予算委員会 第20号
- 発言数
- 74 件
- 登壇者
- 13 名
- 会派数
- 6
- 開催日
- 1952/03/17
会議録
○和田博雄君 予算委員会を開会いたします。
○吉川末次郎君 議事進行について委員長に申上げたいと思うのであります。それはこれからの予算委員会の参考人の証言をお求めになるのでありますが、それに関連して委員長に申上げたいのでありますが、公報によりまするというと、今日の参考人の証言は戰力の問題並びに行政協定の問題について証言を求められることになつておるようでありまするが、先般来外務委員会におきまして、やはり行政協定の内容並びに憲法との関連性につきまして六人の参考人の証言を求めたのであります。ところがこれらの参考人の証言のうち、特に私がこの委員会におきましても多少問題にいたしておりまする行政協定は広義におけるところの條約である。従つて憲法第七十三條に規定するところの條約であるが故に、当然にこれは憲法の條章に従つて事前及び事後に国会の承認を求むるべきものであるという私の意見に対しまして、吉田首相、岡崎国務相等はこれに反対するところの見解をとつて私たちに答弁していらつしやることは、この予算委員会においても明らかであると思うのでありますが、戰力の問題に関する参考人の御証言は暫らく別の問題といたしまして、今私が申上げました政府の処置が憲法第七十三條の違反であるということに対する証言に関連いたしまする外務委員会の参考人の証言は、殆んどそのうちの大多数のかたがたが外交の研究家であるということもあると思うのでありまするけれども、ただ多くこの米国におけるところの行政協定、即ちアドミニストレーテイヴ・アグリーメント、或いはエクゼキユーテイヴ・アグリーメントとの慣例を極めて詳細に長々と御証言になるだけでありまして、私たちが最も問題の核心といたしておりまする日本憲法の解釈上、七十三條の政府の処置が違反なりや否やということに対する証言は非常に少かつたかたが多かつたのであります。これは純然たる憲法学上の問題でありまするから、外務委員会におきましても、更に専門の憲法の学者の証言を引続いて数名のかたから承わることに大体決定いたしておるのでありますが、どうぞ今日の御証言におきましても、神川博士は国際法の研究家でいらつしやいますから、その問題には多くお触れにならないかも知れません。まあ触れて頂いても結構であります。先般も多少お述べになつたのでありますが、憲法学者たるの立場において御証言を求めておりまする他のかたがたにつきましては、米国におけるところのエクゼキユーテイヴ・アグリーメント、或いはアドミニストレーテイヴ・アグリーメントの米国憲法との関連性、或いはそれが一個の慣習法として米国の政治外交の上において議会の承認を求めることなくして行われているところの慣例の内容につきましては、これはこの委員会におきましても、又外務委員会におきましても、即ち議会の内部におきまして岡崎国務相等から今日まで相当詳しいところのことを我々に述べておるわけであります。これは速記録にも載つておりますることでありますし、又先般の外務委員会におきましては、それ非常にくどくどと述べられたところの外交の研究家が非常に多かつたのであります。又各政党等におきましても、例えば私の所属いたしますところの政党におきましても、政務調査会等を通じまして、そういうことは相当に詳しい資料をすでに準備いたしておるのでありまするから、その問題についての参考人の御証言におきましては、それはすでに殆んど全部の議員がよく承知いたしておるのでありまするから、そういうことに長時間をお費しなさることなくして、七十三條の違反なりや否やということを中心にして、その問題について十分時間をお割き下さつて御証言をお願いしたいと思うのであります。これは委員長におきまして、そのように一つ御取運びが願いたいということが第一点。その問題におきましても、これは今日までの大体の政府の意向及び証言等によりまするというと、政府は我々の質問に対しましては、それは国際慣例である、国際慣例であるということを言つているのでありますけれども、それは米国の慣例たるに過ぎないのであります。又国際慣例という言葉が通用しそうなことではないのでありまして、各国それぞれ憲法を異にしているのでありますから、極端な例を申しまするならば、これは独裁国家におきましては、そうしたことにつきまして議会の承認を要しないことは当然のことであります。アメリカがどうであろうが、イギリスがどうであろうが、フランスがどうであろうが、又ソ連がどのような慣例を持つておりましようが、それは直ちに以て、日本憲法によつて政治が行われるところの、我々がとるべきところの慣例ではないかということが明白でありまして、政府の証言は極めてその点につきまして誤まつた証言をいたしていると思うのであります。その点から政府の国際慣例であると言うところの答弁はすでに理論的に破滅いたしていると考えるのであります。それからもう一つ、私が今委員長に希望いたしますことの第一点といたしまして、米国の慣習法的な慣例でありまする議会の承認を要しないところのトリーテイと異なり、アドミニストレーテイヴ・アグリーメント、或いはエクゼキユーテイヴ・アグリーメントというものについての参考人の意見に多くの時間を費されないようにして頂きたいと思いますることは、これは政府当局者が、それを国際慣例であるかのごときような言辞を弄しますことによつて、議員を言葉の魔術によるところの一つの錯覚に陷れているこの政府の違憲行為をみずから何と言いますか、明確にしないようなタクテイツクを持つて臨んでいるということを私は看取されるからであります。それを特に委員長におきましてお含みの上、参考人の意見を徴して頂きたいと思います。第二には、これは一週間ほど前のこの委員会の論議におきまして、吉田首相は今申上げましたこととの関連性におきまして、各国とも国際慣例である、議会の承認を求めないことは各国の国際慣例であるというようなことを申しまして、そうしてその慣例についてはすでに議員にその資料を配付いたしましたというところの答弁をいたしておるのであります。そのときに私は少くとも政府の配付せられたところのそうしたことに関する資料を見ておりませんでした。又政府がそういう資料を配付するということにつきましては、実は私が外務委員会でこれを岡崎君に要求いたしたのであります。ところが配付されておらないのであります。それで二、三日前のこの予算委員会におきまして、きわだつて大きな問題でもありませんから、速記録に残しておくのが正しいとは思いましたけれども、大きな問題ではありませんから、私が個人的に岡崎君に対しまして、吉田さんはああいうことを答弁しているけれども、僕は帰つて見てボツクスその他を調べてみたけれども、何も君のほうからそれに対する資料を配付していないじやないか。君のほうで用意しているならば早く配るようにしたらどうかということを申しましたところ、外務省のほうでは十分用意ができておりますから、至急お配りするようにいたしますと、私個人に岡崎国務相が言つたのでありますが、今日まだボツクスを調べておりませんけれども、今日まででは吉田さんの御答弁は事実に反しているのでありますから、岡崎君の言によれば用意ができているということでありますから、これを至急に配付するようにして頂きたい。併しながら政府がどのようなこれに関する国際慣例と、彼らが申しますものを我々の手許に配付いたしましようとも、それは何も直接的に日本憲法に背反するという、私の申していることとは直接的な政府の弁護的の立場を裏付けるところの資料にならないことは以上申上げましたごとくであります。以上右二つの点を委員長におきまして、この際私の申しますことについての適当なる御処置を、先ず適当におとりを願いたいと思うのであります。
○委員長(和田博雄君) 吉川君に申上げますが、資料の点は早速こちらからも、委員会からも出すように岡崎君に要求します。それから最初の点は、勿論本日の参考人に意見を述べてもらいます重要な点でありますが、公報に述べましたような点について本日は参考人のかたに来て頂いておりますので、やはりこの行政協定は條約であるかどうかということと、憲法九條のいわゆる戰力の問題、この二つについて御意見を伺うことになつておりますので、その点は御了承願いたいと思います。それから憲法学者のかたかたにも随分いろいろなかたに当りましたが、皆さん非常に差支がありまして、本日来て頂きました三人のかたにお集まりを願いましたので、その点も一つ御了承を願いたいと思います。それでは本日の委員会の議題となつておりまする参考人の意見を伺わせて頂きます。
○参考人(神川彦松君) それではお招きによりまして、私がお示しになりました問題につきまして、国際政治史及び国際政治学の專門家といたしまして、私の見解を忌憚なく申上げてみたいと思うのであります。私は今申しましたように、国際政治史及び国際政治学の專門家でありまして、憲法の專門家でもなく、又国際法も大しては專門とはいたしておりませんから、私が申しますることは形式的な法律論ではなく、実質的な政治論が主になるかと思いますが、その点も御了承を願いたいのであります。 第一の問題は、憲法第九條の戰力というのはどういう意味か。又その戰力といわゆる再軍備問題とがどういう関係にあるかという問題であると思います。実は私の個人の考えを忌憚なく申しますると、私は数日前の外務委員会における発言の折にも申上げましたように、今の憲法につきましては余り議論をしたくないのであります。それは私などの考えによりますれば、形式的には成るほど日本国憲法となつておりまずるが、実質的にはいわゆる戰時占領中、マツカーサー元帥の軍事独裁下において制定されたものでありますから、本来占領中における臨時根本法であるべきもので、日本の永久憲法であるとは断じて私は考えないからであります。これは申上げるまでもなく、丁度同じような状態に置かれましたドイツにおいて、いわゆるボン憲法が制定されました以来の経過を御承知になりますならば、全然疑いのないところでありまして、ボン憲法の最後の條文、即ち第百四十七條には、この根本法というのは戰時占領中のものであつて、占領の終了と同時に失効するということが明確に書いてある。およそ軍事占領下において、国民というものは主権を持ちませんから、主権を持たない国民が自由な発言ができるわけはなく、又民主的な憲法ができるわけはないのでありますから、その際にできたものが民主的な憲法であるというようなはずはないのであります。それを民主的憲法と言えば僞りであると申すほかないのであります。従つてそれが占領中だけのもので、占領の終了と同時に失効するということは、理論の上においても、又実際の上においても、当然でなければならんと私は確信いたしておるのであります。でありますから、従来私は憲法論はいたしません。又今日も憲法論はいたしたくないのでありますが、併しながら專門家として、どういう考えを持つておるかということをお尋ねになりますから、私は止むを得ずでありますが、それにも触れまするけれども、併し私の申しまするのは、今申しましたように、国際政治学の專門家、又国際政治史の專門家として、実質的な政治論というものを主として申上げたいのであります。 憲法第九條の成立などのことは申上げませんが、そこにありまするこの戰力という言葉でありますが、この戰力のそれに相当しまする英語の字句、これが本来のテキストであろうと思いまするが、この英語のテキストにおきましては、ウオア・ポテンシヤルという字句が使つてあることは御承知の通りでありますが、このウオア・ポテンシヤルという言葉は、本来軍備縮小問題と関連いたしまして、ゼネバの軍縮委員会で盛んに議論せられた問題であります。無論こういうことは軍備問題とか、或いはこの軍備縮小の問題と関連いたしまして、従来論ぜられた問題ではありまするが、国際間における現実の問題として大いに論議されましたのは、ゼネバにおける軍縮委員会におけるのを初めといたすのであります。連盟成立以来、その第八條に規定してありまする軍備縮小の問題を議論します場合に、如何なる標準を以て軍備を縮小するか、又各国の軍備の保有量というものは如何なる標準によつてこれを定めるかということが非常にむずかしい問題点となつたのでありまして、その際に軍備の保有量を確定するのには、各国の持つておる陸軍、海軍、空軍とかいうようないわゆる軍隊だけでは十分でない。その国が持つておるところの潜在的な武力というものを計算に入れるのでなければ、正当ではない、こういう議論がフランスその他から提唱されたのであります。これは誠に尤も至極な話でありまして、單に法制上或いは形態上陸海軍の体裁を備えておるもののみが武力で、その他のものは武力でないと申しますならば、本当にその国の武力を測定することができないことは言うを待たないのであります。フランスその他がそういう点を強調するということは尤もであります。この点が大きな問題点となつたのでありまするが、如何せん、こういう潜在的武力というものは一体どういうものか。又潜在的武力の量はどういうふうにして測るかということになりますると、これは甚だむずかしい複雑な問題になりまして、明確な標準がありませんから、結局その後できました軍縮会議準備委員会におきましては、一応この問題を論外にいたしまして、いわゆる陸海軍の軍備について種種のことを議論したということは申上げるまでもないのであります。でありまするから、ウオア・ポテンシヤル、私は潜在的武力或いは潜在的戰力、こう訳したらよかろうと思いまするが、それが何かということは一言にしては申されませんが、併しとにかくおよそ一国の武力、即ち国際戰争乃至内乱において用いられますところの組織的な実力、そういうふうに解釈しまするならば、その基礎となるところのもの、その材料となるところのものがウオア・ポテンシヤルであるということは、概念的には申し得るわけでありまして従つてその国が一体どれだけの人的資源を持つているか、又どれだけの近代設備力を持つているか、又更にはどれだけ予備軍隊を持つているか、又どれだけの警察力を持つているか、どれだけの商船隊を持つているか、又民間航空機を持つているかというようなことが、皆やはり潜在武力として考えられていることは当然のことでありまして、殊に警察力並びに予備兵額というようなものが潜在武力になるということは言うを待たないのであります。でありまするから、この憲法第九條の戰力、ウオア・ポテンシヤル、戰力という訳は私は原語と一致しないと思うのでありまして、ウオア・ポテンシヤルというのは、普通の戰力でない、潜在的戰力である、ウオア・ポテンシヤルである。ウオア・フホースじやない、ウオア・ポテンシヤルである。でありますから、そういうものとして警察なんというものが入るということは言うを待たない。殊に日本が朝鮮戰争後に作りました予備警察隊なるものは、これは言うまでもなく実質的には武力であると言うて間違いない。予備警察隊ができましたのは、言うまでもなく、一昨年の六月二十五日に朝鮮戰争が勃発いたしまして、日本に滯在しておりました連合国、それは殆んど全部米国軍でありますが、米国軍隊が殆んど全部朝鮮に出兵せざるを得なくなつて、国内が殆んど空になりましたために、その空間を補うために早急に作られましたことであることは何人も承知いたしているところであります。でありまするから、これが一朝事ある場合には、従来日本におりましたところの米国軍に代つて、国内の秩序維持に当るということは当然のことである。文その名前から申しましても、ポリス・リザーヴとなつておりまするが、実際はアーミー・リザーヴと言つても同じことであります。ただ日本においては軍隊を持つことは禁ぜられておりますから、軍隊という言葉は使われませんから、ポリス・リザーヴと言うたに過ぎないのであつて、その実質はアーミー・リザーヴと解釈いたしても間違いないと我々は信じているのであります。一体武力と警察というものをどうして区別するか、これは形式的には区別することができないことはありますまい。併しながら実質的にこれを区別することは不可能でありまして、要するに国際戰争とか、或いは国内戰争の場合に、組織的武力として用いられ得るものが軍隊である。又主として国内秩序、或る場合には国際秩序を維持するためにも使用し得るところの組織的な実力が警察でありまするから、区別し得られないことはありませんが、実質的には殆んど困難であります。でありまするから、御承知の、ごとく今日におきましては、国際連合の下に作られまする軍隊というものは、国際警察或いは国際警察軍、インターナシヨナル・ボリスとか、或いはインターナシヨナル・ポリス・フオースという言葉を使つておるのでありまして、單にインターナシヨナル・アーミーという言葉は余り使いません。でありますから、今日でも国際的に軍隊を警察という名前で呼ぶことがだんだん流行して来るのでありまして、従つてその実質において警察と軍隊というものをこれを区別することは非常にむずかしいのであります。強いて区別すれば、法制的に区別するとか、何とかするほか途はないのだろうと思うのであります。ところが日本の予備警察隊なるものは、軍備の禁止されております日本において、軍隊に代るべきものとして早急に作られたものであつて、ポリス・リザーヴというのは、アーミー・リザーヴという意味にとつて間違いない。又アメリカにおきましては、私はリザーヴという言葉はポリスの場合に使うよりは、むしろ私は軍隊について常に使う言葉であると心得ております。でありまするから、今日の警察予備隊がたとえ軍隊でないにいたしましても、潜在的武力、ウオア・ポテンシヤルであるということは一言の疑いも、一点の疑いもないのでありまして、これが戰力でない、潜在戰力でないというようなことは、單なる詭弁に過ぎないのでありまして問題にするに当らんと私は考えております。 この戰力如何が問題となつておるのは、再軍備という問題と関連しておることは申すまでもないのでありまして、再軍備するかどうかということが日本で今非常な問題となり、又事実再軍備されつつあるにかかわらず、政府がそれを否定しておるというところに問題の焦点があると思うのでありまするが、この再軍備という点についての私の考えを簡單に申上げまするというと、およそ今日の国際社会におきまして、軍備のない国は国家ではありません。理念的な国家を考える場合とか、或いは天上の国家を考える場合は、これは別の問題でありますが、少くとも地上の国家、殊に現・実の国際社会における国家を考えて見ます場合に、武力のない国家なんというものは、それは抽象的なもので、あり能わないのであります。およそ軍備というものは全世界隈なく、いわゆる普遍的に、又徹底的に、如何なる国も平等に、同じように軍備を撤廃する際においてのみ軍備を撤廃することができるのでありまして、その時期が来るまでは如何なる国家も軍備を撤廃することはできません。国内の治安を維持しますのに警察が必要であり、我々のささやかなる私有権を保護しますにも、自衛の手段を講じ、更に厖大なる警察力を必要といたしますのに、どうして国家の安全を期するのに軍隊なくして期待することができまするか。国内の治安を維持するために警察で足るというのは、犯人、即ち社会の敵が武器を持たんからであります。個々の丸腰の人間であるからであります。従つてそれに対抗するためには軍隊を必要としない。警察を持つことで足るわけであります。ところが国際間の秩序の敵、即ちこれこそ本当の敵でありますが、それに至りますと、偉大なる武力を備えた強盗であります。そういうものの間においてどうして国家が丸腰で以て安全たることを得ましようか。もう議論を待たないと思うのであります。若し全世界を通じて武器を撤廃することができまするならば、それより前に各国において警察力を撤廃することができるはずであります。警察力だに撤廃し得ないのに、どうして国際間において武器を撤廃することができますか、軍備を撤廃することができますか。これは政治学の点から申しましても、国際政治学の点から言いましても、ABCでありまして、問題とするに足らないのであります。でありまするから、苟くも日本が自主独立の国家であろうと欲しまするならば、少くとも自衛のための軍隊を要するということは当然至極のことである。若し軍隊を解きまするならば、その国は永久に他国に隷属するか、或いは他国の植民地になるかするより途がないということは言うを待たない。マツカーサー元帥が制定した今日の憲法において武力を撤廃したということは、理想としては誠に結構である。何人といえどもその理想に敬意を表しないものはない。併し果してそれが現実的であるかどうか、その点については殆んど議論を要しないほど明白であるのでありまして、今日の国際社会において武力のない国家というものは、それは全く国家ではない。いわんや自主独立国家ではないわけであります。私などの解釈するところによりますると、マツカーサーが日本に対して武力を持たせん、又交戰権を禁止するということを勧めましたそのうちには、必ずしもそういう理想的な考えばかりではなく、現実的な政策が混つておつたということは疑い得ないのであります。 一体米国は日本に対して三重の保障政策ということを考えておる。極めて至れり盡せりというべきである。その第一は、ドイツ又は日本を完全に非武裝化いたし、又戰争権を廃棄させまして、永久に独立国家たらしめないという考え方、これが非武裝化とか、非軍事化というアメリカの、又連合国の根本政策の意味するところである。若しもドイツとか、日本とか、そういう国が永久に武力を持たないなれば、これは国家としてはないも同じことでありまするから、永久にドイツ及び日本から来る脅威を防ぐことができることは言うを待たないので、恐らくこれは徹底した安全保障政策でありましよう。でありまするから、日本及びドイツに対してこういうような政策をとるということは、戰争中から戰後にかけてアメリカの識者は異国同音に唱えたところで、いわばマッカーサーの行なつたところもその線に沿うたところにほかならないのであります。これによつて米国の安全保障というものを永久に確立し、日本及びドイツというものを事実上永久に米国の属国乃至植民地たらしめようと考えたものと私は理解いたしておるのであります。その第二は、日本に対して長期の占領軍を置くことであります。駐屯軍を置くことであります。これは戰争中から米国の若干の識者が強調したところであつて、ドイツや日本のようなそういう活力の盛んな民族に対して安全保障の途を講ずる。如何にしても結局安心とは言えない。一番安心なのは、ドイツや日本に五十年乃至六十年間駐屯軍を置くに越したことはない、駐屯軍さえ置けばこれはもう絶対に安心できるのであつて、これに越したる安全保障の途はないということを強調いたしておるのであります。でありまするから、駐屯軍が日本に長期におりまする限りは、日本が米国の意思に反しては何事もできないということを意味するわけでありまするから、米国から見れば極めて安全なわけであります。第三に、米国が考えましたのは、万一日本の本土内に米国の軍隊を置くことができないような場合には、その周辺にあるところの沖繩及び硫黄島、ここに米国の永久的な軍事基地を作つて、そうして永久的に日本を監視するということである。これが第三の政策である。こういう三重の政策を米国は戰争中から戰後にかけて考えておつたのでありまして、それの表現が即ちマッカーサー憲法、講和條約、安全保障條約、行政協定となつて実現したものにほかならないと私は解釈いたしておるのであります。でありますから、本来米国は日本が永久に軍隊を持たぬことを希望し、又、永久に交戰権を放棄することを希つておつたわけでありますが、国際情勢が急転して第二次大戰が終るや否や第三次大戰、米ソ戰争が急迫するような状態になりましたので、その反対に今度は日本に対して武器を持たさなければならんということになつたのである。マツカーサーは、初めには日本に対して絶対的に軍備を撤廃させ、戰争権を放棄させながら、一昨年元旦のメッセージにおきましては日本もセルフ・デイフエンスの権利がある、外国が侵略した場合には当然反発すべきである、排斥すべきであるということを唱え、又昨年一月の元日のメッセージにおきましては、或いは日本は再軍備しなければならないかも知れない、そういう危險が迫りつつあるということを述べたことは御承知の通りでありまして、マツカーサー自身、先の政策を自分の手で以て修正しつつあつたことを物語つているのであります。でありまするから今日の状況から申しますると、米国は日本に対してどうしても再軍備を要請しなければならない、そうしてそのことは講和條約第五條におきまして、日本が国際連合の或る原則に賛成し、且つ個別的及び集団的な安全保障に参加すべきであるということを説いているので、個別的、集団的安全保障に参加すべき以上は、日本が武力を持つことは当然の前提であります。日本が武力を持たずにそんなものに参加することはできないはずであります。又国際連合というものは言うまでもなく世界各国が集団安全保障に貢献することを前提としているものであつて、全く武力を持たん国とか或いは永世中立の国なんというものは頭に置いていないのであります。でありますから、日本が国際連合に参加するということを予想され、否現に参加しないにかかわらず連合国としての義務だけは引受けておりまする今日、どうしても再軍備すべきことは当然の要求として提出されているのであります。又安全保障におきましても、保障條約の前文におきましても、日本がだんだん自衛力を増強するということを謳つてある。日本が自衛力を持たんから止むを得ず、安全保障條約というものは一方的な安全保障條約がで相互的な安全保障條約でないということになつているのであります。 又私はかの終戰前及び終戰後におけるイタリアの状態と比較してみますと極めて明瞭であります。イタリアは講和條約におきましては軍備制限を受けたのでありますが、その陸軍は相当の額、二十五万の常備兵が許されているにかかわらずイタリアはこれが廃棄を希望し、又欧州連合軍の組織を企図しておりますところの米国といたしましては、イタリアに一朝事ある場合にもつともつと多数の軍隊を出させるということを希望しまするために、この軍備制限を撤廃いたしました。イタリアが幾らでも軍隊を持つことができ、否軍隊を持たなくてはいけないというとになりましたことは御承知のことと思うのであります。で、イタリアに対して軍備制限條項を課しました。