海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第4号
- 発言数
- 53 件
- 登壇者
- 9 名
- 会派数
- 1
- 開催日
- 1958/04/17
会議録
○中川委員長 これより会議を開きます。 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する件について、調査を進めます。 本件について質疑の通告がございますから、順次これを許します。時間の関係上、まず厚生大臣に対する質疑を中心として行われるようお願いいたします。辻政信君。
○辻委員 大臣にお伺いいたします。終戦後の現地復員処理につきまして、非常に不合理があるというふうに考えますが、政府から出されました資料を見ますと、現地復員の手続上の区分としましては、「現地軍司令官が、復員に関する軍令の規定に基き、本人の申し出に応じて召集を解除した者」、これが一つ。そのほとんど全部は内地に帰りました。もう一つは、「復員局が、現地部隊長の報告とみずからの調査に基き、昭和二十四年八月十五日付をもって未復員者たるの身分を解除した者」、これらはすべて自己の意思により残留した者と認めておる。この二つになっておるのであります。そこでお伺いしたいことは、最初の現地軍司令官がやったことはいいとして、「復員局が、現地部隊長の報告とみずからの調査に基き」、こう書いてありますが、「みずからの調査」というのは、一体どれくらいの努力をし、どれくらいの正確度をもって解除すべきものとお認めになって結論を出されたのか、これをまずお伺いいたします。
○堀木国務大臣 一応事務当局から、従来の経過を説明させたいと思います。
○河野政府委員 終戦前の扱いといたしまして、三年間行方不明であった場合には、復員の処置をとるということになっておったように聞いておるわけでございます。終戦後の扱いといたしましても、そういった趣旨をやはり尊重するであろうというのが一つでございます。それから当時どういう状況であったかということにつきましては、それぞれの地区の軍司令官等の御報告を徴しておるわけでございますので、一つにはそれを基礎とし、さらにまた帰ってきた個々の人たちのいろいろな話を聞いて、全般的に未帰還調査として相当念を入れて従来から調査をいたしておるわけでございます。ただいま御質問のありましたようなケースにつきましても、具体的にだれからどういう調査をしたというふうなことは、ただいま手元に資料がございませんので御容赦いただきたいと思いますが、そういうふうに個々の人々の証言等を基礎といたしまして、二十四年八月に、復員処理をすることが適当であるというふうに考えまして、さような処置をとった次第でございます。
○辻委員 それはシベリアに抑留された者も同じように処置なさいましたか。三年間というあれで……
○河野政府委員 シベリアに抑留をされておりますのは状況がわかっておりますの、で、さような処置はとらないで、抑留されておるというふうな前提のもとに処置をいたしたわけでございます。
○辻委員 わかっておると言われますけれども、生死不明の者、生きておるだろうと想像される者も今日まで十何年間続けておるじゃありませんか。南方だけ二十四年八月十五日で打ち切っているのです。そこに不合理がありませんか。
○河野政府委員 それは一つの根拠としてと申しますか、考え方の一つとしてそういうふうな従来の慣例の精神を考慮に入れたということで、それだけでものを判断したというふうに申し上げたつもりではないのでございます。南方におきましては、先ほど申し上げましたように、軍司令官の報告あるいは帰ってきた人たちのお話等によりまして、本人の意思に基いて離隊をしたというふうな状況に聞いておりますので、それらの事情を総合勘案いたしまして、先ほど申し上げましたような処置をとったわけであります。
○辻委員 それは許されないことです。シベリアにおる者は、ヴェトナムとかインドシナよりもっと調査しにくいのですよ。実態はつかめない。共産圏におる者は、終戦後十二年間たっても、その処置をとって、留守宅渡しもやっておるのですよ。打ち切られてない。そうしてあなたの方で打ち切られたのは、山西とそれからインドシナと越盟軍ですね。この三つの地域のものは、二十五年八月十五日でばっさり切ってしまった。その時に行方不明の者は、離隊逃亡という不名誉な言い分で一切の処置を切っておる。非常な大きな手落ちがあるのです。そこに不公平があるのですよ。だから私が言っておるので、あなたの答弁は問題にならない。 実例を一つ申し上げます。自己の意思によって逃亡したとおっしゃっておるが、当時の客観情勢はそういうものじゃない。山西におきましては、閻錫山のために半ば強制的に残留をしいられておる。そうして、共産党と非常なひどい戦いに使われておる。日本の兵隊の意思によらずして、客観情勢の逼迫でなっておる。それから越盟軍、インドシナにおきましては、これは二通りある。民族革命に非常に共感して、アジアを解放しようとして、自発的に残留した者はありますが、ごくわずかであります。その他は強制的に残された者です。これは私の体験からあなたに御参考に申し上げるのだが、終戦の年の十月から翌年の三月まで、私自身があの仏印革命の中におった。現地の状況はおそらく私が一番よく知っております。そのときのことを御参考に申し上げますと、まず重慶軍が入ってきた。私は重慶軍と接触を保っておりましたが、入ってきて彼らが第一にやったことは何か。戦犯を出せ、それがいやならば金を出せ。金条です。一人について五十本持ってこいとはっきり言っている。それからもう一つは彼らが最も不足しておったお医者さんを出せ、その次は技術者を出せ、この医者と技術者を人質にとって、お前らが言うことを聞けば戦犯を許してやろう、大部分の者は帰してやろう、そのかわり医者と技術者は人質にして残せと、これは非常な強い圧力をかけたものです。私は渦中におったからよくわかる。ことに、おもしろいことは、この病院に勤務しておったお医者さんに対して——重慶の将校はほとんど全部淋病にかかっております。この花柳病をなおしてほしいということが、重慶の将校の非常な強い希望である。また、口で言うと恥かしいから言えない。そうっとやってきて、手のひらに淋病と書く。これをなおす医者はいないか、そうして、日本軍の命令で、本人の意思のように装わせて残してくれというかけ引きが行われる。それを聞いてくれれば、お前の部隊長は戦犯を解除してやろう、こういうことがざらにあったのですよ。あなたはそれを見ないのか。みな家へ帰りたいという心を押えて、自分が犠牲になることによって同僚の戦犯を救い、その他の者を一日も早く帰してやろうという非常な犠牲心を持って残った人が多いのです。それを離隊逃亡という汚名を着せてばっさり切るなんてことは、どこから出た処置だ。それを四の五の言って、そのあやまちを認めないということは容赦できない。 