外務委員会 第4号
- 発言数
- 34 件
- 登壇者
- 8 名
- 会派数
- 4
- 開催日
- 1951/02/07
会議録
○委員長(櫻内辰郎君) 只今から外務委員会を開会いたします。 一昨日及び昨日に引続いて領土問題に関連しまして、陳情のためにおいでになつておりまする、小笠原帰郷促進連盟委員長横田龍雄君、同じく副委員長淺沼啓三郎君、及び藤田鳳全君の御意見を聞きたいと存じます。お一人の時間は都合で二十分くらいとしてお述べを願いまして、最後に一括して質疑をいたしたいと存じます。最初に横田龍雄君。
○参考人(横田龍雄君) 本日は貴重なる時間を割いて、我々の意見を聞いて頂くことに対しまして厚く御礼を申上げます。 我々が十九年四月から九月にかけまして、島を追われて本土に着いたのは、八月三日で最終を終つたのであります。軍と協力するため我々の子弟を数百名残した全部が本土に参りまして、その後ほうぼうに転々として、知らない、縁故も余りない所で、知らない所を以ちまして非常に困つたのですけれども、その間にだんだんいろいろの仕事に従事しまして、そして今日に至つたのでありますが、我々がなぜその当時から自分の故郷、我々の祖先の血と汗とを以て開墾した島に帰りたいかということは、決して自信がないわけでこの運動を始めたのではありません。民族的にも歴史的にも、我々の先が開墾した所で、別に戰略的に占領した土地ではありませんのです。それでその三年前、帰島を許された者は英米系の故を以ちまして百三十数名帰つたのでありますが、人類的から申しまして、アメリカとしてかような差別待遇をすることはないという自信の下に、その次には我々が帰れることと思うので、今年は帰れるか、来年は帰れるかというので今日に至つた。領土はいずれにしても、講和会議の後には当然帰れるとは思つていましたけれども、その以前に一刻も早く自分の島に帰りたいという故に今日まで運動を継続しておつたゆえんがそこにあるわけなんです。いろいろ詳しいこともありますけれども、始終この運動に骨折つて頂きました委員の藤田君から詳しいことを御報告したいと思いますから、何とぞお聽取をお願いいたしたいと思います。何とぞよろしくお願いいたします。
○委員長(櫻内辰郎君) それでは藤田鳳全君。
○参考人(藤田鳳全君) 只今横田さんが申上げましたことと若干重複する点があるかも知れませんが、私たちは小笠原の全島民が約七千名昭和十九年四月から九月の間に軍官の命令によりまして総引揚をいたしまして、爾来今日まで六カ年を経過しております。昭和二十一年の十月十五日に百三十五名の欧米系に祖先を有すると言われる人たちだけが帰還を許され、我々は今日に至るまでも一名の帰還が許されないのであります。その間マツカーサー元帥に数回に亘りまして歎願書を提出いたし、且つ衆議院、参議院の両院にも数回に亘り、請願をいたしました。且つ又東京都議会にも数回の陳情をいたしております。その他各関係当局にも陳情歎願いたして参りましたが、未だに帰郷もできず、それのみか米国の講和條約草案が示されまして、今日小笠原島を信託統治にするという報道に私たちは全く茫然自失の状態になつたのでありますが、小笠原島は歴史的に、又民族的に見まして、発見の当初から日本の領土でありまして、日本がこれを侵略によつて他国から奪取した島でないこと、又大西洋憲章とか、その他の宣言、協定によりましても、米国に領土の侵略の野心がないと私は信じて参りましたので、小笠原島は当然講和條約と共に日本に復帰されるものと我々は確信しておつたのであります。然るにダレス特使が来訪することになりましたのを機としまして、私たちの郷土が日本の諸県から分離されて、そうして信託統治にされんとする運命を抱かされまして、講和條約の爼上に載せられておりますことは、誠に我々は心痛に堪えないのであります。