考査特別委員会 第2号
- 発言数
- 156 件
- 登壇者
- 7 名
- 会派数
- 3
- 開催日
- 1949/12/15
会議録
○鍛冶委員長 会議を開きます。 この際お諮りいたします。前国会において調査未了の案件は、引続き継続して審査を続行いたしたいと存じますが、御異議ございませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○鍛冶委員長 それではさよう決定いたします。 —————————————
○鍛冶委員長 次にお諮りいたします。永井隆君表彰の件につきまして、前国会において参考人として意見を求めることに決定しておりました田川房太郎君が在京中とのことでありますので、一応本日出頭を求める手続をいたしておきましたが、参考人として意見を求めることに御異議ありませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○鍛冶委員長 御異議なきものと認めます。それではさよう決します。 —————————————
○鍛冶委員長 なお、去る十日、十一日の両日石川調査員が現地へ出張して、永井博士の実情を調査して参りましたので、その報告を伺いたいと存じます。石川君。
○石川調査員 本調査員は命を受けまして、八日の朝東京を出発いたしまして、十日と十一日の両日、永井隆氏の人物、病状、生活の現況及び現地における諸関係について調査いたしました。調査につきまして面接した人名は、本人の永井隆氏、浦上天主堂司祭中島万利氏、浦上天主堂祭壇係山田市太郎氏、長崎市議会議員片山彌三郎氏、純心女子専門学校教授片岡彌吉氏、長崎大学教授影浦尚視氏、長崎市長大橋博氏、長崎市議会議長望月庄七氏、長崎日日新聞文化部長嘉村国男氏、島根県飯石郡飯石村長滝峯太郎氏、長崎大学庶務係長文部事務官永井元氏、この十一名でございます。 実地に着きまして永井隆氏の病床を訪れ、種々同氏と談話を交換して実情をつかむのに努めました。そして私の要求によつて、永井氏が自分の小伝を自筆で書きました。この自筆の小伝をとるのは、一方において彼の著書があるいは代作ではないか、あれだけの病人があれだけの著作をする能力があるだろうかというような疑いが世間に流布しておりますので、その疑いを解明することが、表彰問題にからみ、とにかく必要だろうと思いましたので、自筆の自伝を私の目の前で書いてもらうという、非常なスピードででき上つたものを調査資料として持つて帰りました。 その他調査上必要と認めましたものは、なるべく公的信用を持ち得る書類としたいので、それぞれ委員長あての書面を徴しました。それは今の永井氏の自伝に関する報告書、中島司祭の報告書、片岡教授の報告書、長崎市長の報告書、長崎市議会議長の報告書、長崎日日新聞社嘉村国男記者の報告書、この六種類は重要なものと思いましたので、ただ談話を聞くにとどめず、ただいま申しましたように書類として持つて帰りました。以上簡單でございますが、御報告申し上げます。
○鍛冶委員長 今石川調査員からの報告にあります資料はこちらにありますが、これは決定に対する資料といたすことにいたしますから、どうぞごらんなさつてください。 —————————————
○鍛冶委員長 なおこの際お諮りいたします。理事木村榮君が先日委員を辞任されましたので、理事の補欠をいたさねばなりませんが、これは前例に従いまして、委員長において指名することに御異議ありませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○鍛冶委員長 御異議なきものと認めます。それでは横田甚太郎君を理事に指名いたします。
○鍛冶委員長 田川房太郎さんですね。本日はわざわざ御苦労さまでございました。本委員会におきましては、その調査項目の一つといたしまして、文化、科学、技術等の発達に寄與し、もつて日本再建のため多大の貢献をした諸行為を調査することになつておるのでありますが、医学博士永井隆君表彰の件につきまして調査をいたすことに決定いたしましたので、本日参考人として御出頭を願い、いろいろと御説明を聞き、御意見を伺うことといたした次第であります。どうぞそのおつもりで忌憚のない御意見をお願いいたしたいと存じます。 あなたはカトリック教の神父として、いかなる地位におられるものでありますか。またどういう職務をおとりになつておるのでありましようか。
○田川参考人 私はカトリック神父ですが、実は教育事業に携わつておりまして、暁星、明星、海星——暁星中学などの学校の経営者になつております。ですから直接に教会は受持つておりません。
○鍛冶委員長 あなたは長崎医科大学の教授であつた医学博士の永井隆さんと親交の間柄であると聞いておるのでありまするが、どういう関係で御親交がありますか。
○田川参考人 永井さんとは長崎におりましたときに、いろいろのカトリツクの社会事業の方面でお互いに知り合つて、またときには一緒に仕事をしておりましたので、よく知つているようなわけであけます。
○鍛冶委員長 いつからいつまで長崎においでになりましたか。
○田川参考人 私は長崎が故郷ですが、海星中学に六年ばかり勤めまして、それから東京に勤め、また長崎に参りまして、長崎には一九二八年から後に六年と、それから一九四〇年ごろに約五、六年ばかり長崎におりました。二回ほど向うで教鞭をとつておりました。その時分から知り合つております。
○鍛冶委員長 近ごろもあなたは東京から長崎に始終おいでになつて、永井博士の近況を御承知になつておりますか。
○田川参考人 毎年少くとも一回、多いときには二、三回長崎に参りまして、そのたびごとに永井博士の方に立ち寄りまして、いろいろ話合いをしております。
○鍛冶委員長 それでは永井博士のことについていろいろ承りたいのですが、第一に人物並びに思想、信仰等について御承知のことをお聞きしたいと思います。
○田川参考人 永井先生の人物と申しますと、私の見て感じたところでは、たいへん高潔な人格者であると思います。そしてその高潔な人格から出て来るところのいろいろの特徴があるようでありますが、まず第一に私の胸を打つたのは、非常に謙遜で素朴であるということ、それから淡白で率直であるということ、それから質素で非常に清貧に甘んじていらつしやるということ、それから非常に快活で明朗でユーモアがあるということであります。それから非常に活動家で、奮発心に燃えていらつしやるということ、それから献身的で非常に友愛に富んでいらつしやるということ、それにまた非常に忍耐力が強くて、よき意味におけるところの感受性も強い、それから非常にいろいろな方面に高尚な趣味を持つておられまして、お茶の方でも、お花の方でも、文学、哲学、絵画、劇といつたような方面に、非常に高尚な趣味を持つていらつしやるように見受けられます。そして見識が非常に卓越しているというようなこと、これは一々例をとることもできますけれども、簡單に申し上げました。
○鍛冶委員長 けつこうです。思想については………………。
