文部委員会 第21号
- 発言数
- 12 件
- 登壇者
- 4 名
- 会派数
- 4
- 開催日
- 1949/05/18
会議録
○原委員長 ただいまより会議を開きます。筆記でいたしますが御異議ありませんか。 〔「異議なし」と呼ぶものあり〕
○原委員長 この際委員外の浦口議員より発言を求められています。これを許すに御異議ありませんか。 〔「異議なし」と呼ぶものあり〕
○原委員長 それでは発言を許します。
○浦口鉄男君 私のため貴重な時間をさいてくださまして、まことにありがとうございます。私は法隆寺の災害に関して、若干お伺いいたし、あわせて私の意見を述べたいと存じます。 まず私は法隆寺金堂火災に至るまでの保存工事事務所内の実情の概要を申し述べます。 日本最古の文化、再考の日本美術の殿堂を汚濁したことは、最も遺憾とするところであります。法隆寺國宝保存工事事務所の最高責任者である大岡実氏と技師浅野清氏とが、学界、美術界、建築界に王座を占める法隆寺をその他位と社会的好条件とを利用して運営した保存工事のないように、不可解な非民主的な点少しとしなかつたので、これが反省について従業員は忠告を呈したのでありますが、用いられず不明朗な雰囲気のうちに今回の火災となつたのであります。この不祥事の惹起については慎重に実相をきわめ、正しく責任の帰趨を求めねばならないと思うのであります。前工事事務所長岸熊吉氏(昭和二十年四月退職)前々所長古宇田実氏(昭和一六年六月退職)の退職はその険に大岡、浅野実氏の術策があるのであります。当時大岡氏は保存事業部の部員、その後幹事となり、文部技師となり、法隆寺保存事業の遂行についてかぎを握る高級な地位にあり、思うままに工事を運営せんとして、古宇田氏及び岸氏らの所長権を認めず、あるいは無視し、あるいは言を構えて古宇田氏に瀬戸高等学校長と兼務なるがゆえに、また岸氏は奈良市在住が少いがゆえに工事に専心するに困難なりとしてその席におられない羽目に陥れ、遂に退職のやむなきに至らしめたのであります。古宇田氏は佛教に帰依することあつき信仰の人であり、岸氏また法隆寺との縁故三十余年、太子精神に徹した篤厚の士であり、ともに法隆寺復旧を安んじて委嘱するに足る練達の建築家出あつたのであります。昭和二十年四月岸熊吉氏を工事事務所長のいすから去らしめ、そのあとに所長事務取扱として浅野氏が任命されたのでありますが、このごろより大岡、浅野両氏の謀略の萌芽を見るのであります。二十一年七月ごろ大岡氏が正式所長に任ぜられるや、両人の工事に処する行動は一層露骨の度を増し、大岡所長は平素は東京にあり、工事事務代行として浅野氏が金権を握つて工事を支配し、独断専行の挙動は、現場員のまゆをひそめさせたのでありまして、以下具体的な事例を申し述べます。 一、工事の実務よりも自身の研究に没頭したことであります。浅野氏は講演、著述用の個人の原稿や原図を所員に助力させ、はなはだしきは模写画家をして建築製図に着色彩画せしめ、時間と公費とを私用に供し、また修理工事に関係なき構造調査などを行い、あるいは行わんとしたのであります。これらは工事に関係なく、まつたく私事に公の機関を用いんとしたものであります。 二、建築模型の濫作であります。工事完遂に名をかり、事業の重要性を一般に認識させると称して、必要以上に模型標本をつくり、わずかしかない工事費をさいたのであります。たとえば、保存工事開設初期には、西円堂の素屋根の模型をわずかな費用でつくつても、寺側の反対があつたのでありますが、当時は工事事務所の機構も整い、行き過ぎを是正する良識があつたのに、浅野氏の場合には、だれもこれをとがめる者がなかつたのであります。 三、現場従業員に工事遂行の実態を専えぬことであります。昭和二十一年十月、聖霊院工事を奈良縣下の株式会社天御津組に請負わせたのでありますが、この事情を一切所員に知らせず、大岡、浅野両氏の間で契約したのであります。