海外同胞引揚に関する特別委員会 第10号
- 発言数
- 187 件
- 登壇者
- 11 名
- 会派数
- 3
- 開催日
- 1950/03/07
会議録
○中山委員長 これより会議を開きます。 本委員会のおもなる使命の引揚げ促進につきまして、残留者の今後の引揚げ継続、及び死亡者の状況を把握する意味をもちまして、本日、去る二月八日、ナホトカより帰還せられました中より、六名を参考人として来ていただきまして、現地の状況を聽取いたすことにいたしました。今や留守家族はもちろんのこと、国民ひとしくその杞憂は高まり、重大な段階に到達しております。この上とも重ねて連合軍の責任において、この問題の解決を強く要望するものでございますが、本委員会は本日と明日の二日にわたつて、樺太地区よりシベリア地区に移送された者、あるいはシベリア各地区收容所の引揚者を呼び、国会独自の立場に立つて愼重に調査することにいたした次第であります。 なお本日予定いたしておりました今村惠一君より、書面にて病気のため欠席いたしたい旨の届けがありますので、御報告いたしておきます。 この際、運営につきまして一応各委員にお諮りいたします。あらかじめ委員長から参考人に質問をなし、その後各委員から、その細部を尋ねていただくことにいたしたいと思いますが、御異議ございませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○中山委員長 それではさようにいたします。 お手元にお配りしてあります表を、参考としていただきたいと思います。各参考人におかれましては、御多忙中、また御遠路のところ御出席を御願いいたし、御迷惑の点もあつたかと存じますが、今や国民の前に率直に事実を明らかにされなければならない重大な時期でございますので、本委員会が国会の権威にかけて愼重な調査をなさんとする意図をおくみとりの上、実情を述べられんことをお願いいたします。 各参考人に申し上げますが、発言の際は、必ず「委員長」と呼んでいただきます。自己の名前を述べて後に発言されるようお願いしたいのでございます。なお質問に対しては、できるだけ要点のみお答えしていただくように、あわせてお願いしておきます。また時間的にも制約されておりますので、場合によつては、発言中でも、運営上発言をやめていただくような場合があるかもわかりませんが、事前に了承願つておきます。 各委員にお知らせをしておきます。参考人席に向つて左より日高さん、東山さん、中村さん、会田さん——。一木さんはまだお見えになつておりません。 まず委員長より、日高参考人に質問いたします。日高参考人はベガワトよりカラカンダ地区へ、カラカンダから帰還されたようですが、入ソ当時の参考人のおられた收容所の状況及び人員と、現在の残留者数について答えていただきます。次に作業内容と死亡人員、その次に前職者取調べ状況と人員数。なお目高参考人は、帰つて来る際にカラガンダから沿線をずつと見て来られたはずでございますが、その帰還の途中、シベリア各地にどのような日本人がいられたか、それを見ておいでになつた点についてお答え願います。 まず、入ソ当時の收容所の状況からお始めを願います。
○日高参考人 時間がないので、ごく簡單に要点のみに触れて、御報告いたしたいと思います。 私の入ソ後のラーゲルの経過と申しますと、まず第一番に中央アジアのウズベツク共和国ベガワト第一分所に入りました。次にペガワト地区第五分所、次にタシケント地区第九分所、同じくアングレン地区第六分所、次に最後のカラカンダ地区第九分所、及び十五分所を経て、最終集結地のナホトカ第三分所に移つて行つたものであります。 ベガワトの第一分所入所年月日は、昭和二十年十一月二十五日であります。その当時第一分所にともに入つたところの人員は千四百五十名、爾後、翌年朝鮮部隊の入所増加がありまして、約三千二百名がベガワトの第一分所に起居をともにし、三年間を経過したのであります。その間私たちの作業は、ソ同盟における第二位を誇るハルハツト地区水力発電所の発電所工事でありました。これに付随をいたしましたところのいろいろな工場の建設、あるいは住宅街の新設というようなものが、おもなる作業でありまして、その間自給自足のために、コルホトズとか、あるいはセルホーズとか、あるいはソホーズに臨時的に作業に行つたこともありまするが、これはあくまで従的な作業でありました。 当時收容所内には燈火が一つもなく、もちろん入浴、滅菌所設備もなく、俎上される野菜あるいは穀物も、戰争直後のソ同盟におきましては、きわめて不自由でありまして、ほとんど一関東軍の携行糧秣、主食を支給されて、それを食べ延ばしながら暮して行つたような状況でありまして、食べものには非常に不自由を見たような次第であります。特に、おりました地区は亜熱帶地区でありまして、パパタチというマラリヤ蚊が非常に多く、パパタチ病にかかつて倒れて行つた者、あるいはその地区における発疹チフスというような風土的流行病にかかつて倒れて行つた者も、少くなかつたように思います。 私は大隊本部の補佐官として作業の指導をし、あるいは人事の取扱いの一部を担当しておつたので、やや確実な数字を覚えておりまするが、その当時流行病で死んで行つた同胞だけでも三十六名というのを、はつきり今でも脳裏に刻んでおります。なお死んで行きました者の名前につきましては、舞鶴の復員局当局におきまして、いろいろな人と連絡し、報告してありますが、今はその資料を持ち合せておりません。当時は、今まで食べたことのない町草も食べましたし、あるいは野原にいるいろいろな昆虫類をとつて食べましたり、食のためにはあらゆる手段を盡して生活をして、ソ連の要求する作業量の完遂ということに邁進をして来ました。 一年たち二年たつうちに、ソ連の企図しておつた思想教育もここに介在しまして、一日々々が、ただ單なる作業のための苦しみというものでなく、思想教育に関係をした、いわゆる民主運動からの苦しみというものが、邦人間の非常な悩みの種となつて現われたのであります。私は軍人生活が長かつた関係上、急に考え方の切りかえができなかつたので、反動将校として隔離を命ぜられ、約三箇月間は、他の部下と、あるいは他の同胞と談話の自由を許されなかつたというような過去もあつたように思います。 それから第五ラーゲルに参りましたのは、昭和二十三年の九月でありましたが、そこにおきましては、地区の反動前職者というものが一様に集められまして、作業なり、思想運動に重点を置かれて、ラーゲルの日常闘争を実施して行きました。 その他タシケントあるいはアングレンというような所は、時間が不足しますので省略させていただくことにしまして、最後のカラカンダ地区における状況を報告させていただきたいと思います。 入ソ以来、時間の経過とともに非常に前職者、戰犯者というものに対する調査が嚴重になりまして、四八年の後半期から、ただ單なるソ連官憲の調査でなくて拷問が実施し始められたように思つております。それから戰犯として、調査の対象として取上げられておるところの同胞は、主として対ソ諜報容疑者、あるいは満洲の国境におりました憲兵、特に諜者の検束をやつた憲兵諸君、作業違反、忌避者、反ソ、反共の分子とにらまれて宣伝をする者、終戰時におけるところの対ソ謀略団体、特に奉天におきますところの王さん部隊、最後に思想謀略団体として非常に注目をされていたところの、いわゆる満洲の協和会会務職員というようなものに対して、調査の矢を向けられたように思つております。これらに対しては、ただ單なる調査のみではなくて、あらゆる手段をもつて拷問にかけ、そして調査にサインをさせ、軍事裁判にまわして、二十年ないし二十五年というような処刑を行つておるように思います。事実私が四八年の九月四日までアングレンにおつた当時に、五十四名が処刑をされて行きました。その中には、実に気の毒なものとしては、羅津の無線電信隊におつたわずか二十歳前後の少年無電見習工と申しますか、これらがいわゆる対ソ諜報の容疑で血祭りとして、あげられて行つたように思つております。 なおカラカンダにおきまして、九月四日ドイツ人から一つの手紙が私のところに参りまして、現在日本人にして処刑を受けて、今ドイツ人のいる横のラーゲルにおる者が、九月四日現在で四百八十名ということをはつきり報告して来ております。なお四百八十名の日本人を救つてくれというような、ドイツ人のある方向からの便りも、カラカンダにおるときに到着したので、これらの数字は、ほとんど確実な数字だと私は考えております。そのほか、現在カラカンダ地区におきましては、昨年末現在におきまして、第十五分所に三百名、第九分所に百三十名、これは主として関東軍の八六短波無線隊の三十七名と協和会九十名というふうになつております。第八分所に二百五十名、これは中支の三十九師団管下の人で、同じ調書の中に放火、略奪、殺人というものを署名した人が二百五十名残されておると聞いております。第五分所に十六名、これは重症患者でありまして、非常に苦しんでおつたということであります。合計約七百名というものがカラカンダに残つております。これらは、現在もちろん作業もやり、思想教育も受けてはおりますが、重点はあくまで取調べでありまして、相当苦しい毎日を送つておることと信じております。 以上が私の入ソ後におけるラーゲルの経過状況と、最後のカラカンダ地区におけるところの取調べ状況であります。帰り道に、沿線に見ました日本人はいろいろな列車の構造上、あるいはラーゲル、いわゆる收容所の位置が鉄道沿線から離れておるというような関係もありましたので、なかなかその実情を見ることはできなかつたのでありますが、各地区、たとえばハバロフスクとか、あるいはナホトカ近くの森林の付近には、まだまだ仕事をやつておる、石炭を積んでおる邦人、あるいは森林伐採をやつておるところの邦人を散見いたしたのであります。それから最終集結地のナホトカ、ここの第四、第三分所には、合計九十名の邦人が残つております。これは一部の者は希望で残つておるようでありますが、ほとんどは強制的に次回に作業のために来るところの日本人收容準備のためにという意味で残されているように思います。 簡單でありますが、私の報告を終ります。
○中山委員長 東山参考人についてお尋ねをいたします。ハバロフスク收容所の状況について、時期、就労の状況、残留者人員、氏名、将官收容所の状況、特殊ラーゲルと一般ラーゲルとの違い、裁判及び前職者の関係の調査についてお尋ねをいたします。
○東山参考人 私は昭和二十年の十月十六日に入ソしまして、入ソしましたところはコムソモリスクで、ハバロフスクから三百五十キロ北へ入つたところであります。その後私自体が前職者——満洲国の司法部におりました関係上、あちらこちら取調べのために收容所をまわされました。最初入りましたのが二分所であります。それから九分所、十一分所、一分所、その後また十一分所に参りまして、二十三年の六月にハバロフスクの二十一分所に参つたのでありますが、またここにおきましても取調べを受けました。その後二十一分所から五分所、さらに三分所、それから将官收容所、こういつたように收容所を転々として歩いて参りました。 ただいま委員長の方から取調べの状況といつたように申されたのでありますが、ただいま申し上げげましたように、私がハバロフスクの收容所にいる間、転々として歩いていた関係上、深いことはわかりません。さらに将官特別收容所におりましたし、将官收容所は一般の他の收容所と違いまして、外とは全然別交渉になつております。私たちただ一人二人が外に出るときでも、必ず向うの警戒兵がついて来て、絶対に同胞であつても話をさせないといつたような状態であります。それで将官收容所の生活について私は申し上げたい、このように考えますので、ただいまから申し上げます。 将官收容所は、昨年の十月までNKVDいわゆる国家保安隊ではないかと思いますが、十六地区の二十の四十五分所、こういつたように呼んでおります。それが昨年の十月に十六地区の五十の四十五分所といつたように名称がかわつております。この五十と申しますのは、現在のソ連のM・V・D内務省直轄特別收容所、こういうふうになつております。 そこの構成員を、ただいまから申し上げたいと思います。私がこの将官收容所を出ましたのは、昨年の十二月三十一日の午後一時であります。現在あの收容所には百六十三名、これは総員であります。その内訳としまして、日本軍の将官及び文官、これはもちろん日本人の将官でありながら、満軍の方に籍を置いておられた方も入つております。それに尉官が一人、これは宮崎という憲兵大尉であります。この方も含めまして日本人と言われるのが百十一名。それに将官收容所は、ソ連の規定では、日本人の勤務者を三十名置くことになつておりますが、帰国しました関係上十二月三十一日現在で二名残つております。この二名は、一名は元朝鮮平壤警察署の特高主任の古川、さらにもう一名はハルピン特務機関の緑隊無線通信士の野田という兵長であります。この二名が取調べられる関係上残つております。これは一応勤務者となつておりますが、むしろ取調べのためと言つた方が、いいのではないかと考えます。その次に中国人としまして、元満洲国皇帝以下蒙古人三名を含みまして四十名、それに中国人の勤務者が十二月二十日に参りまして十名、それで現在百六十三名といつたような構成になつております。 将官收容所の取調べについては、私があの收容所に参りましてから、石井部隊の細菌戰の報道が、あすこで私たちの耳に入りましたのは、十二月二十三日と記憶しております。このときはソ連の、名前は忘れましたがゲ・ぺ・ウの大佐が、山田大将以下が、かつて関東軍においてこういつたところの事実を犯しておるということについて、私は起訴する起訴状の事実の読み上げでした。その後の判決は、私が收容所を出たために聞いておりません。その約一週間ほど前から、しきりにこの将官全般にわたり取調べがあつたのであります。その取調べは、晝夜をわかたず夜休んでおりましても、ひつぱり出して行つて取調べるというような状況でありました。こういつたところの細菌戰犯の報道が、まさかあるということを知らなかつた将官は、これは帰国じやないか、これはもう最後の取調べではないかといつたような考えを持ちまして、非常にそこにおいて帰国話が持ち上つたのでありますが、細菌戰に関するところの報道があつたために、それでまたその帰国話もなくなつたというような状態になつております。 将官收容所におります方々の給與方面は、一般の收容所よりも若干いいのではないかと思われるほどであります。與えられておりますところの給與の品目、これに対するところのグラム数、これも申し上げればいいのですが、時間の関係上省きます。将官收容所におきます取調べは、さいぜん日高さんが申されました一般的な取調べと違いまして、別に拷問といつたようなものは加えておらないようであります。しかし現在ソ連の規定によりまして、三十名の日本人勤務者を、今まで四年間置いておつたのでありますが、現在おらないために、従つて将官自体において、自分たちが生活して行くすべての作業をやつて行かなければならないといつたような現状になつております。大体将官がやつております作業は、炊事——炊事というのは大体固定しまして十名です。それに付随しますところのまき割り、石炭運搬、それに除雪、便所掃除から部屋掃除、廊下掃除、また自分の身のまわりのあらゆる面において、すべて自分でやつて行かなければならないというような状態になつております。将官自体が非常に年をとつておられますし、寒さもきびしいといつたようなことからして、私たちが見受けましたところでは、非常に苦痛のように見受けました。 一般收容所の取調べにつきましては、私が将官收容所を出まして二十一分所に来たのが、十二月三十一日の二時ごろです。その夜七時に二十一分所が帰国のために整列、出発といつたような状態でしたので、二十一分所の中の取調べは、具体的な問題についてはわかりませんけれども、私が行つたときには、憲兵、特務機関、情報、それに警察、そのほか満洲国の協和会、それに純然たる司法関係、こういつたわずかの人々でした。こういう人々は、まず近く帰国命令が出るのではないかといつたような話をしておられましたが、大体今年の夏ごろになるのではないかというようなうわさを、ほとんどの人たちがしておりましたような次第であります。ハバロフスクからナホトカに参ります途中、貨車の中で、これはもちろん有蓋車でありますが、全部とびらを締めてしまつておるというような状態なので、途中の收容所については、全然わかりません。それで私たちがナホトカに着きましたのが一月三日の午前五時でありまして、四分所に入りました。四分所から帰国のために三分所に参り、私たちは二月六日に乘船したのでありますが、そのときに、さいぜん日高さんも申されましたように、九十名といつたような人が残つておりました。 これで終ります。
○中山委員長 中村参考人についてお尋ねをいたします。まずソ連側に逮捕された経緯について、次に入ソ及び服役、刑務所間の状況、満刑の申渡し、及びその後の放浪状況、帰還し得た経緯、ほかの樺太関係の服役者、満刑者についてお聞きになりましたところを聞かせていただきとうございます。
