内閣委員会公聴会 第1号
- 発言数
- 105 件
- 登壇者
- 12 名
- 会派数
- 2
- 開催日
- 1957/05/08
会議録
○相川委員長 これより国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律案について内閣委員会公聴会を開会いたします。 本日御出席をいただきました公述人は、東京教育大学教授和歌森太郎君、歴史研究家森清人君、東京大学助教授井上光貞君、国学院大学教授小野祖教君の四名であります。 この際公述人各位に一言ごあいさつ申し上げます。本日は御多忙中にもかかわらず貴重なるお時間をさいて御出席をいただき厚く御礼を申し上げます。本法律案は御承知の通り建国記念の日として二月十一日を新たに国民の祝日に追加しようとするものであります。当委員会におきましては、先般来より本法律案の審議を慎重に進めて参っておりますが、広く公正なる世論を反映せしむるため、本日ここに公聴会を開会し、公述人各位の御出席をお願いいたした次第でございます。何とぞ当委員会審査のため、忌憚なき御意見なり、御批判なりを賜わらんことを切にお願いいたします。 以上簡単でありますがごあいさつにかえる次第であります。 それではこれより御意見を承わることといたしますが、便宜上午前中公述人各位の御意見を一通り伺った上で、委員各位より公述人各位に対する質疑は午後にこれを行うことといたします。なお御発言は一人当り約三十分程度にお願いいたします。 なおこの際念のため公述人各位に申し上げますが、衆議院規則の定めるところによりまして、公述人各位の御発言は委員長の許可を得ること、またその御発言の内容は、意見を聞こうとする問題外にわたらないこと、公述人から委員に対しての質疑をしてはならないことになっておりますので、この点をお含みおきの上御発言をお願いいたします。御発言の順序は、お手元に印刷配付いたしております公述人名簿の順序によりお願いすることといたします。初めに和歌森太郎君にお願いいたします。和歌森君。
○和歌森公述人 私は日本歴史と日本の民俗学、この両方の学問の境界線において研究をしておるものでありますが、特にお祭とか年中行事について専攻しております。その立場からこの問題についての学問的な私の考えを申し上げたいと思うのでありますが、現在行われております国民の祝日というものが、非常にずさんにでき上っているということは、私どもの目から見て十分に感ずるのであります。それが慎重な学問的な根拠に基いて、あるいは日本の民衆の伝統に基いて制定されていないということを感じますので、全面的に再検討の要があるということは認めるのであります。そういう再検討の場合に、一般の世界の国々の国祭日がどんなふうに設けられておるかということを、まず確かめて参考にすべきかと思いますが、おもな国につきまして国が定めておる祝祭日を見てみますと、アメリカではリンカーンの誕生日、ワシントンの誕生日、陸軍記念日、母の記念日、南北戦争戦死者の記念日、フラッグ・デー、父の記念日、独立記念日、平和祈願の日、全国航空記念日、労働祭、アメリカ大陸発見記念日、セオドア・ルーズベルトの誕生日、第一次大戦の記念日、感謝祭、こんなふうになっております。それからイギリスでは全面的にキリスト教関係の記念日が多くありまして、ほとんどそれといってよろしいのでありますが、フランスではそうした宗教上の記念日以外に、四月一日に労働祭、五月の第二日曜にジャンヌ・ダルクの記念祭、七月十四日にフランス共和国の革命記念日、十一月一日にキリスト教の諸聖人祭、それから十一月十一日に第一次大戦の休戦記念日、十一月二十五日にカトリーヌの祭、これは婦人服やあるいは裁縫する、そういう仕事の人たちの守り神のお祭でありますが、そういった祝祭日がございます。ソ連ではレーニンの死んだ日、あるいは労働祭、十一月七日の革命記念日、それから憲法記念日、それからレニングラードのストライキの勃発した日、そういうふうに国柄で当然のことながらこういう記念日が祝祭日になっております。中国では孫文の誕生日、あるいは孔子節、それからまた双十節といったようなものがあった。これは現在とちょっと違っておりますが、そういうふうな例を一応見渡して、なおこまかに検討してみますと、総括して一つには歴史的な記念日ということであります。それからもう一つにはそれぞれの国民なり民族の生活に密着した宗教上の記念日、そういう性格を持っております。どの国の祝祭日もそういうふうな二つの面をもって構成されておるということがいえると思うのであります。宗教上の記念日ということが、今日問題になっております紀元節に関連する、建国記念日の問題に意味がつながるのでありますが、ここで注意しておきたいのは、どこまでも日常生活に相当に深くからみついてきた宗教的なほんとうの民衆の信仰的なものにからんでいる、そういう行事の日であるということであります。そういうふうな観点を立てまして、日本の今日行われております国民の祝日につきましても、やはり検討をし直すことが必要であるかと思うのであります。今見渡したように、実は建国記念日というものを持っておる国は、新しく独立なり、つまり植民地から独立した国、それから革命によって新興国を成就した国、そういう国だけでございまして、イギリスのような古い国におきましては、建国記念日がないのであります。そうであるのは、もちろんその建国の時点が、時のポイントがはっきりしないからだけのことであります。歴史的な記念日が国の祝祭日になるというのは、歴史的に明確な時点を持っておるということからくるのでありますが、あいまいであればそれを持ちようがないので、持っていないということになるのかと思います。しかしながらそれがないからといって、たとえばイギリスの国民が愛国の情において非常に弱い国民であるということはいえないかと思うのであります。愛国心を養うためにという理由によって、二月十一日に国の建国の記念日を制定したいという根拠が私には少しふに落ちないのであります。そういう理由でこの問題を考えるのは少し過ぎているんではないかということであります。 それから第二に、それにもかかわらず、とにかく今までわれわれの国において戦争が終るまで明治以来二月十一日という日を建国の記念日にしてきたのであるから、世界の諸国の情勢がどうであろうと、日本は日本としてその歴史の線に沿って建国の記念日を設けるべきであるという説が世に行われておるのでありますが、こうしたことの論拠といたしまして、個人の誕生日がそれぞれあって、これはみんなそれぞれお互いは客観的に、ほんとは知らないわけなんでありますが、そういうふうにいわれてきて知っておるわけなんです。そういう誕生日をお祝いするということが自然の感情としてあるではないか、だからして国家というものはやはりその誕生日を記念して祝うのがほんとうではないかというお考えがあるのでありますが、私はこれは少くとも自分のやっております日本の民俗学の研究の立場からいたしますと、非常に非日本的なお祝い行事であるということを感ずるのであります。初誕生と申しまして、満一年たちましたときに、家庭あるいはその近隣の者が集まりましてお祝いをしてやるということは、相当に根深い、伝統的な習俗になっておりますけれども、年々その誕生日を祝うということは、実は日本の民俗的な伝統の中からは出てこないのであります。そうして大正時代になりまして、モダン・ボーイ、モダン・ガールの風靡した時代がございましたが、そのころにヨーロッパのハイカラぶりを移し入れまして、そうしてこの誕生日を祝い会うということが都会あたりから始まったのであります。それが何となしに今一般化しておりまして、個人の誕生日のお祝いということが当然なもののように思われ、またそれを類推の根拠にいたしまして、国もまたしかるべきであるというふうに述べられるのでありますが、どうも私どもそれがほんの流行的な現象であるというふうにしか解釈されないので、それをもって、この国の誕生日云々というふうに類推を及ぼすことはまだ早いんではないかということを感ずるものであります。 それからもちろんこの二月十一日の日本の建国、これは神武天皇の御即位ということでいわれておるわけでありますが、そういうものに、日本書紀というものの史籍として、歴史の書物としてのいろんな弱点からして、確たる客観的な史実がくみとることができないということは、われわれ古代史の研究をしておる者として、いわば常識として持っておる判断でありますが、その日本書紀の性質や二月十一日となっておりますその神武天皇即位の文章につきましては、おそらく後ほど井上さんの方からこまかにお話があると思いますので、それに譲りたいと思いますが、とにかくこのあいまいな、史実とされておる、あいまいな表現となっておるこの二月十一日神武天皇即位ということにつきまして、これは私の解釈では、奈良時代に日本書紀の編さんをした人たちが、辛酉と書きましたかのととりの年の春正月の初め、一日です。春正月の初めに神武天皇が橿原宮において即位されたということを書いたその思想の方をわれわれ尊重すべきである、大事であるというふうに思うのであります。春正月の初めに神武天皇が即位したということを書いた。日本書紀の編さんをした人たちがそういうふうに考えて書いた、このことは何を意味しているかというと、日本の当時の奈良時代の、日本書紀を作り上げた人たちの頭の中で、われわれの国の前途洋々たるところがちょうど春の初め、旧暦で申しますならば正月の一日というのは春の初め、ちょうど立春の前後ごろになりますが、そういう境目にあって即位された、そうして意気揚々と国のいしずえを固めてここまで発展させてきたのだというふうに述べたかった、その観念というものをこの記事は明らかに示しておる。頭の中にあったそのことと、頭の外にあったそれからずっとさかのぼってのかのととりの年の正月元日即位ということとは全然別であって、客観的史実とはならないのであるということであります。従って率直に申しますと、奈良時代の支配者、時の貴族たちの一種の思想的な所産である、産物であるということになるのであって、これが長い間そういうふうに神武天皇即位が正月元日であって、そうだった、そうだった、そうだったといって言い伝え言い伝えしてきたものの痕跡がここに取り込まれたというものではなくて、あるいはそういうふうに考えた人は奈良時代より早くあったと思いますが、しかしそれは数百年とはさかのぼらないと思います。とにかく国家というものの確立が大化の改新、あるいはせいぜいさかのぼって聖徳太子というようなころに明確になってきた、そういう時期にわれわれの皇室の第一代の方が、春の初めにその地位につかれたのだ、こういうふうに言い伝えはしてきたでしょうが、言い伝えたことと史実とは別なのであります。そういう思想の方にもしわれわれが意を向けますならば、むしろ正月の初めとか、あるいは立春とか、そういうときに建国の記念の日を設ける方がよろしいのである。その方が民族の伝統なりあるいは昔ながらの考え方というものに即した持ち方ではないかというふうに思う。これを太陽暦に換算いたしまして、そうして明治の五年から六年にかけまして皇紀というものを定め、換算いたしまして、初めは一月二十九日という計算も出ましたが、二月十一日を明治六年に確立いたしまして、そうして宮中で紀元節祭を行われるから、そのときに国民も一緒にお祝いしようということで政府のおふれが出たわけであります。それまで宮中におきましては、いわゆる五節句、これがいわば年中行事であり国の公けの祝祭日というふうにして伝わってきておりました。私はこの五節句というものの味わい、これも相当中国の影響のあるもので、ほんとうの日本的なものというわけにはいかないかもしれませんけれども、相当長い間の歴史的な経験を積んできているものであって、この方にまだ意義深いものを感ずるのですが、それがあえて廃止されて、そうして天長節、紀元節、この二つがさしあたりまず取り上げられて、国の祝祭日になったということにやはり明治政府のイデオロギーと申しますか、国家についての自覚、考え方というものが十分によくくみとれると思います。つまり神武創業のいにしえに返るということが、この明治政府成立のスローガンでございました。当然そこから神武天皇というものへの懐古の念が強められて、そうして宮中でその第一代の天皇の御即位を記念する祭を行うということが、宮中即国家という考え方、天皇即国家という考え方で確立いたしました、この明治の政府による明治国家というものが押し出されてくるわけなんで、この二月十一日をもって紀元節として国の初めを祝わせるということになったところには、日本近代史上の特殊性というものが認められるように思われるのであります。だから、その当時、古来の神社神道というものが国家神道化する方向をぐんぐん高めて参りましたが、その国家神道となることと、宮中祭祈が国の祭祈であり、みんながそれぞれの地元々々において紀元節を祝うべき祭であるというふうに広げられてきたのだ、そういうことになる。こういうふうに考えますと、やはりその時代々々に相応した祝祭日というものの考え方があるのだ、歴史とともにこれは考えるべきものである。われわれが明治政府の行き方というものをそのまま今日とるならば、まだそういう説もあっていいわけなんですが、われわれどうしても今の日本の国というものをそのままの構造で、明治政府が支配体制をしいたそういう格好の国として自覚することは、とうていできないのであります。現代には現代相応の祝祭日の考え方というものがある。しかし、それはいつでも、先ほどから申しておりますように、一つは民族の伝統ということ、それから一つは現代の社会的な意義というものからからみついた、そこで交差するところに祝祭日というものを設けなければならない。そういう点で、二月十一日というものは一つの時代の一つの特殊な産物であって、伝統というふうなものではない。よく人は二月十一日は伝統というか、あるいは伝説なんだから、はやはりそのまま尊重して記念するのはかまわないじゃないかということを言われますが、私はこれを伝説とは見ません。このことは民族学の本をお読みになっていただけばすぐわかりますが、こうしたものは伝説とはいわないで、先ほど申しましたように、これは思想的な産物だというふうに扱うのであります。伝説というものはもう少しみんなの生活の中に密着してきて、それなしでは日常生活というものが規律されてこなかった、そういうもっと意味深いのものについていうのでありまして、特定の層の人たちが特に考えたものをもって伝説とはいわないのであります。そういう点で、江戸時代以前の歴史を見てもわかりますように、こうしたものが非常に上っつらのものであって、根深いものを持っていなかったということも考えていただきたいと思うのであります。 私の今申しましたことは、明治国家というものと現代日本国家というものの根本構造の違いから、やはりそういうものをそのまま引き継ぐわけにはいかない。たとい名前は紀元節という名前をとらなくても、それが同じ日であり、同じような意識をまだ低迷させておるような人々が、国民の中に多数おるのでありますから、そういうものになずんでしまうようないき方は、かえってわれわれの国家のあり方というものを変に向けていくものではないかというふうに解釈するものであります。初め、明治のときに、こういうふうな紀元節祭を宮中で行うから、国の祝祭日にする、みんな国旗を掲げてお祝いするようにというおふれを出しても、なかなか国民が踊らなかったということは、ベルツの日記にも出てくるのでありまして、非常にみんな冷やかであったのであります。それが一段と強調されましたのは、帝国憲法の制定されたときであります。二月十一日に、御承知の通り、帝国憲法は公布されました。それでお祝いをみんなやったのでありますが、そのときに雲にそびゆる高千穂のという、われわれにとってはなつかしいかもしれません、そういう歌が公けにも歌われるようになりました。それで紀元節のささえられてきた第二段階に達しましたが、さらに第三段階、これは満州事変前後からでございまして、このときになってやや熱狂的なある団体の盛り上りがありまして、建国祭という名目のもとに一種の民間行事風なものとして、相当にやかましい盛んなお祭が行われ、これに同調しない者に対して何か非愛国的な者であるかのような冷罵を浴びせるという傾向さえあったことは、われわれの記憶にまだなまなましいところであります。そういうふうなことで、これはまた戦争とともにあおられてきたということを感ずるのであります。私ども歴史学というものをやっておりますと、一つの事柄とほかの事柄とがどういうふうに関係するものかということについての研究をするのが歴史学だと思っておりますので、同じ時代における趣きの違った現象の関連ということを考えるのであります。従ってこの建国の記念日というものを直ちに二月十一日というふうに定めると、その昔に紀元節というものに関連していろいろなものがあった、そのことがやはり可能性としては出やすくなる危険を感ずるのであります。こっちの方はふさいでいけばいいのだ、建国記念日だけは二月十一日というふうにしていけばよろしいというふうにして、それだけをぎゅうぎゅう守り育てていき、あとは排除するということは実際問題としてなかなかできないものだということを思うのであります。一種の雰囲気ができやすい、そういう面については、一つは歴史学の方面から井上さんからお話があるかと思いますが、そういうふうな見方で、これはよほど慎重に考慮されなければいけないのじゃないかというふうに考えております。もう少し民衆の年中行事というようなものに即して、なお二十世紀の後半に入りました段階で、どういうふうなものを祝祭日にとったらいいのかということをもう少しゆっくり考えながら、慎重に検討した上でこの問題を再整理するということをやっていただきたいと私は思うのであります。 速急に思いつきあるいは何かの因縁で、あるいは郷愁でこれを戻す、変更してしまうということは危険である。どうもやはり上から押しつけるというふうなものよりは、一般の民衆の生活感情というものをよく吟味していただきたい。今日世論の中で、非常にパーセンテージが多くこの二月十一日の建国の日を迎えたい、記念日を設けたいという声があることはよく承知しておりますが、それぞれの内情といいますか、内心はずいぶんといろいろな動機があるかと思うのであります。単なる休みがほしいというくだらない議論もありますし、また単に昔やっていたというようなことでもってそういうことを連想して、それを願いたいというふうな声もあるのでありまして、もう少し国民の座興的な教養というものがつちかわれてきました段階、十年、二十年先になったらおそらく今そういうふうなことを実現した場合に、笑いものにするのではないかということを思うのであります。今のところまだ過渡期でありまして、もう少し見きわめて落ちついてこの問題を取り上げるようにした方がよいのではないか。さしあたりのところは、クリスマスと類推することはいけないことでありましょうけれども、かりに例をあげれば、そういうふうな民衆自体でもってお祝いしたいということで、ある部局々々で、あるいは村なり町なりでこの二月十一日を信じて、建国の日だというふうに信仰する者によってお祭をすることは、ごく自由ではないか。国家としてこれを分けにきめて、全面的に祝祭日にきめるということは非常に行き過ぎではないか。もっと伸びやかに神社に集まってこの二月十一日にお祝いをしたい人はするというふうにしていった方がいいのではないか。いろいろな政治的なあるいは教育的なものとこれを結びつけたり何かすることのないようにしていただきたい、そう思うのであります。 なお、憲法まで持ち出すなら、今日行われております憲法は、そういう神社神道を国家神道化することをはばんだものでありまして、その抵抗、そういう制約から見ましても、これは簡単に二月十一日の、それぞれの神社ごとにお祭すべきものを国としての祝祭日というふうにきめて、また神社のあり方に対して、国家というものが政治的にかかわりを持ってくるというふうなことにもなる一つのきざしが現われるのではないか、そんなふうに考えられて、どうもこういう御提案はふに落ちないものがあるということを申し上げたのであります。(拍手)
○相川委員長 森清人君。
