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13回国会衆議院1952/03/10

海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第8号

発言数
49
登壇者
10
会派数
4
開催日
1952/03/10

会議録

小平久雄自由党

○小平委員長 これより会議を開きます。  本日は南方諸地域における戰歿者の遺骨調査に関する件について議事を進めます。  南方諸地域における戰歿者の遺骨調査に関しましては、先般本委員会におきまして硫黄島戰歿者の遺骨調査の実情を視察して帰られた報道関係者よりその実情を聴取いたしたのでありますが、今般硫黄島におもむき、約一箇月戰没者の遺骨調査を行つておりました調査団が帰国いたしましたので、本日ここに関係当局よりその調査の結果につき報告を求めることといたします。まず引揚援護庁長官より概括的な御報告を願いますが、本日は現地に出張されました第二復員局残務処理部の厚生事務官中島親孝君及び復員局復員業務部の厚生事務官白井正辰君の両名も見えておりますので、長官の報告に続いて委員より御質疑を願い、御答弁を願うことにいたしたいと思います。まず木村引揚援護庁長官。

木村忠二郎引揚援護庁長官

○木村(忠)政府委員 硫黄島の遺骨の調査につきましては、かねて本委員会よりは格別の御配慮を賜わつていたのでありますが、一月末以来調査のため硫黄島に派遣しておりました白井、中島の両事務官がほぼその目的を達しまして、去る三月六日帰京いたしましたので、ただいまからその調査の状況について御報告いたしたいと存じます。  両事務官からの調査報告を総合いたしまするに、一月三十日硫黄島到着以来、戰歿者の遺霊供養のため両事務官に同行された和智恒蔵氏を初め、硫黄島駐屯の米軍部隊、同島で作業中の高野建設従業員等の協力をも得まして、約一箇月間ほとんど全島にわたつて調査が実施されたのでありまして、その調査の結果によりまして、同島における戰歿者遺骨の現状をほぼ明らかにし、今後の取扱いのよりどころを得たのであります。その上にまた硫黄島と似た状況にあると思われまする太平洋中の他の島嶋等における遺骨の状態を推定するためにも、有力なる資料を得て参つたと存ずるのであります。以下今回の調査の結果より得られましたる総括的事項を私から御説明申し上げ、調査経過中における詳細につきましては、白井、中島両事務官から御報告いたさせたいと存じます。  御承知の通り、硫黄島は南北約二里、東西約一里の孤島でありますが、最後の決戦が起りましたころには、陸軍の栗林中将麾下の第百九師団を基幹部隊とし、これに所要の陸海軍部隊を配属し、全島にわたつて地形と特有の地質とを利用し、陸海空からの攻撃に備えるため洞窟式の陣地を縦横に構築していたのであります。この防禦部隊に対し、米軍は昭和二十年二月末海兵三箇師団、約五万の兵力をもつて海空軍の援護のもとに強行上陸し、爾後一箇月にわたる戰闘におきまして、わが方はさきに資料として本委員会に提出いたしましたる通り、その時期までの戦病死者等をも含め、二万一千九百二十五名の戰歿者を生する状況と相なつたのであります。この戦闘に際し、米軍よりこの一小島に打ち込まれましたる鉄量は約四万トンといわれ、勝者たる米軍もまた数千名に達する損害を生ずるという激戦でありましたるため、戦闘の直後におきましては、全島ほとんど裸にも似たる状態と相なり、戰歿者の遺体も、おそらくは戦場となつた地表面に累々たる状況にありましたことは想像にかたくないところであります。しかしその後七年という年月の経過による自然の変化と、爾後この島に加えられました人工による変貌を判断し、遺体はおそらく島の中北部を中心とする洞窟陣地内で多く発見されるのではなかろうかと予想しつつ出発いたさせたのでありましたが、両事務官が調査実施中実際に発見目撃いたしましたる遺体は、遺棄された戦車の内部等の場合を除いて、地表面にあるものはほとんど皆無であり、主として洞窟の奥深くにあつたようでありまして、ことに通行人の眼に触れるような所に遺体が放置されていることはないと報告しております。  両事務官がしさいに踏査するを得ましたる洞窟は、調査のための時間、猛烈なる植物繁茂の状況及び多数洞窟がその入口を閉塞されている等のために、入口が今でも開いたままの状態にある洞窟約四十でありまして、そのうちの半数、約二十の洞窟陣地内に約八百の遺体を目撃いたしているのであります。これら調査の前後の状況等から判断いたしますれば、若干の作業力を用いまする場合、三、四千体の遺骨は比較的容易に発見し収容することができるようでありまして、それら遺体のうち一五ないし二〇%程度はその氏名をも判定し得るのではなかろうかと一応考えられる状況であります。  両事務官は今回調査を終るに際しまして特に許可を得て、遺骨三十八体のほかに若干の遺品等をも持参して参つたのでありまするが、遺骨につきましては、目下遺骨及びこれに伴う遺品の状況や部隊の名簿等を基礎として、その氏名を判定する作業をいたさせておるところであります。本日までにその氏名を確定し得ました遺骨は二十三柱でありまして、それぞれなるべくすみやかに御遺族の手にお渡しいたしますよう手続を進めております。  帰還された遺骨に対し焼香するため復員局を訪問される遺族の御様子からも、その心情はまことに察するに余りあるものがあるのでありまして、いまだ硫黄島に眠る遺骨につきましていかなるとりはからいをいたすかという点に関しましても、遺族の心情を十分に推察するとともに、今回の調査の結果をしんしやくいたしまして、目下その具体策につきせつかく研究いたしておるところであります。  なお硫黄島とは多少異なる事情もあろうと考えられるのでありますが、沖繩の遺骨調査につきましても、硫黄島における調査状況を参考として調査の計画を立てまして、出発の許可があり次第に出発いたさせる準備も終つておりますことを、この際あわせて報告いたします。  硫黄島におきまする調査の細部につきましては、白井、中島の両事務官の説明を御聴取願います。