○中村参考人 私は樺太から逮捕されました中村でございます。二十一年八月二十一日、樺太敷香町に居住しておつたものでございます。もともと漁業に従事しておりましたが、入ソ以来はしけをやれという命令を受けたのであります。漁師がはしけをやることはとうていできない。そうではない、お前は発動機船を三そう持つておるから、はしけをしろという命令を受けたのであります。漁師はできないし、しかたがないからはしけをやることになつたのですが、そのはしけというのは、陸から本船に物を運ぶ百トンはしけであります。それで敷香から知取に移転しろという申出があつたのです。それで全財産を百トンはしけに積んで、昭和二十一年八月二十日に知取に出向いたのであります。ところがその出先に至つて、今日のうちに知取に着かなければ、チヨロマに入れるという命令を受けたのです。チヨロマとは何ですと言つたら、こうやつて手を重ねて監獄に入れるんだという命令を受けたのです。しかし天候も災いするし、あるいは機械の故障も多いし、あるいは今日のうちには着かないと言つたが、そんなことにはとんちやくしないのです。それで出帆したのは出帆しましたけれども、百トンはしけを引いて行つたのですから、一日八里しか行けなかつたのです。八里行つたときには、すでに午後の六時でした。いずれにしても二十二里ありますから、明日の午後の十時ごろでなければ知取に着けないのです。それで帰ればチヨロマに入らなければならない。私と若い者だけでちようど八人でした。では働いて監獄に入るよりも、逃げようじやないかという相談がまとまつたわけです。家内も子供も、みな陸におるので、私は考えましたけれども、しようがない、じや逃げようということになつて逃げたわけです。ガスも相当かかつておりましたから、この分なら、飛行機が飛んでも見つからない、まあ逃げようというので逃げたわけです。逃げたときはちようど六時でした。その晩一晩走り、次の日一日、二晝夜びつしり、ガスを利用して逃げたわけです。もう四時間たてば北海道に着くというときに、ガスががらり晴れたわけです。ガスが晴れたものですから、飛行機が血まなこで探していたものですから、すぐ見つかつてしまつたのです。一齊射撃を食らつて、そこに停船したわけです。聞もなく軍艦がやつて来まして、その軍艦に連れられて大泊に逆もどりしたわけです。軍艦の中では相当きびしく取調べられましたけれども、何も別にそういう計画のもとに逃げたものではないというので、大泊の港に全部荷物を上げて、港内に二晩とまりまして、三日目には知取に連れて行かれ、そこの監獄に入つたのです。そうして知取にちようど一箇月ばかり、大した調べもなく、司令部の下水掘りやらをやつておりました。 ところが、今度大泊に、荷物全部を持つて逆もどりすることになつて、大泊に行つたのです。ところが大泊では、浜へ連れて行つて、浜の漁船の中に寝せられて、雨が降れば雨が漏る、そこにまず十日間おりました。ろくな物を食べさせない。ずいぶん強制的にその辺のこんぶを拾つたり、あるいは下一水、あるいは家のこわれたのを修理させられたり、さんざんな仕事をさせられました。 また知取に逆もどりしたわけです。知取で初めて取調べにかかつて、十月三日の日に裁判ということになつたのです。裁判の結果、若い者は二年、私は一人だけ三年という刑になつたわけです。私は計画的に逃げたものではないから、若い者だけは無罪、私一人は五年でも八年でもいいと主張をしましたけれども、子供でない限りそれはできない。それで若い者は二年、私は三年という刑になつたのです。十月の十九日、豊原刑務所へ行きまして、二十八日に豊原刑務所を立つて入ソしたわけであります。ウラジオに上つたのは十一月の十七日だつたと思います。 それからウラジオに二晩とまつて、一路カンシユク管轄のエンガシというところに参つたのであります。そこへ行つたのは、十二月の二十九日と思います。一月の八日から、また強制労働に入つたのであります。そのときの人員は、日本人百八十名、百八十名のうちカンシユクに行つてから、方々にわかれまして、私ら日本人同士で十三名そこに残つたのであります。おもに山仕事でした。私はミシンを踏みますので、ミシンの仕事をちよつとやつておつたのです。それで三箇月ばかりやつておりましたが、病気になりまして、すぐ入院させられたのであります。その後三年間ずつと病気して入院したのであります。 エンガシから、二十三年の六月、カンシユク管轄のカーシヤというところにまた入れかわつたのです。カーシヤに六箇月おつて九号にまた行つたのであります。その九号には、日本人は百七十四名でしたかおりました。そこに二箇月おつて、今度は六号というところへ来たのであります。六号には、病人の收容所があつて、三百二十名ばかりおりました。そこに六箇月おりまして、満期になつたのであります。 八月の二十五日に満期になつて、行き先も私らではわからぬでしたが、日本に帰してくれと言いましたところ、日本でなく、西の方のイズモルカ、あるいはケーミルというところへ行けという証明をもらつたのです。私はそこへ行くのはいやだ、日本に帰せ。日本には帰さぬ。どうして帰さぬかと言つたら、少し働かなければ帰さぬ。いや病人ですから、働くことはできない。それでもいけないと言うので、むりにイズモルカあるいはケーミルというところへの証明をもらつて、行つたのであります。ところが汽車に乘つたら、まことに親切なロシヤ人がおつて、それは向うへ行つたら、全然日本に帰ることはできない、日本に帰すのであれば、西の方にはやらぬ、東の方にやるのがほんとうだ。クラスナヤスクというところに行くと、たくさん日本人がいるから、そこに行つたらおりなさいという親切な言葉を聞いて、そうしてクラスナヤスクにおりることになつた。クラスナヤスクにおりようとして、車掌に頼んでおいたら、よしよしと言うておつたが、夜の十一時でなければ着けないという話でした。それで私が寝入つていたと見えて、わからなかつたところが、急にクラスナヤスクだと言つて起されたものですから、起きておりてみましたところが、まことに小さな駅で、そのうちに汽車が立つてしまつた。これはしまつたと思つたけれども、しようがないからおりました。そこはやはりクラスナヤスクはクラスナヤスクであつたが、小さなクラスナヤスクで、私の希望したクラスナヤスクでなかつた。その日は土曜日で、困つたなあと思いましたが、明日が日曜日でもあり、これはどうしたらよかろうと、そこで思案しましたが、しかたなく警察へ飛び込んだのであります。そうして警察のいわく、どうしてお前はここへおりたかというお尋ねであつたのですが、まあしかたがないから、うそを言いました。私は銭もなし、食うものもない。それで日本人がおれば、ここで收容していただきたいと思つておりたと言つたのです。ところが日本人は、ここには一人もおらぬ。小さな部落なんです。それでは私は困る、食うものがないから、食うものをくれとお願いしたら、食うものをやることはできない。お前はもらつて来たろう。いやもらつて来たけれども、途中で食べてしまつた。銭はないか。銭もありません。どうしてないか、もらつて来たろう。いや十四円は もらいましたけれども、監獄から出て、すぐもう買つて食べてしまつた。それじや困ると言つて、質問されましたけれども、とうとうないないで、私ははねたわけです。ところが今度は、汽車の時間に間に合わないから、ここにいては困る。お前の行くところはここでない、早く行け。それでしかたがないから、汽車に乘ることにしたのです。ところが汽車の切符の期日が三日しかないので、もう土曜と日曜と前の日一日とで、期日が過ぎておつた。そこで今度は、その日も汽車に乘れない。しかたがないから、また警察に行つて、頼んだのです。証明していただいて、次の日乘つたわけです。 ところが今度クラスナヤスクにおりればほんとうですが、おりて、そこで日本人がおつて、いろいろな話をしたいのはやまやまでありますけれども、汽車の都合上しかたがないので、イズモルカというところへ行つたのです。イズモルカの警察では、通知があつたと見えて、すぐさま私の名前を呼んでくれたわけです。それで警察へ連れて行かれて、事情を話しました。ところが、お前は商売は何だ。私は漁師です。漁師ではだめだ、何か副業はないか。ミシンが少し踏めます。ミシンを踏むのであつたらいいというので、ミシンの方に連れて行かれたわけです。そうして麦粉あるいは砂糖、そういうものを入れる袋縫いをやらせられたわけです。それは民間に入つてでですから、圧迫するわけでもなく、ノルマというて、ノルマを上げれば、まず給料も私はもらえるわけです。ノルマだけやれば三十円、ノルマ以上やれば、三十五円から四十円ぐらいの働きができるわけです。そこでまず三箇月間働いてためたものが、ざつと千円くらい残つたわけです。 まずわしらは、汽車賃がなければ帰れないのだ。汽車賃さえあれば、いつでも帰れるというような考えだつたものですから、汽車賃ができたから、今度は帰れるという気になつて、警察署長に毎日々々請求をした。ところがその警察のいわく、お前はなかなか日本に帰れない。どうして帰れないのか。 モスクワからピシ・ピシが来なければ、帰すことができない。ピシ・ピシというのは、私もよくわからぬですが、証明書みたいなものでしよう。モスクワからそういう書面が来なければ、帰すことができないという意味です。それで、警察の方で手続してあるのですかと聞いたら、お前が来た当時に、すでに手続はしてあるが、まだモスクワから書面が来ていない。それがために帰すことができないという話であつたのであります。それから毎日行つて、うるさく言つたならば、帰してくれるだろうという考えで、毎日行つたのです。ところがしまいには、向うで胸ぐらをとつて“たたき出すようになつたのです。それでも私は、帰りたいものですから、毎日行つて請求をした。ところが今度は毆打された。耳から、あごからやられて、今でも耳が遠くて、ごんごん鳴つて聞えないような状態です。それでも行つたところが、今度はお前はここに置くことができないから、どこかへやる。ところが、どこへやるのかと思つたら、今度はケーミルというところへ私を送つたのです。 そこへ行つたら、すぐさまチヨロマと言いますが、牢屋に入れられることになつたのです。それから私は、そこでじたんだ踏んだのです。入るのはいやだ。おれはチヨロマ・カンチヤイしたのだからもう八月に満刑になつたんだから、チヨロマに入るのはいやだといつて、じたんだ踏みましたけれども、兵隊が来て、やにわに裸にして、そうしてまた豚箱に入つたのです。五日間豚箱に入つて、六日目に出されて、今度はスターリニスクというところにやるのだという。それから、スターリニスクには日本人はおりますか。日本人はたくさんいる。じやすぐやつてくれ、というので、スターリニスクに行くことになつたのです。その日はそのチヨロマで休んで、その次の日スターリニスクに行つたのです。 ところがスターリニスクには、日本人は一人もおらなかつたのです。スターリニスクのナチヤニクが、ヤポンスキー・アジン、日本人はお前一人1だ。どうしてお前は行かないのだということを言われたら、ここへ来れば日本人がたくさんいると、チヨロマの所長さんがそう言われたが、一人もいない。そこにはドイツ人の收容所がたくさんありました。そのドイツ人の收容所に行つたのです。ドイツ人の收容所ですから、扱いは丁寧であつたのです。そこで日本人一人ですから、まず十二分に給與も受けたのです。そうしてそこのナチヤユクが少佐です。少し日本語がわかつて、困つたな、困つたな、中村因つたな——私は毎日日本に帰してくれと請求するのです。ところが、お前一人で帰すことはできない、二人あるいは三人なければ——帰すのに、兵隊を一人つけてやらなければならない。一人に一人つくということはできないから、二人あるいは三人なければ帰すことができないと言われたので、私は、日本人が一人もいないで、私一人だ、どこから来るか。いやまだいる。そう言うてそこに二十日おりました。ところが十二月二十三日に成田重造という人がぽかんと来たのです。それで私が、あくる日すぐナチヤニクのところに行つてお願いしたのです。そうしたら笑いながら、ドワチヨロベーク、二人おれば帰れるというお話のもとに、私は喜んだわけです。そうして二十六日に命令が出て、二十七日にダモイ。そうして十五日分のパンをもらつて、兵隊一人つけていただいて立つたのです。そうしてハバロフスクに着いたのは一月の八日でした。ハバロフスクに八日間おりました。そうして一月十六日にナボトカに着いたのです。ナホトカに着いて、十八日に高砂丸が入港したのです。その一月十八日の高砂丸で帰れるかと思つて喜びましたが、そこにいたナホトカの少尉が、ここに一箇月ないし四十日ぐらいおらなければ帰ることはできないという。どうしてだ。昨年十一月からいる人がたくさんいるのだ、お前らはあとから来たんだから帰ることはできないと言われて、二月八日にナホトカを出帆したのであります。 その間二十三年の一月に満刑になつた小野四郎という人を、カンシユクカンクとクラスナヤスクの間の小さな停車場で、私が汽車の中で見出したのです。その人は一月に満刑になつたのに、まだ停車場の付近でぼろぼろな着物を着て、ひげはぼうぼうとして、停車場におつた様子を、私は汽車の窓から見たのです。これは小野でなかろうかと思つて、私は二度立つて窓をあけようとしたが、その汽車の窓があかぬので、ただぼう然と見て来ましたが、私よりも八箇月も早く満刑になつた人が残つておりました。その途中日本人というものはおらなくて、ただ一人だけであります。 まず私の行つた收容所は六箇所ですが、至るところに日本人は百二、三十人ないし二百人いた。ソ連の刑法五十八條にかかつた者は、十一号ラーゲルに四百七十二名とかいるそうです。それは私が六号ラーゲルに行つて病院におりましたから、その病院の中から出ることができず、五十八條の人は、お名前は二、三しか知つておりませんが、四百以上の人が十一号ラーゲルに收容されております。 簡單でありますが以上で終ります。
○中山委員長 ちよつとお尋ねいたしますが、舞鶴であなたのお話を聞きましたときに、その日の食糧も與えられないで、働かされた、いも畑でしばらく働いておつたこともあるというお話をなさいましたが、それが拔けでいるようですから、そのお話をここでしておいていただきたいと思います。
○中村参考人 まず私はラーゲルに行つて收容されておりましたが、満刑になる五十日ばかり前に、病院から出されたのです。それでいも畑の土かけ、あるいは草取り、あるいは荒起しというような仕事に従事したのです。それがノルマといつて日本で申しますと、こま割りです。その仕事ができれば、まず六百五十グラム以上もパンが当るわけです。その仕事ができなければ、働いて一日に三百グラムのパンしかいただけないのです。働いて三百グラムですから、一食にも足らぬのです。そうしてスープは三ばい、七百五十グラムのスープが日に三回当るわけです。肉もなければ魚もない、砂糖もなければ何もないのであります。ノルマが上れば砂糖もあり、魚もあり、肉もある。そういうような給與になつておるのですが、私らとすれば、そのノルマというものは、絶対にあり得ないのです。三百グラムのパンを食べているだけでは、働けないのです。それがために、落ちているもので食べられるものでしたら、何でも拾つて食べ、あるいは草、生いも、いもの皮、野菜類、すべて腹に入るものであつたならば、何でも拾つて食べる、あるいはとつて食べる。それで骨と皮ばかりになつて、歩くのもようよう、ふらふら状態で歩いているような状態であります。病人も病人だが、働く人も、からだは骨が一本々々勘定ができるような始末であります。まことになんと言うていいものやら……。その仕事先にソ連の係の者がついておつて、そうしてうしろから拍車をかける。幾ら拍車をかけても食べずに働くことはできない。しかしのびるまで、口に手を当てて、息の通ううちは使うという主義で使つておるのであります。私もまことにほとほと困つて、もう動けなくなつて、初めて病院に入つたのであります。熱さえあれば容易に入院ができますが、熱がなければ、どんなに弱つておつても絶対に入院することができないのです。
○中山委員長 それではそこで打切つていただきます。 次に会田参考人にお尋ねをいたします。まずウオロシーロプ地区におけるところの状態についてお伺いをいたしますが、まず第一点は、労働大隊の移動経路と、赤軍労働大隊の性格、一般ラーゲルとの相違についてお答えを願います。
○会田参考人 自分は牡丹江においてからだをこわしたために、翌年の四月にソ同盟に入りました。入つた所はウオロシーロフで、その入つたときの人数は、大体千人弱だつたと覚えております。ほかの人と違つて、自分たちの大隊は労働大隊でありまして、ウオロシーロフにおいて雑役を三箇月やりました。それからウオロシーロフから約二日くらいかかるのですが、ソセイフカという所に行きました。そこで十日ばかり仕事をして、それからアントノフカに行つて、建築作業または道路作業をやりました。二十二年四月までアントノフカにおつて、建築または道路作業をやりました。アントノフカに行つたときは、白河大隊といつて、約六百名ばかりおつたのですが、それが八百名くらいになつたのです。四月末になつて、今度はチゴエフク、イズミリンク、サンランモという部落で、道路作業をやつて、二十二年の十一月その道路作業を終えて、今度はソセイフカという所に大隊が移動しました。そうしてソセイフカにおいて伐採、または採石をやつて、二十四年までおりました。自分たちがソセイフカに入つたときは、労働大隊として四箇大隊おりました。その人たちは二十三年の末に三箇大隊帰つて、二十四年までおつたのは、自分たちの大隊の一箇大隊だけだつたのであります。その一箇大隊も二十四年十月、全部ナホトカへ向つて出発しました。そのときに自分たちも一緒に帰つて来たのでありますが、ウオロシーロフまで来て、三十八名どうしてもここへ残れと言われて、自分たちだけ三十八名がウオロシーロフに残つたのであります。そうしてウオロシーロフの分所に行つたところが、そこにやはり七十名くらいおりました。その人たちとともにウオロシーロフにおいて、ボイラーたき、または雑役をやつて、二十五年一月十八日までおりました。それからナホトカに行きました。ナホトカに行つてからは、前に話された人と同じであります。 簡單でありますが、以上であります。