その仕方や内容が公正でないので後日所員が浅野氏に、あまりかつてなことをするなと訴えたこともあります。また昭和二十三年二月七日には、大岡、浅野両氏ら同席の事業部員多数出席の場所で、公正な意見を持ち、再建に最も熱心な寺の出入りの大工棟梁西岡常一氏が聖霊院工事はやみ取引であつたと叫び、このときに両氏らの不明朗な行動が公開されたのであります。聖霊院工事は寺の出入り職人の憤激を買い、従業員の心は大岡、浅野両氏から急激に離反したのであります。寺側もこの事情は知らず、浅野技師は自分だけおれば法隆寺保存工事はできると放言として反感を買つていたのであります。聖霊院工事の概要を申しますと、最初西岡氏から工事請負の見積を徹しこれが二十万円、次ぎに天御津組に見積りをさせましたが、見積額十八万五千円で、契約いたしました。あらかじめ大岡、浅野両氏の腹案でこの見積りをさせたと見られる節があるのでありまして、請負工事の内容も完全な設計書もなく、ただ竣成を昭和二十二年九月としたのであります。天御津組は工事の下請を中岡という大工にさせましたが、これは国宝修班の経験もなく、技術も優秀ではなかつたのであります。さらに工事費は昭和二十二年六月物價騰貴ということで、二十万円増加を要求され、しかも工事の竣成も期限にはできず、工事費がますますかさむので、心配した寺からの再三の督促で翌二十三年五月にようやく竣成式をあげましたが、実際はその年の十月までかかり、施工費四十六万円を拂つて契約の二倍以上になり、期限も一箇年以上遅れました。 第四に、工事を私営のように世人に思わせたことがあります。昭和九年着手以来、二十年四月岸所長対所までは、工事の現況報告、珍奇な資料の発県等のニュースは、工事事務所談として新聞に発表せられましたが、浅野氏が所長事務所長扱となつてからは、ことごとく浅野清氏談となり、いかなる場合でも浅野氏は責任者として発表しました。そのために金堂等を参観する者の中には、法隆寺工事は浅野氏の個人的事業かと思い、許可なく自由に出入して、寺側から注意された事実もあります。 第五に、不可解な人事についてであります。昭和十四年に優秀な技術員として特に九州の國宝修繕工事から法隆寺に迎えた古西技手を、昭和二十一年七月に杢技手が着手してからの技術面から擁し会計事務に当たらせたのであります。当時他の従業員はその不当を鳴らしたそうでありますが、これに対して大岡所長は、会計事務はかえつて技術家の古西技手のような人の方が理解がありスムーズに行くから、気の毒でも承知してくれと言われ、やむなく古西氏も承諾したそうであります。ところがこの結果は、優秀な技術家を浅野氏給仕小使の役ところにまわすこととなり、工事上の重要なことには一切介入せしめないという、一種の謀略にかかり、その以前から、すなわち昭和二十年七月戦争中の奉仕隊として古野工業学校生徒四十名が工事に従事したときも、前日まで一言の話もなく、当日に至つて浅野氏より、三、四箇月の宿泊に対するまかない、食糧の買入れ世話等を古西氏に命ずる等のことをやつているのであり、工事事務所において従業員の信頼厚き古西氏を法隆寺より、しまいには追い立てんともしたのであります。昭和二十三年七月ごろ大岡氏より古西氏に出雲大社の工事に行けと言われ、古西氏にあくまでも法隆寺保存工事から離れたくない、どんな端役でも、あるいは虐待されても、この事業に身を挺し、その昔太子の御事業の一部であつた法隆寺伽藍造営その昭和改修の光栄ある仕事を当事者として完成するまではいたいというので、大岡氏は浅野氏の入れ知惠もあり、東京に帰つて國立博物館の国宝修理保存課で課員を集め、古西氏の言を歪曲して出雲大社工事に出ることを承知した、また法隆寺所長も承知したと報告したのであります。