海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第4号
- 発言数
- 182 件
- 登壇者
- 14 名
- 会派数
- 3
- 開催日
- 1952/02/13
会議録
○小平委員長 これより会議を開きます。 本日は、南方諸地域における戰沒者の遺骨調査に関する件及びソ連、中共及びフイリピン地区残留同胞引揚げ促進に関する件を議題といたしまして、議事を進めることといたします。 初めにソ連、中共及びフィリピン地区残留同胞引揚げ促進に関する件について議事を進めます。海外残留同胞の引揚げ問題は、今日各種の情勢より困難な事態にありますが、国連の俘虜特別委員会、万国赤十字社等の努力もありまして、その解決に対する障害の打解さえ望まれるのでありまして本委員会といたしましても、一日もすみやかにこの問題解決に努力いたし、留守家族はもちろん、われわれの多年にわたる悲願を達成いたしたいと思うのであります。 本日はこの問題につきまして、最近中共地区より引揚げて来られました方及びフイリピンのマーンテンルパ刑務所において戰犯として服役され、最近特赦により帰国された黒田重徳君に出席していただき、現地の実情を聽取しまして、引揚げ問題解決のかぎはいずこにあるかを明らかにいたしたいと思う次第であります。 この際、本件につきましてお諮りいたします。中共地区残留同胞引揚げ促進に関しましては、最近中共地区より帰られた元燕京大学教授鳥居龍蔵君及び相馬レツコ君の両君を、フィリピン地区残留同胞の引揚げに関しましては、主として戦犯関係の問題でありますので、最近特赦により帰られた元フィリピン第十四方面軍司令官黒田重徳君を、本日本委員会の参考人として実情を聴取いたしたいと思いますが、御異議ありませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○小平委員長 御異議なきものと認め、三君を本委員会の参考人として実情を聽取することにいたします。 —————————————
○小平委員長 なおこの際御報告申し上げますが、先日の理事会において本日出席を願うことに予定いたしました中共地区より引揚げられた小島巳代吉君は病気で出席できないとの連絡がありました。また同じく豊竹金子君はなくなられたとの連絡がありました。 —————————————
○小平委員長 この際委員会の運営につきまして一応お諮りいたします。参考人諸君から、終戰より今回帰国に至るまでの経過概要、現地における同胞の状況、残留同胞引揚げに関し参考となるべき事項等につき説明を聽取したる後、委員の質疑に入りたいと思いますが、御異議ありませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○小平委員長 それではさようにいたします。 ただいまお見えの参考人の方々は鳥居龍蔵君、黒田重徳君であります。相馬レツコ君はまだお見えになつておりません。 では、これより中央及びフィリピン地区残留同胞の引揚げに関しまして、参考人各位よりお話を承ることといたしますが、その前に一言ごあいさつを申し上げます。参考人各位には御多忙中のところ、御出席下さいまして、委員長として厚く御礼を申し上げる次第であります。異境の地において故郷を思う同胞、一日千秋の思いで帰還を待つておられる留守家族の心情に思いをいたすとき、一日も早くこの問題の解決をはからねばならぬのであります。この問題解決を要望する本委員会の意図をおくみとりくださいましてお話しくださることをお願い申し上げます。 まず鳥居龍蔵君にお願いいたします。
○鳥居参考人 私が鳥居龍蔵であります。皆さんが残留者について非常に御心配になつていることについては、たいへん喜ばしく感謝いたす次第であります。 私は北京におりましても、ちよつと他の留用者の方と違うのであります。私は北京の燕京大学で十二年ばかり教授をしておりました。中共になりましても、私の学校はさつそく共産政府の接收にはかからなかつたのであります。ほかの大学は共産党政府から接収せられまして、国立大学になりましたが、私の学校だけは昨年の一月まではそのままで教授をしておつたのであります。しかるに昨年の一月に、中共政府は私の学校の接收を初めていたされましたが、その接収の名目は公立大学という名前であります。それから昨年の七月になりまして、いよいよこの大学は共産政府に接収せられまして、国立大学になりました。それで私は、そういう関係でありますから、共産政府から俘虜になつた者でもなく、また共産政府の留用者でもないのであります。実は私の学校はアメリカ系の学校でありまして、そのうちにアメリカのハーバード大学と燕京大学とでこしらえたハーバート・エンチン・インステイチユートという研究所がありまして、そこで私は仕事をしておりました。そういう関係でありますから、この大学は特殊の学校でありまして、中共もおそくなつてから接収したわけであります。しかるに七月からいよいよ中共政府に接収せられまして、本年に至つては北京大学、清華大学と三つの大学を合して大きな国立大学として、共産主義の若い青年をつくり出そうという政府のお考えであります。それで七月になりまして、私はことし八十三でありまして、去年は八十二でありましたが、老躯その任にたえないという願書を出しました。それで、とめた方もありましたのでありますけれども、私はからだの都合上どうしてもたえられませんという意味において辞表を提出しましたところ、大学の校長陸志韋先生その他の方々はこの辞表を取上げられまして、そうして中共政府に向つて、鳥居教授は老躯任にたえぬから、どうか帰国さしてもらいたいという願いを出しました。しかるに中共政府は——公安局でありますが、二週間にしてこの許可がおりましてこちらへ帰つて来たわけであります。二週間ばかりで公安局の方はおりましたが、公安局の意見としては、香港経由で行つてくれということで、それで英国の領事館などに手続をいたしまして、英国領事館からいろいろのお世話を願つて、香港へ行くことになつておりましたが、にわかに日本へ行く船が天津から出るというので、この船に乗つて帰つて来たのであります。それから二週間で許可は得ましたけれども、私は持帰る本が千冊以上あります。それを持帰ることについて、中共政府のいろいろの局と打合せましたが、一々本を見まして、この本はさしつかえない、この本はさしつかえないというようなふうで、これで三、四箇月ひまどつたのであります。もしそうでなく、單独に帰るのであれば、二週間で帰れたのであります。それから新聞には、私の研究資料もすべて中共政府が取上げたと書いておりますけれども、そうではないのです。たとえば乾隆帝以前の出版物は持帰ることを許されない、それから地図、歴史の類も、ことに歴史の沿革図などというものは持帰りを許されませんでした。それから中国でも、国民政府時代の書物は持帰ることを許されないのであります。これは御参考までに申しておきます。けれども幸いにして、私の講義の稿本とか、論文の書きかけとか、ノート、スケツチというものは許されました。それですから、私の研究においては少しもさしつかえないのであります。これは私のただ一身上のことで申し上げる必要もないのでありますけれども、ここに書いてあります、帰国に至るまでの経過概要という意味において申し上げたのであります。 それから日本人がどういうふうになつておるかということを申し上げます。私の学校は北京の西直門から二重半ほど隔たつております。そうして学校内にそれぞれ教授が一つの家などを持つておる、ごく閑静な大学であります。そうしてその構内の大きさは上野公園よりも大きいくらいの所であります。それで私は学校内だけにおつて世間のつきあいというものをいたしません。北京の市街というものにも出て行つたことはごく少いのです。私のつき合う人は、おもに英米人でありますとか、あるいは中国の大学教授、助教授という人及びその家族の人でありまして、日本人との往来というものはほとんどありません。ただ私は研究室にとどまつて、そうして自分の研究をしていただけであります。それですから、日本の方がどれくらい北京に今おいでになつて、そうしてどういうことをしておられるかということについては、間接に聞くよりほかしかたないのであります。それから申し上げたいことは、接收せられました翌年ですが、われわれ外国人は外僑の居留許可を願い出ることになりまして、それに一々証明書をもらうのであります。それで私が中共の公安局へ参りましたときに、日本の方が一人来ておられました。この人もやはり証明書をもらうつもりでありましよう。そのときに私は、今中共に日本人の方は何人おられますかと聞いたのであります。すなわち当時の留用者であります。たとえば政府の方で仕事をしておるとか、あるいは会社の仕事をしておりますとか、鉄道に従事しておりますとか、そういう人はおよそ百十四、五軒であろうという話でありました。そうすると一軒に五人と見て五、六百人でしよう。中共が北京に入りました翌年の状態で、それくらいの日本人であります。御承知のごとく、日本の撤兵とともに蒋介石政府ができました。そのときに北京のみならず中国におる全体の日本人、それから朝鮮におる日本人、満州におる日本人を、すべてヤルタあるいはポツダムなどの協定によつて返さなければならぬ状態になつたのであります。そこで北京には、軍隊はわかりませんが、一般の市民としては十万人くらいの人がおられたと思うのです。蒋介石政府は非常に温和な態度と方法をとつて、中国におるすべての日本人を返したのであります。そのときは非常に悲惨な状態でありまして、今月でみると帰りたいという人が多いのでありますけれども、その当時の北京の一例をあげますと、北京におつた日本人で一人も帰りたいという人はなかつたのであります。あるいは古くおつたところの旧北京人と称する人は、長くここにおつて、今帰れという二とは遺憾であるということを言いますし、また占領当時に入つて来ました日本人も、ほとんど日本におると同じふうな生活をしておられたのでありますから、北京の地を去ることについて非常に悲しんだのであります。今日とよほど話が違うのであります。けれどもすべての日本人は中国から返されました。後に残つたのは、留用者として残つたのであります。この留用者として残つたものも一人帰り二人帰りして、ただいま申しました中共の接收の翌年には、百十五、六の家族しかいなかつたのであります。しかるに中共になりました翌年あたりから、満州の方から日本人が来たようなふうであります。これが今日問題になつておる人々であろうと思うのであります。どれくらいあるか、私は計算しない、また秘密でありまして、日本人会というものは北京などにはできておりません。鉄道に従事しておる人、あるいは鉱山、あるいは製造所、政府のある部門に雇われておらるる人等の数がどのくらいありますか、日本人のクラブというものもなければ、統計所というものもないのでありますから、計算が立たない。私の知つておる日本人は四人しかおりません。名前をここに詳しく申し上げますと、これがために返されないような運命になることについて私は非常に悲しみますから、御本名は後に申し上げますが、ラジオや何かを通じてこれを知られれば、世界的な問題になりましてその人の非常な迷惑になつて、返されないのみならず、非常に気の毒な立場になるだろうと思いますから、そのことは遠慮して申し上げません。私の知つておる一人は、営口で裁縫をしておつた仕立屋でありまして大分県の人であります。この人はシベリアへ連れられて行つて、そうして再び北京の方へ来て、今軍隊の被服の方の仕事をしております。これは相当生活に困らぬ程度にやつておるだろうと思います。それからもう一人の人は水戸の人でありまして、この人は衛生隊に属して、中共の衛生のことに従事しております。もう一人は山梨県の方でありまして、これは中共の軍医をしております。相当な待遇を受けてやつておるわけであります。近ごろ満州から看護婦で来た日本の婦人と結婚しまして、赤ん坊ができました。御承知のように、中共の方では女の兵隊が大分男と一緒にやつております。これは士官の待遇でありますが、おもに将校の方の世話をする従卒のような、もつとも今では従卒というような軽蔑した言葉はありませんが、よく将校の方などが兵隊の人に、自分の家で子守をさせたり、あるいは使いなどをさせたりした時代が日本にもありましたが、そういうふうの女の人がこの子供の世話をしております。これらが私どもの知つておる人で、これらの人の話を聞いてみると、やはり帰りたいということであります。私の帰るときなども、涙を流して、選別の手紙などを贈られました。それから石炭の専門家で森田という理学士がおります。この人は日本軍の占領時代に大同の炭鉱を主宰しておりましたが、近ごろは中共の石炭の仕事に従事しております。この人はお嬢さんと奥さんと三人でありまして、このお嬢さんは学校へ通つております。この人も生活にはあまり困つておらず、相当の優遇を受けております。石炭とかそういうものは、中共の人は專門家が少いのでありまして、日本人が便利だというので、そういう人が使われておるのだろうと思います。それからもう一人は北京大学に文学士の今西龍という人がおります。この人はちよつと今問題になつておるのでありまして、家族の方からその話はしてもらいたくないということでありますから、私は申し上げませんが、その方も北京に今おられます。私の知つておる方はこれだけの人にすぎない。今鉄道に従事しておる人、軍医、看護婦、鉱山、衛生薬局などには相当な人が来ておるのだろうと思います。この人たちはたいがい満州から来ております。またシベリアへ行つておつた人が満州を経過して中共へ来ております。それですから、今シベリアにおる日本人と称する人が、どれだけ満州及び北京あるいは中国に来ておるか、これはよほど研究すべきことではないかと思います。今中共の方では手紙の往復を許しております。これらの兵隊及び鉄道その他の仕事に従事しておる人は、そのお国の方に手紙の往復をしておられますから、御当局の方では、この手紙によつてあちらにどれだけおるということはほぼ御承知のことと思うのであります。手紙は現在許されておりますから、この手紙をお調べになればわかると思います。水戸から行つた人の話によりますと、水戸から五人の人が兵隊になつて中国へ出たそうであります。これは満州の方らしい。このうちで今残つておる、衛生に従事しておる人だけがわかつておつて、あとの四人についてはどこへ行つたかわからぬと言つております。それですから、死んだ人も相当あるだろうと思います。それからシベリアに行つておつた人の話を聞くと、コーカサスへ行つている人もあれば、中央アジア、ボハラ、サマルカンドまでも連れて行かれたり、方々におられるのでありまして、この範囲は非常に広いものと思われるのであります。それで中共における日本人というものがどういうふうにしておられるかということは、この四人の人のほかは私は知りません。けれども相当に中国に来ておられるだろうと思うのであります。先日も放送局から、北京におる日本人という題で話してもらいたいというお話がありました。これは私に申し込んだのではなくして、私の家内に申し込んで来られたのでありますが、そのほか二人の婦人の方と三人で放送してもらいたいという話でありました。けれども私の家内も、中国人及び西洋人などとは始終往来しておりますけれども、今満州から来られた日本人というものがどれくらいあるかは、おつき合いしたことがないのであります。それでお断りしたことがあるのです。けれどもその放送局の方のお話を聞くと、今北京のあるところに百二、三十人の日本人が集まつておる。これが一番グループとして集まつておるところの多いところだろう、その話などにも触れてもらいたいという話でありましたけれども、これも行つたこともありませんし、放送局の方の話によつて初めて知つたくらいで、それですから、中共がいかなる状態にあるかというようなことになれば私は話が自由にできますけれども、わが愛すべき同胞各位がいかに生活しておられ、どこにおられるかということは、私においてはこの四人のほかは知らないのであります。ただこのことだけを申し上げまして、あとは御質問によつて、私の知つておる範囲においてお答えしたいと思うのであります。
