考査特別委員会 第15号
- 発言数
- 422 件
- 登壇者
- 13 名
- 会派数
- 5
- 開催日
- 1950/03/31
会議録
○鍛冶委員長 これより会議を開きます。 この際おはかりいたします。先日理事神山茂夫君が委員を辞任され、現在理事が一名欠員になつておりますので、理事の補欠選任を行いたいと思います。これにつきましては先例に従い、委員長において指名するに御異議ありませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○鍛冶委員長 御異議なきものと認めます。それでは梨木作次郎君を理事に指名いたします。 ―――――――――――――
○鍛冶委員長 次に徳田球一君のソ連に対する要請文書事件につきまして、調査部において鋭意基礎調査を進め、一応基礎調査を終了したのでありますが、先日菅家委員よりひとり徳田要請のみならず、日本共産党の在外同胞引揚げ妨害問題として調査されたいとの申出がありましたので、この際菅家委員より調査要求の趣旨について説明を求めます。菅家喜六君。
○菅家委員 去る三月二日付をもつて提出いたしておきました徳田球一君のソ連引揚げ問題に対する調査要求書に追加いたしまして、さらにその後得た資料によりまして、日本人のソ連引揚げ問題の阻止は、ひとり徳田要請のみではない。日本共産党が直接もしくは間接にこれらを妨害しておるという事実が生るのであります。すなわち参議院における調査の証人の証言からみましても、これは單なる徳田要請によつで引揚げの阻止が行われたものでないということが明らかなようであります。またその後の情勢によりましても、日本共産党の地区委員会がこれらに関係したという疑惑も多大でございます。右のような次第でありますので、これはひとり徳田要請のみならず、日本共産党が直接、間接にこれらを妨害しておるという事実の真相をきわめることが必要であると考えましたので、さらにこの事実の真相を調査するために、追加要求書を提出いたした次第であります。
○鍛冶委員長 それでは本件について、何か御意見のおる方はございますか。
○梨木委員 私は議事進行に関して、緊急動議を提出いたします。それはいわゆる徳田要請問題に関する本件の調査は、もうその調査をする必要はなくなつたと認めますから、この調査要求を撤回せられんことを動議として提出いたします。その理由をこれから逐一説明いたします。 第一本件には、徳田球一氏が反動を帰すなという要請をしたところの物的証拠と認むべきものは、それを裏づけるところの文書その他の物的証拠は、全然依存しておらないのであります。そういうものは一つもない。そして反対にこういう要請がなかつたことを裏づけるような物的証拠といたしましては、昨年の五月五日に日本共産党の徳田書記長から、ソ同盟共産党中央委員会あてに引揚げの促進を懇請した書簡が、当時のアカハタに記載されているのであります。これが一つ存在している。また一方いわゆる徳田要請なるものがつくり話であると言うて、その事実を否定しておるところのソ同盟の公式の発表が、タス通信に載つておるのであります。こういうように反対の事実を立証すべき物的証拠が二つ存在しておるのであります。ところが本委員会におきましては、その後何ら新しい物的証拠が発見されておらないにもかかわらず、さらに單に証人の証言を聞くことによつて、この事件の調査を進めようとしているのであります。こういうやり方で、断じて真相を究明することはできないことは明白であります。このことは、参議院の引揚委員会の実例が雄弁にこれを物語つておるのであります。大体物的証拠というものが存在しておりませんから、参議院においてはもつぱら証人によつて事実を調査しようとしたのであります。しかし証人の証言というものは、物的証拠の裏づけがあつて初めてその真実性が保証せられるのであります。従つて物的証拠がない場合は、任意の証人を選び出して来ることによつて、調査者があらかじめ計画した結論を引き出すことは、きわめて容易であります。そこで参議院ではどういうような調査の仕方、証人の調べ方をやつたかと申しますと、徳田要請というものが存在したと称する、いろゆる久保田善藏氏ら一味と目せられるものを主として取調べているのであります。つまりこういう事実が存在したと主張する側に有利な証人八名を調べたのに対しまして、徳田要請はうそである、そんな事実は存在しないと主張する証人を共産党の中野委員から五名要求したのに対しまして、一名も取調べておらないのであります。こういうやり方では、これは事件の調査ではなくて、徳田要請をでつち上げるための創作にすぎないということは、あまりにも明白であります。特に私ここに指摘しておきたいことは、参議院の、この久保田善藏らのいわゆる徳田要請なる事実が存在したと称し、この調査の懇請をするための署名というものは、どういう條件のもとになされたかということであります。久保田らの日の丸梯団が帰国にあたつて、反動は帰すなという徳田要請をでつち上げまして、この調査を要求するための署名運動を始めたのでありますが、これに対しましても同じ船で帰つた約千五百名の引揚者の間では、こういう事実は存在しない、それは久保田らの捏造にかかるデマであるということを主張し、さらに久保田らが抑留中どんな惡事を働いたか、いかに反動的存在であつたかということを暴露した、祖国人民に訴うという文書に署名を得るための運動を始めたのであります。ところが復員援護当局は、久保田らの署名運動を容認しておきながら、これに反対するところの祖国人民に訴うの署名運動を禁止してしまつているのであります。こういう状態の中に、つまり久保田善藏らの署名なるものがとられております。しかもひどいことは、反対の署名運動をした者に対しましては、引揚寮でほとんど犯罪人的な扱いをして、警察的な監視のもとに監禁同様な処遇を受けています。ことにその中の東京行の十二名につきましては、出発一時間前に嚴重な取調べ、身体検査をさせられて、ひどいのは、痛い日に会わなければわからない、臭い飯を食わさなければわからぬというような脅迫的な言辞を弄している事実があるのであります。こうして久保田らのこの署名ができた。従つてこの署名というのは、いかに不純な動機のもとにつくられ、これがまことにきたならしい存在であるかということは明白であります。参議院はこの久保田らの証言を金科玉條のように取上げています。参議院の反動的な意図は、これによつて遺憾なく暴露されていると思うのであります。特に参議院の報告書の中には、こういうような事実を明らかに歪曲し、でつちあげているところの部分がある。そういう一つの例をあげてみますれば、覇澤富男から得た文書を言われるものに、徳出書記長の名義で出されたはがき、その中に、りつぱな闘士として帰国され、反動に対しともに闘う日の来るのをお待ちしております、こういうはがきが徳田書記長の名前で出ている。こういう文書を出された事実があるかどうかという天田委員の質問に対して、そういうものは自分は知らないが、しかし祕書は出したかもしれないと言つている。そこでもう一ぺん秘書を呼んで、そういうものを出したかどうかを調べた上で事実を認定するならばともかく。秘書を調べないでおいて、すでにもう徳田書記長はこういうはがきを出したということを断定してしまつて、そうしてこういうぐあいに書いてある。徳田書記長よりの收容所あて書信は、徳田球一証人もこれを認めたのであるが、その内容は、共産主義信奉者にならない者の帰国を欲しないとの意味に解される。徳田書記長名義のはがきには、りつぱな闘士として帰国され、反動に対しともに闘う日の来るのをお待ちしております。これをまつたく惡意に満ちた牽強附会の解釈、つまり共産主義信奉者にならない者の帰国を欲しないとの意味に、これ歪曲いたしまして、まつたく恥ざらしな証言の歪曲改窟をやつているのであります。こういうような…
○鍛冶委員長 梨木委員、ちよつと注意します。あなたの脅われるのを開いていると、これからどういう事実か出ろかもしれない。それならばあなたから調べたときに出してもらえばいいことで、そんなことを言われて、委員諸君は判断のできることではない。それは調査した上であなたの主張せらるべきことであつて、調査をやめるという主張にそんなことは通らぬ。
○梨木委員 こういう構造的な報告書を参議院の引揚げ委員会はつくつた、ところがこの参議院でやつたことをまたやろうとしている……(「そうじやない」「違う」と呼び、その他発言する者多し)、だから私の言うことを聞いてください。私はもうこれを調べる必要はないから、この調査要求を撤回してもらいたい。この動議の説明をしている。
○鍛冶委員長 それでは、だれでもわかることを言うてもらわなければならぬ。調査しなければわからぬことをそこで言われても困る。
○梨木委員 すでに客観的には、徳田書記長並びにソ同盟のタス通信によつて、こういう事実はないと言つている。一方においてこれをありと主張する人間もある。しかしながら物的証拠は何もない……(「これから出て来るのだ」と呼ぶ者あり)だからすでに公知の事実といたしまして、こういう徳田要請なるものは客観的にもう明らかになつていうことなんです。明らかになつていることを、さらに何ら新しい物的証拠がないのにかかわらず、調査を進めようということは、これは調査をすることでなくて、目的はほかにある。そのことは明白である。もし製品君がこういうむだな、不必要な調査をさらに推し進めようとされるというのならば、それは明らかに目的はほかにあることは明白である。ところが今度は新しく今菅家委員から、この徳田要請問題はすでに客観的に明らかになつている。だからこれはもう調べる必要がないことは、だれが見ても明らかなものだから、今度は徳田要請問題は、徳田書記長だけでなくて共産労が引揚げの妨害をやつている、こういうところへくつつけて行こうという意図が明白である。このこと自体が、いかに徳田要請問題なるものが、もはや調査の必要がない事柄であるかということが明白である。従つて諸君がこういうことを進めようとすることは、要するに参議院におきまして自由党の諸君は、この徳田要請問題をとらえて反共、反ソの宣伝の道具にしようとしたが、実は失敗してしまつた。だから今度は陣容を新たにしまして、衆議院におきまして、再びこの反ソ反共の宣伝の資料をつくろうとすることよりほかに解釈の仕方がない。 もう一つは、諸君がこういう必要がないことをあえて調査しようとする意図の中には、参議院選挙を前に控えまして、反共の看板を掲げている自由党が、これを自党に有利に使用せんがための党利党略と言われても弁解の余地があるまい。自由党が内閣をとつておる内外独占資本…… 〔「それは議事進行外だ」と呼び、その他発言するあり〕
○鍛冶委員長 梨木君、もう一ぺん注意をする。あなたのは議事進行に関する発言ですか、それとも菅家君に対する討論ですか。
○梨木委員 反対討論で…… 〔「討論なら討論のときにやれ」と呼ぶ者あり〕
○鍛冶委員長 それでは梨木君、先ほど議事進行と言われたのを、あらためて反対討論として訂正してよろしいですか。
○梨木委員 議事進行について私はまずこの調査が必要でないという緊急動議を出しているのです。この点をまず説明させてください。
○鍛冶委員長 それなら議事進行に関係のないことを発言しておるから困る。
○梨木委員 私は最初の徳田要請問題に関する調査要求は、必要がなくなつたから撤回すべしという動議を提出して、理由を申し述べているのです。
○鍛冶委員長 それだけならいいが、あなたの言われることはそれと違う、あなたは独特の議論をここでせられている。議事進行とは認められません。
○梨木委員 あなたは私が今緊急動議の理由の説明をしておるのに、全部聞かれないでわからないと言つておる。
○鍛冶委員長 反対討論なら反対討論であらためてやつてもらいたい。反対討論かどつちですか。
○梨木委員 緊急動議の説明です。だから諸君がこういう必要のない調査をあえてやろうとするその意図は、今言つたように自由党の吉田内閣のとつておる内外独占資本に奉仕する反人民的な結果として、中小企業が崩壊し、失業者が増大し、重税と低賃金で労働者のみ窮迫するという耐えがたいものが来ておる。特に諸君は口には引揚げ促進を叫んでおるが、実際の行動においてどんなことをやつておるか。引揚げ者に対して何ら手を打つていない。住宅も供しない。厚生施設もない……
○鍛冶委員長 議事進行に何の関係がありますか。
○梨木委員 反抗と不満を、他に転じさせんがために、こういうような調査をあえてしようとしておると言われても弁解の余地がありますまい。だから私はこういうむだな不必要な調査は即刻やめて、引揚者のために、即刻生活安定擁護のための措置を、講するよう努力すべきであるということを要求いたしまして、私の動議の説明を終ります。
○鍛冶委員長 君はどこまでも緊急動議でやりますか。――それではただいまの梨木君の動議に賛成の諸君の起立を願います。 〔「何の採決をするのだ」「また取上げられてないじやないか」と呼びその他発言する者あり〕
○鍛冶委員長 それではあらためて申し上げます。梨木君の動議はただいま議題になつておる以外のことでありまするから、これに対する採決はあとまわしにいたしまして、議題となつておる菅家君の追加要求の件についてさらに御意見のある方の御意見を伺います。
○石田(一)委員 私はただいまの追加要求の件に関して、反対の意思を表明するものであります。その理由を簡單に説明いたします。この徳田要請問題は去る理事会におきましてソ連地区に抑留されておる同胞の引揚げを妨害したと認められる。こういう徳田一要請問題に関して理事会として取上げられることに決定し、しかもわれわれ一部の委員の出席ではありましたけれども、定足数をもつて構成された委員会において、徳田要請問題は本委員会で取上げられることに決定しておることは、私たちも了承しております。しかし今出されました追加要求でありますが、この追加要求の主題を見ますと、日本共産党の邦人引揚妨害問題調査報告書という見出しがついておるのであります。私はこの考査特別委員会の前身であります不当財産取引調査特別委員会、その前身である隠退蔵物資等に関する特別委員会等から、鍛冶委員長また小松委員などとともに引続き委員、理事を勤めておるものでありますが、いまだかつて本委員会が、合法的に憲法上認められているところの一つの特殊政党を調査の対象として取上げて調査したという事実はないのであります。しかも私はこの徳田要請問題を本委員会が取上げて調査し、その事件の発展の過程において徳田氏自身以外の関係者の名前が証人の口から漏れ、そうしてその事件が発展する過程においては、おそらく共産党の所属議員の多数をもあるいは証人として喚問しなければならない事実が発生するかもしれない、このことは一応了承できるのでありますが、ただちに本問題をとつて日本共産党の邦人引揚げ妨害問題と言うことは、あまりにもこの委員会の本来の性格から徴しまして、超党派的という観点に立ちましても、一応私たちは疑問を持つのであります。しかも本案の提出者であるところの菅家氏が先ほど理事会において説明をなさつたところのおもなる理由を聞いてみましても、参議院において海外同胞引揚促進の特別委員会で証人を喚問して、その証人の証言等を見た、しかもそれでいろいろなし九が出て来ておる、こういうことでありましたが。参議院が意思決定をいたしましたのは、あれは反対が一部にあつたのでありまして、参議院の意思決定は多数によるところの認定でありまして、この認定はおそらく参議院の多数によつて認定されたことでありますので、事実に近いものであるかもしれませんけれども、これは絶対に事実であると断定をすることはできないのであります。真相に近いものであるかもしれません。しかし菅家君がここに証拠として提出されている参議院の認定が事実であるとするならば、この事実に相反する証言をした証人もいるのであります。そうするならば、参議院の海外同胞引揚促進の特別委員会は院議によつて決定したことに相反する証言をした証人を偽証罪――すなわち御承知のように議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律によつてこれは告発されていなければなりません。にもかかわらず全然相反する証言をした者はそのままに告発されていないのであります。だとするならば、参議院自体も多数によつてこの事実に近いものを真相であると認定をしたのであります。それをもつてただちに衆議院が、証拠物件として、これは日本の共産党の邦人引揚げ妨害問題たとすることは、少し本委員会としては行き過ぎであると存じます。少くとも徳田要請問題に関する調査、あるいは本委員会が徳田要請に関する問題として取上げる、こういうのならば私は了承いたしますが、特定の政党に対して本委員会が調査を開始するということは、本委員会のあり方としても絶対に承服し得ません。以上説明を申し上げまして、ただいまの追加要求に反対の意思を表明するものであります。
