文教委員会 第12号
- 発言数
- 220 件
- 登壇者
- 13 名
- 会派数
- 3
- 開催日
- 1958/03/29
会議録
○委員長(湯山勇君) これより文教委員会を開会いたします。 まず、委員の異動について報告いたします。 昨日、松岡平市君及び秋山長造君がそれぞれ委員を辞任され、その補欠として林田正治君及び矢嶋三義君が選任されました。本日、川口爲之助君が辞任され、その補欠として松岡平市君が選任されました。 ―――――――――――――
○委員長(湯山勇君) この際、御報告いたします。 すでに、当委員会において決定を見ておりました内閣委員会との連合審査会は、四月三日木曜日午前十時から開会することになりました。案件は、青少年問題協議会設置法の一部を改正する法律案及び科学技術会議設置法案でありますが、その順序等につきましては、理事会で協議することにいたします。 ―――――――――――――
○委員長(湯山勇君) 本日は、教育課程の改訂、特に四月一日から実施される道徳教育の時間特設等について、参考人の方々から御意見を拝聴するわけでありますが、参考人の方々には、御多忙中のところ、本委員会のために御出席いただき、まことにありがとうございました。すでに、御承知の通り、今回の教育課程の改訂、さらに道徳教育の特設等は、戦後最大の教育内容の変革と言っても過言ではないのでございまして、これをめぐりまして、教育関係者はもちろん、学者間におきましても、あるいはまた、一般国民の間におきましても、いろいろ議論がなされ、重大な関心が払われておるのでございます。こういうときに当りまして、当委員会は、参考人として四氏の御出席をいただきまして、本日は、御意見をお述べいただくとともに、各委員からそれぞれ問題点につきまして質疑をいたし、それについて御意見をお述べいただく、こういう運びにいたしております。お忙しい中をわざわざ御出帯下さいましたことを、最初に厚くお礼申し上げます。それでは、議事の進め方につきまし、は、一人二十分くらいで、それぞれのお立場から御意見を述べていただ町第f二号き、そのあとで一括して質疑を行うことにいたしております。 速記をとめて下さい。 〔速記中止〕
○委員長(湯山勇君) 速記をつけて下さい。 それでは、日高参考人から御発言を願います。
○参考人(日高第四郎君) 敗戦後の窮乏と混乱の中で六三義務制を実施いたしました中には、非常な困難にもあいましたし、また、無理もありましたし、失敗もあったかと思いますけれども、新しい日本を建設するためには、この義務教育を三カ年延長したということは、基本的には間違いのない正しい方向であったと、私は常々考えております。しかし、当初に混乱の中で計画を立てまして、しかも、アメリカの指示によって十分な研究のひまなしに出発したものでありますから、日本の、実情にそぐわないようなこともありまして、内容的にはこれを改善しなければならないと思っております。これについては、むろん政府も関心を持っておられましょうし、国民一般もこのこ一とについては常に深い関心を示しておられたと思います。私もその一人として、六三制の義務制がほんとうに効果を上げるようなことについては、常々考えておったのであります。 で、申し上げるまでもなく、学校教育の内容を検討するのに一番直接に問題になりますのは、教育課程であります。教育課程は、学校教育を実施する際の一般的な基準でありますから、これについては相当な検討が必要であるということは、皆様が御承知のことと思っております。教育課程そのものは、そう固定した永遠なものではございませんので、情勢の重大な変化と過去の経験の反省によって、改むべきは怠らず改めなければならないというのが、私の理解であります。 情勢の変化は、申し上げるまでもなく、日本が四つの島に、今日は九千万人も住まなければならないというような重大な変化のあとを受けまして、個人としては、世界のどこへ出しても敬愛され、信頼されるような人間を、一人でも多く養わなければなりませんし、国民としては、国際社会の重要な一員として立たなければならない情勢にあります。また、戦後の日本の建設のためには、科学技術というようなものを大いに振興しなければ、日本の平和な発展を確保することができないと思っております。そこで、問題になりますのは、戦後に確立されました教育課程は、先ほど申しましたように、アメリカの指示によったところが多いのでありまして、それは昭和二十二年に出発しましたの。すが、二十四年にも改訂をいたし、二十六年にも改訂をいたしてきたのでのりますけれども、なお日本の実情にてぐわない点があるというのが、一般り人の意見であったかと思います。そり一つのまぎれもない証拠は、一昨十、三十一年の九月二十八日に文部省が調査いたしました基礎学力の水準の調査の結果によりますと、これは小学校、中学校、高等学校を含めましてたしか十九万人ぐらいの生徒の力でありますが、国語の方はややましでありますけれども、数学の方は平均点がはなはだ思わしくない結果が出ております。それから昨年の九月に行われました約二十一万人の小学校、中学校、高等学校の児童、生徒の学力調査でありますが、これは社会科と理科でありますが、ことに理科の面において思わしくない結果が出ております。これには何か相当な理由がなければならない。まあ、私どもが考えますと、昔の中学校は選抜せられた生徒でありますけれども、今日の中学生は義務教育で無選択に教育しなければならないのでありますからして、幾分昔よりは学力が低下することもやむを得ないかもしれませんけれども、われわれの期待しているところからはなはだ遠いということは、残念なことであります。これについては、私どもが大まかに考えまして、小学校、中学校の教育課程の間に十分な一貫性と連絡が欠けておるのではないかというのが第一点であります。 第二点は、学科間にむだな重複があるというような点も整理をしなければならないのではないかというのが第二であります。 第三は、教育課程の基準に非常にぼけたところがありますので、それをもう少し明確にする必要があるのではないかという推定であります。 もう一つ、これは私個人の意見でありますけれども、教育の方法について、アメリカの一部の教育者が非常に強調しておりました従来の日本の教育方法とはまるで反対のやり方、あまり系統的でない、生活学習とか経験学習とかいうものの必要を鼓吹いたしましたのに対して、日本の教育者、教育学者、一般の先生たちに十分な批判、検討が行われないでそれが採用せられたために、非常な欠陥があるんではないかという推定であります。もちろん私は経験学習とか、あるいは生活学習とかいうものそのものを私は批評しようというのではないのでありまして、現在の日本においてそれが有効に働き得るかどうかについて疑問を持つものであります。率直に申しますれば、経験学習とか、あるいは生活学習とかいうものには、従来の日本の教育の方法になかったいい点があることを私も認めるものでありますけれども、そのうち一番大切な点は、現実の問題を解決するというその問題解決、学習というところに、大切なキー・ポイントがあるのではないかと思うのでありますけれども、そういう点についての十分な検討なしに、従来の系統的な論理的なつながりを重んじたやり方を一挙にくつがえして新しい方法をとったということ、それについて熟練が足りなかったという点で、私は意図に反して成果が上らなかったのではないかと思っております。 で、昨年の九月に教育課程審議会の委員になりまして、文部大臣から次のような四つの重要な諮問を中心にして審議することになりました。その第一のは、道徳教育の徹底はどうしたらいいか、第二のは、基礎学力の充実をどうしたらはかれるか、第三は、科学技術の教育の向上をどういうふうにすべきであるか、第四は、中学校三年生の生従の進路特性に応じて、教科課程に弾力性を持たしたいと思うけれども、それはどうであるか、こういうような諮問でございました。世間では今回の答申を何か政治的注文に応じて出した間に合せのもののごとくに誤解をしておる方もあると思うのでありますけれども、こういう事実も御承知おきいただきたいと思います。それは三十一年度及び三十二年度の教育課程審議会において、現行の教育課程のうちにひそんでおる問題点を数十回、約四十回くらい委員が検討をされまして、そうして問題点がほぼ明らかに浮んでおったのてあります。その論議の結果を引き継ぎまして、昨年の九月から今年の三月まで教育課程審議会で二十一回、大よそ三時間くらいずつ論議をいたしまして、まとめ上げたわけであります。で、それが御承知のような文部大臣に対する答申になって出ておる次第であります。 で、初めに申しました道徳教育をどういうふうに徹底し、充実したらいいかという問題につきましては、ただいま申しましたように、前年度の審議会でもいろいろ検討せられた上で、何か中心点が必要なのではないかという、まあ論議の結論に近づいておったわけであります。で、これについて前年度の委員のうち半分を新たにしました今年度の委員会においても、自由な討議をいたしまして、道徳教育については昔の修身のような形で、ただ、徳目を教えたり暗記させたりするのではいけない。そういう点では全科の活動において、学校教育の全面の活動において道徳教育ということについては配慮すべきである。そうして単に教訓を与えるだけでなくして、生活の指導とあわせながらするのがいいということは、委員諸君が皆さん賛成されたのありますけれども、しかし、それだけでいいか、今日の状態では、ある学校では非常にそれをうまくやっているところもありますけれども、全般的に申しますと、中心がぼけておるというようなうらみを抱かないわけにいかないのであります。そこで、いわゆる学科課程との中の一つとして道徳科というものを設けるのではなくして、小学校においては教科外活動、中学校においては特別教育活動のうちで、特にこのごろ実施されておりますホーム・ルーム等において、道徳教育に関する中心的な役割を果させたらどうか。こういうことで道徳教育についての基本的な方針をきめたわけであります。 ただ、委員諸君が心配いたしましたのは、道徳教育をするといいますと、すぐに昔の修身に返るのじゃないかという心配を持っておられる方もあるし、またそういう危険がないとは言えない。そうかと言ってほおっておきますると、道徳教育、何が道徳であるかという、何をいいと思うかという点において非常にまちまちな見解が潜入して、そのために日本の義務教育の線が曲りやしないか。この二つの心配から道徳教育をする際には、単なる徳目を羅列して、それを記憶させるようなことであってはならない。その意味においては道徳教育の中身を大よそ決定する必要があるんじゃないかという考え方が有力になりまして、そして次のような基本的な考え方を打ち出したわけであります。 それは今日において教育基本法の背景になっている価値判断の体系というものを明らかに打ち立って、その体系の中で、それぞれ必要な徳目を考える、違った言葉で言いますと、全体的な思想的構造、連関というものを打ち出して、その中でそれぞれの徳目の位置と意味とを定めて子供たちに教えたらどうかということになりまして、参考資料として、答申の中にございます道徳教育の基本方針というようなもの定めたのであります。それが十分徹底しておらないうらみがありますので、ちょっと読ましていただきますが、われわれは、さっきの大戦争の結果、あらゆる方面において莫大にして深刻悲惨な損失と犠牲をこうむったが、そのうちにあって意外にも貴重な宝を一つ獲得した。それは人間尊重の普遍的原理とその国民的自覚である。これこそ新日本の建設と育成の指導原理にほかならない。 一、教育基本法は、かかる精神の必要欠くべからざる骨格を規定した法律であるが、その思想的背景の構造は、人間尊重の精神と、それに基く共同体の倫理ということができるであろう。 二、かかる価値判断の系譜を教育の実践に適用するためには、まず教育者の側においてその意味内容をよく研究理解し、わが国の歴史的伝統を、新らしい角度から批判検討して、そのすぐれたものは堅持し発展させるとともに、欠けているものは率直に承認し、あとう限り補う道を講じ、民主的な日本にふさわしい社会的雰囲気を醸成するために、一そう自覚的に努力する必要がある。 三、上述の価値判断の原理を基準として、道徳教育の目標、その教育内容の選択を誤まらないようにしなければならない。そしてその教育内容を豊かにするためには、日常生活の個人的社会的経験から生きた資料を選ぶとともに、広く東西古今の古典的源泉等からもくみ取るべきである。 四、詳細な教育目標及び教育内容の選択、配列、取扱い等に関しては、教材等調査研究会において慎重に審議すべきである。 これが委員会の基本的な考え方であります。そうしてこまかいことにつきましては、最後に述べましたように、専門家の意見を徴して、慎重に研究してもらいたい、これが委員会の切実な希望でございます。 ―――――――――――――
○委員長(湯山勇君) ちょっと御報告いたします。 ただいま委員大野木秀次郎君が辞任され、その補欠として大谷贇雄君が選任されました。 ―――――――――――――
○委員長(湯山勇君) 続いて参考人の御意見を……。
○竹中勝男君 この通りでいって、日高さんに十二時半までに質問を終ることができますか……。
○委員長(湯山勇君) 速記をとめて。 〔速記中止〕 ―――――――――――――
○委員長(湯山勇君) 速記をつけて。 それでは、続いて参考人の御意見を伺うことにいたします。長田参考人。
○参考人(長田新君) さっそく本論に入ります。 教育課程審議会のこの答申についてでありますが、最初一つ疑問があるのです。と申しますのは、小学校の教科課程の改革、中学校の教科課程の改革は、お示しによりますと、昭和三十六年と翌年三十七年度にこれを実施する、これは当然のことであります。それでも準備はなお短かいとも思うほど、問題は大きいのであります。 しかるところ、国民教育の中で最も重要な、かつまた最も問題を含んでおる、従って、各方面に、学者なり教育者なり、あるいは一般国民の間に多大の意見があり、異なった考えがあり、反対意見も渦巻きを巻いている、そういう道徳教育の課程改革だけは、この四月からあえて特設時間を置いてやる、これは一体いかなる所存であるか、私は国民の一人としてもぜひ尋ねたい問題であります。 教科課程改革案の全体を見ますと、問題はない、けっこうだ、あえてそんなに大した反対もないというふうな問題も数あると思うわけです。道徳教育に関しては全く例外的に、ただいま申したようなわけで、非常な意見があり、非常な反対論が、まじめな筋からたくさん出ておる。にもかかわらず、何のためにあわただしくそそくさとやるか、承われば、この問題は審議会でたった二時間ずつ四回、調査研究をし、合せて八時間かけた。もちろん、今までもいろいろな角度から御検討なさっておったことと拝察しますが、しかし、私はそれにもかかわらず、ただいま申し上げましたような意味で、多大の疑念を私は持たざるを得ない。やっぱり少くとも昭和三十六年なり三十七年に、他の教科課程と関連の、切って切り離すことのできない関連のある道徳教育でありまするから、そういう専門的、技術的の観点からも、これはやはり昭和三十六年なり、七年なりに延ばすべきものであるのではないか、かくもそそくさとあわただしく事を進めるということに対して、私は、専門家というよりは国民の一人として、多大の疑惑を持つ。何がゆえにこういうふうな方針を立てたかということに対して、さまざまな揣摩憶測もまた可能ではなかろうかなあと思っておるのであります。まず、そういう質問を一つ出して、文教委員会の皆さんの御検討をお願いしたい。これは疑問です。 その次の問題ですが、私は大体二の問題を二つの観点から申し上げたいと思うのです。この道徳教育の時間の特設の問題ですが、その一つは、一つの国の教育問題というものは、あくまでも思想的、政治的な拠点に立っておる、立つべきものだと考えております。ことに、一つの国の政府が打ち出すところの教育制度、教育行政という問題になりますというと、あくまでも政治的な性格を持ち、思想的な性格を持っているはずです。間違いでしょうか。 そういう点から考えてまず最初みるわけですが、一体ただいまも驚きいった仕打ちでこの四月から道徳教育に関しては特設時間を作るということからも考えられますが、これは私はこう考える。憲法改正、平和憲法の改正、破防法、いわゆる教育二法、さらには教育委員会の選挙制から任命制へと、まあ、こういうふうなことは、さらに勤務評定の問題もありますが、これは主として真理を探求し、これを国民に告知する学者ないしは国民を指導する教育者というもの、学者と教育者というものを対象として破防法ができ、教育二法ができ、それから、かつまた勤務評定ができようとしている。さらに、学校の児童、生徒を対象としては、教科書を国定にしようという意図を持っておって、それができるまでは、せめて曲りなりにも検定制度に対して行政的に中味を国定に近寄らせよう、たとえば、その一つとして社会科の骨抜きですが、社会科の検定なんかの様子を聞きますと、社会科の教科書なんかを編集する連中の日本を守り、世界を守る、すなわち平和を守る、日本の平和、世界の平和を守るために、原水爆といったようなものは、これは排除しなければならぬというふうな、つまり材料があると、検定は不合格になる。これは一つの例である。 ともかく、児童、生徒を対象としては、教科書を国定制度にしようという動き、実質的にはもう国定と似たり寄ったりの状態が行われておる。さらに社会科というものを、今も述べましたけれども、いわば去勢をする。ほんとうの民主国家建設のためのあるいは平和国家建設のための教育の責任を持つところの社会科を去勢するというか、骨抜きにする、あるいは修身科というものを復活する、まあ、いろいろありまするけれども、学者なり教育者を対象としてか、児童、生徒を対象としてか、かように数え上げるというと、五つも六つもの、この教育政策を立てておる。これは一体なぜか。これは一体なぜかということに対して、われわれは考えずには、この道徳教育のための特設問題というものを私は論ずることはできないと思うのです。ひつきょ叫う、今数え上げた五つ六つの問題と連の性質を持ったものが、少くとも一府の制度としては、道徳教育の問題一あり、特設時間の問題でなければなない、かように考えていますが、これは間違った考えか。それは御承知のごとく池田。ロバートソン会談も、健忘症でない限り皆様に御記憶がありましよう、バーミューダ会談も皆さん御承知でしょう。一九六二年にはアメリカでは、中距離弾道弾が大量に生産され、それによってこちらで申せば、基地日本を全く原子兵器で武装する、そういうようなあくまでも政治的なというか、軍事的なというか、そういう立場に立ってこそ、修身科の復活というか、道徳教育の特設時間の持つ意味というものがはっきりする。ところが、日本の今日の学者にせよ、教育者にせよ、率直に申せば、職人であり技術屋であり、あえて専門の白痴とは申しませんけれども、失礼だから、――ひどく職人的であり、技術屋的であって、この教育問題、特に政策として打ち出されてくるところの教育問題をさえ、政治的に思想的にこれを考える、批判する、判断するということを意識的にか無意識的にか避けておる。これは木を見て森を見ずというけれども、一つ一つの問題だけを技術的に調べてみて、是非善悪を論ずるだけで、問題そのものの持つ政治的な、思想的なバツクというものをあえて避けたり、無音識に避けたりするというようなことが、これがやはり当面の問題、道徳教育の問題、あるいは特設時間の問題のほんとうの持つ意味というものを理解し得ない一つの根本ではないか。さように私は考えて、この問題は、単に技術屋、技術的に狭い意味の専門的の問題としてではなくて、――でもあるが、さらにそのほかに、その上に今申したような観点から取り組まないというと、問題そのものの持つ意味なり意義というものが全くわからない。木を見て森を見ず、こういうことが一つの問題。第三の問題になりますが、私は、これは純教育学の問題ですが、私の専門の教育学の問題でありますが、釈迦に説法をお許し下さい。教育という仕事は、二つの仕方がありまして、その一つは、御承知のごとく、専門の学問をもとにして知識の東を作って、その名をカリキュラム、教科、そういう専門 の学問をもとにして知識の束を作って、これを教科とかいって、教科というもので教育する教育というものが、読み、書き、そろばんという古い言葉にもまあいろいろある。これは教科で扱うことが有効であり適切だから、いわゆる教科教育というものがある。第二の教育法は、教科ではだめなんだ、論より証拠、やってみて効果がなかった、ない、教科ではだめなんだ、言いかえれば家庭の生活なり、あるいは学校の生活なり、社会の生活なり、家庭という教育社会、学校という教育社会、社会という教育社会、そういう三つの社会の生活の中で身につけさせる以外に方法があったらお目にかかりたい。そういうふうな立場に立つのが道徳の教育である。元来道徳の知識というものは、ほんとにわれわれの人格に蕨される人難いやな言著すが、人格知、人格化された知識、あるいは血となり因となっている生命知、生命化された知識、もしくはほんとうに実践躬行せざるを得ないような状態を負うた実践知、そういう性格を持たない知識は、道徳に関する知識ではない。知ることはやすく、行うことはかたいというが、これは道徳の問題です。道徳の是非善悪を知らぬものはないよ。どろぼうした人間でも火つけをした人間でも、殺人を犯した人間でも、おそらく何が正しいか、何がよこしまか、何が善か悪か、そんなことはみんなわかっておるのです。教える必要がない、知識としては。知識として教える必要がない。ごく特殊な例外的なことになれば、格別ですが、市民としてこの社会で生活していくときに、何が正か邪か、何が善か悪か知らぬものは一人もない。知ることはやすい、だが行うことは不可能といってよろしい。道徳に関する限り、知ることはまことにやすくして、行うことはほとんど不可能といってよろしい。その不可能ということから、そこが道徳教育の問題になる。これは私は、それこそ生活の中で、生活に取り組ませ生活と対決させるという仕方、もし多少専門的な言葉で申せば、なすことによって学ぶ、ラーニング・バイ・ヅーニンク、ペスタロッチーの言葉で生活の陶冶、ダス・レーベン・ビルテット生活の陶冶、このなすことによって学ぶとか、生活を陶冶するとかいう原理こそは、すべての教育にも多かれ少なかれ当てはまるが、特に道徳の教育こそは、ひとえになすことによって学ぶというか、生活を陶冶するという原理へ立たざるを得ない。私は生活即道徳なんという専門の言葉を自分で最近作って、道徳教育に関する限り、生活というものの中で生活に取り組ませるほかに方法がない。五千年の歴史を見たら、歴史は最大の雄弁家でなかった。論語読みの論語知らず、もう文字や言葉でほんとうの道徳に関する人格知、生命知、実践知ができたらお目にかかりたいと私は考えておる。そういう意味で教科なり、あるいは時間なりを特設することは、全くナンセンスであり、全く害あって益なしということが、純教育学的に私は論証できるということを固く信じて疑いません。 まあ、比較教育学じゃないが、他山の石じゃないが、世界の様子を見ても、世界国多しといえども、道徳教育のために教科の時間を特設するところは一つもありません。ただ実験的に、私もそういうことをちょいちょい、ヨーロッパへ行って見たことがありますが、実験的な教育は西洋でもありますけれども、一般的に申せば、どこの国にも道徳教育のための特設教科、特設時間というものはありません。これは偶然ではなくて、西洋各国は道徳教育の本道を幾千年の間歩いてきた、こう申しても誤まりではない。明治から大正昭和にかけての日本が世界の例外国として、たった一つのエクセプションとして修身科というものをやってみたりなんかしましたが、これは世界の例外、しかも愚かなる恥ずべき例外と言って決して言い過ぎではない。さらに私は、これはまことに失礼でありまするが、私は四十年の間、教育の予言者、人類教育の予言者ペスタロッチを恋人のようにほれ込んで研究して参りましたが、これまたペスタロッチの道徳教育のことも、専門的なことではなはだ失礼ですが、述べてみたい。ペスタロッチほど道徳教育に対して熱意のあった人はまずないといってもよろしい。また、ペスタロッチほど道徳教育の成績を上げた人もない。ノイホーフの貧民教育、スタンッの孤児の教育、彼の作った世界最初の小学校、ブルグドルフ小学校あるいはイヴェルドンの小学校、八十一年の生涯を通して、教育者として終始一貫しましたが、彼ほど道徳教育に熱意を持った人はありません。しかも、その彼の道徳の方法は、教科特設、時間特設を絶対排し、家庭で申せば居間の教育、ヴォーンシュツーべ・エルチーウングすなわち家庭における道徳教育、居間の教育、道徳の根本は何であるか、愛、感謝、従順、信頼そうでしょう。道徳の根本は、愛、感謝、従順、それから信頼、この四つの徳は、何だ居間でできるぞ、居間で、子供の家庭生活でできるぞ、おっかさんの焼いてくれたパンをにこにこしてそうして食う。お父さんが作ってくれたチーズ、そういう親子関係……。そこで、もう愛も、感謝も、信頼も、柔順もみごとにできる。それを実験してみせる。そういう原則で学校も経営をしたい。そこで、生活が陶冶する、直観とか、自己活動とか、労作とか、いや、生活というものによらなければ教育はできない。道徳教育というものは、ダス・レーベン・ビルテット、生活以外に陶冶の方法はない。こんなものを言葉で聞かせて何になる。教科書を読ませて何になる。徹底的に、特設された時間ないしは科目というものに対して徹底的に排撃をする。彼自身が実験をして、すばらしい業績を上げておるということは、これはわれわれの目にとめなければならない問題だと思う。 最後に、私はこういうことを言う、生活に取り組ませて学校の教育課程の中で道徳教育をするのには異議はない。それは賛成だ。だがね、やってはみたが、もの足らないよ、不徹底だしということから、特設ということを考え出してきた。私はここに問題があると思う。生活の中で、学校の教育課程の中でやってはみたが、不徹底である。やってみて不徹底なら、不徹底になった理由、原因というものを見つけて、これを排除するということが、道徳教育の本道である。やってはみたがどうもうまくいかない。溢路だらけだから、本道を歩んでも、道徳教育の成緒は上らない。成績が上らないのは、険路がある。その溢路をふさいで本道を歩くという方向に行くなら、それは筋が立つけれども、溢路だらけの状態において、教員を悪条件に置いておいて、世界各国の倍も子供を担任させておいて、雑役だらけ、勤務時間は多いし、悪条件が一ぱいあって、そうして、それゆえに教育の本道を歩むこともできない。問題は、この悪条件を除くということでなければならない。それをやってみたが、どうももの足らないから、あたわずんばすなわち特設、こういう考え方は、全く私は根拠がないものであると思う。 のみならず、日本の教育者、学者というものは一般にやはり教科主義、主知主義にやはりとらわれて脱皮できないです。育ちというものはおそろしいもので、何でも教科で教えてきた。だから、教科という知識を組織的にたばねて、整理して持たせないというと、どうも納得いかぬ。これはおよそ教育というものは教科でやるものだという、やってきた育ちからして……。育ちというものはおそろしいものです ね、切りかえることができない。およそ教育というものは、ほんとうはヵリキュラムでなければいけないのだ。知識が整理されない、こういうことを考えている。そういう一つの偶像、一種の主知主義、知識の束をしっかり整理して頭に入れさせなければだめだという一種の主知主義です。観念論です。そういう一つの偶像、イドールというものが、意識するとせざるとに論なく、日本の教育者、学者にはあるんですよ、多分にある。そういう連中が、やはり道徳についてもいろいろ知識を、判断力を、見識を集めて、そうして整理して持たすことでなければいけない。これは一つの偶像である、単なる偶像である。この偶像を破壊するということが、少くとも道徳教育に関する限り一番の大事な問題ではないか。そういうようなことも私は考えている。 えらく長くなりまして失礼いたしました。なおまた、こまかいことは質疑応答のときにお答えいたします。 ―――――――――――――
○委員長(湯山勇君) 次に、梅根参考人から御意見をいただきたいと思います。
