへは通信をしておられるでしょうか、どうでしょうか。
○野倉参考人 そういう方がまだたくさんおられます。中には、まだ村だとか、あるいはみなに知られてないようなところに一人ぼっち、ひょこんと百姓なんかしている人がいるのです。そういう人はわからぬです。連絡はなかなかとれないです。それで、日本語もできない人がある。普通のインドネシア語じゃなくて、その県の言葉を使っています。そういう人は、日本語を使わないから、もうすっかりほんとのインドネシア人みたいになって、全部はだしで歩いているし、色も変っちゃっている。人相も、われわれ日本人が見ても、どれが日本人かなと思うくらい、わけのわからないようなインドネシア人になってしまっている。日本語を使ってもさっぱり答えがない。スンダ語とか、ジャワ語とか、山の言葉ばかり使いますから、普通のインドネシア語じゃわからぬ。そこの地主に聞いても、「昔は日本人だったが、今では日本人じゃなくなっちゃった」と言う。それは困ったな。日本語だってわからないから、そこの言葉で話をすると、やっぱり答えます。だけども、その人は、「もうだめだ、帰らない」と言う。それは向うの言葉で言うのです。一般的のインドネシア語やマレー語では言いません。むずかしい昔の言葉と申しましょうか、そういう言葉で答えます。そういう人は、全然町へも何も出てきません。穴に入ったというとおかしいかもしれないけれども、そこへとどまったきりで、村人と一緒になって生きている。それで、どこそこにいて、どういう名前かもわからない。そんなことは全然通告してない人がいるのです。中にはまた、インドネシアの山の中に入り込んで、イスラムとか、変な信教に入り込んでしまった人がいる。それで、全然連絡しないで、悪くてもよくても、そこで死ぬまでやっちまうというようなかたい信念で打ち込んでいる人もある。二、三そういう人がありますし、中には、われわれにはどうにもならない、わからない人がまだございます。
○山下(春)委員 非常に悲しい言葉であります。その方々をつかまえて、もう日本へ帰る意思はないんだ、そこに生涯いるんだと私たちが断定することは、何とも言えない悲しい気持で、それはそのままにしておいてはいけないという気持に、私はかられてならないのであります。行政的にいろいろなむずかしい面もあろうと思いますけれども、日本が九千万の人口をかかえて、外務省でも移民の問題は非常に重要な問題として取り上げておるし、われわれも、その問題を今後一そう強く推し進めなければいけないと思います。この九千万のたくさんの人口のところへ、帰っておいでなさいと、われわれが大きな幸福を差し上げるために待ちかまえていると言うのには、あまりに多い人口かもしれませんけれども、しかしながら、その山の中で、今野倉さんが言われるような、日本語も忘れてしまった、あるいは人相までインドネシアになってしまった、あるいは服装等も、全く人間だかサルだかわからないような格好で生きているということは、全く世の中に失望した形のように受け取れるのですが、もういいんだ、自分はここにいるんだと言われることを、私は帰ることをあきらめて、ジャワで仕合せに暮しているから、もう心配してくれるなという言葉に受け取ることは、何としてもできない気持がするのであります。 それで、百十六名の方がそのような状態であるならば、おそらく大使館ができたことも御承知ないでしょう。そんなふうでは手紙の書きようもないし、もちろん、肉親に通信もしておられないから、十三年間肉親の方は、今にも帰るのかと、きっと待ちくたびれておる方ばかりであると思います。これは、本委員会といたしましては一大奮発をして、そうであろうけれども帰っていらっしゃい、一応日本へ帰ってきて、引き揚げの手続を一切済ませて、そうして、自分は十三年住みなれたジャワの山の中の方がいいんだといって帰られるならば、これは喜んでお帰しすることにして、やはりこれらの人は、もう日本へ帰ることはあきらめたんだ、日本へ帰りたくないと言っているんだという断定を下すことは、私はとても悲しくてできません。ですから、これは日本へ一応帰ってもらって、そして納得の上で、再びその住みなれたところへお帰りになるという手続は、どうしても本委員会としてはしなければならないような気がいたします。私どもは、今日もう十三年たちましたので、今、引揚問題、引揚問題という時期でもないではないかという話も巷間に聞くのでありますけれども、しかし、今野倉さんの切々たる――切々というけれども、野倉さんは普通に言っておられます。私どもは、そこから全く敗戦の悲劇というものを身にしみて胸にこたえて聞くのであります。これはどうしてもこのままにしないで、やはりあらゆる努力をして、一応日本へお迎えすべきであると考えるのであります。外務省及び厚生省において、私が今申し上げたことにもし御同感であるならば、一つ一緒になって努力をして、この方々を一応日本本土へお迎えをいたすことに努力をしたいと思いますが、外務省及び厚生省の御意見を――御意見というよりも、今具体的な御意見があろうはずはありませんが、どのようにお考えかを一つお答え願いたいと思います。
○影井説明員 私どもの方といたしましては、御趣旨全く同感でございます。ただ、現地に出しておりますわが方の大使館は、開設まだ日が浅いものでございますから、特に都会地におきましては、いろいろな方法も比較的とりやすいかと存じますが、ただいまお話のような奥地の方につきまして、どういうふうな手段をとったらよろしいか、現地にも至急研究をさせまして、御趣旨に沿いたいというふうに考えております。
○河野説明員 御趣旨はごもっともと存ずるのでございますが、ただ、いろいろ事情が個々に違うのではないだろうかというふうな点も懸念されるわけでございます。たとえば、向うで十分生活を安定し、りっぱに仕事もしておられるというふうなことでございますれば、あるいは一時そちらを捨てて日本へ帰って、また再起をはかるということでは、かえって本人のためにも不幸な結果を見ることもあり得るのではないだろうかというふうなことも、考えられるわけであります。その辺の判断は、個々の事情を十分調べた上で善処するのがいいのではないか、かように思います。
○山下(春)委員 援護局長の御意見は、私もそれに反対するものではありません。もちろん、向うでりっぱな生活を立てておられる方を、一時中断するようなことになることは、かえって御迷惑なことであります。それは、もちろん状況によってでございますが、しかしながら、そのままで外地で死なしてしまうということは耐えられないという、心の底にある気持にはぜひ厚生省も御賛同を願いたいと思います。 野倉さんにもう一つお伺いします。ジャカルタでたくさんの方々が戦死されまして、あるいは処刑されて、あちらでなくなられた方もあるのであります。そういう処刑者の方々の遺骨を、一カ所か、あるいは何カ所かに埋めてあるはずでございまして、それを掘り上げて、内地へ持って帰ってお祭りをするというような御意見が現地で起ったことがあるそうでございますが、その後、その問題はどのようになっておるか、御承知ならば聞かしていただきたいと思います。