○小平委員長 ありがとうございました。次に黒田重徳君にお願いいたします。
○黒田参考人 私が黒田でございますが、私の方からわざわざお願いしてでも申し上げたいと思つておつたのでありますが、その機会を與えられましてたいへんありがたく存じております。 終戰よりという問題でありますが、私は御承知かしりませんが、フィリピンの十四軍司令部に行きましたのが昭和十八年の五月二十九日です。やめましたのが十九年の九月一ぱいにやめて山下氏に引継いだのであります。それからすぐ内地に帰つて来ておりまして、終戰後すぐアメリカ軍にひつぱられて向うの横浜の宿舎から巣鴨に参りまして、ずつとそこにおりまして、一九四七年、二十二年の十月にフイリピンに連れて行かれたのであります。それで終戰当時のフィリピンの状況というものは人から話を聞きましたけれども、人様に申し上げられるようなだけの知識はありません。ただこのフィリピンにおける戰犯裁判ということのごく概略、この第一項については申し上げたいと思います。 フィリピンのいわゆる戦犯裁判は最初はアメリカ軍がやつたのであります。そうして山下氏以下ずつとアメリカ軍がやつて、それが一九四七年の始まりまでやつた。その後はアメリカ軍が、まだやりたいものは今度はフィリピンでやらぬで、巣鴨でやるということにして、おもにフィリピンに関する裁判はフィリピン政府にやらせると、こうなつたのであります。そこで私は参りましたのが一九四七年の十月でありまして、フィリピンの裁判がもうその年の八月から始まつておりました。アメリカ軍の時代の裁判で死刑の判決を受けた人で、死刑の執行をまだやつてない人が私が行つたストツケードに残つておるのみで、もう有期、無期並びに将来アメリカ軍で裁判を受ける容疑者の人は巣鴨に参つておりました。そこでフイリピン政府による裁判は一九四七年の夏から始まりまして、一九四九年一ぱいありました。そうしていろいろ容疑者で裁判を受けたが、無罪になつた、もしくはもう裁判も受けなかつたというような人の最後の引揚げが一九五〇年、一昨年の冬にそういう人がみな帰つた。そこで刑は受けたがもう刑を終つたとかいうような一部の人、それから一人特赦になつた人というのが去年のたしか三月に帰られました。 そういう経過をたどりましてこれは第二項になりますが、現在まだフイリピンに残つておりますのは、死刑囚がおおむね六十人と記憶しております。有期、無期が五十人、総計百十人と私は覚えておりますが、フイリピンの裁判によつて死刑の宣告を受けた人で、去年の一月十九日までに死刑の執行をされた人が十七人、今おる死刑の判決を受けた人が六十人おります。このフイリピンの今おるおおむね百十人の人は、最初私どもが行つたときまで、裁判はフィリピンでするが、管理はアメリカでやるということでやつておつたのであります。そこでもう無罪で帰るとか、もしくは起訴しないという者は、アメリカ軍時代は非常に容易に船の世話をしてやつてくれた。ところが一九四八年の十二月一日から管理がアメリカの手を離れてフイリピンでやることになつた。それと一緒に、それまでマンダルヨンというマニラの東方のストツケードのキャンプにおつた者がただいまおりますマニラ南方三十キロのフィリピンの刑務所、フィリピンの一般の囚人がおる刑務所はモーンテンルパという町ですが、そのビリビツド・プリズンというところに一九四八年の十二月一日から收容されておるわけであります。そこで大体給與とかいうようなことを申し上げたいと思うのですけれども、今大体有期、無期がどうなつて、そして死刑囚の取扱いがどうなつておるかと申しますと、死刑囚は一つの大きな部屋、まあ小さい小部屋があつて、それが全部廊下でつながつていて、各人の部屋はたいてい日中はあけつぱなしで、六十人は日中はおおむねお互いに連絡できる。但し外には運動以外には出られないということになつております。有期、無期の方は、まつたく別な建物に、同じ一部屋でありますが、朝五時にドアがあかれば、晩の人員点呼に来る七時か八時ころまでは、その部屋の出入りは自由にできるというような状況になつております。死刑囚はむろん労務はありませんが、死刑囚のうちで三名が今犬の取扱いをするために使われて、モーンテンルパから外に働いております。それはマツキンレーという兵営でありますが、そこに犬の指導といいますか、そういうことで使われておる。有期、無期のうちでは二人だけが陸軍の参謀本部に出されて、今の掃除とかいうような仕事をせんだつてからやつておるようであります。そのほかの有期、無期の四人は局長のところの庭園に使われ、旋盤工に七、八人、発電作業のために三名がわれわれ以外の仕事に使われ、そのほかわれわれの洗濯、炊事、それから掃除、それから食事の分配、運搬というような仕事のために働いております。大体フイリピン政府もしくは刑務当局者の取扱いは、規則の許す範囲において十分に寛大に取扱つてくれておるということは、私は申し上げられると思います。非常に好意をもつてやつてくれています。このモーンテンルパにどうしてわれわれを移したかということにつきましては、一番最初一九四八年十一月一日に私どもが行きましたときは、今の局長ではありませんで、われわれが行つたときの局長、苗字をミサといつた人でしたが、その息子さんは日本に留学したような方で、実にわれわれに好意を持つた人でしたが、その人の話では、あなた方を普通の囚人のモーンテンルパに入れるということは、あなた方を虐待するという意味じやないんだ、むしろ私が主張して入れたんだ、あなた方の持つておる技術そのほかの技術、何でも模範になつていただいて指導していただきたいというために、私がわざわざ政府に願いしたのでありますというような話をしたくらいでありまして、全般的に非常に最初から精神的には好意を持つてやつてくれております。しかし食糧なんかは、大体がフィリピンの囚人のための食糧でありますから、むろんいいことはありません。特に悪いという原因は、話を聞きますと、先はよかつたそうですが、やはり物価騰貴で、予算は上らない、物価は上るというので、この三、四年はだんだん苦しくなつておるということを局長がよく一般に言つておりました。ですからわれわれをいじめるという意味で悪いのじやありませんで、一般の囚人の予算が上らぬので、結局は悪いということになつております。しかし内地から始終送つていただいておる粉しようゆ、粉みそというようなものについても、われわれ百十人のために特別に同じ材料でおかずを別につくる。実際問題としては、幾分炊事の先生たちが好意をもつておれば、百十人という者は少いのですから、炊事の人とこつちの意思の疏通で、割合にそこはフイリピン人よりもよく行つておるということは申し上げられると思います。昨年の夏ごろから前の庭の芝生を掘り返して野菜を植えるようになりました。それでずいぶん助かつておりましたが、これも二箇月おきに収穫してやつたので、半年そこそこで肥料はないし、土地の力がなくなつて、どうもあまり芳ばしくないようになりまして、何とか研究しなければいかぬだろうということで、私はこつちに帰りましたが、まず食糧の方はそういうぐあいであります。しかしそれがために、今給與が悪くて栄養失調になつておるというようなことは、私には見受けられません。米は質は悪いけれども多いのであります。タバコはもらえません。もらえませんが、私は自分自身がタバコをのみませんけれども、どういうぐあいにしてか、いろいろのんでおるようですが、給與はありません。それから工場で働けば一日に十センタボか二十センタボかの給料がありましてその給料の半分は自分のおる間に使えるというわけです。十センタボで一箇月に三ペソ、その三ペソの半分、一ペソ半はタバコを買つても何を買つてもいい。あとの一ペソ半はあそこのモーンテンルパを立つときに金がもらえる、こういうわけです。しかしその人たちは今十人くらいしかおりません。何しろ長い人は開戦当時からフィリピンにおる人がおりまして、みな帰りたいという念においては実に同情をする次第であります。私は今言つたように終戰後に参りましたものでありますから、まだまだこれで短かいのですけれども、とにかく開戰当時から行つた人がまだおるのです。もう十年にもなる人がおるのです。実に気の毒な次第であります。 病人は元来喘息を持つた人が一人おるのですが、その人が喘息をわずらつております。それからこの間一人肺病になつた人がおりまして、これは入院をして盛んにストレプトマイシンを注射してもらつておりましたが、今のところは大分いいように私は考えておりました。そのほか普通の病人としては大したことはありませんが、歯が悪い人が大分おりました。結局、歯医者は歯の治療はするが、入歯をする義務がないというのが建前らしい。そこで金を出さなければ歯は入れてくれない。日本の赤十字から入歯の材料をせんだつて送つてもらいました。二回くらい送つてもらいましたが、その材料で入れ賃にしてくれというような話をしましたけれども、向うの歯医者がいうことをきかない。結局材料はあつてもほかに五十ペソか幾らかやらなければ入れてくれないというような状態で、歯の悩みのある人が十人何がしくらいおりやせんかと思います。つ 第三の同胞引揚げということについては、私たちは向うにおつたきりで案も何もありません。ただ、今申しましたように、今のところは死刑の人がまだ六十人おります。話を聞きますと、もう大丈夫だ、講和條約が批准できればすぐに帰すのだということを会う人ごとにみな言つておりますから、安心はしておるようなものの、まだ判決がこうなつておる以上は油断がならぬ問題だと、実に皆心配しておるような次第であります。それとこの引揚げということと両方相当にむずかしい問題が残つておるので、この点を大いにひとつ内地の皆さんのお力で、お願いをしたいと念願をしておる次第でございます。大体の御説明はそれだけであります。
○小平委員長 それではただいま天津地区より引揚げられました相馬レツコ君がお見えになりましたから、相馬君のお話を承りたいと思います。
○相馬参考人 ただいま御紹介にあずかりました相馬と申します。昨年十二月天津から引揚げて参りましたが、帰つて来ましてかちまだ二箇月くらいしかたちませんので、あまりお話することがわかりませんけれども、自分が知つている限りのお話をしたいと思います。 停戰になりました当時私はハルピンにおりました。停職の八月から二年ほどハルピンにおりましたのですけれども、ハルビンから天津の方に来ました。停戰当時の九月に引揚げがありましたが、八月に留用になつたのです。そのとき留用になつたのは看護婦じやなくて、普通の軍属の保姆として留用になつたのです。それで、天津にやはり部隊と一緒に移動になりましたが、天津に参りましたのが帰る二年前であります。天津に来るまではいろいろと苦労もしたのですけれども、今ではそんなことも忘れております。中国人は日本人にとてもよくしてくださいました。私なども中国人にはよくされましたけれども、ソ連の兵隊には略奪やらずいぶんいろいろなことをされまして、一年ほどは外へなどあまり出ませんでした。停戰当時の様子は、地方のことはあまりよく知りませんでしたが、子供がいたものですから、町であわもちやいろいろのものを売つたりなどしてずつと生活の足しにしたのですけれども、とても生活できなくて、一応住込みに入つたのです。そこに入つてからしばらく働いていたのですけれども、どうせこうなるのだつたら軍に入つた方がいいと思つたのです。しかし軍に入るよりも、家庭の方だつたら少しは経験があるものですから、中国人の軍の軍属の方に入つていました。そのときに留用になつたのですが、それが帰るちようど一箇月くらい前でした。天津へ来て二年ほどおりましたけれども、化学方面の化学工場の方に今度は勤めるようになつたのです。それで、向うで軍の方で解除になつたのですが、それが、日本へ帰ろうという気持があつたものですから、自分で無理して地方に出たのであります。そのときは裸で、一銭もお金がなくて、公安局の外僑というところが天津にあるのですが、そこへ行つたのです。そうするとそこの人が、日本へ帰るならば旅費がいるからというので、それまでどこかで働かしてもらいたいというようなお話をそこでしておつたのです。ところが、天津の前の市長さんの藩という人の息子さんの奥さんがそこにおりまして、その人がいろいろめんどうを見てくださつて、家へ連れて行つてくれたのです。そこで生活費やらお金やら、着るものなどいろいろ補助をしてもらいまして、そうして中国人のところへ一時勤めに入つたのです。半年ぐらいそこにいたのですけれども、そこはあまりよくなくて、化学方面の薬工場の方に勤めて、帰るまでずつとそこにおりました。鈴木さんという人が技術者で天津で留用になつていたものですから、その人のところで帰るまでお世話になつていたのです。中国にいる日本人——天津にいる私の知つている人などは、みな日本に帰りたがつているのですけれども、いろいろな事情で帰れない人もございます。また帰りたくないという人も中にはおりますけれども、一般に軍にいる人は希望通りに帰れませんし、地方にいる人は、旅費やらいろいろのことで帰れないという人が多いのです。私の知つている日本人の方で、中国人のところにずつとお世話になつている方がいます。その人は結婚していて、子供が二人もいるのですけれども、御主人が生活能力がなくて、御自分は帰りたくているのですが帰れないのです。そういうのは私もよくわかりませんけれども、どんなものでしようか。女の人たちで中国人に昔世話になつたといつて帰れない人なんかも、ずいぶんいるのです。帰るときにある日本人の人に頼まれたのですけれども、その人は陸軍病院の方に勤務していらつしやる方で、自分たちは帰りたいけれども今のところ帰れないから、日本に帰つたら引揚げの方をなるべく早くしてくれということを頼まれたんです。その人はこんなことを言つておりました。何か政府でいろいろ引揚げとか何とか言つておりますけれども、いつになつたら帰れるかわからないから、直接毛沢東の方に手紙でも出して、早く船を送つてくれということを言つておりました。毛沢東だつて、そんな日本人が帰りたがつておるのに帰さないということはないと思います。
○小平委員長 ではお話はそのくらいにいたしまして、あとは委員の質問にお答え願いたいと思います。 皆さんにお諮りいたしますが、飯塚君が是非ない用事があるようですから、質問は簡単だそうですからまず第一に許したいと思います。飯塚定輔君。
○飯塚委員 いろいろお話ありがとうございました鳥居先生にちよつと一つだけお伺いいたします。 先ほどの先生のお話の中に、私がはつきり聞きとれなかつた、あるいは間違いかもしれませんが、乾隆帝以前の書籍は持ち帰ることは許されなかつたというように伺いましたが、さようでありますか。乾隆帝以前の書類は内地へ持つて帰ることが許されなかつたというように聞きとれましたが、さようでございますか。
