海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第2号
- 発言数
- 43 件
- 登壇者
- 11 名
- 会派数
- 1
- 開催日
- 1957/02/12
会議録
○廣瀬委員長 これより会議を開きます。本日は、ソ連地区抑留同胞引揚に関する件について、参考人より事情を聴取することといたしますが、その前に、厚生政務次官より発言を求められておりますので、これを許します。中垣厚生政務次官。
○中垣政府委員 お許しを得まして、この際、一言ごあいさつ申し上げます。私は、このたび厚生省政務次官の重責をにないました中垣國男でございます。文字通りしろうとでございまして、職責のき行にまことに不安な気持を持つものでございますが、皆様の御指導、御協力を得まして、責任を果して参りたいと存じます。当委員会の所管にかかわります未帰還問題につきましては、いまだ外地に生存残留しておられる者の確認、帰国希望者の引き揚げ促進のほか、多数の消息不明者の調査究明が重要な課題として残されているのであります。これらの問題の解決につきましては、従来より当委員会の御指導を得まして参ったのでありますが、政府といたしましても、これらの未帰還者の留守家族が十年も待っておられます御心情を思いますときに、あらゆる手段を尽しまして、そのすみやかな解決をはからなければならないと考えておる次第でございます。どうか今後ともよろしくお願い申し上げます。
○廣瀬委員長 それでは、これより、ソ連地区抑留同胞引揚に関する件について、参考人より事情を承わることといたします。この際、参考人の方々を御紹介申し上げます。ソ連地区第十一次引き揚げ副梯団長、元機動旅団長木下秀閉君、元満州国警務総局長星子敏雄君、元陸軍中尉津守佑弘君、元満州国警察官谷口新次君であります。まず、委員長より参考人各位に対し、一言ごあいさつ申し上げます。参考人各位には、御多忙中のところ御出席をわずらわしまして、委員長として厚く御礼申し上げます。本委員会は、海外同胞の引き揚げに関する諸問題の早急なる解決のため調査をいたしておりますので、本日も皆様より抑留地における実情等をお聞きいたし、引き揚げ問題調査の参考にいたしたいと存じますので、抑留同胞の実情及び消息不明者の状況等、御承知の点を忌憚なくお話し下さいますようお願い申し上げます。 それでは、初めに木下参考人より事情を伺うことといたしますが、他の参考人の方々には、それぞれの立場より、あまり重複しないよう事情をお話し願いたいと存じます。木下参考人。
○木下参考人 ただいま御紹介いただきました木下秀明であります。 私どもは、全祖国の皆様の絶大なる御同情のもとに、特に国会並びに政府の御配慮によりまして、去る十二月舞鶴に帰還をいたしました。なお、彼の地におきまして、訪ソ議員団の収容所の御慰問をかたじけのういたしまして、また舞鶴に上陸いたしましたときには、益谷議長のお出迎えをいただきまして、さっそく慰霊祭をお催し下さいまして、一同にかわりまして厚く御礼を申し上げます。 私ども今度帰りました者は、第十一梯団といたしまして総員千二十五名でございます。そうして、ハバロフスク地区九百六十四名、樺太十二名、イワノボ四十八名、ウラジール一名、計千二十五名でございます。このらち、抑留船員を七十九名含んでおります。旧日本軍の将兵は約八百名でございまして、満州国、樺太その他の官吏、一般の方は約百余名であります。またマリク名簿に記載されておりまして、今度帰るべき予定の千三十三名のらち、九百八十二名が帰って参りました。マリク名簿に記載されてない者四十三名が帰って参りました。 私どもが向うで受けました受刑状況につきまして、ごく簡単に御報告申し上げます。昭和二十年開戦のときに、ソ軍は、満州、樺太、朝鮮に侵入をいたしまして、直ちに政治犯人として指名手配が行われたのであります。私の記憶では、当時なくなられましたが、近衛文隆さんなども盛んにソ軍が探しておりました。そうして、逮捕された者は直ちに取調べが行われました。満州で決定された者もありまするし、また向うに入ってから刑が決定された者もございます。満州で死刑が決定した者は、大部分は現地で執行されたようであります。しかし、ソ連内で死刑判決を受けた者は、スターリンあての請願が許されまして、減刑をみた者が多数であります。死刑から一挙に十年、十五年というふうに下げられております。ソ連の適用の法規と申しますか、ソ連刑法第五十八条のいわゆる反革命の罪をほとんど適用されております。そして、経済、防諜、謀略あるいは資本主義援助というような罪が多いのであります。その後、向ろに入りまして二年ばかり、事なかったのでありますが、昭和二十二年ころから急に情勢が変りまして、盛んに検挙が行われました。そらして、ハバロフスクとかチダとかカラカンダ等の地区では、おのおの二、三百名の者が受刑をされたのであります。そうして、取調べ、裁判は非常に取り急いで行われた形跡が認められます。裁判の結果は、ほとんど一律に二十五年の極刑を受けております。この際、ソ連では死刑はすでに廃止をされておりました。そしてまたいかに取り調べましても断罪の資料がないという者、あるいは好ましからずと向うで判定をしたような人間に対しましては、前職者というような名目で中国の方に多数引き渡したのであります。かくのごとき大量の検挙が非常にあわただしく行われたのでありまして、この際、私といたしましては、何と申しますか、いわゆる民主グループ、民主運動というようなものを向うで利用いたしまして盛んに密告、謹告というようなことが行われて、そのために犠牲になった者も多数あるように考えております。また取調べに当りましては、ソ連特有の拷問あるいは減食、逆にまたらまいものを食べさして白状させるというような、いろいろな手が行われたのであります。また、ソ連の刑事法規といたしましては、二人以上の証人の証書が、非常な十分なる証拠の力を持つことになっておりまして、それで偽証あるいは謹告によりまして、無実の者が多数罪に落ちているのであります。裁判はほとんど非公開、秘密あるいは略式で、書類だけで行われたものも相当にございます。受刑の範囲といたしましては、開戦前、ソ連が侵入前に行われたわれわれの行為が多く罰せられたのであります。また向うが追究いたしました機関といたしましては、関東軍司令部、その他の軍司令部、特務機関、防疫給水部、憲兵、満州国関係では警察関係、分室、外交部、満軍鉄路警備司令部、満州国関係のその他の機関、満鉄、電電、特殊会社等が追究されたのであります。そうして、行為の種類といたしましては、諜報、謀略行為、これは予備も幇助も未遂も全部罰せられたのであります。資本主義援助、ソ連人に対する暴行、殺傷等々でございます。しかし、ここに私どもは防謀行為あるいは謀略行為と申しまするが、非常にその限界が拡大されましたことを遺憾に思うのであります。たとえますれば、憲兵、警察、分室等の者が平時行う防諜行為で、敵の間者が侵入をしている、それを一つかまえて取り調べる、取り調べたことが、ソ連内の事情を聞いたということで処罰をされております。また、特務機関に勤めておりますところのタイピストとか運転手のような人、給仕のような人が、間接に防諜行為であるとして罰せられているのでありします。こういうふうに、われわれとしては非常に妥当でないと思われることが行われたのであります。また、こういうことで、われわれは、受刑当初から、非常にわれわれの受刑につきまして不満を最後まで持ったのでありますし、また現在でも持っております。 われわれが在ソ間におきましていかなる待遇を受けたかということにつきましては、いろいろ御承知のことと思います。また他の方から御報告あると思いますので省略いたしまするが、いろいろ先方の不当なる取扱いということから御承知のように、一昨年の暮れにハバロフスク事件を起しまして、われわれはみずから自分の生命を守るというような処置をとったのでございます。この件につきまして祖国の朝野の皆様に非常に御心配をかけ、御迷惑をかけたことに対しまして、私はあらためて、本委員会を通じまして、おわびを申し上げたいと存じます。 私どもは向うにおりまして、ソ側のいろいろな取扱いを受けましたが、特に政治思想工作につきまして、われわれになされたことにつきまして干簡単に御報告を申し上げたいと思います。政治思想工作につきましては、ソ側といたしましては、われわれに直接みずから実施するのは違法であるということを知っておるようであります。また効果も少いと見たのでありますか、必ず日本人のグループを通じて、われわれにこれを実施したのであります。また、あらゆる機会をつかまえまして、間接的に思想工作その他が常に行われたのであります。ラーゲルの思想調査、各人の言動の調査にいたしましても、非常に徹底的に実施をされております。たとえば、木下という人間は、どういう考えを持って、どういうことをするというような各人の考課表まで作って、徹底的にわれわれを取り締っておる。そらして、その資料を提供する者はやはり第三国人で、あるいは日本人の中でもこれに共鳴しておるような者を通じて作られておるのでありまして、毎日、一日の行為がいながらにして向うの憲兵将校の耳に入る、われわれとしては非常に不安な、いやな気持であったのであります。また、われわれが日本国に帰る第一次の引き揚げがありました昭和二十八年ごろ、その前から全員の身元調査のようなものが行われまして、その機会を利用して、その後もしばしば帰還後におけるソ側の欲する工作をやった形跡が確実にあるのであります。以上のような状況の中にわれわれは暮して参りました。 今次日ソの共同宣言が批准になりまして、帰還を迎えるその前後の状況につきまして、自後のこの委員会にも参考になることが多いと思いますので、概略御報告を申し上げます。十二月の十二日、日ソ共同宣言の批准文書が交換をぜられしまして、翌十三日には、われわれに釈放令が出されたのであります。もちろんそれまでは、ラーゲル内におけるわれわれの労働その他について免除されるというようなことはなかったのであります。私どもは、長年向ろで苦労をしました材だち、なくなりました同僚の墓に訣別をいたしたいので、墓参りの件をずっと前から申し出ておったのでありますが、十六日に辛うじてこれを許されまして、しかもそれは代表者の二部だけでありました。このお墓の件につきましては、あとから津守きんからもその報告があると存じます。われわれの帰還業務を指揮するために、モスクワの政府から、ニカローノフという中佐が特に派遣をされたのであります。そうして、この人がわれわれの帰還業務の全般の指揮官として、ハバロフスクで、ソ側の機関を指揮をして、実施をいたしました。このニカローノフとの会見交渉に、私はみずからこれに当る機会を得たのでありますが、彼の能度は、従来のソ側当局の鮮度とは全然趣きを異にいたしまして、すこぶる好意的でありました。