○中山委員長 労働大隊における作業の性格ということが、おわかりでございましたら、御発表願います。
○会田参考人 労働大隊は、作業の性格はないのです。労働大隊は、内務省関係と違つて、自分たちがソ連におる四箇年の間に、給料としては一銭ももらつたことはありません。ただ内務省関係よりも、糧秣の点においては幾らかいいという話だつただけであります。あとは別に何も関係ありません。
○中山委員長 おひるになりましたから、一応休憩いたします。午後一時から再開いたしまして、各委員の質問に移りたいと思います。暫時休憩いたします。 午前十一時四十六分休憩 ————◇————— 午後一時三十二分開議
○中山委員長 休憩前に引続き会議を開きます。 各委員よりの質問に移ります。 念のため参考人にお願いをしておきますが、委員よりの質問に対しては、要領だけを簡單にお答えを願います。発言の際には、必ず「委員長」と呼んで、許可を得ていただきとうございます。それでは冨永委員。
○冨永委員 私は午前中、参考人の方々に、委員長からいろいろお尋ねになりました状況についての陳述を、承つたのでありますが、この場合日高清さんと会田正雄さんに二、三の点について、お伺いいたしたいと思うのであります。 先ほどお述べになりました日高さんのお話の中に、引揚げられる途中、沿線の状態についてはあまりよくわからなかつたが、石炭採掘等に従事している者で、一部は希望で残つている者もあるが、というようなお言葉がありましたが、希望で残つている——日本に帰りたくない、向うに希望で残つているというような点で、何かおわかりの点があつたならば、この場合お伺いいたしたいと思います。
○日高参考人 ただいまの質問に、要点のみをお答えいたします。 今年度の第二回目の引揚船にも、希望でナホトカあるいはハバロフスクに残つていたと言われる引揚者が、七十名帰つて来ております。さらにまた私たちが、このたび二月の七日にナホトカを出発して来る際に、ナホトカの最終集結地に九十名が残つていることを、はつきり目撃もし、内容も確かめてみたわけであります。そのうちの約半数は希望をして残つている。また今度帰つて来た中には、七十名のものが希望をして、残留届を出しておつたにもかかわらず帰つて来たという事実が、はつきりしたわけであります。なぜ彼ら七十名がソ連に対して市民権の要請をし、そうして残留希望までも出しておつたにかかわらず、このたび帰つて来たかと申しますると、彼らの生活を私は客観的に見ておりました場合、彼らは、われわれが体験をして来たところの真の肉体労働というものに従事をせず、営内者として、あるいは炊事人、あるいは被服倉庫に、あるいは糧秣倉庫に、あるいは各作業地区の指導官として、おのおの肉体労働を避け、彼らをして言わしめるならば、精神、知的労働に服従しておつた。そうしてわれわれ働くものの上にあぐらをかいて、安逸な捕虜生活を四年余箇月過して来たという連中であります。彼らはほとんどが在ソ生活権獲得のために、アクチーブあるいはスタレナ・アクチーブ、フンクチヨネルというような、おのおの共産党運動のための用意を獲得しつつ、生活し来つたものであります。彼らがそうしたところの立場で生活しておつたときにおいて、大衆、すなわち彼らがあぐらをかいておつたわれわれ労働者の主力というものが帰つて来たから、彼らはすでにそうした以前のような安易な生活ができないために、この際帰らなければという気持が働いて、このたび帰つて来たのであり、希望して残つている者もありますが、彼らはまたナホトカに、どうせ奧地から集結し来るものと予想される者を目当にナホトカに残りまして、そうして安易な生活をもう少しやつて行きたいという気持で残つたものだと、私は確信しおります。いろいろな事実をあげますれば、まだありますが、時間の関係上、私の見せつけられて来ました彼らの立場について、簡單にお答えいたします。
○冨永委員 なお引続いてお伺いをいたしますが、日高参考人は、いわゆる徳田声明という問題について、国内が騒然といたしている事実を、御承知であろうと存ずるのであります。新聞によりますと、タス通信はこれを否定し、またシーボルト対日理事会議長は、四十四名の引揚者の供述は動かすことができないと述べられているのであります。この場合、私は日高さんに、カラカンダ地区においての、いわゆる徳田声明なるものについて、知つている範囲においてお答えを願いたいと存ずるものであります。
○旦高参考人 ただいまの御要求によりまして、ごく簡單に、ただいま各方面で非常に注目をかつております、カラカンダ第九十九地区、第九分所における集会の概況を御報告いたしたいと思います。問題が起りましたのは、四九年の九月十五日午前十時前後だつたと記憶しております。場所はカザヒ共和国、カラカンダ第九分所クラブ、そのときの経過の概要を申し上げます。一九四八年の五月中旬、ちようど私がウスベツク共和国のアングレンという山の奧の收容所におりましたときに、次のような声明をソ同盟政府は発表いたしました。すなわち本年十一月末までには、在ソ残留中の日本人抑留者並びに軍事俘虜九万五千は、その戰犯追究中、調査中の一団を除いては送還し終るであろうというところの声明を出しました。收容所といたしましては全員非常に喜びまして、われわれの帰期も時間の問題であるということで、みなが希望を持つて生活し始めたわけであります。ときたま四九年の九月四日、長らく住みなれておりましたアングレンの收容所が閉鎖になりまして、カラカンダ地区へ移動したのであります。移動の際におきまして、收容所長並びにタシケントの管理局長が参りまして、お前たちは全員帰るのである。ある集結地に集結をして、しかる後全員帰るのであるから、絶対に心配をするなという訓辞が実施されました。われわれはそれを信じて、一路カザヒスタンのカラカンダに輸送されて行つたわけであります。ところがカザヒスタンの第九分所に行つてみますと、ソ同盟政府が発表した十一月末までには、われわれは帰れそうにもないというので、相当皆が動揺した次第であります。そこで收容所側の所長代理あるいは政治部将校、日本軍捕虜側としましては民主委員長あるいは民主委員の首脳者というようなものが主催で、九月十五日午前十時半にクラブに集合させまして、いろいろなラーゲル生活の向上、文化活動の積極化、あるいは日本民主化の現況、世界情勢というようなことについてお話を聞き、質問をしたわけであります。そのときに元満洲興安の情報部におつたと思いますが、峯田という一軍曹が、大体いろいろな話は何回も聞いてわかつておるが、いつ返すのかということを質問したわけであります。そうしたときに政治部将校のヒラトフ少尉は、日本共産党徳田書記長より、思想教育を徹底し、共産主義者にあらざれば帰国せしめざるごとく要請が参つておる。よつて反動思想を有する者は絶対に帰国せしめないであろうということを、菅という、これは日本人の通訳であり、さらに地区フンクチヨネルでありますが、通訳を通じてはつきり答えられたわけであります。今までソ連において民主運動に反対をし続けて来た者も、非常に動揺をいたしまして、私のところに数人となく純真なる青年が質問に参りました。このままではわれわれは当分帰れないから、この際民主運動の主義者として、共産党に入つてひとつやりたいと思うがどうかというような質問を、連日連夜私は收容所内で受けたような次第であります。私といたしましても、この際帰国問題が非常に関心となつておる今日、帰国を遅らせておるものは一体だれであろうかということを、非常に深刻に再度考え始めたわけであります。今まで日本新聞を通読いたしまして、帰国を遅らせておるものは日本の吉田政府であり、マツカーサー司令部であるというように、半信半疑でおつたわれわれが、そうしたところのヒラトフ政治部将校の答えに接しまして、そうではない、日本共産党のそうした要請があるからには、われわれは帰れないんだ、自分自身も共産思想には反対をし続けて来ておるし、ウズベツク共和国の第一番目の反動として、数回大衆集会にかけられ、つるし上げられ、各地で騒がれておる自分は、どうしてもこれは帰れないであろう、そこでひとはらきめたような次第であります。しかし今日こうして帰つて来てみますと、いろいろな問題がわだかまつておりまして、今まで日本新聞で見ておつた事実、あるいは聞いておつたいろいろな日本の内情と違いまして、国民総力をあげ、参衆両院はもちろん、政府、マッカーサー司令部が一丸となつて、在ソ同胞引揚促進運動に展開されておるという事実をまのあたり見まして、実に力強く現在感じておるような次第であります。当時のことを追想しまして、こうした席上に臨んで私のほんとうの体験した事実を発表させていただく機会を得たことを、非常に感謝感激しておるような次第であります。簡單でありますが終ります。
○冨永委員 ただいま日高参考人のきわめて明瞭なお答えをいただきまして、はつきりいたした次第でございますが、なおさらに会田正雄さんにお尋ね申し上げたいと思います。会田さんは先ほどいろいろ事情をお述べになりました中に、われわれ三十名は特別の事情によつて帰ることができなかつた、残されたというお言葉がありましたが、会田さんの所属しておられた赤軍ウオロシーロフ地区五百七十労働大隊から引揚げられた浜松市の瀧澤瀧十という方が、三月三日新聞記者に語られた記事が新聞に出ております。それは「ウオロシロフ地区五百七十労働大隊から二十三年九月突然スーチヤン十三地区第十五分所に送られ、毎日のように嚴重な取調べが行われたが、前からいた人々がわれわれに「共産党の野坂參三氏が日本は革命が目前に迫つており、この大切な時期に反動分子が帰ることは好ましくないから帰還を許さいようにソ連へ申し入れた」」と語られておるのでありますが、会田正雄さんが残された事情に、何かこうした問題が関連いたしておりますかどうか。また会田さんはこの新聞記事をごらんになつたかどうか、またこうした野坂參王氏が、やはり徳田氏の要請と同じようなことを要請したというような事実を向うでお聞きになつたか、あるいはこちらでお聞きになつたか、あるいは新聞記事は見ておらないが、私が今ここに述べたのでお知りになつてどんなふうにお考えになられるか、その点一応お伺いしておきたいと思います。
○会田参考人 自分たち三十名がウオロシーロフに残されたのは、自分たちの大隊でナホトカに一回来た人たちが、二十名ウオロシーロフに出張しておつたのでありますが、ナホトカに一回来た者は、先に帰さなければならぬというソ連側の命令で、その二十名と交代になつて自分たち三十名が残つたのであります。ほかにそれに関して別にありません。 ただいまの新聞記事でありますが、それは自分は全然読んでいないのであります。
○冨永委員 会田参考人は、新聞記事は全然お読みになつておらない。ただいま私から聞いたのが初めてのようでありますが、こうした内容についても、全然お聞きになつた事実はないかどうか。
○会田参考人 はあ、ありません。
○冨永委員 わかりました。
○青柳委員 私はまず日高参考人にお尋ねいたしたいのであります。先ほどの御陳述によりますと、ウズベツク共和国のベガワト地区においての状況について、マラリアによつて倒れる者数を知らず、発疹チフスで倒れる者数を知らずの御状況の報告がございました。これらの状況をなお詳しく承りたいとともに、これらの病者、死者に対するソ連政府においてとられました医療の処置について、まずお尋ねいたしたいと存じます。
○日高参考人 ベガワト地区におきまするところの発疹チフス、パパタチ、マラリア罹患者の死亡者というのは、私の記憶にあるのは三十六名であります。その後何名死んだかというのは、中央病院の方で死んで行つて、墓場の方に埋葬される者がありますので、直接は私存じません。私が三十六名と申しましたのは、ラーゲル内の病院において死亡して行つた者だけで三十六名であります。なお同じくウズベツク共和国のアングレンという山奥の收容所では、悪性マラリヤのために十六名が苦悶をしながら死んで行つております。この三十六名、十六名というものははつきりしておりますが、その他中央病院に行つて死んで行つた者の人員は、はつきりいたしておりません。 なおこれら患者に対するソ連軍医の取扱いというものは、ほとんどが解剖をいたします。入所当初は非常に粗惡な扱い方で、死んだ者は、そのまま裸にして麻袋とか、あるいはアンペラというようなものに包んで、日本人が四、五名行つて、墓場に埋めておつたのでありますが、四七年後半期ごろから取扱いが非常にうるさくなりまして、日本軍軍医の立会いのもとに解剖いたしまして、その死亡原因を全部調査いたし、八通の書類をつくりまして、おのおの必要なる報告箇所に報告いたしておつたようであります。これらには必ず日本軍軍医、立会人の署名をとつておるので、私のおりました收容所では、死亡者に対する取扱いは比較的嚴格であつた、こう思つておりますが、日本に帰つて参りまして、死亡者の通知が合つておらないということを聞きまして、非常にびつくりしたような次第であります。
○青柳委員 さらに伺いたいのは、やはり日高参考人の御陳述のうちでありますが、カラカンダ地区におきまして、四八年後半においては拷問が実施せられたというお言葉があるのでございますが、これに関連いたしまして、どういう程度の、どういう方法の拷問が、いかにして行われたかという点について、お尋ねいたしたいと存じます。
○日高参考人 カラカンダ地区の拷問は、私直接二日しか受けていないので、その前のウズベツク共和国アングレン收容所において私の体験をした拷問状況を報舌させていただきます。 時期は一九四九年の五月二十四日から、七月十二日にわたる満五十日間であります。調査の内容としましては、対ソ諜報の容疑、二番目には、反共、反ソ宣伝、または反ソ、反共団体の編成指導というような二つの容疑者として取調べを受けました。最初ソ軍の憲兵、すなわMVDが一名で調べたのでありますが、私の言うことが一応筋が通つておるし、彼らの要求に対して絶対に肯定をしないので、とうとう三人の憲兵が出て来まして、一人は拳銃、一人はナイフで私をおどしつけました。言わないとこれで撃つぞとか、あるいは言わないとこれで切腹をして死ねと、私の前にぽんとナイフを投げ出したり、そういうことで私をおどしたり、すかしたりして、彼らの要求する書類に署名をさせようとしたのでありますが、私も彼らの手を知つておるので、強引に否定し続けたのであります。ところが、とうとう彼らとの一問一答で大きな声を出し過ぎて、私も短気なものですから、最後には、お前たちがそう疑うならば、おれをその拳銃で殺すでも、ナイフで突くでも、どうでもしていいからというようなことさえ切り出したところ、彼ら三人は激昂いたしまして、とうとう私を営倉にぶち込みました。私の入つた営倉は、一般の人の入る営倉とは違いまして、半分が地下室になつておつて、非常に水気の多い、約一坪半ぐらいの営倉でありまして、取扱いも全然別であります。隣り近所の入倉者とは、話も全然できない。しかもゲー・ベー・ウーの居室のすぐ横で、監視、監督がより嚴重な場所である、そういう所にぶち込まれたのであります。拷問の手段といたしましては、まず絶食拷問にとりかかられました。期間は五日間をもつて絶食拷問の第一期としておるようであります。次に、頭の錯乱という意味におきまして、不眠拷問をやり続けました。夜ひつぱり出して調べる、晝間は寝せない、こうした不眠拷問というものにとりかかつて参りましたが、白状しないので、最後は私の着ておる衣類をはぎとつてしまつて、いわゆる衣食住より来た拷問を実施したわけであります。一番苦しかつたのは、まず絶食拷問が非常に私は苦しく感じました。それでもつともつとひどい拷問になりますと、水風呂というものにぶち込まれるのでありますが、私は水風呂まではぶち込まれなかつたというような現状であります。そうした月日五十日を経過して、それでも私が肯定をしないので、とうとうしびれを切らして出したような次第であります。 参考までに申しますと、その間に私を救つてくれたのは、実にウズベツクの軍曹でありました。それがゲー・ペー・ウーの命令で私を監視しておりながらも、夜月の明りを頼りに炊事場に忍び込んで行つて、パンを盜み出して来まして、私に三百グラムのパンを二回與えてくれたことが、今でも私の脳裏に新たになつております。これに対しましては、私はその收容所を出て来るときに、自分で和田大佐の形見として持つていた新品の図嚢をひそかに贈りものとして贈つて来ました。最後の握手は、私を涙で送つてくれました。日本に帰つたならば、元気でよく働け、そうして元気でいつまでも生きるのだぞというようなことを、彼から慰めの言葉としていただいたような次第であります。その他私が受けた以外の拷問につきましては、実際に目撃をしておりませんし、これが抽象的に流れ、誤られるおそれがありますので、省略させていただきます。 なお参考までに申しますが、こうした拷問のほかに、私は日本人の共産主義者の人から、いじめられたということであります。これは一九四八年の十一月七日、革命記念日直後におきまして、私一派をカムチヤツカ牛島に流刑罪として送るべく、ソ軍に申請いたしたのであります。このときは非常に私も愼重な態度をとりまして、自重しておつたのでありますが、ソ軍の方でこれら申請書を受付けなかつたというような事実も、はつきりしております。ソ軍官憲からはいじめられ、日本人同士の、誤つた民主運動から発したところの、こうした共産主義者を標榜する人たちからも、いじめられるということが相重なりまして、在ソ間の四年半というものは、まつたく言語に絶するような忍苦の生活をやつて来たような次第であります。 最後にもう一つ、カラカンダ第十五分所における拷問の一事例をあげますと私の二、三軒隣に寝ておつた満州国に勤務しておつた一警察官が、一晩MVDの所に調べられに行きましたら、翌朝に足を骨折して帰つて来た。これも私が一昨年そのラーゲルを引揚げて来る直前のことでありましたが、非常に嘆いておりました。足をたたき折られて白状を要求された、しかし事実無根である、おれはこれでがんばり通すと言つて、涙ながらに私とおわかれして来たような次第であります。ごく簡單に申し述べましたが、拷問の内容の一例をあげて、御参考にいたしたいと思います。