若し信託統治になつた場合に、ただ帰還が許されましても、私たち小笠原島民は或いは日本の諸県ということを失うことになれば、少数民族を形成するのではないかというようなことも考えられますし、又小笠原島の産業が内地の産業にすべて依存しておりました関係上、若し通信交通の障害を来たすようなことになりますと、結局帰りましても罐詰になつてしまいまして、何ら産業の発展が望めない、こういうことになりますれば、ただ帰してもらうということだけに過ぎない。そういう立場から私たちは非常に心配しているのでありまして、それで私たちは考えるのでありますが、安全保障上の見地から、小笠原島を米国において信託統治にするということになつておりますけれども、必ずしもこれを信託統治にしなくとも、ほかの方法で以てその目的は達成されるのではないかと我々は常に考えているのであります。又将来永久に日本とアメリカと親善友好関係を結ばなければならんという両国の前途に、領土の信託という、国民感情に惡影響を及ぼすようなことが起きまして、そうして永久にこの禍根を残すというようなことがあつてもならんと、こう私たちは思うのであります。併し如何にしても私たちが領土の信託統治が止むを得ないということになりましたならば、私たちが帰りましても要するに産業の発展に支障のないように、通信、交通の自由とか、或いはその他の内地の経済依存の自由を許して頂きたい。そうして自由な小笠原島々民としてその信託統治の期間をして頂ければ、別に大した異存もないと思いますが、併し恐らくそういうことは軍事上の基地として設定する場合は望めないのではないか、そう感じておるのでありますが、どうぞ我々は今まさに食うか、食われるかというような実にその悲痛な気持を持つております。皆様がたの御盡力によりまして、是非私たちの念願が達成されるようにお願い申上げたいのであります。 その他小笠原島に関する様々な資料とか調査というものもございますが、分る限り、御質問して頂きましたならば御答弁申上げたいと思つておりますが、簡單に申上げました。
○委員長(櫻内辰郎君) 次は淺沼啓三郎君にお願いいたします。
○参考人(淺沼啓三郎君) 両氏から大体を申上げております通りに、私も是非小笠原島に帰らなければならないという一員でございまして、御承知の通り小笠原島という所は、東経百四十二度、北緯二十四度から二十八度の間に南北に細長く点在する二十有余島からなる島を以て小笠原群島と、こう言つでおるわけでございますが、その位置からの関係で亜熱帶地帶になつておりますが、非常に気候はよく、いつも常夏の島と言われておる所でございます。その関係で非常に産物、その他も内地に比較しますと出来ばえもよく、質もよく、よい物ができると、こういうふうなことで、我々はそこに暮しておつた者でございますが、その関係で世界でも有名な類のないというこの草木などが生い繁つておりまして、あの印度の山奥にしかない仏前に焚く本日の木というものやら、又桑の木、「つつじ」のような、これも独特のものが生い繁るような状況にありまして、非常に今日まで国民の、学界やらまあ植物研究者の非常に重要な所だつたのでございます。そうした所を今日我々が行けないどころではありません、一般国民も近寄れない信託統治やら租借地となりますときに、日本国民の損害といいますか、一通りなことではないだろうと思います。まして我々島の人間となりますと、あそこよりほか我々は先祖先伝来から居住しておりますために行く所がないのです。そのときに当りまして我々の悲痛は全く口に申すことのできない始末です。どうかこういう機会を以ちまして、我々は只今藤田さんから申上げました通り、如何なる方法で返してもよろしいというわけじやありませんが、できることでしたら、元の日本の政治下に置きまして、元に返して頂きたい。こういうことを念願する次第であります。どうか皆さん御協力を下さいまして、そうして一日も早く我々の帰還をさして頂くことをお願いする次第であります。
○委員長(櫻内辰郎君) 御質疑がありましたら、この際御質疑を願いたいと存じます。
○曾祢益君 ちよつと私遅れて参つたのですが、小笠原列島の代表としておいでになつているのでございますね。御趣旨は小笠原列島と、それから硫黄諸島ですか、小笠原群島、硫黄列島ですか、そのまだ南にもあるのじやないですか、大東島、鳥島……
