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26回国会衆議院1957/04/25

法務委員会 第29号

発言数
116
登壇者
10
会派数
4
開催日
1957/04/25

会議録

三田村武夫自由民主党

○三田村委員長 これより法務委員会を開会いたします。  裁判所法等の一部を改正する法律案を議題とし、審査を進めます。  本日は田中最高裁判所長官の出席を得て、審査を進めて参りたいと存じます。  それでは質疑に入りますが、質疑に入ります前に、田中長官に一言ごあいさつ申し上げます。長官には、公務御多端の折柄、本日はわざわざ委員会に御出席願いまして、貴重な御意見をお述べいただくことは、本案審査の上に非常に重要な資料となることと承知いたします。一言ごあいさついたします。  まず委員長から二、三の基本問題について長官の御所見を伺いたいと思います。  最初に、今回の政府原案に関連いたしまして基本的な問題を二、三お伺いいたしたいのでありますが、まずその第一は、最高裁の機構は現在のままでいいのか、あるいは何らかの改正を必要とするかという点について、今日の最高裁判所発足以来その最高責任者としての地位、職責にあられました百長官の立場と責任において御所見を伺いたいと思うのであります。御案内の通り、本案件は三月の八日当委員会に付託されまして、すでに十三回委員会を開いてきております。その間、公聴会を開き、二十八人の公述人の御意見を伺ったのでありますが、問題の重要性にかんがみて、委員諸君の中にもいろ  いろの意見があるのであります。幸い本日は長官の御出席を願いましたので、長官の立場から、今申しました、最高裁判所の機構は現在のままでいいのか、何らかの改正、修正を加える必要があるのか、こういう点についての長官の御所見をまず伺いたいと思います。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 初めに、三田村法務委員長から御丁重なごあいさつにあずかりまして、まことにありがとうございました。  ただいま委員長から、最高裁判所の現在の機構のままで差しつかえないか、つまり改正する必要があるかないかということを、就任以来の経験からして話してほしいという御質疑でございました。  結論を申し上げますと、私、七年間足らずの過去の経験から申し上げますと、この問常に、このままであってはならないじゃないか、何とか改正しなければならないということを考えて参って今日に至ったのでございます。さように考えるようになったのは、一方、多数の――時は御承知のように七千件くらいに上っておりまして、今日はだんだん幸いに減って参ったのでございますが、それでも四千七、八百件、あるいはもう少し減っているかもしれません。そのくらいはあるのであります。その間に相当長い期間を要し、また遅延をしておる事件もないではありません。従って、このままでいいのかどうかということにつきまして、改正意見が――いろいろの改正意見がございましょうが、とにかく改正意見が出ることはきわめてナチュラルであり、私自身も、何とかしなければならないということを常に考えて参ったのでございます。  一応ただいまのお答えといたしました。

三田村武夫自由民主党

○三田村委員長 次に、当然のことをお尋ねいたしましてはなはだ恐縮に存じますが、わが国裁判所法の最高権威の立場にあられる田中長官が、いわゆる国権の最高機関である国会の委員会に御出席になり、御発言になりますことは、今回が初めてのように存じております。そういう点を御了承願いまして、裁判、司法権の基本問題について二、三御所見を伺いたいと思います。  その第一は、裁判すなわち司法権の作用というものは、憲法に保障された個人の権利及び自由並びに公共福祉のを変ることを本来の使命とし、任務とするものである、こういうふうに考えられるのであります。そういう基本的な立場から当委員会においては本案に臨んでおるような次第でございますが、この点に対する長官の御所見を伺いたいと思います。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 ただいま委員長がお述べになったように、司法権が、個人の自由及び人権を保護、伸張し、また公共の福祉の増進あるいは公共の福祉を守っていく、実現していくという目的を持っておるということは申すまでもないことでございまして、立ち入って申しますと、われわれ、大法廷あるいは小法廷でもって審議しております場合に一番問題になるのは自由人権と公共の福祉との関係でございまして、その問題をどういうふうにして適正に処理していくか、ボーダー・ラインをどこに引くかということに一番苦労して参っておるのでございます。これは以前の裁判所では経験したかったところでございます。さような任務を負担しておる裁判所でございますから、その機構の問題につきまして、公共の福祉の見地から御検討にたるということは、きわめて当然なことではないかと思っております。

三田村武夫自由民主党

○三田村委員長 ただいまの長官の御所見に従いまして、次の点についてさらにお伺いいたしたいと存じます。  長官の御所見の通り、私たちもその観点からこの法案の審議に当っておるのでありますが、従って、裁判、司法の制度、機構に関する改革、改正について立法する場合の態度でありますが、この場合の態度といたしましては、既成現存の裁判所の事務的便宜ないしは内部事情――率直に言いますなら、は、裁判所当率者の裁判事務運営上の便宜に重点を置いて審議し検討することももとより必要であり当然でありますが、さらに重要なことは、個人の自由の尊重、公共の福祉を守るためには、どのような制度、機構がより合理的、効率的であり、かつ妥当性かあるかということが大切ではないかと思われるのであります。端的に申しますと、国民の利益の立場、国民のための裁判、司法、こういう立場に立っての審議、立案というものが必要ではないかと考えられるのであります。この点に対する御所見を伺いたいと思います。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 ただいま委員長がお述べになりました点、私全面的にそう思います。裁判所の立場のみから改革案がこうでなければならぬというようなことは、司法に関与しておる、裁判所以外の広い意味の機関――検察官あるいは在野法曹という、そういう立場のみから改革案がこうなければならないというのと同じように、私は間違っておると思います。この三者とも広い意味における司法運営の機関でございますから、全部を見て、司法の目的が一体どこにあるかということから考えて構想をきめなければならない。それは、結局、国民全体の司法に対して要望するところをよく考えて、しかもその能率を上げるということをやはりまた同時に考え合せなければなりませんので、具体的に申しますと、訴訟の促進、これもやはり最も国民の利益に関係のある一つの点でございますから、裁判所は能率をもっと上げなければならない。これは、裁判所だけのためではなくて、国民全体のためを考えて、その方に努力しなければならないと存じます。この程度で……。

三田村武夫自由民主党

○三田村委員長 次に、これは私年来所念しているところでありますが、国民主権の立場に立つ民主国家においては法秩序というものが厳粛に守られることが一番必要だと考えられます。すなわち、裁判、司法に対し国民の高き信頼が保たれなければならないということは当然でありまして、その見地からいたしますと、裁判の権威というものをどのようにして高めていくかということが非常に重要であろうと思われるのであります。しかしながら、権威といっても、長官も御承知のように、旧憲法時代に乱用されたいわゆる権力主義的な権威ではなくて、国民の意思に淵源した、国民主権の上に立った権威でなければならないということは、これは申すまでもないことであります。この意味から、私は、現在の最高裁判所が、いわゆる憲法裁判所としての立場、これは相当強く出ているようでありますが、そういう立場から見ました場合、日本の現行憲法の上からどういうことをくみ取るべきかということも、きわめて重要でないかと思うのであります。御承知の通り、日本国憲法は、その前文の冒頭に、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、」、こう書き出しておりまして、続いて、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」、こうあります。これが憲法の本来の姿であり、またその精神である、これがいわゆる民主憲法の本体であるということは申し上げるまでもないことでありますが、これによって明らかであるように、裁判の権威、司法の権威は、国民に由来し、国民を背景とした権威であり、その受益者はやはり国民でなければならぬということであります。すなわち、裁判の権威、司法の作川というものは、裁判所のためにあるものではなくて、あくまでも国民のためにあるものでなければならない。これは言うまでもないことであります。さらに一言つけ加えたいのでありますが、長官も御承知のように、天皇主権から国民主権に置きかえられました現在の日本においては、公共の福祉と個人の自由を守る最後のよりどころと申しますか、いわゆるとりでであります、これは法の秩序と裁判、司法に対する国民の信頼以外にないと思われるのであります。もしこれが失われたならば、それは暴力革命、暗黒政治を意味するものでありまして、もはやそこには民主的諸制度は根底から失われてしまうということをわれわれは一番心配するのであります。だから、私が率直にお尋ねいたしたいことは、裁判の権威、司法に対する国民の信頼をどのようにして国民の中に打ち立てていくかということであります。今度の機構改革に当っても、このような観点に立って冷静に厳粛に検討を加えることが必要だと思っているのであります。こういう点から考えますと、先ほど申しましたように、十三回の委員会を通じて、当委員会が、少くとも委員長として最も深き悩みは、どのようにして裁判、司法の権威というものを国民の中に打ち立てていくか、これは、裁判の便宜のためでなくて、その受益者は国民である、法の権威、裁判の権威の背景になるものは国民だ、こういう立場から考えなければならないということを切実に考えられるのであります。長官もおそらくは御同感であろうと思いますが、あらためて御所見を伺いたいと思います。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 新憲法のもとにおける裁判所の地位あるいは司法権と、明治憲法のもとにおけるさような裁判所の地位、使命というようなものとは、その根本の性質において違っており、現在、つまり国民主権のもとにおきましては、国民の利益になる、国民の信頼に値するような裁判所でなければならないということは、きわめて当然でございます。特にまた民主主義国家の基礎になるのであります。さような基礎になる憲法その他の法秩序を守っていくということにつきましては、国民の協力がなければなりません。国民の協力の基礎のもとに、裁判所は課せられた使命を果して参るわけでございます。従って、国民と裁判所との間のつながりは、旧憲法のもとにおけるよりも一そう密接になって参ったと申していいのでございます。この点は国民審査の制度等にも現われておるわけでございます。ただし、裁判所は権威を持っていなければならず、その権威が認められなければなりません。単なる官僚的、形式的権威を裁判所は主張するというわけではないので、実質的に裁判所の権威を高めなければならないわけでございます。それには、裁判所が正しく職責を行い、また能率も上げなければならないということになるのでございます。また、裁判所が国民の信頼を得、適切に裁判事務を運営して参りますために、やはり制度の面でも必要があれば改めるということはやむを得ないことになって参るわけございます。結論を申し上げますと、委員長の御質疑のお言葉の中に現われておったような趣旨につきまして、私はお説の通りであるというふうに申し上げていいんじゃないかと思っております。

三田村武夫自由民主党

○三田村委員長 次に御所見を伺いたいことは、以上お尋ねいたしました趣旨に基いてでございますが、具体的に問題点に入りますと、長官御承知のように、今この委員会で審議いたしておりますのは、裁判所法等の一部を改正する法律案、すなわち最高裁の機構改革に関する法案であります。実は、先ほどから申しますように、十数回も委員会を開いて、あるいは公聴会の席で各界の権威ある方々の御意見を伺って、いろいろこの法案の審査に当ってきたのでありますが、どのようにして基本的人権を守るか、どのような制度機構に改めたならば、公共の福祉が守っていけるか、そうして国民の信頼し得る制度機構になり得るかという点については、なかなか名案が出てこないのであります。そこで、委員会の大体の態勢といたしましては、いわゆる増員論、最高裁判所の機構を、長官のほかに判事を三十名置くとしまして、その増員された判事を数部にわけて、民事、刑事の審理を促進する、憲法判断その他の問題については、特に重要な点に関し特別にルールを設けてその審査に当る、こういう方向が委員会の意向としてややまとまりかけてきていることは御承知のことと思いますが、それに対して、最高裁の御意見は相当強硬な反対の御意見のように伺っておるのであります。私の伝え聞くところによりますと、増員論は絶対反対だ、もしそれ委員会で増員論を強行するならば裁判官会議の議に付して反対するとか、あるいはまた、修正案が実現するならば違憲の判決をするのだとか、何分にも良識ある一流の人材によって構成されている最高裁判所でありますから、こういういろいろな風説は単なる風説にすぎないと思いますが、しかし、昨日も最高裁判所の判事の方々六人に御出席を願いまして懇談を重ねたのでありますが、やはり増員論に対しては強硬な反対の御意見であるように伺いました。それはそれとして了承いたしますが、しからば、長官が冒頭にお述べになりましたように、現在のままでいいとは思わない、何とか最高裁の機構は改めていく必要がある、こういうお考えについては、私は、長官初め最高裁の裁判官の方々も御異論はなかろうと思うのであります。ところが、政府原案によるあの改正案なるものについては、なかなか議論の多い点でありまして、果して審理促進に役立つか、基本的人権を守ることに役立つか、憲法上疑義なきゃいなやという点について、なかなかむずかしいのであります。そこで、委員会として出てきたものは、いわゆる増員論でありまして、これも、思いつきではなく、当法務委員会におきましても、御承知の通り数年前より研究に研究を重ね、その努力と研究の上に積み重ねた一つの方向でありまして、委員会といたしましては、そうむちやなことを考えようとは実は思っていないのであります。そこに大きな悩みがあり、われわれの苦労があるのでありますが、増員論は反対だ、また、公聴会の席上でいろいろな御意見を伺いますと、政府案にも、これは妥協案でしょうがないから賛成してみたけれども、決して満足してないとか、中にはまっこうから反対する方々もあります。それなら、憲法に定められた国権の最高機関として唯一の立法の府たる国会におけるわれわれの責任はどうして果していくかといった深刻な悩みにぶつかるわけであります。  そこで、私は率直に長官に伺いたいのでありますが、増員論もいけない、現状のままでもいかぬということになると、委員会といたしましては、政府原案、すなわち、最高裁判所小法廷なる中二階的なものを作って実質的に四審制にすることも、これは審議促進の逆効果しか生まない、こういう見解に立つ場合、長い御経験をお持ちの長官に何か名案がおありではないかという気がするのでありますが、何か名案がありましたら、この機会にお教え願いたいと思うのであります。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 現状では最高裁が十分その使命並びに任務を遂行することができない、何とか変えなければならない、その何とか変える、どういうふうに変えるかという問題につきまして、いろいろ意見が分れますわけでございますが、私自身就任いたしましてからずっと今日まで感じましたところの一つは、現在の最高裁判所の裁判官、私の同僚が、元来端的に申しますと一定のわらじをはいて仕事をしておる、一つは大法廷事件も処理しなければならず、他は小法廷の事件も処理しなければならない。ところで、最高裁の本来の使命、憲法が予想しておると患われるような、さような使命は一体とこにあるのだろうか。これは、旧大審院時代、つまりわが国の当時の司法の最頂点にあった大審院と同じものであるであろうかどうであろうかということがまず問題になりました。これはまあ詳しく申し上げると切りがないことでございますが、大審院時代の裁判官に要求されたところと現在の最高裁判所の裁判官に要求せられておるところと違っておる点が相当にございます。そういうような点から考えてみまして、果して現在のままで現在の最高裁判所の裁判官が制度の精神から要求されておるような事柄に専心できておるかどうかということが問題でございます。で、その点から考えてみて、われわれがほんとうに専心しなければならない大法廷事件について、各裁判官が小法廷事件にあまりに追われておるために大法廷に力を注ぐことが十分できないということが、私が感じましたところの一つでございます。  それから、もう一つは、大法廷事件を処理いたしますのにつきまして、これも具体的の問題につきましてはまたあとの機会にもしチャンスがあればつけ加えさせていただきたいと思いますが、大法廷事件を処理いたしますのにつきまして、人数が十五人では非常に多過ぎるということを感じましたのでございます。これは、私ばかりの意見ではございませんで、各裁判官全部同じように考えております。特に、合議を、運営を合理的にやっていこう、能率を上げなければならないと感じまして、特に痛切に感じておるのは裁判長でございます。合議の事情からして、この点を特に痛切に感じました。いろいろと大法廷の合議の促進等につきまして試みをいたし、いろいろ案を練り、それを実現しようというふうに努力して参ったのでございますが、全然努力のかいがなかったとは思いませんけれども、しかし、今日までその結果がなかなかはっきり現われて参りません。これは結局やはり数の問題に関係があるのではないか、これは大ぜいの合議体に当然帰着するところのやむを得ない結果ではないかというふうに考えたのでございます。つまり、五人でもって五時間かかる、各員が同じように発言したとしますならば、十人に人数がふえますると、十時間では済まないで、三十時間、五十時間、あるいは百時間くらいかかるかもしれません。それが十五人になると、百時間、二百時間、三百時間、あるいはもっとになるかもしれません。さような合議体の能率を上げるための人数との関係を研究したものも外国にはあるらしいのでありますが、とにかく、これは常識的に考えましてもさようなわけであります。  そこで、この人数の十五人を九人にいたしますと、大法廷に費すところの時間の分量でございますが、これはきわめて空漠なことで、はっきりした科学的なことを申し上げるわけにはいかないのでございますが、おそらくは半分、あるいは場合によっては三分の一、十五人でやるのと九人でやるのとではそのくらいの違いができてきやしないかというのが、私の直感的な結論なのでございます。と申しますのは、議論のコンビネーションが非常にふえて参りますから、極端な場合を考えますと、一人対十四人で議論をするというようなことが、一人対八人に、議論の相手がそれだけ減りますと、これは大へん数が違ってきます。そういうような点から考えましても、最高裁の裁判官の人数が減ることによって、大法廷の事件がずいぶんはかどるというふうに見越しておるような次第でございます。  しかしながら、しからば現にやっておる小法廷の事件がどうであるか、国民はやはり早く判断を待っておるわででありますから、従って、現在の十五八の裁判官で小法廷を三つに分けてやるという建前は、これじゃ十分でないんだ、従ってその人数を十五人から三十人にふやすという政府の御提案も、きわめてわかりやすい合理的なものであるというふうに考えておる次第でごいます。

三田村武夫自由民主党

○三田村委員長 もう一点、ただいまの長官の御所見に関連してでありますか、お伺いいたしたいのであります。それは、長官御承知の、現在の日本の最高裁判所というものは、占領中の所産という言葉は語弊があるかもしれませんが、アメリカの最高裁判所の性格と申しますか、そういう形態からスタートしているということは何人も了承している点であります。そこで、一つの問題点は、おのおのその国によって政治の制度あるいは司法制度、機構というものの淵源があり、育ちがあり、またその存在価値があることは申すまでもないのであります。日本の司法も、これは今卒然として生まれたものでなくて、かつて高く権威を持ったこともあることは長官御承知の通りであります。われわれもそういう経験を持つ一人でありますが、そういう観点からいたしますならば、現在の最高裁判所の機構は、端的に申しますとアメリカ的なシステムと申しますか、それは全部必ずしも日本の現状、国民生活に妥当するということは言い切れないと思うのであります。名前は差し控えますが、先般公聴会を開いた際の公述の御発言の中にも、増員論は量的変化から質的変化を来たす、こういう御意見もあったように私記憶するのであります。それはいろいろな意味が含まれておると思いますが、量的変化から質的変化を来たすというその言葉に敷衍された意味は、米英法的な性格から旧ドイツ法的な性格になる、それは非常にいけないのだという意味が含まれておったと思います。われわれは必ずしも旧ドイツ法、旧大審院時代のものに戻そうという考えは持っておらぬけれども、これは、冒頭に申しましたように、長官も同じ御意見であったように私記憶するのでありますが、これは日本の司法制度であり、日本の裁判制度でありまして、どういう改革がより合理的であるか、同時により妥当性があるか、より国民の利益に合致するかというところに、私は改正案の重点がなければいけないと考えるのであります。今の最高裁判所のスタート、育ち、その歩みが、米英法的な、端的に申しますと、アメリカ的なものである、あくまでもこれを守り、あくまでもこれを育てていかなければならないという立場に固執する――固執するという言葉にはもちろん語弊がありますが、そうでなくて、どういう機構制度に改めることがより合理的であるか。冒頭に申しましたように、その由来するものは国民でありますから、同時に受益者は国民でありますから、受益者でありその司法権の淵源となる国民の意思という立場からするならば、日本の裁判の機構、制度のあり方についても考えてみる必要があるのではないかと思います。今長官のおっしゃいました合議のあり方というものについては後刻各委員からも御発言があると思いますが、根本の問題として、私はそういう点に今の日本の立場からして非常な悩みがあることを感ずる一人であります。戦争が終ってすでに十二年、占領政策の遺物という言葉は使いませんが、とにもかくにも、各般の制度、機構にわたって改正、改革、改善を加えなければならない点があることは長官も御承知と思いますが、そういう中の一つの重要な課題として、十年育て上げて参りました最高裁判所の機構、従ってこれは下級裁判所にまでつながる日本の裁判制度全体の性格に関する一つの問題でありますが、そういう点について、どのようなお考えをお持ちになつておりますか、長官の御所見を伺いたいと思います。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 裁判所関係者といたしまして、わが国の裁判所の性格がどういうふうでなけれ、ばならないか、またその運用の方法がどういうふうなものでなければならないか、また終戦後なされた改革に対してわれわれはどういう態度をもって臨まなければならないかということにつきまして、委員長からきわめて根本的な御質疑があったわけであります。  これは、ほかの制度なりまた機構等につきましてもひとしく問題になるところであります。新憲法施行十年後、占領中及び占領後にできたところのいろいろな制度を再検討する必要があるではないか、これもごもっともしごくでございます。しかし、その場合に、私どもは、占領中にできたものであるから、その内容の当否はおいてとにかく再検討するというようなふうには皆さんも考えておられるとは思いません。そういうような風潮が世間にもないわけでもありませんが、アメリカから受け継いだ制度だから特にこの際批判的に見なければならないというようなふうにもわれわれは考えていないのでございます。これは、アメリカと違いたシステムをとっておりますところのドイツの制度についても同じように考えられます。元来日本はドイツ流の裁判所制度をずっととって参ったのでございますが、このドイツで現在やっておりますことは、アメリカ的の系統には属しないで、やはり従来の通りの裁判所の機構でもってやっているわけでございます。いろいろ聞いてみますと、不満なところもあり、弊害があり、アメリカ的なものを取り入れた方がいいのだという説も聞きましたし、また、アメリカに行っている欧州大陸の学者は、アメリカ法はこういう欠点があるのだ、これはどうもよくない、日本はアメリカの欠点を戦後受け継いだのだという皮肉な鋭い批判をしておった。アメリカから来た欧州系統のプロフェッサーが言っておったこともございます。そこで、民卒、刑事の手続、その運用の方法等は、これはどうしてもいろいろ再検討しなければならない点が相当あるのじゃないかと思います。  ところで、最高裁判所の根本的性格あるいは使命とかいうことになりますると、新憲法が存在していなかった時代と新憲法下における裁判所の使命というものは根本的に違っておるのでございます。そうしてこれはアメリカの制度に範をとっているということも事実でございます。しかし、さかのぼれは、やはりイギリスの法律的なものの考え方に基礎を置いているということも事実なんであります。そういう系統の法制をとっている国は、カナダだとか、オーストラリアだとか、インドだとか、いろいろな国がございますが、われわれは、そういう根本的の建前のもとに、運用をどうしていくか、訴訟手続をどういうふうにして合理化していくかということにつきまして、この点は再検討しなけれ、ばならない点が多々あると存じます。また根本の組織の問題につきましても、現にこのたび裁判所法改正案が出ており、御検討を願っておるわけでございます。しかし、それは、各国の制度を十分比較し研究するということも、そのためにはためになることではないかと思います。しかし、新憲法のもとにおける裁判所だという、この根本的の性格の範囲内における各国の制度の長所及び短所をとって構想を考えるということに帰着するのではないかと存じます。