とこるが課員は実情を知つていたので、古西氏が出るはずもないし、まだかくのごとき経験者を法隆寺から離して、いなかへまわすことに、全國宝現場員の士気にも影響し、いたずらに反感を買うのみであつ、専断は慎まれたいと反対したので、この人事は行われなかつたのでありますが、古西氏追出しの際の糸を引く者は浅野技師であり、古西氏は第三流のいなか向きの技術者であると人に放言し、実際にうとい大岡所長は、これをうのみにしたものであります。従つて火災後この対策を立てるにあたつて古西氏を急に金堂工事の主任に命じたのも、所長として一切の実権を浅野氏に委ねていた大岡氏の定見も随時もなかつた補佐であります。大岡氏ただ金さえあれば優秀な技術などなくとも保存事業は行えると考えていたのであります。これに対し伊東忠太顧問は昭和二十二年五月、法隆寺で開かれた協議会の席上、法隆寺の保存工事という特殊性のものは、金ばかりでできるものではないと、大岡氏の謁見を指摘した事実があるのであります。 古西氏追出しに失敗した両氏はに技術員清水政春氏を大阪府の金閣寺修理に移動させんとしたのであります。理由は法隆寺では待遇も悪いし特来ためにもよくないといつたのでありますが、清水氏はいかに不遇でも法隆寺再建のために踏みとどまるという正論をもつてしたので、この提案もくずれたわけであります。古西、清水両氏とも現場従業員に敬愛信頼されていた人であつて、まことにふしぎな人事を大岡、浅野両氏も考えたものであります。 元来、大岡、浅野両氏のつながりはいつのことからかわかりませんが、昭和二十四年四月に岸氏が所長を退任して以来、一時浅野氏を所長事務所に命じ、また事業部員や博物館保存課員の知らぬ間に、文部技官に任命したりして、浅野氏を遇することは異常なものがあつたのであります。大岡氏に博物館の修理保存課長であり、文部技官であり、法隆寺事務所所長であるという便利な條件を利用して、正規の手続をふまず工事費を支出した事実もあり、重大なこの事業を二人で專断しようとした事実は、将来のため、法隆寺再建のためにも重大な問題として明白にしなければならないと思います。 大岡氏がほとんど東京にいるため、浅野氏は所長代理各で実権を握り、外部の人間にはきわめて親切だが、従業員には過酷であると部下の定評があつた。古西氏はこのため昭和二十二年三月、文部省文化課の武井事務官に会見した際も、浅野氏独断に対して所員が氏から離反するばかりでなく、仕事の停滞、士氣の弛緩等工事に不安を感せしめるから善処されたいと注意進言し、当時多さか時事新報に掲載された浅野氏への非難の記事を示したが、事務官は大して耳もかさなかつたのであります。ところが昭和二十三年五月法隆の保存協議会が開催された当時、たまたま大和タイムス紙に浅野技師を非難した記事があり、このころから大岡、浅野両氏の行動に識者は疑惑の目を向けるようになつたのであります。当時工事運営に独断専横をきわめた人物が、一たび一大不祥事を惹起するや、責任を回避せんとすることは陋劣きわまることで、大切な文化財を託しておいたことは眞に寒心にたえないのであります。日ごろ口癖のように、責任はどんな場合でもとると言いながら、単に免職だけでは事は済まないと思うのであります。 最後に、もう一件奇怪な人事があります。それは五重塔工事主任に大阪より竹原吉助氏を迎えた問題であります。竹原氏は大阪で國宝修理二、三箇所を受持ち法隆寺へ来ることは好まなかつたりでありますが、それをむりに承知させて、事業部技手に任命したのであります。昭和二十三年二月末に発令したのでありますが、本人は五月に入つて始めて顔を出し、一箇月のうち十五日ぐらいしか法隆寺には出て来ないのであります。五重塔再建は法隆寺伽藍の主軸をなすもので最も重大にもかかわらず、その人事がかように出たためであつて、法隆寺再建ができるであろうか、大岡所長はこれをいかに弁明しても、その無誠意は明白であります。 第六に、保存工事を壟断して事業部員及び工事事務所員を誑惑した事実であります。