○鳥居参考人 今度帰るときのことですか。この帰るときに持つて帰れないものは骨董品ですな。それから乾隆以前の書物は許されない。それから地図類などというものは持つて帰ることは許されなかつた。それから日本から持つて行つた中国歴史沿革図などというものも取上げられました。そして向うの言うには、今中共ではりつぱな地図ができておるのに、わざわざ清国時代あるいは蒋介石の政府時代の地図は持つて行く必要がないじやないかというふうに、新しい地図は許されるのでありますけれども、古いのは許されない。それからまた向うの服装をしたところの写真は許されないのです。ここにおもしろいエピソードがありますが、私ども中国を歩きましたときに、山東省の済南で写真を大分とりました。そのうちに、あそこにりつぱな水の出るところがありますが、そこで老婦人が洗濯をしておる写真がある。それを私と私の家内とが見て指さして笑つておるという写真は取上げられた。これは五、六百枚の写真のうちで——たいがい考古学上、人類学上の写真でありましたから、それは許されたのでありますが、この一枚だけ取上げられました。その理由は何かというと、ブルジヨアがプロレタリアを軽蔑しておる、こういう写真はけしからぬというふうにして取上げられました。
○飯塚委員 ただいまの乾隆以前の書籍は持ち帰ることは許されなかつた。たとえば乾隆といえば、清朝でも非常にあの時代は殷盛な時代であつて、英国の大使でさえもひざまずいて礼をしたといわれておりますが、その当時の、隆盛な時代の乾隆帝以前の文献はどうして持出すことを許さないのでしようか、あるいは思想的な問題でしようか。
○鳥居参考人 それは国内において芸術品と見ておる。国宝だというのです。それですからそういうものを持つて帰るのはけしからぬ、こういうような御意見です。
○飯塚委員 そうすると、あるいは骨董品と同じような意味も含まれておるわけですか。
○鳥居参考人 そうです。
○飯塚委員 それから援護庁の方にお伺いいたしますが、鳥居先生のお話の中に、現在中共における日本人が郷里と自由に手紙を往復することが許されておる。そういう現状であるから、当局では、向うにおる人と手紙を往復しておるくらいでありますから、向うにおる人もよくわかつておるのではないか。そういうお話ですが、当局はその点についてどういうような考えを持つていらつしやいますか。
○木村(忠)政府委員 私の方で調べておりますのは、軍人、軍属関係だけでございます。一般邦人でありまするとか、そういうものにつきましては外務省の方でもつてこれを取調ベております。従いましてそういうようなものにつきましては、できるだけ情報を集めるようにいたしております。
○飯塚委員 これは外務省で取扱つておるとか、援護庁で取扱つておるとかと区別したことでなく、お互い協力し合つて一日でも早くそういう情報なり資料なりを集めていただきたいと思いますから、これだけは一応お願い申し上げておきます。
○木村(忠)政府委員 ただいま申し上げましたのは、そういう所管でやつておるということを申し上げただけでありまして、実際にやつておりますのは、同じ場所においてこのことは両方で協力してやつております。
○小平委員長 次に通告順により発言を許します。中山マサ君。
○中山委員 それでは参考人にお伺いしますが、私はあなた方と御一緒にお帰りになつたある一人の人に聞いたのでございますが、今相馬さんも、たくさん帰りたい方があるというお話ですが、静岡県にいらつしやる御婦人から、帰りたいといえば逃亡罪を構成するということを伺いましたが、それはほんとうでしようか。
○相馬参考人 そういうことを聞いたようなことはありますけれども、それはあたりの方からそういう目で見られるという自分の誤解じやないかと思います。帰りたいという気持があると話しただけでは、別に何ともないのです。
○中山委員 それではあなた方はお帰りになるときに、どういう手続でお帰りになりましたか。あなた方はどういう手続をとつてお帰りになることができて、ほかの人たちは帰りたいのになぜ帰られないのか、いきさつをお伺いしたい。
○相馬参考人 それは帰りたいという方もありますし、また帰れない方もあります。地方におられて帰りたいという方は、旅費やら仕事のこと、あるいは軍なんかにおる人たちはもちろん帰れないと思うのですけれども、地方にいる人で帰る場合は、私はただ公安局の方に申請したのです。出境証明書という日本に帰る証明書を申請したのです。それで三日間新聞に出したのです。自分は日本に帰るから、もし異議があるものは公安局の外僑の方に申し込めという新聞広告を出すのです。この三日間待つて五日目に何のあれもなかつたら、公安局の方でその書類を本局の方にまわすらしいのです。まわして、出境という中国から出てもよいという証明書がおりたのはちようど十四日目でした。別に日本人が帰りたいからといつて、反動派だとか、そういうようなことはあまりないのです。結局自分でそう想像して、一人かつてにきめるのじやないかしらと思うのですけれども……。
○中山委員 帰りたくても帰れないというのは、ただ旅費の問題だけですか。軍隊に入つているいわゆる軍属の人は、軍の許可がなければむろん帰れないでしようから、事がむずかしいでしようけれども、一般邦人は帰る旅費がないから帰れないのですか、その点を教えていただきたいと思います。
○相馬参考人 それはいろいろあるのですけれども……。
○中山委員 いろいろとおつしやいますと……。
○相馬参考人 普通民間で働いている方と、半民半官で働いている方と、男の方はたいてい技術者として留用になつていて、自分かつてに帰るということはむずかしいのです。それは工場とか、一応そういう方面では、公安局で許可する前に会社の方で許可しなければ帰れない、機関なんかにいる方は、帰るときはたいてい旅費を出すのです。地方にいて軍から出たり、機関から抜けたりなんかしている方は、自分で旅費を出さなければならぬ、そういう場合に、旅費といつても一人ぐらいでしたらあれなんですけれども、やはりその人その人、一人々々の思想がありますから、それは帰りたいといつたつて口だけで、日本に帰つたらまた職の問題なんかがあつて帰れないという人もあるのです。私もいろいろ考えていたんですけれども、日本に帰つてすぐお家に困る方と、それから職に困る方がずいぶんおるのです。向うにおるそういう方が日本にいまさら帰つたつてとても生活に困る、だから中国にいた方がよいという方も中にはおるのです。
○玉置(信)委員 相馬さんにお伺いいたしますが、日本に帰つても職がないから食えないだろうという心配で向うにとどまつているという人があるような今のお話でありますが、その帰つて職がないという考えを持つに至つた基本的な考え方ですね、どういうためにそういう考えを持たれるのでしようか。だから日本に帰つても、今の日本は敗戰後で非常に生活も苦しいし職場もないから、帰つても仕事なんかにありつけないぞ、生活が苦しいぞというような評判をする者があつたでありましようか、あるいはそういうことを聞かせた人があるのでしようか、そういう点お聞きになつたかどうか。
○相馬参考人 そのお話をちよつときのう考えていたんですけれども、軍にいて留用になつた方なんですけれども、こういうお話を聞いたのです。今その方は公安局の運転手をやつておる方です。それで私が帰るときに面会に行つたところが、こんなことを言つていました。今日本に帰つても、自分たちはルンペン生活をしなくちやならない、ここにいたらどうにか食つて行かれるのであるけれども、日本は若い人でもものすごく失業者が多くて、帰つたとたんにとても困る、そういうお話をしていました。向うの方でいろいろのデマということではないですけれども、やはり新聞だとか雑誌なんかで、たまに日本の状況が入るのです。こういうときに、日本は女の方なんかほんとうにアメリカのパンパンなんかになつていて、それで若い人で引揚げた方は三分の二は労働者をやつて、生活はほんとうの最低の生活をして、食うか食われないかのような生活をやつている。お家はもちろんない。それでそのときはとても引揚援護庁の方でよくしてくれるのですけれども、後になると引揚者というあれで、日本人同士からでもあまりよく言われないというようなことを聞きましたですから。向うでは、やはり少いといつても日本人の生活には困らないような給料もくれますし、向うにいらつしやる方でしたら、たいてい生活は中国人の中流以上の生活をしているのではないかと思います。ですからこちらに帰つて来ですぐ困るというより、向うにいた方がよいという人も中にはおります。
○玉置(信)委員 なお先ほどのお話で、民間に働いておる人は申請して、それが公告されて、何もほかから異論のない場合は二週間以内に許可が来て帰れるというようなお話でありましたが、それは何か特殊な中共の政府なり、あるいは中共の政府機関に知合いがあつて、特別な取扱いを受ける人だけがそういう恩惠に浴するというのでなくて、だれでも申請さえすれば、広告後二週間以内に何らの支障の起らない者は返すということに常識的になつているでしようか、どうですか、その点をもう一度繰返して御説明を願います。
○相馬参考人 それは、天津から引揚げて来た方は去年からずいぶんおるのですけれども、たいてい証明書を出して、帰られないという人はあまりなかつたのです。出境の申請書を出してそれでやはり私と一緒に帰つて来た清水さんという方なんですけれども、その方はやはり二年ほど延びたのですけれども、その方はいろいろの事情で普通のあれじやなかつたのです。そこにいた方がスパイというか、特務というあれでもつて今公安局の方に行つているのですけれども、日本人の女の方ですけれども、そういう関係でやはりいろいろの取調ベがあつたのではないかしらと思います。普通でしたら、船がはつきりしまして、日にちがわかりましたらたいてい今まで証明書が出ていたのです。
○玉置(信)委員 中共におつての待遇等も比較的よくて、苦しくない生活をしているということを聞いて、私ども安心したのです。ところが先ほどのお話によりますと、帰りたい気持の者も大分いるということと、むしろ帰らないでおつた方がよいというのと二様にあるようでありますが、相当恵まれた生活をしておつても、なおかつ帰りたいという希望の人はあるでしようか、どうでしようか。 それから第二点は、この前昨年の当委員会で同じく引揚者の婦人の方にお伺いいたしましたところ、ハルピンにおきましたかつて日本軍に従軍いたした看護婦で、二百各ばかりの御婦人方がどこへ行つたかわからない、あるいはソ連の圏内におられるか、それともソ連国内におられるか、中共に移動しておるかもしれないというようなお話を聞いたのですが、相馬さんは、そうした多くの看護婦の人が中共地区、天津方面に来たということを聞いたことはございませんか。この二つをお伺いいたします。
○相馬参考人 看護婦さんは去年の三月ごろに東北満州方面から二百名ほど天津の方へ来ました。天津の陸軍病院の方へ勤務しております。その人たちはたいてい若い人ばかりです。
○玉置(信)委員 さつき帰る気持のある人のことをお聞きしたのですが、相当な待遇を受けておるけれども、帰りたいという場合は……。
○相馬参考人 そういう方はやはりおります。けれども天津には少いのです。あまりいないのです。
○玉置(信)委員 向うで、日本に帰つてもパンパンなんかしなければ生活もできないし、引揚者はほとんど生活に困難をするであろうといつて聞かされたことと、日本に帰つて来まして現実にあなたが見られた日本の姿とは一致いたしますか。それとも聞いたことと現実に見たこととの違いがありますか。その点を参考までにお聞きしたい。
○相馬参考人 日本に来てあまり出ていないものですから、わかりませんけれども、苦しいといつてもやはり日本はいいと思います。向うにいても身内もないし、一人ぼつちだと、やはり何かにつけて苦しくなる。鈴木さんという下宿のおうちでずつとお世話になつて食べるとか着るとかは不自由はなかつたのですけれども、やはり日本に帰つて来て、日本はいいなと思いました。向うで日本のことを言つていますけれども、やはり私たちは日本に帰つて来た方がいいのじやないかと思います。ですから日本から早く帰れという手紙を出したのです。なるべく早く引揚げしていただいた方がいいのじやないかと思います。
○中山委員 相馬さんにお尋ねをいたしますけれども、今新聞広告をして、二週間ですか待つて、そうして帰つて来たというお話でございますが、その新聞広告料はやはりあなたがお出しになるわけですか。それとも公安局が出すのですか。
○相馬参考人 それは自分で出します。
○中山委員 自分ですか。それは幾らぐらいかかるのですか。
○相馬参考人 一日十二万元で、三日間三十六万元。
○中山委員 それを日本円に換算したら幾らになるのですか。私向うのお金の相場はわかりませんが……。
○相馬参考人 それはドルから計算したらいいのですけれども、ドルは向うでは二万元ちよつとだつたと思つたのですが、日本では三百六十幾らですか。向うの一ドルは二万元ぐらいですね。三十ドルでちようどここの一万円ちよつとだと思います。だからちようど十二万元だから約六ドル以上です。
○中山委員 それではそれだけのお金がかかるわけですね。
○相馬参考人 ええ、新聞だけで……。
○中山委員 それだけの費用と、それから向うから日本にお帰りになるときの旅資金額は幾らかかるのですか。
○相馬参考人 それは向うのお金の百三十万元。いろいろ計算しましたら新聞代だとか、それからいろいろ手続をするのにちようど半月ほど会社を休まなければいけないのです。だからそれに帰る旅費や、いろいろなことで全部でここのお金の約五万円ぐらいになるのです。いろいろのものでそのくらいかかるのです。
○中山委員 それならば向うで一日働いて給料はお幾らでしようか。
○相馬参考人 それは私は一日一万元もらつておりました。ですから三十万元です。
○池見委員 大分きようは多いようですから、きわめて簡單にお尋ねいたします。まず第一に鳥居先生にお願いしたいことがあります。きようは非常にいいお話を聞かせていただきましてありがとうございました。ときにあなたが昨年の七月燕京大学を辞任された。その前に、昨年の一月に国立大学として今の共産政府に接收された。その間あなたは大学で教鞭をおとりになりましたか。
○鳥居参考人 いやこれは申しておきますけれども、一月から公立大学になつた。私はあそこでは研究教授ですから、御承知のように、大学にはアメリカなどの方には研究教授と講義教授とあります。私は研究教授ですから講義はしません。ただ教授や何かが来て私のところに相談があれば話はしますけれども……。またこの七月から政府に接收になりました。
○池見委員 そうしますと、研究教授であるということになれば、そういつた共産政府の国立大学にしても、その教授に対しての制肘は何らないわけですね。
○鳥居参考人 これはないわけですけれども、制度が、アメリカのハーバード大学と燕京大学との研究所というものはもうなくなつてしまうわけです。もう米国というものは……。
○池見委員 そういたしますと、昨年おやめになりますまでは、研究教授としていわゆる燕京大学の方に協力をされたわけですね。
○鳥居参考人 むろんそうです。
○池見委員 従つてその間におきまして、すでに終戰後共産主義政府ができまして、それに接收されるまでの間において、その間の生徒というものの質は、すべて民主主義を基本にした教育をされておりましたか。