三田村武夫自由民主党

○三田村委員長 最後にいま一点。冒頭から私は同じことを言ってきているようですが、国民の立場に立っての長官の御所見を伺いたいのであります。先般、いつでしたか、長官のお招きを得まして、ごちそうになったことがあるのであります。その際、長官のごあいさつの中に、裁判、司法というものは実は教育よりも重要なものである、自分はかつて教育の仕事に携わっておってしみじみそれを感ずるのだ、この教育よりも重要性を持つ裁判、司法というものをどういう形において国民に理解せしめ納得せしめるか、これは非常に重要な問題だというごあいさつがあったのであります。私は非常に貴重なる御発言だと思って伺ったのであります。その通りであります。が、しかし、遺憾ながら、今長官のおっしゃいましたように、アメリカの市民がアメリカの裁判制度に親しみかつ理解を与えているほど、今の日本国民一般は裁判に親しみかつ理解を持っておらぬ、これは現実の姿であります。たとえば、率直に申しまして、これほど重要な法案を今国会で審議いたしておりますが、言論機関もラジオもあまり国民の前にこれを知らせない。新聞の三面を見ておりますと、殺したとかなんとかいう事件がでかでかと大きく現われて参ります。しかしながら、それがどう結末されるかということは、これはただ一に裁判、司法のあり方にかかる問題でありますが、その根本問題になると国民の理解が薄い。これはどうしたらいいかということが私は非常に悩みだと思います。先ほども申しましたように、民主政治のもとにおいて裁判、司法の権威というものはきわめて重要でありまして、裁判、司法に対する国民の信頼、法の権威に対する国民の信頼が失われた場合は、私は民主政治は根底からくずれてしまうと思う。そういう観点に立つならば、裁判、司法に対する国民の理解、納得というものを徹底的に深めていくことが必要だと思うのであります。ただいま申しましたように、長官の、裁判、司法の問題は教育よりも重大である、そういう御所見、まことに私はその通りだと思うのでありますが、そういう観点から考えまして、この裁判、司法というものをどうしたら国民に理解せしめ納得せしめることができるか、つまり、より深い関心を持たせ得るかという点に関して、何か御意見がありましたら、幸いいい機会でありますから、この機会に御発表願いたいと思います。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 私が、裁判ということは教育よりも重要なものであると申しましたとすれば、その意味は、ある社会生活の観点からのことでございまして、社会生活のミニマムな秩序を維持していくことが非常に緊要なことであるという意味だと御解釈を委員長にお願いしたいのでございます。決して、教育と司法というものをバランスにかけて、教育は下で司法が上だという意味で申したわけではないのであります。速記録等に載りまして誤解を招くと困りますから、弁明させていただきたい。つまり、いわば教育者は保健医みたいなもので、あるいは衛生医みたいなものでございます。裁判官は臨床医、現に手術をするお医者さんみたいなものでございます。どちらもきわめて重要な地位にある。しかし、保健医よりは、急場にかけつけて療治をするのは臨床医なのでございます。  しからば、第二に、一体国民は裁判のことにあまり関心を持っていないじゃないか、これは確かに私はそうだと思います。裁判官、検察官、在野法曹等の任務たるや、きわめて地味なものでございます。また、さような事項を審議されるところの法務委員会の方方のお仕事もきわめて地味なもので、ほかの政治的な問題と違って、国民の注意を引くことが比較的少いと申していいのでございます。委員長も言われましたように、アメリカなどの司法というものに対する国民の関心が非常に高い、日本はそうでない、これははなはだ遺憾なことだ、これは実に私アメリカに参りまして感じたことでございます。アメリカのみならずイギリスあるいはそのほかの大陸法系の国に参りましても感じたことでございます。これをどうするかということは、結局今度は教育の問題になって参ります。学校教育、社会教育の問題になって参ります。また、やはりこれは順法の精神、あらゆる機会において、ことに憲法の普及徹底というようなこと、その他現在の法制の精神あるいは法律制度の根本にさかのぼって、国民に社会教育、学校教育を通じて理解させるということ。またわれわれがわれわれの仕事を通じて理解させるということ以外に、名案というのも特に見当りません。しかし、社会教育の面においては、ただいま委員長が指摘せられましたジャーナリズムの傾向に対しても、われわれ希望すべきとろが多々あると思うのでございます。しかし、これはなかなか時を要することでございまして、新憲法等ももう十年たったのでございます。幾らかインブルーヴしたかもしれませんが、前途遼遠だという感がいたします。これは結局日本の民主主義の盛衰と運命をともにするものじゃないか。司法というものは、民主主義の発達した国においてますます権威を持ち、そうでない国、独裁国家というような国においては司法の権威は非常に低かったということからしても、民主主義国家においてますます高い。一般に民主主義が高くなればなるほど司法の地位も上るのではないか。さような大きな政治的の問題にも関係しておると存じます。

三田村武夫自由民主党

○三田村委員長 以上もって委員長から長官の御所見を伺う事項は終りました。  ただいまから委員諸君の御発言に移りますが、この際委員長から一言委員諸君に申し上げ御了承を得ておきたいと思います。田中長官は政府委員として御出席願ったのではないのでございまして、国会法に定めるいわばみずからの権限に基いて御出席になったのでありますから、そのお立場もあり、また国会運営のルールもありますので、具体的な事件の取扱いについての御質疑はなるべく御遠慮願うよう、委員諸君の御良識に期待いたしたいと思います。  それでは、発言の通告によりまして質疑を継続いたします。池田清志君。

池田清志自由民主党

○池田(清)委員 ただいま委員長から基本的な問題につきましてのお尋ねがありましたので、私はやや実際的な事柄について二、三お尋ねを申し上げたいと思います。  その第一点は、当委員会において質疑応答が重ねられて政府の確答を得ておる事柄でありまするが、最高裁判所長官としてのお考え方をお尋ねしたい事柄であります。すなわち、それは、最高裁判所がいわゆる司法裁判所であるか憲法裁判所であるかという問題であります。政府の今までの答弁によりますと、最高裁判所は憲法八十一条によりまして憲法の審判権を有するのではありまするけれども、それは司法権の建前からいたしまして具体的争訟についての審理、裁判をなすものである、こういうお答えに要約されたと思うのです。憲法におきましては、御承知のように、憲法に背反する法律等は無効であることに相なっておるのでありまするが、神様は無効な法律を御承知でありましょうけれども、人間としてはそれがわからないというのでありまして、結局は無効なる法律等によって個人的な人権、基本的人権が侵害せられたとすると、国民がその具体的な事件の救済を最高裁判所に終審的に求めるのが八十一条の規定であるという御説明であったと思います。従いまして、さらに進みまして、法律そのものを無効を確認して、これを公示するといういわゆる抽象的な違憲裁判権というものは最高裁判所におきましてはない、すなわち、現行日本国憲法のもとにおいてはその権能はないのだ、こういうことに結論づけられて参ると思うのでありますが、実際にその衝に当っておられまする最高裁判所長官としてのお考え方をまずお尋ねをしたい。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 最高裁判所が司法裁判であるかあるいは憲法裁判所であるかという御質問でございますが、司法裁判所である、しかしながら、憲法事件も取り扱うのだという意味に解釈いたしますならは、憲法裁判所でもあるということになります。ただ、しかし、抽象的の事件を取り扱う、つまり、具体的の紛争がないのにかかわらず、一般的法令が制定、されたからといって、その法令の適憲、違憲について判断するという権限は、一部の学者は認めておりますけれども、われわれ最高裁判所としては、これは判例にも示しておりますがか、現在はさような意味の裁判権は持っていないというふうに解釈いたしております。

池田清志自由民主党

○池田(清)委員 今の御答弁でよくわかったのでありますが、これを繰り返して申し上げますと、現行の日本国憲法のもとにおきましては、最高裁判所は抽象的な違憲訴訟の権能はないのだ、従いまして、法律によって最高裁判所にその権能を与える、あるいはまた訴訟法によってその手続を規定いたすにいたしましても、憲法上権能のない最高裁判所といたしましては、それらの裁判をする権能がないのであるから、これに反するところの法律等はいわゆる憲法上無効である、こういうことに帰着すると理解するのでありますが、さよう考えてよろしゅうございますか。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 御質問の趣旨は、現在の憲法を改めないで、抽象的な違憲審査権を行使するような裁判所を設けるとか、あるいは現在の最高裁判所にさような任務を付加するということができるかという御質疑と解します。その点は、われわれ最高裁判所の者といたしましても、はっきりした結論には到達していないのではないかと思います。ある者は、憲法改正を必要とするの、だ、他の者は、憲法改正を待たないで現在できるのだということでございます。そこで、かってある事件、さような問題に関する事件が最禍裁判所に係属しておりましたときに、そこまで判決に書こうか書くまいかということでだいぶ意見が分れまして、この際は書く必要はないのだから、そこまで立ち入って書くまいということにしたことを私は記憶しております。これはちょっと私自身の個人的立場を申し上げかねますが、現在までそういう状態になっております。

池田清志自由民主党

○池田(清)委員 現在最高裁判所に大法廷、小法廷がございます。その大法廷は、裁判所法の九条にも明らかにされておりますように、全員の裁判官をもってする合議体に相なっております。そこで、私、お尋ねを申し上げますのは、人数の問題は後にお尋ねをするといたしまして、つまり大法廷、違憲の問題等を審判するような大きな事柄については全員の裁判官でなければならないと今の規定はなっておるのでありますが、これは、いわゆる現在の憲法の趣旨からそうなっておるのか、それともまた、審理、裁判の便宜上の問題としてそうなっておるのか、この点をお示し願いたい。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 その点は、両方からそうなると存じます。憲法の精神もそこにあるし、また、実際、事柄の重要性から考えまして、大法廷事件の重要性から考えて、そうでなければならないというように考えております。

池田清志自由民主党

○池田(清)委員 最高裁判所の判例はなかなか大事なものでありまして、国民の福利増進、生活にも関係があり、あるいはまた下級裁判所等を指導するというような大事なものであります。されば、その判例といたしましては、合理性がなければならないということ、すなわち、国民に理解される、納得される判例でなければならないということ、さらにはまた、安定性がなければならない、相当長い時間にわたって変ることのないものでなければならない、さらにはまた、指導性がなければならない、すなわち、下級裁判所の裁判を指導するという立場における判例でもありますから、判例そのものはまずまことに大事なものであるということは申すまでもありません。そこで、こういう大事な判例を生み出しますにつきましては、合理性を尊重し、安定性を尊重する、そうして、それを生み出すという立場から申しますならは、少数の人の知能をもってしぼり出すよりも、多数の人の知能をもってしほり出す方が、安定性あるいは合理性に適合するような結果になるのではないかと思うのでありますが、この点は長官いかがでございましょうか。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 ただいまの裁判の諸機能を達成するために、結局多数の裁判官が裁判をする方が少数の裁判官が裁判をするよりもいいではないかという御質疑でございました。これは、多数の者が関与することによって、衆知でほんとうに裁判の内容が向上するということになるならば、さような結果になる。私自身の経験では、大ぜいの人が集まって、たとえば現在の十五人、相当大ぜいでございますが、大ぜいの人が、各自がみな意見を述べます。その意見の中に、十五人おるからして初めて聞けるような、あるいは、十五人のうちのだれかで、よく気がついたものだと思うようなことを発言される方があります。それでこちらも大いに学問的に稗益するのでございます。ところが、さような意見を全部速記録のようにして出して、これをもって裁判だというふうにするわけには参りません。それはやはり最高裁判所の裁判である以上は多数意見というものがなければならない。その多数意見は、不適当であるかもしれませんが、でっち上げる。でっち上げるには、ずいぶん甲論乙駁、えらい議論をいたしまして、個人々々の裁判官の意見のニュアンスはある程度まで多数意見を作り上げるまでカットをしてしまわなければなりません。そうなると、十五人あるいは十二人、十人の意見の最大公約数が多数意見として出て参ります。これが二十人、三十人になりますと、この最大公約数がだんだんぼけて参りまして、抽象的なものになり、結局、木で弊をくくったような判決がよくあると申しますが、さようなふうになりがちになるのです。さような意味においては、人数が少ければ、判決が具体的になり、下級審にもわかりやすい、指導的の機能を営みやすいということになりはしないかと思います。ただ、しかし、この問題は、少い人数の人の素質の問題に結局なって参ります。この点はどうもやむを得ないことであります。

池田清志自由民主党

○池田(清)委員 最高裁判所は司法行政権及び規則制定権、こういうものを持っておられまして、その主体は裁判官会議というものでやっていただいております。その裁判官会議はいわゆる全員でもって構成しておられます。ところが、司法行政権の施行、あるいは規則制定権の施行については、人数の問題等があまり論議されなくて、最高裁判所におきましても、これについては、いわゆる少数でなければならないような御意見を今まで拝聴しないのでありますが、これにつきまして長官はいかがにお考えでありますか。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 司法行政権の場合におきましては、判決を書くとかいうような、さような問題、あるいは非常な微妙なる意見の差異というようなことよりも、むしろ、ある原案が出まして、それに対して可否を決するだけでいいような性質の事柄がずいぶんございます。しかし、たとえば規則を制定するというようなことになりますると、一種の立法作用でございますから、なかなかそう簡単にはいきません。原案に対していろいろな修正案が出たりして、論議をいたりして、論議をいたします。しかし、他の事件につきましては、やはり簡単に片づきます。それでも、しかし、多い方がいいか少い方がいいかということになりますと、やはり十五人よりも人数が少い方が仕事の能率が上るというふうに存じます。十五人が九人になっても、大体九人から聞いたところは問題の点は網羅しておる、こう見ていいのではないかと思います。人数を政府原案のように減らしましても、司法行政上特に支障を生ずるとか、前よりも能率が上らないとか、あいは質が低下する、事務処理の内容が悪くなるというようなことはないと思っております。

池田清志自由民主党

○池田(清)委員 今のお答えを拝聴いたしますと、司法行政権、規則制定権等の行使については、人数が少数であるということを積極的に御要望と申しますか主張と申しますか、そういう点はないように伺うのでありますが、たまたま合議の問題につきましては、現在の十五人ではどうしても多過ぎる、従って政府原案のように九名というようなふうに縮小するということがよろしいのであると、こういうふうにお伺いをしたわけでありますが、それはつまり、審理、裁判におけるところの合議というものからそういうふうになるというのでございましょうか。合議そのものにつきまして、私どもが理解できるようなことを一つお示しをいただきたいと思います。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 これは、裁判事務と行政事務の、共通な点もございますが、著しく違った点の一つではないかと思っております。合議をやります場合においては、普通の順序としまして、資料が手元に配付される、主任の裁判官が事件の経過を述べる、それから一々の上告趣意書に従って裁判官語ります。そし裁判官が意見を述べて、それから結局決をとる。ただかいつまんで申しますればそれだけのことなのでございます。そして最後に多者は補足意見をつける。結論は同じでも理由の点において満足しない者は補足的の意見をつけるというわけでございます。かいつまんで申しますればそれだけですが、しかし、その経過は、簡単な事件でも二へんや三べん裁判官が寄り合わなければ片づきません。複雑な事件になりますと二十九回集まったということもございます。これはずっと引き続いて二十九回集まるわけではもちろんございません。長い期間に、その間に調査などをさらに要求する場合もありますし、その調査ができ上るまで数ヵ月待つというようなこともございます。いろいろな理由から長い期間にわたるということもあります。とにかく。合議は、さらに多数意見、少数意見を整理する。そういうふうに分かれてくる。これはつまり合議の経過で、具体的事件につきましては合議の秘密にもわたりますから申し上げかねますが、しかし、一般的のやり方につきましては申し上げてもちっとも差しつかえないことでございます。これは、たとえは十五人の裁判官の一人々々が自分の意見を言う、ある点について意見を述べる、順々に年令順とか、若い順あるいは年寄りからの順、いろいろ外国等にも例があるようでございます。そういうふうに何らかの順序に従って述べて、そうしてすぐ決をとるというようなわけになかなか参らないのでございます。そこで、われわれは、合議を尽すためには非常に個人的な甲論乙駁が行われます。これは、私、合議の主宰者として、一体そういうことを裁判の際にやるべきであるかどうであるかという根本的の疑問が実は起って参ったのでございます。そうでなく、今のように簡単に見てきて、意見を一ぺん述べる、一ぺんきりにしてすぐ表決に移っていいじゃないか。そういうふうにできるならば裁判長はきわめて楽でございます。なかなかそれができませんし、できないことにまた裁判の本質があるのじゃないかというふうにも考えております。で、外国の例は、皆やはり合議の秘密になっておるようであります。アメリカの裁判官が一体どういうふうな――規則は、ある順序を追うて、裁判長が一番あとに意見を述べて決をとるとかいうふうになっておりますが、実際どうなっておるか、合議の内容はわかりません。やり方もわかりません。これは知りたいと思っておりますけれども、容易にわかりません。ただ、こちらで今までやって参りましたことは、それは実に微に入り細を尽しておる議論でございます。そのうちのどれだけのものが根本の問題を解決するのに必要であり、どれだけの部分が脱線であるかということが裁判長になかなかわからないのでございます。また、発言される裁判官は実に熱心ですから、自分の発言内容、自分の理論はこの裁判をきめるのに本質的に大切なんだという熱意を持ってやられますから、なかなかそれは事実上制限することができませんし、ことに、裁判官の良心に従って、憲法及び法律のみに拘束されて裁判するという良心の問題もありますし、無理にその発言を禁止し、どんどん促進してしまうということはできません。そうなってきますと、なかなかこの人数の問題が大きな影響を持って参ると思います。  一応この程度でお答えしたことにいたします。

三田村武夫自由民主党

○三田村委員長 午前中の会議はこの程度にとどめ、午後一時半より再開す、ることとし、暫時休憩いたします。    午後零時三十一分休憩      ――――◇―――――    午後一時五十四分開議

三田村武夫自由民主党

○三田村委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  質疑を続行いたします。猪俣浩三君。

猪俣浩三日本社会党

○猪俣委員 本年は裁判制度並びに裁判行政につきましてはまことに重大な年ではないかと思うのであります。その一つは、ただいま当委員会で審議中でありますところの裁判所法等の一部改正法律案、すなわち最高裁判所の機構改革であります。いま一つは、憲法第八十条に基きまして下級裁判所の判事の任期が終了する年であり、しかして、最高裁判所がその判平のリストを作りまして再任させるかどうか、かような非常に重大な年に相当しているのであります。現裁判官は昭和二十二年の十一月に任命せられたのでありますから、本年十一月で満十カ年を継続し、その任期が終了するという重大な時期に遭遇いたしました。そこで、私は、裁判制度、裁判行政につきましてのこの二つの大きな問題について、それを中心に、せっかく珍しく国会へ進んでおいでいただきましたる長官に対しまして、忌憚ない御意見を承わりたいと思うのであります。長官は、委員長の御注意がありましたように、政府委員ではないのでありまして、私どもも、その意味におきまして、質疑応答という形よりも、私どもの疑問に対しまして長官の御意見をただ承わりたいという程度にとどめたいと思うのであります。  第一の、最高裁判所の機構改革問題につきましては、これは当法務委員会におきましてもそろそろ大詰めに近づいてきているのであります。政府の原案と委員会の修正案の根本的差異は、最高裁判所の判事を三十名に増員するかいなやということにかかっているのでありますが、こういうことにつきましてのいろいろな問題についての長官の御意見を承わることは、さきの委員長並びに池田委員の質問もありましたので、私は省略したいと存じます。  なおしかし一つだけ承わりたいことは、政府の原案によりまするならば、最高裁判所の裁判官は九名であり、しかも全体として憲法裁判所的色彩が非常に濃厚になっておりまするがゆえに、もし、その原案をとって、この憲法裁判所の色彩濃厚なものを取り入れるとするならば、これも先ほど池田委員の質問がありましたが、百尺竿頭さらに一歩を進めて、抽象的違憲訴訟をも取り扱うことが、最高裁判所の憲法裁判所としての色彩を実に明確に打ち出し、わが国の民主主義発展のためにもなるのじゃなかろうかと思う。三権分立の、立法、行政、司法と言いましても、何としましても、立法、行政の権限が強く、司法は比較的比重が軽いように存じます。この勢力権衡の上から言いましても、最高裁判所において抽象的違憲訴訟を取り扱うようにすることが、なお三権分立の趣旨を徹底し、民主主義を守る意味においても有効適切じゃないかと私どもは存じまするが、かようなことについての御所見を承わりたいと思います。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 猪俣委員にお答え申し上げますが、確かに、御指摘のように、現在の最高裁判所の、特に大法廷が処理しておりますところの事件の内容を考えてみますると、憲法を取り扱う裁判所としての色彩が非常に濃厚でございます。しかしながら、ある事件につきましては、憲法問題と他の法令違反の問題とが非常にからまり合って出て参っておるのでありまして、従って、憲法裁判所的性格を現に持っているとはいえ、やはりまた、法令の解釈統一、あるいは具体的事件に対して法令の適正なる解釈に基く適正な裁判をするということにつきましても、現在の最高裁判所で相当の分量の仕事をしておるのであります。これは大法廷についてそう申し上げることができるわけでございます。  ただいま猪俣委員の御指摘の、抽象的違憲訴訟の問題も最高裁判所がやったらどうか、そうすればなおさら最高裁判所の権威を高めることになり、ひいては民主主義の基礎としての最高裁判所の機能を十分発揮することになりはしまいかという御説、ごもっともでございます。ただ、これはしかし立法政策上の問題でございまして、各国の例等もいろいろありますし、別にさような裁判所を設けるか、あるいは現在の最高裁判所にさような機能を営ませるかどうかという問題と、もう一つは、さような機関が設けられるか、あるいはさような機能を裁判所が兼ねて行うことにするか、これは非常に政治的な性格を持っておる問題ではないかと考えます。それで、一がいにその点の可否ということを申し上げるわけにも参りませんし、その制度の内容いかんに非常に関係してくるのではないかと思っております。これにつきましては、最局裁判所を代表して参っております私といたしまして、その可否及び抽象的違憲裁判をする裁判所の内容がどうであることが望ましいかというような問題には、ちょっと立ち入って触れますわけには参らないことを、どうぞ御了承をお願いいたします。