その一つのケースを御参考に申し上げてみます。南方陸軍病院に所属しておりました軍医中尉油井誠一という人がおります。この人は、昭和十九年七月十五日中支において悪性マラリアにかかっています。そして、それが南方に転送されて、二十年の六月二十日から終戦まで南方の第四陸軍病院、ハノイで療養を受けておる。そうして終戦を迎えましたが、この病気の医者まで、軽い病気の者は重慶軍が強制的に残した、本人の意思と称して。これが終戦後の革命戦争のどさくさに残されて、非常な苦労をいたしまして、転々としながら現地の住民の病気をなおし、自分の病気を押えながら、あるいは重慶軍の病気をなおしながら、とうとう山間部落に連れていかれまして、悪性マラリアを再発し、昭和二十三年七月十五日、越南民主共和国ラオカイ市の二十キロメートルの無名の部落でマラリア病のために死んでおるのであります。これは的確な現認証があります、証明書がある。その一通は、南方陸軍病院付でありまして、佐藤喜一郎という人が現在残っております。この人がはっきりした証明をしておるにかかわらず、あなた方の処置としては、これは自分の意思によって逃亡したのだというので、きょうまでびた一文もこの留守家族及び遺族に対して支払う処置をとっておらない。これは一つの例ですが、私は新潟県まで出張して、その家族について調べてきておるのですよ。しかも、死んだのは二十三年七月であります。確かめたのは二十四年八月十五日で、適用されないで、留守家族が残っておるにかかわらず、びた一文もやっていないのは、どういうわけか。これに対しまして、高崎の援護係におきまして書類を数回出しておりますが、あなたの方は、今日までそれを採用しようとしておられない。それが一体涙のある引揚援護局の処置といえるかどうか、留守家族の身になってごらんなさい、その未亡人は独身者でありますが、この夫の不名誉がそそがれるまでは断じて再婚しないというので、夫の写真を拝みながら、十三年間、苦しい生活に耐えておられる。たびたび高崎の援護係からそういう書類が出ておるにかかわらず、今日までなぜ処置をとっておられないか、それをはっきり承わりたい。これは前もって言ってあるから、調べてあるはずです。
○河野政府委員 全般的な問題といたしましては、先ほどお答えを申し上げたような処置をとっておるわけでございますが、もちろん中にはお話のような、個々のケースといたしましては、必ずしも自己の意思で離隊したいというふうに言えないものもあろうかと思うのでございます。そういった人たちに対しましては、今後とも、そういうふうな事態が明らかになって参りますれば、もちろんこれは復員手続を取り消すというふうな処置を当然とるべきだと考えておるわけであります。従来からそういうつもりでおりましたが、中には調査の不十分なために、そういう処置がまだできていないものもあろうかと思いますが、そういうものがございますれば、これは改めるにはばかるつもりはございません。 それから、ただいまの具体的なケースにつきましては、私どもで調べましたところでは、ほかの証言もございまして、自己の意思によって離隊したというふうな資料等もございますので、さらに十分お話も具体的に伺い、その他の資料等とも突き合せまして善処して参りたい、かように考えます。
○辻委員 間違ったケースがあったら、あなたは直すとお答になっておりますが、直しておらぬから私は文句を言うのです。あなたの方で、昭和三十年十二月八日、死亡確定に基く公報を発令しております。現地復員は取り消しとなっておる。期限内にやったから、そして軍人の身分として公報は出されたが、かつての現地復員、逃亡理由がもとで、死因は在隊中のマラリアの再発であるにかかわらず、それを平病死とされておる、こういうことは、一体合理的な認定とお考えになりますか。戦争中にマラリアにかかって入院しておったという証拠があるのですよ。それから死んだときの医者の診断書がついている。そのマラリアを平病死と認定したというのはどういうわけですか。
○河野政府委員 個々のケースでございますので、さらに十分調査をしてみたいと思います。
○辻委員 冗談を言いなさんな。これは昭和三十一年の十二月二十四日付で群馬県から調三百号をもって、遺族年金、弔慰金の申請を行なっております。三十一年十二月二十四日ですから、今から二年前なのに、いまだに裁定がないじゃないですか。そして昭和三十二年三月七日引揚援護局の審査第一課から再調査中の回答に接しております。これほど明瞭なものを、何の必要があって再調査しなければならぬか。そして、該当するかどうかは未定のまま、今日までほおって置かれている。この裁定がほしくて、年若い未亡人が、十三年間、なき夫の写真を抱いて、再婚もせずに置かれている姿が、お役人にはおわかりにならぬのか。なぜ引揚援護局は留守家族のその夫の裁定を待っている人の気持になって仕事をしないか。書類をいじくって、不利な証言が一つ二つあるから再審査するなんていって、一体ハノイに出かけていけるのか、そういうばかげたことをつべこべ言わないで、確定すべき一つの資料があったならば、間違いは間違いとしてなぜ公務死の扱いをして、そして遺族に対して弔慰金なり年金なりをやってやらないか。私は親心を持って仕事をしなさいと言っているのです。それがいやなら、引揚援護局なんて廃止してしまえ。あの死んだ兵隊の家族の気持になって、涙を持って仕事をやれ、そのためにあなた方の定員は残しておる。そういう無責任な答弁で遺族の気持が救えると思うか、どうですか。
○堀木国務大臣 今御指摘の問題に関連してでありますが、留守家族援護の関係につきましては、私も単純な事務的な処理で終止すべきでないという考え方から、終戦後もう十三年にもなって参りましたことでもありますので、この際私ども自身がもう少し高い考え方、事務的な問題より高い考え方でこの問題を処理することが、留守家族及び遺家族等に対して御満足——辻さんの言われる御心情を察すれば、どういう状況にいたしましても御満足にならないだろうとは考えますが、すべて、われわれ自身省みて恥しくない、そして留守家族等から見ましても、それだけの処置をとるならばあきらめられるという気持を御察知して、適切な処置をとりたいと思います。今個々御指摘の問題は、専門家の辻さんのおっしゃることだから、私のここで感じますことは間違いないことだというふうに考えますが、一ぺん手続したのはなかなか改めない役人の従来のやり方もありますけれども、そういうことは私是正して参るつもりであります。しかし、個々の具体的の場合は、一つ一つ私まだ了承していませんので、この点につきましては、大へん手続がおくれて、家族の心情から見ますと、一日おくれても、どれだけ何かということはほんとうによくわかるのであります。 一方役人の方は、たくさんの事務を処理していると、つい一つ一つにそういう感情を持つことを忘れがちなものでございます。今後十分注意いたしまして、具体的の問題につきましても、処理すべきものはさっそく処理いたしたい、こう考えておる次第でございます。