○鳥居参考人 生徒の方はよほどもうコミユニストの共産主義です。それから教授が講義しても、あなたの教授はこれは資本主義でやる講義だというので、生徒が聞かないでいた。日本では大学は自主だとか、教授に自由を與えろということを言いますけれども、向うでは絶対に共産主義のほかのりくつは言わせません。その点は非常にむずかしいのです。一月まではよかつたのですけれども、今日では大学教授の頭を共産主義に改革しておる。その自由というものは共産党においての自由であつて、もう決して第三者の自由でない。日本に帰つて自由なることに私は驚いたのであります。
○池見委員 きようは鳥居龍蔵博士よりいわゆる共産主義の理念的なお言葉を聞いたことを、国民として喜びにたえません。 その次の黒田さんにお尋ねしたいのですが、あなたのお話で、大よそその戦犯者としてフイリピンにおけるところの生活状況をお聞きいたしましたが、これらのことにつきましては、私どもが今日まで承知いたしておることと非常に接近しておることをうれしく思うのであります。そこでこれは戰犯者に関係はありませんが、今日なおフイリピンの各島にいまだ投降せざるところの日本兵が残留しておるということを新聞紙上、その他において聞くのであります。ところが戰犯者として向うに居住せられておりました間において、そういうような情報なりうわさでもお聞きになつたことがあるかどうか。その点をお尋ねいたします。
○黒田参考人 それは昨年の今ころだと思います。実際はわれわれは新聞を読んではいかぬことになつているのですが、私はいろいろ便宜があつて読んでいたのですが、フイリピンの新聞に、ミンダナオの付近にたくさんまだそういう者がおるということが一時新聞に出ました。しかしその後は一度も聞きません。最近ルバング島に三名ばかり日本人が出て来て、何か食い物をとりに来て、見つかつてフイリピン人を殺して逃げたので、それを討伐しようか降伏勧告をしようかという問題で、ちようど私も局長に呼ばれまして何か宣撫のためにいい人物がおらぬかということを聞かれましたので、私は仲間を一人推薦しました。聞きますと、さいぜん申しました犬の方の死刑囚が三人外に出ておりますが、その人たちを使つてやつたというように私は承知しております。そのほかのことは、私としては一度を聞いておりません。
○池見委員 そこでこれらのことに関する何らかの資料が当局においてあれば、ひとつ聞かしてもらいたいと思います。
○木村(忠)政府委員 私の方としてはいろいろそういううわさを聞いておるのですが、正確なる資料というものは特別に持ち合せておりません。
○池見委員 再度黒田さんに、これは私の要望として申し上げておきます。あとで女性の方にもお尋ねしたいのですが、内地における引揚げ促進の運動のごとき、きわめて手ぬるいというお話を私は聞いたのであります。これはまだ女性の方がお帰りになつて日なお浅く、その事情に精通されぬから、向うの言葉のみをお話になつたものとして私は一応了承いたしますが、特別委員会はもちろん、あるいは全国民をあげて、海外抑留同胞救出国民運動総本部といつたようなものができまして一日も早く、一人でも多くという運動が展開されておる今日において、私は数日前にある留守家族の大会運動支部ブロック会議に行きましたが、その当時の話の中心は、戦犯者の慰問救済だつたのであります。私はくどくどしく申し上げませんが、黒田さんが許されたる範囲内において、あなたの可能な範囲内において、私は留守家族の方々にラジオを通じてでもよろしい、あるいは書き物によつてでもよろしいのですから、ひとつ大いにこの状況を知らしてもらつて、そうして留守家族の方方をわれわれとともに慰問していただきたいということを申し上げておきます。 それともう一つ、あなた方の食事のために内地から粉みそであるとか、粉しようゆ、こういうものが来る。これは少くとも慰問品的のものであろうと思いますが、こちらから行きます慰問品というものは、現在の比島の戦犯者には手渡しになつておりますか。渡されますか。
○黒田参考人 戦犯者の家族、遺族、留守家族の人たちに対するいろいろな御盡力、また戰犯者自身に対する御盡力を承つておりますが、今先生からあらためて承りまして、実に感激いたす次第であります。私もむろん微力でどうもできませんが、御指導にあずかつて、何とか力を盡したいと考えておる次第であります。よろしくお願いいたします。 慰問品のことでありますが、ただいまのところでは、読み物は日赤を通じて参つております。そのほかはどうも家族の方から送つているのがあるようですが、全般的の慰問品というのにはタバコがあります。タバコのほかはちよつと今はつきり覚えません。
○池見委員 もう一度だけなんですが、今も申し上げますように、死刑囚の助命嘆願であるとか、あるいは有期囚の短期服役であるとかいうような運動は今日猛烈に行われておりますが、そういう内地の状況が、何らかの方法によつてあなた方の耳に入ることがありましたか。
○黒田参考人 ただいま申し上げましたように、新聞が始終参りました。新聞の情報でほぼわかつております。しかし私自身が今度帰りまして、直接いろいろな方面に接しまた見まして、特に今おつしやつたようなことを感じたような次第でありまして、まだただいまおつしやつたようなことが痛切には——むろん運動していただいているということは私は知つていますが、それだけのことが痛切には行つていないのではないかと思つておりますので、この会議が終つてから、なるべく早く皆様に通知するつもりでおります。
○池見委員 それでは最後に相馬さんにお尋ねしたいのですが、あなたは終戦をハルピンで迎えられて、第一に天津に来られて病院に入られたということです。いずれにしても生活の道を天津において開かれたということになつておりますが、その場合、日本人に対しては非常に中国人というか、すべての人が同情的であり、親切であつたということを自分は痛感したというお話でした。その後あなたの生活は、中国人の家庭の中に入られて、あるいはまた化学工場に入られて、あるいはその他の方面にはどうかと思いますが、割合にその生活過程に変化があつたと思いますが、あなたが最初印象を受けられた中国人の気持、そういうことから考えて、今の中国の状況は、いわゆる共産主義国家のもとに運営されておる国体である、こういうような点から、あなた方がその生活過程においていろいろな思想的な誘導、あるいは思想的な変革といいますか、そういうふうな点は考えられたことがありますか。
○相馬参考人 そのお話、はつきりあまりお話できませんけれども、中共になつてから向うでは私たち割合に解放されて、女の人が偉いというのですか、中共じや女の方がいばつている。それをはき違えて、男の人に何もかも言いつけたり何かしているのが見られましたし、いろいろな……。あまり私はわからないのです。
○池見委員 その程度でその点は中止をいたしまして、今天津には男女どのくらいの人がおられるか、それをひとつあなたが知つておられる範囲内で伺いたい。
○相馬参考人 知つている日本人は、地方にいる方は十人くらいしか知りません。あと陸軍病院の方はたくさん知つておりますが、名前は一々覚えておりません。
○池見委員 それでは返答が先になりましたが、十人程度の人は、私はあなたと相当の交際のある方であると心得ますが、病院の方には相当の人がおる。私の問わんとするところは、日本人としての男なり女なりの人がどの程度天津に居住しておるかということです。
○相馬参考人 はつきりわかりませんけれども、地方の方は女の人より男の人が多いらしいのです。私の知つている範囲では、女の人は天津では二、三人ですね。あと男の人は五、六人くらいです。そのほかにもいるんですけれども、つき合いの範囲だとそれだけです。陸軍病院の方には看護婦さんが二百名くらいいると聞いております。それから居住していらつしやる方で田人先生という人と深谷先生、あと秘書をやつている林さんという方三人だけです。あとははつきりわかりません。
○池見委員 そうしますと、結局あなたのお話から行けば、二百十四、五名程度の者、そのうち病院の看護婦というものが大部分を占めておるということに、一応心得えておきましよう。 それからこれは中山委員より話がありましたけれども、再度相馬さんにお尋ねしたいのです。日本でいろいろ引揚げ促進とかなんとかやつておるが、ああいうふうなことは非常になまぬるい、それよりも毛沢東の方にすみやかに船をまわして、中共に残留するところの日本人を引揚げさせてもらいたい、そういうふうなことが早道だという話がありました。これは天津におる日本人の大多数の声であるのではなかろうかと私は思うのですが、真実相馬さんはそういつたことをいろいろの人からお聞きになりましたか。
○相馬参考人 それは帰るときに、陸軍病院の田人先生の秘書みたいになつている元柔道の先生ですけれども、その方がはつきりそうおつしやつています。その人からだけです。そのほかに帰るときに、日本に帰つたらなるべく早く引揚げ促進をやつてくれということを、五箇年計画で山に入つた満鉄の若い人たちからずいぶん頼まれました。
○池見委員 今柔道の先生のおられる病院と名前はあなたおわかりでしようか。
○相馬参考人 それは天津の陸軍医科大学です。そこにいらつしやる田人博士の秘書をしている方です。今柔道をやつておりませんけれども、昔柔道の先生をやつておつたと言つておりました。
○小平委員長 池見君にちよつと申し上げますが、大分通告者がありますから、なるべく簡單に願います。
○池見委員 もうすぐ終ります。一番大事な点ですから……。そこで今のお話はよくわかりましたが、相馬さんが帰られてわずかにまだ一箇月間、よく私はあなたが引揚げて来られたと思います。なつかしの日本に帰つて来られた機会に、さつきも私が申し上げましたように、日本の共産党を除く以外の国民は、この引揚げ促進に勇往邁進しておる今日であり、引揚者こそ抑留者の心をよく知るものであると思いますから、人間的立場において、どうかあなたもこの運動を展開していただきたいということを、最後に私は要望いたします。
○庄司委員 鳥居先生に二、三お伺い申し上げます。私は庄司一郎といいます。あなたの「考古学上より見たる蒙古」などという本は若い時代から愛読させていただいておりまして、ひそかに感謝しておるものであります。英国人のジヨン・バチエラー博士が、北海道のアイヌ救済並びに現地調査のために四十二年も日本におられたと同じように、鳥居先生におかれては四十年近くも満蒙あるいは中国等に、あなたの終生の御目的であられるところの考古学あるいは人類学等のためにそれこそ東奔西走、御奮闘なされた。ところがいよいよ日本に帰国したいという念願で向うの認可をとられてお帰りになられましたのは、八十何歳という御高齢のしからしむるところでございましようか、また燕京大学が共産主義の学校にかわつたために、あなたの学者としての自由なる研究も発表も不可能に陷つた、その意味において燕京大学を見限つて御帰国なされたのでございましようか、先生のお心持を聞かせてください。
○鳥居参考人 ただいまの御質問でございますが、私燕京大学で中国人あるいは英国人などと毎日顔を合せておりましたが、大体私のあちらに参りましたのは、後に大使になられたアメリカのスチユアートという人が校長をしておりましたが、その人の招聘を受けて参つたのであります。アメリカのハーバート大学と燕京大学の合同研究所というものに私は主としておつたのでありますが、一昨年の冬ごろからアメリカ人は去りますし、私も年とつて参りましたから、それでおいとま申して帰つて来たのであります。この間にいろいろな事情もあるでありましようけれども、これは今発表する機会じやないと私は考えるのです。いずれ私は公の機会に、同所にて研究した自分の意見の学術的結果を発表したいと思います。いましばらく私は病気で——病気ではないのですけれども、つまり老躯その任にたえずということでお願いしたのであります。私がこつちへ帰るときには、長らくおりました中国の先輩、後輩なども、こちらで生活すれば研究にはさしつかえないようにしようと言う、非常に懇々とおとどめになつたのでありますけれども、私はしいて帰つて参つたのであります。また中共政府においても、私がもし向うにおれば、まだ中共政府の節囲において仕事をしなければならぬことになるのでありましようから、私のからだが八十二歳という高齢でありますから、どうも若いときと違つて仕事に困難でありますがゆえに、こちらに帰らしてもらつたのであります。 それからちよつと相馬さんとの間に大分御質問がありましたが、相馬さんも女性のありさまですから、あまり世間との接触が少いから言えないこともありましようが、つけ加えて申し上げたいことは、私は天津は知りませんが、北京のおひざ元の警察、すなわち公安局にこれくらいの帰国願いが出ております。そのうちで一人、二人ぐらいしか許可が出ない。相馬さんの話によると、二箇年かかつて帰つた人もあるくらいです。永遠に帰れない人もあるかもしれませんです。それから私は諸君のごとく政治家でも何でもない、ただ一人の学究でありますけれども、日本が独立してどういう施政をとられるか私はわかりませんが、中共ともし反対の立場になれば、日本人の帰ることは非常にむずかしかろうと思う。そうして向うの新聞を見ますと、こちらの困つておる事実は非常に報道しております。けれども日本が復活したという報道は一向書いてない。そうですから、われわれが帰るときでも、日本に帰れば困るだろうということになつておりまして、今相馬さんのお話のありました通りなんです。それで日本と中共とのありさま、また国府との関係という上において、将来アジアにおいての国際問題が非常にむずかしくなつて来るだろうと私思うのです。これまでの引揚げよりもなお一層困難な立場になつて来るのであろうと私は思うのです。それですから、この特別に設けられますところの後援会も、よほどしつかりおやりにならなければ、何もなくなる結果になつてしまうのではないかと思うのです。私が帰つてがら五、六通、早く帰してもらいたいというような手紙が来ております。私の一個人のうちにすらもそれほど来ておるのでありますから、非常にみなお困りだろうと思うのです。それから向うにおらるる方が帰りたいは一ぱいだろうと私は思う。どうも話を聞いてみると、現に私が帰るについて、三名の方が非常に涙を流して私を送別された。他も察せられるのであります。けれどもいかんせん政府の留用者になつておりますがために、一個人としての立場は許されない。相馬さんの場合などは政府に何の関係もない、こういう方はよほど珍しいと思うのです。たいがい鉄道に従事しておるとか、病院におられるとか、たいがい国籍は日本人でありますけれども、留用者として捕虜の待遇でありますから、一概に行けないのです。そうして、たとえばあるところに従事しておられる方は、書面をもつて、自分は帰りたくないからぜひともおらしてもらいたいという書面を書いて出しておる人がある。これは本心で書いておるかどうかわからぬのであります。こういう微妙な関係があることは、政府当路者初めとして各位がこれを知られないということは、私はおかしいと思う。これまで政府が相当この後援をせられたでありましようし、また各位も非常に熱心のあまりこれらをやられたが、案外向うの状態がわからないということが私はふしぎだと思う。ほとんど知られていない。それですから私は学究的に——別に政治家でも何でもないのでありますけれども、私をひつぱり出して、今中共のありさまはどうなつておるかということをお聞きになる方が多い。これは政府当路者においても、二の点はよほど十分御善処を願いたい。今まではどうか知りませんが、これから先国府を承認して、共産党政府との関係が絶対になくなる。今日でもなくなつておるのでありますけれども、他の国のように修好貿易というふうな意味においての公使、大使の交換はインド、ビルマ、そのほかスエーデン、ノルウエー、ポーランド、チエコスロヴアキア、ルーマニア、ロシヤというような方は友邦でありましようけれども、友邦でない国の、ただ修好と貿易と往来という意味に向つての大使、公使を派遣しておる国は相当あるのです。そういう国はともかくとして、日本とはまつたく絶縁になつておるのでありますから、今諸君がよほど努力しないと、もう一、二年後というものは、後援会というのは役に立たぬと思うのであります。これは私は日本人の一員として涙をのんでこのことを語りたいのであります。それですから、もし御盡力くださるならば今だと私は思うのです。これから先に至つては、よほど不可能な位地に立つだろうと私は考えるのです。これらは、こちらにおられて、向うにおられるところの奥さんとか御主人、お子供とかの安否を案ぜられておることはもつともなことだと思います。政府当路者においては、どうかこれらの方に対して同情して、強硬な態度をとつても後援会がお努めあらんことを願いたい。ただこのままにして置けば、もう永遠にあちらにおる日本の方とこちらの方とは絶縁になるかもしれぬのであります。この点を私は個人としてここに申し上げる次第であります。