小平久雄自由党

○小平委員長 それでは補充的に説明をしたいとのことでありますので、これを許します。白井事務官。

白井正辰厚生事務官

○白井説明員 命によりまして細部の御報告を申し上げます。  ただいま長官から申しました通り、私、中島両名が島に滞在いたしましたのはちようど三十日間でございます。島の大きさにつきましても長官から御説明がありましたが、御了解がやすいように東京の広さに比べて申し上げますと、この図の一番左すみの所にありますのが有名な摺鉢山でございます。あの摺鉢山を品川駅としますと、山手線を一つ周するほどの大きさはありませんが、東京駅から左上新宿くらいに行つて、それから品川に帰る、これくらいの大きさでございます。絶海の孤島であるといえば、事実存外大きいのだとも言えますし、ほかの戰場に比べれば、非常に狭い地域で激烈な戦闘が行われたのであります。われわれが到着いたしましたあくる日、すなわち一月三十一日にアメリカ軍の指揮官に、どつか入つていけないところはないか、こういうことを申しましたところ、いつ、どこへ行つて調査してもよろしい。島をまつたくオープンにする、こういうお話でありまして、われわれ一行は飛行場の中であろうと、あるいは平生はアメリカ兵にも立入り禁止になつております摺鉢山の頂上でありましようとも、また兵舎の敷地の中でありましようとも、何ら心配なく調査することができました。この島の大きさと調査日数、アメリカ軍の厚意、この三つから考えましてもちろん十分とは申せませんが、相当程度島の遺骨の状況を把握できたと私は考えて帰つて参りました。  ちようど私たちが島に渡りますときを契機といたしまして、御遺族はもちろんのこと、日本人の関心が硫黄島に集中されましたことは御承知の通りでございます。新聞にも写真入りで大々的に報道されました。もちろんわれわれも硫黄島におりまして内地から送られるその新聞も見ました。一般のお方があの新聞、あるいはラジオ等の報道で硫黄島というものは——ことにその遺骨の状況はどういうふうになつているのだ、硫黄島は白骨の島である、全島至るところに白骨がごろごろころがつている。まるで死んだ島である、死の島であるという印象をお持ちの方がもしありといたしますれば、私はその人に対して躊躇なく、それは間違つている、そんなところではないとはつきり申し上げたいと思うのであります。先ほど長官からも申しました通りに、私たち三人が一箇月間島を歩きまわつて、地表面で遺骨を発見しましたのは三箇所しかございません、一箇所は戦車がひつくり返つたところに労務者が集めたのでありましよう。これはあとでその戦車も写真を写しておりますからごらんいただきたいと思いますが、その戦車の上にお骨が置いてありました。一箇所は、天山という北端に近いところの山の上に高射機関砲の陣地がありまして、その陣地の中にお骨の一片が残つておりました。もう一回は西海岸で、やはり北に近いあの付近の高千穂峡という断崖がございます。その断崖の下を調査いたしますときに、多分大きな石が上からころがつて来て押しつぶされたのであろうと判断される遺骨が、岩のすき間からのぞいてみましたならば見ることができました。この三回だけでございます。  やや余談になつて恐縮でございますが、この島には、今申しましたように高千穂峡であるとか、あるいは逢阪山であるとか、あるいは霧島部落であるとか、田原坂、城山——どつちかといえば九州部隊が多かつた関係で、九州関係の地名が多いのでありますが、そこにおつた部隊が何も名前のない岡に山に坂にいろいろな名前をつけております。余談にわたつて失礼いたしました。  以上は私たちが見て参りました実情そのままであります。どうして地表面に遺骨がないのであろうか。これはわれわれの判断でございます。われわれが八幡に上陸いたしましたときに、硫黄島から生還して来た百九師団の司令部におつたという元の下士官が参りました。その話をしましたら、実はわれわれが穴に入つておるときに、戰友の死体がどこか残つておつたので、非常に心残りがあつたので、ある晩こつそりそれを探しに行つたところが、行つてみたらその場所には死体はなかつた。こういう話を聞きました。まだ日本軍の一部が穴の中に住んでおる、完全なる戰さが終つていない時代においても、すでにアメリカ軍が死体の取片づけを開始したのじやないか、こういうふうにその話から私は判断いたしました。その後アメリカ軍が相当たくさんの部隊をこの島に駐留させましてたくさんのキャンプをつくりました。その間に目に触れるところの地表面にある遺骨を、もちろん数回となく取片づけたのではないかと思いますし、またそれは当然のことだと思います。  次に、日本人の労務者も実はこの島に相当行つておるのであります。この中央部に書きました大きな飛行場の建設作業であるとか、あるいは道路の工築作業にも行つております。現在はくず鉄収集のために、高野建設という会社の労務者がやはり中に入つております。ことに前の飛行場建設でありますれば、労務者が働く地域は限られておりますが、任務がくず鉄収集となりますと、全島至るところに入り込んで鉄を探す、こういうことになりますから、日本人の足跡が各所に印せられておるのであります。同じ日本人といたしまして、日本人の死体をそのまま放つて置くということができないのは当然でありましよう。事実この労務者たちが引取つて参りました遺骨は、日本人キャンプの裏山に手厚く埋葬してありましてもちろんそまつではありますが、大きな木の墓標が立てられており、朝晩そこに参つておるようであります。この写真は新聞にも出ておりましたので、すでに、ごらんになつたかと思います。このようにしてアメリカ軍の手により、また日本人労務者の手によつて、地表面の遺骨は取片づけられた。これが大きな一つの原因でありましよう。  次は、やはり七年間経つておりますので、その間に台風の中心も何回となく通つたと思われますし、一度まる裸になつた島も、猛烈な勢いで植物が繁茂いたしておりますので、自然に遺骨が土に返つたということもありましよう。