海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第12号
- 発言数
- 56 件
- 登壇者
- 10 名
- 会派数
- 3
- 開催日
- 1952/04/22
会議録
○小平委員長 これより会議を開きます。 本日は海外同胞引揚に関する件及び南方諸地域における戰没者の遺骨調査に関する件について議事を進めます。まず南方諸地域における戦没者の遺骨調査に関しまして、過般沖縄におもむき戦没者の遺骨状況を調査しておりました調査団が十八日に帰られましたので、本日ここに関係当局よりその調査の結果につき報告を求めることといたします。まず引揚援護庁長官より概括的な報告を願います。木村引揚援護庁長官。
○木村(忠)政府委員 沖繩の遺骨調査のために、先般遺骨の調査団を政府において派遣いたしたのでありまするが、この調査団は、三月十五日に東京を出発いたしまして二十二日那覇に到着いたしまして以来、沖繩本島及びその周辺の諸島の遺骨調査の任務を終りまして、去る四月十八日に帰京いたしたのであります。 ただいまその調査の結果の報告に当りまして、本委員会におきまして、調査につきまして格別の御配慮を寄せられましたこと、さらに遺骨のお出迎え並びに御献花、御焼香をいただきましたことに対しまして、まずもつて厚く御乳を申し上げたいと存じます。 御承知の通り、沖縄本島は南北の長径百キロを越え、さきに遺骨の調査を実施いたしましたる硫黄島に比較しますると、数十倍も大きな島でございます。この沖繩本島におきまする戰鬪は、昭和二十年四月一日に始まりまして、一部におきましては終戦後も戰鬪が行われておつたのでありまして、米第十軍約六師団に対しまして第二十四師団、第六十二師団等を基幹といたしまする牛島中将麾下の第三十二軍及び那覇地区にありました海軍部隊が戰鬪いたしたのであります。この地上戰鬪の主要職場となり、従つてわが将兵の遺骨の大部分が残つておりまする地域は、本島の南端、人口の密度の最も高い島尻地区でございまして、面積は全島の五分の一にすぎない地域であります。米軍がこの狭い地域に費しました鉄量は、百七十四万トンに達するといわれるのでありまして米軍最高指揮官でありとます第十軍司令官バツクナー中将もここで戰死いたしておりますし、その損害は数万に達したほどの激戰が続けられたのであります。わが方におきましては、軍が組織的抗戰力を失うに至りました六月二十一日までの八十二日間、及びその後のゲリラ戰鬪並びに海空で失いました将兵の数が八万八千六百名に上つておりますことは、さきに提出いたしました報告にある通りでございます。 この戰鬪の渦中にありました住民かりも、きわめて多数の犠牲者を出しまして、また土地の荒廃もはなはだしかつたのでありまするから、その後、わか将兵の遺骨の状況に関しまする断片的な情報はしばしば耳にいたしておつたのでありまするが、実際の状況を予測することは困難であつたのであります。 調査団は、三月二十二日那覇に到着委員会議録第十二号いたしましてから、四月十一日までの間、沖繩民政部、琉球政府及び県民、よた沖繩復興のために協力いたしております内地の業者等の各方面から絶大はる支援を得まして、主職場でありました島尻地域を初めとして、全沖繩本局、それに伊江島慶良間群島等、戦鬪の起りました離島をも踏査いたして参つたのであります。 調査団が遺骨の状況について報告しましたところを総合いたしますると、第一に、遺骨の大部分は、各地に建設されてある慰霊塔の中に、住民の手によつて丁重に納められ、かつねんごろに教養されておることであります。第二に、しかしながら、本島北部の山岳密林地帶、その他人跡のきわめてまれな出域には、まだ納められていない遺骨が残されておることは想像され得るところでありますばかりでなく、その他に、沖繩固有の宗教的慣習から、洞窟内の遺骨にはまだ手を触れられていないものが残つておるようであります。第三には、今後調査いたしまして、その氏名を判定し得ると予想される遺骨はきわめてまれでありまして、また氏名判定上の一つの有力な資料となるべき遺品も、あるいは焼失し、あるいは煙滅いたしまして、残つているものはぐわめて少数であるということであります。 以上申上げました事情につきまして、若干御説明を加えたいと存じますが、終戦直後琉球政府が調査いたしたところによりますると、終戰前におりました沖繩本島の住民四十九万二千百二十八人の中から出た戰没者の数は、十六万五千五百三人ということになつしおるのであります。もちろんこれは今残つておりまする者から調査いたしたものでありまして、戸籍等が全然焼けてしまつておりまする状況におきまして、今生き残つておりまする人々によりまして調査いたしました数でございますので、これよりも多くなることはありましても、少いということは考えられないという数字でございま この戰没者の大部分は、国内戰の常とは申しながら、将兵も住民もほとんど同一の行動をとりつつ、この狭い島尻地区でまくらを並べて相ともに戰沒いたしたのであります。この島尻地区におきまする戦没者の数の中で最も今多数のものが島民でありますことを行えますると、まことに胸迫る思いがいたすのであります。しかもその上にここで辛うじて生き残りました住民の全部が、戦鬪に引続き、島内の他の地域に立ちのきまして、收容所内に入ることを命ぜられまして、自分の肉親の遺体にすら手を触れることのひまもなかつた、手を触れることを許されなかつたというのが実情でございます。この收容所の生活も短かい者で一年、長い者は三年にわたつておりまして、その期間の後に、以前の居住地に帰ることを許されたのでありますが、帰りましたときにおきましては、家は全部燒かれてなくなつており、草木さえもなく、その土地の状況も一変いたしておつたということでございます。従いまして住民も、自分の肉親が自分の目の前で倒れ、その場所も確実に記憶しておつたはずのものでさえも、自分が帰宅いたしましたときには、累々たる遺体のうちに、どれが自分の肉親のものであるか、将兵のものであるかということがとうてい判別さえもつきかねたのが普通の状況であつたというふうにいわれておるのであります。あるいは辛うじて土をかけることができた遺体の上に、また別の遺体が埋められたり、あるいは埋葬した人が別のところで倒れるというような、今の私どもといたしましてはとうてい想像することもできなかつたいろいろの事情が錯綜いたしまして、相重なつて遺骨の判別を不可能にいたしておるのでございます。帰宅いたしました住民は、焼け跡に遺骨を整理しながら、多量の鉄のために不毛に近くなりましたわずかの土地を耕しまして、遺骨を見かけますればこれを整理するといつたようなぐあいにいたしまして、次第に納骨所のようなものができて行つたようであります。戰没いたしました自分の肉親の遺骨を手にすることができましたのは、全体のわずか五%にもならないというのが実際の状況であつたようであります。しかしながら特別に信仰心の厚いこれらの島民におきましては、驚くべき忍耐をもちまして、窮乏をきわめた生活に耐えながら、その後も多大の犠牲を拂いまして部落ごとに慰霊塔を建設して遺骨を納めて供養するというような状況でありまして、戦鬪の最もはげしかつた本島南端の三和村におきましては、こういう慰霊塔が十七箇所建立せられておりまして、そこに納められました遺骨の数も実に七万五千柱に上るというような状況でございました。かつて一部において伝えられておりましたように、故意に遺骨が放置出れておるというようなことは絶対に考ええられないというふうに、調査団は報告いたしております。かような状況のもとにありまする遺骨、遺品のうちで、今回調査団の捧持して帰りました在名のものも、きわめてまれに特例的に発見されたところのものであります。 以上申し上げましたような実情にあります沖縄の遺骨をいかに処理いたしますかにつきましては、今回の調査の結果をさらに整理いたしました上で、海外に残されました遺骨全般との関係も考えながら、今後さらに愼重に検計いたしまして、遺族は申すに及ばず、国民一般の心情に十分にこたえられますようにいたしたいと存じておるのであります。 最後に繰返すようでございますが、重ねて申し上げたいと存じますことは、わが戰没将兵の遺骨に対しまする琉球政府及び県民の心からなる取扱いでございます。さきにも申しましたように、沖繩の本島におきましては、全人口の三三%に近い人々を失つており、家屋は九五%焼かれておりますしに、暴風等の災害は重なつて起り、荒廃からの復興意にまかせぬものが多いように承つておるのであります。