猪俣浩三日本社会党

○猪俣委員 なお、政府提案の、ただいま審議中の法案によりますれば、九人の最高裁判所の裁判官が憲法問題を審議するということになっておりますが、結局、現行法は十五人で、九人の判事がそろえば法廷が開かれる。この比率から言いますと、九人の場合には六人の判事がそろえば定員ありとして法廷が開かれるようになると思うのであります。判事といえどもなま身のからだでありますから、全員必ずそろわなければ法廷が開かれないということは、自然としてできないことになりますから、そこに法廷を開く定員というようなものが設けられると思う。それは六人になるのじゃなかろうか、この仮定の上に立ちますと、六人の判事が出席して法廷を開き、四人の判事の賛成がありますと、憲法の判例が作られることに相なります。申し上げるまでもなく、憲法の判例あるいは憲法の解釈というものは、憲法改正とほとんど同様くらいの効力のある重大問題でありまして、憲法の改正には三分の二以上の国会議員の発議権により、国民投票によって決定するというような重大な手続になっておりますが、それに劣らないような最高裁判所における憲法の解釈、新判例、こういうものが四人の判事によって作り出される。この四人の判事が、その思想的立場として、非常に保守反動的な判事であるか、あるいは急進的な判事であるかによって、憲法の解釈が非常に違ってくるようなおそれがありはせぬか。なるほど、合議体から言いますならば、なるべく小人数の人が小じんまりとやった方が能率が上るには違いありませんけれども、憲法の解釈というような一国の基本法の重大問題につきまして、しかも憲法の規定というものは実に抽象的文字でありますがゆえに、立場々々によって解釈が違い、ニュアンスが相当違ってくる。そこで、各層のいろいろな意見があるわけでありますから、これは何か思想的に片寄った人たちが少数で判断すべきものでなくて、なるべく多数の判事の各種の意見を徴して、その総合したところで判例を作るという方が憲法の解釈という重大任務に関しまして適当ではないかというふうにも考えられますが、ただいま申しましたように現行法のように、九人で、しかも六人の定員で、四人の判事によって新判例が作られるというようなことに対しまして、われわれはそこに何か不安を感ずるのでありますが、これに対して長官の御意見を承わりたいと思います。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 ただいまの、人数が減ることによって定足数が減り、その減った定足数もさらにまた過半数ということの数字が減る、従って憲法の解釈問題について不安なきを得ないという御意見、ごもっともだと思います。ただ、現在においても、十五人の場合におきましても、定足数は九人になっておって、九人で大問題を解決できるようになっております。そこで、われわれ運用上苦心をいたしておりまして、九人でもって実は片づけられるものであるけれども、しかしそういう場合において、問題の性質の重要性にかんがみて、定足数があるから、その日集まった者だけで解決をするということはできるだけ運用上避けております。そういう場合には、いろいろな事件がございますから、それほど問題のないような事件を選んでその日に片づけ、重大な問題は一週間や十日待てないわけではございませんから、その次の期日に入れまして審査するということをやっておりまして、ぎりぎりの定足数ということは、これは制度上は認められておりましても、そういうことは、極力避けるようなことにいたしておるわけでございます。しかし、意見の違いということになりますと、これは大ぜいでも少数でも意見が違うので、結局十五人の者がある事件については七対八というふうに分れるようなこともございますし、これは、合議体がすべて事を決します場合におきまして、やはり一票でも多数である場合はやむを得ないというわけになるのでございます。そこで、憲法裁判所的性格を持っておりますところの他の国の裁判所のことを考えてみましても、憲法事件はきわめて重要であるのにかかわらず、ある場合においては五人、ある場合においては七人、ある場合においては九人というふうな例がずいぶんある。そういう国々においても、それぞれの数の定足数というものがまたあるわけでございます。さような御懸念もおありになりますけれ、ども、ある面において、機械的に制度を運用しないで、できるだけ定足数というようなぎりぎりのところまでいかないで、多数の裁判官で処理しようということで、合議してやるほかはないのではないかというふうに考えております。

猪俣浩三日本社会党

○猪俣委員 実は、三十人の合議体というものの運営が相当困難であることも想像いたされますので、社会党といたしましては、その三十人の判事のうちから八人の判事を選び出して、それと長官と合せて九人で大法廷を作り、ここで憲法問題を審議する、ただし、その憲法解釈が前の最高裁判所で出した判例に抵触するような場合、判例を変更するような場合には三十一人の連合審査に付する、かような連合審査に付するようなことはたびたびあるはずはないのであるから、まあ合議体でやってもらう、しかし、判例の変更を伴わない場合においては九人でやるという構想を実は持っておるのであります。ところが、この九人の数については輿論はないのでありますけれども、いわゆるワン・ベンチ論なるものがありまして、最高裁判所の判事は全部の合議体でなければ最高裁判所じゃないのだという点と、それから、最高裁判所の判事のうちに憲法審査は当る者としからざる者と区別することはできないのだという御議論もあるようであります。私どもは、これを避けるために最高裁判所の判事は平等なんだ、ただそれを互選にするかあるいは最高裁判所自身の自治によって順番をつけてかわりばんこに大法廷を組織して憲法裁判をする、そして判例変更というような場合には全部が参加するというふうにするならば、別に大法廷の判事と小法廷の判事とを身分的に区別したことにならぬのじゃなかろうか、しかも三十人の大合議体の運営の困難を救うことになるのじゃなかろうか。また、ワン・ベンチ論というものを徹底して言うならば、現在の最高裁判所の小法廷なるものは一体これに違反しているのじゃなかろうか。憲法八十一条には、合憲か違憲かの審判の終審を最高裁判所がやるということになっておる。しかるに、今の最高裁判所の小法廷では、判例に従う限り合憲かどうかの判断は小法廷でやってよろしいということになっていて現在やっている。突き詰めると、これは一体憲法上の憲法裁判所じゃないのじゃなかろうか。現に最高裁判所の判事の方にこのワン・ベンチ論をなさる方を突き詰めていきますと、結局、いや今の最高裁判所の小法廷は憲法上の最高裁判所じゃないのだ、裁判所法上の最高裁判所なん、だというような、少し私どもにはわからぬような議論をなさっている方もある。そこで、もし今のような最高裁判所小法廷がやり得るものでありまするならは、私が今言ったような九人でいわゆる判例変更をせざる裁判をやっても、何も憲法の精神に違反するものじゃないのじゃなかろうかというふうに考えられるのでございますが、これに対しまして長官の御意見を承わりたいと思います。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 現在の小法廷の性格の方から最初にお答え申し上げたいと思います。現在の小法廷でやっておる憲法関係の事件といたしましては、御指摘にもなりましたように、すでに大法廷の判例があるというような問題については、その判例にのっとって処理する場合においては小法廷限りでやり得る、それは違憲ではないのだという建前を同僚の多数の者はとっておるわけでございます。さような問題につきましては、別に憲法そのものの精神がどうだかというような、裁判所の事務処理の技術的の面におきましては、さようなところまで憲法が予想しておるというわけでもないのでありますから、合憲と認めて差しつかえないのじゃないかと思っております。  そう考えて参りますと、ただいまお話がありましたような、三十人と一人の大法廷以外に、小法廷に分けて、現在小法廷がやっておることをやってもちっとも差しつかえないのだと思います。ただ、問題は、新たに構想されておりますところの大法廷にどれだけの事件がいくかということでございまして、今大法廷が取り扱っておる事件よりも数が非常に少いということをもし予想されておいでになるとするならは、これはむしろ名のみになってしまう傾きもある。最高裁判所三十一人で処理すべき事件がきわめて少いということになりますと、とにかくトップとして三十一人の合議体がある、そこで年に何回か背の連合部あるいは民刑連合部がやっておったようなきわめてまれな場合だけしかファンクションしないということになりますと、最高裁判所が司法のトップとして営むところの機能が比較的稀薄になるのではないかという懸念もあるのでございます。しかし、実質的に現在の大法廷がやっておるような範囲において仕事をやる、あるいはまた刑事事件につきましても、上告の範囲がふえまして、そして憲法問題はかりではなく法令違反で重要なものも取り込んでやるというようなことになりますと、今朝から申し上げておりますように、なかなか円滑に能率を上げて運用することが困難になるのではないかと思っておる次第でございます。

猪俣浩三日本社会党

○猪俣委員 なお長官に承わりたいのは、現在投票裁判所の大法廷では、少数意見なるもの、あるいは補充意見なるものが判決に付加されることになっているのでありますが、この少数意見なるものの表示は、裁判の民主化の意味から言っても、あるいは判決それ自身の進歩向上という意味から言っても、非常に意義のあるものではなかろうか。ただし、これには相当の時間がかかるので、訴訟促進という方向に多少の阻害を来たすかどうかというような問題がありまして、ここにこれが一つの論題になっておるのでございますか、長官の、判決に少数の意見を書くということの要否につきましての御意見を承わりたいと思います。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 少数意見につきまして、専門家の間のみならず一般国民の問にもずいぶん疑惑を持たれておる面があるということを私どもはよく承知いたしております。これは戦前にはなかった制度でございます。また現在下級審にもないのでございます。何ゆえに最高裁判所の裁判について少数意見が認められておるか。これは英米法糸の制度をとったものと承知いたしております。一面において、少数意見があるということは、国民に対して、判決の信頼性あるいは判決の権威とも申しますか。さようなものを薄くする。特に、裁判の過程においていかなる議論が行われたかということが白日のもとにさらされることになるのです。難件によっては一票の差で、少数意見の人はこれだけあるのだというようなことが公表されますると、多数意見の権威が非常に減殺されるというようなふうにも考えられますし、先だいま御指摘がありましたように、少数意見やまた補足意見を判決につけて出すということは非常に手間がかかることでございまして、出そろうのを待つのもずいぶん長いことかかります。さような点から考えてみまして、批判というものはある意味においてもっともな点もあるのでございます。しかしながら、われわれ最高裁判所の現在の同僚諸君は、やはりこの制度をやめたらいいという意見の人は一人もございません。そこで、いかなる理由によってやめてならないかということでございます。これは、下級裁判所と最高裁判所との性格の違いからもきております。慰法問題その砥か重要な問題について裁判官が良心に従って判断する、しかも最終の判断を下すのに当っては、裁判官の良心というものを特に重んじ、どういう議論がそこで行われておるか、どういうポイントが重要であるかというようなことを国民に知らしめる必要があるし、また、裁判官のものの考え方、傾向、識見その他を公表して、そこで国民審査の場合などに、もって国民の参考にするという意味も含まれておりますでしょう。また、ただいま御指摘のように、判例及び法学の進歩にも立献することになりますし、また、私は一つ自分の経験からつけ加えさせていただきたいのは、少数意見が加わることは実は訴訟の促進に妨げになるようにも考えられますが、また、逆説的に聞えますが、訴訟の促進に文献しておるのであります。ちょっとおわかりにくいかもしれませんが、こうなんであります。非常に議論が紛糾いたしましてなかなか結論に達しにくい、決をとるのに困難を感ずる、まだ熟さない、しかし無制限に長いこと議論しておるわけにもいきませんから、強硬なる反対意見者に、少数意見というものかあるのだからあなたは一つ少数意見を書いて下さい、あるいは補足意見を書いて下さい、こう言って、ほかの諸君が納得いたしますと、そうなるのであります。もし少数意見ということがなかったならば、いつまでもいつまでも議論をしておるということになるので、合議の促進には少数意見という制度はきわめて役に立っておるので、す。ただ、世間の少数意見という制度に対する批判ももっともな点もずいぶんございます。今まで公表された少数意見で、あんなに長くなくてもいいのだと思うようなのもありますし、あるいは用語その他の点について批判を招いていることもございます。英国などでも少数意見というものはみだりにつけない。アメリカでもそうです。よほどの場合でなければ――自己の良心を曲げなければならないような、曲げたと思われないように、そこをはっきりしておかなければならぬというときでないとつけないそうです。さような意味において、日本においては、過去においての少数意見の発表の場合とかあるいはその表現の方法等にはまだ反省すべき点がありはしないか、その点はわれわれは大いに反省いたします。しかし、少数意見はできるだけ少い方がいい。英国などでは、御承知かもしれませんが、やはり多数意見を作り上げるということに非常に苦心をして、できるだけ少数意見をエリミネートするというように実際上の取扱いはいっておるということでございます。これはもっともな次第、だと思うのです。もし各人か――これもかような説があります。ちょっと細目にわたりまして恐縮でございますが、裁判官はおのおのその意見を述べなければならない、さような建前から参りますと、多数意見もない、少数意見もない、全部裁判官がめいめいの意見を出して、十五人なら十五人が全部出しまして、そうして結論でもって裁判をするということが考えられるのであります。ある意味においては、これが訴訟の促進上から言っても二番いいのかもしれません。しかし、そうなると、一体最高裁判所はどういう趣旨の判断をしておるのかということが、理由がまちまちになりますと、下級審が適従するところを知らず、だからして、多数意見というものを困難を賭してどうしても作り上げなければならないということになる。そうなると少数意見と多数意見が出てくるのはやむを得ないのじゃないかと思うのでありますが、結論としては、少数意見としては非難さるべき、改むべきことはいろいろありますけれども、しかし、この制度を維持するにつきましては、裁判官全体がさようなふうに維持しなければならないと積極的に考えております。

猪俣浩三日本社会党

○猪俣委員 最高裁の機構改革につきましていま一点御意見を承わりまして、次に移りたいと存じますが、今最高裁判所には調査官というものが存在しておる、そこでどうも調査官裁判なんというデマも飛んでおる。これは長官は非常にお詳しいと存じますが、アメリカの最高裁あたりには日本の調査官のようなものはないと承わっております。そこで、当法務委員会の空気といたしましては、調査官は廃止すべきものであるというような空気が濃厚でありますが、ただし、アメリカのように、判事補あるいは四、五年判事をやったような人たちを補充的に補佐官的に使われることはいいのではなかろうか。という意味は、現在の最高裁判所の調査官というものは相当優秀な、まあ高等裁判所の判事あるいは地方裁判所の第一線の優秀な判事に相当するような方が起用されておるようでありまして、これは第一審強化とも連結いたしまして、こういう人たちは第一審に出ていただく、そうして、今言った補佐官程度のものを採用するならば、それで事足りるのじゃなかろうかというように考えておるのでありますが、実務に当らせられております長官といたしましては、こういう考えについてどういう御意見がありますか、漏らしていただきたいと思うのです。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 ちょうど御質問が出ましたので、いい機会だと存じますから、まずお答え申し上げたいと思いますのは、調査官裁判で、最高裁判官はみずから判決を書かない、みんな――みんなとは申せないのですけれども、ある者は調査官に判決を書かして、それに署名をしておるのだという風説が流布されておりますが、どこからそういう風説が出てきたか、火のないところに煙がないというわけですから、確かにそういう風説のもとは私はあるのじゃないかと思っておりますが、最高裁判所には、スタートのときから、はえ抜きの裁判官以外に、弁護士の方、また学識経験者等が入って、現在の士五人の裁判官を構成しておるわけでありますが、その中にはもちろんかつて三十年も裁判実務に携わられた方もあり、そういう判決を善くエキスパートであったというような人と、弁護士やあるいは学識経験者を比較しますと、それはとうていその点に関する限りは比較にはならないわけでございます。しかし、在野法的出身、あるいは学識経験者も、判決をうまく間然するところかないように書くという技能においては、これははえ抜きの裁判官から教わらなければなりません。また調査官からも教わらなければなりません。しかしまたその判決の内容に貢献しており、はえ抜きの裁判官が貢献できないようなことを在野法曹なり学識経験者がまた貢献し得るのでございます。そこで、調査官裁判というようなうわさが立ったのは、さようなはえ抜きの裁判官でないような裁判官のどなたかが、自分は実は判決は書けないのだ、実に困ったのだ、今度入る人は判決を書けるような人に入ってもらわなければならぬということを言われて、――これは謙遜だと思います。私は、七年の経験からして、判決が書けないような人が最高裁判所に入っておったということは全然ないということを、皆様方の前で公言してはばからないのでございます。ただ、援用条文をどういうふうにするか、刑事訴訟法第何条、この条文まで援用したらいいかどうかということは、これはやはりはえ抜きの裁判官やまた調査官にも手伝ってもらわなければなりません。  ところで、調査官が今どういうことをやっておるかというと、もちろん、われわれは、調査官がこうだと事件について判断するような結論なんかに従うようなことはない。全くわれわれは合議でもってきめておるのでございます。ところで、合議の資料を集めるということになりますと、最高裁判所で取り扱う事件の内容は、憲法問題に関係しており、その憲法の条文が抽象的ではっきりしないような点が多々あります。そういう場合には、外国の例をずいぶん勉強しなければなりません。あるいはドイツ、あるいはイギリス、あるいはアメリカ、そういうような例をいろいろ調べ、判例、立法例、学説等を十五人の裁判官で一々調べて判断の材料にするわけには参りません。調査官にもいろいろな種類がありまして、英米法に通じておる者、同時に外国語に非常にたんのうな人、また国際法のことにも明るい人、あるいは民事、刑事そのほかのエキスパートがそろっておりまして、われわれを補助してくれるのでございます。これはよほど訴訟促進に役に立っております。もちろんいきなりわれわれのところに調在官の手を経ずに事件が回って参りまして、われわれがそれに対してすぐ合議を始め、判断をするということになりますと、調査官のところに停滞しておる時間は、これはセーヴできますけれども、われわれの手元に来て、さらにアメリカの判例、ドイツの立法例、あるいは註釈等を見るということになると、これは調査官のところに停滞しておる時間よりももっと時間がかかりゃしないかと思います。いろいろな重大な事件につきまして、今までわれわれは調査官が調査がしてくれたということに実に感謝しております。非常に意義があったと思っております。  そこで、調査官制度はわれわれといたしまして維持したいのでありますが、ただ、ただいま御指摘がございましたように、現に活躍しておる調査官は第一線で訴訟促進に大いに役に立つ者じゃないか、これは私は確かにそうだと思います。そこで、われわれの方といたしましても、幾らか年齢を下げる、もう少し若いところの者を起用して、今調査官をやっておる人たちを第一線に送り返すということも考えておりますので、この次のこの秋の任命がえのときにも特に考慮されなければならないと思っております。何しろ、裁判所部内には人材は多々おりますけれども、しかしながら数が限られております結果、いろいろこちらで要求したいのが第一線でも要求したいというようなことで、よほどやりくりに苦労いたしておるようなわけでございます。確かにもう少し若返らせる余地はあると存じます。御趣旨のように運営していきたいと存じております。

猪俣浩三日本社会党

○猪俣委員 最高裁判所の機構改革に関しまする問題につきましては以上をもって終ります。  次に、先ほど申し上げましたような、あまりこれは多く大衆が考えておりませんけれども、法曹といたしましては最も重大な問題じゃないかと思いますのは、憲法八十条の規定でありまして、憲法八十条は明治憲法と非常に違っておりまして、ここに下級裁判所の判事は十年をもって一応退職するという重大な規定であります。そうして本年がその年である。これは重大問題だと考えます。そこで、この十年で全部が任期が切れるのであります。もちろん、適材を適所に配置して第一審を強化する、あるいは年来在野法曹が唱えておりまする法曹一元をある程度実現する、そういう最も裁判制度につきまして重大な年であると思うのであります。そこで、これにつきまして、人事権を握っておりまする最高裁判所の意向を承わりたいと実は思うのでありますが、この憲法八十条の規定は、最高裁判所としても、本年初めて実現することでありまして、徐々に御検討になっておると存じますが、われわれにも多々わからぬところがある。これは、長官でもいいし、その他の局長の方でもけっこうでありますが、この十年という任期であります。この任期の計算はどうやってやるのであるか。これは、たとえば判事にはいろいろの極数がありますが、どこから十年ということを計算するかという問題が一つある。それから、なおまた、判事を再任するに際しまして、任地を自由に最高裁あたりで指定することができるのであるか。お前は再任してやるがどこそこへ行け、任地の転換ができるのであるかどうか、そういう問題もある。なおまた、この下級裁判所の判事の再任につきまして、何か民間の諮問団体に諮問するというようなお考えがあるのかどうか。さような点についていろいろ問題があろうかと存じます。そこで、全判事が任期が来て、ここに新しく再任するという重大な年でありますので、それに対する最高裁判所の御方針を一通り承わりたいと存じます。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 まず、任命がえにつきましての最高裁判所として臨みます方針でございます。この十年ごとに任命がえをするというのは、日本では、裁判官につきまして、アメリカのある一部の州におけるように選挙制度というものをとっておりません。でありますから、一ぺん任命されると終身官で停年までずっといれるようになりますと、沈滞を招くということになります。最高裁判所の裁判官につきましては、十年ごとに国民投票という制度が御承知のようにありますから、それに対応しておるものだと考えます。最高裁判所の裁判官のみならず、下級審の裁判官もやはり身分が保障されております。従って、人事についての沈滞を招きやすい。それで、十年ごとに振り出しに戻って考え直すということであるわけでございます。これはきわめて理由がある制度だと存じます。われわれといたしましては、その制度の精神、憲法の精神を十分体して実現したいと思っております。  ところで、さて実施ということになりますと、いろいろな困難に逢着いたします。かりに全部の裁判官が任期がきてやめてしまったとしますと、それを補うためにはどういうプールがあるかと申しますると、在野法曹あるいは法律の学校の教授以外にはちょっと考えられないのでございます。ごく少数の、政府の法律の方面に携わっておる公務員の畑の方からも全然考えられないことはないのであります。また、検察官の方はもちろん考慮に入って参りましょう。しかしながら、そういう全部のソースを集めましても、なかなか空白を満たすことはできないのでございまして、勢い、どうしても、今から結果を予想するということも適当ではないかと存じますが、今までの成績にかんかみて特に不適当だと考えられない限りは、大部分の裁判官は――大部分といってもどの程度になるか存じませんか、とにかく居残ってもらわなければ困るような結果にもなります。ところで、法曹一元化の立場からいたしまして、われわれは在野法曹の優秀な人々においでを願うということを心から望んでおるので、決して裁判所は門戸を閉ざしておるというようなことは毛頭ないのでございます。これは具体的に、任命がえの際ばかりではございません、個々の場合について、いろいろ裁判所に来ていただきたいと思って交渉いたしましても、在野法曹は、それぞれの地域で活動しておられて、なかなかその地域から離れられない、あるいは係属中の事件もずいぶん持っておられる、いろいろなことで招致が困難であります。しかしながら、われわれは、困難にもかかわらず、弁護士会等に働きかけまして、できるだけ任命がえの際にりっぱな人を迎えたいのだからということで、常にわれわれとして努力いたしておるようなわけでございます。  それから、任地の問題でございます。任命がえの際に任地を動かすことができるかどうかということでございます。これは、もちろん、任命がえという制度は、任地を変えるということと全く違った観念であるということは認めなければなりません。ただ、しかし、十年の期間後新たに任命される裁判官につきましては、従来の任地の保障というものはない。もう地位がなくなってしまったのでありますから、新たに任命される場合と同じようにブランクになって、任地を指定できるのではないかと存じておるのであります。さような意味におきまして、もしわれわれの解釈の通りにできるといたしまするならば、第一線の充実強化ということにも、この任命がえの副産物としてこの制度を運用することができるのではないかというふうに考えておる次第でございます。

