海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号
- 発言数
- 63 件
- 登壇者
- 11 名
- 会派数
- 4
- 開催日
- 1953/12/07
会議録
○山下委員長 これより会議を開きます。 ソ連地区残留同胞引揚に関する件に ついて議事を進めます。 本日は去る四日本委員会で決定いたしました参考人諸君が見えていますが、なお、前会におきまして大石委員より御要望のあつた通り、今回の引揚者の婦人の代表として大山美津子君が見えていますので、大山美津子君を参考人とすることに御異議ありませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○山下委員長 御異議なしと認め、さよう決定いたします。 それでは参考人五君よりただちにソ連地区残留同胞の実情を承ることにいたしますが、まず委員長より参考人にごあいさつをいたします。 まだお疲れもいえない今日、いろいろと御多忙のところわざわざおいで願つて、まことにありがたく、厚く御礼を申し上げます。去る昭和二十五年春より中絶していたソ連地区からの引揚げが、今回日赤及びソ連赤十字の協力により再び引揚げが開始せられたことは、留守家族はもちろん、日本国民ひとしく喜びにたえないところであります。しかるに、いまだ多数の同胞を残すソ連地区の実情は当委員会の重大なる関心事でありまして、本日諸君に参考人として御出席を願い、その実情を明らかにいたしたいと思う次第であります。何とぞ、参考人諸君におかれましては、抑留当時の実情並びに残留者の消息等について詳細にお話を願いたいと思います。 それでは参考人の諸君を御紹介申し上げます。元関東單情報部長長谷川宇一君。元ハルピン駐在海軍武官前田直君。元満洲電業本社調査役斎藤保君。元樺太在住者杉村富作君。元横太在住厖大山美津子君。最初に、元関東單情報部長長谷川宇一君よりお願い申し上げます。
○庄司委員 議事進行に関連して……。
○山下委員長 庄司委員。
○庄司委員 ただいま委員長のお許しをいただきまして、議事進行に関連して簡單に所見の一端を述べたいと思います。それは、本委員会の性格と目的であります。参考人の諸君には、とくと本委員会の性格と目的を御了得の上において、でき得る限りオーブンに御所見の一端をお述べ願いたい。 そこで、本委員会の性格は、特別委員会と言いまして、この衆議院内に終戦直後より特設せられました特別委員会であります。それは、海外抑留同胞をして、元軍人であろうが、あるいは非軍人であろうが、一人でも一日も早く祖国日本にお帰りを願いたい、そのお帰りを促進させる目的をもつて、国会において満場一致をもつてでき上りました委員会であります。また、本委員会は常時開催をいたしまして適当なる対策をとつて参りました。たとえば、一昨年の国連の総会には、当時の委員長、ただいまの厚生省の政務次官であります中山マサ君の出馬を願い、また今回は、ただいま委員長の職であられる山下委員長をわれわれの代表として、いな国会の代表でありますがゆえに全国民の代表として、これを派遣し、国連総会内の社会人道特別委員会に対して、強力に、ひとりわが日本の抑留同胞のみならず、ドイツあるいはイタリア等の抑留同胞に至るまで、すみやかに帰還さすべき対策について善処されたのであります。また、この委員会は、院外にございます海外抑留同胞救出国民運動総本部と絶えず提携をとり、あるいはソ連の大使館に、あるいは英米の大使館に、あるいは日赤等を通じて万国の大会等に、幾十回となく、幾百回となく、この八年間長い努力を続けて参りました。海外抑留同胞救出国民運動総本部は、歴代の衆議院議長を会長とし、国会議員のうち特にこの委員のうち特にこの委員会に席を置く方々が、常任幹事と申しましようか、常任理事というような役目を勤めて参つたのであります。また、国民運動総本部の下部には各都道府県に連合会がございまして、多くは当該府県の議長が会長となり、それぞれ国論の喚発に努めて参つたのであります。また一方、同胞救出議員連盟という団体が結成されております。その会長は歴代の厚生大臣が勤められ、その理事にはもつぱら本委員会に席を置かれる委員の各位に御尽力を願い、国会議員の方も、一、二特定政党を除いた以外の議員は大部分この議員連盟に加盟せられ、毎月多少なりとも歳費のうちより会費を負担して経費の一端をつぐなつて参つたのであります。この会の会長は、ただいま申し上げたように、歴代の厚生大臣でございます。一方において国民運動総本部は議長を会長とし、一方においては厚生大臣を会長とし、当委員会の理事あるいは委員の各位がそれぞれ役員を引受けまして、微力ながら過去八箇年の間やつて参りました。われわれの力は微力であつたにせよ、今回皆さんの御帰還を見るに至りましたことは、まことに御同慶にたえざる次第でございます。どうか隔意なくお話を願いたいと思います。本委員会の目的は抑留同胞をしてすみやかに帰還させたいという念願以外に何ものもないのでございます。もしお話にくいような点てございましたならば、御遠慮なく委員長まで申出を願いまして、速記をとめて、いわゆる本委員会をして秘密会としてお話を承りたいのであります。 ここに、開会に先だつて本委員の件格を申し上げ、御安心をいただいて十二分にお話合いをいただけるよう委員長を通して参考人各位にごあいさつを申し上げた次第であります。
○山下委員長 それでは長谷川参考人にお願いいたします。
○長谷川参考人 御報告に先だちまして、まず、皆さんの努力によりましてわれわれ、八百十一名が帰還できましたことを厚くお礼申し上げます。 本日は私ほか四名がここに参つたのでありますが、あらかじめお断りいたしますことは、私たちは、小さな窓をのぞいてわれわれの残留者、死亡者を見て参りまして、全体的なつかみ方とか、今まで政府あるいは諸団体とどんな交渉があつたか、どんな要求があつたかということには目をとざされておりまして、まつたく存じません。従つて、まことに断片的でありまして、数字的にも何の連絡もございません。むしろ数量的なものは援護庁においておまとめくださつたと思いますが、そういう方は私どものいまただちに触れることのできないのを残念に思います。 私としてまず申し上げたいことは、残留いたしております者の不法なる逮捕、不法なる抑留の継続ということであります。これは逐次各人が申し上げると思いまするが、ことに樺太等におきましては、そのために日本人が今後なおそういうはめに陥るのではないかと思うのであります。その不法なる取扱いであつたということの現われといたしまして、今度集結いたしたのでありますが、その集結いたしました際に、私どもは、自分が大赦で帰れるようになつたのか、あるいは刑期前に帰れるようになり得たのであるか、まつたく知らないで船に乗せられました。また、それまでのいろいろな生活におきまして——いまになつていろいろな区別をいたして帰してもらつたようでありますけれども、その前の取扱いにおきましては、抑留者と軍人捕虜との扱いには何の区別もありません。また刑期等におきましても、今度の帰ることにつきましては何らの相違がない、むしろ逆であるというような現象を呈しました。これはあとで参考人から逐次話があると思いますが、こういう意味におきまして、不法なると言いまするか、まつたく基準のない方法でとらわれ、基準のない方法で刑を受け、基準のない方法で帰つて来たというのがわれわれの感じであります。従つて、残つておりまする者がわれわれよりあとになるという理由はまつたくないと私は存じます。 第二は、抑留君たちの衛生状態でありまするが、一日遅れますことは一日生命を縮める。その縮め方がまことに急速でありまして、若い者ですでに二百を越した血圧の者が多い。現にそのために若くして半身不随になつているという者がたくさんあります。
○山下委員長 ちよつと、お話中で恐れ入りますが、長谷川さんはたいへん血圧がお高くていらつしやるようでありますから、お苦しいことと思いますので、どうぞすわつたままでお話になつてけつこうであります。
○長谷川参考人 私は元軍人をしておりましたので、立つたままの方が話しやすいのであります。 従つて、あとに残つております方の帰還を促進いたしませんというと、せつかく帰つて参りましても、単に個人の喜びをわかつたのみであつて、国家のある力となり得る人が、むなしく彼の地に相果てるのではないかと思いますので、この点、早期の帰還が必要と思うゆえんであります。 第三に申し上げたいことは、ナホトカに集結いたしました状況から考えまして、その集結は次のような印象を受けました。日本人が、散在させられました各地から、きわめて広く集まつて参りました。これは、いかにも全ソ一つも残すところなく集まつたというような印象をともすれば与えます。それから、刑の量から見ましても、また、かつての上下の関係がありましたときのことから考えましても、若い人から年の者、またがつての軍で言いましたならば、兵の関係の者から将官の者までというふうに、非常に厚く、どの層も決して見のがさないで拾つたのだという印象をとかく与えられます。広くかつ厚いように印象を与えた集結法であります。そうして、各地からの集まり方を見てみますと、ある所から来ますのに、非常に困難な集結状態、輸送の状態——たとえば、そこへ来るのに二十日以上もかかるというようなところを、その警護のためにコンボイを二人つけて、さらに将校を二人つけて来るというような状態で、不便な状態のところを、五名日本人がいるのにわざわざ二名だけ連れて来る。長途の旅行をしてやつとこつちへ着いたら、各地ともおおむねわかつておりますところで多くとも三分の一。これはわかつているところでありますが、たとえばクラスノヤルスクに幾つラーゲルがあるか存じませんけれども、その人の集まつておつたところのラーゲルの中で、五人のうちから三人連れて来たというように、多く見まして三分の一。そのほか幾つラーゲルがあるか知りませんが、それを入れますというと、さらにその分数式は小さくなるのでありますが、そういう意味におきまして、ある所のきわめて小部分の者を集めて参りました。しかも困難な方法で集めて参りました。これを言いかえますれば、どんどん帰す意思がありますならば、手早く一方から順序よく来るのではないかと思うのであります。今例に言いましたような、五人の者がおりましたならば、五人を一どきに連れて参りましても、決してコンボイの数をふやす必要もありません。二十日の旅行をして五人が一挙に帰り得るのであります。それを、わざわざ三人残しておる。そこは、川の氷がやつと解けて初めての航海ができたというところをやつて参りまして、やつと六月の末から七月の初めに集結したのでありまするから、さらにあとの三人が、一人ずつ参りまするか一緒に参りまするかわかりませんが、それが参りますについては、この次の解氷期でないと来れないのではないかというように思います。そうしますと、少くともそこの人が来るには一年かかるように思われます。これは極端な例でありますけれども、そういうふうな集め方からしましても、ただちに片つぱしからどんどん帰すというような印象を私たちは受けませんでした。こういう意味におきまして、私ども帰ります者は、これはあとは容易ならざることであるというような印象を受けつつ帰つたのであります。 以上、私、総体的に申し上げましたが、これは向うに残つております残留者に対しての印象でありまして、そのおのおのがどういうふうな生活をしていたかということにつきましては、各地の状況をお聞きくださいまして、それによつて御了承を願います。前にお断りいたしましたように、数量的にはつかんでおりませんから、その点、たいへん物足らなくお思いになると思いますが、以上申し上げましたようなお話で御了承を願います。 それでは、逐次御質疑をいただきまして、またそれに追加してお答え申し上げたいと思います。
○山下委員長 それでは、次は前田参考人にお願いをいたします。
○前田参考人 今度帰つて参りました八百十一名のうち、わずかに八名だけが在ソ八年間を牢屋で暮らして参つたのであります。それでありますから、私の場合は非常に特殊なものでありまして、全般と大分趣が違つたものだろうと思います。 私が最後の約五年間おりましたところは、モスクワの東約百八十キロの地点にウラジミルという古い町がございますが、この町の東南方にあります収容所でございます。その当時国家保安省の政治犯だけが集まつております監獄でございますこの監獄に日本人が約三十名から三十五名くらいおつたようであります。これはラーゲルと違いまして、みんながしよつちゆう顔を合せるのではなくて、方々から伝つて参りまするうわさなどを集めまして、大体三十人から三十五、六人だろうというのがわれわれ監獄におりました人間の推測の数であります。そのうちから八名だけがひつぱり出されて帰つて来たわけであります。このウラジミルの監獄でどういう生活をして来たか、いまなお残つておられる方々がどういう生活をしておるかということをお話したいと思います。 この監獄は、当時の保安省が特別に外国人のために用意をした、むろんこれは古い監獄でございますが、事態がああなりましたので、外国人を集めるために特にいろいろな設備をした。とンいうことは、逆に申しますと、ほかの監獄と若干違つた、ソ連政府としては非常にりつぱに用意をしたのではないかと考えるのであります。そこには、最も多いのがドイツ人、それから日本人——日本人が大体二番目でありましよう。その他フインランド、ポーラント、トルコ、フランス、イギリス、オランダ、それに沿バルト地区のエストニア、リスアニア、それにアメリカの兵隊もおりました。ロシヤの白糸——アメリカへ行きましてアメリカの市民権をとりました白系、そういう人間もおりました。非常に多くの国の人たちがそこに集まつておつたのであります。だれかが、牢屋につながれるということは死ぬということではない、生きてないことだと申しております。私ども、牢屋で結局死にませんでしたが、生きてない生活をしていたということになります。われわれの監獄は、大体五棟はかりの囚人を収容するところがございましたが、われわれのおりましたところには、初めは相当多くおりましたが、私らの出ますころは大体五百人くらいおつたのではないかというふうに想像しております。 次に、こまかい生活のことに入ります。われわれの暮して参りましたいわゆる監房と申しますか、一つの部屋は、大体六メートル四角でございます。そしてそこに窓が二つございます。入口は一つであります。その六メートル四角の中に、収容人員は十六人収容するようになつておるのでございますが、大体ならしまして十人見当の人間が住んでおります。日本人がたつた一人おる部屋もございますし、三人くらいおる部屋もございます。一人おる部屋でございますと、ロシヤ語が非常によくできる人ならよいが、できない人になりますと、日常生活の言葉でも片言で話せるまでに相当の期間を要します。つまりたつた一人で外国人の中にぽつつりと置かれる。しかも新聞は常に読めない。結局何にもわからないという状態であります。それからぼつぼつロシヤ語を覚えて来るということになりますが、非常に不自由なものであります。腹が痛いと日本語で申しますと簡単でありますが、これをロシヤ語に直しますと、腹が痛いということを表現いたしますのに相当苦労する。一事が万事そういう状態でございました。そうして、どういう日課をやつておるかと申しますと、大体六時に起きます。そうして十時に眠ります。その間に一時間、午前あるいは午後散歩に出る。そのほかは何にもしておりません。部屋で図書室から本を借りて本を読んでおる。あるいは将棋あたりをしておる。