○森公述人 ただいま紀元節復活の問題は非常に大きな社会問題となっておりますが、先般内閣委員会の方から議事録を送っていただきまして、それを拝見いたしまして、賛否両論の方がこの問題につきまして非常に真剣に討議をしておられますことを知りまして、深く敬意を表する次第でございます。 あの議事録を私はかなり入念に拝見いたしましたが、結局問題をしぼってみますと、反対の方の御意見は、建国記念日を設けること自体には反対ではない。しかし二月十一日という日がいけない。なぜいけないかというと、これはでたらめである、またうその歴史に基いておる、そういうようなうその史実に基いた国家の祝祭日というのはいけない。それからもう一つは、この建国記念日などというものは、侵略主義ないしは征服主義、そういったものとつながっておる、だからいけないという点が先般の内閣委員会で審議された最も重要な点であるように拝されます。そこで問題を四つにしぼりまして、しばらく私の卑見を申し上げたいと思います。 第一の問題は、紀元節には科学的な根拠がないという問題。第二は、日本の上代史はうそである、従ってそれに基いた紀元節は意味がない。第三は、二月十一日というものもでたらめにきめたものであって、あてにならない、第四は、神武東征は侵略主義、征服主義の実践であって、これに関する記念日を制定するのはよろしくない、大体ごくおもな点をかいつまんで要約しますと、以上の四点になるかと考えますが、簡単にこれに対する卑見を申し上げたいと思います。 最初に概括的なごく大事なことを一つ申し上げたいと思いますことは、この論は根本におきまして非常に大きな一つの誤まりの上に立っておると私は思うのです。と申しますのは、終戦後日本の紀元は六百年ばかり長いという問題が非常に問題となりまして、これがいつの間にか一つの流行学説みたいになりまして、今日では定説といわれている。そうしてそのために、紀から聖徳太子以前の上代史というものはほとんど削られておるというような状態でございます。そういったことが前提となってこれが考えられておるというところに、私どもがこの問題をあらためてしっかり考えなければならぬところがあるんじゃないかということを考える次第であります。 そこで第一の問題ですが、紀元節は科学的な根拠がない、議事録についてみますと、日本の紀元は引き延ばしがあるということは、久米博士もいっておられるし、今日では学界の定説である、学者の何人も否定するものはない、かようなでたらめな紀元を問題にした紀元節は不当であるというような意味のことが書いてあります。なるほど科学的根拠というのは、これはなかなかむずかしいことでございまして、いかなる学者でも、神武天皇が何年前に即位をされたというようなことを断定的に申すことはできないと思うのです。しかしただいま流行しておりますのは、これは有名な明治時代の那珂博士が唱えられた説がもとになっておるようでありますが、ただ那珂博士の説を定説ときめてしまって、それに基いてすべての判断をするということは、これは非常に危険だと思うのです。御承知のようにこの那珂博士の説は、今から七十年ばかり前の、歴史のきわめて幼稚な時代に立てられた説でありまして、今日から見まするといろいろと問題があるわけです。詳しいことは時間がございませんから申し上げるひまがございませんが、とにかく言い得ることは、一国の法律改正のもとになるということは、よほどこれは確定的な確説でなければならぬと思う。このようなまだ不確定な説をもととして、それによってこの法律改正ということが考えられることは、よほど慎重にしなければならぬのではないかと思います。もちろん日本書紀の紀元というものにも、調べてみまするとずいぶん間違いがございます。たとえば神功紀の後半にはっきり百二十年の間違いがある、こういうことはもちろん否定できません。しかしながらそうであるからといって、戦後流行しておりますこの説が正しいわけでもございません。お手元に参考資料というものを差し上げておきまして、この第一のところに六百年説の骨子となるものを六つ書いておきました。これは一々を説明する時間がございませんから項目だけを読みますが、六百年の年数がすでに問題がございまして、これは藤貞幹が天明年間に衝口発という本を書いて、その中で主張しておるものでありまして、学問的な理由、根拠というものは何も示しておりません。しいて言えば新羅の君長を素戔鳴尊であるときめて、その説のつじつまを合せるために六百年長いということを言い出した。それ以外に別に学問的なしっかりした根拠というものは示されておりません。それから上代天皇の長寿の問題、これはまた大事な問題でございますので、あとでちょっと触れたいと思います。それから日本書紀の紀元は推古九年の辛酉の年から千二百六十年逆算してきめたのだ、この説。この説にも十分批判の余地があると思う。それから卑弥呼比定の問題、神功紀年代の比定の問題、それから朝鮮、シナ――漢韓史との年代の比較問題、こういった問題が学問的には取り上げられなければならぬのであります。こういうことがまだほとんど論議されておりませんで、そうしていつの間にか学界の定説などと言われてしまった。少くとも学界の定説というところまで持ってくるためには、賛否両論の学者が十分な論議を尽して、そうして学説というものはおのずから帰着するところに帰着する。そこにほんとうの定説というものが生まれてくる。そういうような点におきまして、従来いわれております点に、よほど慎重にもう一ぺんじっくりと考え直すところがあるのではないかと思う次第であります。 それから第二の問題の上代天皇の長寿の問題、これも先般の内閣委員会でも問題になったようですが、これはまたよく世間の人も言うことなんです。なるほど日本書紀を見ますと、仁徳天皇以前の十六天皇のうちに百才以上の天皇が十二名ばかりおられる。これはだれが考えましても不合理であります。どんなに上代の天皇が長生きであったとしても、十六人の中で百才以上が十二名ある、そのようなことはあり得ない。しかしながら歴史の研究というものは、あらゆる角度から慎重に研究しなければならぬと思う。裏からも表からも、縦からも横からも、あらゆる角度から研究するのが歴史であります。そういう意味から考えますと、那珂博士がこの上代天皇の長寿の問題を人間生理の定則上あるべからず、こういったような簡単なことで割り切っておられる。これは十分考えなければならぬと思う。そのような歴史上の大事な問題は単なる人間生理の定則のみで片づけ得るような簡単なものではないと思う。たとえばここに、参考資料の二の方に七つの例をあげております。これも今は一々は説明できませんから、簡単に項目だけを読み上げますが、昔から――今日もありますが、襲名というものがございます。これは那珂博士も上代に襲名のあったことは認めておられます。たとえば彦火火出見尊、倭迹迹日百襲姫命あるいは八井耳尊あるいは吉備津彦尊、こういったものは非常に年代が長くなっておりますが、これは襲名によるものと考えられます。 それからまた天皇が複数に用いられた例があります。一人の天皇の名前が二人の天皇を示すような場合もある。その例を申し上げますれば、飛鳥浄見原御宇天皇、こういう一つの名前で文武天皇と持統天皇の二人が表わされておる。 あるいはまた空位――ただいまは明治以後皇室典範というものができまして以来天皇の空位というものはございませんが、上代には空位というものがしばしばございます。日本書紀を調べてみますると、この空位の年数も次の天皇の年数の中に含まれております。具体的な例を申しますれば、安閑天皇と継體天皇との間に空位がございますが、これは日本書紀では安閑天皇治世年数中に入っておる。あるいはまた日本書紀で削除されておる天皇もございます。たとえば弘文天皇のごときは削除されております。この弘文天皇が即位をされたということは明らかな歴史的な根拠がございます。それで明治三年に第三十九代として天皇に加えられたわけでありますが、こういうような例はほかにもある。市辺天皇という天皇が安閑天皇と雄略天皇の間に即位をされたということはこれも歴史の事実がございます。こういうような場合に日本書紀は、削除した場合の年数を調べてみますると、これを次の天皇の年数の中に入れておる。こういうことも日本番組の上代の天皇の年代が大きくなっておる一つの理由なんです。あるいはまた脱落した場合がある。今申しましたのは削除です。意識的に削った。そうではなく不注意で落すとか、あるいは資料が十分でなくて、わからぬで落したといったような脱落の例もあるのです。新しい例で申しますれば、大正十五年に九十八代に列しました長慶天皇、これは最近まで落しておった。歴史学が進んだ最近でもこういう事実があるのでありますから、古い時代にはまたこういうことも十分あり得たろうと考えられます。 それからまた歴史を調べてみますると、異称天皇ともいうべき天皇がございます。これは正史には天皇として書いてございませんけれども、ほかの文献に天皇として書かれておる。たとえば宇治天皇とか清貞天皇あるいは飯豊天皇、こういうような場合も、私はこの天皇の年代が大きくなった一つの理由と考える。 また世代の別というものがございまして、詳しくは申し上げる時間がございませんが、たとえば今上天皇は代で申しますと百二十四代、世で申しますと七十一世、この代と世の区別がどこから始まっておるか、調べてみますると、仁徳天皇と履中天皇のところで始まっておる。それまでは、つまり仁徳天皇までの世代というものははっきりいたしておりません。混淆しておる。それから百才以上の天皇を調べてみましても仁徳天皇以後にはないのです。履中天皇以後の天皇の年を調べてみますると、継體天皇の年の八十二才を最高といたしまして、あとはわれわれの普通一般の年とほぼ同じでございます。ですから百才以上の問題は、仁徳天皇以前だけに限られておる。しかもよくこれを調べてみますと、その仁徳天皇までが世代が混淆しておる。かようにいろいろな角度からこれを考えてみますと、上代天皇の年が百才以上であるということにもいろいろ理由があるわけです。ですからただ単にこれを人間生理の定則上さようなことはないといって簡単に片づけられぬ問題があるわけです。 それから第三番目の問題でございますが、つまり二月十一日という問題、これは議事録を拝見いたしますと、二月十一日というのも、明治五年に明治政府や御用学者が勝手にきめたもので、何ら歴史的な根拠はない、えともなかった古い時代のことははっきりわかるわけはない、こんなでたらめな日を国家の祝祭日にすべきではないということが書いてございます。これも一応ごもっともな御意見と思います。しかしながらえともなかった、つまり干支ですが、えともなかった古い時代のことであるから太陽暦への換算はできない、でたらめだということは言い得ないと思うのです。なぜかと申しますと、月や太陽や地球の自然現象というものは今も二千年前も変りはないわけです。えととはこれは関係ございません。えとは人間が勝手に作ったもので、自然現象には関係がございません。この千年前、二千年前の太陰暦の正月元日でも太陽暦に換算できるということは、それはどういう方法か簡単に申し上げてみますと、地球は三百六十五日五時間四十八分幾らで太陽を一周いたしますので、四年目ごとに一日のうるうを置いて四百年間に三回だけはこれを置かない、これは御存じの通りです。そういたしますと、紀元を二六一七年と仮定いたしまして、日にちに換算してみますと、大体九十五万二千八百日くらいになるわけです。そこでまず最初に太陽暦の日をずっと表をこしらえます。そうしてこの表に今度は太陰、つまり旧暦ですが、旧暦の日を一々それにずっと当てていきます。月は、御承知のように、大体二十九日半くらいで地球を一周いたしますから、二十九日または三十日を一月としてその十二ヵ月を一年といたしますと、太陽の一年よりもおよそ十一日くらい短かいことになります。そこでこれを太陽に合せるためには大体二年半に一日のうるう月を置かなければなりません。この場合にはえとを入れても入れなくてもかまいません。今申したような太陰暦と太陽暦の対照表ができますと、そうすると千年前の花月元日でも、二千年前の正月元日でもすぐわかるわけです。かようにして作りました暦を三正総覧というのです。これは暦というよりも太陽暦と太陰暦の対照表ともいうべきものですが、ともかくそういった三正総覧というものができておるのです。試みにここに御参考までに一、二の例を申し上げてみますと、徳川家康が江戸に幕府を開きました慶長八年の旧暦の元日は、新暦で申しますと二月十一日になっております。それから源頼朝が鎌倉に幕府を開きました建久三年の旧暦の元日は、太陽暦では二月二十二日になっております。それから大化の改新の行われました大化元年の正月元日は、太陽暦の二月五日に当る。かようにいたしまして、この二千五百何年前の旧暦は新暦の何日に当るということは、これは大体わかるのであります。もちろん人間のやることでございますから、寸分も間違いがないということは、これはだれも言い切れませんが、しかし大体そういった筋の通ったことで太陽暦に換算することはできるのであります。ですからただ単純に干支もなかった古い時代のことだから、二月十一日なんてものは当てにならぬ、こう簡単に割り切ることもできなかろうかと思うのです。 時間がありませんから急ぎますが、この四の神武東征から橿原宮の即位までの歴史は、日本が剣をもって他を圧迫したあるいは征服した、いわゆる侵略主義の実行で、これを記念日とすることはもってのほかであるというようなことが議事録に書いてございましたが、またこの「神武東征」という言葉はだいぶ方々に出ておりまして、だいぶ問題になったように思われます。 そこで私はちょっと申し上げたいと思いますが、先ほも申しましたように、私どもが歴史を調べるには、やはり慎重に一字一句もずっと入念に調べていかなければならぬと思う。ただ感情的あるいは妙な立場で見るようなことは、私は歴史を正しく見る態度ではないと思う。なるほど日本書紀には「神武東征」と著いてございます。「東征」と書いてあるからといって、真ちに東を征伐した、征服したというように考えてしまうのも私はどうかと思う。大体日本書紀の「神武東征」という言葉は、普通にはこれを東を「ウッ」と読むのであります。しかし私はこれは東に「ユク」と読むべきものだと考えておるのであります。この参考資料の四の1のところをごらん願いたいと思います。ここに詳しく「征」という言葉の、文字の説明をいたしておりますが、この「征」の原義は、これは「行く」ということ、転義が「行きて正す」です。漢字は御承知のように原義と転義があります。原義は「行く」であります。その例として唐の詩人の許渾の詩を響いておりますが、ここに「征衣」という言葉が出て参ります。この「征衣」はカッコで説明しておりますように、これは征伐、征服などの意味ではございません。その「朝来有郷信猶自寄征衣」この「征衣」は旅の衣の意味であります。同じく王褒の詩の中に「飛蓬以征客千里自長馳」ということがありますが、この場合の「征客」という言葉は旅人という意味であります。もっと明らな例を申し上げますと、奈良朝時代に唐の名僧であります鑑真和尚――わが国の律宗の開祖でございますが、この人が日本に来ましたことを書いた本、これは淡海三船の著作です。この本の名前を鑑真和尚東征伝と申します。これは有名な木です。こういう本があるからといって、この書物は唐の名僧の鑑真和尚が東の日本を征伐に来たと思うごときは、むしろナンセンスであります。このようでありまして、大体これを東を征つと読むと漢文上からもちょっと矛盾するわけであります。もしこれを東を征つと読みますならば、「征東」と書かなければならぬ。「征」を上に置かなければならぬと思う。そういうふうなことから考えてみまして、私は今の言葉で申しますならば、この神武天皇の東征ということは、むしろ綏撫と申しますかあるいは宣撫とでも申しますか、これを古典の言葉で申しますると、古事記、日本書紀を見てみますと、「言向平和」という言葉が四ヵ所使ってある。ことをむけてやわす、こういうことが神武東征の根本の精神ではないかと思います。 それを主張します根本の理由として私はここに三つの理由をあげておる。第一は東征の宣言の中に、「吾必ず鋒刃の威をからず。坐ながらにして天の下をことむけむ」ということが日本書紀に見えております。これは神武東征の根本の精神を示したものだと思いますが、「鋒刃の威をからず」。これは今で言うならば武力を用いないということであると思いますが、もちろん実際の日本書紀を見ますと、武力を用いられた例はたくさんあります。第一、神武天皇も武装して行かれたことも事実であります。しかしこれは未知の地に行かれるのですから、そのようなことがあったのは当然と思うし、またいろいろ長い間には反対者もおるし、あるいはことさらに妨害する者もあったのですから、これはまたときには武力を用いることもやむを得なかったと思うのです。とにかくその根本の精神は「吾必ず鋒刃の威をからず。」そこにあったのだと思う。 それからCのところに書いておりますように、「敵人登用愛護の例」と書いておりますが、きのうまでの敵を抜擢して枢要な地位に用いておられます。たとえば「弟猾猛田の県主に任じ、弟磯城を磯城の県主となし、剣根を葛城の国造に登用」された。あるいは「宇摩志真知命を内廷守護に任ぜらる。」ということがその例と言えますが、たとえば頼山陽はこういうことを書いております。「敵師の蒙子をして一たびその降を容るるや、之に授くるに干才を以てし、委するに環衛の任を以てして敢て疑はず。蓋し赤心を人の腹中におくもの也。」こういうことを申しております。 そこで大事なことは、もし神武天皇の東征がただ単なる侵略であり征服であって、それが日本の伝統となってきておったといたしますならば、おそらく皇室というものはとっくに滅びてしまっただろうと考えます。これが大事なところでありますが、歴史というものは厳粛なものです。歴史に奇蹟はない。大体申しまして……。そこで滅びるものは滅びるべくして滅びていく、続くものは続くべくして続いていく。クリストもヨハネ伝の中で、剣によって興ったものは剣によって滅ぶと申しておりますが、別にクリストの言葉を待つまでもなく、日本の歴史を見ても、ヨーロッパの歴史を見ても、みな歴史はそれを事実をもって示しております。 これについておもしろい一つの例がございますが、平安時代の末ごろに、日本の学問僧の奝然というのが中国に渡っております。たままた中国では宋の太祖の時代でありまして、宋の太祖が奝然から日本の歴史を聞き、また日本の皇室のことが始祖神武天皇以来、一系不易であるということを聞きまして、非常に驚きかつ羨望いたしまして、日本を手本にして宋室の万世無窮の計を立てまして、ここに詔勅を出しておる。それがここの第三のところに書いておりますからごらん願いたい。その一番おしまいのところには、「朕雖徳慙往聖、常夙夜寅畏、講求治本、不敢暇逸、」「不敢暇逸」とは怠らないということ、「建無窮之業、垂可久之範、亦以為子孫之計」と言っておる。これは何も宋の太祖に限ったことではありません。すでに古く秦の始皇帝が天下を統一したときにも、万世無窮ということを言っておる。しかしながらこういう一片の詔勅をもってしては、私は王室の万世無窮ということはできないと思う。やはり民衆と対立があったりしてはこれは実現できないと思うのです。そういう点から考えてみまして、日本の歴史を見てみましても、人民が天皇を敵としたことはほとんど見当りません。たとえば一揆には、土一揆だとか百姓一揆などというようなものがいろいろございますが、天皇を敵とした一揆は見当りません。こういったような、今日の言葉でいえば平和主義の精神をもって建国されたのが、神武天皇の建国であると思います。ですから私は、侵略主義とか、あるいは単なる軍国主義、あるいは征服主義というようにこれを割り切ってしまうのは、危険ではないかと思うのです。 最後に結論を申し上げますが、ただいま申しましたように、私、多年上代史を研究いたしまして、こういったような建国の精神は平和主義にあるということを信じております。これは神武天皇が最初に示されたものでございまして、決して軍国主義、侵略主義につながるものではない。そういうような意味におきまして、ただいま日本民族が行くべき方向に迷っておるときに、こういう建国の精神が平和精神であるということをはっきり盛り込んだような新しい意味の建国記念日、あるいは紀元節と申しますか、こういうものを設けるということは大いに必要ではないか、かように信ずる次第でございます。(拍手)
○相川委員長 井上光貞君。
○井上公述人 井上でございますが、私、きょうここで申し述べますのは、いろいろ問題が多岐にわたるのをおそれまして、ただ日本書紀に出ております神武天皇即位の年を西暦紀元前六百六十年、辛酉の年の正月の朔としていることが歴史的事実であるかどうか、ただそれだけに問題を限ります。それからもう一つは、私がこれから申し上げますことは私の説ではないのでありまして、一般に古代史家が考えておりますことの要点だけを、三つに分けまして御紹介しておきます。 第一は考古学者の考えであります。西暦紀元前六百六十年といいますと、紀元前七世紀ということになりますが、そういうときに暦の知識があったということは、考古学上の事実に照らしまして、おそらくどころか、ほとんど考えがたいことであるというふうに思います。と申しますのは、この時代の日本は石器時代である。そして農耕でありますとか、あるいは金属器の使用というものが始まりますのが、それから以後三世紀後のことでありまして、文化の発展の一般的な事情から考えまして、石器時代の日本人が暦を知っている、あるいは文字を使用していたということは考えがたいことであります。そして暦がもし知られていなかったといたしますと、神武天皇即位の年月日というようなものを後世に伝える方法はなかったであろう、こういうことであります。これが第一の考古学上から言える論拠であります。 第二番目は、これは日本書紀及び古事記の文献批判的研究からの問題であります。さっき森先生が言われましたように、神武天皇の即位の年月日というものは神武東征の一連の物語の中にしるされているわけであります。そこでそういう一連の物語がどういうふうにして伝えられて、日本書紀及び古事記に集録されるに至ったかということであります。それについての文献学者の言っておりますことを、最大公約数、だれでもが大体この点は認めているという形でごく結論だけを申しますと、こういうふうに言うことができると思います。こういう物語でありますとか、あるいは日本武尊の蝦夷の征討の話というようなものは、これは大体西暦紀元後六世紀の前後におきまして、旧辞と称する書物にまとめられたものと考えられております。そしてこの物語を集録した旧辞には年月日というようなものは記載されておらなかった。その後七世紀の初め及び後半にかなり大がかりな歴史編さんの仕事が進められました。そしてその成果が、また少し時を経まして、八世紀の初めに古事記及び日本書紀として完成いたしましたが、その古事記、日本書紀の完成の際に、先ほど申しました旧辞がその中に取り入れられてきているわけであります。でき上りました古事記、日本書紀を比べますと、古事記の方は旧辞を正確になるたけ素朴な形で伝えようとしている。そしてその古事記の方には年月日というものは、どなたもごらんになりますように入っておりません。一方同時に、中国の史書の体裁にならって、日本書紀の方は、当時として現代史の部分がおもでございますが、これにそういう部分の史料をたくさん用いまして、そして編さん事業として完成されたので、日本書紀の方には、すべてのできごとにわたって年月日が入っておりまして、その一環として神武即位のことについても日付が記されているわけであります。こういうように一般に文献学者は考えておるわけであります。これは大体最大公約数でありまして、中に多少のニュアンスの違いはありますが、そういうふうに考えます。神武東征の物語は、その素朴な形においては年代あるいは日付というものを欠いておったということは、ほぼ確実に言えるところであります。この事実は注目すべき点だと思います。 第三番目はいわゆる紀年論であります。この紀年論というのは、先ほど森先生が触れられました問題と直接に関係があるのであります。その紀年論の要点を申しますと二点あると思います。第一は、神武天皇即位の年を干支で辛酉ということに関してであります。さっきも触れられたようでありますが、中国の繊緯思想、一種の占いの思想でありますが、それによりますと、辛酉の年には革命がある、すなわち王者の天命があらたまる、甲子の年には政令があらたまる、そういうふうにしてこの二つの年を特に注意しているわけであります。ところが日本書紀を見ますと、さっき申しましたように、神武天皇即位の年を辛酉といたしますと、それから天皇が平定を終って皇祖を祭る年、これを甲子と言っております。これは偶然の符合ではなくて、繊緯思想によってこの干支を定めたものだというふうに考えられます。 第二番目にもう一つ重要な点は、繊緯思想を述べました中国の書物の緯書の一つに、特に一千二百六十年ごとの辛酉の年に大きな変革があるというふうにしております。そこで神武即位の年とされましたところの紀元前六百六十年の辛酉から逆算いたしました、西暦六百一年という年に注目してみますと、その三年の後に暦が公けに用いられ始めた。それから約二十年たちまして六百二十四年に一つの歴史編纂事業が――これは聖徳太子の歴史編纂事業でありますが、行われております。そこでこれはすべての学者ではありませんが、多くの学者は西暦紀元前六百四年に暦を公けに用い始めて、そのすぐ二十年後に歴史編さんが始まった際に、そのときから一番近い辛酉の年、つまり六百一年という年を基準にして、それから千二百六十年前の紀元前六百六十年を神武即位の年ときめた、こういうふうに考えるわけであります。そしてさらにその日付に対しては、その正月の一日という一番最初の日を神武天皇即位の日というふうに定めた、こういうふうになっていると思います。 大体以上が、私の説ではありませんので、専門の人々が考えております考えの大要であります。従って私はこれは歴史事実でないということをほぼ確信いたします。ただし歴史学の問題は、確実に証拠を提出しなければならない、そうでなければ確定できないのだというのでありますと、こういう問題に、確実な証拠を提出するということは不可能であります。そういう意味において歴史事実ではないと断言しないで、歴史事実と考えがたいというふうに一歩譲歩して申すわけであります。 それで最後に、この立場から紀元節の建国祭の復活についての私自身の考えというものを申しますと、歴史学、ことに古代史学に携わっております一人といたしまして、それから歴史の教育に携わっておる一人としまして、私は不確実な事実というものをあたかも歴史事実のようにしてしまうということをおそれるわけであります。建国祭と歴史教育は必ずしも関係はないと思いますけれども、しかし建国祭が定められますと、少くとも初等、中等教育の日本の国家紀元に関する教育内容には、何らかの制限がこれに加わってきはしないか。そうすると史実にあらざるもの、もしくは史実でない可能性のあるものを歴史教育の中で教えるということになりはしないかと思います。歴史教育というものがいかにあるべきかということについては、いろいろ考えがあると思いますけれども、私は歴史教育の第一条件は事実を事実として教えるということでなければならないと思います。そういう際に、ことに重要な問題に関して、事実でないもしくは事実でないという疑いがあることが教えられるようになるとすると、これは歴史教育の大きな破壊である、そういうふうに思います。ですから私は歴史の学問に携わる者、歴史教育に携わる者といたしまして、こういうことはなるだけお取り上げにならないでいただきたい、こういうふうに考えるわけであります。(拍手)
