文部委員会 第22号
- 発言数
- 110 件
- 登壇者
- 8 名
- 会派数
- 4
- 開催日
- 1954/04/16
会議録
○委員長(川村松助君) 只今から文部委員会を開会いたします。 教育公務員特例法の一部を改正する法律案、義務教育諸学校における教育の政治的中立確保に関する法律案、以上二案件について御質疑を願います。
○委員外議員(松原一彦君) 委員長にお願いします。私は一月以来病気でこの委員会を欠席しておりまして、四月の上旬に辛うじて出て参りましたが、まだ病中でございますので思が切れますから、座つたままで質問をすることを……。
○委員長(川村松助君) 只今松原さんからの御要型もありますが、この際念のために申上げます。松原さんはまだ正式の文部委員になつておられませんが、今日の議運で……。
○剱木亨弘君 議運でもうやつたと思います。
○委員長(川村松助君) 今進行中でありますから御了解願いたいと思います。(「異議なし」と呼ぶ者あり)
○委員外議員(松原一彦君) 従つて、文部大臣も一つ懇談の意味で、四角張らないで、どうぞ座つたままでお答えを願いたい。 私は先ず私のこの法案に対する態度を申上げておきたいのですが、それは現行憲法を護持する民主的自由主義者として、私は各方面の意見を重んじつつ最後の結論をつけたいと思う。大局から申せば私はこの法案には反対であります。併し、どうしても必要であるということが納得できればその意見をも尊重して最後の結論を考えてみたいと思います。改進党は一応衆議院において三派協定の案が出ておりますが、その後における情勢の変化もあり、なお党としては参議院においては若干の考え方の奥向をも認めるということになつておりますので、最高の結論を得たいと思つてお尋ねをするのであります。 第一に、文相にお尋ねをしますが、国政上文教の地位をどういうふうに御覧になりますか。戦前の日本の文教の地位、又戦後とおける現在の教育上の地位、これに対する文部大臣の率直な御意見を承わりたいのであります。
○国務大臣(大達茂雄君) 戦後における国政上の文教の地位をどう見ておるかということであります。只今お述べになりましたように、戦後新らしい憲法が制定せられました。そこに明らかに打出されておるように、民主主義に基く文化国家の建設、こういうことが旗印とし又目標となつておるのでありまして我が国の文教がこれを目指してその方向に向つて推進せられなければならん。その意味におきまして戦前と晦日を一新したそういう気持で文教施策が進められなければならない、かように思つております。
○松原一彦君 私はかように思うのでありますが、戦前における日本の文部省の所管する文教の地位は非常に低かつたように思うのであります。文部大臣になる人はいつでも伴食だと言われておつた。文部省には利権もなく、最後に文部大臣が選ばれるので、いつでも伴食として低く扱われておつた。国政全体から見るというと、一番大事な文教が下積みになつておつたという私どもには観察があつて、常にこれを歎いておつたのであります。従つて大きく義務教育とか、その国は文教によつて興ると言いながらも、文部省が国政上において、国の政の上から権威を失つておつた。それで教員の待遇等も非常に低く、文教が振興しないのをまあ私どもは歎いておつたのであります。 本来国の政治は一片の事務ではないので、政治そのものが民族国家においては民族の理想を進展する一つの教育でなくちやならんと思う。同時にこの教育によつて政治を行い、政治によつて国民をおのずから訓練して行く。ここに無限の進展があると私は思うているのでありまして、国政の中における教育の地位は最も大きなその民族国家が成長するところの主導力でなくてはならないと思う、理想の展開でなくてはならんと、かように思つておりますが、文部大臣はこれに対してはどういうふうにお考えでございましようか。
○国務大臣(大達茂雄君) 戦争前といいますか、終戦前において文部省の国政上における地位は比較的軽いように世間でも見ておつたというようなお話でありますが、成るほどそういうふうに見ておつた人々もあつたように私も思います。ただ戦前であると戦後たるとを問わず、文教というものが国政の基本であり、又日本の将来というか国家の基礎になるものである、その点においては今も昔も変りはないと思うのであります。ただ他の国政においてもそうであるけれども、特にこの文教方面におきましては、これが始終その時とその場合によつて変つて来るとか或いは動揺するとかいう点が非常に少い、これは当然必要なことでありまして、文教政策は長い先を見ながら一貫した考え方の下に進められなければならん、こういうことは国政の他の部門に比べて特にそういうことが言い得るのではないか、従つて一旦打立てられた文教の基本政策というものがその時その場合、そのいろいろな事情に応じて変るということでない、従つて普通の場合をちよつと見ますというと、如何にもそれが事務化してしまつて変化に乏しいということはあり得たと思うのであります。これが比較的文部省というものが平凡といいますか、変化がない、その時その時によつていわゆる非常な大きな目立つた政策をとつたり、又文部大臣が非常な手腕を振うとかいうようなことがないという一つの私は原因であつて、決してそのことは文教というものが国政の上に占める基本的な地位がむしろそう然らしめるのであつて、これが国政の上において比重が軽いということはないものと私は思うのであります。その点におきましては戦後における文教についてもやはり同様に言い得ることである。ただ戦前の場合と非常に違うことは、明治の初めにおいて打立てられた文教の基本的方針というものが、大東亜戦争の前後からいろいろな点で歪曲せられた点があつたように私も思うのでありますが、とにかく明治、大正、昭和を通じて私から申上げると終始一貫した力強い線で推し進められて来た。ところが終戦後においてはやはりこの文教の基本政策といいますか、国家の時勢の進展に応じ、又いろいろな点からして国の目指すところがおのずから違つて来たのでありますから、文教の施策がそれに即応する態勢をとらざるを得ない、ただ明治、大正、昭和と通じて貫して流れて来たというような、先ずその安定した状態に達していないのである。今日憲法或いは教育基本法において我が国文教の目指すところは明示せられておるのでありますけれども、併し文教の実際がその方向に向つて確実な軌道に乗つて進みつつあるものは必ずしも言えない、未だ草創の時代であり、見ようによつては不安定混沌の状態を呈しておる、こういうふうに見得るのである。その限りにおいては文部省として今日国家将来の文教の基本を作り上げる時期でありますので、その限りにおいて文部省の任務も非常に重いと思うのであります。今日思想の混乱或いは思想の不安定、いろいろの原因からして文教に及ぼす影響は極めて大きいのである。私どもは憲法並びに基本法の示すところに従つて今において日本の文教の基本を確立し、そうしてこれを行政面の上において軌道に乗せるということを考えなければならん。今日の二法案のごときものもやはりこの見地から、国家将来の文教の基礎を確立するというふうに御覧になつて頂いて結構であると思います。
○松原一彦君 只今のお話をこういうふうにとつていいでしようか、戦前戦後を通して政治の上におけるその国の教育というものの地位は根本的要件をなすものであつて、この盛衰がその国の盛衰に大きな影響を及ぼす、文部大臣はその意味において新時代の新らしい憲法に基いて教育の基本を固めて行く、こういうふうにとつてよろしうございますか。
○国務大臣(大達茂雄君) そういう意粛でございます。
○松原一彦君 ただ、今お話の中に明治、大正、昭和を通して一貫したる方針があるかのようなお話でございましたが、それはどういう意味でございましようか。一貫したるものをどこにお置きになつておるのでありましようか。
○国務大臣(大達茂雄君) 私は具体的に詳細なことは存じませんが、私は明治の理年でありますか、初頭において打立てられた日本の教育制度、又その精神とする教育方針、こういうものはやはり基本的に変革されることなくしてずつと少くとも昭和の初めまで続いて来たものであると、こういうふうに思つております。
○松原一彦君 ちよつとそこが私は文相のお考えが不明なのでありますが、明治、大正を通して青貝したる日本の教育の方針は教育勅語であります。これは御承知の通りであります。これは天皇親権時代の日本の教育の方針であつて、私はこれはもう今根本的に壊れておる、一貫しておらない、今度の戦争によつて国が君主国家でなくして純然たる民主主義の国になつたのでありますから、若し戦前のこの方針を一貫して戦後に何とかこの方針によつてやりたいと、教育勅語の方針によつて今後の戦後の教育をも進めて行くものだとするならば、それは私は非常に誤解があるのじやないかと思うのでありますが、この点は明らかにしておいて頂きたいと思います。(「大事なところだ」と呼ぶ者あり)
○国務大臣(大達茂雄君) 私が先ほど申上げましたのは、戦前においては文部大臣というものがややもすると伴食視されて、国政の上に文教の占める地位が非常に低かつたようである、こういうお言葉に対して私の感想として文教政策とか或いは文教方針というものは、他の経済政策とかそういうものと違つてその時その場の構勢の変化に伴つて始終変つて来る筋合いのものじやなくして、一たび基本的な方針が定められればその軌道に乗つて進む、従つて他の行政面のように文教の方針というものが始終変つて来るということでなくて、比較的安定した、いわゆる事務化した状態で進んで来るから、従つて文部大臣というものが極めて平凡で余りその仕事もないというふうに感ぜられたのではないかということを申上げたのです。そこで戦後においては我が国の教育の基本について教育制度、機構そのものについても非常な大きな変化が行われた、又その目標、教育の目指すところについても先ほど申上げたように、憲法なり教育基本法というものが制定されて、戦前と違つた目標の下に進むという情勢に入つた、つまり戦争前の情勢と違つた形をとつて来ておる、戦後においては、ただ、それがまだ戦後日浅くして、而も戦後の思想的なその他の動揺というものもあり、混乱というものもあるから、今日においては戦争前のようにまだ教育の施策、行政というものが安定した軌道に乗つていると言えない。だからして今日においては戦争前のような、何と言いますか割合に落着いたという状態でないので、早くこれの目標を確立して、そうしてこれに即応するような行政の機構を確立するということが今日教育に、文教に与えられておる課題であると思うと、こういうことを申上げたので、戦争前の方針を一貫して今日に継続すべきであると、こういう意味に申上げたのではありませんから、その点御了承頂きたいと思います。
○松原一彦君 一応承わつておきますが、私どもはこの憲法公布記念式典において勅語を頂いておる。その勅語には「全面的に憲法を改正し、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め」云々、「日本国民は、みずから進んで戦争を放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、民主主義に基いて国政を運営することを、ここに、明らかに定めたものである。朕は、国民と共に、全力を挙げ、相携えて、この憲法を正しく運用し、節度と責任とを重じ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するように努めたいと思ふ。」と述べておいでになります。勿論被占領下におけるすべてでありますから、勅語といえども一つの制約の下にあつたと思いますものの、この勅語で示されたるように、全国民はこの新憲法を全力を挙げて良心的に民主的に文化国家を建設するように努力しなければならんと書いてあるのでありまして、この憲法がたとい与えられたる憲法であるというような形容詞を持とうとも、すでに成文の最高法規である以上は、私どもはこの憲法を擁護しなければならん義務を持つものと信ずる。勿論国務大臣である文相はこの憲法第九十九条に書いてある通りに、尊重し擁護する義務を負うものと御自認になつておると思います。併し今回お出しになりました二法案というものを私は冷静に考えるというと、その影響するところは我々の所期するものと少し遠いように思う。文相は成文法であるこの憲法を良心を以て擁護するつもりでおありになるかどうか承わつておきたい。
○国務大臣(大達茂雄君) 憲法を尊重してこれを擁護するということは、これはもう言うまでもない当然なことであります。基本法におきましてもこのことは明らかに教育の基本方針として、はつきり書いてあることであります。
○松原一彦君 併し或る学者の中にはいろいろな説をなす票あつてこの憲法は被占領下にあつてできた憲法であるが故にこれに従われることは要らんという極論をなす者もあり、又憲法改正の機運を唱える人の中には、二十万人以上の日本の愛国者をば追放して発言権を与えずして作つた憲法であるから、この憲に従う必要はない、即時に、独立と同時にこの憲法を改正しなければならんという論者もあるように聞いております。文相は先に非常な気慨を示されて戦争裁判によつて処分せられたことのごときは、何か南洋の土人の首祭だというようなことを言つて啖呵を切るような態度をお示しになつたのでありますが、私は文相の腹中には日本民族の将来のためにはこの思想取締り等の過去にあつた悪例のごときものをこの際復活して、そして中央集権的に教育を古いコースに導いて行こうとするようなお考えがあるのではないかという懸念を持つのでありますが、この点については如何でしようか。
○国務大臣(大達茂雄君) 私は思想を抑圧するとか或いは新らしい教育制度の所期するところを壊して、そしていわゆる中央集権的にするというような考えは毛頭ありません。私の首祭のことは、これは何もそれとは関係がないと御了承願います。
○松原一彦君 私は自分の心境を申上げますが、実は私は昭和二十一年の敗戦後の第一回の総選挙に教育界から推されて出た教育関係の議員であります。私は再三辞退いたしましたが推されて遂に出たのでございますが、その当時の私の心境は、明治、大正期にあつては教育者には政治の自由がなかつたのであります。教育者には政治的の解放が行われておらなかつたのであります。そのために文部省の後援団体もなく、教育がいつも政治の下に下積にされて予算もくれない、教育吉の待遇も非常に低い町村費であるが故に教員の給料も払えない、教員養成機関も非常に貧弱であるというようなところから新時代の新憲法下、つまり敗戦後における日本の建直しは単なる一片の事務ではいけない。ここに物資に乏しい日本が建直るためには、日本国民を本当に最高の文化人たらしめる教育的態度が大切であつて、今こそ教育者が新らしいこの政治に参加すべきときであると、かように信じまして実は出て参つたものでありまして、その当時我々同様の教育界、まだ教員組合が盛んでない頃でありますが、教育関係の者がたくさん出て参つたのであります。そうして我々は意気軒昂として文部大臣の安倍能成氏とお会いしましてそのことを語つて、一つ大いに文教に力を入れましよう、あなた一つ我々の盟主の気持になつておやり下さいといつたようなことを盛んに申したのでありますが、安倍さん笑つて言うのには、ミイラ取りがミイラになつちやいけませんぞ、政党とか政界とかいうところは非常にむずかしいところで、単純な教育者がそんなことを言うて出て来ても、いずれそのうちに古い勢力に負けてミイラになつてしまう、よほどしつかりしてかからないというと駄目ですよと言つて、我々はむしろ冷かされたような感じを持つたのであります。そこにおられる野本氏のごときも一緒に安部文相に会われたのでありますが、私どものその当時の偽らざる心は日本の政党主流に任せちやおけんという気持であつたのであります。そうして伴食の文部大臣などは許されない、民族の消長は一にかかつて文部行政、教育の振興を基本としなくちやならんという純真、真剣な気持で以て我々は出て参つたのであります教育議員と称するものが数多く現われたゆえんは別に功名心に煽られて出て参つたのじやないのであります。さような気持を以て参つたのであつて、私は一国の文部大臣はこの寝ても覚めても教育によつて民族の興隆を図ろうとするまじめな五十万の教育者をば味方として、一体となつて進んで行くところの情熱と理想とをお持ちにならなくちやならんものと私は思うのであります。今度お出しになりました事例から見ても、又今回の二法案から考えても、どうも文部大臣は五十万の教育者をば敵に廻して、権力的に刑事罰を以て臨んで威圧してかかつておいでになるような感じがしてならない。それが果して日本の文教を振興せしむる根本の途であろうかどうか、ここに御再考になる点はありはしないかということを伺いたい。
○国務大臣(大達茂雄君) 私は決して五十万の教職員を敵に廻すとかこれを圧迫するとかそういう気持は毛頭ありません。御覧の通り私はむしろ逆に教職員の人々が真にその良識に従い、良心に訴えて教育をされるような、そういうことになることを期待してやまないのであります。ただ現状から申上げますというと、松原さんも御承知の通りにこの五十万の教職員に呼びかけて、一方的な思想或いは一方的な政党的な主張を教壇に持込もうとする動きがある、これはお認めになることと思います。でありますからして、こういう教職員に対する私どもから申上げると一種の邪道であるところの呼びかけというものを抑える、抑えるということは、教職員の立場を擁護するゆえんである、こういうふうに私は考えておるのでありまして、これはその趣旨のことは、このたび提案しました法律の文句のうちにも書いてあります。私はむしろ今日五十万の教職員に働きかけておる不当な支配、不当な影響から教職員諸君を解放することによつて、本当に教職員が伸び伸びとした自分の自主性に基く活機な教育をされることになる、こういうふうに期待しておるのであります。今日は五十万教職員はむしろ一部の極めて偏つた考え方を持つた人々の手によつてその教育の自主性を奪われておつて、至るところにその指示、その指令するところに基いてその線に沿うた教育が行われておる、こういう徴候が明瞭に現われておると私は思うのであります。従つてこの法律案が教職員を圧迫するとか、この法律案は御承知の通り教職員に対して特にこういう教育をせよとか、そういうことを片鱗だも表わしておるものではありません。むしろそういう特殊な教育をせよということを言う者をとめよう、こういうことでありまして、教員に対して何らかの圧迫を加えるとか、教員をして政府の考えておるような教育を行わせようとするとか、そういうことはないのであります。これは法文によつて御覧下さいますれば私は当然御了承預けることと思つております。
