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12回国会両院1951/11/26

両院法規委員会 第6号

発言数
87
登壇者
7
会派数
3
開催日
1951/11/26

会議録

九鬼紋十郎自由党

○会長(九鬼紋十郎君) それでは、ただいまより開会いたします。  本日は、先般来検討中の衆議院の解散の件についてでありますが、成蹊大学の佐藤功君の御意見を伺いたいと存じます。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) お呼出しを受けまして参つたわけでありますが、この問題は、もういろいろ諸先生方が意見を述べられたわけでありまして、憲法の解釈問題についてもほとんど出盡しておると思うわけであります。私は特に申し上げる点も実はないのでありまして重複するのではないかと考えますが、一応私の考えを述べさしていただきたいと思います。  結論を初めに申し上げておきますが、私は、この衆議院の解散は六十九條に定める場合以外でもできる、という結論をとるわけであります。ただそれは、いうまでもなく衆議院が国民の意思を正しく代表していないということが、客観的に判断される理由があるとされる場合に限つて、六十九條以外でも解散はできるのだという立場をとるわけであります。  その理由につきましてはだんだんに申し上げますが、まず何よりも、この六十九條の解釈であります。これはほかの諸先生方も言われましたように、解散の場合を限定した規定ではなくて、不信任の決議がなされた、それから信任の決議が否決されたという場合には、総辞職か、解散か、どちらかを選ばなければならないというところの規定であるというふうに考えるわけであります。そこで、その解釈をめぐつていろいろ議論があるわけでありますが、その場合に私は、その問題はその根本にさかのぼつて、解散とは何ぞという、解散の性質から考えなければならない問題だと思うわけであります。これはもういまさら私が申し上げるまでもないことで、恐縮でありますけれども、結局議会政治あるいは議院内閣制というものでは、国会が、特に衆議院の意思が国民の意思を代表しておる、衆議院の意思が国民の意思とみなされるというのが前提になつておるわけで、そこでその国会中心の政治ということが行われるわけであります。その国民の意思が衆議院の意思だというのは、何によつてそうなるかというと、それはいうまでもなく総選挙であるわけであります。その総選挙で国民の意思を知る、それを代表する国会が中心だというわけですが、それはいうまでもなく国民に主権がある、国民の意思によつて国政が決定されるということが前提になるわけであります。それはいわゆる直接民主政治でなくて、間接民主政治ということで、国会が中心になるというわけであります。つまり、同じことでありますが、なぜ国会が中心かというと国会は国民の意思を代表すればこそ、国会中心の政治機構というものができるわけであります。そこで国会が行政府を殺したり生かしたりする――行政府の死命を制し得ることになるわけであります。その国会の意思と国民の意思とをどう調和させるかということになると、それは議員に任期があり、総選挙によつてそれを調和させるというわけでありますが、しかしその任期制、それから総選挙ということだけでは、国会の意思と国民の意思との調和の上に不十分な場合もないわけではない。つまり総選挙を行う以外に、国民の意思を確かめる必要がある場合がないわけではないのでありまして、それがまさに解散の制度であります。解散によつて国民の意思に直接訴えるというわけであります。その場合に、よく国会は国権の最高機関であるから、その国会が望まない場合に、つまり衆議院が必ずしも解散されることを望まない場合にも解散するということは、それは内閣として、いわば越権であると言われるわけでありますが、今申しましたように、国会が最高機関であるというのは、それが国民の意思を代表すればこそであるわけで、その意味では国民の意思に従属するわけであります。従つて国民の意思を確かめて、それによつて国会の意思を判断するという解散の制度というものは、それは国民の地位を強めることになる。そうして解散、総選挙ということによつて、その結果が新しい衆議院の構成に現われて、それによつて行政府の死命を制するということになるわけでありますから、結果的に申しますと、解散ということは決して国会の地位を弱くするわけではない、むしろ強くすることだというふうに考えるわけであります。わかり切つたことを申し上げましたわけで、恐縮でありますが、そういうのが議院内閣制、ことにイギリス流の議院内閣制の当然の内容だと考えられておるわけであります。日本国憲法は、政治機構について必ずしもイギリス式一本では、ございませんけれども、しかし少くとも内閣と国会との関係という点では、イギリスの議院内閣制をとつていることはいうまでもないというのでありまして、従つてこの解散の問題も、その方向で解釈し、運営すべきだというふうに考えるわけであります。それが第一の問題でございます。  次は、第七條の問題であります。つまり解散は天皇の権能とされておる、従つて六十九條以外の場合に、この七條による解散を認めるということは、天皇と地位の両立しない、つまり天皇の権限を、憲法が予定しているよりも以上に強くするという、そういう解釈、従つて六十九條に限るべきたという解釈についてであります。それでこの場合は、第七條で天皇が解散の権能を持つておるわけでありますが、この場合も、もちろん内閣の助言と承認に基くのでありまして、天皇固有の意思によるのではないということは、いうまでもないわけでございます。ただ少しこまかく考えてみますと、次のような問題があるということは事実であります。  それはどういう問題かと申しますと、第七條の二号は国会の召集、それから三号が衆議院の解散、それから四号が総選挙の施行の公示ということでありますが、国会の召集の場合は、これは臨時会を議員の側から要求をすれば、内閣が臨時会の召集を決定しなければならないというのが五十二條にあるわけで、内閣が決定するということが、そこではつきり出ておるわけであります。それから常会、これは五十二條でありますが、常会と、それから五十四條の総選挙後の特別会という、この二つの場合には、常会は毎年一回であるし、特別会は総選挙が行われたら一定の期間内にというわけでありまして、召集する場合と、それから召集すべき時日がほぼ定まつておるわけであります。それから第四号の総選挙の施行の公示というのも、これもどういう場合に総選挙をするかということがきまつておるわけで、つまり国会の召集と総選挙の施行の公示というものは、その天皇の権能が発動される場合がすでにほぼきまつておる。ところが衆議院の解散につきましては、六十九條がその一つの場合ではございますが、どういう場合に解散するということがはつきりしておらない。そして衆議院を解散するということを内閣が決定する――ちようど先ほどの五十三條の臨時会の召集を内閣が決定すると同じように、衆議院の解散は内閣が決定するのだということを定めた別の規定もないわけであります。それで、たとえば第七條の六号に、大赦、特赦、減刑等等というのがありますが、それは天皇の権能でありますけれども、しかし七十三條の第七号というところで、大赦、特赦等々を決定するということは、内閣の権限として別にきまつておるわけです。ただこの七條の中で、内閣が決定するということを言つておらないのは、今申しました衆議院の解散の場合と、それから栄典の授與の場合で、栄典の授與を決定するということは、内閣の権限としては別に規定はないわけです。ただその場合に、栄典を授與するということは、これは事の性質上、非政治的なものであるということは言えるのでありますが、解散については、これは非政治的だというよりは、事の性質上、きわめて政治的な行為であるわけであります。  以上述べましたことを重く見ますと、つまり解散はそういう政治的な行為である、だから解散は六十九條の場合だけに限る、従つてこの七條三号はそういう解散は六十九條の場合だけだということを前提として、ただ天皇が解散をするということが書いてあるので、内閣が決定するということは書いてないのだ、つまり六十九條の場合だけであればこそ天皇に解散権を與えたのだ、そういう解釈が出て来ると思うのであります。こういう点はあまり人々が申してはおらない点でございますが、それは確かに二つの議論だというふうに私は考えるわけであります。つまりそれは、あるいは憲法の規定の仕方がまずかつたのかもしれません。七十三條あたりに、やはり解散は内閣が決定するということを入れておいた方がよかつたのかもしれません。そして七條の方では、その解散を天皇が公示をするというようにだけ書いた方がよかつたのかとも思うのであります。そういう点は確かに一つの議論だと私は思うのでありますが、しかし第四條で、天皇は国政に関する権能を有しないということははつきり書いてあるわけでありますから、今申しましたように実質的には、明文の規定がなくても「内閣が決定するのだということは当然にそこに含まれていると解釈すべきではないだろうか――先ほど申しましたように、七條三号は、ただ衆議院を解散するとだけ書いてございますが、解散は内閣が決定して、天皇がそれを詔書で公示をするのだ、そういう意味だというふうに解釈すべきではないだろうかと思うのであります。  そこで今申しましたように、実質的には解散についても、それは内閣が決定するのだというわけでありますが、それならなぜそれを、ことさらに天皇の権能としたのだろうかという問題があると思うわけであります。それは解散に限りません。先ほどの召集、それから総選挙の施行の期日の公示ということも同様でございますが、解散の場合だけを申しますと、解散をことさらに天皇の権能としたのは、この解散というのはやはり国会に対する内閣の一つの命令的な作用であると私は思うわけであります。内閣は国会の基礎の上にある。それなのに、そういう国会に対して内閣が命令的な作用をする、従いまして、内閣が解散をするというふうにいたしますと、今申しました内閣が国会に対して命令するということが、いかにも露骨に出て来る。従いまして、形式的には国会と内閣とに対して、いわば第三者的な立場にある天皇の権能としたというように考えられるのではないかと思うのであります。そういう天皇を認めるかどうかという問題は根本にあるわけでありますが、天皇制を否定する、あるいは天皇の権能をすべて剥奪してしまうのなら話は別でございます。しかし少くとも天皇というものを認めるという立場に立ちますと、今申しましたように、形式的には第三者的な天皇にその権能を與えるということの理由があるのではないかと思うわけであります。それはしかし決定は内閣にある。だから、決定したものをいかにも天皇の権能であるように定めておるのは、それはいわば擬制――フィクシヨンだというふうに言えるわけであります。だから、そんなフィクシヨンはやめてしまつて、内閣が決定するなら、内閣に解散権を與えればいいので、形式的に天皇の権能とするというような、そういう擬制はやめてしまえという議論はあると思いますけれども、しかし天皇制というものを認めたという関係で、やはりそういう一種の擬制というようなものが、天皇の上に與えられておるというふうに考えるべきではないだろうかと思うわけであります。それでその問題は、要するに日本の場合天皇というものに権力がほとんどない、いわばノミナルなものでありますけれども、そういうノミナルなものにせよ、元首と申しますか、あるいは先生によつては国首という言葉を使う方もおられますが、そういう国首というものがない場合には、議会に対する政府の従属性というものが一層露骨に出て来る。はつきり現われて来るわけであります。それに対しまして、ノミナルなものであるにせよ、国首というものがありますと、そういう政府の議会に対する従属性というものがいくらかぼやかされることになる。それによつて、政府が議会の言うがままになるのだということでなしに、議会と政府との間にいわば均衡が保ちやすくなる。ちようど日本の天皇が解散権を與えられておるということも、そういう作用を果すと思うのであります。  ところがそういう考え方に対して、いや、国会は最高機関なんだ、それで内閣と議会というものは均衡を保つというものではなしに、国会は最高機関なんで、内閣は従属すべきものだという、そういう反対論があるわけであります。それは結局三権分立主義というものと、それから四十一條の国会の最高機関性という問題をどう考えるかという根本問題になるわけでありまして、それは大いに議論のあるところでありますが、私は結論的に申しますと、国会が最高機関だというのは、旧憲法の天皇が統治権の総覧者であつたというのとは違うのであつて、三権分立ということが初めにあつて、そしてその三権はお互いに均衡、牽制を保つておつて、それを認めた上で国会に最高機関という地位を與えたのだというふうに考えるわけであります。つまり内閣と国会との間には均衡の関係が保たれるのだ。この問題は、御承知の例の浦和充子事件のときに、議院のいわば国政調査権の問題の場合にも同じ問題が論ぜられたわけでありまして、御承知のようにあのときに参議院側は、国会は最高機関なんだということを第一のよりどころとして議論をせられたわけであります。その場合に最高機関というのは、しかしながら司法権の独立というものとの調和において見なければならないというのが、最高裁判所側の見解であつたわけでございますが、それと同じ問題だと私は思うのであります。つまり六十九條の場合だけしか解散はできないのだといたしますと、今申しました内閣と国会との間の均衡が、過度に国会に傾くこととなりやすい。憲法は均衡を保つという考え方でできておる。従つて六十九條以外でも解散はできるのだというのが、憲法の考えではないだろうかというふうに考えるわけでございます。  それから第三の問題でございますが、今申しましたように六十九條以外でも解散ができるといたしましても、それが濫用されてはならないということは当然であります。前に申し述べましたように、国会の意思が必ずしも国民の意思と一致していないということが客観的に判断されて、そうして国民の意思を問い、それと国会の意思との調整をはかる必要があるという場合に限らなければならないと考えるわけであります。そういう場合といたしましては、いろんな場合が考えられるだろうと存じますが、たとえば内閣が総辞職をして、そして今度は少数党内閣ができたというような場合、あるいは総選挙後政党の間に異動がありまして、特に内閣の與党が分裂をして、その結果與党が少数となつたというような場合、あるいは選挙後相当期間が過ぎましたあとで、憲法改正の発議をするというような非常に重大な事件が起きたときに、国民の意思を問うというような場合が考えられるのではないだろうかと思うわけであります。こういうような場合に限るんだというようなことを憲法の上で、あるいは法律の上で法定するということは、なかなかむずかしいと思います。それは結局は議会政治の運用にまかされておる問題だと思うわけであります。同じ議院内閣制と申しましても、学者が言つておりますように、フランス流の議院内閣制というものと、イギリス流の議院内閣制というものとは、いろいろ違つておるわけでありまして、フランス流の議院内閣制は、概して解散の場合を非常にきゆうくつに限定をしておるわけであります。それに対しましてイギリス流は、そういう解散の場合を限定いたしませんで、もつぱら運用にまかせており、自由にまかせておるわけであります。でありますから、日本国憲法をイギリス流に解釈をするか、フランス流に解釈をするかということが問題を決するわけでありますけれども、日本におきましては、とにかく旧憲法時代からイギリス流の議院内閣制というものが何年間か行われた。そういう経験があるわけで、いわばなれておるということも考えられますし、そういう点もありますので、このイギリス流の議院内閣制というふうな方向でこの問題を解釈して、そして運用して行くということが適当なのではないだろうか、あるいは望ましいのではないだろうかと私は思うわけであります。従つて解散の場合につきましても、それを制限するという方向ではなしに、イギリス流にそれを自由にまかせる。そしてそれは議会政治の賢明な運用ということにまかせるという方向で考えるべきではないだろうかと思うわけでございます。  あまりまとまりのない意見になりましたかとも存じますが、以上一応私の考えを申し上げます。

