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1回国会衆議院1947/08/20

司法委員会公聴会 第1号

発言数
59
登壇者
14
会派数
2
開催日
1947/08/20

会議録

松永義雄日本社会党

○松永委員長 これより司法委員會の公聽會を開きます。  この際司法委員會が目下審査中の「民法の一部を改正する法律案」について特に公聽會を開き、広く民法に關する學識經驗者並びに一般の人々により意見を聽くことといたしました理由と、公聽會の性質についての私の所見を申述べて一言御挨拶いたしたいと存じます。  公聽會は新憲法のもと、國會法によつて定められました國會運営の新しい制度でありまして、これは他方議案がすべて委員會中心主義によつて審議せられることと關連するものでありまして、そのため委員會は議案が審議の過程において、その議案が國民の一般的關心及び目的を有する重要なものについては、公聽會を開いて眞に利害關係を有する者、または學識經驗者等から意見を聽くことができることになつておるのであります。申すまでもなく、われわれ國會議員は國民の各階層の代表者たるの自負と責任において、かつ輿論を反映し、國民の心を心としてすべて議案の審査にあたり、國政の審議に十分の論議を盡すべきものであることはいうまでもないのでありますが、一方において國民生活全般に重大な關係を有する重要議案については、さらにその審議を慎重ならしめる意味において、特に學識經驗者の專門的意見を聽き、多年の御研讚、御體驗の結果に、謙虚に耳を傾け、もつて委員會の法律審議を一層深からしめまするとともに、広く一般國民の意見を承り、われわれ國民の代表者として選ばれました者の最大の任務として國民輿論の動向を正しく把握し、かつ國政の上に誤りなく反映せしめねばならないと存ずるのであります。これは眞理に忠實ならんとする私どもの信條でありますとともに、公聽會の認められた本旨でもあります。  わが國の民法は、皆さま御承知のごとく、明治三十一年七月から施行されたもので、爾來五十年を經過いたしております。民法典の編纂は、明治政府の最大事業の一でありまして、諸外國の法典にさらにわが國古來の慣行をも参酌して制定された大法典でありました。その後數回にわたる部分的改正を經て今日に至つたのでありますが、その間特に親族、相續の両編につきましては、臨時法制審議會の長きにわたる審議の結果、改正要綱が作成せられる等、民法の改法は早くより論議され來つておつたのであります。しかるにさきに日本國憲法の實施に伴いまして、個人の尊厳と両性の本質的平等を趣旨とする新憲法の精神に則り、まつたく新たなる觀點よりする民法の改正が、今日この委員會において議せられることになつたのであります。  新憲法はわが國の政治形態、社會生活に重大な變革をもたらしました。民法は、われわれの社會生活、家庭生活、個人生活を規律する國民生活に最も密接な關係ある法律であり、その改正はわれわれ國民の最大の關心事であります。司法委員會は民法改正案につき慎重審議を重ねてまいりましたのでありますが、特にここに公聽會を開いて學識經驗者及び一般國民の意見を聽こうとするゆえんもまた、先ほど來述べましたことく、民法典が國民生活にすこぶる重大な關係があり、その改正も從つて慎重を期さねばならぬからであります。  本委員會の公聽會を開きまするにあたつては、特に民法改正案のうち、家督相續廢止の可否、これは民法應急措置法によつて家督相續は廢止されましたが、今後における家のあり方、均分相續はいかにすればよいか、並びに親族間の扶養の範圍についてお伺いいたしたいと存じます。なお婚姻の要件については、内縁の妻の救濟方法について、夫婦財産制及び離婚手續等についても、皆様の十分なる御意見を承ることにいたしたいと存じます。  最後に私は皆様が近年まれな炎暑にもかかわらず、しかも御多用のところをお差繰り下さいまして特に公述人として御出席下さいまして、國會下の衆議院最初の公聽會に權威を添えられましたことは、まことに感謝に堪えないところであります。ついてはただいま申し述べました趣旨を御明察の上、何とぞ十分な御意見を述べられんことを切望する次第であります。  それでは順次問題について意見を伺うことといたします。なお本日御出席をいただきました公述人の方々の御氏名を申し上げますれば、穂積重遠先生、柳田國男先生、眞野毅先生、井上登先生、吉田三市郎先生、中島弘道先生、永田菊四郎先生、眞杉静枝先生Lうなお川島武宜先生がおいでになつておりません。以上八名の方が御出席になつております。  ではまず家督相續廢止の問題を中心としまして、御意見を承りたいと存じます。眞野毅君。

眞野毅

○眞野公述人 一昨日の午後のことでありましたが、司法委員長の松永義雄さんが私をお訪ね下さいまして、本日の公聽會に出席をするようにというお話がありました。ただいま最高裁判所の發足に當りましていろいろ頭を悩ませておる點が多々ありまして、公聽會に出席をいたしますにしても、十分な調査研究といういとまはむろんありませんので、その旨を答えましたが、しかしぜひ出て從來考えておる通りのことを述べてくれればいいというお話でありましたので、十分な準備はもとよりできておりませんが、本問題に關する私の從來の考え方を、ここに皆様の前に御清聽を煩わしたいと思うのであります。  新しき憲法のもとに、相續に關しては、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、規定を設けるということがありますので、それに基きましてちようど昨年の今ごろでありましたが、司法省のうちに法制審議會というものが設けられまして、憲法に基いて日本の民法をいかに改正するか。殊に家の問題をいかにするか。あるいは家督相續の問題をいかにするか。その他の問題について法律案の要綱を作成して、司法大臣のところへ答申してもらいたいというところの委員會ができたのでありまして、その當時私もその委員の一名と相成つて、その審議に多少關與いたしました。その委員會におきましてこの家督相續の問題につきましては、第二小委員會と申しましたが小委員會が設けられまして、小委員會においては家の問題は廢止——家と申しましても、觀念をはつきりしないと、非常な錯覚に陥る問題でありますが、從來民法にきめられていたその家というもの、家に關する民法の規定、そういうものを廢止することということが、小委員會で決定いたしました。それから家督相續の問題も、家督相續は廢止することということが、小委員會において決定いたしました。それが七月の下旬であつたと思います。それからいろいろの問題につきまして総會が開かれ、総會においていろいろ議論が闘わされまして、一部の人々は民法上の家の廢止、家督相續の廢止については、相當強烈なる反對の意見も述べられました。その審議會におきましては、一應家の廢止、家督相續の廢止ということが、総會において決定したのでありまするが、また別の総會におきまして、その問題がむし返えされ、論議せられたことがあるのであります。二度目の総會におきましても、前回と同じように民法上の家は廢止する。家督相續は廢止するということに決定をいたしました。その際私のとりました態度は、家を廢止すること、家督相續を廢止することに賛成の立場をとつたのであります。反對の立場をとられた最もおもなる人々は、われわれがつい最近まで同職でありました弁護士諸君のうちには、ずいぶん反對の意見を述べられた方もありました。けれどもこれは主として思想傾向から申しますると、保守的の傾向にある會に屬する人が、主としてそういう主張をなされたことになるのでありまして、あるいは中庸の考え方をもつておるものとか、あるいはまた多少進歩的な考えをもつておる會派に屬する人々は、むしろそういうものの廢止に賛成をする立場をとつたのであります。その後の法制審議會の答申案が、臨時法制調査會においても同じ結論が認められまして、その連續といたしまして、民法改正案というものが、この國會に提出される順序に相成つたことと承知いたしております。  そこでなるほど家を廢止する。從つて家督相續を廢止するということは、一面から申しますると非常に重大なる社會的の意義をもつ問題でありまして、むろん慎重に考えなければならぬ問題であるのでありまするが、家を廢止するということは、必ずしも日本の家族制度そのものを廢止するという意味をもたないのでありまして、民法に規定するところの家に關する部分を廢止するので、家族制度を廢止するという意味とはまつたく違うのであります。民法におきまする家というものの構成は、結局戸主と家族、そのうち戸主の權利というものが、從來非常に濫用せられた傾きがあるのでありまして、訴訟等におきましても戸主權の濫用ということのために、裁判と相なつた事件が相當あるのであります。戸主權の濫用の中でも特に問題となりましたのは居所指定權、戸主としての居所指定權を濫用する。この濫用によりまして、居所指定に違反する者に對して、離籍をするということが、戸主權の濫用としてずいぶん行われた。これがずいぶん非難の的と相なつたのであります。それから婦人の問題につきまして、すなわち結婚の問題につきましては、結婚の同意權が戸主によつて濫用せられて、同意を與えられぬというために、御婦人の方々で從來困つた境遇にいた人々が相當あつたのでありましよう。そういうところを反映した結果でありましようが、先ほど申しました法制審議會におきましては、御婦人の委員も七、八名おられたようでありましたが、この方々はいずれもみな家の廢止、家督相續の廢止ということには、御賛成であつたように見受けました。  そういうように戸主權の濫用がしばしば行われたということのために、從來民法の規定の家というものに對しては、相當社會的に反感と申しまするか、おもしろくない感じをもつた。それがためにおもしろくない生活環境に追いやられた人が、相當あつたのであろうと思うのであります。そういう反面、戸主權が社會的に働いて有意義な働きをしたという方面は、だんだんと薄くなつてきて、近代文化の發達とともに家族は家庭を離れ、あるいは都會に、あるいは他國に出るというようなことがありまして、實際の問題として、一つの家で共同生活をともにするということも少なく相なつてくるのは、近代文明の結果として當然のことであります。そういうことで實質上の家族生活というものが、從來の戸籍にあるような意味の家族生活と、互いにちぐはぐになつてくるというところがありました關係上、戸主制度、家の制度の社會的意義はよほど薄らいできておるのでありまして、學者も早くからこういう趣旨の民法に言う家の制度は、廢止していいじやないかという意見が、行われてきたのであります。最も家の制度の廢止を主張された元祖とも言うべき人々で、民法の制定にあたられた梅謙次郎先生あたりは、むしろそういう意見であるということを聞いております。それから近代の新しい相續法を論ずる學者は、ほとんどそういう傾向があつたのではないかということを、一般的に見ることができたのであります。そこでわれわれ實際家の立場としてみますると、長男が独占的に相續をして、あとの人々が全然財産上の相續ができないということは、われわれの頭から見て非常に不自然なことのように思つていたのであります。それはわれわれが弁護士として實務に當りましたときに、よくそういう場面にぶつかつたのであります。むしろわれわれに相談に來るような人々は、相當の教育を受けた田舎出の次男、三男、四男という人人でありまするが、そういう人々は學校こそ出たけれども、相當の家に生まれていながら何らの財産分與にあずからない。つまり知識は進んだが物質的に分配にあずからないというために、非常な不平を訴えて、何とか自分たちも分與にあずかる方法がないかということを、しばしば尋ねられましたが、法律的にはどうも何とも救濟のしようがないために、これは非常なる法律の缺陷であると私は實際家として痛感しておりました。その後ここにおられまする穂積先生あたりの御關與になりました、大正八年から昭和二年にわたる長い間の民法改正の委員會——臨時法制審議會と申したそうでありますが、その委員會において相續法の改正要綱を定めた。そのうちに家督相續の問題については、家督相續人は、被相續人の直系尊屬、配偶者直系卑屬に對しては家を維持するに必要なる部分を越えた財産についてはこれを分與しろ。つまり家督相續人が独占的に相續すべきものではなく、家を維持するに必要な以外の部分については、その他の者にも分與しろということが適當であるという要綱が定められておることを知つております。これは独占的の相續制というものに對する一つの修正でありまして、ちようど今度の家督相續を全廢するという段階に至る、一つのステップであると思うのでありますが、そういう過程もあつたのであります。そこで私が何ゆえに家督相續を廢止する、家を廢止するということに賛成するかという理論的な根拠は、大體申し上げたと思いますが、それでなく私としては、この問題はちようどそのときには自分の體驗上、非常に悩んでいた問題がそれによつて解決された。これは単に理論からそういうことに賛成したのではなく、私の苦しい經驗と申しますか、苦しい體驗と申しますかそういう體驗を經て、そういう結論を私は導き出したのであります。自分のことを申し上げてはなはだ相濟みませんが、私がそういう體驗を經たということについて、皆さまの御了解を得るがために申し上げますれば、私には一人の男の子供がありまして、それが東京の帝大を出ましてただちに應召となり、主計を志願して經理學校にはいり、學校を卒業しますとただちに、ほとんど間髪を容れず昭南島に派遣されて、日本の参謀、南方軍総司令部附となつて行つたのであります。本人が昭南島におきまして相當愉快なる生活をしておりましたことは、たびたびの通信に記載されておりました。その後総司令部がマニラに移りますと同時に、やはり総司令部附といたれましてマニラに派遣され、総司令部がマニラからサイゴンに移りますときに、その先發隊として飛行機に乗りまして、マニラからサイゴンに移る途中、太平洋のまん中で飛行機事故のために行方不明となりました。その飛行機には司令長官その他の相當有力な方々がお乗りになつており、その關係上陸軍においても海軍においても、十分なる捜索をなされたように聞いておりますが、その後沓として音沙汰はないのであります。むろん太平洋のもくずと消えておるのであります。そういう關係でありまして、ただ一人の後繼ぎとなるべき男の子がなくなつたのでありますから、さてわが家をいかにすべきかということ、すなわち家督相續の問題をどうするかということが、その當時からの私の頭を悩ましたのであります。私にはほかに女の子がまだ家に三人残つておりますから、普通の常識でいきますれば、その女の子に養子をもろう、あるいは女の子をわきへかたづけて養子をもろう、あるいはまた女の子を廢嫡して次々に嫁づけていく、いろいろ方法はありまするが、そういう方法のいずれをとるかということ。すなわち家を廢止するか、わが家を廢止するかどうかということについて、ずいぶん私も悩んでいたのでありまするが、たまたま憲法が施行され、臨時法制審議會によつて氏を廢止するか否かということについて、むしろ家は廢止し、家督相續はなくするという案が出たときに、私は非常に自分個人の問題としては救われたような感じがいたしたのであります。從つて私はその問題については、何らの躊躇なく、從來のいろいろの體驗並びにその際における頭にあつた悩みが一遍に解決されたような気持がいたしたのであります。そういうわけでありまして、私のような都會生活をしておる者にとりましては、家を廢止するということは、それでいい問題でありましよう。しかしながらこれがまた一方の農家——農地をもつておられる人々にとりましては家を廢止し、家督相續によつて農地が細分されるということは、これは相當考えなければならない一つの問題ではないかと思うのであります。共同相續——単独相續でなく共同相續をする場合には、相續人各人に財産を分配するということを普通われわれは考えるのでありますが、いろいろ世界の古今の相續制度を考えてみますると、単独的の相續制でなく、共同的に相續する場合でも、必ずしもただちにその相續財産を分割しないで、不分割の状態で相續していくという法制もあるのであります。たとえばゲルマンの法制のごときはそういうことになつておると思つております。たとえば相續する子供が三人あるけれども、三人の全部が共同に相續をして、分割をすれば農地等も細分され、家族的協同體の生活の基本となるべきものが細分されるということは非常に困るというような事情もおのずから出てくるのでありまして、そこでゲルマンの法制におきましては一子相續、三人子供があつても共同的の相續はするわけである。一人の子供が代表して財産を相續する一子相續ということが慣例として發達しておるのであります。その一子相續が長子が相續するという地方もありますし、そうでなく末子が相續するという地方もあつたようであります。それからまた男の場合は末つ子が相續するのであるが、女の子が相續する場合には、一番上の子供が相續するというふうに、いろいろ慣習的に發達の仕方が違つておるのでありますが、とにかく三人で共同に相續するけれども、その相續財産は一人が代表的に相續をする。あとの人間に對しては、何と申しまするか、割賦的にある給與を與える、なし崩しにある給與を與えて、一人が代表的に相續しておる。そうして農地は細分しないのである。こういう相續の仕方ということを聞いております。そういうようなことは多少日本の現状においても御参考になるべきようなことではないかと、ひそかに考えておる次第であります。なおいろいろ申し上げたいことがたくさんありますけれども、時間の關係上この程度にいたしまして、なお御質問でもございますれば後ほど御質問に答えるということにして、一應ここでこの話を終りたいと思います。