○松原一彦君 余ほど見解に相違がありますが、いずれ又質問を続けますから、その間に私の疑問を質したいと思います。 教育者が政界に乗り出したということは、只今申しましたように少くとも私どもは思い上りかも知れませんけれども、従来のごときいわゆる政友、民政時代、政友、民政対立の低俗な政治にあきたらないで、我々の理想を民族の上に鼓吹したいという真剣な気持で出たのでありまして、その結果は少くとも弱い教育者と言われたものが強い教育者となり、そうして政治の面におきましてはアメリカからの容像もありましたけれども、教育者の待遇は非常に大きな向上をし、又教員養成機関は普の中等教育に過ぎなかつた師範学校から専門学校となり、更に進んで今日は一様に新制大学となつて、教員養成機関が非常に向上して参つた。こういうことに対しての大きな効果が教育界から出たる教育者というものの努力のうちに大きく、教育者のみの努力ではありません、戦後の一つの流れでありますが、その中に教育者のあることをもお認めにならないでしようか、どうでしようか。どうも私は新聞で見、又両三日来の証人調べ等によつて聞いておつても、すべての教育者が偏向しておるようにお考えになつておるのじやないか、そのことはいずれあとから申し、例を挙げて伺いますけれども功舞共に抑圧するような傾向があるのじやないか、私は教育界後援の下に出て来た者ではございますが、途中から縁が切れております。今では教育界からの支援はございません。けれども私どもの仲間は社会党の左派ばかりではないのであります。改進党にもあれば自由党にもあるのであります。又社会党の右派にもある。で、このまじめな人々の政治界に果したる功も又大きいと思うのでありますが、この点をお認めになりませんかどうですか、伺いたいのであります。
○国務大臣(大達茂雄君) 私は無論この教育者出身の国会議員の諸君が、今日の国政、殊にこの文教政策に対して非常に御尽力になり又潜々とその御努力の結果が国政の上に現われておるということを決して否定するものではありません。これは非常に結構なことであり、又私どもも教職員の出身ということでありませんけれども、併しやはりその方向に今後とも努力をいたしたいと、かように考えておる点は全く同じであります。ただそれであるからといつて末端の義務教育諸学校における教育の在り方というものが法律の定める、基本法に定める趣旨に従つてそれを正常な軌道に乗せるということがならるべきではないことは当然であります。むしろそうであればこそ、そういう教育に関係する施設なり或いは教職員の素質の向上なり或いは教職員の待遇なり、そういうことに努力すればこそ、その肝腎の教育そのものが正常に軌道に乗つた教育であることを確保するということは当然なことでありまして、決してこの法律を提案しました趣旨が教職員を圧迫するとか弾圧するとかいうことではありません。御承知の通りこの学校教育、教員の教育活動それ一体を刑罰の対象にしておるものでも何でもありません。それに対して教育著たると否とを問わず、そのほかの立場の者が違反活動をやるのを抑えたい、こういうことであります。又今日全旧五十万の教職員が殆んど全部が偏向しておるというようなことはモ頭考えておりません。これはしばしば申上げておるように私の判断するところによれば、殆んどその大部分の人々は極めて穏健な考え方を持ち真面目に教育に志しておられるかたたちである。かように常から思つておるのであります。
○松原一彦君 ものはどうも行き過ぎがあるので、弱いものの標本のように言われた学校の教員が強くなつた、なつたら今度は強くなり過ぎてしまつて、文部大臣が行つて頭から抑えつけるような相当威力を振つたことも私はよく知つております。従つて教育者の一部に行き過ぎもあり或いは偏向考もあることも私は認めます。常に私は日教組の諸君に出会うというと品を開けば日教組の行き過ぎを論じ、一日ストライキでもやつてはいかんというて説いて廻る、先の一日ストライキのときのごときも参衆両院に席をたれる議員諸君は全部私どもの意見に賛成、そうして二晩も徹夜をして日教組の本部に行つて、この請訓は一致してあの阻止に努めたのであります。見事に成功したのであります。その五十万人もある教育者でありますから、その教育者の中に共産主義者もありましよう、これは阻止することはできない、自由主義の国であるが故に思想に枠をはめ得ないのであります。でありますから、私どもが出た当時の選挙では、共産党の得た得藥があの音符は共産党が珍しい時代でありましたが、それでも昭和二十一年には全国で三・八五%の共産党は得票を持つている、百分の四、百人中に四人の共産党の投票者があつたわけであります。最近の、昨年の春です、昨年の界の総選挙では共産党の得票が六十五万票、一・九%になつておりますから減つております。昭和二十一年の時代に比べればぐんと減つておりますが、国民の中には、かような共産党支持者もあるのであります。(「最近うんと殖えているよ」と呼ぶ者あり、笑声)殖えたか殖えないか私の知つたことではありません。私は自由主義者であるが故に反対の意見に一応の敬意を表するが、若しこれが共産主義の国であつたならば、違つた意見ならば一点も許さない、自由主義の国であればこそ共産党の諸君と列しているのです。これは意見が違つておつても反対意見に敬意を表するところに無限の将来がある、一方的に固まつたらば進歩はない、でありますから、私は意見の違つた共産主義にも一応の敬意を表して人間の将来の理想を考えるのであります。併し共産党員の戦術は、極端に私は嫌うものであります。私は嫌いであります。須藤君には敬意を表するが、戦術は嫌いだ。(笑声)併し、あるものはいたし方がない、合法政党である以上。従つてですね、(「汚職をしないのは共産党だけだ」と呼ぶ者あり)五十万の教員の中には五百や六百の共産党員があつてもこれはいたし方ないのであります。その思想は弾圧することはできませんが併し行動においての抑制をすることはこれはできます。破防法といつたようなものもそこに生れて来ておりますから、或いは選挙の違反であるならば各党を問わずこれを選挙法によつて処分することはできるのでありますが、新憲法を境として政治教育上の考えには、いわゆる政治観にも、いわゆる社会観にも非常に大きな変化があつておるのです。それにもかかわらず、今回のこの洪業が大きな網を教育者に被せて、そうして如何にも偏向教育を禁止するような形にはなつておりますものの、その実は新らしい政治観、社会観等に立つた言論を抑圧するかのごとく見得る部分が非常に大きいのであります。この私は危険を思うのであります。これをば文相に伺いたい。例えば二十幾つかの例を今度お挙げになつて、これが偏向だと言われるのでありますが、純翼なる進歩的教育者の良心から出、信念から出たる平和主義或いは戦争を否認する考え方、これは憲法がそういうふうに示している、これを守らなかつたらば間違いであります。これはさつき文相も言われた通りであります。ところがこの事例を見ますと、僅か二十何例の中に如何にも私は愚にもつかんものがあると思う。こういうものをば麗々しく文部省が偏向教育の事例としてお挙げになつたところの認識を疑うものであります。(「本当にその通り」と呼ぶ者あり)余り左派のほうから声援せられると困るのでありますが、(笑声)私はその左派的偏向をも否認するのであります。偏向してはいかんが、一体社会観、政治観から申して、従来のような、ものの考え方からよほど脱けなければ、民主主義の国の政治教育はできないのじやないか。この点について文相に伺いたいのでありますが、例えばあの学校の教員が職員室で、公開の場所でない教員室で、君が代を歌つていいか悪いかを論議をしたということが偏向教育の事例になつておる。私は部屋に帰つてこのことを話したらば、私どもの仲間の諸君は唖然としておる。私どもの仲間は保守党であります。併し皆お互いに自分のうちの娘が、子供が一体君が代を歌えるかということを聞いてみましたら、歌えるというものが殆んどない。私の孫も長崎におりますが、小学校の六年生ですけれどもが、全然君が代を知らない。知らんわけなんです。君が代のない時代に育つたのであります。歌うことをしない時代に育つたのでありますから、言葉は幾らか知つておる者があるけれどもメロデーを知らない、歌えないのであります。今は君が代時代ではなくて民が代だというのがこれは誰でも言つておる言葉であつて、文相も御承認になるだろうと思う。現に文相はあの歌詞には疑義があるということを言つておられる。それは私はそういうことこそ勇敢に議論していいと思うのであります。但しそれをば教壇の上から真つ向からぶつつけるということは、これは私は慎まなくてはならないと思う。国の秩序もあるしまた伝統もありますから、慎まなくてはならないが、秩序の下に伝統を重んじながらも、真の皇室を今後持つて行くという意思を持つものからいうても、君が代なんというものをばそのまま唱えていいかどうかは疑問であります。私は四十年来新年には必ず皇居と明治神宮には参るほどの古い型の人間でありますがそれでも天皇を元の地位にお復し申そうなんということは夢にも考えません。君が代をば学校で歌わせようなどとも思いません。こういう点において非常な食い違いがありはしないか、項を改めて伺いたいと思うのでありますが、今政府は一昨年の秋以来抑えてあつた教育委員会を市町村の隅々まで作られて、そうしてこれが教育の全権を握り、そうして今後教育者の監督という言葉は少し無理かも知れませんけれども、日本の教育を文部大臣以上に指導しようとしております。この人々の一体良識を私は疑うといつては甚だ相済みませんけれどもが、今の日本の程度から見て非常に危険を感ずるのであります。文相も御承知の通りに教育長には教育の級免許状がなくちやならないのでありますが、その資格者がなくて助役等が当つておることも御承知の通り、僻遠の地方にある教育委員というかたがたが、地方におけるこれは文部大臣であります。このかたがたが考えておらるる意識の中に、一番大きなものの判断の切札がある、それは反共という切札であります。赤ということに対するところの非難であります。こういう人々の常にものを考えるときには直ぐあいつは赤だ、こういう。あの先生は赤だというが、ここには偏向教育を嫌う私にも大きな疑問があるのであります。先般お出しになりました事例の雪が代の論議をした教員が赤である、偏向であるといつたような認識で見られるというと、私は大変大きな日本の教育に障害を生じはしないかと思うのです。例えば、昔は御承知のように稼ぐに追いつく貧乏なしといつたのです。我々は小学時代に修身でも常にそう教わつたのです。ところが今日では御承知の通りに、産業革命以来働く意思があつても、働く能力があつても、貧乏は追つかけて来ますので、稼ぐに追いつく貧乏あり、こう言わざるを得ないのです。そんなことを言つたらば、あれは社会主義者だ、赤だというような懸念がまだないではないのであります。現に政府の大臣が貧乏人は麦飯を食えということを平気で言つておられる。私は現に私の今の議席から聞いたのであります。貧乏人は麦飯を食えという池田さんの話をあそこで聞いたのです。そのとき私はひやりとした。中小企業者で生存競争に負ける以上、それは二、三人死んでも差支えないといつたようなものの考え方、ここに非常な大きな、古い時代の階級意識がある。貧乏人という階級は麦を食う階級である、金持という階級は米を食う階級であるといつたようなことが基準になつて偏向を論じられたのでは、私はこれはやりきれないという感じがするのでありますが、その点文相如何でしようか。
○国務大臣(大達茂雄君) お言葉の中に一方的に固まつては世の中の進歩というものは期待されないというお言葉がありました。私は全く同感であります。でありますからして、今日これは当面教職員の人々に限つて申上げましても、教職員のうちに共産党の人々があろうとも改進党の人があろうとも自由党の人が何人あろうとも、これに対して何もかれこれ言う筋はないのであります。私は日本の教壇から共産党に党籍を持ち、若しくは共産党に同調する人々を放逐しよう、さようなことは毛頭考えておらんのであります。共産党であろうとなかろうと、要点は自分の考え方を教壇を通じて子供に植付ける、ここに問題があるのであります。先生本人が如何にその信念に燃えておつても、自分の考え方だけを絶対に正しい、絶対の真理なりとして子供に教え付ける、植付ける、これは私は許されないことであると思う。若しこういう教育が行われるとすれば、お話の通りに国民の構成はいわゆる一方的に固まつてしまうのであります。さような国家に進歩も文化の向上もあり得ない、こういうふうに考えるのでありまして、私はそれぞれ百科いろいろなものによつて国家社会が構成せられること自体は結構なことである、ただそれらの人が公務たる教育を通じて国民を二方的に固まらせようとする、そういう意図を以て教育が行われるならばこれは絶対に排撃せらるべきものである、かように考えておるだけであります。そういう人々を弾圧するとか、そういうことを考えておるのではありません。たださような正常な軌道において教育をしてもらいたい、こう思つておるだけであります。今、松原先生は戦後には教職員が今まで弱かつたものが急に強過ぎるくらいになつた、こういうことを、育つておられますが、私は必ずしもその意見には同調しない。私はまだ弱いと思う。今日の教職員の大部分の人々は、これは大変失礼でありますけれども、私はそう思つておる、一部に行き過ぎた人々がおるということもお認めになつておりますが、それは全体ではない、こうおつしやつておる。その一部の行き過ぎた人々に全体の人間が引ずられて行くというところに私はもう少し強くなつてもらいたい、もう少しそれぞれの自主性に立つた先生になつてもらいたい、先生自身が自主性に欠けておつてはこれは自主的な子供ができる気遣いはありません。恥生社会における根本的な要素は各人が自主性を保持することであると私は思うのであります。この場合に、その子供が将来育つて自由的な個性の豊かな人間になるべきはずのものが、子供のときの教育において一方的な教育を施されることによつて、みすみす成長しての自主性が奪われるということは、私は到底看過し得ないことであり、これは民主主義社会の基本を壊すものであり、又法律の形式から言うと基本法の精神に反するのである、こういうふうに考えるだけであります。で一今、君が代についているくお話がありました、これは大体私もお話になりました限りにおいては同感であります。私は君が代を歌わせなかつたとか或いは歌わなかつたということを以て直ちに偏向教育なりと言つているのではありません。それだけではない、ただ事例としてはこれはここの委員会では前々から申上げておりますが、かくのごとき断片的な事例でありますけれども、そのことがその学校における偏向教育というものを想像させるに足ると、こういうふうに思つて資料として出したのであります。例えば一関の学校において君が代を教える、歌うというようなものは教育者たる資格がないということを言つたということなんです。これはその事実についてはいろいろ御議論がありますから、とにかくその資料ではそうなつております。君が代を歌うなと止める、歌わせないようにするということと歌わなかつたということとは違います。いわんや君が代を歌わせるようなものは教育者たる資格がない、こういう考え方のある先生に偏向教育があり得るということは私は想像できると思います。でありますから、そういう意味におきまして私は何も無理に君が代を歌わなかつたからいけないのだということを言つておるのではないので、君が代を殊更歌わせないようにする、君が代は御承知の通り私は国歌だと思つております。それは占領中一時進駐軍の関係でとめられたかどうか知りませんが、国歌たる地位を失墜したことは私は知りません。併しそれを子供が歌わなかつたとか、ただ先生が歌わなかつたとかいうのは別でありますが、殊更にそれを父兄のほうで希望があつても歌わせないようにするとか、更に進んでそういうことを歌わせるようなものを教育者たる資格がない、こういう考え方の先生というものは、この先生によつて私は偏向教育が行われる可能性を推定し得ると思うのであります。そういうわけでありますから、私は何もこんな事例について一々今ここで松原さんに申上げるわけではありませんが、ただ問題の要点は、一方的に固つた、殊に日本の次の時代を背負うべき子供を一方的に固まるような教育をしてもらいたくない、この一語に尽きるのであります。先生自身がそれは自由党であろうと共産党であろうと社会党であろうと、これは我々が干渉すべき限りでもなければ又関知すべき限りでもありません。ただ教育の場においてそれが行われるということに私どもはこのままおいてはいけないのだということを感ずるのであります。