○参考人(梅根悟君) 時間がございませんので、原稿を読ましていただきます。 教育課程審議会の三月十五日の答申の問題についてまず意見を申し上げます。 まず第一に、この答申は教育課程の国家基準を明確にする必要があるということを申されております。その具体策といたしましては、在来教科の時間数については、かなり大幅の自主的な裁量の余地を、学校なり、教師なりに持たしておったのでありますが、今回は一律、画一的にしゃくし定木な同一的な時間数を強制する、こういうふうなことになっております。こういうような官僚的な統一、画一統制が、もし厳重な監視のもとに行われるということになりますと、たとえば、前の学年の教師は国語が大へん得意であったけれども、理科の方はさっぱりだめだった。その教師の授業を受け継いだ次の担任の教師は、理科の方を補いたいと一考えた。それで国語の時間を減らして、理科の方をふやしたいと考える、こういったようなことはまずできない、こういうことが起って参る。まさかそういうようなことまで干渉、監督しないということでありますけれども、とにかくそういったようなことが、おっかなびっくりでしょうけれどもある。そういうふうな制度を作ることは、これは教育の現場を尊重する立場ではないというふうに、私は考えているのでございます。 次に、今回の答申の一つの山は、いわゆる技術科の新設というふうに申されております。在来の職業家庭科と、図画、工作のうちの、工作の部分と合せましてあらたに技術科を設けるということになっております。これは私は技術科というふうなものを中学校に必修課目として設けるということについては、年来これを主張しているのでありまして、今回のこの答申には一応は非常に大賛成であります。ところが、中身をよく見て参りますと、ほとんど在来の職業家庭科の名称を改めただけのものだというふうなものになっているのであります。 さらに申しますならば、こういう改正の陰に隠れまして、図画、工作の時間を減少させたという、一種のからくりにしかすぎないところもございます。在来の工作の時間を勘定に入れて計算いたしますと、技術教育の時間はむしろ四時間から三時間に減ったというのが実態でございます。 さらに申しますと、在来の職業家庭科は、実は三時間ないし四時間となっております。それに現に四時間やっている学校もあります。現に四時間やつている学校について申しますと、工作を一時間と計算をいたしますと、技術科を五時間やっておったことになる。それが今度はわずかに三時間に減らされてしまうということであります。こういうふうなこと……。 さらに、今度は男子と女子をはっきり分けて、女子には家事裁縫をやらせるということになりますと、女子の方が工作の学習は減ると、こういうふうなことになります。こういうことは、科学技術教育を振興させる線に沿った対策であるかということに、非常に疑問ではないかというふうに考えておるのであります。 それからその次に、一つの問題点になっておりますのは、いわゆる中学校の最終学年を進学組と就職組と分けると、こういう問題であります。これに対しては、世間でいろいろな批評があり、心配が起っております。ところが、審議会の答申では、さすがに教育学者が入っておやりのものでございますから、進学組と就職組に分けるというふうな、そういう表現は全然使っておりません。答申では、教科の指導時間数 に一そうの幅を持たせ、生徒の進路と特性に応ずる指導を十分行うことができるようにする、こういうふうに言われているのでありまして、これは大へんけっこうなことであります。ところで、一部の方々に伺いますと、これは決してそういう趣旨ではないというふうに申されておりますが、それは全くその通りでなければならないというふうに私は考えております。しかし、これもよくながめて見ますと、一つの幅を持たせると申されておりますけれども、具体的には進学を志望する生徒には数学を二時間、英語を二時間よけいにやらせるということが、望ましいというふうなことになっているだけでございます。しかも、その程度の幅は、実は現在の制度においてすでに用意されているのでありまして、現在の教育課程を見ますと、数学は三ないし五時間、それから、それは改訂案でも三ないし五時間になっております。つまり、一部の生徒はこの三時間に二時間プラスしますから、五時間になり、結局現在の制度と同じでございます。外国語では、現在の制度では四ないし六となっておりますが、改訂案では三ないし五と減らされている。減らされているだけであって、この幅は、一そう幅を持たせることになったのかどうかということが疑問であります。言ってみれば現状通りであります。 これはどういうことかというふうなことを判断をいたしますと、結局ほかの学年、ほかの教科は全部幅のないもので、一律の時間数できめてしまった。ところが、しかし中学の三年だけはなかなかそうはいかぬということで、結局中学校の三年の数学と外国語、それからそれに見合う職業科だけに在来の幅を残したというのが実態であります。こういうことではもはや羊頭狗肉ではないか、あるいは看板に偽りがあるのではないかというふうに申したいのであります。しかし、私が申したいのは、こういう幅をどうこうと言うことじゃなくて、世間では進学、就職組に分けることだと解し、これでは子供がいがみ合いをする事件も起るだろうし、子供たちの暴力事件といものが、ますます激化するということを心配いたしおります。そういたしますとやり委員会としてはそういう心配をしなさんな、これを幅を持たせるということは決して進学と就職に分けるという趣旨ではないということを、はっきり審議会からおっしゃってほしかったと思うのであります。結局こういうことでございますと、結果においては進学と就職と分れてしまう。その方が便利でございますから、結局一分けてしまうというような現状が起りやすい。そういうことに対して、そういう差別教育が行われないように、はっきりおっしゃっていただきたかったというふうに思うのであります。 で、その次に道徳時間の特設の問題でございますが、これはあとで一括して申し上げます。 最後に、教育課程の正常な運営のためのいわば阻害条件に関する問題、教育課程を正常に運営しますためには、もちろんこのいろんな条件を整備する必要があるのでありますが、どんなよい教育計画を作りましても、それを妨げる阻害条件のはなはだしい中では、とうていその実現はむずかしい。いわば絵にかいたもちになってしまうということはわかり切ったことでございます。従って審議会は当然改訂案の完全な実施を妨げる条件の排除につきまして、強く政府に要望せられるべきであったと思うのでありますけれども、この点については審議会はほとんど全く無関心の態度をとってきました。わずかに技術科に関しましては、「施設、設備の整備に努める必要がある」と言っておりますけれども、しかし阻害条件は、これに限りません。特にすし詰め学級と進学競争の激化の問題、これは最も大きな阻害条件であったと思うのであります。私はイギリスの新制中学校の実践記録を見ましたけれども、イギリスの新制中学校では、一学級四十人以下の学級が大体一般のようでありますが、それをさらに理科や技術科におきましては四十人学級をさらに二つに分けて二十人以下の学級編成で授業をしているようであります。そういうふうにしなければ理科や、技術科というものはできない。何もないがらんどうの教室に五十人、六十人も詰め込んで、講義式の授業をするということでは、ほんとうに科学技術教育の振興ということはできないと思うのです。それができたらまさに奇跡ではないかというふうに思う。また、この進学競争というような状態のままに放置されておりますならば、たとえて申しますならば、この新設されます道徳の時間というのは、幸いに成績の評価がございませんから、道徳の時間には先生の話を聞きながら、机の下でこっそり受験参考書を読むというようなことが起りかねない、こういうことでは実際道徳教育はできないのであります。そういう阻害条件の排除ということについて、特に強く要望をお出しになる責任があったのではないかというふうに私は考えるわけでございます。一体教育課程ばかりをいじり回して教育がよくなるというのは、一種の妄想ではないかというふうに思うわけであります。 以上で教育課程審議会の答申に関する所見を終りまして、次に、道徳時間の特設の問題について若干申し上げます。まず第一に、道徳の時間を特設することを答申されました教育課程審議会そのもののあり方というふうなものについて考えてみたいと思います。最近の教育行政に見られまする著しい傾向の一つは、審議機関の軽視、あるいはその独立性の喪失ということではないかと思うのであります。そのことは、さきの教育委員会法の改正の際に中教審を素通りして、あれだけの改革が行われたというふうな事実に端的に現われております。また、この一つの委員会に一つの諮問が出されまして、その審議の中途で任期が参りますと、任期だといってさっさと委員を入れかえてしまうというようなことが起っております。 しかし、さらに重要なことは、今回の道徳の時間の特設について当局が審議会に対しておとりになった態度であると思うのであります。前回昭和二十七年の十二月に道徳教育の強化を主題として教課審に諮問したときには、社会科についてはいろいろの批判がある。たとえば、現在社会科で行われている道徳教育では不十分であるから、道徳教育を強化する方策をとるべきであるとかというような主張がある、こういうふうなただ問題点だけを御指摘になりまして、そうしてそれについて審議会で十分に考えてくれというふうな諮問をなすっておりますが、ところが、今回は諮問の説明においては、道徳教育の徹底をはかるために、小、中学校とも道徳的指導のための時間を特設して、毎学年指導する必要があると当局は考えている。もし、そのようにした場合には、特に社会科や特活との関係をどのようにするかという問題があるというふうな問題指摘をなすっていらっしゃる。これを見ますと、当局はすでに特設する方針である。だから審議会はそのあとの問題、つまり特設した場合には社会科や特活との関係をどういうふうに調整したらいいかということについて意見を出してくれ、そういうふうな諮問の形に読めるのであります。こういう態度であったことに対しまして、日高委員長は総会の最初の日に、特設すべきかいなかというようなことを審議会自身で審議させるべきである、そうでなければ辞職するということをおっしゃったので、当局でもどうぞそのようにというようなことでおさまったというようなことが伝えられております。真偽のほどは存じません。しかし、それは当然のことであろうかと私は思うのであります。で、それはともかくといたしまして、このように審議機関というようなものがだんだん当局のいわばめくら判を押すだけの機関というふうな形になってき、あるいは民主的の手続をとったという、いわば言いわけの機関になってくるというような傾向は非常に重大ではなかろうかというふうに考えております。 その次に、もう一つ注目すべきことは、今回の当局による道徳の時間特設の発議が、特設を否定し、社会科で道徳教育をやればいいというような方針のもとに作られました現在の社会科、その計画が実施されまして、ようやく 一年そこそこしかたたないうちに行われているという事実でございます。御承知のように、現在の改訂社会科は、昭和三十一年度から正式に実施されだのでございます。二十七年の十二月十九日に岡野文相が教課審に諮問をされまして、翌二十八年八月七日に教課審の答申が行われた。それに基いて教材等調査研究会が新指導要領の原案作成に当りまして、それが約二年かかっております。そうして三十年の十二月に小学校、三十一年二月に中学校の新しい社会科学習指導要領が公表され、従って正式には三十一年度からこの社会科で道徳をやるという意味で改訂されました社会科が実施されたわけであります。これだけ長い時間をかけて慎重に練りに練った教育計画を、実施わずか一年余りで、二年目にはもう根本的の改訂をするというような発議をされるというのは、まことにこれは軽率ではないかというふうに考えるわけであります。当然この場合には、その実施をしばらく見守って、そうしてその実施を容易にするような措置を講じて、そうしておもむろに三年間かかってやって新しい教育課程が実効をおさめるかどうかということを確実に見守り、判断をした上で、改めるならば改めるというような慎重な措置を講じられるのが、教育行政の正しいあり方ではないかと考えるのであります。こういうふうに前の審議会の決定しました前の社会科の実施一年目あたりで、たちまち変えるということは、前の審議会や教材等調査会の委員諸君に対しても、はなはだ失礼なものではないかというふうにさえ考えるわけでございます。 で次に、道徳とは何かという問題について申し上げます。ここで道徳は何かと申しますのは、実は道徳の本質的のことについてここで講義をしようというつもりではございません。今回の次官通達では、かぎカッコをいたしまして道徳と書いてございます。私はれをかぎカッコ道徳と呼びますが、れは一体教育学上の概念として何であるかということでございます。まず、審議会の答申を見ますと、かぎカッコ道徳は、従来の意味の教科としては取扱わないと書いてございます。それでは従来の意味の教科でなければ何であるかということでございますが、その従来の意味における教科というのを、あるいは一般の意味における教科というのをどういうふうに定義するかということは、教育学的にはさらにむずかしい問題でございますけれども、幸い文部省の出しました学習指導要領一般扁の十四ページに教科の定義がございます。そこで見ますと「一般目標を達成するためには、各方面にわたる学習経験を組織し、計画的、組織的に学習せしめる必要がある。かような経験の組織が教科である」というふうに定義をされておる。これが私の知る限り政府の公文書に見えております唯一の定義でございますが、この定義にあてはあめるならば、今回のかぎカッコ道徳、これもまさに教科であるはずであります。それは従来の意味における教科であるかもしれませんけれども、とにかく教育学的の概念として考えますならば、当然かぎカッコ道徳が教科ということになるのは常識であろうと思います。あるいは審議会の方では、しかし普通の教科とは違う。普通の教科は成績の評点をしたり、あるいは教科書を使ったりするが、このかぎカッコ道徳は成績評点をつけない、あるいは教科書も使わないとおっしゃるかもしれませんけれども、しかし、成績評点をつけない教科は日本にはございませんが、外国には幾らもございますし、教科書を使わない教科は日本にも幾らもございます。そういう点から申しますと、これはまさに教科であると思うのでありますが、今日の学校の教育では、一応学校教育の分野を分けますときには、教科指導と生活指導、あるいは教科と教科外活動、あるいは特活、特別教育活動というふうに教育の分野を二分するのが、これは理論的でもあり、常識的でもあるわけであります。そこで教科でないというならば生活指導である、あるいは特活であるという一のがこれは常識であります。ところが、先ほど日高先生はこれは特活の一部であるというふうなお話をなさいましたけれども、答申を拝見しますと、かぎカッコ道徳は教科ではないが生活指導あるいは特活でもないと、はっきり割り切ってあります。つまり表をごらんになりますと、わかりますけれども、教科とかぎカッコ道徳と、それから特別教育活動と教育の分野を三分野に分けていらっしゃるのであります。これが答申であります。こういうふうに教科と道徳と特活というように教育の分野を三つに分けるなんということは、これはまずおそらく世界に比類のない日本特有の珍妙な現象かもしれません。そういうものが生まれたわけであります。一体どうしてこういう道徳科ではなくてかぎカッコ道徳であるという、なぜそのような珍妙なものが生まれてきたか、生まれなければならなかったかというようなことについては、いろいろ憶測するより仕方ありませんが、あえて人の悪い邪推かもしれませんけれども、憶測しますならば、これが教科であるということになれば当然学校教育法施行規則を変えなければならぬ。学校教育法施行規則は省令てございますから簡単に変えられますけれども、教科であれば教育職員免許法を変えまして、新しい免許状が取れるようにしなければならぬ、つまり免許状を取るには数年を要し、その新免許状を持った者でなければ学校で教えられない。そうすると、これもそう簡単に事が運ばないというようなことから、教科でないということになったのではないかと思うのであります。それであっさり特別教育活動の一部で、特別教育活動で道徳指導をやるのだ、これは彼らの方針はそうでありますが、そういうふうにおっしゃればいいのではないかというふうに私どもは思いますけれども、しかし、どうもそういうふうに特活の一部であるということは、どうも特設というような印象がきわめて薄いというのが実情ではないかというふうに、まあ、これも邪推をするわけでございます。で、私は当局に対しましては、やはり常識に従って教科にするなら教科にする、特活にするなら特活の中でやるとはっきりさせていただきたい。教科になさるならば堂堂とその法的手続をとっておやりになっていただきたいと思うのでございまして、さらに、教育課程審議会に対する私の不満は、当局の御意向がどうあろうとも、やはり審議会としては、はっきり教科であるのか、特活の中の道徳指導を強化するため手引きをするのか、その辺をはっきり踏み切っていただくことが妥当ではないかというふうに思うわけでございます。 その次に問題になりますのは、通達の拘束力の問題でございますが、これらにつきましては、すでに国会でも討論がなされておるようでございまして、文部大臣からは、はっきり通達は拘束力がないというふうにおっしゃっておるようでございますから、あえてここではその問題は蒸し返しません。ただ、もし通達には拘束力がないというようなことがございますならば、やはり通達の内容は、そういうようにそういう文章でお書きになる必要があったのではないか。私どもが通達を見ますと、かぎカッコ道徳の時間を特設する、それは学級担任が担当すること、あるいは地方教育委員会はそれに使う図書教材については、これを承認にかかわらしめることというような、あたかも命令的のような文章が書いてございますために、非常に誤解を生むことであって、非常に不親切なことではないかというふうに私は思うのでございます。 なお、今日の教育の内容のコントロールは御承知のように学校教育法施行規則に「教育課程については、学習指導要領の基準による。」というふうにあります。今日当局が発行しております「学習指導要領」というものが実はこの施行規則に申します「学習指導要領 の基準」というものに当るものであるかどうかということについても、学者の間でいろいろな疑義がございます。そうでありますのに、学習指導要領そのものもでき上っていないうちに、たとえ命令でなくても、命令であるかのような文章表現でもって、通達でこれを実施するというようなことでお示しになるのは、これはやはり行政のあり方としてははなはだ不適当ではないかと思うわけでございます。ことに、そこに使う準教科書的な図書教材、それを教育委員会規則において、これは必ず委員会の承認を受けさせるという規則を作れということを指導助言をなすったり、あるいは在来学校長の職務とされておりました教科その他の担任の決定に関しましてまで、道徳は必ず学級担任に担当させようというようなことを助言指導なさったりすることは、やはりこれは行き過ぎではないかというふうに考えております。事実問題としてこの道徳の要領を見ると、このテレビ、映画、スライド、あるいは図書、雑誌、新聞等を臨機応変に自由に使って教育せよということが書いてありますが、それらの教材が一々この教育委員会の承認を必要とするというようなことになれば、おそらくこの答申なり、あるいは要領が示しておるような自由潤達な道徳教育はできないのではないかというふうに考えております。このような助言指導は、かりに助言指導であっても、決してこれは教育を進めていくものではない。むしろ、教育を破壊に導くものではないかというふうに考えます。 それからその次に、要綱に示された道徳の内容そのものについて若干の意見を申し上げます。この教材等調査研究会が作り上げた学習指導要領案でありますが、それはかぎカッコ道徳の要綱として発表されておりますが、それを拝見しますと、そこに示されてある道徳は、一部で心配されるような超国家主義、あるいは逆コース的な、ある いは封建主義的なものではない、一般的に申しますとすこぶる穏健中正なものである。それは教育基本法に示されている教育の根本精神は人間尊重の精神であるとし、この精神をもって道徳教育は一貫すべきものであるというふうに書かれておる。その言葉にたがえませず具体的な内容を、まずきわめて近代的な倫理、あるいは民主主義的な倫理をずっと並べてあって、近代倫理あるいは民主主義の展覧会というような観を呈している。もちろん、厳密に申しますと、いろいろな問題があります。批判すべき点もあると思いますが、これは時間がありませんから申し上げません。しかし、一応近代民主主義の倫理の線、従って在来の社会科の線は守っている。今の社会科の学習指導要領案を皆さんごらんになればわかるように、それよりも少し簡単である。、その十四ページにちゃんと同じ道徳の内容が書いてある。全く同じものである。今度は特設であるというこうとだけの違いで、しかし、とにかくこういうふうな健全な線が出たということは、私は教材等の委員の諸君の努力として高く評価すべきものではないかというふうに考えております。 最後に、特設の可否の問題でありますが、一応示された道徳の内容そのものはけっこうでありますが、しかし、結局言えばやはり問題は、特設の問題に帰って来ると思います。このような内容をこのような方法でやるということになると、これは実は在来生活指導という概念のもとに特活の一部であるホーム・ルームという場で教師たちがやって参った道徳指導と全く同じものである。あるいはあえて申しますならば、それを少しかた苦しくし、少し生活遊離的にして、それにかみしもを着せたというふうなものしかないのであります。これは実は戦前に作られた生活修身というものと非常に近いものにしたものであって、ホーム・ルームあるいは生活指導というふうな新しい概念は、これは戦前の生活修身を一そう生活的にし、あるいは一そう教育的にしたものであるというふうに考えておるのであります。そのホーム・ルームなり生活指導なりを、今度は少しばかり生活遊離的にして、少しかみしもを着せたということは、結局戦前の生活修身に戻ってしまうということは当然で、それが今度のかぎカッコ道徳教育であるというふうに判断してもよろしいかとも考えます。 ところで、この要綱をもし現場の教師に手渡したならば、おそらく現場の教師たちは、何だこれはわれわれがホーム・ルームでやってきたことと、そっくりそのままではないかと、あるいはそれに少しかみしもを着せたものだけではないかというふうにおっしゃる教師が多いのじゃないかと思います。このことは、中学校の分の終りに参考としてつけられた東京都教育委員会何製の指導計画例が、もともとホーム・ルームの指導計画として立案し始められたものを、途中で道徳という名前に看板を塗り変えたいきさつから申しましても、判断できるのであります。 ついでに申し上げます。中学校の案は、大へんよくできております。小学校との間にかなりの差がある。中学校はよくできておるという意味は、中学校はより一そう生活的であり、より一そうホーム・ルーム的にできている。もしそういうホーム・ルームでやったことを、だた看板を変えた、それでいいのだとおっしゃればそれでけっこうでありますけれども、それならば、何を好んであえてこういう大騒ぎをして、違法であるとか、拘束性があるとかないとか、教育学概念に反するのではないかということは、了解に苦しむ点だということになるわけであります。私どもがおそれますのは、実は一方で在来生活指導として、あるいはホーム・ルームの時間にやっておりました道徳指導というものは、ホーム・ルームから切り離しまして、それを少しばかり生活と遊離的にいたしまして、少しばかりかみしもを着せたものにする、他方ではかぎカッコ道徳ができたからというので、社会科から道徳教育の分を取ってしまうということが起りますならば、実はこのかぎカッコ道徳が、道徳教育の専門に一手引受所になってしまう。そうなりますと、元来社会科と生活指導とは表裏一体の関係になって道徳教育をするという、こういう新しい道徳教育の考え方。 これは社会科では社会認識に裏づけられた道徳観を養いながら、生活指導の上では、日常具体的な生活の中で子供たちに道徳問題を生活の問題として考えさしていこう、こういう裏表の関係で進んで参りましたが、その両方が取り去られて、生活からも遊離しておるというような中途半端な道徳の時間というものが、社会教育を一手に引き受けてしまうということになりますならば、おそらく理論的に考えますならば、在来の修身よりも今度の新しいものの方が、はるかに道徳教育の効果の低い下手な教育方法だというふうに判断せざるを得ないというふうに私は考えております。私どもが修身科復活に反対しておりますのは、必ずしも封建的、あるいは超国家主義的な道徳教育が持ち込まれるということをおそれたのではありません。もちろん、それをおそれておりますけれども、しかし今日の時代において学者の方々が集ってこういう案をお作りになるときに、そういうようなものを出されるとは想像できないのであります。むしろ、私どもがおそれましたのは、まさにこういうような形で生活指導からも一歩遊離し、社会科における社会的な経済的な問題の裏づけからも離れた、こういう形のいわば生活修身的な道徳教育というふうなものが独立してくるということにあったわけで、私どもから言わせますならば、このかぎカツコ道徳こそが、まさに修身科復活であろうというふうに申し上げざるを得ないと思うのであります。 以上で所見を終ります。 ―――――――――――――
○委員長(湯山勇君) 続いて村上参考人から御意見を伺うことにいたします。
○参考人(村上俊亮君) 時間がだいぶ切迫して参りましたので、要点だけを申し上げます。 だいぶ問題は出尽したようでありますが、私どもの考え方を述べさしていただきたいと思います。最初に教育課程改正の問題について申し上げますが、教育課程改正の問題は、御承知のように道徳教育の問題を除いて、まだ答申の段階にあるわけでなお引き続いて文部省の教材等調査研究会において、それの具体的な目標あるいは内容や方法についての検討が行われ、その答申に基いて漸次に改正が実施されるものと思います。従って今日の段階において教育課程の改正について論議し得ることは、教育課程審議会によって答申された教育課程改正についての問題点にあると思いますから、先ほど来各位のおっしゃいましたようこ、この問題を主にして取り上げていきたい、こういうふうに思います。私はこれから申し上げるような幾つかの理由に基いて、今後の教育課程の改正の基本的な方針なり、その考え方に賛成をするものであります。 今回の教育課程の改正は、特にこれを小学校教育について考えてみると、三つの大きな重要な問題、これは先ほど日高先生からもお話がありましたように、第一には、道徳の問題、それから第二には、基礎学力の問題、第三には、科学技術の教育の問題、この三つの主要な問題を中心にして取り上げております。道徳教育を強化するということ、それから基礎学力、国語、算数の基礎学力の向上をはかるということ、それから科学技術教育の基礎をつちかうということは、今日及び将来の小学校教育に課せられた重要な課題だと思います。この問題は何としてでも解決しなければならない問題ではないか。今回の教育課程の改正は、この重要な課題の解決にこたえようとしている、これが第一の理由であります。 それから第二の理由は、この中学校、小学校との問に、教育の一貫性を持たせようとしている点である、小学校及び中学校教育は、御承知のように、これは九カ年の義務教育を構成しているわけであります。従って当然小学校教育と中学校教育との問には、発展的に教育の一貫性があるべきであります。このことは、特に国民教育の基礎であり、義務教育の均等な教育の難会を与えるものとして、私は重要な意一義を持っている問題だと思いますが、ところが、今日の小学校教育及び中学校教育との間には、必ずしもそりような教育の一貫性が十分にない、一貫性を欠くものが少くないのであります。このことは九カ年の一貫した国民義務教育にとっては、重要な問題だと思います。これらの問題を解決しよりとして、小学校と中学校との間に発展的な連関性を持たせて、教育の内容や方法の合理化、実質的な向上改善をはかろうとしておる、これが第二の理由であります。この第二の理由の問題は、いわば教育課程における学年相互の問題であります。学年の進行に応じた教育内容の発展的な縦のつながりの問題であります。ところが、教育課程にはもう一つ重要な問題があります。それは各教科相互の連関、あるいは各教育相互の聞の連関、横のつながりの問題であります。この各教科相互、あるいは各教育領域相互の間に、合理的な連関性を欠いてくる、その間に混同が起ってくると、それぞれの教科あるいはそれぞれの教育領域の教育目標、あるいは学習目的というものが不明確になつて参ります。このことは教育の効果、あるいは学習の効果を著しく低下させることになる。今回の教育課程の改正は、この問題に着目をして、各教科、各教育領域相互の間に合理的な連関性を持たせて、教育の効果、学習の効果を高めようとしている、これが第三の理由であります。 それから第四の理由とも言うべきものは、この各教科の指導目標を明確にしようとしておる。このことは当然なことであるにもかかわらず、現行の教育課程についてみると、各教科の指導目標が必ずしも明確ではない。そのために各教科そのものについての基本的な考え方、その指導の内容や方法に適正を欠くものが少くない。この点を改善して各教科の指導目標というものをもう少し明確にして、各教科の性格とういものを明らかにしていく、それに基いて指導内容の合理化とその推進、充実をはかろうとしている、これが第四の理由であります。それらの指導の内容や方法について、なおこれを検討してみると、新しい教育の考え方として、強く要望されているにもかかわらず、児童の興味や経験あるいは関心等に、必ずしも即応しておらない、さらに、学年の進行やあるいは児童の、子供の発達段階に応じた発展的な、系統的な取扱い方を欠いているものが少くない、このことが著しくまた学習の効果を低下させているのではないか。この点を改善してあくまで児童の、子供の発達段階というものを十分に考慮しながら、しかも基礎的にして発展的な、系統的な学習を重視しようとしている、これが第五の理由であります。それから、最後に私が特に理由として考えておりますことは、各地域あるいは各学校相互の間に大きな教育上の落差のある義務教育、……。学校の教育水準を高めていく、これを全国的に確保しようとしている、これが最後の点であります。このことは非常に重要だと思いますが、御承知のように現行の制度からすると、指導時数すなわち教授時数は各教科ごとに、あるいは各学年ごとにその標準を指示するという方針をとらないで、これが普通だと思いますが、そういう方針をとらないで、国語と社会科をくくり、国語と算数をくくり、それから社会科と理科をくくり、それから音楽と図画、工作をくくって、指導時数の標準を示しているわけであります。しかも、各教科ごとに指導時数の標準を示さないで、必ずしも関係のない教科をくくって指導時数を示している。それから学年について見ると、各学年ごとに指導時数の標準を示すのが普通でありますが、現行においては第一学年と第二学年をくくって示している、第三学年と第四学年をくくって示している、第五学年と第六学一年をくくって示しているわけであります。こういう指導時数の標準の示し方をしている。しかもなお、指導時数についておかしいと思いますことは、正確な時間数を示さないでパーセンテージで示している。こういう指導時数、教授時数の示し方をしているのは、これも日本だけの現象だと思いますが、こういう指導時数の示し方は、確かに一方においては学校やその地域の事情、あるいは教師の創意工夫を生かし得る長所を持っていると思います。がしかし、他方においては各地域各学校相互の間に大きな教育上の落差を引き起している。そうして望ましい国民教育の水準の確保を不可能にしているということは、これは否定できない事実だと思います。