○辻委員 ただいまの大臣の答弁は、留守家族に対しては非常に同情のある答弁でございました。その答弁によってほっとする者がたくさんあると思います。問題は、山西とインドネシア、インドシナこの南方の三地域に限って、二十四年の八月十五日にばっさり切った、いわゆる特扱い、これをしたことに非常にガンが残っておる。北方は今日まで調査不明のものは調査の処置をとり、それからわからぬ者に対しても、留守家族の援護手当をやっておる。この山西とヴェトナムとインドネシアは特に混乱をしたところで、私が体験を持っておるから言うのです。これほど気の毒なところはない。この気の毒なところをばっさり切ってしまって、間違いを修正しようとしないところにガンがある。なるべく早い時期に、この二十四年八月十五日の仏印の特扱いという間違った手続をやり直して、北方同様の条件で、あたたかい処置をおとりになることを、特に政府に要求いたすものであります。大臣はその点についてどうお考えになりますか。
○堀木国務大臣 今お話によりましてよくわかりました。今申し上げましたように、すでに十三年たって参りましたので、私ども単純な援護局よりは、最終的に内閣として最善を尽したい、こういう処置をして参りたいと考えておりますから、おまかせを願いたいと思います。
○中山(マ)委員 関連してちょっと一点だけ伺います。私は特に大臣の、政治家として、閣僚としての今の御発言を伺いまして、非常に感謝しておるのでございます。今日まで私は本年でもう十一年国会におるのでございますが、その間ずっとこういう問題はいろいろとお世話して参りましたが、まだその跡を断たないのでございます。今でもまことにむずかしい件を、いろいろと恩給局などにお願いをしておるのでございますが、わたしは特に大臣にこの際お願いしたい。もう解散もそう遠いことではないのでございますから、お互いに私どもは選挙をやってみなければ上るか下るかわからないのでございます。だから、私どもの最後の締めくくりといたしまして、これはぜひお願いしたい。特に本年度は軍人恩給の倍率あるいはベース・アップ、こういうものが最後の締めくくりに来ておる。そして、軍人恩給とはいっておりますけれども、ほんとうは社会保障的の遺家族の扶助料が大体を占めておって、ほんとうに生きておる軍人さんにはまことにお粗末な取扱いでございますから、私はこういう観点で、三百億も出そうというくらいな内閣の、一つの断崖を飛び越えた大きな愛情を持って、今、辻委員がおっしゃいましたような、まことにどうしようもないようなことに、一つ御処断をいただきたいというのが私の心からの要望でございます。結局、男の先生方もおっしゃって下さいますが、私は婦人の立場から、今は道徳が頽廃して、女というものが性的に解放されて、何をしても世間がそううるさく言わない時代であるにもかかわらず、十三年もなき夫にささげるこの愛情、この貞節、こういう人に対してすみやかに御処断をして下さらなければ、私ども婦人議員は、何のために国会に来ているのかわからないというような感じを持つのであります。どうぞ一つ、こういうものは、たといマイナスになるような報道が来ておりましても、御勇断を願いたい。特に私が今思い出しますのは、私が海外同胞引揚の委員長をいたしておりましたときは、三十余名の共産党の国会議員がおったときでございます。そのときに共産党のこの委員会における委員さんたちの、この問題に関してのあの鋭い反撃というものは、マッカーサーは南方はもうすでに処理をしたと言っておるけれども、そんなことは大うそだ、結局一応処理したことにしておるだけで、まだ多くの人たちが南方に残されておるじゃないか、ソ連だけをいじめるなと言って、そのときはソ連擁護でした。私はこういうことはいかがと思いましたけれども、その後、いろいろな山の中に隠れておった人たち、あるいは土人のうちにやむを得ず逃げ込んで、帰る船もないので、あきらめてそこで暮しておった人たちのことが、次から次へと出て参りますの見ますと、共産党もまんざらうそを言ったわけではないということが今日確認されたような気に私はなっておるのでございます。一つこういうことも御想起下さいまして、厚生大臣としての強い愛情の線をお打ち出し下さいますことを、私は特にお願いをいたしておきます。
○眞崎委員 関連して。——辻委員、中山委員から詳細質疑がありましたので、申す必要もないようでありますが、これは非常に大きな問題でございます。日本再建上非常に重要な精神的な基礎になりますから、一つこの機会に一言お願いしたいと思います。 内閣委員会その他で、恩給についても私申し上げたのでございますが、大体戦後の日本人の精神の持ち方は、占領政策によって誤まられその後の赤い宣伝に乗って、世論というものが間違って、軍人を憎めば平和が来るような、またそのついでに坊主が憎ければけさまで憎い、遺族まで憎むというよう風潮がござました。判断の基礎が偏しておる。これらの者を救わずして、愛国心が起るはずはありません。みすみす左翼の思想に乗って、今、日本の崩壊の道をたどっておると思うのでございます。法制の末節をとらえて、それを冷酷に判断すれば、今までの処理も一つの道理かもしれません。しかしながら、ほんとうに人情味から常識をもって考えて、少数の悪人をのがすまいと思って、大多数の善人に迷惑をかけるようなことは、政治家のすることではないと思います。少々だまされてもいいから、大多数の善人を救うことが、日本の国を建て直す根本だと思います。そこで、局に当る人は、その精神をもって、今、辻委員、中山委員の言われたような者を救っていただきたい。私は今二人局員にお願いしておきましたが、常識で考えると明らかに戦争のために病気になり、気違いになっておる。それを病院を退院するときに、院長がなおったと言ったからといって、その扶助料に値しないという冷酷な扱いを受けておる点がございますので、そういう点をほんとうに政治家として、建国の精神的基礎を盛り立てる意味で、ぜひもう一度詮議をし直していただきたいことをお願いして、私の質問を終ります。
○堀木国務大臣 中山さんなり眞崎さんからおっしゃったようなことは、私は今、日本の国民の心の中には実際あるのだというふうに痛感するのです。私も過般ドイツへ参りましたとき、ドイツの民族のために犠牲になった人に対して、ドイツ人自身がどう考えておるかという実態に触れまして、非常に感激いたしました。国民として、やはり民族のために犠牲になった人に対して、われわれ自身、心からこれに報いる態度がなければ、社会再建はあり得ないことは明らかであります。ともすれば国内の動揺するというのは日本だけで、何か世界各国共通の思想から日本だけが離れておるような気が、むしろ実は率直に申し上げてしておるのであります。南方関係におきましても、あとでお聞き取り願えるそうでございますけれども、フィリピンの遺骨収集というようなことも、時期的に判断いたしましてどうかという心配までしたのでありますが、しかし、本人たちが非常に苦労をしてやってきてくれたという姿そのものが、私は実は国民に深い感銘を与えたろう、また幸いに向うでもそれに報いる態度をとってくれた、こう考えて喜んでおるのであります。だからといって、南方関係は特別に考えるようなつもりはございません。日本人みずからが、日本人の判断区でものを処理すべきであろう、こう考えております。ただ、こういうものは、ずいぶん長い間の経緯もございますが、この際私どもは高い見地に立ってこれらの諸問題を解決して参りたい、これは内閣として私は申し上げることができると思います。そういうつもりでございますので、御了承を願いたいと思います。
