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24回国会衆議院1956/05/23

海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第14号

発言数
40
登壇者
8
会派数
2
開催日
1956/05/23

会議録

臼井莊一自由民主党

○臼井委員長代理 これより会議を開きます。  本日は委員長にやむを得ないお差しつかえがありまして、委員長の指名によって、私が委員長の職務を代行いたします。  これより、沖縄における戦没者の遺骨収集並びに慰霊に関する件について、参考人より事情を聴取することといたします。  この際、委員長より参考人の各位に対し、一言ごあいさつ申し上げます。参考人各位には、御多用中のところ御出席願いまして、委員長より厚くお礼を申し上げます。本委員会におきましては、かねてから、海外諸地域における戦没者の遺骨収集並びに慰霊に関する問題について調査を進めて参っておりますが、今般、沖縄地区における戦没者の遺骨収集並びに慰霊に関する問題について、過般、沖縄に行かれ、現地において戦没者の慰霊を行われた戦跡巡拝団の各位より現地の実情等をお聞きいたし、本委員会の調査の参考に資したいと存じますので、以上の趣旨を御了察の上、事情をお述べ願いたいと存じます。  では、これより両参考人から順次実情を聴取することといたしますが、参考人におかれましては、重複を避けて、それぞれのお立場より、現地における模様並びに御意見をお話し下さるようお願いいたします。初めに、吉富参考人よりお願いいたします。

吉富幸助沖縄戦跡巡拝団団長

○吉富参考人 それでは、命によりまして、私から沖縄戦跡巡拝のことについて申し上げます。  それより先に、私は山口県の遺族会の世話をいたしておりまして、日本遺族会の方にも関係をしておりますので、平素何かと皆さんには御指導を仰いでおります。本委員会におかれましては、常々遺族の問題に関しまして、格別の御高配を賜わりまして、われわれの問題も着々解決を見ておりますることは、関係遺族として、それぞれ平明を見出して喜んでいる次第であります。また今回は、沖縄の戦跡巡拝に関しまして、お聞き取りをいただく機会をお与え下さいましたことを、ありがたく存じております。  日本遺族会では、かねてから沖縄の戦跡を巡拝しまして、その実情を知り、関係遺族にも安心をさせたいと考えておりましたが、このたび都道府県からの代表者五十七名をもって、沖縄戦跡巡拝団を編成しまして、過ぐる日、靖国神社の社殿で、山下厚生政務次官殿の御臨席も得まして、結団式を行い、四月十四日に神戸港を出帆して、沖縄に向いました。  この巡拝団の使命は、沖縄戦の様相がどんなものであったか、遺骨はどうなっているだろうかなど、いろいろ心配をしている沖縄関係の遺族にこれらの事情をよく知らせて、一応の安心をさせなければならない、かつ現地で慰霊祭を執行して英霊をお慰めしたい、そういうことが第一義でありました。さらにいま一つは、非常に大きな犠牲を払った沖縄の遺族が、今なお国の補償も十分に受けることができない苦しみを見つつあることに同情をしまして、内地の遺族がわずかながら出し合うて、心ばかりのお見舞をしてあげようということで、その第一回分として七十五万円を贈呈する手続をしたのであります。四月十六日午後一時に、白山丸がちょうど奄美大島の西方海上を通過するとき、甲板上に設けられました祭壇に、この方面の海上で戦没されました全将兵の英魂をお招きしまして、荘厳な海上慰霊祭を執行いたしました。祭壇に供えましたものは、関係遺族あるいはその他の方々から託されました心尽しの花輪、生花、また愛情こまやかにつづられました妻よりなき夫への手紙だとか、その他英霊の生前の嗜好品などをお供えをしたわけであります。それで、あとこれを海中に投入する儀式を行いまして、参列者一同非常に感激をいたしました。  四月十七日の正午に、白山丸は那覇に入港いたしました。埠頭には、沖縄戦跡巡拝団を迎える会というのぼりを立てて、四、五百名の人々が出迎えられますなど、われわれとして、心のあたたまるものがあったのであります。私どもは、あらかじめ準備されておりましたバスに分乗いたしまして、琉球政府職員や沖縄の遺族会の方々の案内で、まず中部戦跡を巡拝いたしました。  中部戦線は、米軍が沖縄本島に上陸いたしまして以来、五十余日の間、彼我両軍の間に激闘が行われたところであります。二十年の三月二十五日に米軍が沖縄の西方の慶良間列島に上陸し、続いて四月一日には、非常に優勢な海軍や航空隊を伴って、中部の西海岸に上陸をして、嘉手納というところに上陸をいたしまして、そこで飛行場も占領をするし、ますます兵力を多くしまして、石川市というところで、この島を南北に分断したということになったようであります。この米軍に対しまして、わが軍は首里北方の丘陵あるいは洞窟に陣取りまして、防戦に努めたようでありまするが、中でも首里北方の寒川という高地は、前後十一回にわたって、取ったり取られたりして、非常に激烈な攻防戦が行わたようであります。沖縄には、各地に石灰岩による洞窟ができておりまして、防戦にはこれが役立ったようであります。米軍の激烈な空海陸の攻撃で、首里北方のわが軍は、五月下旬、南部島尻の方に後退するのやむなきに至りました。その退去行動も、米軍の砲爆撃によって非常に混乱して、損害を非常に多くこうむったようであります。従って、道路上やあるいは村落の周辺には、非戦闘員も交えた死屍累々というようなありさまであったということであります。南部の島尻の方に圧縮されました残存部隊は、洞窟の中に詰め込んで、ほとんど部隊としての機能を失って、刀折れ、矢だま尽きたというようなありさまであったようであります。