しかも、かゆいところに手が届くという態度でありまして、実に今までとは打って変った感じを受けたのであります。そらして、十七日には、ラーゲルの全員をハバロフスクの映画館へ招待、十八日には芝居を見るために招待をしたのであります。十九日には全員を将校会館の音楽会並びに晩餐に招待をしたのであります。そういう事件につきましていろいろ交渉したのでありましたが、こういう問題がありました。被服の問題があったのであります。先方といたしましては、刑を釈放された以上は、旧将校は将校に返るのだという見解をとります。そらして、将校には特別なるせびろ、オーバーを渡すということでありましたが、われわれは十年同じ苦労をし、また、われわれ現在日本において平等な位置に立つお互いが、そういう取扱いを受けるのは気持が許さない、一般と同じものをくれということを向うに請求をしたのであります。これがいれられまして、帰る前の日に被服の支給を受けたのでありますが、この交渉中に、向うは現在日本には軍隊があるのだ、だからお前らは将校の服を着て帰れ、こういうことで、現在の日本の軍隊の存在を認識をし、またわれわれ将校を別に取り扱わんとざれたことを非常に特異に感じたのでございます。それから、お墓の整備につきまして、われわれは将来お墓がいたむだろうから、整備をしてくれということを申しましたところが、向うの答えは、外国人の墓地の整備については、政府の予算が年々組んであるから、これで実施しておるということでありました。しかし、私どもといたしましては、そういう規定はあっても、とうていこのシベリア全部の墓がりっぱにいっていないということは、察知するにかたからないのであります。また、私どもといたしましては、シベリアのこの十万に近い英霊のお墓が各地に散在をしておるので、どこかモスクワなりハバロフスクなりに英霊の記念碑を建てて、そして、ロシヤを訪れる方がこれにお参りするようにしてもらったらどうかということを請求いたしましたところ、向うは、それは政府から政府の方に交渉があったならば、おそらくできるだろという回答をしておりました。また私ども帰るにつきましては、ハバロフスクの全部の遺骨を持って帰るというようなことはなかなかできない問題でありまするが、御遺骨の一部でも奉持したいということで向うに交渉したのでありますが、ただいま遺骨は全部埋葬されておるので、遺骨として残っておるものはないから、これはできないという回答でありました。それから、日露戦争六万の死傷者以上の死者をソ連内の労働においてわれわれは出しておるのだ、この遺族の方々の生活保障については、ソ連政府として担任してもらうのが至当と思うがどうか、ぜひそういうふうにしてもらいたいということを、ニカローノフ中佐に要請したのであります。そのときに彼が答えますのには、それは現在帰還を指揮する自分の任務ではないが、ソ連にはこういう法規があるのだ、だからその法規だけをお伝えしておくから、帰ったらよろしく伝えてくれということでございました。その法規は、ソ連の職場で働いたために死亡をしまたは不具となった者に対しては、所属の国の政府からソ連の政府に要求がある場合に補償することができるという規定があるそらであります。これは私どもも初めて知った規定でございますが、英霊の御遺族に対しましても、この問題が進展をしていきましたならば非常に幸いであると存じまして、ここで御報告を申し上げ、またできるだけの御尽力をお願いしたいと存じます。 そうして、私どもは二十二日にハバロフスクを出発して、二三日ナホトカ着、二十六日に帰って参りました。帰ります直前に近衛文隆さんかなくなられ、また元少将の河越重定さんがなくなられ、また二十二日まさにハバロフスクを出発せんとする汽車の中で、払暁、山城太郎さんか、原因はまだわかりませんが、自殺をはかってお残りになったことはまことにお気の毒であります。その他は無事あたたかい祖国に帰ることかできたのであります。 私どもは、ただいま申し上げましたような環境に十一年を過して参りましたか、真にこの日本のありがたみ、日本のあたたかさというものを骨身に徹して過してきました。どうか将来ともよろしく御指導下きるようにお願いを申し上げます。御清聴を感謝いたします。
○廣瀬委員長 次に、星子参考人よりお話を伺うことといたします。星子君。
○星子参考人 私はただいま御紹介いただきました星子敏雄であります。私どもは、祖国の国民並びに政府御当局の絶大なる御支援と御努力によりまして、幸いに生命を保持し得まして、昨年末帰国でふぐきましたことに対し、ここに国会を通じまして、国民の皆様並びに政府御当局に対し、深甚なる感謝の意を表するものであります。在ソ十一年余の間、夢にも忘れ得なかった祖国が、終戦後、焦土の中より、国民の皆様の非常なる御努力によりまして、かくも輝かしく復興したる姿を目のあたりに拝見いたしまして、深き感激を覚えております。今次帰還者梯団の性格並びにその在ソ中の経過等につきましては、先ほど木下参考人より申し上げた通りでございます。私はここに、帰還後わずかに一カ月余のきわめて短期間で、はありまするが、私の手元に参りました数多くの書面並びに今次帰還者及び以前に帰還いたしたる人々との会談その他みずから見聞いたしましたる事実等に基きまし痛感せしめられたる三、四の事実について御報告申し上げまして、国会の一深甚なる御配慮をわずらわしたいと思うの、でありますその第一は、未帰還者、死歿者並びにそれらの留守あるいは遺家族に関する問題でありますその二は、帰還者の就職その他更生に関する問題であります。その三は、帰還者の療養並びに傷病、恩給等に関する問題であります。その四は、帰還者中、元満州国官吏等の恩給に関する問題であります。まず夫婦選者、死歿者並びにそれらの留守あるいは遺家族に関する問題につき申し上げます。私どもが帰国の喜びと感激にひたるにつげ、胸中に去来するものは、不幸今日の喜びを待たずして異郷に死残したる同胞の英霊に関する問題であります。ただいま彼らは厳寒の雪の中に訪れる人もなく、墓標も朽ち果て、異国の上に埋葬ざれたままであります。その墓地等もほとんど大部分が荒廃にまかされております。そのこと等につきましては、ただいま木下参考人より申し上げた通りであります。一日一刻もすみやかにこれら遺骨のお迎えができまするよう、切望にたえないのであります。また帰国を唯一の希望に、いまだに奥地に困難なる生活を送っておる消息不明者の安否と、その帰還の問題がございます。今次私どもの集団帰国をもってソ連からの帰還は終了したるがごとく考うるならば、それは非常なる誤まりでありまして、むしろ困難なる問題は今後に残されていると申さねばなりません。政府におかれましては、留守家族並びに遺家族の心を心として、日ソの国交の回復したる今日、今後の交渉に十二分の御配慮あるよこ、御指導あらんことをお願い申し上げるとともに、これらの留守並びに遺家族の生計、その子弟の勉学等につきましても、特に御配慮になることをお願いする次第であります。第二に、帰還者の就職その他更生に関する問題につき申し上げます。昨年十二月末帰還以来、私あてに寄せられたる書信、彼らとの会談等によりましても、今次帰還者はもちろん、第十次あるいは第九次等以前に帰還したる者の中にも、いずれも就職の困難を訴える者が多数であります。十年以上の職務の経験の空白と年令等よりいたしまして、雇用者の側において種々思い渋られる事情はよくわかるのでございますが、これらの者は、皆様よく御存じの通り、また木下参考人より先ほど申し上げましたごとく、ソ連の思想、政治工作の嵐の中に真に耐え抜きまして、酷寒零下五十度あるいは六十度の中に、飢餓と困苦に直面して、幾たびか死線を突破して生き抜いてきた人々であります。いずれの一人をとりましても、その生き延びたる生命を祖国の再建にささげんとする意気と不屈の精神力を有する者であります。純正なる民族精神の体得者であることに、十分なる御留意あらんことをお願いいたします。国家機関、公共団体あるいは民間の各種企業体等、いずれの分野を問わず、彼らは業務上の若干のふなれもあり、また種々の困難もあるのでありますが、必ずやその精神力と過去における忍苦の体験によりまして、それらの欠陥を克服し得る着たちであるということを確信しております。一例を公務員にとりますならば、採用の受験資格において年令の制限があり、その経歴等において種々の制限がありまして、十年余の抑留生活の期間が、新たなる就職と更生に多大なる困難を生ぜしむる原因となっておるのであります。公務員以外の分野におきましても、その状況は大むね大同小異であります。今次帰還者の平均年令は大むね四十四才であります。約半数の者が、このような制限によりまして、受験すら不可能な現実であります。これがため、なつかしい肉親のもとに帰り、再会の感激にひたる半面、帰ってきましたがために、かえって家庭生活に新たなる負担をかける場合すら生じている幾多の実例を見るのであります。政府並びに関係方面におかれましては、今次帰還者の就職更生に関し、熱意ある御支援と御処置を講じていただいております点に関しましては、深く感激いたしておるのでありますが、なおこの上関係各方面に対し、以上の事情を理解徹底するごとく適切なる方法を講ぜられ、情あり、あるいは特別優先的なる任用の道を開き、また事業費命その他経営上の便宜等につきましても弾力件ある御処置を講ぜられ、これらの者が更生のところを得られますよう、格別のお取り計らいあるように、政府においてなお一般の御指導あらんことを切望する次第であります。その第三は、帰還者の療養並びに傷病恩給などの問題であります。従来、ソ連よりの帰還者は、舞鶴の病院において、傷病の現症ある者に対しては即時、または帰郷後入院あるいは治療の処置が講ぜられておりまして、この点に対しましてはまことに感謝しているところでありますが、帰郷後の発病に関しましては、その病気が在ソ抑留中の生活と因果関係ありやいなやについて、係医師との間に多くのトラブルを惹起しており、特に血圧の高進、神経痛その他内科疾患につきましては、新たに、または自然発生したるものと診断せられた結果、享受し得べき恩給受権も得られず、生計に困窮しあることは、多数の実情があるのであります。高血圧症のごときは、ハバロフスク地区の特有の病気であると言う者もありまして、なお、その他シベリアの不健康地におきまして、十一年以上の長期間の衣食住全般にわたる異常な困難と強制労働に基因いたしまして、神経系統の疾患、原因不明の高熱、心臓、肺、胃腸、皮下等の病患に苦しむ者も多いのであります。