○辻委員 非常に高い見地に立っての御答弁をいただきましたが、率直に申し上げますと、その大臣の気持が仕事をしておる末端に通じておらない、もう一つは、役人というものは、やはり法律をたてにとって忠実にそれを守っていかなければならぬ、この二つがありますから、必ずしも悪意がなくても、これは法律の第何条に合わぬから、資料がそろわぬからというので、しゃくし定木で、ようじでほじくるような審査の仕方をするということになる。死んだ者は無条件に、そういう審査の煩を除いても、これは決して行き過ぎじゃなかろうと思うのです。死んでもうかるというものじゃないのですからく、骨をさらしておる人に対する処置というものはあまり法令の末節にこだわらないで、時期的に早く、大体の判断がついたら処断をなさるような行政指導を大臣にぜひお願いしたい。 次に問題をあらためまして、海軍の遺骨収集について申し上げます。軍艦「陸奥」が、終戦の直前に、原因不明の事故によりまして、瀬戸内海の呉の近くに沈んでおる。あの大きな軍艦が日本の近海で、目の届くところに沈んでおる。そこで、ガダルカナルとかビルマとかフィリピンに陸軍の遺骨収集の特別班を出すという気持を持っておるならば、呉の沖合いに沈んで眠っておる軍艦「陸奥」の遺骨収集に対しての努力を政府は一体どう払われているのか、これについて関係者から経緯を承わりたいと思います。
○河野政府委員 軍艦「陸奥」は、お話のございましたように、昭和十八年に山口県の西南の海に沈んでおるわけであります。当時の乗員千四百七十一名というふうに承知をいたしております。そのうち三百五十名が生存いたしまして、千百二十一名が死亡いたしましたというふうな報告を受けておるわけであります。当時百六十五体を収容いたしました。その後の遺体の収集でございますが、司令部の占領中は、サルベージ等を当初におきまして許されませんでしたので、二十四年になって初めて許可をされるというふうな事態になったわけでございます。そこで、二十四年から二十五年にかけまして、第一回の搭載物件の引き揚げが行われたわけでございますが、その際に、条件といたしまして、遺骨の収集をやっていただくようにいたした次第でございます。その際、二カ年にわたって行われました引き揚げ柱数は二百十三体でございます。その後二十七年、二十八年にわたりまして、第二回目の引き揚げか行われた。その際に揚げました遺体の数は四百七十でございます。従いまして、沈没当時の遺体を合せますと、大体八百五十ばかりの遺体が収容できておる。現在二百七十三体がまだそのままになっておるというふうな状態でございます。 この二百七十体ばかりの遺体でございますが、相当深いところに沈んでおりますし、また潮流も非常に悪いというふうな実情からいたしまして、現在の技術では、今直ちにこれを収容するということは非常にむずかしいというふうに承知をいたしておるわけでございます。しかし、また今後引き揚げが行われます際には、当然これらの遺体の収容もやって参らなければならぬ。今後収容いたしますためには、おそらく船体を引き揚げなければ、技術的に無理ではなかろうかというふうに言われておるわけでございますが、非常に大きな、しかも重い軍艦のことでございますので、あるいはこの船体を切らなければ揚げられないというようなことも聞いておるわけであります。切る場合に、たとえば火薬を使うということになりますれば、遺体をかえって損傷することになりますので、その点も技術的に非常に困難が伴うのではないかというふうに考えておりますが、いずれにいたしましても、今後船体の引き揚げが行われるような場合には、当然この遺体も丁重に収容するような措置をとって参りたい、かように考えております。
○辻委員 それではお伺いしますが、どの会社にあの引き揚げを、特に搭載物件のくず鉄を幾らで払い下げしたか。その会社は今どうなっておるか。
○河野政府委員 搭載物件なり船体の引き揚げの許可、これは大蔵省を通じてやっておるわけでございますが、私ども聞いておりますところでは、西日本海事という会社がその許可を受けてやっておる、かように聞いておるわけであります。
○辻委員 その会社は今ありますか。
○河野政府委員 現在も存在しておるように聞いております。
○辻委員 資本はどのくらいで、何をやっておる会社ですか。だれでもいいから、知っている人は答えなさい。
○村岡説明員 会社の資本につきましては、われわれよく存じておりません。払い下げが最初に行われましたのは、当時の連合軍の許可を得まして、山口県の県知事とそれから業者の間で行われました。その後、連合軍側から、「陸奥」の船体そのものを日本の政府に正式に引き渡すということでございまして、自後大蔵省の方で、その関係の仕事を受け継いだわけでございまして、大蔵省と会社との間で引き続いて払い下げの仕事か続けられておるわけでございますが、そういう関係で、私どもは会社の内容等についてはあまり詳しく存じておらないのであります。
○辻委員 私の聞いておるのは、どうもこれは資本の少い、戦後のアプレ会社であって、「陸奥」の鉄をねらった、それに一つの政治がからみついておるというようなうわさを聞いておるのですよ。だから言うのです。そうすると、今、管財局長を呼んでおりますか、一体今まで引き揚げたものだけで、この払い下げの条件が終っておるのか。ということは、残っておる「陸奥」の船体というものは、国有財産になっておるのか、それとも西日本海事のものになっておるのかということをお聞きしたい。それはわかりますか。
○河野政府委員 大蔵省から許可を受けておりますのは、搭載物件の許可だけで、船体それ自身の許可はされておらないというふうに承知いたしております。
○辻委員 その搭載物件を引き揚げるときに、引揚援護局としては、業者をもうけさすことよりも、遺体を収集することがあなた方の頭になければならぬ。現在それにはまだ二百七十三体残っておる。これを完全に引き揚げない限り許さぬという強い条件をつけたかどうか。単に希望的条件をつけたのですか、どっちですか。
○河野政府委員 これは、可能である限りは全部引き揚げてもらうことを条件にしておるわけでございますが、技術的にむずかしいということであれば、残りがあってもこれはやむを得ないというふうに考えております。
