法務委員会公聴会 第1号
- 発言数
- 136 件
- 登壇者
- 17 名
- 会派数
- 2
- 開催日
- 1957/04/09
会議録
○三田村委員長 これより裁判所法等の一部を改正する法律案につきまして法務委員会公聴会を開会いたします。 この際公述人の皆さんに一言ごあいさつ申し上げます。本日は御多忙中にもかかわらず当公聴会に公述人として御出席下さいましたことにつきましては、委員一向を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。本案は重要法案でございますので、審査に万全を期すべきであるとの委員会の意見によりまして、本日公聴会を開き、公述人の皆さん方に御足労を願った次第でございます。公述人におかれましては、本問題につきましてそれぞれのお立場から忌憚のない御意見を御発表下さいますようお願いいたします。ただ、時間の都合上、公述の時間は御一人大体十五分ないし二十分程度といたしますが、公述のあとに委員諸君から質問があると存じますから、その際も忌憚なくお答えを願いしたいと思います。 なお、念のため申し上げますが、衆議院規則の定めるところによりまして、公述人の方々が発言なさいます際は委員長の許可を得なければなりませんし、発言の内容につき出しては、意見を聞こうとする問題の範囲を越えてはならないことになっております。また、委員は公述人の方々に質疑をすることができますが、公述人の方々は委員に質疑をすることはできません。以上お含みの上お願いいたします。 次に、公述人の皆様が御発言の際は、劈頭に職業または所属団体名並びに御氏名をお述べ願いたいと存じます。なお、発言の順位は、勝手ながら委員長においてきめさしていただきます。 それでは、まず団藤公述人に御意見を承わりたいと思いますが、御承知のように、本案は、いわゆる三桁の一つである司法の頂点に立つ最高裁判所の機構等に関するものでありますと同時に、国民の基本人権に重大な関係を持つものであります。団藤公述人には、法律学者として日ごろ深い御研究に携わっておられますので 学者の立場から十分な御意見の御開陳を願いたいと存じます。 初めに委員長から団藤公述人の御意見を伺います要点について申し上げます。 訴訟法学者として、小法廷の性格、すなわち国法上の独自の下級裁判所であるか、対高裁及び対大法廷との関係において審級を如何に考えるか、司法行政権は司法裁判桁の独立性を保障する一つの手段であるから不可分離であると思われるが、小法廷から司法行政権の重要部分を奪うことの可否、上告理由は民訴、刑訴と違ってよいか、上告理由としての判例違反の存在理由ないし価値いかん、法令違反が上告理由となるならば、判例違反は不要となるかどうか、異議申し立てが上訴(上告)と異なるものだとするならば、その理由をお伺いしたい、小法廷の判決宣言により確定力を有するものであるか、執行力及び大法廷の破棄判決の結果にも触れながら御意見を承わりたい、上告のあて名人は最高裁判所であるか最高裁判所小法廷であるか、政府原案によれば、最高裁判所の表門は開かれておらず、上告は横門の最高裁判所小法廷から入ることになっているように思われるが、いずれの門であるかを法文上明定すべきではないか、憲法違反の主張とその他の法令違反の主張を含む上告事件は、この改正案においては大法廷と小法廷のいずれで審判されることになるのか、一つの上告事件を分けて、憲法違反の主張については大法廷が、一般法令違反の主張については小法廷がそれぞれ審判するという方式は可能であるか、この場合、事件自体に対する終局的な裁判は本法案においては大法廷と小法廷のいずれがすることになるのか、現在、名を憲法違反にかり云々として、上告棄却が行われているが、このような場合に、本案によれば、実質が憲法違反であるとの主張に基いてさらに大法廷に異論を申し立てることができることが保障されているかどうか、以上の諸点について御意見を承わります。
○団藤公述人 東京大学教授団藤重光であります。 ただいま九項目にわたりまして委員長からお尋ねがありましたので、それについて順次申し上げます。 まず小法廷の性格につきまして、国法上の独自の下級裁判所であるかという点でありますが、これは独自の下級裁判所であると思います。この案における最高裁判所に付置されたところの最高裁判所の下級に立つ裁判所である、かように考えます。 次に、対高裁及び対大法廷との関係で審級をどう考えるかという点でございますが、対高裁との関係では上級審であります。対大法廷との関係では、これは上訴の関係がありませんから、厳密な意味における審級ということは考えられませんが、おそらく御質問の趣旨は上級下級の関係になるかということかと思われますので、その意味においては、これは先ほど申した通り上級下級の関係に立つわけであります。 その次に、 司法独立という点からして、小法廷から司法行政権の重要部分を奪うことはおかしいじゃないかという点でありますが、これは必ずしもそういうものではありませんので、同じ司法部内において司法行政権が行使されるものである以上、それが内容的に見て小法廷の裁判権の行使を制約するものであるということであれば、これはむろんいけませんが、この案にはそういう点は認められませんので、この点は可である、不可ではない、かように考えます。 第二点としまして、上告理由が民訴と刑訴と違ってよいかという点でありますが、これはむろん根本的に申しますと大体歩調がそろわなければならないものであろうと思います。しかしながら、刑訴におきましては民訴と違って事実問題が特に重要であります。どういうふうに事実を認定するか、また刑の量定をどのようにするかということが特に重要ありまして、こういう点から、この点はこまかい議論を避けますが、結論としては、刑訴の方が上告理由がしぼられるということはやむを得ないことであると考えます。 第三点として、判例違反を上告理由とすることの存在理由あるいは価値という点で、特に法令違反が上告理由となるならば判例違反は要らないのじゃないかという点でありますが、もし法令違反が広く上告理由になるということになれば、判例違反も上告理由の法令違反の一つの場合でありますから、これは判例違反を特に上告理由としてあげる必要はないと思います。ただ、現在の刑訴四百五条を根拠として判例に法源を認める学説がありますから、そのような立場からはなお違った結論に達すると思いますが、私はそう考えませんので、もし広く法令違反を上告理由とするならば、判例違反をさらにあげる必要はないと思います。ただ、現在の案では、上告理由としての法令違反は限定されておりますから、むろん判例違反を並べてあげる必要があると思います。 第四点としまして、異議申し立てが上訴、特に上告と違う理由ををお尋ねでありますが、上訴と申しますと、未確定の裁判に対して上級裁判所に不服を申し立てる制度であります。それに対して異議の申し立てはそのいずれかの要件を欠くものでありまして、判決言い渡しと同町に確定してしまうという場合であれば、これは上訴の範疇には一応入らないと思います。一応と申しましたのは、たとえば民訴の特別上告なりあるいは刑訴におきましても応急措置法当時の特別上告あるいは再上告のようなものは、これはやはり私の考えでは広い意味の上訴に入ると思いますので、ややその点を留保してそのように申したのでありますが、一応の区別はできるものと思います。特に、先ほど申した通り、最高裁判所と小法廷との関係は、小法廷が最高裁判所に付置される、なるほど上級下級の関係ではありますけれども、そのような特殊の関係にありますので、この小法廷に対する異議の申し立てが上訴の形をとっておらないということは、立法として差しつかえないことであると思います。 第五点としまして、小法廷の判決の宣告によってすぐに確定力が発生するものであるか、これはこの案ではそのようになっております。これは言うまでもなく、四審級になるということのために確定が無用に遅延することを避ける趣旨であろうと思います。そしてまたその点が上訴と違う要点になるわけであります。しかしながら、確定力を遮断するものでない、確定力をすぐに発生するものであるということは、必ずしも執行力が常にそれに伴って生じるということにはならないのでありまして、むろん法律上は当然に一応は執行力を生じますけれども、それに対して裁判所の措置によってその執行を停止するということはあり得るわけであります。たとえば現行法における上訴権回復の請求のような場合においてもそのようなことはあるわけであります。一たん小法廷において判決が確定した後に、これに対する異議の申し立てがあって、そして大法廷でそれが破棄されるということがあるわけでありますが、これはやはり今例にあげました上訴権回復の手続の場合にも同じようなことが見られるわけでありまして、これまた理論上差しつかえないことであると思います。 次に、第六点といたしまして、この案によりますと、上告は一応は小法廷から入っていくことになっているが、その点の明文がもう少しはっきりと必要ではないかというお尋ねのようでありますが、この案によりますと、最高裁判所が特に定める場合のほかは、最高裁判所が裁判権を有するものについては小法廷もまた裁判権を有する、そしてそのような場合にはまず小法廷で審理をするこういうふうな建前になっておりますので、もし必要な場合において裁判所が特別の定めをいたしますと、面接に最高裁判所の方に入っていくということがあり得るわけであります。先ほどの委員長のお言葉で言えば、表門から入っていくということも、そういう形で考えるわけであります。ただ、それをどのような場合に認めるかということは、非常に技術的なことになりますので、これを最高裁判所の定めるところに譲ってあるということは、これまた立法論として相当であろうと思われます。 第七点において、憲法違反の主張とその他の法令違反の主張とを含む上告事件が、大法廷で審理されるのか、小法廷で審理されるのか、こういうことがありますが、まず、単に憲法違反の主張があったというだけでは、まだどちらにいくかということははっきりいたしませんので、憲法違反の点について判断することになるのかどうかという点がその分れ目になるわけであります。そのような意味においてこの御質問の趣旨を理解いたしますと、憲法違反の主張を含むものである以上は、それが厳密の意味における一個事事件であれば、これは少くとも大法廷に持っていく必要がある、こういうことになります。 そして、この点はさらに第八点の御質問と関連いたしますので、第八点の方に入りますと、一つの上告事件を分けて、憲法違反の主張については大法廷が、一般の法令違反の主張については小法廷がそれぞれ審判ずるということがあり得るか、こういうことであります。これは、事件ということを常識的な意味にもし用いますならば、たとえば併合罪が審理されている、そして、一つの判決でそれに対する解決がされておりますけれども、主文が分れている、一部については有罪、一部については無罪、こういうような形のときであれば、これは事件が厳密の意味においては数個である、このような場合においては上告も可分であります。従って御質問のような趣旨のことがあり得るわけであります。これに反して、厳密の学問的意味における一個の事件であるという場合には、現在の訴訟では、一個の事件を分けて一部だけ確定する、こういうふうな一部確定力というものは認めておりません。学説上はある程度議論がありますが、通常の考え方におきましては、そういうことは認められておりません。従って、お尋ねのように、一部分について大法廷が、一部分について小法廷が、別々に分けて審判するということは、おそらく不可能と見るほかはあるまいと思われます。今の一部確定力の問題に関連して、この点はなお問題でありますが、一応はそのように考えざるを得ないと思います。しかしながら、一個の事件がまず大法廷に行って、大法廷で憲法違反の点だけについて判断をして、いわばそこで中間判決をして、そして残りの一般法令違反の点について事件を小法廷に移して、残りの部分については小法廷が審判をする、こういうことは可能であります。もし御質問の趣旨をそういう意味に受け取るといたしますならば、そういうことは可能である、こういう結論になると思います。 最後に、第九点でありますが、名を憲法違反にかり云々ということで上告棄却がしばしば行われますが、こういう場合に、この案によって、実質が憲法違反であるということを主張して、さらに大法廷は異議を申し立てることができるか、そういうことが保障されているかということでありますが、これはむろん小法廷の判決に対して憲法違反、憲法の解釈の誤まりを理由とする共議の申立ては認められるわけでありますから、そういう意味において、これはこのような道が保障されている、かように考えてよろしいかと思います。 大体、時間が参りましたので、一応のことを申し上げたわけであります。
○三田村委員長 団藤公述人の公述に対する委員諸君の御質疑はあとにいたしまして、次に亀井公述人から御意見を伺います。 亀井公述人におかれましては、知識人として、最高裁判所の組織、権限、上告制度のあり方などについて、国民の側に立って御意見なり御希望を承わりたいと思います。御承知のように、裁判所法の制度というものは民主制度の重要な柱の一つでありまして、端的に言いますならば、裁判は国民のものでなければならない。こういう観点が非常に重要であろうと思います。そういう立場から率直な御意見を伺いたいと思います。
○亀井公述人 私は亀井勝一郎と申します。専門は文芸評論であります。 今委員長からごく簡単でありますが非常に大事な御質問がございましたので、それに対しまして、平生考えておるところをまとめて申し上げたいと思います。 私自身は実は法律あるいは裁判ということについては非常に無知でありまして、おそらく、広い国民層も、平生直接自分に関係がない限りは、法鶴問題や最高裁判所をどうするかということについては無関心状態なのです。私が一番不思議に思いますのは、選挙のときに、最高裁判所の判事が適当であるか不適当であるかを〇か×をつけることをやりますけれども、正直なところ、あれはどうしていいかわからないのです。私は全部〇をつけるか全部×をつけるか、どちらにしましても無責任な話なんで、つまり、それほど今日の最高裁判所判事諸君というものは国民から遊離しておる。つまり、適当なのか不適当なのか、一体その判断の基準というものをどうしたらいいのか、これはいつも、私は不思議に思っておることです。これが一つです。 それから、やはり一般の国民感情としましては、最高裁判所でありますから、最高の権威を持っていなければならない、それで、今委員長も申されましたように、国民の信頼を得る、できるだけ国民を納得するに足る判決を下していただきたいという希望は、これはみな持っております。ところが、ここに間接的ではありますが私の関係いたしました二つの事件があるのであります。それについての私の疑問を申し上げます。これは最高裁判所の権限に関する疑問です。 その中の一つは、これは新聞でも御承知だと思いますが、三鷹事件における竹内景助被告が、第一審において無期懲役となり、第二審において死刑となり、最高裁判所においてこれが表決の結果死刑が確定したわけでありますが、この場合、今度の改正法の趣旨を拝見いたしますと、小法廷を設けるというふうな理由の一つの中に、犯罪を犯した者、つまり当事者の救済を全うするという趣旨が書かれております。犯罪者であるかどうかを決定するということは、政治的な性格を帯びる事件ほど複雑でありまして、これはいろいろな意見が出る可能性があるので、その困難な点に処さたければならない最高裁判所の判事諸氏だけを責めるわけにはいかぬと思いますけれども、この救済を全うするという点に国民は非常な関心を持っております。無期懲役、さらに死刑というふうなことになりますと、これは同じ刑罰にいたしましても性格が違って参ります。そういう場合に、やはり本人の陳述とか口頭弁論とか、なお至れり尽せりの方策をとってほしい。ただ書類審査だけでこういうことが行われるということは、たといその第一審の判決が正当であり、第二審の判決がそれをくつがえした場合もかりに正当であったとしましても、どういう点で国民を納得させるか、この説得力というふうなものを最高裁判所は持っていただきたい、こういうことを一つ申し上げたいのです。 それから、もう一つ、これも最高裁判所の権限の問題であります。新聞で御承知だろうと思いますが、その裁判が政治的な性格を帯びてくることは非常に危険であると同時に、裁判というものが宗教とか道徳とか文学とか教育に対してある基準を示すような態度を示されるということは、一体適当であるか、どうかという疑問であります。伊藤整氏の「チャタレイ夫人の恋人」の判決文の中で、これは新聞でも御承知だと思いますが、こういう非常に重大な言葉がある。それはこういう言葉であります。裁判所は、良識を備えた健全な人側の観念である社会通念の規範に従って社会を道徳的頽廃から守らなければならない、けだし、法と裁判とは、社会的現実を必ずしも常に肯定するものではなく、病弊堕落に対し批判的態度をもって臨み、臨床医的役割を演じなければならないものである、これは判決文の一節でありますが、これを拝見しまして私たちは非常に考えざるを得なかったのです。どうしてかと申しますと、条文に忠実に判決を下すというのが裁判本来の目的であると思いますが、そのほかに、最高裁判所というものは、われわれ日本人の道徳的頽廃とかその他社金上の欠陥に対して臨床医的役割を演じなければならないものなのかどうかという疑問であります。これが「チャタレイ夫人の恋人」のようなわいせつ罪というふうな問題の中でこういう判決が出てきたのでありますが、これがもし政治的に適用された場合を考えてみる。そうしますと、政治上のいろいろな腐敗、たとえば疑獄事件なら疑獄事件が起った場合に、その事件そのものを調べる場合に、それだけでなく、それ以上にこれを社会の病弊堕落と見なして、最高裁判所はやはり臨床医的態度をもって臨まなければならないのかどうか。つまり、裁判そのものが、何と言いますか、宗教裁判的性格を持つ、あるいは国民に対して道徳を示すという方向をたどるような場合に、これは非常に危険ではないかと思います。事実、今日の性風俗などについては、一般国民の間からいろいろ批判が起っております。その国民の批判自体が非常に大事なのであります。お互いに批判し合うということで、われわれ成長をしていかなければならぬのであります。そういう場合に、最高裁判所がこういう判決文によって、いわば一つの権力というふうなものを背景としてこういう断定を下すということは非常な逸脱ではなかろうかということです。これは真野毅判事も少数意見としてやはり述べておられることなのであります。 私は、今申しましたように、こうした二つの点について、これはどちらも最近の事件でありますが、最高裁判所の権限というふうなものについて疑問を抱いております。先ほども申し上げましたように、事件がこういう文学に関係したり政治的事件に関係してきますと、非常に複雑になって参ります。ですから、こういう場合には、国民を納得させるために、特殊の公聴会とか、あるいは陪審制度のようなものをも将来お考えになっていいのではなかろうか、こういう気持を持っております。 一番先にも申し上げましたように、ひどく遊離しておるのでありまして、先ほども申し上げましたように、選挙のときの国民審査で適不適というようなものを決定することができないという状態でありますし、そういうことをもあわせ考えまして、今委員長より御質問がありましたように、国民自身が納得し得るような裁判、その方向に一歩でも進んでいっていただきたい。私、間接的ではありますが、自分に関係しております二つの事件を例にあげまして、委員長の御質問のお答えといたしたいと思います。
○三田村委員長 ありがとうございました。 次に平林公述人の御意見を伺いたいと思います。 平林公述人に対しては、先ほど亀井公述人にお尋ねいたしましたと同様の趣旨でございますが、特に御婦人の立場から、裁判に対しての御意見、あるいは御希望なり御所見を伺いたいと存じます。
○平林公述人 平林たい子であります。職業は小説家であります。 法律に対して特に婦人の立場というものがあるわけではございませんで、一般の国民の一人として申し上げるわけなのでございます。 私は、結論から先に申し上げまして、この法案には賛成であります。この趣意書といいますか、これを拝見しまして思ったことなんでございますが、ここに第一審の裁判中心主義ということが書いてございました。この新刑事訴訟法の第二審裁判中心主義ということは、これは占領中に改正された法律でございますから、あるいはアメリカの指示によってできたかと思うのでございますか、とすれば、広くヨーロッパに行われている法律様式であるかとも思うのでございます。しかし、日本の特殊性ということを考えなければならないと思うのであります。それは、検察に当っている当局、あるいはその手足になって働く警官なんぞの教養が、新しい憲法の人権思想に十分に目ざめていないということも一つでございますし、また、機動力、たとえば事件が起ったときにすぐに自動車を飛ばしていくというような機動力が非常に劣っているのでございます。私は帝銀事件のときにそばに住んでいたのでありますけれども、あのころ、青い兵隊服のようなものを着た刑事が、くつをはいてどたどたあっちこっち走り回り、歩いているのを見て、こんなことではしょうがないと思ったのでございます。機動力も劣っておりますし、すぐに証拠を固めるという能力も非常に劣っていると思いますし、また事実を判断するための科学的な設備というものも少いだろうと思うのでございます。そういうふうにしまして、すぐに事件が第一審に参りまして、第一審中心主義で、そこで有罪というふうに決定しまして、それが最後まで重要な決定になるとすれば、拷問とかその他のことによって一審、二審が通過しまして、最高裁では判例抵触と憲法違反以外は扱わないということになりますと、死刑というような重大な決定がするすると通りまして、たとえば竹内景助のようなことになってしまうのであります。竹内景物はしょっちゅう手紙をよこしまして、自分はあのときお湯に入っていたんだということをしょっちゅう書いてよこしております。それがほんとうであるかうそであるか、私は調べてみないからわからないのでございますけれども、しかし、少くとも、あの判決において、竹内景助がおふろに入っていなかったということをはっきり証明することができていないと思うのでございます。だれか見かけた人があったということが非常に重要な理由になっていたかと思うのでございますけれども、竹内はあのとき歩いていたということを見かけたということは薄弱なのでございまして、そういう簿弱な証明力によって死刑に持ち込まれていくということは非常に危険なことなのでございまして、ヨーロッパのことは知らないのですけれども、インドでは、死刑だけは初めから事実審理をするというようなことを聞いているのでございます。こういうふうに改正しまして、この法律の言葉で言いますと、法令違反が最高裁判の小法廷においても審理されることになりますと、うやむやの間に死刑に持ち込まれるという間違いが幾らかでも減りはしないかということを私は考えるのでございまして、その点で賛成するわけでございます。
○三田村委員長 ありがとうございました。 次に三戸岡公述人の公述をお願いいたします。 三戸岡公述人に対しましては、財界の立場と申しますか、経済の面で御活躍になっております御経験その他を基礎にして、本案に対する御所見なり御判断なりをお述べ願いたいと思います。
○三戸岡公述人 三戸岡道夫であります。日魯漁業の総務部次長をいたしております。それから、株式事務を担当する各会社の者が集まりまして、研究団体として東京株式懇話会というものを四百八十人ほど集まって作っております。これは、全国的に大阪とか名古屋とか、そういう十団体が地方にございまして、その連合会を作っておりまして、そういうものの理事長をいたしておるものでございます。 私は、裁判というものに関しては、株式会社というようなものの企業活動を通じまして今接触を持ったり考えたりしておるわけでございます。それで、最高裁というものに私どもが期待することは、できるだけ早く訴訟が上告まで行って、法律の解釈というものがそこで統一されることを非常に望むわけでございます。ところが、現在の段階におきましては、そういう事件が最高裁に行って法律の解釈が統一されるということがきわめてまれなのでございます。その点から申しまして、今度のこの最高裁の改組ができますと、おそらくわれわれが期待する法律の解釈の統一というような上告半作がスムーズに片づくのではないかと思うわけでございます。それで、大法廷と小法廷と分けて小法廷で上告事件を扱われるということは非常にけっこうなことではないかと考えるわけでございます。 ところが、もう一つ考えますと、そういう場合に、大法廷の方の吸音裁判所長官と、それから判事の方が八人、それから、あと小法廷の首席判事が六人おられますと、従来の十五人になりますが、そのほかにもう二十四人の小法廷判事という方がそこに必要になってくる。この方をどこから持ってくるかというと、おそらく高裁とかあるいは地裁からではないかと思うのでございます。そうすると、その次の段階と言いますか、下の力が弱体になるのではないかというような心配が考えられるわけでございます。それで、今までも、私どもとしては、先ほど申し上げたように、株式会社法などについて法律の疑問が生ずる場合に、これを訴訟で片づけようとして地方裁判所とか簡易裁判所に第一審の訴えが起されるわけでございますが、それがなかなかはかどらない。それだから、最高裁に行くどころでなくて、途中で立ち消えてしまうのでございます。たとえば株式申し込み証拠金領収証でございますが、これは、新株発行の場合に、それを一応銀行から発行しまして、それと引きかえに株券を渡しておるわけでございます。ところが、商法二百四条の第二項の規定などから、そういうものの効力が疑われておるわけであります。そういうものの性格がはっきりしないので、これが裁判になっておるわけでございますが、従来の高等裁判所はそれを無効とする判決をしておった。ところが、最近そういう事件が多くなりまして、最近といっても昭和二十五年か六年でございますが、非常にたくさん出た。その場合にそれが問題になって、地方裁判所に訴えが提起されたわけでございます。この平作は二十五年の九月に起きた鐘紡事件でございますが、鐘紡の取扱いが裁判になりまして、二十七年の一月には、第一幕の東京地方裁判所の判決は、それを有価証券と認めるという判決をしたわけでございます。そうすると、これがすぐ控訴になったのでありますが、今まで足かけ六年かかっておりますけれども、高等裁判所ではまだ判決が川ない。そうすると、一般の株式会社の取扱いとしましては、そういう株式申し込み証拠金領収証をなくした当については、一体株券を渡していいのか悪いのかという法律の解釈が一定しないわけでございます。こういうものがさっさと最高裁に上告できるようになれば、非常に法律の解釈の統一がやさしくできて、われわれの取扱いもスムーズにいくのではないかというように考えるわけであります。だから、最高裁だけでなくて、全般的に第一審、第一審を強化していただいて、それからまた迅速に裁判ができるようにしていただき、われわれの法律の解釈をさっさと法廷でもって判決できめていただくというようにしていただきたいと考えるわけでございます。 それで、裁判に非常に時間がかかるということが、勝つか負けるかということ以上に会社にとっては重大なことでございまして、たとえば白木屋事件にいたしましても、その両方が争いまして、裁判所に自分の方が取締役だというような訴えを起します。しかしながら、それが一年半たって第一審の裁判が起きる。おそらく、これを第二審と上告などしておったのでは、三年も五年ももっとかかって、結局勝ってみてもどうにもならないというようなことになってしまうのでございまして、この点について何とか全般の裁判制度というものをお考えいただきたいと考えるわけでございます。だから、本案に対しましては、最高裁のこういう改正ということは非常にけっこうだと思うのでございますが、それにあわせて、下級審、第一審、地方裁判所とか高等裁判所、もっと言えば簡易裁判所の方に重点を置いていろいろ改正をしていただきたいという希望を申し上げたいと思います。 これをもって公述を終ります。
○三田村委員長 以上で四公述人の公述は一応終りました。 公述人に対する質疑に移ります。御質疑はございませんか。猪俣浩三君。
○猪俣委員 団藤先生にお伺いいたします。 先生も御存じのように、最高裁の機構改革は、結局、訴訟遅延の顕著なる事実に着目いたしまして、これをいかにしてさばくかということから発足したことは申すまでもありません。ところが、これについて、最高裁判所の判事を増員すべきであるという論と、減員論というのがあって、今政府の提案はこの減員論になっておるわけであります。いずれも目的は訴訟を促進するにあるのでありますから、本質的にはわれわれも異論がないわけでありますが、数年前でありますが、当法務委員会が小委員会を作りまして、熱心に討議をいたしましてその要綱をまとめたのは、いわゆる増員論になっておった。なぜ増員論なったかと申しますと最高裁の機構改革というのは、司法権の三権分立の一つの改革でありますために、憲法との調和、国民感情及び訴訟技術上、諸般の標準から判断しなければならぬ。そこで、今本案は減員論になっておりまして、最高裁判所が憲法裁判所としての性格を強烈にいたしてきております。私は、それならばまたそれでいいと思う。そこで、憲法八十一条的色彩が非常に濃厚であるが、七十六条的な司法裁判所としての終審裁判所という性格がどうなるのであろうか。これは実は一九五四年の十二月十五日号の「ジュリスト」に、あなたも含めました訴訟法学者の座談会であなたの御意見が出ておりまして、私非常に共感をいたしました。先般法務大臣に対し質問いたしましたけれども、明確な答弁を得られない。それは最高裁判所の性格に関連した問題である。つまり、最高裁判所は単に違憲審査権だけを行使する機関であるのか、あるいは司法裁判所としての終審として少くとも重要な法律問題について裁判権を持つようなものでなければならないのか。速記によってあなたの発言を見ると、重要な法律問題について裁判権を持つようなものでなければならないのじゃないか、こうなっております。そこで、上告裁判所であるべきであって、最高裁判所以外の上告裁判所を認めるということはその点に問題を残すのじゃないか、こういうのでありますが、今政府の原案は、最高裁判所を純然たる憲法裁判所として、一般の法令違反の上告審は下級裁判所である最高裁判所の小法廷で審判する、そこで確定力を持つということになって、従来の憲法七十六条とこれをどういうふうに調和するか。 私、立ったついでに伺いたいことを全部申し上げて聞きたいと思いますが、これは一つは国民感情とも関係がありまして、わが国の在野法曹の最高峰であります岩田構造博士が、最高裁判所が憲法問題だけに専念するということになると、一般国民と遊離してしまう、一体、今さえ先ほどのお話のように遊離しているのが、ますますもって国民と遊離した裁判所になってしまうことが果してわが憲法の精神であるか、どうかということについての疑問を出しております。これはどうも在野法曹の一般的な空気のようにも見受けられるのであります。そこで、この政府の原案に対して、かような見地から、団藤先生はどういうふうにお考えになりますか、それを第一点として添わりたいと存じます。