それにもかかわらず、政府からはさきに三百柱の遺骨がこちらに送られておりまするし、また現地におきましても、島民の多大の犠牲によりまして、わが将兵の遺骨が手厚い取扱いを受けておりますることは、私ども当初予想し得なかつたところでありまして、琉球政府並びに県民の御懇情に対しまして衷心から感激いたしまするとともに、いささかなりともその同胞愛に報ゆるの方途を講ずべきであるということを痛感いたしたのであります。目下衆議院の審議を終りまして参議院で御審議を願つておりまする戦傷病者戰没者遺族等援護法案も、近く成立いたします。ようにわれわれは期待いたしておるのでありまするが、これが成立いたしましたならば、沖繩県民も、同法の規定するところに従いまして援護を受け得られることになるのでありまするが、ただ現在のところ、日本政府が沖繩に対しまする行政権を持つていないので、実施上につきましていろいろの研究を要する問題が残つておるという状況でございます。従いまして、これらの問題につきましては、なるべくすみやかに解決いたしましてできるだけ早くこの援護の手がさしのべられることができますようにいたしたいと考えておる次第であります。 なおまた来る五月二日に予定されておりますところの全国戰没者の追悼式典におきましても、とりあえず内地に在住されておりまするところの沖繩県出身戰没者の遺族代表の方々の参列を願うように措置いたしておるのでありまするが、なおそのほかにも、沖繩から代表としてお見えになりまするいろいろな方々につきましても、何とか参列ができるようにいたしたいというふうに、その方途を検討いたしておる次第でございます。この点をつけ加えて御報告いたします。 なお遺骨調査の細部につきましては、これに参りました森下事務官、松木事務官が参つておりますので、なお漏れた点につきまして補足的な説明をいたし、また御質問にお答えいたすようにいたしたいと思います。
○小平委員長 それでは引続きまして松永事務官より補足的な説明を聽取いたします。松木事務官。
○堤委員 ちよつと議事進行について。出席の委員も大体お顔ぶれがそろつておると思いますから、地図がありますので、あまり遠いと説明なさる方も不便でありましようし、私たちも何ですから、少し会場を整理して、もう少し近くでやつていただいた方がいいんじやないかと思います。
○小平委員長 承知しました。
○松木説明員 沖繩の遺骨、遺品の状況について御報告いたしますが、その前に沖縄の人々は、遺骨に対しましてどういう態度をとつておられるかということ、それから戰鬪が始まりましてから、遺骨に関連する事項はどういう経緯をたどつて来たかということが、関係がございますので、まずこれについて申し上げます。 沖繩の人々は祖先崇拝の心が非常に厚うございまして、自分の家屋よりも墓地を大事にされまして、多額の費用を投じて墓をつくる。そうして仏事の日には墓前にござを敷きまして御供養するという習慣がございます。この墓地には戦前の費用で三万円もかけてつくつたのもあるというような状況で、これは内地と非常に違うところでございます。それから沖縄の人々は、なくなりました人を生のままのからだで棺に入れましてそしてこういう墓地の中に納めます。そしてふたをいたしまして二、三年たちましてからこのふたを開いて、中から棺を出します。そのときは骨ばかりになつて肉は落ちておりますので、そのからだを河原のところできれいに洗いまして、これを洗骨と申しますが、洗骨いたしましてから、これくらいのかめの中に生の骨のまま頭骸骨を一番上にして入れて、そしてその上にふたをいたしまして、この中に納めます。それでこのかめの中にありますお骨に対しましては、永久に対面ができるという習慣でございます。 以上のようなわけで、沖縄の人々に接触いたしまして感じますことは、沖繩の人々はお骨に対しましてはこれを恐れない、恐怖しない、しかしながらお骨に対しましては非常に畏敬の念を拂う、尊敬する、こういう感じを受けます。この考え方が一般の自然洞窟なんかにも及ぼされておりまして、こういう墓地の中には生のお骨のまま入つておる。これは独立した建物になつておりますが、多くは山の斜面にこれができております。従いまして山の斜面なんかに入つております。この洞窟の中に死んでそのまま白骨となつておる人がたくさんあるわけでございますが、そういうお骨に対しましては、こういう墓地の中にあるお骨と同じような考え方をしております。 次は遺骨、遺品、これに関係します。沖繩戦鬪の経過について概要を申し上げます。第三十二軍は、主力をもちましてこれから南の地区を占拠いたしまして、ここで持久戦闘をやり、一部をもちましてこちらの中頭郡国頭郡という方面で遊撃的な、ゲリラ的な戰鬪をするということでございまして、それは兵力が少かつた関係でございます。この沖縄の戰場化ということが予想されましてから、内地の方に学童その他の疎開をやりまして、その数は約十万といわれております。それから昭和二十年の初めごろから敵の上陸も近いという状況になりまして、この地区に戰場を予想しておりますので、この地区の人々のうちより年寄り、子供というような人々を国頭方面に疎開をさしております。その他の人々につきましては、米軍が上陸いたしましたならば、軍の方で指導いたしまして、国頭方面に疎開させるという状況になつておりまして、二十年の一月から二十年の三月までの間に疎開しておつた人が約三万、それから三月の末から艦砲射撃が始まりましたが、そのころからあとに疎開しました人が約三万、こういうぐあいにいわれております。こういうあわただしい空気の中におきまして、沖繩に派遣せられておりました将兵は、沖縄の人々にいろいろ遺品となる品物をお預けになつたというようなことが相当あるようでございますが、あとから申しますが、全本島が戰場になりましたために、すべての人が無一物でさまよい歩かれたという状況でございますので、そういうのはほとんど残つておりません。 次は沖縄戰鬪の推移と遺棄死体の処理でございますが、四月一日にここに上陸をいたしました米軍は、これを瞬時に両断いたしまして、主力をもつて南の方を攻撃し、一部でもつてこちらを攻撃するということになりました。その前に三月の二十六日に、こちらにあります慶良間島、座間味島、渡嘉敷島というような方面に上陸しております。四月十五日に伊江島に上陸するというようなことで、戰鬪が始まりましてから、各地区の戰鬪の状況はかわつております。その戰鬪の特質に応じて遺体は処理されたということになります。この地区におきまして、米軍は、御承知の通り物量攻撃とよくいわれておりますが、厖大な軍需品を利用いたしまして、またたく間にブルトーザでもつて大きな道路を建設をする。川には鉄橋みたいな金網みたいな橋をかける。そういうふうにいたしまして、自動車道の推進をする。たくさんな軍需品を運びまして集積をする。それからそのほかには幕営地をつくるというようなことで、米軍が作戰上必要とする地積がたくさんできて来たわけでありますが、 〔委員長退席、池見委員長代理着席〕 その地区に遺棄されておりました死体につきましては、米軍は投降いたしました沖繩の住民を使役いたしまして、その地区の遺棄死体を集めて埋葬したというぐあいにいわれております。そのこまかい状況はよくわかりませんです。この戦場には至るところ陣地があつたわけでありますが、この厖大な死体は百七十万トンに及びまする鉄量のために、壕で埋没したものが多いと考えられます。遺骸を戰友が簡單に埋葬したというようなのが、これは相当多数あると考えられます。いろいろな記録を見ましても、野戰病院等で、夜間を利用しては遺骸を出しまして簡單に埋葬したというような記録がたくさんございます。大きな投下爆彈の彈痕がありますと、その中に死体を入れる、そうして土をかけまして、その上つに目印の石を置く。ところがほかの人が知らないで、その上に死体を入れて土をかけて石を置く。またそれを知らない人がその上に死体を入れて砂をかけるというような事態が随所にあつたようでありまして、あとで心あたりのところへ行つた住民の人々が掘つてみますと、土、死体、土、死体というような状況があつた、こういうことも聞きました。これから南の方でその戦闘間に立てた墓標というのは、わずかに首里で一箇所だけございました。 それからずつと南の、現在は三和村といつておりますが、そこの一部落で負傷した人が、倒れたままの姿勢で木に自分の名前を掘りつけて、その下に白骨になつておられたというのが一箇所だけございます。それ以外には、今のような激しい戰鬪の中ではつきりとした証拠を残している墓地と申しますか、遺体と申しますか、そういうものは見当りません。六月二十日に各部隊とも連絡が絶えまして、これら部隊の指揮はできない。