○野倉参考人 いろいろそれらの事情を耳にいたしましたけれども、要するに、友だち同士では何もできないので、そのうちには、何かのいろいろないいあれがあるんじゃないか、日本の国家の方からも、そういうことがあるんじゃないかということを、みなそう思っていたのです。こうしたらいい、ああしたらいいと思っても、われわれだけでは何もできない。その方をやっておると、われわれ生活に困り、仕事に追われたりして、なかなかそのひまがあるようですが、みな一致しないわけであります。それで、その間にあれこれいろいろラジオとか何かで聞きましたら、日本の遺骨何とかがくるとかいうこともだいぶ聞いておりましたので、そのうちにジャワの方にも船がこられるんじゃないか、そのときにやればいいんじゃないか、そのときにわれわれが応援して、できるだけの力を尽してやればいいんじゃないか、こういう話が出ておったのですけれども、ある一部からそういう話もあったそうだといっても、その後、それがどのようになったかということは、話がそのまま消えたようなことで、さっぱりわからなくなってしまった。僕たちの友だちの中にも、かわいそうだということで、今まで僕らが川のふちに埋めたのもある。戦争当時ですから、表に置いておけば犬が引きずっていって食ってしまうわけです。だから、僕たちが適当なところに埋めたのもあります。中にはインドネシアの墓があります。軍人が死んだのを埋めるところがありますから、そこを掘り直して、骨だけを勘定して、これは全部そろっておるからこっちにしようということで、骨を探し集めて勘定して、自分たちが一晩寝ないで、そばでお通夜をしたりしてそれを葬ったり、墓の移動をしたのもあります。中には、まだそのままになっておるものもあるらしいのです。
○山下(春)委員 ちょっと厚生省に伺いますが、野倉さんは、厚生省からどなたか迎えにおいでになりましたかどうか。迎えにおいでになったら、どのようなことで迎えられたか、おわかりの係官の方は来ておられませんか。おるならば、ちょっと聞かしていただきたい。
○吉田説明員 私の方からは、ちょうどこの地域の調査を担当しております主任の班長の柏井事務官外一名を、当日上陸港に出向かせまして、じきじき野倉さんから現地の残留者について、きょう御説明がありましたようなことを詳細承わりまして、今後なお残っておるであろう人の調査資料をいただいております。
○山下(春)委員 その際、私が聞いたのでは、何か一千円を厚生省の方からお出しになったということですが、それは何のお金でしょうか。
○吉田説明員 私の方からは一切出しておりません。おそらく、地元の神奈川県ではないかと存じますが、私は、そのお話はきょう初めて承わりましたので、存じておりません。
○山下(春)委員 野倉さにん伺いますが、神奈川県からその一千円をおもらいになったのでございますか。
○野倉参考人 それは、僕がいただいたときには、いろいろな雑品とか、あるいは衣類、そういうものがいろいろまじって、お弁当のようなものや、たばこもいただきましたが、お金も千円いただきました。それを一緒に全部もらったときには、これは小づかいというのですか、要するに、そんな工合のあれであるから取っておいて下さいというので……。それは厚生省の方とか言っておられました。その品物をいただいたときに一緒にいただきましたから……。
○山下(春)委員 今野倉さんは、厚生省のような気がすると言っておられたが、厚生省の方、どうですか。
○吉田説明員 今のお話を聞きますと、帰郷雑費として、帰りの弁当賃その他をお渡ししておりますが、多分それではないかと思います。そうしますれば、厚生省で渡したことになります。私の方の係官は調査だけやっておりまして、その方の仕事をやっておりませんので、先ほど申したようなお答えをした次第であります。
○山下(春)委員 非常に長い時間をちょうだいいたしましたし、この問題はここで論ずるのには複雑でございますので、後ほどわれわれの委員会でよく研究いたしたいと思いますが、たまたま十三年後に南と北から個人帰国ということでお帰りになりました。私どもは、この十三年間の役所の歩みも大へんなものであったことを感ずると同時に、御本人もよくぞいろいろな苦難を乗り越えて、ぽつんと一人で帰国するといういい運に恵まれて帰ってこられたことを、何とも言えなく私は心に喜ぶのであります。ただ今の政府委員の話からして、その問題の扱い方、これについて、後刻私は別な機会にこの委員会で研究させていただきたいと思いますので、今日はそれに触れないことにいたしまして、終戦以来、ずっとこういう問題で努力して参りました本委員会としては、大へん長い時間、あなた方お二人のお話は非常に参考になり、なお残された問題について、私どもとして最後の仕上げをしなければならないという決意を深くさせていただいて感謝いたします。ありがとうございました。私の質問はこれで終ります。
○田口委員長 金丸徳重君。
○金丸(徳)委員 大へん時間が過ぎておりますので、私は、いろいろお伺いしたい点もあるのでありますが、後日に譲りまして、ちょっと一つだけ、実は頼まれたこともありますので、それにからみましてお伺いをいたします。 これは援護局の方にお伺いをいたすのでありますが、先ほど野倉参考人からのお話によりまして、終戦当時における混乱から非常な苦労をなさっておられ、そして、その方々の中には、全く現地の山の中に入り込んでしまって、今はもう祖国の言葉さえも忘れて、全く現地住民と同じような、少しも見分けのつかないような状態にある人々がたくさんあるように受け取れました。百人というような数字を上げておられましたが、援護局の方の数字によりますと、百十何人という数字を今伺ったのであります。野倉さんのお話の中から想像できますことは、その以外にも、ずいぶんそうした全くわからない、どうにもわからないような人々が、あるいは穴の中に原住民同様な暮しをしておるというような方も多いのではないか。これを、あるかないかということから始まって、どれくらいと踏んだらよかろうかというようなことを、ここでいろいろな角度からお伺いできれば、それに越したことはありませんけれども、これは全く想像する以外にはないことと思います。ただ、今のお話の中で想像できますことは、決して少くない数の者が南方などにはおられるのではないかと思うのであります。そしてこのことは、地理的に違いはあるにいたしましても、大陸などにおいても、あるいは終戦時に身の安全を期するために、名前を隠してしまったというような事情によりまして、今さら出てこれない、出てきたいけれども、いろいろそのときのことを思い出して、また身に危害が加えられることをおそれる、あるいはその他の事情によって、今さら名乗り出ることのできないような状況に置かれておる者も、大陸などにも相当数残っておるように思われます。その人々が、何かのきっかけによって、こつ然として今祖国に便りを出す、あるいは帰ってこられるというような例もあると思われますが、南方におきましては、新聞報道などによって伺ったところによりますと、やはりそういう例があるようであります。大陸方面においてもこんな例があるように思われますが、いかがでありましょうか。そんな例の率というとおかしいのでありますが、たくさんあるのかどうかを伺って、次に移りたいと思います。
