海外同胞引揚に関する特別委員会 第12号
- 発言数
- 151 件
- 登壇者
- 12 名
- 会派数
- 2
- 開催日
- 1950/03/31
会議録
○中山委員長 これより会議を開きます。中共地区におきますところのわれわれの同胞は、現在数については確実に把握しておりませんが、これらの方々の引揚げ促進に関しましては、これが実現のため、あらゆる方面に折衝して参つたのでありますけれども、今まで何らの手がかりがつけ得なかつたのでございます。本委員会といたしましては、委員会の使命の重大性を顧みるとき、責任を感じておる次第でございまするが、これが対策につきまして、もはや急速に実現をはからねばならない現状に参つておりますので、本日ここに、過日山澄、高砂の両舷で帰国されました中から、七名のお方に来ていただきまして、中共地区のわが同胞の実態を明らかにするとともに、一つは留守家族の方々の不要の不安を除去し、同時に他方においては、本委員会として今後の引揚げ促進の資料とすることが、本日の委員会を開催した目的でございます。参考人の方々にも、この目的を十分御了承くださいまして、事実をありのまま率直に御報告いただきたいのでございます。なお時間の都合がございますので、要点だけをはつきりとお答え願うようにお願いを申し上げておきます。あなた方が中共地区において体験されたこと、並びに現在残留している人々の状況、あるいはそれ以外にも、私どもの参考になるような問題について御報告願いたいと思つております。今朝の毎日新聞によりますれば、最近中共地区よりの通信が行われており、ことに中国の南端、国境線の最前線の雷州牛島発信で、ひんぴんとして通信が近親に舞い込み、驚かしておることが報道されておりますが、各参考人が最近中共地区より通信を受取つておられることがあるならば、このこともあわせて御報告を願います。それではます私から質問させていただきます。関さん、あなたが終戦直後おあいになりました実況、そうしてハルピンの鉄道局長として、どういう処置をわが同胞に対してとつていたか、あるいはその混乱の中で日本人がどこかに移動したことがあるか、あるいは残留しているとおぼしき数、今日の毎日新聞においては、十万ばかりの人が残留しているということを発表しておりますが、あなたの考えでは、どれくらい向うに残つておるとお考えになりますか、終戦直後の実情、あなたがお帰りになるまでのその道筋、残つておる人、そうして帰された人々はどういう種類の人であつたか、そういう点についてお話を願いたいと思います。
○関参考人 私は何にも別に用意をしておりませんから、今頭に浮ぶだけを申し上げます。ちようど終戦になりまして、私、鉄道局長をしておりましたが、ずつとそのまま鉄道局の仕事はやつておりました。はつきり記憶しませんが、大体八月十八日ごろソ連の鉄道関係の軍人が参りまして、鉄道運営の管理を始めました。それから次々にそういう人たちが参りまして、だんだんその管理を強化いたしまして、大体十月末に鉄道局員は全部やめさせられました。それから後は、大体従来の日本の鉄道局員は、そこにあまりおりません。八月十八日ごろ入つて参りまして、私どもは鉄道運営に必要ないろいろなデーターをつくらされました。これはほとんど晝夜兼行で約一月ぐらいそれにかかりまして、大体その材料でもつて鉄道の運営ができる程度の材料が整いました。別にその態度なんかは、悪いことはありません、非常に紳士的でありました。鉄道は、そんなふうで十月一ぱいでやめてしまいました。それから鉄道従事員は、作業団というものをつくりまして、主として鉄道関係の積みおろしの作業というようなものをやらしてもらいまして、大体引揚げまでそれを続けて参りました。もちろん鉄道従事員は、たくさんおりましたから、全部がそれに従事するわけではありませんが、大半の強健な人は、それに従事して生活の方途を立て、なお、からだの弱い人、あるいはロシヤ人もしくは中国人に従来から関係のあるような人たちは、商売やブローカー、そういう仕事をして、引揚げまで生活の方途を講じて参つたような状況であります。終戦直後から帰るまでの政治経済状態は、別に申し上げないでも十分わかつておると思いますので省きましよう。そういう状態でございまして、引揚げが始まるということが、大体八月の初めごろわかりましたが、私ちようど選ばれて、日本人会長というようなものに八月の初めになりました。これは主として引揚げのための民会長をさせられたようないきさつでございました。引揚げには、御承知のように今の李敏然が、東北全体の引揚げの委員長でございまして、ハルピンにずつとおられまして、引揚げが済むまで引揚げ事務にもつぱら従事しておられました。私いろいろな関係から、日に何回もお会いしておりましたが、非常に熱心に、かつ親切にやつていただきました。大体引揚げが二十一年の八月十九日から始まりまして、九月の十九日であつたかに終りました。その終る直前に私民会の幹部十何名と残れという命令を受け、昨年帰るまで残つたようなわけであります。ちようど引揚げが十九日に終りましたが、その直後に、田舎の方面から団体をなしてやつて参りました。それは引揚げるために出発したのだが、間に合わなかつたというような団体です。そういうのが二回くらい、百名内外の引揚者が参りました。これはほんとうに着のみ着のままで参りましたので、その人たちを収容して、その後の生活を立てさせるためには、当時ハルピンに残つておりました在留邦人たちが非常に骨折つた事情でございまして、私もちようどそういうことをやりまして、二十二年の四月まで民会長をやつておりました。四月に私の次の民会長に引継ぎまして、爾来私はほとんどずつと何もそういうような民会のことには関係しないで、自分の私生活のためにタバコをつくるというようなことを、昨年の引揚げまでずつとやつて参りました。そういう関係でございますから、あまり直接にハルピンにおける日本人会の実情というようなものは、私真相は存じておりません。たまたま昨年の六月二十何日でございましたか、市政府から呼出しが来まして、みな参りましたら、今日帰すというようなことで、その夕方立ちまして、奉天に翌日着きました。奉天に二日とまつて、あそこで東北全体の勢ぞろいをいたしまして、二十八日に奉天を出発して、その翌日大連に着きました。あそこですぐ港の横にあります牧容所に約八十日余りおりまして、九月二十日にあそこを出発して帰つて参つたような状態であります。
○中山委員長 その八十日の間の収容所内の生活状態は、どういうものでございましたか。
○関参考人 それはここにおられる方みな一緒でございますが、大体午前中は教育でした。これは帰るまで、ずつとそういう状態でございました。午後はやはり、ある時間は班とか何とかいうものを單位にして、教育なんかもやつておりました。
○中山委員長 どういう教育ですか。
○関参考人 主として共産主義の教育でございますね。
○中山委員長 その八十日という長い日にちは、なぜにそんなに……。船を待つためですか、それとも教育の徹底を見るための日にちであつたとお思いになりますか。
○関参考人 それはわかりません。向うではいろいろ言つておりましたから……。日本から船が来ないのだということも言つておりましたし、新聞なんかに言つておりましたが、やはり教育のために残しておるのであろうというようなことも言つておりましたし、私ども真相は知りません。ただその二つ、教育のために残しているということと、船が来ないのだというようなことを言つていたようでございました。
○中山委員長 中共地区の状況はいかがでございましたか、あなたが向うにいらつしやる間の……。
○関参考人 大体のことを申しますと、終戰直後、これは混沌たる状態が、大体その月ずつと続きまして、特に最初の八月、九月、十月の境くらいまでひどかつたのですが、それから漸次幾らかずつ落ちついて参りました。そうは言うものの、やはりその月一ぱいぐらいは、騒々しいような状態でございました。二十一年の三月一ぱいだつたと思いますが、ソ連兵が引揚げまして、それからすぐ中共のあれになりまして、ソ連兵が引揚げましてから、例の農地改革というようなものが始まつたようでございます。これは徹底的に行われたようですが、大体それもその年一ばいくらいで済んだんじやないかと私記憶します。それが済みまして、都市関係のやはりそういう生産関係が始まりまして、それが大体、あれは二十二年の夏ころから始まりましたかね、そうして二十二年一ばいくらいで、大体私中国関係は済んだと思います。
○中山委員長 それでは残留数についての、あなたの知つておられることを御報告願いたいと思います。
○関参考人 それは私よく存じませんが、引揚げました当時、舞鶴であそこの援護局の次長の部屋で私ども、ここにおる者大体寄りまして出しましたが、この数字以外には私知つておりません。
○中山委員長 その数字はどれだけあうたと御記憶になりますか。
○関参考人 大体四万六千くらいございました。それは八路関係に入つている、つまり軍人なんかは除いた数でございます。つまり兵隊に参軍しているやつは、私ども推定できませんでしたから……。
○中山委員長 普通の住民の数は、大体これだけあつた。
○関参考人 そうです。
○中山委員長 最近向うから何か通信をおもらいになつたことがありますか。
○関参考人 ございます。ちようど現在民会長をやつております佐藤四郎君からも参りましたし、やはり鉄道に留用になつている元の哈局電気部長をしておりました古野垣君からも来ております。
○中山委員長 どういうことを伝えておりますか、向うはすつかり落ちついて、わが同胞の生活が安定しているように伝えておりますか、それとも苦しい立場にあることを伝えておりますか。
○関参考人 そんなことは別に伝えてむ何も申されておりません。ただ私的なこと、だれが死んだとか、だれがどうしたとか、そういうような友人関係を申しておりました。ただ物価なんかは、私どむが引揚げた昨年ど大同小異だというようなことを、書いております。そのほか、あまり政治、経済に関係のあることは書いてございません。
○中山委員長 何か私がお尋ねいたしましたことのほかに、この委員会に言つておきたいとおぼしめすことはありませんか。
○関参考人 別にございませんから、何でも御質問がありましたら、あと知つておる限りは申し上げます。
○中山委員長 それでは南満の山田さんにお尋ねをいたします。あなたの終戰直後におあいになりましたことで、どういうことが非常に苦しかつたかということ、それからお帰りになるまでの中共の地区の状況、それから残留者の数、今お尋ね申し上げましたことと同じようなことで、あなたの体験なさつたことをお話願いたいと思います。
○山田参考人 私は爾来満軍におりましたのですが、終戰当時、関東軍の情報部の方に籍がありましたものですから、工作に七月下旬に国境方面へ出ておりまして、終戰になつたのがわかりませんでした。それで八月十二日に国境方面から——大体国境方面と言いますと、東北でございまして、ハバロフスクの近所の富錦の方から佳木斯に下つて行きましたところが、本部は全部方正付近に遁竄したというような情報を得ましたものですから、方正の山に向つて一行連絡のため退避して来ましたが、ちようどあの混乱状況にありまして、とうとう部隊本部に連絡できませんで、山地を徘徊いたしまして、それからハルピンに出ました。ハルピンに行つたところが、ちようどソ軍側も飛行機でもつてあそこに降下しておりました。すぐにまた山に逃げ上りまして、老爺嶺山脈の中を大体二十日間にわたつて徘徊しまして、とうとうあの横道河子というところに出ました。ところがやはりすでにソ軍があそこへ入つて来ておりまして、日本軍の武装解除もやつておりました。食糧がなくなつたものですから、——当時私ども工作員は、中国人が多かつたものですから、いわゆるゲリラ部隊の指令を受けまして、後方撹乱をやれというような指令だつたのですが、それもできずに、横道河子の山で武装を全部埋めまして、それから中国人を食糧奪還にやりました。ところがすぐにそれがつかまりまして、とうとうあそこでもつて全部逮捕されまして、一行四十二名で——日本人はそのときに六名おりましたが、全部牡丹江の俘虜収容所に送られまして、中国人は現地で全部解散しました。私どもはあそこに約一箇月おりまして、その間、私少しロシヤ語がわかるものですから——その当時付近の山に遁竄した五百、六百という部隊がそつちこつちにおりました。その部隊の下山工作に通訳として使われました。それで十数回にわたつて行きましたが、下つた部隊は約六百ぐらいしかありませんでした。そのうちにソ軍の将校と知り合いになりまして、お前たちをウラジオ経由で返すと言う。どうもそれは判断してみますと、ウラジオ経由で内地に返すというのは、おかしいと思いましたものですから、さらにつつ込んでその晩よく聞いてみたところが、実は返すのではない、シベリアに送るのであるということなので、それじや困る。それで私は入つてから二十五日目の晩に、約十三名と結託しで收容所を脱走しました。そうしてもとの山に逃げまして、何とか内地に向けて帰ろう。もとの身分がわかれば、結局銃殺になるのだというような観念がありましたものですから、それで途中五、六回つかまりましたが、ロシヤ語がわかりましたし、中国語もわかるものですから、その点は向うにうまく言つて逃げまして、もとの埋めた武器を掘り出しました。それで拳銃を持つて歩くものですから、正当に道は歩けません。暴民や何かがうるさくて……。拳銃や戎器を掘り出しまして、戎器を携行して、山を徘徊して、再びハルピンに出ました。ハルピンに出る間、二、三ソ軍と戰闘をやりましたが、こつちは無勢、向うは多勢で、かなうわけはありませんし、二十名一緒に出た日本人が、途中で十三名ばかりやられまして——ハルピンに着いたのは七名でありました。ハルピンの前で武装を全部松花江に投げまして、町の中に入りまして、あそこでつかまりました。当時ハルピンの埠頭から、日本人からいわゆる占領品と称してとつた物資を、どんどん松花江の船に積んで一バロフスク方面に運んでおつた、それの荷揚げ苦力に使役に出されました。その荷揚げ苦力に一週間ばかりおりまして、これはどうしても逃げなくちやいかぬというような頭になつたものですから、歩哨を河中にほうり込みましで、また六名で逃げました。それで潜入しまして、ちようど当時綏化あるいは北満方面からの避難民がどんどん新京、奉天に向けて退避しておつたものですから、それにまぎれ込みまして、やらと新京に着いたのが十二月の初めでありました。新京に着きまして、私どもは難民として、開拓団と偽証して、菊水町というところに日本人の知るべがおりましたので、そこに入りました。いろいろ身分の追究がありましたものですから、そちらこちら逃げ歩きまして、約一箇月くらい知るべをたどつて、その間街頭商人をやつたりなんかして、食べておりまして、その翌年の一月にちようど私が南嶺のもとの知るべの家に訪ねて行つたところが、そこですぐにつかまりまして、少しソ連語が話せる関係で、いわゆる使役に使う人聞の世話役をやれというようなことで、そこの通訳に入りまして、それから三箇月ばかりソ軍が引揚げるまでおりました。そうしでソ軍が引揚げると同時に、いわゆる保安軍というのがあそこにできまして、その保安軍に入つてくれぬかというような話がありましたが、すぐに八路軍が入つて来まして、私はまた逮捕されまして、相当苛酷な拷問にあいました。
○中山委員長 拷問というのは、どういうようなものですか。
○山田参考人 いわゆるつるし上げです。水を結局四斗ばかり飲まされました。縛つて、さかさに頭を低くしまして、水道の栓を持つて来まして、目のところに手ぬぐいを当てまして、身は寸分の身動きもできないようにして飲ませるわけです。約四斗ばかり飲まされました。肝臓がそのときに肥大しまして、まだよくなつていない。そうして大体私の勘定したのでは、六百くらいは勘定しました、あとは勘定できなかうたのですが、からだというからだは、ほとんどましようなからだはなかつた、全部はれて青くなつておる。
○中山委員長 飲んだためですか、たたかれてですか。
○山田参考人 いや、たたかれてです。
○中山委員長 水を飲ませるのは一種類の拷問ですね、第二はからだを毆打する、それだけですか、まだほかに違つた種類の拷問がありましたか。
○山田参考人 それからすわらせて足と手を一緒にして縛りまして、これに太い梶棒を入れるわけです、そうしてつるし上げるのです。こういうふうになつて胸がはり裂けるような……。これが一番ひどい拷問です。
○中山委員長 その三種類ですね。
○山田参考人 そうです、それが約十五日間ぐらい……。それから最後に民主裁判にかかりまして死刑の宣告を受けました。それで午後の五時に死刑というときに、全部町に引出されて民主裁判を受けました。受けるのですが、結局当時は、ずいぶん向うの宣伝がきいておりまして、日本人は殺せ殺せといつて全部そうい意見なものですから、とうとう死刑になりまして死刑の壇場に上りました。そうして撃つことは撃つたのでしようが、あとで考えてみましたらやはり策略だつたのです。約二十五発ぐらい撃つたように思いましたが、結局あとで使おうと思つたのです。そのときの司令官は周保仲というのですが、あとでその司令官のところに呼び出されまして君は殺すのだつたが、どうだ八路軍のために働かぬか、働けば許してやるというものですから……。
○中山委員長 一旦死刑になつて死んだ形になるのですか。
○山田参考人 結局向うでは撃ちましたけれども、当てずに撃つたわけなんです。
○中山委員長 そうするとあなたは死刑の宣告を受けながらも、死なないで死刑が済んだわけですね。
○山田参考人 そうです。それで結局司令官の前に——向うでは計画的にやつたものです。そういうような状況がありまして、相当からだが痛んでおりましたものですからまた病院に入れられまして、病院ではぐあいが悪い、自宅療法をさせてくれということで自宅にもどしてもらいました。それからまた私脱走しまして、約一箇月間天井生活をしておりました。やつと逃げ終おせまして、そのうち南方から来た新六軍、これは国民党軍ですが、入つて来ましたからそれに助け出されまして、私にどうしても国民党軍に参軍してくれというようなわけで、ちようど昭和二十一年五月から二十三年九月まで、ずつと新京の国民党軍の情報参謀としてあそこに勤めておりました。それから九月に——ずいぶん私も意見を出しまして——約五十六万からの人口を擁しておりました新京ですが、ちようど二十三年一月にあそこが八路軍に包囲されまして、約九箇月というものは食糧が断つたわけです。そして市民がどんどん餓死して行く一方、脱出が多くなりました。ちようど九月にはあそこを守つておつた兵隊が——私らの国民党軍ですが、十八万五千、それ以外に市民が四万五千に減りました。それでそのときにいろいろ緊急会議を開きまして、どうしたらこの窮境を打開されるかという問題につきまして、司令官と意見の対立がありまして、私はそれではやめる、どうしても私の意見としては、中央を突破して奉天まで下るべきだということを勧めたのですけれども、結局叛乱のおそれがあるという意見の対立から、私はそこをやめまして、單身でもつて、新京を取巻く半径約三十キロの地点、国民党軍の第一線と八路軍の第一線との中間に約十五キロの真空地帶というものがあつて、数万の市民が避難して来て、それでもつて、こちらも受入れなければ、国民党軍でも受け入れないというので、そこはちようど生地獄のようなわけで、草の根もほとんど食い盡し共食いをやつておつたという悲惨な状況でありました。そこを突破しまして、私は單身なものですから、いろいろ中国人から入り口を教わりまして、別のだれも出ないところからうまく出て、入つて行つたわけであります。それは中共軍の機工部隊の防空部隊でありますが、その部隊の中に入つて行きました。ちようど真夜中であつたものですから、歩哨に誰何されました。されまして、見たところ歩哨がずらつと並んでおる。すぐ私は隊長に面会を求めて中川という元中尉の方に面談したところが、何名おるか、結局二百五十名ぐらいおるというよ長ことからいろいろ話し合つて、何だ君とおれとは敵同士でなかつたかという話から、おれはどうしても内地に帰るのだ、向うもずいぶん帰りたがつた。一緒に連れて行つてくれないか、だが二百五十名ではあまり部隊が大き過ぎるということから、奉天に行つてから、飛行機が出るものやら出ないものやら、その真偽を確めてから、あなたの方に直接通知をする、こういう約束のもとに私は別れました。結局新京を取巻いておつた部隊は、大体が季司令の率いる北鮮部隊の二十万で、その部隊の中に入つて行きまして、とうとうつかまりまして、いろいろ鮮人に変装しましたが、どうしても鮮人になれない、鮮人とのあいのこであるというようなふりをしまして、中に入つたのでありますが、とうとうそれもばれて、日本人だということでまた真空地帯にほうり込まれまして、とうとう十二日間その中におりました。そこに、約三箇月ばかり前に真空地帶に入つたちようど三百八十名ばかりの日本人の一団がおりまして、私はまた顔の知り合いから、とうとう団長にされまして——団長をしなかりたら、君の身分をばらしてやるということから、痛しかゆしでもつて、こちらも団長になりまして、約三百八十名の日本人を、どうしたらここを突破して奉天にまで送り届けることができるかということにずいぶん苦心しました。持つておるものとしては、着物や何かいろいろなものを持つておりますが、食糧は豆一つない。それですから、私は歩けるような連中をみな動員して犬を殺させた。野良犬が死人を食いに来よつたので、それをあさつたのです。それから草の根を掘つて、それをわけ合つて大体十二日間過しました。それからその間毎日私は八路軍、いわゆる中共軍の第一線の部隊長に掛合いに行つて、一日に四回ないし五回、私らがおつたところから約三キロの地点まで、一番最後の日には目が見えなくなりまして私ははつて行きました。そうして懇願したのですが、当時の第一線部隊の鮮人は、君たちはおれたちを四十年余りいじめたということから、話がちよつと横道になりますが、結局すわらされて、頭を下げろというものですから下げたのです。そうしたら急に頭のうしろが暖くなつた。それは小便をひつかけられていたのです。こういう目にあいまして、ずいぶん非人道的な、残酷な目にあいまして、やつと十二日目の晩方、第一線の部隊長が見まわりに来ましたから、その人に頼みまして、やつとそこを離れまして、それから途中ずつと歩いて瀋陽に着きました。そうして飛行機の準備はしましたのですが、そのうちに十一月二日に中共軍が奉天に侵入して来たというような状況から、とうとう飛行機も飛べずに、私どもはどうしたらいいかさつぱりわからぬ。そのうちに中共側のいわゆる管制委員会ですか、その人たちの手によつて、技術者は全部職につけというようなことですから、私も偽装しまして、電気技師に化けまして、私電気技師として約九箇月、去年の五月まで鞍山におりましたが、ちようどソ連の電気技師や何かと一緒になりまして、溶鉱炉の復旧工事をやつておりました。おもに中国人の技師が上に上つておつたのですが、あまり仕事がはかばかしく行かなかつたから、私が上に上りましたところが、ソ連の技師が誤つてスイッチを入れましたので、当時上に五名乗つておりましたが、五名とも感電して下に落ちました。それで私脊椎を骨折して入院しました。それに私の身分もはげて来たということから、うそを言いまして、瀋陽に私の知合いの接骨の專門がおるという話をしまして、瀋陽に出ました。そうしてそのまま鞍山はまだやめていないような形になつていますが、内地に帰れるというような情報を得たから、毎日保安局にお願いに行つて、明答は與えなかつたが面会の者は集まれというので集まつたところが、一番最後の方に私の名前が載つておりまして、やつと今度帰れるようになりました。二十八日に奉天を出発しまして七月一日に大連に着きまして、大連の将校検疫所ですか、あそこの収容所に入れられました。そうしてあそこで約三箇月いわゆる共産学習、それから労働、そういうものをやりまして、私どもずいぶんソ連の将校や旅大行政公署ですか、あそこの党幹部の方々にもお会いして、一体いつ帰してくれるのかということを伺いますと、そのたびごとに日本政府は、こちらから何回も懇請をしておるが、船をまわして来ないのが一つと、それから教育が足らぬ。私の聞きましたうちでは、昨年の九月に革命をやる。その先駆者として君たちをここで教育するのであるというようなことも聞きました。あそこで準備教育をやつて、いわゆる吉田内閣打倒の革命をやるというのです。