○青柳委員 ソ連の行う拷問が、いかに言語に絶するものであるかという点が、はつきりいたしたのであります。私はただいまのお話の中で、絶食拷問に関しましても、衣服をはぐという拷問に関しましても、すぐわかるのでありますが、不眠拷問と言われましたのは、夜ひつぱり出すということはわかりますが、眠らせぬという方法については、いかなる手段を講ぜられたのか、これをお聞きいたしたい。 もう一つは先ほどの御陳述の中に、自分は反動将校として、実に三箇月の間、他人との談話を禁ぜられたという御言葉があつたのでありますが、いかなる方法によつて談話を禁ぜられるという処置がとられたかという点について伺いたいと存じます。
○日高参考人 アングレンの不眠拷問というのは、地下室に水が出ておる所に寝せる。従つて眠ることができないという方法であります。床がじめじめしておりまして、水が出ておつて眠ることができません。このアングレンで同じ拷問を受けておりました和歌山県出身の田村徳夫という大尉ですが、これは今まだカラカンダに残つております。この人は非常にりつぱな方だと思つておりましたが、新京の憲兵教習所の部隊長あるいは中隊長をやつておられたように思います。この人がある一晩私に、私は十五年間憲兵生活をやつて来たが、こういうひどい拷問の仕方を聞いたこともなければ、もちろんやつたこともない、私は今晩決意をしてごの牢屋の中でおわかれをしたいというようなことを、相談されたこともありました。それほどまでにひどい拷問であるということを、御想像していただきたいと思います。 なおベガワトの第一ラーゲルにおりますときに、一九四七年二月六日から五月のたしか中旬ごろだつたと思いますが、その間反動将校としての隔離を命ぜられまして、私以下約十四、五名の者が隔離をされました。そのときは将校だけある一室に幽閉されまして、ほかの過去における自分の部下、あるいは自分の上司、あるいは同郷の人、あるいは以前において同職であつた人というような、ソ連生活における唯一の慰め者であると思われるいろいろな人と、絶対話をしてはいけない、あいさつをかわしてはいけないというようなおきてで隔離されたわけであります。反動将校と申しますのは、あくまで思想的に共産主義者に共鳴をし切らない人というものを、反動将校として取上げられました。もちろんその中には、いろいろな団体生活の面において、働き方が足らなかつたというような将校も、私ははつきり認めます。しかし大部分の人はよく働いて作業能率も上げ、中隊が表彰をされるようなあるいは小隊が表彰されるようなりつぱな指揮官ばかりでありましたが、いろいろな方面の策謀と相まつて、そうした生活をやむなくさせられたわけであります。こういうことをすることによつて、ラーゲル内における思想運動がやりやすくなるというところがねらいどころであり、ソ軍側政治将校としての着眼であつたということが、私はいまさらながらはつきりするわけであります。
○青柳委員 次にここに御列席の四人の参考人の方々全部に対してお尋ねをいたします。それは皆さん方はソ連地区において、日本の婦女子を見たことがあるか、そうしてその婦女子の状況はどうであつたかという点であります。
○会田参考人 それは自分らがウオロシーロフに入つたときに、日本の婦女子が看護婦として病院に勤めておりました。それ以外のことは全然わかりません。
○青柳委員 次にお尋ねいたしたいのは、先ほど中村さんのお話、非常に敬服にたえなかつたのであります。刑を終えて監獄を出た放浪生活の後に、りつぱに生きて帰つて来られたという中村さんの力に、敬服させられたのでありますが、それに関連してお尋ねいたしたいのであります。ソ連においては刑を終えた人は、すべてをそのままほうりつぱなしであつて、その人がその後どうなろうと、何ら手を下さぬという状況であるように私は思います。ソ連の満刑者の処置について伺いたいと存じます。
○中村参考人 刑を終えました私の若い者として七名がまだ残つておるのであります。そのうち一人は帰つております。八名のうち一人だけ帰つて、七名が現在二年の刑で、一昨年の八月満刑になつておるわけであります。それでも全然帰すということはしないのです。おのおのが十二分に請求しても、私がようやく帰つたようなわけで、ことさら私の若い人は、年も若いから仕事も十二分にできるというような見地から、押えておくのではなかろうかと思います。また若い者として、私の子供から手紙が二通私の家内にあてて来ておるのであります。しかしその手紙を見ましたら、コルホーズにおつて自分でトラックの油さしというような仕事をやらしてもらつている、帰りたいと毎日係の人に言うたが、一向帰してくれない、帰りたいというような話は全然できない、また向うにおつて家内を持てという請求がたびたびあるので困るというような手紙であります。ですからまず帰さぬのがほんとうでなかろうかというように、私は考えておるのであります。
○青柳委員 刑期を終えて、その後の保護がソ連にないために、先ほどお話のあつたような、まるでこじきみたいな生活をして所々方々を歩きまわられたという現実を、今朝初めて知つたのであります。私は文明国としては、刑を終えた人は、やはり一つにまとめて保護の手が伸びるのが、人たる道であろうと思います。かかることをしないソ連の現状に、唖然たらざるを得ないのであります。私はこの際、この委員会におかれましても、今まで帰つて来られた方々の中で、刑期を終えて帰つて来られたことがはつきりしておられる方の調べは、すぐつくはずであります。しかもソ連地区におきまして、刑に服しておつた方々の数の推測も、ある程度できると思うのであります。私はこれは一つの大きい人道問題であると思うのであります。従いまして、この委員会におきましても、この問題を取上げて、外務当局の御所見も承るし、でき得べくんば、この問題を国際的に取上げられるように希望したいのであります。次の機会におきましても、この点につきまして、ぜひぜひわれわれの意見をおとりまとめのほどを、切にお願いいたします。以上をもちまして私の質問を終ります。
○堤委員 先ほど青柳委員が御質問になりまして、四人のうち一番そちらにおいでになります会田さんがお答えになりました婦女子の問題でありますが、私も実はこれについて、もう少し詳しく聞いてみたいのでございます。この前中共地区から引揚げて参りました婦女子の方々と、相当懇談もいたしましたし、それからお話も伺つたのでありますが、相当な婦女子がまだあちらに残つておられるように聞いておるのでございます。特別な收容所においでになつた四人の参考人は、特にごらんになる機会がなかつたのではないかと思うのでありますが、收容所以外のあちらこちらに散らばつておる日本の婦女子の状態というものを、もう少し御存じの方がございましたら、はつきりしていただきたいのでございますが、先ほどのお答え以上にはできないでございましようか。
○会田参考人 自分たちがウオロシーロフに入つたときに、ウオロシーロフの町で、自動車に自分たちが乘りながら、遠目で見ただけで、全然話したことはないのでありますが、二度目にウオロシーロフの町にもどつたときには、全然おりませんでしたから、その間のことは全然わかりません。
○日高参考人 抽象的で御参考にならないかとも思いまするが、今度帰つて来る船の中で、日本人のいわゆる看護婦として使用されておる人が、バイカル湖の北、北極圏に近い收容所に約千名今なお抑留され、働かされておるということを聞きました。これは抽象的で、だれがいつ見てどうなつたかという具体的のものでないので、参考にならないかもわかりませんが、火のないところに煙が立たないと思いますから……。
○堤委員 次に、皆様方お帰りになりましたが、国内では未帰還者の数の問題について、相当疑義があり、問題になつておるわけであります。私たちは最後の一人までこれを国内に送還させなければならないのでございますが、死亡者の数だとか、未帰還者の実際あちらにおられる方々の数につきましては、いろいろ調査もいたしておりますし、また推量もされておりますけれども、まだはつきりしたものが出ておりません。でありますから、未帰還者を持つ家族は非常に不安でございますが、皆様方があちらにおられました間において、大体死亡者はどのくらいであろう、未帰還の人はどのくらいいるだろうというような推量がおつきになりましたならば、答えていただきたい、どなたでもけつこうでございます。
○日高参考人 これも非常に大切な問題であると思います。しかし事実は漠としておりますので、これもまた御参考にならないかとも思いまするが、現在在ソ同胞残留者の主力の残留地は、カムチヤツカ、北極圏であると思つております。従つて文通もできませんし、いろいろな調査方法というものもうまく行かない、そうした辺鄙な地点に大部分の者は抑留されておるのではないかと思います。またこれもバイカル湖の北地区の收容所からの話でございまするが、これまた北極圏内の收容所でないかと思いますが、そごに墓場があつて、墓の棒ぐいはちようど十一立つておつて、しかもその一つの穴の中に五十名死んだ者が埋められておる。そうすると、墓標は十一あつても事実は五百五十各の死亡者である。そうしたところの食い違いが、現在の残留者というもの——ソ同盟の発表と日本政府の要求との食い違いがあるのではないか。もう一つは終戰直後におけるところの行方不明、特にあのソ満国境における死亡者というようなものが、その重きをなしておるものではないか、こういうふうに私個人として推察いたしております。参考までに申し上げたいと思います。
○堤委員 他の方々はお考えはございませんか。——それでは皆様にお伺いしたいのでございますが、どの方の御報告を聞きましても、転々と收容所をおかわりになつております。これは人員の配置の関係があるのだろうと推測しておりますが、單にそれだけでございますか。
○東山参考人 ただいまの質問につきまして、私の経験しました実例を申し上げます。私は満洲国の司法部におつた者であります。その後停職になりましたときは、軍人として捕虜になつたのでありますが、いろいろ向うで転々としてかわるのは、向うの地区本部というのがあります。これは内務省直轄であります。その地区本部、MVDの取締官、いわゆるゲー・ベ一・ウーでありますが、これがその必要によつて收容所を歩かせるわけであります。たとえば、私の例をとりますれば、私が一番最初取調べを受けましたのは、二十一年の一月三日に呼ばれまして、五日に取調べを受けたのであります。一番最初、取調べを受けまして、そこで相当ひどい拷問も受けて参りました。その後また九分所に行きまして、二分所に行き、そこで取調べを受け、それから十一分所、一分所、十一分所、それからハバロフスクに参りまして、また二十一分所から五分所、三分所、将官收容所、こういうように歩いたのであります。行くところ取調べを受けます。行くところ行くところ取調べを受けまして、向うとしては、その收容所をかわるごとに、本人が言つておることが、はたして正しいかどうかということを確かめるために、そういつた方法をとります。
○日高参考人 今、御質問がありましたが、それを簡單に述べますと、四つにわかれると思うのであります。一つはソ連のおきてとして、一地に罪人、あるいは囚人、あるいは捕虜は、永住をせしめないというおきてであります。なぜならば地形を知つたならば逃亡をするというような、古代からの歴史に基いた計画だと思います。従つて囚人でも、樺太から工業学校の先生が三年の刑を受けて、私のおつたカラカンダ地区をさまよつておられましたが、その人は三年おるうちに十六箇所の收容所をかわつたと言つておりました。そういうふうに、日本人囚人、日本人捕虜というものは、つとめて転々とかわらせる、そうして逃亡予防をやる、あるいは思想的な反対予防をやるというのが、ソ連のいわゆる永住危險性から出たところの根本的な考え方だと思います。 二番目には、作業関係ということが、大いに原因をなしておると思います。ある地区の産業開発あるいは交通開発が終ると、次の地区へ前進をする、それがために移動をさせなければいけない、こうした面があると思います。 三番目には、取調べ関係であります。たとえば中央アジアの集結地はどこであつたかというと、アングレンであつた。それから中部シベリアの集結地はどこであつたかというと、結局カラカンダであつた。極東及び東部地区シベリアの集結地はどこであつたかというと、これはノーウオシビルスクであつたというように、取調べ関係から逐次輪のりを詰めて行つて、その要点要点に集結をさせ、対立尋問、参考尋問をさせるというような仕組みをとつております。 四番目は、われわれの終局の目的である輸送関係から来たところのラーゲル移動というものが多分にあると思います。中間集結地よりさらに次の中間集結地、あるいは最終集結地へというように、輸送関係からラーゲル移動が行われたと予想されます。こういう四つに区分されると思います。
○堤委員 捕虜を満刑になつて放浪してお帰りになりました中村さんでございましたか、あなたはこじき同様の暮しをしながらずいぶんさまよい続けていらしたということを伺つたのでありますが、事実でございますか。
○中村参考人 私は前申し上げた通り、イズモルカ、モスクワ、ケーミルヘ行けという証明書をいただいたわけです。ここは働くところで、そこへ行つて働けという証明書をいただいて出ましたが、私は強硬に警察署長にぶつかつて、その職を求めたので、ようやく食うことはできたというような始末であります。その後私の主人が、何の刑を犯したのか知りませんが、私が行つて一箇月半ほど働いてから、十五年の刑を受けて樺太に送られたのです。それでその後私は仕事がなくなつた。しかし私は仕事がなくても、働いて銭を残してあつたから何でもなかつたが、普通の人であつたら、まごつくという状態であるのであります。普通の人はそういうように強硬にぶつからない限り、結局こじき同様に暮すことになるのであります。着るものはおんぼろさんぼろ、そして頭髪も刈ることができないような始末で、停車場に立つておられたのであります。私は声をかけようと思いましたけれども、窓があかぬために、声はかけずに来ましたが、二度私は確かに確かめて来たのであります。
○堤委員 今青柳委員もお触れになつたのでございますが、満刑になつたところのこうした日本人が、こじき同様の生活をあちらでしておつて、ときに都合の惡いときにはなぐられておるという話を聞きますと、われわれ子供を持つ親として実に涙なしには聞けないのでございます。この船でお帰りになつた中に、こうした満刑後放浪生活をしてお帰りになつた方が何人あるかという統計は、まだできておらないことだろうと思いますが、しかし今後委員会でこれを追究して、やはり国際的な問題にまで追究していただきたいということを、私も青柳委員と同様に、ここで特にお願いをいたしておきます。 それからもう一つお伺いしたいのでございますが、お帰りになつた四人の「心境ですね。今後残つておる人たちを、なるべく早い機会に、あなた方と同様に祖国の土を踏ませるには、感情を拔きにして、どうした方法が一番よいだろうということを、あちらにいらした体験からひとつ飾ることなく、率直に一人々々答えていただきたいと思います。今後の引揚げ促進の具体的な参考資料になると思います。
○会田参考人 自分たちが向うにおつて、どうして帰れないか、それが一番問題になつたのは、船が来なかつたのです。ナホトカの收容所には、何万という人がおつたのでありますが、船が来なかつたために、また二度、三度と作業に出たことがあるのであります。そのようなことのないように、まず第一に船を送つてもらいたいと思います。
○中山委員長 それに関連して私お尋ねいたしますが、ナホトカに出た人がウオロシーロフに一千名もどつて来た。それはどういうことですか、何のためにもどつたのですか。
○会田参考人 收容所が滿員になつたためです。遠くの人は日にちがかかるものですから、どんどんかまわずに送られて来るので、ナホトカの收容所が満員になつてしまうのです。そのためにナホトカにおつた者が作業に出るようになつたのであります。