○西村(直)委員 私はただいまの意見に反対をいたします。先ほど参議院におきましていろいろな調査が行われた、それが計画的な調査であるというふうな議論が出ておつたようでありまり。また今石田君の方から單にこれは事実がなくて、一方的認定である、し心もそれを基礎にして新しく問題が発展するらしいから、日本共産党の引揚げ妨害であるというふうに取上げることは反対であるという御説明があつたわけでありますが、参議院におきまする事柄は参議院自体のことでありまして、はたしてこれが計画的であつたかいなかということは、軽々に論ずることは私はできないと思うのであります。いわんやこれは国家機関としての参議院がやられたことでありますから、参議院の権威に関することだと思うのであります。また先日の理事会におきまして、なるほど引揚げ妨警は徳田要請という問題において取上げられましたが、参議院その後におきまして一つの新しい結論を見出しました。その経過におきまして、幾多の新しい客観的な情勢が生れている。また私自体がすでに調査いたしましたところにおきましても、その後において日本共産党地区委員会の名前におきまして徳田要請ないしは野坂氏が要請をされたということに対する事実も発生しておるのであります。また日本共産党の引揚げ問題に関係して発行されました宣伝文書等にも、われわれはこの引揚妨害に関連する言葉を発見することもあるのであります。私どもはこういう意味におき、まして、この問題の本質は日本共産党の行動にあると考えるのであります。また石田委員が、これは超党派的委員会であつて、不当財産以来政党なるものを取上げて対象にしたことはないと言われるのでありますが、そもそも不当財産委員会の決議、あるいは今日の考査特別委員会の決議等のこれらの解釈を考えまするならば、これはおそらく書類にも残つておると思うのでありますが、たとえ政党でありましても、あるいは議員でありましても、祖国再建を妨害する行為があつた場合には、断固としてそれを、取調べてよろしいということになつておるのであります。單に超党派という言葉は、所属会派の党議党則に決定や拘束をされないとか、あるいは職権の行使は独立であるとか、こういう意味に解されておるのであります。私はこれらの点を考えまして、石田君の意見に対しましては反対を申し上げます。
○岡田(春)委員 私はただいまの西村君の御意見について反対をいたします。反対の理由については先ほど石田君から詳細にお話があつた通りであります。かような例を残すことは、今後考査委員会においてきわめて惡例を残すという点においても、われわれは絶対に反対をしなければならないと思うのです。先ほどの西村君の御説明によりますと、政党をその対象とすることはできるとい、り解釈をとつておられるのであります。そういうことになつて参りますと、たとえば今こそ自由党が多数党であるから、そのほかの党についてかような專断的な多数の暴力を振い得たとしても、逆に今度は自由党が少数党になつた場合において、やはり自由党がその対象になるような場合もあり得ることをはつきり皆さん方は銘記しなければならないと思う。こういう問題について、少くと、もそのような国家機関の運営上において、いろいろの弊害のあつた場合に、その政党に所属する議員を調べるということはあり得ると思うのであります。しかしながりその政党全体がその対象になるということは、まさに考杏委員会の惡用であり、濫用であると言わざるを得な円い。こういう点において、具体的になつて参りますと、考査委員会の運営上にも私は疑義が出て来ると思うのであります。なぜならば、もしこの菅家君の提案が認められるとするならば、共産党という調査の対象になるべきその党に所属する議員が、この調査をすべき考査委員会の構成メンバーになつているという限りにおいても、これだけを見ましても考査委員会が調査の完全、超党派的な運営を期し得ないということにもなつて参ります。こういう点から菅家君の意見がもし認められるとすれば、考査委員会はこういう意味においてきわめて偏党的な立場をとらざるを得ない結果になつて来るのであります。私たちはこういう意味においても、きわめて惡い例を、今鍛冶委員長初めそのほかの諸君が――鍛冶委員長は採決するだけだから私は申し上げませんが、そのほかの諸君はそれをあえてやろうとしておるのであります。大体徳田問題についても、理事会でこれは再三問題になつたように、このはつきりした根拠をつかむためにはソ連の将校に聞いて見なければならない。ほかの証人を喚問したつてはつきりわかるわけはない、そういうことができないで、ことさらにこのようなことで菅家君が追加の提案をするということは、これは選挙が間近になつているための自由党の対策でしかないと言わざるを得ないのであります。こういう点にいおいてもわれわれは絶対に反対をいたします。
○鍛冶委員長 他に御意見もなければ菅家君の追加要求の件について採決いたします。本件は委員会において調査することに賛成の諸君の御起立を願います。 〔賛成者起立〕 〔「委員長横暴」と呼ぶ者あり〕
○鍛冶委員長 起立多数。よつて本件は委員会において調査することに決しました。 次に梨木君の動議についてお諮りいたします。梨木君の先ほどの動議について、ほかに御意見もなければ採決いたします。梨木君の動議に賛成の諸君の起立を願います。 〔賛成者起立〕
○鍛冶委員長 起立少数。梨木君の動議は否決せられました。
○鍛冶委員長 次に本件につきましては、本日の委員会の調査に支障なきよう、理事の諸君の御了承を得まして本日ハバロブスグ收容所引揚者吉田幸平君に本委員会に出頭を求める手続をいたしておきましたのでありますが、同君を本委員会の証人として証言を求めることに御異議ありませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○鍛冶委員長 御異議なぎものと認めます。それでは証人として証言を求めることといたします。 なお、四月一日にウォロシーロフ地区引揚者繁澤富男君、イズベストコーワや收容所引揚者上村宗平君、四月三日にカラカンダ地区引揚者山口茂君、同じく久保田善蔵君、同じく小笠原唯雄君、同じく日高清君、同じく橋本忠義君も四月五日にカラカンダ地区引揚者菅季治君、同じく山森友太郎君、同じく峰田重吉君、同じく渡部武士君、同じく宇野喬夫君、四月六日にウォロシーロフ地区引揚者瀧澤瀧十君、カラカンダ地区引揚者小島清君、ハバロフスク地区引揚者矢浪久雄君も同じく高山秀夫君、以上十六名の諸君を証人として本委員会に出頭を求めたいと存手じますが、御輿蔵ありませんか。 〔「異議なし」「異議あり」と呼ぶ者あり〕
○鍛冶委員長 岡田君。
○岡田(春)委員 この点につきましては、先ほど理事会において私から提案をいたしまして考査委員長自身がはつきりお答えになつておるはずなんであるが、これらの証人を出頭させる場合いにおいて考査委員会の事務当局はいかなる根拠に立ちまして、この証人がこの案件について妥当な証人であるかというその理由を明確にしてもらうことになつておつたのであります。この点については、本日それの調査をいたしました事務当局の人がまだおらないけれども、できるだけこれについては善処をしてこの委員会においてはつきりするということを考査委員長ははつきりお話になつたはずであるにもかかわらず、この点まだお話になつておらない。この点についてもう少し委員長から、どういう結果になつたのであるか、はつきりしていただきたいと思います。
○石田(一)委員 今日証人として喚問する予定であつた吉田幸平氏とか龜澤富男氏とか、以下の人たちはすでに文書によつてその略歴等はわれわれのところに来ているのであります。この点についての証人の喚問に異議を唱えるものではありませんが、ただいまの十数名の証人については何らこの呼ぼうとする証人について予備知識を持つておらないのであります。にもかかわらず、これを証人として呼ぶかどうか、このことについてただちにこの委員会に諮られましたとしても、皆さんの方では一応御了承がついているのか知りませんが、われわれの方には、何ら理事としてもこの点についての報告も受けておりませんし、また書類も渡つておりません。それをここで採決して意思を決定しようとされることは、あまりにむりを強いられるものであります。これは次会の理事会、あるいは委員会において、あらためて決定をされることが正しいのじやないか、こういうふうに思いますので、今の点には反対いたします。
○梨木委員 さらに私の方から小澤常次郎、鈴木義雄、天野武汎、それから相原和光、この四人を先ほどの理事会におきましても要求しておいたのであります。事務当局だけが調べたところによつて、徳田要請があつたというようなそういう証人だけを調べることになつては、要するにこの委員会において事実の真相を究明することにはならないから、それに反対のことを主張しておる人をも調べなければならぬことになるわけです。その点について、今お読みになつたその証人は一体どういう経歴の人で、ソビエト地区においてどういうような活動をしておつた人で、どのような事実を主張しておるかということの輪郭が大体わからなければ――一方的の事実の存在だけを主張している人を呼んだんでは、決して事実の真相を究明することにはならないのであります。従つて、われわれはそういう点についての資料をもらわない限りは、この証人を調べるべきかどうかの判断をすることさえ不可能だと思う。私先ほど発言の際にも申しておきましたが、参議院においては、徳田要請問題を肯定しておる証人だけを調べて、この事実を否定しておる証人は一人も調べておらない。こういうやり方は、これは事実の調査でもなんでもなくても要するに徳田要請問題をでつち上げようとする一つの操作にすぎないことが明白である。その点について、われわれに判断の資料を提供してもらつてからこの証人を呼ぶべきだと思います。
○鍛冶委員長 岡田君は約束したと言われるが、私は、これをどういうわけで選んだかという理由を明白するとは申しません。それはこの委員会で明白になることでありまして、その以前には明白になりません。ただ履歴とかそういうものについては、できるだけ御説明できたらしますということを申しただけであります。もう一つ申します。今まではすべてこういう慣例でやつておりますので、今日に限つてそういうことを言われるのは、私としてはその意が解せない。梨木君の方から申し出られた証人は、いずれ協議の結果、この次の理事会で決定することにして、本日は承つておきます。
○小平(忠)委員 ただいま委員長は、証人喚問について慣例ということを申されました、しかし私は、これには異議があります。なぜならば、証人喚問は各委員会が必要と認めたときにするのでありますが、その場合に、大体財閥の人とか有名な知つている人は、経歴について調査がなくてもできることがあります。しかし、先ほど理事会においてもいろいろ意見がありましたように、事前にこれこれの人であるといつたことが委員会でも理事会でも熟知されてからそれを喚問するかしないかを決定されるのが正しいと思います。しかし、事務当局においてその準備ができていないならば、印刷はできなくても、経歴等についてまず委員会へ報告すべきだというようなことが先ほど論議されたのですが、先ほど岡田君が発言されたように、これを本日決定しなければ本件調査に支障があるという問題ではないので、一日も早くこれを調査して、資料を出すように進めていただきたい。ただ單に名前を羅列して、どこの引揚者という形で証人を喚問することは惡例を残すと思う。そういう観点から、ただちに採決することには反対いたします。
○小玉委員 今の岡田君や小平君が、証人喚問前に証人の経歴等を知らせてくれということに、委員長はどういう約束をされたか知らぬが、絶対反対である。と申しますのは、この経歴等は、実は宣誓をした上で聞くべきことでありまして、これは証人調べの普遍的原則であります。ここで事務当局の方が調べた結果を知らせろというのですが、もし宣誓した後に証言が食い違うといつたような場合には、またその点について調査当局の責任を問うとかいうような問題にも発展すると思うのでありまして、さようなことになりますると、事務当局としても責任をもつてそういうことを言うわけに行かぬと思いますから、これは呼んで、しかるべく宣誓をした上でそういう経歴を問うのが正しい筋道でありまして、その前に事務当局の調査したことを知らせる必要は絶対にないと私は考えております。
○鍛冶委員長 以上意見の食い違いがありますれば、ここで採決するほかはありません。採決いたします。以上十六名の証人を喚問するに賛成の諸君の起立を願います。 〔賛成者起立〕
○鍛冶委員長 起立多数。よつて以上の十六名を喚問することに決定いたしました。 ―――――――――――――
○鍛冶委員長 それではこれより日本共産党の在外同胞引揚妨害問題につき調査を進めます。証人より証言を求めることにいたします。ただいまお見えになつておる方は吉田幸平さんであります。 あらかじめ文書で御了承願つておきました通り、本日正式に証人として証言を求めることに決定いたしましたから御了承願います。ただいまより日本共産党の在外同胞引揚妨害問題につきまして証言を求めることになりますが、証言を求める前に、証人に一言申し上げますが、昭和二十二年法律第二百二十五号議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律によりまして、証人に証言を求める場合には、その前に宣誓をさせなければならぬことと相なつております。 宣誓または証言を拒むことのできるのは、証言が証人または証人の配偶者、四親等内の血族もしくは三親等内の姻族または証人とこれらの親族関係のあつた者及び証人の後見人または証人の後見を受ける者の刑事上の訴追またに処罰を招くおそれのある事項に関するとき、またはこれらの者の恥辱に帰すべき事項に関するとき、及び医師、医科医師、薬剤師、薬種商、産婆、弁護士、弁理士、弁護人、公証人、宗教または祷祀の職にある者、またはこれらの職にあつた者がその職務上知つた事実であつて黙祕すべきものについて尋問を受けたときに限られておりまして、それ以外には証言を拒むことではきないことになつております。しかして、証人が正当の理由がなくて宣誓ありまたは証言を拒んだときは、一年以下の禁錮または一万円以下の罰金に処せられ、かつ宣誓ありした証人が虚偽の陳述をしたときは、三月以上十年以下の懲役に処せられることとなつておるのであります。一応このことを御承知になつておいていただきたいと思います。 では法律の定めるところによりまして証人の宣誓ありを求めます。御起立を願います。 〔証人吉田幸平君朗読〕 宣 誓 書 良心に従つて真実を述べ、何事もかくさず、又何事もつけ加えないことを誓います
○鍛冶委員長 署名捺印を願います。 〔証人宣誓書に署名捺印〕
○鍛冶委員長 吉田幸平さんですね。
○吉田証人 そうです。
○鍛冶委員長 あなたの応召前の履歴、それから入ソ後の履歴についてまず承りたいと思います。
○吉田証人 入ソ前は満州の百二十二師団二百六十六連隊、赤鹿兵団におりまして、中隊長をやり、一九四五年九月二十二日ハバロスグの南方約六十キロオボールというところに入所いたしました。
○鍛冶委員長 それからこちらへ帰還されまでの大体の径路を……
○吉田証人 一九四五年九月一日満州共和国鏡泊湖畔南湖頭に武装解除
○梨木委員 文書を見て発言することはやめさせていただきたいと思います。
