社会労働委員会 第6号
- 発言数
- 84 件
- 登壇者
- 15 名
- 会派数
- 3
- 開催日
- 1955/12/16
会議録
○委員長(重盛壽治君) それではただいまから社会労働委員会を開会いたします。 本日は引揚促進及び援護対策に関する件を議題といたします。 本問題に関連いたしまして、本日は、去る十一日ソ連地区から引き揚げられました方々の代表の方においでを願いまして、現地の実情についてお伺いいたしまして今後の参考に資したいと存じまして、本委員会の決定に基きまして参考人として御出席を願った次第であります。この機会に、私から委員会を代表いたしまして一言参考人の方にごあいさつを申し上げさせていただきます。 参考人の各位には、長い間異郷の地において辛酸をなめられまして今回御帰国になられましたのでありますが、委員一同その御労苦に対し衷心より御同情を申し上げるとともに、御帰国に対しまして深くお喜びを申し上げる次第でございます。 なお委員会は残留同胞の引揚促進援護対策等につきましては常に関心を持って努力を続けて参ったのでありまするが、今回お引き揚げになられました方々の代表として、参考人の各位のおいでを願い、引揚の事情、残留者の状況等を承わり、今後の参考に資したいと考えておる次第でございます。御帰国早々でございましてお疲れのところ、しかも今後の私生活自立に何かとお忙しいところを御出席を願いましてまことに恐縮に存じております。何とぞ当委員会の意のあるところを御了承下さいまして、いろいろとお話し下さいますようお願いをいたします。 お話を願う項目につきましては、先に御通知を申し上げておいたのでございますが、必ずしもその項目にとらわれることなく、率直にいろいろのお話を願えれば幸甚と存じております。ただ時間の関係もございますので、はなはだ勝手でありまするが、一人当り十五分程度で御意見の御発表を願えれば幸いと存じております。どうぞよろしくお願いいたします。 なおこの機会に各委員の方々にお諮りをいたします。いろいろと時間の関係もございますので、参考人の意見を全部御発表願ったあとで質疑をお願いしたいと存じますが、御異議ございませんでしょうか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○委員長(重盛壽治君) 御異議ないものと認めます。 それでは武藤さんから御意見を伺わさせていただきたいと思います。
○参考人(武藤秀吉君) まず参考人としてこの御下問事項にお答えする前に、帰還者一同にかわりまして一言お礼を申したいと思います。 私ら国民各位の非常なる熱誠ある御努力によりまして、辛うじてこのたび帰国することができました。これみな国民総意の力であると感謝いたしております。将来におきましても、なお向うに千数百名の人間が残っておりますので、この人たちを一日も早く日本に引き取りを願いたい。これは政治、外交交渉がたとえ成立するせぬにかかわらず、人道上の問題として、千数百名の命を引き取る意味におきましてぜひお力添え、御努力をお願いする次第であります。まず参考事項の前にお礼を申し述べて、お残りになっておる人々の将来のためぜひ御努力願うようにお願いをいたします。 次に第一項の御質問に対しましては、終戦時から抑留されるまでの状況、私は奉天におりまして、ただいまから西歴を用いさせていただきます。それは向うで呼びなれておりまして換算するのに相当頭を悩ましますので、西歴を使わせていただきます。 一九四五年八月十九日接収委員長として奉天に来ましたところのカラワエフ少将と鉄道警護に関して交渉を開始しました。八月二十一日入城しましたところの鉄道連隊の関係者と、主として武器の引き継ぎを行いました。九月二十五日その引き継を終えまして、一日たって九月二十七日ゲペウに特務機関使用の諜者容疑者として逮捕取り調べを受けたのであります。拷問の結果、防諜上国境を潜入して来るソ連派遣の諜者を私の指導のもとに逮捕したという理由によりまして起訴せられ、十月十五日奉天を出発し、十二月四日チタ監獄に収監せられました。その罪名は、ソ同盟刑法第五十八条第四項に該当する資本主義国家の援助という名目でありました。 次に抑留中の状況について申しますれば、順序上、七項から申させていただきます。チタ監獄では一九四七年の初めまで未決囚としておりましたが、十年の判決の確定の後に、同月の末、カザックスタン共和国のカラカンタ地方のビタィック強制労働所に移されました。その地方に五〇年の二月までおりました。そのうちの半分は、第六地区と称しますラーゲルに入りまして、各国人混合の中におりまして、日本人は私一人でありました。五〇年二月帰国するのだといわれて、カラパスの中継所に移されました。同所で身体検査の結果、やせておるという理由のもとに病院に一時収容されました。四月十三日ハバロフスクの日本人余刑捕虜収容所に入りました。そこで初めて多くの日本人の方にお会いしたのであります。そこで五二年の十月一三日ハバロフスクにおりました二十四名、これは後宮元大将を先頭といたしましてチェレンワの将官収容所に移ったのであります。その後本年の九月十日までおりまして、九月十日近く満刑帰国のため再び私一人チェレンワ将官収容所から囚人列車で護送されまして、一カ月の後にハバロフスクへ到着をいたしました。 次の労働状況、ソ連の強制労働収容所では、私は年令の関係もありまして、体力労働に適さないという理由のもとに、体位は四級者に認定をされまして、それゆえに所外作業は免れました。しかしながら所内の軽作業、すなわ炊事の補助、日直勤務、あるいは麻なわ作り等に従事しておりました。 その次の賃金ですが、賃金は四級者なるがゆえに支給をされません。 次の食物は、朝食として穀類のスープ半リットル、しかしながら内容はほとんど水でありまして、水を捨てますと、辛うじて茶さじに半分くらいの雑穀が残るのであります。昼はカーシャ、すなわち雑穀のおかゆであります。これが二百グラムとジャガイモ及びつけもののスープ、すっぱいキャベツの野菜であります。それと塩づけのニンジン等の入った野菜のスープであります。これを半リットル、そのほかに一日の分として黒パン六百グラムをもらうのであります。夜は朝と全く同様のスープ半リットルであります。これが囚人の給与であります。 衣類は私入ソ以来着のみ着のままでおったのでありますが、移動時期に列車内及び休憩所において休んでおるときに、全く強盗にもひとしい囚人によりまして略奪されて真に着のみ着のままの姿でありました。着がえがないために、シャツは半年に一回辛うじて洗たくをするのであります。しかしながら破れたもの、あるいは冬になりますと綿股が要ります。これあたりはもちろん支給されません。やむを得ずそのほか修理材料等が要りますので、毎日のパン六百グラムのうちの三百グラムくらいを二ルーブルで囚人に売りまして、そうしてその金を得て必要なものを買うたのであります。しかしながら検査が年に一、二回あります。そのときにこれは官給品だと認められまして、官給品として記帳されます。しかしそれは着ることは認められます。しかしそれは帳簿に記入されます。これはくれるのではありません。貸与の形でありまして、その価格が記帳されて、失った場合には全額新品の値段で弁償しなければなりません。あまりにひどいので、所長に話しましたところが、シャツ一組とわらぶとん一つをくれました。すべてこれは借用の形式であります。ただ日直勤務中手ぬぐい一筋を貸してくれました。これは七ルーブルの金額を記帳されております。金が全くないので困るということを所長に話しましたところが、四九年十一月と十二月二カ月間日直手当として二ルーブルずつ支給されました。五〇年一月には、五ルーブル支給されました。中継所に入ってからは一文も支給されません。その後ハバロフスクに移ってからは、この間は何も支給されませんでした。五一年の末から二年の春にかけまして受刑捕虜三名が紙箱を作れと言われて、約三カ月作りました。それで一カ月百五十ルーブルの収入を得ました。しかしながら過分に作って当時手取りは二百以上になったのでありますが、その百五十ルーブル以上のものは政府に没収されたのであります。 衛生関係。その後今度は将官ラーゲルのことは――ほかのことは私は存じませんから、チェレンツの将官ラーゲルの衛生関係について申し上げます。ソ連側は軍医少佐と大尉の二名で、受刑捕虜側の軍医は、ドイツの元軍医少将が一名担当しております。しかしながら実権はありません。 労働収容所では労働はありませんが作業はあります。これは自活のためにみずからやらなければなりません。過去においては全部自給であります。食物、材料はくれますが、あとの邪魔の修繕であるとか、ペンキ塗りであるとか、庭の掃除、食事の炊事、それからそのほかに便所掃除、これはみずから実施をいたしております。決してそこで楽に遊んで暮しておるのではありません。これは体力に応じて一年に二ないし四時間働いております。しかしながら金は一文ももらいません。ただ若い人で将官以外の方は八時間労働が建前であります。これに従事しますと、約一カ月に一五ルーブルいただいております。 健康は、ドイツ人が自分のところに送ってくれた小包の余りをわれわれにくれますので、それによって栄養、カロリー源を補充いたしまして至って健康であります。これはラーゲルの給与のためではありません。ドイツ人のあて名のものからいただいた、これの残りで生きておったのであります。現在床についておられる患者は一名おられます。 将官の平均年令は現在六十三才であります。山田元大将の七十五才が日独通じて最高年令であります。思想教育については全然何もありません。 信書は大部分の人は発信通り受け取っておられます。しかしながらこれは毎月というふうに順調にはいきません。ときによっては数カ月停頓いたします。今度八月の末に――九月の初めですか、訪ソ議員団が来られるというので、その前に固めて手紙を配給されました。ある人は五通もらっております。それはいずれも御家庭で心配して航空郵便で出しておられます。その航空郵便が五カ月たまって参りますので、何にも航空郵便の意義をなしておらないのであります。 それから慰問品の入手状況。これは家庭よりお送りになるものは確実に手渡しをしておられます。ただし厳重なる点検の後に、禁制品を全部没収されてから手渡しされるのであります。たとえばカン詰等もレッテルは全部はがされて、そうしてそこであけて中身を検査して、その後に渡されるのであります。しかしながら各家庭の貧富の差がありますから、非常に受け取りの数は違っております。最少のものは、小包を受け取るようになりましてから二個だけ受けたのが最少と思っております。 ジュネーヴから来ます慰問品は二ないし三カ月ごとに一回ずつ五人にあて送付を受けております。一回五人です。その五人は、先年度は一つもらうたびごとに同じ人であります。今年度になりましてまた別な人が五人であります。それもしかし個人の名前で参りますので、全部ほかに分けるわけにいきませんので、そのままにしてしかるべく、向うでは将官収容所では同じ部屋におりますから、同じ部屋の人だけは一緒に全然もらわない人でもこれはいただいております。しかしながらあまりもらわない人は肩身が狭いわけなのでありますが、そういう状態で、食べることにおいては日本の味を味わっております。 それから、ドイツから参ります小包は、先般昨年の暮だったと思っておりますが、その時に帰った人が帰られてから、そこにおられる日本人の名前を報告されたと見えまして、知り合いの方にさっそく向うに名前を申告されたと見えて、その人にはさっそく小包が到着しておりました。ただ個々に、たとえば、私じゃないのですが、一例を申しますと、渥美なら渥美というので、それに対して向うから来ます。それは宗教団体、社会団体、それからその他特殊の方々から面接参ります。そうして毎月一人に一ないし二個ずつ、そういう名前の登録された方には向うから、送って来られます。現在私が出ますまでには、七、八名の方に毎月送ってこられております。今回ドイツ人が相当帰りましたので、それも帰ったならばさっそく届けられて、同様に日本人に小包を送っていただいておると思います。ただし日本からは将官収容所には何物も日赤からこの間北斗丸で送っていただいたのは若干受け取りましたが、そのほかは何物も受け取っておりません。それで実は国民の方々がわれわれのことをお忘れになっておるのではないかという感情をみなが抱くのであります。 ところがこちらに来まして、いろいろなことを承わりまして、われわれの考えは行き過ぎだという感じをいたしましたが、そういう向うにおる、これは将官収容所だけではなく、ハバロフスクも同様なお考えで、私はあそこに二カ月船待ちしておりましたときに、ぜひ国家の、国民の力で、各人の負担じゃなくて、何とかこういう御慰問を願いたい、そうしてそれが形の上では何かキャラメル一つでも何でもいいから、とにかく送っていただきたいという心を持っております。 それから生活状態につきましては、私イワノフのことを主として申しますのでありますが、この将官は一般囚人と特殊の待遇を受けております。これは材料、数量においては、かなり彼らから言えば三千カロリーでありますから、十分だと思われましょうが、実際はわれわれの口に合いません。何しろつけもの等もすっぱいつけものを朝から晩まで食わされます。それから魚や肉はすべて塩づけであります。夏の収穫の時期はときたまなまのものもありますが、そういうときにはいいものも食わせますが、ほとんど主力は塩づけであります。これは囚人なるが故にではありません。ロシア人の生活はすべてかくのごときものであります。ただしそこには将官と一般の人がおられますが、少人数でありまするから別に献立をして作るわけにはいかないので、全部を同様につきまぜまして、そうしてほんとうに家族的に、三十数名でありますから大家族のような気持で食堂ですわって食べております。こういう工合の状態でありますから、ソ連を訪問します人に見せる、観光コースの人質になっておるのではないかと思うのです。それですべてそういうラーゲルを見せて、かくのごとく優遇されておるのだから国民は安心せよ、それで満足せよということを国民に示す一つの手段ではないかと仏は想像しております。ハバロフスクの方は、今度初めて訪ソ議員団が見えられましたが、先の高良とみ女史のときには、われわれの目をふさいでかん詰めにしまして、午後二時半ごろまでかん詰めにしております。だれが来たのかわかりません。お帰りになって初めて高良女史が来られたということを承わったのであります。 次に今後の引き揚げ状況のありさまであります。目下ハバロフスクにおいては、今月の二十四日に満刑になる人が六七名おられます。これは私らと一緒に帰るのではないかと思ったのですが、残されております。それでありますから、これを中心として逐次毎月毎日刑の明けた人をそこへ集めて、また三、四十名になると還送が行われるのではないかと思います。この期限の予測は、ほかの方の状況がわかりませんから、何人来られるかということはわかりませんが、まあ私の想像では、外交交渉がまとまらなければ三、四カ月の後には刑の明けた者は帰してくれる。刑の明けた者は、ソ連の政府との約束がありまして、これは帰さなければなりません。そういうので、また三、四カ月後には帰ってくるのではないかと思います。ところが、将官が今まで一名ずつ引き揚げに加わっております。二回に一回ぐらいです。これは将官も別に扱っておるのではないことを発表するためではないかと思います。これは想像でありますからわかりませんが、しかし、それはいずれも中風患者であります。第一回が人見元中将、第三回が富永元中将、それから第五回が福士元少将、これはいずれも再起不能の方であります。人見中将はお帰りになって翌年なくなっております。こういうようなことで、病人の廃人検定をいたしまして、それに合格した方を一人ずつ加えております。廃人検定にはもっとたくさん合格をしておりますが、罪が重いとか、帰った人を実際見ると、階級的区別があります。そういう意味から、将来におきましても一名ずつはお帰りになるのではないかと思います。その他の将官は、外交交渉がたとえ成立いたしましても、最後の梯団でなければ引き揚げ不可能だと私は考えております。これは向うにおられる方も同様に自分で考えておられます。ただ将官が不平を言わなくて満足しておられるということは、何しろ身を挺して軍人になって、国家のために死ぬ覚悟をしておられる。しかも相当高齢者であります。血の気の少い人と違いますから、何か貸間をされて、何かありませんか、いやもう十分ですと、これは決して満足しておる意味ではありません。ただ自分の階級と、それから自分の決心に基きましてこういう工合にお答えをすることが、すなわちそれが皆さんが満足しておるとお考えになるのは間違いだと思います。どうぞこの点は国民の皆さんにはっきり一つ皆様から了解さしていただくようにお願いをしたいと思います。 これで私の報告を終ります。