○団藤公述人 ただいまの問題、非常にむずかしい問題でありまして、私はやはり先ほど猪俣委員のお目にとまりましたような考え方を現在も持っておるのでありますが、やはり最高裁判所というものは終審としての性格をむろん持たなければならない、終審としての裁判所であって、その裁判所が違憲審査権を有する、こういう建前でなければならないと思うのであります。ただ、問題は、御承知の通り非常に複雑でありまして、一口に割り切って申し上げるわけに参りませんが、特に遠慮問題について審判するという場合には、憲法の解釈として、おそらく最高裁判所の裁判官の全員でもって審判するということにならなければならないのじゃないか。かりに憲法の解釈として当然にそれが唯一の解釈でないといたしましても、憲法の精神から見てそういうふうなものでなければならないのじゃないか。むろん、定足数の問題、これはまた別の問題でありますが、全員が違憲審査を行う権限は当然有する、こりいうことでなければならないのだろうと思うのであります。そういたしますと、最高裁判所の裁判官を増員するということは、多数の裁判官で評議をすることを意味することになりますので、これは実際問題としてむずかしいのじゃないか。私がその座談会で申しました趣旨は、あるいは猪俣委員のお考えと少し食い違っておるかと思うのでありますが、私はもともと現在の制度でもう少しやっていけという論議であったのであります。減員論にも反対であって、現在の上告受理に関する刑訴法四百六条を活用すれば、それで重要な問題は全部最高裁判所で取り上げることになるのじゃないか。御承知の通り、実際には上告受理の制度が非常に活用されておりませんので、私の期待しておりましたようなことは行われておらないのでありますが、もしそれかできれば、それが一番いい方法ではないか。それで、小法廷を作るということになりますと、その点において本来の最高裁判所がやや浮き上った形になるのじゃないか。そういう意味で、その座談会をいたしました当時、そういう言葉でもってその改正の方向に対して批判的なことを述べたのであります。ただいま申しました通り、上告受理の申し立てが十分に活用されない現状であります以上は、何らかの形で妥協的な方法によってその要求に少しでも近づかなければならない。そういたしますと、これはむろん非常な妥協でありますけれども、この法案のようなところに結局は落ちつかざるを得ないのではないか。根本の気持は先ほどお読み上げいただきました点と少しも変っておらないのでありますが、今のような意味において、この法案をまあ仕方のない、やむを得ない制度として現在では支持いたしたいと思っております。
○猪俣委員 最高裁判所に現在幾つかの小法廷なるものがあって、それはやはり最高裁判所として判決をしておるわけであります。そうして入れば、私どもは、最高裁判所の中に小法廷を幾つか設けて、刑事部あるいは憲法部あるいは民事部というふうに部を分けて審判をしても憲法の精神に反しないのじゃなかろうかというふうに考えており致す。ところが、訴訟法学者あるいは憲法学者の中で、最高裁判所のワン・ベンチ論を持ち出しているため、大ぜいの人間の合議になるというふうなお考えもそこから、出てくるのではないかと思うのでありますが、一体、わが憲法において、そういうワン・ベンチ論ということが明らかになっておるかどうか。もしそれが明らかになっておるとすれば、現在の最高裁判所小法廷というものは最高裁判所でなくなるので、これは一体、どういうことになるのであるか。私はワン・ベンチ論に疑問があるのでありますが、先生はどうお考えになりますか。
○団藤公述人 小法廷もむろん私は最高裁判所であると思います。問題は、違憲問題について小法廷という形で最高裁判所が審判することが許されるかどうか、また妥当であるかどうかという点であります。これは決して小法廷というものが最高裁判所でないというわけではないのでありますが、小法廷で扱い得るものは憲法違反以外のことであって、憲法違反に関する限りは、やはり最高裁判所の裁判官全員で扱うべきではないか。これは、ただいまの猪俣委員の仰せの通り、憲法上文理的にそう明確なものではないと思います。従って、先ほども私、憲法の解釈としてそれが唯一の解釈であるかどうか問題であるということで留保したのです。少くとも、事柄の性質から見て、憲法問題に関する以上は、最高裁判所の一部の裁判官だけで構成するような小法廷で判断するということは適当でないのじゃないか。文理上の根拠をあげろとおっしゃいますと、そういう根拠は必ずしも強く出てこないと思いますが、御承知のように、真野裁判官のお書きになったものがありますが、必ずしもその通りに言えるかどうかわからないと思いますが、しかし、憲法全体の精神から見て、少くともそういうふうに持っていくのが立法政策として憲法の精神、目的に合致するものである。そのような、ややゆるやかと申しますか、憲法の解釈上必然的だというのではなくて、憲法の精神から見てそう持っていくべきである、憲法の精神からするところの立法政策として、やはりフル・ベンチに持っていくべきである、こういうふうに考えておるのであります。
○猪俣委員 もう一点だけで終ります。 これは団藤先生のこの座談会の速記にも見えておりますが、結局、最高裁判所は憲法裁判所的な色彩を濃厚にいたしましても、いろいろな理屈をつけてみな最高裁判所まで行きたがるというのが偽わらざる現状であります。そうすると、いわゆる最高裁判所小法廷なるものを設けて、そこを関所にして上告事件を終審といたしたといたしましても、どうもいろいろな理屈をつけて異議の申し立てをやって最高裁判所に持っていく、これはどうも改まらないと思います。そうすると一種の四審制度になる。そこで、かような訴訟遅延を防ぐことから出発したこの機構改革が結局四審制度になる。現在最高裁判所の判事であります藤田八郎氏の論文を見ても、訴訟遅延を防ぐためには審級制度を簡潔にするほかに方法はないだろうという断定を例証をもってやっておられます。訴訟遅延を防ぐ意味から出発して、それが結局四審制度ということになるならば、一体訴訟遅延を防ぐということとこれとかどう調和するのか。もちろん、政府原案のように、すでに確定力を持たせることによって異議の申し立てをある程度防ぎ得るかもしれませんが、それでもやはり出てくると思います。そこで、かような機構改革で最高裁判所の負担を軽減し訴訟遅延を防ぐ効果が一体出てくるかどうか。これは現在現役におります最高裁判所の判事の意見であります限り、われわれはこれを相当重要視して考えておるわけでありますが、先生はこの点についてどうお考えになるか。 それから、いま一つは、さっきも触れたと思いますが、最高裁判所が一般法令違反その他のことについて終幕裁判をしない、つまり最後の確定力を持つ裁判をしないということが、一体わが憲法の精神解釈上いいことかどうか、あるいは国民感情上いいことかどうか。もちろん現在簡易裁判所の民事事件は高等裁判所で終審になっておりますけれども、簡易裁判所というのは特別な事件に限られておるのであって、やはり最高裁判所が終審裁判所として、司法権の最終の決定権を持つ裁判所として活動してきたと思うのです。それを非常な方向転換をしたように感じられるのでありますが、こういうことと憲法の精神との調和をどうお考えになりますか。この点を承わって、これで私は質問を終ります。
○団藤公述人 まず、第一点につきましては、私も仰せのところにその趣旨において同感であります。このような複雑な制度を作るということは決して望ましいことではない。たとえば、例にとるのは適当でないと思いますが、東独の刑訴などは二審級というような思い切った制度をとっております。もし訴訟の迅速化ということならば、そういうふうに審級そのものを簡素化するという方に行くべきであると思います。ただ、そうなりますと、一面において当事者の救済が問題となりますが、私はすぐにそういうことを主張するのではありませんが、本米から申しますと、この案のような複雑な制度というものは決して望ましいものではないと思うのであります。ただ、御承知の通り、対立意見の妥協点としてやむを得ず出たものでありますので、私も法制審議会では最後まで賛成しなかったのでありますが、一番最後の段階では、これ以外に妥協点はないという感じがいたしましたので、これに賛成いたしたのであります。事件がかえって最高裁判所に殺到しやしないか、少くとも負担が決して軽減されないのではないかという点につきましては、これは全く見通しの問題になるわけでありますが、先ほど猪俣委員のお言葉の中にありました通り、異議申し立てという形をとって確定力を遮断しないことにしております以上は、おそらく現在のようなことはないのではないか。それにしてもある程度の件数が行くかと思いますが、しかし、どうせ確定してしまうということならば、それを無理して理由が立たないものを無理やりに立てるということは非常に少くなるのではないか。そういう意味で、私はその点はそれほどまでに悲観的には考えないのであります。そのかわり、異議の申し立てに対して、すぐに確定力を与えるということは、これはぜひこの案の通りにやっていただきたいと思うのであります。 次に第二点でありますが、これは非常にむずかしい問題でありますけれども、憲法にいわゆる終審という言葉は、必ずしも訴訟法でいうと厳密な意味の上訴に限るものではないと思うのであります。たとえば民訴なりあるいは刑訴応急措置法にありましたような再上告の制度にいたしましても、あるいは厳密な意味で上訴と言うことはできにくいかと思います。一たん確定力が発生いたしますけれども、その手続の発展として、一連の手続として最高裁判所京で持っていけということであれば、これは憲法にいわゆる終審という要件を満たすのである。従って、異議申し立てという形でありましても、最高裁判所がその点について終審であるということにはおそらく差しつかえないと思うのであります。どの程度のものを最高裁判所まで持っていけるかということになりますと、それが非常に例外的なものであるということであればこれは問題でありますが、少くとも憲法に関するものが大体参りますので、必ずしも何もかも最高裁判所に持っていけるという建前になっておりませんでも、それは少しも差しつかえないのではないかと思います。大法廷に持っていける場合としまして、この裁判所法改正案の第八条の三の第三項にあります程度の範囲のものがあがっており、またその第八条の三の第一項にあります通り、最高裁判所でもって自分だけが裁判権を持つものをきめ得るわけでありますから、最高裁判所がもし、こういう事件は最高裁判所として、大法廷として判断をすべきであるというふうに考えるものであれば、これは最高裁判所に持っていき得るという建前になっているわけであります。これは、アメリカあたりの制度にいたしましても、御承知のように、何もかも最高裁判所に持っていけるというものではない、いわば当事者の請願のような形において最高裁判所に願い出て、そうして最高裁判所が相当だと認めればこれを取り上げる、こういうふうな形がとられておりますので、この新しい法案においてもややそれに近い趣旨が盛り込まれているのではないかと思います。先ほど申した通り、何もかも持っていける、法令違反を広く持っていけるというものではありませんが、しかし、だからといって終審としての要件を必ずしも満たせないというわけにはいかないのじゃないかと思います。 繰り返して申します通り、これをもってこの案が非常にいい案だ、非常に理想的な案だというのでは決してないのでありまして、やむを得ない案としてこの程度でもがまんすべきじゃないか、このように考えるのであります。
○三田村委員長 池田清志君。
○池田(清)委員 団藤公述人にお尋ねいたします。 第一点として、委員長から設問をいたしました第一の(イ)の、国法上の独自の下級裁判所であるかという質問に対しまして、これを肯定されまして、さようでありますと言われました。また、先刻の猪俣委員のお尋ねの中の答弁におきましては、小法廷が最高裁判所であるという御発言もあったのでありますが、いかにこれを……。最初公述の際に、小法廷は下級裁判所であると肯定されましたが、猪俣委員の設問に対しましては、そのお答えの中の言葉として、小法廷は最高裁判所であるということを伺ったようですが、何か私の聞き違いでしょうか。
○団藤公述人 その点は現行制度の裁判所についてでありまして、先ほど申し上げたのは改正案についてであります。
○池田(清)委員 わかりました。 第二点、裁判所におきましては、最高裁判所を初めといたしまして、憲法上、司法行政権あるいは立法権等を持っております。もちろんこれを制限するということは最高裁判所の意向にゆだねられておるのでありますが、高等裁判所、地方裁判所等におきましては、司法行政権の大きな部分と申しますか、独立した裁判所としての運営に必要な軽度の司法行政権は現在これが付与されていると思います。ところが、改正案の小法廷につきましては、その大事な部分の司法行政権というものが相当に制約されておるわけです。先ほど来お答えもありましたように、改正法案の小法廷はいわゆる上級の裁判所、上告の裁判所である、そういう上位の裁判所でありながら、下級の裁判所において持っておるところの司法行政権について重大なる制限をするということが、独立の小法廷の裁判所としての権威と申しますか体面上許されるかどうか、常識的に考えてどうでありましょうか。
○団藤公述人 司法行政権がこの案における小法廷にかなり制限された形でのみ与えられておるということは、御承知の通り、小法廷を最高裁判所に付置するということから来ているのでありまして、もしそれが小法廷の裁判権の行使に妨げがあるということになれば、これは全く仰せの通り許すべからざることであると思いますが、私はそのような内容のものではないと思うのであります。そういう意味において、この案のような形をとるということは差しつかえないことである、かように存じております。
○池田(清)委員 委員長の設問に対しまして、改正案におけるところの小法廷は高等裁判所については上級である、現行大法廷に対しましては、審級はない、こういうお話でありました。さようでありますと、これを敷衍して申し上げますと、事件によって異なるのでありますが、事件が下級審から第二審に進みました後において、大法廷に行くものと小法廷に行くものとが分れる、こういう仕組みに相なっておるわけです。これを理解いたすために申し上げますと、第二審級以後は道が二またに分れておって、二またにそれぞれの事件が進められていって、一方は大法廷、一方は改正の小法廷、これがいわゆる終審の裁判所である、こういう格好に理解する。お話ではそういうふうに伺ったのでありますが、さように理解してよろしゅうございましょうか。
○団藤公述人 比喩的に申し上げますと非常にむずかしいことになるのでありますが、二またなるがごとく一またなるがごとく、もし初めからこの改正案の裁判所法の第八条の三の一、二、三及び最高裁判所が定めたものがありますというと、これは最高裁判所そのものに初めから行くわけでありまして、その意味においては二またになるわけでありますが、それ以外のものはまず小法裁に持っていって、それから中でさらに道が二つに分れて、大法廷に移すべきものは移す、こういうことでありますので、その二またとかなんとかという言葉で表わしますとやや誤解ができるかと思いますので、ただいま申しましたような言葉で御理解いただきたいと思います。
○池田(清)委員 公述の中ではあまりお伺いをしなかったことでありますけれども、この際お尋ねを申し上げますが、改正案の八条の三におきまして小法廷の裁判権について規定をいたしております。この規定によりますと、憲法違反、法令違反、そういうものは小法廷は裁判をすることができないのだということに相なっております。憲法八十一条におきましては、最高裁判所は法律等が憲法に適合するかいなかを決定する終審の裁判所であると、最高裁判所が終審の裁判所であるということを規定しておるところから考えますと、いわゆる下級審におきましても、法律等が憲法に違反する同様なる事柄を審判するところの権能が当然にあると解するのでありますが、まずこの点お答えをいただきたいと思います。
○団藤公述人 普通の場合におきましては、仰せの通り、下級裁判所も違憲審査権を有するわけでありますが、最終的な決定をいたしますのは言うまでもなく最高裁判所そのものであります。小法廷は特殊な理由から認められたものでありますので、第八条の三の規定におきまして、その点について特別に立法的に制限を設けたものである、このように理解いたします。
○池田(清)委員 改正法案はさように相なっておりますが、かくのごとく、普通の事件であったら、上告裁判所に相当するところのこの改正の小法廷が、普通でありますならば下級裁判所が当然持っておるであろうところの偏心法違反等の裁判権を剥奪されるということは、立法上の議論として妥当であるかどうかをお尋ねいたします。
○団藤公述人 裁判所の権限は法律できめ得るものでありますので、小法廷という特殊な任務を持って最高裁判所に付置された裁判所には、引当な理由でもってこの点だけを制限するということは、これは許されることではなかろうか。相当な理由なしで違憲審査権を制限するということは憲法の解釈としても許されないと考えます。このような特殊な場合において相当合理的な理由でもって制限するということは、これは立法政策としてあり得るのではないかと思います。
○池田(清)委員 先ほど来の御公述やあるいはまた質疑応答等によって伺いましたところによりますと、立法の立場にあるわれわれ国会といたしましては大体こういうふうになさるのが妥当である。しこうして、これはいわゆる学者的な立場から見ましてもいろいろと不満の点もあるけれども現在の段階においては大体これでやむを得なかろう こういうお気持であるようにお伺いしたのですが、いかがですか。
○団藤公述人 仰せの通りでございます。
○三田村委員長 佐竹晴記君。
○佐竹(晴)委員 団藤先生にお尋ねいたしたいと思います。 小法廷の性格の問題ですが、先ほど、国法上の独自の下級裁判所であるかとの問いに対して、肯定されました。その独自の下級裁判所であるかということの意味は、独立の下級裁判所であるかという意味も含んでおるように理解されますが、小法廷を独立の下級裁判所とお認めになっての先ほどの御答弁でございましょうか。
○団藤公述人 大へんむずかしいことでありますが、これは付置という言葉は使ってありませんが、最高裁判所に置くという形にしておりますのは、砕いた言葉で申しますと付置であり、そして他の条文から判断いたしますと内容的にもこれは付置であるというふうに考えられますので、その意味においてはこれは独自ではありますけれども独立ではないということになろうかと思います。ただ、裁判権行使の上において独立であるということは言うまでもないことであろうと思います。
○佐竹(晴)委員 憲法八十一条には最高裁判所とあって、現在までの裁判所法にはやはり最初裁判所という言葉だけを用いて参りました。ところが、今度の改正の裁判所法では条章に至るまで最高裁判所及び最高裁判所小法廷と二つに分けまして、そしてその小法廷が仰せのごとく付置されることになっております。しからば、今回改正しようといたしております小法廷は、最高裁判所の中に含まれてない、別個のものであるということは、きわめて明確であります。そして、それをお認めになり、付置されることをお認めになりました。そうすれば、たとえば大学に高等学校を付置いたしましたときに、大学と高等学校は別異のものでありますことは間違いありません。そうすれば、大学に大学の校長ができますと同時に、付置された高等学校に高等学校の校長のできますことは当然であります。付置されたという理由によって、それが人格がないものとは言われません。付置されましても、独立の、独自の一個の存在であることは間違いないと思われます。そうすれば、最高裁判所の長官が付置された小法廷の長官でないといわなければなりません。二個の官庁がここに存在するものと認めなければならぬと思いますが、御意見いかがでございましょう。
○団藤公述人 官庁という言葉自体も、非常にむずかしく申しますとわかりにくくなるのでありますが、やや砕いてみて申しますならば、いわば複合的な形における特殊の機構である、そして、独立ではありますけれども、司法行政上ある程度の制約を受けているところの裁判所である、こういうことになると思います。
○佐竹(晴)委員 そういうお話を承わりますと、ますます混迷になりまして、国民が納得しないと思うのであります。私どもは今まで小法廷は最高裁判所だと思ってきた。小法廷の判決は、最高裁判所の、終審の裁判所の最高の裁判を受けたのだ、これで納得するのだと思ってきたのです。国民感情はそう思っておる。そしてそれに帰依しておるのです。ところが、そこに、別異のものである、付置されるものであるとか、下級裁判所であるとかいうお説になり、それを追及していくと、特異なものだというのです。そんなに特殊に考えなければならぬ理由はないじゃないかというと、現在の裁判官をどうするかというような政治的妥協がその混迷を生んでおる。その政治的妥協が今回の妥協案となってきておるし、またそのことが理論を混迷にせしめてきておるということになると、国民感情を裏切る妥協ではないか、こういう気持が国民の心のうちに沸いて参ります。これでは今回の改正法を通じて国民を納得せしむることができないじゃないか。そこで、先ほども猪俣君からもるる質疑いたしておりましたが、第一、一番最初に問題になったのは、事件が渋滞して何とかして処理をしなければならぬというのが事の起りです。それが二十五年当時には七千件、現在はまだ五千件もたまっております。どうしたらいいか。これは率直に言ったら部を分けて――前の大審院もそうやっておりまもたが、今の地方裁判所でも高等裁判所でも、御承知の通り部を分けております。民事と刑事と大体部を分けております。刑事も部を分けております。一部から何部、地方裁判所のごときに至りましては一部か十部ないし二十五部も分けております。しかし、その分けられた部は、その裁判所ではないとは言われません。また、その裁判所に付置された部とは言われません。部即裁判所であります。最高裁判所の第一部、これは即最高裁判所であらねばならないと思います。もしそうだといたしますと、その一部が判決をいたしましたことは、最高裁判所の判決となりまして、私どもこれに納得を与えることができるのです。そこで、民事、刑事なら民事、刑事に分ける。それから、民事をまた部に分けて、その部において最終審として憲法解釈についても最終の権限を持つとせられても一向差しつかえないじゃないか。ところが、そう私どもが考えておりますところを、団藤先生におきましては、全員が審査権を有しなければ、少くともこれは憲法の精神に反するのだということがやはり論拠のようであります。しかし、どうでございましょう。たとえば、ここに、民事なら民事と、刑事なら刑事に分けまして、刑事に関する限り、憲法違反についても最終の権限を持って最終の判決をしたときに、その刑事に関する判決をする者が民事に関する判決権を持っていなかったとは言われぬと思うのです。民事の部に属している判事もいつでも刑事の部へ回って判決をすることができると同時に、刑事の部にある人も民事に回って裁判することができる。これは単に内部の事務分担の問題であります。内部の事務分担の問題と権限の問題とを混合しているんじゃなかろうか。私どもは、少くとも、たとえば民事なら民事にいたしましても、第一部が貸金、第二部が会社あるいは手形、第三がたとえば親族なら親族、第四が税法なら税法、第五が労働法なら労働法と分けまして、おのおのがその問題に関する最終の憲法違反に対する審判権を持つておりますときに、やはりその全員がだれもおのおの別々に与えられた部限りの最終の審判権を持つものにあらずして、事務分担でそこにすわっているだけのことであって、たとえば、その裁判官が二十人おれば二十人――今だったら十四人であります。もし三十人にふやせば三十人全員が最終の憲法に関する審判権を持っておりますから、部を分けて事務をさばさばとさばけさして、渋滞する事件を早く処理しながら、最終の権限を持って審判をする。すなわち、憲法八十一条にちっとも抵触しない。そういった部の置き方というものはあり得ると思うのでございます。そういう部に分けて審判することができないで、三十人なら三十人にふやせば、三十人が一堂に会して全員が一つの法廷で判決するような機構を作らなければ、どうしても憲法の精神に反するのだというその御議論を、私どもはどうしても理解をすることができないのでございますが、いま一応御説明をいただきたいと思います。
○団藤公述人 まず最初に、この案が妥協としてできたということを私が申し上げましたのは、ただいま佐竹委員のお言葉にありましたように、現在の最高裁判所の人的陣容を解決するために妥協したのである、こういうふうに申し上げたのでは絶対ないのであります。また、そういうことがあるかどうかということについては、私全然関知しないのでございます。 それで、先ほど一種の複合的な構造であるということを申し上げましたが、それは司法行政的に見て付置という関係に立っているという点をそう申したのでありまして、小法廷そのもものはやはりはっきりした下級裁判所であると思うのであります。そういう意味で、もし最高裁判所に事件が行かないじゃないかということになれば、これはある程度はしかりということになろうかと思いますが、先ほど猪俣委員にお答えいたしましたように、裁判所法の改正案の第八条の三の形において、重要なものを最高裁判所に持っていけるような形になっていれば、それでいいんじゃないか。また憲法で終審という言葉を使っておりますのは、一つには、それ以上の裁判所はない、最高裁判所できめたものをさらに別個の裁判所、何か機関を作って、そこでさらに審査し直すということは許さない、最高裁判所できめた以上はこれが最終的なものであるということを同時に規定していると思うのであります。先ほどの点と重複いたしますからその点を繰り返しませんが、終審という要件は、少くとも法律論としては満たしていると思うのであります。 最後におっしゃいました点は、これまた蒸し返しになるのでありますが、仰せのように、部を分けまして、そこで取り扱うといたしますと、たとえば民事部で憲法問題を扱う際に、これは内部的な事務分配かもしれませんが、内部的な事務分配として、刑事の裁判官は意見があっても関与できないということになるのであります。やはり最高裁判所の全員でもって憲法問題は判断するということでなければならないので、たとい内部的な事務分配としてきめるのでありましても、それが個々の事件についての裁判への関与を各裁判官に制限するような形のものは、やはりいけないのじゃないか。ここから先はおそらく意見の相違ということになるかもしれませんが、私の言おうとすることを申したわけであります。
○佐竹(晴)委員 意見の相違とおっしゃいますならばそれ以上はもう申し上げません。ただ、それでは一つ民訴四百九条の二の例の上訴でございますね。特別上告、上告という文字を用いているようであります。それと今度の改正法の第十条の異議との性質上の差異があるかどうか、これを一つお尋ねいたします。
○団藤公述人 これは非常にむずかしい御質問でありまして、実は民訴四百九条の二の上告、あるいは先ほど申しました刑訴応急措置に認められておりました再上告、これは厳密の意味における上訴ではない。確定力を遮断しないという意味においてそれは厳密な上訴とは違うと思うのであります。そういう点では、異議の申し立てと特別上告――私はこれを再上告と申しておりますが、この再上告とは性質を同じくするものである。これを上告という形で考えるか、あるいは異議申し立てという形で考えるかということは、これは立法政策としてどちらでもあり得るのですが、ただ、最高裁判所とそこに付置されるところの小法廷とは、なるほど上級裁判所、下級裁判所の関係に立ちますけれども、しかし両者の関係をもっと微妙なものとして規定している以上は、この再上告の例と違って、上告という名前をつけないで異議の申し立ての形にした方が適当ではないか。そう本質的な違いは率直に言って私はないと思います。ただ、非常上告、特別上告あるいは再上告ということになりますと、はっきり完全に分離された上下の関係にある裁判所の間で普通は考えられるのでありまして、今の最高裁判所と小法廷とは、なるほど上級裁判所、下級裁判所であります。はっきりそうでありますけれども、その両者の司法行政上の関係が先ほど来お話に出ておりますような特殊なものである以上は、上訴という形、再上告という形をとらないで、異議申し立てという形をとった方が、妥当ではないか、こういう考えであります。
○佐竹(晴)委員 一言だけ。異議というのは、私が申し上げるまでもなく、現在までは同一裁判所内における不服の申し立てを異議として扱っております。大半がそうなっております。ところが、上訴及び上告ということになると、審級を異にする場合であります。民訴の四百九条の二の場合におきましては、上告という文字を用いておりまして、審級の異なる場合を意味しております。ところが、今回御説明によりますと、やはり小法廷は下級裁判所である。これから見れば、今度は最高裁判所の大法廷は審級を異にするものと見なければなりません。そうすると、やはりこれは上告の性質を持つものと言わなければなりません。ところが、特殊の事情があるからといって、同一審級内における異議という文字を用いて、そこでそういう不服の取扱いの手続を規定いたしますことは、ますます民事訴訟法上における用語の混乱を来たしますのみならず、そういう制度の紛淆を来たすものである。何でそうしなければならぬのかということが、多年そういう面に携わって参りました私どもでもわかりませんし、少くとも国民が納得しない、こう思うのでございます。もっとこれをすっきりした姿の改正ができ凄いものだろうかと思いますが、最後にその一ことだけを承わっておきたいと存じます。