○相川委員長 小野祖教君。
○小野公述人 私は日本の思想というようなものを研究しておりますので、この問題についてできるだけ広い考え方で申し上げてみたいと思います。問題が歴史に関係いたしますので、歴史の論に傾きやすいのでありまして、またそういうところから考えていく傾向を持っておりますが、私は、この問題は国の初めの記念日を設けるという問題であって、日本の紀元を定めるという問題ではない、そこのところに一つはっきりしたポイントを置いて考えていきたい、こういうふうに思っております。 第一番に、そういう観点から非常に大事な問題として世論の問題でございますが、これは御提案にもありますように、数度の世論調査におきまして、国民の大多数がこの記念日を設けることを非常に望んでおるという事実がございます。民主主義の政治の建前からいたしまして、これだけ国民が熱心に望んでおるものを議会が尊重して下さるということは、これは常道であって、これだけの理由でもこの日をお取り上げになっていただくというのに十分に近い根拠であると思うのでありますが、建国の記念日を設けたいということについては、今までの委員会の御討議の議事録を拝見いたしましても、与党も野党も御賛成の御様子でございますので、その点については大へんけっこうなことに存じておるのでありますが、残ります問題は結局日の問題であります。私は、これはできるだけ世論を尊重して実現していただきたいということにつきましては、この世論の背景にあるものがどういうものかというようなことが一応問題になっておりますが、結論的に考えておりまするのは、非常に国民の健全な気持がここに反映しておるというふうに思っております。と申しますのは、たとえば福沢諭吉翁が独立自尊ということを申されましたが、人間が一個の人間として社会的にりっぱな人間として生きていくためには、自分の人格を大事にするという気持が根本になる。同じように一国の国民が自分たちの国をりっぱにしていこうという考えを持つときには、やはり同じように国を大切にするものであるという気持がなければならない。その気持がここにあるのであって、私は日本のすべての人々が今度の戦争において自分たちの国の顔に泥を塗ったということをひとしく情ないことに思っておると思うのであります。従って、何とかしてもう一度日本の顔の立つようなりっぱな国になりたい、こういう気持からして、独立ということと結びついて、どうか日本を日本としてもう一度認識して、そうしてりっぱな国に作り上げたい、こういう気持が現われておるというふうに思うのでありまして、これは決して一部の者の一方へ引っぱっていこうというようなことでもって、とても八割以上の世論を盛り上げるなどということはできないと思います。ことに占領期間中及び今日において新聞に現われております論説は、多くはこの記念日のようなものについては反対をする立場、または日本の歴史にはうそがあったというようなことの宣伝にほとんど力が用いられているような状況でありまして、一部の者の力などではとてもいかない。何度世論調査をやってみましても、こうして国民が支持しているということは、そこに非常に奥深い国民の心の中から浮び上ってきているものが反映しておる、こういうふうに私は思っておるのであります。従って御提案の中に「真の祖国復興」「国民精神の覚醒」あるいは「伝統の恢弘」というような言葉が見えておりますが、私はそういったような気持が国民の大部分の者の心であるというふうに考えますので、ぜひその気持を尊重する線においてこの問題を考えていただきたいと思うのであります。そういうものは愛国心につながるもので、そんなものを持つと愛国心が起ってきて困るだろうというようなことがもし言われるとしたら、これは大へんに間違ったことだろうと思うのであります。このことについてちょうちょうと申し上げる必要はないと思いますが、この記念日を置くことを命令をもって禁止したバンス自身が言っております。アメリカ人にはアメリカ人の愛国心というものがあり、それは非常に大事なものだ。日本人にも日本人の愛国心がなければならぬ。われわれが問題にしているのはそれが誤まった愛国心になることであって、正しい愛国心が伸びなければ日本は立っていけないのじゃないか。日本をりっぱにしようったって土台になるものがないんだから、われわれは決してそれを弾圧しようとする気持はない、ということを言っておるのであります。これは当然のことだと思うのであります。そういう意味において、せっかく国民の中にめばえておる、新しい日本を作り上げていく土台としてもう一度日本を見直そうという気持を尊重していくことが、必常に大事な問題だと私は考えます。 次に、建国の記念日としての日を選ぶ問題でございます。日の問題はいろいろ出ますけれども、それを考える際に一つはっきり考えなければならないことは、自然人のわれわれでございますと、誕生日というものははっきり認めることのできるものであります。従って、歴史上の日付というものをはっきりきめることができるのであります。また一つでなければならないということにしぼられて参ります。ところが、国そのものが観念的な一つの存在でございますので、建国というものも観念的なものである。国も学校も会社もその他の団体も同じような性質を持っているものでありますから、いつを創立のときにしよう、いつを建国のときにしようということは、観念によって、意識によっていろいろなものがきまってくるので、一つのものが出てこなのいは当然である。そうして必ずしも歴史的なものに拘泥しないで考えることもできる。そういう性質を持っているものでありますから、その性質に従って広い立場で問題を考えていくことが必要だと思います。もし、五月三日がよろしい、国民全体の気持がそこへ寄って、これが一番意義のある日だと言えばそれを尊重していくのがいいと思う。決して悪いことではないと思う。また八月十五日の敗戦の日が一番いいんだという世論であれば、私はそれも意義があると思います。そのほかの日でも、選び方によっていろいろきまるのでありますが、今日は国民の世論が二月十一日というところにしぼられて、絶対的な世論が出てきておるのでありまして、この点に立って考えるのが考え方の常道であると思われるのであります。そこに国民の気持が寄って、この日ならばみんなが気持よく祝えるという方向になってきたならば、それを尊重していいんじゃないか。歴史的に何か非常にはっきりしたものがなければいけないのだという制約はない。この問題をきめるのには外国にもいろいろ似たようなものがあります。ある国もない国もあります。しかしながら、これはわれわれの問題であります。日本人みんなが自主的に相談して考えてみて、この日ならばわれわれが求めているような気持の盛り上る日だというところで決着のついたものを、政治的に大きな目で見て考えていただくのがいいと思います。もちろんそれをきめるのには歴史の問題も考えないわけにはいかない。そういう問題についてももちろん十分に検討されることが必要であります。 まず第一番に考えたいことは学問と政治との関係でございますが、日本の紀元について不確かだという学問上の説がいろいろある。一体明治五年に紀元節を制定したときそれをどうしたか、学問を全く封じてしまったか、あるいは何にも知らないでもってきめてしまった乱暴なものであったかということを顧みてみますと、決して学問を知らなかったわけでもなく、乱暴なことをやったわけでもない。またその後に学問を封じてしまおうというようなことをやったわけでもない。学問上の疑点があることは重々承知の上でこの問題を割り切り、必ずしも学問で割り切らないでよい性質のものであるということをのみ込んで、そうして現在の段階においてどう取り扱うかということを政治家が頭でもって政治的に判断して処理された、こういうふうに私は考えます。従って、あとから那珂博士の説も出れば、その他の学者の説も出て、日本の紀元について誤まりがあるようだというようなことについての論議が十分戦さわれ、その論文は幾らでも発表されている。この点は別に何ら制限はなかったのであります。私どもの学校などこういう問題はかなり慎重に取り扱う学校でありますけれども、戦時中でもこういう説が紹介され、そういうものに基いて研究していくという態度をとっておったが、何ら弾圧もされなければ、何にもございません。そういうような立場でもって考えられていくのでありまして、二千六百十七年という年が歴史上のはっきりした年でないとして、なければないような取扱いがある。たとえ話で申し上げますれば、ここに正宗の刀を持ってこられて、これが正宗の刀か鑑定してくれと言われたときに、鑑定家も、専門的に鑑定がつかない場合は「伝正宗作」ということでもって、捨ててしまわないで、尊重していくということでもって、そういう問題はあとで明らかにするように取り扱っていく方法があるのであります。この二千六百十七年というのは日本書紀が表わしておったものであります。従って、伝二千六百十七年でありまして、伝という一字がつくことによってはっきりすることであります。そういうような頭さえ持てばこの問題は政治の上でもって取り扱う別の道がついてくる、私はそういうような性質のものだと思っております。大体日本書紀の紀元に問題がある。日本書紀の記載が学問上問題になる。ということは、決して明治の時代になって明らかになったことでもなければ、戦後になって急にはっきりしたものでない。日本書紀ができたときからはっきりしていることであります。それはお手元に差し上げましたような表によってわかる。古事記と日本書紀の天皇のお年を比較してみるだけで違っているのであります。千三百年前この書物ができたときにはっきりしていることであります。議論すれば幾らでも議論の余地があり、研究の余地があることは本来早くからわかっておった。明治の時代にこのことを知らずしてきめたわけではない。政治的な常識において取り扱ったので、そういうようなことを頭に置いてこの問題を処理することが一番大事ではないかと思います。先ほど井上先生が言われましたように、学問の圧迫になるようなことは困るというような御心配があって、その学者の説を尊重されることは教育上も大事なことでございますが、そういうようなことを考慮してあとで問題が起ったりなんかしないようにということを考えるのであります。私はこれは必要のないことであると思う。今日憲法において学問も思想も完全に保障せられている時代に、何でそんなことを圧迫することができるものかと思うのであります。もし御心配であるならば議会において一つ附帯決議をつけていただきたい。この決定は日本書紀の紀元による時期の決定であって、将来にわたって学問の自由及び教育上異設を教えることを拘束するものでないとおきめになったら、もうこれはだれも文句はないと思うのであります。それほど神経衰弱的に考えなければならないならばそこまでいったらよろしい、こう思います。 なお、それでは学問の上でははっきりしないのにやっていく、それでもよろしいといっても、あまり常識はずれ、けたはずれのことでは困るということは、議会でもってお考えになるのには大事な考慮の一点であろうと思いますけれども、大体文献学というものには私は限界があると思います。人間がもとは口で伝えてきた。そして文献がぼつぼつできるようになってきた。どれだけ完全な文献が残るか、どれだけ完全な口伝えが残るか。それだけでもってすべての問題が解決するということを考えるのは無理だと思う。非常に短かい形のものが現われてくることもあるだろうし、長い形のものが現われてくることもある、全然何といっていいかわからないような場面になってしまうこともあるだろうと思います。だから文献学がすべての発言権を持っているものではない。日本の古さというものを考える場合には、もっとほかの学問を使えるならばそれを考えていかなければならないと思うのですが、考古学者の今日の多くの方々は、決して二千六百年が短かいとは言っておられないようであります。大和朝廷の歴史はもっと長いというふうに言っておられる方が相当にある。考古学は現にものが残っておる。そしてそれを証拠にしていくのですから、文献学よりはもっと年代などを考えるときには参考になる性質のものだ。そういうふうな性質を持っている学問が、今日もう少し長くてもいいんだということをいっている段階において、文献学だけでもって短かいというふうに切ってしまうということはできないのであります。その非常な長さの範囲を中で考えてみれば、二千六百十七年はそんな非常識なものではない、常識的に許される範囲において政治の常識に基いて取り扱っていかれる、こういうようなことが一つの考え方の点にならなければならないのではないかというふうに考えております。 いろいろそういうようなことを考えていく問題もあると思うのでありますが、日本書紀というものによるという場合に、日本書紀がもしほんとうにでたらめないいかげんな本であるとするならば、たとい一つの儀礼的な立場でもって尊重するにしても、これも問題でありましょうがこれは天皇から御命令があって国の官吏が一生懸命で研究をして責任をもって御報告したものでありまして、その点はきわめて明瞭になっているものであります。できた年代も千三百年前にできております。日本としてはきわめて古い、第一級の古典である。その古典をそのまま信憑するというのじゃない、学問は幾らでもほじくっていく余地があるのですから、そのまま信ずるのじゃない。古典を古典として尊重するという立場でもって尊重に値するか値しないかという問題になれば、私は無条件で尊重しなければならないものだと思う。だからこれを使ったからおかしいということはないと思う。日本ではこれはどうしたって大事にしていかなければならない文献の一つである。それを尊重するという建前でもって、先ほどのようにこれによってこの時代の問題を政治的に取り扱うところの一つのよりどころにしたということで、一向常識に反しないというふうに考えます。 日本書紀がいかに良心的であるかという問題について一々申し上げる時間もありませんので、表の中にちょっと出しておいたのであります。古事記と日本書紀とを比較してみても、日本書紀の年ばかりが長いのじゃない。古事記よりも日本書紀の方が天皇のお年を短かくしているようなものもあるのであります。日本書紀がただ引き伸ばすということだけ考えておったならば、みんな引き伸ばしたらいい。小説や何かじゃないので、勝手なものは作れない。少くともその時代において存した資料に基いて、いろいろな考え方に基いてこれが責任の持てるというものを書いたんだということは、私は、きわめて一端ですけれども、そういうことからうかがえると思う。その他のことについて一々申し上げる必要はないと思います。日本書紀がまじめな編さんをしたものであって、そして古典としては尊重しなければならない性質のものであるから、それに従って考えていくというだけの権威は少くとも持っておる、こういうふうに確信しております。 なおいろいろ天皇の問題などにつきまして、神武天皇の御即位の日を日本書紀の伝承に従って建国記念日にしたというようなことになると、天皇制というもうに対してまた火がついて専制政治の方へ戻っていきはしないか、逆コースになりはしないか、そういうようなことでありますが、これは私はふに落ちないのであります。日本人の今度の戦争の痛ましい敗戦の体験というものを通してほんとうに天皇を尊敬し、愛するという気持の人間がどう考えるかということは、人の心を正しく理解をしてもらえば明瞭にわかることだと思う。マッカーサーの前に立たれて、朕の身はどうなってもいいが、国民を何とか無事にしていただきたいということを申された。ドイツのカイザーのように廃帝になられるか、あるいは配所の月をながめられるようなことになりはしないかというような、そういう差し迫った体験を経た人たちが、再び天皇に非常な責任のある地位に立ってもらって、またあんなことが起るようなことを望んでいるような人が出てきたら、私はどうかしていると思う。私は、皇室を大事にする人の方が慎重であって、皇室を大事にしない人の方が慎重でない考えを持つということ、天皇制を批評してどうこうということは逆なことではないか、歴史がそこまで動いてきている、この動いている歴史を見なくてはならない、こういうふうに思います。 神武天皇の御東征の問題もそうでございます。確かにあのときに戦争をしたのであります。弓と刀でもって戦争をした。あの戦争が今日の戦争のお手本になる。原子爆弾が頭の上からいつ落ちてくるかわからないようなこの時代に、アメリカでもソビエトでも一国では防衛ができないことは歴然たる時代に、このちっぽけな日本が一体どうするつもりか。この世界を征服する思想を起してくるやつは気違いである、私はそう思います。従ってそんな方へ行くという心配を考えることは私は神経衰弱だと思う。そういうような考えを乗り越えて新しい日本の建設という方面に進んでいきたい、こう私は思うのであります。 大体八紘為宇の詔勅というものについて非常な読み違いをなされておるようでありまして、あれが世界征服主義に利用されるというのでありますが、利用された人はあの本をよく読まなかったのであります。それはお手元に差し上げてありますが、読んでみればはっきりわかる。六年の戦争が終ってこれから都を建てて、そうして国民の利益になるような政治をやっていこう、そうして自分たちの御祖先の徳とお心に沿うて正義の国を立てたなら、おのずから四方の者が四海兄弟の平和な世界になってくるのだから、もう戦争はやめだという平和な世界を作るための平和大宣言である。それをどう読み違えたのか、それはどうも古典をあまり教えなかったことの罪だと思う。通に今から教えなければならない。読んでみればそんな心配はないと私は考えております。だからこれがもう一度持ち出されたときには、徹底的に教えて間違いないようにする。しかしそれも新しい日本というものを考える場合にはそれだけではないので、もっと日本人は日本人の目でものを見ていく、だからそれだけですべてでないというふうに考えていってもいいと思います。 それからもう一つ、先ほど和歌森先生からお話があったのですが、私はちょうど逆の見方をしている。明治政府が紀元節を作ったということは、なるほどあの時代のことでありますから、政府が中心となって作った。だから国民がそれに親しみを持つまでの間に時間がかかったということは事実であります。しかしながら徳川時代以前に一体日本がどういう国際的地位にあったかということを考える必要がある。日本が建国の日を祝うという気持がなかったとは決して思いません。その中に旧事紀を引いてございます。旧事紀の方がわかりやすいから引きましたが、六日の拝賀と神武天皇の即位とは結びついた気持を持っておりますので、おのずから年の始めのお祝いをしますれば、国の始めのお祝いということも含まれますので、そういうような気持で特に日を設ける必要がなかったということもあるのでありますが、日本というものを特に意識してお祝いをしなければならないという必要はきわめて少いのであります。 なぜかといえば、明治以後には、開国が行われて、国際社会の一員となって、他と自分とを区別するという意識、日本というものを一つの独立的なものと考える意識が強まって、国際社会の一員となって、そうしてそれから先の生活が続けば続くほど、この日は意味を持ってくるのでありまして、だからして、初めはそれほどでもなかったものが、だんだん国民の愛着を持つ日になって、理解を持つ日になってくるというのが、これが歴史の進んでいく方向である。逆になっていくとすれば、これは歴史がさかさまに歩いていくということになる。その意味では、きわめて自然な現象を踏んできておると思います。同じく国民が誕生日を祝うということをやっておらなかったのに、このごろ国の誕生日という言葉がばかにはやるけれども、これは当然なことでありまして、国民が自分の考えていることとぴったりしたことをいわれれば、それに共鳴を感じていくので、あの言葉は、確かに今の国民は非常に共鳴を感じております。なぜ感じるか。これも同じことであります。近代社会、近代思想というものは、個人の自覚ということが大事な問題であります。民主主義をやっていくのに、こいつをやらなければだめだ。それがだんだん進んでいくからして、それで、それに従って自己というものの自覚が出てきて、われわれの誕生日というものが問題になってきた。それがだんだん国民に取り入れられてきて、その言葉がきわめて自然に入り込んできているのが、現在の国の誕生日という言葉であります。だからして、近代的な考え方が進むに従って、この意識というものは強まり、国民がますます自分のものとしての気持になる性格を持ったものであります。そういう方向に進んでいる。過去にあったそのときだけで動いているのじゃないということが、かえってこのことでわかるのでありまして、これは和歌森先生は昭和二十九年の放送討論会のときに、同じくこのことを言われて、戦後二十三年の世論調査に現われたところでは、それはまだ明治の時代の頭の人間がたくさんあって、その頭の抜け切らない連中だからして、あれだけの世論が出た。民主主義の教育ができたのだから、今やれば世論は減るとおっしゃったけれども、しかしその放送討論会をやった直後にNHKでやった世論調査というものは、ここに御提案の中に出ているように、八一%という成績を示して、さらに一進展をしておるのであります。わずかな期間に民主主義が進んで、かえってふえる方向を示したということは、私は雄弁に、国民がいよいよ自己というものを自覚する方向にいって、その意味では非常に民主的方向が開けてきている、こう見ることができると思うのであります。そういうような点から、いよいよ国民に親しまれるべき性質を持った記念日として、ぜひこれを実現していただきたい。そうして多くの人々が二月十一日という希望をしている。国民の気持を一ついれて、二月十一日にしていただく。無理な日ではない。大ざっぱにして、別に紀元をきめるのではなくて、一つの歴史的な古典を尊重して、その中に現われているものによって、ほぼ大した見当違いでも一ないところを頭の中に描きながら、古い国というものを自分の祖国と考える、この気持を一つ買ってやっていただきたい。そうして、建国の記念日というふうな御提案になっておりますが、建国とか肇国とかいうことはいろいろ問題になりまして、日本の国の成り立ちというものはどういうものかというような議論もあります。むしろ紀元節という名前が親しまれて七十年もみんなが使ってきたのでありますから、そしてその名前を使うことにも多くの人が心を寄せているのですから、私はこれも、紀元でもなければ何でもない、そうして国の初めという言葉に連なる言葉ですから、これを尊重していただくのが、国民の気持に一番沿うていると思います。できるならばそういうふうな線でやっていただきたいと思う。もしいけないとすれば、やわらかく、国の初めの日とか、国の初めの記念日とかいうような親しみやすい言葉にしていただけば、かえってその方が学問上の議論なども起らずに、いいのじゃないか。名前の点などもその辺の穏やかなところで、日のことも穏やかに、国民の気持を受け入れてきめていただけたならば、新しい日本という気持がかえってここに非常にわき上ってきて、日本の国民がこれから日本を再建していく、その方向に向っていく、一つの足がかりにもなる。これは日本の国にとっても大きな意義を持つことになるのではないかというふうに考えております。 大へん失礼いたしました。