私たちが行く前に、ある雑誌でこういう記事を読んだのであります。今非常に猛烈な勢いでねむが生長しておる。かつては地表面にあつた遺骨が、ねむの生長とともにずつと空中に持ち上げられて木のまたにひつかかつたまま、一メートルか二メートル上に宙ぶらりんになつておるということを、硫黄島に行つた人から話を聞いたことがあります。全部の木を見たのではないから、まつたくないと証明することはできませんけれども、先ほどから申したような事情で、そういうようなことはとんでもない話だ、また常識的に考えましても、台風が通つた島に、木の上にお骨がひつかかつておるというようなことはとうてい考えられないのであります。地表面には見えない。それではもう遺骨はないのかと申しますれば、今長官から申した通りに、洞窟内には戰死されたそのままの遺骨が残つておるというところも少くありません。ある人に、硫黄島には洞窟が幾つ数があるのだということを聞かれましたが、これはちよつと返答のしようがなかつたのであります。御承知の通りに、昭和十九年の七月にサイパンが落ちまして、今までサイパンに集中されておりましたアメリカ軍の機動部隊の攻撃、すなわち空襲と艦砲射撃は、サイパンが落ちました後は硫黄島に集中されて来たのであります。従いまして、硫黄島はアメリカ軍の上陸によつて攻防戰が展開される以前においてすでに十九年の七月ごろから連日連夜空襲を受け、またときどき艦砲射撃も受ける、こういう状況になつたのでありまして、島の表面に住むということは、当時においてもうできなかつたのであります。住居はすべて地下に掘らなければならない。約二万数千の兵がおつたのでございますが、その二万数千人分の住居がすなわち地下壕であつた、こういうことでございます。これに加えまして、地質が洞窟陣地をつくるには比較的つくりやすいというかつこうになつております。あまりかたい石でありますと、これはダイナマイトを使わなければ掘つて行けない。非常にやわらかい土でありますと、掘るのは楽でありますが、わくをつけて行かないと持たない。ちようどそのかたさの関係が洞窟陣地をつくるのに適当しておつたという関係も、硫黄島に洞窟が多い一つの原因と思われます。その規模は場所によつて非常に違います。非常に大きな壕もありますれば、小さな壕もあります。やはり戰争が終つて七年間たつておりまして、そこにかわるがわるアメリカ軍も駐留しますし、日本人も行つておりますが、自然に島の上で、伝説と申しますと言葉は悪いのでありますが、伝説的な話が行われております。洞窟につきまして例を申しますと、摺鉢山のふもとに比較的大きにな洞窟が残つております。一番右端のところに栗林兵団司令部がおつた壕があります。この栗林兵団司令部の壕と摺鉢山との距離は約二里ばかりありますが、その間はトンネルで結んでおつた、こういう話があるのであります。中にはほんとうにそうだつたと信じておる日本人もアメリカ人もおるようでありますが、洞窟はつくりましたけれども、そんな大規模なものは、この島にはあの短時日間にとうていできなかつたのであります。この洞窟は、最初は今申しました通りに居住施設になつておつたのでありますが、アメリカ軍が上陸をいたしましてからは、やはり最初は戰闘は地上で行われたのであります。多くの人は、昔の言葉で申しますれば、戦野にしかばねをさらすということになつたのでありますが、そのときにおいて負傷した方は、また収容できる人は、この洞窟内に収容された。すなわち洞窟は負傷者の収容所になつたのであります。さらに戦いが進みまして、いよいよ部隊は混乱する、散り散りばらばらになるという事態になりますると、その洞窟を求めて残存した人が潜伏する場所になつたのであります。従つて戰いの経過から考えまして、遺骨の残つております洞窟というのは、どうしても島の北部のまるい附近に多いのは当然であります。  洞窟内の実情がどんなになつているかということは、洞窟によつて非常に違います。私たちは一箇月間毎日々々こういう仕事をやりましたので、言葉は悪いのでございますが、遺骨を見たり、あるいは洞窟の中に入つたりするのにはなれました。割合に平気でそういうこともできるようになりましたが、その調査の末期においても、これ以上洞窟には進めない、ほんとうに足がすくんでしまつたことがありました。私たち三人が、今後本格的に送還をやる場合にどうしたらいいだろうかということを、調査をやりながら、ジャングルを歩きながら話したことがあるのですが、三人のうちのある一人は、やはり気持が違うから、遺族の方で希望者があればここに連れて来て、作業隊の一員に加わつて、作業に任じてもらつたならば非常にいいのじやないか、こういう意見を言われました。そのあとの二人は、それはあまり刺激が強過ぎて無理じやないか、こういうことを申し上げて、そのときは三人の意見は一致せずに数日を経過しましたが、さきに遺族を連れて来たらという主張をしておられた人が、ある壕に入つたときに、もうこれはいかぬ、ぼくがこういうふうに言つておつたのは間違いだつたというふうに意見を直されました。その一つをもつても、壕の中の様子がどんなになつているかということは、御想像いただけるのじやないかと思いますが、ほんとうにそのままになつている。壕に入つてみますと、若干髪の毛のついたしやりこうべが残つております。そのしやりこうべを手にとつてみますと、右の方には小さな穴が明いていて、左の方には大きな穴が明いている。これはすぐおわかりの通り、ピストルで自殺したのであります。また急造担架に乗つたまま、なくなつている遺骨もあるのであります。しやりこうべにはち巻きしておりますので、そつととつてみましたならば、そのところはやはり骨にけがをしております。これは負傷したのを繃帶した、そのままなくなつているのであります。実際われわれはそういう仕事には相当なれましたが、そういう壕を見まして——これはすべて懐中電燈の光で見て行くのでありますから、はい上つて外へ出るとほんとうにこの世のものでない、何だか地獄へ行つた夢を見ておつたという感じしか起らなかつたのであります。