猪俣浩三日本社会党

○猪俣委員 そこで、先ほど私お尋ねいたしましたことと連関いたしますが、下級裁判所の裁判官の任命がえにつきましては、最高裁判所でリストをお作りになって、結局内閣が任命するようになっておりますが、これにも問題があると存じますが、それはやめまして、ただ、裁判官の適材を得ること、及びなるべく民主主義に立脚して裁判官の任命が行われるというような、いろいろな意味から、先ほど諮問委員会のようなものの構想があるかないかお尋ねしたのでありますが、それはさておきまして、下級裁判所の裁判官の適否をおきめなさる際に、弾劾裁判所法という法律に基いてできております弾劾裁判所及び訴追委員会、少くともこの国家機関の、しかもこれは衆参両院の国会議員から成り立っております、国民代表から一応成り立っている機関であります。こういう機関に御諮問なさるなり、あるいはまた材料をお取りになるなり、そういうことが適切ではなかろうか。現在訴追委員会にいろいろの訴追が出ている。これはそれこそ民衆の声であります。実際裁判官に接している民衆が訴追してくるのです。中にはインチキなものもございましょうけれども、相当の材料が出てきているわけです。昭和三十年には百十四人の裁判官が訴追されております。三十一年には百十九人が訴追されている。三十二年は、この三月までで二十四人が訴追されている。こういう訴追されている人の中には、訴追者それ自身が感情に走った場合もありますけれども、私も数年前まで訴追委員をやっておりましたが、どうもひんしゅくすべき事項が相当たくさんある。ただ、御存じのように、弾劾裁判所は、弾劾制度でありますがために、判事を罷免するかしからずか、イエスかノーかの答えしか出せません。その中間の裁判ということが普通裁判のようにはできない。これは弾劾裁判の本質からくるもので、やむを得ないと思います。ほんとうを言いますと、罷免ということは一切の公職をはく奪する、死刑の宣告に当りますので、それまでできないけれども、しかしこれは何か中間的な意思表示がほしいということが、訴追委員会でたびたび嘆息とともに出るような始末であります。そこで、私は、本年裁判官を再任されるに当りまして、かような国民代表から成立いたしておりますれっきたる国家機関に集まっております材料を参酌していただきたい。今申しましたように、訴追委員会から起訴されて弾劾裁判所で判事を罷免するということは、弾劾裁判所開設以来、昨年やりました浦和の判事一人じゃないかと私は思う。あまり罷免ということが重大な効果があり過ぎてできないのでありますが、その中間的な判事が相当いるのです。そこで、これは、この訴追委員会あるいは弾劾裁判所の集めた材料なんかも御参酌していただきたい。これは民の声であります。前線における判事接触した人民の声であります。これを国民諸君から見ますならば、ただ天下り的に、最高裁判所の判事諸君が、自分たちのおめがねにかなった、あるいは官海遊泳に上手な、ごきげんとりの上手な人間ばかりに目をつけられずして、そういう人間の中にしかも実際は民衆に対してはとんでもない不親切な不都合な判事もあり得るわけでありますから、こういう訴追委員会、弾劾裁判所の材料を御参酌して、適材適所に配置するとともに、再任するやいなやの参考にも供していただきたい。これに対する御意見を承わりたいと思います。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 先ほどお答えするのを漏らしましたが、民間団体に諮問するというようなことを考えておるか、そういう御質問でございましたが、この点は現在のところ考えておりません。  ただ、第二の点で、弾劾裁判所あるいは訴追委委員等においていろいろ材料が集まっておる、これを参考にすべきではないか、した方がよくはないかという御説、ごもっともだと思います。これはすでにわれわれの方といたしましても連絡もとっておるのではないかと思います。しかし、今後やはりさような方面からの材料も十分考慮いたしまして、適正なる任命がえを遂行したいと考えております。

猪俣浩三日本社会党

○猪俣委員 最後に、先ほど委員長の質問もありましたが、裁判というものが大衆に浸透しておらない、最高裁判所の機構改革というような重大問題も、あまり大衆と遊離しておるというような御意見がありました。それで長官の御意見も承わったのでありますが、多少それと関係いたしております。実は、これはちょっと古い話でありますけれども、長官と本日初めて当委員会において顔を合せたのでありますので、その点に連関して一、二御意見を承わりたいと思います。  長官は昭和三十年の五月に全国の裁判所長を集めまして訓示をなさった。その訓示につきまして、一部に異論が出ております。その訓示は、裁判官はいろいろの裁判批判なんかは顧慮せず、そういう雑音に耳を傾、ずしてやれといったような御趣旨のもので、なお、長官の御議論は、一九五五年の八月一日の「ジュリスト」に「裁判と世論」と題して詳しく論じておられるのであります。ところが、これに対しまして、教育大学の家永教授が、同じくこの問題につきまして、法律時報の一昨年の十月号に「素人は黙すべきか」という論文を書いている。なおまた、「世界」の三十年の九月号には、海野晋吉、家永三郎両氏から長官の議論に対して非常に反駁をしているのであります。裁判に対します世論、批判、これが一体盛んに行われることがいいのであるか悪いのであるか。裁判というものを民衆のものにし、これを世人が大いに議論するというようなことは、裁判の民主化のためにもいいことじゃないか。憲法上言論の自由があるというような建前をとらぬでも、裁判それ自体を民衆のものにする意味において、裁判に対する批判というものは盛んにやるべきじゃないかという議論も一方にあるわけでありまして、なるほど、裁判官以外の者の議論は、訴訟法の手続によらなければ、それか権力的なものあるいは合法的なものとして裁判官を動かすことはできないでしょう。だから、そういう意味においては、一定の厳重なる訴訟手続に基いたそういう証拠なりあるいは弁護士の弁論なり、そういうものの批判ということは当然でありましょうか、しかし、そういう権力的に裁判に影響を及ぼすものじゃなしに、ただ一般に裁判の批判、――今回の「チャタレイ夫人の恋人」という裁判についてもいろんな世論があるのであります。あるいは松川事件、三鷹事件、あるいは八海事件に対してもいろいろな批判があるのでありますが、ああいうものは雑音として歯牙にかけるなというようなことであるとすると、一つは裁判が民衆のものにならぬのみならず、要するに、裁判官が象牙の塔にこもって、だんだん一般の世人との感覚が隔たってくる、これは裁判官が化石になる一つの原因になるのじゃなかろうか。そういう意味において、私どももいろいろな立場から事を考慮しなければなりませんが、それに関します長官の公の御意見を承わりたいと思うのであります。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 特にただいま御指摘の、昭和三十年五月の全国高裁長官、地家裁所長会合における訓示が問題になりまして、その訓示の趣旨は、裁判官が社会から孤立し、社会の批判に全然耳を閉ざし、独善的になつてしまうような傾向を助長するというようなことになってはならないということは十分承知の上でいたしたわけでございます。問題は、現に係属中の事件ということに限られております。第一審、第二審あるいは最高裁判所に現に来ておる事件につきまして、いろいろ、世間の識者あるいは特に事件に関係のある在野法曹というような人々、あるいは書物を出したり、あるいは新聞、雑誌に論文を出したりして、この事件は有罪であるとか、あるいは無罪であるとか、有罪であることは確かだ、無罪であることは確かだというような、いろんな意見が発表されました。さような発表は、世間の耳目を聳動しておるような事件について主としてなされておるのでございます。さような現に係属中の事件につきまして有罪、無罪を論ずるというようなことが一般に行われますと、どういうことになるかというと、裁判官ももちろんきぜんとして所信に従って判断をしなければならないものでございますが、しかしながら、やはり人間は弱いものでもあるのです。従って、さような外部からのいろいろな空気に万一動かされるということがあってはならないし、それでは公正な裁判をするゆえんではないのでございます。そこで、現に係属中の事件に関する限りは、訴訟材料というものが訴訟法によってしぼられており、法廷中心でやっておる。法廷というチャンネルを通してのみ両当事者が争い、主張すべきものは十分主張し、そして裁判官が判断する場合において、もし裁判官が、下級審の裁判の当否についていろいろな世論がごうごうとしておるのを一々全部見て、それを考慮に入れて判断をしなければならないとするなら、は、訴訟外の材料も裁判、官が考慮に入れる、その事件の有罪無罪の判断について考慮に入れるということになります。もちろん裁判官は常識を広めなければなりませんし、識見を高めなければなりません。これは最高裁判所の裁判官ばかりに限ったことではありませんが、一般的な読書とか、それから世間と接触することによってでございます。当該事件に関する限り、その事件についての有罪無罪の議論が世間でごうごうとして参るということになると、これは公正なる裁判に影響を絶対に及ぼさないとは言い切れないということを考えました。そこで、一般の言論の自由の問題と、現に係属中の裁判の批判ということとの関係でございますが、これは外国の法制では、そういうことを絶対に計さないものもございますが、さようなことがあった場合において、これは程度問題によりますし、あるいは表現の方法等にもよるでしょうが、刑事責任を負わなければならないような制度になっておるような国もあることは御承知の通りでございます。日本においてはさような制度はとられておりませんが、少くともさような傾向は好ましくないということは言えるのでございます。その好ましくない現象が現在存在しておる場合において、裁判官がそれで心をかき乱されてはいけないということは、言ってもいいのじゃないかと思いました。しかしながら、さっきチャタレイ夫人の事件も引き合いにお出しになったのでございますが、現に判決が下されてもう確定した、そういう場合の当否を論ずる、これはまた別問題でございます。その言葉づかいその他が真の客観的な批判でない、ある意味において感情に走るとかなんとかいうようなさような問題は別といたしまして、われわれは判例の進歩のために判例批評を歓迎しております。ああいう事件につきましては、学者がどういうふうな批判を下すだろうかということにつきましても、われわれは大いに関心を持っており、学者の意見が出るのを待っておると言ってもいいのでございます。世間の批判についても同じことでございます。現に確定したところの事件についての判断は、われわれ大いに歓迎しなければならない。で、事柄は全く違った問題である。係属中の問題と、裁判制度一般の批判、あるいは、もう定まって係属していない、確定したところの事件についての判断は、性質上違ったものであることは御了解願えるのではないかと思っておりますので、ちょうどいい機会でございましたから、この委員会の席を拝借しまして、幾らか世間にあのときの訓示の趣旨を徹底させることかできることを喜んでおる次第であります。

猪俣浩三日本社会党

○猪俣委員 長官の三十年五月の訓示、及びその後現われました「ジュリスト」に発表せられました「裁判と世論」こういう論文を読みまして、なお、法律時報の三十年十月に家永教授が「素人は黙すべきか」という論文を出しておるのであります。ただ、この内容につきましてここで長官と一問一答する気はありません。また長官の御所信についてもわれわれいろいろの考えがありますが、これは略しますが、この家永教授の論文の中にこういうことが書いてある。「氏は、この論文で論じたところは「実定法の解釈論ではなく法理論的立法論的考察にすぎない」と言われたが、この言葉の中には裁判批判禁止法の立案がもくろまれていることを察知せしめるものがある。さきに立案された裁判所侮辱制裁法案には「事件に関し裁判所又は裁判官をそしり、その他その威信を甚だしく害すること」を裁判所侮辱と認めて制裁を加える旨の規定がふくまれていた。」、これはついには削除されたのであるが、そこで家永教授の論文によると、最高裁判所の長官は裁判批判禁止法というようなものをもくろんでおるじゃなかろうかという心配を起しておりますので、この機会になおさようなお考えがあるかないかを確かめて、これが学者の相愛であるならば幸いだと思うのであります。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 法廷等の秩序維持に関する法律の原案、これはタイトルが別なタイトルになっておりますか、その原案の御指摘があったわけであります。これはつまり、さっきの言論の問題、裁判についての言論の制限の問題ではない。法廷等における裁判官に対するいろいろな侮序的な言動、それを取り締るという意味のものではなかったかと存じます。一般的の裁判批判というものに対する、ことに現に係属中の事件についての取締りの規定を設けるというようなことにつきましては、私自身そういう考えは持っておりません。

三田村武夫自由民主党

○三田村委員長 猪俣君に申し上げますが、本日田中長官に御出席を願いましたのは、主として機構改革に関する御意見を伺うためでありますから、なるべく問題を機構改革の問題にしぼって御発言を願います。

猪俣浩三日本社会党

○猪俣委員 それでは、私はもう一点お尋ねしたいと思いましたが、委員長の勧告がありますので、これでやめることにいたします。

三田村武夫自由民主党

○三田村委員長 別に発言の制限をするのではありませんが、他に質疑の申し出がたくさんありますから、御了承願います。  福井盛太君。

福井盛太自由民主党

○福井(盛)委員 久しきにわたりまして本問題が論議され、質疑応答がされて参ったのでありますが、幾多の委員よりいろいろな質問があり、これに対してまた応答があり、かつ、昨日は判事の諸君、並びに今日は田中長官をわずらわしまして、いろいろわれわれの質問に対しまして御意見を拝聴することができまして、非常に有益に感じた次第であります。だいぶ議論も差し迫って参ったのでありまして、私といたしましては当初より幾多の質問点を持つておりましたが、これらの多くの質疑応答によって解消した点も多々ありますので、私は最後に補充的な質問といたしまして二、三お尋ねしたいと思うのであります。  それは、何と申しましても、この改正案というものは、事件が非常に渋滞しておる、これは国民のためにもまた国家のためにも大いに憂うべきことであるということが主になってこの改正案が考えられたのであります。従いまして、その促進ということを土台として本問題を考えましたときに、まず問題になって参りましたのが、判事の数を増員するかあるいは減員するかというような問題がここに浮んで参ったのでありますけれども、増員という説につきましても、最近非常に国民もこれに同意を表している向きもたくさんあるのであります。ひとり原案は十五名が九名に減り、今日の御説明によりましてもだんだんとわかってきたのでありますが、やはり九名説ということになっております。この原因は何によるかというと、やはり、何と申しましても、昨日来からお聞きしておりますると、裁判官の合議が非常に問題になっているようでありますが、私どもは合議の実態というものを知りません。ただ、御説明によりまして昨日来会得しておる点があるのでありまするけれども、合議が手数がかかり、かっむずかしいということで、なかなか時間もかかるので、今までの数でもってさえもそういう困難さがあるのであるから、さらに三十名に判事が増員されたならば非常に渋滞するおそれがあるというように承わっておるのであります。そこで、私は果してそうであるならは、この合議ということについて、長官といたしましては、もっと簡素化する、もっとやりやすい、しこうして効果的な方法はないものであるかどうか、また、これについてお考えになったことがあるかどうかという点をまずお尋ねしてみたいと思うのであります。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 最高裁判所に入りまして以来、この合議をもう少し能率を上げるようにするのにはどうしたらいいかということを、ほとんどもう日夜考えて参ったと言ってもいいのでございます。初めに考えましたことは、――かりにきょうの日程に三つの事件が入るといたします。その三つの事件が入るのに、午前と午後にわたって合議をやりまして、第一の事件はかりに二時間くらいで片づける、第二の事件も二時間、あとの事件は一時間、そういうふうな目安がつくならば非常にいいのでございます。ところが、実際やってみますと、きわめて簡単な、たとえば決定事件なんかにつきましても、論じていると、いろいろなところに議論がひっかかって参りまして、二時間で片づくと思っていたことが、その日一日かかったり、あるいはその日だけで済まないで次まで延びたり、それからまた、その間にやはり調査しなければならないようなポイントが出てきまして、判例、学説等を調べ、あるいは外国のことも調べなければならない。そういう議論がかりに出て参りました場合におきまして、議長としては、その必要はないのだ、この程度の事件はもう結論はわかっているんだ、結論についてはそういう場合に議論がない、棄却なら棄却ということがはっきりしており、またそれほど重要な事件でもないけれども、しかし判例としては他に響くものだから、事件としてはきわめて微々たるものであるようなものでも、やはり他日判例として残る以上はもっと研究しなければならないのではないかというようなことが起りまして、それですっかり計画がくずれてしまうのであります。それで、大体どのくらい時間がこれに費されるかということが目安がつけは非常にいいのでありますが、つかないのでございます。むずかしいと思っていたのが案外簡単に解決されるということはきわめて少いので、むしろ簡単に片づきそうなものだと思って実際やってみると、えらく合議が紛糾する、同じ結論でも理由が三つにも分れるというようなことがよく出て参ります。それで、結論は同じなんだからもういいじゃないか、これは当事者にとってはそうであります。当事者は、あまり理由なんかは問題ではなく、要するに結論に一番重きを置きますが、いやしくも判例として出る以上は、やはり下級審に基準を与えなければなりませんし、将来の例にもなるのでありますから、やはり議論があるのだ、この点調べなければならないのだと覆われた場合には、もう時間がきたんだから必要はないのだというようなことはできません。私自身常にこれは下級審の裁判なんかについても考えますが、ずいぶん長引いている事件がございます。常識的に考えてそんなに長引くことは理解ができないと思っておっても、下級審の裁判官に聞いてみますと、いろいろ理由がある。その理由はもっともなこともあり、われわれの承服しないこともありますけれども、しかし、実際そういう関係裁判官がそう言っている以上は、いやもういいかげんに片づけてしまったらいいじゃないか、早くやれ、というようなことは言えないと同じく、合議体の中でもそうなんです。そういうようでありますから、目安をきめるというわけにいきません。それから、各裁判官の発言時間についていろいろ規定するということもできません。それから、重複した議論をする人があった場合におきまして、それは重複ですでに聞いているのではないか、しかしその場合に議論する相手が違っておりますと、そしてその相手に対して主張しているポイントにその前のほかの人に言ったことが関係してくるものでありますから、やはり重複もやむを得ない。そうすると、その場合にも制限できないというようなことになります。ある程度まで論議を尽しまして、もう今度は裁判長がこれでもって質疑なりあるいは討論は打ち切る。この質疑と討論のけじめがまたなかなかっきにくいのでございます。そうなりまして、今度はいよいよ多数意見を起草する。だれが多数意見を起草するか。大体において主任が起草いたします。この起草するのに、相当論議を尽し、最大公約数がそこに出てこなければ、なかなか起草するのに困難であります。だから、起草する人が納得できるまで、これなら多数意見として起草するだけの十分な材料が得られたという場合に起草いたします。それから、それを今度印刷に付して、また裁判官に配ります。配った場合にまた、ほんとにこれはどうかね、この判決理由はどうも矛盾しているとか、あるいはここは足らぬとかいうような議論が出てきます場合に、もう多数意見できまって起草したのだからこの判決の原案について決をとるということが実際できますならば、ずいぶん裁判長として楽なんでございますが、そうできないのでございます。やはり、異論が出ると、その裁判官が納得できるまで議論を聞いて、新たな問題であるならば耳を傾けて、そうして再考するというようなこともあります。そのために結論がひつくり返ったことも一、二ならずあるのでございます。そういうようなわけで、いわば裁判官というものは非常にプリミティヴといえばプリミティヴな、手工業的なやり方をしていると申してもいいのでありますが、しかし、性質上やはり手工業的なことも認めなければならないのではないか。多勢の合議体でもってある程度まで論じてどんどん可否を決していくというのでなくて、多勢かかって一つの論文を書き上げるようなわけなんでございます。ここは足らぬといえば、やはり考慮しなければならないという苦心があります。  それで、もちろん、現在やっていることについて、われわれは満足しているわけではありません。それで、いろいろ二年に一ぺん、三年に一ぺんくらい、もっと合議のやり方を筋道を立てようじゃないかということを私が言い出したり、あるいは同僚のだれかが言い出したりして、そうして申し合せを書きますけれども、実際やってみると、なかなかそうはいかないようなわけでございます。結局、これが人数が多いというところから来ているのではないか、十五人でも多いのだというところに原因があるのではないかと思います。