○中山委員長 ちよつと伺いますが、こういう話を言つておる人があるのです。野坂氏が、向うの建設のために、日本人を帰さないで使つてもらいたいと言つたというようなうわさを、私たちときどき開くのですが、そういうことについて何かお聞きになつたことがあるでしようか。
○山田参考人 本人から来た確実なものは見たことはありませんが、それは聞いたことがあります。壁報などでも一、二回見たことがあります。いつか、民当報ですか、あれにも出ておつたように思いますが、これははつきりしません。
○中山委員長 それではあなたが今までおつしやいました人数以外に、どれくらいの日本人が残つておるという概念がおありでしたらおつしやつていただきた、
○山田参考人 先ほど関さんがお話になりましたように、大体地区別でありますけれども、私は新京で国民政府のもとにおつたときに、いろいろ日本人関係の残留状況——主眼としたところは元関東軍の将兵が山に逃げておつた、その遁竄部隊の救命工作に従事しておつたのでありますが、その以外に各地における日本人の残留状況に関する情報もとつておりました。そのときとつた情報と、私たちが各地区から集めたところの全部の情報を総合しまして、確たる数字ではありませんが、大体四万六千くらいになつております。
○中山委員長 それは一般の邦人ですか。
○山田参考人 そうです。
○中山委員長 そろすると軍関係の残留者は。
○山田参考人 各遁竄地区から、八路軍に包囲されたというような部隊を集めまして、これも確たる数字ではありませんが、三万五千——すでに約二万という兵隊は、昭和二十三年の奉天陥落と同時に、北京方面に移動しました。
○中山委員長 向うからこのごろ何か通信をおもらいになつたことがありますか。
○山田参考人 大した通信ではないのですが、瀋陽と鞍山から二回来ております。
○中山委員長 何か私どもが聞いておく必要なことはありませんか。
○山田参考人 やはり帰りたがつております。それもあからさまに帰りたいと、うことは書いてありませんが、そのよろな文面と、ただいまの一般の生活状況しか書いてありませんでした。
○中山委員長 今生活状況は楽ですか。
○山田参考人 私は飾つたのだろうと思いますが、あなたたちがおつた時よりは、よくなつたということを書いてあります。
○中山委員長 次に山上さん、あなたがこれまで通つて来られたことで、重要な、委員会にぜひ知つてもらいたいという点、終戰後の状況、そして特に帰るのに、どういうふうな教育を受けたか、それから残つている人たちの数がおわかりになるならばその数、それからお帰りになつてからの向うの人たちからの通知の問題については、今まで話を聞きましたが、あまり要点に触れるようなことはありませんから、それは省いていただきたいと思います。
○山上参考人 先の人たちがしやべられたようにしやべりますると、非常に長くなりますけれども、それは非常に重要なことですから、聞いていただきたいと思います。あまり長くなるようでしたら、注意していただきましたら、短かくするようにいたします。私は、敗戦の当時は、実は東安に軍人としておつたわけであります。八月の十日ごろでしたか、出動の命令がかかつて、牡丹江に集結しろというので、実は東安の軍隊が全部牡丹江に移動したわけなんです。そのとき、私たちの部隊が一番あとになりましたが、もうすでにその当時は兵舎は焼かれていますし、また地方の開拓団というようなところから火を吹いておりました。鉄道もすでに輸送ができなくなつております。そういうふうな中を、牡丹江をさして夜行軍をやつたわけであります。その途中私は、勃利というところで、夜を日に次いでの行軍のために馬から落ちまして、足をひかれたわけであります。それでともに行動ができなくなりまして、私は落伍したわけであります。本隊は私をほうつておいて、どんどん進んだわけであります。私は勃利から徒歩でアカという駅にたどりつきまして、そこから牡丹江に入るべく山にさしかかつたのであります。このときの状況をひとつお聞き願いたいと思うのです。この中においては、どういうふうな状況であつたかと言いますと、日本の軍隊が百姓だとか市民をすべて捨てて、そうしていち早く南下して逃げた。将校あるいはまた幹部というような人たちが、自分の家族、また自身たちの身を守るために、まつ先に逃げたわけなんです。そうして軍隊は、ほとんど下士官だとか、あるいはまた尉官というような人たちによつて指揮されて、どんどんと牡丹江に向つてこれも南下して行つた、あとに残されたところの開拓団、一般市民というような人たちは、全然だれの指揮もなくして残されてしまつた。この人たちはどうしていいかわからなかつたわけであります。そしてあとから、ソ連軍が攻め寄せるとか、あるいはまた満軍の叛乱軍が攻め寄せるとか、いろいろな風評デマに惑わされて右往左往しておつたが、とうとう最後やつて来たのがアカの山であります。家財道具を牛車や馬車に積んでアカの山の下までは逃げて来たのだけれども、これから山に入るからには、どうしてもそこで捨てなければならぬ。そのときの状況は、夜店と同じように物を並べて別れを惜しんだわけです。仏壇もかざつてある、あるいは神だなもかざつてある。それからまた金をずらりと並べたり、家財道具だとか、米だとか、ずらつと並べて、いまわのきわにわかれを惜しんだわけです。そこで一番哀れをきわめたは子供です。子供は晴れ着を着せられて、眠つているように死んでおる。子供を連れて行く元気がなくなつたために、かわいい子供をみな捨てて行つた。五つ六つの子供が、お父さん、お母さんと呼びながら泣いている。私はそのときはつて歩いておりましたが、こういう状態がずつと続いておりました。おそらくあの山の中を見た方は、生き地獄というくらいに思われたでしよう。またあの年は非常に雨の多い年でありましたが、われわれは雨に打たれ、また焼けるような炎天のもとを、苦しみながら毎日々々行軍したわけであります。もうそのときはすでに食う物は一つもありません、ただ飲むのはどろ水ばかりです。どろ水よりほかにない。そうして私たちは下痢や赤痢になつてしまつた。十四日ごろはすでにそういう状況になりておりました。——それから二十日ごろまでの間、その山の中を行つたり来たりしていた。どこへ行つていいかわからないから、行つたり来たりするわけであります。御存じの通り、あの辺はどこをさして行つていいかわからぬような、山また山であります。しかしそうこうしているうちに、あつちこつちから開拓団の人たち、あるいは市民の人たちが、あとからあとから逃げて来て、相当多くの人数になつた。そうして二十人あるいは三十人、五十人と一かたまりになつて牡丹江をさして逃げた。大体二道河子というところまで約一箇月の間そういろ状況でありました。私たちはそこではすでに歩く力もなくなつて倒れているところを、中国の人たちに救われて、一週間やつかいになり、あるいはまた五日やつかいになりして来たわけであります。中国の人たちのところになぜ長くやつかいになることができなかつたかと言いますと、満軍の反乱軍と、ソ連の兵隊が押し寄せて来るというデマのために、中国の百姓の人たちが戰々兢々としておる。日本人を置いたら、あとくされが悪い、あとでたいへんなことになるというので、なかなか公には置いてくれないが、隠してはやつてくれる。そういう状況の中を、私たちは牡丹江の方をさしてやつて来た。それが大体山の中の状況であります。その当時の人たちは、明らかに日本の軍隊を恨み、あるいはまたそういうことをした人たちを、非常に恨んでおりました。おそらくここで赤痢とか栄養失調で動けなくなつて、そのまま死んだ人が、相当おるはずです。私は数は知りませんが、しかし相当おります。次いで結局樺林というところに出て来ましたが、樺林でソ連につかまつて、牡丹江の収容所生活をしたのであります。この収容所の生活についてもお話したいと思います。収容所はその当時ソ連の管理になつておりました。しかしながら、収容所内におきましては、日本の軍隊そのままでありました。ソ連の人たちは、ぐるりを一人、二人の歩哨を立でて管理するだけでありまして、あとはすべて日本の軍隊そのままで、敬礼、びんた、すべてやられました。長い間みながどろ水を飲み、食うものがないために、栄養失調あるいは赤痢などのために倒れた病人の数は、その当時千何ぼかありまして、こういう人たちの面倒を見るべく、病院が日本人の手によつてやられておつたわけであります。この間シベリアから帰られた有田少佐が、そこの病院長でありましたが、この人に聞かれたならば、相当のことがわかるだろうと思います。この動けない、指先でつついたら倒れるような病人も、毎日使役に出されました。衛生兵だとか軍医だとかいう人たちは、向うの命令そのままを行い、病人が病人を使役して、死んだ人をかついで行つて埋めたわけです。医者はただあてがわれた薬を與えるくらいなものです。カンフルを打つてくれといつても、衛生兵だとか、それの知合いには打つたが、私ら本科の兵隊にはそういうものを打たなかつた。だからどんどん死んで行く。抱いたまま寝て、明けの日になつたら冷たくなつておつたというように、生き地獄のような状況が展開された。これは要するに、日本軍部の横暴さをそのまま病院にやられたわけです。途中になつて有田少佐はソ連に連れて行かれ、あとに今残つております病院長が来られたわけです。そういうふうな状況で、非常に残酷な仕打ちを病院の中においてもなされて来た。ソ連の軍隊はどういうふうに管理しておつたかというと、この人たちは一生懸命管理はしておるが、非常に手薄で、三人か五人しかおられないので、非常にこまかいところまでは目が届かない。しかしながら、ときたま食事の検査とかそういうときには来られる。食事はたとえば衛生兵だとか、あるいは軍医だとか、こういう人に親しい人にはいい食事を與えられる。しかしながら、動くことのできないような人たちは、かゆでも水だけなんです。かゆの実をすくつて、水の方を患者に与える。それから汁は、肉をすくつてえらい人たちが食つて、汁だけ患者に食わす。ところがこういうことについて意見を出すならば、びんたをとられる、あるいはまたものすごいことをやられるのです。だから、意見を言う者はおらない。そしてその検査を時折りしに来られるときには、必ず偉い人がついておる。だから、そういう人は意見を言うことができない。もし意見を言うならば、びんたをとられる。私の友だちの柴田という人は、九十九という曹長に意見を言うて、びんたをとられてそのまま死んで行つた。現在その人の子供は看護婦をやつております。こういうことが各所に行われた。私は二月に病気がなおりまして——なおつたわけじやないけれども、ある程度よくなつて、患者の人たちの姿を見たときに、毛がぼうぼうと伸びております。せめて頭だけでも何とかきれいにしてやりたいと思いまして、私は散髪の経験があるものだから、隊長にも話をし、そして下士官——この人はまだ中国に残つておられますが、その人に話をして、理髪店をこしらえて、何とかしてやりたいということを申して許可をとりまして、理髪店をしました。そういうような関係で、一日に何十名という人たちの散髪をやつて参りました。私が散髪をやるようになつてからは、私の待遇はよくなりました。なぜならば、私の待遇が悪いと、将校の人たちは毎日きれいな顔ができない、きれいな頭をしておられない、こういうわけです。だから私にはタバコをくれる。タバコも、その当時日本のタバコより、りつばなタバコが配給されておつた。これは将校だけしか與えられない。それを私が散髪に行きますとくれるのをもらつて来て、私の同輩を呼んでやるというようなわけで、その後は、私は比較的いい待遇をされた。しかしながら、ほかの人たちはそういうふうな虐待をされておつた。これが当時の病院生活であります。五月になつて中共軍が入つて来ましてからは、初めてすつかり新しい仕組みにかわつて来た。そして将校だとか下士官だとか、兵隊だとかいうような区別はなくなりまして、食事も全部一緒、作業もその人その人に応じた作業をやる。また生活の向上のためには全員が意見を出す。そして全員で協同するという、いわゆる民主主義の活動が始まつたわけです。そういうようなわけで、中共軍に移つたのが五月からで、中共軍の中でわれわれは後方勤務員としてやつて来たわけなんです。別にその中において、私たちは学習だとかそういうふうなものは、その当時は関心も何もありませんでした。しかしながら社会主義の実体を一日々々とつかんで行くにつれて、自発的にそうした学習熱が高まつて行つた。今言われた教育とかいうことは、中国におきましては、学習と言つております。いま一つ申し上げたいのは、中国の農村は、日本の敗戰の当時、日本の軍部によつて荒されたため、一年間は非常に苦労したのですが、その次の年からはだんだんと輓回して来たということであります。あの当時日本の軍隊は、中国の作物を荒らすだけ荒したわけです。とにかくそこに行つて全部とつて来る、何であろうがかんであろうが、とつて来て食つたわけです。そこで中国の百姓さんは、おれたちの食うものもなく、どうにもならないから、何とかして荒さないようにしてくれないかということを、相当ソ連の解放軍にも頼んだわけです。それでソ連の解放軍としても、それだけ頼まれてやつておるけれども、日本の軍人にも食わさなければならないし、一方をよくすれば一方が悪いというわけで、うまく行かなかつたのですが、とにかくそういうような困難をなめて翌年になると、前年の敗戰の時よりも、よくなつて来たのであります。そして中国人の生活も、日本人の生活も、一年々々とよくなつて行つた、こういうように力強い現実を見て来たわけなんです。これは中国の強いところではないかと、私たちは感じを受けております。それから今なお残留している日本人の人たちについては、私たちは十分なことは知りません。所々方々に行つておるわけではありませんから、十分知つておりませんが、その当時、日本人で残つている人たちは、全部を合せて五、六万は残つているだろう、こういうふうなことを私は聞きました。それから今残つている人たちは、決して悪い生活はしておりません。私が日本に帰つてからの生活と、向うでの生活とを比べますと、向うでの生活の方が、はるかにいいということを断言いたします。最初からよかつたとは言いません最初は非常に困難をいたしました。しかしながら帰る年の前年からの生活と、現在の私たちの生活とを比べますと、ここに非常に相違があるということを申し上げます。なぜならば、私は現在二百四十二円の自由労働者でありますが、二百四十二円では、とうてい中国におつたときの生活はでき得ません。そういうために、私は向うの生活の方が、はるかにいいということを言うわけであります。それからいま一つは、敗戰前のいわゆる日本帝国主義が、満洲におつた当時の中国人の生活と、私たちが帰る直前の中国人の生活、これも雲泥の相違がある、ということを、私は申し上げたいのです。今までは非常に悪い生活をしておりましたけれども、私が帰る当時には、ほんとうに余裕のある生活をしておりました。またあとでお聞き願いましたら御説明申し上げます。
○中山委員長 次に梅さんにお願いします。あなたは銀行の重役として、この終戰当時ごらんになつたことを要点だけ、それから残留者の数、その二点をお願いいたします。
○梅参考人 私終戰当時は、新京、今の長春におりましたが、長春には、すでに二十二年の秋に大部分の者がこちらに帰つておられます。その後瀋陽に移りましたが、瀋陽の方は、御承知のように、一昨年の八月の初めまで戰争が行われたわけでありまして、すでに大勢の方がお帰りになつて、終戰当時の事情その他につきましては、御報告もあつたことと思いますので、ごく簡単に私の見聞しましたところを申し上げてみたいと思います。新京では、ちようどソ連軍が入つて来ましたのは、八月十九日でございました。八月九日の拂暁に、ソ連軍と開戰となりましたとき以来、非常な混乱が起りましたが、十五日の降伏の宣言がありますまでは、それほどひどいこともなかつたのであります。但し、その間に軍の方の命令と申しますか、慫慂というものがありまして、新京は戰火のちまたになるから、みな一般人民は疎開せよということがありまして、一部は安東方面に向つて参りますし、残余の者も十三、四日ごろには、大体新京の郊外にみな避難をいたしました。これがちようど十五日の午後になりまして、市中に旧満車の兵隊の動乱を初めといたしまして、市民の暴動が起りました。このときに、大分日本人も殺されておるということでありますが、疎開しました者が帰つて来るときに、これに出つくわしまして、大分殺された者もあるということを聞いております。そんなようなぐあいでございましたが、一応郊外に逃げました者も、十五日以後に、郊外の方がかえつて危険でありましたので、みな帰つて来ました。それからあとソ連軍が十九日に入りましてから、一応市中の動乱ということは治まりました。しかし、一方ソ連の兵隊によるいろいろな掠奪その他が行われまして、非常に市民は不安を感じておつたのであります。ソ連軍がそれから翌年の春ごろまでおりましたが、大体私の見ましたところでは、あそこにソ連軍がいる間は、政治はしなかつたというような感じを持つております。大体これは、満洲の占領地区のいろいろな物を持つて行くというのが、主眼だつたように考えます。大体政治の方は、公安局を設けまして、新京市でございましたが、市の政府というものができまして、そちらの方にまかせてありました。それでソ連軍の方に申し出ましても、それは市に行つて聞いてくれというようなぐあいでございまして、ただソ連の方に不利益なようなことは、もちろん干渉しておりましたが、直接の政治はやつておらなかつたように、私は感じておりました。ただいま委員長からお話がございましたが、中央銀行としましては、当時九日以後におきまして、各会社その他に資金を供給しなければならぬというので、ソ連兵が入つて来る十九、二十日ごろまで営業をやつておりました。また市中の銀行も、みな中央銀行に葉まりまして、営業をやつておりました。いよいよソ連軍が入りまして、それと同時に二十日に将校が参りまして、爾来中銀に警備兵を置き、中銀を接收したわけでありまして、金を受ける方はさしつかえないが、金の支拂いは絶対禁止するという命令を受けまして、営業を停止された。それ以後は金を出すことができなかつた。それまでは営業を続けてやつておりました。それから、これは中央銀行だけのことを申し上げるのですが、中央銀行に九月の二十三日、向うの将校が参りまして、これは監理官のような形で参りまして、金庫を明けろということで、金庫内部の貴重品を初めとしまして、おしまいには紙幣もだんだんに持ち出したのであります。そしてこれがずつと続きまして、その間ソ連兵の管理下にありました関係もありましたが、中央銀行の行員としての身柄は、割合に安全でありまして、私も毎日銀行の方に出ましていろいろ折衝をしておりました。その間方々から物をとりに来る、暴民が入つて掠奪をするというようなことは、中央銀行自体としてはございませんでした。ほかの銀行は、みな各個にソ連兵が入つたり、その他暴民の掠奪を受けましたが、その点は幸いと申しますか、とにかく掠奪を受けませんでしたが、十月の終りになりますと、じゆうたんからいす、机、目ぼしいものは全部ソ連の方で梱包しましてシベリアの方に送つたようであります。そうして十一月の半ばかになりまして、ソ連兵は撤退しました。十五日の夕方、兵隊は皆いなくなりまして、十六日の朝、今度はかわりに当時の八路軍が入つて中銀を占領しました。しかしこれは一週間ばかりで撤退しまして、あとに国民党側の代表者が来まして、国民党が接收したわけであります。それから国民党の治下に入りまして、翌年の四月半ばにこちらの攻勢がありまして——春季攻勢で新京は一月半ばかに占領されておりました。この間ごく短かい間でございましたが、この際つかまりまして奥地の方に送られ、結局命を落した興業銀行総裁その他の人がおりました。それから五月の終りには、また再び中央軍の主力が満洲に入つて参りましたために八路軍も撤退しました。それからあと、ずつと国民党治下におつたわけであります。私は中央銀行を国府側の中央銀行に引継ぐために、その引継事務をやらされまして、その関係で二十三年七月まで国民党側俘虜として残されておりました。その間さつき山田君からお話がありましたが、新京はちようど二十二年の暮れ頃ごろ——二十二年に大部分の者が帰りましたあとから、攻勢がはげしくなりまして、漸次包囲圏が狭められ、物価は非常に騰貴し、食糧の不足を来しました。