そこで、今度の教育課程改正においては、その指導時数を各教科ごとに、それから各学年ごとに年間総時数を示し、さらに最低必要な年間教授日数を確保しようとしている。それによって、各地域各学校相互の間に見られる大きな教育上の落差を防いで、全国的な国民教育の望ましい水準を確保しようとしている、これが第六の理由であります。私は以上申し上げましたような六つの理由、ほかにも理由はあげられると思いますが、こういう主要な六つの理由に基いて今回の教育課程の改正の趣旨に賛成であります。 がしかし、教育課程の改正は、先ほど皆さんもおっしゃいましたが、その目的を達成するのには、究極において教師の資質、能力、見識に負うているわけであります。だから今回の教育課程改正の問題がまず第一に要請してくる重要な問題は、これは教員養成、現職教育の問題だと思います。しかし、この教員養成、現職教員の問題は、ただ單に教育課程改正にかかわる問題だけでなしに、基本的には大きな変動期にある日本教育の将来を考えるときにその重要性をそう痛感するものであります。幸い、今中教審の特別委員会において教員養成制度の全面的な検討が行われておりますから、その答申を受けて教員養成、現職教育についての根本的な刷新をわれわれは強く要望しておるようなわけであります。なお、教育課程の改正が次に要求してくる問題は、現場の先生たちが教育に専念してその教育的な効果を上げ得るような、そういう教育的な条件を強化することだと思います。先ほど皆さんもおっしゃいましたが、その中でもことにいわゆる、このすし詰め学級の解決、これは最も重要な問題だと思います。少くともこの二つの問題は、教育課程の改正が当然に要求してくる重要な問題だと思います。教育課程一般についての私の考え方は、時間がありませんからそのくらいにとどめまして、次は道徳教育の問題について申し上げてみたいと思います。義務教育学級、特に私は小学校の問題を中心にしていつも考えておりますので、小学校の問題が特に出てきて恐縮でありますが、小学校の教育について、この道徳教育の必要性、ことに現状から見て、道徳教育を強化すべ必要性を否定する人は、私はだれもないと思します。ただ問題はその道徳教育のやり方、道徳教育の目標なり、その内容、方法、その取扱い方等についての意見の相違だと思います。 この道徳教育のやり方については、大きく分ければ三つの違った型、やり方があるようであります。 その一つは、終戦後の日本やアメリカに見られるような道徳教育のやり方であります。これは道徳教のために特定の教科時間を特設しないで、学校教育全体の課程、全教科を通して道徳教育を実施するというやり方、なかんずく社会科、あるいは子供の自主的な可活動やクラブ活動を通して道徳教育を実施するというやり方、これが第一の型のようであります。従ってこの道徳教育の型のやり方をとっているところでは、児童の自主的な活動、児童会とかあるいはクラブ活動が盛んであります。 第二の型は、イギリスやドイツで見られるような、宗教教育を通して道徳教育、精神教育をやるというやり方であります。そのためには、当然宗教という特定の教科が設けられて、厳格な宗教教育が行われることになります。これが第二の型だと思います。それから第三の型とも考えられるものは、フランスの公立学校で見られるような、宗教から切り離して、道徳教育プロパーだけをやっていくという道徳教育のやり方、そのためには、御承知のように道徳という教科を特設して、その教科を通してもっぱら道徳教育が行われる、こういうやり方が、第三のやり方のように思われます。 従って、この三つの型を通して見ると、イギリスやドイツやフランスの、いわゆるヨーロッパにおいては、宗教教育を通すか通さないか、そういう相違はあっても、これは基本的には大きな相違でありますが、そういう相違はあっても、とにかく道徳教育、あるいは精神教育のために、特定の教科時間を特設して道徳教育をやるというような型をとっているものと考えられる。それに対して日本やアメリカにおいては、そういう教科時間を特設しないで、学校教育全体の課程と、全教科を通してこれをやる、こういう型をとつていることになります。こういう道徳一教育のやり方の相違は、当然これは理由と根拠のあることであって、一がいにそのよしあしは評価できないと思います。それで、とにかく道徳というものの基本的な性格、従って道徳教育というものの基本的な性格から見て、道徳教育がある特定の教科、あるいは時間だけに限定されるというのはおかしい、それは学校教育全体の課程や、あるいは教科を通して行わるべきものであるということは、これは道徳教育の原則であると思います。道徳教育の理想的なあり方と思います。従って第一の型のような道徳教育のやり方の出てくる根拠は、ここにあると考える。で、今回の道徳教育の改正は、この道一億教育の原則はしっかり踏まえているわけであります。ところが、この学校教育におけるれそれぞれの教科、あるいは教育領域というものは、道徳教育以外の特定の教育目的、学習の目的を持っておりまして、それぞれの教科は、みなそれぞれ独自の学習の目的を持っております。従って、それぞれの教科あるいは教育領域としては、まず一第一に、その課せられた独自の教育の一目的や、学習の目的を強く専念追究することになります。そこで全課程、全教科を通じて、道徳教育をやるという第一の型の道徳教育のやり方は、ややもすると、どの教科でも、あるいはどの教育領域においても責任のある系統的な道徳教育が行われ得ないという、そういう結果を引き起す危険を持っております。この危険は程度の相違こそあれ、あるいは社会科を通じ、あるいは教科外活動を通じて行われる場合にも当てはまります。で、ここにこの第一の道徳教育のやり方の型の問題点があるわけです。こういう道徳教育のやり方をとっている日本やアメリカにお研いて、道徳教育についてきびしい批判が起ってくる理由も、私はここにひそんでいるのであるとこう思います。で、そこでこの道徳教育の強化を強く要請してくると、どうしてもこの第一の型のやり方では、満足できなくなり、そして道徳教育のための特定の計画的な教育、あるいは教育計画というものが、要求されてくる。そこに特定の教科あるいは時間の特設という必要の問題が起ってくるわけでありまして、ここに私はいわゆるヨーロッパ型ともいうべき、第二、第三の型の道徳教育のやり方の出てくる根拠があると思います。で、こういうしかし、特定の教科時間の特設を通じて道徳教育をやるやり方は、われわれは修身科において苦い経験を持っているわけであります。その危険を十分に体験したわけてありますから、従ってわれわれとしては、そういう危険を伴いやすい、十分にはらんでいる教科を特設することについては、十分にこれは警戒をしなければならぬと思います。そこで、今回の教育課程改正は、道徳教育を教科として扱わないで、時間の特設にこれをとどめた理由もそこにあるものと想像されるのであります。のみならず特定の教科を特設することになれば、先ほど申しあげましたように、教育の全課程、全教科を通じて行われる道徳教育の原則をそぐおそれもありますのみならず、特に子供の自主的な活動、あるいはクラブ活動においては、はっきり最もよく現われてくる子供のこの自主的な、自発的な活動、あるいは実践的な活動、そういうものを媒介として行われるこの道徳教育の特性というものをまたそぐおそれもあります。そこに第二、第三の型の道徳教育のやり方の問題点があるわけです。 そこで、今回の道徳教育の改正は、これを教科とはしないが、時間を特設して、そこに責任のある、計画的な道徳指導ができる機会を与えようとしたということは、私は第二、第三の型の道徳教育のやり方の長所を取り入れ、その含んでいる危険を避けようとしたものと、こう見ていいのではないかと思っております。が要するに、今回の道徳教育の改正は、この第一、第二、第三の型の道徳教育の長所を十分に考慮し、その陥りやすい欠点を十分警戒しながら、それとは違った第四の道徳教育の新しい型を生み出そうとしているというように私は解釈している。のみならず教材等調査研究会の方で検討されたこの道徳教育の指導目標、教育目標というものは、あくまで教育基本法の基本的な精神の上に立ちながら、第一には、日常生活における道徳的な基本的な行動様式を十分に理解させ、それを身につけさせる。 第二には、道徳的な信条、あるいは判断力を養う。 それから第三には、道徳教育において最も必要だと考えられ、そうして従来の日本の道徳教育に一番欠けていたと思われる個性の伸張あるいは創造的な態度をつちかう。最後には、民主的な国家社会の成員として必要な基本的なモラリティ、基本的な特性というもの、すなわち真理と正義を愛する、それから個人の価値を尊ぶ、それから勤労と責任を重んじ自主的精神に満ちた、そういう実践的な道徳的な態度をつちかおうとしている。こういう教育目標のもとにそれにふさわしい指導の内容と指導の方法を引き出そうとしている。こういう道徳教育改正の方針の考え方は、十分に従来の修身科の弊を補うと同時に、新しい道徳教育のあり方を示すものとして私は正当に評価すべきものだと思っております。
○矢嶋三義君 議事進行について。先刻来四人の参考人の方の御意見を承わりまして、今行政府がやっているところの行政について、今さらながら十分調査検討しなければならぬということを痛感いたした次第です。しかも、この問題たるや教育課程審議会会長さんの日高先生の方で、審議会の方でどういうふうにお考えになっていらっしゃるかという点を、われわれとしては十分お聞かせいただきたいと同時に、その答申を受けた行政府、文部省が現在助言と指導を各都道府県教育委員会になしていることが、答申をされた審議会の意向と一致しているのかどうか。そういう点についてですね、十分検討しなければならぬということを痛切に感じている次第です。で、日高先生としてはいろいろお差しつかえがあるやに承わっているわけですが、私のお願いに対して、委員長から特にお願いしていただいて、日高先生少しでも長くこの委員会に残っていただいて、各委員の不明な点にお答えいただくように特にお願いいたしたい。四人の参考人の方に甲乙をつけることは非常に失礼でございますけれども、何といって審議会の会長の日高先生が、きょうのわれわれの一番お伺いいたしたい参考人でございますので、格段と委員長の方で一つ御配慮をお願い申し上げたいと思います。
○委員長(湯山勇君) 速記をとめて。 〔速記中止〕
○委員長(湯山勇君) 速記を始めて。 ―――――――――――――
○委員長(湯山勇君) ただいまの参考人の御意見に対して質疑のある方は、順次御発言を願います。
○竹中勝男君 日高さんにお尋ねいたしたいのですが、教育課程審議会の会長としてお尋ねしたいのですが、多々あるのですけれども、私からお尋ねをすることは、主として基本的方針、ただいま、日高さんが読まれた基本方針について、集中して二、三の点をお伺いしたいのです。どうも初めてこれを熱心に読んでみましたが、この基本方針といわれているところのものの中に、わからない点が相当あります。第一の点は、この(1)と書いてあるところに、教育基本法というものを審議会はその思想的背景の構造は、人間尊重の精神と、それに基く共同体の倫理だと、こういうふうに解釈しているのです。これはあまりにあなた方勝手な解釈じゃありませんか。教育基本法は、人間尊重の精神、それに基く共同体の倫理、共同体の倫理なんて今考えている学者がありますか日本で、日高さんどうぞ……。
○参考人(日高第四郎君) それは生活共同体という意味で書いたのであります。生活共同体たとえば家族も生活の共同体であるし、あるいはそれを逆に共同生活体といってもいいと思います。そういう意味においては、個人を尊重すると同時に、社会的な関心をも重要視するという意味において、共同生活体の倫理ということができるかと思います。それをそういうふうに表現したのであります。
○竹中勝男君 これはますますわからないのですが、共同体のことを家族の生活共同体、それが教育基本法の精神的な背景になる構造ですか、家族主義なんですかそれでは。
○参考人(日高第四郎君) いえ、私は家族も、社会も、国家も、人類全体も、国際社会も、結局は共同の生活体だと、こういうふうに考えているわけです。
○竹中勝男君 それはあなたの思われることなのか、そんなものがあるのですか。
○参考人(日高第四郎君) 私はあると思います。
○委員長(湯山勇君) ちょっと速記をとめて。 〔速記中止〕
○委員長(湯山勇君) 速記をつけて。
○竹中勝男君 私はそんな共同体という現実はないと思います。これは観念的だと思います。一体これは二十世紀初頭の新カント派の考えですよ。中立的な非現実的な考え方で、非常に観念的で、そして観念論と技術論とくっついたようなものがこの答申案の基本方針だと私は考えざるを得ないのです。、ないところのものをあるように考えるのが、観念論なんです。それでものをやっていくと、きわめて客観性がなくて、一方に傾くのです。どちらにでもいくのです。あなたは反動にも革新にも組みしない中立的な立場で審議会を進めるというのが、あなたの立場だと思いますが、しかしながら、結果においては共同体というナチスがはっきりした言葉をここに使っている。今どき共同体なんという言葉を使う学者はありませんよ、そんなものは家族なんというのは、すべて家長的なものが家族です。共同体として何も個人というものは認めてない、個人の自由というものを認めたら、個人の人格を尊重するといっても、それは家族も、社会も、近隣も、村落も、町村もそれからアォルクスゲイマンシャフトといわれるところのものも、あるいは国際的な共同体というものは現実にありません。二つはっきり分立しております。 一つ一つの国家がそれぞれの特殊の法律、特殊の習慣、特殊の歴史を持っているのですから、こんなものは共同体一とは言えない。そういうことを無理に、しかも、これが教育基本法の骨組みを規定しているからとか、思想的背景の構造だとか言われることについて、われわれば学者として、あるいはほんとうの教育審議会や責任者としてのあなたの考えを、もう一度聞きたいと思います。
○参考人(日高第四郎君) 私は個人を尊重しても家族はあると思います。そして個人を尊重しながら、家族的な生活をするということもあるし、学校もそうでありますし、社会もそうでありますし、そういう意味において共同生活体というものは私は現実にある。それが完全でないにしても、現実にある。大体倫理というものは、必ずしも現実にころがっている事実ではなくして、やはり理想的な、指導的な意味を持っているからこそ、倫理なのであって、家族もそうであってほしいし、学校もそうであってほしいし、近隣社会もそうであってほしいし、国民と国民との関係もそうであってほしいという意味において、共同生活体というものは、見解は違うかもしれませんけれども、私はあるはずであるし、ある、不完全であってもこれはある。事実あって、これがないとおっしゃることの方が、事実に反すると私は理解しております。
○竹中勝男君 事実上ないから、今日の問題が起っているのです。こういうものがあれば、道徳問題などは起るはずがないのです。今日ばらばらになっておって家族というものが崩壊しつつあるから、われわれは問題にしているのです。あるいはいわゆる近隣だとか、町村だとか、そういう理想的に考えられた共同体がないから、ないからそこに問題が起っておるわけなんです。それをあたかもあるかのごとき前提のもとに、一つの観念を持って、あるいはそういう希望を持って道徳を立てるということが、これは道徳じゃなくて、これは日本が八紘一宇、日本が世界のどの国よりも優秀だという願いと理想とが、それが混同されたところに、われわれの戦争という悲劇が起ってきたのです。われわれの態度はどこまでも客観的である。そして道徳は科学的な基礎の上に、合理的な基礎の上に道徳というものはなくてはならないと私どもは考えています。それは日高さんと意見が違う、審議会と意見が違うようですね。
○参考人(日高第四郎君) 私もはっきり意見が違うことをここで承認いたします。私は私どもの良識に従って、共同の生活体というものはある、不完全ながらある。それを完全にするところに道徳の役割があるのだ、こういうふうに考えております。
○委員長(湯山勇君) 竹中さん、その質問はそれくらいにしていただきたいのです。
○竹中勝男君 重要な点ですけれども、そういう過程の上にやられることは、危険だということを私は言っておきたいのです。これは非常に根本の問題が、そういう前提に立って、何かないものをあるもののように、あるいは非常に希薄なものを、あたかも実在するかのようにそれを追求するというところに、非常な危険性がある。客観的に何も基準がないし、それから「価値判断」という言葉がありますが、価値判断をやる主観は何なんです。道徳の善悪を判断する、その価値を判断のる、あるいは「価値判断の系譜」という言葉がありますが、その意味を聞きたい。
○参考人(日高第四郎君) 価値判断は人間がいたします。みんな人間がすることが判断です。
○竹中勝男君 そうすると、個々の人間という意味ですか。
○参考人(日高第四郎君) そうです。
○竹中勝男君 そうすると、価値判断の非常に差ができてきますが、これはどういうことになりますか。
○参考人(日高第四郎君) 価値判断をするという場合には、おのずから各人の精神のうちに基準があって、その基準によって判断するのでありまして、こういう判断はできるだけ普遍的でありたいという願いのもとに判断をするわけであります。それはすべての人が、理想的にこうあるべきだと考えながら判断する場合に、価値判断は成立するわけです。
○竹中勝男君 それも、そうすると道徳科を担当する先生が、自主的に価値判断をしてやれということで、それに対しては、何らここで基準となるような価値判断というものはないという意味ですか。
○参考人(日高第四郎君) それは哲学的の論議になりますので、私は深く入りたくございませんけれども、しかし、たとえば理論的なもので価値判断をする場合には、論理なら論理というものに従って価値判断をしなければならない。心理的なものにも、これは容易に一致しがたい基準ではありますけれども、基準に値いするものを前提しなければ、理的の価値判断の論争はあり得ない。道徳においても同じように、道徳性という理想的な基準、いうものを前提しなければ、道徳の論議ができない、そういう理想的な基準というものを仮定して、われわれはかち判断をするのでありまして、われわれの価値判断するものは相対的であります。相対的でありますけれども、その中に、よりよき価値判断をしようというところに論議の意味があるので、そういう点では、教える人たちはそれを願って判断をなすべきだと私は思っております。
○竹中勝男君 それでは、もう少し具体的申し上げますが、憲法改正はどうするか、いいか悪いか。あるいは職場放棄、すなわち、ストライキはいいか悪いか。Aの先生はそれをよろしい、Bの先生はそれは悪い、Cの先生はわからないと判断する。そうすると同じ道徳科の先生の中で、善悪という、その道徳的な価判断が矛盾してくることを、審議会は認めるわけですね。
○参考人(日高第四郎君) それは願わしいことではありませんけれども、事実は認めざるを得ない。
○高田なほ子君 ちょっと関連して日高参考人にお伺いしたいんですが、道徳教育の基本方針を拝見いたしますと、これは、まあ形式的なことになるかもしれませんが、ことにその大切な基本方針ですけれども、読んでみて非常に言葉がむずかし過ぎて、どう考えましても、頭をひねるような言葉の羅列でございます。子供に対する大きなこの道徳教育の基本的な問題でありますから、もう少しこの基本的な方針については、話し言葉、すべての人にわかり、また理解のできるような言葉がこれで表現できなかったものでしょうか。原文はもっとやさしく、わかりやすいものではなかったでしょうか。いかがなものでしょうか。
○参考人(日高第四郎君) これは子供に示すための方針ではなくて、教育者が踏まえて考えるべきものだという意味でできたのでありまして、言葉がむずかし過ぎるということは、この方針の欠点ではありましょうけれども、しかしこのくらいのことがわからないとは、私どもは考えないでまとめた方針であります。
○高田なほ子君 それは主観の相違ですから、ここで論議いたしませんが、私がこれからお願いしたいことは、何もこれを子供に見せるとは、われわれも考えておらないんですが、竹中委員の質疑等から考えましても、また私がこれを拝見いたしましても、かなり理解に苦しむような難解な文字が羅列してるということは、お互いに意思を疎通する上で、大へん不便でありますから、せめて教育課程審議会等の、今後御発表になるいろいろなものは、もう少し近代的に、わかりやすく書いてもらいたい。これはすべての教育者がわかるというふうにお考えになっていらっしゃいますが、おそらくそう十分におわかりになることができないのではないかという疑問を持ったので、このようなことを申し上げたわけです。 その次にお伺いしたがったことは、第一番の基本的な原理をここにあげておられますが、私ども人間尊重の精神というものは、戦争の、反省の中から出てきた大きな宝であるということは認めるわけです。これは先般も予算委員会で、私が質問してただしたことでございますが、わが国の行くべき姿、その行くべき姿を、あらゆる今日の政治の動向に動かされることなしに、教育の方針としてやはり把握しなければなしらぬ。このことは一体何かという問題なんです、つまり平和という問題が、日本の国を将来いかにあらしめていくかという、社会人としての責任を持たなければならない教育の課程です。平和ということをどういうふうにつかむか、人間尊重というものは、単に人間尊重と切り離せるものではなくて、平和な国を形成するために一つの基礎的な倫理であるとするならば、私どもの考えている最も基本的な徳性というものは、平和というところに置かなければならないのではないか、こんなふうに私考えておるんです。従いまして、今共同体の倫理ということで、大へん論議がありましたけれども、この共同体の倫理は、言うならば平和という問題につながるものではないか、こんなふうに考えられますが、いかがなもののでしょうか。そしてお答えいただくのに便利でございますように、今の予算委員会の問答の中でも、現在の政治は、力による平和というものを、やむを得ないが、肯定しておるのだという藤山外相の答弁がありました。けれども、教育面では、平和は力によらない平和、真実の意味の平和、こういうような、すべての人の心の中から生み出された平和につながってつながって、それが社会の平和になり、そうして力の対決によらない平和な世界を作り上げるための平和精神の教育であるということが、実ははっきりしたわけなんです。でありますから、ここにいうところの共同体の倫理ということは、これは上から教えるものでなととしても、下から築き上げていく共同体の倫理というものは、一体どういうものなのか。私はこれこそが、平和ということこそが、真の徳性のある原理ではないかというふうに考えられます。この点一つお教え願いたい。
○参考人(日高第四郎君) 私も、共同生活体の倫理というものの終局には、平和問題につながっておると思います。そうして、私も平和を願う点においては、必ずしもほかの人に劣らないつもりでおります。で、日本のこれからの教育については、平和の問題を重要に取り扱う必要はあると思いますけれども、ちょうどわれわれの社会の間に、いろいろの思わざる、たとえば殺人だとか、強盗だとか、盗賊とか、そういったようなものが、願わないのにもかかわらずあるように、国際間にもそういう現実的には平和の脅威があることは、私は認めないわけにはいかない。それに対しては、政治家ができるだけ賢明な、そうして有力な処置をとっていただきたい。そうして平和は、もちろん理念としての平和は、私どもの望むところでありますけれども、その実現の方法については、いろいろ考慮を要すべき点があるのでありましょうが、これは教育の問題ではなくて、政治の問題として私どもは考えたいと思っております。
○高田なほ子君 私の質問の要点がはっきりしなかったのかもしれませんが、私はもちろん、平和政治の方向に ついては、日高さんがお考えになるように、いろいろな方法があり、また政治の分野に属すると思います。けれども、教育面において教育者が願う、教育基本法が願っている平和な文化国家の建設ということは、全く現在のそう、いう政治から離れて、真実の、力によらない平和な世界を建設するための平和ということが基本にならなければならないというふうに、この間の予算委員会では確認しているので、日高さんもこの確認に対しては、やはり御同調いただけるものじゃないかと思うのですが、重ねて質問したいのです。
○参考人(日高第四郎君) 私も平和を、戦争よりもはるかにいいし、戦争についてはもうこりごりしているので、平和を望むことにおいては、人後に落ちないものでありますけれども、平和の脅威をどういうふうにして除くかということは、教育に間接には関係がありますけれども、直接の問題ではないと考えております。(「その通りだ」と呼ぶ者あり)
○竹中勝男君 私もう一言だけ、話しの途中ですから。一つ希望したいことは、こういう審議会が、公けの機関の国の教育の方針を決定する審議会が、教育基本法を、こういうように共同体の倫理というものがその背景にあるのだというような解釈をされることは、非常に危険であるから、これを何とか改めていただきたい。ことに、こういう共同体なんという言葉や理念をここに盛り込むことは、危険であるということを私が思っているということを、この会長の日高さんに記憶していただきたいのです。 それからさっき日高さんが答弁された中に、この価値判断は個々の教師にまかすのだ、そうしてABCと、めいめい違った判断をして道徳教育をしてもいいのだ。この考え方も、非常に民主的なようであるけれども、また、危険な点もあるのです。そういう自由は、教育者の自主的な判断の自由というものは、価値判断の自由というものは、これは尊重すべきですけれども、この一国の文政の審議会がそういうはっきりした態度をどこまでも持たれるかどうか。一致することが望ましいと言ってもですね、その一致ということは事実ないのですよ。共同体が事実ないように、価値判断の一致もないのです。それでことに価値判断の場合においてま、その政治的な、あるいは経済的な背景が価値半断には働くのです。そうすればそれを審議会は認め、日本の文教政策として認める。そうすれば力関係において物事は決定できるいうことを、まあ審議会が認めて上るような形になるのじゃないか。それでいいかということを重ねて尋ねたいのだが、それはすでにはっきり日高さんは、そのABCと価値判断は違う、こういうことを言われているものですから、これはもういたし方がない、はっきりしていると思う。その教科課一程については、専門の人がお尋ねになると思いますが、これは一人の人が道一億教育を担当して、特設の時間を作るという場合は、非常にそこに危険性がこれに関連してあるのです。各科を通じてやっておれば、それぞれの判断というものを自主的に生徒に、学童にまかすということはできますけれども、道徳の専門家が一定の価値判断を下すということは非常に危険だ、そういう先ほどの村上先生のお話しにもありました通り、教師の性質や……。
○委員長(湯山勇君) なるべく簡単に……。
○竹中勝男君 能力ということに対しまして非常に疑問がある。道徳を担当するのに、こういう面にも総合的に価値判断をやる。いわゆる道徳というもみはそういう一つの科学として勉強しなきゃ、それは教えられるものじゃないのです。理科の先生が道徳を教えたりはできない。そういう危険性、結局今までの道徳教育があらゆる時間を通じてやられておったのが、今度は道徳教育を一本にしぼるというような形になるために、そういう危険性がある。すべてが放棄されて、いよいよ道徳教育の混乱が起るので、道徳教育の先生がABCという違った価値判断のもとに生徒を指導するということになれば、これはもう非常な危険な状態で、さらに道徳が混乱すると、私どもは考えるのですが、まあ、日高さんに一応それだけを聞いておいて、私はちょっと……。
○参考人(日高第四郎君) その点は(2)のところに指摘してございまして、「価値判断の系譜を教育の実践に適用するためには、まず教育者の側においてその意味内容をよく研究理解し」云云と、こう書いてございまして、私どもとしては、その価値判断の内容がそう簡単に一致するとは思いませんけれども、あまり穏当を欠くような価値判断に陥らないために、まず教育者の側において研究をするということを指摘してございますのと、それから教材等調査研究会でも、道徳の時間というものについては、一人や、二人の人間ではなくして、多数の教師が集まって計画をし、論議をした上でやるということに書いてございますので、その辺は問題のあることは私どもも理解しておりますけれども、個人の良心を抜きにして価値判断はありませんし、個人の良心を抑えて自主性というものはありませんので、これは個人の教養によって価値判断が幾らかづつのずれがあるということは、私はやむを得ないことであって、それでごそ、多数決ということにも意味が出てくるのだと私は考えております。
○大谷贇雄君 先ほど長田先生から御説明の中に、この審議会におきまするところの審議、この道徳教育に関してわずか八時間で審議がなされたという御発言がございましたが、先ほど日高先生からの御説明によりますれば、昨年の九月からすでに三十一回、またその前には四十数回という、この教科課程についての審議がなされた、こういうことでありまして、おそらくその中におきまして、道徳教育ということは、全国新聞協会の世論調査にかんがみましても、終戦後の道徳混乱の状態から見ましても、国民のひとしく要望するところである。従ってそれらの世論、要望に応じて、学者の間におきましても、すでに審議会以前の問題として十分な検討がなされたのであって、単にこの時間の審議が足りないというようなことでこれを批判するというようなことは、私はいささかふに落ちかねるのでありまして、また、おそらくはそういうことでなしに、慎重審議をなされて、日本の青少年の道徳教育のために御審議をいただいたものだと思いますが、その点に関するもう一度御説明がいただきたいと思います。