○参考人(淺沼啓三郎君) 南鳥島でございます。
○曾祢益君 余り知識がないので、恐縮です。とにかくそういうような地域を全部併せて、一様に一括してお考えになつて、日本の領土権の下に、それから日本人として一つ律してもらいたい、かような御趣旨かと思うのでございますが、地理的な関係、又代表されている住民の関係、行政区域の関係等がございます。できれば一つその点を明確にして頂きたい。
○参考人(藤田鳳全君) 只今の御質問で南鳥島というのがありますが、あそこは無人島になつておるようでございます。それから硫黄島は正式には硫黄島列島、母島列島、父島列島、聟島列島、こういうふうに分れておりまして、大体父島列島が、父島、兄島、弟島。母島列島が母島、姉島、妹島、姪島。それから聟島列島が聟島、嫁島、媒島。硫黄島列島は中硫黄島、北硫黄島、南硫黄島、こういうふうに分れておりまして、鳥島は無人島になつております。大体硫黄島は全部小笠原に支庁が置かれまして、その支庁の管轄下に置かれておりまして、私どもは硫黄島も全部小笠原諸島というふうに考えて、一括して請願しておるようなわけでございます。でき得べくんば私どもは硫黄島は現在の状況としまして、人から話を聞くところによれば、————恐らく島民が帰りましても耕作の余地が全然ないという状態になつているそうでございまして、硫黄島の人たちも実にお気の毒でありますけれども、その人たちは若し小笠原に帰還ができるならば、自分の郷土には勿論帰れないのだから、全部父島、母島に帰る、こういう希望をもちまして、私どもの運動は硫黄島の人たちを全部含めてやつているという状態でありますから、どうぞよろしくお願いいたします。
○團伊能君 只今の問題でちよつとお伺いしたいのは、最初の十九年の八月になつて、どういう事情で、日本軍によつて本土に移されたときの御事情を承わりたい。 それから次は、終戰後はお帰りになる機会があつたかどうか。そして例の占領法規といたしまして小笠原諸島が行政上分離されました司令官の覚書が出るまでの間、終戰後ですね、その間はどういう関係にございましたか、ちよつとお聞きしたい。
○参考人(藤田鳳全君) 全島民が帰還を命ぜられたとき、私は丁度内地に帰つておりましておりませんでしたが、大体皆様の話を聞きますと、食糧が足りなくなる、それから空襲によつて土地も大半焼かれてしまつた、今後どうなるか分らんというような状態で、結局軍の邪魔物扱いにされまして、そういう関係で以て総引揚げを命ぜられたように聞いております。引揚げて参りましてからは、殆んど内地に縁故を持つている者がありませんでして、ただ八丈島には若干の縁故者がありまして、東京都の中でも八丈に一番分散しまして、そしてその他各地に分散いたしまして、ここに表もございますが、殆んど最初はお寺とか学校とかに集団的に生活を営んでおりましたが、そのうちなんだかんだで以て散り散りばらばらに分散いたしたような状態でございますが、現在でも殆んど定職がなくて食うや食わずの生活をしている者がその大半でございます。それからもう一つ……
○團伊能君 終戰になりまして、軍の管理を離れたとき、終戰後任意にお帰りになつたかたがありますか。
○参考人(藤田鳳全君) 小笠原は一人もありません。
○團伊能君 帰されなかつたのですか。
○参考人(藤田鳳全君) 帰されなかつた。帰ると同時にしばしばマツカーサー元帥に歎願いたしましたのですが、一名も帰して頂けません。ただ一九四七年ですか、昭和二十一年と思いますが、その時どういうことで帰されたのか、私どもその理由がわからないのですが、百三十五名の欧米系に祖先を有する人たちとその家族合せて百三十五名というものが帰されまして、ここに実はその人たちの名簿もございますけれども、その中には純然たる日本人が二十四人、これは帰化人たちの親類だと称しております。それから混血人が八十二人、それから未混血人が二十九人、この未混血人というのは純粹の欧米系の祖先を有している日本人と結婚しないで今日までいたような人、その人たちが二十九人で、あとのものは全部混血人とか日本人になります。そのほか純日本人というものはこの親戚以外には一名も帰して頂けません。