○団藤公述人 むずかしいのでありますが、もし小法廷と最高裁判所との関係を再上告あるいは特別上告というような上訴という形で結びつければ、そこで審級関係が出てくるわけで、そうすれば上訴審と原審という形になると思うのであります。それは立法政策としてそういうふうにすることも私は可能だと思うのです。可能だと思いますけれども、ここで上訴という形をとらないで異議申し立てという形をとりましたのは、審級の関係を認めないというところに重点があるのじゃないか。特別上告あるいは再上告そのものがすでにかなり性格のはっきりしないものでありまして、特別上告、再上告が一体上訴であるかどうかということは、これは古米訴訟学者の中で争いのあるところです。それらの意味で、かりにこれを特別上告、再上告という規定にしましても、それでは理論的に非常にすっきりするかといえば、すっきりしないのだと思います。問題の根本は、最高裁判所と小法廷の関係がこういう微妙なものになっておるという関係から来るのでありまして、また、それがそういうふうなことにならざるを得なかったのは、いろいろな要求をこういう形で妥協点として満足させる以外になかったという一言に尽きると思います。
○三田村委員長 高橋禎一君。
○高橋(禎)委員 ちょっと二、三団藤教授にお尋ねします。 現行法でなく、この今審議中の法案によりますと、小法廷で裁判をしたらこれは確定する、こういうのですね。そうして、刑事の事件ですから、それを原則としては執行する、こういう建前のようです。ところがその裁判に憲法の解釈の誤まりがあることその他憲法の違反があることを理由とするときには大法廷に異議の申し立てをする。憲法の問題は残されているわけですね。こういうことが一体許されるかどうか非常に疑問があるわけです。と申しますのは、憲法の問題については最高裁判所が最終的な判決をする権限を持っているわけですね。その点は、国民の方から言いますと、憲法に合致するかいなかという問題についての裁判は最高裁判所で最終的に決定をさせるという権利があるわけですね。ところが、その段階まで行かないうちに、最高裁判所で最終的な憲法問題についての裁判を受けないで確定さして、しかも刑事事件はその刑の執行までするということが、私は許されるか許されぬか非常に問題があると思うのですが、その点について御意見を伺います。
○団藤公述人 あそこで終審という言葉を使っておりますのは、私の考え方では、必ずしも狭い意味の上訴という形で持っていくことを必要としない。従って、この判決が確定するようにいたしましても、その一連の手続の発展として最高裁判所に不服の申し立てができる形を開いておけば、それは終審という憲法の要求を満たし得るのであります。あとは実施するのでありまして、それによって当事者の利益が不当に害されないように立法上配慮することは必要であると思いますが、必然的に狭い意味の上訴の要求を認めなければならないということは、憲法の解釈として出てこないのじゃないかと思います。
○高橋(禎)委員 そこが私はよくわからないのです。しかも、今おっしゃったような考え方がほんとうの憲法の精神に合致するものかどうか、どうもその疑問が解けないのです。「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」この規定を率直に文理的に考えてみますと、裁判に関しては、憲法に合致するかしないかという問題は、最高裁判所が終審裁判所であるから、その裁判が確定しなければほんとうの確定ではなくして、しかも刑事で言えば刑の執行までされるというようなことは、憲法が最高裁判所に大きな期待を持っておること、そして国民はその最高裁判所で憲法問題についての最終的な判決を受ける権利を持っておるのですから、そこで裁判がなされたものでなければ確定をすべきものでない、いわんや刑の執行なんかはなすべきものでないのだ、これが憲法の精神じゃないかと思えるのですが、この上訴制度を認めるとか認めないとか、先に確定して、先に刑の執行をしておいても、あとでまた名義上救う道があるから、それが憲法の精神に合致するのだというのは、まだ疑問が解けないのですが、どういうものでしょうか。もう一度御意見を伺いたい。
○団藤公述人 アメリカの制度でも、不服申し立ての期間を非常に長くしておいて、そのかわり判決そのものは確定させる、こういう制度はあります。そういうふうな形をとっても、最高裁判所に不服申し立ての道を開いておく、しかもその一連の手続としてそういう道を開いておくということになれば、確定力を遮断するということは必ずしも要件じゃないのではないか。先ほどの蒸し返しでありますが、確定力を遮断しないということになれば、当事者の救済の点が問題になりますので、それは今の終審裁判所という要求からではなくて、基本的人権に関する章の規定からして、不当にその関係で当事者の権利を害しないように立法政策上考慮する必要がある。従って、常に刑の執行をするというならば別でありますが、この案のように裁判所の措置として執行停止その他のことができるということになっていれば、それで憲法の要求は満たし得るのではないかと考えます。
○高橋(禎)委員 ちょっとしつこい質問になるのですが、おっしゃったようなことは法律の専門家にはある程度わかるかもしれませんけれども、一般の常識をもってすれば、この前の委員会でも申し上げたのですが、「真昼の暗黒」という映画を見ますと、あれは事実の認定に関しての争いのようですけれども、とにかく、有罪の裁判は受けたけれども、最後は最高裁判所があるんだから決して悲観するなという、非常に激励鞭撻しているような面が出てきますが、あれはやはり今の日本の国民の裁判制度に対する一つの常識だと思うのです。その意味において、私は、憲法問題以外の点についてもできるだけ事情が許せば上告の道を開いた方がいいという考えを持っておりますが、それは別として、憲法に違反しているという考えを持っている人が最高裁判所にその問題について異議の申し立てをしているのに、裁判はもう確定しているのだ、刑は執行してもいいぞといったようなことは、憲法の精神から見て必ずしも妥当と言えない、だけでなく、国民の裁判に対する気持という面から見ましても、そういう制度は設けるものではないというふうに考えるのですが、いかがでしょうか。
○団藤公述人 それは審級の問題とも関連するわけですが、もし御説のような形をとるとしますと、これはもう文字通り四審級になりまして、四審級によるところの訴訟の遅延なり国家的精神力の浪費というような犠牲をしてまで常に上訴という形の道を開かなければならないものかどうかということになるわけであります。私が先ほど申しましたのは、憲法の解釈として必ずしも狭義の上訴ということを要しない、あとは立法政策としてそれらの諸般の事情を考えてすべての利益を調和するような制度を作るべきである、ですから、もし審級が屋上屋を重ねるようなことにならないのだといたしますと、これは立法政策として御説のようなことでいくべきだろうと思いますが、その点に大きな難点が一つ出てきた以上は、その点を譲歩し、別の点で当事者の利益保護をはかるということをいたしましても、それは憲法違反にはならないであろう、こういう趣旨で申し上げたのであります。
○高橋(禎)委員 政府の原案について一番問題になるのは、最高裁判所小法廷と最高裁判所との関係だと思う。いろいろ法制審議会等でも御研究になって、政府でも検討されて案が出てきたのですが、私個人の意見を率直に申し上げると、非常に御研究にはなったけれども、訴訟促進という面からはかえって悪くなるのではないかという感じを持っておるのです。その一つの点として、最高裁判所小法廷で判決を下します。原判通り確定しますけれども、最高裁判所または最高裁判所小法廷はこの裁判の執行を停止しその他必要なる処分を命ずることができる、こういうことになっているのです。そういたしますと、最高裁判所小法廷で裁判があって確定はしたけれども――私、主として例を刑事事件にとりますが、刑の執行をなるべく早く受けたくないという気持が多くの人にあると思うのです。それが今までも上訴事件がふえる一つの理由になっていると思いますが、よく、裁判が確定しても、またほかに訴訟上救済する道がない場合でも、刑の執行を延期してもらいたいという願いが検察当局等に出るわけです。その種類のものがみな憲法問題を理由にして最高裁判所に異議の申し立てをすることになりはしないかということを非常に心配するのです。私の見通しでは、今までよりは多く憲法問題が最高裁判所へ出てくるのじゃないか、こういうふうに思うのです。すなわち、刑の執行を延期するくらいな気持でもって出てくる、ところが、それを専門の弁護士に依頼するのに金がかかりますけれども、私は相当やる人がいると思う。そうして最高裁判所にその異議の申し立てが回るとすると、最高裁判所でやはり書類を調べなければなりませんでしょう。刑の執行を停止していいかどうか、あるいはその他の必要なる処分を命じていいかどうか、やはり書類を調べないとわからないと思うのです。ところが、その書類をそれだけのために一応調べて、そうしてそれらの処分をする必要があるかないかをきめるのが大へんな手数なんです。しかし、それは裁判官は勘でわかるというようなことで、表紙を見て、これは執行停止をする必要がない、またその他必要な処分をする必要がないのだということでぽんとはねてしまえば別ですが、それがまた私は大へんだと思うのです。裁判を受けた方では、気持の上でまだ確定したと思っていないのです。法律の上では確定と書いてあるけれども。憲法問題で異議の申し立てをして、そうしてそれが救われるかもしれないという一つの希望を持っているわけですから、その希望の多くは間違っているにしても、中には真剣にそう考えている人が相当あるわけです。それをただ簡単にじゅうりんしてしまうことは裁判に対する威信を非常に傷つけることになるのですから、やはり理由をはっきりして、刑の執行停止をしないのだ、その他の必要な処分を命令する必要がないのだということを納得させなければならないでしょう。そうなると、記録を調べたり、その手数がとても大へんだと私は思うのです。事件は今よりは憲法問題に関して異議の申し立てがふえ、かつ最高裁判所はそういうふうな手続もとらなければならぬ、こういうことになります。そうして最後に憲法問題に関連しての合憲かいなかということの判決をなさるということになると、大へんな手数になる。事件は最高裁判所に非常に山積するのじゃないかと思うのです。 ついでですから、この点もお尋ねしておきますが、今申し上げたような状態において刑の執行をするということになりますと、刑務所行刑に非常に弊害が起る。心では、まだ確定していない、いわゆる自分たちの基本的人権を守るべく、憲法に違反しておるということを理由にして最高裁判所に異議の申し立てをしておる者を、裁判が確定したというので刑務所へ服役させるということになったら、そこに刑に服する人たちの精神的ないろいろの苦悶が起ってきます。ですから、行刑の面からやりにくいいろいろの弊害が出てくると思うのです。それらについての教授の御所見を伺いたい。
○団藤公述人 それは主として刑の執行の停止をどういう場合にどの程度にするかという運用にかかってくると思います。もしその運用が固まって参りますならば、自分の事件についての見通しの点も、少くとも弁護人の口を通じて被告人にも納得がいくようになるのじゃないか。最初のうちは仰せの通り困難が予想されるかもしれませんが、私は、ある程度運用が固まってくれば、それほどまで悲観的に見ないでもいいのじゃないかと思います。ただ、もともと私この案には賛成でなかったのでありまして、私自身も今仰せのような議論をしたこともあるのす。しかしながら、こうやって妥協案としてできました以上は、しばらく運用に待っていいのじゃないか、運用の上でそういう点はかなり防止できるのではないか、かように考えております。
○高橋(禎)委員 公述人も法制審議会に出られていろいろ議論ぜられて、おそらく不本意ながら、この案にでもしないとこの問題が解決しないので賛成なさったのだろうと思います。私も与党議員として、政府側の出しておるものだから、ほんとうなら黙っておるところなんですが、私の気持の上から、実際を言えばこの案は改悪じゃないかということを非常に心配するものでありますから、あえてお尋ねするのであります。だから、先生も、今までの行きがかりを捨てて、ほんとうに悪いということになるならば、一つここで新しいよい修正案でも考え出すというような意味において御協力を願う方がよいのじゃないかと思います。と申しますのは、いつも問題になりますように、最高裁判所の機構改革ということは、上告の門戸を今より少し広くしようという国民の切なる要望と、いま一つは、裁判を促進させなければならない。先ほども他の公述人の三戸岡さんも言っておられましたが、判例を統一するとか、法律の解釈を統一するというようなことを言ってみても、いろいろな事件が起ってから十年も十五年もかかってやっておったのでは意味をなしませんよ。ですから、もっとそういうことを早くやるようにしなければならぬ。これが目的なんです。ところが、門戸開放の点につきましては、刑事訴訟法と民事訴訟法とちょっと異なっておるようなことに今度なりますが、少くとも私は民事訴訟法と同じようにやるべきではないかと思っております。あれを区別する理由はどこにもないと思います。のみならず、先ほど平林先生あたりもおっしゃった裁判に対しての結論というようなことから言いますと、第一審、第二審に対しては、まだまだ十分納得のできないものが相当あるんですよ。それは、事実の認定において、刑の量定において私はそうだと思います。古い大審院時代でしたら、事実の認定に顕著なあやまちがあるとか、刑の量定に非常に顕著なあやまちがあるとかいうときには、上告して、それを大審院において事実を調べて、それこそ親切丁寧に結論を出された。あの当時の裁判の威信というものは非常に高かったと思うのです。ところが、今は、訴訟法が改正されて、一審、二審の裁判でも、あるいは訴訟技術に長じた御本人はそうでないかもしれませんが、はたで見ておる人間には何をやっておるのかほんとうにわからないのですよ。今の訴訟法の手続から見ますと、あっという間に結論が出たような気持がするのです。ですから、裁判所で傍聴人がだんだん少くなっておりますよ。傍聴しておってもさっぱり味わいも何もない。事件がどういう工合であってどう裁判で審理されておるのかということがわからないのですから、あれは非常に私はおそろしいと思います。と申しますのは、国民が法廷に対して興味を持たなくなってしまったならば、これはもう司法というものに対する国民の関心が薄らいだことになると思います。国民の目の前で裁判するならばよろしいですが、国民があまり傍聴もしないし関心も持たないで、関係者だけががちゃがちゃやっておるということではいけないと思います。ほんとうに国民が関心を持ち、そうして真に信頼感を持つようなものにしなければならぬ。それがすなわち上告の制度の門戸を広げなければならないという理由です。たとえば、事実の問題、刑の量定の問題においても、私は、非常に顕著とものに対しては許すというようなところまでいかなければならないと思う。これが一つなんです。そういうふうな考え方と、いま一つは、訴訟全体が、先ほど申し上げたように、これは先生も同じ御意見のようでしたが、今度のこういう制度にしますと、事案上の四審制度になってしまうのです。そうすると、個々の裁判所の未済期間は短かくなるかもしれません。これは、最高裁判所小法廷の未済事件、未済期間、あるいは最高裁判所の未済事件、未済期間は短縮するかもしれませんけれども、一審から最高裁判所までの最終までの期間ということになったら、非常に長いものになります。そうして、全体を通じては未済事件がふえてくるという結果になる。もしも、今度法律を改めて、なおかつ最高裁判所に事件が山積するというようなことであったら、これは大へんです。一審強化一審強化ということをよく言われますけれども、一審を強化するには、最高裁判所すそわち人事権等を持って間接にいろいろ行政的な監督のなし得る立場にあるものがそういう裁判所の模範を示さなければ私はいかぬと思う。ところが、身柄を拘束して五年も七年もたってまだ判決を下さないというようなことでは、一審を強化しろと言っても、最高がそういうだらしのないことでは、私は、一審も二審もそれを見て安易な気持になって、まあまあというようなことで知らず知らず長くなってくるのではないかと思う。日本の司法部で一番心配されるのは、事件の審理が長いということ。しかも憲法は刑事被唐人はすみやかなる裁判をなさせる要求の権利を持っておるわけです。迅速なる裁判を得るところの基本的人権を持っておるにもかかわらず、そういうありさまですから、私は、ほんとうに憲法を守らなければならぬ裁判所がむしろ憲法の精神をじゅうりんしておるような気持を抱く者が出てくるという心配を持つわけでありますから、その上告の理由の門戸開放の問題と、訴訟促進の方法として、最高裁判所はこういうふうにやったらほんとうは自分はいいのだがなというようなお考えがございましたら、一つお教えを願いたいと思います。
○団藤公述人 ただいまの御質問に詳しくお答えするとなりますと数時間を要すると思うのでありますが、結論的に申しますと、遺憾ながら、私、そういうような名案を持ち合せないのであります。門戸を広げるという点につきまして、私の考えの要点だけを申し上げますと、やはり一審強化ということがどこまでも、特に刑事においては根本でなければ、不十分な審級を何回重ねましても決して真理は得られないのでありまして、第一審で十分慎重に審理をするということが根本であろうと思うのです。むろん最高裁判所の上告審まで事実問題についても事後審査の方法がなければなりませんが、しかし、その点につきましては、御承知の刑訴法四百十一条というものがこの案におきましても維持されるわけでありますが、私は、事実問題、量刑の問題については現在の四百十一条でたえる、そうして現在の司法部として最も力を入れるべきものは第一審であるというふうに考えるのであります。
○三田村委員長 神近市子君。
○神近委員 今亀井さんあるいはその他の方々が間接的にお持ちになっている問題とも関係がございまして、私は法律の問題ではしろうとでございますからへんなことをお尋ねするかもしれませんが、団藤さんに私はお尋ねいたします。 この委員会が始まりましてから、この三審か四審かという問題、大法廷と小法廷の問題はしばしば問題になってきているのでございます。それで、この改正の問題が出ましたのは、案件が非常に渋滞しているということ、それから裁判に対する国民の信頼が薄らぎつつあるということ。今高橋委員から逐次お話がございまして、この前もそういう御意見を伺ったのですけれども、最近問題になっている最高裁の判決の状態から考えまして、最高裁というものが戦前の大審院あたり以上に非常に高度の権力というか、そういうものを持っているのではないかということ。それで、私が、この改正案が出ましてから、自分のしろうと考えでいいというような委員会のお話でしたから、いろいろ研究してみますと、何としてもあの最高裁のワン・ベンチということが私には納得できないのでございます。それで、憲法だの裁判所法だのを方々調べてみますと、最高裁がワン・ベンチでなくてはいけないという規定はどこにもないのでございます。それで、今日のようにごく一部の人の考え方によって、芸術の問題も刑事の問題も民事の問題も、抽象的なものも具体的なものも全部裁断していくというところに、何か非常に無理があるということが私には考えられるのでございます。それで、今出ておりますこの裁判所法の改正案は、提案されましたときの御説明では、最終的なものではない、この委員会で論議を重ねて、最善と思われるものに決定していくということであったのですけれども、さっきから団藤先生の御説明を伺っておりましても、ワン・ベンチということに立脚して、それをどなたも動かさないために、小法廷の問題が、下級裁判所であるか、あるいは平等の独立した裁判所であり、しかも独立しない裁判所であるというような、まことに苦しい御説明がなくちゃならなくなるのです。率直に言いまして、なぜワン・ベンチでなければならないか。ツー・ベンチかスリー・ベンチにして、前の大審院の当時のように裁判官の数をふやす、――今でも、ふやすということで、小法廷の形でふやすということになっているのですけれども、せめて戦前の大審院の数くらいに数をふやして、大法廷というものを二つなり三つなり設けて、そこで、たとえばごく抽象的な問題あるいは具体的な問題、いろいろ裁判のケースの種類があるわけですから、それをやった方が問題が早く解決できるのではないか。そして、たとえば竹内事件のように、非常に接近した数によって、ただ一票によって死刑というような重大なことが決定される、そういうことを防ぐためにも、二つなり三つなりの大法廷があってやった方が、もっと国民の納得を得られることではないか。今亀井さんから、宗教裁判のにおいがする、あるいは最高裁が国民の道義までもルールを作るということに無理があるという御意見があったと思うのですけれども、それも私どもはごもっともだと思うのです。そして、もう一つ考えなければならないことは、最高裁の裁判の性質、様子を見ましても、その中の人たちは全部平等の裁判官であるべきで、今先生方が御論議になっているように、最高裁の中に下級的な裁判官を付置する、設置するというお言葉をお使いになりましたようですけれども、そういうことには矛盾があるんじゃないか。平等であるべき裁判所の中において、一部の人たちを小法廷に回す、それを下級裁判所的なものにするというところに、私どもは何だか最高裁というものの内部に矛盾を含むというふうな考え方を持つのでございます。私のしろうと考えでは、第二なり第三なりの大法廷を作って、ケースの種類によって取扱いを分けるというようなことが一番納得のいくように考えるのです。なぜそういうふうにワン・ベンチでなければならないということに固まっておしまいになったのか。そして、そういう大法廷というものの性格をピラミッドのように最高のところに持っていく必要があるのか、また、ツー・ベンチなりスリー・ベンチなりに分けるということは、これはどこか気に入らないところがおありになるのか。そういう三つか四つの点を御教授いただきたいと思います。あとで最高裁の御意見も伺うことができると思いますので、内部からの御意見はそのときに伺おうと思いますけれども、ここでは一応参考のために先生の御意見を伺わせていただきたいと思います。
○団藤公述人 御質問がだいぶんいろいろな点に触れておりますが、まず最初に、あるいはこれは神近委員の誤解していらっしゃる点ではないかと思われますところを申し上げますと、最高裁判所の裁判官は平等であるべきだ、これはもう仰せの通りであります。小法廷は最高裁判所に付置されますけれども、これは規定の上にもはっきりしております通り、最高裁判所そのものではないのであります。この案では、最高裁判所そのものと、それに付置される小法廷とははっきり区別されております。だから、先ほど申し上げましたように、最高裁判所というものと、その下級裁判所としての小法廷とは別になっておるわけであります。従って、最高裁判所と小法廷とはむろん平等じゃないわけであります。最高裁判所そのものの裁判、これは平等なのであります。 その次に、もう一つ、この点も念のために申し上げたいと思いますのは、先ほど三鷹事件その他をお引きになりましたが、その問題とこれとは直接には関係がないのでありまして、あのように非常にわずかな票の差でもって上告が棄却になるということがいいかどうか、特にあの事件は口頭弁論も開かないで上告棄却になったのでありますが、そういうことがいいかどうか、これは別の点から解決すべきであって、あのように口頭弁論を経ないで上告を棄却するというようなことのないようにするためには、規定を少し動かす必要があるのじゃないかということを私はかつてあるところで述べたことがあります。これは印刷になっておりますので、もしその点をお知りになりたいという御希望でございましたならば、それをごらんいただくことにしまして、ここではちょっと関係が間接的になりますから、その点は省かしていただきたいと思います。 それで、御質問の一番の要点は、今のワン・ベンチにしなければならないというその点になるかと思います。旧大審院の例をお引きになりましたが、旧大審院当時におきましても、たとえば非常に問題になるというような場合ですと、刑事なら刑事の連合部、民事なら民事の連合部を開く、また事柄によっては民刑の総連合部を開くというようなことをやっておりました。そういう事件ですと、やはり裁判官が非常に多数でありますから、評議もかなり困難であったということも漏れ聞いております。ただ、その時代も、連合部を開かなければならないような場合は実際上そう多くありませんでしたので、たまにそういうことがありましても、まあ問題にならなかったのであります。ところで、今問題とされております憲法問題につきまして、昔の民刑総連合部にしなければならなかったようなそういう問題と比べまして、事柄の重要性から言って一体どっちが上であろうか、特にこれは違憲であるというような判断をする場合に、従来の判例と多少違った判断を下すというのと比べて、一体どっちが重要であるかと申しますと、これはどちらとも言えない。見方によっては憲法問題の方がはるかに重要だということも言えるんじゃないかと思います。そうしますと、何人かの裁判官がおられる、その中でそれぞれみな御意見があるわけであります。それを、この事件はこの部分の裁判官できめちまう、またこの事件はこちらの方の部分できめちまうということでは、最高裁判所の憲法問題に関する事件の処理の仕方としては慎重を欠くんじゃないか、もし意見があるならば、どの裁判官にもその違憲問題の判断に関与できるような道を常に開いておかなければならない、それがすなわち今のワン・ベンチの考え方だろうと思うのです。 およそ最高裁判所の裁判官たる以上は、違憲問題を判断する場合には全部それに関与することができるという道を開いておかなければならない。もしそれをいたしませんと、たとえば第一部で判断する、第二部で判断する、第三部で判断する、ある一部だけで判断することがありまして、ほかの部の裁判官は、最高裁判所の裁判官でありながら、違憲問題について意見があっても意見を述べられないというようなことになるので、これは困るのじゃないか。今のような重要な問題であって、しかも違憲問題を最終的に判断する権限を憲法によって認められておるのですから、そのためには、最高裁判所の裁判官である以上は、その全員がその判断に加わるということが憲法の精神じゃないか。私が先ほど憲法の精神ということを申しましたのは、砕いて申しますとそういうことになります。先ほど仰せのように、憲法のどこを見ましても、また裁判所法のどこを見ましても、ワン・ベンチでなければならないということをはっきりうたっておるのはございません。ただ、裁判所の中では大法廷へ持っていく事件がきまっておりますから、その関係では大法廷というワン・ベンチに持っていくべきだということが明らかになっております。それは裁判所の問題であって、憲法の精神としてどこまでもワン.ベンチでなければならないという明文上の根拠はないと思います。根拠はありませんけれども、違憲問題を最終的的に判断するものである以上は、その全員で判断しなければならないというのが憲法の精神じゃないか。先ほど申し上げましたような民刑総連合部で昔きめておりましたようなそういう事案に比べまして、違憲問題の方が重要性においてまさるとも決して劣らないのじゃないか。そうすると、その扱い方においても同様に慎重な扱い方をしなければならないのじゃないか。もし違憲問題でこの部で裁判をする、またほかの部で別の判断をしたというときには何らかの解決法があるかと思いますが、初めから一緒になっておれば、そういうようなことが起らない。そういうふうな事態が生じ得るような制度にしておくことがそもそも間違っておるのじゃないか。むろん最高裁判所の裁判官はやはり順次更迭がありますから、また、更迭がなくても、判例が変ってくることがありますから、前に出た判例とあとに出た判例とが動くことはありますけれども、現在の裁判官何人かを前提として考える以上は、少くとも憲法問題については動かない判例が出されるべきである。たまたまここにかかったらどういう判断になった、またこっちにかかったら別の判断になったであろう、こういうことがあってはならないのであります。そういう点から、ワン・ベンチでもって判断するというふうに仕組みをきめなければならない、こういうことであります。
○三田村委員長 神近さんに申し上げますが、決して御発言を制限するのじゃありませんが、時間をだいぶ使っておりますし、本会議の関係もありますから、なるべく簡潔にお願いいたします。
○神近委員 今の団藤先生のお話に私まだいろいろ疑問もあり、もう少しワン・ベンチのことを御質問したいのですけれど、ほかの方々がせっかくおいでになっておるのに、きょうは団藤先生だけに集中してほかの力の御意見を伺えなかったので、せっかくお忙しいところをお三人にいらっしゃっていただいておるのですから、もうほんの一、二問だけお尋ねしておきたいと思います。 亀井さんからさっきいろいろお話がございまして、私どももこの機構改革にこの問題が非常に参考になっているのでございます。それで、ほんとうは詳しくお話を承わった方がいいと思うのですけれど、さっき、最高裁によって国民の道徳の規範あるいはルールというものを確立する義務があるというような判決があったのをお読み上げになったのですけれど、亀井さんは道義というものは裁判官がきめるべきじゃないという御意見のようだったのです。私もそれはそうだと思います。司法道徳というものはあるだろうと思います。しかし、一般人の道徳を裁判官かきめると、それは幾らか独裁的な政治形態になると思うのですが、その点もう少しはっきり、たとえば道徳の規範はどこに所属すべきか、その点と、もう一つ、わいせつと芸術上の表現との関係、これは皆さんの間でせんだってからずいぶん御議論があったようでございますから、その点を二点だけちょっと伺わせていただきたい。 それから、時間を節約しなくちゃなりませんので、重ねてお尋ねいたしますが、最高裁の審理につきましてどの点が最も御不満であるか、今間接に関係があるとおっしゃったチャタレイ裁判とそれから竹内景助の問題の裁判とについて、どの点に最も御不満を持たれておるか、その点を伺わせていただきたい。