個々の傷病の事実の診断は、もとより現地係医師の関係するところでありますが、それらの傷病が存ソ抑留中の生活に基因するやいなやの決定につきましては、たとえば、その決定につき、第三者たる帰還者にその抑留生活の実情を聴取せられ、その意見を参考とする等、特別の御処置を講ぜられ、長期間抑留の困苦を余儀なくされましたる帰還者が当然享受し得べき恩恵を、一人たりとも漏れるところなく享受し得るよう、特別の御処置を講ぜられることをお願いいたします。最後に、第四は、帰還者中の元満州国音更等の恩給に関する問題でありますが、本問題に関しましては、元満州国官吏等関係者において恩給法改正期成同盟を結成し、元満州国日本人官吏等を日本国の公務員に準ずるものとして、恩給法上の処遇を受けるごとく政府並びに国会方面に対し要請が行われている趣きを承知いたしましたが、今次帰還者中、元満州国日本人官吏等も、本同盟の意図に対し全面的に賛成しておるところでありまして、同同盟の目的が達成せられることは、すなわち一同の要望が達成せられることであります。なお、今次帰還者中には、次のごとき事情あることを申し上げたいと思います。すなわち、今次帰還者一千余名中には、元満州国官吏、協和会職員等が約その一割を占めております。それらの者のソ連側による処遇は、日本国法令上は非軍人、軍人外でありまして、非軍人であるにかかわらず、全く軍事捕虜の扱いであります。一体満州国の国柄として、日本と不可分一体たることは、建国の当時の国是でありました。満州国日本官吏の任用は、駐満全権大使と一体たる関東軍司令官の推薦によらねばならなかったことは、御承知の通りであります。満州国日本人官吏の業務の実質においてはもちろん、その任用の形式においても、朝鮮台湾等に在職せし日本人官吏とほとんどその本質を同じゅうするものと言い得ると思います。さらに、今次帰還者中の元満州国官吏等の中には、いわゆる秘密戦業務に従事したる者が相当数を占むる状況にあります。これらの者は、日満共同防衛の本旨にのっとり、その業務の実質において、全く関東軍司令官の掌握下にあったものと言い得るのであります。しこうして、今次帰還者中の約九割を占むる日本軍人が、ほとんど全員恩給法の恩恵に浴し穫るにかかわらず、その業務において密接一体の関係にありしこれらの者が、その恩恵の外にあることは、条理上理解に困難なところであります。本問題に関し申し上げました以上の事情を御了解下さいまして、恩給法改正期成同盟の要請、すなわち今次帰還者中よりの要望の一日もすみやかに達成されるよう、格別なる御尽力を切望する次第であります。以上をもって私の報告を終りたいと思います。
○廣瀬委員長 次に、津守参考へにお話を願います。津守君。
○津守参考人 津守佑弘であります。皆さんのおかげで帰って参りました。どうか、国会を通じまして、国民の方々にその由を伝えていただきたいと思います。ありがとうございました。私は、ソ連におりまして、特になくなった方々について、何とかして皆さんのお力によって、どうかその遺骨なり遺品なりの一つでもその遺族の方々に届けていただきたい。遺族の方々が、自分たちの身内の、ソ連においてなくなったところの人々をしのぶためにも、ぜひともこの事柄をやっていただきたいと思います。それについて、しからば、これらの方々がいかにしてなくなっていかれたかという点について、私は具体的なお話をして、具体的な状況を聞いていただきたいと思います。現在行方不明になっている方々というものは、私の想像によれば、おそらく大部分、入ソした年、昭和二十年から二十一年の冬にかけてなくなったところの方々であると思います。なぜそういうように私が想像するかと申しますと、私が向うにおりましてその状況を見聞きしたところについて申し上げますと、その入ソした年においては、いろいろな部隊の方々が一緒になって、もうこんとんとした状況下において敗戦直後でございますから、各部隊、各中隊というものはこんとんとして、だれがだれかわからないというような状況下でもって、ただ人員を編成して入ソしたという状況で、上官としてはその部下の方々の一名各々の名前すらも知ることができずして入ソいたしました。そういうようなごたごたのまま入ソいたしましたが、その入りました場所というものは、北は北氷洋からウラル山中はもちろんのこと、ハム鉄道沿線にまで入って、森林伐採などやって、いろいろな困苦欠乏の中におられました。そして、それらの方々は、そのとき防寒の被服もきわめて少いし、また食糧問題といえば、食糧の糧秣はきわめて僅少なものであり、またきわめて悪質であったということ。防寒具というものは用命々保持する第一条件でありますが、それについて、阿寒被服、いわゆるシューバーとか外套とか、あるいは防寒ぐっとか、防寒帽とか防寒手套というものは、日本の軍隊において持っていったものはそれを使用いたしましたけれども、現地においては支給されませんでした。それで、それがためになくなっていかれたということもまた一つの原因であります。その次には居住の問題であります。居住については、山間僻地におきましては、――もうみんな山間僻地でございますが、そういうところの居住は、どういう居住をしておったかと申しますと、寝台といえば丸太の寝台です。丸太をずっと並べて、その上に、冬、寒中雪の中に残っておったところの枯れ草をみずからちぎってきて、その上に敷いて、そうして寝ておったという状況下でありまして、暖をとるといえば、その中においてペーチカをたいて暖をとっておりました。そういうような状況下で、ほんとうに自分の体を休めるということはできませんでした。そうしてあかりといえばたいまつでございました。朝起きると、もう鼻の中から顔じゅうがほんとうに真っ黒になって、タヌキかムジナのような姿でもって生活をしておりました。それに加うるに、糧秣といえば非常に悪質でありまして、コーリャンの丸コーリャンでありまして、丸コーリャンと申しましても、コーリャンの房を落しただけで、市民をかぶっておるところのコーリャンであります。それは非常にタンニンが多いがために、便秘をした。それを食べるというと便秘をするからして、便所に行っても便が出ない。それで衛生兵がピンセットでもってかき出してくるというような状況下で、腸疾患の患者が非常に続出いたしました。それに加うるに、衛生施設の不足から、シラミが非常に発生いたしまして、シラミのいないところの人というものは全然ありません。それで、ひなたとかぺーチカとか、そういうところにおいては、シラミつぶしをするというような状況下であります。そこで発生したのは何かというと、栄養失調に加うるに発しんチフス、それから赤痢、この蔓延によって、そのときになくなったのがほとんど大部分でございます。それで千人のうち七百人が死亡して、あとの百五十人が入院をしておるというところの集団は、たくさんに私も耳にし、また見もいたしました。こういうふうにしてなくなっていった方々というものは、当然その隣におったところの人の名前も知らない、またそういうような状況下でありますから、話をしておればすぐ倒れる。朝起きてみればもう冷たくなっておるという方々でありますから、名前もわからないし、どこの出身者であるかもももろんわかりません。それで、そういう方々の親とか郷里というものについては報害する資料すらも全然なかったわけであります。それがために、現在も行方、不明者というものは非常に多い。行方不明者はここに原因を持っているというふうに私は感じました。それで、そういうなくなった方々は、しからばいかにして埋葬し、いかにしてあとを供養いたしましたかと申しますと、私も僧籍におりますので、自分の関係については、自分でできる限りの努力はいたしました。けれども、あとで聞きますと、なくなった方というものは、棺おけを作ってやるところの材料の板はございません。向うにおいてはまきも当時は不足をして、暖をとるまきも、国民ですらもなかったという状況でありますから、ましてや板で棺を作ってとむらいをするということは、日本人の捕虜の身分においては、とうていそういうぜいたくはできなかった。なくなった方々を興るについては、着ておった着物を着せてやりたい。それで何とかして着せてやると、検査を受けて、ジュバンから全部脱がされて、まっぱだかにされる。最初のごときは、まっぱだかの胸に、インクをもって、ナンバー一、ナンバー二と打つだけであります。病院ではこれを野積みにして、クィビシェフの病院においてはこれが倉庫にあふれている。ちょうど真冬でありました。倉庫にあふれて仕方がないので、野棲みにしておった。その姿というものは、ろう細工のごとくにすき通った人間の死んだ姿でございました。そういうふうにして集団的になくなっていかれる。それを葬る場合においても、もう土地は二メートル、三メートルとすっかり凍っております。ですから、一人々々の穴を掘って埋めるということはできない。これが現状でございます。それで、ソ側は、日本人を使って、山に行って、ハッパをかけて穴を掘って、それに集団で埋葬した。まっぱだかのまま、町の中を、トラックに凍った死体を積んで山に持っていって、ハッパの穴に集団で埋葬したということを、私は一緒におった人から聞きました。それがために、私のおったところの兵隊は、病気になっても――私としては病院へ入れた方が手当はよほどいいだろうというふうに感じておりましたから、何とか入院させようといたしましたけれども、そういう状況下において、患者は、私どもは入院することはいやだ、なぜいやかといえば、死んでも決して丁重な葬り方をしてもらえない。ましてや、自分たちの知っておる人たちによってやってもらうということはできない。お経を読んでもらうこともとうていできないから、ぜひとも隊長さんのそばで死なして下さい、こういうふうに私もせがまれまして、手放すことができませんでした。そう言うならば仕方がないので、私もあきらめて、みんなの中でそうしていかれるならば、それが幸福であろう、せめてもの本人の意思だけは尊重してやろうというふうにして、そういう人たちはそのまま部隊の者として最後まで一緒におりました。なくなっていく状況というものは、常にまっかな血便です。なくなっていった方々を私のところは葬りましたけれども、そういうふうにしてなくなっていった状況から見まして、何とかして留守家族の方々に遺骨を届けるということは、今、行方不明の方々はそういう状況でなくなっておりますので、だれがだれと言うことはできないのじゃないか。南方の方々が戦場でなくなった以上に、その遺骨収集には苦しみがあると思います。そういうふうに、なくなった人は一人、二人とばらばらになっておって、墓地というものは整備されておりません。山の中にあちこちに散在しておるので、それを十、二十とまとめてある墓地というものは、きわめて僅少じゃないかと思う。むしろ一人、二人点々として、その場所々々へ埋めたもの、山の中とか鉄道の沿線とかいうところに埋葬されたものが多いのじゃないか。これらの遺骨を収集するということは、現在のソ連の状況下としては並み大ていの事柄ではないと思います。