ために英米は自繩自縛に陷りましてこれを修正することもできず、如何にすべきか数年間迷つたのでありますが、とうとう思い切りまして一昨年この軍備制限を撤廃いたしましたことは御承知の通りであります。 又従つて日本の講和條約におきましても、日本に対して何らの軍備制限條項を課さなかつたのであります。これは眼前に控えておりまするところの米ソ第三次大戰における必要に鑑みまして、早急に日本が再軍備をする必要があることを物語つているのであります。でありまするから日本は国際的にすでに再軍備することをコミットいたしている。又、事実日本が再軍備せずにはおられないような状態に迫つているのでありますが、日本自身の立場から考えましても、先ほど申しましたように、軍備のない国家というものは国家ではないのでありますから、そうして又九千万近い人口と近代設備と三千年の歴史を持つているようなこの日本国家は、永久に国際的に奴隷国、或いは植民地たることを甘んずることはできませんから、そういう見地からいたしまして日が少くとも自衛に必要な程度の軍備を持つということは急務中の急務であると私は考えているのであります。政府も恐らく腹のなかではそう考えているということを私は確信いたしている。にもかかわらず政府が議会においてとやかくこれをごまかしていることは、いろいろ底意があることでありましよう。それは私は想像いたしません。大体見当はついておりまするが、ここでは申上げませんが、とにもかくにも今日の国際情勢、又日本が結んだところの講和條約、安全保障條約及び行政協定、又日本自身の立場から申しまして、少くもこの自衛のための再軍備というものは絶対に必要でありまする以上は、日本といたしましてそれが憲法に触れるとか触れないとか、或いはそれが経済上できるとかできないとかいうような枝葉末節の議論というものはこれをかなぐり捨てて、本当にこの大問題と取組んで考えべきが今日の大切な義務であろうと考えているのであります。いやしくも国家の経綸に任じまするところの議会は、政府の言うところなんかに迷わず、又警察予備隊が戰力であるかどうかなどというそういう三百代言のような法律論に日を送らず、堂々とこの大問題を真劍に研究、又討議さるべきであろうと私は考えます。実際今日日本にとりましてこれほど重大な問題はないと言うてもよろしいくらいで、大いに真劍にこの内容に立入つて論議されるべきであろうと思うのです。單に再軍備、再軍備と申しましても、一体再軍備とは何であるか、再軍備の範囲はどうするか、再軍備の目的はどうするか、いろいろ重大な問題がそのうちに含まれているのでありまして、又そういう問題こそ大いに論議に値するので、再軍備をすべきや否やの問題はすでに既定の問題で私は論議の余地はないと、こう考えている。ただそれをどういうふうにして実現するか、どういう程度に実現するか、どういう目的で実現するかということのみが実際において残された問題であると確信いたしているのである。 次に憲法第七十三條の行政協定が條約であるかどうかという問題について簡單に私の意見を申しまするが、このいわゆるアドミニストレイチヴ・アグリーメントというものが條約であるかどうかというそういうことは、先ほど吉川委員も言われましたように実は形式的なつまらん問題で、大して議論の価値もないと思います。確かにアメリカの意図におきましてアドミニストレイチヴ・アグリーメントというものがいわゆるこのエグゼキウチヴ・アグリーメントの意味であることは毛頭疑を入れません。でありまするから、アメリカといたしまして、はこれはいわゆるトリーテイではあげませんから上院の議に付する必要もなく、必要があればこれを秘密にして一向差支ないということになつている。又その必要があつてこそアドミニストレイチヴ・アグリーメントという形にいたしたわけであります。ところがこれはアメリカにおける慣例であり、而も悪い慣例でありまして、私はアメリカの憲法を制定しました建国の元勳たちの考えとは大いに反するものだと考えております。このアドミニストレイチヴ・アグリーメントの先例が一八一七年のベゴツト・ラツシユ協定に遡り爾来一世紀半にも及ぶような伝統を持つているということ、又それがセオドア・ルーズヴエルト、特にフランクリン・ルーズヴエルトにおいて非常に悪用され濫用されたということ、殊にフランクリン・ルースヴエルトの時代におきましては行政協定で実質上の国策的協定をいたしましたこと、何千何万になるを知らないのであります。行政協定として世間に発表されておりますものは單に九牛の一毛に過ぎないのでありまして、その大部分が秘密に付されているということは、アメリカ一流の外交家であり又上院議員でありまするウイリアム・ランガー氏が、上院において言明いたしたところであります。もとよりルーズヴエルト大統領は或いは国家非常状態とか或いは戰争状態を辞といたしまして、こういうような独裁的なことをやつたんであろうと思うのでありますが、とにもかくにも米国憲法において保障されておりますところの民主主義とか、或いは公開外交とかいうようなことは蹂躪せられてしまつて殆んど重要なすべての協定が行政協定によつたと言うてもよいほど行政協定いわゆるエグゼキウチヴ・アグリーメントを濫用したということはアメリカの識者が指摘し攻撃しているところであります。我々の言論を待たないのであります。でありまするからアメリカにおきましてこういうようなことをやつたからと言つて、何も日本においてそういう先例を持たない日本が真似をする必要はないのみならず、アメリカにおけるように行政府協定の慣例が確立しております国なら私は他の国もそうなろうかと思うのであります。殊に憲法にあれほど議会の批准権、正確に言えば同意権でありましようが、批准権を強く認めておりますところのアメリカの憲法の下においてああいうような協定が行われておるということは確かに民主主義と背反しているものと言わざるを得ない。ヨーロツパ諸国におきましてももとよりそういうような協定はあります。或いは内閣宣言と申しましたり、内閣協定と申しましたり、ありますが、併し條約よりは劣つたもの、又弱い効力のあるものというふうに考えられておりまして、條約と全然同じ価値あるものと考える場合は少いと私は考えております。でありまするから日本についてそういうものが先例となるはずがなく、日本は日本流に解釈すれば結構なのでありまして、今日の憲法において條約というものにはそれほど制限がない。従つて若し他の理由がなければ行政協定というような重大な協定が條約の中に入らんというはずはないのであつてこれを議会の議に付さないならば特別の理由がなければならない。或いは政府は、それは保障條約第三條においてすでに規定された行政協定の施行細目であるからして議会にかける必要もない、或いは又それはその第三條によつてすでに政府に委任されたものであるから、再び議会の議に付する必要がないという理由をもつて答えられておられるようであります。併しながら私はそれは法律的な技術的な逃げ口上として若干の力があるかも知れません、併し実質論といたしましては断じて容認すべからざるものと考えております。これがこの安全保障第三條の施行細目なんかでないということは言うを待たないので、施行細目と言えばたいてい実体的な規定があり、それに対する主に手続的な或いは事務的な細目をきめるというに過ぎないのでありまするが、この安全保障條約第三條の行政協定に至りましては、この條約の内容の殆んど全部が行政協定に讓られておりまして、安全保障條約におきましてはただ單に原則を二、三謳つたに過ぎない、その内容は殆んど全部行政協定に譲られているのでありますから、そうしてこれが共に重大なる実体規定でありまして決して施行細目でありませんから、これを施行細目として議会の議に付さないと申しますならばいかなる條約といえども議会の議に付さずに済むわけであります。そうすれば憲法第七十三條の條約に関する規定のごときは全然空文になるわけでありまして、かくのごときことは許さるべからざることは言うを待たないのであります。又安全保障條約第三條によつて委任されているという、これは確かに一つの法律的な説明にならんことはないだろうと思いまするが、併しながら果して当時議会があれを批准する折に、今度のような行政協定までも作ることがわかつていて政府に委任したのか。当時行政協定の内容はどうなるかということは誰もわからないのでありまして、政府当局といえども十分はわからなかつたに相違ないのであります。政府当局や議員たちが内容を全部知らないようなもの、殆んど知らんようなものをあらかじめ委任するというようなことはこれはできないわけであります。若しそうだとしたならば甚だ迂愚の沙汰であると申さざるを得ないのであります。もとより講和條約や安全保障條約を論議しました折に議会がこのことについて何らかの保留をされておられたならばよかつたろうと思います。又されるのが当然であつたろうかと思います。併しながらそういう保留をせずに、全部無條件で、無保留で議会が批准したのでありまするから議会はこれを委任したのだと政府が答弁いたしましても多少の理由がないことはないかも知れません。併しながら事実委任したということがはつきり書いてあるわけでもなく、又議院で委任したというようなつもりで批准したわけでもなければ、結局それは委任ということにはならないと解釈すべきが当然でありまして、従つてこれを議会の議に付するということは言うを待たないのであります。仮にそれが委任されたといたしましても、そういうような委任された條約とか協定というものも事後において議会の承認を受けるということが、これが民主主義の精神にかなうものだろうと思います。委任されたのであるからその後は議会に何らの承認を求める必要がないというようなことは議会を無視したもの、議会の権限を無視したものと私は解釈せざるを得ないと思うのであります。でありまするからその点におきまして、どの点から考えましても、この行政協定のようなものを議会の議にだに付せずして政府が勝手に決定するとすれば、それこそ独裁的な政府でありまして断じて民主主義下の政府とは申すことはできません。かくのごときことは議会が断々固として責めらるべきところであろうと思うのであります。一体この行政協定がどういうものであるかということは政府当局の説明を聞きましても、又議会の論議を聞きましても私はその真相を明らかにしていないと思います。又政府がどの程度まで行政協定のテキストを詳解されているかどうかについても私は疑いを持つておるものであります。でありまするからこの行政協定というものにつきましては、その真相についてまじめなる学問的研究を発表するということが目下の急務であると考えておりまするが、ここでその一、二の点を簡單に申上げまするならばこの行政協定というものは安全保障條約と一体をなすものであり、又遡りましては講和條約と一方一体をなすもしであるということは、これは言うを待たないアメリカの考え方であります。無論日本側の考え方は別でありますが、アメリカ側の考え方といたしましては、講和條約、安全保障條約、行政協定というものは一体をなすものでありまして、これは分つことができない。否、今日のアメリカの直接の必要から申しまするならば、講和條約そのものよりも安全保障條約及び行政協定のほうが大切であるとこういうふうに考えているということは言うを待たないのであります。それが証拠には日本に対して講和條約を締結するということがだんだん遅れました主なる理由は、日本に対してどういう條件を提出するかということについて、米国首脳部間に意見がきまらなかつたからであります。一体この第二次大戰というものは、我々の考えにおきましては、ドイツにおきましては一九四五年の八月二日ポツダム会議の終了を以て完全に終り、日本につきましては九月の二日ミズーリ艦上降伏文書の調印を以て完全に終つたものと解釈いたすのでありまして、その後は実質的に第二次大戰ではありません。その後引続いていわば第三次大戰が前局に入つた、いわゆる冷い戰争、コールド・ウオーという名前を以て第三次大戰の前局に入つたのでありまして、実質的に第二次大戰ではありません。でありまするから若しも連合国、殊に米国が日本に対して講和條約を出そうと思えば、その日にも出せたはずである。ドイツにつきましてはそれを占領しました国が四カ国もあり、又事情が複雑いたしておりまするから日本ほど簡單には行かないかも知れませんが、日本を占領しております者は殆んどもつぱら米国であり、又日本について発言権を持つております者は殆んどもつぱら米国でありまするから、日本に対して講和條約を提出しようと思えば、その日のうちにもできたはずであります。にもかかわらず爾来六年間講和條約が調印されなかつたという主なる理由は、それが日本に対してどういう條件を提出するかということについて、アメリカの主なる首脳の間に意見が合致しなかつたからであります。主な首脳と申しまするのは第一は軍部であります。いわゆるペンタゴンと称せられております。第二は大統領及び国務省であります。ホワイトハウスと普通言われております。第三はスキヤツプのマツカーサー元帥であります。この三方三ところの意見が扞格いたしておりまして、日本に対してどういう講和條件を出すかということについて遂に一致し得なかつたのであります。如何なる点で意見が一致し得なかつたかというと、その一番主なる点は日本全土をアメリカの軍事基地とすべきや否やという点であつたのであります。軍部は第三次大戰が緊迫して来ました情勢を見、又原子爆彈戰争の実情に鑑みまして、沖繩だけでは到底極東において戰いをすることはできない。どうしても日本全土をアメリカの軍事基地、これはアメリカの第一流の軍事評論家であるハンソン・ボールドウインが中間基地(インターミジアト・ベーシス)という言葉で呼んでおりますが、日本をいわゆる中間基地にしなければ戰争はできない、原子爆彈戰争におきましては琉球のような狹いところでは、敵の原子爆彈の襲撃を一回か二回受ければこれが爆破されてしまいまして、たちまち用をなさない、どうしても日本本土のようにたくさんの陸海空の基地ができ得て、一つの基地が爆破されればその次の基地により、その基地が爆破されれば更に他の基地によるというふうに、転々として動かなければ戰争を続けることはできないということは言うを待たないので、そこで沖繩なんということでは事足りない、日本全土をアメリカの軍事基地にするよりほか途はないということを最初から考えてもおり、又主張して来たのであります。ところが国務省側の考え方といたしましては、それに到底賛成することはできない。国務省側は、米ソ戰争のために日本全土をアメリカの基地にするのだなんというようなことをあからさまに世界に声明することはできないことは言うを待たないのであつて、若し日本に軍事基地を求めるにしても、それは世界の平和の維持のために、或いは世界的な安全保障のために日本において若干の軍事基地を持つことが必要であるというふうにしか説明はできないわけである。してみれば日本全土をアメリカの軍事基地にするなんというようなことは主張できないわけであつて、若干の基地というものを日本内地に持つということは、これは説明できる。併しそれ以上のことはできないという判断である。およそ外交的常識のある者なら当然そうでなければならないわけであります。ところが現地のマツカーサー元帥に至りましては、御承知のようにその憲法におきまして全然日本には軍備を持たさない、戰争というものを放棄させるということを規定させました手前、早急に日本全土を軍事基地にし、或いは又日本に軍隊を持たすとか、或いはアメリカの軍隊を日本に長いこと駐屯させるとかいうことを声明することはできない。そこでマツカーサーといたしましては、数年間この問題については定見を持たなかつたと私は想像いたしておるのであります。かくのごとく日本に関してアメリカの三首脳部の意見が一致しませんでしたから、従つて日本に対して講和條約を提出することのできないのは言うを待たないのであります。 それでのびのびになつておつたのでありますが、それが促進されましたのは、朝鮮戰争の勃発及びこれに伴うアメリカの体験であつたのであります。朝鮮戰争の体験によりまして米国はどうしても極東においてソ連と対抗しまするためには、中国が中共の支配の下に帰しました今日、何としても日本全土を基地にするほか途はないということが証明せられ、大統領も又マツカーサー元帥もそれに賛成するほかはなくなつたのであります。従つて朝鮮戰争勃発後数カ月ならずして、この三者の意見というものは自然に一致してしまつたわけであります。即ち大体におきましては軍部の考え通りに、そのラインに沿うて一致してしまつたのであります。でありまするからその後は日本に対して講和條約を出すということは極めて簡單なことであり、ただそれは連合国が五十カ国もありまするから、それらの国の面目を立てることとか、或いは又いかに無條件降伏をした日本といえども、今後日本と共に極東において事に当らなければならん関係上、余りに面目をつぶすことは考えものであるというので、日本の面目をもできるだけ立てようとしたためにだんだん遅れたのでありまするが、併しながら五十余カ国の連合国といえども、ソ連及びその衛星国を除けましたほかのすべては、英米の同盟国乃至属国でありまして、一つも英米に抵抗し得る国はないのであります。でありまするから連合国がいかに多しといえども、アメリカの意思をはばみ得るような国は一つもないのであつて、それが一致に到達するということは当然至極のことであるわけであります。 そこでアメリカは一昨年の暮から対日講和條約を急ぐようになりました。その目的は何としても日本全土をアメリカの軍事基地にし、又今後無期限にアメリカの駐屯軍を置くということを日本をして認めさせなくちやならんということがあつたからであります。無論米国といたしましては、そのことが急務であつて、そのために先ず講和條約を結び、講和條約と共に安全保障條約を結び、又講和條約発効の前に行政協定を結ぶという方針を確立したものと心得ているのであります。本来ならば講和條約というものと安全保障條約、行政協定というものは別個のものでなければならないのであります。日本の立場から申しますならばどうしてもそうなくちやならんのであります。講和條約は申すまでもなく第二次大戰の結果、日本が戰敗を喫しましたために連合国との間に結ばざるを得ない條約でありまして、その相手は五十余カ国の連合国であります。ところが安全保障條約と行政協定は、これはアメリカとの間の二カ国條約でありまして決して連合国との間の條約ではありません。でありまするから本来この二つというものは全然別個のものでありまして、講和條約は日本が戰敗を喫しました結果、今日のいわゆる戰時占領下においてこれを結ぶということも止むを得ないかもしれません。併しながら安全保障條約や行政協定に至りましては、本来独立国と独立国との対等の條約であるべきでありまして、決して戰時占領下において主権を持たず、意思表示の自由を持たない国家との間に締結されるべきものとは私は考え得ないのであります。本当に日本の自主独立、日本国民の人格及び尊厳というものを顧慮いたしますならば、何といたしましても講和條約が発効して日本が一応その自主独立を回復した後においてさるべきものであり、又これをなす余裕が十分あつたと私は考えるのであります。講和條約が発効いたしましても三カ月間は連合国の軍隊は日本に駐屯することができるので、従つてその間に安全保障條約なり行政協定を談判させるということはそうむずかしくない。仮に九十日間にそれができなければその駐屯期間を延ばして、そうして條約の談判を進めればよろしいのでありまして、何も日本が主権を回復しない間に、日本が事実上アメリカの戰時植民地である間にそれを差しつける必要はないと思います。 又この行政協定というものは日本にとりましては実に運命の分れ目とも言うべき、本当に日本が独立国であるかどうかということを決定する重大至極の條約でありまするから、これに対して期限を附せなくてもいいということは考え得られないことなんであります。およそ大国と小国との間の国際條約において期限の定めのない国際條約ほど危険なものはありません。そういう條約は、必然永久條約に変つてしまうのであります。でありまするから、安全保障條約とか行政協定のような、こういう重大なる條約というものは何としてもその期限を成るべく短期にしなくちやならない。即ちその期限を一年といたしまして、そうして必要があれば随時これを更新して行くということにすれば事足りるわけであつて、初めから無期限にするという必要は全然ないわけであります。然るに安全保障條約、行政協定はともに期限の定めもない、いわゆる無期限の條約になつているのでありまするから、これは極めて重大なる過失であつたと私は考えているのであります。 曾つて中国が欧米列国との間に不平等條約なるものを締結して而も殆んど一世紀に亘つていろいろの屈辱を体験いたしましたというのは、その條約に期限がなかつたから、期限の定めがありましたが非常に不明確になつておつたからであります。又幕末において日本が諸外国と結びました不平等條約におきまして治外法権その他の特権を外国に認めましたものが滔々半世紀に亘つて過ぎたというのは、期限の定めが明確でなかつたからでありました。然るに領事裁判條約、又従来の不平等條約なんかとは比較にならんような重大な今度の條約を、期限なしに締結したなんということは、政府の重大なる私は失態であると考えているものなんであります。かくのごとく日本から見れば全然別個のものをサンフランシスコにおいて同時に調印してしまい、又それの委任であるとか、そのうちに謳つてあるとか何とかいうことで、行政協定を議会の議にさえ付せずしてこれを決定しようとしてしまつている。国民といたしましては深甚の憂慮なきを得ないのである。この行政協定というものが前代未聞の條約であるということは、私は自分の研究上断言して憚らない。多くの点において前代未聞でありますが、その第一は、日本全土の不定数の陸海空軍の基地を外国に提供し、又不定数の外国軍隊の駐屯を無期限に認めているという点であります。第二次世界大戰前におきましてはいわゆる半植民地とか、或いは植民地とか呼ばれました国のみにおいて外国軍隊が平時駐屯するなんという現象があり得たのであります。自主独立の国家と言われるような国で未だ曾つて長期に外国軍隊を駐屯せしめたような事例はございません。東洋におきましては中国とかいわゆる満州国でありますとか、或いは又アメリカにおきましては、いわゆるカリビアン諸国でありますとか、そういうような事実上独立国でない国におきましては、外国の軍隊が駐屯したという事例はあるのであります。併しながらその軍隊はさほどたくさんではなく、その時期も必ずしも中国を除いては長くなかつたのであります。いわんやその国の殆んど全部の重要な陸海空軍基地を外国に貸すというがごときは、第二次大戰前においては曾つてなかつたのであります。第二次大戰後におきましてその事例が一、二出て来たのである。その第一はフイリピンであります。フイリピンは一九四六年の七月四日に独立を認められて、いわゆるフイリピン共和国になつたのではありますが、その翌年の三月に米国との間に結びましたところの軍事基地の使用に関する協定において、フイリピンにおける殆んど重要なすべての陸海空軍の基地をアメリカに提供し、その陸海空軍の名前とかいうものがその協定の附属別表にはつきり書いてある。そのうち二種類ありましてその一は現にアメリカ軍が使用しているもの、その二は将来はアメリカ軍が使用し得るかも知れないもの、そういうようにはつきり書いてある。必ずしも厳格な意味のいわゆる基地には限りません、とにかくはつきりその中に書いてあります。そうしてその使用期限が九十九カ年という殆んど永久の期間となつている、又インドシナのヴイエトナム国、バオダイ帝を戴いているヴイエトナム国は、フランスとの協定においてその多数の軍事基地というものをフランスに提供しております、併しながらそのヴイエトナム国はフランス連合(ユニオン・フランセーズ)のメンバーとして未だフランスの一部でありますから、ヴイエトナム国がフランスに軍事基地を提供するということは止むを得ないのでありますが、とにかく形式上独立国と言われております国で、全土を外国の軍事基地に提供した国というのはフイリピン以外にないのであります。第二次大戰以後いわゆる北大西洋條約に伴いまして、それらの同盟国が若干アメリカの空軍その他の軍隊の駐屯を認めるということが行われております。これは若干第二次大戰中からも行われたのでありますが、併しながらこれは日本の場合とはまるで違つているのでありまして、北大西洋條約その他の同盟條約に基き、又共同の作戰計画というものによりまして、又戰時というようなそういう場合を予想している。そうして米国軍隊というものの駐屯、殊に空軍の駐屯というものを認めるものでありまして、決して日本なんかのように、日本の国土全部を米国の基地に提供したなんかとは同一に談ずることのできないものなんであります。この点において行政協定というものは従来の例にないのである。 又その次は、この行政協定が認めましたところの米国に対する治外法権の特権、これは刑事裁判権その他いろいろありますが、主なものは刑事裁判権でありますが、その治外法権の範囲に至りましてはこれ又前代未聞の広さと申してよろしいのである。成るほど第二次大戰中におきましては実戰下でありまするから、これに類するような例も一つばかりあつたようであります。併しながら、いやしくも平時におきましては、今度行政協定で認めましたようなああいう広汎な刑事裁判管轄権を認めた例は私はないと確信いたしておるのであります。この行政協定におきましては、御承知のごとく米国の軍人、軍属及び家族というものは、基地の内外たるを問わず、公務中と否とを論ぜず、すべての場合米国の裁判管轄権の下に立つということになつておるのでありまして、実に広汎なる治外法権の特権なのであります。こういう特権は、曾つていわゆる治外法権、即ち正確に申しますれば、領事裁判権制度の下においてすら認められなかつたところと言うてよろしいのでありますが、領事裁判制度は、日本が御承知の通り曾つて半世紀に亘つて苦しい体験を嘗めたところでありますが、その時の制度は御承知のごとくただ居留地制度であつて、單なる居留地内における外国人のみに適用があるのであつて、居留地外においては全く適用がないのであります。又その居留地というのは、その人数は限られておるのであつて、そう何万、何十万に亘るものではないのであります。ところが、今度は日本全土至る所に治外法権の適用があり又軍人、軍属、家族というふうに限定はされておりますが、その数は何万、何十万に及ぶかわかりません。こういうような広汎な治外法権を認めた例というものはないのでありまして、確かにこれこそ、国家内におけるところの国家、インペリアム・イン・インペリオ、国家内の国家であるということに私は確信いたしておるものであります。主な点だけを申しましても、今度の行政協定というものは決して歴史上前例のあるようなものではありません。こういうような條約というものを少くとも平時状態におる日本に押し付けるということは、決してアメリカとしても私は当を得たところではなかろうと考えておるのでありまして、いわんや日本のような、何と申しましても、その人口の点から言うても、歴史の点から言うても、設備の点から言いましても、何と言つても世界の大国民であるという実質を持つておる国民の受くべきふさわしい地位とは断じ得ないのであります。こういうような我々の実質的な地位であります、決して傲慢なことを申すのではありません。その実質的な地位、又実質上の国際的な地位にふさわしくないような行政協定というものを無期限に締結した政府の責任というものは極めて重大であると私は重ねてここで断言いたしたいのであります。一応私の説明はこれを以て終りまして、又御質問に応じまして、いろいろ申上げたいと思います。