これは余談になりますかもしれませんが、一例をあげますと、その当時、六月の末には高梁米が二十五万幾らでございましたが、私ども立ちます八月の終りには一斤二千万円、九月の終りごろには——日本人はもうみなそのころ逃げたのでありますが、その当時には一斤なんと一億五千万円だつたと聞いております。非常にべらぼうな物価でございますし、三食が全部なくなりましたので、みんなが非常に因りまして、私どもそれをやつたのでありますが、野草をとつて食べるとか、あるいは主食がないために白酒のもとに使う麹子というようなものを食べるとか、そんなことをやつておりました関係上、栄養失調で病人などがずいぶん死んでおります。その正確な数字はわかりませんが——そうしまして、私は九月の初めに出ましたが、大体そのとき——前年の秋に大部分の者は帰りまして、あとの長春の日本人の数は、約八百名だつたと記憶しております。私ども九月に出ますときには、それまでに南下しました者が三百名くらいおりまして、約五百名くらいだつた。これのほとんど全部は十月のごく初め、十月の二日ごろに最後は出ておりますが、これまでに南下しまして、全然新京を動かなかつた者は五十名くらいのものだつたろうということを、あとで聞いたのでありますが、聞いております。それから瀋陽に下りまして——これは歩いて下つたのでありますが、これも先ほど山田君のお話がありましたので申し上げませんが、いわゆる真空地帶で、私どもも十一日ばかりとめられまして、それから南下しました。途中は歩くと申しましても、都市から都市へは、大車がございますと大車の便をかり、あるいはトラックの便をかりて参りましたが、その間には私どもは幸いとがめられることなく、公然と歩いて参りました。鉄嶺に参りましたところ、鉄嶺までは国民党軍が参つておりましたので、それから汽車に乗りまして、そうして瀋陽に参りましたのが九月の二十五日でございました。それから收容所へ入りまして帰国の準備をしておりましたが、形勢が逆転しまして、十一月から中共地帶に入り、遂にまた約八箇月ばかりも帰国が延びたのでございます。そうして中共になりましたのは、その後でございますが、見陽におきまする收容所は、もう国民党軍の末期だつたものですから、非常に給與が悪うございまして、まず包米のパンを一日に二つ、それからあとは塩で味をつけた野菜の汁くらいのものでございまして、とうていそれだけでは栄養失調になつて参ります。私どもは一月半ばかりおりましたが、幾らか金を私どもの留用機関からくれたものでありますから、そんなものをつてでもらつておつたのでありますが、そういうつてのない人たちは非常に困つておりました。そこで今度は帰国がだめになつて、そうして中共軍が入りました。その間には非常に苦労いたしましたが、あちらの方でも、さつそく日本人の工作員が入つて参りまして、その方面でいろいろ職業のあつせんをする、そうしてまた一般難民には——難民といつても日本人全部でございますが、救済金というものをもらいました。これは技術員と技術員でない一般人とにわけまして、技術員は七万円、一般人五万円、家族については二万円くらいずつ、みなにわけてくれました。これは技術員は二回もらいました、一般人は一回だつたと記憶しております。十一月ごろにもらいましたが、十二月あたりから大体におきまして職業のあつせんができまして、ちようどそのころになりますと、瀋陽に各機関が下つて参りましたので、各機関にそれぞれ振り向けられました。そのときの振り向けと申しますのも、技術員と申しますのも、みなで書き出してやつたのを、それぞれ振り向けたのでございますから、適合しない者もありまして、その後不要になつて、向うからやめさせられた者もあり、自分でやめた者もございますが、ある者は機関に入り、それからあとの者はいろいろ関係をたどつて中国人との、取引をして商売をやる、あるいはまた日本人が集まりまして、もちをつくつてもち売りをやる。女などはもち売りなどをやつてつないでおりました。大体日本人の生活が、もち売りなどもその中に入りますが、やや安定したというのは、一月の終りごろだつたろうと私は思います。そのときに各機関の方の俸給も、はつきりきまつたようなわけであります。その後民間の方の関係におきましては、漸次瀋陽の政治機関が整いますとともに、大体中小商工業者というものは、その前々年でございますかに、毛澤東の命令で、これは革命に非常に利益があるものだから、当分残しておくというような行き方にかわつたようでありまして、ほかの土地では、相当はげしい清算が行われたようでありますが、瀋陽におきましては、そういう政策の転換からでございましようか、あまりどぎついことは行われておりませんでした。しかし大体におもな工場はすべて政府に移管され、また一般の商人というものは、政府の機関である百貨店、あるいは食料公司というようなものが設けられてありますので、そちらの方の圧迫を受けますのと、それからまた一般人、一般商人に対する課税、公債の割当というような問題から、私どもの帰ります五月ごろから、非常に一般商人は、ことに商人はですが、窮迫して参りまして、店を閉めるものも大分出ております。そんな関係で日本人は自分自身の金を持つておりませんから、自分の事業はできません。やはり中国人の店に働くよりほかはないのでございます。そういう関係から金はなかなか拂つてくれないというようなことで、私ども帰りますときに、今後民間におる日本人の生活は、かなり困難になつて来るのじやないかということを心配しておりました。政府の機関に入りました方は、それぞれ相当な待遇を受けておりますし、ことに特に優秀なる技術者は非常な重用を受けておりまして、その点はまあ日本人と中国八の区別はないと言つていいと思います。民間で働く者、また特殊の技能もなく、政府の方からもお拂い箱になつて民間に下つて来たというような者の生活は、非常に困難を感ずるのじやないか、そういうふうに私ども感じております。最後に人数のことを申し上げますと、満洲全面的にどれだけの人数が残つていたかということは、実は先ほど申し上げましたように、難民の方は大部分の者が帰つたのでございますが、また私も長春に閉じ込められておりましたし、瀋陽に下りましてからも、各地との関係がございませんものですから、全面的なことは全然わかりませんが、帰りましてから初めて聞いたような次第でございます。都市だけから申しますと、瀋陽は、民間人は私ども帰りますときに約三百五、六十人の者がおつたと思いますが、そのうち約半数の百八十人が今度帰国しまして、あと百六、七十人の者が残つていたわけでございます。もつともこれは民会に届けておる者の人数でございまして、各機関におる者は民会と直接関係がございませんので、わかりません。これは想像しましたところ約三千人はおるたろう、これは奥地から機関とともに下つた人たちであります。それからなおこのほかに、中国人の家庭に入つて、中国人と結婚したりなどした女の人が主でございましようが、城内に隠れております者が約二千人はおる、推定人員二千人だと申しております。この推定は、私の聞くところによりますと、二十三年の春ごろでございますが、民会で氏名をすつかり調査したときに、そういうのが七百人おつたそうであります。それから見ますと、二千人という数字は、必ずしもそう非常にけたはずれた多い数字ではないように思われます。その七百人のうち、もちろん一部帰国しております、この数はごく少数でございますが、そういうふうに考えられます。それから長春の方は、私の出てしまいました後、よくわかりませんが、その後だんだんふえたと思いますが、着きまして間もなく向うの人が来まして——去年の五月ごろでございましたが、会つて何人くらいいるかと聞きましたら、これは民間も、それから政府とか大学とか工業研究所とかでございますけれども、そんなものを寄せまして二、三百人ではないかということを申しておりました。しかしこの数字は、はつきりした数字ではございません。それからちよつと申し落しましたが、長春を出ましたのは、ほとんど全部出ましたのですが、それが全部瀋陽にまで参つておりませんので、そのうちの大学教授それから特殊技術者というようなものは、身元のわかつておる人たちは、新京の郊外から全部吉林の方にまわされまして、その町の機関に勤めておられます。大体経験しましたところで、簡單でございますが、これで終ります。
○中山委員長 正午になりましたので、この辺で休憩いたしまして、午後一時から始めます。 午後零時十一分休憩 ————◇————— 午後一時二十五分開議
○中山委員長 休憩前に引続き会議を開きます。
○江口参考人 終戰当時、あなた及びほかの日本人が直面した実情、それから帰国の妨害になるようなものがあつたか、それからその残留の数がもしおわかりでしたら、おつしやつていただきます。
○江口参考人 私は終戰直後から東満洲鉄道の牡丹江の方に引返しまして、東満地区一帶の日本人の救出、並びに救済の責任者としてお世話をしておつたわけでありますので、そういう関係で終戰直後の模様から簡単に申し上げたいと思うのであります。皆さん御存じの通り、牡丹江を中心とする東満洲の一帶、それからチチハルを中心とする北満洲の一帶は、八月九日の朝からソ軍が侵入して参つたわけでありまして、その当時の状態は、非常に急激に参りましたために、さんたんたる状態を呈したわけであります。私は八月十日の朝、牡丹江におきまして、あの根こそぎ動員によつて召集を受けまして市内の警備の一員として任務についたのでありますが、八月十一日に牡丹江は第一回の空襲を受け、その当時の状況は、実にさんたんたる、あの映画で見るような敗戰そのものであつたのであります。当時国境方面から牡丹江を目ざして集まるいわゆる難民のありさまは、実に目をおおうような状態でありました。私どもは、八月十二日の夕刻、牡丹江をあとにしまして、ハルピンの方に後退いたしたわけでありますが、八月十一日、十二日の状態は、すでに牡丹江の附近までソ連軍がやつて来たというので、牡丹江市内におりました独立守備隊並びに警備要員として召集されました根こそぎ動員によつて集まつた者の中から、精鋭をすぐつて、牡丹江の東方約十五キロの地点にあります代馬溝という所を決戰場というか、最後の拠点としまして、ここに集結されたわけであります。ここでは相当激烈な戰闘が交えられまして、その周辺には、私があとで聞いた話でありますが、兵隊が死屍累々として目をおおつたというような状態であつたそうであります。なおまた国境方面におきましても、あとに残りました兵隊並びに警備隊員等は、直接切込みをいたしまして、ほとんど玉砕してしまつたというような状態でありまして、その状態は私が一箇月後に牡丹江の方に引返しまして、附近の状態を見まして、相当の戰死者があつたということを目撃したわけであります。一般邦人の引揚者の中で、相当死んだ人もありますし、さらにまた兵隊を加えた場合に、おそらく兵隊のみでも五万ぐらいの数字になるのではなかろうか。これは東満だけの話でありますが、そういうふうに考えております。さらにその後牡丹江に集められました捕虜は、私が九月の末に引返しました折りには、いろいろな情勢を総合いたしまして約七万くらいの捕虜がおつたように見受けられました。これは掖河、八達溝、謝家構、拉古のおおむね四箇所に収容されておつたわけであります。これら捕虜は翌年の四月の末までには、大半ソ連の方に送られまして、残つたのが約三千名ほどであつたと考えておりますが、その当時、またさらにソ連の方から、病気になりまして、いわゆる弱兵として送り返された者が約千名ほどありまして、都合四千名ほどがソ連から中共軍に引継がれる折に残つておつたわけであります。この捕虜の中で栄養失調とかその他の伝染病等でなくなりました兵隊の数は少くとも二万名に達しておるのじやなかろうか。これもいろいろな状況から想像いたしましてそういうふうに考えるわけであります。またその附近に散在しておりましたいわゆる難民の收容所におりました者の中で、なくなりました者が約二万くらいあるのじやなかろうか、こういうふうに考えております。合計しますと、東満洲だけで約九万名程度の死亡者があつたというふうに私は存じておるのであります。しかしこの数字につきましては、山中その他の地区で戰死して確認されなかつた者は別といたしまして、捕虜收容所中でなくなりました者の十名というものに対しては——名簿を收容所でつくつておつたそうでありますが、これらの名簿はほとんどソ連軍のために没收されてしまつて、これを発表することができなかつた。これは收容所から逃亡して来た兵隊捕虜並びに漸次解放されて参りました捕虜から、大体そういうふうに聞いたわけであります。そうしました場合、この数字については、当然ソ連の方が発表しなければならぬ責任があるのではなかろうか、こういうふうに私は考えます。現在に至るまではつきりとした数字が出ていないというのは、そういうところに大きな原因があるわけであります。また一般難民中でなくなりました約二万名に対しましても——これは昭和二十一年八月に還送がありまして、その後間をおいて去年私ども返されたわけでありますが、その返された途中、死亡者の名簿並びに残留者の名簿等を持つている人は、ほとんどこれを没収されたわけであります。私が昨年六月の末に、ハルピンから奉天に集結させられまして、奉天におきまして身体検査その他の検査を受けます折にも、せつかく一部死亡者の名簿並びに残留者の名簿をつくつておりましたものを、強制的に没收されてしまつた、私以外の人も、ほとんど没收のうき目にあつたわけでありまして、これらがありましたならば、ある程度の死・亡者、残留者も確認が得られるのではなかろうかということを、今にして残念に思つているわけであります。死亡者につきましては、大体以上のような状態でありますが、私は二十年の九月の末に、ハルピン委員会の委員として、一応難民救済に従事しておつたのでありますが、東満洲地区の状態が全然わからない、交通も杜絶し、電話も不通だというようなことでわからないから、だれか東満地区の実情調査並びに救済に行つてもらいたいという話がありまして、結局白羽の矢を立てられたのが私で、私は一行十四名の団員を組織して、その団長として牡丹江に引返したわけであります。引返しましたところが、牡丹江の駅の前には、約二千名近くの日本人の男子が、こじきじみたようなかつこうをして集められておりました。これはどうしてそこに集められたかと申しますと、その以前八月二十四日から、ハルピンで日本人狩りが行われたわけであります。これは日本人の男子をかり立てられたのですが、これらはいろいろな状況から判断しまして、ハルピン市内において日本人が暴動を起しはしないかというような危惧のもとに、ソ連の方で日本人狩りを実行したというふうに聞いております。これらの数が約三万名に上つたわけであります。これらは牡丹江の方へ送られまして、牡丹江の謝家構という收容所を大体主体にしまして、その他八達溝というようなところまで分散して收容されたわけであります。その数が三万名、その中の者が九月の末から十月、十一月という二箇月の間に、漸次ハルピンの方に送り返されたのでありますが、十月、十一月中に残つておりました三万名のうちの残留者は、牡丹江附近のおもな工場、軍の倉庫等で労働をさせられたわけであります。要するに工場とか、そこにありました物資をソ連に運ぶために、強制的に労働をやらせられるというような状態に置かれたわけであります。私どもは、もちろん、これの救出については、ソ連司令部とも折衝いたしましたし、また局部的にも折衝いたしまして、漸次返されたわけでありますが、ようやく十一月の末に、この三万名は解放されたような状態であつたわけであります。二十一年の四月十五日に、ソ連の軍隊は引上げることになりまして、牡丹江の市内で還送の閲兵式が行われたのでありますが、その後漸次ソ連兵はソ連本国に返されまして、五月に入つてからは全然いなかつたというような状態に置かれたわけであります。次に残された捕虜約四千名はどうなつたかと申しますと、これらはいわゆる中共軍に引継がれまして、漸次これらの人は生きるために、自分の職能に応じて、労働、またば技術を持つた人は技術面に従事しなければならぬ状態に置かれたわけであります。現在この四千名の残された捕虜が、どういうような労働に、または技術面に従事しているかと申しますと、鶴岡という炭鉱に約千名ほど、鶏西という炭鉱に約千名、鳳山という炭鉱に約七十名程度の者が炭鉱労働者として現在重労働に従事いたしております。その他市中に残りまして、一部雑用に従事している者、また軍に参軍して協力している者、技術者として各機関、軍その他民間工場に従事している者も相当数あるわけであります。これらの者は、現在では技術者と称する者は、比較的に優遇されておりますので、生活状態はいいのでありますが、炭鉱方面に従事しておる者は、働かなければ食えないというので、勢いからだの弱つておる人も働かなければならぬということで、ある程度からだを使い過ぎて、病気にかかつてむしばまれておるという人が相当数に上つております。第一回の還送が行われたのは八月の末でありますが、その以前私は東は東満地区におります日本人救出の責任者として、どうしても日本に帰れるという見込みがない以上は、恒久的な対策を講じなければならぬという建前から、一応牡丹江市内を中心といたしまして、ここに生産事業を興そうというような意図のもとに、五つ六つの企業をもくろみまして、中共政府とも相談しました結果、それはよかろうというので、そういう計画を立てましたところ、当時すでに救済資金もなかつたために、何とかハルピン地区に応援を求めなければいかぬというので、ようやく旅行の許可がおりまして、ハルピン地区に応援を求めたのでありますが、ハルピン地区にも相当数の日本人の難民が押し寄せておつたために、これに応ずることができぬという状態でありましたので、私はひそかに新京行きを決行しまして、そうして新京で四百万円の資金を得ることに成功しまして、これをハルピン民会にクレジットするということにしまして、新京滯在四日間にして、再びハルピンに引返して来たのでありますが、引返すと同時に、日本人のいわゆる民主連盟委員のために逮捕されまして、牡丹江の監獄に投ぜられたのであります。当時私どもの方の民会の役員もほかに四名收監されておりました。これはどうしてそういうふうに收益したかと申しますと、当時民主連盟が牡丹江支部をつくるために、われわれがおつてはじやまになるということから、私ほか四名を收監いたしまして、その間に民主連盟をつくつてしまつたのであります。この間、私をあの九月十八日の満洲事変記念日に銃殺にするというような意図のもとに、九月十六日の晩から私に対する民主裁判の調書をつくつたそうでありますけれども、私に対して中国人市民の非常な反対がありましたので、私はようやくこの難を免れたわけであります。そのほか私どもの監房の中に人づておりました憲兵少尉でありました和田正彦というのと、隣りの部屋に入つておりました満洲軍の憲兵少佐でありました小宮一という人、それから軍医大尉でありました多田鎌一という人、それから軍医少佐でありました池田——これは名前を忘れましたが、四名が、九月十八日にちようど雨が降りまして、九月二十一日の日に民主裁判にかけられまして、池田少佐を除いたほかの三名は、即日銃殺の刑を言い渡されまして、掖河橋梁の附近において、銃殺にされたというような問題もあつたのであります。これは日本人の民主連盟に対して、八月の初めに日本人に対する司法権は、あげて日本人民主連盟にこれをゆだねるというような中共側の方針のもとにきめられたわけでありまして、その当時のいわゆる共産主義を主張するところの日本民主連盟委員は、横暴きわまる行為をなしたわけであります。しかし私は幸いにしまして、その年の十月一日に釈放されることができまして、爾来ハルピンに下りまして、ハルピンで生産工場を企画、またこれを成功さしたのでありますが、その後昭和二十三年の十月の末に至りまして、興安嶺並びに東京城という所に日本の兵隊が大分残つておるというような話があつたぞうでありまして、それに私が関連をしておるという嫌疑を受けまして、私はそれからまた再び牡丹江の監獄に收監されたのであります。牡丹江の監獄におること約七箇月、その間日本人として收監されたのが約三十名ほどおりましたが、これらのうち十二、三名はいまだに行方がわかりません。私は幸いにしまして五人だけ炭鉱に送られまして、炭鉱生活十一箇月強制労働に従事せられたのでありますが、幸いに去年の五月六日に釈放されまして、五月九日にハルピンに帰り、五十日ほどしまして今度の還送にかかつたわけであります。この間一昨年の七月だつたと思いますが、ハルピン地区、牡丹江地区におきまして、日本人ををぜひひとつ早く帰してほしいという運動を、政府筋に日本人の有志がやつたわけでありますが、政府としては、それはいかない、いわゆる反動だ、中共政府に協力しないというふうなことで、ハルピン、牡丹江地区で約百名が收監されたわけであります。二、三箇月のうちに漸次釈放されたのでありますが、去年私どもが帰るまでに、まだ一年を過ぎまして釈放されない者がハルピンに五名、牡丹江に二名残されておつたわけであります。かく私どもは、帰るということを申しても、中共から反動呼ばわりをされまして、そういうことすら口にできないという状態に置かれておつたわけであります。ことに先刻申し上げました残されましたところの約四万六千名という数字は、私どもも大体大連から舞鶴に上りましてから一応そういう数字を持つたのでありますが、これらの中には相当多数の婦人が残つております。この婦人は主として中国人、いわゆる第三国人の正妻というよりも、むしろめかけとして残されておるような状態でありまして、その生活状態はどうであるかと申しますと、いわゆる中国人は従来売買結婚をしておつたという関係から下層階級の人はそのために妻を持つことができなかつたような状態でありまして、そのうちに日本が敗戰になり、敗戰になつたうちで、しかも避難する途中、子供を持つた婦人がとほうに暮れておる、または病気になつて途中に倒れておるというものがあると、これをだれかれの区別なく親切ごかしにひつぱつて行つて自分の家で看護して、子供には親切にするという状態を見せて、そうしてこれをむりやりにめかけ、または妻にしたというわけでありまして、これらの階層は主として農民階級、それも下層階級であります。それから馬車夫等、いろいろ下層生活をする人たちが多数あつたわけであります。ことにこれの一例として、ちようど終戰の年の十月ころでありますが、綏陽というところからわずか南に離れたところに寒葱河というところがあります。