そういうような洞窟がどれだけあつたかということは、長官から御報告がございましたが、私たちが見ましたのは、穴の明いている中へ入れる壕にはすべてもぐつて見ました。しかしたくさんの遺骨を発見できた壕はそのうちの約二十でございます。と申しますのは、アメリカ軍が日本軍の残存兵を掃蕩する当時、あるいは終戰後たくさんのキャンプをつくる当時における洞窟の入口は、ほとんどこれを埋めて行つたのであります。今は植物が繁茂して洞窟の入口を発見するのも非常に困難でありますが、当時においては非常にたくさんの砲弾が打込まれたために、全島まる裸といつていい状態であつたと想像されるのであります。その当時しらみつぶしに穴の口をふさいで行つた関係上、大部分のものは入口をふさがれてしまつた。われわれが中へもぐれましたのは、しらみつぶしにはやつたけれども、そのときに見落しがあつたのか、あるいは一回は閉塞したんだけれども、その後雨が流れたというような関係で口が明いた、こういうものなのでございます。もともと洞窟は、空襲があつた場合は待避壕になり、中に居住するというのでたくさんの入口があいているわけなんであります。一本の長いうなぎの寝床みたいな、数百メートルもある壕をつくつておつてもまつたく意味がないのであります。そういう壕があつたとしましても、それは必ず各所に入口があいておつたはずなのでございます。ところが先ほど申し上げました通りに、入口の多くは埋められたという関係で、一つのつながつた洞窟でも、現在は一つしかあいていないというのが大部分であります。従いまして一箇所から入りますと、ほんとうはこちらの壕から行けば楽だつたのをこちらから入るのでありますから、中で迷路と申し上げるよりほかないような複雑な状態になりまして、ぼんやりすると、入つたら出て来れないというような壕がたくさんあるのであります。われわれは糸巻にビニールのチューブを二百メートルか三百メートル巻きつけまして、そこで一端を入口のところへ縛つて、それを伸ばしながら入つて行つたのが多いのであります。帰りはそれを伝わつて出て来る。そうでもしないともう入口にもどれないというような状況の壕もあります。従いましてそのような迷路の壕の中、しかも遺骨にまじつて信管がついたままの追撃砲弾もころがつている危険な所でございます。もちろんもうすでに爆発の危険はほとんどないとは思いますが、危険であります。そういう壕の奥底においては、遺骨が片づけられていないということは、これはやむを得ないところであろう。ほんとうにそのための任務を負荷された者が行かない限りできないことは当然だと思うのであります。アメリカ軍がその壕の中の奥深くの日本人の遺体をそのままにして置く、これはそこまでやらなければ死者に対する礼を盡したのでないということは言えないのではないか、われわれはその壕に入つて見てそう感じました。また日本人の労務者がその中の死体をそのままにほつて置く、日本人としてけしからぬ、そういうことはとうてい言えないのではないか。ほんとうにその任務を持つた者、使命を持つた者でなければ、この壕の中の遺体の取り片づけなり収容はできないのではないか、こういう印象を受けたのであります。  次は遺品の状況について申し上げます。私たちはいろいろ話しながら歩いて調査をしたのでありますが、最初のうち発見できました遺品は、ほとんど大部分が飯をたく飯盒、それと水筒であります。これは御承知の通りアルミ製品でございます。どうも飯盒と水筒しか発見できない。飯盒や水筒には姓名の姓は書いてありますが、名まで書いてないのであります。これからこれはどなたのであるということを判定するのは非常にむずかしいのであります。それでどうも「二十の扉」にたとえて恐縮でございますか、鉱物ばかりしか残つていないのではないか。鉱物だけだとすると、これは遺品を探し集めてだれのものかを判定するのに非常に困難だということを話し合つておりました。ところが調査が進みまして、北の地区にだんだん進むに従いまして、その壕の中から植物を発見できるようになつたのであります。植物と申しますのは、先ほどの区分に従いまして被服であるとか書類、紙、そういう植物を発見できるようになつたのであります。それでこれならば名前もわかる、姓名もわかるというので、調査に任ずるわれわれとしては勢いを得たようなわけでございます。遺品の状況は穴の中の灘気の度合いとか、あるいは温度のぐあいなんかで非常に違いますが、私どもが非常に意外に思つたことは、むしろ暑い壕、これは火山でございますから、地熱が非常に高いのでございますが、その関係で百二、三十度に上る壕もございます。そういう壕の方が被服の変敗もなく、そのままに残つておる率が多いようにわれわれは感じました。どういうわけであろうかといろいろ考えてみましたが、結局そういうところでは、いつでも熱気消毒をやつているようなかつこうで、細菌も繁殖しませんし、それから昆虫も繁殖しない、こういう関係ではないかと思いました。この遺品がない限り、遺骨を収容いたしましても、それかだれの骨であるかということはわからないのでございますが、各穴における遺品の状況、その遺品と遺骨の関係、こういうことをずつと見て来た結論は、先ほど長官が御報告いたしました通りに、遺骨のうち、約一五%ないし二〇%は遺品によつてその人の骨だと判断できるのではないかという感じを得て参りました。  以上をもつて私の御報告を終りたいと思うのでありますが、こういうふうな結論が出ましたのも、硫黄島がほかの地域と非常に違つているという特殊性があるのが大きな原因であります。一つは島が小さい。一つは洞窟陣地がたくさんある。もう一つは現に日本人が行つて作業をしておつて、それからの便宜を受けることができる。言葉は悪いのでございますが、遺骨調査のためには恵まれた條件にあつたのでございます。大きさからいい、いろいろなことから考えてほかの地域、ほかの島嶼もこれらと同じであるということは、とうてい考えられないと思います。非常に失礼なことを申し上げましたが、私の御報告はこれで一応終ります。