福井盛太自由民主党

○福井(盛)委員 ただいまの御説明によりまして、合議がまことに困難であるということは私も想像し、また実際そうであるように承わっております。なお一そう御研究せられまして、何とか促進のできるような方法がありましたなら、それを採用していただきたいということを、私、委員としてお願いする次第であります。  次に、第二点といたしましては、やはり増員の問題でありますけれども、聞くところによりますと、ドイツでは人口五千万人のところに判事が七千人、しかるに、日本におきましては、九千万に近い人口のうちにわずかに二千人の判事をもってすべての事件を処理せられるというふうに承わっておるのであります。これを比較しましても、実にその差はきわめて甚大なものがありまして、ドイツがいかにスピーディにやっておられるかは存じませんけれども、比較しまして日本の判事の数が少いということに思い当るのでありますが、これらもやはり事件の遅滞を来たす一つの原因ではないかというふうに考えられるのであります。そこで、私どもは、これは最高裁判所の判事の数においてのみならず、一審におきましても、二審におきましても、やはりある程度の増員をしなければ促進をはかるということがきわめて困難でないか。いたずらに判事があせってばかりいても、なかなか結果は得られない。また、判決を得ても、適当な判決でなかったというようなことに至りましては、国民の迷惑はこれよりはなはだしいものはないのでありますから、やはり、何と申しましても、増員ということはやむなき結果に相なるのではないかと私は考えておりまして、ことに、最近私どもの常に唱えております第一審の裁判の強化ということに重きを置かれるに至りましては、質の上においてのみならず、その数においても、やはり増員の必要があろうと思うのでありまして、私は、この意味におきましても、やはり最高裁判所の員数も、ただいまの合議の問題を離れまして、何とか他に方法を考えて増員をする必要はあるのではないかというふうに実は考えておるのでありますが、今までのお話によりますと、やはり九名説のようでありますが、それらと思い合せまして、どうでありましょうか。もし、われわれの主張する三十名の増員が多過ぎる、これはとうてい遅滞を生じて促進はできないものであるということであるならば、どのくらいの程度ならば認めてもよかろうというようなお考えがあるかどうか、この点についてお尋ねしておきたいと思います。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 人口に比例しまして日本の裁判官の数が、たとえばドイツ等に比較して少な過ぎるのではないかという御説でございますが、これは私もそうではないかと思います。下級審の裁判官の実情を考えてみますと、法廷も不足しておるし、また、ずいぶんみじめな現状の法廷もございますし、それから、仕事の分量から言っても実にたくさん背負い込んでおりまして、一般的に読書するとか教養を広めるとかいうような余裕がなかなかないので、むしろわれわれ非常に気の毒だと思っております。この点も、政府、国会等の御配慮で何かこの状態を改善していただきたいものだということを常に念願しておるのでございます。ただ、それと、最高裁判所の機構というものをどうするかということは、これはまた別な問題になりまして、最高裁判所としては、やはりピラミッドのトップにあるわけで、特に現在のような最高裁判所の性格から申しますと、やはりその運用の面から言って、適正に運営していくのは十五人でもすでに多過ぎる。でありますから、三十人で多過ぎれば三十人か、あるいは十八人とか、とにかくこの程度ならはどうかという御質問に対しましては、どうも、十五人でも多過ぎるのだという、全く反対の立場にありますので、お答えするのははなはだ困難に存じます。その程度でごかんべんを願います。

福井盛太自由民主党

○福井(盛)委員 理論上まさにその通りで、拝聴いたしておきます。  私は、第三点にお尋ねしたいところは、これは全く補充的なお尋ねでありますが、先ほど猪俣君からお尋ねになりました調査官の問題でございます。なるほど調査官はないよりあった方が便利であり、当然その方がいいことが多々あり得ることは了承しておりますが、先ほどお話がありました通り、ややもすると調査官裁判だとか調査官判決だとかいうような間違ったことを言う者もなきにしもあらずで、われわれはこういうことを聞くときにはなはだ遺憾に思うのであります。そこで、なるほど調査官は多くあった方がいいと思います。それぞれの分野において違った方面の権威者がおるということは必要であろうと存じますけれども、これに対していろいろな批判もありますので、長官といたしましてはどういうふうにお考えになりましょうか、今調査官を廃止いたしますと非常に裁判の上に影響を来たすでありましょうか、さらに、今よりは多少数を減らしてもいいのだというお考えがありましょうかどうか、その点についてお尋ねいたします。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 先ほどもちょっと申し上げましたように、私ども、調査官によって非常に稗益するところが大きいのであります。資料など、われわれ自身の手だけでは、とうてい集めきれません。国の内外にわたる資料でありますから、そしてやはり、最高裁に係属している事件の性質上、できるだけ資料をたくさん集め、世間の批判にもたえるような判決をしなければなりません。また、将来に規準を与えるような判決をしなければなりませんので、研究に研究を尽す。そのために時間もずいぶんかかるということになるのであります。で、私ども、調査官には心から常に感謝しておるわけでございます。でありますから、調査官をやめてしまうというようなことにつきましては考えていないわけでございます。  なお、アメリカの制度で、さっき猪俣さんからお話がありました、ロー・クラークでありますが、どういうことをやっておるかということは、私、ちょっと行ったくらいではなかなかそれをつかんでくることが困難だったのございますが、若いけれども相当優秀な者を使っているということは事実で、最高裁判所の調査官になるような人は将来法曹としてえらい前途のある者だということは、これは事実のようであります。それから、例のサーシオレライという、あそこは上告を取り上げるのは裁量になっておりまして、権利上告でなくディスクレッションでもって、アメリカの最高裁判所が何百件あるいは千何百件と殺到する事件のうちで、重要なものと重要でないものとを選んで、重要なものを取り上げて、これは年間百件ないし百五十件くらいだと聞いておりますが、それを九人の裁判官が裁判をする。つまり、各種類の事件でございます。その以外のものはもうけられてしまうわけです。どれを最高裁判所に取り上げて裁判するかということは、これは裁量ですが、その裁量の下準備をするのが調査官だという話も聞きました。もちろん、大体より分けておいて、裁判官の一部の者がそれから選ぶというようなことも聞いておりました。そうなると、その範囲においては調査官裁判みたいなことになるわけで、その真相は実はよく私も心得ておりませんが、要するに、そういうようなことをやるのには、調査官というものが高度の法律的の教養なりまた大局を見る能力を持っておるということを前提としておるのであります。年令の点は大いに考えなければなりません。第一審の充実の点も先ほど申し上げましたように考えなければなりませんが、しかし、現在の調査官制度そのものは維持したいというふうに考えております。

三田村武夫自由民主党

○三田村委員長 小林かなえ君。

小林錡自由民主党

○小林(かなえ)委員 大体議論は出尽したようでありますけれども、私は簡単に実際の上からちょっと二、三点お伺いしてみたいと思います。  実は昨日最高裁の判事諸公とのフリー・トーキングのときにもちょっと出しておいたのですが、機構改革ができて、そうして法令違反というものが上告の理由に認められて、憲法違反でなければ上告できないというような今までの考えというものが取り払われれは、憲法違反の上告というものは非常に減ってくるのではないかというように一応私は考えるのであります。これまで、裁判所法ができて以来の憲法違反の判決というのは、この間資料をお出し願ったところによりますと、今はっきりは覚えておりませんが、大体刑事事件で二百三十一件、民事が六十一件ということになっておるが、民事の方は憲法違反の判決は一つもない、刑事の方は「アカハタ」事件ともう一つで、実質上は二件しかない、残余の二百二十九件はことごとく同じ例、――ケースは違うが、条文は同じだから、実質上これまでに二件しか違憲の判決をしたものはない、こういうふうに伺っております。それから、昨日最高裁の方からのお話によりますと、これまでに憲法違反の上告としては九年間に四百五十件、だから年間大体五十件といわれる。そうすると、むろん憲法違反ではないが憲法違反と称して上告してきて、これを取り上げて審判されたのが五十件、一応こういうふうにあります。従来、占領治下にあって、アメリカがずいぶん国情に合わぬような法律を出したり、戦後こういう独立国になった以後という特殊の関係においてすら、たった二件しか憲法違反がない、こういうのであります。元来、裁判所の違憲審査権の制度というものは、私が申し上げるまでもなく、世界文明国の長い間悩んだ問題でありまして、その運用もなかなか容易でない。西ドイツのように、戦後憲法裁判所を設けて、猪俣君の主張されるような抽象的な憲法裁判をやっておるところでも、一九五一年以来四年間に二千五百件あったそのうちたった三件しか憲法違反の宣言がなされておらぬ。また、この制度の発祥地であるアメリカにおきましても、一九三一年以来違憲訴訟の判決というものは一つもない。こういう状態でありまして、わが国のごとく、抽象的な違憲訴訟が許されず、具体的争訟があった場合に司法裁判として初めて八十一条の実質的法律の違憲審査権が行われる、こういうことになりますと、たとえば仮定して、最高裁判所の中に六部の民、刑、行政方面における上告が行われる、そうしてこれが審判されていくということになりますと、何でもかんでも憲法違反へこじつけて持っていかれるというようなこともおいおい減るでありましようし、また、在野の弁護士諸君もその点を大いに慎しんでもらって、いたずらに憲法違反なんていう上告はしてもらわないというようなことになるならば、違憲の上告というものは非常に減ってしまう。そうして、かりに大法廷は憲法違反事件と従来の判例を変えるという非常にまれに見る事件のみを扱うということになりますなら、は、これは初めのうちはどうかと思いますが、おいおいたっていけば、非常に事件が少くなってしまって、場合によれば一年間に事件が一件もないということがあるかもしれません。私は決して大審院の昔に返せと言うのではないか、大審院当時は、判例を変える場合には四十何人という者が連合部を開いてやったのでありまして、これがたびたびあるのでは容易ならぬことでありますけれども、非常に少いものになるという私の考えかもし当るならば、たとえば九名の大法廷を作って、これが憲法違反の審判とそれから判例変更の場合のみを裁判するということになれば、これはほとんど事件かないような――と言っては悪いけれども、非常に少い仕事になって、勢いこの大法廷は最高裁から浮いてしまったようなものができるのではないか、こういうふうに考えるのでありますが、長官は依然としてそういう事件は相当多いというふうにお考えになるか。これは将来のことですから明確なことは申されますまいが、そういう傾向になっていくのではないかということを私は考えるので、それならば、たまたま起る大法廷の事件というものは非常に少いものとして、これに対する処遇をしていっていいのではないか、こう考えるのでありますが、その点のお考えを一つお伺いいたします。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 小林委員が御指摘になりましたように、確かに、今まで違憲であるという判断が下されたのは、きわめてまれな二件という、それもすでに失効している命令の適用に関するものなんでございます。われわれがずっと今まで苦労して参りましたのは、むしろ適憲裁判、――法令が適憲である、憲法違反でないという理由を示すことなんでございます。これも八十一条のいわゆる違憲審査権の権限の大きな半面になっておるんじゃないか。と申しますのは、立法府が制定したものを、一応個々の事件を通じて裁判所にそういう事件が来た場合に、合憲であるという判断が下されることによりまして、それでもって法律が権威をそれだけ増す、安定性を加えるということではないかと思います。また将来の立法に対する一粒の安全弁ということにもなるのでありますから、違憲判断が、なされた場合は非常に少い、これは国家的に見ると、もし裁判所の裁判が正しいものといたしますならば、これははなはだけっこうなことであります。アメリカの例をお引きになりましたが、世人の耳目を聳動させるような違憲裁判というものは、二、三十年に一ぺんあるとかないとかいうようなことなのであります。多くはやはりその合慰裁判をやっている。結論は合憲だ、こういう理由で立法は違憲じゃないの、だということを国民をして納得させる機会を与えており、そのためにわれわれは主として粘力を没頭しておると申してもいいようなわけでございます。実は、問題が参りました場合に、われわれは、違憲であるか合憲であるかということは全然先入主を持たないで、白紙でもって臨むのであります。議論してみて、それこそ一票の差でも違憲であるか合憲であるかというようなことがきまるわけでありますから、やってみなければこれはわからないのです。結果はただいま御指摘になったようなふうになっておりましても、そこへいく事件はとにかく来るのです。違憲のものだけ来させるというわけにはいかないのであります。調べてみなければわからない。  それから、もう一つは、純然たる憲法問題として出てくるのみならず、他の法令違反の問題がずいぶんからまっております。法令違反の問題だけは中二階の方でやらせ、われわれは違憲裁判だけを、憲法問題だけを取り扱うというようなことは、これは理論としては考え得られないことではありませんが、またさようなことができることに現在でもなっておりますが、小法廷でもって普通の法律問題を判断する、われわれ大法廷の者は憲法問題だけを取り扱うことができる、小法廷に差し戻すというような、移送するというふうなこともできることになっておりますが、これはしかし常にからまって出てくるものですから、やはり大法廷に来た以上は大法廷でやってしまうことの方が便利なんであります。そうしますると、純然たる憲法違反、エッセンスだけを取り上げて調べるというようなことはなかなか困難であります。  それから、憲法問題についての違憲の主張はこれからだんだん減るんじゃないかというお見込みのようですが、これは将来の見込みの問題で、なかなかわれわれとしてもちょっと予想ができないことなんでございます。しかし、とにかく、今までの上告趣意を読んでみますると、あらゆる主張がされております。第一点から第十何点。二十点というようなのが出てきます。その中に憲法問題が引いてあるところもあれば、そうでない一般の法令違反の点もある。でありますから、上告を、つまり憲法の審査権を持っておる以上は、あらゆる理由が並べられることは予期しなければなりません。ただ法令違反の窓口が広がったから、だからそれだけに今後は在野法曹の方々が憲法問題なんか触れないで法令違反一本やりでいくというようなふうになるかならないか、これは私非常に実は疑問に思っておるのでございます。そうしますると、あまり事件は減らないじゃないかという見通しも、必ずしも見当違いでないとも言えるのでございます。

小林錡自由民主党

○小林(かなえ)委員 ただいまお伺いいたしまして大体わかりましたが、私は、上告理由として出てきた場合に、非常に取り上げる価値のあるような憲法違反の事件というようなものと、価値のないものというようなものを、何とか工合よくやっていく道が作られるのではないかというふうにも考えるのでありますが、この点は、これは要するに議論の問題であります。これまで大法廷において適憲の判決があったものは小法廷でも適憲の判決ができるのでありますから、おいおい私は減っていくべきもののようにも思います。  それから、もう一つは、要するに、人間が多くなると合議に困るという点であります。これはさもあらんと思います。もとより、単独判事でやれば、一人きりですから、自分の思うままのも裁判もできるでしょうが、これは決して正しい判決が下されるとは言い得ないのであります。独断に陥るおそれがある。それなら二人、三人、四人、五人というような工合で数がふえていけば、そこに合議のむずかしさがあります。たとえば、三人の合議裁判所におきましても、そのうちの一人ががんとしてきかぬというのがあると、きかないのが正しい場合もあろうし、性格的にいわゆる石頭とか言われるような、がんとして妥協性のないというような場合は、裁判長が非常な苦労をして合議というものをまとめてきている。三人でも、従来いろいろあったわけであります。そのために判決がなかなか下されないで延びたという例も聞いております。そういうわけでありますから、もとより数がふえればその困難さはありますが、しかし、私は、不可能とは言えないと思う。昨日も、不可能とは言えぬというような最高裁判所の判事諸君の話でしたが、従来もこれは同じことでありますが、従来どういうふうにして合議をやってきたかというようなことは、私がここに申し上げるまでもありませんが、現行の裁判所法の第五編、第三章に、「裁判の評議」というのが載っております。七十五条から七十八条にまたがっております。これはここに一々説明いたしませんが、合議は公行しないというようなこと、それから、裁判長が意見を述べるときの整理をする、それから、裁判官は必ず意見を述べなければならないということになっていて、最後に「評決」となっておって、きまらぬ場合には、要するにやはり多数決できめるということになる。そして、意見が三つ以上に分れた場合には、数額の問題に対してはどう、刑事事件に対してはどういうふうにしていくというような規定もあるようであります。ところが、その規定はどこからきているかというと、かっての裁判所構成法、明治二十三年二月十日にできている法律第六号、第百十九条から第百二十四条までの規定があります。「裁判ノ評議及言渡」として、その中に載っておりまして、ほとんどその内容が今の裁判所法の先ほど述べてきた中に引用されているようであります。第百二十二条には、「評議ノ際各判事意見ヲ述ブルノ順序ハ官等ノ最モ低キ者ヲ始トシ裁判長ヲ終トス官等同キトキハ年少ノ者ヲ始トシ受命ノ事件二付テハ受命判事ヲ始トス」というようなことも書いてある。でありますから、合議というものは何も今始まったことではない。なかなかむずかしいことだいうことはわかっておりますが、しかし、いつまでたっても合議せずにおっては裁判ができない。しきりに、合議がむずかしくて、議会における議決のような、多数決によってきめるような簡単なものではないということをおっしゃるが、それはもうわれわれは十分わかっておるのであります。しかし、最後には議論はここへ持っていくほかない。従来、今の十五名などということも予期しない裁判所構成法当時、大体五人、多くて七人くらいのものでありましたけれども、やはりこういう規定が置いてあって、今日までこの評議方法というものは一歩も進歩しておらぬ。これがほとんど取り入れられて今度の裁判所法ができた。昭和二十二年にできたものに入っておるのであります。でありますから、この点は一つもう少しお考え下さって、数が多くてもその中で何とか方法を作って意見をまとめてだんだんやっていくということになれば、憲法違反の、審判とか判例を変更するというような大きな問題というものはなかなか出てこないから、三十人でも大丈夫である。いかに困難であっても、最後に評決によってきめる、いわゆる過半数によって決していくということを用いれば、私はできないことはないと思う。もとより理想的なことはできませんが、しかし、人間のやることですから、それはどこかに欠点が起る。利口な人がおればよけいいい答えが出るのではないかという議論もあるし、その中に利口でない者があればやはり困る。数が少ければすぐきまるかというと、一人がんとしてがんばる者がいると、なかなかきまらないということで、裁判長がその点を上手にまとめていかれるとか、あるいは論理の上でディスカッションしていって、こういうところに落ちつくのじゃないかというものを発見されるのがいいのじゃないか。まあ不可能かもしれませんが、もう少し進歩した考えを作っていただくならば、三十人必ずしも不可能じゃない。ことに、今十五人ということになっておりますが、ルールによって、九名判事が出席すれば裁判ができるということになっております。三十人の中でまたそういうルールをきめて、二十人なり、あるいは十七人なりにされても差しつかえないのじゃないか、こういうふうに私は考えるのでございますが、この点についての御意見を伺いたいと思います。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 合議の運用の実情につきましては、ある程度すでに申し上げましたが、われわれといたしまして、現在の制度で今働いておるのでございますが、現在やっておることについて決して満足しておるわけではありませんので、もう少し裁判所法にあるような筋道を実際の運用上立てて、けじめをつけて、普通の合議体的の要素を手工業的なやり方に加味しなければならないじゃないか。現在十五人あるのでありますから、その十五人の合議体は五人の合議体とやり方が違ってもいいのじゃないか。また、現在違わなければ十五人の合議体を運営していくことはうまくいかないのであります。率直に申しますと、まだまだ現在十五人の合議が五人の合議体の合議のような面が多面にあるということを率直に認めざるを得ないのであります。ただいま御指摘になりましたように実は私及ばずながら努力して参っておりますが、その努力がなかなか実を結はないことは、はなはだ微力のいたすところで、大いに反省をしなければならないと、率直に私はそれを認めざるを得ません。しかし、事あるごとに、事件ごとに、少しでもいい方に向けていかなければならないということを痛感いたしております。  ただ、ちょっと先ほども申し上げましたように、事件の数でございますが、来てみなければ実は違憲であるかどうかわからないということがありますので、そういうものは持ってこなければいいじゃないかといいましても、現在の状態から申しますと、小法廷で一応問題になると、これは重大だから大法廷の判断にまかせようといって、小法廷から大法廷に移される事件がずいぶんあります。実際やってみて、なあにこれは小法廷限りでやってもよいじゃないかというようなことをあとで発兄しましても、やりかけた以上は、また小法廷で調べ直すということは重複してむだに時間をウエイストすることになりますから、むしろ大法廷で片つけてしまおうということになります。私、大法廷に来る事件をいろいろ見まして、この部分に関する限りは小法廷でよかったんだ、わざわざ大法廷まで持ち込まれる必要はないじゃないかと思うことがたびたびあります。それから、特に憲法でも何でもないじゃないか、普通の法令の解釈でもって片つけられるのじゃないかと思うようなことはありますけれども、やはり裁判官は慎重でありますから、いやしくもそういう疑いがあるなら、大問題が伏在しておるのじゃないか、将来判例となるような重要な契機がそこにあるのじやないかという場合には、慎重を期して持ってくるのであります。でありますから、なかなか大法廷の事件というものは、結局合憲にきまるのにしても、論議の対象になることは相当たくさんあるのじゃないかと思っております。

三田村武夫自由民主党

○三田村委員長 古屋貞雄君。

古屋貞雄日本社会党

○古屋委員 努めてダブらないようにお尋ねしたいと思います。長官の御意見を承わりたいと思いますのは、やはり長官はた、だいま政府からお出しになっております原案に御賛成のような御意向でありますから、私、承わりたいと思うのです。  最高裁の従来の小法廷を、下級裁判所としての別の小法廷を設ける。この下級裁判所である小法廷を設けます結果、訴訟の促進にあらずして、むしろ訴訟が遅延する。従来の裁判所の三審制度に四審制度という新しい制度が作られるように考えられているのでございます。特に私御意見を承わりたいと思うのは、その小法廷の裁判について異議の申し立てができる、そうして大法廷である最終裁判所の判決を受ける、ことに、憲法の解釈を誤まったという場合、あるいは憲法違反である、こうした特別な事件だけが大法廷によって審理される、こういうことに相なっておるようですが、こういう点についての御所見を承わりたいと思います。現在の訴訟法に基きましても、主として憲法違反が上告の理由にしぼられて参りまして、それが相当数ございまして、審理を受けておるわけであります。従いまして、小法廷で判決を受けましても、それの判決自体が憲法の解釈が誤まっておるとか、あるいは憲法違反であるとかいうような理由で、大部分の事件というものが大法廷に持ち込まれるのじゃないか。その点につきましては、憲法三十二条において、日本の国民は裁判を受ける権利を持っておりますから、そういうように異議の申し立てを理由づけて大法廷に持ってくる。これを禁ずるわけにいかぬと私は思うのです。従いまして、憲法三十二条によって与えられておる国民の立場から、小法廷の判決に不服であるというために、大法廷に持ち込む工夫をする。こういうことになりますと、むしろ今までより繁雑になって、裁判が遅延するおそれがある、こう私どもは考えておるのですけれども、長官の御所見はいかがでしょうか。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 四界制度になる可能性、危険が多分にあるのじゃないかという古屋委員からの御質問でございます。これも実は将来の見通しの問題でございまして、異議という性質上、判決の執行は停止せられないということになりますと、従来存在しておったところの実質は頂けておるのだ、しかしながら、引き延ばしするために、時をかせくために上告をするのだという、そういう性質の上告もあるわけであります。そういう引き延ばしに対しては、確定力がすでに阻止されないであるということになれは、上告の効果はないわけになります。その点に関する限りは、四審制度で審級が四つ重なっておるものとは違っていはしないか。どうも政府御当局の御弁解もそうだろうと私は思っております。今まで法務大臣その他から答弁されたところも、やはりその異議というものが普通の上訴とは違っているという点に重きを置いて、だから事件が減るのではないかという見通しに立っての政府当局の答弁だと思っております。われわれとしましても、やはりやってみなければ、これは実はわかりません。案外異議が殺到し、その異議を処理するのに手間取らないということも、見通しの問題で、大丈夫だと保証するということは、どうも私としてはっきり確言できないわけでございます。