○亀井公述人 時間がございませんから、ごく簡単に申し上げます。 私が先ほど申し上げましたように、最高裁判所が道徳的基準を示すのは越権ではないかということに対して、道徳的基準というものをどこに求めるべきであるかという今神近委員からの御質問でありますが、これは、現在の日本の段階においては、国民の相互論争の中に求める以外にないと思います。ですから、田中最高裁判長がカトリックの立場からたとえば「チャタレイ夫人の恋人」をどれほど否定しても、それは個人の御意見としていいと思います。それに対するまた別の反対意見もあって、おのおのが自分の考えておるところを述べ合うことによって批判し合う、こういう訓練が私たちには大へん欠けておったと思います。今まではすぐ取締りということが一番先に念願に浮びまして、国民自身の批判力の成長という点が、これは戦前までの私たちの経験から見ましても、一番欠除しておりますので、現在のPTAにしましても、学校の先生一方にしましても、現在の風俗の乱れについてはみな御心配なさっておられますから、それらの方々のあらゆる意見というようなもの、そこに私は今後の道徳的基準の発生する根拠を求める以外にないと思います。その方が、判決によって何かそういう一つの基準がきめられるよりはいいと思います。 それから、第二番目の、芸術とわいせつでありますが、これは動機の問題であります。動機と申しますと、二つの動機がございます。そのうちの一つは、初めからわいせつということを目的として書かれたいわゆる春本あるいは絵画、こういう初めからわいせつを意識したものは取締りの対象になると思います。それから自分の思想とかあるいは人間性の探求とかあるいは新しい道徳を打ち立てるという、そういう動機から出発して、たまたまその結果として性的なかなり露骨な部分の描写が現われて参る場合があります。この二つを一緒にして考えることはできないということが一つ。それから、その動機がたとい正しくても、わいせつなる部分があるとこれはやむを得ない――今度の判決はそうでありますが、しかし、どういう犯罪でも、裁判の場合には動機ということを非常に重く見ておる。ところが、その動機ということをほとんど無視し――もっとも文学の場合にはむずかしいのでありまして、人によってみな意見が違いますから、簡単に動機はこれだと番い切れない特殊の性格も持っておりますけれども、ただ、私は、芸術とわいせつというものは、それを描いた人間の動機に関係があると申し上げたい。 第三番目の問題でありますが、最高裁判所の、私の見聞した範囲内で申しますと、どこに一番の不満があるかというと、書類審査ということであります。これも明快な事件なら問題ないと思いますけれども、先ほども申し上げましたように、伊藤整氏の場合は無罪が有罪になった、それから竹内被告の場合には無期懲役が死刑になったという、第一審より第二審の方が重い判決でありますから、そういう場合には、最高裁判所としてはもう少し念を入れて詳細に調べるということが国民に納得させるゆえんではないか、こう思います。
○三田村委員長 本会議の始鈴が鳴っておりますから、なるべく簡単にお願いいたします。また午後にもあすにもあさってにも他の方の御出席がありますから、なるべく本日は簡単に願います。
○神近委員 委員長に催促されましたのでちょっとまごつきましたけれど、今竹内景助氏の恩赦を求めるという御運動が盛んに行われておりまして、与党の議員たちで大野伴睦さんとかあるいは河野一郎さんとかあるいは多分委員長もそうじゃなかったかと思うのですが、与党の方々までが大へん御賛成になって、何とかこれが恩赦になるようにと御尽力になっていると伺いましたが、その動機はどういうところから、これは単純に人道主義的なお考えからなのか、あるいは法律のどこかに何か納得のしがたいものがあるというお考えから起ったことなのか、ちょっとその点を、与党の方々もおいでになりますから、一つ伺わせておいていただきたいと思います。
○亀井公述人 これも簡単に申し上げます。竹内被告の恩赦運動が行われておりますが、これに署名された方は非常に範囲が広いのであります。で、私の考えでは、そこに五つの動機があると思います。最も多くの動機というのは、先ほど平林さんもおっしゃいましたように、わずか一票の差、これは法律的には内容はもっと複雑でありますが、わずか一票の差によって死刑の判決が下った、もう一ぺん再審する必要がありはしないかという、事件そのもの、あるいは判決そのものに対する不審の念が一つ。もう一つは、かりに判決を認めても、当時の日本の状況から見まして、果してああいう事件が単に個人の、たった一人の人間の責任に帰せらるべきものであるか、そうならばあまりにかわいそうではないかということ。第三番目には、むろん本人の無罪を信じておる人もあります。それから、第四番目には、死刑そのものに反対の御意見の方もあります。第五番目には、家族の貧しさといいますか、そういう人情論もございます。こう五つの動機が含まれておりますために、あの恩赦の署名が非常に広範囲にわたっておるのじゃないか。いろいろな疑問の点が残されている一番大きな問題は、やはりあの判決がどこか不鮮明なところがある、これはたとえ判決を承認しようと思っている人でもなお一まつの疑問を抱かざるを得ないというそこに大きな問題があるように思うのです。
○三田村委員長 大へん時間がおそくなって御迷惑でございますが、亀井先生と平林先生に私から最後にお尋ねいたしておきたいことがあります。 先ほど御意見の中にもありました通り、裁判、司法に対する国民の関心がまことに薄いということは、民主主義のもとにおいて非常に重要な問題だろうと思います。たとえば、事件が起きますと、新聞もラジオも大きく五段抜き六段抜きで報道いたしますが、それをさばく裁判、司法の問題についてはあまり言論にも現われてこない。こういう原因が一体どこにあるのか。亀井先生も平林先生も、あるいは言論あるいは芸術の面において非常に高い見識を持って広い範囲において御活躍になっておられますので、そういう立場から、裁判、司法が国民の基本的人権に非常に重要な関係を持ちながら、これに対して関心が薄い原因はどこにあるかということと、どうしたら国民にこの裁判、司法というものを理解しまた関心を深からしめることができるかという点について、御意見がありましたら一つこの機会にお伺いいたしたいと思います。
○平林公述人 私、少くともこの法案に関する限り、私自身この手紙をいただくまでこういう法案が出ていることを知らなかったような、非常にうっかりしていたわけですけれども、しかし、新聞にもあまり現われておりませんでしたし……。しかし、これを読んでみまして私が感じましたことは、この法案というものは、これは裁判所の都合で提出されているのであって、国民の権利の伸張として提出されていないということなんです。最高裁判所にみんな憲法違反の名前であらゆる事件が持ち込まれてくる、人数が非常に少くてたくさんだまっていて困る、そこで改正しようというような動機でございまして、ここで事実上二審にもひとしいような現在の事件の審理にもう少し幅を与えようというような、権利の側から考えられていないというが国民の関心を起させない一つの原因ではないかと思うし、また、この法案を作られる当局、政府の方自身も大声で宣伝するのをはばかった、はばかるというほどのこともないけれども、宣伝しなかったことではないかと思うのでございまして、こういう考え方からこの裁判所法というものが改正されるということは、この法案自体については私は賛成いたしましたけれども、こういう精神でこういうふうに問題が扱われるということについては非常な不満を持っているということを申し上げたいのです。
○亀井公述人 私も簡単に申し上げます。今の平林先生の御意見とも重複するのでありますが、私は、裁判所法だけではなく、法律及び裁判上のいろいろな術語というものがあまりに専門的過ぎると思います。普通の常識を持った日本人の使う日本語ではありません。私もきのう資料をいただき一まして、何べん読んでもわからない言葉が出て参ります。それから、いろいろな判決文を読みましても、これが日本人の書いた文章とはとても思えない。そういうところから直していただかないことには、どれほど国民に密着しようと思っても不可能ではないか。裁判は長い伝統がありますから、特別の用語が必要でありましょうし、これはほかの分野でもそうで、われわれ文学者も変な言葉を使いますから、それはお互いではありますけれども、もう少し裁判用語といいますか法律用語というものは簡単にならなければいけないということ、これが一つ。 もう一つは、先ほども委員長が申されましたように、ある事件が起りますと、そのときだけは新聞に報道されますけれども、何しろ裁判が非常に長くかかりますから、国民はほとんど忘れてしまいます。この忘れる時間というものが、それは現在の特徴で、ジャーナリズムが非常に発達しておりますから、同じ事件で繰り返し報道いたしませんから、そういうことからもかなり重大な問題も忘れやすくなっていやしないかということが、これが一つです。 どういうふうにして国民に理解させるかという御質問なんでありますが、今の言葉の問題もそうでありますが、いろいろむずかしい点がある。裁判につきましては、先ほどもちょっと申し上げましたように、臨時の公聴会、特別の公聴会を開くとか、あるいは判事や検事諸君がもう少し自分の意見というものをジャーナリズムの上に発表して、そうしてその意見と反対の意見とを戦わせるような機会を持つのも一つの方法ではないか。とにかく、裁判官というものは国民とは非常に遊離した高い存在といいますか、あまりにもかけ離れた存在になっておるということ、そういうことも一つ申し上げたいと思います。
○三田村委員長 これにて公述人に対する質問は終りました。 この際公述人の方々に一言お礼を申し上げます。忌憚のない御意見をお述べ下さいまして、まことにありがとうございました。御意見は今後の法案審議に十分参考にいたして参りたいと存じます。 それでは、午前中の会議はこれにて終ります。午後二時まで休憩いたします。 午後一時六分休憩 ――――◇――――― 午後二時二十九分開議
○三田村委員長 休憩前に引き続き裁判所法等の一部を改正する法律案につき法務委員会公聴会を続行いたします。 本日午後御出席の公述人は、真野毅君、島田武夫君、前田義徳君、梅田博君、田辺繁子君、藤田八郎君の六名の方々でございます。 この際公述人の皆さんに一言ごあいさつ申し上げます。本日は御多忙中にもかかわらず当公聴会に公述人として御出席下さいましたことにつきまして、委員一同を代表いたしまして厚くお礼を申し上げます。公述人におかれましては、最高裁判所の機構改革問題につきまして、それぞれの立場から忌憚のない御意見を御発表下さいますようお願いいたします。ただ、時間の都合上、公述の時間は御一人につき大体十五分ないし二十分程度といたしますが、公述のあとに委員諸君から質問があることと思いますから、その際も忌憚のないお答えをお願いいたします。 次に、公述人の皆様が御発言の際には、劈頭に職業または所属団体名並びに御氏名をお述べ願いたいと存じます。なお、発言の順位は、審議の都合上、先に前田公述人、梅田公述人、田辺公述人の三公述人の御意見を承わり、質疑を済ましたいと存じますので、御了承願いします。前田公述人、柳田公述人御両君は、それぞれ言論、報道の関係に長い御経験をお持ちでございますので、世論を代表する意味において、本案に対する御意見、あわせてこの機会に裁判のあり方、最高裁判所のあり方、上告制度の問題等について御意見を承わりたいと思います。なお、本案は裁判の遅延防止に役立つかどうかについても御意見を承わりたいと思います。 田辺公述人に対しましては、特に御婦人の立場から、さらに教育者という立場から本案に対する御意見と、さらに裁判そのものに対する御所見がありましたら、お伺いいたしたいと思います。 まず前田公述人から御所見を伺います。
○前田公述人 私はNHKの報道局長兼ラジオ局長をいたしております前田でございます。 裁判所法等の一部を改正する法律案について、世論を代表するという意味でお呼び下さったようでございますが、この機会に、ただいま委員長のおっしゃいました本案に対する意見、裁判のあり方、最高裁判所のあり方、上告制度の問題、それから裁判の遅延の問題などについて、一括して卑見を申し述べたいと考えます。 まず、本案を概観いたしますと、最高裁判所の現行の機構を改めることによって、一方では裁判の遅延を防止し、他方おもに刑事事件の被告人について権利救済の道を現行法以上に広げたいというねらいを持っていると思われます。この二つのねらいは、昭和二十六年末には最高裁判所における未決裁事件数が七千を上回っているという事実から見て、また、上告理由の範囲が、民事については現在すでに憲法違反のほか判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違反を含んでいるのに対し、刑事事件についてはその定めがないという現状からいたしまして、その上告理由の範囲を広げて、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違反があって原判決を破棄しなければ著しく正義に反する問題に及ぼそうとすること自体については、まことに当然でございまして、その考え方の限りにおいては、私は、原則的に一般世論がこの改正案の二つのねらいを支持するだろうと確信いたしております。しかし、今度の改正案は、その二つのねらいが妥当であるにもかかわらず、これをしさいに考えてみますと、どうしても幾つかの疑問を抱かざるを得ないと考えます。 その第一は、上告理由の範囲の拡張をあらためて法律に明文化することは、これを処理する裁判機構の問題をしばらくおいて考えますと、それは明らかに直ちに裁判官の負担を現在以上に過重なものとして、その結果は逆に未済件数を一そうふやす結果になるかもしれないという自明の循環論から出てくる一つの疑いでございます。 そうして、疑問の第二は、上告理由の範囲を拡張しながら、しかも事件審理の未済件数を確める、すなわち、裁判の遅延を防ぐ方法として出されたこの改正案が、その目的を達成するのに十分であるかどうか、また、その上、新しい裁判所の構成が現行憲法の条項そのものや裁判の制度についての一般的な原則にかなうかどうかという問題が起きて参ると考えます。 さて、第一の疑問、すなわち、今回は刑事事件に限るわけでありますが、上告理由の範囲を現在の憲法違反と判例抵触のほかに、判決に影響を及ぼすことが明らかな法例の違反があって原判決を破棄しなければ著しく正義に反すること、これまで及ぼすことは、人権擁護の基本的な法理上の建前や、また当事者に対する心理的な救済という人間的同情からむ、初めに申し述べましたようにまことにけっこうなことでございますが、しかし、この条項に対する当事者側の解釈いかんによっては、二審裁判所の強弱、刑事訴訟手続の構造ともからみ合って、上告の件数が必然的にふえ、従って現在以上裁判の遅延がふえることは火を見るよりも明らかだと思います。こういう見方から、この改正案のねらいをさらに掘り下げて参りますと、この改正案は、簡単に言って、現在の最高裁判所の構成を変えることだけによって現行法のこれまでの裁判遅延を解消できないばかりでなく、上告理由の範囲の拡張によって現在以上に将来増加することが当然に見込まれる上告件数をも加えて、はるかに現在よりも本案の期待に反して裁判の遅延は逆に予想されることになるのではないか。ことに、後ほど申し述べますが、この改革案によりますと、さらに裁判の機構においても屋上屋を架する憂いがないかどうかという問題もございまして、その意味では、この程度の改正案では、上告理由の範囲の拡張に即応し、その上裁判の遅延を防ぐ体制としては、必ずしも十分でないと私は考えざるを得ないのでございます。 次に、この改正案に対して抱く第二の疑問のもう一つの問題、すなわち、最高裁判所の小法廷を、現行のものから全く性格を変えて、これを裁判に関する限り完全に独立のものにするというやり方は、現行憲法の条項そのものや、裁判の制度についての原則にかなうかどうかの疑問も生ずる問題である、こう思われます。現在の最高裁判所は、憲法の問題やその他の主要問題については全員の裁判官の合議体である大法廷で審理、裁判するとともに、その他の一般上告事件については十五人の判事が三人以上の員数の裁判官の合議体である小法廷に分れて審理、裁判をすることになっておるのに対し、改正法案は、現在の大法廷を新しい形の最高裁判所と見なして、憲法違反や判例変更などの重要事件だけを取り扱わせて、一方、一般上告事件については別に最高裁判所小法廷を設けるというのでありますから、小法廷は明らかに最高裁判所に対する関係ではその下級裁判所ということになります。憲法第七十六条の、「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。」という項によって、最高裁判所小法廷という下級裁判所を設けることはできるわけでございますが、現行裁判所法の第二編と第三編の編名を改めたり、現行第二条第一項の種類をふやすだけで事足りるでございましょうか、憲法第七十六条のいわゆる下級裁判所であるにもかかわらず、現行裁判所法の第二条第二項の定めておるいわゆる下級裁判所の設立及び管轄区域に関する別の法律でこれを定めなくてもいいものでありましょうか。ただ単に、新しい最高裁判所小法廷が下級裁判所でありながら最高裁判所という名の冠をかぶって、現実に最高裁判所の構内に置かれ、その管轄区域も全国に及び、その裁判は最高裁判所のそれと密接な関係があるという理由だけで、現行裁判所法第二条第二項が要求している別の法律の制定を必要としないと割り切ってもよいものでございましょうか。私は法律専門家ではございませんが、率直に申して、私は憲法の条項と関連してこの点にまず疑問を持たないわけには参りません。 その上、法務省のこの改正案についての逐条説明を拝見いたしますと、この案の第二条について、この改正は下級裁判所の一種として最高裁判所小法廷という裁判所を新たに設けることといたしておりますし、また、この最高裁判所小法廷は、この改正案の第八条の三によりますと、小法廷が事実上は下級裁判所でありながら上級裁判所の体裁をとり、抽象的には最高裁判所と裁判権を競合させながら、事実上は裁判権の行使を制限することになっておりますが、この点では法務当局の御苦心のほどは理解できますものの、同時に、改正案第十条の第四項では、まれにしか起らないことを予想しながら、小法廷の裁判に対しても、憲法の解釈に誤まりがあったりその他憲法の違反がある場合には、これを大法廷に異議の申し立てをすることが、できることになっているのでございます。 以上二つの小法廷の性格から当然予想されますことは、第一に、小法廷には独立の事務局も置かないことともからんで、司法行政上、あるいは裁判権の行使そのものについて、運営上予測しておらない新たな問題が起るおそれがないかどうか、それからまた、そのような問題が起らない場合にも、まれにしか起らないという予想を前提にしておられる小法廷の憲法の解釈または違反に対する最高裁判所への異議の申し立てが、当事者側の法廷闘争の一つの熟練した手段として非常にふえるおそれがないかどうかという問題でございます。 しかも、今申し上げたような考え方が事実上杞憂に終る場合であっても、さらにもう一つの問題が残るようでございます。それは、新しい最高裁判所小法廷が憲法七十六条の下級裁判所の一種であり、その上、今申し上げた改正案第十条の第四項により、まれにしか起らないとしても、憲法の解釈と憲法違反の問題について、その裁判についての異議の申し立てが、新しい姿の最高裁判所に行われることが許されている限りでは、現在の三審制という裁判制度の一般的原則が打ち破られて、事実上世にもまれな四審制に置きかえられるという点を重く見なければなるまいと思われます。最初に申し上げました審理に慎重を期し人間の権利の擁護のために裁判の正義を貫くという建前から申しますならば、必要な限りにおいて三審制の一般的原則がたとい四審制に変ったとしても、もちろん何の異議もございますまい。しかしながらすでに申し述べましたように、裁判の遅延を改善することが今度の改正案の大きなねらいの一つであるといたしますならば、当事者は一方において上告の理由の範囲の拡張で恩恵を受けながらも、事案上は四審制に伴う手続上の裁判の遅延と、それに伴う一定期間に確保し得た裁判の正義性の価値減退の可能性によって、改正案の目的達成が困難なばかりでなく、当事者にとっても結果としてある種の不利益をこうむるかもしれない事態に当面するという可能性も出てくると思われます。 以上は、この改正法について私が考える常識的な法律論についての根本的な疑問でございますが、さらに、今まで申し上げた考え方から、新しい最高裁判所及び最高裁判所小法廷の判事の構成についても多少の疑義なきを得ないのでございます。すなわち、新しい最高裁判所がその任務を憲法の解釈と違反の問題及び判例の修正などの審理と裁判に限られ、将来私の危惧に反してその取り扱う件数が減るものとするならば、長官を除く判事の数を現行の十四人から八人に減らす改正案以上に、さらに若干名を減らして、たとえば六人くらいにしてもよいのではないかと思われます。こうしてこそ、一そう審理の円滑化がはかられると同時に、最高裁判所の判決の権威は一段と高められ、またその意味で国民一般がより多く判事の人格、識見、手腕を理解することができ、その結果国民審査の案は一そう明確になってくることと思われます。一方、もし小法廷をして真に新しい最高裁判所との裁判協合の実をあげさせ、しかも小法廷の審理及び判決の権威を高めるとともに、小法廷から最高裁判所への異議の申し立てをまれなものにしようとするならば、本案のように小法廷に認証官の六人の首席判事を置くかわりに、あるいは、私ども法律家ではございませんが、最高裁判所の判事をこの法案による八名から若干名を逆にふやして、そのうちの若干名を小法廷の裁判長として特命するという方法が考えられないものでありましょうか。この限りでは、現行小法廷とは別個のものでありながら、同時に改正法案よりもはるかに小法廷が最高裁判所との関係を密着することができるのではないかと私には考えられる次第でございます。 要するに、これまで申し述べた裁判所法等の一部を改正する法律案についての私の見解をまとめてみますと、第一に、改正法案の主張すると裁判の遅延防止及び刑事事件についての上告理由の範囲の拡張は、原則的に全く賛成でございます。が、しかし、第二、単に最高裁判所の機構をこの過度の改正によって以上のような目的が達せられるかどうかということは疑問でございまして、従って、第三に、むしろ現行裁判所法の全般にわたって、この際問題を探究し、ことに立法上の処置をとることによって一審の強化方策を講ずるとともに、社会情勢の安定を考えあわせながら、むしろ現行裁判所法第一編第三条の第三項に基いて刑事について別に法律で陪審の制度を設けることの可否を研究して、刑事上告についての最小の制限について心理的緩和を行なっていただきたい、こう考えますし、第四に、かりに客観的な環境からこの改正の骨子を実現せざるを得ない場合におきましても、最高裁判所の判事を改正案の数よりも減らすかあるいは逆にそれをふやすかして、その特定数を長官の特命によって小法廷の首席判事と置きかえ、さらに小法廷の判事の数を法案の二十四名よりでき得ればさらに若干名減らすことが妥当ではないかと思われます。このような数字が妥当と予想される理由は、現行最高裁判所における民事取扱い事件の総数は刑事事件総数に比べて非常に低い、その上、その膨大な刑事事件の年間未済数も昭和二十六年の七千四百七十七件をピークとして漸減の一途をたどり、昨年昭和三十一年においては四千九百二十二件に減少してきているからでございます。いずれにしても、最高裁判所長官及び最高裁判所判事の任命に一そう慎重を期するため、諮問機関として、裁判官任命諮問委員会を設けることについては全く賛成でございます。 以上が大体私の意見のあらましでございます。
○三田村委員長 次に梅田公述人の御意見を伺います。
○梅田公述人 読売新聞論説委員梅田でございます。 世論を代表する意味において意見を承わりたいというお話でありましたが、現在世論というものはございませんので、世論を代表する意味ということは非常にけっこうでありますが、世論を代表して申し上げるのじゃございません。これにつきましては全然世論というものは立ってない。どういうわけであるかと考えてみますると、非常に専門的なことでありまして、多年専門家の方が研究してこられた。従いまして、一昨々日やっとこの原案を受け取りまして、大体のことは聞いておりましたけれども、原案を受け取りまして、それからにわか勉強を始めたというような次第でありまして、あるいは見当はずれがあるかもしれません。しかしながら、世論を代表する意味において、私なりの意見を述べさしていただきたいと存じます。 私は、昭和二十二年に最高裁判所が発足しましたときに、果して十五人のわずかな裁判官で膨大な上告事件が審理できるかどうか、そういうことはできないだろうということを読売新聞の社説で警告をしておいたのであります。当るも八卦と言いますが、私の予想が当りまして、先ほどもお話がありましたように、昭和二十六年には七千件を突破し、現在でもなお四千件が残っておる。大へん解決が早いのでずいぶん事件が減ったように錯角を起しがちでありますが、できの悪い学生が、試験のときに、やさしい問題を先に片づけて、むずかしい問題はあとへ延ばす。たとえば例の昭電疑獄のごときは足かけ十年であります。足かけ十年かかって、まだいつ判決があるかわからない。でありますが、これほど被告人にとりましては人権を無視されることはない。日本の憲法には、刑事被告人は迅速な裁判を受ける権利があるということをたしかに言ってあるのでありますが、最高裁判所みずから憲法に違反をしているというような疑いを国民に持たしているのであります。同時に、民事事件におきましても、この裁判の遅延のために、あるいは私的救済の弊風が町に起っておりまして、そうして暴力団が債権取り立ての一役を買っている、こういう大体の実情になっております。でありますから、今度改正案を出されまして、この問題を何とかすみやかに解決しようという御趣旨に対しましては、前の公述人と同様に私も双手をあげて賛成するところでありますが、ここに問題がありますのは、われわれしろうとからすなおに解釈いたしますと、事件が詰まっておれば人間をふやせばいいというのが、すなおな解釈として出てくるものだと思います。在野法曹界の御異見もこのようにあったように記憶しております。ところが、裁判所側の方の御意見では、第一にそのような大臣級の人材がいないというのが一つの原因、第二に、大法廷の場合に大勢の人間がひしめき合って小田原論議を繰り返し、ああでもないこうでもないと言えば、なかなか結論がまとまらないという、大体二つの御意見でないかと思います。まだほかにもあるかもしれませんが、そういったような御意見で裁判所は反対されておるように私は聞いております。 そこで、裁判所といたしましては、上告理由をしぼるということによって従来はこれを救済のしている。そうして、たとえば民事の特例法であるとか、刑事では法令違背を理由に上告を認めない、そういうふうなことで今までしぼってこられましたけれども、結局やはりなお四千幾つかの未済出件を残している。そこで、今度の案は、最高裁を九人に減員して、そうして最高裁の下に小法廷を作って、三十人の小法廷判事を新設して訴訟を迅速にしたい、今度の案は大体こういったようなことが骨子であると思うのでありますが、しかし、この裁判所のお考えに対しては私は多少の疑問を持っているのであります。第一に、人材がない人材がないと言われますけれども、裁判官がおよそ二千名、在野法曹人を入れますと相当大、ぜいの数になると思います。果してこれだけの中に最高裁判所判事たるべき人材がいないかどうか、ある意味において法曹界というものを侮辱しているんじゃないか、こういう気もいたすのであります。 第二の問題は、五十人、六十人、そういったものでは収拾がつきかねる――しかし、これは私の考えでありますけれども、たとえば昔の大審院では民事と刑事部とを分けていたこともあります。また現在ドイツの大審院が、民刑事の大法廷を開くときには、各部からピックアップして、そうして合議をしている。それと同じように、日本の最高裁判所も、大法廷の場合には、各部からピックアップするなり、また常置の憲法部というものを設けまして、そこで審理すればよいのである。裁判所法の十条でありますか、違憲問題は大法廷でなければならないと言ってありますが、そこを改めればその混乱というものは防げるものと思うのであります。はなはだ憶測をたくましゅうして申しわけないのでありますが、思うに、裁判所の方のお考えというものは、ほんとうの理論であるとかその救済という意味よりも、ある意味において特権を温存しようといったようなお考えに立っておられないかという疑問を抱くのであります。たとえば、減員をすると申しますと非常に裁判所は自分の方から遠慮した申し出のように存ずるのでありますが、その減員をどうしてするか。破局裁判所判事は第一に国民審査をして罷免しなければできない。また、裁判官の弾劾法はありますが、これは一般の裁判官のことであって、最高裁の裁判官に通用することではなかろうと思います。また、弾劾されるような理由もない。それから、裁判官分限法、これも一般の裁判官のことであって、最高裁の裁判官に対しては、これを適用するのには非常に無理があるんじゃなかろうかと思います。そういうことを抜きといたしましても、十五人から九人を引いたあとの六人をやめさせるということは、どういうふうにしてするか。おそらく因果を含めてやめさせるほかないのであります。因果を含めるということは、とりもなおさず、最高裁判所の中に一つの大きな、親分と申し上げては大へん失礼でありますが、一つの組織ができておって、十分に因果を含めてやめてくれる人があることを予想してでなければ、これはできないものだと思うのであります。 第二に、最高裁判所の判事は国務大臣級のものでなければならないというところに多少の無理があるのじゃないか。現在、たとえばドイツにおきましても、最高裁判所の長官は確かに次官級の待遇と聞いております。また、最高裁判所の判事は局長くらいの待遇と聞いております。現在裁判官になっておいでの方は憲法によって俸給がちゃんと定められてありますから、これを減額することはできませんけれども、新たにこれから採用する人は、やはり次官もしくは局長くらいで十分じゃないか。現在日本にこれ以上に国務大臣級の給料を出して裁判官を置いておく余裕もなかろうと思います。俸給の点は別といたしましても、ともかく、裁判で苦しんでいるときは同じでありますから、三つでも四つでも一つの部屋に机をお入れになって、現在一部屋に使っておいでになりますけれども、それではあまりに――それでなくして、どうかそういった待遇の方面におきましてもう一度お考えになって、案を作り直されたらどうか、私はこのように思うのであります。 第三に、最高裁判所は、あるまれなる場合におきましては判例抵触もしくは法令違反を取り扱うのでありまするけれども、原則としましては、憲法の解釈について、いわゆる違憲裁判所、憲法裁判が主たる仕事になるのであります。そうしてみますると、これはとりもなおさず、一応抽象的には普通裁判所でありますが、実質的には憲法裁判所ということに相なると思うのであります。ちょうど自衛隊が軍隊でないというのと同じように、言葉の上のごまかしであって、実際は憲法裁判所である。ところが、憲法七十六条の第二項には、「特別裁判所は、これを設置することができない、」と明記してあります。大陸の裁判所には特別裁判所、憲法裁判所、行政裁判所、その他の裁判所がありますが、日本の憲法では特別裁判所の設置はしてはならないとあるのにもかかわらず、いかにも憲法上疑いのある基礎の上に最高裁判所が設置されるというのは、私は奇観であると考えます。 第四に、先ほども公述人が申されましたように、小法廷がヌエ的なものでないか。確かにしろうとが見ればヌエ的のものであります。これは非常に無理があるからヌエ的なものであるのでありまして、これをあっさり増員をすれば、なるほどヌエ的な問題はないと思います。 第五に、本案は裁判の遅延防止に役立つかどうかについて意見を述べろということでありますが、私の考えといたしましては、三十名の方々がおやりになるのでありますから、多少早くなると思います。早くなると思いまするけれども、一方の最高裁判所の判事の方はおそらく今度は仕事がなくなると思います。現在憲法違反が最高裁判所の方に非常に数多く行っておりまするけれども、これは、ほかに理由のつけようがなくて、法令違反では通用しないから、憲法違反というふうにしつけて持っていく。もし専門で憲法違反の問題ばかり取り扱いましたならば、事件というものは非常に減少する。減少しまして、お遊びと言いましては言いすぎかもしれませんが、つまり、国務大臣級の給料をもらい、官邸がつき、秘書官がつく。そして一種の司法貴族といったようなものができゃしないか。現在、国務大臣は、二年とか三年とか四年とか、せいぜい長くて四年くらいでかわっています。ところが、最高裁判所の判事は十年間という間このような待遇を受けておる。これが果して妥当であるかどうかという根本問題にさかのぼって入るべきだと思うのであります。こういったような裁判を迅速に進めていくということになりますと、いつも問題になるのは機構いじりでありますが、その機構いじり以外に裁判をスピード・アップする方法を何かもっとお考えになる。現在は原子力時代であり、オートメーション時代であります。単に機構をいじるだけに終始しないで、もっとほかの機構いじり以外のスピード・アップの方法をあわせてお考えになるのが、真に人民の権利を守り、最高裁判所の使命を達成して、裁判を迅速にする道ではないかと考えます。 何分にも裁判ということに対しましては全くのしろうとでありまして、あるいは見当違いの発言をいたしましたかもしれませんけれども、これをもって公述を終らせていただきたいと存じます。