ここの公安局長は——そこに集まつておりました日本人大多数は、開拓団の婦人でありますが、約百三十五名の婦人を各農家に強制的に配給をしてしまつたというような事実まであつたわけであります。こういうような状態にありまして、またこれらが帰りたいということを申しますと、中国人は、そんなら今までの養育料を出せというようなことを言う者すら多分にあるそうでありまして、今のところ帰ることはできない、それを口にすることすらできないような状態であります。ことに生活面においては、非常に窮迫した生活をいたしております、こじきと同様であります。私どもはあの東満地区のいなかを相当まわつたのでありますが、行きますと、各部落に多数の日本人の婦人がおつたのであります。これらの婦人は、中にはりつぱな中国人に養われておる人もありましようが、最下層の中国人に養われておる婦人の姿は、実にみじめであります。また子供におきましても、親をなくした子供がそのまま捨てられまして、とほうに暮れておつたというようなものも現在多数残つておるのでありますが、これらについては、中国人は比較的にあたたかい気持をもつて養育をしてくれております。これはどうしてかと申しますと、日本人の子供は非常に頭がいい、できればこれをあとに残して、中国人の子供をめとらして、または中国人の子供と結婚させて、りつぱな中国人をつくりたいというような人もおります。大体子供に対する観念、または養育の方法というものは、非常にかわいがつておるようでありますが、その他の婦人に対しては、現在ではきわめて冷淡であるというような状態であります。 かくのごとき状態でありまして、ことに私どもが向うにおりまして感じましたことは、日本からの便りがほしい、日本の状態を聞きたいというのが、きわめて濃厚であつたのであります。これは昨年の二月ごろから、ラジオ等が先方で聞けるようになりまして、ちようどそのとき、二月十一日を前後としまして日本の方で引揚促進大会等が行われまして、それらが国歌とともにラジオを通じて入つて来た。私は当時炭鉱の納屋に置かれまして、そこでラジオを聞いたのでありますが、皆さんはラジオにかじりついて、涙を流しながら聞いておるというような状態でありまして、ことにその前の年、いわゆる一昨年の七月、還送されるというようなうわさがあつた当時には、みな自分の持ち物を売つてしまつて、一日でも早く日本に帰りたいというような状態の人ばかりであつたのであります。おそらく現在帰りたくないという人は、向うの政府に協力し得る共産思想を持つた人のみではないか、こういうふうに私は考えます。それ以外の人は一日も早く日本に帰りたいというような気持でおります。 そういうことで、去月の六月二十七日に私どもハルピンから奉天に集結させられまして、大連に八十二日間という長い滞留期間を置かせられまして、帰してもらつたのであります。当時大連におきまして私どもが、間接的かもしれませんが、聞きましたことによ参りますと、去年帰されたところの千百一二十七名というものはこれは大連におる技術屋を帰したくないので、そして中共政府としてではなく、旅大公署として、何とか満洲におる人の中からこれを帰してもらおうじやないかということで、いわゆる政府に協力しない者、病弱者、それから婦人子供というものを各地区からピック・アップしてこれを帰そうということで、私どもが大連の人の身がわりになつて帰されたというようなうわさを私は聞いております。事実大連に八十二日間置かれたということも、そういうことがうなずけるんじやないか、こういうふうに私は考えます。しかしながら、中共はすでに私どもを一回もう帰しております。これが今年になつてから帰せぬというはずはないと考えます。 それでこの帰還の問題については、私はぜひともひとつ何らかの方法をとつて中共政府に強硬に談判してもらつて、そうしてあとに残されたものを、 一日も早く帰してもらいたいと考えるのであります。私は過去四年間、向うでなめました苦盃を考えますときに、どうしてもこれらの同胞を帰してもらわなければならないと考えるのであります。まだいろいろ申しげたいこともありますが、あとでまた御質問に応じまして申し上げることにいたしたいと思います。
○中山委員長 金子さんにお尋ねいたします。あなたは赤十字の病院長として、終戰当時あなたの手元にいらしたでありましよう看護婦さんたちを、どういうふうにしてお守りくださつたか、そしてまたそこにいられましたお医者様方が、どういう活動を、日本人救済あるいはその他の人の救済のためになさいましたか。その人たちが、たとえば救恤部隊として出て行つて無事に帰つて来たかどうか、そういう点について、お話を願いたいと思います。
○金子参考人 私、金子でございます。それでは終戰後における大連の状況をお話しないと、私らのことがわからなくなりますから、一言言わせていただきます。ソ連軍が大連へ進駐いたしましたのは、二十年の九月三日だと覚えております。そのときの状況を申し上げますと、兵隊ははだしで、ぼろの服を着ておる。しかし持つているところの自動機関銃は、りつぱなものを持つておつた。よくもソ連はこれまで兵隊をひつぱつて来た、実は偉いもんだという感じを抱きました。従つてその兵隊は粗野であります。一面野獣的性格を所有しております。それは当時シベリアにおけるところの木こり、あるいは囚人をかり集めて来たといううわさでございます。これは白城子の方面から、蒙古の方面から入つて来たところのいわゆる戰車隊であります。当時イワノフ中将というのが司令官になりまして、そこに司令部を設置いたしまして、そうしてもとの日本の各警察の所在地に地区司令部というものを置いて、治安を維持したのであります。そして軍政を布いたのでありますが、そのときは中国側に対してどういうことをやつたかと言うと、イワノフ司令官は軍令をもつて、当時日本の統治時代の商工会議所の会頭の遅雲祥というものを任命して、ソ連の命令によつて、いわゆる市政府の行政体系を整えたわけでございます。これは明らかに軍令が出ておりますから、軍政府のもとにおいて地方政権を樹立したということは明らかな事実であります。この、行政の一翼として参議会というものができておりまして、その参議会なるものが、地方から選ばれていわゆる行政の諮問機関というようなことになつたのであります。こういうことをやりまして、市長を命令したが、大連市の行政というものは、まつたくソ連の関知するところでない、外面的に民主自治である、その地方の人民によつて政治を行つたらよろしい、ソ連はただ軍政上の防備そのほかのことにおいてここに駐屯するにすぎない、こういう外面的のプロパガンダでありますが、内面はさにあらずして、一々ソ連が指導していたことは明らかであります。そういうような当時の社会情勢から見て、軍政の司令官が市の地方行政の長官を命ずるということが、国際的情勢としてはなはだ不利だということをソ連は察知すると同時に、今度は二十三年の十月に関東公署というものを樹立いたしました。これはまず第一に旅順にできた。このときの言い分がおもしろい。ソ連がここに駐屯している問は、大連いわゆる関東州の治安というものは確保しておる。だから地方行政というものは地方人の考えにおいて、イデイーにおいてやつたらよろしい。今度はいわゆる民主選挙、しかも代表選挙をやつて、この関東公署の主席、副主席以下を全部選挙したわけです。しかしその選挙の方法は、民衆の行為においてやつたと言いますが、今申し上げましたように、内面的にはりつぱな圧迫を加え、監視を加えた。そしてその上におけるところの——衛生庁とか、行政庁とかいろいろあります。そういう庁の長官は旧知識階級の人であります。むしろ親日派、知日派でありますが、この人はいわゆるロボットであります。その下におけるところの副主席の三名のうち二名、各庁のうちの副庁長は全部共産系の人であります。しかしソ連は、一例として、当時私は帰りたいから、ソ連のゲルハノフ中佐に公署の性質を尋ねました。日本の技術者をこんなにもお残しになるのは、どういうわけであるか。ソ連にもりつぱな技術者がおられるだろう、何も日本の技術者をお使いになる必要はないじやないか。ソ連の医学によつて、ソ連の技術によつてこの中共をリードされたらいいじやないか。私たちはもういらないものだから帰してほしい。どうぞ関東公署にソ連司令部からこれを御通達願いたいと言つたところが、ゲルハノフ中佐、これは軍医中佐で共産党員でありまして、人格者でありますが、しらじらしき回答を私に與えました。こんな回答を得たのです。あれはね、ソ連とはまつたく関係がないのだ。ソ連の軍政下において、まつたく関係ないところの地方行政を、よくお許しになりましたねと言つたら、それは世界に一つしかない行政形態である。民衆の行為においてでき上つた行政形態である。だからソ連はこの行政に対してはタッチしない。それで君らを帰す帰さないということは、ぼくらはどうにもできない。それはあなた責任を持つてお答えになりますか。責任を持つて答える。それではちよつとお伺いしますが、あの関東公署が、私らを帰す船を仕立てることができますか。日本国と交渉ができませんが、世の中の独立政体とお認めになりますかと言うと、それはまだできない。それではソ連の軍政下において、そういう政体をお許しになるということは、私は不可能だと思いますがへいかがですか。それは君の解釈次第だ。もうあとはとりつく島もありません。そうしておいて、それから一箇月たたないうちに、ソ連は正々堂々と日本人の引揚げを発表しておる。こういうようにして、ソ連は外面はまつたくこの政体にはタッチしない、あくまでもそうだというしらじらしいうそを言つておる。少し社会情勢がわかる人間が聞いたら、噴飯にたえないようなことを、平気でおつしやる。ここにソ連の性格があり、ソ連の行政の妙味があると私は信じておる。いいとも悪いとも申しません、ソ連のいわゆる政治、外交の機微があり、妙味がある。これだけを申し上げます。私の批判の限りではありません。そうしてこの関東公署なるものが、いわゆる地方人の名において行政をとつておつたのであります。ところが社会の情勢が再び進展をして、西欧の情勢、東欧の情勢がああなりましたら、今度は昭和二十四年三月、全然大連は赤色化しました。そのとき関東公署の上に掲げられたものは何であつたかと言うと、旅大行政公署を樹立して赤旗が立つておる。ソ連の旗は御案内の通り、赤の隅つこへ持つて行つて星章とハンマーとかまがくつついておりますが、この星章がないだけで、あとはソ連の旗と同じである。この旗が三日を出ずして大連中に充満したという事実は、これは大連に、日本からも絹は来ません、木綿も来ません、どこからもそういう輸入品はありません。どこから来たか、皆さん御想像でおわかりになると思います。同時にトランペット、いわゆる軍楽隊の楽器が大連に充満しました。各企業体系はその旗とそれからスターリン閣下の写真、モロトフ、レーニンの写真、毛澤東の写真、これあたりの写真も、疊一疊敷きぐらいの大きな布を持つて行つて写真で出しておるのですから、相当な技術を要しております。当時大連にはそういう技術はありません、無論日本からも輸入はいたしておりません。しからばこういう旗あるいは写真はどこから来たか。まさか天から降つて来たのではないと思います。来るべきところから来たのだと思います。ここにおいて、まつたく関東州の行政というものは、いわゆる共産党系の行政に転換をしたわけであります。そうして各企業体には共産党党公弁署というものができまして、そこには党員が三名ないし五名駐在いたします。各企業体の長というものは、この党公弁署の党員によつてリードされた。たとえば病院で言えば、院長なんというものは、これはただ席を持つておるだけで、すべで病院の行政などというものは、党員の名においてなされる、こういう情勢が終戰後におけるところの大連の行政形態であります。さてそれでは終戰後の日本人はどうであつたかと言うと、これは約七万五千とも申しますし、十万とも申しますが、そこのところははつきりしたことはわかりません。まあ十万とおぼしめしたら間違いないと思います。これが終戰直後、ほんとうに飢餓戰線に彷徨したようなわけでございます。このとき、中共のいわゆる大連市公署、どこも特別に表立つた救済の方法はお講じになりませんでした。各邦人が寄り合つて、寄り合い食う道を選んで行つたというような次第であります。それでソ連はまた偉いことには、ソ連が進駐した当時、日本の団体というものは八箇団体がありました。そこには愛労奉仕団とか、大連奉仕団とかいろいろございました。私はその中の愛労奉仕団というのに参加いたしまして、顧問をしておりました。そこは田岡という航空大尉が団長をしておりました。この人は全然国粋主義者で、むしろ神ながらの道を信じておる人であります。これは西大連の難民救済をやるためにのし上つた男であります。これがソ連に初め監禁されたのであります。そのときにソ連が、お前はどうして戰争に参加したか。その人いわく、あなた方がスターリンの命令によつてこの戰争に参加されたのと、私どもが日本国天皇の命令によつて戰争に参加したのと同じであります。ソ連はそれつきり何にも言わなかつた。そうしてソ連の将校は、お前はほんとうの軍人だ、よろしい保釈してやろうというので保釈された。それがいわゆる愛労奉仕団というものをつくりまして、赤十字の宿舎の一部を私どもも貸してやり、その関係で私は顧問になつたのであります。それが授産所とか託兒所とかいろいろのものをつくつたのであります。その後、田岡はポケットに多額の金を持つようになりました。おい田岡君、その金をどこから持つて来るのだ。いやこれはソ連政府から持つて来るのだ。ソ連政府がそんな援助をするかね。する、だから心配しなくてもいい。ある日彼の宿舎に行きまして、疊の下をあけますと、ソ通票で十数万の金が置いてあつた。みなソ連からもらつたと言つておつた。かくのごとくにして初めはソ連が許しそうもない思想団体までも、ソ連はかばつておりました。それが十一月でありましたか、一網打盡、いわゆるあらしが吹きまして、日本人の団体を全部キャンセルしてしまつた。田岡は遂に縛られてシベリヤに送られた。日本人の思想団体は、全部調べられた。田岡はばかだからそれまでやつていたのです。その後日本人勤労組合という労働組合だけが許された。それから当時日本人居留民会が許されて相互扶助会ができまして、私はその常任委員長となりましたが、結局全部解散して、そこに残つた日本人の団体としては、初めは労働組合と申しましたこの日本人勤労組合、それが残されただけであります。この団体でみな入会を強制されましたが、私は終始入りませんでした。入らなかつた私が申しますと、非常に偏見になるように思いますから、控えたいと思いますが、私の入らなかつた心境だけを申し上げます。この団体ば、いたずらにソ連の手先となり、いたずらに中共の手先となつて、邦人に対して何らの貢献もしない、そういう団体であると信じたから、私は入らなかつた。私は牢屋に入ると申されました。私は牢屋に入れられてもいいという覚悟で、また私は余生幾らもない男だから、断然入らなかつた。私が、何で入つたのだと同僚に聞きましたら、自分は入つて労働組合を改造すると言つておつたが、結局改造もできなかつた。それから、君どうして残つているのだと言うと、あれに入つていると日本に帰るときに都合がいいから。なぜかといえば、ソ連は引揚げの業務の実態を労働組合に命じます。労働組合は引揚げの事務をとるのですが、あたかも自分が帰すような顔をいたしまして、彼らににらまれるとなかなか帰れませんから、みな入る。私は死ぬ覚悟をしておりましたから、絶対入りませんでした。実例はいろいろございます。たとえば、私個人に対しましては——委員長は、院長とおつしやいましたが、私は副院長であります。副院長なるがゆえに、当時の中国の建設資金として十五万円の供出を命ぜられました。当時の十五万円という金は、副院長として幾ら金をもらつておつたか忘れましたが、私は家族を身売りしても、そんな金はできません。それを私に十五万円命じたのが、日本人勤労組合だつた。それから私は中共に行きまして、何のために私を残すのか、私に技術を提供せよといつてお残しになつた。何で私に十五万円の要求をなさいますかと言つて政府の首席に聞きますと、君らはそんなことはせぬでもよろしい、君らは技術をもつて援助してくれればよろしい、金なんか出さなくてもよろしいということで、とうとう私は金を出さなかつた。ところが、何か出せというので、しかたがありませんから、満洲国から初代の公使として行つた除紹卿が私に贈つた大理石のローマの娘がありますが、これを提供することにしました。結局提供いたしませんで最後に私は家内を帰すときに金がないので、それを売りました。今それは北鮮の鉄道ホテルの二階に安置されております。これが二万五千円で売れて、家内を帰す金がつくれました。これは私に関する一例であります。日本人労働組合は、決して日本人を擁護することはやつていなかつた、そのために私は入らなかつた。これに対するいろいろな批判はありますが、私は体験がありませんから、外形から申し上げるのであります。こういう情勢におきまして、第一回の引揚げは昭和二十一年十一月から二十二年の四月の間に行われました。このときは邦人の大部分と不用技術者が帰ることになりました。そのときに七千五百名が残されたのであります。これがいわゆる技術者及びその家族であります。当時勤労者組合の委員長をしておつた石堂君が、ソ連の意向として伝えたところによりますと、原則として大部分は帰す。——これは石堂君の言つたことであります。企業体において経営上必要と認める者は強制残留をさせる、要請者に対しては優遇方法を講ずる。優遇があるにもかかわらず、なお帰国を希望する者は随意である、こういうことを発表いたしました。しかし当時衛生研究所の監督であつたソ連の将校が、本間博士に述べたところによりますと、今回の引揚げで、大連は日本人七千五百名に対して五千名帰す、あとの二千名は残さなければならぬ、これはどうしても残す。そして第二回の引揚げが実施されたときには、はたして労働組合の言つたことでなく、ソ連の言つた通りになつた。それでありますから、やはり大連は中共地区にあらずして、ソ連地区で、ソ連の意図によつて帰す帰さないがきまつたことは事実であります。第三回の引揚げは、今度私らが帰つてきたものであります。そのときに、高砂丸でお帰りになりました千二百名の問題がありますが、これは明らかに中共の打つたトリックでございます。第二回の引揚げのときに、五千名が引揚げてあと二千名が残りました。このうちでどうしても千二百五十名は帰さなければならぬソ連の計画であります。ところが千二百五十名帰すと中共が因る。そのためにどうソ連と話合いをしましたか、工業庁長と大連大学の学長と中共の衛生所におる梁、この三人が芝居をしまして、今の高砂丸の千二百名という方をお集めしたわけです。ところが、ソ連は絶対にこれに同意いたしません。そこでごたごたが始まつた。引揚げ收容所に入れられた者の給與は、中共がやるのでなくて、国際法上ソ連がやるべき建前で、ソ連給與になるのがあたりまえであります。ところがソ連給與にならずして、最後まで中共政府が給與いたした。その内面を物語るものとして、当時の工業庁長が、私らの仲間で今度帰つて参りました島田という応用化学の方に語つたところによると、君らは今度帰ろうと思つても帰れない、君らのかわりに千二百五十名という人が中共地区から来ておるから、ロシヤの帰す数に千二百五十名だから、君らの帰る席がない、だから君らは残つたらよかろう、こういうふうなお話であつたことを総合すると、これは中共政府のつくつたトリックであると私は考えております。それからこの技術者に対する待遇であります。これは私個人は——こういうことを申し上げるのは、はなはだ心苦しいのですが、実は私はほんとうによくしていただだきました。ソ連の進駐当時、百八十何名の医者のうちから十名が選ばれまして、私はスペシヤルの待遇を受け、そしてチケツトもいただいて、そのチケツトで、約二千円ぐらいの価格でありますが、実際品物を買うと二万五千円くらいの品物も買えます。それから相当の金もいただきました。しかし中共の方々は私らはちようどぶたか牛みたいに思つておられるのです。とにかく金を余計やつて食べさしておけば、それで日本人は喜んでいるようにおぼしめしておられると私は考えます。そのおつしやることには、君らは技術者として残らなければならぬ、それは君らは当然の義務がある。どういうわけで残らなければならぬ義務がございますか、ヤルタ会談によると私らは捕虜の取扱いは受けないものと思いますが、いかがでございますかと申しますと、いやそれは捕虜じやない、けれども、日本政府が関東州の行政をやつていた間に、中国人の教育に重点を置かなかつたから、中国の技術は非常に低下している。そのためにあなた方は新中国再興のために残る義務があるのだ、こういう話であります。また労働組合の方々の御説明には——私らは朝夕いわゆる学習というものを受けました。とういう学習かというと、その学習なるものは日本軍閥及び日本の従来の外地進出行為の批判、それからいわゆる新民主主義の教育、共産主義の教育、これを朝から受けることになつております。これに出ない者はいわゆる反動分子。ところが私は中国の偉い方に会い、当時の副庁長にも会いまして、あなた方は中国の復興をやるのに思想戰を必要としておられるが、日本人の眇たる私らに、その思想の参加を強要なさることは、中国の恥じやないか。あなた方は思想戰で勝つのなら、思想でおやりになつたらいい、私らにまでその思想を強要される理由はどこにあるか。私らをして内地へ帰したときに、いわゆる共産主義の実行運動に私らを参加させようと思つておやりになるのかどうかと言つたら、いや、そんなことはない、あなた方はやらないでもいいのです、あなた方は教育に出ないでもよろしい、技術さえ移譲してくれればそれでよろしいのだ。上の人はそう申します。ところが中間に立つたわからず屋及び日本人勤労者組合は、私らに共産教育を強要した。だから、この共産教育というものは、ソ連はどう思つていらしたか知りませんけれども、私の見ている限りは、どうも眇たる千人や千五百人の私らに対しては、何ら関心は持つていなかつたと思います。それから引揚げに関する限り、ソ連は日本人に対してあくまで友好的であつたということは、明らかに申し上げます。中共は帰すまいとし、ソ連は帰してやろうとする。これがソ連地区とちよつと違うところです。大連地区とは、ソ連はあくまで日本人を帰してやろう、中共はどうしてもこれをとどめようとする。