○鍛冶委員長 歩いた径路だけを……
○吉田証人 九月十八日牡丹江掖河出発、綏芬河経由、九月二十日ハバロフスク三十オボール十七地区六分所到着、一九四六年七月八日オボール派遣隊ドルミン收容所、一九四七年六月二十二日コムソモリスク十八地区十一分所、一九四七年十月二十八日コムソモリスク十八地区三分所、一九四八年一月二十日コムゾモリスク十八地区五分所、一九四八年二月三日コムソモリスク十八地区三分所、一九四八年二月二十八日コムソモリスク十八地区二分所、同年三月十三日ムーリー一地区五百十三分所、一九四八年六月十八日トムニシニ地区第四分所、同年八月三日ポート・ガワニ(ソビエト・ガワニー港)一地区三百三十四分所、同年十二月三日ホルモル五地区三百二十七分所、十一月二十五日ホルモル五地区二百八分所、十二月二十八日ハバロフスク十六地区四分所、一九四九年一月十日ハバロフスク十六地区二十一分所、一月三十一日ハバロフスク十六地区十六分所、十一月十五日ハバロフスク十六地区十八分所、十二月二十八日ハバロフスク十六地区二十一分所、一九五〇年一月三日、ナオトカ、十三地区、三分所。一九五〇年一月十九日ナオトカ、高砂丸にて出帆、同年一月二十二日舞鶴上陸、こういう過程で帰つて参つております。
○鍛冶委員長 現在は何をしておりますか。
○石田(一)委員 議事進行に関して……。ただいま証人の証言を聞いてみますと、吉田幸平氏の在ソ中の略歴というものが、事前に渡されてあるものと一字一句順序までそつくり違わぬということであります。われわれに渡川されたこの略歴は、事務当局、調査当局がお調べになつたものか。それとも「証人自身をすでに事前にこちらべお呼びになつて、相談の上この略歴をつくつて、この略歴と同じものを、われわれと証人と両方にお渡しになつておるのか。この点については私は非常に疑問を持つております。少しくらい違うところがあるかと思つておりましたが、まるで一字一句違わない。これはどういうふうにおやりになりましたか。これから証言することも全部打合せてあるのですか。
○鍛冶委員長 ちよつと読まれたのを見せてください。これはあなたが書かれたのですね。――証人の持つておるのは、証人の自筆のペン書きであります。それと相一致しておるのは、事務局でよく聞いたか調べたかしたものと思います。(発言する者あり)証人に聞きますが、帰還後はどうしておいでになりますか。
○吉田証人 まだ何も職についておりません。
○鍛冶委員長 あなたは在ソ中、いわゆろ反動分子と目されたといううわさがありますが、そうでありましたか。
○吉田証人 シベリアの民主運動にかつて参加しませんでしたので、私自身は穏健であるのを、向うでは反動と呼ばれて、結局反動々々でとうとうシベリヤから帰りました。
○鍛冶委員長 民主運動に参加せなかつたという理由ですね。
○吉田証人 そうであります。
○鍛冶委員長 そこで反動分子と言われると、ほかの者と何か違つた待遇でも受けたものですか。
○吉田証人 現実に食い物が、いわゆるピンをはねられるといいますか、ソビエトできめた国家ノルマ、そういつたものがまず削られます。あるいは被服も古いものをくれたり、しらみのついたものを渡されたこともあります。入浴も初めはカンにわずか一ぱいくらいもらつて、入浴せよと言われた。あるいは寝ていても、零下四十度くらいの場合でも、やはりそういうところへ入れられる。いわゆる反動なるがゆえに徹底した彼らの言う経済闘争の犠牲者となつて、次から次へ、地区から地区へ、分所から分所へとかわる。そういつたものはあくまで帰国を遅らす。従つて白樺のこやしになれとかシベリアの骨になれとか、私自身もそれに参加しない理由のもとに、帰国は、名前が載つても帰るときになつては削られたというようなことが四回もありました。それがために、いわゆる前職が憲兵、警察、特務機関関係でない、單なる野戰の中隊長であつたにもかかわらず、民主運動に参加しなかつたという理由のもとに遅れたわけであります。
○鍛冶委員長 今おつしやつた民主運動ということは、どういうことですか。それでどんなふうにかわつて来たか。そういうことがあれば聞きたい。
○吉田証人 民主運動の形態といいますか、いわゆる私たちが入ソした当時も現実に私自身の收容所で申し上げるならば、沿海州の密林の中の開豁帶で三重の鉄條網をまわされ、望楼があり、その上は機関銃がすわつて收容所の中は根株と水たまりである。それが私たちの收容所である。千名を收容した私たちの收容所それ自体が、三箇月に二百五十名も死んで行つたような現実で、私たちのほんどすべては反共反ソでありましたが、私たちの生活そのものがまず家の建築から、あるいは炊事の建築から、井戸の開設から、便所の開設から、そういつたまず建設作業を開始して来たのでありますが、そういつたものが約一年、一九四六年の前半期には生活が確立されると同時に、私たちの生活の中にやはり娯楽というか、人間的に求めて行くものが必要になつて、そこに娯楽という問題が起きる。まず第一にここにいわゆる木材檄文という民主運動ののろしといいますか、旧関東軍兵士に告ぐというものがこの民主運動ののろしとなつて、今まで警察国家としての財閥地主の御用団体の軍隊としての奴隷兵士から、日本民主化のためにソビエトと手を結んでやらなくてはならない。いわゆる反軍闘争というか、将校闘争を開始し、收容所の自主権をわれわれが握るということで、まず民主運動の第一に反軍闘争というものが開始されたのです。この反軍闘争の過程にいわゆるプチ・ブルと言われた人たちですか、かつて軍隊で言うならば、乙種幹部候補生あたりで将校になれなかつたような人たちがまず反軍闘争の第一歩をふみ切つて、友の会というものが編成された。これは日本新聞社の方からも目をつけたのでありますが、友の会がまずここで生れた。そのために壁新聞とか、あるいは豆新聞とか、あるいは演劇――当時演劇で種類を言うならば、森の石松とか、国定忠治といつたものが行われたのでありますが、友の会の反軍闘争の過程の中において少しずつプロレタリア演劇的なもの、いわゆる蟹工船とか、太陽のない街とかが演ぜられて行つた。それが第一期であり、第二期は、いわゆる民主グループと名前をかえて、收容所の将校全部をいわゆる行政面においてやりにくい、あるいは思想的にも民主運動の中に入れてはだめになると目される将校は、全部よそのいわゆる懲罰大隊といいますか、そういつたところに全部将校は集められた。その残つた中で若い者をハバロフスクの二十一分所といつたところに各分所から四名ないし五名あたり選拔して、三箇月間三百名、これを第一期生から教育を開始して、講習が終ると、各分所に帰す。そうして一つの民主グループの中に思想教育のテーマを提供し、行うといつた過程から一九四七年八月、全地方議長会議といいますか、分所の民主委員、そういつたものが集まつて、ここに新しい議長会議が行われて、この民主運動が説得的な過程を踏み、あるいはまた各人の発言の自由もあつた時代がなくなつて、ここに極左的といいますか、あるいは暴力的といいますか。人身攻撃といいますか、つるし上げカンパというものの火ぶたが切られて私たち各人の発言はなく、また自由の発言も求められず、各人の演劇、收容所の文化運動も完全にプロレタリア演劇に切りかえられ、壁新聞それ自体も、反軍闘争の過程から完全にプロレタリア演劇にかえられて、私自身が考えて、いやしくも各人の人間性に立脚する発言をしようという言葉は封ぜられ、完全に各人と各人とのスパイ的なものが行われ、ここにつるし上げカンパ、いわゆる追究カンパといいますかそういうものが行われて、その民主運動のために犠牲にたつて死んで行つた人たちも私たちは目撃して知つております。そういうようにこの民主運動というものが、日本新聞を通じ、またその日本新聞を通じて行われた追究カンパ――ここに日本共産党から送られたアカハタが、機関紙を通じて転載記事となり、ティフォケヤンスカヤ・デウイヨースダ、太平洋の星という機関紙から日本新聞社、いわゆる子新聞といいますか、そこへ用紙なり写真なりが送られ、毎日連絡がありますが、そのときにアカハタを持つて行くのを私自身が現実に目撃しておるような現状で、現実に日本共産党というものは、このティフォヶヤンスカヤ・デウイヨースダを通じ、あるいは日本新聞を通じ、そういつた民主運動の中に間接的に援助され、私自身が反動と目されたために苦しい立場になつたことは事実であります。そういうような民主運動は、即帰国反対運動であり、やがてはそういつたものはスターリンヘの誓いとかわつて、人間変革を遂げ、去年あたりはいわゆるデモクラートと称する人たちが、各收容所から集められて帰国し、われわれは反動と目されたゆえに各收容所に残され、收容所の跡片づけをしては次の分所に移つて、一番終わりにわれわれはハバロフスクに来たような現情です。 民主運動の過程を今概略述べたのでありますが、いわゆる反軍闘争から友の会になり、民主グループになり、その民主運動というものは、一九四八年八月、議長会議から説得的な過程を終つて、反動追究カンパというものに持つて行かれたのであります。人身攻撃、罵詈罵倒、そうして反動をもみくちやにして結局いやが上にも、完全に自分のイデオロギーを曲げても、その收容所の組織下に入り、赤旗をとらなくちやならぬというような過程になつて来たことは、大体私自身が反動という道を歩かされ、虐待を受けた見方でありますけれども、そういうよろなことを特に痛切に感じ、この民主運動即それは帰国反対運動であつたということを、私は強く感じております。
○鍛冶委員長 その友の会から民主グループとなつてそれから強く積極的にそういうことになつて、また何か名前がかわつたのではないのですか。
○吉田証人 それは各地区、各分所によつてかわりますが、大体友のへ会から民主グループ、それから四八年の三月ごろから反ファシスト委員会に名前がかえられております。
○鍛冶委員長 その委員会になつてから積極的にそういうことが行われたのですね。
○吉田証人 そうです。
○鍛冶委員長 今あなたは日本新聞ということをおつしやつたが、日本新聞についてあなたの知つておられる概略をまず伺いたいと思います。
○吉田証人 日本新聞に関しての論説といいますか、感じたままを述べたものがそこに出してあります。
○鍛冶委員長 それは私も持つておりますが、これについて主要というか、重要だつたとか、あなたに非常に印象に深く残つた点たけを述べてもらいたいと思います。これは読んでおります。
○吉田証人 日本新聞の編集機構といいますか、これは赤軍と内務省関係のあり、その新聞はどういう新聞かといいますと、ティフォケヤンスヵヤ・デゥイヨースダ、大太洋の星という共産党の機関紙、そこから日本新聞のために使るされる紙とか写真とか、そういつた用のが配付になる。それが第一面は世界事情、二面は日本経済事情、三面はソ連の文化宣伝、四面が日本人捕虜收容所の民主運動に関して発行され、その中で、特に一九四七年の暮れごろから、日本のアカハタの転載記事が非常に多くなつたことを記憶しております。特に一九四九年、去年のたしか九月だつたと思いますが、いわゆる日本のアカハタ転載から、極左的偏向の批判というものが、野坂參三氏の記事において出、あるいは徳田球一氏、あるいは志賀義雄氏の極左的偏向の修正といいますか、そういうような記事が第二面に大きく出ていたことを記憶しております。そういつたことがスターリンヘの誓いといいますか、日本人捕虜收容所において思想の人間的変革を遂げて、スターリンへのみつぎ物をおくつた。その少し前あたりに出たと思つておりますが、そういつた記事のために、つるし上げヵンパといいますか、そういうものがだんだん下火になつて行つたというようなことを記憶しております。それから私たち捕虜生活の中において、自分自身の日本から持つて入ソし得た本もみな取上げられ、あるいはノートとか、自分のものをほとんど読むものはなく、私たちは捕虜生活の中において、日本新聞を通じてのみ日本事情を知るような現情で、このシベリアの民主運動の中に、この日本新聞が終りにはテキストになり、バイブル的な存在となつて、民主運動には絶対に欠くべからざる一つの大きな役割りをなしておつたことは、私たち捕虜として考えなくちやならないことだと思います。
○鍛冶委員長 今スターリンヘの誓いということをおつしやつだが、それは、どういうことからできて、どんなことになつたのですか。
○吉田証人 スターリンヘの誓いといいますと、去年の夏ごろ、メーデーが終つてから日本新聞社は全捕虜收容所がイデオロギー的に赤くなつて人間変革を遂げた。われわれは帰国後は共産党に集団入党をし、なおかつ一人百万人の組織者となり、なおかつソビエトの真実を伝える意味においてわれわれはここに完全に人間変革を遂げ得たという意味において、われわれの友、われわれの教師スターリンへの誓いとして、各地区、各分所から、ある地区において分所の生活の写真とか、あるいは日本人の形につけた民族衣裳、あるいは花咲じじいを描いた本立、あるいは幅三十センチ、長さ二十六メートルの絹に、民主運動の反軍闘争歴史、いわゆる反軍闘争からわれわれ過去の反ソ反共下において生活して来た日本帝国主義の一兵士、この奴隷兵士がかくてスターリンの戰士として、日本に帰国して行く。これまでわれわれがかわつたということは、まつたくそのおかげであるというので、いわゆる反軍闘争から起きた民主運動の歴史、そういつたもの、あるいは一人集団、一人百万人の組織者、あるいはソビエトの真実、そういつたいわゆる宣誓文を幅三十センチ、長さ二十六メートンの絹に刺繍したもの、あるいは今申し上げたように、民族意思を、あるいは各收容所の写真アルバム、そういつたものが一貨車あつたというのですが、そういう日本人のいわゆる人間変革のみつぎ物としてスターリンへ贈つたのであります。
○鍛冶委員長 それはどういう動機からそういうことをすることになつたのですか。
○吉田証人 自分自身の状況判断では、日本新聞社の編集主任をやつたおつたコバレンコフ少佐、後に中佐になりましたか、あるいはツリロコフ大尉、あるいはそのほか上中級尉が日本新聞社には確かに四名、そのほか六十三名がおりましたが、そういつた人たち、あるいは日本人のマルキシストというか、ボルシェヴィーキというか、地区、ビューロー、地域ビューローで、そういつた日本人の下になつた指導者といいますか、そういう人たちが民主運動のピリオドとして、そういう各收容所から盛り上つた――とある人は言うかもしれませんが、私自身はコバレンコフあたりの一つの民主運動がこのように終つて行つたという一つのプロバガンダとしてではないかと思うが、ある意味においては收容所から、人間変革を遂げて盛り上つたものの宣誓式が、バロフスクに私おつたのであ’りますが、各公民館、クラブ、映画館、公会堂、そういつた所で、倉庫から外出用の新品の着物を出して来て、それを着て文化工作隊がオーケストラを近くから呼んで来て、音楽入りではなやかな、嚴粛そのもののスターリンヘの署名感謝決議文の感謝式が一人ずつなされて行つたのであります。
○鍛冶委員長 全沿海州民主グループ会議というものがあつたか。
○吉田証人 それは全沿海州と申しますが、ハバロフスク地方と言つた方が適当であります。沿海州となると、範囲が狭くなりますので“私が先ほど申し上げた全地方議長会議というものは、いわゆるハバロフスク地区周辺を主とした議長会議で、沿海州というよりもハバロフスク地方と言つた方がいいと思います。
○鍛冶委員長 その議長会議は、いわゆる五箇年計画を四箇年に縮めるという何かスローガンをつくつて、それでみんなを働かせたといううわさを聞いておるのですが、その点はいかがですか。
○吉田証人 捕虜として向うへ行つて、スタハノフ運動といいますか、それにかわる日本版というか、捕虜收容所の中に平塚運動というものが起つたのであります。一九四九年メーデーへの闘争というスローガンのもとに、いわゆるコムソモリスクの平塚というブリガーダーが建築作業場において、あまり国家ノルマのパーセントが上らなかつた、そこで平塚が、マルクス史的唯物弁証法を獲得し、唯物論を自分のものにし、人間変革を遂げつつあるわれわれは、こういつたパーセントをここに思い切つて五〇〇%上げなければならぬというので、上げたのであります。平塚ブリガーダーというのが、ソビエトのノルマを、その結果としての理論の水準の向上、あるいはわれわれの精神的意識水準が上つたから、われわれはこういうようにパーセントを上げることができたということで、日本新聞社は平塚運動を当時のトピック・ニュースとして取扱い、大々的に大きな写真を掲げて、全地区に平塚運動のニュースを飛ばして、スタハノフ運動の日本版をつくつたのであります。