中でも沖縄の学徒部隊である鉄血勤皇隊あるいはひめゆり部隊の最期は、非常に悲惨なものであったようであります。六月十九日に、牛島軍司令官は大本営に訣別の電報を打たれ、また二十三日には、麻文仁の壕の中で自決されたのでございます。そこで沖縄戦も一応終結を告げたようでありますが、八十余日の間、非常に苦しい戦闘が続いたということであります。  南部の戦跡は、至るところ悲惨そのもので、玉砕の地とか、あるいは自決の跡など、涙なくしては見ることができないようなところばかりであります。あるいはひめゆりの塔、あるいは健児の塔もこの方面に立てられております。さらに爆撃によって、住家もろとも一家全滅になった跡には、その辺の親戚などの生き残った者が、屋敷跡に位牌小屋を建てておるという哀れな姿もありました。  麻文仁の魂魄の塔の前に祭壇を設けまして、沖縄全島の戦没者の英魂をお招きをして、その慰霊祭を盛大に行いました。琉球政府の代表なり、日本政府の南方連絡事務所長その他たくさんの者が列席されました。内地から携行いたしましたお供えものを山と積まれたような格好でありました。式は非常に盛大荘厳に行われたのであります。そこに、激戦がありました沖縄の土地の土をお供えいたしまして、それを霊土としまして持って帰りまして、遺骨のない関係の遺族の方々に、御希望、申し出によってお分けすることにいたしております。  そのあと、南風原の陸軍病院の跡をたずねました。そこには、陸軍病院と申しますけれども、建物はありませんで、大きな壕でありまして、その壕の中に、多くの負傷者がすし詰めのように収容されておったということであります。設備も不十分であるし、上からは水滴がしたたり、下はじめじめしておるところに板やキビがらなどを敷きまして、そこに寝かされておった。湿気が非常に多く、換気も悪い。臭気ふんぷんたりというような中で、包帯の交換もなかねか容易にしてもらえない、ために傷口は化膿して虫がわくというようなありさまで、患者はずいぶん難儀をしたことと思います。ことに、中部戦線がくずれて、南部の方に退去をするというときに、この病院もまた後退をすることになったようでありますが、そのときには、行動の不自由な者は自決をしたり、あるいは砲爆撃で多数の患者がそこで倒れ、さらに壕の入口を粉砕されて、生き埋めになった者もあるということであります。さながらの生き地獄であったというようなお話でありました。  四月十九日には、各自が自分の縁故の地をもう一度たずねることにしまして、自分の子供やあるいは夫が戦死した場所を訪れたのであります。そこで戦死するまでには、さぞ苦労が多かったであろう、家のことや子供のこともずいぶん気にかかったことであろうなど、いろいろと想像いたしまして、そこで香をたいて、合掌して、声をあげて思い切り泣いておるような姿も見たのであります。  このように、非常に多忙な日程でありましたが、その間にも、二回にわたりまして巡拝団に対する歓迎交歓会などが催されて、沖縄の官民の方々から、公私のお話を聞く機会を得たのであります。これによって、沖縄の方々が、いかに祖国日本を慕っておられるかというようねことも推察をすることがでたようなわけであります。  こちらに帰って参りましたのは四月二十三日でありまして、靖国神社の方で帰還報告をいたしまして、解散をいたしました。  結論的に二、三申し上げますと、第に、戦場の跡始末のことであります。沖縄に二百四十余カ所の慰霊塔が、あるいは平和の塔とか魂魄の塔など思い思いの名がついておりますが、激戦場の跡にそれぞれ建てられておりました。戦場の遺骨はよく収集されて、丁寧に納骨ができております。全島戦禍のるつぼとなって、島民は非常に多くの犠牲を払われて、その上、戦後長く米軍の占領下で苦しみを見ながら、同胞愛の精神に燃えて、戦友の遺骨をこのように丁寧に処理されているということは、まことに感謝にたえないところでありまして、沖縄の人々に対して満腔の敬意と感謝を払わねばねらぬと思っておるのであります。ただ、壕の入口が爆撃などによって粉砕をされておるところもあるようで、ことに軍病院でありましたところには、そういうようなことが顕著でありますが、そこの掘り出しが困難なために、そういうところには遺骨がなお埋没されておると思われます。これは現地の人の個人の力では、なかなか収集が困難と思います。これらの遺骨は、国の方で御処理をしていただかなければならいごとと思います。  次に、沖縄の戦闘は、申すまでもなく、非常に激烈な戦闘があって、上陸の島は赤はだの島になったというようなことでありますが、ずいぶん苦労しつつ、八十余日にわたってこの島をわが軍は守り続けました。アメリカの報道機関は、この様子を本国に知らせまして、東京への道ははるかに遠いということを伝えたということであります。これは、わが将兵が力戦奮闘されたことはもちろんでありまするが、沖縄の方々が、よく軍に協力された結果であると思います。男子の十七才以上から四十五才までの者はすべて軍に召集され、防衛隊としてとられ、また男女中学生に至るまで軍の召集を受けて、戦闘・通信あるいは衛生等の勤務に服したということであります。その間、ずいぶん無理なようなことの要求もあって、ために非戦闘員も好むと好まざるとにかかわらず、軍に協力し、中には軍の手足まといとなり、自決した老幼者もあったということであります。非戦闘員の損害が七万三千を数えるということでありまするが、これらを物語るものであると思います。  こういう事情を一つ十分に御検討下さいまして、沖縄の人々に適切な補償の道が講ぜられるようにお願いを申し上げたいと思います。その他、沖縄の遺族の方からいろいろと要望を承わりましたが、これはまた必要に応じて御報告申し上げることにいたします。(拍手)