○委員長(和田博雄君) 只今の参考人の意見に対して御質疑のあるかたは……。
○木村禧八郎君 いろいろ参考になる御意見を伺いまして甚だ有難うございました。ただ一つお伺いしたいと思うのですが、それは結論として神川先生は、近代国家として武力を持たない独立国家というものはない、軍備を持たない近代国家はない、こういう御意見であり、結局日本としても独立後においては軍備を持つことは当然であるというふうに言われたのでありますが、その先生の論旨はよくわかりました。併しながら実際問題として、今我が国で問題になつておる再軍備論には二つあると思う。その一つは神川先生の言われたような、独立国家として軍備を持たなければ独立国家としての体をなさないという意見と、もう一つは、これも神川先生がさつき言われたような、アメリカの対ソ作戰の一環としての日本の再軍備、いわゆる地上軍を日本が提供してアメリカは空軍とか、或いは海軍等を持つて、それで日本の地上軍、陸軍、こういうものを一体となして対ソ作戰に備える、こういう意味での日本の人的資源を提供するという意味での再軍備と二つあると思う。神川先生の再軍備論は、一応日本が実質的に独立国家となるためには再軍備をしなければならんという御意見はわかるのですが、実際問題として、日本がこれから仮に再軍備するという場合、それは前者も即ちアメリカの対ソ作戰の一環としての再軍備に実質的にはなつてしまうのではないか。それでこれはダレス氏がU・Sニユーズ・アンド・ワールド・リポートのフロムさんとインターヴユーしまして、その会見記が、これは昨年の四月の十九日の会見でありますが、その時にダレスさんがこういうふうに言つておるのであります。例えば「将来の或る時期に、日本が安全保障の役割を果すために或る程度の陸軍を具備するとしても、その安全を保障する海空軍のごとき他の要素は米国によつて保有されるということである。そしてかかる日本の陸軍がたとえ隣国を脅かそうとしても日本は必要な海空軍を持つてないからその島から抜け出て上陸することはできまいというごときことである。」こういう構想に基いて日本の再軍備は要請された。それが行政協定というものに結実をした、こう思われるのです。そうしますと、実際問題として日本が現実において今再軍備を仮にやつたとしたら、それは結果において結局神川先生の最も好まれないところの、アメリカのための対ソ防衛の一環としての、即ち日本の青年の生命をそこに提供する、人的資源として提供するという形になるのではないかという、そういう点が一点と、それからもう一つは、今後日本の安全を保障するという場合に、実際問題としてこれも集団安全保障の形になるとすれば、海空軍というものはアメリカが握れば、結局日本自身が再軍備をやつても独立国家としての再軍備の実力は備え得ないのではないか。やはり海空軍をアメリカに握られておれば、仮に日本が再軍備をしてもやはり隷属的な地位は拂拭できないのではないか。そこで結局これは今後新らしい事態だと思うのですが、その再軍備をここで日本がしないということによつて日本の安全を保障し得る途というものもやはり一つ考えなければならない。我々はそう思つておる。武力ばかりが日本の安全を保障する途ではない。神川先生のお話では、成るほど武力のない独立国家というものはない。これはこれまでの時代はそうであつたと思う。従つて兵器その他或いは原子爆弾なんか、非常な高度の兵器が発見され、そうして日本は米ソの間に挾つて非常に複雑な状態になつておる時に、従来のようないわゆる軍備を持たなければ独立国家と言えないというような考え方だけで以て日本の安全を保障し、日本の独立を維持することができるかどうか、この点を御教示を願いたいと思います。
○参考人(神川彦松君) 今の木村さんの御質問に対してお答えいたします。第一の点は、若し日本が今日再軍備すれば、それはただ自衛のためであるにしても、同時に米国の対ソ戰争の一部として利用されることに終つてしまうのではないかという点であると思います。この点は確かに一つ問題となり得る点でありまするが、私が先ほど申しましたように、本質的には日本がどうしても自主独立国家となるためには相当の自衛のための軍備を持つことは絶対に必要であつて、これがない限りは国家たる実質を備えないという点に重きを置くものでありまして、その点から自衛の軍隊というものを一日も早く持たなくちやならん、こう考えるわけであります。それが同時に又対ソ戰争の場合にアメリカの利用するところとなり得るのであります。こういうことも確かに一つのプロバビリティといたしましては私はあり得べきことと思います。それは今日の世界におきましては、実際において本当に中止ということはあり得ません。結局世界は米ソの二つの対立、詳しく言えば英米対ソ、こう言うのが正しいと思いますが、米英対ソの対立になつております今日において、如何なる国も本当において中立の立場にはあり得ません。中立を守りまするために必要な前提は、これはよく普通の人がお忘れになる点でありますが、その国自身が、一方は米国の勢力、他方はソ連の勢力を自分の国内から全部排斥し得る実力を持つているときに限るのであります。そうでない限り中立なんというのは問題となり得るはずはありません。ところが日本が米国の勢力を日本国内から駆逐するとか、或いはソ連の勢力を日本に全然入れないというような、そういう実力は持たないのでありまして、殊に今日は国際上日本国民自身は無力でありますから、全然無力でありまするから、そんな力は持つておりません。従つて中立というものは持ち得ませんから、いよいよ米ソの本格的な大戰争が起りました場合に、恐らく日本もその戰争に巻き込まれるでありましよう。又事実日本全土をアメリカの基地に提供しております限り、日本がソ連の攻撃を受けることは当然のことであります。日本がソ連の攻撃の目標になるということは当然考えなければならない点であると思うのであります。でありまするから、そういう際に日本の軍隊が或る程度までアメリカの役にも立ちまするが、併しながら同時にそれは日本人自身のセルフ・デフエンスのためであり、サーヴアイヴアルのためでありまして、断じてアメリカ軍にのみ我々の安全を任せるわけには行きません。アメリカは世界的戰略の見地から言いましていつ何どき日本を放棄するかも知れません。世界的見地から言いますれば、日本が決定的な職場でなく、西ヨーロッパが第一義的な職場でありまするから、日本を放棄することは当然だろうと思う。そういう場合に一体何人に日本は防衛を頼もうとするのか。およそみずから助くることなくして神は助くるようなことはありません。何としても日本というものは日本人が助けなければならん。而うして日本は八千万も九千万もあるのでありまするから、日本は平然としてソ連のするままに任しておく必要はないのであつて、いやしくも日本の生命と独立を守るためには奮然立つべきが当然であろうと思うのであります。でありますから、間接にアメリカのためになろうとなるまいと、それは日本人の独立と自由と生存のために私は至極必要だと考えております。 又第二に、今日の世界はだんだん変つておるから、従前のようなそんな因襲的な考えではもう時代遅れだ、集団安全保障なるものがあるから、それに任しておけば安全保障も結構ではないかと言いますが、それは理想的な考えで、現在の国際的の政治、現実の世界におきましては集団安全保障というものは無論米国というものを旗頭といたしましてそうして世界全体の協力から成るものであつて、決してそういう全然武力を持たない集団でないことは申すまでもないのであります。又米国が巨大なる軍隊を持ちますならば、およそそういう大きな権力を持つものというものは、これを濫用する危険に陥るというのが人間の弱点なんでありますから、古来権力を持つてこれを濫用しないものはありません。ですからそういう偉大なる軍備を持ちまする大国が現われました場合には、小国は必ずこれに対して或る程度の防備力を持つにあらずんば、その国が属国にあらずんば奴隷国に陥るということは当然なのであります。如何に原子爆弾が発明されましても、あらゆる戰争に原子爆弾が利用されるわけではございません。こういうような非人道的な武器、こういうような残虐的な武器というものは、そうたびたび使うべきものではありません。普通の戰争においては必ず伝統的な因襲的なものによつて戰われることは、朝鮮戰争がすでにこれを証明しております。でありまするから、丁度飛行機が発明されたから誰でも飛行機で旅行するかと言えば、そんなものではありません。乗り物はいろいろ必要なのでありますが、決して成層圈を走る航空機にのみ乗るものではありません。時代が変りましても、今日のような戰争というものが続くということは言うまでもないのであります。又集団安全保障というようなものに任しておいてそうしてその国が安全を守つておられると考えるのは、即ち日本が永久に米国の植民地或いは属国であるということを前提としてのみ言えることでありまして、それを離れては言うことはできません。でありまするから、如何に集団安全保障が確立いたしましても、それはなかなか簡單には確立いたしませんが、確立いたしたにしましても、とにかく如何なる国民もその国相応の自衛力を持つ、その国相応の自衛力を持つことは当然至極のことでありまして、それがなければその国の自由も独立も單なる空言に過ぎないということは、私は間違いないと考えております。木村さんに対してのお答えといたします。
○中田吉雄君 神川先生から、長い間の国際政治史並びに政治学の体験から、日本の独立と安全保障について述べられたのですが、神川先生の御見解を拝聽いたしますと、いわゆる日本の独立と安全のために武裝平和ということを主張されたようですが、曾つて第一次、第二次大戰におきまして武裝平和が唱えられましたが、それは結局或る戰争を意図している国が準備ができるまでの一つのカムフラージユしているような恰好に使われまして、それが結局戰争になつた。第一次大戰、第二次大戰というものが力による均衡を唱えながら、結局破局的な第一次大戰、第二次大戰に至つたが、今言われているようなやはり武力による独立と安全保障を唱えられるような立場というものは、やはり第三次世界大戰への途を歩ませるものではないかという点を、国際政治史の観点から一つお承わりしたいと思うわけであります。 次に木村委員の質問に対してもお答えになりましたが、それと関連するわけでありますが、日本の現在置かれているところの国際的な観点、特にアメリカが一九四七年からとつていますところのコンテインメント・ポリシイ、ソヴイエト封じ込み政策、ソヴイエトをはつきり力を以て片を付けるという態勢をとつております。そうしてその第一番目が一九四七年にギリシアとトルコの援助をやり、そうして一九四九年四月四日に北大西洋同盟條約を結び、そうして朝鮮事変をきつかけにいたしまして、アジアにおきまして北大西洋同盟條約と同じものを結びましたのが講和條約であり、安全保障條約であり、行政協定であるわけであります。そうしてそのアメリカの極東政策というものはアラスカからアリユーシヤン、日本、沖繩、台湾、フイリピンと大きく中ソ両国を包囲するという戰略態勢であります。こういう態勢の中に置かれて、日本の主体性のない立場において再軍備することが、結局アメリカの戰略態勢の要請に応えることに間接的になりまして、これこそ、こういう立場こそ私は日本の最大の不安全保障である、こういう立場をとるわけでありますが、特に例えばマイヤーという第二次大戰におきまして日本に敵前上陸をいたしましたアメリカの人ですが、片目を負傷いたしまして帰つてスタツセンに拾われて国際連合に行つて、今力による世界の平和の問題と取つ組んでいる。その本によりますと、この米ソ両国がとつている力による均衡という政策をとるなら、必ず第三次世界大戰は不可避である、こういう立場をとつてアメリカは自由主義ということを言つているが、それは国内消費用の商品であつて、輸出用の商品ではない、もはやアメリカにも自由ということはない、そうして第三次大戰が起るかも知れないという責任をソヴイエトだけに嫁するわけに行かん、アメリカにもその要因がある。そういうようなことを言つております際に、如何に意図が民族の独立と安全を希いましようとも、三つの條約を結んで、屈辱的な史上空前の條約を結ばねばならないような日本として、如何に神川先生の善意によつても、結局アメリカの戰略態勢に応えて、アメリカ本土とハワイ、フイリピンを頂点にして、そうして日本が三角形の戰略態勢の頂点として最も危險なことになつて、むしろ再軍備しないよりかも遥かに私は危險ではないか、こういうふうに考えるわけでありますが、この点について神川先生は依然として武裝平和こそが安全の途であり、そうしてそういうように日本が再軍備することが、如何に日本の善意にもかかわりませず、アメリカの一方的な意思によつて日本が最も危險な戰略基地として使われることはないかどうかという点。 更に私から見ますると、第三点は、ドイツは陸続きでありまして、日本よりかも遥かに危險であります。そして戰略的には、先にも申されましたように、第三次世界大戰の主戰場はヨーロツパであろう、こういうふうに言われているにもかかわりませず、なかなかドイツも再軍備しようとしない。この二月八日のドイツ連邦議会におきまして二百六対百五十六で以て再軍備案を可決いたしましたが、それには五つの條項が付いていて、この五つの條項が満たされた場合においてのみ再軍備する、そういうふうに言つております。そうしてその條件は英米仏の三国をして納得させることができん、殆んど不可能な條件を付けてそういうふうに言つている点は、私は第一次、第二次大戰の体験からして、再軍備こそドイツが主戰場になる悲劇を三たび体験するために、民族の二回の体験からしてああいうふうになつていると思うわけでありますが、そういう点についてどういうふうにお考えでありますか。 それから、例えば、中立を守るためには、ソヴイエトの力、アメリカの力を排除する力がなくてはできないというふうに申されましたが、それは武力のみでありますか。例えばスエーデンなんかはああいうようなスカンジナビア半島の要衝にありまして、非常に重要な所でありますが、北大西洋同盟條約にも入らずに申立を守つているような状態でありますが、ああいう国の状態をどういうふうに理解されるでありましようか。そういう点を一つお伺いいたしたいと思う次第であります。
○参考人(神川彦松君) 中田さんにお答えいたします。第一の問題は私のような自衛のための軍備を持つということにすれば、それは武裝平和になり、従つて又それが戰争を結果しやしないかと、こういうお話でありますが、私は第三次世界大戰になりやしないかというのではなくして、すでに第三次世界大戰になつておるという議論なのでありまして、第二次大戰は先ほど申しましたように、一九四五年の八、九月に終つておるのでありまして、それから後は第三次大戰なのであります。ただ残つておりますのは、本格的の、最後の原子爆弾戰争、それがいつ起るかということのみが残つておるのでありましてすでに今は第三次大戰の真只中であります。でありますから、将来戰争になるかどうかというようなことは、現実問題としては問題になりません。併しながら、この戰争政策というものは、米国の対外政策とソ連の対外政策との結果として起ることでございまして、遺憾ながら日本はこれを動かす力はありません。従つて日本といたしましては、その客観情勢においてどうするかということを考える以外には途はないと言わざるを得ないのであります。戰争政策を排除する点において私は人後に落ちません。併しながら実際今日戰争をやる力があり、又現に戰争をやろうという政策をとつておるのは米ソ二大国でありましてそれ以外の国ではないと思います。それ以外の国は何とかして平和を守りたいと思うのでありますが、世界の大勢上如何ともし得ずに巻き込まれてしまうというのが実情であると思うのであります。でありまするから、日本が軍備をするとしないと、必らず第三次大戰は来るのでありまして、それには一向関係はないと私は考えておるのであります。その第三次大戰が来た際に日本が持たなければ私は日本人というものは自存自衛ができない。こう考えておるのであります。 第二の点は、北大西洋條約というものが向うにはできておる、そうして日本の講和條約、安全保障條約、又行政協定はそれに対応するものであるというふうにお述べになりましたが、それは事実上間違いと思います。北大西洋條約に対抗するようなものはまだ東亜においてはできていないのでありまして、ただそれの一部分が昨年八月の末の米比相互援助條約、或いは相互安全保障條約及び九月のオーストラリア或いはニユージーランドと米国との相互安全保障條約というものとなつて現われておるだけでありまして、今後の問題であります。でありまするから、講和條約、安全保障條約及び行政協定というものはそれと別個のものでありまして、米国の観点からすれば、恐らくそれへの一つの過渡的な手段でありましよう。併しながら今日なお太平洋における集団的の安全機構というものはできておりません。でありますから、この点においてたとえそういう集団安全保障ができましても、やはり又集団安全保障ができるために日本は再軍備という義務を課せられておるのであります。 又第三に、ドイツはああいうふうな危險な地位にある国にかかわらず、再軍備をなかなか簡單にしないのに、どうして日本は再軍備をする必要があるかというようなお話でありますが、ドイツは不幸にして日本とは違います。国が真つ二つに分かれまして一つは英米、一つはソ連というものに占領されまして、そうしてドイツ人自身が対立させられておるのであります。でありますから、若しあそこにおいて戰争が起りますならば、先ずドイツ人がお互いに戰争し合い殺し合うということになる。日本の場合とは非常に事情が違つておるのであります。又ドイツにおきましても必らずしも再軍備しないというのではない。ただ再軍備の重点がドイツの品位と尊嚴に副わないという点が主なのでありまして、社会民主党といえども絶対に再軍備をやらないというのではありません。併しながら連合国がドイツに強制しようとする條件が甚だ不平等であつて、ドイツ民族としてはそれは受諾できないという点に重点が置かれておるのであります。にもかかわらず、アデナウアー内閣が再軍備の方針をとり、そうしてその線に沿うてやつておりますることは、只今お話になつた通りであります。 最後の、スエーデンのような国は中立が守れるが、日本は守れないかという話でありますが、スエーデンは若しも戰争が行われますならば、必ずそれに巻き込まれる虞れがあります。中立が寄れるかどうかということは、果して戰争中中立を守り切り得るかどうかということが問題なんでありまして、従来国際政治上におきまして、そういうような幸運に恵まれた国はただスイス連邦一つあるのみであつて、その他の国は長年永世中立の制度を持つておりながら、皆戰時中には蹂躪されたのであります。でありまするから、スエーデンは今日中立政策はとつておりませんが、とにかく仮に中立の政策をとつたといたしましても、中立の制度をみずからに課したといたしましても、戰争になれば必ず蹂躪される虞れがある。こういうことは私は断言してよろしかろうと思います。ただとにかく今日のような世界大の戰争においてその敵国の間に挾まれておる国とか、その強大なる国に境しておりまする国がそれに巻き込まれないということは、奇蹟的にのみ起り得ることだと私は考えております。とにもかくにも、日本が若し再軍備をしなければ、永久に日本は外国の軍隊の占領を受ける以外には途はありません。又永久に日本の基地というものを外国に提供するほか途はありません。それは強大国の植民地であり、強大国の属国であり、自主独立の国家ではありません。
○委員長(和田博雄君) ちよつと御注意申上げますが、本日は憲法第九條の中のいわゆる戰力というものの意義と行政協定は一体條約であるかどうか、憲法との関係が主題でありまして、再軍備論は少し逸脱しておると私は思いますので、再軍備論に関する御質問はこの辺で一つ打切つてもらいたいと思います。
○岩間正男君 行政協定につきましては、先ほどこの性格について徹底的に解剖されておるのでありますが、この中で結局これはアメリカのアジア戰略の立場から、どうしても日本をその環として、これは軍事基地として再編成しなければならないと、こういう必要に迫られて行政協定が作られていたことは、先ほどの先生の御説明によつても非常に明確にこれはわかつたことだと思います。その中で我々が特に心配しておるのは、第二十四條の今後の緊急事態並びに戰争のときの共同措者の問題でありますが、その中で今後の緊急事態が起きたとき、そう認定された場合においては、日本国政府と合衆国政府が協議によつてこれを決定する、こういうような問題につきまして海外派遣の問題であるとか、或いは緊急事態の認定の問題であるとか、更に共同措置に関連しまして当然起つて来るところの統帥権の問題でございます。こういうものは全部只今現在政府はこれを今後の協定に委ねるんだこういうことを言つておるのでありますけれども、先ほどの先生の御説明の趣旨によりませば、当然そういうようなことは、これは事実あり得ないのじやないか、全部これはアメリカ側の意思によつて決定される事態が起るのじやないか、事実又これを法的に見ても、アメリカの大統領の権限として行政協定を結ぶ、この権限として與えられておるものは、一切この権限によるところの権利は主張できても義務は負わない、こういうような慣習になつておる、従つてこの行政協定を大統領協定というような名前で呼ばれておるということを聞いておるのであります。又これと関連しまして、最近アメリカ上院におきましてこの問題が論議されておりまして、コナリー外交委員長もこれにつきましては、講和條約、安保條約とも米国には何らの義務を課すものではない、米国は米国自身の利害に合致するものと認めなければ日本に駐留軍を置く必要はない、こういこようなことを国会で力説しておるのでございます。こういうような観点かしましてアメリカの一つのそういうような慣習としまして、大統領の権限乃至は殊に統帥権の問題なんかにつきまして日本の将来共同措置に対する権限というものは殆んどこれは主張することができない、こういう事態が性格としてはつきり浮び出て来ておると思うのでありますが、私はこういう点につきまして、先ほどの御説明と関連しまして、第二十四條の緊急事態の処置につきまして先生の御見解を伺いたいと思うのであります。
○参考人(神川彦松君) 岩間さんの御質問に簡單にお答えいたします。第二十四條の緊急措置の防衛の点でありまするが、この條文に敵対行為が起つた場合とこう書いてあるのでありまして、その敵対行為の原文は御承知のようにホステイリテイという文字が使つてあります。このホステイリティという言葉は実質的には戰闘行為という意味でありまして普通は国際戰争に用いられた言葉でありまするが、併しながら国内戰争であろうが何であろうが、とにかく戰闘行為であるという場合にはホステイリテイという言葉を用いてよろしいのであります。でありますから、行政協定におけるホステリテイという言葉が、必ずしも国際戰争における敵対行為とは限らんと私は考えております。でありまするから、国際的な侵略とか、或いは侵略の行為があつた場合、又国内において内乱その他大きな騒擾が起つて戰闘行為が起るような危險がある場合にはいつでも干渉することができるというふうに解釈できると思います。又そういう場合には、アメリカ軍が発動するのは安全保障條約第一條の目的に副いというふうに書いてあるのでありまして單に国際戰争の場合でなく、安全保障第一條の目的というのは三つばかり挙げておりまして、御承知のごとく相当広いのでありまするが、そういうようないずれの場合にもアメリカが軍隊を発動させることができると、こういうことに解釈できると思うのであります。この本條におきまして日本が負うておりまするのは、ただ協議することにするということを謳つてあるのみでありまするが、併しながらそれ以上のことは書いてありません。仮に協議するということにいたしましても、こういうような軍隊を持つておる国と軍隊を持つていない国、殊に事実上米国と日本というような場合に協議いたしましても、ただそれが本当に自由に平等に行われるはずがないのであります。大抵の場合アメリカの御意見が通るということをやはり予想しなければなりません。でありますから、実際そういう場合に協議したところで、アメリカの意見が通るだろうと思うのであります。のみならず日本が何ら実力を持ちません限り、そういうような場合にアメリカの意思に抵抗するという途がないのであります。アメリカの意思に抵抗するという途がなければこれに屈従するよりほか途がないのでありますから、アメリカが日本の意見を道義的に入れればとにかく、実質上これを法律的その他において入れるということはアメリカの利益が許さない限りやらないだろうと思うのであります。その点において私はアメリカがあの條項によりまして、いつでも欲する場合に日本の内乱、或いは騒擾がある場合に干渉するということを規定したのと同じことだという解釈において、この点においては岩間さんと同意見であります。