○参考人(日高第四郎君) 今御指摘の通りに、この問題については、控え目にいっても三十二年度の教育課程審議会でもって十分論議をしまして、現在の建前でも道徳教育でいいかということについては、長い間の論議をした結果を、当時そこにおりました文部省の係官がまとめて報告をして、その報告の上に論議を重ねてきたのでありまして、決して二回や三回で簡単に片づけたのではないと思います。そのことは私はここでは論議の場所でありませんから申しませんけれども、長田さんと論議をいたしたいつもりでおります。
○委員長(湯山勇君) ちょっと速記とめて。 〔速記中止〕
○委員長(湯山勇君) 速記つけて。簡単に願います。
○大谷贇雄君 先ほど日本の学者はあるいは教育者は主知主義を奉じておって学問のみに傾いておる、教科書に傾いておる、こういうお話があって、私はこれは日本中の教育学者あるいはまた、教育者の大多数に対して私ははなはだけげんなる気持と同時に、私は日本の教育者に対する一つの悔辱のような感を私自身は受けたのでありますが、日本の教育学者というものは、私はおそらくこの審議会のこの問題は、単なる主知主義でないこの徳教というものの重大性というものをお考えになったからこそ、こういう答申案が出、今回の文部省のこの案が私はできてきたものと思うのです。その点につきまして、私は日高先生の御意見をこの際承わっておきたい。
○参考人(日高第四郎君) 私は長田さんと多少意見が違っておりまして、道徳教育には少くとも二つの要素が必要だ。一つは、判断力があることが必要である、第二は、それを実践する行動の指導が必要である。この判断をするということを抜きにすれば、自主的には行動ができない。われわれは何かことをするときにはどうしても行動を選ばなければならない、選ぶのには価値判断があるのだ、そういう意味で私は健全な価値判断を子供に教えることが必要である、こはただそれぞれの場合だけではなしに、それぞれのときにだけやるのではなくて、やはり一般的な意味において価値判断を教える必要がある、これが一面であります。それから、ただそれだけを教えるのではいけないのであって、生活の指遵もその価値判断に即してやれるようにするというところに、道徳的な教育というものが成り立つのであって、この二つの面のうちの一方だけでいいとは私は考えておりません。おそらく、たくさんの委員諸君も私と同じような考えを持っておったと推定できます。
○大谷贇雄君 もう一点お尋ねします。
○委員長(湯山勇君) 長田さんは一つあとで願います。
○大谷贇雄君 そこで、日高先生にさらにお尋ねしますが、先ほどの御発言の中に、人間は善悪の判断はだれでも知っておる、従って……。
○委員長(湯山勇君) 大谷君に申し十げます。大谷君ちょっと待って下虫い。今日高先生に聞いておるのだくら、ほかの方もまだ……。
○大谷贇雄君 日高先生に御意見を聞いて、またほかにお尋ねしなければならんのでありますから……。
○委員長(湯山勇君) そうしなければだめですよ。大谷君待って下さい。
○矢嶋三義君 五分間で日高先生にお聞きしたいのだ。
○委員長(湯山勇君) それじゃ簡単に願います。
○大谷贇雄君 一点だけ……。そこで毒悪という二とはだれでも知っておる、あなたは教える必要がないという御意見がありましたが、私はこれは人間の性善説、性悪説の問題にも出てくると思うのです。私どもは人間善悪知っておるならば、だれも教育をする何も必要はないと思いますが、その点についての日高先生のお考えを述べていただきたい。
○参考人(日高第四郎君) 私は価値判断というものは、子供のときから言いますと、周囲の価値判断に同化されていくものだというふうに理解しております。それゆえに民主主義的な日本を建設するためには、特に精選した民主主義を支持するような価値判断の体系というものをおとなが持って、特に教師が持った上で、子供を指導する必要がある。その指導をされることによって、体験的に理解をするというのが、私は教育の実態である、そういうふうに考えております。
○矢嶋三義君 ぜひ会長にお伺いしたいのでありますが……。
○委員長(湯山勇君) 二分くらいづつ一つやって下さい。
○矢嶋三義君 それは、この答申はですね。日本の教育内容という立場から考えますと大変革だと思う。ところが、この答申を承わりますとね。十分の準備をして慎重にやるべきであるというようなところが、どこにも現われていないわけですが、そういう気持は審議会としては持っていなかったのかどうか。それから小学校三十六年、中学校三十七年、道徳教育の特設課程四月からというのは、この答申の中にはありませんが、こういうことは口頭であなた方は答申したのか、行政府の文部省独自でこの期日はきめられたのか、お答え願いたい。
○参考人(日高第四郎君) 小学校は三十六年から、中学校は三十七年からということは、あらかじめ聞いておりました。それから道徳教育については、むしろ新聞でどういうふうにしたいということを、文部大臣が言っておられることは、私どもも聞いておりました。それで私としては、これは十分研究をした上でやってほしいという意味において、慎重を期してもらいたいというのが私の希望でございます。その希望については、本来ですと、全員に諮って付帯をすればよかったと私は思っておりますけれども、それはいたしませんでした。いたさなかったというのは、故意にしなかったのでなくて、時間が足りないので、それができませんでしたから、私は個人としてはそういう希望を表明いたしております。そうして、そのあと、私は教材等調査研究会がどういうふうな用意をしているかを文部省の当局者に聞いてみましたところが、発表のようなものができておりまして、そのために多分三十一回会合をして、夜中まで委員たちをわずらわしたということを聞いておりまして、私はむしろ文部省当局よりは、委員の非常な勤勉と努力に、敬意と感謝を持っておるのでありますが、この内容を見て、私どもがあまりかれこれ言わないでもよかったんだという印象を持っております。
○矢嶋三義君 日高さんはわが国の教育界の大先輩ですが、会長としてずいぶんお骨折りになっただろうと思う。しかし、審議会として、小学校三十六年、中学校三十七年、特に道徳教育の特設を四月からやるということについては、教育界の工キスパートとしては、この準備中十分で無理だという気持ちを持っていらっしゃると思う。先ほどその一端を表明されたわけですが、従って、三月十八日付、稲田次官の名前で都道府県、大学学長に出されたこの通達というものは、少くとも審議会の意向とはかなりずれたものであろうと私は思うんです。従って、答申された審議会としては、一切あなた方に責任がかかるわけなんですから、文部省に対しましては、何らかの私は意思表示をさるべきであった。そうでなければ、せっかくの答申を実施するに当っても、あなた方の本意と相反する結果が出てくるおそれがあると思うんですが、文部省のそういう注意を喚起する再答申をするお考えはございませんか。
○参考人(日高第四郎君) それはいたしません。
○矢嶋三義君 もう一点、それではもう一点だけ、この答申を見ますと、財政的配慮が一言も触れられていないのですが、この財政的配慮の点について、答申をせずして、これだけであなた方の所期している点が目的を達成できると、日高先生お考えになっていらしたんでしょうか。これから後財政的配慮を並立してやるべきだという答申をなさるお考えではないかと思うのですが、いかがでございますか。
○参考人(日高第四郎君) その点については、審議の途中でたびたび出まして、この点は教育課程審議会の問題ではないけれども、文部省もよくその点を注意してくれということは、係官にはしばしば言及しております。で、必要ならばそういう点をまた論議をして答申に加えるこ、」もできるかと思いますけれども、私はその点は教育課程審議会の本来の問題とは少しずれておりますので、教育財政の問題になりますので、ほかに中央教育審議会等もありますし、その方で善処をお願いしたいと期待いたしております。
○松永忠二君 二点だけお願いいたしますが、今の矢嶋委員からのお話しにもありました点については、四月に間に合せるというつもりで三月に答申をしたんですか、やはり三月に答申をしたということは、四月に実施をするということを予類して出されたのか、その辺一つお伺いしたい。
○参考人(日高第四郎君) 文部省は初めから三月に結論を出してほしいということを申しました。しかし、私はそれは約束できないと申しました。それはそこまで約束をすれば、無理でも何でもしなければなりませんので、会長としてはそれは約束できない。しかし、文部省の立場もあることだから、できるだけ骨は折ってみるということを言いました。そうしてずいぶん予定外の時間もかけましてやって、そこに文部省の希望に沿うように結論が出たわけでありまして、私は無理な結論は出さなかったつもりであります。
○松永忠二君 もう一つの点は、先ほどお話しになったように、教育課程というものは非常に重要なものだ、教育内容を改めるというような点にも触れることで重要だというお話があるのですが、現在の教育課程のやり方というものが、御承知のように教育課程審議会にかけて、そうしてその答申に基いて学習指導要領を作り、そうして学習指導要領は初等中等教育局がこれを作り、文部省が作るということになっている。しかも、学習指導要領というのは、教科書の検定の基準であることは御承知の通りだと思います。そうなると、極端なことをいえば、教育課程審議会は単なる答申をして、その答申に基いて、参考にして文部省が学習指導要領をこしらえ、それでその学習指導要領によって全部の教育内容が実施をされていくという、こういうやり方は、日高さんとしては適当な教育課程のきめ方だというようにお考えになっておられるのか、こういう点についてやはり疑義があるのか、あるいは改むべきであるというようにお考えなのか。その点を一つお聞かせをいただきたい。
○参考人(日高第四郎君) 私は教育課程審議会の任務は、形式的に申せば、文部大臣の諮問されたことに対して、できるだけ良心的な返事をすることが、本来の任務だと思っております。それをどういうふうに取り扱うかは、文部大臣及び文部大臣の下部の文部省の行政的な責任であるというふうに冊解しておりますけれども、私の希望を申せば、教育課程審議会で出されました答申案に沿うように、できるだけそれを尊重してもらいたいということは、かねがね申しております。そうしてそれは尊重すると、文部省の側ではそういう意見を申しておりますので、私はその後の問題については、教育行政の問題であって、ここで会長としては申し上げにくい、個人としては意見がございます。
○松永忠二君 私のお聞きしたいのは、そのあとのことなんでありまして、先ほど第一点に触れられたように、教育課程こいうものは非常に教育内容を規制するもので、非常に重要だというお話があったわけであります。従ってその教育課程のようなものを改めていく、そうしてしかも教育内容を実施していくというやり方、その学習指導要領自身を文部省が作っていくというこのやり方ですね、こういうことについては、やはりその教材等研究調査会を別個に作るとか、あるいは学研指導要領の作成の委員会を作るとかして、文部省の一部局がこの学習指導要領をこしらえて、それが教育課程の基準だといってそのままに押しつけていくというか、基準として拘束をしていくというこのやり方ですね、このやり方は、やはり教育課程そのものが教育内容という意味からいうと、あなたの会長をやられているのは、単なる諮問にすぎないのであって、その諮問を尊重するか尊重しないかは、文部省の考え方一つだ。そういう教育課程審議全の答申を受けたという名のもとに、教育課程の基準である学習指導要領が文部省によって作られている。しかも、法律的には御承知のように当分の間文部省が、これを初等中等教育局が作るというふうに、当分の間というふうに規制されておる。そういうことから考えてみるならば、私は個人としてもいいんでございますよ。会長さんとしても、私は教育課程の重要な問題を取り扱われているあなた方は、この教育課程の答申が、そのまま十分実現していく法的な順序を考えていかなければできないということは、やはり教育課程審議会の責任だと私は思うのです。せっかくの審議が、具体的にそのままに国において実施されていくというような考え方に立っていくということは、あなたの関係しておる教育課程審議会の関係事項でもあると思うわけです。しかし、それを公けに言うことがどうかということであるならば、私は個人としての御意見をお聞かせいただきたいことは、教育課程の中心である学習指導要領の基準を文部省がこしらえる、それは基準だといって教育内容をそのままに実施をさせていくというこのやり方は、やはりむしろ学習指導要領、基準を作る委員会を設置をして、そうしてそこで十分審議をしていくべき性質のものだと思うんですが、この点についてのあなたの会長としてでなくて、個人的な、もちろん教育に関係する方として、やはりこういうことはこういう方法の方がよかろうというような御意見があろうと思うんですが、その点をお聞かせいただきたいと思います。
○参考人(日高第四郎君) それは大綱は教育課程審議会で決定したもので、教材等調査研究会のような専門的な人人の意見を十分聞いて、その上でむしろ事務的なことは、文部省にやってもらう必要がありますけれども、できるだけたくさんの人のすぐれた学識と経験を持った人の意見を聞いて、学習指導要領なんかは作成してもらいたいというのが、私の個人の希望でございます。
○委員長(湯山勇君) 日高参考人に対する質疑はこれで終ることにいたします。なお、教育課程審議会の答申につきましての質疑は、副会長である村上参考人が午後おられますから、村上参考人に御質問を願いたいと思います。 これで休憩いたします。 午後二時十二分開会 ―――――・―――――
○委員長(湯山勇君) 再開いたします。 先刻行われました理事会の結果を御報告申し上げます。来週月曜日、国立学校設置法の一部改正法律案を議題として委員会を開くことに決定いたしました。 次に、午前中に引き続いて質疑を続行いたします。質疑に先だちまして、先ほどの質疑に対しまして長田参考人から発言を求めておられましたので、長田参考人の御答弁を承わることにいたします。
○参考人(長田新君) 実は、先ほど私の話に一つ落ちたこともありましたが、それも合わせてつけ加えさしていただき、なお先ほどたまたま出ました私へのお尋ねに対するお答え、こういうふうなことにいたしますから、どうぞよろしくお願いします。 教科教育、まあ審議会の答申案についての私の感想の一つですが、私はあれは大体なかなかできのいものであるということを感じたわけなんです。そのことは若干問題点がありますが、比較的な意味においてあの答申案そのものはできばえがむしろいいものじゃないか、問題点はありますが……。たとえば中学校の第三年を二つに分けて、早くも職業コースを作るというようなことについては私は異議があります。しかし一般的に申せばなかなかできのよいものだと実は敬意を表しています。 それから道徳の方ですが、これは先ほどお話もありましたように、ともかく道徳教育の基準を教育基本法に置く、これはまここに頭の下る思いがいたします。多分そういうものもよう出し得ないではないかと失礼ながら想像しておりましたところが、ともあれ教育基本法に道徳教育の道徳の基準を求める、その限りにおいては、これに対しても非常に敬意を表すわけですが、しかしそこから人間の尊重と申しますか、人権の尊重と申しますか、こういうふうなことになりますと、ただそれにとどまると一種の観念論に堕してしまう。世界歴史の現段階においてほんとうに人間を守り、尊重するということになると、こちらから高田さんですか、出ましたように、何としても平和というもの、平和問題に結びつかないような人間の尊重とか、個人の尊重、生命の尊重というものは、ほとんど私はナンセンスだと考えます。これは観念論です。原理的なものを観念的に並べればそれではや落ちつくというような、私の言葉で言えば一種の観念論、主知主義に堕落している。もしもほんとうに人間を守る、個人を守るということになると、世界歴史の現段階では平和、原水爆の基地化してはならない、これこそむしろ最も根本的な問題であります。それを逃げるのじゃないでしょうが、むしろ予想しておるかどうかしらぬけれども、しかし社会科なんかを骨抜きにするところを見ると、どうもいささか疑義がある。言いかえますと、こちらから出ましたから略しますが平和の問題に取り組まないような人間の尊重というものは観念論にすぎないものであると私は考えます。しかも教育基本法というものが全く憲法の精神でありまするほんとうの平和国家、わが民主国家、文化国家というものの建設というこヒを目的とした教育基本法でありますから、そういう点から考えても平和の問題をもういろいろの意味において結びつけないというと、人間の尊重とか、生命の尊重とか言っても、ほとんど言っても言わないでもいいことぐらいの軽い観念論的なものではなかろうか、もう少し世界歴史の現実に取り組んで考えないというと、浮いたものである、観念論に堕する。それが私の主知主義というものです。このことが一つ。 それから、日高さんが私と大いに対決をしたいと言いながら、御用があって帰られて、私非常に残念に思いますが、先ほど食事をしながらも聞きましたが、判断力道徳教育をするのに生活によって道徳教育をすることもさることながら、道徳の判断力というものを養うことが大いに必要である、そういう角度から特設された時間、特設教科を持ち出される。これは日高さんのみならず。一般に日本の学者、教育者はそういうふうな考え方をするのが相当強いのです。私はそれと絶対反対なんです。道徳の判断力、まあ道徳的判断力を養うということの必要については、私も人後に落ちず必要論を持っております。ただ問題は、どうしたら道徳的判断力というものがほんとうに身につくかということだけが問題なんです。道徳的判断力が教育上要らぬなんていううそんなばか者は一人もおりません。ただ問題は道徳的判断力、ほかならぬ道徳の判断力というものは、どこでどうして身につけさせるかということだけが私問題だと思う。そういうことになりますと、文字や言葉ではなく、教科や特設時間ではなくて、そこが私の言うなすことによって学ぶというか、生活が陶冶するというか、生活のただ中に身を置かせて、そういう仕方で経験を積み、体験を積みつつ指導されて判断力というものを養わなければ、そうでない判断力は何にもならない。特設された教科や時間に、言葉や文字で与えられた判断力は死んだ判断力であり、実践力のない判断力である。そういうような判断力を教科や特設時間で養うというのは、私の言う一種のやはり教科主義、教育というものは、教科というものでやらないとまとまった判断力というものは養われない。これが私の言う一種の主知主義というもの、まだ一種の主知主義から脱皮できず、教科中心主義というものにこだわっておる。よい証拠が、判断力というものは判断力として養う――私はその判断力はほんとうに生活の中で生活に取り組ませつつ判断力を養わないというと、私の言葉で言えば人格知、生命知、実践知というふうな道徳固有の知識というものは形成できないというようなことで、日高さんとそ の点において全く見解を異にするわけであります。日高さんの考えは二元論です。道徳教育、生活もけっこう、しかも判断力は判断力として、いいですか、実践力は実践させて、判断力は判断力として特別な教科なり時間を作ってやるという一種の二元論というものは、これは堕落をしておる考え方である。私はそういう二元論というものは間違いである。これが違います。 それから村上さんの……。
○委員長(湯山勇君) ちょっと長田先一生、村上さんの御答弁がありませんか。
○松永忠二君 ちょっと一、二点お聞かせ願います。付上さんの、先ほど各地域、各学校は非常に落差があるから 一つの標準をきめる必要があるというお話があった、それはごもっともだと思うのです。そこで今の小学校の例をお出しになったのですが、従来でも中学については、一年、二年、三年として相当区画をしておられる、しかし現実には各教科ともきちっと時間をきめてしまっておる、しかも時間をきめたものをそのままやらなければできないというふうになっているわけなのでありますから、先ほど梅根先生のお話があったように、それを学級とか地域とかの実情に即して幅を持たせるということは全然文部省としては考えていないわけです。そうなってくると、こういうふうに町間をきちっときめてしまって、それをそのまま実施しなければできないというようなことで各地域の学校の落差を縮めるとか、小学校については前のような教科、社会科、国語科をまとめて比率で表わしたというようなものについては修正する必要があるとしても、中学校の国語は何時間、社会は何時間、これは何時間ときめておいて、それをそのまま実施しなければできないというようなやり方では、今話に出てくる各地域における実情に即したものはできないと思うのですが、こういう点はどういうふうにお考えになられるのですか。
○参考人(村上俊亮君) 中学校の問題は一応部会に分かれて検討いたしました。中学校はこれはよく存じませんが、初等部会の方のことを私申し上げたいと思います。まあ各学年、各教科に一応指導時数が出ておりますが、基本的には年間の総時数を規定したのであります。これを各週にどのようにアレンジしていくかということは相当自由があるのであります。ただ一応各週の指導時数に配当してみると、何時間というふうに表で出ておりますが、基本的には年間の総時数を各教科、各学年ごとに規定しているわけであって、各地域、各学校の特殊な事情に応じ、あるいは先生たちの個性のある、特色のある教育計画に応じて運営の自由の余地はあるのじゃないかというふうに考えております。そうして年間の総授業日数を大体押えておるということで、相当私は自由裁量の余地がある。そういうような意味においては、前の指導時数の規定の仕方の長所、各学校、各地域、あるいは先生たちの創意工夫を生かし得る余地も十分あり得るというふうに私は考えております。
○松永忠二君 そうすると、この答申案の趣旨としては、総時数を出してその下にカッコを入れてあるのは大体のめどであって、その点、別にそれにこだわってやるということはないとい冊う、そういう御判断ですね。
○委員長(湯山勇君) ちょっと村上参考人に今の御答弁を願います。
○参考人(村上俊亮君) 今のお話がありましたように、ここに出ております週間の指導時数は、これは大体平均いたした場合の目安であります。そう解釈してよろしいのであります。
○松永忠二君 その次に、先ほど日高さんからもお話があったのですが、この重複を避けるということが非常に重要だということが、今度の一つの眼目だというお話があった。実際に出てきた指導要領を見ると、たとえば第六年あたりに実際のところ出てくる「人間の尊さ」というものが出ているのです。こういうのは実際、たとえば宗像さんの作られた小学社会の六年の下を見ますと、「人間の尊さ」というものを、「もう少し自分の時間を下さい」とか、「ゴムぐつを直して」とか、「お母さんに相談する」とかいうような、そういうふうに非常に具体的な生活の事例を出している、それから人間の尊重というところに入ってきている。実際にここにあげられてきている人間の尊さということを、今さらここで時間を特設してやらなくても、現実には出てきている。社会科の教科書をもう少し積み上げた形として徹底的にやっているわけです。こういう点は重複はないのか。そういう点が非常に私どもとしては屋上屋を架すというような点が非常にあるというような感じも受けるのですが、そういう点についてはどういう御見解をお持ちであるのか、そういう点を一つお聞かせを願いたい。
○参考人(村上俊亮君) まだ私自身も具体的に検討してみたわけではありませんが、そういう個々の問題についてはいろいろ問題があろうかと私は思います。それで教育課程審議会の方では、教育課程の基本的な構成、仕組みの大体を規定して、それに基いて教材等調査研究会で、その中に織り込むべき具体的な目標や、具体的な内容あるいは方法を検討して、それに基いてなお実際の取扱い方の標準になる学習指導要領というものができるわけでありますから、その全体の操作を終えてみないと、新しい教育課程の改正がどういう具体的な教材を持ってくることになるかまだわからないと思いますが、その場合に、この重複というのは、まあいわばむだな重複であって、万葉よ重複もそれはあると思います。つまり問題を十分に検討させるためには、ただ一つの教材だけで済まない場合がずいぶんありますから、そういうものはここでわれわれが言っている重複じゃないのであって、問題を解決させ、理解させるために必要な教材であれば、それは重複でなくて、やはり必要な教材だと思います。ただそういう問題がどう具体的な内容として現われてくるかは、もう少し具体的な操作を経てみなければまあわからないと思うのですが、しかし確かに注意しなければならぬことは、そういう問題が起ってくることは予想されると思います。
○松永忠二君 それでは私ども今お話しのように、そういうふうに個々に当ってみると重複するところもあるし、具体的にまだ検討する内容等があると、そういうふうな段階の中でこの指導要綱を出されて、そうしてそういう検討も十分してない、学習指導要領、もできないときに、直ちにこの四月から実施をしていくということについてはやはり無理があるというふうには村上さんもお考えになるのでございますか、そういう点はどういうふうにお考えですか。
○参考人(村上俊亮君) この問題は、私が午前中にちょっと申し上げたように、これは受け取る先生の側の問題が非常にこれは大きいのです。こういう教育課程の改正はごく細部のものまで中央できめて、それによれば地方の先生は間違いない操作ができるというようなやり方は、むしろ私は危険ではないか、かえって危険をはらむおそれがあるのじゃないかというふうにも考えられる。だから大体のこれは基本的な要綱、それによって現場の先生たちがそう間違いなく操作ができる、そういう現場の先生たちの教養なり経験なりというものを、これはやはり予想しなければいけないと思います。また事実それを十分に達成することができない、あるいは失敗があるかもしれませんが、しかし、そういういわば試行錯誤で現場の先生たちもだんだん経験を豊富にし、正確な道を持っていかれると思うのです。それに加えて、とにかくこれまで社会科を通じ、あるいは特別教育活動等を通じて、相当経験も積んでおられる現場の先生たちの指導力というものを、これはある程度予想もし、また信頼もしなければならぬ、また信頼してかかる方がいいのではないか、そうすることによって確かに、今申し上げたことを繰り返すようでありますが、若干の失敗があるかもしれません。しかし、これは失敗を重ねながら漸次まあ向上、前進していくわけでありますから、その失敗を予想しないようなものを中央で作って流すよりか、多少はそういう点に問題があっても、現場の先生を信頼してやる方がよくはないかというような気を私は持っております。
○松永忠二君 それでは梅根先生にもあわせてお聞きをしたいのですが、もう一点村上先生にお聞きしたいのは、今そういうふうなことになってくると、私たちは課程審議会の中で、全教科の中で、どうして一体系統的なというか、なお強化をしていけば道徳教育の指導が十分できる、そういう点についてお考えをいただいて、全教科で一体教科を特設しないで、どうして道徳教育ができるのかという点について検討を進めたことがあるのかどうか。つまり、梅根先生からお話のあった社会科が改まっているので、そういうことについて社会科をどういうふうに充実をさせていけばいいか、あるいはほかの国語の教科ではどうやればいいかというようなことを検討しておって、教科でないものでいくという基本的な立場から、そういう教科での充実ということをどういうふうにお考えになったか、あるいは御検討をいただいたかという点を村上さんにお聞きをしたいし、またあわせて梅根先生には、そういうふうな点からいうと、まあ重複というようなことから考えるならば、社会科というもののいわゆる充実ということをはかることによって、相当やはり道徳教育の今出てきている要綱の相当の不満が実施をされていくじゃないかというような見解をお持ちであるのかどうか、そういう点について重ねて一つ御答弁いただきたいと思うのです。
○参考人(村上俊亮君) 各教科で道徳教育がどの程度にやれるかということを詳しく検討はいたしませんでした。がしかし、審議の間にそういう意見が出たことはあります。がしかし、それと同時に、むしろ問題になったことは、各教科で現状において十分に道徳教育を実施しようとしてもやれない、そういう事情を訴える人が多かったように思います。ことに、これを社会科、あるいは特別教育活動等で実施する場合、確かに経験もあり、また能力、技術もすぐれた先生は十分にやっていける、しかしそういう先生でない相当多数の先生によって、そういう教科を通じ、あるいは教科外の活動を通じて道徳教育をやるという点に十分な期待が持てないのじゃないか、それと同時に、道徳教育の必要性が高まってくればくるほど、道徳教育についてはもう少し計画的な、ただ各教科を通じ、あるいは教科外活動を通じてこれを実施していくということだけでなしに、それと並行して、それがもちろん基本的な前提でありますが、それと並行して、道徳教育のための教育計画というようなことを中心にして指導していく、そういうことが必要なのじゃないかという意見が非常に強かった、そう考えております。
○参考人(梅根悟君) お尋ねになりました社会科を充実していくことによって道徳教育効果を上げ得るというふうに考えておるのかという御質問だと思いますけれども、実は先ほどもちょっと申し上げましたけれども、今回発表されました道徳の時間の指導計画というのは、今までの学校の教育の組織から申しますと、社会科というよりもむしろ特別教育活動の中のホーム・ルームでやってきたものに近いのであります。在来の道徳教育の体系というのは、要するに社会科と特別教育課程の中のホーム・ルームとが一緒になって手を結んでやっていくという、こういう体制になっておるわけであります。で、私は、社会科と道徳教育活動とが手を結んでやっていくというこの体制も十分な助言、指導をしながら育っていけば、これが最も正しい方法であるし、それで実績を上げ得るというふうに理論的にも方法的にも信じておりますわけであります。 ついでに申し上げますが、今度は全教科でやるという方針は変えない、方針は変えないというふうに申されておりますけれども、実は全教科でやる中で特に社会科と特別教育活動、ホーム・ルームが道徳教育の中心になっておったわけであります。その特別教育活動に関しましては、答申にすでに特別教育活動から道徳をおはずしになったために特別教育活動の中の学級活動、プリントの十八ページにございますが、学級活動でやることは、学級としての諸問題の話し合いと進路指導と健康指導とレクリエーションというふうに限定されたわけであります。在来は実は、ここに道徳指導というのがあって、これは学習指導要領には書いてございませんけれども、当局の出された他の文書にはそういうふうになっているわけです。その道徳指導が実は学級会、つまりホーム・ルーム中心の使命であった。その道徳指導を抜いて進路指導と健康指導だけを残していらっしゃる、こういうことはこの学級会ではもう道徳指導はしないということなんです。つまり全教科でやると言いながら、道徳が立てられたために、ホーム・ルームから道徳が抜かれておる、こういう事実がある。そういたしますと、やはり社会科の方からも、また道徳教育が抜かれてしまうというようなことが考えられないかというふうなことを心配しておったのであります。大体そういうことです。