臼井莊一自由民主党

○臼井委員長代理 次に、横瀬参考人にお願いいたします。

横瀬精一沖縄地区戦没者遺族

○横瀬参考人 私、横瀬でございます。前参考人の陳述と重複しないように申し上げたいと思うのであります。  私は、自分の長男が二十二歳にいたしまして、学徒出陣であちらに渡りまして、陸軍少尉といたしまして、五月四日、敵が上陸して参りましたのに対して、軍の総攻撃が行われたときに、名誉のりっぱな戦死をしておる父親といたしまして、その気持を申し上げたいと思うのであります。  おそらくこの五十七名は、ほとんど遺族ではございますが、代表者として、また遺族でない方もございますが、あちらに渡りまして、あるいは悲しみを増すのではないか、またさっぱりし気持で沖縄から帰れるのではないか、こういうようないろいろ悲喜こもごもの気持であちらに渡ったわけであります。それは、直前でございましたが、新聞紙の報ずるところで、沖縄の遺骨は野ざらしになっているというような大見出しで報告されたので、ちょうど巡拝団編成の人員が決定したあとでありますので、非常な衝撃を受けた。どういう状態になっておるか。こういうわけであったのであります。それが幸いあちらに上陸いたしました当日、バスで遺跡の巡拝が行われた。その巡拝の途上、右左の山の中腹に馬締形のような形で堅牢なコンクリートの不思議な家がある。そこでその説明をあちらの島民がして下さいましたが、沖縄の本島の人間は、祖先崇拝ということを非常に重んずるのであって、あなた方にはあの馬蹄形のコンクリートの建物はわからないでしょうが、あれは島民のいわゆる墓である。これが支那から伝わってきて、時代の変遷がございまして形が変ってはおるけれども、沖縄の島民は、こういうふうに祖先を崇拝することをまことに重んじておるので、ほとんど自分の資産を傾けておるようなわけである。こういう説明がございまして、お墓のために、あれは八十万円投ずる、これは百万円の金を投ずる、こういったようにして、祖先崇拝のためにみんな作った墓場だということであります。  第一回に私ども慰霊塔に参拝をいたしたのでありますが、慰霊塔についても、内地で見られないりっぱな慰霊塔がある。そこで、私どもほんとうの遺族が入って見まして、まずよかった。この祖先を崇拝する本島人のあの墓場を見て、われわれは安心ができた、われわれの同胞の遺骨が野ざらしになっておるというような報道は、何かためにする報道であって、あれだけの大戦闘が行われたのであるから、あるいは惨たんたる遺骨の姿ではなかろうか、ころいう心配は、そこで胸から消されたわけでございます。みな遺族の者はほっとしたような気持でおりました。  いろいろその後、戦闘の状態を聞きますと、これは先ほどお話がありましたように、意外な敗北でありまして、もう戦い尽き、牛島司令官は自決した。それで軍の統制は乱れてしまって、島民も学生も、しかも女学生も全部剣をとって戦った。大東亜戦争は、沖縄の戦闘が負けたときに日本は負けた、こういうように思われる状態であった。  私は今職を女子教育に置いておりまして、女子滝野川学園の高等学校の校長と中学校の校長を兼ねておりますが、沖縄には第一高等女学校、第二高等女学校、あるいは男子の沖縄第一中学、第二中学、あるいは師範学校がありますが、戦闘に参加したこれらの学生の年配を注意してみますと、これは旧制の中学校でございましたから、今の高等学校に比較いたしますと、高等二年であります。自分のところの今の高等二年の子供に比較いたしまして、——それが篤志看護婦となって、しかも軍の命令が出て参りましてもはや万策尽きて、非戦闘員は去れという軍の命令が出ているにもかかわらず、自分らが看護しておるわが将兵をその場に捨てて帰れないというので、その送別の宴を一日延ばし、二日延ばして別れを惜しんでおると遂に、アメリカ側はもう島を全部包囲してしまった。それでこの人たちは自決したという。ひめゆりの塔あるいは白梅の塔というのが残っておりますが、それらの沖縄の第一高等女学校、第二高等女学校の女性がそこでもろとも自決しておる。男子の方は、大本営の方に入って、ざんごうを掘ったりあるいは軍服を借りて着て、上等兵の階級までもらった者がおる。これらの男子の中学生もまた軍とともに行動しておる。従って、その付近の島民も、やはりその当時日本の興廃を決する戦いだというわけで、まだ非常に士気が強かったわけです。軍に全部もろとも協力しておった。沖縄は島ぐるみ、日本の興廃を決する戦いだと考えて、あそこで自決し、あるいは戦死していったという姿がむしろほんとうである。  第一回に、私どものために向うの島の主席、時の沖縄主席が招待してくれました。向うの総理大臣ですが、なかなか気魄のある人でございまして、自分は長男を失い、次男を失い、三男を失い、四女、五女までなくした。遺骨を何とかして探そうというわけで努力したが、ざんごうの中で四女の死体だけは発見したが、長男もいまだにわからない、ころいうわけなんです。私ども多くの遺族は、自分のせがれがどこで戦死したというようなことを、その当時生き残って帰ってきた者からいろいろ手紙をもらっておりますので、その位置に、個人的に一つお参りをして、遺骨を抱いて帰ってこよう、こういうような気持であちらへ渡ったのでありますが、島の主席が、総理大臣のような権力を持っておっても、自分の長男の遺骨がいまだにどこにあるかがわからない、これじゃ自分のせがれの遺骨を抱いて帰ってくるというようなことは無理だ、こう考えた。  それともう一つ、その主席の態度であります。やはり死生のちまたを越えてきた主席の言を通じて、——あそこはアメリカの占領軍ですから、いろいろなアメリカ軍のスパイというか、諜報機関があるのでしょうが、われわれは早く日本のもとに復帰することを望んでいる、内地の人にはいろいろな誤解も伝わっておるが、われわれは、日本の内地に復帰を強く希望しておると、厳とした態度をとっておられるのを非常に頼もしく思った。むしろ私は、終戦後の日本の官民各位が占領軍の前でとった態度よりも、現在占領されておる沖縄の島の主席が、何ら臆するところなく、われわれをよく激励し、また遺跡の世話をして、日本の日の丸の翻ることを望んでいるんだと、こうまではっきり言われては、向うの日本に対する気持もよくわかりまして、明るい気持で遺跡参拝ができたわけであります。  一体どれだけ日本人が死んだろうか、と同時に、向うがどれだけ死んだろうかということで、帰ってきていろいろ質問を受けた。向うの損害が大きかったということはわかっているが、史実がないので、遺憾ながらわからないのです。わが軍また島民の損害は、十四万といわれておる。私はアメリカの損害が相当大きかったのではないかということを信ぜられる証拠を持っておる。というのは、ちょうどあそこを占領してきた司令官は、バットマンという将軍でありまして、この人が神奈川県に上陸してきて、横浜に司令部を作ったときに、カモ撃ちが非常に好きだった、終連事務局を通じて、外務省から内務省、農林省の方に話がありまして、だれかこれを案内してくれというので、私はその当時大日本猟友会という鉄砲の会の会長をしておりましたし、民間人が案内するより仕方がないというわけで、私が案内をやらされた。埼玉県の早稲田というカモの有名な猟地に案内をいたしまして、非常に好感を持たれた。日本の鉄砲を取り上げるというのを、民間外交で、鉄砲取り上げを押えたわけです。非常に懇意になったときに、大へん懇意になって工合がいいが、沖縄に残っておるわが軍の氏名が新聞にときどき発表されるのですが、自分のせがれがどうなっているかということを、一つ探してくれないかと言った。