○委員長(重盛壽治君) ちょっと速記をとめて。 〔速記中止〕
○委員長(重盛壽治君) 速記を始めて。 それでは引き続きまして竹矢清吉さんにお願いいたします。
○参考人(竹矢清吉君) 私は御報告申し上げる前に一言お許しとお断りを申し上げます。それはラーゲル生活十年、ハバロフスクにおるところの軍事捕虜、それから引き続き刑をもらって現在服役しておるところの同胞と若干コースが違うのであります。その間ほとんど日本語は使っておりません。それで、日本語の非常にしゃべれない場合に、報告の最中遭遇することだろうと思います。そのとき私の日本語は、意味の合っていない日本語を発音することがあると思います。その点は一つお許しを願います。 それでは私の九年間おりましたところの一般ラーゲルの最終のタイセット、ここのラーゲルの状況をこの計画表に基きまして簡単に一言御報告いたします。 その前に、私の終戦時から抑留されるまでの状況、抑留中の状況これを続けて申し上げます。私は四五年四月満州国の警察官を拝命し、新京に勤務しておりました。八月の十五日の陛下の御詔勅に基き、われわれは武器を捨てソ側の要求通り武装解除を受け、警察官は各人一応自分の職務を退き、野に下ったわけであります。その後ソ軍は、戦争中ソ軍の諜報行為に対し謀略並びに諜報行為の阻害を行なったところの警察官の一部、これは満州国の警務総局内にあるところの分室勤務の警察官に対して逮捕命令を発しました。私は当時満州国の警察官として新京に勤務しておるとき、この分室勤務を一部やったものでありますから、ソ側の方の該当者として一応検挙をされる身分にあります。四五年一ぱいはソ軍の検挙の千を逃れ、新京市内にもぐっておりました。そうして四五年の末に、中央政府の機関であるところの東北行常、この中に三つの委員会があります。軍事委員、経済委員、行政委員、この三つの委員会の中の軍事委員から私に対して、ぜひとも出頭せよという通知を受けまして、軍事委員会の当時の長瀞地区保安司令官劉毛元少将、そのもとに私は出頭したのであります。そうして司令官の私に対するところの間、これはまことに勝手なお願いであるけれども、日本人の君に対してこういうことをお願いするのは中央軍の筋ではない、しかし君の居住しておるところの義和分会の分会長、これは私が前職当時に知り合いになった隣組の隣保班長でありますが、この人が終戦後義和分会の分会長になりまして、北方、西方、東方の各僻地から避難したところの避難民の救済事業、あるいはそり後の一切の世話をしておるところの分会長であります。この人の中央軍に対するところの……、これはソ軍にお願いしても避難民、の救済方法は施してくれない。また現在の中共政府、当時八路軍、共産匪と一面称されました、この八路軍にお願いしても、日本人の避難民の救済方法は講ぜられない。それでは日本人はだれに頼ってこの現在の苦境を突破していけるだろうか、こういう状況にあるとき、この義和分会長なるものが中央軍にお願いしたのであります。そのお願いの交換条件として、私が中央軍の政府機関の警備隊の中隊長という職名をいただいて、自後私が中央軍の第十四地区空軍司令部の中隊長を命ぜられました。そうして四六年の二月二十六日まで、その間いろいろとソ軍との交戦状態、あるいは長春地区の共産党の機関の焼き討ち事件等こまごまとした事件がありますが、御希望がありましたならば後ほど時間をさいていだだいて説明いたします。簡単に説明を急ぎます。結果において四六年の二月二十六日に、戦後においても反ソ行為を行なったという名目のもとに私は検挙されました。 〔委員長退席、理事山下義信君着席〕 自来チタの防諜本部の独房、その前に、申しおくれましたが、私の裁判は新京で行われまして、三月十七日の第一回の裁判が死刑の宣告、それから第二回の裁判はチタの刑務所におきまして、モスクワの書面裁判により刑十年という判決であります。自後私はチタの刑務所、それからイルクーツクの刑務所、ノボシビルスクの刑務所、それからカラガンダ地区の囚人のラーゲルに送るところの中継所、これが四六年一ぱいのコースであります。四七年に入りましてクラスナヤスク地区、ここの囚人ラーゲルの中継所、それから四九年の三月までシベリア鉄道とそれからハム鉄道の起点になっておりますところのタイセット、この地区に四九年の三月護送されまして、五四年の十月までタイセットに強制労働に従事しておりました。その間カラガンダ地区の作業は石灰の鉱山であります。ここで日本語で申しますと作業の量とでも申しましょうか、ソ連語で申しますとノルマ、このノルマの、非常に高いところのノルマを要求されて、われわれ日本人、特に私はその間一人おりましたが、非常に体力が弱いのであります。それから体位はソ連人と違って非常に小さい。ところがそういう体力と体位の差のあるところの日本人のわれわれに要求するところのノルマも、それから大きいところのソ連人に要求するところのノルマも同一であるということが非常に私にとってはラーゲル生活、カラカンダの生活において非常に苦しいラーゲル生活をなめました。カラガンダで石灰の鉱山の作業、それからクラスナヤスクでは、これは主として伐採の作業、あすこのウラル山脈の流れの大密林地帯の伐採作業であります。これもカラカンダ地区の作業状況の中にあるごとく、ノルマがやはり大きいのであります。小さい日本人には露助の要求するところの同じノルマをやることはできません。これも非常に苦しみ、それからタイセットにおきましてもやはり同じく伐採並びにソ連の軍事基地の軍事用の鉄道として目下、おそらくもう開通になったかと思いますが、バム鉄道、これの建設作業等に従事し、五四年の十月ハバロフスクの地区に護送されました。ハバロフスク地区では第一、第二、第三とラーゲルが三つあります。その第一のラーゲルに四カ月、自後第二、第三のラーゲルに本年の十月の十三日まで強制労働に従事し、十二月十一日に日本に引き揚げたのであります。 それからここに今後の引き揚げの見通しということがありますが、これは武藤閣下の言われたと同じであります。 その次の今回の引き揚げの状況も、これも武藤閣下の言われたことと同じであります。 その他参考になる事項とありますが、ここに一つ私がお話したいのは、現在タイセットに四十二名の日本人がおります。これは全部刑のまだ終ってない者であります。最近近々に刑が終るかどうかというところの見通し、これもありません。大体十五年以上二十五年、それからごく最近北海道とソ連の樺太、この国境線を突破して密漁に出るところの漁船が拿捕されてその漁船の船員が相当おります。米軍のスパイ、あるいは日本の保安庁の諜者というようなことで相当検挙され、不当なるところの二十五年の刑を食って現在服役しております。それから従来四五年当時逮捕されたところの軍関係あるいは警察関係、こういう方も一部含まれております。合せて四十二名、それから目下五四年の九月まで確認しておりますところの二人の日本人が現在行方不明であります。元関東軍の国域特務機関の田村少佐及び満州国の警察関係の分室の勤務者山口一雄、この二人おります。それからいま一人は刑がすでに明きましてクラスナヤスクの僻地におるのでありますが、これは本人は日本の本土に帰国することを一非常に希望しており、再三ソ側の当局に願書を出すけれども何ら今日に至るも回答はない、そのためにすでに本年に入っても第三回目の引き揚げ、それにも便乗されず、まだ黙々として薄気味の悪いところの日々の生活を続けておるというところの彼の心情を伝えたところのたよりを私は三分所で受け取りました。こういう人がまだ相当おるものと私は信じます。ロシヤ語がわからない、あるいは書くこともできないというので、自分の気持をソ連の幹部側の方に打ちあけることができず、黙々として、強制労働ではないのでありますが、言葉のわからないソ連人の中に、まだかつそうした日本人がおるものと信じます。 それから最後に五四年の十月ハバロフスクに参りまして一分所ではなくて二分所、三分所と歩きましたラーゲルの状況、これは現在おるところの一分所、これは大体関東軍の捕虜が主体であります。この捕虜のラーゲルは若干趣きを異にしております。給与状態は同じ、作業の量も同じなんでありますが、われわれはもともと第一歩のラーゲル生活からずっとソ連人の中に生活をしております。ソ側の当局の不当な言い分に対しては断固と反撃をするというところの態度に出ております。私も三分研におるときは一つの現場の現場長として、あるいは一つの作業隊の班の班長として、満期の日まで三分所で勤務したのでありますが、ここにおるところの日本人の人たちの状況、これを簡単に申し上げて報告を終りたいと思います。 健康状態はおおむねよろしいのであります。一部血圧患者等あるいは最近原因不明の熱発患者、こういう者も相当おりますが、健康状態はおおむね現在良好であります。ただし今年の各、一冬越してなおかつ強制労働に従事するということになれば相当な犠牲が出るのじゃないか、なぜならば、支給されておるところの給与、これは実にごく少量なものであります。参考までにもしお聞き願えれば後ほど申し上げてもけっこうであります。各細部にわたって何グラム、何グラムまで控えております。そういう給与の状態のもとにソ側の要求するところの強制労働をしておると、この冬は金ももらえない、給与も悪い、それで体力が今までの十年間の労働に相当消耗しておる。なお一そう消耗して非常に工合の悪い状態に明春あたりはなるのではないかという状況であります。先ほども武藤閣下が申されましたごとく、政府の力で一日も早くこの在ソ同胞抑留者を救っていただきたいということを私からも切にお願いする次第であります。細部に関しての状況は、先ほどお話しましたごとく、時間がありますれば詳しくお話したいと思います。時間がありません。簡単ですが、報告を終ります。
○理事(山下義信君) ありがとうございました。 それでは次に逢坂さんに一つ御陳述を願います。
○参考人(逢坂和雄君) 私は終戦時におきまして東満の敦化に駐屯しておりましたところの九八三一部隊に勤務しておりまして、その当時終戦後直ちにソ軍が駐屯して来ましたので、私が部隊長より通訳官になれというような命を受けまして、ソ連との交渉中に通訳の任務を執行しておりました。ところが私の前にやりました忙中、私はもとはカトリックの司祭でありましで、当時敦化に非常に朝鮮人のカトリック信者が多かったゆえに、私に軍務のかたわら彼らの宣撫に努めておったのであります。この宣撫がソ側の方より見ていわゆる諜報行為であるような。見方をされまして、と申しますのは、その宣撫中に私が知り合いとなったところの朝鮮人が私を密告したのであります。この密告によりましてソ側が私をもってスパイ行為の張本人であるというような烙印を押さしめたのであります。それによりまして五十八条の六項、すなわちソ連の刑法によりまして、スパイというような決定によって十年の刑を四五年、すなわち終戦当時ですからして、二十年の十月の三十一日にスパスクというところにおきまして、第五軍の屯営地の軍事裁判によって科せられました。そうしてその年の終りに、カラカンダの炭鉱ラーゲル、一般のロシヤの囚人の働いておりますところの炭鉱ラーゲルに入りまして、一年間炭鉱作業に従事しておりました。後からだを害しまして、健康を害しまして附近のアクノレンスカヤ・オブラスチと称するところにあります農場ラーゲルに移りました。そこにおいて半年畑の仕事に従事しておりました。どういう理由か知りませんけれども、半年後に私をそこのラーゲルのワクタと申します、これは軍隊で申しますれば衛兵所というようなことになりましょう、衛兵所において呼びますので、行ってみましたところが、お前は前に何をしておったか、私は軍隊におりましたときには宣撫員というようなことをやっておったのである。しかし軍隊におらないとき、すなわち地方においては何をしておったか、地方においては私はカトリックの宣教師をしておったのである。よろしい、ではしばらく待てと言われましたので待っておりましたところが、後に再び呼ばれまして、これからお前を警戒兵なしのラーゲルに移す。今まで私のおりましたところは、ロシヤ語で申しまするとパトコンヴォイと申します。これは警戒兵つきのラーゲル、今これからお前は、ラスカヌヴォイと申しますと、これは警戒兵なしのラーゲルに移すということで、その付近の、やはりみな私の移りましたところのラーゲルはあまりほど遠くありません、その付近のラーゲルに移されたのであります。そのラーゲルと申しますのは、仕事はかごを作ること、かごを作る仕事をやったのであります。比較的に軽作業であります。かごを作るラーゲルにおきましてこれもまた半年、半年後にハバロフスクに来ますまでのラーゲル、すなわち牧羊ラーゲル、羊を飼うラーゲルであります、羊を飼うラーゲルに来まして、五〇年の二月の十七日まで至ったのであります。すなわち五〇年の二月十七日と申しますると、私が刑が明けて今回帰還に至りますまでのラーゲルであります。そこに来ました。でありますから、私が中央アジアでありますところのカラカンダにおりましたときにはほとんど日本人は私一人でありまして、ほかに日本人と称する者はいなかったのであります。