これはひとえに皆さんの協力と絶大なる援助によって初めてやり遂げられるので、最も決意を固めた行動のもとに、それを運んでいただきたいと思います。それからまた死亡者の中には、そういうふうにして生活が非常に困難でありましたために、また満州から北鮮あたりはこんとんたる状況下でありましたから、何とかして内地の近くに帰ろうという希望を持って、逃亡した方々がございます。一回の逃亡では、途中でつかまればまたもとの部隊に帰して参りますけれども、二回、三回と継続した人に対しては、厄介者扱いで、現地で処分してしまう。決してわれわれ日本軍の責任者のところには持ってきません。また二回、三回した人がつかまって帰って参りますけれども、そういう者はまたやるおそれがあるというので、営倉に置いて、夜連れ出して殺されたという形跡がたくさんあります。そういうふうにして処断された者の死体も、われわれにまかせられておりませんので、その墓地も見つけるには非常な苦心を要するのではないかと私は思います。ハバロフスクの議員の方々がおいでになった墓地は、捕虜時代の墓が六十一個、受刑以後のものが六十個、それ以後に第五分所が焼失したときの百二十一名の方の墓地と、もら少し小さな十名ないし二十名くらいの墓地じゃないかと思うような墓地がございます。これがハバロフスクの墓地であります。一般の、内地からソ連に行かれて、在ソ同胞のなくなられた方々の墓参をするときには、いつもそこに行ってお参りをされているようでありますけれども、事実ハバロフスクには四ヵ所の墓地がございます。しかもそれは町の中あるいはハバロフスクの山の中などにございまして、四カ所ということはいろいろなことから推定をして知っている。そらして、機動旅団の連隊長の方でなくなっている方の墓参をさしてくれというので、ある機動旅団の荒巻さんが申し上げたそらですけれども、その墓地がそこにない。しかし、その墓地は彼が埋葬したときに手伝っておるから自分が知っているというので、その人が帰るときもちょうどあすこの駅で一泊いたしましたので、その夜中に抜け出して墓参をして、土を持って帰った。その墓地も町から遠からざるところの別の墓地でございます。このようにして、たくさんの墓地がハバロフスクの近郊にもございますし、全ソ連にまたがって、こういうようにばらばらになっている墓地は、現在は墓標も朽ちたどころでなくして、もうその塚も跡形もなくなっているような状況じゃないかと私は思います。この方々の遺骨なり遺品なりを遺族の方々にお迎えきして、この方々が安らかに眠っていただくためには、われわれが帰った現在においては、皆さんの御協力以外に、私たちの力は発揮できない、われわれのこの心中をよく了察されて、この事柄については幾多の困難があることは眼前に見えております、私たちも想像できます、ソ連の国内において日本人が遺骨を収集することは、南方に行ってやる以上の困難があると考えておりますけれども、これを遂行していただくには、議員の方々の絶大な超党的な、ほんとうにこの人たちをぜひとも救ってやるという熱意以外には私はないと思います。ぜひとも私たちのこの心中を察していただいて、この点については何としても努力していただかなければ申しわけないと思いますので、この点については特に切望している次第であります。よろしくお願いいたします。
○廣瀬委員長 最後に、谷口参考人よりお話を承わることといたします。谷口君。
○谷口参考人 谷口でございます。まず第一番に、われわれ引揚人から、参考人として当時の実情並びにわれわれの考えをお聞きになる機会を与えて下さった衆議院並びに本委員会の御措置に対しまして、厚く感謝申し上げます。 今までの三人の参考人によりまして大体の一般の状況が述べられたのでございますが、努めて重複を避けまして、補充的な意味のお話を二、三申したいと思います。 そのうちで、まず第一に申し上げたいことは、先ほどお話に出ましたうちの元満州国の官吏及びそれに準ずる者が国家から受くるところの恩給その他の給与に関して、旧軍人及び外地の官公吏と同様に扱ってもらいたいという件でございます。実は私、幸か不幸か、その問題の目的になる満州国の警察官吏でございました。元警視庁におりまして、昭和十三年に満州国における治外法権撤廃のあと、満州国の警察官を拡大強化する必要がありましたときに、内務省と満州国との話し合いによりまして、大量に中間幹部が満州国に送られたのであります。そのときに、私は警視庁から参った者の一人であります。われわれの考え方といたしましては、もとより日本以外の官吏であるという考えは毛頭ありません。また一般外地の方々におかれましても、当時満州国におられた日本の人方におかれましても、われわれを、日本を離れた官吏である、日本の官吏以外の官吏であるというようなお考え方はなすっておられなかったと思います。また一般の世界情勢から申しましても、特殊の関係によって満州国を認めたというような関係にあります以外に、一般世間の世論も、われわれを日本人として、日本の官吏として認めておったのであります。 しからば、ソ側の扱いはどうなっているかといいますと、ソ側といたしましては、われわれを一般軍人以上に、国家の公務員、あるいはそれ以上に国家に密接に結びついている者として見ております。向う方に言わせれば、最も敵性のきつかった者というふうに思っているようであります。この事実は、われわれいわゆる満州国の官吏及びこれに準ずる者が、終戦の面後、ソ側のためにシベリアへ拉致されたととでもわかります。現在はっきりした統計はないのでありまして、私も速急の場合でありまして、そういう事情を詳細に調べる余地はなかったのでありますが、推定いたしますと、大体一万名と思っております。その算定の基礎は、満州国の警察官が当時大体一万でございました。それが終戦の直前になりまして、根こそぎ動員が行われ、そのうちの三分の一以上の人間が軍籍に投じております。残った者をまず六、七千人と見まして、そのほかに警察官以外の官公吏の方々とこれに準じられる方々が三千人と見まして、私一万人と踏んだのであります。シベリアに引っぱられた人間六十万のうちの一万人と見ますと、これは一・六%くらいになります。これをもっと大きく見積りまして二万としたところで、一世いぜい三%にすぎないのであります。しかるに今回第十一次の帰還者としまして一千二十五名の人が帰ったのでありますが、このうちで、戦争に関係なくて、すなわち樺太等にありまして、戦争よりぐっとあとに漁業等の関係で入られた方々が相当ありますので、戦争関係で向うへ行った者は一千名を切れます。そのうちで、警察官及び満州国官吏として今この恩給その他に関する扱いを同様に扱ってもらいたいとする対象の人間が、今判明するところで百十九名おります。そういたしますと、大体一二%以上のものがこのうちに含まれているということになりますが、入った者わずか一・六%くらいの人間のうちで、満州国の官公吏が一%、帰るときには長期に残されておったという関係を見ましても、ソ側の見解としましては、そういう人たちに対して、一般の普通の軍人の方々よりもさらに国家的の結びつきが強い、敵性が強いと認めておったということが考えられるのであります。 それから、さらに刑罰等の関係を考えてみましても、私自身のことを申し上げてもはなはだ恐縮でありますけれども、私は昭和二十五年にハバロフスクにおきまして二十五年の刑を受けました。そのときから刑期の年数を起算するというのでありますから、その前に向うにおりました年数を加算いたしますと、三十年になります。この二十五年あるいは考え方によりましては三十年の年数というものは、一般の軍人の方々に比べまして、これは決して短かいものではないのでありまして、彼らはその間に毛頭の差別をつけておりません。それからまた、われわれ自体やわれわれに準ずるところの人たちが向うへ渡りましてから受げた損耗は、これまた非常に大きいのであります。先ほど申し上げましたように、比較的長期間にわたって残されたという関係と、それからこれらの人たちが非常に年令が高かった、こういう関係があるのであります。これは御参考といたしまして今回帰りました百十九名のうちの年令構成を申し上げますと、四十才未満の者はわずかに十五名であります。四十才以上の者が百四名であります。さらにその内訳をいたしますと、四十五才以上の者が七十四名、五十才以上の者が二十九名。もう一つここでお考え願いたいことは、年令構成はこうなっておりますけれども、実はこれ以上の高年令の人がたくさんおったのでありまするが、そういう人たちは向うでばたばた死んでおります。ですから、十一次の最後に帰った人たちのうちには、員数に載っていないのであります。 みずからをまた例に引いて恐縮でございますが、私は先ほど申しましたように、昭和十三年に満州国へ移りました。そのときに私と一緒に同じような関係で満州国へ参りました警察官にして、ソ連に拉致された者は、私のほかに四名ございます。長崎県の佐世保署長をしていました松島友次、神奈川県の平塚の署長をしておりました中村忠勝、さらに京都の宇治の署長をしておりました土永丹治、京都の警察の保安課におりました大森清介、これらの人々は私と大体同じ年配あるいはそれ以上です。申しおくれましたが、私は明治三十三年五月生まれでございますから、満で五十六才と九ヵ月くらいになるのでありますが、私を加えまして、私の知っている限りにおいては五人、この五人のうちの四人が向うで死んでおります。帰りました者は二〇%に相当する私一人でありまして、こういう点から申しましても、満州国関係の官公吏の人が向うでいかに大きな犠牲を払っているか、いかにその損耗が大きかったか実際にこうむつた被害が非常に大きかったということがわかるのであります。しかし、帰りました私と申しましても実は無事故ではないのでありまして、ちょっと失礼でありまするが、まず入りましたときにウラルで大きな凍傷にかかりまして、今でも、このようなあとが残っております。それからさらに帰る少し前に今度は火傷をやりまして、両手を焼きました。そのときには機械の修繕の仕事をやっておりまして、腕まくりをしてよごれを洗っておったときなんでありますが、突然ガソリンに自然引火をいたしました。両腕を全部まくっておったので、これにガソリンが燃えついたのであります。こういうことで、この面にもまだ多少火傷が残っております。足の方にも多少の傷がございますが、生き残って帰ってきた私もこういう状況で、帰った人も、あるいは病床に呻吟したり、いろんな関係で相当損害をこうむつておるようであります。こういう高年令の人たちが、一生を満州の方にきさげ、さらにシベリヤの方で終りまして、そして帰った多くの人たちがどうして生活ができるかということになりますと、これは何らか国家の方面でお考えを願わなければ、なかなかむずかしいと思うのであります。