○河野説明員 私どもの掌握しております未帰還者の数は、主として留守家族から届出をしていただいた人を把握しておるわけでございます。そのほか、引揚者から情報を得て掌握している方々もありますが、大宗は、留守家族からの届出によって把握しておるわけでございます。今お話のございましたように、いろいろな事情で、ことさらに隠れて出てこないという方も、中にはあることは否定できないかと思うのでありますが、私どもが今まで調査をし、聞いた範囲におきましては、そういった方は、そう多くはないのではないかというように考えておるわけでございます。現在外地に残っております数、これも非常に掌握が困難でございますが、一応未帰還者として把握しております数字は、今年の七月一日現在におきまして三万六千でございます。その後帰ってきた人、あるいは調査ができた人等がございまして、現在では、おそらく三万四千を割ったくらいの数字ではなかろうか、かように考えております。その内容を分析してみますと、大部分の方が終戦直後の混乱期に消息を断った方々であります。具体的に言いますと、昭和二十年、二十一年に最後の消息があって、その後、音さたがないという方々が七、八十パーセントを占めております。現在生きて残っておるのではないかと考えられます人の数、これは推定にすぎないわけでございますが、やはり中共地区が一番多いのではないだろうが。中共では四千と言っておるわけでありますが、私どもの調べたところでは、もうちょっと多いのではないだろうかと考えております。六千ぐらいは、あるいはおるのではないか。ただこの大部分の方々は、いわゆる国際結婚をした方々、あるいは中国人にもらわれた子供、そういった人たちが大部分でございまして、こういった人たちは、今申し上げましたような事情によって向うの人になり切るというふうな方々が大部分であるというふうに考えておるわけであります。ソ連地区におきましては、これも推定でございますが、樺太を含めまして九百ぐらいというふうに踏んでおるわけでございます。先ほどもお話がございましたが、その大部分は、むしろ樺太におるのではないかというふうに考えておるわけであります。やはり国際結婚をした人が非常に多うございます。また、樺太におきましては、ソ連国籍を取得したという方もおるわけでございますが、そのほかに、朝鮮人と結婚した人が非常に多いというふうに考えておるわけであります。南方の方におきましては、残留邦人はジャワその他全部合せまして六、七百人ぐらいがいるのではなかろうかというふうに考えておるわけであります。この方々の内容も、先ほどちょっと申し上げたのでありますが、大部分は、やはり現地結婚をし、あるいは向うで生活を立てて、当座の意思としては、お帰りになる希望を持っておられないというふうな方々が大部分であるというふうに考えておるわけであります。 以上が大体の状況でございますが、これらに対しまして、極力生存残留者の掌握をすることが、未帰還調査の上からいきましても一番急務ではなかろうかということで、ただいまいろいろ手配をいたしまして、名簿等をこちらで掌握しております。ことに南方につきましては、それぞれ在外公館もございますので、そちらを通じて調べていただく、中共につきましても、日赤を通じ、向うの紅十字会を通じまして御調査願うようにいたしておるわけであります。それからまた、ソ連地区につきましても、ただいま名簿等を準備いたしておるわけでございますが、近くこれらに基きまして調査をいたしたい、かように考えております。
○金丸(徳)委員 今のお話によりまして、まだかなりの数が残っておる、帰ってこなければならないような状況のもとにあることを私たちとしては承わりました。私のお伺いいたしたかったのは、今までどうしておるのだか、死んだものやら、生きておるものやら、よくわからなかったものが、何かのきっかけで、たとえば、日本内地の状況が非常に明るく伝わったというようなことによって、こつ然と名乗り出たという例もあるのではないかというようなことからいたしまして、国交もまだ十分になっておらぬ、あるいはなりかけて、また沈んでおるというような状況のもとに、せっかく名乗り出しかけて引っ込んでしまったというような例がありとしますならば、いたずらに、その間留守宅の者に不要の心配をかけていることになりはしないか、こういうことを心配いたすのであります。現に、私はその一つの手紙を預かりました。これは本人からではございません。友だちが留守宅の未亡人――未亡人ではない、まだ未亡人と言い切るべく酷であるところの未帰還者の御夫人であります。この御夫人に手紙をくれておる。これによりますと、これは終戦前の、あの政情が非常に切迫したときに中国に起きた事件であるのでありますが、軍に徴用せられたまま、確かにその後若干期間は生きておったようである。言葉がよくできるものだから、あるいはそのままどこかに隠れておるのではないかといって奥さんを激励しておるのであります。それで奥さんは、それをたよりに何とかなりはしないかと、まだ待っておるのでありますが、そういう人々の気持からいたしますと、何かもう少し国交関係が明るくなり、名乗り出てもいいのだという、ほんとうに安心感を持つことになりますと、今名を隠しておったり、国籍を偽わっておるような状態から、ほんとうに安心して名乗り出られるんじゃないかと思うのです。そういう例がありますが、そういう例を今までカードでも書いておられるといたしますれば、国交の正常化が全く途絶しておったときから、その後何か貿易の関係がうまくなったとか、あるいは最近は全くとだえておるというようなことが伺えれば、われわれはこの手紙の相手の奥さんに向って、もう少し未亡人たるの立場になることを待っておられるようにお勧めもできるわけでありますが、この点はいかがでございましょうか。
○河野説明員 中共の未引揚者のことでございますが、国際情勢が微妙な状況にありますことは、御承知の通りでございまして、この引き揚げに関しまして、前々から中国側におきましても、これは政治問題と違う、人道問題であるという立場から援助もしてきていただいておるわけであります。帰りたい者は帰す方針である、今帰らない者は、さしあたり帰る意思がないのだということを、前々から中国側ではおっしゃっておるわけであります。先般新聞に、引き揚げについて、こういった政治情勢においては援助が継続できないというふうなことがいわれたような報道が載っておるのでございますが、私ども引き揚げ関係団体から正式に伺っておりますところによれば、そういうふうなことは中国側でもおっしゃっておらないというふうに伺っておるわけでありますので、引き揚げ問題については、政治問題と離れて、引き続き援助していただけるというふうに考えておるわけであります。さしあたり帰る意思があるかないかは、結局本人の意思にかかっておるのではないだろうかというふうに考えておるわけであります。もちろん、こちらの想像し得ないような事情があって、あるいは自分は日本人であるということを言わぬ方がいいというふうな事情にあって、そういうことを言わない人が絶対にないのだということまでは私断言できませんが、おそらく、そういうふうなことはないんではなかろうかというふうに、実は期待をいたしておるわけであります。
○金丸(徳)委員 もう時間もありませんし、ほかの委員にも御迷惑をかけますから打ち切りまして、この具体的なことにつきましては、後刻役所の方へお伺いをいたしましてお願いをいたすことにいたします。ただ、このような不幸な目にあっておる人々にとりましては、いろいろ何とかしてということを願っております。そうして、そういうときに、せっかく援護局の方で、そう心を砕いて下さっておっても、国交関係がこういう状況にあることによって、何かそこに大きな差しさわりがあるのではないかということを非常に気にいたしております。その点をなお一そう気にとめていただいて、せめてもの安心ができるように、一つ御尽力願いたいということをお願い申し上げて終ります。
○田口委員長 角屋堅次郎君。