○三田村委員長 ありがとうございました。 次に田辺公述人の御意見を伺います。
○田辺公述人 専修大学教授をいたしております田辺繁子でございます。 初めに婦人と教育者の立場から裁判に対する意見を申し述べたい。この法案を離れますが、そういう立場から私の考えを述べさせていただきます。 おととしあたりから非常に誤判難件というものが雑誌、映画その他で世の中の人の目につき始めて参りましたので、教育者の立場といたしますと、ほんとうに裁判は信頼され得る正しい裁判が行われたいものだ、そのことを教育者としていつも考えさせられているのでございます。それにつきましては、今こそ裁判の信頼を高めてほしいと思いますことにつけて、日本の裁判官というものが少し力が足りないのではないか。裁判官の先生がいらっしゃいまして、どうも申しわけありませんけれども、実はノッティンガム大学に参りましたときに、日本では婦人裁判官が何人とか申しましたら、講堂に一ぱいの大学生がどよめいたのでございますが、それについて私考えさせられましたのは、日本の裁判官と申しますのは、大学を出るか出ないか、どちらでもいいですが、国家試験を受けて司法修習生とかになりますと、もうすぐ法服を着てあの壇に並んでおります。そんなふうに、経験の浅い、世の中を知らない、しかも秀才コースを通った人が多いかもしれませんから、悩んでいる人の考え方とか、悪くひしがれた人の思うようなことに同情とか、そういう推理的なものの考え方のできない、そういう秀才がすわっておりますのでは、こちらからだましやすいと思う。ですから、誤判というようなことも、そういう裁判官の多いところには起るのではないかしらんと思いますので、私は裁判制度は、やはり裁判官はどうしても民間の弁護士とか、そういうふうなことを十分知っている経歴の方がなっていただくようなコースに根本的に法律を改めていただかなければ、信頼するような裁判が少い。そう申すと失礼なんですけれども、だまされやすい裁判官となるんじゃないかしらん、そんなふうに思いますので、教育目者の立場から、誤判がないようにと、裁判官経歴の問題を考えさせられます。 次に、私は、婦人の立場で、ただいまいたしておりませんが、家庭裁判所の調停委員なんかをいたしておりました経験や、それからまた、私の近親者が、今からだいぶ前でありますが、帝人事件がございましたころ、横浜に疑獄事件が起りまして、百四十七名の土木疑獄で、全部無罪になったことがございます。それが、ほんとうに身近かな者が土木部長をいたしておりまして、そういうことからもいろいろ考えさせられるのでございますが、ただいま公述人のおっしゃいましたように、裁判があまり長過ぎるのでございます。刑事事件にいたしましても、たとえばこの問題にいたしますと、みんなお役人は首を切られてしまって、休職もやめになって、あるいはは世の中の人が忘れた持分に無罪になるのでございますから、世の中の人はもう何にもそのことを知らないくらいでございます。悪くなったときは新聞でじゃんじゃん書き立てますから、私も非常に悩んでおりますと、知人が、みんなだれでもえらい人になると収賄くらいはいたしますよと言って私を慰めてくれます。そんなことで、忘れたころに無罪になる。これは人権じゅうりんだと思うんです。人が覚えている間、少くとも一年か一年半くらいで解決をつけて無罪ということになれば、どれだけ人権が擁護されるか知れないのでございます。民事事件になりますと、なおさらそのことが大きく考えられます。たとえば、この前も人権擁護部へ参りますと、夫があまり虐待するために気狂いになってしまった奥さんがございますが、ただいまなおっているのでございます。しかし、その夫は、気狂いになったことを理由として離婚の訴えを起したのでございます。その奥さんのお家はアサリ屋さんでございまして、無一文ではないので、毎日食べているけれども、嫁に行った娘が追い出されても訴訟を起す費用がないのであります。東京法務局の人権擁護部では、訴訟扶助部を設けておりますけれども、ほんとうに生活保護を受けている程度とか、あるいはボーダー・ラインの、ほんとうに一文もない人でないと補助できない。そうではないので、その人は補助されないで泣き寝入りになって、無一文で追い出されるしか仕方がないという現実なんであります。それを今もし補助してあげれば何とかなるんですから、私は、裁判ということをいろいろ考えますと、今盲腸炎でおなかが痛んでいるのに、盲腸炎の手術とかお薬をもらうのが三年も四年も後であるというような現象であったり、あるいは、知らぬ、あんたは払えぬだろうといって見てやらないというところに一般の人は置かれているのではないか。ことに、婦人といたしますと、経済力を持っておりませんから、夫にお金があったり親にお金や家があったりいたしましても、自分が持っていなければ訴訟ができない。それから長びくことがからんでおります。たとえば、家庭裁判所の調停事件、ありますと、これはたった五万円しか夫の方はよこさない。あるいは三万円、四万円しかよこさない。ほんとうに考えれば九十万も百万も取ってあげたい、こんなことを私ども思ったりしゃべったりすることがあったわけでございます。けれども、訴訟になさるんだったらば費用も要るし、五万円取れるどころでない、こちらが要るのだし、それから三年も四年もかかりますよというようなことを申し上げなければならないのでございます。そういたしますと、そうですが、それなら仕方がない、三万円でも承知しますと言って、それで帰らなければならない。ですから、私は、訴訟というものがほんとうに早くできることと、その訴訟費用というものはできるだけ低廉にしていただきたいのですが、それにも限度がございましょうから、やっぱり、イギリスのリーガル・エイド・アンド・アドヴァイス・アクトでございますか、ああいう法律が一刻も早くできなければならない、そう思います。それが、やあ法務省のものだ、やあ最高裁判所のものだと言って、セクショナリズムのようなものにわずらわされて、せっかく予算が出ておりましても、両方引っ込まされている。大蔵省がわからなければ、大蔵省の若い役人なんか呼んできてよく説得していただくのが、やはり衆議院の代議士さんやら皆様のお役目ではないかと思うのでございます。ですから、セクショナリズムというものは、争っておりますとマイナスになるので、両方の力を合わして、人民の権利擁護のためにそういうふうな訴訟扶助法が必要だ。それなら、役割をきめてでも、何か歩み寄って、一刻も早く訴訟扶助法が出ることが必要じゃないか。そうしますれば、裁判は高いものだ、たとえば公述人が貴族という名前を裁判官におっしゃいましたが、裁判というものは、一般の庶民から遠いところのものであっては、民主国出家の裁判ではない、そういうふうに思いますので、この席をおかりいたしまして、訴訟扶助法というものをどうか皆様の手によって世の中に作り出していただきたいと思います。それから、やはり相談所というものがたくさんなくてはだめなんでございまして、私どもは婦人人権擁護同盟という会の委員でございますが、おととしの人権擁護週間を記念いたしまして、おととしから相談所を開いておりますが、訴訟扶助に乗り出したわけでございます。一般の人権擁護部なんかでいたしておりますのは、訴訟が必ず勝つ訴訟でなければなりません。それから、勝って、扶助をいたしました、立てかえたものは取れるものでなくちゃならないあるいはほんとうに貧乏でなくちゃならないというような条件があります。ですが、私どもの会では、それではまだほんとうの救済になりませんので、行方不明とかいうような夫に対する訴訟を起して離婚したいというような婦人がもしあります場合は、それを扶助してあげたい。それは、勝ったところで離婚になりますので、お金は戻ってこないと思いますけれども、そういうような扶助も必要でないかしら。婦人の立場からは、そういう訴訟扶助、援助というようなものと、公正な裁判、それから、早い、ほんとうにおなかが痛んでるときに一刻も早くお薬がもらいたいのでございますから、さような裁判というものをお願いしたいと思っております。 次に、本案に対する忌憚のない意見ということでございますが、それについては、私はほんとうに公法関係はしろうとでございますが、この法案を拝見いたしまして、第一に、上告理由の範囲が拡張され、それによって人権の救済を叫ぶ人が多く上告していけるということになる御趣旨は、ほんとうにけっこうなことだと思っております。それから、会議にあまり人が多過ぎるというので減少なさいました点もけっこうでございますし、大法廷の裁判官の方と小法廷の方とがかけ持ちであるというようなことは、やはり能率の上からも、あるいはまた過労を免れぬことになるのではないかしらと思いますので、今度の法案のそういう趣旨は大へん賛成させていただいておりまして、一刻も早く何千件というようなものが処理されていくといいと思っておりますが、全体読んでみまして感じますのは、何か、あちらにもこちらにも気がねをして、どちらにもさわりがないような、妥協の点をやっと作ったのがこれだったというような感じを私は受けたのでございます。ですから、もう一ぺん、さらっと、ほんとうに能率を高めるためにはどうあったらいいか、憲法に気がねしたり、最高裁判所がどうとか、いろいろなことをお考えにならないで、さらっとして、ほんとうの目的をはっきり見詰めて考え直していただくと、いい案ができるのじゃないかと思います。私、しろうとでございますから、それならこうしていただくといいとは言えないのでございますが、どうもすっきりしないということです。そのおもな点を申してみますと、憲法審理とか、それからその判断、従来の判例をくつがえす、それは最高裁判所に移せるんだ、けれどもそれは原則として小法廷から移されるんだというようなところ、それから、憲法違反を理由とするときに限って小法廷の裁判に対して異議の申し立てができる、先ほどもおっしゃっておられます四審になっているようなところでございます。それから、任命方法とか、小法廷の判事さんの資格なんか高等裁判所長官と同じだ、こういうふうな個所を考えてみますと、どうしても憲法というものは国の根本法でございますから、ほかの法律よりは重い、その重いことをするところはあそこだ、そうでないところは下だ、あるいはここを通って上に持ってこい、資格の違う判事さんがいる、これはどうしたって最高裁判所という名前を小法廷にくっつけておくこと自体が気がねの現われだと思うんです。そんなのをとってしまって、はっきりしておしまいになっていただきたいと思います。それから、四審になることにもなっておりますが、こういうことも三審でなくちゃならないということもないと思いますので、憲法違反問題には四審になってもいいじゃないか。ほかの裁判所の改正とかいろいろあるだろうと思いますが、すっきりさす。これは最高裁判所のものでもない。ちょっと違っている。白子が生まれたというか、ちょっと違っている。高等裁判所の長官と考えるとまたちょっと違っている。ちょっと違っているものをどっちかに入れておこうというのが無理なんでございますから、すっきりと、能率とか経済的な面とか、いろいろ社会を指導する裁判の威信というような点に重点を置いていただきまして、上告裁判所というのと別に考えてみてもどうなんでございましょう。非常に自由な立場で一つこの案を練っていただいて、気がねはすっきりとっていただきたい、今そんなふうに考えております。 一刻も早く人民の権利がほんとうに擁護されますように、皆さんの御審議をお願いいたします。
○三田村委員長 以上で前田、梅田、田辺三公述人の公述は終りました。 三公述人に対する御質疑はありませんか。猪俣浩三主君。
○猪俣委員 今田辺先生の最後の御意見、非常に傾聴に値するおもしろい御意見だと思うのでありますが、実はその点に非常に問題があるわけであります。最高裁判所小法廷なる下級裁判所ということが、まことに羊頭を掲げて狗肉を売るような、そこにごまかしがあるんですね。それは、法制審議会において、船頭多くして舟山に登るということで、数年間もたつきました妥協の結果であるから、その苦心のほどをわれわれ察知いたしまして、あまりつつがないのですけれども、はなはだ奇妙な、あなたのおっしゃる通り白子なんだ。 そこで、私がお尋ねいたしたいことは、今度の政府原案によりますと、いわゆる憲法問題を除きました民事刑事の最終の判決は最高裁判所にあらざる下級裁判所が終局裁判をするということになっておるのであります。そこで、実は私どもは、法の改正、制度の樹立ということは、憲法問題及び国民感情を無視してはいけないのであって、そういうものを判断の標準としていろいろこれがいいがあれがいいかを選択しなければならぬと思うのであります。 そこで、私は、前田さん、梅田さん、田辺さん、この方々を一般市民の声としてはちょっとおえら過ぎてはなはだ失礼かも存じませんが、市民の代表の声のような意味でお聞かせを願いたいことは、長い間のわが国の国民感情になっております三審制度、及び最後の権利義務の確定は最高裁判所なる最もえらい人たちのそろっている裁判所で判断してもらえるのだという国民の感情、これは実は今度の制度ではそうではなくなってしまって、最高裁判所は憲法問題だけで、あとのことは自分たち関係がない、下っ端のがやる、こういう建前になっておる。そこで、どうせだめであっても、最後は名医から脈をとってもらいたいというのが人情でありますので、こういう人情からして、最高裁判所が憲法問題以外の一切の法令違反その他の問題についてはタッチしない、それは全部下級裁判所である小法廷がやるのだということに対して、一体国民としてそれが納得できるものであるかどうか。皆さんが市民の一へとしてお考えになって、それでいいのだろうかどうかということの忌憚のない御意見をお三人から承わりたいと思います。
○三田村委員長 前川公述人から伺います。
○前田公述人 私は、非常にはっきりは申し上げませんでしたけれども、先ほどの公述の中でもその問題に触れているのであります。私は、やはり最高裁判所というものは、実質的にも形式的にも、それから法制論、制度論を離れて国民感情との間にも、ほんとうの最高裁判所でなければならぬということを前提に考えざるを得ないのです。そこで、私は法律専門家でもありませんし、行政専門家でもございませんが、その点については私は実は二つばかりお願いしたわけなんです。その一つは、この原案にある最高裁判所小法廷の一般判事は別として、少くとも首席判事といわれるいわゆる裁判長の地位につく人は、当然最高裁判所の判事そのものであってほしいという実は願望をその中に盛ったわけです。それからまた、国民感情と裁判というものの、これはある意味では法律上の問題でなくて政治上の問題になるかもしれませんが、そういう意味では、現行裁判所法の中にはっきり書いてあるものを、死文でなく現実のものにしていただきたい。それは、もう戦後十二年、社会情勢も経済情勢もだいぶ変っておりますので、この点で御心配なさることはあまりないでありましょうから、この際陪審制度の創設についてもお考え願えたらどうか、そういうような考えを申し述べさしていただいたわけです。
○三田村委員長 次に梅田公述人の御意見を伺います。
○梅田公述人 私は、司法関係の方々のお話に、一人の命は地球よりも重いということをよく申されるのでありますが、その趣意を通すならば、やはり最後には、猪俣議員が言われたように、名医に脈をとってもらいたい、その意味で判事の増員を実は先ほど提案したのでありまして、この点は疑問の余地がないことだと存じます。
○三田村委員長 次に田辺公述人にお伺いをいたします。
○田辺公述人 私も、一番初めに、同じ一件でありながら、あるものは最高裁判所まで行けて、あるものはそこまで行けない、これは人民の権利に不平等ではないかと自分自身に考えたのでございますけれども、よく考えてみますと、今の最高裁判所の大法廷と小法廷も、やはり性格の違うものだと思うのでございます。ですから、最高裁判所で四審になるのは特別の憲法違反とか特別の事件であって、ほかのは上告を取り扱う裁判所が終りで、三審となるといっても、早く処置されて、いわゆるおなかの痛いときにすぐお薬の飲める方が、結局国民もよかったと思うのではないか、国民の感情というのは時やら実行経験で漸次変っていくものではないかと考えたわけなんでございます。
○三田村委員長 古屋貞雄君。
○古屋委員 お尋ねをしたいのは、やはりこういう矛盾があるわけなんです。ただいまお話があったように、非常に人権は尊い、従って、どんなに期間をかけても真実を発見した裁判をしなければならぬ、しかし、一面には、あまり長くかかると、今度は民事なんかになりますと、政治経済の変動があって、最後の結論を得たときは価値がなかった、こういう二つの点に非常にむずかしい点があるのですが、私承わっております間に考えたのは、私どもの悩みなんですが、人間が人間をさばくという問題は、果してほんとうに真実が発見できるだろうかという疑問を国民はお持ちになっておると思うのです。そこで、たとえばチャタレイ事件の問題であるとか、あるいは相当重い死刑囚の問題を、第二審から今では原則として事実審理をしない。三審に行っても審理しない。ただ一審の事実に基いた書面上の審理だけで片づけていくというような事件が出てくるのであります。そういう問題ともからみ合わして考えて、真実を発見する意味から考えますならば、裁判官をふやして、そして親切丁寧に国民の納得のいくような裁判を望むわけです。そうしていると、また、どの点まで節度を持って、どの点まで時期というものを認められるかという問題になってくる。あまり長くなってチャタレイ事件のような問題になってきますと、期限が経過して、一審から最終決定の上告の裁判になるまでの間に、やはり国民のいろいろの文化の程度も変ってくる、経済上の事情も変ってくる、こういうような問題で、そこに非常なむずかしい問題がこの裁判にはあるわけです。いずれにしても、国民の納得のいくものでなければならぬということだけは、これはもう間違いない。そういう意味から勘案して参りまして、やはり、二審においても三審においても、死刑囚であるとかいうような非常に重要な問題は、これは単なる一審の事実に基いた書面審理にあらずして事実審理をすべきものだというようなことも私ども考えるわけなんです。そういう点についての皆さんのお考えを聞かしていただきたい。
○前田公述人 私どもは専門家ではございませんので法律技術上の問題はほとんどわからないのですが、今の御質問の要旨の中で私が理解する限度で私の考え方を述べさせていただきたいと思います。 私は、実は、この改正法の根幹をなすものは人権擁護を完璧にする、それは裁判の遅延を防ぐこと、それから、同時に、刑事事件については上告の理由の範囲を広げること、この二つの根本原則については全く賛成であるという考え方をとるわけなんです。しかし、ただいまのお話の事実審理の問題については、私は法律専門家ではございませんが、二つの点で考えさせられる問題があると思います。その一つは、裁判官の任務は道徳を教えるものでもなければ、また社会情勢の変化に応じて政治的な手心を加えるものでもないと考えるのです。裁判官の任務は現実に現存する法律の適正な解釈と適用を実行し判断するのが裁判官の任務ではないかと思います。その限りにおいて、一審はもちろんのこと、二審、三審においても、事実認定の問題についてまだ問題があるならばこれを行なっても差しつかえないのではないか。しろうと考えとしてはそういうふうに考えられるのです。しかし、現行の裁判所の制度から私どもが考えますことは、一審のやり方を、人員の上でも設備の上でも、あるいはまた財政の面でも強化する方法がまずスタートとして必要ではないか、そういうような考え方であります。私は、裁判所の制度が一審より四審になればよりはっきりと裁判できるというその常識的な考え方にはもちろん異論はありませんし、また、そのようなものを作っても、私の常識の範囲では、現在の憲法であるとかあるいは裁判の制度に関するいろいろな法律に違反するとは考えておりませんが、しかし、劈頭に申し上げた裁判の遅延を防ぐという点から申しますと、ヌエ的存在のように規定される最高小法廷というものが下級裁判所であるということが明らかになると、その限度では事実上四審制になるわけで、四審制になるということは、先ほどの公述でも申し上げたのですが、これはやはりかえって時間をかけることになる、その辺に一つの問題点があるのではないか、このように考えたわけでございます。
○梅田公述人 私は、原則といたしましては、やはり事実無理というものは最終審理でしなくてもいいのではないか。現在の情勢ではあるいは必要とする場合もあるかもしれませんが、これは二審、二審の強化、言いかえれば裁判官の教育を高めることによってその目的を達したらいいのじゃないか。スピード化するという点は、たとえば、現在の裁判というものは、真実発見を主としなければならないのにかかわらず、多くの場合において、いかにして名判決文を書くかという方に努力が注がれているように思うのでありまして、たとえばテープ・レコーダーの活用であるとか、何かもっと科学的な方法を利用されたら、これは非常にスピード・アップされるのではないか。また、明らかに無罪でありそうなものを不当に長く引っぱるというようなものは、証拠が不十分だとかそういったようなものはなるべく被告の右利に解釈をする。そして、不当に苦しめるということは苦しみを倍加することになりますから、これは控えたらいいのじゃないか。ただし、死刑や何かにかかわるような重大な罪になりましたら、これは十分な審理で、場合によりましては最終審でも事実審理もやるというようなことで差しつかえないのじゃないかと思うのであります。
○田辺公述人 私も、必ず事実審理をしなければならないなんということは非常に遅延すると思いますので、必要なものは、二審でも三審でも、それこそ終審でも事実審理をすべきだと思うのでございます。それはなぜかと申しますと、いつかも裁判官の方と冗談話をしていたのでございますが、検事さん側から出されるところの書類を見ておりますと、それの方が第一印象だものですから、幾ら被告が違います違いますと言っても、何かそこにもっともらしい、書いてある方がほんとうのような先入観念になって困るというようなことを言われたことがありましたが、私ども事実いろいろなことに出っくわしましても、そうでないのだけれども反証のあげられない事実は一ぱいあると思います。たとえば、夫が事務室で女事務員とキスしていたから離婚しますというようなことを――これはイギリスで私がちょうど傍聴した離婚事件だったのでございますけれども、片方が言っても、その証拠はあがりませんから、夫が否定したら否定で通るというようなことでございますので、世の中のこの非常に複雑ないろいろな面から、証拠を調べることがいろいろな段階で必要になれば、当事者の要求とか関係人の要求とか、また判事さんがそう思量なさるときとかは事実審理をやっていただいた方がいいのではございませんでしょうか。私はそんなふうに思っております。
○三田村委員長 他に御質疑がなければ、三公述人に対する質疑はこれにて終ります。 三公述人に対してごあいさつ申し上げます。御熱心に御意見をお述べ下さいまして、まことにありがとうございます。御意見は今後の審査に十分参考にいたして参りたいと存じます。ありがとうございました。 次に真野公述人、島田公述人及び藤田公述人より順次御意見を承わりたいと存じます。 まず、真野公述人に対しては、一、憲法第八十一条の違憲審査権については、第七十九条に基きワン・ベンチ論を唱える名もあるが、憲法上の根拠を説明されたい、二、最高裁判所が小合議体に分れて、ある小合議体は民事事件、その他の小合議体は刑事事件あるいは違憲審査を取り扱うというふうに、最高裁判所の職務を分担するようにすることは憲法違反となるかどうか、三、また現行の小法廷は、場合によっては合憲の判決をなすことができるが、この小法廷は憲法第八十一条の最高裁判所の一機構であるかどうか、四、本案によれば、最高裁判所小法廷は右三の場合に合憲裁判ができることになっているが、これは憲法第八十一条及び七十九条の違反となりはしないか、五、小法廷の性格いかん、すなわち、(イ)、国法上の独自の下級裁判所であるか。(ロ)、対高裁及び対大法廷との関係において審級をいかに考えるか、(ハ)、司法行政権は司法裁判権の独立性を保障する手段であるから、不可分離であると思われるが、小法廷から司法行政権の重要部分を奪うことの可否いかん、六、上告理由は民訴、刑訴と違ってよいか、七、上告理由としての判例違反の存在理由ないし価値いかん、八、異議申し立てが上訴(上告)と異なるものだとするならば、その理由を承わりたい、九、小法廷の判決宣言により、確定力を有するものであるか、執行力及び大法廷の破棄判決にも触れながら御意見を承わりたい、まず以上の点について御意見をお伺いいたします。