佐瀬昌三自由党

○委員(佐瀬昌三君) ちよつとお尋ねいたします。イギリス流の議院内閣制度というように、日本の場合を性格づけてお考えになるのは、私もたいへんけつこうだと思うのですが、ただ主権の所在という点から言うと、イギリスの憲法においては、キングと国会がいわゆる共有であるというふうに解釈されておるのは御承知の通りだと思います。日本の場合は、新憲法においては天皇の主権というものを一切否定されて、主権在民説に徹底されておる。そこで解散権の点を考えると、主権の主体でない天皇に解散権が所属するということは、非常に論理的に無理じやないか。ただいま何かフイクシヨン――擬制であるというような補足的な説明があつたようでありますが、どうもその点から見ると、議院内閣制はイギリス流である。しかし主権の主体性については、イギリスと日本は非常に違つておる。そういうところから見ると、解散権が天皇にあるのだというふうに結論づけることは、非常に困難なような感がするのですが、もう少しその点を御説明願いたいと思います。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) イギリスでは、主権がキングあるいは国会と共有ということでありますけれども、御承知のようにイギリスでは、法律的主権というものと政治的主権というものを区別いたしまして、政治的主権は国民にあるのだ、あるいは選挙民にあるのだという考えもあるわけでございます。ですから、法律の建前としては、主権はキングあるいは国会と共有というのですけれども、しかし政治的には主権在民といつてもいい。そういう考えもあるわけです。もちろん日本国憲法は主権在民ということをはつきりいつておるから、そこは違うことは違いますけれども、しかしそう全然違つたものだとは考えなくてもいいのではないかという気もいたします。それから国民主権ということになると、行政府からの解散というものは考えられないのだという、つまり国民主権ということと、行政府による解散ということは全然両立しないということも言えないのではないか。しかし国民主権でありながら、行政府の解散権を認めることもあり得るし、今急ですから、憲法の実例をあげることはちよつと頭に出て参りませんけれども、そういう制度もあるのではないかと思います。