○辻委員 骨を引き揚げても金にならない。だから業者はそういうものをできるだけ引き揚げる努力をしない。ことに戦後のアプレ業者は……。そうして大砲の鉄を安く払い下げを受けて、それでもうけて一ぱい飲もうというやつばかりだから、あそこに眠っておる人の骨を無理して揚げても、もうけにならないと思っている。こういう業者に対しては、政府は必ず全部の遺体を揚げるということを条件にしなければならぬはずだが、むずかしいとかなんとかあなたは言っておるけれども、あなたは専門家ではないし、もぐったことはないのだ。それであなたは一体も残らず引き揚げるというその最高の責任者である。今このなくなっている艦長の未亡人は、二百七十三体が揚るのを毎日念願しておるじゃありませんか。そうして、あなた方の方に日参して陳情していられるにかかわらず、それを取り上げて、国が積極的に二百七十三体を揚げようという努力を今まで払っておらぬじゃないですか。大蔵省と話し合いをして、残ったあの船体を切って引き揚げるなり、別のもっと有力なサルベージ会社に払い下げをして、それには値段は安くてもいいが、二百七十三体は一体も残らず引き揚げろという条件をつけて、そのためにあの船体を揚げる努力を今日まで払われておりますか。知らぬ顔をしているじゃありまんか。南方の遠い遺骨を集めるのもいいが、目の前に眠っている海軍の二百七十三体をどうするのですか。事務的なごまかしでは承知しない。艦長の未亡人が、夫の霊にかわって拝んでおるということを知っておりますか。将来これをどうするつもりですか。
○河野政府委員 先ほどお答えしたことを繰り返すことになるわけでございますが、今後も引き揚げに伴いまして、技術的に可能な限り遺体の収集を進めて参りたい、かよに考えておるわけであります。
○辻委員 引揚援護局長として、大臣を通じて、大蔵省に残り遺体をどうするかということについて要求したことがありますか。
○河野政府委員 従来の引き揚げの考え方といたしましては、遺体収集それ自身を目的として引き揚げをやるというふうな考え方は、実はとっておらないのでございます。こういうふうに申し上げますと、あるいは御家族のお気持にも沿わないような響きもあると思うのでございますが、私ども伺っておりますところでは、海軍の方々といわず、船でなくなられた方々、船で生活をしておられる方々は、船と運命をともにするというふうなお気持で、船が沈んだ場合には、そこを墓場にするというような気持でおられるように伺っておるわけであります。考え方によりましては、そこをいじるというのは墓場を……。(辻委員「ばかなことを言うな、君」と呼ぶ)というふうな気持もあるというふうに伺っておるわけでございます、そういうふうないろいろな気持もありまして、遺体収集それ自身を目的とした引き揚げは、行なっておらないわけでございます。サルベージが行われた際に、遺骨をあわせて収集するというふうな行き方で今まで参っておるわけであります。
○辻委員 こういうことを言うのです。委員長よく聞いて下さい。死んだ者はどうでもいい。艦と運命をともにするものは、海底に沈んでおってもいいのか。遺族はそれでもいいのか。ばかな答弁をするにもほどがある。その気持のものであればなおさら、国は費用を惜しまず、努力を惜しまずに、一体残らず探すというのが、これが生き残った役人の考え方じゃないですか。生きておる者だけを帰すというのでは、死んだ人の気持はどうなんですか。そういう気持で今あなたは局長をやっているのですか。海軍の者は艦とともに沈む、これは崇高な気持だ、そうすれば、われわれとしては、沈んだ人の遺骨を取り上げることに命がけの努力をするのが、生き残った役人の仕事ではないか。そういうばかな答弁をやって局長が勤まるか。大臣どうですか。
○堀木国務大臣 まことに私自身も、実は辻さんと同じことを感じておったのです。なるほど海軍軍人がその艦とともに自分の運命をともにすることの精神でいられることは明らかでございます。これは率直にいってほとんど世界各国の海軍軍人に共通の崇高な精神だと思います。しかし、それだけに、こちらがそれに報いることをしなければならない、これは辻さんの精神と全く御同感であります。ただ不幸にしまして、私はこの「陸奥」の詳しいことをお答えできる用意をしておりません。今、政府委員とのやりとりをお聞きしておって感じますことは、これらについて、私ももう一ぺん大蔵省ともよく相談してみたいと思います。おそらくこれは技術的には相当困難であろうということも想像されますが、ただ困難であるということでなしに、先ほど申し上げましたように、われわれが全力をあげてそのなにを講ずるというその精神が、政治の上に、行政の上に現われなければいけない。先ほど冒頭に申し上げましたように、いわゆる事務的でなしに、われわれ自身が政治家として考える。なお、行政官の習癖については、辻さんがさっきお触れになりました。私も官吏上りでありますから、率直に官吏のことはよくわかります。それだけに悪いところもよくわかります。私に少し取り柄があるとすると、官僚を官僚としての習癖に執着させないでいくというところに、実は私の特質があるのではなかろうか。過般もほかの委員会で申し上げましたのですが、そのために評判が少し悪くても当りまえだと思っております。そのために指導して参ります。今、援護局長が御質疑の応答のうちで、やりとりで申し上げたことは、表現は非常に悪かったと思うのです。しかし決して私の精神と相背離してやっているとは思いませんし、またそんなことをさせるつもりもございませんから、その点は御心配なく、御寛容を願いたいと思います。
○眞崎委員 「陸奥」のいい質問をしていただいて、非常に私も感謝しているのですが、私自身がかつてほんとうに伺いたい問題でしたが、これについては前にたびたびわれわれも請願しておるのです。最近も三好艦長未亡人からもよく願い出てきておるのでございます。私も専門家ではないからどうこうという判断を的確に下すわけにはいきませんが、困難ではあるけれども、必ず揚ります。金さえかければ揚ります。あんなところで沈んでいる船が揚らぬというような、そんな技術が未熟ではございません。それから、今局長の言われたことも不用意で、そして表現の仕方も間違っておったかもしれませんが、そういう気持が日本を支配しておる間違った思想だと思うのです。その気持で全部を判断するものだから、ことごとく、遺族も何も満足ができない結果を生んでおると思いますから、それはよく一つ反省していただきたいと思うのであります。