○岩間正男君 アメリカの大統領の権限と並びに国会で論議されておることについてお伺いしたいのでありますが、大統領の権限としまして、法的に見ましても、日本を拘束するような、日本に義務を負わせるようなことが起きても、日本の権利を主張するというような、そういう問題については大統領の権限外と見ておるのでありますか、この点……。
○参考人(神川彦松君) 米国憲法におきましては、御承知のごとく、米国大統領が陸海軍の最高司令官であり、その統帥権を持つておりまするから、従つて日本における米国軍隊の発動についても大統領の権限に所属することは当然のことであります。従つて大統領のその軍事上の権限というものをこの国際條約で制限することは困難であり、又制限したものとは解釈できないと思います。アメリカは何ら義務を負うておりませんから……。
○岡本愛祐君 二点お尋ねしたいと思います。それは行政協定に関してであります。先ほど神川先生のおつしやつたのでは、国会が日米安全保障條約を審審議するときに無條件で包括的に委任してしまつた、こういうふうにおつしやつておる、併しそれは事実と違うのであります。我々が特別委員会においてこの安全保障條約を審議いたしましたときにおいては無條件では委任をしておりません。第一に、この日米安全保障條約の第三條に書いてある配備を規律する條件以外のことは委任していないことが一つであります。それからもう一つは、憲法に抵触するようなことは協定をしてはいかん、これは総理大臣もそんなことはいたしませんと約束いたしております。それから又法律上又は予算上国会の承認を受くべきこと、国会の議決を経ることは必ずその議決を経てから効力を発生するようにしなければいけないというその條件が付けてあります。政府もその通りいたします、事後になるかも知れないが、それは法律的の措置、予算上の措置をしてから効力の発生するようにいたしたい、こういうことは、ましてそれがこの第二十七條でしたかに現われておるのであります。この委員会におきましても確認をしてあるのでありまして、決して無條件で委任をしておるのじやない、まあそういうふうに私どもは解釈しておるのでありますが、その点どうお考えになりますか、それが第一点であります。 それから第二点は、この配備を規律する條件の範囲を逸脱してはいけないという條件でありますが、只今岩間君が指摘しました第二十四條の行政協定の規定がこの範囲を逸脱しておるとお思いになりますがどうか、その二点をお尋ねいたします。
○参考人(神川彦松君) 岡本さんの御質問にお答えいたします。講和條約、及び安全保障條約の承認に当りまして議会がお付けになりました條件のことは、実は私は余り詳しく承知いたしておらなかつたのでありますが、そういう條件をお附けになりましたことは誠に結構と存じまするが、ただそういう條件と共に、そういう條件は多くの点において今度の行政協定と抵触していないだろうと思います。大体においてはそういう條件に副うたものができていると思いまするが、それと同時に行政協定ができればそれを議会の承認にもう一度付すべきものである、或いは議会の了承に付すべきものであるという明示の意思表示をなすべきであつたろうと考えるのでありまして、今私が申しました点は技術的な点でありして、大体においてその点に副うているだろうと思います。と申しますのは、駐屯の兵を配備する條件なんというのは極めて漠然たる言葉を使つているのでありまして、従つてそれが何を意味するかということは具体的にはわかりません。ですからそういう配備を、軍の配備を規律する條件なんというような、そういう漠然としたことをお述べになりましても、それを逃がれる途は多々あるのじやないか、困難じやないと私はまあ考えるのであります。だからもう少し明確に行政協定というものを、もう一度議会の承認又は了承に付すべきである、こういうレザーヴがあれば大変よろしかつたのではないかと思うのです。それから第二の点は……。
○岡本愛祐君 この二十四條の規定が日米安全保障條約の第三の配備を規律する條件に当らないじやないか、そういうことが第二点。それからついでに第一点について少し私の申すことが徹底しなかつたようでありますが、つまり国会におきましては、参議院におきましては、法律上の措置を要すべきもの、つまり法律を国会で作つてもらわなければならない、つまり先ほど御指摘になりました裁判権の問題でも、これは法律措置をしなければならない。だからこれは無條件に任したのじやない。法律を作るときに国会は審議をするつもりであつた。だから今おつしやるようなことであれば、それは否決を……。そうすれば行政協定のその部分の効力は発生をしないのですからあなたがおつしやるような御心配はないのじやないか。並びに予算についても同様であります。予算は今審議していますが、これが予算上の行政協定で、ただ予算以外に亘るものがあるとすればそれはいけない、こういうふうに我々としては見ているつもりであります。
○参考人(神川彦松君) その行政協定を実施するために必要な立法をなすということはこれは当然のことでありまして例えば米比協定なんかにもそのことは明瞭に謳つてあります。ですから行政協定を実行するために、国内立法を必要とするものは立法するということを約束することは当然で、これはもう常識から申しまして言うを待たないことであります。ただそういうような立法を国内法でやりました場合に、成るほどそれの行政協定の実行というものは困難かと思いますが、それかと言うて、日本政府がその責任を免がれたわけではありません。政府が如何に議会をして立法をなさしめましても、日本が負いましたところの責任というものは依然として嚴存いたしているわけでありますから、日本は米国に対してその義務違反の責任をとらなければなりません。 又第二十四條の非常措置の規定が軍の配備を規律する條件の中に入るかどうかということでありますが、これは安保條約の第一條に、やはり相当広い範囲で米国軍が日本に干渉し得るということが規定してありますから、従つてそれから類推いたしまして説明のできないことはないのではないかと思います。でありまするから、軍の配備を規律する條件というものに入る入らんは別といたしまして安保條約第一條から米国は説明するだろうと考えます。
○山田節男君 時間がありませんから極く簡單にしますが、今の神川教授の国際情勢の分析、これは非常に常識的な御解釈であります。併しそれだけではない。その点にいろいろ私は御質問もありますが、もういたしませんが、要するに我々は今日参考人を呼んで諸賢の意見を聞くということは、現在日本の今持つている憲法が、殊に第九條において自衛権に関して戰力、軍備などが問題になつているから御意見を伺つた。これはまあ常識的になりますけれども、とにかく戰力を日本は、第九條があるにかかわらず、自衛のための戰力は持ち得るという解釈、それはでき得ないというのが今日ここで論争になつており、そうして私お伺いしたいのは、我々は立法者として憲法のやはり番人であります。憲法を守らなければならない。これはこの憲法がある限りは我々の当然の義務である。それから先ほど国際情勢に関して第二次戰争は必ず起るという御認識でありますが、これは常識的な考え方でありますが、それだけじやない。一方においてはこの批准についてはアメリカがああいうふうに大軍備をやり、又ソ連が大軍備をやることは来年度の予算で発表された。殊に朝鮮の戰争から推測してアメリカもソ連が悔りがたいということがわかつた。そこで今後の国際情勢というものは、ただ第三次戰争がもう起きているのだ、いわゆる冷い戰争から熱い戰争に朝鮮で入つている。これは現実であります。又一面ヨーロツパ、アメリカにおきまして相当の権威者が、原子爆弾の時代になつて来ると、戰争をやるのはいいけれども一年遅れてやればやるほど破壊的になるからして、このままで平和が保たれるのじやないか。そのうちに原子力の時代に入つて、自然科学は発達したけれども、人文科学と言いますか、社会科学は発達が遅れているためにこうなつているのだからして、この原子エネルギーの時代にマツチするような戰争を今からやらなければいかんというのが ヨーロッパ、アメリカで盛んに起つているのです。そこで又これは見通しが違うのもあるということは御認識願いたいと思いますが、それは又別の機会に譲るといたしまして要は憲法第九條の解釈で、今神川教授のおつしやることは、この九條を現存のままにしておいて自衛権を認め、自衛権というものに対しては軍備も含まつたいわゆる社会的、経済的、或いは政治的、或いは人的資源、自然資源を含めた極く広い意味の戰力は、軍備をも含めた戰力というものは現存している。憲法の第九條の規定にかかわらず自衛権として持ち得るという御判断か、結論であるか、この点を一つお伺いしたい。
○参考人(神川彦松君) 山田さんのお話に所感を申しますが、第一の憲法九條の戰力の問題では一応私の考えを簡單に申上げたつもりでありますが、私は申すまでもなく日本が警察予備隊を持つていることだとか、或いはそれを更に増強することだとかいうことは潜在戰力の最もテイピカルなことで、確かに憲法九條においては禁ぜられているものと考えているので、それは憲法九條違反だということは論を待たない。従つてそれが憲法違反でないなんということは全く堅白同異の弁である、詭弁であると考えております。 又自衛権の問題でありますが、日本の憲法によりまして自衛権というものは事実上日本国民は放棄したものと解釈してよろしいと思います。併しながら日本国民は放棄いたしましても、国際法上は当然国家としては固有の権力として戰力を持つていいのでありますから、国際法としては日本は当然自衛権を持つているのであります。従つて自衛権に従つて政府が何らかの行動をやるとしますれば、憲法違反にはなりましても国際法違反にはならない場合が多々あるのでありまするが、問題は今日の憲法の問題で、今日の憲法の問題において自衛権を持ち得るということは、私はやはり憲法違反だと思います。日本の憲法におきましては自衛権の発動というものはできない。実際的には自衛権を放棄したも同じように書いてありますから、若しそうなら自衛権に必要ないろいろな軍事勢力を作るというと、これ又当然憲法の規定するところと見なければならんことと思いますから、言うを待たず私は憲法違反であるとと思います。
○委員長(和田博雄君) 時間もありませんから簡單に。
○山田節男君 今の神川先生のおつしやることは、憲法九條には違反するかも知れんが、国際法上においては或いは戰争の能力を持つてもいい。これは今あなたにお示しするまでもなく憲法の前文に、それから憲法を発布したときのなにを見ましても、憲法の前文の文句は、国際法上においても認めないというのがこの憲法の本質なんです。今あなたのおつしやることは、憲法を放棄しても、国際法上はこれは認められるとおつしやいますけれども、この前文において、この人類普遍の原理に基いて戰争行為は絶対にやらない、こういう前文から敷衍した憲法なんですから、今あなたのおつしやるのは、そういう憲法をもつて行くのは国際法上では通用しないものである……。
○参考人(神川彦松君) そうではありません。そうでは絶対にありません。日本の憲法にどう書いてあろうとも、国際法における通税というものは、およそ独立主権の国家というものは、自衛権を持つているということは不動の原則として確定されておるのです。如何に日本の憲法が何と言おうと、日本の憲法が国際法に抵触することはできないのであります。又日本の国内においてのみ効力を持ちますが、国際的には効力はありません。でありますから、私は国際法の定説を述べておるのでありまして日本の憲法に対して述べておるものではありません。又国際法は上位にあるものでありまして国際法の違反でありますれば、国内法においてはよいが国際法においては抵触しておるものと、こう認めざるを得ません。
○委員長(和田博雄君) 時間がありませんから簡單に願います。
○高良とみ君 只今のお説でありますと、我々が只今の憲法を制定いたしましたとき、即ち日本国家の自由国家としての自立権を放棄したというように解釈してよろしうございますか。即ちこの憲法下におきましては、日本は一種の植民地である、あの憲法を今日持つている……申すまでもなく憲法ができたときに、そういう立場にあるのだというふうな考え方。それからもう一つは、いろいろな行政協定もすでに調印を終つておりまするし、私どもも講和條約、安保條約等に対しては深甚なる憂慮を以て又並びに科学的事実と、アメリカの意向等を了承するが故に、私どもはこれに対して反対の投票をして来たものでありまするが、併し現実には着々として多数政党の投票によつて押されて来ておる。そうして今日の姿になつておるのでありますが、それに対する対策を一つ伺いたいのであります。どういうふうに国際法上、或いは政治学上こういうピツチ・アツプになつた国民が、これを内部革命或いは政権の移動乃至はいろいろな形で以てこれを脱皮して行く姿を各国において私どもは見ておるのであります。併しながら私どもとしては、平和憲法を少くともみんなが合意してやりました以上、そういう方法をとることができないのであります。その点で平和的な解決策として、この国会に神川教授が御推薦になる案がおありになると思うのでありますが、その対策を伺いたい。 第三には、戰力が今日違憲であるというお説でありますが、それならばどれだけ教授の言われるところの武裝をいたしまして軍隊を持つたならば自衛ができるかということを私は疑うものであります。即ちダレス氏は、一月二十五日のアメリカの上院におきまして、先ほどどなたか言われましたように、空軍、陸海軍を持たない軍隊は、相当数の連隊がこの国に生じましてもこれはランド・バウンドであつてどこにも行けないと共に、又上陸し来るものは船或いは飛行機を持つて来るものでありまするから、これに対して、こちらが飛行機或いは海軍を持たない限り国を自衛するということは、昔の竹槍戰術と同じことであります。その前にさつさと降伏したのはこの間の戰争で明らかなことと思うのであります。そういう種類の陸軍的な防衛隊をも、これを必要とされることは、先ほど朝鮮の例からお話がありましたが、ただこの陸上において戰闘をするという可能性があるだけであつたなら、そういう防衛力というもの、或いは自衛権というものに対しては私どもは了承し得ないのであります。でありまするから、神川教授は戰力を持つことは違憲とおつしやいましたが、併しそれを必要とされます。従つて如何ほどの戰力を持つならば、この国が安全になるとお考えになるか。勿論経済面、政治面、文化面を別にしてのお考えでありますが、参考に伺いたいのであります。
○参考人(神川彦松君) 高良さんの御質問にお答いたします。第一の点は、日本は今の憲法を受諾したときに、もうすでに全植民地だつたのかどうかという御質問であつたようでありますが、無論そうであつたのであります。日本は無條件降伏を受諾しましたがために、そうしてこの無條件降伏というものは前代未聞の施策でありまして、近代の国家のとるべき施策ではありません。この点においてフランクリン・ルーズベルトは国際政治の近代における最大のよく言えば革命をいたしたのである。又悪く言えば最大の堕落をいたしたのであります。従つてドイツや日本のような文明国を待つにアフリカや大洋国の野蛮国を以ていたしたのであります。でありますからこの点において従来文明国と文明国の間における法規や慣例を蹂躪したということは、例えばイギリスのE・H・カーというようなイギリス第一の国際政治学者兼外交史家もこれを明白に認めておるし、又アメリカの第一流の軍事評論家ハンソン・ボールドウインなどもこの政策が如何に間違つておつたかということは彼のグレート・ミステークス・オブ・ザ・ウオアに述べております。でありますから無條件降伏は前代未聞の施策でありますからして、そうして今や独立したとは言へ日本国を全部植民地化して、そうしてその間に日本に憲法を押付けたということになるわけでありますから、植民地に対する好意で押付けたのでないことは言うまでもないのであります。でありますからこの点は問題にはならないと思います。 又第二の平和国家というものも作らなければならんから、そんなに軍備とか何とかいうものを作つても、ますますそれはその趣旨に反するのではないか、こういう御質問であつたと思いますが、平和国家なるものは私は決して武器を持たない国家ということではないと思います。平和国家というものはその国の国策として、できるだけ国際問題を平和的に解決しようとしました平和的の施策をする国ということでありまして、およそ国である以上相当の軍隊を持つことは当然である。又そういう平和政策をとるのにも或る程度の軍隊を持たなければその国の主張は行われません。国際法上において平和を主張しようが何を主張しようが單なる空論でありまして、何らの裏付けがありませんから、そういう政策はとれません。でありますから平和国家を建てるのにも軍備というものが必要であることは言うを持たないと思うのであります。それから第三は何ですか。
○高良とみ君 少し誤解があると思うのですが政治的なこの講和條約、行政協定、安保條約というものは国会内外の反対にかかわらず着々と外国と條約を結ばれて行きつつあるのであります。先ほどお話のような、例えば国会がその一部を否決しましても、これは国際と義務として行われるのでありまして、これに対する我々国会議員としてのなすべき方策について伺つたのであります。 第三点は戰力はどの程度まで行つたら戰力であり、どれだけ行つたら御満足であるかということであります。
○参考人(神川彦松君) 講和條約、安保條約、行政協定というものは、先ほど申上げましたように、日本民族及び日本国家の人格と気品にふさわしくありませんから、成るべく早くこれは根本的修正を要求していいと思います。イタリーは一九四七年の二月十日に今日の講和條約、日本の講和條約に比べまして比べ物にならんほど寛大な條約でありますが、その講和條約に調印しました直後に、この全権は声明を発しまして、イタリーは止むを得ず今日この條約を強制されたけれども、併しながらイタリーというものはこれをそのまま遵法することは無理である、若しこれを遵法すればイタリーの民主主義はすぐ倒れる、従つてこの講和條約を一日も早く修正してもらわなければならんということを即日声明したのであります。従つて日本政府というものも、即日こういう講和條約というものは日本にとつては重大な苛酷な講和條約であつて、前代未聞の、歴史上例のない過酷な講和條約であつてこんなものをいつまでも我慢することはできない。(「異議なし」と呼ぶ者あり)でありますからして、何とかしてもこれは一日も早く根本的に改良してもらいたい、改正してもらいたいということを、即日声明すべきであつたろうと思うのであります。(拍手、笑声) 又第三は、どれだけの武力を持つたらいかんかということでありますが、それはそのときどきの国内の情勢や又国際環境によることでありまして、そう一概には申しかねますが、併しながらいつも多くの論者は、日本が原子爆弾を持つているアメリカを相手として戰争をするようなことばかり言われますが、我々はそんなことは考えておりません。アメリカと戰争するような場合は、よほど原始爆彈やいろいろなものが要りましよう。併しながら日本の、敵はアメリカではありませんでしよう、今日はアメリカばかりではありませんでしよう。(「そうだ」と呼ぶ者あり)でありますから、どこにでも敵はいるわけであり、国内にもいるわけであります。(笑声)でありますから、そういうような場合には、やはりそれに対応するための軍備が必要なのであつて、ただ原子爆彈を持つているアメリカに対抗できないから軍備は要らないなんていうのは、結局これは客と主とを混同する誤りでありまして、合理的な議論とは私は申上げかねると考えるのであります。
○委員長(和田博雄君) 大分時間が経ちましたので、(「委員長一分だけ」と呼ぶ者あり)午前はこれで一つ休憩したいと思います。(「異議なし」と呼ぶ者あり)午後は一時四十分から一つ始めます。 午後零時四十二分休憩 —————・————— 午後一時五十二分開会
○委員長(和田博雄君) 午前に引続きまして参考人の意見を聞くことにいたします。法政大学教授中村哲君にお願いいたします。
○参考人(中村哲君) 戰力の問題と、それから行政協定の問題に関連しまして、憲法の條文の解釈を申上げたいと思います。第九條と、それから七十三條の解釈の問題に限定して御報告いたしたいと思つております。努めて政治的な或いは政策的な見解を除外しまして、法律の條文の解釈を申上げたいと思います。 先ず第九條の問題ですが、この第九條の第一項は、戰争及びこれに準ずる武力行動を放棄すると書いてありまして、これは戰力の発動の面を禁止しているわけであります。つまり現象面を取上げているわけであります。これに対して第二項は「陸海空軍その他の戰力は、これを保持しない。」と言いまして、戰力を保持する状態を禁止しているわけであります。つまりそういう客観的事実を禁止しているわけであります。この第一項と第二項を比較して、連関して考えますと、あたかも曾つての明治憲法の十一條が統帥権の規定を設け、更に十二條が軍制の大権の規定を設けていたのに丁度当るとも言えます。というのは第九條の前段は、戰力の発動を語つているのでありますし、第二項はそういう戰力の状態を規定しているわけであります。でこの第二項ではいろいろ問題がありますが、戰力を保持しないということを少くとも言つているわけであります。でこの保持するということは、英文ではメインテンスという言葉を使つておりますんで、要するに戰力となるものを培養し或いは維持する、そういうことをしてはならないという意味であります。ここではその戰力が対外的に発動しようと、或いは対内的に発動しようと、そういう現象面とは関係なく、戰力を存在させておるという客観的事実を禁止しておるわけであります。 そこで第二項の「陸海空軍その他の戰力」というところの解釈でありますが、陸海空軍の説明は、これは言うまでもないと思いますが、問題は、「その他の戰力」というところにあるわけであります、この「その他」という言葉が陸空軍に準ずる、それに匹敵するだけの強力な戰力を言つてるのか、或いはもつと広範囲な、多少とも戰力となり得るようなものは、非常に広範囲にその他の中に含めておるのか、問題になるのであります。この「その他」という解釈は、憲法上非常に問題となりますので、憲法の全体の條文を見ますと、「その他」という言葉を挾つたところは非常に多いのであります。従来この「その他」というところの解釈がおろそかにされていたと思われるのですが、この「その他」というのは勿論米国法のアザーという言葉の訳、或いはそれを意味するわけでありまして、例えば団体等規正令という場合の団体等というところの「等」、これが憲法で言う「その他」であります。それで従来の憲法には、明治憲法には「その他」という言葉は、私の記憶しておりますところではありませんが、新憲法では「その他」という言葉が至るところに使われておる。それを一々申上げると切りがないのでありますが、例えば第七條の天皇の国事行為についてその第五号のところで「国務大臣及び法律の定めるその他の官吏」或いはその第八号で「批准書及び法律の定めるその他の外交文書」というふうにあります。そういう「その他」という言葉は非常に多く使われておるのでありますが、特にここで第九條の解釈に開通して注意しなければならないと思いますのは、九十九條に「天皇又は攝政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」、こういうふうに書いてあります。この場合若し第九條に言う「陸海空軍その他」というところを、陸海空軍でさえなければ予備隊はかまわないんだ、こういうふうな解釈を若しするとしますと、この九十九條の場合にも、それと同じように「その他」というところを解釈しますとこの憲法を尊重し擁護する義務は、天皇又は攝政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他というのですから、この国会議員や裁判官は憲法を尊重し擁護する義務があるが、その他の公務員はそれほどでもないというふうに解釈されてしまう。そういう意味から言いまして、この憲法に言う「その他」というところは、実は新憲法で特に出て来た言葉であり、而もそれが非常に重要な意味を持つている。陸海空軍という明瞭な形をとらなくても、それが警察という形をとつていても、巽質的に戰力となるものがあればむしろそのことを禁止しているのだ、つまり陸海空軍という形をとらないで戰力を保持しようとする、そういうことこそこの第九條が禁止しているのであるということがわかります。ですから憲法の條文におけるこの「その他」というところの解釈は非常に重要であると思います。念のためもう一つ言いますと、例えば六十六條の第二項が、「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。」こう書いてある場合に、その「その他」というところを重要視しませんと、内閣総理大臣だけは文民でなければならないけれども、その他の国務大臣は文民でなくてもいいんだというような解釈になります。そして第九條の「その他の戰力」というところをおろそかに解釈するとすれば、六十六條においても同じように、普通の国務大臣は文民でなくたつていいんだというような解釈になつてしまうので、その意味から「その他」というところは非常に重要であるということがわかります。以上は戰力という文字の形式について私は述べたのでありますが、次にその戰力の内容を考えなければならないかと思います。先ず九條の第一項との連関で考えますと、少くとも戰力と言われるものは国権の発動たる戰争、武力による威嚇、武力の行使等をなし得る施設制度を言うべきであるというふうに考えられます。それはただ戰争というものだけでなく、武力行使の能力を持つ人的物的設備或いは制度を戰力と言うべきであると思います。而もこの第一項に言う戰争は、旧憲法におけるように宣戰という形式が憲法上ありませんので、従つてこの第九條の第一項に言う「戰争」というのは、憲法上の国民に対して宣戰を布告された戰争というだけでなくて、もつと広い意味の戰鬪、事実上の戰争行為を言うわけであります。