佐瀬昌三自由党

○委員(佐瀬昌三君) けつこうです。

松永義雄日本社会党第三控室(右)

○委員(松永義雄君) 私のは政治論です。かりに内閣総理大臣なら内閣総理大臣に、解散する権利というか、権能があるとしても、日本の建前のように、総理大臣が国会から選ばれております場合、これは事実上できないのじやないか。これは自由党内閣であろうと社会党内閣であろうと、自分を選んだ衆議院を解散するということは困難じやないか。昔ドイツでワイマール憲法が制定されるとき議論になつたと思いますが、その良識がないと――英国の議院内閣制、総理大臣が任命されるとか、これは国会の承認ではないでしよう。選挙じやないでしよう。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) ワイマール憲法の場合ですか。

松永義雄日本社会党第三控室(右)

○委員(松永義雄君) 英国の場合です。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) それは違います。

松永義雄日本社会党第三控室(右)

○委員(松永義雄君) ですから、日本の場合と法律の建前が違うわけです。われわれも英国流の考えを持つておるわけで、それでいいとは思つておりますが、事実上なかなか困難な点があるのじやないか、その点、どうすればいいか、その一点だけお伺いいたします。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) 今のお話ですが、イギリスの場合、もちろん日本の場合のように国会が総理大臣を指名するわけではないのでございますけれども、しかしやはり議会の多数党のリーダーが内閣を組織するということは、当然のこととしてちつとも疑われていないわけでございます。だからその点で申しますと、指名という手続がある、ないは別といたしまして、日本国憲法の場合と同じやなかろうか。つまり議院の指名というのは多数党の首領を指名することですから、実質的には同じじやないか。ですから指名をされた内閣が、自分を指名した国会を解散するということは、事実上できないのじやないかとおつしやるわけですが、それはなるほど指名をする――あるいはイギリスの場合でも、指名はなくても――結局実質的には指名するわけですけれども、しかし一ぺん指名され、内閣を組織した以上は、やはり一応議会というものと独立の関係になるわけで、いつまでもしつぽをひつぱられているわけではないので、やはり立法府と行政府が一応独立のものになるわけですから、その間に、いわゆる均衡牽制のお互いの関係というものが出るということは、おかしくはないのじやないか。イギリスの場合でも解散は――御承知の通りこの間もアトリー内閣の最後のときに解散をしたわけでございますから、事実上できないのじやなかろうかという点は、私はそうは思わないのでございます。

高橋英吉自由党

○衆議院両院法規委員長(高橋英吉君) そうしますと、お説を伺つておると、解散権が発生するところの根拠となる明文ですね、これが今の憲法にはちよつと見当らないということになる。明文としては類推解釈と、間接の規定はあつても、直接の明文はないということになるのじやないですか。七條が全体の直接規定ということにはならないというお説でしよう。だから明文はないということになるのですね。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) それは明文の字句の根拠ということになりますと、つまり行政権が内閣に属するという、その行政権の一つであるということになるのではないかと思います。行政権と申しますか、あるいは執行権ですね。そこの、先ほどから申しております立法府との関係における解散というのは、立法でもなければ司法でもない。だとすればこれは執行権であり、それは内閣にある。それの現われとして解散を決定する。あるいは解散を発すると申しますか、解散権がある。ただ行政権ということに、しいて根拠を示せとおつしやいますと、そうなるわけですが、私は先ほどから申しておりますように、解散というものそのものの性質からいつて、議院内閣制をとるということの、当然それにくつついたこととして、行政府に解散という権能があるのだというわけなんです。

高橋英吉自由党

○衆議院両院法規委員長(高橋英吉君) それなら、解散権というものは、内閣が本来的に所有している行政権の作用だというふうに言われるわけですか。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) そうなるわけです。

高橋英吉自由党

○衆議院両院法規委員長(高橋英吉君) そうすると、解散というものは非常に、重要なものであると思うのですが、この第六十五條に、行政権は内閣に属するということになつておる條項があり、それからまた第七十三條には「内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ」というので、先ほど指摘されたようないろいろな権限が規定してありますね。そうすると、この七十三條において、特定に明示してあるもののうちに解散の條項が入つていないところを見ると、お説の行政権というのは第六十五條に属するということになるのですか。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) そうです。

高橋英吉自由党

○衆議院両院法規委員長(高橋英吉君) この行政権のうちに入つていることになるですか。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) そうです。

高橋英吉自由党

○衆議院両院法規委員長(高橋英吉君) そうすると、昔明治憲法には停会というものがあつたわけです。これは法律に根拠して内閣が持つておつたところの権限だと私ども解釈しておるのですが、今度はその停会の規定がないわけです。停会の規定がないものですから、停会という制度はありません。しかし今のお説のように、解散権すら行政権の作用だということになれば、停会などというものはもつと下位に属する作用なわけですから、当然停会もできるということに解釈できることになりはしませんか。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) 停会という制度は――これは明治憲法のときのように、政府が停会を命ずるということは今ないわけでございますね。ただ国会自身が自律的に休会なり何なりするということになつているわけですが、それは国会が成立をしたあとの、いわば国会の内部的な事柄であるわけなんです。しかし召集をするとか、解散をするとかということは、国会そのものの活動を開始させたり、あるいは終らせたりする。議員の任期が来ないうちに切つてしまうというのが解散ですが、とにかく衆議院の存在をなくするという、つまり議院の活動そのものに対する作用なんですね。そうすると、停会というのとは必ずしも同じではないのじやないかと思います。

高橋英吉自由党

○衆議院両院法規委員長(高橋英吉君) 私どもは、これは停会も国会の権能を停止することになるわけですから、程度の差異はあつても、同様の性質のものだと思うのです。さらに私は別の事例から反問したいのですが、行政権に属するものであつたならば、解散制度のない国における解散の問題については、一々明文で、政府は国会を解散することができないという制限規定、禁止規定をやらなければ、国会の解散ができるということになるわけですね。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) それはいろいろな国の憲法の規定の仕方でございますが、たとえばフランスのずつと前の憲法の一つなどには、国王は衆議院を解散することができないという明文の規定がある場合もございます。ただ何も解散できるということが書いてない、そういう場合もあるわけです。そういう場合は解散できない。だから規定の仕方はいろいろあると思います。

高橋英吉自由党

○衆議院両院法規委員長(高橋英吉君)   そうすると、参議院も当然解散ができるわけですね。禁止規定がないわけでしよう。行政権当然の発動だとすれば、参議院に対しても解散できる、しかもこれは天皇の認証を得ずに、かつてに解散できるということになりはしませんか。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) それはどういうお話なのか、ちよつとわからないのですが、それはまた別の点から考えなければならないわけです。つまり不信任の決議案を出すということは、衆議院たけに規定があるわけで、それに応じて解散ということがあるわけでございます。ところが参議院には、不信任の決議ができるという規定がない。そこで行政府からの、それに対応する手段としての解散というものは、そこにはない。つまり解散というのは衆議院の不信任決議に対抗する行政府の手段です。ですから参議院については何も規定がない。しかし行政権の当然の内容として解散権があるのだとすれば、参議院にも解散ができるということは、そう一概には言えないのではなかろうかと存じます。