各部隊はそれぞれの位置におきましてできるだけ戰鬪するようにということになりまして、その以後におきましては、生き残りました者は、敵線を突破して国頭方面に出るとかいうようなこともあつたのでありますが、そういう関係とか、あるいは六月でありまして、現在でも向うの人は短かい開衿シヤツ一枚でおりますが、六月の暑さで、しかも戰鬪の末期の状態でありますから、簡單な服装をしておるというような状況で、住民と軍人との服装の区別もほとんどつかなくなつておつただろうというようなことも考られます。大体こちらのりらの戰鬪間の経過についてはそういう状況でりあります。 中頭、国頭方面は、それと比較をいたしますと、住民がたくさんおり、部隊はごく少数でございまして遊撃戰鬪が行われた。従いまして遺体処理もいくらか南方とすると恵まれておる状況にあるということが考えられます。座間味諸島、こういうところにおきましては、部隊の兵力は非常に少く、住民と兵士が仲よく交わつておりまして、お互いに名を知つておる。何々上等兵がここでなくなつておるというようなぐあいで、住民がすぐ拾つて埋葬してくださつたというようなことが特色をなしております。伊江島は米軍が上陸いたしましてから、ここは玉砕した。そうしてそのあとにおきまして、住民を全部ほかへ移した、こういうのが特色になつております。 次は、今のような戰鬪が終つてから、住民は収容所の生活に入つたわけでありますが、その収容所の生活が終つて各村に帰つて来るようになつた。それまでの遺骨をめぐる状況について申し上げます。アメリカ軍は作戰の進捗に伴いまして、投降いたしました住民を久志あるいは東村、知念、三和村の一部、こういうところに収容所をつくりまして住民を全部隔離しております。そうしてそれ以外の全戰場は住民が一人もいない地域にする、家屋のない地帶にする、そういうぐあいにいたしまして、残存して抵抗する日本軍将兵の掃蕩に力を盡したと考えられます。長期抗戰を企図いたしまして各地に将兵が残存抵抗しておりまして、一例を申し上げますと、ここに、糸満の東南のところに国吉というところがございますが、国吉の自然壕の中では、北海道の歩兵第三十二連隊の将兵が抵抗いたしまして、これが終戰を知りまして、連隊旗を燒きまして武装解除を受けたのが八月二十三日のことであります。それからこちらの方では、国頭の方で村上護郷隊長以下が山を下つて出て来ましたのが二十一年一月でございます。伊江島におきましては、今のように米軍が占領して住民を佛つてやつておつたのでありますが、日本軍が再捜して来たならば、一番先頭になつて案内するというかつこうで武装を完全に持つたままで二人の人が隠れておりました。その人が出て来ましたのが昭和三十三年、これは伊江島でその当時の状況をお聞きしました。こういうぐあいで、六月の二十日に組織的な抵抗が終りまして、大体沖縄の戰鬪は終末を告げたというものの、その後におきまして各地に残存した将兵が抵抗を続けまして、従いまして依然として戰場状態が続いておつたということであります。それで今までの間に百四十七万トンの鉄量と火焔に翻弄せられた死体は、こういう長い期間風雨にさらされまして、完全に白骨と化し、氏名を弁別する目じるしとなるようなものはすべて腐蝕してしまつたということであります。住民は今のように隔離されておりましたが、その地域から各村に帰つて来ましたのは、早くて一年、おそくて二年、三年というぐあいになつております。現在でも、米軍の使用しております地域は復帰できないでおります。この村に帰ります状況は、まず若い人を派遣いたしまして準備をさせる。それからその村の中のある一部落を限つて住民を移住させる。次いで次の部落つに拡張して行かせる。また次の部落に行かせるというかつこうで、一つの村に、全村民が元の自分の古巣に帰るというのには相当の期間を経過しております。そこで収容所から住民が帰つて来たときは、戰鬪直後においては、全島赤はげになりまして——赤はげと申しますか、白い灰色の土と申しますか、そういうふうなぐあいになつておりましたところに、青い草が一面に生え茂つておるという状況になつておつたとのことでございます。それで完全に白骨化した遺骨がその青草の下に隠れておつた、こういうことでございます。今のような状況の中で、那覇と首里とのまん中のところに真和志村というところがございますが、真和志村の人々は、米軍がここに上陸しまして、ずつと押して来るこの間に、住民は一緒に押されてこちらに来ておりましたわけで、この付近の帰没した真和志村の人は、この村のここのところに集結しておつたわけでありますが、この収容所生活の間に、願いを出しまして遺骨收集を初めまして、有名なひめゆりの塔とか、健兒の塔とか、魂醜の塔とかいうのを建てまして、その後におきまして、真和志村の方に、さつき申しましたような状況で帰つております。帰つてまた自分のところの收骨を始めております。こういう状況でございます。この地区だけを真和志村の人々がやつてくれた以外は、先ほど申しましたように、住民が帰つて来るまでは遺骨はそのままであつたということであります。 次は、村に帰りましてからの遺骨の問題でありますが、住民は無一物で、飢餓にさいなまれながら、三箇月間鉄の暴風下を彷徨いたしまして、次いで收容所で自由を奪われておつたのでありますが、それから村に帰りました。 〔池見委員長代理退席、委員長着席〕 その村に帰りましたときの状況は、御想像がつくかと思いますが、帰つてみますと、まず家が全部焼き放たれておるということ、それから先ほどもお話がありましたように、全沖繩本島における人の損害が三三%でありまして、従いまして肉親の顔が見えない、あるいは親類の顔が見えない、友達の顔が見えない。各家庭とも一家五人平均としますと、そのうちの二人くらいは死んでおるという平均になります。それから畑は砲弾でくつがえされてしまつておりまして、青草が生えておる。今まで山に木があつたところのその木が全部なくなつております。従いまして食を得ようにも畑は荒廃しておる。燃料を切り出そうにも、山には木は一本もないという状況、ただ気候が暖かいところでありますから、被服類、寝具類についてはそれほどの不自由を感じない、まあそういう状態が考えられます。そういう状態で住民は帰つて来たんでありますが、まず自分の焼け跡に帰りまして、家の跡を、清掃する、そこにある遺骨を收集する。そうしてそのあとに、付近からかやを切つて来まして屋根をふいたり、簡単な小屋がけをする。それが終りますと、まわりの畑を草を抜いて種をまく。その間に畑の中に落ちております遺骨を収集する。こういう状態になりまして、その間まわりの付近から遺骨を收集するわけでありますが、まつたく白骨となつておつてだれのかすべてわからない。肉親をたくさんなくしているわけで、その場所にはたいてい覚えがあるわけでありますが、行つて見ますと、どれがだれだか全然わからないという状況でございます。向うの話を総合いたしますと、沖繩の人々で、自分の肉親の遺骨を拾つた者は一割以下、こういう感じを受けました。集めました遺骨は、部落の人々は協議いたしまして、その部落のある一箇所に地をトしまして、納骨をいたします。その納骨所として選ばれましたところは、大体高燥な乾燥した自然壕であります。住民は耕地を広げて行きます際、遺骨を発掘する。あるいは家の屋根をふきましたり、燃料用とか肥料用とかいうかつこうで山の草を刈りに行きますが、その草刈りに行つたときに遺骨を発見する。そういうたびごとに遺骨を持つて参りまして、ただいまの納骨所に納めます。それからだんだん余裕が出て来るに従いまして、配給のうどん粉でまんじゆうをつくつてお供えをする。あるいは部落の行事としまして、今まであまり行かなかつたところの一齊遺骨收集作業をやる。それから納骨所をだんだんいい納骨所に改装して行くというぐあいにいたしまして、集めました遺骨は、すべて部落民全部の共同の墓地と申しますか、部落のお守りである、氏神であるというような考え方に立ちまして、通常毎年二回お祭りをいたします。部落によりましては、奉納相撲をやつたりしている。こういう状態でございます。 沖繩の小学校は、ここにも写真がございますが、約九割というものは一教室ごとの掘立小屋でございます。ちようど内地の都営住宅、あるいは市営住宅というようなぐあいに、行儀よくうちが並んでおる。これは小学校でありまして、今申しましたように一教室一戸、掘立小屋で、屋根はかやでふいておる、窓ガラスも何もない、土間に机と黒板を置いておる、こういうのでございます。そういう苦しい現状でございますが、そういう苦しい中で醵金をし合う、あるいは募金に努める、こういうぐあいで、逐次石あるいはコンクリート製の塔に改造せられて来ております。