それのみならず武力の行使というものまで禁止しているのでありますから、あらゆる戰争類似の武力的な衝突をすべて含んでいるわけでありまして、そういうことをなし得る能力が戰力であると言うべきであると思います。それでこの戰力という文字は、英文を見ますとウオア・ポテンシヤルという表現が使われておりますこれは言うまでもなく、武力行使を可能ならしめる物的人的な要素を言うのであつて、それは広い意味におきまして軍需産業をも含むものであります。それはポツダム宣言の第七項でありますが、こういう言葉がありますので、それにも関係があると考えます。「右ノ如キ新秩序が建設セラレ且日本国ノ戰争遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確認アルニ至ル迄ハ聯合国」云々とありまして「日本国ノ戰争遂行能力」という、即ちこれが戰力である。ポツダム宣言と憲法との本質的な連関を考えるときに、当然この戰力は戰遂行能力であるということが言えます。ところがこの戰力の、第二項の戰力の定義を、第一項の武力の行使を可能ならしめる人的物的要素、こういつた場合に、つまり第一項に関連して戰力の定義をしました場合には、それは国際間の紛争に関する武力の行使であつて、国内治安の維持については別ではないかというような見解が出て来ないとも限りません。併しこれは第一項と第二項の連関の問題になつて来まして、すでに参議院の予算委員会においては吉田首相がそのことについて前言を訂正しているということを見ましたので、この点は特に問題にする必要はないかと思いますが、念のため申しますと、第九條の第二項に言う戰力の行使には、條文の言葉として次のようなものが附いているわけです。つまり「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戰力は、これを保持しない。」、こういうふうに「前項の目的を達するため、」即ち国際紛争を解決する手段としての陸海空軍その他の戰力を保持しない、こういうふうに解釈し得る余地があるかのごとくであります。併しこの点は、学者の中には「前項の目的を達するため、」というのを陸海空軍その他の戰力の條件というふうに解釈する人もありますが、これも吉田首相が取らないところでありまして、私は又この点をはつきりと法律時報の去年の十月号に書きましたのですが、この「前項の目的を達するため、」というのは、條件を附したものでなく、これは理由を附したものである。つまり国際紛争を解決する手段としての戰争を放棄するために陸海空軍その他の戰力は、一般的にこれを禁止しなければならないというふうに読むべきで、若し陸海空軍その他の戰力に対して「前項の目的を達するため、」というのが條件を附したものとするならば、これは「前項の目的を達するため」の陸海空軍という言葉にならなければならないのですが、その点この「前項の目的を達するため、」という言葉は決して「陸海空軍その他の戰力」を限定したものではないのであります。そこで戰力の禁止は「国際紛争を解決する手段として」のみでなく、自衛権のためにも、又国内治安のためであつても、およそ戰力というものは一般的に禁止されておる、こういうふうに第二項を読むのが正しいというふうに私は考えます。若し現在の予備隊が国内治安のための武力となり得る戰力を保持してもいいんだというような主張があるとしましたならば、それはそのこと自身が憲法に違反するものであります。というのはこの予備隊は警察であるということになつておりますが、警察であるとすればどの程度の武裝が憲法上可能であるかという問題があります。これは第九條の解釈そのものでありませんが、九條に関連して憲法の全体の構造から言つて警察の持つべき武裝の限界というものが当然あるわけでございます。それについて私は特に考えてみたいと思います。警察権と申しますものは三権分立の原則から言つてこれは行政権の発動であります。従つて行政権の組織としての、或いは制度としての警察の武裝には一定の憲法上の限界があるのが当然であります。この点は従来非常におろそかにされておるように考えます。憲法では基本的人権を規定しておりますが、これは国民全体として言うのではなくて、国民の個人の基本的人権を保障したものです。従つて、個人の権利が侵害されるような形の武裝を警察がすることはできないというふうに、大きく言えばそう言えるのでありますが、更に言いますと現在の予備隊の裝備自身がすでに個人の生命権を、基本的人権の一番の基礎になつております生命権、これは十三條で言つておりまするように「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」とありますように、基本的人権の根本は生命権であります。つまり生命を奪われるということは基本的人権の最も大きな侵害であります。ところが、予備隊が或る程度の武裝をします場合には、個人がそういう行政権の発動たる警察権によつて或る場合に生命を奪われるということが考えられるわけであります。これは当然予想される、現にバズーカ砲であるとか、大砲であるとかいうものは個人の生命を奪うことは、これは言うまでもないわけであります。で、憲法では自由よりも生命権を奪うということが最も重要視されておるわけですが、殊にその三十六條には「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。」という條文がありまして、これは残虐な刑罰を禁止しておるのでありますが、学者の説の中には、殊に刑法学者の中には死刑すら残虐な刑であるという主張があるのであります。で、死刑は生命権を奪うわけであります。そういう死刑が裁判という手続を経て行われる場合であつても、それが憲法に違反する、三十六條に反するとさえ言われておるにもかかわらず、裁判の手続をするのでなく行政権の單なる発動によつて個人の生命権が奪われるような武裝を予備隊がしておるということは、そのことは憲法の基本的人権に対する大きな脅威であります。殊に予備隊の持つております大砲、機関銃のごときは大量的に個人の生命権を奪うことを前提としておるわけであります。政府はこれらの予備隊は対外的に発動されるものではなく、国内的な内乱の場合であると、こう申しますけれども、それであればあるほど国民の生命権を奪うということを却つて前提としておるわけであります。殊にこういう大砲とか機関銃のようなものは遠距離から一般国民を相手としまして、そうしてこれを殺戮するわけでありますから、事件に関係あるものと、ないものと、こういうものは遠くからは見定めがたい、つまり十把一からげにして、そうして国民を殺戮するという場合があるわけであります。これは憲法というものがもともと個人の基本的人権を保障しておるのであるということからいいますと、まさにそういうことによつて個人が不当に生命を奪われるということが、この事件に関係ある者が奪われること自身問題であるけれども、事件に関係ない者までも予備隊の裝備によつて成る場合殺戮される、これは憲法に言う基本的人権に対する大きな脅威、侵害であります。でありますから警察の持つ裝備というものは、近距離において正当防禦する場合の棍棒であるとか、一歩讓つたとしてもピストルであるとかという個人を相手としたもの、而も近距離である、この場合に、それによつて生命権が必ずしも奪われないもの、こういうものはいいですが、国民を相手として、そうして大砲やバズーカ砲を備えて、当然それが発動されることを前提としているということは、行政権にそういう一切の人間の権利を奪うような権限を認めていることでありまして、これは憲法上の三権分立の原則にも反すると私は思うのであります。それからこういう予備隊が対外的な目的であるか或いは対内的な治安維持のためであるかということが、よく国会で問題にされているようでありますが、目的を論ずべきでなくて、殊に第二項に言う戰力というものは客観的事実、状態について言われておるのでありますから、その目的はいつでも変る。そういう意味から対外的に発動されるのでなければいいというような、目的論から戰力を見るということに対しては、憲法の解釈としては非常に危險であると、こういうふうに私は考えます。以上が第九條の大体の説明であります。 次は七十三條の三号に連関した行政協定が憲法上の性質としては條約であるかどうかという問題に触れたいと思います。私は日本憲法の解釈をしておるのでありまして、アメリカの憲法の解釈は、今これは触れませんけれども、ただ一言しますならば、アメリカにおいては、條約は、大統領が上院の助言と承認を以て締結するものであります。これに対して憲法上の制度ではありませんが、政府が政府の権限を以て取極めをなすのが行政協定——アドミニストラテイヴ・アグリーメントと呼ばれておるものであります。それでアメリカの憲法ではそうであるけれども、日本の憲法において條約と言われるものが、行政協定を含むかどうかということは又別個に考えなければならない。で、アメリカにおいても行政協定の種類によつては議会の承認を経るべきであるということが言われ、又現に承認を経ておるものがあると聞いております。そうして議会にかけられる必要がないとされるものはどういう種類のものかと言えば、外国にアメリカの軍事基地を設定するという、日本のような場合、こういう場合の行政協定はアメリカの国会には承認を求められない、そういう必要がないというのでありますが、これは当り前のことでありましてアメリカの国民の権利はアメリカの軍隊が外国に駐留することによつては決して侵害されないのでありますから、そういう場合に行政協定がその国の国会にかけられないのはこれは当り前のことであります。ところが若しアメリカと日本が同じ憲法上の原則に基いておるとしても、日本国民にとつては治外法権を含むような、国民の権利の制限が含まれておるような行政協定でありますから、それが国会にかけられないということは、若しアメリカと日本が同じ原則に立つておるとしても甚だしい不当な政府の処置だと私は思います。アメリカの軍隊が外国に駐留したからと言つて、アメリカの統治権は制限されません。ところが、駐留された国の統治権は、その統治権の一部の作用であります領土高権、これはゲビートホーハイトと言われておるのですが、領土高権はそれによつて制限されます。従つてそういう国の統治権の一面の作用である領土高権が制限されるような行政協定は当然国会にかけられるべきものであります。飜つて七十三條にいう條約、この條約の中には行政協定が含まれるかどうかということを考えて見なければならないと思います。若し行政協定が七十一條第三号の條約の中に含まれないとするならば、それならば何であるかと言いますと、これは若しそうであるとすれば、第二号の「外交関係を処理すること。」と書いてありますその中に含まれるわけであります。つまり外交関係の処理の作用の中に行政協定が含まれるというふうに解する外はないのであります。そのことは丁度国内の問題について七十三條の第一号が「法律を誠実に執行し、国務を総理すること。」という規定を設けておりますが、これは国内問題についてでありそれと相当するものとして外交関係については「第二号の外交関係を処理すること。」という規定があるわけであります。ところが七十三條の第一号の「法律を誠実に執行し、国務を総理すること。」というのはすでに法律できまつたことを具体的に規定し、これを執行する、従来から言われております、旧憲法時代からも当然に認められておる執行命令に限るわけであります。つまり執行命令というものは、その上位の形式の法の中に規定されておる範囲で国民の権利義務の規定をただ細かに規定するだけのものであります。若しその上位の法の形式で定められたものに新たな国民の権利の制限を加えたりする場合は、これは執行命令ではできず、委任命令でするほかはないのでありますが、この七十三條の二号にいう「外交関係の処理」というものは、これは国内法で言えば執行命令に当るものであります。委任命令に当るものではないのであります。従つて行政協定が第二号の「外交関係を処理すること。」の中に含まれるとすれば、それはすでに締結された平和條約及び安保條約の内容をただ具体的に規定するに過ぎないものでなければならない。併し行政協定の内容は、御承知のように單に條約の内容を執行するための行政関係の單なる処理ではなくして、安保條約の内容には必ずしも明示されていないあらゆる規定、殊に治外法権のごときを含んでおるのでありましてこれは委任命令の形式……、委任命令に当る、法律の……、委任立法の原則で解釈するよりほかはないわけであります。ところが若し委任立法の法理で安全保障條約の第三條と、それから行政協定の関係を解釈する場合に、果して従来の法理論から言われる委任立法の原則を以て解釈できるかどうか、この点は大変疑問であります。安全保障條約が行政協定に若し委任したのであるとしたならば、これは委任立法の一般的原則によらなければならない。その場合には、一つの法の形式、即ちこの場合、安全保障條約、これが他の法の形式である行政協定に委任する場合は、委任される事項の範囲が特定された事項について、而もそれが明記されているという必要があります。そうでなければ委任立法の原則としては解釈できないわけであります。言うまでもなく一般的事項に関する白紙的委任は、これは法の原則を破るものであり、法治国の原則を破るものであります。安全保障條約の第三條は「アメリカ合衆国の軍隊の日本国内及びその附近における配備を規律する條件は、両政府間の行政協定で決定する。」といつて、米国軍隊の配備の規律ということを或る程度限定しておりますけれども、その内容は実は非常に漠然としている。漠然としているだけでなくして、行政協定ではこの米国軍隊の配備の規律という以外のことが実際は規定されているわけであります。例えば米国軍人だけでなくして軍属或いはその家族の刑事裁判権というようなものは、米国軍隊の配備の規律という概念の中に入らない。そういう意味からいつても、安全保障條約第三條は決して行政協定に対する委任を定めたものではないということで、あります。つまり委任立法の法理によつて解釈できない委任の仕方をしている。その意味から若しこの行政協定を委任の法理によつて解釈するとすれば、それは委任の限界を超えている。そうして、そうでなくて七十三條の第二号によつて「外交関係を処理すること。」という單なる執行命令に相当するものと解釈するならば、それは又行政協定の内容と合致しない。いずれにしましても、行政協定を條約とは別の條件の下に立つものであるということによつて解釈しようとして、これを執行命令の原則或いは委任命令の原則で解釈しようとしても、憲法上はどうも解釈できないわけであります。そこで行政協定というものは要するに七十三條の條約の中に含まれるものであるというふうに解釈するほかはない。つまり單独の條約であるかのごとく広範囲な国民の権利や義務に関連した規定があるというふうに解釈されるのでありますから、これは憲法上の條約というものとして見るよりほかない。そうすればこれは当然国会の承認を経るべきものであります。 行政協定の憲法上の性質については大体その程度でありますが、ただ一言、この外国軍隊の駐留を戰力の禁止されている日本国政府が條約の内容としてこれを認めることができるかどうかという問題について触れておきたいと思います。條約の締結権はこれは統治権、或いは現在の憲法の用語でいえば国権の発動であります。ところが、この憲法上の国権といわれるものは、憲法によつて制限された国権であります。これはフランスの憲法の概念からいえばプブワール・コンステイテユエ、憲法によつて制定された権力、憲法によつて制限された権力であります。従つて條約を締結する場合には、政府としてはその憲法によつて制限された権力の発動としてやるよりほかはない。ところが、その憲法では現に戰力を禁止している。こういう場合に戰力を禁止されている国の政府が、憲法を超えて外国の戰力といいながら、これを承認することができるかといいますと、これは先ほど神川博士が言われましたように、国際関係においてはそういうことが事実上できますけれども、憲法上はこれは違憲であります。つまり憲法に制限された国権の範囲を逸脱している、その意味で條約としては有効であるけれども、それを締結した政府の違憲の責任は当然追及されていいものではなかかと私は考えるわけであります。以上を以て私の第九條及び第七十三條に対する憲法の解釈の問題についての御説明を終ります。
○委員長(和田博雄君) 只今の中村教授の御意見に対して御質問がありますればお願いいたします。
○吉川末次郎君 中村教授がいろいろ参考人として御証言下さいました事柄の中でただ一点、行政協定が憲法七十三條によつて国会の承認を受くべきものである、即ち換言すれば行政協定は條約であるという建前を私たちは固く執つておるものでありますが、それにつきましての御証言は結論において大体我々の見解と同じことになるのでありますけれども、中村教授の御証言が多少端的でなくして、直接的にそれが條約であるということについての御証明が、少し我々からいたしまするというと、横道のほうにそれて行つたような感じがするのであります。我々はこれは條約であるという見解をとつておるものでありまして、これは実はいろいろな点から国会、殊に参議院におきましてはすでに明確に決定いたしておることだと考えて間違いはないと思うのであります。と申しますのは、第一には今日までのこの問題についての学者、専門家の参議院におけるところの証言であります。この予算委員会といたしましては、この問題につきまして参考人の証言を求めましたのは今日が初めてでありまするが、さつき申しましたように……。
○委員長(和田博雄君) ちよつと御注意申上げますが、今日は公聴会でありませんから、証言ではなくして意見ですから、そういうように一つ……、
○吉川末次郎君 ああそうですが、それでほかの委員会即ち外務委員会におきましては、先般来六人の参考人の御意見を承わつたのでありますが、成蹊大学の憲法を担任していらつしやる佐藤教授、それから一橋大学の国際法の教授でありまする大平善梧氏及びこの委員会においても意見を述べられました神川教授、これらのかたがたは、それぞれこれは條約である、憲法上の條約であるということの意見を我々に吐露していられるのであります。で、更に私たちが多少調べてみました範囲内におきましても、横田喜三郎氏並びに大沢章氏等は、やはりこれは憲法上の條約である、條約と日本憲法上いわれているのは、ひとり英語のトリーテイのみではなくて、アグリーメント、或いはコンベンシヨン或いはプロトコール、デクラレーシヨン、こういう法的に国家間の関係をば法的に拘束する文書は、すべてこれは憲法七十三條の條約であるというようにテキスト・ブツク等において書かれておるのでありますから、これは学者の証言といたしましても、この点からも明確であると思うのであります。 第二は、これも先にこの委員会で多少申上げたのでありまするが、中村教授御承知のごとく、六法全書等についておりまするところの日本憲法の英訳文におきましては、七十三條の條約はトリーテイと訳されておりますが、Sがついておりましてトリーテイスと書かれております。ところが御承知のごとくこれは憲法制定の過程におきましては、前のドラフトの六十九條に該当する條約でありますが、その前のドラフトの六十九條におきましては、トリーテイ以外にアグリーメント及びコンベンシヨンという言葉を使つておるのでありますから、行政協定がアドミニストラテイヴ・アグリーメント、イクゼキユーテイブ・アグリーメントでありましてこの前のドラフトのアグリーメントに当るものでありまするならば、その点からはこれは條約であるということができると思うのであります。 それから第三といたしましては、政府がこのアグリーメント、協定というものに対してとつているところの処置でありまして、これは中村教授或いは御承知なかつたかとも思うのでありまするが、二、三日前の参議院の本会議におきまして麻薬に関するところの協定、條約及び宣言書というものが議定されているのでありますが、この場合におけるところの麻薬に関する協定というのは、即ち行政協定に当るアグリーーメントという言葉を英語の文書では書いておるのでありますから、すでに政府が七十三條によりましてこの麻薬に関するところの協定につきまして国会に承認を求めるの挙に出ておるのであります。又講和條約及び安全保障條約に関連いたしましても、講和條約を我々が承認いたしますときに、それに関するところの宣言書、デクラレーシヨン及び議定書、プロトコールというものがやはり国会の承認を得ているのでありますから、吉田政府はすでに憲法七十三條の解釈におきましては、狹義におけるところの條約、トリーテイという英語に訳されるものではなくて、アグリーメント、デクラレーシヨン、プロトコールというような外交上の法的の拘束力を持つたところの文書をすべて国会の承認を求めるの挙に出ておるのでありますから、政府はすでにこれを承認しておるのでありまして今日行政協定に対しまして政府は甚だこうした現実的に自分の政府がとつているところの処置に反しまして中村教授が多少お触れになりましたように、これが條約であるとか條約ではないかというような言をあいまいにして最初はいたしておつたのでありますがだんだんと外務委員会等において我々が究明いたしまして、今日では政府みずからが明白にすでに憲法七十三條の行政協定は條約であるという処置に出ているのでありますから、この点はよく御了承願いたいと思うのであります。 結局政府は、今日まで一言をあいまいにいたしまして、これは七十三條によつて我々の承認を要せないものであるという立場を固執して参りました。その理由といたしまするのは、第一には今申しますように、條約ではないというようなことを大体言つて来たのでありまするが、これは今申しましたことによつてもすでに破れておるのであります。第二には、これは参議院の本会議に岡崎国務相が行政協定の説明をいたしまして議員の質問に対しまして行政協定は安保條約第三條において国と国との間におけるところの協定という言葉を使わなくて両国政府間の協定、即ち政府という言葉が使われておるから、これは国会の承認を要しないのであるというようなことを公々然と行つて来たのでありますが、これ又議員の究明に会いまして、即ち両国政府という政府、ガヴアーメントというのは即ち国を代表しているところのものだからそういう政府の証言は無効である。それ以後そのようなことは余り言わないようになつたようであります。それから第三番目には、政府が自己の立場を擁護している言として申しますのは、これは国際慣例ということを吉田さんなんかも非常に言うのでありますが、併し君の言うところの国際慣例はアメリカの慣習法において議会の承認を要しないところの、上院の三分の二の賛成を要しないところのイクゼキユテイーブ・アグリーメント、米国の行政協定、あなたは国際慣例の名において我々に強いられているのでありますが、そのほかの国はどうなのか、その例を示せと言いますと、それに答える辞を持たないのであります。
○委員長(和田博雄君) 吉川君、質問だけにして頂きたい。
○吉川末次郎君 文書を出すわけでありますが、まだその運びに至つておりませんが、併しこれは米国の慣例でありまして日本の国は日本憲法の條章において判断したらいいのでありまして、政府のこういう答弁もこれ又不合理な答弁でありまして、最後にこれも又今中村教授がお触れになりましたような包括的な意味を安保條約において国会からもらつているものであるという点にあるのでありますが、その点につきまして只今中村教授は不合理性を暴露せられたのでありまして、これも又全くその点については賛成なのでありますが、それで意見がましいことを最初に申上げまして甚だ恐縮でありますが、ただ一点だけ以上申しました中で政府がすでに麻薬に関するところの協定、或いは講和條約に附随するところの議定書や宣言書というものをば国会の承認を求めておるという現実の事態からすでにそれは明白である、これも又私の意見でありますが、これについて何か中村教授から御意見を承わることができましたら承わりたいと思います。
○参考人(中村哲君) 行政協定が條約であるということの具体的な例を今お話になつたのでありますが、そのことがはつきりすればするほど、私が先ほど申しましたように行政協定といわれるものが、憲法では條約というものに当るということの証明になるのではないかと思います。