○鍛冶委員長 ひらつかというのはどういう字を書くのですか。
○吉田証人 平塚と書きます。
○鍛冶委員長 それはだれかの名前ですか。
○吉田証人 日本人の捕虜の中にある組の名前なのであります。それがために日本人收容所は組織化されたといいますか、各自の発言も、へたをすればつるし上げられますから、小隊長の言う通りに、日本人はまじめにこの平塚運動をやる。いわゆるスタリーンの五箇年計画をやる。われわれは日本を民主化するには、民主主義の城塞ソビエトと手を結ばずして、われわれ日本の民主化の道はあり得ない。いわゆる祖国ソビエトという言葉がその当時出て来ておりましたが、日本人の中にもやはり祖国ソビエトの強化即日本の民主化であるという理由のもとに、スターリンの五箇年計画を四箇年にするというスローガンをつくつたのです。日本人は忠実に、その捕虜收容所が平塚運動者になつて、特に優秀な者は労働者の英雄といつて、各收容所にみんな大きな似顔まではり出されて額で飾られ、労働者の英雄、平塚生産者大会というもので、楽隊入りで表彰式といいますか、そういつた意味において各人が集められた。ソ連の将官か何かに、そういう人たちは一日、ごちそうになつたわけである。そういうものが大体平塚運動である。いわゆる五箇年計画に結ぶものだと思います。
○鍛冶委員長 あなたが在ソ中に、日本共産党の幹部諸君から、書面がいろいろの今に来ておつたという事実を見られたことがありますか、また聞いたことがありますか。
○吉田証人 特に去年の六月だつたと思います。日本新聞の第二面に、徳田球一氏からの談が、写真が入つていわゆる現実のソビエトの社会機構、あるいは上昇過程を見て、まだこの機構になれ得ない者は気違いか病人である。そういうような記事も新聞に出ておりましたし、あるいは帰国班に対する希望といいますか、元気で民主主義者となつて帰つてもらいたい……
○鍛冶委員長 それは徳田氏の談話か。
○吉田証人 私が今言うのは、徳田氏の手紙といいますか、そういつたものが……
○鍛冶委員長 日本新聞に載つたのか。
○吉田証人 日本新聞には徳田球一氏の談……
○鍛冶委員長 談か。
○吉田証人 ところが、それから手紙でありますが、赤十字社のしるしの入つた手紙のあれを民主委員長が点呼時、全員に読んだことを記憶しております。
○鍛冶委員長 それはどこから来た手紙か。
○吉田証人 日本共産党徳田球一氏…… 〔「見て言つちやいけない」と呼び、その他発言する者あり〕
○鍛冶委員長 それは何を見るのかね。
○吉田証人 それは「オテガミアリガトウ。オゲンキニテソドウメイキョウカノタメマイシンサレ、リッパナトウシトシテ、キコクサレ、ハンドウニタイシトモニタタカウヒノアルノオオオマチシテオリマス、ニホンキョウサントウトクダシヨキチヨウ」という手紙を点呼時委員長が読んだことを記憶しております。
○鍛冶委員長 それはどこですか。
○吉田証人 ハバロフスクです。そのほかメーデーが終つてから、帰国者が各收容所から選拔されて出て来始めるころ、日本新聞の四面の一番下に、帰還者読本という欄がつくられました。これは二日おきの日本新聞でありますが、帰還者読本には日本共産党よりの手紙という欄が大きく出ておりますし、その中には野坂蓼三氏及び志賀義雄氏、そういつた人たちの、いわゆる日本経済事情分析といいますか、あるいは物はあるけれども高くて手が出ない。りんごもみかんも何でもあるが、高くて手が出ない。労働者は完全に捨て去られているというような日本情勢の分析、あるいは為替レートの一ドル三百六十円――吉田内閣の重税はまさにこの為替レートの中にからくりがあるのだというようなことが、帰還者読本いわゆる帰還者に対する大きなテキストにあつたと記憶しております。この帰還者読本は、われわれがナホトカで船を待つ二十日間、朝から晩まで新聞輪読会として読まされておつたと記憶しております。
○鍛冶委員長 今、非常に帰還者の間に大きな問題になつているものの一つ一に、徳田日本共産党書記長から、反動分子は帰すなという書簡が送られたということが言われておるのですが、そういう事実は御承知でしようか。
○吉田証人 こちらから送られたということを聞いて知つております。
○鍛冶委員長 それは今あなたが読まれた手紙とは違う意味ですか。
○吉田証人 私の送られたというのはこの手紙であり、またそのほかに何といいますか、確かに去年の五月ごろだつたと思いますが、共産党からは一刻も早く全員日本に帰つて来るようにと、帰国促進の依頼といいますか、そういつたものが出されたことを記憶しております。だがそのころ売国吉田政府は、船をよこさないためにわれわれの帰還は遅れているのだ、日本はわれわれの帰国を欲していないのだ、それがために船があつても船を出させないのだというようなことで、当時その手紙をめぐつて、日本共産党はかくも良心的にソビエトに請求しておるにかかわらず、吉田政府に誠意がないのだというようなことが言われたことも記憶しております。
○鍛冶委員長 いや、それはそれでよろしいのですが、私の今聞いているのは、反動分子は帰さぬようにしてくれという手紙が来たと言われておるが、そういう事実がありましたか、また聞いたことがありますか。まずそれから承りましよう。
○吉田証人 日本共産党から……
○鍛冶委員長 日本共産党からでも、徳田君からでもいいのですが、先に徳田球一の方から承りましよう。
○吉田証人 日本新聞には、反動は帰すな、反動はシベリアで殺せ、白樺のこやしになれというような記事はしばしば出ておりましたが、日本共産党からは、そういつたような手紙が来たということは、ちよつと今記憶はありません。いわゆる反動とともに一緒に元気で闘おうという意味の手紙の来たことは記憶しております。
○鍛冶委員長 反動はシベリアの骨になれという日本新聞は、あんた見られたのですね。
○吉田証人 帰すな、そういうことは見ました。
○鍛冶委員長 それは日本新聞がそういう論説を書いたのか、それとも日本からでもどこからでも、ほかから来た文面を受けて書いたものであつたか、これはいかがですか。
○吉田証人 それはアカハタの転載記事としては出ておりませんでしたけれども、そういうことは確かに出ておりました。アカハタの民主運動の批判とかいろんな記事が、アカハタ第何号第何号というように、しばしば転載されて出ておりましなが、そういうことは記憶はありません。
○鍛冶委員長 別にその種になるものは知らないですね。
○吉田証人 日本新聞には堂々と出ておつたと思いますが、それが転載したものかどうか、そういう記憶はありません。
○鍛冶委員長 よろしい。ほかに御質問はありますか。
○内藤(隆)委員 吉田証人に二、三補足的にお聞きしてみたいと思います。あなたのただいまの証言中に、反動分子という言葉が非常に出て参りましたが、反動とは一体いかなることを指しているのか。委員長の質問に対してあなたの答弁は、シベリアで民主運動に参加しなかつたものを反動と言うというのであつたのですが、それのみでありますか。
○吉田証人 向うで言ういわゆるボルシエヴィーキに入らないものは全部反動である。
○内藤(隆)委員 そうするとさいぜん御証言になりました中に、日本人中からもソビエトを祖国と言う者が出たということでしたが、ソビエトを祖国と言わないような者は反動と言つたわけですね。
○吉田証人 そうです。
○内藤(隆)委員 それから第二点は、あなたが反動と認められた理由と思われるものをひとつ具体的に述べてください。
○吉田証人 個人的ですか。
○内藤(隆)委員 個人的です。
○吉田証人 私の收容所は、当時反共、反ソ感の最も強かつたところですが、壁新聞を発行するようにソ側の政治部員から言われたのです。当時大隊長であつた越智大尉は、壁新聞を出さなければならないのだが、記事を書いて出す者がいないと言われたので、私はやはりゼスチュアとしてやることが必要であろうというので、私個人としては独ソ戰のドイツの敗戰論を書いたのであります。リッペントロップ、外相の行き方、あるいはゲッペルス宣伝相の行き方というように、ドイツ敗戰の分析を壁新聞に出したのであります。ところが翌日私はゲー・ペ一・ウーに呼ばれて、私の前身を徹底的に洗われたのであります。ドイツを知つておるということそれ自体が反動である。いやしくもソ連においてドイツ批判をするということはもつてのほかであるというので、完全に私は、ゲー・ぺ一・ウーのリストに載せられたのであります。これがソ側から直接反動と目されたことであります。それから日本人から反動と目されたとは、作業場において組織してサボタージュをしたというかどによつて、十五日間営倉に入れられたことであります。彼はソビエトの強化を全然考えずに、組織して労働を拒否してストライキをやつた、いわゆる民主主義運動に関して何ら理解していないやつたということで、完全に反動としていわゆるボン隊という懲罰收容所大隊に入れられるためにコムソモリスクに送られた。それが直接私自身の反動の理由であります。
○内藤(隆)委員 反動分子は收容所の官憲からどういう待遇を受けておつたかという委員長の質問に対して、あなたは聞くも涙ぐましい、まことに非人道ぎわまる待遇を受けたということを答弁されまして、私ども同情申し上げておきたいのですが、もう少しソビエトの收容所というもの、あるいはソ連の官憲が日本の捕虜に加えて来た非人道ぎわまる行為の内容を述べていただきたいと思います。
○吉田証人 そういつた收容所は三重の鉄條網であり、根ツ株と水たまりであり、私たちは夏のままの姿で入ソしたのであります。九月の末、十月の初めのシベリアの夜は寒くありました。私たちは天幕で囲つて寝た。それがために衣食住の確保ということを要求して、それがために建設小隊の編制及び井戸掘り班の要求、及び炊事の要求、糧秣の要求をしたのであります。それを開始したのであります。それに伴つて、向うはウプラウレニアという捕虜管理局からの作業命令を持つて来たのであります。私たちはその作業命令に基いて出るのであります。だが現実の面において私たちが食べさせられたものは、大豆と馬糧、高梁、そんなものが主食でした。それがために、作業場で倒れる者、あるいは夜こういつて話しておりながら、あくる日冷たくなつて死んで行つた者もおる。あるいは私自身足に紫の斑点ができて歩けなかつた。いわゆる作業と労働というもののバランスがとれなかつた。それがためにどんどんどんどん死んで、やがては自身にそういつた番が来るであろうという絶望感が私たちを取巻いておつたのであります。そういつた死んで行つた者、その民主運動では、当時将校はあぐらをかいてわれわれ兵隊を彈圧し、われわれのピンをはねやつたからわれわれ兵隊は死んで行つたのだ。民主運動ではこの死んだのを完全に将校の罪になすりつけて、この民主運動を持つて行つております。シベリアから帰つたいわゆるデモクラートという人たちは、この死んだ責任を、やがて必ずや日本将校の罪であつたということを言うでありましよう。この民主運動では、そういう死んだ罪を完全に将校に切りかえて、罪をなすりつけた。これが反動運動の一つの大きなテーマとなつたのであります。死んだ人たちは病院で裸のまま死んで行つたのであります。
○内藤(隆)委員 大体おつしやることで実情はわかりました。日本人の抑留者の民主グループですね、こういうものがあなた方反動と日された者に、一体どういう態度をしておりましたか。
○吉田証人 民主グループの日本人でありますか。
○内藤(隆)委員 そうです。
○吉田証人 いわゆるつるし上げ、カンパというものが徹底してやられた。それがために経済闘争と称して、先ほどお話したように、向うの捕虜生活の場合、パン三百グラムとか、あるいは穀物四百五十グラム、魚百五十グラムータバコ一日十五グラムとか、働く人々、あるいは将校の給與についてみな九つぐらい表があるのでありますが、そういつたものを、反動だから食わす必要はないというので、まずその炊事班長をやつておるやつが削るのであります。日本人が日本人の飯を削るのであります。最もひどかつた私自身の体験の実例としましては、クビエト・ガワ二一港という樺太の正面の港におつたときでありますが、そういう。ヒンを削られ、また食器も全然洗わないのにつけかえて来ますし、あるいは飯をたるの中へ入れて、けつて出すというようなことで、私たちはハンガー・ストライキをやつたのであります。そのときにたまたまその收容所では自活作業といつて、海から魚やこんぶをとつて来て食つておつたのであります。それがたまたま夏のことでありまして、て、その魚の中毒で日本人收容所が全滅したことがある。だがわれわれはハンガー・ストライキをやつておつたのであたらなかつたというようなナンセンスもあります。われわれはピンをはねられたために、その結果は所長命令でもつて、命令書を持つて行つてわれわれの飯を食うというようなこと。それから反動なるがゆえに現実に体験したのでは、四七年の十一月に零下四十度くらいにおいても、われわれは防寒被服一つ支給されなかつた。あるいは食堂で菊の御紋章と日の丸の旗の踏絵が暮れで、われわれ反動はその食堂へ入るときに菊の御紋章、日の丸の旗の踏絵を踏まなかつたために、テロ行為となつて、現在草地定吾という人たちは残つておりますが、全治三週間の傷を負わされ、また私は重営倉五日で終つた。このように食い物、着る物、それからふろあたりも十日に一ぺんカン詰カンニはいで入れとか、あるいは床屋へ行つても、反動だから刈る必要はないといつて、わざわざ刈らなかつたのであります。そういうことが盛んに行われました。
○内藤(隆)委員 まことに不愉快な言葉ですが、つるし上げという言葉が共産党辺から出て来ておりますが、あなたはこのつるし上げにがかつた経験がありますか。
○吉田証人 何十回とあります。
○内藤(隆)委員 最も模範的にかけられたその経験を述べてください。(発言する者あり)本場のつるし上げを聞くんだ。
○吉田証人 まん中へ出ろといつてまず一人ひつぱり出される点呼なら点呼が済んでから一人出るのであります。そのときに委員長が、かねがねさくらを使つて、たれがやれということをちやんと委員会の方へおぜん立てをして、きようはたれをつるし上げる、夜点呼のときにアクチーヴと称するのが出て、何のたれ平は、たとえば吉田幸平は国際法に基く将校の作業規定をたてにとつて彼は作業に出なかつた。いまなお警察国家としての軍隊の将校の残滓を断ち切つていない。彼こそわれわれ共産党に対して闘うものである。こんなやつは帰す必要はない。いわゆる白樺のこやしとしてシベリアの荒野に葬り去らなければならないとか一人が言うと、しかりとか、同感とか言つて、みなわつとアジるのであります。そしてそのアジるのもまた非人道的というか、前べ出て、何といいますか、罵詈罵倒、人間としての存在、あるいは人間としての人権とかは完全に蹂躪して、しまいにはもみくちやにして、胴上げして、ぱさつと落とす、そういうようなのをつるし上げと言います。
○内藤(隆)委員 これまたまことに驚くべき共産党独特の、本場の戰術がよく見えるようであります。 そこでその悲惨な状態にいる抑留者の方々が、お互いにみな帰りたいものだから、民主運動に参加するようた形勢になるでしようが、お互いがスパイをし合うような形になつて来ておつたと思うが、その反動分子摘発闘争の実態について、少し聞かしていただきたいと思います。