○角屋委員 すでに参考人に対するいろいろなお伺いにつきまして、それぞれお二方からお話が出ましたわけでございますが、野倉さんにいたしましても、平出さんにいたしましても、たまたま単独の形でお帰りになったということで、最近におけるそれぞれの地区の状況を伺う点では、非常に参考になったわけでございます。従って、この機会に両参考人にまずお伺いをしたいのは、野倉さんの場合でいえば、ジャワ地区における百数十名の帰国促進のためには、政府としてどういうふうにやったら一番効果的であるか、こういう点についてざっくばらんに御意見をお伺いしたい。考えてみて従来どういう点が不十分であったか、今後帰国促進のためにはどういうふうな点を積極的にやればいいか、こういうことを御意見として承わりたいと思います。 平出さんの場合は、お伺いしておりますと、後半ほとんど病院生活が大半でありまして、しかも、あと数年は単独でおられたという形でございまするから、必ずしも今申した趣旨におけるソビエト関係の帰国促進についての、全般的な促進のための意見ということについては、あるいは適切なお話ができるかどうかということはわかりませんけれども、しかし、ソビエトにほとんど十年近くおられたわけでございますから、見あるいは聞きする状況の中で――今のお話では、大体千名前後、樺太地区が大半だということでございますが、地区的な問題は別といたしまして、ソビエト地区からの帰国促進ということを一そう積極的に前進させるためには、どういうふうに政府自身として手を打っていったらいいか、こういうことについて、両参考人からまずお伺いしたいと思います。
○野倉参考人 南方におられるわれわれ同志のものは、要するに、向うにおることをみなだれしも非常に喜んでおるわけです。そんなに悪いところではない。なかなか内地と違って暮しもしいいし、物価の程度も割合と安く、金の値段も内地と一対十くらいの違いもある。それに、内地におったよりか向うにおった方が生活から何から何まで簡単である、むずかしくない。われわれは独立軍としてりっぱな功績を残してきておるから、現在うまくやっている、何も困っていない。殿様生活をしている人もあります。そういう方など、おそらく、今さら内地に帰って何ができるか、自分たちの財産を持って帰れるわけでもない、何もかも売っても、それを全部持って帰れるわけのものでもない、また帰ったところで、だれが見てくれるか、われわれの功績など、帰ればそれでおしまい、一銭にもならない、それよりも南方にいた方がいいということになる。南方の生活が裕福であるがために、今さら帰って日本の人口をふやすよりも、ここでやっていて、国のためになった方がいい。帰って、果していいものか悪いものか、これ以上いいことになったら、それに越したことはないけれども、悪く見た方が間違いない。悪くなったら、あとで取り返しがつかない。日本に帰ってやるのも、そこにいてやるのも、日本のためになることは同じだ。海外貿易あるいは工業施設など、南方に対して日本の物資なり品物なりを入れたにしても、それを説明してやる。これは日本語でこう言う、これはインドネシアではこういうことで、こういうものだということを、われわれがそこにいると簡単にできる。ところが、初めて来た日本人にそれができるか。言葉は一つもできない。ウン、ワーではわからない。言葉を言ったって、品物のことはさっぱりわからないから、そういうことをしていた方がよいというので、がんばっておる人もあります。
○平出参考人 政府の帰国促進についての質問ですが、結局、現在残っている人たちに帰る意思がなければ、帰ってこられません。意思のある方は――結局、私たちの場合は、一番最初赤十字社へ行った。元軍人捕虜であるから、そこに行って帰国手続を始めたわけです。私は、そのとき日本の国籍になっておりましたから、ソ連の内務省から外務省、こういうふうに手続をするのです。私は日本人であるために、モスクワの日本大使館――今度ナホトカに領事館ができるという話を聞いておりますが、そういうものがあれば、もっと早くできるわけなんです。だから、日本の外務省とか厚生省とか家族、また向うの政府にいつも連絡しなければだめです。たたかなければいけない。私一人だけの問題を解決するのではないのです。そういうようなわけで、手続をやるということです。
○角屋委員 お二方のお話も当然そうでございますが、私も、ソビエトにいたしましても、中国にいたしましても、あるいは南方方面にいたしましても、それぞれ視察あるいは軍隊で行っておりましたから、大体状況は判断できますし、引き揚げの問題につきましても、今お話の点と符合するわけでございますが、とにかく、帰還一本というわけには必ずしもいかないわけでございます。敗戦ということがなければ、それぞれ海外で特技を生かして活動しておったはずの人々を、敗戦ということを契機にして、とにかく原則的には、帰る意思のある者は全部帰そうということで、特別委員会でもいろいろ苦労しておるわけです。ある意味においては、これが平常状態に帰ればむしろ不自然な形であって、それぞれ平和的な形において、あるいは南方方面であろうとどこであろうと、また再び働きに出るというのがむしろ自然の形かもわからない。その点では、厚生省関係の方から、山下委員の発言に対して答えられたのが、むしろ本筋であろうと思うわけです。 私もこの特別委員会に参加をして、若干の引揚者あるいは遺家族からいろんな用件を頼まれたことがあります。この際厚生省関係に、若干の希望とお尋ねをしたいと思うのですけれども、この前、私問題を頼まれて、直接引揚援護局へ行って、課長あるいは係官と話をして、一カ月ばかりたっても何も連絡がないものですから、行って、今度は引揚援護局長に連絡を出しましたところ、この前お話のあった件についての書類の提出時期、あるいは調査番号というのがわからないから、もう一回本人の方へ聞いてみてくれぬか、こういうような話が出たわけです。私は、もちろん私自身で本人の方へ聞いて御連絡申し上げたわけですけれども、元来引揚援護局長、ないしはこういう問題に携わる上司にいたしましても、職員にいたしましても、ほんとうに行き届くほどの親心をもって仕事を遂行しなければならぬわけでございまして、――もちろん予算、人員その他いろんな問題はあろうかと思いますけれども、私は、その一端をもって、今日の厚生省ないしは引揚援護局の、一刻千秋の思いで待っておる人々に対する措置というものが欠けておるという非難の対象には必ずしもしないのでございます。けれども、役所の性格から見て、心がまえとしても、ほかの役所よりももっと考える必要があるのじゃないかという感じが、率直に言って、したわけです。今、係の方からお話のように、現状において残っておる人数というものはほぼ三万四千とか、あるいはその消息が明確になっておる者、不明の者、いろいろあるわけでございますけれども、一刻千秋の思いで待っておる人々と厚生省とのつながりという点については、引揚者団体だけにまかせるのでなしに、引揚者ニュースといいますか、あるいは個々の引揚者との連絡といいますか、そういう点、一月に一回であろうと二月に一回であろうと、十分やはり親心をもって、具体的に各地区の状況あるいは今後の見通し、こういうものについて、積極的にそういう人々の憂いにこたえるという気持が必要なのじゃないか、こういうふうな感じが、率直に言ってするわけなんです。従来どういうふうにやっておられたか、私はつまびらかにいたしませんけれども、こういう問題は、そう大量の予算がかかるわけでもございませんし、人数的にも、きわめて範囲の制限されたものでございまするし、団体等もございまするけれども、やはり役所の責任において、そういう人々との通信、状況連絡、今後ともこういうことを積極的にやられるべきじゃないかと思うのでございますが、その点いかがでございましょうか。