南風原村、それから伊江島というようなところでは、村の全遺骨を一箇所に集めまして、一つの大きな納骨塔をつくつてございます。これも写真にございますので、あとで見ていただきたいと思います。この一箇所にまとめるにつきましては、各部落の人は、自分の部落にある納骨所には、自分の肉親や親類の遺骨が入つておるのだ、従いまして、それを村のまん中に持つて行かれることは不同意だ、こういうような気持を持つておるところもあるようでございますが、全般としましては、村全部のものを一箇所にまとめようという方向に動いておるわけであります。真和志村の納骨塔には、「有縁無縁の塔」と表の方に書きまして、裏の方に、向うの文句でありますが、「あはりちりなさやいくさのならいやすんじてこまにねむてたほれ」こう書いてあります。これは内地出身の軍人、軍属、それ以外の沖繩の人、それらの御遺骨が一緒にそごに入つておりますわけで、そのうちの肉親の人、部落の人の御遺骨は有縁の御遺骨と考えております。それ以外の内地から来た軍人、軍属の遺骨、それから他村の人の遺骨、これは無縁の遺骨と考えておりまして、有縁、無縁の遺骨に向いまして「あわれ苦しみの多きは戰の世のならいで、まことにやむないことである。どうか安らけくここに永眠していただきたい。」こういう意味の句でございます。そうして祭つてあります。大体至るところに——全島で二百ほと著名なのがございますが、南の方に特に各部落ごとに全部できております。この納骨所の大部分に有縁、無縁という言葉が使われております。 次は最近における遺骨收集の状況について申し上げます。最近におきましては、内地出身の人々で土建業者として出て来ております人々、あるいはそのうちでも沖繩戰の生残りの人、それからそちらの写真にあります仏教会の人々、それから各種学校の生徒、諸団体というような人々が收骨作業に努めております。 以上のような状況でございますが、沖繩の遺骨は現在どういうぐあいになつているか、これについてまとめて申し上げますと、まず地表面上の收骨の状況につきましては、大部分が終つておるということが言えます。部落の中、耕地の地表面、ここには全然残骨はございません。道路及びその周辺の目の届くところ、ここにも遺骨はございません。これはどんな丘陵、奥地のい道にしましても、その道路上あるいはそのまわりの目の届くところ、そこらには全然遺骨は見当りません。それ以外の山野、それから海岸、こううところには、もう一般には見当りません。ただ国頭方面の各山岳の奥深いところ、それから浦添宜野湾付近の奥地、それから與座岳、八重州岳地区、それから三和村海浜地区、こういうところの——先ほど道路のところは申しましたが、そういう道路を除きました一番奥深いところ、そういうところには若干まだ草に埋もれたところに遺骨が残つているようでございます。それから米軍が使用している土地がございますが、その内部の状況はわかりません。住民はいかなる場合におきましても、遺骨を発見いたしましたならば、必ず丁重に持つて来まして、納骨所に納めております。地表面の状況につきましては、以上の通りでございます。 次は、洞窟の中の遺骨の状況でございますが、洞窟の状況についてちよつと申し上げますと四、五百メートルも離れた部落の下をずつと貫通しておるという、大きな長い自然の洞窟がございます。中に入つてみますと、東本願寺、西本願寺に入つたときの感じみたいな大きな内部の洞窟がございます。あるいは二段にわかれ、三段にわかれ、いろいろなかつこうをした鍾乳洞の自然の洞窟が至るところたくさんございます。そういう洞窟の中の状況につきましては、洞窟内の遺骨は、一般にほとんど収骨せられていない状況でございます。完全に収骨せられているというのは、さつき申しました三十二連隊の入つておりました壕の中、ここは全然見えません。それから都市に近いところの壕で、トンネルみたいなもので、ごく短かい壕、あるいは奥行きが二、三メートル程度のだれでも入る壕、こういうところは遺骨はございませんが、それ以外の自然洞窟の中には、相当遺骨がそのまま残つております。そういう大きな洞窟の中の遺骨がほとんど収集されていない。その理由につきましては、次のように考えられます。 先ほどちよつと申し上げましたが、住民はそういう壕の中にあります遺骨につきましては、ちようど向うの様式にあります、墓地の中に保管せられている遺骨と同じ考えをしておるようでありまして、こういう洞窟内の遺骨は、すでにそこに安心立命しておるのだという考え方、こういう洞窟の中には霊気と申しますか、そういうものを感じまして、またそこの中に入るのは罰を受けるような感じ方、そういう感じ方をしている次第でありまして、青年、少年でもこういう考え方をしております。それから落盤の危険のあるものが相当ございます。それから過去におきまして爆発物の危険があつたというようなこと、なお部落の人さえも知らない洞窟が相当ある、こういうことでございます。 次は、こういう洞窟内の状況について申し上げますと、洞窟の中はほとんど全部が湿つております。雨水が流れ入りまして、土砂が入つて来る、あるいは側壁等の一部が崩壊しているという状況でございまして、たまつております水、あるいは湿つております湿りけのために、ゴム長をはいて入らないと入れないというような所が多うございます。先ほども洞窟の大きなものを申し上げましたが、そういう洞窟は、雨の直後に入りますと、洞窟の一番下の所は音を立てて地下水が流れております。それから上の方からは、鐘乳洞のつららの所から、ぽつぽつと水滴が垂れているというような状況でありまして、大体雨がやんだときでも、洞窟の中は灘潤しております。 それからこの洞窟の中の遺品の状況でございますが、今のように灘潤しております関係上、きれとか紙とか、こういうような繊維製品は全然残つておりません。残つておりますのは鉄製品のものが大部分でありまして、まれに皮革類で残つておるものがございます。洞窟内の遺骨の収集につきましては、今申しましたような状況で全然手がついていなかつたのでございますが、最近沖繩仏教会の人々、あるいは内地から渡航しております業者の中の一部の人々が、収骨あるいは遺品の収集ということに着手をしておられます。 次は、入口を閉塞せられておる洞窟の状況について申し上げます。入口を閉塞せられております洞窟は無数というほどございます。その閉塞せられている原因は、ささえておりました抗木が腐つて落盤したというもの、あるいは山の中腹にありましたのが、がけくずれによりましたも一のでありまして、この中はわかりませんが、これをかりに発掘いたしましたとしましても、名前がわかるのは数名というほど少数と考えます。個人の墓地は、住民で特に名前がわかつて埋葬しておられたというようなのがごくまれにあちこちにございます。あちこちと申しましても、先ほど申しましたように比較的戰況の閑散な方面にございます。 次は、納骨場の状況について申し上げます。納骨場を大別いたしますと、コンクリしト製のもの、それから石材でつくりましたもの、それから自然の石で四方を壁につくりまして、その上をかやでふいたもの、それから露天の納骨場、大体こういうものにわかれます。これは村の経済状態とか、その他いろいろなことに起因をしておりますが、大きな納骨堂になりますと、高さが六、七メートルになるものもございます。それから幅が六、七メートルにも及ぶものがあります。たとえば魂魄の塔というものがありますが、この中には三万百六十柱収容せられております。そういうような大きなものがございます。伊江島に芳魂の塔というものが一つできておりますが、これは全住民、全村民の奉仕によつてできたもので、作業費は全然出しておりません。ただ資材費だけを出したのですが、この資材費に向うの金で十三万円、内地金にいたしますと三十六万を投じてこれが昨年でき上つております。
○小平委員長 なるべく簡單にしていただいて、質疑に応じて答えていただきたいと思います。
○松木説明員 次は、納骨場の内部の状況でありますが、遺骨と遺品が入つております。遺骨は先ほど申し上げましたように生体のままでございまして、遺品は、遺骨と一緒に置いてさしつかえないという種類の遺品でございます。それから納骨場の収容骨数でございますが、沖繩政府でこれらを全部集計いたしました数は十五万という数が出ております。これは頭蓋骨の数を基準にして数えた数でございます。納骨場に收納されております遺骨は、これはもう御承知の通り、内地出身の軍人軍属、その部落の人々、それからその部落以外の沖繩の人で、その付近で死んだという人が一緒にまつられてあります。 大体以上のようでございまして遺骨、遺品につきましては、七年も経過しました現在におきましては、氏名が判明するというものはほとんどございません。沖縄の人々でさえも、肉親がどこで死んだということがわかつておりながら、その遺骨を収集した人は一割以下にしか考えられないという状況でございました。