○庄司委員 ただいまはたいへん教えていただくところが多かつたのであります。ありがとうございます。心に銘じてよりよく善処して行きたいと思います。そこではなはだ深入りしたことをお伺いするようでございますが、鳥居先生が日本に御帰国の際、向うの当局のオー・ケー、パスポート、許可認可の指令をちようだいされた場合に、日本に帰つたならば、こういうことはしやべつていいが、かくかくのことはしやべつてはならぬぞなどというような一通をとられたことはございませんでしようか。
○鳥居参考人 ありません。少しもそういうことはありません。また私は学者としてそういう必要もないのです。私は各所で講演あるいは新聞雑誌に書いておりますが、見たまま、ありのままを話しておるのでありまして、忌憚なく私はやつておるつもりであります。もしここで中共のありさまはどうなつておるかということを諸君がお求めになれば、私はここにおいて申し上げてもいいくらいです。そういうことは私に対して非常に侮辱のように思う。これはよく確かめて一個人としてひそかにお聞きくださればいいのでありますが、こういう堂々たる衆議院の席上において、私に対して不肖なりといえどもこういうことをお聞きになるのは、侮辱のように私は考えるのであります。これは紳士的なこととは思えない。
○庄司委員 私は鳥居先生を軽蔑するとか侮辱する気持はありません。ただ中国の政府が、国民政府より中共政府に変革したのでありますから、帰国された日本人の中には、相当さような條件付の覚書をとられた者があるということを私は伺つておるのであります。幸いに人格のけ高いあなたに対してはさようなことがなかつたということは何より幸いなことであり、けつこうなことであります。 なおお伺い申し上げたいのでありますが、私は抑留されておる民族の一人だにすみやかに帰国されたい一念からお伺いするのでありまして、私のお伺いを歪曲しないように、誤解のないようにお願い申し上げたいと思うのであります。博士には、あなたとともに考古学上の研究の第一線に補助助手として御奮闘なされていた御令嬢があられたようでありますが、御令嬢は、御自由な自由意思によつて御帰国なさらないのでありましようか。何だかあまりにプライヴエートなことをお伺いするようでありますが、私にとつては、衆議院議員という公務の上から必要欠くベからざるお伺いでございます。
○鳥居参考人 それはどういうことでありますか。
○庄司委員 先生の御令嬢、お娘さんがあられたようでありますが、向うにまだおられるようにうわさを聞いておりますが、いかがでございましようか。
○鳥居参考人 私の緑子という娘は向うにおりますが、これは張雁深という私が助手に使つておつた男と結婚しております。それが何かおさしつかえがありますか。
○庄司委員 何にもさしつかえございません。ただ、年老いたるお父さんやお母さんと御一緒に御帰国なさるのがあたりまえの常識であると考えました。あなたの助手のお嫁さんになられたということは本員は知らないのであります。知らないためにお伺いをするのでありまして、昔封建時代にはよく人質というものがはやつたものであるから、あるいはそういう圧制などを向うの国がしたのではないかという疑いも持つたのであります。私はかような深入りをしたお伺いはしたくなかつたのでありますけれども、それでたいへん安心をいたしました。さような意味において御帰国がないということを伺つて、私も朗らかになつたのであります。博士に対するお尋ねはこれをもつて終ります。
○川端委員 私も、時間の関係がありますから数点簡単にお尋ね申し上げたいと思うのであります。 まず私たちは、この引揚委員会におきまして外地にどのくらいの方がおられるか、われわれが今まで手にしました資料によつて推定されておる数を確認いたしたい。そうして異国の空におきまして苦労をなされておるこの方々をどうすれば早く自分の国へ帰るようにしてあげることができるか、こういうことを日夜考えており、かつこれを特別委員会で研究をいたして参つておるのであります。従つて私がまず伺いたいのは、今ソ連、中共地区におきまして三十七万に及ぶ同胞が異国の空で呻吟をいたしておるのではないかということで、これをわれわれは心配をいたしておるわけであります。この三十七万の数、これは日本の国を立つたことは事実である。しかしその後の行方がわからない。ところが、先ほど黒田さんのお話もありましたが、いろいろお話を伺つても、フイリピンその他一応友邦といわれる範疇の国々からは大体帰つて来てしまつておるのだ、特別な例を除いては帰つているのだ。ところが中共、ソ連地区においては帰つておらないのだ。この数が三十七に及ぶとわれわれは考えておる。この三十七万の数がほんとうにおるのかどうか。この中にはなくなつた方もあることを知つております。ところがなくなつた数を除いてもまだまだ多い数がいることになつておるのであります。従つて天津におられた方、北京におられた方、こういうふうな方々から断片的にでも事情を伺いまして、そうしてそこから類推をいたしまして、おおむねわれわれの考えておりまする数を再確認いたして、その方々の引揚げに邁進いたしたい。これがわれわれの念願なのであります。従つて、この数を確認いたしたいという意味から伺うわけでありまするが、鳥居博士には、御老体にもかかわらずこうして長時間お話をしてくださつて恐縮に存じます。そこで簡単に伺いまするが、先ほど、公安局において願書が相当の数に上つておつたというお話を伺いました。おつきあいの方々の数か、あるいはうわさの数か、いろいろ御意見を伺つたのでありまするけれども、その範囲以上にもう一つ数を推定するために伺いたいのは、公安局における願書であります。この願書が相当の量出ているのであるが、この願書は、一枚々々が相当の人の数と符合するような数になりましようか。それとも、一人が帰国するためには何通もの書類がいりまして、そうしてそういうものが重ねられておつたという形でありましようか。一枚一枚が一人あるいは何人かの人数に符合しておるものでありましようか、この点をまず伺いたいと思うのであります。
○鳥居参考人 この願書は、私どもの書きましたのは一人一枚でした。それから中共に願い出して二年間経過してようやく許可証が下りたという方がございます。きよう御出席にならなかつたが、小島という方——この人は石景山の鉄工所に勤めておられた方で、満鉄の方から来られた方ですが、その人は、六箇月間毎土曜日ごとに公安局へ行つて、まだ許可にならないかと聞かれたそうです。そうしてあるときに——六箇月日か何かに許可になつて、門を出るときに腰を拔かしたという話を自分で言つておられたが、これくらいのものなんです。それから、ここでちよつと御参考までに申し上げますが、燕京大学にフランス人のレクリユーという人がおります。この人が私の立つ前に私のところにやつて来て、あなたはよく帰れることになつた。私の同胞のフランス人の女で帰りたいという人があるが、いまだに許可にならないということについて非常に言うておりました。そのときにこういうことを言うておつたのです。それは、帰るがために共産党員を装うている人が大分多い。しかし今は公安局がそれは許可しない。それは、帰つたならばまた白くなつてしまうのだからだ。それがために、そのフランス人の女の人は幾ら公安局へ行つても許可にならないというのです。それからもう一つ話を聞いたのですが、日本の共産党員の人で向うへ行つている人があるらしいのです。これもまた聞きでありますが、この人が帰りたいというので願書を出したけれども返さない。このフランス人が言うのに、共産党員でありながら、日本へ帰るのに何がゆえに許可せんのであろうか。これらも、やはり国際上の問題をこれで引起すというようなことをおそれてやつておるのではなかろうかというようなことであります。共産党員で帰りたいという人は、いま一人フランス人から聞きました。そういう人があるわけです。それで私の場合は、留用者といつても政府の留用者じやないのです。捕虜の名義じやないのです。ただ燕京大学に、アメリカの大学に私は奉職しておつたというような意味で、もう今度七月かに自分は任務にたえないというので帰つて来たのですから、ほかの方よりも簡單なんです。けれどもほかの方は、政府の留用者が捕虜の名義ですから、一概に帰してもらいたいといつても、政府の立場のある場合もあるだろうと思うのです。それから今の相馬さんのような場合の個人というのは、向うにおる人はほとんどありません。たいがい兵隊に使われておるとか、鉄道に使われておるとか、あるいは技師であるとか、病院におるとかというような方で、相当向うの職員になつております。戰争で捕われたような方が、はなはだけしからぬ話ですが、別にいくさも何もせぬのですけれども、北京におつた人は、蒋介石政府ではヤルタ、ポツダムの約束によつて皆返しております。けれども満州、朝鮮の北におるという方は、中共との関係上、ロシヤとの関係上でたいへん気の毒な事態に際会したのですな。北京におる人は、今私の申すごとく、百十一家か十二家くらいの六百人くらいがおつたと思います。今中共におる人というのは、シベリアを経たか満州を経たか、中央アジアの方面、コーカサスというような方面へ行つた人が来ておるのですな。
○川端委員 それではお伺いいたしますが、簡單でようございます。要点だけを伺いますが、重ねて願書問題でございます。この願書は外国人も一緒に出して重ねられておるものでございますか。
○鳥居参考人 そうでございます。これはフランス人もドイツ人もアメリカ人もみな一緒でございます。
○川端委員 先ほどのお話では相当の量のように、手の形ではかれこれ一尺もありやしないかという印象を受けたのでありますが。
○鳥居参考人 このくらいですな。
○川端委員 そのくらいにいたしましても相当な量だと思います。そこで少し話をそらしますが、今もお話がありましたように、シベリアあるいは旧ソ連地区から、あるいは満州から入つて来た形跡がある、こういうふうなお話でございますが、事実そういうふうに相当移動といいますか、交流させておるのじやないか。その残留の正体をはつきりささないために、われわれは猜疑的に考えますと、ソ連、中共地区では残留者を相当に交流させまして、そうしてこの正体をわれわれにつかまれないようにというふうな方法をとつておるのじやないかという感じを持つておるのでありまするが、相当こういうふうに行き来が、交流の状態が耳に入りましたかどうか。
○鳥居参考人 これは交流ですな。そうして秘密ですからわかりません。こつそり来て、こつそり留用させておるのですから。それから満鉄で相当優遇せられた博士連中などでも、捕虜の状態になつて来ております。それから鴨緑江の安東県の紙の製造所の所長などは、日本の相当の何倍という給料をもらつておる人もおる。ですから、技術者の方は非常に優遇せられておる。優遇せられておりますけれども、奥さんや子供をこちらに残して一人ぼつちでおるようなものですから、優遇が何もならぬ。一日も早く帰りたい。けれども御承知のごとく捕虜の状態になつておりますから、個人のようなふうには行かない。小島さんのような場合は、これは留用者といつてもよほどあいまいな立場におられる方で、商売をいたしておつた方で、こういう方は非常に少い。天津には見えますが、北京あたりのおひざ元では非常に嚴格なものです。
○川端委員 関連しまして相馬さんに伺いたいのでありますが、今鳥居先生に伺つたのと同じ質問なんです。要するに相当の人間がロシヤ領から、あるいは満州領から天津へ来、あるいは天津からまたどこかへ移らされている、こういうような形跡をあなたはお認めになりましたかどうか。お気づきになつておれば伺いたいと思うのであります。
○相馬参考人 私の知つているのは、去年の三月、満鉄から若い人たちが五箇年計画で山西省方面の張家口へ行きました。それからあとは知りません。
○川端委員 それでは相馬さんに、先ほどの願書の問題でありまするが、あなたが天津地区で願書をお出しになりまして、そうして手続をなさいましたときに相当の量の——先ほど鳥居先生は五寸くらいかの北京地区には書類があると言われましたが、あなたの願書をお出しになつた公安局にはどのくらいな量出ておりましたか、お伺いいたしたいと思います。
○相馬参考人 それは日本人の出境証明書というのは、私が帰つたときは、清水さんと私だけなのです。そのほかの外僑のあれは全然わかりません。日本人が出境願いを出すときは、船があるか何かの場合はたいていわかるのですけれども、天津では、日本人で出境願いを出してまだ出ないという人はおりませんでした。
○川端委員 それではお伺いいたしますが、出境をいたしまするにあたりまして、これは天津地区だけが広告を出して、そうして一般の何といいますか、裁判を受けまして、そうして異議なしということになりますと帰るのか、あるいは中共全体でそういう方法をとられておるのでございましようか、道連れになつた方々にお話を伺つたことはございませんか。
○相馬参考人 それはどこでも同じだと思います。鳥居先生だちもそういうお話でございました。北京とそれから上海から帰つた方がやはり同じ新聞広告を出しておりました。料金だけは違うのです。上海の方はとつても安いらしいのです。出境許可が上海はすぐ出るそうです。天津の方は割合に早いのですけれども、北京はほかのところと違うのでないかと思うのです。ずいぶん出境願いを出しても、なかなか出ないという人が多いのです。天津は割合に簡單です。
○川端委員 それではお伺いいたしますが、向うで帰る方々が——あなたは日一万元ずつおもらいになつて、それをおためになつて、いろいろな諸支拂いをなさつたのだと思いますが、あなたが向うにおられまして、われわれが心配するのはお金がなくて帰れないということも一つの理由になつておる、こういうふうに聞いておるのでありますが、日本人は向うにおりまして、俗にいえば相当貧乏をして、食うや食わずで、こういう費用がまかなえないというような連中が多い。これがほとんどなんだという印象をお受けになりましたか、お伺いいたします。
○相馬参考人 天津にいる日本人であんまり困つて、こじきになつている人はおりません。普通中流くらいの生活をしておりました。