高橋英吉自由党

○衆議院両院法規委員長(高橋英吉君) そうしますと、あたかも六十九條以外には衆議院の解散ができないというふうにも聞えるのです。衆議院に政府不信任の権限を與えたから、その反対的な立場における行政府に――内閣に解散権も與えたという論者の論旨の裏づけみたようなことになるので、その点において、参議院にも不信任の権限を持たして、しかもまた内閣に参議院の解散をする権限を與えるような方法をとつたらどうかという議論もあつたりするわけでして、今のようなお説で、六十九條に限られたということになりますと、先ほど言われた、あたかも無條件、無制限解散に類する行政権当然の発効だというお説と、ちよつと矛盾するように思います。たとえば金森さんがこの間出られまして、解散権の発生する直接の明文はないけれども、議院内閣制の沿革から、常識上という言葉を使われまして、一応解散制度というものがあると考えて、この憲法を解釈すべきだというように言われたのですが、その点についてはどうでしようか。私どもは、解散権というものは司法でもない、立法でもないというふうな建前からいつて、行政権の一種ではないかという解釈には賛意を表せぬこともないのです。しかしこの行政権というものは、法律によつて付與されて初めて生じたところの行政権的なものであつて、国会には当然解散という固有の性格というものがあつたり、また行政権に衆議院の解散という本来的な権限があると解釈するのは、行き過ぎではないかというふうに考えるのでありまして、それこそたいへんな独裁政治の前提となるというふうに考えるのですが、いかがでしよう。本来的な行政権の作用でなしに、特に法律によつて付與されて初めて生じた行政権的なものだというように解釈すべきものじやないかと思いますが、その点はいかがでしようか。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) いろいろな点をお述べになりましたが、まず初めの、私は解散というものは不信任決議に対抗する手段だということを申したわけで、それならば、六十九條に限るということの裏づけになるのじやないかという御意見であります。それはもちろん六十九條の場合が、その解散のいわば主たる内容、一番普通の場合であるということは言えると思うのです。ただその場合に、それより少し広げることができないかどうかというところに問題があるわけで、それが一番普通の場合だということは確かなので、そこを私は申し上げたわけです。  それから行政権の内容として解散を含むということを、私も先ほどは申したわけでありますが、今伺いますと金森さんが、むしろ議院内閣制というものの歴史的な沿革とか、議院内閣制そのものの性質として解散ということを考えるべきだということをおつしやつたそうですけれども、それは私もむしろそう考えるわけです。ですから先ほど、この問題は解散をどう考えるかというところで決定されるというふうに申したわけです。ただその場合に、文字上の根拠は何かということを、しいて言えということになりますれば、行政権ということに求めるよりほかないのではないかと思うわけです。  それからちよつと前後いたしますが、先ほど不信任ということを申しましたので、六十九條の場合だけじやないかとおつしやつたわけですけれども、それは不信任決議ということに対抗するという、そういう形になるわけです。しかし解散の本質というのは、先ほど申しましたように、国民の意思を問うというところにある。議会は不信任決議をした、しかし内閣から見て、これはどうも国民の意思とは必ずしも一致していないと内閣が考える、そこで国民の意思にアッピールするというのが解散の本場質のわけです。そうしますと、本質はその国民の意思に問うというところにある。それは不信任決議というものを伴う場合が通例ですが、本質は国民の意思を問うという場合である。そうであるとすれば、その不信任決議がなくても、国民の意思を問うという必要が非常にあつた場合には、そこに解散ということが考えられていいのではないかというのが私の考えでございます。  それから最後の、非常に独裁的になるという点ですが、それはそういう危険ももちろんあると思います。ただそこは議会政治というものの健全なる運用と申しますか、そういうことにたよるよりほかないので、濫用される危険はもちろんありますが、そうだからといつて、六十九條だけに限らなければ必ず独裁主義になるというようには私は考えないわけです。

高橋英吉自由党

○衆議院両院法規委員長(高橋英吉君) 問題をかえてお尋ねしますが、大体解散の場合は――いろいろ例をあげておられましたけれども、結局重要な事項が発生した場合には解散ができるということのようにも考えられるのですが、その重要な事項ということに対する認定権は内閣にあるということになるわけで、独断的になり、一方的になるから、現実的にいえば無制限、無條件に解散ができるということも言えるわけです。そうすると、それは均衡論からいいますと、先ほど均衡論をおつしやつたのですが。これはあまりに政府の方に重いというようなことになつて、衆議院が非常に軽視されたような形になりはしませんか。その点についてお伺いいたします。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) 非常に重要な事件が起きて、そうして国民の意思を問うという場合、抽象的に申しますとそういうことになるわけですが、それを認定するのは、おつしやいます通り内閣ということになるわけです。しかしその場合、とにかく解散をして、そうして新しい衆議院の構成いかんによつては、その内閣は進退を決しなければならないということを内閣としても考えるわけでございますから、そうむやみやたらに解散をするということはないのではないか。これはあるいは政治的な観測の問題になるかとも思いますけれども、解散するということをきめる場合には、内閣としてはやはり愼重に考えるわけでございますから、むやみやたらに、どんな場合でも解散できるということにはならないのではないでしようか。

高橋英吉自由党

○衆議院両院法規委員長(高橋英吉君) たとえば小党分立などの場合に、甲、乙両党が総理大臣を指名して内閣を組織されておるけれども、ある議案に対して、乙、丙の両党が反対すればその議案が否決されるというようなとぎに、政府に無條件、無制限の解散権があるとすれば、その乙党がその良識に従つて反対しようとしても、解散の危険があるというようなことで躊躇して、その良心を曲げて解散の威赫の前に屈して、正しからざる意思決定をするというような危険があるわけなんですが、そういうことに対するお考えはどうでしようか。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) 今お示しの例についての意見になるかどうか、はつきりいたしませんが、内閣あるいは政府に解散権があるということが、やはり国会をチェックすると申しますか、今お示しの例では、悪い場合のような例をおあげになりましたが、とにかく一つの武器として内閣に解散権がある。下手なことをすると解散されるかもしらぬぞという気持がある。悪く言えば、今言つたように良心にそむくということになるかとも思いますが、いい面で申しますと、国会の進退を愼重ならしめるといういい場合もあるのではないかと思います。それがつまり均衡牽制の原理なのじやないかと思います。

高橋英吉自由党

○衆議院両院法規委員長(高橋英吉君) 大体解散制度というのは、君主制と表裏一体をなしているものであるように思われるのです。解散の起源から言えば、君主が強大な権力を持つておる時代に、国会が君主の意思に反する行動に出た場合に、君主がいわゆる懲罰解散といいますか、そういうふうな意味のもとに解散をして来たというのが、歴史上、沿革上の事実だろうと思います。日本のごときに至つては、むろん明治憲法は君主制だつたわけですから、イギリスの最も古い時代の権力がはつきり法文の上にも現われて、また実際政治の運営の上にも現われたというように思われるわけですが、明治の議会政治がしかれてからの前半においては、ほとんど懲罰解散的なものであり、その後政党政治的なものが発達しまして後も、政略的解散といいますか、単に多数を獲得することを目的とするところの解散ばかりであつて、真に国民の意思に問うというような理想的な形における解散はなかつたわけです。そういう例から見ても、解散という制度と民主主義というものは、相当相背馳するのじやないかと思われるのです。その例としては、イギリスは沿革的に、君主権の作用として解散権が生じたのだろうけれども、その後あそこの国民の良識と、いろんな点がすぐれておつたために、比較的無難な解散の経過をたどつておるのではないかとも思われます。しかしこれにしても、やはり沿革的に、歴史的に言えば、君主制から発生しておるものと私は思います。それに反してフランスでもアメリカでも、解散というものは――アメリカにおいてはむろん解散制度はなし、フランスにおいても解散制度があるという説と、ないという説とがあるようですが、事実においては不信任案が通過したり、信任案が否決された場合には内閣が総辞職をしたりするようなことになつて、世界でも有名な短期内閣の典型的な国だということになつておるのは、御承知の通りであります。このフランスにしてもアメリカにしても、とにかく民主主義の国でありますから、議会の意思が正しいか、内閣の考えることが正しいかという場合には、一応国民の信託を後で、ある期間を限られて、その期間は国民の代表として選出せられておるところの、議員によつて構成されておる国会の方を重しとする行き方で、内閣の方が総辞職をするということになつておるわけであります。日本も新憲法では、民主主義の理想的な憲法をつくるというようなことになつたわけですから、従つてその点は、イギリスよりもフランス、アメリカというようなものを模範とするのがほんとうじやないか。ことにこの憲法をこしらえるについては、アメリカの考え方が、大分入つておるようですが、やはり解散については非常に制限的な厳格な場合を予想して、ああいう六十九條のような規定ができたのじやないか、俗に言えば、今度の憲法はアメリカとイギリスとの中間的なものではないか、その最も代表的なものがこの解散の面に現われておるのじやないかというふうに考えられるわけです。  それからまた他の点から論じてみますと、先ほども松永君から質問があつたようで、これはしばしば問題になりますが、同じ議院内閣制といつても、イギリスの場合、フランスの場合と違つて、国会議員の指名によつて内閣総理大臣ができるというようなことになるわけですから、両者の意思が相背馳した場合には、これを選んだものがその地位を失うというより、選ばれたものが地位を失うということがほんとうじやないかというふうに思われるのです。その点についてはいかがでしようか。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) 第一の点、いろいろお述べになりましたが、懲罰的な解散というものが、日本の歴史、日本の政治史の上にも支配的だつた、そういう危険があるということは、それは私も認めます。ですからその点については、やはり先ほどから申しておりますように、よき議会主義の賢明な、健全な起用ということを申し上げるよりほかはないのであります。それと関連いたしまして、解散の制度がない方がむしろ民主的ではないかというようなこともちよつとお述べになつたようでありますが、それはつまり解散の制度があるのが民主的か、それともないのが民主的かということは、一概には言えないのじやないかと思います。アメリカ流の、つまり大統領も公選だ、それから議会も公選だということで、そうしてそこでは三権分立ということになつて、解散の制度がないというのも民主主義の一つの行き方ではありますが、しかしそれとは逆に、解散というものを入れたイギリス流の議会政治というものも、やはり一つの民主主義の行き方なので、それは両々特徴があると思うわけです。  それから国会が指名をしてできた内閣が、国会を解散することはおかしいということですが、これは先ほどの委員の方にお答えした、それと別にかわつた考えではございません。つまりイギリスの場合でも、指名という手続ではございませんが、結局多数党のリーダーが内閣を組織するので、その場合に、それを解散できないということはないのではなかろうかと存じます。