○田川参考人 思想的のことは、これは永井博士の根本思想はカトリツクの信仰から出て来ていると思います。そして信仰と学問、宗教と科学というものを自分の身に一致体現されているという感じがいたします。そこでその日常行為におきましても、永井先生のおつしやること、なさることはみなこの信仰を土台にして、科学もやる、つき合いもするというようなことが著しく見えているようであります。それは著書にもたびたび出ておりますが、実際に毎日の生活を自分で当つてみますと、それがはつきりと見えるようであります。それからことに平和にあこがれて、真理を愛し、平和をこいねがい、祖国の安寧を祈るとともに、国際の協調を説くというところは、まことに尊い姿のように思われます。それがただ口先だけでなく、信念に燃えてそのようなことをおつしやるので、聞いている私どもも、その信念に打たれてしまうというようなことがたびたびあるのであります。
○鍛冶委員長 信仰はカトリツクであることはわかりましたが、よほど信仰心の強い方なのですね。
○田川参考人 非常に信仰心が強く、そしてそれが実際の生活に織り込まれていらつしやるので、ほんとうに信仰が生きているようであります。そのために永井先生に接する人か、ときには信仰を異にしている人は、反感を持つかもしれませんけれども、それでも信仰の強い人だといつたような感じで尊敬するようであります。やはり信仰のためでしよう、自分の考えていること、自分の信仰を率直に言い現わす、とうとい理想でも平易な言葉でもつて、通俗にこれを言い表わして、そうして自分の信仰をどこまでも相手の人にわからせるといつたようなお話をなさるようであります。
○鍛冶委員長 今おつしやいましたが、その生活も非常な清貧に甘んじておられるというのは、現状はいかがでありますか。生活態度です。
○田川参考人 それはただいまも前も同じことなのですが、非常に清貧に甘んじて、たとえば自分で持つていらつしやるものでも、ほかの人が困つているというときには、すぐに上げてしまいなさる。そういう例は幾らもあります。私がちようど夕だちで困りまして、雨宿りをしにあそこへ飛び込んで行きましたときに、ちようどお晝になつて食事をするときに、貧しいながら私も一緒に食べようということで食べていましたが、別にあり合せで何もない。ところがさつそく永井先生が思い浮ばれまして、この間もらつた塩ものの魚がある、あれを出してくださいといつて、少いそれをすぐに気がついて私に出してやれということで、頂戴したこともあります。そのほかいろいろ困つている人があると、すぐに自分のものでも與えてしまいなさるといつたように、非常に質素なところがあり、淡白なところがあり、そうして友愛があふれております。
○鍛冶委員長 今の生活状態は、実情はどういうものですか。
○田川参考人 今日あの方をせわしている人は弟さんの家族で、普通に弟さんの嫁さんがいろいろな身のまわりのせわをしていらつしやるようであります。それで金持ちになつたとか、いろいろなうわさが立つたりなんかしますけれども、実際においては非常な清貧な生活をなさつて、四年前と今日とあまりかわらないような生活ぶりと見受けられます。
○鍛冶委員長 家はどんな家なのですか。
○田川参考人 家はやはり前の如己堂と申しまして、浦上の故郷の信者たちが同情をもつてつくつてくれました一坪とちよつと余るくらいな小さな家なのであります。その家にずつと寢ていらつしやるのですが。
○鍛冶委員長 一坪余りですか。
○田川参考人 一坪というところです。疊二枚しか敷いてありません。そしてそのわきに本棚とか何とかあります。
○鍛冶委員長 そうするとやはり少くとも三坪ぐらいあるのじやありませんか。本棚や台所、便所もありましようから……。
○田川参考人 三坪はありません。その疊二枚のところもいろいろなものが出つぱつておるようですから……。
○鍛冶委員長 科学者としての研究態度について御承知でありますか。
○田川参考人 科学者としては、大学にお勤めになつていらつしやつた時分から、自分の心身を打込んで自分の職務を果す、そうしてことにレントゲンの方、原子学の方、その方面には魂を打込んで研究なさいまして、そしてまていろいろこれに関する研究、あるいは治療といつたような方面においてその自分の身を捨てて人のために盡そうというような、そういうふうな心から、治療などのときには、ちよつとわれわれから見ても、むりではないかといつたようなことがたびたびありまして、そのためにやはり御健康をそこなつたんだろうと思います。そういうふうに自分の職務には魂をぶち込んでやる。そうしてどんなつらいことがあつても、いやなことかあつても、それをつらいとも、いやとも思わないで、喜んで人のために盡し、また原子学の、あるいは原子病の研究のためにも貢献したいという、その気持か日常生活にりつぱにあふれて見えておりました。今でもそのために、自分で寢ておりながら、いろいろ血液をとつて調べて見たり、自分がみずから実験台に上つて、そうして原子病といつたようなものをりつぱに研究して人々のために何かためになることをしようというので、ほんとうに涙ぐましいほどの努力をして今でもずつと研究を続けられているようであります。
○鍛冶委員長 社会的活動について、健康なとき、現在に及んで御承知の点を承りたいと思います。
○田川参考人 社会的の活動は、健康体の時分には、たいへんむりをしてやつていらつしやつたんですが、今日ではそれもできませんので……。
○鍛冶委員長 健康体のときにはおもにどういうことをしておりましたか。
○田川参考人 健康体のときには——原子爆弾の直後にも私の目で見たのですが、自分の頭を押えながら、足を引きずりながら、あのいなかをまわりまして、そうして一軒々々その病人を見舞い、あるいは慰め、治療し、励ましてまわつていらつしやいました。戰争の前には、長崎方面においてカトリツクで組織しております聖ヴインセンシオ・ア・パウロ会という慈善団体があります。その団体の一員として、いろいろな漁村、農村というようなところに毎年二、三回その会員たちがまわりまして、永井先生もそれについていろいろな治療をするといつたような社会事業をしていらつしやいました。それからことに原子爆彈の後の人々に対する思いやりと献身的な働きは、まことに感心にあまりあるものでございました。今日でもこの社会事業にほかの人が一生懸命働いておるのに、自分はこうして寢そべつていてはいけないというので、一つはそのために頭と手を働かして仕事をする。あるいは繪を描くという気持らしいのであります。去年の夏私が行きましたときに、しきりに繪を描いていらつしやいましたが、その繪は今浦上の信者が御堂に行つて、あの復興のために働いているが、自分はそれができないから、その手当のかわりに自分のできることをしているんだ。この繪を描いて、これが十五枚できる。これを御堂の稽古部屋に——あの教理を教えます部屋に置いて、伝導師がこれを見せて教理を説明してやる。そのためにこの繪を描いてやるというようなことをおつしやつておりました。そういうふうにして、精神的の働きか、あるいは肉体的の働きか、人間は生きてる限りは働かなければならない。その働くということは非常に神聖なことだ。人間の義務だということを頭の中にしつかり持つていらつしやるようであります。
○鍛冶委員長 永井博士の結婚、またはこの信仰に入つたことについて、何かお話すべきことがございますか。