もちろん他方のラーゲルにはおりましたでありましょうけれども、私はロシヤ人の中にただ一人おりまして、長い間日本語を使いませんからして、五二年の、ただいま申しましたところの二月の十七日に来ましたときには何か日本語を使うのが非常にもどかして困ったことがあります。そういったような状態であります。中に私と同じような人もありましたろうと思いますけれども、しかし初めてラーゲルに来まして、日本人に会いましたときに非常に再びを感じたのであります。ほっとしたのであります。その間、まあラーゲルと申しますと囚人ラーゲルの給与というものは、現在ハバロフスクの、日本人のラーゲルに比べまして当時の囚人ラーゲルの給与でありますが、給与に比しまして幾分かよろしいというような感じを受けたので、あります。その当時はまだハバロフスクの日本人、ラーゲルにおきましても米は支給されておりませんでした。米を支給されましたのは一昨年でした。一昨年八百名でしたか、帰還しました後に米がわれわれに支給されたのでありまして、その当時はすべて三食が三食とも雑穀を支給されたのであります。ただ私がハバロフスクのラーゲルに来ましたときには、囚人ラーゲルにおけるような給与、まあたとえて申しますれば、囚人ラーゲルは朝三百グラムのパンとスープです。昼に若干身が入ったところのスープ、これをロシヤ語ではボルシチと申します。それを与えられ、それにさじ三ばいくらいしますとすぐなくなってしまうようなカーシャ、すなわちかゆであります、雑穀のかゆ、それにパン三百グラム、それが毎日の昼の飯の全部であります。これは日によって変るいうようなことはありません。いつも同じことであります。それから夜は囚人ラーゲルにおきましてはスープだけであります。そういったようなのが囚人ラーゲルの給与であります。ただ日本人ラーゲルに参りまして違ったところは、朝、夕、晩とこの三回にわたりましていわゆるカーシャ、これは雑穀のかゆでありますカーシャが与えられ、そのかわりにパンは三百五十グラム、パンと申しましても黒パンでありましてはなはだ粗雑なものであります。こういうようなものが与えられる。しかしながら今まで私は五年間、すなわちハバロフスクに来ますまでの生活を囚人ラーゲルで送りましたからして、初めてハバロフスクに来ましたときには、この給与が私にとっては非常にいいものだと思われておった。ところが長い間、まあハバロフスクに来まして以来、建築作業あるいはその他の雑役ですね、私はあまり体力の強い方でありませんでしたので、雑役に従事しました。ところがこの給与では重労働に耐え得られないというような確信を得られたのであります。なるほど先ほども竹矢さんが言われましたように、現在大体において健康状態は良好と申しますけれども、このような給与によって冬越しをし、あるいは来年まで、持ち越すということは非常に困難であるかと思います。ただいま私どもにと申しますか、残余の残っておりますところの者に必要なものは、耐寒は適するところの食物すなわち脂肪分ということであります。脂肪分が向うにおきましてはこの給与では非常に不足しておる。それからビタミン、これは第一にあげなければならないことであろうと思います。このビタミンというのは特にこのごろ、先ほどもちょっと言われましたようでありますが、えたいの知れない発熱患者が、まあそうたくさんはありませんけれども、私の知っておりますところでは五名ほど出ております。その次に手足のしびれ、麻痺を来たしておるところの患者が、続出ではありませんけれども、まま見受けられるようになってきました。それから第三に高血圧です。これはいわゆる労働とそれから給与との均衡が保たれないがためにくるところのもの、あるいはそれに要するやはりビタミンのCか何かの不足によって生ずるとこの高血圧患者が、まあ相当数と申しませんが、かなり生じておる。これはずっと以前からの現象であります。私もハバロフスクに参りまして気がついたことは、私は以前低血圧であったのでありますが、その当時、私が帰ります前まで百七十五、私はことし四十四才でありますのに百七十五、こういったような血圧になっております。こういうようなことでありますからして、残余の残っておりますところの人々は、皆さんの御協力によりまして何かこういったような方面に御支援をいただくことができますれば、この一冬を過ごし、やがてときが来まして帰還の喜びを無事に受けることができるのじゃないかと思うのであります。 ただいま申し上げましたほかのことについては、私の意見も武藤氏並びに竹矢氏の御意見と同じであります。ただ一言申し上げておきたいことは、訪ソ議員団が参りましたときの状況を、時間がありませんから概略述べさせていただきまして終りたいと思います。 〔理事山下義信君退席、委員長着席〕 当時私は九月の二十三日に刑を終りまして、しばらくの間仕事には出ておりませんでした。議員団が第一分所、すなわちハバロフスクにありますところの第一分所を訪問されましたのは九月の二十九日。ところが、今までありましたように、ソ連におきましてはだれか来ますと、しきりにラーゲルと申します分所ですな、収容所内を飾ります。あちらこちら飾ります。そうして目につくような破損個所は修理させます。なお収容所内の土地には砂を敷きまして見苦しくないようにする習慣があります。これはただ人々に見せるためのものでありまして、ふだんは全く何も施さないというような状態であります。いわゆる見せかけの芝居をやるようなことになっておるようであります。私が刑が明けましたのは二十三日、二十三日の次の日二十四日に本部つまりラーゲル、収容所内の本部に用事がありまして参りましたところが、団長、これはわれわれのいわゆる労働団体というものの長であります。つまりブリガーダというものを総括したところの長であります。団長の言うには、あすから向う三日間においてラーゲル内の清掃、掃除です、掃除やら装飾やらいろいろなものを終ってしまわなければならないから忙しいというような話でありました。当時訪ソ議員団が来ておられるというような話をソ側の新聞やらその他のラジオなどで聞き及んでおりましたので、あるいは議員団がこのわがラーゲルに来られるのではないかというような意見がみんなの間にありました。私もそう思っておりました。ところが、ソ側の方におきましては、そういったようなことについては一まつも触れない。何事も私どもに申さない。その議員団の参られましたのが一十九日でありまして、すなわち二十八日の夕刻私どもにたばこの光が配船されたのであります。これはソビエト側の方は何も申さなかったのでありますが、配給した方の側は、これは議員団側からのおみやげであるというようなことでありました。ソビエト側の方ではこれについて何も申しません。ただ、たばこがきたから分けてやれ、こういったようことであったらしいのであります。ではあしたはおそらく議員団が来られることであろう。私どもは十年間日本から来ましたところの日本人に会うたことがありません。非常に胸がおどるような思いをして待っておりましたのであります。さて二十九日が参りまして、いつものように人々が作業に出る、仕事に出る準備に取りかかっておったところが、作業隊の考えでは、きょうは議員が来るならば作業に出たらこれは議員に会えない。議員に会うことができるならぜひとも会いたいというような意見を持っておったようであります。それで各作業隊の現場長というものがありまして、おそらくそのときは作業場が四つありました。四カ所の作業場の現場長がソ側の職員に、きょう代議士が来られるから、きょうの作業は取りやめにしてくれと申しましたところが、当時、今もやっておりますが地区本部長と申しまして三つのラーゲルを統括しておるところの地区本部長が、お前たちにだれがそんなことを言ったか、新聞も言っていないじゃないか、あるいはラジオも報告していないじゃないか、どこからそんなことを知ったかと言ったところが、現場長の一人がきのうの光がものをいうておるじゃないか、あの光はまさしく日本からきたものだ、議員団が持ってこなければだれが持ってくるのだ、もしも小包が来たような場合ならこれはわかるけれども、小包でなくて光がわれわれの間に配給されるということは、おそらく議員かだれかでなければならないはずだと言ったところが、いやとにかくきょうはお前たちは仕事に出ろという話であった。それから現場反たちがわれわれは仕事に出るかどうかということについて一ぺん班員に聞いてみようと言ったところが、ある班におきましては、きょうはまあ代表者だけを残してあとは作業に行こうかと言ったところ、ある班は、いやそんな弱いことではだめだ、きょうは全部居すわって議員に会わなければならないというような意見、とにかくそういったような意見まちまち、ごうごうとしておりまして時間がたってしまいました。ラーゲルの方では、話が前後しますが、ラーゲルの所員は、一応電話を議員団の泊っておりますところのホテルにかけたようであります。その現場長のうちは大体皆ロシヤ語のわかる人たちでありますから、電話の内容を半分ばかり聞いたようでありますが、その内容と申しますのは、きょうは都合が悪いからあす御訪問願えないだろうか、こういったような電話の内容であったかのように聞いております。ところがどうやら議員の方もきょうでなければならないというような、これは議員が来られましてあとで聞いた話でありますが、議員のある人がそう言われておりました。ソ側の方でも何か都合が悪いからあすにしてくれないかというのだが、こっちの方でも北京にも行かなければならないし、ひまがない、ぜひともきょうでなければできないという答えをしたようであります。ところがそんなようなことで、私はその間のことにつきましてあまりよく聞いてもおりませんけれども、そういったようなことを聞きました。いよいよ議員が来るから出迎えしろ、ただし議員に対する質問市預ということは坂間元少将、その当時からわれわれの一分所におられます少将を通じて質問をしろ、ただし政治向きのことについてはこれをなすことを許さないといったようなソ側の命令なんです。それで一人がそれでよろしいと言っておったところが、野外劇場がラーゲルにあります、いろいろな催しがありますと野外劇場でやりますが、冬は寒いものでありますから、中の食堂で、やりますけれども、野外劇場においてそういったような催しをやります。その野外劇場の前に全員、これは全員と申しますると、その中には日本人ばかりでなく、朝鮮人とか、満人も若干おりますが、とにかく全員集合しまして議員団を迎えたのであります。議員団はラーゲルすなわち分所の所属の楽団によりまして「さくらさくら」という音楽に迎えられまして、野溝代議士、以下八名の方々が着席されたのであります。まず坂間少将のごあいさつがありまして後、各代議士が自己紹介をされました。坂間少将の司会によりまして、日本の戦後における政治状態あるいは教育経済状態、特に日ソ交渉がどういうふうになっておるかというようなことについての質問をしたので、あります。それについての、まあ日ソ交渉につきましては五カ条ということがありますが、一々説明しますと時間を取りよすからこれは省略しまして、ただ各代議士の答弁によりますと、ただいまにおいては日ソ交渉を妨げる何ものもない、非常に好転しておるというようなお答えでございました。それで私どもも非常に日ソ交渉というものはよく、いっておると非常に期待をかけておったのでありますが、どうもその効果は現われなかったのであります。それからこんな問いがありました。天皇の御近況について、天皇はどうされておられるか。ところが最後に至りまして、時間がだいぶ短かかったものでありますから、ある人が立ちまして、私はその人の名前を忘れてしまいまして申し上げませんけれども、われわれが抑留されておる、その救出運動については、国策を曲げてまでもわれわれを救出することを望んでおらないのである、まず国家永遠の計であるところの国策というものを無視してまでもわれわれを救出して下さらないでいい、私どもは国策のというよりも、国家の犠牲となるつもりで来たものであるから、どうかその永遠の計であるところの国策を無視してまでも救出してくれと願うのでないということをお含みおき願いたい、こういうようなことを申した人がおります。でその考えはわれわれは、もちろん以前はそういったような考えを持っておった。ところがラーゲルのうちに十数名のいわゆる民主党といいますか、民主グループといいますか、われわれはデモ、デモと申しておりますが、いわゆる浅原一党、浅原を筆頭とする、ところのグループがあります。彼らは終戦当時四五年以降ですから、四七年ですか、においては非常にいわゆる思想教育に彼らは力を尽したと言えば、きれいに聞えますけれども、そのためにわれわれ悩まされたものである。それが今そういったような力はありませんけれども、とにかく彼らの行動並びに言辞一つ一つがラーゲルの生活のガンになっておるということは争われない、今までそういうふうになっておる。とにかくソ側とわれわれとの間に一つのみぞを作る、みぞを作るといいますよりも何かの妨げを作る。われわれの行動をソ側に通じてわれわれの生活を暗くするというような役目を持っておるものである。こういったような人々がおるのでありますが、ところが今申しました、言葉のすぐあとで例の先ほど申しました浅原が立ちまして、私どもはその当時非常に暑かったのでありますけれども、せっかく議員が来られたので、私今ここに着ておりますが、こういうような粗末な着物でありますけれども、とにかく上着をまとうておりました。彼らは暑いといってみなその上着を脱いでいわゆる襦袢、シャツのままで腕組みをしてこう立っておったように見えたのでありますが、浅原が、私はただいまの言葉に特に反対の立場から一言述べさせていただきたい、こういったような前置きで彼一流の説を述べようとしたようであります。そのときいわゆるデモクラートの一党のほかの人たちはみなやめようということになりまして、その場が非常にけんけんごうごうとしてちょっと収拾のつかないような状態になりかけた。そのときに野溝代議士が立たれまして、まあ思想のいかんは問わず、とにかく皆さん仲よくしていただきたいというのが私の念願でありますというような取りなしと申しますか、そういうことを言われたので、双方静かになったというような状態であります。そういうようなことがありまして、とにかく会が終りましてから各人が自分の名前を紙に書きまして、伝言がありますものは伝言、そういったものを書きまして代議士にお渡ししたのであります。それからなお少し時間が残っておったというので、各県別に、代議士が各県より出ておりますから、各県別に人々が集まりましていろいろなお聞きしたい事項、お頼みしたい事項をお頼みしまして、それが私ども十二時ちょっと過ぎでしたか、この代歳出が来られたのは。とにかく終りましたのが四時半ごろでしたか、そのころまでとにかく昼飯なしに私ども非常な感激をもっておりましたので、昼飯を忘れてしまいまして、その会合を終ったのであります。