要するに、働かざる者は食うべからずという国に、私は八年間働かないで食つて来たという妙な存在を呈したわけであります。午前と午後に二回便所に行きます。朝起きまして便所に行きまして、用便をいたしまして、顔を洗いまして、もどつて来る。それから、尾籠な話でございますが、小便の方は、部屋の中に小便つぽがございまして、そこでやるというわけであります。 それから、食事は、朝八時から九時に朝食、十二時から一時が昼食、五時から六町が夕食であります。この食糧の状態はどうかと申しますと、この二月までは食糧が非常に悪いと申しますか、少いと申しますか、非常にわれわれ腹を減らしたものであります。私の隣におりましたドイツの海軍少将で七十歳の人でございましたが、どうもおれは腹が減つてしようがないのだ、七十のじいさんがそう申します程度の食事であつたのであります。ところが、この二月から食事の改正がございまして、大体腹を満たすに足るというふうになつて参りました。もつとも、これは、あまり仕事もしませんで飯を食わせますと病気になるというところもあるのかもしれませんが、ともかく非常に少いものでございました。ところが、この二月からまずまず腹を満たすことができるという状態になつておるのでございますから、その点、本年の二月から非常に楽になつたということが言い得ると思います。それで、ここに数字を持つて来ておりますが、これが二月以後に改正されました食事の状態であります。黒パンが七百グラム、粉が四十グラム、雑穀が百十グラム、それから肉が四十五グラム、魚が百グラム、塩が二十三グラム、砂糖が十五グラム、野菜が六百五十グラム、その他であります。八年もおりましたがともかく日本人でございまして、パンを食べさせられますと、どうも腹のぐあいが悪いのであります。しかも、この黒パンが、いわゆるロシヤパンという昔の黒パンでなしに、非常に水けの多いパンでございます。悪く言いますと、パンのだんごみたいなものを食わされておる。それから砂糖が現在十五グラムでありますが、若干足らないのではないか。これは、二月以後改正されない前に、ある男がこういうことを聞いたのであります。これだけでは食い物が少くてしようがないじやないかということを申しましたところが、これはソ連のお医者さんの権威が集まつてきめたものであつて、決して足らないことはないということを言つたのであります。それは、普通の人間がこれだけ物を食つていれば足りるかもしれない。ところが、五十八条の政治犯として牢屋の中にぶち込まれて、これだけの物を食つた場合に、はたして足りるかどうか、これで十分だと言う者があつたら、一ぺん二十五年の刑を科して牢屋にぶち込んで、それから研究してみろということを言つたことがありましたが、渡す人間と渡される人間の精神的な気持が違いますから向うから言いますと、研究の結果、これで仕事をしない人間には十分だというだけ渡してあるということを言うのでございましよう。 それから、次に移ります。散歩は一日一時間。これも広い庭を散歩するわけではなしに、庭の中に六メートルから六メートルのおりがつくつてございます。そのおりの中を動物園の獣のようにぐるぐるまわつて歩いている。約十人の人間が狭いところをぐるぐるまわつておる。これも夏の暖かいときだと気持がいいのでありますが、零下二十度、二十五度、それ以下におりますと、おるだけでも相当苦しい。結局走らなければ寒くてしようがないぞということになつております。 それから次に、服装は、大体木綿のシヤツ上ド、それから木綿の作業服上下であります。そして冬になりますと、これに冬の帽子。作業服は、監獄の方は黒ではなしにしまであります。アメリカ映画で監獄の状況が出て来ますと、しまうまのような洋服を着ておりますが、木綿のあれが上下。それから帽子もアメリカ式のやつであります。しまが入つております。そして冬は、それに綿を入れました外套、綿の入りました帽子であります。大体若い人、あるいは北の方に住んでおる人たちは、これで冬は過せるようであります。ところが、われわれ南方の民族には、これではやり切れないのであります。 次に、ふろは十日に一ぺん入つております。十日、十一日に一ぺん見当に入つております。これはふろに入らないで、要するに湯のシヤワーを浴びる。シヤワーを浴びて、ふろから上りますと、洗つた木綿のシヤツをくれる。古いシヤツをそこへ置いて帰るということになります。十日に一ぺんというのは、非常に空気が乾燥しておりますから、日本で考えられるようにべとべともいたしません。 それから、この部屋に入つております人間と隣の部属、よその部屋に入つております人間との通信とか交渉ということを非常にきらつております。でございますから、たとえば散歩に参ります場合でも、私の部屋から出ました人間が散歩揚に行くのに、絶対によその部屋の人間と会わさない。そして散歩場のおりの中に入りますと、外からかぎをかける。そして散歩場の上に監視が二人おりまして、隣のおりとの連絡を断つておるという状態であります。でございますから、どの人間が新しく入つて来たのか、どういう日本人が隣の部属におるかというようなことも絶対にわからないようにさせております。ときどき部屋の壁をたたいて隣と連絡しようというようなことをやりますと、すぐつかまりまして、営倉にぶちこまれるという状態であります。 それから、新聞は、金のある人間が金を払つて買う。ですから、貧乏人、ことに外国人は金の入る道がございませんが、ロシヤ人は自分のうちから金を送つてもらうということができますから、その金で物を買う、あるいは新聞を買う。物品販売所がございまして、いろいろな物品を売つております。それもずいぶんおかしな話で、物品販売所で売つている品物はどういうものを売つているかと申しますと、パン、砂糖、バター、大体主食に近いようなもの、その他菓子、タバコ等を売つているのでございます。同じ二十五人の囚人でも、片方は金持ちで食いたいものを買つて食う、めしの足らないところは補つて食えるという状態でございます。私、はなはだ不合理じやないかと思うのでありますが、あるいは政府当局は、お前たちに渡している食い物じや腹が減るだろう、足らないだろう、金のあるやつはどんどん買つて食え、そして自分で自分の空腹を満たせという意味かもしれません。そういう品物を売つております。日本人にいたしますと、腹が減つてしようがないのだ、隣りのやつはじやんじやん食つている、こつちは腹を減らして見ているという、妙な、いやな状態がございます。いつそみんなにくれないということになるとあきらめがつきますが、片方で食つているということになつて来ると、人間あさましいものでございまして、何と申しますか、非常に羨しくなる。羨しくなるだけ、平生食わされているものが少いということも言い得るわけであります。 それから、新聞の話がさつき途中ではぐれてしまいましたが、新聞も同様で金のあるやつが新聞を買うのであります。そうすると、金のない手合いというものは、その新聞を読んだあとを見せてもらつている。ところが、貧乏な部屋に入つて行きますとだれも金を持つていない。そうすると、新聞は読めない。監獄にいる人間に新聞が読めないということになりますと、いよいよ世の中のことは何もわからないということになるわけであります。ところが、この新聞を、去年の四月から、きようの新聞を二箇月あとの今日に渡す、と申しますと、たとえば、きようは七日でございますが、十二月七日の新聞は二月七日に受取つて読むということにかわりました。去年の三月末日までは、その日の新聞をその日に読んでおりました。ところが、去年の四月から、二箇月おくれに新聞を読ませる。なぜこういうことをしたが、むろんわかりませんけれども、結局、新聞をその日その日に見させると、あるいは監獄の動揺ということが出て来るのではないかという懸念でないかしらと思います。それから、たとえばマレンコフの特赦が出た、こういう囚人に関係のある新聞は、その日のうちに渡さないのであります。それじや一体お前スターリンの死んだのはいつ聞いたかと申しますと、三月七日にスターリンは死んでおります。これを私の部屋が聞きましたのは四月の中ごろでございまして、偶然よそのラーゲルから監獄に入つて来た人間がございまして、その人間がラジオで聞いたやつを聞き伝えに伝えたのでございます。でありますから、日本赤十字代表が日本からモスクワに来たというような記事になつて来ますと、監獄にいる人間は見せてもらえないのじやないか。見た方がいいか、見せてもらえない方がいいか、これはちよつと問題でございますが、そういうわけで、結局大事なものは見せてもらえないという状態であります。 それから、病院の病気診察の状態であります。私の監獄は、まあソ連では割合よかつたんではないか。相当病院も大きい病院でありましたし、それから設備もよかつたようであります。よそを見ておりませんので、他のラーゲルあたりと比べましてどうであるかということはわかりませんが、まずまず見て、これならは病院としていいものだろうというような状態でありました。それから、お医者さんはほとんど女医であります。女医の若い人がやつております。それから、お医者さんのことはわかりませんが、何となしにたよりないような気がいたしておりました。それから、もう一つは、こう言うといけないのでございますが。女の気まぐれと申しますか、非常に、いい人には丁寧にしてくれる、今度は反対に、悪い人には非常に辛く当られる。ことに、言葉が通じないという関係で、非常に何と申しますか、辛く当られるという例も相当ございました。 それから、細かいことになりますが、一番屈辱を感ずると申しますか、それは、月に多いときは三回くらい検査があるのであります。物品検査並びに、何か物を隠しているのじやないかというので調べられる。全部裸にされまして、そうして、口の中から、足の裏から、靴の中から、すべてを調べ上げます。これが月に三べん。このときには、何と申しますか、一番屈辱を感じます。足の裏から、口の中から、しりの穴まで調べられるのであります。そうして、物を隠していないか、あるいは書いたものをしまい込んではいないかというので調べます。 なお、もつと細かいことはたくさんございますが、ともかく総体的に申しまして、監獄に暮す、これは肉体的には大体苦痛はないのであります。ただ、それと反対に精神的な苦痛が大きうございます。牢屋あたりも、いわゆるロシヤの民謡にございます「明けても暮れても牢屋は暗い、いつでも看守が窓からのぞく」という民謡がございますが、あの牢屋は暗いという感じは非常に改良されているのではないか。窓あたりも、小さな窓ではないしに、相当大きな窓が六メートルなら六メートルの部屋に二つついております。だから、その点は非常に陰惨な湿つぽいというような感じは受けておりません。ただいま申しましたように、外国人向きに、特別に用意をしたという点でありますので、われわれは、これは何といつても一等監獄だと冗談を言つておりました。 それから、図書、これは相当大きな図書室を持つておりました。そうしてカタログ等をもらいまして、自分の希望する本を記入して、貸出してもらう。そうして、それを読んだり、それを勉強したりしているのでありまするから、この点は割合よかつた。大体、先ほども申しましたように、五、六百人の人間に対して本の数は約一万ちよと切れるくらいありましたから、不便はしないのでありますが、それはロシヤ語のわかる人で、ロシヤ語のわからない人間になりますと、結局どうにもならない。それで、しばしば、日本語の本を備えてくれ、あるいは露和辞典を用意してくれ、こんなに日本人がたくさんいるじやないか、しかもお前たちはモスクワで日本字の書物を出版しておるじやないか、だからぜひよこしてくれ、——大きな日本語の辞書もできております。こんな厚い日本語の辞書があるのであります。だから、それを備えてくれと申しましても、結局最後まで備えてくれなかつたのであります、そうしますと、日常の言葉はしやべれても、ものを読むということはできない。結局本を読んで気をまぎらすということができないのであります。
○山下委員長 一応その程度であとで、また……。
○前田参考人 はなはだこまかいことばかり申しましたが、要するに、牢屋におられる方の苦痛、——いつ帰るかわからない、これから先二十年この生活を続けなければならないかもしれないということになりますと、働きませんから肉体上の苦痛は少いのでございますが、精神上の苦痛というものは非常に大きいものでございます。 それから、もう一つ、最後にこういうことを申し上げたいのです。ソ連にいろいろなものを頼む、あるいはいろいろなことを願うということをやります場合には、われわれの監獄の経験で申しますと、一度今月頼んでおいたから、もうあれでわかつておるだろうから、来月はやめようということをすると、きかないのであります。そういう例はたくさんございます。それはこまかくなるから略しますが、先月願書を出したから今日やらなくてもやつてくれるよというような考えでおりますと、決してやつてくれないのであります。先月書いた、今月も書く、来月も書く、そうしてこれを半年も続けてみますと、自分の願いがかなつて来るという例をしばしば見ております。でございますから、ロシヤ相手のいろいろなことは、前にやつたから、この間出したばかりじやないか、だからきようはもうやめよう、あれだけ出しておるのだから向うでもやつてくれようという考えを持ちますと、一向やつてくれない。先月出しても知つちやいない。今月も出す、来月も再来月も出すというふうにやつて行くと、どうやらかつこうがついて来るという例をしばしば見ております。一応これで終ります。あとは質問をしていただきます。
○山下委員長 ありがとうございました。 次に、大山美津子さんからお願いいたします。