○田川参考人 永井さんは松江高等学校の時分に、ずいぶん内的に悩みがあつたようであります。その悩みがやはり大学時代も続きまして、長崎においでになつて信者の家に宿をしましてから、そこの信者の家庭に入つて日常の生活を見てそこで三百年来迫害にもまれて来たところの信仰の強さとうるわしさをお感じになつてここに自分の悩みを解く鍵があるんだということをおさとりになつて、教理を研究して洗礼を受けられたようにあります。そしてそこに宿をしていましたところの娘さんをもらつて嫁さんとなさいました。
○鍛冶委員長 それから家庭生活等については、何かお話すべきことがございますか。
○田川参考人 家庭生活については、私そばから見たのではないのですが、一緒に隣で暮らしていたいろいろな人からの話を聞きますと、別に大した悪いということもないし、また非常に親しみ深いといつたようなことも大して見受けられない。普通の家庭生活のようであつたということを聞いております。詳しいことは存じません。
○鍛冶委員長 それから終戰後一時たいへん危篤に陷つて、もう臨終というようなことがあつたそうですが、その当時の模様等……。
○田川参考人 それは原子爆彈後にあまりに活動なさいまして、そのために疲れが来たんだろうと思います。長崎県の山の方においでになつていたのですが、ちようどそこに着かれて、もう危篤だという状態のときに、私呼ばれてそこに参りまして、その状態を拜見いたしました。そしてそのときにも、大学の教授たちが四、五名集まつていましたが、最後の遺言といつたようなお話をしていらつしやいまして、聖書を読んでくれろとその一人に申されて、どこを読みましようかと問いましたら、キリストの受難のところを読んでくれというので、それを二、三分間読みまして、それからいよいよあと一時間もあるかないかといつたような状態でしたから、その教授の人たちに、あなた方も正しい信仰を持つてください。これが最後の言葉でした。そしてすやすやとお眠りになつてしまいました。ちようどそのときに私そこにいあわせておりました。
○鍛冶委員長 それで何か終油の式というものまでしたということですが。
○田川参考人 終油の祕蹟というものを私授けたのであります。
○鍛冶委員長 それはどういうことなのです。
○田川参考人 信者がいよいよ最後だというときに、そのからだを慰め、霊魂を慰め、強め励まして、これからいよいよ神様のところに行くのだから、心を清めて安心して神様のところに行くようにという祕蹟なのです。その祕蹟を私お授けしたのであります。
○鍛冶委員長 それはいよいよほんとうに臨終だというときにやるわけですね。
○田川参考人 そうです。
○鍛冶委員長 それからどうしてまた健康というわけじやなかろうが、命が保つたのですか。
○田川参考人 そのときにしきりにまだ出血していたのですが、その出血を吹きながら、私終油の祕蹟をお授けいたしました。それからその出血が少しずつ減りましてだんだん本人も落ちついて参りました。そして休んでいるうちに疲れも幾らかなおつたと見えまして、だんだん危險状態はなくなつて参りました。
○鍛冶委員長 何か疲れて昏倒せられたということですが、昏倒した結果だんだん悪くなつてここに来たのですか、昏倒してこういうことになつたのですか。
○田川参考人 それはいろいろの原因があるのではないかと思いますが、昏倒も一つだと思います。
○鍛冶委員長 昏倒してすぐそういうように悪くなつたのですか。何か本に昏倒と書いてありましたね。いろいろ活動して遂に疲れのため昏倒した、そのときがこういうのですが。
○田川参考人 もともとレントゲン室でいろいろ放射を受けまして、前にも一年に一回か二回は危篤状態に陷つていらつしやつたのです。ですからそういうふうなものが重なり重なつて、この状態になつたのだろうと思います。
○鍛冶委員長 それでは大体永井博士のからだの衰弱したのは、放射線医学研究のためだということですか。その実情を……。
○田川参考人 そしてまた原子爆弾の影響もあつただろうと思います。
○鍛冶委員長 原子彈爆の前には、放射線医学研究のために、どのような状態になつておりましたか。
○田川参考人 それは普通には普通の仕事をしていらつしやつたのです。ところが一年に一回か二回くらいでしたろう、いわゆる白血病ですが、そのために非常に疲れと苦しみともだえとが急に参りまして、もう今にも死ぬかと思われるほどの苦しみでした。そんなことがちよいちよい起つていたのであります。
○鍛冶委員長 放射線をやれば白血病になるということを、もともと知つてやつておられましたか、そういう事情はあなたはお知りでありませんか。
○田川参考人 それもむろんあんな学者の方ですから、知つていらつしやつたのでしよう。そしてまたそれをなるべく防止しようという、妨げる方法も使つていらつしやつたのでしようが、とにかくあまりに仕事が多かつたり何かいたしまして、やはり長いことその仕事に携わつて、あるいはときにはその防禦処置の方に少し不完全なこともあつたかもしれませんし、そういうふうなことで、やはりその病気におなりになつたのだろうと思います。
○鍛冶委員長 そこで原子爆彈のために相当負傷されたようですね。
○田川参考人 はい。
○鍛冶委員長 どの程度でありましたか。
○田川参考人 あれはさしあたつては、打撲傷だと思います。それで今はつきり覚えませんけれども、右の方か左の方のこめかみのところをやられまして、その辺からしきりに出血したわけなのです。それを縛つて、その直後にはやはり活動していらつしやいました。
○鍛冶委員長 その出血のために、前の白血病が重くなりましたか。またどういうものでした。
○田川参考人 その白血病は、そのために何ということもないでしようけれども、その出血のために身体の衰弱がひどくなつて、白血病の結果も身に強く感ずるようになつたと思います。
○鍛冶委員長 それであなたの先ほどの終油の式をしたのは、あの原子爆彈のために負傷されてから、大分たつてですか、すぐですか。
○田川参考人 それは八月九日に原子爆彈が落ちまして十月の終りころだつたと思います。
○鍛冶委員長 十月終りですね。永井博士はその後だんだんそれではよくなつて来たわけですね。それから奇績的になおつてよくなつたわけですね。
○田川参考人 いや別になおつてはいないのです。
○鍛冶委員長 だけれどもそんなものが書けるようになつた……。
○田川参考人 あの本には、あと三年の壽命だと言つて宣告されたということが出ておりますが、この間も行つて、どうしてまたこうして生きて達者でいらつしやるのですかと言つたら、自分は別に薬を飲まない、薬はまさかの時にとつておいて、普通にはそんなこと忘れて、いろいろな方面に、あれもしたい、これもしたい、こんなことをしなければといつたような気持があるので、やはり持ち続けて来ているのだろう、普通の病人ならば、なるべく早くなおりたいといつたような考えがあるので、あせるから、あまり薬を飲み過ぎるようなことがあるが、自分はそんなことをしないで、のんきにしているので、こうして続いているのではないかというようなことを言つておられました。しかし今ごろは割に調子がいいようですけれども、またときにはそれがくずれて、あぶないといつたような状態にもときどきなることがあるようです。