松永義雄日本社会党

○松永委員長 それでは引續き家督相續廢止の件につきまして、中島弘道君より御意見を承ります。中島弘道君。

中島弘道

○中島公述人 私はまず結論から申し上げますと、家というものは何かの形において残さるべきものであるけれども、家督相續、独占的に長子がすべて財産を受繼ぐということの家督相續の制度は廢止されてもよい。こういう考えであります。家に關する從來の民法の規定を廢止してしまうという考えの出どころは、個人の尊厳、平等ということを保障する憲法の規定の趣旨に反するからというのが理由になつておるよであります。だからそういう憲法の趣旨に反するおそれのある規定が廢止されればよいので、家そのものの存在まで否定してしまうということは要らないのではないか。家そのものが憲法の趣旨に反するということだとか、または戸主權だとか、家督相續の制度を廢止し後の家というものは、法律的に有名無實になつてしまう、意義がないのだ、こういう議論ならばわかります。けれどもその議論が正しいかどうかということはよく考えてみなければならぬ。私の考えを言わせていただくならば、家督相續または戸主權の規定を排除しても、家は人々の實際生活の上においてはもちろん、財産權その他いろいろの權利と重大なる關係があるので、家を法律上存置するということは、決して無意義なことではないと考えるのであります。その理由を三つほど述べさしていただきます。  第一に家督相續がなくなつて、均分相續になつてしまうと、農民にとつて農地が零細化される結果、經営の上に非常な無理が起るということが一般に唱えられております。これは確かに均分相續がこの新民法改正案で採用されておることの上では、一番の案の弱點であります。これは法律家が心配しておるのみでなく、經濟家が非常に心配しておられるようであります。これについては對策が立てられなければならない。その對策としては、均分相續に特例を設けていかなければならない。これはぜひとられなければならない措置であります。問題はどんな特例を設けたらいいかということになるのでありますが、考えられるのは、第一に家産制度であります。家の財産というものの形で、農地を零細化しないように保つていくということ、第二には共同農場制、共同して農場を維持していくというような、外國には例がありますが、そういう制度、第三には國有制ということが考えられます。まだほかにもありましようが、このうちで國有制度ということは、なかなか言うべくして容易に行われない。炭鉱の問題でも非常な困難をきわめているような國情のもとにおいては、これはまず當分望みがない。それならば共同農場制はどうかと考えますと、これは實際やつてみて非常に困るときがくることが見えておると、まず考えていいと思います。ロシヤでコルホーズといつて、共同的に農場が設けられておりますが、ロシヤでは農民の一家の周圍に私有財産的な農地を認め、そのほかにコルホーズを認めておるのでありますが、そうなつたのもみなコルホーズだけでは生産がガタ落ちするということである。主義を犠牲にしてもこの一部分を私有化せざるを得なかつたのであります。現になによりもわかりやすいことは、この共同農場と家のまわりの私有地との農作物のできばえを比べると、まるで話にならないということを實見者が報告しております。片方のキャベツや野菜はまことにあわれな姿だそうでありますが、私有地のものは實にりつぱなものができておる、これはもう試驗濟なのであります。どうしてもこの共同農場制というものを徹底することはできないと思わなければならない。残るところは家産制度であります。家産ということにしますと、自分の土地で、しかもそれは長く自分のうちの土地であるというところから、それに對する努力というものが非常に違つてくる。法律は理屈ばかりを言つておりますが、主義の問題ばかりでなく、この現實の結果ということを見究めて、立法なり政治なりを行わなければならないのではないかと考えるのであります。ひとり農地の問題としてこの問題は取上げるべきではない。主に農地についてこのことが論じられており、憂えられておるのでありますが、私の考えるところでは、これはもつと広い問題である。たとえば家業といいますか、蒔絵師の家あるいは西陳の織元のごとき代々傳わつた家のような家業、それから家の芸、芸術の方も広く眺めますといろいろの家芸というものがあります。それから學者とか、書描きさんの家だとかいうことにつきましても、このことが考えられる。代々家の名にかけて研鑚を積む。精進を重ねるということ。この努力は家というものがなくなつては、私は期待ができないのではないかと考えます。このことは、精神的にこの家というものがもちろん働きますが、物質的にも家産というものの形で、學者の家の本であるとか、あるいは蒔絵師、西陳の家、あるいは能の家柄というようなところには、わけてはならない大事な家産があるはずであります。祭具、墳墓というようなものは、これは家について離れないもので、これについてはそれぞれ案の方にも手當がしてあるようでありますが、この家業、家芸、家柄についた家産というものは、墳墓あるいは祭具にもまして大事な家産的な意義があるのではないか。これは家を離れてはだめになつてしもうものであるということを考えていただきたいと思うのであります。  第二に家名ということであります。氏、姓ということ、これは家族團體の名前であります。名家の家名、もつとひらたく言いますと、のれん、家柄というものは社會的価値が非常に高いものであります。名家ののれん、名家の家筋、名前、家名というものは非常に社會的な地位が高いものであります。家名を重んずる、大事にするということは、単に倫理的な方面のみでなく、これは法律的な意味をたくさんもつております。名誉權、信用權、氏名權、むやみに人の名字名前を使つてはならぬということ、この名誉權、信用權、氏名權というようなものは、みな法律的な意義をもつております。これは家を認めなければ、そうしてその氏というものがある程度に独占的な意義をもたせるにあらざればこれを保護することはできません。これはどうしても家を残さなければならぬという一つの理由に算えることができると思います。分家、入籍あるいは廢家の再興というようなことが、家が残れば今の通りの制度が維持されると思いますが、これらの制度によつてその家名の權利關係がはつきりと維持することができるのであります。それは単なる倫理的な意味の家ということでなく、法律的な家が維持されて初めて期待ができるのであります。家名權が認められても、世の中の多くの家というものは、みな平凡な家柄ばかりで、大した価値のない家が多いのでありますが、そういう価値のない家名をもつておる家でも、その家族の中から、一人だけでも立派な政治家であるとか、學者であるとか、またひとつの芸の名人であるとかいう者を出しますれば、その家名はたちまち非常な価値をもつのであります。このことは、一家一門、それから子孫にまで餘慶を及ぼします。それはどういうことになるかというと、人の努力心というものを非常に刺激することになるのであります。ロシヤが、いかに私有權を否定しようとした時代がありまして、それを立法化しようといたしましても特許權というものを否認することはできなかつた。これは一番先につまずいたのであります。發明家が出なくては産業からすべての事業が起こらない。これを認めなければならない。これは理屈の問題でなく、實際一國の力の問題であります。一つの社會の幸福の問題でありあります。この家名というもの、これはある程度まで法律的に保護する道を開けておかなければいけないもので、開けてさへおけば、これは特許權制度以上の經濟的な、文化的な進歩の上に、絶大な効果があるものであるということを考えていただきたいと思います。  第三に家の倫理的価値ということ、これは大體たれも承認しておるようであります。法律上から家がなくなつても實際の家はなくならないのだ。そうして道徳的な働きをする家というものはやはりあるからよいじやないか、こういう議論であります。倫理は倫理、法律は法律だという考えでありますが、法律は一體倫理というものとそんなに疎遠なものであるか、全然別なものであるかというと、實にその反對であります。道徳を離れた法律というものは非常に働きの弱いものであります。それのみならず、道徳的色彩をとつてしまつた法律というものは、非常に働きが弱いものであるということを考えていただきたいと思うのであります。もと法律は道徳と宗教と三者一體をなしておつたのであります。これは沿革史の上ではつきりしていることであります。それがいろいろの必要から法律と道徳、宗教が分化してしまいましたが、それでももともと一つの根をもつておるものでありますから、これはそうよそよそしく、別々なものであることはできないのであります。いろいろ法律の發達の結果、倫理というものはだんだん法律の成文の上からは拭われて、洗い落されたようなかつこうになつてきておりましたが、この三、四十年來、もつと前からと言つてもよろしゆうございますが、著しくは三、四十年くらい前から、法律の道徳性ということが、これは理論的ばかりでなく、實際的の方面からいろいろ説かれるようになつてきておるのであります。この民法改正案の第一條に、「私權ハ総テ公共ノ福祉ノ為メニ存ス權利ノ行使及ヒ義務ノ履行ハ信義ニ從ヒ誠實ニ之ヲ為スコトヲ要ス」という規定があります。みな道徳的な規定であります。信義誠實ということは、今日法律家が口を揃えて強調するところであります。すべての新しい法律の理論が、信義誠實の原則ということに基礎を求めております。これは見方によつては、再びここで法律と道徳とが固く握手したということであります。現にかような規定が民法の一番先に掲げられることになつたということは、何よりもこの家を廢止するというその理論とはそぐわないことであります。この規定がおかれたくらいならば、家はぜひ存置されなければならないものと私は考えるのであります。法律から家を抹殺してしまうというのは、法律の道徳的な色彩を拭い去つてしまおうということになるのじやないか。醇風美俗というような——今日現行民法の規定では、善良の風俗という言葉で現わされておりますが、この醇風美俗ということは、よい社會秩序ということの別の名前であります。醇風美俗というものは、法律問題でないというようなことを、家の廢止論者のある人が言うとするならば、ある意味においわ社會秩序を壊わそうというようなおそれのある議論じやないかと私は憂うるものであります。問題は少し違いますが、姦通廢止論というようなものも、これは今まで姦通はいけないとなつておつた法律を、姦通は罰せず——罰せずというわけではありませんが、やめますと、これは姦通の天下御免というぐあいに、多くの考えの淺い人たちの心には響く。少くともそういうおそれがあるのであります。それと同様に家というものが法律上なくなるということは、廢止論者の思いももうけておられない害悪を人心に及ぼすものである。法律生活の上に思いもよらない害悪を流すおれがあるということを、私はおそれるのであります。法制史の權威の中田博士も言つておられるように、古來日本に傳わつた家は、これは權利、義務のない家だと言つておられます。いろいろ法制史を見ていきますと、たしかにほんとうの前々からある日本の家は、權利義務のない家であつたのであります。戸主は家族の世話をする役であるというぐあいに考えるのが、一番この戸主、家長というものの本質を言いあてた言葉であるように思います。長男が独占的に全財産をとつてしまうという制度、あるいはまた戸主に、いろいろさつき眞野さんが言われたような強い權利を含めたのは後の法律であります。日本の本來の家は實に權利義務のない家であつたのであります。天皇は無權力の天皇として日本の憲法の上に残られたのであります。それと同様に家というもの、それから戸主というものは、これは無權力な家、無權力な戸主として残したいたのであるというのが私の結論であります。靴の底に針が出て實にぐあいが悪い靴になつたと言つて、それを捨ててしまうということは愚者の仕業であります。直してはくというだけの知恵才覚がなかつたのかと、後世の人から笑われたくないと思う。これが私の家存置論の最も根本的な根拠であります。

松永義雄日本社会党

○松永委員長 同じく家督相續廢止の問題につきまして、最後に穂積重遠君より御意見を承ります。なお特に家事審判所の問題についても、御意見を併せお述べいただきたいと思います。穂積重遠君。

穗積重遠

○穂積公述人 もう家の家督相續廢止の問題については、今まで両君から賛否というわけではありませんが、家の問題については中島君から家を存置する御意見がありまして、両方の御意見で盡きておりますので、時間もありませんから詳しく申し上げることはいたしません。ただ御了解を得ておきたいことは、眞野さんのお言葉にも出ましたが、大正八年以來の親族法の改正、相續法の改正にも私もかなり關係してまいつております。しかし今度の改正には初めから全然關係しておりませんし、從つてある意味ではごく自由に申し述べることができますが、また同時に立案者の気持がほんとうにわからぬということもあるかも知れません。そこはお含みおきを願いたいのであります。  この家督相續の廢止の可否ということになりますと、これは憲法が前提でありまして、憲法の第十四條あたりにああいう規定があります以上、當然である。こういう結論になるのであります。これはすでに憲法制定の際にきまつておることであります。今さら可否を論ずることもないと思うのであります。しかしただ憲法にきまつたのであるから仕方がないというのではなしに、過去はしばらくおいて、現在及び將來の問題として、法律としては適當な改正案だろうと、こう考えておるものであります。今までの民法の家というものがほんとうに日本の家の姿を現していたか、これが問題でありまして、實はそうでないと私は思うのであります。今までの民法の家というものは、つまりごく極端な言葉を使いますと紙の家であります。戸籍の上の家であります。どういうのが家かというと、戸籍の一ページに一緒に書いてあるのが家なのであります。分家というのはどういうのかというと、世帯を別にして新たに家に入ることをいうのではない。その第一ページに書いてあつたものを二ページに書きわけるというだけの形式だつたのであります。そこにまた戸主の權利というものが非常に形式的に行われまして、場合によれば戸主が首を振ればどうにもできないことができ上つて、非常に困つた場合もある。とにかく何とかしなければならないという問題であります。これは前の民法改正のときもいろいろ問題になりまして、私どもの初めの考えといたしましては、今のように思ひきつて家を廢してしまうというところまでいきませんでしたけれども、今の世帯というものと家というものを同じようにしたらどうか。少くとも實際上の家庭生活、家族生活を、何とか法律でつかまえられないものか、これは私もしきりに考えてみたのであります。やつてみますとなかなかそううまくいかないのであります。殊に今度の憲法のようなことになりますと、法律としては思ひきつて家を廢めてしまうよりほかない。またそれが一番よい。私は今度の眞意は知りませんが、はたから拝見してみて當然の結論、當然ここへ落つくのだろうと、こう思つておつた。しかも今中島さんのおつしやつたように、つれが日本古來からの道徳的の家を廢止するという意味ではない。これは確かなことであります。そこで中島さんは法律では廢止するが、道徳では認める。道徳と法律とは別な考えものにしたのは、至極御もつともでございますが、これらの考えは、法律と道徳を別にする考えではない。法律の上に道徳があつて、あるいは逆にいへば法律のある一部分、道徳の下の方の一部分が法律なのである。法律は最小限度の道徳である。こういうふうに考えておる。後にまたお話が出るかもしれませんが、扶養の問題にしても、民法できめてある扶養の義務を盡さない。親を養わない。子を養わないという者があれば不都合であります。しかし民法のきめただけのものをやつたらそれで非常に慈愛の親である。子として二十四孝に名を列せられるかというと決してそうではない。その上に道徳がある。そういうふうに考えたいのであります。そこで道徳的には今までの家を保存するというよりも、ほんとうによい家をつくり上げていく。今までの日本の傳統に引續いて、さらに新しい日本にふさわしいような、ほんとうの家という道徳的な觀念をつくり上げていくことが必要である。それに法律がどの程度の手傳いをするか。ある程度の手傳いはできましよう。しかし法律ではとうてい手が届かない。また法律でやつたのでは、ほんとうのところが出てこないのではないかと思います。なるほど今まできめてあつたものをやめるとすると、もう家は廢止だという悪影響を與えるということはありましよう。しかしこれはどうもものの移り變りでやむを得ない。ほんとうに法律と道徳との關係を國民にのみこませて、法律以外に道徳があるのだということの考えを打ちこむことは文教の任で、そこへもつていかなければ、どんな法律をつくつても行われるものではないと思うのであります。こういうように法律と道徳の問題を言いますと長くなるので、このくらいにしておきますが、要するに今度の家の廢止及び家督相續の廢止は、法律としては現在及び將來とてこれ以上のことはできない。いろいろその例外を設けてというお話がありましたが、例外をたくさん設けると例外が例外でなくなり、結局もとへ逆戻りということになる。  そこで民法はこうしておいて、さて個々の問題についてどうかというと、これまたいろいろありましよう。とにかく均分相續の場合にはいろいろ困難な問題があるので、それを一々議論するいとまはありませんが、ちよつと民法を見ても、今度の案にも八百九十七條に祭祀墳墓等は、たれか一人が必ず承け繼ぐ。必ず長男とは言つておりませんが、祭祀の主宰者をつくる。たれが主宰者かということは慣習による。それでもきまらぬときは家事審判所がきめるということになつておる。そうするとその主宰者がとにかくお墓を預かりまた先祖の祀りもするということになります。しかし財産は均分である。多くの場合には長男が主宰者になりましようが、長男の負担がより大きくて、かえつて財産は均分ということになるのではないか、そういうことも考えられるが、そこら辺をどうするか。土地の細分の問題、それから個人企業の問題もありましようし、また均分にわけたら必ず公平かという問題もありましようし、これはかなり法律的な問題であります。今度の均分制度になつてひとり困るのは債權者が困る。今までならば一万円借金している人が死ねば、それが戸主であれば、長男がとにかく全財産、借金も引受けるのですから、債權者もそこへ行けばよいわけですが、一万円の債務者が死んで子供が十人おれば、皆に割當てられます。一千円づつの債務者が十人、それに債權者がかかつていかなければならぬ。それが皆一人々々訴えを起こすにしてはたいへんですから、必ずとれるとは限らないということで、債權者は困る。それならまたその割當てられたのを連帯債務と考えるかというと、ただちにそうすることにはいろいろ困難な問題があります。その辺をだんだん考えてまいりますと、民法の原則としては今度のようなきめ方よりほかない。それがやむを得ないというのじやない。どうしても、そういう制度を生かして眞の日本の家をつくる。眞の家というのは法律上の家ではなくて、道徳上の家、義理人情の家というふうにいくよりほかない。家という名前を残すにしましても、今の考えから言つて、何が家かと言えば、戸籍の問題あるいは戸主の權力の問題、家督相續の問題でありますから、それをやめてしまつた家というものに法律上の意味がない。意味がなくなつたということは家がなくなつたことじやない。これは後におそらく柳田先生あたりから御意見があろうと思いますが、今までといえどもきまつていた通りに、必ずしも道徳的、風俗的には行われていなかつたのであります。民法には家督を長男が相續するときめてあつても、地方によつて皆にわけていたところもありますし、あるいは末子相續という風俗も、相當に今まで傳わつておりますから、これらはだんだんと實際の道徳及び風俗の發展に、それをよい方に導いていくことが、指導者の任務であると考えられるのであります。  均分相續についてひとつ心配になりますことは、必ず財産争いが多くなりはしないかということであります。この現在の制度でも家督争いが相當にあろうと思います。現在でありますと、とにかく長男にいくということにきまつておりますから、不平があつても法律上にもち出して争うということは、あれはほんとうの跡取りじやないのだという、何か理由がない限りそういう問題は起らぬが、今度はとにかく皆のものになる。そして一應は共有共有で皆で經営していけば結構ですが、なかなかそうはいかない。結局皆がわける。ところがわけ分はきまつているが、どれをだれがとるかということは、民法できまつておらない。そこで私は義理人情になつてくると思います。わけ方についてもいろいろ問題が起る。あるいは大勢の中には、つい見逃がされてわけてもらわなかつたという者も出てくるというようなことで、財産争いが非常に多くなりはしないか。そこでその辺をどう扱うかという點も、十分に考えなければならぬと思うのであります。  そこでそういう問題を解決するものとして、ここに大いに働かなければならないのが、この民法の中に出てくる、家事審判所であります。この今度の改正は新しく始まつたことでありますが、家事審判所というものの考え方はもつと初めからの考えで、さつきお話のありました大正八年に法制審議會ができまして、民法改正ということが問題になつた。そのときの考え方は、今とはいわば逆でありまして、そのときの現行民法の規定は、わが國古來の醇風美俗に副わざるものありと認む。その改正の要領いかんという政府の諮問であつたのでありますが、むしろこれは家族制度を維持し、もつと強くするというだけの考えから出ていたのであります。ところがそれが議に上りましたときにいろいろ問題が起りました。第一、わが國古來の醇風美俗というのは一體何を言うか。古來の醇風美俗が現在及び將來の醇風美俗たり得るか。またそうであるとしても、法律としてそれがどこまで維持できるものかということについて、私などそのときまだかけ出しでありましたが、大先生方の議論がどうしても一致しない。いろいろやかましかつたのでありますが、しかし一番初めからたれ一人異議なく一致したのが、家事審判所の問題であります。今の制度でわが國古來の醇風美俗に副わざるものがある。何があるかというと、家庭親族間の問題を裁判所に持出して、いわゆる血で血を洗う争いをして、それが權利義務の法律だけできまるというのはどうもおもしろくないじやないか。何とか道義に基き、人情によつて家庭間の争いをなくする方法を考えたいものだそのときはまだ家事審判所という名前は考えられておりませんでしたけれども、何か特別の機關を設けて、裁判官にも出ていただくが、しかし素人も加わつていただき、法律的でなく常識的、道義的、人情的に親族間の問題を解決する機關をつくることが何よりもつて必要だというので、これだけは切り放して早速答申案をつくつてすぐに答申しました。政府もその趣意を容れられたのでありましよう。家事裁判法というものをつくるようにというので、委員會などもできて、だんだんやつていたのであります。それで一部分は昭和十四年の人事調停法に現われまして、親族、相續の問題は、訴訟にもつていく前に調停にかける。裁判所へ出ても裁判所はそれを調停にまわすというようなことで、この人事調停というものが相當な成績をあげていることは御承知の通りでありますが、今度はそれが民法の中にはいりました。今度の民法の條文をちよつと數えてみましたならば、新しい條文が三百二十條でありますが、そのうち家事審判所という文句の出ている箇條が約六十箇條、五分の一ほどは家事審判所がなくては動かぬ條文になつております。そして家事審判所というものは十分によいものをこしらえ、そうして今度の民法を實際の事情に合うように、また民法の趣意が國民一般にゆきわたるように、實際の問題を解決すると同時に、また國民を教育する働きを家事審判所がやつていくということが、今度の民法の施行について非常に大事なことではないかと考えるので、民法がうまくいくかいかぬかは、家事審判所が立派に成立つかどうか、それにかかつていると私は申したいのであります。  そのためには家事審判所をたくさんつくらなければいかぬ。方々にあつてすぐそこへ行つて相談できるということにしなければならぬし、それから家事裁判官、参與員には非常な法律家、また法律家以外の人で立派な人物を網羅しなくてはいけない。御婦人に多數加わつていただくことはもちろんのことであります。家事審判所の方も御審議中だと思いますが、これが立派にできることが非常に大事なことだと思います。それにひとつ力を入れていただきたい。私が國會に希望することは、ひとつ政府をその點で十分督勵していただきたい。家事審判所に十分な豫算をかけて、そうして家事審判所で初めからやつていく。家事審判所が間に合わぬから當分裁判所がというようなことでなしに、家事審判所でやるということで初めから押していただきたい、その點に十分力を入れていただきたいと考えるのであります。そういうことにしてだんだんと問題を片づけていけば、そのうちに今の民法と實際の生活とが、しつくりと合うようになつていくのではないか。そうして一方道義、愛情——これはこの問題だけでなく、道義を振興することは今日の日本にとつて最も大事な問題でありますが、その方面で十分に法律と道徳との關係について正しい考え方を與える。各自にはまた相當な法律の知識をもたせる。憲法以來法律が口語體で書かれるようになつたということは、實は私ども前から主張していて行われなかつたことでありますが、これが急に實現したことを非常に喜んでおります。法律の趣意を皆がよく心得て、まためいめい自分の財産等については相當な考えをもつて、生前に適當に処置をつけるもよし、また遺言を十分に考えて、適當な遺言をして自分の亡き後に子供たちの間に争いが起こらぬようにする。また子供たちが、ただ均分というだけでなしに、ほんとうの意味で公平にいくようなことを、めいめいが考えるということでいくよりほかなし、またそれが最上の方法であると思う。法律だけで物事が解決すると思つたら大間違いで、今までどうもそのきみがありすぎたのであります。法律が大事なものであることはもちろんでありますが、その上にまた道徳があり、實際の事實があるということを考えていくべきではないかと考えるのでございます。  ついでに、私に課せられた問題でありませんが、法律と事實ということで、ひとつお考えおき願いたいのは、これは今度の民法の審議のときにもきつと議論されたのでありましよう。しかし取上げなかつた問題でありますが、さつき委員長のお言葉にもありました内縁の夫婦の問題であります。これは相當重大な問題であります。この點は今度の民法も全然前通りでありまして、婚姻は届出によつて効力を生ずるということになつているのであります。そこで常識論としてはきわめて簡単なことなのだから、皆どんどん届出ればいいのじやないかということになる。なるほどその通りで、そういうふうに國民を導きたいものだと思いますが、實はこれがなかなかむずかしい。私はこの點そもそもの初めから気にしておりまして、微力ながら何とかして、みなが結婚の日に届を出すような風俗をつくりたいと思つて、自分の近親の者にはみなそうさせますし、機會あるごとにその話はしたのでありますが、やはりなかなかそうはいかないのであります。相當の知識階級でもなかなかこれが行われていないのであります。立派に夫婦になつていながら届は出ていなかつたというような問題が、たびたび起こるのでありまして、そのためにいろいろな問題を生ずる。殊に婦人にとつて非常に不利な問題である。そのために泣かなければならないことになつた婦人が、今までいくらあつたかわからないのであります。またほんとうに立派な夫婦の間の子供でありながら、もとの言葉で言えば私生兒、庶子となる。あるいはとうとう父親がないということになつて父を相續できなかつた。たとえば戦争のときなどでも、軍人の遺族などにそういうことがありまして、戦死軍人の妻がまだ入籍してなかつたために、それが戦死軍人の妻として、またその子として扱われないということがたくさんあつたのであります。それは自分が手續しなかつたから自業自得でしかたがない。またそういうことで懲りさせたら届をするようになるだろうというけれども、私は不人情な議論だと思う。法律というものはそういうものではない。何とかして皆に間違いさせないようにするのが法律でありまして、法律で陥し穴をこしらえておいて、それに落ちたのは落ちた者が悪いのだということでは、私はほんとうの法律とは言えないのではないかと思う。この點を何とかお考えになる必要があるであろうと思う。もちろん届出ということは非常にはつきりしたことでありまして、これを根本にするならそれでよろしい。けれども届出なくてもほんとうに夫婦であるという實があつた場合、それを認める方法が何かないか。臨時法制審議會の案では、たとえ届がなくても慣習上の儀式をあげたことが説明できるものは夫婦と認めるということになつている。しかしこれも慣習上の儀式というのがちよつと問題でありまして、大いに新發明の儀式をやつたら一體どうなるのかということが問題になりました。ところが明治の初めの規則はかえつて徹底しておりまして、明治十年の司法省の達でありますが、その時分も婚姻したら届けて登録しろということになつているが、たとえ戸籍登録なしといえども、親族近隣これを夫婦と認めるものは、裁判所も夫婦として取扱うべきことという布告が出たが、そんなことで片づけていいと思います。現在としてそういうきめ方がいいのかどうか、それはまたいろいろ問題がありますが、とにかく事實上はこうだが法律上はこうだということを、なるべくなくしたい。これは中島さんの御意見もありましたが、さつき申したように、法律上はこうだが事實はさらにその上にあるのだ。法律ではこれだけのことをしなければならぬが、事實ではもう一層のことをしなければならぬ。法律上では家は廢止したけれども、事實では家のいい部分は残つておるというならこれはよろしいが、法律では夫婦だが事實は夫婦でない。こういう法律關係を拵えることはこれは非常によくない。殊にそれが、夫婦は人倫の根本であり、殊に今度の憲法においては家庭の中心になる夫婦でありますから、それをそのままにしておいていいんだ。彼らは無知なんだからいたし方ないんだ。捨てておいていいんだと、こういうことではいけない。たとえ戸籍登録なしといえども、親族近隣これを夫婦と認めるものは、裁判所も夫婦として取扱うというようなそういう融通のある法律にもなつていいだろう。それはその夫婦を救うのみならず、子供を救う。届けなかつたのは自業自得だというが、その子供には全然罪がない。親の因果が子に報いというのは、非常な不正當だというふうにも考えるのでありますから、その點はひとつなお考えをいただきたいものだと思つておるのであります。  要するに私の考え方は、今度の民法改正、家の廢止、家督相續の廢止の點は、新憲法に順應するためのやむを得ずというだけでなしに、ほんとうに新日本の新家庭をつくるこれが根本になる。しかしそれは法律だけでいくものじやないから、法律はこの程度にしておいて、もつと広い意味の道徳、人情に重きをおいて、その方に力を入れなければならぬじやないかということであります。それから、法律問題を適當に解決するためには、家事審判所を十分に働かす。家事審判所の充實ということが、新民法がうまくいくかいかないかの前提である。それから今の内縁の妻の問題は、これは實際上非常に大事な問題でありますから、十分にお考えを願いたい。まあそういう點であります。  大體一人三十分くらいというお話でありましたが、多少時間が残つておりますので、何か御質問でもありましたら申し上げます。