古屋貞雄日本社会党

○古屋委員 そこで、もう一つお伺いしいたのは、憲法三十一条と三十二条の関係です。三十二条によって、裁判を受ける権利がある。しかし、小法廷の判決で確定もしない、しかし執行される。一方では執行をされており、一方ではまだ裁判で争っておるというところに、裁判に対する国民の疑惑というものが生ずるのではないか。法律家のような専門家の方たちは理解をするでございましょうけれども、一般の国民は、一方では確定的に執行をされておる、しかし一方においては裁判をしてもらっておるのだ、――裁判が終らない先に確定執行されてしまうという事集が現われてくるわけです。この矛盾と、こうした関係ですが、憲法三十一条は、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」、こういうことになっております。従いまして、確定されておるけれどもまだ裁判中である、裁判はしておるのだけれども、一方では確定されて執行されてしまうということになると、三十一条と三十二条のこの純粋な理論の主張について、裁判の方が矛盾になっていやせぬか、裁判そのものが矛盾ではないか、こういうように考えるのですが、この御解釈はこういうことになっていますか。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 私の考えでは、「何人も、裁判所において、裁判を受ける権利を奪はれない。」という憲法三十二条の規定は、審級制度をどこまで認めるか、どこで打ち切るかということとは別個の問題ではないかと思います。そこで、第一審で判決が下され、第二審に控訴されました場合に、すでにそこのところで判決の仮執行を認める、――もちろん民事についてであります。そういうようなことも別にこの規定に抵触するわけではないので、現に訴訟法の建前において採用されておるわけであります。今度の案におきましては、もう一つ上の段でそれが出てくるわけであります。すでに三者は経ておる。死刑の問題とか、あるいは重い刑が科せられるというような場合においては、これはまたいろいろそれとして考えなければならない点もございましょう。しかし、一般の事件について、すでに三審を経ているの、だということを考慮に入れ、そして、ただいま御説明申し上げたところと三十二条の規定の粘神との関係がもしそうたとしますれば、最高裁判所の段階においてはなおさら認めても差しつかえないのではないかというふうに考えておる次第であります。

古屋貞雄日本社会党

○古屋委員 ただいまのお説ですけれども、仮執行の場合とは非常に違うと思うのです。小法廷において確定判決たということに確定されて確定執行を受ける、一方では異議を言っておるということになるのですから、私は今の場合とは本質的に違っておると思うのです。仮執行の場合には、それに対する損害を補償するものを一方に積んでおきまして執行されておる。小法廷の執行は仮の執行にあらずして確定執行だと思うのです。そういうように解釈するのは間違っておるのでございましょうか、その点いかがでございましょうか。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 確かに、片一方は確定判決であるのだ、しかし仮執行の場合はそうでないの、だというのは、お説の通りであります。ただ、すでに確定したのだから、そういう異議か認められておるけれども、しかし執行してもいいのだということももちろん解釈として言えるのではないかと思われるのでございまして、なおこの点は十分研究してみたいと思っています。

古屋貞雄日本社会党

○古屋委員 なお、あとに戻るようですけれども、そこで、憲法三十二条に基きまして、小法廷の判決を、国民が、これは違憲だ、憲法の解釈違反だということにして、これを大法廷に持ち込むということは、私はあり得ると思うのです。長官がやってみなければわからぬと言われるお説もごもっともだと思いますけれども、今、憲法違反という事件が数千件の中で二件か三件しかないのに、憲法違反で上告しておる。この現実にかんかみて、小法廷の確定判決に対する異議というものは禁ずるわけにいきませんから、事必ず、これは憲法違反であり、憲法解釈を誤まっておるという理由づけをされまして、大法廷に異議を持ち込む。それは三十三条の規定でいくのだ、こういう理論づけをされてやりますならば、むしろ今よりも複雑になり、事件の促進という目的は今よりも達せられないのじゃないか、こういう点を私どもはおそれるのですが、あらためてまた御所感をいただきたいと思います。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 今までの傾向から見ますと、さような懸念が全く杞憂だということは私も申し上げる勇気はないのでございます。とにかくやってみなければわからないのでありまして、かりに相当の数が殺到いたしましても、異議だということになると、処理が幾らか容易であるということは言えるのじゃないかと考えております。

古屋貞雄日本社会党

○古屋委員 その点につきまして、前に申し上げたように、国民に対して裁判に対する疑義を持たせるおそれもあるし、今のような非常に危険な状態に置かれておるので、私どもは賛成しかねると思うのですが、その点は意見の相違でございます。  なお、これは皆さんから御質問がございましたので、簡明に申し上げたいと思うのですが、先刻長官から、十五人の合議よりも九人の方がいいのだ、十玄人でもなかなかきめかねるというようなお説を承わったのですが、九人にするという考え方は、合議の審理を促進するというような利点があるのか それとも裁判の内容に対する質的な向上があるのか、こういうように二つ分析を申し上げて御意見を承わりたいと思うのですが、九人でもいいのだと、こうおっしゃるが、私どもの納得のいくような御所感を承わりたいと思うのであります。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 二つの点について御質問があったわけでございますが、合議がやりやすくなるということは、これは確かにそうであります。結論に到達しやすくもなります。それで、判決は各裁判官の意見の多数意見につきまして最大公約数を見出すことでございますが、裁判官の数が減れは、最大公約数を得るのに容易であるということになるのでございます。それで、大ぜい加わった方が、裁判の向上に、あるいは適正なる裁判に貢献するのではないかという見方も、ごもっともだと思います。ただ、そこはやはり多々ますます弁ずというわけにもいきませんし、また、少ければ少いほどいいのだ、結局単独あるいは三人とかいうことでいいか、それも認めるわけにもいきません。そこで、裁判の内容につきましては、先ほど申し上げましたように、もし、判決の結束が適正であるかどうかということが、数が少くなってそれがひつくり返るとか、数が多ければ判決の結果が適正であるとか、数が減ることによって適正でなくなるのだということになっては、これは大へんでございます。しかし、十五人を九人に減しましても、その判決の適正であるという結果には、数を減したための影響はないのではないかと思います。  それから、もう一つは、数が減りますことによって、最大公約数になって判決に現われるものが一そう具体的になるということは、これは申し上げられると思います。大ぜいでもって作り上げたいろいろな人の意見を考慮しまして書きます場合において、その意見の内容に付加するところよりも、削られるところの方が多くなります。そうすると、残るものは、非常に抽象的なものになってしまいます。九人になりますと、今までよりもそこは具体的になってきやしないかと思います。さような意味では判決の内容が向上するということになります。従って、裁判という合議体、裁判官の数というものが、国際的に考えてみましても、おのずから合理的な基準が存在するわけでございます。

古屋貞雄日本社会党

○古屋委員 長官の御所見はさようでありますが、もう一つ承わりたいのは、これは杞憂になるかもしれませんけれども、現在のように、社会事情が非常にめまぐるしく変って参ります。ことに、いろいろの科学の発達に伴う経済、社会事情が飛躍的に変って参ります。従って、国民の納得する裁判であり、国民の自由と権利を理想的に擁護される、しかも公共の福祉増進のためのりっぱな裁判が行われる、かような観点から考えますると、努めてでき得るならば数をふやして、そうして広い視野のもとに広い御意見を創意工夫してまとめ上げていく、こういうようなことが非常に必要になってきておるのじゃないか。今長官のおっしゃられるような、まとめるのに少数であれば意見が具体化してくる、多数の意見は多数において出てくるけれども、最大公約数の最後の集約については少しぼかされてくるのだ、こういうような御見解のようでございます。その点は、私ども、もっと合議のやり方に創意工夫をされて、従来十年間おやりになりましたその経験に基いて、もっと掘り下げたと申しましょうか、新しい工夫のもとにまとめられることが行えないものであろうかどうか。この点は、さよう申し上げますと、今の最高裁判所の判事さんのおやりになっていることにもっといい工夫や創意がありはしないかという御輿岡になるので、非常に御無礼かもしれませんけれども、国民の立場から申し上げますなら、は、今までやり来たったそのやり来たりから、新しいしぼり方と申しましょうか、今の最大公約数をまとめ上げるにはもう少しいい方法がありはしないか、もう少し的確なまとめ方がありはしないか、こういう点において相当創意工夫をされる必要があるのではないか。また、必要があるという長官の御所見のようなのでございますが、さような観点から考えまするのならば、ある一定の数のふえるということに対する処理は、やはり合議をしぼって判決を書き上げる過程においてでき得るのではないかということを私どもは考える。従いまして、十五名では多過ぎる、九名がいい、それは少数の方が意見がまとまるときに具体化してくるのだ、こういうような御意見のようでありますけれども、多数であっても、その事件の重要なる要点、争点をしぼり上げることは、私は、十五が二十人になりましても、そのくらいの程度、三十人の程度ではやれるのではないか、こう考えるわけであります。昨日も最高裁の皆さんのお話を承わりましたが、不能に近いだろうという御意見を承わりましたのですが、それと同じような長官の御意見なのですけれども、私ども国民の立場から考えますと、従来のような合議の方法を、もう少し現代的と申しましょうか、科学的に技術的にしぼれないものであるか。その創意工夫が行われるとするならば、三十人でもいいという結論に相なるわけでありますが、もう少しその点につきまして、私どもの納得のいくような御所見が、要点だけでけっこうでございますが、承われないものでございましょうか。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 社会情勢は刻々変化進展して参りますし、裁判所としてはまたさような新たな社会情勢に直面して一そう視野の広い観点から、適切な裁判を行わなけれ、はならない、まことにごもっともで、われわれもそれに努力しておるわけでございます。ただ、それは、いろいろな識見、ものの考え方あるいは経験、知識等が違う人を網羅するということによって、さような新たな情勢に従って裁判所に課せられた新たな任務を遂行していくのに、数をふやすことによって解決するかということと、現在の裁判官の質の向上ということによって解決するかという二つの問題になるのではないかと思ういます。私自身は、やはり数は少くして質をよくしていく。また、数をふやしますると、どうしても質かそれほど高くなくなる、これが社会法則ではないかと思っております。これはしかし誤解を招きやすいことでございまして、現在最高裁判所に職を奉じておる者が非常な特権的の意識を持っており、数をふやすということになるとその特権が薄らいでくるのではないか、――われわれは毛頭そういう考えを持っておるものではございません。将来の裁判制度の正しいあり方を考えてのあげくのことでございます。やはり問題は数よりも質。それでもって、少数の、現在あるもの、あるいは現在よりも少くなったところの裁判官の素質はますます上げていく必要があるのではないか。その点は、下級裁判所の裁判官に要求されるところと、最高裁判所の裁判官に要求しておるところと、法制上においても違いを認めておるところからも、御了解できるのではないかと思います。今かりに増員ということになりますと、結局、その構成は、最高裁判所がスタートしました場合に各方面からの人材を集めるという方針、これをさらに拡大しての三十人という構想は、やはり最高裁判所のスタートした際の、裁判所法何条でありましたか、それに規定してある裁判官の資格、あの規定の精神に従って増員するということになりえますでしょうが、やはりそんなに――在野法曹の中からきわめて優秀な人をわれわれは常に得ようと思っておっても、得るのに非常に困難な実情であるということをお考え願いたいのであります。また、学界の方面に優秀な人がずいぶんおられますけれども、いろいろな都合上招致するのにはなはだ困難でございます。はえ抜きの裁判官の中でも、いい人が最高裁に入れば、今度は第一審あるいは第二審が手薄になるというようなことで、なかなかこれも具体的な問題として困難なのであります。もしそれ、現在の最高裁判所くらいの程度の人物なら実にたくさん世の中にいるんだというふうな意見もあり得るかとも思いますけれども、われわれは決してわれわれ以上の者がいないとしよっておるわけでもございません。しかし、事実、具体的の問題になってきますと、各方面からの人材を網羅するということはきわめて困難であり、今度は裁判官畑からということになりますと、最高裁判所の性格が薄らいで、昔の大審院のようなことになってくる。そうなると、憲法の適否の判断をするのにもあまり適当でないということになってくるので、やはり質と量との問題、ここにわれわれは考えなければならない点があるのではないかと思いまます。

古屋貞雄日本社会党

○古屋委員 最後に、長官の御所見を拝聴いたしておりますと、十五人が合議をいたします場合に、反対意見その他のいろいろな意見があって、これをまとめるのに非常に時間がかかる、こういうような御所見を承わっておるのですが、それを少数の人で深く掘り下げて合議をされる、そういう場合の方がいい判決が行われるというような御所見のようですが、数をふやして、各方面の変った立場からの考え方、見方をまとめて、そしてこれを最後に最大公約数に集約して判決を旨い渡す、この点について練り方の問題が問題になってくるのじゃないかと思いますが、非常に親切にとことんまでみな審理して、そうして、もうこれ以上絶対に異論が生まれないというような、最後の決をとります場合のその程度の問題が相当判決を促準ずるか引き延ばすかという点に影響するように、これは方法論において思われるのですが、多くの人の意見というものをまず出さして、それを最大公約数にまとめていく力がいいのか、それとも、狭い範囲の視野のもとにおいて、と言うと語弊があるかもしれませんが、少数の人の意見を深く掘り下げて判決に持っていくのがよいか、こういうようなことは技術的な面に私はやり方と創意工夫があるように考えられるのでありますが、長官の御意見は、数の多い人の意見をまとめるよりも、少数の人の意見を深く掘り下げた方がいいというふうにお考えになるのでしょうか。どうも、私ども、方法論において十五人を九人にした方がいいというお考え方のように聞えるわけですが、方法論ならば、方法をかえて、もう少し工夫があるのじゃないか。その点いかがに考えておられますか。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 ただいまの御指摘のように、確かに方法論で、その方法を実現することが実に困難で、その困難は必ずしも私の裁判長としての微力のいたすところ、ばかりではないから、申し上げたわけでございます。そこで、この三十人の合議体でもって判断をするのに、やり方次第によってやれるじゃないかという御意見に対して、もしこういうことが可能なら、やれます。たとえば、小委員会みたいなものを作りまして、判決の原案を多数意見によって作成して、そうして三十人の合議体にかけて単なる可否を決するということで、その大きな集まりに出席する人はただ可否だけだということでありますならば、これは可能でありますが、そういうわけにいかないのが、これが裁判の裁判たるゆえんでございまして、やはりどの裁判官も、同じような程度において原案作成に関与するということになりますと、決して譲らない。みな一国一城の主で、自説を述べ、またある程度まで主張する。なかなか妥協しない。妥協しても、十人の者が妥協するのは割合に容易ですけれども、十五人の君が妥協するということは非常に困難で、現在困難を感じているわけです。いわん、や、それが三十人になりまして、そういう人たちがかりに少数意見をつけるということになりますと、一冊の本ができてしまうわけであります。現在といえどもそういう傾向がありますので、やはり原案を作成して可否をきめるというようなわけにはなかなか裁判というものの性質からいきかねるのではないかというふうに感じているのでございます。結局、初めに戻りますと、方法の困難性ということでございます。   〔委員長退席、池田(清)委員長代理着席〕

古屋貞雄日本社会党

○古屋委員 そういうお話を承わって、私非常に意を強うしたのですが、現在おやりになっているのを拝見しますと、まず第一に、上告の受付をして、裁判官のところに六ヵ月たたなければその書類が来ない、それから、どういう事件がどういう工合に受け付けられてどこへ配分されているかも、六ヵ月以上たたなけれ、ばおわかりにならぬ状況、だと私は聞いております。それをもっと早く判事さんのところに記録をお回し願って、そうして全部見ていただいて、それによって意見を出していただく、まず第一の合議のときには全部の意見を出していただく、こういうことに相なりますならば、私は、今までのような期間に三十人の裁判官でも合議ができると思う。そういたしますには、今のような少数の十五人の判事さんでは記録を見る時間がない。従って、調査官に見さして、自分は相当期間調書に関係がないのだ、こういう実情でありましょう。私ども承わります事実は、事件は最高裁判所に来ておっても、記録も来ておるけれども、記録を判事さんがごらんになるのは相当の期間の経過した後でなければ見ない、その間だけは、事件は上告に来ておるけれども判事さんの目に触れていないのだ、こういう現状だと私は思うのです。それならおくれるのは当然じゃないかという疑念も国民はするわけです。従って今の判事さんではあまり事件が多過ぎるから、もっと多くの判事さんにおいて、自分が調書を見る、こういうことに相なるということにならなければ、事件審理促進は行われない。だから、方法論というが、相半創意工夫をして改める方法があると思うのですが、その点に対する長官の御所見いかがでしょう。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 ただいま方法論と言いましたのは、合議のやり方の問題でございますが、上告を受け付けてからわれわれの手元に参るのは、調査官が調査をある程度まで済ませて、われわれの手に参るのは数ヵ月間かかるというような実情で、この期間は何とかしてもっと短縮しなければいかぬということを常に考えております。しかし、その間に、弁護人を選任したり、それから、上告趣慰書を印刷に付して、そして出さなければなりません。これは厳密なる校正を経てやらなければなりませんから、そしてまた相当多数の事件でありますから、その印刷に相当ひまがかかるのであります。しかし、もっと簡易化できないものかということは常に問題になっております。その期間が長いと、ちょうど川の流れみたいなわけで、絶えず水が川にあるわけであります。しかし、世間では往々にして、何千件というものが、ためなくてもいいものがたまっているのだというように世間の人はよく考えがちなんです。ところが、以前に私が就任しまして間もなくは七千件もあったのですが、その後努力して現在五千件台になり、あるいはまた五千件を割っておるというような現状であります。しかし、今の期間自身は、御説のように、もっと短縮することを考えなければならないのでございます。しかし、かりに五ヵ月が三ヵ月になるというようなことであっても、その三ヵ月の間の川の流れはやはり現存するので、それれが二千件くらいはあるかもしれない。そうすると、問題は、残りの二千件くらい、その二千件をどういうふうにして処理するかということが現在の問題なんであります。これもできるだけ早く処理しなければならないと思います。しかし、やはり調査官の手元に行って、調査する資料を集めるのに相当の期間が必要であるということは、これは事実であります。なおその点についてはいろいろな点で合理化しなければならないことは多々あるのでありまして、なおせいぜい御趣旨に沿いますように努力したいと思っております。

古屋貞雄日本社会党

○古屋委員 今の十五人の人数では今の件数をさばくのに無理だ、こう私も思うのです。実際、今の件数を十五人の判事さんがみずから親切に審理をするということになれば、それは不能の程度まで無理じゃないか、こう思うのでありますけれども、それを今度もっと減らそう、こういうことに相なるわけなんですが、そこに私ども非常にどうも減らせるところに疑惑があって納得がいかないのですが、長官のお説から申しましても、やはりふやした方がいい。ふやすべきだということに相なるように受け取れるのです。真実に調書をごらんになり、その争点を発見し、それに対する自己の意見をつけるということに相なりますと、やはり今の十五人では無理だ、だからおくれておるのだ、従って、ふやすべきだ、こういうように私どもは単純に考えてきているわけなんです。今の方では無理だということについては、長官のお考え、いかがでしょうか。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 無理であることを認めます。だからして、下級裁判所の性格を持っている小法廷で処理すということは、これはやむを得ないことではないかという結論に到達したわけであります。

古屋貞雄日本社会党

○古屋委員 そこで、私が先刻申し上げました三十二条かものを言ってくる。そういう、国民から文句が出てくる。一方でしぼられてしまう。し、ほられてしまうから、最終審の最高裁判所で判決をしてもらいたい、こういうように考えるような結果が出てくるのだということを、私どもも国民もとにかく考えているのですから、今申し上げたような意見を申し上げたのでございます。この点については、一方においては裁判を受ける権利があり、一方ではただいま申しました制度によってこれをしぼっていきたいという今の実情だというところに、本日委員長が申されましたように、この際、現在の社会事情に沿うような、国民の納得のいくような裁判の制度を、どうするかという問題が出てくると思うのです。  駄弁を申しましたが、私は以上で質問を終りたいと存じます。

池田清志自由民主党

○池田(清)委員長代理 高橋禎一君。

高橋禎一自由民主党

○高橋(禎)委員 長時間お疲れだと思いますので、従って、簡単に二、三お尋ねしたいと思います。少々重復するような点もあるかもしれませんが、お許しを願います。なお、最高裁判所を愛するがゆえに、これまでおせじ抜きで率直なお尋ねをして参りましたが、本日もまた同じような気持でお尋ねしたいと思います。  そこで、第一にお尋ねしたいと思いますのは、今国民一般が非常に心配しておりますのは、訴訟が長引くということです。そして、それについては非常な不満を持った人かおるわけであります。これは、ひとり最高裁判所の事一件だけでなくして、第一審から最終審までの間を通じての問題であります。そこで、最高裁判所長官は、ひとり最高裁判所の事件、だけでなくして、全体の司法事件について深い関心を持つて、それをいかにすれば迅速に処理できるかということをいろいろ御苦心になっていると思うのです。そこで、お尋ねしたいと思いますのは、長官は、今日まで、訴訟の非常に長い問題等について国民の声もお聞きになったでしょうし、あるいはまた裁判官のお話もお聞きになったり等々によって、何とか早くするようにしなければならぬと、いろいろ御研究になっていると思うのです。そこで、どうすれば全体を通じて最も裁判を迅速にすることができるとお考えになっておりますか、その点率直にお答え願いたいと思います。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 高橋委員の御指摘になりましたように、訴訟遅延ということは現在一番大きな問題であります。これを解決するために、このたびのような改革も考えられたわけであります。しかし、最高裁が改革しただけでは問題の解決がつきません。下級審の問題で、下級審において訴訟がいかに遅延しているか、この実情が国民の批判のまとになっております。私は、この問題につきまして、国民の批判かもっともっと起らなけれ、はならない、――雑音に耳を傾けるなどころでありません。大きく耳をあけてこの批判を聞かなければなりません。この点についての批判が実はもっと高まらなければならないのではないかとすら思っているくらいであります。そこで、私、就任以来、あら機会に、訴訟促進の問題を口をすっぱくして言って参りました。ただ、これは、裁判所関係者といたしましては一定の限度かございまして、ある事件がおくれている場合において、その裁判長に来てもらって、   〔池田(清)委員長代理退席、委員長着席〕 一体君の事件はなぜおくれているのだ、こういう理由でおくれている、そんなむだなことをやっているからおくれているのだ、というようなことは、私は申せないのであります。一般的に、訴訟の促進、むだなことをしないように、枝葉末節に拘泥しないようにやらなければいかぬ、必要な証人調べはしなけれ、はならないが、必要でない証人調べに時間をとってはいかぬし、また時間を厳守すべきことはもちろんである、また期日の点も厳重にして訴訟を促進しなければならぬということを、ああらゆる機会におきまして言って参りました。今まで何十回、民事、刑事、行政事件、あるいは税だとか、あるいは家庭裁判所、いろいろな会同がほとんど毎月のように最高裁判所でやられているが、そういう機会も訴訟促進のことを強調するチャンスとして見のがさないで参っておるのであります。また、研修所等においても、将来の裁判官あるいは司法関係者を養成する機関である以上は、訴訟促進ということに一番力を入れてもらいたい、適正な裁判、これはもちろんその適正さに欠けるところがあってはなりませんけれども、しかし、遅延した裁判は裁判の拒否にひとしいというような格言もありますから、適正な裁判でも時期を失してしまっては裁判の効果は半減するということを肝に銘じていなければならぬということを言って参ったのであります。今後もかような努力は決して怠りたくないと思っております。ただ、しかし、制度の面から申しまして、促進を促進するような制度がやはりほしいのであります。それには、物的施設、人的施設等を整備しなければなりませんと同時に、訴訟手続に関する規定あるいは制度に再検討を要する点もありゃしないかと思っており、事務当局の方で常にさような点に留意いたしまして研究をしておるわけでございます。  訴訟促進の一般論でございますが、こまかいことに入りますと、またいろいろな節々、かような委員会であまり立ち入りますのにも適当でないような技術的の問題にもなって参りますが、要するに、制度はどうであれ、裁判官がほんとうに国民の訴訟促進に対する要望を認識して、これに努力しなければならない。結局制度の問題ではありますけれども、しかしまた裁判官のやり方の問題だということを私は常に感じております。率直に申しますと、訴訟が長引くことについて非常に不平を言うのは当事者だけであります。ほかの問題になりますと、国民アット・ラージが関係するものでありますから、すぐ批判の的になりますが、訴訟がおくれていることについて不満をもらすのは関係当事者だけであります。さような点で、割合に世論が起りにくい。ですから、象牙の塔にこもっており、自己満足、独善主義に陥りやすい弊害もあるわけですから、かような点は世論の鞭撻を大いに期待して、訴訟促進にもっと拍車をかけなければならないと思っております。しかし、裁判官の独立性とか良心の問題とかいろいろな点で、具体的事件に立ち入ることが、いかに司法行政の立場からしてもできないというような事情もいろいろありまして、全く困難でありますが、これは日本はかりの問題ではありません。外国でも訴訟促進ということは何十年も繰り返されておることであります。外国の例等も参考にして、さらに制度の改善及び運営の改善に努力したいと思っております。