○鍛冶委員長 いろいろのものを書いておいでになるようですが、そのうちで特に「亡びぬものを」というのを御承知でしようか。これは永井さんの自叙伝なのですか。
○田川参考人 さようでございます。
○鍛冶委員長 これはみずから書かれたものですか、間違いないですね。
○田川参考人 間違いありません。何もみな自分で書いております。ただこれは名前を出しているだけで、自分では書いていないとか、あるいは自分の考えを吹き込んで、ほかの人が執筆しているというようなことが言われておりますが、それはまつたくうそでありましてあの書物はみんな永井先生が自分で原稿を書いて、ただ一番初めの何か一つ、非常に疲れておつた時分に、吉田という看護婦さんが、数日間口でおつしやることを代書しておりました。しかし自分が考えが浮んで来たときには、その人がいないし、いろいろ都合が悪いというので、やめてしまつて、みんな自分が書いております。
○鍛冶委員長 石川さんも行つて聞いたのですが大体どういうようなことをして、今床の中でみずから書いているのですか。
○田川参考人 前には、寢たら寢たきり、半分起きたら起きたきりで、ポジシヨンをかえるというが非常につらいということでして、そして普通に寢ていて、胸の上に板を置いて、そして書いていらつしやるのを見ました。
○鍛冶委員長 何か板を立てて書くのですか。
○田川参考人 そうです。そのそばにはたくさん原稿用紙を置いていらつしやつた。それは晝には用事人やお客さんが多いので、主として晩に一瀉千里の勢いで書きなさるのだということを、隣の人が言つたことがありました。
○鍛冶委員長 そこで「亡びぬものを」に書いてあることと、あなたが見られた永井博士そのものとはまつたく一致しておりまするか。またあるいは裝飾とでもいうか、つやでもつけてあるとか、そんなふうな感じはございませんか。
○田川参考人 私の見るところでは、あの人の言うこと、書くことは率直そのままで、あれに書いてあることを、永井生先の実際の生活とはまつたく同じことと思います。ところどころ永井先生が、相手の感じを自分で想像して言つていらつしやるところがありますが、それも実際自分がそういうふうに感じていらつしやることで、そう大して飾りはないと思います。
○鍛冶委員長 永井博士の人物及び著述等について、いかなる影響を社会に——社会にと申しますか、国民と申しますか、與えておるとお思いになりますか。
○田川参考人 永井先生の人物と著書によつて民衆に戰争を唾棄するということ、平和を愛好し平和にあこがれるということ、それからことに永井先生の著書には、みんな最後にはりつぱな希望が輝いております。その希望を與えるということ、この辺がたいへん特徴になるだろうと思います。そこでこの著書を日本の人がたくさん読んでいるでしようが、私の知つておる範囲においては、この書物をある工場に貸してやつた。たとえば「この子を残して」を二週間たつてもらいに行つたところが、ぼろぼろになつていた。新しいのをやつたところが、また一週間のうちにほとんどぼろぼろになつて帰つ来る。貸した人は非常にうれしくてたまらなかつたということでありました。小田原におりましたときには、小田原のある病院の院長さんが、これも錚々たるお医者さんなんですが、あの書物を読んで大いにカトリックを研究して、カトリックの洗礼を受けた。その友達のお医者さんがやはりそれをただいま研究中である。これはやはり何か苦しみ、悩みのあるような人がこれを読みまして、そこに何とも言えない慰めと希望を持つということが一般の結果だろうと思います。ことにこれを日本人だけでなく、外人が読みまして非常に感激して、そのために永井先生を通じて外国人が日本に対する好感、同情を持つようになつていると私は見ます。外人の書きましたいろいろの雑誌に、あるいは外国から参りましたところの新聞に、やはりそれが出ておりまして、これを読むところの外人たちは、永井先生を通じてほんとうに日本を愛し、日本に同情するようになつて来たと私は思います。そのために日本から、たとえば親善の使節を何十名出すよりも、むしろこうした永井先生の書物を読みますることによつて、外国人が日本に対して同情を持ち、理解を持つというふうな結果を招来しているということを見まして、私は非常に感じているのですが、不幸にしてその新聞、雑誌のそれをたくさん持つていませんが、私のところにあるもので、フランスから参りましたものと、それからこちらにおつてドイツ人が英語で世界の宣教師たちに書いてやつていますこの小さな雑誌というふうなものの中に、このことをりつぱに書いてありますし、永井先生がいかに外人に対していい影響を及ぼしておるかということを証明しております。そのために永井先生の著書を読んで、これを私が受けつけましたのは、南米のポルトガル語とスペイン語に訳したいから翻訳権をもらつてくれというので、私はもらいまして向うに送つてあげました。それからアメリカのナナ通信では、永井先生の著書を訳したいから翻訳権をくれと言つていますし、それからドイツ語の方はチューリッヒのハイツ・ブレッシュという人がドイツ語でこれを訳すことになつております。それからベトレヘムという宣教師会の会長さんも、ドイツ語に訳していろいろなものに載せたいということを願つて来ておるというような次第であります。こういうようなことで、この永井先生の著書——日本人の書いた著書で、私の知つておる範囲においては、日本にはいい著書がないじやないかといつてけなされることがたびたびありましたが、初めて永井先生の著書が外人に読まれ、愛読されて、これを訳したいから翻訳する権利をもらつてくれ、そのことを永井先生に話してくれといつたような申出があるのは、私ほかに日本の著書でそういうものがあるかどうかしりませんけれども、この方面において外国に対する響きは非常によいと思います。それもなぜ外人はこれを非常に愛読するかと申しますと、私の考えでは、そこには世界共通の平和へのあこがれがある。それから戰争を唾棄して人類の幸福のために盡す、その根本精神がここに盛られておる。それはクリスチャンの思想であり、カトリックの思想であり、世界に通ずる思想であつて、これほどまじめに考え、そうして熱烈に言い表わしておるものがあるのかということで、向うの人が感激して訳したいと言つておるのだろうと私は想像いたします。
○鍛冶委員長 こちらに何か英語か何かで訳したものはないのですか。日本で……。
○田川参考人 現在首相の息子さんの健一君が英語に訳しました。
○鍛冶委員長 それが外国に行つてそういうことになつたのですね。
○田川参考人 アメリカではまだ出版されておりません。
○鍛冶委員長 外国人が読んだのは、日本語のままで読んだのですか。
○田川参考人 日本におる宣教師とか、日本語で読んだ者もおりますし、おもないろいろなところ拔萃して、それを外国の新聞雑誌に紹介した。宣教師とか何とかいう者はそれを読みまして、南米あたりは日本語の版が行つておりますから、それを読んで、向うの人がスペイン語、ポルトガル語に訳したいというのです。
○鍛冶委員長 そこでずいぶん本か売れたようですが、それについての印税であるとか、その他の収入等はどういう状態で、どういうふうに使われておるのですか。