○東山参考人 ただいま一人の参考人から申されましたが、もちろん船をまわすということは先決問題であります。船が来なければ、とうてい帰つて来ることができないことは明白であります。しかし船をよこさすのはどこであるかということを、考えなくちやならぬと思います。日本がいかに船をまわすつもりでおつても、向うから通知が来ない限り、船をまわしてもむだであります。私たちがソ連におるときに受けました向うの政治教育、またその中の一場面をとつてお話いたしますれば、船をよこさないのは日本だ、さらにアメリカである。アメリカは日本政府をして船をよこさせないから、お前たちは帰れないのだ、こういうように言つておることは事実であります。これはいかなるところの人にお尋ねになられても、異口同音に十人ともそういつたように話されると思います。私たちは收容所の中におりまして、まつたく井戸の中のかわずであります。日本の実情は何もわかりません。向うの新聞、また日本の新聞が発行されておりますが、これも通訳によつていろいろ内容を説明されます。その一例をとつてみますと、現在の日本はものすごいインフレである、ものすごく物価が暴騰して来ておる。さらに賃金はくぎづけ、人民は食うに食なく、住むに家なく、餓死しておるような状態にあるといつたようなことを、自分たちは收容所で教えられて来ました。悲しいかな井戸の中のかわずであります、反対に日本の政府を恨むようになつてしまうのであります。私も実際問題としてそうだつたのでありますが、船に乘る、船の中には復員宮、看護婦、さらにマドロス、こういう人々が乘つておられます。そこで船に乘るやいなや、そういつた向うから来られた方々に、日本の状況をまず聞きます。日本はどうかといつたようにまず聞きますが、そのときにその人々から話されることは、ほんとうに日本の実情そのものを私たちは聞かされるわけです。そこにおいて、今までソ連において話されて来たことと、相当の誤差が生ずる関係上、そこに疑問符を打つわけであります。そして船がだんだん進行して舞鶴の港近くなりますと、あすこに引揚船が待つております。私たちも現にその引揚船を見て参りました。そのときにマドロス、看護婦、復員官の方々が、あの船は、あなた方が帰られる、向うから通知があるその日を待つて、いつでもあのようにして待つているんだといつたことを、私たちはまのあたり見、また聞いて参りました。これはソ連の方のああいつていたことは、明らかに間違いであるということを、はつきりしたものであります。さつき一人の参考人も申されましたが、一日も早く船を向うにまわしていただくということか、一番大切じやないかと思います。そうしてこれは参考までに申し上げるのですが、将官收容所における帰国問題につきましては、将官三十名当番勤務の者がおりました。十一月十五日に二十六名帰国のために出たのであります。私たち——私、憲兵大尉宮崎、現在二人残つております古川、野田、これら四名残されたのであります。これは明らかに取調べのためであります。その後私たち二名帰つたのでありますが、その十一月十五日に二十六名帰りましたあとにおいて、将官も帰国問題ということに非常に心を悩ましておられます。十一月十八日所長アスニス上級中将に後宮元大将が呼ばれまして、後宮大将に言われたことが次のような言葉であります。あなた方が近く本国に帰国されるであろうということを、私があなたに命令することを期待しているということを言われたのであります。そのとき将官の中に、非常に帰国話が持ち上りました。もうすぐおれたちも帰れるだろう、今年のもちは日本の座敷の上で食えるんだといつて、非常に喜んでおられました。ところがその後十二月に入りましても、帰国の話は出て来ないのであります。ちようど細菌戰の報道があつたのは、十二月二十二日でありました。しきりに晝といわず夜といわず猛烈な取調べが始まつたのであります。これもさいぜん申し上げましたこの取調べも、まさか将官たちも細菌戰の報道があることは知りませんでした。帰りたい一念で最後の取調べだ、この取調べが終りさえすれば掃えれるんだというふうに、将官たりも考えておつたのであります。ところが十二月の二十三日夜九時に報道がありまして、細菌戰の山田大将以下の報道がありましたものですから、今の取調べはおれたちから細菌戰の資料をとるために調べられたということが、はつきりしたのであります。その後あすこにハバロフスク大学の支那語の通訳ですが、日本語も解します。この人が通訳の主任でありますが、来ております。このハバロフスクの通訳は、将官たちにいろいろな、ロシヤにおりましてわからないもの、字引とか参考書物を見てもわからない——といいますと、例を引いてみますと、相撲とか芸者、こういつた昔から現在にいたるまでのいろいろな移りかわりといつたものを知りたいために、将官に頼んであつたわけです。というのは、将官が相撲とか柔道、剣道、芸者、こういつた向うにないものを書いて教えてやつております。これに対して、もちろん彼は向うのカズベツクという五円四十銭のタバコ一つを持つて来ているような次第で、この通訳が十九号室に参りまして——十九号室というのは二階であります、ここは十六名入つております。そこに来られまして話された話が次の通りであります。直接お話したのは、元第三万両軍の軍医部長をしておられました清水速水という軍医少将と、私が直接お話したのでありますが、この通訳が言つた言葉は、あなた方近く帰れるんじやないですか。そうしたら将官は船でですか。いや飛行機です。けれども、あそこにはさいぜん申しましたように、百六十三名おりますので、この人間を飛行機で輸送するのはたいへんでしよう。いや大したことありません、大きな飛行機を十台も持つて来れば全部そつくり運べる、大したことじやありません。こう通訳が話したのであります。その後私が十二月三十一日にあの收容所を出て来るとき、将官の方々にいろいろあいさつして参りましたときに、おれたちも近く飛行機で帰るよ、だから日本に帰つてとにかくからだを大切にして十分にやつてもらいたいということを将官からも言われましたが、将官收容所の帰国については、現在将官は飛行機で帰るのではないか、また飛行機で帰つた例が一昨年あつたのであります。それによりまして、現在そういうような考え方を持つておるのであります。
○日高参考人 この問題につきましては、重大な問題でありまするし、話せば非常に長くなりますので、私は結論からお話してみたいと思います。 なぜ日高が今日帰り得て、この席上におり得るかという結論から、分析してみたいと思います。結局は国民の総意、熱意というものが、われわれを帰してくれたという結論を持つております。今まで、ナホトカ港は、十二月より三月の末日までは、結氷のために船が航行できないということを、日本新聞ではつきり見せつけられ、教育されて来ました。またシベリア鉄道は、十二月の末から二月の末までは、絶対に運行できない。ソ連は親心において、これら日本の捕虜を送還しないであろうということを、大々的に日本新聞を通じてわれわれに宣伝をして参つたのであります。しかるに、なぜ一九五〇年度におきまして、この冬季輸送不可能といわれておつた酷寒季におきまして、はたまたナホトカ港の凍結期におきまして、われわれが帰り得たかということは、今結論づけましたように、一に国民の熱意であります。参衆両院の深刻なるところのこれら引揚げに対する対策、特に引揚委員会の努力にほかならないと、私は固く信ずるものであります。そういう意味におきまして、今後の残留者同胞の引揚げ促進というものの対策は、共産党も自由党も、あるいは農民党も社会党も打つて一丸となつて、そうして今ソ連で苦しみあえいでいるところの同胞を、一日も早く、一名でも多く、すみやかに引揚げ得べく、これが対策に当るべきである。これが先決問題であり、私の最も要望するところであります。ただ單なる感情闘争とか、あるいは小さな理論、思想対立でなくて、大乘的な見地から打つて一丸となつて在ソ同胞引揚げ促進に関するところの御努力を切望するものであります。
○堤委員 話が前後して相済みませんが、さきに聞きたかつたことを一つ落しておりましたのでお尋ねいたしますが、国民の熱意が、非常に皆さん方を一日も早く帰したいというので、衆参両院をあげ、また国民の輿論がこれが促進をこいねがつておるという事実は、お帰りになつてからおわかりになつたんでしよう、あちらにおいでになるときは、御存じでなかつたであろうと思いますが、ちよつと聞かせていただきたい。
○日高参考人 向うからは書簡を出します、またこちらの方からも書簡の返事が参ります。向うから出します場合は、司令部の方で検閲しまして、これが惡い影響を與えない程度のものは向うで出しますし、また日本から返事をいただきます場合におきましても、日本の実情を有利に書いておるというようなものは、検査に通らずに、そこでオミツトされるわけでありますが、その検閲のあいまをくぐつて日本の実情というものが、われわれにときどき耳に入つたのであります。その実情と思われる書簡の中に、大阪地区とそれからたしか東京のことも書いてあつたと思います。国民は全員が一丸となつて在ソ同胞引揚げ促進運動に乘り出しておる、あなた方の帰りも近いと思いますという、あるいは兄から、あるいは母から、あるいは自分の妻から届けられたことが、タシケント地区、あるいはカラカンダ地区においてありました。それからソ連の大使館の前における何か引揚げ促進に関するデモと申しますか、こういうようなことがあつたことが一回耳に入りました。こういうことを通信によつて知つたわれわれは、いかに国民というものが、日本新聞と違つて、われわれ在ソ同胞に対する帰還促進運動を展開しておるかということを、認識することができたのであります。
○堤委員 先ほどの会田参考人のお話を聞いておりますと、全然御存じでなかつたようでありますが、ただいまの方のように、網をくぐつてまれに来た手紙によつて、こちらの実情を知るような機会はなかつたのですか。
○会田参考人 自分らは、特に少数で出張していたために、手紙を出したことも、また来たこともないのであります。だから、内地の様子は、日本新聞のほかに、全然見たり聞いたりしたことはありません。
○堤委員 その日本新聞の話はよく聞くのでありますが、大体部数にしてどのくらい出ておる新聞であるかということを、御存じの方ございますか。
○会田参考人 二十三年ごろまでは、大体三人に一部あるいは五人に一部ぐらいでありましたが、二十四年に入つてからは、日本人捕虜が少くなつたために、一人に三部ぐらい同じやつが来たことがあります。二十五年になつてからはまた部数が少くなつて、五名に一枚くらいになりました。
○堤委員 帰られましてから、まだ日が浅うございますから、就職だとか、いろいろ落ちついた気持になつておられないと思うのでございますが、私たちは皆様の定着後の援護につきましても、相当政府とつつ込んだ意見をかわしておるわけでございます。でございますので、参考のために、今日おいでになりました四人の参考人は、今日職を持つておられるかどうか、そしてまた目先の見通しはついておるかどうか、全然ないか。また政府に対する要望があるならばその点、つまり今後の職とあなた方の現在の実情をお答え願いたいと思います。
○会田参考人 自分の会社は、現在運営しているのでありまして、自分は職はあります。会社の方でも喜んで迎えてくれました。
○堤委員 どこでございますか。
○会田参考人 横浜であります。
○堤委員 それをはつきりおつしやつてください。
○会田参考人 日本発條であります。スプリングです。
○堤委員 それは応召以前の職場ですね。
○会田参考人 そうです。
○中村参考人 私は樺太で四十三年漁業を営んでおつたものでございます。それで家内も引揚げ、私も引揚げ見られる通り裸のまま——私は漁師以外には仕事をしたことのない人間です。漁業をやりたいと思いますが、見られる通りの裸で、とうてい漁業をやることができない。ですから、一日も早く漁業に従事したいと思いますが、何しろ今言うた通りでございますので、どうぞ一日も早く仕事にありつくようにお願いしたいと思います。
○堤委員 つまり資本金がほしいという問題、生業資金の問題ですね。
○中村参考人 そうです。
○東山参考人 自分も現在のところ無職であります。帰つて参りまして、父が非常に安心いたしまして、今のところまず二箇月や三箇月、半年そこそこは、十分からだができるまでうちにおれ、それから後、これから進んで行くところをはつきりきめたらいいのではないか、こういうふうに父が申しておりますので、自分としましても、のうのうとして遊んでおるべき時代でもありませんので、何とかしなくちやいけないと考えておりますが、海外生活十年にして帰つて参りましたので、父にも相当心配をかけておりました関係上、今のところ、まず父の意見を尊重して、しばらく父の言うようにしていようと考えております。今のところ、私は事業についていろいろ手づるもありますので、若干考えておるような次第です。
○日高参考人 私は農村の育ちであります。家に兄がおりまして、百姓をやれば、いつでも百姓をやるだけのものはあるわけであります。おかげさまでソ連で鍛えられまして、炭坑に入りましても、あるいはその他の労働でも、恐ろしいものは何もない現在の心境です。従つてぜいたくな職を求めればないということもありますが、そうしたところの職だつたならば、どこにでもある、まず自分で求める気であれば、どこにでもあるからという気持であります。今度帰りましたならば、さつそく家の手伝いをやるかたわら、そうしたところにでも、どこにでも出かけよう、こう思つております。
○堤委員 応召以前は百姓をしておられたのですか。
○日高参考人 全然やつたことはありませんが、今度のソ連生活で、何でもできるようになりました。
○堤委員 ただいまお答えになりました四人の方々は、大体お聞きしましたところ、この後、御心境の変化はあろうと思いますが、さし迫つて職を求めて、大きな都市を迷わなければならないという心配のある方は、ないようでございます。舞鶴でも四日間一緒に引揚げて来た人たちと生活をしておられたわけでありますが、あなた方だけではなくて、帰つて来た人一般から見まして、今後の就職の問題に対する政府への御意見なり、御要望はございませんでしようか、もしございましたならば、お答え願いたいと思います。
○中村参考人 私は北海道にも、あるいは内地にも、知人はおりましたが、その人たちは、戰争あるいは病気になつてなくなつた人もありますし、頼りにする者はほとんどないのです。自分の入る家もなく、今引揚げ收容所にやつかいになつておるものであります。どこへ行つていいものやら、まだ見通しもつかない、まことに悲惨な状態に立つておるのであります。でありますから、どうぞ資金の方は一日も早くお願いしたいと思います。
○堤委員 住宅問題だとか、御就職の問題であるとか、いろいろな国家の厚生施設であるとか、今後皆様方が更生してくださるところの施設なども、予算の関係で、非常に今までお帰りになつた方々の御不満をいただいておるのでございます。でございますので、私たち委員会といたしましても、定着後の援護につきましては、十分政府と協力いたしまして、万遺憾なきを期したいと思うのでございますが、もしそうした皆様方のいろいろな御意見があれば、どしどし帰還された方から中共へ御意見を送られるのもよかろうと思いますので、お帰りになつた友達の方々、同僚の方々がありましたならば、葉書の端にでも書いて、われわれの方へ送つていただいたらけつこうだと思います。 それからこれは共産党の方に悪いのでございますけれども、四人の参考人の中には、ソ連において今まで生活をしておられた場合に、アクチーブであつた方は一人もおらないのでありますが、アクチーブとおぼしき方を一人ぐらい呼んでもよかつたのではないかと私は先ほどから考えております。四人の参考人は、どのように考えておりますか。
○中山委員長 ここで釈明申しますが、実はこの間決定いたしましたときに、一木春夫氏、これは福岡県久留米の方でございますが、日本共産党員でございます。それから今村惠一氏、これは奈良県の方でございますが、同時にお手紙を差上げ、そして日にちが決定しましたならば——日にちは大体の見通しは申しておきましたけれども、予算の関係でずれるかもわからないので、それに対処するために、いよいよの日にちが決定したならば電報を打ちますからといつて、前もつて断つてございまして、返信料つきの電報を送つてございます。ところが今村氏すなわち奈良県のお方は、肋膜になつて療養中であるから、出席不能だという欠席届がございました。それから一木春夫氏の方からは、音も沙汰もございません。今朝も共産党の方から、そういう書面を送つたか、電報は打つたかと、確認にいらつしたわけでございますが、こちらでは確かにみんなと同時に送り状も電報も打つてございますけれども、こちらの方には何らの欠席届も出なければ、便りなしでございますので、決して私どもが片方をお呼びするというような、へんぱな処置をとつたのではないということを、ここで明白にしておきたいと思います。
○堤委員 今村氏の方は御病気である、もう一人の一木氏の方は返答がないということに対して、委員長は、今後これをどうしようというお考えをお持ちになつておりますか。
○中山委員長 私は高砂丸の船上で、一木氏にお目にかかりました。お見かけしたところ、別に御病気がありそうなこともなし、あるいは御転宅になつたか、それともこういう席へ来るのがおいやなのか、そこは私としては、いわゆる仮定のことは何とも申し上げられませんので、電報を打つて、その理由を問い合せ中でありますから、その辺で御了承いただきまして……。私も一方的なことはきらいでございますから、また何かの機会にこういう方もお呼び申して、そちら側のお話を聞く必要もあると感じております。