○吉田法晴君 三、四点になるかと思いますが、お尋ねしたいのであります。 第一は、憲法第九條の解釈問題であります。この点は従来の憲法学者のいろいろの御説明を承わつても、それから政府の第九十帝国議会における憲法制定当時の説明を聞きましても、交戰権について自衛のための交戰権も、これは認めない。それから第二項の潜在戰力も認めない。これは政府自身においても明らかだつたと思うのであります。それが或いは自衛のための交戰権については、第七国会からですか変つておるようであります。それから潜在戰力については、今度の国会から法務総裁によつて覆えされておることは御承知の通りであります。そこで今の憲法の解釈と申しますか、或いは生きている憲法としてはこの二つの点は明らかだと思うのでありますが、そのことが一つと、それからそういう勝手な解釈が許されるかどうか。若しも憲法が行政権によつて勝手に解釈されるとするならば、これは立憲主義というか、或いは法治主義というか、そういうものが壊れてしまうと思うのでありますが、そこでこの間から法務総裁に尋ねたのでありますが、総理に対して尋ねたら法務総裁が答えたのでありますけれども、国会と政府との解釈が食い違つたら最高裁判所がきめるだろう、こういう答弁であります。ところが憲法の精神から考えますならば、法律についてもそうでありますが、憲法の解釈自身についても私は国会が国権の最高機関であり、そして国会に国民の総意を結集するという意味において、国会の解釈権のほうが私は優先すると考えるのでありますが、そのことと、それから解釈権の問題につきまして、例えば政府の言うように最高裁判所が最後の決定をするといたしましても、違憲訴訟の手続規定がない。そこで違憲訴訟を私どもの社会党ではやつておりますが、この違憲訴訟の進行について、最高裁判所がこの違憲訴訟手続がきめられていないから、七十七條でしたか、訴訟に関する手続規則は最高裁判所がきめるべきだと、こういう意味を含めてやつておるのでありますが、これらの点について中村教授の御意見を承わりたい、これが一つであります。 それから警察力と戰力の限界、これは随分ここで質疑応答がなされましたけれども明らかになりませんでした。具体的にそれを示せというような委員の質問もありましたけれども、これは抽象的な説明だけで実際はなかつたわけであります。今中村教授の御意見を承わりますと、武器の点について持つておりますこの兵器と申しますか、武器と申しますか、これが人を殺傷し得るようなものであるならば、それだけで戰力と認定することができると、こういう御説明がございましたが、その他の点について、或いはまあ戰力を構成する要素として、或いは組織、人間的な組織の点、言い換えますと、統率組織といいますか、軍隊組織といいますか、そういう点、或いは目的等も参考になるのではないかと考えて参りましたが、あなたの御意見では、武器の客観的な程度だけで御断定になりましたが、それだけで十分であるかどうかという点を重ねて承わりたい。特に議論をしておりますというと、はつきりした証拠がなければここでは困難ではないかと、そういう意味においては或いは治安庁の設置法であるといいますか、或いは今の警察予備隊令が講和後国内の法律になる、そういう場合にはつきりして来るのじやないか、こういうことも考えられましたが、それらを合せて一つ御意見を承わりたいと思います。 それからもう一つこれはこの兵器の問題についてでありますか、先ほどお述べになりましたポツダム宣言なり、或いはその後の指令、それから国内法規として昭和二十年のこれは商工、文部、農林、運輸省令第一号として昭和二十年勅令第五百四十二号に基く、「兵器、航空機の生産制限に関する件」という政令があるわけであります。これを引つ張り出して論議をしたのでありますが、それには触れませんでした、政府は触れませんでした。ところが極く最近「兵器、航空機の生産制限に関する件」をこれは撤回すると、こういう向うの意思が伝えられております。日本の政府のほうでこの点についても手続を終つたとはまだ考えておりませんが、先ほどの御意見によりますと、戰力を外国の戰力であろうとも日本の中に置くことは、憲法九條にいう点から言いますと違憲であるという御意見もございましたが、そうしますと、この「兵器、航空機の制限に関する件」を撤廃して撤廃と申しますか、向うからその辺はのけられるということが明らかでありますが、日本として兵器、航空機生産制限の可能ならしめる法律的措置を講じたとして、これは先ほどのお話でございませんが、違憲になるのではないか、こういう疑問を持つのでありますが、その点も合わせて一つお願いいたします。 それからこれはさつきの神川先生の御意見にもございましたが、国際法と憲法との関係であります。これは極端な形で神川先生言われましたけれども、国民の間に相当こういう感情がある、或いは失礼でありますけれども、議員の中にも相当あると思うのであります。そこで憲法自身がこの憲法以上のものを持つておる現在においては、この憲法自身の改正も或いは憲法の中のいろいろな條項についても、憲法上の命令といいますか、意向があるならば、なんとでもなるのじやないかという意見、気持というものは相当あると思うのであります。従いまして、その点についての憲法上の御解釈をもう少し明瞭に承わりたいと思います。
○参考人(中村哲君) いろいろな問題を次々にお出しになりましたので、それに対してお答えします。第一の解釈の問題ですが、憲法の原則から申します上国民は主権者であります。そうして主権者たる国民の代表の機関であるという意味において国会は国権の最高機関なんでありますから、国会と政府の間に憲法の解釈に矛盾しましたことがあるときは、国会の解釈が国民の意思を代表としたものとして認められなければならないのはこれは当然であります。およそ憲法というものは国家権力に対する制限をきめたものであります。従つてとかく国家権力は、憲法を非常に、憲法的制限というものを非常に不便に感ずる、これを邪魔扱いにする、こういうことから憲法を破るという傾向が出て来るのでありまして、近代憲法の本質は権力に対する制限なのであります。これは日本憲法学のまあ伝統的解釈を形作つておるといつてもいいのでありますが、イエリネツクの見解によりますれば、まさに権力の自己制限である、これが憲法であります。でありますから、国家権力が憲法を破るという、本来そういう性質があるからこそ、憲法を作つて国民の基本的人権を保障したものであります。而もこの国民というのは、国民全体ではなく、国民個人の権利を保障したものであります。このことは如何なる国においても、資本主義国においても、社会主義国においても憲法があるということは、それは権力に対して個人を保障したものであります。それを果して実現できるかどうかというところに問題があるわけでありましていずれにしましても憲法というものは個人に対する保障である。そういうことからその国家権力が憲法を勝手に解釈するという傾向があるのでありますが、それを守るのは、国民のために守るのは、国会でありましてまあそういうことになりまして、解釈権は最終的には国会にあるのであつてただその国会と政府との間に問題が具体的に生じた場合に、便宜的に最高裁判所がその仲裁のような役割をするというだけの話であります。ですから最高裁判所が裁断すれば、それで国民の意思は代表されるのであるというようなことはありませんで、国会が解釈権を本年来持つておるものと私は考えます。 それから第二はなんでしたか。
○吉田法晴君 警察力と戰力の限界。
○参考人(中村哲君) 警察力と戰力の限界ですか。
○吉田法晴君 そうです。その解釈権の問題に関連いたしまして違憲訴訟の問題についてもちよつとお尋ねをしたわけでありますが、大きいのは第一は憲法の解釈権の問題、それから第二は警察力と戰力との限界の問題、その限界の問題について中村先生は先ほど武器の点についてのみ触れられましたが、その点についてどうかということを……。
○参考人(中村哲君) それは第三に言われたんですね。第二には自衛権の問題を言われましたね。自衛権の問題はこれは九條第二項の、「国の交戰権は、これを認めない。」という点で自衛権も放棄されているというふうに解釈するのが通説であります。で、政府もそうでありますから、これはもう問題ないじやないかと思います。 それから第三が今言われました警察権の限界と軍隊の性質ですが、先ほど私は軍隊というものをその武器の面から申しましたけれども、これは旧憲法の十二條に軍制大権というのがありまして、あの場合には軍の編制、つまり軍隊としての編制、それから軍の教育の組織、それから勿論それには訓練も含まれます。そういうものが軍隊の概念の中に入つて来ますから、それで予備隊の場合は曾つての旧憲法における軍制大権で言つている軍制のような組織を実際に実行しているわけであります。そういう意味ですでに警察の限界を超えていると私は考えるわけです。 それから違憲の立法の審査の問題ですが、八十一條はこれは最高裁判所が一般の訴訟手続によらないで、いきなり初審として判決を下し得るかどうかという問題に関連していると思いますが、憲法の條文そのもの、つまり八十一條そのものが直接に最高裁判所が違憲立法の審査をするということを禁止してはいないのであります。ただそういうことのために、具体的な手続法が出ていないために、ただ具体的な訴訟を通じて違憲立法が審査されるという形をとるだけのことでありますから、従つて現在の予備隊に対する政府の処置を直接に八十一條によつて最高裁判所に提訴するということは、憲法の條文そのものから言えば何ら禁止していない。ただ七十七條によつて最高裁判所がそういう手続を具体的に定めることをおろそかにしているというだけのことであると考えるわけです。それでよるしいですか。
○堀木鎌三君 私一点だけ伺つて置きたいんですが、この安保條約の第三條は「アメリカ合衆国の軍隊の日本国内及びその附近における配備を規律する條件は、両政府間の行政協定で決定する。」、こう單純に書いてあるわけですが、これは一番今政府としては唯一の手がかりになつておりまして要するに連合国が若しも駐留する場合には、アメリカ以外の連合国が駐留する場合にこういう配備を規律する條件でも條約だ、こう言つておるんですが、ただこの際にはこの條約文があるために委任がある、この立法によつて委任があるんだ、こういうふうなことを言つておるわけでありますが、そこでお聞きしたいのは、これは一体條約で委任命令的なものが入つて来るかどうか。実はさつき委任命令の性質についてお話があつたんですが、更に根本的には條約自身で委任命令の効力が発生するようなものができるはずがないじやなかろうか。ただここに書いてありますことは、要するにおのおのの政府間の権能のあることでできるなら、これは行政協定でやれるというふうな事柄であると私は思うのでありますが、その点に対する先生の御見解を一つ伺いたいと思います。
○参考人(中村哲君) 私は安保條約の第三條は、委任の法理を直ちに適用すべきものではないと、こう考えるのであります。併し若し適用するとしても、それは特定の事項を明確に明示した委任でなければならないということを先ほどは申したのでありまして條約が更に別の形の條約、行政協定のようなものに委任する、そうして国内法とは別個にそういう法の体系が次々に出て来るということは、日本の国内に二つの法の秩序を作つて行くということになりはしないか。そういう意味から言いましても、一般的に委任、立法、殊に委任の原理は旧憲法の場合には相当広範囲に行われまして国家総動員法であるとか、或いは更に昔は台湾総督及び朝鮮総督に対する一般的な立法権の委任ということがありまして、これは憲法違反であるといつて非常に問題となつた点でありまして、新憲法においては委任命令は可能でありますけれども、併しその範囲は旧憲法のように自由にすべきでものではないというのが建前であります。従つて国内法においてもそうなんでありますから、條約のようなもので国民の権利義務を制限するような委任の法理を認めるということ自身は大変法治国の原則に反すると、私はそう思います。
○堀木鎌三君 第一に明確に私はお聞きしたいと思つておつたんですが、旧憲法のときは委任立法の性質が広範囲である。併し新憲法では委任については非常に制限的だとおつしやるんですが、私は旧憲法のときは確かに委任命令というものは相当立法上の根拠があつたと思います。併し新憲法では三権分立の原則が非常に貫かれておる。立法権はただ一つ国会が唯一の権利として持つておるという二とが明記してあるわけであります。政府が行政権を持つておるということでどんなに広く範囲を解釈しましても、新憲法では要するに政令制定権がありますが、これも法律の規定を実施するためというふうな点だけしかないんじやなかろうか、そう考えますが、その点について法律的な御見解を法律的な御説明で教えて頂いたら非常に結構だと思います。
○参考人(中村哲君) 現在の憲法の根本の原則から言いますと、旧憲法では法律でなし得たことさえも現在はなし得ない、法律でさえもなし得ない基本的人権に対する制限はそれであります。更に法律が命令に委任するという形も、これは原則として認められるというようなものではなくて、これはただ七十三條の第六号のところですが、「この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。但し、政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない。」とありまして、特にその六号の規定は、委任命令を積極的に認めた規定でありませんが、政令が罰則を規定していい場合は、ただ法律の委任があるとき、つまり委任命令として政令は或る場合に罰則を設けていいというような消極的な意味で委任命令に触れておる。その意味で委任命令という制度は憲法上ありますが、併しこれは決して原則的なものではないということを申上げて置きます。
○堀木鎌三君 ちよつとその点でまだ疑問に思うのですが、この但書は、少くとも法律の規定を実施するためという範囲を出るわけがないと私は思うのであります。但書といえどもこの但書で果して広い委任命令ができるのか、罰則以外は非常に広汎な委任命令ができるかということは私は疑いますので、やはり但書の前の前文の法律の規定を実施するためだけだ、そうすると旧憲法時代の委任命令式のものが大体否定されているのじやないか、而も一方におきまして、国会は国権の最高機関で国の唯一の立法機関である。そうして常置委員会の制度をとつておる以上は、この但書というものは殆んどその実施のためにやる場合だけがあるのだ。併しそれでもこの命令で罰則をすることはいけないんだ、実施のための罰則はいけないんだ、こういうことを更に制限したものである、こう解釈はできないでございましようか。
○参考人(中村哲君) 従来の憲法においても、執行命令と委任命令の区別は嚴密にいうと非常にわからなくなつて来るのであります。言葉では委任命令と執行命令というのは、概念としてははつきりしていますけれども、具体的な例では、その命令の上にある法律の範囲というものが明瞭でない場合がありまして従つて具体的な法律の形式としては施行細則だとか施行令と言われるようなものが、名目から言えば、執行命令であるように見えますけれども、実際はその内容が委任命令であるというような場合が非常に多くて、この点具体的には明瞭でない場合が多い。そうして事実法律の制定の必要から或る程度委任命令を認めなければならないということは事実あるわけで、ただその委任が従来のような不特定な一般的な委任を認めたりしてはならない。非常に限定された場合には必要に応じて委任命令が発せられるということは、これは事実止むを得ないと思うし、現にそういうふうにして出ておると思います。現に出ておる具体的な施行令というようなものでも、それは執行命令と考えられるものであつても、実は委任命令の要素を含んでいたしますので、その点原則として委任命令は憲法として奨励はしてないけれども、事実そういうものが行われておるし、又或る程度認めなければならないのじやないかというふうに私は考えます。
○吉田法晴君 先ほどお尋ねしてお答えを頂かなかつたのでその点お伺いしますが、これは兵器、航空機生産に関する問題ですが、先ほどの御意見を承わつても、兵器を生産するということは日本国憲法に違反するのではないか、それが一つ、それからもう一つは、こういう兵器、航空機生産制限に関する件を撤廃をしてもよろしいという意向が伝わつておりますが、その辺になりますと憲法と国際法との関係でありますが、憲法上の義務をはつきり我々與えられておると思うのですが、その辺の関係について、もう一遍承わりたいと思います。
○参考人(中村哲君) 憲法で言う戰力は、そういう軍需産業をも含むものであるということは、先ほど私が説明したわけであります。そのとき殊にポツダム宣言を引きましたのですが、あのポツダム宣言でいう戰争遂行能力というもの、これは軍需産業を含んでいるわけで、であるからこそボーレー使節団の声明によりまして、そういうポツダム宣言によつて一切撤去されるという結果になつたわけでありましてやはりそういう意味合におきまして陸海空軍その他の戰力ということが規定されているというふうに考えます。やはりそういう終戰後のポツダム宣言の具体的な実施の経過を見ても、それによつて示されたのは、やはり軍需産業を制限して行くということであつたと思いますから、そういう経過の中で制定された憲法は、やはり軍需産業の禁止までを含んでいるものと、こういうふうに考えられます。西独の憲法の場合、軍需産業というものを、侵略的な戰争放棄に連関して、これを嚴密に規定しておりますから、日本の場合も当然そういうふうに解釈すべきものだと思います。 —————————————
○委員長(和田博雄君) 次に同志社大学法学部長でありまする田畑教授の御意見を伺いたいと思います。 〔委員長退席、理事小林政夫君委員長席に着く〕
○参考人(田畑忍君) 私が当予算委員会におきまして、参考人として意見を聞かれておりますのは、戰力に関連して第九條の解釈はどうであるか、又行政協定に関連しまして、第七十三條三号の解釈はどうであるか、こういう点についてであります。即ち二つの問題に分れるわけでありますが、そこで順序としまして先ず最初に第一の問題、戰力と第九條の解釈について私の意見を述べ、次に行政協定と第七十三條についての私の見解を述べることにいたしたいと思います。 日本国憲法第九條は、御承知のごとく一切の戰争を永久的に放棄し、国際紛争解決の手段たる武力的威嚇又は武力的行使を永久に放棄し、又この目的を達するために陸海空軍その他の戰力を永久に放棄し、更に国の交戰権もこれを、認めないこう定めておるわけであります。異説は勿論ありますけれども、この規定によりまして、日本国は全部、軍備或いは戰備、或いは兵力といつてもよろしいでしようし、武力といつてもよろしいと思うのでありますが、その一切を永久に放棄し、国の交戰権をも禁じているとする解釈が、今日の学界のみならず一般の通説であると思います。同時にこの通説は政府のこれまでとつて来た有権解釈でもありますし、更に又連合国関係筋の解釈となつているものであります。ところが政府は漸次最近になりまして解釈を変えて来られつつあるような感じがするのでありますが、私はこの通説に従つているものであります。 ところで戰力の問題でありますが、これは憲法九條二項に書かれております。即ち九條二項には「前項の目的を達するため、海陸空軍その他の戰力は、これを保持しない。」こう規定しているわけであります。それは詳しく言葉を換えて申しますれば、前項の目的、第一項の目的、即ち国権の発動としての戰争及び国際紛争解決の手段たる武力的行使又は武力的威嚇をしようとする目的を持つた戰力、即ち軍備は陸軍、海軍、空軍その他如何なる名称を持つているものでありましてもこれを保持してはならない、こういうことになるわけであります。従いまして自衛の目的であろうが、国際紛争解決の目的でありましようが、或いは制裁の目的でありましようが、およそ目的が何であるかにかかわらず、外国に対しましてなされる消極的又は積極的の意味を持つた一切の軍備又は戰力はこれを放棄しなければならない、こういうことになるわけであります。でありますからして憲法におきましては自衛のための軍備も自衛のための戰力も許されないわけでありまして、自衛軍は勿論のこと、自衛軍と呼ばれない自衛戰力といえどもよろしいということにはならないわけであります。今述べて来ましたように、憲法九條の戰力というのは兵力のことであり、電力のことであり、軍備のことでありまして、この戰力と軍備を区別するということは、これは私はできないと思うのであります。又同じく九條第一項にありますところの武力というものも、私の考えによれば戰力又は軍備のことにほかならないわけであります。武力も、戰力も、軍備も、すべてこれは同じ意味を持つているのであります。でありますからして戰力と武力とを区別するということは、これらのものそれぞれを軍備と異るものであるとする見解が誤つていると同じように誤りであると思います。これは言換えますれば、その他の戰力というものは陸軍、海軍、空軍以外のつまり軍備のことでありまして、軍備の一部ということになりますが、武力というのはこれらの一体としての軍備に相当する意味を持ち、同時に又そうでないもの、例えば警察力でありますとか或いは消防力でありますとかいつたようなものの、そういう戰力として使用せられるもの、軍備として使用せられるものということになるわけであります。そうして軍備とは何かということになりますと、それはつまり対外国的、外国に対して軍事目的或いは戰争目的を持つたところの人的物理的な総合性を持つたところの実力である。即ち武器を使用する体制を持つた人的組織を言うということになると思うのであります。従つて武器それ自体のみを切離して直ちにこれを軍備である、或いは戰力である、武力であると考えることは、これは私は妥当でないと思つているのであります。即ち他の武器との結付きであるとか、それから人の集団との結付き及びそれの使用目的或いは使用方向というようなものとの関連性がなければ、武器は直ちに戰力ということにはこれはならないと、こう考えるわけであります。而もそれらのものは必ず関連性を持つているものであります。武器それ自身が作られて、武器それ自身があるということはあり得ないのであつて、必ず武器はそういう人的組織に関連性を持つているわけであります。軍備なるものをこのように考えて来ますというと、一定の組織を持つた人の集団で、或る軽微の、軽い程度の武器を持つて訓練されております……。ちよつと抜けましたが、この武器の問題に関連しまして、日本国の主権の下に日本国を主体とするところの日本国の軍備が即ち日本国の戰力又は軍備でありますからして、日本にある外国駐留軍、アメリカ駐留軍はたとえ日本国の自衛のために役立つ場合におきましても、決してそれは日本国の戰力又は日本国の軍備とは言えないわけであります。それは外国の戰力であり、アメリカの戰力であり、外国の軍備であり、アメリカの軍備であつてただその外国の軍備、戰力が日本の防衛に役立られるというに過ぎない、こう考えるべきであると思います。その裝備が大きい場合にはそれは問題になり、或いはその裝備が小さければ問題にならない。つまり裝備の大小強弱は問題でないわけでありまして、その裝備が大きくても小さくても、外国の軍備は飽くまでも外国の軍備であり外国の戰力である。かように考えなければならないと思うのであります。 このように軍備というものを考えてみますというと、一定の組織を持つた人の集団で、或る軽微の武器を持つて訓練されておりましても、これを以て直ちに軍備とみなすことはできません。又或る軽微の武器が国家に存在し、又それらのものの製造せられる施設が国内に存在しておりましても、これを以て直ちに軍備と考えることはできないと思うのでありまして、併し又その反対にそれが近代戰争を遂行するに足るだけの十分の実力を有するか否か、こういうことは軍備又は戰力の心須的な條件にはならないわけであります。例えばジエツト機がなければ、或いは原爆がなければ戰力でないというようなことは、実にこれは馬鹿げたことであつて、そういうことは申せない。むしろ逆に軽い程度の人的物理的な実力を持つて、十分に軍備たるに値する場合が幾らでもこれはあると思う。従つて今軽微の或いはそれ以下の程度の、否武器のない、無武器の人の集団でありましても、外国に対しまして軍事目的或いは戰争目的、防衛の目的も勿論その中に含まれるわけでありますが、そういう戰争目的を以て軍事行動、防衛行動もその中に入るわけでありますが、軍事行動をなし得るように訓練されておるものならば、それは名称の如何にかかわらず、明らかにその他の戰力、九條に言われる「その他の戰力」であり、軍備であると申さなければならんと思うのであります。又外国に対して戰争目的、又は軍事目的を以ちまして軍事行動をなし得るように訓練されていない、明らかに他の目的を持つている団体でありましても、その持つている、又はその使用する武器が一定の限度を超えて、一定の限界を超えて、高度の性能を持つものとなるということになりましたならば、それは名称の如何にかかわらず軍備になる。このように申さなければならないと思います。 それは憲法で第四番目に交戰権が禁止されているにもかかわらず、交戰の可能性を十分に持つておるからであります。で、このような団体が徴員制、徴用制をとるに至る場合についても全く同じことが言えるわけでありまして、徴員制は確かに或る人の集団の軍隊化、軍備化、戰力化を決定する一つの要素だと言つてよろしいと思うのであります。勿論応募制であるからと言つて、他の條件如何によつては軍隊化を避け得るわけに行かないと思います。更に又少々の武器を有する団体や、武器のない状態に近い団体、或いは個々の国民が独立いたしまして、或いは他国家の軍隊の一部分として海外の戰争行動に参加する、或いは海外でなくても、国内において戰争行動に参加する。即ち一朝国外又は国内に外国の軍隊の不法の侵略があつた場合に、これに対しまして応戰して自衛戰を展開する。或いは国外或いは国内の外国軍の戰争行為に協力しまして、戰争を実施するということになれば、それは直ちに交戰団体を形成するわけでありまして、交戰権を認めていない憲法九條の建前からしますならば、このような団体、又は国民も又極めて貧困であるとは言え、明らかに一時的の軍備たるに至るものであると考えなければならんと思います。従つてかくのごとき一時的又は突発的、又は正当防衛的の軍備、戰力といえども、それは憲法九條二項に違反するものであると申さなければならないと私は考えるのであります。 即ち憲法は国民が石や棒を持つて、外国の国権の発動である戰争や武力行使に従事する軍隊と戰うことまでもこれを認めていないわけであります。自国、主体的にはつきり絶対に戰争はしないというのが平和憲法の建前であるからであります。即ち憲法第九條によりまするならば、この場合にも認められる自衛権の行使といいますのは、戰争又は、武力行使以外の政治的な外交的な手段、これによらなければならない。自衛権は留保されておるけれども、その自衛権を発動する場合には戰争的或いは武力的方法によつてはならない。それ以外の手段によらなければならない。こういうことになるわけであります。仮に石や棒を持ちまして或いは竹槍を持つて戰うということを認めているとしますならば、それこそ極めてナンセンスなことに属する、こう言うほかはないと思うのであります。のみならずただにそれはナンセンスに、無意味に属するだけでは済まないのでありまして、必ずそういうことが民族を亡ぼす、亡民の惨事を引起すことになるのでありますからして、憲法がこういつた無謀を禁じておる、即ちやめておるという理由は極めて明瞭であると申さなければならんと思うのであります。併しながら外国の侵略行為に対してではなく、国外又は国内の外国人、プライベートな外国人の不法の犯罪的な侵略があるということも考えられるわけでありますが、そういうプライベートな外国人の犯罪的侵略があつた場合、これに対しまして武器を持つて、警察の持つている武器を持つて、或いはその他の武器を持つて対処するということは、憲法の当然にこれは認めるところでありまして、それがいわゆる直接侵略に対して自国主体的に防衛のできる唯一の場合であると、このように言うことができるであろうと思います。