私自身のととに関係いたしますので、これははなはだ申しにくいのでありますけれども、問題は私一人のことじゃないのでありまして、皆さんの御理解のあるお考えを一つお願いしたいと思うのであります。 就職の件に関しましても同様のことが言えるのでありまして、先ほど星子さんの方からお話がありましたが、こういう年令構成をもって今回帰って参りました。このうちには、病気の人、また入院して全然退院できない人、あるいは病院へ通わなければ使いものにならぬというような人たちもたくさんございます。また年令がこういうのでありますから、現在の日本の就職等のいろんな条件も詳しくは存じませんけれども、いろいろな関係におきまして、年令の上から申しましても、あるいは心身が相当弱っておるというような関係から申しましても、普通で扱われたならば、これは当然社会の落後者として葬り去られるような実情にあると考えます。十一年間の空白はやむを得ないといたしましても、その空白の過ぎた最後の余生をむなしく終るということは、本人たちにとりましてはまことに苦痛なものであります。それぞれ家族たちもおることでありますし、せっかく帰ったものの、就職はできない、一家をあげていろんな方面で悲嘆にくれるというようなことは、これは何とかしてやらなければならぬと考えるのであります。こういう点につきましても、国家の方で十分に御寛大なお考えをなされまして、普通一般の就職条件にこだわることなく、一つ特別の御配慮をお願いしたいと思うのであります。しかし、われわれ心身が疲れておると申しましても、その気持、その精神におきましては、あるいは仕事に従事いたしますところの気がまえにおきましては、これは毛頭人後に落ちないつもりでございます。おくればせながら皆さんの驥尾に付じまして、祖国復興の大陣列の最後に続いてやるということにおいては、十分なのであります。何とぞこういう点につきまして、一つ十分にごめんどうを見ていただきたい、こういうふうに考えるのでございます。 なお、そのほか医療関係でございますが、この医療関係も実は国家の方からいろいろ御親切に承わりまして、舞鶴へ上陸したとき全部申告を終っておるはずでありますが、中にはうれしさの余り、ついうちょうてんになりまして、自分にいろんな補償があるにかかわらず、心ならずも申告を怠ったような人もあります。また当時あまり気がつかなくて、そのままになっておった人もあった。しかしその真の原因は向うにおったうちに胚胎しておったという方も多々あるのでありまして、こういう点についても、医者の技術的の関係のみでなしに、もう少し政治的考慮を払われまして、一つ最大の便宜を供与していただきたく、特にお願いする次第でございます。 なお遺家族の援護でございますが、これは国家の方から非常によく考えてもらっておると思いますけれども、先ほど申しましたように、一生を満州に葬り去った――帰った者はまだしもいいのでございますけれども、向うでなくなった者、これは何と申しましても痛恨のきわみであり、気の毒のきわみであると思うのでありまして、こういう人に対する点をなおこの上十分に一つお考え願いたい。こういう援護に関しましては、国家がいかにやられましてもやり過ぎるということは決してないと私は思います。いろいろ事情はございましょうけれども、こういう点特にお考え願いまして、遣家族のやっていけるような最大限度の御配慮をお願いしたいと思うのであります。 その他いろいろなことがございますが、大体前の方が申されたようでございますので、私の御報告はこれで終りますが、何とぞ一つよろしく御援助のほどをお願いいたします。
○廣瀬委員長 ただいま参考人各位より事情を聴取いたしましたが、これより本問題に関し、参考人及び政府当局に対する質疑を許します。質疑は通告順にこれを許します。木村文男君。
○木村(文)委員 十二月にお帰りになりました同胞の皆様方の十一年の御苦労を考えますと、ただいままで四人の皆様方のお話によりましても、私どもは、その間における国民としてのお務めさえ皆様にすることができなかったことを、むしろ恥じ入るようなわけでございます。なみなみならぬ御苦労をされたことと、衷心からお気の毒に存じ上げます。しかし、幸いにいたしまして、先般無事にお帰りになりましたことにつきましては、御家族はもとより、九千万国民があげて皆様方の長い間の御苦労をねぎらうとともに、感謝の念でお迎えをしたはずでございます。その当時の報道を通しても、また舞鶴におけるお迎え申し上げました状況によりましても、皆様方もおわかり願ったことと存じ上げます。私は先ほどから皆様方のお話を承わりまして考えさせられましたことは、皆様方がみなおそろいで、御自分のことをほとんどお考えになってなくて、ただひたすらに国家の復興のことを念じておられるそのお姿、私はいろいろお尋ねする前に、このことを皆様方に、感激と感謝をもって、つつしんで敬意を表したいのでございます。このお心があったればこそ、暫時ハバロフスクのあの事件の際に、皆様は一千有余名こぞって、われわれのことは考えないで、祖国の将来のために対策を誤まるなというお言葉をわれわれの耳に伝えてもらったそのことが生まれたのであろうということを、私は今深く考えさせられておった次第でございます。心から敬意と感謝の念で一ぱいでございます。 さて、きょうのお話によりますと、おそろいでみな、従来の参考人の方々とは違いまして、向うにおられた当時の状況はお二人の方から承わりましたが、あとのお二人の方は、帰還された方々の今後における生活の問題をいろいろと御心配になっているようであります。この点については、私ども当委員会といたしましても、将来できるだけ政府を縦樋いたしまして、皆様の御意に沿うように努力いたしたいと考えておる次第でございます。さて、今後われわれの委員会としても、また私自身としても、おそらくこの道に携わる者はみな同じだと思いますが、その参考にするために、二、三お尋ね申し上げたいと存じます。まず第一に木下さんにお伺いいたしますが、皆様をお迎えはいたしましたものの、なおわれわれが心配でならないのは、あらゆる手を尽して調べた結果、今なお消息不明者として約九千九百余名の方々が未帰還の状態であるのであります。これらの方々の御遺族のことを考えますと、私どもは何とかしてこの消息不明者の消息をつかむとともに、一日も早く皆様同様帰還してもらいたいという心で一ぱいのわけであります。ここにおる委員の諸君は、党派を超越して、ことに当委員会は、設置されてから今日まで、全く超党派的な立場においてこの問題に取り組んで参った者ばかりでございます。従いまして、この問題の将来の参考にするために皆様からお聞きしたいと思うのでありますが、どなたからもこの問題について御発言がなかったようでありますので、木下さんにでもとりあえずお伺い申し上げたいと存じます。
○木下参考人 未帰還者、行方不明者のことにつきましては、私といたしましても、ただいまどなたがどらということはわからないのでございますが、たくさんのお方が消息不明でおられることは存じております。先ほど津守さんからあの入ソ直後の状態のお話もございましたが、さらにその間、向うの警戒兵との間の錯誤とか、いろいろな問題で銃殺されたというようなことで、全然日本人にはわからずに処理された者も相当にあることと想像いたします。それはお前の単なる空虚なる想像ではないか、こういう御疑問もございましょうが、実は私は入ソ二年目にある収容所からある収容所に移ったのであります。そのときは非常な炎熱の行軍でございました。落後者がひんぱんにできる。落後者ができますと、彼らとしてはやはり落後者にも警戒兵をつけなければならない。警戒兵が落後者の方にたくさん要るという状況になりました。そのうちで、私の旧部下の将校でございますが、落後をいたしまして非常に苦しんでおりました。あまりひどく落後いたしますので、歩哨がうるさがって、殺そうじゃないか、そうすると楽になるからということを言い出した。そこで落後者同士が、そんなことをされては大へんだというわけで、みんな寄り添って持っていったというような例があるのであります。これは歩哨がそういうことを言いましたからよかったのでありますが、そういうことなくして、いろいろな間違いあるいはうるさいというようなことで行われたのが、ことに終戦直後にはずいぶんあったろうと思うのであります。しかし、そういうととはありましても、結局は、先ほど申し上げましたように、ソ連では私も向うにおりまして大隊長をやっておったことがあります。そらして、そのあとの折衝をやったこともありますが、そのときでも、死亡者とか局部的には刑を受けた者が出たのでありますが、そういう者については日本に通報するのか、してもらわぬと困るじゃないかといった場合に、向うでは、いや、おれたちには日本にそういろ死亡者を通報したり、刑を受けた者を通報する義務はないのだということをラーゲルの当局は言っております。その後もそういう態度でありまして、おそらくは、今日までの情報は、日本人の帰還者の報告が基礎になった情報だろうと思うのであります。そうしますと、帰還者の耳に入らなかった場合というものは、やはりたくさん存在し得ることになります。しかしまた向うが全部これを丁寧に記憶しておるかどうかという問題もありますけれども、収容所におる以上は向うがだれが死んだということは必ず給与の問題、その他の問題でつけております。平和の回復した現在におきましては、向うの死亡通報というものが手に入れば、とちらの調査と合せまして、非常に楽になるのじゃないかと、これは私自分で考えておる次第でございます。そういうふうな資料を向うから外務関係で折衝の際にお取りになるようなことにでもなれば、非常に工合がいいのじゃないかと考えております。それでは、ロシア人の資料の保存はどうか。日本では保存期限といたしまして三年だとか五年だとか書類にはあるようでありますが、ロシアの方では書類の保存というものは非常に長いようでありまして、われわれが今十一年たってロシアを立とうという直前に、まだ満州における官庁の事情なんかを取り調べたりするところを見ると、死人の名簿は必ずある、保存しておる、これが全部に及ぶということは疑問でありますが、収容所の管理に関する以上は存在しておると私はにらんでおりますので、その辺のところをお願いしたならば、また進展の道があるのじゃないかと愚考いたしております。そういうふうな観察でございます。何か御参考になれば……。
○木村(文)委員 死亡者についてのことは大体わかりましたが、前に帰還した方々からもいろいろ聞かされたのでございますけれども、たとえば生存しておって釈放はされたが、国籍の問題か何かで、日本人になっていないというようなこととか、そういったような生存しておりながら行方不明になり、あるいはまた消息不明になっておるというようなことがあるやに、私どもは現在までお帰りになった参考人の方々から聞かされる面もあるのでございます、それらのことについての何か具体的な、今後われわれ初め政府当局が調査するに当って調査しやすい、つかみやすい方法がございましたら、一つ聞かしていただきたいと思うのであります。