松永義雄日本社会党

○松永委員長 これにて家督相續の廢止を中心としました問題についての御意見の陳述を終りました。爾後の問題についても、家督相續の廢止の關連する點の御意見もあろうと存じますが、ここで家督相續廢止の問題についての公述人の御意見に對して、御質疑があればこれを許します。但し時間の關係から質疑は簡単に願いたいと思います。

明禮輝三郎日本自由党

○明禮委員 この改正民法の八百九十七條に「系譜、祭具及び墳墓の所有權は、前條の規定にかかわらず、慣習に從つて祖先の祭祀を主宰すべき者がこれを承繼する。」というような規定がありますが、これらを私どもから考えますと、やはりこういう負担をさせる、たとえば祭祀を主宰すべき者といいますけれども、慣習というものもあまりないようでありますし、あるいはこれが指定される場合はこれは問題はないのでありますけれども、指定もない場合が相當多いのでありまして、そういつたような場合に法律が必要なのであります。そこでこの問題を、私どもは、祭祀をするのにも相當費用が要るのじやないか。ただいまのお話の中に、均分相續は相當無理がある、必ずこれが公平だとも言えないというお言葉もあつたのでありますが、それから考えてみますと、家ということは別といたしまして、その祖先の祭りをするのには相當の費用が要るのだということであります。そういうふうな場合に、その財産を貰つたのは均分であつて、祭りだけを負担するということがすでに平等を缺いておるのでりますから、かような場合には、あるいはかような責任を負つた者には、ある程度の財産を附與するということにならなければ、ほんとうの平等ではないのではないかと思われるのであります。この點につきまして先生の御意見を承りたいと存じます。  それからもう一つお伺いしたいのは、今までの憲法からいきますと相續というものは大體において長子がやるということになつておりますから、親を見るということは長子が大體見ることになつておるのであります。ところがこれが均分制になりますと、穂積先生が認められておるごとく、財産の分割によつて相續人同士に争いが殖えるであろうという結果から見ましても、親を見るということについての責任というものは、回避される場合が多いのではないか。そうしますと親は非常に困る場合があるのではないか。そういう點につきましては、九百條の規定によつて親は三分の一の財産を貰うのだからそれでいいじやないかというようにも見えますけれども、その三分の一の財産というものが、どれだけあるかということを想像してみてもかたくないのみならず、場合によりますと金でそれを取るというわけにはいかない、大勢の子供たちが共有しておるものを、どうすることもできない場合が起る。殊に今日のような經濟社會におきましては、たとえ現金でもらつても、その金によつて親は生活することができ得ないのであります。こういうような點からいきまして、日本の今までの相續法というものはまつたくこの點からいきましてはよくできておつた。一應責任を負う者は長子であるということになつておつた。あるいは扶養の規定があるから扶養するので、扶養の義務はみんなが負えばいいじやないかと言われるかもしれませんが、今まで私ども實務家としまして扶養の規定というものを活用したことはあまりないのであります。またかりに活用いたしましても、扶養を裁判所へ持出すようなときにうまくいくものじやない。すでにもう前提として感情があるのであります。かような扶養というようなものは、ほんとうに法律の涙みたようなものであつて、ちつとも力のないものである。從つてどうしてもこういう家というもの、中島先生の言われた家というものを残しておくということも必要であります。また相續という點からいきましては、家の祭りをする者、家を永えに残していく者、傳える者、並びに親を見る者が、責任者がない以上は養老院へでも行けという日本の法律をつくりたくないのであります。そういうような結果に、もしなるとするならば、將來この法律の改正は失敗であるということになると私は思うのであります。この二點についてお伺いをいたしたいと思います。

穗積重遠

○穂積公述人 初めの問題は、私は今の民法の條文をどう改正なさつたというようなことを申し上げるつもりはないのです。この祖先の祭祀を主宰すべき者を指定とありますから、そのときに相續人が遺言等で祭はだれがするか、それについてはこれだけ殖やす、その費用に充てるためにこれだけの財産はそのままやつていくということをきめればよろしい。それでなかつた場合に、その次にだれが先祖の祭をすべきものか、それがないときには家事審判所がきめる。そのときに家事審判所がだれに墓守をさせるかについては、その者にはこれだけの財産を殖やしてやるという世話をするのが、家事審判所の役目じやないかと思います。この條文でそこまで行けるかどうかわかりませんが……。この扶養についてはあとでお話が出そうでありますが、これはどうもむずかしい問題で、今度の建前ではみんながよつて世話をするということになるよりほかにない。それでだれが世話するが、そのかわり費用はだれだれが受けもつというようなことも、結局みんなの相談がまとまらなければ、家事審判所がやることになろうと思つております。これはなかなか法律だけでいかぬ問題でありまして、いろいろの道義、人情が行われないとうまくいかぬと思つております。

明禮輝三郎日本自由党

○明禮委員 結局穂積先生の言われたことから見ると、家事審判所にもつておいでになるというのでありますが、家事審判所で取扱うのはまことに結構で、それもよいと思いますが、やはり審判所でやるのは、審判と調停と二つになつておるようで、大體においてなかなか日子を要する問題と、それからそういうところへもつていくということを、もう地方によつては非常にいやがつておつて、裁判所というところで赤紙をつけられるというようなことを言つて、これは日本の國民がまだそういう思想の徹底を缺いておる點かもしれませんが、家事審判所へもつていつても、なかなかうまく満足がいきにくいのじやないか、また多少不服があつても、それはおきてだから、しかたがないと言えばそれまででありますが、ここに法律をつくるときに、そういうようなことは第二次的として、まず第一次的に法律においてある程度の制定をすることができるならば、今のように、たとえば最初のときに祭祀料としていくらかをやろうとおつしやいますが、年をとつて、たたみの上で病気で死ぬる人はこういうことのできる場合も相當ありますが、普通はなかなか活動しておつて途中でいろいろな事故によつて死ぬる人もたくさんありますし、またそういうことは家庭の事情によつてやりにくい場合もあります。私どもはでき得るかぎり審判所というところは第二次的にして、第一次的に、一應はある程度の相續人として守るべき、あるいはこう行くべきものだという一つの針路を與えておきたいという気がしてなりません。その點を重ねて先生の御腹蔵ない御意見を伺いたいのであります。

穗積重遠

○穂積公述人 私も一向徹底した意見はないのでありますが、今までのような制度を維持して、長男が全部相續するということになれば、それは問題はないが、それを改める以上は、今のような點に困難が生ずることは制度としてやむを得ない。そこでそれならば親の世話をする者をどうしてきめるか。この墓の番をする方のことは法律にきまつておりますから、墓番をする代りには、その者に財産をわけるということも問題になりますが、扶養の方は皆平等である。皆で資力に應じてやることになつておりますから、だれを主にするときめるというようなことを法律ではつきりすることは、實際問題としてむずかしい。もう一つは今度の法律では、今までですと父親の財産がすぐ皆子供に行つて母親には全然残らないから、だれかを母親の代りにしなければならぬという問題が起りますけれども、今度その點は、これも財産のあり方によつては十分とは言えませんが、とにかく母親には一定の財産がいくのであります。それでその點はよろしい。こんなふうにも考えられるのであります。そういう點を、憲法の根本及び民法の建前に違わないように法律の規定できめる。しかもそれをすべての場合にあてはめるようにきめることは、法律としてはなかなかできない。よほど技術的になるべきでありますが、結局は實際問題として、一方においては家事審判所でやるというわけではありませんが、世間の制裁というか、親類及び世間の気持は、結局は家事審判所が世話する。家事審判所がきらわれるというお話、これもひとつそうでなくしたい。これがためには家事審判所の組立を非常によくして、皆が親しんで、このことの起らない前から、そこに相談をもちかける程度にまで家事審判所をよくする。私の理想は家事審判所の上に、もう一つ、法律相談所というような制度を設けて、そうして法律の變つたこの際に、新しい法律の問題についての理解を皆に與える、相談相手になるような制度が欲しいものであると思います。公の制度でなくても、弁護士會等においては今までもやつておられますが、これを十分にやつていきたいと思います。片山首相が世の中に出られた一番初めの出發點は、自由法律相談所であつたのであります。あれが今日の片山首相をつくり上げたものであると思つております。そういうような仕事を官民一致して、ほんとうに民主主義の精神をいかし、民法と道徳とのつなぎをつけるようなことを、皆でやらなければならぬと思つております。

明禮輝三郎日本自由党

○明禮委員 眞野さんにちよつと一點伺いたいと思いますが、眞野さんのお話には、家を廢すること、審議會の模様を御説明になりましたが、ちようどお子さんを亡くなされまして、非常にいろいろなお心持になり、變遷があつて、家をなくするとか、家督相續制というものの改正が新憲法によつてなることによつて非常に意を強くした。気持を新たにしてこれに非常に賛成したと言われたのでありますが、一向その意味がわからないのであります。どういう意味でこのように考えられたかということの理由というか、わけがわからなかつたのでありますが、そのお気持をちよつと承つて参考にしたいと思うのであります。

眞野毅

○眞野公述人 私の子供の亡くなつたのは十九年の十月でありました。まだ憲法が修正になる前であります。憲法がどうなるかというようなことは全然たれも考えていない。しかもその當時から家督の問題をどう扱うかということについては、私もいろいろ考えていたのであります。實際の問題として養子をとつてあとを嗣がせるというようなフィクション、擬制のようなことによつて家を維持するということが、實際から考えてどうしてもしなければならぬうことである。從來の民法から言うとどうしてもそういうことはしなければならぬようなことに結局なるわけです。そういう必要があるか。そこまでしなければならぬものであるかということについて、私は突きつめてそれを考えたのでありますが、結論としてはそういう方向にもつていかないで、いきたいという考えをもつておつたのであります。すなわち家の繼續ということを強いてしないでいく方法でいきたい。こういう結論に達してきたのであります。その結論に達してきたときに憲法の問題が起き、審議會の問題が起きて、同じような結論に進んできたということについて、私は自分の考えていたことと、そういう憲法並びに審議會の審議の模様が進んできたことについて、非常に自分の考えていたことと一致したがために、そのときはほんとうに救われたという心持なのであります。それだけであります。

松永義雄日本社会党

○松永委員長 鍛冶良作君。

鍛冶良作日本自由党

○鍛冶委員 私が眞野さんに聽きたいのは、大體明禮君の言われたことと一致するかもしれんが、第一番にお聽きしたいのは、今までの民法で認められた家をなくするのはいいが、現實の家庭生活は尊重するといわれる。政府から出された民法改正案にもそのことは載つておるのでありますが、これは穂積先生が言われたように、法律的ではない。道徳的でさえあればいいという議論ならば、これは別なのでありますが、眞野先生などの言われるところは、おそらく法律的なものを尊重するという言葉であろうと私は解釈いたします。しからばどういう方法で尊重すればよろしいか。なおまたこの改正民法案で言えば、どこにどの尊重したものが具體的に現われておると思われるか。これを第一點としてお伺いしたいと思います。

眞野毅

○眞野公述人 根本の問題はやはり穂積先生と同じようなことに帰著しますが、民法上の家を廢してもわれわれの家庭生活、家族制度というものがなくなるわけでもありませんから、從つて穂積先生の言われた紙の面からいつても、戸籍というものが全然なくなるわけにはいきますまい。たれとたれが夫婦である。そこにどういう子供があるということは、紙の面から見ても、どうしても残るわけであります。それをどういう方法で戸籍の上——戸籍という言葉があるいは改まることになるかもしれませんが、とにかく從來の戸籍と同じようなものが、何らかの形において存在しなければならぬということは、これは言うを待たぬことであります。これをまたいかに残すかということは、技術の面からみて非常に大切なことであり、これを下手にやるというと、非常に面倒な問題を引起すと思うのでありまするが、これを技術の面から見て巧みに処理するということが必要でありますから、家庭生活の實體というものそれをどうするかということは、むしろ法律の上に立つ道徳によつて始末ができるという考えを私はもつております。

鍛冶良作日本自由党

○鍛冶委員 道徳でやるというならばそれで話は違いますが、私らは今までのような家というものは、これは實際に合わぬのだから廢止するのは當然だと思います。いくら實際合わぬものを廢止したからといつて、先ほど中島さんが言われたように、われわれは現實に家庭生活というものを営んでいる。また社會的に存在している。それを法律で認めるということは無用なものであろう。道徳だけに任しておいて満足すべきものであろう。この點が問題の中心になると思いますから、法律上認める必要がないという御議論ならばそれで終りでありますが、重ねてその點もう一遍伺います。