○堤委員 私も委員長と同感でございます。やはりアクチーブとして相当御活躍になつた方々も、われわれの国会にお出ましになつてわれわれは片寄ることなく、両方の申開きを聞いて、そして促進のためにそれをうまく利用して行くのが、ほんとうではないか。中共地区から引揚げておいでになつた方々とお話をしてみますと、いろいろな話をのけて、とにかく中共地区については、日本共産党の方々は御親戚なのだから、日本共産党の方々にうまく働きかけてもらつて、引揚げ促進をするのが一番よかろうという意見を吐く人が非常に多いのであります。この点なども考えまして、今後ソ同盟に対しましても、共産党の方々の偽らざるところの御協力がなければ、私はやはり問題として、あとあとに残るのではないかと思うのであります。でありますから、今日はお出ましになつて来られない参考人、もしくは他の方々をお呼びになつて、われわれも感情的に偏することなく、率直にこれを聞いて、われわれとしてのとるべき今後の態度をきめていただくように委員長に特にお願いしておきたい。これは委員長もそのようにはお考えでございますので仕合せに存じますが、この点ひとつこれきりにならぬようにしてください。
○中山委員長 この間理事会を招集いたしまして、中共地区の方のお方も、帰つて来た人がありますので、ぜひ出ていただいて、中共地区の事情を聽取したいという結論に達しまして、参考人をお呼びすることになつておりますから、そのときに御一緒にでも、今度はアクチーブの方に出ていただく機会があり得ると思いますので、理事会にもう一度この点を御相談申し上げて、その方向に進んで行きたいと思つております。
○堤委員 ただいまの御返事でわかりました。ことにただいま婦女子の問題に触れたのでございますが、私ども女性代表といたしましても、中共地区から引揚げておいでになつたあの女性の方々、大きな国の犠牲者でございますが、この方々の話を聞きましても、あちらの家庭に入り込んで、またいろいろな立場においてあちらに残つているところの婦女子もまだ相当多いようでございますし、この辺も女性の立場から私たち特に追究しなければならないと思いますので、中共地区からの引揚者の参考人をお呼びになりますときには、その点も勘案されまして、女性の参考人も二、三人お呼びになつた方がいいのではないかと考えます。この点も特にお考え願いたいと思います。
○中山委員長 承知いたしました。理事会に諮りまして、何とか御相談の結果を出して参りましようと思います。
○堤委員 お帰りになつた四人の方々に最後にお聞きするのでございますが、今日高参考人から、皆さんの熱意で帰してもらつて、ほんとうに感謝しているというようなお言葉をいただきました。お帰りになつてからの思想的というか、皆さん方の御心境と言うと変でございますが、極端な言葉になりますが、たとえば共産党に入党しようとか、反共で行こうとか、どうお考えでございましようか。現在の政府は保守反動だという、片寄つた教育も、相当お受けになつて来たことだろうと思うのでありますが、これら政治の現実に対する偽らざる御感想というようなものをお聞かせ願えれば幸いだと思います。
○日高参考人 非常に出しやばつたようなお答えでありますが、ソ連から四年三箇月ぶりに帰つて来た、また外地生活十五年から帰つて来た、上陸直後における私の忌憚のない意見を述べさせていただいて、参考にしていただきたいと思います。帰つて来るととたんに、いろいろな立場の人、あるいは新聞記者、こういう人が私を取巻いて、いろいろな感想を聞きました。あるいは舞鶴において、あるいは東京において、あるいは門司において、あるいは博多において、いろいろな所で今受けたと同じような質問があつた。私は結論として、現在の日本は恐ろしい、特に婦女子において浮かれぎみであつて、敗戰後の日本国民の姿がどこに見受けられるかという結論を與えておきました。参考までに申上げまするが、私はカラカンダの第十五分所に生活しておるときに、第六分所——これは日本人捕虜が引揚げて、現在はからになつておりました。そこに赤軍の正規軍が一個連隊入つて来ておりますが、ここでドイツ人の労い女の人と一緒に作業をやりました。ドイツ人の若い女の方と申しますと、十七、八歳で捕虜になつて、現在二十四、五歳のドイツ人の女の方です。この人らの作業中における態度、あるいはそのラーゲルの横に、生活されるところの小さな收容所がありましたが、その收容所内における起居容儀、これらは、私は異民族であるが、まことにもつて日本婦女子の参考にして余りあるものがある、こう思いました。どういう点であるかというと、作業の間に間には、必ずドイツ民族復興のため、あるいはドイツの女としていかにあるべきかということを話題に取上げまして、お互いに討論をし合つております。あるいはちよつと珍しいところの書類が参りますと——新聞雑誌あたりのロシヤ語のやさしいのが、現われますと、全員回覧して一人も残らずそれに目を通してしまう、非常に向学心に燃えております。私がひまのときに出かけて行つて、あなたたちは今度すぐ帰るであろうが、帰つたら結婚されてりつぱな家庭を持つて、ドイツ民族のために働くだろうと質問したところ、まつたく赤恥をかいたのであります。なぜか、私たちは七年間ソ連の生活をやつて、現在のドイツ人、特にドイツの青年よりは、心身、特に知識面において非常に遅れている。帰つたならば早急に勉強をしてそうして、現在ドイツに住んでいる青年の知識水準にすみやかに達して、しかる後家庭を持つべきである、こういうことをはつきり申しました。またさらに大連の副領事の奧さんですが、ちようどここにおられる中山先生と同年輩くらいの方と見受けました、その人が、私の働いている作業場の横を通りがけに、どういうことを言つて別れて行つたかというと、あなたたち日本人は近いうちに帰る、私たちはいつ帰れるかわからない、しかし私たちの義務は、現在年をとつているが、ドイツ復興のため、ゲルマン民族復興のための第二世を間違いなく教育して行くことが私の務めである。現在武力戰においては一応戰争は終つたが、まだまだ将来にはむずかしい思想戰争が展開されるであろう。私の現在の気持は、正しいドイツ人を教育すべく一身をささげたいと思うということを、私も半端なロシア語はわかりますので、お互いにロシヤ語で話して別れて行つた雪の日のある夕暮の事実を、はつきり記憶しております。こういうふうなドイツ人に会つて帰つて来た気持、またロシヤの婦女子のあの働く姿、身なりをかまわずに、ロシヤの婦女子はとにかく働きます。あの姿を見て帰つて来た私たちが、日本における、東京の、大阪の、京都の、あるいは福岡の、各地区におけるあの上調子な女の姿、失礼ですが、こうしたものを見た場合に、はたして敗戰後における日本はこれでよいのであろうか、大事な自分のむすこを、あるいは大事な民族復興の二世を養成する女が、母親が、姉が、妹が、これでよいのであろうかということを、非常に強く感じさせられました。特に女代議士として活躍しておられる堤先生の御質問に答うべく、女のことを話題として取上げましたが、御参考に供してもらえばけつこうだと存じます。
○東山参考人 ただいま話されたのに対して、まつたく私も同感であります。私も舞鶴に着きまして京都、大阪、和歌山、家へと帰つて行つたのでありますが、その間に私の目に映つたところの日本の女性は、まつたく私たちが——もちろん私は日本を十年離れております、十年前の日本の女性を想像しておりました。ところが、それとまるきり反対のものを見せつけられたのであります。一つのものを例にとつてみますれば、ある一つの家庭にしても、そこの主婦がしつかりさえしておれば、必ずその家庭はしつかりして行きます。これが大きくなつて一つの国家にしてみると、その国の女性がしつかりしておれば、必ずりつぱな国ができ上つて来るのじやないかと私は考えております。それで私は、特に女性の方にもつとしつかりと腰を落ちつけて考えてもらいたいということを感じます。
○堤委員 最後にもう一つ、新聞をごらんになつているだろうとは思うのでございますが、ゆうへも遅くまで各組合の代表者が増田官房長官と給與べ一ス改訂をめぐつて、非常にきわどい一戰をまじえておるのでございます。この政治に対して——今お話になりましたのは、今日お帰りになつて目に映つた日本人に対する御感想でありますが、今日新聞面に現われておりますところの政治に対して、何か一言お考えがありましたならば伺いたいと思います。
○日高参考人 政治面に関しましては、まだ資料も持ちませんし、深く分析、検討して見る余裕もなかつたので、ごく大ざつぱでありますが、現在各党派はいろいろな主義主張を持つて、日本の復興のために、敗戰後の民族独立自由のために活躍をしておられると思いますが、はたして国民大衆は、いずれかの党に絶対的な信頼を持つてついて行つておるかどうかということに、疑問を持つものであります。私はその点においては、増田官房長官を呼び出しておどすのもよいだろう、あるいは吉田首相にいろいろな疑問を投げかけて要請するのもよいだろう、しかし敗戰後の七千万の国民としては、もつともつと民族的な見解の上から、大乘的な見地からやるべきすべがあるのではないか。あまりにも日本民族ば、昔からあの戰国時代をかもし出しましたように、感情闘争と申しますか、あるいは思想闘争と申しますか、そうした小刻みの闘争を愛好する民族の惰性が、まだ拔け切つておらないのではないかというような感じを持つております。非常に大ざつぱで、つかみどころがなかつたと思いますが、もう少しじみに、じりじりと敗戰後の復興運動を進めて行つてもらう時期ではないか、こういうふうに考えております。
○堤委員 どうもありがとうございました。相前後いたしましてまことに失札でございましたが、どうかお帰りになりましたら、今日の参考人四人の方方は、御健康に気をつけられまして、一日も早く祖国再建のために活躍なさいますよう、お願い申し上げておきます。
○受田委員 私最初の方の皆様の御意見を拜聽する機会がなかつたのですが、一応今までの経過を委員長からお聞かせ願つたので、その中でまだ質問されていない事項について、ごく簡單に一、二お尋ねしたいと思います。 皆さんの御苦労の様子を拜聽しまして、一つ疑問に思つているところがあるのです。それはお言葉の中に、共産主義の思想を強制的に植えつけられた、そういう教育を受けたというお言葉があつたのでありますが、思想の自由という立場で、皆さんが在ソ中に一方的な思想を強制された、この事実を肯定なさいますか。
○日高参考人 肯定します。
○受田委員 全部の方が肯定なさいますか。
○東山参考人 肯定します。
○中村参考人 肯定します。
○会田参考人 自分の方は、強制的にやられませんでした。
○受田委員 どういうふうに……。
○会田参考人 自分らの方は、民主運動を始めたのは二十年の春だと思います。ソ連作業がえらく、将校の人に頼んでも全然要求を入れてくれない。それでこれはどうしても目分らの手でかちとらなければいけない、そういう意味で、民主運動をやつて将校をあげたのであります。そのために自分たちの中から長を立てて運営したのであります。それでずつと行つたのでありますが、ソ側の方では、お前たちの方でいくら民主主義者づらしてもだめだ、があがあ言つて仕事をやらぬ者はだめだといつて、ソ側では全然受付けてくれませんでした。しかし自分たちが楽しくやつて行けるのだつたらこの方がいいというので、やつて行つたのであります。
○受田委員 そうしたらあなた方の方は、自発的に民主運動をやられたというのですか。
○会田参考人 そうです。
○受田委員 そこで私疑問を抱くのでありますが、皆さんがこちらにお帰りになるのについて、非常に共産主義の思想の堅固な者でないと帰されないというような印象を、お受けになつてはおられないか。従つて、共産主義の思想が確立していない者はあとまわしにされるというような事実が、過去数年間の在ソ中におけるいろいろな情勢から判断されますかどうか、お伺いいたしたい。
○日高参考人 はつきり申しますと、帰還のための人選は、ある時期におきましては、民主委員がこれをやつておりました。それが逐次ソ連の官憲に移つて、MVDが人選するようになつたのであります。従つて民主委員会が人選をするにあたつては、あくまでそうした面にタツチして人選をやつたことは事実であります。
○東山参考人 私の実際に見て来たところでは、もちろん委員会の方は、それにタツチはしますが、最後にはやはりMVDの方でそれをやりました。たとえば、委員会の方で百名なら百名をMVDの方へ提出しましても、MVDの方で百二十名にもなれば、八十名にもなるというようなことがあります。それについては、必ず委員会がやつているということは言えないのじやないかと思います。
○受田委員 会田さんの御意見は……。
○会田参考人 自分らもそれには同感です。初めはそういうふうにやつたけれども、最後になつては、やはりソ側の方が少し手を出したのじやないかというように思つております。
○受田委員 今残留している人たちで、思想的な訓練を受けなければ、こちらに帰る可能性のないというようなことについて、不満を抱かれるお方はありませんか。
○会田参考人 自分らの地区においては、全然そういう話を聞いたことはないのです。
○日高参考人 現在は取調べが重点的になつておりまして、その取調べに関しまして、いわゆるアクチーブと申しますか、グループ員であつたなら、緩和をされる面がある。そうしてソ連でいうところの反動思想家というものは、同じ取調べにあたつても、苛酷な取調べを受けるという面は、はつきりしていると思います。従つて取調べにあたつては、何とかしてグループ員づらをする、共鳴者づらをするというのが、一般の心理ではないかと思つております。
○受田委員 そうしてナホトカに集結されて後に、思想的な転向をされるような人は、その乘船に際して手心を加えられるとかいうようなことがあつて、思想の自由が、出帆するまで非常に束縛を受けるという傾向がありますかどうか。
○日高参考人 事実あります。
○会田参考人 それはありました。
○受田委員 この機会に、お帰りになつた方の印象として伺いたい。引揚げ問題が今後いかに解決されるかということは、非常に国民の関心事であるわけですが、帰られる方々が、あそこでは思想的な束縛を受けるが、こちらへ帰つて国内の情勢を見て、急に気分がかわつて、自分たちが在ソ中に考えた日本の姿とは、よほどかわつていたというお気持から、引揚げられた後において、思想的な転向をはかる人が相当数あるように、われわれは認めておるのです。こういう点において、ソ連側で、こちらへ帰るまでに十分思想的な訓練をしておく、そうしてしつかり訓練のできたものでなければ、帰さないというような対策がとられておるとするならば、あとへ残された方々は、よほど要領をよく使われて、今、日高さんが申されたような、にせの共産主義者にでもなつてやるという苦労をする可能性があるかどうか。
○日高参考人 あると思います。特に前職者におきましては、ソ連当局が信ずるか信じぬかは別としまして、ある意味においてグループ員だ、民主主義者だということは、取調べの際にも、その後においても大切なことだと思います。私のおりました地区に一例をとりますと、ある作業違反をやつたときに、もしも民主委員でグループ員であつたならば、簡單に解決がつくものが、非グループ員で、思想的に反共的なものを持つておつたがために、いろいろなむずかしい取調べを受けなければならないというような事実もあつたということを、はつきり申し上げます。
○受田委員 私は今後の引揚げ問題として、一番関心のある問題は、残留者が幾らおられるかという問題と、その方々が一日も早くお帰りになるという問題とが重点であると思いますが、一日も早く帰るということについて、思想的な訓練を経た者から帰されて、あとに残された者は、はつきりしたものに仕上げられて帰されるということになると、引揚げがそれだけ遅れるということが言えると思います。あなた方はお帰りになられた立場から、この引揚げ問題は、今後順調に促進されるという印象を持つておられるかどうか、あるいはあとに残された方々は、非常に困難な立場で、苦痛の過程をたどるというふうな印象を持つておられるか、そこをちよつと伺いたいと思います。
○日高参考人 お答えいたします。それは一にソ連当局の戰犯水準を、どこに置くかということにかかつておると思います。今まで帰つて来た者は、反動と思われる者も一応帰されております。あとに残つておる者は、前職者として、いろいろな特殊勤務についおつたというような人でありますので、戰犯の水準というものを、この程度は戰犯にならないというように引下げれば、今残つている人も、すみやかに帰つて来ると思うわけであります。
○受田委員 あなた方の数年間の在ソ抑留生活の中において、終戰直後と最近との間におけるソ連側の待遇の波の変化について、終戰直後は非常にきゆうくつな抑留生活であつたが、漸次待遇がよくなつた、終戰直後の混乱の中から漸次落ちついて、最近においては抑留者をよほどよく待遇しておるというような発展段階をたどつて来たかどうか、お尋ねしたいと思います。
○日高参考人 この問題に関しましては、場所と時間というものが交錯しておると思います。ある地区においては、非常に惡い待遇を受けたり、ある地区においては、待遇がよかつたり、また今申されたように、時間の経過とともによくなつたということもありますけれども、ラーゲルの構成人員の内容ということによつても、その待遇が大分かわつて来たと思います。一般的に申しますならば、入ソ当初よりは、割合その待遇はよくなつたと私は考えます。しかし特殊なラーゲルから特殊なラーゲルに送られて行つている者は、そういうところの待遇はまず受けない。いわゆる向うからどんどん要求はされても、こちらの権利の主張というものはできないというような状況でありました。