高橋英吉自由党

○衆議院両院法規委員長(高橋英吉君) お説の通りだとすれば、解散権の問題の上からいうと、明治憲法より新憲法の方が非常に非民主的じやないかと思われるのです。明治憲法では天皇が無制限、無條件に解散できるということになつておつても、実際政治の上では元老があつたり、その他調整機関があつて、ブレーン・トラストというか、何かそういうものによつて、良識に従つた天皇の解散権の行使が行われるというようなことになるわけだつたのですが、新憲法では、内閣が無制限、無條件に解散権を持つということになると、これは笑い話ですが、たとえば私の方の総裁が、ゆうべの夢見が悪かつたから、けさきげんが悪いから、ぴしやつと解散するというようなことも、やろうと思えばやれないことはないのでして、そういう厖大な権力を総理大臣に持たせるということ、内閣に持たせるということは、明治憲法より新憲法の方が悪くなつておるのじやないかというふうにもとれますが、その点についてはどうでしようか。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) 明治憲法時代に、元老だとか、あるいは枢密院でありますとか、そういういろいろな機関があつて、そこで内閣が解散を天皇に奏請するという場合にも、いろいろそういうものがあつたために愼重になつて、なかなかできなくなつておつた。ところが新憲法では、私の説のようだとすれば、かえつて明治憲法より独裁的と申しますか、そういうふうになるのじやないかという御意見なのですが、日本国憲法では国会の地位が非常に高くなり、強くなつて、最高機関というようなことが今現われておるわけで、旧帝国議会とは比べようのないくらい国会の地位や権限が高くなつたということは、これはいうまでもないことだと思います。ところがそれに対して、内閣に解散権があると、それと矛盾するじやないかとおつしやるわけですが、そこが私の考えの根本と申しますか、それに関係するのです。つまりそれほど国会の地位が高くなり、権限が強くなつたために、かえつて均衡ということが必要なんだというふうに考えるわけです。

高橋英吉自由党

○衆議院両院法規委員長(高橋英吉君) 均衡説から行きますれば、いろいろな手段方法でこの均衡をとらなければなりますまいし、均衡をとるということが結局政治の運営が妥当適正になつて行くということになりましようから、これはなかなかむずかしい問題だとは思いますが、大体の線において、解散というのは内閣にとつては非常に強大な武器になり、国会に対しては非常な威嚇的な作用といいますか、そういう作用を持ち、国会の比重といいますか、そういうものが非常に弱められるということになるのであつて、先ほど言われた解散は国会をより強化するのだということは、ちよつと考えられないのじやないか。理想論としてはいろいろあるでしよう。問題ごとに国民の総意が聞けるというようなことになれば、それが一番いいことではありましようけれども、そんな煩雑なことはむろんできないから、四年間なら四年間というものは、国会議員は国民の信託を得て、四年間その権限の行使を自由にしてもらつておるというような形になつておるわけです。これが無制限な任期でしたらともかくですけれども、とにかく四年という任期が限られておるわけですから、その間だけは国民の信託にそむかず、最も妥当適正な行是出るということで、いわゆる国民の選良ということで出て来ておるわけです。従つてそれに対しては最大な敬意を表すべきであり、新憲法でも最高機関としておるわけです。これが常に解散ということで、尾崎行雄先生の表現を借りて言えば、首切りとか免職とかいうようなことですが、そういうような脅威にさらされておることは、国会を弱めることになる。真に選良たる活動をはばむものではないかというふうにも考えられます。その点、均衡論とかいろいろ説はありましようけれども、大体国会が最高機関であつて、新憲法は民主主義の憲法だということになれば、解散などもよほど制限され、首切りとか免職とかいうようなことも、よほど制限されるべきものであるという建前がほんとうではないか。内閣と国会が衝突した場合は、内閣が、その選ばれた主人公から不信任を食つたのだから、総辞職するのがほんとうじやないかというふうにも思われるのです。しかし第六十九條でも、そういう場合は解散をする権限を特に與えておるのですから、この点で均衡がとれておるのではないか。それ以外に、無制限、無條件に解散を認めることは、明治憲法以上の強大な権力を内閣に持たせることになるのではないか。大きな筋からいつて、そういう考えを持つ者もたくさんあるわけです。その点については、いかがですか。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) 今の点が一番の問題点だろうと思うのでございます。その場合にも、私が先ほど申し上げましたように、国会が最高機関であり、あるいは国会中心ということなんですが、それはやはり国民の代表であり、国民の意思を代表しておるので、国民にあくまでも主権がある。しかし直接国民が民主政治を行うことはできないから、間接民主政治ということになるわけで、しかも国会の地位がそれほど高いのは、やはり国民の代表であればこそなんである。だからそういう点で、主人公というような言葉があつたようですが、そういう言葉を使わせていただくならば、やはり国民が第一の主人公なんで、その第一の主人公の意思を問う、そういう解散という制度が、やはり考えられるのではないだろうかと思います。

高橋英吉自由党

○衆議院両院法規委員長(高橋英吉君)  それなら結論を出しますが、要するにあなたのお考えは、無制限、無條件に内閣に解散権を持たしてもいいというわけでもない、特別の場合にのみ持たすべきであるという御意見のようにもとれるのですが、どうでしようか。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) それは先ほど申し上げました通りです。抽象的にしますと、同氏の意思を問う必要があるということは、ぜひ問わねばならぬ場合ということになるよりほかないのでございますけれども、しかしもちろんそれは濫用と申しますか、無制限というつもりはないのです。

高橋英吉自由党

○衆議院両院法規委員長(高橋英吉君) そうすると、解散権が憲法の明文上で問題になつておるわけですが、国民の意思を問う必要のある場合を例挙することは、技術上なかなかむずかしいこととは思いますけれども、決して不可能ではないと思うのです。三権の調整論からいつて、なかなかむずかしいこととは思いますけれども、しかし、すればできないことはないと思われる。それを避けたのは、アメリカ流の考え方で原案ができているから、こういうようになつたのか。その点ははつきりしませんけれども、とにかく現在の憲法では、解散の規定については不備な点があり、もつと明確化する必要があると結論づけていただくことにはならぬでしようか。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) その点、こういう場合に限るということを、憲法なり何なりで法定することは、不可能じやないだろうとおつしやいましたが、私も、どんなふうに法定化するということまで実は考えたわけでもありません。あるいはそれは可能かもしれないと思いますが、しかし非常にむずかしいだろうということは言えるのではないかと考えるのであります。そういう場合に、たとえば一つの考え方として、こういう場合、こういう場合と、場合をきめるのではなしに、国民が何十万なら何十万以上の賛成で、解散を提案すると申しますか、そういう場合、あるいはこれは非常にかわつた制度ですけれども、参議院というものに解散請求権を與えるとか、頭の中で考えれば、いろいろな制度も考えられないわけではないと思います。しかし国民の提案なり参議院の提案ということが、どういう場合に行われるだろうか、その問題はやはり起る。それを定めることは、なかなかむずかしいことではないかと私は思うわけです。そこにやはり濫用の危険があるわけでございますが、先ほどから何度も申しておりますように、何か健全な政治的運用なり慣習が樹立されて行くと、おのずからそういうことになると考えた方がいいのではないかというのが、私の考え方です。