○田川参考人 印税の方はずいぶん税がかかりまして、ほとんど大した收入はないということでありましたが、東京の方だといろいろの方面から、商売の方だと思いますが、先生の本を出版したいというような向きのものがあるようであります。この前の「花咲く丘」あれの印税はみな長崎市に寄付いたしまして、向うで何か教会みたようなものの援助をするのに使うということになつておるらしいのであります。その他のは大体学校、病院、社会事業などに寄付なさいます。それも隠れてやりなさるので、自分では発表なさいませんから、どこにいつ幾らといつたようなことは申し上げられませんけれども、とにかくいろいろの社会事業、公共事業にこれを寄付して、あまりにも自分のため、あるいは自分の子供のために使われないので、まわりの人が心配いたしまして、子供の将来のために財団法人をつくつて、ひとつ永井先生に金を持たせないで、子供のために何かして行こうじじやないかというような話すらも起つたようなわけで、実際に永井先生が今金がたくさんある、そうしてぜいたくな暮しをしておるというわけでも何でもなくて、この間も、この夏でした、浦上天主堂という写真のグラフをつくりまして、これを原子爆彈を受けました浦上の信者の家庭には一冊ずつただで配付をいたしました。それから修道会とか教会、欧米、南米、あたりの教会にもこれを寄贈していらつしやいます。それから浦上には千本桜といつて、道ばたなどに桜をたくさん植えさしていらつしやいます。ですからお金の方は、今手元に持つていらつしやるのはほとんどないと思います。
○鍛冶委員長 浦上の天主堂は全部燒けてしまつて、それが復興したそうですが……。
○田川参考人 たいへんこわれまして、そのそばに今仮の聖堂をつくつております。
○鍛冶委員長 それについても相当寄付でもなさつたのですか。
○田川参考人 それに対して寄付なさつたということは私知りませんが、あそこの主任司祭が幾らか受けたいということを言つていました。
○鍛冶委員長 何かほかにありますか
○岡(延)委員 あなたは数千箇国の神父、修道者を網羅するための世界的規模の大修道会、マリア会という会の日本における管区長、要するに日本における責任者である。あなたのもとには数箇国の神父、修道者がおられる。そこで海外に対する反響というものを手にとるように知悉するという立場におられますので、私としては海外に対する反響を伺つてみたいと思つておつたのでありますが、今の委員長の質問によつて大体盡きたようであります。けれども補足的にお尋ねしたいのですが、本年の五月ですか、ザビエル四百年紀念祭のときに、シドニーの大司教でカルデイナルという方が使節としてこちらに参りましたときに、親しく永井博士を慰問された。そのほか外国の方で長崎方面を訪れる観光客、あるいは巡礼、これらの方とはことごとく永井博士を訪問するようでありますが、それらの方で、先ほど申しましたカルデイナルのほか著名な方で、訪問された方を御存じでございましようか。
○田川参考人 大体長崎に来る外人では、ドクター永井はどうしているかという質問をほとんどみんないたします。そうして世界でも評判なヘレン・ケラーは、さつそく永井さんのところに見舞に行かれました。そうして一週間前に私か永井先生のところに行つたときにも、ヘレン・ケラーさんの手紙が参つていまして、自分で伝えたところをタイプに打つて、そうして最後に鉛筆でヘレン・ケラーというサインがしてありました。その手紙を見せてもらいました。外人が長崎に行つて永井先生をお見舞する。帰つてからでもたびたび手紙をやつて親交を続けて行くというようなことは、ヘレン・ケラーが一番世界的に名高い珍しいお客さんだと思いますが、そのほかただいま申されましたシドニーのカルデイナル、それからたとえば長崎に入つて来ますアメリカの船など、船長さんが——名前は知りませんけれども、自分でやつて来ることもありますし、人をつかわして、コーヒー一カン送つて慰めるといつたようなことがありまして、長崎に来る多くの観光団の人たちは、一目でも永井博士を見たいという気持を持つているようであります。そうしてできる人はみんなあそこで行つてちよつとお目にかかる。帰つてもまた手紙をやるとかいうふうにして、その親交が今でも続いているような状態であります。
○岡(延)委員 それは海外に対する反響でありますが、国内においても、人心安定のために非常に役立つたということは、この前来ていただいた証人でも、これを証言された方があるのでありますが、それは比較的抽象的なことであつて、あの人心が荒廃して、エロ、グロその他暴露的な読物ばかりが横行したときに、あのたんたんたる調子で書かれた随筆調のものかあれほど売れたということは、非常に人心にアツピールした。従つて好影響を與えたものであるというふうにわれわれは確信しておりますが、そのほかにもつと端的に、たとえばこの不安な社会、荒廃した社会に絶望して自殺しよう、あるいは一家心中しようと思いつめた人人が、あの著書を読むことによつて、飜然としてその非をさとつて信仰の道に入つたというようなことも伝えられておりますが、あなたは直接間接そういうことを聞かれたことはございませんか。
○田川参考人 それは永井先生からも伺いましたが、そういうような資料を私ほしかつたのですけれども、永井先生はもうそれは忘れることにしてくれと言つて、みんな見せてくださいませんでした。けれども私の頭に残つていることは、まず第一に地元の長崎の浦上から復興を始めなければいけない、新しい日本はここから生れて来るのだ、こういう理想と熱情に燃えて、終戦直後劇をおつくりなさいました。その劇の中心思想になつているものは、やはり物質よりも精神が主であるというようなことから、しつかりした信仰を持ち、至誠の観念を持つてこれらの物事をやつて行くときに、初めて人間は大きな仕事ができるというような観点から、その劇の終りが自分の心を新たにし清めて、初めて社会のためにもりつぱな仕事かできるというので、最後にはその青年たちがそろつて教会に行つて心を清めて、いよいよ仕事をするということになつているのですが、大体あの永井先生も自分で劇をつくり、達者なときには自分で劇をやつて行く役者でした。「長崎の鐘」ができましたときにも、これを長崎に送つてやつて永井先生に見せたところが、これではあまりにも長過ぎる、ここを削つて、ここはこういうふうにしてやらなければ観衆が、だれてしまうだろうということを言われて薇薔座の人たちもびつくりしたような、面くらつたような次第でありましたが、そういうふうにしてその地元の足元から、この社会を改造して行くというようなことに、ただ口で叫ぶだけではなく、劇をつくつて一般に見せて、新しい希望を持たせる。それからやはり人情としてなき人を弔い、なくなつた人のために泣くというような意味から、あの永井先生が初めて合同葬を思いついたのです。合同葬を思いつきまして、このことをやつたらよかろう、慰めにもなるし、死んだ人はりつぱな心で天国に行つているのだから、われわれも少し償いをして、清くとうとく生きて行こうというような意味合いで、これを実現させたのは永井先生の考えつきでありました。また原子病、あるいは原子学の研究所を長崎につくりたいというようなことも私直接聞きまして、それが今年広島にできまして、来年は浦上にできることになつております。そういうふうに、いろいろの方面から、今生き残つている人たちに慰めと希望を與えるということを、言葉に、それから書物に、それから劇と、いつたような、実際に民衆に食い込んで行く方法でもつて、永井先生は働いていらつしやるように思います。