○小平委員長 ただいまの報告に関連する質疑を許します。質疑は通告順にこれを許します。中山マサ君。
○中山委員 ただいまの御報告を聞いておりまして、まず第一に私の心に浮びますことは、同じ国民でありながらも、戰後の状況によりまして、今はわが国から行政的に引き離されておりながら、かくも丁寧に私どもの同胞の遺骨を守つてくれているこの島民に対して、私ども本土の者の感謝の意思表示をしたいということで、これをまずしたいと考える次第でございます。これは委員長に御一任申し上げてもけつこうでございますから、今沖繩を治めている政府のお方に、引揚委員会としてでもよし、あるいは国会としてでもよろしゆうございますから、何らかの様式によりまして、私どもが深甚の感謝をささげるということを御発表願いたいと思うのが第一でございます。 その次に私が考えますることは、今聞きますると、ひめゆりの塔の中には、この土地で、女子師範の女の子供たちが、洞窟の中で火焔砲によつて死んだ人たちがまつつてある。また健児の塔には、やはりそこの男子の学生の方々が葬つてある。またそのほかに、先ほどちよつと聞いたのでありますが、女の人たちが数名、背中に爆弾を背負つて、上陸して来た米軍に対して突撃をして、自分の命を捨てたという話も聞いておりますが、こういう人々は、軍人軍属として取扱つてくれるかどうかという点をまず伺いたいと思います。
○小平委員長 ただいまの中山君のお発言はごもつともでありますので、沖繩政府並びに島民に対する感謝の意思表明につきましては、当委員会としては、おつて理事会に諮つて善処いたしたいと思います。
○木村(忠)政府委員 軍人あるいは軍属として扱つておるかどうかというお話でございますが、国民義勇隊として活躍いたしました者が、そのときに軍人軍属の扱いができておりますればそうなつておるのですが、必ずしも全部そうなつているという状況ではございません。従いまして、今後の遺族対策としましては、これらの人についてどういうようにするかということについて十分考えなければならぬと思います。
○中山委員 今後考えて善処するというお話でございますが、せひこれはひとつ実現さしてやつていただきたいと思います。戰争が長く続きましたならば、本土におきましても、かかる運命にあつた人がたくさんあつたろうと思いますが、ここで食いとめてもらつたということは、私ども生存している国民として、深く心に感銘し、これに対する処置を私どもは推進して行かなければならないという心で一ぱいでございます。 それならば伺いますが、こういう人たちに、たとえば軍人軍属に対しましての国家補償法が通りましたが、行政的にこれが全然別の組織になつておりますが、どういうふうにしてその年金なり、あるいはそのほかのものをこちらでお届けになりますつか、その点を伺いたいと思います。
○木村(忠)政府委員 これは、今後の琉球政府と日本政府との間にどういうとりきめをするか、その関係はどうなるかということにつきましてきまるわけでございまして、法律といたしましては、当然向うの人に出さなければならぬということになるのでありまするが、どういう方法でいつ出せるかということにつきましては、われわれといたしましては、できるだけこれが早く出せるように、また全部必ず出せるようにいたしたいというふうに考えておりまするけれども、これにつきましては、琉球政府と日本政府との関係がどうなるか、琉球の地位と申しまするか、日本に対しまする地位がどうなるかということが確定いたしませんと、行政的にはどうするかということはきまらないのであります。これにつきましては、外務省の方におきましてどういうことになるかという見通しがつきましたならば、はつきりいたすだろうと思います。 一
○中山委員 政務次官がいらつしやいますが、外務省としての見通しとして、これは行政的に別になりましても、送金という面については、そうむずかしくなく行けるのではないかというような気がいたしますが、どういうことを考えていらつしやいますか、お伺いしたいと思います。
○石原(幹)政府委員 御案内かとも思いますが、近く沖繩に沖繩在外事務所といいますか、沖繩事務所が設置されるようなことになると思います。これを内閣全体の出張所のようなものにするか、あるいは外務省の出先出張所にするか、そこの最後的決定を見ておりませんが、とにかく沖繩に一つの事務所が設置ざれることになりまするので、この事務所を通じまして、今までよりはさらに一層こういう問題の取扱いが今後円滑に行くようになるだろうと思います。根本問題につきましては、先ほど木村長官からお話がありましたように、琉球政府と日本政府とこれから事務的取扱い等につきましてよく懇談折衝をいたしまして、きめて行きたいと思います。 それから沖繩との関係につきましては、入国管理令の改正法案等が通過いたしましたならば、出入国その他の関係も交通もきわめて自由になりますし、それからたしか郵便為替の送金方法のとりきめ等も、これも特例が開かれまして、今までよりはよほど楽になると思います。そういう方法を通じて、今後これらの問題は比較的スムーズに取運ばれるのではつないかと、ただいまの段階では思つております。
○中山委員 この機会におきまして思い出しますことは、今度新しく着任してみえるところのアメリカの大使のおつしやつたことについて、こないだ——これは新聞のことでありますが、この中に沖繩が日本国民という線は堅持しておきながら、行政的にこれが別にされておるということは、同じ民族であり、同じ習慣であり、同じ言葉を使つているという点から考えても、これは実に不当であるという御発言があつて、ワシントンにおいてその点を研究中であるということを私は新聞で読みまして、非常に喜んだのでございますが、この真相はどういうものでございましようか。事実そういうニユースが外務省に入つておりますかどうか。 第二問といたしましては、それはまんざらうそでもないと思いますので、もしそういう動きが新任の大使の心の中にあるのならば、外務省はこの線に沿うてどういうふうにしてこれを実現させようという御意向があるかないか、あるならばいつそれをお始めになるか、私ども始終沖繩あるいは奄美大島の方々から切にこの問題を申し込まれております関係上、私は非常に暗夜に光を見るがごとき気持をもつてこの記事を読んだのであります。外務省の御見解を伺いたいと思います。
○石原(幹)政府委員 ただいまのお話は、「われわれも先般来新聞情報といたしまして、ああいうものを得ておりまするけれども、まだ外務省に対して何ら公式のものは今のところございません。しかしながら先方におきましてもそういう気持を持つておつてくれるということは、かりに情報にしろ非常にありがたいことと思つておるのでありまして、外務省といたしましても、もちろんそういう線に沿いまして、今後この問題の妥結といいまするか、進捗をはかつて行きたい。今回沖繩に事務所ができることを向うが公認いたしましたことも、やはりその一つの現われであろうと思います。 それから沖繩、大島に限らず、小笠原等の島民の帰還問題等につきましても、最近この取扱い方等につきましても非常に向うも考究してくれておるようでありまして、これらの問題について近く何らかの明るい道が開けて行くのではないかと信じております。
○庄司委員 私の質問ば石原外務政務次官に対して一、二点簡單なものを伺つておきたい。 それは、今より約十日ほど前の読売新聞の大きなトツプ記事によると、インドのネール首相のお妹さんのパンデイツト・ネールという女性が、えらい外交官ですが、近く中共の毛沢東頭領に会見に行ぐ、その際同新聞の特派員がこのネール女史に会見した会見談の中に、わが日本抑留同胞が中共政府管内に相当多数おるが、それらの問題に関してあなたは御援助を賜わるお考えはないか、こういう質問をこの新聞記者はしておるのであります。それに同女史はお答えになつておる。そのお答えは、まことにヒユーマニテイの見地より、また同じ東洋の同胞としてお気の毒にたえない、抑留同胞が中共政府管内にどの程度の員数おるか、その数はわからぬけれども、抑留されてまだ日本に帰れない日本の国民が相当おるどいうことを聞いておるので、毛沢東氏に会見の際は、十分日本のためにそれらの抑留同胞が帰り得るような措置をとつていただけるよう懇談をしてあげる方針である、かようなことをお答えになつておるのであります。まことにこれは感謝にたえないネール女史のお言葉である。こいねがわくは、その通り毛沢東に対して懇請を願い、われわれ抑留同胞帰還促進運動に関係のある、また日本国民全体の、あるいは全国の留守家族のために、よりよい収穫をあげていただけるよう念願しておるのでございまするが、あの読売の新聞記事を外務当局はごらんになつて、何らかネール女史に感謝並びにお考えのほどを御実行くださるよう懇請でもされたか、また全然一読売新聞の報道であるがゆえに、新聞の報道にすぎないがゆえに、これを等閑に付されておるものであるかどうか、外務当局の御所見を伺つておきたいと思います。