○相川委員長 午後一時より再開することとし、これにて休憩いたします。午後は公述人の方に質問を行います。 午後零時十五分休憩 ――――◇――――― 午後一時二十一分開議
○相川委員長 休憩前に引き続き公聴会を再開いたします。 これより公述人各位に対する質疑に入ります。大村清一君。
○大村委員 和歌森教授の御公述の中に、建国記念日またはこれに類する祝祭日の点につきまして、諸外国の例のお話があったのでありますが、そのうちで建国日を持っている国は多くは若い国であって、英国のごとき古い国は建国日が定まっていないというお話があったのであります。私は英国が建国日を持っていないのは、古いから持っていないというわけではなくて、ほかに理由があるのではないかという疑問を持つのであります。これについての私の疑問を解いてほしいと思うのであります。 その疑問と申しますのは、私は英国が建国日を持たないのは、持たないだけの理由があるのではないかと思うのであります。私詳しく記憶はしておりませんが、聞き覚えによりますと、英国はあのイングランド、アイルランド等の諸島に住む英国民族は、歴史的に申しまして王朝が分れておった。そうして英国としての統一が歴史上なかった場合が相当長かった、ことに現在の英国王朝も、ヨーロッパ大陸から征服的な関係で国を建てているというような特殊事情がございますので、建国記念日を作ることが英国には適当でないというような事情があったのでありまして、古い国だから建国日は持たなかったというように考えられないと思うのであります。わが国は英国以上の古い歴史を持っており、しかも二千年も前に大和王朝が国を建てまして、自来連綿として日本民族及び大和王朝というものは今日まで続いてきておるのであります。このような古い歴史を持っておりますわが国民性といたしまして、祖先を尊び家の歴史を重んずるという風習は大いに存在しておると思うのであります。歌舞伎を見ましても、命をかけての太刀合いをする際におきましては、祖先以来の名誉ある家の経歴を述べてそうして家の名誉を傷つけないような行動をしようということで命のやりとりをするというようなことも、子供のじぶんから見せつけられておるのでありまして、家を尊ぶという風習が日本に古来あると私は固く信ずるものであります。そういうような国、民族におきまして、建国記念日を作りたいという欲求のあることは、民族の要求であるように思うのであります。すなわち歴史が古いから建国記念日を持たないということで片づけてしまうわけにいかないのじゃないかという点に多大の疑問を持っておるわけであります。願わくばこの点について学問的御解説を伺えればはなはだ仕合せだと思うのであります。
○和歌森公述人 申し上げます。私は建国記念日を歴史の古いような国では持っていないというふうに確かに申し上げましたが、その歴史が古いということは、歴史そのものの古いということよりも、かなり年代がさかのぼるがために、その国の統一の時期というものがはっきり定めがたい、そういうふうな確実性を持っていないところにおいては、これをあえて持たなかったという意味でありまして、大体イギリスの方ではそういった国の祝祭日をどういう動機で設けたかと申しますと、やはり日常のイギリス民族――統一された後のイギリス民族ですが、その中で生活を規律する意味において意味の深いような宗教行事の日を全面的に取り上げたのであります。これは別に国家の政治とかなんとかいうことに関係なしに、いわば伝承的に年中行事の日をそのまま国の祝祭日にしたという性格があって、これはほかの諸民族あるいは諸国家の祝祭日の取り方と比べまして確かに特色のあるところだと思います。 それからイギリスの側でもって、そういうふうに自分の国は歴史が古いからといって建国の記念日を設けなかったという説明ではないのであります。たまたまそういうふうなイギリスの場合のように、国家の統一とか建国とかいうことがはっきりいつというふうには定めがたいようなところでは、そういうものを定めようとする意欲さえ起きなかったということを申し上げたのです、日本の国の場合を考えてみますと、いつ国ができたと言っていいか、実際人によって国家というものについての概念に相違がありますから明確にいかないと思います。大和地方だけが大皇のしろしめすところとなった段階をもって国の統一が行われた、国家ができたというふうに認識する者もありますし、それからまた九州地方を合せて瀬戸内海を仲立ちにした統一を果された時をもって国の統一、国家のでき上りというふうに解釈する者もありますし、あるいはさらに加えて出雲地方を包括した段階をもって国の統一、日本のでき上りというふうに見る者もありますし、なお後になりますと大化の改新でそれができたというふうに見る者もあって、そこで問題になるのは、国歌のでき上りというのはどこにポイントを定めたらいいのかということになるのであります。イギリスの場合は諸民族のいろいろの葛藤やなんかででき上ってきたわけですが、日本の場合はそういう民族的な葛藤ではなくて、ただ規模が拡大していく。プロセスを言っておりますが、そのでき上った時点を定める定め方に非常な見方の相違があって、結局それをどこで押えたらいいかわからないということになる。そのような場合には、進んで建国の日を設定するということは非常にむずかしいのではないかという意味において申し上げたのであります。 それからもう一つの国の成り立ちについて、家を尊重すると同じような気持において、またその家を尊重する気持というのは、日本民族の伝統的な心情であるから、それによって国の成り立ちを祝うというのは自然ではないか。またそういう要求を民族として持っているのじゃないかというお説のようでありましたが、確かに日本人が家というものについて意識がまことに鋭い、それに対する愛着の念が強いということは間違いないことだと思います。もっとも家と申しましても、それが世帯ごとの家ばかりでなくて、家の連合体としての同族団というような場合もありますし、規模は大小さまざまとなって今日に至っておりますが、とにかくばくたる観念でありますけれども、それに対する意識、関心が強い。それを国家に規模を広げ、押し及ぼして、そういうものだからして国の始まりを祝う、あるいは祝いたいという要求があるというふうにおとりになられるのはどういうわけであるか、私にはよくわからないのです。その間の結びつきに、お説の中に飛躍があるように感じられますし、それから国の独立、成り立ちを祝おうとする、そういうものが伝統的な心情でなかったということは先ほども申しましたし、つまり明治以来のそれは、小野先生のおっしゃるところでは、要するに近付の日本人の個人的な自覚が進んできて、それを国にまで及ぼしてきたという独立自尊の考え方ができて初めて現われるものであるというお説がありましたが、確かにそういう近代日本の特殊な産物であったろうとは思います。しかしそれは民族的な心情として、その時代になってつちかわれてきたものではなくて、私に言わせれば、やはりこれは相当強引な教育力というものがあずかっていたように思うのです。明治、大正、昭和と太平洋戦争を終るまでの間の、あの国家主義ないしは昭和の戦争時代になりますと、超国家主義的になる、そういう体制の中での教育というものが、何となしに今の国民の世論に響いていますような工合の感情をつちかったのであって、ほんとうの古代以来連綿と続いてきている伝統的な心情というものとは、それはぴったりするものではない、従ってそういう伝統的な心情の中で、十分に人々が歴史的な教養を積んだ上で、こういうふうな国の独立あるいは建国の日を記念したい、祝いたいというふうになるまで待った方がよいのではないか、そういう意味であります。
○大村委員 御趣旨は一応私了承いたしましたが、私の申し述べました点がわからないという御疑念が起りましたのも、言葉が足らないからそうだったと思いますが、わが国の歴史を見ますると、氏族、氏の時代が長く続いておって、今日のような個人的の家というようなことになったのはよほど後代のことであろうと思います。そういうような歴史上の事実がございますので、たとえばわが国の各家庭の持っております系譜というようなものは、必ず皇族からだんだんと下って参りまして、何十代かの後の今日というようなことで系図を非常に尊重する習慣、これは要するに大和民族、大和朝廷、日本民族、日本国家ということに対する非常に強いあこがれであるということは明らかであると思います。この建国日ができなかったということにつきましては、小野教授の申し述べられましたような、国際意識が強くなったときに始まったということに関連はあると思いますが、しかし日本民族で日本及び日本国というものにつきまして、この建国を祝うということは決して国民性に反するというように私は考えないのであります。もっとも歴史が古いと的確に国家がいつ建国したかということをきめることの困難さがあることは私にもよくわかります。しかし例にあげられましたイギリスは、単に古いからということでなく、私はほかに建国祭を作れない特殊事情があるのではないかという点につきましては、依然として疑問を持つわけであります。また日本の場合におきまして、いつ建国されたか、その日を確定することは歴史上、科学上困難だという点は確かにあるでございましょうが、しかし日本民族及び日本国の成立を祝うために記念日を作って――いつ建国ということを言うのではありません。その建国のありましたときを記念いたしまして、日本民族として、日本国として、世界に伍して名誉ある立場をとっていこうというような、意を新たにするために、すなわち建国の昔をしのびまして、今後の日本国の行き方について、国民が善処するというための記念日を作ることは、大いに理由のあることだと私自身は考えておるわけであります。この点につきましては、議論になりますからこれ以上お尋ねをいたしません。一応ただいまのお答えで私は了解をいたした次第でございます。
○相川委員長 眞崎君。
○眞崎委員 私はまず小野先祖にお伺いしたいと思います。大体において小野先生の御意見なり、森先生の御意見に私は同意を表するものであって、和歌森先生や井上先生の御意見に不同意のものであって、それがかえって侵略主義を起し、あるいは軍国主義のもとになりはせぬかとおっしゃったのですが、先生方の御意見がやがて戦争の原因を作り、革命の原因を作るものと思って私は非常に心配をしているものであります。 まず第一番に小野先生に対しては、国家のみならず人間でもすべての者が共通の普遍性を持っておると同時に、特異性を持っていなくちゃいけない、特異性のないものは存在の意義はない、国家としても特異性のないものはおのずから滅びる、その特異性が世界共存共栄していく普遍性と矛盾しているものであってはならない、それがさっき申し上げましたような、八紘一宇とか何とかを取り違えたと先生が申されたが、私も同意見であります。これを取り違えたためにこういう戦争になったのでありまして、この国家としての特異性と普遍性の存在について先生の御意見を伺いたい。
○小野公述人 国家の特異性と普遍性とをどういうふうに考えていったらよいかということでございますが、私はすべて先ほど申し上げましたように、人間が一つの人間として存在するためには、自分の人格というものを確立していかなければ主体的な行動というものはできない、ここに責任を持つという立場ができてくるので、これがつまりその国の特殊の立場というものを考える根拠であると思います。この特殊の立場を持つということは、おのずから他の者の特殊な立場をも認めて、それぞれがそれぞれの特殊の立場を持ちながらそうして国際社会の結びつきをやっていくことによって、平和な国々の交わりというものができていくのであって、普遍というよりもむしろそういうようなお互い同士の社会的関係という意味においての広い行き方というものがあるが、それはつまり自主的の立場と矛盾するものではなくて、それがあることによって、かえって責任のある立場においてよりよくお互いを立てたり、お互いを理解したりしていくことのできるような、そういう行き方ができるのだ、そうしてそれが欠けてしまって他のものと同じような立場にいくということは結局自分自身の人格的自覚、国家ならば国家的自覚というものがないので、責任感が非常に弱くなってしまう。それで私は当然そういうような自主性の根拠というものを持つことが大切であるというふうに考えております。
○眞崎委員 ただいま御説明をいただいてはっきりいたしましたが、その日本の特異性というものが、いわゆる国民、国家一体の原理をとり、それが宇宙の大神である、物はすべて一元から発して、個々に発達したものは一つもない、その一体の発達の根源をどこに求めるかということで、肇国ということを非常に考え出したろうと私は思うのであります。それで教育勅語の中にも「国ヲ肇ムルコト宏遠二徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」とぼかしてあるが、そういうほんとうの初めというものは、人類発生の初めもはっきりいたしませんように、ほんとうに古い国はそうはっきりしないのが当りまえで、それじゃみんなうそかというと、国民感情の集まりで、世論と同じで、いかにも大衆というものはむとんちゃくのように見えるけれども、かえってそのむとんちゃくの中に真理を発見して、その帰一点が紀元節となり、しかも日本が発展するにつれ、対外関係ができるにつれて日本国の存在を非常にはっきり認識した。それが紀元節となって現われた。またさっき和歌森先生は個人の誕生日でも非常に軽く思われるように言っておりましたが、やはり哲学が発達してきて人生観を持つようになってくると、自分の存在をはっきり見出したいという気持がそこに出てくる。ただ科学的ということだけでいうならば、自分の生まれ日でも戸籍と非常に違っておるのがございます。自分の生まれ日でも戸籍簿とほんとうに生まれた日と非常に違った者があります。かようにして国の古い生まれ日がそう科学的にはっきりとわかるなんということは皮相の見解である。ものの見方が違っているのであります。肇国の精神というものは日本だけしか持ち得ない。森先生の御意見もありましたが、外国にない、まず発見し得ない歴史を持っている。それが日本が非常に強くてこうしてきたもとだと思います。日本の特異性というものは肇国の精神を持ち得ているというところにあると思いますが、この点について小野先生の御意見を伺います。
○小野公述人 今度の戦争が終ってから、紀元節をやらせなくなったアメリカの責任の衝にあられたのがバンス博士でありますが、ハンスが日本にああいうような態度をとりました根底には、アメリカが二百年に満たない歴史しか持たない新しい国である、その国に育った東洋史の研究家としての感覚があると思うのであります。その感覚というものをそのまま日本人の頭に当てはめるわけにはいかない。日本人の頭には、もっともっと古い国である、そして古いということが決して不思議でも何でもないような気持があって、それだけの古い国の歴史のあるという事実をまず認めていくということが、この問題に対しての一つの根底になっていると思います。そういうような特殊な国であるという立場で考えないと理解のつかないような、そういうふうな現われ方をしている面があると思うのであります。これは日本人だけでお互いにその点を理解して維持していくということが必要だと思うのであります。 なお、日がさめられないという問題につきましては、二千年も前の問題は絶対にといってもきまるものではないと思う。もしもこれを三年か四年の学界の論争できめようと言ったならば、これはきまらないことを承知で言っているか、あるいは学問の性質を知らずに言っている、こういうことになると思いますので、むしろこれは暴論に近い。きめようと思えばきめられる、しかも古い国というのをある程度で押えたいという気持に乗った考え方をしていくよりほかに、日本の国に合う考え方はないのじゃないか。 なお蛇足かもしれませんが、祝い日の問題は、生まれた日と全然違った日であっても、祝いの日を設ける意味はあるので、祝うということに意味があると思います。いつか日をきめなければならないということになれば、何かの意味で比較的その根拠のある日を求めたいというのが人情であります。二月十一日の問題が出ているのは、その意味で日本人の人情――政治は人情に基いてやられて当然な面を持っておりますので、その人情ということを考えて、ただ学問々々でものを考えてはいけないというふうに考えております。
○相川委員長 ちょっと皆様方に申し上げますが、和歌森先生が二時半ごろまでしか時間がございませんから、和歌森先生の御質問をできるだけ早くやって下さい。ほかの先生方にはその後でもいいですから。
○眞崎委員 次に、四人の先生方の御意見を伺っておると、ものの見方、考え方というものに非常に相違がある。近代人をこうして見ておると、ただ客観的に上っつらだけを見て、よくそれをそしゃくせずして批評するところがある。ものの見方によって、たとえば水でも水の四見相、こういっておるように、人間が見ると、水が当りまえの水に見えるが、餓鬼が見ると、火炎に見えるというておるように、主観の持ちようで、ものというものはいろいろにとれます。でありまするから、歴史を研究せられる上において、どうも私に与える感想は、和歌森先生、井上先生のお考えをじっと考えておると、客観的に、まことに失礼ですけれども、この日本の歴史をどこかけちつけるところはなかろうかというようなことで、そこを探された結論がさようになるのであって、今度は主観的に内部に入って、日本の成長の中に入り込んで、自分がこれを観察し、同時に外部からその発達の歴史を見て、これをかみ合せて考える、そうしてなおかつわからぬところがあるところは、民族の栄誉、民族の永遠のために、そう肯定的に考えるのが普通の考えようじゃなかろうかと思いますが、この点に関する小野先生の御意見はいかがです。
○小野公述人 外から見る見方がいろいろあっていいということは、学問の世界では必ずしも一つの見方でなければならないということはないので、学者はそれぞれの立場でもって御研究になっていいものだと思うのであります。ただ歴史というものは生きた問題を取り扱っていくのでありまして、そこに生きている人間がどういう人間であるか、どういう心持で生活しておるものであるかということに対する深い理解がなければ、結局は正しい把握はできないだろうと思うので、日本の歴史を考える場合に、日本というものに深い理解を持っていくような、そういう心でやったものが、ほんとうの意味での日本の歴史をとらえたということになるであろうということは、私などの常々とっておる態度であります。学問としてはいろいろな立場があっても差しつかえないのではないかというふうに考えております。
○眞崎委員 次に和歌森先生にお伺いいたしますが、文献と口碑、言い伝えということについてどう考えておられるか。私は浅薄であるけれども、高楠順次郎博士から相当教えを受けたのですが、かえって文献よりも言い伝えの方が誤まりが少いと言っておられましたが、現に私が調べた文献でも、最近のものでも、いろいろなアクシデントに対する文献で、ほんとうのものはほとんどない。それから義太夫みたいなもので、ずっと見たところでも、たとえば一の谷の三段目を見てみると、壇浦の戦いを見ると、明治の始まるころまでは、敵とみなすは安徳天皇と言うたものです。それからだんだん敵とみなすは御若君と言って、次にはとってしまった。それからロシヤが千島に反攻してきましたときでも、実際反対のことを全部書いてあるのです。最近はまた日露戦争、日清戦争に対しても全く歪曲をして、世人を誤まらしめるようなことを書いて伝えておるのであります。口碑ということも、言い伝えということも、そう軽く見るべきものじゃないと思いますが、御意見はいかがでしょう。