併しこれは名称の問題になつて来ますが、このようなものを防衛と称し、この任に当るものを防衛隊と称するということは、私は当を得ていないと思います。むしろその場合には他の名称が付せられなければならないと思うのでありますが、いずれにせよこういつた外国人による、プライベートな外国人による犯罪的侵略行為に対しまして憲法は国家が一定の用意をする、若しくはしなければならないということを規定するものでは、これはないのであります。従つて十分の用意の必要な事態が発生するという虞れのある場合は、国家はこれを用意しなければならないと、こういうことが言えるだろうと思うのであります。ただ外国人による、プライベートな外国人による犯罪的な侵略行為というものは、その公的な性質を持たないわけであります。私的な性質のものであります点において、そういつたものは極めて大規模のものとはなり得ないということはこれは必定であります。従つてそういつたものに対しましてプライベートな外国人の犯罪的侵略に対しまして極めて大掛りな準備をする、武器を用意するということは、これは必要ではないわけであります。極めて大掛りの治安機関はそれは遂には軍隊化せざるを得ない。そういう傾向を持つものでありまして外国人の不法侵略に対しても陸海空軍その他の戰力を設備するということは、もとよりこれは憲法の許すところではないわけであります。ただこういつたものに対しましては、国民のために治安目的上設置せられているところの警察或いは警察予備隊、海上保安庁というようなものが、今申しましたような犯罪的行為を処置するということに出ればよいわけでありまして、尤も国民のために或いは国民に対して治安上設置せられる武器帶用の部隊編成としての団体というものは、結局軍隊以外の団体ではないと、こういう説もあるわけでありまして、これは通常の軍備を持つておる国家については言えることであります。通常の国家については言えることでありますが、無軍備の国家についてはそれは直ちには当てはまらない見解だと申さなければならんと私は考えております。 而も軍備又は軍隊のない国家におきましてはこのような異常な治安機関は、軍備を有する国家に比べて勢い大きなものとならざるを得ないということは、これは避けがたい一つの現象ではないかということも考えられるわけであります。併し治安目的のために設置せられておる施設というものは、その右の理由で比較的大きな規模を持つておりましても、それだけではそれ自体軍備であるということはこれはできないわけである。革命でありますとか或いは騒擾を忌避する、憲法の性質からいいましても、このことは必ずしも矛盾ではないと私は思うのでありますが、そういつたものをみずからの力で回避しなければならんとする、こういう建前を憲法は持つておるからであります。ただ国民の希望としては、又民主主義憲法の精神としましては、そういつた治安機関は小さければ小さいほどいいことは、これは申すまでもありません。そういつたものがその固有の目的を、即ち治安目的を外れて増強されるということになりまするならば、その国家はたとえ無軍備の国家でありましても、つまり警察力過大の国家、即ちいわゆる警察国家とならざるを得ないでありましよう。又実質上のそれは軍備国家となるに至ることを必至とするからであります。ただこれを避ける途は、そういつた警察機関の固有の目的を狹めて、その目的を逸脱しないようにして、警察国家になることを避けて即ち他方におきましては国民生活をよく富ましめるということ、民主主義教育を徹底させて、できる限り文化性を持つた、政治を豊かならしめるということに努力せざるを得ないと思うのであります。いわゆる文教費とか福利厚生というものを惜しんでおつては真の治安は得られないと思うのであります。 以上述べて来ましたような観点におきまして、通常の警察は軍備又は戰力であるかどうかと申しまするならば、それは短銃等の武器を持つた人の集団でありまして、一種の部隊編成をとつておる。且つ名称も、例えば国家地方警察では府県単位に警察隊と呼んでおるのでありますけれども、誰もこれを軍隊でない、戰力でないと考えております。かように通常の警察は、これは軍隊ではないと思われておるのでありますが、併し他国家の軍隊の一部にこの普通の警察が編成されまして、非常の場合に編成されまして、その軍事行動に参加するという場合におきましては、それが永久的な場合であると一時的な場合であるとの如何にかかわらず、それは憲法の否定する戰力になると私は考えますが、又外国の国権下にある国内又は国外の外国軍に対しまして、積極的又は消極的の戰端を若し警察が開くとするならば、この場合も又警察が憲法の否定する戰力になることは明らかだと思います。従つて憲法はこれを許さない、こう考えるわけであります。なぜかと申しまするならば、警察に許されておる権限というものは治安の維持、即ち国民を犯罪から防護するということだけでありまして、軍事行動をなすこと、戰争をするということはその目的ではないからであります。ただ国外から仕向けられる外国人のプライベートな犯罪的侵略行為に対しましては、その治安目的上鎭圧処置をなすことをその権限とせざるを得ないのである、かように考えるわけであります。とにかく戰力の問題について普通通常の警察は論議の対象には殆んどなつていないのでありますが、併し戰力となり得る可能性を持つておるということを、今申しましたように注意をしなければならんと思うのであります。ところが警察予備隊が戰力であるかどうかということについては随分これは論議が重ねられておるのでありますが、そもそも警察予備隊は、これは昭和二十五年の八月十日に、いわゆるポツダム政令二百六十号として公布されましたところの警察予備隊令によつて設置された、軍隊のない国家の特殊の警察であるということをその法的性質といたしております。即ちその第一條で以て「わが国の平和と秩序を維持し、公共の福祉を保障するのに必要な限度内で、国家地方警察及び自治体警察の警察力を補うため警察予備隊を設け、」と、こう言われております。又第三條第一項で以て「警察予備隊は、治安維持のため特別の必要がある場合において、内閣総理大臣の命を受け行動する」、こう書いております。それから第二項で「警察予備隊の活動は、警察の任務の範囲に限られるべきものであつて、いやしくも日本国憲法の保障する個人の自由及び権利の干渉にわたる等その権能を濫用することとなつてはならない。」こう規定されてあります。即ちこの規定から見ますならば、それは無軍備国家の、軍隊のない国家の不十分な通常の警察力を補うために設置されたところの、治安のみを目的とする、戰争を目的としない、特別の大規模な警察機関であつて、革命とか騒擾とか、そういつた大規模の暴動というようなものに備えてあるものであるということが明瞭であります。こういつたものがこういつたものとしてある限りにおいては、その目的はそれなりで存在しておる限り、それは憲法の否定しておるところの戰力であるということはこれはできないのではないかと思うのであります。ところがその裝備としまして小銃であるとか機関銃であるとか、或いはバズーカ砲であるとか、小口径の火器というようなものがあつて、部隊編成の組織をとつておつて、軍隊のように見られるような訓練が施されておると、こういうように言われておるのであります。その数は七万五千百人である。これが更にこの秋は十一万に増強されようとしているということでありましてそれは必ずしも少くはない、むしろ大した実力であるということができると思うのであります。常識ではこのような程度の実力というものを軍隊とみなすのもこれは決して無理ではありません。併し内外の情勢から考えて、この程度の裝備は国内の治安の確保上絶対必要な実力であつて、憲法の禁ずる戰力ではないと、こう言うのが政府の説明であります。成るほど革命等の予防又は威嚇というようなことのためにはこの程度の武器が特別の治安警察には必要だ、それは戰力ではないというような主張は、或る意味においてはこれは筋が通つておる感がするわけであります。又憲法制定の初めから、すでに軍隊のない平和主義国家としましてそのような程度の国家機関の設置の必要ということが考えられておつたということは、その当時の議会の速記録を見ますというとわかるわけであります。併しながら警察予備隊のこのような程度の裝備というものは、国際社会の通念上戰争遂行に有効適切なる兵力でもない。これは木村氏が言つておるのでありますが、それから又国際紛争の解決の手段としての武力なるものでもない、これも木村さんが言つております。或いは近代戰を遂行するに足るだけの実力でもない、これは大橋氏が言つておるのであります。そういつたものであるから憲法の禁止する戰力ではないというような政府側の説明というものは、これは何人も首肯することのできないところであろうと私は思います。それは外国と戰争しても勝てる見込のない程度の武器を備えておるところの戰力は軍備ではない、或いは小国家の軍備は軍備ではない、小さい軍備は軍備ではないということとこれは同じ事柄であります。ただ軍備の代りに自衛力或いは警察力という言葉を用いているだけであつて、実質は変らないわけであります。又多少の武器、これは竹槍でも見ようによつては、その目的によつては優に戰力ともなり得ることを否定することはできないと思うからであります。現に過ぐる大戰には竹槍と肉弾によつて近代的な武器の質量を誇るところの米国を打ち負かすことができると叫んだ人々が我が国にはかなりあつたことを想起してよろしいと思うのであります。ただ竹槍や、或いは機関銃や大砲くらいの武器を有する戰力では、ジエツト機や原爆に対抗することはできないということは言えます。併しそれは別の問題であります。而も竹槍論者が今なお盛んに存在しているということは悲しむべき事実ではないかと思うのであります。一旦何かあつた場合には何を持つてでも戰うのだというその勇敢な言葉を聞くのでありますけれども、それが過ぐる大戰のときに言われた竹槍論と少しも異なつていないという感じを我々は受けているわけであります。丁度日本における再軍備論者たちの構想によるところの戰力というものが、微々たる対象のごときものでしかないということから考えて見ましても、右に述べて来たことは明白にわかるはずじやないかと思うのであります。 要するにそれが戰力であるかどうかということは、つまり本質的には裝備の対象の問題ではない、ジエツト機を備えているとか或いは原爆を備えているとかいないとかいうことが問題じやないので、それは必ず目的及び程度如何の問題だと思うのであります。警察予備隊は、前に言いましたように法規上治安目的を有するものでありますからして、政府の説明通りこれは軍隊ではない、軍備ではない、戰力ではないということは一応可能なことは前に述べたごときことであります。併し法規上の、いわば表面上の目的が治安目的ということになつておりまして、この実質上のいわば裏面の目的、又は隠された目的というものが軍事目的或いは戰争目的に置かれておるとするならば、それは明らかに一種の軍隊だと断じなければならないわけであります。戰力であると申さなければならないと思うのであります。治安目的に並んでこの防衛目的が加わつて来る場合におきまして、警察予備隊は一変してそこに一変して軍隊の性格を帶びざるを得ないことになるわけであります。外国の軍隊の侵略に対して明らかにそういつた性格を有することを予定されておりまして、それはポテンシャルな戰力であるということを失わない。従つてその場合におきまして、それは憲法違反の存在になると言つてよろしいと思うのであります。政府の国会における答弁にはこのような疑念を我々に起させる節が実に多々あるわけであります。又目的は依然として法規通りのものであるといたしましても、その要員、施設、裝備及び軍隊的操練というものはますます増強して行くということになれば、この場合におきましても又警察予備隊はいつの間にか警察力を補うという本来の目的から逸脱しまして他の目的、即ち防衛目的、即ち戰争目的を有する国家機関に変質せざるを得ないわけであります。併しその本質の限界を見定めることは最もこれは困難なことであります。困難なことではありますが、併し見定めがたいからと言いまして、その本質を否定するとはできないと思います。勿論旧軍人一千名の採用というようなことで直ちにその本質を云々するということは、これは早計であると思いますが、併し政府の国会における答弁では、警察予備隊の増強的な改組の計画に明らかに示しております。その名称も例えば防衛隊としてこれを変える。組織上の変革強化を加えよう、こういうように計画されておるものでありまするからしてその計画が実現しました曉におきましては、それは劃然として警察機関から防衛機関、或いは軍事機関、即ち軍備に変貌を遂げるに至るということは、これはすでに明らかなことであると思います。そして警察予備隊をこのようなふうに軍隊に改組するということは、結局隠然たる再軍備を行うものでありまして、まさにそれは憲法に違反すると言わなければならんと思います。勿論そうでない状態におきまして警察予備隊を保安隊と呼び換えましても、或いは防衛隊と、例えばそれは名前は適当でありませんが、呼び換えましても、それによつて警察予備隊が軍隊になるわけでないことはこれは勿論であります。現在の警察予備隊はなお警察機関たることをこれを認める。としましても、それは以上述べて来たような諸点から考えまして、そういうような性質をそれが持つて来る、或いは持つておるとしますならば、少くともそれは軍隊になりやすい危険性を十分に含んでおるものであるということは何人にとつても否めないことであろうと思います。 ところが警察予備隊を強化して軍隊に切替える必要が果してあるのかどうか、これは解釈の問題を少し外れますが、再軍備論者たちは、それは憲法を変えるというような厄介な方法によらないで、この軍備を設けることになるのであるからしてそれは結構だ、こういうふうに言うのであります。それよりも彼らは、又ほかの人たちも政府も、日米安全保障條約というものが警察予備隊の増力化、又は軍隊化を規定しているのであるからして止むを得ないのである、これは安保條約の結果止むを得ないのだ、こういうように考えているようであります。国会における質問の中にも、安保條約を警察予備隊軍隊化への一つの起点として観念づけているかたもあるようでありますが、そしてそれは一応尤もな説のように見えるわけでありますけれども、その條約を、安保條約をそのように見てしまうということが果して適当なことであるかどうか、私は適当であるとは考えられないのです。右のような諸説を延用されているのは、同條約のこの前文でありますが、その前文は「アメリカ合衆国は、平和と安全のために、現在、若干の自国軍隊を日本国内及びその附近に維持する意思がある。但し、アメリカ合衆国は、日本国が、攻撃的な脅威となり又は国際連合憲章の目的及び原則に従つて平和と安全を増進すること以外に用いられうべき軍備をもつことを常に避けつつ、直接及び間接の侵略に対する自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待する。」というこの一節、殊にその但書であります。 併し第一に、それはその條約は、直接且つ間接侵略に対する自国防衛について漸増的には日本みずから責任を持つことを期待しております。期待しているけれども、これを強要を決していたしておりません。希望はしているかも知れませんが、強要はいたしておりせん。第二に、その期待しているのは日本国の軍備又は戰力であるはずはこれはないわけであります。それは日本国憲法が完全なる戰争放棄、軍備放棄の憲法であるということをアメリカは十分にこれを知つているわけであり、講和條約の主権尊重の原則から申しましてもこれを尊重しなければならないわけであります。且つ常にこれを尊重する国民であるということに鑑みて明らかだと思うのであります。従つて第三に、そこにいわゆる面接の侵略に対する自国の防衛というのは、これは外国人の国外及び国内において犯すことのあるべき犯罪的な侵略、その犯罪的な侵略に対する鎭圧のことにほかならない、このように解釈すべきであると思うのであります。即ちそれは外国への侵略を意味するものではない、このように解釈しなければ辻褄が合わないのであります。又間接の侵略に対する自国の防衛というのは、外国又は外国人によつて煽動され、示嗾されて国民中の或る者が或いは犯すことのあるべきこの大規模の暴動であるとか騒擾であるとかということに対する鎮圧のことにほかならんのである、このように考えるべきであると思うのであります。それ故にそれを外国主権に対立する意味を持つた戰争又は武力行使にかかることでは決してない、このように言わなければならないのみならず、それはその條約には、平和と安全を増進すること以外に用いられるべき軍備を持つことを常に避けることを期待しているのであります。安保條約が戰力又は軍備を期待すらもしていないことはかくして明瞭だと言つてよろしいのじやないかと思うのであります。そのことは同條約第四條を見ると更に明らかに理解できるのじやないかと思うのです。即ち四條は「この條約は、国際連合又はその他による日本区域における国際の平和と安全の維持のため充分な定をする国際連合の措置又はこれに代る個別的若しくは集団的の安全保障措置が効力を生じたと日本国及びアメリカ合衆国の政府が認めた時はいつでも効力を失うものとする。」と、このように定めております。即ちそれは日本の安全保障のための国際連合の措置というものを他の安全保障と共に考慮することを明示しているわけであります。従つて日本のこの自衛力を、戰力を必ずしも期待していないということを示しているものであるということができるわけであります。このことは彼らが日本の平和憲法を無視していない、戰争放棄、軍備放棄の憲法を無視していない証拠だとこのように言うことができると思うのです。條約によつて再軍備を義務ずけられているものと観念したり、或いはこれを国際信義と考えましたりしまして再軍備を急ぐことは、誠にそれは過りであると言わなければならんと存じます。 言うまでもなく、日本を主体とする軍備又は戰力保持の問題は、飽くまでもこれは日本国憲法の問題でありまして、條約の問題ではありません。現に條約自体が右に述べたようなこの平和憲法を無視しない態度をとつているわけであります。併し若し仮に憲法におきまして……わからないかたがあつて、日本の再軍備を要求若しくは強要するということでありますならば、その場合には我々日本国民としましては日本の主権、それは平和條約第一條で謳われているその主権、即ち憲法尊重の原則に立ちまして、その非を鳴らせばよいわけであります。大西郷が言いましたように、「徒らに漢の強大に畏縮し、円滑を主として曲げて漢の意に順従するときは軽侮を招き、好親却つて破れ、遂に彼の制を受くるに至るものである、こういうふうに考えられます。須く大正道を踏み国を以て繁るるの精神なくば外国交際は全つたかるべからずものである」ということを銘記しなければならないと思うのであります。幸い例えばダレス氏のごときも、曾つてアメリカは日本の再軍備などを強要するのでは更にないのだ、然るに不思議にも日本にはそういう誤解が存在しているということを明言しておつたのであります。これは週間朝日にその記事が出ておりました。そうであるならば、強国の意中を臆測して、或いはこれを勝手な口実にしまして再軍備を持つということは最もこれは愚なことである。国を害うことであるというほかはないと思うのであります。 いずれにいたしましても、如何なる名称においてでも、自国を主体とする戰力又は軍備を持つことは憲法違反であります。先に述べて参りましたところの種々の方式で警察予備隊等をこれに充てるということは従つて憲法違反であります。ところが軍備を持つために憲法を変えれば憲法違反にならないから、憲法を変えられたらいいという説が行われております。これは私は間違つていると存じます。憲法を超越して説かれる再軍備論の不当なことにつきましては、今更これを論ずる必要はないと思います。ところが與えられた憲法は、民族の自尊心からいつて当然にこれは講和後に変えるべきものだ、こういう考えがありますが、併しよし自主的にその憲法が変えられるということを考えてみましても、それで失われた面目が更まるわけではございまん。敗戰の嚴然たる事実と、連合国の助成によつて民主主義的な憲法を制定されるに至つたということは喜ぶべき事実でありますが、これを覆すというわけには行かない。問題は憲法の内容にあるわけである。敗戰の最中に、そうでなければ自力では到底なされ得なかつたであろうような世界史的なこの最善の平和主義憲法を與えられた。この憲法を民族の永世のためにむしろ我々は喜ぶべきであり、全力を挙げてこれを護るべきである、かように考えられるわけであります。然るに又憲法を変えれば堂々とその再軍備ができるではないか、警察予備隊のようなあいまいな軍備を設ける必要があるくらいなら、これは廃して、その必要に応じて、この方法によつて憲法を変えればいいのだ、こういう説は如何にも尤もらしく聞こえて、憲法を擁護し、国家のためにはよいのだという気持を起させるような通俗性と説得力を持つているようでありますが、併しそれは根本的に誤つていると考えます。それはつまり間違いの現実を、誤れる現実を憲法の鏡に照らして直すべきであるにかかわらず、その反対にあたかも誤れる現実に憲法を合せようとするつまり便利主義であります。憲法の何たるかを知らないものであると言わなければならんと思います。それはつまり人を殺す必要があるからして刑法を変えろ、こういうような議論と通ずるものであると思います。のみならず何人も言つておりますように、憲法を変えて軍備を持つことは、国民の道義と経済と幸福を破壊し、世界の戰争的な危機を助長し、国の信用を失墜せしめることになるだけであります。とにかく如何にも尤もらしい理由を持ち出して来ましても、憲法というものを右のような便宜主義で片付けてしまうということは、これはまさに民主主義の破壊であると言わなければならないと思います。憲法は即ち国の最も肝腎な面目でありまして、これは生命以上に尊ぶべきを知らなければならんと思います。自国のこの主権と憲法を尊重する国民は、又必ず他国の主権と憲法も当然にこれは尊重する国民であります。アメリカの人たちが、自国の憲法と共に日本の憲法をも大事に考えるべきことは、これは当然のことであり、我々も又これに学ぶべきことは言うまでもないと思います。ところが最も理想的な憲法だと評価してこれを作つた人たちが、今更これは理想に過ぎる、非現実の憲法だから変えろ、こういうようなことを言うのは、オポチユニズムである、オポチユニズムであります。これは占領の結果押し付けられた憲法であるからして、講和後はこれを変えなければ、独立国家としての面目はない、こう言つて……従来のウルトラ的なナシヨナリズムと共に、許されがたい政治的な不道徳であると考えるのであります。つまり要するに憲法を改正することは、歴史の進行の方向に向つて、憲法を現在のもの以上によく改める場合にのみ許されるのでありまして、それが即ち改正であります。即ち正しく改めることであつて、これを逆行的に悪く変えることは、憲法の改正ではなくして改悪であつて、断じて許されないと思います。即ち改悪は許されないというのが、憲法の根本原理であつて、そうしてこの根本原理は一片の空論ではなくして、政治の現実に直結して民族の興廃を決定するものである、即ち民族の興亡の歴史を必的たらしめる基本原理と言つてもよろしいと思います。この原理に背いた国民は、例えば近くはナチス・ドイツのごとく、歴史上必ず不幸の経験を嘗めておるのであります。殊に日本憲法第九條は、永久に戰争と軍備或いは戰力を放棄するということを規定したものでありまして、永久に放棄したものを途中ですぐに又これを持ち直すということは、原理上できることではありません。それこそまさに又国際信義上できることではないと思います。それ故に憲法九條を如何なる形にもせよ、戰争を行い、或いは軍備又は戰力を持ち得るように変えるということは、これを考えるということも、これを主張することも、嚴格に言えば、これは憲法違反になると思うのであります。故に警察予備隊を実質上軍隊化することも、憲法を変えてこれを軍隊に切換えることも、いずれも、すべてその他の如何なる方法による再軍備と共に、そのこと自身が憲法違反であるという性質を持つていると断じてよろしいと思います。日本国憲法九條の平和規定というものは、第十一條の基本的人権の規定と共に、特にこのような嚴しさを持つている規定であると考えるのであります。 次に行政協定と、第七十三條の関係について私の意見を申述べさして頂きますと、行政協定の何であるかにつきましては、種々の見解が行われておりますが、岡崎国務相のお考えによりますと、條約を作つた場合に、その條約の実施項目について行政府限りででき得る範囲の協定を結ぶ場合に、これをエキゼキユーテイヴ・アグリーメント、或いはアドミニストラテイヴ・アグリーメントと呼ぶのがそれであると言われております。そうして、若しそれ以上の転換があります場合には、法律案を出し、若しくは予算案を提出して、国会の承認を求め、その他所定の手続を経てやるものであります。このように附言し、更に、一般の常識では、国会の権限等に関係なく、行政府の権限ででき得る範囲の協定を結ぶ場合に、これを行政協定と言つている。このように言われております。併しこの行政協定も一種の條約であることは否定せられないと私は考えます。のみならずこの行政協定の制度は、何人もよく知つておるように、アメリカ合衆国におきまして発達したアメリカ合衆国の制度であります。即ちアメリカ合衆国憲法二章一節二項一款の規定は、大統領の條約締結権の制度について発達したものであります。右の條文には、大統領は上院の助言と同意により條約を締結する権利を有す、但しこの場合には、上院の出席議員の三分の二の賛同権を要す、とありまして、これによれば、條約について大統領は條約締結権を有するのではありますけれども、上院の助言と同意がなければ、條約の締結をすることができません。