○谷口参考人 これは非常に例外になるケースかもしれませんで、私も実は直接その終末を見届けたわけではないのですが、私が手を焼きましてから、実はハバロフスクにおきまして、あそこの営内で麻袋修理の作業というのがあります。これは外の仕事に引っぱり出すには少しからだが弱いといろ者が、営内で麻袋の破れたものを修理する。この麻袋の修理に来ておった人でたしか大分県と思いましたが、高野という人がおりました。この人は、ソ連においてたしか十年の刑を受けたと思っておりましたが、その十年の刑が何か減刑になりまして釈放になったというまぎわの話でありましたが、自分はソ連に残ると言うのであります。それで、これは事情をほかの人から聞いたのでありますが、案はその八は元軍人でありまして、二等兵か何かで満州の国境におった。ところがどういう関係か脱走をいたしまして、それをソ側につかまった、こういう話であります。そして今度、どういうめぐり合せでわれわれと一緒にラーゲルにおるようになったか知りませんが、そういうととがあるので、自分は日水兵としての体面をけがした、だから自分は刑が明けても国に帰る気持はない、こういうような意向でありまして、その人と近しくしておった人なんかは、相当これをなだめてとめたそらでありますが、しかし自分としてはどうも今さら一度脱走した人間がみんなと一緒に帰る気持にはなれないというのでどうしても残るといろ話であります。その後私は詳しいいきさつは知りませんが、その人の姿を見なくなったのであります。人から伝え聞くところによりますと、何でもカラガンダ方面に行くことを希望しておったといろ話であります。そのあら筋の事実は大体間違いないと存じますが、そういうことがあります。
○木下参考人 残留者の問題につきまして、これは今まで帰りました者は、大体このマリク名簿に載っておりますし、載っていない方も多少は帰りましたが、今でも残っておられる方につきましては、今までのように一律的に簡単には見れないものがまじっておると思うのであります。それにつきまして、私が自分で考えますことは、思想上まあ向うの方がいいというような考え方で、好んで残っておられる者もあるようであります。それから、ただいま谷口さんからお話がありましたあれは、私の同県の者でありまして、私も勧めたのでございますが、なかなか帰らない。すなわち、帰還したいのだけれども、過去の行為を恥じましてやむなく残ることに決心をした、帰ることに踏み切れないというような方もあるようであります。それからあの地に妻子ができている。これはラーゲルにおれば妻子ができるはずはないのでありますが、何がしか早く刑期が明けまして、そのまま船がない場合には向うで働いております。そのときに現地の妻をもらうというようなことで妻子ができる、市民権を持つということで、まあかかわり上、つい向うで暮らそうというようなことで残っておられる方も相当多いのじゃないかと思うのであります。しかしこの人のほんとうの気持はどらなのだろうかということは、帰りたいけれども、妻子連れではとても日本にはいけないというような気持なのか、これはちょっと想像はつきませんが、こういう意思がはっきりとわかりまして、帰りたい者は帰すぞというようなことになれば、こういう方も来られるのじゃないかと考えるのでありまして、そういう種類の方もおられるように思います。また帰還の意思がたといありましても、もう市民となっていなかの方で働いておりまして、帰還という便がラーゲルにおりますれば今度帰るということでわかるのでありまするが、いなかの奥の方におりますと、やはり市民で働いておって、そのままほったらかされておるという人もあると思います。それからソ側の方に最初人られた方で、技術者とか労働上の非常な条件を持った方というものは非常に向うではほしがりまして、シ連の復興には役立つためでありまするが、満州から連れていかれた方があるわけであります。こういう方でまだ残っておるのがあるのじゃないかと思います。これは引き揚げの関係のお方に調べていただければわかると思います。そういうふうな、向うがほしくてなかなか放さぬというような方が多いと存じます。それから一番むずかしいのは、特務機関などにおられて、この特務機関などの要人でありまするが、入ソ後二、三年は居所が明らかであったのでありまするが、その後生きておるとも死んでおるともわからない、わからないがゆえに結局生きておるというようなことになっておるのであります。これは私の士官学校の友だちなどでも、まだそういうふうになって生きておるということになっておるようでありますが、しかしそういう特務機関とかいう情報関係の、向うか見て枢要な人間は、二、三年後の状況についてわからないのが非常に多いのでございます。こちらといたしましては、状況がわかりませんから生きておるということになつ、ておりますが、あるいは向うが再審判をして、死刑にでもやっておるのじゃないかというような節も、まあ憶測されぬこともないのであります。それから、今度もマリク名簿以外の方が来られましたように、ロシヤ側の事務のずさんあるいは非常に広いので精密を欠いたというようなことで、たびたびマリク名簿に載っておらずしてまだ存在しておられる方があると考えられます。大体こういういろいろな性格を持ったお方が残っておられるというふうに思うのであります。
○津守参考人 私の気のついた点を申し上げますと、一つはこういう点がありました。非常に僻遠の地の監獄といいますか、そういうところに一人おるという場合においては、日本人が帰ったとか、そういう状況が全然わからないわけです。それで、その人は、自分はこうして日本人であるからして、まだ日本人がおるらしいから日本人のおるところにやってくれというところの証明書を書いて向うに請願した。そうしたらば、お前日本人だったのかというのでもって、私たちの収容所に帰ってきた人が一人おりました。こういうふうにして、ばらばらになった人がまだたくさんソ連の広い領土の中にあちらこちらにおるのじゃないかと思います。こういう人も、そういう中に私は多少なり入っておると思います。それからもう一つは、これは私の非常に親しくしておった人でありますけれども、帰るときにこの人が私のところに来まして、こういうふうにして残らぬかというふうに向うから言われた。それでその人は、私は帰る、こういうふうに言っておりましたけれども、そのときに、お前は絶対残らにゃいかぬ。――これは戦前に離隊逃亡して入ソした人でございます。そういうふうにして、自分の過去というものを考えて、過去につけ込んで、向うが私は言ってきたんだと思う。もら一人ありましたけれども、そういうようにして、向うから半強要されて、そうして残っておる人もあると思います。終ります。
○木村(文)委員 大体消息不明の方々の調査のよりどころといいますか、大へん参考になりました。次に非常に皆様のお心にかけておられることは英霊の跡始末の問題のようであります。その一番の大きな問題は、遺骨の問題であるようであります。このことにつきましてお尋ねしたいのでありますが、津守、さんのお話では、お墓が点々として、非常に粗末にされておるというようなお話がございました。また木下さんのお話では、埋葬されていて、お墓もあるというよ、うなお話もございましたが、木下さんにとりあえずお聞きしたいのでありますが、そのお墓はどういうような状況になっておるか、もう少し具体的にお話しを願いたいと思います。
○木下参考人 先ほど津守さんからお話がありました通りの状況でございます。そうして私もお墓につきましては、ウラルの向うのエラブガの墓、それからハバロフスクのお墓しか存じませんが、ハバロフスクのお墓は、先ほど津守さんが申されました一カ所だけ整備されておるわけです。ほかのところは見せないのです。もらそういうのはない、知らぬといってどうしても今度参らせなかった。先ほど申しました一カ所だけ連隊長の墓を、出発間ぎわにだれかが夜行って参ってきたというような状況であります。それからエラブガの墓は将校ラーゲルでありましたが、これは、七、八年前にはりっぱにお互いが整備をして参りました。しかしながら、ソ連にわたりました労働大隊の、先ほど津守きんのお詰めありましたような状況は、これは実情であります。とうていお幕が完全にあるとは私は想像できません。ハバロフズクですら三カ所見せないのであります。当然われわれが前から要求いたしましたから見せるべきでありますが、どうしても見せない。一カ所だけ見せたという状況であります。ソ連は、御存じのように、ただいま非常に農業も工業も発展しておりますので、翻るいはらっかりすると、その幕をどんどん開墾していくんじゃないかというようなおそれも私は持ち得るのであります。あるいはハバロフスクのを見せないというのもも、畑になったのではないかというような心配もないではないのであります。そんな関係でありまして、ことに墓は三十センチか四十センチくらいの土盛りでありますので、これは年数がたつに従って平だくなっていくと思います。墓標も単に木で番号がついておるだけでありますから、これも年数がたつと朽ちるのであります。そんな関係で、いつまでも放置いたしますればわからないようになるような墓であります。何とかすみやかにこれをお引き取りをする、それまでにも、先ほども申し上げましたように、ソ側といたしましては、外国人の幕は予算をとってやっておるのだ、こうわれわれに答えておる状況でありますので、お引き取りのできるまでは墓の整備を向うに要求していただくということでやっていただいたらどうか、こういうふりに考えます。
○木村(文)委員 今の木下ざんのお話でも大体わかりますし、またこの前御帰還なされた方々をお迎えに参りました日赤の方のお話によりますると、ナホトカにある墓にお参りをさせてもらったのだそうでありますが、そのお墓は非常にりっぱで、ぎれいにしておってもらって、墓守までおった。そうして、墓標には、今、木下さんがおっしゃったような番号が一々ついておった、こういうのでありますが、この番号のことは符合するわけであります。そこで私は、その番号即記録的な面においての番号であるか、そうしてその番号をたぐって参りますると氏名がわかるようになっておるかどうか、これをお伺い申し上げたいのであります。
○木下参考人 番号と氏名は、その収容所では向うに記録がございます。何番はだれだというふうになっております。われわれ帰りますときに、ハバロフスクの全死亡者と番号をよこしてくれということをニカローノフ中佐に言ったのでありますが、これは量も多く、とろとう出発までには受け取ることができませんでした。そういう状況でありますので、番号と名前ははっきりとしております。