○和歌森公述人 お答えします。ただいまのお話は、私の学問に非常に近い話ですが、私は実際は文献一本やりでない主義で歴史をやっておりまして、口碑を十分に調べて、民族学でございますから、民族伝承になっておる言い伝えの方を非常に重い材料と見るのであります。そういう点で、私どもの調べた中で感じられますことは、年代とか時とかいうものに関しましては、口碑はまことにおぼろであって、それがずっと内容的には真実な形で伝わってきていても、年代がさだかでない口碑であるがゆえに、文献的な知識を持っているこざかしい人たち、坊さんとか、私どもの調べております山伏とか、そういう人たち、あるいは後の江戸時代でありますならば地方の好事家風な学者、そういう人たちの介添えによりまして、これはこのときの話にしようというふうな、そういう相談をしたわけじゃないですけれども、そういう年代を差し込むのです。そういうことをやって、いかにもっともらしい形――そうしないと知的な人たちが約得しないがゆえに、口碑を信じないがゆえに、年月日なんかを麗々と差し込みます。それを差し込んだあとで書きものにして、いかにも根っからの文献として伝わってきているもののように世の中に示すのであります。そういう傾向が日本人の口碑――日本ばかりでなくて、これは世界的にそうだと思いますが、口碑から文献へのプロセスの中にはあるのであります。そういうことは認めますが、そうしますと、私が先ほど言いましたように、日本書紀ができ上る前には旧辞というものがあって、その旧辞は口承、伝承、つまり口碑を相当取り込んでいると思いますが、ここでは年月日なんかはほとんどなかったと思います。またそういう月を判断するのは、大体月の満ち欠けによって一月、一月を勘定しておりましただけで、それを一々記録にとどめておくということはできなかった文化段階でありましたがゆえに、ごくあいまいな計算で進んできておりますし、そうしたばく然たる口碑を旧辞に取り込み、またその旧辞から歴史書として堂々たる体裁を整えるに当って、年月日をそこに挿入するということを遂げたんだというふうに、私たちは日本書紀の成立過程を考えておる。そういう点でも史実の不確かさ――あれが史実であるというふうには受けとれない。でありますが、そのことは、私自身の説から言いまして、実は今日問題になっておりますことについてはあまり重い意味をなさないのでありまして、むしろ私はこの明治以来のあり方というものについての深刻な反省からこの問題に迫っているのでありまして、ただそういう御質問がありましたから、私の研究しておる立場からの口碑と文献についての関係を申し上げたのでありますが、なおお話の中に日本人のほんとうの心を――小野先生もおっしゃったのですが、深いものをつかみとろうという立場、つまり表面的ではなくて内面的に歴史を研究すべきではないかとおっしゃられましたが、私などはおそらくそういうふうな立場をとっていることにおいて人後に落ちないつもりであります。でありますから、たとえば系図をいろいろ調べて参ることがあるのですが、村の旧家にはそういう系図がたくさん残っておりますが、みな源平藤橋に結びつけてあるのを見るのです。紙といい、字といい明らかに江戸時代の書きものである、あとから作った系図である。ところがずっと古い室町以前の平安時代にさかのぼるころに先祖を結びつけようとする、そういう気持がよく出ておる。そういう源平藤橘になりますと渕源するところは天皇であります。ですから始まりは天皇というふうに書いてあるのが一般の系図のあり方であります。先ほどお話がありましたが、そういうふうなことが日本人の皇室への一体化というものを示しておるので、それがやはりこの問題を考えるのに大事な点ではないかというお説でありますが、こういうふうに尊いものを尊重するということについては、確かにあったと思います。それが皇室へという形で結びつけられてきたのは、やはり先ほどちょっと言いました近世江戸時代のこざかしい人たちの計らいごとであって、あなたのところは大きなうちであって何かいい系図でも作っておかなければいけないんじゃないかというサゼストをいたしまして、そうして商売にいたしまして系図を書いてあげた。そのときにいろいろな口碑をもとにいたしまして、これは平氏の流れだとか、あるいはこれは源氏の流れだとかいうようなことで、いろいろただし合いまして、それでは清和天皇にいくではないか、あるいは桓武天皇にいくではないかということで、系図を作ってあげた。そういう商売が成り立っていたことは、江戸時代の事情を見ますとよくわかるのであります。そういうふうなことであって、やはりこれはほんとうに根っからそういうことを伝えてきたものを系図化したものであるというふうにはとれないで、おせっかいがそういうふうな結果を導いたというようにとれますので、ちょっと話が先ほどの御意見に触れたのでありますが、私の歴史の見方を御理解いただく、つまり内面的に探っていくということについては、そんなようなやり方でもって考えていくものであるということを御理解願いたいと思います。
○眞崎委員 次に私どもの研究し、体験したところでは、日本が明治維新後わずか四十年で、それまでは、日清戦争前までは約三千万の人口、そうして日清戦争までは東洋に日本国があるということを知っておる白人は少い。そういう哀れな日本であったが、わずか四十年足らずの間に世界の三大強国というところまで伸びて行ったところの根本の原因は、いわゆる日本の特異性が非常に国民の団結を促したということにあると私は思います。そうしてなお天は二物を与えずで、この特異性を取り違えて、外来の思想に操縦されたために、ことに第一次大戦後のロシヤ革命以後は非常に破壊的な思想がふえまして、現在日本にはこれがはんらんしておる。そういうわけで、日本精神をかきまぜ、むしろ日本精神を失い、そうして外来思想に操縦されたところに第二次大戦に日本が突入していったところの原因があると私は断定しておるのであります。この点に対しても多くの人の誤解があるように思いますが、先生の御意見はいかがでありますか。
○和歌森公述人 お答えします。明治以来の日本の異常な発展――異常と申してもいいと思いますが、そういう発展に、根源において日本人の民族的エネルギーと申しますか、そういうものが燃え盛ったということは十分認められると思います。それがどういう方向行へったか、あの時代、あの国際社会の中において、日本のあり方から見まして、そのように燃え盛ってああいう国家を作ったということはそれ相応に意義があり、とうといことであったと私は思います。しかしまたその後この大正、昭和という時代において、日本の大衆の経済的な困窮とか、社会不安とかいうものを打開し、解決していく行き方として進んだ方向、民族の行き方は賢明でなかったというふうに思うのであります。そういう時代になおかつ明治のときのりっぱであったイデオロギーや体制を押しかぶせて、そうしてぐんぐん不幸な方向へ行ったということを私たちは認めなくちゃいけないのじゃないか。確かに昭和の戦争はわれわれにとって不幸であったと思うのです。そういう知恵、働きを持って機動力を持っているということが明治の精神の一面であった。全面的に明治を否定するものではありませんが、明治の一面が大正、昭和の時代をうまく解決していくのに制約となった。そういう一面にこの一月十一日というふうなものが、いわば連想的ですが関連があるのじゃないか、そういう点で、素朴な気持で国民感情に従ってこれを設定することは、ごくすなおに考えて何でもないことだと私は思うのでありますが、何かその後に来る影響、関連ということについての不安を感ずるということはやはり申し上げざるを得ないのであります。
○眞崎委員 もう一つは、戦前ならばむしろ国家の統制力をもっとゆるめてよかったろうと思いますが、しかし今日の日本の姿は、やたらに日本を弱体化して破壊せんがためにしたところの新憲法やあるいは占領政策の誤まりのためにこうなった。全く日本の今の姿は、ただ個人の自由のみあって、精神的に一つも指導原理を持たない。そうして自由と言うても、人格の自由と法の自由と取り違えておる、そういう点がありまして、今日は日本の再建を望み、個人の自由、個人の幸福を望むならば、国家と離れては考えられないのでありますから、むしろもう少し国家の統制力を増し、それを増す根本になるところの特異性と指導原理をここに確立すべきである。この意味において私どもは肇国祭と言いたいのですが、そういう日がほしいと思いますが、これに対する御所見を伺いたい。
○和歌森公述人 お答えします。今日の思想的混迷と申しますか、錯雑している状況、これはやはり認めざるを得ないと思います。それだからといって、やはり統制をしようという……。
○眞崎委員 統制じゃない。統制力だ。
○和歌森公述人 統制力を発揮して、それを整理するということじゃないですか。
○眞崎委員 国家と個人は一体なのです。離れて存在しない。今はばらばらになっている。
○和歌森公述人 ということは、みんながお互いに話し合って、国民が納得いくところでそういう秩序をきめる方向へ持っていくようにすべきものなのでありまして、あえて祝日を一日制定することによって、これが効果あるというふうにお考えになることが、おかしいと私は思いますが、もしそういったものが、今の混迷を統一化するといいますか、そういうことに効果があるとすれば、何かそれと伴って、もっと大きな力をいろいろ関連的に発動するようになることを期待されているのじゃないかというふうにさえ、曲解かもしれませんけれども、私には思えるのです。今の特に若い人たちが、何か非常に個人のわがまま勝手ばかりやって、国家というものを意識しないというふうなことをおっしゃいますが、そういう人たちに対する影響は、むしろ中年の旧教育を受けた者の中から出ているというふうに私は思います。今日の汚職や何かの渦中にある連中は、たいてい旧教育を受けた者でありますが、そういう人たちはやはりわれわれが教わってきたような、あの特徴のある教育を受けてきたわけであります。国家主義的という以上にきわどいものを教わってきたわけでありますが、そういうものの中では、やはりほんとうの社会生活のあり方あるいは公共社会に対する個人のあり方といったようなものを、健全な姿では把握することができないできたと思うのです。私たちも実にそういう弱点があると思います。そういった旧教育のあったのが紀元節があった時代なのです。そういう点でも、新しい教育によって社会生活に関する秩序の新しい立て方というものをみんなに探らせようという今日に至りまして、二月十一日を復活させてくるということは、また先ほど言ったような不安を感じさせることになると思います。
○眞崎委員 それでは先生は愛国心というものはどうして起ってくると考えておりますか。われわれは自分がかわいければ社会をかわいがり、国家をかわいがらなければならぬのです。これは一体なものです。それを、愛国心というと、おのれを忘れ、おのれを否定する愛国心というふうに考えるところに、いわゆる左翼学者の非常な誤まりがあると思う。もう一つは侵略ということについて非常な誤解がある。近代戦になってくると、最後はもう精神の持ちようだけになる。昔のように刀で切りまくることが戦争であった時分には、ある程度はっきりしておるが、それでもよく結果を見なければわからぬところがある。そういう点に非常に誤解があるように思います。あまり時間をとるからこれで私の質問をやめますけれども、簡単にお答え願いたい。
○和歌森公述人 お答えします。愛国心と申しますのも、いろいろやはり社会生活の段階に応じて性格が違ってくると思います。私どもは民族同胞愛がイコール愛国心であるというふうに思っております。明治、大正、戦争時代までの愛国心というものは、御承知のような忠君愛国というような形のもので、上下の関係でそれが律せられておりましたが、横に民族同胞の連帯感を強めるもの、民族が国をなして、迷惑をかけないようにみんなが協調するというふうな方向をとるのが愛国心であるべきだと思っております。私日本人にそういう意味の愛国心が非常に欠けていることを痛感したのは、私もその渦中にあった一人ですが、統制経済の中におけるわれわれの生活であって、統制経済そのものが悪かったと言うかもしれませんが、一応ああいう段階において、あのような機構をしいたときに、個人勝手に、わが家だけよければ、わが身内だけよければ、あるいは知った者だけよければという、勝手な経済生活をわれわれはやってしまったわけです。そういう点で国全体が、こういうところを忍ぶためにはこうしなければ生きていけないというところに甘んじて歩調を合せるということをしないで、てんでんばらばらの家族主義、利己主義を発揮していたと思います。そういう点で、家と国との関連は非常に強いようであったが、しかし実質のわれわれの精神生活というものは、愛国の情ではなくて、身勝手であったということを思うのです。それをもっと。パブリックなものに対して個人個人が没入する、そういう気持を持つのが、ほんとうの愛国心の根底じゃないかというふうに私は思っております。
○相川委員長 小川半次君。
○小川(半)委員 和歌森先生にお尋ねいたします。あなたは歴史学者であり民族学者でございますので、これに関連して参考のためにお尋ねしたいのでございますが、あなたのお考えによりまずと、日本人は、この日本の国土に、大体何年ほど前から住んでいたと考えておられますか。
○和歌森公述人 これは私の専門ではございませんけれども、今の考古学の通説から推しまして、六、七千年前から日本列島には人間が住んでいたというふうに理解しております。
○小川(半)委員 六、七千年前からこの日本の国土に日本人が住んでいたとすれば、二千六百年前に一応社会生活を営むような制度ができたということは、さほど不思議でないと思うのですがいかがですか。
○和歌森公述人 もちろん人間のあるところですから、社会生活はありました。
○小川(半)委員 その社会生活を最も合理的に行おうというところに、神武天皇の即位というものがある、要するに大和政朝というものが制定されたのではないかという点について、あなたは疑念を持っておられますか。
○和歌森公述人 ここでは、やはり考古学の業績の方に私たちは教えを受けるわけでありますが、今日の考古学の定説になっておりますことは、縄文式文化という時代が非常に長く続きまして、これが数千年、まあ五千年くらい続いておりまして、この段階でも相当に漸次的進歩というものはあった。それは文化の度合をはかってみて考えられるわけでありますが、しかし非常な顕著な文化――このブロックに大きなすぐれた文化があって、こっちのブロックに貧しい文化があるといったような、そういう比較ができないのです。非常に均等性を持っている。大体同じ水準にあったということです。その文化の状況から逆に推しまして、社会生活の段階もみな同じようなものだったろうということを見るわけです。ということは、後の古墳時代なんかと比べまして、すばらしい文化力も政治力も持った者がどっかにいて、それから、それに押えられるような立場の者、あるいは治められるような立場の者がいたということは考えられない。それが、弥生式文化と申しますのが、西暦紀元前後といってよろしいのですが、そのころから熟して参りました。稲作を中心にした農耕社会の文化です。そういう段階になりますと、今申しましたような開きが出て参ります。このあたりで大体国らしい国というものができたのじゃないか。社会生活というものはもちろん前からありまして、それはお互いにいろいろな話し合いでもって秩序を立てておったのでしょうが、それが特に治める者と治められる者という関係において成立してきたのは、そのころじゃないか。国という言葉はいろいろな意味がありますけれども、要するに自分たちの社会秩序を立てて、明確に他を意識して、ここは自分たちのところというふうに区切った、そういう概念であります。このような国というものができたのは、やはり弥生式文化の発達によってできたのじゃないか。ですから、お説のように六、七千年前から日本人の社会生活のある中において、相当に早く神武天皇のような方がああいう日本書紀に書かれているような形で国家を治めたというふうには、符合しないわけなんです。それで、私のような考えになるわけですし、これはほとんど自分の説というよりも、今日の歴史学者、特に大学なんかにおきます歴史学者の一般の定説だといってよろしいと思うのです。
○小川(半)委員 常識上考えてみますと、六、七千年も前に民族が住んでおって、それが二千六百年前に一応国らしい組織を作り上げるということには、私は大きな疑問はないと思うのです。たとえば、日本から数時間で渡れるところの韓国などは、これは先生も御承知のように、韓国は昭和二十一年に独立したときに、韓国の紀元を明らかにしたでしょう。韓国は四千二百七十九年、これは世界に明らかにしたことですから、間違いのないところだとわれわれは信じておるのですが、日本からわずか数時間――昔のことですから、あるいは小船、板船で行けば二、三十時間もかかったかもわかりませんが、ほとんど同じような民族風土の近いところの韓国において、すでに四千何百年も前に国の紀元というものができているのですから、そのつい隣の日本に六、七千年も前から人類が住んでおって、そうして建国したのは、あなた方のおっしゃるような、われわれの言う二千六百十何年と大きな違いのある時代に建国したものではなくして、やはり二千六百十幾年ということが、最も妥当なもので、またいろいろ深く研究し、考えてくると、やはり神武即位が最も根拠のあるものではないか。われわれは長年にわたっていろいろ調査もし、研究もしてきたのですが、それ以外に根拠というものはないのですがね。あなたも多年研究しておられるわけですが、それでは、二月十一日以外に根拠のある日があったら、教えていただきたいのです。
○和歌森公述人 初めに朝鮮と比べてのお話ですが、情ないことですけれども、確かに古代史を見ますと、中国あるいは朝鮮の方が、日本よりも文化が進んでおりました。そういう支配、被支配の関係なんかも早くできたようであります。それがそうだからといって、日本もそれ相応に古くそういう秩序ができていたはずであるというふうには、どうも考古学の方の傍証は得がたいのではないかと思います。将来弥生式文化に対する研究とか、縄文式文化の末期の研究というものがもっと進めば、あるいは変るかもしれませんが、今のところは、どうもそう申し上げるよりほかにないのです。 それから、いずれにいたしましても、国を建てた日というものを明確に定める根拠は何もないのですね。われわれは二月十一日に対して否定的でありますけれども、またそれにかわるものを持つことはできないわけです。しかし、もし持つとすれば、私はあくまで日本書紀に忠実でなくちゃいかぬ。日本書紀の記事の客観的なことについて忠実であるというよりも、日本書紀の編さん者の思想に忠実でなければならない。その考え方は、春の初めだ。先ほど申しましたように、春の初めの建国、正月の初めの建国だということなので、政治とかいろいろなことに関係のないことになりますけれども、立春というような日が建国の日である、そう考えたことを記念する意味において、二月四日なら四日、そういう日を建国の日と祝うことは、非常にけっこうだと思います。
○小川(半)委員 二月四日は、これは立春とか、そういうことには該当しますけれども、建国の日とするには、あまりに根拠が薄弱じゃございませんですか。二月十一日よりもはるかに根拠が薄弱でしょう。
○和歌森公述人 二月十一日は、文明開化になって、ハイカラな気持で太陽暦に換算しなければならぬということでやったのですが、旧暦でいえば正月の一日、春の初めなんですね。ですからその方がむしろ昔の人の考えたことに近いのです。どうせ二月十一日が客観的な建国の日というように、明確な科学的な説明ができないことなんですから、そういうふうなものを無理にきめるよりも、はっきりしているのはとにかく一月一日に即位した、そういう考えなんですから、それを取り込んで、これは立春の方が民俗的にも、民間行事としても意味がありますから、そういう日をとった方がよいのではないかということなんです。根拠として、私は二月四日あるいは立春の方が有力であると考えます。
○小川(半)委員 それでは話題を別にいたしますが、明治五年に太政官布告で当時の日本の祭日が制定されたわけでございますが、この制定に当りましては、御承知のように、当時明治維新の先覚者が欧米各国などに学びに参りまして、そうして各国から帰国したときに、先進国には国の祭日というものがある、日本も制定しなければならぬ、この際に十一日というものも含まれたわけですが、一部の人は、この明治五年に太政官布告で日本の祭日が制定されたのは、当時の御用学者が軍国主義的な意図でもってこれを制定したものである、こう非常に曲解して唱えている人があるのですね。当時は維新の直後であって、日本が諸外国に向って戦争を吹っかけようなどということはとんでもないことであって、常識上も考えられないことである。制定したのは、先生も御承知のように、先進国を学んできたところの先覚者たちが、先進国にこういうのがあるから日本にも作ろうじゃないかといって作ったものであって、私は絶対に軍国主義に連なるものであるとか、そういうことは信じておらないのですが、こういう点はおそらく先生も学者として良心的に明らかにされるだろうと思うのですが、その御所見を承わりたいのです。
○和歌森公述人 私は明治五年の太政官布告を、そういうふうに、御用学者がやったというような解釈は絶対にいたしません。またそういうことを言ったことはありませんが、それはきっと飛躍的に考えた説ではないかと思いますが、戦争中のことを思い出していると思います。やっぱり相当興奮いたしました熱狂的な民衆が、二月十一日に私的に建国祭をやった、それと紀元節というものをごっちゃにした判断だろうと思います。
○小川(半)委員 私もそのように、これを明治五年に制定されたときは、これは断じて軍国主義的な意図を持って御用学者が作ったものでないという確信を持っております。先生と同様な意見でございます。
○相川委員長 床次君。
○床次委員 和歌森先生にお尋ねいたしたいのですが、主として先ほど公述せられた事柄につきましてお尋ねいたしたいと思います。 第一は各国の祝日についての問題でございますが、調べて参りますと、各国とも建国の祝日に相当する祝日が非常に多い。これはほとんど一般的の現象であろう。次に多いのは歴史的記念日、また国民、民族の生活に密着したところの宗教上の記念日というものをおあげになっておるのでありますが、この建国に関する記念日が多いということ、これはやはり国民生活といたしまして非常に重大なことである。国を愛するという心持、また国家が生存して参りますためにきわめて意義ある日であるために、これが行われておるのだと思うのです。先生もさように御説明になったのですが、特に一例をとってアメリカの例を見ますと、アメリカには国家的行事が多い。またその国家的行事たるや、たとえばリンカーンの日とかワシントンの日とか、あるいは独立記念日あるいはコロンブスの日、休戦記念日あるいは南北戦争当時の追憶の日というようないずれも国家に関係の深いのが多いのでありまして、かかる点を考えますと、国民が建国の日に対する記念日を持ちたいという気持、これを設けたいという気持に対しましては十分先生もこれは了承しておられることと思うのでありますが、さよう解していかがなものでしょうか。
○和歌森公述人 ほかの国の例でも国の独立なりあるいは革命の記念日をいわば建国の日として持っていることは確かであります。それはやはり歴史的な記念日として非常に明確であるということによっていると思います。 それからもう一つは国というものの考え方ですが、今日の日本国というものを戦争前の日本国というものとどれほどに近いものと考えるか、非常に革新的な新しい体制を開いている国なのだ、今はあの延長上にあるものではないというふうに考える、そういう考え方があるのです。私どもはやはりここで思い切って新規まき直しの国を作り上げていくというふうなことを、太平洋戦争が終った直後に深く思ったのであります。ここで思い切って前の線を遮断して、それから新しく作っていかなければならぬ、そういう考え方を持った場合にこの建国という言葉の国という言葉の共通性によって、いわば旧国家にあった建国の記念日というものがそのままこちらに持ち越されていいものかどうか、それがぐじぐじとまた思い切った革新的な気持を濁していくものじゃないか、そういうふうに考えるものでありますから、ただどこの国でも建国記念日を持っているからといって一つの二月十一日という例だけとって、それだけに執着した復活をするということに危険があると思います。
○床次委員 ただいまお述べになりましたところによりましても、私は二つの問題があると思うのです。一つは不明確な日をきめるということがおかしいということと、それから建国の日というものをいかように考えるかという問題、この二つの問題だと思う。まず第一に不明確な日をきめるということに対しての疑念は先ほど来すでにお話がありましたが、これは歴史的の一つの日としてきめようとすると、これは不明確な日だという問題が出てくると思うのです。しかし国を愛する心を養う日にするのだということになりまするならば、これは歴史的事実を断定するわけでもなんでもないのでありまして、そういう記念の日にするのだということ自体の意味があるわけであります。従ってかかる場合は明確、不明瞭という問題は生じないと思うのでありまするが、各国の記念日につきましても、これは宗教上のものその他に関しましては、必ずしも歴史的事実として明確なものが全部というわけではない、日本の現在の祝日にいたしましても、何も歴史的事実そのものを示しておる記念日というわけでもないのでありまして、この点は明確、不明瞭というものは必ずしも記念日を決定するところの、あるいは祝日を決定するところの基本的要件ではないと思うのですが、いかがなものでしょうか。