○川端委員 今お断りを忘れたのでありますが、その意味でお答えをいただいたのだと思います。一般人という意味で伺つたのであります。特殊な任務に留用されている方々は、適当な報酬を受けておるのだろうと思いますが、一般の人としてもそういう事情にあるというふうに了承をいたしたわけであります。それではひとつ雲をつかむような話でありまするが、やはり三十七万というような数字がソ連、中共地区にいるということが今国内の常識になつております。こういうような点について、何か向うでそれらしきような話を、相当いるんだというようなお話を伺われましたかどうか、この点を最後にお伺いしまして、あとは黒田さんにお願いいたしたいと思います。
○相馬参考人 こちらの方で三十七万人と言いますけれども、そんなにいないと思います。いろいろ日本人なんか集まつてお話ししまして——こちらで調査してどのくらいになつているか全然わかりませんですけれども、そんなにいないと思います。
○川端委員 事実三十七万、それ全部が生きておるというわけではなかつた。先ほど申し上げましたから重複を避けたのでありますが、相当量いるかどうかという感じを伺いたかつたのであります。 そこでそれでは時間の関係もありますから、私は黒田さんにお伺いいたします。これは戰犯の問題であります。私は戰犯釈放の運動をいたしたい。私たちも同じような年輩の者、あるいは関係者にも戰犯がたくさんございます。従いまして講和の発効も間近に控えまして、戰犯の取扱いについては講和條約の中に規定はございますが、この規定をたてにいたしまして、そうして戰犯者の扱い方について私たちも努力をいたしたい。こういう気持を持つてその運動を続けておるわけでございますが、フイリピンにおける事情は伺いました。あなたはかつては方面軍司令官をなさつておつたわけでありますから、その関係地区だけではなくして今濠州その他の戰犯者も相当ございます。こういう方々の様子を、あるいは伺えれば伺つてみたいと思うのであります。
○黒田参考人 ほかの方面は、私は今村大将の裁判のときに巣鴨からラバウルにひつぱり出されまして、そして一箇月半ばかりあそこにおつたのです。そのときにいろいろ聞いた話だけのもので、また現に見た働き方とかいうことだけしか知りませんので、何とも確定したことは申すことはできません。働き方から言いますと、私がラバウルで見た濠州における日本の戰犯者はずいぶん働いておりました。給與はあとでフイリピンに来ましたときも、今までの給與とおつつかつであります。それくらいの程度にしか私には申し上げられません。
○川端委員 なお戰犯者の数その他については当局が、外務省その他においてもよく知つておるわけであります。その後の釈放事情もよくわかつておりますから、なおわれわれはこのためにわれわれのできる範囲の努力を拂いたいと思つておるわけであります。結論といたしまして、本日いろいろ伺いましたが、要するに私は鳥居博士、相馬さん、それから黒田さん、こういう方方から伺いまして、そうしてまだ外地には相当数いるんだ、これは先ほどから外国の人もまじつているという話でありましたけれども、断片的にある地区地区の願書から見ましても、約五寸といえば相当の数であります。こういうような数、これが地区々々におる。これを出しておらない人が相当の数に及ぶであろう。しかもその相当の数に及ぶであろうというのは、願書を出しても二年も三年もかかるんだ。こういうようなことでもつてあきらめておる人もありましようし、そうしてあるいはそういう事情を知らぬ人もおりましよう。相当の数がいるんだろうというようなことをもつて、一層引揚げのこの運動に対する責任を私強う感じたわけであります。われわれも極力努力をいたしたいと思つておるわけでありますが、今後ともこういうわれわれの運動について御協力を願いたいということを要望いたしまして、質問を終ります。
○堤委員 ちよつと発言をお許し願いたいと思います。
○小平委員長 ちよつと待つてください。
○鳥居参考人 ちよつと御参考までに申し上げますが、向うからこちらへ来るには一定の金しか持つて帰ることができない。天津からこちらへ帰る人は三十ドル以上は持たさない。香港経由で帰る人には一文も持つことを許さない。私は燕京大学から香港経由で帰ろうとしたものですから、私のところは無一物で帰りました。このことは明らかにしておきます。それですから、香港へ行つて借金して帰る人もおります。中共から帰る人はほとんど無一物で帰らなければならぬということは、後援会の方に御承知を願つておきたいと思います。財産というものは残して来なければならないのです。
○堤委員 相馬さんに少しお尋ねいたします。あなたは非常に御苦労なさつて、まことにお気の毒だと思つて先ほどからあなたのお顏を見ておりますが、ちよつとお尋ねしたいと思います。先ほどあなたの品から、子供さんがおありになつたということをお述べになりましたが、子供さんどうしていらつしやいますか。連れてお帰りになりましたか。
○相馬参考人 それはそのときちようど流行になつた天然痘にかかつて、終戰半年ぐらいしてなくなりました。
○堤委員 それでは鳥居先生からもこれに関連してお答え願いたいと思うのでありますが、私たち終戰後中共地区並びにソ連圏において非常に苦労した女性の方々についてはずいぶん問題にし、またいろいろと研究をして参つたのでございますが、鳥居先生の頭で、あちらにいる女の方々の生活していらつしやる状況は、さまざまあると思いますが、大体おわけいただいて、どういう状態でありましようか。
○鳥居参考人 私は燕京大学におつて英米人とか中国の御婦人のほかはつき合いません。市中へ出ないから——私は北京から二里半ほどあるところの学校におつて、中国人の御婦人の状態ならあるいはわかりますが、日本の方というものは私はつき合つたことはないのです。それですから日本人が今、ことに今日の日本人は、自由に生活しておられる方はなかろうと思います。相馬さんだけは別でしよう。たいがい捕虜状態になつている。しかし鉱山とか製造所とかいうところにいる日本人の博士階級の人は、相当もらつておりますから、生活に困らないけれども、下におつて労働しておる人は、たいへん気の毒な生活の状態におる。御承知の通り共産主義の方では、男も女も、奥さんもたいがい働くのです。ですから、これは中共のありさまですけれども、技師だとか鉱山だとかいう方に従事しておる日本人は、非常に優遇せられておる。優遇せられるがために、帰ることができない。優遇というよりは、中共で必要な人になつておりますから、その意味は御承知を願いたい。それからまた下の方にやつておる人で、ようやく生活ができる程度の人もおるような話であります。その点をちよつとお答えしておきます。
○堤委員 そうすると、一般邦人の婦人の状態には、あまりお詳しくないわけでございますか。そしてあなたのお目にかかつた一般婦人というのは少いわけですね。
○鳥居参考人 そういうわけです。技師だとかいう人は相当とつておりますが、困つておる人もあるようです。
○堤委員 それでは相馬さんに伺いますが、あなたの御存じの一般の女性の方で、留用されておらない方で、中国人の家庭に、たとえば奥さんになつたりして苦しんでおる人が相当あるのじやないかという推測を、私たち女性の立場からしているわけなのですが、そういうのはどうお考えになつていますか。
○相馬参考人 停戰のときにみんな困つて、中国人のところに住込みに入つて、お金とかいろいろな物を借りたりなんかして、帰るときには、その借金を返さなければ帰さないというので、しかたなくそこにおる人もおりますし、それからまた好きで結婚して残つている人もおりますけれども、そんなのはあまりない。私の知つている今ですけれども、家を追い出されて行くところがなくて、中国人の家に住込みに入つて、生活はあまり悪くなかつたようですけれども、紹介した人が、女中でなく奥さんとして紹介したらしい。そうして日本へ帰るときには、今までの食い扶持を拂わなかつたら返さないということを言われた。自分は帰りたいけれども、結婚しておつて、主人がどうも返さない。また政府の方ではそれを許可しないらしい。離婚しなかつたらいけないというようなことを言つているし、それで帰るということも許可しない。それから私の知つている婦人の方ですけれども、私たちと一緒に満州で八路軍に留用になつたのです。その人がやはり民会の世話になつたのですが、今難民所というのがなくなりまして、自分で働いて行かなければ食つて行けなくなつた。その人は八路に入つたときは元気だつたのですけれども、腹膜になつたのです。それで半年ほど入院していたのですけれども、医者がこの人は働けなくなつたからというので、解除になつた。それで民会に送られたのです。民会の方でしばらく養つていたのですけれども、やはり民会でもそういう人を養いて行くだけのあれがなくなつたものですから、自由に働ける地方に出された。そしてあつちこつち個人の家に働いておつて、日本に帰りたいけれども帰れない。そしていろいろな中国人の地方の家に働きに出ている、そんな人は留用になつたときはよかつたけれども、病気になつていざ働けなくなると、非常に困る。共産党としてはそういう矛盾したところがあります。そういう女の人を二、三人知つております。しかたなく中国人と結婚した人もありますけれども、あまりいないのです。停戰のときにだまされたりなんかしているのが多い。
○堤委員 中国人との間にできた子供をかかえて、そして実際は愛情もなく、しかたのない状態において、奥さんがあるのに、第何夫人かの状態において入つている、しかも女中同様の立場に置かれておるというような婦人が非常にあるのじやないかということを私は憂うるわけでございます。あなたにお聞きすれば、そうざらにあるようでもない。それじやひとつお伺いいたしますが、軍の病院に入つている看護婦の方々とあなた御親交がありましたか。
○相馬参考人 天津の陸軍医科大学では、一週間二回ほど学習会というのがありまして、それはみんな若い人で、地方の人も出られる人は出て来ますが、出られる人はあまりいないのです。私たちも鈴木さんという人の奥さんとときどき行くのですけれども、何か演芸会とかいうようなものがある。そういうときには、やはり一緒にやりました。それからいろいろな行事がありまして、三月には婦人節というものもあるのです。そのときなんかよく出ました。
○堤委員 私がお聞きしたいのは、働いている二百人もの看護婦さんが、どういう状態において、どういう思いをしながら毎日暮しておるかということを知りたいわけなのですが、そういう情報はあなたにわかりませんか。
○相馬参考人 看護婦さんたちは割合朗らかにやつているようでございまして、あまり帰りたいということを口に出していないのです。
○堤委員 お給料はどれくらいだか御存じですか。たとえばあなたがお働きになつておつた工場の賃金と、そして留用されて軍の病院にいる看護婦さんの給料と……。
○相馬参考人 留用されたときに、私たち五万円しかもらつていない。小づかいだけにもならない。そのとき、東北の五万円ですから、天津とお金が違いますから、それはただほんとうのお小づかいくらいです。着物は官服をくださる。今天津の看護婦さんたちはやはり三万円から五万円ぐらいですね。お化粧なんか全然できないのです。普通の八路の服を着ている。おふろなんか全然入れない。一年に一回か二回ですね。お化粧はもちろん地方でもあまりできないけれども、みんな同じ色の木のくつをはいています。
○堤委員 それでは天津の軍の病院においでになる看護婦さんのように、集団的といつてはおかしいのですが、たくさんの女性が固まつててどこに使われている、どこに留用されているというようなお話を、それ以外にお聞きになつたことはございませんか。
○相馬参考人 天津ではありませんですね。
○堤委員 そうすると、よそのニュースはあまり御存じないわけですね。
○相馬参考人 ええ、わかりません。
○堤委員 鳥居博士はいかがでしよう。天津の陸軍病院に二百人ほどの看護婦さんがおいでになるというので、その事情について今お聞きしたのですが、あちらこちらに日本の女性が共産主義陣営の方に固めて使われているというような話をお聞きになつたことはございませんか。
○鳥居参考人 それは天津のことは私はわかりませんけれども、北京で聞きますと、相当看護婦の方が軍部の病院に勤めておられるらしいです。現に今度の朝鮮のいくさにしても、満州あたりの日本の看護婦が支那軍の病院や何かの方に相当活動しているのじやないか、そういうことを聞きました。
○堤委員 それでは先ほどから六十万元とか東北の五万円とかいう言葉を聞いておりますが、あちらにおられる方の生活状態も私たち知りたいと思いますし、一人が帰られるについての費用なども参考のために必要でございますから、日本の金に直して幾ら、ドルに直して幾らという換算を、援護庁の方で表にしていただきたい。それを参考にしたいと思いますので、お願いしておきたいと思います。 それからもう一つお尋ねいたしたいのでございますが、相馬さんは一般の御婦人として今日まで帰るまでの金をためて来られて、だれの援助も借りずにお帰りになつたのでございますね。
○相馬参考人 違います。私の帰るときの旅費は、鈴木さんという方から半分補助していただきました。あとは中国人の、私の知つている方の御主人で、やはり同じ会社の方から少し援助していただきました。それから天津の市長さん、前国民政府時代の市長さんで潘さんという方、今死刑になりましたが、その方のむすこさんの奥さんから、日本に帰つてから拂つてくれということでお借りして来ました。
○堤委員 そうすると、一般の日本の女性の方があちらで一生懸命働いて旅費をこしらえるということは、不可能ですね。
○相馬参考人 できませんね。生活で一ぱいです。普通の会社で働いていたら、食べるだけがやつとなんです。ですから機関なんかで働いている軍属で帰る人は、旅費は出すでしようけれども、普通の民間、半民半官では、少しばかりの餞別くらいでは旅費なんか出ないのです。私の化学工場では少し餞別はくれたのですけれども、旅費なんかには全然なりません。お弁当代くらいだろうと思います。
○堤委員 それではちよつと立ち入つたことをお尋ねいたしますが、あなたが乗つてお帰りになりました船について少し事情を知りたいと思うのですが、こちらへ来ます船がどういう状態にあつて、あなたはどういうふうに乗つてお帰りになつたか。
○相馬参考人 私が帰るときには鳥居博士と一緒だつたので、北海号という英国の船なんです。天津に太古公司という船会社がある。それで今まで香港経由で来ていたらしいのですが、初めて横浜直航が出るというので、その船で帰りました。旅費は、普通おととしあたり帰つた旅費より安かつたのです。百三十万元でした。それは二等と言つていましたが、二等といつても三等くらいの悪いところでした。
○堤委員 そうすると、ただいまはその船は月に何回出るのですか。そういうことははつきりいたしておりますか。
○相馬参考人 それは今度初めてでしたから、わからないのですが、その年の十二月二十日ごろにもう一度来たのです。やはり天津の私の知つている人が帰つて来ました。そうして一週間か十日くらいあとでその船がまた帰つたのです。帰つてもう一度来たのですけれども、それつきり天津の方へ行かないで、香港へまわして行つたという話を聞きました。二回しか往復していないようです。
○堤委員 そうすると、毛沢東に手紙でも出して船でもまわしてもらつたら、これは一番理想的なことなんですけれども、もし内地へ帰りたいという人が出たなら、その船は船会社の手続さえとれば乗せてくれるわけですね。旅費ができればその船で帰れるということになるわけですね。必ずしも船を仕立てて特別に出さなくても、そういう航路ができたのであれば、それを使えるわけでしよう。