○木村(文)委員 それでは最後に一つ、これは将来の参考にいたしたいと思いまして特にお伺い申し上げたのでありますが、御承知の通り、ソ連との国交回復をするために、日本はまず第一段階といたしまして、御承知の通りロンドンに松木全権を派遣いたしました。その後、河野農相が漁業協定の関係で参りました。それからこの間に松木全権の交渉が一応中絶しなければならないような状態になったわけでございます。それから河野農相の訪ソということになり、その次には再び日ソ交渉が再開せられるに当りまして、重光全権、松本全権がモスクワに参ったおけであります。それがざらに調印までこぎつけるととができませんで、最後に鳩山総理が直接に河野全権とともに訪ソしたわけでございます。この間におきまして皆様に対するただいままで私が順序を分けて申し上げました、この間のそれぞれの期間における待遇の移り変り、処遇の移り変りについて、簡単でもよろしゅうございますが、どなたからか話を願いたいと思います。
○木下参考人 ただいまの、段階をつけての待遇の変化の状況でございますが、ぼうっとした状態におきましては、日ソ交渉が始まりました後には、多少はわれわれに対する気がまえというような点に改善をされたかというような気持はいたしますけれども、特に今の段階を経てどらというような気持、及び特別に日ソ交渉があったからといって、われわれに対して、これは変ったなということを御報告する資料はございません。
○木村(文)委員 それでは、以上で終ります。
○廣瀬委員長 委員外の発言の希望申し出がありますが、許可するに御異議ありませんか。(「異議なし」と呼ぶ者あり)
○廣瀬委員長 御異議なしと認めて、発言を許可いたします。野澤清人君。
○野澤清人君 先ほどお墓のお話があったのですが、実は私もシベリア抑留者でありまして、二十三年までイルクーツクにおりましたものですが、三つばかり大隊長もやりました。今、木下参考人のお話によりますと、ナンバーと名簿とが符合するということ、これはもしこのまま伝えられると、遺家族の方も相当大きな期待を持たれる。私の体験から申しますと、昭和二十年の終戦後入ソしてから笠年の六、七月ごろまでは、名簿も墓の整備もおそらくできていなかったと思います。従って、当博の名簿の処理の状況は、ただ物が廃棄されると同じように処理された。これは現実に私、裸で埋められていく戦友をよく見ております。しかも一昨年訪ソ議員団で私参りました当時、日本人墓地として底画されたところも実は通りましたが、すでにもう荒廃した野原になっておりました。われわれがなきがらを埋めますときには、土盛りをして、必ずその上に十字架の墓標を立てました。官、氏名、それから捕虜ノーメルまで書いて来ましたけれども、そういうものも何も一昨年にはありませんでした。従って、相当整備されて、コミッショナー等がラーゲルの調査に行くような場合には、かなり手入れをしたと思うのです。けれども、終戦当時一年ないしは一年半くらいの間は、全く乱雑だったのではないかという感じがしますが、もし御意見がありましたならば、この点お伺いしたいと思います。
○木下参考人 私の先ほどの御回答につきまして修正をさせていただきます。ただい崖御発言のありましたように、また先ほど津守さんのお話もありましたように、終戦の直後及び混乱期におきましては、ただいま申されましたようなことは真実と私は存じます。最近そういうところに手が届くようになって、番号と名前が一致をするというようなことになっておると思います。しかし、まだこれもわれわれがおりました付近の問題でありまして、その以外の地域におきましては、想像いたしますれば、ロシアの力では整備されていないのではないか、こういうふうに考えます。
○津守参考人 ただいまの通りで、私が思いますのも同様で、ただ、整備されているのは、ナホトカとかハバロフスク、モスクワ付近で、そのほかの地においては墓標はもちろんなくなり、つかもくずれ、日にちがたつにつれて、その跡形はだんだん薄れてきているという状況であると思います。これは時間の問題に非常に大きな関係を持っているというふうに想像されます。
○廣瀬委員長 木村君が重ねて発言したいという希望があるようでありますから、お許しいたします。木村君。
○木村(文)委員 最後に、厚生政務次官にお伺い申し上げます。お聞きの通り、四参考人の方々がみな異口同音に遺骨の問題、もう一つは消息不明者の問題等について非常に御心配になっておるようでございます。そこで私はこの機会に、国交を回復せられて批准の交換も終ったのでありまして、まさに平和条約を迎えればいいだけでございます。そういうときに当りまして、政府として、この問題についてどういうような施策、方途を講じておるか、また今後どういう方法によってこの問題の解決をつけようとするか、また遺族の問題についても、帰還者の就職の問題についても、どういうようにして御安心を願えるような方法を講じようとするか、この四点について、一つ政府当局としての考えを明らかにしてもらいたいと存じます。
○中垣政府委員 木村さんにお答えいたします。その前に、四人の参考人の方から重大な御報告並びに御意見を賜わりまして、大へん貴重に拝聴いたしました。従来政府のやっておりました生存者の確認であるとか、あるいは死亡者の確認であるとかいったような問題につきましては、正常なる外交関係が樹立いたしていなかったのでありまして、これは日赤並びに国際赤十字あるいはその他の中立国また日本の駐英大使、ソビエトの駐英大使等の話し合いによって、これらの問題の調査解決をやって参ったのでありますが、ただいま木村さんのお尋ねの第一点の問題でございますが、実は昨年、松本、マリク両大使の間におきまして、松本大使より生存者名簿の要求をしたのであります。それに対しまして、俗に用語といたしまして、マリク名簿と申しておりますが、これを提出され、生存者の確認は、これによって政府は知ることができたのであります。ところが、先ほど来四参考人から申し上げられましたように、その名簿以外にも生存者があるということがもたらされております。あるいはまた帰ってお見えになりました方から、こういう者があそこに来ておった、こういう人がおったと言われるととと考え合せてみましても、そのマリク名簿にないような方もあることが明らかに感知されるのであります。そういうことでありまして、従来非常に対ソ交渉に難渋をきわめておりましたけれども、今度国交が回復をして参りまして、正式に外交関係が樹立いたしましたので、これからは、責任ある日本の政府が責任あるソビエトの政府に対しまして、公式にこれらの問題の解決に交渉ができることになり、これは生存者の確認であるとかあるいは死亡者の確認であるとかいう問題につきましては、従来よりもそれらの調査の条件がよくなって参ったと考えておる次第であります。でありますから、政府はもちろんこの外交交渉によりまして、これらの問題をすみやかに解決できるように措置して参りたいと考えております。次に、先ほどの死亡者のいわゆる確認の問題でございしますが、これにつきましては、ただいままでに厚生省で持っている資料によりますと、実は確実に死亡名簿を全部これを取りそろえるなどというようなそういう材料を持っておりません。従いまして、ごく一部の地域には死亡の名簿が明らかにでき上がるのではないか、こういう期待を持っておる程度であります。それから、その次に就職の問題でございますが、これは引揚者に対しましては、労働省がその主管の中におきましてあっせんをいたしておりますしかしながら、厚生省といたしましては、適時にいろいろなことを考えまして、労働者に申し入れをいたしまして、これらの方々の就職のあっせんをただいままでにはかって参っておるのであります。
○廣瀬委員長 山下春江君。
○山下(春)委員 長い間、非常に長い間、非常な御苦労をなさいましてお帰り下さいまして、私ども国民は、皆様をお迎えすることを、ほんとうに心の底から喜んだのでございます。いろいろお話を伺いましたが、私も実は弟が二十四年に死亡したという死亡処理の通告を厚生省から受けておる、私はその姉に当るものでありますちろん遺品、遺骨等は一切受領いたしておりません。従いまして、二十四年に死亡処理をされたということは、終戦当時の混乱期であったのか、あるいはその後多少整理された後であるかということも明らかではございません。調べればおかるかもしれませんが、そういう状態であるところから見まして、やはりその遺族として、何か今にも生きて帰るのではないかと十一年思って暮しておる者からいいますと、この死亡処理ということは、非常にむずかしいことと思います。津守さんのお話を聞きまして、私はそうではなかろうかと考えられることは、過般私はソ連、中共の不法抑留に対して、世界の人道に訴えるために、国連総会の捕虜特別委員会に出席いたしまして、その事情をつぶさに訴えたことがございます。そのときに、ドイツの方から聞きましたが、ちょうど今お話のよた状況であります。これを正式な名簿によって調査究明しようとすることは、とちてい困難なのだ、そんなことを向うへ請求ずることはやぼだ、ないのだということでございました。そこで今、中垣政務次官からお話がありましたように、厚生省としては、そんなずさんなはずはないのだ、とにかく彼らは一つの労働力として考えておるであろうし、給与の点からいっても、名簿がないというはずはないのだというようなことで押して参っものの、今のお話を聞きますと、私もこの最後の調査究明という問題が、非常にむずかしい問題にぶつかっておるということをしみじみ感ずるのでございます。そこで私は、皆様方どなたでもけっこうでございますが、お尋ねいたしたいと思いますことは、皆様方が祖国に十一年目にお帰りになりましてお思いになることは、先ほどお話の自分たちの就職、あるいは満州官吏であられる場合は、法の改正によって恩給の適用を受けたいということ、ごもっとものことでございます。そういったような十一年間の空白を埋めつつ、なお当然受けるべき国原の処遇を受けつつ国家再建に協力していきたいというお気持、これがお帰りになってからの、祖国の土をお踏みになってからの皆様のお考えであると思います。同時にまた、あの酷寒のシベリアに英霊遺骨として残した在天の霊に報いる方法、あるいはまだどこか、あのシベリアの広野にさまよっておられる同僚を思う気持、そういう点の二つであろうと思いますが、国内のことは、私ども微力でありますけれども、当委員会はもっぱらそういったようなことを、どんな小さい問題でも一つずつ取り上げまして、きようまで解決をはかって参りましたが、今後の問題について、私ども内地で想像しながら進めて参りましたことよりも、皆様方は、この調査究明に対して、どういう方途が一番よかろうとお思いになるか、その点は四人の方が四人ともそれぞれの観点からお考えであろうと思いますので、簡単でよろしうございますから、今後のわれわれのこの問題の進め方についての皆様のお考えをお聞かせを願いたいと思います。