そのときは憤然と怒りまして、日本の青年も死んだかも知れないが、おれの方では二十万の青年を失った、そんなことできるかといって憤然としたのです。しかしそのときの参謀の中佐連中は、日本軍は強かった、日本軍は強かったということで、私どもを非常になだめて、こういうところで言うな、ほかのところで取りなしてやるからと言われた。そういうわけで、とにかくそのときにわが軍は十万の被害ということを聞いておりました。向うは倍は被害を受けて、相当向うの方では驚いたのではないかと思います。まして向うの司令官のマグナーという中将の戦死の場所がございますが、これはもう日本が軍の統制が乱れてしまって、みんなばらばらになったところで、わが軍の兵士がざんごうの中から狙撃して、敵の司令官を撃ち殺しておる。ところがそれを撃ち殺した関係から、アメリカ軍はそれから四日ばかりたって整備して、日本軍の反抗するやつは、完全にみな殺しにしてしまえ、こういう命令に変ったようなことを聞いておる。それで女学生をも向うは撃ち殺すという、実際、看護婦までばらばらやっつけるなんという、そんな残酷な話はないと思ったのですが、どうもマグナーという中将が射撃されて倒れて以来、四日の後に掃討戦が行われて、女学生でも何でも、海の果てまで追い詰められてきた。死ぬか、たまに当るか、もう仕方がない、逃げ場所がないということになった。そういうところにある慰霊塔のふたをあけてみますと、驚くべし、どくろが三万五千入っておるというわけですから、どくろの山なんです。その死骸が多かったということから、その慰霊塔について、北海道の方は、北海道の部隊も行っておるというので、北海道も特別にその部隊の碑を作ってくれ、東京都あるいは県の慰霊塔のわきに慰霊塔を作ってくれということで、そこまで一つ心配したらどうかということを私どもは思っておった。  そこで、先ほど申し上げましたように、どんなにひどかったかという問題でありますが、病院壕の中で——病院ですから、足がない、手がない、負傷をしておるという人がたくさんいるが、ところがそのときにはもう薬が足らない、衛生兵が足りないのですから、傷口にはうじがわいている。それでもつえをついて逃げ出し、はなはだしきは、魂魄の塔の方面に参りますとたんぼがございますが、たんぼの中を、まるで泥まみれになって、敗残していくというような、相当ひどい状態に一時はあったようでございます。いろいろな、レストラントの主婦だとか、大会社の重役をしている人あたりは、その当時、いよいよあしたは最後だという日の三日ぐらい前までは、非戦闘員として、負傷兵に水をやったり、担架で運んだり、いろいろみんな協力していたわけですが、やっと三日くらい前に軍の命令がわかってきて、あと三日くらいでだめだから、お前たちはもう逃げてくれということで、みな逃げておるわけです。食糧もなくなり、非常に惨たんたる戦いになったことは事実であります。そういうような状態になって、先ほど申し上げましたように、二百四十幾つの慰霊塔ができているが、向うの県知事の戦死の場所の墓でも、実にりっぱなものです。日本では、県知事が戦死したって、祭ってないと思うんですが、あちらでは、牛島司令官のでも、そういった一般兵士の墓でも、また沖縄の学生の墓でも、みんな像を作って、健児の塔といって、教育になるような状態になっていて、実にりっぱなものです。大東亜戦争の日本の戦跡としては、私はほかには行かないのですが、おそらくあすこほどりっぱなものはないのじゃないかと思うんです。島民が、自分らの金であれだけやったのだから、一つ日本の政府の金で、向うにもう少し作っていいんじゃないか。何か全体の慰霊塔を作ってやることが、沖縄の島民に対する義務であるぐらいに考えておるわけなんです。  そこで、こまかいことになるのですが、私ら遺族として、一日、許された時間で、私も自分のせがれの死に場所に行ったのですけれども、公報には、沖縄本島の字の名前ぐらいしか書いてない。沖縄が幾ら狭いといったって、なかなか広いのです。郡と村と字とあるわけですが、ところが、みな字名ぐらいで公報は来ているわけですから、なかなかわからない。私の経験からいきますと、参謀本部の地図で探したところが、やっと村があった。その村に行ってみますと、やはりまた村々で、死んだところをみんな掘って、遺骨を集めて、村の慰霊塔ができている。これは小さいながらも、先ほど国長がお話になりましたように、魂魄の塔とか、そういうような代表的な慰霊塔ではないけれども、できています。村々で畑や山に埋めた遺骨をみな収集して、それでみなで二百四十幾つも、できている。私たち東京都から出た代表者は、地区がわかっておるからというので、人夫を二十名ばかり動員いたしまして、いろいろ掘ったらしいのです。ところが、遺骨が七体出たわけです。頭骸骨というものは親に似るというわけで、遺体の白骨の頭骸骨と合わないから、自分の子を親が見れば、何か通ずるところがあるのではないかというのですが、どうも通じないというわけで、人の遺骨を持って帰ることになります。そこで、遺骨の収集が終っているかというと、七体も出るのですから、掘るとまた出てくるわけです。それで私も感じたのですが、自分のせがれの慰霊塔に行っても、その村に住まっていた沖縄人だけの名簿ははっきりしているのですが、しかし、こちらから行った人は、幾らか外国の人間が行ったような気持がありますか、よくわからないから、これからここで戦死した兵隊の名前を一つ問い合せて、一緒に名前を載せようじゃないかと思いました。大体、沖縄島民の戦死者の遺骨は、各村々の中で、墓標的なものが集まって、実にりっぱにできていました。  そういろわけで、そう悲しみを増さずいたしまして、さっぱりしたような気持で帰れたのです。  ところで、何とかしてつかんでみたいのは、沖縄島民は日本復帰を望んでいるかいないかという問題です。横丁横丁、裏々の町あたりに行きますと、不思議なくらい非常な歓待であります。向うの製糖会社の常務取締役の人が自家用車を持っておりまして、私とは何らの縁故もないのですが、向うの古い陶器、美術品のことで私と話が合いました関係で、私のためにハイヤーを持ってきて、夜は場末の飲み屋とかいろいろなところに連れていってくれた。場末の裏町で語っております言葉でも、泡盛を飲みながらいろいろ話を聞きますと、半数は復帰を望んでいる。半数は生活のために、帰ることはどうかというのです。今日、軍の施設のあります場所に近いところの畑は、非常に荒れているわけです。畑を耕してない。これも説明をしておりましたが、軍の施設の近いところの田畑がやせて荒れ地になっているのは、島民は非常にたやすく日銭が入る、こういうわけで荒れ地が多いのだ、これは指導して耕すようにしなければならぬと言っておりましたが、そういうふうに、軍の施設に雇われる関係上、生活問題から、半数は帰らない方がいいのじゃないかというような説がある。まあそれを四分六と見るか、いろいろ見方もありましょうが、何といってもわれわれと血を分けたような、言葉も同じでありますし、顔も同じでありますし、習慣も同じでございますので、われわれの浅い見解からいうと、復帰を望んでいる数の方が多いのじゃないかという気持であります。  敗戦後、われわれはよくパンパン・ガールで憤慨したのですが、夜の町でも、あの内地のパンパン・ガールみたいに、アメリカ人を引っぱるというようなパンパン・ガールは全然いないわけです。まあ誘惑されれば仕方がないということはあるかもしれませんが、ああいう醜い女性の姿は、沖縄では見なかったのであります。  前参考人の陳述と合わないようなお話を申し上げまして、お許しを願います。