角田幸吉自由党

○委員(角田幸吉君) 御説を承りますと、結局憲法上の解散権は政府にあるというようであります。それについて私はとやかく言うのではありませんが、関連して承りたいのは、政府にだけあつて、国会には解散権はないとお考えになりますかどうかということです。たとえば国会が解散の決議をした場合にはどうなるかということについて、御参考までに承りたいと思います。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) 制度として考えられます場合には、国会側の解散権と申しますか、つまり自律的解散権、国会が自分で解散するということを決議する制度、それは制度としては考えられないことはないと思います。ただ日本国憲法の場合には、そういう制度を設けるならば、それは憲法の中に規定があるべきであつて、日本国憲法の場合には、それは認められないと思います。

角田幸吉自由党

○委員(角田幸吉君) 解釈論としては大体そうだろうと思うのです。もし国会に解散の決議権があれば、その伝達方法としては、議長の行動が出て来る規定が必要になつて参ります。それがなくて、単に内閣の助言と承認によつて解散を行うとありますから、その規定からも、さように解さなければならないと思います。ただ私がお尋ね申し上げたいのは、再選挙の必要を認定することは、ひとり内閣だけにとどまるものではない。国会自身がやはり最高機関として、解散の必要があるということも認定することができるものである。その認定がまた国家最高の意思決定だということになると思うのであります。そういう解散の決議をした場合には、内閣はこれにそつぽを向くわけに行かないのじやないか。内閣の助言と承認が必要だから、結局解散権というものは内閣にだけある。お前の方で決議しようとしまいと、関係がないということは言えないと思う。国権の最高機関であり、最高の意思決定ということであるから、そこで決議した場合には、憲法の解釈としては、その解散の決議に内閣が拘束を受ける。助言と承認によつて、それを行わなければならないという拘束を受けはしないかといつたことについて、参考までに御意見を承つておきたい。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) 今の憲法のもとで、かりに国会が解散すべしという決議をしたならばどうなるかというお尋ねだろうと思うのです。そういう場合には、もちろん内閣は拘束を受けると申しますか、国会がそういう決議をすれば、内閣はそれに従うことになるだろうと存じます。ただ今とつさに考えておることですから不十分かと思いますが、そうなつた場合に、国会が解散すべしという決議をして、内閣がかりにそれに従わなかつたとすれば、国会としては、国会の決議が尊重されないということで、それが不信任の理由にもなる場合が生ずるのではないかと思います。そうすれば、そこで解散するか総辞職するかということが、憲法の規定によつて出て来るのではないかと存じます。

角田幸吉自由党

○委員(角田幸吉君) 結局拘束を受けないかということなんです。国会は国権の最高機関である。その最高の機関が解散すべきだ、再選挙の必要を認定して、国会自身がそう決議いたしましても、憲法上解散権のないものがやつておるのでありますから、あかの他人、第三者がやつたことで、政府は何も関係がないということになると思います。しかし最高の意思決定のそれであつた場合には、それによつて内閣は覊束を受けて、助言と承認によつて解散せしめなければならないのではないか。こういう覊束をされないかということについて、御見解を承りたかつたのです。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) それは先ほども申したところと同じなんですが、法律的な拘束を受けるか受けないかという問題ですね。私の頭には、国会がみずからを解散すべしという決議をすることが、ちよつと考えられないものですから、御返事に困るのですが、もしそうなつた場合、先ほども申し上げましたように、内閣がそれに従う場合には、それは法律的な拘束力であるか、政治的な拘束力であるか、そこら辺ははつきり申し上げられませんけれども、しかしかりにそうなつたら、内閣は解散の助言と承認をすることになるだろうと思います。

高橋英吉自由党

○衆議院両院法規委員長(高橋英吉君) 最後にお尋ねいたしますが、こういうことを御研究を願い、御指導を願いたいと思うのです。日本には懲罰解散や政略的解散というものが昔はあつたのですが、クーデター解散というものはなかつたと見なければいかんと思います。内閣に無制限に解散権を認めることになると、例の袁世凱のときのクーデターにしても、あるいはムソリーニやヒトラーがやつたような、ああいうことになる場合がないとも限らぬと思うのです。将来再軍備が施行されることになると、総理大臣が軍権を持ち、警察権も持つことになるかもしれない。そこで解散権を無制限に認めることになれば、ああいうことが将来起らないとも限らないから、民主憲法のもとにおいては、解散というものは、うんと嚴格に、制限的に規定しておくのがいいのではないかと思われるのです。これは結局さつきから何べんも申し上げたことのむし返しになりますけれども、そういう危険が起らないことはないと思います。そこでもつと例示的に、列挙的に、法定的に、解散の場合を規定しておく方がいいのではないか。われわれ理想的に言えば、第六十九條以外には、解散はなくてもいいのではないかとも思うのです。およそ団体がある場合に、必ず解散というものはつきものだというふうにも言えないので、市町村会でも県会でも、昔は一つも解散がなかつたのです。今度の法律では、不信任案が可決された場合には、解散権が知事に生ずるという場合もありますが、何もそういう機関に固有的に、本来的に、解散というものがあるのだということはないわけで、三箇年、四箇年、六箇年というような任期を定めておる間は、権利にして義務にしても、その任務を完遂する、いう建前が、本来の建前ではないかと思うわけです。従つて、それを中途で変更するということについては、よほど制限的でなければならないのではないかと考えるのであります。お答えは同じだろうと思いますが、ひとつ御研究くださいまして、また憲法改正問題とも関連するので、後日御指導を願いたいと存じます。

鬼丸義齊国民民主党

○委員(鬼丸義齊君) 私ちよつと中座しておりましたので、先ほど十分に伺えなかつたのでありますが、衆議院の解散は、信任案否決あるいは不信任案可決に対する、一つの対抗的な懲戒を意味するという趣旨の御見解ですか。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) 懲戒とおつしやいましたけれども、昔の明治憲法時代のような、懲罰だというふうにはもちろん考えておりません。ただ不信任決議に対抗する手段だということで申しておるわけでございます。

鬼丸義齊国民民主党

○委員(鬼丸義齊君) 対抗する手段として、国民に訴えて、国民の真意をうかがいたいという必要のためにやるわけですね。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) はあ。

鬼丸義齊国民民主党

○委員(鬼丸義齊君) そこで第六十九條の場合は、衆議院が不信任の決議をし、あるいは信任案の否決の決議をした場合には、内閣はそれによつて進退を決しなければならぬというところに、衆議院の信任案否決、不信任案可決の権威というものが生ずるわけですね。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) はあ。

鬼丸義齊国民民主党

○委員(鬼丸義齊君) そこで参議院の場合でも、内閣不信任案を出し得ないということはあり得ませんね。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) 参議院が内閣を信任しない、よつて総辞職すべしという決議ができないとは思いません。ただそうした場合には、解散するか総辞職するか、どつちか選ばなければならぬという第六十九條は、衆議院についてだけでございますから、かりに参議院がそういう決議をしても、内閣としては、総辞職か解散かどちらかを選ばなければならぬということにはならないと思います。

鬼丸義齊国民民主党

○委員(鬼丸義齊君) そこで結局信任か不信任かという衆参両院の決議に対する価値判断というものは、いわゆる第六十九條によつて、内閣の進退を決しなければならぬという重大なことが裏づけられることによつて、初めて衆議院の信任あるいは不信任というものに重みを加えておるわけですね。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) はあ、そうです。

鬼丸義齊国民民主党

○委員(鬼丸義齊君) そこで、参議院が不信任案をかりに決議したところで、それは内閣が進退を決しなければならぬという権威のあるものではないというところに、参議院の不信任決議というものが、重視されないということになるだけのことなんですね。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) はあ、そうです。