○小平委員長 庄司委員に申し上げますが、ただいま議事の整理上、沖繩の遺骨調査に関連する質疑を許しておつたのでありますが、せつかくの質疑ですから、これだけひとつ外務省の方から御答弁願います。
○石原(幹)政府委員 ただいまのお話は、これは読売新聞の某記者におかれまして、インドのネール女史に会われた、こういう事実のようでございますが、日本政府といたしましてまだ正式の、公の何を持つていないのでございまするが、これは私がこの委員会で今日まで何回か申し上げたと思うのでありますが、講和発効後におきまして、今後引揚げ問題をさらに一層積極化する意味において、中共あるいはソ連等と正常なる国交関係に立つておる国々を通じまして、この引揚げ促進をはかりたいという常日ごろ考えを持つておるのであります。ちようどお話のインドであるとか、あるいはビルマであるとか、英国等は、そういう国に当ると思うのでありまするが、平和発効と同時にこれらの国々を通じまして、一層この問題の善処方を懇請いたしたいと考えております。そのときに、ただいまお話になりましたネール女史等に対しましても、この問題をきつかけといたしまして、十分な懇請をし、協力を願いたい、かように思つている次第であります。
○庄司委員 もう一点だけお許しを願いたいと思います。講和発効後といえば間もないことであるが、ネール女史が毛沢東と会見のためにインドを出発さるるその日時は、同新聞の報道によれば、この月の末日である、かように報道されておるのであります。よつて私は、外務大臣の名において、ネール女史の御厚意に対して心からなる感謝の意を表明されると同時に、しかるべくお願い申し上げるというような電報なり、あるいは国際電話を利用して、あるいはまた国際放送を利用して、さような措置をとらるることが、外務大臣として外務省として、まことに時宜を得た、またけつこりなことであると考えますが、何もかも講和條約の発効後と、かようなことになされることは、はなはだ遺憾千万であります。せつかくのネール女史のお言葉、また読売の現地特派員が報道されたことには、毛頭私は間違いがないと思います。さような御誠意に対しては、誠意を示して政府が御懇請なさるということが、これが親切な政府のやることである、かように考えますので、外務省におかれましては、どうか善処されていただきたいと思うのであります。私は本委員会の引揚小委員長としても、特にそれを懇請してやまないのであります。もし外務省が何らかの方法で、ネール女史に電話なり電報なり、あるいはお手紙なり、かような方法で御依頼になるという場合においては、幸い私は自分の責任において、ここに毛沢東閣下に差上げる手紙を書いてあります。全部漢文で書いてあります。ただいま飜訳したものを持つておりますが一時間が長くなるし、またただいまこの時間は私の質問の趣旨の時間でありませんので、朗読を省略いたしますか、漢文で相当りつぱな名文を書いて携帯しておるのであります。やがて委員長のお許しを得、あるいは委員長が理事会等にお諮りくださいまして、オーケーということになりましたならば、航空便なり何なり適当な方法をとつていただきたい、かように念願しておりまするが、結論は、どうかこのネール女史のせつかくの御厚意をむなしゆうすることなく、この間髪を入れない機会において、善処を要望してやまないのであります。
○石原(幹)政府委員 さつそく幹部全等におきましても十分協議いたしまして、御希望に沿い得るように善処方を考究したいと思います。
○玉置(信)委員 私は先刻の沖繩の遺骨調査に行かれました方の御報告を聞きまして、すなわち沖繩の住民の生き残られた方々が、多くの出征将兵並びに島民の方々の御遺骨を、宗教的人類愛から非常に丁重に納骨されておるということを、非常に敬虔な気持で拝聽いたしたのでありますが、そこで今日まで沖繩、硫黄島等における遺骨を内地に送還することの問題が大きく取上けられまして、今日に至つておりまするが、出征将兵あるいは軍属の遺骨を内地に送還することについて、先ほどお話のように、宗教的にその遺骨をいじるということさえも非常に恐れておるというようなお話でありますので、もし合同納骨されておるという場合に、その中から分骨いたして日本に送還をするというようなことはできるものであろうかどうか、島民の気持はこれに対してどういうような考えを持つさおられるであろうかというようなことについて、向うでお聞きになつておられますれば、この場合お話を願いたいと思います。
○松木説明員 分骨して内地にお持帰りになるということについては、沖繩の人々は異存ございません。それから火葬するということについても異存がございません。
○玉置(信)委員 先ほどの長官の御報告だつたと思いますが、その中に、まだ米軍の作業等に従事をいたして自分の村に帰れないでおる者があるというお話でございましたが、これは米軍の希望といいますか、そうしたことによつて従事しておるがために帰れないものであるか、あるいは御自分の生活といいますか、生計上進んでその事に従事をいたして自己の村に帰れないでおるものでありましようか、その点をお伺いいたしておきたいと思います。
○木村(忠)政府委員 米軍の作業に従事しておつてその村に帰れないということを申したのではございません。米軍の作業に従事いたしておりまするその場所には帰れない、こういうことでございます。
○玉置(信)委員 私時間がございませんので、残念ながらまだ数項お聞きしたいのでありますが、一番大事な基本間な問題につきましては、中山委員から御質問がございましたので、後日こうした機会がありますればそのときに譲りまして、本日はこれをもつて一応質問を打切つておきたいと思います。
○池見委員 硫黄島の調査報告を先日の委員会で聞き、さらに沖繩の状況を今ここにおいて聞きましたが、硫黄島と沖繩とは、その遺骨の内容において、はなはだ異なつておる点があるということを直感したのであります。硫黄島は少くとも軍人、軍属、しかし沖繩に至つては、今聞くように、軍人、軍属のほかに島民といつた一般人がこれに含まれておるということにおいて、硫黄島あるいは沖繩においてのこういつた遺骨の収容を、政府として今後さらに続行して行く考えであるかどうかということが第一点。 それと沖繩で収容された遺骨の中には、氏名、住所等の明確なるものが二百数十名あつた。それらの人々はその遺族に対してお骨の手渡しができるということでありますが、硫黄島においてもあるいは沖繩においても、そういつた判明しない無名戰士というか、無縁仏というか、こういうものを総合的に、きわめて至れり盡せりに、あるいは慰霊塔が建設せられ、あるいは島民によつてこれの供養が行われておるよりだが、これはしかし国内において、全国的な慰霊塔を建設すべきであると私は考える。政府においても、むしろ進んでこういつた考えがあると思うけれども、しかしこれには相当の予算その他の関係も伴うことであるということもよくわかるが、こういつた面について、政つ府のお考えをひとつお聞きしておきたい。
○木村(忠)政府委員 向うにございます遺骨をこちらに持つて帰つて、分骨いたしてこちらで慰霊するという点でございますが、これにつきましては、現地の人々の意向も考えなければなりませんが、ただいま申し上げましたように、現地の方では、分骨するここについて異議はないようでございますので、これらについても十分考慮いんしまして、なおこちらにおられる残された遺族の方々及び国民全体の気持はどうであるかということも十分に察しまして、これに沿います措置をできるだけすみやかにいたしたいと思います。
○池見委員 硫黄島においては、まだ二回、三回と収容するため渡航したならば、収容可能なものが相当数ある。あるいは沖繩においても同様と考えるが、こういつたいわゆる収容行動をさらにまだ続行するつもりであるかどうか。