そうして各代議士は、まあ代議士も非常に感激しておられたようなふうに見受けました。それまでの間に、代議士が来られましてすぐに会合が始まったのでなく、ラーゲルの各バラック、ことにきれいに掃除してあるバラックを見せまして、そのほかのバラックには行かなかった。それから食堂はきれいでありますから食堂に案内しまして、その当時食堂に売店、今も売店がございますが、これをマガジンと言っております。マガジンには普通バター、砂糖はありません。ところがそのときに特に町の店をあさり回りまして、そうしてバターとかチーズその他のものを買い集めてマガジンに陳列しました。ところが代議士に対してその所長が言うには、ここにはバターでも何でもあります。ここにおる日本人が思いのままのものを買えると言うたところが、そこにまあちょっとおりましたところの朝鮮人が、いやこれはきょうだけのことです。あすになったら皆引き上げて行ってしまいますよと言うので、代議士は少し笑っておられたようであったのですが、そういうことがありました。その他のことにつきましてはまあ代議士が回られたのは病院であったかと思います。病院にも行かれた。私はそのときには知りませんでしたけれども、病院に行った。病院というのはラーゲル内にあります。病院というのは二つの棟に分れていまして、二階に大体重症患者、下の方にあまり目に見えないところの患者がおるのです。ところが初めはそのいわゆる軽症患者に会わせまして、そのほかの棟のあれには重症患者がありますのでそれには会わせなかった。そのほかの棟はただいま修理中であるからお見せするにはなかなか迷惑がかかるだろうから、まあこれは割愛して下さいというようなあいさつだったらしい。ところが、その代議士の日本人のサニタルと申しますか、ソ側のドクトルの補助をやっております男が代議士の袖をつついたわけです。そのことがわかったときに、そうしたら代議士の一人がすかさず二階のほうに上って行ってしまった。皆代議士がそれに続いて二階に上った。二階には重症患者が一ぱいおったのであります。それにやはり会って来たという話をいたしました。とにかくソ側のやり方は、自分の立場を保護するためにいろいろなカモフラージュを使っておる。 それからいろいろな交渉をしますときに、ある者にはこうしろ、同じ問題についてある者にはこう答えて、他の者には同じ問題についてほかのように答弁する。とにかく言辞が一致しておらないという点であります。とにかくいわゆる真意がないというような点に一致すると思います。でありまするからして、外交上におきましても、おそらくそういったような点に注意しないと誤まることが多々あると思います。これはほかのことでありますけれども、そういったようなふうに感じます。 はなはだ御参考にはなりませんでしたけれども、時間がございませんから、これによってやめさせていただきます。
○委員長(重盛壽治君) どうもありがとうございました。 それではただいまから参考人の御意見に対しまして御質疑をお願い申し上げます。
○榊原亨君 どなたからでもよろしいのでありますが、先ほど日本の訪ソ議員団が参りましたときに、何か五カ条のことをぜひこれを日本の議会に伝えてもらいたいというようなことをあなたの方からおっしゃったように漏れ聞きましたのでありますが、そういうことはございましたですか。またその五カ条はどういうことでございますか。 〔委員長退席、理事谷口弥三郎君着席〕
○参考人(逢坂和雄君) それは荒関という人だそうです。私はそれた私自身が刑が明けておりませんので、あまり携わっておりませんので、人聞きに聞いたのでありますが、荒関という人が日本の青年に与うというような奉書だそうです。ところが昨日戸叶女史にお聞きしますと、その奉書はある代議士あてのものらしいのでございます。自分の家族あてのものじゃなくて一般あてのものを、代議士あてにして送ったらしいその奉書だそうです。それを日本の青年に与うというような題で送られた。その内容は知りませんけれども、そういったように聞いております。私はその当時少し健康を書しておりましたので、その訪ソ議員団の来られたあとすぐ休息しましたのであまりよくその当時の……、ただその訪ソ議員団の席上で何か話されたということを大まかに聞いただけで、その後のことについてははっきり知らないのでありますけれども、あとでほかの人が話すところによりますと、荒関という人がいわゆる日本の青年に与うというような奉書を議員団に差し出したといっております。
○榊原亨君 先ごろ舞鶴にわが議会の代表として参議院からもおいでになりまして、その舞鶴の現場において引き揚げて来られた方のお話を承わられたそうでありますが、例のその五カ条は日本にぜひ伝えてもらいたいという強い御要望をされたにかかわらず、私どもの方には何らそういうことが伝わっておらないのであります。しかも議員の方から、引き揚げて来られました方々のおっしゃるのには、向うには食糧が十分ある、衣料品も十分ある、待遇もよくやっているというような御報告を私どもは受けておるのでありまして、その間における非常な差がございますので、もしもそういうことが事実でございますならば、私どもといたしましては、さらにこの問題も掘り下げまして、どこにそういう間違いが起っているかということを十分究明したいと私は思う。従いまして特にただいまの五カ条の問題につきましては、どういうふうなことであったかということを特にお聞きしました次第で、ありますが、それでは今あなたは御存じないというわけでありますから、またほかの方面からもお聞きいたしまして見るよりほかに仕方がないと思います。
○参考人(武藤秀吉君) 私向うを出発しますときに、私は別な部屋におりましたので、出発まで皆さんにお会いしておりませんが、出発しますときに、日本人側の主治医が私の部屋に参りまして、ぜひこのことは皆さんに日本人の健康状態についてお話を願いたいと、こう申しておられたのでありますが、先ほどは時間がありませんので御報告をしなかったのでありますが、それについて発言をお許し願いたいのです。現在主治医がわれわれの収容所を担当しましたのは五〇年からであります。五〇年から現在まで日本人は五十名死んでおります。そのほかの異国人が十名、結局現在まで六十名あすこでなくなっております。一月平均死亡率は一名であります。ただし昨年重症患者の若干を帰しましたので現在ではその二分の一に減っております。それからその原因はおもに脳溢血であります。それからガンその他であります。現在の健康状態といたしましては、百八十八人の労働不能者がおりますが、そのうちの六〇%は高血圧であります。これは若い三十二、三の者で二百三十、五十という血圧を持っております。しかしながら若いがゆえに今度帰されません。検査にかかったけれども、医者はいずれなおるというので許されません。これは血圧二百五十もあるのであります。ただし年令は三十二であります。それからガンは約三〇%、その他が一〇%であります。それから先ほどお話がありましたように、現在原因不明の病気がある、それは今のお話のように微熱患者、これはあらゆる調査の結果結核性ではない。これと先ほどお話になりましたように手足のしびれるのがある。それからそのほかに高血圧によらないじん臓病が相当今はやっております。小川軍医はこれをおのおの別な観点から研究しておりますが、原因はわかりません。しかしこれは小川軍医、この人は元軍医大佐で関東軍の軍医部におられた方でありますが、その方が、静かに健康を見ておると、それはビタミンの下足である、その状況は、現在においてはジャガイモは全然ありませんので、ビタミン補給の原料がない。何となればソ連内部のことでありますが、昨年は一ヘクタールについて二トンの種をまいた。しかし今年収穫したところは一ヘクタールについて一トンであります樋イモの半分しか収穫できない。毎年冬になると倉庫に一ぱい山になるわれわれのビタミン補給源が全然ないのであります。今は昨年の乾燥ジャガイモを若干支給しておられます。そういう状態であります。 それからもう一つは白米であります。日本人は白い米に非常に魅力を持っておりますが、その実質は鶏にも食べさすような小米であります。それでおかゆをたいておりますが、軍医としては日本人であるからこれをやめろということは言えないというのです。ビタミン補給のためには雑穀を食えと言いたいけれども、米というものに対して、非常に魅力を感じておりますから、自分の立場としてはそれは言えないのだと言っておりました。 その次にはきついロシヤたばこ、これはみんな退屈なものですからどんどん金のあるだけ買って吸うわけです。そこでこのロシヤたばこの原因に基くもの、この三つがわれわれの病気の原因だと思うと、その軍医は言っております。それでこの前も厚生大臣、政務次官の方々たに詳しくるる御説明申し上げたのでありますが、何とかビタミンを補給して、もらいたい、ところが日本ではビタミンを薬と認めると、こういうことのようであります。仁丹でも薬と書いてありますが、これはすべて小包で送られても没収されます。ハバロフスクのラーゲルにおきましてはそれはすべて没収されるのであります。薬と名のつくものはすべて没収されるので、それを何とか他の方法で補給していただきたい。この間も厚生大臣にお話ししたのですが、ぜひドロップか何かの中にビタミンを入れて送っていただきたい。ビタミン入りと説明する必要はないのであります。ビタミン入りと説明していただければなおけっこうでありますが、本人の口に入れて慰問するとともに、そういうビタミンの補給ができるように何か手段を講じていただきたい。小川軍医の話では、ビタミンBが足らないのだ、Cは何とか補充がつく、ビタミンBを補充するにもわかもとがいいと思うが、しかしこれはみな没収される。だから何か政府通志の交渉をお願いしたい。政府から政府にやっていただきたい。ビールのもとがありまするが、ビール会社から作られるこのもとを二トンぐらい送っていただければ何とかできるだろう、こういうものを直接政府の方で、御交渉願って各人の小包には入れないでやるようにしていただきたい。これは先般イワノフに南原さん一行とともに武藤ドクトルがおいでになりまして薬を持って来止したが、しかしながらその薬はわれわれの手には直接渡りませんで、全部集められまして、もし日本人が薬た要するときはソ連側を通じてそこから薬をもらってやるというのであります。それで何とかビタミン入りの菓子やドロップそういうものを作って、一つ政府の力で各人に御慰問願えれば、健康を保ち、病気のためにもいいのではないかと考えられます。ドクトルとしてはそれだけをぜひ私から皆さん方にお願いするように、そして目的を貫徹させていただきたい。それからなお引揚運動のため皆さんに御努力願うわけでありますが、生きたしかばねとして引き取ってもらいたくない、帰って日本の再建に努力する、働く力をからだにたくわえた人間として引き取りを願いたい、それがためには先ほどもお話がありましたが、向うで衣服は何とかがまんする。しかしながらカロリー源の補給になるような品物を送っていただきたい。ある者は衣服を送ってくれというものがありますが、これはドイツ人の話をいたしますが、ドイツ人はみなりゅうとしたせびろを持っておりまして、作業中はきたない作業衣ですが、作業が済むとりゅうとしたせびろを着て白樺の並木道を散歩しております。これは将官ですが、日本人は着のみ着のままで一日中おります。そこでそういうものを送ってもらったら少しは何だろうというものもおりましたが、これは全体の声でなく、一郎の声であります。ただそういうぜいたくは日本に要求しませんから、実際に役に立つものを送っていただきたいとお願いいたします。
○榊原亨君 逢坂さんにもう一つお尋ねいたします。先ほど日本の議員団に向って五カ条をお示しになったというそのお話は、荒関さんという人がそれに当られたということをあなたはおっしゃったのですが、その事実はあなたはどなたからお聞きになったのでしょうか。
○参考人(逢坂和雄君) これは私の友だちに水野育造というのがおりまして、それが私にそういったようなことを申しました。私はそれについてそれ以外にはっきりしたことは存じません。ですから確言することはできないのであります。
○榊原亨君 もう一つ尋ねますが、水野育造さんは今度お帰りになりましたか。
○参考人(逢坂和雄君) 水野育造というものはまだ残っております。
○森田義衞君 どなたでもけっこうですが、私は実は皆さんをお迎えに参り、そのときにも皆さんから残留しておる皆さんに対しましてもう少し何とかしてもらいたいという数々の御意見を実は現地でお聞きしたのですが、ここにおられます皆さんには変った方もおられますので、たとえば老齢者、病弱者は人道上の問題から、国交交渉外としてでも引き取ってもらいたい、あるいはいい医者を回してもらいたいとか、非常に医者が不備といった関係からただいまのビタミンの話もございましたが、それ以外に非常に重労働で困るから、たとえば五十才以上はもう少し作業を免除してもらいたいとか、あるいは若い者でも、ロシヤ人でも十年もやっておればほんとうに廃物になってしまう。そういったもので現在の八時間労働を四時間に変えてもらうように、一つ人道上の見地から万国赤十字社あるいはその他を通しで交渉してもらいたいといったような火は御意見を聞いたのでございますけれども、そういったようなことが一部の人の声であるか、あるいは全体の声として日本にやってもらいたいとか、そういった意見をお聞きしたい。
○参考人(武藤秀吉君) ただいまのことを私実は忘れて申し上げなかったのでございますが、それは日本人のドクトルが参りまして、もし外交交渉が不能の場合でも、まず重病人、それから老年者、それからいわゆる作業能力のない人間、力のない人間です。それと未成年者で収監されたもの、それから兵卒、それから下士官、この順序で一つ引き取ってもらいたい、このことは厚生大臣にもお話しを申し上げておいたのであります。この席で申し上げることをつい失念いたしました。それから、またあとから中さしていただきます。
○森田義衞君 それから皆さんお帰りになりまして、お金もなく、あるいはも衣料もないといった惨たんたる状況で、しかも非常に病弱な方が多くお帰りになりまし、私はまことに言葉もないような気の毒な状態だと思っておりますが、お帰りになりまして、わずかに旅費等の関係で一万円くらい、あるいは支給された衣料品は皆さん実際作業には着てゆけるかもしれませんが、表を着て歩けないといったような状態で、私まことに申しわけないと思っておるのでありますが、最小限度の御希望で、皆様こうしていただきたいという御希望があったら一言お聞かせ願いたいと思います。