○松原一彦君 大分考え方に違いがあることがわかつて来ましたが、君が代に対する論議をしたのが更にその根を掘つて行くというと、偏向的な一党一派を支持する意思から出ておるものだという御推定も、どこかやはり出どことがあるのだろうかと思います。それはそれとしておきまして、今、今後この法律によつて請求権を持つ教育委員会、こういう人々の政治観、社会観等を考えて見るというと、そこに非常な危険を感ずるのでありますが、皆さんは危険をお感じにならないでありましようか。文部大臣は安心して今の教育委員会にそういう重大な判定の基本をお持たせになるかどうか、例えば高知県の山田校のあの事例は校長は目の色を変えて弁解これ努めておる。一緒に来ました証人の国警の警部はこれ又警察官であつてそういう事例は知らない、PTAの会長として知らないということを言つておる。だんだん掘つて行つた結果、自由党のかたの側から、私も見せて頂いたのでありますが、二十七年にあそこの校報の中のほんの一部にそういうことが書いてある。アカハタを配つた云々ということがあつた。ところがそれは配つた事実は全然なかつたらしいが、地方ではすぐそういうのであります。あれは赤だ、あれはアカハタを配つたに違いないというようなことを言う。これは全く今の地方では致命傷であります。教育者はふるえ上つてしまう。ちよつとしたことを言つてもあれは赤だと言われた限りどうにもならない。そこに私はこの法案の非常な危険性を認める。むしろ罪の大きいことを思う。偏向教育をする共産党員もあるに違いない。又日本管理の指令によつて動いておる人もあるでありましよう。併しそれは別個の法律によつて取締れると思う。明かに一方的な思想が行動となつて現われれば取締る破防法もある。進歩的思想というものにはピンんからきりまであります。そのちよつとした事柄をもオールマイティのこの赤で一括せられるところに日本の新時代を築くべき教育者の良心、信念を非常に弱める枠がはまると思う。五十万の教員の中に共産党員が五百、六百あるとしても、あとの四十九万九千五百はそうでないのです、私の知つておる限り。私のうちにも随分たくさんの教員が出入りしますが、私の知つておる限りにおいて平和の教育には真剣に努力しようとしておる戦争否認、戦争なき世界を作り出そうという憲法の主張に対して先ず教育の根本にこれを据えなくちやならんということに対しては、もう命がけでやろうとしております者がおります。それをたまたまそういう戦術を共産党がとつておつて、それと一致するからというので、こう重ね写しに見て、共産党はこれを戦術として使つておる、良心的に平和教育、戦争なき社会を作り上げようとする教育者の行動とがこう重ね写しになつてあれは赤だと言われて偏向教育だとせらるることを私は恐れる。これは非常な大きな損害です。党の方にも是非考えて頂きたい。政治観が違つて来ておることもよくお考え願わないというと大変な大きい損害が来るであろうと思うのです。例えばメーデーや社会主義を教えるということは、私は今日はこの教育基本法の第八条に書いてあるところの「良識ある公民たるに必要な政治的教養」だと思う。メーデーも知らない、社会主義の何も知らないといつたような今日公民があつてはならんと思う。(「その通り」と呼ぶ者あり)ところが地方の今その請求権を持つ、これから持つであろう教育委員会という方々は果してそこまでの認識を持つておらるるかどうか。今ここに四月八日の朝日新聞がありますが、その中に本年の教員異動に関する全国的の趨勢が書いてある。教育委員会はこれを持て余しておる。そうして長野県のごとき、ああいうふうな非常に民主的な良識の高い県ですらも教員の異動は各市町村の委員会がこれを県に委託してやつておる。その結果うまく行つておる。併しここに書いてあるのを見ますというと、兵庫県の但馬地方では一市五部の地方教育委員会が二十数会も教員異動に関する会合を開いて、その旅費や飲食費が六十七万円にも上つたと書いてある。和歌山県では各郡市の異動のための会議費が十万円見当とみられておる。緊縮予算が逆に出血を呼ぶというような皮肉な現象も見られる。そうして持て余し切つておる。校長が二人もできる。私どもはまだ施行するに早いと言つたにかかわらず、まあ与党が押し切つてここに六十億からの国費を割いてあの教育委員会というものを作られてこれが昔の文部大臣の代理をこれからやろうとするのでありますが、一体安心してお任せになつておられるかどうか。私は非常な危険を感ずる。而も地方ボスが人事に干渉する、女の校長は殆んど全滅だろうといつたようなことも書いてある。真に高所大所から日本の民主的な文化国家を建設する要件である良識ある公民を作るという責任を持つ教育者がこの教育委員会の支配の下に置かれて、一体逆コースを通らないと保証ができましようか。今文部大臣は教育者は強過ぎはしないまだまだ弱い、真に自分の自主的な意思によつて行動ができないと言われた点には私も同感です。日教組が誰に投票しろと指令しようとも、それこそ投票のごときは全く自主自由の責任あるものでなくちやならんのでありますから、指令によつて投票するなんということがあろうはずがない。あつてもならんし、あろうはずもない。しやしません、教員は。現に或る東海道の府県のごときも日教組から投票を申して来た、勿論正当のコースによつて流したのでありましようが、現われた投票は指令の十分の一にも達しなかつた、教員数にも達しなかつた、こういう厳然たる事実がある。文相がお脅えなさつておるように指令によつて動いておる者もあります。相当数あります。けれども相当に日教組を批判しておる者があることも又事実なのであります。私はたくさんの手紙を持つておりますけれども、これは日教組関係のものですから名を申しませんが、教育二法案に関し日教組の行き過ぎの点は年一年と組合員自体の自覚によつて是正しつつある矢先である、然るに民主的教養の啓培のためにも文相のような短気な政策をとらないでいま少しく仮すに時日をもつてせらるるように、是非とも文部大臣に御進言を願いたいと参つておる。自覚が足らないがために附和雷同しておる教員のあることをも知つておりますが、もう今日大学課程を通つて相当高い教養を積んだ現代の教育者が、一々共産党の指令に従つて附和雷同し妄動するというようなことは私はあることはないと思う。ありもしましようが、それは極めて小部分であつて、大多数は自分の行動は教育者として自覚を持つて進んで行くというふうに今なりつつあると思う。交せにやならない。情熱を持つて、強い意思を持つて祖国の建直しに献身しようとする教育者を作らなくちやならない。それはできつつ為ると私は思う。この認識がこの法律を出さなければできないというお考えであるか。私の認めるところはこの法律を出すことによつて教育界には非常な萎縮を与えるという危険を感ずるのであります。この事例を見りやすぐわかる君が代を論ずればあれは偏向だと言われるアカハタを覗いて見ればあれは偏向と言われる、自由主義を説き平和を説き戦争放棄を説けば偏向と言われるとすれば、これは教育界は萎縮せざるを得ない。良識が萎縮したときの危険を思う。この点どういうふうにお考えでしようか。
○国務大臣(大達茂雄君) まあいろいろお話なのでありますが、大体私の申上げることはすでに先ほどのお答えで申上げたと思うのですが、今日私は教職員の諸君がどの程度に日教組の影響の下にあるか、又日教組自身がどの程度にいわゆる共産党の影響の下にあるかということは、これは詳らかにわかりません。わかりませんけれどもです、併し次第にこの学校の先生たちが日教組に批判的な考えを持ち、又日教組にはいわゆる牛耳られないような状態に、いわゆる自主性を側復しつつある。こういうことであれば私は非常に結構であると思いますが、私はそこまで断定する資料を持ちません。むしろ逆に学校の先生たちはそれは気持の上では日教組の行き過ぎを考えておる人が相当あると思います。相当どころでなしに、非常に多数に上つておられるのじやないかと私は思いますそれから今度の教育法案につきましても、今手紙をお試みになりましたが、この日教組の行き過ぎを認めてこの法律案をその意味において必要と肯定しながらも、もう少し仮すに時間を以てせられたい、こういうような考え方の先生方も相当あります。又一面は日教組の今日の状態では一日も早くこの二法案の成立に努力して絶対にこの成立を期してもらいたい、こういう先生方も私は決して少くないと思つております。これは私どもの所に参りますたくさんの手紙の中に、そういう考え方の人々が教職員自身のうちに相当たくさんおられることを私は判断をしておるのであります。要するに問題は、今日このままにしておいてこれでよろしいのか、或いは今何らかの対策を講じなければいけないのか、こういうことに、その認識に帰着すると私は思います。この法律を出したために逆に非常に先生方がいじけて、そして自主性を失うと言いますか、非常に教育の上に活溌な教育を行う意欲を喪失するというか、というふうなことは私どもとしては考えないのであります。又この法律の当然の結果として、理論上さような結果が生まれるはずはないと思うのであります。ただ暫定的にそういうことが起りはしないかということを多少は私も懸念をしております。というのは、この法律が成立した場合には殆んど何を言つても刑罰の対象となる、こういうことを盛んに宣伝しておるのでありまして、先生方のうちには私どもの所に来る手紙を見ましても、それをその通り信じておる先生も相当あるようでありますけれども、こういう先生方は一時的にはこれは私どもそういうことのないということは……。この法律が成立いたしましても絶えず誤解を解いていつて、先生方が伸び伸びとした気持で教育に当つて頂くように努めたいと思いますけれども、かなり広くた気持ちで教育に当つて頂くように努めたいと思いますけれども、かなり広くその宣伝が行届いておるようでありますから、一時的にはそういう現象が起り得ないとも限らないということも実は心配をいたしております。併し法律案自体から先生が萎縮するという関係は私は起り得ないものである、こういうふうに考えております。
○松原一彦君 そこに非常な大きな食い違いがあるのでありますから、これは意見の相違であるから申しませんが、文相はこういう法律を出さなければならなくなつたことに対して遺憾にはお考えなさらんでありましようか、どうでありましようか。文相の政治力が、その人格が、その徳望が、五十万の教育者を全く一体と見て、そうしてそういうふうな教員の中から投書がやつて来て、そこに名が書いてあつたならば、それに返事を書くような勇気を以つて、思想には思想を以つて対抗しなければならん、法律を以て取締つてくれなどという、そういういくじのない教育者はいかんと言つて叱りつけるぐらいの見識を持つて頂きたい。こういう取締りの法案によつて如何に教育界が萎縮するということは今文相がその一端を触れられましたが、こういうことを言つておる。君が代を論じたらすぐに赤だ、やれアカハタを覗いたら赤だ、社会主義的な解釈をすればすべて赤だ、こう言われることになれば、もう口を噤むにきまつておるのであります。一番ここに憂うべきものは進歩主義の学者と称するものの中に相当いかがわしいもののあることは私も存じております。一切の悪法は法にあらず、そんな悪法は守らんでもよろしい。五十万の教員を入れる牢屋はないといつたような途方もないことを計う学者もある。そういうことは教育界で皆笑つておる、問題にはしません。馬鹿な話です。けれどもが穏健な進歩主義の学者はたくさんおられる。そういう学者を地方の講演会に招いてやつた講演が直ちにこれが一党に、或る……社会党の左派ぐらいのところならば大概の学者はこれを支持しております。でありますから、それと一致したようなイデオロギーを講義の中に事例としてとられるというと、これはその学者が処分せられる。学界が非常に大きな恐慌を起すことになる。而も体刑であります。全くこれは思想弾圧といつてもよろしいぐらいに非常な危険な地位におかれる。これが果して日本の良識を、学者を今後進める途であろうかどうか。大達文相もよく御存じの通りに、相当天野文部大臣などは日教組にいじめられたのです。而も三顧の礼を以て自由党内閣に迎えられた人です。人格者であり学者であります。これは日教組から相当いじめられた。勿論何か天野勅語なんということを言われたこともありますが、その天野さんでも前田多門前文相でもこの法案に反対しております。それは罪が大きくて影響は大きい。日本の学界を、教育界を萎縮せしめる罪が大きいということを言つておる。たまたま説く説、学説、誠意をもつて説く常識的に説く学説が或る一党の意見と合致したときに、これは赤だと地方の教育委員会が断定したら一体どうしますか、私はまあ吉田内閣は今日までとつて来た長い間の政治の跡に非常に効果も大きいけれども、非常に大きな過失もあると思う。殊にこの憲法を創説せられた吉田首相の下にあつて、吉田首相は自衛のためにも軍備はできないということを再三言われた。私は壇上から幾たびか問答もしたのでありますが、遂にいつの間にか軍隊を作り上げてしまつた。これこそ大きく議論しなければならない。教育者は正直ですから、これは憲法違反だと頻りに議論しておる。今日の汚職の問題をどう御覧なさるか、私は悪政をとられることは恐ろしいと思う。思想よりも恐ろしいと思う。この悪政ほど恐ろしいものはない。私一つの例を申上げます。すべて共産党の指導によつて共産主義者が生まれるようにお考えになるかたが多いようでありますが、私の所に来ておる手紙の一つも、極く都下の近い所から来ておるのでありますが、これを寄越した人は非常に常識の高い恩給取りで、老夫婦ですが、恩給じや食えませんから、一間間借りをして手内職をしておるが、夫婦が一日かかつて、百円しか……造花をやつておるのですが、百円の内職ができかねる、月三千円ぐらいができかねるが、去年八月に寄越した手紙では、問屋のほうでは五月以来まだくれない。私も困り抜いておりますが、私の隣には六畳に六人の家族で住んでおる失業者がおる。彼は共産党員でもなければ共産主義者でもない。共産党の何も知らん男であるが、たまたま中共の例を聞いて、隣国中共では失業者がない、食えない者はない、とにかく失業者のない社会ができたということを聞いて、爾来一切の商業新聞を読むのはやめて、急に共産党のアカハタを読み始めた。そうして彼は共産党員でもなければ共産主義者でもないが、一日も早く中共と同じ社会が、政治が行われるようにといつて待つておる。朝から晩まで待つておる。これは自然発生です。これは、憲法には最低生活が保障せられておるにかかわらず社会保障は行われない。そうして生活保護も行われない、一方においてはあの汚職です。一つの選挙に数億円が濫費せられておる。而もこれは闇であります。闇行為をやつた連中がのうのうと免れて恥なく国会に出て来る。そうして悪循環をやつておる。貧乏人の金を集めた、あの保全経済会やその他から貧乏人の金を掻き集めたものをば、大巾にこいつを又掻つさらえて、それを持つて地方の選挙に又臨んで行く悪循環が行われておる。かような悪政が白昼公然行われておつて、そうして一方にその思想弾圧といつたようなふうなことをやつたところで追い着く話じやないと思うのです。もつといい政治を行わにやならん。そうしてこの親子心中をするか進んで泥棒をするか強盗するか、そうでなければ一日も早く共産党の支配する失業のない政治が来るようにと思う者があつても私はいたし方がないと思うのです、これは。私はあの共産党の暴力的な革命の過程を是認するイデオロギーに対しては絶対反対です。であるが故に、如何にユートピアを説かれようとも私はこれに従いませんけれども、泥棒しようか強盗しようか親子心中しようかとする人の前には私は共産党の主張が天国のように映るだろうと思う。この自然発生を抑えることなくして、ただ自衛力々々々と言うて軍隊を作つて、そうして、いや、外国には出ないと言いながらも、最近では又長距離砲で撃たれるときにはその根拠を衝くために国境の外にも出るというように、だんだん変つて行きつつある。而も自由主義の国がとる平和の悲願は何かというとそれは原爆である。水爆である。その原爆、水爆が極まるところは自他共に殺すことになる。人類の滅亡以外の何ものでもないと、こういうふうに世界が今日参つておるときに、一体こんなくだらん事例を採上げて、少数の特例を日本中から採上げて、大多数の健全なる良識を持つた教育者が新日本を、祖国を建直そうとする努力の芽を摘むような、学者の良識を今後断ち切るような懸念を持たせる大きな障害を起すような法案をどうしても出さなけりやならないのかどうか、文相お考えになる余地はないか。私は結論は出しておらん。私どもは違った意見を尊重しますから、文相の意見も尊重します。そうして皆さんと一緒に熟議懇談して最良の結論を得たいと思つておる。だから与党のほうの側でも、これを流してしまうか、一歩引いて或る程度までの修正を行なつて、そうして通すか。衆議院の通りにやらなくてもよろしい。私どもは自分の党ではそう考えておる。いろいろ再議してみる。若し衆議院の通りにやるというならば、これはもう参議院の必要はないのです。参議院無用です。参議院は再議の機関であります。衆議院の歪みを直すのであります。間違いを反省してここで直さなくちやならん。かような日本の教育の根本をゆすり上げるような、教育者の魂に非常な不安を与え、学者をして非常な不安を感ぜしむるような、かような法案が現われたことに対して、私は文相は何とかもう一面お考え直しになる必要がないかどうか。与党の諸君も、もつと考え直される点はないか。私は是非こういう点について御反省を願いたい。結論を急ぐのではないのであります。天下の大事なことであります。教育を愛し祖国を愛するために、私はあえて以上の質問を申上げたのでありまするが、なおお尋ねしたいことがたくさんございますけれどもが、丁度時間も来たようでありますから、一応この辺で切つておきます。お考え直す点について何かありませんか、一つ一口お聞かせ願いたい。