○河野説明員 ただいまお話のございましたこと、一々ごもっともでございまして、私ども、実は同じ気持で仕事に接しているつもりでございます。ただ、十分行き届かない点がございまして、皆さん方に御迷惑をおかけすることがあろうかと思います。その点は、十分一つ反省をいたしまして、今後の仕事に注意をして参りたいと思います。 ただいまお話にございましたように、私どもといたしまして相当調査もやっておるのでございますが、従来の状況を見ますと、必ずしも調査の結果が十分留守家族に徹底しておらない。せっかく調べたのに、それが伝わっておらないために、何もやってもらっていないのじゃないかというお気持を持たれたケースも否定できないことだと思うのであります。何もやってくれないと言っておいでになりまして、実はこうなっておりますということを申し上げますと、そういうふうになっておったのかといって、やっと御了承いいだくというようなケースも実はあるわけであります。その点も手落ちのないように、十分留守家族に連絡するようにと都道府県にも指示いたしておるわけであります。十分手が届かないと存じますが、私どもといたしましては、留守家族あるいは遺族の方々と一緒になって問題を解決するというふうな気持で進んでおるつもりでございますし、今後も、そういった気持で処理して参りたい、かように考えております。
○角屋委員 先ほど言いました留守家族との連絡の問題については、これは地域別に状況が異なるわけでございます。たとえば、ソビエト地区、中国地区あるいはジャワ地区、フィリピン地区というふうに、各地区ごとに、やはりニュース式なものを作って、それぞれ該当する人々に適当な期間を置いて連絡をする、あるいはまた、いろいろな問題についてお尋ねがあれば、いつでも積極的に親切に答えていく、こういうふうに留守家族に対しアピールをしながら、お互いに糸でつないでこの問題の処理に当るということを今後検討願いまして、一つそういう面について留守家族の要請にこたえていただきたいと思うわけであります。きょうは時間がありませんが、参考人がせっかくおいでになっておりまして、私どももそれぞれ関係地区の状況については、ある程度知っておるわけでございますから、そういう点からいろいろお尋ねしたい点もありまするけれども、時間の関係上、この点については省略させていただきます。 ただ、今厚生省の方に申し上げました点に関連をして、われわれの方の中村議員の方に、直接愛媛県松山市の長島ミチヱさんという方からお手紙がきておるのを拝見したわけであります。このお手紙を見ますと、去る九月の十三日付の大阪の読売新聞の二ページ左下欄「海外短波」の記事の中に、「ニューギニアに日本兵部落か」という記事が載っておるのを、おそらくニューギニアに子供がおられるだろうと思っております母親から、中村さんの方にこの手紙を出して、ぜひ積極的に調べてもらいたいというたよりがきておるわけですが、若干読ましてもらいます。 去る九月十三日付大阪読売新聞の二ページ左下欄の「海外短波」の記事お読みになられたこととは存じますが、ホーランディアの森林に日本兵が生きているとすれば、親心の悲しさは想像もいろいろにて、お恥かしいことながら、今日ただいまから連れにでもいきたい思いでございます。読まれた方はみな同じ思いであろうと存じますが。個人の力の及ばぬ他国圏内、ことには負けておる国の兵隊ではあり、ぜひ国の力で連絡して現状態を知らせて、逃げる必要のない、安心を早くさせてあげて下さい。そして何とかして連れ帰って下さるよう、あなた様のお骨折り切にお願い申し上げます。一朗がおるとおらぬにかかわりませず、胸がちぎれる思いでございます。 ということで、母親からの文章はそのあとずっと続いておりますが、そういう手紙がきておるわけです。新聞に載ったわずかの「海外短波」のニュースを見ても、生きているのじゃないかということで待っておられる留守家族の気持からいたしますと、先ほど言った、いわゆる厚生省と留守家族とをつなぐ、そういう団体もあるわけですから、それを通じて積極的に、それぞれの地域の状況を知らせるということの必要は、きわめて切実なものがあるということを私は痛感するわけです。ただいまの問題につきまして、このニューギニアにおける状況の記事に関連して、従来ニューギニア方面にとってきた厚生省としての手、あるいは現況の把握を、今どう見ておられるかという点について、詳しくお伺いする時間の余裕もございませんが、簡単に、ただいまのたよりの問題と関連して、御存じのところをお伺いしておきたいと思います。
○吉田説明員 ただいまの新聞記事にありましたニューギニアのことは、厚生省といたしましても、外務省を経て、現地の在外公館から同様の内容の情報が参っております。なお、全般的に、新聞報道にありましたような残留者がニューギニアにおるかおらないかという点は、かつてニューギニアの遺骨収集団が現地に派遣されたことがございます。この遺骨収集団には、御遺骨の収集、現地の弔慰のほかに、私どもとしましても、あるいは一部の方が残っておられるのではないかと思いまして、現地の官憲、土民等について、できるだけ残留者に関する情報はないか調査をしてもらうように、私の方からも依頼しております。その調査団の結果によりましても、ほとんど確定的な情報というものは一つもないというので、当時は終ったのでございますが、先般、ただいまお読みいただきましたような新聞情報も外務省から連絡もありましたので、厚生省としましては、今まで私どもが想像しておりますところの戦況等から見て、あるいはこういうような地点、あるいはこういうような地点にいるのじゃないかというようなことをつけ加えまして、現地の在外公館を通じて、もう一ぺん調査をしてもらうように、もう少しはっきりした状況を知らせてもらうようにという依頼を、外務省に出した次第でございます。 なお、以上の状況は、当然関係の留守家族またはその御遺族の方が、ただいまの手紙にもありましたように関心を持たれると思いまして、こういうような新聞の記事については、こういう工合に処置したということは、日夜留守家族、御遺族に接しておられる都道府県の方に、さっそく私どもの方も資料を流した次第でございます。
○角屋委員 今都道府県という話がございましたけれども、いなかの人というのは、役所とのつながりも、役所の方が考えられるほど、そう簡単に必ずしもつくわけではございませんので、先ほど申しましたような趣旨については、一つ十分御配慮を願いたい、こういうふうに実は考えるわけです。いずれにいたしましても、先ほど来参考人の話もありましたように、今後に残される問題は、もちろん残っている人々の帰る意思があるかどうかという問題と関連して判断すべき性格のこともありますし、同時に、一刻千秋の思いで待っている多数の方々も、またその反面にあるわけでございますが、そういう人々も年をとって、必ずしもいつまでも生きているわけじゃございませんから、そういう点から見て、そういう人々の要請にこたえるためには、どれだけ金を費しても、その要請にこたえてあげるということが、やはり政治の親心だと思います。そういう点では、それぞれの地区の、それぞれの留守家族の思いとにらみ合せた手の打ち方が、私は具体的になければならぬと思いますので、こういう点については、今後とも積極的に御努力願うよう要望いたしまして、終らせていただきたいと思います。
○田口委員長 戸叶里子君。
○戸叶委員 時間もないようでございますから、簡単に二、三点だけ参考人の方に伺いたいと思います。野倉さんも平出さんも、ほんとうに御苦労さまでございました。私お話を伺っておりまして、何か胸の中が熱くなるような思いをしたわけでございますけれども、野倉さんに一点お伺いしたいことは、日本の方がインドネシアの独立軍に義勇軍として参加したわけでございますけれども、大体どのくらい参加なさったか、おわかりでしたらそれを伺いたいのと、それから、そのときに、そこでなくなられた方、その戦いでなくなられた方は、大体どのくらいいらっしゃるかを伺いたいと思います。