○参考人(武藤秀吉君) これは今の金のことにつきましては、なんでありますが、向うにおきましてかかった病気であります。これを乏しい自分のふところの金で治療するということは不可能であります。この点はぜひ国家の費用において、永久廃疾になった者もおりましょうし、かろうじてここまで来ておる者もおります、それから病院に入ろうと思っも入れないというような人がだいぶんたくさんおりますので、そういう点に対して特に御考慮をお願いしたい。あとはまず各人の生活を営まなければならないのでありますが、私は年寄りでありますから別でありますが、若い人の生活がなるべくできることを何とか政府の手で、御努力でお願いしたい。 それからもう一つ、先ほど申しおくれましたが、現在向うには重病人が三人おります。その重病人は、もうほとんど先月の末が危ないだろうというのであります。それからまあ生き伸びても今年一ぱいです。この方は何とか日本に、本人も帰りたいと盛んに嘆願します。しかしソ側では目下交渉中だからいずれ返事がくるだろう、この船には間に合うだろうと言うて引き延ばしておりますが、実際は帰れなかったのでありますが、それがどこに原因するかということにつきましてはわかりませんが、むろん階級の商い人であります。この前の裁判結果には、お前は刑が重いから帰せないというので残されたのであります。ところが今度はそれが一つの原因であるが、日本側の主治医の見るところによりますと、これが途中でなくなるだろう、そういう人を帰すということはソ連の面子にもふかわる、どうせもう命旦夕に迫っておる方だから、途中でなくなるということは、かくのごとき人をソ側に今まで置いておいて今帰すということは困るというのが、おそらく内心ではなかろうかということを日本側の軍医は申しておられました。
○委員外議員(青山正一君) ちょっと委員外発言さしていただきたいのですが、皆さんに、ちょっと一言だけいかがでしょうか。
○理事(谷口弥三郎君) よろしゅうございますか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○委員外議員(青山正一君) 委員外でありますが、一つ発言さしていただきたいのですが、先ほどから榊原さんあるいは森田さんからいろいろ御質問があっただろうと思いますが、そういった問題について、竹夫君もいろいろその返答もできようと思いますが、その問題について一つ竹夫君から御返答願いたいと思います
○参考人(竹矢清吉君) 私はハバロフスクの第三分所のラーゲル生活が非常に長いのであります。それでハバロフスクの第三分所の同胞は私の帰るに当って、くれぐれも日本に帰ったならば伝えてもらいたいというところの大体の趣旨は先ほど武藤さんがしゃべりました。それから逢坂さんからしゃべりましたが、そのうちの一部足らないところだけか二つ追加したい。 先ほど武藤さんも言われたように、国策の遂行を曲げてまでもわれわれを引き、取ってもらわなくてもけっこうである。どうせわれわれは四五年に身命を国家に捧げたものであり、国策の遂行を曲げてまでもわれわれを引き取った場合においては、子々孫々に至るまでお前の父は南樺太と交換になって帰ったのじゃないかと言われると申しておりました。 それから近く帰られるであろうというところの予測でありますが、これも目下現実のところ未定であります。その間向うに残っておる者の最も楽しみとしているものは何であるかというと、帰還促進運動も楽しみにしている一つでありますが、それよりもまず日日の楽しみ、これは留守宅との文通、それから日本の状況、それから現在われわれがソ連からどういうことを強制されて作業をしているかというところの作業の種類、これの三つであります。 最初に申しましたところの文通問題は、一年に十二本の文通をソ側から許されております。そのうち回答をもらっているものはわずかに三本、中には――私のごときは二本、全然もらってない者もあります。こういう状況で、家庭への通信では実に恵まれていない。これはひとえにソ側の検関能力の不能である。こういうことは赤十字社並びに日本政府からソ連に対して厳重なる抗議を申し込んでもらいたい。それから各家庭から発するところの通信の内容によって小包を送った。それが半年前に送ったというにもかかわらず、本人の手に来ていない。またもらった物のうちに日本茶がある。この日本茶の容器を取ってしまう。茶がしめったら茶の使命がありません。あるいはまた各種カン詰の容器も全部ソ側で検査をするときには破る。もらった本人はもちろん、小包が破られたならば、小包の使命が非常に短かいのであります。こういうことも伝えてもらいたい。 それから先ほども申しましたが、病人のことであります。病人は私はここに大体参考資料としての数字を書いて持って参りましたが、そのうち一、二の相違があるかもしれませんが、第一分所の状況、これは現在と申しましても、十一月の状況であります。筋一分所にいるところの日本人約八百名のうち血圧患者――高血圧で休んでいるところの患者が二百名、心臓の悪い者が三十名、熱発患者で原因不明のものが三十五名、これは手足のしびれるもの、あるいは従来から持っているところの罹病人でなくして新しく出てきたところの原因不明の胃病でありますが、胃液の検査その他いろいろな方法を日本人のドクターあるいはソ側のドクターがやっておりますが、原因はわかっておりません。それから日本人の入院患者は、重軽症合せて四十五名、うち三名が先ほど武藤さんが申されましたごとく三名の方は非常に重症であります。あとの四十二名は重症とは申されませんが、やはりこれも放置しておけば、決して回復しないだろう。なぜならばソ側は薬品を非常に最近制限しております。その理由はいかなるところにあるかということは私も予測でありますから申し上げることはできません。が、ラーゲルあたりで非常に必要な薬品、ビタミンであるとか、ブドウ糖あるいは化膿性状態の治療法の注射液、これらの非常に大事なところの注射液はほとんど目下中止、されております。それから四級者、四級者と申しますと、これは十年間の労働にからだをすっかり消粍して、再び立ち上って労働に従事することのでき得ない者と鑑定された、ソ側の医者に鑑定された者、これが二百名現在おります。この者に対してどういうことをソ側は強要しておるか、強制労働の一つの種類に似たごとく作業を強制しておる。その作業の種類はマワタイ袋、このマワタイ袋の修理であります。このマワタイ袋の修理は非常に賃金がいいのであります。ところが修理をしたところのマワタイ袋の賃金をこの四級者に支給しない。この収入はラーゲル側の全然別個な収入になる。つまりソ側の方の純益になるというところから、当然仕事をさしてはいけないというところの四級にまでそういう作業を強制しておる。 それからもう一つ申しおくれましたが、タイセットのラーゲルの囚人の現況、これはちょっと付け加えます。先ほどちょっと時間の関係で非常に先へ進みました。目下四十二名のタイセットの囚人はこの酷寒期には、現在は大体零下四十三度、三十六、七度から四十三度まで下っております。十一月の半ばごろ、この中にわすかな被服をまとってソ側の強制するところの労働に従事しておりますが、これらに対するところのまず一番大きなお願いは医療設備であります。ソ側の一般ラーゲルにおける囚人の医者、これは実に微々たるものであって、医者としての価値のない者、われわれと同等な医学についての能力、知識、経験しかない、こういうような医者を置いておるということであります。そこで監督に来ておるソ側の将校、これも軍医ではありません。一般の衛生兵程度の、衛生兵関係の将校であります。これが来て、作業人員が少いと、毎日たた患者が出て、そうして作業へかり出すというところの、非常に非人道的な処置をとっておるというこの点であります。これらのごときも現在ハバロフスクにも一時行われました。ごく最近ハバロフスクで原因不明の熱発患者並びに血圧患者二百名、これらの患者に対してリトアークというところのラーゲルの元少佐の階級の軍医がおります。この軍医が大体われわれ作業隊に対して休みをやる、休みをやらないというところの権限を持っておるのであります。このソ側の軍医の権限もむしろ十分に発揮できないような状態のもとに、ソ側の作業係の将校並びにラーゲルの収容所の所長、これらがやって来て、この熱発患者並びに血圧患者の二百数十名の者を集めて臨時に身体検査を行う、軍医立ち会いではなくて、彼らが臨時に身体検査を行う。その検査の医者に当たる者は日本人の旧陸軍の軍医であるというようなことで、勝手な診断を行なって、やはり相当数作業に追い立てておる、というような、非常に不当なところのソ側の態度であります。こういうことを今こまごまと御報告申し上げましたが、一刻も早く、こういうソ側の、われわれ囚人に対するところの不当な態度、こういうものを政府を通じて、ソ側に厳重抗議をしていただきたいというところのお願いであります。終ります。
○佐藤清一郎君 私は武藤制下に非常に因縁の深い間柄でありまして、私が満洲国の鉄路警護軍司令部におります当時、武藤閣下が軍官学校長をしておられて、われわれ常に指導を受けたわけでありますが、この武藤間下がソ連側に抑留されまして今日まで一緒に収容された方々でなくなった、いわゆるソ連側の待遇が悪いために、寒さのために、あるいは食糧等の待遇の悪いために死亡されました数ですね、これが最初収容されましたときに、何人ぐらいそこに収容されてそしてそこで何人ぐらい死なれた、あるいはまたその後、今度引き揚げるまでにおられた数と、それから死亡した数、そういうものを記憶されておりますならば、一つ聞かしていただきたい。
○参考人(武藤秀吉君) 私、一番初めに参りました囚人ラーゲル、初めのビタィックのラーゲルにおきましては、行ったときに六人でありますが、日本人がおりました。それから行ってしばらくして、樺太の憲兵隊長白浜浩氏は病院に入りました。そうしてすぐなくなりました。これは原因は胃の病気のようであります。それからそのときにもう一人朝鮮の大塚という警部の方が、やはり病院に入りまして、またたく間になくなられました。これはパンを食いながら話をしておって、そのまま死にました。これは栄養失調が原因ではなかろうかと思います。発表しませんから……。ただしそういう人の取扱いに対しては、一九四六年でありますか、七年でありますか、戦後でありまして、ロシヤもはなはだ苦しいときであったと思いますが、そういう人の埋、葬については、裸にして、シャツを着せません。そうして穴の中へほうり込んで埋めるだけであります。しかも冬になくなった方は一つ穴を掘って――穴を今度はハバロフスクでも冬に、今度寒さに向いまして、十個の穴を掘っております。冬期中になくなったのは穴を掘るのが大へんですから……。そうしてそこへ、ハバロフスクにおきましては日本人だけでありますから、ソ側ではシャツやなんか要らぬと言うのでありまするが、それをシャツを着せて、そうして、棺桶に入れて、そうして送っております。 そういう工合に六人のうちで二人なくなられました、またたく間に。それからそのほかずいぶんありますが、全部についてはわかりませんが、私のおったところではそういう状態であります。ただここで、皆様にこの際に御報告しておきたいと思いますることは、私がハバロフスクへ行く途中のカラパスという所におりました。ところが別に肺病の患者として別室におられた方が、日本人が来たというので慰んで、さっそく手紙をよこされたのであります。で、私も手紙を書いて面会ができませんから、そういうものはもちろん文通はできないのでありまするが、これはオーストラリアの婦人だと思っておりますが、看護婦がたえず私と連絡してくれました。その方が肺病で一九五〇年の三月の十五日の朝零時になくなりました。そのときにその看護婦はまくらもとに行って、そうして介抱して、そうして本人の遺言を聞いてくれました。そして私のところへ来まして、けさ零時になくなりました、しかし帰ったならば、妻がこういうところにおるから、それにぜひ私の死んだということを伝えてくれという遺言を聞いてきました。それで私は大いに感謝をしたのであります。そして、あの人は宗旨は何でしょうか。もちろん仏教だと思う。仏教の死んだ人に対してはどういう手の組み方をし、どういう工合にしたらいいのか、私はこうやって入れたんだが差しつかえありませんか。差しつかえありません、どうもありがとうございました、というお礼を申したのであります。ところがそれで最後に、私が帰ったら――私が帰ると思いましたから、私が帰ったらお手紙を下さい。お手紙を差し上げます。ところがここではお手紙はもらえないんだから、自分の州の万国赤十字に、こういう人間がおると、マリーという……、六、七年前のことでありますから今は記憶も薄くなっておりますが、それでぜひ赤十字を通じて伝えていただきたいということを受けたのであります。この席上これを皆さんに御披露申し上げて、何かの機会にそういうことをお礼を述べていただきたいと思うのであります。
○理事(谷口弥三郎君) ちょっと速記をとめて。 〔速記中止〕
○理事(谷口弥三郎君) それでは速記を始めて。
○佐藤清一郎君 私は、ほかのところからも、このソ連に抑留された者の中から多数の死亡者を出しておる。私の部下も帰ってきまして、相当にその実情を訴えておるのであります。そういう意味において、今武藤閣下にも聞いたわけでございますが、ソ連側と厚生省において、あるいは外務省等において、ソ連側に抑留されている邦人の数と非常に食い違いがあるということになっておるわけでありますが、こういう死亡者についてのはっきりした名簿、あるいはそれらがつまり負い違いになっておる原因ではなかろうかと考えるわけでありますが、これについてはどういうふうな数字の食い違いになっておりますか、厚生省として調べておりまするところを一つ間かしてもらいたいと思います、大臣から一つ。
○国務大臣(小林英三君) 局長から一応答弁させます。
○政府委員(田邊繁雄君) ソ連に抑留中死亡した者の数は相当多数に上っております。すでに確認した者だけでも相生多数に上っております。未確認の者につき幸しては、日ソ交渉の重要事項といたしまして向うに死亡者の確認された人の名前を通報してくれることを強く要請いたしております。さらに今日ソ連側が生存者として名簿を出しているのがございますが、その名簿内の未帰還者数が一万名をこえております。これらにつきましては、一人々々詳細なカードを作りまして、それを向うに適当な機会に渡しまして、一人一人についての現在の状況を明らかにするように交渉をしていただくつも、であります。