○團伊能君 もう一つ、これはほかのことでございますが、小笠原を考えます上に我々の知識が足りませんので、御説明頂きたいのですが、日本の経済発展の上から小笠原が持つ一番重要な点、殊に伺いたいのは、捕鯨関係につきましてちよつと御説明頂きたい。
○参考人(藤田鳳全君) 私どもの考えますには、小笠原が気候、風土の関係上、小笠原島の産業というものは、第一番に冬季蔬菜の栽培でございまして、一月から五月頃まで「かぼちや」、「トマト」、「きゆうり」、「なす」といつた工合に、内地で全然生産されない蔬菜類の栽培ができまして、それが相当大量に日本に移入されておつたのでございますが、これは昭和十四年現在の統計でございまして、その後のものは全部空襲で以て現地で燒失いたしましたので、大分古いものでございますけれども、「かぼちや」、「なす」、「トマト」というものの大体の收獲高が相当大量のものが実は出ておるのでございます。それから砂糖とか、薬草とか、或いは特用作物というものが相当出ておりまして、とにかく冬季蔬菜の栽培は内地において全然蔬菜のないときに、船にしまして二千トンから三千トン級の船が月に二回往復しまして、それに全然積みきることができないで、臨時船まで傭いまして往復しておつたというぐらいの大量のものが出ておりましたが、そういう点において内地の都会地の野菜の不足を補い、或いは栄養とか衞生とかいう方面にも相当貢献しておつたものと思いますし、又水産におきましては、これも昭和十四年の統計でありままけれども、目方にしまして、「かつを」、「まぐろ」、「さめ」、「むろあじ」、「さわら」、そのようなものが大体二十二万八千六百二十二貫とれておりますし、それから珊瑚とか緑亀とか、そういつたようなものが二十三万五千二百五十七貫もとれております。又捕鯨は父島、母島、両方に基地がありまして、昭和十四年の統計では二百七頭、その当時の金額にして五十八万七千三百四十九円というようなものがとれております。その他産物が非常に多いのでありますが、大雑把なものは大体こういうものでありまして、相当最近の金額にしましても何十億、何百億というものがあそこの島でとれておるのじやないかと思つております。
○團伊能君 もの一点お伺いいたしたいと思いますが、日本軍が駐屯しておりましたとき、小笠原島は軍事的にはどういう工合に使われておりましたか。又施設はどんなものでございましたか。
○参考人(淺沼啓三郎君) 海軍の方では軍司令部が置かれておりました。陸軍の方でも同じく師団司令部が置いてありました。そのほか航空隊が置いてありました。軍事施設に対しましては、無線所から何から至れり盡せりのことができておりましたが、大体陸軍の司令部と海軍の司令部とで以て人員は約五万名ぐらいです。
○伊達源一郎君 ちよつと今の御質問に関連してお伺いいたしますが、今飛行基地になつておるような島がありますか。今ないとしても、これから先きそういう目的に使われる島はどのくらいありますか。
○参考人(藤田鳳全君) 申上げます。硫黄島は現在—————というものはなくなつた状態です。それから父島に日本の海軍の飛行場が一つありましたけれども、それは七万坪程度の非常に小さい飛行場であつたそうであります。現在では殆んど—————ようになつておるわけであります。現存の————————という状態であります。
○金子洋君 さつて百三十何名か内地から帰つたというお話がありましたが、混血兒は英米人と小笠原島人との混血兒であるかどうか。どういう関係で英米人が小笠原島に渡つたものか。この英米人の経済的な理由が……その問題、それをちよつと……。