眞野毅

○眞野公述人 法律は家庭生活のことは全然無視されているわけじやないので、たとえば夫婦間の關係をどうするか、夫婦間もむろん家庭生活の一部面でありますから、そういうことはやはり法律にも規定されているわけであります。全然家庭生活の實體が法律に現れてこない。現してはいかぬ。こういう考え方ではないのです。夫婦關係のごときはある。それからまた親子關係も法律に現われておる。それがやはり家庭生活の一部面を法律で規律できるということは言えると思います。全然法律で家庭生活のことを規律しない。こういう見方ではない。從來のいわゆる民法上の家と戸主權、家族という關係のことは廢止されても、家庭生活の面が法律から全部抹消されるということはないと思います。

鍛冶良作日本自由党

○鍛冶委員 その點はそのくらいにいたしまして、もう一つ先ほど明禮君からも言われたことですが、家の相續ということはなくなつて、殊に先ほど眞野先生のお言葉では、殊にわれわれ都會生活者はなおさらだとおつしやつたのですが、その意味においてならよろしいが、實際問題として先ほど明禮君も言われたように、老後において頼る者を定めておく必要がありますまいか。これは財産のある人ならばその點深く考えぬかもしれませんが、先ほども農家においては困ろうかとおつしやつた。これはしかし農家だけではありません。相續というものは財産及び家系というものよりか、われわれの最も中心とするは、老後を頼つていく者をつくつておく、この點は私は根本じやないかと思う。それで眞野先生の實際論から言われて、女の子があるからみんな出してしまえば気が軽くなるというようなことは、そのようなことは、先生自身は境遇上必要ではないかもしれぬが、一般において財産のない——先ほど親父が死んで妻が残つたと言つておられるが、親父が生きておつても中風になつて働けない、その他年寄つて動かれぬようになつた場合、これをひとつ頼る者ときめておく。ここに財産の相續ということより、日本の舊來からの慣習で一番の頼り道をつくる。これが私はぜひとも必要なものじやないかと思うのですが、その點は先生どうお思いになりますか。

眞野毅

○眞野公述人 頼る者をつくるということはむろん必要なことでありまして、頼る者をつくるということはわれわれも考えておりますが、頼る者をつくるということは相續によらなければできぬというわけのものではない、たとえば自分の女の子供をわきに嫁にやつてもそれに頼る気持があり、その人が世話をしてくれる気持さへあれば、それは別に相續人としなくとも頼り得るのだし、また頼れるように取扱つてくれるんじやないか。そこは必ずしも相續人となつたからその人が親を世話する、相續人となつたから世話してもらえるというわけのものじやなく、それはまた別の方面から解決できるのではないか。私としても個人の問題としては、それは別に考えていいと思つております。

鍛冶良作日本自由党

○鍛冶委員 あと一點だけ伺いますが、相續以外に考える。他家に出ても世話してくれる者がおればよろしいとおつしやる。それはおればよろしいですが、實際において他家に出たら、戻つて親の世話ができるでしようか。女の子供が他家へ嫁に出てできるかどうか。親と一緒に一つの家に住居してどこまでもめんどうを見てやるという者でなくてはいかぬのではないか。私はどうあつても必要じやないかと思いますが、それ以上は議論になりますから申し上げません。もしそうでないとおつしやればそれでもよろしゆうございますが、私はそう考えます。

松永義雄日本社会党

○松永委員長 石井繁丸君。

石井繁丸日本社会党

○石井委員 穂積先生と中島先生にちよつとお伺いいたしておきたいと思います。それは農業資産相續特例法案に關する問題であります。これによりますと、指定相續人の中からだれを相續人にするかは、被相續人、つまり父が自由にできることになつております。何らそれに對して社會的な拘束あるいは社會的なる判斷というものをもたないで、ほんとうにこの規定からしますると、被相續人が自由に自分の好きな者をするというような規定になつておりますが、この點について、かように被相續人の自由意思に任しておいてよろしいか。ある點までは社會的ないろいろな、たとえばその村におけるいろいろな機關の意見によつてこれを拘束させた方がいいかどうか。これらの點についてお伺いしておきたいと思います。

中島弘道

○中島公述人 死んだ人が指定するという制度は、どうも遺言ということがすでにそうでありますが、實際間に合わないことがよくあるのであります。急死とかその他のことやまた遠慮があつたり何かして、なかなか適當な人を選ぶということはできないのであります。私の考えでは穂積先生が言われるように、これは家事審判所に判斷させるのが一番じやないかと思いますが、自由意思というようなことを言うと、一時的にそれを立てておきましても次の機會としては家事審判所、あるいはもつと徹底していえば、もつとほかに客觀的にきまる制度がほしいのであります。それは根本的に私は家というものがある程度認められるということが前提になります。

石井繁丸日本社会党

○石井委員 そうすると、ある點まで被相續人の自由意思に任さないで、家事審判所あるいはその他社會的な制約に從わしたらいいという御意見でありますが、私たちが一番憂えるのは、非常に年をとるまで父が、あるいは被相續人が家の實權を握つておる。そうしましていつまで經つても家の農業經営の實權を、働き盛りの者に任せないということになりますと、非常に家にごたごたが起きるように思います。ある時期に家事審判所なり、あるいはその他農村協同組合なり、あるいは農地委員會なりというものが關連をして、相當な時には推定相續人の中から家庭を相續すべき者をきめていく。指定をきせてしまうという必要があるのではなかろうかと思います。つまり跡を繼ぐ適當な男ができたときには、一應相續をさせる。相續させるのではなくとも、相續人を指定しておくという必要があるのではなかろうかと思うのでありますが、かような必要があるかどうかという點について、穂積先生にお伺いします。

穗積重遠

○穂積公述人 その土地細分をどうするかということは非常にむずかしいことで、今おあげになつた法律もそのままでいいのか、民法をかえたら、その民法に應じて考えなければならぬと思いますし、推定相續人などということもなくなるわけでありますから、そこらへんもなんでありますが、農業なんかは、ほかの仕事も同じですが、今までみたいにその人の自由というのではなく、統制もあり、指導もするのですから、そういう點については國家的の機關なり、あるいはその村のいろいろ委員會なりというものが、適當な指導をするということは必要だと思いますが、それは民法の問題じやないので、民法は原則はこうしておいて、そこで何かの方法を講ずるということになるだろうと思うのです。そこでそれにいろいろ方法があることはさき中島さんがおつしやいましたが、これはなかなかむずかしい問題で、それについて詳しい議論はいたしませんけれども、たとえば家産制度というようにしていくのもいい考えであります。しかしこれはフランスとスイスでやりまして、どうも成績がよくないのです。これは試驗濟のようでありまして、そこらへんに實際やつてみると、名前はよし、考えはいいが、さてかえつて農民が喜ばぬというのが、フランスやスイスの實情らしいのでありまして、そこらにいろいろくふうが要りますが、それらは民法をきめた上でだんだんとそういう點のくふうや特別の立法等があるべきだろうと思うのです。ただ私としましては、とにかく民法が新憲法に應じてこういう制度を立てたのですから、農民は特別だとひつくり返してしまつたんでは、ほとんど全體がひつくり返る。そこらへんのかね合いがむずかしいのじやないかと考えます。

石井繁丸日本社会党

○石井委員 農業資産相續特例法案は今上程になつておるのであります。そこで先ほど言つた指定、父が自分の子供の中から指定することができるんですが、今度出た法案では、いつでもこれを自由に取消せることになつておる。そこで親父さんが、子供たちの中で気に入つた者を指定する。また今度取消して次のにする。また取消すというように、今までの遺言のようなことで、取消したり、指定したり、また取消したりというようなことでは、一家というものは全然収まりがつかなくなる。今出ている法案は「前項の指定は何時でもこれを取り消すことができる。」こういうことになつておるのですが、やはりこの指定について社會的なる相當の發言をさせる。他の機關からの發言をさせるとともに、指定を取消すということは相當に慎重にして、家事審判所なり、あるいはその他の農業關係團體なりの意見を聽いて、それが認めなければ取消さないというようなこともしなければなるまいと考えておりますが、この指定の取消を土地相續人の自由意思に任しておいてよろしいか。その御意見をひとつお伺いしたいと思います。

穗積重遠

○穂積公述人 それは今法律としての問題でありますが、今のようなお話も結構でありましよう。フランスやスイスの家産制度がうまく行かなかつた一つの理由も、やはり家産を設定することも、取消すことも、全然自由になつておるものですから、ぐあい悪くなればすぐ取消してしまうということでうまくいかない。そこらへんにやはり國家的の何か制度がなければならないと思いますから、御意見のようなことも結構でございましよう。

松永義雄日本社会党

○松永委員長 山中日露史君。

山中日露史日本社会党

○山中委員 穂積先生に一言お尋ねいたしたいと思うのであります。先ほど穂積先生の御意見の中に、均分相續の缺點は、債權者保護に缺けるところがある。こういうことを仰せられたのでありますが、その理由として相續人はすべて分割債務を負担する。從つてたとえば債權者が一万円の債權を有しておつたとすると、被相續人が死んだ場合は、子供が五人おれば二千円ずつ分割して債務を負担する結果になるために、債權者は全部を相手にしなければ、債權者が満足を得ることができない。また全部の者が必ずしも返濟する資力があるとは限らない。こういうことから債權者の保護に缺くる點があるというように御説明になつたのであります。しかし均分相續ということが新しい民法において認められることになると、債權者はあらかじめそういう制度のできていることは承知の上でありますから、債權を取得する場合においても、當然將來自己の債權がどういうぐあいで、どうなるかということは、あらかじめ承知しておる點だろうと思うのであります。なおかつ實際問題として、その債權者が相續財産から債權の返濟を受けるというような場合は、主として不動産を對象とする場合が多いのではないかと思うのであります。その財産が分割されますと非常に困難になりますが、その相續財産が不動産であつて分割前でありますと、債權者はその分割前の総合された不動産から、総括的に返濟を受けることもできるのでありまして、大體においてこの制度の上においても、債權者は保護されるものではないかと考えますが、なおそれでもこれ以上債權者を保護しなければならぬという理由がどこにあるか、ちよつとお尋ねいたしたいと思います。

穗積重遠

○穂積公述人 これは非常にこまかい議論でありますが、債權者が安心できないということは一つ一つの場合ではなく、全體の金融に非常に關連します。家産制度がうまくいかなかつたのでは、家産制度というのは差押えのできない財産で、自分の住居なり、耕地のある部分を家産にしてしまうとよいようでありますが、それを担保に金を借りることができなくなる。そこで農民が自縄自縛で非常に困るというので、結局家産を取消してしまうということになる。つまり債權者が困るということは結局また債務者も困る。金を借りるについて貸し渋る。貸さなくなるというようなことが起りやしないか、そういう問題が起るということで、こういう制度にする以上はやむを得ない。債權者自身が用心しなければそれまでの問題でありますが、うつかりして債權者がまたひどい目に遭う。法律上の解釈問題としては今までは遺産相續で起つておるのでありますが、私自身としてはこの場合は當然に連帯債務になると解釈しておるのであります。けれどもこれは一般に通用する議論ではありませんし、また行き過ぎかとも思います。今まで遺産相續に起つていた問題が今度は全體に起るのではないか。法律家としてはそれも考えなければならぬ問題だと思います。

岡井藤志郎日本自由党

○岡井委員 憲法第十四條の平等というようなところから、直ちに民法の均分相續というようなことは出てこないように思うのでございますが、いかがでございましようか。憲法十四條、それから二十四條も同様でありまして、これから均分相續をしなければ相ならぬというようなお考えのようでございまして、私はなはだ案外に思つたのでございますが、私は憲法十四條というようなものは、そういうような條文ではないと、見方を異にしているのでございます。それから家督相續人は先ほど明禮君からお話がありましたように、親を見るというところに重點があるのではないかと思うのでございますが。むやみに均分いたしますと、耕作者などの場合は、たとえば子供が三人づつできますと、三分の一の所有權者になります。孫の代には九分の一、曽曽の代には二十七分の一の所有權者になる。つまり小作人の地位に転落して二十七分の二十六は他に地主があるということになりまして、むやみに世の中は複雜になるばかりで、これらが共産主義、社會主義がきらわれるゆえんじやないかと思います。これでは日本は朝から晩まで法令や制度に明け暮れる國になる。現に毎朝私ども新聞を讀んで見ますと、法令が紙面を埋めているという不愉快きわまる世の中である。かようなことを一年中繰返している世の中になりはせぬかと思うのであります。憲法十四條はそういうぐあいに讀むべきじやない。子供が三人で平等にわけなければならぬということなどは、少しも憲法十四條にその趣旨がうたわれておらぬのであります。それから日本のように國土が狭小であつて、しかも家屋が足りないというような場合に、どうしても両親と同居する家督相續人というようなものがなければ、住宅問題の上におきましても非常に困るのじやないかと思うのでございます。さような點につきまして、私は大體現行民法の通りにして、家事審判所というものを活用することをもつて理想的とするものでございますが、穂積先生のお考えをもう一度伺わしていただきたいと思います。

穗積重遠

○穂積公述人 憲法の解釈問題は、本日も最高裁判所の判事諸君がおられるのでありますから、その御意見を伺うのがほんとうと思いますが、とにかく十四條に「すべて國民は、法の下に平等であつて」云々。何も差別されないと書いてありますから、長男だからどう、男だからどうということになつては、憲法十四條に反しはしないか。こう思つているのでございます。それが決して無理なことじやない。人間として根本的にはそうあるべきだ。それによつて生ずるいろいろな困難はあろうけれども、その根本の道理はそうでなくてはならない。そういう意見であります。

松永義雄日本社会党

○松永委員長 それでは午前中はこの程度にいたしまして、暫時休憩いたします。午後二時より再開いたします。     午後一時九分休憩      ————◇—————     午後二時二十三分開議

松永義雄日本社会党

○松永委員長 休憩前に引續き公聽會を開きます。婚姻の要件、夫婦財産制及び離婚手續について御意見を求めたいと存じます。婚姻の要件につきましては届出の要件を缺いたための内縁の妻の救濟方法はどうか。夫婦財産制については、妻の特有財産の取扱いはどんな状態か。また離婚の手續については協議離婚についてはどうしても家事審判所の確認が必要か等の問題があるのであります。かかる點をもお含みいただきまして広く婚姻の要件、夫婦財産制及び離婚の手續について御意見を承りたいのであります。では順次お願いいたします。柳田國男君。