鬼丸義齊国民民主党

○委員(鬼丸義齊君) そこで、あなたが先ほど言われておつた懲戒の意味を一貫して、すべて解散というものは、議員に対する懲戒というふうには解されないという場合を想像しますれば、幾つかあると思います。たとえば憲法によつて総理大臣の指名をする場合に、衆参両院の意見が異なつた場合には、やはり衆議院の指名が効力がある。これは衆議院の優越権ですね。してみれば、衆参両方が、必ずしも與党、野党とかいう場合が一致しないことが想像される。そこで衆議院に常に絶対多数の與党を持つ内閣であつても、参議院がほとんど野党色が強くて、実質的に内閣反対の態度に出ることも、必ずしも考えられないことはないと思います。その場合に内閣としては、国務遂行上において、どうしても衆議院に三分の二というものを持つにあらざれば、できないという必要が生じて来る。その場合には、やはり国民の意思を問うて、衆議院の三分の二の国民の同意を得べき議員を獲得すべきために、解散しなければならぬ場合も、現実の問題からいたしましても、また理論の上からいたしましても、あり得ると思うのですが、どうですか。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) それはあり得ると思います。

鬼丸義齊国民民主党

○委員(鬼丸義齊君) そこで、たとえば内閣が国務遂行のために、憲法の改正を必要とすると考えた場合、憲法改正には、憲法に示すごとく、両院ともに三分の二以上の同意がなければならぬ。ところがその三分の二の同意を得る力が内閣にはない。そういう場合には、やはり内閣は国会を解散して、国民の総意を問うて行くということはできますね。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) そうです。

鬼丸義齊国民民主党

○委員(鬼丸義齊君) ところが参議院の場合にはそれができない。参議院には解散というものがないから、その場合にはどういう調節をとつたらいいかということですが……。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) そういう事態になるわけです。特に憲法改正の場合には、衆議院の三分の二の再可決による優越という制度がございませんから、憲法改正の場合、今おつしやつたように、参議院で與党が小数党であるという場合には、憲法改正はできないということになると思います。それは考えようによりますと、参議院があまりに力を持ち過ぎるということになるだろうと思います。ただそれを裏から申しますと、憲法改正というのは特に慎重を要するのだ、それで三分の二で押し切るということは、いい面もあるけれども、悪い面もあるというわけなんでしようね。そういう場合の調節を具体的にどうするかということについては、結局両院で三分の二の頭数をそろえるという方法しかない。それができないわけですから、参議院も納得の行くような憲法改正をするよりほかないのではないかと思います。

鬼丸義齊国民民主党

○委員(鬼丸義齊君) そこで、先ほど来高橋さんからいろいろお尋ねになつておつたのですが、任期中にその任期を奪つて内閣が衆議院を解散するという、実際問題としてはやはり現議員に対する一つの懲戒というか、反省というか、本意ならざることが内閣の行動によつて出て来るわけなんです。ところが内閣は、国会を解散して国民の総意を商い、その結果みずからも辞職して、新しく選挙された議員によつて次の内閣の指名を受ける。ここに結局内閣が衆議院議員の任期をその半ばにして奪うということ自体が、現議員に対する一つの懲戒とか懲罰とかいうものでないということを意味するのではないでしようか。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) 今仰せられましたように、解散して総選挙をする、そうして新しい国会の構成によつて内閣の進退をきめるというわけなんですか……。

鬼丸義齊国民民主党

○委員(鬼丸義齊君) いや、内閣の進退は、その選挙が終ると同時に辞職してしまうわけで、ひとり議員を首にするばかりでなく、みずからも首になろわけです。そこで次の選ばれた新しい議員の指名によつて今度は内閣ができて来るわけです。そういうことを、すでにあらかじめ憲法において規定してある限りにおいては、そこでその濫用を防ぎ得ないというようなこともあり得ないだろうし、指名するにあたつては、それだけの力のある内閣を指名するわけですから、あらかじめ了承しておるというふうにも見られぬでしようか。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) そういうふうに言えると思います。私も先ほど高橋先生の御質問で、解散するというときには、内閣としては選挙が行われましたら総辞職をしなくちやならないというわけですから、自分がしりぞかなければならぬということを覚悟していなければならぬわけで、それだけ慎重に解散ということも考えるだろう、だから濫用ということは、そう濫用されるというふうに考えなくてもいいのではないでしようかということを申し上げたのですが、今の鬼丸先生の御意見と同じでございます。

鬼丸義齊国民民主党

○委員(鬼丸義齊君) 憲法第七條のいわゆる衆議院の解散ですが、これは先ほどあなたのお説にありましたように、やはり行政行為というふうに見られるのですか。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) そうです。それは先ほど高橋先生からいろいろお尋ねがありまして、お答えしたわけなんですが、つまりしいてと申しますか、憲法上の規定の根拠を示せということになりますならば、行政権の中に解散ということも含めて解釈するわけです。ただそれよりも、私は解散という制度そのものの方から申し上げていたわけですけれども、しいて文字上の根拠ということになりますと、行政権ということになると思います。

鬼丸義齊国民民主党

○委員(鬼丸義齊君) そういたしますと、日本国憲法において、過去の沿革よりして、議院内閣制をとつている関係上から、やはり衆議院の解散権を内閣に認めておる。そのことは、すでに六十九條においても、あるいはまた七條においても、衆議院の解散という政治行動が内閣との関連においてあるということが明文をもつて示してあるのであるから、結局日本国憲法においては、衆議院解散権というものはあるのだ、しかもそれは、その行動に出る場合には天皇の名目をもつてするが、実質的には内閣にある。衆議院の解散ということも一つのりつぱな政治的国務であるというというふうに見て、その国務の中において、立法権あるいは司法権に属せざるその他の国務に属するものである。だからわが憲法の解釈から言つたならば、やはり六十五條の内閣の行政権の範囲に属せしむるよりほかないのだろうというふうに、あなたとしてはお考えになつておるわけですか。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) さようでございます。

鬼丸義齊国民民主党

○委員(鬼丸義齊君) けつこうでございます。

高橋英吉自由党

○衆議院両院法規委員長(高橋英吉君) ちよつと関連しまして――今の、解散をした場合に内閣が総辞職をしなければいかぬという規定、これは新憲法に新たに設けられたものですが、現実の上には明治憲法でも、解散してから與党が少数になれば、むろん総辞職をしなければならぬ。ただ再解散という乱暴な手段があつて、明治時代にはそれも行つたことがあるようですが、しかし政党政治が発達してからは、そういうことはあり得べきことじやない。與党が負けたということはないので、政府党が必ず勝つ日本の選挙の建前になつていますから、そういうことはないのですが、これは当然なことで、たとい憲法に規定がなくとも、與党が少数になり、反対党が多数になれば、内閣が総辞職をしなければならないということはいうまでもないから、あるいはそういう意味から行けば、蛇足の規定であつて、大した意味はないと思うのですけれども、ただそれよりも、解散というものによつて弊害がありはしないか。今申し上げましたように、従来は警察権その他権力を持つておつて、選挙干渉その他あらゆる方法で必ず政府党が勝つというふうなことになつておつた。もつとも現在はややそうでもないようです。警察権と政府との関係も御承知の通りですし、いろいろ選挙干渉をするのには不利益なマイナスになる條件が昔よりはたくさんできておりますが、しかし今後警察制度の改革その他中央集権的なことがだんだん表面に現われて来るのではないかと思うのです。そういう場合には、やはり過去にあつたような選挙干渉によつて、政府党が必ず勝つという歴史が繰返されるのではないかと思うのでありまして、その意味において、日本国民全体がイギリスやアメリカの水準まで民度が上りますればともかくだけれども、そうでないということになると、解散というものには非常な弊害が生ずるというふうなことをわれわれは論ずるわけで、内閣の総辞職というふうなものは、そう大した意味をなさないのではないか、実質的には明治憲法の場合におけると同じじやないか、こういうふうにも思うのですが、いかがでしよう。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) 初めの、総選挙が行われれば内閣が総辞職をする、それからあとで新しく指名を受けるということなんですが、それは今おつしやいましたように、総辞職をするということは私もそう大した意味があるとは思つておりません。ただこの規定は、とにかく何も一ぺん総辞職をしなくても、あとで新しい司会で指名されるわけですから、つまり政府党が勝つたとしますと、何も総辞職する必要はない、同じく政府党によつて指名されるわけですから、大した意味がないとしても、ただその場合に、考え方として、とにかく新議会ができた、そうすると内閣は、どうぞ指名してくださいといつて首を洗つたようなかつこうになる。つまり内閣は議会の意思の上にそこで新しくでき上るという、そういう気持が出ているだけの話で、おつしやる通り、そう大した意味があるとは私も思つておりません。それから第二の、選挙においては政府党が必ず勝つ、今までもそうだつたし、将来もそうだろうということですが、それは、私は選挙の実際のことなど全然知りませんから、申し上げる資格がございません。そういう傾向が強いだろうということは私も考えますけれども、しかしそうだからといつて、必ず政府党が勝つ、そういう弊害がある、だから解散の制度というのはいかんのだということにはならない。それはまたほかのいろいろな点から考えなければならないというふうに考えるわけでございます。