小平久雄自由党

○小平委員長 では本件に関する質疑を許します。池見君。

池見茂隆自由党

○池見委員 ただいま調査の経過を承りまして、われわれとしましても非常に感銘するところあり、かつ一箇月間にわたつての調査の御労苦に対して、私ども国民として非常に感謝にたえないのでございます。大体におきましては、現地からの通信あるいはその他の情報によつて、すでに新聞紙上その他によつて了承はいたしておりましたが、今のそのお話を承つて、さらにこういつた未調査の地域の点に関する所までの推測、その他の感情がわれわれとしては漂うものであります。硫黄島が今日調査される前において、当時の戦闘が終局し、そうして米軍がこの遺体あるいは遺骨の取片づけを行つたということは考えられるのでありますが、その米軍の方の行つた状況について、あなた方は現地に在住しておるところの米軍の人々といろいろこういうふうな面についての御懇談があつたかどうか。もしあつたとすれば、米軍自体がやつたものはどういうものかということがわかりましたら、その範囲内において伺いたい。

白井正辰厚生事務官

○白井説明員 実はこの島におります米軍は、非常に離れた孤島でございますので、非常に交代がはげしいのであります。一例を申しますと、私たちがおりました間に、軍医が二回も交代しております。これは一箇月交代であります。占領したあのいくさに任じたのは海兵師団でありましたが、その後あすこにまだいくさが続いておる間は、陸軍があすこを占領しておつた。現在は空軍のごく一部分しかおらない。こういう状況で、その指揮官に聞いても、その遺骨の処理をどういうふうにしたかということは私にはわからない、こういうお話でございました。

池見茂隆自由党

○池見委員 さつき長官のお話の中に、まだこれから本格的な収容作業といいますか、そういつたことを行えば、約八千体程度の御遺骨を収容することができるだろう。そういつたことについて、いよいよれ政府として本格的な作業を行うという場合において、あなた方の今度の調査の経験からすれば、どの程度の期間を要しましようか。

白井正辰厚生事務官

○白井説明員 八千体と言われましたが、長官は三、四千と言われたように思つております。

池見茂隆自由党

○池見委員 八百体、それから本格的な作業を行えば八千体は収容可能であろう。

白井正辰厚生事務官

○白井説明員 わかりました。その判定を御説明いたします。私たちが三人で各穴にもぐり込んで見て来たこの目に触れました遺骨の数が、約八百体でございます。洞窟は無数にございますが、現在穴のあいておる洞窟は非常に少い。穴のあいておる洞窟に全部もぐり込めたかといいますれば、われわれが発見できたものは、もぐり込みましたけれども、地形が非常に錯雑しておりますし、植物が繁茂しておりますので、そのほかに見のがした穴も相当数あると思うのでございます。これは感じでございますが、われわれの入つたのは、穴の明いておる洞窟の半分くらいではなかろうかと思います。従つてわれわれの見ましたのが八百でございますから、穴のあいておるのを全部入りますれば、その二倍になつて約千五、六百、こういうことになります。それでは穴のあいてない、開口部のない洞窟はもう収容がまつたくできないかと申しますれば、私たち三人の手では一々シャベルを振つて入ることはできませんでしたが、作業力を持つておりますれば、割合簡単な作業で穴を明けることができるのではないか、こういう壕もあろうかと思うのであります。やや余談になりますが、われわれが調査しておつたときに、一回相当大きな石が壕の入口にあつた。その壕はこういうふうに入る壕でございます。入つて行きまして、これはもうだめだと断念しようかと思いましたが、三人で協力してやろうというので、それをとつてみました。そこの入口のその大きな石をどければ、あとはもう中は何もくずれてはおらない壕でありまして、その中で遺骨を発見したようなこともございます。これはもう少し作業力を持つて行けば、割合簡単に穴をあけて中の遺骨を調査し、また収容することもできる、こういう感じを受けたわけであります。その数がどれくらいあるかということは、これは歩いておつたときの推定をまじえた感じでございますが、現在穴のあいている壕の数と同数ぐらいは簡単な作業で、きるのではないか。すなわちその中にも、同じ率で考えますれば、約手五、六百の遺体が残つておるのではないか。両方合せますと三、四千、八百は現に見て参りましたが、あとの三、四千に数字の拡大する径路は、私が今申した通りの径路を経てそういう判決と申しますと少し強過ぎますが、感じを得て参つたわけであります。それであそこで戦闘中なくなつたのは二万余でございますが、その大部分は地表面でなくなつたということを考えますと、この三千というのは、私はこれだけ発見できれば十分ではないか、というと言葉は惡うございますが、相当多い数だと思います。二方のうち三千、それだけしかわからぬかとお考えになる向きもあろうかと思いますが、私は戦闘経過を考えてみまして、これだけの遺骨がもし収容できたならば、思つたよりたくさんの遺骨が収容できる、こういうことになるように考えられます。

池見茂隆自由党

○池見委員 硫黄島の戦死者は、大体において九州部隊がその大部分であつたというお話ですが、その九州部隊の部隊名その他については、これはあなたに対しての御質問はどうかと思いますが、大体においてはわかつておりますか。

白井正辰厚生事務官

○白井説明員 あるいは私の言葉が悪くて、誤解を與えたかとも思うのでありますが、大部分ではなくて、九州部隊が比較的多かつた。概略しまして、あそこにおりました部隊のうちの約三分の一が九州部隊、人口比率から考えますれば、むしろ九州部隊が多かつた。こういうことでございます。次は、九州で編成されました部隊につきましては、ここにもその資料を持つて参つておりますので、どの部隊が九州から出たということはわかります。

池見茂隆自由党

○池見委員 大体わかりましたが、今この委員会としては、抑留されておる留守家族の方々のお気持は、生きておるものであるか死んでおるものであるかという生死のことについての御心配。しかし硫黄島においては、すでにあなた方の御調査によつて、現在生存者一名もなし、残されたるものは、この三、四千程度の、あなた方が推定されるます収容可能であるところの遺骨が硫黄島に眠つておられるということを聞きます場合には——留守家族の方方としては生死を心配し、いつかは帰つて来るであろうということが一縷の望みでありますが、今も申し上げるように、硫黄島のものはすでに御遺骨として眠つておられるということより考えまして、われわれは、今回あなた方が調査されたその貴重なる資料をさらに御検討願つて硫黄島に眠れるとこるの遺骨の一柱でも完全に内地に御収容のできるようにひとつ御努力が願いたい。さらに沖繩についても、これを契機として同様の調査が進められておるということでありますから、これまた御遺族の方々としては、何とも言えないお気持をもつて見守つておられると思います。どうかその辺さらに特段の努力と御研究を願つて、成果をもたらすように御奮闘願いたいと思います。