○国務大臣(大達茂雄君) この地方教育委員会の現状についているくお述べになりました。私ども同感の点が多いのであります。ただ、無論その意味におきまして今日の地方教育委員会が我々の希望するように次第にその機能を高められて、そうしてこの制度の趣旨に副うようにありたいということは常に念願もし、又その意味において地方教育委員会の育成強化に努めたい、こういうふうに考えております。ただ、主的に運営するために地域社会の直接選挙によつて選出された人々によつて教育を運営して行く、こういう基本に立つているものであります。無論その意味においてこの地域社会の代表者として選ばれた人々でも、又これを批評する側から見れば余りその資格がないとか或いは不十分な人々であるとか、或いはそれらの人々によつて運営される教育委員会の運営の方法にいろいろ批判の余地がある。これは私は免れ得ないことであると思います。そういうものがいわゆる民主主義を基本とする行政政治の形態であると私は思うのであります。併しそれにもかかわらずそうすることが私は民主主義に基くところの政治行政の形態である、かように考えます。今日、先ほど政治の在り方がよろしくない、これは勿論であります。又国会が汚職相次いで腐敗をしておる、これも勿論であります。こんなことを誰もいいと思う者は一人もありません。これはやはりそれならばそういう人は国会から除いたらいいじやないかということが一応素朴には考えられるけれども、これもやはり国民の代表として国民の直接選挙によつて出て来た人であります。これをただ個々の場合について、であるからしてこの直接選挙による議会政治というものを否定するということ、そういうことには私はならんと思うのであります。民主主義というものは私はそういうものだと思う。これはどうしても国民自身、地域社会の良識の向上によつて理想に進む以外はないのであります。教育委員会の場合においても同様でありまして、これが地域社会の直接選挙によつて出ておる限りは、それが地域社会の良識によつてますます立派なものとして仕上つて行くということに私は民主主義社会というものの目標があるのである、こういうふうに考えておるのであります。でありますからして、これを以て直ぐ教育委員会を云々ということには、私としては十分検討しなければ踏切りがつかない、こういうふうに思います。この法律を果ましいものと思つておるか、こういう提案を、というようなお言葉であります。これは一体法は法なきにしかず、かように私は考えております。殊にこの罰則規定というものは、これがなくて済むものならば、なくて平和な社会生活が維持されるものならば、これはないほうがいいにきまつております。この場合におきましても、この法律を出さなくても義務教育は極めて健全な正常な軌道に乗つて運営されておるということであれば、何も好んでこの法律案を出さなければならないとは言いません。併しながら具体の政治、具体の法律というものはその対象とする社会の客観的情勢に伴つて行わるべきものである。今日の私どもの認識によれば今日の我が国の教育の現状においては、この法律案の成立することが必要である、かように私は考えるのであります。なおこの思想の圧迫という点を特にお考えになつておりますようでありますが、これは決して思想を圧迫するという要素は含んでおらんのでありますが、これはただ偏つたことを子供に教えては困る、こういうことであつて、思想そのものを圧迫する考えはありません。いわんや共産主義とか赤とかいうことを対象としておるものではありません。これは極右の思想であつても何の思想であつてもこれを偏つた教育を子供に教えては困る、こういうことを言つておるのであります。大人でも先ほど御引例になつたように、大人でもその環境によつて或いは又その人が極めて純真な素直な人であれば、中共には一人も失業者のない天国のような所である、こう聞いただけでも、もう中共礼讃になつてしまう。いわんや西も東も、いわばわからない何らの批判力を端えないところの子供を相手にして偏つたことを聞かせるということが、結局国民の自主性、大きくなつてからの自由というものはそこで剥奪されるのであると私は思います。一方的に偏つた人間ばかりできて、先ほどお話になつたように自由主義社会というものは成立しません。自由というものはなくなつてしまつて世の中に進歩というものは私はないものである、こういうふうに考えるのでありまして、決してこの法律が思想を圧迫するとか、そういう意思は毛頭ないのでありますから、その点は一つくれぐれも御了承願いたいと思います。
○松原一彦君 見解の相違であるからこれでやめようと思いましたが、今の御答弁で私一つお伺いたいのは、教育委員会法総則第一条によるというと、この法律は、教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきであるという自覚のもとに、公正な民意により、地方の実情に即した教育行政を行うために、設けられたるものであつて、教育本来の目的を達成することがこの教育委員会法の目的である、こう書いてあります。従つて義務教育の教員はこの地方の公正な民意により、地方の実情に即した教育を行うのであつて、従つてこの身分は地方公務員であるのであります。ところが文相は先に国の方針をきめて行うところの義務教育に従事するものであるから、国家公務員並みに扱わねばならんと言われた。ここに大きな矛盾がある。それならば国が支配なさるがよろしい、こんな人々に任せることはない、その目的は地方の実情に即した教育行政を行うところの義務教育の各先生がたを地方の公務員としておきながら、殊更にこれをばこの法律では国家公務員としておる、非常に便宜である、勝手な議論である。そうしてこの公務員として若し選挙に、公務員たる身分を侵して政治的行動に出れば、これは刑事罰を以てするというのであります。地方公務員にはそういうことはない、行政罰であります。地方公務員であるべき本質を持つた義務教育の各教員を殊更にこの点だけでは国家公務員としてそうして政治行動に対しては厳罰、体罰を以てする、これは前後矛盾とお考えになりませんか、どうですか。
○国務大臣(大達茂雄君) 公務員の、地方公務員であり、国家公務員であるという身分の所属は大体その任命権の所在、それから給与の出場所、こういう給与と任命との関係できまるのが通常であると思います。そこでこの公立学校の教職員については、その任命が地方の教育委員にあります。そうして給与も府県から支出される、こういうことになつておりますから、その限りにおいてこれを地方公務員としてその身分がきめられてあるということは私は当然であると思います。併しながら教職員が特に普通の地方公務員と異なるところは、只今お挙げになりましたように、教育は不当の支配に服することなく、国民全体に対して直接責任を負つて行わるべきものである。これは地域社会の全体というよりも、その教育そのものの仕事の内容は、これは憲法にある。殊に義務教育については憲法の規定に基いておる。これ国として非常な大きな問題であり、そうしてその教育というものが国民全体に対して直接責任を以て行わるべきものである。だからこれを扱つておるところの人は、その身分としては任命とか或いは給与の関係でこれは地方公務員となつておる。併しながらその扱つておる公務の内容というものは他の地方公務員とそこは違つておつて、これは国の大切な公務に属しておる。これが私どもは国家公務員とその点において区別すべき理由はないと考えるゆえんであります。地方公務員の身分を移して国家公務員にしようというのではありません。国家公務員と政治行為の制限において区別する理由がない、かように考えておるので、地方公務員のうちにいわゆる教育公務員というものは含まれておるのでありますが、教育の特殊性に鑑みてこれに特例を設ける必要があることは法律自体の認めるところであります。従つて地区を離れてその特例としていわゆる教育公務員特例法というものがある。さようにこの一般の地方公務員の仕事と教育というものとはその実質性格において異なるものがある、かように考えておるのでありまするから、その点私は別に矛盾をしておるということはないと、かように思います。
○松原一彦君 意見の相違ですからこれ以上は申しませんし、なお質問を保留しますが、これは誤りなく詭弁であります。それは文相は頗る苦しい御答弁である。全く教育者は高い良識を持つたものとしてお扱いにならなくちやいかん。監督の面だけはこれは国家公務員としての資格、まだ早い未熟だからというて抑えてあつた地方教育委員会制度をわざわざ強引に復活さして、そうしてそれをば義務教育の教員の市町村における行動の監視、監督、管理をこの未熟なかたがたに託しておきながら、その身分だけは国家公務員として、政治行動に関する限りにおいては刑事罰を以てする。地方公務員とは別個に取扱うということは誠に中央集権的な権力主義であつて、これはもう矛盾撞着も甚だしいものである。良識ある教育者を扱うゆえんじやない。その角を矯めて本当に牛を殺すものであるということを明らかにしたものであると思う。こういう点については私は非常な遺憾を感ずるのです。又私が遺憾を感じましたところでこれは仕方がない、見解の相違でありますから、そこまで申上げまして、あとの質問は保留いたしておきます。
○相馬助治君 松原委員が本質的な議論を展開されて今のような文相の答弁になつておるのですが、これは明らかに議論でなくて松原委員はその矛盾性を説いてこれに対して明快なる答弁を要求していると思うので、本件に連関してこちらからきつく発言の要求がありますように、私どもも連関質問を多々持つておるのでありますが、それらも当然のことでありまするが、質問を保留してこれに対して連関質問のある意思だけを表明して、時間も時間ですからこの辺で昼食に入られるように希望しておきます。
○委員長(川村松助君) 一時半まで休憩いたしたいと思いますが、御異議ございませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○委員長(川村松助君) 御異議がなければ一時半まで休憩いたします。 午後零時三十一分休憩 —————・————— 午後二時三分開会
○委員長(川村松助君) 只今から午前に引続きまして再開いたします。 委員長のほうから皆様に御報告してお諮りしたいことがございます。只今石川県知事柴野和喜夫氏から参議院文部委員会委員長宛に次の書面が参りました。朗読いたします。 本月十二日開かれた貴委員会の文部省偏向教育事例調査に関する証人喚問において証人北小路昂君(京都市旭丘中学校教頭)はその証言中で、「……内灘問題は石川県知事のオイに当る生徒がいて、知事から聞いた話を芝居に作つたものだ」(本月十三日付北国新聞一頁及び中部日本新聞七頁に掲載)と申しておりますが、私にはこのような甥に当る者は勿論、関西方面には全く親戚がなく心当りがありません。 私は内灘問題発生以来知事としてその解決のため政府にこん身協力してきたのでありますが、貴委員会の席上、かかる証言がなされたことは、私にとり今後甚だしく公務上支障を来たしますと共に、個人としても非常に名誉を損われることでありますので、貴委員会として御調査の上、同氏の証言を速かに訂正いたさせる等の然るべき処置をお執り下さるよう懇願いたします。 昭和二十九年四月十四日 石川県知事柴野和喜夫 参議院文部委員会委員長殿 以上の申入に接しました。つきましては御報告と同時にこれを如何に取計うべきかお諮りいたしたいと思います。
○相馬助治君 私の記憶を以てしても、北小路君の証言の中には石川県知事の甥云々の証言がなされたように思われます。で、御本人の石川県知事からさようなお手紙が参つたということならば、その事実は疑うべくもないと思うのです。で、問題は北小路君が故意にさようなる証言をしたとすれば、問題は極めて別な意味で問題たり得ると思うのです。そこでやはり慎重を期す上において証人の心境をも委員長において確かめられ、且つその証言を今日もなお主張するかどうか等を早急に文書等を以て照会されて、その上において本委員会としては誤りない措置をして石川県知事の要望にも応える責任があると思いまするので、私は委員長の手許において早急になさなければならない事務的な作業をされることを要望して、これが処置に関しましては一応理事会に諮つてその慎重を期すべきものと思いまするので、さよう取計らわれたい旨の私は意見をここで申上げておきます。(「賛成」と呼ぶ者あり)
○委員長(川村松助君) 只今相馬君の御発言のように、一応理事会で預りまして善処することに決定して御異議ありませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○委員長(川村松助君) 御異議がなければさよう決定いたします。 —————————————
○委員長(川村松助君) 午前に引続き質疑に入ります。
○永井純一郎君 昨日私が要求をいたしておきました山口県の教育長から文部省に対して照会があつてそれに対する文部省の山口日記に関する回答、初等中等教育局長の通牒、回答を頂きました。これを見ますと、これについてですから少しくお尋ねをしたいのですが、この文面で見ますと、「編集されたと思われる箇所や事実について誤つた印象を与えるおそれのある部分、」こう文部省は書いておる。それから又「国際理解の教育という観点からみて遺憾な部分などがあるので、それらの点は、児童生徒に学校が用いさせる教材として適当でないと考えられます。」「教材として適当でないと考えられます。」こういうふうになつておりまして、「事実について誤つた印象を与えるおそれのある」というふうに文部省自体が回答を山口県の教育長宛にしておられる。この回答文から、助言として与えられましたこの回答文から見ましても、文部省自体も山口日記については明らかにこれは偏向であるというふうには断定をしてはおられない、こういうふうに受取れるのでありまするが、その点をお伺いしたいと思います。
○国務大臣(大達茂雄君) 成るほどそういうふうにその通りに書いてあります。「誤つた印象を与えるおそれのある」、これで直ぐ中立性に反しているということは、はつきりとは書いてありません。その次に多分お手許へ差上げたと思うのですがこれは六月二十日の回答でありますが、七月八日にやはり山口県の小学生日記、中学生日記というものを例といたしまして偏向教育のないようにという通牒が出ております。これによつて文部省としての見解ははつきりしている、かように存じます。
○永井純一郎君 それに引続きまして今大臣が言われました通り七月八日に次官命で各府県に通牒を出しておられます。これを見ましても山口日記の例に見るごとく、そういつたような虞れがあつてはいけないからということで注意をするようにというような通牒を、事項を分けて出しておられるわけだと思います。そこでお伺いしたい点は、この局長の通牒によつて回答せられた文面で見ても、山口日記そのものについては文部省もはつきりこれが偏向事例だというふうには考えられておらないのだと思うのですね。文部大臣はしばしば山口日記が特に顕著な偏向事例としてああいうことがあつたから、今度の法案については特に考えて出したというようなお言葉がしばしばあつたわけでございまするが、この当時はまだはつきりと、こういう段階に来るとこれはもう明らかに偏向事例だと、こういうふうに思つておられなかつたことはたしかでございますか。
○国務大臣(大達茂雄君) これは実は率直にこの事実を申上げますと、山口県の教育長から文書を以て初中局長宛に文部省の意見を聞いて参つたのであります。これは今まで事務の取扱いとしまして初中局長限りで実は回答を出しましたわけであります。その後において私はこの問題を承知したのであります。その結果依命通達としてこの七月八日の遁逃が出されたわけであります。さようなわけでありますから私としての、これは局長回答でありまして、片一方は一般的な依命通達であります。これによつて文部省の態度がはつきりしておると思いますので、その点で御承知頂きたいと思います。
○永井純一郎君 そうしますとまあ局長通牒は大臣は初め御存じがなくて、そのあとで報告を受けて御承知になつたということですが、大臣とされましてはこの山口日記はやはりあの程度のものは明らかに偏向教育の顕著な例だ、こういうふうにお考えになつているのですね、その点をお伺いしたい。
○国務大臣(大達茂雄君) 私はさように思つております。
○永井純一郎君 それではお伺いしたいと思うのですが。今度の法律案におきましても、偏向教育をせよという教唆、扇動があつた場合には、これに対しましては、この罰に対しては、地教委等の請求を待つて論ずるというふうに書いてあります。そこでこれから言いましても、この地教委の、教育委員会の判断と言いまするかが基本になつて行くと思うのですね、偏向教育に対する教唆、扇動というものが。ところがこれは法律ができたあとそうなつて行くのですが、現在でもやはりその方向は動かせないと思う。と申しますのは山口日記についても、山口県の教育長は、やはり文部大臣とは違つて、この前の証言では非常にはつきりこれはやはり顕著な、はつきりした偏向教育であるかないかはわからない、むづかしい問題だ、併しながらこれはその匂いがするというようなことであつたと思うのです。これは委員会のほうの考え方がそうです。ところが文部大臣はこれは明らかに偏向事例である、こうお考えになつているようでございます。そこで私はこの前通牒を出されて、教育の中立性が保持されていない事例の調査の通牒をお出しになつて調べられたわけでございますが、それは極く概略の御報告をここに頂いたわけですが、この中にですね、該当なしというようなのが二十二あるわけでございます。そうしてまあ口頭で報告があつたというのが二つあつて、ただ資料だけを送つて来たというのが二つある、こういうことになつていますが、これは山口県日記に関してはこのどれに入つているかをお伺いしたい。
○国務大臣(大達茂雄君) 山口県日記はすでにこのなんと言いますか、昨年の六月当時承知している事例であります。承知しておつたのであります。通牒報告を求めたのは十二月であります。山口県日記というものがあるということはこれは又この通牒を出したこと等によつても御承知の通りに、もうこれはこの十二月の報告を求めたときには当時我々のほうではよく承知しておつたのであります。
○永井純一郎君 併し入つて来ているんじやないのですか、これに。
○国務大臣(大達茂雄君) 資料を送つて来たんだそうです。
○永井純一郎君 そうすると山口県の教育委員会はやはりこの資料を送付した府県の二の中に、二つの中に入つているのであつて、明らかに偏向教育だということには言つておらない事例に入つていると思うんですね。私はそう思うんですが、如何ですか。
○国務大臣(大達茂雄君) 山口県のほうで偏向であると考えたかどうか、その点は、はつきりしません。これは山口県の教育委員会の見解によつて解釈されるわけだろうと思います。