その一例を申し上げますと、一昨年、二十三年の七月に第二回の引揚げがございました。そのときに帰るということを言明した医者十七名、これが突然夜中に中共の自動車によつて拉致されました。泣き叫ぶ子供を、あたかも荷物のごとくトラックにほうり込みまして、一部分は法院の下に監禁いたしました。私の友だちで今横浜の赤十字病院の小兒科医長をしている牧君、この牧君の奥さんが非常に気丈な人で、拉致される瞬間に、どうして書きましたか紙に書いて、その紙を私らのポストに放り込んで行つた。この方は非常に大きな声で泣き叫んだ。だから遠くへ連れて行くことができなくて、その御家族とあとの二人は、すぐ大連の法院の下に監禁された。ほかの者は、それからトラックに乗せて、関東州の一番先端の普蘭店へこれを監禁した。そうして監禁をしておいて、そこに何万という金——何万と申しましたところで、そのときの向うの金ですから、たかが知れている。何十万という金を積んで、さあここに残るということに判を押せ、お前たちがどうしても判を押さなければ、奥地へ連れて行くと言う。だからやむを得ず——その人の名前はみなここに載つていますが、そこで判を押したわけです。ところがちようど私の家の近くでございますが、私の家もソ連人がおりましたし、私の家の前にはやはりソ連の将校がおりました。そのソ連の将校が出て来てそれを知つて、そこの第三両目のトラツクの運転手をつかまえで、どこへやつた、それでソ連司令部で調べ上げて、ソ連の力によつて普蘭店及びその法院からそれが引出された。それでその人たちは、拉致されたおかげで運よくみな帰れたわけです。そうして、ほかの方は知りませんが、医療者の引揚げにつきましては、今日本人の技術者が引揚げてしまつたならば、中国も困るだろう。これはもつともな話でありますので、中国人と日本人と連合いたしまして、帰還検討会というものをつくりまして、こういう人は帰してやろう、ああいう人は帰してやろうというので、円滑に第一回は帰したのであります。第二回からは、全然強制残留であります。しかし、やり方はそうしておいて、強制残留にしながら、そこで私が参議院で言つたらしかられたのですけれども、雇用形式的偽装捕虜というのはそこにある、つまり希望残留の形をとらされる、それはどうするかというと、私は最高俸給をもらつておりまして、本俸は一万六千円、技術加俸が五万円、六万六千、相当なものであります。俸給のことをお聞きになるならばあとで申しますが、技術加俸がこんなに多いのです。本俸が少く技術加俸が多い、ここに一つのトリツクがある。本俸はどうしてもくれなければならぬが、技術加俸は本人の技術によつてくれてもくれなくてもいいものです。しかし一万六千円では当時食えません。それで帰るとか判を押さぬとか言うと、技術加俸をストツプする。家族を持つておる者は、どうしても食えない。しかたがないからやむを得ず判を押す。私にも、二十三年七月に判を押せと言いました。私はこういうことを聞きました。その人は非常に共産党のわかつた方でございまして、契約書に判を押せと言うから、契約書について法律がございますからひとつ聞きますが、契約書というものは相互の権利と義務を認めるものか、それを第一にお尋ねしたい。そうすると、そうだ認めるものだ。そうですか、それじやお尋ねしますが、六万六千円くれると書いてある、しかし私らは関東州の一官吏のかたわれでございます、あした給與令が改正になつたら、この六万六千円は、ふいになるだろうが、そのときに損害賠償で訴えられるかどうか。それはできない。船をもつて必ず一年たつたら帰してやると言われるがどうか。帰すと言う。船は中共政府のどこから持つておいでになるか、ソ連の力なしに船が来ますか。いや来ない。それでは結局は義務ばかり負わされて、私らの権利というものはまつたく砂上楼閣で、こんなものには判を押せませんと言つた。あなたがもし私の位置に立つたら判を押しますかと言つたら、それは副院長で孫という方ですが、もののわかつた人で、いや、私も押しませんと言う。とうとう私ら十名は押さなかつた。押さなかつたけれども、いつ技術加俸をとめられて、あごの下が上るかもわかりませんので、私は二十三年に家族を全部帰しましてそうして私一人残りました。そうしたら、厖大夫、お前どうして一人で残つて家族を帰したのだと言うから、あなた方にはわかりますまい、ぼくは今あなた方の前に裸になつて、あなた方が煮ても燒いてもかつてにしろといつてひつくりかえつていると言つたら、それはどういう気持か、実際その気持です、いつどうされるかわからない。そのとき家族があつたら私らは行動できない。今私は六十三の老齢ですが、その当時神経痛を持つておりまして、自分で着物も着られなかつたのですが、しかたなく家族を全部帰して一人残りました。そして私はあくまでも押さぬ。押さなかつたから今度は帰れた、押したら帰れない。今もし皆さんが中共の方に向つてかけ合おうとすれば、自願残留だ、自分で願つて残留しているんだ、こうおつしやいます。しかし私はあるところで申しました。つまらぬ例を引いて申訳ありませんが、強姦したという性的行為ば、和姦も強姦も性的行為は同じことだ。和姦と強姦のわかれるところはどこにあるか、抵抗力もなくなされて性的行為を実施された場合は、法律上強姦、だろうという場合と同じことだ。判は確かに押さざるを得ないような環境にして押さしたのだから、強制残留じやないか、こういうことになります。次は本問題の赤十字の問題に移りますが、赤十字は終戰の翌年の六月まで、ソ連の御理解あるもとに独自の病院として経営いたしておりました。病院は全部接收されましたが、この赤十字は赤十字独自の病院として残りました。私はこういうことを申しました。日本が旅順を占領したときに、旅順に赤十字病院があつたが、日本は一年間そのまま置いて、遂にその当時三十万円の金でロシヤの赤十字病院を買收している。だからあなた方はむやみにこの赤十字病院を接收するわけには行かないでしよう。これはもつともです。話はもどりますが、終戰後の十月三日の日にソ連軍が進駐しまして、私どもの病院を貸せとおつしやいますので、半分をお貸しいたしました。それで赤十字は独自の境地に置いておりましたし、また赤十字が経営が困難になりましたためにソ連に向つて赤十字の凍結されておる資金を出してもらいたい、三十万円を下してもらいたい。それから赤十字は赤十字の力において寄付金の募集をしてもよろしいかということをソ連にお願いいたしたところが、ソ連はよろしいといつて全部お許しくださいました。しかし中共政府に向つてその命令をソ連が発したのですが、中共政府は一つも実施してくれません。そうして翌年の六月十日に中共政府は遂に赤十字病院を接収いたしました。どうして接収したかをあとで聞きましたところが、赤十字は今経済的に非常に困つている、だから中共政府はこれを助けてやる、経営を補助してやるんだということをゲルファノフ中佐に言つたために、ゲルファノフ中佐はそのことを信用して、中共政府が赤十字を接收することに同意したわけであります。その後市立病院としてこういうふうな腕章をつけることになりました。ゲルフアノフ中佐はそのもとに来てクラスノゴー・クレスター、赤十字大連市立病院ということにしろ、こういうことをゲルフアノフ中佐が言つたところをみますと、ゲルフアノフ中佐は中共政府に一ぱい食わされたんだと思います。そうして赤十字は六月遂に中共政府に接收され、現在もその通りなのであります。その間において二十一年の五月に中共政府は、安東方面に非常に傷者が出ているから、赤十字は敵味方の区別なく博愛の精神において治療するものであるから救護班を出せ、こういう話でありました。長くなりますが、それについて生命、財産の安全等いろいろ保障を希望いたしまして、結局赤十字は三個班の救護班を三箇月の契約で出しました。ところが私ここに書いてありますが、ああいまだ帰らざる救護班、赤十字精神を蹂躙せる中共軍、こう書いてあります。私らの要求は総班長の名において赤十字のリードをさしてもらいたい。この救護班を使う御命令があるならば、総班長を通じて命令をしてもらいたい。軍の編成の中には入れてもらいたくない。生命、財産については保障してもらいたい。三箇月のお約束の後には返してもらいたいということを言つて出したのであります。ところが三箇月たとうが一年たとうが杳として返してくれない。そのうちに原田清という医帥以下六名の者が安東を脱出して来た。これは今大阪におりますが、その脱出して来た原田の言によりますと、自分たちはもう牢屋に入れられてもよろしいが、あとに残つた救護班の三十六名、つまり一個班十二名で三十六名の者がまつたく自由を束縛され、そうして赤十字の編成を蹂躙されて酷使されておる。一例を言うと民主裁判というものがありまして、看護婦なら看護婦が患者の治療をする。その治療のしかたが痛いといつて民主裁判にかける。あの看護婦はどうもやり方が痛いというので、すぐ牢屋へ入れる。それから赤十字といつて、赤十字精神というものはこういうものだと言つても、赤十字精神なんというものは通用しない。この共産軍の言うことを聞かなければお前たちは間違いである、それを言つたために牢屋へ入れられる。原田という医師も二回牢屋へ入れられたが、遂に牢屋を脱出して来て、自分らはどうなつてもいいから、中共政府にかけ合つて、あとに残つておる者を救つてもらいたい、こう言つて脱出して来たのでありますが、当時の情勢から言つて、この人たち六人の脱出者を市政府に連れて行つてみたところで、この六人が再び大連で牢屋に入れられてしまつてあとの者は帰れませんから、私はしかたがないからこれをかこいました。そして第一回の引揚げがあるまで偽名をさせて紙張りだとかいろいろなことをやらせて、そうして第一回の船でこれを返しましたが、これがいまだ帰つておりません。 それから先ほど委員長のお尋ねで、看護婦百六十名をどうして守つたかということでありますが、私が副院長として残つた最大の責任は、看護婦を無難に返すことでありました。だから私は最後まで残るからまず看護婦を返してくれろというわけで、ソ連軍が進駐して来て、私どもの赤十字病院を半分使うようになつたときには、当時はチイチヤコフという少佐が隊長でありましたが、ソ連軍のだらしないことははなはだしい、日本人の女と見ればすぐひつぱる。そこでしかたがないので、当時私は逢坂町にあるところの快楽というピー・ハウスでありますが、そのに行つて西堀院長と会つて手をついて頼んだ。あなた方にこういうことをお願いするのははなはだ相済まぬが、私のところにいる百六十名の看護婦はみんな無垢の人間で親から預かつているんだ、しかも赤十字の看護婦がひどい目にあわされることは忍びないから、何とかして身がわりになつて彼女らを助けてもらえないかと、疊に手をついてお願いしたのです。そうしたら、そこへ三十四、五の女が出て来て、先生済まない、私らはどうせ傷ついたからだだから私らが出てそれを救つてあげましようと言つて八人来ました。この八人を看護婦の着物を着せて看護婦に仕立てて、そうして病棟に入れておいて向うが上要求するたびに出してやる。しまいにどこかくろうとくさいところがある、これはしろうとではないということがわかりました。そのときに田崎という実にきれいな看護婦がいました。私らもほれぼれするくらいでした。この看護婦が前にチイチヤコフ隊長をたつた一日二時間ぐらいおせわしたことがありましたので、それをちやんとチイチャコフ隊長が覚えていて、田崎を出せ、田崎を出せと言う。しようがないから今度は田崎を結核病棟に入れて、そこに痰つぼを置いてインキをたらして肺病と見せかけ、あれをつれて行け、こういうことでありました。しかし一年を経過した後に来ましたソ連軍は、軍紀が非常に正しくて、そういうことはなかつたのですが、初め来ました一年ばかりの間というものは、実に軍紀はなつておらなかつた、特に女に対しては非常にきたなかつた。それから当時私の家の隣に北村園という芸者屋がありまして、そごにいる北條さんという十八になる娘さんをもらつて来た。條件は赤十字でもつて必ず将来は嫁にもやる、この人の一生は見る、だから看護婦を助けてもらいたいというので来ましたが、十八でとても純真な人で、これだけはかわいそうでとうとう出せませんでした。その人だけは赤十字からよそに嫁にやりました。その人はソ連の人身御供に出しません。人身御供に出たのは快楽亭というところにおりました公娼の方にお願いしました。百六十八名の看護婦は第二回の引揚げまでに全部帰しまして、一名もソ連の悪牙にかかつた者はございません。但しその中で二人犠牲者がありました。これは個人が悪い。大連の町から海岸へ行く星ケ浦というところがあり、そこにはソ連人がたくさんおります。そこの地区へは行つてはいけないということを言つておいたにもかかわらず、お花見時にお花見に行つて、ソ連人に二人強姦されました。名前は申し上げません。これだけは実に私らの監督が足らなかつたということで、申訳ないと思いますが、それ以外は全然ソ連人から犯されたことはなく過しました。お尋ねに対する答えはこれだたけであります。
○中山委員長 ありがとうございました。またあとでお聞きいたします。それでは北住キミエさん、あなたは今日おいでくださいました一人の女性として、終戰前お勤めになつたところ、終戰直後のありさま、それからあなたが今日までどうして無事にお帰りになつたか、その間一番つらく思つたこと、あなたを帰さないように何かじやまをする人があつたか、また思想問題で強要されたことがあつたか、そういう点についてお話を願いたいと思います。
○北住参考人 終戰前には、ハイラルの看護婦でした。八月十四日にチチハルに参りまして、あくる日に停戰になつて、チチハルでの生活は、第二診療所に勤務しておりまして、二十一年四月二十九日に八路軍の東北民主連軍第三支隊衛生隊に、看護婦として強制留用されました。留用されて、トウ南、学田地、四平、鄭家屯というところを転転とし行軍して参りました。トウ南にはわずか二週間ばかりおりましたのですけれども、学田地に十箇月おりました。学田地というのは蒙古地区に近い方です。学田地では匪賊討伐などに参加し、傷ついた兵隊を見ておりました。その間看護婦としての勤務はほとんどありません。洗濯とか、また雑役のような仕事をやつておりました。そのひまひまには阿片をつくつておりました。ある一兵隊が天然痘で参りましたときに、私は三十八度の熱を出して休んでおりましたのですけれども、看護婦はしろうとのために、だれも行く人がなかつたのです。それで私が参りましたが、その患者はなくなりまして、私は二、三日うちに感染して天然痘になりました。そしてその天然痘にかかつて二週間目に政治指導員が参りまして、二週間も休んでいるのだから、小心的働け、小心的働けというのはぼつぼつ働けという意味のことです。ぼつぼつ働いてくれと言いましたので、自分はまだ二週間しかならないし、完全に消毒していないから働けないと言つたら、思想が悪いとか何とか言つておどかされまして、しかたなしに二週間目から働きました。そのときの月給はたつた百円しかもらえないのです。百円といえば、ほんのちり紙も買えないような状態でありましたので、持つている私物を次々と売り拂いまして、自分たちの日用品など買つたりして生活しておりました。 やつと十箇月で四平の戰闘に参加いたしまして、四平に半年くらいおりまして、そうしてからだを悪くして、二十三年の八月二十七日にハルピン医大に勤務交代になりました。 ハルピン医大の生活状態としては、朝五時に起床して点呼があり、点呼が終つたらすぐ朝食までの学習がございます。その学習は共産学習なんです。学習が終り朝食になり、そして勤務交代で夜勤の人と交代するわけです。そうして夕食まで勤務いたしまして、夕食後三十分自由時間が與えられて、そのあと消燈までまた共産教育なんです。その共産教育に参加しなければ、思想が悪いといつてまた検討会、闘争会にかけられるのであります。そして私たちが内地に帰りたいなどと言えば、すぐ思想犯でまた日本人同士から検討会をさせられるのです。 そしてハルピンに十箇月おりまして、二十三年の六月二十七日に政治署から私たち七人に呼出しがあつて、病弱につきここではからだが続かないから、奉天の総衛生部に行つて、養生しながら勤務するようにと言われたのです。そのとき一緒に呼び出された友達が、机の上にある書類を盗んで見たのです。そのどきに帰国ということが書類に書いてあつたために、政治署にいる民族幹事が、帰国などと他の人に言つたら絶対に内地に帰国させないというようなことを言いました。それで私たちは言わないということを誓つて、そしてそれではあまり友達に済まないというような気持で、ほんとうに親しい友達に話し、そのお友達から写真とか手紙をことずかつて帰つたのです。そのときに七人のうちに、一人耳鼻科の先生で六十二、三になる先生がいらつしやつたのです。その先生も帰国の私たちと一緒になつておつたのですけれども、梱包も済み、自動車が迎えに来るようになつてから、もう少し中国革命に服務するようにといつて、また強制的に残留をさせられたのです。 そうして中共地区においての階級というものは、ほんとうに差が多いのです。連事幹部以上——日本で言つたら将校級以上になるわけですが、その幹部たちには、毎日白米の御飯におかずが二つつくわけです。そして私たち兵隊級には、高梁の御飯に白菜の塩煮みたいな、お汁のたくさんあるようなものを三度々々食べさせるのです。そして衣服などは幹部と兵隊は全然違います。兵隊には一週間に一回は白米のように規則にはなつているのですけれども、一週一回の白米も食べたことはありません。そして共産主義は必ず上級に対して意見が自由に言えると言つています。それは確かに意見はだれに向つても言えます。けれども、上級に対して一度も自分たちの出した意見が通つたことはありません。そして私たちが病気で休むと、必ず体温計をもつて体温をはかるわけなんです。そして休んでいて熱のないときには、思想病だといつて、すぐ批判されるわけです。
○中山委員長 伺いますが、中共地区において女性として身を守ることがたやすいことであるか、あるいは至難なことであるか、あなたの女性としての体験を聞かしていただきたいと思います。
○北住参考人 一番最初中共に参加して、ほんとうに自分の貞操を守ることができるかしらと思い、いざとなつた場合は、やつらの手にかかるよりも、自分で自決しなければいけないと思つて、私は乗船するまで青酸カリを首から離したことはありませんでした。けれども、中共の軍人は絶対にそういうことはなかつたのです。それは安心して工作ができたのです。これは世界の軍隊としては、珍しいようなところがあるのです。それだけは、中共軍隊のいいところだと私は思つております。
○中山委員長 あなたの御存じの看護婦さんたちは、もうみんな引揚げて来たでしようか。
○北住参考人 引揚げておりません。みんな二十三年の八月に北京方面に移動いたしました。そして私ともう一人、二人でハルピンに参りましたのですけれども、一人はハルピンに残されて、私一人帰つて来たわけであります。ハルピンには約百名ばかりの日本人の先生、看護婦、衛生兵が残つております。その中でたつた七名しか帰りませんでした。
○中山委員長 まだおつしやつていただくことがありますか。
○北住参考人 私は皆さんにお願いがあるのです。それは私たち去年の九月二十四日にこちらに帰つたのですけれども、去年の暮ごろ盛んに内地の方は、中共地区より帰つた女はどんな人間かわからない、どんなからだで帰つたかわからないというような非難をなさつておりますが、私たちは絶対そういうだらしない生活をやつて来ておりません。貞操問題については、ほんとうに私は中共地区に感謝しております。まだ残つている日本人の女はたくさんいるのです。今度帰つて来る人たちに対して、私たちはそういうような変な目で見られたくないと思うのです。内地にいる婦人は、もつともつとあたたかい気持で、帰つて来る人を救つてやりたいと私は思うのです。私のお願いはそれであります。
○中山委員長 ありがとうございました。それでは皆さん御質問がございましたならばどうぞ。
○金子参考人 私は幾ら残つているかということを落しましたので……。これは確実な数でありますが、ただいま大連に技術者として残つているのは、戸主の数で二百九、家族を入れて七百八十一、そのほか先ほどもお話があつた、中国人と結婚している者が約二百名、かれこれ千名といわれております。それからこれは昭和十八年以降私の帰るまで、私に密使をもつて届けたのですから、数はわかりませんが、普蘭店と奉天の間に日本の医療従事員が六十名残つております。ここに名簿を持つております。これは密使が持つて参つたものであります。これを私は言い落しました。
○玉置(信)委員 私たち委員会といたしましては、ソ連地区並びに中共地区に残留おりまするわれわれの同胞を、一日も早く全部引揚げていただくような手段、方法を講じなければならないということと、第二点は残留者の数字、まだ何人残つているかという点、第三点といたしましては、残留者の死亡者の氏名を知ること、この三つを主たる眼目に置きまして、国会におきましては、会を重ねるたびに熱心にその度を加えて、この問題を取上げているわけであります。私個人といたしましても、四年間にわたつてこの引揚げの問題に携わつているのであります。自分の身内も、かつては抑留されておつたものでございまして、こういうことを考えますと、本日おいでくださいました参考人の方々が、この戰争によつて多大な犠牲をになわれたことに対して、何とも申し上げようがない、ただお見舞を申し上げるほかないわけでありますが、本日は御多忙のところ遠路わざわざ国会に御出席いただきましたことを、心からお礼を申し上げる次第でございます。 つきましては、ごく簡單にお伺いしておきたいことは、まず山田さんにお伺いしますが、民主裁判に付されて、死刑の宣告を受けたというお話でありましたが、この民主裁判というものはどういう形態のものでありますか。これは中共の軍のもとに行われる民主裁判でありますか、それとも、軍ではなくして、民間人による何か法制上きめられている裁判の形態でありますか、それとも最近伝わつておりまするような、民主グループというような形態でなされたものでありますか、この点をお伺いしたいと思います。
○山田参考人 そのことは、私がかかつた当時の民主裁判は、中共軍の民主裁判であります。
○玉置(信)委員 先ほど委員長からもお尋ねになつたことでありますが、この引揚げに対して、野坂參三氏が何か阻止するかのごときことをお聞きになつたようなお話がありましたが、山田さんはそうしたことはお聞きにならぬでしたかどうか。