のみならず、その上院の同意は過半数制によるのではなくして出席議員の三分の二以上の賛成のあることを必要としておるわけであります。つまり三分の二議決制をとるのでありまするからして、大統領が條約を締結する場合に、それに必要な條件でありますところの上院の同意を得ることは、これは実に容易ではないわけであります。従つて條約の締結をする場合における大統領と上院との全般的な、そうしてすべての段階での協力関係において決定的な力は、大統領よりもむしろ上院に置かれておると言うことができるわけであります。こういつたようなアメリカ合衆国特有の大統領條約締結権制度の欠陷を補うことの必要上出て参つたものが、即ち行政協定の制度である、こう言うことができるわけであります。そこでこのアメリカの制度としての行政協定には、上院の同意を必要としないことになつたわけであります。例えばラスキー氏のごときは、これを判然としない権限であると申しております。それは併し時として、上院により権限の賦與に基いて行わることがある、アメリカ憲法研究者によつてこのようにも言われておるのであります。即ち必ずしもこの上院の権限外においてのみ行われるわけではないということが言われておるのであります。即ちアメリカにおきまする行政協定のすべてが上院の権限外にあるとは言えないということが申せるわけであります。併しそれのみならず、もともとアメリカにおきましては、このような條約に対する助言権及び同意権が上院だけにありまして、下院にはないわけである。従つて嚴格な意味において言えば、それは初めから議会全体の権限でないということが言えるわけで、これは又注意すべき点ではなかろうかと思うのであります。然るに我が国におきましては、このような制度、行政協定というような制度は、まだアメリカと同じようなこの制度は存在しておりません。又これを存在せしめる必要は毛頭ないわけであります。相手国にこの行政協定の制度がありましても、我が国はこれを同様のものとして取扱う必要もなければ、又同様のものとして取扱うということは、憲法がこれを許さない、かように考えるのであります。このことはアメリカの人々は、日本の政府よりも却つてよく知つておるのではないかと思うのであります。我が国の條約に関する制度は言うまでもなく、憲法七十二條の三号、七條の一号に規定されております。即ち七條一号は、天皇の條約公布権を定めております。天皇に條約締結権を認めておりません。即ち七十三條の三号に定められておりまするように、條約の締結権者と批准権者は内閣であります。言い換えるならば、それらの権限は政府にあるわけであります。條約の締結権は政府にある、これは国会にはないわけであります。條約の締結は憲法上立法とはされないで、これは行政の一種とされておるわけであります。日本国憲法上、立法権は、御承知のように法律を作ることを必ず言うのであります、法律制定権、即ち立法権であつて、そのほかの法令を制定する権限は立法とは言うていないのであります。それらは広い意味の立法でありますけれども、憲法ではこれを立法とは言うていない。即ち條約の締結についても、そういう嚴格な意味におきましては、日本国憲法上は立法でないわけであります。それは内閣即ち政府の権限に属しております。即ちすべての條約は、トリーテイーであれ、アグリーメントであれ、チャーターであれ、コンベンシヨンであれ、プロトコールであれ、或いは協約であれ、協定であれ、宣言であれ、交換公文であれ、何であれ、すべてここに言うところの條約、即ち広義の條約でありまして、即ち国と国との約束、政府と政府との約束でありまして、でこの條約の締結権者は常に内閣であり、政府であり、併し究極においては国家であり、国民であるというわけであります。従つて安保條約は国家間の條約であるが、行政協定は政府間の協定であるなどということは、これは憲法を知らない者の言辞としか言えないと思うのであります。條約というも、協定というも、すべて政府の締結するところであつて、従つて又国家の締結するところであるわけであります。一はこれは国家が締結するところであり、他は政府が締結するところである、故に国会のこの承認は行政協定については必要でないということは言えないわけであります。これはつまり憲法がそのように定めておるわけであります。つまり憲法はこの條約の締結権は政府にあることを規定しておるが、同時に、「事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。」と定めておる、このことを注意しなければならないわけであります。それで條約と呼ばれておる條約も、協定と呼ばれておる條約もすべて国会の事前、又は事後の承認を経ることを必要とする、これが憲法のきめておるところであります。七十三條、三号のきめておるところであります。でありまするからして、行政協定は條約と呼ばれていないから、国会の承認も経ることを必要としないというような解釈は、明らかにこれは誤つた解釈であります。広義において條約の中に数えられるものは、すべて同様に、同じように取扱うべき性質のものであります。これは即ち日本国憲法七十三條三号の精神である。もとよりその際における国会の事前又は事後の承諾は、アメリカ合衆国の上院の同意権と異なつて、三分の二議決制ではなくて、通常の過半数制であります。従つて特別にアメリカ合衆国のように行政協定のみを、上院同意権の除外例として設ける必要は毛頭ないわけであります。又除外例を設けることは憲法の精神から言つて、許されることではありません。行政協定の締結を以て七十三條二号のいわゆる外交関係を処理する権限の中に加えるということももとよりこれはできるものではありません。それは外交関係の処理と申しますのは、外交関係の措置の決定を言うわけであつて、條約の一つである行政協定のこの決定と根本的にこれは異なつておるものと考えなければならない。つまり條約の一種である行政協定を決定することは、これは行政行為とは言われておりますけれども、行政行為という点ならば、ほかの條約についてだつて同じことが言えるわけでありますからして、それは外交関係の処理であるというふうに行政協定のことを考えるべきものではなくて、その性質上明らかに他の條約と同じように、特殊的な国際法の設定に属することだ、このように申さなければならないからであります。要するに行政協定は日本国憲法との関係におきましてこれを見る限り、他の條約と異なつた取扱をすべきものでは決してないということになります。ところが行政協定を以て安保條約の委任命令のように考えている説が行われておりますが、併し両者は法律と委任命令との関係にあるものでは決してありません。勿論安保條約三條は、「アメリカ合衆国の軍隊の日本国内及びその附近における配備を規律する條件は、両政府間の行政協定で決定する。」とあります。で、行政協定を決定するとありますけれども、委任するとは書いてないわけであります。これは予定しているわけであつて、将来そういつた問題については、行政協定と称せられる條約できめるということを予定するのだということをきめておるだけであつて、委任するとはきめていない。そのように行政協定と呼ばれる條約が、安保條約と呼ばれる條約の第三條によつてその存在するべき主たる根拠が與えられておるということは言えますけれども、併しながらその右安保條約三條は、今後アメリカ軍の日本国内及び附近における配備は行政協定と呼ばれる條約で以て取極めるということを定めておる、予定しているのであつて、委任じやなくて予定しておるのであつて、国会を無視してよいということを定めているものではないわけであります。又條約には、国内法の場合における法律と命令との間において見られるような、制定機関についての相違はないわけであります。即ち国内法におきましては、法律の制定機関は国会である、国会が即ち唯一の立法機関である、ほかの法令はこれは或いは政令は内閣で以て定める、或いは裁判所事務処理規則は最高裁判所で定めるという工合になつておりますが、法律の制定機関は国会のみであります。ところが命令の制定については国会はこれにタツチしないところであります。ところが條約の場合には、トリーテイーと言われるものでもアグリーメントと言われるものでも、チャーターと言われるものでも、何でもすべて日本におきましては……、アメリカではありません、日本におきましては内閣が外国のそれぞれ所定の国家機関との協力におきましてその締結又は決定の任に当るのである。言い換えれば我が国の制度としては、條約の制定機関は一定しているわけであつて、内閣がこれに当る。そうしてその事前、又は事後におきまして国会がその承認の権限を持つことになりておるという点においても、條約の種類ごとに何ら相違のあるべきものではないのであります。同じであります。これは法律とほかの命令との関係とは全く違つたところであると申さなければならんと思います。我が国におきましては例えば参議院のみが、或いは又衆議院のみがその承認権を與えられておるのではなくして、国会がその承認権を與えられておるということとも関連して、このことを理解さるべきであるというようにも考えられるのであります。 要するに安保條約第三條に根拠して行政協定が決定されるものであるとは言え、その決定に際しましては、安保條約は国会の承認を経て定めるのであり、同じように国会の事前、又は事後の承諾、承認に基くことを要するわけであります。その論理は、つまり安保條約は平和條約に基いて定められておることは、安保條約の前文に徴して明らかではありますが、而も二つの條約は別々に国会の承認を必要とするものであり、且つそのようになされたのと同然であると申さなければならんわけであります。従つて例えば行政協定も、この二つの條約に下属の條約であるということを認めるとしましても、すでに安保條約が国会の承認を経て定められているのでありまするからして、これによつて決定される行政協定が、 〔理事小林政夫君退席、委員長着席〕 改めて国会の承認を必要としないということは、我が国の憲法制度としては独断であり、国権の最高機関であるところの国会の権威を軽視するものでありまして、憲法七十三條に忠実であると言うことはできないわけであります。このことは行政協定の内容が、或いは律法事項たるものがある、或いは予算事項たるものがある、そういつたものを含んでおるということ、それ自体国会に付議してそれは定めなければならない性質を有しておるものであるということとも関連して考うべきものでもあり、この点も注意すべき点ではなかろうかと思うのであります。即ち国民の権利義務に関する、或いは又罰則の規定もある、その内容の重大性に徴しましても、これを含む内容のものを、一定のものとしまして国会にかけないということは、断じてこれは許すべきものではない。即ちこのような行政協定は、憲法上から国会の承認を経て決定すべきものであると申さなければならないのであります。この点についてはこの参議院においても相当に論議を盡されたようでありますから、詳論をする必要はないと思うのであります。 これは要するに憲法七十三條三号は、以上に述べて来ましたように、内閣が條約の一つである行政協定を決定する場合にも、当然に、事前又は事後に国会の承認を経ることを要するものである。だからして国会の承認を求むることなくして行政協定を決定するということは、明らかに憲法の違反になると断ぜられるわけであります。なお今回のこの行政協定は、その内容としまして、「アメリカ合衆国の軍隊の日本国内及びその附近における配備を規律する條件」、これを定めているものでありますからして、一種のこれは軍事協定である。明らかに一種の軍事協定であります。ところが積極的な軍事協定というものは、戰争を放棄し、武裝を放棄した平和主義国家たる日本国では、これを締結することは憲法上不可能としているものであります。積極的な軍事協定を締結することは憲法では許されておりません。ただ辛うじて消極的、又は受動的な軍事協定はこれは許されるわけであります。許され得るのでありますが、積極的な軍事協定は断じて許されない。従つて今回のこの行政協定の二十四條は、この意味で問題になる條文であると思うのであります。即ち非常事態の場合といえども、その両国政府のとる、アメリカ及び日本国政府のとる共同措置について、アメリカは軍事行動をとることは勿論であります、勿論でありますが日本国政府はこのような軍事的措置は、これはとり得ない、軍事的措置をとることは許されないと思うのであります。即ちその場合において共同措置と申しましても、アメリカは軍事的措置をとるが、我が国は軍事的措置はとれない、ただ非軍事的措置のみを、アメリカの軍事的措置と並んでとり得る、こう解しなければならんと思うのであります。若しそうでなくて、これを積極的に解釈しますならば、この二十四條という條文は、行政協定二十四條は憲法九條の、あたかも違反になると言わなければなりません。従つて又第九條違反の、この箇條を含んだところの行政協定はこれを除くか、或いは消極的な解釈をとるのでなければ憲法の違反になるのではないか、このように私は考えておるわけであります。 まだ言い盡さない点がありますけれども、これを以ちまして憲法九條と戰力との関係及び行政協定と憲法七十三條三号との関係についての私の意見の陳述を終らして頂きます。
○委員長(和田博雄君) 只今の御意見に対して御質問はございませんか。
○吉田法晴君 この憲法九條の問題につきまして、憲法九條が命じておるとこうは嚴しいものであるということで、先ほど御陳述を頂いたわけでありますが、憲法全体から考えまして言い換えますと第九條だけでなくて、憲一法全体を流れておりますもの、特に前文その他から考えまして單に嚴しい、或いは永久に放棄しておるから途中で拾い上げ得るものではないということだけでなしに、若し憲法九條の違反が事実行われますならば、或いは憲法九條の修正が憲法上可能であるかどうかという問題になりますと、それは嚴しく禁ぜられておるのではなくて、日本国憲法全体の根本的に破壊と申しますか、或いは変革であるとしか考えられないのでありますが、その点についてどういう工合にお考えになりますか、伺いたいと思います。
○参考人(田畑忍君) 今のはどういう点でしよう、要点は。その憲法のつまり変革になるということですか。
○吉田法晴君 そういう考えを持ち得るわけなんでありますが、先ほどお話になりました中では、九條の要請は嚴しいという御表現だけでありましたので……。
○参考人(田畑忍君) いや、それはずつと述べて参つたと思うのですが、憲法の要請が嚴しいというのは、改正することもこれは許されないという意味において嚴しいということを言つたわけであります。勿論力を以て変えればこれは変えられます。けれども憲法的には、法的には変えることを許されない、変えるというのは、正しく変えることは認めておりますけれども、併しながらこれを改悪するということは認められていない。普通に行われておる議論は現在の憲法では軍備はできない、戰争はできない、或いは警察予備隊を増強して軍隊化することもできない、けれども憲法を変えれば軍備を持つことができる、戰争することができるというふうに言われておるのでありますが、私はその点反対であつて、憲法は、憲法を変えてそのようにすることもこれは許さないのである。その意味においてこれは嚴しい規定であると、こう申したわけであります。それはつまり「永久に」という言葉であります。第十一條と関連して申したもので、第十一條もやはり「永久」という言葉があります。永久に基本的人権なるものは国民に賦與した権利である。その永久に賦與した権利を剥奪することは永久にできない。永久に放棄した軍備や戰争を途中で持直すということはこれは又永久にできない。こういう意味において憲法九條は非常に嚴しい規定である、こう言つたわけであります。
○吉田法晴君 それからその次の七十三條関係でありますが、行政協定が実質上の條約であつて、国会の事前か事後の承諾を求められなければならんという点はよくわかりましたのですが、そうすると仮に国会の承認なしに済まされたといたしますならば、これは憲法上の要件を欠く、こういうことで、その効力は少くとも憲法上は無効だと申しますか、そういうことになると思うのでありますが、そうなりました場合のこの無効であろうかどうか、法律的な効果、それからそれに対してそれではこれは政府のこういう手続が、若し国会の承認を得ないで進められた手続は憲法上違反であるとして、この違憲訴訟の一つの問題になり得ると思うのですが、それについて先ほど中村教授にもお尋ねをしたのでありますけれども、国会自身の一つの判断ということも、この問題についての憲法上の大きな判断だと思うのであります、それからもう一つは憲法裁判ということも一つの問題であると思うのでありますが、そういう点について、どういう工合にお考えになりますか。
○参考人(田畑忍君) その点につきましては、憲法違反の政府の行為によつて、つまり結局国会にかけないで済まされたとしましても、條約そのものは効力を生ずると私は考えます。併しながら国内的な関係においては政府に責任が残るわけであります。その責任に対しまして国会はこれを彈劾し、それを追及しなければならない、そういう職責があるのじやないかというふうに考えます。
○吉田法晴君 その国会の判断、或いは政治的な問題は前半で承わりましたのですが、單に国会の意思を表示する、或いは政府の政治的な責任を追及するということだけではなくて、憲法上のこの要件が満たされなかつたとして、例えば憲法裁判という問題になり得るかどうかという一点をお伺いしたい。
○参考人(田畑忍君) それは勿論憲法裁判の問題になり得ると思います。
○吉田法晴君 もう一点だけ承わりたいのですが、それはこのお話の中に外国人のプライヴエイトな不法行為と申しますか、これを排除することは、これは戰力ではないというまあお話があつたように思うのでありますが、この外国人のプライヴエイトな不法行為というものが、例えば若しこの宣戰の布告がないというようなことでありますならば、これは数の問題になりますが、ただ数が一人二人でなくて部隊になる、相当の人数になるという場合に、單に数の問題だけではなくて質的の変化も起して参ると思うのであります。それからもう一つはお話の中にありましたように、警察行動と軍事行動との限界がむずかしいと同じように、これは対外的にもその問題は起つて参ると思うのであります。従つて外国人のプライヴエイトな不法行為に対するものであるならば、それは警察行動の範囲を出でないということは非常に誤解を生みやすいという感じがいたします。その限界をもう少し具体的にお話しを頂きたいと思います。
○参考人(田畑忍君) 先ほどもその点申したのでありますけれども、外国の国権の下にある軍隊と戰うということはこれは許されない、憲法はこれを禁じておるのであります。ところがプライヴエイトな外国人が一人二人、或いはもつとたくさん群をなして叛乱をする、或いはその不法侵略をするという場合には、これは公的性質を持つていない、即ち外国の主権の下にあるものでない。これに対してはこれは警察的な措置ができる、鎭圧ができる、こういう意味で言つておつたわけです。即ちその限界の点はどこにあるかと言えば、外国の主権の下に属している軍隊であるか、主権から離れて勝手な海賊行為とか何とかいうそういうことをやつているものであるかという点に限界の点がある、かように考えたわけです。ほかに考えられる点があるかも知れませんが、一番それが重要ではないかと思います。
○岩間正男君 一点だけお伺いしておきたいのですが、先ほどのお話では行政協定は一種の軍事協定だ、こういうお話でありましたね、従つて今度共同措置をとるというような場合には、日本としては軍事行動はとらない、従つて非軍事的な面で協力しなければならないだろう、こういうお話なのですが、併しもう一歩進めまして軍事協定を結ぶ、こういうことが日本の憲法の精神から言いましてこれは果して違憲であるかないか、この点もう少しもつと一歩を進めた先生の御意見を伺いたいと思うのであります。
○参考人(田畑忍君) それは軍事協定を結ぶ、その軍事協定には私は二つあると思う。一つは積極的な意味の軍事協定である、これは日本が戰争を放棄して軍備を放棄しているという建前から言つてそういう積極的な意味を持つた軍事協定を結ぶことはこれは絶対憲法で許さない、こう考えるわけです。併しながら消極的な意味を持つた軍事協定、これは許される、つまりその相手国が軍事行動をする、それによつて日本を防衛する、そういう目的内容を持つておる、ところがこちらはそれと共同はする、共同の措置には出るけれども、こちらとしては戰争行動、軍事行動には出ない、こういう内容の軍事協定が即ちこれは消極的な意味においての軍事協定である。こう考えるわけであります。この意味の軍事協定をするということは必ずしも私は憲法違反にはならない、こう考えます。
○岩間正男君 今の積極的、消極的というのは、一応の論理の上では建前をとられたのでありますが、併し消極的軍事行動というやつがいつ積極的に転換されるかわからないのです。情勢の如何によつては積極性に転換されるということは、さつきの先生の御説明によつても潜在的戰力というようなやつはいつでも軍力に編成替えできる、そういう要素を非常に持つものだ、こういう点から考えまして非常にその点は一応論理の上では、形式の上ではわかり切つておるのでありますが、そういう危險性がある、そういうふうに思われますと、こういう点をつきつめて考えますと、こういうふうな虞れのあるところの軍事協定的性格を持つた協定を結ぶということが同時にやはり違憲の性格を帶びて来る、こういうように考えられるのでありますが、その点如何でしようか。
○参考人(田畑忍君) その点は、その危險性はお話になりましたように十分私もあると思うのであります。それは危險性であつて、危險があるということと、危險であるけれどもその危險の区域にまで入らないということは、これは別じやないか。はつきりと日本におきまして飽くまでも戰争放棄の憲法を守る、軍備放棄の憲法を守るという建前においてそういつた協定に従つて行動するということを禁止して行くならば、危険性はあるけれども危險を免かれることができる、従つてそういう意味において軍事協定、消極的の意味においての軍事協定を結ぶことそれ自体は私は違憲にはならない、ただ後におきまして転換することがあればその瞬間から違憲になる、そういうふうに考えてよろしいと思います。
○吉川末次郎君 今吉田君の質問せられたことについて田畑博士がお答えになつたのは、行政協定の違憲性というものは、憲法第六章の司法の項に規定されているところの違憲裁判の対象になるというような御答弁であつたと思うのでありますが、それにつきましては私も実は問題にいたしておるのでありまして、法務総裁に答弁を求めておるのでありますが、まだその答弁を欠席いたしておりまして受けておらんわけであります。ところがこういう考え方があり得ると思うのであります。即ちそれは憲法の第八十一條によりまして「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」と、こういう八十一條の規定でありますが、これを表面的から解釈いたしまするというと、條約即ち講和における條約の違憲性ということはこの條項には当てはまらないのじやないか、即ち裁判所はその違憲性を裁判するところの権限を持たないのではないかということであります。 即ち一切の法律とありますが、行政協定は即ち法律ではありません、又命令でもありません、規則でもありません、強いて該当する文言といたしましては処分という言葉でありますが、これも私は該当しないのではないかという疑いを持つのでありますが、今それはできるというところの御答弁であつたのでありますが、この憲法八十一條との関係においてどうでありますか。なおそれ以外の憲法の條文のどこかの文言に該当するものとして、これは最高裁判所その他の裁判所に出訴することができるものであると、法律的な論拠はどこからお言いになるのでありますか。結局私はできないものであるといたしまするならば政治の最高の機関であるところの国会がこの違憲性を糾明して、そうして国会に付すべしというところの議決をすることによつて対抗するよりほかはない、然るに衆議院は御承知のような與党が多数でありまするからこの違憲性の糾彈を現段階において本当になし得るところの正しき国会の機関は参議院のほかにないという意味においては、私は参議院の與党並びに中立である緑風会の良心ある議員の私は政治的良心に非常にアピールしているのでありまするが、そうした問題と関連いたしまして今申上げたことについての御答弁をもう一度頂きたいと思います。
○参考人(田畑忍君) この八十一條でございますけれども、今お話になりましたように條約は含んでいない、法律と命令と規則、処分であつてこの條文の中には條約は入らないと思います。
○吉川末次郎君 ないかという私自身も疑問を持つているのです。
○参考人(田畑忍君) 入らないと私は思うのです。併しながらそういつた條約を憲法に違反して締結したという責任はあるわけです。それは條約を締結したということについての処分と考えることができるのじやないかと思うのです。従つてそれ自体じやなく、條約それ自体の違憲性を裁判所において問題にするということはこれはできないということが八十一條から言えるのでありますけれども、併しそういつた違憲性のある、違憲の條約を政府が締結したという責任はあるわけです。これは処分ということになると思うのであります。それについてこの違憲の訴えを裁判所に提起するということが可能なのじやないか、こう考えるわけなんです。併し勿論どこにこの重大な解決点があるかと言えば今お話になりましたように国会だと思います。それは今の七十三條三号、これに関連して出て来ると思います。それから又四十一條、国会は、国権の最高機関である、そこから出て来ると思うのです。唯一の立法機関であるというところから出て来ないと思うのです。立法機関というところはさつき申しましたように法律制定機関でありますからそれには関連がないと思います。最高機関であるからその最高機関たる国会は七十三條の三号によりまして、この七十三條の三條に違反した行為を政府がした場合にはそれについてこれを追及し、彈刻する権限が国会にあると考えることができるのじやないかと思います。
○委員長(和田博雄君) ほかに御質問がなければ本日はこれにて散会いたします。 午後四時三十八分散会