○吉田証人 スパイ組織といいますか、たとえば日本へ帰つたらほたもち、大福もち養いたいと天講ず残る気持はあるけれども、現実にはせめてぼたもち、大福もちを帰つたら食いたいと二人で話をしますと、たれか聞いておりまして、その次の日ひつぱり出して彼をつるし上げる、それがためにお互いに日本の故郷の話を語つたり、あるいは現在の作業のことについて、自分の人間としての芳しさを少しでも訴えます。すると、そういうようなことをお互いが言うことそれ自体が残滓的なものを持つているというかどでやられるので、みなお互いが警戒してしまつて、あまりそういうことを言いません。だから、たれだつて、人間だつたら帰りたい気持があるにかかわらず、もう少し長く大いにやろうじやないかというような讃美的な言葉を使うと、非常に人気がよくて、最近彼は人間変化も堂に入つて来たというようなことを言います。だから、日本から手紙が来ます。家は最近景気づいて、大分もうかる、何とか行けるというようなことの書いてある手紙がいわゆる反動なんでございます。そういうものは、日本から来た手紙ですと言つて、人に見せたいのが人情です。それをやつた場合には、お前の家は人間が搾取がうまいからもうかるのだ、お前の家は帰つても共産党員にならない、いわゆる残滓の人間だ。小さな実例でありますが、そういうふうに、お互いが自分で発言できないようにびしやつと綱の中に入れてしまいます。現実に私たちが作業場でロシア人に話すならば――私たちは指揮官であつたときに、証明書をもらつてロシア人のところへ遊びに行きます。そうするとよく来たというので、ロシア料理を食わせて、明るい人扱いをする。そして喜んで全員に食わして、そのあげくはバラライカをひいて、娘とタンスを踊つたりして非常に愉快にやるが、一旦夜が明けてそのおやじがわれわれの作業現場に来たとき。ゆうべは非常におもしろくやつたから、きようは何とかおやじと話がうまく行くかぬものかと思つて言うと、作業の終りのときに作業の様子を開ぺてみて、作業が惡いと、そのときは絶対的に、徹頭徹尾日が暮れようが何が暮れようが、ここまでやれと追究して来る。もしやらなかつたらすぐ刑務所へひつぱられる。組織の中のスラブ人といいますか、スラブ人としてのソビエト人、いわゆるスラブ人としてのロシア人といいますか、そういうものが完全に現われているのです。いわゆる組織の中の人間がちやつと組まれたそういう機構が、收容所の中にも、そういつたような細胞組織といいますか、そういう組織といつたものががつちり組まれて、お互いがお互いを警戒し、お互いがお互いのあらを探し、お互いがお互いの一挙手一投足まで――たとえば豆新聞がありましたが、私たちが医務室から帰つて来て、くつをそのままがちやつとはく。そうすると、彼はかつてブルジョアに育つたからくつをがちやつとはく。このくつはだれがつくつたか。労働者がつくつたものだから、手をやつてこうやるべきではないか。彼にはまだそういう残滓的なところがあるということを豆新聞なり、壁新聞に書くのであります。そして組織の中に入れて、発言の自由といいますか、そういうものを完全に封鎖してしまう。
○内藤(隆)委員 共産党の祖国、共産主義者の天国といわれておるソビエトの事情もだんだんわかつて来ましたから、この程度でやめます。
○塚原委員 先ほど日本新聞の話が出たようでありますが、太平洋の星と日本新聞との関係、ただ輪転機や紙だけをもらつたのか、それとも編集権にも相当タッチしておつたのか。
○吉田証人 日本新聞の直接編集というのは、コバレンコフという中佐が実際の指揮をやつておりました。それが実際編集委員長であり、それにツリロコフ大尉そのほか上級中尉が四名ぐらいいたと思います。そういう人が日本新聞に紙とか写真ばかりでなく――向うにナストロイカ、建設というドイツ語、フランス語、英語、ロシア語、四箇国語で新しい五箇年計画のプロパガンタ用の美しい写真グラフが出ております。そういう記事からやはり送られて、最近日本新聞にずいぶん出ております。いわゆる編集に対する直接責任というものは、日本新聞社のコバレンコフがやる。たとえば日本新聞は少し版が小さいので、その輪転機は小さい輪転機でやつて、写真版も持つておるわけです。大きい写真を写すような場合には向うに持つて行く。いわゆる技術面における援助が大きかつたように思つています。あるいはプラウダなり、ティフォヶアンスカヤ・ズボズダあるいはダリネボボストーク、極東とか、あるいはコムソモリスクとか、そういつた新聞の転載記事も出ておりますけれども、直接の日本新聞の発行責任者はコバレンコフがやつておつたように記憶しております。
○塚原委員 この編集その他に関係しておつた日本人は何名おりました。
○吉田証人 七十名ぐらいおりました。
○塚原委員 そのおもな方の名前はわかりませんか。
○吉田証人 大体私の知つておる範囲では――主としておもだつた人の十名ぐらいしか知りません。浅原基敏というのが日本人の編集、責任者であります。土井祐助、相川後喜あとは名前はわかりませんが、隅田、石田、渡辺、小針、高野、宗像、そういのが大体十名ぐらいだつたと思います。
○塚原委員 その中で署名入りで論説を書いておつた方が相当あるのですか。
○吉田証人 あります。皆書いたあとには浅原基敏とか、あるいはコバレンコフ中佐のペン・ネームは大場三平と言われていますが、そういつた人が書いたあとに署名しております。浅原は、モロトフにならつた諸戸文夫というのが最も大きなペン・ネームだつたと思つております。
○塚原委員 この編集者以外に、その署名入りで記事を載せてやるというようなことで、応募させてそれを載せることはあるのでありますか。
○吉田証人 そういう各收容所から応募して来るということはありません。いわゆる日本新聞社の出先でやつて、各新聞社は第四面に通信欄というものがあつて、そこに各分所の民衆運動の活動状況について連絡をとる程度の通信欄がありますが、いわゆる日本人が現在行うような各人が投稿してやるということはありませんでした。
○塚原委員 この收容所にあなた方がおられる間、あなた方を教育するテキストというか、バイブルというか、日本新聞ということをさつきも聞きましたが、それ以外に何か該当するものがございましたら、お聞かせ願いたい。
○吉田証人 あります。まず大きい方では「ソビエト共産党小史」、「ボルシエヴィーキ」それから「レーニン全集」、「スターリン全集」それからスターリンがス、ベドルフ大学において党員獲得のために記念演説をなした「レーニン主義の基礎及びレーニン、主義の諸問題」それから「日本共産党小史」「市川正一公判廷における述懐」それから原書ではマルクスの「資本論」あるいはレーニンの「国家と革命」あたりも見せてくれました。それからパンフレットとしては、レーニンの農民に訴う」とか「今何をなすべきか」「一歩前進二歩後退」あるいは「ツアー制における農村について」とか、あるいは新しいのでは「戰後王箇年計画」とか、あるいはコスモポリタニスムについて」あるいは「右翼社会民主主義者の本質について」あるいは「弁証法的史的唯物論」そういうようなのがパンフレットに出ております。それから小説としては、日本人で書いたのは小林多喜二の書いた「蟹工船」、徳永直の「太陽のない街」それから新しいのではアカハタの記念募集に当選した延山きよしの「豚飼い日記」それから「佐倉宗五郎」それから小林多喜二の「救援二ユース」それからフーチックの「死刑前の言葉」「フランス共産党員の手紙」それからA・ファーデエフの書いた「若き親衛隊」。
○塚原委員 その辺でけつこうです。
○吉田証人 要するに。パンフレットと小説、そのほか日本新聞はテキストであります。そのほかにロシアの原書の本も、ある一部には貸してくれたことは承知しております。
○塚原委員 向うの收容所関係のソ連の将校が、あなた方にいろいろな政治教育をやつたと思うのですが、抑留中内地の国内情勢、政治情勢というものについて、どういうふうな批判をしておつたか、おもなる点を一、二あげていただきたい。
○吉田証人 四六、四七年、日本の経済事情というものがあまりよくなかつたころ、日本にはすでに一千万からの餓死状態が出ておるというようなことが伝えられ、あるいは日本の経済上の歪曲された事実や餓死が出て来るとか、あるいは去年あたりではいわゆる産別傘下の労働攻勢といつたもの、当然日本はこういうふうになりつつある。産別傘下の労働者は国鉄を入れて七百万になつたとか、すでに日本は完全に民主化され、共産化されつつある。いわゆる政治的、経済的にそんなようなことがわれわれに伝えられて、いわゆる人間変革を遂げつつあつた人達には、当然新しい時代は資本主義からやはり社会主義へ移行するんだというふうに、感情というか、そんな感じが強くあつたように記憶しております。
○塚原委員 日本新聞に出ている日本国内の各種のニュースというものは全部アカハタの転載ですか。特にアカハタと書いてあるんですか。
○吉田証人 アカ八女転載第何号第何号、第五三四号、特にアカハタ転載の場合ははつきり出されております。それが四七年ごろははつきりしておりません。たとえば社会党が選挙で非常に進出した当時、ああいつた時代はアカハタの記事であつたということはたしかでありますが、アカハタとは括弧して書いてありませんが、四八年の終りころから四九年にかけては、アカハタ転載の記事は、アカハタ第何号第何号と書いておりました。
○塚原委員 一般記事とアカハタの転載記事との。パーセンテージはどうですか。
○吉田証人 パーセンテージは多かつたと思います。
○塚原委員 アカハタの転載の方がですか。
○吉田証人 そうです。主として二面の日本事情のテキストの中には、はつきりわかりませんが、相当のパーセントになると思います。特にプラウダあるいはティフォケアンスカヤといつたものの転載も相当あります。
○塚原委員 先ほどの証言の中に、昨年の六月でしたか、日本新聞の第二面に徳田球一君の写真入りの談話が出ておつた、こういうことを証言されたようですが、概略でけつこうですから、その談話を簡單にお知らせ願いたいと思います。
○吉田証人 いわゆるソビエトというものはスターリン五箇年計画のために一九一七年の革命当時のソビエト、ツアー制に比較して、現実にわれわれはトラクターや農業、すべての点においてこのように上昇を示している、社会主義は非常に上昇を示し、現実においてソビ工トというものはものすごい上昇過程にある、日用品も最近はつくり出しているし、非常にいいのではないか。そういつた時代において現実のソビエトを目撃しながら、なおまたソビエトのそういつた優位性がわからないという者は気違いか、さもねくば病人であるということがはつきり出ております。
○塚原委員 それから点呼のときに、全員に読まれたという文書ですが、その点呼というのは、ソ連の将校が立会つているんですか。民主委員長というものだけがとるのですか。
○吉田証人 点呼の人員は、ソ連側の日直将校が責任がありますので、人員だけ当ります。收容所によつては、日本人側が人員の有無を報告して終るところがあります。これは地区、分所によつて違います。正式にいつたら、日直将校があたるのでありますが、それが経つたあとで、日本人のアクチーヴがその時間を宣伝時間としてやるのであります。
○塚原委員 徳田書記長から、いわゆる反動は帰すなということが点呼のときに読まれたというようなことを、さつき言われたようですが、それはいつごろですか。いつごろの点呼だつたですか。
○吉田証人 去年の九月初句ごろだつたと思います。
○塚原委員 去年の九月の初旬ですね。
○吉田証人 そうです。
○塚原委員 わかりました。
○西村(直)委員 日本新聞にアカハタの記事が転載になつておつた場合、その場合において日付などは書いてありませんか。
○吉田証人 第何号と書いてあるだけであります。日付は出ておりません。
○西村(直)委員 号数ははつきり入つておりますか。
○吉田証人 はつきり入つております。
○西村(直)委員 それから九州で徳田書記長が遭難をされた。これらについてはやはり日本新聞に大きく出ましたか。
○吉田証人 それは四八年の八月でありましたが、いわゆる徳田書記長が佐賀、久留米――九州演説の途中、たしか佐賀だつたと思いますが、古賀とかいう某によりて手榴彈を受けた。ところがかれは一週間ないし二週間の負傷を負つたということになつて、いわゆるそれは反動であり、まだ民主運動に参加していない人たち、そういつたやつらかやつたんであつてわれわれ在ソ間において徳田書記長に反逆の矢をぶつつけるやつ、こういうやつこそ徹底的にシベリアで踏みつぶされなければいかぬということが出たのを、その当時私たち感じております。
○西村(直)委員 その事件はいつごろ起つたということは、その当時お聞きになつたと思うが“それがただちに伝つて来たものか、それとも相当時をおいて出て来たものか。
○吉田証人 あの事件は、私内地に来てまだ読んでおりませんが、たしか四八年八月ごろだつたと思います。事件は七月ごろではなかつたでしようか。
○西村(直)委員 それから日本新聞の中心となる記事は、今証人が言われたのでは、ナホトカで引揚げるときに二十日ほど帰還者読本というものを読まされた、これはおそらく日本新聞の中の掲載ですね。
○吉田証人 そうです。
○西村(直)委員 その帰還者読本の中に、先ほど証人の話によると、野坂、徳田、志賀というような方々の名前が出ておりますが、それらの内容は何でありますか。
○吉田証人 内容は日本経済事情分析といいますか、さつきお話したような手紙の内容で、いわゆる経済事情分析、具体的にははつきりしませんが、いわゆる日本経済事情、それから引揚げ態勢の受入れといいますか、そういうような記事、確実なことは今忘れましたが、大体そういうふうなものが出ておつたと思います。
○西村(直)委員 あるいは記憶にあるかどうかですか、こういう記事はありませんでしたか、野坂參三氏の言葉として、君たちはソ同盟の赤軍に救われなかつたら、シベリアで死んでいるのだ、その関係は…
○吉田証人 ありました。いわゆるわれわれは、ソビエトの満洲への進駐によつて奴隷兵士から解放され、それでなかつたならばわれわれは完全に満州の野に死ぬべき人間であつた。だから今われわれは一般人間変革を遂げた以上、いわゆるボルシェヴィーキ、コミュニズムのために、一旦満州で捨てた生命を今捨てるべきではないかということが出ておつたことを記憶しております。
○西村(直)委員 内地でも共産党の機関紙に――正式な宣伝機関紙にちやんとそのことが載つておる。これは証拠を持つております。「諸君は、もし、四年まえに、ソ同盟の赤軍に救はれなかつたならば、満州の荒野に屍をさらしていたかもしれない。しかしさいわいに諸君は命を救はれたばかりではなく。新しい人生観、新しい理想をつかむごとができた。この理想のために、全生涯をささげることほど生きがいがある、これより尊いことはないはずである。革命に命を捧げよ。」こういうような言葉で、野坂參三氏の言葉として、共産党の機関紙は昨年の五月から仮入党書を添えまして、各帰還者に慫慂して仮入党をさせておる。私の今読みました文章のようなことが出ておりましたかどうか。もう一度言いますが、あなたはシベリアで助けられたんだ。そうして一生懸命ソ連から教えられたんだ、これをわれわれに日本人的な立場で言えば、つかまつたんではなくて助けられたんだ、そうしてシベリアで一生懸命留学させられたんだ、だから感謝しろ、だから命を捨てたつもりで、もう一ぺん革命に参加しろ、こうい6ようなことは載つておりましたか。
○吉田証人 一回捨てた生命を新しい革命のために捨てよ、そういうことは出ていました。
○西村(直)委員 問題を少しかえますが、日本新聞はだれにずつと編集されていましたか。
○吉田証人 諸戸文夫によつてされていました。
○西村(直)委員 それがずつと引続いてやつていましたか。
○吉田証人 それは一九四七年の十月、そのころ編集主任は小針延次郎というのがやつておりました、ところが日本新聞社としては、天皇制打倒というスローガンを直接あげることは、まだ時期が早いといつて、小針延次郎はこれをやめた。その当時浅原がプロレタリア・デモクラシーとしての出発のために、天皇制打倒、人民政府樹立というスローガンをあげなければならないというので、日本人の記者同志で大きな闘争が起きて、その結果浅原案を採用して、日本新聞社は、八月の全地方議長会議において、日本新聞のプチブル的偏向というものは、完全にプロレタリア新聞として切りかえられた、そのときまで日本新聞の編集主任は小針であり、その以後浅原がずつと、シベリアの民主運動の一翼とし、て、スターリンへの誓いまでやつておつたのでありますが、いわゆるスターリンへの誓いをめぐつて、このみつぎ物をだれが持つて行くかということで事件があつて、ここにいわゆる浅原事件というものがこの民主運動の中の特筆すべき事項として取上げられなければならぬと思つております。シベリアの民主運動のみつぎ物をモスコーべ持つて行くためには、日本新聞の編集任である淺、原が持つて行くべきであると、彼は主張したのであります。そういつたスターリンヘの誓いをめぐつて、彼は完全に葬り去られたのであります。要するに日本新聞社は、ソ連側はコバレンコフがやつておりましたが日本人は小針、浅原、それ以後相川がかわつたのであります。