柳田國男

○柳田公述人 この法律案に對しては私は反對はないのであります。ただ御決定に先だつて若干の準備期間、研究期間というべきものがあつた方がいいとは思つたのでありますけれども、これも情勢でありますし、政治上の理由もありましようし、今日となつては延期説はもつておりません。ただ順序が逆になりますけれども、これが確立しますると同時に、ぜひともこれに伴うて必要なる準備方法をした方がほんとうならばよかつたということも、今からもお考え願いたいと思うのであります。その項目もいろいろございましようけれども、私どもの殊に気にしておりますのは、この問題に對する社會教育の不十分、いま一つは社會機關とでも名づくべきものの不完全なことであります。この二つは少くともこの際これを御考慮にお入れになつて審議をなさいませんと、法律はできたが精神は貫徹しないというおそれがなしとしないのであります。  社會教育と申しますと言葉は非常に広うございまして、必ずしも國會みずからの管掌しておられることばかりではないとは存じまするが、まずもつてどういう點においてわれわれの民法が改正せられるかということは、家はほとんど全部の人間の、全部の國民の問題でありますゆえに、すみずみまで、いかなるクラスの生活をしております人人までも徹底するようにしなければならぬのであります。現在では遺憾ながらどういう改正が行われたかということを、はつきりとのみこんでおる人は非常に少いように感じます。ひとつはもちろん表現のむずかしいためでありまして、これは國語の改良が前提でありますから、一朝一夕にはいくまいと思いますし、殊に今回の法案は、拝見してみますと、實に穏健な表現方法であるし、委曲を盡しておりまして、先ず注文としてはよい方に屬すると存じますにもかかわらず、われわれのごとく多少經驗ある者が拝見いたしましても、そつくり頭に入れるためには、かなりの努力がかかるのであります。ましてやいわゆる素人がどの點が變つたのか考えるときには、法案についてそれを知ろうとするものはないのであります。多くの場合は人がこれを紹介する。要點を人から話されのに基いて知るのでありますから、これが今日まで數箇月間、問題の起つてから數箇月間、新聞、雜誌その他公の機會において話されておるのを聽いておりますにもかかわらず、言い方が非常に強すぎるのであります。詳しく法文を見たならば、かなりの用意をもつて書かれておるような條項までも、要點を摘んで話そうとなると、親の承知を得ないで結婚してよいのだと、それだけならばよいのでありますが、ときのよると、親の意に反して、もしくは親とは全然没交渉に、結婚の約束をしてよいというふうな感じを人に與えております。家の問題といえども同じでありまして、しばしば家が廢止せられるという言葉を聞くのであります。この家というものが全體どういうものであるかということは、實はまだ國民多數の者の頭には、はいつておらないのであります。もちろんいかなる素人といえども、家がなくなつてしまうと思うのは絶對にありませんけれども、これは今日までの民法の、いわゆる法律上の家というものの概念は改まるのであつて、新しい概念が起るのだというふうに解釈するものは少ないのであります。今日も午前より若干その問題が出たように拝聽しておりますが、われわれのもつております常識の家というものが、一片の法律によつて、なくなるという性質のものではないのであります。ただ法律をもつてきめた形、いわば一つのリミツトであります。そこから行つてはいけないという垣根が變わつてくるのであります。人間があつて家がなかつた時代というのは、原始時代にさかのぼれば、あるいはあるかもしれませんが、それからこの方、なんらかの法制のなかつた時代といえども、おそらく今後といえども、家というものがなくなることはあり得ないのであります。家ということは、要するに、人が集まつて同じところに住んで、生活を共にするということであります。いやしくも夫婦ができる以上は、必然的に子供ができる。子供は親が育てるのがほとんど唯一の方法。現在はほとんど唯一の方法といつてよろしいのであります。親、夫婦が子供を養うところがなくなつてしまう気づかいはない、もしくは病、患いをしたとき、怪我をしたとき、疲れて帰つてきて寝る場所がないという気づかいがない。こういうときは自然家族というものが集まる。これはあたりまえのことなのでありまして、今度の民法によつて家がなくなつたということは、家に伴うところの種々なる煩雜なる法規の束縛が解けた、制約がなくなつたというか、もしくはぜひともしなければならないような義務がなくなつただけでありまして、大きな改革には違いありませんけれども、この改革がただそれだけのものであつて、われわれはこれから新たなる家を興すものであるという考えを國民にもたすには、今の社會教育の程度では、たしかに足りないのであります。どうしてかえなければならなかつたかという、目前の立法理由も説明しなければなりませんが、法律の制度が變るたびに變るもの、變り得ないものがあることだけは教育しておかなければなりません。  それからいま一つは主として新しく今日は家事審判所の問題になりますが、これと重要さにおいて該當すべき種々なる機關が今日まで足らないために、非常に弊害があつたけれども、とにかく今日まではあるいはなくてもよかつたかもしれないところの、いくつかの機關が必要になつてくるのであります。私は婚姻の要件という問題についてお話しようと思いますので、主として實例をそちらにとりますが、かりに親たちが今度の法制の改革の精神に鑑みて、お前たち結婚しなさい。お前たちで選擇して結婚しなさいとかりに言つたとする。子供は當然である。義務であるといつたような考えをもつて、自由に選擇をしようとしましても、現在はたしてその選擇ができるでありましようか、どうか。これから考えていかなければならない。現在としましては、ほどんどこれを世話するような機會は何もないのであります。數百萬人の結婚適齢期の男子と女子とがおりながら、そういう行き違い行き違いをしておりまして、結局選ぶ時には、目の前の自分らの接觸するところにいる五人か七人の中からしか、お互いに選ぶことができない。大きな團體に屬しておれば、あるいはもう少し大きな選擇範圍があるかもしれませんが、これが最上のものだというような安心をもつて選擇し得る設備は、何ひとつ現在はないのであります。もつといいのがありそうなものだと思つておりますと、皆婚期を失してしまいます。殊に女子の方は從前からの長い引續きがありまして、自ら進んで聲をかけるということをいたしませんがために、もう機既に熟しているにかかわらず、良縁がなくてまごまごしている者がいくらもあるのであります。かりに、親たちの相談は全然要らない。もしくは親たちが不同意であつてもよろしいということに輿論までがきまつていましたところで、どういう選擇をするかというと、ある場合には失敗の選擇をするばかりでありましよう。と申しますのは、現在の世相におきましては、誘惑が必ずしも男子の側ばかりからではないのでありまして、女子の側からも非常にたくさんの誘惑があります。誘惑ということは最上のものがほかにあることを隠すことなのであります。自分は永久に一番適當なものだという形をもつて、自ら推薦する形であります。その形が非常に多いのでございまして、しかも悲しいことには、十中七八までの未婚の青年男女は、それを判斷するところの能力においてたいへん缺けているものがある。何も今まで判斷する機會を與えられておらなかつたのであります。從つてよんどころなく、初めは世話ずきのただ結婚をさせてやりたいというだけの親切で一生の間に二百組の夫婦をつくつたという老人がいくらもあつたのでありまして、そういう人たちはもはや金のわらじをはいて探してもないのであります。多くの場合はその動機なるものは中には単に自分らの世話した者を多くしたいというような精神的の者もありましようが、物質的の意欲に基いて世話をする者も非常にたくさんありますことは、われわれの最近の經驗であります。終戦後再び復活する機會はまだないようでありますが、一時弊害のはなはだしかつたのは、高砂社と称する式の営業媒妁所であります。これがかなり弊害を流していることは、しばしば新聞等でみるところであります。それを見ましても、いかに選擇の機會に恵まれておらぬかということを感ぜざるを得ないのであります。今日まで多數の若者は——女はもとよりのこと、男までが自分でそれができない。自分にその能力が缺けているということを意識しまして、これを親たちに任せよう。もしくは先輩に任せようとした形跡が非常にたくさんあるのでありますが、實はこれは結婚自由の制限でもなんでもないのであります。もしもお前勝手にきめなさいと言われたなら、まごつくような場合が一番多いのであります。私は長い間にはいろいろの不幸の實例を知つています。母親がなく、しかも父親があまり世間體のことに慣れなかつた家庭におきまして、娘が非常に悲しんでいる實例をたくさん知つております。中には自殺した者も二つも知つております。それくらいまで女の煩悶、つまり判斷力が缺けていた。この必然の論理の結果といたしましては、ぜひともまずもつて個々の人間の判斷力を養わなければならないのであります。  私は少しく勇敢にすぎましようけれども、これを性教育という言葉をつかつておりますが、性教育と申しますと、常に生理學上の現象ばかりを取扱うように考えて、中にはその言葉を聽いてニヤリと笑つたりするものがあります。以前の性教育はそういうものではないのであります。自分らが一番適當なる婚姻をするには、どういう人を選べばよいかということの判斷の基準になるべきものであります、それが以前には備わつておりましたが、近來は非常になくなつた。もしくはなくなつたがために、新しいいろいろの拘束、しばしば干渉と見えたり、強壓とも見えるような父兄の干渉、いわゆる戸主權の活動があつたのだろうと思つております。實際最近五十年間、七十年間の實例を見ますと、これが普通になりかけていたことはたしかであります。自分のごく親しい者の間に結納の日になつてから、お前はどこそこに行くのだと言われてきたという女があつたりしました。これが實は日本の普通の状態であると思つて、以前から日本はそういう結婚しかやつていなかつたと思う人がありましたから、これは大間違いであります。そんな結婚は實はもうそれ自身不自然でありまして、今日の法律改廢をまたずして、早から訂正さるべきものであります。どうしてこれが起つたかということが一つの社會史上、文化史上の問題でありますが、やはり一番何と申しましても、遠方の婚姻というと、自分と居住地を同じうせざる者と婚姻するという風習が始まつたのがもとでありまして、それをし始めたのはやはり武士であります。ですから平たく申せば多くの婚姻方法が幾分か女の利害を無視して——無視してでなかつたかもしれませんが、無視に近い代行をしまして、そうして若い當人たちは唯々諾々として親の指定に基いたということが、一つの上品なる日本人の生活標準のごとくなつたのがいけなかつたのであります。一番大きな原因は、村と婚姻の關係を考えても、決して村は婚姻制度の上から無意味なものでありませんけれども、妙に今日まで重んじられておりましたところの少數の家庭というものは、自分の同村人で自分らより歴史も少く、資産も少いような者からもらうことを、たいへんいやがりまして、遠くからいでもいいからして、自分らと同じくらいな格式の者からもらうということをやりまして、まず村外結婚というものが一番最初に始まりました。地方で申せば舊家とか何とかいうところから始まつた。それもわれわれの見ておりますところでは、所によりましては、かなり自由に、長男の嫁だけは遠くからもらうけれど、あとの子供は自由に村内で結婚させるというのも、ずいぶんたくさんあるのであります。これは明治以前からではございますまい。明治の後からだんだんはやりまして、それが普通の婚姻となつて、從つて現行法の民法というものも、それを基準にしてつくりましたがために、婚姻常識というものが、外國にも傳わり、國内でもこれだと思つているものが、非常に新しいものだということを忘れてしまつたのであります。話が長くなりますから、ほんのかいつまんで申しますが、たとえば嫁入をもつて開始するところの結婚、女の身柄を婿の家に移すことをもつて開始する嫁入というもので始まる結婚というものは、遠方にあつて初めてそれが起るのでありまして、村におきましては婚姻の時期と、それから家を引き移る嫁入の時期というものは、いつでも違つておつたのであります。つまり夫婦が別々の家にいる。もしくは嫁の家に婿が泊つておる。婿がそこに通つてくるという昔からの形の婚姻というものは、百年前まではごく普通でありましたのみならず、現在でもまだ行れている所もいくらでも指摘することができるのであります。この場合におきましては、父母の意思というものはほとんど働いておりません。そんなことはあるまいとお思いになるかもしれないけれども、事實父母は知らずにおりまして、當人たちの結婚は、いわゆる自由結婚というものがごく普通の状態であつた。それをすると困るようになりましたのは、ここにはいろいろの方がおいでになるからして、私立入つたことまでは申しかねますけれども、必ず人間が最初の試みで結婚しなければならないというふうの、一種の倫理が始まりました結果でありまして、そのためにけがのないうちに、過ちのないうちに早く結婚しなければならないといつて、早婚が起りました。早婚だけならいいけども、早期の嫁入というものが起りました。まだ娘とも言えないような年齢の少い女を人の家にやつてしまつて、そこで初めて教育して、男女の間柄でも一旦夫婦になつて、その間におのずから戀愛が發生することを待つようになつた。全體ほかのすべての生物を通じまして、初めに妻戀いというものがなくて、結婚が成り立つているという實例はないのでありますけれども、日本の近世の婚姻は社會上の動機がほかにも手傳つておりましたために、婚姻をしてから後に、おのずから愛情の發達するような、そんな逆な方式をとつたのであります。こんなものが長く續いているわけはないし、將來長く續くわけもないので、私はもう改正されるのが當然とすら實は思つておつたのであります。以前からの、千何百年來の古い習慣をここで改めたなんと思うのは大間違いであります。現在のごとき奇抜な、變つた、ほとんど本人の意思を無視するような、われわれの王昭君式などと名づけておりますような種類の婚姻が普通になりましたのは、ほとんど現行民法と同時だと言つてもいいくらいのものであります。しかしながらこれを必要としました理由はよく分かつているのであります。というのは、村内だけでお互いが子供の時から知り合つているものだけの間で選擇して、この中で一番いい人を探そうという選擇の方法が行われなくなつたからであります。それの一番もとになりましたのは、われわれの記憶しておりますのでは、まず最初には男子の村外旅行、その次は工場などが始まりまして、若い娘が村から出ていくということになつた。盛りの年にお互いに觀察することも、知り合うこともできなくなつて、結婚ができなくなつたのであります。選擇ができなくなつたのであります。  もう一つわれわれどもの非常に心を動かしておりますことは、若者の團體、娘の團體というものが、以前はあつたやつが潰されてしまつたのであります。娘の團體の方は比較的早く潰れたように思います。今でも絶無ではありませんが、非常に少くなりまして、今探すのは非常に骨が折れます。若者の團體は近年までありまして、青年會が盛んになりましてから、若者の團體は、ああいいうものは潰してしまえということになりまして青年會に合流してしまいました。また青年會は婚姻の問題に觸れないのが本筋になつております。婚姻の選擇機關として使うことがなくなつたのであります。長崎縣のある一つの島でありますが、その島にちやうど今から十四五年前まであつたところの、娘宿の組織を改めて、若者宿を潰してしまえというので若者宿の組織を改造してしまいましたときに、一番嘆いたのは娘たちであります。そうすれば私たちはどうしてお嫁さんになるのか、どうして婿さんをもらうのかということを、彼らは大ぜいの前で明言しておるのであります。代りのものをつくつてやらなかつたという非難はたしかにあるのであります。村外の結婚が多くなると、つくりたくてもそういうものはつくれないし、そうかと言つて、今後再び村に戻つて、村の子供の時からの知合いの人の中から選べと言つても、できることではありませんし、殊に都會においてはそういう選擇をすることが絶對にできませんがために、もはやそんなことを言つても、ただ昔の生活を繰返すにすぎないという非難がありますが、私はそこにおいてこれに代るべきものを考えなければならぬと思います。これはどういうふうにかして、ちつとでも多くの中から、少しでもたくさんいる者の中から自分に適し、また自分を適すると見ておるところの人間を選ぶ。これはほんとうに戀愛というものを物質的に見た、社會學的に見た言い方ではありますが、なるたけ広い範圍で、もつとよさそうなのがあつたかもしれないのにというような後悔を残さないように、まず自分の能力の許す限りにおいては最上の警戒をし、最上の判斷をして、それから選んだのだというように、お互い思われるようなものをつくらなければならぬ。それには現在の結婚機關では足りないのであります。今までは完全、というよりは、あるいは働き過ぎておつたかもしれないが、その村々における結婚機關があつたが、その村村自身のものまでも失つてしまつて、仲人に頼むとか、もしくは時によるとよそから勝手に連れてくるとか、いろいろの非常に不完全な、はなはだ間違いやすい——全部が間違つていない證據には、そうたくさん離婚はありませんから、間違つていないかもしれないが、とにかく非常に不完全な形をもつて婚姻する方法にかえてしまつたのであります。ですからして、かりに今度の民法が、當事者自身に自分の相手方を勝手に選ばせる制度であるといたしましても、選ぶ方法がなかつたら、やはり行あたりばつたりにくつつくより仕方がない。自分の前に現われた二三人をもつて、良縁とか何とかいうような、こういう勝手放題な名をつけて、それとくつついてしまうよりほかはないことになる。これは今まではそれでもよかつた。それでもよかつた場合があるというのは、實は婚姻してからの戀愛の發達がなかなか大きかつた。けれども、現在のような状態でありますと、必ず失望する場合が多くて、おそらく離婚問題というものは、數においてこれから著しく殖えるであろうと思う。殖えさせないようにしなければならないが、殖えるであろうし、悪くすると、もうすでに最初から離婚所期の婚姻、すなわち離婚を豫想した婚姻をするようなものが殖えてくるかもしれない。そういたしますれば、夫婦財産制その他の上に大きな影響を與えることは疑いなし、子供の幸福というものもたいへん減ることはたしかであります。いかなる方法を盡しても、この法律の改正を機會として、私は婚姻の適當なる機關をつくらなければならぬ。それから今一つは職業的の、ためにするところのある媒妁人に、あまりたくさんの信頼をおくという今までの制度をやめなければならぬ。今度の改正案を拝見すると、保證人二名という制度が残つております。この保證人という意味は、今度は意味が變るのであろうと私は豫期しております。今までの保證人というのはたいてい先輩であります。田舎におきましてはたね親と申しましたり、もしくは親分と申したり、大抵親の列に屬する者を二人保證人に頼み、それをこれから先の相談相手にする。親だけでは足りないから、つつかい棒にするというような形式でありましたけれども、おそらくこれから先の保證人は同列の者がなつて、だんだん男の友人が一人と、女の友人が一人というふうなことになつていつて、保證するようになるであろうと思います。彼らをしてほんとうに一時的の気まぐれでなくして、心の底から婚姻を保證させようとするがためには、彼らの安心するような方法を講じなければならぬ。どうかして選擇する手段を設けなければならない。これは實は結婚の自由が與えられてからこの方、たいへん大きい問題だろうと思います。田舎ならばなるべく村のうちで、もしくは近村の交際のできる部分だけでということもありますが、都會に來て住んでおる者は、朝から晩まで何人かの異性に接しておるのでありますけれども、この中に自分らの未來の配偶者があるかどうかということをきめるのには、あまりにぼんやりしておる。この連中に何とか適當なる相手の心持を、相手がどんな人間であるかということを知る機會を與えなければいかぬ。ないなりに一つ、二つの方法がある。一方においては、性教育、いかなる者を選ぶのが最も正しい婚姻の配偶選抜であるかということを考える。他の一方においては選ぶ機會を與え、少しでも多くの中から自由に自分らの心をもつて、これならいい、いいということだけじやいけない。自分だけがそうと思つてもいけない。向うからも自分を選抜してくるであろうと思われる者を探さなければならない。國際連盟のまだ始まりのころに、私はしばらくゼネバに行つておつたのですが、あそこでは一番はやるのはテニスであります。そのときにある婦人が私に話すのには、あなたどうしてああいうテニスがはやるか知つておるか、あれはお互いに探しておる。とつさの間に擧動と性格の現われるのには、テニスが一番いいのだというお話でありました。私はちようど日本でもそれに當るものがある。日本では歌がるたを正月だけやるのだが、正月に歌がるたをやる人間は、たいてい結婚してもいいような娘と息子とをよせ集めておいて、お互いに見せ合う。ふだんはおとなしくしておる人間が、しばしばお手つきをしたり、男の方でもいやなごまかしをしたりする者がすぐ現われる。ああいうふうに無心に闘つておる。ゲームをやつておる間には、自然にわかると申しましたけれども、これはわずかなもので、よほどの世話やきのおぢいさん、おばあさんのある家でも集めるのはせいぜい五人か六人の娘、息子であります。これがもう少し自然に青天白日の下においてお互いの気性がわかり、いやな人だということのわかるような方法があれば、それに越したことはない。ダンスがよいというが、ダンスではだめだ。おおよそダンスに行くようなものは相手がきまつてしまつて、それだけの人間から選ぶのですから、もうすでに最初にくぎづけせられておる。だからしてきまじめな、そんなことに引込み思案な考えをもつておる者はいかぬ。これから先は、一方においてあまり若い男女が婚姻の前に、自分のところから離れて、結婚もできないようなところに行く機會をだんだん少くし、もしくは出先においてはなるべく適當なる配偶者を選ばせるような機關もつくらなければなりませんが、やはり出發點としては、そうゆう目的をもつた友だちのグループをしつかり定めて、それに對するアドバイザーというか、相談役のようなものをつくるよりほかなかろうと思います。悪いことばかり傳わつていて、またいやなことばかり世間の評判になつているために、若者組にしても娘組にしても、もはや再びあんなものをつくろうという人は、だれもありませんけれども、これははなはだおもしろくない。固苦しい親なんかから見ると、おもしろくないことに違いないが、こそこそ集まつては男のうわさをしておる。男がまたこそこそ集まつては女のうわさをしておるということも、何だかいやなことに見えるけれども、實はああいうことをやつておる間に、およそ理想的の夫とはどういうものか、理想的な女房とはどういうものであるかという教育を受けておるのであつて、これはあるいは性教育という言葉を使わないで、もう少し別の言葉を使つてもいいかもしれませんが、ぜひとも若い者の教育機關の中に入れなければならなかつた。私は性教育という言葉でたくさんであると思う。つまり性問題と關係しないことは一つもないのであります。病気がないということ、丈夫であるということは、なんでもかんでも皆それである。容貌のきれいであるということもそれであります。病身でないということもそれでありますから、私はこれは性教育という言葉で非常にいいと思います。その代りに今日まで花嫁學校や女學校において與えておるような、あんな遠慮深いことではだめだ。殊に教えておる先生が、皆そう言つては悪いが、不完全な結婚をしておる人であつたり、戀愛生活に成功していなかつた人であつたりするだけに、婚姻に對して妙な考え方をもつておる人ばかりであるから、ごく普通な常識でもつて、夫婦問題を考えることのできる人にやつてもらう。むずかしいことではありますけれども、この問題をもう少し考えてからでないと、せつかく民法において與えられた婚姻の自由というものを、十分利用することができなくなる。このままで世の中に突き出したということになると、どういう結果になりますか。私は豫言してしばしばはずれたことがあるから大きいことは言わないが、むろん離婚率はうんと殖えます。殖えるのみならず、不幸な婚姻が非常に殖えるであろう。どちらか一方が悔いてしまう婚婚が殖えるであろう。それ見てごらんなさい、もう一遍民法に戻した方が、いいという、皮肉なことを言う人が出てこないとも限らない。そういうことのないようにするがためには、この法律の附帯決議というわけにはまいりますまいが、これができると同時に、この問題に對して攻撃なさる諸君は、この問題と同時に、ぜひ今のことを考えてもらわなければならぬ。現在の性教育及び婚姻觀というものに對する教育は、極度に不完全であるということをお認めにならなければならぬ。この不完全は、おそらくは今日までのやや陰欝な、やや拘束の多い婚姻制度が、いつまでもいつまでも、だらだらと續いたのがもとではないかしらと私らは思つております。私はいま一つの事例として婚姻を引きましたけれども、民法の到るところに行きわたつておるのでありまして、必ずしも婚姻の問題だけではないのでありまして、家族の問題にしましても、分割相續の問題にしましても、現在法制だけかえて、法制によつて世の中が變ると思つたら樂觀の局であります。これをするがためには、一方に施設がなければならぬ。われわれの考え方が變らなければからぬ。指導者はもう一段と謹粛しなければならぬ。これをしませんと、おそらく弊害の方が多くなるであらうと思います。  もう一つだけ例を加えさしていただきますならば、たとえば家族の制度を止めて、家に餘裕を残させて、一年の病みわずらいですぐ破産するような状態にしておいて、一方において何らの設備もしなかつたらどうなるか。単に農場の再分割、細小農の發生というだけでは弊害は止まらないのであります。今こそやや平和、幸福を感じておりますけれども、農村のみじめになるということは、もう目に見えておることなのであります。これをほんとうに安全にするがためには、どういう形であるかは知りませんが、あるいは遺言の制度をもう少し發達させるとか、その他人間の考え方をかえるとかいうことをしなければならないかもしれない。とにかく最小限度の自然家族、親と子供というものが一緒に住めるように、半月や二十日の病みわずらいのために、すぐに養老院や養育院の手をわずらわさないようにするだけの努力を、將來はしていかなければならない。せつかく與えられたところの自由を、ほんとうに樂しむことができない。自分らも實驗しておりますが、夫婦がそろつて自分の子供の前途を考えるくらいによく考えることはない。殊に子供を大きくする場合によく考える。育兒院などというものはちよつと今想像はつきません。それをしようと思つたならば、育兒院制度だけでも、根本的にもう少し考える必要がある。現在の育兒院みたいに、子供を使つて小間物や、筆、すずりを賣りにやつたりするような、あんなものがあつたのでは、これは家の代りにも何にもならない。かりに家が分裂して人間がもう一人一人の人間になつたらどうなるか。あひるとか、すずめとか、ああいうふうなものは、親が一生懸命ごく短かい期間だけ育てる。あれから見ますと、とにかく人間は乳離れしたからといつて、すぐ生活ができるものではありません。もとは十年くらいで濟んだかもしれないが、今では十五年なり二十年なりの間、両親が巣におるひなを育くむような態度をもつてやらなければ大きくならない。この世話をする機關はどこにあるか。ですからして現在の民法にいわゆる家というものを壊したということが、家が日本になくなることのみならず、その前提ですらもないということは考えていかなければならない。われわれは新しい生活に最も必要な家というものを、これから案出する義務をもつておる。必要を感ずる。全然家というものがなくなる時代が、あるいは千年とか二千年とか後に來ぬということまでは言い切ることはできませんけれども、それまでの間のつなぎとしましては、やはり病気したら子供から看護せられ、赤ん坊は親から乳を飲まされるという形を續けなければならない。それが安全に續くかどうかということが、今日日本の大きな問題なのであります。優秀なる教育を受けて自分だけは自由なる意見をもち、理解のある主人をもつて、勝手にどんなことでも言えるというような人たちが言つておる手本は、手本ではないのであります。この家の問題はごく小さな、いわゆる口から手というような、しがない生活をしておる者にもかかわつておる問題であります。われわれの考えなければならないのは、そういうおえら方の人たちのためではなくして、むしろ自分自身の力では、正しく考えることのできない人のために、この民法の善用ということを考えなければならないのであります。この法律が今年通るということは、おそらくはもう豫言していいだろうと思いますが、逆にはなりますけれども、この實質はそういう小さいことではないということを考えて、これに伴うところの必要なる社會教育、必要なる社會制度の設立ということは、今までのようにのんきな、いつかはつくるというような気持ではなくして、大急ぎにとりかからなければならない。あなた方のお手の届くところは、あなた方でやつていただきたい。あなた方のお手の届かぬところ、むしろわれわれどもの方がかえつて適任であるというところは、われわれでやるつもりでありますが、世の中が變つたからそういう具體的な準備を要する。研究を要する。考察を要するということをお考えの上で、どうかこの法案の審査に從事していただきたいものであります。はなはだくどいことばかりで、要點に觸れなかつたような感じがいたしまするが、私はこれで御免をこうむります。(拍手)