○岡(延)委員 印税のことがよく問題になるのでありますが、実は私数箇月前に、今は故人となりました若松代議士から、永井博士が印税を文化的、平和的事業のために何とか使つてもらいたいのだが、一つの管理委員会をつくつてくれないかというような相談を受けた。それは式場隆三郎という人を通じてそういう相談を受けた。そこで岡君、君も一緒に委員に入つてひとつそういうものをつくろうじやないか、こういう相談を受けたことがあつたのですが、突如として若松代議士は脳溢血のために倒れましたために、それは実現しないで今日に至つておるのでありますか、何かあなたもそういう御相談なり、あるいはうわさなりを耳にされたことがございましようか。
○田川参考人 これは式場博士の方では、日比谷出版社の方の関係で永井先生のところ行つて、いろいろ相談をなさつたり何かしていらつしやつたようでありますが、その式場博士も、税金のためにたいへん永井博士も苦しいようだから、むしろ思い切つてあの印税は長崎市に寄贈してしまつて、そうして出版事業か何かをやるようにしてはというふうな話を承つたことがありました。それからお金の問題につきましては、私別に永井先生と話したこともありませんし、その関係者と相談したこともありませんし、ただ最も永井先生をよく知つているところの田川初治先生というのがいます。この田川先生の手紙によりますと、この印税その他は中学、病院、あるいは社会事業に寄贈なさつて、そうしてほんとうに清貧に甘んじた生活をしていらつしやる。見る目もほんとうに尊い生活だというふうなことを言つて参りまして、お金の方のいろいろないざこざとか、あるいは計画とかいつたようなことは、私はよく存じません。ただ浦上でグラフを印刷したことや、千本桜を植えさせたこと、そういうような方面に永井先生がお金を出してくださつたということを聞いております。
○岡(延)委員 そういう次第で、ほとんど永井博士はみずからその金を使つていない。それで住宅のごときも、この点は非常に何回も話が出ましたが、いまだに委員長それ自身が、一坪ではあるまいというくらいにふしぎがつておる。ところが今質問をしておるこの私も、これは現認しておる。田川証人も現認しておる。それからこの前証人として出られた元九州帝大助教授の石川さん、この方も現認しておる。また調査員の石川さんも現認しておる。そういう生活をしておる。ですから、この点に非常に誤解がある。なぜ誤解があるかというと、これは実は九月の十三日にこの問題が取上げられまして、神山君が共産党を代表して反対、私が民自党を代表して賛成論をとなえて、そうしてこれが非常にけんけんごうごうたる批判の的になつた。その直後において、あの毎日新聞という東京、大阪、西部の三つの新聞を合せると数百万部刷つているあの新聞が、永井博士は著書をつくつて、それが売れた、それで邸宅をつくつた、こんなけつこうな身分はない、こういうことを書いておる。この点は永井さんの人格に非常に関係が深いので、この点を、くどいようですが、もう少しはつきりしておきたいと思うのでありますが、これは実際に見た人でなければ、これほど有名な人か、これほど本の売れた人が、そんな小屋に住んでおるということはだれも信じない。委員長自身もさつきけげんな顔をしておられる。一坪よりちよつと多いかもしれないが、そういうことであるということを、もう少しはつきりと確認していただきたい。要すれば、石川調査員も数日前に帰つて来られたようでありますから、証人じやありませんが、なまなましい説明をしていただきたいと思います。
○鍛冶委員長 先ほどおつしやつた通り、一坪にちよつと何か加えてある、その程度のものでしようね。
○内藤(隆)委員 最前から田川神父さんの御説明、実に感激して私どもは聞いておるのですが、岡委員も述べられたように、住宅の問題では、遠く長崎のことでありまして、われわれもあるときには新聞によつてさように想像いたしましたが、また著書その他を通じての人格から見て、さようなこともあるまいとも考えておつたのでありますが、幸い手元に長崎タイムスという新聞が、長崎の表情ということで写真を載せておられる。これを……。 〔新聞を参考人に示す〕
○田川参考人 は、これです。
○内藤(隆)委員 さすれば、あなたのおつしやつたことを十分想像し得ると思います。 もう一点お伺いしたいのは、一坪の家において聖者のようなこの人のお書きになつている版権、あるいは原稿料、そういうものについての使途がたいへん疑惑になつておるとともに、その原稿があるいは代筆じやないかというような疑いもあるのでありますが、そこに永井博士の著書の「長崎の鐘」「花咲く丘」「生命の河」「この子を残して」「いとし子よ」の原稿が参つておりますが、この原稿をごらんくださつて、直筆に相違ないかどうか、御判定を願いたいと思います。 〔原稿を参考人に示す〕
○田川参考人 まつたく永井先生の筆です。
○内藤(隆)委員 そうすると、不自由のうちに病床において、それほどの努力をしておいでになるということは、明らかに証明されたと思います。 もう一点、今月三日に長崎市議会において、永井博士に名誉市民の称号をもつて表彰されたということを拜聞しておるのですが、何かそのことについて知つておいでになることがありましたら、お話を願いたい。
○田川参考人 それにつきましては、私まだはつきりそのことについても永井先生と話したこともありませんし、名誉市民というのは一体どんな意味だろうと言つてある人から問われましたけれども、よくわかりませんので答えられませんでしたが、やはりああして病身な上に苦しみながら、社会再建のために、ことに長崎復興のために働いていらつしやるあの尊い姿を見て、これを何とかりつぱな市民であり国民であるといつたような意味合いから、これを表彰するといつたような意味だろうと私は察するのでありますけれども、これについては何もはつきり知りません。
○内藤(隆)委員 それでは委員長にお願いしますが、三日に長崎市議会において、名誉市民の称号をもつて表彰したということは間違いないようでありますから、なおそれに関する資料等がありましたら、調査員においてこれを取寄せてもらいたいと思います。
○鍛冶委員長 石川君が持つて帰られました。これは長崎市として永井博士を特に何かの方法で、優遇とでも申しますか、してあげようというのでつけた名前のようです。そして名誉市民の称号を與えると同時に、その名誉市民をどういうふうにするかという案は、今現に立案中のようです。その原案がそこへ来ておりますから、それをごらん願います。
○横田委員 神父田川さんは宗教人の偉い人でありますが、こちらは俗人でありますから、少し無礼なことを聞くようなことがございましたならば、お許し願います。 第一この「長崎の鐘」百四十一ぺージに書いておりまする、九月二十日に病気であつた、少しよくなつておられて、そのときに病人ができた、往診に来てくれと言われた、そして行つて病気になられたというのは、これは実際でございますか。