○木村(忠)政府委員 われわれといたしましては、硫黄島については現地において収容いたしまして、こちらに持つて帰りますことも考えなければならぬと思つております。なお沖縄につきましては、これをいかにしたら最もよろしいか、沖繩といたしましては、非常に丁重に取扱つておるわけでございますが、これに対する対策といたしましては沖繩の皆様方の気持、その遺族の方々並びに日本国民全体の気持を十分に察しまして、善処いたして行きたいと思つております。
○池見委員 政府の意向は十分わかりましたが、遺族としては、そういつた点につきまして最も深く関心を持つておることであるから、政府としては、でき得るだけすみやかにその基本的な方針を確立してもらつて、この遺族を慰めるということが私は最も必要であると思いますので、こういつた問題は、ひとつすみやかに措置していただきたい。
○堤委員 私のおもな質問は、ただいま池見先生がなさいましたので、一つだけ五月二日に行われる慰霊祭の問題についてお尊ねいたします。これはたしか長官のお言葉では、この人たちを漏れなく合同慰霊するという御趣旨のように聞きましたが、それに間違いございませんか。
○木村(忠)政府委員 五月二日に行いますのは、追悼式でございます。この追悼式におきましては、今次の、大体支那事変以降の戰争によりまして戰沒されました軍人、軍属の方々その他この戰争によつてなくなられた一切の日本人につきまして、その追悼をいたしたい、かように考えておるわけであります。
○堤委員 それから戰傷病者戰沒者遺族等援護法、あの問題に関してただいま中山委員から、もはやすでに行政的に離されたこの沖繩の人たちにあの援護法を適用する建前において御質問がありました。ところがきようは、あなたはあの援護法の適用範囲の中に当然持つて行くというようにおつしやいましたけれども、われわれが委員会であなた並びに厚生大臣に再三御質問申し上げたところによりますと、今は法の適用範囲を受けておらないこれらの沖繩、奄美大島、琉球の人たちに対しては、適用範囲の中に入れることはできないということを、はつきりおつしやつておるのであります。まるでお金を送ればいいような、体のいい質問をお互いにかわしておられましたけれども、われわれ厚生委員会では、実はこの適用の中に入れてもらえないというふうに解釈しており、これはたいへんな違いだと思いますが、その点いかがでございますか。
○木村(忠)政府委員 法律は沖縄の人にも適用があることになつております。ただ御承知の通りに、法律をどういうふうに向うに施行するかというその施行につきましては、現在のところ制限のもとにあるのであります。従いましてこれをどういうように向うに施行できるようにするかということにつきまては、われわれは向うの人にできるだけ行くようにいたしたいと考えまして今後の措置を考えております。先ほど申しましたように、どういうふうに向うとの間にそういうことができるようにするかという行政事務の運び方につきましては、今後十分にわれわれの希望が達成せられるように努力いたしたいと考えております。
○堤委員 それからただいま池見委員から御発言がありましたが、調査をされまして、今後の遺骨の処置は愼重に考えられなければなりませんが、政府は政府としてお考えになることもけつこうです。但しこの国会のわれわれ委員会といたしましても、沖繩の方々の今までの遺骨に対するあり方、それから遺家族としてこちらに残つておられる方々の御心情、それから国民一般の輿論、こういうものを考えまして、政府は政府で、また国会は国会で私たちはまじめに検討して、基本線を出して、具体的な手が打てるようにしなければならないと思いますから、委員長はこの報告の結果を理事会に諮られまして、具体的に要綱をまとめるようにしていただきたいということを、特に私の党から申し上げておきます。
○林(百)委員 時間もあまりありませんから、簡軍にお聞きしたいと思います。先ほど援護庁長官の答弁の中で、遺家族の援護法が、それ自体としては沖繩にも適用されるようになつているのであるが、具体的にそれを適用する場合に、行政的な手続の上で問題があると言われましたが、どういう問題があるのですか。
○木村(忠)政府委員 日本の行政権は今向うに及んでおりません。従いまして日本といたしましては、向うに行政権を及ぼさない限りは、それをどうするかはきまらないのであります。沖繩はまだ日本国の一部でございますし、そこに住んでおる人も日本人でございますので、法律は当然潜在的には適用さるべきであるということになつております。従いましてこれが顯在化のためにはどうするかということについては、今後十分折衝いたしたいと思います。
○林(百)委員 そこで私は石原次官にお聞きしたいのですが、御承知の通り四月一日に沖繩では憲法が発布されまして、沖繩の統一政府ができまして、その上にアメリカの民政副長官がいるという形で、あたかも独立した政府がすでにできた形になつておるのであります。そこで堤委員からも質疑がありました通り、潜在的には適用があるといつても、実際適用がなければ、正直にいつて適用がないという方がはつきりしている。潜在的にはあるが具体的には適用されない、そんなことはごまかしだと思います。従つて今できている沖繩政府と日本の政府とは、一体将来どういうふうな交渉をもつて、日本の法律を向うで適用するようにはからうつもりなのかお聞きしたいと思います。たとえば渡航の問題につきましても、向うからこちらに渡航するには、三十通ほどもいろいろな書類がいる。しかも保証人がいる。学生がこつちに渡航する場合には、試験を受けに来るだけで、大体一月というような渡航の制限があつて、試験が受からなかつたらすぐ帰つて行かなければならないというような状態。それからこちらから向うへ行くときにも、非常にむずかしい手続がいる。ほとんど実質的には出入国管理令、外国人登録令が適用されるような状態になつでおつて、潜在的には主権があるというけれども、実質的には日本と縁のない外国になろうとしている。しかもそこにわれわれの同胞の遺骨がたくさんまだ弔いもされなくて放置されておるというようなことがあるとすれば、ゆゆしい問題だと思いますが、今アメリカの副長官のもとにできておる沖繩政府と日本の政府とは、将来どういう交渉をお持ちになるつもりですか、その点をお聞きしておきたいと思います。
○石原(幹)政府委員 御承知のように、今は沖縄島に関する立法、司法、行政の三権は、アメリカ政府がその権を持つておりまして、そのもとにその行政を施行する形において琉球の政府——という言葉は当るかどうかわかりませんが、琉球にできましたいわゆる行政機関がこれをやつておる、こういう形になつておるのであります。しかし今後沖縄島に関しまるいろいろの問題をどうして行くかということにつきましては、先ほど御発言もありましたように、情報によりましても、すでにいろいろ意見がアメリカにおいても発表されつつあるというような状況でございまして、今後アメリカ政府とさらにいろいろ折衝いたしまて、向うの譲つてくれる範囲におきまして、それだけ日本の行政なりいろいろの形が及んで行くことになるのでありまして現に出入国関係等につきましては、日本の立場においては、ポ政令の改正によりまして、ほとんど自由になり、あるいはまた為替の問題、貿易の問題その他各般の問題にわたりまして、日本内地との交流その他につきまして、できるだけ沖繩島民の便益をはかり得るようなことを、ただいまも今後も折衝して行きたい、こういう考えを持つておるのでありまして、今後の交渉いかんによつて、非常に情勢がまたかわつて来るのではないかと私は思います。
○林(百)委員 そうすると、これは非常に重要な問題でありますし、また沖縄島民の皆さんが一日も早く完全に日本に復帰したいという気持の強いこと、また完全に沖繩が日本に復帰されてこそ、仏も浮ばれるというように思うのであります。あれほど島民の人たちが犠牲になつて戰つた沖繩が、今また日本の国から離れて行くということでは、これはまつたく生きている人はもちろん、仏も浮ばれないりと思うのでありますが、われわれが仏に報いる道は、一日も早く沖繩を日本に完全に復帰させるということだと思うのであります。そこで念のためにもう二つだけ聞いておきたいと思います。一つは援護庁長官にお聞きしますが、先ほどの援護法の適用でありますが、これは適用すべきであるということであるが、実際現在の段階では、適用されないということである。これは日本とアメリカの副長官との対外的な折衝なくしては、具体的には適用されないとわれわれは解釈せざるを得ないのでありますが、そう解釈していいかどうかということが一つ。もう一つは石原次官にお聞きしたいのですが、出入国管理令あるいは外国人登録令は適用ないといつても、実際は沖繩と日本との渡航は現在は厳重な手続がなされ、しかも学生のごときは、登録証を持つて来なければ入れないというのが現実の事実であるということ、これはお認めになりますかどうか。この二つの点を、眠れる主権だとか潜在的主権だとかいうごまかしでなくて、現実は現実で、はつきり日本のわれわれに知らして、それをどう改善するかという覚悟を新たにすることが政府の賢明な策だと思いますから、事実は事実として、率直に私たちに説明してもらいたいと思います。