○受田委員 あとに残つた方々が、ソ連側の待遇をよく受けて、多少帰還が遅れても、生命にも異常がない、生活も比較的安全である、終戰直後のように、多数の死亡者が出るとか、病気が発生するとか、非常に苦しい労役に服するとかいうような、いろいろな苦痛の段階を越えて、これからは比較的楽に抑留されるだろうというような期待が持てますかどうか。
○日高参考人 その問題に関しまして、一番心配しておるのは、年とつた方についてであります。入ソ以来すでに五つ、六つ年をとつておりますので、これらの人たちに対しては、一日も早く対策を講じてもらわないと、身体が参つてしまうと思います。私の最後におりました中部シベリアのカラカンダにおきましては、現在三月の上旬ですが、まだ零下三十度、四十度はあるわけであります。ここにおいて重労働をやつておる年とつておる方の身体の状態というものについては——特に満洲で高位高官でおられた方は、年配でもありますし、体力的にも気力的にも弱つておりますので、この人たちに対しては、早く救命をしていただく、それから若い人はまず楽観しておつても、その点はよいのではないかと思われる点があります。
○受田委員 満洲からあちらにまわられた東山さんにお伺いしたいのですが、満洲のときに一緒であつた同胞の皆さんと、その後中共地区における生活、その他の連絡などによつて、あちらの様子がわかるような機会はありませんでしたか。
○東山参考人 私は満洲には、もちろんおりましたけれども、停戰のときは軍におりまして、軍曹でおりました関係で、陣地におりました。それで地方人とは全然沒交渉でございます。四十五收容所に着きまして、初めて満洲の高位高官の方とお会いしたのであります。ですから、満洲の地方人がいかなることをやつたかということは、私わかりません。
○受田委員 今日も今ここに、茨城県の代表の方々がたくさん来ておられるのでありますが、ひとしく不安を持つておるのは、ソ連地区である、同時に中共地区なんです。その双方にわれわれの同胞多数が抑留されておるということに対して、向うの生活が非常に不安である。特に中共地区においては、内戰にも参画しておるような部隊もあることを聞き及んでおるのであります。こういう残留者の生活の脅威が與えられておるということに、遺家族はまつたく不安を感じておる。それで今、日高さんが言われたように、若い者はとにかく一応安心である、年寄りは非常に危機に瀕しておるというお言葉は、私非常に考えさせられる問題だと思うのです。同時に、中共地区のそうした内戰に、強制的に参画させられておる部隊についても、非常に憂慮しておるのであります。この際あなた方がお帰りになられて、こちらに待つておられた留守家族の方々と、ひとつ一体となつていただいて、この問題の解決に御努力願いたい。あなた方はお帰りになつたけれども、同時に、まだ残つておる人たちの救出について、全力を振われるということは、たいへん御苦労でありますが、ひとつこの国民運動に飛び込んでいただいて、皆様方のとうとい経験をもとにいたされて、留守家族の方々のよりよき味方となつてくださることをお願い申し上げて、私の質問を終りたいと思います。
○竹村委員 東山さんにひとつ伺いたいと思います。将官收容所というのですか、それの收容者が、三十名が最近二名になつて、非常に困つたということをおつしやつたのですが、この点についてひとつ聞きたいと思いますけれども、まず将官收容所におります将校の人は、何人ぐらいおりましたか。
○東山参考人 一九四九年の十二月三十一日現在、私はこの日の十三時にこの收容所を出発しました。この日現在ですと、日本軍の将官は、文官と憲兵大尉宮崎末雄氏を入れて、百十一名であります。それに勤務者といいますけれども、これは取調べのために残つております、これが二名、日本人は計百十三名であります。それに満洲関係は、皇帝以下三十七名であります。蒙古人三名を含めて四十名。それに中国人の勤務者十名、これが十二月二十日に四十五收容所に参りまして、これを入れまして、現在総員百六十三名になつております。それで私の現在知つております分は、かつて満洲国におつた日本人の文官ですが、この方々を将官の数から差引きまして、大体将官は百名余りじやないか、あるいは百数名になるじやないかと思つております。
○竹村委員 そうすると将官收容所におきましては、将校の人たちは何か生産的な作業をしておられるのですか。先ほどちよつと伺いましたけれども、約三十名が二名に減つて、炊事もしなくちやならぬ、洗濯もしなくちやならぬというので非常に因つておる、そういうお話でありますが、それ以外に、何かソ連の生産的な仕事をやつておられますか。
○東山参考人 別にソ連の国家に対する生産的な仕事というのは、全然ありません。この收容所は、特別收容所でして、全然外とは沒交渉で、さくの中だけであります。勤労者が三十名となつておるのですが、もうすでに二十八名帰りましたので、従つて将官が自活して行く上において、それに付随して来ることは、全部自分でやつて行くという現況になつております。
○竹村委員 それでは、察するところ、将官收容所におきましては、昔ながらの日本の軍隊のような、そうぜいたくなわけには参りませんけれども、大体今まで三十人という使役を使つて、別に生産的な仕事をやるでもなし、自分の自活のためにおやりになるということであります。これは使役といつては惡いですが、そういう形で生活をしておつた、こう考えてさしつかえないですか。
○東山参考人 三十名おりましたときは、確かに将官は、肉体的な、別に疲労するようなことはなかつたのですが、ただ取調べの点において精神的な苦痛はあつた。二十八名が帰りました現在では、寒さと給與があまりよくありませんので、その上に年をとつておりますといつたような関係上——大体平均年齡も六十歳と聞いておりますから、相当苦痛を感じておるのではないか、このように感じます。
○竹村委員 そういう状態のときに、いわゆる日本の兵隊で捕虜になつた人は——私たちもいろいろな方面からお話を伺つておるのですが、ソ連の建設的な仕事をやつておられる。しかしそこはやはり元の将官としての一応の待遇というか、不足かもしれませんが使役をつけて、そういう生活をしておつたということについては、これは当然だ、あるいは不足だとお考えになりますか。
○東山参考人 その点は、たとい現在捕虜であつても、元は将官でありまして、私は当然だと考えます。
○竹村委員 もう一つ違う方面でお伺いいたしたいのでありますが、たとえば、この三十名、あるいは将官の人たちに対して、いろいろな民主運動といつたことが起つておりますか。
○東山参考人 私たちが交代しましたのは、十月でありますが、私たちが交代する前は、ずつと三十名おつたのであります。その間、勤務者は取調べ、及び転属といつたようなことによりまして、若干人事の異動があつたようですが、あそこはもともと民主運動はやつておらなかつたのであります。ところがその後ハバロフスクに講習会が設けられたのであります。これは一つの学校であります。三箇月ここの講習会に行きまして、一箇月五十ルーブルの金をもらつて勉強ばかりしたところであります。名前は忘れましたが、ここを二人か三人出たそうです。その人たちによつて、民主運動が始められたそうです。将官の話を聞きますと、別に民主運動を——ほかの收容所については知らないのですが、おれたちもちよつと見たけれども、あんなものかといつたように、将官たちは話をしておりました。将官にマルクス、レーニン主義を持つて行きましても、頭から受けてくれないことは事実であります。
○竹村委員 そうすると、将官は別でありますけれども、別に強制して民主運動をやらなくちやならぬというようなことはなかつたんですね。
○東山参考人 別に強制されてやるというようなことはないと思います。私たち交代するまではやつておりましたけれども、あとで聞きますと、三十名は別にやりませんでした。
○竹村委員 それからひとつ中村さんにお伺いいたしたいのでございますけれども、先ほど大体一日三十円ないし四十円の日当で働いた、こうおつしやつておつたのでございますが、これは食費は一体幾らぐらいかかりますか。
○中村参考人 ちよつと私は耳が遠いので……。
○中山委員長 あなたが労働をしたときに、三十円ないし四十円もらつたが、食費は幾らかかりましたか。
○中村参考人 一日の食費としましては、二十円内外でございます。ぜいたくをすれば、際限はありませんけれども……。
○竹村委員 そうすると三十円、四十円というのは、非常に安いように聞えるのですが、大体生活費というのは二十円ないし三十円ということになつて、三箇月ほど働いて一千円ほどお残しになつたと先ほどおつしやつたのですが、働いておれば生活はできるのですね、また貯金もできるということになるわけですね。
○中村参考人 働いてさえおれば、けつこう食つて行くことは間違いありません。
○竹村委員 日高さんにひとつお伺いしたいのでございますが、先ほどどなたかの質問のときに、カラカンダにいるときに、日本共産党の書記長の徳田氏から、反動の者は帰すなというようなことを、木村隊かどつかから聞いたと言つておられますが、これは菅という通訳からお聞きになつたのですか、直接お聞きになつたのですか。
○日高参考人 私はもちろんその集会の責任者として、立会した菅通訳を通じてわれわれの耳にするのであります。われわれはそれほどロシヤ語も堪能でありませんし、その点ははつきりしておりません。
○竹村委員 いろいろ聞いておりますと、私たちも帰られた人からも聞いて——ここではないのですが、いろいろ聞いたところによりますと、どうも少し両方に食い違いがあるように聞えるのです。たとえば将校の方から言わせると、非常にひどいのだ、こういうふうに言つておられますが、兵卒の方から言わせると、またよいのだという人もあるのです。こういう点について日高さんは、入ソされてから向うにおいて働く間に、あなた方将校としては、やはり指揮権を持つて一番初めはやられた、それから民主運動が起つてから、将校としてのいわゆる指揮者としての地位が、だんだん違うようになつて来たというような径路はありませんか。
○日高参考人 その点について、自己宣伝のようでありますが、一例をとつて御説明申し上げたいと思います。私はベガワトのラーゲルの第八中隊長を命ぜられまして、一作業現場——これは大きな現場でありました。そこをもらつたのであります。自分の部下百五十名を連れて、いつも作業に行つておつたわけであります。民主運動が高揚して参りまして、次第にいわゆる共産主義といいますか、民主運動に反対をする分子といいますか、これらに対する排斥というものが、盛んになつて来たのであります。たまたまそのときに、私の中隊に長野県出身の、名前は忘れましたが、ある学校を卒業して来た人が参りまして、私とその人の間に猛烈な闘争をやつたわけであります。そのときに、私は中隊の全員の前で、私の考え方を発表すると、全員が拍手するわけであります。しかしその共産党の学校を出て来た男がいろいろな話をすると、一人も拍手をしないというような奇現象を呈したわけであります。そこでこのまま日高に中隊長をやらせておいたならば、われわれの收容所の民主運動というものは、成立しないということで、私が摘発をされて中隊長をやめさせられて、作業に出たというような事例があるわけであります。そういうふうに、何か收容所のソ連の官憲のバツクのもとに、そうした運動を——甲グループに入らなければ不利だぞ、日高の言うことに共鳴をしておつたならば、帰れないのだぞというような宣伝をやるわけであります。それは将校とか、兵とか、下士官とかいう立場を別にしまして、確かにそこは階級闘争でなくて、思想闘争だつたと思います。そういうことが事実私の体験したところでありますので、その点ははつきり認識してもらいたい、こう思うのであります。
○竹村委員 ちよつとはつきり聞きたいのですが、大体その民主運動なんかやる人も、全部が全部ロシヤ語を知つておる人はないと思う。そういたしますと、そのソ連の袖に隠れるということは、通訳を通じて隠れるのだと私は思うので。そうすると大体通訳できるような人は、結局においては学校を出た人でないと、なかなかわれわれ労働者や農民では、ちよつとロシヤ語はあやつれないと思うのです。そういう通訳を通じてやられたところに、間違いなんかがあつたとお考えになつたことはありませんか。
○日高参考人 そういうことに関しては、言つたことが間違いがあつたとか、間違いでないとかいうようなことは、その点においては感じません。われわれはあくまで通訳の言うことが正しいのだと思つて聞いているわけであります。ロシヤ語がうまいとか、通訳のロシヤ語の通訳技術を批判をするとか、そんなことは成り立たぬわけであります。あくまでわれわれは通訳から聞くことが、いわゆるソ連からの達しである、そういうことは、はつきりしているわけであります。
○竹村委員 私はそういう議論をしているのではない、聞き違えておられるので、一点だけを聞いているのです。つまり民主運動が隊内に盛んに起つた。先ほどあなたの体験をお話になりましたように、自分が一生懸命にやつて皆から拍手を受けている、民主グループの人は拍手を受けなかつた、それで自分は中隊長をやめさせられて、どこそこへやられた。こういうことは、先ほどあなたがおつしやつたように、その民主グループの責任者なるものが、これは私は間違つていると思うのです。その間違つた人が、あなたに中隊長をやめさすことができ得るというのは、その人がソ連語がうまいのか、あるいは通訳を通じてあなたのことを惡く言つたので、あなたが左遷させられたと思うのですが、そういう場合に、そういう通訳のロシヤ語をあやつるような人が、正直なことを言えば——おそらくそうじやないと思うのですが、正直なことを言われぬから、そういうふうなことになつたのですか、そういうことについて、お感じになつたことはありませんか。
○日高参考人 そこでおもしろい立場におるのが、朝鮮人の通訳です。朝鮮人の通訳のこれらの横暴というものは、一日や二日しやべつても、しやべり切れないほどの内容があつたのであります。いわゆる朝鮮人の通訳に、日本人の小りこうな共産党の学校あたりを出て来たやつが迎合をする。そうすると朝鮮人の通訳はそれらを利用して、自分たちの私生活をゆたかにしようとはかる、そこに朝鮮人の通訳の大きな誤謬というものがあつたと思います。これらをまた利用せんとする、それらのいわゆるアクチーブ連中、また朝鮮人とソ連官憲との関係、非常に複雑怪奇な朝鮮人の誤謬があつたと思います。またそれを利用したグループの誤謬があつたと私は思います。
○竹村委員 それではもう一つお聞きしたいのですが、たとえばあなたが指揮官であられたときに、いろいろ向うから割り当てられたノルマ作業をやる場合において、あなたも一緒におやりになつたのですか、それをひとつ伺いたい。
○日高参考人 入ソ当初におきましては、これは大隊長の方針で、指揮官はいわゆる現場監督との折衝に当るとか、あるいは危害予防監視とか、あるいは器具の公平分配とか、いろいろな作業指揮上必要なる任務があるわけであります。当初は大隊長の方針として、指揮官は作業をしてはいけない、またソ連の方の收容所長の命令によりまして、中隊長は作業をしてはいけない、監視をしておれというようなことをいわれたわけでありますが、自然自分の部下が作業ノルマに追われて、あのひどい給與で働いているのを見ますと、なかなかわれわれはただ作業指揮だけをとつているわけにいかぬ、自然そこに作業に飛び込んでやるということになつて来たわけであります。私も中隊長時代から、ほんとうに皆の中に飛び込んでやつた者の一人であります。それは証明してくれる何百人かの帰還者があると思います。従つて私のラーゲル三千二百人の中で、一番作業ノルマを上げたのは、私の第八中隊であつた。これを証明し得る人も、たくさんあると思います。現場からも重宝がられました。また部下をかわいがつて一緒にやつたので、信頼を博しました。家に帰りましても、手紙がたくさん参つております。私の帰還を非常に喜んでくれております。将来とも頼むという手紙が、たくさん参つております。それはそういう当時における單なる思想的闘争とか、感情の対立とか、打算的な気持でなくて、人間としての、日本人としてのつながりが、今日書簡の上に現われて来たという気持を持つております。
○竹村委員 もう一点だけお伺いいたしたいのですが、もちろんあなたの方では、そういうふうにりつばに現場でおやりになつた。そうして先ほどからお伺いいたしますと、たとえば、今残つておる者を帰すという場合におきましては、いわゆる戰犯の水準、これが基本になると、どなたもおつしやつたのでございます。そういう今日の状態に至つておるときに、一応あなたは、初めからおつしやる通りに、いろいろ各收容所をまわり、そうして民主運動に参加しなくて、前歴が将校であつたというので、いろいろ苦労されたということをおつしやつておるのでございますが、そうして向うから疑いの目をもつて見られておつた、こうおつしやつておる人、そのあなたが今日お帰りになつておる事実こそ、現場において一生懸命裸となつて、兵士とともに働いたということがあずかつて力があつたとお考えになりませんか。そうでなかつたならば、おそらく戰犯の水準が下らなければ、向うにおらなければならなかつたというような感じはありませんか、お伺いいたします。