○松永忠二君 最後に一つ再度三人の方に個々に見解をただしたいのですが、先ほど日高さんに私御質問しました教育課程は基準は学習指導要領によるし、学習指導要領はだれが作るかといえば文部省が作成をするというようなやり方ですね。このやり方については、どういうふうにお考えになるか。あくまでも教育課程審議会は単なる答申をするということであって、これをはっきり言えば教育課程の基準になる学習指導要領は文部省が作り、しかも、その文部省の作った基準は、そのまま地方で実施をしなければならない、こういう拘束力を持つというような、時間数まできめたものが実際に行われるということになると、教育課程そのものは文部省が作成するということになる、まあ、現状にはなっているのです。しかも、その学習指導要領が先ほど申し上げましたように、教科書の基準になり、検定の基準になるということになると、極論すれば官製教育内容――教育内容がどんどん文部省の手によって改められていくことができる。従って、私が個々の前の学習指導要領の一般編には教育課程はこういうものである、学習指導要領はこういうものであると書いておきながら、法律が全然改まらないのに、もうその説明をした学習指導要領の指導の内容も教育課程の性格もどんどん変ったものがまた出てきてしまうということについては、どうしたらばこれをそういうふうなやり方から除外することができるか、あるいはこのままでいいものなのか、こういう点について三人の方の御意見を最後にお聞かせをいただきたいのです。
○参考人(村上俊亮君) きょうは教育課程審議会の問題についてお尋ねがあると実は思っていなかったのですが、しかしお尋ねがありますから私の考えを申し上げますが、私は教育課程審議会は、文部大臣の諮問を受けて教育課程についての答申をするのが仕事だ、こういうふうに考えております。その教育課程審議会の答申を受けて教材等調査研究会というものがあって、ここにはそれぞれの教科の専門家が入っておるわけでありますが、その具体的な目標や内容、方法を十分検討してもらう。そうすると、ここで大体の基準はできてしまいます。それに基いて学習指導要領ができる。おそらく学習指習要領を作る場合にもそれぞれの委員ができて、参加して作ると思いますが、まあ私はそれで一応差しつかえないと思います。教育課程審議会としては、今申し上げましたように、あくまでこれは教育課程についての基本的な性格なり、その構造を作り上げるということが使命であって、その中に織り込む具体的な内容や方法は一そう専門的な研究なり経験なりを積んでおられる人によって十分に検討してもらうというふうに考えております。それを行政上どういうふうに取り上げていくかということは、私は文部省の責任においてやっていただく、教育課程審議会はそこまでかれこれ言う必要はないのじゃないかというふうに私は考えております。
○参考人(梅根悟君) 私はこの問題につきましては、実は学校教育法施行規則に出ております教育課程は学習指導要領の基準によるという、この文句の読み方について、普通の読み方とは少し違った読み方が必要ではないか、つまり正しいのではないかという考えを最近持っております。それから文句の、言葉のことでございますけれども、「学習指導要領の基準による。」というのを、普通に読みますと、これは学習指導要領の基準というものを当局が作るということであるのではないか、その基準によつで地方教育委員会、都道府県教育委員会が教育課程を作っていくということではないか。作るのは教育委員会が作るのであって、文部省はそれの基準を示すということがこの法令の読み方ではないかというふうに解釈しておりまして、そうしてそれがやはり当然の形であるというふうに考えております。そのことが一つと、もう一つは、その基準を作るにいたしましても、やはり教育課程審議会というものが作るわけでございます。原案を作るわけでございますが、その審議会の構成につきましては、現在のようにやはり文部大臣が、ただ何らの準則なしに委員をお選びになるというふうなことではなしに、たとえばフランスの場合における高等教育評議会の一人選の方法のように、やはりちゃんと基準とワクとをきめて、こういう組織から何名、こういう団体から何名というふうにはっきりした基準の上に委員一の構成が考えられる。これは中央教育審議会の場合も同様でございますけれど、そういうふうなところで基準が作られるということが望ましいのではないか、実際の教育課程はこの教育委員会が作るというのが建前ではないかというふうに考えております。
○参考人(長田新君) ただいまの梅根さんのお考えと私は全く一致しています。私は、強調したいのは、委員会というふうなものを構成する場合、ほんとうに良心的にやってもらいたい。当局の思うつぼに必然的にはまってくるような、そういう顔ぶれで結成するということは、これ実に教育を冒涜するものであり、これは絶対反対です。ここは非常に大事な点です。そのことを申し上げます。
○矢嶋三義君 関連。今のに関連して伺いたいんですが、重複の問題ですね。村上先生にこれはちょっと私質問申し上げたいと思うのですが、今度の改正は、私は特別な意図を持って改正したか、道徳教育にしても特別な意図を持って改正したか、それとも全国の教師の不信の立場から改正したか、どちらかという見方を私はしておるんです。少くとも私は後退だと思う。前進じゃない。というのは、今この学習指導要領について梅根先生と長田先生からお答えがありましたが、これは文部省のお役人が来ておりますが、反駁できない、村上先生も認めざるを得ないと思う。私は全面的に肯定いたします。私は、はばかりながら、戦前、戦中――、戦後ちょっとやりましたが、旧制中等学校の教員をやっておりまして、新教育が発足するときに、私は広島大学に県代表で選抜されて行って、文部省の方から教育を受けた。そのときの指導要領の説明は今の通りであった。それからまた重複は、御記憶あると思いますが、社会科の協力という単元にしましても、あるいは数学の問題にしましても、こういうふうにぜんまい式になっておって、そうして小学校一年、二年、三年、四年、協力の問題が、一年生は一年生らしく、二年生は二年生らしく、三年生は三年生らしく、そういう重要なものは重複して身につけるのだ、もとの教育は一度習ったら卒業するまで習わない、それでは教育は徹底しない。だから重要なのは、こういうぜんまい式に重複するようにしてある、そういう建前なんです。だから問題は教師の質でして、中学校の一年のときに教えた程度、今度二年になったら、同じ項目でも二年を受け持っておる先生がレベルの高いのを教えればいいわけです。ところが、一年のと、二年のと、三年のと勉強を見ると、同じ程度にしているからむだだと思う。こういうのが出てくるわけですね。だから問題は、私が申し上げたい点は、先生の再教育とか、研修の機会をたっぷり与え、それからまた量的にも先生方を確保する、すし詰め教室をなくするというようなことが整備されていけば、私は今の方針というものはりっぱなものだと思う。これは道徳教育にしても、他の点の数学と理科の点についても、重複しているからそれを省くというのは、むしろ私は後退だと思う。私はもうこれで関連だから終りますが、私は数学の教員をやっておったのですけれども、現に私は数学の教師として――経済学も教えました、初歩は――りっぱに道徳教育をやりました、戦前、戦中、戦後。それはやれるのですから――それは教師の勉強と、それから自分が何人生徒を持っているかということ、その先生方がそういう教育をやれる環境というものを政治家や行政官が作ってあげるということが大事だと思う。そういうことをしないで――だからさっきから伺っておるのですが、財政的配慮というものを何らこの答申に少しもうたわないで、そうして重複しているからそれをやめるのだとか、どうも全教科でやるのは不徹底だから、だから特設するのだ、あまりにも私は安易に流れていると思うんですね。御承知の通り、各学校でもう連絡をとって、相当のものを編んで、全教科を通じて道徳教育をやっているのですから、ただ横の連絡と縦の連絡が不十分なところが十分でないわけですから、そのためには教師を確保する、教師に研修の機会を与える、それからすし詰め教室等を行政的に解消するということで解決できるので、この私は指導の理念というものは、戦前、戦中の教育から比べて、はるかにすぐれていると思う。それから指導要領に対する考え方も、梅根先生が言われた通りなんです。私は講習を受けて熊本県下を講習して歩いた一人なんですから、確かに進歩していると思う。それを一挙にやめてしまって、今度のようなやり方というものは、私は大きな後退だと思う。その点どういうふうにお考えになりますか、責任は大きいと思うのですがね。しかも四月から実施するということを、文部省にもう少し準備なりを整えてやれというような警告も発することなく、こういう通牒が出て、教育長は、文部大臣が承認権を持っておって各県の教育委員会の任命制にしてあるわけなんです、そういうふうにしてやるのを教育課程審議会が私は黙認している姿というのは、日本の教育の立場から無責任じゃないか、それを私は感ずるわけです。副会長の方に聞くのは失礼だから会長さんに聞きたかったのですが、会長さんお帰りになったから、かわってお答え願いたいと思います。
○参考人(村上俊亮君) お答えになりますかどうかわかりませんが、今の重複の問題を中心にしてお話がありましたが、前半の問題、これは教育課程全体の問題と、何か道徳教育の問題がごっちゃになっているような気がしますが重複の問題はむしろ教育課程の問題であって、しかもそれは今のおっしゃいました問題は、主として一教科の中の発展的な螺旋的な重複の問題、この教育課程審議会がこの教育課程の、すべての教科についてほぼ通用する問題としてこれの重複を合理化するという場合の問題は、むしろ各教科相互間の重複、それがむしろ主要な問題である。しかしそれと同時に、確かに学年の相互間に、発展的な関係を阻害するむだな重複のあることも確かにあると思います。しかし主として問題は、各教科相互の間、それから各教育領域相互の間に合理的な連関性が欠けておる。それを明確にしないと、その教科、その教育領域そのものの教育の目的や、学習の目的やらがぼやけてぐる。不明確になってくる。そのために教科なり、その教育領域を通じての教育の効果、学習の効果が低下するおそれがある。この事実はやはり私は否定できないのじゃないか、こう思います。 それから後半の問題の教育課程審議会の問題、これも先ほど申し上げましたが、こういう御質問があるとは実は予想していなかったのでありますけれども、私は教育課程審議会は、これは私会長でありませんが、私個人としては、ことに初等部会を主宰する場合の私の考え方は、この教育課程審議会は、教育課程についての答申を出すのだ。それで、その場合に予想される、きょう午前中だいぶ御論議がありました思想的な背景、思想的な前提、こういうものもやらなくちゃなりませんが、しかし私は教育課程審議会は、その方針に立っていくのだ、その前提のもとに、むしろ専門的に教育課程そのものの検討をできるだけ慎重に、かっ詳和にやるということが教育課程審議会の責任じゃないか。従ってそれと関連しでくる行政上、あるいは財政上の重要なる問題も、審議の間に意見としては出て参りますが、それは意見として出てくる程度であって、それを教育課程審議会の答申の中に入れるというようなことは、教育課程審議会としては行き過ぎじゃないか。そういうことをしないかわりに、しかし、教育課程そのものの研究、討議についてはできるだけ慎重に、かつ時間をかけて公正にやりたいという考え方で、私は初等部会を主宰いたしました。その点は、教育課程審議会の性格を、私としてははっきりとそういうふうに割り切っておるつもりであります。
○矢嶋三義君 もう一つ……。
○委員長(湯山勇君) ちょっと待って下さい。あとにして下さい。実は大谷委員、常岡委員、それから皆さんから発言を求められておりますので、なるべくバラエティのある方がいいので、次は常岡君、大谷君からにして、またあとでこちらにしたいと思いますから、御了承願います。
○常岡一郎君 長田先生にお尋ねしたいと思いますが、先ほどのお話の中に、教育は政治と思想の影響の中に運営されていくものである、こういうようなお話がございました。そういうふうに理解をしてもいいでしょうか。
○参考人(長田新君) けっこうでございます。
○常岡一郎君 そうであるといたしますと、今日その思想なり、政治なりの中に教育の運営が支配されるべきでなくて、政治なり、思想なりをいかに消化するかという問題が教育の持つべき大事な問題だと私は思っております。その点はどうお考えになるのでしょうか。
○参考人(長田新君) それが私の言う通りのことでしょう。政治的、思想的……。あなたの今のお考えが……。
○常岡一郎君 結局影響を受けるのでなくて、支配されるものでなくて、その政治、思想の動きに対する消化力をもっと含めて、二つを、全部含めた大きい意味のものが教育でなければならぬと、こういうふうに考えるのでございますが、これはどうでしょうか。
○参考人(長田新君) もちろんそこに価値判断が当然入らなければいけません。
○常岡一郎君 そういたしますと、今日国民が一番悩んでおります問題は、何だか教育というものが、非常に政党の対立のため、思想の対立のために、国民というものが置き去りにと申しますか、巻き込まれて苦しんでいるような現在の教育の姿ではないかというふうにうつりますが、どうでしょうか。
○参考人(長田新君) それが価値判断で、そういう望ましくない政治と戦っていくということが、つまり政治的な意味です。どんな政治でもけっこうということじゃないのです。価値の判断によって望ましくない政治……。
○委員長(湯山勇君) ちょっと御両君に申し上げます。正式に発言の許可を求めて御発言願います。
○常岡一郎君 次に、それはまあそれで了解いたします。 ただ私は、政治、思想の外にといいますか、むしろこれに正しく判断する力を与えて行くのが教育の根本だと思いますので、そういう意味に了解いたします。 次にお尋ね申し上げたいのは、現在の日本におきまして一つ割り切れない問題があります。それは、たとえば、アメリカのやり方に対しては、非常に反米的な考え方が強くなって参りましたのは、これは革新と呼ばれる学者の方にかなり指導力があるように思います。ところが、アメリカの政策の生まれてきた根本をなすものはアメリカの教育だと思います。またアメリカの考え方ですね。そうすると、そのアメリカの教育、考え方のもとに今日の日本の教育が、終戦後非常に指導されるといいますか、影響されてきたことは認めてもいいでしょうか。
○参考人(長田新君) それは一言にして言えないと思うのです。つまりアメリカから入ってきた教育上の見方、考え方にも是認できるところのもの、また是認できないところのものとありま「すので、ただ一がいにアメリカから入ってきたものを是認するかしないかということに対しては、やはり個々の問題について判断をする必要があろうかと思います。その点は……。
○常岡一郎君 その場合に、たとえばソ連の例を引きますが、これは日本の問題でありますが、ソ連の場合とアメリカの場合を考えますと、アメリカは非常に自由な教育であります。従って今日の青少年の姿を見ましても、社会の青少年の姿が、非常に、あまりにもアメリカ式になっているということはよく認めますが、そうすると、ソ連の場合は逆に、非常に自由のないものです。私はソ連に参りましたとき、文部次官にも会いまして、たとえば教科書の問題にしても、全部統一して、国家的な目的で運営をやっているのに、日本はそれをやらないということについては、いろいろ議論をしましたが、それは不思議だと言っておりましたが……。まあそういうふうに、とにかく自由な教育を日本は受けてきております。ところが自由のない方のソ連、中共の教育のやり方と、あまりにも対照的なのがアメリカのやり方です。日本はそのアメリカの方に従って参りましたので、道徳の問題もだいぶこういう影響を受けていると思いますが、その点はどうお考えになりましょうか。
○参考人(長田新君) これに対するお答えも、ただいまお答えしたと同じようなお答えになろうかと思いますが、ただアメリカの自由主義、こういうことだけでいいか、悪いかというふうに考えるのは、抽象的な考え方であり、ソビエトの行き方というものが、ただ頭からいいとか、悪いとかというようなことはむずかしいのです。私はアメリカから入ってくる自由主義と申しますか、そういうものの中にも、個々の具体的な問題について日本は日本として日本の歴史と伝統と現状とに即してアメリカのいわゆる自由主義の中から取り入れるべきものは取り入れてよいし、取り入れてならないものは取り入れちゃならない。同様にソ連だから悪いということはないはずです。ソ連でやっておるいろいろのことの中でやはり取り入れて日本の教育をりっぱなものにしていく上について取り入れていいことは取っていい、つまり自主性ということが問題であった、対米、対ソの問題はこの教育問題としては私はごくおおらかな気持で是々非々と申しますか、何が是か何が非かということは日本の歴史と伝統と現状というものを踏まえて、その上で価値判断しと申しますか、判断をしていくべきであって、ソ連からとか、アメリカからというふうに考えるのは単なる偏見にすぎないところであって、民族の自主性にのっとって取るべきはソ連からでもアメリカからでも自由に取っていくというふうな考えでなければ、りっぱな国はできない、こういうふうに考えております。
○常岡一郎君 そこで今お尋ね申し上げたのは、次のことを聞きたいから申し上げたのですが、先ほどあなたは平和問題に結びつかないような人権の尊重というものは観念論だ、そういう中から真の道徳教育というものは生まれない、こういうお話がありました。従って平和というもの、一番平和問題を根本にしなければ道徳の基本はできないというふうに了解いたします。そうすれば、ソ連の唱える平和という問題と資本主義の陣営が唱える平和という問題は非常に大きな差があるように思いますが、平和の理念の根底をどちらに重きを置いておられるかということをお尋ね申し上げます。
○参考人(長田新君) 私はアメリカの打ち出してくる平和と、ソ連の打ち出してくる平和とは根本的に違うということが私には実は理解できません。どういう点をさしてこの両国の平和、平州の運動、平和の性格が違っておるのか、ちょっと私にはわかりません。御説明を願います。
○常岡一郎君 あなたが教育学会の会長という重大な立場に立っていらっしゃる意味で、一度実はそれをお教えを又けたかったのです。言いかえますならば、むしろあなたがそういうことを仏に質問するという方が……。たとえばこの自由主義陣営の唱える平和と、米産主義陣営の唱える平和との違いがめることははっきりしている。
○参考人(長田新君) どうも喜平和ということにおいてアメリカの考え方とソこエトの考え方とが違うというふうなことが私には納得ができない。平和に一つはないからであります。
○常岡一郎君 平和という問題を結びつけないで人権尊重もなければ、それから道徳教育もないとあなたはおっしゃったから、それではソ連とアメリカがどちらも平和を唱えながら、現実の世界においてすべての青少年が悩んでいる問題は、平和を唱えながら、平和を進めながら非常に危険な状態にはっているということは事実であります。これをどうお考えになりますか。
○参考人(長田新君) それは似て非なる平和であって、ほんとうの平和でないということじゃないでしょうか。東洋平和に名をかりてしょっちゅう侵略戦争を日本がやってきたように、名を平和にかりて実は侵略主義、軍国主義というふうの場合もあろうと思うのです。たとえば第三期的に突入したアメリカ、その他の国の資本主義というものは平和を品にして実は侵略です。そういうふうなことであって平和じゃないのです。
○常岡一郎君 それならば、今の平和の問題をなくしては観念論だと言われた、それが根本問題であるからお聞きします。
○参考人(長田新君) その点を今お答えします。今のお尋ねの点ですが、こういうことです。私は人間の尊重ということはこれはもうたれも異議がない。ただしかし、この人間の尊重ということを道徳教育の根本として出す以上、今日あるいは世界歴史の現段階において、もうちょっと具体的に問題を掘り下げなければ観念論に終ると、言いかえれば人間を尊重するということは、どうしても今日の世界の動きから申しまするというと、どうしてもこの平和という問題に取り組まなければならない。平和問題に取り組みもしないでおいてただ人間の尊重、生命の尊重ということは私は観念論に終ると、だから教育課程審議会が道徳教育の基準として人間の尊重ということを出したからには、そういういわば観念的なところにとどまらずに現実に、現実というものに取り組んで平和の問題に行かなければほんとうの生命のないものではないかということを私は申し上げたのです。
○常岡一郎君 観念論ではいけないと言われながら現実の問題を回避しておられるような気がするというのは、アメリカは帝国主義の侵略主義とおっしゃったが、そしてソ連は、しからばソ連の平和が真の平和の理念であるということを証明なさるのでございますか。ちょっとお尋ねいたします。
○参考人(長田新君) ソビエトという国は、アメリカは平和主義であって、ソ連という国は平和主義でないということは私には了解できません。私の理解するところでは、御承知のごとくアメリカは帝国主義の段階に入っておる。ということになると、帝国主義の段階に入っておる国の一体口にするところの平和とはどういう平和であるか、多少そこに疑惑がある。私はソビエトという国は帝国主義ではないと考えております。その点においては見解の相違でしょうけれども、たれも今日ソビエトの社会主義というものを帝国主義と考える者はないでしょう。私はそういうふうに考えております。
○常岡一郎君 そこで、あなたがさっき平和問題と結びつかない人権尊重は観念論で道徳教育でないとはっきり言われたから、これをお尋ねしておるのです。今のソ連は侵略主義でないと、こう言われる問題については、これは非常に問題でありますが、今ここで問題を言うべき時間がありませんので、この点は私は侵略主義でないとは言えないいうことをはっきり申し上げまして、次の問題をお尋ねいたします。先生は、日本の教育学会の会長というり非常な重大な立場に立っていらっしゃるので、世界と日本との問題も教育の上ではよく比較対照していらっしゃるものと存じますので、こういうことをお尋ね申し上げますが、それは現在アメリカ式の日本と申しますか、そうした線に沿った日本の教育方針と、それからイギリス、ドイツのような宗教を根底にした教育方針と、それからソ連、中共の方はこれは独裁政治のような形をとっておると、自由という点は決してないと私は見てきましたので、そういう方面と、非常に規律正しい国家統制のもとにおける教育と、この三つの大体線があると思いますが、その線で先生はどこの線が一番社会の姿としては、道徳教育の点で一番高い水準にあるとごらんになったのですか、ちょっとお尋ね申し上げます。
○参考人(長田新君) どうもお答えしにくいようなお尋ねですが、なるべく御質問に沿うようにお答え申し上げます。まあどこの国でもその国の歴史なり伝統なり、国の現状というものにあくまでも踏まえて教育のみならず考えるわけですが、この宗教の問題が出ましたが、これはこちらにいらっしゃる村上先生と多少意見の相違ではなくて、事実についての観察の違いも先ほど出たわけですが、御承知のようなふうに、西洋――ヨーロッパの学校というものは、教会というものから、教会に抱かれて近世以来ずっときたのですから、そういう関係で西洋の諸学校には比較的最近まで――十九世紀、二十世紀まで学校というものに宗教科というものがあったわけなんです。ところがだんだん国家主義時代になったものであるから、どうしても宗教科というものを学校教育の外に出さなければならない、こういうことが非常に長い間の問題であったわけです。そういうことで一応第一次世界大戦ごろまでに、国によって早いおそいの相違はありますけれども、宗教科というものを中世紀以来の伝統的と申しましょうか、そういう宗教科というものを一応公立学校の外に出したわけです。これは日本の国のことを考えてもわかるのであって、宗教というのを学校で教えるということになると、西洋で申せばカトリック教と新教というものがあり、またその両者にいろいろの宗派的な関係があって、そういうものを国家組織の中の公立学校に入れるということは、非常に困難があるというようなことが想像できるわけですが、だんだん第一次世界大戦ごろまでにおおむね出したわけです。そういう意味で学校におけるいわゆる宗教科というものは、一応ヨーロッパの国々から影をひそめたわけです。アメリカにはもともとないわけです。ところが先ほども承わりますと、ごく最近西ドイツあたりには宗教科というものがまた実際に復活してきたということは聞きましたが、これは私にとっては新知識です。そういうわけで宗教科というものはそういうふうな形をとったのです。結局家庭の生活なり、社会生活の中に宗教というものはあって、学校の中に宗教科を置くということはまずまずなくなってしまった、こういうふうに言うことができょうかと思うのです。それからフランスには道徳科があるということをちよいちよい言う方があります。私もそれが専門でたびたび西洋にも行って調べましたが、これは間違いなんです。フラ、ンスはいち早く学校の宗教科というものを除いてシビィク、英語のシビックス――公民科というものを置いたわけです。この公民料というものは、どちらかと申しますれば、日本の今日で申せば社会科あるいは公民科とかというふうな、むしろ性格を持っているものであって、これを道徳科、少くとも日本人の考えるような修身道徳というふうに考えるのは、私は専門的な立場から賛成できません。こういう意味で私は先ほど修身科と、特設された修身道徳というものは一般にないということを申したのはそういうわけなんです。私はやはり日本もかくあるべきものではないか、宗教というものを学校に入れるということは、日本はやりやせんけれども、やれることでもないし、西洋でさえも、ヨーロッパでさえもああいうふうにやってきておる、こういうふうに考えております。これは村上さんのヨーロッパをごらんになったのとちょっと食い違いますけれども、多少また解釈で、フランスのシビイクを、公民科をむしろ道徳科、修身科というふうにこう見ることが、一体できるものかどうか、私はそう見るよりは、公民科とか今の社会科というようなものとして見る方が正しいではないか、こういうことに見解じゃないが、向うの様子についての考えが分れた、そういうふうに考えております。
○常岡一郎君 今のお答えではっきりしませんけれども、時間の都合で、ただここに平和の問題を根本的におっしゃったので申しますが、その場合に人間と人間の問題、国と国の問題を主にして参ります場合には、いろいろアメリカ式といいますか、ソ連式といいますか、何か割り切れないものが今あるわけです。ところが、自然が教えるところの宗教の問題からいいますと、人間と自然との関係、そういうものを根底にしている、こう考えておりますが、その場合にはすべて相反するものが、対立したものが全部闘争にいかないで全部一つになっております。たとえば永遠の軌道を持つ地球の軌道にしましても、遠心力と求心力、人間の肉体にしましても、酸性とアルカリ性の平均のとれたものがあって、初めてすべての平和の原則があると思います。すべての問題がそうなりますので、こういう点から見ますときに、反対派の方も今のソ連の考え方ですね、今度の自由選挙なども絶対ないソ連の姿を考えましても、平和の元祖のような印象を与えるようなお言葉がありましたので、それが何だか、その点を一つお尋ねして、非常に重大な立場に立っていらっしゃるだけ私は特にお尋ねせずにはおられないから、お尋ねをするわけであります。
○参考人(長田新君) その点については、私にはお答えできません。
○常岡一郎君 それではもう一つお尋ねいたしますが、平和々々と言いますが、平和というものは争いのない姿である、個人々々の問題が、けんかが悪いとわかっており、国と国との場合は戦争が悪いとわかっておって、階級と階級との闘争を認めるというような姿に、非常に割り切れないものがあります。こういう場合に争いの性質は、階級の場合はいいでしょうが、あとの場合はいけないという理論はどこにあるか、そういう場合に、教育学会の会長という立場に立っていらっしゃるだけに、ことに平和を語らざれば道徳教育なしとまで言われたお方だけにお尋ね申し上げます。
○参考人(長田新君) 階級と階級との戦争は私は何も是認しておりません。階級と階級の戦争も望ましくないのだ、そういう階級と階級との、ブルジョアとそれから。プロレタリアとの利害相反する対立があって、絶えず闘争する、そういうような、そういうふうな社会は平和の社会ではありません、望ましくない、いかにすればこの資本家と労働者、ブルジョアとプロレタリアとの争いがないような社会態勢ができるかということが、世界歴史の根本問題であるということを私は考えております。
○常岡一郎君 最後に一点……。
○竹中勝男君 ちょっと議事進行について。だいぶ道徳科特設の問題、道徳教育の問題から、内容の問題に入ってきたようですがね、そうするとこれはいろいろに議論がそこで分れて、そういうことはこの委員会の今日の公聴会の参考人の目的じゃないのですから、逸脱しないようにしたいと思います。