○田川参考人 それは、私そのときにいませんでしたけれども、確かにありそうなことなんです。私の今までの実際において見たところでは、自分の苦しみ、困難、疲れていることを意ともしないで、自分を犠牲にして働きなさるというたちの人で、その実行をいつもやつていらつしやるのですから、確かにそれはほんとうだと存じます。
○横田委員 一つの物事に対しましては、よくも言い悪くも言うのが世の中でございますけれども、国会が表彰するということになつて来ますと、やはり悪く言われた、よく言われた、その原因を聞いておかなければならないのでお聞きしたいのでありますが、先ほどから聞いておりますと、相当本が売れている、しかもこれは相当どころじやないので、非常に売れているのです。そして金も入つておる。そのもうかつた金を公共事業に出しておられる、こういうような方ですが、長崎へ行つてこの人の側近の人に聞くと、ある部分悪く言われるようなことを主題にしたいのですと話かけると、鉛筆をとつてのお話にはお答えにならないという話があるのです。それはレポートに出ておるのですが、こういうようなところを見ると、一体やはり地元において、悪く言うふうな人は相当あるんでしようか、それとも悪く言う人は別の意を持つたとか、あるいは思想を持つたとか、そういうふうな人たちが言うのでしようか、その点をひとつお聞きしたい。
○田川参考人 地元において、私は自分の耳で永井先生の非難を聞いたことはありません。そしてまた永井先生について非常にほめる言葉を聞いたこともありません。非常に親しい人たちがこの永井先生の人物、それから生活ぶりをほめる二、三の話は聞きましたけれども、概して地元の人は非常に永井先生に対して、むしろ無関心なような態度を持つておるのじやないかと思われるほど話をしていない。私の耳には入りませんが、一般にもそうらしいです。そこでやはり長崎の人で、これほど全国的に、あるいは国際的に名高くなつた永井先生を、長崎の人がもつと大いにほめあげて、何かしてやらなければいけない、そこには何か永井先生に対するねたみか何かあるのじやないかというようなことを言つた人たちもあるのでありますけれども、そのねたみもないでしよう。ただいなかのことですから、無関心と言つた方がいいかもしれません。それでこの長崎で、特に永井先生について非常に反感を持つて反対するといつたような人は一人もないと思います。
○横田委員 もちろんそうだろうと思うのでございますが、ここにこういうことが出ているのでございますけれども、それは雑誌レポートの十一月号でございますが、その二ページに、この方が防空演習のときに非常に活動しておられた。それで、もちろん熱心なあまりやられたのでございましようが、「防空演習といえば、あるとき一人の看護婦か何かの拍子につまずいて転び、はずかしがつて逃げ出そうとしたら、先生に頭から水をブツかけられたことがあります。先生はまた短気なかたで、よく看護婦をなぐつたので、当時長崎医大の看護婦なかまでレントゲン科は一番こわいと評判でした。」こういうことが一つと、それから「一番ヒドイと思つたのは、ある年の正月休暇で四日までにかえつてくるはずだつた二人の看護婦が船の都合かなんかで一日か二日遅れたんですね。先生はカンカンに怒られて「何故歩いて来なかつたかッ」とどなつたかと思うと、氷の張りつめた防火用水槽のなかに二人ともほうりこまれてしまいました。」こういうようなことがあつたというように書いてあるのですが、こういうようなむちやなことをされる性格の方じやないだろうと思いますが、その点どうでしようか。
○田川参考人 その事実はあつたかどうか、私は知りませんが、多分そんなことはないと思います。なぜかと申しますと、それは熱心のあまりに、自分の本分を盡すという点において、どんなつらいことでも犠牲にして病院に帰つて来るか、あるいは仕事をしろといつたような要求はなさるかも知れませんが、しかし船の都合や何かで遅れて来たとか、あるいはちよつとつまずいて、何かしくじりをしたというような場合に、そんなことを言われる先生ではないのです。あの先生は、そんなときには、むしろ笑いながら、じようだんを言いながら、少し遠まわしにいい教訓を與えるようなたちの人で、惡口雑言をしたり何かする人ではありません。田川初治先生が隣に住んでいらつしやつたが、その人が今まで自分は一度も永井先生が怒つたことを見たこともない、聞いたこともないと証言しております。そこでそれは何かの中傷ではないかと私は思いますが、とてもそういう荒つぽいようなことは行わないはずであります。
○横田委員 もちろんそうではあろうと思いますが、なおこの人の著書の中において奥さんのことをあまり書かれておられない。もしその著書は、経験談が多いならば、奥さんを持つておられたのですし、しかもその奥さんとはほれ合つた結婚です。恋愛結婚の主です。それなのに、自分の心境感を書かれた中に奥さんのことが書かれておらないのはどういうわけです。ここに「永井氏の家庭は完全なカカア天下で、その夫婦喧嘩は有名であつた。夫婦喧嘩をしてきた朝は学生や医局員たちは「ソレ低気圧だ」といつて避けるほどだつた。」こういうようなこともなかつたろうと思いますが、その点はどうでございましよう。
○田川参考人 別にそんなことはなかつたと思います。それは反対するための反対かも知れません。隣近所の人にも、看護婦にも非常に親切で、誠意もあふれていて、そして持つているチヨコレートを配つてやつたり、あるいは友達にタバコをわけてやつたり、お茶を飲ませてやつたり、小さいところに気がついて親切をなさる方なんで、それはむしろそれを逆にとつて言つておるようなことで、それはたしかに中傷せんがための中傷に過ぎないと思います。
○横田委員 もちろん、人は衣食足つて礼節を知ると申しまして、この人は本を書いて非常に社会的に有名になられた、特に有名になられた。そういうような意味合いにおいて、特にその性格がかわつたというわけではないでしようね。その点はどうでございましようか。以前には、かりにこういうようなことかあつたかもしれない、しかしそれから後に、功なり名遂げて、永井さんは、人は名前をあげなければならないというよなことを言つておられるが、その目的が達したので、聖人の域に達したので、今までやつたような、俗人のやつたような、そういうばかなことはできない、そういうような心境の変化で今国会でほめられるというような、名実ともに備わつたというようなことで、そういう変化をいたしたのではないでしようか。
○田川参考人 永井先生の今日の心境は、これで名をなしたとか、仕事をしたとか思つていらつしやいません。いよいよこれから何か世のためになる仕事を残して行かなければならない、今までやつたこと、書いたこと、これも自分ではそれでもつて満足していない。これは先生の言葉なんですが、私は年がたてばたつほど自分を省みてどうも古いタオルのようにだんだん汚れて、よごれて、すり切れて行つてしまう、それでこれはたびたび洗濯をして行かなければならないけれども、洗濯してだんだんすり切れて行つてしまう、やがて神様の前に出るときには、私のタオルもほとんど役に立ち得られないような姿になつてしまうだろう、だから私はマリヤ様にお頼みして、心の洗濯をしてもらうのだということを言つていらつしやるので、いよいよ名が出たとか、あるいはこれで一仕事をしたとかいつたようなことは決して考えていられません。ほんとうに自分の今までやつたことは、何をしたのか、もう少しできそうなものだつたのにといつたような感じなのです。