○津守参考人 私の考え方としては、全ソ連におりましたところの日本人でございますが、この人たち各人々々に所在地の地図、もちろん現地に行けばいいのでありますが、そういうようにして、各人から現地の地図と照らし合せて資料を得るということが、最も重要な問題じゃないかと思う。それはソ連におった人以外においてはわかりません。ハバロフスクに集結以後は別でございますけれども、最初の入ソの年というものは、全然人がおらぬ山中がたくさんございますので、そういうところには一人のロシヤ人もおらないだろうしするから、ぜひともこれは地図によって、まずおった人から資料を入手するということが一番確実な資料が得られる道だと自分としては思う。墓地の位置もまず調べる、これは全ソ連に私は及ぶと思います。これは責任者としてその地方におったとかいら人もございましょうけれども、そういう責任者というような方々だけでこれを調査するということは、きわめて困難だと思います。現地におった個人々々に聞いて調べる、それ以外には一それがまず一番の手がかりだと思います。
○木下参考人 生存者、死亡者のいろいろの統計的なお仕事につきましては、厚生省の方でずいぶん広い範囲に責めておられるので、だんだんおわかりになると思いますが、対ソ関係につきまして、微妙なところをどういうふうに究明をしていくかということは、単なる統計資料では迫力は薄いのじゃないかと考えます。入ソ後の実情その他につきましては、各方面ごとに人間を選定されまして、そこでこれを究明するためのやり方といたしまして、はっきりさせるような一つの組織のようなものを旧帰還者のうちからお作りになられて、それを利用されるということで、厚生省の統計的調査を一緒に先方に当るというふうにされたならば、非常に工合よく、また向うが隠そうとする裏をやることができるんじゃないか、こういうふうに考えます。
○中山(マ)委員 関連して。今隠そうとする裏というお言葉かございましたが、これまで参考人としてこの委員会にお越しいただきまして伺いましたこと、あるいはまた舞鶴へ参りましてお帰りの方にお目にかかった際に、死んだ人の名前でも、ベルトの皮にずっと穴をあけて、そこへ入れてやっと持ち帰ってきたというようなお話も聞いておりますが、あなた方からも今、隠そうとするというお話がございました。これは何のために向うがそういうことを秘密にしようとするのか、その意図が那辺にあるかということをお考え願ったことがございますしょうか。厚生省あるいは国家といたしまして、今まで外交交渉でも、いろいろとこちらにございます名簿、記録を提供して責めて参りましたのですから、大体こちらで出ていった人たちの数がわかっているということは、先方でもわからなければならぬと思うのでございます。それが、自分たちのまわりで死んだ人の名前を持ち帰ることすらも、あるいは遺品を持ち帰ろうとする、あるいはたとい指一本でもその遺骨の中から持ち帰ろうとしますと、船に乗るときにそれを奪われたというような話を私どもも再々聞いております。そのうしろにあるところのソ連の意図は、どういうことであるとあなた方現地におられた方は御看破になっていらっしゃいますか。そういうことをお考えになったことがあれば伺わしていただきたいと思います。
○谷口参考人 私は、その心理は、そんなに深い考えがあるのではなくして、いわゆる耳をおおうてすずを盗むの心理じゃないかと考えます。悪いことをしておるということは、これは気がとがめておるのだと思います。しかしそれが世界にわかつちゃ困る。日本にわかっても困る。これはくさいものにふたをするといいますか、なるべく先のことは考えずに、単なる当座の考えから、あまりそういうことが世間にわからぬようにしよう、こういうような心理だと私は思います。上の者はそういう考えを持っておったとも思われないのでございますが、少くとも下の方の者は、そういう考えだと思います。さらにまた考え方を別にいたしますれば、中には管理のやり方が悪いからこんなに死ぬんじゃないかと上から言われる。とにかく当座々々、自分たちの失態のないように、あるいはさらにあまり世間に目立たないようにというような考えからやったんじゃないかと私は考えます。
○津守参考人 私は、あの終戦当時の昭和二十年から二十一年にかけての惨たんたる状況というものを日本内地に知らせるということについての隠蔽であると思います。これはなぜであるか。遺骨を持ち、遺品を持ち帰っては、数がかっちりと出てきます。そうすると、あまりにも多いということで、その待遇というものは当然だれしも想像し得ることであって、それを隠蔽するための方法であったと思う。なぜかといいますと、私も遺品を持っておりました。ところが途中で、自分だけで持っていてはまずいので、それを各地方別に別けて、その近所の人たちにもお分けして、自分も持っておるというふうに二段の方法を考えて持っておりました。けれども、私はそのときに肺炎になって、四十一度から四十二度の熱が出て、それが続いたものですから、その間に全部持っておった荷物を没収されて、無一物になりました。そして、その遺品を持ってくることができませんでしたけれども、そのあとで聞くと、遺骨を持っておったり名簿を持っておった者は、全部取り上げられた。というのは、やはりあの最初の年の惨たんたる状況というものを、現実の証拠としてそれを届けるといえ、ことについて警戒しておったものである。ここにあるというふうに考えます。それでなければ、現在その墓も事実あるわけですから、当然その数も、彼らがほんとうに正直に、地方ごとに調べれば出てくる。親切心があれば出てくる問題であります。けれども、それらの荒廃した墓を見せずして、特別のりっぱな墓を二、三カ所作って、それを代表としてやっておるという点について、何らかそこに誠というものに欠けたものがあるように感じます。
○山下(春)委員 調査究明のいかにむずかしいかということを、私どもは痛感させられるのでございますが、これは皆様方と協力して、本委員会ほどうしても今年中くらいにこの問題をほんとうに追い詰めていって、遺族の方、留守家族の方に御安心していただけるような方途を講じたいと思います。どらか今後皆さん方のその意味での御協力をお願いいたしたいと思います。政府に対してちょっとお尋ねいたしますが、先ほどから参考人の方がるるお述べになりましたが、御健康で祖国にお帰りになりました方のすぐ目の前に痛感されることは、就職をどうしようかということであると思います。そこで、今日までも労働省が一生懸命やっておりますけれども、今回は非常にたくさんの人数でお帰りにもなりましたし、御年配の方も見受けられますけれども、皆様方がちょうど中くらいの御年配であられるようでございまして、もっとお年を召した方もあるし、若干お若い方もあるように思いますが、要するにお帰りになって家族の顔を見れば、非常に気のもめる御年配であられると思います。そこで、就職問題についてですが、ちょうど皆様と御一緒にお帰りになりました山内林徳さんは、私の選挙区でございますけれども、雪の三メートル以上も降るいなかでございまして、お迎えに来ようとして、十一年ぶりの御主人の顔も見ないで、雪の中になくなられました。その方から、どうもいなかに帰って落ちついて家内の墓守りをする気持にどろしてもなれない、何か働かなければならないと思うので、東京で働く道を探してくれというお手紙をいただいておるようなわけでありまして、これからの皆様の就職は、並み大ていでは、皆様を安心させるだけの就職口は得られないと思います。そこで厚生省は今日まで労働省と随時連絡をとってやっておられることと思いますが、何とかこれは世間を啓蒙いたしまして、何とかしなければいけないのだということで、やはり厚生省自身が世論を喚起する一つの運動を起しませんと、労働省も一生懸命やってくれてるとは思いますが、はかがいかないと思います。何か今年度そういうような啓蒙運動みたいなことをなさる御予定がございますまいか。
○田邊政府委員 ソ連からお帰りになった方々の当面の一番大事な就職の問題につきましては、ただいま御指摘の通り、及ばずながらできるだけの努力をしているつもりでございます。しかし、まだまだ不十分の点が多々あろうと思います。実は、政府の手によってだけでは、そういった啓蒙運動というものも困難でございますので、昨年の暮れから民間団体と一諾になりまして、全国的に、愛の運動という従来からあります運動の形によりまして、職場の開拓ということを重点的に実施いたしております。労働省も今月初めから雇用促進月間というものをやっておりますので、とれとタイアップしまして、さらに一そう啓蒙的な方法を講ずるように工夫いたして参りたいと思います。
○山下(春)委員 その点はぜひそう願いまして、一日も早く皆様方が職場を得られまして、お働きになることができるように御努力を願いたいと思います。先ほどお話の医療問題などにつきましては、舞鶴ではなるほどああいう空気でございますから、十分な健康診断をお受けになる気持がなくて、うれしさの方が先に立つというようなことだと思いますので、つい手抜かりの点があったと思います。前にお帰りになりました方で、非常に元気でお帰りになったので私どもも喜んでおりましたが、その方が間もなく二ヵ月ばかりで肺結核が出ました。しかもこれは在ソ中の栄養失調その他の無理から来たものであるということが明らかでございましたので、舞鶴では健康だということで舞鶴をお離れになりましたけれどうただいま私どもの県の病院で手術後、療養をしておられます。そういうことでございまして、当参員会などはそういうことを耳にいたしますれば、あらゆる努力をいたしまして御協力申し上げておりまするけれども、おわかりにならないでお苦しみの方があるようでございますれば、皆様からもどうぞおことずてにお伝えを願って、厚生省の方でも、お帰りになった方々には、親切に、療養の場合は協力するということを徹底されていただきたいと思います。いずれにいたしましても、非常に長い間の御苦労がまだいえもしない間でございますけれども、国家も、国会も、皆様方の将来のために全力を傾けておりますので、どうか一つ皆様方も、お帰りになりました同僚の皆様によろしくお伝え下ざいまして、おからだを御健康になざいまして、御健闘下さいますようお祈り申し上げまして、私の質問を終ります。
○廣瀬委員長 ほかに御質疑はありませんか。――御質疑がなければ、これにて参考人よりの事情聴取を終ります。参考人各位には、御多忙中のところ長時間にわたり事情をお述べ下さいまして、本委員会として、調査上、非常に参考になりました。ここに、委員長より厚く御礼を申し上げます。次会は公報をもってお知らせすることとし、本日はこれにて散会いたします。 午後四時四十三分散会