松永義雄日本社会党

○松永委員長 次に吉田三市郎君。

吉田三市郎

○吉田公述人 この改正案の七百三十九條を御覧願いますと、婚姻は、戸籍法の定めるところにより届出をしなければ効力がないというふうに書いてあります。それはいわゆる婚姻の成立要件として届出主義を採用したものであります。これに對して事實婚姻をすればそれで婚姻は成立するのだ、この方がよろしいという意見も古來行われています。このいわゆる事實婚主義と届出主義といずれがいいかということには、一長一短がありまして、なかなか論議の盡きないところであります。ところがわが國では現行民法も届出主義でありますし、この改正案も届出主義であります。事實婚主義のいいところもありますけれども、どうもはつきりしないというところ、つまりいつ婚姻したのだということが明確にならない。同時にまたいつから離婚になつたのだということがはつきりしない。この両方がはつきりしないということが、事實婚主義を採用する缺點なんだ。と同時に今度はこの届出主義を採用しますと、ちやんとはつきりしないどころではない。非常にりつぱな儀式をあげて大勢の人を呼んで披露して、すつかり周圍でも夫婦と認めているにもかかわらず、法律上では届出をするまでは夫婦ではない。そこが非常に困るところだ、こういうふうになつているのであります。しかしいろいろな利害を考え合わせると、私はやはり届出主義をとつた方がいいと思う。ただ少しくこの届出主義の缺陥を補うような方法を講ずるのが一番適切じやないか、こう考えているのであります。  そこで私の考えを續いて申しますが、その前に今申し上げました改正案の七百三十九條に「戸籍法の定めるところにより」とあるこの戸籍法であります。これをこの機會に一言申し上げて、將來戸籍法の御審議をなさるときの御参考に供したいと思います。つまり先ほどから家というものの廢止の可否について御議論がありましたが、ともかく今日の形勢では廢止にきまつていると言つてよろしいと思います。家が廢止されている以上は戸籍というものはないはずです。戸籍というものは家の籍、家の籍の中に、戸主の家族の籍が書いてあるというのが從來の考え方であつた。ところがその家が廢止されてしまえば今度は戸籍というものはおかしい。ですからこれは民籍——ほかに適當な名前がありますれば結構ですが、私どもの考えではこれは民籍法としていただきたい、國民の籍で、すなわち民籍法としていただきたい。こう考えております。この機會に、先ほどから家の話がいろいろありましたから、私の考えておる戸籍というものについての大要を申し上げます。戸籍でなしに民籍ですが、夫婦の籍は同じ一枚の紙に書く。そうして子供が生れればそこへ書く。その子供が婚姻をしたら、そのときに當然独立させて、独立の籍にする。成年に達した子供も、また當然成年に達したときに独立させる。籍の方ではそういうふうにして整理していくのがいいと思つております。  それから、先ほどから家が廢止されると、法律上家に關することが何にもなくなるとおつしやるが、私はそう思つていない。さつき眞野君もちよつと言われましたが、家の必要の中で、實際問題になつておるのは戸籍權ぐらいのものです。それがなくなつても、われわれが實際家庭生活をする基準になることは、大體、道義と人情でやり得るのですけれども、それを法律上の問題として取扱う場合には夫婦の婚姻の効力に關する規定が適用される。また子供に對する親權の規定が適用される。それから扶養の義務が適用される。かようなものが適用されて、ここに家庭生活というものが、法律上承認されることになつてくるのであります。そういう形で家というものが實際存在しておる。法律上全然存在しないことはない。ただ民法の上に家という字がないというだけのことなのであります。そうして戸籍はただいま申し上げましたような方法で整理していく。いわゆる民籍は整理する。これは民籍ということにしてもらいたい。こういう意見を附け加えて申し上げます。  それから届出主義の婚姻制度で何が一番困るか。ちやんと結婚式をして、夫婦として生活をしておるにかかわらず、夫婦でないということになつて、一番當人たちも實際において困り、殊に世間が迷惑をするというのは何であらうかということを考えてみますと、改正案の第七百六十一條というのを見ますと、夫婦のいずれかが日常の家事において法律行為をする。たとえば必要な食物を買うとか、家具類を買うとか、またそういうものを買うためにだれかから金を借りるとか、そういうようなことをした場合には、たとえば夫がやつても妻も責任をもつ。妻がやつたときにも夫が責任をもつ。こういうふうな規定があります。ところがこれが、夫婦でなければその規定は適用されない。これでははたが迷惑である。ちやんとりつぱな奥さんで、はたで認めておるから、奥さんのつもりで取引をしてみると、これはまだ届出がしてないから主人は責任がないというのでは、實にはたで迷惑する。  それからその七百六十一條という規定を含んでおるのは、夫婦財産制、法定財産制という規定の中ですが、法定財産というのは、大體において結婚生活をする、つまり結婚した後の夫婦生活をする費用は、夫婦の共同で、双方の資産状態や収入を考えて、双方で負担する。こういうことが書いてある。それからめいめい前からもつていた財産及び特に自分の名前で取得した財産は、めいめい別々のものだが、どちらのものかわからぬものは二人の共有にする。大體においてこういうことに規定されておる。そういう規定は、實際上夫婦として生活をしておる人にも適用して差支えないと思います。否、適用する方が便利であると思います。でありますから、いわゆる法定財産制に關する規定、この規定を事實上夫婦として共同生活を営むものに準用する。こういう條文を一箇條に入れてもらう。そうすると少くともこの財産的の面では、届出をした夫婦と同じことになる。大分事實婚主義が加味されてくることになります。そしてそのほかの條文のどこにも差障りがありません。でありますから、この法定財産制という規定は七百六十二條で終つております。その次に一條ほんとうはこしらえるのがいいのですけれども、ここだけを修正するとすればここ一條をこしらえると、あと何百條ある條文がずつと狂います。そうするとあちこちひつぱりまわすのにこん絡がりますから少し形はおかしいけれども、七百六十二條に第二項がありますから、そのあとに一項加える。その一項は、本款、つまり夫婦財産制としての第二款が法定財産制でありますから、「本款の規定は、事實上夫婦として共同生活を営むものに準用する。」こういう一項を加える。ごく簡単なことです。そうすると、ただいま申し上げましたような内縁の——今次出されました課題には、内縁の妻の救濟ということになつておりますけども、これはその妻の救濟にもなります。結婚の費用を夫がもつということにも適用になりますし、妻の救濟にもなりますし、世間の迷惑もなくなるし、つまり夫婦と同じように見られる。身分上のことで婚族關係があるとかないとかいうことは、この規定では救われませんけれども、少くとも財産の規定だけはこの點で救われる。ぜひこの點を御考慮願いたい。  それから、これをこうすると、今度は七百六十八條に離婚のときの財産を分與するという規定があります。離婚したときにはその状況によつて——これは必ずしも妻が夫の財産をもらうとばかりは限りません。夫が妻の財産をもらう場合もありましようが、しかしお互いに自分々々のもつている財産をそのままもつてわかれたのでは、今までの状態から考えて不公平だと思われるときには、これを適當にわけるという規定があります。その規定の條文もたしか三項あつたと思いますから、その條文に一項附け加えたい。この條文の規定は少し制限をつけていいと思う。つまり共同生活を始めたばかりですぐやめてしまうような人にまで、これを適用する必要はありませんから、事實上夫婦として一箇年以上共同生活を営んだものに準用する。こういう意味の規定を置いてもらいます。つまり一年以上も夫婦として一緒に暮らしておつたその人がわかれるというときには、正式に届出をした人が離婚をするときと同じように財産をわける。こういうことにしたらどうか。その二つを附け加えることによつて、大分届出主義の缺陥が直るように思います。  それからこれは私に與えられた題ではありませんけれども、この機會に一言述べさせていただいて御参考に供したいと思います。それは親子の問題であります。子供に嫡出子、庶子、私生子の三種類あつたのが、現行民法の最初であります。それがこういうことがよろくしないというので、先ほどからも皆様のお話に出ました民法改正要綱のころから、それをなくすという傾向になりまして、いろいろなことが考えられておつたのであります。でありますから今度の民法改正案にも現われまして、大體そういう名前はなくなりました、なくなりましたが、やはり嫡出子という言菓は使つてある。使つてあるばかりでなく、この言葉が最後に相續のところにいきまして九百條の第四號但書というところにいつて、嫡出子とそうでない子供の相續分は違う。つまり嫡出子の相續分は嫡出子でない相續分の倍だ、つまり一と二の割合だ、こういうことが書いてあります。これだけが子供の區別からくる實際上の缺陥です。これをなくしさえすればあとは名前の問題だけが残る。名前の問題はどれだけあるかというと、七百七十四條、六條、九條の三條の問題、それから養子縁組のところに「養親の嫡出子たる身分を取得する。」とありますが、それを嫡出子という言葉をなくする。そうすると親に對する子供の地位は全然平等になる。くどく申し上げるまでもなく、子供の両親が結婚の届を出していたとか、いないとかいうことは、子供には何の責任もないことです、そういう子供の責任のないことで、子供の名前を違えたり、少々でも區別をつけるということは、これは見ようによつては先ほど穂積君も言われたように、憲法においては人間は平等だ。こういう考えから言えば憲法違反とも言えるかもしれない。場合によればこういう法律をこしらえておくと、いわゆる嫡出子でない子供の方から、憲法違反だという苦情がでるかもしれないと思います。かような危険を冒してめんどうな問題をはらまして、そこにわずかばかりの區別をつける必要は少しもないと思います。これは結局昔からの官僚的な頭が、十分切替がつかないので、こういうことになつたのではないかと思いますから、この機會にこれをひとつ徹底的にやめてもらつて、そうして七百七十四條、六條、九條あたりの嫡出子でないことと書いてあるのを自己の子でないというふうに直せば、これでよろしいのでありますから、これをぜひなくすようにしていただきたい。  それからついでに子供の問題に關連してもう一つ申し上げたいことは、認知の問題であります。つまり婚姻届が出してあれば、妻の生んだ子は夫の子と推定するという規定があつて、それで父親がきまりますけれども、婚姻届出がないと、つまり法律上正式の夫婦になつていないと、奥さんが生んだ子がだれの子だということは法律上きまりがつかない。そこで認知という問題が起るのでありますが、まずこの認知について第一には、改正案では父または母が子を認知することができると書いてあります。母が子供を認知するということはまことにばかげた話です。こういうことが言えるならば、妻の子は夫の子に推定すると書く前に、まず正式の夫婦でも妻がこれを自分の子だと認知しなければ、夫の子になつてこないことになるのでありますけれども、これには改正法でも現行法でも、そういうことにはなつていない。ただ婚姻届がしていない、正式の夫婦でない間の子供について父母の認知ということ、母の認知ということがあるが、これは認知も、くそもない。子供が生まれれば生んだ母の子であることはもうきわめて明確で、これは否認も何もできない。でありますから母が認知するという意味の條文は、少しずつ修正すれば直るのでありまして、二、三箇所手を入れれば直りますから、これは全部母が認知するいう規定はやめる。そうして妻の懐胎したものは夫の子供と推定するという規定があつて、それが七百七十二條でありますから、この七百七十二條の規定によつて、父を定めることができない子は、父において認知することができる、こういう意味にして認知の規定を整理していただきたい。その認知をするときに、この改正案では子供のまだ生れない前に、つまり母の胎内におるときには、その子を認知するには母の承認が要るということになつておりますけれども、それは生まれない前ばかりではない。生まれてからでもやはり父が認知をするには母の承諾、承認が要るということにしなければならぬと思います。そうでないといかにも母親を侮辱するというか、踏みつけるというか、どうも母親の人格を尊重するゆえんでないと思う。でありますから認知のときには常に母の承認が要るという意味にしたいと思います。  それから最後に相續のことについてちよつと觸れましたから、その點で一點申し上げておきたい。この改正案では、男が死んだ場合に、妻と兄弟があるときには、兄弟も相續人になり、妻と兄弟と両方相續人になる。そうして妻が三分の二をとり、兄弟が三分の一をとるということになつております。けれども妻や相續人があるときには兄弟を相續人にする必要はないと思う。でありますからこれをやめて、妻もないときに、つまり子供もなく、親もなく、妻もないという人が死んだときには、兄弟を相續人にしてもよろしいが、そうでないときは兄弟は相續人にしなくてもよろしい。この點も一つ御考慮を願いたい。はなはだ簡単蕪雜でありましたが、もし何か御質問があればまたお答え申し上げることにして、これだけ申し上げておきます。