○安部委員 証人にお尋ねします。証言の中に帰国反対運動ということを申されておるのであります。鉄條網に囲まれてしかも非常な困難をなめて、一切の行動は監視されている、そういうところにおつて、一日も早く日本に帰つて来たいというのは人情であります。しかるに帰国反対運動が起つたというのはどういうことであるか、その実態を伺いたい。
○吉田証人 民主主義者でない者は日本へ帰す必要はない、シペリァの白樺のこやしになれというので、各分所では帰国反対決議文というものをみなやるのであります。彼らはあくまで国際法とか、そういつたものにたよつて労働も何もやらない。われわれはここにおいて、全員收容所の名おいて彼らをシベリアに残し、日本へ帰してくれるなというようなことをとうとうと述べて、その下に全員署名捺印し、それをソ連側に出すのであります。
○安部委員 それはいつごろ、どういう人の主唱によつてそういう運動が起つたのですか。
○吉田証人 日本人のアンチ・フケシスト委員会の委員長が全員に檄を飛ばして、各自の收容所、たとえば私たちならば、ムーリーの收容所では五同ぐらいやりました。各收容所においてそういつた帰国反対運動をやりました。疊四枚ぐらいの大きな幅の決議文を書いたこともあります。
○安部委員 そういう運動に対して、たくさん賛成者があつたか、あるいは反対者があつたか、そのパーセンテージは。
○吉田証人 パーセンテージは、それは反動のほかは全員賛成であります。もしそれに服さなかつたら、それはまた反動としてつるし上げられる。
○安部委員 その結果はどうなつたか。
○吉田証人 それがためには、帰国のために名前をわれわれが呼ばれる。そういつた場合には、彼らは向うのMVDに通報して、私個人の例をあげるならば、トムニンの收容所で帰国するように命令をもらつて床屋にも行き、ひげもそり、所持品検査もやり、書類もみな取上げられ、帰るだけになつて、夜二時の汽車に乗ればいいということになつておつて、いざとなると営門で名前を呼んで、イデオロギー的に反動と認められる人は残されたわけであります。
○安部委員 先ほど同僚塚原君並びに西村君の質問に対してあなたのお答えになつたところをよく考えまする場合において、日本共産党と、ソ連におつたアンチ・ファシスト委員会というのと、何らか連絡があつたように思はれるのですが、その連絡がひいては引揚げの障害になつたというようなことがありましたか。
○吉田証人 いわゆる日本新聞を通じての反動闘争、あるいはアンチ・ファシスト委員会の帰国反対運動については、彼らは常に、われわれの民主運動は日本共産党と直結しているのだということを言つておるのであります。
○安部委員 さらにお聞きしたいのでありますが、政治サークルというようなものがあるように聞いておるのでありますが、その内容について伺いたい。
○吉田証人 政治サークルというか、私が目撃した事実を申し上げますと、四八年の十二月、ソ連の内務省で発表になつた捕虜の共産化に対する政治プランというものが、こんな大きな紙にタイプに打つてある。一月にはどれだけ、二月にはどれだけ、三月にはどれだけ、いわゆる各期闘争における政治教育に関する月別、週別とずつとあつて、その間に、たとえば十一月の水曜日と火曜日は政治情報、政治サークルがある。そうして作業に出る前に、全員が集合して必ず政治情報を聞く。十一月の第一週における月曜日の政治情報のテーマは、沖縄の軍事化に対するアメリカの行き方、あるいはアメリカの現在における日本植民地奴隷計画についてとか、あるいは日本の現在の経済情勢の分析について、そういうようなテーマがちやんとあるのであります。それに基いて日本人が政治情報、あるいは政治サークルをやる。新聞の記事をテーマにする場合もあります。
○安部委員 その新聞の記事というのは、先ほどあなたが申されました徳田、野坂、あるいは志賀義雄の諸君らの談話を日本新聞に転載した記事、そういうものがバイブルのような一つのテキストになつて、繰返し繰返しそういうことを教えるわけですね。
○吉田証人 はあ、そういつた記事がたくさん繰返されます。
○安部委員 政治サークルの講義を受けるのは一週間に何回ですか、二回ですか、三回ですか。
○吉田証人 作業を終つてから夜消燈するまでの間は、政治サークルあるいは各サークルがみなあります、まずソビエト側の日本新聞、それから收容所の中にはアンチ・ファシスト委員会、その下にその外廓的な準民主グループ、アクチーヴ集団、講師団、そういうものがあるのであります。その下には民族青年独立行動隊、あるいは青年同盟とかあるいは作業突撃隊、そういつたものが外廓団体としてあります。その下に大衆がおります。作業から帰つて寝るまでの間に行事予定があります。政治サークルあるいは日本の歴史、社会科学分析とか、そういうテーマがありまして、そのサークルがみな帰つてから寝るまであるのであります。
○安部委員 それでは社会主義とかあるいは社会主義の優越主義とか、スターリン憲法を中心にいろいろ資本主義と比較研究する場合もありますね。
○吉田証人 はい。
○安部委員 それからソ連の対外政策、あるいは世界植民地化とか、新戰争の放火者としての米国とか、対米政策、そういうことに関してたれか講師となつて講義をするのですか。
○吉田証人 日本資本主義発達史とか、肇国史とか、あるいはアメリカの現在のコスモポリタニズム、右翼社会主義、マルクス経済学史とか、そういうものが新聞にどんどん出て来るのであります。そういうものをテキストにしてやつております。
○安部委員 たとえば民族擁護の問題とか、天皇制とか、天皇に関する暴露性のようなごとが講義にありましたか。
○吉田証人 たとえば例をあげるならば、天皇裕仁をつるし上げろというようなスローガンが出ました。当時日本新聞に、先ほどお話しました友の会等、こればブルジョアのイデオロギーのアジテーションの記事だと思います。日本新聞には、上は天皇で、下は郵便屋の大きなカバンがあつて、ここに帝国ホテルが画いてあります。それに御紋章が入つていて、何万株の株主となつておる。しかも彼は帝国ホテルの株主であり、日本郵船の株主であり、百三十五万町歩の地主である、われわれの最も大きな地主である、こういうものにわれわれがしいられて、裕仁の阿片患者にされておつた。あらゆる患者は天皇狂によつてつるし上げられておつた。なおかつ日本における天皇制の機構は、がつちりした官僚機構の中に守られておる。そこいらのおまわりによつてわれわれの生命は左右されておつた。いわゆる人権も何も尊重されていない。天皇制そのものに関する大きな暴露があつて、日本新聞の前半期は主としてそのアジの時期であつたと思います。
○安部委員 それから世界平和、民族独立というものが、共産党員でなければ完成することができない。アメリカの占領政策は、日本もしくは東洋民族を一つの植民化したものであるという方向に、そういつた線に沿つて宣伝を行つておるというようなことがありましたか。
○吉田証人 もう一度おつしやつてください。
○安部委員 平和民族独立運動というものは、共産党に入党しなければできない。あるいは共産党の手によつて完成されるものである。現在のアメリカの占領政策というものは、日本を一つの植民化するものだというようなことも講義のこつちにありましたか。
○吉田証人 民族独立というのは大きなスローガンの一つであります。民族独立青行隊、若き青年よ立て、スターリン民族精神、こういうものに対してウズベキスタンとかキルギスでは、現実に今日スターリンの五箇年計画のもとに、彼らは喜んでやつているではないか、われらのボルシェヴィーキの精神に立却した世界観はインターナショナルであり、そこには何らの民族的差別もない。現実のアメリカの占領下、日本は新しいインターナショナルにおける民族の価値はない、いわゆる日本の若き民族よ立てというような、われわれの感情をそそりたてるようなスローガンがあげられておりました。
○安部委員 中共の問題とか、あるいは昨年一月の日本の衆議院の総選挙において共産党が大分議席を獲得した。そういうことに関連した講義がありましたか。
○吉田証人 日本共産党の代議士が社会党の脱落によつて三十五名出て、それだ対して自由党も多く出た。三十五名を獲得したということは、現実の日本の情勢というものがすでに共産化され、前進しつつある。いわゆる歴史の歯車というものはかわらないのだ。しかしまだなおかつ反動的なそういつた感じを持つておる。この現実に示す三十五名、三百万の人員を獲得した事実をお前たちは肯定することができないかというので、非常に宣伝がありました。
○安部委員 野坂參三氏の話も出たのでありますが、これに二つの傾向がある、この野坂參三氏のことについて知つておるだけおつしやつてください。
○吉田証人 日本新聞に出ておつたのには、いわゆる極左的偏向に対するひより見主義と申しますか、細胞の動きとか、暴力革命と平和革命の主張、そういうようなことが出ておつたことを記憶しております。
○安部委員 ソ連国家警察、ゲーぺーウーの後身のMVDはどういう力を発揮したのですか。あなた方に対してはどういうことをやつたか。また收容所長の立会いのもとに大衆裁判、いわゆる人民裁判が行われたのですか。
○吉田証人 いわゆる大衆裁判――私自身も大衆裁判に付されたのでありますが、大衆裁判は日本人の議長がおつて、そこには議長という大きな字が書いてあつて、その側に検事、判事、陪審員――主として日本人が立つております。またそこにMVDの将校、所長、通訳もおります。作業に将校はみな請願書というものを強制的に書かされた。それを私たちが書かなかつたために、いわゆる大衆裁判にあつた。八名並ばされて、日人の検事がわれわれを論告するわけです。なぜお前はやらなかつたか、そういつた理由及びマルクス批判、日本共産党に対する考え方、あるいは労働に対する考え方、そういつたものをどんどん聞きます。通訳はそれを通訳します。やらないという理由で私は捕虜管理局の営倉に二十五日入りましたが、そういうふうに大衆裁判をやり、営倉に入れる。そういつた大衆の圧力といいますか、そういうものによつて人間のイデオロギーをかえて行く。
○安部委員 それは何ですか、平塚運動に共鳴しないとか、たとえば反動的であるとか、そういうものが大衆裁判によつて判決を受けて、その結果宣告されて、非常に苛酷な労働に服する。こういうことなのですか。それをもう少し……
○吉田証人 私の知つておる人で若松、宮本、芥川、それから元検事の阿部という人だつたと思いますが、こういつた人たちは、いわゆる労働とイデオロギーは別に考えて、労働には出たのでありますが、イデオロギーには反動であるというので、作業には二回休憩があるのですが、その休憩もさせず、かれらは今なお人間変革を来していないのだ、そしていわゆる祖国ソヴェトの労働に参加している。彼は全然日本共産党の主義は…… 〔発言する者多く議場騒然〕
○安部委員 まだ間くことがありますけれども、同僚諸君の質問もありますから、私の質問はこれくらいにしておきます。
○鍛冶委員長 ちよつと申し上げますが、前に聞いたことはなるべく重複しないようにお願いいたします。田淵君。 〔「発言させ方が不公平だ」「一旦休憩しろ」と呼び、その他発言する者多く、議場騒然〕
○鍛冶委員長 まあそういうことを言わずに、早くやらせたらよい。関連して簡單にやると言つておるんだから……
○田渕委員 証人に伺いますが、ソ連のメーデーの状況と、民主グループのメーデーのときにおける活動というのはどんなものですか。
○吉田証人 メーデーは働く人の集まりとして、向うの十一月七日の革命記念日とともに、二つの大きな年中行事として行われ、それがために捕虜收容町でも堂々たる行事がここになされるのであります。收容所にはテープが飾られも徳田書記長、志賀、市川、渡邊政之輔あたりが神格化され、生きた神様としてみな收容所に飾られたのです。そうした人たちにはテープを飾られ、マルクス、工ンゲ売スと同じようにまつり上げられておるのであります。まず朝メーデーの宣誓あり、檄文を読み、それから余興があり、デモコーラスが行われ、日本人は收容所の中をプラカードを持つて歩くわけです。また演劇――もちろんプロレタリア演劇ですが、それが行われる。しかし食物は、メーデーだからといつて特別に余分の飯をくれるわけではなく、毎日毎日われわれに支給になつておるわずかのノルマを削つて残しておいたもので、メーデーのときにまがいものを、たとえば天ぷらなら天ぷらのまがいものをつくるのです。收容所によつてはたくさんの種類のものをつくるところもあるが、それは非常に給與のよいところです。また收容所ではアルコールは禁じられておりますが、收容所によつては向うに内密で許してもらい、各自コップ一ぱい飲むところもあります。檄文宣誓あり、デモコーラス、デモンストレーション、演劇をやり、夜は各部屋でインターの音頭というか、鉢巻を省いていわゆる一種のストームを收容所の中でやる。そういうときには反動といわれる者はメーデーに参加できず、飯を食わされず、いわゆる完全に列外の人間として葬り去られておつたわけです。またそれらの演劇なり何なり、そういつたものに、いやしくも自分の感情のもとに参加しなかつた場合は、そういう者すべてが反動として完全にまたつるし上げられるのであります。ですから自分というものを没却され、すべての行動を左右しておるこのメーデーというものは、ある人にとつてはほんとうにうれしいでしようが、その中の半分以上は毎日労働のため疲れておるのですから、少しでも休みたいのですが、そういう行事で休むことができない。働く人たちにとつては休みたいにもかかわらず、そういう行事行事で追われて、結局休み得ないという事情であつたわけです。收容所によつては休ませてくれるところもあつたが、そういう收容所はまだよいのであります。現実に私どもはメーデーだといつて、そういう準備をしても、たとえば命令一本によつて――向うは一箇月四回休んでもよいようになつておつて、メーデーが日曜日にぶつかればよいのですが、ぶつからない場合がある。それを切りかえて休ませてくれる收容所はまだよいのですが、そうでなく、メーデーというのに收容所長の命令で強制的に労働に出されるところもあつて、その二元的機構による一つのトラブルが起つておる。ある收容所ではメーデーを祝わせてくれておりますが、片方の收容所では作業に出させるという事情にあつたわけであります。とにかく四七年、四八年あたりは政治部員がすべてを完全にリードし、收容所長もみずからイデオロギー教育に重点を置いてやつて行つておりますので、私の入所した四七年ごろまでのメーデーは、そんなぐあいであつたわけであります。もちろん都会と炭鉱收容所、あるいは密林收容所によつてその形態は違つておりますし、民主運動のイデオロギーの流れも違いますが、大体において、沿海のハバロフスク地区での約三百名ずつ十三期生まで、少くとも五千名までは、ソ側の将校から直接赤い教育を受け、あるいは日本新聞社によつて教育を受けた者が流れて入つて来ておるわけであります。
○田渕委員 十一月七日の革命記念日というのは、どういうような状況で行われておりますか。