高橋英吉自由党

○衆議院両院法規委員長(高橋英吉君) もう一点伺いますが、鬼丸さんの先ほどの質問で、内閣と国会との意思が相反した場合、その間意見に扞格があつて、内閣の提案なら提案が通過しなかつた場合は、衆議院を解散して民意を問うのがいいんだというふうなことを無條件に肯定されておるようです。しかしこれは、結局内閣というものを重く見るか、国会というものを重く見るか、どつちを最高機関と見るか、最高の地位と見るかというふうなことになるので、必ずしも両者の意見が一致しないからといつて、衆議院を解散すべしというふうな結論にはならないと思うのです。もしそういうことだとすれば、国会の修正権とか、国会独自の意見というふうなものは全然なくて、国会というものは、政府の考えをうまく推進して行く一つのちようちん持ちの機関にすぎないということになると思うのです。そこでたとえば、大きな例で言えば、ウィルソンが国際連盟から帰つて、アメリカの国際連盟加入の案をひつさげて国会に臨んで、上院で否決されたけれども、国民はこれを大して非難もしない、国会も、解散制度がないから、むろん解散もしない、しかしアメリカはアメリカで独自の見解に基く政治が行われておつたという行き方があるわけですね。だから両者の意見が相反する場合に、アメリカみたいに、大統領がやめもしないし、国会も解散されないという関係において、国会がその権限に基いて意思表示をしたものが、それが最高機関だからいいんだというふうなことで通るような制度と、日本みたいに解散制度があるということになれば、その場合において衆議院を解散するか、内閣が総辞職をするかということになるわけですが、そのどちらがいいかということは、これはよほど考えるべきであつて、無條件に衆議院が解散されるべきであるというふうなことを肯定されるのはどうかと思いますけれども、先ほどのお話では、意見が一致しない場合には必ず衆議院が免職されるべきだというふうにも聞えるわけで、その点どうでしようか。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) それはもちろん事の性質上、おのずから重要な法律案と、そう重要でない法律案というものがあるわけでございますから、すべて法律案が国会で否決されたということだけで、解散できるんだということは考えておりません。ただ憲法の改正でありますとか、予算が否決をせられるとか、そういう政治上特に重要な点で内閣の意思の通らなかつたとき、しかもそれをどうしても内閣としてはやらねばならぬという、そういうきわめて重要な政治上の事件についてのお話を申し上げていたわけなんでございます。

高橋英吉自由党

○衆議院両院法規委員長(高橋英吉君) 結局そういう場合には、内閣の方が責任をとるべきじやないか、国会の意思というものを優先的に尊重するというのが、新憲法の精神ではないかというふうに私はお尋ね申し上げたわけです。

鬼丸義齊国民民主党

○委員(鬼丸義齊君) 今の日本国憲法において衆議院が優越権を持つているということは、結局予算、條約、総理大臣の指名、これらの重要なる三つの問題については衆議院が優先権を持つておつて、衆参おのおの意見を異にした場合においては、両院協議会を開いた結果、もし協議が成り立たなかつた場合においては、衆議院の決議が国会の意思と決定されるわけです。しかしその他にやはり重要な案件があるわけでして、参議院がほとんど全面野党のような態度のときにおいてはどうしても衆議院に三分の二以上の與党がないと、ほとんど内閣は国策の遂行ができないというようなことに陷る場合が想像される。そうした場合において、国民の総意を問うて三分の二以上を獲得するの必要ありやいなやということは、内閣の考えることである。その場合にことごとに必ず内閣が解散をやらなければならぬとは限らないので、あらゆる努力を払つて、なおかつどうしても内閣の維持ができないというようなときに、国民の意思を問うて、三分の二以上の同意を得るべく努力をして行く。先ほどお話のありましたのは、そういう場合のことなんで、全体の場合のことじやないのた、こう思うのです。

高橋英吉自由党

○衆議院両院法規委員長(高橋英吉君) それは結局私も同じです。そういう場合でも、衆議院でも三分の二はとれない、参議院では大多数のものが内閣の考え方と違うんだというふうなことになれば、国会が最高機関であれば、内閣は国会の意思に従うべきで、何も衆議院を解散してまで自説を固執する必要はないというふうに私は言うのです。要するに内閣の方が上位じやなく、国会の方が上位なんだから、従つて参議院で政府と違つた考えの者が多数あり、しかも衆議院で三分の二の法定数をとるほどの賛成者がないという場合には、内閣の考え方は国民の総意に反しておるんだ、国会の意思に反しておるんだというふうなことになつて、まず内閣の方で考え直すべきだというのが新憲法の建前じやないか、参議院でやりにくいからといつて、衆議院でぼんぼん解散されたんじやたまつたものじやないということになるわけです。

鬼丸義齊国民民主党

○委員(鬼丸義齊君) 私は、その場合には内閣は辞職すべきものであると思うのです。解散をしても、なおかつ三分の二以上とり得ないという見当のつく場合には、内閣が進退を決するほかない、こういうことになるのであつて、従つて国会が軽視されるとかいうふうなことにはなり得ないのではないか、こういうふうに思いますね。

高橋英吉自由党

○衆議院両院法規委員長(高橋英吉君) もう一点伺いますが、これは私、しろうとの考えなんですが、金森先生は議院内閣制だから解散がつきもののようなお説なんですが、三権が分立しておるときには、解散というものも考えらるべきものだけれども、議院内閣制というものは、結局議院の代表が内閣だということになるのだから、議院を解散することは自己否定になつて、議院内閣制と解散というものは決してつきものじやない。逆なものじやないか。だからよほどの場合でなければ、解散はできないんじやないかという結論に私どもはなるわけです。議院内閣制だから必ず解散がつきものだ、アメリカは完全な三権分立だから解散がないんだという説、これはどうも私はしろうとだからわからないのかもしれませんが、その点解しかねるのです。議院内閣制の方がかえつて自己否定になるから、そういうばかげたことはあり得べきことではないんじやないかという考えも起きるのです。こういう点も御研究くださつて、またわれわれを教えていただいたら幸いだと思うのです。あるいはただいまでも、明快に御教示を願えればなおけつこうでございます。

佐藤功成蹊大学教授

○参考人(佐藤功君) 今の最後の点でございますが、これは先ほども実は申し上げた点だと思うのです。つまり三権分立というのは、特にアメリカの場合を考えますと、大統領も国民が選ぶ、議会も国民が選ぶというわけなんですね。そこで大統領というものも任期の間はその地位を去らない。議会も任期中は解散ということもないというわけです。ところがイギリスなどの議院内閣制というのは、君主制とも結びつくわけなんですけれども、キングを大統領のように選挙するということはできませんから、国民の意思を問う。そこに議院内閣制というかつこうが出て来る。だからどちらが民主的であるかということよりも、そういう民主的であるための二つの型ということなんで、どつちが民主的かということについては、またそれはいろいろの考えから言えると思います。

高橋英吉自由党

○衆議院両院法規委員長(高橋英吉君)  それで結局今おつしやつたように、私は解散というものが議院内閣制に対する固有のものではなくして、君主制から発達したところのものじやないかと思うのです。君主権が国会の活殺権、国民の活殺権を握つておつた強大な時代に発祥して、その後イギリスでは穏健妥当な国民性によつて淳化されて来て、民主主義と必ずしも相いれないものでないという形にはなつておるけれども、元来沿革というものは、強大な君主制から発しておるのではないか、議院制そのものに固有なものではないのではないかというふうに考えるのですが、そこらの御研究をひとつお願いしたいと思います。

九鬼紋十郎自由党

○会長(九鬼紋十郎君) それでは本日はこれをもつて散会いたします。     午後三時五十六分散会

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