○大山参考人 女の私が、敗戦後ソ連の中にどういう気持で生きて来たかということを、一、二参考に話させていただきます。 私は、敗戦当時、夫が昭和十八年に召隻され、留守宅を預かつて土建の方をやつておりましたから、人夫を引率しておる責任上奥地におりました。終戦になつて帰るときに、ソ連人が入つて来たために、下つてほしいと上の方から申されましたから、その責任を果しながら、半島人が多かつたものですから、間違いを起してはならないと思つて、それを監督しながらもどつて参りました。途中二、三軍の方ともいろいろお話したこともありました。帰つて豊原におりますうちに、どなたがそれをしやべつたものか知りませんが、それがソ連の調べになつてわかつてしまつたらしい。四十六年の年にソ連からそのためにいろいろの調べを受けまして、そうして豊原に帰りましたときには徒歩で奥地から帰つたものですから、足に底まめを四つも出して動くこともできない。そうして帰つて参りましたら、費原も落合もソ連の空襲のために非常に爆撃を受けて、病院は傷病兵でどうにもならないくらいの患者で、たつた九人の看護婦さんと医専の生徒が総動員で夜も寝ずに働いている姿を見て、足の痛いのもかまわずに、私もその中に入つてできるだけお手伝いして参りました。そうして、その都度、病院の方なり、警察の方なり、御用になつた方に、自分でできるだけの範囲内で、食糧のお手伝いもし、また看護のお手伝いもして、自己を捨てて敗戦前も敗戦後もかたい信念でやつて参りましたが、それがどういうわけか全部ソ連に知れてしまいましたために、四六年に調べを受けて、一週間というものは睡眠責め食糧責めで意識朦朧となりました。夜ばかり呼び出されます。夜の九時に呼び出されて、十二時ないし一時まで調べを受けて、帰つて、疲れて休もうと思うと、また呼び出しを受ける、何もきびしく責めないのに、ただ時間で責めるので、意識朦朧となつて、頭から水をかけられたこともあります。それでも私は歯をかんで一言も申しませんでした。どうしてあなたは職業をかえたのか、前にロシヤ人の入つて来たときには土建をやつておつて、人夫を連れたり軍の人たちと一緒に歩いたではないか、帰つて来てから病院で助産婦として、看護婦として働いた——あのときのことを何か変に見たらしい。私ははつきり申しました。私は何もありません、日本の慣習として、女は夫の召集後留守を守つてやつて行かなければ一人前とは言われないと教えられて参りました。そのために私は責任を果すために留守を守つて来ただけです。しかし軍なり警察の方に連絡をつけましたねと聞かれました。それは食糧なんかを運んだりいたしました、それは同じ同胞をしてお気の毒で自分の食べる範囲をさいてお手伝いしただけです。あなたの国では、同じ同胞がそういう苦しみにあつていて、自分だけがいい生活をしていて人はどんなに苦しんでもかまわないとおつしやるのですか、私は日本人ですからそれができないと、はつきり申しました。そのために、一週間責められたあげく、出されるときにもはつきり言われました。——申すのを忘れましたが、ものを聞くときには、最初に、あなたはスターリンがじかに聞くと思つて、スターリンに返事すると思つてお答えしてください、あなたがもしうそのお答えをした場合には十五年つながれてもしかたがございませんという調書をとられました。そのほか軍人の方からも聞かれましたけれども、似は一言も話さなかつた。そのために帰されましたけれども、やはり向うで胸が晴れなかつたのでございましよう、私を帰さない、行くたびに、もう少しお待ちなさい、もう少しお待ちなさいと言つておりましたが、四八年の末になつてから初めて、私は足どめになつているということがわかつて、でもその取調べられた内容とこまかいことをそこで一言でもしやべると十五年つながれてもしかたがないという調書を先にとられているから、私はそれを一言も人にしやべることはできない。それを一言でもしやべると十五年完全に持つて行かれる。ささいなことで罪ができて行く。そのために、私はどんなに苦しく生きたかわかりません。でも日本人として恥じないように生きなければならないと思つて来ました。 罪のことは、私は助産婦として働いて、五〇年の年でしたと思います。五〇年の年に、二人ほど、昔現場で自分の人夫に使つていた人がぐあいが悪くて参りました。そのときに、頼まれた薬を、自分の持合せのものがありましたのをくれたんです。そのあとから四、五人の朝鮮人が来て、くれろと言つて聞かないのです。あんまりうるさいものですから、私がしかつたのです。それを恨んで、あの人にやつたけれども私にくれないというふうに密訴されたんです。去年の裁判のときには、公開裁判でしたけれども、いかに日本人がつまらないことで、ほんとうに罪らしい罪でなく何年という刑をあちらの裁判できめられて獄舎の苦しい生活をしておるかということは、ほんとうに私が見てよくわかつておりましたけれども、これほどとは私も思わなかつたし、自分の裁判に携わつてみて初めて、ああ私は日本国民として生れてよかつた、ほんとうに日本はもつと正しかつたと、泣きながら日本人という誇りを自分で感じました。裁判は開放裁判ですから、地方の人で残つた日本人、豊原の人も来ておりました。安東の人も来ておりました。その裁判で私ははつきり申しました。私は苦しくても助手として働き産婆として働いているのです、病人が来て苦しんでいるものですから、医師が来ずとも傷の手当をして一時の苦しみを除かしてやつて、そうして医師が来てからちやんと手当をしていただく、それが私の務めと思つておりました、こう申しました。くれた覚えはありますから、薬はあげましたと、はつきり申しました。そうすると、裁判長のおつしやるのには——その裁判でも女の方が一人と書記が一人、ソ連人はそれだけです。あと二、三人の参考人と、それだけです。私の裁判のときにはほんとうに悲しいかな偉い方たちが一人もいらしていない。ただその女の方一人で勝手に罪をぎめたようなものです。それで、あなた悪いと思いますかと聞かれましたから、はつきり申しました。私はいまだかつて悪いことをした覚えはありません、自己を捨てても皆さんのために生きて来た私がいまさらなぜ悪いことをするか、苦しい人をただ救つてあげたにすぎない、それでも私が悪いとおつしやるのですかと言つたんです。そうしたら、日本ではそれは罪にならないのかとおつしやいました。もしそれがいけない場合でも、人助けにしたことであれば、おしかりを受けるか謹慎する程度で、監獄とかに持つて行かれることは日本ではありませんと、はつきり申しましたのですが、いやそういうことはこちらはできない、そうおつしやられただけで、いきなり三年ということです。聞いている人も私もびつくりしました。日本人の方でそこにいらつしやつた方も言われましたけれども、豊原に残つおてられました一人の先生も、大山さん、必ず上訴しなさい、モスクワへ行つてでもあんたが正しいだから、決して負けちやいけない、闘い抜いて告訴なさい、そういうように申請して必ずきれいなからだになるようになさい、と言つてくださいました。それで、私あんまり腹が立つたものですから、あなた方がいくらこの罪をくれても私の信念はかわりはしない、必ず最後まで闘い抜いてきれいなからだになると申して、収容所に行きました。 こういう関係で、収容所に入つてから日本の女の方たちの話を聞いただけでも、ほんとうにつまらない、ささいなことで五年、十年と罪をもらつて入つております。一人の女の方なんか、畑の境目がロシア語で書いてあるものですから、学問のある方はいいですけれども、私のような学問のない者は横文字なんかわからない。そのために、畑の境目を間違えてキヤベツ二つとつただけで五年の刑でここに参つた方があります。非常にからだをそこねて、ほとんど病人みたいになつていらした方です。ほんとうにつまらないことでも、地方人としてこんなに捕えられて苦しい生活をしておるのです。私たちも、今までこちらで感じたこと自分が実際その場にぶつかつたこととがほんとうに違つていたということを自分で身をもつて得て参りました。ですから、私たち以上に、この軍人さんたちが、つまらないことで二十年、二十五年御苦労なさつたことを伺い、ほんとうに涙なくしては聞かれません。私もできるだけのことは皆さんのために尽さしていただきます。またお役に立たせていただきますから、残つた方たちが一日も早く日本の土地を踏まれるように、ここにお願いして、私の話を終らしていただきます。
○山下委員長 ありがとうございました。 次に、斎藤保参考人にお願いいたします。
○齋藤参考人 私、元来がロシヤ語畑の者でございます。裁判を受けましたときも単独で、ここにおられるほかの証人と若干状況が違いますが、私のつかまりましたときの事情、刑を受けました事情、その後の状況、特に最後の引揚者であるハバロフスクの引揚者が集結いたしましたのは私のおりました分所でありますので、その関係は若干長谷川氏のおりました二十一分所と共通するものがありますけれども、私はまた私のおりましたラーゲル六分所時代の状況をお話したいと思います。 満州でソ連のために抑留を受けましたときは指名であります。これは私がかつて関東軍の第二課と協力をいたしましてソ連の国力調査をやつたということで名前が出ておりましたので、終戦の当時、私は、会社で主として国内関係の調査をやり、また日満を通じますところの国力判定の仕事を、総務庁の囑託としてやつておりました。そういう関係で、直接ソ連の調査には関係をしておりませんでしたが、かつての仕事の関係で遂に逮捕せられました。つかまりましたときには、私は若干ロシヤ語を知つておりましたので、これでおおむね日本に帰ることはできまいと思いまして、それ以後ハバロフスクに集結を命ぜられましたときまでそのつもりでおりました。しかしながら、裁判を受けますまではもちろん若干の希望をつないでおつたのであります。裁判を受けますまでの状況につきましては、すでに一九五〇年に同じ経路を経て新京からアルマータ、カラカンダを経ました者どもが帰つておりました。そうしてこの東京にもわれわれの仲間が広報関係にたくさん活動をしておりますので、この点につきましてはすでに御承知のことと思いますから、詳しくは申し上げません。 つかまりましたときにすぐ言われましたことは、所持品を、時計と金を残しまして全部没収されて、「チユレムノエ、ザクリチニエ」という言葉を使われました。これは意外でありまして、取調べをする前に、獄禁に処するということを言われまして、ほうり込まれました。ほうり込まれましたのは前田さんのおられた海軍武官府でありますが、そういう状況で、最初から、つかまりました者を、もう調べもしないで獄禁に処するというようなことで、がちやんとかぎをかけられて入れられてしまいまして、その後も何らの取調べをいたしませんで、ロシヤに送り込まれたのであります。当時の事情は、あるいは御承知かも存じませんが、関東軍が命によりまして武装解除をいたしました。ところが、ソ連側の予定しましたところの日本人の軍捕虜は非常に足りません。従いまして、その穴埋めに在郷軍人狩りをいたしました。新京でもそれは行われまして、非常に多数の在郷軍人を呼び出して集結いたしました。そのうちでソ軍がねらいました者は、終戦の年に除隊をして帰つて来た者でして、これを終戦時において軍捕虜として登録せられるべきものと推定をいたしました。従いまして、その前年あるいは前々年に除隊をしておる者は一応免除され、その年に帰つたと見られる者を全部集めまして、南嶺方面の収容所に全部入れておつたわけです。そのとき、私は、二、三の人たちを救出に出かけまして、三名、四名の人を救出しております。そしてその他の人たちは今度帰つて来ます中に入つております。でありまするから、そのときに穴埋めに入れましたところの在郷軍人と、それから、なお足りませんので、地方人、一般人の中からひつぱつて来て、それをロシヤに送つております。その人たちの中には、まことに気の毒な人がおるのであります。新京の駅の前でうろうろしておつたところを、ちよつと来いと言われて、来てみたところが、それつきり連れて行かれたというような人が若干おります。そういう人たちはおそらく一九五〇年にわれわれが刑を受けまする前後に帰還されておると思います。しかし、まだそういう人の中でも残つておる人があるいはあるかと思います。そういう状況で、四九年には、一応刑を与える者と、帰す者とのおおむねの仕訳をつけて、そうしてふるいを終つたと思います。 私は四九年の四月五日に起訴をせられまして、カラガンダの非公開軍事裁判によつて二十五年の強制労働の刑を受けております。この際問題になりましたのは、あくまで私が軍の直系のもとで諜報行為をやつたということであります。私は軍の直轄下にあつた者ではありません。あくまでも国策会社でありまするところの満州電業の業務の一端として、ソ連の電力事情を調査したのであります。しかもその資料は、ソ同盟で、あるいは国際連盟を通じて発表しましたところの資料に基くものであります。こういうものをもつてソ連の電気事業を調査研究した者が、何でソ連の国内刑法によつてスパイとして処断されねばならないかということについて、三時間にわたつて論議をいたしました。裁判の席上では、裁判長、検事及び書記で、証人はありません。ここで三時間にわたつて論議をいたしまして、終始抗歳を申しましたが、結局、私の資料がおおむね軍に渡り、それが関東軍の対ソ作戦に直接的なる役割りを演じたに違いないという判定のもとに刑を受けました。これまたやむを得ないと私は思うのです。ロシヤの刑法におきましては、こういうことに対していくら抗議してみても始まりませんので、上告はいたしましたけれども却下されました。 そうして、私は、ただいま前田氏が言われたような監獄ではなくして、非常にひどい監獄にまる五箇月置かれました。カラガンダの十六監獄と申しまするのは、未決監獄と考えられるのでありまするが、私は既決の後そこへ五箇月置かれました。ここは、当時非常に盛んになりましたところの軍捕虜の収容所であります。続々として日本人とドイツ人の軍捕虜が刑を受けましてこの監獄に集まつて参りました。一般地方人の受刑者と区別して部屋を別にわけましたために、数少い部屋に多数のドイツ人と日本人を収容する状況になりました。従いまして、四月すでにこの監獄の中の部屋は非常に暑かつたのでありますが、斜めに板を打つて内側から外が見えないようにした小さな窓が一つある部屋であります。その小さな部屋に大体七十名から八十名入るのでありまして、すわるところがありません。これは御想像はできないと思いますが、夜寝るときは、ちようど寝台を二つ並べたくらいの幅の部屋でありますから、頭を向い合つて寝ますと、ちようど一ぱいであります。こちら側に二列、こちら側に二列、頭と足を交互に入れまして、ちようど目ざしを並べたようにずらつと並ぶのであります。そうして、左向け左と号令をかけて左に向いて寝るのであります。仰向けになつて寝ることはできないのであります。途中でだれかが、助けてくれ、右を向きたいと言うと、それではと、右向け右をして、全部が右へ向く。こうやつて、夜が明けますと、ああ御苦労さんと言つて起きるわけであります。こういう状況で約五箇月そこにおりました。 給与は、五百五十グラムのパンと、薄塩のつけものです。すぱくなりました野菜を入れましたところのスープであります。この給与で生き耐えて来ましたのは、実に中におりまするところの日本人の団結と同時に、非常に気概のあるところのドイツ人の捕虜の一致団結の協力によるものであります。それなくんば、私どもはとても生きておれなかつたと思います。私はその中で非常に給与の問題で闘つたのでありまするけれども、なかなか改善はされませず、終始非常に悪い給与で過したのです。現在、私、体重は四十七キロちよつとになつておりますが、当時はもう少し減つておりまして、ちよつと立つて歩くのにもふらふらするような状態でありました。そういう状況下でようやく生き延びましたところの人たちが、四九年の十月ごろにその監獄を出まして、そうして一時、地方人の囚人のおりましたところ——これは割合に刑期の短かい、かつぱらいの子供たちのおりまするところの収容所ですが、そこに一箇月ないし二箇月おりまして、その後また分散をいたしまして、その大部分がタイセツトを通りまして、バム鉄道沿線の伐採に入つたのであります。これは四九年の十一月のことであります。バム鉄道の沿線に入つておりましたのは、五十八条の政治犯ばかりの特殊ラーゲルであります。ラーゲルの上にヌリという零の番号のつく収容所ばかりでありまして、私はタイセツトから約百五十キロの地点にありますヌリ三二、すなわち〇三二号のところにおりました。この沿線は、大体十キロないし十五キロを区切つて、そういう収容所がずらつと並んでおるのでありまして、大体タイセツトから百五十キロの地点にあるかと考えます。ここに私ども同勢二十八名が入つたのであります。二十八名の日本人がそこに入つてみますと、そこに、樺太からすでにどういう径路を通つてか入りましたところの横太の役人三名その他で、同勢三十二名になりまして、そこで五〇年八月まで、ドイツ人の捕虜を合せましてそこにおりました。八月にそこを出まして、ドイツ人はタイセツトを通りまして西の方へ、われわれは東の方へと動いたのであります。このときに初めて、この集結の意味がどの辺にあるかということがわかりまして、みんな踊り上つて喜んだのであります。 この政治犯のおりまするところのバム鉄道沿線の分所には、まだ残つておるのであります。今度帰りました者の中には、一緒に帰るはずの者でそのときわかれまして残りました者も帰つております。