○佐藤清一郎君 この相当多数というようなことでは、はなはだ私はどうも納得しかねると思うのです。少くとも人を取扱う上において、そういうところがはなはだどうも私らとしては理解に苦しむ点でありますから、今じゃなくてもいいと思いますが、書類でなり何なり、一つ数字を明らかにしてほしいと思うのであります。元来がソ連という国は、常に口では、外交上においては平和を唱え、人道を唱えておりながら、われわれ日本人には、日ソ中立条約を一方的に放棄して、かような戦犯者扱いをし、あるいは捕虜とし、そして抑留して不当にわれわれ民族の多数を殺してしまったという結果になっておるわけです。こういうことをはっきりと明確にわれわれ日本民族として知っておく必要があると思うのであります。いわんやソ連側で抑留しておる数字をごまかして、死んだということができしないで、そうして死んだんじゃない、そういう人間はおらぬというようなことを平然と言うておるところに、私は欺瞞的な今日までの平和攻勢というものがあるやに考えてわる一人であります。でありまするから、外務省におきましても、厚生省におきましても、引揚者の一人々々についていつのいっかにこういう人が死亡したということを確認して、そうして正確な数字た作りあげることが、私は人道の上からみても、また民族のわれわれに対するほんとうの真心ではなかろうかと考えるのであります。どうか一つ、私はそういう意味においてただいま貴重な時間でありましたが、武藤閣下に聞いたわけであります。その他の方におかれましも、竹矢さんからの話を開きましても、行方不明がある、行方不明というのはどういうことかというと、私の部下からの報告によりますと、連れて行って殺してしまった。そうしてどこへ行ったかわからぬようにしておくのがソ連のやり方であるということまでみな報告しておる。そういうことをあからさまにほんとうに国民の前に出しておいてこそ、ソ連の実体というものが一般にわかるんではないかと私は考える。どうか一つ死亡された方の数字を、厚生省としては、これから相当の時間がかかると思いますが、十分に研究をし、そうして発表せられて、国民の前に出すことを私は強く要求しておきます。
○常岡一郎君 逢坂さんのお話を拝聴しながら特に心を打たれましたことは、重病人が二階におるのにそれを見せようとしなかったという点、あるいはまた砂糖やバターなどほとんどないのに、急に持っきて飾ったという点、こういうことがもしかするとあるのではないかということを私は非常に強く思っておりましたから、ハバロフスクにぜひやってもらいたいということの願いた強く持ったものであります。なぜかといえば、質問いたしますについて、質問しなければならない理由をちょっと申し上げたいと思います。それは、イワノフの収容所に参りましたときは、三重に張りめぐらされた鉄条網の中にあの気の毒な方々の姿を見まして、そういう点からも、こういう痛ましい姿であるとすれば、このハバロフスクにおられる方々はどんなだろうかと、これはほんとうのことを見てこなければいかぬと強く感じ、ましたために、九月二十日にイワノフの収容所を見ましたときに非常に強く打たれた関係から、これは何よりも、どうしてもハバロフスクにやってもらいたいと、こういう願いを持ちまして、九月二十一日にブルガーニン、フルシチョフ共産党第一書記に面会しましたときには、これを強く要望して、どうしてもハバロフスクにやってもらいたいということを強く希望いたしましたら、よく考慮いたしますという返事であったのです。それから二十二日にいよいよモスコーを離れますときに、私はポーランドに行く社会党の方々と一緒に行くこと一にきめておりましたところが、ポーランドに行っておったのではハバロフスクに行けないぞと言われましたので、それではハバロフスクに行くということを第一の目的に、するのだから、私はポーランド行きをやめてハバロフスク行きを志願して、そうしてそのままハバロフスク行きだけは許されるという一つの願いで十人ばかり帰ったのであります。それでずっと状況を見て参りまして、イルクーツクに着きましたときには、もうあすは北京に入らなければならない、私はイルクーツクは最後の晩になりましたので、ここであした希果した条件が許されて、ハバロフスクにこれから行くことが許されるものと、一同信じ切っておったのであります。ところがいよいよその最後の、ソ連を離れる最後の晩餐会の際になりまして、あすの朝の飛行機は九時ですと言いますから、それはどっちに向って行きますかと開いたら、それは北京へ行くと言いますから、それは実に意外である。それから最後に団長を通して抗歳を申し込んだのであります。今まで三十日間にわたって大変な親切な世話を受けましたけれども、その親切が全部消えてなくなるほど遺憾千万であったことは、われわれがハバロフスクに行くとの許可が出ないということほど遺憾千万のことはないのだ、今までの御厚意を全部消すほどの遺憾で、あるということを、特にブルガーニン総理、フルシチョフ共産党第一書記に伝えてもらいたいということを強く言いましたので、向うも顔色を変えたのであります。そうしてそのまま北京に飛行機が出されますから、仕方なしに北京に着きましたら、われわれが北京に痛いたとたんに、ハバロフスク行きの許可を与えたのであります。そうすると、残された方々の中には――初めからハバロフスク行きだけを、常にもういかなる場合でも唱えた人だけが行かないで、そういうことは初めから一つも計画に入れてなかった人だけが行ったという結果になったのであります。そこで私たちは実に意外に思いましたが、私もそれを一つの望みでポーランド行きをもやめてきたのに、それがハバロフスクに行けないのは実に残念だ。北京を二、三日皆さんが歩かれておる。ところがそれを見ますと、全部保守系の人であります。私は保守系かどっちかわかりませんが、(笑声)いわゆる保守系の人たちだけが全部ハバロフスク行きを、あれほど初めから願って、しかもそれが許されないで、出たとたんにあとに残された革新糸と言われる人々の方に許可が出たということの中に、意外な感じを持って私たちは帰って参りました。だからそういう意味がありますのでお尋ね申し上げます。ハバロフスクにおいでになりました方々の、訪ソ議員団の方々のおいでになったときに、その待ちに待っておられた、その面会をされた収容所の方々は、なぜこの保守系の者はきてくれないのか、われわれの苦労をなぜ来で見てくれないのかという声が出なかったでしょうかということが第一であります。その場合、これに対して十分理解するような、またたとえばそういう質問が出ないにしても、十分、われわれだけが代表でなくて、こうしていって先に出た者がそれが許されないで、あとからわれわれが許されたのだというようなお話があったものでしょうか。それが理解されておるのであろうか。その現地の方々に理解されておるだろうかということが第一点であります。 第二点としてお尋ね申し上げたいのは、お帰りになった方々が、訪ソ議員団の発表報告を非常に不満に思っておる、幾多の不満があるというようなことを、出迎えにおいでになった方々におっしゃったということを聞いておりますが、それは事実であるか、もしそうであるならば、どういう点が不満とされた点であろうか。私も訪ソ議員の一人として行っております関係上、十把一からげの中に入っておるわけでありますから、そこで責任を感ずるわけで、それをお尋ね申し上げるわけであります。この点、この二点をお尋ね申し上げます。
○参考人(逢坂和雄君) 保守党の方々が見えられるということ、あるいは社会虎の方が見えられるといったようなことは、とにかく議員が見えられる、どっちかわからないけれども、議員が見えられるということで、われわれはそれに関しては別に疑念を持たなかったのであります。これが第一の個条。それから第二は何でございましたかな。
○常岡一郎君 議員団が日本に帰って参りまして、まあ非常に向うでは待遇がよかったとか、安心しているとかという報告に対して憤慨をされたという話を聞きましたか。
○参考人(逢坂和雄君) それは私どもの生活が先にも申し述べましたように、実際は議員団はその当時のうわべの姿だけを見てこられた。しかしまあ私どものうちには相当あと先ほども申し上げましたように、各県別に分れまして、いろいろな実情を訴えたはずであるのに、なぜその実情を汲みとられなかったかという点に大いに不満た持っておるというのであります。 それから第四に何でしたか。
○常岡一郎君 いや、もうそれで……。 私がお尋ね申し上げたのは、そういうような議員団の中には何らそういうことは、お互い同士の間にそんな考えはなかったのですから、ただそれを正しく理解されておればけっこうだと思って、今の御答弁で第一点は非常にうれしく思っております。ただそういうような許可の仕方にわれわれは言いようのない不満を持っておりましたということを思いましたので、それを申し上げたのであります。でお尋ねしたわけで、ありがとうございました。
○高野一夫君 大臣、時間があると思いますが、私ちょっと一問だけ簡単に逢坂さんにちょっと伺いたいのですが、これは向うの様子じゃないのですが、あなた方が日本にお帰りになって、そしていろいろな日本の様子をごらんになると、たとえば銀座あたりをお歩きになったかどうか知らぬけれども、その華美華麗なる様子とか、あるいは内地に生活している者のいろいろな服装、そういうものを、生活状況をごらんになって、何か反感でも感ぜられたことはなかったか、あるいはそれとも、これは日本の内地がこれだけ生活が安定してきて、国力が充実してきた反映だと、頼もしくお考えになったかどうか、そういう点について何か御感想があれば伺いたい。
○参考人(逢坂和雄君) 私どもは日本に帰りまして、実際のところを申しますと、非常に十年ぶりでありまして、戦争のあとであるにもかかわらず、復興していることは非常に喜びに思ったのでありまして、別に反感というようなものは感じませんでした。むしろこれまでに日本が立ち上ってくれたことは非常にありがたい、それのみを感じたばかりであります。
○委員外議員(中山福藏君) ちょっと簡単に私参考人に聞きたいことがありますが、委員外の質問をしますためにちょっとあれですが、お許し願いたいと思います。
○理事(谷口弥三郎君) よろしゅうございますか――中山委員外議員。
○委員外議員(中山福藏君) 第一は、日本人同士の間に裏切者がおって、向うと通謀して行動なさるというようなことがないかというのが一点。 それから第二点は、日本人死亡者が非常に多い。これは医術のためにそれを提供するような関係から、生きものを実験に供しておるというようなことはないかということが一つ。 それから第三は、ソ連に抑留されておる人の共通点ですね。最大公約数的な日本人の気持も、ついでに一つちょっと間かして下さい。
○参考人(逢坂和雄君) 第一の点におきまして、日本人のうちに裏切者、すなわち犬と称する者が確かにある。この犬がわれわれのラーゲル生活のガンであるとさえ言われております。そしてまあ実際において彼らはガンである。すなわち彼らのほんとうの心と申しますると、犬の心はどういうものかと申しますると、ソ側といわゆる提携することによって、自分らの帰還が早められるのであるということが第一。第二はこれによって自分らの受ける利益――その他の利益ですが、利益が非常に大きいということ。また第三は、一度犬をやったらやめることができない。というのは、いろいろな関係があるので、できないということであります。 第二の点は、御質問の点におきましては、別にそういうことはございません。ただまあ第二の点において申し上げますのは、われわれのうちに死亡者がありましたときには、必ず死体を解剖します。そしてそれは以前、去年ですか、去年まではラーゲル内で死体の解剖をやったのでありますが、今年から町の病院に死体を運んでいきまして、そして町の医者によって行われておる。 それから第三は、これは何でございますか、日本人全体の。
○委員外議員(中山福藏君) 日本人全体の、日ソ国交との関連で、どういう気持ちか……。
○参考人(逢坂和雄君) 全体の気持は、これはわれわれがなんだか島流しになっておるような気持、すなわち先の方もどなたか申しましたが、文通というものが行われておりますけれども、ある人は今までにたった三回しか手紙を受けておらない人がある。内地からの通信を三回しか受けておらない。手紙は毎月々々書いておりますのですけれども、その手紙の返事はたった三回、それから新聞というものが内地の新聞を全然読ませませんからして、内地の事情には自然うとくなるのは当然であります。ただ内地の事情にそぐわぬ一方的な報道をラジオ、新聞においてみることによって、ようやくまあ一部のものを悟るというような状態になります。従ってわれわれ全体の、今まで私どもがラーゲルにおりましたときには、何か孤立したような感じがある。それがわれわれ一般の気持であるというようなことでございます。あるいは御質問に沿わないかもしれませんが。
○委員外議員(中山福藏君) いや最初、先ほど聞いたときに、日ソ交渉に、国策に影響があるようなことで帰るというような希望はないとおっしゃいましたね。そういう気分が全般的に行き渡っておるかということをお聞きいたしたのです。
○参考人(逢坂和雄君) それは全般でございます。
○理事(谷口弥三郎君) 本問題に対する本日の質疑はこの程度にいたしたいと存じますが御異議ございませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○理事(谷口弥三郎君) 御異議ないものと認めます。この際参考人の各位にお礼を申し上げたいと思います。皆様方は最近お帰りになって非常にお疲れのところにもかかわらず、本日は御出席をいただいて長時間にわたって非常に貴重な御意見を御開陳いただきましたことに対しまして、今後の引き揚げ促進及び善後対策につきましても非常に参考になったと存じますので、皆様方の御苦労に対しまして委員会を代表して衷心からお礼を申し上げる次第でございます。大へんありがとうございました。 ―――――――――――――
○山下義信君 私はこの際、議題外でありますが、先ほどの理事会で御了承をたまわりまして、緊急質疑をいたしたいのでございます。それはけさの新聞に報道せられました森永乳業事件につきます五人委員会の結論が発表に相なっておるのでございます。本委員会におきまして、森永問題を取り上げてきておりますことは周知のことでございます。たまたま臨時国会の最終日、本委員会の開かれましたこの機会に今朝発表に相なりました、この問題につきまして厚生省当局のお話を承わらずに臨時国会を終るということはできぬと存じまして、最後の機会でございましたので、この機会に当局から、まずこの五人委員会の結論についての新聞発表の通りでございますか、その他をお付け加えになりますことがありますか、一応この委員会に御報告を願って、厚生大の、すなわち厚生省の御所見を承っておくのがいいのじゃないか、こういうりので、この緊急質疑をいたすということになりました。一応厚生大臣から本問題についての御発言承わって、なおその上で伺うところがありましたらば伺うのがいいのじゃないかと思いますが、そういうふうにお運びを願いたいと存じま。