臼井莊一自由民主党

○臼井委員長代理 これにて参考人よりの総括的の事情聴取は終りました。  これより、通告順により、委員各位の質疑を許します。戸叶里子君。

戸叶里子日本社会党

○戸叶委員 参考人の方から大へん貴重な御意見を伺いまして、ありがとうございました。あちらでとうとい犠牲になって倒れられた方のことを考えますと、まことに私どもとしても御同情にたえないのでございます。先ほど吉富参考人から、国家の方で適切な補償を今後考えてほしいというふうなことをお述べになりましたが、具体的に、たとえばどういうふうなことをお望みになっていらっしゃるかを伺いたいと思います。

吉富幸助沖縄戦跡巡拝団団長

○吉富参考人 申し上げます。沖縄の方の軍人軍属並びに動員学徒であった者は、一応軍人軍属に対する処遇を受けるということになっておるようであります。戦闘協力者というような形のもので、たとえば一般住民が付近の待避の壕に入っておりますと、軍人が来て、こういう用件があるから、こちらへこのうちの何人か出てきて、この用務をやってくれというようなことで、軍の仕事を仰せつかってやったというようなことで、沖縄の人は、そのような者を合せて四万人ばかり戦闘協力者がおると言っております。これらの者が今、法外に置かれて、何らの措置も受けることになっておらぬのであります。従いまして、こういう者に対する措置を願っているということと、それから中学校、女学校あるいは師範学校の男女生徒は、十七才以下の者も、ただいま申し上げましたように、軍人軍属の処遇を受けておりますが、同じような勤務に服した当時の青年学校の男女生徒は、いわゆる鉄血勤皇隊とか、あるいはひめゆりの部隊といっておったものと同様の扱いを受けておりません。これもやはり同じ状態のものであると思いますので、それに入れていただきたいと思います。  それから、沖縄は二十年の四月一日に、御承知のごとくアメリカ軍が上陸したのでありまして、それ以後のいわゆる軍属の死没者が、援護法の適用を受けることになっております。ところが十九年の十月十日、いわゆる十・十空襲というのがありまして、それ以後は、沖縄は敵の空襲を受ける機会が多かったのであります。従って二十年の四月一日よりさかのぼって、十九年の十月十日の大空襲以後の間のものを援護法の適用に入れてもらいたいということも言っておりました。次に、この軍人や軍属等は、もちろんこの援護法なり恩給法に該当するのでありますが、その裁定事務がはかばかしく進んでおらない。これはどういう隘路があるかというと、兵籍が、連隊区司令部など全部爆撃されて、なくなっている。従って、死亡の確認ができぬので、死亡処理ができないということで、だれがいつどこで死んだかということの確認ができぬので、請求手続ができないということであります。これは、日本政府の責任において、この事務がとられるべきであると考えます。  もう一つは、戸籍が消失して、戸籍の整備が非常におくれているということであります。この方の関係は、琉球政府において、これが整備をされなければならぬと思います。そういうこともあります。  大体において、例を申し上げますと、公務扶助料は、三万五千二百人の対象があると申しておりますが、その処理済みになっているものが六千六百八十であります。そのように未処理のものが非常に多く残っているわけであります。遺族年金なり弔慰金もまた同様の状態であります。これらの問題を一つなるべく簡略にできる方法をおとり下さって、すみやかにこれらの気の毒な遺族に処遇をしていただくように願いたいと存ずるのであります。

臼井莊一自由民主党

○臼井委員長代理 なお、総理府南方連絡事務局長の石井通則君、同じく第二課長の吉田嗣廷君、厚生省からは、厚生事務官の田島俊康君がお見えになっております。

戸叶里子日本社会党

○戸叶委員 ただいま参考人の方から、具体的に、こういうふうにしてほしいという御要請がございました。これは政府においてもお聞き及びと思いますが、これに対してどういうふうにお考えになっているか、またこれを具体的にどういうふうに処理してあげようとされているか、この点を伺いたいと思います。

田島俊康厚生事務官

○田島説明員 御説明申し上げます。沖縄では、大体、戦没者が、軍の関係におきまして四万二千名ありました。その兵籍は、散逸したとおっしゃいましたが、これは散逸しませんで、全部熊本県に疎開いたしてありましたので、昔からありまするところのものは、兵籍が残っております。ただ沖縄において、現地召集等をされました方については、先ほど申されましたような混乱が起っているのでございます。そういうような状況でありますので、現在までに、四万二千ばかりのうち二万七千くらいは公報が済んでいるのでございます。これがおくれましたのは、いろいろ占領されましたとき以来の関係がありまして、業務を始めましたのが実はおくれているのであります。これは、いろいろな関係で業務を進めることができなかったのでございますが、そういうようなことで、今二万七千くらいが大体終っております。御案内のように、こういう死亡処理を含めますところの復員処理が一番基礎になりまして、その上で援護法の問題とか、あるいは恩給法の問題とかいうものが逐次片づけられるわけでございます。それが二万七千ほど公報が先月末現在で終っておりまして、その中から、逐次援護法なり恩給法なりの処理が進んでおりまして、援護法関係が大体一万七千くらい終っております。それから恩給関係、特に公務扶助料のことでありますが、先ほど仰せになりましたように六千七百ばかり、これはすでに裁定が終っている状況でございます。そういうことでございますが、実は公報の処理を最近非常に急いでやっておるのであります。しかし、先ほども申しましたように、現地召集等の関係で、兵籍のなかった方があるのでございます。そこで、現地につきまして、とりあえずお申し出を願う調査票というものを配りまして、所要の記入をしていただいて、それをこちらにとりまして、それによっていろいろな調査をして、決定するというような手続になっておるのでございますが、実はそれが思うように集まらないので、困難をしておるところもあるのでございます。いずれにいたしましても、特に恩給法とか援護法とかが沖縄に施行されていっているということは、島民の方にも非常に感謝していただいているような状況であります。できるだけ取り急いでやるということで、編成も、特に沖縄だけにつきまして、世話課の仕事というようなことも、担当の県を指定することも、現在の状況ではできませんので、厚生省の中に、沖縄のことを、都道府県にかわって担当いたす大きな班を作りまして、そこで特別に処理をして急速に進める、そのようなことで現在の業務を実施中でございます。大体、以上のようなことで急速に処理をするという態勢をとって、今やっておるところでございます。

戸叶里子日本社会党

○戸叶委員 現地召集であった人たちの場合に、非常に問題がある、それから今そういうことに対しての申し出を願っているけれども、なかなか思うようにいかないとおっしゃっておられましたが、それはどういうところにあるわけでしょうか。たとえば、現地召集を申し出るようにという通知をしましても、その通知が徹底しないというような感があるのでしょうか。それともどこかから何かの横やりでも入っているのでしょうか。

田島俊康厚生事務官

○田島説明員 その点につきましては、実は南方連絡事務局とか、それから琉球政府とか非常に協力をしていただきまして、各村々にまで行っていただきますのみならず、厚生省の方からも、数回にわたりまして係官を現地に派遣いたしまして、いろいろ業務が進むようにいたしておるのでございます。出るべきものは非常に急速に出たのでございますが、あと残りました関係が、たとえば名前は大体わかっておるのだが、どこにどう行ったかわからないというようなことで、当時のいくさが、先ほど申されましたように、非常に混戦乱闘という状況になりましたので、そういうところを一応整えて出すという点で、非常に困難をしていらっしゃるようでございます。そこで、向うにあります那覇の日本政府連絡事務所にも、その係官を一人こちらから出して、常置しておりまして、そこと琉球政府と共同して、残った者をできるだけ早く吸い上げて、こちらに送るというようなことで、今、実施しておるようなわけであります。

石井通則総理府事務官(南方連絡事務局長)