○相馬参考人 それは公安局の方で許可しなかつたら、いくらこちらの方で旅費を出して会社と連絡をとつても、やはり行けない。ほんとうの日本人の引揚げでしたらあれですけれども、個人で帰る場合には、その船に金を拂つたところで、公安局の方で証明しなかつたら、船の方で乗せません。
○堤委員 それではこちらの黒田さんに伺います。先ほど慰問品の話が出ておりましたが、赤十字の手を通じて書類の届いておる程度だという話でございますが、私たちはやはりお互いにお気の毒なこの方々のために少しでも慰問いたさなければならないということを痛感いたします。慰問品をこちらから送りまして、正しく届くとお考えになりますか。それは届かないのじやないだろうかというような懸念が非常にございますが、どちらでございますか。
○黒田参考人 ただいま赤十字から書類というようなお話でしたけれども、赤十字から新聞雑誌が来ますし、内地のみそ、しようゆ、たばこというようなものは、私は記憶があります。ほかのものはちよつと記憶がないと申し上げたので、ほかにはないと申し上げた意味ではない。いただけば、これは私の仕事ではありませんが、従来送つていただいたものは全部復員局側の方でお世話のようですが、届いております。しかし時間が非常にかかつておるようであります。
○堤委員 慰問品のことについて、援護庁の方で少し説明していただきたい。
○木村(忠)政府委員 慰問品につきましては、大体私の方といたしましては、出ましたものは皆届いておるというふうに聞いております。大体お礼状が参つておるということでありまして、慰問品を出したら大体届いているのではないかと思います。出しますについては、大体外務省を通してやつております。
○苅田委員 先刻から長い時間にわたりまして、お二人の方の中共に御滞在中の模様、引揚げの模様を伺いましてどちらの方も全般の事情をよくおわかりにならないので、そういうことはお聞きできなかつたわけでございますが、しかしいろいろの事情を聞かせていただきました。私は質問の時間もございませんので、ごく簡單に一つ二つだけのことをお伺いしたいと思います。 鳥居博士にお伺いしたいのですが、私は少し遅れて委員会に出ましたので、あるいはお話になつたことと重複いたすかもしれませんが、博士が燕京大学から今の政府の大学にお残りになりましたときに、政府の方で強制的に先生をお残ししたものでございましようか、それとも先生の御希望もお聞き合せした上でその中国の滞在がきまつたものでしようか、この点を一つお伺いしたいと思います。
○小平委員長 その点は先ほどお答えがありましたから、簡單にお願いいたします。
○鳥居参考人 これはたびたび申しました通り、私から願い出たのであります。
○苅田委員 そういたしますと、当時は中国人の中でも、国民党の政府時代から使われておつた教授の方々も、やはり同様に留任なさつた方もおいでになつたというふうに考えてよろしゆうございますか。
○鳥居参考人 やはりそうです。中共になつてから、今の燕京大学の先生はそのままです。少しも異動はございません。
○苅田委員 それでは、当時やはり中共の政府の方での先生方に対する待遇というようなものが、以前の学校におられましたときよりもたいへん悪くなつた、収容直後でありましようから……。それから今日お帰りになるまで、待遇の点で非常に学問の研究にお困りになるとか何とかいうことはございませんでしたでしようか。
○鳥居参考人 共産党になつて、大学の教授などはロシヤよりも待遇はいいのです。ほかの官吏は非常に気の毒で、生活ができる範囲——上の人は特別ですけれども、普通の大学卒業生で官吏になる人などは、ようやく生活ができるだけの待遇であります。
○苅田委員 そうしますと中共の政府は、学問ということに対しましてはやはり相当力を入れて、費用なんかも使つているというふうに考えましてよろしゆうございますか。
○鳥居参考人 このことは、私は特別に実はあなた方に申さなければならぬですが、中共ではすべてマルクス主義から来ております。日本のようにかつてな第三者の議論は許しません。マルクス、レーニンの方針を含めて、すべてそういう方式でやつております。宗教否定で、人間は猿から進化している。マテリアリズム哲学で、宗教、文学というものは非常に困つた状態になつております。個人の自由は許しません。大学は学問のための学問をするとか、多くの人のために学問をするということは許さない。共産党のマルキシズムの範囲においての学問である。この点を私は多年話しております。けれども中共は、共産主義としての学問は相当に進歩している。これは日本なども、よほど注意しないと負けてしまうのではないかと思います。
○苅田委員 そのお話を伺いましてわかりました。ただ日本の状態から申しましても、学問の自由ということも、先生のいらつしやいません間に非常に大勢の学校の先生がレッド・パージというので、思想がいれられないで、のけられたりしているという状態がございますが、そういつた点は対立しております国がまだほんとうの平和状態になつておりませんから、いずれの国にもそういうことがありやすいのではないかということで、これは中共だけの状態ではないと私は思うわけであります。私はいろいろきようの先生のお話を聞きまして、おそらく今の日本の中では、衆議院の議員の中にも、返すときには人質をとつたり、あるいは中でのことを口外してはいけないとかなんとかいうことを言つたり、帰りたいと言えばその人を政府がひつぱるというような、そういう中国政府に対する認識をしている人はこの委員会だけではなくて、ほかにもたくさんあると思いますので、そういう人に対しまして、きよう先生が学者の立場でいろいろお話になりました模様は、私はたいへん有益になると思います。私どもはその立場から、もつとこの引揚げの問題に対しましてもまじめな努力をしなければいけないと思う。いたずらに中国政府はいけないのだというような、そういう立場でなくて、私はまじめな引揚げ運動をしなければならないということを痛感いたして、先生や相馬さんのお話を有益に聞かしていただいたわけであります。たいへんありがとうございました。
○玉置(信)委員 鳥居先生にお伺いいたしますが、先ほど先生から、この引揚げ問題について当委員会の今日までやり来つたことに対しては、相当活動しているようであるが、中共における現状を知らない、であるがために私に対しても非常に侮辱的なような話もされたと言つて、庄司委員の質問に対して御注意があつたのですが、実は当委員会としては、もちろん数年にわたりましてこの問題を真剣にやつております。同時に考査特別委員会におきまして、この引揚げ問題でかつて共産党の徳田書記長が参考人としてこの考査委員会に呼ばれまして、いろいろ質疑応答があつたわけです。その一番の重点は、徳田球一氏からソ連共産党にあつてて、あるいはソ連政府にあてたものだろうと思いますが、共産党にならない者は日本に帰してはいかぬというような書面を出したというようなことで、非常に問題になつたことがあるのです。そこで私どもは、引揚げされる方々が日本に着かれるたびごとに現地の舞鶴までお迎えに行つたり、当委員会においでを願つて現地の模様を親しく伺つているのです。そこでどうも向うの模様は、きようお聞きしたお二人の模様からすると、中共は日本人の引揚げに対して何らの制限も加えず、帰りたい希望のある者はすぐ帰す。先生のお立場のような人は、むろん何らの干渉もなく帰した。こういうようなお話と実は大分食い違いが今まで出ているので、きようは先生に対してああいうような質問をしたのであるから、今までの経過を御了解願つて、どうか誤解のないようにしていただきたい。私ども御質問申し上げるのは、この残留している人々を全部早く返すには、どう引揚げの運動を起したら有効であるかということで、国会を通じて国連にまで申入れをいたし、すでに今日では国連に引揚委員会ができまして、国連の引揚委員一行が近く日本にもおいでくださるということになつたのも、ひとえに国会が国民の名において活動した成果であると私どもは信じておるわけなのであります。こういう点を諸君は御了解を願つて、今後の引揚げ問題に、むしろ先生初めお三人の方々にもとくと御協力を願いたいと思うわけでございます。 そこで先生にひとつお伺いしたいことは、先生が向うをお立ちになる場合に、他の残つている方が涙をもつて送別の辞を申されたということもありますが、先生は他の残留しておる方々と連絡をとられて、引揚げに対してどういう方法をとつたら一体引揚げの促進がなされるであろうかというようなことを御相談になつたことがありましようか。先生御自身だけ帰られることをお考えになつてお帰りになりましたのですか。その点だけひとつお伺いしたいと思うのであります。
○鳥居参考人 私は單に私一人の考えで帰りました。他の方には御相談しません。日本人の方で、今申しました四人の人ほか知らないのであります。私はもう年をとつておりますから、それで帰してもらつたのです。 なお、こういうことは申す必要もないのですけれども、私が帰るについて一切口どめされたということなどは、これは私に対しては非常に遺憾です。それから娘が何がゆえにおるかということは、今日は国際的なインターナシヨナルの時代でありますから、米国人と結婚しようがシヤム人と結婚しようが、これらの制限というものはないわけであつて、中共の人間と結婚したということは、今日はもう問題じやない。それから私が帰るにあたつて日本人の友達と相談したかということですが、私には友達はない。その三人の人とは、土曜日あたりによく私のところに来て、ともに日本人であるがゆえに会食をしてよく話をしただけです。私が立つときには、この方々はすでに某地方に行つてしまつておつた。そして手紙で私の帰ることを知つたのです。これはあるいはお話があるかとも思いますが、帰るときには公安局に行つて、許可せられた者に対しては三日間自分で費用を出して新聞に広告をする。そうしてこれに対する不服があれば帰るわけに行かないことになる。それでその新聞記事を見て、遠いところに行つている三人の方は手紙をよこしてくれたわけです。この三人の方というのは、大分県の方と水戸の方と山梨県の人であります。
○玉置(信)委員 相馬さんにお尋ねしますが、先ほど堤委員からもお尋ねがあつたようですけれども、実は一昨年以来私どもこの委員会で、向うから帰られた女性の方にもしばしば会つてお聞きしたのですが、先ほどもちよつと触れられましたように、旅費さえあれば帰れるから、何とか旅費をつくつて送つてくれということを、これはこの間の引揚者大会にも私ども列席して、そういう要請を受けている。そこであなたが天津におつて、御婦人方との御交際の間において、そういうことをだれかから耳にしたことはないでしようか。まずそれを簡單にお聞きします。
○相馬参考人 一昨年の十月だつたと思いますが、日本人で朝鮮人と結婚されて、その方が御主人と一緒に奉天へ行き、そこから天津に来て、その方は今二人で化学方面の工場に勤めておりますが、日本に帰りたいというので公安局の方に行つたら、許可をするというお話があつたのですが、旅費がないものですから、日本の方に問合せをしました。それで引揚援護庁の方に連絡をとつたのですが、朝鮮人は日本人ではないから帰る許可を與えることはできない。奥さんは日本人であるからよいということでした。それで旅費は送ることができないが、こちらの方の到着拂いで拂うから、もしそういう船があつたら乗つて帰つて来るようにという手紙が日本から参りました。そういう話は今までにずいぶん聞いております。
○玉置(信)委員 これは関連があるので、私ども今後運動をする上の御参考に聞くのですが、実はこれも昨年この委員会でお伺いしたのですが、先ほどの相馬さんのお話によると、満州地区からもそつちの方に来た人があるように聞いたというお話でした。そこでお伺いするのですが、実は満州地区では、終戰後の混乱のために多くの御婦人が山野に逃げ込んで、そのまま中共人の農家の方、その他の人たちと欲せざる結婚をした人が何百人とあるということを当委員会で私ども聞いたわけです。そしてその方々の中には子供ができて、かつて日本人の妻であつたが、自分は中国人との間に子供までできたから、帰りたいが、この身体では帰つてもしようがないとあきらめておる者もあるが、大多数はやはり帰りたい、何とか帰る方法はないものだろうかといつて御婦人が泣いておつたというようなことを私どもは耳にしたわけです。あなたは天津におられて、満州方面から天津へ流れ込んだ御婦人の方から、そういうことを聞いたことはありませんか、伺いたい。
○相馬参考人 天津で中国人と結婚している人というのはあまりないのです。流れて来たというのはあまり知りませんけれども、一人、前満鉄のタイピストをやつていた方で、北京の方に行つて、北京で国民党の兵隊だつた人と結婚して、天津に来た。天津に八路が入つて来て、御主人は兵隊をやめてしまつたのですが、今はやはり八路に入つております。その人は娘さんで結婚して、子供が二人くらいあるのですが、生活に困つて、夜編みものをしたりしておしゆうとめさんと子供さんを見て、毎日日本へ帰りたいという話をしていますけれども、帰れない。子供を連れて帰るのは公安局で許可をしない。日本の親からも帰つて来いといつて手紙が来ているのですが、帰れなくて困つている。そういう人が一人あります。天津で中国人と結婚して困つている人はあまりありません。まだ中共でなくて、こういう戰争が始まる前に結婚した人はありますが……。
○玉置(信)委員 鳥居先生にもう一度お伺いいたします。先生は先ほど、引揚げ問題はこの機会に目的を達する手段に出なければ、年を経るに従つて非常に困難になるだろうというお話でありましたが、私も同感であります。そこで現段階においていかなる引揚げの措置を講ずることが目的を貫徹する早道でありましようか。これに対して先生の御体験を通じての御所見があればお伺いいたしたい。
○鳥居参考人 この問題はむしろあなた方の問題じやないかと思います。これだけの委員の方が集まつておられてこういうことは私に尋ねることでなしに……。第一に申し上げますが、後援会がこういうふうな組織になつているということは、私は日本に帰つて初めて知つた。私は帰るときに、小島という今日休んでおられる方が後援会の規則を持つている、それで初めて横浜なり大阪なりに着けば、相当に厚生省の方でお世話くださるということを知つた。そういうことを私は知らなかつた。中共政府の方においてもそういうことはわからない。少くとも私だけは知らなかつた。しかしこの会ができましたことは私の非常に喜びとするところでありまして、将来私のできる範囲において、諸君とともにやつて参りたいと思います。 それから今日日本を代表するところの衆議院が私のごとき人間を呼んで御質問くださつたことを、私は非常に光栄とし、また感謝いたします。 それから次に申しますことは、私は実をいうと、中共から帰りまして、政府当路者から話を聞かれるものだと考えておつた。不肖なりといえども私は燕京大学に十年もいた、今日の中共治下に二、三年も経過して帰つて来た。ところが政府からの質問はひとつもありません。今日初めて日本の代表者各位の質問にお答えし、またお話することの光栄を得たのであります。日本の政府は、何がゆえにわれわれが帰つて来ても路傍の人のように思われるのか、日本の新聞記者の方々は、私が帰つて来てから次々に聞きに来られますし、また放送局の方でも聞きに来られまして、私はある程度までのことを発表しております。しかし政府筋の方においてはほとんど無関心である。これは私のまつたくふしぎに思うところであります。(拍手)ここに初めて諸君の権威あるところの衆議院において、私をお呼びくだすつてお話する光栄を得たということは、私は日本へ帰つて初めて喜びを深くした次第であります。