○木村(忠)政府委員 適用されるかどうかという点でございますが、御承知の通り沖繩に籍があります人でも、こちらにおりますれば、あの法律は適用になりまして法律通りにただちに年金並びに一時金が支給されるようになります。ただ向うにおられる方々につきましてどういうふうな措置をとつて、これに援護の年金並びに一時金を交付するか、その交付の場合、どういうふうにして交付するかという点につきましての問題がまだ残つておるわけでございます。向うの方がこちらにおいでになつておりますれば、これはいつでも交付ができるわけであります。従いましてこれが適用になるならぬというのは、どういうものかと申しますと、ほかの法律と違いまして、この法律は、日本政府といたしまして援護のための年金と一時金を給付するだけでありまして、従つてほかの法律の場合とは若干その点は違つておるのではないかと思います。従つてある程度の事務手続につきましての話合いがそこにつきさえすれば、これを出すということにつきましては、それほど困難はなかろう、こう考えております。この線において努力いたしたいと考えております。
○石原(幹)政府委員 現在はポツダム政令による出入国管理令がまだ施行されておるわけでありますが、今後は、今回国会において御審議を願いましてただいま参議院でやつておるわけでありますが、講和発効とともに新しい出入国管理令、外国人登録法が施行されることになるのであります。それによりますと、沖繩その他の関係はまつたくはずれてしまうのでありまして、自由なる形になることと思います。
○林(百)委員 そうすると、援護庁長官にお聞きしたいのですが、沖繩の人が日本の援護庁へ来れば、援護金はもらえますか。もう一つは、現に流通している円の通貨だつて、沖繩と日本とでは違うのですからね。そういうめんどうなことがあるから、それでは私は日本人だ、この法律は適用されるのだ、ひとつ本国へ行つてもらいましようといつて、日本に来て、あなたのところへ行けば、その金がもらえるかどうか。 それから石原次官に伺いますが、講和発効後は、完全に何らの制限もなく、われわれかりに共産党員でも、沖繩へいくらでも行けるのか、向うの人もこつちへ来られるのか、何らのさしつかえがないのか、そこをはつきり伺いたい。
○木村(忠)政府委員 向うからこちらに来たらどうかということでございますが、日本に住んでおられます沖繩の方には、こちらはいつでも出せるような状態になつております。従つて日本に来て住むというような状態になりますれば、いつでも出せます。ただ、もらいに来るという場合に、手続をどうするかという手続がきまりませんから、その手続をきめなければならぬのであります。
○石原(幹)政府委員 私が先ほど申し上げましたのは、日本の法律のことでありまして、向うから来る人は全然自由になるということで、沖繩の政府というか琉球の機関が、どういうようなとりきめをいたすかということについては、ただいま日本としては責任は持てないのであります。林さんのような方においで願えるかどうか、その点は申し上げかねます。
○中山委員 長官にお尋ねいたしたいのでございますが、五月二日に国民的に慰霊祭があるということに対して遺族の代表がお喜びになることはわかつておりますが、私ども引揚委員会といたしましてこれはお願いと申しますか、申入れと申しますか、お尋ねと申しますか、やはり留守家族というものも戰争犠牲者でございまして、ソ連から、あるいは中共から引揚げが完成してしまわない限りにおいてはどれだけが死んでいるのかもわかりませんので、私は留守家族の代表もやはりこの祭典にあずからしてもらいたいという希望を持つているのでございますが、その辺の御処置はいかがなことになつておりましようか。まだ帰らないのですから生ける犠牲者です。全然帰らない人もあるかもしれません。そこで私は代表も入れていただきたいという希望を持つておるのでございますが、その点はいかがでございましようか。
○木村(忠)政府委員 追悼式のお客様といたしまして追悼される方々の御遺族をお呼びするというのと同じような意味では、ただいま申されました一応生きておられると考えられる方々につきまして、そういうお客さんにお呼びするのは、妥当ではなかろうと考えております。しかしそうでなくして、日本の国民の一部といたしまして、そういう方々の代表になられる方が御出席になられるようなことには、別の意味のお客様と申しますか、そういう方に出ていただけるような措置に相なつておると私は聞いております。
○堤委員 援護庁長官に慰霊祭のことでお尋ねいたします。あなたは援護法の二百三十一億でごまかしておいて、五月二日に合同慰霊祭をやつてごまかそうというのがほんとうのねらいだと私は思つております。私は昨日石川県に行きまして、私の郷里福井県をずつとまわつて参りましたが、遺族はどう言うかといいますと、あの遺族慰霊祭は遺族の代表が郡から一人だそうで、三等の往復切符をつけて、宿賃が出るという予定だそうですが、郡に一人の代表ということに対して、遺族は非常に不満を持つておる。それは指令は出ておると思うのでありますが、こいねがわくは、郡というのは大きな郡もあるし、小さい郡もあるのですから、おやりなるのならば、一郡からせめて十人くらいはお客さんとしてお招きがあつてほしい。これは野党だから言うのではないのです。それから各市町村においては、中央と時を同じゆうしてやはり慰霊祭をやるということにはなつておりますけれども、経費のつり合いは具体的にはどのくらいになつておるのですか。
○木村(忠)政府委員 われわれといたしましては、むろんできるだけ多数の遺族の方々においでを願うということを一希望いたしておりますが、いろいろな設備の都合もございますし、また輸送の関係もございますので、大体遺族の方々においで願うのを一千人あまりということで、各市郡区から一人、それから県代表として県から五人くらいという数字以外には、ちよつとお招きいたすことができないというのは、まことに遺憾な次第であります。五月ごろと申しますと、一番輸送関係の困難な時期でございましてこの困難な時期に輸送いたしますることは、国有鉄道の方としてどうしても困難であるという点もございます。また会場の設備といたしましても、雨の降るということも考えなければなりませんので、雨天等の場合においてもできるということを考えますると、今お話のありましたように、一万人以上の方を集めるということは困難だと思います。そういう点で、われわれといたしましては、まことに残念でございますけれども、そういう制限をいたしてありますので、この点はぜひとも御了承願いたいと思います。なおこれに必要な経費といたしましては、御承知の通り予算にありまする一億円の金が地方に行ぐことになつております。それは府県及び市町村で行う慰霊祭と申しますか、追悼式に対する補助でございます。なお国といたしましてはこれとは全然別に経費を組んで、それでやることになつております。たしか経費は一千五百万円だつたと思いますが、この大部分は輸送の経費でございます。
○小平委員長 沖繩における戰沒者遺骨調査の件に関連する質疑はこれをもつて終了いたしました。本日はさらに條約発効後における海外同胞引揚対策について政府当局の説明を求める予定でありましたが、時間が大分経過いたしましたので、本件については明日午後一時より当委員会を開いて議事を進めることといたしたいと思いますが、御異議ありませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○小平委員長 御異議なしと認めまして、さようとりはからいます。 —————————————
○小平委員長 なおこの際おはかりいたします。明日政府委員より説明を求める前に、本件に関しまして留守家族団体より留守家族の実情及び要望を聴取願いたいとの申出がありますので、明日在外同胞未帰還促進全国協議会の副委員長浦野正孝君を本委員会の参考人として招致し、留守家族の実情並びに意見を聴取いたしたいと思いますが、御異議ありませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○小平委員長 御異議なしと認めましてさよう決定いたします。 本日はこれにて散会いたします。 午後零時四十六分散会