○石井(通)政府委員 南方連絡事務所が沖縄に設置されましてから、この軍人遺家族援護あるいは遺骨処理等につきましては、私どもの最も重要な、最も力を入れておる仕事でございまして、現地の気の毒な方々をできるだけ早く援護法あるいは恩給法に乗せていくように努力をいたしておるような次第でございます。そこで、ただいま厚生省からもお話がございましたように、まず復員処理が第一番でございますので、厚生省といろいろ打ち合せをいたしまして、約九万か十万くらいの調査票を配付いたしまして、その調査票に各個人々々の実情を申告していただいたような状況でございます。それがやはり各町村から集まるのがおくれまして、そのうち約半分程度が一応は集まってきたのでございます。しかしながら、その記載事項が、軍行動のはっきりしていないような人その他非常に不備なものがありまして、逐次それらの人方について具体的に調査に参りまして、いろいろの実情を聞き、また同行動をとって生き残っているような人々を呼びまして、その証言を求むるような方法によって、その書類の整備を急いでいるような次第でございます。なお、これらの調査につきましては、現地に厚生省から派遣されました担当官もおりますし、また琉球政府の担当官につきましても、絶えずその事務上あるいは調査上の指導をやって協力を求めておりますけれども、いろいろ専門的な事項もございますので、厚生省の担当官の方々に絶えず機会あるごとに現地においでいただきまして、実情調査をしながら、それらの書類の整備について指導をしていただくようにいたしているような状況でございます。なお、非常に多数あります関係と、また現地における資料の不足等の関係もありまして、現在まだ、先ほどお話のございました戦闘協力者の方の調査等につきましてはおくれているのでございますが、去る三月に厚生省から担当官も派遣していただきましたので、今後戦闘協力者その他現在まだ十分手がつけられていない部分につきましても、できるだけすみやかに現地の調査実態をつかみまして、それぞれその整備したものから、厚生省に申達するように仕向けているような次第でございます。

戸叶里子日本社会党

○戸叶委員 いろいろとお骨折りになっていらっしゃることはわかるのですけれども、もうすでに戦争が終ってだいぶたっておりますのと、先ごろ沖縄から直接おいでになりました方に、外務委員会で参考人として聞きましたときにも、生活状態もあまりよくないように伺っておりますので、こうした問題は、なお一そう早く解決していただきたいということを要望したいと思うのです。  そこで、厚生省の方に伺いたいのですが、先ほど参考人の方がおっしゃいましたいわゆる軍人属でなくて、それに協力をさせられたような人、それから青年学徒の人、そういう方たちに対しての補償は、お考えになっていらっしゃいますかどうか。

田島俊康厚生事務官

○田島説明員 戦闘協力者の問題でございます。これはもちろん援護法によりますところの戦闘協力者というものが、多数出てこなければならないのでございます。それは予期いたしておりますが、先ほど申し上げましたように、一万七、八千の中に、まだきわめてわずかしか戦闘協力者のものが出て参っておりませんけれども、これは相当多数出られることを予想いたしております。  なお、学徒の問題でございますが、これは先般来、当委員会においてもいろいろ御開陳をいただきまして、大体あのとき伺いましたような線で現在処理を進めております。  それから、先ほどちょっと参考人も仰せになりましたが、十月十日に大空襲がありました、あれ以降は戦地として指定をいたしかえまして、すでに政令が出ておりますから、そのことをつけ加えて申し上げたいと思います。

戸叶里子日本社会党

○戸叶委員 次に、横瀬参考人に伺いたいのですが、先ほどのお話の中にも、沖縄の方々が日本に復帰を非常に望んでおられる。このことは、機会あるごとに私ども聞いていることなんですけれども、現地の方々がお話しをし合いまして、述べられた御意見の中で、内地復帰を除いて、何か今の政治のやり方に対して非常に不満か何か持っていらっしゃる、つまり日本の潜在主権はあっても行政権がないというような、いろいろそういった不平があると思うのですが、あるいは出版の自由がないとか、そういったことに対して、特に何か不満を述べているというようなことはなかったでしょうか。その点を伺いたいと思います。  それから、ついででございますから、一体一般の物価はどんなふうで、生活水準はどの程度であったかということを、つけ加えて質問さしていただきます。

横瀬精一沖縄地区戦没者遺族

○横瀬参考人 お尋ねの件ですが、言論の自由、出版の自由はないようであります。われわれは新聞記者に質問を受けて、われわれも君らの復帰を待っている、向うに占領行政を与えるというようないき方より、じわじわ日本への復帰運動をやったらどうだろうということを言ったわけです。それを書けるのか書けないのかというと、やっぱりあくる日の新聞には書いていないわけです。まあ言論の自由はないわけでありまして、インテリの人から受けた感じは、われわれは日本の日の丸の旗の翻るのを待っているのに、内地の人に、むしろわれわれがアメリカさんの方がよくなって、ぐずぐずしているのだというような誤解があっては困るというふうに私らとったのです。  それから物価の問題ですが、物価はこちらの三千円が向うで千円にしか通用しないわけです。向うで買うと遂に、非常に安い感じを受けるわけです。円タクでも三十円ですが、それは九十円払わなければならない。織物でも、向うのみやげになるような織物を通じて物価をはかっているのですが、まあ日本の物価の少し高めの物価じゃないかと思うのです。しかし、御承知のように、関税関係で、金時計とか外国の織物、英国の製品だとかアメリカの製品とか、そういったものは非常に安いわけです。それさえ、買ってくれば旅費が出てしまうというので、ぜひ買っていきなさい、支払いはこっちでするからと言われたのですが、私は巡拝団の性質からいって、そんなことはいたしません。内地の生活に比べて苦しいように私らは見受けなかったのですが、新聞では非常に苦しんでいると書いている。むしろ繁栄を続けているのじゃないかと、私は逆な考え方をしております。おそらく皆さん御承知にならないと思うのですが、沖縄の港に着くと、要塞化してしている。われわれが大島、八丈島、小笠原に行ったときの昔の感覚からいくと、漁村であるべき沖縄が要塞地になっている。あとは銀座の繁華街のように、最新式の洋式の建物なんです。たとえば、那覇市あたりは、東京都庁のようなワクのはまった建物ができて、新しい都市が建設されておる。向うの人に言わせると、将来香港のようになるだろうというほどであります。だいぶアメリカの商品が入って、コカコラで店頭が埋められており、小さな農漁村へ行っても、コカコラが売られている。ちょっと外国へ行ったような感じです。

戸叶里子日本社会党

○戸叶委員 他の委員の御質問があると思いますからよしますが、実は私はの間「太陽のない子等」というお子さん方がお書きになった本を読みましけれども、子供さんたちの願いも、何とかして早く日の丸をずっと立てるようにしてほしいという、ほんとうに涙なしには読めないような文句でもってつづってございました。そういうようなものを見まして、一方において香港のような植民地的な近代的な都市を作ろうとしても、やはりその犠牲になっていられる方、ことに軍用地の問題などが非常に多いと思うのです。従って、多くの人たちが望んでいられるように、早く日本の復帰ということが考えられなくてはならぬと思うのです。そういうことは、いずれ外務省なり何なりとも話し合い、あるいはまたこちらへ来ていただいて質問することいたしまして、私の質問は打ち切りたいと思います。