○堀木国務大臣 大蔵省の方をお呼びにならなくとも、私が大蔵省と相談する方が確かだと私は思います。 それから、眞崎さんいろいろおっしゃいますが、率直にいって、私は、海軍の問題でも、横須賀の、GHQがまだある時分に、海軍の例の水交社のところに行くと、東郷元帥の部屋というのがあるのです。それからアメリカへ私が参りまして、海軍省を実は訪問したのですが、そのときに、ハワイ空襲の海軍将兵の大きな額がかかっているのです。軍人は軍人としての共通の崇高な精神を盛りたてて、そういう民族的な崇高な精神を、いわゆる国境を越えても、敵であろうと崇高なものは崇高として尊敬するだけのものを持っておる。それは、占領政策も、本来の精神と違うようなものもずいぶん行われただろうと思うのですが、本来軍人というものはそうあるべきものなのです。私はそういう点でも十分よくわかるのでございます。そういうふうな気持を常に持っておりますので、まあ今御質疑等の問題につきましては、できるだけのことを講じておきたい、こう考えておりますので、御了承願います。
○辻委員 それでは、管財局長を呼んで、その処理をここでただすことはやめます。一つ大臣を信頼し、今度の選挙が終ったその次の特別国会におきましては、陸軍におきましては二十四年八月十五日のいわゆる復員特扱いを解消する、海軍においては「陸奥」の艦体をいかにして揚げ、遺骨を完全に収集するか、この二つを引揚援護局長の大きな課題として保留をして、私の質問を終りたいと思います。委員長からもこの点は念を押しておいていただきたい。
○中川委員長 この際、委員長より一言大臣にもお願いをしておきたいと思うのですが、お聞きのような問題でございますが、大蔵省といろいろ御折衝をなさって、むろんやっていただくことはけっこうでございますけれども、これを業者に請け負わす——むろん技術的な面は業者に請け負わせなければならないのですが、国で積極的に引き揚げるくらいなお気持をもって一つ大蔵省と御折衝願いたいのです。つまり、国の費用において、業者にまかせますと、先ほど来質疑応答の中に現われておりますように、業者は、遺体なんかどうでもよろしい、問題は鉄であるとかいうようなことに重点を置きやすいと思います。ですから、問題は、われわれの国民感情といたしましては、遺体を引き揚げるということが主眼でございます。そういう点から申しますれば、国の費用において国がこれをやる。このくらいなお気持をもって、一つ大蔵省と御折衝を願いたいと思います。 また、ただいま辻委員からの要望の二点は、援護局を御督励いただきまして、一つ早急に御決定を願いたいと思います。特に扶助料の裁定の問題につきましては、紙一重で裁定の恩典に浴さないというケースがずいぶんございます。私もそういう問題を毎日取り扱っておりますけれども、それらのために、せっかくたよりにする子供か失ったり、あるいは主人を失った未亡人等が、子供をかかえて生活にあえいでおるのが全国にずいぶんございます。そういう点につきましては、一つあたたかい親心をもって御善処いただきますよう特にお願いを申し上げておきます。 —————————————
○中川委員長 この際、フィリピン方面戦没者の遺骨収集並びに慰霊のための派遣団が過日その使命を果して帰国されましたので、その状況等について、厚生省当局より説明を聴取することにいたします。団長稲葉柾君。
○稲葉説明員 御報告申し上げます。本日、本委員会において過般政府から派遣されましたフィリピン方面遺骨送還並びに現地追悼のための派遣団の行動等に関して御報告をする機会をお与え下さいましたことは、私の深く幸いとするところでございます。以下、簡単ではございまするが、本派遣団の編成、任務、行動概要及び収骨、追悼の概要等について御報告申し上げます。 派遣団の編成は、政府職員十名、遺族六名、宗教家二名でありまして、遺族は静岡、岐阜、大阪、広島、熊本、大分の各府県より選定、宗教家は聖公会牧師及び東本願寺僧侶でございます。 派遣団の政府から与えられた任務は、フィリピン方面における旧主要戦場における御遺骨の収集を行い、並びに現地追悼を行う、こういう任務でございます。 派遣団の行動概要について申しますと、一月二十日正午、航海訓練所練習船銀河丸に乗船いたしまして、東京港を出発。一月二十八日午前十時半マニラ到着、派遣団長及び副団長は、駐比日本大使とともに、当日フィリピンの保健大臣、翌二十九日外務大臣、三十日国防大臣を正式訪問いたしまして、あいさつをいたしました。一月三十日派遣団はかねての計画に従いまして班を二つに分けまして、かりにルソン班、ビサヤ班と私どもは称しておりますが、その二班に分かれまして、ルソン班は一月三十一日ジープ四台に分乗いたしましてマニラを出発、お手元に資料を差し上げてあると思いますが、ルソン島内主要戦場でありますところのタルラック、バギオ、ボノトック、キャンガン、ツゲガラオ、バンバン、サンホセ、さらにマニラ各地区で収骨及び追悼式を行いました。ビサヤ班は、一月三十日に銀河丸でマニラを出航いたしまして、レイテ島のオルモック、同じくタクロバン、ミンダナオ島のダバオ、ザンボアンガ、ホロ、ズマゲテ、セブ、バコロド、イロイロ、プェルトプリンセサの各地区で収骨及びズマゲテ以外の各地区で追悼式を行い、またスリガオ海峡で洋上追悼式を行なったのであります。二月二十八日両班はマニラで再び合同いたしまして、三月二日マニラにおいて総合追悼式を行い、また三月四日バリンタン海峡付近におきまして洋上追悼式を行いました。なお、ルバング島につきましては、生存者がおるかもわからないという情報が入っておりました関係でございましょう、かねて任務を課されましたので、前後二回にわたり、フィリピン国防軍の空軍のヘリコプターに団員及び駐比大使館員各一名ずつを搭乗させまして、ビラの散布と応答確認に努めましたが、成果が得られませんでしたので、さらに派遣団一名を残置いたし、大使館員とともにこの島に渡って調査を続行せしめましたが、生存確認はできませんでした。 次に収骨及び追悼式の状況について簡単に申し上げます。派遣団の巡歴いたしました限りの主要戦場は、戦後米比軍等によりまして清掃せられ、あるいは十三年の間に、都市、農村近傍では住宅建築やあるいは開墾が進んでおりましたために、いずれかに埋没されて、ほとんど発見することができない状態でございました。おもな収骨地点は、洞窟陣地と、日本軍の手できわめて多くを埋葬いたしました病院跡及び密林内で、現地住民が手をつけない所の、三つの場合でございました。ルソン班の収骨数に氏名判明のもの二柱氏名不明のもの二千十九柱でございます。ビサヤ班の収骨数は、氏名不明のもの五百四十柱でございまして、両班合計いたしますと、二千五百六十一柱でございます。陸上での追悼式には、マニラでの総合追悼式を除き、いずれもフィリピンの官民が参列いたしました。各地区別収骨数、追悼式執行の期日だとかあるいは場所等の詳細は、お手元に配付いたしました資料の通りでございます。 次に、官民の協力状況について御報告申し上げます。フィリピンの官民ともに、友好的、協力的でございました。特にフィリピン国防省のうちの国家警察軍の協力は、みごとでございました。また、各地区の州知事、市町村長等もよく協力してくれました。