しかし、なおさらにその中で残つた者のいるところは、完全な特別地帯でありまして、いわゆる瘴癘の地であります。冬は酷寒零下六十五度ないし六十八度です。それから夏は、暑さは大したことはありませんが、蚊とぶよであります。このぶよは、日本のようなぶよと違いまして、非常に小さいぶよであります。これが五月から十月にかけて非常にはびこります。このぶよに一たびやられますならば、露出したところはもちろんのこと、被服のすき間がありますれば、そこから入りまして全身食われます。食いましたならば、これは離れないのであります。たたいて殺しますと、血に染まつて死にますが、そのあとは皮膚が必ず破れて、そこに血がふき出る。私はそのラーゲルにおりましたが、もし被服の準備などが遅れて作業に出ましたならば、帰つて来るときは、もう顔がわからないようになつている。三十名くらいの一個班が、全員それにやられまして、高熱を発し、血だらけになつて、遂に作業ができなくて休むというようなこともしばしばありました。このマシカと申します小さなぶよは、体質によつて、反応が非常に顕著な者と、そうでない者とがありますけれども、その収容所に収容せられておりました者はウクライナ方面の人間でありましてこういうことに経験のない人が多いのであります。また日本人にしましても、こういうものに今までやられたことがありませんので、免疫とか何とかいう点ではこのぶよに対して非常に弱い。従つて、その被害が非常に大きかつた。このぶよのために死ぬようなことはありませんでしたけれども、このために、作業をしますのは非常な苦しみでありましました。この苦しみからのがれただけでも、ほんとに生き返つたような気がいたしました。この瘴癘の地にあつてまだ残つて働いておる者がおると私は考えますと、この者だけでもせめてハバロフスク収容所にでも集めていただきたい。現在ハバロフスクに集まつておる者の生活は、かつての四五年、四六年当時の状況と比べますると雲泥の差であります。あれなら、若干今後ひつばられても命に別条はない状況であります。しかし、バム鉄道の沿線などにおりましては、命に別条が大ありなのでありまして、これは早く救出を要する連中であります。そこの給与のことは、先ほど前田氏が言われましたたような、パンを主にいたしまして、それにスープをつけました食糧の配給でありまして、これから申し上げますハバロフスク方面でやつておりますところの軍捕虜の給与とは内容が相当違います。私どものときは、金は全然くれませんで、作業成績によりましてパンの増食、あるいはおかゆのようなどろどろとしたカーシヤというものの増食がありましたが、現在は金もくれておるようであります。 そこを出ましてハバロフスクに集まりましたのは、これは第一次の集結であります。この集結をいたしました者は、おおむねいざというときにはすぐ本国送還をし得る者として準備せられたと私は考えたのであります。しかし、その後音さたがございませんで、昨年の六月突如として通信が許された。従いまして、ハバロフスクにおります者は、ソ連が二回にわたつて発表しました千四百八十七名の軍捕虜に該当する受刑者であります。その十四百八十七名につきましては、すでに通信が許されておりますから、日本では氏名その他も十分おわかりのことと思います。また、その状況につきましても非常にはつきりしておるのであります。しかしながら、ハバロフスクにおります者はその全員ではないのであります。またその千四百八十七名は、通信も許可され、軍捕虜として取扱われましたけれども、実質的には軍捕虜でない者がたくさん入つております。私のごときもそれでありまして、いつの間に軍捕虜になつたかわかりませんが、しかし軍捕虜に入れられたことが私にとつては非常な幸運でありまして今日命を拾つて帰つて来ておりますのも、軍捕虜として取扱われたがゆえであります。私のような状況の者で、軍捕虜に扱われないでバム沿線あるいはタイセツト方面に残つておる者がまだあるのであります。私の学校の後輩の方々でまだ残つておる者もあります。 ハバロフスクに出て参りまして第六分所に入りましたときの状況は、バム方面から集まりました軍捕虜が大部分でありました。そしてそれにわれわれのような随伴的な者がくつついて入りました。そのほかに、逐次あちらこちらから集まりましたところの朝鮮人、中国人、蒙古人、そういう人たちが集まりまして、第六分所を形成したのであります。この朝鮮人及び中国人、蒙古人につきましてはこの際除きまして、日本人たけについてお話いたします。第六分所は、最終時——と申しますのはナホトカに出発する直前でありますが、日本人であのラーゲルの人員として発表されておる者は三百九十六名。この三百九十六名の者がこの分所の日本人といたしまして、これは全員本国との通信を許可されておる者であります。この約四分の一に当りますところの百十一名が、その分所から軍捕虜として今回帰還をしております。この中には純然たる軍捕虜——ソ連側の解釈では、軍捕虜とは第一線にあつて兵器を持つてソ連軍と戦つた者で捕虜になつた者を軍捕虜と言うのです。しからば、後方勤務者はどう取扱うか、特務機関の要員で働いた者、あるいは憲兵として働いた者、こういう者はしからば軍捕虜であるか抑留者であるかというと、これはおおむね抑留者として取扱つておる。この抑留者が、帰ります場合に軍捕虜の中に入つておる者もありまして、この辺は非常に混乱しております。こういう点は日本流にきめこまかくきちつとはなつてはおらないようでありますが、おおむねの取扱いの要領はこういうふうになつておるわけであります。それから、この三百九十六名の中には一般地方人扱いの者があります。純然たる抑留者であります。これは、開拓団においてソ連に拉致されております人間が、クラスノヤルスク方面で割合に短かい刑期を受けましてラーゲルで働いておるうちに、あるいは刑期満了で地方に解放されました。しかし、ハバロフスク、クラスノヤルスク方面に居住制限をされておりまして、ラーゲルその他の周辺で働いておる者、あるいはすでに一生涯帰れないという見込みでソ連の婦人をめとつて一家を構えて働いておつたという、純然たる地方人として生活をしておつた者があります。そういう者を、われわれがハバロフスクに終結いたしました際に、たんねんに拾いまして、個人別に、お前は今度日本に帰れるようになるかもしれない、もし希望であるならば取扱つてやる、こういうようなことを個人別に聞いてまわつた向きもあります。従いまして、すでにソ連の婦人をめとりまして子供がある、しかし帰れるというならやはり日本に帰りたいというので、そういう家族とわかれて単身われわれの仲間に入つて帰国をしたというような境遇の人もある。ところが、それもまた全部が全部そうではないのでありまして、そのうちの何名かをピツク・アツプして、扱いて来ておる。従いまして、そういう境遇の者で、刑期が明けてソ連の中で地方人として、単なる居住制限を受けるのみで、ソ連の国籍を持つた人間と何らかわらない生活をしておる者もソ連に残つておる。そういう人間はわれわれの方で全然わかりませんし、また照会のしようもないのでありますが、ソ連側としては案外こまかいのでありまして、必要とあればソ連側ではいつでも十分そのデータをとり得ると私は思うのであります。 それから、ラーゲル内の生活のこまかいことについては一々申し上げる必要はないと思いますので略しますが、第六分所におきまする生活で代表的な特徴と申しますと、これは給与その他が、従来われわれが受けました囚人の取扱いから全部完全に日本人軍補捕虜の取扱いにもどつておるのであります。日本人に対する給与というものはソ連にはこの軍捕虜の給与の取扱いしか今ないはずであります。この場合の違い方は、パンの量を減らして穀物の量をふやしておるということでありま号。これは日本人のために特にこしらえた給与規定であります。パンが三百五十グラムであつて穀類が四百五十グラム。この四百五十グラムのうち大体三百グラムを米で給与するということになつておるのでありますが、米などというものはほとんど食わされたことはありませんが、そういうふうになつております。ここの特徴は、自活ラーゲルでありまして、働いてかせいで、そして金をもらつて、ラーゲルの経費を作業隊の日本人がまかなうということにある。従いまして、一定の国家規定によりまするところの作業基準に基いて作業をいたしまして、その作業基準一〇〇パーセントを遂行した者に対して所定の金額を労働賃金としてくれるわけであります。この賃金の中から三〇%を差引きまして七〇%をわれわれの手に支給するわけでございます。この支給せられたものをもちまして、われわれの給与の補給をし、また文化生活をわれわれ自身の手でやるというのがこのラーゲルの建前であります。四五年、六年の当時の捕虜の分所の場合は、ソ連全体が非常に疲弊をしておりましたので、作業上におきましても、またわれわれ自体が働いて金をかせぐということにおきましても、非常に困難でありました。ところがそれから八年たつております。おのずから各人は年はとりましたが作業の経験を積みまして、そうして能率もよくなり、また作業に対するソ連側の信頼も非常に増しましたので、現在では非常にかせぎやすくなつております。従いまして、大体協力をして働くならば、月に手取金が六、七十ルーブルくらいになるというのが平均のようであります。非常によく働く者は、これは平均百五十ルーブルにもなるような月がある。また悪いところでは十ルーブル、三十ルーブルにしかならないというところもある。しかし、おおむね五、六十ルーブルのところは働いておるというのが現状であります。五、六十ルーブルのものが手に入りますということは、大体一日に五、六十カペイクの黒パンの補給ができるということであります。黒パンが一ルーブルか五、六十カペイクで大体一キロ近いものが買えますので、それだけのパンを補給すればおおむね重労働に何とかついて行けるという状況まで現在達しております。もちろん分所の給与におきましては、砂糖も不足いたしますし、その他のものも不足するので、何もかも補わなければなりませんが、まず軍捕虜として働いてかせぎます場合に、体力を維持するためにはますパンの補給をすることが第一であり、砂糖と黒パンとさえ補給がつけば、まずまず最低の生活——生存維持ができるということでありまして、その五、六十ルーブルの金は、その限度内においておおむね現在では何とか獲得できるというところまで来ております。 ラーゲルの中の生活で特徴的なのは、われわれの作業場でも体位を毎月検定をいたしまして、この体位の決定に基きまして作業の割当が実際行われるのであります。表向きはそういうことになつております。従いまして、毎月係の医師が参りまして、裸になつて体位を調べまして、この者は一級である、この者は二級である、この者は三級であるときめます。そうして、一級の者は国家がきめますところの作業基準を一〇〇%遂行する義務を負わされ、二級の者は七五%、三紋の者は五〇%というのが従来の捕虜の規定であります。現在残つておる者も同じような体位検定を受けて、自分のカードに記入を受けるのでありますが、実際に作業場におきましては、現在では体位等級によるところの作業基準の遂行ではなくして、金の面で制限を受けておるわけであります。四百五十六円という毎月所定のかせぎ高を上げることによつてのみ金を受取ることができるのであります。私は三級でありますが、三級と申しますと作業隊の中で最も体位の悪い者であります。従いまして、所定の作業基準を五〇%遂行すれば私としては百パーセントになるのでありますが、それでは金になりません。四百五十六円と申しまするのは、大体作業標準を完遂し、若干上まわらねばならないような金額になつておりますので、私といたしましては二二〇%も二三〇%も働ぎませんと、金を受取ることができないのであります。しかしながら、私が今日こうやつて無事に帰つて参りましたのは、ひとえにラーゲルにおりまするところの力の強い、また作業成績のいい日本人が、年寄りや弱い者をかばいまして、人の分まで働いてそうしてその得ました金を弱い者にも均霑してみんなに与えたためにほかならないのでありまして、こういう人たちが一致協力して働くことが、お互いにとにかくまとまつて生き長らえて帰るゆえんだということをみな自覚して、団結して働いております。 医療施設の点につきましては、私の分所には病院はありませんで、二十一分所にありまする病院のわかれの単なる医務室——サンチヤースと言うのがあります。医療施設は最近非常に完備いたしましたけれども、医者薬品その他について非常に欠けるところがありまするし、特に医者そのものは、従来はラーゲルの分所の所長と全然別な系統で、単に収容人員の衛生、それから健康についてもつぱら独自な立場から見て来たものでありまするけれども、最近は所長の権限の中に入りましたために、所長が作業の方に重点を置くために、どうしても病人をかり立てて作業をやるという傾向になりました。この点は、非常に収容されております者にとりましては不幸なことであります。従来は、からだが悪ければ、所長がいかにがんばりましても、医務室の長がこの人間は作業に出してはいけないということをがんばつて、作業に行かないようにしておつたのでありますけれども、現在ではそういうことはありません。 以上で大体分所の状況を終りますが、私が考えますのに、ソ連側の取扱いは、今回帰りました者の内容を見ましても、私どものラーゲルでは、総じて特殊会社の抑留者、それから純然たる軍捕虜のうち将校を除く、しかもこの軍捕虜のうち将校ならざる者でありましても、特務機関及び憲兵関係の者はほとんど入つておりません。第六分所に関する限りは、このように、ふるい方は非常にはつきりしておるように思います。十一分所の方は若干違うようでありますけれども、六分所についてはそういうことが言える。でありますから、一応こまかいふるいをかけました上で、そのこまかいふるいのねらいをすぐわからないようにする目的をもつて、いろいろな者をこれに加えまして、集まつてしまいますと、結局何か何だかわからないような結果を見せております。千四百八十七名しか残留する者なしと発表しておきながら、集めました者はわずかにそのうち四百名余りでありまして、他の者は全部ソ連でいまだかつて発表したことのない地方から、発表したことのない人間が集まつて来ております。従つて、今後もそういう人たちが幾ら現われて来るかということは全然予測を許さないのであります。千四群八十七名の人間は公表したのでありますから、この人間を帰しましたならば何名残るということがはつきりわかります。所管の番号からして、おおむねその所在の見当がつくのであります。しかしながら、樺太に幾らいるか、あるいはバム鉄道の沿線に幾らいるか、マガダンに幾らいるか、マリンスクに幾ら残つておるかということは、今度帰つて参りました者の中から数字を出しまして推定をするにとどまりまして、実際どのくらい残つておるかということはわからない、こういう状況でありますので、たまたま今回、従来おらないと言つておつたところの千四百八十七名以外の人間の中からたくさんの者が帰つて来たということは、ソ連にとつては——私が申しては非常にまずいことでありますが、こちらにとつては非常につつ込みいい点でもありますので、こういう点を十分説いていただきまして、残つております者が一日も早く救出せられるようお願い申し上げます。
○山下委員長 ありがとうございました。 たいへん時間が遅れまして恐縮でございますが、開会がちよつと遅れましたし、午後は参考人の方々は参議院の方がございますので、継続していただきたいと思つておりますので、たいへん恐縮ですが、次に杉村富作参考人にお願いいたします。