○真野公述人 委員長から御説明のありました問題について、私の平素考えておるところを要約して公述いたしたいと思います。なお不審の点は公述を全部終った後にお答えをするということで、ただいま述べまするところは、要約した意見を申し述べる、こういうふうに御承知を願います。 まず第一の、憲法八十一条の違憲審査権については、七十九条に基いてワン・ベンチ論を唱えるが者あるが、憲法上の根拠を説明されたいということであります。 憲法七十九条は、最高裁判所は裁判官全員で構成するものであるということを定めているのであります。その根底となっておりますることは、よく御承知を願わなければならぬことでありますが、七十六条は、「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。」ということが司法の最初の条文にきめてありますが、この意味はどういうことかと申しますと、裁判所には最岡裁判所と下級裁判所があるということ、そうして下級裁判所はすっかり一から十まで法律できめることができるということになっているわけであります。ところが、最高裁判所の方はどうかといえば、憲法によって設置をされ、憲法の中に最高裁判所に関するもろもろの規定がございますが、この規定というものは法律の力をもっても動かすことができないものである。この根本が定められることによって、いわゆる三権分立に基く司法権の独立というものがほんとうの意味において保障されることになるわけであります。幾ら三権が分立しても、司法制度というものが全部法律でいかようにもきめ、いかようにも変更ができるということになりますれば、司法権の独立というものは非常に影の薄いものになるおそれがあるのでありますが、憲法はそこをはっきりと、下級裁判所は法律で定めるが、最高裁判所というものは憲法自体によって設置をされている。そのもろもろの内容に反することは法律の力をもってしてもきめることができない。これが一番根本的にお考えを願わなければならぬ点であると思うのであります。 それから、次には、日本語の表現の不完全さと申しますか、ただ最高裁判所、それから法律で定める下級裁判所という文字が使ってありまして、最高裁判所が一つであるか、下級裁判所が多数であるかということの書き分けは、日本語の表現では非常に困難でありますが、この成立の経過から見て、英文の憲法というものをごらんになりますれば、ア・シュープリーム・コート、最高裁判所は一つであるということが書いてある。それから、下級裁判所はコーツ、複数に相なっているのでありまして、これと同じような条文がやはりアメリカの憲法にもありますが、アメリカではもう一そう明確に、ワン・シュープリーム・コート、アという定冠詞がなく、ワンという字が用いてあります。それから、下級裁判所の方はコーツ、複数に相なっているのであります。こういうものを見ましても、シュープリーム・コート、最高裁判所というものは一つの裁判所でなければならぬということを察することができるのであります。それから、最初に申し上げました七十九条は、それを一そう明確にするために、最高裁判所は裁判官の全員をもって構成するということが書かれておるのであります。 それから、憲法のうちに存在します最高裁判所に関するもろもろの規定を一々拾って御説明申し上げるまでもありませんが、まず最も重要である八十一条の違憲審査権、あるいは七十七条のルール制定権、あるいは八十条に規定されております下級裁判所裁判官の任命に際してその裁判官を指名した名簿を作成する権限というようなもののごときは、こういう最高裁判所に与えられた独自の権限というものの性質上、それが最高裁判所が単一でありかつ単一であるべきことを十分に示唆しておるものであるということを知ることができるのであります。 それから、もう一つの理由は、そういう最高裁判所というものの性格、構成というようなものは、必ずしも文字から論理的の解釈によって結論を見出し得べきものではないのでありまして、もともと司法制度における最高裁判所制度というものの過去における歴史の伝統をよく考えてみなければ、ほんとうの解決には到達しないということに相なるわけであります。申し上げるまでもなく、司法における最高裁判所制度と申しまするものは、近世における政治科学における最も特筆大書すべき偉大なる発見であると言われておるのでありまして、しかもそれはアメリカの憲法、アメリカの裁判という実証的なものを通して初めて確立したのであります。その確立したものが日本において取り入れられたということに相なるわけでありまして、そういう見地からすれば、最高裁判所はオンリー・ワン・コート、一つである、唯一のものである。そうして、その意味は、最高裁判所は各単独の裁判官あるいはまた部による複数の裁判官による構成によってなされるべきものでない、全員で構成するものでなければならぬ、すなわちワン・ベンチでなければならぬということが、アメリカにおける長い歴史を通して、いろいろ日本と同じように増員説が出たことも古く南北戦争当時からございましたが、そういうものは権威ある意見とはならなかったのでありまして、いずれも葬られて、現行のごとくワン・ベンチで構成する、こういうことになっております。 大体一に対しまする理由はそういうことに御承知を願いたい。 それから、二の問題、いろいろ部を分ってやることは憲法違反となるかどうか。もちろん、ワン・ベンチでやらなければならぬ以上は、部に分ってやるということは、そういう最高裁判所を認めることは憲法違反に相なるわけであります。 それから、三の、現行の小法廷は場合によっては合憲の判決をすることができるが、この小法廷は憲法八十一条の最高裁判所の一機構であるかどうか。これも前に申しましたことで、憲法で言っておる最高裁判所というものは、全員の構成、ワン・ベンチでなければならない、こういうことになりまするから、その意味における最高裁判所の一機構ではない。現在の小法廷は一機構ではないということに相なります。 それから、第四の、本案によれば最高裁判所小法廷は右三の場合に合憲裁判ができることになっているが、これは憲法第八十一条、第七十九条の違反となりはしないか。これは相当重要なことであり、先ほどの三公述人が申された言葉のうちにありましたが、四審制になるとか、あるいは裁判の解決がおくれることになりはしないかという御議論もありましたが、小法廷が合憲なりとこう裁判をしたきりでそれが最終的の法律上の効力を持つということになりますれば、従って、それに反対の違憲なりと主張する当事者は、そこで最終審としてそれに承服しなければならぬ、こういうことになるならば、それは最高裁判所ではない小法廷が最終審として違憲審査権を行なったということになりますから、それは明らかに憲法違反となりますが、この案によりますれば、そうではなくて、そういう小法廷がやった裁判の憲法適否の問題は、憲法上の、ここでいう最高裁判所に異議の申し立てをすることによって最後に救済を得る道が開かれておるのでありまして、最終審として違憲審査権を行うものは最高裁判所であるわけであるから、小法廷のやった裁判を、合憲裁判をすることができることを許していても、不服の申し立ての道が許されておる限りは、憲法の八十一条あるいはまた七十九条には抵触しないという結論になると思うのであります。 それから、五の、小法廷の性格、(イ)の国法上の独自の不級裁判所であるかについてですが、憲法は最高裁判所と下級裁判所を認めておるのでありまして、ただいま申し上げましたように、小法廷はワン・ベンチのものでないのでありますから、最高裁判所ではない。それから、小法廷では規則制定権というものを持っておりません。また、下級裁判所の判事の任命に際して指名した者の名簿を作る、こういう憲法上認められた権限も持っておりません。そういう重要な権限を持っていないものは最高裁判所ではないということになりますれば、それは下級裁判所になるという結論になるのであります。 それから、(ロ)の、対高裁及び対大法廷との関係において審級をいかに考えるか。高裁のやった判決に対してさらにこれをレビューして裁判をするのでありまするから、小法廷は高裁との関係から言えば高裁の上位にあるということが言われるのであります。それから、その裁判に対して大法廷に異議の申し立てができるわけであって、大法廷において小法廷の裁判はレビューを受けなければならぬという関係が案ではきめられておるのでありまするから、大法廷の下位に属するということが言えるのであります。 それから、司法行政権は司法裁判権の独立性を保障する手段であるから不可分離であると思われるが、小法廷から司法行政権の重要部分を奪うことの可否いかん。この司法行政権というものは司法裁判をやる上において固有の権利として裁判所に嘱するということで、一番トップにある最高裁判所の司法行政権を全部奪ってしまうというようなことになりますれば、これは憲法違反の問題を引き起すのであります。小法廷から司法行政権の重要部分、重要ということも程度によりましょうが、これを奪う、これは、必ずしも小法廷に不可分に帰属しておるとまでは申されないことで、法律を一もって適当にきめることができる問題であると思うのであります。ただ、裁判をすることに直接の関連を有するような事項につきましては小法廷にも司法行政権を与えるような立法をすることが適当であるということは申し上げることができると思います。 六の、上告理由は民訴、刑訴と異なってよいか。これは民訴の性質、刑訴の性質がおのおの異なるのでありますから、これはむろん異なってもいいのであります。従来も異なっている点があったわけでありまして、それはできると思います。 七番目の、上告理由としての判例違反の存在理由ないし価値。最高裁判所の判決あるいはまた各高等裁判所間の判例に抵触があるような場合に、最高裁判所の方へ判例違反を主張して上告をする、これは一国の法律の解釈、適用というものを統一する上からは非常に大切なことである。いやしくも近代国家が法治国家として存在しております以上、法律の解釈、適用がばらばらにあることは許さるべきではないのでありますから、その抵触が現われた場合には最高裁判所においてその統一をする必要がある。それが判例違反の存在理由。――判例違反を上告理由とすることでしょうね。
○三田村委員長 そうです。
○真野公述人 そういう意味に解釈すると、判例違反のある場合、これを上告理由として最高裁判所は取り上げることが必要である。しかもそれはむろん大切なことです。 次に、異議申し立てが上訴と異なるものだとするならばその理由を承わりたい。これは、私の考えておるところによりますれば、やはりこの異議申し立ても、その本質は、より上級な裁判所に対する不服の申し立てでありますから、一種の上訴であると考えております。 それから、最後の、小法廷の判決宣言により、確定力を有するものであるか、執行力及び大法廷の破棄判決にも触れながら御意見を承わりたいというのでありますが、この案によりますれば、小法廷の判決に対して異議の申立てがあっても、それは確定を妨げる効力を有しないという言葉が使ってありますが、従って、一応確定するという結果になるのであります。しかし、ここで言う確定してしまってそれが永久不変なものになってしまうというわけではなく、やはり不服の道として異議の申し立てが許されているのでありまするから、最高裁判所の方でその事件が破棄されるということになりますと、今まで一応生じたところの確定力及び執行力は失われてしまうことになるわけであります。これは、この案はかりでたく、憲法施行と同時に行われました民事訴訟の応急措置に関する法律の六条、あるいは刑訴応急措置に関する法律の十七条等にも同じようなことが書かれておるのでありまして、そして、刑訴応急措置法十七条に対する最高裁判所、われわれの小法廷の判決がございまして、そのうちに、今申し上げましたと同じように、再上告が理由があって、しかもそれが判決に影響を及ぼす場合には確定力が破棄される、こういう言葉が使ってあるのであります。それはつまり一応破棄される、一応確定力は有するが、大法廷でその異議が認められて、しかも判決に影響を及ぼすべき場合には確定力が失われる。そして元の裁判所へ戻って、元の裁判所がその審級としてさらに下級裁判所から事件を受け取ったとほぼ同じような状態においてさらに審理をする。これはいろいろ国の法制によって違うことでありまするが、たとえば法律の適用だけを審査する。法律上の最高裁判所の意見を述べるけれども、事件そのものには何も影響のないように扱うことはできないことはないのでありまするが、この案においては、やはり最高裁判所に対して最終的に違憲審査の申し立てをする道をふさぐことは憲法八十一条から許されないがゆえに、不服の申し立ての道が認められておる。そのときに、それで確定してしまって、破棄になっても確定するんだ、最高裁判所がただ意見だけを発表するのだというような解釈はとり得ないというように私は考えます。 以上、簡単でありました。
○三田村委員長 次に島田公述人から御意見を伺います。 島田公述人に対しては、一、本案に対する在野法曹側から見た御意見、二、刑事上告の門は狭きに失するきらいがありはしないかどうか、あわせて、控訴及び第一審の構造に触れながら御意見を承わりたい、第三に、本案による上告審の構造はすこぶる複雑化しているように思われるが、訴訟促進の面を考慮しながら御意見を承わりたい、第四に、いわゆる増員論に対する御所見、以上の点について御所見を伺いたいと思います。
○島田公述人 ただいまの委員長の御命令によりまして、順次私の意見を申し上げたいと考えます。 在野法曹の側から見た意見ということになっておりますが、大体在野法音の意見であろうと思うのでありますが、あるいは、大ぜいの在野法曹のことでありますから、必ずしも反対の人がないとは限らないのでありますが、その点はあしからず御了承をお願いいたします。 第一に、この法律案を一読したときの感想でありますが、これは先ほどの公述人三名の方が述べられたのと大体私は同じような感想を持つのであります。この案によりますと、最高裁判所の機構が非常に複雑であって、一般国民には最高裁判所の機構がどうなっているのか容易にわからないであろうと思われるのであります。かように複雑な規定の内容は、主として最高裁判所内部の事件処理の事務的な規定のように思われるのであります。大体裁判所法というような国民一般が特に周知する必要のある重要な法律は、その内容が簡明率直でわかりやすいことが望ましいと私は考えておるのであります。しかるに、この法案では、国民一般がこの内容を理解するのはほとんど不可能ではないかとさえ思われるのであります。 これは法案の形式についての私の見たところでありますが、その内容を見ますのに、改正案第一条、第二条、第五条等によりますと、最高裁判所小法廷という下級裁判所が設けられております。これによると、最高裁判所小法廷が第三審で、最高裁判所が第四審になるのであります。しかし、現在の三審制度を四審制度に改めるのでは、裁判所法改正の目的はとうてい達せられないのであって、改正の趣旨に反するのではないかということを憂えるのであります。裁判所法改正の目的は、最高裁における裁判を迅速にして、国民の期待に沿わしめるということがまず重要な目標であると考えるのでありますが、現在の三審制度において、すでに事件の停滞が著しく、四、五千件の事件が最高裁に堆積しておるというのに、無条件に四審制度にした場合には、裁判は一そう遅延する結果を来たすということは火を見るより明らかなことであります。もっとも、刑事訴訟法の改正案の四百十五条二項、それから四百二十八条の二の二項によりますと、異議申し立てば裁判の執行を停止しないことが原則になっておりますが、最高裁判所または小法廷では、この執行停止の決定をなして、最高裁判所に対する上告を牽制しておるように思うのでありますが、もしこの執行停止をしないということが原則であるならば、これはむしろ小法廷の裁判をもって終審とするのがまさっておるのではないか。また、この執行停止が容易に許されるということにしますと、これは最高裁判所に対する異議申し立てが非常に多くなって、最高裁判所の未済事件はますますふえるということになりはしないかと思うのであります。死刑については特に改正案に規定がありますが、そのほかに、たとえば選挙法違反あるいは連座して議員の人が資格を失うというような場合に、小法廷での判決に対して最高裁判所に異議中し立てをする。この場合に執行停止をしないということになると、即時失脚するということになるのであります。こういう重大な事柄について執行を停止してもらう、その事由を上申すれば裁判所はあるいは執行停止をするのじゃないか。そのほかいろいろな具体的事情によって執行を停止するということが多く行われるようになった場合には、これは何もかも最高裁判所に異議申し立てをして、最高裁判所が事件の輻湊に困るということになりはしないか。そうすれば、結局これは、執行停止をするしないいずれにしても、この小法廷の裁判をもって打ち切って、四審である最高裁判所は必要ないのではないか、こういうふうに考えるのであります。いずれにしてもよい結果にはならないのではないかと思うのであります。 改正案の第八条の二によりますと、小法廷は最高裁判所に付置されております。第八条の三によると、同じ事件の裁判権が第四審の最高裁判所と第三審の小法廷とに共属しておる関係になっております。つまり、同じ事件をどちらの裁判所がさばいてもよいような規定になっておるのであります。これは、裁判を受ける者の側から見ますならば、はなはだ公正でないというような感じを受けはしないか。第四審と第三審が相談ずくで裁判をするのでは、上級審、下級審の区別を設けた精神を没却するというふうに一般の人は思いはしないか。かようなふうに一般の人が考えるならば、裁判の威信を傷つけることに相なると思うのであります。裁判所の管轄という審級的な三審、四審ということになりますと、三審の事件の管轄はこれだけだ、四審はこれだけだというふうに両者に画然たる区別を設けて初めて意味があるのであります。これは、三審でやってもよい、四審でやってもよい共通な部分がある。 なお、裁判官会議その他司法行政の面において、小法廷は最高裁判所の決議といいますか決定といいますか、その命令に服するようなことになっております。こういう面から見ましても、この小法廷の存在というものがはなはだ明確を欠くのであります。この四審制度にするという点につきましては、十分な御研究を願わなければなりません。この案が成功するかしないかの重要な問題であると考えるのであります。 それから、次に、改正案の第八条の三、それから第十条によりますと、憲法違反の事件だけを最高裁判所で裁判することになっております。大体上告趣意書にはいろいろな論旨が書かれるのが普通であって、第一点が憲法違反、第二点法令違反、第三点量刑不当といったようなことが書いて出されるのでありますが、この場合、第一点の憲法違反の点だけを最高裁で裁判して、法令違反の第二点は小法廷で裁判するということにするのであるか、もしそうであったら、一つの事件が二つに分れて別々の裁判を受けることになるのであるかどうか、また、一つの論旨の中に憲法違反も書き、法令違反も続けて書いてあるという場合には、これを分断して最高裁と小法廷とに分けるのであるかどうか、これらの点ついて改正案の規定では明らかにされていないように思うのであります。つまり、最高裁の管轄と小法廷の管轄とが不明瞭であります。こういう複雑な機構によるよりも、一つの最高裁判所で悪法違反も法令違反も一括して審理、裁判するということの方が望ましいと考えるのでございます。 それから、改正案の第九条によりますと、最高裁判所は、最高裁判所長官及び最高裁判所判事全員の合議体で審理及び裁判をすることになっております。これはただいま真野公述人からるるその理由を述べられたのでありますが、不平にして私は真野公述人の御意見に賛成しかねるのであります。憲法の七十六条でありますが、ここに、「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。」と書いてあるのでありますが、「及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所」というのは、高等裁判所、地方裁判所、簡易裁判所、家庭裁判所というような裁判所の名前を一々あげることを省略して、法律の定めるところによって設置する下級裁判所に司法権が属すると書いただけであって、最高裁判所と下級裁判所とを別に扱ったものとは私は解しておらぬ。この規定は、国法上の意味の司法機関を書いておるのであって、国法上の意味の司法機関をここにあげておるのであって、それはワン・ベンチで裁判するという司法権の行使についての規定ではない、これは別に定めるべきものである、かように考えるのでございます。それから、八十一条に、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則」云々「決定する権限を有する終審裁判所である。」これも、終審裁判所と書いておるだけのことであって、ワン.ベンチでなければならない、全員合議制でなければいけないという意味のことは、この規定の上には出ておらぬのであります。でありますから、これも七十六条と同じように、最高裁判所の数人の裁判官が一つの部を構成して、そうして事件の審理、裁判するということを決して妨げるものではない。それから、七十九条をちょっと触れておきますが、七十九条の「最高裁判所は、その最たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し、その長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する。」ここで長たる裁判官及び法律の定める員数の他の裁判官で構成するというこの規定も、これは七十六条と同じように、国法上の裁判所を書いておるものであります。この規定においても、最高裁判所の裁判官全員合議でなければならぬという意味のことは少しも出ておらぬ。こういうような規定は憲法の他にもたくさんあるのでありまして、たとえば四十二条に「国会は、衆議院及び参議院の両議院でこれを構成する。」、これはやはり同じように、衆議院及び参議院の人たちが一つの部屋に集まって審議するのでは両院制度の意味がない。六十六条に、内閣は総理大臣及びその他の国務大臣をもって構成するとあるが、これだって、やはり各大臣が各省行政を全部一つの場所に集まって行わなければならぬという意味のことにはならぬのであって、すべてこれと同様であります。最高裁判所の裁判官が数人をもって小法廷を構成することができるのであって、現在の最高裁裁判所小法廷は、すなわちこれは最高裁判所の一部である、これは最高裁判所そのものである、私はさように考えておる。大法廷だけが最高裁判所で、小法廷は最高裁判所でない、かような解釈には私は首肯できないのであります。また、この八十一条でありますが、これは違憲審査をする終審の裁判所であるというだけのことで、本米下級裁判所がすでに違憲審査権を持っておって、現に違憲審査の裁判をしておる最高裁判所はその最高の判断をするというにすぎないのであります。でありますから、違憲審査ということが最高裁判所だけの特権であるというふうな考え方も往々にしてありますが、これは私は間違いである、こう考えております。 それから、さきにも他の公述人から意見か出たのでありますが、憲法違反の事件については小法廷に管轄権がなく、第二審からすぐ第四審の最高裁判所に係属するように改正案でできておりますが、他の法令違反の事件は、すなわち小法廷を通って最高裁判所に行く、つまり四審を経過することになります。ところが、憲法違反の事件だけは小法廷を省略して、控訴審からすぐ最高裁判所に行くということになりますと、これは事件の種類によって三審になりまたは四審になるということになって、はなはだ不公平ではないか。かような不公平な扱いを受けるということは一体どういうことになるか、憲法の趣旨ではなかろうと思う。 以上申し述べましたことを通して、私は、最高裁判所大法廷、現行法では大法廷、改正案では最高裁判所ですが、現行法の大法廷をやめて、現在の小法廷をふやして、憲法違反を含めたすべての事件の審理、裁判をすることに改めるのが一番正しくて、そして能率的である、かように考える。在野法曹の多くの人の意見もかようであると私は考えておる次第であります。 それから、次の御質問に移りますが、現在の上告の範囲は狭過ぎるのであります。これは原則として憲法違反、判例違反、そして法令違反ということが書いてない。これは現在では民与訴訟法との権衡から申しましても、不権衡であるのみならず、法律生活をする国民にとっては、法律に違反した場合の救済手段が法律に書いてないということは非常な手落ちであると私は思うのであります。でありますから、この際現在の上告の箱囲を広くする必要がある。それについてでありますが、この改正案では、「判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反があって原判決を破棄しなければ著しく正義に反することを理由とするとき」とありますが、ここで私は、判決に影響を及ばすことが明らかな法令の違反があるとき、こういうふうにして、破棄しなければ著しく正義に反するという条項は必要がない、こう考えるのです。かようにすることによって、控訴の理由を規定しておる刑事訴訟法の規定、それから民事訴訟法の上告理由の規定とちょうど文句の上において同じようになるわけであります。そして、著しく正義に反するか反しないかというようなことは、これは裁判所できめるので、裁判所が著しく正義に反しないと言って審理をしてもらえないというようなことになったならば、これははなはだ憂うべきことであるのみならず、その点については裁判所も十分心がけておられると思うのでありますが、刑事訴訟法の四百十一条に、すでに法令に違反してそれが署しく正義に反する場合には上告審において原判決を破棄することになっておりますから、特にこの条文に署しく正義に反するということを置かなくてもよかろう、こう考えるのであります。 それから、最高裁判所は、今まで長官初めその他の方から、最高裁に事件が輻湊するのは第一審が弱体だからである、そこで第一審強化ということが非常に熱心に主張されておるのでありますが、この第一審強化ということが重要であるということは、以前から私の持論であります。しかし、現在行われておるような年の多い判事を第一審に持ってくるとか、あるいは官等のしの裁判官を第一審に移すとかいうようなやり方だけでは強化されないと思う。私は、理想としては、第一審は三人の合議制にする必要がある。現在のような単独制の第一審ではやはり裁判機脚としては不十分である。これはなかなかたくさんの事件を一人で背負い込んで裁判するということはむずかしいことであります。だから、やはり三人の合議制にする必要がある。それから、ご存じでありましょうが、現在の裁判というものは捜査中心主義になっておって、公判中心主義ではないので、警察官あるいは検察官の調べた供述調書が裁判の主たる証拠になるのであって、公判で直接審理によって得た証拠というものは、どちらかというと第二次的なもの、あるいは顧みられないものになるのが普通であります。これを、公判中心主義で、公判で被告人の面前で取り調べたその証拠によって裁判をするという行き方にしない限りは、第一審の裁判でおるから、これで満足するという国民の満足を得るような裁判にはならぬと思う。多くの人が、警察では拷問を受けた、検察の調べは無理であったということを主張しておるのですが、それをすぐそのまま証拠にとって裁判する制度では、ただ人数をふやすというだけでは強化できないので、この裁判のやり方というものが一つ改められねばならぬ、こういう意見を持っておるものであります。 それから、控訴審は昔のような覆審は必要でないと思うのあります。初めから控訴審で被告人の住所、氏名、年令等を聞き返す必要はないと思う。しかし、被告人あるいは弁護人から証拠調べの請求があったときには、これは原則として取り調べるべきものである。東京及び大阪の高等裁判所は、割合とその点については弁護人、被告人の意見を入れて事実審理をしておられるようであります。ずっと地方に行くに従って書面審理が多くて、事実の調べはされないのが原則のようになっておりますが、これはやはり控訴審で事実の取調べをするということがいいと思う。ことに、第一審で無罪の言い渡しを受けた与件を控訴審で有罪にするというような場合には、少くとも職権をもって事実の調べをする必要がある。これは真野公述人も平素の御持論をチャタレイ事件の反対意見で詳しくお述べになっておりますが、その説には全く同感であります。そういう場合には必ず事実の取調べをしなければならぬ、こう思うの、であります。 かように、第一審、それから控訴審も改革の必要があるのでありますが、まず最高裁判所から順次下級裁判所に及ぼすという順序でこれを改めていきたい。というのは最高裁判所に最も事件がたくさん輻湊して停滞しておりますから、これを何とか早く片づくようにまず改めて、その範を下級裁判所に示すというやり方を私は選んであるわけであります。 それから、最後に、増長論でありますが、最高裁判所の裁判官を増員せねばならぬということは必然的な問題であります。御存じのように、終戦前の大審院においては四十五人の判事がやっておられたのでありますが、現在十五人、三分の一の裁判官でありますが、事件の方はどうかというと大審院時代の三倍にふえておる。人間は三分の一になって事件は三倍になっておるのでありますから、全く事件の数と裁判官の数とは反比例しておる関係になっております。これは、いかなる人を選んでも、この少数の人で事件を処理することはできませんから、どうしても増員する必要がある。それでは何人増員すべきかというのでありますが、これは、裁判所の内部のこと、仕事のやり方等について私は経験がありませんから、何人をもって適当とするかという最終の決定をするわけには参らぬのでありますが、これは事件の数とにらみ合せて妥当な数を考え出すということはできないことではない。そうしてまた、改正案にありますが、最高裁判所裁判官任命諮問審議会という制度を設けて、最も適任とする人を選んで裁判官にするというこの案に対しては、私も賛成であります。これは初めからそうあるべきもの、今日すでにおそい感があるのでありますが、これは、ぜひそういうふうにいたしたい、こう考えております。 大要以上申し上げた通りでありますが、なお御質疑に応じたいと考えます。
○三田村委員長 次に藤田公述人から御意見を伺います。 藤田公述人には、まず、いわゆるワン・ベンチ論に対する御意見、第二に、いわゆる増員論に対する御意見、増員をする場合には、法廷の構成、事件の配分等をどのようにお考えになりますか、あわせてお伺いいたしたいと思います。