○和歌森公述人 私たちの大学の創立記念日は十月三十日でありますが、決してこの日に創立されたものじゃない。歴史的な記念日ということの内容ですが、それは客観的にわかりようがなくとも、あるいはわかっても、とにかく自由な設定できめられてきたものであります。大体そういうものだから二月十一日だってけっこうじゃないか、歴史の問題を越えてよろしいじゃないかということになりますけれども、その二月十一日の持ち方というものが大正、昭和の歴史を顧みて非常にいろいろな関連を起す危険性を持っているということだけなのです。この点は再々繰り返しましたので重ねませんが、それじゃ二月十一日をどこまでもいいと思っている国民が一〇〇%近くいるんじゃないか、そういうのを認めたらいいじゃないかとおっしゃるかもしれないけれども、それはやはり一つの信仰現象であるというふうに思います。宗教的な信仰の現象である。それじゃ宗教的な現象であるとして、これを国としてちゃんと認めていいんではないか、公けの祝日にしてよいではないかということになるかもしれませんが、その点では今の憲法に照らして非常に問題があるのじゃないか、それからその信仰というものが、もう少し国民の生活に意味のある信仰になることにならなければ十分じゃないのじゃないか。私の申しますのは民族的な日であるということが非常に重きをなすのでありますが、そういうふうな溶け込むものでなくてはちょっとうっかり取り上げられない。取り上げられないということは、生活に密着しておりますと、政治や教育がどうであろうと、これは相当しんの通ったものになるのですが、何かそこに触れてこないと、上っつらの方からこれをかき回したり、あるいは利用したりするものが出てきた場合に、ふらふらっとそれに引かれていく危険性があるわけです。そういう意味で根深くなってからの問題にしなければいけないのではないかと思います。
○床次委員 不明確なものに対しましてことさら色づけをする、いわゆる信仰的な決定をするということに対して非常に懸念を持たれておる。また第一に過去の紀元節に対する考え方というものを考えておられる、そのために今後の新しい建国の祝日に対して非常に疑念を持っておられるようでありますが、先ほど先生からお話があったのでありますが、祝祭日に関しましては時代に即した考え方をなすべきであるということを先生も主張しておられる。私はこの考え方に対しまして賛成なんです。だから今度新しく設定される祝日に対しましても、現在にふさわしい国民の考え方をもちまして、われわれが民族を愛するという心持ちをこの日において十分涵養する、そういう日にするという意味において設けるという考え方に立ちますならば、決して弊害はない。先生が考えておられるような妙なところに引っ張っていく、あるいは信仰的決定をするというようなことになりますと、これは問題があります。この点を十分注意いたしましたならば差しつかえないのではないかと思うのでありますがいかがでしょうか。
○和歌森公述人 注意しながら復活せよという意見は割にインテリの間にもあります。ところがこれは時代に相応するということで、国民感情はこういうふうに向いておるところだから、現代はこうだというふうに簡単にとっていることからきておるのでしょうが、せっかくの新しい時代を開こうと思って昭和二十年八月以来、みなが決意した、その方向で、今日十分軌道に沿って進んでいないということを痛感するのです。そういう点で今の動向といいますか、時代というよりも動きというものによほど冷徹な目を注がなければいけないではないか。簡単にうわあうわあと世論の向くところがそのまま今日の時代のあり方であるというふうにきめないで、ほんとのわれわれの時代のあり方は、あるいはこれからの社会のあり方は、国のあり方はどうあるべきかということをもう一ぺん八月十五日に返って深思して、顧みて、その体制を確立した中で、この問題を考えた方がいいのではないか、そう思うのです。
○床次委員 いかなる立場に立って考えるかということはおのおの考える人の立場によって決定さるべき問題であります。公述人は公述人の立場として前提として心配しておられる。そうしてその結果きょう公述されたような結果になったように私は考えておるのであります。私の意見をここに申し上げることは時間の関係上省略させていただきまするが、最後にこれは一般的にすでに数回繰り返されておったのでありますが、今回この法案として出ておりますものに対しましては、法文をお読みになるとわかりますが、建国記念日として二月十一日、「建国を記念し、国を愛する心を養う。」という注釈がついておるのであります。われわれはこの日が建国の日そのものであるということを信じてやるというのではなくして、「建国を記念し、国を愛する心を養う。」という国民的祝日にしようとするのであります。従って先ほどもお述べになりましたが、これを教育的なものに結びつけようとするのではないか、あるいは歴史的事実に対しましても、不明確なものをことさら明確にせんとして利用するのではないかというような、いろいろ御懸念がありましたが、歴史的教養の問題に対しましてはその場合においても十分研究する余地があるとお考えでありますれば、研究を続けていただきますが、これは議論になりますことば、すでに先ほど来の議論によっておわかりだと思います。それぞれ両論はあると思うのです。しかしここにおいて取扱おうというのは祝日として取り扱おうというのでありますので、この立場に立って考えますならば、先生が懸念されることも、一つの懸念でありましょうが、全般としては差しつかえないのではないか。なお先生が先ほどおっしゃいましたが、正月元日にすればそれはまた一つの考え方であると言われたのでありますが、これは要するに、いかなる日をもってその日に当てるかという国民生活全体からいろいろ考えられるべきものであるのでありまして、今日祝日としましてふさわしいという日は大部分考えられておりまして、それが納得できるならばそれを出すことが最も有意義であると思うのであります。歴史的問題と教養の問題とを混同しておられるのではないかと思うのでありますが、この点を伺いたいと思います。
○和歌森公述人 国を愛する心を養う、そういう理由でこの問題が提案されているのは、私には非常にふに落ちない。これは先ほども申しましたが、国を愛する心を養うためにはいろいろな方法があり、手段があると思うのであります。どうしてこの建国記念日をここに設定することによってそれをねらわれるのか。これは邪推かもしれませんが、おそらくは二月十一日という日が、この前の時代の終るまでの間の愛国心教育ということと不可分に設けられて祝われていたから、そういうところへの執着なり、連想なりがよみがえって、ここで国を愛する心を養う。そのために建国記念日を二月十一日に設けるという提案になったのではないかと私は解釈する。そういうふうなつながりがあるといたしますと、これを設けることによっていろいろの関連事項というものがまた現われやすい、そういう可能性がある。新しい時代で、民主的な時代であるからこれを制約したり、チェックしたり、あるいは研究は研究、教育は教育でどんどん進められるというふうになるとおっしゃいますけれども、私は今日ただいまの文教に対する考え方や何かを顧みて、どうもその点が保証ができないというふうに思うのです。さしあたりこういう日が建国の日となりますと、歴史教育のたとえば教科書検定などにおきまして、やはりその点について、何らか教えられる子供たちが納得のいくような説明を求めたがるのではないか。そうなるとあまり科学的な考古学的な古代国家の成立過程といったようなものを響いて、それっきりにしてある教科書はまかりならぬということで落されていくというようなことから始まって、現場の先生方も牽制されていき、何か二月十一日に歩調を合せるような歴史教育をやっていくようになるのではないか。そういったようなことから、だんだん国民の意識というものがまた以前のような意識になって、今は出ないかもしれないけれども、これを悪用して妙な方向へ引きずろうという者が出てくる場合に、それに乗りやすくなるというようなことも予想されるのです。
○床次委員 ただいま公述人がいろいろ御心配になってお述べになっておりまするが、提案の趣旨におきましては、この点は非常に違うのでありまして、国を愛する心を養う祝日をきめたいというところに本旨があり、しかも日をきめるにつきましては、最もふさわしい二月十一日にするという結果になっているのだろうと思います。ことさら二月十一日にいたしまして、歴史的事実その他を逆に作り上げて、そうして国民に曲げた教育をしようということは考えていない。この点は一つ十分公述人におきましても了解せられて、今後御批判をされんことを要望いたしまして、私の質問を終ります。
○相川委員長 纐纈さん。
○纐纈委員 和歌森先生も時間がないようですから、きわめて簡単にいたします。 先ほど先生の公述なさいました点に、建国の記念日を、思いつきで早急にすることは危険だ、こういうふうに申されておるわけでありまするが、もう先生も御承知のように、二十三年に祝日がきまる時分に、ほとんど半年を費してこの問題の論点となったものは、建国記念日の二月十一日であったのでございます。しかもその問題が大体委員会において多数の人が賛成だということであったのでありますけれども、バンス宗教課長が、最後にはアメリカの占領軍の命令だということで、われわれが占領している間は絶対に二月十一日を祝日にすることはやめるということで、結局委員会におきましては、これをやむなく留保にしたわけでございます。従いまして国会といたしましては、独立した後はそちらの自由だということであったにもかかわりませず、独立後いまだにこの問題が提案されなかった。しかも一方当時から報道機関においては、いわゆる世論調査をいたしまして、八割以上の支持があり、また二月十一日においてもそういうことがありまして、引き続きわれわれもこの問題については十分の研究をしつつ、しかも国民の動向、世論を尊重しつつ、ここに提出したわけでありまするが、これが思いつきで、しかも急いでやるということについては、先生はどういう観点からそれをそうおっしゃっておりまするか。
○和歌森公述人 申し上げますが、昭和二十一年――二十年の後期からでよろしいのですが、その段階からわれわれは新出発したという自覚を持っております。それでいろいろなことを社会生活についてみんな考え合い、教育の方でもそういうことをやって参りましたのですが、そういう教育によって養成された人々が、この日本の社会、国家の中堅として働けるようになった、そういう段階においてかなり冷静に建国の問題を判断できるのではないか。今非常に混迷しておりまして、非常に旧国家的な考え方というものを身につけている人が一ぱいいるし、私なんかにも半分はそれがあるのですが、そういうものやら、それから新しく切りかわった考えに徹底していこうという人もおって、非常に錯雑しておる。もう少し国の方向というものがはっきりと進路をきめるようになってからでおそくないというふうに思うのです。それで早急には反対だということを申し上げておるのです。
○纐纈委員 大体早急だと御判断になった点につきましてはわかりまするが、同時に世論はきわめて浅薄だということをおっしゃっておるわけでありますが、この世論が浅薄だという点についての先生の御意見をお伺いいたします。
○和歌森公述人 たとえばラジオ東京でしたか、文化放送で、この二月の初めにこの問題がやかましかったころに、子供やら、お年寄りやらさまざまの階層、職種の人を相手にアンケートを求めておりました。マイクロホンを突きつけながら、そこで答えていることがまことにしっかりしていない、あやふやなものであって、ほんとうを言うと情なかったと思うのです。そういうふうな人の中には、ばく然と記念日がほしいというようなことを言っている者もあったし、それからこの問題で私はどういう因縁か、今までたびたび発表させられたり、言わせられたりしておりますが、そのたびごとに、そういう前触れがあるとよく電話がかかってくる。これは個人的なことを申し上げて済みませんが、電話がかかってきて、とにかく休みが多くなることだからあまり反対して下さるなと言われる方が多いのです。あとは熱烈な愛国者の脅迫状が多いのですが、そういうものを受け取ってみますと、どうも世論というものの中の種類はさまざまであって、ただ結論として二月十一日を国民の建国日にしたらどうかということの声だけを集めてみても、いろいろな内容があるのではないか。だからその点もう少し奥底の方から見きわめることも必要ではないかと考えておるわけであります。
○纐纈委員 世論調査、もちろんアンケート等につきましては、先生たちもそういった感じを抱かれましょうし、私たちもそういった点については多少先生と同感の点がないでもないのでありますが、私どもがいわゆる世論調査といって採用いたしておりますものは、この層化無作為多段階抽出法という世界全国に行われておりまする世論調査の方法によっておるわけでありまして、これはおそらく大体において、国民の動向を知ることができるものである、しかもきわめて簡単に浅薄だという考えをおっしゃるかもしれませんが、むしろそれこそ国民の純真な考え方がまじっておりまして、こういったことこそ国民感情であり、民主政治を行うためにはこの国民感情というものを尊重していくべきものであって、そうした形において調査した世論はあなた方のお考えに沿わないから浅薄だというようなお考えで見ておられることは、私は誤まりではないかと思うのですが、それはどうですか。
○和歌森公述人 今最後におっしゃったような、そういう意味で信用しないというわけではありません、世論調査を。ただたとえば世論調査に答えられる方が、私の説であるならば、立春とか二月四日とかいうものをどう考えられるか、そういうことについてもいろいろ同じ歴史において判断された答えでもなさそうに思うので、もう少しいろいろな考え方を自由に消化した上で世論調査を求めた方が、より的確性が強いのではないかというだけです。
○纐纈委員 なお先生は教育上や政治的な観点からこういうことをきめるのは反対だとおっしゃっておりますが、これは実はあちこちから聞いた例でありますが、日本歴史は御承知のように小中学校では推古天皇以前のことはほとんどやっておりません。どうも私ども子供の話を聞きますと、そういう学校で全然扱っていない歴史の場合に、学校の先生たちは紀元節なんというものは全くでたらめだ、こんなものは根拠はないのだということを相当教えられているのです。これはどこから指令が出たか、あるいは先生が一人でお考えになっているか知りませんが、そういうことこそ私はかえってこれを政治的に扱っているのじゃないかという感じがするのですが、それはどうですか。
○和歌森公述人 それは政治的に扱っていると私は考えません。学問的に扱っているにすぎないのじゃないかと思います。それから教科書なんかでも、私の場合でしたら小さい活字になりましたが、神武天皇がこうこうであったと日本書記では伝えているというようなことを言っておりますし、話のついでにこういう紀元節の呼び声がありますと、これは前にあったものであって、実はこういう根拠に基いている、日本書紀にこう書いてあるからどうだと説明なさっている先生方も非常に多いと思います。
○纐纈委員 学問的にとおっしゃるのでありますが、少くとも中小学校で取り上げた問題について、そうした考え方で、日本の歴史をことさら積極的にあいまいであるとか、うそであるというようなことを言われること、私は少し行き過ぎじゃないかと思うのです。そういう点は私も教育上において相当考えなければならないことじゃないかというふうに見ているわけでありますが、先生のお時間が過ぎたようでありますから、それではこの程度で簡単に質問を終ります。
○相川委員長 和歌森先生に御質問ございませんか。――それでは御時間の関係がありますから、けっこうでございます。ありがとうございました。 それでは淡谷悠藏君。
○淡谷委員 これは森先生と小野先生にお尋ね申し上げたいのです。さっき神武東征論について侵略ではないというお話を両先生から伺いましたが、今度の日本の敗戦を招いた満州事変、あるいは大東亜戦争等に対するあなた方の歴史学の立場から見た戦争の性格ですが、これもやはり神武東征と同じように征伐ではなくて、単に満州あるいは中国へ行ったというふうにお考えになっているかどうか、その点を一つ伺いたい。
○森公述人 先ほど神武東征は侵略主義、征服講義ではないと私は考えるということを申しましたのは、これは私が勝手に申し上げるのじゃなく、日本書紀をよく読んでみますとそういうふうになっております、先ほども申しましたように、記紀の神武天皇記には「言向平和」、つまり「ことむけやわし」というようなことが数個所に書いてあります。それから先ほど言いました「鋒刃の威をからず」、これが神武天皇のほんとうのお気持であったろうと考える。ただ実際においてはやはり武器を使い、あるいは兵力を用いられた例がございます。しかしながら、たとえば大和で一番皇軍をてこずらせましたのは八十梟だと思いますが、八十梟などに対する態度を見ておりましても、四、五回にわたって軍使と申しますか、何と申しますか、使いをやっておられて、よく説いておられる。大体普通の戦争とか戦いの概念常識から申しますと、敵の虚をついて、何でもいいからやっつけて勝つというのが、普通の孫子なんかの説いておる戦法でございますが、そういったようなことをせずして、ああいう頑強な敵に対しても数回の使者を差し向けて、いわゆることむけやわしをやっておられる。それでもなおかつどうしても妨害してくる。こうなると、いわゆる今で言う自衛権であって、これはやっぱり自衛ということはやむを得ない。その証拠には、戦い済んでみると、あの頑強に抵抗した弟猾らをすぐ抜擢しておられる。そういう点から考えてみまして、日本書紀をよく読んでみると、神武天皇のお心が平和主義にあったということは大体言い得るだろうと思います。 それから今の、最近の日清、日露、大東亜戦争、そういうものをどう見るかという問題は、これはなかなか重大な問題でございますが、大体明治以降の国策と申しますか、政策の根本と申しますか、何しろああいった長い間の徳川泰平の後に、急に目がさめてみると、ヨーロッパ諸国が盛んにアジア方面を侵略しておったというような環境に日本が立たされておったわけでございますから、あの当時は好むと好まざるとにかかわらず、ああいった、何と申しますか、富国強兵とでも申しますか、ああいったような政策をとったのだと思いますが、そういう強兵策と申しますか、こういうことが教育の方面あるいはその他の方面にも盛んに用いられて、そうして今日言う軍国主義あるいは侵略主義的な考え方がだいぶん強くなってきたと思う。しかしながらこれは日本の国体の根本の精神から考えますと、大いに再検討して、私どもはそういう意味におきまして、この紀元節あるいは建国記念日というものには、本来の日本の建国の精神であるところの平和精神を持った新しい意味の、むしろ積極的な――先ほど和歌森先生は二月十一日のあり方が問題だと言われましたけれども、その点については私も同感でございます。昔のような紀元節ではなくて、そういったようなわれわれの歴史の示します平和精神を持った新しい意味の建国記念日を設くべきじゃなかろうか、こう考えております。
○淡谷委員 実はもっと率直に、少し無理かもしれませんが、満州事変並びに大東亜戦争のあり方が、あなた方が考えておる日本書紀あたりの思想から見て、正しかったか、正しくなかったか、この一点を的確にお聞きしたい。
○森公述人 日露戦争までの場合と今度の大東亜戦争の場合は多少違うと思います。これはあの当時の、大東亜戦争の開戦直前の状況などを見ますと、日本としてもずいぶんアメリカあたりの圧迫を受けておりますし、ずいぶんやむにやまれぬこともあったろうと考えます。しかしながら、一方においてこれは言葉の表現で非常にデリケートな問題と思いますが、日本の国力が貧弱であったために、南方あたりを軍事上必要であったということは、軍部の人あたりからいうと当然であったかもしれない。しかしこれを侵略という言葉をもって言うならば、あるいは侵略ということも言い得るかと思うのであります。しかし大東亜戦争でわれわれがこういうひどい目にあったということは、日本が大きな誤まりを侵したということなんです。それでありまするから、この誤まりを再びしてはいけない、そうするためには、日本のほんとうの建国の精神がどこにあるかというようなこと、これは歴史学上、歴史教育の問題でございまするが、それを明らかにして、そういう建国の平和精神を回顧する、そうして新しい人類の先頭に立って、原水爆もやめさせ、そうして平和世界を顕現するといったような新しい意味を持った建国記念日の再興ということは必要ではないかと思うのです。そこで大東亜戦争の場合は、もし南方方面に出たことを侵略と言うならば、あれは侵略と言えるかもしれません。しかし私の信ずるところでは、この建国の精神である平和精神には即してないと思います。
○淡谷委員 そこで一つお聞きしたいのですが、われわれ古事記を見ましても、日本書紀を見ましても、あの満州事変並びに大東亜戦争には非常に利用か悪用されているのです。「撃ちてしやまむ」という言葉はまさに古事記にはたくさん出てきている。「伏はぬ人等を退撥げたまひて」という言葉があるのですが、非常に平和主義に立っておるという古事記あるいは日本書紀が、ああいうふうに軍部に利用、悪用された場合、一体国学者のあなた方はどういう態度をとられたのか。あれを推進されたのか。あのころはまだ生まれておらないとは言い切れないと思いますから、もう一つどのような抵抗をされたかということをお聞きしたいと思います。