○山田参考人 はつきり本人のやりましたなには、見たわけではありません。
○玉置(信)委員 いわゆる壁新聞で見られたということでありますが、この壁新聞はどういうところに張つてあつて、どういう内容のことが書いてありましたか。
○山田参考人 その内容は私も忘れましたが、大体民主新聞だと思いました。中国革命に参加する者は、日本革命に協力する者、日本革命を早めるものであるというような文が載つておつたように思います。
○玉置(信)委員 先ほど山田さんは、九月革命に参加して、日本の民主化をはかるための共産主義教育を施すのであるというようなことをお話になつたように承つたのでありますが、そういう事実があつたら重ねてお答えを願い、同時にそういうことはだれが話をしておられたかということをお聞きしたい。
○山田参考人 それは私が大連の收容所に参りまして、あそこでいろいろ学習を受けておりましたときに、あそこに民主青年会というものができまして、その民主青年会の連中が言うておるのを私は聞きました。
○金子参考人 ただいまの革命のことでございますが、そのことを聞いたのは、事実であります。中共鉄道大連総医院、元の大連医院、あの満鉄の医院であります。そこに残つておる医者が四名おるのですが、この人は全部共産主義者であります。佐々木守男という医学博士、婦人科医長で四十七歳の人がおりますが、これに、何でソ連はあんなばかなことをやるのか、ナホトカから上る人間は、あそこであんな騒動をどうしてやるのか、つまらないじやないか、むしろおとなしく日本へ入つて、地下工作をやつて潜行運動をやつた方が、より効果的ではないか、あんなことをやつたら、人民の同情を失うじやないかということを、私の友人が佐々木に尋ねた。佐々木いわく、それはもう熟柿がまさに落ちんとしておるのだから、火をつけさえすればよい、いわゆる九月革命、三月革命——だからああいうことをやるのだ。ぼくならあんなへたな策はやらぬね。それを聞いたのは佐々虎雄という方であります。この人は今福岡の療養所長になられました。この方が佐々木君と話し合つたことを私が佐々木君から聞いたのであります。この方々はいわゆる日本を共産主義化することが日本のためである、それはもうすでに熟しておるのだ、だからああいう直接行動にも出る、おれたちは日本へ行つて相当な役割を持つておる。この方々は希望して残つたのです。佐々虎雄君、荒木君、西内君などという方は、御希望で大連にお残りになつた。
○玉置(信)委員 山上参考人にお伺いいたしますが、山上さんは抑留されて、最後の收容所に落ちつくまでの間における、開拓農民その他市民の苦労された実情、及び山に避難をするためのさんたんたる光景を見られたということでありますが、それはしばらくおきまして、あなたが最後に言われた生活状態において、非常に向うの生活状況はよかつた、待遇もよかつた、日本に帰つて来てみると、それ以上に非常に生活條件は苦しいというお話でございましたが、あなたは生活がよかつたということは、政府機関に就職されておつてのことでありますか、それとも民間に働いておられたときの生活の状態であるか。伺いますと、帰られてから自由労務をもつて生活をされておるということでありますから、もししかりとすれば、現在の環境からいたしまして、御苦労をなさつておることも十分想像できるのでありますが、まずこの点についてお伺いたします。
○山上参考人 私は先ほどもちよつとつけ加えましたのですが、十分でなかつたように思います。向うのよかつたと言いますのは、私の現在の生活と比較して向うの方がよかつたというまでの話であります。それからいま一つは、向うの百姓さんでも、あるいはまた日本人の抑留者でも、ソ連における生活程度よりも、一年々々たつに従つてよくなつて来るということでありまして、決してべらぼうにいいということではありません。そこのところをよく御了承願いたいと思います。
○玉置(信)委員 お話の通りだろうと私も了承をするのであります。年々よくなるということも、私の方も情報を得て、実は承知をしておりますが、生活がよくなつて来るために、抑留されておる人が、むしろこういう状態で行くならば、将来帰化して土地に踏みとどまつた方がいいというような日本人の考えもあるのでございましようか、それともそういう気持の人はないのでございましようか、その点見られたところをお話願いたい。
○山上参考人 先ほども非常に皆さんが言つておられる通り、いろいろな人が集まつておるものですから、みんな同一だなんていうことは、決してありません。しかしながら一部の人たちについては、そういう方もあるかもわかりません。たとえば、私たちがこちらに上陸しまして、要するに現状の生活、いわゆる苦しい生活がやはり来ておるわけなんです。そういうところから、その人たちは、やはり向うにおつた方がかえつていいのではないかというような方もおられるようなわけで、向うでたとえばラジオを聞いたり、あるいはニユースも見たり、また新聞を見たりして、こちらの苦しい状況を知らされて、これは日本はひどいのじやないか、どうせならこちらにおつた方がよいじやないか、だからこつちにおつてもいいという方もいられます。だから、必ずしも中国に絶対におれたちはおらなければならぬということは、決して思つておりません。ほとんどの多くの人たちは、やはり日本に帰りたい、生れた自分の国でありますから、みんなが帰りたいのは同一であります。しかしながら、私たちの周囲におきましては、日本に何をしに帰るのかということを、やはり日本のためを思つておる人が非常に多い。たとえば、われわれは日本に帰るためには、どうしても新しい知識を得なければいけない、古い今までの軍国主義に仕込まれた、要するに古い思想をそのまま持つて行つては申訳が立たぬ。必ず新しい中国の実態をつかんで、その中から新しい思想を身につけて、日本の再建にぜひとも何とかして役に立たせなければいけないというような気持を、皆ほとんどの人が持つております。現在大体私たちの周囲におつた人は、そういう気持を持つてやつております。
○玉置(信)委員 なお重ねてお伺いいたしますが、お話の通り軍閥戰争によつて誤まられた今日の日本を再建しようとするにつきましては、御説のごとく新しいものを身につけ、思想的にも、経済的にも、社会的にも、あらゆる面が新憲法下において、新しく平和国家建設に向つて行かなければならぬのでありまして、残留されておる同胞の皆さんが、苦しみながらの中にそうしたお気持を持つておられるということは、私はまことに尊敬に値すると思うのでありますが、そうした気分を持つということについては、それらの集団生活の中に、何かそうしたヒントがなくてはならぬと思うのであります。それは言うまでもなく、中国側あるいはソ連側の民主主義思想のいわゆる学習というものがあつて、そこへ行くのではないかと思うのでありますが、個人的にラジオあるいは新聞等を見て、日本の状況を直接身につけてそうお考えになつておるのでありましようか、それとも学習の過程において身につける者が多いのでありましようか、そうした点をひとつお聞かせ願いたいと思います。
○山上参考人 最初一年くらいは、学習ということはほとんどなされなかつたのです。やはり革命の実態の中で、要するに生きたわけです。それでどうしても不可解な点ができたわけです。たとえば、解放軍のよさ、先ほども女の方が言われましたが、非常にいいところがあるのです。あるいはまた地方の百姓に対する態度、実にこれは尊敬すべき態度なんです。たとえば一本の道を通るにしても、解放軍が来る、こつちに百姓さんが来る、百姓の方はよけない、解放軍の軍隊の方がよけて通る。具体的にいろいろあるのですが、そういうよいところがたくさんある。こういうふうなものを、なるほどこれは共産党の教えだとやはり感ずるわけです。これで学習熱というものが盛んになつて来たわけです。学習というものを押しつけられたということは、決してありません。こういうものが高まつて来て、どうしても学習しなければいけない、こういうようになつて来たのが、一年半か二年、まず二年くらいたちましてから大体高まりました。
○玉置(信)委員 そうすると、山上さんのおられたところ、また周囲の方々のところでは、民主主義に徹しない者は早く帰さないのだというような話は、起つたことはないわけですか。
○山上参考人 実は私の方のところは、どういいますか、民主主義——新しい思想というものを身につけなかつたら早く帰れないとか、あるいは身につけたら早く帰れるとか、これが初期の一年半くらいの問です。一年半くらいの間に、非常に大きな錯誤をしておつたわけです。先ほども言われた通り、日本人の指導者、こうした人たちが、要するに自分の役目、あるいはまた共産主義、そうしたものをたてにとつて横暴をきわめた、こういうふうな非常に大きな錯誤が出て来ておる。こういう人たちは、やはり厳重に処分されている。共産主義者であろうと、間違つたものには、必ず間違つたことはただすというのが向うのやり方ですから、これはやはり処分されておるわけです。そういうようなわけで、一年半ぐらいはそういうことはなかつたのですけれども、一年半、二年くらいたつてから、すつかりそういう気持がなくなつてしまつたわけなんです。だから帰るとか帰らぬとか、そういうふうなものは二年くらいたつてからほとんどない。ただしかしながら、やはり自分の生れた国へ帰りたい気持、親の顔を見たいとか、兄弟の顔を見たいとか、子供はどうしているだろうとかいう気持は十分持つております。
○玉置(信)委員 今の結論の点で私は申し上げますが、多くの中でありますから、待遇のよいものは、お話のあつたように、残つてもよいという気持のものもありましよう。しかし留守家族の者は自分がいかなる苦しい生活をしておつても、とにかく家族のものが少しのものを分け合つても一家団欒のうちに暮したいといつて、日夜非常に待ちこがれておるこの気持、それから先般ソ連大使館の前で、陳情に押しかけた老若男女の方々が、涙を流して要請されておるあの気持等から見まして、これが向うさんになかなか通じないでしようから、そうした考えを持つ者もありはせぬかと思うのであります。そうしたことなんかは度外視して、自分の立場でおればよいというような者も、中にはおらぬこともないであろうと思う。どうでしよう、残る人は、こつちで考えておるほどのそういう気持になつていないんでしようか、どうでしようか。
○山上参考人 先ほども言う通り、たとえば独身で身寄りのないような人たちは、内池に帰つて何するよりか、どうりせどこで盡すのも一緒じやないか。ここで中国革命に貢献することは、決して人間として悪いことでない、だから残つてもよいというような人たちもありましよう。しかしながら、内地に家族があり、また身内のおられる人たちは、やはり内地へ帰りたいというのです。しかしながら、これは中国の政府として言つておられることは、必ず帰つていただく。しかしながら中国には技術がない、だから日本の人たちの技術を提供してほしい。そのために、むりであるが、残つてもらいたい。できるだけ早く中国の人にも技術を習得さす、また習得しなければならないから、一日も早く帰つてもらうことは、こちらでは考えておるけれども、とにかくそう技術も覚えられないし、しばらくであるから、しんぼうしてくれというようなことで残つているようなわけです、また残しているようなわけです。
○玉置(信)委員 江口さんにお伺いしますが、江口さんが抑留されておりました引揚げ前後の模様をお伺いいたしますと、山上さんの立場と大分異なるように拝承いたしたのでありますが、江口さんの体験されたことから見て、引揚げに対して、特に思想的な問題とからみつけて先に帰すとか、帰さぬとかいうような問題が起きたことはございませんでしたか。
○江口参考人 先刻も私申し上げましたように、一昨年の七月、ハルピン、牡丹江地区におきまして、これは先刻申し落しましたが、当時圖們方面におきまして、日本人を朝鮮経由で帰すといううわさが、あちらこちらにとんだわけです。それをまことにとりまして——また事実そういうこともあつたというふうなことも聞いておりますが、これは私はつきりわかりません。ハルピン、牡丹江地区におきまして、ぜひ早く日本人を帰してほしいということを、政府筋に嘆願したわけであります。ところがこれが政府に協力しない、いわゆる反動派ということになりまして、一網打盡にその幹部級とみなされたものを百名ほど收監され、これが早いもので二箇月、三箇月置かれましてようやく釈放されたのでありますけれども、その後私どもが去年ハルピンを出ますまでにまだ残されたものが、ハルピンに五名、牡丹江に二名——しかしこのハルピンの五名の中、二名でしたか、もう頻死の重病になりまして、一応保釈のかつこうで出ましたが、そういうことで、一年を経過した当時まで残されておつたというような事実でありまして、帰してくれと言うことすら、これは反動呼ばわりをするというような事実であります。そういう暗い政治を持つたところには、どうして長くおれるかという結果になつて来るわけであります。一日も早く安住の地日本に帰りたい、そうして日本に帰つて新建設に協力して行きたいという気持の人が大部分じやないか、私はこういうふうにとつております。私も牡丹江、ハルピンそれから東満地区に転々として送られるし、またまわされて来たのでありますが、私の周辺におりました方は、ほとんどそういう気持でございます。
○玉置(信)委員 北住さんの先ほどのお話にありました中で、帰国したいと言うと、思想病というようなことを言われて、かえつて反動扱いにされたという意味のお話がありましたが、それはどういう人がそういうことを言われるのでありますか。名前もわかればお伺いしたいと思います。
○北住参考人 病気をして熱を出し、そうして熱をはかつて、熱のない場合には、思想病として取扱われるのです。そうして検討会とか反省会を持たれて、みなから批判を受けるわけです。それは全部日本人がやるわけです。その一番上は民族幹事といつて、政治指導員がおります。それが主体になつてやるわけです。その指導員の下には、看護婦または衛生兵の進歩的な分子が四、五名おるわけですが、そういう人たちのもとでやられるわけです。小野田といつて元鉄嶺か鳳城の飛行隊出身の人なんです。その方が主体になつてやられるのです。
○玉置(信)委員 先ほど北住さんのお話の中で、中国革命に参加をしいられるというようなお話もありましたが、そういうことも、やはり日本人の進歩分子の方々がそういうことを言うのであるかということが第一点。それから帰国ときまつておつた看護婦さん、お医者の中で、自動車が来てからとめられて帰されなくなつた。こういうのは、どういうために帰されなくなつたのか、あなたがお聞きになつておればその事実、あなたの御想像でもけつこうであります。
○北住参考人 元大連で開業医をしておられた耳鼻科の六十歳になる森本先生なんですけれども、その先生はとても優秀な技術を持つていらつしやるのです。そうして総衛生部から、からだが弱いために、そうして老齢であるし、今まで革命に参加しているから、これ以上残留してもらうのは気の毒だというので、総衛生部から帰国の命令が出たわけなんです。そうして荷物を梱包し、帰るまでになつておりました。そうしたところが、ハルピン以来の院長が参りまして、もう少し協力してほしいといつて、そうしてそのときには民族幹事もお願いしたんですけれども、とうとう帰れなかつたんです。
○玉置(信)委員 総括してお伺いいたしますが、金子さんにお伺いしますが、非常に分析しての各般にわたることをお聞きして、非常に参考になつたのでありますが、こうしたまだ残留されている方々を全部引揚げさそうとするには、どういう引揚げ促進の方法を講ずることが効果的であるかというようなことについて、あなたの御意見を聞かしていただきたいと思います。
○金子参考人 個人の帰る方法としては、二つあると思います。一つは、まつたく共産化したことを装うこと。自己のことを申し上げますが、一つは、牢屋へ入れられても何でもかまわない、決死の覚悟で、あくまでも反動的な態度で出ること、これが個人として帰えれる方法だと思う。私は後段を選んだわけであります。ですから、最後の第三回の引揚げ検討会に、関東公署の正庁で各企業体の長を集めて、金子のごときは年齢六十四で頭がかたい、ああいう者を残しておいてもぐあいが悪いから、あいつは帰してやつたらよかろうということになつた。第二回の引揚げのときには、私は非常にほめられた。あいつは老いてますます盛んだから、残さなければならぬといつて残された。私は残された方のサンプル・マンであります。第二回の経験から死を賭しても帰ることを強調しました、そうして帰していただいた。 それから日本国としてのやり方ですが、これは非常にむずかしいと思うのでございます。大連に関する限りを申しますが、ソ連はあくまで私どもを残そうとはしておりません。なぜ中共は私どもを残すかと申しますと、結局中共の責任回避であります、大衆に対する責任回避であります。中共の医者はおびえ切つております。ちよつと間違つた治療をしても、すぐ民主裁判、はなはだしいのはすぐ牢屋に入れられる。責任ある発言をせぬのです。それではいかぬのです。日本人を置くと、日本人の言うことならば聞く、日本人が責任を負うというようなことで、中国の技術者も日本人を帰したくない。それから中国は、日本の技術のいいということを実際に認めておる、日本人でなければいけないということを認めておる。中国を再建するのに、日本の技術者が必要だということを心から考えておる。それなのに、なぜ技術者を帰すか、そこにかれらが正直でないところがある。たとえば工場にこういうことを書いてある。これはスローガンですが、日本の技術の劣悪なることを知る、大連を中共及びソ連が接収してから何パーセントの能率が上つたか、日本の技術者の劣悪なることを今において知つた、こうスローガンに書いておる。そのかたわらにおいて、残つてくれ、残つてくれということを言つておる。真の考えは残つてほしいのだと思つております。 そこでもう一つは、毛澤東におかけ合いになるのが一番いい。私はあの方は偉い方だと思つております。それではお前共産主義かと言われますと、そうではございませんけれども、あの方は偉い方だと思つております。あの方に交渉すればわかる。国家として、いわゆる日本国としてはできないでありましようが、それを代弁のできる方として、毛澤東に一ぺんだれかひざ詰め談判するより道がない。それから中共に関する限り、大連はあれは中共地区ではございません、ソ連地区でございます。にもかかわらず、今度この方方、千二百五十名という人を帰しておる。その帰るまでは中共の給與でやつておりましたが、帰るときはソ連の命令によつて労働組合——勤労者組合に入れて、名簿をつくつて帰したのですから、これは明らかにソ連が帰した。中共地区でも、ソ連が帰し得ないという理由は成り立たないと思う。だからソ連は困つたんです、なかなかあれを帰すことについては、ごたごたが起つたんです。
○玉置(信)委員 江口さんにお伺いしますが、先ほどのいろいろお伺いする中に、ただいまの金子さんのお話もありましたが、ソ連は返す気持があるが、中共の方で何かトリックによつて返さないのではないかというお話ですが、その逆に考えられない面もないであろうか。それは先ほどどなたかお話になりましたように、ソ連は非常に上手で、民主グループなるものによつて日本人同士を牽制せしめるという手段を講じて、ソ連側は高い所から見ておるということが、どうも今までの引揚者の——参議院あるいは本委員会においても一度あるのでありますが、参議院における引揚委員会の証人喚問等の事実から見ても、そうした点が大分考えられるわけです。従つて私は、江口さんは非常な死線を突破された力でありまするから、特にお伺いするのですが、そうした返さないという手段を講ずるための民主グループというような日本人に、日本内地の特定の人から、何かそうした日本革命の問題等について連絡をとつて、そうした特に強い働きかけをしておると思われるような風評であるとか、あるいは空気であるとかいうようなことを、あなたが聞かれたとか、あるいは体験されたことはありませんか、この点をお伺いいたします。
○江口参考人 中共地区から返さないという原因は、二つあるのではないか、こういうふうに私は考えます。その一つは、今中共地区におる日本人の技術者を返した場合に、向うの生産産業に非常な支障を来すから、返し得ないというふうに考えられるのが一つ。これは事実私どもも先方の幹部から聞きまして、実際からいうと、今のところは、日本の技術者を返したら困るのだということを申しております。もう一つは、いわゆる中共地区におりますところの民主グループ、これはすなわち日本人の共産主義者でありますが、これらの方々が、現在残つておるところの日本人を全部日本に返した場合には、端的に申しますと、自分たちの仕事がなくなるというような、非常に挾い考えを持つておるのではないかということが一つ考えられるわけであります。この二つでありますが、日本のいわゆる民主グループからのこれに対するいろいろな牽制というものがあるかないかということについては、私はそういう事実を聞いたこともありませんので、これは申し上げるわけに行かないと思います。 それからもう一つ先刻の御質問に対して、私が申し上げたいのは、いわゆる日本人がこちらに返されないということは、金子参考人からもお話がありましたように、私が先刻申し上げました二つの大きな問題もあるのでありまするけれども、これは絶対に返し得られるのではないかというふうに私は考えます。私の先刻申し上げましたのは、私ども去年の九月二十四日に舞鶴に上陸し得たことは、ソ連の責によつてなされたものだということを、実際に私は確信し得られるのであります。 大体以上のことを参考としていたたきたいと思うのでありまするが、それと、ことに私は去年十一月の六日に東京の第二高等学校で、全国引揚者の代表の大会がございました折に、私は強く要望しておいたのでありまするが、その折に、国際調査団をこの際中共地区に派遣してもらいたいということを、強く要望したわけであります。これは非常に反響を呼びまして、政府側におかれましても、これを対日理事会の方に御提示なさいまして、これらが非常に強く向うにも反映いたしまして、そのためにおそらく今年の一月、二月のあの厳寒におけるところの帰還ということになつたのじやなかろうか、こういうふうに私は考えておるわけであります。これはもう一歩進めて、ひとつ積極的にお願いしていただきたい、こういうふうに思うのであります。幸いあの問題を契機といたしまして、今年、先月あたりから中共地区との文通ができるようになつたのでありますが、文通に対して、内容はわれわれの考えておること、向うからこちらの方に知らしてやりたいという真相が書けないわけであります。どうしてかと言いますと、向うで書面を検閲をされる、それが非常にこわいわけであります。その書面の中にうがつたことを書きますと、それによつて取調べを受ける、そのために投獄されるというおそれがありまするのと、私どものおりましたときにも、そういう事実が多々あつたのであります。ことに私がぶち込まれましたところの炭鉱におきまして、私ども思想犯以外の一般労務者でさえも、文通をさしてもらえなかつた。満洲領土内の内部的な文通さえもでき得なかつたという現状に置かれておつたわけであります。ことに炭鉱の事務所でわれわれの手紙を差押える、また向うの方に送られるところの書面を差押えてしまつて、本人に渡さないというような事実が常にあつたわけであります。そういう面が幾分緩和されまして、文通ができるというふうになつたことも、日本国民の気持の現われと、これを世界の人道に訴えたということが、非常に反映しておると、こういうふうに考えますが、先刻も申し上げましたように、もう一つ進めて、ひとつ国際調査団の調査員でも、これを中共地区に、中共政府を承認されましたところの国を通じましてでも、強硬にこれを持ち出していただきたい、こういうふうに考えるわけであります。