○野倉参考人 独立軍に参加した人は、現在の数でいけばわかりますけれども、一番最初始まった当時は、はっきりしたところは自分たちとしてもわかりませんでした。大体のところは三千人くらいであろうということは、友だち同士で話し合っておったのですけれども、現在残っているのは、先ほども言われた通り、大体百人から百人ちょっとくらいしかおりません。なくなったという方は、要するに、それぞれの地区によって、自分の地区内のことは知っておりますけれども、ほかの地区内のことはわかりません。たとえば、バンドン地区内で独立義勇軍になった人とか、あるいはジャカルタ地区内とか、中部ジャワ、西部ジャワとか、大きく分ければ大体四つに分れていますが、こまかく分ければたくさんあります。自分たちが一番最初に出征して、要するにバンドン地区内におったなら、そのバンドン地区内のことは大体わかっておりますけれども、ほかの地区内のことは、また聞きとか、あとで友だちが集まって話をして、あれがいない、あれはここで死んだのではないかというようなことであって、全島的には、僕としては帳簿をこしらえたあれはありませんから、ほかの人のことは、向うにおられる方は帳簿はありますし、その人々はよくわかっておられるだろうけれども、僕たちは、実際自分たちの西部ジャワだけのことは知っておりましたが……。
○戸叶委員 それだけでけっこうです。それで、なくなられた方が大体どのくらいいるかということを伺いたかったのですけれども、今のお話では、自分の地区ならわかるということでございまして、そういうことは大体厚生省なり何なりに通知が行っていると思うのですが、厚生省の方で、義勇軍に参加してなくなられたというふうに認定されていらっしゃる方の数がおわかりでございますか。
○河野説明員 概数はつかんでおるはずでございますが、ちょっと手元に資料がございませんので、正確な数字を申し上げかねるわけでございます。
○戸叶委員 この次にでもそれを伺いたいと思います。私がそれを伺います理由のものは、一つの実例をあげますと、実は、足利市の方から南方へ行ったけれども全然手がかりがない、帰ってこないというので、お母さんがお葬式も出せないで因っていらっしゃったわけです。ところが、なくなられましてずっとたって、二年くらい前だったと思いますが、外務省の方から、その人はすでになくなってりっぱなお墓ができている、義勇軍に参加して死んだんだというような通知を受け取って、大へんびっくりしたことがあるわけなんでございます。こういうふうなことがあるんじゃないかというふうに考えられるわけでございます。親の方では知らないでいるのに、実際子供さんは向うで義勇軍に参加してなくなられまして、お墓になってしまっているというようなこともあるんじゃないか。こういう手続がうまくいかないようなことがあっては大へんなことだと思いますので、インドネシアには外務省からの出先機関もあることでございますから、そういう点も微に入り細にわたって詳しくお調べになっておいていただかないと困ると思いますけれども、この点につきまして、もう一度伺っておきたいと思います。
○河野説明員 全部が全部なかなかつかめないかと思いますが、こちらの方で調査のできましたものがございますれば、できるだけ早い機会に、御趣旨のように留守家族の方々にも連絡するようにいたしたいと思います。
○戸叶委員 できるだけ、そういうふうにしていただきたいと思います。 それから平出さんにお伺いしたいのですが、今度大へんに御苦労されまして、ソ連の国籍を持たれながら日本にお帰りになったわけでございます。あなたの場合には、一生懸命帰るというふうなその努力が実ったわけでございますけれども、最終的にお帰りになるときには、どういうふうな形でお帰りになってきたか。もっと具体的に申し上げますと、たとえば、日本の大使館から、何日にどういう船が出るからどういう形で行け、そういった具体的な指示があったのかどうか、これもあとの方の参考になると思いますので、お伺いしたいと思います。
○平出参考人 それはありませんでした。私は、両親から手紙をもらったのを見ると、それは外務省からの回答だそうですが、ソ連政府から出国許可が出たならば、いつでもナホトカへ行って日本の船に乗れる。ところが、私、その前に、許可証をもらったときに、すぐにナホトカの港へ――九月の末にもらいましたから、十月にナホトカから何という船がいつ、どこの港へ着くかという電報を打った。向うには外国船係というものがあって、そこでは定期航路は二十四航路あって、それはどういう船がくるということは大体わかっておるのです。ところが、日本の船の名前を、ロシヤ人が発音するのに少し間違っておったんです。もらってみると、何だかわからない船なんです。ただ、日にちは十月の七日か八日に出港する、そして大阪港に着くという。これが結局私が乗ってきた船だったんですけれども、その指示は、外務省からも大使館からもありません。 そこで、私一つお願いしたいことは、日本大使館は出国許可が出た場合――ソ連では出国許可はいつからいつまでと期間を切っておるのです。その間に出なければならない。私の場合は三カ月あったわけですから、まあ一カ月だんだんらいまでの船の予定表、いつ、どこから何という船が出て、どこへ着くか、こういうのを、先に連絡をつけていただきたい。そうすれば、帰国する者も余裕があって、品物も買ったり、鉄道のこういう連絡もできると思います。 私は十月四日にナホトカへ着きました。あそこにおったのは飯野海運の海永丸という船だった。これは五日に出港する。どこへ着くかと言ったら、新潟だ。私が最後に、乗せてくれと言ったけれども、船長は乗せぬと言う。これは、会社からの指令がなければ乗せられない。それと船賃。ソ連側は日本金に一銭もかえぬと言う。それでは、あなたは飯野海運の会社へ外国電報を打て、それで許可を受けろと言うのです。ところが、その話がついたのは四日の夕方の五時、その船の出るのはあしたの三時です。電報を打ったところで間に合わない。船が行ってしまってから返事をもらったってもう乗れない。それで外国船係の人と相談をして、それでは日本大使館へ行け、二、三日すると山下汽船の山萩丸が着くから、その船に乗れるよう電報を打て、その返事はナホトカの外国船係へと言う。それで私は四日間、回答がくるかと思って毎日々々通った。ところが、大使館は外務省へ打ったんだろうと思うのですがね。それで山下汽船に指令をして山萩丸ということになった。しかし、四日目にまだ船長はその指令をもらったことを知らないのです。それで、私が外国船係へ行ったところが、その山萩丸の船長と高級船員が来ておった。結局、あなたは乗ってもよろしいけれども、お金だと言う。大体そのようなことは聞いているというようなことを言いながら、お金なんです。そこで私は、弟が東京におりますから、じゃ、船賃は日本へ着いてからすぐ両親か弟にもらって払う、ところが、それだったなら、今電報を打って、向うで山下汽船会社へ金を払ってもらいたいと言う。向うから金を払い込んだという知らせがあったら乗せましょう、そう言うので、私は電報を打とうと思ってかけていったところが、通信係でしょう、もう日本の方から連絡があったからいい。結局その次の朝――その日に乗ってもよかったのですが、税関の関係で九日の朝に、税関が終ってすぐ船に乗り込んだ。そうして十四日に出帆したわけです。 こういうふうに、私、五日間知らない町でホテルに泊っておった。そのホテルもやっと一室見つけたというようなわけです。日本大使館も、ソ連から出国許可が出るのはわかっておるのですし、いつまでに帰国せよということがわかっておるのですから、まあ、三カ月なんという先のことはわからなくても、一カ月くらい先の船の予定表を知らせていただいたら、帰国する者は便利だと思います。