松永義雄日本社会党

○松永委員長 同じく次に眞杉静枝君。

眞杉静枝

○眞杉公述人 私は小説を書いております者でございまして、そういう仕事をもちながら家庭をもちました。家庭生活の經驗がある者でございますが、今日この席にお伺いすることになりましたのは昨日のことでございまして、昨日から今日までのわずかな時間でございましたものですから、せつかくこういう機會にお伺いいたしましたのでございますけれども、貧しい意見がなおさら貧しくなりまして、こういう所にお伺いいたしましても十分に申し上げることができないかと思います。それを残念に存じております。  婚姻問題についてという委員長さんからのお話でございましたが、小説を書いておりますと同時に、家庭生活の經驗のあります私にとりましては、結婚いたします場合のことを次といたしまして、ただいまのように女の人が仕事をもちまして、同時に家庭婦人でありたいと願つております場合に、その家庭が非常に安心した形で續けられてまいりますことを、仕事をもつております女の人でございましても、仕事がなくて男の人に頼つていなければならない女の人と同様、と言うよりはむしろそれ以上に、仕事をもつておる女の人は、安心して男の人を信頼し、愛する家庭の中にいたいということを始終願つているのでございます。でございますけれども、たつた今までの状態でございますと、一般世間で申されたり認識されております形では、仕事を持つている女の人は、男の人にすがつている女の人と違つて、自活の能力があるために、家庭生活を壊す自由をもつている。實際的に家庭生活を壊してしまう自由をもつているということが理由になりまして、男の人にすがつている女の人であれば、完全に家庭生活が繼續していかれますものを、仕事を持つている女の人であるために、その家庭が壊れてしまうというような現象が、ずいぶんございますように、思われますのでございます。仕事を持つております婦人でも、仕事を持たない女の人と同様、あるいはそれ以上にも愛する家庭の中に、安心していたいのだということを申し上げたいと思いますと同時に、そういうふうに望んでおります。仕事を持つている女の人が、家庭生活を安心して續けていかれるような、新しい法律がつくりあげられるように希望いたしておりますのでございます。で午前中からのお話で、離婚の場合に、この第六條でございますが、協議離婚にはどうしても家事審判所の確認が必要だという箇條がございますけれども、私は離婚の場合は、なおさらに積極的に家事審判所というような設備がございまして、積極的に離婚の事情を調査して離婚させないで濟むということが第一の建前となつて、積極的に方法をつけてくださるような設備にならないものかしらというふうに考えますのでございます。と申しますのは自活能力をもつております女の人は、家庭生活をいたします場合にも、先ほどから申しましたように独立人としての資格を持つておるのでございますから、その資格において簡単に離婚をしてしまうのだという誤つた認識を、社會からされ易いのでございます。それで独立婦人でございましても離婚はしたくない、それはもう女の人の哀心からの叫びだと存じますのでございますけれども、独立婦人のために離婚の自由をもつておるから、離婚へと急ぐのだというふうに簡単に扱われがちでございますから、そういう場合に離婚の事情の内面にまで家事審判所で立入つてくださつて、離婚しなくてもすむ状態であるのではないかというようなことを審判されたり、同時に午前中からのお話にもございますけれども、法律が立入ることができない道義の問題と申しますか、私ども小説を書いております人たちにとりましては、人生の魂の問題が仕事の全部でございますから、そういう魂の問題にかけて、女の人は結婚生活に全力的な義務を果そうといたしておりますのでございますから、不幸にしてそれが離婚に立至らなければならないような事情になりました場合も、こういう家事審判所とか、裁判所というようなところにもち出さないで、魂の部分に重點をおいて、気持を荒立てたり、それから第三者がとても踏みこむことのできない魂の部分だけを自分がもつて、今まで生活に實際的に義務を果し、努力を盡してきた家庭を壊すに當りましては、なおさらに婦人の方は魂の部分に重點をおいて、裁判所だの家事審判所の方に自分からもち出しまして、その別れる方法を整理するというようなことにならない場合が多いのではないかというように考えます。そういうことを家事審判所の方から積極的に立入るという方法がございましたならば、積極的に立入つて離婚しなくてすむように取計らうと同時に、どうしても離婚のやむなき事情がございます場合は、先ほどから申されましたような新しい法律の規則によりまして、婦人の新しいその後の生活が保障されますように、あるいはそれまで拂つた義務とか責任とかいうものが、踏みにじられないですみますように、家事審判所の方で積極的に取計らつてくださるというようなことが、あつていただきたいように思います。  前後になりましたけれども、結婚いたしますときに、この間うち街で街頭録音のようなことで、見合結婚がいいかとか親の定めた結婚がいいかというようなことを問題にとりあげておりまして、先ほど柳田先生の申されましたように、結婚に時間をかけるというようなお話がございました。私もきのうこちらにお伺いすることにいたしましたときに、そのことをちよつと考えましたのでございます。小説なんか書いております場合に、人の力、人間の叡智と申しますか、そういうものが全力的に使われているにもかかわらず、必然的などうすることもできない時間とか空間とかいうものの作用によつて悲劇が生れてくる。たとえば夫婦の問題でありましたならば、別れなければならないというような問題が生れてくるというようなことが小説には取扱われるのでございますけれども、そういう建前から申しますと、柳田先生が申されましたように、結婚に時間をかけるということはたいへんよいことではないかしら。両親とか、自分の保護者とかいうような人の意見は、若い人よりかも知恵があるかと思われますけれども、この知恵さえも及ぶことのできなかつた力というものを時間はもつているというようなことを考えられますから、法律上の届け出の結婚の問題ではございませず、若い者同士が結婚をいたします場合に、結婚の事實にはいる前に一年間の約束の期間と申しますか、一年間の考慮する期間というようなものが、設けられることを、何かの方法で設けてはいかがでしようかというようなことを考えているのでございます。一年間に考えます力とか、一年間に時間がもたらしてまいりました現象によつて、なおさらはつきりと結婚することが可能だという事情がたしかめられました場合に、結婚するということをいたしましてはいかがと存じます。仕事をもつております女の人の結婚生活ということに關しまして、私といたしましてまだ申し上げたいこともございますように存じますけれども、今はつきりこういうふうにというふうに出てまいりませんから、もし後ほど時間がございまして、何かおつしやつてくださる方がございまして、私が申し上げる部分がございましたならば、申し上げたいと存じます。

松永義雄日本社会党

○松永委員長 婚姻の要件、夫婦財産制及び離婚の手續きについての公述人の御意見に對して、御質問、御質疑はありませんか。

明禮輝三郎日本自由党

○明禮委員 事實婚の問題と今の届出主義との關係でありますが、七百三十九條は、届出によつてその効力を生ずるということになつております。この點について私は考えるのでありますが、届出をするには當事者双方及び成年の證人二人が、口頭または書面によつてこれをしなければならないとなつておるのでありますから、實際上婚姻生活をしておりましても、先ほど柳田さんから言われたと思いますが、届出をするのが遅れまして、子供が生れてから届出をするということが相當多いのであります。從つて今までの現行法の扱いからしますると、庶子、私生子というものができないとも限らぬような状態であります。こういうような點から考えますと、夫婦の一方が何らかの——たとえば證人もつけましようし、あるいはどこそこにおいて式を行つたという一應の證明もできましようし、そういうものをつけて、婚姻の式をあげても、一箇月か二箇月か一定の期間の間に双方が署名擦印して届出ができない場合には、一方の一人が届出をすることができるという規定を置くことが、今の事實婚に對する一つの大きな制約ができるのであると私は考えるのであります。こういう點についてのお考えを、吉田さんがおられますから吉田さんに伺つて、つまり婚姻の届出をしないために、いろいろと婚約不履行の損害賠償という事件が起るというのも、常にこの辺から水がさされまして、結婚をしておりましても籍を入れてくれない。ごたごたが起る。遂にそれが婚姻豫約不履行の問題で損害賠償の事件が起きて、婦人の方々が非常に困つているのは、その點であると思います。この點についての御意見を拝聽したいと思います。

吉田三市郎

○吉田公述人 ただいまお話のことは私は別によく考えてきてはおりませんから、格別に有力に申し上げるというわけにいきませんけれども、今おつしやるところの主な點は、得心づくで婚姻するつもりで結婚式をあげておきながら、何かでいやになつたといふときに、届出をしない。そうするとど姻不履行の問題しか起らない。これでは困るというのが第一のように思いますが、これは届出をするときが婚姻の成立なんだ。婚姻の成立するときに婚姻する意思がなければ困る。たとえ前に婚姻するという約束はしても、それを履行して婚姻するということが、今婚姻を成立させるたつた今のときには、そういう意思がないということになると、婚姻する意思のない者に婚姻をさせることになる。これはいろいろの規定でおわかりのように、婚姻の意思ということは非常に重く見ている。婚姻は當事者の意思ばかりで成立する、意思だけによつて成立する、こういうことが書いてある規定の眞正面の意味は、他の條件は必要でないということを言つているのでありますけれども、とにかく意思に重點をおいているということはよくわかるわけです。でありますから、こういうときに婚姻を一方の届出だけで無理に成立させて、そうして曲りなりにもそれで収まつていく場合もあるかもしれませんが、多くは離婚問題などが起つてくるということになつて、かえつて混雜するのじやないかと思います。もう一つ次には、そういやになつたわけではない。する意思はある。婚姻届出をして今もちやんとやる意思はある。しかし病気で病院にはいつておつてできないとか、あるいはどこかに旅行しておつて判を押せないという場合もありましよう。この方の場合は方法がないではないだろうと思う。皆さんも御承知の通りに、戦時中には、戦争に行つている人が婚姻する意思のあるということがわかるようなことを、何か手紙でもよこしているとかなんかすると、それをもつていつて裁判所で確認をしてもらうと、届けができるというような規定ができております。これに類したような規定を設けてそういう場合の缺陥を補充するということはいいかもしれないと思います。けれども、前のいやになつた場合をどうするかというのは、どうも少し無理ではないかと思います。それからさきの庶子、私生子という問題も起るからというお話がありましたが、先ほど私が申し上げたように、庶子、私生子の區別をなくして、全然そういう名前もなければ、子供の地位に區別もない、こういうことにしてしまえば、實際両親が両親であるという事實には變りない。その間に夫婦が婚姻届をしておつたかということは、子供の利害にはちつとも關係ないことになりますから、その方から救われてくるものと考えます。

明禮輝三郎日本自由党

○明禮委員 吉田さん、そこでちよつとお伺いしますが、憲法の二十四條によりますと「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」と書いてある。從つて一應は成立しておるのでありますが、現在のこの法案が通過いたしますと、効力の發生は届出にかかる、こういうことになる。それで實際は今の正當なる理由なくしてということですが、私の言うことは、旅行しておるとか、あるいは病院に入院しておるとか、そういうようなことは別でありますが、正當なる理由なくして一定の期間に届出が双方當事者署名捺印してできないような場合には、ある方法の硫明をつけまして、その疏明をつけて届出を一方的にでもできる救濟の規定をおいたならばどうかと思います。

吉田三市郎

○吉田公述人 あなたのおつしやる意味は、つまり成立したということを疏明するということは、そのときに婚姻届出をするという意思があることを疏明するのではなくて、前に結婚式をあげたとか、ある期間同棲していたとか、そういうことを疏明するわけでしよう。

明禮輝三郎日本自由党

○明禮委員 そういうわけでしよう。それで結構なんです。

吉田三市郎

○吉田公述人 そういう疏明で意思を認めて婚姻を成立させることが、憲法二十四條に合うものか、かえつて反するものかというのが問題なんです。二十四條は、合意によつて成立すると書いてある。この規定だけおけば、この合意には何の様式もないのだから、事實婚姻は成立する、こうなりますけれども、これが法律ができて、届出なければいけないとなると、その合意は届出という様式でやらなければいかぬということになつてくるから、そこで婚姻の意思は正當には届け出るまでは表示されなかつた、合意はできなかつたということになるわけです。

明禮輝三郎日本自由党

○明禮委員 そこが違うのであります。私の言うのは、この憲法の規定によつては成立しておる。ただ届出によつて効力の發生要件に缺けておるだけでありますから、成立しておるものを、正當の理由なくして一定の期間を經過しても届出に應じない場合には、一方的に出してもよいではありませんか。そういうような規定をおけば、結婚したところ、その届出を受理せられないで非常に困る女の人、または男の人が救濟されて、損害賠償等の弊害を受けることが少い。そういう點の訴訟も少くなるのではないかと考えるのでありますが、その點はいかがでありますか。成立しておることが前提であります。

吉田三市郎

○吉田公述人 そうなると、法律でもつて婚姻は届出なければいかぬということが憲法に違反することになるかもしれません。合意だけでよいと憲法に書いてあるのですから、合意さえすれば成立するのに、届出なければ成立しないというのは憲法違反の法律だ、こういう議論にもなつてくるわけです。しかし憲法のそういう形式論を抜きにして考えると、届出るときに、意思があるということをどこまでも重きをおくか。そうすると一遍婚姻するという意思を當事者間において約束したり、實行したならば、あとは意思がなくても無理に届け出てよいか、こういう問題になるので、よほど重大な問題だと思います。そういうものを設けても、よほど厳重な條件で特殊の場合だけを認めるのがあるいはよいかもしれぬと思いますが、あまりよく考えておりませんから……。

明禮輝三郎日本自由党

○明禮委員 女の立場として女の方に御意見を承りたい。

眞杉静枝

○眞杉公述人 結婚の事實がございましたのにかかわらず、法律的な手續がなされなかつたという場合、女の人がその手續を拒んだのでなく、男の人が拒んだ場合をおつしやるのかと存じますけれども、そういう場合はほんとうに女の人にとつては問題は大きい。女の人は子供を産むということがございますから、そういう女の人が法律的な手續を怠ることを望んでおる場合と違つて、男の人が法律的な手續を拒んだ場合の方が、社會的に問題は大きいと存じますから、結婚の事實があつたということの證明がもし事實なされますものならば、その證明があると同時に、法律的な手續が一方の意思だけでもできるようになることが必要なんじやないか、結婚の手續にはなりませんまでも、その女の人の子供にとつての保護、男の人の責任が遂行されますような、そういう方法はぜひつくつていただきたいと存じます。

松永義雄日本社会党

○松永委員長 ちよつと一言いたしたいのですが、公述人に對する御質疑は、その御意見についてお伺していただくようにしまして、法律案について政府に質問するようなことと違いますから、公聽會の性格に鑑みまして、なるだけそのようにお願いいたします。

鍛冶良作日本自由党

○鍛冶委員 今の點で眞杉さんにお伺いしたいと思います。先ほど私おらなかつたので聽きませんでしたが、柳田先生からか、結婚するまでに相當の交際期間とでもいうものを置いたらという意見があつたということですが、そういうことと、憲法二十四條に書いてある、結婚は両性の合意のみに基いて成立するというこのこととの關係についてお考えを承りたいと思います。単に両性の合意というものさえあれば、それで結婚が成立するのだというこの二十四條をそれだけにとれば、交際期間を置かなければならぬということもこれに反するのではないか。しかしそうでなくて、ただいたずらに二人が結婚しようじやないかと言つたら、それでよろしいということになつては、社會の秩序が保たれぬというので、そういうことが現われてくるのだと考えるのですが、そうだとすれば、両性の合意を認める前提として、社會的に何が必要かということの觀念がおかれるのではないか、こう考えるのであります。そこで私は交際期間ということもいいかと思いますが、われわれはわが日本の慣習と申しますか、實際に行つておるよろしいところをとつて、實際に當てはめるということが一番いいのじやないか。それといやしくも結婚というものは野合と違うのであります。野合と違うということはどんな違いがあるかと言えば、何としても社會的の公然性ということが一番大事なのじやなかろうかと考えるのであります。その意味において私は、両性の合意のみと書いてあつても、その両性の合意の成立する前提として、實際今社會で行われておる媒介人を立ててやるとか、式をあげるとか——式をあげないのもありますが、いやしくも式はあげなくても何らかの媒介人というものを要するということが必要じやないか。そのほかのことでもいろいろありましようが、さようなことを御婦人の立場としてお認めになるものかどうか、伺つてみたいと思うのであります。

眞杉静枝

○眞杉公述人 今野合という言葉を伺いましたけれども、そういう言葉は教育のない、自由人とか、独立人とかいう資格をもたない人たちが結ばれます場合には、野合という言葉を使つても仕方がないと存じますけれども、私が先ほど申しましたのは、自分の生きるということに對して全力的な責任をもつ男と女の場合の男女の結合を期待いたしまして、一生懸命に社會生活をこれから始ようとする場合に、両親の意見とか古老の意見というものなどよりも、もつと力のある交際期間というものをその考慮のうちに取り入れたらどうだろうかということを考えましたのですが、さつき柳田先生が申されました、昔——現在もそういう風習があるということをおつしやられましたが、南方、インドネシヤなんかには、日本の古來の三日夜待と申しますか、男の人が女のところへ通つて來ていて、ある期間公の結婚生結でない形のままにしておいて、そしてあるときに、母權制度の場合とか母權制度の土地でありましたならば、婦人の方へ男の人が移つていつて、そこのあとを繼ぐという例があるということを、ものの本で讀んだことがございます。しかし私が申しましたのはそういうようなことではございません。男と女が一生懸命に自分の生きていく気持に對する責任とか、義務とかいうものを果そうとしている場合のことでございます。

松永義雄日本社会党

○松永委員長 最後に親族間の扶養の範圍につきまして、順次御意見を求めることといたします。親族間の扶養の範圍につきましては、妻の直系尊屬や三親等の姻族にもその範圍を拡大するという考え方と、欧米風に子供は早く両親のもとを巣立つて独立自活させるべきだと主張をする考え方とがあるのですが、いずれを可とするか、扶養の範圍はどの程度を適當と認めるか。こうした點を中心に御意見を承りたいと思います。では井上登君。