○委員長(湯山勇君) 了解しております。
○常岡一郎君 最後に一つお尋ね申し上げます。それはペスタロッチの例をもってお話がありましたが、先生がペスタロッチを非常に崇敬せられて、傾倒せられて、それはわれわれもよく傾倒するものでありますが、だからといって道徳教育というものは必要がないのだ、道徳教育に質的なものは要らない、それはよくわかりますが、ここでお尋ね申し上げたいのは、ペスタロッチのような人が人格、体験を通してのそれがほんとうの道徳であって、それ以外のものは教えるなんということは全然意味がないのだというお言葉でしょうか。
○参考人(長田新君) お答えします。そういうことを申したと思わなかったのですが、この何ですね、ペスタロッチの考えた道徳教育、やった道徳教育というものは、私はどこにも当てはめ得る原則ではないか、こういうことを考えたものですから申したので、それはもう繰り返すことになりますから簡単に申しまするけれども、ペスタロッチという人は、教科なり時間なりを特設するという方法ではだめなものだと、こういう考え方から子供と一緒の学校生活をまるで道徳の結晶体のようなふうにまあいわば作って、その中でほんとうに道徳を身につけさせた、こういうことです。これはペスタロッチならできるが普通の先生方にはできないから、だから特設科を作るとか、時間を特設するということは、私は了解できないわけです。つまり。ペスタロッチのやった生活を陶冶するというあのやり方はだれにもどこにも当てはまるようなそういう原理ではなかろうか、こう考えておるわけなんです。別に道徳教育反対ではない、ちょっと、非常に不穏当のことをよく聞きますけれども、日本教育学会などで修身科の特設に反対したりあるいは時間特設に反対するというと、相当の中央の新聞さえも、日本教育学会は道徳教育反対だと、そういうことを、そういうふうに報道なんかもされたこともありまするけれども、とんでもない誤解であって、もう道徳教育に不賛成ということは絶対にないのです。問題は、ほんとうの道徳教育がどうしたらできるかということだけが問題で、簡単です。それでやるかということが私は問題だと思う。だから道徳教育ということはだれも否定はしないし、ペスタロッチなんか反対どころか道徳教育がほとんど教育そのもだという勢いでやっておるわけなんです。
○常岡一郎君 ただいまのお話で、前とは、速記録をごらんになるとわかりますがだいぶ違っておると思います。それで、今の御説明ならば了解できます。 次に、そこでその問題で一つ申し上げますが、それならば確かに先生がおっしゃるように、判断力を与えるというようなことは、それはだれができるかといったようなお話がありましたが、判断力を正しく与えるという自信を持つ人はないかもしれませんけれども、少くとも現在の小学校、中学校の生徒というものは先生の人格から受けるものは非常に大きい、むしろ知識の問題よりもその方が非常に大きいのであります。従って、担当の先生の訓化というものは重大な問題で、全日本の父母の最大の願いであります。だからその先生たちがせめて一週間一時間だ山けは知識の世界を離れて、人格的な居場所としての教育をするというようなことで、教えなくても一緒に生活する、先生みずからも、たとえば。ベスタロッチのようなそういう自覚を、みず一から教育者であるとともに人間てあるとして、同時に知識を教えるだけでなくて、人間であり。ベスタロッチのような教育的その情熱というものを呼び起してもらいたい、今日一番なくなっておると憂えられておるのはその点でありますから、その点ではむしろ賛成、 理論からいったらその一時間をそういう面において、知識の面でなくて人格の面において、先生は知識だけでなくて生きてこられた生活の体験者であります、その面からいくならば当然必要だと思いますが、そういうふうに理解してもいいでしょうか。
○参考人(長田新君) ちょっと違います。さっきも申しましたが、道徳的判断力ですね、これはもういたさなければならぬ。ただ問題はほんとうの道徳的判断力はどうしたら養えるかというだけが私は問題だというのです。さっきも申しましたけれども、それは特設時間や特設科などではだめだと私は考える、ペスタロッチとともに。そうではなくて子供の、学校で申せば学校生活そのものの生活の中で特に判断力というものを養っていく、体験を媒介として、生きた血の出る体験を媒介としての道徳の判断力というものは身につけさせなければ何もなるものではない、こういうことだけを申したのです。
○高田なほ子君 三、四点お尋ねしたいと思うのですが、先ほど梅根先生から御指摘がございましたが、現在の社会科は三十一年度に内容が改められて実施された。ところが、それが一年実施しただけで、今度道徳教育ということになって、だいぶ一年の期間ということでは教育の効果そのものについても十分はかることのない上で改革していくということについてはこれはまずいじゃないかというお話がありました。私は全くこれと同感を持つものでございますが、付上先生はこの一年間という実施期間の中でどういう欠陥があるから時間の特設にしたのか、審議会では実施後一年間の教育の功罪というものについてどんなふうに分析をされたのですか、それを伺わしていただきたいと思う、これが一点です。
○参考人(村上俊亮君) 一年間というような限定で問題は考えませんでした。確かにそういう改正が行われていることはわれわれも承知しておりますが、その後の経過、問題点ということでなしに、今日の主として小学校、中学校の教育全体を見ていくような立場でこれは審議が行われました。特設の時間の問題についてのちょっとお尋ねがありましたが、その審議会の審議の経過をここで申し上げるのが妥当なのかどうかよく存じませんが、ただ問題の発展した経過だけを申し上げますると、先ほど私が申し上げましたように、確かに道徳教育の問題は、道徳というものの基本的な性格や、道徳教育の基本的な性格から見て、これは人間の生活、人格そのものの関係を通して行わるべきものだというこの原則はだれも認めるごとだと思います。これを認めない人はないと思います。だからその原則からすれば、この問題を学校教育に持っていけば当然学校教育の全課程、全教科を通じて行うという考え方がこれは原則であるべきはずであります。これが原則であれば、それが道徳教育の理想的な姿であることも申すまでもないと思います。ただこれは、いわゆる道徳教育の原則や理想的なあり方であって、理想的なあり方、原則がそのまま出てくるためにはいろいろな条件が要るわけであります。しかし、実は必ずしもその必要な条件がない、そのために現実においてはそういう原則や理想的なあり方をそのまま実施することができない、そういう問題の一つとして私がきょう午前中申し上げましたように、それぞれの教科、あるいは教科外活動というものは、それぞれ独自の教育の目的を持っております。国語は国語の、算数は算数の、理科は理科の特別な教育の目的や学習の目的を持っております。従ってこの教科としての立場としては、まずこの課せられた特定の教育の目的や学習の目的を追及しなければなりません。また、それを追及することが先生の大きな役割だと思います。そういうところから現実においては起ってくる一つの矛盾がある。それは各教科全課程において道徳教育をやるという考え右ば、最も望ましい道徳教育のやり方であるけれども、現実においてはややもすると、それがどの教科もどの教育領域においても責任のある道徳教育が行えない。どこにも責任があるが、どこにも責任がないといったような欠陥を現実においてはどうしても引き起してくる。そういう意見が非常に強かった。そうすると、これをどこかで責任を持って、教育でありますからこれはでたらめじゃなくて、計画的にやらなくちゃなりません。まあ系統的という言葉がいろいろな誤解される言葉でもありますが、確かに教育というものは、計画的また系統的にやらなくちゃならないと思います。で、そういう計画的な、あるいは系統的な教育を道徳教育でどこかでやるものがなければ、結局道徳教育はどこでもやれないか、またやらないといったような状態が一般的には起りやすい。しかしこれは、そういう道徳教育の本来のあり方を実現できるりっぱな先生もたくさんおられますから、社会科を通じてりっぱにやっておられる先生もある。また特別教育活動を通じてりっぱに道徳教育をやっておられる先生もたくさんあります。しかし一般的な事例はどうもそうでない。そうすると、どこかでこれを救済し、どこかでこれを是正する道徳教育の方法を考えなければならない。そういう意見が非常に強かった。私も全く同感であります。そうすると、道徳教育についての計画的な指導がやれる。その指導の方法はこれはいろいろあります。これは教科を通じてやってもいいし、先ほどからたびたび御発言がありましたが、皆さんが言われるように、これは特別教育活動をやる。事実活動を通してやる方法もあります。そのやり方はいろいろあります。がしかし、責任を持って計画的に合目的的にどこかでやる、そういう教育の領域がなければ困るんじゃないか。それについては最低ある時間が必要なのじゃないか、教科ということはいろいろ問題を持っているし、いろいろな危険を持っているから、教科として扱うことには危険がある。その危険なことは、先ほど私が申し上げたように、われわれが十分経験しているから、これは避けなくちゃならぬが、だからといって計画的な道徳教育の機会をどこかで与えなくちゃならぬ。学校教育の責任を捨ててはならない。まあ、そういう御意見で教科とはしないが、そのために時間を特設するという意見が皆さんの意見でありました。まあこれは、皆さんの意見の経過、問題点の経過であります。
○高田なほ子君 大体、今わかりました。また文部省の方で御答弁でも、時間は特設するけれども、教科ではなとはっきり言っておりますが、私どものこれは、考え方は、特設した時間の中で、一つの倫理的な徳目を教え込でいくということになれば、明らかにこれは教科ではないかという疑いを持っていますが、ここではそれを論争いたしません。ただ疑問に思いますことは、しからば時間を特設して、どの時間にやるのかという質問に対しては、ホーム。ルームの時間にやるのだと、こう言っているのです。なるほどホームルームの時間を今まで十五分か二十分くらいでしたか、これを延長してやるという、それはそれとしていい広十が、今、度お出しになりました、この内容から見ますと、今度のホーム・ルームの活動の内容を規定してあるようです。これは、先ほど梅根先生も指嫡されましたが、これを拝見いたしますと、学級としての諸問題の話し合いと処理、学級の中における問題の処理、これは社会の問題ではないか。進路指導、これもよく、私にはわかりません。それから健康指導、それからレクリエーション、これも十分内容はつかめません。こういうばく然とした今までのホーム・ルームとは若干内容が規制されたものになってきているというのではですね。今日までのホーム・ルームと同じような形でただ時間を少しよけいに取るのだということに説明されておりますけれども、大分内容が変ってきておるわけなのです。で、私はこの内容についてはなはだしく疑問を持つとともに、今日までの永ホーム・ルームが果している役割というものから、ずっと今度は後退してしまって、学級の中における規律等の問題がこの指導あるいは話し合いの中心になるということになって参りますと、どうも生活指導そのものについてのお考えというものも私は聞いてみなければならないと思う。 で、もう少し問題がここから飛躍するのでございますが、一体その生活指導というものをどう見ていらっしゃるかということ。これは私の考え方ですが、教科の領域の中で一つの教科というものの領域の中で主として教師の能動的な活動で子供を教師が引っぱっていくという形で教科指導のような形で生活指導をやる。 もう一つは習慣、の形成、しつけであります。廊下を歩くときにはこういうふうに歩くとか、外から帰って来たときにはこういうふうにして手を洗うとか、礼儀正しくするという、こういう個々に切り離された習慣の形成、つまりしつけの問題が含まれる場合があると思う。生活指導の中に。 もう一つは、社会の仕組みの中で私たちはどうあるべきかと、こういうふ「うに突っ込んだ生活指導と、三つの形一に分れてくるのではないか。まあ画然と分れるわけではありません。私は、今日の生活指導というものは、一番最後にあげた社会の仕組みの中で私たちはどうあるべきかということをこれをお互いに検討していくということが、即一つの私は道徳教育の正しいあり方ではないかというふうに考えるわけです。 でこれは、この間のラジオの録音で親孝行という一つのテーマで話を出した問題ではなかったかと思いますが、炭鉱街の子供たちの会話なんです。最近お父さんが非常に疲れて帰って来るから、僕は帰って来ると肩をたたいてやるんだよと言う。いや僕は、お母さんが酒を買ってきて飲ませれば、少しは疲れがなおるからお酒を買ってこいというから大急ぎで酒を買ってきて飲ませる。お酒を買うお金がないからお母さん一生懸命内職しているから、お母さんだってかわいそうだといういろいろな話が出た。その中でです、なぜお父さんが疲れるんだろうというところにこの子供たちの話が入っていきました。で、いろいろ話の中で、この子供たちが見出したことは、あまり働く時間が長過ぎるのじゃないか。なぜそんなに働かなければならないのだろう。賃金が安いのじゃないかというような問題に子供たちは実際の数字をあげて話し合いをしていったわけなんです。で、お父さんに孝行をしたいと思う場合にはです。ぜひこれはもう少しお交さんが楽に仕事ができて倒れるほどにまで疲れにならないような、そういうような仕事のやり方というものが考えられなければならないじゃないか。こういうようにして、お父さんに対する愛情というものが社会の仕組みと直結しながら子供たちは父親に対してどうなければならないかということを、個々の生活体験の中から取り出しているわけです。従って、今度皆さんが大へん御苦心をしてここに作って下すった徳目には、いろいろこのどれもこれはけしからぬというような項目は一項もないのです。なるほどと思うようなことなんですけれども、こんなにまで行動を規制しなくても社会の仕組みということを理解させ、その中で自分たちがどうするかという自分たちの知恵で考えさせ理解させ、そうして自分たちのできるだけの実践をしていくという理解の上に立った実践を指導していくということが、私はほんとうの意味の生活指導であり、ほんとうの意味の私は道徳教育ではないかというふうに考えるんですね。(「ノーノー」と呼ぶ者あり)それをです、せっかく今までのホーム・ルームのやり方をくずしてしまってレクリエーションだとか健康の指導だとか、進路の指導だとか学級の処理だとかという、こういうホーム・ルームの内容の変革は、はなはだしく私は後退していく性格のものではないか。これでは道徳教育と口では言うけれども、徳目の押しつけではないかという私は非常な疑問を持つものであります。これに対しまして私の考え方が間違っているかもしれないのですから、村上さんあるいは長田先生、梅根先生、どなたからでもけっこうですが、お教え願いたいと思うのです。これは私の大きな疑問でございます。
○参考人(村上俊亮君) 今、特別教育活動の問題が出ましたが、今おっしゃいました特別教育活動の内容は、主として中学校の特別教育活動の内容であります。小学校の特別教育活動ではありません。小学校の特別教育活動は従来の性格を少しも変えていないつもりであります。むしろ特別教育活動の性格をはっきり打ち出したつもりなんです。と申しますのは、従来は教育活動、教科外活動というふうに大きく分れておりました。これは、先ほど梅根さんからお話がありました教科外活動という中に、すべての教科外の活動をぶち込んで一括してやっていく。それを特別教育活動、言いかえれば子供の自発的な自治的な活動を中心にして営なまれる活動、また学校の責任において行われるたとえば学芸会、動運会、学校行事そういうものも一緒にして教科外活動としてこれを考えました。そのためにむしろ特別教育活動の性格の面がこわれた面があります。それでは困るというので小学校の場合については学校行事その他学校の責任において行われる活動から、子供自身の自主的な自発的な活動に基いて行われる活動をはっきり分けました。それは特別教育活動の性格を強く出すためであります。これが一つの問題、それから、先ほど教科という話がちょっと出て参りましたが、これは前後いたしますが、教科ということは確かに考え方であると思います。しかしわれわれは、参考人の先生の方からたびたびお話がありましたが、教科については何か特殊な通念を持っております。必ずしもプラスの面でなしにマイナスの面を持っている、教科の一つの既成概念を持っております。そういうところから教科という言葉はよほど慎重に使わなければならぬと思います。教科ということの教育学的な意味と、教科の通念とはこれは分けて考えなければならぬ。もし教科ということを教育学的に正確に考えるならば、特別の教育の目的をもっていて、それに対して計画的な配列ができて指導していくということであれば、これは教科と考えることもできると思います。しかし、今の日本の現状でそれを教科と考えると、従来の教科の既成概念と混同されて、教科についての考え方を混乱させるおそれがありますから、今の段階においてはそういう教育学的なほんとうの意味の教科、われわれの通念として必ずしもいい概念だけは持っておらない、長田先生からしばしばお話がありましたが、主知主義的な考え方を持っている、そういう教科の概念からずらす必要がある。 それから生活指導のお考えでありますが、これは私も同感であります。ただ生活指導というものが道徳教育において占める位置というものは考えてみる必要がある。道徳教育即生活指導ではなくて、確かに生活指導というものは道徳教育の役割を大きくになっておりますが、生活指導、にはまた生活指導固有の教育目的があります。だから、生活指導即道徳教育とは言えないのじゃないかというふうにも考えております。
○高田なほ子君 長田先生、この問題どういうふうにお考えになりましょうか。
○参考人(長田新君) ただ一つ最後の、原則的なもの、あるいは基本的なものだけを示して、これを実際先生方が運んでいくのには、やはり子供を見詰めながら、また地域社会というものを見詰めながら、この言葉のよい意味において、自由にこのことを運んでいくのがやはり教育的だと私は考えていますから、あまり事こまかに煩瑣哲学のように、煩瑣に文部省あたりからあれやこれや並べることはかえって道徳教育の生命力を阻害する憂いがありはしないか。そういう点においては、私はあなたのお尋ねに対して全く同感です。つまり基本的なものをはっきり出して、これが応用は生きた子供を見詰めながら、地域社会の現実を見詰めながらやっていかないというと、仕事に生命がない、こういうふうに考えるのです。ただ煩瑣哲学なんという言葉を使うと、あんなに煩瑣に打ち出したのも動機は私は非常にいいと思うのです。というのは、今日の日本の先生方の様子を見ると、よほど事こまかに打ち出しておかないとどうにもならないのじゃないかという、悪く言えば老婆心、よく言えば親切心から、やはりあれもこれも取りそろえてそこに並べる動機はまことによくわかるが、しかしそこにやっぱり問題があって、ついとらわれて煩瑣哲学のもたらす弊害をやぼりもってきゃしないか一種のこまかい徳目主義に堕するという心配がありゃせぬかと思うから、基本的なものをぽんと出して、あとはさっき申したようなふうにやらせることがいいのじゃないか、こういうふうに考えます。
○高田なほ子君 今、現場の先生方で言うところの道徳的な指導をなさる場合に、今でも古い観念の思想と、それから新しい時代の子供たちの考え方というものが、絶えず相剋している。この相剋のために現場の教師は非常に悩んでいるわけなんです。古い道徳ということについて説明するのもどうかと思いますが、上からの道徳と申しましょうか、そういったようなものに縛られることが、それが正しいのだというような行き方でくると、今の子供たちが考えるのはそうじゃなくて、自分たちが判断して正しいと思うことは正しいのだというように考えておりますからね、非常に相剋してくるわけです。 たとえば今度の、日常生活の基本的行動様式の中に事こまかに規定してあるわけです。この中に「服装・言語・動作など時と場所に応じて適切にし、礼儀作法を正しくする。」こういうふうにしるされております。これは全くごもっともなことなんです。こういうような場合に、たとえばお葬式に行くなんという場合には、ふだんの服にちょっと喪章でもつけていけばいいというふうに今の子供たちは考えていますが、親の方は、これは格式のあるうちだからそれじゃいけないというようなことで無理算段してでも一応のそういう作法を心得なければならないというふうに親が言う。この場合に子供たちはどういうふうにするかということについてはずいぶん考えさせられるわけです。しかもこの中には、今度出された中には、「自分を反省するとともに、人の教えをよく聞き、深く考えて行動する」低学年においてはあやまちや欠点をすなおに認めることを指導することに主力を置く。ですから、上から言うことに対してはやっぱりすなおにいつもこれは認めて、自分の言うことはできるだけへりくだってというようなしつけをするようでございますが、これでは私は真の道徳教育というものは、社会の発展のために真の道徳教育というものが大きな役割を果さなければならないという場合に、古いわれわれの上から押しつけられてきた道徳観というものが、新しい社会党展の道徳教育に大きなブレーキをかけるということについては非常に現場の先生方がお困りになっている場合が多いのです。従って結論的に言えば(「もういいかげんにしたらどうですか、参考人が気の毒だ」と呼ぶ者あり)もっと静かにして下さい。道徳教育です、しつけが悪いのですね。
○委員長(湯山勇君) 私語は禁じます。
○高田なほ子君 そういうわけでありますから、あまり事こまかなこういう規定を一々一々これを書き並べて、厳格にこの規定をしいていくというようなやり方は、私はどうも賛成ができませんが、こういうものの取扱いについて今度法制化するそうでありますから、おそらく法制化されれば、これは時間待設ということになって一つの教科となって、これらの事こまかな内容が、厳格に上から規制するということになれば、私は道徳教育の社会党展に寄与する部が非常に少くなるのではないかという危惧を持つ者の一人なん一です。こういう点については御論議になられたかどうか、この問、題は梅根先生にも御意見を伺わしていただきたい。
○参考人(村上俊亮君) 新しいこの道徳教育の指導の内容や方法について、今一応出ておるようでありますが、これはしかし一応の目安であって、先ほど悔恨さんもおっしゃいましたように、決してそれはそのままこれを現場で実施しなければならぬというものではないのであって、現場で教育計画を立てる場合の一つの基準、目安になる、その点は、私はむしろ現場の先生は、しっかり自主性を持っておやりになったらいいんじゃないか、それを上から押えつけるというようなことはないと私は思います。
○参考人(梅根悟君) 今回の案が、やはり上からの押えつけになるのではないかという御質問がございました。部分的に見て参りますと、確かにおっしゃるような、そういう感じのするものが入っておることも、私もまあ若干懸念いたしておりますものであります。と同時に、この押えつけ、あるいは教え込みということは、内容の問題がきわめて重要でありますけれども、同時に、これはやはり方法的にも考えてみなければならない問題でありまして、先ほどから私何回も申し上げておりますけれども、在来、生活指導でやってきたものを、ある程度上から取り上げて、特設時間でやるということになりました場合の違いというものは、やはり特設時間となりますと、一応そういうふうにすることは、必ずしも望ましくないと説明はしてありましても、やはりどうしてもきちんと一週に一時間をとってやるとなれば、これは他の教育計画との関係で、どうしても何曜日の何一時間日かにこの一時間を加えなければなりません。そういたしますと、それにおよそ何週の何曜日にはどういテーマでやる、何週の何曜日にどういうテーマでやるというようにテーマがきまって参ります。これは子供たちが日常生活の中で、いろいろな問題を起してくる。たとえば、お掃除をするのに、最近はどうもお掃除をサボる者がその仲間にいる、これか一体どうするかというふうなことがそのときに取り上げられて問題にされるということになる、これがやはりホーム・ルーム的な生活指導の実は非常な特色であります。ところが、それが一週間に時間がきめられて、何でもかんでもその時間がくると、何かのテーマで子供たちに話し合いをさせる。何か現実に子供たちが切実に感じてくるし、よそよそしいところで一つの話し合いをさせるというふうな、いわば形式張った指導がなされる、このことがやはり押しつけになる一つの問題点だというふうに私は考えております。そういう意味で、やはり私はこの社会科と、それから生活指導、こういう二本立でいくことがやはり正しいんだということを繰り返して申し上げたのでありますが、そういう社会科と生活指導の二本立でいくほかに、特設時間を設けるという場合、特に小学校では、先ほど村上さんがおっしゃいましたように、一応生活指導の方も道徳指導を残してあるということでございまして、いわば三本立という形に小学校の方はなっておりますが、その三本立を具体案について、見ますと、これは、たとえば四十三ぺジにみどりの週間というテーマが例にあげてございますけれども、ここを読みますと、つまり資源愛護というふうなことについては、これは社会科でやるんだ。そこで、ここでは自然に親しむ、自然を愛するといったことだけをやっていくんだというふうに申されておりまして、中身は「みどりのひかり」という映画を見るだけだというふうなことになっておる。これを見て参りますと、やはりこれは社会科における資源愛護という単元で、日本の、たとえば山がはげ山になってしまっているのを、これをどういうふうにして政治的にも、経済的にも、また全国的にも、国家的にも、地域的にもこれを直していくかというふうな問題の中で、この自然愛護という気持が養われるというふうなことが喜正しい行き方であるというように考えております。それから生活指導の関係を、例をあげて申しますと、たとえば四十六ページでございますが、「夏休みの計画」というものがございまして、これを読んでみますと、「夏休みの計画を立てよう」ということについて、学級会、児童会、つまりホームルーム、「学級会、児童会では、夏休みのくらし方についての申合せやきまり、地域的集団活動などを取り扱う。」ようになっている。そこで特設時間の方では、今度は「自分の個性を生かした夏休み計画を立てることを主として指導する」というふうに書いてございます。これなども、実際みんなして、どういう夏休み生活をしていこうかということの中で、めいめいどうしようかということが考えうるべきであって、これを非常に離れたところで、きょうは学級会だから、クラスの夏休み計画を考える、きょうは特設時間だからめいめいのことを考えよう、そういうとんちんかんな指導はできないのであります。つりま生活指導と特設時間というものは切り離せないものだということを実は物語っている。こういうふうな点から考えましても、やはり私は在来の体制が正しい体制ではないかというふうに考えているわけでございます。
○大谷贇雄君 時間もだいぶおそくなっておりまするが、私は教育学の日本的な権威である村上先生に、もうしばらくお教えをいただきたい。 まず村上先生にお尋ねを申し上げますが、あなたのお話の中で、ヨーロッパ等々の例をおあげになって、今度の答申案は、第四のよき道を打ち立てるものである。全体の教科を通じて道徳教育をやるということは非常にけっこうであるけれども、それはなかなか困難であって、危険もあれば長所もある。従っていい長所をすくい集めてこれを作ったんだ、こういう仰せであったわけであります。そこで、この答申案を見まするというと、私は教育の問題は、教科課程の問題もきわめて大事でありまするけれども、根本論として、私は教師論の問題であると思うんです。私は長田先生のペスタロッチに関する書物は、ずいぶんだくさん読了して、敬意を表しておりました一人でありますが、ペスタロッチにしても、フレーベルにいたしましても、あるいは西郷南洲先生にしても、吉田松蔭先生にしても、あるいは近くは福沢諭吉先生にしても、私は、教育は教師の問題が一番大きな問題であると思うのでございます。しかるにこの御答申の中には、教師論に関しましては書いてない。それは一体どういうことでございましょうか。この点を一つ御答弁願いたいと思います。
○参考人(村上俊亮君) 今の御意見は、全くその通りでございます。それで私も午前中に、教育課程の改正は、どうしても教師養成の問題、この問題を解決しないでは、教育課程の改正の究極の目的は達せられないということを申し上げたのはこの趣旨であります。ただ先ほどもちょっと申し上げましたように、教育課程審議会の使命は、私はあくまで教育課程の妥当な改正案を作るにあるという考え方を非常に強く持っております。しかし教科によっては、どうしても教師養成に触れなくちゃならぬというものがありましたから、そういう教科については若干触れてありますが、しかし当然今おっしゃいましたような教師養成の問題は、いつも前提にある。ただ答申にそれをそのまま出すのはどうかという考えを持っておりましたが、ただしかし教科によっては、教員養成と、研修教育の問題に触れております。