○参考人(藤田鳳全君) 大体これを歴史的に概略的に御説明申上げますと、小笠原島は文祿二年に信州の深志の領主で小笠原貞頼が発見したということは、これは世界に認められておるようであります。それから初めて日本が調査を開始いたしましたのは、延宝三年に長崎の船頭島谷市左衞門という方が幕命によりまして、それを巡検しましたのが日本では初めてでございます。それから文政六年に米捕鯨船長のコフインが来まして、それをコフイン島と名付けて帰つたということも歴史に残つております。文政八年に英国の捕鯨船長のスツプライというのが父島に参りまして、それから今度は文政十年に英測量船のブロツソム号というのが父島に来まして、英領にするという銅板か何かを掲示して行つたようです。天保元年一八三〇年にセボレーが四、五名で初めて欧米人としてそこに来られて住居した。 嘉永六年にはペルリが参りました。それから日本で以て第二回の調査をいたしましたのが文久元年、一八六一年であります。それが水野筑後守が軍艦咸臨丸で来まして、ここに渡島いたしまして、初めて第二回の調査をやつたわけでありますが、それから文久三年には幕府の方針が一変しまして、島民が全部引揚げたということもございます。それから明治八年に明治丸で日本官吏の渡航がありまして、そうして開拓を再開しました。そうして明治九年には初めてそこが日本の領土として日本に編入されるようになりまして、内務省の出張所が設置されたというような歴史的な状態になつております。そのセボレー系が初めて当時参りまして、実はその読み上げることもできませんが、その系図がここにございます。そこですぐに日本人と結婚しまして現在のセボレーは三代に亘つておりまして、ちよつと今資料が見当りませんが、殆んど小笠原人と結婚したのであります。そして現在においては大体三代くらいを経ております。名前も全部日本名を名乗りまして、それは明治九年に大体日本に帰化したのでございます。それで例えばこういう名前になつております。松沢次男とか、松沢ヶサエとか、邦男、秀男、行男、池田誠太郎とか、或いは木村丈治、青野アグネス、野沢良子、吉野源百、それから大平栄一とか、木村三郎とか、岸圓藏、小倉喜三郎、或いは上部ピータ、瀬掘信一、奧村仙三、大平洋一、奧村杉男、瀬掘一郎、このセボレーというのが瀬掘一郎と、まあ好い加減にこじつけた名なんですが、こういう工合に全部日本人になつておりまして、まだ結婚しない人が若干おりまして、その人達の子孫が僅か二十九人しかおりません。あとは全部混血人となつております。ですから現在においてはもう完全な日本人としまして、生活様式とか、或いは学校とか、その他も全部日本と同一でございまして、何らこれを差別するという理由が発見できないのでございまして、又この人たちも全部日本の軍隊に召集されました。或いは日本の軍需工場に働きまして、その間別にこれを差別したという、今日まで何らの形跡もないのであります。
○金子洋文君 その帰つた人たちの現在の動静はわかりませんですか。何をやつているか……。
○参考人(藤田鳳全君) 概略お答え申上げます。その人たちが実は勇み勇んで帰りました。まあ一、二の人たちがよく内地に、こちらにも漁船なんかで以てやつて参りまして、その話を聞きますと、我々が先に帰れば当然ほかの島民もすぐに帰れるものと思つておつたところが、なかなか帰れぬ。であの島に百三十五名やそこらの人間が行きましても、ランプをつけて原始的な生活を送つているのではとてもやり切れない。それで産物と言いましては大体魚をカヌー船でとつて、たしか魚をグアム島に送つて、グアム島から生活必雲物資を送つてもらう。そういつたような生活で、実に無味乾燥で、一台の蓄音機もレコードもがさがさになつてしまつて、何らの娯楽設備もない、成いはラジオもない。まあ本当の昔の島流しにされた人たちと同様の取扱いで、最近に至つては毎月一回ずつの補給がグアム島からあつたのが、四カ月に一回くらいしか補給がない。それに米もない、味噌もない、醤油もない。それで途中までカヌー船や何かで出まして、そして日本の漁船を見付けますと、何か米はないか、味噌はないかという工合に頼つて来ておる。それで気の毒で堪らん。こちらから行く漁船も無理して米とか、味噌とか、醤油とか、生活様式が全部日本人、内地人と同様でございますから、そういうものを支給してやつている。というような工合で、非常に向うに先に渡つた人たちが島民の帰還を早く望んで、そうしてあれはグアム島司令官ですか、マリアナ司令官ですか、そういうところにも行きまして、いろいろ陳情もしておつたような話も聞いておりますけれども、まあそういうことだけでは島民の帰還の目的が達せられなくて、今日のような有様に至つたような状態であります。非常に待ち焦れておるということだけは事実でございます。