○杉村参考人 私は樺太で火薬類の販売を業といたしておりました者でございます。自分の所有にかかる火薬庫あるいは私蔵の火薬類の届出が遅れたかどで、いわゆるソ連刑法五十八条十四項で、軍事裁判で懲役十年の決定を受けた者であります。 昭和二十一年三月に私は捕えられまして、四月三十日に樺太の真岡港から日本人百二十名余りとともに船に乗せられてウラジオストツクに向つたのであります。その間真岡の刑務所の支所でしばらく待機しておりまして、五月一日のメーデーが済んでからということになりまして、五月五日に乗船して、ウラジオに着きましたのは五月八日でございました。ただちにウラジオストツクの監獄に全部収容されました。そこで約十日余り滞在しまして、その後ハバロフスクの監獄に移送され、ハバロフスクの監獄にまた十日ばかりおりまして、その次に、イルクーツクのいわゆる囚人を送り迎えする中継所というのがございますが、そこに収容されまして、そこに約半月余りおりました。その次に、ただいま申し上げたのと同じ制度のクラスノヤルスクの中継所に収容いたされまして、六月末と記憶いたしておりますが、そこからエニセイ川を船で送られまして、エニセイ川の下流のドジンカというところに日本人全部が上陸せしめられまして、その当時約三千名の日本人囚人がその船で送られたのであります。送られる途中の汽車の中では、コンボイと称する看守のような役目をするのでしようが、これが、日本人の所持品を調べると申して、再々所持品を全部集めて、目ぼしいものはただちに没収してしまいました。一例を申し上げますと、私は差入れになりましたらくだの毛布を持つておつたのでありますが、さつそくそれを没収せられまして、その旨訴えましたところ、それではお前にこれをやると申しまして、半分かびのはえたパンを私にくれました。こんなパンは私はいらないと申しましたら、それではこの毛布を持つて行けと言うので、見ましたところが、青い小さな、三尺四方ばかりの毛布のごときものを私に渡しました。しかたがないので、その毛布を持つて部屋へ帰りましたところ、ああその毛布はぼくのだ、こう言う者が出て参りました。これは君のか、それじや君に返す、かようなぐあいで、目ぼしいものはことごとく没収されたような形になつております。むろん時計、金銭は全部、収監されると同時に預り証をもつて取られましたが、その後は絶対に返してくれません。そうして、船におきましては朝晩点呼があるのでありますが、この事情をお話ししますと、実に涙が出るのであります。私どもが収容せられた船底は、約八百名余り、ほとんど見動きができません。すわつたきりでございます。そこへ詰められて、朝晩の点呼のときには、それを無理やりに立たせて、全員片すみに押し込みました。そうして、船室は二段になつておりまして、立つて歩けないので、四つんばいにならんばかりにかがんで行く。そのうしろからむちで、一人、二人と数えて追い込むのであります。あたかも犬か猫か豚をちようど牧場で柵内に追い込むがごとき状態で点呼をとられたのであります。これが五日間かかつてドジンヵという港に着き、そのドジンヵというところに五日ほど滞在しました。そこはエニセイ川の下流でありまして、河口から約四百キロとか申しておりました。それから約百二十五キロ北西方のナリンスクというところへ日本人全部送られました。私どもが樺太から送られましたのは第一回目であります。その後数回にわたつてそのナリンスクというところに相当参つたのであります。 逐次申し上げたいと存じます。そのナリンスクというところは、その港から百二十五キロ北西方の、北緯七十度、東経八十三度くらいのところにありまして、昼ばつかりが約半年、夜ばつかりが約半年というようなところでございまして、ただいま十二月なんぞは夜ばつかりで、まつたくまつ暗であります。作業は全部電気をつけてやります。それから、夏の六月、七月ごろは昼ばつかりで、お天とうさんが二十四時間ずつと照つております。ちようど頭の上を大きな弧を描いて回転するというようなところでございます。気候は、大体六月十五日ごろから氷が解け始めまして、川を船が通るようになります。十月の中ころになつて川がすつかり氷結しまして、全然航行は不可能になつてしまうのでありまして、ほとんど島流しというような状況の土地であります。半年はそういう状況で、鉄道は内陸の方とはむろんないのでありまして、唯一の交通機関は船だけでありまして、あとは飛行機があるだけであります。ナリンスクというところは、私の経験いたしましたときは零下六十三度まで下つた経験を覚えております。作業は零下四十度になりますとさせないのでありますが、室内作業は、いかに零下四十度、五十度になりましてもさせるのであります。室外におけるスコツプとかつるはしを持つ作業は中止になるのであります。われわれ日本人がそこへ参りまして第一番に収容されましたところは第三ラーゲルというところに入れられまして、十日間、一つの柵内の囲いというような、ガランチンとか申しました隔離せられた部屋に収容されました。しかしながら、やつぱり着いた日即日作業をさせるのであります。作業の方針がまだきまつておりませんために、そのラーゲル内のいろいろな雑用をやらせられまして、あと、その一人々々の適性によつてその作業が振り当てられたのであります。しかしながら、言葉が通じないという関係上、当初収容されました当時は、ほとんど全部が土木関係の仕事で、穴掘り、あるいは建築現場の材料運搬、そういつたことのみに使われまして、その後次第々々に言葉を覚えて来ました者は、鍛冶職の経験のある者はその方の仕事に当り、大工職の経験のある者はその方面の仕事に入るというようなぐあいに、おのおの自分の特性に応じて仕事ができるように相なつておるのであります。 一九五〇年ごろまでは、ラーゲルの制度は、金をほんのわずかくださるのでありまして、大体仕事の能率のいかんによつて三段階にわけて食事をくれるのであります。普通に働いている者はカランチンと称する食事——パンが七百グラム、スープが朝昼番五百グラムずつ、カーシヤが二百グラム朝と晩だけという食事であります。カーシヤと申しますのは穀類をかゆみたいに煮たものでありまして、二百グラムと申しますと大体ここにあるコップに一ぱいあるかないかぐらいの状態であります。五百グラムのスープというのは、朝は魚をまぜた程度のスープでありまして、このコツプに二はい半ぐらい。これが朝昼晩。夜は肉のスープでありますが、肉塊などは見たこともない。ほとんど骨だけであります。規則では肉一人に何グラムとなつておりますから、必ずあるべきはずなのが、どういうものか、食堂方面でつくられるときにいずれかにまざつてしまうのではないかと思われるくらい、スープの中の肉塊なんというものはまつたくわれわれ日本人の口には入らないのであります。従つて、おなかがすくのであります。今のがガランチンというのでありますが、その次には、プレオス・アジン、ドアー、ツリーという食事があるのであります。これはわずかに一品よけいあるだけです。その一品と申しますのは麦粉でつくつたもので、ちようどどら焼きと称するお菓子がありますが、あの皮一枚ぐらいのものがつくのであります。それから、プレオス・ドアーとなりますと、それはもう一品つく。握り飯をつくつて、ちようどポテトケーキというのがありますが、そのポテトケーキの大きさくらいにして、ちよつと火であぶつたものであります。それを一つくださるプレオス・ツリーということになりますと、それよりも別の何か魚がつくとか何とかいうことになるのであります。一きれの大きさはこれの半分ぐらいであります。そういうような三段階にわけられた食事が給与されております。これは仕事の量によつてさような区別がされるのであります。 一九五〇年以降は制度がかわりまして、食事の給与は一切最低のガランチンだけになつたのであります。これは一番最低の、これだけ食つておれは生きておられるという、いわゆる生命保証食というのが給与されたのであります。あとは仕事の成績によつて金が渡るのであります。一九五〇年までは、そのラーゲル内には、いわゆるシユタロウと申しまして、いろいろな三、四品を自由に買うというようなものがなかつたのでありますが、一九五〇年以降、金がとれるようになつてから、そのシユタロウという一般食堂が初めてできました。またマガジンと称する売店がございますが、これも以前なかつたのが一九五〇年以降にできまして、おのおの働いて得た金でそこへ行つてあるものを買つて来るというようなことになりました。 われわれの方は、軍事捕虜のお方とまつたく違いまして、一般の囚人の取扱いでございました。従つて、行つた当時は、日本人ばかりが一つの組をつくつておつて、非常によかつたのであります。これもわずか半年の間でありまして、その後五名、六名ないし多いころは十名ぐらいずつみんな別々のラーゲルに所属かえになりました。従つて、全部分散されてしまいまして、当初百二十名余りいた日本人は全部別のラーゲルへ行きまして、その連絡はきわめて困難なんであります。従つて、だれが生さたか死んだかということも、そのラーゲルで働きに出まして、仕事の現場で折々会つたときに聞くとか、あるいはまた所属がえになつて別のラーゲルに行つたとき、おれの方ではだれだれが死んだとか、また、ほかのラーゲルに行つておつた者がもどつて来た場合、向うの方ではだれが死んだというような消息が初めてそのときにもたらされるのであります。そのナリンスクというところでいかような仕事に従事しておつたかと申しますと、初めはそういつた土木関係の仕事でありましたが、このナリンスクというところは非常に優良な無煙炭がたくさん出るところでありまして、その他金、銀、銅、コバルト、ウラニユーム、こういうものが出るところであります。ソ連としてはこの土地をきわめて重要視しておりまして、従つて、普通一般のロシヤ人でもこの地区に入るのには許可証がいるのでありまして、だれでもこの地区に入つて来れない。それから、日本人でこの地区へ入つた者は、刑が終つて出た者でもその地区から外へは出ない。ただいまこの地区におりまする日本人は、大体釈放された方が相当ございまして、これは、樺太におりました連中が、密航と称しまして、北海道に渡らんとして、その未遂中につかまつて、そうしてやつて来た人々で、これらは懲役三年であつた。従つて、早くに釈放されておりまして、そういつた関係から約四十五名ほどナリンスクに釈放された方が現在残つておのおの働いておるのでありますが、わずかの日本人でありますから、みな集まつて、聞きますところ、無尽のようなものをつくつて、お互いに共存同栄で助け合うというようなことをやつたり、病気をした者にはその無尽の方から金を貸してやる。中にはロシヤ人の婦人と結婚しておる者もおるのであります。また、数は大体三人と聞いておりますが、帰化の願書を出された。これは許可になつたかどうか知りませんが、そういう人もあると聞いております。大体釈放されてナリンスクに現在いる方々の生活は、前申し上げました通り、きわめて場所の悪いところで、僻陬の地でありますがゆえに、大陸方面の労働賃金よりもずつと割がいいので、約倍額に当るのであります。しかしながら、非常に北氷洋に近いために、温度のきわめて下るところであり、なおかつ気圧の非常に悪いところでありまして、医者の話によりますと、ここは少し酸素が足りないのだと申しておりまして、心臓に関係する病人が非常にたくさん出る。一例を申し上げますと、一九四七年の十月に、労働ができないという医者の判定のもとにエンワリードという名前をつけられた者が約七百五十名ばかりナリンスクから出ました。その七百五十名ばかりの者はむろん労働はしないのでありますが、その中に三十三名の日本人がまざつておつて、その中に私も入つておりましたが、そのナリンスクというところからドジンカという百二十五キロ隔たつたところに送られたのであります。そうして、そこで、大陸の方へ送つて、いわゆる働けない者はそういうところはだめだが、瞬かい方へ行つたら働けるのだから、その方へ所属がえをするということになつて、その中から、そつちに送られるべく待機しておつた者を飛行機でこれを輸送するということになつたのであります。節一回目の飛行機輸送が始まつて、二十五名行つたところが、二人が飛行機の中で凍死し、七名の者は手足が凍傷にかかつて切断しなければならぬというようなことになつたのであります。そのために節二回目以降飛行機輸送は中止になりまして、そしていずれまた計画を改めてこれらの処置がきまるということになつたのであります。そのために、一九四七年の十月に行つて四八年の六月までの間に、日本人は三十三名中十一名が死亡いたしました。その死亡の原因は、栄義失調に原因して、心臓の悪い方あるいは結核性の者がますます高じて倒れる、あるいは下痢が原因で——何で下痢をしたか、食べさせられるものはきわめてわずかなスープやかゆで、下痢を起すとは考えられないのでありますが、どういうわけか下痢で死んで行つた者もあります。一例は、満州国の北安省の次長をしておつた都甲謙氏という人、私は隣り同士におつたのでありますが、この人は入院してわずか五日間で下痢で死んでしまいました。また樺太におりました丹勇という私の知つておる男は、栄養失調でしたが、病院に入院しておりませんで、私の向いの部屋におつたのでありますが、その部屋の班長がおいボン助、丹がいないがお前知らんか、朝からまた飯を食いに来ないのだ、——はてな、タベおれのところで九町まで話しておつたのだが、どこへ行つたのだろう、と探しておりましたところが、今申しました都甲謙さん——まだ死なない前ですが、その部屋のすみつこに寝ておつたのであります。どうしてお前こんなところに寝ておるのだと言つて起したところが、もうすでに危篤なんです。ただちにわれわれ日本人でそれをかついで病院へ入院させたのでありますが、わずか一昼夜ばかりでそのまま死んでしまつたのであります。これはもう明らかに栄養失調であります。その他いろいろこまかく申し上げれば、そのような実に悲惨な死に方をした人は実際枚挙にいとまがないのであります。死んだ方の処置は、あの国の方針として、いわゆる物質主義でありまして、全部裸にしてしまつて、ちようど縛られた大根か犬の死骸を投げるがごとく、車に積んで行つて、某地というわけでもない、ただ穴を堀つたところへほうり込んでしまうだけであります。これは、私が作業をしておりましたところのすぐ近所に墓地があつたので、おい、きようも来たな、見てろ見てろと見ておりましたところ、馬車に六個の死体を積んでおりましたが、それを穴へほうり込んで、そのまま土を振りかけてさつと行つてしまいました。これは、人間の霊に対してはまつたく無関心だと申し上げてもいいくらいであります。現在釈放された方は四十五名ばかりそのナリンスクにおりまするが、釈放されずに今ナリンスクにとどまつておる方は大体三十名くらいおります。実は、まことに恐縮ですが、この確定的な数は申し上げかねるのであります。その消息は、実際すぐ隣りの月の前にあるラーゲルでありましても全然消息を聞くというすべがないのです。手紙をもらうにしても、ロシヤ人の気のいい者に頼んで、お前、働きに出たら、あそこのラーゲルの者と何か連絡できないかと頼んで、現場でロシヤ人は言葉が通じますから、そういつた方面で連絡をして消息をつかむという程度のことでございます。従つて、正確な数を得るということは困難なのであります。その残つておる方が約二十五名か、——三十名までないと思いますが、全部スベーツ・ラーゲルというところに収容されております。スペーツ・ラーゲルと申しますのは、特別なラーゲルでありまして、全部服のうしろの方には大きな字で番号を打つております。白い布を縫いつけるか、あるいはペンキで書くのであります。あるいはズボンのところに大きな番号がつきます。帽子の上にも番号がつきます。これはその罪人の名前がわりになるわけです。それで、逃走した場合には、第何号が逃げたということがすぐわかる。また、仕事で出入りするたびに、その番号を読み上げて、人間と見比べて、みな出入りをさせる。これらの人は、ただいま前田さんが申し上げたように、監獄と同じような生活をしております。仕事をやつて帰つて参りますれば、ただちにかぎをかけた部屋に入れられる。外に出られません。その部属の中だけであります。部屋の中にベンチが置いてあります。そういうような生活をさせられておる。そういつたスペーツ・ラーゲルに現在残つておりますそれらの人は、どういう方面の方々かと申しますれば、大体ソ連刑法の五十八条の六項及び八項、四項、こういつた方が収容されております。これを日本語で申しますと、大体スパイ関係の方、あるいはテロ行為をした——これはしたのではないでしよう。そういう計画があつた、未遂ですな。その計画があつたということで、みなおのおの懲役十年なり十五年なり二十年なりちようだいしておるわけであります。そういつた人たちが現在残つておるのでありまして、その他の罪状の方々は、おおむね今回の特赦令で処置がついたのであります。