○戸叶委員 ありがとうございました。外務省の方にも厚生省の方にも、今の参考人の平出さんの御意見は非常に貴重な意見だと思うわけでございます。それで、せっかく帰国できるというふうなことになっておりながら、非常にむだをしなければならない。あるいはまた、電報を打って大使館に聞いてやっても、はっきり教えてもらえないというふうなことがあるようでは、よほど粘り強く帰ろうというふうな気持を持っていらっしゃる方でも、もうその辺で気がくじかれるような場合が出てこないとも限らないと思うのです。これからまだお帰りになりたいという方も私はおそらく出てくると思いますので、どうか二度と再びこういうことのないように、そういうふうな方々からの手続がありましたならば、直ちに、こういう船があるんだから、何日に行けばいいというふうに、帰る本人が予定の立つような時間の範囲内でお知らせするような努力をしていただきたいということが一つ。それから、たとえば、帰るまぎわまでその船に乗る船賃を心配しなければならぬということは、ほんとうにお気の毒なことだと思うのです。集団の帰国の場合なら船を出してお迎えするのですけれども、一人であるために船賃まで心配しなければならなかったということは、最後には解決いたしましたけれども、その過程において長い時間をとるということは非常に不合理だと思いますので、こういう点がないように、今の平出さんの御意見をよく心にとめていただきまして、今後の措置をお考えいただきたいと思いますけれども、いかがでございましょうか。
○山下説明員 平出さんの今度の帰国は、われわれとしては初めての個別帰国で、今後この個別帰国が大いに促進されることを希望し、そのためにいろいろ考えておるわけです。船の点などはいろいろ行き違いがあったようですが、今後は運輸省なり厚生省なりともよく相談して、船の情報なり運賃の問題なんかを、なるたけ問題ないように解決するように努力していきたいと考えております。
○戸叶委員 この運賃はもちろん厚生省の方でお払いになったわけでございましょうが、今後もお払いになるわけでございますね。
○河野説明員 お話の通りでございます。
○戸叶委員 そうであるといたしましたならば、たとえば、この船が出るのだから乗りたいというふうな希望を出したときに、船賃を弟さんに払ってもらうとか何とか、そういうふうな心配をしないで済むように、厚生省でお取り計らいおき願いたいと思うわけです。 それと、もう一つ伺います。平出さんの場合はすぐに就職することができまして、前にいらしたところにお戻りになることができて、私ども、引き揚げてきた方々の就職問題というものは重要問題として考えておりますようなときに、うるわしい話だったと思いますが、なお、あなたのところへは、そういうのがきまっているのに、なおこの東京都の方の職業安定所の方から、どういうふうになさるかというような相談があったように伺っておりますけれども、この点はいかがでございますか。
○平出参考人 その通りです。ありました。私は博多へ着きまして、両親もせっかく九州まで来たのだから、死ぬまでに見物したいというようなわけで、私十七日に博多に着きましたが、東京に着いたのは二十日で、職業安定所の方たちもその点御承知のようで、二十四日か二十五日に見えられまして、大へんありがたく思っておりましたが、東京都の方でも、私の席を十六年間もあけて私の帰国を待っていただいたということは、ほんとうにありがたいことです。結局、それで安定所の方も大へん喜んでいただきました。自分としては、これが結局私のこれからの生活の確保でございますから、その点ほんとうにうれしいと思っております。
○戸叶委員 引き揚げていらした方のその後の就職問題は、次の機会に扱うことになっておりますので、そのときに回したいと思いますけれども、野倉さんがおいでになっておりますので伺います。野倉さんの方では、職業関係につきましては、何らかの御相談なり何なり地方でお受けになったのでしょうか。そして、今のところがおきまりになったのでしょうか。この点も伺いたいと思います。
○野倉参考人 自分としては、どこで手続したとか、そういうことは全然何もしておりません。兄弟もいるから、兄弟でどういうことにするか、僕らもよくわからないから、どういうふうにしたらいいのだろうか、あるいはこうしたらいい、いろいろ考えて相談をしている最中なんですけれども、その後、どこがいい、これがいいということは、はっきりきまっておらないのです。
○戸叶委員 就職の問題は、厚生省じゃないと思うのですけれども、厚生省にも非常に関係のあることですからお伺いしておきたいと思います。お帰りになった方が職業安定所の窓口へ行くまで、職業関係の相談というものは、こっちの方から積極的にしてあげておらないのでございましょうか。地方においてもしているのでありましょうか。ただいま野倉さんのお話を伺っておりますと、何か安定所の方から積極的に御相談に行っていないようにも思われるのでありますけれども、普通は、そういうふうな方々はどうして手続していいかわからないという方も多いと思いますので、地方におきましても御相談に出向いて行ってあげるくらいの親切があってもいいのじゃないかと思いますが、この点をお伺いしたいと思います。
○廣瀬説明員 引揚者の就職相談の取扱いにつきましては、集団的な引き揚げの場合には、港の方に臨時の職業相談所というものを作りまして、そこに本省からも係官が出、それから現地の係官も一緒になりまして、就職の問題について相談をされたい方はこちらにおいで下さいということで、御相談を申し上げております。なお、そこで就職希望がはっきりした方は、それぞれ定着地の方の安定所に連絡いたしまして、安定所を通じて、就職したいという御意思をお持ちの方は個別に訪問したり、あるいは安定所の方においで願って、いろいろ条件を聞きまして、必要があれば求人の開拓等を行なっているわけであります。今の野倉さんのような個別の場合は、これは安定所でも、いつ、どういう方がどこからお帰りになったということがわからないわけであります。そこで、こういう場合には、引揚関係の担当の都道府県の部課から連絡を願って、安定機関としては措置をする、こういうふうにやっております。
○戸叶委員 個別の場合におわかりにならないことはごもっともと思いますけれども、しかし、個別でお帰りになってきた場合であるからこそ、特にどういうふうな手続をしていいかわからない。長い間日本を離れていたのですから、どうしていいかわからないという問題があると思います。そういう意味で、各県のそうした係の方に指令をお出し下さいまして、こういう機関があるのだということを帰ってきた方に知らせるような手続だけでも、厚生省と一緒になってやっていただけたらと思うわけであります。この点を要望したいと思います。
○廣瀬説明員 ただいまの点につきましては、一つ厚生省の方とも連絡をとりまして、あるいは通牒等で指示をしたい、こういうように考えます。
○田口委員長 山口シヅエ君。