駐比大使以下大使館員の努力及び在留邦人の協力支持は、きわめて積極的でございまして、そのほんの一例を申し上げますと、たとえば、ガルシア大統領が、私ども派遣団のために、非常に好意的なメッセージを出してくれましたのでございますが、そのメッセージの発布についての大使館の努力、また大使館員及び日本商社駐在員等の収骨作業参加協力等、その一例でございます。 最後に、結言と申しますか、私の所感を申し述べます。本派遣団の行動が、衆参両院、御遺族及び全国民各階層の熱烈なる支持と、報道機関の適宜適切な報道、フィリピン官民の協力、大使館及び在留邦人の支持によりまして、予期の成果を得ましたことは、まことに幸いとするところでございます。ここに本委員会において、深く感謝の意を表したいと存じます。五十一日間の旅でございまして、実際の収骨期間は三十日足らずではございましたが、派遣団はおおむねフィリッピン全域にわたり、収骨、巡拝することができた次第でございます。収骨柱数のこと等考えますと、いろんな制約もございましたが、また力の足らなかったことを私自身遺憾に思っておりますけれども、収集いたしました御遺骨は、フィリピン全域の全戦没者の象徴遺骨であるという考え方に私どもはならざるを得なかったのでございます。派遣団は、この象徴御遺骨を奉持いたしまして、全戦没英霊のお供をして帰還したのである、私どもはそういう考え方にならざるを得なかったのでございます。以上、報告を終るに当りまして、重ねて本委員会の御支持に対し、深甚な謝意を表します。 —————————————
○中川委員長 次に、モスクワ大使館におられました外務省の新関参事官より、ソ連地区未帰還者同胞に対する交渉の経過、並びにこれに関連して、在ソ抑留ドイツ人の状況等について、説明を聴取することといたします。外務参事官新関欽哉君
○新関説明員 引き揚げ問題につきましては、日ソ国交回復以来、日ソ間の懸案のうち最も重要なものといたしまして、私どもも微力ながら、この解決のために尽して参ったつもりでございます。 御承知のように、一昨年の十月、日ソ共同宣言が調印いたされました。その結果、服役中の軍人は、国交回復後全員送還する。それからもう一点は、当時私も交渉に参加しておりましたが、当時の鳩山総理も大へん強く主張されまして、ソ連の原案になかったにもかかわらず、挿入された点でございますけれども、状況不明の方に関する調査を、ソ連の方で今後とも引き続き行うという確約を得たのであります。その後の状況につきましては、ソ連の方は国交回復後、昨年の暮れでございましたが、約千名の邦人を送還して参りました。大使館開設になりましてから、門脇大使以下、私どもも、引き揚げ問題の解決のために一生懸命努力して参ったのでございますが、厚生省からも、引き揚げ担当といたしまして、高橋書記官が大使館に配属になりまして、高橋書記官の協力を得ながら、私どもも微力を尽して参ったような次第でございます。ただ私どもが、ソ連関係の抑留者の引き揚げ問題につきまして、何と申しましても、最初に重点を入れて参りましたのは、生きておられる方々、しかもああいったきびしい気候のもとに、また変った風土のもとに生きておられた方々を、一刻も早くできるだけたくさんお帰し申し上げる、そのために一生懸命尽すということでございました。そういった観点からいたしまして、一昨年の暮れ約千名の送還があったのでありますが、引き続いて、私どもの方からソ連側の協力を求めて参った次第でございます。その結果、昨年の七月から四回にわたり配船がございまして、約千六百名の邦人及びその家族が、本年の一月までに内地に送還されたようなわけであります。私どもは、これをもちまして、大量送還と申しますか、大規模な送還は一応終了したのではないかというような感じを持っております。厚生省の方で調査された数字によりましても、現在においては、さして多数の邦人の方々が残っておられるとは思われないのであります。 次の問題といたしましては、消息不明調査の問題でございます。この問題につきましては、日ソ交渉の当時よりも、抑留者の送還問題と並行いたしまして、何回も繰り返し、強く申し入れて参ったわけであります。その点につきましては、ソ連側は、先ほど申し上げましたように、共同宣言の中で、消息不明者の調査に努力するということでございましたが、こちらの屡次の催促にかかわりませず、あまり迅速に進捗しなかったのは、大へん残念だと思っております。ただ、昨年の暮れになりまして八百九十五名、死亡者の資料を、ソ連として初めてわが方に提供して参ったのであります。それからまた、すでに送還済みとなしておった百三十九名、これにつきましても、その後わが方で、マリク・リストの中にある方で死亡しておられる方について、追加的に確認を求めまして、十三名の方についてソ連側も死亡を確認したような次第であります。そういったわけで、ソ連側にもこういった面についての協力の徴候が見えてきたということは、大へんおそまきでございますけれども、よい徴候ではなかったかと思っております。この方向に向いまして私どもも今後とも努力して参りたいと思っておる次第でございます。 それから、西独の問題についてこの際一言申し上げておきたいと思います。西ドイツの引き揚げ問題というのは、これまたわが国と同じように非常に重要な問題でございまして、実は昭和三十年でございますか、アデナウアーがモスクワに参りまして交渉いたしましたときにも、引き揚げ問題というのが非常に大きな眼目であったのでございます。当時のアデナウァーの交渉によって独ソの国交が回復いたしまして、日本より大体一年以上早く西独とソ連との間に国交が回復した次第でございます。西独の引き揚げ問題の進展につきましては、その後非常に遅々として進まなかった状況でございます。当時アデナウアーに対する約束によりまして、ソ連側は、戦犯として服役中の九千六百二十六名を国交回復と同時に帰すという了解がございまして、それはその後において実施に移されたようでございます。と申しますのは、あくる年の一月二十日現在九千六百三十六名の者がソ連から東独あるいは西独に引き揚げております。その後、西独の引き揚げ問題につきましては、一向進展がございません。そんな関係もございまして、昨年私がモスクワにおるときに、ドイツ側がソ連側と通商問題について交渉をやりました。その際に、一つの大きな交渉眼目として引き揚げ問題をぜひやってもらいたいということになりまして、引き揚げ問題も一緒に討議するということになりました。私モスクワにおりまして、西独の大使館の連中といろいろ話しますと、モスクワの方はむしろ通商を望んでおる、しかし西独の方は、重点はむしろ引き揚げ問題である、そういうことでねばり強く交渉するのだということでございました。その後交渉が非常に長引きまして、昨年の七月だったか、六月の末でございましたか、正確に記憶しておりませんが、そのころから開始されまして、年を越えましてやっとこのたび、この四月になってからモスクワで独ソ交渉が妥結したわけでございます。