○金子洋文君 先ほどのお話では経済は日本に大体依存しておるというので、内地から行く品物ですな。文化面のものと、産業面のものと、或いは小笠原の今までの文化施設というものを概略お話願いたいのですが……。
○参考人(藤田鳳全君) 内地から向うへ行く物は、大体米、味噌、醤油でございますが、小笠原島には田圃というものが僅か二、三町歩しかございません。あとは全部畑でございまして、蔬菜の栽培が主でございます。蔬菜とか、砂糖とか、ですから戰前向うに送りました主なる物資は、米、味噌、醤油、あとは蔬菜栽培に必要なる肥料とか、それから医薬品とか、そういつたようなものでありますが、その他ほかに衣料品とか、そういつたような製造工場があるわけでもございませんから衣食に必要な大体の物が小笠原に参りまして、小笠原から蔬菜とかそれから砂糖、或いは薬草、魚類とかそういうものを内地へ送つて、そうして共に相互依存の関係を結んであつたのであります。私が先ほど申上げました交通と通信の支障を取り除かなければ産業が成立しないと申上げましたのは、冬季蔬菜の栽培は一刻一日を争つて出荷しなければならない。予定の通り積荷ができないと一日、二日の中に腐敗してしまう。魚も又同様でありますが、そういつた関係で以て私どもは向うへ帰りましても、どうしても通信、交通というものを自由にして頂かんことには帰つても困るのじやないかと思つております。
○金子洋文君 もう一つ、生活水準は内地と比べてどういう比率になるのですか、豊かですか、豊かでないですか。
○参考人(藤田鳳全君) 端的に申上げますと、内地の殿様と小笠原の百姓などが匹敵すると言われるくらい生活は潤沢でございます。なぜかと申しますと、冬季蔬菜の栽培が盛んでありまして、内地に持つて来ますと、非常に高値に売れたということと、それから年がら年中何でも栽培できまして、内地のように半年も畑を遊ばせるというようなことが殆んどなくて、常に栽培できる。漁業においても又同様でありまして、人口の割合に産物が非常に豊富であるということが申上げられる。現在非常に帰りたがつているのは、内地では現在殆んど食うことができないけれども、小笠原に帰れば裸でも忽ちにして元の生活を取戻すことができる。そういう点にあるのであります。
○委員長(櫻内辰郎君) ほかに御質疑はございませんか。御質疑がありませんければ領土に関する問題はこの程度にとどめまして、なお皆さんの御都合でお差支えなければ、漁業協定の問題について水産委員会の林達磨君の話を聞きたいと思いますが、如何でしようか。
○曾祢益君 それに異存ないのですが、昨日の委員会の席上、私は外務省の政府委員に対しまして、信託統治に対する領土権の問題、主権の問題、それから国籍の問題、並びに施政権者の問題、この四点について御質問しているのです。それについて今日外務次官も来ておられるので、できるならば今日お返事願いたい。若し都合が惡ければ、この領土問題とは切離してもよろしうございますが、適当な機会に成るべく速かに一つ外務当局からの回答をして頂きたいと思うのです。
○委員長(櫻内辰郎君) ではそのように取計いまして、これから林君の話を聞くことにいたしますが、委員会は一応これを以て散会いたします。 午後二時三十五分散会 出席者は左の通り。 委員長 櫻内 辰郎君 理事 曾祢 益君 委員 團 伊能君 金子 洋文君 伊達源一郎君 政府委員 外務政務次官 草葉 隆圓君 事務局側 常任委員会專門 員 坂西 志保君 常任委員会專門 員 久保田貫一郎君 参考人 小笠原島帰郷促 進連盟委員長 横田 龍雄君 小笠原帰郷促進 連盟副委員長 淺沼啓三郎君 小笠原島帰郷促 進連盟委員 藤田 鳳全君