飯塚定輔自由党

○飯塚委員 ちよつとお伺いしたいのですが、洞窟というお話が出ますが、これは火山島であり、自然の洞窟を利用されておるようなことはなかつたのでしようか。それとも自然の洞窟は全然なくて、軍隊の地下壕としての洞窟だけでありましようか。

白井正辰厚生事務官

○白井説明員 大部分は人の力で掘つたものであります。中には、あとで写真も見ていただこうと思いますが、自然にあつた洞窟を利用いたしまして、そこに陣地なり、あるいは居住施設をつくつたような洞窟も間々発見できましたが、大部分は人の力で掘つたものであります。

飯塚定輔自由党

○飯塚委員 栗林部隊の二万一千九百余の中で、作業のいかんによつて三、四千の御遺体を発見することができるというお話ですけれども、そのほかは今のお話の中にある台風等によつて海に流されてしまつた、そういうことになるのでしようか。それともその後に入つたアメリカの作業班というか、そういう人たちによつてどこかに葬られてあるものでしようか。その辺をもう一度伺いたいと思います。

白井正辰厚生事務官

○白井説明員 私たちがここで見て参りましたのは、地表面の遺骨は三回しか見つからなかつたということだけは、確実に申し上げられます。それで二万数千の大部分は地表面でなくなつたと思いますが、その人たちの遺骨がどこにあつて、どういうふうになつて今見えないかということは、これはその経過を目で見るわけには参りません。従いまして先ほど申し上げましたのも想像ではございますが、一つはアメリカ軍が取片づけたのがあります。これが数からいえば大部分だと思います。次は日本の労務者があいまあいまに片づけたもの。この労務者が片づけたものは今日本人宿舎の裏山に葬つてあります。それから植物が繁茂いたします。この植物の繁茂の状況を、ちよつと余談になりますが申し上げますと、日本軍当時の道、これはまつたくわからないのは当然であります。われわれと一緒に参りました和智師は、アメリカ軍が上陸する数箇月前まで元のそこの海軍の指揮官をやつていて、行くときには和智さんは、自分はその道も知つておるからということで行かれたのでしよう。しかし行つてみましたところが、それはまつたく跡形もありません。そればかりでなく、アメリカ軍が占領後島にキャンプをつくりまして、そのキャンプを現に人が使つておつたときには、大きな環状線からキャンプへ行く道も自動車が通行しておつたのでしようが、そのキャンプも使わなくて、とりはずしてしまつた後は、主要道路からそのキャンプに行く道は全部ねむにおおわれまして、たどることもできない、こういう状況で、一般のジャングルと同じようになつておる。よく見れば何か道路の痕跡があるという程度にまで植物が繁茂しておるから、その植物の繁茂によつて自然に土に入られた遺骨もあろうかと思います。それから土砂が流れるのであります。これも具体的に申し上げた方が御了解いただけると思いますので申し上げますが、飛行場の西の端に大きな水たまりがあるのでございます。われわれは何のためにこれを水たまりにしたのだろうか。——滑走路と申しますのは、御承知のように飛行機の発着に使う。誘導路というのは滑走路まで誘導するために設けてあり、飛行機の置場もあるのです。それはりつぱな滑走路に見えますが、そこは少しくぼんでおるのであります。くぼんでおりまして、そこに水がたまつておる。そこは飛行場のある地域ですから、高いところにあるのです。ですから水を落すことができるのです。わざわざそれに水がためてある。初めは何のためかわからなかつたのですが、終りごろになつて、ああこれだと思つたのは、雨が降りますと土砂が流れて、飛行場が端から端から崩れて来る、これで断面を見ますと、アスフアルトがあつて、その下に石などがあつて、その下が士であります。それが削りとられて来るのです。そこであのままにしておいたら、飛行場が一方からだんだん削りとられるというほど猛烈な土砂が流れるわけであります。大雨がありますと、その土砂が海に着きますまでに、通過いたしますアスフアルト道路をブルトーザーで砂をのけなければ、そこが砂に埋まつてしまう。私たちが行きましたときは、そういう豪雨はございませんでしたが、そのために砂の中に埋まつた方もあるだろうと思います。これは先ほどから申しましたように、その経過を見て来たことではありません。判断を交えての説明でございます。

高橋等自由党

○高橋(等)委員 先般来非常にむずかしい調査を困難を冒してなし遂げられまして、本日その全貌を明らかにせられたことに対して、御労苦をおねぎらい申し上げたいと存じます。新聞紙その他で、硫黄島にありまする遺骨の状況が写真入りなどで伝えられ、私はあの写真を見て非常に胸の痛む思いがいたした。それは草原の中にころがされておつたしやりこうべその他を見たのでありますが、本日の御報告を承りますと、一般の目に触れるところにはほとんどないのが実情だということであります。それはとにかくといたしまして、遺族の方々もこの遺骨の報道が伝えられ出しましてから、私たちが胸痛む思いがする以上に深刻な思いをなさつて過されておるのであります。そこで先般厚生大臣に対しまして予算委員会で、この遺骨の引取りは鄭重にすることと、そうしてできるだけ完全にお持ち帰り願いたい、それに対して政府はどういうような方策を今後おとりになるつもりであるかということを実は御質問申し上げ、それに対して厚生大臣のお話は、今調査団が行つておるから、帰つて来たら報告を聞いた上で、早急にこれが鄭重な引取り方を考慮したいという御答弁に接したのであります。本日の御報告によりますと、引取り可能なものが推定三千ないし四千くらいはあるであろう、またその中でだれのお骨であるかということがわかるであろうと思われるものが一割五分ないし二割はあるであろう、こういうようなお話を本日お聞きいたしました。硫黄島でなくなられた全国の関係遺族さん方は、せめて一日も早くこれらの遺骨を手元に引取つて葬りたいという気持をお持ちでありましようし、また私らも、姓名のわかつた遺骨は一日も早く御遺族にお渡しし、またこれがどうしてもわからない遺骨については、これを国として鄭重に引取つて故国の土に葬る、こういうようなことを急いでやつていただかなければならないと私は考えておる。そこで長官に対してお伺いいたすのでありますが、この調査の結果どういうような対策を今練られておりますか、内地にこれを一日も早く持ち帰るための御準備をどういうふうに進められておるか、その経過と計画について承つておきたいと思います。