これは、一つには通商問題でございますが、肝心の引き揚げ問題につきましては、実はモスクワで行われたのは仮調印でございまして、今度ボンで正式に調印が行われるわけでございます。そのために、ソ連からミコヤンがボンにおもむくというようなことが報ぜられておりますが、引き揚げ問題に関しましては、今度の交渉の結果はきわめて簡単な発表しかございません。私どものところに入った公電によると、四月九日に発表されたコミュニケというか、共同声明においてこういうふうに発表されております。「独ソ両国は、相互に相手国の国籍所有者が個々に帰国を申し出る場合には、これを好意的に審査することに同意した」、こういう表現でございます。それと同時に、このコミュニケを補足するものとして、コミュニケ発表の前日に、ソ連政府が、文書による発表ではなく、口頭による声明を行なっております。その中では、こういうふうな表現を用いております。「一九四一年六月二十一日」、と申しますのは、独ソ開戦の日でございますか、「その当時にドイツの国籍を持っておって、現在ソ連に在留している者が西独に帰国する旨の申請を行なった場合、ソ連政府は右に関する実際的問題を審査して、積極的に決定するものとする」、こういう内容のものでございます。要するに、今回の点については、発表されている部分はそれだけでありまして、私どもの方にはこういった公電以外の情報はまだございません。しかし、今後とも独ソ協定の内容と申しますか、交渉の経過その他についてはできるだけ情報を集めるように努力しようと思っておりますが、現在のところ判明した分は、今申し上げました通りであります。 要するに、今度の場合は、独ソ間の協定といたしましては、つまりやっとソ連残留者の帰国についての大よその方針が決定したということでございまして、消息不明の調査とかいうような問題については、今回の協定では触れられておらないのであります。しかも帰国の問題につきましても、ソ連の方は引き揚げ問題は解決済みという態度を一般的にとって参りまして、そのために個々にケース・バイケースでやって、申請があった場合には、ソ連の法律に基いてそれる好意的に審査をする、こういうような表現になっております。 大体、モスクワにおける引き揚げ交渉の簡単な経過、それから最近の西独の引き揚げに関する交渉について御説明申し上げました。
○中川委員長 ただいまの説明について、御質疑はございませんか。
○辻委員 日本から調査団をやられるようなことはできるのですか、できないのですか。
○新関説明員 その問題については、現在までのところ具体的な検討をしたことはございません。今後の方針については、いろいろと厚生省と打ち合せましてきめるつもりでおります。調査団の問題については、私からはここで何とも申し上げることはできないと思います。
○中山(マ)委員 大使館のこの引き揚げの調査に行っていらっしゃいますお方にいたしましても、自由に国内を旅行していろいろな資料を収集するというようなことが許されておるかどうか。あるいは大使館はその旅行の行程の里数が限定されておるというようなこともちょっとどこかで聞いたように思いますが、その点はいかがですか。
○新関説明員 その点につきましては、お聞き及びと思いますが、ソ連における外国の外交官につきましては、一定の行動制限が設けられております。具体的に申し上げますならば、モスクワの都心から四十キロ以内は自由に歩けるが、それ以外は事前に許可を求める必要があるという仕組みになっております。そのほかに、許可を求めました場合におきましても、外国人の旅行禁止地域というものがございまして、たとえば千島方面などは禁止地域になっておるというようなことを聞いたこともございます。そういうわけでありますから、あのモスクワに駐在しております高橋書記官も申しておるように、国内をどこでも自由に歩いて、またソ連側の協力によって自由にどこでも調査して回れるというような情勢にはないように思われます。
○辻委員 いつかソ連から引き揚げたある婦人をここに呼んで聞きましたときに、監獄に入った者が服役を終って民間に出たけれども、国籍がさっぱりわからない。ソ連人でもあるし日本人でもある。そうしていなかにもぐったままで、引き揚げの交渉であるとか、引き揚げができるというような、そういうことを全然知らずに、何年でも全く処置なしで残っておる人があるということを聞いた覚えがあるのです。そういうのがたくさんこぼれておるのじゃありませんか。あなたは先ほどもう大体終りとおっしゃったが、実際はそうじゃなくて、あの山奥の森林、伐採に残されておる、その付近に定着をして、無国籍として残されておる日本人があるのじゃないか。それに対して外務省はどういう調査の方法を要求されたか。ソ連が責任を持ってそういう者に対してリストを作っておいて、帰国の意思があるかどうかということを新聞なりラジオなりあるいは官権の調査でやるべきじゃないか。私はそういうのはかなり残っておると思うのです。あなたはないというふうにおっしゃったが、解決しておらぬと思う。それはどうですか。
○新関説明員 ただいまの辻委員の御質問でございますが、私が残留者はないというふうに申し上げたといたしますならば、それは明らかに間違いでございまして、ただ大量には残っていないだろう、こういうことなんでございます。従いまして、御指摘のように、シベリアの奥地で森林伐採の仕事に従事してそのまま残っておるというケースも、これはなきにしもあらずであります。ただ、共同宣言が行われまして、鳩山総理が共同宣言に調印されましたとき、あのときのコミュニケの全文は、もちろんプラウダ、イズヴェスチアその他の新聞に掲載されております。従いまして、日本政府が交渉において払いました努力というものは、新聞の文言になって現れておる。当人がロシア語を読めない場合にも、伝え聞いてそういった内容を知る。現に樺太の例などとりますと、ロシア語の新聞を読めない方々でも、伝え聞いて、大使館に手紙を出すというわけでございまして、現在高橋書記官がモスクワで処理された手紙はおそらく数百通以上に上っております。これはしょっちゅう手紙が参りまして、ほんとうにたどたどしい字で苦しい気持を訴えてこられて、私どももほんとうに同情申し上げた次第でございます。場合によっては、配船まぎわになりますと、電報も殺到して参りまして、それにはこちらも電報で返答する。それからまたそういった人たちのための帰国嘆願書というものは、そういう形で手紙なり電報なりで参りますと、私どもは手紙でしたら直ちに写真版にとりまして東京に送っております。急ぐものは電報で照会しております。その結果は、日本におきまして、その者はほんとうに日本人であるということが証明されますと、大使館から身分証明書というものを発給いたしまして、それによりましてソ連関係にそれぞれ申請をする、こういうような措置をとっておる次第でございます。
○中川委員長 他に御質疑がございませんければ、本日はこの程度にいたします。 次会は公報をもって知らせするこことし、これにて散会いたします、 午後零時四十四分散会