○山下委員長 まことにありがとうございました。また、皆さんから御質問がございましたら、そのときにお答え願いたいと思います。
○杉村参考人 なお、ぜひ一言申し上げたいことは、軍事捕虜の方は昨年から文通ができますが、軍事捕虜にあらざる方は文通を許されないのであります。過去八箇年、家族の安否がわからない、家族はまた自分の夫なりあるいは兄なりの安否がわからない、生死がわからないというような、実に気の毒な状況になつております。従つて、精神的に参つてしまうという状況にある。それがために遂に病気になり、それで死期を早めるというようなことに相なるのであります。それがゆえに、この軍事捕虜の方々と同様に、ぜひこの文通をできるように、何とか実現方を御努力が願いたいと思うのであります。文通及び小包などを受取ることができたならば、向うに残つている方はどれだけ喜ばれるか、病気の方々も回復せられるであろうというくらいに変化があるだろうと確信しております。まつたく周囲は外国人ばかりでありまして、私は、三年間ふとんも与えられず、毛布もなく、板の上に寝ました。 それでは、これで終ります。
○山下委員長 ありがとうございました。 それでは、これより参考人に対する質疑を許します。柳田委員。
○柳田委員 皆さん、長らくの間、ほんとうに筆舌に尽せない御苦労を重ねてお帰りになつたのでありますが、先般私も委員長その他同僚諸君にお供いたしまして皆様のお帰りを舞鶴にお迎えに参りました。そこで、皆様のお喜びのさ中において、なお残つておられる方々の帰還の問題に対して大会が開かれることに胸に迫るものがあつたのでありますが、実際にこの留守家族の御心境を思うと、なお生死が不明で、どこにいるのかわからない、文通もない、いつになつたら帰つて来るのかというような方々が非常にたくさんあるのでありまして、そういう方の気持をそんたくして二、三お尋ねをしてみたいと思います。 実は、日本政府の発表によりますと、昭和二七年五月にはシベリア及び他のソ連領においては生存者数が一万七千二百三十人、南樺太及び千島に二十六百二十二人、これが今年八月の発表によりますと、シベリア及びその他のソ連領で一万二千七百二十二名南樺太及び千島で千七百八十二名、こういうことになつております。そのほかになお死亡者数が約五万人、生死不明の者が約一千名足らずというふうに、余分に出ております。これに対しまして、ソ連の発表によりますと、タス通信によりましては、昭和二十四年の五月二十日及び二十五年の四月二十二日に、戦犯が千四百八十七名、病人が九名——うち八名は帰つて参られましたが、中国に引渡す者が九百七十一名、計二千四百六十七名、これ以外には日本人はいないこういうような発表になつておつたのであります。ところがこの数字を見ましても、ずいぶん食い違いがあるのでありまするが、日本政府の発表もわれわれといたしましては信用できません。いかなる根拠でこういう数字を出されたか、はなはだしく根拠が不十分であります。はなはだしく不確定であると思いまするが、同時に、タス通信の発表も、これをもつてわれわれはただちにそのまま受取りにくいのであります。現に二十五年四月二十二日の発表の、戦犯千四百八十七、病人九、中国へ引渡す者は九百七十一名のうち二名死亡を除いて中国へ引渡しており、これ以外には日本人はいないということになつておりましたが、今回の引揚げにおきましては、一般人は八百五十四名、——これは、われわれ従来計数に入れておりませんでした数がふえております。従つて、これもわれわれとしてはこのまま受取りにくいのでありまして、この食い違いに関しては、留守家族の方々は実際どういうふうなお気持でおられるかと思うと、ほんとうに暗い気持になるのであります。そこで、きようの参考人のどなたでもけつこうですが、お尋ねいたしたいと思うのですが、こういうような食い違いは、皆さんとしてはどういうふうにお考えになりますか。これが第一点であります。 第二は、なおこのほかに一般人が残つていないのかということであります。ただいまの杉村さんのお話の、ナリンスクになお釈放された方で残つておられるというような方々は、先ほどの八百五十四人の中に入つておつて今度帰つて来られるのか、それとも、残つておるとすれば、これはどういう部類に入るものか。 さらに、共同コミユニケによりましても、こういう死亡者数の確認その他行方不明の者に対してはどうもはつきりした数字がつかめぬようでありまして、ソビエト赤十字がこれに協力しようということを向うから言つて来ておりますが、こういうように、行方不明その他の死亡者の調査が一体できないものかどうか。この点を第三にお尋ねいたします。 第四点には、今も多少明らかになりましたが、今度もソ連には死亡者の名簿もなさそうでありまするが、もしも死亡された場合には——今のお話では地下に埋葬されるようでありますが、従つて、遺骨もこれでは拾えぬと思いますが、その他の地方におきましても同様遺骨等は残つておらぬものか、あるいはまた、そういうふうに埋葬された場合には、そこに何年何月どういう者を埋葬したというような墓標があつて、将来ともそれが確認できる材料になつておるか、そういうような点をお尋ねいたしてみたいと思います。 皆様方は生活環境において制限せられておつた方でありますから、これを皆様にお尋ねしても、あるいは十分なる御回答はいただけないかもしれません。詳しいことはソビエトへ参りました島津団長以下がお帰りになつてから、さらに尋ねるべきかと思いますが、なお残つておられる方の遺族の方々としましては、一日も早くこういう事情は別らかにされたいというような御要望があろうかと思いますので、この機会にお尋ねをいたしておきます。
○齋藤参考人 それでは、御質問に十分御満足を与えることができないかもしれませんが、私の見ましたところを御報告申し上げます。 まず第一に、日本政府の調査及びタス発表、それから実際帰つて来る者の状況から見て、数字が食い違う、その点についてどうかというお尋ねであります。この点は、内地におられまする皆さん方の方がかえつてよくおわかりではないかと私は思うのであります。それは、ソ連のやり方の本質的な問題に触れるわけであります。千四百八十七名を発表せざるを得なかつたときの事情、そしてこれに通信を許されねばならなかつた事情、私はこれを極東委員会、対日理事会の解散の問題にくつつけて考えておるものであります。それまで何らの予備的な話もありませんで、突如として命令をもつて、当時ハバロフスクにおりましたラーゲル、収容所の全員に強制的に手紙を書かされたのであります。私は、このソ連側の手紙に対する意図を判断するために、手紙を書くことを拒否いたしました。ところが、命令をもつて書かされた。二回目も拒否いたしました。二回目も強制をもつて書かされました。このときは、千四百八十七名を発表して、これが確実にあるということを日本に連絡する必要があつたと思うのであります。そして、これによつて日本との連絡を——対日理事会、極東委員会でソ連代表が締め出しを食つたあとも、日本との交渉の手がかりを残すべきだ、こう考えたと私は思うのであります。こういう必要に応じて千四百八十七名が現われて参りましたのでありますが、その後の事情の移りかわりが、千四百八十七名とは全然頭数の合わないところの今回の八百十一名の帰還となつて現われた。これは、全然関係がないのではなくて、千四百八十七名の中からも帰し、その中に載つておらないところの人間もまた帰す。この千四百八十七名と申しますのは、発表してあるところの人質である。これを一挙に帰しましては全然残りがないのでありまして、これは小出しにする。しかし、それでは割合に人数が少いので、ある一定数はやはり一回に帰す必要がある。そしてこの帰還の模様を打診いたしまして、さらに次の帰還の手を打とうと考えておるものであろうと私は思います。従いまして、今後のソ連の手の打ち方は、おそらく従来と同じように、千四百八十七名とはかかわりなく、必要と思う数を必要と思うところからピツク・アツプして帰すであろうと思います。従つて、その時期も、ソ連が必要と思つた時期に帰すであろう。従いまして、われわれ第一段として予定されました千四十名、その全員が帰りませんで、まだ残つておりますが、この残りました者でも、一体いつ帰るかということは、ほんとうに帰つてみないと非常に不安に思つておる次第でありまして、第二次の者がおつかけてさらにいつ帰るかということは非常に疑問なのであります。従いまして、数字の食い違いは、向うは十分承知の上でやつておることでありまして、日本流に、こういうものに発表されたから千四百八十七名しか絶対に帰さないのだとか、あるいは、それ以外には、いかにこちらが要求しても一人もいないということをソ連は言うであろうというようなことは、全然考慮する必要はないと私は思う。あくまでも、とにかく帰つて来ないのだから帰せ、あるいは、数字はともかくとして、現実にソ連側で発表した人間以外の人が帰つておるのだから、またそれ以外に人間がおるのだから、そのおるところの人間の消息だけでも知らせよということをどんどんつつ込んでいいと私は思います。 それから、一般人が残留しておるかいないかということのお尋ねでありまするが、現に、私がバムから出て参りまするときに、樺太庁関係、及び北海道から密航をいたしまして横太でつかまつた者、そういう者が、最後のラーゲルに私どもが九名残りましたときに、三名まで残つた。そして、その一人はバムのその分所にそのまま残りまして、他の二人はタイセツトまで同行いたしまして、タイセツトでさらにふるい落されております。ということは、軍捕虜の中に当時入つておらなかつた。これら樺太関係の人は、昨年バムを出てハバロフスクにわれわれが集結するときにふるい落されております。このふるい落しは、一人々々の調書に基いて丹念に当つた上でふるい落してあります。第一次のそういう調査は非常に綿密にやつております。今後帰還する者の場合も、非常に綿密にやつて残しております。従つて、各地に残つております。バム沿線にも一般邦人が残つております。しかも、そういう数は千四百八十七名の数字とは、問題にならない多い数字になるのであります。どの地区に同名一般邦人が残つておるかということは申し上げられません。しかし、残つておるやいなやというお尋ねに対しましては、絶対に残つております。 それから、死亡者の確認につきましても、従来死亡者を絶対に発表しておらないのでありまして、ずつと長年、八年近く全然発表しておらない。死亡者の問題に触れましたのはごく最近であります。これは一九四八年、九年、五〇年と帰還をいたしましたときにも、死亡者の形見とか、あるいは名簿というものにつきましては、厳重に調査をいたしまして、そういうものを持つておりまする者はそのために刑を受けております。現に、私どもと一緒におりましたところのある軍医は、自分の手がけましたところの病人の死亡名簿を持つておりましたために、ナホトカから引返えさせられまして、ハバロフスクにおいて十五年の刑を受けております。このように厳重になつておりますので、帰りました者が口伝えに言う以外には資料のとりようがないのであります。従つて、帰りました者が、現に私のあの分所であの人の最期を見届けたと言う以外には、はつきりしたことは申し上げられないのであります。しかし、死亡者の数につきましては、全然資料がありませんけれども、この数はあつちこつち集めますると相当大きな数字になつて参ると思います。非常に条件のいいところでは一箇年間に大体二割くらいでとどまつておりまするけれども、四五年から六年にかけまして、条件の悪いウラル方面の伐採に参りましたところでは、五百名あるいは千名の、一個大隊に当りまするような大きな部隊がほとんど全滅しておるようなこともあります。こういう状況であります。 それから、死にました者の処分でございますが、これは、私どもが直接見聞きいたしましたところを申し上げますと、死にますとすぐ死体を解剖いたしまして、そしてこれを墓地に送ります。そして、われわれの仲間が参りまして、墓穴を掘りまして、これを埋めます。そして、墓場はあつちこつちに分散いたしておるのでありまするけれども、大体何年にだれということがわかるようになつておりました。死亡いたしましたときは、もちろん形見その他も全然とりませず、お通夜などということもおおむね許されないのであります。特に、その死が全体に影響を及ぼすと思うような者につきましては非常に厳重であります。六分所におりますとき数名の者を失いましたが、その中の一人、元陸軍中将でありました橋本氏の死にましたときなどは、非常に彼の死の影響をおそれまして、絶対に会わせず、その場ですぐ解剖して埋めさしたというような事実もあります。 そういう関係で、死んだ人間が必ずある。そうして、その数について日本側が疑問を持ち、あるいはその問題について日本側がついて来るであろうということなども十分承知の上で帰還を許してやつておるのでありまして、こういうことには一向こだわつておらぬのであります。ですから、向うの非常に柔軟な考え方、どんな場合でもぬらりくらりと知つておつても知らないと言うし、知らないことでも場合によつては知つておると言う、ないものも、あるときには必要であればどこからか集めて持つて来る、自分の都合のいいときはどういうことでもするという態度、こういうことを十分お含みの上、こちらもそのつもりでかかつていただきたいと私は思うのであります。
○山下委員長 受田委員。