高橋禎一自由民主党

○高橋(禎)委員 今の問題で、世論ということは、長官もおっしゃっているように、なかなか起りにくいわけです。というのは、関係者でないとあまり不平を言わない。しかも、関係者というものは、まだ係属中のものでありますから、ちょっと裁判官に遠慮するのですね。あまり思うことを言っておって裁判の結果に影響したら大へんだと思って、本人はもちろんのこと、代理人とか弁護人だって遠慮しているのです。だから、裁判所側なり政府側としては、そこのところを、声なきを聞くというようなつもりでよく考えていただかなければならぬと思うのです。せっかく愚法で刑事被告人は迅速な裁判を受ける権利を持つとしておきながら御存じだと思いますけれども、十年ぐらいたって二審で結審はしたけれども、それから足かけ二年になるがまだ判決がないというような事件もあるわけであります。それから、最高裁判所にも五、六年ぐらい係属したような事件があるのですが、これでは憲法の精神はすっかり踏みにじられているような気持がわれわれはするわけなんです。だから、今おっしゃったような趣旨でいろいろ御努力になっておって、むずかしい問題だとは思いますが、私のお尋ねしましたのは、裁判所法についてこういうふうにしたいとか、あるいは訴訟法の点をこうしたらもっと早くなるのだというような、そういう具体的な御意見をお持ちでしたらと思ってお伺いをしたわけでありますが、その点について御意見がありましたらあとでまた伺うといたしまして、次のことについてお尋ねをいたしたい。  先ほど来のお話を承わりますと、今度の改正案がかりに実施されても、最高裁判所がほんとうに訴訟の促進をはかり得るかどうかやや疑問を持っていらっしゃるように感じたのですが、疑問を持っていらっしゃるというのがほんとうだと私は思う。私なんかは、見通しとしては、大へんなことになると思うのです。事件は最高裁判所にたくさん係属して、そうしてそのさばきがなかなかとりにくくなるのじゃないかと思っております。ことに、今の訴訟法なりあるいは裁判所法といったようなものは占領中にできたものが多いわけですが、今度は独立して、ほんとうにわれわれが法律を改正するとすれば、りっぱなものにしたい。特に裁判所の機構改革について、改革したけれども前よりはもっと悪くなったというようなことなら、われわれとして実に申しわけないわけでありまするし、最高裁判所としても大へんだと思います。そこで、この問題が起ったのでは訴訟促進ということがやはり第一ですから、その確信がなければ改正すべきじゃないと思うのです。そこで、長官に率直にお尋ねするのですが、現行法と改正案とを比較なさって、現行法よりは改正案の方がはるかにいいのだ――増員論、減員論という点から考えれば減員論の方がいいのだというような意味において政府案に賛成するのではなくて、現行法よりはこの改正案の方に改めた方がいいのだというような確信をほんとうに持っていらっしゃるのかどうか。先ほどもその点についてちょっとお話がありましたけれども、なお、心を押しておきたいと思うのです。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 冒頭に申し上げましたように、現在の状態は、最高裁判所において審理の遅延を招いておるが、これはどういうところに原因があるかと申しますと、大法廷と小法廷、両方十五人の裁判官が処理しなければならないようになっており、それが負担にたえないのです。その大多数の事件は、元大審院が処理しておったような事件がそこに入っているから、大審院では四十五人の判事を置いたわけでありますが、現在は十五人で、元の大審院のやっておったのに近いような事件を背負い込まされておるのだ、だからして、最高裁判所の中であるか外であるかは別問題として、ほかに上告的のものを設ける、それで処理するのは、どうも現在の状態からやむを得ないのだ、そういう建前から考えますると、今度の政府案がその要望にかなうことになっているわけであります。そこで、それでも結局最高裁判所にいろいろな筋から一番最高の屋根のところまで事件がいろんなチャンネルを通ってやってくるおそれがあるではないかと先ほどもお尋ねがあったのでありますが、これは見通しの問題でわかりませんが、政府原案によるとそういうことはないだろうというようなお見越しであります。これはやってみなければわからぬことでありますが、現在よりはさような意味で訴訟促進に貢献するのではないかということを考えております結果、原案に賛成をいたしておるようなわけでございます。

高橋禎一自由民主党

○高橋(禎)委員 原案に賛成されるということであれば、続いてお尋ねをしたいのですが、先ほど古屋委員からも触れたところです。私はこれまで委員会で政府、委員なりあるいは公聴会の公述人の方からも意見を聞いたのですが、政府案で一番私どもが欠点だと思えるのは、最高裁判所小法廷で裁判が一応確定します。そして憲法問題については最高裁判所に対して異議の申し立てをするわけです。確定したものについては執行をする、ただ例外的にそれを停止することができる、こうなっておる。これを例を刑事事件にとりますと、直ちに執行する場合でしたら、まだ最高裁判所で憲法問題について審理中なんです。ところが、今ほど長くないにしても、相当長い間最高裁判所で審理していらっしゃるということになると、刑の執行を終って出てしまうのです。そういうことも相当あると思うのですが、一体こういうことがあっていいものかどうか。これは古屋委員も申しました。私もその点は非常におかしなことだという感じがしてならないのです。従って、もう被告人ではなくなってしまう者が、最高裁判所について、司法事件として、そして憲法問題に関連して裁判を受けつつあるという状態なんです。こういうことで一体世の中がおさまるかどうか、国民が刑の執行ということについてどういう考えを持つか、あるいはまた裁判に対してどう影響するか、非常に筋の通らないことのように思えるのですけれども、この点について承れて長官の御所見を承わります。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 すでに一審、二審と経過した事件でありますが、人間の裁判でありますから、絶対に誤まりがないとは、いかなる場合においても言えないことであります。異論という制度を認めたのは、別な審級という意味ではないので、万々一の場合を考えてさような制度を認めたのではないかと思います。これはほんとうの安全弁と申しますか、かりに異議が理由があった場合どうなるかということになりますと、これはた、だいま即座にお答えするので、あるいは適当じゃないのじゃないかとも思いますけれども、再審というような道が開かれておるようなことも、誤まりを是正する、まあこれはめつたにないこと、だろうと思いますが、さような一連の制度を考えてみましても、このような安全弁というものはあってもいいのじゃないか。従って、異議か殺到するということ自身がおかしなことでありますが、かりに殺到したとしましても、この処理は、割合に憲違反とかなんとかいうことが非常に明瞭な場合に見なけれ、はならないわけです。その中から憲法違反の問題を拾い出して検討するというのは、それほど時間がかかるわけでもないじゃないかというふうに考えております。それからまた、そういう場合には、小法廷の裁判に違憲の疑いがあるというような場合においては裁判の執行を停止するというような案になっておりますから、この点でも不合理は阻止される可能性は開かれておると存じております。

高橋禎一自由民主党

○高橋(禎)委員 やや水かけ論になるので、あまり申しませんですが、とにかく、憲法というのは非常に重大な問題だと国民は考えております。憲法に違反した裁判だというその裁判がまだ残っておるのに、刑の執行をしてしまうというのでは、どうも私どもは、国民一般の良識から見て、とても納得のいかぬ制度のように思えるのであります。  そこで、今度は人員の問題ですが、十五人では多過ぎる、これは合議の仕方にもよると思うのですが、長官は人数が多くなると質が下るとおっしゃるけれども、しかし、人数が少くなれ、は必ず質が上るというものでもないのです。まあここからやや現在最高裁判所の裁判官の皆さんに対してちょっと言いにくいところですけれども、率直に申しますが、裁判官が相当長期間にわたって在職される、その問だんだん人数を少くしていって――ともかく、今まででも非常に訴訟が遅延になっておった。それは、制度が悪いかもしらぬし、物的設備が悪かったという事情に原因しておるかもしれませんが、とにかく、最高裁判所が多数の未済事件を残し、そして長期間にわたって裁判が終らない事件がたくさんあった、そしてこういう問題が国会で長い間論議されなけれ、ばならぬというにとは、国民の目から見れば、私は最高裁判所が成功であったとは思えないのです。その成功であったとは思っていない裁判官が残って、なお人数が少くなってやるのに、国民が大きな信頼を持つかどうかということが問題になってくると私は思うのです。人数が少くなれば質がよくなるなどというのではなくて、質の悪いのが少くなったら大へんじゃないかという考え方もあり得るし、また、現実に、任命の方法よろしきを得なかったら、質の悪い者が出るわけですし、それに少くなったら大へんなんであって、むしろ人数の多い中には優秀な人が相当あり得るという意味において、私は人数が多い方が安全ではないかと思うのです。それから、人数が多ければ合議がしにくいということは、裁判長の合議を指導されるやり方にもよると私は思うのです。そこで、お尋ねしたいのは、合議される場合に、今度の案によりますと、最高裁判所の大法廷と小法廷で裁判長というものがどういうふうにしてきまって、そしてそれを更迭することができるようにされるのかされないのか。人によっては非常に学識があっても、やはり合議を指導していく能力のある人とない人が私は現実にあると思うのですよ。だから、小法廷の首席裁判官というのは、そういう合議を指導するのにいい人を選ぶべきであるか、あるいはまた学識経験豊かな人を選ぶべきであるか、これはまたなかなかむずかしい問題ですが、しかし、現実にやってみないとその手腕というのはわからないですね。そういうふうな場合に、裁判長をかえて合議を促進するといったような方法も考えていいんじゃないかと思うのです。それを、実際の合議に携わっていらっしゃる長官として、それらの裁判長の問題についてどういうふうにお考えになるかということ。それから、裁判をなすに熟するというような言葉が訴訟法にあったと思うのでございますが、一体裁判をなすに熟するという、その時期を定めるのが、また裁判長の非常な見識によるものだと思うのですが、いつまで議論させたらいいのか、過半数になったらそれでいいのか、そういう点と、その人員との関係についてのお考えをお漏らし願いたいと思います。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 まず第一に、人数をふやせば質が低下する、減せばよくなるということについてでございます。これは、決して、われわれ今おる者の質がいいと思っておるわけではないので、その点は、先ほど申し上げましたように、将来の裁判所をどういうふうにしてよくしていこうかという、きわめて客観的な気持からでございまして、人数がふえればそこにすぐれた人はもちろん入って参りますでしょう。が、また、それほどでない人もふえてくるわけでございます。ところが、少くなくなりますると、これはやはりどうしても裁判官に対する社会的評価とかいうもの、さようなものにも幾らか影響を及ぼし、その少数な裁判官の地位につくのに比較的すぐれた人が得られる可能性があるんじゃないかというふうに考えられます。これは見込みの問題でありますが、しかし、一般にほかのいろいろな制度の運用等について考えてみましてもそうですし、また、憲法裁判というようなことをやっておるほかの国々において裁判官の数がそんなに大ぜいでないということも例になることではないか。そこに種の社会法則みたいなものがあるのではないかと思われます。ところで、合議の運用、三十人で審理し、また判決を書くということは、これはやり方次第によってはやれるのではないか、先ほどからずっとこの問題、議論が出、御意見も承わったのでございますが、私自身の経験からいたしますると、今でもすぐに非常に困難を感じておる。しかし、これは裁判長の微力のいたすところだろう、こうおっしゃられると、それまでであります。私もある程度それを認めなければなりませんが、しかしながら、やつ。はりかような制度になっておりますもとにおいては、ずいぶんやむを得ないところも多々あると思う。これは裁判の性質からくるのでありまして、もう熟しておると裁判長は考えましても、そこでまた、こういう点があるのじゃないかということを新たに言い出した人があって、いろいろな議論をする。それも、ほかの裁判官が一致して、それは必要ないじゃないか、もうこの程度で打ち切ろうというように、全部の裁判、打の意向がそういうふうに向いております場合においては、それは非常にやりやすいのでございます。裁判長としてもうこの程度でいいのだ、この事件はもう二、三時間、これだけ論じたのだから、この事件の重要性にかんがみて、この程度以上時間をさく必要はないのだというようなことも、これは裁判の性質上なかなかやりにくいことでありますし、裁判というものは実は期限がきまっておりません。これが宿命的な問題でございます。ほかの社会的ないろいろな承要な仕事におきましては、いろいろな意味で時間がきまっております。時間的の制約、この問題はいつ幾日までに片づけてしまわなければならないというような限界はおのずからあるのでありますが、しかし、裁判についてはそれがないので、従って、先ほどの御心配の遅延というような弊害がますます増大して参るのであります。しかし、やっぱり合理的な時間があるのだ、ある点まで論じたならばもう熟しているのだと見てやっていいのであります。そこは、なかなかしかし、各裁判官のものの考え方、あるいは判断等によることで、なかなかそれを押し切ることは非常な困難を伴います。そこで、裁判長の性格がどうでなければならぬかということにつきましては、学識があり、また裁判に練達な人でも、必ずしも裁判長として適当だとばかりは言えません。やはり事務処理的の事柄に関心を持ち、裁判官である以上は裁判の実質の判断もきわめて適当でなければならないのは当然でありますが、しかし、議長として合議を運営する以上は、やはり訴訟促進という見地から、潮どきを見て、この程度で打ち切ってさらに次の問題に移るとか一あるいは複雑な論点を整理するということについてのやはり特殊の素質が要るのではないかというふうに考えております。

高橋禎一自由民主党

○高橋(禎)委員 もう一つ。今の制度でしたら、大法廷のした法律、命令、規則または処分が憲法に適合するという裁判と同じ裁判である場合には、小法廷で裁判をして、それが最終的に確定するようになっておるのですが、今度はそれを一歩進めて、憲法違反だという裁判をする場合にはこれは許さないけれども、憲法に適合するのだという裁判であれは、いわゆる大法廷でなくても小法廷で裁判をしてもいいんだということにすることは、むしろ憲法の精神に適合しておるように私思うのです。というのは、今の政治全体の体系からしまして、法律の場合は国会が責任を宣うて通過さしておるわけですね。そういうものについて、国民の常識としては、それが憲法に違反するんだというふうな裁判の場合には、これは小法廷なんかではまだちょっと心配だなという気が起るかもしれないけれども、慰法に適合したという裁判をするのであれば、前に大法廷の判例がなくてもやってもいいんじゃないか、それがむしろ憲法の精紳に反するものでないんだという感じかするのですが、それはいかがでございますか。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 ごもっともなように感じますのですが、しかし、適合するかしないかということは。持ってきて調べなければわからないわけですね。そこで、事件がわれわれの手元に来た場合において、これが新たな問題である場合においては、やはりさんざん論議して、そして適合するかいなかを判断し、また、違憲の場合は事実またきわめてまれでありますが、多くの場合においては適合するという判断をやっておるわけであります。そこで、小法廷は、現在、お話にもありましたように、新たな適憲問題ではない、すでに判例のある問題について、その判例を適用して合憲判断をしておるわけであります。新たないわゆる適意問題、審査してみて適憲ということは、憲法裁判としてきわめて重要な部分になるのじゃないかというふうに思いますが、御質問の趣旨に果して答えが適合いたしましたかどうかわかりませんが……。

高橋禎一自由民主党

○高橋(禎)委員 いや、私のお尋ねしたことにお答え下さったわけですが、法律の点については国会が責任を持ち、その他行政の処分については政府が責任を持っておるわけなんです。そして、これは憲法で定めてありますように、国会議員にしても政府当局にしても、憲法を尊重するという立場に立って、そうして民主的な結論としてそれを出しておるわけですから、一応国民の信頼かあるのです。憲法に違反しないという信頼を私は持ち得ておると思うのです。そのものが訴訟になったときに、裁判所で裁判されるという場合に、ぎょうぎょうしく大法廷なんて、おっしゃる通りに合議をするのになかなかむずかしいというお考えを持っておられる大法廷なんかでなさらないで、小法廷でやるようにやってもいいのじゃないか、こういう気持なんです。それから、なお、この政府案によっても、大体私はそういうふうに気持としては持っておると思うのです。長官のお話にもありましたように、最高裁判所は憲法違反問題で事件がたくさん来るであろう、そうしてもうすでに確定をして、刑の執行なんかもやっているであろう、もうそう大した違憲問題なんというのは来ないだろうという見通しをこの案が持つていると私は思うのです。そういうことであれは、いわゆるワン・ベンチ論なんというものは、少くとも適憲事件についてはもう価値なきものだ、こういうふうに私は思うから、そこのところをお尋ねしたわけです。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 新たな適憲の問題でございますが、これは大法廷でやる必要はない、小法廷にまかしたらいいじゃないかという点、これは新たな制度で予想した小法廷と了解いたしましてお答えするわけでございます。が、しかし、この新たな小法廷は政府原案にあるように下級裁判所で、その裁判官の資格たる、や大法廷裁判官の資格とは違っているもので、新たな適憲問題について審査する――これはまだ非常に続々出てくる可能性があると思います。その問題を処理するのに果して適当であるかどうか。と申しますのは、裁判所法でも予想しておるように、下級裁判所の裁判官の資格と最高裁判所の裁判官の資格とは、国民審査以外に、、やはり資格についても別な資格を追加して要求しておるようなわけであります。そうすると、新たな制度のもとにおける小法廷でもって、かような新しい、結果において適憲である問題を処理させるということに、幾らかの不安がありやしないかと思われるわけでりります。だから、フル・ベンチで、つまり大法廷に持っていかなければならぬということになるわけなんです。

高橋禎一自由民主党

○高橋(禎)委員 私がお尋ねしたのは、現在の制度、今の裁判所法はそういうふうになっておらないけれども、政府案によるのでなくして、現在の最高裁判所小法廷でいわゆる適憲事件は取り扱うにしても、それは憲法の精神に遡及するものではないのではないかという趣旨のことをお尋ねしているのです。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 御質問の趣旨、わかりました。その適憲であるか連想であるかが、実際調べてみなければなかなかわかりません。でありますから、やはり大法廷へ来るのは、やむを得ないので、実際、そういう場合に、適憲だから、じゃあこれは大法廷で最後の判断をする必要はないから小法廷に移送してやるということになりますと、手間をとる点において二重になります。のみならず、また、われわれは、さような問題はやはりフル・ベンチでやらなければならない、これが憲法の精神に沿うゆえんだというふうに思っておるわけでございます。

高橋禎一自由民主党

○高橋(禎)委員 長くなってはなはだ恐縮ですが、ここは今度の改革について非常に大切なところだと私は思うのです。現在の最高裁判所の小法廷では、前に大法廷の判断があって、それに反しない適憲の事件というものは取り扱うことができて、それか最終的に確定するわけです。長官のお話では、それは憲法の精神に合致するものだというふうに先ほどお話しになったですね。それをまた一歩進めて、これは割方事件をすぐ大法廷へ持っていか仰るから今のようなお話になるのですけれども、小法廷へ事件を全部やってしまうのです。そうすれば、現在の小法廷で憲法の問題を判断して、そうして憲法に適合するものであるという裁判をすれは、それでいいんじゃないかという趣旨なんです。なぜそれでいいかということは、先ほども申し上げたように、法律については国会が責任を持ってやっているし、行政については政府が責任を持ってやっておる。そうして、今度の政府の出された案でも、この案の敢為裁判所には事件は相当来るであろうけれども、憲法に違反したというようなものはないのだからと、軽く簡単にあしらえるようなことを予想しておられると私は思うのです。そうでなかったらさばきがっくはずはないのだから。そこまで考えていらっしゃるくらいだから、今の小法廷で適憲事件は全部取り扱うようにすることが、国民の持っておる常識にも一致するし、そしてそれが憲法の精神にも適合するものではないか、こういうことをお尋ねしている。今の政府案の小法廷では、これは最高裁判所でないのですから、そういうことは私はさすべきではないと思います。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 現在の問題としての御質問であること、よくわかりました。現在におきまして、新しい問題について、適憲である――これは結果において適憲であるということになるのでありますが、それが、判断を下すのには、違憲である可能性もある、違憲になり得るかもしれない、しかし調べてみるとやはり適憲だというような性質の事件につきましては、やはり小法廷では新たな問題だけにやる自信もなかなかできませんだろうし、また、小法廷で、フル・ベンチでない一部分のベンチでもって取り扱うのには適当してはいない、憲法の精神もそこにはないのではないかというふうにわれわれはずっと考えて参ったのであります。それから、もう一つ、小法廷でもって新しい問題についての合憲の判断がまちまちになるということも避けた方がいいのではないかという考慮からも来ておるわけでございます。