○国務大臣(小林英三君) ただいま下委員からいたしまして、森永の粉乳中毒事件の件につきまして、五人委員会の決定いたしました問題について厚生省としての報告並びに意見はどうかというように承知いたしておりますが、昨日三時頃に五人委員会がこの結論を出したわけでございます。この意見書といたしましては、大体今お尋ねのように、新聞に要約して出ておりますところと概要は同じであると思います。この意見書は大体第一章から七章に至ります間、二十八ぺ-ジにわたるものであります。いろいろのあれがありますが、結論として出しております意見は、第二節の「本件の補償基準」というところで出しておるのであります。それは「死者に対する補償」といたしまして「森永は本件の死亡者に対しては、その一名毎に金二十五万円を贈呈すべきである。」これに解釈がついておりまして、「本件につき以上諸般の事情を綜合して慎重審議検討した結果、死亡者に対する補償額はすべて平等に一応金十五万円が妥当であると思うが、しかし愛児を失った両親の心情、並びに業者としての森永の立場を考慮し、さらに十万円を増額して総計二十五万円也を贈呈すべきものとした。 この決定の実行方法としては、香典その他として既に贈呈された合計金十万円の外に、さらに十五万円を追加贈呈することによって、この決定が実行されたものとする。」こうあります。ただいまのは死者に対する補償であり それから第二といたしまして「患者に対する補償」これは「森永は本件の患者に対してはその一名に金二万円を贈呈すべきである。 本件患者に対しては総て一律平等に取扱うべきものであることは先に詳述した通りである。然るところ以上の諸般の事情を綜合して慎重審議した結果、本件の患者に対しては金一万円を贈呈するを妥当と認める。 この決定の実行方法としては、入院患者として金一万円の贈呈を行ったものに対してはそのままとし、通院患君とし金五千円を贈呈したものに対しては、さらに金五千万の追加贈呈をすることによって、この決定が実行されたものとする。」こういうのが本件の補償の基準でございます。 その他委員会の希望等もありまして、さらに第一章には「本委員会と調査」、第二章には「調査の結果」、第三章には「本件被災の状態」、第四章は「森永の措置と被災者側の要求と意向」、第五章には「補償問題」、第六章は「結論」、第七章は「委員会の希望」、こういうふうにございまして、二十八ページにわたっている意見を印刷物にいたしまして出してきたわけでございます。私はこの参議院の当委員会の委員長をいたしました当時から、この五人委員会というものにつきましても陳情のあったことも承知いたしておりまするし、いろいろの御意見のあったことも承知いたしております。またこの森永の昨日の三時に発表いたしました意見書の内容、結果につきましても、いろいろの御議論、御意見があるものと、存じます。ただ前大臣の川崎さんが、あの森永の事件が起りました当時に、国会等におきましても厚生省で一つあっせんの労をとりたいというようなことも言っておられたそうでございまして、当時の厚生大臣といたしましては、まあ法律的の問題は別といたしても、一応この問題に対して中立的な公正な人物た選んで、そうしてこれの処置に対してあっせんしたらどうかという考え方から、当時厚生省は五人の人々を選ばれたと思います。で、私も就任いたしまして、五人委員会の五人の人々、すなわち内海さんという人は今まで産経時事の主幹であった、いわゆる言論界といいますか、ジャーナリストといいますか。それから小山さんという方は小児科、大学の先生でありますと同時に、済生会の中央の病院長である。それから田辺という方はもと家庭裁判所の調停委員であって専修大学の講師である。正木さんという方は、もと行刑局長でありまして、それから弁護士をしていらっしゃいます。それから山崎さんという人は医事法制の大家であって、医学博士で法学博士を兼ねておられまして、いずれも弁護士をしておられるということも承知いたしております。この中正妥当な五人委員会によってあっせん案ができればいいものだというように私は考えておったのであります。今日こういうような結論が出されたわけであります。しかしこの結論につきましては、この意見書の中にも従来のこういうような悲しむべき下作に対するいろいろな行われた先例等もしんしゃくしてやっていることも書いてあります。しかしいずれにいたしましても、私はこれは決して私といたしましてはいわゆる被害者の諸君の、患者側の要望をこれが拘束しているものではない。これが出てもやはり今後場合によっては両者間の間に折衝があるものかもしれない。それから現在刑事問題としてこれが検察当局にもこの事件は責任者が取り調べられておる問題でもありまするし、一応この五人委員会が出した結論というものは、私の今日の考え方といたしましては、これによって標準が出た、そしてしかも五人委員会を厚生省が委嘱――委嘱といいますか、依頼をいたしましたときに、森永の当局を呼んで五人委員会が出した結論に対しては、森永乳業株式会社というものは責任をもってその通り実行するかということを念を押させてあるそうであります。きょうも私のところに森永の責任者が参りまして、この五人委員会の結論に対しては直ちにこの通りに実行するということも言っておりました。一応そういうふうに、私はけっこうとは考えておりません、いろいろな御意見があると思いますが、もしこれで出者側が納得せられるのであればけっこうだと思います。また患者側の方でいろいろのこれに対する異議があればこれはまた別の問題である、こういうふうに考えております。
○山下義信君 そういたしますと、厚生大臣におかれましては、この死者二十五万円、患者一万円という補償金額の五人委員会の結論は妥当なものという御見解で、このお取り扱いは、従って森永会社にこの支払いの実行をするようにこの五人委員会の結論をお伝えになった。ただし患者が不満で訴訟その他の手段に出ることはこれは何もそれをいなむものではないが、ただいまの御答弁の様子からいいますと、一応の基準が出たということは認めざるを得ないので、厚生大臣としては、この二十五万円、一万円という金額は大体妥当なものであって、関係者をしてこれを約束通り実行させてもよろしいものである、また実行させるように責任者にも申し伝えた、かような御趣旨と了解いたしますが、その通りでございましょうか。
○国務大臣(小林英三君) この結論が妥当であるとかないとかということでなしに、五人委員会を当時厚生大臣が依頼をいたしまして、標準の、どこから見ても中正なような一つ結論を出してもらいたいという委嘱によって五人委員会が立てられたものでありますからして、この際、厚生大臣といたしまして、これがきわめて妥当であるというようなことを申し上げることは差し控えたいと思っております。
○山下義信君 従来の経過は大臣の御承知の通りでありますが、この初位問題につきましては厚生省が十分被害者のためにもあっせんをなさるという意思表示があったのでありまして、従って五人委員会の設置も厚生省でこういうふうにお諮りになった、その結論が出たのがこれが政府の見解として、厚生省の見解として妥当なものであるかどうかという意思表示はしてもらえませんというと、世間が迷うのであります。これでよろしい、多いのか、少いのか、ますこういうところが妥当なのであるという厚生省の見解を御表明になりませねば私は相ならぬと思います。それでその結論はそのまま関係者に伝えるぞ、どんな結論が出てもそのまま伝えるぞという建前でなさいましたのか、適正な補償額が出るように、適正な補償がなされるように居中調停をするという御趣旨でここまでお運びになりましたのか、事態を明確に私はなされる必要があると思います、結論が出たのでありますから。従って五人委員会の結論はそのまま森永の会社の方へも被害者の方へも満足しようと不満足しようと伝えるだけだと、五人委員会というものを作ってその結論を出させるまではあっせんをした、どういう結論が出ても伝えるだけだというおぼしめしか。出た結論について、それが妥当なものであるかどうかを厚生省は御検討なさるおつもりがあるのかないのか、これは明確になさっておかれる必要があるのじゃないかと私は思うのです。
○国務大臣(小林英三君) 山下委員の先ほどのお尋ねに対しまして、私は妥当であるとか妥当でないとかいうことを差し控えたいと申し上げましたのは、これはいろいろな観点から考えまして申し上げたのでありますが、実はこの問題が昨日発表されまして、私どももこの問題を中心としていろいろ考えたのであります。まあ今のように、厚生省としてもこの問題に対する考え方を表明しろということでありますが、ごもっともであります。いろいろな御意見があるかもしれませんけれども、私として考えました場合におきまして、まあまあこの辺ならばよろしいのではないかと、こういうふうに考えておる次第であります。
○山下義信君 私どもはこの金額につきましては、少くとも私個人におきましては意外に少額だと、こういうふうに感じておるのであります。厚生大臣はまずこの金額の辺がまあ妥当であると、こういうお考えであるとするならば、それはまた一つのこれは御見解でございますから、見解の相違でありますからここで講論はいたしませんが、これではっきりいたしました。要するに、厚生省はこれをもって妥当な金額であると、こうお認めになった。従ってこの五人委員会の結論をさらに厚生省の方で再検討なさるという御意思はない、もうこの結論をそのまま関係者に実行させる、これがまあ妥当である、適当である、こういう御見解であるということでありますから、それではっきりいたしました。先ほど申し上げましたように、もし被害者が非常に不満を持ってこれでもっておさまらぬというようなことであればそれは切りがない、切りがないけれども、こり被害者側が非常に五人委員会の結論その他、補償について不満を持つようならば、極力あっせんをするということを前任者がここでお述べおきになりましたが、この五人委員会の結論の金額について被害者たちが非常に不満を持ったといたしまするならば、厚生省は今後なおこの間に立ってあっせんをなさいますか。この補償問題に関する厚生省の立場はこれで打ち切りになさいますかということも聞いておかなければならぬと思います。
○国務大臣(小林英三君) まあただいま申し上げましたように、厚生省といたしましては当時五人委員会に委嘱をいたしまして、一つの中正な意見を中立的な五人の人たちにやらしたものでありますから、まあまあこの辺ならば妥当な線だろうと、こういうふうに考えておりますことは今申し上げたのでありますが、従いまして森永の責任者に対しましても、すみやかにこれを実施さすということをただいま考えておるだけでございます。もしただいま山下さんのおっしゃるように被害者の方、患者の方にいろいろの不平不満があって、どうだというような場合には、そのときはそのときで、また別の観点から考えたいと考えております。
○山下義信君 そういたしますと、厚生省におかれましては、なおこの問題につきましては、今後状況によりましてはごあっせんの労をとるというお考えであると、かように了解してよろしゅうございますね。
○国務大臣(小林英三君) ただいまのところではそこまでは考えておりませんが、そういうような場合には、また別にいろいろと考えてみたいと存じます。
○山下義信君 これは大臣、くどいようですけれども、私ははっきりしておく必要があるのじゃないかと思うのですね。それで、この五人委員会の結論を厚生省としてはこれで妥当だ、こう思うと、だから実行させるのだ、こういうことになるというと、これでもう何もくっつけるところはない、こういくのか。これで非常にまあ被害者側がまだ不満であるといって納得しないというような場合には、また何か居中調停の労をとるのかということは私ははっきりしておく必要があると思うのですね。今お含みのあるお言葉がありましたが、まあ何となく含蓄のあるような言葉という程度で受け取っておけばいいようでありますが、私ははっきりしておきます方が、今後この問題に関していいんじゃないかと思いますのですが、今後もなお調停をお続けになりますか。厚生省としては一応金額が出たのでありますから、それでこの補償の金額に関する限りはこれをもって妥当な金額とすると、なおこの金額をふやせとか増せとかというようなことをいろいろあっせんする考えはないと、こうおっしゃるのか。あるいはまた状況によってはその間また尽力をしてもいいというお考えがあるのかということは、私ははっきりしておいていただきたいと思います。
○国務大臣(小林英三君) ただいま山下委員の御質問の点がよくわかりました。今、後段にお尋ねになったような問題につきましては、すなわちこれがもし患者の方で不服ならば、さらに進んで金額その他についてもあっせんするとかしないとか、そういう問題につきましてはいだそうとは思っておりません。
○山下義信君 それで厚生省の態度ははっきりいたしたのでありますが、本日はこの問題のみについて時間をお取り願ったのでないのでありますから、なお他の問題もあろうと思いますから、多く時間をとりますことは差し控えたいと思いますが、私は私の見解を述べて大臣の御所見もまたはっきりここでしておいていただきたいと思うのです。それは五人委員会のこの結論並びにその内容、今日までおとりになったいろいろな経過につきましては、ただいま大臣のお話の通りにりっぱな人人でありますから、私どもはそれに対していろいろと憶測はいたしたくないと思います。思いますが、私どもの感じといたしましては、この五人委員会の結論は必ずしも公正妥当でないという感じがします。それで、この五人委員会の動きというものが何となしに森永の側の立場を少し考え過ぎているきらいがあるように思います。換言いたしますと、少しでも森永側の責任を軽減しようと考えているのではないかという感じがいたします。たとえばこの結論をそれはずいぶん御研究になりましたらば相当な時日を要する重大な問題でありまするから、裁判の判決なども相当長日月を要するのでありますから、それは研究していただくということになりますと、早急の結論は出ますまいが、しかし事態は社会的な通念やその他いろいろな諸点から考えられて早く結論を出していただかなきゃならぬことであるのでありますが、今日まこの結論の出し方というものを見ておりますと、だんだんと予定が、私どもが承わった予定から延びてきまして、そうして昨日御発表になったこの結論をお出しになる時期なぞを考えますと、私どもの感じしては、非常に考えられたのじゃないかという気持がするのであります。それはたとえば、この森永が当初第二燐酸ソーダでもって非常に不都合だとじゃんじゃん言うておりましたときから、その直後には五人委員会の結論が出るのじゃないかと思われたころにさらにその結論が延、ばされ、今度は第三燐酸ソーダというものでむしろ森永がだまされて、森永が詐欺にかかった、責任は森永にはない。むしろ被害者は森永だというような形のものが突如として出てきて、そういうことも関係者の方においては早くわかっておったのでしょう。本委員会においてもちらちらそういうことの消息に通じた人のお言葉が出ておりましたが、そういうふうに、森永はむしろ被害者だ、あたかも責任はないんだというようなことが非常に報道せられまするようなことの経過を経て、そうしてここに結論をお出しになった、いろいろな諸般の経過をにらみ合せて説明されたという感じがわれわれにはするのです。そうしてしかも国会の末期、終りになってここに結論を昨日になって出したということを見ますというと、私はこの五人委員会の結論は相当森永の立場を考えてこれは出されたものだという感じがするのです。