木村忠二郎引揚援護庁長官

○木村(忠)政府委員 これにつきましては、先ほど申し上げましたようにただいままでの報告によりまして、どういうふうにやればよいかということにつきまして目下検討中であります。いずれこれにつきましては、できるだけ早い機会に方策を立てまして、御報告申し上げるようにしたいと思つております。

高橋等自由党

○高橋(等)委員 検討中と言われますが、ばかに食い下るようですが、どういうふうに御検討なのですか。よく研究中とか検討中とかいうお言葉を承るのであるが、具体的にもうすでに計画があつてしかるべきだと私は考えておるのです。あなたの方の仕事は、それほど忙しい仕事とは私は思つていないのです。しかし忙しくはないがむずかしい仕事をなさつておるのです。そういう意味でどういうふうな御検討なのか、どの程度までどういう手続をなされつつあるか、またそれが今頭の中にあることならば、私の考えはこうであるということでもお話になつておく必要があるのではないかと私は考えるのであるが、研究中であるというだけでは、もう問題はあまりにもなまなましいのです。

木村忠二郎引揚援護庁長官

○木村(忠)政府委員 われわれの気持といたしましては、できるだけ完全に、しかも名前のわかりますものについては、その名前を逸しないような方法でもつて引取りをいたすような計画を立てなければならないというふうに考えておりまする従いまして、これにつきましてはいろいろな問題がたくさんございます。たとえばどういうような人を向うに出さなければならないかというようないろいろな準備等の計画もございますので、しかもこれに要する経費の予算というものが必要でござ  いますので、これにつきましても同時に検討いたしておるのであります。従いまして私ただいま頭の中で抽象的に考えておりますことを申し上げましても、はたしてその通りになるかどうかということについては自信もございませんので、まだ検討中であるということをお答えすることでお許し願いたいと思います。

高橋等自由党

○高橋(等)委員 この引取りについては、すでに司令部の方とも何らか概括的な了解とか話合いができておるのかどうかということを承りたいのであります。  それからもう一点は、今予算と言われましたが、この引取りに関する予算については何らかの項目でお考えになつておるかどうか、もし必要であるならば予備費からでも支出して、早急に解決しなければならぬ問題であると考えておりますが、この点も一応承つておきたいと思います。

木村忠二郎引揚援護庁長官

○木村(忠)政府委員 この問題につきましては、現在までのところ調査をいたしまするところまで先方の了解を得ているわけでありまして、それ以上の了解は得ていないのであります。従いましてこれにつきましては、今後の折衝にまたなければならない。なお予算の出し方にりきましては、私からただいまここでお答えすることはできませんが、私たちの気持としては、年度内にできるだけ早くきめまして、措置をとるようにいたしたいと考えております。

苅田アサノ日本共産党

○苅田委員 地上でなくなられた方の遺骨につきまして、アメリカの軍隊の方で何回となく収容されたような形跡が考えられるというお話であります。しかも現地の米軍との間では、はつきりした状況がわからなかつたというお話だつたのですが、これはアメリカ軍の責任者の方へ行けば状況はわかると思います。米軍の方に現在非常に大多数の遺骨が収容されたものと思われますが、この方法、行方等につきまして問合せ御調査に相なると思うのですけれども、この点についてどうお考えになつているか承りたいと思います。

白井正辰厚生事務官

○白井説明員 この点につきましては、私たちが島に滞在しておりますときに、二月三日かと思いますが、あの島は現在アメリカ軍の太平洋艦隊の管轄になつております。そこから海軍大佐が来られまして、われわれに対して話がございました。そのときに海軍大佐が、この島の日本人の地表面の遺骨は完全に処理したと言われました。それから向うにおりますと若干新聞が遅れて参りますが、新聞を見ましたところ、向うの太平洋艦隊のスポークスマンだつたと思いますが、海軍大佐が言われたと同じようなスポークスマンの発表があつたのを見ました。

苅田アサノ日本共産党

○苅田委員 片づけたということはどういうふうにそれを処置され、あるいはおまつりしてあるか、具体的なことをお伺いしたいと思います。

白井正辰厚生事務官

○白井説明員 その点は先ほどから私が二回申し上げました通りに、われわれが見たところでは、地表面にないというのはそれは事実でありますが、それではどういうふうにして片づけられたであろうということは、そういうふうな判断を加えての報告でございます。

苅田アサノ日本共産党

○苅田委員 そのことを私お尋ねしているので、片づけられたのは、アメリカの太平洋艦隊司令部ですか、そこでは遺骨の問題につきましては、多分赤十字法とか国際法などにはつきり処置しなければならないという條文のあることは私記憶しております。今それが條文の何條だつたかということは覚えておりませんが、調べればすぐわかります。そういうこともあるのですからほかの物品を始末するように、どこかにほうり出しておくことはないと思いますので、そういう措置につきましても御調査になつて御発表にならないと、大多数の御遺族にとりましては非常な疑念が残ると思います。その点はアメリカ等でございますれば話合いも簡単にできると思いますから、急速にその点もあわせて御調査を願いたいと希望いたしますが、いかがでございますか。