○日高参考人 むずかしい問題で、民主運動の内容云々は別といたしまして、私は在ソ間最も民主的な男であつたと考えております。私はただ共産党にこそ共鳴しなかつただけで、最も民主的な男であつたと、自分でもはつきり確信を持つております。それかといつて、今何も共産党と闘うのではなく、お互いに共同闘争できるところは、ともにやつて行くという気持を持つております。従つて私は、在ソ問における私の思想というものが、自分では民主主義者であつても、ソ連から、あるいはグループ員から言わせると、これは反共的な民主主義者であるというところに、彼らはいろいろ難くせをつけて、私を反動として取上げただけであつて、自分としては、私が一番民主主義者でなくてだれであろう、という自信さえ持つことがあります。今度帰り得たゆえんのものは、私は結局調査内容は、半分は前職者の容疑者、すなわち満洲にあつて、対ソ諜報をやつておらなかつたか。半分は反動分子、反共分子として、一つの団体を組織し、そうして大木という委員長がおりましたが、これに対するところの暗殺事件をお前は計画しなかつたかというような、ありもしないことさえ言いかけて来たことがあります。半分は思想的、半分は前職の疑いというもので、私は闘つて来たのでありますが、私はいかなるところの拷問にも屈せず、断固として、否定し続けて来た関係で、今日帰してくれたのだと思います。
○竹村委員 私は、共産党に入らなければ民主主義者でないとは、考えてないので、誤解のないようにお願いいたします。私はそのことであなたと議論しているのではなくて、実際引揚げの問題をどうするかという問題で、お聞きしたいと思うのです。その点はつきりしておきたいと思います。なお、もう一つお聞きしたいのは、そうすると先ほどから問題になつておりますところの、残つておる人は、戰犯の水準が引下げられなければ、戰犯として扱われる人たちだというようなことをお聞きしたのですが、それは戰犯としての水準がかえられなければ、やはり戰犯として扱われるのではないかという人だけが残つておると思われますか。
○日高参考人 その点一例をあげますと、カラカンダの第一收容所に二百五十名おります。この二百五十名は、中支派遣の三十九師団管轄の将兵であります。これの半分二百五十名は、私たちとともに帰つて来ております。あとの二百五十名は、いわゆる作業中放火をやつたとか、あるいは殺戮をやつたというその書類に署名をしたために、残つておると聞いております。従つて、ソ連当局でこれを戰犯として取上げるか取上げないかということによつて、彼らが帰還するかしないかということが、はつきりして来ると思います。だが、私の見通しとしては、帰つて来るんじやないか、こういう予感がいたします。 なお十五分所に三百名の前職者、つまり憲兵、警察、特機、その他の特殊人物がいますが、これらは今盛んに取調べを受けております。特にこれらの資料がカラカンダ地区にないために、ハバロフスクからは、飛行機で三日目ごとに情報の交流があつて、調査をやつております。そういうふうに、非常に深刻に調査をやつております。ハバロフスクからはもちろん、モスクワかり憲兵の大佐、あるいは少佐がやつて来て調べております。従つてどういう点が、どういう水準でもつて、戰犯とみなすかいなかということによつて、彼らが帰り得るかどうかということが、はつきりして来ると思います。私たちから言わせると、当然われわれと同じような人が残つておりますし、帰つて来ることと思いますが、向うの書類がどうなつておるかということが、わからないわけであります。
○竹村委員 四人のうち、どなたか知つておられたら、お教え願いたいのですが、終戰当時満洲におつた関東軍のうちで、終戰直前に南方に転出した部隊が相当ある。しかしそれが通信その他の関係で、満洲におつたことになつておるという部面もあるのでありますが、このことについてお知りになつていたらお答え願いたいと思います。
○会田参考人 ありません。
○日高参考人 私もありません。
○竹村委員 それではもう一点だけお聞きしたいのですが、これは一昨年だつたと思いますが、その六月か七月ごろに、向うの幣制改革が行われました。その以前とあととの生活状態の相違、それについて知つておられたら伺いたい。
○日高参考人 それは市民の生活状態でありますか。
○竹村委員 あなた方の捕虜としての生活がかわらなかつたか、あるいはかわつたかということです。
○日高参考人 われわれの生活費は、四百二十六ルーブルとられておりました。それが平価切下げになつたため、安くなりはせぬかという感じをみな持つておつたのでありますが、依然として、そのままで押して行かれたように思つております。そういう点、若干疑問を持つておりますが、一般市民の生活としましては、その後非常に楽になつて来た点があるのじやないかと思つております。経済学者でないので、具体的な事象を申し上げることはできませんが、その点は確かに散見をいたしました。
○春日委員 今の質問に関連します点から先に聞きますが、日高さんのお話を聞いておりますと、今後帰るには、戰犯の水準を切下げねばならないということも言われておるし、残つておる人たち、たとえばカラカンダにおる二百五十人の人たちも、大体戰犯として取調べられたか、あるいは書類にそういうようなものがあるというようなことを言われておるのですが、そうすると、大体そういう関係でない者は、みな帰つてしまつたというようにお考えになりますか。
○日高参考人 私の知つておる範囲におきましては、ほとんど引揚げたのではないかと思います。しかし先ほども申し上げました北極方面、あるいはカムチヤツカ方面の話も聞いておりますが、それらに関しては、全然見当がつきません。私たちの住んで来た地区は、大体引揚げたのではないかと思われます。特に中央アジアです。
○春日委員 大体みな質問されたのですが、あなたのおられたラーゲルの構成、特に民主運動をやつておつた人たちと、そうでない人たちとの比率ということについて伺いたい。
○日高参考人 それは、表面的にやつているのも見ますが、ほとんどやつておつたと思います。最後まで、いわゆる赤い標識をつけなかつたのは、三名だと記憶しております。私とほかに二名、三名だけが最後まで標識をつけなかつたのではないかと記憶しております。
○春日委員 今日の、いろいろな参考人の証言を聞いておりますと、これはむりのない話ですが、非常に主観的なんです。たとえば、さつきの拷問の話でも、ほかの人たちがお聞きになれば、ひどいことをしているとお聞きになるが、私は十三年監獄に入れられて、十三年間、人と話をさせられなかつた。日本語を忘れてしまいそうだつた。それから見ると、おれにはぴんと来ない、私には楽だと思える。それは主観的なことなんで、それを私はよいとか惡いとかと言うのではないが、しかしそういう点でずつと聞いたところでは、将校の人たちが比較的多い。全部が全部じやないですよ、将校だつて共産党に入つているのもあるし、兵卒だつて反共をやつている人もあるけれども、比較的、私ども帰つて来た人々に方々で会つてみると、将校の人たちに、一般に共産党を惡く言うのが多い。そこで、あなたの方では、思想教育を強制的にやられたと言われましたけれども、どういう方法で、どういうふうに強制されたか、この点ひとつお聞きしたいのです
○日高参考人 この件に関しましては、大分長くなりますから、参考になると思われる一つ、二つの事例をあげて申し上げたいと思います。 たとえば五月一日のメーデーが来たというようなときを想像していただきます。そのときは、五月一日のメーデーの一箇月ぐらい前から、まず労働運動を展開する。そうしてわれわれには、働かなければならない、労働こそソ同盟の、民主主義国家の、祖国の強化である、こういうことで食つてかかつて来るわけであります。これは一応われわれ捕虜としては考えられるし、ソ同盟の強化もやらなければならぬというので共鳴します。しかし夜間において、今度は政治教育を始めます。そのときに、思想は自由である、教育を受けるも受けないも自由である、出たくなければ出なくてもよろしい、こう宣伝をしながら、事実出なかつたらどうするかという問題であります。さつそく大衆集会にひつぱり出されて、つるし上げを受ける。そういうことがいわば恐ろしい、いわばはずかしい、いわば苦しいというので、ひつぱり出されたという人が数知らずです。これは一例ですが、そういうふうに、教育というものが非常に強要されて来た。やらずんば、しからばほかの手でというような方法で教育を強要されている、これは事実であります。
○春日委員 今のメーデーの話なんかは、日本の労働者は、今からメーデーの準備をしております、だから別にふしぎはない、労働者の国で、国家的にメーデーを準備するのはあたりまえだ。しかし夜間に政治教育をやる、それに出なければ大衆集会でつるし上げる、これはソ連の当局がつるし上げるのですか。
○日高参考人 それに関しては、表面は日本軍捕虜や民主委員会でやります。しかし裏面には、ソ連の政治将校、政治部門の指導があります。これははつきりしております。
○春日委員 それでは会田参考人にお聞きしますが、あなたの方ではそういうことはない、あなた方が勉強されたということを言われて、さつき大分話が違つておつた。あなたの方は、そう強制されなかつた、むしろ自分たちが民主運動をやつて、将校をおつぱらつたと言われた。あなたの方では、そういうふうな教育を強制され、そうしてソ連の政治将校が指導したというようなことをお感じになりましたか、つるし上げを指導したというようなことを……。
○会田参考人 自分らの方では、ソ同盟の方でやつたかもしれませんが、別に表面に出たことはないと思います。自分の方で民主運動の始まつたのは、二十二年の三月ごろだつたと思います。そのときに、将校を全部つるし上げたのであります。その場合に大衆が、どうして将校を全部つるし上げるか、あの将校は兵隊にもよいし、また指揮官としても、とてもよいのではないか、そう言うたのでありますが、将校は全部反動だというので、全部つるし上げたのであります。しかしながら大衆は、将校の中においても、いい者もあるし、また惡い者もある。惡いやつはつるし上げて、いい人はそのまま置いたらいいじやないかと言つた。けれども、そのときアクチーブの言うのに、将校というのは全部だめだ、そういうわけだつたのであります。それで結局将校を全部つるし上げて、今度はそのアクチーブ連中が上に立つた。それでどういうことをやつたかというと、みんなを作業に出したのであります。そのあとで、みんな作業に出たから一眠りしようじやないかと言つていた。そうして三時ごろになつて、そろそろみんな帰つて来るから、少し勉強して、今晩の演説をやらなければならぬ、そういうことを営内勤務の人から聞いたのであります。そこで、そんなやつではだめだというので、またその人たちを落して、ほかの者が立つたのであります。現在ソ連でやつて来た運動は、大方こんなものです。ほんとうにみんなと働いて、そうして勉強した人というのは、幾らもないと思います。
○春日委員 それは非常にけつこうだと思います。私もそうだと思います。選挙して惡いやつが出たら、また落していい者が出る、それでけつこうだと思います。そうすると、別につるし上げられるのがこわいから——民主主義者のバツジをつける、つけぬは、本人の卑屈な根性で、どうにもならぬけれども、しかし強制的にソ連でやらしたということじやないわけですね。
○会田参考人 そうです。
○春日委員 アクチーブがつるし上げたにしても、そのアクチーブがつるし上げられて、自分がとつてかわつたということにしても、ソ連がつるし上げをやつて、お前たちは帰してやるということを保障しているわけではないのですね。
○会田参考人 違います。
○春日委員 よくわかりました。もう一つお聞きしたいのですが、東山君ですか、船の中に来て、あなたは日本新聞が非常にでたらめだということがわかつたと言われたけれども、船の中で復員官、看護婦その他船員から、大体どういうようなことをお聞きになつたのですか。
○東山参考人 私たちが船に乘りましてから、ほんとうの話、珍しかつたのは日本人の看護婦です。四年半も女性は全然見ておりませんから、一人の看護婦に二十人、三十人と固まつて、女性の声を聞くだけでうれしい、これは事実です。そのとき聞いたのは、まず日本の経済状態でした。経済状態といいましても、帰つてからとにかく食つて行く物価を聞いた。そのとき、高いことは高いけれども、お金さえあつたら何でも買えますというわけです。そのお金はもらえますか。何とかやつて行けます。こういつたわけです。ところがソ連におりましたときは、餓死しておるということであつた。餓死しておるという状態と、高いことは高いけれども、何とかやつて行けるという、この相違。餓死しておるというのと、やつて行けるというのと、大きな差があるのであります。こういつた話を私たちは……。
○春日委員 そこに非常に重要な点があると思うのです。日本新聞はでたらめだと言われたが、その船員なり看護婦から聞いたことは、すぐほんとうだと信じたのですか、その点を聞きたい。
○東山参考人 もちろん私は、日本人の言うことを全面的には信用していません。それかといつて、ただ一方的な話を聞いて、それが全面的にすべてそうであるというふうには肯定できないと思います。日本新聞なんかに、そういつた報道をやつておつたというところから、私は日本新聞はでたらめな報道をやつておつたのではないか、このように考えておるのであります。
○春日委員 それでは、日本新聞はそう言つておつた。確かにインフレ問題で、この二、三年前は国会で大問題になつた、これは確かです。それからお金さえあれば食つて行けるというが、食つて行ける人もある、しかし私みたいにやせたのもある。たとえばこの国会で専売の裁定の問題が問題にされた。あの場合に、専売局の女の子が二千九百円から三千二百円の給料では食つて行けない。私は事実人から聞いて知つているのですが、日高君もこれが日本の女性かといつて非常に憤慨された。私も嘆いておるけれども、この安い給料のためにパンパンをやつておる者がたくさんある、これは事実だ。十二月には三十分に一人ずつの割合で自殺しておる、これも事実だ。しかしあなたは、幸いに家庭が裕福で、まあ六箇月ぐらいは保養していいというだけの余裕がおありになる、だから日本に帰つて来てそれほど人民が苦しんでいないとお思いになるかもしれない。そういう立場からごらんになつて、日本新聞が日本人民は餓死しているといつたことはでたらめだと言つておるが、現に餓死しておる実情は幾らでも見られる。これはあなたの環境から来る感じですね、そういうふうに受取つてよいですね。
○東山参考人 もちろんそうでございます。
○春日委員 最後にもう一つお聞きしたいのですが、そうすると結局私ずつと午前中からお聞きしておつて受けた印象では、やはりその人の立場、家庭の環境から、またその前の経歴や、向うへ行つてからの生活や、いろいろこういう立場によつて、その人々の報告することが食い違つて来るということは、これは当然食い違うべきものだということが明らかなように思うのですが、その点はどうですか。
○日高参考人 その質問は、非常にむずかしい質問でありまして、お答えすることもなかなか困難と思います。私の申し上げたことは、あくまで日高個人の主観的な意見というものが多いと思います。あるいは客観的なものもあつたと思いますが、参考としては、あくまで私の主観的なものであるということを、一応お含みおき願いたいと思います。
○春日委員 それじや大体そういうことがはつきりしておれば、参考人の証言というようなものの扱いもはつきりして来るから、これで私の質問を打切ります。
○中山委員長 ほかに御質問はございませんか。——ありませんければ、委員会の予定いたしておきました明日は必要がなくなりましたので、御了承願います。 なお一木、今村参考人の取扱いについてお諮りいたします。ただいま電報にて欠席事情を問い合せておりますが、もし返答がありました場合は、理事の方々と御相談いたしてきめたいと存じます。さようとりはからうことに御異議ございませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○中山委員長 それではさようにいたします。 長時間にわたりまして、参考人から貴重なる事情を聽取いたしましたことに対して、深く感謝をいたしております。各参考人の述べられましたことをもとにいたしまして、本委員会といたしましては、さらに調査を進めて参りたいと存じます。どうもありがとうございました。 さらに三月三日の理事会におきまして、中共地区の残留同胞の実情を聽取するため、中共地区よりの引揚者より、数名を参考人として本委員会に来ていただくことにいたしたのでありますが、あらためて委員会にお諮りいたします。さように決定いたすに御異議ございませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○中山委員長 御異議なしと認めます。それではさようにいたしまして、人員、氏名、呼出し月日等につきましては、理事会に御一任を願いますことに御異議ございませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○中山委員長 それではさよう決定いたします。 ただいまの委員会におきまして、不穏当なる発言がありましたならば、速記録を取調べまして委員長において適当に改めることに御異議ございませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○中山委員長 それではさようにいたします。 本日はこれにて散会いたします。次会は公報をもつてお知らせいたします。 午後四時五分散会