この事例はたくさんあるので簡略して申しますが、昭和二十二年末から二十三年初頭ごろから、法隆寺展覧会を東京に開催する検討を始めたのであります。大岡、浅野両氏が主謀となり、そのためには肝心の本工事を忘れ、これを犠牲にしても悔いない態度をとり、あとに申し上げますように壁画模写の促進となつて無理をしたことが、今回の金堂火災の最大原因をなつたのであるから、当然法隆寺展の計画は断絶したものと思われたのに、両氏はさらに陰に動いて開催の準備を進め、遂に今年四月某日、國立博物館員数名が運送屋を引具して現地に出品方を以来に乗り込んで来たのであります。そのとき、現地員がその目録を見て驚いたのは、金堂、五重塔の建築部材多数が列記されていることであります。しかもそれまで一度の内交渉もなく、まつたく両人がその顔を利用して、いまだにかつてに法隆寺を扱い、独断的に計画を立てたものであるとして、現地員一同は反対して出品を拒否したのであります。これら重要なる部材の破損紛失が、いかに法隆寺再建に致命的なものとなるか思うだに驚くべき非常識な態度であると思うのであります。 さらに奇怪なことは、これを契機として判明したところによれば、正式な預り証をとらずに、奈良博物館分館及び國立博物館に、今までに建築部材その他を貸与していたことであります。両人以外、何の記録もなくこれが出ていたということは、不祥事態惹起の際にける責任はどうなるか。貴重な國宝物件を無償にひとしい方法で移動貸与する軽率さは関係者一同が憤慨するのも当然であると思うのであります。しかして両人はその人事に対する識者の非難勧告により昭和二十三年十月二十四日、形式的に事務分担を定めたのでありますが、実際には従来通り一箇月に一度くらいしか来ない大岡所長の代理として浅野技師が工事全体を管理し指揮していたのであります。その例証としては、昭和二十二年一月七日に文部次官が奈良興福寺で法隆寺工事予算等の聴取をしたときに、古西氏も同行を申し出たのに拒否されて、浅野氏が佐伯貫主と同行し、また二十四年一月十日文部省興官が法隆寺に出張したときにも古西氏に出席を求めなかつたのであります。さらに一月十八日文部大臣來寺の工事視察に際しても、古西氏は出席を求められなかつたのであつて、事務分担は事実上は浅野氏へ人の専横をまかされていたのであります。 次に佐藤電氣技師採用についての経緯を申しますと、昭和二十三年十一月二十四月、大岡所長、浅野技師、竹原技手、杢技手、古西技手の五名が事務所で会同し相談の結果、二十三年度の工事予算四百五十万円が倍額の九百万円になつたので、事務員を補充するため、さしあたり女子を採用しようということになつたのであります。その後古西技手が女子事務員の採用につき申出たところ、浅野氏はまず金堂の電氣保守に当る技師を入れると主張して譲らず、さらに二十四年一月になつて杢、古西両氏相談の結果、女子を採用すれば、杢、古西両氏の事務面に余裕が生じ、技術面にかかりたいからとて申し出たのでありますが、これに対しても拒否されたのであります。この時古西氏は事務分担では自分が事務主任であるのだから、人員採用の権能も與えてもらえぬかといい、全所員も女子事務員を希望しているのだからと主張たが、浅野氏は採用の決定権は自分にあると主張して譲らず、遂に一月十八日、電氣技師として佐藤亮拿氏を採用し、金堂の電氣に関する一切を一任したのであります。この一事は金堂火災と関連して浅野氏の権力と独断について見のがすことのできぬ点があるのであります。かくして佐藤技師は一月十八日以後毎日金堂に入り蛍光灯その他の電氣を取扱い中、一週間を経てあの不祥事を巻き起こしたのであります。 次に金堂火災の間接原因として、電氣座ぶとんを使用した國家のあつれきを参考までに申し上げますが、電氣座ぶとんを申し出たのは橋本明治氏であり、許可したのは言うまでもなく大岡所長であります。