○永井純一郎君 そこでですね。やはり私は明らかにしたいと考えますが、山口県はこの正式の文部省に対する報告の中ではただ資料を送つて来ただけであつて、山口県の教育委員会自体も偏向教育と認めていなかつたと思うんです、はつきりは。それを資料を送付して来た都道府県の二の中に入ることになつたわけですが、それを文部省は顕著な偏向教育の事例だ、一番顕著な事例だとして国会への資料としてはお出しになつた、こういうことなんですが、私は昨日も質問を申上げ、文部大臣のお答えを頂きました通り、教育委員会のかたがやはりこういう判断をする一番中心だと思うのです。而も文部大臣は教育委員会のそういつたような判断、或いは教育行政の中においてはこれは勿論尊重をして行かなければならない、こう言つておられますし、これは当然のことと思うのですが、教育委員会から折角資料だけを送つて来たのに、一番顕著な事例としてお出しになつたということは少し不当であるように思うのですが、これはどういうあれで顕著なものとして教育委員会からこういう報告があるにもかかわらずお出しになつたのか、お伺いしたいと思います。
○国務大臣(大達茂雄君) 偏向教育であるかないかということは文部省に関する限りは文部省の解釈によります。山口県の教育委員会の解釈というものは関係ない、それに拘束されるべき筋合いのものでないと思います。
○永井純一郎君 ところが今度法律で、この法律案の中にもあります通り偏向であるかどうかはやはり地教委が判断いたしまして、そうしてその請求を待つて罪は論ずるということにもなつているわけです。そういたしますと、これはまだ法律ができていないんですけれども、やはり地教委が、教育委員会等が殆んどそういつたような顕著な偏向なものはないというふうに、この報告でも殆んどが出て来ておる。まして下帯顕著なものだと文部省が言われるところの山口日記でさえ、いずれともはつきりした返事をしないで、資料だけを送つて来たもので、それも顕著の中の一つになつておる。そういつたような実情にあるものを、これを顕著な偏向事例だと言われて、そういうものを大体基礎にして法律を作られた。ところが法律ができてから先も又同じようにその地教委の請求を待つて罪は論じられる、こういうことになるわけですが、私はどうもその点、折角こういうふうにして事例の報告をお取りになつて、教育委員会を信用しておらないということになりますと、法律を作つてから先、依然として教育委員会はやはり信用ができないような状態になるんじやないか、私はその点矛盾を感じる、これは大臣の所見を伺いたい。
○国務大臣(大達茂雄君) これは教育委員会は、自分の権限に属する仕事を処理する場合には、教育委員会自身の解釈によつてその仕事をやつて行く、これは当然である。又文部省が文部省の担当する職務を行う、つまり行政活動する場合においては文部省の見解に従つて法律を解釈いたします。その場合に地方の教育委員会の解釈に従わなければならんということは、これはあり得ないことである。地方においてもそれぞれ山口の教育委員会もあろうし、教育委員会は無数にあるわけです。それが全部違つた解釈をする場合もあり得ると思います。それでこれはこの問題には限りませんで、すべて行政庁は自分の行政事務をとる場合には自分の解釈に従つて法律を解釈して行くのであります。他の誰かの解釈に拘束される理由はないのであります。これは当然のことであると思います。 それからこの地教委の、教育委員会の請求を待つて罪を論ずる、こういうことは教育委員会にこの偏向教育なりや否やという解釈権を与えたものではありません。私はさように思つております。これはやはり裁判所に刑罰事件として持出されるものでありますから、最後的に裁判官がこの場合は、これは裁判事務でありますから、裁判官の解釈に従つて決定されるものであります。ただ教育委員会はいわばまあ被害者のようなものでありますから、教唆扇動の客体になつたその学校を管理するものでありますから、まあ普通の刑法の親告罪のようなものでありまして、これは必ずしも解釈権を教育委員会に授権をした、こういう性質のものでないことは極めて明瞭であります。同一の事件につきましても、甲の教育委員会では偏向にならないと考えるかも知れない、乙の教育委員会では偏向であると考えるかも知れない、それが請求あつた場合には、結働これはこの場合は裁判でありますから、結局裁判所において最終的に解釈する、こういうことになるだろうと思うのであります。そこでこの請求を待つて論じたということは、教育委員会の解釈に任せたと、こういう意味ではないのでありまして、すべてのこういう刑事事件につきまして、例えばこの場合についていうと、甲の学校ではこの教唆扇動によつて非常に学校の教育が乱された、こう外から要らんことをけしかけられては困ると思えば、その教育委員会は請求をするでありましよう。又この学校においては、同じ働きかけがあつてもその学校自身が何もそれに動かされない、偏向教育も何もやらない、ただ外から来たというだけで実害も何もなかつた、そうすると教育委員会のほうではそれが別に迷惑ではないから、迷惑な結果は引起さなかつたのだから、殊更にそこまで検事局のように持出さなければならんということはありません。それだから、これはその場合場合の実情に応じてどうこう、いわば被害学校の管理者である、その管理に責任を持つ教育委員会が、これは迷惑だから一つやめてもらうために請求するということを、その裁量に任せたのでありまして、この請求に待つということによつて教育委員会が偏向教育なりや否や、言葉を換えて吉えば、基本法八条の三項、或いは今度の法律案の第三条ですか、その解釈を教育委員会に委ねた、こういうことにならんのは当然であります。
○永井純一郎君 いや、その大臣の答弁がわからないのでありますが、今大臣も言われましたように、親告罪のようなものだと言われた、それはその通りでしよう。そこで法の解釈権といいますか、それが教育委員会にあるというようなことを私申上げるのではなくてその教育委員会の請求を待たなければ裁判も何もないわけなんですから、そこで親告罪のようなものになるわけなんですが、それだからこそ裁判権がある、解釈権があるということを申上げるのじやない。それだからこそ教育委員会が非常に重要で、やはり偏向でないと思えば、これはやはり教育委員会は申請はしないと思う。そこで、そのような立法におきましても重要な没日を教育委員会に持たせておられるわけでありますから、例えば今事例をとられましたようなこういうことを調査してみても、殆んど教育委員会はそれを、恐らくこの現在であればこれを請求しないと思います。こういう事例だと殆んど請求しないことに価する事例の報告だと思うのですね、この大部分は。特に山口県日記の場合だつて、これはただ、偏向だとも何とも言わないのですから、恐らく資料を送つて来た程度ですから、これもやはり請求はしないというようなことが考えられると思うのです。そういうふうに考えますと、私はどうもこの二十四の事例は勿論のこと、こうして中立性を保持されていない事例の報告をわざわざ求められたが、殆んど該当事項はないということになつておるわけですから、それにもかかわらずわざわざこの法律を私は出して来られるという根拠が非常に薄いようにも思つて来るわけなんです。山口の場合が明らかにああいう顕著な事例でさえもないのですから、これは、この報告は何に使うつもりで報告をお取りになつたんでしよう加、初めは。十二月二十三日はですね。
○国務大臣(大達茂雄君) 文部省として学校教育の実情について知つておらねばならん、これに無関心であることはない、これは当然のことであります。偏向教育が行われておるということは、学校教育面においては非常に重大な事実であります。でありますから、文部省は当然にそういう事例があるのかないのか、どういう状態において行われておるか、そういうことを文部省当然の仕事としてそれを承知していなければならんのであります。これを他に特に利用するとか、何の道具に使うとか、そういうことではない、文部省はさような学校教育の状態について知つていなければならんと思うので言ります。
○永井純一郎君 大体その点はまあわ写りましたが、そうしますと、仮におつしやる通りであるといたしまして、教育委員会が松原先生の先ほど仰せになりました通り非常に重要な役目を引受けることになります。ところが松原先生が言われました通り、まあ充実しておらないと思うのです、私、教育委員会、地教委は。ところがそれがこの重要な役目を引受けるというなことになれば、これはなかなか困難なことになると思う叔です。恐らく山口県日記以上のものは私は実際には日本にはないと思うのです、ああいう顕著なるものは。それ以下のものであれば幾らやつてみたつて私は教育委員会はこの法律ができても、恐らくその罪を請求するようなことになる事例は殆んど私はないのじやないかと思うのです。併し文部大臣がこの法律によつて必ずそういう偏向教育は是正して行くのだというお考えが若し確固としてあるならば、私は地教委を育てる途を何か同時に講じなければこれはできないのじやないかと思う。この点は如何ですか。
○国務大臣(大達茂雄君) 私どもの考えでは、仮に偏向教育があつたからといつて、偏向教育があつてはこれは困るのでありますが、偏向教育をするようにという教唆扇動と言いますか、それがあつたからといつて、必ずみんなそれを罰則を以て当てはめて行かなければいかんと、そういうふうには実は思つておらんのであります。(「法律はどうなつているか」と呼ぶ者あり)その時々の状況に応じて、その実害の模様、その他によつて弊害のあるものは罰せられて止められればそれでいいのであります。それはつまり現地にあるところの教育委員会の請求を待つて罪を論ずる方法をとつた理由はそれにあるのです。教育委員会は偏向教育を教唆扇動するような、つまり偏向教育であると教育委員会が思うようなことを教唆扇動する働きかけがあつた、こういう場合においても必ずしも請求はしないかも知れない。それは他の親告罪においても同様であります。いやしくもそういう法律できめた犯罪がある場合には、虱潰しにことごとくそれを罰しなければならんという場合もありましようし、又被害者の考え、そのときの状態によつて、親告を待つて罪を論ずるこういう場合もこれは刑罰法論には多々あり得る事例であります、この場合には請求を待つてその罪を論ずるということにしたほうが適当である、さように考えたのであります。この教育委員会が何か特に強化しなければ、この任務は果せないというふうなお言葉でありましたが、私は教育委員会は非常に迷惑をして、これでは困る、こういう場合に請求をするということは、そう非常な大きな組織を持つたり、非常な強い力を持たなければできないものとは思つておりません。ただ一般的に育つて地方教育委員会がまだ生れたばかりであつて、そうして機能において顧る不十分な点がありますから、それが全般的に育成強化されるということは、日本の教育を振興する上において大切である。これは私は常々そういうふうに考えております。永井純一郎君 私が地教委を強化すると言いまするか、充実、整備するというふうに申上げましたのは、まあ必ずしも今大臣が言われるようなことでなしに、この前の証言でみても明らかなように、政党の人が相当いるのですね。そうすると明らかにまあ或る特定の政党の人が教育長であつたり教育委員長であつたりすればこれはもうその人は私は政治的中立をみずから……、中立の立場ではないわけでありまするから、そういうことを制限するとかというようなことが同時に先に行われておらないとその地教委の請求を待つて論ずることにしたわけですから、非常に杜撰な法律になるのではないか。目的を達するのではなくて、逆に地域社会間に非常な騒動を起す、くだらない、つまらない波紋を画いて行くということのこれが一番の根源になつて来る、而も選挙ごとにそういうようなことが行われるという危険は私はこれは何人も認めなければならんと思うのです。ところがそういう同時に必要な措置を講ずるというのは一つもここに出て来ておらないのですね。私はそういう意味のことは当然おわかりになつていると思つて申上げたのです。そういう意味なんです。そういう措置は必要ないものかどうか、先ずその点をお尋ねいたします。
○国務大臣(大達茂雄君) これはこの問題には限りませんけれども、教育委員の受持つておる仕事が、政党の都合で左右されるということがあつては、これは困るのであります。併しながら同町に教育委員会は直接選挙によるものでありますから、要するに地域の、地域社会においてそこの人々がこの人に任せる、やつてもらう、こう考えて出す。その点でその地域社会の代表としてそう一党一派に偏したようなことはしない、こういうことはその本人の心構えとしてはあるべきであると思います。併しいやしぐも政党に所属しておるものは教育委員にはなれないのだ、それは全体の奉仕者として公平に仕事をしなければならんから。こういうことであればこれはその政党というものは私は成立たなぐなると思う。それは知事の場合でも同じことであります。又国会議員でも同じことであります。一体政党というものが自分の一党一派に偏して、それだけ自分の利益を以て臨んでおるものであるというふうには私は考えておらんのであります。政党というものは公事に尽すために、自分が国なり公共団体のための最善と考える政策、最善と考える道筋をとつて行くものである。こういうふうに考えて、それで初めてこの政党政治というものは是認されるものだと思う。政党というものは初めから国とか地方公共団体の利益と乖離してそうしていわゆる朋党を聚集して、仲間だけの利益に終始するものであるという前提に立つならば、これは到底政党政治なんというものは容認されるべき筋のものでない。実際においては必ずしもそうでないだろうと思います。実際においては併しこれはどうも地域民衆が、その人を以て代表者として選んだ、それがたまたまそういつたことがあつたからといつて、一切政党に入つてはいかん、これは学校の先生の場合でも同様であります。学校の先生が政党に加入しておられても何ら差支えないのです。ですから政党に入つている人が出たからいけないのだから、先ず先立つて教育委員会は政党に党籍のない者でなければ資格がないのだということはなかなか全体の制度から見て、一足飛びの結論にはならんと私は思うのです。
○相馬助治君 関連質問。私は午前中の松原委員の質問に連関して質問したいと思つていたのですけれども、今永井委員の質問されておるこの中立法案の請求権の問題については、衆議院の速記録等を調べてみても、このことについて大臣が正面から明確に答弁をされたのは、この今のやりとりが最初のように思うのです。それで私はこれは非常に重要だ思うのです。いわゆる請求権の問題に関して、永井委員が申しておることは、予想される現実に照らしてこの請求権というものに対する、立法者の法的な解釈を伺つておると思うのであります。ところが今の大臣の答えを要約いたしまするというと、その請求権は地域社会の現実に照らして、或いは請求権者の主観的判断に照らしていろいろな場合が予想されると、そのようなことを言つておる。私はこれは立法上から言うと非常に問題だと思うのです。と申しまするのは、大達さんは善意を以てこの法律案を作つておるかも知れない。併し法律ができてしまえば大連さん個人の意思であるとか、現在の吉田内閣の意思などというものを離れて、法律は法律としての権限と効力を持つて来る。そこでこの請求権の問題だけはどうしても法的に明快ならしめなければならんと思うのです。 従つて私は二点ほど永井委員の質問に連関してお尋ねしておきます。先ずこの請求権を持つているのは単独の行政委員会であるとか、或いは国家公務員である学長です。親告罪なんかの場合の請求権とは違うのであつて、かような公的な性格を持つ委員会並びに公務員の場合には、請求権を保持しておるということは、逆にいえば請求の義務がある。具体的に申し観すならば、帆立を見ようとするところの中立の確保に関する法律に違反した事案が生じた場合には、主観的な判断を成るべく広きにして、この法律の命ずるところに従つて請求するところの義務が私は自然その委員会に賦課されていると思うのです。そういうふうに考えてみますというと、あなたの答弁の地域社会の現実に従い或いは当該委員会の判断によつて種々なる形が生まれて来るというがごときことを言うことは現実としてさようなことがあるといたしましても、立法者の意思としては、さようはることは非常に私は間違いであると思うのですけれども、この点に関して明確にされて欲しいと思うのです。
○国務大臣(大達茂雄君) 請求権のある場合には、半面から言うと請求の義務があるというふうにおつしやいましんが、私どもはこの法律案の解釈においては義務があるとは思つておらんのであります。
○相馬助治君 答弁の途中ですが、そこが大事なところです。私は義務があると明確に申上げたのではなくて、その場合には請求権者は親告罪のような場合と違つて学長であるという国家公務員である、それから教育委員会であるという単独の行政委員会であります。こういう公的なものにこういう権利を与えられたことは、憲法が何条かに書いておきまするように、慰法並びに法律を公務員は民衆に先んじて守らはければならないという規定がある。従つてそういう規定からいうというと、中立法案が悪法であるとなしとにかかわらず、中立確保の法律案に違反した事案が生じた場合には連かに請求する権利があるということは、同時に義務があるということも含んでおるのではないかと、こういう意味で申したのでございます。義務があるということに私は焦点を置いて言うておるのではないのであります。