○横田委員 もう二点だけ簡單にお尋ねいたします。そういたしますと、永井さんはあらゆる角度からほめられてよかりそうな人でございますが、あの人間は偏狭なのか、どういうわけでほめられるということ、表彰されるということが、しかも国会の考査委員会において第一回に——結局湯川さんが先になつたのですが、第一回に表彰されようとしているのをはずかしがるのか。この点はふしきでならぬ。こういうようなことがあるのですか。東京タイムスの九月二十一号に、永井博士から式場隆三郎さんに対しまして「今日の新聞記事にはびつくりしました、神山委員の反対意見に私は賛成します、私のような人生の失敗者、壞国者を国会で表彰するとは国辱と思います。真に国家再建に努力なさつた世界的人物がたくさんおられるのですから、その方々を表彰したらいいと思います。いずれ調査があれば落第にきまつていますから、実現はしないでしようが、いよいよ生恥をさらす私でございます。逃げも隠れも叶わぬ身を病床に横たえ、いまさらの如くおのれの前にラツパを吹いた報いにおそれおののき、過ぎし年月の不勉強を悔いております。」こう言つておるのですが、これは何か特にカトリツク教の教義から割り出して考えまして、人から表彰されるというような場合には、こういうようはずかしい心持が特に起るのでございましようか。
○田川参考人 それにつきましても、この前永井先生と話したのですが、それは式場先生にお送りになつたお手紙の一節なんでしよう。
○横田委員 そうです。
○田川参考人 それにかかわらず、自分の書いた一言一句、あるいは話したこと、それが一々取上げられて、非常な問題になつたり、誤解されている節が多々ある、これはもつてのほかだ、自分の考えをちつともくみとつていない、この表彰の問題も、私この間四、五日前に話しましたときに、あれはどうでしたかと申しましたらば、私は辞退ということはしてない、そして国会を侮辱しているというようなこともない、大体辞退をするということは、自分がその資格があつて、そしてそれはお断りするというときのことだ、自分は初めから表彰される資格はないという自信があるのだから、それは自分でお頼みするとか、辞退したというようなことは何もない。ところが式場さんに自分で手紙をやつた。それがはしなくも公表されて、それが辞退しているというふうにとられるのはもつてのほかだ。自分の言葉や文句を誤つてとつている場合が、あの書物の中でもたくさんあるというようなことを言つて、誤解が多いことを言つていらつしやる。ですからこの表彰のことも、自分は表彰されるということについて、それを辞退したわけでも何でもない。自分の無資格ということをみずから認めただけにすぎないということなんです。
○横田委員 あとは田川神父さんへのお尋ねじやなしに、もし事務局の方で、田川さんがお出しになつた書物の名前、あるいはそれによるところの收入、あるいは一割五分の印税の問題などの詳細なものがございましたら発表していただきたいし、もしなかつたらそれを整えていただいて、結論のときに間に合わしていただきたいと思います。そういうことをお頼みしておきます。
○鍛冶委員長 大体そういう話は聞いておりますが、收支を明らかにするようなものはありません。永井さん自身もないようです。 それから今言われた永井さんの心境としてここに書いてある——一番最後に俳句をつくつてあるが、非常によく心境か現われていると思います。 風吹けば風のままなる枯れへちま。 これは今の自分の気持でしよう。
○梨木委員 ちよつと一点お伺いしたいのですが、永井さんは專門は何をやつておられるのでしようか、医学の專門の方の研究は……。
○田川参考人 大学を出られましてから、ずつと研究室の方で助手をやつておられました。それから助教授、それから教授。
○梨木委員 どういう方面を專門に研究しておつた方であるかということを、あなたは御承知でしようかということを聞いておるのです。
○田川参考人 私はレントゲンの受持をしていらつしやるときから知つているので、その前のことは存じません。
○梨木委員 どういうことを專門にやつておられましたか。
○鍛冶委員長 專門の学問の名前ですよ。
○田川参考人 それはよくわかりません。
○梨木委員 そうすると、永井さんが專門の方の研究面でどれほど高い研究をしておられるか、そういう業績についてはあなたは承知しておられないわけですか。
○田川参考人 それはただ原子病の方の研究、それからのその治療の方面に努力をなさつておつたということと、それから原子爆彈の後にそういう方面において活躍なさつたということは、私は知つております。それからもう一は、湯川博士は非常に高い学理の方、ほんとうに世界の学界で表彰される価値のある方ですが、永井先生はいつも自分の原子学とか原子病の誤明は非常に通俗な、民衆にわからせるような書き方をしていると言つていやつしやいます。
○梨木委員 わかりました。あなたにお伺いしたいのは、永井さんの專門的な分野における業績がどの程度のものであるかということを、あなたはどういうぐあいに知つておられるかということだけを伺いましたらよろしい。
○田川参考人 その業績と申しますと……。
○鍛冶委員長 学問的、学理的のですよ。それはあなた御承知ないでしよう。
○梨木委員 この人を專門家でない方面から見た、知つているところを言つてもらえばいい。知つておられないならば知つておられないでけついうです。
○田川参考人 最後には原子学の方だけやつていらつしやいましたが、その方面の研究はまだ十分ではないと思われます。
○梨木委員 いやわかりました。ではこういうぐあいに聞きましよう。永井さんが專門の方面において研究されたことは、世間的にはどういうように評価されているかということを、あなたが知つておられることを伺います。
○田川参考人 むずかしい学理を通俗的に民衆にわからせるように努力するというその功績が、永井先生にあると思います。この前も私会いましたときに、湯川さんはからすみのようなもので、自分は煮ぼしのようなものだ、そういうように話されました。煮ぼしは民衆に行き渡つて、味をつけて、民衆はそれを貧乏な者でも食べられる。だからその原子学、原子病に関する学理をやさしく一般民衆にわからせるという方面には大した業績があると思います。
○梨木委員 それはあなたがそう思うだけなのですか。世間一般にそういう評判があるのですか。
○田川参考人 私の知つている人で、あれを読んで原子について……。
○梨木委員 どういうものを読んで……。
○田川参考人 「生命の河」という本です。
○梨木委員 私の質問は終ります。
○鍛冶委員長 御苦労さまでした。済みました。 —————————————
○鍛冶委員長 配炭公団のことで、前にきまつておる証人をいずれ日をきめて私の方で呼ぼうと思いますが、御異議ありませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○鍛冶委員長 それではさようとりはからいます。 明後日午後一時から開くことにして、本日はこれにて散会いたします。 午後三時一分散会