○山口(シ)委員 お二人とも無事でお帰りになりまして、おめでとうございます。さぞ、おうちの方々もお喜びのことと思うのでございます。大へん長い時間でお疲れになっていらっしゃると思いますが、私は他の委員会の関係でお二人のお話を聞き漏らしておりますものですから、もし、前の各委員からの御質問と重複する点があればお許し願いたいと存じます。 平出さんの方は、お帰りになることについて非常に努力を続けたということは、先ほどの話でよくわかりました。野倉さんの方に実は質問申し上げたいのですが、あなたは、日本へ帰ってこられるまでに、何度かおうちの方に通信、あるいは何かの方法で連絡をおとりになりましたでしょうかということが一点と、それからお帰りになります動機、どういうことがきっかけで日本に帰りたくなったか、また帰ってきたか、この二点について、簡単でけっこうでございますからお伺いしたいと思います。
○野倉参考人 それは大体一九五六年だったと思いますが、その当時、要するに友だちだとかでいろいろ話がありまして――大体今は手紙は少し長くかかるけれども、内地の方へ行くらしいようですが、手紙をやろうという。ほんとか、やってみなければわからぬ、行かなくともいいから出してみれば何とかなるというので、頼むというので出したんです。さっぱり音さたなしだったけれども、だいぶたってから来たんです。
○山口(シ)委員 その返事が来たんですね。
○野倉参考人 そうです。
○山口(シ)委員 そのときのお気持は、国へ帰りたい……。
○野倉参考人 手紙をいただいたときには、次に来たのでわかったんですが、要するに、弟はニューギニアでたまを受けて脊髄になって死ぬか生きるかわからぬし、兄さんは沖縄で全滅の中に入ってしまったような工合になって、これでは一人きりになってしょうがない。帰ったところで年寄りだけでさびしくなって、これはだめだというので、手紙をいろいろ出したが、悪い悪いというニュースがだんだんいいニュースになって、これはよかった、夢みたいだ、生きていたら、時期があったら帰れるというので――自分も向うで家庭を持っているから、すぐ行きたいというわけにはいかないが、自分の兄弟もおりますから、その手続をよく自分で確かめて、時期を見て必ず帰る。いつまでいても他国である。からだの丈夫なときは、自分の国も親も考えませんが、病気で死にそうなときは親の顔を思い出してかなわない。人間として親を思い出すのは――国が戦ったらおしまい。おしまいじゃないけれども、それとは別問題で、親はいつまでもあると思うなと言われている通り、親を忘れるようではいかぬというので、手紙を書いたんです。ぼくの手紙は、内地からくるのは三日か四日でくるが、向うへ行くのは一カ月くらいかかる。だから、着いてから出そうというようなことで、たくさん出せない。
○山口(シ)委員 手紙が行き来するようになってから帰りたくなったんですね。実は、私八月から九月にかけて東南アジアへ行って参りました。その際に、南ベトナムにおける日本公営のダム工事場で、やはり戦時中からずっと残って現地人と結婚した日本人二名に会ったんです。つい日本人恋しさに日本公営に就職して、日本から行っている日本公営の人たちと一緒にダム工事に当っておりました。その二人の青年、と申しましても、この方くらいの年配の方ですが、いろいろ詳しく伺おうと思いましても、なかなか自分の名前もはっきりおっしゃらない。同時に、国のことももちろんはっきりおっしゃらない方たちです。そしていろいろと事情を聞いてみますと、先ほどの野倉さんのお話にありましたように、自分たちは南ベトナムで生活している方が、就職難の日本に帰るよりずっと仕合せである、同時に、こうして日本人も大きな仕事を持ち込んで南方各国にやってくるんだから、ここで日本人を代表して働くことが、また日本のためでもある。先ほどの野倉さんと同じようなことをおっしゃっておりました。そして、私たちの知り合いで、こういうような事情にある者が十五、六人近辺にいる、しかし、ほとんどが名前をあかすことをいやがる、国をあかすことをいやがるという。私は、これを聞いたとき、いささか安心いたしました。そうして現地人と一緒に生活して、生活にも困らず、恋しさのあまり日本人の働くところに自然に集まってくる。これから海外に進出していくことも、わが国としては盛んになってくるでしょうから、徐々に、そういう状態で、戦時中に出かけていった日本人が集まってくるというふうな事態になってくると思います。 そこで、われわれが最も考えてあげなければならないことは、向うに行っていらっしゃる方々自身はそのような考え方でおりますが、やはり、その家族のことでございます。私もネグロス島でたった一人の弟をなくしております。公報も入っておりますが、何も形見らしきものも帰ってきておりませんから、どうしてもあの山の中にいるような気がいたします。そこで、今回は大へん危険だというのを押し切って、ネグロス島のジャングルの上を飛行機で飛んできました。たまたま感情のいい島でございましたので、住民に親切にしてもらい、ネグロス島の軍隊の方方にも親切な待遇を受けまして、一万人近くが逃げ込んで餓死したというジャングルの近くまで参りましたが、どうしてもその中には入れないということでございました。食べるものはもちろんのこと、水も不足している。シライ山という山がございまして、たった一本しか川が流れていない。この川はマラリヤの発生地だから、おそらくこの水を飲んでそこの兵隊は全滅したんだろう、その兵隊さんたちが全滅して後は、ほとんどネグロス島に住む原地人すらそこに入っていないから、あなた方はとうてい入れぬということで、ようやくあきらめもし、私の弟もその中に入った一人であるから生きていないだろうと、十四年ぶりに私はあきらめがついたというような感情にございます。 そこで、現地に行っております方々はそういう気持であっても、やはり家族の人はそういう気持になり切れないと思います。今もお話したように、日本公営にも二名ほど働く人たちが出、その身辺にも十名くらいの者がおるという事情で、こういう人たちの調査は、大使館なり領事館なりのわずかの心がけによって調べ出すことができるのではないかと思います。もちろん、現地にいる方々が、帰りたくないとは言いませんが、帰るよりここにいる方が仕合せであるような気がする。就職なり、いろいろな国内の悪い事情などもよく聞いているらしいので、そこで一生を送りたいというような落ちついた気持になってしまっておる。その間の渡し舟のような役目を政府がしてもらいたいと存じますので、一言だけ申しておきます。 それから、ジャカルタに参りました。ちょうど独立祭のときで、なかなか野倉さんのような方にお会いできませんでしたが、野倉さんからお話を聞きまして大へん参考になりました。 それからタイ国でございますが、タイ国で、大使館にそれらしき人が一人働いておりました。この人もやはり現地人と結婚いたしまして、向うに籍を持っておりますが、日本語ができる。その日本語も十分ではなく、忘れてしまっているために、ところどころわかるような日本語を使う。この方なども、よく日本の多くの家族の事情を話して、はっきりしたことを漏らしてもらい、突き詰めてお話すれば、自分は戦時中にどういうことをしていた者であるということくらいは、おそらく漏らしてくれるのではないかと思います。こういう方にもタイの大使館でお目にかかりました。そこで、どうか皆様方、私の話を通しまして、これらを大使館なり領事館なり、出先機関に御連絡下さいまして、極力御協力たまわりたいということをお願い申し上げまして、私の質問を終らせていただきます。委員長、ありがとうございました。
○田口委員長 これにて参考人各位よりの事情聴取を終ることにいたしたいと思います。 参考人各位には長時間にわたり事情をお述べ下さいまして、本委員会として、調査上非常に参考になりました。ここに委員長より厚くお礼を申し上げます。 本日は、これにて散会いたします。 午後一時四十二分散会