○国務大臣(大達茂雄君) そういう教育委員会が自分の見るところで、この法律案に該当するところの教唆扇動があつた、この場合においてまあ義務があるとかないとかいつて、又これはいろいろ意味が違う場合がありますけれども、この場合に必ず請求しなければならない、こういうふうには私は思つておりません。これはやはりそのときの、これは一般の犯罪は先ず何びとも告発することができる、刑事訴訟法によつて、と私は記憶しております。若し開違えば訂正をいたしますが、刑事訴訟法において誰でも告発することができる、一般の犯罪であれば。併しこの場合は一般の人に、教育委員会以外のものは告発することができないというのは、一つのはつきりした問題であります。これはまあ教育委員会というのを事例にとつております。学校長とかその他のものがありますが、その以外のものの告発というものはない、こういうことに法律で規定しているわけであります。そのわけは先ほど申上げましたように、実際に及ぼす影響その他の点から教育委員会として、これは一つ罰則を以てとめてもらわなければ困る、こういつた場合に請求をする。これは決して新らしい立法ではありません。他にもかような立法例をとつている場合は、先ほど親告罪のように申しましたが、これは親告罪に言わば似たようなものだと申上げたので、正確に言えば無論親告罪ではありません。他にも事例はあるのでありまして、例えば独占禁止法、これは私的独占或いは不当取引制限違反のものでありますが、こういうものが公正取引委員会の告発を待つてこれを論ずる、即ちつまり公正取引委員会という公の機関の判断を待つて、その告発を待つてこれを論ずる、或いは又労働関係調整法のいわゆる抜打争議の禁止違反に対する罰則、これは抜打争議というものは違反として罰期を以て止められてあることであります。併しそれがあるから直ちに罰則を適用するというのではなしに、労働委員会の請求を待つてこれを論ずる、こういうふうになつておるのでありまして、そのときの実情に基いてこの場合は教育委員会でありますが、教育委員会がこれは司直の発動を待つほうがいい、こう考えた場合に請求する、その請求を待つて初めてその可否を論ずる、こういうわけでありまして、法律上は法理上何ら差支えのないものであると思います。
○相馬助治君 立法の段階における善意の意思は常に請求権が先んじて、そののちに初めて裁判に付されて、これが科罰行為に該当するかどうかについて解釈することは一応それは私は肯ける。ところが私どもがこの請求権の問題に絡んで、どうしても確かめなければならないことは、教育の現場を知つている者からいたしますと、以下述べるような場合があり得ると思う。即ち警察官が新たにこの政治的中立の確保に関する法律案の違反の事犯と認定するような問題が学校に起きている、この場合には、逆に警察長が教育委員会に向つて請求権を請求する、これは一つ請求して下さい、こういうことが現実にあり得ると思うのです。その場合に委員会は法の建前から言えば、これは拒否できると思う。いや請求しない、これはできると思う。これをその拒否した場合に、警察長がこれを請求するところの、拘束するところの法律は他にないようですから、この場合には問題はないと思う。ところが現実の問題としては警察長が請求権を請求して来たというときには、私は教育委員会というもののはその請求権を拒むというようなことはできないと思うのです。こういうようなことから考えて来るというと、この請求権というものは単なる手続なのか、請求権を発動する意思の中に、すでにこの中立確保に関する法律案違反の内容を含めて請求しておるのか、これが問題になつて来る。ところがあなたの言うところでは、この程度のことは地域社会から見て請求する必要がない場合には請求しないという。そうすると、明らかにその請求権の内容の中に予想しているものがある。そうすると単独な行政委員会である教育委員会が、裁判所が最終的に判断をしなくちやならないようなことを判断の中に加えて請求しなければならない、現実には、かようなることを眺めて来ると、私は先ほどから言つている通り、立法岩は善意の意思を持つていると思う。あなたたちはそんな面倒なことも考えないし、さようなことは予想もしないとおつしやるかも知れない。これは大達さんであつても命がありますから、大臣としての使命の終る段階が必ず来るのです。その場合に立法者の意思を離れてこの法律が吉をきくことを想定しますと、私はこの請求権というのは非常な問題だと思うので、これらの点について一体如何ように判断し解釈して行つたらいいのかということを、もう一度お示し願いたい。
○国務大臣(大達茂雄君) 初めに申上げておきますが、この法律が成立した場合には、これは文部省が立法者であるとか何とかいうようなことは無論あり得ない。これは国民の意思を代表して国会がきめるので、つまりこの法律案は国会の議決によつて、国民の意思として決定せられるのであります。でありますから、この場合にこの法律の動き方について文部省が差出がましいことを言う余地はないのであります。ただ我々は現在の学校教育の現状から見て、かような法律を出したほうがよいと、こういう結論に達したから、この提案をして御審議頂いておる、こういうことでありますから、その点は先ず以て申上げておきます。 それから教育委員会に対して警察官から請求することを請求するというふうなお話でありますが、これはどういうことでありますか、私はそういう場合はあり得ないと思うのです。(「あり得ます」と呼ぶ者あり)それは事実問題として警察官がそういうことを請求したらどうですか、というようなことを言う場合はあり得るでしよう。これは併しどの場合だつてあり得るのです。この場合特にそういうことが、殊に警察自体の職能として当然に警察という名前を以て請求するということは、これはあり得ません。警察官が或いは自分が手柄をたてるとか何とかいうことで、そういうことを承知して場合に、あなたの学校は随分ひどいらしいが、あれは請求されたらどうですかということを言うような場合は、これは絶無とは申しません。これは問題は何もこの問題だけとは限りません。それはいずれの場合にもあることであります。被害者に対して親告したらどうですかと言うかも知らんけれども、警察という役所の名において請求する、こういうことは法律の許さんところである、あり得ないことであると私は思う。それから教育委員会が請求する場合には、無論偏向教育に対する教唆扇動がある、こう考えなければ請求するはずはありません。この場合に無論これは一般の個人が犯罪を告発する場合でも、これが横領になるとかこれが何々である、こういうふうに、その人の考えで刑罰に触れた行為であると考えた場合に告発するのであつて、その判断が適当であつたかどうかということは裁判所できめる。決して裁判所を拘束する力も何もない、これは当然な話でありまして、全然この刑罰、法律に触れるか触れんか知らずに請求するということはあり得ない。少くとも教育委員会の判断においてはこれに触れる教唆扇動である、こう考えなければこれを請求するはずはありませんし、それは当然に如何なる場合にも同じことであります。これが教育委員会が裁判所のきめることをあらかじめ判断するのはおかしいじやないか、こう言われるならば親告罪の場合であろうとも、普通の犯罪について個人が告発する場合であろうとも、或いは検察官が起訴する場合であろうとも、これは皆同じことであります。これは何もこの法律に限つたことはないのであります。
○高田なほ子君 ちよつと私伺つておつて非常にわからなくなつて参りましたから、大臣もよく聞いて答えて下さい。この教育委員会の処罰の請求権は、明らかにこれは検察権発動の請求だと思う。検察権の発動の請求権を持つて来るわけであります。この場合大臣の御説明によれば、或る村では教育委員会が偏向教育をするように教唆扇動したと認められた場合にはこれは請求するわけですね。そうすると甲の村の教育委員会の主観的な考え方によつて、どうもこれは偏向教育をするように教唆扇動しているなといつた場合には、これは明らかに検察権の発動が請求されるわけです。ところが同じようなことです。同じようなことがあり得るのです、全国に。この場合に乙の村では教育委員会の主観によつて、これらが偏向教育を教唆扇動しているのでないといつた場合には、この検察権の発動を請求しないわけです。こうなりますと、同じような事例であつた場合でも、甲の村と乙の村の教育委員会の態度、主観の違い方によつて、これはいろいろな形になつて問題が発展されて来るわけでございます。そこでこうなつて参りますと、教育委員会の主観によつてこの処罰の姿というものが各種各様に変つて参りました場合における教育界の混乱というものは、容易ならざる様相を呈するのではないか、こういうふうに私は判断するので、先ずこの点大臣が、こういうふうに、私が理解するように先ほどおつしやつておつたのかどうかということを確かめましてから、もう一問させて頂きたいと思います。
○国務大臣(大達茂雄君) お言葉の通り、教育委員会で同じような教唆扇動が行われた場合に、甲の教育委員会はこれを偏向教育の教唆扇動として請求する場合がありましよう。それから仮に偏向教育の教唆扇動なりと考えても、必ずしも請求しなければならんということはない、これは先ほど相馬君に申上げた通りであります。自分の考えでそれがあつても差支えない、こう思えばこれは何も請求しなければならんというのじやありません。それから同じ事例について、他の教育委員会においては初めから偏向教育の教唆扇動と認めない場合があるかも知れない、その場合には勿論請求するはずはありません。でありますからして、同じような行為について甲の場合には請求をし、乙の場合には請求をしないということが当然にあるわけであります。そのほうが実際に適当していると考えているのはその原案であります。法律案はそのほうを適当とする。いやしくも或る一つのことがあれば、学校によつてはそれによつて非常に内部の教育が掻き廻されて困るようなこともあろうし、あつても何も平気で一向に動かされんという学校もある、その場合には何から何まで皆処罰しなければならんということはないので、これは丁度親告罪とか先ほど申上げた他の請求を待つて裁判をするような場合も同様であります。同じようなことが行われても罰する場合と罰せざる場合とあるということがあり得る、そういうほうが実際はよろしかろう。いやしくもそれをやつたから虱つぶしに探し出して皆罰しなければならん、関係者は困つてもおらんのに罰しなければならんこういうのではなく、このほうがよかろう、こういうわけであります。
○高田なほ子君 そうなりますと、甲の村におきまして同じことをやり、乙の村で又同じことをやつた場合に、不幸にして甲の村でやつたがために検察権の発動の対象になる、これは全く災難と言うよりほか仕方がない。つまり法律は、すべての国民の基本的な人権を保護するために法律がありながら、大達文相みずからもこの法律は教育の中立性を守るための法律である。保護の法律である、こういうあなたの基本的なお考えと、現実の面においては天災というような形でその人の身の上に禍いがふりかかつて来る、百歩退りまして、それは裁判によつて物事を決するのだからそれでいい、甲の村と乙の村といろいろあつても、終局においては裁判によつてこれが決定されるのだからいいだろう、こう言われるかも知れませんけれども、それは余りにあなたが教育の現場を御存じにならない、先般の武佐中学における証人喚問でも、御承知の通りに政令三百二十五号の容疑で以て学校に警察が調べに来たというのに、又この理由で教員がやめさせられている。即ち検察権が発動されると、封建的な地域社会においては、やはりそれが非常に問題になり、教育のその場の空気を混乱させ、白紙の児童の教育上に与える影響というのは極めて大きいのであります。法律専門家はとりもなおさずこうしたあいまいな偏向教育の基準というものがどこにあるかという点に非常な注目を与えているのである。大臣がそれでいいというように強弁なさつているかどうかわかりませんけれども、それが正しいというお考え方については若干私も疑義があります。まあ関連質問ですから私はこれだけにとめます。
○相馬助治君 今のことについて。それではどうしても聞いておかなくちやならんと思うのですが、請求権者は被害者側だと思つておりましたが、即ちこの請求権が発動されるときは教育委員会の守る利益というのは、教員側の利益を守つている立場に立つているとお考えですか。
○国務大臣(大達茂雄君) 刑法で言うところの被害者という意味ではありません。先ほど親告罪とは似ているけれども、そういうものと同じものじやないと申上げたのは、親告罪の場合は被害者です。被害者が親告するのです。この請求というのはその関係している、責任をもつて関係をしている公の機関、これの請求を待つて応ずる。先ほど、申上げた例えば労働委員会が抜打争議については請求権を持つ、それと同じようなことであります。
○相馬助治君 私が親告罪を持出したのを大臣はちよつと聞き違えられたのですが、この告訴権者は親告罪の場合は被害者であり又は親族だが、この場合には第三者機関なので、これは私は違つて来るということを言つておるのです。私が聞きいたと思つたことに答えてのあなたの答弁で、捜査機関が逆に教育委員会に請求権を要請するようなことはないと言つているが、これは明らかにあると思うのです。と申しますのは、少しまあ聞いて下さい。教唆扇動が行われたという事実はどこで行われるかというと、行われた結果は学校において現われますから、教育委員会がよくわかります。併し某所において、某地において行われたということの事態は外部です。そうすると、このことを言うことになれば、教唆扇動の事実はむしろ学外で行われることが通例であると見るべきだと思う。そういうようなことになると、教唆扇動の行為を探知した捜査機関というものと教育委員会というものとの場合には、この事実を逸早く的確に知るものは常証的に捜査機関であると見るべきだと思う、現実の問題として、いろいろな場合があるけれども、教唆扇動を或る場所において或る時に或る人によつて行われたというようなことを逸早く正確に探知して、この中立確保維持の法律案に違反した事犯であるとつかみ得るのは行政委員会である教育委員会よりはむしろ私は捜査機関であると思うのです。そういう場合には明らかに捜査機関はこういう教唆扇動が行われているではないか、あなたたちはなぜ請求しないのか、こう言うことは私はあり得ると思うのです。いわゆる個人が、巡査が功名争いにどうだあれをふんじばつちやいなというのではなくて、公文書を以てやるかやらんかは別だけれども、ともかく捜査機関がこういう事犯があるぞと、こう言うて請求権を要請する場合があり得ると思うのです。こういうことを考えて来ると、この立法趣旨から言つても、この法律が仮に成立して適用される場合にも、この請求権というものをどういうふうに解釈するかということが非常に大きな問題になると思うので、だから私が今聞きたいことは、捜査機関から逆に要請されることはないというようなことは、私はないと思えないから、又ないと思つているかどうか。相馬の話を聞けば、成るほどそういうこともあり得るというふうに考えるかどうか。そこで明確にはあり得るとすれば、これらの法的な疑義についての御答弁を願いたい。そんなことは一切ありませんというのでしたら、これはどうしようもありません。
○国務大臣(大達茂雄君) 捜査機関であるから当然にそれを一番先に知るのだというふうに、これはまあ実際についてのそれぞれの観測の問題ですから、逸早く捜査機関で発見する場合もありましようし、又そうでない場合もありましよう。これは警察が各人の身辺を始終うろくしているわけではありませんから、人が話をしたことまでみんな警察が知つておるというわけではありません。当然に捜査機関が先ず第一に正確にそれを知り得るはずだと、こういうふうにおつしやるけれども、私はそういう簡単な、それほど精密な機械のような捜査機関が日本にあるとは思いません。併しそんなことはどうでもいいのですけれども、その場合にだからして捜査機関が先ず知るから、従つて請求権者に対して請求をするという、こういうまあ論理でありますが……
○相馬助治君 こともあろうと言うのです、必ずそうだと言うのではないのです。そういう場合も予想されるのではありませんかと言うのです。
○国務大臣(大達茂雄君) ですから先ほど申上げたように、こういうことを請求したらいいでしよう、そういう教唆扇動する巡査もおるかも知れませんよ。けれども当然にその捜査機関が知つたからすぐやらなければならんということはないと思う。例えば親告罪について言えば、或いは窃盗でもそうです、これは一体とられた人間が一番先に知るのです。その犯罪事実なりそういうことは、名誉毀損の場合もそうです。名誉毀損というものが親告罪だと思いますが、これを警察が雑誌を見て名誉毀損しておる、だからその当人の所に行つてあなたは名誉毀損されている、訴えたらいいじやないか、こういうことを一々その警察が言うのですか。そういう常識は少くとも今日の社会にはないと思います。それが自分が知つたらすぐそこへ行つて請求したらよかろうという、教唆扇動をするということは、これはすぐその巡査が個人が自分の手柄を立てたいためにそういうことをやる場合もありましよう。併し当然にそういうことが予想されると、こういうものではない。又警察というものが警察の名において請求するということであれば、これは明らかに法律を越えた越権の行為であつてそういうことはあり得ないと思います。(「関連々々」と呼ぶ者あり)
○相馬助治君 関連質問があるようですが、そう堂々と反駁をされるというと、これはどうしてもあなたが私に育つていることは頗る誤解をしているということを附加えなくちやならない。というのは、今この名誉毀損の例を挙げたけれども、名誉毀損を告訴する場合には、名誉毀損という現実のことに対してのこれが科罰行為だと言つて届け出ておるのだが、ここで問題になつているのは、御承知のように中立性が維持されないという事犯ではないのですね。中立性が維持されないというようにした教唆扇動を罰しようとしておるので、違うと思うのです。そこで学校長などが、仮に学校長の場合を考えた場合に、監督学校の教育の実態は或る程度把握しておりますので、そこでその中立に違反している事犯がそこに生じたということは学長は速かにわかると思う。ところがどうしてそれではそういう事犯が生じたのであろうか、何人がどこかで教唆扇動をしたのであろうかということを思い至るというと、これはにわかに的確には把握できないと思います。何故ならば、教唆扇動などは学外において行われると思う。そういうことになると、学外において行われた教唆扇動のその事実を学長が知る力と、想像なんですけれども、学長が知る力と捜査機関が知る力とですね、どちらが大きいかと言えば、私は捜査機関のほうが早く而も正確に知り得る場合が多かろうと、こういうことを言つておるのです。その場合には学長の所へ行つて、こういう教唆扇動の事犯があるけれども、あなたは知つていますか、いやそれは知らない、中立違反の事態がここにありますか、それはあります、その原因をなし、ている教唆扇動は実は学外においてかくかくの事情があるからあなたはこれを請求したらどうか、こういうようなことは私は全く常識的にも想像されると言つているのです。ところがあなたはそういうことは想像されないと言うので、これはどうにもなりませんが、私はあなたの答弁を納得しておりません。答えることがあつたら答えて下さい。又さようなることは問題にならんと言えば、又日を変えて私も徹底的に追及いたします。