○玉置(信)委員 お礼を申し上げます。実は先生のようなお立場、視野の広い方、しかも中国に長く住んでおられた方から中国における最近の実情を伺つて、これを参考として、私どもは今日国際的にこの問題を展開いたして、国民を打つて一丸としたこの運動を展開しているわけでありますので、先生の御意見をできるだけ多く伺つて参考に資したいと思つて、今日実は委員長の特別なおとりはからいで御足労願つたわけで、非常に参考になつたわけですが、私どもは先ほど申しましたように、ほんとうに国際的に目下運動を展開しているということを御認識願いまして、それこそ私ども委員会の運動を起せと先生は指摘されましたが、何年間もやつておるということを再認識を願いまして、今後ひとつ一段の御協力を願いたいと思います。 最後に一点私は黒田参考人にお尋ねいたしますが、実は先ほど御答弁になつた内容を承つておりますと、戰犯でフイリピンに収容されておる期間中に、講和條約発効後においては死刑囚も一等減ぜられて、命が助かるのではないかというような淡い楽しみの気持を持つておるというようなお言葉でありましたが、実は当委員会におきましては、昨年ここにおいでになりまする前の当委員会の委員長若林委員とともに私どもはフイリピンの下院議員、今川上院議員に当選されましたヴエラノ氏がおいでくださつた機会に、当委員会の理事と、参議院の理事とが一緒になりまして、実はヴエラノ氏に死刑囚の俗にいう命乞いの陳情をいたしたわけであります。ところがヴエラノ氏は、これを勇敢に引受けまして、やりましよう、必ずキリノ大統領にその要望を伝えるという話をして帰られました。先般上院議員にめでたく当選されまして再びおいでになりまして、私は自由党の総務会の席上においてお会いいたしまして、伺つたのですが、やはりこの点を非常に強くキリノ大統領に要求したということを承つて、私は非常に力強く考えておるわけですが、その他山本前郵政政務次官が旅行された途中に、その他の委員諸君も旅行の途次フイリピンに渡つて、フイリピンの大統領、政府要路者に要請したということも承つております。こうしたことばかりではないでしようが、とにかく国会が国民の名において、キリノ大統領にヴエラノ氏を通じて要請を申し上げておることも多少の影響があつたのではないか、それが反映しているのではないかと思うのでありますが、黒田さんは向うにおられるとき、日本の国内においてこうした強い助命の懇請をいたしておるということをお聞きになつたことがありますかどうか。そういうことがあつたためにというようなことまでもお聞きにならぬでしようが、何かこれに関連してお聞きになつたようなことがありますれば、今後の運動の考え方の参考までにお聞きいたしておきたいと思います。
○黒田参考人 ただいまのお話を承りまして、私非常に心強く、また非常に希望を持つ次第でありますが、私が今まで了解している範囲におきましては、日本の参議院及び衆議院の院議としてフイリピン政府に、もしくは大統領に呼びかけていただいたというようなことは、まだ私は聞いておりませんでした。議員の方々が集まつて、そうして嘆願書を出していただくというように、各個人と言いますとちよつとおかしいのでありますが、そういうように今までやつておつたように了解しておりました。それが参議院及び衆議院という院議をもつてそういうことをしていただくということを今お聞きしましたが、そういうぐあいにしていただけば、ますますいいと思います。どうぞこれからもよろしくお願いいたしたいと思います。
○若林委員 それに関連してちよつとお伺いいたしますが、黒田さんの今のお言葉に対して、やりました経路の筋道をちよつとお話しておきたいと思います。 これは独立国でございませんので、堂々たる国家の機関としての衆議院、参議院としての嘆願運動はできないのであります。われわれが動きましたのは、いわゆる国民の声を通ずるという意味においてこの委員会が活動いたしておりますので、代表して委員長名でやつているのでありますけれども、構成メンバーの代表という意味になつているのであります。委員会の決議ということもできない。裁判というものは、その当事国の主権であります。それにまだ独立国家でないところの、被占領下にある日本の国会の一つの機関としての名をもつてやることはどうかという意味でございましたので、非常になまぬるいところがあつたと思うのでありますが、しかし事実この委員会は全国会議員の代表になつておりますので、同じような性質でありますけれども、筋道はそういうようなことになつております。一応濠州から抗議が出たのであります。どういう意味の引揚委員長若林という名前であるかというので、あくまでもメンバーの代表の若林だと言い張つたのでありますが、手紙にオフイツシアルという印刷があつたものですから、向うの忌諱に触れたことになつているのであります。 なおもう一つ戰犯について考えるべきことは、戰犯というものは、普通一般の人は日本が負けたから戰犯にかかつているというように認識をしているけれども、司令部として戰犯にかけているのは、勝ち負けにかかわらず、戰時国際法に違反した者、日本がよしもし勝つておつても、日本政府として処刑しなければならぬ者以外はやつていないのだからということを徹底させてもらいたいというように、逆にわれわれとしては言われたのであります。しかしりくつから言えばそうでありますけれども、しかし感情から言えば、国民感情として減刑嘆願をするということはむろん当然であるから、その意味においてこれを受付けるというのが濠州側の言い分。フイリピンの方はそうでありませんで、極力この運動を起すことによつて、キリノ大統領が好意的に減刑を考慮しておるのをやりやすいようにしてもらいたい、こういうふうにフイリピンと濠州とは少し立場が違つております。そういう意味において、フイリピンの戰犯につきましては、家族たちにも申し伝えまして、できるだけ多くの嘆願運動をいたすように、またこちらの代表部におります方々たちも、こちらから行きます嘆願運動を非常に喜んで受けて、キリノ大統領に届けることをむしろ歓迎をしておられるような気味でありますので、われわれといたしましても、山田大将夫人などにお供いたしまして、フイリピンの公使にも要請いたしたことがございますので、その点をひとつ含んでおつていただきたいと思うのであります。
○中山委員 私は先ほどからの鳥居博士のお話を承つておりまして、ぜひ覚えておつていただきたいと思うことが一つあるのでございます。それは向うに希望しないのに残留させられておる者があるということをあなた方は知らないのか、私の聞きそこないか知りませんが、帰りたいのに無理にいたいと書かされて、いまだに残留させられておる者があるということを知らないのじやないかというように私承つたのでございますが、私どもはそのことを非常に心配いたしております。中共からお帰りになつた方々がほんとうは帰りたいのだけれども、ある一つの環境に追い込まれて、残留することを希望するというように判を押させられた。そのために本人の意思に反して残留させられておる人がたくさんあるということは、この委員会ではもう数年前から存じておりまして、これに対していかなる手を打つたらいいか。自分のことを申しましてまことに相済まぬと思いますけれども、私は一昨年の十月から十二月二十一日まで国連へ行つておりました。第三委員会、人道委員会、いわゆる政治的の面を離れて、人道的に捕虜の問題を考えてもらいたいというので、あそこで三人委員会というものを設置され、ゼネヴアにおいて——この二十一日に日本から行つておる三人も帰つて参りますが、私どもが手を打たなければならぬと思う点は、もうすべて手を打つて参りました。しかしソ連に抑留されておるところのドイツの人たちの話を漏れ聞きますところによりますと、これは国際の捕虜取扱法に反するからというので、決して要求されるところのいろいろな仕事もしないらしいのであります。しかし日本国民は、非常に純情なためでございますか、要求されることを捕虜の人たちが国際法に反してでもやつておるというところに、一つの日本国民性の悩みが私はあると思つておるのでございますが、中共を承認しないで、国府との一つの協定ができることのために、この段階が非常にこれからむずかしくなるぞというお言葉でありましたが、この六年間私どもはありとあらゆる方法を講じて、今日までいまだ帰らざる人を帰そうとしておりますけれども、それでも帰してくないのが現状であるということをどうぞお忘れなく。この希望残留というまことに不都合なことがこの文明の世界にいまだに行われておるということは、共産主義にもいいところはございましようけれども、こういうところは私納得のいかない、いわゆる先生のおつしやつた共産主義には共産主義のわくだけの自由しかないということが、しみじみと私は今日さとられたのでございます。もし今後の機会におきまして先生にまたいろいろの面で——私ふぜいにとおつしやいますけれども、現地にいらつしやつた先生から、こそ、私どもいわゆる竹のカーテンを通して見て、それに対して何とか手を打とうという御助言をいただき、何とかして帰りたいという人はぜひ帰す。そこにおりたいという人は、これはまた自由意思によつておるということはしかたがございますまいけれども、一たび送り出した人は帰さなければならぬというのが衆参両院の意思であり、政府の意思であるということをどうぞ御記憶願いまして、蛇足でございますけれども、そのことを先生に申し上げさせていただきます。
○飯塚委員 これは質問ではございません。鳥居先生に申し上げたいことがございます。それは先ほど先生から、政府がお呼びにならないというお話がございましたが、先生のお気持もよくわかります。ただ現在の国会は旧憲法時代の国会と違いまして、国権の最高の機関としての国会でございますから、その国権の最高の機関が、鳥居生生に最高の敬意を表してきようおいでを願つたのでありますから、その点を御了承願いたい。
○小平委員長 これをもつて参考人よりの事情聴取の件は終了いたします。 この際参考人各位に一言お礼を申し上げます。各位には御多忙中にもかかわらず、長時間にわたつて御出席を煩わし、かつ詳細に現地の実情をお話しくだされ、本委員会として、今後の海外残留同胞引揚げ問題の調査解決の上によき参考となりました。委員長としてここに厚く御礼を申し上げます。長時間お引きとめいたしまして御苦労でありました。これをもつてお引取りを願いたいと思います。 —————————————
○小平委員長 なおこの際、ここ数日来新聞紙上をにぎわわしております衣部隊の件につきまして、援護庁長官より御報告を申し上げたいそうであります。これを許します。
○木村(忠)政府委員 先般夜間にラジオ東京で放送になりました衣部隊生存者の問題でございますが、あの放送につきましては、厚生省引揚援護庁といたしましては全然関知いたしておらないのであります。引揚援護庁の調査によりますれば、ああいう事実が最近においてあつたということは絶対にない。従いましてかの報道がどこから出たかということは、援護庁としては全然知らないのであります。なおあそこに出ております百八十二名という数は、衣部隊の未復員者の数——まだ全然引揚げていない数とちようど一致いたしております。しかしこれは生存者の数ではないのでありまして、未復員者の数でございます。なお大宮市におきまして、これについての世話課長の会議があるように報道されておつたのでありますが、これは間違いでございまして、当日は前からやつておりますところの調査究明をいたしますために、衣部隊の関係者の方々四十名にお集まりを願いまして、その後の消息等について聴取いたす会合をいたしたのであります。その際におきましてどういうような結果が出たかということにつきましては、昨日、本日調査究明いたしておりますので、その結果につきましては、またわかりました事項は留守家族の方々に密接に御連絡申し上げることにいたしております。
○小平委員長 本件につきまして御質問がありますか。
○玉置(信)委員 援護長官は、衣部隊のラジオ東京放送なるものについては関知しないということでありますが、その放送の出所、そこまでつかなければ究極の目的は達し得られないと思うのであります。調査されているということではあるが、そこまでおつきとめになりましたかどうか、その点をお伺いしたい。
○木村(忠)政府委員 実はあの放送を聞きまして、その後各新聞社から電話がございまして、私どもといたしましては初めて驚いたような次第でございます。なお新聞の報道の出所につきましては、いかに調査いたしましてもわれわれの方といたしましては調査ができないのであります。これは新聞報道の関係者は絶対に私たちに話さないのであります。私の方では、確かにここから出たということはわからないのでございます。
○玉置(信)委員 私は皆さんにお諮りしたいのですが、その出所を確めるために、放送された方を参考人として当委員会に招致されんことを動議として提出いたします。
○小平委員長 玉置君の動議に御異議ありませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○小平委員長 それではさよう決定いたします。 ちよつと速記をとめてください。 〔速記中止〕 —————————————
○小平委員長 速記を始めて。 次に本日は南方諸地域における戰歿者の遺骨調査に関する件につきまして、引揚援護庁提出の資料、南方諸地域における戰歿者数一覧表に基き、これらの調査についての当局の説明を求める予定でありましたが、大分時間が経過いたしましたので、これを次会に延期いたします。 —————————————
○小平委員長 なおこの際お諮りいたします。南方諸地域における戰歿者の遺骨調査に関しましては、先月以来硫黄島におきまして和智恒蔵君一行の調査団が戰歿者の遺骨調査にあたつており、二十日ごろ大体の調査を終了し、帰つて来る予定になつておりますので、本委員会としまして、調査団が帰りましたならば、すみやかにその調査の実情を聴取いたしたいと思つております。また沖繩におきましても、現地において戰歿者の遺骨を発掘収集し、姓名等の判明したものは、こちらへ送り届けるよう努力しておるとのことでありまして、最近二十一体が沖縄より送り届けられ、こちらとしても沖繩の戰歿者の遺骨調査が近く行われるものとして準備している際でありますので、本委員会としましては、硫黄島の戰歿者の遺骨調査の実情と、あわせて沖繩における戰歿者の遺骨の状況を聽取いたしたいと思つております。 つきましては、硫黄島において遺骨調査にあたつております和智恒蔵君及び沖繩より二十一体の遺骨を委託されて帰られた三田産業株式会社常務取締役田中康為君の両君を本委員会の参考人として現地の実情を聽取いたしたいと思いますが、御異議ありませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○小平委員長 御異議なきものと認め、和智恒蔵君及び田中康為君の両君を本委員会の参考人として決定いたします。 なお招致の日時及び手続等については、委員長に御一任を願います。 なお先ほど玉置信一君の動議によりまして決定を見ました衣部隊の報道に関しまする参考人につきましては、なお調査を要する点がありますので、この点は理事会にお諮りした上でとりはからいたいと存じます。さよう御承知願います。 本日はこれにて散会いたします。 午後五時十五分散会