臼井莊一自由民主党

○臼井委員長代理 眞崎勝次君。

眞崎勝次自由民主党

○眞崎委員 まず参考人にお礼を申し上げたいと思います。大体は、戸叶委員の質問に対して、政府からも参考人各位からもお話を承わりまして、わかりました。私も次男、三男を失った遺族でございます。その死んだ者の遺言、日誌などを見ましても、またわれわれがまじめに考えてもわかるように、一番慰霊になるのは、やはり日本本国をりっぱにすること、日本を再建して、りっぱにすることが戦死者の念願であり、沖縄においては、その残っておられる方の生活の安定と繁栄で、その目的を達成するようにすることが残った者の英霊に対する務めであると考えております。その意味におきまして、あなた方が実況を見られて、今の沖縄居留民の正当なる希望や要求、またアメリカのやり方に対して、いろいろ宣伝もあり誤解もあるようでのりますが、日米親善のためにもこれを正しく理解させ、正しい施策をやってもらうことが非常に重大なことと思いますので、この際、目撃せられ、実体に聞かれ、訴えられた点を伺いたいと存ずる次第であります。

吉富幸助沖縄戦跡巡拝団団長

○吉富参考人 米軍は、あそこを要塞化しておるのでありますが、その基地周辺の道路なりあるいは基地と基地をつなぐ道路は、非常にりっぱなものができております。そして、その周辺には、米軍の家族宿舎なりゴルフ場が作られておる。他方基地から出ていった者は、ある地区に集団的に生活しているところがあります。そういう人たちは、自分の土地を基地に取られて、大部分の世帯は今までの生業をなくしたわけであります。それらのうちの青壮年は、ほとんどといっていいほど、いわゆる基地労務に従事しております。従って不安定な基地労務と思いますが、それに従事して、収入はかつかつの生活をするほどある。従って、基地にそれだけの多く土地をとられておりながら、なお今まで耕作した畑地が荒廃しておるというような、先ほど横瀬参考人が申しましたような状況であります。それで、琉球政府は、その荒廃地解消運動ということをやって、今なけなしの予算をそれにさいてやっております。そういうことであるが、なおその耕作地の荒廃解消はなかなかむずかしいそうであります。そのように一方ではりっぱな施設ができ、りっぱな道路が完成しておるが、一方、いなかの方に参りますと、農民はずいぶん苦しい生活をしておるような様子があります。私どもそういうことを見るために行ったのではないのでありますから、深くそういうことを申し上げるわけには参りませんが、相当にいなかの方の農民は苦しい。市街地の周辺のいわゆるアメリカ向きの商業をしておる人たちは、ある程度の繁栄をしておるというようなことで、そういう差が大きく現われておるというような気がいたします。大体そういうようなことを考えておるわけであります。

眞崎勝次自由民主党

○眞崎委員 横瀬さんに伺いますが、言論の自由が全然ないというのは、法規上ないのですか、遠慮して書かぬのですか、その辺の実情をちょっと伺いたい。

横瀬精一沖縄地区戦没者遺族

○横瀬参考人 それは、ちょうど内地に占領軍がおったときと同じようで、政治のことは、常識的に言えないのだということになっておるのじゃないかと思います。萎縮して、それは別問題だという考え方だと思います。それで、君らそうなんだろうと新聞記者に聞いたら、そうなんだ、自分の言いたいことを少しくらい書いてもいいじゃないか、しかしあまりひどく書くと、飛行機に乗るまで困るというようなことを申しておったのであります。実際、新聞に載せてないのですから、占領下において、そういうことは言えないのは当りまえだというのが彼らの考え方だと思います。

受田新吉日本社会党

○受田委員 お二方の御苦労を感謝申し上げますとともに、一点だけをお伺いしておきます。  沖縄でなくなった方々の靖国神社合祀に関する状況をお伺いしておきたいのですが、地元の方々は、靖国神社に祭られることをどのように希望し、またその祭られ方がどう処理されておるか、また各県にあるように、護国神社に準ずるようなものが沖縄ではどういう形で置かれておるかをお聞かせ願いたいと思います。

吉富幸助沖縄戦跡巡拝団団長

○吉富参考人 靖国神社に合祀してもらうということについては、非常に熱望を持っておられるようであります。すでに沖縄の遺族はしばしば五十人あるいは三十人という団体を作って、靖国神社に参拝をしておられます。しかし、この復員業務なり死亡処理ができなければ、実際に戦死しておっても、合祀ができておらぬ。この方面の問題が進まなければ、合祀は自然おくれてくると思います。  それから、護国神社的なものは、あそこに波之上神社というのがあったようでありますが、そこは全部爆撃されて、跡形もないような形になっております。従って、護国神社は、現在創設されておらぬと思います。

受田新吉日本社会党

○受田委員 現地における英霊をお弔いする催し、そうした機関というものは、どういうようになっておりましょうか。

吉富幸助沖縄戦跡巡拝団団長

○吉富参考人 先ほど申し上げましたように、各決戦場の跡は、ほとんどといっていいほど、納骨塔あるいは慰霊塔が建設されて、その数は二百四十数カ所になっておるようでございます。そこには、その周辺で戦死をした日本内地の戦没者も沖縄の戦没者も、一緒に納骨してあるようであります。従いまして、ときどきの慰霊祭は行われております。ちょうど私ども参りまして、最後に向うを出発する四月二十日には、伊江島の慰霊祭を行うというようなことを承わっておりまして、その慰霊祭にもぜひ参列してくれということでありましたが、それが時間等の関係で、できなかったのであります。そういうふうに、慰霊の供養もその地区地区で行われておると思います。

受田新吉日本社会党

○受田委員 米軍は、その慰霊に対して、いかなる協力をしてくれておるようでしょうか。

吉富幸助沖縄戦跡巡拝団団長

○吉富参考人 米軍のこれらに関する協力というか、そういうことについては、実は承わっておりません。そのような慰霊祭が盛んに行われておりますし、私ども参りまして、麻文仁の魂魄塔の前で、全島の戦没の慰霊祭を行いましたが、そういうことについても、何らの支障なく行われて、かつ琉球政府代表として副主席もそこに参列されましたし、地方のいわゆる知名の士というような方々も参列されましたし、婦人会・男女青年団というようなものも参列されておりますので、そういうことについては、何ら制限が加えられていないじゃないかと思います。その点はよく承知しておりません。

受田新吉日本社会党

○受田委員 琉球の政府のもとにあるかってのわれわれの同胞は、国籍は米軍の管理方式による所轄に属するという意味であるから、当然主権は日本国に存在する形になっているような教育が行われておりましょうか。教育的な立場から見られて、どう思われたでございましょうか。