○森公述人 なるほどただいま御質問がありましたように、「撃ちてしやまむ」という言葉はございます。これは御製として出ております。これについて私が申し上げたいことは、「撃ちてしやまむ」ということはかなり徹底した表現なんです。ところがごくわかりやすい、世俗の言葉でこれをたとえて申し上げますれば、容易に怒らない人がどうしても相手の不正に対して沈黙することができなくて、そうして沈黙を破って敢然として立ったときの非常に強い激しい言葉です。私はそういったようなたとえ話が神武天皇の場合にも当てはまるのじゃないかと思います。さっき申しましたように、日向をお立ちになりますときに、すでに将士に訓辞をして、自分は武力を用いるのではない、「坐ながら天下を平けむ」のだということをはっきり訓辞をされております。けれども、そういう平和主義であっても、相手がどうしてもそれを妨害して、どうしてもやめないという場合には、こらえこらえて発動する場合は、これはやはり少し激しくなるのじゃないか、そういうようなことが「撃ちてしやまむ」となっているのではないかと思う。それからただいまおしかりをいただいて恐縮でございますが、もちろん私は大東亜戦争のときは生まれておりましたので、お答えいたします。実は有名な大久保という大佐、あの当時は少佐でしたが、おそらく御存じと思いますが、陸軍省の新聞班長をしておられまして、そのときに私のところに参りまして、この建国の精神を、あの当時は陸軍の将校の機関誌に偕行社記事というものがございますが、あれに書いてくれということでございまして、私はそういった意味を書いたのです。そうしたところが、またやって参りまして――これは大久保氏は現存しておりますから、お聞きになるとよくわかりますが、陸軍省で編集会議をやった結果、ああいうなまぬるいことじゃいかぬ。私は日本の建国の精神は平和にあるということを書いたんだ。そうしたところが、この戦意をあおらなければならぬときに、ああいう国体の精神が平和だということを書かれちゃ困る、もっと激しく書いてくれということを言うてきましたから、そこで私は今あなたにお答えしたことと同じことを言ったのです。この平和主義、あくまでも隠忍自重する、そうして相手の不正に対してのみ発動する、そういったことを書かなければ書けないと言ったことがあるのですが、何しろあの当時は銀座のまん中にアメリカの国旗を置いて踏ませるような世の中ですから、まことにお恥かしいことですが、力及ばずして大勢に抗することができなかった。そういうわけで、決して私ども眠っておったわけじゃございません。まことに力のなかったことを恥かしいと思うほかありませんが、努力はいたしたつもりでございます。
○淡谷委員 私は当時の軍部の言っておることを思い起してみますと、さっきあなたの古事記並びに日本書紀の説明あるいは平和に対する考え方と同じことを言っておるのです。まず向うを説き伏せて、御稜威のもとに従わせるのだといっては蒋介石に再三ことむけをした。向うがきかなければ蒋介石相手にせずというふうになって、最後に払い討つ態度に出た。そういうふうに利用され、悪用されるようなものが古事記あるいは日本書記を貫く一つの精神の中にあるようにわれわれは考える。少くとも全然利用価値のないものは利用するはずがないと思う。あれは日本がああいうふうな侵略的な戦争を起す場合に非常にいい言いわけの言葉を中に含んでおるじゃないかと思います。どうもそういうふうに見える。その点はどうですか。たとえば「八紘を掩ひて宇と為むこと、亦可からずや」というようなことも非常に喜んで使った。そうしますと、同じ内容を持ったものを、全然環境の違った今日、政治情勢も国際情勢も変ってきた今日もう一ぺん復興するということは、何か私はそこに納得のできない通行したものを感ずるんですが、その点はどうでしょうか。
○森公述人 おそらくただいまの御質問を簡単に申しますと、ああいう八紘一宇の精神が盛んに利用されたといったようなものだと思いますが、先ほど小野先生のお話にもございましたように、あの八紘一宇の詔勅というものをすなおに正しく読んでみると、あれは決してそういったような武力をもって四海を統一するといったようなものではございません。ただいまの御質問はそういう危険性を持ったところがあるということでございました。それはなるほど人間が理屈をつけてあくまでそれを曲げて悪用でもしようということになると、どろぼうでも三分の理屈はあるのですから、八紘一宇でも侵略主義の弁護にしようとすればそれはできないことはないと思う。しかしながらそういったようなことは今日ではもう許さぬと思う。ただいまの御質問の中には、そういう危険性のあるものをまたやるということは、何かそこに含みがあるじゃないか、何か下心があるじゃないかという御質問でございますが、それは少しお考え過ぎではないかと思う。現に私一個の例を考えてみましても、私は建国の記念日というものはどうしても必要だと思いますが、年来建国記念日の必要を力唱しておりまする私が、かりにあなたが今おっしゃったようなことで、建国の精神あるいは曲げた八紘一宇の精神を大いにお説きになれば私はまっこうから反対をいたします。そこで先ほど私が申しましたほんとうの古事記、日本書紀に示された平和の精神を盛り込んだ、もっと積極的な新しい意味を持った建国記念日と申しますか、紀元節と申しますか、それを持つ必要があると思う。私は日本の民族というものはそんなばかじゃないと思う。御心配になるような何か含みがあるとか、またもう一度軍国主義をやるなんてそんなあほなことはできるわけはないと思う。またそんなことを言う必要もないでしょうし、現にそういうことは日本の国力からいっても許さぬと思う。米ソを向うに回して軍国主義をもう一ぺん復活するというならば、水爆の競争でもしなければならぬでしょうが、そんなことはやろうといってもできはしないし、私はそういうことは国民の良識が許さないと思う。
○淡谷委員 あなたがまっこうから反対されると申しましても、将来のことはとにかく過去においてあなたのようなまじめな国学者が幾ら日本の平和精神を説いてやってもがんとしてきかなかった軍部というものがある。これは現実の情勢がもはや憲法のワク内ではちょっと認めがたいような自衛軍備というものがどんどんできている。あるいはまた当時紀元節と建国祭を一しょにして蠢動した右翼の勢力もますます出てきているのです。うわさに聞きますと、今度の国会では、おそらく紀元節は通るまい、しかし継続審議になって、来年の紀元節は堂々と建国祭をやろうということを豪語している団体もあるのです。その場合に、あなた方のような平和な学者の皆さんがまっ向から反対されましても、時の勢いというものはどうしてもとどめ得ないのです。現在の世論と申しますけれども、世論を代表する人々の数人はいざ知らず、多くの世論と称せられる人々の中には、あの戦争当時への何とも言えない郷愁を感じて、アメリカに負けたんだが、講和が成立したんだから、ここでもう一ぺん昔のような日本にしたいというなつかしいメロディや調子が勃興してきている一つの反動的な時代だと思います。この場合にあなた方の御努力が全うに報いられて、古き日本の団体が日本書紀あるいは古事記により再生されるという見通しはどうしてもつかない、むしろ間違って教えられたあの軍国主義時代の観念、あるいは日本書紀、古事記の観念というものがますますはびこって、逆行を早めるというふうに――神経衰弱ではありませんよ、私は本来神経が鈍い方で、ノイローゼなんかにはなりませんから御心配は要りませんが、正確に考えてこの危惧を感ずる。もうすでに一回失敗している。その失敗した同じ材料でもってもう一ぺんやってみるほど日本民族はばかでないだろうと思う。もう試験済みなんです。日本書紀、古事記というものを明治政府が打ち出した場合、学者の反対にもかかわらず、軍部に悪用されて征服の道具になったという一つの事実がある。そういうあやまちをもう一ぺん繰り返すような危険をみすみす見過すほど日本民族はおろかでないと思いますが、その点はいかがですか。
○森公述人 ただいまのお説は一応ごもっともでございますが、お考えの根本においてちょっと違うと思います。私は、教育の力というものを非常に強く見ておる。教育の力というものは、ある場合には剣よりも強い。従って、今お話がございましたように、ああいう大きなあやまちを犯したのは、結局明治以来のあの軍国主義的教育の欠陥だと思います。とにかくお互いに――あなたもそうと思いまするが、私ども明治、大正の教育を受けた者が、われわれの受けた教育を反省してみるとわかる。学校に行って歴史を習いますと、さあ応仁の乱だ、何々の乱だ、何何の乱だと戦争の歴史ばかり習った。それからまた先生が力説、強調されましたのは武勇伝です。壇の浦の戦いとか、扇の的とか、宇治川の先陣争いとか、そういうような武勇伝的な、軍国主義的な教育をわれわれは受けてきたのです。そういう教育の力が非常に大きいのです。第二の天性ともなるような、明治以降の誤まった軍国主義的な教育の欠陥が、今度のような大けがをさしたもとなんです。しかるに、翻って今日では、教育基本法というものもちやんとございまして、決してかつての明治、大正のような軍国主義的な教出目をやる人もなければ、できもしないと思うのです。ですから、小さいときから平和主義的な教育をずっとやって参りまするならば、今御心配がありましたような、古事記を悪用し、日本書紀を悪用するようなことはますあるまいと思うのです。ですから、今おっしゃった、前に一ぺん試験済みだからまたそのあやまちを繰り返す必要はない、その通りであります。そういう力を持っている教育をしっかりさせて、そうして日本がいかに平和な国柄であるかということをしっかり教え込んでいけば、そういう子供がおとなになってから、あるいはあなた方が戦争をせよとおっしゃっても、子供が反対するでしょう。ですから、前のあやまちの例をもって今後を推すということは論理として必ずしも正しくないと考えます。
○淡谷委員 あなたの否定される明治時代の教育の基本をなしたものがやはりこの日本主義的な古事記、日本書紀の根本精神であった。それなればこそあの紀元節を作り、天長節を作って、皇室中心主義のあなたに言わせますと、どうもやむを得なかったという日清戦争、日露戦争を起した。私たちは決してやむを得ないで起ったとは思っておりませんが、それの根本をなしたものがやはり古事記であり、日本書紀であり、紀元節の思想であった。現在はそういう危険性がないといいますが、あの平和憲法の裏を流れる大きなマスコミュニケーションは、ある場合は軍艦マーチをとどろかせ、ある場合は防衛庁の長官が建国祭の祭の先頭に立って日章旗をふるい、あるいはチャンバラ映画が戦争映画に変ってきて、「明治天皇と日露大戦争」となってきている。あの平和憲法をむしろ否定して、もう一ぺんなつかしい昔の帝国憲法に返そうという企てさえ起ってきた今日、その役に立った古事記、日本書紀を中心とした建国祭を復興させるということは、あなたは不安を感じないかもしれませんが、われわれは非常に大きな不安を感ずる。もう明治の時代とはすべてが変ってきている。特にあの侵略戦争によって大きな経験を積んだので、日本の国祭日を定めるならば、平和を第一としたあの新しい憲法に基いたさっぱりとした記念日を作るようなお考えはございませんか。何も今から二千六百年だの二千五百年だのと言って古きを競う必要はない。国家というものは骨董ではない。古きをもってたっとからず、新らしく発展する勢いがなければ歴史は必要ない。他の国の国祭記念日を見ましても、こんな古いものを出したのは李承晩くらいである。あとはみんな新しい革命記念日をもって記念の日としている。先生のさっきの歴史なんかどうでもよいという説もある意味では感心いたしましたが、古きをたっとぶこともほんとうは大事でしょうが、骨董観念をやめて、新しく生れ変った日本として新しい祭日を設定されたらどうですか。国祭日を紀元節の昔に返すというようなことをやったならば、それに対しての連想、それに対しての思い出というものはあの戦争に結びつかざるを得ない。あなたは結びつかぬと言っても、みんな結びついている。しかもみんな敗戦を残念がるようなあの明治、大正、昭和を通じての長い間の軍国主義的な教育の跡はぬぐい去られていない。もう少し平和に徹してからでもおそくないと思う。その点はどうですか。
○森公述人 ただいまああいう古いものはやめてもっと新しく生れ変ったらどうかということでありましたが、私は古いとか新しいとかいう問題ではないと思う。道理にかなっているか、正しいか正しくないか、あるいは道に即しているかどうかということが問題だと思うのであります。 〔委員長退席、床次委員長代理着 席〕 それからまたもう一つは、私どもがとにかく日本に生まれたということは事実なんです。日本人として日本に生まれたということは事実なんですから、かびがはえているから捨ててしまえというようなことはあまりに惜しいと思う。さっき申しましたように、私ども歴史学をやっておって一番感じますことは、ものの続くということなんです。親孝行を、感激して三日間やったって意味はないのです。ものが続くというところに価値があるのでありまして、日本の国体が、この二千数百年にわたって天皇と国民の対立もなく仲よく続いてきておる。歴史は厳粛で、続くのには続く理由がある。あんなものはかびがはえたから捨ててしまえといって簡単に捨て去るには、これはあまりに惜しいと思う。ですから、そういう意味において私どもが考えなければならぬのは、古いとか新しいとかいうこともありましょうが、それはむしろ第二義的であって、その考え方が正しいか正しくないかということが根本になると思うのです。八紘一宇の詔勅を見ましても、「夫れ大人の制を立つ、義必ず時に随ふ。」これは時勢に順応したものをやるということで立法の根本が示されておると思うのです。その次には「正を養ひたまひし心を弘むべし。」ということが御承知のようにありまして、すべての根幹となるものは正しきを養うことだ。正を広めることだ。世界中はみんなが正しい人間になればみな一軒の家のように仲よくなる。それが八紘一宇なんですから、そういうことがあの古い時代に示されておるということは、もうわれわれが言おうとして言い得ないようなことをああいう古い時代に正史日本書紀において示されておる。このとうといものを持っている私どもが、そういうとうといものまでも捨ててしまうということはまことに私は惜しいことだと思う。ただ問題は、今御心配になっておりますのは、繰返すことになりますが、私は教育だと思う。これを正しく持っていくか、あるいはこの間までのような誤まった方面に持っていくかということは教育でございますから、私は教育の力の偉大なることを信じておるものでございます。そういうような意味において御心配のようなことはないのではないかと思います。
○淡谷委員 これは捨て去っても捨て去らなくても歴史はあるから仕方がない。これは歴史としたらかまわない。また伝説としたらかまわない。いいものはいい。しかしいいものの中にはあながち古事記、日本書紀に頼らなくても新しい時代の新しい倫理、新しい道徳というものははっきりあると思う。あなたは非常に古いものを美しいと感ずるでしょうが、昔の変な着物をぬいで洋服を着ており、くつをはいておると同じように、思想も新しい時代に求めて幾らでも日本の民心を指導すべきものが私はあると思う。今の若い人たちに日本書紀の御詔勅を持っていって八紘をもっていえとなす、またよからずやと言ってもわかりません。この間もある雑誌に出ておりましたが、「てんてるだいじん」とは何だと聞いている。天照大神です。そこらまで新しい時代が変ってきている。「きげんぶし」とはどういう節かと聞いている人がある。この非常に激変のときに、今あなたが非常に心配されて日本書紀や古事記を持ち出しても若い人たちは、これについていかない。また教育もできやしません。また古いものがよいものであれば日本書紀や厳然とした古事記はよろしいと思う。しかしこの古事記の中の言葉を一々子供に教えられますか。八咫烏が来たとか金の鳶が飛んだとかあるいは何とかという女が便所にしゃがんでおったら下から矢が当ったとかいう話をどうしてまじめに国民精神作興のために使われますか。これは伝説や昔話ならよろしい。けれども新しい国祭日をきめる上においてこういうものをほじくり返さなければ日本の民心作興はできないでしょうか。私はもう少し魅力のある、はつらつとした科学的な教育の根本精神があってもいいと思う。その点どうでしょう。
○森公述人 新しい科学的の必要なこと、これは私も同感でございます。しかし決して古いものも私は正しいものであればじゃまにはならぬと思う。ただいまのこういう世の中になって古事記なんかの古いことを言ったって子供たちは聞きはせぬ、それがさっき私の申しました教育の偉大なるところです。終戦後はそういうような教育をしておったのですから、まるで人間が生まれかわったようになってしまったのです。そこが私の言う教育の力の偉大なるところです。ですから何も古事記、日本書紀を持ち出すかといって八咫烏がどうとかそうこまかいことを私は教える必要はちっともないと思う。一番大事な建国の国柄とかあるいは建国の精神とか、こういう新しい古いでなく、ものの道理というものは千古不易であります。それですから古事記、日本書紀に書いてあるあの真理は、何も八咫烏なんかこまかく教える必要ない。ごく大まかな大事なところだけを、こういうふうになっておるのだ、こういうふうに書いてあるのだということを教えることは今日の科学教育と少しも矛盾しないと思う。むしろ科学教育の裏づけにこそなれ、じゃまにはならぬと思う。ですからそういう点においても、これはあまりお考え過ぎじゃないかと思いますがいかがですか。
○淡谷委員 私は逆にあなたにそれくらいの意見があるならば、古事記並びに日本書紀の新しい科学的根拠をお書きになって、ゆっくり読ましていただきたい。今ここで古事記、日本書紀の科学的分析を言ってもしょうがない。しかし、やはり新しい時代には新しいものがあってよいと思う。千古不易とか万古不易だとか申しますけれども、これは人間に目が二つ、鼻が一つ、口が一つあって変っていないが、持っているものは変っていく。自然的条件は変らぬといいますが、自然を見る目は変っていく。自然現象の見方が変ってきておる。皇統連綿といったって、系図の上から見たらまっすぐでしょう。けれども、この皇室が政治の上にどういう実権を持ったかという姿を見るならば、絶えず変転目まぐるしかった。皇室が面接日本の政治を指導した年代というものは非常に短かい。それをただ続いたから万古不易と考えるならば、これは明治憲法の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」あの神秘思想、あの不可知論、あれがもう一ぺんよみがえってきて、やがて民主主義を殺すようなことになる。私は明治政府の持ち出した紀元節という観念、あるいは日本書紀あるいは古事記といったような復古思想は、明らかに明治憲法の思想だと思う。国家主義、超国家主義、さらに皇室中心主義の侵略思想に利用されたと思う。これはあなたが何と強弁されても、こういうふうな国民的な不安がつきまとって離れない。あなたのように古事記と日本書紀に埋もれて暮した人はそうでないかもしれませんが、少くとも新しい時代の空気を吸った者は、もう一ぺん古い亡霊が立ち上ったような逆行の形には大へんに不安を感じておるのです。私はここでお聞きしたいのですが、国民の世論がまとまったといっておりますけれども、われわれ社会党も、少くとも三分の一以上の国民の世論を代表しておるはずです。国の祝祭日というものは国民が一致して定めるのはよろしいけれども、少くとも三分の一以上の者は反対しておる。あるいは多数決によって強行してでも定むべきものであるとお考えになっておるかどうか。まつろわぬ者どもは撃ちてしやまんという態度でわれわれにも向うのかどうか。それでよろしいのかどうか。それをお聞きしたい。
○森公述人 今、二つのことがあったと思いますから、まず前段の問題についてお答えいたしたいと思います。たとえば古い古事記、日本書紀でも、最近、民主主義の今日になりましてから私どもがまた見てみますと――私はここが学問というものはきわまりがないと思いますが、昔私どもの見ておったと違うような意味で非常に感激し、あるいは教えられたことがあるのです。たとえば民主主義というものは、申すまでもなくこれは国民、人民中心でございますが、今まで私どもが何十年と日本書紀を見ておって気がつかぬことを発見するのであります。 〔床次委員長代理退席、委員長着席〕 その具体的な一例を申し上げますと、日本書紀の巻三十、持統天皇――この持統天皇は御在位が短かいので記事も薄いのですが、そこをごらんになりますと、限りなきおがみということが持統天皇記の中に四、五カ所出て参ります。これは何かというと、これこそ全く今日でいう民主主義だと思う。「かぎりなきおがみ」これは漢字で「無遮大会」と当ててございますが、だれでも来てよいということです。国家の祝日とか、あるいは皇太子――は春宮と申しておりますが、この春宮の誕生日を祝うために無遮大会が行われた。「無遮」というのは限りがないというのでありまして、地位も身分も位も職業も何にも問わない。ルンペンであろうと何であろうと、ともかく希望する人は来て限りがない、無遮大会。そうして天皇と皇太子と並んでおられまして限りなきおがみとおがんでおられる。私がなぜこういうことを申すかと申しますと、ただいま御質問の前段にお答えするわけですが、こういうかつて私どもの気がつかなかったようなことが、今度の終戦後のこういう民主主義の世の中になって――私どももあなたのおっしゃるように生まれかわったつもりをしておるのです。そこで新しく生まれかわったような気持でまた日本書紀を開いてみると、かつて気がつかなかったようなそういうことがあるのです。これは事実なのです。これは私の体験です。それですからむやみにこれを悪用される危険があるからといって、砂を捨てようとして玉まで捨てる必要はないと思う。私らの捨てるのは砂は捨てなければならぬ。砂を捨てようとして玉まで捨てる必要はない。ですからそういう意味において、新しき立場から見ればこれこそほんとうの平和主義であり、民主主義でございまして、軍国主義とか侵略主義というのは、およそ正しき姿から見た古事記、日本書紀の精神にそむいておると思う。それをさっき申しましたように、あなたも認めておられるように非常に教育の力は偉大です。わずか十年くらいで子供を生まれかわらせるように教育の力は偉大ですから、そこでりっぱな教育をしていくならば、それほどの御心配はないのじゃないかというような考えを持っておるのです。 それから後段の世論の問題でございます。私は世論というものは、先ほど来いろいろ話が出まして、和歌森先生のところにも電話がかかってきて一日休みがふえるから賛成だ、そういう説があったということもございますが、それは分析してみるといろいろございましょう。一方には大衆は愚なりという言葉もございますが、しかし私は物言わざる大衆の気持というものは相当きびしいものであり、また賢明なものだと思うのです。ですからそういう意味におきまして、やはり世論というものは、すなおにこれは尊重すべきものであると私は思うのです。ですから、どうかそういう意味において、ただいまの御質問の中には私の共鳴する点もだんだんございました。また少しお考え過ぎではないかと思われる点もございました。以上をもってお答えといたします。
○淡谷委員 世論の方向が正しく、また物言わざる民の声を聞くような気持はよろしいのですが、世の中には今あなたのお聞きのように、赤尾敏というかっての右翼の大幹部の撃ちてしやまんというのはその通りだという世論もある。国会の中に来てあんな世論もあるのです。あなたはないと言いますが、あなたは現実の目で見られ、現実の耳で聞かれて、ああいうふうな過激なかつての戦争を推進したような右翼団体が、この紀元節復興、建国祭復興に便乗せんとする世論の例を見られたと思う。さっき和歌森先生が言われた通り、脅迫状が舞い込むと言っておられる。その間にあなたがちっとも危惧を感じないというのであるならば、私はあなたの感覚を疑わざるを得ない。教育は大事です。それならばせっかく出発した戦後の平和教育の姿、新しい革新的な教育の姿を、あなたはこの建国祭復興によって、もう一ペン復古思想に基いた、日本の神ながらの精神に基いた皇室中心の教育方針に改めようというところに、祝祭日設定賛成の御意思があるのでございますか。日本の現在の教育制度を基本的にくつがえして、もう一ぺん新しく生まれた日本番組の精神に基いた神ながらの精神、皇室中心、連綿たる日本の皇室のありがたさを教え込もうとするところに、祝祭日の復興の御意思がおありになるのですか。