○玉置(信)委員 最後に江口さんにお伺いいたしますが、そういう人たちの、委員会としても、また衆参議員連盟といたしましても、この引揚げの問題につきましては、世界人道協会であるとか、あるいは赤十字社であるとか、キリスト教会であるとか、できれば国連までもこのととを反映させ、持ち出して、しかして国際調査団などを派遣して、一人残らず引揚げをしていただくようにという熱意をもつて、私はこの引揚げ対策を目下練りつつあるわけであります。そこで私江口さんのお話の中で非常に胸を打たれたことは、開拓農民の百三十五名の婦人が、農家に配給された形で正妻あるいはめかけとなつて囲われておるという事実でございます。こうした者を救い出そうとすることには、容易ならぬ方法手段を用いなければならぬと思うのでありまするが、帰れば金を要求されるということであります。もとより支那の国民性から行きまして、私もかつて大連地区にも住んでおりましたので、よくあちらの事情も知つております。それだけに非常に心配をするものでありまするが、そうしたものを引揚げさせるということについて、あなたのお考えになつておることで、どういう手を打つことが最善であると思われますか、この点をお伺いしておきたいと思います。
○江口参考人 ただいまの御質問については、私ども考えるところでは、尋常一様のことでは、なかなか帰し得られない、こういうことに考えますが、しかしこれは現在の中共政府のとつておられるところの政策、これは相当強い力を持つております。それで政府の力を借りてこれを返してもらうことが、一番必要ではないかと思います。向うに残されておりますところの婦人の気持は、帰りたい。帰りたいけれども、日本に帰るのに、何のかんばせあつて帰れるかというような、非常に自分自体を卑下しておるような気持が多分にあるわけであります。先刻北住参考人からもお話がありましたように、私ども日本におります同胞が、あたたかい気持をもつてこれを迎えてもらう以外にはなかろうと思います。せひそういうお気持で、向うとの折衝もひとつお進め願いたい、こういうふうに考えます。
○小西(英)委員 政府委員の方がいないので、ちよつと委員長に伺いたいのですが、中国に残留しておる最近の政府の方の正確な人員は、大体どの程度のものかおわかりでないですか。
○中山委員長 六、七万と聞いたように覚えておりますが、今朝の新聞には十万と書いてあります。
○小西(英)委員 今朝の新聞はちよつと見たのですが、大体数は十万から五、六万という——これははつきりした数字はわからぬと思いますが、今日おいでくださつた参考人の方に特にお尋ねしたいことは、大体金子参考人からもいろいろ承つたのでありますが、現在中国に残留しておる六、七万ないし十万の一般邦人は、中共の革命と申しましようか、それらに心から賛同して残つておるかどうか。書面上は先ほど言つたように賛成の意を表して残つておるようになつておるが、実際は帰りたいのである。さすれば実際の状態から言うと、強制残留であるように皆さんの個々の御意見によつて考えられるのであります。大体六、七万ないし十万になんなんとする同胞が現在中共地区あるいは中国地区に心から残ろうとする人はほとんどなく、むしろ強制的残留だというふうに承知してもよいかどうか、もしそれについて御異議があつたらお聞かせ願いたいと思います。
○金子参考人 これはこの間も参議院でたいへん私はしかられたのでありますが、これは的確にはわからないのであります。しかし大連に関する限りは、幾分自発的に残つておる方が相当数あると思われます。区々によつてちやんと調べてございますが、区々によつて違うのでございます。総括すると、自発的に残りたいという方は、三分の一弱ではないかと思います。八百人のうちの三分の一弱は残りたくて残つている、あとの人はどのような形式をとつても、これは強制残留であるということは明らかに言い得ると思います。ここに残つている人の名前が全部ありまして、これの要請、希望がずつと載つておりますが、それから見まして、約三分の一以下がほんとうに残りたくて残つている人——この残りたくて残つているという中に二つあります。いわゆる主義、主張のために残つている人と、それから日本へ帰つても職がない。それは私らも言われました。お前ら日本に帰つても食うことはできないぞ。一番例に引かれたのは上野の浮浪者の群です。あのことを盛んに言われた。だからお前たちは日本へ帰つても食えないから、こつちにいた方がいいと言われた。そのために身寄りのない人とか老齢の人で、たとえば私の知つている有名な技術者で痘苗の神様と言われた笠井君などは、日本へ帰つても就職口がないから残ると言つておりました。いわゆる御都合主義で残つている人が、ややあるわけです。自分で希望して思想的に残つている方は、たくさんはなく、むしろ私は一五%ぐらいだろうと思います。それで御都合主義で残つている人を入れると、大連に関する限りは三分の一になるだろうと私は思つております。
○小西(英)委員 ほかの参考人の方においても、大体金子参考人が言われたと同様のお考えでありましようか。
○江口参考人 私はちようど二十一年の八月還送当時に、東満地区におけるところの難民委員会の委員長をしておりました関係上、その当時の残された人の状態を申しますと、大体先刻も申しましたように、捕虜として残されておつた者が約四千名おりました。これらはほとんどが返してほしいということを、当時嘆願したわけでありますけれども、日本人還送の直接の責任者になつておりましたいわゆる日本人民主連盟、これらの人は絶対に返さないということで強制的に残してしまつた。それからいなかの方に三々伍々しておりました者は、還送が一日遅れ二日遅れて漸次牡丹江地区に出て来たのでありますが、これらの者をある時期にはまた返すのだということにして、当初むりやりに残しておいた。その当時四五日遅れて返せるものなら、まだ返せておつたのでありますが、これも強制的に残しておつたということから見まして、現在鶴岡、佳木斯、牡丹江、東満といつた地区には約六千人残つておりますが、これらのうち、帰りたくない、向うに残つておりたいという人はは一〇%もいないだろうというふうに私は考えます。
○小西(英)委員 私たちも昭和七年から二十年の六月こちらに帰つて来るまで、大体十三、四年の間大連、奉天、鞍山、新京等におつた一人といたしまして、内地に帰りたいと夢にまで思つておられることだろうと思うのでありますが、一部共産主義を信奉する以外の者はほとんど帰りたい。しかしわれわれ引揚げ促進をやろう、また引揚げに関するいろいろな協力をしようという委員会の立場といたしまして、昨今共産党の徳田君が反動分子は返してはいかぬと言つたことが、帰つて来た人の言によつて明らかになつておるのでありますが、さらに私たちが昭和二十一年——当時満洲の引揚げが開始されていない前のことでありますが、その当時現在の野坂參三氏が岡野進という名前でもつて満洲におりまして、われわれ友人から聞いた言によりますれば、日本の敗戰を知つてこちらに帰るときに、延安でもつて毛澤東との間に、日本の在留同胞を十分中共革命に参画させて使つてほしいというような話合いで、さらに延安から満洲地区に帰りまして、一方中共の毛澤東とそういうふうな話をなし、この混乱のさ中に日本に帰つたならば、日本の現在の食糧事情からいつて、また日本が混乱のさ中に、日本の同胞が帰ることは、より不幸であるというふうなことを宣伝いたしたために、あるいは当時日本の状況からも、多くの同胞、あるいは看護婦あるいは従軍しておつた者が、それならばいつそ中共軍にでも入つて、食にありつごうというふうな意思のもとに、今日南支の彼方にわれわれの同胞が数万いるといたしましたならば、もしこれらの点がさらにわれわれの手において明らかになるならば、これが今日ウランバートルにおける池田隊長以上に、引揚げ同胞を苦しめておるということなら、いかなる時代といえども、正しからざる者は、すべからく国民の名において罰せられなければならないと私たちは思うのであります。またいろいろな点について、われわれ現在徳田氏を追究いたしましても、先ほど来金子参考人の言われますごとく、ロシヤの主義に染まつておられる方のことでありますから、言つたことでも言わない、やつたことでもやらないということで、水かけ論にはなるのでありますが、現在残つておる人の六〇%あるいは一〇〇%の者が帰りたいが、その中に、当時日本の実情を曲解いたしまして、日本に帰るよりこちらにおつた方がよいというふうなこと、あるいは上野の浮浪者を大いに宣伝するために、日本全体がさような状況にあるのではないかというふうな考え方から、遅れた人がもしあつたとすれば、これは相当重大な問題であろうと思うのであります。私たちが本日皆さんに来ていただきまして、各地区における実情を承つて、われわれとして非常に涙を禁じ得なかつたのでありますが、何とか今日残つておる人を早く帰してもらいたいということと同時に、もしこれら引揚げをこばむ何ものかがあつたとするならば、断固われわれはそれらのいろいろな問題を排除しなければならないと思つております。もう一つ、特に金子さんに対してお尋ねいたしたいのであります。大連の労働組合の問題でありますが、今その労働組合が在留同胞救出という名のもとにおいて、相当な金を集めたというふうな数字を持ち出しております。土岐君が委員長で柳原君らの行つたことが、ほんとうに引揚げ促進、あるいはその他の点に寄與していないというならば、これは国家の公金をそれらに返すわけにも参らぬので、そういう点をひとつ特にお尋ねしたいのと、ロシヤの方の指示によつて、いろいろ一般同胞の金を巻き上げたとか、あるいは自分らのみが非常な裕福な生活をしつつ、ある一定の人に対しては、相当強圧的な寄付を徴集したというふうなことについて、何かもし御記憶があつたら御返答願いたいと思います。
○竹村委員 議事進行についてちよつと伺います。先ほどから聞いておりますと、今日は大体皆さんに来てもらい、そして将来引揚げをどういうふうに円滑に行うか、従つてまた中共地区における実情を聞くためでありまして、今の委員から発言されたように、たとえば同僚議員である徳田の問題を断定的にものを言つて、そしてそこから何かみなから引出そうというような誘導的な物の聞き方は、これは議事進行上、委員長から注意していただきたいと思います。
○金子参考人 先ほどから申し上げた通り、私は勤労者組合のやつたことに全然同意していないで、その団体に入らなかつた一人でありますから、私の答えが的確であるかどうかわかりません。私はまつたく局外者として見たことを申し上げます。引揚げの事務については、ソ連司令部は、勤労者組合に命じたことは事実であります、中共政府には命じておりません。勤労者組合に命じて名簿をつくつて、勤労者組合がいろいろ団の編成とか、団長の編成なんかをして、そこで引揚げております。それが一般の大衆から共鳴されておらなかつたという点もある。その実例を申し上げますと、私は山澄丸の梯団長として引揚げて来たのでありますが、私の引揚げたときは、初めは梯団長ではございません、勤労者組合に入つておりませんから、私はオミツトされて、すみの方で小さくなつて、赤旗に送られて大連に来ました。大連を二十八日に出発して、二十九日の晩に船の中で大騒動が起りまして、私が大衆の輿望をになうと言うのは、はなはだ言いずらいですが、輿望をになつて——十六箇班の中で十五箇班が選んで、私が梯団長になつて帰つて来たのです。それから、大衆が勤労者組合のやつていたことを納得していなかつた、信頼しておらなかつたということは、明らかな事実が一つある。どうして信頼しなかつたかということでありますが、それはさつきの金の問題であります。いわゆる中国の市政府が、市の建設のために、日本人のもとの指導者階級に向つて何万円という金の、つまり債券を買うことを強要したことは事実であります。しかし私個人に関する限りは、中共が望んでおらないことを、労働組合がかつてにやつたということは、これは石堂君にも言いましたが、事実であります。そういう事実は、ほかにもあつたかも知れません。それから、引揚げに対することは、労働組合はよくやつてくださいました。しかし私らは、出るについて、荷物一個について幾らというお金を支拂つております。もちろん労働組合も、このトラックの運搬そのほかに、相当多額の金を使つておられましようが、その会計報告を受けたことがかつて一ぺんもありません。そこで大衆が、なぜ会計報告をせぬか、お前らはインチキをしているのではないかといつて労働組合に迫る理由は、そこにあると思います。私は労働組合として、幾ら幾ら使つて、トラツクは幾ら拂つたと言つて、收支の計算を発表すべきものであると信じております。しかしその発表にいまだ接したことはありません。そして最後に、私の引揚げたときあたりは、こういう奇怪至極なことを言つております。私らは実際労働組合の自動車で帰つたのではありません、私は中国のいわゆる職工総会の顧問をしておつたから、職工総会の自動車によつて送られて来ました。どこも各企業体からみな自動車を出してもらつた。けれども、一個について幾らという金をとつた。そしてその言い分は、こういう言い分です。荷物の検査を簡単にするためには、ソ連に賄賂を使わなければならない、これは機密費だから、使つたといえば使つた、使わないといえば使わないので、これは機密費だから発表できぬと言つております。はたしてソ連の将校がこれをとつたかとらないか、それは私にはわかりませんが、なぜ発表せぬかと言うと、機密費だから発表できぬと言うのです。しかしおそらくソ連というような大国が、しかもソ連の軍司令部が、日本人の引揚げについての検査を寛にするとか、巌にするとか、コミツシヨンをおとりになるということは、およそあり得ないことだろうと思います。そうすると、こちらに送るといつてとつた金はどこへ行つたか、こういうことは、労働組合は日本人の金を搾取してかつてなことをやつておるという疑問のポイントになつておると思います。 それから一つ、最後にお願いがあるのであります。先ほどから伺いまして、いろいろ希望者とかあるいは希望者でないものの残留ということがありましたが私はそれを超越していただきたい。海外におる日本人は、ポツダム宣言及びヤルタ会談によつて帰るべき運命に置かれておる、これが敗戰後における在外者の身分だと思います。ですから、好むと好まざるとにかかわらず、これは全部引揚げさせていただきたい。どうしてこのヤルタ会談、ポツダム宣言できまつたことが実施されずにおるのか。台閣に連なつておられる諸侯及び皆様の御心配くださつておることは重々感謝いたしますが、どうしてそれが実行できないのか。簡單なことじやないか、日本人は帰るべき運命に置かれておるのじやないか、それがなぜ帰れないのか。ここに何か帰れないところの理由が潜在しておる。それを私らに教えていただきたい。私も実はアカシヤ引揚団の引揚促進委員会の委員長をしておりますが、常に迷うことはそれなのであります。当然帰るべき敗戰後の日本の状態でありながらなぜそれが帰れないのか、なぞ嘆願訴願しなければ帰れないのか。これをひとつ恐れ入りますが、あべこべに私に教えていただきたいと思うのであります。
○小西(榮)委員 今金子参考人から承つた範囲におきますれば、大連の当時の労働組合というものは、あまり大衆の支持を受けていなかつたということは、大体了承してもいいと思います。もう一つ、同僚委員の方から話がありましたが、実際私が先ほど申し上げた程度のことは、新聞紙上にいつも報道されておるし、私たちもそれを決定的に言つたわけではなく、超党派的に引揚げを促進しておるわれわれといたしましては、もし表面で帰せと言い、陰では帰してはならぬというようなことがあつたならば、断固われわれとしても、ただちにこれに賛同してやらなければならぬということを申し上げたのであつて、一言私の発言について弁明しておきます。
○玉置(信)委員 ただいま金子さんからのお話に対しまして、私国民として申し上げたいと思います。まつたく観点は同じでございまして、しかるがゆえに、先ほども申し上げたように、私は全面的に、一人も残さず引揚げをすべきである。その方法手段をいかにすべきかということについても、ことに私ども考えておりますが、まあ本日三つの貴重なというか、むしろ残酷な体験を得られました皆さんからお聞きをして善処をしたいと思つておるわけでありまして、その方法を講ずるための参考に本日もこうやつて皆さんの御体験を拝聴したわけであります。ことにポツダム宣言、ヤルタ会談の精神から行くと、当然帰さるべきものが帰されない、そこに私ども割り切れないものがあります。時間がおそいから、なかなか申し上げられませんが、これについての私個人としての見解は、ずいぶんたくさん持つておるわけであります。時機が至れば表明するときがあろうと思うのでありますが、とにかく帰されないということについて、今日のお話のうちでも疑問を持つことは、せつかく引揚げた方々が、同胞の犠牲になられた方の死亡名簿を持つておる途中においてそれを掠奪されておるということ、これ一事をもつてしても、私非常に不可解で、何としても了解に苦しむわけであります。ついでに江口さんにお伺いいたしますが、この名簿を没収した人は、中共の軍人であるか、それともソ連側の人であるか、これもおそら民主グループの一人ではないか、かように考えるわけでありますが、それも貴重な材料になりますのでお伺いいたしたいと思います。
○江口参考人 私どもは六月二十八日に奉天に到着いたしまして、この附近に集結された数は、先刻も申し上げたように一千百二十七名であつたのでありまして、荷物検査のありましたのが六月三十日であります。奉天の駅頭におきまして全員整列をし、荷物を出して検査を受けたのでありますが、この検査は中共の税関の官吏であるということであります。そのことについて先刻私申し忘れておりましたが、当時の政府側の還送者に対するところの発表内容によりますと、日本人の諸君は過去四年間中共政府の建設工作に盡力をしてくれた、これに対しては満腔の敬意を表する。で皆さんにはでき得る限りの優遇を施して帰つてもらいたいというようなことを申されたにもかかわらず、奉天駅頭におきまする検査の状況たるや、あれは実に人権蹂躙もはなはだしかつたのであります。私どもは荷物の検査を受けます折にその名簿を、またその他向うに没收されまいと思つたような書類までもが、全部没收されましたことと、男子は全部裸にされましてふんどしの下まで調べ上げられた。それから婦人におきましては駅前の室内におきまして、裸体になつたかどうか知りませんが、踏み越えまでさせられて検査を受けたというような実情にあつたのであります。これで、何でわれわれに対する建設工作に寄與貢献したという向うの謝意が表明せられたと言えましよう。この一事をもつてしても、われわれに対する一つの侮辱ではないかと私は考えます。
○玉置(信)委員 なおこの引揚げの問題につきまして、金子さんの御発言に関連して申し上げたいことは、金子さんのおつしやるようにソ連側でも帰したいという気持、これも実は私もそうではないかと想像するにもかかわらず、ソ連がかほどまでにポツダム宣言を蹂躙し、ヤルタ会談を無視して執拗に抑留するかということが、あの大国がとるべき態度としては不可解至極なことであります。従つて海外に抑留されており同胞のいろいろな虐待、虐使され犠牲に陥つたということの多くは同士討ちであると思うのでありまして、帰りぎわになつてからのやり方は、民主グループが導因となつてそうした結果が生れて来ておるのではないかと考える点が大分あるわけであります。そういう点から考えまして、私はソ連、あるいは中共のやり方というものを批判する前に、この民主グループの組織であるとかこうした組合の行動を十分検討批判する要があると思います。かような観点からいたしましても、この引揚げされた参考人の方々が御意見を発表されるということは、重大なる参考になるわけでありまして、この点もちよつと御了承くださいまして、なお委員側からの質問がなくとも、お心づきの点がありますれば、この機会に伺つておきたいと思います。同時に委員長に御要望申し上げますことは、先ほども北住さんが実に涙を流しての要請をされました抑留婦人の純潔さを、国内におる同胞に認識せしめるということは、きわめて重要なことであると思います。私はこの点についても、非常に深き感慨を覚えたわけでありますので、委員長におかれて、適切なる方法をもつて、北住さんの申されておる通り徹底なさるように、おとりはからい願いたいと思います。
○中山委員長 了承いたしました。