井上登

○井上公述人 扶養義務ということにつきましては、私は特に研究したこともありませんし、また三十何年裁判官をやつているのでありますが、扶養義務ということが實際の訴訟において問題になるということはほとんどないのであります。私に關する限りまだ一遍も扶養義務に關する事件の判決をやつたということはないのであります。それでありますから、實際家あるいは專門家としても、何ら素人方と異るいい意見を述べるわけにもいかないと思うのであります、そうなりますと、私がここへ出てしやべるということも、はなはだ無意味でありますから、私は初め固辞したのであります。けれどもどうしてもお許しが出ないので、とうとう負けて出てきたわけであります。そういう次第で私がここで述べますことも大體素人方がお考えになることとあまり違わないことに帰著しやしないかと思うのであります。それでただここでは現行民法と今度の改正案との違い、改正案が從來の民法をどういうふうに改めたかということをお話いたしまして、そしてその特徴についてちよつと考えたことをお話いたします。それでごめんをこうむりたいと思つております。  まず今ちよつとお話申しました扶養の義務の範圍というのでありますが、それについては現行の民法は九百五十四條で「直系血族及ヒ兄弟姉妹ハ互ニ扶養ヲ為ス義務ヲ負フ。」だからして血族間と兄弟姉妹、それだけの間に扶養の義務の範圍を限つたのであります。その第二項にただ夫婦の一方と他の一方の直系尊屬にして、その家にある人の間にも扶養の義務がある。つまりある甲乙という夫婦がありまして、その甲という夫の父親がある、あるいは母親があるという場合に、その甲が死んだときに、その乙つまり妻の方がしゆうとに對してもやつぱり扶養の義務があるということを規定しております。しかしながら今度の改正案はその第二項を削つてしまいました。つまり扶養の範圍を今度の改正案は狭めたわけであります。これは今ちよつと讀みましように「其家ニ在ル者トノ間亦同シ」ということが書いてあります。ところが今度の改正法では、先ほどから論ぜられましたように、家という觀念がなくなりましたから、その家にある云々という條文も、それに從つてなくならなければならぬという理由もあるでございましようが、これは今申しましたように、夫がなくなつてからも妻がしゆうとに對して扶養の義務を負うというようなことは、気の毒じやないかという觀念に基きまして、つまり未亡人を保護しようという趣旨からできたものと想像いたします。私はこの改正案には全然關係しておりませんから、立法者の意思がどこにあるかということをはつきり申し上げることはできませんけれども、まあそういう趣旨だつたろうと思うのであります。もちろん未亡人が孝養の気持をもつて、しゆうとをもよく扶養しようという気持で任意に扶養をすることは非常に結構ではありますけれども、法律上の義務としてこれを負わせるというのは、少し気の毒ではないかという觀念、この第二項は主としてそういうような考えから、はずされたものではないかと思つております。たいへんいいことじやないかと思つております。それから改正案の一番の特徴がどこにあるかと申しますと、現行の民法ではだれが扶養の義務を負うかということばかりでなく、扶養の順序とか何とかいうことまでも、はつきり法律できめておるのであります。たとえば現行の九百五十五條では、第一に配偶者が扶養の義務を負う、第二に直系卑屬、第三に直系尊屬というふうに順序がはつきりきまつておる。そういうふうにこまかいことまできまつておりますが、改正案ではこれをやめまして、すべてこういう順序や何かは家事審判所できめる。まず當事者の協議できめる、當事者の協議が整わない場合は、家事審判所がいろいろな事情を参酌して、そうして家事審判所で順序や何かもきめる。こういうふうにしまして、法律で動きがとれないように、こまかいことをきめてしまうというやり方をやめて、家事審判所の裁量に任したということが、改正案の大きな特徴だと思うのであります。これがいいかわるいかということが、今度の改正案について一番議論のされるところと思うのであります。この法律できめてしまわずに、家事審判所の裁量に任したということは、これは運営がうまくいけば非常にいいことに違いないと思うのであります。しかしながら家事審判所の審判官に人を得ないと、かえつて、とんでもないことになるおそれは十分にあり、一利一害でありますが、しかしながらこれは家事審判所の審判官というものは、裁判官がなります。それに参與官とか何とかいう名前は忘れましたが、お人方が参考のためにつかれます。そういう審判官その他の構成する人々を注意してよく選んで、適當な人を得るということによりまして、弊害を除くことができる。一にその人の選び方にかかつておると思うのであります。その審判官などを選ぶのは、われわれの任務でありますから、われわれはその點については十分注意をいたしまして、そうして適當な人を選びたいとは心得ております。それで、もしその家事審判所の構成さへうまく適當にいけば、今度の改正案の考え方は、非常にいいのではないかと思つております。次に現行法では、ただいま申しましたように、直系血族と兄弟姉妹にこの扶養の範圍を限つたのでありますが、今度の改正案では特別の事情あるときには、家事審判所は三親等内の親族間においても、扶養の義務を負わせることができる。こういう規定を第二項に新たに設けたのであります。この範圍においては今度の改正案は、扶養義務の範圍を広げたのであります。もとは血族と兄弟姉妹だけであつたが、今度は姻族にも及ぶ。それから三親等、伯父、甥の間までも及ぶことになつたのであります。しかしながらこれは法律上當然そういう人たちが、扶養の義務を負うというのではないのでありまして、特別な事情のあるときに、家事審判所で、お前が負わなければならぬということを言われたときに初めてそういう義務を負うのでありまして、法律上當然そういう義務を、甥だとか、姻族だとかいうものが負うのではないのであります。それでこの立法によりまして今申し上げましたように、伯父、甥の間に扶養の義務を負わせるということが可能になつたのであります。もとだと伯父さんはたいへん金持で、甥はどうも病気で何も働くことができない。全然食うことができないという場合でも、伯父さんが全然知らぬ顔をしておつても、法律ではどうもしようがない。こういうことになるのでありまして、これはどうもおもしろくない。やはり家事審判所がよく調べてみて、そういうふうに伯父さんがたいへん金持である。甥の方は食えない。あるいはその逆に伯父さんは年をとつてしまつて働くこともどうもできない。資産もない。甥の方は隆々としてやつておるというような場合、甥にも扶養の義務を負わせるというようなことに、家事審判所で審判をもつて決するというふうなことも、いいことではないかと思うのであります。大體それもいいのだと思いますが、ただ女性の間から、どうもそういうことになると、未亡人が夫の親族に對してまで扶養義務を負わされることになりはしないか、未亡人の負担というものが殖えやしないかというような不賛成論が出るということが考えられるのでありますが、それはしかし未亡人になつたときに、つまり旦那さんが亡くなつたときに、姻族關係を消滅させるという意思表示をお嫁さんがすれば、それによつて姻族關係というものは、今度の改正案では消滅させることができるのでありますから、そうして消滅させてしまえば、家事審判所でも、その未亡人に旦那さんの親族の扶養を負わせるということはできなくなるので、それによつて免れることができるので、未亡人がこの條文によつていじめられるということはないと思うのであります。それからもとの條文には、扶養を受ける者が自分の資産及び労力によつて生活することができない場合、あるいは教育を受けることができない場合でなければ、扶養を受けることができないということがあつたのでありますが、今度の改正案ではそれも削除してしまつたのであります。だからどうやら細々ながら生きていかれるという場合でも、たとえば親父さんは何も財産もない。年をとつてろくに働けない。どうやら生きてはいけるが、細々なさけない生活をしておる。息子の方は働きがあつて非常に贅沢な生活をしておる。そういう場合に、現行の民法だと、子供は親父さんを扶養しなくてもいい。不人情なやつだ。親はこんなに貧乏な生活をしておつても、とにかく生きていける以上は放つておいてもかまわない。こういうふうに法律上はなつてしまうのでありますが、それはどうも面白くないというところから、やはりそういう場合にでも家事審判所で相當と思える場合には、子供が親父さんにもう少しよい生活をさせる。そのために扶養の義務を負わせるということもできるようにしたのであります。  なお現行の民法では、扶養を受ける者が、自分の過失によつて生活をすることができなくなつた場合には、兄弟姉妹からは扶養を受けることができないというような規定があつたのであります。そうしますと、これはつまり自分が財産もあつて暮していけるのに、それを自分が勝手に道樂か何かして無一文になつてしまつた。それで兄弟の扶養を受けようというようなことは面白くないから、そういう自分の過失によらないで生活ができなくなつた場合に限つて、扶養を兄弟に對しては請求することができるのだ、こういうことになつておつたのでありますが、今度の改正案ではその條文もなくしてしまつたのであります。そういうことになりますと、それはなるほど自分勝手に道樂をして財産はなくなつてしまつて、そうして兄弟の世話になるということは面白くないことでありましようが、しかしながら過失ということになりますと、たとえばちよつとした不注意で電車にひかれてひどい怪我をして、不具になつて働けなくなつた。そういう場合でも、過失によつて生活ができなくなつたという場合には違いないのであります。こういう場合にどうも兄弟に養つてもらえないということに解釈されるようなおそれもありますので、そういう場合は不都合であるから、この條文は削除したものと考えるのであります。  それから先ほど申し上げましたように、扶養義務の範圍は直系血族及び兄弟姉妹ということになつております。これは原則としては改正案も同じなのでありまして、ここには配偶者という文字がありませんから、この條文だけから見ますと、配偶者はお互いに扶養義務がないのじやないかというふうに見えますけれども、これはそうではないのでありまして、たしか八百七十七條かに夫婦はお互いに協力して扶助しなければならぬという條文があります。その條文の適用でやはり夫婦間に扶養義務はあることになろうと思います。これは改正案も現行法も同じだと思います。  それから問題といたしましては、扶養する者と扶養を受ける者との間に契約をして、お前に月々いくらずつ送る。それで扶養する。それでよろしい。こういう契約をしたときに、その後に事情が變つて、その契約の變更を請求する權利を認めたらどうかという考えがあります。これは現行法にも改正案にもありません。しかしながらたとえばこういうインフレになる前に、お前に月々百円送る、それで暮していけ。よろしいというような契約ができたときに、こういうインフレになつては月に百円くらいもらつてもどうにもならない。そういうように事情が變つて來たときには、やはり契約の變更を家事審判所に請求することができるという規定があつたらどうかと私は考えております。これは先ほど申したように、どのくらい扶養するか。いくらくらい出してやるか。あるいは引取つて世話をするということは、すべて家事審判所できめるのですが、今の例で百円出してやると審判したときに、後にインフレになつた場合には、家事審判所はその審判を變更することができるのであります。家事審判所の審判で扶養の程度がきまつた場合には、家事審判所はこれを變更することができるという規定があるのでありますから、契約の場合にもやはりそういう規定があつた方がよいと思います。むろん契約と審判とは契約は當事者の自由意思できめるのですから、その點に違いがありますが、やはり事情の變更があつた場合に、變更しなければならぬという必要は同じことではないかと思うのであります。扶養ということについては先ほど申し上げたように私深く研究していませんし、きのう一日の豫習で研究しておく餘裕もありませんでしたのでお話し申し上げることもありません。はなはだ簡単ですが、これで御免蒙つて、あとは永田さんからよいお話があろうと思います。

松永義雄日本社会党

○松永委員長 次に同じく扶養の範圍の問題につきまして承ります。永田菊四郎君。

永田菊四郎

○永田公述人 私もただいまの井上さんのお話しのように、昨日遅くお話があつて特段の調査をするひまもなく、また平素の研究も十分できていませんので、ただ皆様方のお耳を汚すだけであります。しかしせつかく出てまいりましたので若干の意見を開陳いたしたいと思います。  私どもの與えられた問題は親族間の扶養の範圍の問題でありますが、その範圍の問題をお話しする前に、ちよつと現行の扶養制度の一班をお話ししたいと思います。御承知の通りこの扶養というのは生活できないとか、あるいは困難である者に對する援けの問題でありまして、それには國家的の扶養と、私人的の扶養とがあります。私人的の扶養は、さらに公法的扶養と私法的扶養とにわかれてまいりますが、この國家的扶養につきましては古い時代の制度は、はつきりいたしませんが、明治になつてからは、明治七年に太政官達で救恤規則というのがありまして、それによりますと「極貧ノ者独身ニテ疾病ニ罹リ産業ヲ営ム能ハザル者」竝に「独身ニ非ズト雖モ餘ノ家人七十年以上十五年以下ニテ其身癈疾ニ罹リ窮迫ノ者」は一箇年に米一石八斗を給與するという布告が出ております。現在は御承知のように救護法というものが出ております。救護法が出たのは昭和四年でありますが、その施行は昭和七年であります。それから救護法施行令というのもありますし、あるいは母子保護法という規則も昭和十二年に出ております。それから特殊關係の扶助法規といたしましては、罹災救助基金とか、軍事扶助法とか、行旅病人及び行旅死亡人の取扱いに關する規則等か出ております。  次に私人的扶養法規といたしましては、公法的扶養法規を私法的扶養法規とありますが、公法的扶養というのは、國家が個人を強制して公法上扶養を勵行せしめるのであります。これには御承知のように工場法とか、鉱業法とか、労働者災害扶助法とかいうようなものがありまして、これによつて強制的に個人に對して公法的に扶養を強制しているのであります。次に私法的の扶養でありますが、個人をして個人を扶養せしめるというのでありまして、これは民法の規定であります。すなわちただいま問題になつているのはこのところでございます。自己の資産または労務によつて生活をなすあたわざる者に對して、その生活費または教育費等の全部または一部を給與するために、親族が不能者に對して經濟的の給與をなすという制度であります。この扶養義務はわかれて二つにすることができます。すなわち生活保持義務、生活扶助義務というのであります。生活保持義務と申しますのは、たとえば親子または夫婦たる親族關係の本質的要素の一をなすのでありまして、これあるがために親子であり、夫婦であるという性質のものであります。すなわち身分關係の不可缺的要素をなすのであります。それから生活扶助義務というのは、たとえば兄弟姉妹間の扶養のように、例外的、偶然的の義務でありまして、これは親族關係の補助的要素の一たるにすぎないのであります。そうきめたのは本質要素であつたのでありますけれども、あとは補助的要素の一にすぎないというのでありまして、御承知の「みずから生くるの權利は他を養う義務に優先する」という原則は、つまりあとの方の場合に適用になるのであります。ところがこれまでのわが明治民法にはこういう二つの生活保持義務とか、扶助義務というようなものは明瞭には規定してありませんけれども、これはスイスの民法にこういうことが規定してありますし、また民法學者中川善之助氏や和田于一氏らのごときも、この趣旨を取入れて、こういうふうにしなければならぬということを言つておられます。そういうふうに二つの義務を認めることの方が合理的であろうと存ずるのであります。  さてしからばこの扶養の範圍をどの程度にするかという問題であります。これが今ここに與えられた問題でありますが、これにつきまして、いろいろできるだけの努力をして、言うべからざる苦心して、調べたのでありますが、その立法例を申し上げます前に、まず改正案の規定を申し上げたのでありますが、この改正案につきましては井上先生からお話がありましたように、まず夫婦相互間に扶養の義務があり、それから直系血族間、兄弟姉妹の間に義務があるとして、八百七十七條の第一項に規定してありますし、第二項には特別の事情あるときには三親等内の親族間においても義務を負わせることができる、こういうものであります、三親等内の親族間でありますからして非常に広いのであります。三親等内の親族という中には、三親等内の血族と三親等内の姻族とがはいるのでありまして、非常に広い範圍を認めております。配偶者の姪とか、甥とか、あるいは伯父、伯母とかいうものにまでも及ぶというのであります。自分の伯父や伯母や甥姪はもちろんのことであります。そういうように第二項は非常に広くなつております。ほかの規則、たとえば大寶令の規定を見ますと、伯父、伯母、姪、甥、從兄弟姉妹間にも扶養義務を認めておりまして、從兄弟兄弟姉妹というところを見ますと、この改正案よりも少し大寶令の方が広いのでありますけれども、この改正案には三親等の姻族もはいつておるのでありますから、この意味においてむしろこの改正案の方が広いというくらいに思われます。  その次に広いのはスイスの民法でありますが、スイス民法には兄弟姉妹まではいつております。兄弟姉妹の間にも扶養義務を認めております。ほかのドイツとかフランスとかいう國の法律には、兄弟姉妹の間には扶養の義務を認めておりません。それからフランスの民法を見ますと、一親等の直系姻族はこれは扶養の範圍にはいつております。直系血族、配偶者のほかに、一親等の直系血族の間にも扶養の權利義務を認めておるのであります。このフランス民法なり、スイス民法がそういうやうに少し広くなつておりますけれども、ほかの國は大抵直系血族と配偶者という程度でありまして、兄弟姉妹とか姻族の關係とかいうものは問題にしておらぬのであります。  そこでしからば、どういうふうにしたらよからうか、この質問にありますように、最も広くするのがよいのか、それとも狭くするのがよいのかというのでありますが、私の考えといたしましては、できるだけ狭くした方がよかろうと思います。理想といたしましては、狭くした方がよかろうと思います。それにはおよそ五つの理由があるのであります。  まず一番目に市民社會というかそういう方向に時代が向つておること、第二番目には先ほど申しましたように、國家扶養法規があるのみにならず、そのほか種々の社會保険であるとか、社會的の労働施設であるとか、そういうような社會事業、養老院とか孤兒院とか、いろいろな社會事業がだんだんと整備されていく傾向にあるのであります。  それから第三には、依頼心を起す、独立の精神をなくするというようなことがあつてはならぬのであります。これは明治民法の理由書などを見てもそうなつております。なるべく狭くみていこうというので「法律ハ、原則トシデ、他人ヲ害セザルノ正義ヲ命ズルモノニシテ、他人ヲ利スルノ恩恵ヲ命ズルモノニ非ズ」というような趣旨、あるいは「今日ニ於テハ生活ヲ営ムコト昔日ノ如ク容易ナラザル故ニ、人ヲシテ濫リニ扶養ノ義務ヲ負担スベキモノニ非ズ」こういうような趣旨において明治民法においてもなるべく狭くしようとしたのでありますが、それには兄弟姉妹がはいつております。またあるいはその家を同じくする直系尊屬もはいつております。私はこういうような趣旨から見ましても、なるべく狭くした方がよかろうと思います。  第四番目には扶養義務者に刑罰をもつて臨んでおる點であります。現行刑法の規定を見ますと、扶養の義務というものを前提といて刑を加重せられておるのでありますから、そういう場合において、広く扶養義務を認めるということは、私はよろしくないと思うのであります。  第五番目にはさつき明禮君も言われたように、實際問題として兄弟や甥、伯父の間に扶養の義務を認めるというようなことは、これは實情に合わないのでありまして、たとえば私も兄弟思いでありますけれども、自分のこと、自分の妻のこと、自分の子のこと、自分の親のことを世話するだけで、なかなか兄弟には手が及ばぬのであります。これが現在のわが國の生活の實際であると思うのであります。こういうような趣旨におきまして、私はその結論といたしましては、せつかくこの改正案の中には兄弟姉妹がはいつておりますけれども、兄弟姉妹は除きたいのであります。その代り一親等の直系姻族を加えたいのであります。たとえば嫁がしゆうとに、あるいは婿がそのしゆうとに、あるいは妻が繼子に、從來の例でありますと、繼子と繼親の間に實親子と同じような關係を認めるような規定が、七百二十八條にあつたのでありますけれども、改正案では削除してありますから、そういう點からみましても、少くとも一親等の直系姻族の間においては、扶養の權利義務を認めるといたしまして、しゆうとであるとか、繼子であるというような關係においては、扶養の權利義務を認めるというふうにした方がよかろうと存ずるのであります。せつかく改正案に規定しているのでありますから、兄弟姉妹まで入れまして、そうして直系姻族と配偶者のほかに一親等の直系姻族と兄弟姉妹の四つを認めまして、前の二つの間に先ほど言いましたところの生活保持の扶養義務を認めて、あとの二つの間に生活扶助の義務を認めるということにした方が、あるいは現在のわが國の状態としては適當であるかもしれません。現在のわが國の家族制度の廢止という問題と關連いたしまして考えるときには、ただいま申しましたように、四つを認めまして、前の二つは生活保持の扶養義務として、あとの二つは生活扶助の扶養義務ということにいたしまして、そうしてこの四つを認めるという方がよかろうとも思うのでありますけれども、とにかく理想といたしましてはこの兄弟姉妹は除くというようにした方がよかろうと思います。ことに均分相續等のことを考えてみますと、そういう方向に向つた方がよかろうかと存ずるのであります。三親等の血族、二親等乃至三親等の姻族も除くべきこともちろんであります。なお最後に附け加えたいのは内縁問題であります。内縁の妻、内縁の夫という問題であります。これをどうするか。これはやつぱり扶養の範圍にはいると思うのであります。それは何もむずかしいことはない。現在明らかに明文がある。それは先刻申しましたところの昭和十二年の母子保護法を御覧になるとわかりますが、第一條に「十三歳以下ノ子ヲ擁スル母貧困ノ為生活スルコト能ハズ又ハ其ノ子ヲ養育スルコト能ハザルトキハ本法ニ依リ之ヲ扶助ス但シ母ニ配偶者(届出ヲ為サザルモ事實上婚姻關係ト同様ノ事情ニ在ル者ヲ含ム以下之ニ同ジ)アル場合ハ此ノ限ニ在ラズ」とあります。配偶者の中には事實上の婚姻關係にある者を含むのであつて、配偶者があるとか、あるいは内縁の妻、夫がある場合はこの法律による扶助をしないというのでありまして、この規定はまさに内縁の妻なり、内縁の夫というものを、法律上の夫、法律上の妻と同じように取扱つておるのでありますから、この規定から見ましても、内縁關係の配偶者には、扶養の權利義務の適用があるというように考えられるのであります。問題の判例もありますが、またちやんとここにこういうふうな明文があるのでありますから、これで明瞭であり、一點の疑いもないのであります。  要しまするに直系姻族は一親等の直系間はよろしいのですが、二親等以下の姻族及び二親等以下の傍系血族は広過ぎると思うのです。しかし成年に達した子供は全然扶養しないというのは狭過ぎます。  はなはだ粗雜でありましたが、これだけをもちまして終りたいと思います。(拍手)

松永義雄日本社会党

○松永委員長 親族間の扶養の範圍に關する公述人の御意見に對し御質疑ありませんか。         ————— 質疑ないと認めます。これにて公述人各位の御意見の陳述及びこれに對する質疑は終了いたしました。  公述人各位には御多忙中特に御出席をいただきまして、お暑いところ午前、午後にわたつて長時間それぞれ各種の角度から貴重なる御意見をお述べいただきましたことは、本委員會といたしまして厚く感謝の意を表する次第であります。  なお明日は引續きまして一般の公述人の意見を承ることになつております。午前十時より開會いたします。  本日はこれにて散會します。     午後四時四十三分散會

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