木村忠二郎引揚援護庁長官

○木村(忠)政府委員 その点につきましては、われわれとしましても非常に気にいたしておるわけでございます。アメリカにおきましても、この点につきましては従来から非常に好意のある態度をとつておるのでありますから、今後十分に明らかにいたすようにいたしたいと考えております。

庄司一郎自由党

○庄司委員 中島、白井両事務官とともに硫黄島に御遺骨の調査並びに敬弔のまことを盡すべく御同道なされた和智師が、新聞報道によると、何か宗教家にあるまじきような行動を御遺骨あるいは御遺体等に対して行われた、かような望ましくない新聞記事を発見しておるのであります。私は、いやしくも元海軍大佐の職にあられ、また一宗一寺の住職であられるところの宗教家としては、意識的にはさようなことは絶対にあるまじきことであると信じたいのであります。だが新聞報道等によつて二、三箇所にさような望ましくない行動の報道を見て、はなはだ心を痛めておるのでありまするが、はたしてさような——あるいは誤解であるかもしれない、あるいは見方によつては間違つた観察であつたかもしれません、和智さんはどういう宗派のお坊さんであるか知りませんけれども、えてしてお坊さんの諸君には、古来多少常識を逸脱したような行為もないではありません。そこではたしてそういうような、われわれの常識の面から考えて望ましくないような態度が御遺骨等に対してあつたかどうか、また新聞の報道にあつたようなことにまぎらわしい行動等があらわれたかどうか、お二人のうち、御承知の方に伺つておきたいと思います。

白井正辰厚生事務官

○白井説明員 私は和智師と一月二十五日に東京を出発しまして、三月六日東京駅に到着するまで、ずつと行動を共にいたしました。まことに変なことを申して失礼でございますが、大便をするのも並んでしたことが相当あるのであります。と申しますのは、向うの日本人キャンプは開放的なアメリカ式の便所でありますから。それは一例でありまして、ずつと行動を共にいたしました。私は新聞記事を見て、ほんとうにきつねにつままれたような感じを私自身受けた。あるいはお答えにならぬかとも思いますが、こういうことだけ申し上げるにとどめたいと思います。

庄司一郎自由党

○庄司委員 さようであつてほしいと念願しております。新聞等の報道が誤りであつたことを私も念願してやまないのであります。いやしくも宗教家が、特に御遺骨や御遺体に対し新聞誹謗のような行動があつたとは信じたくない。ただいまのあなたの御答弁で私は安心いたしました。私の質問は終ります。

小平久雄自由党

○小平委員長 他に御質疑がなければ、本件に関する質疑はこれをもつて終了いたします。

中野四郎第三倶楽部

○中野(四)委員 次に委員会を開かれるときに、和智さんに一ぺんおいでを願つて、いま少し詳しく拝聴したいと思うのです。これを私の希望として申し上げますが、委員の皆機の御賛成を得て採択していただきたい。

小平久雄自由党

○小平委員長 中野委員に申し上げます。実は和智さんの方も御連絡したのですが、今回は、政府からも参りましたので、まず政府の正式の報告を聽取した後にいたしたいということにいたしました。和智さんを参考人に呼ぶことは前に決定を見ておりますから、追つてとりはからいます。

受田新吉日本社会党

○受田委員 この硫黄島でなくなられた方々の死ぬ直前までの実態を最もよく知つておる人たちは、当時負傷者として人事不省に陷つて捕虜にされた人たちがあると思うのです。この人たちにその当時の実情を伺つて、現在と照し合せてこの問題の解決に当る必要があると思いますが、その後俘虜として送還された方々の中に適任者があるならば、これをお呼びいただきたいと思うのであります。

小平久雄自由党

○小平委員長 承知いたしました。調査の上、御希望に沿うようにとりはからいたいと思います。

受田新吉日本社会党

○受田委員 今さつそくわかれば、政府当局の御意向を聞きたい。それにつけ加えて、その送還された方々の数がどれくらいあるかは、政府として数字が出ておると思いますが、それを報告いただきたいと思います。

白井正辰厚生事務官

○白井説明員 硫黄島におりまして生還いたしました人の数は、陸軍関係七百二十六名、海軍三百名でございまして、両方合せまして千二十六名でございます。

受田新吉日本社会党

○受田委員 その数字は、終戦当時硫黄島にいた者があちらさんの保護を受けて返されたものですか、それ以前の分が含まれておりますか。

白井正辰厚生事務官

○白井説明員 今の受田委員の御質問は、ちよつとわからなかつたのですが。

受田新吉日本社会党

○受田委員 率直に申し上げるならば、硫黄島で、この全員戰死のときに負傷して人事不省に陥り、こちらに送還された岩の数字ですか、それともそれ以前にこの硫黄島にいて、ほかへ転進した分が入つておるのですか。

白井正辰厚生事務官

○白井説明員 この七百二十六名は、受田委員の前に言われたものであります。アメリカ軍の手を経て帰つて来た方の数であります。

受田新吉日本社会党

○受田委員 千名を越える者が、全員戰死の島で負傷をして、人事不省に陷つていたわけでございますね。

白井正辰厚生事務官

○白井説明員 負傷して人事不省にな切り込んで行つてつかまえられてしまつた者もございましようし、あるいはつたという方もありましようし、それはいろいろだと思います。いずれにしても、結果においてはアメリカ軍に捕えられて、その手を経て帰つた方であります。

受田新吉日本社会党

○受田委員 その中から適任者を政府当局で選定していただく方が私はいいと思いますので、参考人としてお呼びをいただきたいと思います。

木村忠二郎引揚援護庁長官

○木村(忠)政府委員 これにつきましては、私の方で一応名前もわかつてはおるわけでございますけれども、いろいろ御当人の御都合もあろうと存じますので、十分に研究いたしまして、委員長の方に御連結いたしたいと思います。

小平久雄自由党

○小平委員長 ほかに御質疑がなければ、本日はこれをもつて散会いたします。     午後三時三十一分散会

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