大岡所長は法隆寺展に壁画の模写を出陳したいというので、早くから京都班の入江波光画伯に努力を依頼したのでありますが、人江氏は病氣のため昭和二十三年六月死去の際にもこの事を助手に依頼され、京都班は黙々として続け、二十三年中には大体完成でき見透しがついたのであります。ところが、東京班に一言もこれを知らず、後になつてこれを知り橋本氏を初め十一人の画家が十一月七日工事事務所において所長と会見し、いわゆるやみ取引行為であるとて所長を痛烈に非難したのであります。 話は前後いたしますが、その前に大岡、入江の密約を東京班がかぎ出し、東京班から画家の仁義として展覧会出品の中止方を京都班に申し出たのでありますが、これが拒否され、さらに東京班の怠慢であるとさえいわれたので、ここに対立は激化して醜悪なる抗争となつたのであります。そのために東京班は連日会合の結果、識者に連絡をとつて、展覧会開催期の延期か、あるいは模写画の出品を全部同寸法に統一して出すこと二案を提示したのでありますが、模写の総帥である安田靱彦画伯の意見で大体後者におちつくことになりました。しかるにほとんど完成に近い京都班はこれに賛成するわけがなく、京都班独自の立場から別の方面の運動を試みていたのであります。 これは東京班ではわからず、安田案に従うものと考えて、ともかくも遅れている事が展覧会に出品するために秋から冬中金堂にこもつて執筆することとなつたのであります。元来略画模写は昭和十五年秋以来、一年のうち春秋二箇月ずつ合せて五箇月を仕事の時期として、冬と夏は休止することになつていたのでありますが、この展覧会開催のためと、なお一つ模写以来十年を費やしてまだ目鼻がつかない状態でははなはだこまるので、事業部はここに模写完了を昭和二十四年度中と期限をつけた。この結果厳寒一、二月に金堂に篭居することとなり、保温設備が必要であるが、炭火は危険であるので、しろうと考えから電氣座ぶとんが安全と考えられて、ここに電氣座ぶとんの使用となつたのであります。 以上、法隆寺保存工事の実情について申し上げたのでありまして、長々と恐縮でありましたが、これを要約いたしますと、次の七点になりますので、これについて文部大臣の後答弁をお願いしたいと思います。 第一点は、法隆寺伽藍の修理再建は徳望ある工事責任者のもとに、従業員の結束協和によつて迅速精巧になさるべきであつたと思うが、この点につき当局は反省を要するのではないか。 第二点は、伽藍の修営復旧という本來の使命から逸脱した所長等の行為に対し、事業部長は注意監督を怠つた点がないか。 第三点は、國宝修理に多年の経験と技術とを持つた技術員を、建築修理面に用いず、会計事務に当たらせたのは、何かの理由があつたか。 第四点は、工事の最高責任者である大岡所長及び浅野技師が、博物館と兼務であるのもふしぎである、法隆寺伽藍の主軸である五重塔の再建工事を担当させるのに、大阪府と兼務の竹原技手を、しかも本人が氣乗りしないのにもかかわらず任命したのは何ゆえであるか。 第五点は、金堂壁画の模写は、多数の画家を嘱託し、しかも十年の日子を費やしていまだ完成の日に遠つかたのは何ゆえか。また画家の間は最近あつれき摩擦を生じ、大岡所長の不信を云々していたが、その真相はそうか。なお十年間必要としなかつた電氣座ぶとんを突如として使用するに至つた原因を当局は探求されたか。第六点、金堂の電氣工事を託する電氣技師をいかなる経路で採用したか。経歴、技術等を慎重に調査したか。 第五点、五月中旬に國立博物館において法隆寺展覧会を開催したことは、火災によつて世間を騒がせ、しかもその原因が展覧会の計画と密接な関係があつたと考えられる点がある以上、謹愼せねばならなかつたと思うがどう思われるか。以上の点につき、質問いたします。大変長くなりまして、この委員会の御多忙の中で恐縮ではありましたが、法隆寺火災は文化國家としての日本に重大な問題でありますので、特に詳細に申し上げた次第であります。