高橋禎一自由民主党

○高橋(禎)委員 もう一点。今の点は私とは意見が少々違うのですけれども、まあ伺っておくにとどめまして、今度の案に関連して私どもの考えますのは、先ほども話が出ましたが、調査官というのを廃止したらどうかという意見が相当委員諸君の間にもあるわけです。調査官を廃止するから三十人に増員しようという意見がまた一方にあるのです。そうでないと、調査官を今のままにしておいて、そうして、上告理由に法令違反をつけ加えられるからというので、それだけならば裁判官を三十人にしなければならぬというところまでわれわれはま、だ最高裁判所の増員ということを考えられない。もっと少くてもいいんじゃないか、こういう判断に立っておるわけです。そこで、調査官の方々が裁判に非常な貢献をしていらっしゃるというお話でしたが、事実そうだと思います。それを、私どもはむしろ、調査官として貢献するのでなくて、みずからその制度を廃止して、それにかわるに裁判官の人数をふやして、裁判官自身として記録も読み、いろいろの調査もし、法律の研究もして、そして判断をされるようにしたらどうか。それはしかしなかなか容易なことでないということであれば、これはもう、外国の判例を調べるとか法律を調べるとか、あるいは日本の今までのいろいろの法律なり判例なりの調査をするというような問題については、最高裁判所のある裁判官に属する、ある部に属するという趣旨ではなくて、全国の裁判に貢献するという意味において、たとえば国会に国会図書館を設けて、考査局とかいろいろありますが、ああいうふうにして、この問題を調べろと言われたらそれを調査する、これは私はいい制度ではないかと思うのですが、そういうふうに、裁判、機関に付属する一つの図書館といいますか、研究機関といいますか、調査機関といいますか、そういうものを持っておって、やはり事件は裁判官がこれを担当して、一々裁判官の意見に従って調査もするというやり方の方が国民の信頼を受けるゆえんである、そういうふうに考える。それならば調査官裁判なんといううわさも生まれる余地がない、これは最高裁判所の裁判に対して非常な国民の信頼を得るようにする道だ、う考えるのですが、そこはどうでしょう。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 実質的の裁判をするために裁判の第一線に調査官が行く、その以外に最高裁判所及び下級裁判所を網羅する一つの調査機関というようなものを設けてそれに調べさせるというようなことも、一つの傾聴すべき御意見、だというふうに思いますが、しかし、今までの調査官を活用してきました経験から申しますと、やはり最高裁判所にくっついていて、絶えずわれわれが臨機応変に、こういうことを調べてもらいたい――立法が非常に短かい期間にある特別法のごとき、始終変っております。この点について一体その経緯はどうなのかというようなことは、これはそれぞれの専門に応じまして調査官もいろいろ色分けができるのですが、ある一定の経験がないとなかなかこれはできにくいことではないか。調査官としての経験、しかも、一般にただ裁判の経験のないほんとうの学識経験者とかエキスパートとかいうような、そういう者では満たすことができない、ある程度まで裁判の経験かあり、そしてしかもそういう調査能力があるという者でなければ、なかなかその機能を十分果すことができないのではないかと思います。下級裁判所の方もそれを利用するようにしたらどうかという御意見でございますが、これは、高等裁判所などには、やはり調査官的の者が予算に許す限りはあってもいいわけでありますが、しかし、それをさらに第一審まで広げるというようなことになりますと、これはなかなか実行がむずかしいのではないかと思います。その以外に、調査官をもっと若返らせるというようなこととか、一般に調査官制度の運用につきましては、なお考えなければならぬ点が多々あるということを認めます。また、今度の人事の交流の場合には、現在調査官を相当長い期間やっておる者もありますから、やはり第一線に出して、新たな調査官に若い人を入れるというようなことも必要じゃないかと思っております。別な機構を設ける、国会図書館のようなものを設けるというようなことにつきましては、なお十分研究しなければならないと思います。

高橋禎一自由民主党

○高橋(禎)委員 今のことですが、私どもは、最高裁判所の今のやり方を見ていて、調査官の人は非常に忙しいだろう、こういうふうに察するのですよ。そうして、裁判官の方はその間ちょっと手持ちぶさたのような格好で、それからいよいよ合議となったら非常に時間がかかる。もっとも事件がたくさんありますから、だんだん手持ちぶさたなんかなくなるようなことになるかもしれませんか、ごく形をとらえて言えば、事件が調査官のところへ来て、相当長い間そこにあって、その間調査もされて、それから裁判官の方は長い問合議されておる。そういうことでなくして、事件が来ると、裁判官がすく記録を読み、そうして、こういう点を調査しろ、ああいう点を調査しろということを裁判官が自主性を持ってやることの方が、いろいろな新しい問題点を発見されて、その豊富な知識と経験とを十分生かすことができるのじゃないか。だから、最高裁判所のほんとうの使命が果せるのではないか。問題点を調査官によって出されると、せっかくの天下第一流の人物が、やはり問題点にあまりにも眼を注ぎ過ぎることによって、もっと問題があったのけれども、それに気づかないで結局結論を出してしまうということがときにはあるのじゃないか。だから、裁判官が中心になってやり、調査官なんというものは廃止してしまった方がいい、こういう面もあるわけですが、そこはそうじ心、ありませんか。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 最後の御結論は考えさせていただかなければなりませんが、初めにお話がありました点でざいますが、つまり、調査官の手元で相当調査しておる、長い時間がかかる、それを待って裁判官は審査をぼつぼつ始めるのだ、その間ただ待っておる状態が相当にありはしないかという御趣旨と承わりましたが、それはそういうのじゃありませんで、ある甲の事件で調査官が手元で調べておるときに、乙の事件についてはもうすでに調査が済んでどんどんわれわれの手元に問題なくやって参ります。ですから、調査が済んでおる事件を、われわれの方でそれにスピードを合せてどんどん調査官から来るものを早く片づけてしまうことがむしろ遅延しておるという状態で、ぼんやり待っておるというようなことは絶対ありませんので、その側十分われわれは論議を尽しておるので、次々と川の流れのようにわれわれの手元には事件が参っておるわけであります。だから、決して、ああこれで一つ片づいたのだといってほっとするようなひまはほとんどないようなわけであります。

三田村武夫自由民主党

○三田村委員長 志賀義雄君。

志賀義雄小会派クラブ

○志賀(義)委員 長時間お疲れでしょうから、例によってごく簡単やります。従って、最高裁判所機構改革の問題に限ってきょうはお尋ねすることになっております。ですから、委員長もあまり気を回さないでいただきたいと思います。

三田村武夫自由民主党

○三田村委員長 了承いたしました。

志賀義雄小会派クラブ

○志賀(義)委員 長官もお認めになったように、とにかく事件が多過ぎて訴訟が遅延するというこの問題がもとで機構改革の問題も起ったわけでありますけれども、訴訟が遅延するというのは、事件が多過ぎる。その事件が多いということは、まず第一に警察が――統計によりますと、警察にとにかく何かで調べられる者が、九千万への国民のうち、七人に一人になっているのです。それをまた検事局がよけいに取り上げる。それで、最高裁判所の機構改革をしたらということに万事しぼって議論することになりますと、先ほど長官もおっしゃったのですけれども、証人を制限するとかなんとかいうことになります。事件を見ますと、非常に無法なことを、検察庁や警察がやってくる場合、証人を制限されると、事件の真相も明らかにならないようなことが、あるのです。そういうこともありますから、機構改革の問題に関連しても、そういう観点からだけ見られないようにしていただきたいのです。最高裁は非常に多忙であるからという理由でございますけれども、どこそこの事件ということは申し上げませんが、最高裁の力から各地方裁判所あたりまで通達を出して、そして、しかも地方裁判所の訟廷課の警備員に法廷の模様を一々報告させるというような事務までやらせておられるようじゃ、よけいに多忙になる。現に公安関係の事件についてこういう書類を配付されておるでしょう。これは困りますよ。こういうことをなさるから忙しくなる。そういう点、もう少し長官も省略するようなこともお考え願いたいのです。  それから、質の問題でありますが、きのう最高裁判所の判事の方々と懇談をしたわけであります。別に少数で特権意識を振り回すのではないと言われているうちに、人数が多くなると質が低下する、こういうふうに、語るに落ちるところへ来るわけですよ。先ほどの長官のお話によると、在野法曹界にも人物がいる、裁判所内にも人物がないことはない、こう言われるのですが、質ということをお考えになるときに、裁判所が、これは不適格だこれは不適格だというようなものさしをお持ちになっている面があるのじゃございませんでしょうか。たとえは、長官の発表されたご意見でも、共産主義は不適格だ――。そうすると、これは共産主義者がまず第一段。第二段は、共産主義の親類みたいなものだ、これも赤だ、これは桃色だと、こういうふうに制限なさるからいけないのです。そういう点をお考えになるから、よけいに事態が混乱する。たとえば、あなたが私と東大の駒場祭に行って、志賀義雄とは長年親交があるが、共産主義が間違っている、こういうことを言われるのは、これは個人としてはお勝手です。みんな笑って聞きます。私も、笑って、反対論は唱えません。しかし、いやしくも最高裁の長官として、法のもとに平等であると憲法に規定されておるときに、そういうことにまで神経をお使いになると、よけいに多忙になりますから、そういう点は今後御注意して下さい。訴追委員会でも問題になります。そういう点いもお省きを願いたいと思うのです。  とにかく、お話を伺うておりますと、どうも、最高裁判所の判事の皆さんの御意見では、自分たちのものきしが正しいのだという御意見ですが、もうし、長官として、立法府でこういうことが問題になっているところにも虚心に耳を傾けていただきませんと、いつまでたっても、きのうのお話でも平行論ですから、その平行論の上に、裁判というものの性質は慎重審議を要するのだ、立法府のようなものじゃないという、まるで自分たちが一段上のような発言をする判事まで出てくるのです。どうも、きょうのお話を伺っていても、やっぱりそういうことが共通にあるようにうかがわれるのですが、それじゃよけいに話がもつれますから、そういうところは一つ御注意願いたいのです。いかがでしょうか、そういう点は。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 砕けた御質問で、御答弁するのに気が楽であります。  私どもは、裁判官にも思想傾向を異にする者がいろいろある、これは裁判書をごらんになってもおわかりだろうと思います。それにもかかわらず、やはり共通なところが裁判官にはなくてはならぬと思います。これは、一定の法律的の素養でありますとか、最高裁判所の裁判官については、ある程度の下級裁判所の裁判官に要求されていない、特に識見というようなことが書いてあります。われわれ果してその尺度に及第するか落第するか、これは神様でなければわかりません。われわれがみずからわれわれ以上の人物が世の中にないとしよっておるわけでは決してございません。しかし、とにかく、裁判官である以上は、やはりある尺度を持っていなければなりません。尺度というのは、世界観なりあるいは法律哲学なり、いろいろな尺度の違いはあるにしても、結局最大公約数であります。最大公約数というものは何であるかというと、新憲法の精神と、それから、法律その他の制度の精神というものが、われわれの共通の広場であるし、また、裁判官が裁判をなさるに当って根本的に持っていなければならぬ態度ではないか。それを私が強調するのにちっとも遠慮は要らないのじゃないかと思っておるわけでございます。私の発表したものについていろいろ御疑問をお抱きになるのも、お立場から言えばごもっともだと思いますけれども、しかし、さような趣旨だとして御了解をお願いしたいと思います。

志賀義雄小会派クラブ

○志賀(義)委員 ここにこういう書類があるから、よくあとで御検討願います。  それから、もう一つの問題は、少数意見を発表することは有益であると、先ほどの御意見でございました。その中に、国民審査に資料にもなるから、こういうお話でございましたが、憲法第七十九条第二項及び第三項によれば、そもそも少数意見を発表しないということは、これは、何を目安にして国民審査をしていいかわからなくなりますね。一体、結論だけが出たのでは、どの裁判官がどういう意見を持っておるか、全然わかりません。国民審査というものは、最高裁判所の判事の個々の人について、衆議院の総選挙のときにバッ点をつけたり何かするわけですね。その目安がなくなるわけです。そうなりますと、憲法第七十九条の精神に従えば、少数意見は必ず発表しなければならないことになるのでございますが、その点、長官のご意見はいかがでございましょうか。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 国民審査の制度は、これはまだまだ国民の理解を得なければならない点が多々あると思います。少数意見と国民審査との関係、今お触れになりましたその点は、私はこう考えおります。もちろん、少数意見を発表するこが国民審査に対する一つの材料を与えておることは確かであります。ところで、裁判官の意見をいろいろ比較してみますと、無限のニュアンスがお互いの間にあるわけであります。ですから、結論は同じでも、理由が違う。そうすると、補足意見ということになって裁判書に表われます。しかし、少しぐらい違っても、合流しよう、大したことでないから合流しょうというような場合に、多数意見に合流する人もあります。これは、少数意見でない、補足意見の場合に多いのであります。少数意見は、なかなか妥協できません。各裁判官は、今まで重要だと思うような点については、少数意見を発表するのに決して遠慮してはおりませんし、また、裁判長としても、それを阻止するようなことは全然いたすべきものではない。やっておりまぜ。その点を御了解願いたいと思います。しかし、少数意見の中にも、グループがありまして、同じ少数意見のカテゴリーに属するものが、だれかが少数意見の代表の人が執筆をして、それに合流するというようなこともやつております。補足意見についても同様であります。  ところで、国民審査と少数意見との関係でありますが、これは、選挙が一体いつあるかということによって、必ずしも少数意見というものあるいは多数意見すらまだ出ていない。裁判に全然まだ関与するチャンスがない。このごろはそんなことはございませんけれども、たとえば、新しい裁判官が任命された、係属中の事件がずいぶんあって、その裁判官は当分裁判に関与しないで合議を傍聴しているというような場合に総選挙が行われる。その裁判官はやはり国民審査の対象になるのです。その人は全然まだ意見を発表していない。裁判に関する限りは国民はまだ知らなかったということになるのであります。それでも国民はバッ点をつけたり、あるいはブランクで出したりしなければならないわけであります。そうなりますと、国民の判断は、その人の閲歴とかあるいは国民審査の際の公報、あるいは、その際に、裁判とか世界観とか、そういうものについての自分の所信を述べます。それでもって国民は判断するほかはないのであります。ですから、かりに政府か非常に政治的な、まるで不適任な人を裁判官に任命した場合において、閲歴あるいは世間の風評、――たといまだ裁判の業績上は批判さるべき業績はないのにしても、やはりその程度でとにかく国民審査を受ける。その次は十年あとだということになるのであります。でありますから、少数意見あるいは補足意見、あるいは多数意見でもそうです。国民投票の参考になる材料ではありますけれども、それは一つの材料であって、全部ではない。在任が長ければそれはずいぶん重要な材料になります。私はそういうふうに考えております。

志賀義雄小会派クラブ

○志賀(義)委員 一つの材料になりますけれども、国民審査の目安になるものでありますし、第七十九条の精神から言って、そういう材料になるものはぜひともなければ、これは第七十九条もその材料がないと死文になる一つの理由にもなります。ですから、その意味におきまして、全部の判断の材料になるということを申してはいません。任官して初めての総選挙でやる場合に、その判事がどういう意見を述べた――多数意見を述べたとか、補正意見を述べたとか、少数意見を述べたとかいうことはなくても、それは、その場合には多くの国民は何だかわかりませんから、閲歴でやる場合もありますし、何もしるしをつけずにブランクで出す場合もあります。しかし、とにかく七十九条の建前から言って、少数意見あるいはは補正意見、多数意見がこうだということを発表することを存置することは、七十九条の精神から申して必要ではないかというのです。それが全部とか何とかいうのではない。その点についての長官の御意見を伺っておきます。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 その点は必要だと認めます。現に少数意見は発表して参っておるわけでありますから、将来やめるかどうかというような問題が起ったとしての問題で、現在われわれはやっておるのであります。決して少数意見はなるべく発表しない方がいいとかなんとかいうような方向にわれわれはやっておるわけではありません。今までのところ、少数意見というものは、重要な事件については特にそうでありますが、御承知のように相当発表されております。それはやめようという意図はわれわれは持っておりません。

志賀義雄小会派クラブ

○志賀(義)委員 これで終りますが、とにかく、先ほど申しましたように、懇談会でもやるときには、もう少し、自分のものさしばかり――最高裁判所におられると境遇上そうなうなるのかもしれませんけれども、自分の意見のみを押しつけるようなああいう態度は、お帰りになりましたら判事の皆様にもう少し御注意、さるようしていただきたい。話になりませんよ。懇談会だか何だか……。そういう点も御注意願いたいし、なお、長官非常に御多忙で、いろいろ機構改革でこういうふうにしてくれという最高裁判所なり長官の御意見もあるようでありますが、みずから進んで論議の種をまいて忙がしくなるようなこと、それから、さっき文書を見ましたああいうことは、この際おやめ願った方が、もう少し冷静な判断ができるのじゃないかということを申し上げまして、私の質問を終ります。

三田村武夫自由民主党

○三田村委員長 他に御質疑はありませんか。長井源君。

長井源自由民主党

○長井委員 ちょっと一つ伺います。長官をわずらわしていろいろ御意見を拝聴したわけでありますが、この法案は、全体といたしましてこういう感じを受けるのです。最高裁判所に事件がたくさんだまってきたために、その処理に追われて、相当の期間、また多数の人が関係して、たとえば法制審議会のようなところで多数の人が関係してこしらえたようでありますけれども、どうも船頭が多くて船が山に上ったような格好になって、午前中もお話がありましたか、例の多数合議の混乱、ああいうふうな欠陥も出ておるのでございます。だから、いろいろ練りに練った結果はあまりいいものができていないのではないか。もっとも、これはほんとうにいいものではないけれども、やむを得ないものだというような意見がだいぶ出てきた。次善三善の案というようなことに見えるのです。あるいは窮余の一策みたいに見えて、結局事件処理のために押し出されてここへ出てきたような格好に受けとれないこともないのです。しかし、何しろ最高裁判所の組織、機構というようなものはきわめて重大なものでありますから、朝令暮改というようなことに参りませんことは、立法府であるわれわれといたしましても非常に苦慮いたしておるということを申し上げます。たとえば、中二階とか中三階とか言われておりますところの小法廷のごときものも、どうしてあれが今の裁判所の機構の中に入れておかれないのかというような事柄につきましては、なかなか合点がいかないところがあるのでございます。また、認証官をふやすというような意見もございます。先般ある高等裁判所へ参りまして判事や検事の方々といろいろ雑談をいたしておりますときに、この問題が出ました。新聞で出ましたのをごらんになって、非常に改正案を読んで喜んでおいでになる格好です。それは、私は、裁判官のような出世の狭い道では、こういうふうな認証官を少しよけい置いておくというようなことは、これは非常に裁判官の将来の希望の門を広げることになりはせぬかと思いまして、これなども、私は、考えてみなければならぬことと、こう見てきたわけなんです。そのほか、たとえば、この間からもいろいろお話を聞いておりますと、小法廷と大法廷の判事の地位を変えなければならぬような、変えるというよりも、一段下げるといいますか、そういうようなことにしなけれ、はならないような事情については、ちょっとのみ込めないところがあるのでございます。どうもそういう人が得られないという話なのですけれども、人が得られないということは見解の相違になると思いますが、もしそうでありますと、人のために制度を作るというのとちょうど反対の、人のために制度ができないというようなことにもなるわけでありまして、天下には相当人材もあるのではないかと思います。人というものは、その地位につけますとまたそのようになるものです。りっはな方が裁判官また法曹にも相当おいでになるのでありますから、今ちょっと、認証官に適するような人が十五人もあるかないかと言われますと、すくには気がつきませんけれども、その人を地位に置きますると、その人がまた仕事をしていくというふうになるわけでございますから、そういうことがこの全体に関する私どもの感想になっておる。お立場もございますので、別段御答弁を求めるわけではございませんけれども、もし御感想がありましたら、聞かせていただければけっこうです。

田中耕太郎緑風会最高裁判所長官

○田中最高裁判所長官 最高裁判所の裁判官、認証官を三十人にする、確かに下級審の裁判官に優秀な人も相当おりますから、そういう人に希望を持たせるということは確かにその通りでございます。われわれ、人事行政をやっております場合に、やはり希望を持たせるということも実に必要なことだということを痛感しております。しかし、それが果して国民全体の福祉に合致するかどうかということもあり、また、裁判の、あるいは訴訟手続の本来のあり方とにらみ合せて考えなければなりません。ところで、今度の政府案に対してはいろいろ御批判が本会期初めから非常にあったということも承知しております。確かにすっきりしない点はあります。しかし、これは、いろいろ法制、審議会等におきましてもずいぶん論議を尽し、しかも、その中には裁判所の方の意向、また在野法曹の意向等が結びついて妥協しておる。すっきりしないということはむしろ当然なことで、運用がうまくいかぬの、だという将来の見通しの問題は別としまして、案自身が必ずしも理論的にあるプリンシプルで徹底しているというようなものでないという批判はやむを得ないのじゃないかと思っております。要するに、これは妥協の産物なのであります でありますから、私にかりに個人の意見を言えとか、あるいは空想的に近いような、日本の裁判所はこういうふうに進んでいかなければならないというような点についてどう思っておるか、これは私は、こういう席で申し上げるのは適当でありませんので、私個人の論文としてまた気炎を上げさしていただくほかないのであります。そういう点から言いますと、私自身政府原案に必ずしも個人として賛成しておるわけじゃありません。しかし、今までのいきさつ、またわれわれの同僚の多数の意見等を考えまして、私は公けの立場において賛成しておるようなわけで、これには少数意見、補足意見はつけないでおります。どうぞ御了承願います。

三田村武夫自由民主党

○三田村委員長 他に御質疑がなければ、田中長官に対する質疑はこの程度で終ります。  田中最高裁判所長官には、長時間にわたりきわめて貴重な御意見をお述べ下さいまして、まことにありがとうございました。本法案審議の上に重要な参考になったことと思います。なお、今後とも必要の際は進んで委員会に御出席いただきますようお願い申し上げます。それでは、御多忙中まことにありがとうございました。  本日はこれをもって散会いたします。次会は公報をもってお知らせいたします。    午後五時五十五分散会

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