○森公述人 先ほどちょっと申しましたが、神武天皇の詔勅の中に「夫れ大人の制を立つ、義必ず時に随ふ。」という言葉がありまして、そう御心配になることは、少くとも私個人はそうこだわっておりません。たとえば私の紀元論にしても、紀元論の欠点をついて直していただけば、いつでもそれに従うということを言うておるものでありまして、私はちっともこだわっていない。ですから右翼団体がどうこうということがございましたが、これは九千万国民から見ますればごく少数の人々でありまして、大多数の国民の世論というものはきわめて冷静な、また公平なものだと思うのです。ですから私といたしましては、先ほどから繰り返すようになりますが、ほんとうの古典に示された日本の精神を新しい立場で――先ほど申しますように、決して民主主義の教育にも、現代の教育にもじゃまにならぬと私は思う。じゃまになるというのは、さっき言った正しくないからだ。そういうような意味合いにおきまして、正しい意味の古典の精神を復活していくということは少しく差しつかえないと思います。先ほどから何回も繰り返すことになりますからあまりくどく申し上げませんが、私は教育の力を信じておりますので、正しい古典の精神をあくまで伸ばしていったらいいのではないかと思います。
○淡谷委員 これ以上議論をする気持はございませんので、もうお説を伺うだけで私は質問をやめますが、ただ一点、私は古事記や日本書紀なりは私なりに一応読みましたが、一つあなたにも古事記と日本書紀にだけこだわっていないで、少しは新しい時代の本をお読み下さるようにお願い申し上げまして、私の質問は打ち切ります。
○相川委員長 稻村君。
○稻村委員 井上先生、また森先生、小野先生にお伺したいのですが、われわれは歴史はしろうとでありますけれども、しかし古代史を研究するに一番必要な問題は、日本に鉄の器具、武器、そういうものが輸入されたり、発明されたのは正確にいつかということです。私、今古い歴史の記憶がありませんが、新羅から天之日予と申しますか、日槍と申しますか、その人が初めて日本に鉄器を輸入したというふうに記憶しております。しかし歴史上もっと早いのじゃなかったかという説がありますが、その点一つ専門的な立場からお教えを願いたいと思います。
○井上公述人 ただいまの御質問にお答えいたします。鉄器の輸入された時期というのは、これは文献の方面と考古学の方面、両方考えられるわけであります。文献の方では、さっきおっしゃった日矛の話というようなものも見えております。しかしこれはほかの話と同じように、いつごろからという、その絶対年代というようなものについて考える材料になりがたいわけであります。従ってそれは一応除外いたします。考古学の方面から申しますと――私は考古学の専門ではありませんけれども、大体は金属器であります青銅器が輸入されるのと、おそらくはとんど時期を同じゅうして入ってきたというふうに考えられております。従って今の鉄器の話は、絶対年代の上からというと紀元前三、二、一世紀ごろから以後、大体紀元前三世紀から紀元前一世紀ごろ、あるいはそれからややおそいころというふうに私は考えます。
○稻村委員 なおお伺いしたいのですが、大和民族、もしくは天皇族と申しましょうか。その民族がそういうふうな、つまり当時では最も優秀な武器によって他の熊襲とかアイヌとかというものを征服した、――征服という言葉はこれは決して私は悪い意味に使うのではないのです。原始民主主義の時代から支配者ができた、貴族時代に入った、これは歴史の必然な過程でありまして、よいとか悪いとかという問題じゃない、しかしこれは大和民族が鉄器のような優秀なる武器をもって他の民族を征服した、征服という言葉が悪ければ、統一した、こういうことは間違いない事実だと思うのですが、その点いかがでしょうか。
○井上公述人 今言われましたことは、これは証拠がはっきりあるわけではないのでありますが、ただ古墳が出てきますところから、古墳の服装品の中に鉄製のものが非常にたくさん出てきます。従って古墳の発達した時期に鉄器というものが非常に大きな働きをしたということは大体言えるかと思うのであります。そうして古墳の発達する時期がこれから大体三世紀の末ないしは四世紀の初めというふうに考えられている。それとはまた別に今日多くの人が認めているところでは、日本の国家統一をした時期というものは大体三世紀の後半から四世紀の中ごろまで、これは実は若干異論があるところでありますけれども、多くの人はそう信じております。ちょうど時期的に一致するということは言えると私は思います。
○稻村委員 森先生にお伺いしますが、それと神武東征、これは決して征服ではない、そういう意味ではないという先ほどの御議論よく私ども了解いたしました。しかしいかなる時代でも戦争というものは精神的要素だけでは勝てないのです。古代でも現代でもこれは同じ法則が支配するのです。そこでむろん私は神武東征は――この東征という言葉は決して征伐という意味ではない、征服という意味ではないとおっしゃいますが、それはよくわかりました。しかしこの神武天皇もしくは大和民族が優秀なる武器をもって他民族を統一した、そういうことは間違いない事実だと思うのですが、その点いかがでしょうか。
○森公述人 確かに統一したと申しますか、まとめたと申しますか、それはそうだと私も思うのです。ただ先ほど和歌森先生のお話の中に、国家のことが出て参りまして、国家の成立がいつかというような問題がいろいろ出て参りましたが、その国家というもののもとを開くといったような意味における統一と申しますか、取りまとめたというか、そういうもとを開かれたものだと思うのです。そのもとを開くについて、どういう精神あるいはどういう考え方でこれを統一し、あるいはまとめていくかということが、いわゆる天業恢弘の詔勅や、あるいはさっき申しました神武東征の詔勅あるいは即位建都の詔勅、こういったような詔勅を私はすなおにこれをもう一ぺんよく見る必要があると思うのでありますが、こういうものを見ますと、その中に示されておりまして、具体的に申しますれば、天業恢弘の詔勅の中に積慶、重暉、養正ということが示されておりますが、これなどを考えてみると、全くこれは今日でいう民主主義的な考え方と一致すると思うのです。それですから、そういったような精神をもって建国の基を定められ、そうしてそれを歴史が厳重に批判をいたしまして、そういったことが国民の意思に即し、人民の考え方に即しておったから、その開かれたもとの皇祖がだんだんと栄え、そうして今日に及んでいるというふうにわれわれは考えているわけでございます。
○稻村委員 さらに森先生にお尋ねしたいのですが、私も日本歴史は外国の歴史に見るような苛烈なる民族闘争はなかったと思います。それから無論奴隷制度はありましたけれども一これはないと言う人もありますが、あったことは事実なんですが、ほかの国のようなギリシャとかあるいはローマのような過酷なる奴隷制度もなかったことも事実です。それで大和民族が他の民族と巧みなる妥協をしてきたことも事実です。これは歴史の上からおおうべからざる事実であって、蒙古民族のごときあのような熾烈な残虐な征服は決してしていなかった、これも事実です。これも日本歴史の上かう認めることはできるのですが、しかし日本民族はむろん大和民族が統一したのであるけれども、混血民族であることも私は事実だと思うのです。そういうところからいろいろな四海同胞的な考えがあったと思うのです。他の被征服民族と申しますか、そういうものを毛ぎらいしない点もあったと私は思うのです。そういう点は外国の歴史と比べて誇ってもよいのではないかと思われるのです。むろん奴隷もあったし、征服、被征服も厳然たる事実であったのであります。 そこで私は森先生にお聞きしたいのですが、森先生は詔勅を研究しておられる、詔勅の研究は実は非常に私はおもしろいと思うのです。先ほど森先生はだいぶ私の意見を中心に反駁されました。私も非常に教えられるところが多かったわけで、ここで先生と歴史上の議論をする気持もございません。ほかの先生方とは私は全然お初めてですが、特に森先生とは旧知の間柄でありますから、ここで議論のために議論をしようという考えはありません。そこで私はすなおに申し上げるのですが、仁徳天皇の訪中勅に「其れ天の君を立つることは、是れ百姓の為なり。」とあります。これは戦前に発刊された「大日本農政史」という本に書いてある、上杉鷹山がしばしばこれを援用して、天の君を立っるは人民のためなんだから、人民のためにならぬような天子というものは無用であるということをはっきり言っているのですが、これは私は当時の支那思想からきておるものであると思うのですが、事実上仁徳天皇のそういう詔勅がほんとうにあったのかどうか、その点一つお聞きしたいと思っております。
○森公述人 それはただいまお話にもございましたように、仁徳天皇の詔勅には、明かに「夫れ天の君を立つることは、百姓の為なり。然らば即ち君は百姓を以て本と為す。」云々という言葉がございますが、これは支那思想だというお話でございますけれども、そう簡単に私は断定できないと思うのです。というのは、これはもっと古い仁徳天皇以前の詔勅にそういうことがたくさん出ておりまして、たとえば「百姓を以て本」――民が本だという考え方は先ほどからしばしば問題になっております八紘一宇の詔勅にも出ている。さっきも申しましたが「夫れ大人の制を立つ、義必ず時に随ふ。」その先のところにこう書いてあります。「いやしくもおおみたからにくぼさあらば」――日本書紀では 「くぼさ」に「利」を当てている。御存じのように、日本書紀は、これもだいぶん先ほどから問題になっておりますが、古来の伝承に奈良朝の初めになって漢字を当てたのでございますが、ずいぶんこれは苦心して当てたと見えまして、当て字が適当でないものもだんだんございます。そこで今の話を続けますが、神武天皇の八紘一宇の詔勅のところに「苟くも民に利有らば、何ぞ聖造に妨はむ。」これを今の言葉で平たく申しますならば、人民のためになることであるならば、たとい聖人君子の作ったものであっても、これを変更しても少しも差しつかえないということでございまして、これは仁徳天皇を待って突如としてあそこへ「君は百姓を以て本と為す。」という言葉が出たのではなく、これは国初以来の一貫せる思想であると思います。そういう意味におきまして、先ほど来繰り返して言いますように、国初以来の精神をしっかり研究することが大事だと思うわけでございます。
○稻村委員 今のそういうような思想は、シナ思想から出た思想じゃないでしょうか。いろいろなシナの影響で日本の文明が今日あるので、儒教とか仏教の影響がなければ、日本は今日までの文化はなかったと思うのですが、こういう思想もシナ思想の影響ではないでしょうか。
○森公述人 申し上げますが、もちろん日本の文化の中には大陸の文化の影響ということはたくさんございます。古くは武帝の楽浪四部の設置以来ずっと百済を通じて盛んに大陸文化を輸入しまして、まず一番最初に影響を与えましたのは、楽浪文化でありまして、大陸文化の影響があったということは何人も否定できない。またむしろ逆に申しますれば、日本人はそういったような、どんどん大陸の文化を取り入れるといったような積極的な面も持っておったと思うのです。よくいわれますことですが、日本書紀がシナ思想の模倣だ、確かにそれはそのように考えられる節もあるのです。たとえば雄略天皇の詔勅などには、かなり長文にわたってシナの文献の引用がございます。だからそういったような大陸の影響があるということは決して否定できません。むしろ今言う通り進んで取り入れた場合もあると思います。けれども、たとえば具体的な例を申し上げますと、これは日本の古文献の根本の問題と思いますが、神というものに対する考え方にしましても、御承知のように、シナの王道思想では、天という考え方でございまして、こういう一つの例をあげてみても非常に大きな違いがございますので、必ずしも日本書紀に書いてあることが全面的にシナ思想の模倣のみとは私は断じ得ないと思います。そういう点もだんだん見受けられることは見受けられますけれども、またそうでない点もあると思うのです。
○稻村委員 ですから、はっきり申しますれば、仁徳天皇の言われた詔勅のごときは、日本に昔からあった思想でしょうか、それともシナ思想の影響を受けた思想であろうかということをお尋ねしたいのです。
○森公述人 それは今申しましたように、仁徳天皇に至って突如としてそういう思想が出たのではなく、古くすでに神武天皇の詔勅の中にも、そういう民の利になることであるなら聖人君子の作ったものもたがえて差しつかえないというようなことがはっきり示されておりますから、やはりこういう考え方は国初以来あったんだと私は思います。それがまた大陸の思想が入ってきてみがきをかけられたとか、あるいは足らぬところを補ったとかいうことはだんだんあると思います。
○稻村委員 よくわかりました。そこで今の紀元節の決定の問題ですが、こういう問題は学者の方々からわれわれは聞いて、そうしてそれを決定するのが政治家の重要な任務であると思うのです。政治家がこれをきめる場合はまた学者の立場と多少違うのです。 そこでなるほどこれは学問的に、歴史的に見て、神武の東征というものは征服じゃなかった――私はここで征服がいいとか悪いとかいうことを論ずるのじゃない。征服も一つの歴史的過程――先ほど申しましたように、必然の歴史的過程であったのです、人類進歩のための。だからそれをいい、悪い言うのじゃない。ところが政治家がこの問題を中心に物事をきめる場合には、少くともその時代の客観的な情勢に応じてこれを決定しなければならぬ。そうしないと、民族の運命を誤まるのです。そこで二千六百年前の議論をここで聞いておるわけですが、神武東征が、そこには何ら征服的なものがないとかりにいたしましても、少くともさっき粟谷委員が申しましたように、これは多くの軍国主義思想に利用される危険性を持っておる。また強権政治、あるよこしまなる政治家が相手の政敵を倒すためにしばしば用いる危険性がある。すぐあれは不忠であるとか、あるいは国体の尊厳を害したとか、不敬であるとかいうことで、常に詔勅とか歴史的事実を自分の都合のいいように持ってきて、相手の政敵を倒そうとしたことは間違いない事実なんです。そういうことを私はおそれる。なるほど軍国主義、そういうものの再建にはならないかもしれません。しかし国の記念日としてきまる以上は、これはその記念日の解釈のいかんによっては、常に相手を傷つけ、相手を倒すために、邪悪なる政治家がしばしば用いるところの可能性のあるものなのです。 そこで日本のいろんな歴史には、うそもあるし、ほんとうもあるのです。それはあらゆる学問において完成された学問なんかあり得ないので、あとでいろいろ調べると、うそと思ったことがほんとうのこともあるし、ほんとうと思ったことがうそのこともあるし、これは学問のことであるから初めから完成されたものはない。それは長い間の歴史の過程から訂正していかなければならぬ。だからそれを私は言うのではないけれども、神武東征というような思想が、それによって橿原朝を創業したというこの思想が、しばしば過去において専制政治家に利用されてきたが、将来も断じてないと保証し得ない。だからして私は建国記念日とか、あるいは日本の文化の記念日とか、いろいろな記念日をやるときに当っては、ほんとうに人民の生存と生活と自由のために役立つものを、また邪悪な政治家によって悪用されないものを記念日とするのが当然だと考える。 そこで私は仁徳天皇の詔勅で森先生にお聞きしたのは、それこそこれはシナ思想から来ようが、日本の固有の思想から来ようが、確かにりっぱな一つの政治の手本だと思う。そこで私は国の記念日を作るなら、こういうふうなものにしたらいいのじゃないかと思う。仁徳天皇の詔勅、高楼に登って民のかまどから煙が上らない、これは民が困っておるんだから、三年間貢を免除する、こういうふうなことは、これこそ事実あったにせよ、ないにせよ、こういうことを記念するのが真の記念日だと私は考える。そういうことは日本の歴史的事実の上に幾らもあるのです。私はこの前も小川議員との論争において――たとえば伊勢神宮などもそうです。あれは外国人から言われて気づいたわけじゃないけれども、たとえば東照宮、あれは専制君主の造営したものであることはすぐわかった。ところが伊勢神宮は、実に自由で少しも不自然がない。自然に合致したものだ。自然に合致したもので最一局の美だ。ギリシャの古代建築以上の美である、日本の皇室文化は非常に民主的なものだということをブルノー・タウトは言っているのです。こういうことです。それで、伊勢神宮がいつ作られたか、どういうような過程で作られたか、そしていかなる文化を記念しようというのか、それならわかる。これがまた必要なんです。こういうことを記念することが日本民族に永遠に真と善と美を伝えるゆえんなんだ。だからそれこそ私は記念日にしなければならぬと思うが、誤解されるような神武東征を、かりに世論がどうであれ――それは明治政府に対する世論であることは明瞭です、明治政府の前まではそれはなかったのですから。こういうよこしまなる政治家の専制的な行動に利用される、現に利用された経験のあるものを何も記念日とする必要はないのじゃないか。また日本歴史のもっと古代において、もっとあとにおいて、多くの記念すべきものがあるのじゃないか、こういうことを申すのでありますが、その点一つ森先生、それから小野先生の御見解を承わりたいと思います。
○森公述人 ただいまの御質問は、ああいう悪用されたような悪い印象のある建国記念日あるいはまた将来もそういう悪用される危険のあるものを無理にせぬでも、何も傷のついてないような新しい、たとえば仁徳天皇の詔勅にちなんだ日をやったらいいんじゃないか、これは一応ごもっとものお考えと思います。私の考えておりますことは、私は今日まで詔勅を通じて見た、あの詔勅に示された日本の道は、古今を通じてあやまらない、中外にほどこしてもとらないということを信じておるのですが、そうしますと、仁徳天皇の場合は、途中でございますが、さっき言いましたように、仁徳天皇のお心は神武天皇のお心の敷衍であり、延長であるというふうに私は理解しております。その日を名前を変えまして、何とかいうようなことならとにかく、今問題になっておりますのは建国の記念日、紀元節です。紀元というのは言うまでもなく年代の一番最初を紀元と申しますから、国の初めを祝うということが今問題になっておるのでございますので、別途の意味で何か記念する意味でしたら、また仁徳天皇の詔勅関係の日でもいいかと思いますが、ただいま問題になっておりますのは建国記念日というのでございますから、しかもその精神は相通じておるのでありますから、もとに返って二月十一日にした方がいいのじゃないかと考えるわけでございます。先ほどからしばしば軍国主義とか侵略主義の復興を懸念するというお言葉がありましたが、これは事実あったことですから、焼けぼっくいに火がつきやすいということもございますから、この点は厳に慎しみ、また戒めなければならぬと考えております。私どもそういう研究の端くれあるいは教育の端くれにおる者も、そういう点はしっかり注意をしなければならぬと思っておりますから、究極においては今の御趣旨に沿えるのじゃないかと思っております。
○小野公述人 ただいまの仁徳天皇のような方を記念する日にしたらどうかというようなことについては、森先生の言われたのと全く同意見でございまして、もしそういう日が別に必要だということであれば、別に御相談願えばいいのじゃないか、今日は建国記念日ということが問題になっているので、この点については私はやはり二月十一日を記念日としていくことが一番妥当であるという考え方を持っております。過去においていろいろな問題の起った日であるということを懸念することは、ことに国会において御心配下さることは非常に大事なことだと思います。 〔委員長退席、床次委員長代理着席〕 そのことは国民として考えていかなければならぬ問題でありますが、ただ過去において思わしくないことがあったからといって、それをもう永久に変えてはいけない、あるいは戻すことが全然できないものだというふうに窮屈に考える必要もないものだ。また、先ほどそういうものはすっかり打ち切ってしまって、新しい歴史を立てていくように考えたらどうかということでありますが、私は、われわれ人間が過去において一ぺん何かつまずきをやったからといって、それでその人間をやめてしまって新しい者にすることができないと同じように、われわれがこの国家生活を営んでいる以上は、やはり過去とのつながりというものを持った一つの長い歴史的な実在であるのでありますから、従って、それを打ち切るということは、頭の上ではしても実際の生活の上ではできないものもありますし、またその過去の力自体の中から新しいいい方向を生み出していく力も生み出せるのであって、これはあつものにこりてあえものをまた吹くような、そういうことを必ずしも重ねなくともいいと思うのであります。なるほど今日多少今までのような考え方の人も残ってもおりましょうけれども、また、そういうことが全然ないともいえないことでありますけれども、先ほどから話のありますように、もう時代の苦い経験もあり状況も変ってきておる。最も大事な問題は客観的な情勢でありますが、歴史が大きく変ってきてしまって、再び侵略戦争というようなことが予想もできないような段階になっておりますので、そういうようなことを考える人は浮き上った存在であって、国民全般が歩んでおる道とは違うと思います。この際、そういうようなことよりももっと大事なことは、国民の気持をここで一つ新しくしていくような、そうして国民の気持を入れるようなことを考えることじゃないか。ごく平凡な例で申しますが、刑務所にいってきた人は、いつまでも悪人というような汚名をもって社会から待遇しますならば、こういう人の改悛や立ち上りということは非常にできにくいのであります。国民が今日この苦い経験のあとで一つ新しい出発をしていこう、新しい日本にしていこう、この気持が強く現われていることを買っていかなければならぬのじゃないか。過去は、お互い同士に今ここで繰り返すまでもなく十分に承知しておるのでありますから、そのことはお互いに肝に銘じ子孫に教育をしていきながら、いい方向へといく新しい一つの門出をここで作るということの方が、はるかに大きな意味があると私は考えております。
○稻村委員 私は私の主張を決して曲げるものではございませんけれども、時間がございませんのでこれで私の質問は終了いたします。
○床次委員長代理 これにて公述人各位に対する質疑は終了いたしました。 公述人各位におかれましては、本日は長時間にわたり御出席をいただき、終始真摯なる御意見を述べられまして、本法律案の審査に寄与せられましたことに、重ねて厚くお礼を申し上げます。 本公聴会はこれにて散会いたします。 午後三時五十七分散会