○高瀬國務大臣 お答え申し上げます。保存工事の事業者の人事事務所執行の缺陷の中心人物たる大岡、浅野両技師の責任の処理については、文部省としては行政上の処理をたしました。なお浦口議員より御話にもありましたように刑法上の処置は検察廰でいろいろと調査いたしました。文部省としては行政上の処置としまして、大岡事務所長、浅野主任を免職といたし、事業所長を新しく任命いたしました。さらに今後人事を一新いたし、事務能力を迅速完全にする意思であり、これよりは醜い思わしくないことは決して起らないようにいたします。それらの事実が火災の原因であるならば慎重に注意し取扱います。お話になりました國家については、文部当局としてもいろいろとその点調べますが、文部省としては承知しておりません。もし事実であれば、困つたことであります。 次に電氣座ぶとんの事でありますがこれの使用については文部省に連絡はありません。
○千賀委員 いまの御質問は大変胸を打ち、われわれはたいへん参考になりました。ことに電氣座ぶとんとか、電熱器の使用は、最近官公職においては自由に使用されています。理由としてはかつてな理由があるかもしれませんが、電氣器具をかつてに使用することは火災の最大の原因で、あります。私に過去、二箇年消防法をつくる委員をしたことがありますので、この点よく研究いたしましたが、若い者が集まる所は火に対して意に介しないものがあります。それは思想的関係があるかもしれませんが、若い者が上司の命令を聞かないということを、今の若い者の民主的と思い違いをし、火の用心をおろそかにすることは現代人の通弊であります。私が日曜に帰省した際、岡崎の学校が火災になり、四千数百万円が失われました。これは電氣に対する理解の不足が原因であります。このごろにおける大事は、電氣の加熱によるものが多いのであり、火災によつて日本の工場会社も滅亡して行くことだろうと思います。この滅亡はわれわれに認められるのであります。こういうことに文部省が学校、国宝保存について取締る官僚である。法隆寺の問題もまつたく國民の考えもしないことである。文部当局が私の申しました点を十分取締らなければ、加速度的に、滅亡して行きます。当局のこの点についての御意見をお伺いしたいと思います。
○高瀬國務大臣 お答え申し上げます。法隆寺の電氣座ぶとん使用は、一つの缺陥であつたので、大岡、浅野両氏は免職にしました。今後は厳重に取締ります。 次ぎに学校火災の問題でありますが、これは事実でありまして、建築不足の際、まことに遺憾であります。火災が起るたびに注意を喚起しておりますが、十分の効果が現れていないので、文部当局としては十分配慮いたします。
○浦口鉄男君 文部大臣に簡単に御質問いたします。学校内における政治活動に対し、教授の実際問題の取締りについて。これが一つ。次に新制大学が審査来了または不合格にて大学に昇格いたさない学校が、内容が充実いたしまして新制大学となる場合のこの見通し、以上の二点について御答弁をお願いします。
○高瀬國務大臣 御答え申し上げます。学校内の政治活動については、教育基本法第八條の二項に、学校はいかなる政党にも反対しまたはこれを支持するような政治活動をしてはならないとあります。一般的な基準は以上のごときであります。 次に新制大学の問題でありますが、二十四年度からは不適当なものはそれらの学校については審査し、なお新制大学は教授及び施設の不足これらを整備し新制して、これを設置委員会で審査するのであります。学校教育の一部として短期大学の二年三年制は四年制の大学よりレベルが低いので、あらためて審査を申請いたします。
○浦口鉄男君 ただいまのは学生の問題のようでありましたが、教授の点はどうですか。
○高瀬國務大臣 同じです。
○原委員長 本会議の時間も迫りましたので、本日はこの程度にとどめまして散会いたします。 午後三時五十一分散会