吉富幸助沖縄戦跡巡拝団団長

○吉富参考人 そのような問題も、私ども詳しく見ておりませんが、各学校も、終戦後はわらぶきの学校であったようでありますが、それがほとんどなくなりまして現在では、鉄筋の学校がだいぶ復活しております。そういうふうでありますので、学童がそういう面で非常に卑屈を感じておるとか、圧迫の感を受けておるというようなことはないのじゃないかと思います。ただ先ほどもお話しになりましたように、昭和二十九年の一月一日に国旗掲揚を許されて、学童は日の丸を仰ぐ喜びを非常に感じたということを聞きました。その後それが再び禁止されたということで、そういう点で、これは学童のみならず、沖縄の人たちが暗い気持で今日なおおるというように思います。  また日本復帰の問題でありますが、これは、いろいろ見方もありましょう。私どもごく一部の人に総合的なお伺いをしてみたのでありますが、保守系の人も革新の人も、総じて日本に復帰したい、ただ何かの商売の関係で、今盛んにやっておる人たちはそうでもないのだが、その他の者は、総じて日本に帰りたいという気持があるということを伺っております。そういう点もわれわれ明確にこうだということを断定することはできないと思いますが、大体そういうふうに受け取ったわけであります。

受田新吉日本社会党

○受田委員 戦死者の遺族が、米国の管理政策のもとにおいて、独特な、すなわち米軍の管理あるがゆえに、特に保護されているという政策が行われているかどうか。たとえば、遺族に対しまして、日本国として恩給法及び援護法の特典が与えられていない立場の人人に対して、米国側が、独自の政策から、この人々を何かの形で守っておる手が打たれておるかどうか、これをお調べいただいたでしょうか。

吉富幸助沖縄戦跡巡拝団団長

○吉富参考人 それは別にそういう、手は打たれておらぬようであります。だから、裁定を一日も早くお待ちしておるというのが、現実の姿だと思います。

受田新吉日本社会党

○受田委員 厚生省の田島事務官にお尋ねします。靖国神社の合祀につきましては、厚生省引揚援護局長より、昭和三十一年四月十九日、援発第三〇二五号の通牒をもって、靖国神社合祀事務に対する協力についてという通牒が出されておりますが、この通牒は、さっき参考人の方々のお話にもありましたように、戦死者の資格を持たないと合祀されない、つまり戦死事務処理ができない者は合祀されないということでありますが、厚生省として靖国神社の合祀に協力するということは、これは基本的にいうならば、厚生省のほんとうの事務じゃない。ただ便宜的にお力添えしてあげるという意味であろうと思うのであります。もしこの靖国神社の事務を本然の姿でやられるとしたならば、これは厚生省の所管外のことをやられたという違反行為であるということになりますが、好意的にやられていると思います。その際に、恩給法及び援護法ではっきりと援護あるいは恩給の対象になる人でなくても、国家の公務で戦死したことが確認されれば、祭られるような形になっておるのではございませんか。

田島俊康厚生事務官

○田島説明員 ただいま受田先生のお話でございますが、靖国神社への合祀について、大体従前から行なっていらっしゃいます基準と、援護法、恩給法の基準とは全然違う。——全然違うと申しますと言い過ぎでございますが、若干靖国神社の方が幅が広いわけでございます。そこで、ただいま靖国神社からのお問い合せに応じまして、これは協力しなければいかぬというので、先生のおっしゃいましたような要領で実施いたしておりますが、とりあえずは、援護法あるいは恩給法等によって裁定されました方は、なくなられました確認でありますとか、当時の御身分でありますとかいうことも確実でありますし——なおその点で一番苦労いたしますのは、御遺族がどこにいらっしやるかということがはっきりしませんと、あとで非常にめんどうなことになりますので、そういう点は、援護法、恩給法の裁定をせられました方は明瞭になっておるわけでございます。そこで、そういうところから逐次取り調べまして、靖国神社の問いに答えておる、こういうような仕事のいたし方をいたしておるのでございます。将来は、もちろんそれのみならず、たとえば援護法や恩給法に、本人といたされましては該当すべきものであっても、それに該当すべき遺族がないというような方もございますし、あるいは一例を申し上げますと、軍の戦闘に協力をして、死後有給とかあるいは無給の軍属になったというような方等もあるのでございますから、今の仕事が進んでいきますならば、そういうところにまで漸次及んでいくべきものだと私どもは考えておるのでございます。

受田新吉日本社会党

○受田委員 沖縄でなくなられた非戦闘員が七万三千人ばかりあるということでありますが、これらの方々の中には、例の少年兵、現地の軍隊から特に指定された人々は含まれておりますか、おりませんか。

田島俊康厚生事務官

○田島説明員 沖縄でなくなられました学徒といいますと、一般に軍人または軍属として扱われるべき方が、現地からのお申し出によりますと、大体七百人でございます。そのほかは、今までのところはまだお申し出がございません。そういう方は、それぞれ大多数の人は軍人として扱われておられるようでございます。あるいは軍属、ことに女子のひめゆり隊の方々、これはもちろん軍属として扱われておる、かような状況でございます。そこで、今仰せになりました七万というような数は、これは戦争に巻き込まれたと申しますか、そういう部隊行動等をおとりになった方でない方の損害であろうと私は考えております。

受田新吉日本社会党

○受田委員 沖縄はそうした悲運のるつぼと化したところでありますがゆえに、特別の考慮をしてあげて、現地の報告書に基いて靖国神社に合祀するとか、あるいは早く援護法等の恩典に浴せしむるとかいうような措置、また例外的にも、現地で軍人としての身分を付与したような形になった分については、現地の特殊事情を考慮して、それに軍人、軍属の身分を与えるとかいうような非常措置をおとりになってあげて、やっと現地の人にある程度の希望を与えることになるくらいだと思うのです。この点は、沖縄の特殊事情によって、特別措置を厚生省としては特にお考えになられる必要があると思いますが、御見解いかがでしょうか。

田島俊康厚生事務官

○田島説明員 先ほど戸叶先生からお尋ねがありまして、私お答え申し上げたのでございますが、大体先国会におきまして、当委員会でいろいろ御意見を承わりました線で処理をいたしておるのでありまして、先ほど七百名ほど現地からのお申し出があるということを申し上げましたが、そのうち半数くらいは——これは男子だけでございますが、すでに半数くらいは片づいておると私は考えております。

臼井莊一自由民主党

○臼井委員長代理 他に御質疑がなければ、これにて参考人よりの事情聴取を終ります。  参考人各位には、御多用中のところ、長時間にわたり、非常に貴重なお話を詳細にお話し下さいまして、本委員会といたし、調査の上に非常に参考になりました。この際、委員長として、厚く御礼申し上げます。  本日はこれにて散会いたします。次会は公報をもってお知らせいたします。    午後三時二十一分散会

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