○吉田証人 去年は革命三十二週年記念日であります。十一月七日ペトログラードが落ちてここに三十二年というので、彼らは年中の一番大きな行事として、イルミネーションを立て、收容所にもアーチを立て、メーデーのようにやります。特に革命記念三十二週年大会とか、あるいは演劇、コーラス、日本人のダンス・パーティが收容所の中で開かれるわけであります。もちろんデモは行われます。特に去年あたりのデモは、私のおつた收容所は中央に道路があるのですが、そこを向うの赤軍あるいは各会社、団体のものすごいデモが流れるのでありますが、日本人が收容所の中でプラカードを立ててデモをやつておるのを、窓の外から笑いながら眺めて行くというような状態であります。これは一年中で一番大きな行事ですから、メーデー以上に大きなものが行われます。特に昨年あたりの革命記念日には、いわゆる收容所における文化活動というものは相当高度に発達しておりましたから、三百名ほどの俘虜收容所における日本人をもつて、盛大な合同演出等が行われました。そのように日本人がいわゆる人間変革を遂げた人として、いわゆるソヴェトの人間と同じ気持で祝うのでありますが、いわゆる捕虜という気分を捨てて……。そのあたりは、日本人の頭の見方といいますか、何といいますか、私たちは、全然そういつた行事にも参加しませんから、そこらあたりは御想像になつていただきたいと思います。
○田渕委員 この收容所内において、いわゆる労働貴族というものはどういう状況でおるか、これは詳しく、ゆつくりでよろしい。やじが出たら私がとめますから……。(発言する者あり)
○吉田証人 いわゆる反軍闘争の過程において将校がいわゆるイデオロギーに倒れ、そして懲罰大隊に皆特つて行かれた。そのあとは一等兵の大隊長が天下をとる。下士官が收容所の天下をとる。実権は反ファシスト委員会の人にありますが、ここにおいて今まで軍隊の下士官であつた人たちが、いわゆる反ファシスト委員会の人たちが将校の服を着、将校は将校の服を脱いで兵服を着、長ぐつを脱いで、円匙、十字くわを持つて作業に従事する。一兵であつた人がハバロフスクの講習を受けて来ると、アクチーブとして彼は将校の服を着、長ぐつをはき、将校帽をかぶつて、ここに民主将校ができる。そういつた人たちが反ファシスト委員会の文化部長、宣伝部長、作業部長とか、サークル員とか、そういつたものをつくる。特に三人だけは毎月百ルーブルの金をソヴェトが宣伝費に充てておりましたから、そういう人は町のバザールに行つて。パンを買つて来ることもできる。鉛筆も消耗品も買うことができる。いわゆる私たちが入ソした当時は、作業場、收容所をパスポートをもらつて動いておつたのが、彼らがパスポートを持つて動くわけです。民主将校が労働貴族として出発を開始しておるわけです。そのほか作業場、いわゆる被服工場、ミシン工場、入浴場、床屋、そういつたところの長は、一応アクチープに準ずるところの給與がございますから、收容所におけるところのボスとしての存在も行われるのです。日本新聞では一時民主将校をたたいておりました。いわゆるかつての乙種幹部候補生であつていわゆる将校になれなかつた、反軍闘争に大きな一役を担つた人たち、そういつた人たちがすぐ服を着たことをたたいた後は、大体実際に若い義勇隊から入ソした人たち、あるいは現役兵で若い人たちが加わつた時期には、そういつた服装は少しずつ消えて行きましたが、いわゆる民主運動の過程においては收容所内における労働貴族というものは、そういう……。(発言する者あり)
○田渕委員 どうぞおすわりになつて、ゆつくり。私はスタハノフ運動というものは、能率を増強する運動だと思つておる……。大体疲労が百パーセーントに達したら、次の生産能率が上らぬから、少くとも六〇%ないし六五%くらい行つたときに一応休養さして、そうして次の能率増進をして行く、生産を上げて行く、こういうのをスタハノフ運動の能率増進法と解釈しておる。ところが今伺うと、平塚運動というものは一五〇%、つまり五箇年計画を四箇年計画で切り上げる。これはスタハノフ運動に名をかりて酷使したことに結果はなつおる。われわれも産業人だから非常にこのスタハノフ運動というものを勉強したものです。これをうまく使つて行くなら、疲労の一歩手前に休まして、あまり使い切らぬうちに次の作業に入つて行くということが、疲労を継続しないから非常に能率が増進して行く。こういうような意味にわれわれも解釈し、そういうようなぐあいにやつて来ておつたが、先刻のお話では、どうもこの平塚運動というものは、五箇年計画を四箇年計画に切り上げて酷使して、しかもそれがいかにも偉大、なる労働の英雄的なような何を受けて、しかも嚴粛な楽隊のもとにほめられる。結局われわれ同胞を酷使して、しかも帰国を遅くして行くというようなものが、ソ連の英雄的な存在になつておる。こういうような線に持つて行くというようなことが、どうもわれわれ内地人として解せないのです。こういうような、どうも共産党がたえず言うている。大衆のためだとかいうようなことに全然相反したことが、ソ連で現実に行われておる。こういうような点について、スタハノフ運動と平塚運動というものとの区別ですが、またこの平塚運動を遂行する上においてどれくらいの犠牲者が出たかということを、ゆつくりと、長く、ひとつ承りたい。
○吉田証人 いわゆる本もののスターリン全集に出ておるスタハノフ運動、あるいは日本で言われておるスタハノフ運動というものは、一応みな読んで知つておりますが、現実にこれを労働に実施せずしてはあり得ないのであります。いわゆる労働を高揚するために、平塚という人間がいわゆる優秀な人員を集めて、そうして今までの低調な作業を五百何パーセント上げたと言つておりますが、その收容所長の大尉が、お前平塚を知つておるか、あれはおれの收容所のやつであるが、かれはスタハノフ運動というものをよく勉強して作業を上げた。もちろん私はスタハノフ運動に関しての理論的なごとを述べることはやめます。現実にどういうふうに労働と結びついて来たかだけしか述べません。もちろん私証人として議論に来ておるのではありませんから……。結局それが五〇〇%に上つたものですから、それを上げるためには一つのからくりといいますか、各收容所から若い者だけ、いわゆる青行隊のやつだけ集めまして作業突撃隊といういわゆる反ファシスト委員会の外廓団体というものをつくりまして、今まで作業の低調であつたものを、いわゆる優秀なものを集めて作業をぐつと上げる。ノルマに対する五〇〇%まで上つて行く。それを日本新聞社はタッチし、て、そうしてこれを全シペリァに、こんなに大きな写真を出して、日本新聞の二面にもいわゆる平塚分団という名前のもとにも労働英雄、こういうふうに行きます。それが平塚分団の檄分として出る。すると各地区及び各分所からの、この檄文に対する労働闘争宣言といいますか、そういうものが日本新聞社へ送られるのであります。それがまた各收容所へ行きます。それがためにここに労働闘争といいますか、そういつたものが行われるのであります。労働闘争というものが行われる。それがために各收容所でお互いが労働宣言をきめた。いわゆる大隊は団とかえられ、中隊は民衆の分団とかえられ、小隊は組等にかえられて行きますから、組は組ごとの闘争宣言を、各分所は分所で闘争宣言を交換をしておるのであります。その分所の中の小隊は小隊で交換する。いわゆる闘争宣言というものを発行して、ここに平塚運動に対する各プランが各收容所にできるのであります。こういう運動に対してノルマに対しての一箇月における作業遂行プラン、それを日にちに割つて、毎日これだけというふうにグラフに示して行くのであります。それに基、いて、いわゆる平塚運動に対して労働宣言といいますか、これをどんどん求めるのであります。平塚運動というものは全シベリアを通じて、いわゆるスタハノフ労働量の能率増進のために、そういつた運動に類する日本版を平塚運動と銘を打つて出したのであります。それがために各收容所では、各作業組において常に反動闘争として、第一線にお、てアジのうまいやつ、やじのうまいやつ、それから作業意欲の強いからだのいいやつ、そういう者を労働の英雄として、絵かきが似顔を書いて次から次へ出して行くのであります。 その労働の犠牲者としては、その当時優秀者はみな收容所でパンを買います。そのためにバランスがとれます。そうでない者はやせるだけです。そのころはまだ最小限の給與がありますから、入所した当時のように死んで行く者はありませんが“そのために作業場で木は打たれて死んだとか、どろの下敷きになつて死んだとか、平塚運動の犠牲者となつて、作業場において死んで行つた人は、私たちはハバロフスクにおいて六名か七名知つています。れんが工場の土に埋まつて死んだ人、ハッパをかけて、それに当つて死んだ人、それからトロッコに敷かれて死んだ人、平塚運動に伴う犠牲者が出たのを私たちは知つています。
○小玉委員 あなたは四回帰還しようとした際に、反動なるがゆえに四回ストップを食つた。ぞれは大体時期的にけどうなりますか。
○吉田証人 四七年の十月に一回、四八年の六月、それから七月、八方で四川、そういうふうにわかれております。
○小玉委員 結局帰還がどれくらいおそくなつたわけですか。
○吉田証人 ほかの人よりも約一年半から二年……
○小玉委員 反動ということから二年……
○吉田証人 はあ、そういう銘を打た、れて、二年です。
○小玉委員 普通の人より二年帰還が遅れたわけですね。よろしゆうございます。
○石田(一)委員 ちよつと証人に申し上げておきますが、私にはいろいろな説明はいりません。一言か二言で済むことです。 まず最初にお尋ねしますが、あなたは現在どこに住所があつて、お年はお幾つでございますか。
○吉田証人 岐阜市田端町二、年は三十、学歴早稻田大学中途退学、かつて陸軍大尉です。
○石田(一)委員 先ほど聞いておりますと、元満州の赤鹿部隊ですか。
○吉田証人 そうです。赤鹿兵団です。
○石田(一)委員 赤鹿兵団の中隊長をやつておりましたか。
○吉田証人 そうです。中隊長兼連隊本部付です。
○石田(一)委員 階級は何でございますか。
○吉田証人 大尉です。
○石田(一)委員 大尉に任官なさつた年齢はお幾つですか。
○吉田証人 停戰の八月十五日付大尉ですから、二十五です。
○石田(一)委員 そうすると中隊長。連隊本部付をおやりになつているときは、要するにこの以前ですから中尉だつたわけですね。
○吉田証人 そうです。停戰まで中尉で、停戰とともに大尉に進級したのであります。いわゆるポツダム大尉というやつであります。
○石田(一)委員 あなたの中尉におなりになつたというのは、それは幹部候補生とか何とかいうことですなそれとも士官学校とか幼年学校とかをお出になつたのですか。
○吉田証人 幹部候補生です。
○石田(一)委員 学徒出陣ですか。
○吉田証人 学生中応召ということになつております。
○石田(一)委員 それで一つお尋ねします。あなたはことしの正月ごろお帰りになつて、何かシベリアにおける收容所生活に引する手記とか、感想文とかいうものを発表なさつたごとはありますか。
○吉田証人 直接まだ発表しておりません。いわゆる宗教批判とか、ソビエトにおけるコルホーズの宗教批判及びスラブ人の婦人生活、ソビエトの婦人生活、家族主義、性道徳及び向うのスポーツ、子供のスポーツ及び家庭のしつけ、それから朝日新聞にも日本新聞の実態をつくそういうようなものは投稿しております。向うの收容所生活に関するイデオロギーの流れ、あるいは收容所生活に対する取扱い、それらに関してはまだ投稿しておりません。
○石田(一)委員 今向うの文化関係とかスポーツ関係とかいろいろ述べられましたが、それらの寄稿をなさつたのは雑誌ですか。それとも新聞ですか。それはどこへ寄稿なさつたのですか。
○吉田証人 新聞です。
○石田(一)委員 何新聞麺すか。
○吉田証人 朝日新聞あるいは家庭朝日です。
○石田(一)委員 雑誌なんかに汁稿なさつたことはありませんか。
○吉田証人 頼まれましたが、やめています。
○石田(一)委員 輩行本はお出しになつていらつしやいますか。
○吉田証人 出しておりません。
○石田(一)委員 そこにメモを持つていらつしやいますが、そのメモは原稿の形になつているのではありませんか。
○吉田証人 これは原稿の形になつておりませんが、きよう証人として出るようにおととい電報をもらつていかなることを言うべきかということを考えて、いわゆる入ソ以来反動として扱われたことをどういうふうに述べたらいいかというので、大体自分の頭をちよつと整理して、メモに並べてみたのであります。
○石田(一)委員 もう一点お伺いしたいのは、あなたはこの考奮特別委員会の專門調査員に、ここにおいでになる前にお会いたなりましたか。
○吉田証人 何でございますか。
○石田(一)委員 この考査委員会の委員以外に、事務当局に専門調査員というものがあるのです。要するに事前に、この委員会にかけるまでにいろいろな下調べといいますか、そういうものがあるのですが、そのだれかとお会いになりましたか。
○吉田証人 会いません。
○鍛冶委員長 会つたのだろう。
○石田(一)委員 委員長もおかしなことを言つたはいかん。
○吉田証人 しかし会つたというのは、いわゆる徳田要請に関してどういうことかということに関して会つたことはありますが、私は今述べる内容について、どういう流れであるとか、そういうことにおいて述べたことはありません。
○石田(一)委員 私は何もよけいなことを聞いておりません。ただあなたはここにおいでになるまでに、ここの調査員と会つたことはないか、あるかと聞いているのです。
○吉田証人 いわゆる調査員といいますか、ただ徳田要請に関してあなたのことを聞きたいというので、ちよつと面会しただけですが、いわゆる流れに関してどうかとか、あるいは以下私が述べることに関してはどうだということは……
○石田(一)委員 ちよつと待つてください。私が先ほど申しましたように、お会いにならなかつたらお会いにならなかつた、あるいは会つたなら会つたというふうにお答えくださればけつこうです。
○吉田証人 あなたが言われた言葉がはつきりわかりませんが。……
○石田(一)委員 専門調査員がおわかりにならなければ、この委員会の関係した人が、この事件を調査するために行つてあなたに会つたはずだが、お会いになつたかならないかと言つたら、あなたは会つたことはないとおつしやつた。
○吉田証人 専門調査員といいますか、そういう者として……
○石田(一)委員 そうするともお会いになつたことはお会いになつたのですか。
○吉田証人 会いました。
○石田(一)委員 それはいつごろですか。
○吉田証人 きのう。
○石田(一)委員 昨日お会いになつたのですね。
○吉田証人 二十八日ですか……
○石田(一)委員 三月二十八日にどこでお会いになつたのですか。
○吉田証人 何のためにそれを聞かれますか。
○鍛冶委員長 そういうことにこだわらぬでいいのです。ありのままに言われていいのです。
○吉田証人 会いました。
○石田(一)委員 どこで……
○吉田証人 東京で会いました。
○石田(一)委員 東京といつても広うござんすと言いたくなるよ。東京のどこですか。
○吉田証人 事務局といいますか……
○石田(一)委員 どこの……
○吉田証人 電報が来たので、その電報によつて事務局へ行つて会つたわけなんです。
○石田(一)委員 電報がいつ行つたのですか、あなたのところへ……
○吉田証人 二十八日です。
○石田(一)委員 それで即日上京なさつたのですか。
○吉田証人 そうです。
○石田(一)委員 それでここの事務局でお会いになつたのですか。
○吉田証人 そうです。
○石田(一)委員 事務局でだれとお会いになつたのですか。
○吉田証人 委員の方です。名前はまだはつきり知りません。
○石田(一)委員 それは調査員ですね。
○吉田証人 事務員と言いますか、何と言いますか……。
○石田(一)委員 実は証人に伺いますが、あなたを呼ぶのは、この委員会で決定してそれから呼ぶのです。しかし事前に呼んだということもも手続上間に合わないことがあるからそれはいいとして、あなたは呼ばれたから事務局へいらしたのですか。
○吉田証人 電報が来たので、来たわけです。きようの一時までに出頭せよというので……
○石田(一)委員 きようの一時までに出頭しろという電文をごらんになつてなぜ二十八日に事務局へいらしたのですか。
○吉田証人 その電報が三十一日までに来いという電報ですから……
○石田(一)委員 三十一日までに来いといつているのだから、それまでに行けばいいというので、二十八日に行つたのですか。
○吉田証人 そうです。