○金子参考人 ただいまのお尋ねのことで、思いついたことを申し上げます。ソ連がどの程度にあやを引いておるか、それは私存じませんが、大連における個々の実例から見ますと、むしろ中共で拉致した技術員をソ連が救出して帰しております。この事実から申しますと、ソ連は帰すように努力してくれたのだろうと思います。なお私ここに持つておりますが、坂井花氏と申しまして、ただいま松本の療養所の婦長をしておりますが、これは元陸軍の看護婦で、日本赤十字社の派遣救護班員であります。これが中共軍に拉致されまして苦い生活を送り、涙の生活を送り、遂には血の生活を送つたのが、二名相携えて脱出しました。そうして幸いにして大連の埠頭まで着いて、ソ連にその実情を訴えたところが、ソ連は帰してやると言つて、船に乗ることになりましたところが、中共軍から自動車が来て、ソ連の将校と何を話合つたか、それはわかりませんが、話合つた結果、それではお前帰れといつて送り帰された。こういうことを見ますと、どうもソ連は帰して行くという方針であると思われる。先ほどの千二十五名の問題でありますが、そうして私ら第三回目に帰してやるというので、最後に船に乗つたのでありますが、中共側の将校がソ連の司令部へ行つて中ソ友好條約をあなた方はどうしてくれるのか、日本人を帰してしまつたら、大連の産業はやつて行けないじやないか。にもかかわらず、ソ連はどうして日本人を帰すのだと言つたということを、その任に当る中国人から聞きました。こういうことから見ますと、ソ連はやはり——ソ連地区は私は存じませんが、中共地区、大連地区におきましては、ソ連は帰していいという考えがあるのじやないかと思います。私もゲルフアノフにそう言いました。あなたの国にはお医者さんがいるでしよう。にもかかわらず、私みたいな日本人の、医者をつかまえてどうしますか。早くあなたの国からお医者さんを連れて来て中国の医学をリードしてやりなさい、こう言いましたところ、ゲルフアノフいわく、ソ連の医学は卓越しておる。しかし人が足りないから、そこまで手がまわらないと逃げましたが、私はソ連は日本人の技術者を要望してないと思います。技術者に関する限り、どうしても中共だと思います。
○小西(英)委員 これは金子さんと私の見解の相違かもしれませんが、大体ポツダム宣言、ヤルタ協定等において、平和のあかつきには帰すということがはつきり出ておりますが、ソ連は自分の領土内においては、自己の国の便利のために労働力を必要とする場合には、労働力並びに技術者もなるべく置きたい。あるいは思想の面にも、そういう同志をつくるために置きたい。ソ連の方では、もう大連は中国の領土ですから、そこにおいては、自分らの国に直接の利益はないが、中共としては大連の工業その他を十分復活させたり、あるいは建設するのに必要だから、中共としては置きたい。大体われわれも第三者として、確かにそういうふうな考え方であつて、ソ連が非常に好意的に帰してやるというような意思よりも、むしろ自分に利害関係が何も発生せぬから、また條約にもあることだから、日本人を帰してやろう、こういうことだろうと私は思うのです。これは私一個の参考意見ですが……。
○金子参考人 小西先生に伺いますが、私らもそれを言われました。ヤルタ協定とかポツダム宣言には、日本が破壊したところの文化を再建するに必要なところの人員は残してもいいということを、私らは中共の政府の要人から言われました。しかし私はそれは宣言にないと思いますが、いかがでございますか。
○小西(英)委員 そういうことはありません。私が今申し上げることは、條約があつでも、ロシヤとか中共というものは、自分の国の利益のためには、條約も何もないという状況なので、われわれが考えるのは、ロシヤにおる日本人を早く帰そうという意思がほんとうの考え方であるならば、日本の同胞はシベリアからもつと早く帰つて来ておるはずだと思う。そういう見解を私個人としては持つております。
○金子参考人 それは御同様にその通りだと思います。
○竹村委員 山田さんにお伺いしたいのでありますが、山田さんは実に死線を越えて帰つて来られて、非常に苦労をせられたことと思いますが、関東軍の情報部員をしておられたそうで、関東軍のことについては非常に詳しくお知りだと思うのでございます。大体終戰直前に、関東軍の中で南方戰線の方へ移動したような部隊があつたということをお聞きになつたですか、お聞きにならなかつたですか、その点をお聞きしたい。
○山田参考人 私は満軍におりましたが、当時満軍より特務機関に派遣になつておりまして、情報もたくさん知つておりましたが、関東軍が南方に下つたという情報は、私ははつきり聞いておりません。ただ一部が沖繩本土に行つたということは聞いておりますが、その数ははつきりわかりません。
○竹村委員 それからあなたは終戰後、中国人を連れて山の中へ逃げ込んだということであります。そういうふうな場合に、先ほどから皆さんのお話を聞いておりますと、終戰のときには非常に混乱が起り、逃げろとか避退せよとか、そういううわさが飛んだと思うのですが、そらした点につきまして、情報部におられましたあなたといたしましては、そういう情報がどういうところからあつたか、ひとつお聞かせ願いたい。
○山田参考人 その点については、私わかりません。
○竹村委員 それでは、あなたはその後脱出して、中共軍の方あるいは国府軍の方と、実にあちらこちらと行つておられるのですが、やはりそういう場合におきましては、常にあなたは元の中国人なんかとともに行動したので、そういうことができたのですか。それをひとつお聞かせ願いたいと思います。
○山田参考人 私個人です。
○竹村委員 尋ね方が悪いのかしれませんが、実はあなたは中共軍の方へも、あるいは国府軍の方へも転々として行かれて、そうして帰つて来られたのです。その場合、あなた一人でそういうふうにうまく、あちらへ逃げたり、こつちへ少しおつては向うへ逃げたり、自由自在にできたようにわれわれは感じたのですが、内地におります者の感覚から考えますと、あなたは一人ですから——向うが厳重に敵だと考えておつたら、そう簡單に逃げたりできないわけなのですが、非常にうまくあちらへ行き、こちらへ行きされておるので、そのときは中国人なんか知合いの人とともに行かれたのか、またあなた一人でもそういうことができたのか、その事情をひとつお聞かせ願いたいと思います。
○山田参考人 私は中共軍には入つておりませんで、国民党の方に入つておりました。私は大分前から中国人とは深い関係を持つておりまして、女房役というところ手か、いろいろな人がおりますので、その人と常に連絡をとつておりました。
○竹村委員 皆さんにお伺いしておきたいと思います。皆さんの話を聞いておりますと、転々としてまちまちでありますが、これはお考え、あるいは境遇その他のいろいろな点で、ごもつともだと思います。ともかくここでお知らせ願つたことは、皆さんが自分の生活を中心として御経験された感じ、そうして自分で見た自分の周囲を中心としてお考えになつて、お話くださつたことだと承知していいと思いますが、それでよかつたら別にお答え願わなくてもけつこうです。もう一つお聞きしておきたいのは、引揚げて来られて、一番政府にこういう点をしていただきたい、引揚げて来た者に対しでこういう点を強く援護してもらいたい、こういう心構えで政治をやつてもらいたいというような点がありましたならば、おのおのの参考人のお方からお聞かせ願いたいのであります。
○金子参考人 今の竹村先生のお尋ねに対してお答えいたします。大連の状況で赤十字に関することと勤労者組合に関することは、私を中心として申し上げました。そのほかのことは客観的情勢で、私は第三者の立場で申し上げました。それから引揚者はどういうことを希望するかというお話でありますが、私らはほんとうにあちらでは優遇されました。ソ連からも優遇されましたし、中共からも優遇されました。私はあちらの共産党の凝り固まりである勤労者の職工協会の病院の顧問でありまして、帰るときも多額のものを頂戴いたしましたし、船までも自動車で送つていただきました。この点は感謝いたしますが、これは私だけの問題であります。向うにいた生活と内地に帰つて来た生活と比べると、雲泥の違いで、ただいま私らは食うことに一生懸命になつております。そうしてその目標はイーテイング・オンリーであります。だから物質的の観念からいつたならば、向うにいた方がいいのじやないかと私に言う人がありまするが、私は、向うにおつても、国家性がないからよくないと言うのです。それから私は梯団長で帰りました関係で知つているのですが、私の知つている範囲の方は、ずいぶん知識の高い人でも就職難でおられます。これは日本の今の状況としてごむりのないことと思いますが、できればひとつ就職についてごあつせんを願いたい。なお一部の方はこういうことをおつしやいます。戰災を受けた者はかわいそうだ、これは同情しなければならぬ。しかし大連あたりから引揚げた者は、いわゆる軍閥の手先となつて、日本侵略の第一線に働いたところのいわゆる尖兵であるから、これについてはあまり同情が持てないと。私は見方によつてはその点も確かにごもつともであると思いますが、私らは決して軍閥の手先となつて第一線で尖兵の勤務を果したのではございませんので、その点は同情をもつて、やはり同じ日本人が帰つて来たのですから、かわいがつていただきたいということを、心からお願い申し上げておきます。
○青柳委員 大体大きい問題はお済みになつたようでありますから、私は一つの問題をとらえまして、これに関連してお伺いをいたします。まず第一に山田さんにお尋ねをいたしたいのでありますが、水を四斗も飲まされて手足を縛られてつるし上げを受けられ、非常な拷問を受けられたというお話でありましたが、それは中共軍のいかなる機関がやつたのか、その点についてまず伺います。
○山田参考人 先ほど梅参考人も申されました通り昭和二十一年の四月に八路軍が新京に入つて参りました。私どもはその前に新京にできた保安軍に関係していた関係上、いわゆる保安軍の憲兵につかまりました。その当時新京に入つで来た入路軍は、難民化しておつた日本人を募集いたしまして、それに応じた人もありましたが、応じない人も使いたいというのが、向うの腹だというように思いました。つまりそういつた人にある程度の拷問をして、そうして温情主義をもつて結局救い出したというようなことにしてから、使おうというような腹であつたと思います。
○青柳委員 そういう拷問をしたのは、八路軍のどういう機関ですか。
○山田参考人 何中隊か忘れましたが、第一番に新京に入つて来た周保仲という中隊であります。
○青柳委員 私の伺つておりますのは、そういう中隊が、そういう裁判なり取調べの任務を持つておつたかどうかということなのであります。
○山田参考人 そういうことは、私よく存じておりません。
○青柳委員 八路軍の将校が行つたのですか。
○山田参考人 連長がやりました。連長というのは中隊長です。
○青柳委員 山田さんが死刑を受けられたという点について、少しおかしいと思う点があります。二十五発まで彈丸の音を聞いたというのですが、中共軍におきましては、銃殺を行うのに二十五発もの彈丸をもつて人を殺すのですか。そういうことが現実に行われるということであれば、非常に大きな人道問題だと思いますが、この点につきまして、もつと詳細にお話し願いたいと思います。
○山田参考人 ちようど私が午後五時に連長から出されて、新京郊外の死刑執行場に連れて行かれました。そこに約十三名の警備兵がおりましたけれども、六名立ちまして、約十メートルくらいおいて私は立ちましたりその前に私は、最後だから、私は酒が好きだから酒を飲ましてほしいと言つたところが、その連長が酒を買つて来てくれました。それを飲んで——二十五発というのは、大体私も酒を飲んで相当ふらふらになつておりましたが、一回入れたものを、こうやつて……。それで大体私は二十五発だと思います。
○青柳委員 私は次に同種類の問題につきまして、江口参考人にお尋ねいたしたいと思います。江口参考人の御陳述によりますと、共産主義者をよけいに含んでおる民主連盟員に、数度にわたつて取調べを受けた、こういうお話がありました。その取調べの状況を伺いたいと思います。
○江口参考人 これは昭和二十一年の八月から十月一日までの間でありますが、私は向うで直接責任者でありました関係上、そう苛酷な取調べはありませんでした。ただ初会は履歴程度を聞きまして、二回目は私からお願いをして、それが四、五回目にお願いが通じました。私のお願いの内容としては、私は一応牡丹江の委員長として、私以外に入れられておるところの四名の人を即刻釈放してもらいたい、責任は私一人で負つたらいいじやないかということで、お願いしたわけであります。これはいれられまして、三名だけは先に出されまして、あと一名だけ、私と一緒に十月に出してもらいました。そのほかのものはどうであつたかと申しますと、ほかの最初に出されました三名というのは、監獄の中ではなく、軍の拘禁部というのがありまして、そこの便所の中に、全身縛られまして、五日間ほどぶち込まれておつたそうであります。これはあとから聞いたことであります。もう一人のものは、私と連絡をしていかぬというような関係から、私どもを拘禁する一週間ぐらい前に別に隔離いたしまして、そうしてあとから同じ監獄の中に入れたのでありますが、その間調べられたことは、軍に一回ないし二回程度でありまして、いろいろなことについては全然調べられなかつた。ただ私どもを一箇月ないし二箇月の間ほうり込んでおつたというようなことでありまして、この間のことをいろいろ総合しますと、要するに私どもの難民委員会というものの存在をなくなして、民主連盟をつくらなければならぬというようなことから、隔離したのであるというふうに私は思つております。
○青柳委員 便所の中に五日も、全身を縛つて閉じ込めておいたというようなお話のほかに、ただいま承りますと、江口さんは七箇月も入つておられたというお話があつたように思いますが、そういう際には、どういう理由で七箇月も入れておくというような——いわゆる宣告なくしていつまでも置いておくというふうに受けとつてよろしいのでありますか。
○江口参考人 先刻申し上げましたのは、第一回目の投獄でありまして、二回目の投獄は昭和二十三年の十月二十八日にハルピンの公安局に二日間拘禁されまして、それから牡丹江の方に移されたのでありますが、この間一回調べられました。調べられたのは、要するにあなたは東満地区におるところの日本人をたくさん知つておるだろう、これについて知つておる人を書け。もちろんその内容については、性格その他いろいろな方面から書けということで、ただそれだけだつたのであります。これについては私出ましてから一年あまり経過しておりましたのと、それからほとんど還送終了後でありましたので、あまり知つておる人がおりませんでしたので、七名ほどしか書きませんでした。それから第二回目に呼び出されたのが、投獄されましてから四十五日目であります。その折には、君は中国人の有志とたくさん交わつておつたろう、その中国人の知つている範囲の有志の名前を書いて、その性格なり、日本にどういうことを協力したかということを書けというので、これについてもその当時の有力者というものを十名程度私は書いたのであります。それ以外には何ら取調べがなかつた。取調べをせずに七箇月牡丹江の監獄に閉じ込めまして、そうして先刻申し上げましたのは昭和二十二年の十月二十八日でありまして、その翌年の五月二十四日に私ほか四名、都合五名を監房から出しまして、そしてどことなく汽車に乗せて連れて行つたのであります。これはどこにやられるのかと考えておつたのでありますが、着いたところは、牡丹江から東方四十キロぐらいの炭鉱であります。着いてその翌日から、七箇月も收監されてふらふらしておるものを、むりやりに強制労働につかせた。私は幸か不幸か、強制労働に従事させられること三箇月にしまして足にけがいたしましたので、そのために二箇月ほど入院しました結果、当分仕事ができなかつたので、検炭という、石炭が出て来る検査をする比較的楽な役につけてもらいまして、去年五月六日釈放されるまで、そういう仕事をさせられておつたのであります。ほかの四名のものも、それぞれ私同様に重労働に服させられたわけでありますが、うち一名は医者でありましたので、これは五箇月後に医者の本来の仕事につかしてもらいますし、また一人はかじ屋でありましたので、かじ屋の方につけてもらつて、あとの二人は坑掘りというような労働につかせられまして、いまだにその仕事を継続してやつているだろうと考えます。
○青柳委員 私の申し上げました一つの問題、戰争が済んだ後に、中国において行われました人権蹂躙の大きい問題の一端を御説明をいただきましたことを、私は非常に今後参考にいたすことを仕合せといたします。
○竹村委員 先ほどの、お帰りになつてからの定着援護の御希望につきましては、金子さんからだけ御回答されておるのでありますが、その他の参考人で、もし定着援護についてというよりも、むしろ引揚者に対して、どういうような方針と、政府はどういうふうな政策をとつたらよいかという御意見がありましたならば、まだ御意見をお述べくださらぬ方からお聞かせ願いたい。
○山上参考人 私、これはお願いなんでございますが、実は私ども今日参りましていろいろ言つたことを——いいところも、悪いところもたくさんあると思つております。私自身は中国のやり方は、実はいいと信じておるのであります。それで、できますれば、このよいところをひとつ取り入れ、また悪いところを切り去つて、今後の日本のいわゆる建て直しのためにぜひ御努力をお願いしたいと思います。それにつきまして、私たち帰つて来た者、また今後帰つて来る者——必ず帰つて来るものと私は信じております。この帰つて来る者をどういうふうにして援護してやるか、どういうふうにあたたかい手で迎えてやるかということの参考に、要するに私たちの経験のよいところ、悪いところを十分分析され、研究されて、今後の人たちを迎えていただきたい。またここに来ている人々の生活の向上に協力してやつていただきたいということをお願いいたします。困つている者も相当おるのであります。また外国で長い間、十年も二十年も生活しておつて、日本に帰つても基盤のない者が、非常に多いのでございます。りつぱな人たちがおりますけれども、やはり職についていない者がたくさんいるような始末でありますから、こういう人たちに、お前たちはかつてにやれというふうなことではなく、あたたかい心でもつて、りつぱな技術を持つた人には技術に帰させてやり、あるいは鉄道の技術を持つた人には鉄道の技術の職に帰していただく、あるいはまたそういうふうな方面に復職または元の地位に帰るという点にまで、ひとつあたたかい親心を持つていただきたいということを、私はくれぐれもお願いしたいと思います。どうぞお願いします。
○江口参考人 帰りましてから援護の対策につきましては、国会を初め政府その他におかれましても、非常に関心を持たれ、また種々私どもの生活面に影響もありますので、いろいろ努力されておられることについては、帰つてから感謝をいたしているわけでありますが、中でも一番困つている問題は、仕事につくという点であります。これは私どもみずから積極的に仕事を探すということが最も必要でありますが、なかなか縁故のない者は、そういうわけに行かないので、そういう点も極力御努力をお願いいたしたいというふうに考えますことと、住宅の問題であります、住宅についてもなかなか資材難のときで困難でありましようが、東京都においては、お膝元だけに非常によくやつていただいているように思いますが、各県に参りますと、なかなかそういうふうに行かないところもあるように考えますので、この点も万遺漏のないような方法をお考えになつていただくようにお願いしたい。それから援護のもう一つの問題は、私ども帰ります折に、奉天におきまして持物四十斤に限定されまして、それでほとんど何物も持つて帰れなかつたというような状態でございます。今後もおそらくそういう結果になつて来るのではないかと思います。舞鶴に上陸してから、また東京に参りましてからは、ある程度の物資というものはいただきましたが、とうていこれでは間に合わないのではないかと思います。できれば、その時期々々に応じました被服類、またふとん類というものを十分に御供與願うようにお願いしたいと思います。ことに政府において予算がないという面で、非常に縛られているようなこともあり、また府県においても、そのために非常に困つているというような実情も多々聞いておりますが、そういうこともなるべく少いように、できれば全国的にスムーズに行くようにお願いしたいと考えるわけであります。ことに舞鶴に上陸しましてからの千円の応急援護費というものは、去年の十一月末の国会においてある程度幅を広げられましたけれども、これが三千円になりましても、この金では、とうてい足るまいと考えます。でき得れば引揚者が職につくまで、ある程度めんどうを見ていただくように考えていただきたいと思うのであります。また生業扶助金の問題ですが、これは去年一万五千円を三万円に広げられ、それから五万円まで、十万円までということになつたようでありますけれども、この点もなかなか金を出ししぶつて、出してくれないというような実情に置かれておりますので、そういう面も、できるだけすみやかに、かつ必要な額を出していただけるようにお考え願いたいと思います。
○梅参考人 ただいま江口君から大体お話になつたようなことは、私もすでにお話したのでありますが、最後の生業資金のことについてちよつと申し上げます。東京のようなところでは、国民公庫は割合に簡単に一万五千円を出してくれます。現に私も拝借いたしました。しかし地方の府県におきましては、この資金の割当が非常に少いと言いますか、非常に時間がかかり、三箇月も四箇月もたつて、まだ借りられないというような事例を一、二耳にいたしております。その点について、特に地方における生業資金につきまして、国民公庫の方でも、今後十分御考慮願いたいということを、特に御希望申し上げます。
○中山委員長 本日の委員会における参考人の陳述の中に、不穏当なる言葉がありましたら、委員長において速記録を取調べて削除いたしたいと思いますが、御異議ありませんでしようか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○中山委員長 長時間にわたり、各参考人から非常に有益な陳述を承りまして、まことにありがとうございました。私どもといたしましても、これかもの委員会を皆さんの御期待に沿うよう万全を期して、引揚げ促進を進めて参りたいと思います。参考人の皆様におかれても、今後十分に当委員会の意義を御認識くださいまして、御連絡をお願いしたいと思います。なお委員会といたしましては、今日の参考人の陳述を参考といたしまして、北満地区、東満地区、その他の地区における残留同胞との間の連絡が一日も早くとれるよう、あらゆる方法によつて邁進して行きたいと存じます。本日はこれをもつて散会いたします。 午後四時四十九分散会