○受田委員 皆さん方から今朝来たいへん御熱心に状況報告をしていただいて、私たちまことに得るところが多かつたのであります。わけて、皆様方は、私たちが過去八年にわたつてそのお帰りを一日千秋の思いでお待ち申し上げた方々であつて、よく苦難に耐えてお帰りくださいました。この特別委員会も満七年間国会の中に設置されまして、皆様のお帰りのためにあらゆる政治的な努力を続けて参つたのでありまするが、まのあたりに皆様をお迎えして、喜びこれに過ぐるものはありません。 今報告をお聞きしておりますると、あの朔北の曠野の中で、皆様方がお互いに美しい友情を発揮されまして、賃金の高い人はその余つた部分を弱い者にお与えになるという、こうした同胞愛に満ち溢れたお生活をなさつたことに、われわれまことに胸の痛む思いがいたします。しかし、幸いにして皆様を祖国にお迎えした今日、私たちの最も気にかかるものは、なお残された方方の身の上です。そうして、その方々をお待ちしている留守家族の身の上でありまして、過去のことを一応お預けにしてでも、残された方々をどうお帰しするかということに重点を置いて私たちはこれから考えて行きたい。 今柳田さんからもお尋ねのあつた満刑後の人々の行方なども、私、特にこれは関心を持つて見きわめなければならぬと思います。釈放された後にその人がどうなつておるのか、釈放された人の氏名はどうなつているのだ、その方々は今どこにいるかということが、はつきり留守家族にも知らしてほしいのでありまして、これ以上その消息を長引かすことは、お互いにまことに忍びないことであります。そこで、この満刑後釈放された人々、またラーゲルにおる人でなくて釈放された人々がどうなつておるかということは、いろいろお聞きすると、帰化したとか、あるいは現地で結婚した人も少数あるようでありますが、そうでない人々はちまたに放浪していらつしやるのではないか、その人たちを全部こちらへ集めて帰すような道がないのか、ここであります。この点を、できれば総括的に長谷川さんからお答えいただきたいと思います。あとの問題は引続きお尋ねさしていただきます。
○長谷川参考人 ただいまお尋ねのありましたことにつきまして、私の住んでおりましたハバロフスク地区では、ああいう目につくところのためでありましようか。そういう者には遭遇しなかつたのでありますが、今度集まつて参りました人々の中でそういう人に遭遇をし、話を承つたのでありまするが、これにつきまして大山参考人が若干知つておりますから、これに述べさせます。
○大山参考人 私、最近まで社会におりましたために、幾分その事情を知つております。五〇年までは、樺太から連れて行かれた方は樺太にもどされたのですが、五一年からはそうじやないのです。釈放されたその土地に置かれるのです。そのときに聞かれるのですが、日本人としてのパスポートをもらうか、それとも希望であればソ連の国籍に入れてやる、ソ連の国籍に入ればソ連人と同じ取扱いをされる、そして無理に勧められて、どうせ帰れないのだからといつてソ連の国籍になつた人間もおります。 それから、極太全土で釈放になつた方は、上敷本日の奥とか恵須取の奥へ出しております。豊原とか真岡とかああいうところには出さないのです。あの社会では、働いてさえいれは生活には困らないのですけれども、その国籍の問題です。願書を出してソ連人としての国籍をもらえば、ソ連人と同じ待遇を受けるために、どうせ帰れないのならという悲しい気持でなつた方も大分あるようであります。ですから、なるだけ帰れる方たちは一日も早くこちらへ引受つていただきたいとともに、また、そういうふうに無理にならされて、しかたなしにソ連の国籍になつて泣いている方も大分あるんでございますから、それをお願いしておきます。
○受田委員 もう一つ、それに関連して、釈放されて放浪生活をなさつた方方で今回お帰りになつた数がどのくらいあるのか、また釈放された人々はその行動がソ連の名籍か何かの上に載つておつて、そして今度のように帰られる場合に、その人々もかき集めて帰れるような措置がしてあつて、第二次の帰還船でこれらの消息のなかつた民間人が多数帰れるような期待ができるかどうか、これも見通しをお知らせ願いたいのであります。
○大山参考人 それは私として今考えつかないのであります。
○前田参考人 その問題でございますが、ナホトカにおりますときに、ロシヤの官憲が私に申しましたところによりますと、第二次船は地方に出た人を集めて来る、だからあつちへ行つたりこつちへ行つたりしなければならぬということを言つておりましたから、おそらく第二回の便でそういう方が相当帰つて来られるのではないかと私は考えております。
○受田委員 せつかくでありますから前田さんにお尋ねいたしますが、あなたは、さつきのお言葉によると、ドイツ人と御一緒におられたようでありますが、ドイツ人はどんな人たちがおつたのであるかということが第一点。第二点は、ドイツ人と待遇等に差等があつたかどうか、まつたく同じであつたかどうか。第三点としては、あなたは地方人、民間人としての取扱いを受けておられたようでありますが、軍人であつた捕虜の方が民間人として取扱われるという場合がどうして起つたのか。これらの点を中心にお答えをいただきたいのであります。
○前田参考人 第一、ドイツ人は軍の方が多くおりました。元帥、大将、中将、少将、それから兵隊さんもおりました。氏名の方は別に申し上げます。 それからドイツ人と私ども日本人の待遇の違いと申しますと、私の監獄では日本人の方がよかつたのであります。ドイツ人には近信の許可並びに小包の受取方も許しておりません。日本人が手紙を書き出しましてから、ドイツ人は、非常に神経を高ぶらしまして、再三交渉に及んだのでありますけれども、お前の方は今はだめだ、こういうことでつつぱねられております。 第三、私の身分でございますが、実は私は捕虜のつもりでおつたのであります。ところが、ナホトカへ参りまして、捕虜と一般人と区別されたときに、私が通訳の前を通りましたら、お前はそつちへ行つてはいけない、お前は収容されて罪を犯したんだから一般人の方へ入らなければいけない、そういう話であります。私は軍人でつかまつているのに、一般人と一緒にするのはおかしいじやないかと申しますと、いや、そういうふうになつていると言うのであります。それから二、三日たちまして、またその話が出ますと、お前は軍人だから軍人の方に入るのがあたりまえじやないかと申しますので、この前の話と逢うじやないかと言うと、それは大したことはないよ、ということでございました。私の過去八年間を顧みますと、私は捕虜として扱われたことは一度もないのであります。捕虜には捕虜食を与えたり、いろいろなことがございますので、私も再三申しましたら、彼らはほおかぶりして、戦争は済んだ、捕虜なんかいないよという答えを得ただけで、捕虜として扱われたことは一ぺんもございません。
○受田委員 長谷川さんにお尋ね申し上げますが、ソ連側としては、軍事捕虜と民間の戦犯との区別はどういうところからなされたのであろうか、総括的に御意見を伺いたいと思います。
○長谷川参考人 先ほど申し上げましたように、捕虜の区分につきましては、最後まで私どもが疑問を抱くような状況に過して参りました。しかし、大体におきまして、かつて軍人であつた者は、通念によりまして軍事捕虜。樺太におりましたとか、残留のやむなきに至りまして、国内法に触れられた方、これが地方人として扱われているわけであります。これ以上彼らにいろいろ聞きましても、きわめてあいまいな返答でありまして、大体私がどういうことで二十五年をもらつたかということにつきましても、お前はブルジヨア援助であるということの一言で片づけられまして、何ら明文的に返事をもらつておりません。従つて、このお尋ねの区分につきましても、そういうことを私は尋ねはいたしませんでしたけれども、前田参考人から申し上げましたように、きわめてあいまいでありまして、また一方、融通性が多くありまして、軍事捕虜として限定された者に対してきわめて融通性のある予備人員の大なるものを持つておるということにおいて、この融通性が彼らに有利じやないかということから考えますと、初めから融通しているごとき印象を受けたのであります。
○受田委員 お帰りになられた皆さんが、船中で、御記憶をたどられながら、残留者の氏名と死亡者の氏名を御調査になつた。そのものを私たちも拝見いたしましたが、その後皆様方でこちらへ帰られて、いろいろ御記憶を新たにせられた点で、ここに発表されたあの千六百名ばかりの生存者及び五百名の死亡者のほかに、消息の明らかにされた人人が追加せられて相当数に上つたでございましようか。あるいはその後船中での名簿以上に出なかつたでございましようか。
○長谷川参考人 舞鶴に参りましてから、積極的に未帰還者の家族からお尋ねがありまして、わかつた数が相当あります。これは、その衝に当りました者があとで上京して参りますので、今的確にわかりませんけれども、そういう会は夜おそくまで全員に集まつてもらいましてやりました。二回ありまするけれども、その席上だけでも、一回ごとに二十名あるいは三十名近くの者が追加されております。でありますから、今後、私どもの記憶ではなくて、こういう者がいるかというようなお尋ねがありますと、また思い出せるのではないかと思います。
○受田委員 これはきわめて大事なことで、できればお帰りになられた方々に積極的にその消息を明らかにしていただくような働きをわれわれとしてもしたいと思いますので、御協力をいただきたいと思います。 なお、斎藤さんには、はなはだ明確な情勢の分析をいただいたのでありますが、言葉の中にあつたソ連刑法の五十八条の政治犯とはどういうものであるか、どういう規定になつておるのか、規定ひとつお知らせ願いたいと思います。もう一つは、斎藤さんはソ連側に死亡者の名簿があると思われるかどうか、この点の実態を明らかにしていただきたいと思います。なお、ソ連側が残留しておると言つた千四十七名の中には、一般邦人として残されている人があるとはお思いになるかどうか、この三点をお伺いしたいのであります。
○齋藤参考人 一番最後の千四百八十名の問題でありますが……。
○受田委員 千四十七名です。この間発表された戦犯の残留者名簿ですね。
○齋藤参考人 千四十七名の中におる一般と申しますと、根本的には一般と戦犯の区別の仕方だと思います。これは軍人であるから受刑戦犯人であるというわけに行かないのであります。すでに千四百八十七名というものを総括的に受刑戦犯人として発表しております。これは戦犯人でありますから全部軍捕虜であらねばならないことになるわけであります。しかるにもかかわらず、千四百八十七名の中には軍人でない者が相当残つているのです。そうして、軍人である軍捕虜と、軍人でないけれども戦犯人として裁かれた者とが、今度一緒になつて帰つております。それと同じ者が向うに千四十七名残つておる。従いまして、厳重な意味における軍捕虜であつて戦犯人となつた者と、それから軍捕虜ではないけれども軍捕虜として扱われて戦犯人になつた者が千四十七名の中には入つておる。 それから、刑法の五十八条を的確に私申し上げることはできませんが、われわれに関係します五十八条は、おおむねソ連人であつて反国家的言動をせる者を全部ひつくるめて五十八条の各項に入れております。私は、条項から言いますと、一番簡単な文書諜報、五十八条の六項であります。これは国内刑法でありますから、ソ同盟の国籍を持つところの人間が犯した場合であります。従つて、そのつもりでお聞きを願います。外国人が外地においこういうことを犯した場合は、これはこの刑法外になるのでありますが、この場合、五十八条は、まず第一に諜報——国内秘密を外国に漏らし、外国からのスパイ連絡、そういうものが入ります。たとえば、商務関係に従事しております軍人あるいは一般人が、何かのやや公用的な、あるいは半公開的な席上で、アメリカの品物は非常に優秀であるというようなことを申します。そうすると、それが問題になりまして、親米的な行為であり反ソ的な行為でもるということによつて刑を受けます。それから、われわれの仲間でよく問題になるのでありますが、反ソ的な運動をするために結社をつくる、いわゆるフアシストとしての反ソ結社を組んで行動をするという条項でしばしばわれわれがいじめられるのでありますが、そういう問題はソ連人の場合ははつきりしております。ソ連人で反ソ的な結社を組織した場合には、もちろんこれによつて刑を受ける。この言動によりまして裁かれたのが、私どもと一緒におりましたところの五十八条関係の囚人のほとんど大部分であります。従いまして、ソ連におきましては、ちよつと口を軽くすべらせますと、ほとんど全部の者が五十八条にひつかかる。今のように、アメリカはよいとうつかり言つたのが漏れますと、ひつかかる。あるいは、共産党もよいがなかなか楽にならぬというようなことを申しますと、それがすぐひつかかる。従いまして、お前は五十八条の中の何をしたのだと言いますと、たいがい、ちよつと口をすべらせたのがもとでみなひつかかつております。それも、その発言が社会的な意義を持つ場合に限り実際は裁かれるのでありますが、非常にスパイ網が発達しております関係上、いわゆる密告が非常に徹底しております。従いまして、本人は覚えがないような場合でも、密告を受けて刑を受けた者が多いのでありますが、五十八条全般を通じて私考えますのに、広い意味にとつた反ソ行為全部を含めて刑法五十八条にひつかかつております。 二番目の、ソ連側に死亡者の名簿があるのかどうかというお尋ね。この問題はちよつと即答いたしかねます。従来、私ども、各地の分所で、日々点呼を受けますほかに、特別に呼名点呼を受けます。その際に、死亡者の名前が呼ばれることがあるのであります。その男はもうずつと前に死亡しておるではないかと申しますと、ああそうかと言うだけであります。私の考えとしては、日本人的な考えで申しますならば、当然死亡者の名簿がどつかに一括されておらねばならぬと思います。しかし、この点ははたして全部できておるかということは疑問でありますが、ソ連のやり方が非常にずさんなようでありまして非常にきめがこまかいということを考えますと、案外これは持つておるのじやなかろうかと考えられるのであります。
○山下委員長 大石委員。
○大石委員 われわれ四百六十六名、そして参議院の議員は全部。八年間、以前から皆さんのお帰りを心からお待ちしておりまして、ここに皆さんのお顔を見まして、涙ぐましいものがたくさんございます。そこで、私は、他の委員会がございますから、ごく簡単に質問したいと思います。 まず御婦人のお方に第一点として、ロシヤの監獄内において婦人はいかなる取扱いを受けておつたか、その点について大山さんにお伺いしたいと思います。
○大山参考人 割合ソ連人は女に対してはきつくないのであります。ですけれども、からだの丈夫な方は男と同じ重労働に出されますし、まあつらいでしよう。自分は見て参りましたけれども、身をもつてどれくらいとはつきり申し上げかねます。自分はからだが弱いためにあまり重労働に出なかつたのですが、女の方はやつぱり男と同じように、伐採にも行き、また農事部門にしましても男と同じように働かされているということを聞きましたのです。何と申しましようか、私たちの見た目では、着るものもはくものも男と同じようにさせられて、男と同じように朝早く出て行つて晩におそく帰つて来るようでございました。自分は働いていませんから、どの程度かわかりませんが、相当つらいようでございました。自分は手術後入つたものですから、からだが悪いために、病人としてできるだけのことしかさせられなかつたものですから……。
○大石委員 それから第二点は、続いて大山さんにお尋ねしたいのですが、先ほど、泣きの涙で帰化して、こちらへ帰れない人がある、こういうふうにおつしやいましたが、その泣きの涙で帰化したという意味は、共産党に心酔して、そうして向うにおる人ですか。それとも、いたし方ないからして帰化したのですか。その点、はつきり大山さんでなくてもよろしい、ほかの人にでもお聞きしたいと思います。