○藤田公述人 私は最高裁判所の藤田でございます。 ただいまお尋ねのいわゆるワン・ベンチ論に対する意見、これは先刻来真町公述人、島田公述人の述べられたいわゆるワン・ベンチ論ということであろうと思うのであります。私は、憲法の中には、最高裁判所はすべての審判をするについてワン・ベンチでなければならないという趣旨の規定はないのじゃないかと思うのです。その点は島田公述人の意見と同じようなことになるのでありますが、真野公述人があげられた憲法七十六条、七十九条、八十一条、これらの規定からは、ワン・ベンチでなければならないということは、七十七条を加えても同様でありますが、出てこないのじゃないか。真野公述人と反対の議論をする意思は毛頭ないのでありますが、先刻来の説明を伺っても、アメリカの最高裁判所法を継受しているのだからという沿革の論は別として、条文論からは、なるほど憲法上最高裁判所はワン・コートでなければならないと言うことはできますが、ワン・ベンチですべての審判をしなければならぬという結論は生まれてこないのじゃないかと思うのであります。 各条文についての議論は、ただいま島田公述人の言われたところと大略同様でありますから、繰り返すことはやめますが、概略として、憲法にいわゆる裁判所というものは国法上の意味の裁判所であり、官庁としての裁判所、独立して現実に裁判権を行使するいわゆる狭義の裁判所というものをここに現わしているのじゃないのだ。皆さんも御承知の通り、従来のわが国の裁判所というものは、そうしたいわゆる狭義の裁判所をたくさん持っておる裁判所であったのです。官庁としての裁判所の中に多数の狭義の裁判所、多数の狭義の裁判所というものが存在しておる、これが裁判所の常態であった。たとえば、ごく卑近な例を言いましても、東京区裁判所というものは四十人の判事を持っておりました。そうすれば四十のベンチがあった。そういうことが、裁判というものの本質上、三人とか五人とかあるいはまた単独判事ということでやるのに適している仕事なんで、立法とか行政とかいうものと違って、そう多数の人間でやれる性質のものでないということから来ておる。ベンチの数がふえるということは当然のことであるので、そういう在米の日本の裁判所のあり方というものは、憲法がこれを変更するという意見は私は持っていないと思う。憲法にそういう明文がない以上は、そういうたくさんの狭義の裁判所というものを、最高裁判所といえども持つことを禁じておるものではないと思うのであります。 ただ、一つ考えなければならないことは、この八十一条にいわゆる最高裁判所は遠慮審査をやる最終審裁判所であるということであります。いわゆる憲法の公権的解釈といいますか有権的解釈、最終の判断というものをいかなる官庁に持たせるかということは、これは相当問題である。あるいは国会にそういう解釈権を持たせるという立法もあるようでありますし、わが国の憲法のできるときにもそういう案も考えられておったようでありますが、それは結局最高裁判所に与えられる。最高裁判所が終審として、有権的の、公権的の憲法解釈をやるんだ、これが私は非常に大きなことだろうと思う。そういたしますと、この憲法解釈が区々になるということは絶対に避けなければならない。以前に大審院が法令解釈の統一ということを使命としておりましたけれども、大審院の中にたくさんの部があったために、各部の判決が抵触していろいろ混乱したということは、皆さんも御承知の通りであります。憲法解釈がそういうことでは絶対にいけない。憲法解釈をするベンチは必ず一つでなければならぬ、これが私は憲法の要請だろうと思うのであります。そうして、国民審査というようなことから考え合せましても、最高裁判所の裁判官であっても憲法審査に関与しない裁判官があるということは、これも憲法の認めないところでありますから、憲法の違憲審査というものだけは絶対に全裁判官の、オール・ジャッジのワン・ベンチでなければならぬということは、これは動かせないことだろうと思う。しかしながら、最高裁判所というのは、憲法裁判所当時のものとは違うのでありまして、民事、刑事についても最終、最高の裁判をするところなのであります。憲法判断以外については――現在の小法廷がそうでありますが、そういうところに分れて裁判をするということをやっても、憲法には何ら違反するところはないんだ、こういうふうに私は考えるのであります。 次に、増員論でありますが、これも御質問の趣旨は、ただいま島田公述人の述べられたように、最高裁判所の人数を増員する、そしてかつて弁護士連合会から案の出ておりますように、三十人ぐらいに増員しようという考え方なのであろうと思うのであります。私はこれは賛成できないと思うのであります。最高裁判所の裁判官のこういう計三十名もの増員ということは、これは量の問題でなくして最高裁判所の質を変化せしめる問題になるかと思うのであります。憲法は明文をもって最高裁判所の裁判官の数をきめておりません。でありますから、増員することは憲法違反でないという考え方があると思いますが、今度の憲法における最高裁判所の姿というものは、アメリカ流の最高裁判所を作ろうということにあったことは、憲法制定の由来から見て間違いのないところであります。むろん明文にはそう現われているわけではありませんけれども、これは私は間違いのない憲法の精神だと思うのでありますが、三十人の増員ということは、結局そのアメリカ流の最高裁判所からドイツ流の大審院というものを作ろうとするところにあるので、これは憲法の予測しないところ、憲法の精神に反するところであって、何がゆえにアメリカ流の最高裁判所を作られたかということは、これはいろいろの考え方も出ましょうが、少数の有能な裁判官でもって構成して、そしてこれに国家の最高の待遇を与えて、立法権、行政権と鼎立した兵の意味の司法権の独立ということをはかろう、そういう趣旨からできておる、司法の権威の向上というようなことも考えられてこういうものができておるのが、とにかく現在の憲法の精神であると私は思うのであります。これを三十人にするということは、単に量の問題でなく質を変化せしめるということになるんだと思うのであります。 それから、さらにもう一点、増員論に対して賛成のできない点は、先刻申しましたように、違憲審査はワン・ベンチでなければならぬというこの考え方からいたしますと、どうしても三十人というのは不適業であります。今の十五人でも実はワン・ベンチとしては多過ぎるのであります。これが大法廷の審理が迅速に運ばない一つの大きな理由だと言われておるくらいでありまして、これが三十人になって不適当であるということは、私が申し上げるまでもないことだと思うのであります。 それから、その次に、増員論をとる場合には法廷の構成、事件の配分等をどのよりに考えておられるかという御質問でありますが、実は、私は増員論というものをあまり考えたことはないのでありまして、従って、法廷の構成、事件の配分ということについて具体的に意見を持ち合せていないのでありますが、まず簡単に言えば、結局は比率と刑事とに分けて五人の構成で三部を作るということになるんだろう、ただ、違憲審査の問題はどうしてもワン・ベンチでなければなりませんから、結局、旧時代の、大審院時代に民刑の総連合部というものでもって判例抵触の問題を取り扱っておりましたが、それと同じように、違憲審査の問題は民刑総連合部でもって審判するということにすべきでないかと思うのであります。しかし、こういう形は、先刻も申しました通り、日本国憲法は予期していないことであり、かような形をとるということについては、私は、もしこういう形が絶対にいいということであるならば、日本国憲法の改正を待ってなすべきであって、現在の憲法のもとにこれをするということは無理なのではないかと思うのであります。 大体これで私の公述を終ります。
○三田村委員長 以上で三公述人の公述は一応終りました。 これより質疑に移ります。御質疑はございませんか。池田清志君。
○池田(清)委員 まず真野参考人にお尋ねを申し上げますが、憲法第七十九条におきまして最高裁判所の構成という問題をお伺いいたしました。同様なる形におきまして、裁判所法の第十五条あるいはまた第十八条におきまして高等裁判所、地方裁判所の構成をうたっております。これは憲法第七十九条と同じような形でできておるのであって、高等裁判所、地方裁判所はその全員でもって構成する、こういうことに相なっておるわけなんであります。この裁判所というものがどういう性格のものであるかということはまず論外といたしましても、こういうような法律、憲法によって構成されておる裁判所の中において、それぞれ法廷についてまた別個の規定をいたしておるということも御承知の通り。最高裁判所につきましては、裁判所法第九条において大、小法廷を作っておる。これと同じ形において、高等裁判所、地方裁判所においても、裁判所法の第十八条、第二十六条というところにおいて同様な形において法廷を分けて規定しておる、こういうことであります。 そこで、お伺いをいたしまする事柄は、先ほど来ワン・ベンチ論について詳しいお話があったのでありますけれども、最高裁判所の法廷そのものが必ずしも全員でもって構成するようにしなくちゃならないということを憲法が要求しておるのかどうか、こうい、点であります。もっとも、現在の裁判所法第九条におきまして、大法廷は全員の最高裁判所裁判官をもって構成、審理、審判するということになっておりますが、これは法律に書いてある事柄でありまするから、この法律を改めて、全員でなくて何人かの員数の裁判官でもって法廷を開くことができるようにするということが、いわゆる憲法に違反するかどうか、こういう点についてまずお尋ねいたします。
○真野公述人 裁判所法その他に「構成する」という文字が使ってあります。憲法と同じよりに使ってあるわけですが、そういう使い方をすることがいいかどうかということは、立法当時に非常に問題になったところであると聞いております。裁判所を構成するということは、これは一応司法裁判所、その構成されたもので裁判をするということにどこの国でも使われておる言葉でありますが、たまたま、憲法にこの言葉が使われておることを、軽卒にほかの裁判所法のときにもそれを持ってきた。もとの裁判所構成法によりますと、一つあるいは二つ以上の刑事及び民事の部を設ける、こういう言葉が使われていたのを、たまたま、憲法で使ってありますので、それと同じような文句を使ったのであるけれども、それは訴訟法等に非常に詳しい東大の兼子教授は非常に反対して、こういう文字は使うべきではないということを強く主張されたそうですが、こういう条文になってしまった。法律がそういうふうになったからというので憲法をそれと同じように解釈しなければならない、これは逆なのです。本末転倒した議論になるわけです。大体、裁判所の構成と書いたときには、司法裁判所の一単位としての構成、こういうことに解釈するのが正当であろう。それでありますから、そういう構成でなくやるということはよくないというのが私の見解であります。
○池田(清)委員 同じ問題でありますが、藤田公述人にお尋ねを申し上げます。藤田公述人の御所見といたしましては、憲法の規定そのものからはいわゆるワン・ベンチの要請は現われてこない、こういうふうにお伺い申し上げたのでありますが、それでよろしゅうございますか。――よろしかったら、それを前提としてお尋ねをいたしたいことは、最高裁判所は、現行裁判所法によりまして法廷が分れておりまして、大法廷と小法廷とになっておるのですが、さて、その大法廷は最高裁判所裁判官の全員でもってこれを審理裁判するようにしなくちゃならないということがどこから生まれてくるか、お伺いいたします。
○藤田公述人 それは、先刻申しました道り、違憲審査権の本質、憲法の解釈に区々があってはいけない、まちまちになってはいけない、それから、最高裁判所の判事で違憲審査に関与しない者があってはならない、こういう違憲審査というものの本質からそういう結論が出てくるのだろうと思うのであります。憲法問題以外は、ワン・ベンチであることは必ずしも憲法が必須としておるものではない、こういうように思います。
○池田(清)委員 真野公述人。お尋ねを申し上げますが、現在最高裁判所の中にあります小法廷を、改正法案におきましては別にいたしまして 下級裁判所とする、こういうことに相なっております。先ほどもちょっと申し上げましたように、すべての裁判所につきましては、裁判所そのものの構成ということが規定されており、そうして、その裁判所の法廷のことについてはまた別個に規定があるわけであります。この改正法にいうところの小法廷におきましては、いわゆる法廷のことについては規定がありますが、裁判所としての構成の問題については何ら規定するところがないのでありますが、ほかの裁判所に比較いたしまして、その構成についての規定をしないということがよろしいのか、するということでありますならば、ほかの方法、たとえば最高裁判所の立法権によってこれをなさるのか、これについてお答えを願いたいと思います。
○真野公述人 ちょっと問題の要点を逸しました。
○池田(清)委員 改正案について、憲法第七十九条とか裁判所法の十五条、十八条、こういうものに対比するところの小法廷の構成についての規定がない、これは一体ほかの裁判所に対比してそういう規定がなくていいのか。
○真野公述人 規定はあるのじゃないですか。
○池田(清)委員 小法廷そのものについてはあるのです。これは裁判所法の二十三条とか二十六条とか、そういうものに対比するやつなんですね。それはいわゆる審理、裁判する法廷のことなんですね。司法機関としての構成ですね。
○真野公述人 この法廷ということが同町に司法機関という意味ですね。やはり司法機関という意味で小法廷、大法廷という言葉が使われている。建物の法廷という意味は全然ないのでございます。司法機関としてのこういう名称を付したという、最高裁判所と言うのと大して違わない。あるいは地方裁判所と名称を付する、この名称は自由につけられる。これは最高裁判所小法廷という名称を新たにつけておる。これはむろん司法機関という意味で御了解願っていいのじゃないかと思います。
○池田(清)委員 さらに進みますが、私のお尋ねがちょっとまずかったかもしれませんけれども、改正案におきましては小法廷を六つ作るという考え方になっておるわけでありますが、その六つの小法廷そのものは、六つが一緒になっての最高裁判所小法廷と考えるか、それともまた、いわゆる審理、裁判をする小法廷が六つおのおの別々にあり、しかもそれはお互いの間は対等であるというふうに理解するかという点ですね。
○真野公述人 司法機関としては六つのコートがある、こういうことになるわけであります。官庁ということとは別であります。重要なことは、司法機関としてどういう働きをするかということが最も大切でありますが、この六つ置くということは、六つ司法機関がある、同様なものが六つある、こういうことになる意味と御了承願います。
○池田(清)委員 今のお話によりまして、六つの最高裁判所小法廷ができる、こういう改正案になるというわけであります。もちろん、改正案におきましては、「小法廷は、小法廷百席判事及び小法廷判事で構成する。」というのでありますが、そういうように構成されたものが六つ、お互いに対等独立してある、こういうお答えであったのでありますが、この点一つ藤田公述人のお考えを伺いたいと思います。
○藤田公述人 私は、きょう質問を受けるのはワン・ベンチ論と増員論で、新しい改正案についてどういうように解釈するかということは、実は御質問があるとは思わなかったので、その点は研究しておりませんが、おそらく小法廷というのはこれはえたいの知れないものだと思っておりますが、六つ集まって一個の機関としての小法廷というものがある趣旨じゃないかと思っておるのですが、これは正確なことは申し上げるわけに参りません。
○池田(清)委員 藤田公述人のお気持を進めて参りますと、六つの最高裁判所小法廷というものは、審理、裁判する法廷であって、これが一緒にまとまったところのいわゆる裁判所というものがあるように思うというお考えでありますが、この点は確答でないといたしまして伺っておきますが、私もその点に疑問を有するわけでありまして、もしそうであるならば、そういうことで六つを二緒にしたところの裁判所というものであるならば、高等裁判所、地方裁判所と同じように、その全部をひっくるめた全部の裁判官でもって構成する裁判所というものの構成が改正案におきましては欠けておりませんか、こう申し上げておるわけです。もしそれを補うというならば最高高裁判所の立法権によって補うということになるかもしれませんが、真野公述人、この点についてはいかがでありますか。
○真野公述人 それはおもに司法行政権をやる場合に.どうなるかという問題に帰着すると思います。司法裁判の面から言うと、おのおの独立して対等の関係において分れてやるわけですから、これはこの案で一応あれでしょうが、司法行政ということになりますと、司法行政権を各部だけに関する事柄は各部でやることもありましょうし、最高裁判所小法廷というものを一つの機関と見て、それが小法廷ではどういうふうに司法行政をやるかという問題も当然起ってくると思いますが、それは司法行政の面から見ればそういうことは言えると思いますが、司法行政の面もみんな、六つのものがばらばらになって、おのおの独立して司法行政をやるというよりは、それにいわゆる事件の配転をどうするかというようなことはその一つの小法廷の関係じゃなく全体の小法廷に利害関係のあるわけですから、そういうことはやはり最高裁判所小法廷というような一つの機関にする、それが司法行政をやるというように、規定の足りないところはあるいは附則で補うとかということになるかもしれませんが、この案でその点は十分でないかもしれませんが、それは裁判という面から見ればさほど重要性はないと言っていいのではないかと思います。
○池田(清)委員 島田公述人にお尋ねをいたします。先ほどの御公述の中で、この改正案におけるところの異議と現行民事訴訟におけるところの特別上告というものは本質において変ったものではないと思う、こういう御公述があったのでありますが、もしさようでありますならば、同じ法律のもとにおきましては法律用語等を統一することがよいではないか、こういう気持ちもいたしますけれども、島田公述人はいかがにお考えになりますか。
○島田公述人 この異議の申し立ては、この案では上訴だと思うのです。ですから、特別上告といいますか、最高裁判所に異議を申し立てる場合には特別上告とかいうふうな用語で統一した方がベターである、用語の問題としてはさように考えております。 それから、上告理由については、改正案の四百五条ですか、これはやはり他の民訴及び現在の刑訴の控訴の理由、その用語とやはりかけ離れるべきでないから、それと歩調をそろえた方が用語としてはよくはないか、こう思うのです。ですから、「著しく正義に反する」という原案の用語を削りたい、こういうように私は考えます。
○三田村委員長 猪俣浩三君。
○猪俣委員 藤田公述人にお尋ねいたします。これはあなたが「最高裁判所の機構改革に関する諸説について」としてパンフレットを発行された。これを拝見いたしましたが、簡単に引用さしていただきますと、訴訟遅延の阻止についての御意見があります。「自分は裁判官三十年の経験からして、わが国の実情から見れば、訴訟遅延を防止する方法は審級を簡素にするの外に結局適切な方法はないと結論せざるを得ない。」、こういうふうに論じられ、しかも、「しかるに、現在行われている、上告審級設置論というものは、いかなる構想によるにもせよ、結局は現在よりも審級を増加しようとするものであるに相違ない。」、そう断ぜられ、なお、「かかる上告審の新設は、一方において審級の増設によってさらに訴訟遅延に拍車をかけるものであり、しかも、一方において一向に最高裁判所の負担の軽減を招来するものでないといわなければならない。」、こういうふうに断定せられておるわけです。これは委員長の質問の中になかったかも存じませんけれども、このあなたの趣旨からすると、今回の政府提案の改正案は、このあなたの心配せられたような案になっているのじゃなかろうか、こういうふうに考えられるのでありますが、それについての御意見を承わりたいと思います。
○藤田公述人 私は今おっしゃった通りに考えておるのであります。今度の改正案は結局原則として四界制度にならざるを得ない。これは非常に複雑でありまして、ちょっと見ると三階のところもあり、四砦のところもありますが、いわゆる小法廷というものは三十人の判事をもって構成されるところであって、しかもここでは違憲審査はできない。下級裁判所、地方裁判所でも高等裁判所でもみな違法審査ができるのでありますが、この小法廷というところは違憲審査ができない。そうすれば何をするのか。その三十人の裁判官を動員してできることは、結局法令違反は大体において小法廷でやることになるだろう。重要な法令違反問題もまず九分九厘までは小法廷でやらざるを得ないことになるのではへばいかと思う。これはルールにまかされておる。この点も私は、どうかと思うのでありまして、下級裁判所と最高裁判所との間の事務の分配を法律できめないでこれをルールにまかせるという点は、これもどうかと思うのであります。この点は、法制審議会の原案では、たしか特に重要なものは最高裁判所というふうになっておったと思うのでありますが、今度提案になった案を見ますと、ここらの関係はすべてルールにまかれておるようであります。でありますから、ルールの作り方によっては、四審になる部分が狭くもできるのでありましょうけれども、今申した通り三十への判事を動員して小法廷を作るということになれば、どうしても憲法問題以外の事件は大半はそちらに行くというようにルールでせざるを得ない。そういたしますと、小法廷の裁判に対して異議の申し立てが輻湊するということも、これは現在の最高裁判所の状況から見まして十分に予想されるところであります。四審制度になって、そして訴訟遅延の原因になり、しかもその異議が今度の最高裁判所に殺到するということになれば、最高裁判所も決して楽じゃないのじゃないか。特に重要なものはやらなければならぬ。それから、異議が参ります。この異議の手続についても、一体どういう訴訟手続が行われるのかということもルールにまかされておる。つまり、最終審としての異議とでも申しますか、その異議審の訴訟手続が一体どういうものになるのかということも今度の案ではわからない。それはルールにまかされておるというように私は拝見したのであります。たとえば、刑訴で言いましたならば四百十一条というような規定がこの異議界にも設けられることになるのかどうかということも、この法律からはわからない。かりにそういうものができるということになれば、この異議審というものの負担は非常に重いものであって、決して最高裁判所の負担の軽減には遠いものではないか。ことに今度は今までと違ってワン・ベンチであります。ワン・ベンチでやるということは相当骨の折れることではないだろうかというふうに考えているのであります。
○猪俣委員 真野先生にお尋ねいたします。 岩田宙造博士が「ジュリスト」という雑誌に「最高裁判所の機構改革について」という論文を出しております。これを要約いたしますと、最高裁判所の機構改革として最も論議せられたところは最高裁判所の判事を増長するか減員するかということである、しかしてそれは結局破局裁判所の性格に関連する、最高裁判所を憲法裁判所的他形を濃厚にならしめるならばこれは減員論になる、されども最高裁判所が一般の刑事、民事、法令違反というようなものについて一般の司法裁判所の終審だということになるならば増員論になる、そういう論旨で、わが国の最高裁判所が、憲法七十六条と八十一条の対照上から、一体憲法裁判所的色彩を濃厚にしていいのかどうか、あるいは司法裁判所の終審ということに重点があるのかどうか、八十一条の解釈としても、最高裁判所は終審であるという性格と憲法裁判をするという性格と二つ持っているんだ、そういう議論をなす学者もあるのであります。七十六条は、司法権は最高裁判所及び下級裁判所が行うように規定されております。 そこで、この岩田博士の心配は、最高裁判所が一般国民の日常生活に関係の深い民事、刑事の終審裁判所ということにならず、憲法という特殊の事案だけの裁判所になった際に、一体国民から遊離するのじゃなかろうか、なお遊んで、憲法七十六条において、特殊の裁判所を作ることを禁じている、その特別裁判所になるようなことになるのじゃなかろうか、九人の判事で憲法問題ばかりをやるということになると、それこそ藤田判事の見解と正反対であって、今の憲法それ自体の規定として、憲法裁判所のみに専念するというような性格を濃厚にすること自体が、憲法七十六条の二項の特別裁判所というようなものになるのじゃなかろうか、かえって現行の憲法のあり方と違ったことにたることになるのじゃないかという議論も出ると思うのです。だから、藤田公述人の御意見のように、増員をして大審院的性格を持たせるのは、これはドイツ法的なものになって、わが憲法に予定せざるところだというのであります。しかし、さような解決は解釈の違いでありますが、われわれはさように解釈をしておらぬのであります。こういう在野法曹の権威からかような意見が出ておりますが、これに対して真野判事はどういうふうな御見解をお持ちでありますか、御説明いただきたいと思います。
○真野公述人 今猪俣委員からお尋ねのことは、岩田さんの「ジュリスト」における意見は私もその当時は読んだことはありますが、今全部完全に記憶はありません。今猪俣委員がおっしゃったような内容であったように私も大体記憶しておりますが、岩田宙造さんの意見は、違憲審査というものを非常に軽く見ておられるような印象を受けました。今のお話でも多少そういう傾きがあったかと思いますが、私個人の考えでは、むろん司法権は最高裁判所に属するのでありますから、司法権の最も大きな作用というものは、行政裁判を含めた民事の事件、それから、刑事の事件というものが半作として起きてくるわけです。それを裁くのが最高裁判所である。しかし、その裁くのにも、憲法の要請するところは、民事、刑事の法律問題のすべてを終審としてしなければならぬということは憲法のどこにも規定がない。ただ憲法で要請しておるのは、国民が違憲であるという裁判を前に受けた場合に、それの救済を求めることは、途中の裁判所でこれは最後のものだ、こういうことはできないので、違憲審査のことになりますれば最高裁判所に最後には持っていける、これは国民の権利として認められておる。われわれの現在扱っておる事件におきましても、違憲のことを言っておる事件が相当ございます。中には名前だけ違憲という名称を用いておりますが、その実、量刑が重いとか、あるいは事実誤認であるとか、あるいはまた刑事訴訟法の手続に違背するとかいうような、非常に軽いことを言っておるのもありますが、中には相当シリアスに憲法問題を論じておるのがあります。そういうことを最高裁判所で審理することは、法律なり命令なりというものが憲法に違反するかどうかということが法治国家としての一番重要な根本だからであります。それが適法であるとかりにいたしますれば、立法の方面では、あに具体的の法律、命令ばかりでなく、それと同列あるいは類似なケースというものは立法が可能であるということまで認めることになるわけでありますから、最高裁判所が違憲審査を一つ事件においてするということは、その当該の当事者の利害関係はかりでするのではなく、将来の立法のために、この程度まではいいとか、ここまで行っては違憲になるとか、そういうけじめを見出すわけですから、これは相当重要なことでありますが、古い法曹の方々は、違憲審査権、最高裁判所制度というものの本質、特徴というものについて理解が薄いと申しますか、そういうところからいろいろ議論が起きますが、八十一条で最高裁判所は違憲審査のことだけを終審としてやればいい、そういうことでは、ただいま猪俣委員のおっしゃいましたように、最高裁判所が国民の生活から遊離してしまう、こういうことになるわけでありまして、違憲審査と申しましても、やはり民事、刑事のこととからんで起きるわけですから、違憲審査だけを抽象的にこの法律が違憲であるかどうかというのじゃなく、やはり事件全体として、国民生活と密接な関連において事件を裁くわけであります。それでありますばかりでなく、これは、明らかに憲法問題でなくとも、やはり民事、刑事の争いに関する判例違反を裁くことになる。それから、なお、私の考えでは、この案がかりにこのまま成立したと仮定いたしまして、これを実際の運営に当ってみてどの程度の時間的余裕があるかどうかということをにらみ合わして、少くとも重要なる法律問題に関するような事柄は、やはりこの案における最高裁判所においても審理するようにしなければならぬと思っております。そうしなければ、やはり国民生活と遊離するということなにると思うのであります。 それから、増員のことがいろんな方々から出ておりますが、私の経験から申しまして――御承知の方もありましょうが、私は弁護士も三十三年ばかりやりましたし、最高裁判所に入りましてからも約十年近くになるわけですから、両方の法曹生活の経験は日本の普通のレベルから見れば相当積んだ方です。法曹といいましても裁判官を三十年やったという経験はありませんが、弁護士は三十三年いたしておりますから、そういう違った角度からいろいろものを見ますというと、やはり、事件が渋滞するならば判事をふやしてやれば事件は片づく、そう簡単にはいかないので、四審に一方ではなるじゃないかという攻撃はありますか、憲法の要請で、違憲審査を最後まで見届けてくれるものは最高裁判所だということに憲法がきめておるのでありますから、島田公述人が言われたように三審で打ち切ればいいじゃないかといっても、それが憲法違反ならば、やはり憲法の要請で最高裁判所に不服の道をあけておく必要はあるわけです。これはやむを得ないと私は思います。 それから、一方において、現在のごとく上告の理由を非常に狭くしておるということは、やはり国民の自由、人権を擁護する道ではないと思います。いやしくも法律に違反して、その判決の結果が逆転するというようなことが予想されるような場合に、これは憲法問題じゃない、判例抵触がないということで玄関払いを食わせることは、やはり国民の権利、自由を擁護する道じゃないと思うのでありますが、それをすべて最終審で最高裁判所が普通の法令違反も憲法問題も何もかもやれということになりますれば、今言ったようなほんとうの違憲審査というものは大ぜい寄ってたかってやるということができない。国会で決議をなさるようなときには大ぜいでもできましょう。二百人でも三百人でもできましょうが、裁判のような合議を尽すということから申しますと、あまり大ぜいではできない。それで、アメリカでも、たとえば、ニュージャージーというところでは、初め十六人の裁判官があった。それで非常に事件がおくれていた。それを、今のヴァンダービルトという人や州知事のドリスコルなどが州の憲法を変えて七人にして、アメリカの各州でも模範的にりっぱな成績をあけた。十六人のころは、非常に皮肉な言葉ですが、陪審員の数よりは少し多い、モッブの数よりは少し少い、こういう裁判制度である、これは裁判制度としてはモボクラシーだ、こんな大ぜいでやることはモボクラシーだと言って皮肉った人がありましたが、日本もそれ以上の大ぜいの人が寄り集まって憲法問題の適否を決するということになれば、やはり十分な合議が尽されない。これはおそるべきことになるのじゃないか。 それから、先ほど公述人が、人材がないから減せというようなことをわれわれが言っているように言われた方がありましたが、そういうことは決してありません。合議を十分にやるにはやはり九人くらいが適当じゃないか。アメリカに例をとってみましても、最初は最高裁判所は六人、その後七人になったこともありますし九人になったこともあります。一番多いときには十人になったことがありますが、今より約一世紀ぐらい前から九人になって変らないのであります。ただ、その間にいろいろ政治しの関係から判事をふやして時の行政府の意見――そのときはルーズヴェルトが大統領だから、いわゆるニュー・ディールを行うために、裁判官の老いぼれの人があると、老いぼれと言っては悪いかもしれませんが、とにかく年令七十年をこえた人が一人あるとそれだけの新しい判事を任命できる、五人あると五人任命できる、そして、古い非常に保守的な人を、今度は新しい、自分の意見のニューディールに賛成な人を入れて増員をして、それで帳消しにしていって自分の案を通そう、これは非常な反対を受けてとうとう法律にはなりませんでした。それから、先ほどもちょっと申しましたが、南北戦争のころにも事件が非常に多くなりました。日本も終戦後事件が非常にふえたことと同じように、やはり戦争の惨禍によって持ち来たす事件の数というものは、どこの国でもいずれの時代でも多くなる。そういうときに、妙なことですが、やはりアメリカでも弁護士会から増員論が出て、最高裁判所の判事の数をふやせというところの意見が相当出たのであります。二十数名にしろという意見が出ましたけれども、これはやはり反対を受けて通らなかったわけであります。アメリカのいろいろな書物を読んでみますと、数をふやして事件の能率を上げるということが圧倒的に権威ある意見になったことはかつてない。政治的に言っても、法曹の専門的な立場から言っても、そういうことが圧倒的な意見になったことはないということが述べられておりますし、実際においても、そういう提案がなされたことはありますけれども、実現というところに近くなったことはないのであります。これはごく最近入手したのですが、アメリカのジャクソンという最高裁判所の判事が書いたアメリカの州の最高裁判所の本、このうちにちょうどわれわれが最高裁判所の裁判官会議で決議したと同じことが書いてある。われわれはこれを見てああいう決議をしたのではなく、こういう書物こ出るよりよほど前にわれわれは決議をしておるのですが、このうちに、やはり、最高裁判所というものは部に分けてはいかぬ、それから単独判事が最高裁判所という名前でやることはいけないのだ、けれども、唯一の道は、この中間にコーツ・オブ・アピール、高等裁判所のようなものを設けて、一般的に重要なことではなくても、当事者にとっても重要な事柄はそこで最終審として裁く、憲法問題でない限りは最終審として裁く、ちょうどこの案と同じようなことが偶然われわれの決議の後に出ましたこの書物に出ておる。この書物の翻訳はつい三、四日前の新聞で初めて発表になりましたが、久保田きぬ子という女子大学の憲法の講義をしておる人の翻訳です。この人はアメリカにも四年ぐらいいましたか、この訳は、私は部分的に見ただけでも、不十分なところはありますが、大体英語の達者な人ですから、相当の訳である。これをごらんになっても、この元をごらんになりましても、この案と同じようなことが書いてあるということを発見いたしましたから、どうぞごらん願います。