○荒木正三郎君 私も永井委員の質問に関連して若干お尋ねをいたします。 永井委員の質問の要旨は、一つの事例が偏向教育であるかどうかという判断が非常に困難であるということを私は言つておられるのだと思う。その意味において私もその感を持つているわけです。或る事例が甲という人にあつては偏向教育であると判断せられる、ところが同じ事例が乙という人にとつては偏向教育でないと判断せられるというようなことがあつては、この法の公正な運営はできないと私は思う。少くともこの偏向教育の教唆扇動をした場合は体刑を以て処罰せられる。これがこの法案なんです。従つて偏向教育ということとは的確にその判断をされなければならない。これが主観によつてどうにでも判断せられるというふうなものであつては、恐らく法は運営できないと思います。そういうような意味おにいて私は永井君の質問は極めて重大であると考えております。そういう意味において私ども文部省が提案された偏向教育の事例というものを重視しているわけなんです。少くともこの法案を提出した文部省は、これらの事例は偏向教育だ、こういう判断をして、少くとも偏向教育の或る具体的な基本を示しておると思う。そう思うがゆえにこの問題については軽く見ることはできないという意味で十分な究明をしなければならんと考えておるわけです。このことは大臣もよく了解できると思うんです。繰返して申すまでもありませんが、一つの事例が偏向教育であるかどうか、これが明確に判断されなければならん。これが明確に判断されなければこの法はできても運営はできないと思うんです。そういう意味において、或る一つの事実が偏向教育であるかどうか、そういうことが何人によつても間違いなく判断せられなければならん。その意味において私は具体的にお尋ねをするわけなんです。 例えば一関の場合、この事実があつたかどうかは別として、ここに挙げられておるのを見ると、君が代を歌うことに反対した、我々は天皇のためになるような人間を作るために教育に携わつているのではない、一体君が代を歌わせるなどといつてどんな人間像を求めて教育をしているのか、そんなことを言う者はすでに教育者たる資格がないものである、そういうふうに或る教員が教員の会合において発言をして、その通りきまつたといたします。そうすると、若しこの事実が偏向教育として判断せられるならば、これを発言した人は教唆扇動として処罰されることになります。文部省はここに偏向教育の事例としてこれを挙げておられる。だからこの発言をした教員は教唆扇動をしたということによつてこの法律によつて処断される、或いは教育委員はこれを請求する、こういうことに私はなつて来ると思うんです、具体的に申しますと。従つて或る一つの事例が偏向教育であるかどうかという判断は、甲によつてはそうだ、乙によつてはそうでない、そういうふうにまちまちであつてはならない。若しまちまちになるようなものであるならば、この法は適用できないということになる。事実上できないということになりますので、私はこの際大臣にお尋ねをいたしますが、一関の一教員の発言は偏向教育を教唆扇動をしたことになるのかどうか、その点をお伺いできればはつきりして来ると思います。
○国務大臣(大達茂雄君) これは前にも申上げたと思いますが、ここにある事例というものは、この事例を通してその学校において偏向的な教育が行われておるであろうということを推察し得る資料として提出したのであります。これはそれなら表題をもう少しそういうふうに書けと言われれば、成るほどもう少し詳しく譲いたほうがよかつたのでありますが、只今引例されました岩手県の場合でも、これは職員会議のときの発言であります。教育それ自身ではない。だからこれは職員会議における一人の先生の発言でありますから、この発言が教育であるということはない。従つてこれを偏向教育だという意味ではないのであります。これは他の事例についても同じであります。(「おかしいな」「それじや何の事例だ」と呼ぶ者あり)ただこういう先生がその学校にいる。こういう考え方を以てその学校で教員をしているということが、一関の学校において偏向教育が行われていると、こういうことを推定せしめる資料ではないか。前々からそう言つてある。これは資料をよく御覧になれば……前からそう言つてある。末端の学校において偏向教育が行われているのではないかということを、そういうことを判断する資料として出したのだ、こう申上げている。でありますから、更にこれが教唆扇動になるかどうかということでありますが、これはこの法律には触れません、この法律にはこの発言は……この法律は犯罪として成立するための要件があります。第一は一定の目的を以て教唆扇動をしなければならない。第二には一定の組織又は活動を利用し、これを通つて行わなければならん。そうしてその内容が偏向教育をせよ、こういうことの教唆扇動でなければならんというふうな条件がありますが、この法律によつてこれが処罰されるかと言われれば……、これは併しわかりませんよ、それぞれの事例が、裁判所においてその具体的の事例について調べてみなければ。三行や四行のものでこれは法律に触れる、これは入らん、こう簡単に裁判がきまるものならばこれは極めて簡単なものだ。それがために裁判所というものは長い間の時間をかけて、そうして必要な組織を持つて弁護士もつき、検察官もつき判断をする裁判官もおつて、それで具体的の事例がその罰則に該当するかどうかということを判断するのである。だからここに書いてあるそれがすぐ犯罪になるかならんかということは概念の上で、例えば山口県日記のような割合に揃つたものならば、これは言えるでしようけれども、裁判というものもそういうものだと私は思う。その意味で御観願いたい。これは初めからその意味です。
○荒木正三郎君 私は裁判の話を聞いていないのです。私はこの法案を提出した文部大臣の所見というものを伺つているのです。偏向教育に対する所見を伺つている。私の聞いているのは一つの事例です。これは山口県日記でもよろしい。武佐中学の事例でもいいです。私は今岩手県の一関の事例を聞いただけなんです。私はこの文部省が出された資料は偏向教育の事例としてお出しになつていると思う。だからどこを引こうと構わない。山口県日記でもどこでもいいわけなんです。併し一つの事例を或る人は偏向教育だと判断するところが或る人は偏向教育じやないと判断する、そういうことが私は実際上あると思うのですよ。そこでそういうものであつては法の公正な運営というものはできないと言うのです。従つてどうしてもこの法を公正に運営するためには、偏向教育というもの誰もが一様に判断される基準というものがなければならんと言うのです。そういう基準がなくて主観によつて判断するということになれば、これは大変なことになります。そこで私は聞いておるのです。私は文部大臣は、文部省はここにお出しになつた資料を偏向教育の事例として判断せられてお出しになつたものだと信じておりました。いろいろ、甘い廻し方をせられますけれども、そうだとばかり思つている。けれどもこれは何ですか、これは根本から考え直さなければならない。私はこれは文部省が偏向教育の事例だというふうにお考えになつて我々に資料としてお出しになつたものだと思つていた。そうでないのなら、これは根本的にそれではどういう資料なんだということから尋ねて行かなければならない。それは別として、偏向教育というものは、私の考えでは一定の基準があつて、それに照してすぐこれは偏向教育だ、これは偏向教育でないと判断しがたい性質のものだと思うのですよ。従つてその判断は個人によつてまちまちの場合が起つて来るということは十分あり得ると思うのですが、大臣はどうお考えになりますか。
○国務大臣(大達茂雄君) 偏向教育というのは、これは省略してそういう字を使つているので、正確に言えば、今度の提案した法律について言えば特定の政党を支持させ又は反対させるための教育、これを偏向教育という俗語と言いますが、余り長つたらしいから、そういう言葉で育つておるのでありますから、その点は申上げるまでもなく念のために申上げておきます。そこで特定の政党を支持させ、又は反対させるための教育という言葉についてそれは人によつてそれぞれ具体の事例について、それがこの枠にはまるかはまらんかということについては、これはそれぞれの人の見解によつて分れるであろうと思います。これは併し書棚的に機械できちつと分けるような方法はない。すべての法律というものは、その読む人によつて判断が違い、解釈が違うのはこれはやむを得ないのであります。できるだけそこに大きな開きの起らんように努めなければならんことは当然でありますけれども、併しだれでも解釈が絶対に一致するような書き方なり、そういうものは法律には私はあり得ないと思う。あり得ない。極めて明瞭な事柄についても、例えば保全経済会というものがやつたことが、あれが詐欺になるのかならんのか、これはいろいろ法律学者の間においても違うだろう。恐らくこの事実についても、それはどうもやむを得ない。それで最終的にきめるのは裁判所です。裁判所であつても、下級裁判所と上級裁判所の間に解釈の違う場合がしばしばあります。常に見受けるところであります。これは法律の解釈というものは、それは読む人によつて解釈が違うということはこれは当然あることでありまして、これは物理でも機械でもないのですから、あることであつて、それだからこの法律は運用ができない、こういう理窟には全然ならない、全然ならないと私は思う。
○荒木正三郎君 それは私は文部大臣がより極端なことを言つておられると思うのですがね、少くとも刑罰を以て処する法律において、どういう行為をしたら処罰の対象になるのかならないかということは、これは私は明日なものであると思う。二年の懲役になるか、一万円の罰金になるかということはわからんにしても、例えばスリをする、人の物を盗むとか、出来心で盗んだにしろ、盗んで処断されない場合、無罪のときもあります。執行猶予の場合もあります。いろいろあるけれども、それは明白ですよ。常識を以て考えたら私は明白になつていると思う。人の物をとる、そういうものが解釈によつてこれが無罪になるかならないか、そんなあいまいなものではないと思う。少くとも刑法上の処罰というものは、そういう行為が処罰の対象になるかならないかということは明白なんです。明白でないものがあつたらおつしやつて頂きたいと思います。明白です。私の質問する要旨は。ところがこの偏向教育ということについては、仮に健全なる常識を以てしても、常識を以てしてもですね、判断しがたい点があるということを言つておるわけです。例えば私は一関の例を挙げました。一教員の発言が教唆扇動になるのかならないのか、こういう問題が私は起つて来ると思う。その他山口県日記についても、その内容をだんだん調べて来ると、この問題が起つて来ます。健全なる常識を以てしても偏向教育であるかどうかということは判断しがたい場合がたくさん出て来る。そうなれば午前中松原委員は、随分力説されましたが、教員はこれによつて言うべきことも言わない、或いは十分な良心的な活動さえ制圧されるのではないかというふうな意味をお話になりましたが、そういうことが起つて来ると思う。そういう意味においてこの偏向教育の事例というものが、事実というものが、これが偏向教育かどうかということは、だれが判断しても常識で判断すれば該当するのだ、該当しないのだ、そういうものでなければならない。勿論細かく行けば、それは大臣がおつしやつたように、どんな刑法上の処罰を受けるものでも細かく言えばその境い目はわからん点がありますよ。それは私はどんな場合でもはつきりできるとはそうは申しません。私もそれはあると思う。併し大まかに言つてもこの問題だけはなかなか人によつて変つて来る性質のものだ、こういうことを言つておるわけです。そういうことについて大臣ははつきり区別できるかどうか、甲と乙とによつて異つた判断が生まれて来ないかどうか、そのことをお尋ねしておきます。
○国務大臣(大達茂雄君) これは先ほど申上げましたように、人によつて判断が違う、これは当然あり得ると思う。併しながらそこにはおのずから限界があつて、そうまるつきり違うものではない。若しそれが全然標準のない、つまり解釈のしようのないものである、こういうことであるならば、これは刑罰は現在ありませんけれども、基本法八条というものは同じような書き方をしておる、支持し又は反対するための教育、これは今日基本渋によつて日本の教育の基本原則として取扱つておるはずです。それが若しそういう書き方で全然わからんということであれば、一体基本法八条は今まで何の役もしていなかつたことに私はなると思う。罰則に付せられる場合には、これは勿論厳密に拡張解釈のないように解釈されなければなりません。罰則を以て臨む、この今度の法律案については併しその場合に具体的の行為が、具体的のやつた事実が果してこの法律の点に触れるか、それからいわゆる偏向教育としてこの事実が法律解釈上にもはまるかということは、これは個々の場合について判定する以外に私はないと思う。先ほど刑法のようなものについては疑いを入れんじやないかというお話がありまして、若し事例があれば言えとおつしやつた、私は泥棒だつてはつきりしない。これは刑法のうちにはたくさん議論があるはずです。例えば私がこの人に私の物を貸しておいて、それで夜そつと行つてそれを持つて来た、それが泥棒になるかならんか、(笑声)それはおかしくはない。これは刑法の上で幾らでもあります。それであればこそ各種の判例というものがあつて、この場合にも裁判所はこういうふうに解釈するか、又その場合に判例が擾つたら新しい解釈が成り立つ。法律というものは機械のようなもの、はない。人殺しでも同じことです。私が殴つて、その次の人が殴つて、どつちが死の原因を与えたかということはこれはわからない。そういう場合は幾らでもある。あなたはこの法律だけわからなくて、ほかの場合にはつきりわかるようにおつしやるのは無理です。ほかの場合でも、若しはつきり例を挙げたら(「泥棒と教育は違いますよ」と呼ぶ者あり)それは幾らでもあるのです。それは失礼ですが、そんなにほかのもののように赤と白と色を見るようなはつきりしたものではない。
○荒木正三郎君 私は大臣とちよつと……、それは私のほうからはずしますが、そこでこの法案の提案者である文部大臣は、具体的にそれではこの挙げられた事例のうち、どれどれが偏向教育であると判断しておられますか。どれどれが該当しないと考えておられますか、御所見をお伺いしたいと思います。
○国務大臣(大達茂雄君) 私はかような事例が学校において現われておるということは、それぞれの学校において偏向教育が行われておるだろうということを推定するに足るものである、かように考えております。
○荒木正三郎君 私の問い方がまずかつたのかも知れません。例えば山口県日記を、これを編集して子供に読ますようにした人は、子供に読ますようにする、或いはこれを先生方に配つて子供に読ますようにした人は、私はこの法律にいう教唆扇動者である、こういうふうになると思うが、そういうことにならないのですか。
○国務大臣(大達茂雄君) 先生が山口県日記を子供に読ました場合ですか。
○荒木正三郎君 山口県日記を編集して、これを教職員に配つた人ですよ。そうしてその人は明らかにこれを教員を通じて子供に教えるか教えないかはこの場合は別として、いわゆる或る子供に使わせようという目的を持つている、そういつた場合は、この編集をして使わせようとした人は教唆扇動になるんじやないですか。なりませんか。
○国務大臣(大達茂雄君) 山口県日記の場合は県教組の編纂であります。この法律にいうところの「学校の職員を主たる構成員とする団体」、これに該当いたします。従つてこの県教組において編集をして、そうして学校においてこれを教材として使へ、こういうことで渡した、こういうことになれば、これは教唆扇動ということに該当すると思います。
○荒木正三郎君 そこで、山口県日記がいわゆる偏向教育であるかどうかという判断が的確になされなければならんと思うのです。偏向教育をするように教唆扇動をした、これは法によつて処罰されますよ、この法律によつて。その場合に、それでは山口県日記というものが偏向教育であるのかどうかということが私は問題になると思うんですよ。そこで私は先ほど文部大臣にお伺いしたんです。そうすると山口県日記は、これは偏向教育だと文部大臣は判断せられ、或いはその他の事例でどれどれを偏向教育と判断しておられるのか、或いはそうでないと判断しておられるのか、文部省のお出しになつた資料について一つ文部大臣の判断をお聞かせ願いたいと、こう私は言つているんです。
○国務大臣(大達茂雄君) 御承知の通り、教育というものは子供を相手にして先生がいろいろ説明をしたり話をして、而も時間をかけて行うものであります。でありますからして、ここに二行か三行書いてある、これを仮に読んだからといつてそれで偏向教育だとは私は言つておりません。又先ほどの一関のようなものは、これは教育自身ではありません。職員会議における先生の発言であります。ただこういうことが学校において発見せられるということは、その学校において偏向的な教育が行われておるということを想定させるに足りる、かように考えておることは前に申上げた通りであります。教育というものは、ただ一行二行読み上げて済むというものではない、これは教育の本質上そうであります。だからここにある事例として一行二行書いてあることが即教育であると言うことはできないのであります。ただこういう事例が学校において現われておるということは、その学校において偏向教育が行われておるであろう、こういうことを推定せしむるに足る資料である、かように考えて資料を提出したのでありますから、今の山口県日記のような場合は、これは非常に長いですから、あれを子供に渡して、そうしてそれに説明を加えるとかいうようなことをすれば、これは比較的はつきり偏向教育だということになると私は思います。併しその他の事例は極めて簡単なものであります。旭丘中学にしても、そこに書いてあることは簡単であります。この閲の席でお聞きになりましたように、これはまあ教育でありますから、一連のそういう事実を詳しく調べて行けば、これは偏向教育になると考えられるそういう意味において資料を差上げた。これは前からそういうことを申上げてあるのでありますから、さようにお取扱いを願いたいと思います。