○大山参考人 それは私からはつきりお返事申し上げられると思います。去年の六月からそういう達しが出た。おそらく日本へ帰る見込みはないと言う。それで、あなたたちは外国の国籍を持つてそうしていても不自由するばかりたろう、ソ連人と同じ国籍になれば、ソ連人と同じ扱いもしてあげるし、モスクワヘも行くことができるし、みんなと同じにしてあげると言われたのを私は聞いております。その後私は刑務所へ入つたのですが、そのときに、どうせいけないのだつたらしかたがない、ソ連の国籍になつて生きて行こうかと言つたのを聞いております。心底からソ連が好きでなつた人も幾分はいるでしよう。でも、私はそうも信じられない。もしソ連のパスポートをもらわなかつたら、外国の人として樺太へ置かないというようなことも、皆さんそういうふうにおつしやつていました。そして、どこかへ全部を寄せて、そうして日本人村というふうにして、開拓村みたいにして預けられるのじやないかというふうな話になつていました。私は、どこへ連れて行かれてもしかたがない、生きている間にはいつかは日本の土を踏める、最後まで日本人として生きて行かなければならないと決心していましたから、私は最後までもらわなかつた。そのまま日本人の臨時パスポートということになつておりましたのですが、私の友人に二、三ソ連の国籍になつた方もおりました。でも、全部がその心になつてそうなつたとは、そう思える人もありませんし、また信じられないです。
○大石委員 ちよつと皆さんにお尋ねしますが、第三点、共産党の教育はどういうふうにしておるか。第四点、舞鶴にいろいろ引揚げていらつしやいますが、その中には共産党の教育を受けた人は非常にたくさんあるでしようが、今回の人々は非常におとなしかつたというのはどういうふうなことであるか、その点をちよつとお聞きしたいと思います。だれでもよろしいから、ちよつと答えてください。
○長谷川参考人 共産主義の教育につきましては、明確に、これは教育するのではないと口では言つておりました。どうしても受けろということは一ぺんも言つたことはありませんけれども、事実におきまして、この共産主義の教育に出場いたしません者は、次々とラーゲルを転々いたしまして、結果といたしまして、遂に何らかの名目で刑に服しております。この結果から見まして、そのねらいどころは共産党の教育をやりたいのでありまするけれども、許されないから表面立つてやらないだけでありまして、共産党の教育は実質的にはやつた。しかし、明確な言葉として彼らは一ぺんも要求いたしませんでした。これが第一の問題であります。 第四の点については、このたび帰りました者は捕虜といたしまして帰還いたしたが、二十五年の四月までの間というものは、この共産主義教育に伴う日本人同士の擬装的な共産主義化とか、これに近い者、あるいはそのうちには真実にこれを共鳴した者もありましようが、日本人の間に非常に動揺を繰返しました。そういう事態が大体五年続きまして、二十五年の四月に打切つたのであります。そういう流れをつくづく見ておりまして、あとへ残つたのがわれわれであります。それから以後三年間、その共産主義の先頭に立つた者がわれわれと同じく肩えお並べて二十五年の刑を受けておることとか、それからいろいろと新聞にラジオに大まかに出て参ります端末の現象を私たちは如実に体験し、そういうやむを得ず共産主義の教育を受けなければいけないというようなよそ行きのことはやめまして、志を同じゆうするような意味で、境遇をじゆうするような意味で、三年間静かに内を顧みる、思考するという思索の時代が続きました。私をして言わしめますれば、今帰りました八百人のほとんど大部分の者が、いまさら赤がどうであるとか、右翼がどうであるとかいう域をすでに乗り越えておりまして、これはすでに体験いたしまして帰つて参りましたために、今度は、ごらんになりましたように、決して右翼のように肩ひじ怒らしておる者もなかつたと思いますとともに、いまさら赤い旗がなくてさびしかつたと思う者もないと確信しております。その意味において、彼らは、皆さんからごらんになりますると何だかばかに静かだとおつしやるかもしれませんけれども、これは日本人の平常の状態で帰つたものだと信じております。
○山下委員長 辻委員。
○辻(文)委員 皆さんの御苦労に対しては、同僚議員と同様、私も涙を持たずには皆様のお話を聞くことができません。しかし、非常に憂いますことは、今同僚大石委員が時間がないので簡単に御質問申し上げたようでありますけれども、私も同様にさようなことを憂いますのは、中共の場合の引揚げの例があるのであります。その場合に私もお迎えに舞鶴まで参つた一人でありますけれども、埠頭に参りましたら、埠頭の、船が着いて上るところで、お引揚げになつた方々が、徳田球 一盟主という言葉を使つて、そうして騒いでおられる。そのことが延長して、援護局内でも、援護局の行う業務の拒否というようなことになつておつたことがあるのであります。しかも、その中に若い御婦人方が赤旗を振つて盛んにおやりになつておつた。男子の方々がさようにやられるということについては、これはまた向うでそういう教育を受けて来られたからというようなこともあるし、婦人としてもそういう教育を受けないということは言われませんけれども、そこに一抹の、私は何ものかがひそんでおりはしないかと、人の心としての問題を考えたのであります。そこで、お伺いしてみたけれども、当初は口をきいてくれません。これくらいの子供すら口をきかないくらいですから、さようであります。しかし、白龍の船まで行きまして、いろいろのことをお話をし、埠頭に帰つて再びさような方々に親しく言葉をかけられる範囲でお話を聞くと、自分たちは、中共ですでに中国人の主人を持つて、子供もできていたが、どうしても帰れと言われたから帰つて来た、こちらへ帰つて来てはどこへ行つていいかわからぬから、結局自分たちは赤旗を持つて徳田盟主万歳でやるのがいいのだ、こう言う。これは簡単であるが、御婦人の愛情に根ざした率直なお答えであつたと私は考える。そこで、皆さんに率直にさようなことをお知らせ願いたいと思う。もしさようなことについてお知りなら率直にお答え願いたいと思いますのは、軍人の捕虜であられる方ではつきり投獄されておられた方たは別としても、大山さんのような方で、たとえば開拓団へ行かれたとか、そういうことで収容されるとか、投獄されておる方よりももつとゆるやかであつた方で、中共から帰つた御婦人のような境遇におられる方がありはしないか。こちらにおる家族の方々は、そういうことがわからずに、一日も早く会いたいと思つておられるでしようし、またさらに、家庭がないような方が向うでそういう家庭を持つておられるというような場合もありましよう。私ども日本人の同胞としては、そのお気持いかんによつては考えなければならぬでしようけれども、今の場合は、一人でも多く帰つていただこうというのが、委員会ばかりではない、日本人である限り全国民の気持であると思います。しかし、それが逆の効果であるというようなことになれば、またもう一度、さらに高度の愛情というような点からも、ほんとうの親切はどこにあるかということを分析して考えなければならぬ。こういうことを私はその実例に関連して考えておりますので、そういう人が、私どもこちらの者にわからないのに、たくさんおられるかどうかということを、少々抽象的になつてもけつこうでございますから、お知らせ願いたい。
○杉村参考人 軍人捕虜として収容されていた方面は一向存じませんが、普通一般人として収容せられておりました方では、共産教育というものはまずなかつたと思います。私はそういうことには全然記憶がございません。ただ、図書を借りて自分で研究するのは可能であります。しかし、ソビエトの役人側から積極的に共産教育として何か講演とか講義をするということはなかつたと思います。
○辻(文)委員 そういうことはさらに関連してお伺いするかもしれないけれども、今私がお尋ねしておるのは、今のお婦人のように、向うで結婚され、そして、主義者になるならば別問題としても、こちらに帰つて来るのをいやがつておられる方があるか、あるいは逆に考えれは、そういう人たちが共産主義者になり切れない人だつたからロシヤ自体が自主的に何とか理由をつけて強制的にも帰すようにすることがあるか、こういうことなんです。
○杉村参考人 ナリンスク方面に残つております釈放者で結婚しております方たちはおおむね生活のためと私は考えております。共産主義に浸透して帰らないというのではない。また横太方面に残つておられるのは御婦人に多く、朝鮮人と結婚しております。これはやはり生活のために結婚しておるというのがおもであつて、帰りたいという意思はみな持つておる。ただ、日本に帰つて生活がどうかという懸念があつて、それよりはしばらく帰らなくてもいいから向うで結婚しておろう、こういうのが多いのであります。
○齋藤参考人 今のお尋ねに関しまして、ソ同盟に残留しておる者の帰国と中共地区の帰国とは若干内容的に違うものがある。現在ソ同盟に残つて帰還を問題にされております者の中心は受刑者であります。戦犯であるといなとにかかわらず、刑を受けた者、及び刑期が満了してまだ残つておるような者で、この事情と中央の引揚げとは事情が違うと思いますが、中共引揚げと同じような問題が、横太に特例的に見られる。御承知のように、樺太は元は日本の領土であります。引続き日本人がそのまま残つております。これらの人たちは中共の人たちと似たような環境にある。これらの人たちは土地を持つております。しかもその土地は父祖何代にもわたつて開拓して来た土地でありまして、これらの農民はソ連側の特別な庇護を受けておる。徴用しないとか、待遇をよくしてもらうとか、優遇されて来ております。しかも、これらの人たちは日本の現状をどういうふうに見ておるか。ソ連側の新聞はいい面を発表したことはありません。常に日本の悪いところを拾つて報道しております。日本に帰つたらお前たちはたいへんだということのみ教えております。従つて彼らは第一に土地に対する愛着から土地を離れるということが心配であります。土地もない日本に帰つて生活ができるかどうかということに対して非常に不安である。従つて、現在の樺太の一般残留者というのはおおむね帰国を欲していないであろうと私は思います。現に、ナホトカに参りました人間にそういうのがあるのであります。自分は樺太にいた方がよかつた、これから日本に帰つてもとても飯は食えないだろう、こう言つておる者もありますが、そういう者も帰された。それから、われわれと同じく樺太からナホトカに集結した者の一部に朝鮮人がある。これは必要あつて北鮮に帰されるのであります。南鮮におつた者と北鮮におつた者を樺太で区別しまして、北鮮におつた者を強制的に北鮮に帰しております。何の目的で帰すかは御想像にまかせますが、これらの連中はほとんど全部帰るのをいやがつております。今北鮮に帰つてもしかたがない、樺太の方がよかつた、しかし帰らねばならぬというので帰された。こういう事情でありますので、今お話のような事情が、樺太には中共引揚げと同じような事情があるということを御了承を願いたい。
○辻(文)委員 横太以外には今のような事情はほとんどないわけですね。
○杉村参考人 横太以外にはそういう事情はないと思います。
○辻(文)委員 それでよくわかりました。思想的な問題は大体あなたの今のお言葉でわかるような気がしますから、これはまたあらためて考えること。にいたします。ありがとうございました。
○受田委員 なお一、二点伺いたいと思います。杉村さんから最も胸に迫るような、われわれさえも苦痛を感ずるようなナリンスの一帯の実情のお話を聞いたのであります。通信のない一般邦人の実情は日をおおわしめるものがあるということでありますが、この精神的苦痛が死を早めたりするというお話を聞いて、すみやかに一般邦人との通信を交換し得るような措置をわれわれとしても赤十字その他を通じて強力に運動を展開したいと思います。ところが、今度帰られる方々は、今皆さんのお話を総合してみると、大体民間人で、通信のなかつた人が主体であろうというように皆さんも結論を持つておられますが、第二次船で帰られる人は大多数が通信のなかつた人たちのように解釈してよろしいかどうか。 それから、今度帰ることのできない人々で現地で満刑釈放となつたり、あるいは収容所に入つておつたりする人がまだ相当多数おるという現実も、これははつきりしておるとわれわれは認めるのでありますが、その人々の生存確認というような資料をもつて今後ソ連当局にも人道的あるいは宗教的諸団体を通じて強力に運動を展開するということは、皆さんにも御期待していただけるかどうか、この点をお伺いしたいと思います。
○杉村参考人 近く第二次船で帰還せられるというように承つております方方は、以前に釈放せられて普通人としてソ連にとどまつて働いている人々が主体であるとするならば、軍人以外の人はむろん通信は許されていなかつたはずであります。それから、その中に、もしも過去において釈放せられずして、なおラーゲルで働いておる者がその中に入つて帰つて来るとすれば、それらの人々は軍人以外の普通人の方方である以上、通信はなかつたのであります。もし帰つて来る人が釈放者を主体として帰つて来れば残つておる人は通信を欲する人々でございます。またこれが唯一の慰安になります。通信がないということによつて非常に前途を悲観しておる。通信があるために前途に光明を得るということになつて非常にその人に力強い一つの力を与え、生存力はきわめて強くなるということになるのであります。以上通信に関してだけお答えいたします。
○受田委員 私、非常に心配しておることが一つあるのです。ソ連という国は、仕事もなく、また食べる方の食もない、日本で言うならば、こじきに類するような立場に人々を追い込む国でなるかどうか。最低の生活を保障する——たとえば、仕事もなく食べ物もない、あるいは病気をしておる人に対しては、何らかの手を尽すような措置をしてくれる国であるかどうか。釈放された人々が施すすべもなく路頭に迷つて野たれ死にするようなことになるような現状が今日なおあるのかどうか。この点が非常に心配でありますので、どなたからでも、ひとつお答えをいただきたいのであります。各地で事情が違いましようが、その点について触れていただきたい。
○杉村参考人 私の感ずるところと見たところでは、そういつたことはまず心配ないと思うのです。とにかく遊ばせないのでありますから、何かしら仕事をやらせるのであります。仕事をやつておりますれば、必ず報酬をくれます。報酬の多寡はむろんありますが、どうやらこうやら食つて行くことだけはできるのであります。病気の場合には、詳しい民間のことは存じませんが、いろいろなうわさから聞きまして、病気の場合はむろん日本の国立病院がやるように国費でまかなつて、なおしてくれるということも聞いております。ですから、ただいま御質問のようなまことに憂慮すべきことはなかろうと思います。
○大山参考人 働きさえすれば報酬をいただけますし、生活も成り立つて行きますが、それは言葉を満足に話せられる方だけなんです。言葉の話せない方々に今は一々通訳がついておりませんために、言葉が通じないで、冬になりますと食べられもしません。私どものおりましたところは、そういう困る方にはみんなでめんどうを見て参りましたが、今はどこでも日本人は自分の生活が一ぱい一ぱいで、年とつた言葉のわからない人たちがどうしているだろうかと、それを今私は心配しております。言葉が通じて話がわかりさえすれば、働いて報酬を受けられもしましようし、療費もしていただけますし、できるだけのことは何でもしていただける。しかし、年とつております方は、簡単にすぐ言葉が覚えられません。もう五十過ぎた人とか、六十ぐらいの方は、ほんとうに困つておるのであります。
○山下委員長 これにて参考人諸君よりの実情聴取を終ります。 参考人の皆さんには長時間にわたつてソ連地区残留者の実情をお話くださいまして、本委員会の調査の上に資するところきわめて大なるものがあります。この点委員長より厚くお礼を申し上げます。 本日はこれにて散会いたします。 午後二時二十八分散会