○猪俣委員 実は私どもも最高裁判所の判事を減員することに必ずしも反対ではありません。判事を減員し、しかも上告の門戸を広げたい。そして訴訟の遅延は防ぎたい。いろいろ二律背反的な欲望を持っておる。どうしたらよかろう。それでは、私は、今の最高裁判所の真野判事その他の考え方を百尺さらに竿頭一歩を進めて、思い切ってこれは憲法裁判所的な色彩を濃厚にして、具体的事件のみならず抽象的のいわゆる違憲訴訟も扱うようにして、そうして一般の上告は、門戸を広げたものは今言ったような最高裁の小法廷のようなものでどんどんさばいて、それは三十人でも四十人でも人数をふやしてやる、最高裁判所は九人くらいあるいは七人くらいにして、憲法裁判所として専念する、それにはいわゆる抽象的違憲訴訟も取り扱うというようにすれば徹底してくるわけでありますが、それが、ドイツの裁判所のような憲法裁判所でもなく、司法裁判所専念でもなくというような、まことに日本の最高裁判所の規定が憲法上あいまいな性格を持っておるために今日の紛乱が来ておると思う。そこで、増員論、減員論だといってやっておるのでありますが、真野判事は、そういういわゆる憲法裁判所的色彩を濃厚にして、抽象的違憲訴訟も取り扱ってしかるべきだという御意見があるかないか、それをお聞かせ願いたい。
○真野公述人 それは、猪俣委員の先ほどおっしゃいました心持はよくわかるし、長く主張をなさっておられる理論であることも十分承知しておりますが、いわゆる抽象的の憲法裁判所というものは、突き詰めていけば司法裁判所ではないということになって、結局行政上の裁判所である、――つまり、憲法改正以前の日本の行政裁判所は、あれは厳格な意味における司法裁判所ではなくして、やはり一種の行政機関であった。そういうことに理論上からは結局帰着するのではないか。それだから、日本の憲法による最高裁判所は司法権を持っておる最高裁判所であるということであって、その司法権をたまたま運営する面において違憲審査の問題が起きてくる、こういうように解釈すべきものだと思っております。 それからまた、実質上の問題から言うと、抽象的な違憲審査ができるということになると、やはり国会というものが政党に分れ、おのおの自分の意見がいいという確信のもとに決議がなされるわけでありますから、ことに二大政党に分れるような場合には、やはり一方が白、一方が黒というように分れておる。それが、全部国会でできた法律が最高裁判所にそのままずっと持ち込まれるということになりますれば、最高裁判所が非常に政治的な色彩が濃厚になって、司法裁判所というものじゃなく、非常に政治的な問題を扱うことになって、政争の禍中に投ずるということにならざるを得ないというところで、私は、今日の段階においては、にわかに抽象的違憲審査権を認めるということには賛成できない、こういう考えを今持っております。
○猪俣委員 もう一点だけ。この議論につきましては、実は社会党から違憲裁判手続法案が出ておりまして、いずれそういうことに対する公聴会も開かれようと思いますが、私どもは真野公述人の意見とは多少違っております。国民主権主義からこれを貫くことができるという見解を持っておるのでありますが、それは今日省略させていただきまして、最後にいま一点事実問題としてお尋ねいたしたいことは、第一審強化は極力われわれは推進したいと思う。ところが、これは具体的問題といたしまして私は現に経験いたしておりますが、第一審の裁判官がその人を得ざる人物があった場合に、第一審で控訴審が非常に狭められる、上告の門が非常に狭められるということになりますと、非常に困ったことが起るのでありまして、私は現在千葉の地方裁判所で千葉銀行恐喝事件の弁護を引き受けてやっておるのでありますが、その裁判長を忌避したのであります。実にもう常識をはずれた行動を法廷でやっておるのであります。それで、私は、これを忌避するとともに、なお弾劾裁判所に訴追をしておるのでありますが、日本弁護士連合会にも訴えました。こうなりますと非常に感情問題になってしまいますから、この判事が忌避せられなければとうてい公平な裁判を受けることはできません。しかるに、どうも調べますると、裁判官を弁護人が忌避したのが通ったことはたった一件しかない。あれも私は法律から考え直さなければならぬと思いますが、現在千葉裁判所で忌避したのは、その忌避された裁判官が、この忌避は不適当だといって却下するのです。そんなばかな理屈はないと思うのです。そうして今抗告しておるのでありますが、その抗告もまず通ったためしがない、そうしますと、われわれが忌避して信用できない、しかも先入観念で敵対的になっております裁判官の判決を受けなければならぬということが起るので、とうてい千葉の地裁では正当な判決はできない。これは東京の高裁に控訴して初めて真実の裁判を受けることができるのじゃないかと考えております。裁判官の忌避制度が今日のごとき状態であり、そうして、はなはだ常識を逸した裁判官が相当ある。先般私は事務総長に言いましたが、全国の各裁判所へ出かけて行ってみまして、その地方の弁護士から訴えられるのには、相当非常識な裁判官が第一審に多い。これは、裁判官の地位の保障の特権に隠れて、非常に官僚独善的な臭気を発散している裁判官が大へん多いのであります。これに対して適正なる監督指導というものはなかなかなされておらぬのじゃなかろうか。これは裁判官の身分保障から来る弊害だと思うのであります。行政官にはこういう者はなかなか存在しない。 そこで、私どもは、なるべく控訴及び上告の道は広く開いていただきませんと、弊害ができると思う。実際問題として、千葉の地方裁判所の刑事部の判事を忌避しますと、あそこは刑事部は一部しかない。その判事を忌避すると、かわりがないというのです。そして、実際問題としてはどうも仕方がない。そこで、弁護人、被告人とも、まるでけんか状態となっている裁判官の裁判を受けなければならぬ。東京なら幾らも融通ができるが、一部しかないから、かわりがないというのです。かわらしたいと思うけれども、どうもそれができないということになりますから、私は、控訴なり上告の道を広く開いていただきませんと、ほんとうの基本的人権擁護にならぬと考えております。真野裁判官は最高裁の判事とされまして下級裁判所の監督権もおありだと思いますが、こういうことに対してどうお考えになるか、お漏らし願いたいと思います。
○真野公述人 ただいま猪俣委員のおっしゃいましたことは、具体的の事件の関係のことはおっしゃいませんから知る由もありませんが、やはり忌避をしてそれが通ったケースが非常に少いということはわれわれも大体感じております。しかし、これはやはり上級の裁判所が下級の裁判所を救うとか助けるとをいう観念が過剰になっては私はいけないと思います。やはり、そういうことがあるならば、その裁判所は公平なる裁判をすることができないおそれのある裁判所、ちょうど憲法の三十七条にありまする公平を害するおそれのあるような裁判官であるならば、それは十分被告人の側から控訴、上告ができる。ことに、この問題は、私はこの案で示されたようなものでやはりこれは憲法問題になってくる点があると思う。公平な裁判所ということをやはり受けている。その事実があるかないか、かりに事実ありとすれば、弁護人の方の疎明が不十分であることもありましょう。これが通らぬと、判事だけでこうやって、十分な疎明ができないといううらみがあるかと思います。とにかく、そうでなく相当へんぱなおそれがあるというような構成で裁判をするというときには、やはり憲法問題であるわけですから、この案でいけば最高裁判所に行き得る余地はあると思います。
○三田村委員長 佐竹晴記君。
○佐竹(晴)委員 藤田公述人にお尋ねをいたします。先ほどの御説明によると、最高裁判所はすべてワン.ベンチでなければならないと解釈しなければならない憲法上の根拠はないと思う、しかし違憲審査についてはワン・ベンチでなければならないと御説明をなさいまして、その根拠は、第一に、各部まちまちで別個の判決をするようでは困る、第二に、憲法違反の問題だけを審理する判事があってはならない、この二つの例をおあげになりましたが、これは何か憲法上の根拠があるのでありましょうか。その前提といたしまして、最高裁判所小法廷はすべてワン.ベンチでなければならぬという解釈をする根拠はないが、しかし違憲審査についてはワン・ベンチでなくてはならぬと御説明をなさって、右の二つの例をあげられました。これは憲法上にどのような根拠をお持ちの意味でありましょうか、それを一つ承わりたいと思います。
○藤田公述人 これは、先刻も申したのでありますが、憲法解釈が複雑になってはならないということは、特に規定がなくても、違憲界蚕ということの本質から当然来ることだと思います。しいて条文の根拠を求めますれば、八十一条の、最高裁判所は違憲審査の終審裁判所である-。最終の有権的といいますか、公権的といいますか、最終のそういったオーソリティのある解釈をする裁判所としては、これはたった一つでなければならぬということが当然の帰結だろうと思います。
○佐竹(晴)委員 それならばお尋ねをいたしたいのでありますが、現在の小法廷においてもやはり憲法問題について審査を、なさっておるようでありますが、これは憲法違反でございましょうか。
○藤田公述人 私の議論に対する盲点はその点にあるのでありますが、これは、御承知の通り、最高裁判所の従来の判例があって、それに従ってやる場合に限っての措置であります。これも最終の判断とは言わなくてもいいんじゃないか。最終の判断がすでにあって、それに従って裁判をしておるということで解釈がつくんじゃないかと私は思っております。あるいは、しかし、厳格に言えば、小法廷のそういう裁判ができるといった、裁判所法の十条でありましたかの違憲問題が起るかもわからぬと思います。
○佐竹(晴)委員 真野公述人は、先ほどから、現行の小法廷が一般的に憲法違反であるという解釈の上に立っておるように承わりました。おそらくそういう御解釈ではないかと思いますが、その点については真野公述人にあとでお尋ねをいたしますが、ただいま藤田公述人から御説明をいただきましたけれども、どうも私どもには理解ができません。この八十一条には、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」、こうあります。単に違憲のみではありません。合憲であると判決する場合においても、やはり、この憲法八十一条の解釈からくるならば、しかもそれがワン・ベンチでなければならぬという御解釈ならば、小法廷ではやらされぬわけです。その小法廷がやっておる証拠には、今度の改正案にもこれを認めております。第八条の三の三項の三号に、「憲法その他の法令の解釈適用について、意見が前に最高裁判所又は小法廷のした裁判に反するとき。」、これが今の御説のお気持を取り入れた条文ではないとかと解釈するのでありますが、こういう規定をここへ持ってくることそれ自体が大へんな矛盾ではなかろうか。むしろ、憲法解釈に関して、ただいま違憲というお言葉がありましたが、八十一条には違憲とはありません。憲法に適合するかいなかを決定する権限を有すると、こうある。そこで、たとえば当事者が憲法違反だと言うて主張いたします。ところが、大がいの場合は憲法に適合しているという判決になります。適合しないという判決は、最高裁判所始まって以来二件かのように承知をいたしております。その他すべてが適合するということになっている適合するという判決は旧来どうもできるといったような解釈になっておるように見受けられます。第八条の三の三項の一号のカッコした中に、「(意見が前に最高裁判所のした、その法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するとの裁判と同じであるときを除く。)」といって、この部分は除外いたしております。適合する場合と違憲の場合とを区別いたしまして今度の改正法ができておるのでありますが、こういったずいぶん変な規定を設けることの根拠がわかりません。こういったものは、憲法解釈なら憲法解釈については筋を立てなければならぬ。この筋がもう少し大筋のものでなくてはならぬ。骨幹的なものでなければならぬと考えます。そうすれば、先ほどの御説のように、たとえば違憲審査なら違憲審査についてワン・ベンチでなければならない、それが八十一条の解釈の本質からくるのだとすれば、こういったところも同じようにこなければならぬし、結論は一結でなければならぬと思う。それをいろいろと区別をして取り扱っておりまするあたりが、これがどうもその根拠のないところを示して余りがあるのではないか。すなわち、現在、現在の小法廷において憲法に適合するという判決をどんどんせられておるのであります。適合しないというときになりますと、これはどうにも大法廷でやらなければ大問題でございますから仕方がないでありましょうけれども、適合するという場合においては小法廷でどんどんやっております。やっておりますが、八十一条には、適合するという場合も全部その規定の中に含まれております。適合するかしないかを決定する場合においても、八十一条の根本解釈からくるならば、これは小法廷はやれない、こういう見解に立たなければ筋が立たないし、現在の小法廷もこれは憲法違反であると解釈しなければ筋が道らないと思うのでございますが、いかがでございましょう。
○藤田公述人 私、違憲審査権という言葉を使いましたが、これは通常そう言われておるのでそういう言葉を使ったので、正確に申しますれば、憲法に適合するやいなやを、審査する権能、これはおっしゃる通りであります。違憲審査権という言葉が間違っておるということは宮沢教授もあげておられるので、おっしゃる通りそれが正確でございます。それは、今度の案の小法廷のことを最初お聞きにたったのではなく現在の小法廷のことをお聞きになったのだと思ってお答えしたのでありますが、現在の小法廷では、裁判所法十条によりまして、従来の大法廷の判決に従って合憲なりと考える場合だけしか小法廷はやっておらない。大法廷の判例がある場合に、大法廷のその意見と適合する場合はこれは小法廷でやれる。それ以外は小法廷でやれない。これはそういうことになっておるのであります。それから、従来の大法廷の意見に従った場合でも、これを違憲なりとすることは小法廷ではできない。すでに違憲なりとする大法廷の判決があってその通りの裁判をするのでも、違憲なりとする場合は小法廷ではできない。前に合憲なりとする大法廷の判決があって、それに従ってする場合だけが小法廷でそういう憲法裁判ができるということになっておるのであります。その点も、それだってやはり憲法審査じゃないか、だから小法廷でやるのは間違っているのではないかと言われれば、それはそういう解釈も立つとは思うのでありますが、その他こういうこともお考え願いたい。というのは、いわゆる違憲を名としての上告というものが、これは実にたくさん出るのでありますが、一体違憲を名としているのかどうかだって、これは憲法解釈じゃないか、憲法違反であるというのに、それが違憲を名としておるもので実質が法律違反だといっても、それだって憲法解釈じゃないか、それも小法廷じゃできないはずじゃないか、こういうふうに言われれば、なるほどそういうことも一理はあるのでありますが、そういうものはすべて小法廷でもって、これは真の憲法問題でないということで処理しております。まあここらが最高裁判所の実情であります。最高裁判所の小法廷が大法廷と同じような意味で合憲違憲の裁判をしておるということはないのです。
○佐竹(晴)委員 現在の小法廷が、裁判所法十条に基いて、小法廷でも憲法問題を扱うことが合憲的な場合にはできるんだ、こういうことでありますが、しかし、合憲であるかどうかということは審理してみなければわかりません。そうして、先ほど申し上げた通り、違憲だというのは裁判所始まって以来一件か二件しかない。こういう状態です。みな合憲です。名をかりてと言えば、みな名をかりている。けれども、これは深刻に当事者及び弁護人は必死になって争っている場合が多いのであります。結局、結論として、見解の相違で分れるところでありますが、それを、名をかりてだとか、あるいは合憲的だからできる、合憲だという判決をする場合にはできるということになっていますが、それだったら、もう小法廷で全部憲法問題を扱うことができて、何も憲法問題についてだけ審理をする判事がないようにしなければならぬなどというそういったような議論が根底からくずれてしまって、そうして、ほとんど小法廷の判事だけが憲法問題を、今言った裁判所始まって以来わずか二件しかない、それ以外のものはみな合憲的だという判決だから、かまわないというので、それが全部小法廷でやれるということになってしまうということになりますると、それはワン・ベンチでやらなくちゃならぬ、最高裁判所でなくちゃならぬといったような議論は根底から動揺してくるのじゃないかといったような気持がするのでおります。この点について島田公述人はどのようなお考えをお持ちでございましょうか。この際意見をお漏らし願いたいと思います。
○島田公述人 ただいまの御質問でありますが、現在の遠慮を理由とする上告に対する取扱いは、ただいま藤田公述人がお述べになった通りで、大体案の八条の三の第三項第一号に書いてあるようなあり方にしておるのが現状であります。しかしながら、私は、これは以前から疑問に思うておるのですが、憲法に違反するかしないかということの判断は、やはり憲法についての憲法上の判断である。つまり違憲の判断である。違憲といい適憲といっても、広く言えばやはり憲法に基く判断であって、その間に区別はないのじゃないか。適合するということは、違反するということを前提としなければ考えられない。適合するということも、違反するということを前提としなければ言われない。どっちにしても同じことで、その判断に甲乙はないと思うのでありますが、おそらく、これは、法令違反が上告の理由でないために、何とかそこに理由をつけて上告を通したいということから、法令に違反しておる場合でもこれを憲法違反とする。それもまた主張する方に理由があることで、憲法に違反しなくて法令に違反する、あるいはその反対の場合ということはちょっと考えられないことで、法令に違反すれば同時に憲法に違反しておる。これはやはり、窃盗事件だって、刑法に違反するとすぐ憲法にも違反しておるのだと思うのですが、この道が閉ざされておるために、むやみに憲法違反という主張をすることが多くなった。そういうことから、取扱い上現在のような扱いになっておるのじゃないかと思うのですが、これが憲法違反及び法令違反というふうに画然と理由が明らかになった場合にはどうなるであろうか。その場合もやはり現在と同じような扱いにしなければならぬものかどうかということについては、立法上考慮すべき十分の余地があるものと私は考えております。
○佐竹(晴)委員 この際真野公述人に伺っておきたいのでありますが、先ほど、今度改正しようといたしまする小法廷は憲法八十一条、七十九条に違反するではないか、こういう質問をいたしましたのに対して、お答えにいわく、異議の規定を設けて最終審として違憲審査を行うことができる道を開いておるから憲法違反ではない、かように御答弁なさいましたが、それはその通り承わりまして間違いないでありましょうか。
○真野公述人 その通りでございます。
○佐竹(晴)委員 そういたしますと、いかがでございましょう。現在の小法廷において憲法問題を扱っておることは、これは憲法違反ではございませんでしょうか。
○真野公述人 現在の小法廷は、先ほど来お述べになりましたように、前に最高裁判所の判例があれば、それに従って合憲であるとする場合には小法廷でもできるということが書いてあります。それから、最高裁所所ばかりじゃなく、すべての裁判所が、憲法に違反するかどうかということの判断は下級裁判所かできるわけです。みんなできるわけです。この小法廷は、合憲でも、しかも最高裁判所の先例のあるときだけにできる、こういうことになっておる。それができることとは八十一条には一向抵触しないわけですが、そこで、小法廷が合憲なりとしたその裁判に不服の道が許されぬということにると、いわゆる最終審として違憲審査をした、こういうことになるから、それはやはりそういう不服の道が許されぬものと解釈するならば違憲になるという私の見解でございます。ところが、国民は、最高裁判所に終審として違憲なりやいなやの判断を求める権利、そういう実体権があるわけですね。その、実体権があるけれども、そのときに最高裁判所にどういうふうな不服の手続を踏むかということについては手紙規定がないわけです。それで、一部の人は、手続規定がないからできないじやないか、こういう意見がありまするが、そういうことを言うならば、最終審として違憲審査をしたことになるわけであって、これは違憲であると思う。私は、そういう実体権がある以上は、たといこまかい手続の規定がなくとも、そういう不服の場合に、最も近いような方法によって不服を申し立てることができる、こう解釈しております。それだから不服申し立ての道があって、いわゆる憲法上の最高裁判所、今で言う大法廷に不服を言う道が開けておるものとすれは、小法廷が適憲の審査をすることが憲法にはならぬ.私はできるものだと思っておる。憲法上の権能として認められるものが、区々たる手続がはっきりと規定してないということのために閉ざされるというような解釈をとることは、これは司法全体の問題でありまするが、手続の区々たることによって、権利そのものの行使を認めないということはよほど避くべきものだと私は考える。やはり不服申し立ての道は現在でもある、こう思っております。従って、違憲ではないという結論になります。
○佐竹(晴)委員 私はそれがわからないのでございます。道理上そういうことができるのだ、それで条文規定がなくてもできるのだということになると、法律によって動いております裁判所のやり方なんかは、これから先はがちゃがちゃになると思うのです。大体最高裁判所の訴訟に関するいろいろの手続の規則を制定する権利というものは、一体どこから出たのか、また、あの規則に書いておることを、いやこれは間違っておるからといって別のこともできるか、書いてないことをまた別に規則を自分たちが編み出して運営ができるか、これはそう言ったらとても許すまいと思います。おそらくこれは真野裁判官においてはお一人でお考えになっておりましょうが、ほかの事務官あるいはほかの裁判官に、道理上こうだといって私どもが言いましても、規則がないという一言ではねつけられてしまうと思います。もし、規則にもない、裁判所法にもない、訴訟法にもない、それから裁判所、最高裁判所のきめた規則にもない、ないが異議ができる、こういうことを最高裁判所の裁判官が責任を持っておっしゃるということになると、これは私は重大問題になるのではないかと思う。と同時に、先ほどおっしゃっておられる、今度の改正法はともかく異議の道を開いたのだから、だから憲法違反にはならないと言われるが、現行法は異議の道を開いてない。だから、現在の小法廷は憲法違反だ、こうどうしても解釈しなければなりません。今日われわれに配付せられておる資料によりましても、一番最初に、真野裁判官及びその他の方々が衆議院の議長室に集まっていろいろ御意見を吐かれた中に、真野裁判官が、小法廷というものは憲法違反だということを御主張になって、そのことが非常に今度の改正を促す何といいますかポイントになっております。この改正のむしろ根源をなしております。きょうの御説を聞いておりましても、異議の規定を設けたから、今回の改正法によるところの小法廷というものは、やはり異議の道が開けておるのだから、別に憲法違反じゃない、こう言えば、現行法の小法廷は憲法違反だ、そうすれば、憲法違反の小法廷の構成員――御自身が構成員になっておる。御自分が憲法違反の裁判をなさっておるということを現在の裁判官からもし言われたということになると、これは許しがたき大問題であります。そこで、真野公述人といたしましては、いやそれは当然許されるのだからできるのだと言ったら、それは一体どういう方法によるのでございましょうか。これは今度の改正で異議と規定をして参りましたが、それはこういう規定を設けないときにはどうでございましょう。異議でやりましょうか、再審みたいな方法でやりましょうか、あるいは特別上告でいきましょうか、あるいはそれに対しては決定によって裁判が与えられるものでございましょうか、また判決によってそれが結論づけられるものでございましょうか。もしそんなことを真野裁判官御自身がこうだああだと言って規則なき規則を御制定になるとすれば、これは真野裁判官お一人の規則であって、ほかの人の異議があったらどうでしょう。これは通用しないと思う。規則なきことろに一つの規則あるがごとき――成文法によってわれわれはすべて行動をいたしておりまするが、それによらないで、そういったような不服申し立ての方法を、自分が、私どもが実行することが果してできるであろうか。われわれは容易に今の公述人の御一言に承服することはできません。いま一つ御意見があれば承わっておきたいと思います。
○真野公述人 つまり、最終審として違憲審査を最高裁判所でない裁判所がするというときには違憲になるわけです。この法律案によりますれば、異議という不服申し立ての道が開けておる。その不服申し立ての道が開けておるから、違憲審査について最高裁判所の終審の判決を受けたいというところの当事者は、最高裁判所へ不服を申し立てることができるわけでしょう。それだから、その小法廷でやった裁判というものは、終審としてしたのじゃない。終審としてでなく違憲審査をするということは、あにひとり小法廷ばかりじゃなく、すべての下級裁判所ができるわけであります。ただ、その小法廷のした合憲の裁判に不服申し立ての道を認めぬということになれば、そこで小法廷の判決が終審としてしたことになる。終審として合憲の判決をしたことになるから、それは憲法の八十一条に反する、こういうことになる。 それから、現在の小法廷のことは、本案の討議にはさほど重要なことではありませんが、関連はいたしております。しかし、現在の小法廷で、法律も規則もないのに、そういう手続を一人で認めるのは違憲じゃないか、こういうお話ですが、そうじゃなく、八十一条によって、憲法上違憲審査を最高裁判所に求める権能はあるわけです。そういう失体権のようなものはある。つまり、基本的の人権が憲法上認められておるそういう場合に、その行使の方法いかんというところの手続について規定がないから、その憲法上認められておる権能がすべて行使できない、こう見るよりは、やはり、判決ならば判決に対する不服の道として手続を進めれば、最高裁判所は受けつけるべきものだというところの見解です。ただ何もないというのでなく、つまり憲法上の権能はあるわけです。憲法上の権能はあるが、それを行使する手続規定を欠いておるような場合には、何かの方法で救済するのが当然である、こういう考えです。
○佐竹(晴)委員 私ども、今最高裁判所の御判決をいただきまして、これが最終審の判決でないと思っている者は、八千万国民一人もありません。今の小法廷で御判決をいただきますれば、みなこれは最終審だと思っております。ただわずかにこれに対しては判決訂正の申立てができる。従って、訂正申し立てば盛んにやっております。私ども国民の側から見れば、最終審だときめつけられておると思っておるのでありますから、私はその国民の気持を代表して、どうも今の御説が納得がいかないと思いますので、国民に納得のいくような御解説がもしあれば承わっておきたいと思っただけであります。 私はこれでよろしゅうございます。
○真野公述人 今の、つまり国民は最終審として小法廷がやるのだと思っておる、こういうことはある点においては事実でありましょう。しかし、そういう議論が通るならば、小法廷が最終審として違憲審査をしたということになるから、それはやれば、憲法違反という結論に、あなたもさっき言ったような結果になるわけです。けれども、いまだかつて、違憲審査で違憲審査権を小法廷が行使したことは違憲であるということはあまり出てこなかったようです。
○三田村委員長 他に御質疑はございませんか。――なければ、これにて本日の公述人に対する質疑は終了いたしました。 この際委員長より公述人各位に対し一言お礼を申し上げます。長時間にわたり熱心に貴重なる御意見をお述べいただきまして、ありがとうございました。今後の審査に十分参考にいたして参りたいと存じます。 本日はこれにて散会いたします。次会は明十日午前十時より開会いたします。 午後六時二十五分散会