○荒木正三郎君 私の文部大臣に対する質問の要旨を十分理解して頂きたいと思うのです。私はこの資料について尋ねているんじやないんです。この資料を使つて説明をしてもらいたいと言つているに過ぎないんです。資料をどう受取るかこう受取るかということを質疑をしているんじやなしに、この資料を使つて、この資料のどれがこの偏向教育になるか、この法案は偏向教育をしたら処罰をされるんじやない、併し偏向教育を教唆扇動した者が処罰される。ですから私は今教唆扇動の方法を聞いているんじやない、偏向教育の中身を聞いているわけなんです。そこでこの資料を使つて、どれどれがそれじや偏向教育と判断しておられるか。少くとも法案を提出せられた文部大臣は、そこは明快にお考えを持つておられると思うんです。そこで私はもう一遍聞きます。滋賀県の冬休みの友日記ですね。これも教員組合が編集をして、子供に使わせる目的でこれは編集しているわけなんです。これはもう間違いないと思うんです。この滋賀県日記は偏向教育であるかどうか、おつしやつて、頂きたいと思います。
○国務大臣(大達茂雄君) 滋賀県日記も、山口県日記のように比較的詳細な長いものですから、こういうものをわざわざ使つて、そうしていろいろそれに説明をする、或いはそれに基いて感想文を子供に書かせる、つまりこれを教材としての、一連の教育が行われる場合には、それが偏向になる可能性が非常に多い、かように考えております。
○荒木正三郎君 この一連の教育ということは附加えないで、これは私が尋ねているのは滋賀県の日記ですよ。これそのものを尋ねているわけなんです。これは中共から帰つて来た子供が作つた文章を載せているわけなんです。もう一つは或る本からとつて来て、一九五三年ですかを迎ふるに当つてという一つの文章を載せているわけなんです。これは私は実際問題として軽い問題じやないと思うんですよ。若しこれが偏向教育であるということがはつきりすれば、これはもう日記を編集するものはよほどの注意をしなければもう今後やつて行けないんですよ。ですからこの滋賀県日記の内容を偏向教育とあなたは判断しておられるかどうかということです。これは今お考えにならなくたつて、前から資料までお出しになつているんだからはつきりしていると思うんですよ。その他の一連の教育なんか尋ねていません。これだけで言つているわけなんです。
○国務大臣(大達茂雄君) これはここに出した事例は、この事例によつてその学校において偏向教育が行われておるということを私どもとしては想定し得る、想定し得る資料である、かようにこれは全部についてそう思つております。でありますからして、これを提出したわけであります。滋賀県日記につきましても同様であります。殊に滋賀県日記は、これはまあ非常に上手に書いてあつて、一見してはわからんように書いてありますが、併し最後の一頁に、結論的に中共から帰つた子供の作文を載せてあります。そうしてこれは相当に偏つた内容を持つておる。これをまあ何学年か、これはちよつて私も一遍読んだけれども忘れましたけれども、これを各学年に通じて一貫した編集方針をとつておる、そこに私は偏向教育をなさんとする意図を思わざるを得ない。これを受取る教師の扱い方によつては、直ちに偏向教育になるものである、こういうふうに思つております。
○荒木正三郎君 そうすると、文部大臣の考えでは、これを編集した人は、今度の法案が成立すればそれに該当する、教唆扇動者に該当すると、こういう判断ですか。
○国務大臣(大達茂雄君) これは滋賀県の教職員団体の編纂であります。若しこの編纂者がこの法律に定めてあるように、特定の政党又は政治的団体の党派的勢力の伸張又は減退を目的としてこれをやつた、こういうことになれば、私は入ると思います。
○荒木正三郎君 それで、私は又若干質問の要点がほかへ亘つて来るので、関連質問としてやつておりますので、質疑をすることをやめます。ただ教育委員会がこれを請求する場合、罪の論断を請求する場合には編集者の意図如何によつて請求するという問題が起つて来ます。その問題が入りますから、私はやめます。 そこで、ただ申上げておきたいことは、そういうことになりますから、私どもはこの事例というものを重視しておるわけなんですよ。これは今後一々の事例について大臣の所見を聞いて行かなきやならんし、多くの場合聞いて行かなきやならん。私たちの常識を以てすれば、この滋賀県日記が偏向教育だというふうにどうしても判断できない。それは私は左派社会党ですよ。あなたがたから見れば偏つているように見られるかも知れない。(笑声)私どもから見ればあなたがたは非常に偏つていると思うのです。併しそんな主観的なものでこれが決せられては困ります。で、大臣がそう判断せられるのには何人も納得する基準というものがなければならんと思うのですよ。その問題は別個の問題としてお尋ねすることにして……。
○高田なほ子君 どうしても腑に落ちないからちよつと聞かして下さい。 この「冬の友」日記は、教唆扇動の対象になるということは私は本当に重大だと思うのです。こういうことになつて参りますと、私は身ぶるいを禁じ得ないのです。具体的に何を教唆扇動したということになりますか、具体的におつしやつて頂きたい。「大変うまく隠してあるけれども」と言われましたが、私は何が隠してあるんだか不幸にしてわからない、私は頭が悪くて。何が一体隠してあるのですか。そこをおつしやつて頂きたい。(「頑冥固陋というところだな」「能力がないんだから、文部大臣は」と呼ぶ者あり、笑声)
○国務大臣(大達茂雄君) 滋賀県の日記については、先ほど申上げたように、一番裏のところに、中にも極めて気がつかんようにではありますが、ちよいちょい書いてあるところがあります。例えば「治山治水の必要」というようなところにも、再軍備の費用をやめてそれをやればこういう水害にはならんだろうとかいうような思わせぶりなところが、(「それが何で悪いんだ」と呼ぶ者あり)書かんでもいいことが書いてある。(「めちやくちやだ」と呼ぶ者あり、笑声)そうして最後の締めくくりのように、結論的に各巻の終りのべージというか裏のところに、(「我何をか言わんや」「こうなつちやおしまいだね」と呼ぶ者あり、その他発言する者多し)何か書いてあります。(「委員長重大だよ、治山治水に廻したらいい、それが悪いんですか」「御静粛に願います」と呼ぶ者あり、その他発言する者多し)中共から帰つて来た子供の作文が出ております。これは一口に言うと非常に中共がいい国である。(「その通りだから仕方がないよ、実際」と呼ぶ者あり)いい国であるということを極力書いてある。(「本当のことを言つたら罪になるのか」と呼ぶ者あり、その他発言する者多し)日本はいやな悪い国である。こういうことを書いております。この書いたのはわざわざ作つて書いたかどうか知りません。本当に書いたんでもあろうかと思います。けれどもこの編纂者が特にそういう点だけを抜き出して、そうして巻末に、すべての学年を通じての日記の巻末にそれをずつと載せてある。私はやはり一定の編集の方針というのか、意図を以て編難されておると、かように、これは私の判断であります。かように認定することは決してそう無理なこじつけではない。私はこう思う。あなたがたのほうは社会党左派だから、感覚が違うからそう思うだろうと、言われればそれまでです。けれども私はそう思う。それでこれを教材に使つて、先生がこれについていろいろの説明をして聞かしたり、或いはそれについての感想文を作文にしてとつたりということになれば、これは何どきでも偏向教育になり得る可能性を持つておると、かように私は考えております。(「不要でしようがないよ」と呼ぶ者あり)
○高田なほ子君 御説明の御趣旨はよくわかりましたが、お断りしておきますが、私は左派社会党でございますけれども、少くとも教育そのものは政争の具に供すべきではない。私はそういう観点に立つておるのです。そこで大臣のお言葉でございますが、治山治水の問題が挙げられて、それが大変にうまくないから、せめて再軍備の費用を削つて、というようなことも、これは該当すると言われましたが、治山治水をしつかりやらなきやならないというのは自由党の政策ですよ。そこで再軍備反対というのは社会党の政策、そうすると、治山治水を挙げて再軍備反対ということになると、これは特定の政党を支持したり反対するということにならなくなつて来る。大臣のそれをおつしやつたことは、揚げ足とるようでまずいんですけれども、そういう不明確なことをあなたは大臣として堂々この席で言つておられるということは私は遺憾だと思う。 第二点は、この作者の意図の問題になつて参りますが、この意図を推し測るということは非常にこれは困難だと思う。これは先般幸いに証人が参りまして発言した中にもあるように、中国から帰つて来た子供たちが母国に帰つて、長い間側離れたこの母国に対していろいろ寂しいような気持もあるだろう、せめてこれらの帰つて来た子供たちを温かく迎えてやりたいという純然たる教育的な立場に立つてこの日記の一部を取上げたのだと、私はこれを了解するのです。殊更私は中国の悪口を言う必要もないと思う。又特段に中国を褒めそやす必要もないだろうと思う。そこで作者の意図は最も教育的な観点に立つて、極めて公平にこの日記として取上げたものが、大臣が偏向教育の事例として教唆扇動の罪に該当するということをこの場で言われたということは重大だと思う。大臣は少し御軽率ではなかつたかと思いますから、大臣の御答弁は保留するなり取消すなりして頂きたい。まだ研究の余地が十分あると思う。
○国務大臣(大達茂雄君) 編纂者の意図が中国から帰つて来た心寂しいであろうところの子供たちを慰めてやる意味であるというようなことを言われましたが、果して編纂者がそういう考えでやられたのか、私は証人のとき聞いておりませんで知りませんでしたが、そういうことであるとすれば、まあ編纂者の意図はそうであつたかも知れない。けれども一体私から言うと、その子供を慰めるなら慰める途があるはずなんです。それを無理に教材として一般の教育の上にそれを使わさせることによつて慰めるということは私は了解はできないのです、そういうこは。そこでこれを見ると、それは子供が書いた字でわしは知らんと言われるかも知らないけれども、子供が書いたものであつても、これを教材として採用した人は、これを教材としての価値があると認めたからこそ採用した。(「価値があるじやないか、立派な価値があるじやないか」と呼ぶ者あり)だから価値があると認めたから採用した。「パンパンがいなければ経済がたつて行けない。またそれを奨励する国が今までどこにあるだろう。これでも立派な独立国だろうか。実になさけない国家ではないか。これをわれわれ国民が黙つて見ていられるだろうか。いや、そんなことは絶対にない。われわれ国民として日本を愛するならば勇敢に立上つてわれわれ国民の利益を守る国家を作るためにがんばろうではないか。」これを卒然として読めば別に差支えないかも知れない。これを少し立入つて説明すれば、とんでもない偏向教育になる可能性はある。十分あると私は信ずる。
○高田なほ子君 これは強制的に与えたものではない。私も日記であるから、にはこれは強制的に子供に注入しよう、(「それがずるいんだ」「やかましいぞ」と呼ぶ者あり、その他発言する者多し)こういうような意図を持つておるものではない。こういう善意は私は教育者の言葉として、我々も又教育を守る立場の者として善意に了解することはできる。だが併し大臣は断じて了解することはできない。これは大臣の御自由だと思う。併し少くとも偏向教育そのものは犯罪行為の対象になるという重夫な論議の中で、あなたは御自分の御意思だけをここで強く御主張になるということは、私はおかしいと思う。まして中国については過般来自由党の議員もお出かけになりまして、それで中国という国がかくかくかくかくの国である、そうして日本の経済の自立のためには中国との貿易というものを振興しなければならない、これは自由党の議員さんの多くのかたがたがこの日中議員連盟の中にお入りになつていらつしやる。これくらいの見識をお持ちになつていらつしやる以上は、大臣が中国のことを挙げた日記であるから直ちにこれが教唆扇動の処罰をする対象になる犯罪行為、即ちこれは偏向教育であるという即断をなさるということは、やはりお互いにもう少し研究する余地はないのであろうか、こういうふうに私は申上げておるのです。如何でございます。
○国務大臣(大達茂雄君) これは大体先にお答えした通りで御承知を頂きたいと思うのであります。私は成るほど中国というものの現状はどうであるか、これは私は知りません。私は曾つて中国には長いことおりましたけれども、今日どうなつているか、それは知りません。ただ自由党、殊に無所属でありますか、木村君なんかがこの間中国に行かれて、あなゆる点について中国を議政壇上においても紹介する、私は十日や一週間おつて、よく隅から隅まで徹底して御覧になつた、こう私は思うのであります。ただこれは行つた人の感想であります。私はその感想通りに受取るか受取らんか、これは各自の勝手であります。でありますからして、議員団が行つてそういう報告をしたから中国というものはこういうものだというふうに御判断になることは勝手でありますが、それをみんなほかの者にもその判断に従えと言われてもこれは私どもは御承知できません。そこで少くともこの書いてあることは、これはとにかく書いた人は中国から帰つた子供であるかも知れない。併しこれを教育資料として取上げたのは、これは編纂者であります。編纂者に責任なしとは言えない。なぜ一体中国から帰つて来た子供で、而も内地のことは、これも船から上つてよくわからんはずのものである。それを非常に国内のことを悪く言つて、これは観察が非常に浅はかである。それは子供が船から上つたばかりで、そんな日本のことがわかるはずはない。わかるはずはないが、併し子供だからそう思つたかも知れません。警察がどうやらしておつた……、けれどもそれを教育資料として、その人間を慰安するためだとか何とかいうなら別です。慰安するために教育資料に持ち込むということは私としては絶対に了解できない。それを教育資料として持ち込んだのは編纂者の意図である。だからこれを教材として、説明の仕方によつては私は偏向教育に容易になり得る可能性がある。こういうことを申しておるのであります。
○荒木正三郎君 私はこの滋賀県日記を出したのは、一つの事例が偏向であるかどうかという判断が人によつてまちくになるのじやないか、こういうことを大臣に尋ねるためにこれを出しているわけなんです。これについても明らかに私どもの判断と大臣の判断とには食い違いが来ているわけです。併しこれは又いずれお尋ねすることにして、この際是非お伺いしておきたい、確かめておきたいことがある。それは山口県日記はこの政府の提案の教唆扇動には該当しないということを言つておられるわけです、文部大臣は。これは本会議の速記録にありますから明瞭です。それが該当すると今日はおつしやつているのは、衆議院の修正によつてそうなつたのかどうか、それだけをお伺いしておきます。
○国務大臣(大達茂雄君) 成るほど政府原案の場合はさような意味の答弁をしております。山口県日記をただそのまま子供に日記として与えたと言いますか、買わせたと害うか、それだけではこの法律には……。偏向教育にならんとは私は言わなかつたのであります。この法律に抵触するような、教唆扇動の対象とはならんと思います。ただこれに附加えて何らかの説明をするかいうことになれば、これはその具体の事例について判定をしなければならん、こういうふうに私は申上げたように記憶しております。ただ黙つてこれを渡しただけでは、この法律に言うところの犯罪行為である教唆扇動の対象にはならん、たる行為とは該当しないだろう、併しそれに附加えて……。これは速記録を御覧になれば、私はそういうふうに言つたと記憶しております。その場合にはそれぞれの場合について具体の事例について判断をしなければならない、こういうふうに申したのであります。私は今度は二項が削除されて一項だけになつて、その代り「ための」という字が入つております。これは私の見解であります。私の解釈としては、その結果これは入る、偏向教育というか、「ための教育」に入る、こういうふうに解釈しております。
○高田なほ子君 まだ質問が残つておりますし、非常にこれは重要な問題でございますから、後日にこれの続きの質問を保留いたします。
○松原一彦君 私は午後は発言しないつもりでしたが、これに関連しまして、今聞いておりますと、この認識が非常にむずかしい、今のように一つの眼鏡を以て見れば偏向になりますが、それを断定することによつて、それを使嘱したと認めらるべき者が刑罰を受けるのでありますから、その認識及びこれを請求する人々の眼鏡が大変大きい問題になると思うのです。勿論或る政党の主張がたまたまこれに合致するという場合、純真な教育上の信念と熱意から出たものと、眼鏡によつて色付けせらるるものとが混同する場合を非常に怖れる。それによつて良心的な教育者の若き情熱が消される虞れを非常に心配しますので、私は私の体験に遮く実例を挙げて、そうして文部大臣にお考えを願いたいのでありますが、今日は四時までという只今委員長からの御通告がありましたので御遠慮申上げます。この次の機会に是非聞いて頂きたい。私は心からこれを憂うるものであります。
○委員長(川村松助君) 本日はこの程度で散会いたしたいと思いますが、御異議ありませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○委員長(川村松助君) 御異議がなければ、散会いたします。 午後三時五十九分散会