○石田(一)委員 そのときにどういうお話をなさつたのですか。
○吉田証人 それは徳田要請問題について証人に立つてもらいたい。あなたに民主運動、シベリア在住生活におけることで、証人として立つてもらうから、そのことを聞かれました。
○石田(一)委員 岐阜からいらして、こちらへ何時にお着きになつたのですか。何時の汽車でおいでになつたのですか。
○吉田証人 二十八日の夜乗つて、二十九日の朝着きました。
○石田(一)委員 今の証言は聞えません。二十八日の夜お立ちになつたのですか。
○吉田証人 二十九日――二十八日の十二時何分の汽車ですから……
○石田(一)委員 夜のですか。
○吉田証人 そうです。
○石田(一)委員 そうしますと、あなたは二十八日に事務局で会つたとおつしやつたのに、二十六日の夜中に立つて、どうして二十八日に事務局へ出られたのですか。
○吉田証人 そうじやないのですよ。二十九日に会つています。
○石田(一)委員 あなたは先ほど二十八日に会つたと言つたじやないですか。
○吉田証人 電報をもらつたからすぐ出て来たのですよ。
○石田(一)委員 そうするとあなたは二十八日に電報をお受取りになつた、それで二十八日の夜に立つていらした。そうして二十九日の朝お着きになつたのですか。
○吉田証人 そうです。
○石田(一)委員 そうすると、私が先ほど聞きましたときは二十八日ということをおつしやつた。それは速記録をごらんになれば間違いありません。それは訂正なさるのですか。
○吉田証人 そうです。
○石田(一)委員 二十九日の朝お着きになつたのですね。
○吉田証人 そうです。
○石田(一)委員 この事務局にいらつしやつたのは何時ごろですか。
○吉田証人 お晝ごろです。
○石田(一)委員 朝お着きになつても東京駅から事務局にお晝ごろいらつしやつた。そうすると六、七時間の時間がありますが、岐阜から夜中の十二時に汽車でいらつしやつたとすれば、よほど早くこちらに着きますが……
○吉田証人 そうです。東京駅に着いたのが九時何分かです。
○石田(一)委員 それで事務局にいらつしやるまでには、どこにいらつしやつたのですか。東京に九時何分かにお着きになつて、お晝に事務局にいらつしやつた。それまではどこにいらつしやつたのですか。
○吉田証人 飯を食つて、それから……
○石田(一)委員 どこでお食べになつたのですか。
○吉田証人 駅の構内で食いました。 〔「それがこの事件と何の関係がある」と呼び、その他発言する者あり〕
○鍛冶委員長 石田君、この事件に全然関係のないことはなるべく聞かぬことにしようじやないか。
○石田(一)委員 それでは申し上げますが、要するにこの証人が岐阜にいて、事務局から事前に発せられた電報を受取つて、三十一日までだから、二十九日に東京に来て、事務局に行つた。そうしてそのとき、徳田要請の問題について証人としてお呼びしたいから、こういうことだつたというのであります。それで私が朝からお晝までの時間をどうなさつていたかということを聞くのは、実はこの徳田要請に重大な関係を持つているのです。なぜかといいますと、その間に何か第三者が――あるいはすでに事前にいろいろ打合せがなされたのじやないか。そういうことになりますと、今までの証言はメモがあるので、非常に疑わしいということになる。そういう意味で、私は決して証人の飯を食べた時間とか、東京に着いた時間などを聞きたいのじやありませんが、重大な関係があると思いますから、これを聞いているのですから、ぜひこの質問を続けさせていただきたいと思います。 そこで、そうすると駅の構内でお食事をなさつた。それから……
○吉田証人 自動車に乗つたか、歩いたか、その間何をやつたか、ぼくは朝起きてからのことをみんな調べられるのですか。私はそういう必要はないと思います。はつきり言つておきます。ありません。
○石田(一)委員 先ほど委員長が宣誓のときあなたに言つておりますが、私は委員としての権限をもつて証人に聞いているのです。必要を認めませんと言つて、あなたはそれでは私のお尋ねすることはお答えにならぬというのですか。
○吉田証人 問題が別だと思います。
○石田(一)委員 別であるか別でないかは、私が判断するのです。
○鍛冶委員長 石田君、この事件に関係のあることならいいが、どこで飯を食つたとか、どうして歩いて来たとかということを言われると困る。
○石田(一)委員 そういうことは聞いていない。その時間をどうなさつたか、たれかに会つたことはないかということを聞こうとしているのです。
○鍛冶委員長 それならいいのです。この事件に何か関係のある者と会つたかということを聞くならいいのですが、あなたのようなことを聞いたのでは、それはお茶を飲むとか便所に行くとか、そういうことまでは……
○石田(一)委員 それではお食事をなすつてから、こつちの事務局にいらつしやるまでどなたかにお会いになりませんか。
○吉田証人 会いません。
○石田(一)委員 その間何か東京見物でもしていらしたのですか。
○吉田証人 はい。
○石田(一)委員 証人が事前に打合せをされたという疑いが十分にある。だから聞いておる。――それでは私がもう一言最後に聞きますが、あなたは二十八日に電報をお受けになつてこちらにいらつしやるまで、一切お会いになりませんか。この委員会関係の人には。
○吉田証人 会いません。
○石田(一)委員 一ぺんも会つたことはないですか。一度もお会いになりませんか。
○吉田証人 はい。
○石田(一)委員 それをよく聞いておきます。一度もお会いになつたことがない。そういたしますと、あなたの先ほどの略歴というものは、これは何かに一度発表になつたものですか。あなたの略歴です。先ほどおつしやいましたね。
○吉田証人 はい。
○石田(一)委員 これはいつお出しになつたのですか。この略歴を……。
○吉田証人 事務局に来たときに聞かれましたので、私持つておりましたから渡しました。略歴だけ……。
○石田(一)委員 これは事務局においでになつたときに渡したのですね。
○吉田証人 はい。
○石田(一)委員 そうですが。そうすると私たちの手に渡つたのが二十八日だつたのですが、これをあなたが事務局へおつしやらない前に、こんなに詳しいものが私たちの手に入つたのですが、おかしいですね。 〔「この資料はいつ配付したのだ」と呼ぶ者あり〕
○鍛冶委員長 二十九日にみんなあなた方に渡しておる。
○石田(一)委員 二十九日にあなたがいらつしやつたのに、二十八日に受取つた人もあるし、二十九日のお晝ごろに受取つた人もあります。あなたが事務局においでになる前にすでにこの印刷物を受取つた者があります。そうするとあなたの言うことと食い違うのです。これはおかしいじやありませんか。(「だれが二十八日に受取つたのか、どこに証拠があつて言うのか」と呼ぶ者あり)私はこれを二十九日の日に受取つております。お晝ごろに受取つております。そうすると証人はお晝ごろ行つたというのですが、そのときに証人の申しましたのは、このことは提出したとも何とも言わない。これを聞いたら、初めてこれを渡したということの事実が出て来た。しかも二十九日のお晝ごろに事務局に来て、事務局の方はこれを聞いて写して、ガリ版にし、プリントにして、委員部の手を通じてこれを渡すということができますか。これは事務局の神わざでなければならぬ。まことにスローな事務局としては、近代まれなスピードです。そうなると証人の言うことに何か食い違いがあるのか、それともすでに――証人は明らかに二十九日に初めてこの委員会の人たちと会つたという、それまでは一度も会つていないという。それではこの調査報告書というものは何によつてつくつたかということを、事務当局から一応参考までに証言を聞きたい。一度も会つていないものに対して、どうしてこういう報告をされたのか。事務当局から責任のある答弁を聞きたい。これは人を欺瞞するもはなはだしい。
○鍛冶委員長 ちよつと証人にお伺いいたしますが、何か考えておられるか、考えておられおるということはいけない。少しもさしつかえないのだから、その前に会つたことがあれば言つてよいのですよ。何も思い違いなら思い違いでよいのですよ。
○吉田証人 もう一ぺん記憶をたどりますから……。 〔「何か書類を渡しておる、通謀じやないか」と呼びその他発言する者あり〕
○鍛冶委員長 通謀ではない、調査のためだからひとつもさしつかえない。それを常に通謀だなどと言われてはかなわない。
○石田(一)委員 ちよつと発言いたします。この問題はまことに重大な問題でありますので、しばらく理事の懇談のために休憩せられんことを望みます。休憩されんことの動議を提出いたします。(「異議なし」「必要なし」「否決」と呼ぶ者あり)これはたいへん重要な、要するに食い違いがあるので、この際特に休憩をされんことを要求するのです。動議を提出しておるのですから、一応諮つてください。理事が集まつて協議して、それから再開する……。(「休憩の要なし」と呼ぶ者あり)――ただいまの動議は撤回いたします。 発言を継続いたします。この発言の途中で一言私はこの際要求をいたします。それは二十九日の正午、ころ考査特別委員会の事務局において証人とお会いになつた事務局員並びにそのとき居合せた人たちを御調査の上、次の委員会において証人として喚問されんことをまずこの際要求しておきます。これは理事会に諮られてけつこうであります。そこで私は……。
○鍛冶委員長 ちよつと石田君、待つてください。私がちよつと証人に聞きたいことがある――。証人にちよつと伺いますが、あなたはこの委員会の調査員になつておる――調査員か何かしらぬが、原口という者を御存じありませんか。
○吉田証人 原口とか、原田とかいつておられましたが……。
○鍛冶委員長 それと会つたことはあるでしよう。
○吉田証人 会つたことはあります。
○鍛冶委員長 それはいつごろですか。 〔石田委員「私が質問しておるのだ、明らかに偽証じやないか」と呼ぶ〕
○鍛冶委員長 何か考え違いをしておるらしい、いろいろ聞かれるものだから……。そんなことは何でもないことなんだ。事実を言えば……。日や時間は忘れてもいいが、原口という調査員はあなたのところに行つて会つたことがある。そうしてあなたの経歴なんかを聞いたでしよう。
○吉田証人 はあ。
○鍛冶委員長 あなた忘れておつたんならいいけれども、そんなことは何でもないことだ。そういうことがありましたね。
○吉田証人 ありました。
○石田(一)委員 私は何もこの際証人を偽証とか何とか言うのではないのです。そんなことを言つているのではありません。事実がわかればそんなことを何も言うんじやない。先ほど来証人は、何か感違いされているんじやないか。私が何か言うと、私に対して反抗するような態度をとつている。(笑声)それは委員長の助け舟があつたので、あなたはまことに仕合せだよ。その原口という方に、いつお会いになつたんですか。
○吉田証人 二十七日の夜ですか……
○石田(一)委員 二十七日の夜……。それでは岐阜にいなかつたのかな。電報を受取つたということはうそになるな。それではまるつきり違うじやないか。
○吉田証人 電報は受取りました。
○石田(一)委員 原口さんにお会いになつたというのはいつですか。
○吉田証人 待つてください。二十八日……
○鍛冶委員長 二十八日に電報を受取つたんでしよう。
○石田(一)委員 そんなよけいなことを委員長が言う必要はない。証人の記憶で聞けばいいのだから……
○吉田証人 わかりました。今日にちを追つて順に説明します。二十七日、原口ですか、その調査員の方が来られて……
○石田(一)委員 どこへですか。 〔「事前調査だろこと呼ぶ者あり〕
○吉田証人 事前と言うか何と言うか、それに一ぺん岐阜でお会いして、二十八日の日に電報を受取つてその夜立つたのです。そうして二十九日の朝九時ごろ着いてそれから十時半ごろ駅で飯を食つて、十二時ごろ委員会に来て、若い調査員の方にお会いして、そしてきのう一日休んでいましたから……
○石田(一)委員 二十八日に電報をお受取りになつて、その晩お立ちになつたということは間違いないんですね。
○吉田証人 そうです。
○石田(一)委員 それで二十七日岐阜でお会いになつたのは、あなたのおうちですか。
○吉田証人 そうです。
○石田(一)委員 それは二十七日の何時ごろですか。
○吉田証人 日の暮れだつたです。
○石田(一)委員 そのときにはどういうことが話されたんですか。
○吉田証人 そのときには、参議院で徳田要請問題が行われているが、あなたもシベリアの引揚者だ、徳田要請問題に関してどうお考えになるかということと、それから経歴のアウトライン、そのときに、私は持つていたのを渡したので……。そしてその夜一時間か三時間ぐらいおられましたか、すぐ帰つて行かれました。そのあくる日電報を私受取りました。
○石田(一)委員 その二十七日に原口さんという人にお会いになつたときは、それは原口さん一人ですか。
○吉田証人 そうです。
○石田(一)委員 あなたと原口さんのほかにどなたかいましたか。
○吉田証人 会つていません。
○石田(一)委員 いやその晩にですね。
○吉田証人 だれもいません。
○石田(一)委員 二人きりで……
○吉田証人 その前にもちろん家族がいました。
○石田(一)委員 あなたの家族ですね。
○吉田証人 はあ。
○石田(一)委員 それではこちらから行つたのは原口さん一人ですね。
○吉田証人 そうです。
○石田(一)委員 間違いありませんか。
○吉田証人 そうです。
○石田(一)委員 もとからまた委員長が何か言つて、かえないでくださいよ。
○吉田証人 二十八日に出て二十九日に着いて、それから三十日がきのう、それから三十一日、いいです。
○石田(一)委員 私の聞いているのは、二十七日に原口さん一人だけとお、会いになつたかということです。一人ですね。
○吉田証人 そうです。
○石田(一)委員 これはあとから出張旅費何人分だとか、全部きれいに明細になるから、何人行つたということはすぐわかる。それでお一人だけに間違いなければけつこうです。私は念を押しておきますよ。
○吉田証人 原口さん一人です。
○石田(一)委員 そうすると、あなたは先ほど私におつしやつたことは全部うそをおつしやつたのですか。
○吉田証人 要するに日にちに関することなんだから、今ここにどういうことであつたか、その日にちを書いてみたのです。
○石田(一)委員 あなたは、この経歴は私が書いて持つて来て、二十九日に事務局へ行つたときに事務員に渡したのだとはつきり言つて、それを二日前の二十七日に原口という人に会つて経歴を言つた。こんな一日か二日のことをなぜあなたは忘れて前後しているんですか。事務局へ渡したのと、あなたのうちで家族のいるところで話したのとは、これはもう四つ五つの子供でも忘れない事実ですよ。
○吉田証人 要するに原口さんが来られたときはそのまま渡しました。それから事務局ではあらためてていねいに書いて渡し直しました。
○石田(一)委員 私はこれ以上質問は続けませんが、先ほど申しましたように、要するに二十九日に証人に会つた事務局の調査員、あるいは事務員、それからこの事前調査にいらつしやつた原口調香員が一人で行つたのか二人で行つたのか、そのことも聞かなければなりませんし、この問題についてぜひ証人として呼ぶことがもし理事会で決定がならないならば、でき得るならば参考人として一応われわれに質問する機会を與えていただきたい。これを要求しておきます。
○鍛冶委員長 それは事実を報告させます。 それでは十分間休憩いたします。 午後六時四十八分休憩 ――――◇――――― 午後七時四十七分開議
○鍛冶委員長 休憩前に引続き会議を開きます。 本日は本会議等の都合もあり、またおそくなりましたので、証人から証言を求めることはこの程度にいたして明日に延期し、明日は午前十時より開会し、引続き吉田証人の証言を求めることにいたしたいと思いますが、御異議ありませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○鍛冶委員長 それでは吉田証人にはたいへん御苦労ですが、また明日午前十時までに御出頭願うことといたします。 本日はこれにて散会いたします。 午後七時四十八分散会