○大谷贇雄君 今の「道徳教育の基本的方針」というものの第二におきまして、「かかる価値判断の系譜を教育の実践に適用するためには、まず教育者の側においてその意味内容をよく研究理解し、わが国の歴史的伝統を、新しい角度から批判検討して、そのすぐれたものは堅持し発展させるとともに、欠けているものは率直に承認して補う道を講じ、民主的な日本にふさわしい社会的雰囲気を醸成するために、いっそう自覚的に努力する必要がある。」こういうことが書いてあるのみならず、私は願わくば、やはりこの教師論の問題にお触れいただきたかったのであります。なるほど文部省の出しました実施要綱におきましては「道徳教育の内容は、教師も生徒もいっしよになって理想的な人間のあり方を追求しながら、われわれはいかに生きるべきかを、ともに考え、ともに語り合い、その実行に努めるための共通の課題である。」ということがその内容にしるされているので、多少了解をいたすのであります。しかしながら、私はこの教育基本法によって人権を尊重する、みずから尊ぶとともに他を尊という観念に立って、私はこの。ベスタロッチのよのな偉大な教育者、フレーベルのようなすぐれたる実践教育家というものはなかなかないのでありますけれども、しかし、日本の教育界の中にも、私はそういう人はたくさんあると思うのです。しかしながら、お互いに道を求むるためには、ソクラテスが八十才になってすら、まだ天の星を仰いで、われ足らざることをおそると言ったこの謙虚な、この謙虚真摯な気持を持って私はいかなければならぬと思うのでございます。従いまして私はこの相ともにはげみ、相ともにみずから治めていくというこの建前から、教師必ずしも万能ではない。人格を絶えず磨いていかなければならぬ。で、従って私はこの親鸞の御同朋御同行主義というような尊い立場から、私は互いに人権、人格を尊重し合っていくという教育が打ち立てられることが――私は、日本全体が今後はあがめられる国家として発展していかなければならない。あがめられる国として、国家として立ち上っていくためには、私はみずから拝む気持をお互いに持たなければならないと思うのでございまして、その点におきまして、今後私はぜひ――もしこの答申案が変え得るものならば、ぜひとも一つ教師論をお加えをいただきたいということをお願いをいたす次第であります。 さらにあなたの――村上先生の、各国の例をおあげになって、この宗教――イギリス、あるいはドイツは宗教的なこの非常な感化力のもとにあるから、従って道徳教育というものの場が非常にしやすいのだというふうなお言葉は、まことにその通りで、私もイートンのあの学校に行きまして、小さな子供がシルク・ハットをかぶって、燕尾服を着て、日曜日に学校の中の教会に参る姿を見て、非常に胸を打たれました。アメリカにしましても、このサンデース・クールが発達いたしておりまして、宗教情操の陶冶ということ、従って道徳教育ということがその学校内に出されている社会の宗教的な雰囲気というものが、あのアメリカのパイ、オニや精神――イギリスから宗教信仰の独立を求めてきた――そこに現われて、教育の面におきましても、道徳教育の面というものが非常にそういう骨盤に立っておりますから、アメリカの社会科はやりいい。日本はそういうことでなしに、いきなりその宗教情操の陶冶をしなければならぬのに、それが十分でない。しかもこの修身科をはずしてしまったところに、私はこの道徳教育の混乱というものが起ってきたのでありまするが、私は先ほど長田先生も宗教科の独立を――これは公立学校の中で宗派教育をすることはできぬことは当りまえのことですが、私は宗新情操陶冶ということは、一本の花を見ても、星空を仰いで星をながめても、和はできるものだと思うのですが、そこに対するところの宗教情操の陶冶という点について、道徳教育のこの御答申に触れておられるのはどういう理由でありますか、承わりたいのであります。
○参考人(村上俊亮君) 先ほど来しばしば申し上げましたように、この教育審議会、教育課程審議会としても、教育課程の構成を検討するというのを主眼にいたしまして、その中にどういう内容を織り込むか、道徳教育の指導の内容や、方法の具体的な検討は、これはやはりその方の専門の教材等調査研究会の方におまかせする方がいいという意味で、教育課程審議会の方ではその問題は触れませんでした。しかしそういうことは当然予想せられているところでありまして、先ほど私が申し上げたような問題も起っておりますから、当然問題としては前提にさ れておりますが、答申の表面には出ておりません。しかしそれはそういう趣旨で、決して宗教教育を軽視しているという考えはちっともございません。
○大谷贇雄君 次に長田新先生に三、四点お尋ねを申し上げたいのであります。
○委員長(湯山勇君) なるべく簡潔に願います。
○大谷贇雄君 今朝の先生のお話の中に、人間善悪を知らぬ者はない、従って知識としてこの道徳教育を教えるという必要はない、正邪善悪を知らぬ者は一人もない、行うことが困難である、それの、生活の中にあるのが道徳教育である、なすことによって学ぶ、こういうことこそ道徳教育の中心である。すなわちこの生活教育というお話で、論語読みの論語知らずという例まで実はお引きになったのであります。なるほど福沢先生のごときは、徳教は耳より入らずして目より入るということを言っておられるように、幾ら講釈をしてもだめだ、それよりも教師その人の実践であると、こういうことを言っておられまするけれども、あなたの御崇拝になる。ベスタロッチ先生にしても、あるいはまた福沢諭吉先生にしても、こういうことを仰せになりながら、身をもって道徳を実践なさる、そして身をもってこの天下に範をなさっている。 そこでこの善悪の判断をようせん者は一人もないとおっしゃいますけれども、それなら多久島はどうして現われ、不良青少年は続々出現する、先生を殺す者まで出てくる、先生の頭をなぐる者まで出てくる。これは一体この善悪のわからぬという者が一人もないということとは大へんなことであって、私どもはこれは当然知識としても私は与えなければならぬと思うのであります。徳教は目から入ります。しかし私は変節は――小泉信三先生の言っておるように、戒めなきゃならぬと思う。目から入ると同時に耳からも入るものでなければならぬと思うが、その点について――私は日本教育学会会長の長田先生は、私の少年の時分から、御書物を拝読いたし、非常に尊敬をしておる方でありましたが、先生の御発言はきわめて日本の教育界に与える影響は大きいのであります。この点についての御解明をお願いを申し上げたいと存じます。
○委員長(長田新君) たびたび申し上げましたようにも思いますが、知識にもいろいろあり、しますが、事、道徳に関する知識は、さっき言いましたこ一とですが、どうしても肉体化された、血となり、肉となった知識でないと、私はいけないと申しました。そういう知識、そういう判断力は、どうも文字や言葉からではなかなかできるものではない。まあそこがこのなすことによって学ぶというか、生活が陶冶するというか、そういうふうなことになるということを、今まで再々申し上げたほどですが、そういう立場におるわけです。で、ペスタロッチなどがそのことをちゃんとやっておることを見せておる。知識が必要でないとか、判断力が必要でないと言うのじゃないのです。道徳に関する知識、道徳にする関判断は、繰り返すことになりますけれども、まあ学校生活が、先生と生徒と一緒になって生活そのものが道徳の結晶休みたいなものになって、その中で先生と生徒とが一緒になってですね、やはりなすことによって学ぶというか、生活を陶冶するようなことでないと、知識も、あるいは判断力も、何の役にも立たぬものだ、こういうことから私は申したので、その点あなたのお考えとも多分一致するだろうと思うのです。
○委員長(湯山勇君) なるべく簡潔に願います。
○大谷贇雄君 この生活即教育、また生活の中から道徳を学びとっていくということは、よく私もわかります。しかしながらですよ、生活の中において、しからは生活鍛練をするのだという――なるほどあなたは教育学者として美しい言葉を夢のごとくおっしゃいますけれども、小さな子供がそれじゃ指導もせず、じゃどうしてできましょうか、禅の大徳すらも「大悟十八遍、小悟その数を知らず」、人間の心というものは幾ら教え込まれても私どもの知識また心持というものは絶えず反省を加えていかなければ私は人間の完成はできないと思う。従ってそれに対して日本の教育学者は、また教育者は主知主義のワクを脱し切れんというような言葉を仰せになったり、あるいはまたこの知識で教えることは意味をなさんというようなことが私はいささかどうかと思うのでありますが、さらに御解明をいただきたいと思います。
○参考人(長田新君) 私も指導無用論などということはいたしません。指導は、ことに子供には指導というものは非常に必要です。指導なしにはどんな教育もできません。だが、指導の仕方あるいは指導の場ということだけが問題なのでありまして、この指導の仕方というか、指導の場をやはり生活そのものの中に指導の場を作りながら指導していく、つまりあくまでも生活に即し、あくまでも生活に内在して指導する指導でなければほんとうの通徳的指導はできない、こういうことを申したので、指導には一向異議ありません。指導の仕方だけが私は問題になる、こういうことでございます。
○大谷贇雄君 そこで、それはわかりますよ。言葉の美しさによって私どもは幻惑されません。私どもは小さな子供たちが生活の体験において云々と仰せでありますけれども、それはこういうような特設時間等を設けて世界各国がやっておるじゃございませんか。それを日本だけが道徳、生活全体を通じてやるとおっしゃっても、社会科全体、学校教育でやるとおっしゃっても、これは村上先生の仰せになったように、たとえば理科を教える、国語を教える、これはもうその目的のためにやらなければならぬ、全体を通じてやるということはそれはもうほんとうの教育の理想の場でありまして、ペスタロッチ先生のような人ならどんな教育でもなし得る、ところが、ペスタロッチ先生や吉田松蔭先生のように日本全体の学校の先生ができるかというとできない、私みずからもできない、従って私はそういう特設時間があってすらこれは道徳教育なんということはなかなかこれは容易ならざる実はことだと思うのです。従ってこの生活の中でやる、特設教科の中でもやったらいいじゃございませんか。(「議事進行」と呼ぶ者あり)
○委員長(湯山勇君) 委員長から申し上げます。ただいまの大谷君の質問につきましては、長田参考人から午後の筆頭におきまして御説明がありましたから、答弁はあとで会議録をごらん賄いたいと思います。ちょっと速記とあて。 〔速記中止〕
○委員長(湯山勇君) 速記つけて。
○大谷贇雄君 それでは委員長の残念ながら御要望もありまするので、もう二点お尋ねを申し上げます。先ほど緑風会の常岡さんのいわゆる平和論に対しましてお尋ねがありましたのにつきましてまことにデリケートな御答弁があったのでありますが、私がこの際お尋ねを申し上げたいのは、先生は無論世界の教育についてのことは御承知でございますが、ソ連のこの道徳、共産主義道徳、これにつきましては、きわめて厳格な規律教育を施して、この「ソビエトの祖国にできうるかぎりの利益をもたらすために忍耐強く、根気強く、知識を身につけること」、そうして祖国に忠誠を掲げて、全文二十カ条からなる「生徒守則」というものにおいて「学校長と教師の命令に絶対に従うこと」、「年上の者には敬意をはらうこと」、「親のいうことを聞き、手助けをし弟や妹の面倒を見ること」、「考人、幼児、弱い者、病人に対して親切、丁寧であること」というように、日本の教育勅語に示された徳目がすっかり出ております。そうして共産主翼を守るために行動をする、そういう子供に道徳教育を施す、こういうことで「生徒守則」二十カ条ができている。さらにまた中共におきましても、すなわちこの「小学生守則」、一九五五年二月教育部公布、あるいは「中学生守則」、同じく五月にその公布をいたしまして、「国旗を尊敬し、人民領袖を熱愛すること。」、「祖国と人民のために服務するよう準備すること。」というようなことで、非常に厳格な規律教育が行われている。そうしてこの「世界に冠たるソ連」を守れという、「祖国を愛する、人民を愛する、労働を愛する、科学を愛する、公共財物を愛する」、こういうことで、(「ゆっくりやれ、速記者が困る」と呼ぶ者あり)これらのソ辿、中共のこの教育が、あなたの先ほどの御答弁によると、私どもはこれは人間の自由を抹殺するところの、弾圧的な教育だと思っているが、うにお考えになるか、これを承わりたい。もうあと一点。
○参考人(長田新君) お答えします。アメリカは、(大谷贇雄唱「アメリカなど聞いておらぬ。」と述ぶ)比較しなければわかりません。アメリカはアメリカの体制というものに基いて、いわゆる民主的ないろいろの道徳の教育を、道徳の基準ですか、それを持ち出すわけです。以前の、天皇制の日本では「天皇は神聖にして侵すべからず」、こういう立場に立って、そうしていろいろの日本国有の徳目というか、道徳の基準が出たわけです。社会主義の国は社会主義の、共産主義の国はないわけですが、社会主義は社会主義体制を前提として、そこから導き出されるさまざまな徳目というものを、道徳基準を出すわけユであります。これはその国々の体制と申しますか、あるいはまた体制というような抽象論じゃなくて、歴史なり、伝統なりに即してそれぞれの国がそれぞれの道徳的基準いうものを出しているので、今日のソビエトなり、中国はああいう社会主義体制のもとから、のもとに立って、そこから導き出されるいろいろの徳目というか、あるいは道徳的基準というものを出している。ちょうど明治の日本が天皇制でやったように、あるいは今日のアメリカが民主国家としていろいろな道徳を考えているように、考えているので何も珍らしいことではない。むしろ当然のことである、さように私は考えております。
○大谷贇雄君 最後にお尋ねを申し上げます。先ほど来長田先生はるる人間の尊重の立場からの教育を御主張になり、世界も人間を尊重せる、そうして平和に結びつくところの、人間尊重の教育でなければならぬ、こういうお言葉がありました。まことにけっこうなことと、人間尊重をするということは、私はみずから人を尊ぶという意味において、これは人間のなくてならぬことであり、教育基本法の精神であります。そうしてそのこと自体は私は長田先生けっこうでございますけれども、先ほどどなたかの質問のお答えの中に、平和ということにもだんだん及んで、日本は東洋平和に名をかりて侵略をした、またアメリカも帝国主義でこれは侵略である、こういうお言葉でございましたが、私はこの聞こういう書物を買って参りました。この中に先生の御文章が引用してあるのであります。昭和十八年十月の日本評論に先生は「事実大東亜の盟主として十億の民族を引き具し、世界史を創造せずにおれないほどの意気に燃え立つ吾が民族意識は」こういう大へんな御名文で、そうして錬成の本義という大論文が載っている。さらに昭和十九年の二月の青少年指導誌上に錬成の形而上学と称するこれまた堂々たる哲学を論述した。「吾が国民が七度生れて国に報いるほどの力を発揮出来るのは愛国の正至情から来ていることは説明するまでもない。ここにも皇国の道の教育が考えられる。日本の軍隊の強いのは各自、天皇大御軍に醜の御楯となろうとするからである。軍隊教育の錬成が真に生命ある錬成であるのも、思えば醜の御樋として身命を捧げて、日々の訓練を行うからではなかろうか」さらに軍隊教育を非常に賛美なさって「軍隊は僅かの教材を体得させるのに堂舎に入れて毎日二十四時間教育を実行し、而も僅かの兵を多くの教官が代る代るに教えている。これだけ考えても軍隊の錬成が徹底するのは怪しむにも足りないが、それにも優る根本特徴は軍人はすべて前にも述べたように醜の御棚となって命を捨てるという全く文字通りり不惜身命の境地におちることである」こういうことであります。さらに「死生の問を越える窮極の基礎には、絶対者が考えられなくてはならない。絶対者を媒介として人は初めて死生の間を越えることが出来る。而もこうして死生の間を越えるのでなくては真の生命力の発露はあり得ない。」そうしてこの絶対者というものは天皇のことであろうと存じます。「人間そのものの内的奥底にこそ絶対者への道がある」こういう戦争礼賛の御文章、大東亜戦争を完遂することに御協力なさったのであるが、今日の御論議というものは全くそれとうらはらであって、先生が御賛美なさったこの文章と今日の御発言とは全く違う、君子豹変することも私は甚しいと思うのでありますが、一体どちらを御信用申し上げていいか、これ は日本の教育界に及ぼす影響が甚大であると思いますので、この際はっきりと御説明がいただきたいと思います。
○参考人(長田新君) 答えはごく簡単 です。万法流転という有名な言葉もあり、東洋の方には日に新た、日に日に新た、また日に新たなり、こういう言葉があります。私は超歴史的、歴史を越えた真理というものはないと思います。およそ真理というものは歴史的に、社会的に絶えず生成発展していくものである。主権在君の天皇は神聖にして侵すべからず、こう明治憲法にもありましたが、そういう主権在君時代のものの見方、考え方にはそれ相当のものがなければならない。今日は主権在民なのですから、ここに至れば、歴史を超越して、しかも時間、空間を越えて真理があるというのはとんでもないことで、私は主権在君時代は主権在民時代とはものの考え方は違わなければうそだと思います。
○大谷贇雄君 しかしこの問題は、あなたの「醜の御楯となって」やるというこの文責において……。
○委員長(湯山勇君) 大谷君、発言は許していません。
○大谷贇雄君 あたら若い人たちがたくさん死んでおるという問題です。この点について深く反省を求めたい。
○委員長(湯山勇君) 大谷君、発言を許しません。今の速記を消して下さい。
○大谷贇雄君 委員長に言っております。
○委員長(湯山勇君) 発言は許していない。
○吉田法晴君 大へん何といいますか、参考人に失礼な言い方だと思うのですが、私はその答申の中の道徳教育の基本的方針という中で、この委員会の最初のころ竹中委員からお尋ねをしておったところでありますが、この人間尊重の精神と、それに基く共同体の倫理と、こういう言葉がございます。共同体の倫理、その具体的なものとして国とか家とかというものが先ほど会長からお話があったように思いました。話を聞いておりまして、戦争中あるいは戦争前ゲマインシャフト、ゲゼルシャフトといったようなことがずいぶん言われておって、共同体理論というものが一つの全体主義的な理論として戦争中の一つの指導概念になったことを思い出すのでありますが、日高さんがおられませんから、村上さんにお尋ねをし、その点長田さんにあわせてお教えをいただきたいと思います。 なるほど人間の尊重、これは教育基本法なり、あるいは憲法の基本的な要素、概念であります。共同体の倫理といったようなこの指導精神というものが教育基本法なり、あるいは今の憲法の中にあるのだろうかと、そういう疑問を持つのでありますが、村上さんに、あるいは長田さんにお教えをいただきたい。
○参考人(村上俊亮君) 今の問題は私にも実はよくわからないのでありますが、またしかしここに共同体の倫理というのは、われわれとしては、日高先生からお一話がございましたが、やはりしかし、民主的な基本的な国家社会というふうに私は解釈しております。
○参考人(長田新君) 質問を聞き落しましたので、要点をちょっと。
○吉田法晴君 共同体の倫理というのは、共同体というのは戦前から思い起しますと、ゲマインシャフトにゲゼルシャフトといったような考え方で、全体主義的な一つの思想の表現であるようにわれわれも思っていたのですが、ここに出て参ります。共同体の倫理といったようなものは、教育基本法なりあるいは憲法の中にある原則と矛盾をしないのかということです。
○参考人(長田新君) これは私はなるほどおっしゃったように、専門的にはゲゼルシャフト、ゲマインシャフトというものを、普通われわれ社会を二つに分けて考えるわけですが、言いかえますとゲマインシャフトの方は、いわば運命共同体のような封建的な社会、これをゲマインシャフトといい、たとえばテンニースが言っておりますが、ゲゼルシャフトの方はむしろ資本主義社会、資本主義の少くとも第一期のああいうふうな社会をゲゼルシャフトと一申すので、おそらくは答申案ではそんな、社会にはいわゆるゲマインシャフト、ゲゼルシャフトがある、前者は封建的な運命共同体的なものである、あるいは資本主義的な社会、ゲゼルシャフトである、そういうような使い分けなどは別に考えずに、もっと常識的に一般的に考えられておるのじゃないかと私は解釈しておるわけなのであります、その点は。
○吉田法晴君 議論はいたしませんが、この道徳実施要綱の中の指導内容というのですか、そういうものを拝見をいたしますと梅根先生はそれは民主的なこの当然の道徳、まあ何といいますかテーゼというのですか、項目というのですか、のように思うと、こういうお話でしたが、そこに基本方針に書いてあります共同体という概念は、ゲゼルシャフトとかゲマインシャフトとか言われたときのようなゲマインシャフト的な精神ではなかろうと、こういうまあ村上先生も長田先生も今おっしゃいましたけれども、この中に民主的な、国民が作っていく国というよりも、与えられた国、あるいはまあ国が一番多いのですが、あるいは社会という言葉も使ってありますが、家族もあったと思うのですけれども、国あるいは家族というものが考えられて、で、それを尊重しなければならぬ云々という、いわば何といいますか、与えられたものが子供にもそれが厳として押しつけられるという感じがするのであります。そういう点からいうと、基本精神の共同体というのが、さっき申上げましたようなゲマインシャフトとか何とかいうのと関運があるものじゃなくて、資本主義あるいは民主主義の社会と、こういう意味だと言われますけれども、こういうまあ具体的なあれを見ておりますと、必ずしもそう言えぬのじゃなかろうか、あるいは民主主義の中にあります批判精神といいますか、あるいは家族にしても、あるいは国にしても、一人々々の国民が作るのである、あるいは国と一人々々の国民との間には軽重の差がないのだ、人間の命は地球よりも大きいという精神が貫かれないで、ある国というものがまあ批判を許さないで、そこに何といいますか、その規則あるいは家族そのものの存在あるいは国そのものの存在というものが正しいとして、あとはそれをどういう工合に愛するか、あるいはその規律、規則をどれだけ守るかということが指導内容のそれぞれの項目になっておるような感じがするのであります。そしてそれをいわば、何といいますか、子供が育っていく、あるいは生活の中に自覚を持っていって道徳、規律というものを身につけていくというよりも、むしろあるものがこういう項目を通じて押しつけられるといっては何ですけれども、いわば抽象的に説教をされる従来の道徳教育の、従来といいますか、戦前の道徳教育の危険性が、こういう具体的な実施要綱を見ておっても出てくるのじゃないかという心配をするのでありますが、出て参りました答申なり、あるいはそれに基く実施要綱についてはこれは民主的な当然の結果であろうと、思ったような心配がなかったと言われました梅根先生の言葉もございましたし、今の共同体に関連をして、具体的な実施要綱等について私の疑問にお答えをいただきたいと思います。
○参考人(長田新君) ちょつと私から一つ。思いがけなく本日は共同体というものが皆さんによって問題にされましたが、なるほど承わっておると、これは無理からぬことと思うのです。で、この席へ来て勉強させていただきましたが、こういうふうに私考えます。たとえば一つの比喩ですが、原子力というふうなものは平和産業というものにとってすばらしい力になるんだと、だがしかし、そのとき来たらば、どんなか時がくると原子力というものが、非常に人類を滅ぼすような兵器にもなってしまう。同じように共同体というふうな一つの言葉を取り上げましても、その他いろいろ出ておるものを取り上げましても、もしこれをほんとうに良心的に守り抜けば、ちょうど原子力の平和利用のようなものでまことにけっこうだけれども、時来たってどんなか段階になるとそういう事情からこれが武器になるように、ゲマインシャフトというものが非常に逆行するようになる懸念なきにしもあらず、そこでこれは、共同体は一つの例ですが、もしそれに似通ったものが多々あるとすれば、あるいはありましょう。これをこれから教育者というものが正しく守っていくという信念なり決意というものが必要で、これはこの場合のみならず常にそういうことが必要じゃなかろうか。で、私がちょっと申したいのは、軒場を貸しておもやをとられるという言葉があります。で、後悔先に立たず、軒場を貸したためにおもやをとられるというふうな愚を演じないようにするためには、今の共同社会というようなものも一つの例ですけれども、非常に大事な問題である。言いかえれば、もう例の一旦緩急あらばの修身科復活の外堀を、もはや特設時間によって掘られてしまうかもしらぬ、あるいはそうかもしらぬ、実際。その辺がやはりこの時間を特設するということに伴ってわれわれの懸念せざるを得ない問題だと思うのです。私はこの問題に対しては、願わくば軒場を貸しておもやをとられないように、ほんとうに平和国家、民主国家を作っていくための道徳として、この今度の改正された、この道徳を守っていくようにということが非常に大事ではなかろうかというようなことを考えておりますので、お尋ねにこういうふうにお答えをいたします。
○参考人(梅根悟君) 私最初に、今度でき上りました要綱は、一般的に申し上げまして、教育基本法の精神を根本にしておるというふうにはっきり言われておるし、中身もおおむね近代的な倫体理の線に沿ってでき上っておると、その点でこの委員の諸君のお骨折りを高く評価すべきであるというふうに申し上げました。しかし、それは一般的に言って一応そうであるということであって、部分的にあるいは厳密に言うといろいろな問題をさらにはらんでおるということもっけ加えて申し上げておきましたつもりでございます。ただいま御指摘になりました点につきましても、やはりそういった感じが、非常にデリケートなことでございますけれども、そういった感じのあるところが御指摘の通りに若干あるように思います。 で、先ほどから問題になっております共同体の倫理につきましては、この文章にございますように、人間尊重の精神を基本とし、これに基いて共同体の倫理云々というふうに書いてございます。私はこれは共同体が、つまりゲマインシャフトとゲゼルシャフトの両方を含んだ意味であるかどうかということは、実はかなり疑問がありまして、ここのところはやはり非常にデリケートな問題をはらんでおると私は見ております。常識的に申しますと、やはり共同体というときにはいわゆるゲマインシャフトでありまして、家族、民族というようなものを考えるのが当然であろうと思います。そういたしますと、この文章を読みますと、共同体には倫理があるにきまっておる。その共同体の倫理、たとえば家族道徳というものについては、今後の新らしい家族道徳は、やはり人間尊重という精神に基いた家族道徳でなければならぬということを、私はこれを抑えたものであると いうふうに正しく理解すべきだというふうに思っております。しかしそうなりますと、やはりそこに家族倫理、民族倫理だけをあげて、一般社会倫理、ゲゼルシャフト倫理をあげなかったことは片手落ちだ、そこにやはり問題があると思っている次第でございます。そのことはやはりこの要綱の中にもにじみ出てきておるという感じをいたしております。
○吉田法晴君 そういう感じがしたから質問を申し上げたのですが、そういう意味では家族共同体あるいは民族共同体というものが、家族とかあるいは国とかいう言葉ではあるけれども、それが中心になってやはり出てきておる。しかも問題はそれが与えられたものとして何らの批判も許せない、あるいは個人が寄り合って作っているという、そういう面が出ないで、あるものとして、あるものそのまま出てきておるわけです。批判も許さないものとして出てきておるというところに問題があるのじゃなかろうかと思ったのです。 それから、その辺に何と申しましょうか、問題がございましょうが、これはどうでしょうか、音楽の時間が一時間なくなった。私は日本には実際にはルネッサンスはなかったんじゃなかろうか、最近の歌を歌っております青年の歌声、その他歌声運動と言われようと言われまいと、あれを見ているとようやく最近ルネッサンスがああいう形で日本にきたのじゃなかろうか、こういう感じがするのです。 それからもう一つは、いわゆる民主主義的な教育の基礎である自主性の発揮というものなしに、上から教えるだけ、あるいは注ぎ込むだけ、これではほんとうの能力の発展というものはない、あるいは民主教育というものはないと思うのですが、そういう意味において、音楽よりも抽象的な道徳教育、こういうことで一時間減る、あるいは減り得ることになっておる、こういう点についてはやはりただの一時間の問題じゃなくて、教育の基本的な方向としてやはり問題があるんじゃなかろうか、こういう感じがしているのでありますが、梅根先生等からお教えをいただければ幸いと思います。
○参考人(梅根悟君) この問題もちょっとデリケートでございますが、音楽、美術というような情操教科が中学校の高学年で減っておるということでございます。やはり日本の現在の学校では、こういう制度をぎりぎりのところにしてやっていく、減っておって、しかし選択科目では大いにおやりなさいというふうに申しましても、選択科目に音楽をとるような余裕はこの制度そのものからもう実はないのであります。外国語と数学と、あるいは職業というようなことでいってしまって、なかなか選択科目に音楽をとるというようなことは困難な事態になってくる、そういう点から申しますと、やはり他の科目をこのようにワクつけする以上、音楽でも可能な限りの学習の時間のワクつけをするということはやはり必要である。そういう意味では先ほど私は図画、工作の点で申しましたけれども、同様のことはやはり音楽の面についても言えるというふうに私は思っております。しかしこういう教育課程の問題は終局的には常に各教科の時間の取りっこというようなことになって参りますので、委員の方々も大へん御苦心をなさったであろうと、この点に御同情申し上げるのでございますけれども、やはり科学技術教育というような角度から申しましても、科学技術教育を徹底的にやるとすればするほど、一方で情操教育というものを重視しなければならないという点では、若干のアンバランスが生じたのではないかという感じを私も持っております。
○矢嶋三義君 大へんお疲れのところ恐縮ですが、ごく簡単に伺わさしていただきたいと思います。結論だけでよろしゅうございますから、できるだけ簡単にお答え願いたいと思います。まず、村上さんにお伺いいたしますが、教育課程審議会令の第一条は文部大臣から諮問があったときだけ建議するものと解釈されておりますが、それとも文部大臣から諮問がない場合もみずから進んで建議ができると解釈しておられますか。
○参考人(村上俊亮君) 文部大臣が諮問されたときに限る、建議できると考えております。
○矢嶋三義君 限る……。
○参考人(村上俊亮君) 私は会長じゃありません、副会長……。