あなた方が森永じゃありませんから、私は森永の代弁者の方々のようなことで申し上げているのじゃございません。この問題に関する政府の御態度、御所見というものは非常に大きな影響を持つ。この問題に関する限りじゃありません。今後これが大きく一つのわが国におけるかかる事件に関する被害者の損害賠償の基準というものになって参りまして、これを厚生省が妥当と認めるか認めぬかは非常に今後大きな影響を来たしますので申し上げておるのでありますが、それでしかもこの五人委員会の結論を出しますと、この十三月のこの暮に押し詰まってきて、被害君たちが歳末の家庭の生活の上に相当費用を必要といたしまするこの時期に、押し詰まって、ここに臨んできてそうして出した。言いかえれば、先の百よりは今の五十で、飛びつきたいはどのこのせっぱ詰まった師走にこの金額をきめている。そうして年末の金にして、この金に飛びつかさして、いやおうなしに泣き寝入りさせようとする考え方がひそんでいるようなこの結論の時期の出し方、また金額の出し方、私はこの点に関する厚生省の御見解を承わりたい。これはこうなのですか。これでいいのですか。ということは、私は非常に悪質と思いますることは、悪質という言葉が悪ければ遺憾に思いますることは、あの問題の起きました当時に、とりあえず見舞金を持っていった。患者と死者にとりあえず見舞金を持っていった。患者には見舞金、死者にはあたかも香典のようにして持っていった。金一封を持っていっておわびをした。お見舞を持っていった。とりあえず持っていって、やがて補償の問題は事件が明白になってから私の方でも十分補償をいたしますということを向うておる、会社の重役が。当時の新聞も報道しておりまするし、明らかなことであります。その当時とりあえず金一封を包んで持っていったものを、これを補償額に加えるということは、これはどういうことです。その金一封は会社からのお見舞金なんです。弔慰金なんです。とりあえず御霊前へ、あるいは病人のまくら元へ持っていったものを受け取っておる。これが突っ返されたのならいいですけれども、突っ返されたかどうかは私はわからぬ。これを受け取っておるといたしますならば、これを二十五万円の補償金の中に、先に十万円渡したのに合せて二十五万円と、こういうことになるといたしますれば、補償金の一部はすでに被害者が受け取っておるのであります。この裁定に服しようと服しまいと、不服があろうとあるまいと、その補償金の二部を受け取ったということに相なります。もし不服がありまするならば、すでに受け取ったものを返却をいたしまして、これは不服であるといって突っ返して、あらためて正規の手続なり何なりをするということに出なければなりません。弱いものが、とりあえずお見舞金であるというから世け取っております。それを、私どものその当時の判断では――それはそれとしてあらためて何十万円という補償金にするか何万円にするかしらぬが、会社も考え、厚生省もあっせんをして補償金というものがまたきめられてくるものであると考えておるのに、その先に金一封を持って回って、そうして一つの礼儀として、誠意を示すものとしてお見舞を持っていったものが、それが補償金のうちへ入るのであるということになりまして、それを受け取っておるということになりますというと、これは非常に被害者が困るのではないかと考えるのであります。私の誤解であるか、解釈の違いであるならば御指摘を願いたいのでありますが、これは実におもしろくない、こう感じておるのであります。これにつきまして、私どもとしましては、この結論には意外に少額であるという感じを持ちますと同時に、その当時持って回った見舞金やそのあいさつの包み命が、それが補償金の二郎である、そして向うに渡ってあるいは被害者が使っておるであろう、そういう処置というものは非常におもしろくない。金額が多いとか少いということよりはおもしろくないと、私は考えるのであります。そういう点につきまして、これは一つの考えでございますから、私の考えについてどうまたお考えなさるかということを承わるのは、これはしいて御答弁を求めることになるかと思いますが、私はこう考えます。今のように考えます。しかし私のように考えるのは私一人ではないかもわからぬと思います。従ってこの結論がます妥当なものである、しかも委嘱した五人の人はりっぱな公正な人である、従って結論が出るその過程においても、十分この経過等においても、政府としても全幅の信頼を捧げておるということならば、その趣旨を……私のこの疑いといいますか、邪推といいますか、こういう見方に対しまして、厚生省はどういう見解をおとりになるのかということは、これはただ単にこの結論が妥当であるというほんの数語でなくして、そういう点につきましても、国民が納得しますよう、被害者たけの問題じゃございません。このヶリがつきますことにつきましては、国民の納得するよべに、私はこの五人委員会の結論を厚生省がおとりになって、それを尊重なさってこれでよろしいと、こうおっしゃるのならば、ただいま申し上げました諸点につきましても私どもの考え方が行き過ぎであるのかどうか。厚生省としての見解を私はお示しおきを願いたいと思う。私が承わりたいのは以上であります。御所見を一つ……。
○国務大臣(小林英三君) 今の山下委員のおっしゃった点につきましては、最初とりあえず見舞金でありますとか、あるいは弔慰金というような意味で十万円とかあるいは一万円とか出しておるわけでございます。これは別に森永といたしましては、これによって解決する金額の一部だというようなつもりでやっておるわけではないので、私は決して森永を擁護するわけでも何でもないのであります。つまり受け取りをとっておるわけでもございませんし、とりあえず弔慰金として出した、こういうとで森永はその当時の気持としては出しているだろうと思います。ただ五人委員会の方はこの意見書といたしましては、死者に対して二十五万円出した。二十五万円出すのでありますけれども、これの解決実行方法としては、その二十五万円のうらで先に森永が弔慰金として出した十五万円というものは控除してよろしいのだ、こういう結論を出しておるわけてあります。従いましてこの山下さんの御意見のように、全然別個に出せばよかったといべような、これはやり方もいろいろあるだろうと思います。むしろその方がいいかもしれません。けれども五人委員会の出しました結論というものは、決して私は森永に加勢をして森永の利益になるようにやったものとは考えておりません。この五人の人々はきわめて中正な、公平な考え方から結論を出したものだと考えます。
○山下義信君 私はこの五人委員会の結論の金額は非常に意外に少いと思います。それから今の内容につきましては、当時の弔慰金、見舞金をこれを今日になって補償金の一部渡しであるという扱い方は非常におもしろくないと思います。これは日本の国民感情からいたしましても納得のしがたい私は処置であろうと思います。それにつきまして、厚生省は十分に被害者のためにも尽力をすると言っておられた当時のお約束と、この程度のことでこれを適当であるといって突き放されるということにつきましては、私は厚生省の御尽力、御親切は被害者に対して足りないと思います。その点を非常に遺憾に私は存じております。
○理事(谷口弥三郎君) 別にございませしか。 ―――――――――――――
○理事(谷口弥三郎君) それでは次の新医療費体系に関する件について御質問を願いたいと思います。 私から……。過日新医療費体系につきましては、新医療費体系ができましたならば、当委員会にお出しを願いたいということを申し上げて御了解を得たのでございますが、それに対しまして、二つの点だけをきょうさらに質問をいたしまして確認をしておきいたと思うのでございます。 その第一は、この新医療費体系というのはいつごろできて、いつごろ本委員会にお出しを願えるのでございましようか。
○国務大臣(小林英三君) ただいま盛んに作業をいたしておりまするし、当委員会におきましてそういうただいま委員長がおっしゃったような御要望のあったことも存じ上げておりますからできましたならば、どういう形式にいたしますか、委員会に差し出したいと存じますが、その時期は大体二十五日前後、には作業が完成するのではないかと考えております。
○理事(谷口弥三郎君) 一つお願いしておきたいと思います。この新医療費体系ななるものができましたらば、よく中央社会保健医療協議会ですか、ああいうのにお出しになるということも聞いておりますが、中央社会保険医療協議会に出す前に当委員会にお出しを願いたいということも重ねてお願いをいたしておきます。
○国務大臣(小林英三君) もちろん法的にきております中央社会保険医療協議会というのがございますから、こちら案がまとまりましたならばそれに諮問をいたしまして、そしてその答申を得たいと考えております。
○理事(谷口弥三郎君) もう一つ中央社会保険医療協議会ですか、これにお出しになることはもちろんと思っておりますが、この委員会におきましては昨年もこの問題について非常に検討をし、あの当時にはこれではいかぬからして、もう一度一つりっぱなものをこしらえて委員会にお見せを願いたいというので、それをお返ししたのでございますので、そういうような関係からいたしまして、ぜひともできましたら当委員会に先に見せていただきたい。先に出していただきたいということをお願いしておる次第でございます。
○国務大臣(小林英三君) ただいま申し上げましたように、大体この二十五日ころにはでき上ると思いまするからして、同時に委員会の方にも何かの方法でごらんに入れたいと思っております。
○山下義信君 今その新医療費体系は、これは無埋なことを厚生省へお願いするのではないのです。私どもそういう気持は持っていないのです。従来の経過は、御承知の通り、非常に重大な医薬分業問題にからんで新医療費体系を延ばして来たわけなんです。それがために医薬分業が延期になったのではないでしょうけれども、まあ分業そのものにも不備があってああいういきさつがありましたが、新医療費体系なんといってもまあ分業の裏づけでありますから、これに対する議論の集中するのは当然である。これは法律案ではありませんししますから、正面切って委員会に付議するとか何とかいうととはこれは形式的には必要もありません。厚生大臣の御権能で審議会に御諮問になればそれでよい。しかし従来の経過、また厚生省と当委員会との関係はこの新医療費体系をこの委員会にお示しになり意見を聞いてやろう、こういうことで従来お進みになった。それを引っ込めていわゆる新医療費体系を作るときも、今後もまた当委員会の意見を聞く、こういう態度で今日までおいでになったのであります。それでその時期が迫ったのでありますから、ここで政府の委員会に対します御方針を委員一同が聞こうじゃないかというので、本朝理事会を開き、先般も協議いたしましてお耳に達しておる通りなのであります。それで本委員会にいつ資料を御提供になり、御説明を下さるか。言いかえれば報告に相なるかということが第一点。いま一つは審議会との関係がありますから、これは政府の方も委員会が希望するようにすなおに、無邪気に御了承になる方がいいんじゃないかと思うので、審議会におかけになってこちらへお回しになるというようなことでもなく、今また同時にとおっしゃったのですが、同時にということの形式をおとりにならなくてもそんなに御用心なさらないでもけっこうですから、国会の権威をお認め下さるならば、少しでも早く審議会に正式諮問をされる前に委員会にお出しになれは、われわれ委員の方も十分意見を申させていただくこともできるわけですから、あとの祭にならぬように、こちらの方に先に一つお出しを願いたいと、こういうことであろうと思う。同時にお出しになってもあるいは国会側の意見主審議会が聞こうという気持になりますれば、答申がおくれては何もならぬわけでありますから、そういうことでなしに、審議会のかね合いというようなことを深く心配されて御警戒なさらす、この委員会には当然もう政、府と御関係の委員会でありますから何でも御作業ができましたらまあ一つ出して、やかましい連中に言いたいほうだい言わしてみようというので、ここに直ぐお出し下すった方が私どもの意見を申し上げる理由にいいではないか、こういうのが委員会の実は昨日来からの話し合いをしておった筋であります。そういうことを谷口委員から大臣とお約束しよう、こういうことであったと思うのです。いかがでございましょうか、そういうふうにしていただいて……。
○理事(谷口弥三郎君) 速記をとめて下さい。 〔速記中止〕
○理事(谷口弥三郎君) 速記を始めて下さい。
○国務大臣(小林英三君) ただいま御意見のありました新医療費体系の作業が完成いたしまして、でき次第委員会の方に提出することにいたしたいと思います。
○理事(谷口弥三郎君) どうぞそういうふうにお願いしたいと思います。 大臣はお忙しいそうでございますからどうぞ……。 ―――――――――――――
○理事(谷口弥三郎君) 次にお諮りいたします。 戦傷病者戦没者遺族等援護法の一部を改正する法律案、社会福祉事業等の施設に関する措置法案、調理改善法案、右三法案はいずれも目下審議中でありますが、会期も切迫し、今期国会開会中には審議を完了することは困難でありますので、本院規則第五十三条によりまして、継続審査要求書を議長あて提出したいと存じますが、御異議ございませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○理事(谷口弥三郎君) 御異議ないものと認めます。さように決定いたします。 ―――――――――――――
○理事(谷口弥三郎君) 次に社会保障制度に関する調査、労働情勢に関する調査、右の調査は議長の承認を受け調査中でございますが、会期も切迫し、会期中には調査を完了することは困難でありますので、参議院規則第五十三条によりまして、継続調査要求書を議長あて提出いたしたいと思いますが、御異議ございませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○理事(谷口弥三郎君) 御異議ないものと認めます。よってさように決定いたします。 ただいままでの決議に基きまして継続審査及び調査要求書を議長あて提出いたすことになりますが、その内容、手続などは委員長に御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○理事(谷口弥三郎君) 御異議ないものと認めます。 ―――――――――――――
○理事(谷口弥三郎君) なお調査事項が議長の承認があった場合は、閉会中において、中共地区引揚者の実情調査のために委員派遣を行うこととし、その人選その他の手続などは委員長に御一任を願いたいと存じますが、御異議ございませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○理事(谷口弥三郎君) 御異議ないものと認めます。 それではこれをもって散会いたします。 午後二時十二分散会