○矢嶋三義君 お伺いしますが、このたび高等学校の教育課程については何ら触れられていないわけでございますが、これは先年コース別の課程変更のことを取り扱いました。あれで現在の高等学校の教科課程はよろしい、当分当らなくてもよろしい、こういう御見解に教育課程審議会ではあられるのでございましょうか。
○参考人(村上俊亮君) その問題の是非は考えておりません。よろしいともよろしくないとも考えておりません。率直に申し上げます。
○矢嶋三義君 おたくの方では文部大臣から話がなければもう一切考えないという立場をとっておられるのですね。
○参考人(村上俊亮君) そうです。問題は、小学校と中学校に限られておりまして、それでそれに審議を集中いたしました。
○矢嶋三義君 教育課程審議会の目的のところに「教育課程に関する事項を調査審議し、」とあるから、高等学校の教育課程も諮問を受けた場合は当然手をつける、こういうふうに解釈されているわけですね。
○参考人(村上俊亮君) 諮問があればそういうふうに…。
○矢嶋三義君 じゃ、ただいま問題になっておりますところの道徳教育並びに教科の問題につきましては相当重要な問題でございますから、第二条並びに第三条に基いて臨時委員並びに専門調査員を相当任命して慎重審議されたことと存じますが、何人くらい任命され、どういう方面から選ばれて検討されたかということです。たとえば教育学会等反対意見があればそういう反対のグループの意見も聞こうというようなことで、代表を臨時委員あるいは専門調査員として任命してその人の意見を聞いたか、あるいはまたいろいろと教育団体があるわけですが、そういう方面からも臨時委員とか専門調査員を任命してそうして十分の検討をなされたかどうか、その状況を参考に承わりたい。
○参考人(村上俊亮君) それは検討したことはございません。
○矢嶋三義君 そういうところに非常に大きな問題があると私は思うのですがね。これだけの問題は、これは日本の教育内容からいえばずいぶん大きな変革ですよ。そうしてこの審議会令にはちゃんと委員は六十人以内で組織する、しかし重要な事項を審議する場合には審議会は臨時委員を置くこともできる、また専門調査員も任命することができる、それには教育職員並びに学識経験のある者等から文部大臣が任命する、こういう規定があるのですからね。これだけのものを扱う以上は、まあ梅根先生あたりはこういう方面についてずいぶんとを持っておられる方ですが、たとえば梅根先生とか長田先生とか、そういう方面の方を、正式の委員になっておられない場合には臨時委員とか専門調査員という規定があるのですから、任命して、そうして十分審議する、それから答申するのでなければ慎重を期したということにならないのじゃないか。このことが日本の有力日刊紙を初めあらゆる地方日刊紙で、教育課程審議会の答申は必ずしも反対でないけれども、あせってはならない、こうあせってはならない、慎重にやってほしいという世論が中央地方を通じてこの社説に現われているわけで、そういうところから出ているのです。そういうところに私は若干問題があるんじゃないか、相当あると思います。 次に伺いますが、第十二条「審議会の庶務は、文部省初等中等教育局にお正いて処理する。」とありますが、あなた一方の草案は、あの審議会の委員のどなたさまがお書きになったのでございますか。それともこの「庶務」は初中局 が担当しているのですが、初中局で草案を書いてきたものをそれを審議なすったのでございますか。草案の執筆者というものがあるわけなんですからね、それを明らかにしていただきた い。
○参考人(村上俊亮君) 私は初等部会を主宰いたしまして、草案は私の責任で作りました。
○矢嶋三義君 中等の方は。
○参考人(村上俊亮君) 中等は知りません。
○矢嶋三義君 私は、この点は今後もあることですから、厳に、私は失礼だけれども、十分審議会は慎重にお考え いただかなければならぬと思う。それは梅根先生がこの審議会のあり方ということを述べられました。これについて日高先生は、討論ならば僕もやりますよと言ってお帰りになりましたけれども、この審議会のあり方というものは、あに梅根先生に限らんやで、これは広く日本の人々はこれには関心を持っていると思うのです。そもそもこの日高先生は、元文部次官をやられた方ですが、私はあちこちから聞いているのですが、教育課程審議会の委員を指名する場合に、文部省は自分のお気に入りの人をピック・アップして、そうして次官であった日高先生を会長にすべく相当文部当局が動いた私は確証を持っているのですよ、確証を。そういうことは、私はこの審議会のあり方というものについて、良識ある日本の学一者、教育者が疑惑を持つのは当然だと思うのです。こういうことは私はおだやかでないと思うのです。だから、臨時委員とか専門調査員を任命することなく、これだけ大きな問題を村上先生半年で結論を出して、しかもあなた、文部大臣は国会の答弁で善は急げと、こういうことなんですよ。道徳の特設時間を四月からやるのは、これは拘束力がない。施行規則にも教科としてはないからやれない。教科じゃない。だから拘束力はない。しかし、善は急げだから四月からだと、これでは私は日本の各日刊紙があせり過ぎていると、もう少し慎重に教育というものに当るべきだという社説の出るのは当然だと思うのです。この世論には、私は審議会はやっぱり耳を傾けていただきたいと思うのですがね。今からでも私はおそくはないと思う。私自身、私の所属する日本社会党も道徳教育は無用だとは言っていない、否定していないのですよ。それで、先ほど長田先生もるる自民党の方々に答弁されておりましたけれども、あの反対をされている長田先生の御見解もその通りなのです。われわれもそうなんですが、これらの点について、会長さんお帰りになって、いらっしゃらないのですが、私は副会長さんからももう一ぺん御見解を承わりたいと思うのです。
○参考人(村上俊亮君) 今の質問は、その道徳教育について早かったという……。
○矢嶋三義君 そうですね、もう少し十分心の準備ができてからおやりになるのが当然でしょう。
○参考人(村上俊亮君) 会長がおいでになりませんが、ただ私は先ほど来繰り返し申し上げておりますように、教育課程審議会の使命をこんなふうに考えております。希望された期間のうちに全力を集中して、できるだけ公正な、りっぱな教育課程についての改善、答申を出すということに努力をするだけでありまして、それが早いとかおそいとかいうことは、その答申に基いた行政上の問題であって、われわれ教育課程審議会としては、その期間内にできるだけ全力をあげて、慎重にやるということでやっただけであります。
○矢嶋三義君 先生と討論することは失礼でありますからやりませんけれども、私は朝から納得できませんのは、財政的な配慮というものに一つも触れられなかった点ですが、それをお伺いしますと、お二方ともわれわれ教科課程だけ考えればいいんだからと言うけれども、そういうことは先生あるでしょうかね。たとえば理科教育の実験を云々と書いているわけですね。わが国の理科教育の現実というものにですね、これに一応目を配ってからでなければ私はこういうものは書けないと思うんです。あるいは中学校三年の問題で言うと、コース別にするわけですが、そういう場合に、職業課程の施設、設備がどの程度かという現実というものを私は研究把握しなければ、いかに教科課程の答申を作ろうといっても、実際の生きた教育行政に対して答申を書かれるのですから、研究じゃないのですからね、だから私はただ教科課程に限られた範囲内でやったので、あとは考慮しなかったという点は、私は失礼だけれども、無責任じゃないかと思うのです。この間私は国会で文部省に質問したところが一年間一人当り実験費は三十円だというんです。たった三十円。中学校三年の――これはうまい文章で表現していますよ。それから内藤局長は盛んにコースが分れるのじゃないと言いますけれども、先生、現実を見ていただきたいと思うのです。最近は入学試験準備が激しくなって、売り込みみたいになりつつあるんですね。この前調べたのですが、あそこの麹町中学校なんか四二%までは越境入学で、千葉県、埼玉県から汽車通学しているものがおるのですね、そういう状況なんです。現実にこれでいったならば、はっきり進学組と就職組と分れますよ。この答申には工業課程、商業課程とありますね、これが旋盤一つない、タイプライター一つなくて中学校三年をこういうふうでやった場合、あなた方どうお考えかしらぬが、現実においては進学組と就職組と分かれることははっきりしております。そうして戦前ありました学校の一種、二種、私はあのわだちを踏むことはかけてもいいと思います。それは絶対に間違いない。戦前の一種、二種学校の、あのわだちを踏みます。これをやられるに当っては、当然職業課程の施設、設備を充実すべきだというような配慮がなされて、そういうことがこれに少くとも付属文書か何かの形で出なければ、ただこれをぼっと出して、そうしてこのうちの道徳教育の面は善は急げで四月からというのでは、私はそれだけの改革をやる教育課程審議会としては、失礼ながら学者の研究であって、生きた政治、教育行政に影響を及ぼすところの答申としては私は無責任じゃないか、こういう私は感を持たざるを得ないのですがね、先生どうお考えになりますか。
○参考人(村上俊亮君) 今御意見のありましたような程度の研究等はもちろんいたしました。ことに委員の間から施設設備の強化を必要とする教科についてはだいぶ意見が出ておりますが、そういう教科については、ごらんいただくとわかりますが、施設設備の強化をはかる、整備というものをはかるということをはっきり出しております。しかしそれをさらに具体的には検討をいたしていないという意味であって、決して施設、設備の不足によって教科課程の改善ができるとは決して思っておりませんから、その点その程度の考慮はもちろんいたしたつもりであります。でありますから、教科によっては施設、設備の改善、充実をはかることというのが幾つか出ております。それは特にそういう問題が出たものについて取り出してあります。
○委員長(湯山勇君) 矢嶋君、簡単に。
○矢嶋三義君 簡単にやります。それで私はお願いいたしたいのですがね、それは審議会は答申をなされましたら、行政府のやり方を見ておって、あなた方の目的が遂行できるかどうかということを見きわめて、遺憾な点があったならば、私は申し入れをするぐらいの心がけがなくちゃならないと思うのですがね。たとえば実験費についてもそうですが、予算なんか検討してみてもらいたいですね、教材費をふやして父兄の負担を軽くしたと言いますけれども、計算を正確にしますと、生一徒一人四円二十銭しかふえていないのですね。そういう点も検討されて、そうして、この行政府のやり方をよく見詰められておられて、そうして自分らこういう答申をしたけれども、これはどうも目的を達しないようだとあらば、責任上審議会としては政府に対して申し入れをするというところまで、最後まで見届ける態度をとらなければ私は審議会として十分でないと思いますので、それは要望を申し上げるわけです。 最後にお伺いいたしたい点は、私どもこう議論をしておりますが、どうも私はできものをつかまえて、これは切るべきか、切らざるべきかというのをやっておるような感じがする。根本をわれわれはもう少しえぐってみる必要があるのじゃないか。私はそう考えますので、一つこれは梅根先生に伺いたいのでございますが、ちょっと事情をから。それは、最近世界が緊張緩和をはかっている。ところが、各国は不信の念を持っているからなかなか緊張は緩和できないということを国会で政府は答弁しているのですが、この言葉は、私は日本の教育界に当てはまるのじゃないかと思う。どうも非常に国内のお互いが不信の念というものを持っている。たとえば政府が教師に対して不信の念を持っている。そういうところにこういうものが出てくるのじゃないか。それともう一つは、梅根先生に伺いたいんですが、私は二十五年から国会に出まして文部六百臣のいろいろの文部行政を見て参りました。振り返ってみて、天野先生はりっぱだったということをしょっちゅう私は思い出すのです。で、私は政党所属の人です。だから私は、政党所属ですから政党を否定しませんが、しかし今の日本の政党の現実であったならば――これは社会党も含めて、自民党、社会党とも含めてと私はあえて伺いましょう――文部大臣というものは、政党所属の者はまずいのじゃないか。ある文部大臣は、自分は政党の小使だと、こう言った文部大臣がおったわけですね。今の松永文部大臣は、私は政党所属の文部大臣としてはいい方だと私は思っております。しかしその人が、就任早々道徳教育は独立教科はやらない、ところが事務当局から口説かれたのか、与党から口説かれたのか、三十日したところが、独立教科をこしらえる、しばらくしておったところが、免許状との関係があるということになって、これはだめだというので特設時間と、こういうふうに変貌していった。教育といえどもそのときの政治に影響を受けることは当然です。しかし大海の木片のごとく時の権力によって一国の教育制度というものが動かされるということは、これは私は国家百年の大計を考えるときにゆゆしき事態だと思う。それで最近国会に出てくる法律を見ましても、あるいは予算を見ても、非常に政党の教育支配の形が、たとえば管理職手当にいたしましても、あるいは全国の教育研究会をやるとかという点にいたしましても、あるいは教育公務員特例法を改正して校長を組合からはずすというのは、私は非常に政治色が濃厚だと思う。教育公務員特例法は、立法趣旨からいって、校長を組合からはずすというのは筋が通らぬわけです、立法経過から。そういう法律ではなかったわけです。ここにこういう答申案が出てくるやっぱり根源があると思うのです。ですから、出てきたこれを議論するだけでは解決できない。その根底を、まず政権についておられる自由民主党さんはまず第一番に静かに私は反省されなければならぬのではないか、また野党であるわれわれも続いてやっぱり考えなければならぬ点があるのじゃないか、そういう点を私は感じます。そこで梅根先生に伺いたいのは、現場に、学者として日本の最高学府の現場におられて、このずっと最近流れてきたところの日本の文教政策、それから具体的ないろいろなものが出て教育の現場にある皆様方を規制して参るわけですが、それはどういう感じを持っておられるか、私は一つ率直に承わりたいと思うのです。
○参考人(梅根悟君) 今おっしゃいました教育行政のいわば中立化の問題と私は理解いたしておりますけれども、文部大臣の問題あるいは教育課程審議会の問題、中央教育審議会の問題というふうなことであろうかと思うのでございますが、私やはりここ数年来の日本の教育行政というものを見ておりますと、どなたもおっしゃいますことでございますけれども、やはり教育の世界に対するいわば政党の対立といったようなことが非常にきびしく教育界に影響してきておるというふうな事態があると思うのであります。で、やはりこれはそういう事態の中で、いろいろな方面から教育行政の独立化というふうな意見が最近かなり出て参っておるということは当然のことではなかろうかというふうに考えております。外国の例などもいろいろ報告もされておるのでありまして、およそいわゆる自由主義諸国と言われますような国々では、教育行政のいわゆる政党政治からの独立というふうな態勢が何らかの形でどこの国も整えておるわけであります。その点日本の教育行政には非常に大きな欠陥があるのではないかというふうなことを痛感をいたしております。これはやはり国の世論としてだんだんに盛り上っていって、そうして将来はやはりこういう問題についていろいろな国でタイプはございますけれども、とにかく教育行政の指導的な支配からの独立をはっきり制度として打ち出していくというふうな方向に持っていくことが、日本の教育を行う、健康に正しく伸ばしていくためのやはり基本的な条件ではなかろうかというふうに思っておりますわけでございます。しかし、それは簡単ではないことと思いますけれども、私はたとえば先般日本教職員組合が主催いたしました全国教育研究集会に出席いたしましたけれども、その席に自民党の、このきょうの公聴会に御出席になっております某参議院議員さんがおいでになっておりました。これは日教組が招待をしておいで下さったのでございますけれども、私の出ておりました教育行政に関する部会に終始四日間ずっといらっしゃってみんなの討論をお聞きになっておりました。そうして私はちょうどその議員さんと前うしろで、しょっちゅう同じ場所におりましたものですから、休みの時間にいろいろお話をいたしました。先ほどもごあいさつ申し上げたのでございますけれども、その議員さんは四日間討論をお聞きになって、これならば話し合えるというふうなことを感想として申していらっしゃいました。現場の先生方はきわめてまじめに、むしろそういう政党的な問題というようなことから離れて、現場のこの苦しい状態をどう切り抜けるか、また自分たちとしてはどうしたらいいだろうかというふうなことを真剣に語り合っておりましたのをお聞きになって、これなら話し合えるというふうな感想を述べておられた。で、自分としてはやはりかえって、これは正確な言葉ではございませんけれども、少くとも国会における文教委員の問ではやはり同じ線で教育をもっていくということで、ある程度政党の党派を越えた共同の考え方というものを文教委員会自身の中に作り上げていく必要があるということを痛感しておるということをその方はおっしゃったので、私は非常に心強く感じておったのであります。そういうところからでもだんだんと一つの芽を出していくというふうなことが大事ではないか。また学者の方面でもそういった態勢をだんだん作っていくというふうなことがきわめて重要ではないかと思っております。そういう点につきましては、やはり私はちょっと、何でございますけれども、たとえば教育課程審議会というふうなもの、あるいは中央教育審議会というふうなものに、これは故意であるかどうか、そういうふうに邪推することはいけないと思いますけれども、とにかく世間では、日教組の講師団に参加しておる学者は全然これは入れないというふうなことを言われております。そういう御意思があるかどうか知りませんけれども、やはりそういうことが事実なされておるということはやはりいけないことなんで、私は日教組の講師団にも参加しておりますが、私は高等学校の、日教組から離れた研究集会の方にやはり招かれて参っております。地方の都道府県の教育委員会の各種の研究講習にはずいぶんだくさん招かれております。ただ、文部省の関係には全く出席しないというだけでありまして、地方ではちゃんとそういうことができておる。そういうことをやはりお互いにこだわりなく、やはり広く公平な考え方でいく、私どもも率直に申し上げるということがやはり大事じゃないかというふうに思っております。
○委員長(湯山勇君) 最後に野本君から一問だけ、一回だけ……。
○野本品吉君 参考人には長時間御苦労様でございます。私もいろいろと御意見を拝聴しておりまして、教育問題に対する態度、考え方の成長、自分自身の成長を期待されるように考えましてまことにありがとうございます。時間もありませんので相当御質問幸し上げたいと思いましたが、きわめて簡潔に要点だけをお伺いいたします。実はこの参議院は昭和二十三年に教育勅語無効確認の決議というのをいたしております。で、このことは私はそれま、で残っておりましたいわゆる承認必謹と申しますか、天皇中心の超国家的なものの考え方に対するよりどころを全く一掃した画期的な決議であろうと思います。そこで従来教育のよりどころになっており、特に道徳教育のよりどころになっておりました教育勅語というようなものが全く姿を消した。しかし残念なことにはそれにかわる何ものも与えられておらない。求められておらない。しかも外国では先ほど来お話のございましたように、いわゆる宗教的な情操の陶冶であるとか、あるいは宗教的な行事を通しての訓練によりまして個人生活、家庭生活、社会生活におけるよりどころというようなものが相当得られておる。で、日本の現状は個人、家庭、社会あらゆる面における生活のよりどころをどこに求めようかとする苦悶の中に置かれておる。私はそういうふうに考えるわけであります。そこでむろん一つの考え方によって全国民のすべてを律するわけにはいかないと思いますけれども、国民の大多数に共通する生活のよりどころ、こういうものを求めようとするのが道徳教育、道徳問題に対する国民全部の気持であろうと思う。国民大衆は何とかしてそういうよりどころをほしいと口にこそ出さないけれども、腹の中では皆求めてやまないと思う。これが、あるいは修身の教育とか、道徳教育の問題に対しまして大衆が非常に重大な関心を持っておる根本であろうと私は思っております。で、今日取り上げられております道徳教育の問題も、かような国民の多数に共通する問題をどうして解決していくか、どうしてわれわれの道を求めていこうとするかということの一つの現われとして考えるべきである、かように考えておりますが、この点につきまして梅根先生や長田先生のお考えを私は伺いたいと思います。 それから二番目は先ほど来まことにごもっともな意見として一応拝聴しておったのでありますが、道徳教育の問題にせよ、ほかの学科の問題、教科の問題にせよ、それの充実とか、あるいは徹底とかというものを要求されますというと、直ちに条件が整わないのだからどうにもならぬ、こういう声が非常に高くなるわけでございます。で教育の効果を十分上げさせるための条件を整えるためには、これは政治があらゆる努力をし、誠意をもってこれが解決に当らなければならぬ、かように考えるのでありますが、そういう条件が顧慮されないから、あるいは満たされないからということで一方の問題を閑却し、あるいはそんなことを言ったってだめだというような考え方では教育がいつになってもできないと思う。ここで思い出しますのは、先ほど来お話のございましたように、私もしみじみと感じております、長田先生の著書のペスタロッチにおける、ノイホーフにおける、スタンツにおけるあの教育生活で果してどれだけの条件が満たされておったかということを考えるのでありまして、私は条件を満たすことに対する政治責任というものはわれわれは十分感じて全的な努力をすべきであると思いますが、それによっていろいろな教育問題に対してだからできないのだという思想は、考え方は、よほど私は警戒しなければならぬ、かように考えておるのです。それが第二点。 それから第三点は、長田先生、先ほど日本の歴史と伝統にかんがみということを仰せられた。そこで、日本の歴史と伝統の中でやはり教育問題、教育的に考えて、あるいは道徳教育という限られた分野においてもよろしいのでありますが、日本の歴史と伝統のうち、これをはぐくみ、これをさらに育てていく必要のある歴史、伝統、こういうことについてどういうふうにお考えになられておるか。 まあ以上の三つに集約して御高見を承わりたい、かように考えます。
○参考人(長田新君) 最初の問題ですが、よく聞くことで、終戦後は日本の教育は迷い子のようになつちゃってよりどころというか、そういうものがどうもはっきりしないということをよく聞くのですが、これに対する私の答えは、実は非常に簡単です。教育のあり方というものは、結局国そのもののあり方というよりはあるべきあり方というものからこうきめてくるほかはないではないか、やや抽象的ですが、言いかえますと、国のあるべきあり方は、日本国憲法というもので日本という国のあるべきあり方がきまっていると私は思う。言いかえれば、そのりっぱな平和国家を作るとか、りっぱな民主国家を作るとか、りっぱな文化国家を作るとか、これのやはり今日日本の国のあるべきあり方がはっきり示されておると思います。そういうところから、日本の国の道徳教育のあり方というものも、またあるべきあり方もぎまってくるので、つまり日本の教育の標準尺は厳然として国の最高法によってきめられており、従ってそれが教育基本法というものにはっきり出ております。もちろんこれが完全であるとか何とふいうことは私は申しませんけれども、ともかくああいうものが出ておりますので、何も迷い子になる必要はない。ですから、教育のあるべきあり方は、私はやはり今申したような考え方で、むしろあまりにもはっきりしておる。ただ、今までやってきたことが、できなくなったからということだけで、どうすればいいかわからないというのは死んだ子の年を数えるような愚かなことです。もう厳然として日本教育のあるべきあり方はきまっていると思います。これが一つの答えです。 従って、今度教育基本法で道徳教育の基盤を考えるという考え方は先ほど申しましたけれども、まことにけっこうである。ただ、この平和国家、民主国家、文化国家を建設する道徳が果して今後あれで出してもらえるかどうか、いささか懸念なきにあらずと先ほどちょっと梅根先生とともに申しましたけれども……。 それから次の教育における条件は、教師の教育というものは、これは私は非常にものを単純に考える方ですが、そもそも道徳教育の本道の、ほんとうに行くべき道は、繰り返して申しますが、特設された教科、あるいは特設された時間等で課さなくてもよい道徳教育をするのは本道ではなくて外道であるというふうに私は理論的に考えておるものですから、どうしてもこの本道を行くほかはない。ところが、御指摘こも相なつたように、あまたの隘路がある。これは教師論というものから考えても、だれも今日の教師でぱ事を評することができないとか、あるいはすし詰め学級というものがあって、世界各国どこでも三十人から三十五人でやっておるのに六十人も持たせる、雑務雑役が多い、勤務時間が非常に多いということで、これは教育ができたら不思議とさえ言いたいほどこれは無理です。それは一、二の問題ですが、実にたくさんの隘路があって、隘路ゆえに本道を歩いていても栄養失調になっておる、だから先ほど申したように道徳教育の本道をいくほかにいく道はない、ただ陸路が多い、障害物が多い、その隘路なり障害物を除くという方向に総力を結集していくべきであって、すぐ横に道をそらして承認できないような、教育学上そういう方向へいくということは、まことに何と申しましょうか遺憾なことであるということは、特設時間とか、あるいは特設教科ということは私は道徳教育に関する限り本道ではなくて、これは言葉が悪いですけれども外道です。すぐ外道に行かずに本道を、隘路を防ぎながら、障害物を取りながらいくというふうなことがどうしてもわれわれのいくべき道ではなかろうかと考えておるわけなんです。 もう一つは、これは私は一口に申すことはできないと思うのです。つまり歴史というものは絶えず前進していくものですから、うしろ向きはいけない、やはり前進するほかはない、逆コースはいけない、前進するのだ、前進するといっても前進の仕方、前進の技術というものが、その民族が今日まで歩んできたその道をあくまでも踏まえて、そして前進していくというふうな、これは抽象的ですけれども行き方でなければならない、ですから、イギリスはイギリス、フランスはフランス、アメリカはアメリカ、ドイツは、ドイツ、日本は日本というふうな独自な道が考えられると、こういうふうなことを申したので、今何と何ということをここで御指摘申し上げることはあるいは必要ないじゃないか、かように考えます。
○委員長(湯山勇君) これをもって……(「議事進行」と呼ぶ者あり)ちょっと速記をとめて下さい。 〔速記中止〕
○委員長(湯山勇君) 速記をつけて。
○野本品吉君 ただいま長田先生から御答弁がありましたが、その答弁のうちで私はもうちょっと言葉を加えていただいてよく納得したいと思います。それは、つまり憲法の大精神に基く教育基本法によってであればこれは問題はないのだ、よくわかります。しかし、それだけでは非常に理想的な抽象的な言い方であって、もう一つそれを具体的に下へおろして何かあった方がいいのじゃないか、これです。
○参考人(長田新君) まあ、私は専門ではありせんが、憲法にせよ、あるいは教育基本法にせよ、あるいは学校教育法にせよ、法というものはごく――ごくといっていいかどうか、相当形式的な、抽象的な、原理的なものだと私は思うのです。その相当抽象的な、形式的というか、原理的なものの中に具体的な内容というものをはっきりつかまないと児童なり生徒の教育ができないわけです。そこでまず憲法、あるいは教育基本法こよって日本の教育、日表畠徳募るべきあり方を原理的に、あるいは抽象的かもしらないが、とらえて、その中身になると、まあ小学校低学年の子供にはどういう中身を持ったらいいか、あるいは商学年においては、あるいは中学校においては、高等学校においては、人を見て法を説くで、どんな具体的中身を持たしたらよいか、中身の研究というものが現場の先生方の仕事になると、あるいはそれを学者が指導するということもありましょう。中身の問題になると、たとえば近ごろ教育心理学などというものが非常に――非常にというか発展して参りましたですね。教育心理学というもので子供の心理状態の発達の段階というものを具体的にとらえる、あるいはその子供の地域社会、東京のような大都市、あるいはごく農村、山村、漁村もありましよう、地域社会というものを見詰めて子供が一人々々育っていく現場の地域社会というものをほんとうにつかまえる、これは教育社会学の問題になりましょう。たとえば教育心理学によって子供そのものの発達の状態を具体的にとらえるとか、あるいは子供の育っていく地域社会の実際というものをつかんで教育社会学をやっていく、こういうことはその現場の先生方の仕事であり、またそれを指導する地位にあるわれわれ学者たちの仕事ではないか。だが、しかし、この日本の今日の教育がどうあるべきかということは、それはさかのぼれば憲法だが、もう少し下っていくと教育基本法というものにはっきり出ている、ただこれは原理的なものだから具体的内容は、繰り返し申しますが、いろいろのまあ新しい教育学の部門なんかでやっていく、こういうふうに考えるほかないのではないか、こういうお答えをいたします。(「議事進行」と呼ぶ者あり)
○委員長(湯山勇君) 参考人に対する質疑はこれにて終了いたします。 この際参考人の各位に御礼申し上げます。長時間にわたりまして非常に有益な御意見を聞かして下さいましたことを厚く御礼申し上げます。広く宗教、道徳、科学の分野にわたってこういう大きい問題が国会で論ぜられたのはおそらく初めてのことだと思います。皆さんのお述べいただいた御意見は会議一録によりまして広く関係者に読まれまして、必ず大きな裨益をすることと確信いたしております。どうも長時間ありがとうございました。 本日は、これをもって散会いたします。 午後五時二十九分散会